1 :
中1です:
学校の社会の宿題で飛鳥時代の政治家を目指しましょう
ということになりまして、マニュフェスト作りをすることになったんですが、私は歴史が苦手なのでよくわかりません。
ぜひ皆さんのお力をお借りしたいのですが。
学校でわたされたプリントだしときます。
画像はこれです↓
http://alkn.net/gazou2/src/1181731344520.jpg 『6世紀末の大和政権』
○蘇我氏の権力増大
→本来の姿を先いつつある
→蘇我氏への反発→内乱の可能性
○渡来人が大和政権を支配する可能性
『6世紀末の大和政権と東アジア』
○隋の統一→侵略への恐怖
○百済(ペクチェ)の支援
○新羅(しんら)の動向
この↑の問題を自分が聖徳太子になったつもりで解決する政治のマニュフェストをつくれと言われました。
上の問題を自分はこう解決します
この解決方法が駄目なら次はこうしますと重複していくといいらしいんですが
どうぞよろしくお願いします。
>>1 ここは大人の来るところだから、中学生が来る分には構わないと思うが、
あまり学校の参考にはならないと思うよ。例えば
> ○蘇我氏の権力増大
> →本来の姿を先いつつある
> →蘇我氏への反発→内乱の可能性
↑これについては、
聖徳太子は「蘇我氏の側の人」だったことを考えなくてはならない。
だから、もしマニフェストを作るなら、
☆ 私は蘇我氏と力を合せて、物部氏を初めとする敵対勢力を徹底的に征伐します。
☆ 蘇我氏に反発する勢力は許しません。そのためには内乱も辞しません。
というようなことになるだろう。
それから、聖徳太子を論じるのに仏教について考えないのは、どう考えても不適切。
聖徳太子というのは猛烈な仏教信者で、仏教の国をこの世に実現させることを最大の目標としていた。
だから、例えば
☆ 私は仏教の振興に全力を注ぎます。
☆ 仏教に敵対する人は許しません。そのような人は武力をもってでも滅します。
☆ 仏教寺院の建立に力を尽します。国家予算の何割を使おうと構いません。
なぜなら、仏教なくして国家が発展しても何にもならないからです。
☆ 私自身、仏教の修行に勤め、また必死に経典の研究を行います。
全ての人が私のように経典を理解することができるわけではないから、
そのような人々のために、私自らが教え、註釈を残すことを忘れません。
また仏教自体に理解のない人でも、必ず仏教の教えに従って行動することが
必要であり、それは国家によって全ての人に強制されるべきです。
・・・と、こんなところになるだろう。
しかし↑こんなことを真面目に書いたら悪い成績になるから、やめておいた方がいい。
今は聖徳太子じゃなくて、厩戸王じゃないの〜?
4 :
中1です:2007/06/13(水) 22:39:36
ありがとうございます。
>>2さん
たしかにそうですね・・・
先生が「何かを参考にして書いても先生にはすべてわかります!」
っていってました
でもあれって嘘じゃないですか?
と思いました。
マニフェストを埋めるためにもう少し複数の問題と解決方法をお願いします。
5 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 10:42:21
外交では、まず、中国との国交が重要で、中国に使者を送ります。
それは、少なくとも形式上は、日中が東西の大国として対等な立場で交流することを目指すものです。
次に、かつて朝鮮半島南部の日本の領地であった任那復興も重要な政治課題です。
聖徳太子の叔父(麻理勢)や弟たち(来目など)が新羅征伐に向かいます。
渡来人は、朝廷や豪族の舎人や工人などの一員とし、使役しました。つまり家来として使いました。
家来となる有能な人材の確保も政治課題です。
(なお、「共生」なんぞという考えはありません。
もしも渡来人が権力者である朝廷や蘇我氏に逆らえばとっとと粛清・殺してしまうでしょう。
なにしろ、日本人であっても、三輪氏、物部氏さらには天皇まで殺している時代です。)
また、海外の最新の知識や技術の導入も政治課題です。
特に、百済だけでなく、敵対することもある新羅や高句麗からも、技術導入をしています。
抗争や戦闘をすることと交易や交流とをうまく使い分けており、単純な敵味方という単細胞外交ではありません。
当然のことですが、半島諸国よりも中国を重視しています。
半島から来た使者を泊める館よりも良い土地に中国から来た使者を泊める館を作ったりして、優遇しています。
6 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 14:40:41
聖徳太子スレ多すぎ・・・
どんだけ立てれば気が済むんだ?
