スレタイ間違えたすまそ
前スレが書き込めなくなったのは500KB規制のためです。
他スレへの大勢での移動など迷惑行為もほどほどにしてください……
ナレーション
明智は山崎にいる…
まつよりその情報を得た濃姫は、
三人の制止を振り切り
ついに山崎へと辿り着いた。
怒りに震える濃姫と蘭丸を迎えたのは、
山奥に潜む明智の気配と
今にも雨の降り出しそうな曇り空であった…。
濃姫
「光秀…! 許さない…!」
『旅の終り』
開始ムービー
濃姫
「そこで…待っていろ」
開始
濃姫
「ついにこの時が…光秀…!」
* 天王山頂上陣地を確保せよ!
濃姫
「光秀…お前を許さない」
一合目 突破
* 明智光秀 進軍 開始
光秀
「帰蝶…やはり貴方が来ましたか」
濃姫
「なぜだ、なぜ上総介様を裏切った!」
光秀
「さあ…貴方には言いたくありません…ククク」
濃姫
「最初から裏切るつもりだったの!?
私達をだましていたの!?」
光秀
「…………」
蘭丸
「光秀ーッ! てめー、ゆるさねーッ!」
光秀
「相手を見てものを言いなさい、蘭丸
……醜く殺されたくなければな」
光秀
「帰りなさい、これは貴方のための宴ではない
貴方が血を流すのは、無粋というもの」
濃姫
「無粋かどうか、お前の血で試してみなさい!」
光秀
「その先は地獄ですよ
私という死神が待つ地獄です」
濃姫
「地獄ならとうに味わった!
これ以上の地獄など、ありえないのよ!」
「言いなさい、本当に上総介様を殺したの!?」
光秀
「……魔王も案外、もろいものですね」
濃姫
「き、貴様ーーーッ!」
濃姫
「上総介様…濃は、あなた様を…」
光秀
「少し見ない間に、随分と戦慣れしたようですね」
濃姫
「誰のせいだと思っているの?
いいえ…今はそれに感謝するわ!」
光秀
「殺されてもいいのですか?
無残な死だ…貴方に残るものは何もない」
濃姫
「フフ…その通りよ…だが、かまわない」
「蘭丸君…私が死んだら逃げるのよ…
……さあ、これが最後だ!」
* 天王山 山頂 進攻
戦闘開始ムービー
光秀
「ククク…ククク…
ハーッハッハッハッハ!」
濃姫
「お前を、殺しにきた」
光秀
「ククク…私を、ね…
クク…ハハハ…ハーッハッハッハッハ!」
「ククク…ククク…」
勝利
光秀
「信長…公は…」
(倒れる光秀。濃姫は肩で息をしている)
濃姫
「……」
(雨が降り始める)
前スレの話の続きだけど・・・
信長と信勝(信行)は同腹ということでおk?
11 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 04:58:03
>>1
戦国板でやれ
>>10 異腹とする合理的な証拠がないからな。
残された甥の事もかわいがってたみたいだし。
>>12 それはそうだよね。
以前のスレで、信長生母の話題が出た時に信勝(信行)と同腹か
否かの議論があったような気がしたから・・・
>>13 土田御前が土田氏なのに、美濃国諸旧記に信長生母が佐々木六角氏と
記載されていたために(信秀正室等の記載なし)、
信長の生母が佐々木六角氏なら土田氏じゃない事になるから
信長が庶子で、信活が嫡子となって、それが原因で跡目争いが起きたと
する説が、武功夜話発表以降に一時期あったからだと思う。
それでも、武功夜話のように生母の関係で生駒屋敷出入りという逸話は
おかしくなる訳だけどな。
信清派だった生駒屋敷で、継母の関係者からしてみれば、土田氏の血を引かない信長が
無防備にSEXするのを見過ごす訳もないし、いい機会だとばかりに殺すと思う。
津島大橋記みたいに、更に信秀正室で信長生母が小嶋氏と言う説が出てきたりすると、
どちらにしても土田御前の出自は検証されるべきなんだろうけどな。
信長と信勝の年齢差っていくつだっけ?
土田御前が継室に入ったと考えれるような年齢差だったっけ?
佐々木氏より、小嶋氏の方が当時の織田家とのつながりが深いんじゃないかなあ。
だから自分はどっちかというと、佐々木氏よりは小嶋氏じゃないかと思ってる。
信長と信勝(信行)は同腹なのが確実だと、信勝の側近に佐々木氏か小嶋氏
の一族がいたってことはないのかな。
まあ、どっちにしても信長、信勝生母が戸田氏ということはないと思われる。
だから、戸田氏じゃなくて土田氏だってば。
いい加減直しなよ。
17 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 17:46:59
前スレでも思ったけど、無駄に長文が多すぎ。
考えがあふれ出て長文になるのだろうけどさ
同人仲間のだらだら会話では無いのだから、
少し論じ方に工夫をして、大意を取りやすく、短く
わかりやすく書くようにしてくれ。
少人数での自作自演、自己満足ととられても
仕方のない長文スレ展開は止めて欲しい。
濃姫は位牌さえ無いのが不思議すぎる。
また「信長公御台美濃斉藤氏」的な記述のある過去帳があれば
数多くの謎も解明の糸口があるだろうに、
慶長年間まで生きていたとしたら、世情は安定しているはずだし
位牌や過去帳記載が無いなんて考えられないな。
>18
確かにそれは言えてるね。
光秀ですらあるっつうに…。
位牌もそうだし、まず葬儀を行なった寺が確定していないのがなんとも。
総見院には供養塔だけで、遺体もない可能性が高いし。
本当に心当たりのある寺は全て調査済みなんだろうか。
調査なんてしてないと思う。
位牌がないのは、嫡流が途絶えているから別に珍しくもないし、
総見寺の記録にはあるんだから別にそれほどおかしくもないんじゃね?
22 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:03:07
明智も嫡流は途絶えているわけだが…
そういえば、安土総見寺って火事で位牌などが燃えたって聞いたけど・・・
焼失した寺なんぞたくさんあるだろ
うん。それに移転した寺も。
26 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:16:13
>>17 自作自演はともかく、自己満足の何がいけないの?
世の中の信長関連の書籍や論文は未だに偽書である武功をもとに書かれたものが
溢れていて、濃姫が正室として大切にされていた事実・また大切にするだけの理由があった事実を無視し、
当時の正室と当主の関係を見ずに、生駒を継室にしたなどという妄想も甚だしい検証とも言えないような
恥ずかしいものが当たり前のように出版されている。
それを苦々しく思う人間がここでそのストレスを発散するくらい別にいいじゃない。
それとも2chの影響力を恐れ、そんなに生駒が継室となったという事が定説でなくなる事が嫌なの?
事実はいつかは明るみに出るものだし、ここでの検証は今ある文献的に見ても
何もおかしなところはないよ。もしあるのなら逆に指摘して欲しいくらい。
それについていちいち言いがかりをつけるのって、いくら生駒が好きだからって見苦しい。
やっぱり、論文などで発表するしかないよ。
ネットの影響力もあるだろうけど、まだまだテレビや本に書いてある説が
正しいと思う人が多いと思うし。
あるいは、史実に基づいた小説を書いて広めるとか・・・
それはそうだね。
生駒のことだけでなく、未だに信康や築山殿処刑の件も信長の命令という説を
発表している人もいるし。
もっときちんと過去の文献などを検証してほしいと思う。
29 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:53:04
この時代当主と正室は対等な関係だったというのがもうこのスレでは当たり前のように語られているけど、
それって本当にそうだったのだろうか。
奥の事に関しては当主よりも正室の方が管轄だとしたら、
松平信康が徳姫の侍女を殺したり、伊達政宗が愛姫の乳母殺したり
多分出来ないと思うんだけど。。。
正室にお伺いをたてて「こいつは怪しい」とかそういう順序を踏まえた上で
追放なり処刑なりっていうのがスジじゃないかと思う。
当主といえども、正室の管理する奥に仕える正室の家来である侍女を勝手に殺したりは出来ないでしょ?
愛姫と政宗の場合だと特にそれをキッカケに夫婦仲がいったんこじれているし、
ここでまことしやかに語られるほど、正室と当主の関係は対等だったのか自分は疑問。
江戸時代ほど女性の身分が低かったとも思わないけど、そこまで正室の地位が高かったとも
思えないなぁ。信長がおねねに出した手紙も言ってみれば男にとって都合のいい妻の教訓みたいなもんだし。
>>28 信康・築山殿の処刑を信長の命令ではなく、家康の独断だったと大きく騒ぎ立てているのは
多分2chだけだと思います・・・。
>>29 それは、どうだろ。当主と正室の関係なんてその家によって異なるだろうし。
正室の侍女や乳母っていうのは、実家から仕えてくるのがスジだから、正室の
次女や乳母を殺したりするという事は、正室の実家の家来を殺した事になる。
いくら当主の方がえらいからといっても、こういう行為をむやみにしていると
ご乱行とされ、廃嫡されても仕方ないとおもう。
>>29 他家の場合はどうだったのかはわからないけど、信長に関しては「家臣の
意見を聞くことはほとんどなかった」と言われている位だから、ワンマン
だったんだろうし、濃姫との関係にしても、俺について来い!というタイプ
だったんだろうな。濃姫は夫に従う従順な妻という感じがする。
>>21 いや、嫡流が途絶えたので位牌がないとは考え辛いよ。
位牌は葬儀には欠かせないものだしね。
>調査なんてしていないと思う
それには同感するけど。
34 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 22:44:19
厨同士の内ゲバなら他の板でやれ
>>33 そうだが、葬儀を行なったとされる寺が判明してないからな。
おそらくそこに位牌はあったと思われるし。
>>32 信長は大名としてはリアリストなワンマンと言われているけど
家庭内に関しては保守的だったという意見も見た事がある。
この場合の保守的が何を示すのかはわからないけど・・・。
まむしの娘という出自や、結婚前に父親から渡された短刀を「父上を討つ刀になってよろしければ」と
言い返すなどのエピソードから勝気な女性像が浮かび上がりやすいけど、
実際はどういう女性だったんだろうなぁ。
ここでは濃姫は本能寺の変時は生存していて、信長の正室だったという意見でまとまっているけど
実際それもあくまで「可能性」にすぎないし、もしかしたら離婚していたり、若くして死んでいるのかもしれない。
全く実像が浮かび上がってこないんだよね。濃姫って。
天下人に一番近かった天才の(一時の可能性もありうるけど)正室であったのに
ここまで何も残っていないと、本当どんな人だったのか、いつ亡くなったのかが少しも見えてこない。
>>36 濃姫の性格がわかるエピとしては、やはり壷事件かなあ。
信長のわがままをさとすために、斉藤家親族一同と自分も含めて
腹切るっていったんだよね。そこから察するとけっこう勝気な所
もあったんじゃないかな。
自分も濃姫は正室の立場を全うしたと思うけど、でもあまりにも記録が
なさすぎるよね。
でも信長生前に死んでるとは思えないし・・いくら記録がないっていっても
信長御台が亡くなったら記録に残ると思うし。離婚についても記録があって
然るべきなんだよね。織田家になくても他の文献に載っててもいいと思うし。
他の文献に載っていることはたいてい、信長に嫁いだことと、信忠を養子に
したことぐらいしか書かれていないんだよね。逆に信長生前は、書くほどの
事がなかったから書かれなかったのかとも思えるけど。
正室、側室とその家庭内での位置に関わらず、
人間としての女の内面に関心が薄かったような気がするけどね。
現代に生きる自分の私感ですけど。
信康の徳姫侍女殺しは、信康ってこんなDQNだったんですよって逸話のひとつだよね。
>>38 自分もそう思う。女にそれほど興味がなかったんでは。
どちらかというと男の方が好きだったのかも。
でもこの時代の人ってほとんどそうかもね。
男色するのも当然だった時代だし。
女は子作りと性欲の道具だったといっても過言ではないと思う。
なにしろ400年以上も前の人なんだし。女性の人権や権利が認められる
ようになったのもここ近年の話だしね。
41 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 00:00:35
女の人権が下がったのは江戸時代中期以降だろ
ついでに女に淡泊だったなら子供を20人以上も
作らないだろうね。
女好きではあっただろうけど女の内心をいちいち斟酌したりはしなかったんじゃないかな
精力的な人間は性欲も常人より多いって言うから、心よりも体と跡取り優先って感じで
まあ女の心を大事にするなんて現代的な感覚でしないけどな
>>41 一応男性として正常な肉体と精神を持っていれば、
女を抱いていたら反応するだろうし、そりゃ出来るもんじゃないの?
「子供を作る行為」としてそれは必須なんだからするしかないだろうし。
当時は子作りは当主として当然の務めでもあったわけだしね。
性欲は強かったと思うけど、でも女性を愛するとか恋焦がれるとかは
なかったんじゃないか。
極端なこと言ってしまうと、別に相手は誰でも良かったんじゃないかな。
特定の女にこだわったりとかはなかったと思う。
男色の相手についても、利家は有名だが利家が長ずるようになると、
別の身近な小姓を求めたと思うし。
信長のイメージとしては、そんな感じだよな。
江戸時代の話だけど、町民の間ですら色恋沙汰は「野暮なこと」って思われていたらしいしね。
浄瑠璃は現代人の感覚だと悲恋だけど、当時からすりゃ恋愛に命かけて馬鹿じゃないの?wwww
って感覚だったそうだし。
今の人間の感性とは全然違うんだろうね
>>44 森乱以前の寵童でも知られている存在が、確かいたよな。
名前を失念したけど。
戦国期の寵童は、身近の世話をさせながらの薫陶や、
武士としての学びを深める実用的な目的もあるから
少年期を過ぎれば近侍や近習扱いとなり、
直接的な性の対象からは外れていくのだろう。
>>46 江戸時代の町民といっても、
時代の経過、地域差、階層によって
世情も考え方も違うものなので
また戦国時代の話に江戸時代を比較に出されても・・・
色恋沙汰の人形浄瑠璃や丸本歌舞伎は実際事件からの写し、
京大坂を舞台にした金銭がらみのものが多いので、
上方人はそこそこ感情移入しながら見てたのと違うかね。
>>44 恋愛感情のないもの同士が夫婦として一生添い遂げるのは、
日本人が戦前まで普通に行っていた行為で、別に戦国大名に限らないと思うが、
しかし、この時代の人間が、異性への恋愛感情など一切もつことはない、
体だけの関係であった、と判断するのはずいぶん寂しいことのような。
豊臣秀吉などは妻のねねや側室の淀君に対して
ずいぶん愛情こまやかな手紙を残しているし、
自筆の文書や手紙がほとんど残っていない信長の場合、
体が反応するから女を置いていたけれども、女に対して愛情など一切もたなかった、
甘い言葉もいわなかった、とは判断できない。
ほかの戦国大名も同様。
>>48 大意は何となくわかる。
武田勝頼なども、陣中から側室を思いやった手紙が残るね。
房事は政略と後継者作りのためだけであって、
男女間の愛情などないに等しい・・・とは、やはり考えられない。
生き残りのための政略と子孫作りの意味が強くなってきたであろう
戦国期にも感情はあったろうね。
ただ、信長の場合は手紙や同時代の信頼できる文書が無い、
という理由からではなく、何となく(曖昧で申し訳ないんだけど)
一番すきなのは自分自身・・・的な自己愛が強烈な気がして
女性への真摯な恋情感覚は鈍かったような思いがする。
信長の場合、行動に表れていないからね。
武田信玄見たくラブレターなるものも見つかっていないし。
女漁りの逸話も聞かないし。
あまり浮いた話がないのも関心が薄かったのではないかといわれるのだろう。
まあ、恋愛などに夢中になっている暇がないほど、天下統一の事業を完成
させることにしか頭になかったのだろう。
当時ではめずらしいぐらいに合理的な考えの持ち主だったらしいし。
51 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 20:22:02
>>48 でも信長からねねへの手紙、「ふもじ」(恐らく冬姫)への返信、を
読む限り、気に入った女性にはとても優しいと思う。
秀吉まではいかないけど、それぐらい細やかなことが書いてある。
家臣の妻や娘にはこれだけ細やかに気を使った言葉を書いているんだから
妻や側室に対して淡白に接していたとも思えないな。
52 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 20:38:42
>>51 あれってちょっと意外な信長の一面って感じで好きだ
案外世話好きなのかな、という気がする
個人的には信長はねねやふもじ(冬姫?)への手紙のように
女にはちょっと優しくて、娘なんかだと特に甘く育てている気もする。
(現代人の感覚だけど、娘が欲しがるおもちゃや着物などはほいほい買い与えてそうなイメージw)
でも「俺が一番好き☆」な人でもあるような気もするw
戦国武将のプライベートの手紙はけっこう現代人の感覚でみても
普通の男性っぽい。信玄の男色の恋人への言い訳なんて笑えるw
政宗も筆まめでそこそこ手紙が残っているが、
人間味がでていて、好感がもてる人物だ。
信長の自筆と確定している細川忠興にあてた手紙を見る限り
内容からは公文書だからそんなに人柄が見出せるものではないけど、
字から波動が伝わってくるような字体だ。
非常に力強くて男らしい。気の強さが表れてるよ。
一番人柄が表れているのは太閤秀吉だけどな。
字が下手で、感情赴くままにかいているので
そのまんま。漢字の誤字も多いというし、出自のせいか
漢字は苦手とみえる。ねねや側室や豪姫への手紙を読む限り
秀次一族皆殺しをやってのけた人物とは思えないし、
そこに戦国時代特有の時代背景を感じるよ。
秀吉の手紙と言えば、淀殿に送った手紙が人間くさいというか・・・うけるねw
晩年ようやく授かった子供だから目に入れても痛くないほど可愛かったんだろうけど
「於拾は元気に乳飲んでるか?そっちに言ったらちゅ〜しちゃうんだから!」
みたいな愛すべき馬鹿親というか、感情丸出しの手紙が面白い。
ねねにも、「久々に会うから、一緒に寝て朝までお話しよう」なんて手紙が残ってる。
秀吉晩年の手紙だし、ねねもいい加減いいオバサンになっているのに
まるで恋人に送るかのような内容。無邪気な人だったんだろうな、と思う。
寧々への手紙には、「うんこが出たか」みたいな事まで書かれてる
寧々は便秘だったらしいな。
>>57 >>一緒に寝て朝までお話しよう
そうそう、この夫婦はすでに「営み」はなさそうだけど、
すごく仲がいいんだな、ってのがよくわかる。
チューは確か「母様(淀殿)にもチューされちゃうぞ」みたいなこと
書かれていなかった?淀殿もかなり子供をかわいがっていたんだなってわかる。
>>58 ねねは体調を崩していたんだろうね。
お通じでいろんな身体の症状がわかるから
秀吉が便のことを気にしていたんだと思う。
なんでこんな手紙まで後世に残っているのかが不思議だ。
ねねが大事にとっておいたんだろうな。
こういう人が朝鮮に侵略をしかけたり、関白一家皆殺しを指示したり、
残酷な篭城攻めをしたりするんだからな。
信長も残酷ではない一面の証拠として手紙が残されていたのはなんだかうれしいよ。
武功の生駒と信長編で不自然な信長像を側面を創作されるよりは、
よほどこの2通の手紙のほうが説得力があるし、信じられる。
>>59 本人直筆の手紙だからね。
後世に書かれたものでないから、一番信憑性があるし説得力がある。
だけど本当に秀吉は筆まめだったんだね。
たくさんの手紙が残されている。
信長などももっとあってもよさそうだけどな。
濃姫関連の手紙などもあってもよさそうな気がする。
やはり安土城が燃えたことが原因か。
>>56 ふもじへの手紙は、その細川忠興への手紙と
筆跡がほぼ同じで、自筆らしいと思われているんだったような。
>>61 そうだよ。でも忠興の手紙は確か当時の別紙の添え書きも残っていたので
信長自筆確定となった唯一の手紙。ふもじの手紙は筆跡からほぼ信長に間違いないと
桑田忠親氏あたりも断定してるけど、厳密には確定はしてないらしい。
秀吉の手紙は自筆、右筆入れると1000通近く残されているということだ。
信長も天下統一を果たして、それなりの統治期間があったら
秀吉に及ばないにしてもそれなりの手紙が大名家に伝わっていたかもしれない。
>>30 そんなことはない。
あの小和田哲男も最近出した文庫本の中で
この説に賛成してる。
ところであんたはこれまでの通説を信じてるようだけど
その史料的根拠は何なのか知ってる?
small和田ってコロコロ説が変わるからなぁ…
ここで叩かれまくりの武功を
推した人でもあるしさ
森可成にも鍋って名前の娘がいたらしいな。
鍋ってその頃メジャーな名前だったのかな?
>>64 新しい情報を得るたび考察を重ねているってことでしょ?
自説に拘泥して恣意的に史料を取捨選択するような輩よりはナンボかマシだと思うけど
>>65 そうみたい。
本能寺で亡くなった侍女に「おなへ」「こなへ」という姉妹が
いたと記録に残ってる。
この当時、メジャーだった女性の名前って何だろうね。
「なべ」もそうだけど、「まつ」とかも多そう。
「ねね」も多そうだね
>>63 通説を特に信じてもいないし、家康の独断だったという新しい説に対しても
「へ〜!そうなんだ〜。面白いなぁ」程度です。
特に思いいれがあるわけではないですし。
ただ2ch以外でその説を大々的に押す人々というのはまだ一般的では
ないみたいなのでそう書き込んだだけです。
>>71 「家忠日記」という一次史料は、家康にも信康にも
非常に近い立場の家臣の日記なんだけど、
信康自害に関してまった〜く信長も五徳も築山殿も
関係している記載はない。
家康が信康と岡崎の国衆に警戒し、家忠も信康に内通しないという
起請文を書かされたという事実からしても、
家康と信康の深刻な対立が背景にあったことが原因だと推察できるよ。
斉藤家でも武田家でも親子の対立(家臣団の対立)から先代の親が追放される、
ということがありえた時代だからね。
一般的ではないのは、歴史小説の類のことであって、
歴史検証が好きな人たちの間では、信康、家康対立説が一般的。
じゃあ教えるけど、未だにこれまでの定説を雑誌などに
書いてるのは単にそれ(これまでの通説)に乗っかってるだけ。
書いてる人が自分で史料に当たって出した結論(?)ではない。
言い換えれば単なる不勉強。
自分で史料に当たれば当時の一次史料にそんな話は全く
囁かれてもおらず、徳川の世になってからこの話が出てきたこと
が分かる。
高柳光寿が随分前に信長主導説を唱えたせいだからな。
やっと、高柳氏の影響力が下がってきたから、これまで
別の説を言いたくても言えなかった人間が、言い始めてる所さ。
>>64 武功の件だけで小和田氏を判断するのは
視野が狭いように思うよ・・・・
64だけど別に武功を小和田の判断材料にはしてないよ。
信長が女性の内面に関心が薄かったという話だが、
色恋に走ったり、特定の女に溺れたりする人ではなかったということだと思う。
色恋が原因で、敵につけこまれる可能性もあるだろうし。
相手が誰でも良かったというのも、特に選り好みなどをしなかったという事では
ないかな。
縁があった女性は大事にはしていたと思うけどね。
部下のめんどう見もよかった人みたいなので、父性的な気持ちが強かったんで
はないかと思う。
秀吉ももし淀殿以外にも子供をもうけた側室が多数いて、
それこそねねにも子供がいたら、あそこまで淀殿だけを特別待遇しなかった
と思う。淀殿は子供を産んでから台頭してきたという事実からも。
側室を多数持っていということは、逆の見方をすれば
特定の女にいれこまずに、浅く広くを好んだともいえるだろうし、
秀吉も信長と本質的にはそんなに違わないのではないかとさえ思えてくる。
秀吉が、生前、子供を産んだ淀君を特別待遇していたとは思えない。
醍醐の花見の際、淀君と杯を争ったという京極竜子、
彼女は秀吉の子を産んでいないにもかかわらず、淀君に対抗できるほどの寵愛を勝ち得ていた。
小田原にも淀君と一緒に呼ばれているしね。
つまり、淀君は、秀吉の生前、ほかの側室を完全に出し抜いた存在ではなかったということ。
逆に言えば、秀吉は一側室にすぎない淀君に、子供を産んだからといって特別の処遇を与えた事実はない。
現に、淀君の最初の子鶴松は、生後まもなく側室にすぎない生母から引き離されて、
秀吉の正室ねねに預けられていた時期がある。
秀吉が、子供の生母であるという理由で、淀君に破格の特別待遇を行っていたとは思えないんだよね。
淀君の台頭は、むしろ、秀吉の死後で、
北政所が大阪城を去り、入れ替わりに入場した秀頼を後見して、事実上大阪城の女城主に納まったことが大きい。
秀吉は出世していくにつれ、高貴な姫君を次々側室にしたが、
生前、正室ねねを差し置くようなことはけして行わなかった。
それくらい、正室と側室の差は歴然としていたということ。
女好きな秀吉の奥であっても。
81 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 14:22:37
>>80 淀殿と京極竜子との杯争いは後世の作り話ですけど。
>>80 側室に淀城を与えたというのが破格の待遇以外のなにものでもない。
>>現に、淀君の最初の子鶴松は、生後まもなく側室にすぎない生母から引き離されて、
秀吉の正室ねねに預けられていた時期がある。
豊臣家の嫡男だから正室の手元に置かれた。
側室にすぎないからではないよ。
秀頼はすでに秀次が嫡男だったので、淀殿の側におかれたまま。
これは通説のように、寵愛が強かったのでねねをなおざりにした
結果とうわけではないけどな。
秀吉死後は、淀殿は徳川将軍御台の実姉、千姫の姑、という立場もあって
祭り上げられてた側面もあるぞ。
まぁ「淀君」なんていう江戸時代に作られた蔑称を使うあたりでなんかもう・・・('A`)
>>80 淀君と呼ぶくらいなら、茶々にしておけばいいのに
それと、82の言う通りに淀城まで用意されてたのに、
なんで「優遇されていない」という見解が出てくるの?
根源からの認識が少々ズレ気味なんだよなぁ。
>>80 正室をしのぐほどの優遇をされているかどうかになれば
秀吉存命中はされていないってことになるだろうが、
側室の中では破格の優遇をされていると思うぞ。
信長の妻妾って、名前がわかってる(存在が確認できる)のってどれくらいいる?
斉藤女(正室)、原田女(妾)、坂女(側室?)生駒女(側室)、小倉女(側室)、信忠乳母・・・
このくらい??
三条西女「あここ」(側室)
おれは側室の中では京極殿こそ一番寵愛があったような気がする。
淀殿は唯一子供をもうけ、しかも嫡男生母ということだから
豊臣家に貢献したという理由から城を与えられたり、立場が強く
いられただけで、仮に子供がいなかったら京極殿ほど愛されていたかは疑問。
同じぐらいの時期に側室になり、子供をもうけることもなかった京極殿への
寵愛の強さは龍子に残した秀吉の手紙からも明らか。
淀殿とともに陣中まで呼ばれているところからも、
側室の中でも二人への待遇は特別だろうけど、
子なきの側室をそこまで寵愛したあたりから、
京極殿への寵愛は飛びぬけたもののように思える。
京極殿はねねとも密接だったというし、
秀頼の処刑された遺児の弔いをかってでたというし、
美貌誉れ高かったいう通説だけど、心根のやさしい癒し系だったのかもよ。
89 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 08:33:51
>>84 淀城を用意したのが特別待遇?
そんなことないぞ。
前田利家の娘摩阿姫も、秀吉に京都に邸を用意させて、
ねねのいる大阪城には入城してない。
「西の丸殿(竜子)」「三の丸殿(織田信長娘)」も、
大阪城内で、ねねとは別に御殿を用意されていたわけで、
破格の待遇といえなくもない。
子供のいないほかの側室が、ねねの配下で肩身の狭い思いをしていたのに
淀だけ、好き勝手で、というなら話はわかるが、、
秀吉は淀以外の、子供のいない側室にも、特別待遇はしていたのだよ。
>>89 ってことは、権力者の寵愛の深さと子供の有無はさして無関係だってことだね。
秀吉に関しては、世間で言われているように、秀頼を産んだから淀殿が特別寵愛
されていた事実はないわけだ。
信長の場合はどうだったんだろう?淀殿や京極殿などのように別に御殿を用意さ
れていた人はいたのだろうか。
誰が一番の寵愛なんて、
現代で論じてわかることでも無いだろうに・・・
軽重白黒を談じるのが好きな人たちだな
>>89 摩麻姫は城ではなく御殿。
前田家からの預かり物(人質)という感じで、閨要員とは違ったようだからな。
西の丸、三の丸は大阪城の一部。
巨大な大阪城だから、寵愛の深い側室が城内にそれぞれ居住空間を
持たされていたというだけ。
淀城という個別の城を建ててもらい、あたかも女城主として
君臨していた淀殿とは比較にならないと思うけど?
ただそれが淀殿への寵愛だけとは解釈してない。
権力誇示という目的もあったろうし、豊臣に貢献した者は
それぐらいの褒美がある→家臣も励め、みたいなアピール効果も
狙ったかもな。
>>90 信長に関してはそういう事実が推測される史料は何も残ってないな。
>>91 秀吉に関しては非常に露骨でわかりやすい。
でも、ねね>淀≧京極>以下同列
という感じしか伝わってこないけど。
93 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:08:34
勘違いしてる奴がいるな・・・
淀城は、秀吉の城だよ。
大阪湾に注ぐ淀川の上流、交通の要所に建てられた、秀吉の城。
当然、戦になれば、秀吉はこの城を戦闘のために使ったし、
常駐させていた家来も、秀吉の家来。
淀が城に君臨していたというけど、実態のないものであることがわかるかな?
むしろ、こう考えたほうが、わかりやすい。
秀吉が、あちこちに持っていた城や邸に、自分の側室をかくまっていたと。
淀が、城を丸ごとひとつ我が物にして、自分の家来を持っていたというのなら話は別だが、
淀は、秀吉の城の一つにかくまわれていただけ。
城の規模も、大阪城や伏見城、聚楽第に比べると非常に小さくて、
淀が秀吉死後、秀頼とともに大阪城へうつると、すぐに取り壊されてしまった。
>>93 >>淀城は、秀吉の城だよ
そんなの当たり前じゃん。
でも側室なのに正室のいない奥で事実上その城の女主のように
振舞えたのは、破格の待遇じゃないか?
西の丸、二の丸も、大阪城には正室のねねがいる以上は、
その下におかれるけど、淀城内では淀殿以上の立場の女性が
存在しなかったというのが、側室の待遇では珍しいということだよ。
95 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 14:54:55
だから〜
淀城が、交通の要所に建てられた秀吉の城である以上、
たとえ愛妾の淀がいなくても、淀城を築いただろう。
淀は当初、大阪城に入っており、本来、城内に御殿を賜るはずが、
途中で大阪城を出て、淀城に移っている。
おそらく、北政所か、ほかの側室とそりが合わなかったのだろう。
逆に言えば、子供がいなくても、淀はおそらく淀城に住んだろうね。
淀城の城主は秀吉であって、淀じゃない。
淀に自分で動かせる兵力がなかった以上、
京都に御殿を賜った摩阿姫と、大差はない。
淀城を持ち上げすぎているようだけど、遺構を調べてみなよ。
たいした城ではない。
>>95 淀殿が「城主」だなんて一言も書いてないだろ?
戦国期の女主というのは、普通は大名の奥方を示す言葉なんだよ。
だから淀城に側室の淀を奥のトップに据えたのは、
正室でなければありえないほどの待遇ということ。
君は根本的に女主の定義を間違えてるよ。
>>95 あぁ、もしかして、女主を城主のことと勘違いしてないか?
98 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 15:13:49
淀が淀城の奥のトップだったなんて、間違いだよ。
秀吉の奥は、大阪城にしか存在しなかったし、
奥のトップは正室のねね。
「女主」なんて存在もしない言葉、自分でかってに作るなよ。
秀吉の所持した城には留守居役がいたが、こいつらが城の主人か?
淀だって、淀城の留守居役みたいなもん。なんの権限もない。
本来、淀は秀吉の奥がある、大阪城に住むべきだったんだよ。
淀は大阪城に住まなかったことで、最初の子鶴松と別居生活まで経験している。
秀頼は、秀吉の遺言で秀吉の死後大阪城に入ったが、入れ替わりのように北政所が大阪城を去っている。
はじめから秀頼と淀が大阪城に住んでいれば、避けられた事態だったかもしれない。
淀城の淀殿が居住する空間が淀城の奥になるのだが?
淀殿をトップとする侍女集団のいる空間が淀城の奥。
淀殿はどこで寝泊りしてたというのだ?
>>最初の子鶴松と別居生活まで経験している。
当たり前だろう。
はれて嫡男になれたのだから正室のねねの手元に置かれるのは。
側室は正室の借り腹でもあるんだぞ?
秀頼は庶子扱いだったので淀殿の手元に置かれることが認められたというだけだ。
秀次を後継者に決めた後に生まれたからな。
>>98 >>淀は秀吉の奥がある、大阪城に住むべきだったんだよ。
これをせずに他の側室とは異なり正室のいない奥で自由気ままにいることを
許されたことが破格の待遇というのでは?
秀吉の愛妾には、淀以外にも大阪城に入らなかった人はいるよ。
姫路城にいた某未亡人とかな。
あっちのほうが城も立派だがな。
102 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 15:50:28
常識的に考えろよ。
秀吉は主城である大阪城にあることが多い。
当然、大阪城にいる側室のほうが、秀吉との接点が多い。
この点を踏まえれば、遠く離れた淀で別居している淀より、
西の丸殿、二の丸殿のほうが、むしろ寵愛があっておかしくないんだよ。
側室を別邸や別の城にかくまっていた大名はほかにもいるが(武田信玄をはじめ)、
本邸にいる正室や本邸に住む側室たちのほうが、重んじられる。
別居している側室は、むしろ冷遇されていることが多いんだよ。
淀が冷遇されていたとは思わんが、
秀吉は手元の大阪城に置きたかっただろうし、
大阪城にいるほかの側室たちに男子が誕生していたら、
別居妻の淀の地位は非常に危うかったということ。
常識的に考えろ。
>>102 寵愛が肉体交渉に比例するのか?
嫡男を産んだら、変な話伽の相手は侍女に任せても
御腹様の立場は安泰だ。
実際大阪城にいる他のどの側室も子供が授からないのに
淀殿には授かったのはなぜか?
他の側室同様きちんと肉体交渉があり、
寵愛を受けていたという証拠。
他の側室とは分け隔て、別の城に居住し、子を授かるほど寵愛も受け、
ねねの次に輿の順番がくるという厚待遇をを素直に認められないのが不思議だよ。
ねねが信長に泣き言を言った時期って、秀吉の側室の南殿に子供が
生まれた時期なんだよね。
子供が生まれたら、ねねの立場が危うくなるほど秀吉が子供やその生母を
大事にしだしたのかもしれない。
秀吉はそういう傾向が強いということじゃないか?
武家育ちであれば側室や実子への愛情に溺れることがないように教育されているけど
そういう背景がないからな。
105 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 16:42:12
>103
だから、淀が冷遇されたとは言ってないだろ。
淀城を与えられたのは特別待遇だというのが間違っているといっているんだよ。
一回だけの交渉で子ができることもある、
まあ、別居中の淀がはらんだ秀頼の父が誰かわからない〜
とは言わんが、お前は淀を持ち上げすぎ。
鶴松があのまま北政所のもとで成人していれば、
ずいぶん後世、淀のイメージも変わっただろうがな。
>>104そういえば南殿も京都に囲った側室だったはず。
ねねのいる奥に居住していなかったんだよな。
子供がいないねねにすごく気を使っていたのかな。
>>105 ずいぶんニュアンスが変わってきてますねw
どうでもいいけど、いい加減スレチだからもうやめてくれる?
108 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 16:58:20
秀吉の正室ねねは、秀吉の在世中、関白夫人として朝廷から従一位を授けられた。
公家ですら従一位を賜るものはきわめて限られている。
秀吉は生前、ねねに対して、立派な天上人の貴婦人としての称号を与えた。
一方、淀は、生涯、無位無官。
秀吉は、生前、秀頼に大阪城へ入城するように遺言した。
大阪城には北政所ねねがあり、当然に、ねねを嫡母とするように考えていたのだと思う。
現実には、秀頼と同時に、秀吉が想定していなかった淀までが大阪城に入城、
北政所が大阪城を出てしまったため、多くの豊臣恩顧の大名が、離反してしまった。
嫡男を産めば、お腹様は安泰、というのは間違っているよ。
少なくとも、大名家や公家社会では、側室は側室でしかなかった。
淀が大阪城に入ったのは秀吉の想定外で、
淀は秀吉の生前、ほかの側室と比べても破格の待遇など受けていない。
109 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 17:02:00
>>107 別にニュアンスなど変わっていない。一貫しているが?
それでは君の要望にこたえて、
織田信長の正室、側室に関する話題をどうぞ。
↓
まあまあ・・・
信長の奥のことを語る上での比較ということで、秀吉の奥の話が出ただけ。
あの秀吉でさえ、正室ねねを大事にして立てていたということで、おK?
>>108 御腹様の立場が安泰というのを正室をしのぐと解釈してるの?
誰もそんなこと言ってないが?
側室としては他の誰が男子を産もうと嫡男生母であれば
側室の頂点という不動の位置に君臨できるという意味。
君が理解できなかったようで残念だよ。
淀殿が厚遇されていたというのは、他の側室と比べれば
歴然じゃないか?
主君信長の息女よりも輿の順が上だ。
輿の順は寵愛の度合いではなく、格付けの順。
京極殿への寵愛も並々ならぬものがあったのは事実だろうが、
御腹様だからそういう順になったのだろ?
違うのか?
北政所が大阪城を出たのは秀吉の遺言があったからだよ。
淀殿が入城したのもそのため。
ねねが勝手にでたとでも思ってたの?
こういうのってなんだろう?
ねねマンセー?
アンチ淀殿??
側室嫌いという点でアンチ生駒から派生してくるのだろうか?
どれが誰の発言かも、よくわからんな。
寧々や淀殿に関しては、信長の奥とはまた違った派閥や勢力があるから
生駒とかはあまり関係ない気もするが、なんで信長の奥のスレにきたんだろう?
生駒嫌いはえてして反側室の立場だからな。
でも淀殿に関しては戦国時代どころか、武家社会において
極めて珍しい例だから、こういう特殊な例を挙げて
普通の側室だ、いや違うと論じるのは無意味だと思う。
115 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 17:27:47
>111
ほかでやれ。
特別扱いというより、いつでもどこでもお相手がいるように
あちこちに現地妻置いてただけじゃない?
淀は大坂と京都の間で一休みするのにちょうど良い場所だし。
50才過ぎても子供に恵まれなかったのに、自分の目の行き届かない
側室が懐妊したと聞いて、それが自分の子だと疑わずに
いられるのが不思議だ。
若い頃に石松丸が生まれた事もあるし
全くの種無しではなかったからだろうな。
自分の子供と信じたかっただけかも知れないが。
そういえば、囲碁の古い文献に、寧々がお灸の堕胎法で3度堕胎した事が出てくる。
その後秀吉が出世して子供を養えるようになった時には、妊娠できなくなっていたそうだ。
>>118 「囲碁の古い文献」って!?
すごく興味ある。
なんという本なのか題名を教えてください。
でも他の側室も南殿以外は子供を産んだという記録はないし、
基本的に子だねの生命力がなかったんだろうな。
淀殿はお市の血を受け継いで子供ができやすかったんだろうか?
確か司馬遼太郎氏は秀吉に子供ができなかったのは梅毒のせいだろう、
みたいなことを書いていたよ。その頃日本ですごい勢いで梅毒が
広まっていったそうなんだけど、身分の低い頃にそういう
病気もちになって不妊症になったためじゃないかって。
だから当然司馬氏は秀頼は秀吉の子じゃない、と書いていたけど。
肖像画を見る限り淀殿は父親の長政似。がっちりしていて、骨太タイプ。
秀頼は小柄な秀吉には似ても似つかずの巨漢のデブ。
母方の血をひいたためともとれるけど、そういう容貌からも
当時の人たちは絶対「あれは太閤さまの子じゃない・・・ヒソヒソ」
とやっていたに違いない。
「爛柯堂棋話」って将棋と囲碁の文献。
江戸期の文献だから信用おけるかどうかは知らん。
でもなんで、将棋と囲碁の関係の本に?ねねの堕胎の話が書かれるのだろう。
他の側室が誰もできないのに、淀殿だけに2回も子供が出来るのはちょっとね。
もしかしたら、最初の子は本当に秀吉の子供だったかも知れないけど、
秀頼はもしかしたら違うかもね。一人目が出来て、秀吉のあまりの喜びように
淀殿が秀吉の寵愛を独り占めしたくて、計ったかもしれない。
囲碁の勝負で秀吉が政宗に側室を譲った逸話があったから、そのからみでは?
母親のお市がかなり妊娠しやすいようだ。
長政との婚姻期間中妊娠期間の方が長い。
淀殿はその血を受け継いだのかも。
淀殿もよほど妊娠しやすい体質だったので、少ない子だねの秀吉の子供を
宿すことができたんじゃないかな?
いくら秀吉でもそこまでお人好しじゃないと思うんだ。
疑わしい環境で子供ができたなら信用しなかったと思う。
絶対自分の子である、という確信をもてるだけの環境で
淀殿が妊娠したと思うんだよね。
でなかれば、まだ血のつながりがはっきりしている甥の秀次の方が
後継者に相応しいと思うのではないかと。
この時代子が出来ないのは一方的に女の原因だと言われていたからね。
今でこそ子が出来ないのは女だけの責任ではなく、男も無精子病だとか、
精子の運動率が極めて低いとか色々問題があることはわかってきているけど
昔は子供の出来るメカニズムも、男の精液が女の体内で人間になると信じられていた。
だから単純にいえば、射精して精液が女の体内に入る=男には何の問題もなし
という感じだったんだろう。
秀頼が誰の種かははっきり言って当時にタイムスリップでもしてDNA鑑定しなきゃ
わからない問題だけど、少なくとも秀吉は自分の子供って信じていたと思うよ。
子がいないのは女の責任の時代だから。
南殿に子供が生まれた過去がある以上(さらに女子が生まれた逸話もある)
自分が種無し男だとは夢にも思ってなかったんじゃないかな。
そうなると信忠誕生までの信長夫妻の子なし時期は不可解だな。
濃姫に3年子なしとなれば、側室を置くことになんのはばかりもないはず。
道三に気を使うもなにも、道三自身も多くの側室がいたわけだし、
そういう価値観のもとに夫婦が成立していた時代でもない。
濃姫との間に姫がいたか、3才ぐらいまで育った男子がいたか、
とにかく双方が不妊症ではない、という確かな証拠があったと思えてくる。
>>126 その辺は憶測になっちゃう問題なんだけどね。。。
実際、若き信長夫妻が何を考えていたかはわからないし、
濃姫が妊娠したかどうかも結局のところそういう文献でも出てこない限り謎。
可能性としてなら濃姫が妊娠・出産したという事も考えられるし、
妊娠も出産もしてないけど特に焦っていなかったという可能性も考えられるし
さらにその間側室はいたけど誰も懐妊しなかったという可能性もありうる。
もっと下世話な推測するなら、性交がうまく行っていなかったとかそんな可能性すら「ありうる」わけだし。
あくまで憶測の域を出ないんだよね。。。その辺の問題に関しては。
>>127 だけど不思議なのは、信忠が生まれる前に信正が生まれているんだよね。
信長の子供かどうか?だったので、養子に出されたと聞いたんだけど。
そうなると、側室がいたならなぜ正式な側室でない女子と関係をもったのかも謎。
可能性としては、この時期に濃姫が妊娠していたとかで、他の女子と関係を持って
しまったのかなとも推測できるけど。妻が妊娠中に浮気をする男は多いし。
信正は庶子確定ではないんだよ。
家系図ではまったくスルーされているものもあるし、
文献にでてくるのは、確か江戸期に編纂されたもので
登場してくるだけだったはず。
そういう説もあるというだけ。
扱い的にも庶子の扱いではないので違うと思う。
信長だって庶子の兄二人を押しのけて家督を相続したのだから
正室に子供ができる前に側室が産んだ子がいても問題ないんだろうし。
>>126 戦国時代の側室って敵方の妻女や人質とかが多かったから、信忠誕生まで
信長にはそういう経緯での側室がいなかったからじゃないか?
