【第四巻】信長の正室濃姫・まむしの娘の謎

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1日本@名無史さん
織田信長正室濃姫(帰蝶)について語りましょう。
その他織田家奥向き、側室、子供たちに関する話題もこちらで。
資料にもとづく憶測、推測はOKですが、
たんなる希望的観測や妄想もご遠慮ください。
なお「〜厨」など、明らかな誹謗中傷の言葉を慎み、
荒らしはスルーでお願いします。
荒らされないためにsage進行で行きましょう。

前スレ 【第三巻】信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1166951419/

【第二巻】信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1161084144/
信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1159689153/

参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E8%9D%B6 (←濃姫のウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7 (←同信長)
2日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:35:33
関連スレ

【信長】まむしの娘及び松姫の謎【信忠】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1161082051/
3日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:35:47
【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152424560/
4日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:36:21
三国志・戦国板は、中国と日本の歴史という、異なったジャンルを合わせ持つ板。
歴史ジャンルというと男性が多いイメージですが、女性も多数参加しております。
さらに初心者にも優しく、真面目な議論スレ・ネタスレはもとより
801ネタから美少女ネタ・なりきりまで許容オケーの 素晴らしい板です。
是非来てください。

三国志・戦国
http://ex21.2ch.net/warhis/
5日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:40:28
6日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:15:54
結局、五徳は徳姫でおk?
7日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:30:58
「とく」でOKだと思う。
「徳」は当て字の可能性もある。
8日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:34:06
なんで五徳って名前はあんなに広まったんだろ?
9日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:55:21
>6−8
戦国時代板の

【道三の放った】濃姫(帰蝶)総合スレ【毒苺】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1152424560/

で、詳しい方が、具体的な史料を挙げて、
(徳姫としている史料、五徳としている史料)
考察をのべておられますよ。
重複する話題は避けられては、と思うのですが・・・
10日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:03:50
確かに話題は重複してるね。
こちらでは、信雄・信孝の話題が先行してたような気がする。
いつ濃姫の話題に戻るのだろうと思ってROMってた。

濃姫関連で、側室たちの話題も出て、信長の子供たちの関連で
信雄・信孝の話題が出てしまうのは仕方ないことだけど。
11日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:34:17
でもさ濃姫をはじめ信長の側室達に関する史料は極めて少ないから子供達を通して
生母の考察から入り、濃姫の実像に迫るという検証もあってもいいと思う。
その過程で信忠の生母の件や信孝の生母の件のいろんな考察もでてきて
正室と側室の立場の違いも把握できたし、濃姫のおかれた立場の
輪郭がちょっとだけはっきりしてきた印象もある。
12日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:40:57
五徳説は「徳」に女性名に多い接頭語の「お」がついて「お徳」と呼ばれていたのが
「御徳」と誤記され、「五徳」となったのではないか?

すまん、勝手な推測だ。
13日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:42:32
濃姫スレで信長の子供や側室の話をするのは一向に構わないのですが、
他スレで出てきた史料を別スレでまた提示したり、
まったく同じ質問があちこちのスレで上がるのはどうかと・・・
参考スレも貼られてあることですし、他スレも目を通しておいたほうが
よいかと思います。
14日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:50:45
濃姫が信長生前は正室の立場を全うしたことは異論がないけれど、
濃姫がどういう女性だったのかというのはとても興味がある。
濃姫が出産しているかもというのはわかったが、早世した可能性も
あるわけで、成人まで成長したと仮定すると実子としては誰が該当するんだろう?
15日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:12:10
まとめサイト作ってみようと頑張ったんだけど、
話がループ&細かすぎてなんかもう無理。
誰か今までに出た意見・論その他をまとめてみてくれないか。
コレまとめないと今後本当にループが続く。
16日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:16:18
濃姫は実子が無かったってのは通説だけど、「御台平産」の記録が
出てきたり、信長の子供たちは生母不詳が多いから、必ずしも濃姫に
子供がいなかったとはいえないと思う。
 
前スレでも話題になってたけど、丹羽長秀に当てた手紙だけど
あれはやはり濃姫が書いたってことでいいのかな?
この手紙についてはお鍋が書いたことになってるそうだけど、
とあるホームページにもお鍋が書いたと書かれてた。
しかもこういう手紙を書けるということはお鍋はかなり信長から
寵愛されていたのではないかと書かれてた。
でもここでの濃姫スレを見る限りではそうでもないみたいだし、
この件で研究している学者とか歴史家がいないのかな?
もうお鍋の手紙として決定してしまっているのかな?
17日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:18:49
濃姫は実子が無かったってのは通説だけど、「御台平産」の記録が
出てきたり、信長の子供たちは生母不詳が多いから、必ずしも濃姫に
子供がいなかったとはいえないと思う。
 
前スレでも話題になってたけど、丹羽長秀に当てた手紙だけど
あれはやはり濃姫が書いたってことでいいのかな?
この手紙についてはお鍋が書いたことになってるそうだけど、
とあるホームページにもお鍋が書いたと書かれてた。
しかもこういう手紙を書けるということはお鍋はかなり信長から
寵愛されていたのではないかと書かれてた。
でもここでの濃姫スレを見る限りではそうでもないみたいだし、
この件で研究している学者とか歴史家がいないのかな?
もうお鍋の手紙として決定してしまっているのかな?
18日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:28:52
濃姫に出産の事実があったとしても、成人するまで存命した可能性は低い気がする。
側室腹と見られる信忠が濃姫の養子となってるあたり、
成人した男子はいなかった可能性が高いし、
信長の娘たちも、濃姫と特に縁深さをうかがわせるような人物がいない。

お鍋は、秀吉主催の信長葬儀に出席しているんだっけ?
正室でなくとも、例えば家康側室阿茶局は家康の意向を受けて淀君を調略したり、
徳川和子入内の際付き添ったりして活躍しているし、
側室とはいえ有能であれば、信長や秀吉が利用する可能性はあると思うよ。
家臣の一人のような感覚かも。
手紙のことは、専門外なのですまぬ。
19日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:29:33
>>15
とりあえずスレ丸ごと保存したのを作ってくださるとうれしい。
私も見直してみたけど史板の2スレと戦国板のスレ以前に遡る話題も出てきて大変だった。
あとは『信長公記』等の原文(必要部分だけ)を集めた資料集みたいなページが
あればいいなと思う。史料持ってる人に原文をここに貼ってもらえれば収集できると思うけど。
20日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:09:39
自分も前スレで出た話題や史料などがまとめられたサイトが
あればいいと思う。
今現在検討中の話題なども整理したりして。
前スレも見たくても見れない人も多いかと思うので。
21日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:20:10
崇福寺にあった手紙がお鍋が書いたとなってるが、
内容から考えてお鍋ではなく、濃姫かあるいは信長生母では
ないかと前スレであったと思ったのだが・・・
22日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:33:03
>>17
崇福寺の手紙の署名は「奈編」と書かれている。
しかし可能性は3つある。

@お鍋が書いた
A濃姫の本名が奈編で、濃姫が書いた
B内容からして正室の立場が出したものだが、実際書いたのは代筆者で
 代筆者が奈編だった(その場合刻印は濃姫のものでだす)

だが刻印がどうやら意味なし字のようなので、オリジナルを崇福寺で書き直している
ようだ。その場合あえてコピーと示すために刻印は意味なし印を押す。

手紙を高貴な身分のものに宛てて出す場合は、本人直接を宛名にする場合と
本人付きの侍女を宛名にするケースもかなりあったし、手紙を書いた代筆者が
自分の署名をして、出そうとする本人の刻印や花印を押しているケースもある。

なので現状わかっている範囲の史料からは特定は難しいな。
個人的にはお鍋の方がだすにしては2通とも時期や内容的に不自然さがあるので、
AかBの可能性が高いような気がする。
23日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:35:26
>>22だけど 訂正

奈編ではなく→奈「遍」の間違い
下の棒線はしんにょうに間違いないから。
24日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:42:39
>>22
「奈遍」は実は一文字の「廉」「簾」とも読める。
「奈」が、崩し文字としても相当崩している、あまり見ない「奈」だから。
文中に出てくる事はあるが、文頭などの先頭で使うには、珍しい崩し方だと思う。
25日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:45:35
秀吉はお鍋を取り込んでからかなりマメにお鍋に手紙を書いてるし、
お鍋は秀吉とかなり手紙のやりとりをしていたのかな?
だとするとお鍋が秀吉に出した手紙と、
崇福寺にある手紙の筆跡が同じかどうか確かめることはできないのかな?
それか署名を比べるとか。
26日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:56:05
この手紙は桑田忠親氏も検証していて、氏は署名を「奈遍」としてる。
それに一文字ではありえない字の切り返しが見られるので2文字は明らか。
あの「奈」の崩し方は一番崩した形でけっこう見るし間違いない。

ちなみに桑田氏はそのままあの手紙をお鍋の方とし、内容についての検証は
ほとんどせず、名前だけで判断している。
桑田氏は濃姫や側室のことにはほとんど関心がなかったようだ。
秀吉関係の消息文にはあれだけ熱心かつ詳細に検証しているのに残念だ。
27日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:05:44
桑田氏が興味ないなら、興味もって内容とかもっと検証してる
歴史家とか研究者はいないのかな?
28日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:11:18
あの桑田氏でさえも、ねねの名前を消息文から「ね」が本名だ、なんていっていた。
署名を頭文字一文字ですますことがあったということを知らなかったようだし。

結局専門家達もかなりピンポイントに絞って研究しているから、
対象外のことは意外と眉唾の史料の抜粋が多い。
興味がない信長の妻妾のことはそれこそ武功をそのまま引用してしまうんだろう。
29日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:15:04
切り返しはあるけど、二文字しか考えられないほどの物ではないよ。
あの程度の切り返しで一文字の崩し文字は普通にある。
30日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:21:11
>>27
桑田忠親博士の文献で斉藤家についての考察を読んだが、
濃姫のことは輿入れ後はまったく触れていなかったな。
ということは、濃姫が斉藤家に戻されたとか、離縁されたということは
ないのではないかと思う。
31日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:24:49
>>29
逆に「廉」や「簾」とはどうやっても読めないよ。
どう読んでも「奈遍」にしか見えないものを無理矢理別の字に
する必要はないと思う。

桑田氏の専門は元々は戦国大名の消息文の研究だから氏もそう解釈している以上は
他の文字の可能性はほとんどないと思う。
32日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:36:26
つまり、署名に「奈遍」とあるから崇福寺でも「お鍋の方の手紙」に間違いない
ということになり、歴史家たちも盲目的に信じていたというわけですね?
確かにお鍋の方は信長妻妾の中で唯一本名が判明しているから、奈遍と署名して
あれば「お鍋の方に間違いない!」となるでしょうけどね。
33日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:37:20
鍋って本名だっけ?
通称というか… お鍋の方 だよね
34日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:43:18
秀吉の手紙に「小椋鍋殿」とあるし、言継日記だかに「御ナへ」とあるから
「なべ」が本名で確定。でもたぶん周囲からは「小倉殿」とか「小倉の御方」
とかと呼ばれていたんじゃないかな?
当時の女性が本名で呼ばれることはないから。
35日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:47:28
本能寺の変の時信長と一緒に亡くなった侍女に「おなへ」「こなへ」という
名前があったな。
36日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:52:09
ずっと前から気になってたんだけど、
信長公記の本能寺のとこにある
「女子供は急ぎ罷り出よ」って発言は信長のものなんだよね?
女=侍女たち というのはわかるんだけど
子供ってなんだろう?本能寺にいたのか?
37日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:54:16
「なへ」ってありふれた名前だったのか?
38日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:57:16
>>36小姓かな。小姓は非戦闘員じゃない?
でも信長公記も牛一があるていど肉付けした部分はあるから全部が全部
事実とは限らないんじゃないかな。



39日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:45:44
>>31
>どう読んでも「奈遍」にしか見えないものを
それほど、どうやっても他に読めないというほど、「奈遍」ではないと思う。
あの切り返しは、冠や垂れのつく字ではよくある程度の切り返しだよ。
専門家でも「遍」を「屋」と読んでいる人もいますし。
でも、「屋」とは読めないと、自分も思います。
40日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:01:22
「なへ」という名前自体がありふれたものだとすれば、
「なへ」の署名だけでお鍋と決めてしまうのはどうかと思う。
もう少し内容や手紙の出された時の状況などを考えて
手紙の主を特定すべきだと思う。
41日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:13:39
>>38
ありがとう!
でも太田が本能寺にいたわけじゃないから、
正直創作の可能性のほうが高いってことだね。
42日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:20:10
あの署名は、一文字で「篇」「庭」の方が近いよ。
43日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:38:31
俺は古文書の類は一切読めんが、この検証が面白くて
変体仮名辞典をあれこれ調べたら、奈の崩し字に
あの手紙の署名とほとんど一緒のものを見つけた。
例文をみたら、同じような字のバランスで書かれていて
(奈が小さく下の字が大きい)、遍はそのまんまの例示もあって
それを見る限り奈遍だと思った。
ここででた他の字も調べたけど、他の字はなんとなく釈然としなかったな。
44日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:43:24
お鍋の方って、晩年の寵妃ってことで権勢があった印象なのだが、よく考えてみると、出産年が近い子供がゴロゴロいるんだよね。
他の追随を許さないってレベルじゃなく、その時期に寵愛したお気に入りの内の一人に過ぎなかったのではないかな。
それが「晩年最愛の側室」になったのは、秀吉と関わった影響って考えられないか。
庇護を求めたお鍋と、信長関係者の宣伝効果が欲しかった秀吉の利害が一致して、ただの側室が実質的ファーストレディに作り上げられてしまったってことはないかな。
45日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:48:46
お鍋の方は本能寺の変後は実家の小倉に戻っていたところを秀吉の誘いが
あったということだ。自分のためというより、子供の立身出世のために
秀吉の口車に乗ったと思う。晩年最愛説は子供の数が生駒同様三人産んだから
ということだけが根拠だね。それ以外寵愛されていたことを示すものって何もないし
本能寺の変後実家に返されてたんだから、織田家内での権威の程度がわかる。
46日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:50:15
>>43
それって、あの手紙の字が例文に使われてるってオチじゃないよね。
47日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:19:54
お鍋は、はっきりお鍋腹だと分かっているのは
実は信吉と於振だけなんだよな。
信高の方は、鍋腹だと伝わっているんだが、
当時の史料では確認できないんだよ。
それに、生まれた順だと、信吉、信高、御振の順なんだが
公式な席次は信高、信吉の順になるんだ。
もう少し詳しくいうと、
信秀、信吉、信貞、信高の順なんだが、
席次は、信秀、信高、信吉、信貞になる。
そして、幼名が信秀が大洞、信高が小洞、信吉が酌で、信貞が人。
実は、末っ子の幼名が縁の長次の方が、信吉と一緒に行動していて、
鍋の生んだ男子2人というのは、信吉と長次という説もある。
48日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:23:41
桑田忠親は歴史家の中でも古文書解読に長けていた人で、
その人が「奈遍」としたのなら、素人の我々の意見などよりよほど信憑性が高い
のではないか?
奈遍だからといって=お鍋の方というわけではないしさ。
寺へ制札をだせるような立場の女性というなら大名夫人しか考えられないから
濃姫=奈遍説に一票だな。

49日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:47:25
一番手っ取り早いのは、崇福寺にどうして「お鍋の方の書状」になったのか
経緯を聞く事だと思うけどな。
昔から寺伝としてお鍋の方の書状と伝わっていたのか、信長夫人の書状と伝わっていたのか
特に何も伝わっていない書状を、研究者がお鍋の方の物としたのかによって
考えは変わってくるんじゃないだろうか?
50日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:59:12
位牌所を設置した際にお鍋の方が寺におさめた信長の遺品を埋め(遺骨代わりか?)
たとされるから、寺側は手紙もお鍋の方のものという認識だと思う。
ただ遺品は手紙がお鍋とされたのでおさめた人もお鍋だろうとなった可能性もあるかもな。
あのどさくさで信長の遺品を安土から持ち出し、4日後には寺におさめ位牌所を設置し、
戦準備で忙しい丹羽に指図したのがお鍋だとはどうしても考えられないな。
12月には信孝も崇福寺を守る制札をだしているんだよ。
この手紙の主が信孝にも働きかけていたのかなと思える。
51日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:21:58
丹羽への手紙って信忠の名前も出てくるよな。
お鍋と信忠ってどれぐらい接点があったんだろう。
52日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:23:07
>>50
>位牌所を設置した際にお鍋の方が寺におさめた信長の遺品を埋め(遺骨代わりか?)
>たとされるから、寺側は手紙もお鍋の方のものという認識だと思う。

書状がお鍋のものとされたから、鍋が納めたとなった可能性もある。
納められたときからそう伝わっていたという寺伝が、
あるのかどうかという事を尋ねたらいいのでは?ということ。
53日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:24:46
実際、崇福寺に行ったとして、現物を見せてもらえる可能性はどのくらいあるんだろう。
もしくは電話をしてみて教えてもらえる可能性とか…
54日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:36:38
自分もお鍋が納めたとはちょっと思えない。
一側室の身分で、信長の親族が誰もしていないのに
安土城から遺品を持ち出したりとか出来るとは思えない。
なぜ、鍋がやったってことになったのだろう。
単純に「なへ」だから鍋ってことになったのかな?
手紙を検証してた頃は濃姫死亡説などが幅をきかせて
いたため、単純に「なへ」=鍋って事になったのかも知れない。
それとも寺伝で鍋の手紙と伝わっていたのかな?
55日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:46:00
それにいくら当主から一番寵愛を受けていたとしても、一側室がその当主の
重臣に命令口調の手紙を出すことってありえるのかな?
しかも当主の息子にも同じような手紙を出すなんて・・・
いくら寵愛されていて権威があったとしてもちょっと納得できないな。
56日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:47:34
だから、ものすごく寵愛されてて正室同然だったに違いないってことになっちゃったと
57日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:05:03
ものすごく寵愛されていて正室同然だったにしては、
本能寺後、あっけなく秀吉側についてしまうってのもね〜
結果的には織田家親族を裏切るようねまねをしたわけだし。
いくら子供の立世のためとはいえ、信長の死後簡単に織田家を見放す
人が信長最愛だと言われるのはちょっと?と思う。

秀吉は、実家に帰っていたお鍋を誘ったという話だが、お鍋以外にも
誘われた側室の人はいたんだろうか?それともお鍋だけだったんだろうか?
他の側室の人にも一応声をかけたけど、秀吉の誘いに乗ったのがお鍋だけ
だったのだろうか?
58日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:19:39
そういえば秀吉が主催した信長の葬式に濃姫(?)を招待したんだけど
全然相手してもらえなかったって話あったよね。
59日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:32:23
信秀も即秀吉の配下になってる。生母は一説では稲葉氏という話もあって、
秀吉についた稲葉氏の口利きもあって(正室に一鉄の姫を迎えてるし)
そこそこ取り立てられたとも考えられるが生母がからんでいたか
どうかはわからないな。この生母のことはフロイスの日本史にちょこっとでているよ。

信好も早々に秀吉の配下になった。大徳寺の葬儀の際は、信好が位牌を持って
従った。この葬儀に参列した信長の子供は秀吉の養子であった秀勝と信好だけで
信秀より早く秀吉の支配下になっていると思われる。生母が出席したかどうかは
定かではないが、息子を取り込むに際して、生母も何かしらの恩恵があったとは
推測できる。
60日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:41:33
だいたい本能寺の変の4日後なんてまだまだ安土城下はパニック状態。
織田の遺臣狩りなんかもあって、織田家関係者は不安この上なかったはず。
岐阜城主が誰になるかもわからない状態で崇福寺を信長の位牌所に決定して
実行できる人物って美濃国内で織田家よりも権威ある存在であったん
じゃないかと思うんだ。
濃姫ならかつての美濃国主道三の姫だったし、代々美濃守護だった土岐一族の血を
引く姫でもあるから、崇福寺も濃姫の頼みだから従ったんじゃないかな…なんて
思ってみたり。
61日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:44:40
ふ〜ん。どっちにしても信長の息子を秀吉が利用したってわけだ。
しかもまだ元服前の幼い子供達ばかり・・・
成人してしまった信雄や信孝を取り込むよりは楽だったろうから。
62日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:01:59
だけど、秀吉が引き取った信長の子供達ってなぜかみんな早死にだよね。
一番長生きしたのが信雄(72歳)は例外としても、信雄に続くのが、
信貞(没年50歳)くらいかな。
あとはみんな少年期から青年期(18歳〜35歳)に亡くなってるんだよね。
これって秀吉の陰謀?
63日本@名無史さん:2007/05/13(日) 01:49:37
>>62
その信雄は知能に少し障害ありとも伝えられている。
やはり怪しい。
64日本@名無史さん:2007/05/13(日) 09:40:49
信長亡き後数年後には三法師すら軽んじる態度だった秀吉だから
その頃は信長の子供達が何人生きていようと問題視することは
なかったと思うな。
子供達が亡くなったのはたんに寿命だと思う。
秀勝のことは嫡子として本当にかわいがっていたようだし。

信孝と信雄が争いなどせずに信長の息子達が一致団結して三法師を織田宗家当主として
がっちり支えていたら豊臣の天下は難しかったのではないかと思う。
兄弟間の争いに乗じて秀吉が乗っ取っていったから、つくづくこの兄弟は愚かだと思う。
65日本@名無史さん:2007/05/13(日) 10:10:23
結局信長以外はボンクラだったってことだね。
まだせめて信忠だけでも生き残ってたら、秀吉もここまで
できなかっただろうけど。
あと信雄が知恵遅れ?だったなんて初めて聞いた。
66日本@名無史さん:2007/05/13(日) 10:29:23
ボンクラというかいたって平凡だったんだろう。
秀吉は兄弟間の不和を煽るように裏工作してたんじゃないかな?
ついでに信長家臣で一番手ごわい柴田も信孝とともに一網打尽にできるように
お市を柴田に譲ったとも考えられる。
67日本@名無史さん:2007/05/13(日) 11:19:26
濃姫は二人のことをいさめたりしなかったのだろうか?
なんとなく二人の仲が悪かったというよりも信孝1人の暴走のような
印象を受けるけど。父親が亡くなったとたん兄を蹴落とそうとする
というのもちょっと疑問なんだよな。
68日本@名無史さん:2007/05/13(日) 11:39:43
>67
そだね。
表に出ないにしても出なさ過ぎる。
正室という立場で考えれば、発言権も影響力もあると思うのだが、
ああまで何も残されていないと、何の権利もなかったんじゃないか
とさえ思えてくる。
何も言ってないのか、言っても無駄だったのかもわからないし。

信雄、信孝兄弟は三法師の後見(保護)を争ってるけど、濃姫についてはどうだったんだろう。
先代の正室なんて、まっ先に陣営に引き入れたいはずなのに。
それか、二人が引き下がらざるをえないような行き先、後ろ楯があった
のか?
69日本@名無史さん:2007/05/13(日) 12:09:15
信忠に正室がいればその女性が三法師の後見になるので濃姫の出番はないだろうが、
信忠には正室がいなかったはず。そうなると祖母にあたる濃姫が後見として
背後にいあるのが筋だろうな。
それとも信忠に正室がいたのだろうか?
Wikiには北条氏の可能性があると記載があるが・・・?
でも秀吉死後ねねは大阪城を去っているし、世継ぎが幼少であっても
家臣団がしっかりしていれば先代正室だからといってむやに介入
することはなかったのかもしれないな、という気もする。
三法師の場合はとりあえず信孝と信雄が共同で補佐するということに
なったし、濃姫がでしゃばらなくてもといことになったのかもしれない。
政子とか富子とか寿桂尼みたいな正室像が珍しいのかもしれないな。
70日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:08:47
ただ単に静かに暮らしたかっただけじゃないの?
よく本能寺の変後、濃姫が正室なのに表舞台に出ないのはおかしい。って
意見が出ているけれど、実際当主が突然死んだ場合でその配偶者が
表舞台にたって政治に関与するなんて、めったにあるもんじゃないし。
秀吉夫人のねねや、前田利家夫人のまつなんかがイメージ強すぎるせいで
「夫の死後は長年連れ添った妻が出てきて家を守る」っていういう先入観があるけど
実際問題それをなしえた正室というのが全体のどれだけいたんだって話じゃない?


実際問題、信長存命中は奥にこもり表向きの事には一切関与していなかった
奥方がいきなり出てきてどうこうできるだけの器量があるとは思えない。
71日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:09:38
本能寺の変後、信孝、信雄いずれの実母でも養母でもなかった濃姫は、発言を控えたのかな?
信孝、信雄が幼時に養子に出されたことを考えると、実母でも養母でもない濃姫は、
両者とほとんど接点がなかったのかもしれない。
本能寺のあと安土城を落ちた濃姫がどこに身を寄せていたかは議論の余地があるところだけれど、
秀吉主催信長葬儀に出席せず、かつ秀吉が擁立した三法師の後見人にならなかったところを見ると、
当初、秀吉とは対立する立場だったのかもしれない。信雄やお市に近かった感じがする。
72日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:15:10
というか、年齢的に本能寺の変の頃って濃姫は50くらいでしょ?
もし養華院だとしたら長生きしているし健康だったんだろうけど、
50くらいだと更年期障害とかも出てくる可能性あるよね、とふと思った。
人によっては臥せってる可能性もあるし、人生50年といわれていた頃の話、
実際問題「おばあちゃん」扱いなわけでしょ。
夫と養子にした息子を亡くし、一時的とはいえ体が弱っていた可能性もあるよね。


個人的には多分表舞台に立つ気そのものがなかった人なんじゃないかと思うけど。
「斎藤道三の姫」「織田信長の妻」というイメージから気丈な女性をイメージさせるのかもしれないけど
本当はごくごくおとなしい奥にこもって夫を立てる女性だった可能性もあるなーと思う。
73日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:24:23
たとえ表には出なくても、濃姫が信長の正室としての業務を放棄していたとは思えない。
信忠を養子にしていたこともその現れだし、織田家内で正室濃姫の発言力が一切ないのであれば、
それこそ、濃姫を無視して信忠が嫡子に立てられてしまうこともあり得たわけで。
むしろ、本能寺の変後、濃姫の姿が消えているのは、秀吉と対立したためだと思う。
こんにち残っている史料の多くは秀吉や徳川側の史料なわけで。
晩年、信雄の庇護を受けているところから見ると、本能寺の変後、
お市や信雄などと同様、三法師擁立には同意せず、
徳川を頼って身を起こそうとした信孝にも味方しなかったため、史料が残らなかったのだと思う。
74日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:25:14
濃姫は政治的なことは全く口出さない人だったってことだろうね。
これまでも政治的なことは全て夫や息子達にまかせてたんだろうし、
奥向きのことだけ管理してたんではないだろうか。
信長生母だって全く口出してないようだし、しかもなぜか秀吉主催の
葬儀に出席してる。(織田家の親族達の葬儀に出席せずに)
その当たりもなんか解せないんだよね。
信長自身もそうだけど、(なぜか本能寺で死んだとされるのに遺体が
見つからず)信長周辺の女性達ってなんか謎だらけだよね。
三法師の後見のことは濃姫はどう思っていたかはわからないけど、
いち早く位牌を設置したり、丹羽長秀や信孝に手紙を送ったりと
(これはやったのが濃姫と仮定してだが)それなりに濃姫なりに
信長死後行動しているように見えるけど。
ただ、信長死後、清洲会議の結果についての意見とか、三法師の
後見や、信雄と信孝の仲について取り持ったのか、どうだったのかは
記録に残ってないのでなんとも言えない。
ただ記録に残ってないからといって濃姫が全くこの件について意見を
言わなかったということにはならないと思う。
75日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:35:05
>72
お金なんか稼げない、夫も息子もなくしたら生きていけない、という
現代の主婦の発想で戦国女性を考えると、ちょっと違うと思う・・・
76日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:35:22
>>73
それって単なる妄想でしょ?
信長嫡孫の三法師すら、後継争い以降は邪険にされてるわけだし
信長の死後、信長の正室と争った事なんて別に秀吉からすりゃ
痛くも痒くもない問題だと思うけどね。

濃姫が信長正室としての業務を放棄していないとかなんて
本人の日記でも出てこない限りわからん問題かと。
おねねやまつ等、夫の死後表舞台に出てきて政治に関与した
女性達の先入観にとらわれすぎだと思う。
信長生前は、信長が一応正室をたてて信忠を養子として正室腹扱いにした。
(正室に子供が出来なかったから)
死後は次の天下人などとかかわり持たず、ひっそりと暮らした。
一般的によくある「夫を亡くした妻」だったんじゃないの?
何でも濃姫の手柄にしようとしすぎ。
77日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:37:21
>>75
生きていけないとは思ってないよw
化粧料もあるだろうし、自分と身の回りの世話をしてくれる
お気に入りの侍女数人と静かに暮らしてたんじゃないの?って思うだけ。


歴史の表舞台に現れないのを秀吉の策略と見なすほうがひねくれてる。
歴史の表舞台に一切出なくなったという事は、俗世間とかかわりたって
ひっそりと暮らしていたってだけの話じゃないの?
78日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:42:27
>77
化粧料というのは誰からもらうの?
次の天下人?
次なる織田家の家督相続者?
信長が濃姫に与えた化粧料があったとしても、
次なる天下人に承認を得なければいけないし
実家を失っている濃姫にとっては大変な事態。

むしろ、濃姫が誰ともかかわろうとしなかった、
信長在世中から、そうだった、とするほうが、
無理がある。
主婦の発想。
79日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:46:40
>>78
、、、、濃姫の化粧料は道三からもらったに決まってるでしょ、、、
この時代の女性は個人財産持っている事が多くて、そこは死ぬまで本人の財産。
たとえ信長存命中でも道三から結婚の時に与えられた化粧料は濃姫のものだよ。
そして信長御台というのが濃姫なら、信長存命中に濃姫のために知行も与えているはず。
80日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:53:00
>>79
え?
斎藤家は滅びましたが、道三が与えた化粧料って何?
娘が嫁にいくとき、娘が一生暮らせるだけの現金かなんかを与えると言う事?
道三は、濃姫を嫁に出すに当たって、一生困らないだけの遺産を与えたと?
・・・・・日本史板来る前に、もう少し簡単な本でも読んでみたほうがいいよ。

81日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:54:01
濃姫が本能寺の変後、史料に登場しないのは秀吉に協力しなかったから
だと思うよ。
別に秀吉の策略でなんて誰も思ってない。
実際に側室の一人であったお鍋がこれだけ有名になったのも、
秀吉の協力者だったからだし。
濃姫が政治に口出さなかったのは、そういう必要がなかったから。
夫があれだけの天才で、天下人だったのだから
素直に夫の言うとおりにしている方が自然だと思う。
逆にたいした器量もないのに口出しする方がおかしいと思う。
本能寺後についても、織田家をどうするとか、誰についたほうが有利
だからそうしなさいとか判断できる器量は濃姫にはなかったと自分も思う。
信雄の庇護に入った所を見ると、信雄のいうことに素直に従っていたのでは
ないかと思う。信雄が改易されてからは、ごく親しい次女や乳母達などと
京都?に移りひっそりと暮らしたのではないかと思う。
濃姫だけでなく信長の娘でも消息不明だったりもしてるのだし、
濃姫だけが何も史料がないってことはないと思う。
82日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:00:33
化粧料についてだけど、取り上げられたなら取り上げられたで
何か記録があるの?
本能寺後は信雄が化粧料を与えてたと思うよ。
でもその後信雄が改易になってからどうなったかだよね。
濃姫の分の化粧料は取り上げられたのかな?
濃姫だけでなく信雄の家族とかどうしたのかな?
83日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:06:06
化粧料って現金だけじゃないよ。
たまたま化粧料で有名なのが山内一豊正室・千代の10貫?の小判で
それを自分の個人財産としてではなく、夫のために使ったって話だけど。
化粧料ってのは結婚後、何があっても生活していけるようにっていう
嫁のためにへそくりみたいなもんだし、確か知行とかもそうでしょ。
信長も御台の為に知行をもらってるし、そこでも固有財産手に入れてるよね。

>>81に同意。
84日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:09:19
>>82
取り上げられるようなもんじゃなかったと思うんだけど。
その女性が死ぬまで一生涯保障される私有財産だったと思う<化粧料
85日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:11:55
>>83
へそくりと知行は随分ちがうよ。
千代が持っていたへそくりも、なんかあったときの足しで、
それで生活するためのものではない。
戦国時代、女が城主になれたのは事実だけれど、
知行の多くは家督相続者のもの。
兄弟やその家族が家督相続者に家臣として仕えたのも、
知行が分割されなかったためで、
知行地を嫁に出した娘や分家した弟に切り分けていたら、
戦国大名はあんなに大きくなれなかった。
86日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:13:24
化粧料はとりあげられるものでないって話だけど、
お鍋は息子の信吉らが、関が原のとき西軍についたため
家康に化粧料を取り上げられたんじゃなかった?
その後、淀君がかわいそうに思って新たに化粧料を与えたという話を
聞いたけど。
87日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:20:14
>>85
もちろん千代が持ってたのはへそくりではないよ。
そもそもあの逸話自体、のちの世の創作という話だから
実際の千代が嫁ぐ時に化粧料として何を持たされたのか不明だけど。

そして道三から与えられた化粧料が取り上げられたにしても
信長がもらってくれた知行もある。
ある程度の生活には困らなかったんじゃないの?