7 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:09:08
> ○渡来人が大和政権を支配する可能性
↑なんだよこれ??
渡来人ごときが大和政権を支配するわけないじゃん。わけわかめ
8 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:25:24
『6世紀末の大和政権と東アジア』
☆ とりあえず新羅は日本の属国とみなします。反抗すればぶっ潰します。
☆ もちろん、百済も属国とみなします。こちらは反抗しないので問題なし。
☆ 隋とは国交を結び、(今でいう)東アジア諸国の治安の維持に尽力します。
真面目に書くと、こんなところだろうな。
9 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:31:22
>>1 ひぇー、下らない宿題出すなよな
こういう、手のこんでいて下らないってのが教育上もっともたちが悪い
10 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 04:01:47
>まず選んだ人物が「聖徳太子」です
人物くらいは選ばせろよ。常識的に考えて・・・
曽我氏が何系の渡来人かを調べることから始めないとよくわからないと思う。
専門の学者さんならその名からだいたい大陸の何系か予想がつくらしいです。
当時曽我氏が大陸の情勢をみながら外交してたのはまちがいないけど、後に氏族が
抹殺されたことを思えば日本にとって危険分子だったか私情的なことでかはわからないです。
曽我氏は政治と外交。太子は仏教の教えを参考に各法律を作り最終的に法治国家を
目指す。
反曽我氏対策は、仏教を国教までにはせず基本的に神道的行事はそのまま行う。
また曽我氏の血が入ってない敏達帝の系列の皇族から天皇を起こし曽我氏は政治中心に
分離していく。
とりあえず以上
『6世紀末の大和政権と東アジア』
外交は基本的に曽我氏にまかせるが、
隋の高句麗侵攻をよく分析して一応静観の立場をとり両国に使節を派遣しておく。
百済に援軍は出さないが難民は受け入れる体制にしておく。
新羅との外交関係は慎重におこなう。
国内の安定化を最優先課題として固めていく。
14 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 11:51:18
次に家族制度に関する政策です。(中学生でももう分かるよね。)
父と母が両方とも同じでなければ、結婚できます。
つまり、父と母のどちらかが違うのであれば、義理の兄妹でもせくすできます。
また、義理の息子との結婚もOKです。聖徳太子の母は、先立たれた夫が別の女性に生ませた子(義理の息子)と再婚し、子供をもうけます。
最近、日本では子連れの再婚が多いのですが、同じ政策をとれば至る所で萌え萌えとなるでしょう。
王様は数百人の女性がいるハーレムを持つことができます。
身が持ちましぇ〜ん。
複雑な婚姻関係。
誰が誰の子か?
詳細な一覧表が必要だね。
16 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 13:32:16
>>1 ○渡来人が大和政権を支配する可能性
限りなく零です。
強いて言えば、こんな宿題を出した先生が、北朝鮮の将軍様になる確率ぐらい、低い可能性です。
渡来人が、朝廷や在来の大豪族に逆らえば、秒殺です。
渡来人の中で有能な者は、下級官人や技術者として便利に使われるばかりです。
迹見赤檮という有名なスナイパーや東漢直駒という有名な殺し屋など、渡来人という説もあり、ダーティーワークもやっていたようです。
それ以外は、集団で百姓するしかないのですが、何度か、僻地へ、僻地へと追いやられています。
後に金山などを発見してちょこっと誉められたりします。
後の時代になるともっときつい。
天智、天武、持統と、猜疑心の強い天皇や、権力集中指向の強い天皇が続きますので、渡来人は常に忠誠心を示し、
命がけの行動を示さなければ(例:白村江という大戦争で先頭きって突貫するなど)、忠誠を疑われ、一族もろとも皆殺しでしょう。
17 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 15:40:11
教科書の内容が事実とは限りませんからね。
古代史は特に定説と考えた方がよいでしょう。
点数取りたくて成績を上げたいなら、
定説が載っている参考書の熟読をお勧め。
18 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 18:23:49
>>16 集団で百姓するしかない
あと、地方では、馬の飼育と調教な
格好よく言えば牧場経営だが、
牧場主の葬式のとき、馬の胴体を真っ二つに切って生贄にするなど、ちょっとイメージ違うから。
>>16 んーよくわからない藤原鎌足が実は煬帝の息子だったり〜?