つまり、政治的な理由で仕方なく?というか、側室として置かざるを得ない状況に
なってきたのが、ちょうど生駒あたりからで、それまでは好みの女性に手を出すという
こと以外であえて側室を置く理由もなかったから、側室も子供もいなかったんじゃ?
>>129 信正の件も江戸期に入ってからの捏造の可能性があるってこと?
その割には、庶子として家系図に載っていることと、通説のように
書かれていることが多いのはなんで?
信正は京都にある見性寺を開基したといわれて、そこの寺に伝わる
「見性寺開基尾田信正位牌銘」にのみその生涯が詳細に記されているだけ。
他の一次史料にはまったく記されていないんだ。
見性寺に信正の墓もあるので、実在はしたんだろうけど、
信長の長男としての扱いを織田家でしていないことから、
後年の落胤説の一つの類だと思う。
「系図纂要」などでは信正を庶長子にして、妻子のことも書いてあるので
実在した織田家の人物であることは確かなんじゃないかな。
「織田家雑録」では、五徳が信忠の姉である という矛盾する記述もあることだし、
その後の記録に登場しない姫の出産記録もあるらしいから、生まれたけど
早世したという可能性もあると思う。信忠の前に、早世した姫がいた可能性
もあるかなと。
だけど、信長って子供が出来る時期は一度に何人も出来るんだけど、
出来ない時期は全くいないんだよね。
でも記録にはなくても、早世した子供がいた可能性もあるし。
134 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 23:05:51
>>133 子供ができる時期と側室を増やす時期が比例してるんじゃないか?
勝戦が多いときは必然的に側室も増え、同時期に子供も増えるんじゃw
信長の権力が巨大になるにつれて、娘を差し出す首領が多くなったってことか。
この時代、元服すると妻をめとるのは一般的だけれど、基本的には妻は一人いればよい。
妻が死なない限り、後妻をめとることもない。
側室をおくことが強制されていたわけではないし、
若年期の信長の妻が濃姫ひとりだったとしても不思議ではない。
信長には兄弟が多かったし、後継者の件は養子だってなんだって方法はある。
生涯を合戦にあけくれた信長は、戦には女を連れて行かず、美童を愛したなんて話もあるから、
子供がいない時期があってもおかしくないんじゃないか?
合戦がない時期は、女をそばに置いたかもしれないけれど、
合戦になれば、出陣したわけだし。
>戦には女を連れて行かず、美童を愛したなんて話もあるから
宗教的(神道)な話になるけど、普通の女を戦場に伴うのは縁起が悪い事だったそうですよ。
(妊婦が鎧に触れると不吉だというものもあった)
なので合戦前から女に触れずに、性的欲求は小姓で紛らわしていたらしいです。
(もっともこの時代、男色は普通なので紛らわしていたというより単純に男としたかった可能性もあるけど)
戦場でいていい女は、(戦)巫女のみだったそうで。
まぁ肩書きだけ巫女で、単なる遊び女であったとは思いますが。
>>137 迷信、縁起担ぎの類が武家の慣習になっていったんだろうな。
ただし女人禁制は出陣前に限りで、出陣すれば後から
お伽女がぞろぞろついていって、商売していたし
素人女達も戦場での炊事や首化粧なんかもしていたから
戦は金儲けの場でもあったということみたいだ。
衆道のちぎりは、武家の子供は幼少期に寺に預けられたり、
寺で教育されることが多かったから、稚児をかわいがる
僧侶たちの影響が大きいのでは、という見方もある。
男色に罪悪感もなく、むしろ子弟関係においては自然な行為と
認識してしまうのかもしれない。
武士の純粋な恋愛相手は男色相手か、相手を選べる遊郭の遊女
だったといわれているけど、本当かもしれない。
139 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:07:38
うおw
久々に見たらすごい進んでるな〜と思ったけど・・・濃姫の話題じゃなくて
淀の話題ばっかだなw最近w
つか、濃姫好きは側室嫌いが多いんだろうか?
それともねね(糟糠の妻)=濃姫という脳内変換のもと、
正妻から夫を奪った側室=淀(=生駒)みたいなもと嫌う人が多いの?
>>136 確かに跡取りがいない=お家断絶の危機となるのは、徳川幕府成立後のことで、
それまでは誰の許可なく養子をとっても、誰を後継者にするのも自由だったし
未亡人が後継者が決まるまで女城主として君臨することもできたし、
家にとって跡取り問題は江戸期ほど切羽詰った問題ではなかったと思う。
信忠誕生した時は信長はまだ20才そこそこの若さだし、
あせって側室を置く必用もなかったのは事実だろうな。いざとなれば
弟や弟の子供を養子にして跡目を継がせても織田家は存続するわけだし。
>>139 別に側室嫌いってわけではないけどな。
淀殿に関してもそれほどの思い入れはない。
だけど、濃姫が離縁もしくは別居させられていて、生駒が正室だったなんて
嘘の話が平然と活字になっているのが気に入らないだけ。
生駒が正室になったなんて記録はないのに、どう考えても矛盾だらけなのに
いつまでもそれを認めようとしない史学会に腹が立っている。
淀殿は好きだけどな、面白いじゃないか。
一人でがんばってるからな。
方向性が間違ってたと思うけど。
生駒自身についても嫌いじゃない。
信長の奥について話題を提供してくれて
濃姫の事も、武功以前よりわかってきたしな。
いやなのは、武功に出てくる生駒を史実だと言って
他の一次史料の事は無視して都合よく解釈する
生駒偏愛者と、表の歴史に関係ない奥の事なんて
興味もないから詳しく調べもしないで、
生駒正室説をそのままなぞらえてるか、
わかっていても学閥気にして声を上げない、
史学者達かな。
>139
淀と生駒は、まったく別物だよ。
淀は例外中の例外、相当異端派の女性だからな。
だから、あんなに有名なわけだろ。
淀=生駒だとは、誰一人言っていないだろ、別に。
女性史観に興味のない歴史家が多いらしいが、
当時の大名家にとって嫁とりは、大事な政治の戦略の一つ。
他国と同盟する上でどこから嫁を迎えるかというのは今後の方向性としては
かなり重要になる。
織田家にしても、なぜ美濃から正室を迎えたのか。同じ隣国でも今川家と手
を結ばずに、美濃と同盟したのはなぜか。信長の時代になってから、かつて
の宿敵だった三河衆である家康と同盟したのはなぜか。
信長のその後の行動を見ると、それもおのずと分かってくるはず。
そう考えると、信長の継室に吉乃がなったというのは、ありえないということ
がわかる。
戦国時代の奥を調べていくと、当時の政治的な駆け引きや戦略なども違った側
面から見えてくる。それを興味がないからといって、安易な説に同調した歴史家
が多いのは嘆かわしい事だ。
信長の父信秀に京を目指す思考があったことは、
わざと否定しない。
信秀はそのために京への通り道に当たる美濃を侵略したし、
斉藤氏の息女を嫡子の正室にめとらせたんだろう。
今川は、京とは反対方向。
当時の今川は、幼主義元を抱え、京を目指しておらず、
尾張を侵略してくることもなかった。
信秀には興味がなかったんだろうな。
信長の代になると、成長した義元の力は強大となり、
家康との同盟、という話になるんだろうな。
>>144 そういう、政治政略としての奥は多少はなぞっているだろう。
だが、正室格なんてものが一人歩きしている事は、
政治政略には関係のないものだから、考証もしない。
実際には、美濃攻略などの事を見ても、関係ない訳はないんだが
嫁取り以降の奥の事は、単なる閨房の事という認識に思えるな。
147 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 11:38:27
単なるゲーム(信長の野望)ですら婚姻同盟は使い勝手がいいシステムだしなー(後半うざくなってくるが)
実際婚姻関係にあるだけで攻めない攻められないっていうのは
当時の周り敵だらけの大名からしたら夢のようなシステムだ。
信長が長年側室おかなかったって問題も、単純に妾というものはそれなりにいて
正式な側室を奥に向かえ、跡継ぎ作らないと><みたいに切羽詰ってなかったという事も考えられる。
正室は濃姫がもうすでにいて、適当に浮気(という言葉が正しいかはわからないが)で
何人か通う女がいて、それだけで十分だったんじゃないのかなぁ。
一戦国大名に過ぎなかった頃の信長を、たいそうに言うのも困る。
側室を置くか置かないかなんて小事にすぎんし、
現に側室どころか妻の一人すらおかんかった戦国大名もいる
地位が確立したあとの天皇家や将軍家では
当主の業務といえば、なるだけ多くの女と性交することのみだったかもしれないが
戦国大名にとっては閨のことより生きるか死ぬか、そっちのほうが大事。
それを、子供がいなければ織田家が滅びる、
当主の役割は女とやること、と力説されても困る。
>>126 信忠が産まれるまで、信長が子なし状態だったということなんだが、
濃姫に男子が生まれた場合、その子に後を継がせようとされ、信長自身が
暗殺されるのではないかと警戒したためではないかとも思える。
信長がどの程度、道三を恐れていたかはわからないが、諏訪頼重が
信玄に似たような方法で滅ぼされている。
なので、道三がはっきりと信長の味方となるまでは、子作りを控えたのでは
ないかとも考えられる。
実際に信忠が生まれたのも道三死後だし、美濃の譲渡状をもらって正式な美
濃の後継者となってから、本格的に子作りを始めたのかとも考えられる。
濃姫に男子が生まれなくても、側室の子供を濃姫の養子にしていることから
も美濃国の後継者として、濃姫の子供である信忠が美濃を治めるのが最善だと
考えていたと思える。
150 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 13:44:22
>>149 >>その子に後を継がせようとされ、信長自身が
暗殺されるのではないかと警戒したためではないかとも
でも暗殺したところで、濃姫の子は織田の子だから
他家である斎藤家が実権を握ることにはできないと思う。
そこまで強引なことをしなくても、濃姫に男子が産まれ
その子が織田家嫡男となって、例えばその子の嫁をまた斎藤家から
だしたりして、斎藤家と同盟関係にあり続けることの
方が両家のメリットは大きかったのではないかな?
斎藤家にしても敵は織田家だけではなく、内外にうじゃうじゃいたわけだし、
その備えのために織田家と同盟を結んだようなものだ。
それと美濃をゲットできたのはある意味はたなぼたなんだよね。
斎藤家のお家騒動がなければ、道三が信長に後継者の座を認定する国譲状を
残してくれるわけもなかった。
そのことが土台にあったから、嫡男を濃姫の養子に据え、正嫡性を強めたとも
読めるのは確かだ。
なので、そのことと暗殺を恐れて濃姫との間に子供をもうけることを
はばかったというのはまったくリンクしていないと思う。
少なくとも、斉藤道三在世中は、岳父をはばかって、
側室を置かなかったというのはあるかもしれないね。
自分より大きな大名家の娘、あるいは自分の主君の娘を正室にした場合、
やっぱり側室は置いていないケースは多い。
濃姫と子作りしてなかったということはないと思うけれども、
(できなかっただけだと思う)、
道三在世中は、側室を置かなかったというのはありうると思う。
道三生前中の信長は側室どころの騒ぎじゃないからな。
身内の中でも敵がいて、家格的にも宗家からみたら庶家の一つにすぎないし、
家臣は平気で寝返るし。
女好きといわれている秀吉だって、子供が一人もいないのに
側室を持ち出したのは城持ちになってから。
それまではねねと家来を養うのが精一杯。
信長はそこまで貧しくはなく、経済的には恵まれていただろうけど
とりあえず10代の妻が一人いたんだから奥は充分だったという
シンプルな解釈もできなくはない。
道三へのポーズ、妻を一番大事にしております=斉藤家を大事に思っています、
も目的としてあったかもな。
153 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 14:24:15
まぁ、出足は遅れたが結果的に50才直前で20人からの父親になったのだから、
問題はないな。子供達は織田家の駒としてしっかり仕事をしてくれた。
155 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 15:35:02
まぁ嫁さん(濃姫)以外としたいなら、その辺の女通えば済む問題だしね。
特に側室という形をとらなくても、単なるめかけ程度で。
156 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 16:06:34
>154
織田家の駒としてしっかり仕事?
そうか?
信長の息子、娘たちには、逸材がいなかった。
家康の息子、娘たちとまでは比較せんが、
豊臣秀頼ほどの働きもしなかった。
と思うのは、漏れだけか?
157 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 16:28:43
スレチですまぬが、
徳川幕府3代将軍徳川家光は、
21歳で正室鷹司孝子と祝言を挙げたが、
ホ○で、小姓ばかり追い掛け回して、全く大奥に近かなかった。
家光の場合、しっかりした兄弟もいなかったのだが、
(異母兄長丸は早世、同母弟忠長は切腹、落胤の異母兄保科正之は徳川姓を継げず)
この有様。
家光に最初の子が誕生したのは、32歳のとき。
天下の幕府将軍ですらそんな感じなのだから、
戦国大名の奥など、もっとざっくばらんだったと思うが。
>>156 信長の子供たちが、秀頼より劣っているとは思わないけどな。
でも信長の資質がずば抜けていただけに、その子供達が全くそれを
受け継いでいないのが残念かな。
子供は沢山もうけたけど、早死にの子が多いしね。
数がいればいいってことではないな。質の問題だね。
159 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 16:57:49
豊臣秀頼は、20年近くにもわたって、その存在だけで、
江戸幕府初代将軍徳川家康を脅かし続けた。
秀頼は、父秀吉の死後も、家康をしてその孫娘を大阪城へ置かせるほどの
脅威であったからな。
それに比べて、信長の子は、誰一人として、
ときの天下人を脅かした者はいない。
豊臣秀頼ほどの働きもしなかったと思うのは、そのため。
>>159 秀頼の存在そのものではなく、豊臣方(反徳川)と
どっちつかずの勢力が結びつく可能性が徳川の存在を脅かしたというだけのこと。
もし秀頼が本当に優秀な逸材であれば、徳川よりもはるかに豊かな経済基盤を持ち、
徳川以上の味方がいながら豊臣滅亡ということにはならなかったと思うが?
それから信長は全国平定前に亡くなった。
秀吉は天下を取って、基盤を整えてから亡くなった。
その差はでかいんだよ。
>>157 家光の場合は最悪男子が授からなければそのために尾張、水戸、紀伊の御三家
をつくったのだから、将軍後継問題はクリアできたさ。
この時代は真性ホモよりも、バイセクシャルの方が圧倒的に多いから
実際のところ家光の男色はそんなに問題視されなかったと思うよ。
>>159 秀頼はいってみればカリスマ的な存在っつうだけだな。
豊臣の象徴ではあったろうけど、親父さんみたいな実行力も
統率力もなかったから、子飼いからの家臣まで離反を招いて豊臣滅亡。
お馬鹿な2代目ぼんぼんの典型としか思えないが・・・
163 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 17:22:54
>160、162
どっちの意見も、信長の息子は秀頼より賢かった、
という反論になってないんだが?
秀頼が優秀?
本当に秀頼が優秀だったら、秀吉死後、家康が好き勝手できるわけがない。
豊臣の家臣が分裂するはずもない。
秀頼は単なるお飾り。武将としても政治能力としてもとても優れていたとは
思えない。
165 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 17:26:56
7歳の秀頼と、成人していた信長の息子たちを比べるのは間違い。
比べるなら、秀頼が秀吉が死んだとき20歳を超えていた場合と比較するべき。
逆に、信長が、幼い息子を残して戦死していたら、
信長死後、家名が残ったかすら、怪しいため。
>>163 自分の代で家を断絶させ、豊臣家の庶家すら残さなかったという点では
秀頼の方が愚将だな。武家にとって一番大切な家の存続ができなかったから。
それ以外は何を規準に賢い、賢くない、ということを検証したいのか
はっきりさせなければ漠然とどっちがどうとは判断しかねるが?
167 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 17:37:28
「働き」と「賢い」は別物だろう。
戦国時代ならば、よい「働き」をしたのは信長、秀吉らの武将だろうが、
血筋を残すということを「賢い」の第一に持ってくるならば、
戦国時代、もっとも賢かったのは公家や天皇家ということになる。
自分や自分の子孫の命を危険にさらすようなまねは一切していない。
武家にとって、一番大事なのは家の存続ではないだろうな。
武士にとって一番耐え難いのは、自分の名が貶められること。
そのためならば、あえて自害を選ぶことも多かったしな。
>>167 >>一番耐え難いのは、自分の名が貶められること
戦国期はそうでもないよ。
裏切り、寝返り、主君替えは卑怯者よばわりはされなかった。
その根底は家の存続のためという大義名分が通ったから。
武家にとって最優先すべきことだから通ったんだよ。
そもそも自分の名が貶められたから自害した戦国武将ていたか?
公家と武家を比較するのもどうかと思うな。
それに時代を溯れば公家の先祖も武装して戦っていたわけだしな。
>>167 >>戦国時代、もっとも賢かったのは公家や天皇家
ふいたよw
賢いも何も武家に権勢を奪われ、金もなく、貧乏で屋敷の修復も
できなかったというのに、命の危険をおかす機会もその気力もなかったろう。
武家の権力者にスポンサーになってもらって糊口をつないでいたというのに。
賢い生き延び方といえばそうだけどさw
そういえば信長が天皇になりたがっていた、という説なかったか?
天皇・公家なんか眼中になかったのは確かなようだけどな。
>>138 女性は生理や出産、出産の手伝いなどで血に慣れているので
戦場でもいい仕事をしたらしい。
男の方が血にびびって(雑兵クラスだろうけど)ダメだって
誰だか忘れたけど有名な武将が言ったとなんかの本に書いてあった。
女鉄砲部隊もいたし、首化粧は女の仕事で「おあむ物語」では
洗濯してるみたいに笑いながら首を洗ってるんだよ。
172 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 18:20:13
ここの織田マンセースレは独特だよな。
いつも決まった面々で繰り返し同じ話題しててよく飽きないよな。
まあ、新参者は近づくなということだがw
そう思ったら来るな
素直にアンチ織田スレに行けば?
>>172は秀頼優秀説を唱えた人なんだろ?
そんなのどこのスレに行っても相手にされないさw
秀頼が優秀だったら大阪城が焼けずにあったろうなぁ。
>>171 池田恒興の娘が女鉄砲隊を率いてたんだよな。
鉄砲でいくら相手武将を殺しても、恩賞の対象にはならんからな。
一番槍をつけた、首を取ったでなんぼの男達からしたら
鉄砲で自分の手柄かどうかも分からんのでは、志気も上がらん。
恩賞とは関係ない女性が鉄砲隊なのも道理かも知れん。
長篠の戦いを描いた屏風に、女鉄砲隊が描かれているしな。
176 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 18:49:02
>>174 別人だよ。
おまいら、ほんとに独特。もうこないがねw
信長の息子が優秀だったら、安土城は焼けなかっただろうね。
ここに常駐する織田マンセーのおばはんが怒り狂う様子が目に浮かぶがw
>>175 鉄砲部隊は当たる当たらないより、後方からの威嚇がメインだったろうから
女性でもOKだもんな。
女性達には日雇いで給料を払っていたのだろうか?
>>176 だから誰も信長の息子が優秀だとは誰一人書いてないが?
秀頼は優秀ではない、と言ってるだけだが?
日本語もまともに読めないんだから
もうこないほうがいいよ。
これ以上恥の上塗りしたくないだろ?
>>176 本人のくせに〜 一人秀頼マンセーって、どんだけぇ〜!
180 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 19:05:50
別人だって。
おまいらだって、一人で書いてるように見えるんだぞ、
はたから見れば・・・
大阪城が焼けなかったを安土城が焼けなかったに変えただけで、
なんで秀頼マンセーになるんだよ。
どっちも馬鹿だろ。
信長の奥のことなんて、出尽くしたんじゃねえの?
女同士のごたごた、子供を産むのが一番大事よね〜なんて、
主婦の暇つぶしは、鬼女スレででもやりゃあいいし。
>>もうこないがねw
って書いたんだからのこのこくるなよ。
うぜぇな。
とっとと失せろ。
182 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 19:30:51
まぁ晩年の信長の奥ならここでの話題もありそうだけど
尾張の田舎大名に過ぎなかった頃の信長の奥なんて
濃姫を頂点にした側室がどうのとか、そんな大それたもんじゃなかったと思う。
信長の息子に優秀なのがいなかった、って、信忠は?
本能寺の巻き添えを食わなければ織田政権は存続したと思うし、
あの武田家を滅ぼしてるんだから相当なものでは?
ただ本能寺の時、逃亡せずに玉砕を選んだのは
判断ミスだと思うが。
>>183 信忠配下にも光秀と内通していたものがいて
どさくさで殺されてしまったのでは?
と考えたことがある。
信忠はいくらでも逃げるチャンスがあったのだし
嫡男教育を受けていた人物にしては軽率な行動。
不自然なんだよな。
秀頼は秀吉がもっと若い頃に生まれて、ねねが手元で育てないまでも
正室としてある程度養育を見守れる立場にいたらもっと違った武将に育ったと思う。
少なくともかまぼこばかり食べて、馬にも乗れないほど太る事もなかったろう。
徳川に降ることになっても豊臣の存続を認めさせるよう働きかけるだけの
器量もあったのではないかと思う。
家康も今川、織田、武田、を高家に取り立て庇護している。
豊臣が縮小されて一大名に成り下がっても生き残る可能性は
充分あったろうに。
186 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 20:27:05
>>184 光秀ほどの者が、逃げさせてくれるわけがない。
そう考えが及ぶのも優秀だったからとも取れる。
「あの時、光秀は信長だけを包囲していて信忠は逃げれたのに・・・」
これはあくまで結果論にすぎないよ。
187 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 20:33:24
結局、信長の息子の中ではマシだと力説される信忠すら、
秀吉に7日でやられた明智光秀以下の能力しかなかった、ってことでおk?
政権者にもっとも能力を認められた重臣がクーデターを起こした。
しかし政権ナンバー2、時期後継者の自分にはなんの処置もとっていないなんて
普通は思わないよな。
一人秀頼厨がいるな。なんでここのスレに来たんだ?
>>187 だけど、マザコン秀頼よりずーっとマシだよ。
191 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 20:45:39
明智光秀が「政権者にもっとも能力を認められた重臣」であったというのは、疑問。
あの信長をうったのだから、もっとも能力があった、
と認めたいのはわかるが、織田厨の妄想だよ、
>>191 信長が優秀でない人間をナンバー2の重臣にするわけないだろ。
光秀が無能だったとでも?ソースは?
>>186 信忠は当時妙覚寺に滞在していて、本能寺の変を聞くや否や
本能寺へ救援に向かうが、信長自害の知らせを受け、
二条御所にむかい、誠仁親王を逃がさせわずかな兵と追ってきた光秀軍に応戦、
二条御所で篭城・自害している。
つまり本能寺の変後に逃げる機会はあったということ。
二条城に行かず美濃なり、安土に即行戻ることができたわけだ。
もしくは数日身を隠しておけば秀吉も戻ってきたわけで、
嫡男信忠総大将に光秀討伐もでき、何の問題もなく
織田家の家督を全部相続(すでに形式的には相続してたけど)して
一件落着、という流れもできたはずだがな。
194 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 21:15:18
>>193 それは全て歴史を知る現代人だから言える事だよ。
結果を見れば逃げられた。
でも当時の信忠にしてみれば明智軍が京都を包囲してなかったなんて
知らなかったわけだし、もし仮に逃げて捕虜の辱めを受けるのならいっそ自害をしよう
って考えるのはまぁ普通の思考回路だったと思うけど。
包囲してなかったと知っていたら逃げた「かも」しれないけど、結果としては
彼はその事実を知らずにいたんだから、「戻る事が出来たのに」とかは全て結果論。
>>193 そうか?
でも誠仁親王は混乱のさなか逃げれたんだよ。
信忠は本能寺に向かったり、そこから二条御所に行ったりできたんだよ?
信忠までは包囲網がされていたなかったからだろ?
親王と一緒に逃げることだってできたはず。
それこそ影武者たててその隙に逃げる事だってできただろう?
196 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 21:26:10
>>195 誠仁親王は信忠と明智方と「こちらには親王がいる。今から親王を逃がすから
無事脱出させて欲しい」っていう取引があった。
親王が逃げた後に「じゃ、戦います」っていう事になったんだよ。
ちなみに包囲されてた云々は、京都全体として考えた場合ね。
帰り道全部ふさがれているという認識をしたんじゃなかったっけ?
誠仁親王を討つことが光秀の目的じゃないからな
二条御所へ入るまでは逃亡するチャンスはあったかも
知れないが入ってからはないだろう。
誠仁親王は「城介殿が逃亡することがあってはならぬ」から
と、馬や駕籠に乗ることを禁じられ、やむなく供奉の者に
背負わられて御所を出る有様だったというから。
なんでその親王を逃がす必用があったんだ?
光秀はその親王は圏外だったんだろ?
まぁ俺が信忠なら親王を背負う従者のふりして逃げるぞ。
そのぐらいやってもらわないと。
信長だって浅井が裏切ったから死に物狂いで逃げたし、
家康なんてうんこもらして逃げ切った。
戦には逃げることも戦略のうち。
信忠も茶道だか、狂言だかに夢中になりすぎて信長から怒りをかった事件が
あった。信雄よりはましだろうけど、やはり甘ちゃんのところはあったのかもよ。
信長も20才ぐらいまでは尾張一の大馬鹿と近隣諸国にまで有名だったから
信忠がもっと長生きしたら頭角をあらわしてきたかもしれないけどな。
201 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 21:41:49
偉大な父親の子であるという慢心。
子分(光秀)を成敗してやるわ、という慢心。
親王は逃げることで生き延びてきた天皇家の血。
義満でさえ、慢心により、天皇乗っ取りに失敗した。(毒殺)
202 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 21:44:48
偉大な父親の子であるという慢心。
子分(光秀)を成敗してやるわ、という慢心。
親王は逃げることで生き延びてきた天皇家の血。
義満でさえ、慢心により、天皇乗っ取りに失敗した。(毒殺)
信長を亡き者にしても、もし信忠が生きていたらどうなったんだ?
さくっと信長の後釜になるのはどう考えても無理だ。
そこまで光秀が浅はかな人物とは思えないし、やはり信長と同じく
京都に滞在していた信忠を亡き者にすることを視野に入れての謀反だったのか?
もしかしたら伝わっていることと異なり、信忠への包囲網はもっと迅速に
行われ、本能寺への援軍どころか二条御所に逃げ込むのが精一杯で、
包囲され逃げ切れないので、関係のない親王を逃がしたということなのかも。
能だな>信忠
>>204 そうだ、能。信長に道具を取り上げられちまったんだよな。
206 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 21:50:59
>>199 どんぱち始まれば、矢やら鉄砲やらが飛び交うでしょ?
親王だか信忠だか先陣切って戦う雑兵にはわからんのだし、
なんか身分ありそうだから斬ってみたら親王でした。じゃ困るわけ。
しかも矢や鉄砲なんてのは流れていく場合もあるんだし。
あんたは「君は殺さないから安心してくれ」って言われて目の前で
鉄砲ばんばん撃ちあわれても平気?普通流れ弾あたったら・・・とか思うでしょ?
そして従者のフリしても、多分顔をしっかりチェックされてから通されるだろうから
まぁ多分無理だね。
207 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 21:54:15
能に夢中になったから、というか
信長が嫌いな能にハマってたから「父さんこんなの許さんぞぉ!」って
取り上げられたんじゃなかったっけ?w
きっと信忠は親王を盾にしようとしたんだろ?
だけど親王がいようと襲撃してくる勢いだったから
あきらめてまきぞいにならないように親王を逃がしたってことじゃない?
でも公家の衣装とメークをして従者になりすませば誤魔化せたんじゃないか?
白塗りお歯黒の麻呂メークなら誰が誰だかわからん。
あとは妙覚寺で毛を剃り挙げて坊主のふりをして逃亡するとか。
妙覚寺は信長にも濃姫にも縁の深い寺だから手助けしてくれたと思うけどな。
親王(正しくは親王一家)を逃がす必要があったのかって、
これから御所で信忠方と明智方の戦いが始まるからだろ。
そのまま御所にいたら巻きこまれて命さえ落としかねない。
直接関係ないがイエズス会の史料では親王は当初
「私はどうすべきか。切腹すべきなのか」と言ったという。
だが明智方は「親王に危害を加えるつもりはない」ということ
だったので一時休戦が成立し、親王一家が避難した後戦いが
始まっている。
これも蛇足だがこの親王の「切腹すべきなのか」というのが
朝廷黒幕説の有力な否定材料に挙げられている。
皇族に切腹という慣習はあったか?
211 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 22:05:30
そこまで見苦しく逃げるツモリもなかった、って感じなんじゃない?<信忠
父親も死に、兵の差も歴然。囲まれてるし、どう考えても逃げられない確率の方が高い。
逃げたあげく捕まって処刑されるという恥さらしはしたくないし、
だったら潔く戦い果てよう。という感じだったんじゃないのかなぁ?
信忠黒幕説もあったな。光秀が裏切って信忠をも死に追いやったという説。
>>211 それじゃ、うんこもらしたあの人の立場が・・・
たしかに信長が討たれたとなった瞬間から家臣の動揺もあって
中には逃亡をはじめたものもいたかもしれないし、冷静な判断はできるような
状況ではなかったろうけどね。
214 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 22:12:01
>>213 まぁうんこもらしたあの人が逃げた状況下と、その理由と
信忠が本能寺の変で置かれた立場は違うからねぇ。。。
>>210 皇族にも公家にも切腹を自決法に用いる慣習はない。武家のみ。
だからイエズス会の史料は真っ赤な嘘ということ。
>>212 その原因が能のことで咎められたことの逆恨みだったりしてな。
イエズス会の「切腹」という表現は「日本の自決=ハラキリ」って思ってたから
そう書いたという事もありえそうなんだけど・・・ないかな?
単なる自決なら、過去何度も皇族やってるわけだし。
(一番多いのは流罪だけど)
>>216 信長が謀反の知らせを聞いて「城介の別心か?」と聞き返したという逸話もあるし、
当時にしてもパパの顔色伺っている従順な息子という認識ではなかったんだろうね。
>>217 オレもそう思う。
「切腹」というのは単なる表現で、親王が自決するという
悲壮な決意でいたということだと思う。
このことだけでイエズス会の史料を否定するのは早計。
親王が何故自決まで考えたのかと言えば、二条御所を信長から
献上され、譲位、即位も約束してくれた。その信長が最期を
遂げた上に、御所まで明智軍に囲まれてしまったため、
信長に殉じるつもりだったのではないかとのことだが・・・
>>218 道三親子、武田信虎親子、家康親子、あの時代親子であっても
ありえる話だからじゃない?
共通しているのは形式には家督を譲った嫡男と、依然家の実権を握る父親の対立。
信忠とは能の件以外でもなにか軋轢があったのだろうか?
天皇が親子の仲直りを安堵していた史料があったぐらいだから、
なにかしらはあったのかもしれないけど。
松姫との結婚を認めてくれなかったから、なんていってる人もいたけど、まさかね。
>>219 親王自身が信長サイドの人間だという認識でいたし、
光秀からもそう思われていただろうと思ったからでは?
ただ皇族の身分で武家のいざこざのために自害を申し出るかな?とは疑問だけど。
>>220 さすがに松姫との結婚はないでしょ。。。w
つかそれを真面目に言ってる人いたらどんだけ同人脳なのかとw
信長信忠親子の喧嘩は能以外に特に見られないけど、
天皇まで安堵したというからには、何かあったのかもしれないね。
このスレ的にさらに突っ込むと、そういう時は正室であり母親でもある濃姫が
取り直したり、二人をしかったり(w)するんだろうか?
>>221 さすがに武家のいざこざ(しかも部下の謀反)で皇族が死ぬ必要はないよね。
わたしは「自分も自害すべきか?」と言ったのは、信長派だから恩義を感じてとかではなく、
「今、信忠といるけどもしかしてこれって俺も死ななきゃいけないパターンなの?」
っていうつもりで言ったんだと解釈してた。
だが信長の死によって親王の即位は実現せず、
この4年後に親王は病死している。
その時の親王がどう思っていたのかはともかく、
信長の死が親王にとって手痛い打撃だったことは間違いない。
家督を継いだのに親父の傀儡で、やる気がなくふてくされて能三昧。
それを信長に叱責されてさらになげやりの信忠。
とうとう能の道具を取り上げられ〜ってかんじかね。
>>207 信長は能楽より幸若舞を好んだから、
それも気にいらなかったんだよ。
>>218 まさか、大久保彦左衛門の書いたことを信用してはおるまいな?
>>222 松姫との心の交流を信じたい・・・ロマンチックな人なんだね。
信長の最後の言葉としては「余は余自ら死を招いたな」というのも
異説の一つにあるな。
「是非に及ばず」とどれが本当なのやら。
>>227 前者は少々信長らしからぬ印象を受ける言葉だね。
そんな、人生の述懐のようなことを言うだろうか。
内省的な意味合いも込められてるし、何だかそぐわない感じw
「是非に及ばず」は、聞く人によって解釈が異なったりするし
創作上での本能寺の場面にもぴったりな良い台詞だと思う。
信長役者の見せ場でもあるし、何だか無いと期待外れだよな。
って、ホントは何と言ったのやら?な次元の話だけどね。
229 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 01:08:03
イエズス会作成の史料なんて信じるに価しない。
その場にイエズス会関係者がいるわけもない。
親王の言葉を直接聞き、その言葉を宣教師に伝えたのは誰なんだ?
本能寺の変が朝廷がからんでいたと臆測をして、勝手につくった話だろ。
本城惣右衛門覚書には明智軍の入京の目的が家康成敗だと
彼が思い込んでたことが記されている。
これはイエズス会の史料にある「(兵士たちは)これが何の
ためか疑ひ、或いは信長の命により明智が信長の義弟三河の王
(家康)を殺すのであらうと考えた」とあるのに一致する。
そういうこと分かってて言ってる?
>>230 信長の自己神格化については研究者の間でも意見が
分かれてるがそれ以外の部分は研究者の間では
イエズス会の史料は信憑性が高いと認められている。
例えば将軍義昭の二条城を造る時に石仏を多数使った
のは国内の史料に記されていないが、発掘調査で
実証されている。
また上にある誠仁親王が馬や駕籠を使わずに御所を出たと
いうことも国内とイエズス会の史料が一致している。
ただ、特にフロイスが書いたものは宗教上の粉飾が多数
あるので吟味した上で使わなければならないが。
でもなんで家康征伐だと家臣は思い込んでいたんだ?
家康と信長はまったく対立関係になんてなかったじゃないか?
家忠日記によると、当時信長から家康にも毛利攻撃の要請があって
家康はそのつもりでいたこともわかっている。
本能寺の変後は5日に岡崎に出仕した家忠は家康から出陣の用意を
命じられている。
その背景には家康の元に伊勢や尾張から使者がきて、
光秀討伐に味方になるように依頼されていたとあり、
家康もそのつもりで出陣準備をしていたということがわかる。
このことから家康がこの期に乗じて反織田家になるどころか
織田家からの要請を受け、光秀討伐をするつもりでいたのだから
信長と家康の良好な関係を証明するなにものでもない。
光秀が家康を打つ、という突拍子もないことを光秀の家臣が
信じていたというのが信じられない。
>>232 そこまで信憑性が高いならありもしない親王の切腹の話はなんなんだ?
切腹は武家しかない慣習だぞ?
日本文化に対してその程度の認識しかないものが書いた史料に信憑性を
疑わないのが不思議だよ。
外国人だって腹切=侍、という思い込みはあったろうから、
逆に侍以外は腹切しない、というふうには思わないのか?
日本人の女はみんな芸者、男はサムライか忍者、死ぬ時はハラキリ、
日本が諸外国からこういうありがちな固定概念をもたれていたのは
そんな昔のことではないよ。
当時の宣教師たちが思い違いをしていたと考えても不思議じゃない。
ただ根本的な日本文化を理解していない外国人の視点からかかれた史料である
ということは注意すべき点ではなると思う。
237 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 13:44:05
単純に自害=ハラキリって思った、もしくはそう書いただけじゃないの?
イエズス会の文献にそんな入れ込みはないけど、
そこまでハラキリにこだわって否定するほどのもんでもないと思う。
皇族である親王が武家同士の諍いで自害するとか言うかね?
かりに自分が一枚かんでいたとしても
そこまで信長親子に義理立てするわけもない。
親王そのものがかなり怪しいとしても、武家にとって天皇一家は
アンタッチャブルだから、光秀ごときが手出しができないのを知っているだろうから
開き直って逃げただろう。親王が死ぬ、という発想になったのが不思議だ。
>>238 自分は、もし仮に言ったんだとしたら
>>223みたいな理由だと思う。
「今攻められる側にいるんだけど、これってもしかしたら俺まで死ななきゃいけないパターン?^^;;;」
みたいな感じだったんじゃないかなぁと。
「柳生一族の陰謀」にでてきたマロさんが、家光暗殺のための襲撃の巻き添えで
殺されちゃったけど、あのシーンを思い出したよ。
輿をもつ従者も逃げちゃって、あわわ、あわわしていたら
ボロ雑巾みたいに殺されちゃって・・・
親王もさぞかしあわわ、あわわだったろうな。
この人その後天皇になれずにすぐに亡くなってるし、
どっちみち長生きできなかったようだけど。
「これは夢でこざぁ〜るぅ〜」
のあれねw
大ヒットしたよね。
俺の戦国好きはあの映画の影響かもしれない。
正確には戦国時代が終わった直後の話なんだけど。
>>233 謀反、裏切り、暗殺が日常茶飯事の時代だから
同盟関係にある信長が家康を殺害しても不思議ではない
という認識が世間にあったのだろう。
明智の謀反だって、朱子学の普及した江戸時代では、
そうした大したこともなしに謀反を起こすということが
理解されなくなった結果、ありもしない怨恨話が捏造されて
今日に伝わっていると言われてるからな。
実際本能寺については、最近有力な長宗我部氏救援のためだった
のか、単なる光秀の野望なのか、あるいは信長父子がほとんど
無防備で京にいるのを見て発作的に襲ったとも思われるが、
江戸時代にはそんな発想は全くなかった。
本能寺の変の時家康は堺にいて、その後伊賀、伊勢経由で海路で大浜に上陸してる。
家康がどこにいたのか詳細を知っていなかったということは
本城惣右衛門は政局に疎い人物ということになるが、
謀反だから首謀者とかなり近い側近以外は内々に謀をすすめ、
あくたもくたの兵たちはサプライズで、ということかもな。
どんどんスレ違いの話になってしまうが
明智軍が亀山城を出る時は「信長の閲兵を受けるため
京へ行く」と通達したようだ。だが惣右衛門のような
下級兵士には徹底しなかったようだ。
そのため彼は最後まで家康を討つと誤解したままだった。
もし出陣と共に真の目的を告げれば恐らく脱走・密告する
者が現れたろうから光秀の機密保持は徹底している。
桂川を渡川する辺りで兵士は戦闘準備をさせられると共に、
「わが公は今日から天下様にお成りになる」と告げられたと
いう(「川角太閤記」)。天下様になるということは信長を
亡き者にするということだが、これまた末端までは徹底しなかった
ようだ。1万3千と言われる明智軍であるから全員に周知するのは
不可能だったのだろう。いずれにしても惣右衛門は本能寺に入って
からも自分が何をしているのか分かっていなかった。多くの同僚も
同じであったろう。
『川角太閤記』か・・・
微妙だな。。。
「川角太閤記」は、明智弥平次秀満の湖水渡りのような
信じ難い話もあるが、「今日からは天下様」は、
ドラマなどでおなじみの「敵は本能寺にあり」より、余程
リアルである。第一どんな大声の持ち主でも届く範囲は
たかが知れている。光秀がそんなことを絶叫したとは
思われない。
「今日からは天下様」もフィクション。
むしろ、兵たちには、
「上様の御命令により徳川殿を討つ」と説明したと推測するほうが正しいと思う。
まぁその場にいたわけでもないので
光秀が何を言い、家臣が何を思い、雑兵がどこまで知ってたかなんて
わかんないよね。
わかる事は、光秀が謀反を起こし信長を攻めて本能寺で自害させたって事だけだ
249 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 08:19:39
中国製歯磨き粉 ;有毒化学物質ジエチレングリコール(DEG)
中国製薬用甘味料 ;有毒化学物質ジエチレングリコール(DEG)
中国製即席ラーメン ;下水を再加工して作った「下水溝油」を利用
中国産牛乳 ;抗生物質が残留している「有抗乳」
中国産コメ ;発がん性のあるカビがはえた古米
中国製せき止め薬 ;有毒化学物質ジエチレングリコール(DEG)
中国製ペットフード ;有毒化学物質ジエチレングリコール(DEG)
中国製ペットフード ;殺鼠剤混入
中国製注射液 ;有毒な工業用の化学製品
中国製偽粉ミルク ;でんぷんなどを原料(乳児約230人が栄養不良となり12人死亡)
中国産キクラゲやシイタケ ;基準値を超える二酸化硫黄など
中国製トウモロコシのしんの粉末 ;紅色の工業用染料を混ぜた「偽唐辛子粉」
中国産養殖ヒラメ ;残留農薬や発がん性のある抗生物質検出
中国製おもちゃ ;有害物質を含んでいる
中国製粉ミルク ;乳児が頭の大きくなる奇病にかかり13人死亡
レストラン@中国 ;地溝油
屋台の油@中国 ;残飯から取り出した油
中国製小麦を使ったペットフード ;有機化合物メラミン
中国産干しぶどう ;禁止添加物
中国産豆類 ;殺虫剤
中国産ほうれん草 ;基準値以上の農薬
中国産エビ ;抗生物質
中国製ミネラルウォーター ;中国の安全基準の100倍の細菌
中国製きかんしゃトーマス ;塗料に有害物質の鉛混入
中国製食塩 ;亜硝酸塩混入
中国製ビーフン ;亜硝酸塩混入
中国製土鍋 ;鉛・カドミウム漏れ
光秀は信長を討った後、家康も討つつもりだったんだろう。
でも末端の家臣に、信長を討つとは言えなかったから、家康の名前だけを
あげたのかも知れない。
>>250 なんで家康なんだ?
その頃家康は堺にいて、事態をしれば国に戻ったろうし実際戻った。
信長が家康を討ちたいと密かに思っていたというなら、まだわからないでもないが
(当時の両家の関係と情勢からそんなことはありえないと思ってるけど)
光秀が家康を討ちたいと望んだということは絶対ありえないと思うが?
>>251 絶対なんてことはわからないだろ。
実際に本能寺に向かう明智軍の兵は、家康を討つのだと思っていた雑兵が
いたというから、光秀が主君信長を討つことは内密にされていたのだろうし
、家康を討つと説明したとしてもおかしくない。
実際に信長を討った後は、畿内の大名を味方に引き入れて、堺に来ている家康
も討つ予定だったとも考えられる。
まあ、それが光秀の予想に反して、ほとんど味方についてくれる勢力もなく、
ありえないほどの速さで引き返してきた秀吉軍のせいで、負けただけだし。
明智光秀の兵は、徳川家康が堺にいることを知らず、
京にいると思い込んでいたとでも?
光秀が、雑兵にいちいち暗殺計画をもらすとは思えんし、
雑兵の言い分など、あまり価値がないとしかいいようがないが・・・
>>251 光秀が家康を討ちたいと望まなくても、信長を討ったあとは家康とも戦う
ことになるのは必然では?
光秀と家康が、裏で組んでいたというなら話は別だが。
>>254 信長を討ったあとは家康とも戦うことになるのは必然では?
なんで?
家康は織田家一門でも譜代の家臣でもなんでもない同盟関係にあっただけにすぎない
関係。当時の徳川の勢力なんて一大名にすぎない程度だし、天下統一をはばむ
ような存在でもなんでもなかったよ。
むしろライバル関係にあった秀吉や能反撃してくるだろう織田家一門、
勝家あたりこそ、戦いは必然。そしてその通りになって、数日後には討たれてる。
家康を攻撃目標に、という発想は当時の光秀にはないんじゃないか?
光秀が家康を恐れる理由は何もないじゃんよ。
家康が頭角をあらわすのはむしろ秀吉の天下になってからだし、
結果的に天下をとったという既成事実を知っている現代人でないと
そんな発想はないだろ?
光秀は、娘婿あたりに協力を要請する手紙を送っているから、
周囲の大名に総攻撃をかけるつもりだったというよりもむしろ、
信長さえ討てば、天下は自分のものになる、と思っていたんじゃないかな?