つか話が最初からそれてきてる気もするけどw
88日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:33:54
女性の化粧料については安土桃山までは個人の固有財産として亡くなるまで
一代限りで認められていました。
例えば斎藤家のように滅亡しても、濃姫に与えた化粧料の所領の名義は
濃姫となっていて、次ぎの当主が誰になろうと濃姫の固有財産は
守られていたはずです。
ガラシャが細川家に嫁いだ際の化粧料も光秀亡き後も所有していたという
記録をどこかで読みました。

それから濃姫は御料地ももらっていますので、そちらは管轄が違うのでこの
所領は政権の事情に関係なく所領は安泰していたと思います。

江戸期になって、幕藩体制になった後は岐阜の化粧料はもしかしたら取り上げに
なったかもしれませんが、妙覚寺で濃姫の兄が貫首をしていたし、妙覚寺付近に
住み、織田家に頼らなくても御料地や化粧料があれば生活に困ることはなかったと
思います。
89日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:36:25
>>86
与えた人が取り上げるケースはあったと思いますが、
領主がかわっても化粧料の証文は一代限り有効ということです。
90日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:38:41
一豊の馬の話やちよの夫孝行の話はほとんどが江戸期の捏造。
光秀の糟糠の妻シリーズ同様に、庶民の道徳心を煽るためにつくられたんだよ。
91日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:39:42
三法師は秀吉の関与のもと信長嫡孫、信忠嫡男に納まったけど
信長、信忠生前は、嫡孫でも嫡男でもなく単なる庶子。
あの時代、投手が亡くなって兄弟や成人男性の親族が跡を継ぐ事も多かった時代だから、
嫡孫でも嫡男でもない単なる庶子が担ぎだされて、それですぐ納得する訳がない。
信孝と信雄が三法師をもり立てていけばなんて言っている人もいるけど、
それはちょっと無理があるよ。
生前に、信長や信忠が、きちんと嫡孫嫡男と指名していれば話しは変わっただろうけど。
濃姫だって、きっと、嫡孫でもない三法師なんて、会った事もなかったと思うよ。

女性の化粧料や知行は、江戸期になっても初期の頃は女性の固有財産として取り上げられるような事は
なかったという島津の史料などが残っている。
鍋の化粧料が取り上げられたのは、息子の罪状に連座されたからであって、
濃姫に化粧料を取り上げる罪状が出てきていない以上、取り上げられていないとするべき。
92日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:40:49
>>91
>投手が亡くなって  ×

当主が亡くなって  ○
93日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:42:01
話ずれたけど、濃姫が歴史の表舞台に出なかった理由は
>>81が正しいように思う。
何故濃姫は信長死後に織田家の舵取りしなかったのか?という理由は
まつとかねねとかの事を一切先入観なく考えれば
「お家の事をあれこれ指示する器量ある人物でも、でしゃばりな体質でもなかった」
だけじゃないかなぁと。
でしゃばりって言うと言葉が悪いけどね。
夫の生前は夫に従い、その死後はごくごく一般的な大名夫人のように
名を残さずひっそりと暮らしたってだけだと思う。


何でも濃姫の手柄にしたり、濃姫に関連を持たせたがるのは
ちょっとどうかと思うよ。
94日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:46:45
庶子は嫡男のスペアだから、嫡男がいないとなれば庶子が家督を継ぐ事は誰もが納得
したはず。信忠が嫡男である限り信忠の子供は全て織田家の家督を継ぐ権利はある。
嫡男決定する前に信忠が亡くなれば、残された子供の中で嫡庶長幼の順で後継ぎが決まる。
だから三法師が家督相続人に決まった。

現にそのことに関して諸侯から賛同を得て決定した。
誰もが信孝や信雄よりも三法師が相応しいと認めざるを得なかったから。
秀吉のごり押しではなく、当時の武家の慣習通りに後継者を決めただけだから
文句のつけようがない。
95日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:53:09
信孝と信雄の仲が悪くなったのは後継者争いからではなく、
後見人としての権力争いからじゃないか?
織田一門内の権力争いに、柴田・秀吉の対立が便乗していったように思うが。

>>91
嫡男決定していなかったからといって信忠庶子をなおざりにするわけにはいかないのでは?
正室腹の男子後継者がいない場合の庶子なわけだし、少なくとも北畠家や神戸家を
継いでいた叔父達より織田家の家督相続の権利の優先順位は高いと思うが。
96日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:56:38
その三法師の後見に何で濃姫はならなかったのかな
他家に養子に行ってた信雄、信孝はもとより、
家臣であった秀吉なんかよりも、信長正妻の濃姫が後見すれば
誰も文句なんて言わなかったよね?

そうすればきっと秀吉の天下にもならなかったと予想するけど。
いくら顔もしらない孫とは言っても、織田の家はすでに信忠のものだったし、
その子供が後を継ぐのは自然なこと?でしょ。
濃姫が後見にならなかった理由ってなんだろ?
97日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:57:14
>>妙覚寺で濃姫の兄が貫首をしていたし

あぁそういえばいたね、道三の子供が。
道三の国譲状の「児まいる」の「児」の人だよね。
濃姫はこの「児」さんの庇護でも受けて妙覚寺の領地に庵でも建てて
余生を過ごしていたかもな。
98日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:06:08
>>信長正妻の濃姫が後見すれば
誰も文句なんて言わなかったよね

臆測だけど「これは信長公御台様のご意向でもある」ということで
秀吉が中心となって話をまとめちゃったとかね。
なんだかんだいっても秀吉の働きもあって窮地を脱した織田家だから
そんなに急に仲が悪くなるとは思えない。
織田家の総意を秀吉がくんで三法師擁立となったとも考えられないか?
結局それをいいように利用したんだろうけど。
99日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:07:56
もちろんおざなりにはできないね。
ただ、弟や叔父などが跡を取る事も珍しくなかった時代だし、
いくら信忠が家督相続をしていたとしても、圧倒的に信長あってこそ。
だから、信忠庶子で多少有利ではあったけど、信雄、信孝に跡を取る可能性がなかった訳ではない。
最初に、三法師が秀吉に連れられて表舞台に出てきた時は、「誰、それ?」と思う家臣の方が多かっただろう。
ただ、秀吉の本能寺以降の実績というものが後押ししたというのは、三法師擁立の最大の要因だろう。
結局それが、後見人争いに移行していく事になったんだと思う。
100日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:09:26
濃姫が表舞台に出てこないのは、別におかしな事ではないだろうな。
だが、信長の若い頃から晩年まで、奥関連の不始末という逸話がない事を見ても、
正室として奥の管理をするという、正室の責務は全うできる器量は持ち合わせていたんだろう。
信長が留守の時は、当然正室である濃姫が城の差配をする訳だが、留守時の不始末というと、
侍女達が桑実寺に参詣に行ったりした事くらいだが、それにしても戦時下という訳でもなく、
どうやら侍女達の罰も殺されたりなどではないようだし、それほど深刻なものでもなかったと思える。
それ以外の目立ったものはない事を見ても、正室としての器量はあったんじゃないだろうか?
ただ、生前から表立って政治に口出ししていた史料もない事から、言葉は悪いが出しゃばりではなかったんじゃないか?
101日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:11:48
家督相続に関しては基本は直系だよね。
信雄・信孝も信長直系にはなるけど、信忠に男子がいたら相続権は確かにないに等しいかな。
他家を継いだということは本来織田家の家系図から消えてくはずの人たちだし。

ところで濃姫は妙覚寺の兄以外に斉藤家の身内で頼れる人物はいなかったの?
壷事件の時兄弟姉妹がずいぶんいたと思ったけど。
102日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:14:14
>>100
自分もそう思う。
まぁ当時の奥の采配というものがどの程度の仕事なのかは
その時代生きて大名家に仕えていなきゃわからない問題だとは思うけどw
奥方の仕事っていうと、側室の管理と家臣の奥方との交流?
あとはどこぞの誰とどこぞの娘がいい年頃だから見合わせようみたいな感じ?


ふと思ったんだけど、細川忠興・明智玉と津田信澄・明智娘の
結婚は一応信長の口利きという事になってるけど
濃姫から信長に「あの二人年頃はいい感じよ」って口ぞえでもあったんだろうか
103日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:16:09
濃姫が三法師の後見にならなかったのは、秀吉と対立してたからかも。
本能寺後は信雄と行動を共にした訳だし。信雄が「おれにまかせてくれ」
と言われたら素直に従ったのじゃないかと思うけど

あと、何でも濃姫の手柄にしたいわけじゃないけど・・・
崇福寺に残された手紙や位牌の設置、信長の遺品など納めたのは
濃姫でいいと思う。
どう考えても当時の状況から考えてお鍋がやったとは思えない。
それなのになぜか崇福寺ではお鍋の手柄だとホームページにも書かれてる。
お鍋は信長死後、秀吉についた人だからありえないと思う。
なのに信長に最も寵愛されていたとか書かれてるのをみるとちょっとなって
思う。
実際お鍋って信長に対して愛情とか感じてたんだろうか?
いくら突然亡くなったとはいえ、秀吉の口車に簡単に乗ったことを思うと、
信長に対してそれほど愛着があったと思えない。
織田家に対して裏切るようなまねをしたわけだし。
そういう人が信長最愛と言われるのはちょっと疑問。
104日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:17:06
>>100 桑実寺参詣事件はどうやら縛り上げただけみたいだね。
しばる=罪人ということで、しばるだけで厳しい処罰と見なされたようだよ。
105日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:17:44
>>101
兄弟仲が良かったというより旦那がワガママ言いまくってるから
お灸すえる感じだったんじゃないかな、と勝手な妄想。
実際仲は良かったのかもしれないけどね。
兄弟は斎藤家滅亡後(もしくは道三死後)濃姫を頼って
信長配下に入ったという事も考えられなくはないし
実際、道三の息子で本能寺で死んだのいたよね
106日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:22:06
>>103
あの当時の夫婦関係や結婚・寵愛などを現代の恋愛感情で考えたらダメだと思うよ。


あくまで小倉にとってみたら信長は庇護者であり、いわゆる「金づる」に近いと思う。
長年暮らして枕を交わせば、情も出て来るんだろうけどね。
勿論、信長に心底惚れていた可能性もありうるとは思うけど。
ただあくまで小倉が信長の奥へあがったのは庇護を目的としているわけだし、
信長死んだ後に、次の権力者へと流れるのはある意味政治的な嗅覚に優れているとも言える。
もっとも、糟糠の妻の濃姫からしたら「かような恥じらいまで捨てるとは
まこと国は滅びたくないもの(By三条夫人)」って感情があったかもしれないけどw


その辺は現代の恋愛感覚等では推し量れない部分じゃないかなと思ってる。
107日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:24:40
>>102当時の家臣の縁談も当主の許可を得てするもんだからね。面倒だから当主に
相手を探して貰っていたようだ。そういうことは正室に意見をもらうこともあったと
は充分考えられるよね。特に光秀は濃姫の身内ということもあるし。

>>103でもさ子供をかかえてどうにか乱世に生きるとなったら次ぎの庇護者を
探さなきゃ。お鍋も必死だったんだろうよ。
108日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:26:23
>>97
同意。
しかし、出しゃばらないのは良いけど、記録にも残さないのは出なさ過ぎだ。
せめて、どっかの寺へ寄進とか、誰かと手紙のやり取りとかしてくれてたら良かったのに。
109日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:29:11
家臣も側室も当主に忠義立てを義務付けられていったのは、幕藩体制が確立
してからだな。側室も当主亡き後は落髪するようになっていった。
それまでは側室は誰かと再婚したりもできたし、そう考えるとお鍋のような
無節操な生き方は戦国時代では当たり前ととらえるべきかな。
110日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:32:42
川上宏のホームページの 「あゆ」 って奴うぜぇ「 携帯ギャル」 とか 「美優」とかハンネころころ変えやがる
111日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:33:28
まー、別に秀吉の愛妾になったわけでもないし無節操ってわけでもないんじゃないのかな
確かどこぞの人妻は秀吉の愛妾になっていなかったっけ?
お福とかいう名前だったような・・・。
それに比べるとただ庇護を求めただけで、一応その辺の貞淑さはあったとも言える。
当時の貞操観念が、現代のものさしで比較していいかどうかは知らんけどw
112日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:37:44
濃姫が晩年、妙覚寺の兄のところへいっていたなら、
やはり濃姫の位牌などは妙覚寺にあるのでは?
墓があるとされる総見院だけど、濃姫の位牌はなく仏事の供養などの対象
にもなってないらしいし。
113日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:37:52
光秀って織田家家臣団の中でも筆頭のほうだけど、他の家臣と比べると信長との
養子縁組や婚姻関係がないに等しい。
他の重臣は織田家と何重もの縁組をしていたり、秀吉なんてまだねねに子供が授かる可能性だって
無きにしも非ずなのに養嗣子として送り込まれてるし、それに比べると光秀との
関係は希薄。あちこち主君をかえて放浪していた光秀をそこまで信用するとも
思えない。

濃姫とは実は従兄妹以上に濃い関係だったので、あえて姻戚関係を結ばなかったのか?
とも思える。(腹違いの兄妹とか)そうなると濃姫が信長生前は生きていたんだろうな
ということいにもつながるけど、その辺も不思議だった。
114日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:42:47
>>102
毛利などに残っている書状などを見ると、戦国時代の正室は、
実家や奥関連を通じて外交のフォローアップをしていたように思えるね。
実際に、正室や継室の書状は残っていないけど、「よしなに」と当主が
前当主の正室や継室(通常はそういう立場の人は大方殿と呼ばれる)に
依頼している書状は残っているし、島津などでも女性の外交的力量に感謝して
知行をどうこうという記録も残っているし、そういう事は基本は表に出てこないものなんだろうね。

あと、信雄から知行をもらっている事を、庇護に入ったと勘違いしている人がいるけど、
知行をもらっている事と、庇護される事は別。
反対に、実質的に織田家の主流になった信雄が、知行を出さなかったら、それの方がおかしい。
でも、分限帳は安土殿じゃなく、御局か大方殿様が濃姫じゃないかと思うんだけど、どう思う?
様がついている大方殿様と、殿も様もついていないけど、局という奥向きでは敬称で呼ばれる御局の方が
様がついていない安土殿よりも、あの時代の敬称のルールから見て、信長正室と思えるんだけど。
115日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:47:25
光秀だけど、濃姫と従兄弟っていう説はやはり本当なのかな?
信長の研究をしている歴史家が、「光秀と濃姫は血縁関係があるのは
ホントらしい。一級史料でもあきらか。」
らしいけど、そうなの?
一説では、光秀の朝倉にいく前がまるで謎で、本当に美濃にいたか
どうかも怪しい。らしいし。一体、どっちがほんとなんだろ?
116日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:49:34
>>112 妙覚寺の兄の話はあくまで可能性の一つとしての臆測だから。

それと総見院には養華院の仏事の記録は残っていたはずだが?
ただ信長公御寵妾となっているらしい。
そうなると濃姫ではないとなるが、養華院の墓があるのだから
総見院には養華院の位牌などもあるはずだと思うけど。

安土総見寺の織田家の過去帳には養華院は信長公御台と記載されているが
墓や位牌などは確認されていないということなのでそのこと?
安土総見寺は織田家の過去帳の管理をしていたんだろうな。
だから濃姫は総見院に葬られたのだから濃姫の墓が総見寺にないのも、
位牌がないのも当然と思うが。

過去帳を檀家の墓の管理帳と誤解している人がけっこういるけど、
寺には檀家の家系図みたいな記録帳があって、墓にいない檀家の一族の記録も
けっこう詳細に書き記されている。誰それと結婚したとか、いついつ亡くなったとか。
その中に信長公御台が亡くなって法名が養華院と記されていたのだろう。
117日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:51:37
>>113
主君を変えるは武士として恥という概念ができたのは江戸時代になってから。
何度も主君を変える事に関して信長が光秀を疎ましく思っていたとは思えないな。
むしろ何度も裏切った過去を持つ松永弾正を許し、謀反を起こした実弟の息子という
要注意人物である津田信澄を重用している事を考えても、過去は気にしない人間だったと思う。
時代的にも別に主君を変える事は恥じゃないし。
だからこそ恩賞の中に次に仕える事になる主へ、こいつはすごいよっていう紹介文?みたいなものがあるし。

>>114
自分も安土殿は信長の娘であった可能性が高いかなとも最近思っている。
つまり信雄からしたら姉か妹にあたる女性かな。
ただ、信長ご自慢の安土の名前を冠する事の出来る女性っていう意味では
正妻という可能性もぬぐいきれない。
そして、御局か大方殿様かと言われたらその時代の敬称詳しくないからわからんw
118日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:54:40
>>115
最近、誰かの本で、明智光秀は妻木氏出身で、明智の女性と結婚したかなにかで
明智に住むようになって、明智の姓を名乗るようになったのでは?と推測されているのを見た。
正室のX子が妻木氏出身といわれているけど、資料を見ていくと、光秀自身の姉妹が
どうも妻木氏だったように解釈できるものが多く残っているようだ。
当時の女性は実家の姓で呼ばれるから、そうなると光秀も妻木氏出身という事にならね?
妻木も明智も、土岐氏の流れだけど、そうなると濃姫と光秀の直接の血縁関係は
かなり遠いものになってしまうようにも考えられる。
119日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:57:42
光秀が信長に仕えたキッカケは、濃姫といとこ同士というコネだった
って説も何か出来すぎていてうそ臭いよね・・・。
120日本@名無史さん:2007/05/13(日) 16:57:48
>>117
確か、女性に対しての敬称だと、様>殿になるはず。
様は上位の女性で、殿は同位程度になる。
だから、側室などは殿で、正室は様がつく例は多い。
ただ、その辺江戸時代になると、それ以前とルールが変わってきて、
戦国期は移行時期だから、微妙なんだよね。

局は基本的に、公家関連なんだけど、奥向きに限っていえば
奥におけるかなりの高位者につけられる。

121日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:01:35
総見院と安土総見寺の記録が食い違っているのが不思議。
濃姫は本当に総見寺に埋葬されるとき、「信長御台」として
埋葬されたのだろうか?
なぜ、「信長寵妾」と記録があるのだろう。
状況から見て、養華院は濃姫だと思うが違う記録があるのが変。
それとも最初は別の場所に埋葬されていたのを
後から総見院に移されたとかなのかな?移されたときに記録が
間違ってしまったとかなんだろうか?
122日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:09:22
>>121
あとはここでの考察を根本から覆す考えとしては、
養華院=濃姫ではない。
そして信長公御台=濃姫でもない、って事かな。
ここでは御台=正室、つまり濃姫以降正室を娶った記録のない信長の御台は
濃姫以外有り得ないって見解だけど・・・実際この辺もどうなんだろう。

御台という呼称そのものが正妻にのみ呼称されるっていうのは
本当なのかどうなのか、かな。
もしかしたらそう書いた人が単純に妻という意味合いで使ったのだとしたら
側室にも当てはまる言葉ではある。


ちなみにあれこれ言われたくないから最初に言っておくけど、自分は生駒厨じゃないのでw
単純に、間違えて書いた、書いた人物の記憶違い、御台を正室という意味合いでは
使わなかった等可能性はありうるなと思っただけなので。
123日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:19:12
御台という言葉は、江戸以降は大奥の将軍正室の御台所しか呼称を許されなくなってしまうが、
それ以前は、大名家の正室の呼び名だったんだよ。
それも、かなりの大大名だよね。
うちうちで、正室の事を御台様と呼んだり、側に御付きの者が側室の事を密かに御台と呼ぶ事はあったらしいんだけど、
正式に世間から御台と呼ばれる事はないんだ。
信長の御台だって、実際、美濃も支配していない尾張一国程度だと、
後世の書では、信長は天下統一手前まで行った事があらかじめ分かっているから、呼ばれる事はあっても、
同時代では呼ばれる事はなかったと思われる程度の呼称だったはずだよ。
124日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:20:01
>>123
>うちうちで、正室の事を御台様と呼んだり
あ、小大名とか、地方領主の正室くらいだとって意味。
125日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:21:29
>>117 そういうことではなく、そういう時代だから重臣達が裏切り謀反をせぬよう
織田家と姻戚関係を結んでいるのに、光秀に関してはそれがないのが不思議だという
話では?一説によると秀子という信長の姫は光秀の姫を養女にし筒井定次に
嫁がせたそうだけど、それでは光秀との間に肝心の姻戚関係が結べない。
結果的に何の遠慮もなく本能寺の変で謀反をおこすことになるのだけど、
いわれてみれば不思議だな。

>>118 妻木明智の家紋も例の桔梗紋なんだよw だからありえる話だ。

信長分限帳の安土殿は信長姉妹よりも信長の姫の誰かじゃないか?
もちろん信長正室がそう称されても不思議じゃないが、信長の姫も
そう称されても不思議じゃない。前スレにもあったけど
時期的に丹羽長重室の報恩院あたりが該当すると思う。
126日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:23:30
でも当時の文献「言継卿記」などにはきちんと「信長御台」や
「信長寵愛妾御なへ」と区別されているので、誰にでも「御台」
という言葉を使ったとは考えられない。
あと、濃姫が死んだとか離縁されたとかの記録は見つかってない。
ので、信長生前は濃姫が正室としての立場を努めたと考えられる。
あんな、どうでもいいような壷事件まで書かれているのに、
肝心な信長御台が亡くなったとか、新しい御台を迎えたとかいう
重要な内容がかかれない筈はない。よって、信長御台は濃姫しか考えられない。
127日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:28:44
勢州軍記にも信長公御台は斎藤山城入道息女ってあったね。そういえば。


これの信憑性がどの程度のものなのかはわからないけど。。。
128日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:32:29
てか、「あつち殿」=「養華院」っていうのはケテーイなん?
129日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:33:45
勢州軍記を書いたのは、蒲生氏郷の家臣の息子で、父親のメモをまとめたものに
伊勢に移り住んでからの聞き取りを足したものだから、案外正しいんじゃないかな?
蒲生家自体が伊勢と関わり深いしな。

信孝寄りの事を書いていると思われがちだけど、伊勢の事全般だから、
北畠の信雄の事も詳しく書かれている。
詳しく書かれているから、暗愚なのが丸分かりっていうのが・・・。
130日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:36:11
勢州軍記だけでなく他の文献にも載ってるよ。
信憑性がって・・・そんなに認めたくないわけ?
信長御台にそんなに価値があると思ってるわけ?
よくわからない。
131日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:42:26
>>129
信雄の愚鈍ぶりも気になるが、信孝の兄を馬鹿にしきった態度も気になる。

132日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:43:30
>>130
被害妄想すぎなんですけど・・・。
勢州軍記にも御台ネタあったなーと思い出したから書いただけ。
そしてそれの信憑性は全く知らないので、書いただけ。
特に深い意味等ないし、そういう疑いやめてほしい。
133日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:45:39
そういえばルイス・フロイスも信雄は暗愚だと書いていたね。
暗愚だから大した意味もなく安土城放火した、だっけ?


信雄と信孝の仲たがいって、単純に後継者争いとか
そういう問題以前に根本的な部分になんかあったんだろうか。
134日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:49:32
このスレって伸び方が凄いねw 
その割には戦国板はなぜか伸びないね 
なんでかな〜?
135日本@名無史さん:2007/05/13(日) 17:59:57
>>126
>「言継卿記」などにはきちんと「信長御台」

言継卿記は「信長本妻」となっている。
136日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:53:52
信雄と信孝の仲の悪いのって、生まれたときのエピのせいかも。
信孝の方が先に生まれたのに、信雄より報告が遅れたので
信孝が三男になったので、くやしかったのかも。
信孝にしてみれば、本当の二男は俺なのにという思いが
あったのかも。
でも武将としてはそれなりに活躍してたみたいだし、
信長の信頼としては信孝>信雄だったと思う。
137日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:07:09
>>125
それだけ信長は光秀を信頼していたのかも。
でもホント不思議だよね。信長の信頼度からいっても娘婿まで
いかなくても光秀の娘をもらうか自分の娘を光秀の息子に嫁がせ
ても良かったと思う。たまたまお互いに年の合う子女がいなかったのかな。
でもそれが原因で光秀の謀叛を起こされるのだから、信長ってやっぱり
つめが甘かったのかも。人を信用しすぎというか、なんていうか。
光秀が裏切るなんて全く考えてなかったんだろうか。
ただのお人好しに思える。
138日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:16:10
信澄に光秀の娘をやらず、自分の息子の正室に迎えればよかったのかもね
多分年齢的に信忠〜信孝くらいはその娘と年の頃合は似合いだろうし。
もっとも信忠は嫡男という事もあっていざという時の手ごまとして
正室のポジションは空けておきたかっただろうけど、
それ以外は別に庶子なんだしもらってやってもよかったのかもね。
(すでに正室迎えていたのかもしれないけど。ついでに他家に養子に出してるから
織田という区分ではなかったのかもしれないけど)


ふと思ったけど、信長にとってみれば信澄も秘蔵っ子扱いだったんだし
(息子でもなく、謀反人の息子なのに一族のNo.5という扱い)
もしかしたら信頼の証として、身内にしたって意味合いもあるかもね。
昔、信澄の一族での扱いを上げる為に重臣中の重臣である明智の娘を
貰い受けたっていうのも何かで見た事あるけど。
139日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:17:50
>>136
信雄と信孝の誕生日ネタって本当なの?
140日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:01:59
>>133 フロイスはキリスト教に好意的な人物のことは褒めちぎる。
そうでないとこけおろす。信孝は四国平定後は布教に協力すると約束していたので
フロイスは絶賛。信雄はさほど興味を示さなかったので愚か者となったのだろう。

>>139 「勢州軍記」によると「信孝は末子(三男)なのに天下を望んだ。
それは元々次男だったため。〜略〜信孝は坂の娘から生まれ信雄と同年同月に
誕生した。日にちは信孝のほうが少し早かったが信孝の母は熱田の神主岡本の
宿所にいたので誕生を伝える人がなかったのだ。後日岡本氏が清洲に行きこのことを
伝えた」とある。生母の出自のことには触れていない。たんに清洲城内で生まれなかった
ので報告が遅れたから、ということになっている。
そのまま受取れないこともないが、弟なのに天下を望んだことへの後付けの言い訳と
とれないこともない。

だいたいこの話が事実だとしても信長が次男、三男の序列を決定し、周囲からも
そう扱われ、自分も弟として振舞ってきたのに、突然出生のことをほじくり返して
信雄に逆らった理由にするというのも変な話だと思う。

141日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:16:56
二男と三男の序列なんて、嫡男と庶子の序列に比べてあってなきが如しだからじゃないか?
信長は信孝を三好の養子にする事に決めていたんだから、そうなっていたら序列の差もなくなるはずだった。
武将としての扱いは、既に信雄<信孝だったし、暗愚だと評判になっているような
信雄の事を見下してたんだろ。
生駒氏と坂氏の家格にしても、生駒氏<坂氏なんだから、信孝にしてみれば当たり前の事をしただけなんじゃないか?
「江州余吾庄合戦覚書」などで、一生懸命、生駒氏は嫡男を生んだから坂氏より上と言ってるけど、
家格については言及していない所を見ると、家格を言ってしまうとまずかったんだろ。
142日本@名無史さん:2007/05/14(月) 07:15:14
信孝の切腹は当主である三法師への逆賊行為のためというのが直接理由。
兄に逆らうなんて許されない時代だし、当時の信孝への風当たりは
相当強かったと思う。
信雄が切腹命令をだしたのはあの状況で信長の息子である信孝に切腹命令を
だせたのは兄である信雄しかいなかったからだろう。
後から何を言ったところで織田家では信孝が弟であったことには変わりはない。
兄弟の序列が逆であったとしても愚かで軽率な行動を
したことのいいわけにはならないな。
愚か者の信雄よりも愚か者だったとしかいいようがない。
生前そんなに武将としての器量が優れていたというなら
織田家の衰退を招くようなことなどしないだろうし、
もっと先を見通して慎重に行動したと思うが。
143日本@名無史さん:2007/05/14(月) 07:26:35
信雄と信孝が争わなかったとして、織田家は安泰だったのだろうか?
逆臣光秀を討って、信長の恨みを晴らしたのは秀吉だったし、
その秀吉が幼い三法師を抱え込んでしまっている以上、同じ結果だったような気がする。
信雄と信孝以下が結束して三法師並びに秀吉と戦ったとしても、
結局、秀吉に懐柔されて豊臣の世になり、織田家は諸侯の一人としてしか生き延びられなかったと思う。
144日本@名無史さん:2007/05/14(月) 07:33:28
秀吉が”生き延びさせてはまずい”と思ったのが信孝だったから
信孝は粛正されるように仕向けられたっていうのもある。
愚か者とはいわないが、坊ちゃん育ちの甘ちゃんには変わりないな。
いいように、秀吉に乗せられちゃってるんだから。
信雄はとことん愚か者だったから、普通ならやらない、家康無視して
秀吉と単独で和議を結ぶくらい、自分可愛いだし、信長の嫡男とそれ以外の
教育方針の違いと言ってしまえばそれまでだけど、信忠以外は本当に使えないよな。
145日本@名無史さん:2007/05/14(月) 08:51:28
嫡男教育をされないとしょせんその程度の器にしか育っていないということなんだろう。
もっとも兄弟それぞれ他家の当主におさまっていたのだから、それなりの
学習をしていたはずだろうに。

>>秀吉が”生き延びさせてはまずい”と思ったのが信孝だったから

俺は秀吉が消したかったのは柴田の方だと思う。
信雄さえおさえておけばしょせん弟の分際だし信孝は敵ではなかったろう。
最大のライバルだった光秀が消え、柴田がいなくなればと思ったはず。
突然信孝が「貴方が兄だ」と柴田に担ぎ上げられ敵対してきたのは
想定外だったかもしれない。
結果的に二人とも消せたのは秀吉がとことん運のある男ということかな。
146日本@名無史さん:2007/05/14(月) 09:17:16
信孝を過大評価しすぎ。あの程度の武将はざらにいた。
信雄を過小評価しすぎ。あの程度の武将はざらにいた。

濃姫の話題にもどすが、大徳寺の仏事の記録や過去帳に養華院は信長公寵妾と
あるそうだが、それなのに総見院が養華院を信長正室(濃姫)の墓と
認定しているのはなぜなんだ?
専門家が過去帳の記載と照らし合わせてそのことを寺側に確認したりせんのかな?
147日本@名無史さん:2007/05/14(月) 09:29:14
う〜ん、批判を承知で書くけど、信長亡き後信長正室が子供達の要となって
まとめ役をしてくれれば安泰だったんじゃないかという気がする。
まとめ役を出来たのは立場上信長正室だけだ。
具体的に何をしなくても、三法師の側にくっついているだけで効果絶大だったはず。
それなのにまったく隠れてでてこないのはその時点ですでに亡くなっていたから?
とも思えてくる。
妙心寺の一周忌の信長夫人の記録があるにはあるけど、あの妙心寺記は光秀が本能寺の変後
翌年妙心寺で亡くなったとか書いてあって眉唾記載もあるんだよなぁ。
148日本@名無史さん:2007/05/14(月) 09:35:15
>147
あの頃、お市をはじめ、織田家の女性達は信雄側についた人が多くて、
秀吉主催の信長葬儀も、織田家の女性で出席したのは土田御前、側室のお鍋ら、
秀吉側についた人は相当少なかった。
多分、秀吉も、濃姫やお市ら織田家女性の取り込みを図ろうとしたんだけれども、失敗した、
というのが真実じゃないのかな?
149日本@名無史さん:2007/05/14(月) 09:53:29
148の続き。
うがった味方をすれば、
あのとき、お市がそれほど親しいと思える史料もない甥の信雄を信頼し、
自ら信雄の駒として秀吉に敵対する柴田勝家に嫁いだのも、
濃姫が信雄や勝家の側に立ったため、織田家の女性はこれにしたがった、とも考えられなくもない。
お市は嫡男でもない甥の信雄を信じて柴田に嫁入った、と見るより、
そこには兄信長正室濃姫の助言があった、とみると自然じゃないかな。憶測だけど。
濃姫から指示を受ける立場にない土田御前や、実家に返されていたお鍋は、秀吉にとりこまれたけれども。
秀吉に味方しなければ、濃姫は当然、三法師の後見人になることも拒んだであろうし、
信孝に味方もしなければ、豊臣にも徳川にも濃姫の史料は残らない。
濃姫が本能寺前に死んだという史料もないし、生きていたと考えられるのだが。
150日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:00:36
>>148-149
信雄と信孝を混合してないか?
151日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:08:02
大徳寺の仏事の記録と、安土総見寺の過去帳だと、詳しいのは総見寺の方には違いないだろうな。
過去帳は、各家にさえ伝わっていないような正しい家系図がある事が多いしな。
152日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:31:08
>>149
天正10年10月6日付で勝家が堀定政に与えた書状によると
お市の方と勝家の婚姻は清洲会議の時秀吉の斡旋(譲るに近い)で
決まったとようなことが書いてあるそうだ。
つまり秀吉が柴田に織田家の行く末を委ねた形で譲歩させ
織田家家督相続の件を円満にまとめたんじゃないかな。

お市の方の処遇は戦国期の政略結婚そのものなのでさほど珍しい事ではないと思う。
ただ従来いわれていたような信孝のたっての頼みでお市に嫁いでもらったというのではなく
円満に家督相続問題を解決するためにということで、周囲から説得され納得した
ものだと思われるな。お市の方は織田信包のもとに子供達とともに身を寄せていた
から信包の説得などもあっただろうし。
153日本@名無史さん:2007/05/14(月) 10:33:42
>>151 総見寺の住職に信包の息子がなっているし、基本的に織田家から住職を
だしたようだから、織田家に関する個人情報の信憑性は高いと思う。

154日本@名無史さん:2007/05/14(月) 12:38:08
自分も濃姫が本能寺前に死んでいるとは思えない。
記録がないし、あともし本当に亡くなってたら、崇福寺に位牌の設置や
遺品の納品、また手紙を書いたのは一体誰?ってことになる。
お鍋だとちょっと時期的にありえないし、妙心寺の一周忌などに
ついてもお鍋は秀吉側についたんだから違うしね。
またお市なども法会を開いているらしいし、確かに光秀関連に
ついては?と思う話もあるけど、それが正しくないかどうかは
分からないわけで。
155日本@名無史さん:2007/05/14(月) 12:55:09
もし濃姫が本能寺前に亡くなっていたら、喪主は信忠がつとめるなり
しただろうし、何か記録が残っているはず。
以前にも書いたけど、どうでもいいような壷事件なども書かれて
いたりするのに、信長御台が亡くなったという重大なことを
記録に残さないわけがないと思う。
濃姫が仮に離縁されたとしても同じこと。記録に残らないほうがおかしい。
信長の父親の信秀でさえ離縁したとか記録にあるのに、それよりも有名に
なった信長の御台について変化があれば必ず記録に残る筈。
よって濃姫は信長生前は正室の立場を全うしたと考えられる。
しかし、その後の本能寺後の織田家のごたごたについて全く
名前が挙がらないのはその時、病に臥せっていたとも考えられる。
夫と養子にした息子、それに弟も一度に失っているのである。
体にそれほど不調は無くても、精神的に参ってしまい寝込んでしまったことは
十分考えられる。
しかも敵が攻めてきて〜討ち死に〜ではなく、あくまで味方である重臣光秀
の謀反によるクーデターである。ショックを受けないほうがおかしい。
なのでことさら本能寺後に濃姫の記録がほとんどないからといって
死んだと決め付けるのはどうかと思う。
156日本@名無史さん:2007/05/14(月) 13:48:46
前スレだったか、「御台平産」記事に関連して、
濃姫がもし子供を産んでいたら、どの子供が該当するのかという疑問が挙っていたけど、
生母との関係がはっきりしている、信雄、信孝、信吉、三の丸と、
生母らしき人物との関係が考えられる、信忠、信貞、永姫以外のすべての子供が
濃姫の子供である可能性ってあるんじゃないかな?
特に姫に関しては、正室腹でもあまりその事は重要視されない時代だし。
秀勝は、本能寺以降に生母の書状など残っているけど、それが濃姫ではないと確定していないので、
限りなく側室腹に近いと思われるが、否定もできないしな。
157日本@名無史さん:2007/05/14(月) 13:51:17
鍋腹の振姫を忘れてたな。
濃姫腹ではないと確定している中に加えておいてくれ。
158日本@名無史さん:2007/05/14(月) 15:43:53
自分も濃姫が子供を産んでいる可能性はかなりあると思っている。
男子については産んでいても早世の可能性は大きいと思うが。
大体、濃姫が嫁いでから7年近くも全く子供なしなんて考えられない。
もし全く孕まなかったらもう少し早く、側室なりおくと思う。
いくら濃姫が美濃との同盟に大事な人だからっていって、
子作りを避けてまでとは考えられない。もし本当に美濃との同盟のために
大事で子作りを避けていたなら、なおさら早い段階で側室など入れると思われる。
よって、濃姫が少なくとも信忠が生まれるまでの間に最低でも一度くらいは
出産経験があると思われる。もしくは流産が続いたため濃姫の体のことを
考えて側室なりおくことにしたとも考えられる。
全く孕まなかったとは考えにくい。
しかも結婚後20年近くに平産の記録が見つかっているし、
もしその時にはじめての出産だったとしたら、無理に外出することは
避けるのではないか。それなのに信長とともに出かけている。
ということはそれ以前に少なくとも一回以上は出産の経験があると
思われる。
よって、生母のはっきりしない子供は濃姫の可能性もあると思う。
159日本@名無史さん:2007/05/15(火) 08:52:32
>>22
>手紙を書いた代筆者が自分の署名をして、
>出そうとする本人の刻印や花印を
>押しているケースもある。

かなり遅レスなんだが、こういう例があるのなら、
「奈遍」が鍋ではなく、正室の侍女の代筆の可能性の方が高いんじゃないのか?
160日本@名無史さん:2007/05/16(水) 08:25:21
土田殿も男子の子供はある程度判明しているけど、実子に女子もいたと思うんだ。
死亡率が女子よりずっと高い男子が無事三人も成人しているのだから
同腹の姉妹がもっといてもおかしくない。
お市も土田殿の子供という説もあるけど、はっきり明記されたものはないし、
お市自身の出生に関することも謎が多いから、基本的に姫に関しては家的には
正室腹であってもさほど重きをおかれていなかったということだろう。
そう考えれば濃姫腹の姫が何人かいたということは考えれる。
ただある程度の年齢まで成長した男子はやはりいなかったんだろうな。
男子となれば正室腹か否かは後継者問題に関わるので重要視され
記録に残されただろうからさ。
161日本@名無史さん:2007/05/16(水) 13:08:36
>>天正10年10月6日付で勝家が堀定政に与えた書状によると
お市の方と勝家の婚姻は清洲会議の時秀吉の斡旋(譲るに近い)で
決まったとようなことが書いてあるそうだ。

この場合お市をもらうということは織田家家臣団での権威は事実上トップになるが、
その代わり織田家を絶対裏切れないということになる。
秀吉もお市に懸想し望んでいたという「勢州軍記」の記載はやはりどうかなと思って
たんだ。秀吉にしてみたら織田家やお市より欲しい天下人の座。
この書状からも体よく柴田と織田家を縁組させ、柴田を追い込んでいったようにしか思えないな。
162日本@名無史さん:2007/05/17(木) 10:55:40
久昌寺にある記録は信雄が「信忠・五徳と同腹だ!」と言い出したことを
根拠に編纂されたのかな?それなら久昌寺の史料そのもののソースが怪しい
ことになる。

それと金沢久昌寺は信長の孫だかが尾張久昌寺で剃髪し金沢に招かれ創建
されたというのに、そのことについて尾張久昌寺側の史料などはないのか??