んなことはないか〜w
小○惠子乙
スレタイ「聖徳太子と飛鳥時代について語りませんか」より〜990さんの継承で。
>>993 金堂の釈迦三尊像の両脇にある小さな像のことで、光背には銘文が書いてあってそこにそれらしきことが書いてあるらしいです。
つづき。
熱い?そだね〜非常に謎が多く何か秘密がある感じがするので、まー梅原氏の「隠された十字架(法隆寺論)」を読んでから興味をもった次第です。「だろう」、「らしい」は今度から「そう書いてある」にしますW
光背に「〜この微福に乗り、道を信くる知識、現代、安穏、正に出で死に入り、三主に随ひたてまつり、三宝を紹隆し、つひに彼岸を共にせむ〜」と書いてありこの三主が太子、間人、膳姫にあたると書いてある。
24 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 11:42:33
兎に角、正史の日本書記読めよ。
講談社学術文庫から、中学生でも読める現代語訳出てるから。
教科書が歯抜けだらけなのが良く分かるぞ。
その先生、大学では西洋史専攻だったんだろうな。
あるいは社会科は免許外の可能性もあるな。
26 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 21:01:59
あるな
27 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:40:14
半島派の馬子を牽制するために「タリシヒコ」の偽名で
私的に使者を随に派遣。
(600年、随書倭国伝)
28 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:44:00
四天王寺創建に関わった
世界最古の企業、金剛組。
29 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:51:31
法隆寺が今も残されているのは
太子がいかに偉大な人物で
あったかの証拠だろう。
これだけをもっても
馬子=太子説なぞいかにインチキかよくわかる
30 :
徳仁礼信義智:2007/11/25(日) 19:56:55
天皇をも暗殺した時の権力者の馬子を
知と徳によってその下にいながらも
たくみに牽制し操った。
見事だ。
31 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:59:51
17条憲法、すばらしい。
和をもって貴しとなす
32 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:03:13
堺谷太一氏の説を支持します。
33 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:08:01
聖徳太子が救ったのは
飛鳥時代だけでなく
その後の日本をも救った
と言えましょう。
神仏儒を極めた偉大な皇子でした。
34 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 20:21:20
法隆寺釈迦三尊像は北魏様式。
馬子の百済系とは違いますね。
36 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:36:19
37 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:12:59
聖徳太子は、用明天皇と穴穂部間人皇后の息子で、両親とも蘇我馬子の姉と妹を母とする完全な「蘇我一族」!
思想的にも神道と言うより当時流行りの「密教的仏教の異常な崇拝者」!
さて、蘇我一族でありながら、蘇我が悪者として歴史から消されたのになぜ、残ったのか?面白いところ!「遺伝子は蘇我そのものです!」
38 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 02:22:25
聖徳太子とは、
欽明天皇以降の「蘇我一族」の「日本史に置ける否定出来ない大きな側面」を具現化させた人物に他ならない!