信長の同盟者である家康も、手紙を出せばこちらへ転ぶ可能性が高い
と見くびっていた気がする。
信長在世中の家康は、一度も天下を夢見ていない。
不思議だよな。
下克上とはいえ、かなり時間をかけて基盤を固めてから実行に移さないと
支配者としての継続やその後の統治は難しいというのに、
信長親子を殺せばあっさり天下がとれると思っていたなんて。
単独犯とは思っているけど、謀反の実行の動機になった
強力な下地があったとしか思えない。
信長配下の権力者が協力者だで、信長死後重用を約束して
実行に移したが、裏切られたとか?
だから次の権力者になった秀吉が怪しいと言われているのだが・・・?
怪しいといえば光秀の娘婿であった、信長の甥の信澄かな。
織田家の家督相続を親子二代で狙っていたとしたら、
光秀の計略に乗った可能性もある。
信孝も臆測だけで信澄を殺害したとも考えらないし、それなりに
怪しげな言動があったのかもよ。
例えば信澄も知った上での謀反であって、謀反後織田家の家督相続人は信澄になり、
光秀は舅として家臣団トップになり、その体制に協力するものは重用すると約束すれば
さくっと権力移行が図れると思ったとか。
>>259 ところが肝心の信澄が殺されてしまったので、
光秀を主君と仰ぐ連中は誰もいなく〜あとは史実通り
というオチだったりしてな
信長の元では出世を望めなかった勢力や反信長の勢力が
信澄&光秀のもとに集結するはずだったというのか?
家忠日記によると6月4日、家忠が家康を大浜に迎えに行く途中で
「織田信澄の別心はセツ(説・風評、噂のこと)である」という
情報が入ったと記されている。信澄がたんに光秀の女婿だったから
そいう噂がでたのか、あるいは本当に不穏な動きがあったことから
そんな噂がでたのかはわからないけど、長宗我部氏攻撃のために
信孝とともに大阪に集結していた信澄を、信孝が即行で
殺害したというあたりで、何かしらの事情があったのことかなとは
考えられなくはないかな。
織田信澄殺しは、織田家相続問題の最初の犠牲者って見解じゃないっけ?
個人的には信長は謀反人の子供への待遇にしては破格のものを信澄に与えているし、
信澄自身も当時織田家のNo.5という位置づけを不満に思っていたとは思えないんだけど。
その後信長の信澄への可愛がり方は、正直信雄よりもずっと大きいような気がする。
(能力至上主義の信長だから、あんぽんたんな実子より賢い甥っ子が可愛いというのもわかる気がするけど)
自分としては、光秀が勝手に信澄を旗頭に据えて織田家を乗っ取ろう(?)としていた
というものはあったかもしれないけど、信澄がそれに応える気があったとは思えないんだよなぁ。
でも姻戚関係にあった細川家や筒井家には援軍要請をしていたところをみると
女婿である信澄に対して光秀がなにかしらアプローチをしていた、あるいは
しようとしていたとは充分考えられるな。
信長にはかわいがられていても、信長が隠居して実質信忠の時代になれば
先代の甥である信澄はもはや出世の機会もなくなり、織田一門の庶流の一家として
細々と残っていくだけだったろうから、光秀の誘いがあったとしたら
快諾はしないまでも心の迷いはあったかもな。
もし信澄がまったく無関係だとしたらそういう人物を申し開きの機会を与えずに
とっとと殺しちまった信孝は相当軽率だとしか言いようがない。
殺さないまでも怪しいと思ったら拘束するなり、別な方法はもっとあったはず。
殺すのはいつでもできるわけだしさ。
まぁその後の信孝の行動をみても軽率なところがかなり見受けられるのは
事実だけど。
信雄愚将伝説、信孝優将伝説、は後年の信雄の落ちぶれ方から派生した
思い込みも強そうだからな。
信孝が優れた武将であったと記すのはイエズス会の史料と勢州軍記ぐらい。
前者は信孝がキリストに理解を示し、布教似協力する約束をしたからだろうし、
後者は作成サイドが神戸家縁のものだから、信孝を持ち上げていただけ
にすぎないようにもとれる。
光秀の誤算はまず組下の細川藤孝、筒井順慶の
消極的拒絶にあったこと。これによって光秀に馳せ参じたのは
阿閉など小身の者ばかり。
そして言うまでもないが秀吉の中国大返し。これさえなければ
光秀の天下もあながち夢ではなかったろう。
柴田、滝川らは上杉氏、北条氏と結んで一掃ないし弱体化させる
つもりだったろうし。
「勢州軍記」には信雄の馬鹿丸出し、それを馬鹿にするかのような信孝の
エピが書いてなかったか?稚児がらみのところだったような?
それを読む限り信雄はもちろん、信孝も器の小さい嫌なやつ!
と思った記憶がある。
>>265 ただ大急ぎで帰ってきたわけではないんだよ。
その間に策を講じてる。
中川清秀、高山右近らに信長生存と書いた嘘の書状を送ったりして
畿内の武将の光秀への加担を防いだと言われてるんだ。
それに「家忠日記」によると秀吉が6月19日には津島まで進軍していた家康に
「情勢が安定したら帰陣するように」と言ってきている。この時すでに
家康などの諸侯の有力者には織田家の問題に関してなんの手出しもさせない、
信長死後は自分が中心となってしきる、という構想が出来てたってことだろう
と思う。
学習漫画では弔い合戦に向かう途中の家康に秀吉が
明智をすでに討ったことを伝え、「徳川殿には安心して
東の守りにつかれよ」と言わせている。
この言葉通り家康は甲斐、信濃併合に動くことになるが、
もし秀吉が本当にそう伝えさせたなら河尻秀隆は秀吉のために
命を落としたようなものだな。
そして秀吉は滝川が間に合わないように清洲会議を行った。
もうこの辺りから秀吉は天下取りに向け着々と手を打っている
ことが分かる。
滝川がいたら恐らく勝家側に付いただろうからな。
>>263 事件後はともかく、前に信澄に知らせていたというのはまず
考えられない。
あれば信澄もなんらかの行動を起こしたはず。
また事件後も信孝、長秀は光秀にとって敵であるから信澄に
討たせることもできたはずだがそれがないのは連絡がなかったのだろう。
信澄は父信勝(通称信行)を信長に殺されているからその
仇討ちとの名分も立つはず。
だが彼は何の行動も起こさず信孝、長秀に殺されてしまった。
今になって思えば細川忠興のように光秀の娘である妻を
離縁などして光秀との義絶をはっきり示しておけば
殺されずにすんだかもなあ。
勿論そうだと思う。
一般的にはお市に懸想していて勝家と争ったなんていうことになってるけど
(「勢州軍記」にもそう書いてある)、実際は秀吉が勝家にむしろお市を娶ることを
すすめていたそうだ。(勝家が家臣に宛てた手紙にそう書いてある)
そのことで秀吉が建て前上は勝家に織田家家臣団筆頭の立場を委ねたような譲歩をみせ、
三法師擁立の案を勝家から承諾を得たのだとも推測できる。
それと勝家がお市と結婚することで勝家は否が応でも織田家を裏切ることは
できなくなり、秀吉としてはそのほうが好都合となったからだろう。
織田家もろとも勝家も追いつめることが出来ると考えたのかもしれない。
まぁ実際そういう結果に終わっているし、秀吉の構想は本能寺の変直後から
綿密に練られていたのは確かじゃないかな。
でも、ずいぶん手回しがいいね。秀吉ってさ。
こういうとこから秀吉黒幕説が絶えないんだろうね。
変以降、光秀を討ってから清洲会議まで、約2週間ぐらいあるんだったっけ?
その間に黒田らと、かなり緻密に天下とりを意識して動き始めたということか。
>>269 細川親子は知らせを受けたら即マゲを落とし、玉を明智領に移した。
つまり形式上離縁という形をとっている。
信澄にそのぐらいの姿勢があれば疑いを受けずにすんだかもしれないが、
信孝が家督相続の邪魔になるやからを排除する目的があったとしたら
何をしても難癖つけて抹殺されたろうな。
>>271 そういう男だからあれだけの大出世ができたということだろうな。
つねにあらゆるケースを想定してシュミレーションしていたのかもよ。
それにしても本能寺がなかったら、もっと濃姫のことや信長の子供たちの
ことも今よりはわかったかも知れないのにな・・・残念。
ほんと、光秀のばかやろう!!
だけど、信長ってあれだけの天下人だったのに、肝心なことは謎だらけ。
濃姫に関してもしかり。だから逆に興味をそそられるのだろうし、こんなに
人気があるんだろうか。
濃姫人気はあのマムシの娘ということに着眼して創造された濃姫像、
山岡荘八氏あたりの小説の影響がすごく大きいと思う。
俺は歴史好きのきっかけが横山光輝著 山岡荘八原作の「織田信長」からはいったけど、
山内一豊の妻よりいい仕事してるよw
この漫画では信忠・信雄・信孝、それぞれ違う側室の子となっていて、
側室は元服の時とかちょこっとしかでてこない。
もちろん吉乃なんていない。
武功に毒されていないので、生駒のこと以外でも今読み返すとなんだか新鮮だよ。
自分も山岡荘八に出てくる濃姫は好き。
でも史実と比べるとやや賢すぎる感じはするけど・・
もう20年ぐらい前になるかな?大河ドラマで「徳川家康」を観た時の
信長役の役所さんがとってもカッコよかったな。
自分はそれまでは太閤記の影響で、秀吉が圧倒的に好きだったんだけど、
役所信長を観てからは信長ファンに。
その後、原作が山岡荘八の小説と聞いて、読むように。登場人物がとても
生き生きと描かれていてすごく良かった。
小説の影響って大きいんだな。武功を読む前に山岡荘八の小説を読んだから
かも知れないけど。
逆に山岡さんの本を読まずに、武功だけを読むと生駒のイメージが強く頭に
残ってしまうのだろうな。だからいくら史実ではちがうと言われても納得い
かない人がいるのだろうな。
>>275 賢すぎちゃって、まさに昨年の千代状態だよねw
吉乃って武功にもそんなに出てこないよな。
生き生きってほど登場も多くないし。
出てきても、直接描写は秀吉と猥談してるとか、
「年増なのに恥ずかしい」とかいいながらべらべら挨拶してるとかだけ。
なんで、世間的に良く言われる、控えめで従順で母性にあふれてるなんて
吉乃像が出来上がったのか不思議だ。
遠藤周作の小説のイメージなんだろうか?
>>277 一般的な『年上の女』と吉乃のイメージとかぶっているんだと思う。
しかも信長は実母にも疎まれ、弟ばかり偏愛されていた、と信じられていたから、
『母性的な年上の女に癒された信長像』ができあがちゃったんじゃないかな。
確か山岡荘八の濃姫もちょっとだけ年上女房じゃなかった?
一応濃姫は信長より1歳か2歳年下となってはいるんだけどね。
実母に愛されていなかったらしいという通説から年上の女とくっつけ
たがるのかな?
>>278 なるほど。
でも、母性あふれた吉乃像より、
秀吉と猥談して、恥ずかしいといいながら長々と喋ったりする
その辺の、馬借の娘って感じの女性の方が可愛いと思うんだがな。
それこそうつけとお似合いって感じに出来る。
生まれながらの、土岐明智氏の血を引く大国美濃のお姫様の濃姫とも
対比させる事が出来て面白かったと思うのにな。
緒形直人が主演していた信長は、濃姫像と吉乃像は逆だろうと思ってたよ。
「吉乃」という名前は武功にしか登場しない名前。
これを使用するのは武功を真書だと認めてることになるが。
そうでない人は「生駒氏の女」にしておくべきだろ。
>>280 同感。
なぜにいつまでも、架空の人物である 吉乃 とみんなが呼ぶのか
不思議だ。
一応生駒氏の家計図でも 吉乃 なる人物は存在せず、該当するのは
類 という名前になっているからね。
確か山岡荘八の小説にも、生駒家の娘は類となっていたと思う。
そりゃ、今は武功の話しなんだから「吉乃」だろ?
まともな文献の検証の時には生駒氏女とか生駒氏息女って書いてるよ。
武功というよりも、小説の話しだったな、間違えた。
だけど、小説では大体濃姫は本能寺で死ぬのがほとんどだけど、
最近の濃姫長寿説もあるし、それをベースに書かれた
小説とかないのかな?
壷事件などもあるし、とりあげると面白いかなと思うのだけど。
最近では未だに、武功を基に書かれた小説が多いのかな?
濃姫は早死にか離縁?って設定にされていることが多いのかな?
なんだか寂しい・・・
>>279 緒方信長の吉乃は「しの」という名前だったな。
といっても、吉乃そのものの役だけど。
菊地桃子の濃姫と高木美保のしのはけっこう好きだった。
「二人の正室など聞いた事ありませぬ!!」って背中を向けて寝ている信長に
怒ってたw
俺はしの萌えだった。高木美保がなんともよかったなぁ。
でもあのドラマでもしのはあくまで側室で、正室は濃姫には違いなかった。
正室格として扱われてもなかったぞ。
まぁ物語のアクセントとしてならあのぐらいの脚色があってもいいよ。
大河は見るほうもつくるほうもドラマとしてみるから許されるんでない?
>>284 >>大体濃姫は本能寺で死ぬのがほとんどだけど
まむしの娘と尾張のおおうつけの異色のベストカップルはともに戦い、
夫婦一緒に最期を迎えて欲しいという願望があるんだよ。
それに大クライマックスに、戦国のお姫様は華やかに散って欲しい、という願望も。
もしこれが事実ならこんな素晴らしい夫婦愛はないよな。
そういえば、合戦に女を連れて行かなかった信長だが、
変の当日、本能寺には女(侍女か)がいたとされている。
京に入ったら、信長は当然、主要な人物たちと会って交流を深めるはずで、
当然、戦場ではない京に侍女を伴って不思議はないといわれている。
公家たちと交流を深めるにあたって、正室の濃姫を伴っていただろうという人もいる。
濃姫が、安土城にあって、変の当日、京にいなかったという理由はないといってる人がいたけれども、
その辺りはどうなのかな?
濃姫が本能寺以降も生きていたことについては異論がないけれども、
京に入った夫信長とともに、濃姫が京に入っていた可能性はどうなのかな?
光秀に安土城が焼かれたとき、脱出した安土殿については、
別の側室、もしくは土田御前であったとする説もある。
安土殿に関しては、丹羽長重に嫁いだ姫だと言われているのもある。
濃姫が安土殿にしては、長女の徳姫より低い知行なのが納得いかないって
意見があった気がする。
信長生母は大方殿ではないかと言われていなかった?
おそらく濃姫に該当するのは、御局ではないかと・・・
複数の文献に、蒲生が安土城から逃がした中に、
「北の方」「御台所」と書かれた女性が存在している。
側室の事を「北の方」「御台所」とは呼ばない。
また、当時の公式の場に女性が出て行かなくてはならない事はない。
夫婦でおもてなしなんて、西洋文化だからな。
自分は分限帳の記載は安土殿よりも、御局の方が正室だと思っている。
京にとどまった後、信長も信忠も毛利討伐と四国討伐に出かけるつもりだった
から、濃姫はあえて呼ばなかったのでは?
濃姫だけでなく、三法師も信忠と一緒に京にいたという説もあるが、これもありえ
ないと思う。
だから別に濃姫が、本能寺に泊まっていなくても別におかしくはないけど・・
側室を「北の方」「御台所」とは呼ばないことのソースって何かある?
>>291 ソースもなにも、「御館様」が当主を示す言葉であるぐらい
武家では「北の方」は当主の正室を示すというのは当たり前のことだからな。
鎌倉時代からの慣習だ。
台所が北に作られた事と、そのまんま台所は妻の管理する居場所だから
その名称が妻=正室を示すようになったと聞いた。
でも「御台所」は元々は将軍の正室のことだけをいうんじゃなかったかな?
身分の高い大名の正室は「御台様」と称されることはあったみたいだけど。
京の茶会はどちらかというとプライベートなものというより
政治的な意味合いの強いもののようだし、
その後すぐにも西国に出発する予定でいたのはわかっているし
そう考えても濃姫は連れ立ってないような気がする。
もし茶会がプライベートな余興でもあったら、物見遊山がてら濃姫も京都に一緒にきて
参加していたかもしれないけどな。
>292
当主をお館様と呼ぶのは城ではなく
館住まいの家でしか使われなかったらしい。
例えば武田や朝倉あたり。
「北の方」ではなく「信長妻妾」とあると、信長の奥がらみの女性ひとまとめ、
みたいなニュアンスにもとれ実際は正室がいなくてもそう表現されてしまっていた
可能性もあるかもよ。
「北の方」と側室とはわけて書いてある以上は正室が安土から避難してきたの
ではないかという気がする。
>>294 でも戦国期はまだまだ館に毛の生えた平城が主流だったし、
北の方、政所同様に、城の主を親方様と慣習上呼んでいたとは考えられる。
>>296 そりゃそうだろうけどよ。。。
なんつーか、自分たちに有利(?)なネタは何としてでも「可能性」を見出し、
そうじゃないネタは「でも●●だからこの時代はこうだし、有り得ない」って突っぱねるよな、ここの住民。
「氏郷記」
御台所君達ヲ退サセ給ハンコソ故将軍ヘノ御忠節ニテ候ヘケント申シカハ賢秀ケニモトヤ思ハレケン
左アラハ御台所君達其外女房達ヲ日野ノ谷ヘ退申テ我居城ニコソ籠城ヲハセメトテ子息忠三郎氏郷方ヘ
乗物五十丁鞍ヲキ馬百匹傅馬二百疋召連腰越マテ急キ可參由申遣シ明レハ三日卯刻ニソ退レケル
「総見院殿追善記」
安土には此由を傅聞。宿直の番衆をはじめ。前夫人。後夫人。北の方。西對。東南の局に。妾古後達。
奴婢。雑人に至まで徒裸足にて 散々に北走。
>>284 直木賞作家の安西篤子が、某氏より先に出していた名古屋弁小説
「龍をみた女」では、濃姫は長生きをする。(ヒロインでは無いが)
しかし、織田家を出て斎藤家所縁の京の商家に住まう身。
>>287 信長の身の回りは小姓がいるからともかく、
信長が京に滞在するさいは、挨拶や拝謁の客が多いから
客あしらいのための侍女も必要だろう。
()茶会は男の文化だから、女の手は必要ないけどね)
が、濃姫も滞在してたかもというのは違うんじゃないのかな。
289の、>夫婦でおもてなしなんて西洋文化だからな
の言う通りだと思う。
>>298 興味深いね。
>>298 重箱の隅つつき的だけど
>御台所君達 が、気になる点。
正室側室区別なく、ただ「妻達」のかたまりを感じる。
そして、歴史読本1992年の『織田信長一族の女性たち』
(岡田正人氏の「濃姫の墓を発見!」の記事掲載号」)のP157、
岡田氏による女性人物辞典の、濃姫の記事にもその部分があり
「御台所・君達、其外女房達」と、・が打たれているのは
岡田氏の付け足しなのだろうか?
「御台所・君達」という連なりからは、明確な「御台所」と
「君達」という、異なったかたまりの女数人を思わせる。
>>297 よくわからんけど、当主は御館様でいいんでないの?
他の呼び方をしている大名家もあったかもしれないけど。
信長の場合も上様と呼ばれるのは天下人になった後の事だしね。
でも側室が御台と呼ばれることはないしね。
それに御台という呼ばれ方をするのは、よほどの地位のついた大名の正室
を差す言葉なので、誰にでも使えるわけではない。
濃姫も、信長がたいした地位でもなかった頃は、御台とかかれずに本妻と
書かれている。
>>298 これによると正妻らしい人物だけでも3人いて混乱すること
極まりないが、桐野作人は「前夫人」は先主信秀夫人、すなわち
信長の母ではないかとしている。
そして「後夫人」が信長の正妻帰蝶。
>>297 当主を御館様と呼ばないで、別の呼び方をする場合もあったかも
しれないが、当主でない人間(家臣など)を御館様と呼ぶことはない。
別に都合よく解釈などしていないが。
なんかここのスレ見てると、御台とかかれているのに、正室でなく側室
のことじゃないかとか、何がなんでも濃姫を早死にしたことにしたいと
いう人がいるように感じるな。
安土城に濃姫がいなかったら、御台、北の方などの表現はされないのでは
ないか。御台は側室に使う表現ではないし。
以前のスレでも言継卿記で信長本妻とかかれているのに、濃姫は
離縁していたとか、もう死んでいたとかいう意見があったのは驚いた。
死亡説や離縁説を唱える人は、根拠を示して欲しい。
>>前夫人。後夫人。北の方
これは解釈が難しいな。
ただ夫人とも北の方とも両方表記されているのだから、
当然どれかが信長正室と考えられるので、
結局のところ濃姫が生存して、安土から逃げたということにならないか?
>>304 これも桐野氏によればお鍋の方ではないだろうかとのこと。
後夫人が濃姫の事じゃないの?
北の方って、正室って方の意味じゃなく、本当に北の部屋の意味なんじゃ?
西對が西の対の意味、東南の局はそれこそ側室達の座敷だよね。
要するに、前夫人(信秀正室)、後夫人(濃姫)と、
北、西、東南の座敷にいる側室や侍女達って意味だと思うが。
>>300 君達は男子に対して用いる呼称だからでは?
>前夫人。後夫人。北の方。西對。東南の局に。妾古後達。
北の方を側室に用いることはありえないので、濃姫よりも上に表記される
立場の女性が二人いたんだな。
安土城の奥は北の方を中心に西、東、南、それぞれの居間に部屋を与えられた
寵妾、その他側室たちがいたと解釈できるけど、
前夫人、後夫人は信長の祖母と母親とか?
あるいは、注釈が入った表記なのかもしれない。
前夫人(信秀公正室)、後夫人(信長北の方)、西対と東と南の局にいた側室と
その他お妾たち、とか?
妾古後の意味がよくわからないな。
なんだ、どう解釈したって結局正室=濃姫は生きてたんじゃんw
よかったぁ〜
濃姫の生母小見の方なんて可能性は?
>>304 お鍋が北の方と呼ばれるとは思えない。
信長の子供の序列からいっても、お鍋はそんなに高いとは思えないので。
生母は不明だけど、信長の父の名前をもらっている信秀の生母が身分が
高かったといわれているから、もし該当するとしたら信秀生母では?
313 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 08:58:51
>>289 夫婦でのおもてなしは西洋文化・・・というのには異議があるな。
公家文化には、そういうのがあったから。
のちには武家の間にも一部、公家文化が取り入れられたようで、
5代将軍徳川綱吉と、養子にした甥の家宣(のちの6代将軍)は、
いずれも妻が京から迎えた摂関家筋同士(綱吉の正室は鷹司信子、家宣の正室は近衛熙子という縁で、
なんと、それぞれ自分の妻を伴って4人で会食をしている。
近衛熙子に至っては、輿入れ前に、両親の近衛基熙と常子内親王(後水尾皇女)と一緒に、
家族旅行までしているから、公家では妻を伴うのは一般的だったのだろう。
とはいっても、信長は武家だから、
公の場に妻妾を連れてくることなどありえなかった、と主張したいのならば、勝手だが。
>>313 そうはいっても、実際に安土城から非難した人の中に、御台、北の方
と呼ばれる濃姫?かと解釈できる女性がいるのだから。
また、本能寺では、濃姫と思われる女性がいたとはされていない。
なぜそうも、本能寺に濃姫がいなかったことが、ここまで不思議とされるのか
がよくわからない。
315 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 09:24:14
>>314 313は、夫婦でのもてなしは西洋文化、という意見に対する反論。
夫婦でもてなすという事例は日本にもあった、というのが結論。
本能寺での一件とは関係ないと断っているはずだが?
よく読めよ。
>>315 でも実際は夫婦でもてなしてはいないのだから、日本にも西洋文化と並んで
もてなす事例はあったといっても、全てがそうだとは言えないのでは?
時と状況に応じて、夫婦そろってもてなす時もあったろうし、そうでない時
があったということだろう。
日本の夫婦揃っては、招いた家の正室が一緒にって言うのは
女性が表に出なかった平安時代でもあったが、
わざわざ別の場所に茶会席を設けた上でという例は、
残念ながら自分は知らないがなぁ。
>317
つ「北野大茶会」
>>316 実際には夫婦でもてなしていない、というのは、何の件?
本能寺の件?
日本にも夫婦でもてなす事例があったのは事実、
西洋文化だから一切なかった、という意見に対する反論だが?
一件一件のケースバイケースで見ていったら
西洋人だって、すべてそうだったとはいえない。
毎回、夫婦でもてなすわけではなかったのなら、西洋文化にすら
そういう風習はなかったといいたいの>?
どのみち、289は、違う、ってことだな。
>>318 北野大茶会は寧々がもてなし側で接待したんだっけ?
確か、寧々も、もてなされ側で出席したと思っていたが?
>>320 仮に、本能寺に濃姫がいたところで、公家をもてなすため、というのはおかしくないか?
信長や濃姫が一緒に公家の邸を訪問したところで、もてなすのは公家側の家の人だろう。
本能寺は、信長や濃姫の家じゃない、宿を借りただけ。
公家が安土城に来たというならば、別だが。
そもそも、なぜ、仮に信長と濃姫が一緒に公家や諸大名と家以外の場所で会うと、
もてなす側に回らにゃならんのだ?
もてなす、という言葉を最初に持ち出してきたのは289だろ?
濃姫が交流に一役買っても、それがもてなす側としての役割に限定されるはずがない。
>>319 何をそんなにむきになっているのかわからんが。
どちらにしても、ケースバイケースで夫婦でもてなす場合も
あるし、そうでない場合もあったということだろう。
一般的には夫婦で出席するというのは、西洋文化に多いので
そういう意見も出るのだろう。
日本でも皇室関係の方などは、夫婦で公務に当たられたり、晩餐会
などにも夫婦でご出席のことがほとんどなので、日本でもかなり身分の
高い天皇家や公家などは、夫婦そろってのことがあったかも知れないが、
それほどの身分が高くなかった大名家では、そんなに一般的ではなかった
のかも知れないということだろう。
>>321 本能寺が信長の宿舎で、名物の茶器を公家が挨拶にきた時披露しているんだから
もし濃姫がいたら、もてなし側に属するのは、もてなしたかどうかは別の話しとして
普通だとは思うが、289の言っているのはそう言う事ではなく、
信長はその茶器を使って茶会を開く予定にしていたというが、
そこに濃姫もわざわざ安土からやってきて、出席して、
一緒にもてなさなくてはならないかどうかという事で、
そんな事しないだろうという話しじゃないのか?
当時の茶会は男性文化だから、北野大茶会のような、別の形式のものを開くなら別だが
普通の茶会なら出てこないだろ?
324 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 11:11:48
>>323 「西洋文化」を否定しただけだといっているのに、まだわからんのかw
夫婦そろって公の場所に出ることは、
西洋文化でしか見られず、日本の文化にはない、ってことに賛成なの?
本能寺に何が何でも結び付けたいみたいだが、そんなことは言ってない。
>>323 >当時の茶会は男性文化だから、
そうだよね。
北野の茶会で、秀吉の奥向きの女性陣が
茶をたてて客をもてなしたなんて、聞いたことがない。
326 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 11:17:54
>>325 信長は、茶会をするために本能寺にいたのではない。
当たり前だが。
>>313 江戸時代の、大奥制度のある程度定まった将軍家奥向きの、
しかも公家の例を出されてもね・・・
>>326 あの、「北野の茶会」の話をしてるんですけど?
西洋文化を例に出しているけど、1600年頃の西洋文化といっても
かなり広範囲で、国ごとにも違うだろうし、宗教的にもずいぶんちがってくると
思うが?
ルイス・フロイスは日本女性の奔放さに驚いていたが、
フロイスの知っている西洋の女性は結婚前は親の保護下におかれ
自由に外出などもできずにいたということはわかる。
妻からの三行半などにも驚いていたから妻の権利が当時の日本などよりは
低かった事は明らかだ。
ベルサイユの貴族などは自宅でのパーティには
妻もホステスとして接待役をするのが普通だったが、そういう貴族階級にも
男性主体の社交場に妻を伴っていくという習慣があっただろうか?
信長の時代の茶会はいわば男性主体の社交場であり、政治の論議をするところであり、
茶器を自慢し、権力を誇示し、公家との融合の場だったり、家臣をねぎらう場でもある。
そういう場には基本的には奥向きのことが専門の正室が同席するという慣習はなかっただろう。
濃姫が私的な用事で京都に付いてきたなんてことの可能性のほうがまだある。
夫と別行動で、買い物や寺参りとかで。
>329
信長が茶会をするために本能寺にいたという
お前の頭が腐ってるだろう。
そもそも本能寺になぜ侍女がいた?
まずは、この質問に答えてもらおうか。
>>330 「信長が茶会をするために本能寺にいた」なんて書いてない。
京都での宿泊先が本能寺だっただけだろ?
侍女がいたのは当然だろ?
現地調達か付き添って行った侍女が信長の身のまわりの世話をしてたんだろ?
ほらっ、答えたよ。
信長は秀吉に加勢するために毛利攻撃にむかう途中で茶会を開き、本能寺に宿泊した
のだから、なおさら濃姫を伴っていたとは考えずらいな。
それから本能寺で一緒に亡くなったのが侍女かどうかは不明のままだよ。
側室かもしれないし、その夜ばかりの慰み者として側にあげられた女性かも
しれないし、本能寺が手配した臨時のお手伝いかもしれない。
>>326 茶会の予定はあったと言われている。
秋田裕毅氏がそれを論文としてまとめていたと思う。
もちろん、その後、戦に出て行く訳だが。
現地調達の側女か遊女にしては、数が多い。
そもそも、尼寺でもないのに、何人もの女が、寺に泊まっているなどありえない。
ましてや、寺側が女を調達するはずもない。
戦場では、身の回りの世話はすべて男が行っていたから、
いちいち侍女の手を煩わせるほどのことでもない。
信長は出兵する途中だったしな。
>>334 ちなみに何人いたんだ?
本能寺で亡くなったものの供養に建てられた石碑に
一覧が乗っていたが、そんなに多いという記憶はない。
それと本能寺は戦地ではないから身のまわりの世話を小姓なりだけが
世話していたとは限らないのではないか?
現地調達といっても、近隣のえらいさんが信長一行のため
とりあえず女房衆を派遣してくることだってあるだろうに。
寺と言っても、本堂の裏に御殿を建てていたらしい事が近年分かっているし
そこに詰めていた侍女などもいるだろう。
>>334 数が多いってどのぐらいなの?
逆に濃姫がいたらそれこそ半端な数じゃない侍女たちがついてきたと思うよ。
そんなに多ければ逃げ出す時に目立つからそのことで史料に何かしらの
記述が残っていてもいいと思うけど。
それに濃姫がいた、ということが周知であれば信長と一緒に
総見院で葬儀されたんじゃない?
濃姫が信長と一緒に亡くなっていたら、確かに葬儀もなにもされないのは
不自然だから、濃姫は寺から逃げられたのか、あるいは最初から
京都には来ていなかったのだろう。
濃姫付きの侍女であれば濃姫とともに逃げたろうし、濃姫が光秀軍から逃げることを
許されたのなら侍女たちも逃げる事を許されたはず。
そう考えると信長とともに亡くなっとされる侍女たちは、濃姫付きではなく、
最初から一行に同行していた侍女なり、側室なりということではないか?
寺に間借りして泊らせてもらってると思ってる時点で駄目。
信長は本能寺に自分だけじゃなく、部下達の分まで殿舍を建て
宿所としてだけではなく、砦としての機能も持たせていた。
ただし、土塀がまだ未完成だったと、文献に出てくる。
変で焼けたのは本堂ではなく、その殿舎。
信雄が延焼を免れた本堂ではなく、焼けた殿舎のあった辺りに
供養をしたと史料に出てくるからな。
そのような殿舎があったなら、下働きの侍女もいただろうし
伽係もいたのかも知れないし、女性がいてもおかしくはない。
寺は厳格な女人禁制だと思っているのはちと間違い。
寺は寺領をもらい、小作を持つ大規模な地主でもあったから
寺の催しやイベントなどには小作が駆り出されてた。
もちろんその妻子も駆り出されて手伝いをしていた。
だいたい炊事系の仕事だけどな。
僧侶には密かに妻帯しているものまでいて、
宗派によっては妻帯も容認されていた。
位の高い僧侶の妻妾ともなれば侍女を持つ事も許されていたよ。
信長御一行様ご宿泊なら、かなりの大人数のおさんどんがあるわけで
当然下働きの女たちが大勢臨時で手伝いにきていただろうさ。
ただ変のまきぞいになったのはこの手の女たちではないだろうがな。
質問なんだけど、「氏郷記」だと御台、つまり濃姫と、
君達だから信長子息達のことだろうけど、その両者のみを別格に書いて、
その他の側室、姫、侍女、などの女達をひっくりめて「女房達」と書いてる。
武家にとって女は正室、子供なら男子のみが別格で、それ以外は
その他大勢になってしまうということ?
蒲生家の城にかくまわれたんだから誰がいたかは確実に把握してたと
思うんだけど、あえて側室のことは書かなかったのかな?
一方「総見院殿追善記」は女性達を個別に細かくわけて、奴婢にいたるまで
てんやわんやであわてて逃げた、みたいな書き方をしている。
でも信長の息子や姫たちのことは書いてない。
総見院関係者が作成したものなら、ここまで細かく信長の妻妾のことを
書いておきながら、姫や息子のことが書いてないのも不思議だ。
追善記には養華院のことも書いてあったけど、
ここには養華院は信長の何と書いてあるんだろう?
安土城は本丸、二の丸、三の丸とあったが、信長が寝起きしていたのは
本丸か?以前本丸の見取り図をみた事があるが、そんなに広くないんだよな。
信長の居間と正室の居間が隣り合わせにあって、その正室の空間から
奥がいわゆる「奥」にしては、西だ東だと、いうほどの奥の空間も
広くなかったような?
>>341 「総見院殿追善記」は養華院の事は書いていないよ。
養華院が書かれてるのは「総見院過去帳」「大仙院文書所収養華院七佛事記」
「総見院殿追善記」は「天正記」の1巻で「惟任退治記」の和文体のことを言うんだ。
別名だと「惟任謀反記」と言う。
秀吉が書かせたもので、変の直前の描写で
「将軍(信長)も深閨に入。佳妃好嬪を招集給ひ。鴛鴦の衾。連理の枕。
夜半の私語。寔に世間の夢の限りにもあらずや」
なんて事も書いてあったりする。
本当かどうかはともかく、側室などの閨の務めをする女性がいたとしているね。
>>閨の務めをする女性がいたとしているね
いてもおかしくないよね。
貴人の宿泊では閨接待はつきもの。
接待する家ではそれもこみこみで女性を用意していたという。
これが慣習でもあったそうだよ。
日本のビジネス接待にエロ接待が主流なのはこの流れじゃないか?
日本独特のものらしいしな。
なんか他のスレだと濃姫を正室として認めたくない人がまだまだ多いね。
本能寺後、信忠が生き延びていたら濃姫のバックアップで織田家中は荒れる事が
なかったと自分は思うんだけど、信じてない人間が多い。
当時の正室は当主(この場合信長)と同等の権力を持っていたというのに。
>>344 モンゴルの山間部の民族では客人を泊める時は家も貸すが
自分の妻も貸すそうだ。しかも客が帰るまで旦那は知人の家に泊まるとか。
近親婚が多いので新しい血をいれるためにそういう慣習ができたというが・・・
>>345 定期的にここのスレにも難癖つけて逆切れして「もうこない」と
捨て台詞のこしてまたやってくるけど、そういう人たちのはけ口となっている
ような気がする。
>345
勘違いしてないか?
濃姫が信長の正室であったということと、
信長の死後、家臣団はこぞって正室濃姫の支持に従った、というのは全く別問題だろ。
濃姫は信長の生前も死後も、表のこと(政治のこと)に口出しした事実はないし、
そんな史料もない。
ごっちゃにして論じてする?
「もし本能寺の変で信忠だけでも無事脱出できてたら」
で濃姫マンセーレスしてたのは、お前だろ?
信忠が生きていたら織田家は安泰だっただろうよ。
信忠はもともと家督も相続していたのだし、
秀吉が信長の葬儀をしきることもなく、出番すらなく、
せいぜい光秀討伐で活躍をしたぐらいで終わったろう。
三法師にしろ、その後正式な嫡男をもうけるにしろ
お家騒動がおきないようにしておけば織田家は嫡流が残っていっただろう。
ただ天下統一というのは微妙になってはきたろうが
信長が生きていたところで天下統一が果たされていたかは
わからんことだからな。(恐らく手中に治めていたとは思うが)
濃姫は信忠が成人していたし、信忠本人や補佐がしっかりしていれば
やはり政治での出番はなかったろうから、どっちにしても表には現れなかったろう。
でも命日や戒名ぐらいは確定できたろうけどな。
怖い父ちゃんが死んだとたんに兄弟仲悪くなったりしなかったかな?
信忠は遠慮なく大好きな能三昧。
信忠の腰ぎんちゃくとなって分家筆頭の座にあぐらをかく信雄。
虎視眈々と織田家本家の家督を狙う信孝。
信孝を抱き込もうと画策する家臣団・・・
織田一族のすったもんだのすえ、天下を掌握したのはやっぱり秀吉だった。
なんてな。
350 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 10:43:29
江戸時代にも、本家は取り潰しになって、
分家しか残っていません、なんて大名いくらでもいるからな。
養子、養子、でいつの間にか他大名の家系になっていたり。
秀吉、家康の時代が来なかったとも言い切れん、
関が原でどのような判断が下されたかもわからん。
濃姫スレの住人は、
「あの濃姫の養子なんだから、信忠の子孫が明治まで残っていたに決まってる!
そしたら、信忠の子孫は、恩義有る濃姫の没年を忘れずに記録しておいてくれた」
って思いたいのはわかるが、なんともいえんよ。
確かにIFの話になってしまうから、なんとも言えない。
でも本能寺がなかったら、もう少し詳しく史料等が残った可能性は高い。
信忠だけでも生き残っていたら、また歴史は変わったかも知れない。
しかし、実際には信長・信忠親子は本能寺の変が原因で死んだのだし、
信長亡き後、政治の中心となり天下統一の事業を受け継いだのは秀吉、
その秀吉亡き後、家康が台頭して幕府を開く。この流れで、今日までの
現在がある。これはもう動かしようがない事実。
>>350 >>信忠の子孫は、恩義有る濃姫の没年を忘れずに記録しておいてくれた
恩義あるからではなく、祖先の仏事を行うのも子孫の仕事だからだろ?
信忠が生きていたら信忠が建立した寺か、安土総見寺にでも立派な廟を
つくって夫妻を奉ったろうから、没年不詳なんていうことはなかったはず。
戦国大名の妻といえば、ねねやまつや千代、というイメージが強すぎるんだな。
その三人だってどこまで本当の話だかわからないのに。
一般的な大名の正室は他家からの和平の使者だから、しゃかりきに
政治に介入したり、嫁ぎ先のためにとあれこれ画策することもなかったと思う。
嫁ぎ先でも政治の家の事情を他家のものに知れることを好まなかったろう。
正室にくっついてきた後見人やら侍女やら敵だか見方だかわかんない連中も
城内をうろうろするわけだから。
そう考えると濃姫が信長生前から影が薄かったのは当たり前と言えばあたり前じゃないか?
あれだけ濃いキャラの旦那がいて、織田家のことは旦那に任せきりでも問題なかったんだから。
ただ強いて言えば、道三の亡くなったあたりや、その後の義龍との争いの時に
濃姫がどういう立場でいたのか、ということを示す史料があってもいいかな、
とは思うな。両家の狭間に立たされた本人なんだもん。あって欲しかったな。
だから信憑性はともかく「明智軍記」のあわびの話はなんだかうれしかったよ。
江戸初期においては一般的には濃姫が義龍は父親の仇という立場でいて、
織田家でも濃姫を北の方と扱っていたと思われていたことはわかるじゃん。
>>352 信雄が、晩年の濃姫の面倒を見ていたというのは、
濃姫が嫡母だったからじゃないのか?
それでも、濃姫の没年は残らなかった。
江戸時代後期以降の皇室では、いわゆる「実子」の制度が採られ、
妾腹の子はそのままでは皇位につくことはできず、
天皇の中宮や女御の「実子」となる習慣になった。
「実子」とは、いわゆる、生母の家とは縁を切り、
「実母」と称される父の嫡妻の家の祭祀を引き継ぐというもの。
しかし、この時代や武家では、たとえ正室の養子になっても、
実子の制度とは根本的に違う。
家康も、生母のお大のために知恩院を改築して壮大に祭ったが、
この時代、生母ではない嫡母のためにどうこうしたという話も伝わらない。
信忠が濃姫の養子になっていたとしても、生母ではない濃姫に対して
どのような待遇で応じたかは定かではない。
>>354 養子になったならない関係なく、先代当主夫人の濃姫の仏事を
疎かにするわけないだろ?
正室は当主の次に権威ある立場だったんだから。
血のつながりという問題ではなく、先代を奉るのは家を継ぐものの勤めだ。
少なくとも家格にあった葬儀をおこない、きちんと織田家の菩提に埋葬し、戒名や命日が
不詳、なんていう事態にはなっていなかったはずだな。
逆に信忠生母が生きていたところで側室であったから正室の濃姫を
上回る扱いができるわけもない。
生母の可能性のある二人の女性の戒名や待遇を見ても明らか。
家康の継母の戸田氏の墓は岡崎の松平家縁の龍海院に墓がある。
濃姫と違って戸田氏の墓と明らかなのだし、問題ないのでは?
それと家康生母の於大の方は松平家の正室だったんだから、
生母でもあり、正室でもあった母親を盛大に供養するのは
当たり前と思うが?
濃姫マンセーもいいが、少し冷静になろう。
信雄は、濃姫の実子ではなかったが、
父信長の正室である濃姫を大事にして、晩年面倒を見た。
信忠がいたら、当然、同じことをしただろう。
しかし、信雄を上回る待遇をしたとは思えないということ。
自分が責められているとでも思って熱くなるのかな?
信雄だって、先代当主の面倒を見た、
しかし、生母ではない濃姫のことはあまり残らなかったんだろ?
家康の母は、松平家を出て、再婚している。
そのために、松平の墓にも徳川の墓にも入っていない。
お大は家康生母として盛大に祀られたが、
松平家の正室としてではない。
お大はすでに松平家を出ている。
>>357 何を勘違いしてるんだ?
於大は松平広忠の正室として嫁ぎ、その間に生まれたのが家康だぞ?
離縁したはいえ元正室であり、しかも生母である母親を手厚く葬っておかしいか?
離縁したり亡くなってしまったら正室ではなくなるのか?
於大は久松氏と再婚したが、腹違いの妹弟たちを庇護したのも家康だ。
腹違いの弟たちに松平姓を与え、家康の元で取立てらている。
ちなみに家康は当初は芝の増上寺に於大を埋葬するつもりだったが
増上寺の言上を受けて、伝通院を建立し、母親を埋葬したそうだ。
継母の戸田氏だって家康の祖父が建てた龍海院に葬られているんだから
嫡子として家康が何もしないままとも考えられず、当然家康が喪主なり、
施主なりしたということではないか?
少なくともしっかり墓が残っているということは松平家できちんと
埋葬したということだ。
それと信雄と家康の立場を同格に見てるのか?
家康は松平家の嫡男で、嫡流を継いでいるが、信雄は嫡男でもなく
嫡流でもないぞ?
まったく立場の異なるものでは比較しようがないだろう?
織田宗家を継いだ三法師も養華院が亡くなる前に亡くなって、事実上そこで
信長系織田宗家は断絶してるんだ。
だから宗家に関わることは不詳とされることが多いということだよ。
それに謎が多いのは濃姫のことだけじゃないじゃん。
信長の生母の件や信忠の生母のことも謎のままだし、三法師の実母のことも不詳
なのは、嫡流が断絶したために他ならないよ。
庶流はいくら親戚関係にあったところで他家扱い。
庶流に伝わるものなら本家に仕えた家老の家の史料なんかのほうが
よほど信憑性の高いものがあるもんだ。
>>357 えーっとですね、於大の方の葬儀は久松家の嫡男でも、松平家の嫡男でも
やって構わないことだと思います。墓なんていくつあっても構わない時代
でしたので。
ただ久松家の先妻の子の嫡男はかなり早くに亡くなってしまい、於大の方の産んだ子
とされる家康の弟達はみな松平姓になったので・・・葬儀は家康が盛大に
やってくれて弟達もかえって喜んだんじゃ?