どうも尾張久昌寺の史料は吉乃がらみにばかり限定されすぎていて、
不自然さが目だつ。
163日本@名無史さん:2007/05/17(木) 12:06:12
久昌寺縁起は「吉乃」って名前がでてくるくらいだから、武功夜話以降に作られたんではないか。
それなら、金沢久昌寺の事なんて何も知らなかった人間が
かってに作ったから、書かれていないって考えればつじつまは合う。
嫩桂山久昌寺縁由にしても、後世信長が天下統一手前まで言った事を
知っているのを前提にしていなければ、考えにくい寺名変更の理由を
書いていることからも、当時の事をそのまま書いているのも考えにくい。
ただ、嫩桂山久昌寺縁由の方は信忠の事は出てこないようで、
信雄とのつながりを重視して書いているので、寛政譜以前の成立の可能性はあるのではと思う。
もしも、嫡男信忠も生駒腹と認識していれば、喜んで書くと思う。
164日本@名無史さん:2007/05/17(木) 12:27:48
前スレの話題なんだけどさ、

【第三巻】信長の正室帰蝶・まむしの娘の謎
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1166951419/810

>810 名前: 日本@名無史さん Mail: sage 投稿日: 2007/04/28(土) 10:18:18
>江南市にツアー客が訪れ、金をおとしていってくれる。
>武功夜話様様さ。
>
>吉乃の墓は突然できたんだよ。
>以前はあの場所に吉乃の墓なんてなかった。

これって本当?
165日本@名無史さん:2007/05/17(木) 13:01:11
生駒の方の名、「よしの」は
「信長公記」にも「吉野」と出てくるんだけど、
どれくらい信憑性があるの?
ほかの古文献にも出てくる名前なの?
166日本@名無史さん:2007/05/17(木) 13:31:06
>>165 それ本当!?
すまんが公記のそのあたり抜粋してくれないか?
167日本@名無史さん:2007/05/17(木) 14:28:45
太田牛一著述の「信長公記」に信長の側室の名前など出てこないがな。
何かと間違えていないか?
168日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:05:49
「信長公記」に「吉野」と出てくるのは
「戌寅二月九日、吉野の奥山中に磯貝新右衛門隠居仕り候を、同地の者、頸を切り、安土へ進上致し候。」
という部分しか知らないが、他に「吉野」という言葉が出てきただろうか?
169日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:27:25
>>168
それって全く生駒氏と関係の無い内容じゃない。
「吉野」ってあればなんでもかんでも生駒氏のことだと思うなんて
幼稚すぎ。
もっときちんと史書読むなりしたら?
170日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:44:04
>>169
いや、自分は>>165書いてないし。
>>168で書いたのは、自分がこれ以外の吉野を信長公記内で知らないから
>>165はそれ以外でどこの事を書いているのか尋ねているだけなんだが。
171日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:49:46
生駒家の家計図では、「吉野」は「類」という名前でなかったか?
本当に「信長公記」で生駒氏が「類」でなく「吉野」と出てるのか?
出てるとしたらどこの部分か教えてくれ!
172日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:58:20
>>164
自分もそれ、気になる。
江南市は訪れたことないけど、本当に江南市ぐるみで武功を参考に、後年つくりだされた
「吉野の墓」を観光名所にしてるのか?
だとしたらとんでもなく悪質だな。それ。事実でもないのに金儲けのためなら
なんでも利用するってことか。
だが「吉野の墓」として公開してる寺も寺だが、それを鵜呑みにして観に行く
客も客だな。
173日本@名無史さん:2007/05/17(木) 17:58:42
つか生駒歴代当主と同格の並びに家氏の娘の墓があるんだ?
とずっと疑問だった。信長の側室であってもそれとこれとは
別問題。類の墓が別扱いならまだしもさ。
174日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:05:54
>>164 >>172
有名作家が執筆したことがはっきりしてる現代の小説と、
謎の私家小説の差はあるけど

井上靖「風林火山」が話題になった昔、
由布姫が小説内で過ごした・死去した「設定」の寺院があり
(その寺自体は実際あるので、物語の舞台に借りたという形か)
その寺に由布姫の「墓」が造られた。
自分が子供の頃に訪れたときは、図々しくも墓としていたが
さすがに高遠の菩提寺の存在に遠慮したのか
いつの間にか「供養塔」に変身している。

>鵜呑みにして観にいく客も客だな。
それは誰もが歴史好きというわけでもないので言いすぎ。
観光媒体でそう掲げていたら、
そういうものかと思って人は行くのだろう。

ちなみに最近の「風林火山」観光誘致のパンフを見ても
「由布姫の供養塔」のあるO市の寺院として載ってるけど
昭和に書かれた小説の設定をうけての建立などとは載せないね。
そういう類似の墓だの供養塔は色んな人物においてもあるが、
観光で来ていて、「ほーお」と感心して眺めてる人に
いちいち解説する暇も趣味もないしね。

杉本苑子が小説内で命名(実名不詳のため)した人物名が、
その人物のご当地にある墓に「○○の墓」として、
教育委員会が立てた標識に用いられて呆れたことがあったという。
その程度の意識の土地もたくさんあるって事だ。
175日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:23:15
>>170
つまり、>>168は、>>165に対して、
「信長公記の中に、『吉野』って単語はこれしか出てこないのに(´,_ゝ`)プッ」
っていう、遠回しな嫌みってことか。
176日本@名無史さん:2007/05/17(木) 18:23:47
結局、>>165の言う「吉野」は>>168の地名の「吉野」のことなのか?
177日本@名無史さん:2007/05/17(木) 19:04:59
当時のたしなみのあるものが記した公書なら女性の本名を記載することはないだろう。
女性のことは○○室、御内室、○○(実家の姓や居城の名)殿、○○院などで記すのが
礼儀であり、常識だったから。

ねねのことも秀吉の消息文やねね自身の署名で名が判明したわけで
公の文書には高台院とか北政所などと書かれている。
178日本@名無史さん:2007/05/17(木) 19:51:36
そうなると吉乃連発の久昌寺縁起はますます怪しいな。
179日本@名無史さん:2007/05/17(木) 21:53:08
>>175
いや、別に嫌味のつもりではなかったんだけど、
他に見逃してる「吉野」があったかな?と思って。
信長のお袋様や正室の名前どころか、嫡男奇妙卿の出自すら
書かれていない「信長公記」と、一体何の史料を間違えたのかは興味ある。
「甫庵信長記」にも、側室の名前は出てこなかったように思うしな。
180日本@名無史さん:2007/05/17(木) 22:32:55
>>172
一般人は知らないんだから別に罪はなかろう。
181日本@名無史さん:2007/05/18(金) 08:09:01
武功夜話を創作した人物は女性の呼称の常識も、永姫の件も、知らなかったということか。
家系図製作業なんて詐欺師みたいなもんだからな。
こんなやつのせいで史実が歪曲され続けると思うと悔しくてならん。
182日本@名無史さん:2007/05/18(金) 08:17:32
悔しいもへったくれも史実がひんまがり続けた原因は 
なにも武功だけのせいではあるまいに。 
 
ここの連中ってそんなこともわからんのかよ
183日本@名無史さん:2007/05/18(金) 08:40:37
>>181
武功夜話に関して言えば、私家の先祖の話しという設定だから
女性名が出てくるのはおかしくはないんだよ。
公的な文書などでは用いないというだけ。
また、女性の本名は身内くらいしか知らないので、第三者の日記などには
書けないため、名字や呼び名で出てくる。
そういう意味では、武功夜話で濃姫の事を帰蝶としているのは、
ちょっとおかしいという気がするな。

>>182
武功のせいだけではないね。
武功を利用して名をなそうとした人々の方が問題なのは、
ここに出入りしているような人は、分かっている方が多いだろう。
ただ、武功夜話がなければ、言継卿記も精査されなかっただろうし、
崇福寺の奇妙名の判物と6年後の判物の関係も考えられなかっただろうし、
その他の文献なんかの、御台記事に着目される事もなかっただろう。
まわり回って、いろんな事が分かってきたのだから、
いろいろ検証できて、自分は面白いと思っているな。
184日本@名無史さん:2007/05/18(金) 09:28:14
武功夜話は偽書というより、歴史小説という認識が広まれば紛らわしくないのかもよ。
歴史小説だってある程度史実にのっとって書いていくもんだし、
虚構と史実の折衷がまた興味を煽るもんだ。
かといって歴史小説を史実の検証史料にもちだす馬鹿はいない。

武功夜話をあたかも信憑性の高い一次史料のような扱いで宣伝し
名のある歴史家までが公に即座に否定しなかったというのが
こうなってしまった原因のような気がする。

創作小説のモデルになった実際の人物の墓などが小説のヒットとともに大々的に
宣伝され、名所になってしまうことは生駒の墓に限らずある。
お岩さんや山本勘助だって一人歩きしてる。
185日本@名無史さん:2007/05/18(金) 10:24:34
多くの歴史家にとって、女性関連の話題はあまり興味がわかないの
だろうか。だから未だに信長関連の奥の話は武功を参考に〜などと
書かれていることが多い。興味の無い分野は安易に載せちゃうんだろうな
って感じがする。最近の信長本の多くは。
問題なのはテレビなどで大々的に放映されたせいで、武功を未だに真実
だと思っている人がいるということだと思う。
最近は信長人気でブームにもなってるが、しかし戦国時代のしかも信長の
奥関係などに興味のある人なんてほとんどいないので(少なくとも自分の
まわりには皆無)そんなに気にするほど、世間の人は武功を信じているわけではないと思う。
このスレを見てるのもよほどのマニアだけだろうし。
186日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:16:16
戦国時代好きにとって濃姫が信長の正室として嫁いできたあたりは
戦略的なことからも非常に興味深い。
正直信長の側室が誰だろうとどうでもいいんだ。
極端な話濃姫がその後どうなったのかも興味がない。
あの時点で濃姫が信長の正室になったことから、岐阜をゲットするまでの
ストーリーがいいのだ。

吉乃やお鍋などとの信長との絡み、濃姫との確執のことなんかは
ホームドラマ的な意味合いなら面白いところだろうし、
女性の視聴者も多いからこういう話は受けるのかもしれない。
187日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:47:11
側室絡みはむしろ男の小説家のほうが派手に書くが。
女性好みのドラマや小説なら、利家やまつ、功名が辻のように
夫婦相仲良くと言う感じでむやみやたらに夫の愛人を出さんでもよろしい。
それを考えると、何年か前の毛利元就など、史実の元就は、
正室存命中、正室一人を貫いてきたのに(元就が側室を持つのは正室死後)、
なんで大河で葉月演じる架空の愛人なんかを出してきたんかと(これは女性脚本だったが・・・)。

本題からはそれた。
188日本@名無史さん:2007/05/18(金) 11:50:52
信長に関しては、濃姫と生駒やお鍋などの確執などほとんど
伝わってないからなあ〜
信長の寵愛の奪い合いは、勝家や秀吉、光秀などの出世競争がらみの話が
多いから。
歴史小説の分野からいくと女性関係なども創作意欲のわくところ
なんだろうけど。
189日本@名無史さん:2007/05/18(金) 12:17:10
>夫婦相仲良くと言う感じでむやみやたらに夫の愛人を出さんでもよろしい。

全く同感。
愛人を出すにしても秀吉における淀君とか、信玄における諏訪御料人など政治的な話にどうしてもかかせない
人物ならともかく、全く政治や戦がらみと関係の無い人物など出す必要はないと思う。
190日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:03:06
側室を「夫の愛人」と定義付けている現代人の視点でアウトだよね。
戦国期なら側室は借り腹以前に敵方の人質だったり、命請いのための人身御供
だったりするわけでさ。
生駒やお鍋にはそれなりのつらい境遇とかがあって、そのへんのことも
きちんと時代背景に則して演出してくれれば違和感なく見れると思うし、
むしろやってほしい。

>>側室絡みはむしろ男の小説家のほうが派手に書くが。

人にもよるよ。
ただ閨のシーンが露骨な作家は男女関係なくヒューマンドラマ的にしあげてるかな。
「功名が辻」の原作はけっこう閨のシーンや無意味なエロシーンが露骨なんだよな。
六平太と千代ってやってるしw
191日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:11:48
>生駒やお鍋にはそれなりのつらい境遇

信長の側室に差し出された、
辛い人身御供の過去って何?
192日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:19:34
>愛人を出すにしても秀吉における淀君とか、信玄における諏訪御料人など政治的な話にどうしてもかかせない
人物ならともかく、全く政治や戦がらみと関係の無い人物など出す必要はないと思う。

自分もそう思う。
女性史観のホームドラマの延長なら側室を掘り下げたテーマのドラマが
あってもいいと思うが、大河のような男性主役なのにあまり女性ばかり
中心に描かれるのはつまらない。
今年の風林火山も由布姫で話をひっぱりすぎ。三条夫人Vs由布姫などの
ドロドロしたシーンをやりたいのだろうが、あまり何話も続けてやるも
のではないと思う。
戦国時代なのだから、もっと戦や勘助の軍師としての腕をみたいのに。
はっきりいって側室話などは、戦や政治の話の息抜きとしてやるべきで
主役でもないのに中心的に描く必要はないと思う。
193日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:25:55
>>191
生駒氏女は、生駒家と犬山城の信清の関係が大きい事から、信清絡みの人質ってことだろ。
土田御前が小折の土田の出ではなく、信房女だとしたら
土田御前絡みで生駒家に出入りしていて見初めたなんて言うのも、
あり得ない話しになるし。
犬山城は美濃と尾張の国境近くだから、どちらともよしみを通じる所があったし
実際、信賢は信清とその後ろにいる美濃をあてにして反旗を翻したのに、
信清が密約通りにではなく、信長に味方したために負けたという逸話もあるくらいだし、
その信清の家臣である生駒にしてみれば、いろんな所にいい顔をしなくちゃならないだろ。
お鍋は、小倉家が信長に臣従する時辺りに、保険代わりで差し出されたって事なんじゃないかな?
坂氏も熱田の岡本家がらみだろうし。
側室の多くは、政治がらみだからこそ、出自が明らかになる。
前も誰かが書いていたが、側室の出自を書く事によって、勢力関係を表しているからだ。
反対に、出自の書かれていない側室は、政治がらみではないからこそ、書かれていない事になる。
ただ、鍋の場合は、小倉と表記されるのは秀吉に仕えて以降だから、
信長に対しては、政治がらみではなかったかもな。
信長は、鍋ではなく小倉と呼んでいたという逸話もあるので、小倉氏出身なのは
そう間違いはないだろうが、それがそのまま政治がらみとは言えないからなぁ。
194日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:31:05
>193
その説だと、「側室=夫の愛人」ではなく、「側室=人質」だという
190の意見が必ずしも通らない。
自分で気に入った女を召し出したと言うのも側室ということになる。
人質なら、相手の実家が裏切った時に殺すのが普通だと思うが、
殺害された側室が見当たらない事からも、一概に
側室=人質だとは言いがたい。
195日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:56:40
>>194
そりゃ、気に入った女性も側室にすることもあるし、側室の全員が人質な訳ないし。
政治がらみの人質と言っても、側室の場合は実家が裏切ったから殺すなんて事もしないし。
側室は愛人じゃなく、ある意味、正妻ではないけど、室だからさ。
室でもなんでもない愛人は、単なる愛妾や伽係な。
正妻の実家と戦状態になったら、戻される事があるように、側室も戻される事はあるよ。
正妻だって、実家と同盟破れたって戻されないで婚姻継続する場合も多々ある。
戻された代表のように言われるお市だって、最後城が落ちる直前まで戻されてないし
同盟がなくなった後も、妊娠してお江を生んでるし。
武田勝頼の継室などは、実家から戻れ戻れと再三言われても、戻らないで一緒に自害しているし。

殺されたりするのは、側室ではなく、信孝の生母を秀吉が人質に取っていたような場合だし。
196日本@名無史さん:2007/05/18(金) 16:33:38
夜伽侍女というのもいて、夜の相手だけを務める側室とは異なる女性も
奥にはいたんだ。正室や側室の侍女あたりが代役を務めたり、
純粋に当主の目にとまり、相手をする。当時奥勤めをするということに
こういう仕事も含まれていた。
こういう女性に子供が出来た場合はご落胤として家臣に下げ渡された。

正室、側室以外にも奥にはこういう女性がいたことも認識しておこう。
197日本@名無史さん:2007/05/18(金) 16:45:01
お鍋はどういう経緯で側室になったのかな?
前夫がらみの命乞いとかじゃないかなと思ってるんだけど。
前夫との子供も小姓に取り立てられているんだけど
そのあたりも人質?までいかないけど、そういう意味合いはないのかな?
198日本@名無史さん:2007/05/18(金) 16:56:12
お鍋は安土城にいなかったらしく(別に居城を与えられていたらしい)ので、
正式な側室じゃなかったのではないかと、どこかで聞いたのですが・・
しかも前夫とのエピはまったくの創作話らしいし。
もしそれが本当だとしたら、お鍋が丹羽長秀に手紙を送ったり、
崇福寺に位牌の設置をしたというのは考えられなくなる。
やはり手紙を書いたのは濃姫(侍女の代筆含む)と見ていいのでは。
199日本@名無史さん:2007/05/18(金) 17:13:26
崇福寺の手紙の書き手はこの際おいておくとして、
鍋が側室にあがったエピと、別の居城を与えられていたエピは創作なので、
本当は普通に安土城にいた普通の側室だったと思う。
だが、本能寺以降織田家で庇護される事なく、実家に戻っているので、
奥のとりまとめなどの特別な権力を持った側室ではなく、実家の小倉家から
信長への臣従を示すためあげられた側室でだったんじゃないだろうか?
小倉家が本能寺以降、織田家と運命をともにもしてないし
それほど深い繋がりもなく、普通に織田家との関係が白紙に戻ったから
実家に戻っていたって事なんだと思う。
公家出身の側室なども、そんな感じだったしね。
200日本@名無史さん:2007/05/18(金) 17:28:37
>>199
ということは、お鍋もやはり政治がらみでの側室だということだね。
確かに本能寺以降、織田家とのつながりが切れていることを考えると
そう考えるのが自然かもしれない。

201日本@名無史さん:2007/05/18(金) 17:41:06
大名の側室は、夫が死んだからといって実家に返されるほうが稀有だと思うのだが?
家が断絶した場合や、再婚する場合を除いて。
鍋はなぜ返されたんだ?
ついでに、鍋と一緒に秀吉主催の信長葬儀に出席した土田御前、
信長死後は誰の庇護を受けていたんだ?
202日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:14:37
>>201
信包じゃなかったっけ
203日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:57:16
>>大名の側室は、夫が死んだからといって実家に返されるほうが稀有だと思うのだが?
 
側室は解散だよ。
実家に頼れるものは実家に頼る。
当主との間に子供がいれば、その子供の庇護を受ける。
鍋が返されたのは子供がまだ一人前で鍋を庇護する年齢ではなかったので
頼れるのは実家だけだったからだ。
鍋の子供がある程度の年齢になっていれば、織田家の庶系だがそれなりの
ものを継ぎ、鍋を庇護したと思うが、織田宗家が面倒をみる筋合のことではない。
204日本@名無史さん:2007/05/18(金) 18:59:20
六角氏を追放したあと、六角氏家臣から信長に人質が出されているので、
お鍋もその中の一人だったのではないか?

また小倉氏は東近江の有力氏族(蒲生氏に匹敵する程度)で、分家も多かったはず。
お鍋の連れ子二人は小倉姓を名乗ってるので、父親も小倉氏出身ではないだろうか。
夫婦ともに小倉氏出身でも不思議はないと思う。
205日本@名無史さん:2007/05/18(金) 19:09:33
>>196
>こういう女性に子供が出来た場合はご落胤として家臣に下げ渡された。

子供ができると、出自によっては側室に引き上げられて、子供は庶子に列せられる事もあるので、
すべてが家臣に下げ渡された訳でも、御落胤扱いでもない。
下げ渡されたのは、それこそ、本当にどうしても粉飾できないほどの低い出自の場合。
206日本@名無史さん:2007/05/18(金) 19:52:55
>>205
吉田直元に下げ渡された森氏は森可成の娘だが、そんなに出自が低いという
ことはないと思うが?

正式な側室ではない立場の女性が身ごもった場合、家臣に下げ渡すもんだと思ってた。
207日本@名無史さん:2007/05/18(金) 20:37:23
>>206
森可成の娘って確定していないどころか、
むしろ、その下げ渡した逸話自体が眉唾なんだよな。
森家側の文献史料には、全く出てこない話しだし。
208日本@名無史さん:2007/05/18(金) 20:48:00
森可成で思い出したけど、森可成の正室の林氏は
濃姫輿入れの際、付き従って尾張に移った林新右衛門越智通安の息女で
可成との婚姻は、信長の肝いりだったと林家の文献には残っているそうだ。
209日本@名無史さん:2007/05/18(金) 20:50:04
>>207 この御落胤はどういうわけか最終的に生駒姓になったので
「生駒文書」というものにはあれこれ詳細が載ってるらしい。
210日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:05:44
>>209
7歳で初めて信長に謁見して、生駒姓を賜ったってやつだよね?
でも、名乗り始めるのは、天正末期の信長没後。
生駒姓を賜ったのなら、その場で名乗り始めるはずで、
10年も経ってから名乗るなんておかしい。
信雄の指示で、生駒家の養子にでもなった男子を、
勝手に御落胤にでもしたんじゃないかな?
生駒家には信長の血が流れているとしたかったとか。

本当に、一つ一つ見ているとそうでもないんだが、ずっと注視していると、
ちょっとずつ生駒家の経歴系図を、書き換えていってるように見えるんだよな。
その頃って、どこの家でも多少はあったんだろうが、露骨なんだよなぁ。
211日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:24:08
森可成正室の林氏は、信長の異母妹の娘(つまり姪)と書かれている文献もあり
それは真偽が確定していないが、もしも本当なら、
そちらからも織田家の血筋と言いたかったのかも。

森家の息女ほどの出自なら、下げ渡される理由は、姦通でもして
信長の胤とはっきりしていないから以外にない。
原田直政の妹が生んだという信正が、信長の胤とはっきりしていないからという理由で
庶子にされず、一族の養子にされたと言われているが、それよりも扱いが悪い。
だが、反対に、森家ほどの家なら、そのような疑惑のある胎児は堕胎させる。
堕胎薬もあったし、近世まで割とメジャーだったお灸による堕胎法もある。
信長は可成が葬られているからという理由で、聖衆来迎寺を焼き討ちしなかったほどで
乱丸坊丸などを小姓にしているのも、養父代わりに後見するためという説まであるのに、
可成死後とは言え、その娘を簡単に下げ渡すなど考えられない。
212日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:30:27
>>202
秀吉主催の信長葬儀に、土田御前も出席している。
213日本@名無史さん:2007/05/18(金) 21:53:39
>>212 信包は信孝を攻撃してるし、秀吉サイドについてるから
土田殿を出席させたんだろう。娘を秀吉の側室に差しだしてるしな。
あれだけ信長の信頼厚い弟だったのにあっさり秀吉に寝返ったのは不思議だ。

御落胤で確定しているのは保科正之ぐらいで、あとはどの場合も噂の域をでていないな。

生駒文書は怪しいことこの上ないが、どこの家も先祖は源氏か平家だと言い張り
家系図書換えをしているからそういう風潮はあったことは事実なのだろうが、
生駒家のように「とにかく信長と縁続き!」を強調するのも不思議な話。
あの時代なら信長の評価は今ほど高くなく、江戸期などは光秀より不人気だった。
現代人の手による文書なのか?と思えてくる。
214日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:00:26
>>213
>あの時代なら信長の評価は今ほど高くなく、江戸期などは光秀より不人気だった

生駒家が関係の深いのは、信長以外では、秀吉。
秀吉よりは、信長の方が、江戸期にはまだましだっただけじゃないの?
215日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:07:38
秀吉よりだった生駒家が対徳川のためにことさら「信長マンセー」を
強調したんだと思う。前田家もそうじゃん。豊臣を見限って
急に「信長様〜」と供養搭建てたりしてたしさ。
家康は豊臣も豊臣の残党は徹底的につぶしたけど、織田家に関しては
捨扶持あてがったり、高家に取り立てたりして存続を認めてくれたしね。
216日本@名無史さん:2007/05/19(土) 09:35:13
江戸庶民の間では秀吉、光秀、家康、が人気があって、
信長は残虐非道な極悪人という位置付けで不人気。
光秀をもちあげ、信長はことさら残虐行為ばかり尾ひれはひれをつけられたそうだ。
忠臣蔵の赤穂浪士と吉良みたいなもん。
大衆の信長人気が盛り上がったのは戦後あたりからだと思う。
歴史小説の影響だろう。
217日本@名無史さん:2007/05/19(土) 10:44:43
>信長は残虐非道な極悪人という位置付けで不人気。

江戸時代あたりから信長の暴君という捏造が始まったのだろう。
今人気なのは逆に、これまで語られてきた信長の悪人説がほとんどが
江戸時代の捏造であったことが明らかになってきたので、現在が本当の評価
をされているとも言える。
218日本@名無史さん:2007/05/19(土) 10:55:00
吉良性悪説もどうやら違うみたいだね。
昨年浅野家に関する史料が多数発見されたという報道もあったし
忠臣蔵の真相も明らかになっていくだろうな。

信長の比叡山の焼き討ちや長島一向宗大虐殺も何万人も殺害したというのに
それに見合った遺骨がでてないからかなり大げさに書かれているという説もある。
219日本@名無史さん:2007/05/19(土) 11:01:21
だが、庶民の人気などは関係ないのではないか?
系図を書き換えるのは、>>215が書いているように政治的な意図の方が強いだろう。
生駒家が秀吉マンセーから信長マンセーに乗り換えたのは
関ヶ原で親正が西軍に名目上だけ味方し、一正が東軍に味方した辺りで
徳川方にすり寄らなくてはならなくなったからではないのか?
220日本@名無史さん:2007/05/19(土) 11:10:57
信雄が永姫を通じて前田家との接触を図ったのもそういう政治的なもくろみが
あったからかもな。とりあえず外様ながら家康の信頼を得て大大名におさまった
のだから、信雄にとって前田家とのつながりを保持するのは必用だっただろう。
姫二人を永姫の養女にしたのは、同腹の問題がなくてもやっていたかもしれない。
221日本@名無史さん:2007/05/19(土) 11:29:25
永姫は、どう考えても、生駒家の女性が生母なんだろうが、
信雄と同腹か異腹かは判断が難しいよな。
異腹と考えることに不都合はないからな。
だが、ならば生駒家の史料にはそれぞれの女性を普通に載せると思われ、
永姫を載せていないのは、信忠と徳姫を信雄と同腹としたために、
永姫を同腹とすると都合が悪くなったという事も考えられる気もする。
永姫の生年が、実は利長と釣り合う程度に永禄年間だったとしたら、
徳姫の生年と近すぎたなど、それこそ計算が合わないような理由があったのかも。
222日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:10:15
そうだね。永姫はどう考えてももう少し早くに生まれている筈。
生駒氏の没年を考えても(信雄と同腹としたなら)徳姫と同じ
ぐらいに生まれたことも考えられる。
223日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:23:24
永姫の生年がわかる史料って何?
それが織田側のものか前田側のものかで変わると思うけど。
前田家側の史料でなら信雄系の作為は関係ないと思う。
224日本@名無史さん:2007/05/19(土) 14:10:21
加賀金沢前田家譜か別本続武家閑談だったように思うんだが、
確か、同じ史料中に、本能寺の時に信雄に対して光秀征伐軍を進言したと書かれていて
数えで9歳の子供がそんな事進言できるものかと思った覚えがある。
225日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:13:20
>>217
信長極悪説は、江戸時代に寺請制度が始まったことから、
なんだかんだいって各地の村で根付いていた一向宗の喧伝もあったんじゃないの?
226日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:16:24
>>224 それって永姫がそう進言したということなの?
ありえないな・・・

従来の説だと輿入れの時の年齢が利長20才の時で永姫8才。
前田家とは急な同盟を必用とする間柄ではないからこの組み合わせも
かなーり不自然だ。どうしても利長に姫を嫁がせたかったら
適齢期の織田一族の姫を信長の養女にして嫁がせればよい話。
当時の女性の婚礼適齢期が13〜15才あたりだったから
永姫もそのぐらいの年齢だったのではないかと思われるんだけど。
千姫なんかは切羽詰った政治的な必要から適齢期を待たずに
輿入れしたけど、信忠の許婚の松姫は適齢期まで輿入れをせずにいたわけだし、
そういうことからも永姫の年齢はもっと高かったと考えられないか?
227日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:20:12
>>225
信長極悪人説は江戸歌舞伎の影響が大きいとどこかで読んだよ。
信長を極悪人に仕立て上げ、苦労人光秀が我慢に我慢を重ねたが
とうとう爆発して本能寺の変で魔王を討つ。
だがその光秀も三日天下で終わる、というストーリーが
大衆に受けたそうだ。それに付随して光秀の糟糠の妻の苦労物語も生まれたらしい。
細川家でもガラシャを奉っているのは、光秀人気を幕府が容認したからなんじゃないかと
思う。容認したというか、利用したというか。
228日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:25:32
つまり前野文書を書いた人物は永姫の年齢を従来の説だと信じきっていたために
生駒生母説を書いてしまうと矛盾が生じるために書き加えることができなかった
ということか?「織田家雑録」に従っているだけなのかもしれないけど。
しかし「織田家雑録」てどういう位置付けの史料なの?
これぜひ読んでみたいのだけど、どうしたらいい?
229日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:28:25
前田家には永姫の年齢ごまかす必要ないじゃないか
230日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:31:17
誤魔化すのではなく、永姫の生年月日を正確に把握できなかったのではないか?
年頃まで生きられずに亡くなった姫などもいたろうから、ごっちゃになって
しまったとか。
231日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:36:15
確かに永姫の年齢はおかしいね。
利長が1562年生まれだから永姫もそれに近い年齢じゃないかな。
それだったら生駒氏が産んだとしてもおかしくないし。
でも前田家の史料で、永姫の輿入れの年齢が8歳と書かれているのだろうか。
いくらなんでも20歳の利長との年齢差がありすぎる。
それに利長もこの時代の人にしては、20歳で嫁を迎えるのは遅くないか?
普通15歳くらいで結婚したんじゃないか?その変もなんか解せないんだよな。
232日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:38:15
つか姫の生まれ年なんて特に当時気にしてなかったんじゃないか?
父親が誰であるって身元だけが必要で何歳だとか実際関係ないんだと思う。
濃姫の生まれ年だって実際のところよくわかってないんだし。
お市もそうだよね。


まぁ永姫に関しては、ちょっと考えが行き過ぎてる気がするな。
徳姫も別に特別急ぐ理由はなかったのに(婚約だけでよかったのに)
9歳で輿入れしてしばらくままごと夫婦だったわけだし。
相手が20歳だろうと、似合いの年頃の娘がいなけりゃ
父親が信長というブランドの姫をありがたく貰うのも当時じゃ当たり前の事じゃないか?
233日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:47:13
徳姫の場合は信康と年が同じくらいだから納得できるけど・・・
利長の場合はなんか永姫と年が離れすぎているような気がして・・
どうしても信長の姫がいいなら永姫ほど年齢差が開かなくても
他に年の合う姫がごろごろいたと思うんだよね。
やはり永姫の年齢がもう少し上だったんじゃないかと思う。
234日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:53:24
徳姫は美濃攻略に際して家康とどうしても同盟関係になっておきたかったという
政治的な背景があったから急いだんだろ?家康も反今川となって行動をおこして
いた時期だから織田との同盟を望んでいた。
前田家はそういう関係にないわけで、しかも元々の家臣筋にあたる家だから
急ぐ理由もない。だからその年齢での組み合わせは不自然に思える。

もちろん2歳だろうが8歳だろうが前田家が固辞するわけはないが、
必要もなく適齢期前の姫を家臣に嫁がせている例はないからな。
235日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:55:01
濃姫もお市もそういう意味では仮に10歳未満であっても嫁がされていたと思う。
二人が結婚した時の両家の関係からすればそれはそれで当たり前だな。
236日本@名無史さん:2007/05/19(土) 15:59:25
>>231 >>20歳で嫁を迎えるのは遅くないか?