「残念ながら、太子は、神道ではないよ!」
39 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 02:40:26
聖徳太子そのものの実在さえ疑問視されはじめています。
日本人よ、歴史のねつ造から目をそらさないように。
聖徳太子は中国への劣等感がうみだした妄想にすぎません。
40 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 13:35:11
a
41 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 14:16:17
> ○隋の統一→侵略への恐怖
恐怖など感じていません。
他の国々が土下座して隋に貢物をしているというのに、日本と高句麗はちょっと違う。
日本は、日本の大王と中国の皇帝について、日出処の天使と日没処の天使とか、東の天皇と西の皇帝と呼んで、タメ口状態です。
一方、高句麗は、隋の侵略を実力ではねのけています。
とても、隋は日本へ侵略できるような情勢ではありません。
ただし、次の時代の唐になるとちょっと話は違うのですが、現実には日本への侵略など不可能でした。
42 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 14:32:50
> ○百済(ペクチェ)の支援
支援というのは、あまり正しい表現ではないかもしれませんね。
百済は日本の属国であったり、独立性を強めたりと、時代によって立場が揺れていました。
もともと5世紀の応神天皇から雄略天皇にかけての時代は、百済はほぼ日本の属国状態でした。
特に、高句麗に好太王(ペが演じていますね)がいた時代など、最初のうちは百済(及び新羅)は日本の属国であるとはっきりと高句麗の石碑に書かれています。
最近の朝鮮の方々は高句麗は朝鮮だと強く主張しますので、百済は日本の属国であったと朝鮮の方々自身が強く認めているようなものです。
「百済と新羅は日本の属国」:これは日朝双方が認める歴史の真実です。
ただし、あなたの先生が唯物史観とかアンチ皇国史観とかの先入観に犯された先生の場合、こうした真実を根拠なく否定しますので、要注意ですよ。
さて、聖徳太子の時代、百済は比較的独立性が高かったのですが、日本が百済を支援するといったことは特にありませんでした。
先生の勘違いでしょう。
百済の坊さんが来たり、王子が貢物を持ってきたり、ラクダを連れてきたりとか、なかなかホノボノとしています。
むしろ、日本から百済に使者を派遣して、任那を救えと命令したりとか、そういう関係でした。
43 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 14:49:50
> ○新羅(しんら)の動向
高句麗や百済と異なり、新羅との関係はちょっと深刻です。
新羅は、朝鮮半島における日本の領土である任那を攻めたり、何度も「ご主人さま、貢物をするから許して」と土下座したくせにすぐ裏切ったり、スパイを送ってきたりと、なんとも信用できない悪い国でした。
なお、聖徳太子絵伝という当時の絵本の中に、朝鮮半島の使者が聖徳太子の家の庭に座って謁見している絵があります。
これが、日本と朝鮮半島諸国との関係を端的に表すものです。
さらに、新羅はクジャクを送ってきたりしてゴマをするのですが、あまりにも態度が悪いので、聖徳太子の叔父の境部臣が新羅を武力で懲らしめたりします。
後には、聖徳太子の弟の来目皇子や当麻皇子が新羅を攻める準備をしますが、これは実現しませんでした。
なお、こんな悪どい新羅に嫌気がさしたのか、当時、多くの新羅人が日本へ逃げ出してきたそうです。
新羅でウダツの上がらんヤツらが、後進国の日本で一旗揚げに来たんだろ。
45 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 18:14:43
>>44 高句麗、百済、新羅、きちんと分けて考えてね。そうでないと、半島人にだまされちゃうよ。
当時の日本は新羅から学ぶこともほとんどなく、新羅と比べて日本が後進国というのは、トンチンカン。
百済や高句麗からは、僧侶や博士や工人などが来るが、一過性のものです。
あっという間に日本はそれを吸収してしまいました。日本が後進国というのは、やはりトンチンカン。
さらに、百済や高句麗の文化など中国の劣化コピーですので、百済や高句麗と比べて日本が後進国というのは、トンチンカン。
楽器屋が演奏家に楽器を渡すので、楽器屋のほうが演奏家より芸術的というくらい、お馬鹿です。
なお、後の持統天皇の時代の記述や日本後紀などを読むと、いろいろな渡来人の中でも、新羅系は最も貧しくて悪どくて、
日本へ来たあとしばらく物乞い状態・乞食状態で食いつなぎ、やがて、集団で強盗・殺人・放火魔になったことが明記されており、あらかたぶっ殺されたようです。
>>43 >>土下座したくせにすぐ裏切ったり、スパイを送ってきたりと、なんとも信用できない悪い国でした。
んな事言ったら、日本の南北朝・戦国の辺りの武将は悪人ぞろいになるがな。
当時の朝鮮諸国は「下手なプライド」無いんで、国家存続のために柔軟な対応してたと考えるのがフツー。
日本の「小中華」思想に巧みに対応したと思うがな。
どーせ李朝以後は、下手なプライドに異常にコダワリ現実見つめん裸のオー様(プゲラ。とか思ってんだろ?
だったら古代朝鮮諸国の大戦略(国家戦略)は高い評価になるはずだがな。