久松家は没落して、結局松平家のどっかの分家のやっかいになったようだし。
>>357 >>松平の墓にも徳川の墓にも入っていない。
ワロスw
無知丸出し〜
伝通院は家康が於大のために建てた、増上寺に次ぐ将軍家菩提所次席なんだけどね。
そんなことも知らないで、ほんっとに恥ずかしいやつだな。
信忠が生きていれば、信忠の生母や、
三法師生母のことはわかった可能性が有る。
だけど、父信長のその他の側室や、
濃姫のことは今とあんまり変わらなかっただろな。
しかし、養母にすぎない濃姫を持ち上げすぎ。
信忠はむしろ、側室に過ぎない自分の生母のために、
立派な墓や、父と並べた廟を作った可能性すらある。
この時代、血の結びつきというのはそれくらいに強い。
あくまでも、信長がそういう風に遇したというわけじゃないよ。
信忠の扱いとして、言っているからね。
>>361 >信忠はむしろ、側室に過ぎない自分の生母のために、
>立派な墓や、父と並べた廟を作った可能性すらある。
信忠は亡くなってるのにどこにその可能性を見出したんだ?
そんなの君の希望的観測だろ?
それ義母は先代当主夫人であったということを軽んじすぎてるね。
将軍家でも側室腹や他家からの後継者の場合は必ず前御台所と
養子縁組をしてから就任するという慣習があった。
形式的にせよ、それほど前将軍御台所にも権威があったということになる。
それに大奥では御台所の上に前将軍御台所が位置付けられ、
大奥内での立場は将軍生母は現御台所よりも下とされていた。
そういう女の格付けは一般的な武家社会の奥の縮図でもあったんだから、
なぜ正室の立場を軽んじようとするのかがまったく理解できないね。
濃姫マンセーと正室の定義を混同して、いろいろ誤解をしているようだが、
その認識を改めたほうがいい。
跡取りが先祖の供養をするのは当たり前で、その中には当然父親の正室も含まれるってだけのことなんだろう。
個人的に生母の供養にも力を入れたかもしれないけど、それと家の跡取りとしての供養は別問題で。
いまでも本家の墓には家を継いだもの以外は兄弟でも入れないからな。
仏事は後継ぎがしていくものだし、次男坊のうちの父親は
墓も仏壇もないぞ。
信長が生きていたら本家は本家の立派な菩提があっただろうし、
濃姫と仲良く並んだ黄金造りの廟とかを作らせてたかもな。
あるいは西洋風なデザインのへんてこりんな廟とかさ。
>>濃姫マンセーと正室の定義を混同して、いろいろ誤解をしているようだが
ここだな、濃姫マンセーとちょっかいをだしてくるやつらの原因は!
自分達の思い込みと認識不足を棚に上げてあつかましい
正室と側室のことをもっと勉強しろ
さしあたって、ここのスレの第1巻〜第4巻まで過去ログってから出直しましょう
366 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 18:46:03
この時代の正室は同等の権力があり、大切にされていた。
確かにそれは事実かもしれない。
でもそんな権力者の妻たる女性の墓や享年が何故いまもわからないままなんでしょうね?
>>366 よく読んでる?
>>織田宗家を継いだ三法師も養華院が亡くなる前に亡くなって、事実上そこで
>>信長系織田宗家は断絶してるんだ。
>>だから宗家に関わることは不詳とされることが多いということだよ。
>>それに謎が多いのは濃姫のことだけじゃないじゃん。
>>信長の生母の件や信忠の生母のことも謎のままだし、三法師の実母のことも不詳
>>なのは、嫡流が断絶したために他ならないよ。
それと付け足すなら濃姫は実家の斉藤家も断絶したからだな。
でも養華院が信長公御台とする織田家菩提寺の総見寺の記録があるのだから
まったく不詳ということでもないけど?
嫡流が残っていたら、「尾張物語」とか「信長軍記」などがあって、
ご先祖さまのことが詳細に後世に伝わったことでしょう。
もっともこういったものは、かえって眉唾ものになる可能性もありますが。
それと手紙の類も多数残ったでしょうから、濃姫をはじめ側室や姫達の消息や
本名も判明したでしょう。
369 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 19:13:49
いやー、ここのみなさんが言うように正室は権力があり大切にされてて死後も前当主と同じ立場だったと言うなら、
織田宗家ならずとも死んだりしたら歴史に名前がちらっと出るんじゃないかと思うだけ。
個人的に、ねねやまつが特殊だっただけで、この時代の正室は今の一般家庭のお母ちゃんくらいの立場だったと思う。
信長が権力者と言うなら、現在の総理大臣夫人くらい?
権力があったわけでも特別重要視されてたわけでもない、普通のおばちゃんってイメージあるな
大名家と一般家庭のお母ちゃんとを一緒にしちゃまずいだろw
むしろ出自の低いねねやまつのほうがそのイメージに近いだろうな。
だから政治にまででしゃばってきたのだから。
>>369 当時のそれなりの身分のお姫様は、本名で呼ばれることがなく、
住んでいた城や地名で呼ばれるのが一般的だった。
だから正室として大事にされていたから、本名が残ったというのは
関係がない。だから、それなりの大名家の正室は名前が残っていない
人が多いのはそのため。
逆に、ねねやまつや千代が残ったのは、そんなに高い身分の出身では
なかった証拠。
武田家の三条夫人も、本名はわからないんだよね。
大河の風林火山で、晴信が三条夫人のことを、「三条・・」と呼んでたが、
ちょっと違和感あったなあ。
実際はなんて呼んでいたんだろうなあ。本名で呼んだりしていたのだろうか。
今川義元の母もかなりでしゃばり正室だが、あまり話題にのぼらないな。
お家騒動でも中心的な役割で義元に家督を譲らせたし、
幼少だった自分の子供の代わりに公的文書を出したりして
政務を取ったので駿河の女大名といわれたというのに。
そこまで今川家で権勢をもてたのは義元の生母だったからというより、
義元の父親の正室だからこその権威だったと思うけど、
ある意味ねねやまつよりすごいと思ってるんだ。
だってこの人元々は公卿のお姫様だよ?
武家育ちでもないのにたくましすぎる。
だけど、濃姫は一応「美濃国諸旧記」で「帰蝶」という名前が
残ってるし(信憑性は?だが)、あと言い伝えだかなんだかで、
「なへ」という名前らしいとも伝わっている。
全く情報がないわけではないのでは?
正室が歴史上表にでてくるケース
・出自が低いが夫が大出世した→糟糠の妻のエピが一人歩きパターン
・夫が亡くなり、嫡子が幼少→我が子に指一本触れさせんの虎の子パターン
・嫡子と庶子のお家騒→側室を蔑み嫌な女と思われるありがちなパターン
これ以外は基本的には表にはでてこないみたいだ。
実子が多数いたりすると、嫁ぎ先や養子に行った先での史料なんかも
あるのでちょこちょこ足跡は追えるだろうけど、濃姫は子供もいないし
上のパターンにはどれにも当てはまらないから探りようがない。
>>織田宗家を継いだ三法師も養華院が亡くなる前に亡くなって、事実上そこで
>>信長系織田宗家は断絶してるんだ。
>>だから宗家に関わることは不詳とされることが多いということだよ。
>>それに謎が多いのは濃姫のことだけじゃないじゃん。
>>信長の生母の件や信忠の生母のことも謎のままだし、三法師の実母のことも不詳
>>なのは、嫡流が断絶したために他ならないよ。
それは確かにそうだと自分も思う。けど、嫡流が途絶えても、実子がなくても
記録に残っている人はいるわけでして・・
濃姫が本能寺後も生き延びて、養華院として亡くなったという説を
信じてはいるが、本能寺後の濃姫の消息が全くわからないのは、寂しい。
何か記録がないのだろうか。
どうでもいいが、ここのスレ住人は一体どういう趣味なんだ?と
「こんなスレ見ています」を見て爆笑
歴史関係ひとつもないw
>>376 本当だよねぇ。
織田家は庶流ながら信長直系で5藩残ったし、それぞれの家できちんと
整理されていない史料なんかがあるかもしれない。
濃姫が生きていた、ということを前提での研究はまだまだ浅いものだし、
むしろこれからいろんなことがわかっていくんじゃないか?
まず、濃姫の葬儀を行なった寺をつきとめたいね。
濃姫の兄がいたという妙覚寺あたりがあやしいと思うけど・・・
それとなんといっても安土総見寺じゃない?
住職は代々織田一族の中から選ばれ柏原藩織田家の当主の猶子となって
住職を勤めたというから、柏原藩に総見寺に関する史料とか残ってないかな?
>375
同時代では、毛利元就の正室。
元就とは非常に夫婦仲がよく、よって元就は、正室存命中、
一人の側室も置かなかった。
元就との間に三男一女の実子があったこともわかっている。
にもかかわらず、本名すらわかっていない。
濃姫が、常に奥にあって、家臣との交流もないお姫様だった場合、
たとえ織田嫡流(信忠流)が残ったとしても、記録が残った可能性は低いと思うよ。
ましてや、信長存命中、一切表に出ることのなかったお姫様なのだし。
>>373 ここは主に織田家の話をするスレなので、
知ってても寿桂尼ネタを披瀝しないだけだよ。
>>379 高野山に、残った織田諸藩の菩提寺塔頭などもしあったら
そこに過去帳や法要の記録が残っていないのだろうか。
主流が滅びた家でも、高野山の過去帳や記録によって
側室や夭折した子等でさえ、
戒名や没年だけはわかる例もあるんだよね。
でもそんな記録があったら学者はとっくに調査済みかなとも思うし。
384 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:33:19
毛利元就と正室の仲睦まじいってのは後世の作り話だよ。
現代の価値観で側室を置かなかった理由を語るのは筋違いだし、死後手紙で亡き妻の話題を出すのも
一族を纏める為の道具であったと考えられる。
真実愛し合っていたのかもしれないが、ステレオタイプに伝わる元就の愛妻家逸話は全て作り話と思った方がいいかと。
385 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:40:53
毛利元就は、正室の生前、側室をおかなかったって言うのはウソ?
元就は正室ととても仲が悪かった、でも、
側室もいなかった、とでも書いたらいいの?
手紙のことなんて触れてないでしょ、
そんなに悪意に満ちた文章書かんでも。
側室がいないことだけが正室と仲が良いという証拠にはならないけど、
子供を複数もうけ、子供達に実母を慕い、仲良くせよと諭すあたりで
夫婦仲が悪いとは判断できあい。
元就に関してはその程度の認識でいいのではないかな?
夜伽女は側にいたかもしれないし、あるいは側室がいたのだが
子供を産んでいないので記録に残されていなかったという可能性もある。
正室が何度も妊娠、出産を繰り返したのだから、その間男盛りで一人寝を
していたとも思えず、夜伽侍女の一人や二人がいたと考えるのは普通だけどね。
もしかしたら単純に男の方が好きだったということかもしれないがw
前から思っていたのだが、何でここのスレって
>元就とは非常に夫婦仲がよく、よって元就は、正室存命中、
一人の側室も置かなかった。
のような夫婦仲のことを話題に出すと、
>毛利元就と正室の仲睦まじいってのは後世の作り話だよ。
のような、スレがつくのはなんでかな。
特に元就が正室と不仲であるという明確な史料もないのだし、
側室をおかなかったので、正室を大事にしていたと考えられるから、
二人は仲が良かった可能性が高い。ということだと思うけど。
それに、側室がいなくても夜伽女は別にいたかもという意見は確かに
そうかもしれない。でも夜伽女と寝ることと、愛情とは別問題。
特に女性と違って、男性は愛情がなくてもエッチはできるのだから。
でなきゃ、こんなに風俗業が栄えているわけないだろ。
>>でも夜伽女と寝ることと、愛情とは別問題。
それが男の性ならそれは「正室と寝ることと、愛情は別問題」
ともいえるんじゃないかな?
子作り目的で正室と寝るが格別の愛情はない、ってこともあるんじゃw
今も昔も男女の仲は当人同士しかわかりようがないからね。
さまざまな状況から考えて、特に仲が悪いってことはなかったのかなって予想する程度で。
そうそう、側室の数はさほど変わらないはずで、しかも20人以上の子供をもうけている
信長が女に淡白で、秀吉が女好き、と思われがちなのも、勝手な思い込み以外の
何ものでもないもんな。本当に当人同士しかわかりようがない。
391 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 19:15:57
逆に聞きたいんだけど、日本史板でさらに文献からわかる事を考察しているだけ、と言うこのスレで
愛し合っていただの1番大切にされてただのっていう『希望』からくる単なる『予想』で
もの言う人って何なの?
秀吉みたいに手紙ではっきり愛情が読み取れるならともかく(それにしたって誰が1番なのかなんて謎)
文献からはわからない本人の感情やら愛情を予想して書き込む方がどうかと思うよ。
当時の恋愛が現代の恋愛と同じか違うかもわからないし、本当に愛し合ってるかどうかもわからない。
あくまで憶測に過ぎない事をあたかも考察してるかのように書き込む方がおかしい。
信長の奥にしても、濃姫が生きて正室として大事にされてたとしても女性として愛されていたかはわからない。
生駒殿が愛されていたかもわからない。坂も小倉も原田もみんなそう。
愛されていたかもしれないし、愛されてなかったかもしれない。
正室は嫁ぎ先から厚遇され、当主からも大事にされた
ということを、正室の濃姫は信長から愛されていたから一番大事にされた
と歪曲した解釈をしている人が依然いるのは確かだな。
>>391 たしかにそうかもしれないけど、でもあの当時の側室は単なる人質であり、
正室の借り腹・・・・つまり言い換えれば「首の挿げ替えがいくらでも出来る存在」だったんだよ?
つまり当主の中では、正室>>>(こえられない壁)>>>>側室だったってことは本当だと思う。
当時の恋愛が現代と同じかどうかはわからないけど、少なくとも秀吉・ねねを見る限り
現代の恋愛と大差あるようには思えないし、当主と正室は運命共同体であったわけだし
恋愛感情をお互い持っていても不思議じゃないよ。
信長と濃姫なんて、とくに14,5の頃から少年期、青年期をともに生きてきたわけだし
男女の絆が深くても不思議はない。
>>391 何で、生駒だけ「殿」をつけるの?生駒に「殿」をつけるなら
他の人にもつけなよ。
当主が正室と仲睦まじい・・・という解釈をして悪いか?
史料などからそう判断できるなら、そういう可能性もある。
という意見でもいいんでないか。なのにことさら、当主から正室が
一番大事にされたらしい・・の意見が気に入らないからって、単なる
希望的観測とかなんとかケチつけるだけなんて見苦しい。
396 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 21:50:09
>>394 あー、何その重箱の隅つつくようなツッコミw
携帯から書き込んだから変換予測文字が出た。
前書き込んだときに「生駒殿」と打ったことがあって、その変換文字が出た。
ただそれだけw んじゃそんなに言うなら訂正するよw
正室・美濃の御方様、生駒殿、坂殿、小倉殿、原田殿。
これでいい? すっごいメンドクサイ人だね、あなた。
ちなみに私も信長から一番大事にされていたのは濃姫だと思ってるよ。
正室だし、生まれも身分も一番上。
信長と唯一婚姻関係にある妻。大切にされて当然だと思ってるよ。
あなたは当主と正室が相思相愛仲睦まじいという解釈に異を唱える人間全て
生駒御前が好きだと決め付けたいみたいだけど、はっきり言って迷惑。
思い込みで判断するのやめてくれない?
>>391 生駒が最愛の人でなかったのが、そんなにくやしいのかよ。
だからって、元就と正室の仲まで作り話だなんて、よく言えるよな。
>>396 携帯からあんな長文書き込んでるんだ。
このスレが大好きなんだなw
399 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 21:57:22
>>395 どっちかっていうと、正室の方が好きかな。
側室にも興味そそられる女性はいることはいるけど、
正室の方が好きな人は多い(濃姫、愛姫、三条夫人、ガラシャなど)
政略結婚で結婚式当日初めて顔あわせた男女が
同じ目的・目標のために同志として生き、長年連れそうっていうのは
少女漫画のようなロマンチックさもあり、少年漫画のような友情とかのノリもあって
すごい興味深いものだなぁと思ってる。
でも、それはあくまで私の脳内での単なる都合のいい妄想に過ぎない。
ここってあくまで文献をもとに濃姫の軌跡をたどりどういう人生だったのかを
語る場所だと思っているから、単純に濃姫萌えとか信長とのカップリングをしたいなら
同人サイトなり戦国板でやればいい問題なんじゃないかなーと思ってる。
資料から読み取れることって、単純に濃姫が本能寺の時に生きていたって事だけだし。
あとはお墓がどれだとか、いつ死んだとか、どこにいたとかその程度じゃない?
信長の手紙や日記がでてくりゃ別だけど、ない以上そういう事ってわかんないことだしね。
そっから先は二次元創作になりそうで、真実とはかけ離れそうな気がする。
400 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 21:59:21
>>397 はいはい、生駒生駒。
はっきり言おうか?生駒御前嫌いなんだよね、私。
というか「吉乃」が嫌い。
「生駒御前」はどういう人物か全く見えないし、信雄を出産したという事しか
わかんないからなんとも言えないけどね。
>>398 大好きだよ?
あなた濃姫好きじゃないの?
>>397 元就と正室の話だけど、あれ「山霧」の創作っていうのは事実だと思う。
山内一豊と千代の相思相愛が「巧妙が辻」の創作と同じ。
確かに妻の死後、妻がいればとか家庭のことは妻に任せておけば云々って
手紙は残っているけど妻を理由に家庭を掌握しようとしていたと思えるんだよな。
俺が言われるほどおしどり夫婦で仲睦まじかったと思えないのは、
話題に出るとおり墓の存在。
織田家と違って毛利家なんてのは毛利元就とその正妻が祖なわけじゃん?
毛利輝元にとっても血の繋がった祖父であり血の繋がった祖母なわけだし。
その祖母の墓すら不明ってのはちょっとおかしいなと思える。
元就の継母のお杉の方の墓はあるのに、妻の墓がないってのは不自然。
あと毛利家は墓に関して捏造した過去があるので、元就夫妻が仲睦まじかったと言うのは
もしかしたら単なる寓話かもしれんぞ。
>>393 それは、そうだよね。
お互い山あり谷ありで、乗り越えてきたものって大きいだろうね。
同志という感じかな。
濃姫にしても、美濃の国主の娘から尾張の極小大名の所へ来たんだから。
信長が尾張を統一するまでも色々あったろうし、天下を目前にするまで
上りつめたのは、濃姫が影で支えたからとも言える。
秀吉にしても、尾張の百姓?の身分から、トントンと出世して、主君の
仇討ちを果たして、天下を統一するほどになれたのも、ねねの内助の功
あってこそ。
夫が仕事で成功をする要素として、妻の内助の功は無視できないと思う。
夫婦が仲悪かったら、もろ仕事に響いてくると思うし。そう考えると、
信長と濃姫、秀吉とねねはそれなりに仲が良かったとは言えると思う。
>>393 逆に考えれば、政略結婚だからこそお互い割り切った関係であり
側室や妾なんかは自分の好みの女だったとも言える。
正室から薦められて「自分の腹代わりの女です」って与えられた側室ばかりじゃないだろうしな。
奥行ったらたまたま自分好みの侍女がいて、正室に頼んで側室にしたという事も多いだろうし。
なんていうかさー、そういう可能性もあるんだろうけどあんたちょっと露骨杉。
信長と濃姫の場合は男女の絆が深くても不思議はなくて
側室との場合は単なる人質で借り腹?
なんか無理やりすぎるぞ。濃姫マンセーも程ほどにしる。
>奥行ったらたまたま自分好みの侍女がいて、正室に頼んで側室にしたという事も多いだろうし。
それは、そうだと思う。
信長が、信忠の乳母を側室にしたのもその可能性が高い。
けど、いくら当主に個人的に好かれようが、いくら子供を産もうが、側室は正室以上の
立場にはなれないって事じゃないの。
側室というのは、いくらでも代わりがいる立場なんだし。
そういう意味で、正室>>>(こえられない壁)>>>>側室ってことなんだと思う。
>>404 同意。つーかそのことに反対してる人っていないと思う。
正室と側室は最初から生まれが違う、立場が違う。
立場や地位で言うなら、正室>>>(越えられない壁)>>>側室だと俺も思うよ。
(あと信忠の乳母は何となくだけど既成事実が先な気もするw)
ただ何て言うか、、、恋愛ごとに絡めて語るのやめないか?すげーもにょるんだけど・・・・。
墓の考察やら手紙考察なんかの時は、論理的に考えていたように思えたんだけど
(中には妄想激しい奴はいたが)当時の夫婦関係や側室との関係を今の恋愛と比較して
愛していただの大切にされていただの・・・・・それって考察じゃなくてもうすでに小説創作みたいな感じになってねぇか?
個人的に仲睦まじいとはっきり言えるのは、秀吉とねね、信玄と三条夫人くらいか?
前者は当人の手紙から、後者は三条夫人の葬儀やった坊主の残した文献から。
ただ後者は生前の三条夫人をよく言うためのもんだからどこまで信用できるかは謎。
個人的に秀吉は家庭内での事が仕事の出来に繋がりそうだと思うけど
信長は家庭内がどうであれ天下統一に邁進していた気がシマス。
もっとざっくばらんに言うと秀吉の家庭内は想像つくけど
信長の家庭内は全く想像出来ない。
秀吉は「今日こんなことあってさ、ちょっと凹んだよ。。。でもあれやったら誉められた!
明日も頑張る!!」「うん、頑張れ!」みたいなねねとの会話が想像できるけど
信長が安土城の天主閣に一人で「ふはははははははっ!神の地位とはいかなる場所か・・・
眺めはさぞいいのであろうな・・・ふははははっ」とか言ってそうなイメージがw
よく今の恋愛感情で、当時のことを語るのはよくないというけど、
今の恋愛感情だって厳密に言うと、恋愛感情=愛ではないんだ。
恋愛における相手を思慕する思いは、愛ではない。
愛というのは、自分が命がけで守るものが出来た時に芽生えるものだと思う。
どんなに大恋愛で結婚した夫婦でも、その感情は2、3年で無くなると言われてる。
その後はどちらかというと空気的な存在になる。
いてもたいして気にならないけど、いなくなると困る。そういう存在。
だから、当時の夫婦でもそんな大恋愛な感情をずっと持ち続けていたか
というとそれはないと思う。
でも恋愛感情のような思いは無くなっても、長年一緒に暮らしていると、
また違った家族愛のようなものが芽生えてくることはあると思う。
本当に愛し合っているかどうかなんてのは、当人にしかわからない。
当時の人だけでなく、現在の我々にもあてはまると思う。
見た目はおしどり夫婦に見えても、二人きりになると違うのかも知れないし、
世間的なこともあって、あえて仲よさそうに振舞っているだけかも知れない。
だから、過去の歴史上の人物の愛情問題を検証してもわからないと思う。
正室が愛されてるっていうのを嫌がる人はここのスレ書き込まないで!!!!!
正室は側室よりも立場も偉いんだから正式な妻より人質の女愛するわけないじゃん。
生駒厨はもう消えて!!!!!!!!
>>405 >墓の考察やら手紙考察なんかの時は、論理的に考えていたように思えたんだけど
墓の考察などの時には書き込んでいたが
ここ2〜3日は書き込んでない。
悪いが、書き込みたいと思わせる内容でもない。
そういう人間もいるってことで。
文献や史跡の考察をしているのと、ここ2日ばかり書き込んでいる人間が
全部一緒じゃないってことも分かって欲しいがな。
410 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 23:35:09
>408
正室だって人質同然だろうがw
>>406 織田家の女性関連スレで言うのもなんだが、
>坊主の残した文献から
あれは快川が「残した文献」と、言うより
数人の葬列僧が、三条夫人の葬儀のさいに読み上げた文が
葬儀録のようなものとして残ったものだ。
故人を浄土に送るため、賛美した内容なのは勿論のこと。
三条は文化的素養の高い清華家の娘で、本願寺との縁もあり
子も順調に産んで正室として重要な位置にあったのだろうけど
どういう風に夫婦円満だったかなんて所詮は謎だな。
>>408 まあまあ、信長は情の篤い人だったと言われているから、信長の行動に
表れていることなら、そう判断できるってことで。
それよりも、お墓の考察はどうなったのかな?
前スレではわりと進んでいたのに、今スレになってから何か話題が濃姫とは
関係ない話に飛ぶのだけど・・・
恋愛感情なんて当人にしかわからない話を続けてても、408のような釣り師が来るだけだし
史料による考察に戻ったほうがいいな。
というか…
なんですぐ生駒厨となるのか理解に苦しむ
正室の方が立場が上なんてあの当時の人なら
百も承知なわけであってそんなくだらん
ことで愛情を計るような愚か者なんぞも
まずいなかっただろうに…。
なんていうか、自分は正室より側室が偉かったとも
立場が上だったとも思ってないし、織田家の奥にしても
濃姫>その他側室ってのは事実だっただろうと思ってる。
でも側室がいないことが一種の愛情だったとか、
毛利元就が正室と相思相愛だったとかいうのを引き合いに出されても
それってどう考えても現代の恋愛脳なんだよね。
408の内容、なんだこりゃとスルーしてたんだけど
ふーん、どんな釣りなんだろ?と読んでみたら凄い痛さ。
>415
大名家で正室>側室でだったのはそうなんだろうけれども、
どちらに愛情があったかは別問題だからな。
厳密に言えば、信長だって、濃姫とその他の側室、
どちらに「愛情があった」かはわからない。
立場を飛び越えると、そういうことになるって話。
毛利元就と正室が愛し合っていた、だから正室存命中は側室を置かなかったって言うのって
織田家で言ってみりゃ信長は生駒御前を愛していたから、足しげく生駒屋敷に通い彼女を寵愛していた
ってくらい“創作小説”なんだけどなぁ。
小説としてなら面白い“設定”だけど、事実とはかけ離れている事だと思う。
ってか元就も妻が死ぬ数年前から側室らしき女はいる。
一般的に言われてる“当主と正室が仲睦まじかった”というのは
はっきりと資料に残されているわけではないし、単なる現代人の願望。
419 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 06:59:47
>>417 でも濃姫が大事にされていたのは事実だろうし、思春期からお家のごたごた、
天下統一に駆け上がるまで長年連れ添った妻を愛するようになるっていうのは不思議な事ではないよ。
側室は単なる人質であり、濃姫の借り腹、もしくは性欲の捌け口としての存在でしかないけど
濃姫はそうじゃなく、斉藤家からの大切な和平の使者だし、信長にとっても家中の問題などに
心痛める時期、心の癒しになったと思われる。
濃姫がいたからこそ美濃の正当な後継者という名乗りもあげられたわけだしね。
大切にされててしかるべきだし、長年連れ添って愛情も他のいきなり出てきた側室なんかとじゃ
比べ物にならないくらい深いものだったと想像できるよ。
420 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 07:08:30
>419
毛利元就=正室とは仲がいい、が妄想で、
織田信長=濃姫は仲がいい、は正当、
とはいえないんだが。
濃姫だって、美濃からの人質。
生駒が愛されたとかいうのとは別問題。
421 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 07:44:31
>>420 何で引き合いにまた生駒出すの?そんなに生駒が愛されてなかった事が嫌なの?w
私は毛利元就と正室も仲睦まじかったと思ってる。仲が悪いなんて説初めて聞いたしw
全部
>>418の都合のいい妄想だとしか思えない。
そんなに正室が当主から大事にされてて愛されてたって事実が露見するのが嫌なの?
大名夫妻の仲がいい、という定義が現代人のそれとは異なるんだよ。
大名夫婦の場合は、とりあえず夫婦の諍いなく、義理でもなんでも褥をともにし、
二人の結婚が両家の掛け橋になっていればそれで良し、とされたんだから
その程度で、夫婦仲が睦まじく、とされていたろうしそれでよかったんだと思う。
逆に嫉妬で家康が手をつけた次女を木にしばりあげたなんていう逸話が残っていた
築山殿のほうが家康を愛していた?なんていうふうにもとれる。(逸話は嘘っぽいけど)
妾宅を焼き討ちした政子や富子あたりもそう。
だけどこの3人は実家がらみで夫を利用し、夫からも警戒され、
どちらかというと夫婦仲が悪い、という印象も強い。
結局当事者にしかわからない関係なんだからいくら外野が論じても無駄。
現代人の感覚で大名の婚姻制度は語れないよ。
愛だの恋だのより大事なことを背負っていた人たちなんだから。
個人的な意見としては、戦場でも生死をともにし、常に自分を守ってくれる
家臣の中にこそ、強い愛情を感じる存在が生まれてくる可能性が高いと思ってる。
つまり対象が男ということだ。
戦国大名は有能な家臣の離反を恐れ大事にしたから、
見込んだものは「そういう手」を使って繋ぎ止めておいたとも考えれられるがな。
ごめん↑「次女」じゃなくて「侍女」でした
とある少女漫画にあったけど、
「正妃」に必要なのは、陛下の寵愛ではなく“信頼”と“同盟”
日本でも同じ事が言えるよね。
「正室」に必要なのは、当主の愛情ではなく“信頼”と“同盟”
>>421 お前も煽るなよ。
お前みたいなのがいるから痛いって言われるんだよ。
少なくとも、当主と正室が愛し合ってたとかってのは
単なる脳内妄想に過ぎないよね。
仮にそうだったとしても、当時にタイムスリップしてご本人に
「あんた嫁愛してんの?」と聞いて「はい、愛しております」っていう
返事もらえない限りただの脳内妄想にすぎないし。
ぶっちゃけ濃姫が正室であった事、正室>側室であった事は事実なんだし
本人達の愛情問題などどうでもいいんだけど。
>>419 全部憶測に過ぎないことをだらだら言われても・・・w
長年連れ添っていたから愛し合っていたとか、全部憶測だし。
そんな事言ったら信忠の乳母なんかは多分濃姫から薦めたというよりも
信長が気に入って(もしくは勝手に手つけて)側室になったってパターンだと思われるけど、
政略結婚で有無を言わさず夫婦になった濃姫より、そっちの方が信長の好みとしてはストライクだったのかもしれないし。
でもこれもただの想像にすぎないしね。真実かどうかなんてわからん。
あんたが言ってるのはこういうただの憶測にすぎない事。
当主から愛されたうんぬん・・
よりも、当主の信頼度 正室>側室>妾>夜伽女・・・
ってことでいいんじゃ。
それよりも、お墓の考察の続きをしたいけど・・・
429 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 08:48:20
>>428 同意〜。
なんかどうしても濃姫より生駒を愛した事にしたい人が、
他家のことまで出して正室は愛されてないとかって言いたいだけだと思う。
墓と言えば、毛利元就の妻の墓も見つからないままになってるけど
毛利輝元からしたら直系の祖である元就と正室の墓を隣同士にしなかったのも不思議だなあ。
織田家は本能寺以降、後をついだのは幼い三法師だし濃姫が亡くなったのも織田家というものが
ほぼ解体していた江戸時代になってからだから隣同士ってわけにはいかないかもしれないけど。
毛利夫妻もおしどり夫婦として有名だけど、当時の風習として妻の墓を隠す(?)みたいなことってあったのかなー?
さすがに仏教だし、ちゃんとその辺はしっかり管理するものだとばかり思っていたけど
毛利家の例もあるし、濃姫のお墓がうやむやになってしまうのもしょうがないのかもしれないね。
>>428には激しく同意するけど、
>>429には同意しかねる。
愛情問題なんてどうでもいいんだよ。
愛情問題を絡めてしまった事で、生駒「吉乃」登場以降
濃姫の存在が無視されたって事は問題だと思うし、
それと同じ事を濃姫でやりたくはない。
正室としての濃姫の存在は、信長との愛情問題以前の話しとして
考察していきたいがな。
>>429 うん。濃姫に息子がいれば、その子がきちんと喪主などを受け持ったろうし。
そう考えると子供がいなかったのはネックだな。
もし養華院が濃姫なら、信長死後30年たってからだし、信長自体が遺骨が発見
されてなくて(持ち帰ったと主張する寺もあるが)あちこちにお墓があるから
濃姫のお墓に関してもどこに建てても良かった気がする。
だけど、安土総見寺には、一応記録があるしね。そうなると葬儀は安土総見寺
で行なわれたことはないのかな?それとも葬儀は別の寺で行なわれたが、信長
御台が亡くなったことを聞いて後から記録したのかな?
濃姫の葬儀を行なったお寺が判明しないとなんともいえないな。
>>429 だから毛利元就とその正室のおしどり夫婦は創作だっつってんだろが。
その捏造おしどり夫婦の墓事情と信長濃姫を比較して考えても無意味。
そもそも毛利家は墓に関しては捏造した事実があるし、
子供がなく、夫の死後没落していった家の何代も前の正室の墓が見つからない事を
一緒に考えてもらっても困る。
ところで「武功夜話」の元史料公開の話はどうなったんだ?
誰かみたやついるか?
>429
だからどうしても生駒を最愛の何たらなんて
わめいている人間はいないだろって。
あいにくと逆はいるようだがな。
あと、全くの蛇足だが嫁が在命中に
側室をもたず、かつ、おまいさんが
好きそうな仲睦まじく最愛なんちゃらと
いうなら毛利夫婦もだがより上なら氏政夫婦だろ。
嫁死後自分が腹を切る数年前まで再婚もせず
側室も持たず妻が死んだとわかるや
分骨してもらい菩提寺に墓と位牌安置
高野山過去帳にも記載。
そういう路線で戦国時代の夫婦像をみたいなら
この夫婦でも考察してるがよろしかろうな。
>>434 生駒を最愛と言ってる人がいないっていうけど、
それならなぜ未だに信長関連本の多くには、濃姫が離縁、もしくは死別
していて、生駒(吉乃)が継室になったなんて書かれてるんだ?
ここでの検証は真実かも知れないけど、まだまだ一般的な説でないってことなのか?
まず、この間違いを出版側が正してくれないといつまでたっても、アンチ生駒
のような書き込みをする人が絶えないんだと思うな。
437 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 09:35:09
>436
このスレ内にはいないって意味だよ。
一般的には側室に溺れ正室をなおざりにしたなんていう戦国大名は
いない。そんなことしたら嫁の実家との関係も悪化するし、
家臣たちへ示しがつかんからな。
秀吉だって側室の中では淀殿を一番としたけど、それはなにより
嫡男生母だったからだろうし、側室でも嫡男生母は扱いが別格とされるのは
武家では珍しくはなかったろう。
そう考えると仮に生駒をことさら寵愛していたとしても、待遇的には
一側室として扱ったろうし、生駒の死後の扱いをみてもそれを
裏付けていると思う。
大名の奥なんて、「今晩は○○殿がお側に」と言われれば「わかった」で同衾。
嫌が応もないんじゃないか?
「あの女がいいなぁ」と思っても、ローテーション組まれてしまえば
一人ばかり指名もできなかったろうし、公平でなければ女達の軋轢も生むし。
孕みやすい、孕みにくい体質の女もいたろうから、子供の数と寵愛は比例しない
と思う。男として子供を産んだ女へは愛おしさなんかは芽生えるとは思うけど、
それも男子を産んだ女にのみだったかもしれないな。
男しても正室>側室、子供を産んだ女とそうでない女、の格付けが
あったことがかえって楽だったかもよ。
醍醐の花見で盃を争った京極殿と淀殿も、周囲の
「淀殿はお拾いの御袋様じゃ」ということで京極殿が引いた、
というエピになってるぐらいだから、寵愛の度合いなんていう目に見えないもの
よりもそういう格付けのほうがわかりやすくていいと思う。
盃の話は創作らしいけど、当時はそういう価値観だったんだろうから。
>>434 当時の大名夫婦を愛情とかで見るのは
正直好きではないが三国同盟によって
結ばれた各々夫婦はそういう視点も
なぜか加味したくなるから不思議。
>>440 わかるよ。
勝頼と氏政妹の桂林院の最期からしたって、生半可な絆ではなかったと思う。
愛情がどうのこうのではなく、完全に同士化してたみたいだ。
>>440 本来は敵味方同士が融合し、ともに支えあって、信頼関係を築いたのに
家の事情で引き裂かれたり、負け戦を承知で運命をともにしたりということろが、
激愛ドラマ以上に嘘みたいな本当の話だからじゃないか?
身内で下克上を2度も経験し、斎藤家と織田家が諍いをおこしながらも、
夫が亡くなるまで信長の側にいれた濃姫はその点では幸せだったかもしれない。
ちょっと前の話題に戻るけど、「総見院殿追善記」 にあった
「西對。東南の局に。妾古後達。」という記述のところだけど、
もしかしたら 「西對。東南の局に」はそこに居住していた
若君姫君たちのことで、側室は「妾古後達」ではないかな、とも
思ったんだけど、違うかな?
「局」は大名の妻子が住む空間を示す、てここのスレのどこかに書いてなかった?
だから「お局様」が濃姫じゃないかっていう話もあった。
だから西対や東の局、南の局にはそれぞれ子供達が住む空間だったん
じゃないかと。(後の丹羽室とかお鍋の子供達とか)
当時の史料をみると「側室」ではなく「妾」と書かれるているのを
けっこう見かけるから、側室や侍女たちは「妾古後達。」でひとまとめ。
ちがうかな〜?
>>443 おもしろいね。
俺が気になるのは、西対・東の局・南の局という表現が
武家らしくないなって思える。
それと側室のことをあえて分けていう必用はないんじゃないかな。
「御寵妾たち」とかでいいんじゃないかなって。
ようするに、この史料では信長の母親や妻妾、下働きのものまで
大急ぎで日野に逃げた、ということがいいたいだけだろうからさ。
>>443 実際の文献には、当然「。」はないから、
実際には「前夫人」「後夫人北の方」「西對東南の局」
「妾古後達」「奴婢」「雑人」という分け方ではないかと思う。
>>444 >西対・東の局・南の局という表現が
>武家らしくないなって思える。
安土城には、御所を模した御殿があったそうだから、
公家の屋敷に倣ったのかも知れないな。
そうすると、分限帳の「御局」という表現も、それに準じたのだろうか?
>>446 あぁ、そうかも。
安土城本丸は清涼殿を模倣したらしことがわかったんだよね。
天皇の間まで作ったとされていて、天皇御幸の予定があったとか
遷都説まであったんだっけ。
信長自身も本丸に居住していたし、当然同じ本丸に住んでいたであろう
奥方連中も公家風に呼んでいたかもしれないな。
そうなると、城内では濃姫は「御方様」「北の方」とともに「御局様」と
呼ばれていた可能性が高いな。
でも「御局様」って呼び方ってどっちかと言うと侍女筆頭って感じじゃない?
正室への呼称は「北の方」「御方様」「御台様」などで、「御局様」というと
身分は高い事はわかるけど、正室・・・というか、妻という感じじゃなく
身分の高い侍女ってイメージがあるんだけど。
信雄の分限帳での記載の「御局様」に関しては知行の多さから侍女筆頭とは
考えられないからな。
通常は「御方様」「北の方」という呼び名だったとは思うけど
信雄の分限帳には自分の室や信長母もまざって、そういう書き方だと
誰が誰だか混同してしまうので、個人を特定しやすいように分限帳内では
「御局様」と記載したのではとも考えられる。
安土殿だと信長姫などもそう呼ばれるし、大方様だと
三法師の立場だと濃姫が大方様でもあるからまぎらわしい。
安土城の本丸御殿の奥のトップだった濃姫を「御局様」と
したとは考えられるな。
でも○○の局という言い方は武家の奥方にも用いていた例はあるよ。
>>449 吉川元春の正室が新庄の局だっけ?
まぁそういう例もあるし、そうなのかなぁと思わなくもないんだけど
「局」ってどうしても侍女に使っていたようなイメージがあるんだよねぇ。
知行の多さからいって、侍女とは思えないんだけどさ・・・。
そういえば秀頼はねねのことを「まんかかさま」と呼ばせていたらしいけど、
この時代嫡母に対する呼び名で最もポピュラーなのは「母上」とかなんだろうか。
実母ならそれでもいいんだろうけど、側室の子が正室を呼ぶときになんて呼んでいたんだろ。
>>450 普通に、生母には「お袋様」
正室には「母上」
じゃないのかな。
>>450&451
武家の場合は父親は「上様」、母親は「御方様」だって。
父上、母上とは呼ばなかったそうだ。
親である前に家の統領と夫人として接したということらしい。
生母が側室だったら「母上様」かな?ちょっとそれはわからない。
しかも嫡男は朝晩に、当主と正室に挨拶に訪れるのが日課だったそうだけど、
それ以外の子供達はそれすらなく、会うのは何かしらの用事で呼ばれたり、
行事の時に顔を合わすというだけということも珍しくなかったんだって。
生母が側室なら母親には会うことはできたかもしれないけど、どうかな?
乳母、守役による養育が当たり前だったから、親との関係が上下関係に
近いものになったんだろうな。
453 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 17:12:23
実際に見てきたのか?
>>452 以前武家の慣習に関する文献を読んだら書いてあったんだよ。
信孝の手紙にも「上様御墓所たるの上は〜」ってあるじゃん。
>>452だけど、書き忘れたけど武家といっても大名クラスのことだよ。
>>生母が側室だったら
徳川慶喜の孫がだした本を読んだら、側室を生母にもつ兄達が
生母を呼び捨てにしていたそうだ。名前を忘れたけど「すぎ」とか「ちよ」とか。
生母たちも子供達にかしずいていて、誰が誰の腹だかわからなかったって。
側室は子供よりも身分が低いので、それが当たり前だったみたい。
もしかしたら戦国期もそんな感じだったかな??
信長分限帳には何人ぐらい載ってるの?
ふと思ったんだけど、御局様はお鍋の方じゃない?
秀吉の庇護下になってたしかねね付きの侍女頭になったんじゃなかった?
秀吉からも化粧料をもらっていたけど、信雄も秀吉とのパイプのために
お鍋の方に気を使って化粧料をあげていたとは考えられない?
分限帳に「御局様」より高い知行をもらっている女性がいるのかしら?
いたらその人こそ濃姫の可能性がない?
御局より高い知行は御内様とある信雄正室かな。
500貫のほかに南伊勢に600貫の知行があったようだから1100貫あったようだ。
南伊勢とあるからには信雄正室に間違いないと思う。
それなら素直に安土殿が濃姫なんじゃない?
濃姫には信雄直轄以外にも御料地や道三からの化粧料なんかもあったから
信雄からは600貫でも2000貫近い知行があったかも。
信雄の正室の南伊勢の600貫というのは嫁入りの時の化粧料だと思うんだけど。
ねねの侍女頭をしていたという説もあるし、御局という書き方といい、
信雄にとって自分の室や御方様より高い知行を与える人物といったら、
秀吉と上手くやってるお鍋の方ぐらいしかないんじゃない?
>>456 徳川慶喜の二人の側室は信と幸だね。
精の奥方は生母でありながら我が子に呼び捨てにされる夫の母親を
不憫に思っていたそうだよ。
でも精が熱を出した時に「信・・・信・・・」ってうわ言のように「母親」を呼ぶ夫を見て
母親も救われるだろうと思ったらしい。
「○○家の子供」として育ち、母親とは正室たる「御方様」だけで
あとはその御方様に御仕えする侍女という認識だったのかもしれない。
ただその「母親」に親への愛情を持つかどうかは別問題で、やっぱり生みの親を慕うってのはあったんじゃないかな。
その生みの親がある程度育児に関わっていればの話だけどね。
分限帳の記載時期は天正13〜14年。
鍋に対してそこまでするほどの時期じゃない。
>>461 でも鍋の方は信長葬儀にも一周忌法要にもでてるんだよな。
秀吉支配下にすでにおかれているたと考えられる。
ねねの侍女頭になったとされる時期はいつなんだろうな?
鍋は天正11〜12年にかけて182石の知行をもらっているが、
この頃は信吉とともにすんでいたといわれている。
この時、信吉は2000国の所領をもらっている。
つまり、信吉の生母である鍋は、秀吉の知行以外にもらうとしたら、
信吉からとなる。
天正19年に1000国の加増があるのだが、この時にねねの侍女頭に
なったのではないかと考えられ、秀吉とのパイプ役として活躍できるのは
この頃からとなると考えられる。
つまり信雄の分限帳の時期には、鍋は信雄から知行をもらうのはおかしいという事になる。
>>463 信吉は2000国の ×
信吉な2000石の ○
先代の側室の面倒まではみないだろう、普通。
自分の生母でもあれば別だろうが。
でもたとえ鍋が信雄より知行をもらっていたとしても、信長の姫や正室の
濃姫などよりも知行が多いのはおかしいのでは?