遅いと思う。
でも信忠も結局20才過ぎても正室を迎えずそのまま亡くなっているから
前田家では嫡男は信長の姫をもらうことが決まっていて、
永姫がある程度の年齢になるまで待ったがかかっていたのでは?
あの時代は家臣の家の結婚も当主が介入し、決めていたそうしさ。
237日本@名無史さん:2007/05/19(土) 16:01:47
話かわるけど、「信長】まむしの娘及び松姫の謎【信忠】」のスレで、
信長の子どもの「大洞」と「小洞」の幼名が、岐阜にある地名らしい。
どちらも実際に岐阜にある地名が幼名に使われていることから、
二人は同腹ではないかとあった。
信秀「大洞」の生母が稲葉氏ではないかと、このスレであったがそうだと
信高「小洞」の生母も稲葉氏になる。
信高がお鍋腹ではないことになる。やはりお鍋は信高とは関係ないのか?
238日本@名無史さん:2007/05/19(土) 16:40:14
以前出た化粧料や御料地の話だけど・・
その女性が死ぬまで一生涯保障される私有財産 と聞いたけど
もしその化粧料や御料地を持っている人が亡くなった場合、
その化粧料や御料地は誰のものになるの?
その国を治めている領主?だとすると濃姫がもらっていた化粧料や御料地は
濃姫が亡くなってから領主に返されたとすれば、何か記録が残ってないのかな?

濃姫長寿説を自分は信じたいけど、本能寺後の濃姫の記録がほとんどない
ことから、濃姫は本能寺で死んだとかそれ以前に死んでるはずだなどという
意見が多い。
なぜ秀吉や家康が濃姫を利用しなかったのかとか色々憶測が飛び交っている。
もし、濃姫=養華院だとすれば、濃姫没後に御料地や化粧料がその国の領主
に返還されていることになる。その辺りはどうなんだろうか。
239日本@名無史さん:2007/05/19(土) 16:53:28
>>238 >>なぜ秀吉や家康が濃姫を利用しなかったのかとか

秀吉はともかく家康はもはやなんの利用価値もない存在だったろうな。
秀吉にしても三法師擁立まではお伺いをたてる存在だったろうけど
あとはもう秀吉の独断でOKになっちゃったし。
濃姫の化粧料が美濃のどのあたりか定かではないけど
亡くなった時に美濃国を治めていたのは誰だったんだろう?


240日本@名無史さん:2007/05/19(土) 17:34:55
>>239
そうかもね。濃姫の場合は実家は無くなったし、信長や信忠が死後はこれといって
存在価値が無くなってしまったのかも。濃姫の息子はいなかったわけだし。
それで秀吉に協力しなかったから本能寺死後、記録にないのかも。
でも養華院=濃姫を証明するにはもうちょっと証拠が必要かなと自分としては
思っているわけで。状況証拠は養華院=濃姫なんだけど・・・違うという意見
も多いし。
美濃国だけど、関が原後は大垣城は石川康通が岐阜城には奥平信昌が入って
いる。
241日本@名無史さん:2007/05/19(土) 17:42:22
20歳で嫁を迎えるのは確かに遅い。
当時としてははやく跡継ぎやら政略に使える女が必要だったわけだから
産めや増やせやだったわけだし。

利長が14、5歳くらいの元服時に似合いの年頃の織田家の娘と婚約をするものの
その娘が死んでしまい、織田家の娘と婚約していたという状況的に
よその娘を貰い受けるわけもいかず数年たち、20歳の時に
じゃあ改めて織田の娘を・・・と別の姫が差し出される事になったのかもしれない。
242日本@名無史さん:2007/05/19(土) 17:47:08
利長の両親は20歳と12歳で結婚
243日本@名無史さん:2007/05/19(土) 17:55:31
でも翌年すぐ子供ができたということは生理が
あったことを確認してからの婚姻だろうからいいのでは?
二人は従兄妹同士だというし、気心しれた仲だもの。
244日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:05:01
当時の武家の子供は12才〜16才で、一人前とされ元服を迎えたから
女子も男子でいう元服の儀式があって、それを終えれば大人として
結婚適齢期と見なされたんだと思う。
千姫は大阪城で元服にあたる儀式を行い、秀頼が千姫の髪をカットした
という逸話もあって、それまで同衾することもなかったようだ。
女性は初潮を迎えたらそういう儀式を行ったんじゃないかな。
245日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:12:35
とりあえず永姫の母親が生駒である事はFAとして。


生駒腹と言われてきたけど実際違うと判明した徳姫。
夫の死後、織田に戻ったあと兄の信忠の庇護下に入ってるよね。
もしかしたら濃姫腹じゃないかと思えるんだがどうだろう?
信忠は濃姫の養子に入り、濃姫の実子扱いになってたわけだし
濃姫腹なら「同一腹」という扱いの兄の下へ戻ったとしても不思議はないと思う。
濃姫が子供を生んでいた(育ったかどうかは別問題として)のはほぼ間違いないから
徳姫が濃姫の産んだ子供って可能性も十分考えられる。
大事な同盟者の松平へ嫁ぐ姫は、側室腹であるより正室腹である方が
相手方への敬意にもなるわけだし。
246日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:20:37
>>245
徳姫は生駒腹の可能性が消えたわけじゃないよ。
生駒腹であっても別に不思議じゃないし。
247日本@名無史さん:2007/05/19(土) 18:39:13
五徳が濃姫腹である可能性も生駒腹である可能性も別の側室腹である可能性も
同じだけあると思う。生母を明記してある史料は「織田家雑録」と
久昌寺がらみのもんだけだから、信憑性に問題があるしね。

ただ>>245がいう理由付けは疑問があるな。
五徳が信忠の元にいたのは、その頃織田家の家督を信忠が継いだため
だろうし、信康と結婚したのは五徳が長女で単純に輿入れの順は
年功序列だったからだと思う。

五徳は気が強かったのか信康と衝突をして家康が仲裁に入ったと
家臣の日記にも残っていて、そのあたりで正室腹ゆえの気位の高さみたいな
ものがあったのか?と感じ取れる程度で、正室腹を示す根拠は生駒腹と
するものに比べるとないに等しい。
248日本@名無史さん:2007/05/19(土) 19:22:42
>>245
自分も信忠の元にいたのは、同腹扱いだからではないと思う。
信雄も信孝も養子に出ていて伊勢にいるんだから、
身を寄せる兄は、信忠しかいなかっただけだと思う。

>>247
>五徳は気が強かったのか信康と衝突をして家康が仲裁に入ったと
>家臣の日記にも残っていて
松平家忠日記の天正7年6月5日の記載だね。
たしか、信長も来てるのが記載されているんだよね?
信長まで仲裁にくる姫って言うのは、やっぱり特別だとは思うけど、
家康との同盟という観点からすると、婚姻が継続する事が大事だから、
そちらの意味で特別なんだろうと考えられるし、
特別=正室腹ではないと思う。

ただ、徳姫が正室腹なら、分限帳で安土殿よりも、御局よりも、大方殿様よりも
先に記載されているのは、何となく納得できる気もするかな。
分限帳は天正13〜14年の記述で、まだ徳川幕府ではないから、
徳川繋がりで岡崎殿を、そこまで持ち上げる必要はないからな。
249日本@名無史さん:2007/05/19(土) 19:34:46
>>226
>それって永姫がそう進言したということなの?

そう、永姫が信雄に対して、光秀征伐の軍を上洛させるように進言したと書かれている。
読んだのがずいぶん前なので、細部は忘れているので、少し文献を探してみる。
本能寺後、織田宗家で一番の年長者になった信雄に、数えで9歳の異腹の女子が
進言したと考えるのは、極めて不自然だと読んだ時は思ったんだが、もし生年が
もっと早いのが本当で、信雄と同腹であったとしたら、そのくらいの気安さはあったのかと
改めて考えていたりする。

永姫の生年は、おそらく亡くなった時に50歳だったという記載からの逆算だと思うんだが、
その50歳が正しいかどうかは、分からない気がするんだよな。
没年齢って、意外にバラバラに伝わっている事って多いから。
250日本@名無史さん:2007/05/19(土) 19:43:53
徳姫が信忠の元にいたというのは、当時の一次資料では
読んだ事がないんだが、本当にそうだったのかな?
桶狭間まで松平家忠などが送っていった事は分かっているけど
その受け渡し後の事までは記載されていなかったと思うんだが。
実は安土にいたという事はないんだろうか?

小説では、信康を切腹させた信長を嫌って安土に行かなかったという
展開になっている事は多いけど、小説の創作が一人歩きしているという事ではないのか?
信康を切腹させたのは、信長ではなかった事は、最近の研究では分かってきている事なので
そのような事をしたと思えないんだが。
251日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:00:23
五徳は離縁されて戻ったのではなく死別だし、子供達を家康の元に残しているから
同盟関係は成立したままで、しかも一応徳川(当時は松平)の嫁という立場の
まま。そういう事情もあって形式的にだけど信長の元に戻るわけにはいかなかったのかな、
とも考えられる。
252日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:09:21
織田家に戻ったのは徳姫と信康の間に姫しかいなかったからだろうね。
もし男子がいればその子が跡取りとして岡崎城を継ぐことになっただろうし、
徳姫も別に織田家に戻る必要はなかったのではないか。
253日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:12:47
ウィキの「正室」「濃姫」「生駒」「永姫」あたりがまたひどく改ざんされてるけど・・・w
254日本@名無史さん:2007/05/19(土) 20:16:54
>>252そうだと思う。
男子がいたらその子が嫡男となったろうから生母として嫁ぎ先にいたと思う。
女子しかいなかったから実家に戻らなければならないということは
なかったろうけど、同盟関係を維持する人質を残してくれば五徳が嫁ぎ先に
とどまる必要はなくなったんだろう。
戦国時代の婚姻制度はシビアだな。
255日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:07:42
今月末ぐらいに、武功夜話の原本の一般公開をやるらしいって
聞いたけど?ホントかな〜
256日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:18:26
原本を写した写真って聞いたけど。
257日本@名無史さん:2007/05/20(日) 04:45:14
捏造だらけの武功に公開できる原本がどれだけあるんかな〜
258日本@名無史さん:2007/05/20(日) 08:53:56
この原本を小和田さんは見てるよ。
中身までは見せてくれなかったそうだけどw
小和田さんは江戸後期のものに編纂されたものだという感想だったらしい。
みる人が見れば中身を見なくてもいつ頃編纂されたものかというのも
わかるそうだ。紙質とかでわかるんだろうか?
259日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:30:25
本能寺の変後、織田家をまとめる為に信長正室である濃姫が表向きの政に関わった可能性はかなり高い。
当時の大名夫人は、一般的に勘違いされるように飾り物としての妻ではなく、
夫と同格であり奥の主人でもあった。
夫の死後、家が傾く事を食い止めるため亡き当主の夫人である女性が表向きの政に関わった例として有名なのが、
豊臣秀吉正室の高台院や、前田利家正室の芳春院である。
濃姫もそれらの例のように、織田家崩壊に際し表向きの政への参加をした可能性が高いと思われる。
しかし今日彼女のその足跡が残っていないのは、亡き主君である織田信長夫人の政治参入は、
次の政権を得た豊臣秀吉にとって都合が悪いものであり、その痕跡を消された可能性も高い。
また、信長側室・お鍋の方が、崇福寺に信長の位牌の設置をするよう丹羽長秀に手紙を送ったと一般的に言われているが、
実際側室の身分では主の家臣に対しそれ程の権力もなく、またその内容についても信長に対し対等な物言いをしていることからも、
正室である濃姫(もしくは、濃姫代理として濃姫付きの侍女)が書いた可能性が高いが、
差出人名が手紙の保存状態が悪く読みづらくなっている事からもまだ差出人の特定はこれからの研究次第という事になる。



wikiの濃姫のところ追加されてたんだけど、これってほぼ確定でいいの?
260日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:43:04
確定じゃないんじゃない?
ここでも、表向きには関わらなかったんだろうって話しの方が大勢だったし
書き込みした人の考えなんだろうな。
261日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:44:15
崇福寺の手紙の差出人については、妥当ではあるとは思う。
だが、署名は読みづらくなってない。
262日本@名無史さん:2007/05/20(日) 11:48:06
>>差出人名が手紙の保存状態が悪く読みづらくなっている事からも
まだ差出人の特定はこれからの研究次第という事になる。

これは違うと思う。
保存状態はかなりよくて解読不明な文字もなく、署名も印もはっきりしてるもん。
ただその文字が「奈遍」か否かの検証が問題なのであって。

『仮に「奈遍」という署名であっても通説通りにお鍋の方とするには内容や
当時の状況などを考えると不自然なことろがあるので、濃姫の本名も「奈遍」
であったか、あるいは右筆者の署名であった可能性もあり、その場合
この手紙をだしたのは正室であった濃姫であるとも考えられる』

という程度にしておいたほうがいいだろう。

政治参入のことはまったくの臆測だからこれも問題だな。
痕跡を消されたといっても、もしそういう事実があれば
秀吉の息のかかっていない史料には何かしら残されていたはず。
そういうものもまったくないんだから。
263日本@名無史さん:2007/05/20(日) 13:01:05
>>259
別にいいんじゃない。
濃姫の政治介入についても、手紙の差出人についてもこれからの研究
次第なんだってことだし。
未だに「信長と濃姫は仲が悪かったので、信長は吉乃を愛人にして溺愛した」
なんてなんの根拠もないことを平気でネットに書いてる歴史家だっているん
だし。武功のことだって、信忠生母の件だって言ったもん勝ちみたいに
なってるし。誰も史実を検証しようなんて思わないのかもね。
少なくともWikiは史料を基に検証し、考えられる可能性などを述べてるだけ
まだましじゃない。断定的な物言いでないし。

勝長の生母の検証だって全然だし、秀吉に非協力だったからってあまりにも
史料が残されてないのは、ちょっとと思う。まだ未発見の史料があるかも知れ
ないので、そちらを期待するしかないのかも知れないけど。
264日本@名無史さん:2007/05/20(日) 13:59:21
まぁウィキで自分で考えた説を書き込むのは別にいいんじゃないかな。
間違っているわけでもないしさ。
生駒を正室に格上げしたとかいう嘘ならどうかと思うけど
書き込まれている内容に嘘は今のところないんだから
別にいいと思う。
265日本@名無史さん:2007/05/20(日) 14:01:51
>>253
いま、正室の項目も見たけど
別に例として信長のこと出しただけならいいんじゃないかなぁ。
本当の事だし。
266日本@名無史さん:2007/05/20(日) 14:36:46
267日本@名無史さん:2007/05/20(日) 16:20:06
崇福寺の手紙についてはさすがにちょっと違うと思う。
署名は劣化して読み取れないのではなく、たんに我々の知識のなさゆえに
解読に確信がもてないだけ。
ここのスレでもあったけど桑田忠親さんほどの人が「奈遍」と解釈したのなら
それが正しいのだと思うし、寺でもそう署名があったのでお鍋の方の消息文
として保管されてきたのだろう。
なのでこの手紙が「奈遍」という署名から
何の疑いももたずにお鍋の方の手紙と解釈されてきたのであれば
別の見地からの検証から異論がでてきた、ということにとどめておくべきじゃないかな。
268日本@名無史さん:2007/05/20(日) 19:14:55
>>266
だから?
いい加減生駒厨うざい
269日本@名無史さん:2007/05/20(日) 22:06:34
>264 
ウィキはとりあえず掲示板とかメモ帳代わりでは 
ないということは最低限理解しとこうな。 
 
まっこれはお濃に限った話ではなく 
他の項目にも言えることなんだが…。 
 
そして学会に発表するなり自費含め本を出すなり 
するがよろしかろうて。
270日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:19:00
>>268
すぐに○○厨とか断定する貴方こそ、厨です。
そういう口調はいい加減止めて欲しい。

271日本@名無史さん:2007/05/21(月) 07:53:51
ここでの検証は非常に面白い。
それをwikiに反映させるのも構わないと思う。
ただここでの検証を正確に反映させず、歪曲してしまうのは反対だ。
独自の理論を展開させるために検証を歪曲させるのは歴史考証の本意に反する。
272日本@名無史さん:2007/05/21(月) 09:52:35
ところで濃姫の実母の小見の方だけど、「小見の方」ってことは
実家が小見氏?ってことはないの?
一般的には土岐氏の血筋ということだけど、それなら「土岐の方」とか
言われない?
小見城というのがあってそこから嫁いできたとか?
小見ってどこから生まれてそう呼ばれるようになったんだろう?
美濃に小見という地名でもあって、そこに晩年住んでいたとか?
273日本@名無史さん:2007/05/21(月) 12:36:35
美濃加茂市に、確か昔の地名で小見殿って地名があったとおもう。
今は字(あざ)扱いだと思うが。
可児市長山の明智城址から川を挟んだだけでかなり近い土地だ(明智城は恵那の方の説もあるが)。
明智の家臣だった土田氏の土田城址からもかなり近い。
小見の方は明智光継の長女だから、小見殿あたりに何か住居でもあったのかもな。
274日本@名無史さん:2007/05/21(月) 13:25:39
>>273
なるほどぉ。
その小見殿というところに明知光継の城なりがあって
小見の方はそこから輿入れしてきたんだろな。
それ以外小見の方と呼ばれる理由がないよ。

もう一つ考えたんだけど小見の方って当時の適齢期を過ぎてからの結婚なんだよね。
一度その小見殿あたりの城主と結婚して、死別か何かの理由で別れて道三と
再婚したんじゃないか?お市も柴田家の家臣から「小谷の御方」と呼ばれていた
ようだし。

275日本@名無史さん:2007/05/22(火) 09:47:44
岐阜に小見山ってあるんだけど、そのあたりのことかな?
当時の女性の呼称は本名などよりも、いろんな背景がわかって便利。
出自とか、住んでいた場所とか、立場とかさ。
やっぱり実家とワンセットの扱いだよね。
276日本@名無史さん:2007/05/22(火) 10:55:44
地名に関して、分限帳に載っている安土殿の知行は「ムツシ」だが、
愛知には「六ツ師」という地名があって、小牧城と清洲城の丁度中間くらいだ。
277日本@名無史さん:2007/05/22(火) 11:00:42
スレの前の方に出ていた、分限帳の御局か大方殿様が信長正室だった場合、
一ノカタウシ山と如意ノ郷とそれぞれなっているが、それがどこかさっぱり分からん。
誰かこれがどこか分かるだろうか?
278日本@名無史さん:2007/05/23(水) 15:15:56
御局って誰だろう?
普通は宮中勤めの女房のことだよね。
たまに○○の局と呼ばれる正室や側室がいるけど、
戦国期の武家でもそういう呼称を用いたとしたら
濃姫は○○の局と呼ばれていた可能性はないか?
濃姫が嫁いできた稲葉山城は当時井口城、あるいは金華山城と呼ばれて
いたそうだから「井口の局」「金華山の局」と一般的には呼ばれていたとか?
279日本@名無史さん:2007/05/23(水) 15:54:31
自分も濃姫は「御局」じゃないかと思う。
「安土殿」だと長女の徳姫より低い知行なのは納得できないし。
あと「大方殿」は信長の母ではないかと思う。
280日本@名無史さん:2007/05/23(水) 16:48:13
>>278
戦国期に「〜局」と呼ばれていた女性は吉川元春の正室の
新庄の局ぐらいしか思いつかないな。
圧倒的に「〜殿」「〜方」とかの記載が多いような気がする。
室町までは「〜局」という言い方がメジャーだったわけだから
戦国期ならないこともないだろうけど。
281日本@名無史さん:2007/05/23(水) 17:06:26
「御局」は千貫文で知行が一番多いよな。
信雄正妻と思われる「御内様」は五百貫文と他に六百貫あるから、千一百貫文になるが、
1カ所の知行としては、「御局」が多いとなると、「御局」は相当地位の高い女性と考えられる。
信雄の正妻よりも地位の高い女性というのもなぁ。
それ以前に、天正13〜14年の記録だけど、信雄の正妻って、この時期まだ生きていたんだったか?

濃姫は、今井宗久が管理している、信長が与えた御料所を持っているが、
「御局」が濃姫なら、この御料所は信雄の知行とは別扱いなのか、それとも、
この千貫文が、それに相当するのか、どっちだろう。
当時の慣習なら別扱いだろうが。
282日本@名無史さん:2007/05/23(水) 17:30:39
>>281 >>信雄の正妻って、この時期まだ生きていたんだったか

北畠具教の娘は北畠家乗っ取りの時に自害したとされるので
この時期の正室は後室の木造具政の娘となる。
でも小牧・長久手後に信雄と秀吉が講和を結んでから
木造は信雄の元を離れてしまったというので、
木造の娘がそのまま信雄の室であったかどうかは疑問だな。
それ以前に北畠氏も嫡男の生母でもあるし、自害せずに生きていて、
木造の娘は側室だったのかもしれないとも思ってるんだけど。
そうなるとこの「御内様」は北畠氏となるな。
283日本@名無史さん:2007/05/23(水) 19:04:05
「御局」が濃姫なら信雄が与えた御料地を調べれば
誰が管理していて、その後どうなったのかわからないのかな?
後、信長からもらった御料地なども、今井宗久が管理してたなら
何か資料が残ってないのかな?その辺から濃姫の晩年の様子などが
わからないのかな?
284日本@名無史さん:2007/05/23(水) 19:11:29
>>280
室町〜戦国期の武家にも局称の女性はいたよ。
宮廷内の呼称とは限らない。

武家では側室とか筆頭老女や、高級侍女
または当主の乳母役に多い呼称・・・というイメージがある。
285日本@名無史さん:2007/05/23(水) 21:19:56
>>284
>武家では側室とか筆頭老女や、高級侍女
>または当主の乳母役に多い呼称・・・というイメージがある。

確かに自分もそのイメージはあるな。
だが、それらは言ってみれば家臣。
実の妹や祖母に比べて知行が多いとは考えられない。
まして、分限帳に載るのは、信雄が直接知行を出す身内に近い女性達。
そうなると、やはり、早くに実母を亡くした信雄から言ってみれば
養育の後見(乳母達に対しての養育の指示など、生母が普通おこなう行為)を
おこなった実父の正室に相当すると考えられる……気がする。
生母を亡くした庶子達の養育に関して、もちろん乳母達が中心となっておこなう訳だが
正室がそれを後見するのは、奥の統括者としての正室の義務だからな。
286日本@名無史さん:2007/05/23(水) 22:02:28
ということは、「御局」は濃姫のことを指しているってことでおk?
だけど「御局」が濃姫なら他の女性達よりかなり知行が多いので、
やはり奥でそれだけ力があったということだろう。
以前のスレで、濃姫の本能寺後の記録がほとんどないことから、
濃姫は奥での仕事をまっとうできないくらい、病弱か白痴かなんて
いっていた人がいたけど、とんでもない。
政治には口ださない人ではあったと思うけど、奥での仕事はきちんと
していたということだろうね。
287日本@名無史さん:2007/05/23(水) 22:10:34
正室が、奥での仕事がきちんとできないなら、
信長の閨房における醜聞がもっと流布されているはず。

寵愛の深い側室がその役を担っても、他にも側室がいれば立場上は一緒だから
どうしても不満は出てくる。

信長の潔癖、女嫌いなどのイメージは、閨房の醜聞がないからにつきる。
あれほど子供を作ってるのに、女嫌いなんて考えにくいだろ、常識的に。

信長正室は、一正妻多側室多愛妾多伽係という、当時の当たり前の奥制度を
きちんと維持管理できていたと考えられるな。
288日本@名無史さん:2007/05/23(水) 23:06:13
何を今さら… 

ということで以上をもって 
このスレは終了です。 貴重な自演の場を頂きまして 
ありがとうございました。 
続きは濃姫松姫スレ及び 
戦国板でお願いします。
289日本@名無史さん:2007/05/23(水) 23:42:03
>>286
>濃姫は奥での仕事をまっとうできないくらい、病弱か白痴かなんて
>いっていた人がいたけど、とんでもない。

悪意に満ちた被害妄想に捉えすぎ。
あの時は確か家康の奥は、正室・築山殿が長らく別居状態にあり
さらに早々に殺されたので誰が取りまとめていたんだろうって話からの発展だったはず。
結果、正室を早くになくした・もしくは産後病弱になった・奥を取り仕切るにはちょっと器量不足の
お姫さんの場合は乳母や侍女頭、古株の側室なんかが奥を取りまとめていたんだろうって
いう話だったはず。濃姫がどうのって話じゃなかったよ。

つまり正室いない場合でも奥の機能がストップするわけじゃないし、
正室が奥を取り仕切ってない場合もあっただろう、って話だっただけ。
290日本@名無史さん:2007/05/24(木) 00:00:45
>>287
ウィキペディア修正しといた。
うまくまとめられていたからちょっと文章拝借してしまった・・・。
ここでお詫びします。すみませんorz
291日本@名無史さん:2007/05/24(木) 16:36:10
>>290 けっこううまくまとまってると思うけど。
信忠を養子にした根拠のあたりはここのスレ以外みない新説。
そうなると信忠を養子にしたのは美濃攻略の少し前あたりかも。
当時の乳幼児の死亡率がそんなに高いのなら乳幼児の段階で
養子にするとも思えないし、美濃攻略の時信忠が10才ぐらいだから
7〜8才過ぎたあたりで、無事に成長したことを確認した上で、養子にしたのかもな。
濃姫が30才ちょい前ぐらいで、まだまだ子供を産む可能性はあったろうけど、
織田家的には嫡男を決めなきゃなんない限界だっただろうし。

「御局様」って本当に誰なんだろう?
信雄の立場を考えると濃姫以上に知行を与えなきゃならない人物って
土田殿ぐらい?でも信長夫人の方が格は上だよね?
形式的には信雄の母親にあたるわけだし。
292日本@名無史さん:2007/05/24(木) 19:11:46
ちょっと思ったんだけど
たとえば在野の研究家とかがこのスレを見ていたりウィキがいろいろ修正されたとしていても
出典が2ちゃんねるだったら色々と不都合な点もあるんじゃないか。
正直、このスレのクオリティはかなり高いんだろうけど、
やはり一般人からしたらまだまだ2っていうのは悪いイメージの塊だと思うんだ。
自分としては今まで憂き目にあいつづけてきた濃姫の生涯にもう一度スポットを当てて
検証を続けているこのスレにはとても助かっているし感謝もしている。
でもこういう検証をしている人がこのくらいいて、こう思っているってことをなんらかの形にしなくちゃ
結局井の中のカワズ状態のわけだから、そろそろ検証の場を変えたらどうかな。

…どうだろう。まとめサイト作るより、こっちのほうがずっと建設的かなと思うんだ。
293日本@名無史さん:2007/05/25(金) 06:10:54
このスレのクオリティが高い、は
少し買いかぶりなんじゃないの。

しょせん無記名だもの、何でも言えるよ。
名を出して自論を述べることと比較しちゃいけない。
294日本@名無史さん:2007/05/25(金) 11:03:59
>>292
検証の場を変えるっていうのは、それ専用のサイトを作って専用掲示板など
で行うってこと?
でも2chのイメージがよくないのは知ってるけど、全ての板が良くないとは限らない
と思う。
濃姫の検証だって、何もここだけで行われているわけでなないし、歴史関連の
サイトや掲示板だって、ここに負けないくらい盛んに濃姫研究が行われている。
そのことを考えても関心ある人はいるのだろうし、別に2chで検証された
説だからって同じような説が、別の検証サイトで議論されてたりもするし。
295日本@名無史さん:2007/05/25(金) 11:14:43
>>294 大抵サーフィンするから投稿者がかぶったりするのはあるだろうね。
2チャンだって、まともなスレや情報交換が機能しているスレもある。
妄想の中に検証のきっかけになるような発言もあるだろうし、
あながち馬鹿にしたもんでもないよ。
少なくとも濃姫に関しては史料に基づいた検証が多いし、
婚姻制度や奥制度、女性の呼称などの多方面からの検証もしてあるので
説得力がある。
296日本@名無史さん:2007/05/26(土) 08:52:02
検証の場をかえるっていうのは、多分ネット上のものではなくて
本とか論文って形にしたら?って意味なんじゃないの?
いくらネットで議論しても一般的な社会には全く浸透しないしさ。
大河ドラマ見てるとか、歴史小説好きって程度の歴史好きだと
未だに信長最愛の妻は生駒で、濃姫は離婚したとか死んだとか思われてるし。
生駒の説が一般化したのだって、ドラマや小説にそういう描写がなされたからだしね。
秀吉の妻・高台院に関しても、大河ドラマとその関係での歴史番組などで
書状には「ね」と著名があるので「おね」が本名であるって説が大々的に語られたから
一般人のちょっと歴史好きって程度の人は「最初ねねだと思ってたけど、本当はおねだったんだね」
と思ってる事が多いと思う。
ちなみに去年の大河ドラマ・巧妙が辻の歴史考察の人の講演会で、
原作ではねねとなっていたけど本当はおねが正しいのだからそこは原作どおりではなく
きちんとテレビスタッフに念押ししておくべきだった。ねねなんて間違えですってはっきり言っちゃってたくらいだしw


本とかテレビなどで説を発表しない限り、多分一生ここでの検証は井の中の蛙状態で
濃姫は単なる政略結婚で冷めた関係、生駒が最愛の妻って描写のままだと思う。
297日本@名無史さん:2007/05/26(土) 10:26:08
>ドラマや小説でそういう描写
生駒氏の出ないバージョンもあるじゃん。
「国盗り物語」及びそれを下敷きにもした去年のヘタレ功名とか
新橋演舞場で海老蔵が主演した「信長」でも妻は濃姫だけ設定。
その代わり、やはり本能寺で死ぬんだけどねー

で、なんでそんなに必死なの?
298日本@名無史さん:2007/05/26(土) 10:47:55
>>296 >>一般人のちょっと歴史好きって程度の人は「最初ねねだと思ってたけど、
本当はおねだったんだね」と思ってる事が多いと思う。

これは歴史研究の大家だった桑田忠親が秀吉の妻の名は「ね」だ、
と指摘したことに始るからなかなか払拭されないんだよ。
一方で女性名の大家である角田文衛ははっきりと桑田氏の間違いを指摘してる。
つまり、当時の女性は私的文書の場合本名の頭文字一文字を署名することが
慣習的に多く、その頭文字にこれまた非常に多かった接頭語の「お」
をつけ、「おね」と表記してあるだけで、本当の名前は「ねね」で
あるとしている。
結局大河は史実をある程度参考にした創作歴史物語だから、
そこまで細かいことにはこだわらないのだろうし、
大河なんだからそこまで完璧に史実に忠実にしてもらわんでもよいと思う。
299日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:25:57
正直、小和田さんもそろそろ妥協したほうがいいと思うんだ。
「偽書 武功夜話の検証」(藤本とかいう著者)の二版め読んだんだけど、心からそう思った。

ここの皆さんはどう思いましたか?<「偽書〜」の二版あとがきに関して
300日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:31:09
>生駒氏の出ないバージョンもあるじゃん。

そうだね。ちなみに自分は生駒の出ないやつしかドラマは観たことない。
濃姫が本能寺で死ぬパターンだけど。
昨年の巧妙も、知らない人はなぜ生駒が出ないのかと不思議に思ったらしいが、
歴史好きで色々新説なんかに詳しい人は、生駒正室説は間違いで、本当は正室は
濃姫だけだったって知ってるんだけどね。
意外と昨年の巧妙はその点では、やはり濃姫正室説が正しかったのではないかと
広めたのじゃないかな。
301日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:02:58
私は一応文化史専攻だったんだけど、レベル低い学校だったから
みんな歴史を研究ってよりも「歴史が好き」ってレベルの子が多かった。
でも一応一般的に見れば「歴史オタク」と呼ばれる部類の人間だったけど、
そこの人はみんな信長の最愛の妻は側室・生駒であり、
その後正室になったとかそういう事は置いておいても、濃姫は離縁されたとか
思ってる人が多いよ。
年配の人や昔の小説なんかだと、信長の伴侶は濃姫って認識だけど、
生駒が話題になり始めた頃に学生だった人等は生駒が最愛の妻だったって認識が多い。


本当の歴史好きで文献ばりばり読んでる人間はともかく、
単なる「歴史オタク」の部類でちょっと歴史詳しい程度の人間が多いんだし、
ここでいくら検証されても世の中の認識は変わらないと思うんだよね。
去年の巧妙が辻も、学校の子たちは「何で生駒出さないの?まぁドラマだからしょうがないねw」
って言ってたくらいだから、歴史番組(知ってるるもり、堂々日本史など)で根付いた価値観って
なかなか払拭されない。
ここでの検証は結構面白いものが多いのに(あってるあってないはともかくとして)
勿体無いなーと思う。
302日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:28:13
ドラマに生駒が出なかろうと信長最愛=生駒説を信じてる人は
気にしないんだね…

長年の常識ってこわい。
303日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:39:23
自分はそこそこ名の通った史学科に所属している(学生じゃない)けど、
武功の偽書説は、信長秀吉関係を研究している人間はほとんど知っているし、
生駒が最愛の人という説などは信じていないよ。
濃姫の動向にも興味はないみたいだが。
奥関係は、まともに研究している人間はほとんどいないから、
声の大きなマスコミのイメージのままになる、一般の人は多いだろう。
最近でこそ、NHKのイメージは悪いけど、生駒最愛説を言っていた頃のNHKは
信頼されていた感じもあるから、仕方がないだろうな。

誰か、歴史雑誌にでもいいから、論文でも書けばいいんだろうがな。
自分は、名前を出して自分の専門以外の論文を書くと、上から叱られるだろうから無理だ。

久庵慶珠が信忠生母ではないかと言う説は、ずいぶん前に何かの歴史雑誌か論文か
講演会か、何かで知った気がするんだが、どこでだったかが思い出せない。
304日本@名無史さん:2007/05/26(土) 13:37:17
お市のかたのこーマンなめたいなーー
そうおもわない?
多分ろくにけつも洗ってないから、うんこくさいのかもしんないけどw

脳姫ブサクサそうだよね?