一側室が信長の娘や正室よりも知行が多いのは納得できない。
しかも信長の子供の序列からいっても、鍋はそんなに高いとは思えない。
だから「御局」が「安土殿」よりも知行が多いことを考えると、「御局」
は鍋ではないと思う。
鍋は早々に秀吉の味方になったし、一周忌法要でも秀吉の方に出席している。
それを考えると、信雄から知行をもらっていたとは考えにくい。
信雄が鍋に知行を与えるなら、他の信長の側室の人全員に与えないとおかしな
事になる。側室としての仕事をしたのは、鍋だけではないのだし、御局と呼ば
れる人が、信雄正室の次に知行が多いということは信雄にとって、自分の正室
の次に近い人というと、やはり信長正室かあるいは信長生母かになると思う。
どっちにしても御局が鍋ということはないと思う。
>>460 「おんな聞き書き 徳川慶喜」の逸話はもういいから。
幕末、というか明治期の徳川分家の話をされてもね。
>>465 そう言えば、諸大名家の代替わりのさいの
先代側室たちの処遇というのも家様々だったんだろうか。
子が後継者となれば館や城に残る。
それ以外の男児がいれば、その子の館や城に世話になる。
娘の嫁ぎ先の厄介になる。
隠居廓(江戸期の例でいうと、比丘尼屋敷みたいなもん?)に
まとめて送り込まれて供養の日々・・・
いや、そういうシステムは確立されていなかったろうな、
自立して各自で庵を結ぶとか実家菩提寺関連にこもるとか?
嫡子が順調に跡を継ぎ、版図の減少も無いような磐石な家なら
その側室たちの隠居後の面倒見もできたろうが
乱世は続いていたし、
特に織田家の場合はそれどころでは無い状況だったろうな。
大名となった蜂須賀家では側室が子供を産んだら早々に母親から完全に離され、
子供に誰が生母かも知らせず養育したときく。
家々で側室の処遇が異なる事はあったんじゃないの?
お鍋はどうだったんだろうな?
東、南の局のどちらかがお鍋だったら御局がお鍋である可能性は捨てきれないと思う。
秀吉が知行を与えたからといって信雄が与えるのは変ということもないと思うし、
分限帳にはどういう人物か不肖な女性がたくさんいて、信雄から知行を与えられて
いるからその中に信長の側室がいないとも限らない。
濃姫が安土殿ならばその他御料地などもあったわけだから御局より少ないという
ことにもならないし。
それに御局には敬称がついてないんだよな。
殿も様もない。記載順も安土殿より下だ。そのあたりもひっかかっている。
実は信雄の生母が「御局」ってことはないかい?
例の永姫と同腹説があったじゃん。
永姫の生母が亡くなったのがどうやら慶長年間のようだし。
ある程度年もいっていたろうから、○○局と呼ばれて奥でも
古参の側室だったとか?
そうなってくると信雄が喪主をした生駒御前は一体誰なんだって話になるなぁ。
そもそも久昌寺の史料が怪しくないか?
信長が生駒の墓を向いて涙したとかさ。
寺の改名を含め全てが寺の創作だとしたら・・・?
>>473 >>寺の改名を含め全てが寺の創作だとしたら・・・?
江南市民から寺が焼き討ちにあうだろう。
475 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 11:49:42
さすがに生駒関連全てが捏造・創作だったとは思えないけどねぇ。
生駒にそこまで不利(?)な状況が真実だったとは思えないけど・・・。
なんていうか今更なことだけど、信長の奥殿は本当何もかもがわからない状態だね。
はっきりしていることなんて、美濃の斉藤道三の姫君が信長の正室として
嫁入りしたってことくらいじゃないか?
それにしても婚姻はなかったとかいう説もあるし、婚姻はあったけど
輿入れ時期も諸説色々だし・・・・。
>>470 >御局には敬称がついてないんだよな。
ついている「御」が敬称だ。
「殿」よりも「御」の方が敬称の格としては上。
だから、信雄の正室は「御内様」。
ちなみに「様」の方が「殿」よりも上。
「殿」と「様」が重ね付けされている「大方殿様」は
かなり格の高い敬称。
「御局」も「御」がついているので、「安土殿」より格が上。
>>475 だけど、濃姫の織田家への輿入れがなかったとすると、織田家と斉藤家の
同盟はなかったことになるな。だとすると、なぜ道三は息子の義龍にやら
れる時に、信長に国譲状を出したんだろうな。同盟もしていない隣国に、
国譲状を出すとは考えられないがな。
>>470 敬称がついていないからっていうことより、知行が信雄正室の次に多いことが
御局の地位の高さを表している。
安土殿よりも高いということは、やはり織田家の奥での一番地位の高い人であ
ると考えられる。
だとすると、それは正室としか考えられない。
>>475 具体的にどの辺りの生駒関連話が、捏造だと思えないのか示して欲しいな。
生駒にそこまで不利だったとは考えられないというが、どの辺りが不利なの
か?
不利というのは、何が一体生駒に対して不利なのか?
こちらは史実の検証をしているわけで、勝ち負けを論じているんではないんだが。
信雄が生駒の喪主をしたっていうのは本当なのかな?
っていうか、通説になっている生駒の没年は本当に1566年なのかな。
その辺りが違っていると、根本的に間違った検証をしていることになる。
481 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 13:45:11
>>479 いや、別にそこまで食いつかれても困るんだけどw
単純に今の流れ的に行くと信雄が喪主をした生駒御前という存在が
なくなってしまうんだけど、さすがにそれはいたんじゃないかなーと思っただけだ。
特に深い意味はないよ。
>>477 その譲り状の話って史実としてあるものなんだっけ?
>>480 だけどさー。
永姫の金沢久昌寺の件もあるし、やはり生駒が尾張の久昌寺に埋葬されている
のは間違いないんでは?まあ、没年に関してはわからないけど。
でも捏造するなら極端な話、生駒の没年をもっと伸ばして、それこそ本能寺で
信長と一緒に死んだことにすれば、もっと二人の熱愛説も色々書けるだろうし。
それをしなかったのは、久昌寺の記録で生駒が1566年に没したとされているから
だと思うんだよね。それを基に武功とか創作したとも考えられるけど。
483 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 14:51:55
>>476 でも安土殿より上の敬称をつけられ、貫高も高いのに
記載されている順番がどうして安土殿より下なんだ?
信雄正室、岡崎殿、安土殿、の次にきている。
御局が濃姫ならせめて信雄正室の次に書くべきじゃないのか?
485 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 15:41:16
>>476 正室が「御局」と呼ばれる可能性は低いと思うよ。
〜局は、もともと、内裏で部屋(局)を与えられた宮中女房をさす言葉。
「御局」は、「お部屋様」ぐらいの意味だからね。
一個の御殿を与えられていない、部屋住みの貴婦人、ぐらいの意味。
側室の呼称としてはありうると思うけれども。
濃姫の呼称としては、ありえないのでは?
分限帳の写しがあるので確認したらこうある。
御内様・500貫文(その外600貫南イセノ分相違)、岡崎殿・700貫文、
アツチ殿・600貫文、御局・千貫文、於亀・□(不詳)百五十貫文、
於チャア:300貫文、於竹・200貫文、コキ殿・230貫文、
宇治殿・200貫文、於キャク・250貫文、タア・100貫文、平手後室・250貫文、
大方殿様・□(不詳)百40貫文〜
信雄の養子にいった北畠家には大奥でいう年寄りみたいな侍女総取締役
みたいな存在がいたんじゃないか?
北畠の先代の側室とかかもしれんが、その女性が御局だったとか?
488 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:14:32
個人的には、
御内様・・・信雄正室
岡崎殿・・・徳姫
安土殿・・・丹羽家へ嫁入りした信長息女
御局・・・北畠家の侍女頭、もしくは血縁者
かなぁと思ってる。
それかもしくは、1000貫の表記がそもそものミス
(鉄砲3000丁→1000丁みたいな)
大変興味深い展開に改めていろいろ検証してみた。
まず信雄分限帳にある女性達は織田家ではなく、北畠当主であった信雄の
立場を考えると、むしろ北畠家の女性が中心であるだろうと推測できる。
そうなると大方殿様は信長生母ではなく、北畠具房もしくは、
北畠具教の正室(信雄正室であった千代御前の生母でもある)の
可能性もあるのではないだろうか?
御内様は信雄の与えた知行とは別に南伊勢に600貫もの知行があったのは
輿入れ時の化粧料と思われ、固有財産として保持し続けていたこともわかる。
そう考えると濃姫が道三からもたされた化粧料も濃姫が保持し続けていた
可能性も高く、織田家の家督を継いだ信秀が後に岐阜城主になることからも
少なくとも秀信が家禄を没収された関ヶ原後までは濃姫の化粧料は安泰だったと
推測でき、なおかつ御料地などもあったのだから、
経済的にはある程度は安定した老後を過ごしたはずである。
さらに、濃姫は織田信雄の庇護下にいたのか?という疑問も生じてきた。
分限帳を見る限り、安土殿、御局を濃姫と解釈できなくはないが、
何人もが指摘されているように、貫高の問題、順番の問題、など矛盾も感じる。
そもそも織田宗家があるのだから信長正室が庶流の信雄の庇護を受ける
必用はないのではないか、と思えてきた。
三法師が信長系織田家の家督を継いだ以上は、濃姫は三法師の庇護下に置かれる
べきであり、信長生母などもそうではないだろうか?
当時の三法師は傀儡であり、当初は信孝・信雄の後見人による
名ばかりの宗家当主であったが、それでも濃姫は嫡孫である三法師の管轄の知行を
もらうのが筋ではないかと推測している。
信雄は徳と同腹という説もあるし、信康室という立場から実家に戻れないという
事情もあって実家ではなく兄のもとに身を寄せていたか、あるいは信雄が秀吉に徳を
人質代わりにして処遇をまかせていることをみても、意図して自分の庇護下に
置いておきたかったとも思える。
安土殿は他の信長の姫であると考えるのは妥当だが、丹羽室だとしたら
すでに秀吉に取り組まれようとしていたかつての信長の重臣の丹羽氏との
つながりを信雄自身も維持するために、報徳院を自分の庇護下において
嫁がせたとも考えられる。
信長にはこの二人の姫以外にも三の丸、於振、万里小路充房室、徳大時実久室、
あたりが安土にいたはずで、この姫達はその後どうなったのかもわからないが、
信雄ではなく、織田宗家の庇護のもとに成長し、秀吉の意のままに嫁いで
いったと思われる。
>>489の続き
分限帳にある御局は信長の姫たちよりも立場は低いが、信雄が
貫高を多く与えるほど優遇している女性になるので、恐らく信雄の
乳母あたりではないかと推測している。
信雄生母の可能性もなくはないとは思っているが、それなら
素直に「御袋様」という表記がされたのではないかとも思っている。
492 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 17:38:36
私も濃姫が傍系であり、さらに当時北畠家当主であった信雄に庇護されるかなぁ?
という疑問があるかな。
濃姫が道三から輿入れ時に化粧料としてどこの知行を賜ったのか、
そしていくらだったのかはわからないけれど、その他にも信長にも貰ったという記録もある。
縁の薄い次男(しかも他家へ養子にいった)から庇護される立場にはないんじゃないかと予想。
そしてその後の歴史から(信長生前もそうだけど)一切表舞台には名前を出さない事から
化粧料と信長からもらった知行だけで悠々自適に生活していたって事は考えられないかな?
気に入りの侍女数人と庵で、世の中の権力から一切関与されないで
ゆっくり余生を過ごしていたんじゃないかと思うのだけど。
>>490 あぁ、乳母を忘れてた。
戦国最強の役職は乳母だった。
春日局という例もあるし、御局は信雄の乳母への呼称だったかも。
分限帳は、ここでは女性の所しかここで書かれていないが
全文を見た事がある人なら分かる事だが、
元々織田家の譜代などの知行も載せているので
北畠として書かれていないのは明白。
北畠中心の記載ではない。
大方殿様は、北畠であろうと、織田であろうと、
地位が高いのは「大方殿」という名称で分かる。
大方殿様の記載が後ろに来ている事を見ても、
単純に、信雄の直接の血縁を先に書いて、
先代、先々代を後に書いただけと考えられる。
犬山殿も、信長の妹であるため大方殿の後ろの書かれている。
これは当然の記載順である。
分限帳は、公式の文書であるので、「御局」の敬称は格の高さを示す。
乳母などであれば「局」だけのはず。
また、乳母を身内女性の箇所に記載するなど、非常識なことだ。
乳母が身内感覚であったとしても、家臣には違いない。
家臣の女性に知行を出す場合、その夫や子供の項目に
付け加えとして書かれる。
実際、分限帳も、そういう記載方法をとっている。
>>494 内、岡崎殿〜アツチ殿、御局、於亀〜於竹、コキ殿〜宇治殿、於キャク〜タア、
平手後室〜大方殿、又十郎殿御女房衆〜將監女房、犬山殿〜小林殿、
貫高と敬称などから、女性達は横一列ではなく、こういうくくりにわけられて
いるように思う。なので御局を身内女性と同様に扱っているようには思えない。
信雄乳母とはあくまで私の推測だが、家臣の間では御局と称されていたのでは
ないか?身内を外した女性の中ではトップの立場にいたことがわかるし、
乳母は未亡人や離縁してきた女性が多かったし、実子が立派に成長して
家を継いだとも限らないし、その場合は乳母を庇護する時はどうしていたのだろう?
他の女性同様に本人に直接知行を与えたのではないか?
ちなみに、身内女性と思われる記載群以外に、女性の知行は何カ所か出てくる。
身内女性の記載は、分限帳ないでも後ろの方だが、単発で出てくる女性は、
前の方の家臣の欄に出てくる。
乳母などが書かれるとしたら、こちらになるだろう。
「百三十貫文 於彌々」などがそれ臭い気がする。
他に、「荒井竹」「眞野市」「丹羽千」「大津杉」などの名前も見える。
信長の乳母であった養徳院は諸大名からも「大御乳様」と称されたというから
御局が乳母であっても違和感がないよ。
御局が正室であるほうが違和感がどうしても払拭できない。
自分は御局が乳母だった場合の知行の多さの方が
違和感として払拭できない。
信雄の所領の石高に反して、家臣女性としては多すぎる。
「大御乳様」を公式な文書で記載している訳ではないので、
公式な文書の分限帳の「御局」と一緒にする方がおかしい。
500 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 19:10:02
とは言うものの、御局が先代の正室であった程の身分とは
とても思えないんだよね。
順番的に・・・。
養徳院は諸大名のみならず秀吉や家康ですら
権力者になっても【御】乳様扱いだし
信長も彼女には池田家とは別に専用知行地を
与えていたぐらいだから信雄がそれを
引き継いだとしてもおかしくはないよ。
確か彼女の知行地って信長が死んでも
そのまま尾張に据え置かれて
秀吉も家康も手出しせず彼女が死んでも
しばらくは池田家の飛び地領みたいな感じで
幕府もなぜか手出ししなかったらしい。
嫁あたりが何か言ってたのかもしれんが。
面白い考察だとは思うけど、乳母だろうが乳母でなかろうが
どこの家の者か分からない記載方法になっている時点で、
織田家血縁者(可能性として低いけど北畠血縁もあるかな)だよ。
当時の主従関係を考えれば、家臣を記載する時に、名字が分からない記載はあり得ないよ。
信長の乳母だって、公式な文書では「池田恒利室」とか「池田恒興御袋様」で
記載されるんだし。
大体、こんな所に乳母の記載があるなんて、そんな書式を無視した公的文書ある訳ないよ。
乳母が、織田家身内の叔母だったりすれば別だけど。
あと、気になったんだけど又十郎殿御女房衆は「御女房衆」が添え書きになるよ。
だがな一説に養徳院は信秀側室説も
あるぐらいだからなぁー。
>>502 勝手な想像だけど、乳母の役目を終えたら北畠家の奥総取締役みたいな
出世をしたんじゃない?
奥の女性になったら、むしろ苗字など記載されないのが普通でしょ?
>>(可能性として低いけど北畠血縁もあるかな)だよ
あれ?
信雄は北畠家の当主だったんだから、逆じゃないか?
その後も伊勢を統括しているし、織田姓になったからといって
女性陣が総とっかえになるか?
後室も北畠家の庶流の女性だし、北畠の身内もけっこういたはずだけど。
>>498 でも当時信雄は100万石の所領があったんじゃなかったか?
分限帳には女性の数が極めて少ないが、大勢いたであろう侍女や
側室たちは、知行を与えれていなかったのだろうか?
侍女は月給制?
側室は出来高払い?
なるほどねぇ。
確かに濃姫は織田家の家督を継いだ三法師から知行をもらうのがば筋かもな。
織田秀信分限帳があればそのへん確認できたわけだが、もちろんあるわけないよなぁ。
改めてみたけど、久昌寺への知行がないぞ。
熱田宮中社家や曼荼羅寺なんかはあるんだけど。
生駒が亡くなった時に久昌寺に茶筅の名で知行をあげたんじゃなかったか?
>>502 織田家の身内、もしくはそれに準ずる女性たちというなら、
於亀とか於チャアとかには様も殿もないし、扱いがぞんざいすぎなか?
苗字のない女性が家臣ではないというなら、身内でもなくそれでも
知行をもらっているこういう女性たちはなんなんだ?
娘とか姪とかだろうな。
久昌寺への知行はなくて当たり前。
生駒家の菩提寺なんだから。
茶筅が知行をあげたんじゃなく、
茶筅経由で信長が知行を出したから、
管理は生駒家でする事になる。
とにかく、女性の部分だけじゃなく全部を見返す事をお勧めする。
信雄の姫は姪には敬称なしってことか?
それに嫁入り前の娘には知行は必要ないのでは?
>>510 おいおい、信雄の姫も姪も呼び捨てなんかい?
嫁に行った娘への化粧料なら普通は〜殿とか〜室とかだよな?
てことは嫁入り前の娘は記載の仕方も露骨に格も下がると。
へぇ〜
全部もなにもここは濃姫を検証するところだから、
明らかに家臣とわかる分限の箇所はスルーしていいだろ?
濃姫が「安土殿」「御局」「大方殿様」のどれでもないってことになりそうかな?
そうすると、その後出てくるのは、分限帳に載っているのは濃姫とはいえないから
やはり濃姫は、早くに亡くなったか離縁されたって話題かな?
>>513 どれでもないかもしれないし、どれかかもしれないという話だよ。
もしくは秀信から知行をもらっていたから信雄の分限帳に名が載っていなかった
かもしれないという話。
勝手に話題を変えないでくれるかな?
>>513 なんで信雄の分限帳に濃姫が載っていなかったからって、死んだとか離縁
したってなるわけ?
話が飛躍しすぎてないか?
516 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:59:21
>>513 とりあえず信雄の分限帳に関して言うなら、濃姫と思われる女性が記載されてる
可能性は低いのではないかなと思う。
早くに亡くなった・離縁されたって可能性も勿論あるし、同時にないとも言える。
「亡くなった」「離縁された」という一次資料が出てこない限り、どちらも同じだけ確率はあると思うよ。
久昌寺はないが政秀寺がある。
これは平手後室の関係だろうな。
という事は、平手政秀かその息子の後室に、織田の女性が入ったという事だな。
分限帳記載の家臣の中にも、平手姓の者が何人もいるしな。
全部読めといわれるのも分かる気がするよ。
天正14年当時は、秀信はまだ元服前で、後見人が信雄。
信雄が織田に復帰したのが10年で、13年には清洲を居城にしている
だから、織田家の家臣達にも信雄が知行を出しているんだからな。
文禄元年以降なら、秀信から知行が出ていてもおかしくないがな。
濃姫かどうかはともかく、妙心寺での信長の一周忌法要には信長公夫人が
出席しているのだから、離縁なり死別なりで正室不在だったといことはないな。
分限帳作成時までに後を追うように亡くなったとしても、その時点なら
秀吉が喜んで葬儀をしてくれて、総見院に墓を建ててくれそうなもんだがな。
それに信雄も仮にも100万石の大名だったんだから、秀信を後見して
立派な葬儀をしただろうと思う。
信長生前には、離縁とも死別とも記録がないのだから、濃姫は、生きて安土城にいたと
いうことだよな。
安土城から非難した人達の中にも、「御台所」や「北の方」などの記録がある
しね。
濃姫の知行を調べたら、いつまで生存していたかはっきりわかるのでは?
>>516 そりぁ、あんたが勝手に思ってるだけだろ?
思うんだが、信雄の分限帳の「御局」が、織田家親族や北畠親族でないなら、
1000貫という知行は多すぎないか。
信雄正室よりは少ないけど、でも信長娘の徳姫よりもあきらかに知行が多いし、
上の扱い。しかも、身内の女性の記載場所に、割り込むように家臣が入るのは
違和感あるしな。いくらなんでも家臣とは考えられない。
>>521 知行の相場がわからないかななんとも・・・
家によって差もすごくありそうだし。
>>498&521
多いと主張するなら、当時の相場を教えてくれないか?
家の石高に対して、前当主の正室への知行はどのぐらい、
乳母、姫達の化粧料はどのぐらいが平均だったとか。
それで多いか少ないか判断したい。
嫁に行く前の姫たちへも知行をだしていたとは初耳だから
そのあたりのことが載っているどっかの大名家の分限帳なんかが
あったら教えて欲しい。
信雄の分限帳だけを見ても、
御局の1000貫文は、
確かに多い様に思う。
有力な人物は10000を越えてる者もいるが
多くは1000に満たない。
500以下が多い。
男性でも100以下の者も
かなりいる。
家臣の欄にある女性と
推測できる人物の知行は、
大体100〜200の間。
乳母が親族扱いなら、それこそ、
100のタアとか知行の少ない人物の方が、
可能性があるんじゃないかと思う。
>>524 だから信雄の分限帳だけを眺めてああだこうだいっても
仕方がないので、他家や当時の相場と比較しないと意味ないんじゃないか?
乳母が知行によって召しかかえられるものというのも家によって違うかも
しれないし、武家の慣習から乳母や乳母一族はかなり優遇されてきたのは事実だ。
1000貫が多いが100貫が妥当というのも推測に過ぎないわけだろ?
>>525 なるほど、それは自分は分からないので、
他の人のアップに期待する。
自分が持っている各家の分限帳だと、
乳母だとはっきり分かる
記載のある分限帳はないから。
大名家の年中日記など合わせて
検証すれば、もっと詳しく分かるんだろうが。
「御局」が側室である可能性はあると思うよ、
信雄の身分の高い側室、例えば、北畠氏の血を引く木造氏とか。
側室が局を称する例では、天皇の愛妾のほか、
武家でも、西郷局(徳川家康側室)、伊勢局(豊臣秀頼側室)など、例がある。
御局が正室では用例に合わないが、貴種の側室ならば、
用例的にも、高い知行にも、納得がいく気がする。
ここのスレ見てるとまるで、信雄の分限帳の「御局」が乳母であるかの
ように断定しているように見えるが。
乳母が当主の兄弟よりも知行が多いことの不自然さを検証せずに、
乳母でない理由を証明しろといってるように感じるな。
そこまでいうなら「御局」=乳母であるという根拠を示して欲しい。
単なる推測に過ぎないんじゃないか。
>>528 自分は断定していない。
むしろ、乳母ではないと思っている。
だから、男性家臣に比べても知行が多すぎると言っているが
乳母と乳母一族は多いかも知れないじゃないかと、
御局=乳母だと主張しているらしい人がいるのも事実。
いくら化粧料を合わせれば当主夫人が一番多いと言っても
化粧料を除いた知行や、他の姉妹、叔母、祖母などの知行より
多くの知行を当主から受け取っている女性家臣など
あり得ないと思うのだがな。
そこまで当主から厚遇され、しかも女性の中で一番といっていいほど
知行をもらっておきながら、なぜ「局」などという部屋付き侍女、
あるいは部屋持ち側室に使うような呼び方をされたかが問題だな。
御をつけようがつけまうが、それはいっしょだと思う。
濃姫のことなら「北の方」「御前様」「お方様」「御御台様」と書いても
いいとおもう。それも当然岡崎殿より先ではないとまずいのではないかな。
信雄室は「御内様」とあって、この二人が混乱するとは思えないし、
きっちりさせておきたければ「信長公御台」「信長公北の方」と書けばいいだけ。
そう表記していないのだから、濃姫ではない別の人物が安土殿、御局殿だと
思える。
もともと濃姫が他家へ養子にいった次男坊の信雄の庇護下にあるとは不自然だな
と思っていたから、この分限帳には濃姫がいない、ということのほうが自然に
思える。信雄との接触が少なかったから、信長死後史料などに登場することが
なかったことへもつながるし。
御局が誰かは特定しようがないけど、さらに謎につつまれた北畠の女性陣へ
着眼することにつながればいいと思う。
濃姫が信雄の分限帳にいないということは、信秀正室もいないということで
いいのかな。
では大方殿様は御局同様、別の人を指しているのか?
北の方という表現は、信雄正室とも混同するから使用しなかったと思えるが。
しかも信雄正室であるとされる御内様にしても、南伊勢に知行とあるから、
信雄正室であると判断されたが、そうでなければ、信雄正室だとわかる名称
だとは思えないがな。
>>530 本論と少し離れてのことなんで、気にさわったらごめんなさい。
「局」とついて重要な役割にあった女性もいるけどね。
>部屋付き侍女、あるいは部屋付き側室
という程度より、もっと上級な役職を感じさせる人々が。
徳川秀忠の、著名な乳母で「大姥局」
千姫に仕えた「松坂局」
数多い家康の側室のなかでも有能な女性として内外に働き
東福門院の入内に従って従一位を賜った「阿茶局」
>527の挙げている「西郷局」は秀忠の母だね。
側室でも重要な存在、力をもった乳母、守役、母代・・・
戦国末期〜江戸初期の上層武家奥向きでの「局」って、
王朝期からの概念の局住まいの女房などとは異なるような気がする。
>>532 それでも立場は家の中では下のものというのは変わらないのでは?
乳母は乳母であって、側室は側室、秀忠生母も側室。
基本的に皆出自が低く、当主や正室、子供達に「仕えるもの」という
立場である以上は格や身分が根本的に違う。
「局」といわれてしまうと、そういう立場のものと混同されるので、
身分が高いものにはつかうのは失礼だ、という話。
そんな紛らわしい敬称をつけるぐらいなら、本当に身分が高いならいくらでも
言い方はあると思う。オーソドックスに実家の姓を名乗るとか、居住していた
場所、地名、とか、ストレートに地位を示す名称、法名とか。
濃姫なら信長死後3年も経っていたらすでに出家して、法名で記載されていても
然るべきだと思っている。それなら一目瞭然人物が特定できて、信雄の室と
かぶることもないからな。
だけど、御局=濃姫でないにしても、信雄がこれほどの知行を与える人物
とうのは一体誰なのかという疑問につながるな。
織田家や北畠家の人間以外で、信雄の兄弟などよりも知行を多く与える
人物というのは、信雄生母以外はちょっと考えつかないが。
しかし、通説では信雄生母はすでに亡くなっていたはずで、そうなると他に
該当する人物はいないしな。
信雄が濃姫に知行を与えて庇護していたらそのことをもっと前面にだして
利用していたのでは?「織田本家はお方様のいるこっちだ、どうだぁ!」
みたいなさ。
濃姫との交流もあったろうし、それこそ信雄贔屓の生駒家の史料にも
登場していてもおかしくないんじゃ?
乳母も乳をあげるだけの女性もいれば、成人したあとまであれこれ相談にのったり
心の拠り所みたいな存在の女性もいたろうし、なんと若君の初めてのお相手を
した、なんていう話もあるから、一概に一般論だけでは片付けられる話では
ないのでは?ケースバイケースで異なると思う。
乳母の夫が側近で息子が小姓で、と乳母一族みんながサポートして
盛り立てている場合もある。
若君の父上に見初められて側室になった場合も織田家では二代続けてあるし、
正室や側室にない側面をもった存在であったのはたしかだな。
信雄が濃姫を利用するといっても、信長死後、秀吉が濃姫を前面に利用して
いた形跡はないがな。(最初の秀吉主催の葬儀の際、取り込みが失敗したか
らかも知れないが)濃姫には実家はなかったし、これまでも政治的なことに
は一切かかわらなかったことから、信長死後に政治的な利用価値があるとも
思えない。
秀吉にとって、濃姫の利用価値があったとすれば、葬儀に出席してもらい、
内外ともに、信長の後継者としての秀吉の価値を高める位しかなかったろう。
だとすると、信雄にしても濃姫を庇護していたからといって、対秀吉対策として
有利に運ぶとは思えない。またそこまでの知恵が回るとも思えない。
だけど、分限帳の「御局」は一体誰なんだろうな。
徳姫よりも300貫も知行が多いし、信雄正室の御内様にしても500貫(南伊勢
の600貫の嫁いだときの化粧料として)を足して1100貫になるというところ。
いくら信雄が個人的に目をかけている家臣だからといって、一人だけ単独で
1000貫という四桁の知行である。それなりの身分の人でないと他の人は納得
しないのではないかな。
>>533 >そんな紛らわしい敬称をつけるぐらいなら、本当に身分が高いならいくらでも
>言い方はあると思う。オーソドックスに実家の姓を名乗るとか、居住していた
>場所、地名、とか、ストレートに地位を示す名称、法名とか。
だから安土殿が濃姫と言われてるんだろ。
信長生母と思われる「大方殿様」でさえ□(不詳)百40貫文
つまり、最高でも940。
1000に満たないから、大方殿様以上に知行を出すべき相手。
御内様は別としても、妹の岡崎殿、濃姫か丹羽室か分からないが安土殿、
妹の犬山殿よりも知行が多いとなるとな。
しかし、なんで御局を乳母だと断定したがってるんだろう?
おまけに、乳母でない証拠をもってこいみたいないい方。
普通、これまで身内の女性の箇所に記載されている
乳母などという事が言われてもいなかった人物を、新たに乳母だと主張するなら
その主張する側が、御局=乳母という証拠を持ってくるべきなんだがな。
>>538 >妹の犬山殿
信長妹の犬山殿の間違いです。
>>538 >御局を乳母だと断定したがってる
・・・ような人って居ないと思うけど?
>>531 大方殿様は北畠家先代当主夫人とかかもよ?
ところで信雄の兄弟たちより御局の知行が多いってあるけど、
その兄弟たちって誰?
信高は織田系図では変後氏家行広に属していたと記されているし、その後は
秀吉直臣に取り立てられてる。
信吉は秀吉がすぐにお鍋ともども取り立て、小倉、高野を与えたという。
信貞は埴原長久に養育されのちに秀吉に属したとされる。
信好は信詳細は不詳だが長葬儀に参列したことですでに秀吉に
取り込まれていることがわかる。
分限帳が作成されたとされる時期に信雄が知行を与えていたとしても
秀吉あたりからも知行が出ていた可能性もあるが、
それってあり?
そうか?
>>497、501、504、516、525などは
御局=乳母という前提の元に論じているとしか思えないね。
>>538 >>なんで御局を乳母だと断定したがってるんだろう
そう?
ひとつの可能性として検証してるだけじゃない?
いろんな説があって当然だと思うけどね。
歴史の検証なんだから。
乳母はしょせん家臣だ、知行はせいぜい100貫が妥当だという人もいるけど、
同じぐらいの知行をもらっている武士なんかよりも当主の覚えめでたく
歴史に名を残した乳母が多数いるわけだし、いろんな可能性を考えても
かまわないんじゃないの?
勝手に断定したがっていると断定してるのがおかしい。
それに
>>御局=乳母という証拠を持ってくるべきなんだがな
知行はともかく御局と呼ばれていない乳母がいたという証拠はあるの?
どっちもどっちじゃないの?
御局と呼ばれていた乳母はいなかったという証拠はあるの?
の間違いだったわ。
>>542 しょせんどの説も臆測にすぎないのに、御局は乳母ではないと断定している
君もどうかと思うがね。
一度主張すればたくさんだよ。
いい加減昨夜からうざい。
>>541 大方殿様が鶴女って言いたい訳?
たしか、田丸城に監禁されていた時に逃げ出して
茂原城にいたって逸話があるけど、
逃げ出した先で昌教を生んでるような状態で、
おまけに信長から、追っ手を差し向けられる状態だった人物だぞ。
大方殿様なんて尊敬を受けると思えないが。
大体、昌教って天正8年以降、東北の方に住んでたんだろ?
>>537 ではその頃嫁に行っていた丹羽室の化粧料は誰がだしたんだ?
その他の姫達の化粧料はどうなったんだろうな?
信雄は同腹の徳姫だけを庇護し、あとは宗家の秀信に託したのかな?
信雄分限帳に織田一族の女性全てが書いてあるとは到底思えないし、
もちろん信包なんかもいたけど、秀吉サイドにまわってるし、
信雄分限帳だけで全てを解読するのは不可能。
>>546 それも逸話の類で事実は不詳のまま。
ただどちらかといえば具教の室だった六角氏の方が可能性が高いな。
六角氏が没落したし、先妻の実母でもある。
ただ大方殿って信包のもとで晩年をすごしていたから
最初から信包のところに行っていたんじゃないの?
大方殿腹という話もある。
その程度の知行なら信包だってだせるだろうし。
信雄の先妻は自害したというけど、本当だろうか?
継室の実父木造氏は信雄とは小牧・長久手の戦いのあと仲違いをして
信雄から離れたというのに、そのまま室におさまっていたのだろうか?
千代御前が生きていて、木造氏は側室だったという説もあるんだけど。
織田秀雄は千代御前が生母で、天正11年生まれ。
他に高雄と姫二人を生んでいる。
信良は天正12年生まれで生母が木造具政の娘。
木造具政の娘は子供の生年から考えて側室だろうな。
天正14年の分限帳だから、御内様は千代御前だろう。
秀雄も高雄も早世して、妻子がいなかったので、
信良が最終的に信雄の系統を引き継いでいく事になったため
自分の生母を継室ってことにでもしたんじゃね?
>>545 どの説も憶測に過ぎないなら、なぜこちらが御局は乳母とは考えられない
という説を出しているのに、かたくなに御局=乳母だと主張するのか
わからないな。
しかもどう考えても、信雄が身内の女性よりも、身内でない女性を1000貫
という破格の知行を与えてまで優遇する人がいるのかと。
なのに、勝手に信雄の個人的に気に入っている乳母らしいなどと言い張る始末。
御局という人が、破格の待遇をされているのを、信雄の身内の女性がそれに反対
した形跡がないということは、それ相応の地位のある人しか考えられないがね。
結局のところ「御局」が乳母であっては納得できないのは
呼び名ではなく、貫高が高すぎる、という点なんだろ?
呼び名そのものなら、局のついた乳母は多数いたし、
大御乳様なんていわれている女性もいたのだからな。
貫高が200貫や300貫程度なら分限帳のあの場所に記載されていても
OKなんだな?
ということは、乳母がそれだけの貫高をもらっていたという前例でもあれば
否定することも難しくなってくるのか?
納得できないのは、その記載名もだな。
乳母なら、身内ではないから姓名で書かれる。
素性が分かるようにするのは、家臣の場合大切な事だ。
特に、お金が絡む事だからな。
だから、分限帳でも姓名で書かれている女性が何人も記載されている。
あと、ずっと気になっているんだが、
嫁入り時などの化粧料は、元の当主などから切り離されて
女性の個人名義になる。
分限帳には記載されない類いの物だったはずなんだが。
御内様の伊勢の知行も、化粧料ではないんじゃないか?
>>身内でない女性を1000貫という破格の知行を与えてまで優遇する人がいるのかと。
その点だけをいうなら、乳母にすぎない女性を名だたる大名からまで
「大御乳様」と呼ばせたり、従一位、従二位を贈らせたりするほうが
はるかに優遇されていると思う。従一位なんて将軍生母と同位で
女性なら最高位。1000貫の知行などよりはるかに不自然だがな。
なんだかんだいって、濃姫が誰かは特定できないのだから
はっきりいってこれ以上の論争は無意味だわ。
普通はそんな優遇はしないから、
後々まで語り継がれるんじゃないのか?
そのような特殊な事例を持ち出す前に、
信雄の乳母についての情報を書いて欲しい。
信雄の乳母に関して、逸話など聞いた事もないが。
そうだよな、信雄の乳母がどういう立場かわかりもしないくせに書くのはおかしいよ。
信雄をバックアップして、信雄にとってなくてはならない存在だったかもしれない。
1000貫に価するほどの仕事をしていのかもしれない。
そうでないのかもしれないが、そのへんの情報なんにも知らないんだろう?
な〜んにも知らないで頭から否定するのってよくないよな?
>>551 いい加減に固執するのは止めて欲しい。
>御局=乳母だと主張
なんて、だれも断言していないと思うけど。
「〜だとしたら、こういうパターンもあるので」
式の、可能性のうえにたった推測にしか見えないけど?
>>557 それなら、信雄の乳母についての情報を詳しく書いてくれ。
それで、こういう女性だから、1000貫の知行もおかしくないなどの
根拠のある記載が欲しい。
それをせずにただ、乳母だと思う。だけでは、納得いかないがな。
乳母だというのも単なる推測にしか過ぎないからな。
乳母説だと思えない意見としては、信雄の身内よりも多い1000貫という知行
の多さと、なぜ乳母であり家臣であるなら実名を特定できる表記をしなかった
かということ。「御局」だと誰か特定できないからな。
確かにお金が絡むから、こういう事はきちんとしておくべきだがな。
その辺りを、納得の行く説明をしてくれ。
ここまで読んで、
御内様(信雄正室・千代御前)・500貫文(その外600貫南イセノ分相違)
岡崎殿(信雄姉妹・五徳)・700貫文、
アツチ殿(信雄姉妹)・600貫文、
御局(信雄側室・木造氏)・千貫文
のような気がするのだが。
信雄の正室に次ぐ知行をもらい、しかしながら、
信雄の姉妹よりは格下、となると、信雄の側室である気がする。
乳母であれば、御乳母と書くのではないかな。
>>559 だから自分はそのへんのことな〜んにも知らないんだよw
だからどこかの誰かみたいに自分の思い込みで断定した事は何一つ書いてない。
そんなこと書けないよぉ〜。しつこく何度も何度も、乳母はこうだああだ、
身内がどうだこうだ、でも肝心の信雄の乳母がどこの誰かもしれないのによく
書けるよなぁと思ってさ。
自分はそんなみっともないまねとてもできないっすw
千代御前が生きていたことにびっくりなのだが!
家をあんな形で乗っ取られてよく夫婦でいられるもんだ。
でもいくら血縁者とはいえ自分より目下の側室にそんなに知行をあげたら
さらなる夫婦の不和の種になるんじゃないの?
離縁かなにかで信雄の元を離れた千代御前が御局で
継室になった木造氏が御内様か・・・。
嫡男生母でもある千代御前が御局と呼ばれるかな?
でも慰謝料がわりにそのぐらい保証してくれなきゃやってらんないよな。
千代御前が天正14年に離縁されている訳がない。
天正11年を頭に4人の子供を産んでいるのに。
千代御前って、実父が人質だった柘植三郎左衛門のまだ幼い娘を
串刺しにして殺した事で、実父を嫌ったと言われている。
そのため、信雄の北畠粛正にも賛成したとか・・・。
串刺しにして殺した事は事実なんだが、柘植が寝返ったために
人質が殺されてしまうのは、戦国のならいなので、
そんな事で嫌ったりするのだろうか?と思う。
しかし、千代御前が北畠粛正後も生き延びて、
信雄との間に二男二女をもうけたのは複数の史料から確認できる。
ぎょへぇ〜しかも4人も子供産んでるんだ〜!
馬鹿だアホだと言われながらも女房にはいいとこがあったのかもな。
そう考えると北畠乗っ取りの話も伝わるように非情極めるものでもなかったのかもな。
>>566 その柘植三郎左衛門が信雄独断伊賀強行出陣で討死したんだろ?
娘は実父の犠牲に、父親は夫の犠牲にって、
千代御前もいたたまれなかったろうな。
ふとひらめいたけど、御内様が濃姫ってことない?
それとは別にあるという南伊勢こそが御料地のことかもしれない。
夫が生きているのだから普通は正室には知行を与えられないんじゃない?
化粧料ってもんがあるんだから。
>>569 だけど、濃姫が南伊勢に御料地をもらうかなあ〜。
濃姫がもらうとしたら、岐阜だと思うんだよね。
織田家に輿入れ時にもらった化粧料はおそらく岐阜だと思うし。
信長からもらった御料地はおそらく京都ではないかなと思うけど。
違うのかな?
「御内」「御台」は、現当主の正室のことだと思うよ。
先代当主の妻である濃姫をそう呼んだら、
現当主の妻の呼びようがない(御局は正室の呼び方としては不適当)。
現当主の妻は、当然、当主の姉妹たちより先に名前が出てしかるべきじゃないかな。
伊勢といえば、北畠だしね。
570さんも言っているけれども。
>>569 出た!
「それって濃姫なんじゃない?」説www
信長からもらった御料地は
今井宗久が管理してたんだから
堺近辺じゃないの?
正室は必ず夫から知行をもらうの?
知行をもらうというのは家臣扱いという意味もあるのだから、
戦国大名の夫婦間ではそういう関係はおかしいような気もする。
御料地は管轄が皇室だから、賜ることは名誉色が強いから意味合いが
別だと思うんだけどね。
伊勢といえば御料地が伊勢神宮付近に御料地はたくさんあった頃。
今でも御料地はあるしね。
当時南北伊勢は信雄の領地だったので、伊勢にある御料地のことも
触れておいたのかもしれない。
勿論、内、といったらその家の正室を差していることは知っているけど、
信雄の正室がいない、という前提なら岡崎殿より先にあって、
御内様なんていう敬意をこめた言い方をしているあたりで、
信長公御内様、というふうにもとれないかなと。
>>574 信雄の正室がいないという前提が分からん。
>>575 いないんじゃなくて、
「知行をもらっていないので分限帳に載っていない」
という意味。
臆測けっこう、歴史なんて99%が臆測といっても過言じゃない。
一番悪い事は自論の粘着だ。
しょせん何もかもが臆測と推測でなりなっているのが歴史だと悟ろう。
だけど、こうして見ると信雄の分限帳の中身も実に謎が多いね。
織田家の女性が全員載っていないことを考えると、濃姫や信長生母が
載っていなくてもおかしくはないってことかな。
>>578 「史実」だって新たな史料が出てくればコロコロと変わるものだしな
分限帳で記載されている女性達は信雄の庇護下にあったとはいえ
知行を与えられていたということは居住を伴にしていてはいなかったという
ことだろう。
城内でいっしょに暮らしていたならば奥の賄料などで生活できただろうし、
あえて信雄が知行を与える必要は無いからな。
自娘や室に財産を与えたければ化粧料としてあげて固有財産にさせるか、
信長のように御料地を賜るという方法をしただろう。
知行を妻や娘に与えるというのは基本的にないはずだと思う。
知行は財産性のない給料みたいなもんだから。
ただ家々で考え方があったろうから、ないとは言い切れないかもしれない。
以前北政所の知行がどうたらこうたらという史料をみたことがあるけど
でも豊臣家は特殊なことが多いので一般的なことかどうかは?だな。
御内様が濃姫かという意見もあるが、信雄が自身の室に知行を与えていたか
どうか、ということがはっきりすれば特定できると思う。
信雄系統は生き残っているし、家老の生駒家も信雄に関する史料も多く
残しているだろうから、今後そのあたりが明確になれば、
進展があるんじゃないの?
ザッと読んだが、化粧料と知行を混同している人がいるな、
書いている人もいるが、化粧料は知行とは性質を別にしている。
大方殿様が信包と同居していても、信包と信雄の両方から知行を
出す事は可能。
むしろ、身内の場合、知行を出して大事にしていますと示すためにも、
知行は形式的にも出される事はある。
男子であるなら、所領を持っている場合は、知行を出そうなどというのは
反対に名誉を傷つけるような事になる場合もある。
でも依然として「御局」なる人物が誰なのかは謎だな。
御内様や安土殿などは大体誰なのか想像はつくけど、御局は誰なのか
さっぱりだな。
一般的には、安土殿=濃姫と解釈している人が多いようだが、
御局=濃姫と解釈している人もいるだろう。
理由は知行の多さからきていると思う。しかし、御局が濃姫でないとしたら
信雄の身内の女性なのか?
もしかして、信雄生母が分限帳の時期に生きていたってことはない?
御局は信雄生母じゃない?
信雄生母の没年のソースも、はっきりいって久昌寺の資料と武功だけな
んだし。武功や久昌寺の資料が信憑性がないとなると、信雄生母の没年
も違ってくるのでは?永姫の生母と同腹と言われているから、永姫の生母
の没年と同じと考えると辻褄は合うんじゃないかな。
>>584 それぐらいしかないよね?
久昌寺が史料偽造を認めたらありえる話。
しかし、当主の実母が「御局」というのもなあ。
もう少しほかに呼び名があっていいようなものだが。
信雄の実母が生きていたとなると、
安土城にいたのかとか、別の問題が出てくる気がする。
信雄の生母ということで生駒の方があれほど持ち上げられたというのならば、
せめて生駒の没年ぐらいは正確に記録してあってもよさそうなものだが。
でもわざわざ生母の没年を早める理由がないような
信雄の生母が生きていたら、永姫の生母も同腹の生駒ってことになるのかな?
だったら、前田家で面倒見てもらった理由が、よくわからなくなるのだが。
>>588 永姫生母が前田家で面倒になっていたとする史料はないよ。
永姫の生母と思われる女性が埋葬されていたとする寺があって、
墓や位牌もあったけど、寺の移転でそれも確認できず、結局
永姫とどういう関係の女性だったか定かではないということだった。
加賀で永姫生母と思われる女性の足跡は、その墓の主とされる春誉妙澄大姉と
利長が建てた石廟の中にいる正覚院殿桂岩清香のどちらか。
二人とも命日が異なる。
>>587 考えられる理由としては、その時代の生駒家の女性の仏さんを
探していたら、たまたま見つかったのが、その没年の女性で、
他に該当するような女性もいなかったので、その仏さんを信長側室の女性として
久昌寺が創作物語を作ったから。その仏さんが類さん。
なので永姫のことなんて想定外だから、違う、存ぜぬを通さなければならなくなった。
となると、久昌寺の改名の理由は別にある事になる訳だ。
金沢久昌寺が出来た時点で、尾張の久昌寺は改名している必要がある。
位牌はともかく、石廟や供養塔ではない埋葬された墓があったとされる
春誉妙澄大姉は金沢にいた事になると思うのだが。
正覚院殿桂岩清香の方は供養のための石廟で、埋葬されてはいないし。
寺伝では濃姫のものとされてきたんだよな。
信雄生母の生駒と、永姫生母の生駒は別だと思う。
生母の没年をわざわざ早める必要は、やはり考えられないし、
久昌寺縁起にしても、縁由にしても、信長が天下統一手前まで行った事を
わかった上でなければ書けない、後年の創作と思われる事から
まず没年があって、それに合わせて創作したと考えた方が納得できる。
御局の素性を無理矢理ひねり出す事もないだろう。
晩年に永姫生母として加賀に招かれたらしいと、前田家のスレで見た気がする。
信雄が改易になってから、永姫つながりで前田家が招待したということはない
のかな?
信雄の家臣なども前田家に仕官した人も多いと聞くし。
それに前田家は別に親族でなくても、加賀に招待しているらしい。
安土城を設計した人や大工など、太閤記の作者とか、信長公記を書いた大田牛一
とか。
>>594 >> 信雄の家臣なども前田家に仕官した人も多いと
信雄の姫が二人前田家に輿入れしてるから、その時姫達に付き添った家臣団だと思う。
永姫が生駒腹であるなら、生母の実家筋にあたる生駒家からも付き添った
ものがいたとは推測できるな。
前田家に仕官したものは津田氏もいるし、勝長の子供の勝良もいる。
ただ生駒氏だとしたら、信雄が落ちぶれても生家の生駒家は秀吉の元で
飛躍してきた頃だから、なにも加賀まで娘を頼りに訪れることもなかろうとは
思うんだ。いくらでも生駒家の庇護下で余生を過ごせたはずなんだが。
>>591 嫩桂山久昌寺の名の由来は生駒屋敷に、嫩の桂二株があり、
久しく昌えたことから名づけられたんだって。
これも信長と吉乃にひっかけてる話だから眉唾だがw
>>595 それはそうなんだが・・・
だとすると、やはり信雄生母が「御局」ではないか・・・
でも久昌寺の資料や武功は、創作の話だと言われているのに、なぜ生駒の
没年だけは正しいと判断できるんだ?
久昌寺や武功の話は捏造が多いから、生駒の没年ももしかしたら捏造の
可能性もないか?久昌寺では正確な生駒の没年を判断していたか疑問だが。
織田家の史料の方に没年が出てくるからではないのか?
久昌寺で関与できない所に記録が残ってたら
没年をそのままにするしかないじゃないか。
織田家の史料ってなんだ?
明らかに織田家雑録を参考にしてつくった寛政家系図のこと?
>>597 創作だと思うからこそ、没年を20年も早めるなんてことをしないんじゃないかと思う。
1、2年ずらすならともかく、そこまで大胆な脚色するのは余程の理由がないと。
長生きしていた方が生駒や久昌寺にとっては都合がいいのに
なんで早く死んだ事にするんだよw
でも家系図はあてにならないんじゃなかった?
織田家雑録も同じ。矛盾のある記載が多いんじゃなかった?
後年創作するに際してモデルとなる女性が早く死んでるからだよ。
制作者は織田家雑録にあった信忠・信雄・五徳の生母が吉乃であることに
執着があっただけで、永姫生母はどうでもよかったというかその事実を
知らなかった。元々は久昌寺が関係者が死に絶えた頃に創作した話だから。
ちなみに金沢久昌寺は永姫は「生母を追崇するため」ではなく、
「母氏の追崇のため」が建立の理由だから、生駒家菩提寺であった
久昌寺の名をとったことに不自然さはない。
>>603 となると、やはり信雄生母と永姫生母は同じ生駒氏で、没年も通説どおり
というわけか。
となると、信雄の分限帳にある「御局」は信雄生母ではないのか。
一体誰のことなんだろうな。
>>604 いや、織田家雑録はその名の通り内容が雑だからそうとは言い切れないよ。
信忠・信雄・五徳の同腹説もかなり怪しい。信忠に関しては
生母と思しき女性の位牌所を崇福寺に設けて制札までだしている。
生駒とは別の女性。
だから織田家雑録だけを根拠に創作物語を書いてしまったので
辻褄が合わなくなってきたのは生駒のことだけじゃないんだ。
信雄・永姫が同腹であれば生母の生駒氏は慶長年間に亡くなった可能性もあるだろう。
>>605 でもそれならなんで、信雄生母の没年を早めるようなことが書かれている
んだろう。信雄が信忠と一緒に濃姫の下で育ったのは、生母が亡くなった
からではないことになるな。
側室が子供を産んだ場合も全て、濃姫に子供は預けられて養育されていたと
いうことなんだろうか。
だからモデルになった女性は織田家とはまったく関係ない女性である可能性が
高いからだよ。たまたま同時代に埋葬されているので、寺側がその女性の
墓から没年を見つけ、物語をつくり、もしかしたら後から久庵の戒名も
与えなおしたのかもしれない。
久昌寺の改名はあったのだろうが、武功にある理由じゃないと思うよ。
あの時代の織田家の側室ごときに寺が改名するのはどう考えても無理がある。
その女性が恐らく類なんだろうけど、没年は墓石や過去帳があるので
改ざんできないので、没年にあわせて物語を創ると永姫生母の件など
あちこと矛盾がでてきたってことだろう。
創作時は寺側がそのことを知らなかったからそこまで考えず、
軽い気持ちで創った物語が後年一級史料扱いの元史料になってしまったという誤算。
信忠生母と推測される久庵慶珠のことをパクったかんじもする。
信忠元服前に亡くなって、奇妙の名前で位牌所を設置し、制札をだしたとかって
信雄元服前に亡くなり、茶筅が喪主をしたという話とかぶる。
二人の戒名も似てるしな。
>>607 寺側の史料って、武功夜話の事じゃないよね?
武功夜話は寺は関係ないと思うよ。
あれは、吉田家と系図制作業者が勝手にやった物だろ?
発表されたあとで、寺が勝手に縁起や作った可能性はある。
武功夜話が縁起を元にしたよりも
反対に縁起が武功夜話を元にしたほうが可能性が高い。
たしか、縁起を見た人が紙質とか形式から、近年の作と
随分昔に書いてあったのを、読んだ覚えがある。
家系制作業者が織田雑録と江南市近辺の逸話を元に
武功夜話を作り、そのあとで久昌寺がそれに合うように縁起を
作成したって言う方が、自然だと思う。
縁由の方は、生駒氏息女(吉乃とは書いていない)を側室のみとして扱っている事、
信忠や五徳の事に触れていない事から、武功夜話より前の成立かも知れない。
もしかしたら、織田雑録も参考にしていない可能性もある。
ただし、寺側に都合のいい記載はあるだろうが、だとしても、
没年にはある程度の信憑性は見いだせる。
寺の改名理由が少々電波だが、秀吉の死後、徳川との繋がりを画策した頃に
豊臣ではなく、織田との繋がりを前面に押し出す事にした結果、
側室だった生駒氏息女との繋がりの強さを強調したと考えれば、
おかしくはないな。
では信雄生母=生駒家の類ではない可能性が高くなってきたな。
武功に出てくる生駒女はただ名前をパクッただけの創作だとすると、
没年は違ってきて当然だということだな。
案外、永姫の生母だとされる人物が生駒女だったりしてな。
信雄の母が生駒でないのならば、
なぜ、生駒をあれほど武功が持ち上げる必要があったのだろう?
武功はまさか、前田家の意向を受けてかかれたものではないだろうし。
永姫には子がなかったから、以降の前田家当主に永姫の血は入ってないしね。
>>611 信雄生母が生駒でないとというより、武功は作者が織田家雑録や
江南市の逸話を参考にして作成したものだから、永姫のことは知らなかった。
だから永姫の件にはふれていない。
しかし、金沢久昌寺のことから信雄と永姫は同腹の可能性が高い。
だが信雄生母とされる久昌寺に埋葬されている人物と、永姫生母だと
思われる人物の没年が違う。
しかし、永姫関係が生母に関して捏造しているとは考えにくいから、
武功のモデルとなった信雄生母が全く違う生駒家の娘だと考える方が
自然ではないか。
そういう意味で永姫の生母だとされている人物の没年の方が正しいのでは
ないかということ。
>>611 違う違う、生駒が信雄の生母であることは間違いないと思う。
信雄の側近にも生駒家はいたし、系統にも生駒家が家老職をしていたり、
生駒家とのかかわりを考えたらそれは嘘ではないと思う。
ただ久昌寺にある墓の主は別人だろうということ。
信雄の生母は別の寺、それこそ加賀かもしれないし、どこか別の場所に
埋葬されている、まったく別の生駒家の女性ではないか、という話。
寺としては自分の寺に格を持たせたいがゆえに、久庵の墓の存在は大きいから
どうしても境内に久庵の墓が欲しかったんじゃないか?
強引に生駒家当主の横に位置付けられた配置からして怪しいからな。
嫡男信忠と同腹というところを印象付けたい意図はあったとは思う。
そのために織田家雑録にあった「信忠・信雄・五徳」同腹説を
強調したいので、言ったもの勝ちとばかりに捏造物語を創作して、
それを根拠に「信忠・信雄・五徳」同腹説をさらに裏付けたのではないかな。
だから記載されていない永姫のことはまさに想定外だし、まったく知らなかったから
お粗末な偽造工作がばれたんだろう。
生駒が二人いて、それぞれが信雄と永姫だったら、生駒家の史料にも
家系図にもまったくそのことが触れていないのは不自然すぎる。
土田後家が生駒で、信長側室になったと主張するなら、それはその通りなのかも
しれない。ただ別人の墓であるなら没年等は本人のものとは当然違うだろうな。
違う。
信雄と永姫は別腹の可能性が高い。
織田雑録などを参考にしていないと思われる久昌寺縁由に
没年が永禄9年で書かれている。
これは既にあったもので、動かせなかったから縁起を書いた時に
仕方なく没年をそのままにしたんだろう。
永姫は別腹か、永姫生年自体が間違っている同腹かのどちらか。
>>615 だから、その久昌寺に書かれている墓の主が、信雄生母であるとは
いえないのでは?
全く別人の墓を、生駒として祭り上げた可能性があると思うよ。
>>616 違う。
久昌寺縁起と、久昌寺縁由は別物。
縁起の方は武功を参考に書かれているだろうが、縁由の方は違う。
生駒が強調したい信忠、五徳との繋がりも書かれておらず
正室格などとんでもない、単なる側室扱い。
ただ、寵愛されたとは書いてあるがな。
織田雑録さえも参考にしていない時点のものなので、
没年の信憑性が高い。
そして、これがあるため、後にできた縁起や武功夜話で、没年を書き換えることが
出来なかったと考える方が自然。
信雄生母の生駒の没年等が通説と違うとなれば、これまたあれこれ土台から
検証しなおさなきゃならなくなるね。
確かに生駒家でも「類」がどうやら信雄生母らしい、としているだけで
確定ではない。たぶんその墓の主の女性の名が「類」だったんじゃないか?
でも類が信長の側室の女性だったかどうかは特定できないので、
怪しげな史料を盾に「間違いない」と主張しているだけかもしれない。
>>617 でも縁由って信長が夜な夜な吉乃の荼毘に伏した方角をみて
涙ぐんで〜って書いてあるほうでしょ?
茶筅が喪主してどうのこうのもこっちだったと思った。
どっちもどっちの内容だったという記憶があるけど?
>>619 それは縁起の方だろ。
縁由の方は違う。
たぶん久昌寺がだしているこの二つの史料を参考に信長と生駒のところは
仕上げたんだと思う。ろくすっぽ信長の妻妾のことを調べもせずに、
そのまんま書いた感じがした。
ただ武功全体に比べるとこの二人のところなんてごくわずかなんだよね。
だから武功制作者はどちらかというと、伏線的に生駒家台頭の土台を
吉乃への信長の寵愛、生駒屋敷に集まった秀吉のような後の有名大名、
やがて生駒家が戦国を経て、秀吉の時代活躍して武家として台頭していく
物語を書きたかったんじゃないかと思う。
ただ前座程度に思った吉乃のことのほうが大きく取り上げられたので
マジ焦ったと思うけど。でも死んじゃったんだよね、A級戦犯は。
仏教的な修飾程度だな、縁由の方は。
>>621 取り上げられた頃にはもう死んでたからな。
今年で死後40年だろ。
出版されてから、もう、20年か。
ちょっと待って!
だとすると、信雄生母とされる生駒娘の没年は1566年でいいって事?
でもその墓の主が、信雄生母と断定できるの?
その辺りが違っていると根本的に見直す必要があることになるよ。
信雄が喪主をしたと書かれているのは間違いないの?
『嫩桂山久昌寺縁由』
「永禄九丙寅の年五月十有三日信長公の令妻疾に罹りて小牧山の城に掩葬する
終焉の嘱命によって雄山和尚を請ひ小折之西新野の地に荼毘す骨を収めて
龍徳寺に像塔し専ら冥福を薦す法諱を久庵桂昌大禅定尼と号す時に
信長公哀慕聯々として同穴の思ひあり信雄卿に命じ長く桂昌の幽趾
を修めんが為に丹羽郡五明村六百六十石を以て龍徳寺の厨料と為す
且つ朱章両通を賜附し不易の証契となす故に桂昌禅尼を以て中興開祖
と為しまた龍徳寺を改め嫩桂山久昌禅寺と号す」
「信長公哀慕聯々として同穴の思ひあり」などは仏教的に故人に対して
形式的に必ずつけるような修飾だから、無視して考えてよい。
永禄9年5月13日信長の側室が小牧城でなくなって、小折で埋葬された。
その時信雄に命じて寺に650石加増された。
以上が重要なポイント。
つまり、生駒氏息女は、縁由が書かれた時点で信雄と関わりしか出てこない。
信忠、五徳が本当に生駒腹なら、ここでスルーされるのはおかしい訳だ。
一番はっきりするのは、久昌寺側が久庵の過去帳を開示することだな。
寺を改名するほどの丁重な扱いだったというなら、その過去帳に
それこそ「信長公寵妾」とか一目でそれとわかる添え書きがあるはず。
「○○御生母」とかもあるかもしれない。
墓の横に柱なんかぶったてる前にそれを一般に開示すればいいんだよ。
そのへんが実は曖昧なんじゃないかと思うんだよね。
生駒家が秀吉の元に台頭したから、前田家みたいに対徳川政策のために
織田家への忠誠心の証として生駒のことを持ち上げ出したのかもしれないぞ。
>>信長公哀慕聯々として同穴の思ひあり
ここを超拡大解釈して、
信長が夜な夜な墓の方をむいて泣いていた・・・
ってなったとしか考えられない。
>信長公の令妻
令妻とは「貴人の妻」という意味だな。
これは違うな、生駒は側室だ。
明らかに後年の編纂だし、結局由縁の内容も信憑性が高いと
納得できる箇所は特別ないな。
寺の格を高めるために江戸中期頃作成した資料なんだろうな、
というかんじ。
改名の理由を強引につくったってかんじかな。
この縁由も久昌寺の用意した墓の主の没年を参考に創作したものではない
とは断言できないのでは?
永禄9年に亡くなったから、葬儀の様子をその年に合わせて書けばいいだけ。
寺に知行を加増されたという文書とか寺には保存してないの?
それこそ寺としてとても重要なもののはずだから、あってもいいはず。
久昌寺が一番怪しいのは、織田家のカラーがまったくないところ。
信雄なりの手紙やそういう類のものがなにもない。
あるのは生駒の墓といわれる墓だけ。
そんなに優遇されていたというのに、生駒の墓は葬儀以降は信雄からも
捨て置かれて廟すらない。660石も加増されたのなら、生駒の墓をもっと
立派にするとかしないとまずいんじゃないの?
それにその後信雄が法要をしたという記録もない。
そのあたりが一番不自然にうつる。
信雄、とでてきてる時点でリアルタイムに書かれた史料でないことは確かだな。
信雄と名乗るようになったのはけっこう後なんだよな。
最初は養子先で元服して北畠具豊だったから。その後信意→信勝→信雄になった。
信雄になったのは天正8年松ヶ島城攻めの後だ。
ってことは、縁由は本能寺の変後に書かれた可能性が高いな。
でも縁起と違って信忠がでてこないのは着眼点かも。
五徳や永姫のことはこういう文書にはあえて書かなかった可能性もあるから
なんともいえないな。
この時代の姫の扱いは男子に比べたら二の次、三の次だったからね。
久昌寺縁由自体が信憑性のない資料だってことか。
だとするとやはり、信雄生母の没年は違う可能性が高くなってきたな。
久昌寺に埋葬されている生駒女の墓自体が別人で、信長死後に生駒の
墓をそれらしく見せるために、久昌寺縁由自体を作りあげたってことだな。
信雄が喪主を務めた位なのに、その後信雄が生母のために墓を立派にすると
か、法名をそれなりにするとかしないのもおかしいからな。
根本的に久昌寺の資料は捏造だということだな。
側室の事を勘違いしている人がいるね。
側室は「妻」だよ。
正式な妻が「正室」愛人が「側室」って訳じゃないよ。
愛人は「愛妾」「伽係」みたいな、公式に認められていない女性。
側室は公式な「妻」だけど、正室ではない女性の事。
菩提寺が令妻と書いたからと言って、そこで信憑性がないとするのは早計。
縁由は成立年代で言うと、江戸初期と言われている。
確かに、寛政譜も出回っていない時期なら、
信忠、五徳と結びつけていなかった事からも
納得できる事だ。
織田雑録も、織田家と関係ない久昌寺では見る事もなかったはず。
そうなると、寺伝として伝わる、信雄生母という所にだけ
着目して書いたと考えるのが妥当。
かばうわけではないけど、寺に伝わる縁起物の類って似たようなもんが多いよ。
非科学的なことを平気で書いてあったりする。
そのへんを差っ引いて読む方も判断すべきだと思う。
妙心寺史だって変だもん。
明智風呂のことや、光秀が妙心寺にかくまわれていて、
亡くなったのは天正11年6月11日としてあったり。
じゃあ濃姫たちが信長の一周忌を妙心寺でやっていたのを寺のどっかで
こっそり見てたのか?ってことになるじゃん。
実際、江戸初期くらいまでは、織田家に限らず側室の事を「妻」と
記している資料はいろいろある。
もちろん、側室を妾としてのみ、記載する場合の方が多いが、
この場合、久昌寺が生駒の菩提だと考えれば、
「信長公哀慕聯々として同穴の思ひあり」などと同じように
飾り立てたと考える事が出来る。
というより、この文章自体が、寺なのだから当然だが
仏教的な故人への修飾に満ちてるからな。
>>633 でも側室も妻というわりには、家系図などで側室の注釈に妻と書かれたものは
見たことないぞ。大抵が○○妾、とかたま〜に○○室なんていうのはあるけど。
妻とあったら普通は正室という認識をもたれるのは仕方がないのでは?
書いているほうもあえて寵妾や側室という表現をせずに、意図的に妻
としたように思う。妾と書くより、妻と書いたほうが聞こえがいいから。
だいたいここのスレに側室が愛人だなんて思ってる連中いるのか?
きちんと認識している連中か、側室は愛人以下と蔑んでいる連中のどちらかだ。
ようするに妻と書くことで、あたかも正室のような印象を持たせようという
魂胆だったと。
正式な文書だと妻といったらやっぱり正室をさすんじゃないの?
身分的には正室と側室は違うんだから、いっしょに扱っていいの?
それとも、側室なんだか愛妾なんだかよくわからない時に使ったとかかな?
晩年の濃姫は、やはり信雄のもとにはいなかったのかな?
嫡母の濃姫の面倒を見ていたのならば、
家督相続者の信雄は実質上養子のような立場であったのだろうし、
のちの史料がここまで生駒を持ち上げる理由がわからない。
武功でも、続く秀吉時代では、子のない正室ねねを正妻の立場で描いていて、
同じく子のない信長の正室濃姫と扱いが全く違っている。
幼くして北畠家へ養子に行き、父の死後織田家内の家督相続争いで
最終的な勝者となった信雄には、どうも濃姫との接点がほとんど感じられない。
>>637 ま、そういうことだな。久昌寺に都合のいいように創った印象は
否めない。寺には江戸期に高家になった信雄系織田家の藩祖の信雄卿の
生母様が埋葬されているんだよ、その方は大変信長公の寵愛を受けたんだよ、
信長公から知行ももらったほどの格の高い由緒ある寺だよ、
ということを宣伝するために書き記したもの、という程度だろうし、
生駒は信雄の生母だったんだ、という以外はなにも得るもののない
史料ということだ。
信雄が生駒腹であることの参考資料のひとつにはなるけど、
仮にそれがなくてもその事に関しては他の史料に書いてあることだし
信雄の側近連中をみても間違いなさそうだし、特に久昌寺作成の史料の
存在価値はないだろうな。
寺そのものに織田家との親密な関係を示すものが何も残されていないし、
そんな史料を持ち出してもそれを信用しろというほうが無茶な話だ。
>>639 そりゃ武功は生駒屋敷での出来事を中心にして、物語を展開したかったの
だろうし、生駒が信長最愛で秀吉の仕官も生駒のおかげみたいにしたかった
のだろう。濃姫が信長正室に納まってもらっていては困るから、輿入れの
時期をずらしたり、生駒が清洲へなかなか移らなかったりしている訳で。
信雄が濃姫と接点があろうがなかろうが、武功の製作者はそんなことおかまい
なかったのだろう。
確かに濃姫が晩年信雄の庇護下にあったかどうかは疑問。
別に庇護されなくても濃姫としては生活できる状態だったわけだし。
逆に嫡流で残った三法師を影ながら見守る役目をしていた感じもなくはない。
公的な文書には、妻、妾は明らかに区別して書かれるけど、
近い時代で言えば、三の丸殿や京極殿だって、淀殿だって妻と
書かれている文書は多数あるんだし持ち上げるために書いたなら、
別にそういうものかという事だろう。
縁由は公的な文書というより、寺伝の類いだからな。
そこに、後年では同腹とされる信忠五徳が出てこない事を考えれば、
寛政譜が広く知られるまでは、寺ではそういう認識だったという事じゃないか?
織田雑録は、広く知られていなかっただろうし。
>>639 信雄の元に、濃姫がいなくてもおかしくはないよ。
信雄の城にいなくても、親族女性に知行を出すのはごく普通の事だし、
むしろ、一緒にいないからこそ、知行として繋がりを持つ事もあるし。
庵を構えていたかもしれないし、清洲近くには濃姫が暮らした屋敷跡と
伝わる場所があるそうだし、城内にはいなかったんじゃないか。
フロイスの岐阜城の描写を見れば、幼い頃は同じ城で暮らしていたんだろうが、
北畠へ行った元亀元年以降、接点はあまりなかったかも知れないな。
>>642 濃姫が暮らした屋敷跡〜ってほんと?
では濃姫は本能寺後は尾張に戻っていたの?
晩年は京都にいたんじゃないかといわれていたけど、違うのかな?
>641
三法師と濃姫にも接点はなかったように思うがな。
三法師は、織田家の家督相続者でなくなった後も、
秀吉のもとに留め置かれ、秀吉の養女完子を妻にしている。
三法師は26歳ぐらいで亡くなったが、
濃姫が三法師支持ならば豊臣家に何らかの史料が残っただろう。
信長の子たちとも頻繁に連絡を取ることもなく、ひっそり生きていた感じがする。
やはり、濃姫には子供は一人も(御台御産の子供は夭折)いなかったんじゃないかな。
>>643 屋敷があったと伝わっている場所はあるそうだ。
跡というか遺構がある訳じゃないけどな。
ただ、自分は書籍などの逸話を書いたもので読んだだけなので
場所までは知らないよ。
ただ、それを言えば、土田弥平次とその妻の生駒女(吉乃という名前は伝わってない)の
屋敷跡と伝わる場所もあるし、そういう話しはたくさんあるだろ?
ただ、同じ城にいなかった可能性の一つとして、そういう事もある訳だ。
土田弥平次の屋敷跡の逸話にしても、それを元に武功夜話で
生駒氏女の前夫を土田弥平次にしたんだろうって言われている訳だしな。
濃姫の屋敷後があったのが清洲近くというのは可能性大だよ。
現在の春日井のあたりに「六つ師」という地名が多数あったんだ。
清洲や小牧なんかが隣接してる地域。
なので安土殿が濃姫なら知行地内の「ムツシ」に屋敷を建てて住んだ可能性は高い。
それから御内様が濃姫なら小牧中村あたりもも清洲に隣接しているから
そのあたりに屋敷を建てて住んでいた可能性もなくはないんじゃないか?
>>646だけど、書き忘れた。
自分の持ってる分限帳の写しは安土殿の知行が「ヒツチ」じゃなくて
「ムツシ」になってるんだ。同じ場所を示しているとは思うんだけど。
>>644 >>三法師は、織田家の家督相続者でなくなった後も、
秀信は死ぬまで織田本家の当主でしたが?
信雄は庶流の当主ですが?
>>646 濃姫の清洲の屋敷の逸話がホントだとしたら、分限帳の安土殿も御内様も
濃姫の可能性ありということかな。
ということは、御局は信雄生母かもね。
それなら順番としてもおかしくないし、織田家の親族の中に側室が入って
いても納得がいく。
>>649 信雄の正室が知行をもらっていなかったことが事実だとしたら
御内様って濃姫しかいないと思う。
でももしそうでなくても安土殿が濃姫と考えてもいいのでは?
秀信からも知行がでていて、信雄が義母への誠意を形ばかりに示していただけ
かもしれないし。
信雄生母の件は久昌寺が口を割らないと立証は難しいだろうなぁ。
信雄生母が長生きした事にしたい訳が知りたいな。
信雄の生母を、長生きしていたのにわざわざ早く死んだ事にする理由がない。
久昌寺縁由の記載と、織田雑録の記載は、恐らく別々の過程を経て
同じように永禄9年とされていると、思われる。
永姫が金沢久昌寺を建てたのは「生母のため」ではなく「母氏のため」
つまり、生駒家のためだから、同腹の根拠にはならないんだよ。
生駒家の家臣団が、嫁入りの時についてきているから、そのためもあっただろう。
信雄生母の生駒女が亡くなったあとで、永姫生母の生駒女が側室に入った事もあり得る。
人質がいなくなったら、新たに代わりを差し出す事はあるからな。
または、永姫と前田利長の年齢差を考えれば、永姫の生年がもっと前で、
永禄9年以前の生まれなのかも知れない。
それなら同腹の可能性はある。
金沢久昌寺の建立後に、春誉妙澄大姉も正覚院殿桂岩清香も亡くなっている。
でも、金沢久昌寺には弔われていない。
それを考えると、上記二人はどちらも生駒家に縁の女性だったとは思えない。
瑞龍寺の方の石廟は、寺伝の通り濃姫の石廟と考える方がしっくりくる。
正覚院殿という人物自体、少なくとも二通りの没年と生前の経歴がある。
春誉妙澄大姉の方は、永姫に近しい人物だっただろうが、同じ金沢にあっても
金沢久昌寺に弔われず鶴林寺に弔われる人物。
それこそ、乳母辺りかもな。
>>651 信雄生母を長生きした事にしたいわけじゃないが・・・
ただ、久昌寺や武功の資料が信憑性がない以上、信雄生母といわれる
人が永禄9年に亡くなったと確定できるわけではないから、だとしたら
信雄生母の没年が違う可能性が出てくるということ。
信雄生母の没年が永禄9年より後の可能性も出てくるから、だとしたら
信雄の分限帳に載っている「御局」なる人物は信雄生母の可能性もある
かな?って事を言っている。
正室にしては御局はおかしいし、女性家臣にしては親族の所に記入され
ていること、家臣にしては多い知行を考えると、女性家臣とは考えにく
いので、信雄生母なら安土殿の後に記入されていること、多い知行も納得
がいくかなという程度。
生駒長生き説は、「御局」は誰か?というところから始まったんだっけ?
信長の側室だった頃ならともかく、当主の生母を御局と呼ぶのも変だし、
御局は、濃姫でも生駒でもない、と考えたほうがいいと思う。
信雄生母はこの時期、亡くなっていた可能性が高いと思う。
信雄生母に関する史料は、織田宗家に残っていておかしくないし。
>>651 >>人質がいなくなったら、新たに代わりを差し出す事はあるからな。
それは織田家と生駒家でまた差し出す必用があればの話。
なければよほど信長が気にいってピンポイントで指名しない限りないだろうな。
信雄誕生で、信雄の周辺には生駒家が配置されているし、織田家の裏切り行為の
心配もなくなったんだから、もはや人質がわりの側室をおくる必用はなくなった
と思える。生駒が信長の側室になったのも、元々は政治的な絡みからだからな。
それとそれならやっぱり家系図に残っていないのは不自然だ。
信長との間に永姫をもうけているのに。
逆に家系図から単純にもれていた、というようなぞんざいな家系図なら
根本的に信用できないから、生駒のこともますます怪しいということになる。
>>651 だけど、久昌寺の信雄生母とされる墓には、信雄が喪主をしたという記録
だけで、その後の供養などは全くされている形跡がないんだろ?
本当に、その墓の主は信雄生母なのか?
信雄生母だとしたらなぜ、信雄は全く庇護していないんだ?
信雄生母の墓は別にあるんではないか。
永姫の母が人質代わりだったというよりも、
気に入りの側室がなくなった後、その縁者を召しだすというのは
普通にあると思うがな、人質ということではなく。
しかし、信雄が、久昌寺の生母の(と思われる)墓を供養しなかったというのは、
何か史料があるの?
久昌寺の記録には、縁起(寺創建のいきさつ)がかかれてあっても、
その後、毎年供養しただの、そういう記録は残らないんじゃないの?
>>656 あれだけ吉乃マンセーの寺がそういう史料を残さないのって
不自然じゃない?織田家とのパイプは寺の格にもつながるのに。
織田家の法要の記録って総見院でも総見寺でも残ってるよ。
久昌寺にはその記録がないから、開示したくてもできないのだと思う。
縁起とかとはまったく別もので、そういうのこそ寺の本来の仕事だと思う。
供養をされていないという話しは、初めて聞いたな。
ただ、久庵桂昌だけピンポイントでしてた話しも聞いた事はない。
生駒家全体でやってたんじゃないのか?
大体、それを言えば、久庵慶珠だって、ピンポイントの供養なんて
聞いた事ないぞ。
生駒じゃないけど、今でも、盆には殿の末裔と家老などの高禄の家臣の末裔が集まって
普通に先祖を全部まとめて法事をやってる大名家は多いだろ。
今よりも、仏事にうるさかった時代は、それは日常だったろうと思うけど。
>>657 確かに不自然。
あきらかに創作と言われるような久昌寺縁起のような資料はあるのに、
寺の法要などの記録が全くないのは不自然。
それに信雄の生母なら、亡くなってすぐには無理としても、その後信雄
が成人してからでも法名をもっと立派なものにするとか、墓をもっと
グレードアップさせるとか、してもおかしくないはず。なのに、信雄生母
にしては粗末な墓と法名には納得いかない。
久昌寺が昔から吉乃マンセーだった訳じゃないだろ?
武功夜話以降に慌ててマンセーになっただけじゃないか。
信雄の家系は、信忠五徳と同腹だとするのに躍起になっていたみたいだけど、
久昌寺や、そこにまつられている生母の事は特段どうもしてない。
つまり、久昌寺が捏造ばかりの寺になったのも、
結局武功夜話のためなんだろう。
織田信長の墓がある総見寺、
大寺院に庇護された大徳寺総見院と比較してもなあ・・・
逆に、織田信雄の生母が、
江戸時代の織田家一族の菩提寺に改葬されなかったことのほうが気になる。
ところで、江戸時代の織田家って、有力だったの?
>>659 だから、結局信雄の生母なんて、大してどうでも良かったんだろうな。
縁由だって、信雄との関わりしか書いてないし、それほど重要視された側室でもなかったんだろう。
生駒に限らず、どの側室が亡くなっても、同じように650石の知行を寺に加増してたかも知れないしな。
織田雑録、寛政譜と、信雄と信忠や五徳が同腹としていくうちに、
どうでもいいはずの側室が、飾り立てられてしまったんだろうな。
それで、昭和40年代に武功夜話が登場して、寺の経営も厳しくなってきた戦後に
渡りに船という状態で縁起を作ったんだろう。
生駒に関することはけっこう簡単に証明できるかも。
・久昌寺が吉乃の墓とする墓の主過去帳の記録を開示する
・久昌寺がその後の生駒の供養の記録などを開示する
>>658ピンポイントもなにも没年によって7回忌とか13回忌をするので没年の異なる
仏さんの合同法要はありえないよ。
・久昌寺縁起・縁由の原本の開示をし専門家による検証を委託する
これをすれば、生駒のことがある程度わかるはず。
久昌寺の態度次第ではあるが、態度を見ただけでも
あらかた推測がつくような気もする。
全部拒否の場合は・・・やっぱりな、って思われるだけ。
>>661 >江戸時代の織田家一族の菩提寺に改葬されなかったことのほうが気になる
総見院の墓所に改装されなかったのは、寛政譜で信雄と信忠が同母とした頃には
改装できるような余力が、織田家になかったのかもな。
寛政譜の頃には、大名家なんて、借金だらけの所が多くなってたし。
織田雑録の成立した頃は、当事者達を知る人物などいなくなってただろうし
書類上の記載だけですませたって事じゃね?
>>663 >年によって7回忌とか13回忌をするので没年の異なる
>仏さんの合同法要はありえないよ
あぁ、そっちの供養か。
それは、過去帳の開示に頼るしかないな。
自分は日々の供養とか、寺に寄進したとか、そっちの供養かと解釈していた。
>>664 墓をつくってあげなくても、一族の位牌所位牌をいっしょにおいてあげる
だけでも充分供養になるし、必要なことであれば大して費用もかからないのだから
手配したのでは?
信雄が生駒の墓なり生母を追崇している姿勢があれば、子孫もそれにならったと
思うんだけど、信雄が淡白だったんじゃないの?
そうなれば自然と忘れ去れられていくと思う。
>>665 それもこみだと思う。
法要の時には久庵慶珠の時のように何かしらの特典を寺に与えたりしたと思うから、
法要の記録にそういうことも書かれていたと思う。
信雄の署名入り、花印の入った寄進状なんてあったら、寺宝だろうし、江南市
の博物館に貸し出してたんじゃないかね。
信雄が久昌寺の供養をしたかしないかにかかわらず、
信雄の生母の墓といわれているものは、久昌寺にしか伝わっていない以上、
結局、信雄の生母は久昌寺に葬られている可能性が一番高いのでは?
縁起の記述はひとまず置いといて。
>>668 伝わるも何も縁起と縁由のでしか確認できないことだからな。
武功が世にでなかったら、一般的には誰も知れなかったことだったろうな。
寺の関係者も知らなかったのでは?
寺伝では信長の側室の方の墓ぐらいに伝わっていて、信雄の生母だとかは
わかっていなかった可能性もある。
まぁ、生駒の菩提寺なんだし、葬られたとしたら妥当だろ。
別に信雄は嫡男じゃないんだから、一側室ならそんなもんだ。
信忠の生母でもあるというなら、おかしいってことになるがな。
そういう意味では、崇福寺に葬られた久庵慶珠は、
嫡男生母として妥当という事になるな。
では久昌寺にある墓は、信雄生母でいいのかな?
信雄生母の没年も永禄9年でいい?
>>671 いいかどうかはここでは決められないが、
少なくとも信雄「の」生母に関しては否定する材料はないということ。
信雄分限帳に記載されている御内様、安土殿、御局、がそれぞれ濃姫である可能性が
あるが、特定するだけの根拠はない。
信雄の生母は多方面の検証から生駒であることには間違いない。
生駒に関しては没年を含めまだまだ検証の余地あり。
信忠・五徳の生母も生駒であるとする史料があることはあるが、
そうでないと思われる史料も存在することから、
こちらも生母の特定は難しい。
永姫は生母を生駒氏という可能性は高いが、信雄と同腹の生駒氏かどうかの
特定材料はない。また生母の没年、法名等は諸説あり。
最近のレスをまとめるとこんなかんじ?
創作と思われる部分が多い史料でも、頭からみんな捏造?という視点で見ちゃうと
逆に思考が変な方向に行っちゃうような気がするな。
信憑性の低い部分とそれでも信用できそうな部分を吟味しないと。
>>674 その通りだな。
複数の史料から導きだされる事象を重ねていかないと
真実は見えてこないのは、史学の面白い所だが。
自分的には、成立年代が早いと思われる縁由の方に
信忠、五徳の事がスルーされている事がポイントだと思う。
やはり、信忠、五徳が生駒腹説というのは、最初は
信雄の家系主導で作り出された事で、
生駒の菩提寺で、織田家とは関わりのなかった久昌寺では
そんな事になっている事を認識しないまま、縁由を残したんだろう。
恐らく、信忠と同腹であると最初に世に広く喧伝されたのは、
寛永諸家系図伝で、五徳とも同腹とされたのは寛政重修諸家譜くらいじゃないか?
その後、縁起が先か武功夜話が先かは分からないが、
縁起の吉乃の部分は、近年のものという検証もされているので、
寛政重修諸家譜から、それほど変化なくきて、
昭和になって武功夜話創作という流れなのかも。
信長公記だって全部を鵜呑みにするのは危険だもんな。
又聞きや噂のレベルのこともたくさん書いてあると思う。
虐殺のところなんかも、牛一が遺体を数えたわけないし、
大げさに書いている箇所もあると思うよ。
信忠と信雄を異母とするのには史料があるようだが、
徳姫の生母は信雄と別とまでは言い切れないんじゃないかな。
縁由にしても、信長が信雄に命じて寺に知行を与えた、この記述の中に、
他家へ嫁ついだ五徳(戻ってきたが)の記述がなくとも特に不自然ではない。
(信長が女性である五徳に命じるとは思えないため)。
分限帳を見る限り、岡崎殿は五徳でほぼ間違いないと思われるし、
五徳は婚家の徳川家からの知行で生活に困っていなかったにもかかわらず、
他の姉妹以上に信雄に手厚く保護されていた。
それは、信雄の同母姉妹だったから、と思えなくもないため。
>>677 俺も五徳は別の生駒腹を疑うだけの根拠は薄いと思っている。
ただ>>他の姉妹以上に信雄に手厚く保護されていた
これは同腹だからではなく、父親を亡くして、夫もいない五徳の
後見人が必要だったからだと思う。食うには困らないまでも
この時代女一人で生きていくような時代ではないので、
男兄弟の後見が必要となった場合、兄は信雄しかいないという状況から
そうなったともとれる。
他の妹たちはまだ幼少だったし、嫁いでいたので、知行を与える必用はなく
生母の実家で面倒をみてもらっていたか、あるいは清洲城内
で養育していた可能性もあるから。
>>677 >五徳は婚家の徳川家からの知行で生活に困っていなかったにもかかわらず、
五徳が徳川から知行をもらうようになるのは関ヶ原以降。
分限帳の時期にはもらってないよ。
でも五徳には輿入れの際に化粧料をもらっている。
信忠が丹羽にあてた手紙に「近江長命寺の儀、岡崎より申し越し候」
という一文があってそこに五徳の化粧料があったことが推測されている。
そこは安堵されているだろうから、五徳は700貫プラス化粧料で
かなりの扶持はあったと思うよ。
「御局」の件だけど、誠仁親王元妃の侍典冷泉氏では?
天正10年5月20日の「言継日記」に侍典冷泉氏を「御局」と称している。
ただ信長とは必ずしも良好とは言い難い複雑なからみがあって、
信長とはある意味因縁の深い女性だけど、信雄とはまったく接点がない。
それに侍典冷泉氏は本能寺の変後予定通りに再婚して、興正寺5世正室となったし、
実家もあるので信雄から知行をもらうというのはやっぱり不自然かな。
>>681 元親王妃なら1000貫の知行は妥当かな。
ただ分限帳の頃はすでに興正寺室になっていたのに御局と
書かれているのは違和感がある。
>>681 言継卿記じゃなく、言経卿記だよな。
実は自分も同じ事を考えていた。
しかし、
>>682も書いているように、
既に親王妃ではなくなっていたのに、
知行を出すのが不審なので、
反対に、親王の周りにいた女房などの
記録がないか探している所だ。
言経卿記の御局=分限帳の御局とは限らないし。
親王の側にいた女房などで、
その後嫁した形跡がなさそうな人物。
だが、それは余計に記録がなさそうな人物になるな。
>>683 記録もなさそうだし、ますます信雄から離れていくな。
信長の娘が誠仁親王の側にあがったという形跡はない?
それが一番しっくりくるんだけど。
もしくは信長が養女にして二条昭実の側室にしたという赤松氏息女。
赤松氏息女は没年も法名も全て不詳のままなんだ。
信長死後、昭実が織田家と距離を置きたいがゆえに織田家に返され
信雄が知行を与えて庇護したとか?
確かにその可能性はなくはないけど、戻されたなら
赤松氏に戻るだろうしな。
二条昭実は後々三の丸殿を娶ってるくらいだから
戻したというのも、どうかな?
でも秀吉政権下では織田家との関わりを避けたいというのが
本音じゃないか?三の丸を娶ったのは秀吉死後だし。
赤松家に戻ったとしても知行をだすのに
どこに住んでいても構わないと思う。
五徳は小牧・長久手の戦いの後は京都に住んでいたし。
それは確かにそうだな。
だが、親王の側室辺りなら1000石でも納得なんだが
いくら元関白(分限帳の時期は秀吉に譲っていた筈)とはいえ、
養女にそこまで知行を出すだろうか?