ていうか鼻毛も伸び放題で、あげくは口臭もきつそうだよね?
でもおいちさんに興味でない??
305日本@名無史さん:2007/05/26(土) 13:47:22
信忠・信雄・五徳の生母生駒説の一番の根拠は「織田家雑録」だと思う。
織田家の史料にそう記されているからそう信じて何が悪い?という
意見の人も大勢いると思うよ。

自分は多方面の史料からこの三人の生母が生駒である事の矛盾が
多すぎるとは感じているけど、三人の生母が生駒であってもなくても
大局を左右するもんは何もないし、どうでもいいといえばどうでもいいが。
306日本@名無史さん:2007/05/26(土) 15:57:40
>長年の常識ってこわい。

確かにそうだね。生駒のことだけでなくても信長関連の話って捏造されたものが
ほとんどだから。未だに信康と築山殿の処分の話は信長の命令って信じてる人
多いし。光秀の母親を死へ追いやっただの、折檻してただのって・・・
なんか部下を苛める上司ってイメージで捉えてる人も。
比叡山の焼き討ちや、本願寺との争いについても信長が宗教を弾圧したとか
思ってる人多いし。どんなに違うって史実を基に説明しても納得してもらえない。
なんか信長の人物像って、最初に入った情報を鵜呑みにして勝手に暴君だと
考えている人が多過ぎ。
反対に秀吉には、農民から関白まで出世したっていいイメージで捉えてる人
多いし。秀吉がどんなブラックな人間だったって事知らない人オオイのだろうな。
これもやはりドラマや小説の影響なんでしょうかね。
307日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:16:53
>>306
歴史をマニアックに好きな人にしたら、真実を知ることは面白いと捉える部分はあるとは思うけど、
歴史が好きといってもライトな感覚の人(文献は読まないけど歴史番組や大河ドラマは見る人)は
簡単な登場人物が一番楽で面白いのかもしれないね。
三国志演義だってあんな完璧な善人なんているわけないのに、劉備は人気。
本当の劉備は記録に残りだけでも結構ブラックな部分が割とあるのに
そういう部分を見たくない人って多いでしょ。
劉備はいい人、曹操は悪人。周瑜はピエロで諸葛亮が天才。
歴史をライトに知りたい人にはこれで十分なんだと思う。


信長=暴君、秀吉=おちゃらけた明るい人、家康=我慢強い人
こうやってドラマ作るほうが製作者側も伝えたいことが簡単に出来るし、
何より一人の人間をそこまで人間性掘り下げていたら、何年もドラマにかかってしまうしね。
308日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:21:50
>声の大きなマスコミのイメージのままになる、一般の人は多いだろう。

じゃあ、こっちも負けずにテレビで放送すればいいのに。

センセーショナルに さ。

 生駒の信長最愛説は捏造だった!!
 大規模な比叡山焼き討ちはなかった!!
 信康の切腹と築山殿を殺害したのは本当は家康だった!!
 信長は本当に宗教を弾圧したのか!!
 本能寺には黒幕がいたのか!!

などいろいろテーマを決めてやれば、いいんでない?
NHKはだめだろうけど、民放だったらどこか放送してくれる局が
ないかな?

興味を持って調べたりしている人は、信長の新説にも詳しいだろうけど、
そうじゃない人達はテレビの影響って大きいと思う。
別段テレビで放送されることが全て正しいわけではないのだけどね。
あるある〜だってそうだったし。
それを本気にする人が多いって事が問題なのだと思う。
歴史のことに限らず、本当に正しい情報ってなかなかつたわらないものなんだと
思う。拉致問題だって、話題になるようになったのってつい最近だしね。それまで
は拉致はなかったって平然と言っていた国会議員がいたからね。
それもテレビ等で大々的に取り上げるようになってからだから。

テレビや一新聞のメディアの情報を鵜呑みにせずに、他のメディアはどう伝えているか
とか、日本のマスコミだけでなく海外のメディアはどう伝えているかとか、自分でも
調べてみたり、多方面にアンテナを広げていくことが重要だと思う。
309日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:30:30
おいちさまのパンツほしいな〜〜

おいちさまの夫婦生活のぞきたくない?

腋毛ぼうぼうの、髪くさくて、鼻毛出てて、息臭くて、けつうんこくさいかもしれないけど

超かわいいよ
310日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:29:34
>ドラマに生駒が出なかろうと

出せないだろう。信長にとって、生駒の存在がそれほど政治的な意味をもつ
ものでもないし。詳しい様子が武功夜話にしか書かれてないし。
武功を参考に脚本書こうにも、年代の矛盾が甚だしいし、武功をそのまま
あてはめると濃姫の輿入れそのものもおかしくなる。極端な話、斉藤家と
織田家の同盟すらなかったことになってしまう。
それこそ史実と全く違う話しを書くことになってしまうではないか。

以前、「国盗り物語」の脚本書いた人?は武功の話はあやしいから、生駒は登場
させなかったっていってたように思ったが。
311日本@名無史さん:2007/05/26(土) 19:05:36
江戸時代編纂の戦国ものは大なり小なり中国史の影響受けてるんだよな。
戦国時代の天才軍師とやらは孔明のパクリっぽいところが多い。
312日本@名無史さん:2007/05/26(土) 22:43:27
秀吉の配下になって以降は明らかに捏造。
(周喩+孔明)÷2=武功の竹中半兵衛

武功で実像が歪められたのは生駒だけではない。
313日本@名無史さん:2007/05/26(土) 23:10:33
竹中半兵衛も山本勘助とおなじく、軍師とされてしまった感があるが
それも信じている歴史家がいるぐらいだし。


武功夜話の内容そのものが捏造だらけなわけだ。
これはもう武功の話は間違いでした。って放送するしかないな。
(以前、武功が正しい説だと発表したときのように)
それしないといつまでたっても、武功の説が正しいと思う人が
あとをたたないな。

ここでの検証もきちんと文書にして発表するなりしないと、いつまでたっても
マニアの与太話で終わってしまう。


314日本@名無史さん:2007/05/27(日) 01:19:50
2chの著作権なんてあってないようなものだと思っているから、私の書いたことに関しては
どうぞ書きたい人が居たら使ってくださいってなもんだけど。
(専攻は理系なんで歴史は守備範囲外。畑が違うだけあって特筆すべきことは書いていないが)
見てるとどうも業界狭そうだし、やりづらそうだね。
誰か勇者はおらんかのー。


315日本@名無史さん:2007/05/27(日) 01:44:15
どこかの大学の史学科専攻の人とかなら卒論とかで提出できない?
ていうかそんな人いないのかな?ここに来てる人ってどんな人?

自分は大学行ってないです orz
316日本@名無史さん:2007/05/27(日) 02:04:32
高校の先生とか居ないかな。
物理の先生だったけど、高校時代の恩師が毎年論文を書いていたよ。
万一学会で干されても本業があるから、比較的動きやすいと思うんだけど。
317日本@名無史さん:2007/05/27(日) 07:20:40
ここ以外でも信長のことや、濃姫のこと等検証しているサイトや掲示板
はある。
かなりマニアックな詳しい内容にも踏み込んでる。
資料や色々な下調べなどもしているように見受けられるし。
それでいて、ここでの検証と同じ意見もかなり見られる。
そういう人達って専門家ではないのかな?
普通の歴史好きが高じて〜なのかな。
掲示板などで検証しているだけで満足している人なのかな?
本を出すとか、論文発表しようとか思わないのかな?
って、論文って誰でも発表できるもんなの?
そういう仕事についてないと難しいのかな?
濃姫の研究についても詳しくやっている人が在野の研究家にいないなら
チャンスじゃないかな。もっと実際の濃姫のことを世間に広めて、
うまくいけば歴史家として道が開けるかもしれないし。
誰か挑戦する人いないのかな?

個人的な意見だけど、史実で見ると信長最愛の人は生駒でなくて、
濃姫だったのではないかと思う。
318日本@名無史さん:2007/05/27(日) 08:58:10
>>317
>個人的な意見だけど、史実で見ると信長最愛の人は生駒でなくて、
>濃姫だったのではないかと思う。
ここでの検証のいくつかは正しい説だとは思うけど、
当時の夫婦とか、側室とかを現代の一般的な恋愛愛情とかに当てはめるのはどうかと・・・。
もしかしたら本当に恋愛感情があって好きだったのかもしれないけど、
信長にとって濃姫って好いた惚れたよりも、一緒に生きていくための同志だったわけだしね。
息子も娘も庇護すべきもの、側室だってそう。囲ったからには守らなければならない。
家臣だって江戸時代ほど上下関係ぎっちぎちだったわけじゃないけど
常に上の立場であったことは事実だろうし。
どこの大名・武将も正室はたったひとり同じ地位?にいた同志だったんじゃないかと思ってる。
だからこそ秀吉にとってのねねとか、山内にとっての千代などが
「糟糠の妻」として美談になったんだろうし。
319日本@名無史さん:2007/05/27(日) 10:22:37
>>318

正室が同志でありえるのは両家が同盟関係にあり、利害関係が一致している
間のみ、というシビアな一面がある。両家の関係が終われば夫婦関係も
終わり、一夜にして敵味方になるという複雑な夫婦関係。
だけど夫婦関係は対等だから、当主と同等の立場でいたし、家臣からも
そう扱われていた。
千代やねねやまつはそういう背景がなく婚姻関係をスタートさせたから
実家のことは関係なく生涯夫に尽くすことができたから美談も生まれたんだと思う。

側室も政治的理由で当主の側におかれた場合は正室のそれとは
ちょっと異なって、人質や人身御供みたいな意味あいが強くなるので側室の実家と
当主との力関係が歴然と違う。側室の実家は当主に逆らうことが許されない。
側室の子供は側室の実家の再興を許されたり、実家筋の支配なんかのために
利用されたりしたから、やはり政治的な側面が強い。

戦国期の正室、側室は政治と切り離せないものなので、奥ではなく表なんだよね。
そのあたりが江戸期と大きく異なるところ。
だから戦国期の大名の奥関係はもっときちんとした検証をすべきだし、
奥関係の誤認や事実関係をもっと把握しておくべきだと思う。
320日本@名無史さん:2007/05/27(日) 17:31:46
>>319
う〜ん、最初の一行についてはそう断言するのは
ちと危険のような気がしなくもない。
人質や人身御供についても正妻も同じようなもんかなと。
321日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:10:31
>>320
>>人質や人身御供についても正妻も同じようなもんかなと。

全然ちがうよ〜
「両家の同盟のために婚姻関係を結びましょう。娘をよろしく」
と化粧料と花嫁支度を整え送り出すのが正室であくまで対等な平和条約の使者。
両家の関係がまずくなったら実家に返すのが戦国時代の掟。

「恭順の証に差し上げます、お好きなようにしてください」
あるいは「私の命と引き換えに一族や家臣の命をお助けください」
と差し出され、側室の実家に不穏な動きがあれば殺されてもやむを得ないのが側室。
↑は政治的な背景で側室にあがった場合だけど。

複雑なことはなにもなく極めてシンプルでわかりやすい関係だよ。
正室や側室が誰であったかがはっきりすると、自ずと勢力関係が見えてくる。

秀吉あたりまでは↑の検証だけでもいろんなことがわかる。
322日本@名無史さん:2007/05/27(日) 18:33:05
>>321
>「恭順の証に差し上げます、お好きなようにしてください」
>あるいは「私の命と引き換えに一族や家臣の命をお助けください」

このパターンは両方がかぶる場合もあるし、それぞれかぶらない場合もあるしな。
実家が主従関係を解く場合に、側室が戻される事もあるんで、一概には何ともな。
実家の勢力の差かも知れないが。
側室という公式な室になる程度の家柄があれば、いろいろな政治的な駆け引きがあるし
単なる人質とか命乞いなら、愛妾止まりの場合もあるし、難しいんだよな。
ただ、側室にしても愛妾にしても、表と密接に繋がる奥において、
正室の家臣という扱いである事は間違いないから、正室と側室は、
どちらも公式な室であっても完全に立場が違うのは間違いない。
愛妾も、子供が生まれたり実家が出世すると側室に繰り上がる事もあるから
(繰り上がらない場合が多いが)線引きは難しい。
323日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:20:20
>>322 >>パターンは両方がかぶる場合もあるし

かぶるパターンてあったか?
戦国期の大名の婚姻でその例を教えて欲しい。

濃姫が嫁いだ時に、信長の妹が道三の側室になったが、
この理屈だと当時の力関係は斎藤家>織田家であったためとも
解釈できるけど、そういうことか?
濃姫が正室なのに、信秀の姫が側室というのは扱いにずいぶん差があるなと
思ってたんだ。道三の正室は無理でも、嫡男義龍の正室とかじゃなきゃ
織田家に失礼な話だと思ったけど、当時の状況だと
信秀がその条件をのんでも同盟関係になりたかったということか。
324日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:54:03
>>322
戦国期で>>このパターンは両方がかぶる場合もあるし、
それぞれかぶらない場合もあるしな
はないのでは?
そんな切羽詰った実家とは婚姻関係を結ばず、側室にすればいいだけのこと。
中には対等ではなく、明らかに力関係に差があるけど微妙な位置にある国などとは
婚姻関係で事実上支配下においていく場合もある。(伊達家と田村家など)
国力においては差があっても、同盟は対等であるというのが戦国期の婚姻関係の
特徴でもあると思う。
325日本@名無史さん:2007/05/27(日) 20:23:58
>>324
かぶる場合って、別に婚家と実家がそれぞれ互いにかぶっているって意味じゃないよ。

側室になった女性の実家からすると、
「恭順の意を示し、生殺与奪を婚家に渡さない側室」
「恭順の意を示し、生殺与奪を婚家に渡してしまう側室」
のそれぞれのパターンあるという意味だけど。
他に恭順も何も、敗戦で戦利品のように側室にされるって言うのもあるが、
実家が滅んでいる場合だったりするし、戦国時代の大名家なんか
敗者側の女性も親戚だったり血の繋がりがあったりする事が多いので
そう悲惨なものでもないしな。
326日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:05:37
>>325
付け加え。

「同盟のための、生殺与奪を婚家に渡さない側室」
「縁のある家が滅んだ場合、生き残った女性を庇護するための側室」
など、いろいろなパターンがあるので、「人質」「人身御供」だけで
側室制度は捉えられないってことを言いたかった。
327日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:17:12
>>326
そういうのをひっくるめてもやはり政治的な理由で側室になった場合は
「人質」「人身御供」という表現がそんなに逸脱しているようには
思えないな。
政治的な背景がない縁者の女性を庇護するためなら、なにも自分の側室にする
必要はなく、化粧料をあげて庇護すればいいし、それなりの縁談の世話でも
すればいいこと。
女性を庇護することはなにも側室にすることに限らないわけだしな。
戦国期だと側室にする背景には政治的な戦略が絡んでくるケースが多いのは
事実だし、「人質」「人身御供」といっても実際に牢に監禁して命の危険に
さらすわけではなく、当主の側室にすることで奥に軟禁状態にされる、
というだけのこと。
328日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:23:57
秀吉の側室たちをみると片っ端からといっていいほど
人質、人身御供、だね。
中には純粋に美貌とかに目をつけて側室にしたものもいるかもしれないけど
有名どころは全部元敵方の姫、元織田家家臣の姫だ。
京極殿なんてまさに一族の命乞いから側室にされた典型パターン。
淀殿はちょっと違うか?とも思うけど、後ろ盾のなくなった自分達姉妹の
行く末を秀吉に託さざるを得なかった人身御供に近いものかな。

家康はちょっと違うかな。
そういう側室もいるけど、それは戦国期の名残かも。
豊臣衰退後は好みの女性を側室にしているかんじがする。
329日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:34:32
>>329 >>豊臣衰退後は好みの女性を側室にしているかんじがする。

人妻だった旭と無理矢理結婚させられるんだから、戦国時代の結婚てすごいよ!
自分の天下になったので、気を使う正室もいないし、自分の好みにあった
側室を揃えたら、ロリ入った女性ばかりになったというわけだなw
330日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:27:36
>>321 
その掟が全ての家で守られていたわけではあるまい 
一番良い例がお濃本人。近いところでお市、そして勝頼の北条夫人
331日本@名無史さん:2007/05/28(月) 06:53:50
>>330

濃姫の場合帰る実家がなくなっちゃったじゃん。
乗っ取った兄からも帰って来いというオファーもなかったんだろし
実父の仇、弟達の仇となった兄のもとに行くはずもない。

お市は最初の結婚では帰ってきた。
勝家の時は実家が事実上なくなり、信孝派だったお市に帰るべき織田家
はなく、帰ったら今度は秀吉の元にいくハメになるのが目に見えたので
帰るに帰れない。

北条夫人の場合も勝頼は再三実家に帰れといったにもかかわらず、
夫人が一度夫婦となったからには最後までお供をしたいと辞世を詠み
自ら自害して果てたという。
最後まで北条氏を盾にしたと勝頼を卑怯者呼ばわりするものもいた
わけで、亡くなったのは本人の意思にせよ男性にとっては
それが不名誉なことにつながるので本当は避けたかったはずだよ。

ただお約束といっても勝頼夫人のように自分の意思で運命をともに
することもあっただろう。でもそれが例外であって、基本的には
正室は実家と争いになった時は速やかに実家に帰れる、という保証があったから
同盟の証に輿入れという手段が用いられたわけで、その保証がなければ誰も娘を
嫁がせたりしないだろうさ。
332日本@名無史さん:2007/05/28(月) 07:11:22
だが友好関係が切れれば実家に 
帰されるのが【掟】なんだろ。【掟】。
333日本@名無史さん:2007/05/28(月) 07:51:18
>>332

そういう切れ方するのよめろよ。
みっともない。

掟を破るのが当の正室なら仕方ないじゃん。
勝家や勝頼が正室を盾に実家に牽制し、挙句に正室の意思を無視して
腹いせに殺したわけでもないのだから。

お市や勝頼夫人もそれぞれ覚悟の辞世の句が残っているし、
浅井三姉妹は落ちて無事保護されているのだから、
お市たちが自分の意思で亡くなったのは明らか。

妻が自分の意思を貫けば夫の不名誉にもなるが、実家にも不名誉なことになる。
実家への抗議の意味もあったんだろうさ。
334日本@名無史さん:2007/05/28(月) 08:36:19
正室の実家が敵方に寝返った報復として
処刑されたケースって戦国期にあったっけ?

そういうケースがないということは、同盟に伴う婚姻の掟が守られていた
ということにつながるんじゃないかと思う。
335日本@名無史さん:2007/05/28(月) 08:40:44
みっともないのはどっちだよ。 
相も変わらずいいわけがましい。 
それにさも見てきたように断定的に 
書いているから突っ込んでみたんだよ。 
336日本@名無史さん:2007/05/28(月) 08:45:46
お市が帰されたと言っても、同盟関係が切れて何年も経ってから
それこそ、城が落ちるって時だからな。
勝頼夫人はそこでとどまが、子供は確か生んでいなかった事もあって、
自分の意志を貫けたけど、お市は子供達の命のために戻ったと
それだけの差だと思うよ。
お市は、浅井と織田が争い始めた後で、妊娠して子供を産んでいる事もあるし、
同盟関係が無くなっても、夫婦のままでいられるという事もあったんだろ。
それが例外なのか、相当数割合があったのかは知らない。
濃姫にしても、信長始め織田家としては、同盟先の道三が死んだし、
譲り渡し場もらったからと言って、美濃の攻略できるような状態でもないし、
もっといい同盟先を見つけて継室を娶るために、義龍の元に返さないまでも、
濃姫を城から出す事はできる(この場合縁の寺や縁者の元にいく事になる)のに、
それをしていないんだから、個々で対応は変わったんだろう。
斎藤義龍自身にしても、永禄11年時点で正室と思われる人物が生存している事を考えると、
これは同盟が切れて戻されてたと考えられていた、浅井家縁の女性と思われる。
戻されていなかったのか、戻すつもりがあったけど戻す前に義龍が死んでしまったかで、
夫人の立場のまま後家になったから、言継卿記にもそれが示唆される記述で出てくるんだろ?

原則は原則としてあるが、例外もそれなりにあるってことじゃないのか?
337日本@名無史さん:2007/05/28(月) 08:47:39
>>335 悔しかったんだねw
338日本@名無史さん:2007/05/28(月) 09:40:04
以前ガラシャのことであれこれ考察していたんだけど、ガラシャって
本能寺の変後即丹後の味土野にあった明智領の屋敷に移されてるんだ。
つまりいったん細川家から離縁されてるんだよね。
その後光秀たちが一掃され、落ち着いたあたりでまずは味土野の細川領に
ガラシャを移しそこで幽閉し、秀吉の承諾もあってその後細川家に
復帰してるんだ。いったんは無防備な明知領にガラシャを捨て去った
といっても過言ではないことしてるんだよな。
忠興へのガラシャの愛情は半端じゃなかったという通説の裏では
このような非情なことを行っていたわけで、
戦国時代の政略結婚の合理的な部分と、不条理な部分が浮き彫りにされている
例だと思う。
濃姫も斎藤義龍と敵対関係になったから斉藤家に返されたという説もあったけど、
よく考えたら信長が同盟を結んだのは道三であって、義龍じゃないんだ。
そういう場合は必ずしも実家に返す必要はないんじゃないか?と思うんだけど
どうなんだろう?
道三の代にのみ友好な同盟であって、義龍の代にあらたに婚姻などで
同盟を結ばないと関係は切れるはず。濃姫はすでに役割を果たしたのだから
帰るか帰らないかは本人の自由のような気がするのだが?
339日本@名無史さん:2007/05/28(月) 09:47:38
自分も同盟関係が切れたので、実家へ戻されたケースが少ないような気が
している。
お市の場合も、長政が織田家より朝倉家へつくことを決めた時点で
織田家との同盟は切れているわけだし、それでも小谷城が落ちるまで
お市が戻されなかったことを考えると、同盟が切れたからといって
必ずしも実家へ戻されるのが掟だったとは考えにくい。
一緒に生活していれば、情もわくだろうしね。
お市にしても本当は長政と運命を共にしたかったのかも知れないけど、
子供たちのことを考えて織田家に戻ったわけだし。

濃姫のケースは道三が死んだが、美濃の譲渡状を信長がもらっているし、
美濃をどうしても欲しかった信長にしてみれば、濃姫を実家へ帰すよりも
このまま正室として留めおくほうが、美濃を攻略する大儀名分がたつので、
継室をとらなかったのではないか。
また濃姫以上のもっといい同盟先が他になかったということも考えられる。
美濃を手に入れるのは、織田家としての当初の予定だったので、そのために
美濃から正室をもらったということも考えられる。
ので、どう考えても道三死後、信長が濃姫を実家へ返すということは考え
られない。
340日本@名無史さん:2007/05/28(月) 09:59:38
お市や勝頼夫人が特殊な例であって、それ以外はどうなの?
長政は最初の妻の平井氏を六角氏からの離反に伴い離縁して送り返してるし、
家康の実母なんて同盟のために離縁、再婚を繰り返してるし、
一般的には同盟期間=婚姻期間と考えてもかまわないと思うんだけど。

ただ正室となったからには両家に諍いが起こった時に取り成す役目を
担ってもいると思うんだ。政宗の母も最上家との間にはいってなんとか
戦を食い止めたし。お市もそれなりの考えがあって側を離れず、
やむを得ないという時まで頑張ったんじゃないかな。
結局3人の娘とともに織田家に戻ってきて、その後落髪もせずにいたのだから
実家のために政略結婚の仕事をまっとうしたという側面もある。
341日本@名無史さん:2007/05/28(月) 10:13:03
ガラシャの場合は、戦国に限った事じゃないけど、本音と建前の使い分けなんだろうな。
家中では「このようにしたい」という思いと、対外的には「このようにしなくてはならない」という
その「このように」が、あまりにかけ離れていた場合は、最終的に家中での「このように」にするためには、
一旦は対外的に最低限度許容してもらえる「このように」をパフォーマンスとしてでも
おこなっておかなくてはならないだろ?
そうする事によって、ガラシャの場合は、秀吉だって振り上げた拳の置き所があるってもんだ。

同盟が切れれば実家に戻すのが建前の決まりなら、
同盟が切れても夫婦として戻したくないと思う本音もあっておかしくはない。
恋愛や情だけではなく、女性も正室であれば、家をもり立てるために共に戦う同志でもあるんだから。
いろいろな例があるんだろう。
342日本@名無史さん:2007/05/28(月) 10:26:56
>>334
養女に出さしていた佐藤忠能の娘が、佐藤が織田に内通した時に殺されたと思うが、
その代わりに佐藤は後々、信長直々の声掛かりで濃姫の弟斎藤新五郎を養子に迎えている。

正室や側室としてではなく、反信長の盟約維持の人質としての養女なので、
大名家同士の婚姻による同盟とは意味合いが違うし比較はできないが、
人質に出す理由や、出した先での立場によって変わるのかも知れない。
343日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:02:43
あのさー、
その家それぞれ、状況も経過も違えば色んなケースがある
・・・で収まることじゃん。

検証というより、ただ単に知識や自説の羅列だよ。

344日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:30:55
>>341
言いたいことはわかるが、本音を殺して建て前で生きるのが武家社会だと思う。
建て前上理屈が通ることはまかり通るが、いくは正論でも本音が通じる社会ではない。

両家に諍いがおこった時に正室を実家にもどすのは、自分の不名誉、
さらには家の不名誉になることを避けることを最優先したいがためでは
ないか?
と同時に、正室の実家も一族の女がいるのに攻撃をしかけた、という卑怯者呼ばわり
される不名誉を避けるためにも、正室を実家に戻す必用があったのではないか?
そこに愛情云々は二の次である武家社会のシビアな一面がみられる。

ガラシャを離縁し、幽閉していたことが出来レースのパフォーマンスと
いえないこともないが、それは結果論であって、もし秀吉から
処刑のため引渡しの命がくだったら細川家はそれに応じたろうし、
ガラシャを明智領に追い出したあとにガラシャが危険に晒されても
細川家では救いの手を差し伸べただろうか?と考えたら
細川家の安泰を優先したろうから、しなかったろう。
345日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:47:14
正室にとって、実家が無くなったといっても色々な例があるから・・・

嫁いだ後、敵によって滅ぼされ実家が滅亡したケース。
嫁ぎ先と実家の争いにより、実家が破れて滅亡したケース。
嫁いだ後、実家の父親が身内同士の争いにより滅んだケース。
下克上は親子の争いのケースもあるが、部下によるクーデターなどの
ケースもある。
その時々のケースによって、実家へ帰すとか返さないとかはまた違って
くるのは当然ではないか。
だから敵同士になったとしても必ず、正室を実家へ戻すのが通常とは
いえないと思う。
346日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:49:26
そう、ほんとにケース・バイ・ケース。
あれこれ論じても、結局それしか言えないよ。
347日本@名無史さん:2007/05/28(月) 11:53:22
ケース・バイ・ケースだけど、ただ1点分かっているのは、
同盟がなくなった時に、命を取らないってことだろ。
戻すにしろ、戻さないにしろ、戻る所がなければ追い出すにしろ、追い出さないにしろ、
正室は生殺与奪を婚家には与えられていない、SEXつき外交官ってことだ。
348日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:28:01
素朴な疑問だが、敵同士になった場合は家に返されたケースはそこそこ
あるが、敵同士になっても実家に戻らずそのままというケースってあったっけ?
お市や勝頼みたいに夫とともに自害したケースもこれ以外にあったっけ?
349日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:37:16
そういう風な質問すると、
知識自慢がわらわら長文書きそうだから、
自分で戦国女性史特集の歴読を古本屋で探すとか
楠戸義昭の本を入手して読むとか、自分で調べろ。

また、ここ以外にも戦国姫スレはある。
350日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:38:10
>>346 ケースバイケースというわりにはお市や北条夫人のケースは
レアすぎないか?こんな例はほかに知らんが。
それ以外の大名家の婚姻だと同盟破棄後は婚姻関係終了、男子を残し
室が実家へというお決まりのパターンのようだが。
351日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:39:21
>>349
あるなら書いても構わないんじゃない?
なぜブロックするの?
知りたいんだけど。
352日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:46:37
>>351 答え:>>348の答えがNOだから
353日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:51:54
築山殿も今川に返されてないよね。
354日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:53:02
どちらを贔屓するわけではないけど、>>335の書き込みは主旨に反してる。
歴史の検証はどんな専門家でも見てきた人はいないわけで、
史料や知識を考察して自論に到達する。
どんな意見がでようと断定的に書いてあろうと、それに対して
異論、反論があるなら、どこがどう矛盾していてとか、
どこが納得できないのかと、感情的にならずに書くべきだ。
断定口調に腹が立ってからむなんていう幼稚なことはやめて欲しい。
355日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:56:18
そこであえてお濃と言ってみる。 
兄が父を討ったとはいえ斎藤家が滅んだわけじゃなし 
代が義龍になったとはいえ実家に変わりはねー。 
織田と敵対関係に変わったのだから 
本来なら返すのが筋なんだよな。 
なんかいいように解釈されてるけど。
356日本@名無史さん:2007/05/28(月) 12:59:44
>>353 この夫婦が熱愛状態だったとは思えないな・・・

今川との同盟がやぶれたのは、義元が亡くなったから。
氏真と同盟を結ばなかったから裏切り者にはならないし、
築山殿を離縁する理由にはならないということじゃないか?
ただ築山殿の実父の関口氏は氏真から家康のことを責められ自刃したというけど
もしかしたら、関口氏は家康と内通していたのかもな。
357日本@名無史さん:2007/05/28(月) 13:03:42
何でもかんでも教えてって書き込んで
パソの前で待ってるより、
自分で本探して活字を追うほうが良いことは良いだろうな。

匿名で自論憶測書き放題の2ちゃんで知るより、
幅広い説を知ることができるし、応用力も実につくのは確かだ。
358日本@名無史さん:2007/05/28(月) 13:25:46
>>355 濃姫は道三との同盟の証であって織田家は義龍とは同盟を結んでいない。
織田家が義龍と争ってもそれは同盟違反にはならない。
したがってこの場合濃姫は実家にかえされないというのが筋。
359日本@名無史さん:2007/05/28(月) 13:39:37
同盟に関することだけど、当人同士一代限り有効で
同盟を結んだ時点での当主間もその代限りだったはず。
だから同盟が切れないように何代にも渡って婚姻を繰り返すんだけど
道三のもとにも信長の妹が側室としていたはずで、
そういう存在がいながらも織田家に返さず信長と敵対関係になったのだから
やはり濃姫が実家に帰らなかったのは返す必要がなかったからじゃないかなと思う。
道三の代での講和はその代限り有効ということなのだと思う。
ごめん、なんだかわかりずらくて。
360日本@名無史さん:2007/05/28(月) 15:53:25
>>359 
いたねぇ、美濃には濃姫とトレードされた信長の妹が。
その後この姫様の行方はどうなったんだろう?
畠山昭高室がこの姫と道三の娘(信長の養女として嫁ぐ)だから、
畠山氏のところにでも行ったのかな?
361日本@名無史さん:2007/05/28(月) 16:23:59
>>355
別に道三と信長が敵対関係になったのではないのだから。
道三が生前中は同盟関係は保たれていた。援軍を送ってもらったり
後ろ盾として協力もしてもらっている。
道三は自分の息子に謀反された。しかも濃姫の実弟も殺されている。
義龍は濃姫の兄だが、腹違いだし、義龍は濃姫にとっても信長にとっても
共通の敵になってしまったのだから。それなのに実家に戻るのはおかしいと思う。

道三の美濃国の譲渡状だって、信長を婿と認めたから発行してもらったのだし。
なのに道三が死んだからって、同盟関係がなくなるのは必然だが、そこで
濃姫を実家へ帰してしまうと、信長が正当な美濃の後継者ではなくなり、
せっかくの譲渡状も効力を失ってしまう。
あれだけ美濃を欲しがっていた信長がその辺りを理解していないとは思えない。
史実でも美濃攻略に7年かかっているのである。
かなりテコヅっていたのは事実。
だから美濃衆に寝返らせるよう、内部に味方をつくった。
それが出来たのは、信長が美濃国の後継者としてふさわしいという
大儀名分あってのこと。
それがなかったら、ただの侵略になってしまうし、領民からの支持も得られ
なかっただろうし、美濃攻略はもっと遅れていたかも知れない。
362日本@名無史さん:2007/05/28(月) 16:36:35
結局信長も愛しさゆえに濃姫を手放せなかったというよりも
美濃欲しさに手放せなかったということのほうが大きいのかな。
戦国時代だから愛情とかより優先すべきものはたくさんあったろうけど。
濃姫も父の仇、弟達の固き、道三とともに亡くなった家臣の仇討ちを信長に
託したのだろうから、利害関係は一致していたんだろうけど。

戻れる実家があり、戻る正当な理由もあったのにあえて勝頼と自害した
北条夫人は本当に勝頼のことが好きだったんだろうなとも思っていたけど、
ふと自分達を見捨てた実家の北条氏への抗議の意思表示もあったかなと
思えてきた。歴史の表舞台には具体的に言動が記されることは少ない女性たちだけど
こういうところに強い意思がみられて、そこが興味深くもあるよ。
363日本@名無史さん:2007/05/28(月) 16:49:49
>>362 >>自分達を見捨てた実家の北条氏への抗議の意思表示もあったかなと

きっと夫人が武田家の見方をするように再三頼んだかもしれないよね。
勝頼って元々武田家の家督相続圏外の人物で、信玄亡き後家督を相続しても
武田家の家臣ともギクシャクして苦労してんだよね。最後は身内の裏切りと
家臣の離反が相次ぎほんの数十人しか側に残らず、そんな夫と義理とはいえ子供を
残して自分だけ実家に戻ることは出来なかったんだろうな、なんて
勝手に想像してる。そういう状況になったら追い込んだ織田家よりも
自分を見捨てた実家の北条家へ怒りを感じたんじゃないだろうか?
それなら一緒に自害の道を選んだ気持ちもわからないではないんだ。
364日本@名無史さん:2007/05/28(月) 19:55:06
>317は自分なんだけど・・・
ここは濃姫スレなので、濃姫のことで言うと、道三の死後、濃姫が実家へ帰された線はないと思ってる。
当時の信長は周りは敵だらけ、織田家中でもけっして一枚岩ではなかった。
信長の唯一の味方は父の信秀と、平手政秀だけ。しかもその唯一の味方を相次いで失い、信長は完全に孤立する。
その後、道三が会見を申し入れてきた。もしそこで、道三が信長を見限れば織田家は滅亡しただろう。
が、会見後、道三は信長を婿と認め、力になることを約束したのである。
信長は嬉しかったと思う。毎日接している家臣でさえ、誰も信長の器を
見抜けないのに、道三はただ一度会っただけで信長の天才性を見抜いたのである。

信長という人は、自分の味方についてくれた人に対して恩を仇で返すような
人だとはどうしても思えない。かつて謀反を起こした弟、家臣なども許しているし。
また謀叛を起こした弟の子供を、取り立ててもいる。
それなのに何の落ち度もない濃姫を、いくら道三が死んだとて
濃姫にとっても父の仇でもある義龍のところへ返すとは思えない。

また信長という人は、女性の役割を重要視していた数少ない戦国大名だったと言われている。
男が外でいい仕事をするためには、妻の内助の功が不可欠だと考えていたというのである。
だから国替えの時にも、単身赴任を許さず家族もろとも引っ越すように命じている。
それは家庭における妻の役割というものを重要視していたからと言われている。

ねねに当てた手紙の内容を見ても、当主における正室の重要性というものをねねに教えている。
またねねほどの正室は、秀吉はどこを探しても見つけられまい。とも言っている。
これは自分が正室をないがしろにしていては書けない内容ではないだろうか。
信長にとっても濃姫ほどの正室は他にいないと思っていたのではないかと思う。

この時代に恋愛感情があったかどうかわからない。でもこれまでの考察から、
信長最愛の女性がもしいたとするなら、それは生駒ではなく濃姫だったのではないかと自分は思う。
365日本@名無史さん:2007/05/28(月) 20:27:31
wikiにあったので改めて「明智軍記」を読み直してみたら確かに信長内室
の箇所があった。

1561年1月11日、清洲で尾張平定後の饗膳があり、家臣一同が集まった。
信長が「道三殿の敵討ちをしたいが当国の軍にそれだけの備えがない。
早く遺言を晴らしたい」と言うと、家臣たちが
「早く討伐の命令を出してください」と叫んだ。
その様子を信長内室が聞き、女房達に10合樽5荷、うちあわびを一ぱいもった台
を3脚だすよう指示し、女房が「北の方は皆の気持ちに感慨の涙で袖が
あふれてしまうほどです。よって酒を振舞います。」と言って振舞った。

明智軍記は確かに事実と異なることや、明らかな誤記などもあるし、
饗膳のところは創作話だと思う。それになんといっても
幕府編纂という背景のため、光秀を持ち上げ、信長の非道による因果応報を
強調しているかんじは否めない。ただ編纂されたという元禄6年(1693年)という
時期を考えると、本能寺の変から100年経っているとはいえ、当時は濃姫は尾張平定後
までは信長の正室として存在していた、という認識が一般的であったという
ことになるのではないだろうかと思う。
少なくとも道三亡き後すぐに離縁した、実家に返されたという事実がなかったのでは
ないだろうか?

道三の敵討ちで涙する信長内室は濃姫以外あり得ないから、
濃姫と明らかに断定できる女性が史料に登場するのは、
輿入れ以降は恐らくこの「明智軍記」しかないと思われる。
それ以外は「信長御台」、「信長本妻」、「北の方」とあっても信長の正室が
いたことは確認できてもそれが濃姫かどうかは推測の域をでていないからだ。
366日本@名無史さん:2007/05/28(月) 20:59:10
>>365
言継卿記に斎藤家親族の信長本妻が出てくる。
永禄11年の日記だ。
斎藤家は道三没以降、義龍系の斎藤家とは敵対関係になっているので
道三の生前に婚姻関係を結んだ女性でしかあり得ない。
それは濃姫以外いない。
367日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:03:13
>>364
最愛の女性何たらなんぞ信長以外知る人間はいないし
別に誰が最愛だろうと史実が変わることもない。
それに信長にしてみればお濃も生駒も鍋もその他側室も
それぞれ大切に思っていただろうし、彼女達もお互いの立場を
尊重しあい時にはもめて時には和やかに信長をはじめとして
織田家を奥から支えていただろうよ。

>>365
>少なくとも道三亡き後すぐに離縁した、実家に返されたという
事実がなかったのではないだろうか?

いつからそれが事実認定されたんだ?
368日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:20:45
濃姫が道三死後、美濃へと送り返されたとか離婚したとかは思わないけど、
最愛の女性だったっていうのも何だかなぁと思う。

奥での乱れが一切表沙汰になってなかったりする事からも奥殿をしっかりと
纏め上げる事の出来る才女だったとは思う。
濃姫の兄弟から湯のみだか何だか取り上げようとした時、濃姫がそれをかばって
「そこまで言うなら自分も一族と死ぬ」と言ってるというものも残されているし。
これは実際本気で死ぬとかってより、夫のワガママをたしなめる為に
「あっそ、あんたがそこまでワガママ言うなら私だってあんたなんてもう知らない」っていう
感じに見て取れるし。長年連れ添った痒いところに手が届くような夫婦だったんだろうとは思う。


ただ戦国時代の政略結婚夫婦を恋愛感情で結び付けるとか、最愛の女性がどうのとかはもにょるなぁ。
生駒の時もそうだったけど、あの時代の女性はそこまで弱いとは思えないし
楚々としていることが美徳だったわけでもないし。
なんとなく現代の価値観で好いた惚れた腫れたという色恋沙汰の関係に持っていくのは違うと思う。
369日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:32:55
>>366 >>言継卿記に斎藤家親族の信長本妻が出てくる

これは信長本妻が亡くなっていてもそう書かれる可能性もないか?
信長本妻だった濃姫の兄弟〜、とも読めなくもない。

>>367 >>365は断定してないじゃん。勝手に事実認定してるのは君の方。
370日本@名無史さん:2007/05/28(月) 22:36:26
>>367
364は自分はそう思うって言ってるだけだから、別にどう思おうといいだろ。
君は信長はそれぞれを大切に思って、尊重しあい和やかに奥を支えたと思えばいい。
371日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:32:29
>いつからそれが事実認定されたんだ?

じゃあ、>367に聞くけど、濃姫が離縁されて実家へ帰ったという確かな
記録や証拠があるのかよ。また亡くなったとか。もし濃姫が亡くなったの
なら誰が喪主をして、どこの寺に墓があって、いつ頃亡くなったのか。
法名は何なのか。
また、濃姫が亡くなったとしてもその後の記録には、信長御台〜との記録が
あるが、これは一体誰のことを指すのか。もし信長が継室をもらったとしたら
誰なのか。なぜそういう大事な情報が記録されてないのか。などの質問に
正確に答えられるのか?
また濃姫には若君がいなかったので、信忠を養子にした〜と複数の文献に
記述があるのに、その後信忠が誰の養子になったとか、実子になったなどの
記録はない。もし、濃姫が離縁されていたら、濃姫の養子になった信忠は
織田家の嫡男である資格はないことになる。このあたり正確に答えられるのか?
372日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:41:50
>>367
ここの住人の多くは(とは言っても自作自演が多いんだろうけど)
「信長に一番愛されたのは濃姫」って妄想を否定されると
とたんにムキになるんだよ。
あっという間に集中砲火だもんな、気にスルナ
373日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:46:07
明智軍記は誰が書いたかどこを調べてもわからないのだけど、どういう経緯で
できたもんなんだろう?
もし光秀の近くにいたものの史料なりが参考にされたのだとしたら光秀にとって
元々の主筋の姫様のことだから濃姫のことはそこそこ信用できるんじゃないかい?
>>365の箇所を読む限りでは信長のことを非道扱いしているようにも
見えないけど、濃姫を持ち上げようとしているようにもとれるし、そうなると
やはり光秀贔屓の縁者などが書いたものを後年編纂したとも思える。
374日本@名無史さん:2007/05/29(火) 00:07:31
>>372
いや、自分は濃姫が離縁されたとか、実家に帰されたとかいう記録や証拠が
ないのに>>367がなぜその説を信じてるのか知りたいだけだ。
>>367こそ、確かな記録もないのに、濃姫が離縁されたの実家へ戻されたの
と妄想だらけではないか。
濃姫離縁説を支持するなら、濃姫の養子になったままの信忠が、織田家の嫡男になっていること
に矛盾を感じないのか?
言継卿記に斎藤家親族の信長本妻が出てくるが、あれは一体誰のことを指しているというのか。
濃姫が離縁されていたら、信長本妻〜という表現にはならないのではないか。
また、濃姫の弟が信長の家臣になっているが、そのことの不自然さを感じないのか。
どう考えても、濃姫離縁説には無理があると思うがな。
しかも濃姫を離縁して、それ以上に信長にとって政治的な意味を持つ継室を
娶ったなら、なぜ記録がないのか?まさか生駒が正室になったなんて信じてないだろうな。
そんな馬鹿なことを信長がするわけないだろ。それに美濃縁者の姫を離縁して、馬借の娘を
正室になんてしてたら、近隣諸国の大名からもっと馬鹿よばわりされているさ。



375日本@名無史さん:2007/05/29(火) 01:11:10
>それに信長にしてみればお濃も生駒も鍋もその他側室も
>それぞれ大切に思っていただろうし、彼女達もお互いの立場を
>尊重しあい時にはもめて時には和やかに信長をはじめとして
>織田家を奥から支えていただろうよ。

ほのぼの織田家で微笑ましいけど、これの根拠になりそうな史料は何かあるの?
376日本@名無史さん:2007/05/29(火) 01:11:32
冷静にみて>367のどこをどう読めば 
離縁何たらを信じてるとなるのだろうか? 
彼が最初に事実と書いたのならいざ知らず、 
それの言い出しっぺは>365なのだから 
信じているどうので指摘したいなら 
まずは>365じゃないのかな?
377日本@名無史さん:2007/05/29(火) 01:19:40
367は365の文章の揚げ足を取ってるだけだな。
378日本@名無史さん:2007/05/29(火) 05:55:05
どうでもいいけど、なんで濃姫が信長最愛だといけないんだ?
そう判断できる資料もあるし、信長の行動を見てみれば、
濃姫を正室として大事にしていたのがわかる。
その当たりを踏まえて、もし信長最愛の人がいたとすれば、濃姫ではないか
と自分は書いたつもりなんだが。
それを現代の恋愛で語るのはおかしいとか、なんとかいう意見が多いのは
ちょっと意味不明。自分も戦国時代に恋愛感情があったかどうかは定かでない。
でもなかったという証拠もない。だからもしあったとすれば、という仮定で
話している。
未だに信長最愛はなぜか生駒だと書かれていることが多いので、自分はそれを
否定する根拠として話しただけなのだが。
379日本@名無史さん:2007/05/29(火) 06:17:20
>>376
でも>>367の書き方だと、>>365が「明智軍記」を読んでの感想で、
>少なくとも道三亡き後すぐに離縁した、実家に返されたという
事実がなかったのではないだろうか?
に対して、
>いつからそれが事実認定されたんだ?
という意見になるから、>365の推測に対して、反論意見に聞こえるわけだ。
>365は断定していないのに、>367が勝手に認定したと勘違いしてくってかかって
いるために濃姫離縁説の支持しているように聞こえるわけだ。
380日本@名無史さん:2007/05/29(火) 06:36:33
はっきり言って、濃姫が道三亡き後、離縁されたとか実家へ帰されたという
認識は、武功以降ではないだろうか。
「明智軍記」には確かに光秀贔屓でかかれているらしいが、年代などの
細かいところは間違いがあったとしても、作成されたのは今より300年ぐらい
前のことになる。その頃の基本ベースとしても、道三の敵打ちを織田家一丸
となっていたと認識される。それに感謝して涙を流すのは、やはり濃姫しか
考えられない。だとすると、道三の敵打ちを果たして、美濃攻略後も濃姫は
信長の正室としてとどまっていたことを意味するのではないか。

その後の言継卿記に登場する斉藤家の信長本妻は、濃姫と断定できるのでは
ないか。もし、濃姫が亡くなったとか離縁されたとかいう事実を記録にのこさ
ないはずはない。あまり政治的に意味のない壷事件が書かれているのに、
政治的に意味のある信長御台が亡くなったとか、離縁されたとかいう記述が
ないのはやはりおかしい。織田家の記録になくても、他家の記録にもある筈。
それがないのは、信長生前に濃姫が亡くなったとか、離縁されたという事実が
なかったことを意味していないだろうか。
381日本@名無史さん:2007/05/29(火) 06:52:14
朝っぱらから自演乙!
382日本@名無史さん:2007/05/29(火) 07:10:39
アンチのほうが思い込みが強いことが客観的によくわかる流れだな。
書き込みをよく読まず、自分の思い込みで勝手な判断をして
切れ口調で書いてしまい、挙句に揚げ足を取られて答えに窮すると敵前逃亡。
反論されることに切れちまうんだからおはなしにならん。
離縁の件もお市や勝頼夫人以外の例は?と聞かれたら逆切れしてそれっきり。
確固たる主張もなく揚げ足取りだけに参加するならやめて欲しいな。
検証の邪魔だ。
383日本@名無史さん:2007/05/29(火) 07:25:36
>>378
いけないわけじゃない。
ただ戦国時代の正室について語るのに、何で恋愛感情云々が出てくる必要があるんだ?
と言いたいだけなんだが・・・。
信長最愛の女性が濃姫じゃなきゃ正室として何か不都合が生じるわけでもねーべ。
現代の恋愛夫婦と同じように、信長の恋女房が濃姫であったという事をここで語る事の必然性はないだろ。
当時の貴人の恋愛がどんなもんだったかなんて当時の貴人にしかわからんし、
信長の「濃姫大好き!」っていうラブレターやら日記やらが出てこない限り、最愛の人だったとか何とかは
少なくとも「検証」じゃなくて、単なるヲタ願望に過ぎない。
信長の正室であり、本能寺の変時まで正室として織田家の女主であった可能性が高い。
大切なのはそれだけで、あとは実際残された資料から読み取れるのは濃姫の行った事だけであり
信長最愛の女性だっただの、恋愛感情がどうだのそういうカップリングがやりたいなら
濃姫ファンサイトなり信長と濃姫のカップリング同人サイトでやってくれ。
384日本@名無史さん:2007/05/29(火) 07:36:56
仕方ないよ・・・
アンチに限って、なんの根拠もない説をさも事実であるかのように
語るものだから・・・
最近アンチが多いのは、なんかここでの検証が気に食わないことがある
からじゃないのか。
385日本@名無史さん:2007/05/29(火) 07:50:30
濃姫に関しては政治的なメリットも大いに得られる相手だし、
何より正室として信長が15歳の時から一緒にいたわけで、
しかも織田家内でもすったもんだを一緒に苦労した仲ということだし、
他の側室への愛情とは違った格別の思いがあったとは推測できるんだけど
それを最愛のとかいう陳腐な言葉で片付けたくない。
戦国時代の夫婦は現代人が想像もつかないくらい強い感情で結ばれたもんが
あったんじゃないかな。
386日本@名無史さん:2007/05/29(火) 08:43:44
>384 
検証が気に入らないんじゃなく 
あなたみたいな人がいるからじゃないの? 
それでなくてもこのスレは叩かれても 
仕方がない部分があるのもまた事実なわけで
387日本@名無史さん:2007/05/29(火) 08:49:52
武功で、最愛の人なんて表現で、信長の奥がマスコミによって安売りされてしまったからなぁ。
自分は最愛の人って表現には違和感を感じる。
戦国期の女性史を多少なりとも知っていれば、そのような夫婦観は出てこないと
思うんだよな。
当主と正室の夫婦関係って、戦友とか同志ってイメージの方が強い。
伴侶でもいいが、そんな優しい表現よりも、もっと、対外的に好戦的というか、
臨戦態勢みたいな感じがする。
仮に「愛」ってモノを表現するとしても、「覚え目出度く」など、別の表現になる気がする。

言継卿記の「信長本妻」を、既に死別していてもそうなるのではという意見には、少々頷けない。
その翌年の永禄12年に、今井宗久が「去年から信長御台の御料所の管理をしている」と
書かれている書状があるので、永禄11年から管理していると考えられる。
永禄11年に御台が生きているから、御料所を与えて、その管理を委託している事になる。
もし、永禄11年に新たな本妻を娶っていれば、それこそ言継卿記に書かれるだろう。
意外とどうでもいいような、誰が信長に挨拶に行ったらしいなど書かれているのに、
本妻が変わったような事は書かれていないことは考えにくい。
永禄11年の頃というと、信長の勢力も大きくなってきており、もし継室を娶るとするなら
それなりの勢力を相手にする事になる。
極めて政治的な話しであるので、書かないと思えないからな。
388日本@名無史さん:2007/05/29(火) 09:38:51
>>387だけど、自分も同意見だよ。
ただそれも推測、臆測の域であって確定ではないということがいいたかった。
真偽はともかく生きている濃姫が登場するのは明智軍記の
尾張平定後が最後で、その後の信長本妻を含む濃姫と思われる史料箇所は
多方面からの考察から後妻ではなく恐らく濃姫に違いないだろうというレベル。
厳密に信長の室が濃姫であり、その記載されている段階まで生きていた、と
この両方が確認できる史料は輿入れ後は本当に明智軍記を最後にないかもしれない。
389日本@名無史さん:2007/05/29(火) 09:51:11
>>388
あぁ、そういう意味か。
それならそうかも知れないな。

100年近く経って書かれた明智軍記よりも
信長濃姫と同時代に生きていた言継や今井宗久の
直接書いた一次史料の照らし合わせの方が、
より真実には近いだろうがな。
明智軍記は、江戸期には濃、姫はずっと正室だったという
認識の立証にはなるよな。
390日本@名無史さん:2007/05/29(火) 09:53:42
>>389
>明智軍記は、江戸期には濃、姫はずっと正室だったという ×

明智軍記は、江戸期には、濃姫はずっと正室だったという ○

変な所に「、」を入れてしまった、スマソ
391日本@名無史さん:2007/05/29(火) 09:53:49
ごめん、>>388>>387じゃなくて、>>369の間違い。
>>387さんへのレスと書こうとして間違えました。
392日本@名無史さん:2007/05/29(火) 10:01:39
明智軍記って編纂は信長死後100年後だけど、参考史料に一次史料はもちろんだけど、
当時をリアルに生きたひとの子供とか孫の聞き取り調査とかで
まとめたんじゃないかと思うな。
だからあれこれ矛盾が出てきてるんだと思う。
393日本@名無史さん:2007/05/29(火) 10:21:09
養華院が濃姫であると確定できればすっきりしそうだな。
確定するには、道三か小見の方の血を引く人物と養華院の骨のDNA鑑定やって
みればはっきりすると思うのだけど、そういう人物で確実に埋葬されている墓はあるか?
歴代将軍の骨の調査は墓の移転や改修のついでに学術調査も兼ねてできたけど、
興味本位のこの手の調査は絶対許可おりないだろうけど、してみたい。

余談だけどこの徳川将軍家の墓の調査した本を読んだが非常に興味深かった。
394日本@名無史さん:2007/05/29(火) 10:38:00
>>387
濃姫の御料地の管理を今井宗久がやっているのなら、
記録をたどっていけば、濃姫がいつまで生存していたか
わかるんじゃないかな。
御料地や化粧料は一代限りの固有資産らしいし。
濃姫が亡くなった時に、元の領主に返還されるなら
その返還された時期と、養華院が亡くなった時期を
照らし合わせればはっきりしないかな。
395日本@名無史さん:2007/05/29(火) 11:10:10
濃姫が養華院なら、今井宗久の方が先に死んでるからなぁ。
396日本@名無史さん:2007/05/29(火) 12:03:59
やっぱりDNA鑑定しかないのかなあ〜
何か新しい史料が発見されないかな。
397日本@名無史さん:2007/05/29(火) 13:26:28
>393 
出先なんでリンクできないが 
いちよ岡山(だったと思う)に道三の血を 
引くと思しき人の墓ならあるぞ。薄いがな。 
ちなみに道三系の斎藤家末裔も生きているそうな。 
この斎藤家はあの池田が後年厚遇で 
召し抱えた家だから自称ではなかろう。 
問題は養子迎えで血統が絶えていなければいいのだが…。 
398日本@名無史さん:2007/05/29(火) 13:45:58
>>397
へぇ〜
この人たちが信長本妻兄弟女子の「兄弟」にあたるのかな?
399日本@名無史さん:2007/05/29(火) 13:55:44
池田が召し抱えた斎藤は新五の倅だから 
その場に新五もいたのならそういうことになる。
400日本@名無史さん:2007/05/29(火) 15:44:11
言継は新五の養父の佐藤に壷事件を聞いているし、
佐藤自身が壷事件の当事者だと言継は書いている、
当然新五は「兄弟」にあたるだろうな。
佐藤は「国人」の方になるだろう。
401日本@名無史さん:2007/05/29(火) 18:26:26
濃姫が離縁された、あるいは信長生前に亡くなったと主張する連中は
別スレをたてたらどうだろう?
きちんと根拠をあげて、考察していくのならそれはそれで興味がある。
自分はあらゆる角度からみても濃姫が信長生前は正室の座をまっとうしたという
こたえにしかたどりつけないのだが、別の見方、まったく異なった考察が
あるなら興味がある。もちろんそれを裏付けるだけの史料や理屈の通った根拠が
なければ納得できないが、そういうものがあるなら知りたい。

純粋にいろんな意見があって当然だと思うし、まっこう反対の意見の中に
また違った方向性も見出せることもある。
402日本@名無史さん:2007/05/29(火) 18:56:06
あなたもくどいよ。 
だったら自分で立てればいいんじゃない? 
いい感じで違う話題に変わったのに 
わざわざむしかえすこともないじゃん
403日本@名無史さん:2007/05/29(火) 19:50:00
>>401
あえて別スレをたててまで検証する気がないから
しないんだろ〜
でもここでの検証は気になるもんだから、
色々突っ込んでくるんだろうけどさ。

濃姫が離縁されたとか実家へ帰されたとかいう
根拠のある資料があれば、とっくに出してるさ。
それをしないのは、それが妄想だからだよ。
資料をどう考察してみても、濃姫は正室の座をまっとうしたとか
いえないのだし。それが納得いかない人もいるんだろ。
404日本@名無史さん:2007/05/29(火) 20:04:31
「永禄十二年七月廿七日
晩頭佐藤錫携来、一盞受用了、故一色義龍後家壷可為所持、可被出之由信長連連被申、
一乱之刻被失云々、尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、
國衆大なる衆十七人、女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、
今日無事に成了、佐藤も十七人之内也」

1.本妻兄弟女子十六人…姉妹と兄弟の妻子16人
2.國衆大なる衆十七人…国人の主だった者17人
3.女子之男…姉妹の夫と兄弟数名
以上卅余人…上記人数を足した者が30数人

女性と子供は自害、男性は切腹と分けられているため内訳はこういう感じになるだろう。

女子之男に斎藤新五は含まれる。
國衆大なる衆十七人に佐藤忠能は含まれる。

他に予想として考えられるのは
本妻兄弟女子十六人に斎藤新五の妻子(斎藤徳元など)、姉小路頼綱正室が含まれるか?
ほかに、姉妹ではないが、池田元助の正室伊勢兵庫頭貞良息女などは含まれるだろうか?
405日本@名無史さん:2007/05/29(火) 20:12:41
>>404
>姉妹ではないが、池田元助の正室伊勢兵庫頭貞良息女などは含まれるだろうか?
斎藤義龍の血筋の伊勢兵庫頭貞良正室を書くのを忘れていた。
406日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:23:56
濃姫が子供を生んでいるのはもはや定説だけど、その子はきちんと成人して現代まで子孫を残しているのかなあ。
個人的には信忠も勝長も濃姫腹だと思っているので(痛い妄想ってわかってますwすいません!w)
御台平産の子供はどの子なんだろう?
407日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:46:10
>>406 生きていたら冬姫あたりが年齢的に妥当かな。
冬姫の通説の誕生日とは矛盾してくるけど、史料に残された
誕生日は、夭折した子供なんかと混同されている可能性が高くて
確かなものとは言い難いし。
408日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:56:46
定説ね〜…
私も濃姫は好きだけどそこまで言い切られるとさすがに失笑する。
409日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:51:19
何でアンチって濃姫好きなフリしてまで否定するんだろw
自分がそうじゃないって思ったりするならそれを示すだけの資料を提示するなり
このスレの住民が納得するだけの持論でも持ってくりゃいいのに
それすらせずに否定だけする・・・。一体何がしたいんだろ?
410日本@名無史さん:2007/05/30(水) 00:24:46
それじゃ濃が子供を産んだとはっきり書いてある一次資料をまず出しな。
411日本@名無史さん:2007/05/30(水) 01:01:02
>>410
そんな史料が発見されれば、このスレも祭りだよw
そこまですごい史料じゃなくても、何か新史料が発見されればいいんだけどな。
412日本@名無史さん:2007/05/30(水) 02:33:57
発見されても内容が好みのじゃなかったら 
ここの人は偽書認定しちゃいそうだけどねw 
 
ところで濃姫が子供を産んだのは定説とまで 
断言できる元になった資料って 
平産記事以外だとどれなの? 
断言するからにはそれはすごい内容なんだろうから 
本気で読んでみたいんですけどね。
413日本@名無史さん:2007/05/30(水) 02:59:02
武功が偽書認定されたのが、そんなに嫌だったのかよ。
414日本@名無史さん:2007/05/30(水) 06:11:31
信忠はさすがに違うんじゃないかなあ〜
濃姫の養子になったと、複数の文献にあるし。
勝長はそうかもと思いたいけど、何か二人のつながりを示すものが
でてくればそう判断できるかも知れないけど。
個人的には徳姫あたりが濃姫の子供かもという気はしてる。
あと、平産記事の頃だと、勝長じゃないとしたら鶴姫あたりじゃないかなあ〜

自分も濃姫が子供を生んでいる可能性はかなり高いと思う。
大体、濃姫が嫁いでから信忠が生まれるまで、全く子供が生まれてないとは
考えられないから。生まれても早世した可能性もあるしね。早世した場合は
あまり記録に残されることは少ないから。
でも信長の子供達って信忠から始まって信雄、信孝ぐらいじゃない?
記録に登場するのって。他にも男子はいたのに、記録に残すほどのエピがなかったって
ことなのかな。
415日本@名無史さん:2007/05/30(水) 06:55:42
結婚してから数年間子なし状態でも 
別になんら不思議ではないけどな。 
子供というのはいくらがんばっても 
できない時はできないもんなんだよ。 
たとえ双方の生殖器官に異常はなく 
排卵日あたりにいたしたとしてもね。
416日本@名無史さん:2007/05/30(水) 07:12:54
伊達政宗の場合だと、側室や愛妾の子供は早世してたらスルーされてるぽいけど
正室・愛姫の出産した嫡室腹の子供は早世しようとなんだろうと家系図に記されてるね。
こういう事からも、戦国時代の正室というのは特別な存在だったんだろうっていうことがわかるけれど。


個人的に濃姫は早産とか想像妊娠などは可能性ありそうだけど、
10ヶ月で通常出産した子供はいなかったんじゃないかなーと思ってる。
いたとしても、平産記録以前は産んでなさそうだなーと思う。
417日本@名無史さん:2007/05/30(水) 07:56:23
伊達家はそういう記録はかなり詳細みたいだね。
以前政宗の遺骨の鑑定をして、足の大腿骨だかに骨折した跡があって、
政宗が落馬したので温泉に治療に行った、と伊達家の史料にあって
史料は事実だったんだと記した文献を読んだ事がある。
伊達家の場合戦国期〜江戸期まである程度安定した状態を維持して大名として
残って行ったからあれこれ正確な記録が残っていたのかもしれない。
濃姫に関しても嫡流の信忠〜の系統が残っていれば織田家雑録なんていう雑なもんじゃない
きちんとしたものが残されたはずだと思うよ。
信長夫妻の仏事なども本来は嫡流の信忠やその直系の子孫がしていくことだから
養華院が本当に濃姫なんか、なんていう話もなかったはずだし。
418日本@名無史さん:2007/05/30(水) 08:00:49
道三が鷺山城に隠居所を作ったのって、天文23年だと思ってたけど
最近の調査じゃ天文17年の説が有力なんだな。
濃姫が鷺山殿と呼ばれていた理由は、その辺なんだな。
419日本@名無史さん:2007/05/30(水) 08:07:35
で、定説を裏付ける資料はマダ〜?(AA略)
420日本@名無史さん:2007/05/30(水) 08:25:19
おいらはお市と北条夫人以外で政略結婚にも関わらず実家に戻らず
実家と敵対関係になりながらも正室の座をまっとうしたケースや
夫と自害したケースをもっと知りたい。
421日本@名無史さん:2007/05/30(水) 08:43:35
成菩提院の門外不出の文献群を調べてみたいよな。
当時の日本の3大学問所だし、そこから出てきた記録に御台平産が
書かれていたら、地誌よりも詳しく書かれているだろうからな。
地誌は逸話伝承が多いが、成菩提院の項目は数値など詳細に書かれているから
どう読んでも、逸話をまとめた訳じゃなく、成菩提院の文献の抜き書きだしな。
ぜひ、どこかの曹洞宗に関わりある人に調べてもらいたい(関係者じゃなきゃ
見せてももらえないだろうし)。
成菩提院文書を調べている福田教授もその辺の事は調べてないみたいだし、
永禄11年あたりの記録は、信長の禁制くらいしか調査してないみたいだしな。
422日本@名無史さん:2007/05/30(水) 08:53:29
>>421
興味あるよね。
信長関連に限らず、あの寺は有名武将と関わりが強い。
天海和尚もいたことがあるということだし、
きちんとした研究機関での検証が待ち遠しい。
ただ門外不出の史料って遜色のひどいことが多い。
代々書き写して保存していてくれればいいけど、寺の関係者も
しまいっぱなしの可能性もある。
そのあたりも気になるしな。
423日本@名無史さん:2007/05/30(水) 10:11:39
正室として尊重されていたといわれれば、そうもあるかなと思うが。

一番愛されていたのは濃姫で、
それを肯定されないと逆ギレするお前、少しはマトモになれ
424日本@名無史さん:2007/05/30(水) 11:37:22
>>419
アンチうざい。
自分で調べれば〜
425日本@名無史さん:2007/05/30(水) 11:39:01
>>714 >>信長夫妻の仏事なども本来は嫡流の信忠やその直系の子孫がしていく

大徳寺に残された『大仙院文書所収養華院七佛事記』や
『総見院過去帳』では養華院は「寵妾」あるいは「妾」と記載されているそうです。
龍光院の開祖・江月宗玩和尚が養華院の七佛供養の喪主だったそうで、
江月和尚は大徳寺156世にもなった人物だから、その頃和尚が大徳寺トップに
いたからどうかは定かじゃないけど、大徳寺でもやはり特別待遇だったと
いってもいいんじゃないかな。
いくら信長の側室であってもそこまでの待遇をしてもらえるかが不思議で
やはり側室ではなく、尾張総見寺の過去帳にあるように養華院は
「信長公御台」ではないかと思ってるんですけどね。

またこの江月和尚はあの津田宗及の息子。
堺の豪商人と縁の深かった信長だから、信長御台に喪主を務めてくれるような
子孫の男子がいなかったことから、宗及あたりに頼まれたかで
仏事の喪主をかってでたのかなとも思えてきます。

ひとつ気になるのが「七佛事」のこと。
この七佛事は初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日
の計七回の法要のことをさし、葬儀そのものは入ってないんです。
なので養華院は別の寺などで葬儀、埋葬され、信長家の女性ということで
七佛事を江月和尚が行って総見院には供養搭を建てただけかもしれないという
可能性もあります。肝心の葬儀の記録はありません。

墓の位置からすると五徳より先に亡くなっているのに、手前に配置されている
あたりで、五徳の墓が建ってから養華院の供養等を建てたのではないか、
とも思えてくるんですよね。
426日本@名無史さん:2007/05/30(水) 11:44:18
>>425
尾張総見寺の方では、葬儀のおこなわれた記録はないのかな?
他に考えられるとすれば、妙心寺、妙覚寺、崇福寺あたりか。
427日本@名無史さん:2007/05/30(水) 12:00:57
>>425
ということは、実際葬儀の行われたお寺に濃姫の位牌なども
あるということですよね。
別に総見院に墓がなくてもおかしくはないですしね。
それに養華院が濃姫なら、秀吉死後ですし別に無理に総見院じゃなく
てもいいわけですしね。
濃姫の兄がいたという妙覚寺ぐらいにあったりしないのかな〜
428日本@名無史さん:2007/05/30(水) 13:34:31
>>425ですが訂正です。

尾張総見寺の過去帳→安土総見寺の間違いでした。
織田家の過去帳『泰巌相公縁会名簿』を所蔵しているのは「安土総見院」です。

総見寺は信長が安土城を作ったときに信長自ら開基した祈願寺で
江戸期を通して住職は織田一族からでていましたし
織田家とは非常に縁があります。
初代住職正仲の死後、正沖の父玉甫(織田信安)が住職となってつないでいた
のですが、信安が亡くなったあとしばらく住職不在だったそうです。
その後信雄の仲介で二代目住職として織田信包の次男、寿圭が1617年に
住職に就任したそうで、そうなると養華院が亡くなった1612年の頃は
信安が住職だったかあるいは不在の状態であったと思われます。
不在といってもそれなりに管理する僧侶はいたのでしょうが、
ここまでリアルタイムで織田家の身内がいたのですから、
織田家に関する一族の過去帳の記載は信憑性は高いものだと思っています。
また総見寺で信長の百回忌、百五十回忌、二百回忌、二百五十回忌の法要が
営まれたと記録があります。

それから織田信雄の墓は総見院の信長の横にあるものとされていますが、
実際は信雄は松山の徳源寺に埋葬されており、織田家が柏原へ国替えとなったため
1695年5月18日、信雄〜4代の藩主の遺骨は掘り起こされ、
遺骨は近江の安土城跡に葬られています。
したがって総見院の墓は遺骨なしのただの供養搭です。

そう考えても濃姫はどこかの寺で亡くなり、総見院では法要のみと供養搭が
建てられただけのような気がしてなりません。それに総見院は元々織田一族からは
形式的な菩提寺扱いですからね。
429日本@名無史さん:2007/05/30(水) 16:14:59
総見院は、秀吉が阿弥陀寺への対抗措置で無理矢理建てた寺だからな。
織田家が本来の仏事を依頼する寺ではないな。
妙心寺が一番候補、信長が建てた安土の総見寺、岐阜になってから位牌所をおいた崇福寺
斎藤家の縁で妙覚寺、道三の菩提寺の常在寺あたりが、濃姫葬儀の有力候補だろうな。
他には知恩寺に冬姫と秀勝の墓所があるから、その辺りも候補に入ってくるだろうか?
430日本@名無史さん:2007/05/30(水) 17:44:41
>>429
>>織田家が本来の仏事を依頼する寺ではないな。

とりあえず織田家の菩提寺ということで寺側の判断で仏事等をやってたのかもしれないね。
431日本@名無史さん:2007/05/30(水) 18:23:14
>>429
>織田家が仏事を依頼する寺ではないな
同感。
総見院は単に秀吉が信長の実質後継者たらんとして
秀吉の意向で信長廟所に定まったというのが本来の姿だろう。
信雄だったか?は、本能寺に信長の廟所を造っているのでは?