赤松氏からも知行が出ているだろうし。
親王の周辺も、引き続き調べてみるよ。
信雄は、天正13年に正三位、天正14年に従二位に昇進している。
織田家の家督を継いだ三法師が幼少のため官位がない中、
信雄の昇進は秀吉のとりなしともとれるが、
あるいは、信長時代以来、織田家が昵懇にしていた天皇側近女官が、
何らかの信雄昇進の手助けをし、それに対するお礼である可能性はないだろうか。
それならば、正親町天皇の側近の女官の可能性もあると思うのだが。
織田家縁の女性とは限らないかもしれない。
後室関係を広く探した方がいいのかもな。
三条西息女で信長側室だった「あここ」なんかも
候補に入れてもいいのかも知れないな。
公家は、当時それほど裕福ではなかったから
実家から化粧料なんかが出ていない可能性がある。
他に知行が載っている明らかに親族女性と分かる人物達に関しては
他に知行を出す可能性のある人物もいれば、化粧料も持ってるだろう。
正室の場合は御料所まで賜っている。
それを考えると、分限帳の知行高は形式的なものかも知れない可能性はあるが、
知行、化粧料が期待出来ない人物に関しては、検討の余地があるな。
間違えた
後室関係じゃなく、皇室関係です。
>>689 父の側室にそこまでの知行を与えたとは思えないが・・・
誰かが以前、このスレで、
当主がなくなったら側室は解散、といっていたように思うので。
秀吉政権下で、公家の生活は安定し始めている。
三条西氏は、信長が中央進出を図り始めてからの側室であるならば、
それほどの年齢ではなさそうだし、
織田家の未亡人として生きるより、再婚の道を選んだのでは?
692 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 11:33:53
今夜テレ東でやる戦国の女特集で
吉乃と信長のことを放送するみたいだぞ。
吉乃や武功叩きをしたい奴や濃姫復権に
がんばっている奴は実況板で存分に暴れてこいw
>>692 そうなんだ・・
でも自分は田舎だから、テレ東映らないからなあ〜
だけど、テレ東もつまんない特集やってんじゃないよ!
>>694 こんなトンデモ話を平気で放送するテレビ東京ってすごいなw
トホホだってレベル低いもんな
697 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 19:06:10
子供はなんともだかお市従妹説なら
確かあったように思う。
トンデモついでに以前姉と勝長について
話していた時に生母はお市なんじゃないかと
突然言ったからぶったまげたっけ
当時のうつけって近親相姦の意味合いも
含まれていたみたいだしと。まぁ冗談だが。
公家社会と違って戦国期の武家は通い婚がもうなかったから
近親相姦は不可能だな。
農村地帯とかはやりたい放題だったみたいだけど。
テレ東はハンパないな
信長の部分見逃したんだが、結局生駒かw
はいはいわろすわろすとしか言いようがねーわ
700 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 21:57:51
普段ここでの行き過ぎた検証をどうかと思ってて
何度も生駒厨扱いされた私がきましたよ。
そんな私が見てもこの番組ひどすぎwwwwww
わろすwwww
信長関連で出たのは生駒とお市だけ?
だけど、信長とお市が兄弟でなかったってのはホント?
一説では従兄弟ではないかと聞いたけど・・
703 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 22:11:33
>>701 濃姫も一応出てたけど、信長@和泉元彌は
「あんな女愛してない!俺が愛しているのは吉乃、お前だけだ!」
とか言ってたw
>>702 そういう説もあるね。
兄弟だったかどうだったかは当時にタイムスリップせんとわからんと思う。
>>703 そんなこと言ってたんだwwwww
さっきの市の話でも「濃にバレるから大声出すなよ」的なこと言ってて
うっかり吹いた
大体、信長役が和泉元彌って時点でだめだなこりゃ〜
しかし、こんな馬鹿番組のせいで、また世間の生駒マンセーが復活
しそうだな。
>歴史上の出来事における女性たちのミステリーを、独自の調査により徹底解明
一体どんな調査だったんだろうw
>>706 おそらく小説などのネタを拾ってきただけじゃね。
大体、淀がお市と信長の子だなんて、どこの文献に書いてあるんだ?
ある種ここでの考察と似たようなもんじゃんw
「否定文献がないからその可能性が高い!」
でもたわけについては正直なるほどと思ったよ。
目からウロコというかなんというか。
引用文書は古事記だったし解説してた國学院って
神職養成したりする神社関係の専門みたいな
学科も抱える大学だから古事記に関しては
むやみやたらないい加減なことはまず言えない
立場だけにたわけの意味については
かなり信用できると思う。
そういえばここでも近親相姦を
指摘してた人いたよね
日本は古来、近親相姦はタブーじゃなかったしね。
タブーだったのは同腹の兄弟姉妹間だけであり、
腹が違えば兄弟姉妹間での婚姻はOKだった。
イザナキ・イザナミも双子の夫婦神と思われるし、
世界中の建国伝説では双子の夫婦神が祖っていうのは多い。
戦国時代はどうだったか知らないけど、人間にはそもそも近親相姦をタブー視する
ようなものっていうのはないんだろうね。
タブーという意識はなかったろうけど、物理的に武家では無理だろう。
兄弟と姉妹は離されて養育されるし、元服したらそれこそ母親達がいる
空間にすら一人で訪れるようなこともできなかっただろうから。
美形の姉妹に感情をもってしまうということ考えられるけど、
実際どうこうは無理だな。
なんでもありの元弥だとリアル感がでちゃうけどw
生駒マンセーもさすがにドンビキじゃね?
お市が恋敵じゃ生駒には勝ち目ないじゃん。
712 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 09:21:11
濃姫云々はともかくとして、秀吉の東西南北話とかいちご100%かよwwwと
突っ込みを入れたのは自分だけじゃないはずだw
昨日あれ見てて思ったけど、番組スタッフ(プロデューサ?)は
とにかく「正室」が嫌いなんだろうか?w
713 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 10:22:50
>>712 家柄のいい姫が嫌いなんだろ。
一昔前によくいた、築山殿、三条夫人、淀殿、お江が大嫌いで
小督局、諏訪御寮人、北政所、お静みたいに家柄が悪いほうをマンセーする奴
濃姫は生駒が出てくるまで、信長の側室で有名なのが鍋ぐらいしかったから
濃姫アンチってほとんどいなかったけど、武功夜話のせいで増えたし。
そろそろ史料の検証に戻っていいかな?
>>712 大方、そのプロデューサーやらは、日常で愛人囲って暮らしているんだろうよ。
もしくは、毎日キャバクラ三昧か。
生まれがよく態度のでかい正妻よりも愛される愛人
さらに愛される絶世の美女である実の妹
もはや卑しい出自の愛人の出る幕もなくなった
なんかもうみんな新しい説出したいだけなんじゃねーのwwwww
濃姫の肖像画がないのは子孫が残らなかったからなのかな。
お市&長政の肖像画も淀殿が後年供養のために作らせたというし
お市の肖像画がなければ本当に美人だったのか?という話もでてくるところだった。
絵を切る限りでは淀殿よりは美女だな。
淀殿の絵は・・・長政似だったんだぁという感想しかない。
年いってからの絵だけど妹の江与の肖像画も残っている。
美女かどうかはわからないけど、かなり華奢な女性の印象があるので
お市はどちらかというと江与の方が似ていたのかも。
安産の血筋も見事引いてるしな。
お市の肖像画は当時の美人の定義をそのまんま忠実に書いたものなんだよ。
目も鼻も口も小さく目立たないのが良しとされたから、白粉で塗りつぶして
いたぐらいだから、もともとの顔立ちがそういう顔だとしたら当時の価値観なら
絶世の美女といわれていたのは当然だな。
築山殿や淀殿みたいに四角張った顔ではなく、細面の輪郭も女性らしく
まさに絶世の美女だったのだと思う。
チェックをいれたのが実娘の淀殿だから忠実に書かれているのではないだろうか?
個人的に肖像画の中でかなりの美女だったと思ったのが、
勝頼正室の遠山夫人。
遠山夫人は信長の姪にあたるんだけど、一説によると遠山夫人の実父は
濃姫の甥とも伝わっているんだ。
ちょっと遠いけど、濃姫の血縁者でもある女性の肖像画だと思うと
多少は濃姫にも似ていたのかな、なんて思ってみたり。
720 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 14:39:53
そいやミクシィの濃姫コミュで、道三と明智光秀の肖像から想像した濃姫が描かれていたな。
まぁ濃姫が実際美人だったかどうかなんてわからんし、
当時の日本美人の基準と現代の美人は大きくかけ離れているだろうしね。
そういえば現代日本人の美意識とも大してかけ離れていない
西洋人から見たガラシャは美人だったんだっけ?
まあ、実際の濃姫が美人だったかどうかなんてあまり意味の無いことだし、
美人なだけが愛される条件ってわけでもあるまいし。
こういう思考こそ現代の感覚なんでないの。
723 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 19:51:18
なんか、濃姫が愛されていたとか美人だったとか
そういう話題になると「関係ない」とか「現代の感覚で語るな」って言う人出てくるよね。
そんなに濃姫が大切にされていたっていう事実が広まるのが嫌なの?
現代の人間には、何が事実かどうかわかりようがないから
>>723 いや、自分も客観的に見ても濃姫は正室として大切にされていたと思うよ。
だけど、それと濃姫が美人だから愛されたとかっていうのは、それこそ憶測
だし(生駒のこともそう)、戦国時代は愛だ恋だなんていってた時代ではな
いし、命や名誉や家を守ることが何よりも優先されていたのだから。
だから美人だからとかなんとかと語るのは現代の感覚だと思うよ。
>>722 どうだろ?美人至上主義って意外と昔ほど強かったように思う。
美人の定義が時代や武家、公家で異なっていたから一概に顔の美醜だけで
判断されたものでもないし。
ただこの時代の女性の場合容姿や素養などではなく、一番重きを置かれたのは
実家の力だったり、経済力だったりしたので、美人だからといって
どんな相手からも愛されたとか求愛あれたというわけではないだろうけど
美人で損することはなかったろう。
この時代のメークや髪型などだと逆にひどいブス、というのも存在しなかったろうから
どの姫様も金をかければ10人並という容姿ではいられたはず。
その中でも美人で誉れ高いお市や京極殿はどこがどう美しかったのか
知りたい。物腰や身体つきとか、あるいはフェロモンが強かったのだろうか?
727 :
日本@名無史さん:2007/06/30(土) 21:00:03
この時代の姫君が、いろんな男と付き合うだけでなし、
一見していい女か否か判断する材料は、やはり容姿であり、美貌では?
フェロモンやら体つきなんていうのは、
夫になった男にしかわからない。
>>美人で誉れ高いお市や京極殿はどこがどう美しかったのか
殺伐とした戦国時代だから、華やかなお姫さまタイプか
あるいは夫や身内が殺されても凛ととして動じないお姫様タイプの
どっちかが超美人とし認定されたかも。
どちらかというと後者にこそ男心を揺さぶる美しさをかんじさせたかも
と想像してみる。
ところであの武功夜話には吉乃が美女だったとは書いてないな。
>>728 まあ、武功自体が吉乃がメインの話ではないからかもな。
>>718 供養のための追善画も多いけど、
生前に書かれることもあるんだけどね。
伝淀殿の肖像が長政似だという意見は良くある。
そういう設定で淀の容姿を描く小説家も居るよ。
また、お市に一番似ていたのは崇源院という認識で
三女が一番美貌設定の小説もあるぞ。
>>719 どこかのスレで、お市の肖像は絵画として様式的すぎると書いたら
こっぴどく叩かれたよw
あと、遠山夫人の肖像・・・って見たことないけど、
どこに伝わっているものなのだろう?
スレ違いになるけど、知ってたら教えて下さい。
彼女は信勝を産んですぐの死という若死になので
わからない事が多いので・・・
(勝頼後室の桂林院・北条夫人なら、勝頼、信勝と
三人を描いた有名なものが高野山に伝わってるけどね)
美人だから幸せに暮らせたという問題でもないしね。
濃姫や生駒に美人の伝承がないからって、
即、不幸せだったとか愛されてなかったというわけでもなし。
お市の肖像画は、信長の肖像画ともよく似ているよ。
血縁関係のある兄妹の肖像画としては適当なんじゃないか。
732 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 14:20:34
その「大切にされていた」って事も何だかなぁって思う。
現代の感覚からすれば大切にされていたのかもしれんけど、
当時の価値観からすれば大切にされていたかどうかなんてわからないし。
正室の座にいたという事だって別に大切にされていたことと=じゃないしね。
愛されていたとか大切にされていたとかって文献に残ってるものではないし
答えなんて一生出ないわけで、考えるだけ無駄だと思うんだけど。
しかもどうやったって現代の価値観で考えてしまうしね。
気をつけていてもそれはもう取っ払う事の出来ない価値観だから、
先入観こみで話広げそうで怖い。
733 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 14:40:27
史料にないことは言うなってことじゃね?
もともと歴史学はそういう学問。
>>733 それはそうだと思うけど、史料にないからって可能性がゼロでない
史料に残っていないだけ〜って反論が出るからな。
735 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 16:39:21
駒姫みたいに美人であったばかりに悲劇に見舞われる姫様もいる。
まぁ美人も醜女でも夫になった男の運にかなり左右される時代だな。
>>732 >先入観こみで話広げそうで怖い。
どこのスレの人だって先入観で話する人多いよ。
しかも史料の裏づけの無い勝手な妄想の書き込み多数だし。
>愛されていたとか大切にされていたとかって文献に残ってるものではないし
答えなんて一生出ないわけで、考えるだけ無駄だと思うんだけど。
そんな考えだったら、濃姫スレに来る意味ないんじゃ?
そもそも濃姫スレの目的が、武功の影響で濃姫にかわって吉乃が正室になった
なんて間違った説を平気で載せている本があるからだろう。
武功の吉乃なんて架空の人物だし、生駒にしたって実像が違って伝わってしま
っているわけで、その間違いを正すべく濃姫スレで残っている史料からの検証
が行なわれているわけで。
史料の検証の結果、濃姫は正室としての立場を全うしたと考えられる。=大切にされていた。
と考えることがそんなにおかしいか?
>愛されていたとか大切にされていたとかって文献に残ってるものではないし
そりゃ、当時の文献に誰が誰を愛していた、とか大切にしていた〜なんて書き込みは本人の
日記でも出てこない限りないんだし、史料に残された事実をふまえて、当時の人の行動した
足跡を追いながらその時の心情を想像するしかないわけで。
史料から予想できる心情などを置かれた状況から判断したり、可能性を考えるしかないのでは?
よくさかんに行なわれている本能寺の変の原因にしても、光秀の当時の状況や置かれた立場、
実際に取った行動から心情などを判断して、今一番可能性の高い説が主流になっているわけで。
それだって、史料に光秀の心情が残っていないから、単なる思い込みだ!って否定してしまったら
何にも歴史の検証なんて出来ないと思うけどな。
737 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 17:11:30
>>736 全くの部外者だが、736氏と732氏の意見の対立は、結局、
濃姫は正室としての立場を全うしたと考えられる。=大切にされていた。
という感情を持つ736氏と、
正室の座にいたという事だって別に大切にされていたことと=じゃない
という感情を持つ732氏の違い。
史料上の考察ならば、討論する価値があるが、
この場合、感情論なので、これ以上続けても意味がないと俺も思う。
濃姫は正室の座を全うしたことは納得いっても、濃姫が大切にされていた。
というのは納得いかない!っていう感情が理解できない。
大切にされていた〜でないなら、どういう状態だったってのかよ。
じゃあ大切にされていた〜ではなく織田家の奥で信頼されていた〜という
表現ならいいのかよ。
いちいち言葉を捉えてつっかかってくるのってなんなんだ?
739 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 17:52:09
>>738 だから大切にされていた・愛されていたって事が
何か新しい発見に繋がるの?って言いたいだけなんだけどね。
別に納得いかないわけじゃなく、現代の価値観で当時の感情やら何やらを
考えてもどうしても現代の先入観込みの感想になるわけ。
本能寺の変が起きた理由なんかは、それを読み解く事によって
何故光秀が謀反を起こしたかという真相が明らかになる・もしくは別の説へと
繋がったりする事にもなるけど、正室として大切にされていた。
だからって何か濃姫の動向やら何やらがわかるわけでもない。
本能寺の変に関して、光秀の心理を読む事と、濃姫が大切にされていたって
問題は全然同じじゃないし、後者は完全に自分の希望的憶測なわけ。
さらにその大切にされてたって価値観も現代のものだし、
当時のお姫様からすりゃ夫には養われて当然。身分から言ってもそうされて
しかるべき地位なんだしそれを「大切にされていた」と思っていたかどうかなんて疑わしい。
庇護されて当然の立場であり、敬われて当然の人だったんだから。
安っぽい感情で当時を計ろうとするのは何だかなぁと思う。
しかもそれの理由が「別にそれを否定する資料ない」って・・・。
ンな事言ったらこの前のテレビ東京の番組も、武功夜話の吉乃マンセーだって
それに関して言えば「否定する資料はない」わけだし。
感情論の対立なんていつまでたっても平行線だし、揚げ足取りになるだけ。
もういい加減にしてほしいな。
>>731 当時の肖像画は意外と馬鹿にしたものでもないと思ったのが、
「骨は語る」という徳川将軍家の遺骨鑑定の本。
頭蓋骨からみる歴代将軍や正室、側室の特徴と、肖像画が
かなりぴったんこだった。
信長の肖像画も宣教師の肖像画とよく似ていたから
たぶんかなり特徴を捉えているものだと思う。
お市もそうじゃないかな。
>>738 >>濃姫が大切にされていた。 というのは納得いかない!
こういうふうに思う人たちはねねみたいに具体的な夫からの愛情を示すような
手紙なんかがないから「証拠がないからなんか納得がいかない」という
ことなんだと思う。「否定している」というのとはまた違うんじゃないかな。
742 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:19:23
あの宣教師の絵って言われてる絵は、近代に入ってから描いたものだろ?
明治になってから、江戸以前の人物をリアルに描いた絵が描かれてるけど、
そういう絵のひとつだろう。
>武功夜話の吉乃マンセーだって
それに関して言えば「否定する資料はない」わけだし。
否定する資料はあるよ。だけど、生駒マンセーがそれを認めたがらないだけ。
>「大切にされていた」と思っていたかどうかなんて疑わしい。
だけどそれなら大切にされていないって判断できる材料があるのか?
疑わしいって何だ?
信長は嫡男信忠を濃姫の養子にしている。
信忠は信長の長男で跡継ぎとして指名されている。
信忠は濃姫の実子ではない。けど、腹は借り腹ともいうので濃姫の夫である
信長の子供は濃姫の子供とされる。それでも充分であるのに、わざわざ濃姫
の養子にしていることを考えると、信忠が美濃を治める正当性を持たせる為
もあったと思うが、後に信忠に天下をも継がせるとも言っていることを見て
も、濃姫の子である信忠が信長の後継者としての地位を確立させる事を内外
に示したとも言える。
その事実を見ても、信長が濃姫を大切にしていなかったとは考えにくいと思うが。
もう、あまり感情論で色々書き込むのはこれでやめるが、資料ひとつとっても
人によって解釈が違うのは当たり前だし、それに安っぽい感情って何だ?誰も別に
テレビのワイドショーみたいに愛だ、恋だなんて語ってないと思うが。
戦国武将の夫婦愛を陳腐なものにとらえて欲しくない。
当主と側室たちだって同様。
みんな戦国時代、戦国武将が好きで集まっているんだろうから
頭の中も戦国時代に切り換えて語ろうよ。
濃姫だって史実の生駒だって坂氏だって織田家に貢献したことには違わないし
信長に仕えたのはそれぞれの実家のためもあったということは紛れもない事実。
そのへんもっと冷静に検証したいもんだな。
745 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:45:56
>743
だから、もう、それはそれでいいんでね?
濃姫が正室でなかったといってる人がいるわけでなし。
信長が側室のもとへ入り浸ろうが、
あちらこちらで次々と女と子供を作ろうが、
濃姫は正室であるという事実が何より重要な人はそれでいいんでね?
746 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:54:14
どうでもいいが、
>否定する資料はあるよ。だけど、生駒マンセーがそれを認めたがらないだけ。
当時の文献で武功夜話の吉乃マンセーを否定するような資料ってあるか?
資料から読み取れるものって「生駒女」は単なる側室の一人に過ぎなかった
信長の最愛の妻が生駒女だったというものを否定するもんは存在しないと思っていたが。
「こういう事から大切にされていたはずだ」ってのはあくまで現代に生きる
俺らから見た価値観にすぎないしな。
そもそも「大切にする」ってどういう事なんだかよーわからんw
正室として敬っている事が大切にしている事じゃねーし。
当時、正室を敬うのなんてどこの大名家でも当たり前にやってたことだし、
大切にされていたってんなら濃姫の軌跡がもっと明らかになっていいような気もするしな。
それこそ墓がきちんと管理されてるとかさ。
別に大切にされてなかったと言いたいわけじゃないが、
よくも悪くも当時の正室としての扱いだったって事じゃねーのか?
>>742 そうなの?信長に謁見した事がある宣教師が書いたとどっかで
読んだけど、特徴を記してずっとあとに絵にしたってこと?
髷は確かに細いから毛が薄かったのは本当かもな。
お市の肖像画は良くみるとちょっと受け口なのがまたご愛嬌だな。
ぽてっとはれぼったくて小さい目に細面の顔はスケートの浅田真央に似てるかな??
>>746 墓はしょうがねーだろ。
嫡流は途絶えたし、濃姫は信長や信忠、三法師よりもずーっと後に亡くなってんだしな。
もっとも信長生前や信忠生前に亡くなっていたなら、その扱いでどの程度重きを置かれて
いたかわかったろうがな。
生駒の最愛説を否定ってよりも、武功の吉乃自体が創作だと断定されているからな。
大体、信忠も信雄も清洲で生まれていると一次資料にあるのに、なぜか武功では生駒
屋敷で産んだことになってるんだしな。しかも信忠の生まれた年代も全く違うし。
だから武功に書いてあることは信用できないってなってるんだろ。
濃姫よりも先に吉乃が愛されていたということを証明したいが為に作られた話だからな。
濃姫の輿入れの年代もおかしいし、大体吉乃って名前だって生駒の家系図には違う名前で
載ってんだしな。全く存在しない吉乃を生駒と同じ人物と思えというのは無理な話だ。
749 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:19:28
>>748 746ではないが。
別に、746氏は生駒を持ち上げてるわけではないだろう。
濃姫が正室でなかったといってるわけでもない。
濃姫が正室であった=濃姫が大切にされていた
というわけではないといってるだけ。
濃姫が正室であったということを否定していない。
なんで生駒の話を出してくるの?
生駒の話なんか、誰もしてないのに。
750 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:19:52
当時の美人顔って現代でいうところの誰の顔になるんだろうな
>>749 武功の吉乃の最愛説を否定する史料があるかの答えだろ?
おまえ、何いってんだ?
>>749 本人じゃないって・・・
まるっきり本人じゃん。
しかもこんなに早く反応しちゃって・・ぷっ。
753 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:31:24
濃姫が正室で、生駒が側室だった、ということの史料は出せても、
濃姫が生駒以上に愛されていたということを証明できる
史料なんてないんでね?
武功を否定してみたところで、
信長が濃姫といちゃついてた一級史料があるわけでなし。
身分の高い正室が立派な待遇を用意されるのは当たり前。
愛されていたかということとは別問題。
754 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:31:40
>>748 いや、俺も別に武功夜話は偽書だと思ってるよ。
当時を調べるのに値しない文献であるとは思ってる。
ただ濃姫が大切にされてた可能性が高いとかそういうのを
感情論で唱えるのは、吉乃マンセーの奴らが、武功が偽書であったとしても
「吉乃(つーか生駒女)が最愛の女性じゃなかった」という否定文献が出ない限り
自分たちの主張は可能性が十分ありうるって言ってるのと同じじゃないか?と
思うんだけど・・・。
全部自分の思い込みなんだよな。
「状況から見てそう判断できる」「根拠はその否定材料がないから」
これがまかり通るのなら、どんな珍説でも通ってしまうわけなんだよ。
まあ武功の吉乃は否定するけど、生駒に関してはとりあえず否定する
材料がないってことなんじゃない。
756 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:32:53
>>754 そんなこといってたら、偽文書作ったもん勝ちってことになるじゃない?
そういうのを許しちゃいけないと思うな。
758 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:38:15
生駒が信長の側室であったのは事実であり、
そこに愛がなかったと証明するのは難しい。
そんなことに躍起になってどうするんだろう、
ここの人たちは。
武功の話はおいといて。
759 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:44:21
>>757 許せとは言ってないし、偽書がまかり通るのは俺もゴメンだよw
ただここでの感情論は、偽書作って「否定材料ないから」ってその偽書を
押し通しているのと変わりないと言いたかっただけなんだよ。
濃姫は美濃の姫君であった事、信長の正室という立場から考えても
優遇されてしかるべき人物。
これをそれこそ生駒女の方がでしゃばっている事が問題。
つまり「優遇されて当然」の立場にあった濃姫(というか正室)を
大切にされてただの何だのってのは語るに値しない問題だと思うんだよ。
現代の価値観からすりゃ大切にされてるように見えて当然だよ。
だって正室なんだから、生まれ・地位何をとっても他の側室が勝てる相手じゃない。
それこそ信長が内親王でも娶らない限り、唯一無二の存在である事は事実なんだし。
だけど、本当に生駒が信長の最愛だったならもっと行動に表れてもいいと思うがな。
例えば、生駒が亡くなった時に信長がそんなに悲しんだなら、生駒の為に寺ぐらい
建てて弔ってくれるとかさ。
信長の教育係だった平手政秀が亡くなった時、信長は大変な悲しみようで、政秀の為
に寺まで建てて弔ってあげているしさ。
当時でも重臣が亡くなったからといって、寺まで建てて弔うのは異例のことだったそうだしな。
生駒もそれ位してもらってもいいんじゃないか?
また息子の信雄にしても、自分の生母がそんなに父親から愛されたなら、子供心にも強烈に残る
はずだし、生母のために立派な墓を建てるなり、法名をグレードアップさせるなり、してもよさそうだけどな。
でも実際は生駒は織田家の菩提寺にも入れてもらっていないんだしな。
なんか生駒が信長最愛だっていう割には、信長・信雄親子は生駒に対して関心が薄いような気がするがな。
761 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 19:50:44
信長は、女性全般に淡白だったんじゃないの?
生駒に限らず、濃姫に対しても、お鍋に対しても、
それ以外の側室、愛人に対しても。
信長自身、政治にけして女を持ち込まなかったし、
そこまでして女のために尽くさなかった気がする。
信長の女性関係が明らかでないのも、
信長の淡白さに集約される気がする。
>>761 >信長の女性関係が明らかでないのも、
>信長の淡白さに集約される気がする。
それを言い出したら、信秀の女性関係も、信忠の女性関係も
あまり明らかになっていないから、それはちょっと違うんじゃね?
織田家の子孫がいうように、織田家では信秀以前から
女性の事は記録に残さないようにしていたって事でしょ?
だから、信長生母が土田御前で土田氏出身ってまかり通ってきたんだし。
でも、違うとするに足る史料が、他家の織田家に近いところから出てきたから
織田家が後年、都合良く書き換えてきたんじゃないの?って話しになってる。
鍋だって、秀吉とか変わってるから、大きく取り上げられているけど
信長の側室時代はそうでもない感じだし。
ただ、正室の事は検証したいけど、感情論はどうでもいいっていうのは、同意だな。
>>750 平安美人にわりと近かったみたい。美人の条件は
色白、目細、鼻低、おちょぼ口、黒く豊かな髪、大きな顔、肉付きのいい身体
白粉を塗りたくって、ほほ紅をわざとらしいほどして、眉もまつ毛も抜いて
玉眉をおでこに描いて、ちょこっと上下の唇に紅をさした
【山田花子】に一番近いと思う。
764 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 20:58:47
>762
織田家が意図的に残さないようにしていたかは疑問。
織田家の女性であっても、
お市などは比較的史料が残っている。歴史の表舞台に出てきたから。
信長が天下人にまでなりながら、その女性関係が明らかでないことは、
やはり信長の趣向によるところが大きいと思うよ。
寵女の話がここまで全くない為政者もめずらしいから。
情の面は別にして、信長は正室の立場を非常に重んじた人ではなるわな。
ねねへの手紙は、信長の人間性にばがり目が行くが、もっと重要なのは朱印が押された「公文書」だって点。
だから、祐筆が書いた可能性が高いそうだ。
それほど、ねねを気に入っていたと考える人も居るだろうけど、
織田家中では正室を蔑ろにすることは公文書により叱責される出来事だった、とも取れる。
織田家臣団には、正室を重んじている人多いけど、信長の薫陶に従ってそうしていたのかもしれない。
つーか、公文書で「注意」なら、改善しないと出世にも多少は響くよ。皆真面目に正室の待遇考えるって。
>>765 その手紙の最後に「この手紙を秀吉に見せろ」と書いてあるしな。
武家育ちではない秀吉はそのへんがわかっておらず、側室に溺れ、
正室のねねをないがしろにしかかった時期が事実あったんじゃないか?
実際問題側室に溺れているような当主には家臣も見限って離反する可能性もあるし、
信長の叱責はいろんな訓戒がこめられていると思う。
後年秀吉はことさらねねに気配りする手紙を書いているし、信長のこの手紙が
相当こたえたのかもしれないな。
767 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 21:42:03
あの手紙は、前半ばかり読んでいる人がいるが、
くすぐったいほどにねねを褒め上げた前半は、お世辞の部分も大きい。
むしろ、後半で、信長は、ねねをたしなめてるんだよ。
武家の妻たるもの、夫の浮気程度で動じることなく、
しっかりせいと。
あれはむしろ、武士の妻の心構えを説いたものなんだが。
>>766 信長は、特定の側室に溺れているような男は、武将としては役に立たないと
考えていたと思う。
信長自身が特定の側室に溺れていたら、この内容は書けないしねねや秀吉に
対しても全く説得力がないことになるしな。
淡白だったというよりも、潔癖症だったのだろうな。
あの手紙は秀吉に見せることを前提に書いた手紙というのがポイントだから
秀吉に
「ねねのことを信長はありえないほど誉めている」
「ねねのことを信長は認めている」
「ねねの味方をしている」
「ねねを励ましてる」
「ねねを怒らせたらまた上様にチクられる」
「ねねを敵にまわしたら出世に響く」
「ねねを大切にしなきゃ」
とわからせるために、ことさら大げさに書いていると思う。
あの手紙は秀吉に書いたようなもんじゃないか?
770 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:25:33
>766
濃姫厨は、きもいなw
あの手紙読んだことないだろ。
そんな内容ではないんだがw
>>760 同感。
最愛の人って感じは受けないよな。
>>767 当時は側室制度は当たり前だったんだから、浮気なんて言葉使う自体
現代の感覚だよな。
なんか、さっきからこのスレ濃姫ファンのふりして、
アンチが紛れ込んでる感じがするな。
>>774 うん。なんか>770や>767や>749や>745
なんかまさにそんな感じだな。
アンチってどういう意味なんですか?
>>770 ねねの愚痴に対する慰め、励まし。
正室としての心得の教授。
一方、行き過ぎた秀吉に対する戒め。
あの手紙にそれ以外の何があるってんだ。
ところで、信長の主な家臣と、その正室との仲はどうだったんだ?
そこから、信長のおねへの手紙と関連付けることができると思うが。
780 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 01:00:32
利家の妻の松には、しょっちゅう言い負かされて、
「で、あるか・・・」と、つぶやくだけだった
781 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 06:45:10
ねねへの手紙を「信長本人も正室を大切にしていたからこそ
この妻の心得をねねに説くことが出来た」って言ってる人前いたけど
んなもん自分の事棚に上げて説教垂れる人間なんて山ほどいるだろうしさ。
濃姫が大切にされていた事と手紙の問題は全く無関係だと思う。
人間自分が大した人間でなくても、他人には厳しいものを求めたりするし。
>>781 信ちゃんは戦国時代の武家の正室の一般論を述べているだけ。
厳しくもなんともない。
ねねは出自も悪く、一般的な正室像がわからんかったから
非常〜にわかりやすく、ひらがないっぱいで信ちゃんが教えてあげた手紙。
同じく出自がさらに低く武家の当主のあるべき姿がわかってなかった
秀吉にはある意味ストレートにきく方法で書いた手紙。
信ちゃん自身がどうだったかなんて、生駒や信忠生母への処遇や他の側室と信ちゃんの
エピがまったくないあたりで、特定の側室への思い入れのないことは
わかるじゃん。側室への処遇がこの程度だったんだから、正室への処遇が
それ以下だったって考えるのはものすごくひねくれてない?
>>781 ねねへの手紙の解釈としては、
「信長本人も正室を大切にしていたからこそ
この妻の心得をねねに説くことが出来た」
よりも、秀吉の側室にかまける態度を信長に訴えたらしい事の方が重要。
なぜなら、その訴えた相手である信長が、秀吉と同じ事をしていたら
その訴えは主君批判に、ストレートに繋がる。
そのような事、あの時代に家臣の正妻が面と向かってする事は出来ない。
つまり、裏を返せば、信長が秀吉のように側室にかまけていなかったから
訴える事ができると解釈できる。
愛していたとか感情論は無視するとして、
正室の地位を脅かす程の、側室寵愛はなかったと考えられる。
同時に、正室が当時の慣習以上に大切にされたかどうかは分からないが、
ないがしろにはされていなかった訳だな。
検証ではすごくいいレスがいっぱいあるのに
愛されてたとか大切にされてたとかいう話題は
とたんに感情論になってだめになるな、このスレは。
ねねへの手紙で一番おれが驚いたのは社交辞令や美辞麗句とわかりきったことを
いえる人だったんだなってこと。
そんなキャラには思えなかったもんな。
ねねが亭主のことを愚痴れるような雰囲気もあったってことだろ?
変な意味じゃなくてねねのことが気に入っていたんだろうけど、
信長って気に入った女へはすごく優しくてアホみたいに睦言いったり
してたかも、と思えるのだが。
冬姫へあてた手紙なんかもかなり甘々なんだよ。
786 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 08:35:46
信長自身、側室も愛人も持っていた、
だから、ねねに対しても、
そんなことでいちいち愚痴をいうな、というのがあの手紙。
それがなんで、信長が濃姫を一番愛していた証拠になるのか。
信長が、側室、愛人の存在を正室濃姫に認知させ、
濃姫がそれに対して一切愚痴を言わなかったというのはわかるが。
信長は、苦情をいうねねをたしなめている。
男が側室、愛人を持つことを正室に認めさせたのがあの手紙。
>>786 >>信長が濃姫を一番愛していた証拠になるのか。
だ〜れもこんなこと書いてないぞ?
どこに書いてあるのかな?
788 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 09:04:25
手紙は側室、愛人の肯定をねねに命じたものであり、
正室を大切にするという内容とは無関係。
これでいいのか?
ねね書状
「おほせのことく こんとハこのちへはしめてこし けさんニいり しうちやくに候
ことにみやけ色々うつくしさ 中々めにもあまり ふてにもつくしかたく候
しうきハかりに このはうよりもなにやらんと思ひ候へハ
そのはうより見事なる物もたせ候あひた へちに心さしなくのまゝ
まつまつこのたひハとゝめまいらせ候 かさねてまいりのときそれにしたかふへく候
なかんつく それのみめふり かたちまて いつそやみまいらせ候折ふしよれハ
十の物廿ほとももあけ候
藤きちらうれんれんふそくのむね申しのよし こん五たうたんくせ事候か
いつかたをあひたつね候とも それさまほとのハ
又二たひかのはげねすみあひもとめかたきあひた これよりいこハ
みもちをようくわいになし いかにもかみさまなりにおもおもしく
りんきなとにたち入り候てハ しかるへからす候 たたし をんなのやくにて候あひた
申ものゝ申さぬなりにもてなし しかるへく候
なをふんていに、はしハにはいけんこひねかふものなり、又々」
自分は「たたし をんなのやくにて候あひた 申ものゝ申さぬなりにもてなし」の
部分が好きだな。
「(悋気はしないようにと書いた上で)でも女だからそういう事もあるだろうから、
そういうときは、悋気してるような、悋気してないような感じでするといいよ」
って、感じの事を書いているんだが、全くやきもちを焼くなって感じじゃないんだよな。
女性に淡白で、そんな物言いができるものだろうか?と思ってしまう。
自分はこの手紙を見て、信長は気に入った女性にはそれなりに優しいと思ったし、
だから、女性関係の醜聞が表に出てきていない事から、奥の統制がとれていたんだなと思った。
<手紙抜粋>
なかんつく、それのみめふり、かたちまて、いつそやみまいらせ候折ふしよりハ、
十の物廿ほともみあけ候、藤きちらうれん\/ふそくのむね申のよし、
こん五たうたんくせ事候か、いつかたをあひたつね候とも、それさまほとのハ、
又二たひかのはげねすみあひもとめかたきあひた、これよりいこハ、
みもちをようくわいになし、いかにも【かみさま】なりにおも\/しく、
りんきなとにたち入候てハ、しかるへからす候、
かみさま=正室は嫉妬などする必用もなく、堂々としておればいいのだ、
というふうに書いてあるのだから、側室とは立場が違うとあからさまに
書いているも同然。信長の妻妾観のよくわかる手紙だよ。
792 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 09:34:56
つまり、手紙の内容は、
側室、愛人に嫉妬するねねを、たしなめたものなのだが。
信長の側室、愛人たちのことを、
正室濃姫が認知し、愚痴をいわなかったということだろう。
信長は秀吉に側室、愛人を持つなといっているわけでなし(当たり前だが)、
正室はそれを黙って認め、いちいちいらいらするな、といっている。
>>792 >正室はそれを黙って認め、いちいちいらいらするな、といっている。
ちょっと違うんじゃないか?
側室とは立場が違うんだから、気にする必要はない。
でも、気にしてしまうときもあるだろうから、それなら、
嫉妬しているのをあからさまに見せないで、ちょっと見せなっていってるんだろ?
ちら見せの方が効果があるのは、どんな意味であれ、現代の男と一緒だな。
>>792 ねねにだけたしなめているのではなく、秀吉にもこの手紙を見せるように
言っていることからも、秀吉にも正室をないがしろにするなとたしなめて
いるとも思える。
なんで、そんなに断定しているんだ?
>>792 >>正室はそれを黙って認め、いちいちいらいらするな、といっている。
↑
側室などとは立場が違うのだから安心して
を付け加えような
796 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 09:51:15
>>795 信長が、ねねをかわいがっていたのはわかるが、
この文面で「正室だから」ということに信長が
それほどこだわっていたようにも思えない。
そもそも正室も側室も妻であることに違いはなく、
どちらも簡単に離縁などできない。
その点では、側室もまた安泰な地位。
この中で信長が述べているのは、
ねねやきもちをたしなめているという程度のもので、
正室の立場云々というものではない。
>>796 信長が手紙の本文でつかっている「かみさん」とは
正室のこと、つまりねねのことしかさしてないよ。
よく原文読んでる?
>>797 間違えた。「かみさん」じゃなくて「かみさま」だった。
正室が正室だから大切にされたというのは妄想と言う大前提がある人に
何を言っても仕方がないんじゃないの?
正室は別格だと信長が、ねねと、秀吉に書いてある書状だというのは
読解力があれば読める。
ただし、それが「信長正室が愛された証拠」とは別問題とは自分も思うけどね。
>>ただし、それが「信長正室が愛された証拠」とは別問題
だから「信長正室が愛された証拠」とは誰もどこにも書いていないだろ?
抜粋してみろ?君とか
>>786だけじゃん。
勝手に自分たちが思い違いをしておいて、こっちにそうじゃないだろ?と
喧嘩をふっかけてくるなんて、馬鹿じゃねぇの?
801 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 10:20:32
>>797 「かみさまらしく(=主婦らしく)」のこと?
まあ、一家の奥さんとして、嫉妬はほどほどにしよう、
という内容だわな。
信長が、秀吉とねねの夫婦円満を願ったのはわかるが、
まあ、別段、秀吉と側室の仲を隔てるわけでなし、
ねねにみんなと仲良くせいよ、って言う程度のものだろう。
正室を娶らずに側室と愛人しかもたない武将もいたのだし、
仮にねねが秀吉の正室ではなかったならば
信長がこんな手紙を書かなかっただろう、というのは早計。
>>801 ねねの正室としての心構えを教えているわけで、ねねが秀吉の正室で
ないなら、手紙を書くとしてもまた違った内容になっていたんでは?
ねねに正室らしく、秀吉が側室を囲ってもやきもちを焼いたりせず、
堂々としていなさいってことを言ってるんだろ。
信長が秀吉とねねの夫婦円満を願って書いたとしたなら、自分たち夫婦が
円満でないなら別に秀吉夫妻の夫婦の仲を取り持つ必要ないわけだしな。
ねねに諭すにしても、自分の身近な正室である濃姫のように、正室らしく
堂々としていろって言ってるんだろ。
どこをどう読んだら、そんな考えになるのかわからんが。
>>801 ところでねねが側室なら主君の信長と個別に謁見するか?
そこで側室の立場で信長に堂々と秀吉に女好きを愚痴るか?
そんな側室に対して信長が「そなたのような美貌の側室を
はげ鼠はもうもてないだろうに、とんでもない話だ〜」と
手紙を書くか?
と本気で思ってるの?
側室のことを一家の主婦とはいわんわな。
>>801は書いてて苦しいでしょ?
信長に謝れ!
素直にねねをいたわり、優しく諭す信長の誠意を踏みにじって
勝手な解釈ばかりああだ、こうだと。
ねねが愚痴っても、下々の考えることが理解できず信長は悩んだんだぞ。
仕方ないから歯が浮くようなことをいって誉めてなだめ、
亭主をはげ鼠呼ばわりして戒め、なんとかねねの気持ちを晴らしてあげようと
した信長の気持ちを踏みにじるようなことばかり書いて、あの世で魔王が怒ってるぞ!
806 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 10:49:15
>>803 「謁見した」というのは何の史料にあんの?
信長は噂を聞きつけて仲裁に入っただけじゃないの、
ねねが、側室も愛人も持っている主人の主君に、
主人が側室に熱を上げて困っている、と会いに行くほうがおかしいのだが。
正室も、側室も「妻」に違いはない。
仮に、側室との不和であっても、仲裁に入ったと思うよ。
一般的に、側室は正室の存在を知った上で輿入れするから、
不満は先に妻となった正室が大きく持つのだろうが。
>>806 ねねは安土の信長にご機嫌伺いに行ったんだよ。
長浜城主夫人の仕事でもあるわな?
側室にはそんなお仕事できません。
そこであれこれ話しをしている中で秀吉のことを愚痴った。
ねねが信長と謁見したのは秀吉の愚痴がメインじゃない。
だから手紙には、そのときねねが信長のために持参した数々の土産の
素晴らしさのお礼がまず最初に書いてある。
ついでに気にかかっていた秀吉の件も書いたということだ。
信長が家臣の夫婦喧嘩の仲裁、家臣の正室と側室の不和の仲裁に入ったと思うよ
と言い切る
>>806ってていったい・・・
>>806 仮に側室の一人が、秀吉が別の側室に夢中だということで
やきもちをやいたとしても、信長がそれについて手紙を書いたとしても
正室のねねとは側室は立場が違うのだから、全く同じ内容になるとは
思えんがな。大体側室の立場で何いってんだ?と逆にたしなめられるだけだろ?
正室と側室の違いは、先に嫁いでいたという順番ではないんだよ。
正室は家と家との関係で嫁いでくるからな。
側室とは立場が違うんだよ。
それは大前提での話しでないのか?
今更何言ってんだ?
>>806 正室と側室の役割、立場の違いがわかっていないようだな。
どちらが先か後かなんて問題じゃないんだよ。
当時の大名家は基本的に大名家同士でないと婚姻はしない。
正室として娶る場合は同じ大名家でないとしないわけだ。
同盟の証として嫁ぐわけだから、お互い婚姻関係を結ぶことによって、
大きな後ろ盾をもてるからな。自分の家の勢力は弱小でも、他の大名家と
婚姻関係を結ぶことによって大きな勢力を持てる。近隣諸国の敵対している
大名家にも脅威な存在になるわけだ。
そのために同盟を結ぶ相手から正室を娶るわけだ。
仮に正室不在の家に嫁ぐとしても、正室として嫁いだのではなく側室として
嫁いだなら、その家ではずーっと側室のままなんだよ。正室にランクアップする
ことはない。
>>806 >「謁見した」というのは何の史料にあんの?
ねね書状
「おほせのことく こんとハこのちへはしめてこし けさんニいり しうちやくに候
ことにみやけ色々うつくしさ 中々めにもあまり ふてにもつくしかたく候
しうきハかりに このはうよりもなにやらんと思ひ候へハ
そのはうより見事なる物もたせ候あひた へちに心さしなくのまゝ
まつまつこのたひハとゝめまいらせ候 かさねてまいりのときそれにしたかふへく候
なかんつく それのみめふり かたちまて いつそやみまいらせ候折ふしよれハ
十の物廿ほとももあけ候」
この部分だな
側室もなんて言ってる人って、
手紙の原文どころか、訳文すら全部目を通してないんじゃないか?