秀吉が定めた墓所、秀吉が執り行った葬儀、秀吉が造らせた信長像
寺の説明を聞いても、するのは秀吉臭ばかりだ。
織田一族が自分たちの菩提寺にして欲しいと望んでいたわけもなし。
432日本@名無史さん:2007/05/30(水) 18:27:20
>>織田家の過去帳『泰巌相公縁会名簿』を所蔵しているのは「安土総見院」です。

『安土総見寺』ね。

その仮説が本当なら濃姫の埋葬されている寺は廃寺になって跡形もないん
じゃないかな。
候補にあがっている寺は今でも古刹として残っているし、あの濃姫の
墓や位牌があれば伝承されているはず。
そういう類の噂もないんだから、寺そのものが消滅してしまっている可能性が高い。
433日本@名無史さん:2007/05/30(水) 18:54:16
しかし、瑞龍寺の石廟など、濃姫の石廟と伝わっていたにもかかわらず
建てられた時期よりも後に亡くなったとされている、永姫生母の石廟って事に
なったりしている事などを見ても、過去の調査などで他の人物のものと
解釈されているものはかなりあるのかも知れないな。
434日本@名無史さん:2007/05/30(水) 19:54:32
三の丸殿は妙心寺で葬儀を行い墓もあるのだが、総見院でも法要をした、
となんかの本で読んだ。ここを読むまでなんとも思ってなかったが、
法要とはもしかしたらこの七仏事のことだったのかな?

435日本@名無史さん:2007/05/30(水) 22:09:28
秀吉亡き後は総見院は織田家の菩提寺であるにも関わらず
織田一族からも諸侯からも見向きもされなかったということか?

ちょっとくぐったが、総見寺は江戸期は信雄系統の柏原藩とかかわりが深かったようで
歴代の住職は丹波柏原藩主織田家の当主の猶子となった、と書いてあった。
総見寺の法要には織田一族や領主の市橋家からも使者が来たというし、
事実上の信長の菩提寺として織田一族から扱われていたようだ。
信長公御台と過去帳に書いてあるなら養華院の位牌があったんじゃないか?
安政元年(1854年)11月16日、本堂など主要な建物のほとんどを焼失した、
とも書いてあるので、信長や信忠の位牌なんかもその時焼失したのかもしれない。
436日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:02:22
>>435
そうなんだ〜がっかり。
濃姫に関するものは何も残ってないのだろうか。
本当にお墓もなくなってしまったのかな?
437日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:07:00
ちょっと話題が溯るけど、築山殿のことがひっかかってて
築山殿って家康が今川から離脱した時に駿府に人質にされてたじゃない?
のちに人質交換でようやく岡崎に引き取られるけど、
なんでこの時に離縁という話がでなかったんだろう?

家康も今川と手を切ったからには今川の養女である築山殿と
婚姻関係を続ける理由はないし、もともと仲の良くない夫婦だったというのに。
それに築山殿も離婚したい、戻りたくない、という意志はなかっただろうか?
信康はともかく、築山殿は人質としての価値はないと思うんだけど。
438日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:18:27
>>437
>もともと仲の良くない夫婦だったというのに
あの、そういう不仲を裏付ける信憑性の高い文献でも
残っているのだろうか。
それこそ、小説やドラマでの刷り込みなのでは・・・
このスレでも何度か言っている人も多いけど、
夫婦間の仲の話は、ほんとのところ不詳なんだと思いませんか?

さんざん書き込まれたことだけど、
家の誼が切れたさいの室の処遇は様々だし、
確か築山殿の専用スレもあったので、
当時の家康周辺の事情もそっちのほうが詳しいだろうから、
そっちに行って聞いたほうが良いんじゃないかな。


439日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:34:15
>>437
築山殿に関しては捏造されたものが多いから、本当の実情はわからない。
家康が、今川に築山殿を押し付けられたという説もあれば、
美人だったので、家康の方から所望したという説もあるし・・・
440日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:35:56
夫婦間の愛情云々の話題となると途端にみんな冷たくなるね。
現代と室町末期の婚姻を比べるのは根本的に間違ってるとは思うけど
当時の信憑性のある一次史料に夫婦仲がよかったなんて記載してあるものがあるんだろうか?
残っているものから状況的に判断するしかないんじゃないの?
441日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:46:57
>>440
確かに、本当に愛し合っていたかどうかっていうのは当人にしかわからない。
当時の文献や、その人物の足跡や行動から判断しているだけ。
そう考えると確かに家康は、築山殿に冷たい感じがするけど。
442日本@名無史さん:2007/05/31(木) 00:07:47
>437 
人質以前に彼女が今川家の関係者というところに 
十分意味はあったさ。たとえ大名としての 
今川家が実質滅んでいたとしてもね。 
氏真だって表舞台からは遠ざかっていたとはいえ 
蟄居させられていたわけじゃないしな。
443日本@名無史さん:2007/05/31(木) 07:08:21
築山殿は岡崎に引き取られても家康とはしばらく別居だったというのは
仲が悪いということからじゃないくて、今川と完全に離反したことの
ポーズからだと思う。
築山殿の実両親は家康のことから氏真にせめられて自刃したし、
今川家とは形だけの養女だし、跡を継いだ親族の関口家には戻るに戻れないし
帰る実家のない女性は本当に哀れなもんだよ。

ただこの時期今川を見限ってどんどん家臣達が離反していったので、
関口氏も家康側についていたのでは?と指摘する専門家もいるのは確か。
関口氏が自刃したのはそのことによるものともいわれている。
氏真の代になると今川家臣の離反が相次ぎ衰退に拍車をかけたのは事実だし、
築山殿が家康の元にいたのは、そのへんのことがあってかなとも自分は思ってる。

家康は没落した関口家をのちに旗本として救済の手を差し伸べているし、
関口家と敵対関係にはなかったんじゃないかな。
だから築山殿と離縁しなかったと。
444日本@名無史さん:2007/05/31(木) 07:51:07
義元も関口氏も亡くなったことで、築山殿に今川からのプレッシャーがなくなった
から婚姻関係を継続させただけで、義元が生きていた、あるいは実父の関口氏が
氏真と密接な関係を継続していたら離縁していたのではないかな。
愛情があるから婚姻関係を継続させるという考えは戦国時代にはないに等しいだろう。
仲睦まじく一生を終えられたとしたらそれはあくまで結果論だと思う。
445日本@名無史さん:2007/05/31(木) 08:37:46
で、そろそろスレチなわけですが…
446日本@名無史さん:2007/05/31(木) 09:17:31
まぁ築山殿のケースもやはり戦国期の政略結婚の典型を大きく逸脱はしていない
ということだな。

ところで総見院の織田家の墓の話に戻るが、あそこに明らかに遺骨の入っている墓は
いったいどれだけあるんだ?信長、信忠はもちろんないし、信雄も違うということ。
養華院もどうやら遺骨はなさそうだし、もしかしたらそれ以外も全て遺骨なしの
供養搭だけなんじゃないか?
447日本@名無史さん:2007/05/31(木) 10:50:45
信長最愛の妻が濃姫だったっていう事に対してあれこれケチつける人って
結局生駒が最愛じゃなくなるのが嫌なだけなんでしょ?
濃姫が正室として生きているのは許せても、信長最愛の女性ってとこは譲れないから
戦国時代の夫婦はどーだったとか否定するんだと思う。

一次資料に信長の寵愛深かった女性は誰かはっきり書かれてるものはないのだし、
一次資料に残されたエピソード等から最愛の女性を探り当てると濃姫が浮かび上がる。
ただそれだけの事なのにね
448日本@名無史さん:2007/05/31(木) 10:58:06
なんでそう蒸し返すかなぁ
信長の最愛が濃だろーが生駒だろーがどうでもいいでしょ。
このスレは信長の最愛の女性は誰かを検証するスレじゃないんだから
いちいち噛み付いて話しの流れを止めるのはやめてほしいな…

というわけで次レスから濃姫の墓の話題ドゾー↓↓
449日本@名無史さん:2007/05/31(木) 11:06:17
>>446
総見院の墓が遺骨がなく供養塔だけだとしたら、総見院の養華院の供養塔は
やはり濃姫のために立てたものだという気がするね。
遺骨がない供養塔なら、織田一族の供養塔なのだから他の側室の一人とは
ちょっと考えられない気がする。
でもそれにしても、濃姫のお墓は一体どこにあるのだろうか?
何か手がかりでも見つかればいいのだけど。
450日本@名無史さん:2007/05/31(木) 11:43:05
>>447
同感。
濃姫が正室の座を全うしたということでさえ、気に入らなくて
噛み付いてくる人がいるんだから、濃姫が一番愛されたらしい
などというと、またその意見が気に食わない人がいるんだろう。
最近の文献で、どうやら濃姫が出産しているらしい。という話
でさえ、気に入らない人がいるみたいで、確かな史料をだせとか
食ってかかる始末。
逆に濃姫が確実に出産していないという確かな文献もないのだし。
自分が、濃姫が一番愛されたと思うならそれはそれでいいと思うよ。
451日本@名無史さん:2007/05/31(木) 11:48:13
>>449
供養塔というと、瑞龍寺の石廟も、やっぱり寺伝通り濃姫なんだろうな。
徳川に対して豊臣派じゃありませんよ、織田派ですよ〜というアピールのための
石廟建立だろうから、一側室の石廟を建立する意味がないからなぁ。
そうすると、瑞龍寺での濃姫の法名は正覚院という事になるな。
総見院や総見寺では養華院殿要津妙玄大姉として、他にも別の側室の、
それも庶子の生母扱いの女性の墓や供養塔が、濃姫のものという可能性もある。
法名から辿っていく事は、寺や宗派が違うと無理だしな。
452日本@名無史さん:2007/05/31(木) 11:56:01
この時代の大名が一番大切にし、重きをおいたのが家の存続だし
家名であったわけで、正室や側室はそれに対していかに貢献したか
が重要だったと思う。
濃姫は美濃を信長に与えてくれた最大の功労者だしそういう意味では
大事にされただろうし、生駒をはじめ信長の子供を産んで織田家発展に
役立ってくれた側室たちだって織田家の反映の功労者だからそれなりに
評価され大事にされたろう。手柄をたてた家臣が重用されたように家の反映に
貢献した女性達が大事にされないわけがないさ。
そこに一番とかの序列をつけようとするのがそもそも間違いだ。
453日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:03:06
>>451 >>瑞龍寺の石廟も、やっぱり寺伝通り濃姫なんだろうな

寺伝だと永姫生母となってるんだよ。
しかも命日が濃姫と異なっていた。(どこかにファイルしてあるから探してみる)
ただ永姫生母といわれる女性は鶴林寺に墓があったとされ、
1618年に亡くなったとされるから、石廟ができる後に亡くなったから
そのあたりで矛盾がある。
454日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:12:32
いや、寺伝だと濃姫の石廟だよ。
それを、富山県史の編纂委員が、信長夫人っていっても濃姫は前田家と関係ないから、
永姫の生母に違いないと言い出したのさ。
言い出した当時は、建立時期が分かっていなかったので、そのまま永姫生母になってしまった。
今は建立時期が分かってきているので、やっぱり濃姫なんじゃね?ってことさ。
455日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:23:06
>そこに一番とかの序列をつけようとするのがそもそも間違いだ。

これは信長に限らず、他の武将でもよく見られるけど、
誰が一番〜なんて順位をつけたがるのは現代の感覚なんだろうか。
正室や側室関連でなくても、家臣に対する評価などもそうかも。
現代の恋愛関係や、サラリーマンの上司と部下の関係にたとえるのは
そう考えた方が、わかりやすいからということなのかも知れない。
456日本@名無史さん:2007/05/31(木) 13:04:05
>>454
瑞龍寺の記録では石廟の信長夫人とされているのは

『正覚院殿桂岩清香大禅定尼 慶長十六年七月八日 玉泉院母儀』

ただ正覚院殿桂岩清香大禅定尼は万里小路充房室説もあり、しかも充房室は
源光院芳林寿継とも伝えるものもあるし、史料にばらつきがある。
それと永姫が玉泉院としたのは慶長19年利長死後のこと。
でも出家前に亡くなった生母が「玉泉院母儀」と記されていることから
後年書かれた史料であることも明らかで、
このあたりからもこの寺に残された過去帳の真偽は微妙なところかな。
457日本@名無史さん:2007/05/31(木) 13:16:14
養華院殿要津妙玄大姉の死亡日時が
「慶長十七年七月九日」
ほぼ1年後ってことは、意外と没年を間違えた養華院の事かもな。

岡田正人氏が、瑞龍寺の石廟を調べた時に、寺伝と記録は別になてるような事を書いていた。
寺伝そのものは、信長公正室の濃姫の事となっていたそうだ。
そこから一足飛びに、寺伝が間違って伝わったんだろうと言っている所がどうかと思うな。
富山県史の編纂委員のまとめた論文をどこかで見た気がするが、
豊臣派から織田派への鞍替えなどと言う政治的背景に考慮していない、
単なる前田家との繋がりだけを重視した説だったと思う。
458日本@名無史さん:2007/05/31(木) 14:47:24
他の人がせっかく墓の検証をしてるのに
447と450、感情論で実のない話を執拗に繰り返すな!
459日本@名無史さん:2007/05/31(木) 14:57:42
>>458
気に入らなきゃ、スルーすればいいだけのこと
もう話はとっくに終わってるのに、今さらレスする必要なし!
460日本@名無史さん:2007/05/31(木) 15:15:51
せっかく濃姫の墓の検証が進んでいるのに
今頃何なんだ?
アンチうざい〜
461日本@名無史さん:2007/05/31(木) 15:26:35
>>456だけど、俺もこの石廟の女性が永姫生母とは思ってない。
側室を信長と信忠と同格に扱うのは織田家に対して失礼だし
家臣筋の前田家がそんな無作法なことをするはずはない。

永姫の母は正覚院殿桂岩清香大禅定尼で、信長を父にもつことから
印搭の主と混同されてしまったのかもしれない。
永姫は前田家にとって亡くなるまで主筋扱いで大事にされていて、
まつも「玉様」と目上扱いだったと伝えられている。
そのあたりも影響しているかもしれない。

ただもしかしたら、この正覚院殿桂岩清香大禅定尼こそ正真正銘の
濃姫では?という可能性も捨てきれない。
そうなると養華院とは命日が異なるので別人ということになる。
つまり総見院の大仙院の記録通りに養華院は信長の側室であったということに
なるな。そして安土総見寺の記録がこの正覚院のことと混同され信長公御台と
表記されてしまったのかもしれないとなる。

これはまったくの臆測だけど、もしかしたら養華院はお鍋の方じゃないか?
とも思えるんだ。お鍋の方は信長の葬儀も一周忌法要も出席していて、
秀吉とのパイプも強かったから総見院で側室筆頭だったお鍋の方に敬意を
払って供養搭を建てたんじゃないかなって。
それなら五徳より下座に置かれている理由もわかる。
現在お鍋の方の墓と言われている不自然な自然石は謎だけど、
この石がお鍋の方といわれているのも確定ではないんだよな。
462日本@名無史さん:2007/05/31(木) 15:38:56
>>461 そういえばお鍋の方の命日は慶長17年6月25日とされていて
養華院と一ヶ月も違わないんだよな。
463日本@名無史さん:2007/05/31(木) 15:47:36
近衛前久の命日も慶長17年6月。
その頃京都辺りで、流行病でもあったのかもな。
464日本@名無史さん:2007/05/31(木) 15:55:04
6月〜7月で流行り病といったらはしか。
当時は発症したらすぐに亡くなる死の病だった。
465日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:19:50
それにしてもずいぶん近いな。
なんか濃とお鍋が混同されてるような感じもするんだけど…

それはないよな?
466日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:43:47
日付が近くても全く違う日付だからね。
むしろ1年遅れでほぼ同じ日付の正覚院の方が混同されてる可能性は高い。
467日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:46:22
>>461
でも養華院がお鍋なら、お鍋の墓といわれている後から子孫が移した
らしい墓は??たしかお鍋は興雲院じゃなかったっけ?
濃姫とお鍋が没年が近いのは前から気づいてた。もし混同したとすれば
そうかも。
それとこれは別スレで見た話なのだけど、織田家と徳川家でおとなを
つとめた家の子孫の人が、濃姫の本名は「おなべ」と代々伝わっている
らしいと聞いたけど。名前も同じ「おなべ」だし、亡くなった時期は近いしで、
二人を混同してしまった可能性はないかな?
468日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:52:44
濃姫の本名がホントに「なへ」だったら、お鍋と混同されちゃうこともありえそう
469日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:12:04
名前で混同というのはないんじゃないかな。
第三者がみて一目でどいういう立場の女性かわかるように記してあったと思う。
女性名は同じような平凡な名前が多いし、女性に対しては成人したら
○○殿や○○の方と呼ぶのが一般的だったからね。
例えば
濃姫なら御台、北の方、斎藤殿、井口殿、美濃の御方etc
お鍋の方なら小倉殿、小椋殿、小椋の御方、

というふうに書いてあったろうから、濃姫と鍋の方を間違えるということは
ないと思うけどな。
470日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:16:07
でもお鍋って、手紙とか日記とかの史料にも「なべ」って名前で出てきてるよね。
471日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:28:24
だが、安土総見寺は濃姫を直接見知っている人間がいた寺だから
そこが間違えるとは思いにくいんだよな。
総見院の方が間違える可能性の方が、むしろ高いと思うし、
葬儀はおこなっていないで、仏事だけだとすればなおの事違っていてもと言う気がする。

正覚院殿桂岩清香大禅定尼 慶長16年7月8日没 瑞龍寺
養華院殿要津妙玄大姉   慶長17年7月9日没 総見寺
興雲院          慶長17年6月25日没 総見院(?)

正覚院=濃姫だとすると、命日は7月8日か9日であることは間違いないように見える。
没年が鍋と混同されて16年を17年としたか、17年が正しいのかは再考の余地ありだが、
安土総見寺が一番信憑性が高いとすると、17年が正しいのかも知れない。
養華院と興雲院を同じ総見院で弔っているのだから、同一人物を二つの法名で弔うのは考えにくい。
やはり、養華院と興雲院は別人を考える方が良いと思う。
472日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:32:23
>>470 そりゃ手紙や日記だと他人と区別する必要はないから。
秀吉がお鍋にあてた手紙で鍋本人が読むわけだし、
言継日記は言継本人がわかっていればいいだけのこと。
女性を地位や立場、出自がわかるように呼ぶのは公の書面ではの話だから。
473日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:32:28
>>470
信長の奥にいた時は、「お鍋の方」ではなく「小倉」と呼ばれていたと言われているな。

あと、鷺山殿ではなく、稲葉山城にちなんで井口殿としたい人もいるみたいだが、
天文17年に道三は鷺山城に移っているらしい。
天文23年に移ったというのは、最近は否定されている。
そうなると、輿入れは天文18年なので、鷺山殿でも妥当なのかも知れないぞ。
474日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:39:58
>>471
瑞龍寺の前身である法円寺は慶長18年創建だから正覚院は別の寺に埋葬されている
はず。信長同様供養搭のみの印搭で、法名も恐らく法円寺がつけたものと推測できる。

興雲院がお鍋の方であるというのも確定ではないから興雲院がお鍋の方ではなく
別の側室(総見院に埋葬されている信好の生母とか?)の可能性もあるし、
養華院と同一人物ということは確かにありえないね。
475日本@名無史さん:2007/05/31(木) 20:50:22
>永姫は前田家にとって亡くなるまで主筋扱いで大事にされていて、
>まつも「玉様」と目上扱いだったと伝えられている。

嫁に入ったら、主君も何も関係ない武家社会においてそれは面白いね。
確かに今まで姫様姫様と目上の人だった主君の娘が、嫁にきたからって
いきなり「はい、あんたは嫁。姑には従いなさい」と言えるもんでもないとは思うけど。
そう考えると、ねねと茶々の関係もどんなもんだったんだろう。
476日本@名無史さん:2007/05/31(木) 21:31:47
>>446 信長、信忠、信雄以外で確実に遺骨のないと思われるのは秀勝ですね。
秀勝は知恩寺瑞林院に墓もあり、豊臣縁でも織田家縁でもない寺なので
供養搭を建てる必要もないし、恐らくこちらにご遺体も埋葬されていると
思います。確か知恩院の過去帳に記録があったと記憶しています。

>>461さんの考察を読んでふと気がついたことがあります。
総見院にある供養搭は信長、信忠、はともかく、信雄以下、秀雄、信好、信高
秀勝、五徳、お鍋、は信長死後全て秀吉の支配下、庇護下におかれたもの
ばかりです。
信雄も結果的に秀吉にくだっていますし、嫡男秀雄も名前を見れば一目瞭然、
信好は総見院の信長葬儀に秀勝とともに出席してますし、信高も秀吉の直臣扱い
秀勝は秀吉の養嗣子だし、五徳は信雄の庇護下にいたのでやはり秀吉の支配下にあり、
お鍋は秀吉から化粧料をもらっています。総見院を建てたのが秀吉である以上は
秀吉派の織田一族のための菩提寺化していくのは当然でしょうが、一方で正式な
織田一族の菩提寺という位置付けではなかったのは、総見寺との比較でも明らかです。

なのでこのメンバーに濃姫がいることは不自然ではないか、という思いがしてきました。
養華院は確かに五徳の下座に置かれています。仮にも信長御台といわれる墓を
そのように配置するのはこれまた不自然。
大仙院文書の記録にあるように養華院は信長の側室として扱われているのは明らか
といわざるを得ません。そうなると、安土総見寺の『泰巌相公縁会名簿』の
「信長公御台」の箇所は誤記なのか、という疑問が当然わいてきます。
手元の史料を確認したら『泰巌相公縁会名簿』は成立が1750年頃ということでした。
つまり過去帳などを体系的に編纂したのは養華院没後138年ほど経ってからという
ことになり、もしかしたら当時の記録に混乱と曖昧な部分があったのかもしれず、
事実確認もせずに後年曖昧なまま記されたのかなという気もしてきました。

養華院がお鍋の方かどうかは推測以外なんの根拠もありませんが、当時の信長側室
の中で葬儀に参列し、秀吉の庇護下にあったお鍋の方は総見院にとっても
織田一族に準じた存在として扱ったとは考えられますかね。
477日本@名無史さん:2007/05/31(木) 21:32:27
続きです


もちろん養華院が信長公御台である、という可能性も否定はできません。
総見院の背景はともかく、信長と濃姫を夫妻で供養するのは当然といえば
当然のことですから。


なんだか私もこんがらがってきますが、瑞龍寺の正覚院が濃姫かどうかは
完全に否定できるだけの根拠もなく、可能性の一つとしては考えられるのでは
ないでしょうか?そうなると、新たな濃姫候補の女性も増えてしまい
ますます混乱してしまいますね。
でもなんだか一気にいろんな説がでてきて、混乱しながらもますます濃姫の
検証が楽しくなります。
478日本@名無史さん:2007/05/31(木) 22:33:32
>>475 ねねと茶々だと、たとえ足軽の娘と大名の姫君で主筋にあたる姫であっても
正室と側室となったらねねのほうが立場は上だったろうから、主人と家来という
関係だったんじゃない?だから余計淀殿は虚勢を張っていたんじゃないかと。

まつと永姫だと先代当主夫人と現当主夫人だから、身分的には同格だけど、
永姫は姑をたて、主筋の嫁をまつもなにかと気を使い、いい関係を保てたんだと思う。

>>476
養華院が濃姫じゃないかもってかなりショックなんですけど。(決まりじゃないけど)
でも正覚院が濃姫かもというのはなんだかあらたな発見もなんだかうれしいかも。
どっちにしても濃姫のお骨の入った墓は日本のどこかにあるはずなんだよね?
形ばかりの墓ではなく、そのお墓にお参りをしてお花でもお供えしたい。
桔梗の花じゃまずいかな?
479日本@名無史さん:2007/05/31(木) 23:18:00
やはり、御料地や化粧料の返還時期から没年を判断したほうが正確では
ないでしょうか。
濃姫やお鍋がもらっていた御料地や化粧料は、彼女達が亡くなった後、
当時の領主へ返還されたと思うので、その記録などが残っていないのでしょうか?

なんか法名からしても、養華院よりも正覚院の方が立派な感じがしますし、
織田家の法名で共通した「岩」の字が使われているんですよね。
でも織田家の過去帳から引用したと思われる「泰巌相公縁会名簿」に
間違いがあるとは考えにくいのですが、どうなんでしょうね。
480日本@名無史さん:2007/05/31(木) 23:20:03
「玉様」って、玉泉院からってことは、利長が亡くなった後の話しだよね?
確かに利長の方が松よりは早く亡くなっているけど、たった3年間だし、なんだか変。
松って、江戸にずっといて、1600年以降は永姫とあまり近くにいないし、
利長が亡くなった後で金沢に戻ったけど、その時の話しとしてもなぁ。
永姫が嫁いでから17年近くに過ごしていて、14年離れて、最後の3年間それなのかな?
481日本@名無史さん:2007/05/31(木) 23:33:57
>>476 秀勝は知恩寺瑞林院に墓もあり、豊臣縁でも織田家縁でもない寺なので
供養搭を建てる必要もないし、恐らくこちらにご遺体も埋葬されていると
思います。確か知恩院の過去帳に記録があったと記憶しています。


以前、冬姫に関心があり知恩寺を訪れたことがありますが、
知恩寺は江戸時代に火災に遭い移転したそうです。
冬姫の遺品もその際に失われたとのことです。
現在の知恩寺には冬姫・秀勝も墓石はありますが、
遺骨はないのではと思います。

また知恩寺と知恩院は、双方とも浄土宗の寺院ですが別のものです。
482日本@名無史さん:2007/06/01(金) 01:14:53
史料にでてくる五徳って何気に大物?な扱いだ。
やっぱり徳川(松平)家の嫁だったからなのかな。
483日本@名無史さん:2007/06/01(金) 06:33:19
>>480
玉様と呼ぶ以前も同様にそれ相応の扱いをしていたという
ことでは?普通は嫁に「様」はつけんもん。
それまで嫁扱いでいたのに、前田家の生き残りをかけて急に
永姫を敬い始めるというのも変な話だしさ。
それに永姫の墓はまつや利家より上段にあるんだってよ。

484日本@名無史さん:2007/06/01(金) 08:31:29
今さらながら瑞龍寺を検索してみると、意外と石廟のところに
信忠、正覚院、信長・・・とでてるんですね。
この正覚院は永姫生母と濃姫以外は考えられないよね。

永姫のお膝元だから正覚院が永姫生母であるのはそんなに不自然かな?
もし正覚院が永姫生母なら、彼女は生駒氏で、信雄生母の生駒氏とは
やなり別人の生駒家の女性ということになるな。
485日本@名無史さん:2007/06/01(金) 09:15:56
>>484
不自然だと思うよ。
石廟を建てた意味合いという意味でね。
そして、なぜ信忠よりも一側室を上座においているのかという意味で。
486日本@名無史さん:2007/06/01(金) 11:12:44
>>481 ご指摘ありがとうございます。
書き間違いで秀勝の過去帳は「知恩寺瑞林院蔵」のものでした。
ちなみに過去帳では戒名が瑞林院賢厳才公大禅定門となっているので
秀勝は最後は仏門に入っていたようですね。
487日本@名無史さん:2007/06/01(金) 11:27:20
>>485
確かに信忠よりも上座に置かれているのなら
生駒氏では不自然な感じがするね。
そういう意味では、正覚院は濃姫かもという感じもするな。
488日本@名無史さん:2007/06/01(金) 11:34:46
瑞龍寺に観光に行ったことあるんだけど、石廟の中に印搭がおさめてあって
正覚院の石廟は他の男性陣に比べちょっと小さかったと思う。
女性だからそう配慮したのかもしれないけど。
489日本@名無史さん:2007/06/01(金) 12:50:24
石廟前に建てられている説明書きには「信長公側室」の文字がみれるね。
瑞龍寺のガイドブックには正覚院を「信長室」と書いてある本が多くて
それが「正室」のことをさすのか「側室」のことをさすのかまでは
言及されてない。一部正室と書いてある本もあるけど、一般的には
側室=永姫生母というとらえ方のようだ。
490日本@名無史さん:2007/06/01(金) 12:57:37
>>489
それ、県史の編纂委員が言い出した後に立った説明書きだから。
491日本@名無史さん:2007/06/01(金) 13:46:37
>>490 その県の編纂委員は『泰巌相公縁会名簿』のことがあったから
養華院と明らかに別人である正覚院は側室としたんじゃないの?

観光的にも濃姫のものと、出自のわからない信長側室の石廟では
関心度が全然違うと思うから、県サイドも寺伝に従って
信長正室の認定をすればいいのに。
492日本@名無史さん:2007/06/01(金) 14:08:46
「この石廟はあのまむしの娘で信長の妻だった濃姫のものといわれております」

とガイドさんが説明するのと、しないのとでは確かに客の関心が違うかも。
493日本@名無史さん:2007/06/01(金) 14:30:39
お鍋の方が信長の法要に参加したとか、一周忌法要に出席したという
ことを記した史料には「興雲院」という法名で書かれていたの?
それとも小倉殿とかだったの?
もし興雲院となっていたら、お鍋の方が養華院というのはないんじゃないかな。
494日本@名無史さん:2007/06/01(金) 15:12:46
あと、思ったんだけど・・・もし、お鍋が養華院だったら、
養華院って施主がいなくて喪主が江月和尚だったわけでしょ。
普通、喪主って亡くなった人の息子が勤めるのが筋だったらしいし。
だとするとお鍋が他界したときはまだ息子の信吉が生きていたから、
喪主は信吉でもいいのになぜ江月和尚がつとめたのかが謎ですよね。
495日本@名無史さん:2007/06/01(金) 15:52:01
>>494
それもそうだし、『大仙院文書所収養華院七佛事記』や
『総見院過去帳』では養華院は「寵妾」あるいは「妾」
とあるそうだけど、それじゃ誰だか特定できないじゃん。
信長公御台なら1人しか存在しないけど、側室は多数いたわけだし
どの側室だかわからない。誰だかもわからない不特定の側室に対して
戒名を授けたり、法要を営むのも変な話だ。
普通なら過去帳に信長御寵妾○○殿と書くだろうに。
496日本@名無史さん:2007/06/01(金) 16:03:59
>>495
誰だかわからなかったから、総見院の過去帳にはそう書いたのかな?
だとするとやはり総見院には墓でなくて供養搭だけで、
しかも亡くなった当時でなくてかなり後年に建てられたので、
記録が曖昧な書き方になってしまったのでしょうか。
濃姫の供養塔と判明するまでは、誰の供養塔として寺では伝わって
いたのかが気になりますよね。
497日本@名無史さん:2007/06/01(金) 16:16:17
供養塔は後年建ったものとしても、仏事はおこなった訳だよね。
大仙院文書所収養華院七佛事記には寵妾なの?
七佛事は四十九日までの七日毎の仏事の事だから、亡くなってすぐの話しなんじゃないかな?
総見院過去帳は妾なんだったかな?