思い込みだけよくそんな突拍子もないことを書き込めるもんだ。
>>806 大体、先に妻となった正室〜
なんていう表現を用いること自体が、もう現代の感覚だよな。
>>806 正室は、あとからでも正室になり得るんだよ。
継室じゃなく、正室。
側室が先にいて、正室があとから輿入れしてくる事が珍しくも何ともない事だ。
814 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 11:42:48
あの手紙は、秀吉が信長に頼んで書いてもらって、
ねねに遣わしたものだろう、
はっきりいって、家臣の意思を無視して
家臣の家庭内のことに踏み込むはずがない。
たとえ、秀吉がねねを離縁して別の女を妻にしたところで、
信長がいちいち文句を言うと思えん。
信長が秀吉から依頼されて書いたのがあの手紙、
信長は秀吉の妻が誰であろうと、関係ない。
>>814 秀吉が信長に、ねねに手紙を書いてもらうように頼んだというソースは?
それこそ、勝手な妄想ではないのか?
>>814 秀吉がねねを邪険にあつかっても、信長が平気だったのなら、
なんでわざわざねねのことを気遣って、あんな手紙を書いたんだ?
秀吉夫妻の不仲などどうでもいいなら、手紙を書いたりしないと
思うがな。言っていることが矛盾しているが。
あの手紙の中で、信長は秀吉の正室はねねしかいないのだから。といっている。
しかもなんで、秀吉が信長にねねにわざわざ手紙を書いてもらうように頼まなくて
はいけないんだ?
秀吉がねねの気持ちに気づいていたなら、秀吉自らねねに態度で示すべきでないのか。
気づいていなかったから、信長がねねに手紙を書いて、秀吉にも見せなさい。
そして仲直りしなさいと言ったんだろ。
信長が家臣の家庭内のことに踏みこむ気がないなら、ほっておくはずだが。
>>814 秀吉が、ねねになんの落ち度もないのに、ねねを離縁して他の女を正室に
なんてしたら、織田家中から非難ごうごうだろうよ。
秀吉がねねと婚姻を結んだ時は、圧倒的にねねの方が身分が上だったんだよ。
しかも二人の結婚は反対されていたというから。
なのに秀吉がちょっと出世したからって、ねねを離縁して他の女を正室に
なんてことしたら、それこそ誰も秀吉に協力してくれる人がいなくなって
しまうだろ。
>>814 さっきから一体何をケチつけてんだ?
信長が、ねねを気遣って手紙を書いたのがそんなに気に入らないのかよ。
信長が、秀吉がねねを離縁しても文句いわん〜なんてよく断定できるな。
ねねの実家から文句が出るに決まってるだろ。
819 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 12:30:14
信長が家臣の夫婦関係に言及した手紙なんてこれだけ。
ほかに家庭内に踏み込んだ例は残ってない。
信長は、秀吉からの頼みでもないのに、
一方的に他人の妻に仲裁の手紙を送ったとでも?
家臣の結婚、離縁に主君はいちいち首を突っ込まないよ。
部下の離婚に会社の上司が首を突っ込まないのと同じ。
戦国大名同士の離婚、再婚とは別。
庶民や武士レベルで、不仲になって離婚、なんていくらでもあった、
そんなことにいちいち首など突っ込まない。
>>819 何言ってんだよ。当時は家臣の縁談なども当主が相手を見つけてきたり、
世話したりするのが一般的だったんだよ。裏切りや謀反が起きないように
二重も三重にも婚姻関係を結んでいた。
>部下の離婚に会社の上司が首を突っ込まないのと同じ。
それこそ現代の感覚だな。戦国時代の武家の話と、現代の会社の話とは
まるで別問題だろ。なんで一緒くたにしているんだ。
秀吉がねねになんの落ち度もないのに、急に離縁しようとしたら、それこそ
真っ先に謀反の疑いをかけられるだけだろ。これまで秀吉が身をすらして、
信長に仕えてきたのに、そんな馬鹿なことするわけないだろ。
>信長は、秀吉からの頼みでもないのに、
一方的に他人の妻に仲裁の手紙を送ったとでも?
だから、秀吉の頼みであるというソースを出せよ。
お前の単なる妄想でなくな。
>>819 人には断定するな!
と言っておいて、自分は何の根拠もないのに断定してるだろ?
なんでそんなにこの手紙にこだわるのか全くわからんが?
822 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 12:54:21
秀吉とねねの結婚は信長の仲裁?
信長は秀吉とねねの媒酌人?
残念ながら、違うな。
この頃、庶民や武家レベルでは、離婚、再婚は多かったんだよ。
秀吉自身、25歳で初めて結婚しとするには遅すぎるとして、
その前に結婚、離婚の経験があるんじゃないかと推測する人もいる。
秀吉とねねの結婚は、大名間の政略結婚というものではない、
むしろ、庶民や下級武士の間で行われていた、一夫一妻の見合い結婚に近いもの。
ねねは秀吉がそんなに出世するとは思わず、
生涯一夫一妻を貫いてくれると信じていたかも知れない。
大名の娘に生まれ、大名に嫁いだ濃姫とは全く別次元。
だから、秀吉とねねが婚姻を結んだ頃は足軽クラスだったから、
側室問題など起こらなかった。庶民や足軽クラスなら側室を
囲う余裕などないからな。しかし、秀吉が出世するにつれて
側室を囲う余裕が出たきた。だからねねと衝突したんだろ。
誰も庶民や足軽クラスの婚姻関係を問題にしているわけではないのだが。
信長がねねに宛てた手紙は、ねねの正室としての心がまえと役割を教え、
秀吉には一国の城主としてのたしなみを教え戒めたともいえる。
お前らも今までのような足軽クラスでなく、一国の城主の主人と夫人として
ふさわしい行動をとらないと、家臣が誰もついていかないぞ。
と遠まわしに忠告しているのだろう。
秀吉にしか信長が夫婦喧嘩の仲裁の手紙を書かなかったとはわからないが、
他の家臣にも書いたかも知れないが、残っていないだけかもしれないし、
しかし、他の家臣は少なくとも秀吉の家みたいに側室もんだいで揉めることが
なかったともいえるのではないか。
文末に?をやたらつけるクセのある、感情的な常連さん。
自分と違う意見や反論にいちいち切れて、見苦しいよ。
結局、正室が大切にされていたという意見が気に入らないやつって
生駒が一番愛されたに違いないという思い込みからだろ。
なんで、ねねに宛てた手紙まで、正室のねねを立てている内容なのに
側室にも同じことを書くなんて妄想するんだ?
まあ、何をどう妄想しようが当人の自由だがな。
あまり断定的に書き込むのはやめたほうがいいな。
自分の思い込みの強さや偏見に気づかない馬鹿ほど
実は妄想と断定のかたまりかも・・・
827 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:42:21
>825
「生駒が一番愛されていた」なんて、誰も言ってないのにw
「濃姫が一番愛されていた」と思いたがりやの濃姫厨の常連さんw
日本史板では、感情論は不要。
828 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:47:29
>>823 ほかの武将が誰一人側室問題でもめなかったなんて嘘だろう。
信長が一人ひとり家臣の妻を呼び出して、
正室の心構えを諭すような暇人だったとも思えない。
手紙の主が信長の妻濃姫ではなく、信長自身だったことも一つ。
正室の心構えの講演会など、妻に任せておけばよし、
濃姫はおそらく家臣の妻の前になど出ない姫君だったのだろうが、
それを抜きにしても、信長自身仲裁に入っているところに、
秀吉の動きを感じるわけだよ。
ねねが信長に体面する機会など、
信長とともに戦地を飛び回る夫秀吉の非ではない。
もう無理やりの反論というか、反論のための反論になってきてるなw
>>828 >信長が一人ひとり家臣の妻を呼び出して、
別に信長がねねを呼び出した訳ではないだろう。
>それを抜きにしても、信長自身仲裁に入っているところに、
秀吉の動きを感じるわけだよ。
秀吉が仲のいい同僚に仲裁を頼むならわかるが、なんで主君にそんなこと
頼まないといけないんだ。それこそ、雷落とされるだけだろう。
わかってるなら自分からねねにあやまるなりしろと。
いちいちそんなことで俺を使うなと怒られるだけじゃないのか。
まったく根拠がないな。
他の武将が側室関係で揉めたか、揉めなかったかはわからん。
たとえ揉めても信長の耳に入らなかっただけかも知れないしな。
ねねだって、わざわざ信長のことに出向くのにしても、秀吉の愚痴を
言いに行ったわけでなないだろうしな。世間話をしているうちにぼろっ
と出てしまったのだろうし。
なんで秀吉が頼んだことにしたいのかわからないな。
832 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 19:33:05
夫婦喧嘩の仲裁を、ねねが信長に頼むほうが不自然だろう。
普通は、男の味方をするからな。
ねねの機嫌を損ねないよう気を使ったあの文章は、
秀吉が絡んでいると見るのはそのため。
ねねが信長の前で夫婦喧嘩の愚痴を言ったりして
信長や秀吉の機嫌を損ねたら、下手すりゃ離縁されるだろう。
ねねは、そこまで馬鹿ではない。
>>827 別に誰も濃姫が一番愛されていたなんて言っていないだろ。
何なんだよ。
>>832 別にねねは仲裁を頼みに行ったのではないはずだがな。
ただ、ねねが思わず愚痴ってしまったのではないか。
信長に会いに行った時に秀吉とうまくいっておらず、ねねが元気がなく
それでどうしたのかと信長に聞かれたのかも知れないしな。
信長が男の味方をするなら、あんな手紙を出すわけないだろ。
話を聞くだけ聞いて、別にほおっておけばいいだけ。
秀吉にも見せろと戒めの手紙を出すわけない。
秀吉が信長にわざわざ夫婦関係がうまくいってないなんて、
いう方がおかしいだろ。それこそ、何やってんだと怒られるだけだと
思うがな。
だけどなんでねねが愚痴をいったぐらいで、離縁されなきゃいけないんだ。
それこそ妄想だろう。
なんでそうも無理に秀吉がからんでいることにしたいのか理解できないがな。
根拠は全くない妄想だけど、ねねの愚痴はあからさまな秀吉非難というより
「秀吉も上様を見習って欲しいわ」みたいな信長ヨイショを含んだものだったんじゃないか。
信長も「以前に会った時より綺麗になってるね」とか歯の浮くようなお世辞書いてるし
信長が上機嫌になるほど持ち上げたんじゃなかろうか。
>>835 それはあったかもね。ねねは贈り物をもって信長のとこに出向いた
訳だし。主君の機嫌をとるのも夫人の役目だしね。
>834
信長は、手紙で、ねねに「お前は正室なのだから何があっても大丈夫」
だとは言ってないんだね。
信長は、お前は剥げ鼠にはもったいない美人なのだから大丈夫、
と専らねねの容姿をほめているんだね。
正室だから大丈夫なんていう話は一切していない。
この時点で、秀吉はねね以上の正室を娶る可能性も捨て切れず、
当然に離縁の可能性もあった、
信長は、ねねが正室だから云々の話をしているんじゃないというのが
まだわからんのだろうか?
まあ、人間褒められたり物をもらったりして機嫌が悪くなる人は
いないからな。
誰か一部に無理やりな反論をしている椰子がいるな・・
>>835 そう考えると、信長ってけっこう乗せられやすい性格だったのかもね。
だけど、この時代の人って面と向かって色々いい聞かせることよりも、
大事な話などは手紙にしたためて・・・ということが多かったのかもね。
>>837 >>いかにもかみさまなりにおもおもしく
かみさま(正室))として堂々と構えて〜と
とはっきりねねは正室だからということを前提に信長は書いているのだがな?
だけど、ねねが信長の手紙を大事にもっていたってことは、信長の細やかな気配りに
かなり感激したんだろうなって気がする。
あの禿ねずみには、そなた以上の女房はもらえないのだから。
秀吉の正室はねねしかいないのだから、と言っているんだよね。
だから、堂々としていなさいと。
やきもちを焼くこともあるかもしれないが、あまり表に出さずにいなさい。
って、主君信長が味方になってくれたらやっぱり嬉しいよね。
ねねは、以後も側室のことで、嫉妬を感じることがあったらその都度、信長からの
手紙を読み返していたかも知れないよね。
以前にも信長が女性に対して淡白という意見もあったけど、ねねへの女性への細やかな
気配りをみても、それほど関心がなかったようには思えないな。
信長は自分の正室や側室に対しても、お互いが妬いたり揉めたりしないように気を配って
いたような気がするな。
一人、戦後の言文一致政策前の書状の解釈の基本が分かっていない人間がいるな。
844 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 21:49:02
信長がねねに「あなたは正室なんだから、カリカリせずにどんとしておきなさいよ。
ヤキモチ焼いちゃう時はあるにしても、オープンにしない方がいいかもよ」
的な手紙を出し、正室としてのありようを説いた事は手紙のままなんだろうけど、
それを自分たち夫婦みたいに円満にとか、濃姫みたいに立派な正室に・・・みたいな
意味合いがあったと解釈する
>>802は気持ちが悪い。
現代だって他人事でが正論吐く奴が自分ごとになるとわけわからん事してるなんて
多々ある話だし、信長がねねに正室としての理想的な心構えを手紙にしたためた事と
自分の奥さんとの関係がどうだとか、奥さんがどうしたとかは多分関係ないだろうと思う。
手紙の内容を見ても、「前より綺麗になったね」なんていうリップサービスが
あるくらいだし、多分パフォーマンス的な要素が強い手紙だったんじゃないかな。
秀吉に見せて反省させろっていうのも冗談めかしてるような感じだし、
信長の説いたものは当時の正室の理想的なありようだったとは思うけど
心の底から、本気でそう思って書いていたってわけじゃないような気がするんだけど・・・。
正室だからどうだとか側室だからどうだとか
そういう話題でなければ良スレなのにねえ・・・。
それにしてもこのスレなんでこんなに伸びてるんだ。
ねねへの信長の手紙の内容を考えると、信長も女性は妬くものだと認識していたんだろうな。
「かみさまらしくどうどうと〜」
って以前に濃姫にも同じことを言ったりしたのかなって想像してしまう。
それとも濃姫は武家のしきたりがわかっているから、妬いたりはしなかったのかな。
>>844 あなたは、信長が、自分がやった事を棚上げして書いたとしたいみたいだけど、
それ以前に、信長が同じ事をしていたら、ねねの訴えは主君批判になるって分かってる?
主君批判にならないから、ねねは訴える事ができるって分かってない時点で、駄目だと思うよ。
信長が心に思っていないことを自分の部下に書くとは思えないけどな。
ねねのみにだけ、正室の心得を教え諭したとは思えないし。
信長は濃姫にだって、ねねのような愚痴をこぼしたら、同じように正室として
堂々としてと諭したと思うけどな。
自分の身近な正室が、妬いたりせずに堂々としているからこそ、信長がねねに
諭すことができたと思えるんだが。
秀吉夫妻の円満を願っているからこその手紙だろう。信長夫妻が円満でなくそれ
で良しとするなら何もわざわざ秀吉夫妻の為に手紙などしたためる必要はなかろう。
それに
>>844の気持ちが悪いって何だ。人の意見に対して失礼だろ。
なんで夫婦円満だと解釈して気持ちが悪くなるんだよ。
自分達夫婦が仲悪くて最悪だった。だから部下の夫婦喧嘩にはほおっておいた。
っていうのがいいのかよ。
すごーく感じ悪いよ。
>>844 何だ、結局お前は正室に妬いているだけなんだろ。
みっともないぞ。
>>847 それ以前に、せっかく手紙の原文を
書いてくれてる人がいるのに
読みもしないで、
「会ったって史料は残っているのか」って
火病ってる時点で駄目じゃないの?
1行目から、会ったときの話しが出てくるのに
手紙の内容を知らなかった事が丸分かり。
そして読んでもない事も分かる。
もしかしたら、現代語訳になってないと
読めないのかも知れないが。
他人の話しを理解する気なく、
勝手に持論を展開しているだけの人間は
その時点で放置するべきだったんだろうな。
852 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:24:02
>>847 別にそんなこと一言も書き込んでないよ?
勝手に人の意見を自分の脳内で変換しないでください。
私は別に信長が正室ほったらかして側室大事にしていたけど
ねねに言う時は自分のこと棚に上げてたなんて思ってませんよw
ただ濃姫を大切にしていただの夫婦円満だっただのが、直接ねねの手紙とは
繋がらないと言いたいだけ。
この時代の正室の理想のあり様をねねに諭しているだけで、
それが自分みたいに夫婦円満にだとか、濃姫みたいに立派な正室に・・・
なんて含みはなかったと思うけどね。
その理由として「自分の事を棚にあげて人を諭す人もいる」といいたかっただけ。
自分が理想的模範じゃなかったら、部下の妻を諭せないわけでもない。
しかも手紙の内容からすると、ねねをおだてて「まぁまぁ、ここはひとつ穏便に」
と言ってるようなものだし別に自分が模範でなくても言えること。
信長と濃姫夫婦円満であったらいいなぁとは思うけど、
ねねの手紙で信長夫妻が夫婦円満だったとか、濃姫が立派な正室だった
なんてことは一切わからないよ。と言いたいだけなんだけどね。
>>846 濃姫にも異腹の兄弟姉妹がたくさんいたし、側室を持つ事の意味も
理解していたろうし、その環境が当たり前として育っていただろうしな。
みんなエキサイトしすぎ。
ねねがどの程度愚痴ったのかもわからないのに。
もしかしたら
「秀吉殿が私に子供ができないので側室をもつようになりまして・・・」
寂しげに言っただけかもしれないよ。
ねねが信長の前で感情露にしたとも思えないし、普通に考えたらただの家臣の妻に
すぎないねねがそんな無礼な態度をとるはずもない。
側室への嫉妬を諌めたというより、後継ぎを生めないことを不安に思うねねに
なんの心配もいらないよ、と配慮してくれたような気がするんだけど。
854 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:25:38
>>849 残念でした。
正室と側室だと正室の方が惹かれる人物が多い。
>>850 なんか勘違いされてるけど、自分は
>>844が今回はじめての書き込みね。
>>852 >信長と濃姫夫婦円満であったらいいなぁとは思うけど、
ホントにそう思うなら気持ち悪い〜の発言はないだろ。
人の意見に対してなんだよ。
信長夫妻が夫婦円満ではなかった、しかし秀吉夫妻には手紙を書いた。
って書けばいいのかよ。自分の気に入る意見じゃないからってちょっと
わがまますぎるんじゃないか。
しかも誰も立派な正室〜なんて表現はしていないだろ。
自分こそ勝手に解釈してるんじゃないか。
信長夫妻が円満でないなら、秀吉夫妻が仲悪くてもほおっておくだろう。
でも秀吉夫妻が円満にとの思いで、手紙を書いたんだろう。
だから信長夫妻も円満だった可能性が高いと言ってるんだよ。
それに信長は奥のみだれになる話は一切伝わってない。
当時の文献に書かれた逸話も無い。そのことを見ても奥の統制がしっかりしていた
と言えるんだよ。
857 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:45:23
>>855 本当に思ってるけど、気持ち悪いんだよw
濃姫は好きだし、武功が有名になった時濃姫は離縁されただとか
そういう事になってちょっとショックだったしね。
濃姫は好きだし、生涯信長の正室にあったとしたらそれはすごく嬉しいけど(個人的に)
でもここの濃姫マンセーぶりは歴史上の考察ってよりも
二次元同人サイトのノリっぽくて気持ちが悪い。
信長夫妻が円満でないなら何故秀吉夫妻をほっとく理由になるの?
全ての事柄を濃姫に結びつけようとしたりするのはどうかと思うよ。
可能性だけならいくらでも言えるよ。
んなもんこの前やってたテレビ東京の新説だって「可能性」としてなら
いくらでもいえる問題。それと何ら変わりないよ。
>>854 パソコンだよw
携帯で書いてたらこんな早く長いレス無理でしょw
>>852 >この時代の正室の理想のあり様をねねに諭しているだけで、
>それが自分みたいに夫婦円満にだとか、濃姫みたいに立派な正室に・・・
>なんて含みはなかったと思うけどね。
なんでそう言い切れるんだ。
お前こそ信長の手紙をろくに読まずに、勝手に解釈してんじゃないか。
信長夫妻がそんなに仲悪かったことにしたいのかよ。
何か無理に濃姫のことを悪いように解釈してないか。
そうじゃないというなら、こんな意見は出ないはずだが。
しかも気持ち悪いとかなんとか。
お前、はっきり言って、濃姫に嫉妬してるし、嫌いなんだろ。
だからねねの手紙についても必死で、正室のことじゃないとかなんとか
文句たれてんだろ。
大体、信長夫妻が円満であったとは言えないとかなんとか。
それって信長夫妻が始終仲悪かったっていいたいのかよ。
それこそ妄想だろ。
また実際信長夫妻が仲悪くて最悪だったなら、もっとそういう話が伝わってるさ。
信長の奥のみだれの噂も色々流れたろうし。
でも実際は全く信長の奥のみだれた話は伝わってない。このことをみても、信長は
奥のみだれに繋がるようなことはしなかったといえるんだよ。
もし秀吉のねねへの手紙が残っていなかったら秀吉夫婦も仲が良かったという
説に疑問をもつやからた多かったろうな。
子供はいないし、秀吉は信長と違って淀殿、京極殿という寵を争った側室もいたし、
秀頼親子に追い出されるようにねねは大阪城を出たし。
>>857 そんなに気持ちが悪いならもうこなきゃいいじゃん?
反論を読んでいちいち反論しているのはなぜだ?
そういう君の粘着質なところが一番気持ち悪い。
>>857 じゃあお前の意見も気持ち悪いよ。
ろくに原文も読まないで変なレスして、恥ずかしくないのかよ。
可能性や憶測で物を言うなってか。じゃあお前の妄想はなんなんだ。
信長が自分ができないことを部下に命令してるってか、それこそ憶測じゃないか。
>>ろくに原文も読まないで変なレスして、恥ずかしくないのかよ
というか、原文を読めないんでしょw
本当に恥ずかしいやつだ。
863 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:56:38
>>858 あなた私のレス読んでる?w
信長夫婦が仲悪い事にしたいなんてどこに書いてありますか?
ちゃんと読んで理解してください。
濃姫のことを悪く解釈はしてないつもり。
よく解釈しようとも思わないだけ。
資料から読み取れることだけを調べてわかればいいと思ってる。
ねねの手紙について正室じゃないとかどうの言ってたのは
もうとっくにこのスレ落ちてるでしょ。
二度言わせないでよ。私が今回レスしたのは
>>844が初めてです。
なんかあなた悪く悪く解釈して荒れる様に仕向けてない?
濃姫嫌いな人間が痛い発言繰り返して、濃姫好きは理解能力0って事を
言いたいように見えるよ。。。
私は一度も濃姫と信長を仲悪かった事にしたいなんて書き込んでないし、
大体なんで戦国時代のお姫様に現代の一般庶民が嫉妬するんだよwww
>>859 ちょっと目からうろこ。
確かにねねへの秀吉からの手紙が残ってなかったら、
現実問題見つめれば仲がよかったという説に疑問を投げかける場合もあるかもしれないね。
現にこの前やってたテレビ東京のクソ番組では、ねねが悪妻だったしw
864 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 23:00:41
>>860-861 濃姫好きだから来てるんですが?w
それともここはあなた方のように全ての事柄を濃姫に引っ掛けて
「可能性あるよね〜」って意見に同意しなきゃいちゃいけないんですか?
自分たちの意見と馴れ合わない意見を出す人間全てを生駒厨扱いして
そんなに自分たちの価値観と同じ意見の人間同士で、馴れ合いしていたいの?
>>862 読んだ上での意見だったんだけどねw
>>857 「濃姫は好きだけど・・・」が枕詞の人か
>>863 気持ち悪いならもう帰れよ。
こなくていいぞ。
>>864 ホントに濃姫好きなら、もうすこし言葉づかいに気をつけたら。
さっきから批判のための批判しかしてないし。
「濃姫は好きだけど」の人と、やたらと三条ヲタを引き合いに出す人とは別人?
869 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 23:10:05
>>866 へー。ここはあなたの所有スレだったんですね。
濃姫スレじゃなくて、濃姫大好きな俺様が濃姫を語るスレとでもスレタイ変更したらどう?
自分と同じ意見に同意できない人間は全て生駒厨、濃姫嫌い、正室嫌い
何でそう思うのかが不思議でしょうがない。
濃姫好きだとしても、ここの意見全てに同意できないなんて当たり前だろうに。
それも秀吉に頼まれて信長がねねに手紙かいた・・
それこそ単なる憶測。
871 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 23:12:25
>>867 あぁ、言葉遣い悪かったのは謝る。
なんか自分の意見と同意しない人間はこのスレに居場所ないみたいな
空気が嫌だったからムキになった部分ある。
すみません。
>>868 「濃姫好きだけど」の人が自分なら、別人。
三条も興味ある人物だけど、このスレで(というかこの板で)三条の話題出した事一度もないや。
三条話題出した事あるのは大河のMVPスレくらいじゃないかなw
みんな釣られ過ぎ。
少しはスルーしようよ。
ちょっと気になっている事があるんだけど、
総見院殿追善記に、信房(勝長)の事が出てこないから
秀吉はなぜ信房の事をスルーしたんだろう?って
何スレか前に書かれてたと思うんだけど、
二条御所の場面で、「御舎弟御坊織田又十郎」って表現がある。
二条御所は信忠を中心に描いている場面なので、
御舎弟の御坊というのは、信房の事なんじゃないのか?
原文は、区切りが曖昧だったように覚えているんだが、
織田又十郎長利のと事を御坊としているとは思えないんだが。
本当は「御舎弟御坊 織田又十郎」と書かれているのを、
間違って長利の事を御坊としている可能性はないんだろうか?
あとで、信忠が切腹する場面で、
「信忠御兄弟御腹巻をめされ」と一文があるんだが、
二条御所にいた信忠の兄弟は、信房しかいなかった筈なんで
スルーされている訳ではないと思うんだが。
873 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 23:13:26
>>870 私そんなこと一度も書き込んでませんよ?
私へのレスじゃないなら、勘違いはなはだしくてすみません。
>なんかあなた悪く悪く解釈して荒れる様に仕向けてない?
濃姫嫌いな人間が痛い発言繰り返して、濃姫好きは理解能力0って事を
言いたいように見えるよ。。。
ここ何気に同意w
>>873 さっきまでの人が君と入れ替わるようにいなくなったから、同じ人だと思われてるんだよ。
とりあえず、以前に携帯で長文書いてると言ってた人とも、三条ヲタが口癖の人とも
さっきまでの人とも別人だってことなんだね。
このスレ面白い人が多くて楽しいなw
>>872 そうだよね。スルーされているとは思えないけど。
でも御坊が勝長のことなら、もう元服して信房という名前をもらって
いたのになぜに御坊と書かれてしまったのか。
信房になってからも、信房の名で書状などを発行しているらしいし。
勝長についても謎が多いね。
>>874 >御舎弟御坊織田又十郎
「御舎弟御坊」「織田又十郎」と読める可能性も十分あるね。
ただ、ちょっと話それるんだけど疑問なのが信忠には尊称なしなのに対して、
その下の兄弟に「御」をつけるかなぁという疑問が・・・。
かといって信長の兄弟(長利)に「御」をつけるのに疑問がないかと
言われたらちょっとわからないんだけど・・・。
878 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 23:53:23
>>875 あぁ、なるほどね。
さっきまでの人、私間違われて迷惑なので否定してくださいw
三条オタなんてこのスレいたっけ?w
だが、
>ねねに諭すにしても、自分の身近な正室である濃姫のように、正室らしく
堂々としていろって言ってるんだろ。
これのどこをどう読んだら、
>濃姫みたいに立派な正室に・・・みたいな 意味合いがあったと解釈する
>>802は気持ちが悪い。
の意見が出るのか不思議だ。
ホントに濃姫好きの意見とは思えんが。
>>802 は別に立派な正室に・・・なんて一言もいってないのにな。
勝手に解釈してるのは、
>>844の方だと思うがな。
>>844の勝手な解釈の方が逆に気持ち悪い。
おいおい、せっかく話題を変える為に、
史料を提示してくれている人がいるのに
いつまでも引っ張るなよ。
別人だっていってる事だし、その真偽は
IDも出ないんだから、本当か嘘かは分からんし
それぞれが胸の内で解釈すりゃいいだろ?
もういい加減にしとこうぜ。
濃姫が好きだというなら、ここは濃姫好きが来るところだし、
違う意見を言うにしてももっと表現とかやわらかくできないのかね。
やたらと興奮状態で、相手を怒らせるようなレスが多いよな。
ここを読んでると、濃姫贔屓の中には
こんな下品なのがいるんだと、残念な気持ちになります。
>「大切にされていた」と思っていたかどうかなんて疑わしい。
それこそ憶測。
>現代だって他人事でが正論吐く奴が自分ごとになるとわけわからん事してるなんて
>多々ある話だし、信長がねねに正室としての理想的な心構えを手紙にしたためた事と
>自分の奥さんとの関係がどうだとか、奥さんがどうしたとかは多分関係ないだろうと思う。
それこそ憶測。
>手紙の内容を見ても、「前より綺麗になったね」なんていうリップサービスが
あるくらいだし、多分パフォーマンス的な要素が強い手紙だったんじゃないかな。
これも憶測だな。
>秀吉に見せて反省させろっていうのも冗談めかしてるような感じだし、
これも憶測。
>信長の説いたものは当時の正室の理想的なありようだったとは思うけど
>心の底から、本気でそう思って書いていたってわけじゃないような気がするんだけど・・・
>人間自分が大した人間でなくても、他人には厳しいものを求めたりするし。
憶測ばかり。
信長の手紙を「濃姫と比較して」とまでは言いきれないと思う人がいるのは
仕方がないと思う。
濃姫のことを念頭において書いたとしても不思議ではないが、
それが事実だったとしても臆測の粋だ。
一般論として信長が「正室なんだから〜」と書いただけ、にとどまらせて
おいたとしても、濃姫との関係が不和であったという証拠は何一つないのだから
結果的に濃姫も一般的な正室像であったのでは、夫婦円満だったのでは、
ということにつながっていくのだから、それをみんなに認めさせずとも、
思いたい人がそう思っていればそれでよいのではないか?
>>884-888 しつけーよ。
終わった話題に、お前のほうこそ粘着だw
>>889 同意。俺は濃姫をことさら盛り上げすぎるのもいかがかと思う。
少し前に濃姫を悪いように解釈するなみたいな意見があるが、良く解釈する必要も俺はないと思ってる。
資料から読み取れるあるがままをそのまま受け止めるだけで十分なんじゃないかね。この板、史板なんだし。
“愛されていた・大事にされていた・夫婦円満だった・仲睦まじかった”
これらのことは資料にはかかれてないし、信長の手紙も残されているわけじゃない。
こういう事を自分の意見として「こうだといいな」というものならともかく、
「この可能性がある」「こうに違いない」この発言があるから「大事にされてた」側も
「そういう風には憶測できない」側も荒れるんだと思うんだが。
もう感情論での書き込みは荒れるもとだからやめようや。史板に感情論は本来無関係だしな。
>史板に感情論は本来無関係
同意同意。
信長は2歳の頃から、母親と引き離されて育ってるんだし、一般的な理想の正室像を
部下に語るのに、一番身近な正室を引き合いに出したと考えられるのは自然だと思うがな。
まあ、信長の生涯で身近に接した正室が数多くいたというなら話は別だが。
ねねは愚痴ったというほどのことも言ってないんじゃない?
近況報告の時に「側室のことで秀吉と諍いがありました」
「もういやになってしまいますわ!」程度で。
それもネタのように面白おかしく語ったのかもしれない。
本気で嫉妬あらわにそんなことを信長に語るわけないって。
それに対して一応信長も、社交辞令の一貫で「気にすんなよ」
とかえしただけでは?
ねねは信長のご機嫌伺いに訪れたのだから、双方ともかる〜い会話でしか
なかったように思えるな。
いくら出自の低いねねだって城持ちになった秀吉に
後継者がいないことのことの重大さは理解できたはず。
あの時代に生きた女性なんだから、家の存続の大事さ、
側室の存在意味だってわかってたろう。
本気で悩むとしたら、側室をたくさんもつようになっても子宝に恵まれない、
ということでなきゃおかしい。
原文だけじゃ、内容の解釈ができないなら、
せめて現代語訳を読んでからきてくれ。
史板なんだから、文献を読めると思って、こっちは話してるんだ。
>>893 ねねが秀吉と揉めたのは、もしかしたら秀吉が側室に夢中ということ
よりも、秀吉の側室の一人に子供が出来たとかで、秀吉がねねの立場
を危うくするほどに子供とその生母を溺愛し出したのかも知れないな。
確か、長浜時代に秀吉に南殿という側室が子供を産んでいるんだよね。
それで、ねねが疎外感をもったために秀吉と喧嘩になったのかもな。
信長との会話も、秀吉が子供が出来たらしいと聞いていたので、ねねに
子供が出来てよかったなと言ったところ、ねねが自分に出来ない子供が
別の側室に出来たので自分の存在価値がないのではないかと不安の心情
を信長に語ってしまったのではないかな。
896 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 09:42:37
信長のねねに対する手紙が、
ねね=濃姫
だと脳内変換する人がいるのが不思議。
そこに濃姫の姿が投影されていた、なんて考えすぎ。
だから、必死になる人がいるのだろうけどw
>>896 そんなふうに勝手に変換されては困るな。
ねね=正室→一般的な大名正室→濃姫
ということなのに。
ねね=濃姫 と短絡的に解釈しているのはほんの一部の暴走組で、しかも
手紙の内容をまともに読んでもいない連中。
「かみさまんりに」と文中にあるのに側室の話まで持ち出すやつもいたし、
そういう連中のことは反論しないのか?
読んでいてそっちの方はおかしいとおもわんのか?
898 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 09:57:25
>897
いやいや、その考え方が短絡的。
あの手紙の内容から、
ねねに正室としての振舞い方をアドバイスする→
一般的な大名の正室としての振舞い方をアドバイスする→
濃姫の正室としての振舞い方をアドバイスする
って飛躍しすぎだろ。
あの手紙の内容から、
信長にとって濃姫はまこと理想的な正室であった、
だからそのことをねねに伝授した、
ってそこまで判断するのは行きすぎ。
信長は自分の妻の話など、一切出してきてないんだから。
>信長は2歳の頃から、母親と引き離されて育ってるんだし、一般的な理想の正室像を
>部下に語るのに、一番身近な正室を引き合いに出したと考えられるのは自然だと思うがな。
>まあ、信長の生涯で身近に接した正室が数多くいたというなら話は別だが
の意見もあるとおり、自分も信長が一般的な正室をイメージするとしたら、
自分の身近な正室=濃姫と考えるのは自然だと思うな。
別に濃姫が立派な正室だったとは自分も断定できないけど、信長が自分の母親と
引き離されて育ったのは事実だから、一般的な正室=信長母とイメージしたとは
考えにくい。
しかも濃姫以外に今のところ信長の正室になった人物は浮かんできていない。
だとすると、一般的な正室=濃姫をイメージしても別におかしくはないんでは。
大体、信長が一般的な正室をイメージするのに、他家の大名の正室をイメージした
と考えるほうが不自然。
なんで、それが短絡的と言われるのか理解できない。
しかも濃姫が愛されたとか正室として大切にされたとは思えない的な発言まで
飛び出すし。別に誰もねねへの手紙の内容が直接濃姫を正室として立派だったとか
解釈していないと思うが。
なんで一方的に濃姫を否定する書き込みをするのかわからない。
>>898 濃姫の正室としての振舞い方をアドバイスする
こんな箇所あったっけ?
濃姫だって大名家に生まれた大名正室なんだから、信長が頭の中からその存在を
まったく切り離すというのも不自然じゃないか?
濃姫との関係も前提にあったのでああいう手紙を書いたんだろうという意見だって
読んでるほうもそれが絶対正しいなんて思ってないよ。
参考までにそういう見かたもあるな、思う程度の人がほとんどだろうに。
歴史検証なんだから、ある程度踏み込んだ臆測はあって然るべきだと思う。
書いてないから可能性がゼロと結論付けたら全ての歴史検証が行き詰まってこないか?
納得はいかない、気持ちが悪いと思ったら、可能性としてそういうこともあるな、
と聞き流したっていいと思うがな。
反論をしつこく書いたところで荒れるだけ。
絶対違うといいきれるだけの証拠でもあれば別だが、それは信長本人に聞くしか
ないから証拠の提示のしようがないだろ?
901 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 10:19:21
むしろ、信長の「理想の正室像」はほかにあって、
それを自分の嫁である濃姫に説教していたように思うがな。
信長ほどの奴なら。
まあ、俺の意見だから、必死に否定してこんでいいが。
あの手紙の中に濃姫のことは一切出てこない、
それなのに濃姫マンセーの材料に使う奴が多いのに
驚いただけだよ。
信長は嫡男として2歳のときから教育係りをつけられ、親とも別の城で
育てられたから、一般的な正室をイメージするのに母親をイメージした
とは考えにくいんだよ。
しかもいくら嫡男として英才教育を受けていたとしてもそれは当主として
の教育だろうし、一般的な正室としての教育を男である信長が受けていたとは
考えにくい。
だとすると、ねねの手紙にある一般的な正室は濃姫をイメージしても別に
おかしくないんだよ。
濃姫がねねのように、側室に対して妬いたとしたらねねに諭したように
濃姫にも諭したことも考えられる。
なんでそんなに信長の心の中から濃姫という存在を追い出したいのかわからないな。
903 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 10:20:50
ねぇ、もうねねの手紙の話題やめない?
信長が理想の正室像をねねに、身近な濃姫を模範に諭したとももちろん考えられるし
逆に濃姫が嫉妬するような妻だったから反面教師に理想を語った可能性も考えられるし。
濃姫とか別に意識せず、この当時の理想的正室を語っただけの可能性もある。
可能性だけならどれだけでもあるし、ねねへの手紙に濃姫みたいになれよ!とか濃姫みたいになるなよ!とか
書かれてないんだし、その辺はどちらの意見も『有り得る』ってだけのただの脳内乙!な気がする。
どっちの可能性も同じだけあるんだし、不毛な言い合いだよ。
>>901 別に誰も濃姫マンセーなどしていないが。
905 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 10:28:04
>>902 たとえ、信長が母親から隔てられてそだったからって、
理想の妻像ぐらいあるだろう。
自分の嫁に女のことで嫉妬されれば、
ほかの大名を見ろ、みんな側室ぐらいもってるんだぞ、
と反論したくもなる。
部下の嫁に説教もしたくなる。
あの手紙から、信長の夫婦仲を投影はできんよ。
903の言うとおりだが。
>>905 濃姫が側室のことで嫉妬したかどうかなんて、それこそ憶測じゃないか。
なんで勝手に決め付けているんだ。
そっちこそ勝手な妄想を言っているだけのように思えるが。
嫉妬していたかもしれないが、していなかったかも知れないしな。
濃姫が本当に理想の正室だったかもしれないが、そうでなかったかも知れない。
夫婦仲も良かったかもしれないが、悪かったかも知れない。
どっちにしても憶測でしか語れないのだから。
もう反論のための反論はやめてはどうか。
信長は嫡男教育を受けているから、その過程で大事な妻妾のあれこれを
教わってるはずだよ。家の繁栄に関わる重要事項だからな。
古典から正室のあるべき姿、側室の存在意義、当主の取るべき態度、を学び
しっかりマニュアルが頭に入ってたはず。
それをねねに言っただけさ。
ただ当然自分の女房にだってそういう価値観で接したろうし、
女房も嫁ぐにさいしてそのへんはよく言われてきたはずだから
信長に側室が何人増えようと動じることはなかったろうから
その価値観は正しいと自信を持っていたぐらいの推測はできる。
ねねも秀吉もそういうことを教わってこなかったというあたりで
信長からみたらアンビリーバボーなアホみたいな夫婦喧嘩をしてたということだ。
>>906 お前、さっきから何を必死になってんの?
自説は覆すんだな、
結局のところわからないと。
ところで
信長がまだ子供の頃に親元から引き離された(子供の信長に那古屋城を任せられ、
信秀と妻と弟は別の城に移った)というのは否定論があるよ。
実際にはもっと後年の話らしい。
>>908 まあ、お前に信長と濃姫の関係は永遠に理解できん。
あれこれ妄想するだけ無駄だな。
>>910 お前も史料を一切引用せずに妄想するのはやめろよな。
何も理解してないのはお前だよ。
反論のための反論は書くなよ。
>>911 お前こそ、いちいちつっかかって
反論のための反論は書くなよ。
>>912 何かいいかえさねえと気がすまねえの?
子供だなw
ほかの人の迷惑になるから、
いい加減話題変えろよ。
お前も、自説は撤回したことだし。
914 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 12:30:19
小和田さんて、武功夜話100%信じてたのね、しらんかった。
放尿をすませた信長は、竿を振ってしずくを飛ばしながら濃姫に再度促す。
「ほれ、できぬことなどあるまい。さあ」
「だからたわけ殿と申すのです!お、女子が…それも武家の女子が、このような場所で
できるはずがございません!!」
濃姫は涙をうかべて叫んだ。
「だから城へ戻るというか。たわけはそなたじゃ。
たかが小便のために往復でどれほど時間を無駄にすることか。」
信長が無駄を嫌うのは昔からだ。
「それに考えてもみよ、城までこらえることを思えば、ここで済ます方がお濃も
どれほど楽であるか。」
濃姫は、絶句した。
(ひょっとして、私は本当にとんでもないたわけの妻になったのかもしれない)
濃姫は、信長の無作法が気にならないわけではなかったが、
商人あがりの下剋上の梟雄のもとで育っただけに、無駄なしきたりを無視する
信長のことが他人よりは理解できると思っていた。
(城主の若殿の御台にむかって、夫の殿が、こんな場所で小便をしろなんて!)
そんな思いもよそに、尿意の波は次から次に押し寄せてくる。
山国の美濃育ちで、本物の海をまだ見たことのない濃姫は、
父道三の紋でもある二頭波頭と、今で二度目の信長の放水とを脳裏で重ね合わせて、
二本の、のたうつ蛇のような水流の間で揉まれ打ちのめされる自分を想像しながら、意識が遠くなった
。
「子持ちの後家にばかり手を出して、それに子供を産ませた家康は女癖が悪かった」
と説く歴史学者も居るが、家康にしろ信長にしろ彼らは”受胎させ出産”が目的なの
である。
だからそこをわきまえた夫人達は、同姓の侍女や腰元の中から「過去に実績を持つ有
識体験保証付き」である経験産婦を選んで、その目的を代行させたのだ。
ペニシリン等の抗生物質の無かった昔は産褥熱での死亡率も多く、女にとっては子供
を孕むはやすく、産むのは命がけの事だった。
それゆえ、明治までの大名の家記には「下受け産業」なる記載すらある。これも武士
の家ではた織りしているのを町家や百姓の娘達の内職に出すというのではない。
お産の時の消毒薬もなく、為に死ぬ場合も多かったので、それゆえ出産は女体にとっ
て危険極まる難事業ゆえ、死んでもよい身分の低い女に代行させるだけのことゆえ
「女人忠義」とも云うが、文字通り下請けの産業(うみわざ)なのである。
子を産ませようとの目的で、手を付けられた女の歴史は極めて多い。これは江戸期に
入っても大名で将軍家の息女を貰ったものが、もし身重にさせて出産の際に死なせで
もしたら、御家の一大事というので、接しても洩らさす゛、放出用の女人を直ぐ近く
に、股間を開けて寝かせておいたり、京の関白や摂家がその姫を嫁に出す際、
「もしお産でもして子を産む時に死にでもしたら、折角縁組みしても何にもならぬ」
というので、その時の代用侍女を何人も伴わせて東下りしてきている
。
>>916 お市も、お江与も、死んでもどうでもよかったんだな。
生駒なんて三人も産まされて、死ねといわんばかりか。
実際早死にしたしな。そう考えると濃姫は信長から大事にされ、
側室たちは死んでもいいという扱いをされたどうでもいい女達で、
ただの放出専門要員・子産みマシーンだったわけだなw