ただ、過去帳としての信憑性という点では、安土の総見寺の方が上だろうと思う

>>491
>その県の編纂委員は『泰巌相公縁会名簿』のことがあったから
>養華院と明らかに別人である正覚院は側室としたんじゃないの?
だとしたら、相当法名に疎い人だという事になるな。
寺、宗派が違えば、法名が変わるのなど、歴史をやってる人間からは常識だろうに。
総見寺は臨済宗で、瑞龍寺は曹洞宗なんだから。
むしろ、総見院と総見寺で、同じ宗派としても同じ法名で残っている事が、驚きな訳で、
それだけ織田家にとって重要人物だから、同じ法名が知られていた事になるんだがな。
498日本@名無史さん:2007/06/01(金) 16:42:49
>>497 

『大仙院文書所収養華院七佛事記』が「信長公寵妾」で
『総見院過去帳』が「信長公妾」。

七佛事供養なら亡くなって初七日から始るから亡くなってから時間差はないはずだな。

戒名の話だけど、戒名だって生前故人がどういう人物だったかは戒名を決めるに
際してとても重要なことで、生前の人物像をあらわすために字感を選び
相応しい戒名を決めるのだから、正体不明の女性に戒名は授けられないはず。
養華院はなにを根拠に戒名が決定したのかも不思議だ。

編纂委員は戒名の件じゃなくて、命日から養華院とは別人と判断したのでは?
戒名だけの問題なら正覚院は濃姫ということにしちゃったと思うな。
499日本@名無史さん:2007/06/01(金) 16:47:18
>>498
命日か。

正覚院が慶長16年7月8日
養華院が慶長17年7月9日

混同を疑えてしまうような日にちだよな。
まして、泰巌相公縁会名簿がかなり後にまとめられたものだからな(元ネタはあるだろうが)
総見院過去帳では興雲院も信長公妾なのかな?
500日本@名無史さん:2007/06/01(金) 16:50:46
>>濃姫の供養塔と判明するまでは、誰の供養塔として寺では伝わって
いたのかが気になりますよね。

確かずっと濃姫ということになっていたとどっかで読んだな。
瑞龍寺同様に史料と異なる寺伝が伝わっていて、寺伝では濃姫だったらしい。
あの石塔は地が磨耗していて、戒名が読み取れないらしいんだ。
でも総見院見取り図であの墓の位置に養華院と書かれていたから
あの墓は養華院と確定したということも書いてあったな。
501日本@名無史さん:2007/06/01(金) 16:58:10
>>500
だとすると、寺伝と記録が違っているということかな?
瑞龍寺も総見院も。
だとすると総見院も瑞龍寺と同じで、誰かが?濃姫でなく誰かの生母だと
言い出したため(きちんと調査せず)記録が書き換えられた?かも
知れないということでしょうか。
502日本@名無史さん:2007/06/01(金) 17:13:41
寺伝ってさ、意外と正しい事が伝わってる事多いんだよね。
文書って言うのは、時の権力者や有力檀家の手前書き換えないといけない事はあるんだが
口伝として残っていくものは、そういった日和見的な事をしなくてすむんだよな。

森可成の墓のある来迎寺に三法師の生母の墓があるんだが、
三法師生母じゃなく森息女で伝わってたと聞いた事がある。
だから、塩川家で、三法師生母が塩川鈴だと言い出すまでは
森息女説も根強かったんだよな。
503日本@名無史さん:2007/06/01(金) 17:17:20
でも総見院って、養華院の葬儀はおこなっていないのに、
初七日法事などや供養塔の設置だけしているのもなんだか不自然。
しかも寺伝では、濃姫と伝わっているのに肝心の記録には誰か分からないけど
信長の側室?と記録が残されているのもなんだか?
濃姫が養華院だったら、秀吉死後のことだし。いくら濃姫が秀吉に
協力しなかったからといっても、そこまでの扱いをされるとは思えない。
養華院の葬儀をおこなったお寺には、養華院はどう記録されているのだろう?
504日本@名無史さん:2007/06/01(金) 17:18:28
その、葬儀をおこなった寺が特定されていない訳で。
505日本@名無史さん:2007/06/01(金) 19:53:41
>498 
生前に出家していたなら本人の要望も 
組み入れた可能性があるんだが…。 
506日本@名無史さん:2007/06/01(金) 20:36:04
>>505 それでもどこの誰の法名というのを明らかにして埋葬するもんでは?
507日本@名無史さん:2007/06/01(金) 21:14:44
話は全然変わるんだけど・・・。

信長は本能寺の変直前、天下に一番近い権力者だったけど
権力と側室の数は比例していない。
家康や秀吉などは若い頃は家を存続させる為に側室がいたっていう理由はあっても
晩年の側室などは子供を作る為というよりも単なる自分の性的欲求によってという気がするし。
秀吉はまぁ子供を作る目的もあったんだろうけど、身分の高い女性ばかりを
側室にしている事から、政治的人質というより性的欲求をそこで満たしていた気がするし。

反面、信長は子供の数は多いけど側室ってそんなに多いわけではないよね。
これってもしかして濃姫が大切だったから必要以上に女の数を増やす事はしなかったって事じゃないかな?
勿論、心の底から愛しているのは正室だけで側室は借り腹というものだったんだろうけど
やっぱり女性としては夫が他の女と寝ているというのは正当な理由があっても
感情として嫌なものだしね。それはいつの時代も変わらないと思う。
そう考えると、濃姫を思いやって側室の数を増やさなかった可能性もあるなーと思う。
508日本@名無史さん:2007/06/01(金) 21:30:59
>>507
秀吉の側室は出自がいいのは秀吉が攻め滅ぼした敵国の姫や織田家、織田一門、
織田家の旧臣の姫が多いから。意図して高貴な姫を好んだのではなく、
政治的な戦略のため。

家康は戦国時代を終えると戦略とは関係ない側室が多くなってる。
秀吉に比べてちょっとランクの低い側室が多いイメージがあるのはそのためかな。

秀吉は戦略プラス世継ぎ欲しさに側室がどうしても必要だったし、
家康も安定した基盤作りのために駒となる子供は多ければ多いほどよかったから
励んだとは思うが、性的欲求は二の次だったと思うよ。

信長は意外だけど実子といわれているものは確認されているだけで男子が11人、
女子が9人。その他夭折したものもいたろうから、30人近くはいたと思う。
子供がこれだけいたんだから側室は少なからずいたんだよ。
50才近くまで子作りをして、本能寺の変後生まれた姫(徳大寺実久室)もいる。

正室は嫡男問題さえクリアできれば側室になんかやきもきする必要はない。
お家の存続のために生殖能力が衰えた自分の代わりに子供を産んでくれる
若い側室を斡旋したり、子供を生んだ側室を面倒みたりというのも正室のお仕事。
子作りは愛情からではなく、家の存続が一番の目的という時代背景を
忘れちゃダメだよ。
509日本@名無史さん:2007/06/01(金) 21:37:28
>>507
濃姫を思いやって、というより信長の場合どちらかというと淡白だった
のかなと思えるけど。
家康や秀吉のように、好みの女性のタイプというのもはっきり表れている
訳ではないし。
でも信長が男にしか興味がなかった〜という説を聞いてショックだった。
なんかホモって・・・人間的に欠陥あるような気がして・・・
でも男色にも興味があっただろうけど、何人か子供は作っているし、男色
オンリーだった訳ではなく、人並みには女に興味があったといってもいいかも
知れない。
510日本@名無史さん:2007/06/01(金) 21:45:06
>>509
あの当時の武家の男にとって、男色ってのは別に何もおかしくない普通のことだったわけだし
キリスト教の価値観を根本に捉えている現代人の脳みそで測らないほうがいいと思う。
どうしても先入観ってあるから、ノーマルな人間はリアルホモとかレズを
そういううがった見方をしてしまいがちだけど、当時じゃ別に女抱くのと変わらないものだったわけだし。
男とか女とか特に気にせず、恋愛感情?みたいなものはあったのかなぁとも思う。
(特に武田信玄のラブレター見る限り、恋愛感情はあったと思うw)


確か合戦前は女に触れてはいけないとかいうものもあった気がする。
(妊婦が鎧に触ってはいけない同様に、縁起が悪いらしい)
合戦前は血が滾るというか、男性ホルモンが活発になるだろうし
性欲の捌け口として男色というのも別段珍しい事でもないと思う。
511日本@名無史さん:2007/06/01(金) 21:45:19
>>507
濃姫に対してどこうは関係ないと思うな。
子づくりは、武家の当主としてのお勤めだし義務。
正室だって、実家の両親を見ているから分かっている。
寧々が、秀吉が側室をたくさん作るのを嘆いて、信長が慰めの手紙を書いているけど
正室の務めをよくわかっていない出自の寧々に教え諭しているとも言える。
つまり、奥運営に曇りがないから教え諭す事ができる訳ではあるんだけどな。

そういう意味では、信長と濃姫は模範的な武家の当主夫婦だとは考えられるかも知れない。
だが、そこに現代風の恋愛感情を混ぜ込むのは、難しいと思う。
もちろん、平安なんて恋愛過多な時代を経てきている日本の恋愛観というものがあるので、
全くなかったとは思わないが、一夫一婦というような感覚は皆無だと思う。
512日本@名無史さん:2007/06/01(金) 21:48:49
自分の立場が安泰なら、側室が大勢いても大して気にならないんじゃないか。
道三だって大勢いただろうし、それが当たり前って思ってたかも。
そりゃ特定の側室を寵愛して、自分が蔑ろにされる状態は流石に嫌だろうけど
信長の場合その手の話は出てこないし(武功夜話は除いて)
出産は危険なのに自分の代わりに産んでくれて有り難いと大らかに受け止めた方が
ねね宛ての手紙に書かれた信長の望む正室像に合う。
513日本@名無史さん:2007/06/01(金) 21:58:26
そう考えると山岡作濃姫はまさにこの時代の典型的な正室の姿だってことなのかなあ
514日本@名無史さん:2007/06/02(土) 10:06:01
やはり総見院はどこかで葬儀埋葬された養華院の法要のみを行い、
菩提に供養搭を建てただけのような気がする。
七佛事といっても七回全部ではなく、後半2〜3回だけのことかもしれない。
亡くなったという訃報をうけて、形式的に法要して供養搭を建てたんじゃないかな。
だから施主が江月和尚で、織田家の関係者じゃなかったんだと思う。
総見院がうちうちにやった印象があるしな。
515日本@名無史さん:2007/06/02(土) 10:33:30
>>514
やはり濃姫の遺骨自体はどこかのお寺に埋葬されたと
考えられますね。
いくつか候補のお寺はあると思うのですが、そちらの調査などは
全部済んでるのでしょうか?
意外と公になってないだけかも知れませんし。

昔から格式と伝統のあるお寺が多いですし、
純粋にお寺の教えなどを聞いたり、建物の見学などは
できるかも知れませんが、それ以外の歴史的有名人?
の墓や過去帳などの記録について質問をしても
個人に教えてくれるかわかりませんよね。
あまりそういった興味本位で聞きに来る人は迷惑がられるかも
知れないですし。
516日本@名無史さん:2007/06/02(土) 10:59:19
>>515 うん。
知恩寺なども移転していたというし、意外と区画整理等で寺の墓地移転なんかは
多いんだよ。そういう時によほど有名人でない限り子孫のケアのない墓は
無縁仏として墓を取り壊され合葬されてしまうし、嫡流が絶えた濃姫の墓は
もうないかもしれないな。そう考えると養華院や正覚院のどちらかだけでも
濃姫のものであったとしたら供養されているだけましだ。
517日本@名無史さん:2007/06/02(土) 11:12:52
正覚院殿桂岩清香大禅定尼……生前出家
養華院殿要津妙玄大姉……出家していないか、出家していても尼にまでなっていない。

正覚院の方が「岩」も入っているという話しはあったけど、
濃姫は織田家の「岩」を入れる必要はないから、決め手にならないんだよな。
でも反対に、側室に入れるのもおかしな話しで、まだ正室に入れている方がまともだ。

個人的にはどちらも濃姫の法名だと思いたい。
養華院の華やかな美しさのある法名も好きだし、
正覚院のスッキリとした威厳のある感じも好きだ。
518日本@名無史さん:2007/06/02(土) 11:48:33
側室に「岩」を入れるのがおかしいって理由はないと思うけどなー。
519日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:02:49
>>518
書き方が悪かったな、ごめん。
織田家の法名には、代々「岩」の字が通字のような感じで入るんだよ(厳密には「厳」だが)。
女性の場合は娘の代位から入るようになって、叔母や姉妹辺りでは入っていない。
娘も入っていない場合もあるんだけど(丹羽長重室とか)、そういう意味では、
濃姫はあくまで斎藤家の女性だから、「岩」を入れなくてはならない訳ではない。
信長の生母や祖母にも入っていないしな。
側室など、更に入れる必要がない。
ただし、それとは全く別の意味で偶然「岩」が入っている事もあるので、おかしくはないんだけどな。
520日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:05:15
今日は旧暦の本能寺ですね。
昔からドラマでも映画でも濃姫参戦&本能寺で死亡という流れが
多かったようですが、実際濃姫は本能寺ではなく、
安土城にいたという見解が増えてきました。
その元が「濃姫=安土殿」説なのですが…
事実どうだったんでしょうね?
521日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:11:11
>>519
まぁ言いたいことはわかるんだけどw
別にそこは厳密に考えなくてもいい場所かなぁと個人的には思う。
例えば信忠とか、直系の男子に入ってないとすれば
「おかしいよね?何か理由でもあったのかな?」とは思う。
でも側室に入っていても「あ、偶然入っているね」で終わるし、
別にそこは特に気にするところじゃない気がするw

逆に、信長生母や祖母に入ってないような、言い方悪いかもしれないけど
「女だったら別に特に気合入れて入れるもんでもない」程度の認識なら
側室にその文字はいってようと、なかろうと大した意味などない気がする。
そして生母や祖母にはいっていないなら、入っているからもしかして正室では!?と
いう可能性もそっからいけばほぼ0に近い気が。
522日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:27:58
>>521
>そして生母や祖母にはいっていないなら、入っているからもしかして正室では!?と
>いう可能性もそっからいけばほぼ0に近い気が。
そう、確かにその通り。
ただ、何故か、それまでは親族女性でも入っていなかったのに(織田家が実家にあたる女性という意味な)、
信長以降の女性には入り始めているので、その辺りの変化を考慮してみたという感じ。
523日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:42:33
戒名の件からちょっと考察してみたんだけど、道三の戒名が
『円覚院殿一翁道三日抬大居士神儀』というんだ。

信長の戒名にある「尊儀」は天皇・上皇クラス、次が「台霊」で将軍、
その次が「神儀」で皇族やそれに準じるぐらい位がたかい、というふうに
位号にも位があって、道三に「神儀」がつけられたということは
道三の扱いがとても丁重であったということなんだよね。
常在寺は道三が生前から菩提寺だから、
そのような特別な戒名が与えられたのかもしれないけど
他の戦国大名でもあまり類をみない戒名なんだ。
大抵が大居士どまり。
それに亡くなり方が亡くなり方だっただけに、死の直後にそんなに道三が
丁重に扱われていたというのも不自然。

道三は生前出家してすでに「道三日抬」という戒名をもっていたから
亡くなった直後はこの戒名に大居士をつけたぐらいの戒名で葬られ、
信長の美濃攻略後に改めて「神儀」の位号が送られたのではないかと思われるんだ。
道三への感謝の気持ちと援護できなかった贖罪の意識から信長がそう命じたのかも
しれないし、何よりそこまでするのは濃姫の実父であったということが
大きいと思うし、濃姫が美濃に入った段階まで生きていたということにも
つながるのではないかと思っている。
常在寺にある道三の肖像画は濃姫が依頼したという寺伝だし、
美濃攻略後に道三の供養を本格的に行ったと考えられないだろうか?
524日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:45:13
>>523の訂正

生前の戒名は「道三日抬」ではなく「一翁道三」だった。
525日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:47:34
>>519 それなら異説にあるように正覚院は万里小路充房室説というのも
ありかも。信長の室と姫の戒名が誤記されたとか?
526日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:59:55
>>523
>何よりそこまでするのは濃姫の実父であったということが大きいと思う
これは単なる個人的な希望の域を出ないものだし、そう言ってしまうのはどうかと思うけど、
信長が道三に対して敬意を表して「神儀」の位号を送ったというのは同意。
道三は信長に多分男惚れしていたんだろうと思うし、信長も道三に対しては
多分妻の父親云々って以上の感情を持っていたと思う。


二人を関係付けたのは濃姫という存在だけど、お互い婿と舅という関係以上の感情を持っていたんじゃないかなぁ。
527日本@名無史さん:2007/06/02(土) 16:32:24
>>523
信長は道三の供養をしていなかったんではないかと、道三塚を紹介する
ホームページで見たのですが・・・
しかも信長と濃姫の関係が冷え切っていたので、道三の墓は建てられなかった
のではないかとまで書かれてありました。
でも実際は「神儀」という法名までつけるように命じているらしいので
信長が道三を供養しなかったということはないですよね。
自分的には、美濃攻略に年数がかかったので、道三の供養をしたくても
なかなかできなかったのではないかと思っていたのですが・・・
それにしても、道三塚の紹介ページにもあるように、武功の影響なのか
根拠のない妄想の書き込みが多くて困ります。

道三と信長がお互いに男惚れしていたのではないかというのは私も同感
ですね。史実でもたった一回だけという会見だったらしいですが、一目
会った瞬間にお互いビビッとくるものがあったのではないでしょうか。
528日本@名無史さん:2007/06/02(土) 17:29:44
>二人を関係付けたのは濃姫という存在だけど、お互い婿と舅という関係以上の感情を持っていたんじゃないかなぁ。

そうだとすると、信長の尊敬する道三の娘ということで、濃姫は織田家で大切にされた
可能性が高いね。
前田家で永姫が、利家の尊敬する信長の娘ということで大切に扱われたように。


529日本@名無史さん:2007/06/02(土) 17:37:27
>>527 >>実際は「神儀」という法名までつけるように命じているらしいので

いや、これは自分の臆測ですから。

ただ尾張統一前の信長は内外からも敵に囲まれていた状況で
親族や弟にすら油断もできず、家臣までもがいつ寝返るかわからない状況。
そんな中信長に援軍をだしてくれたり、同盟国として舅として補佐してくれたのが道三。
親族よりも頼りになる存在でもあったわけだ。
そして一番恩義を感じたのはあの国譲状に対してだと思う。
実の息子よりも婿である信長の器量を認めてくれたわけだから。
そのことがあって道三をきちんと供養したのではないかな、と思ったんだ。

ただこれにも別の思惑もあったと推測できる。
前の支配者の葬儀を取り仕切るのは次期支配者である権力移行を内外に
誇示するという意味合いもあった。だから大名家では嫡男が取り仕切る
慣習になっていたのだが、道三の場合義龍に乗っ取られた経緯はあったが
信長が美濃国の後継者であるという誇示のためにも、前国主であった道三
の法要などをなにもせずにいたとも思えない。

ちなみに義龍の法名は雲峯玄龍居士。
道三とは雲泥の差なんだ。
530日本@名無史さん:2007/06/02(土) 17:56:23
戒名といえばお鍋の方の戒名は興雲院殿月隣宗心大姉で
養華院も大姉で終わっているから二人とも出家していなかったのかな?
側室なら出家する必要はなかったろうし、お鍋の方は信長亡き後は
秀吉と接近しているから、出家せずにそのまま仕えていたと思うんだけど、
正室の濃姫は年も年だし信長死後はすぐに出家してたと思うんだ。
だから○○尼とかの位号がつく法名なんじゃないかなと思って。
正覚院殿桂岩清香大禅定尼の方が濃姫っぽいんだけど。
531日本@名無史さん:2007/06/02(土) 19:08:09
大姉は髪を下げ切りにしたくらいの出家ならつける。
それでも大禅定尼になる場合ももちろんあるけどな。
532日本@名無史さん:2007/06/02(土) 19:27:35
ねねも大姉じゃなかったっけ
533日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:13:37
寧々は高台院湖月心公尼ではなかったかな?
534日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:27:33
正覚院殿桂岩清香は織田氏系譜によると万里小路充房室なんだが、
この命日は慶長十五年庚戌十月八日なんだよな。
その当の織田氏系譜には別の箇所に万里小路充房室として、
源光院芳林寿継という法名もあるんだよ。
こっちの法名の方の命日は慶長五年十月八日。
命日はいっしょで没年が違うから、どちらかが誰か別の人と混同されていると思う。
そうすると、正覚院殿桂岩清香大禅定尼という人物の命日は
慶長十五年没と、瑞龍寺の過去帳から慶長十六年七月八日説になる訳だ。
さらに、仮に養華院殿要津妙玄大姉=濃姫=正覚院殿桂岩清香大禅定尼という説も
考えられ、そうなると、慶長十七年七月九日というのも出てくる。
この辺り、どう考えるか難しいな。
535日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:43:58
養華院の件だけど、正覚院が濃姫だった場合、養華院は誰かということで
お鍋の方の可能性と、もう一つ秀勝生母ではないか、ということも考えれらる。
信長の葬儀に参列したの信長の息子は秀勝と信好だけで、秀勝は喪主を
務めている。信雄も信孝も欠席だったので、順番的に秀勝になったのだろうが、
そうなると、秀勝生母はすでに信長の元を離れていた可能性も
あるけど、葬儀や一周忌に参列したのではないだろうか?

そうなるとお鍋の方同様かそれ以上に秀吉の後継者となった
秀勝生母の存在は秀吉サイドから厚遇されたのではないかと思える。
もちろん養子にしたのだからねねの立場を凌駕するようなものではなく、
信長の側室ということもあってお鍋の方同様に厚遇されたという程度だろう。

秀勝生母の出自等、詳細はまったく不詳。
一部法名を「養観院」とだけ伝えている。
この「養観院」こそが「養華院」である可能性もなくはないような気がする。
養華院が誤って養観院と伝わってしまった可能性もあるのではないだろうか?
少なくとも総見院サイドが織田一族の菩提寺に弔う資格のある人物という認定を
されても当然の立場だったと思う。
536日本@名無史さん:2007/06/02(土) 22:22:31
この『養華院の謎』だけで歴史読本の特集がくめます。
537日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:08:24
もういっそこのスレの住人で濃姫オフ
や ら な い か ?
538日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:15:41
>>535
だとすると、間違えたのは総見院ではなく総見寺の記録の方だったのかな?
総見院では養華院=秀勝生母(実際は間違えて養観院と後世に伝わる)
を供養するため供養等を立てた。
正覚院=濃姫、だがなぜか総見寺の過去帳には正覚院ではなく養華院=濃姫
と間違って書かれる。もしくは、泰巌相公縁会名簿に書き写された際、間違って
てしまったかということでしょうか。
でも、それにしても総見院の過去帳に信長寵妾、または妾しかかかれないのは
おかしい。ふつうはどこの誰かを明記するものではないだろうか。
秀勝生母の供養塔だとしたら、なぜ寺伝では濃姫の供養塔と伝わっているのかも
気になる。なんか謎だらけ・・・
なぜ、総見院と総見寺の記録が違うのか?どちらでも口伝では濃姫と伝わって
いるのもかかわらず。あれこれ考えてもどちらが正しいのかわからないし、
どちらかが正しいのかもしれないし、どちらも正しくないのかも知れない。
納得のいく答えがでない。
539日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:44:29
秀勝と冬姫が同じ知恩寺に埋葬されているそうなんですが、
そこに秀勝生母は入ってないのでしょうか?
秀勝と冬姫が同じ寺に入っているということで、二人の同腹説が
あると思うのですが、それにしても秀勝生母って養観院?しか伝わって
ないのでしょうか?同じ秀吉に協力したお鍋があれだけ記録など残って
いるのに、なぜ秀勝生母の記録が全くないのでしょうか。
秀勝が若くして死んだからということもあるでしょうが、それにしても
もうちょっと出目などわかってもいいと思うのですが。
同じような理由は信好生母にも言えます。秀吉主催の葬儀に、織田家関係者が
誰も出ないのに、秀勝生母やお鍋と出席しているわけですし、秀吉の協力者
だったことは明らかです。なのにこちらも全く生母に関しては不詳のまま。
秀吉の協力者だったから、お鍋が名前が残ったと考えていましたが、他の
理由もあったのではないでしょうか。
540日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:58:14
万里小路充房室は法名と命日が2説もあるのに墓は不詳。
菩提寺の過去帳や墓石があればはっきりすることなのに。
秀勝、信好生母が不詳なのは、信長生前中に亡くなったせいじゃないかと
勝手に思ってた。信忠や信雄の生母すら同じような状況じゃん。
武功がなければ生駒の詳細も不明のままだった。
信忠の生母が久庵慶珠だとしたら戒名だけしか確認できない。
墓が崇福寺にあったのかどうかも不明。
541日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:08:19
秀勝生母は書状などがかなり残っているんだが出自は不明なんだよな。
養観院も高野山だかに供養塔があるだけで、墓は不明。
542日本@名無史さん:2007/06/03(日) 09:22:03
>>541 どんな内容の書状なの?どう署名してあるんだろう。そのあたりから
出自の見当はつかない?ところでなんで高野山に供養搭があるんだ?
もしかしたら養観院は三法師の生母とか??
543日本@名無史さん:2007/06/03(日) 09:49:56
>>542
だとしたら秀勝生母と養観院は別の人?ってことになるのかな?
秀勝生母としての書状にはどう書かれてるのか気になる。
あと高野山に供養塔があるとしたら、佐久間信盛も高野山で亡くなってる
んだよね。佐久間氏の縁者?ってことはないのかな?
544日本@名無史さん:2007/06/03(日) 10:00:04
三法師なら、高野山から破門されているし、あまり関連無いのでは?
高野山には、信長が死んだ当初から、信長の墓(供養等?)があるし、(信長の家臣だった人の弟の僧の差し金)
養観院の供養等が高野山にあるならむしろその絡みでは。

というか、個人的には、高野山が三法師破門したって、怪しげな話だと思っているんだけどね。
信長の家臣たちが本能寺後に出家してて、寺院勢力内では信長の孫を無碍にできないはずなんだよな。
高野山が信長の墓を一等地においていることからも、それは伺えるし。
三法師は家臣団を引き連れて高野山に上ったのに、下りは一人だったというのも怪しい。
幕府が煩いから、身代わりでも立てたのかなと、勝手に想像している。

三法師の家臣は、三法師が出家するにあたって、38人が切腹しているんだよね。
追腹ならともかく、三法師はまだこの世に居るのに、しかも三法師当人は全員に次の仕官先の紹介文を
書いたりしてくれているのに切腹した辺り、「この人しか居ない」と思わせる何かがあったのかなと思ったりする。

545日本@名無史さん:2007/06/03(日) 10:06:21
書状そのものは知らんが、吉田兼見に秀勝の健康回復の祈祷を依頼していることなどが、
『兼見卿記』に記載されているようだ。
あとは毛利輝元から挨拶が送られてるそうだ。
これは秀勝正室が毛利輝元養女だった関係だと思われる。
546日本@名無史さん:2007/06/03(日) 12:06:36
>>542 >>543
高野山に墓があること自体はあまり深く考えることもないかと。
高野山内の地図を見れば、
あらゆる時代の著名人や大衆の供養塔が立ち並び
20万基の有様で、戦国大名家のものも生前の敵対関係など
何の関係もなしに宗旨問わずに並んでいるしね。

なぜ高野山に供養塔があるかは、=供養のためという簡単な図式。
それを誰が建立したかを考察するのが大事なんだろう。
○○院などの各塔頭には記録が残っていることも多いんだけど。

高野山は日本の総菩提寺として宗派関係なく、
死後の往生を願い、分骨、遺髪の歯などをお山にあげて
供養のために墓石を建て、位牌をまつる場所だね。
547日本@名無史さん:2007/06/03(日) 12:12:30
でも信長の側室の中で養観院のみ供養搭があるのだとしたら
意味のあってのことじゃないかな。
それこそ信長正室だったから(と誤解されたとか?)信長の墓があるので
後年建てられたとか。
548日本@名無史さん:2007/06/03(日) 12:20:50
>>544 三法師の処遇に対する抗議の切腹かな。
このものたちが本当の信長流織田家最後の忠臣だったのかもな。
549日本@名無史さん:2007/06/03(日) 13:54:41
信長嫡流なのに三法師はあわれだよね。
総見院にもいれてもらえない・・・って、どんだけぇ!ってかんじ。
550日本@名無史さん:2007/06/03(日) 14:26:22
もしかして、総見院にお鍋の墓が移されるまでは、その場所に
養観院のお墓?か供養塔なりが置かれてた可能性はないのかな?
551日本@名無史さん:2007/06/03(日) 15:05:36
秀吉主催葬儀の絡みで言えば、総見院には土田御前の供養塔があってもいい。
あったけど後でなくなったって説もあるんだっけ。
552日本@名無史さん:2007/06/03(日) 20:19:19
確かに総見院に濃姫の供養搭があるのは違和感があるな。
濃姫の法名が信長側室のものと混同されて総見院に伝わってしまったのではないか?
それなら養華院を信長公御台とする総見寺の過去帳のことも
養華院を信長御寵妾とする総見院の過去帳の矛盾も説明がつく。
「総見院殿追善記」にも信長御台所が安土より避難したと書かれているのだから
総見院サイドも信長死後も御台が生きていたという認識はあっただろうし、
反秀吉の立場だった御台は意図的に追善をしなかったんじゃないかな。
553日本@名無史さん:2007/06/03(日) 20:50:37
反秀吉とは思えないけどな。
三法師を擁立する事は、三法師が庶子とはいえ、
信忠は濃姫養子なんだから孫にあたるし
積極的に反対する理由はなかったと思うんだが。
秀吉の斡旋で、お市が勝家に嫁いだのが真実なら
それほど信長親族が反秀吉、新信孝に傾いたとも思えない。
濃姫にしてみれば、信長没まで生存して生母がくっついていた信孝より
生母が早く亡くなって後見していたと思われる信雄の方が
親しみがあったかも知れないし、信雄が秀吉と対立したときはともかく、
それ以外で反秀吉になる必要は全くないと思うんだがな。
信長とともに生きて、斎藤家の没落も見ているんだし、
それ以上に、今川、朝倉、武田など、大家が衰退していくのを見ている戦国女性だから
織田家の衰退の理由だって十分分かっていたと思うし。
554日本@名無史さん:2007/06/03(日) 20:53:12
>>553
新信孝 ×
親信孝 ○
555日本@名無史さん:2007/06/03(日) 21:05:17
>>553 でも信長葬儀にも一周忌法要にも出席しなかったし
一周忌法要には自分が主宰で妙心寺で織田家一族で法要をぶつけてきたし、
秀吉に取り込まれていなかったのはたしかだよ。
敵対するほどの勢力もないし、表立った争いはなかったろうけど、
三法師擁立以降の秀吉の言動には濃姫の無言の抵抗がかんじれらる。
556日本@名無史さん:2007/06/03(日) 21:10:16
>>553
三法師擁立は濃姫も同意見だったんじゃないかな。
信雄と信孝のあらそいを食い止めるにも良策だし、
正統性もあるし、秀吉を支持する立場だったと思う。
ただその後はどうだろ?
あからさまに織田家をないがしろにする態度が露骨だし、
織田家家臣団の引き入れも顕著だし、濃姫はすでに圏外
という印象もあるから、総見院組から外されていたんじゃないかな。
557日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:03:34
寺伝で濃姫と伝わってるんだったら、濃姫だと思う。
瑞龍寺も同じ。

徳姫の墓より養華院の方が下座だというけれど、
徳姫の方は信長達の大きな並びの横に
スペースがあったので後から建てただけというイメージ。
養華院の方がまともに建てた気がするんだがな。
558日本@名無史さん:2007/06/03(日) 22:57:32
養華院が独立型五輪搭で、その左横の石枠の中にお鍋の自然石があって、
その左に3本並んで石碑が建っている。お鍋と石碑3本は側室として
扱いが別にされ、独立型供養搭の養華院は正室なんじゃないかな?と思う。
ごめん、写真はあるんだけど上手く説明できなくて。
ただその側室たち?の供養搭のさらに左にも独立型供養搭が
一つあるみたいで、判明していない供養搭の主はまだまだいるみたい。
559日本@名無史さん:2007/06/03(日) 23:01:11
わかりづらいから補足するね。
お鍋と石塔3本は石でできた石枠の台の中に4つ横並びで収まってるんだ。
養華院は五徳の供養搭みたいに、石枠の中に一つの五輪搭。
560日本@名無史さん:2007/06/03(日) 23:50:58
総見院に濃姫の供養塔があるのはおかしいというけれど、
濃姫が養華院だとしたら、もう秀吉は死んで時代は徳川政権に移って
いくころだし、別に反対する勢力もないんじゃないかな。
だから総見院の人の判断で、信長御台の死去を聞いて法要と供養塔を建てたのでは
ないかと思う。
561日本@名無史さん:2007/06/04(月) 00:15:26
>>559
実物を見た事あるから、言わんとしている事は分かる。

徳姫の方が養華院の五輪塔より上座だから、正室じゃなく側室なのでは?
という推測もあるが、徳川政権に移ってから建てられているのと、それ以上に
信長達男子7人の並びに並べて建てたかったんだろうと考えられるんだよな。
ただし、大台座を建て増しするなどはできず、後から向かって右横の空いたスペースに
付け加えましたという感じで建っているんだ。
養華院やその下座の側室達の五輪塔や自然石や石碑は、信長達の大台座に対して
通常の配置としておかしくない形で建っているから、これは普通に建てたんじゃないかと思う。
だから、徳姫と養華院の二つの五輪塔の関係で、上座下座は、
少なくとも養華院の五輪塔が建ったときは
意識していないんではないかと思うんだがな。
信長達の大台座との上座下座は意識しているかも知れないが。
562日本@名無史さん:2007/06/04(月) 07:00:12
養華院は総見院では寵妾扱いだから、五徳は信長&息子達と同格扱い、
側室たちは下座一列、で墓の序列も問題ないよ。
養華院の主とお鍋の方の命日は一ヶ月も違わないのに、墓石の形態
があそこまで違うほうが気になる。
お鍋の方の石は後年総見院に加わったという説もあるが、
それにしても同じ菩提にある信正生母にしてはお粗末だし失礼。
養華院が最初からピンの供養搭であるのに対してお鍋の方のはユニット形式。
側室としての格の違いはかんじられる。

養華院が寵妾あるいは寵妾と誤解されているという前提の話。
563日本@名無史さん:2007/06/04(月) 08:10:57
さっきニュースでやってたんだけど、坂上田村麻呂の墓が確定されるかも、だって。
どこかの古墳がどうやら田村麻呂のものかもしれないと報道されていた。
田村麻呂のことを記した史料と合致してるんだって。
まだまだ濃姫の墓の謎は二転三転する可能性もあるよ。
564日本@名無史さん:2007/06/04(月) 08:33:44
五徳の五輪塔を作るときは、信長達との格を気にして
他の事は気にしてなかったんだろうって話しでは?
養華院の五輪塔は信長達に対して、女性という事で下座にいる事から
これはごく普通の配置で、更にその中で、正室ならば側室との差がある。
建てた時に五徳の五輪塔の事は考慮していないと考えられるし、
おそらく五徳の方が後に建てたんでは?

女性群の並びの中では、やはり寺伝がそうであったのが納得できる差があるからな。
565日本@名無史さん:2007/06/04(月) 08:55:13
恐らくもなにも、五徳の方が養華院や興雲院よりも24年も後に
亡くなってるから後から建てたろうな。
566日本@名無史さん:2007/06/04(月) 09:23:23
>>565
でも、ここじゃ、養華院の五輪塔は後年立てられた説が出てただろ?
五徳よりも後って考えるには、実際に見た事ある者からすると
そんなに時代が下がってからって感じに見えないんだけどな?って思うのだが。
567日本@名無史さん:2007/06/04(月) 11:27:07
>>562
信正ではなく信吉では?
568日本@名無史さん:2007/06/04(月) 12:38:34
>>558
判明していない供養塔があるなら、まだまだこれから研究の余地があるって
ことかな?
お鍋以外にも側室だった人の供養塔がある可能性もあるってことかな。
総見院には、お鍋の墓はどう記録されているのだろう。
しっかりお鍋と明記されているのだろうか。それとも寵妾とか妾としか
書かれていないのだろうか。
お鍋以外の側室の人も供養塔があるなら、記録の時に間違ってしまった
可能性はあると思う。
でも寺伝では濃姫と伝わっているならおそらく養華院は濃姫の供養塔だ
と思う。寺の人がわざわざ昔の過去帳などを調べたりしないだろうし。
569日本@名無史さん:2007/06/04(月) 13:00:42
五徳は豊臣の時代ならあえて加える必用のないポジションだと思う。
いても不自然じゃないけど、いなくても不自然じゃない。
だけど豊臣が滅んで、徳川になったために、総見院でも
徳川と縁の深い五徳も強引?に信長の並びにもってきたんじゃないか?
コーナーに入り込んだかんじで確かに無理矢理押し込まれているような
印象があるので、養華院が濃姫ならその濃姫より上座に置かれた理由は
徳川将軍家への配慮からとか?(一応五徳は徳川の嫁だし)
570日本@名無史さん:2007/06/04(月) 16:20:11
濃姫も五徳もお市もすごい人生だよね。
史実の方がよほど小説みたいだ。
それにお鍋の方や坂の方も。
土田殿も実の息子同士で家督争いの挙句信行惨殺。
織田家の栄枯盛衰で振り回された女性達。

もう合掌するしかない
571日本@名無史さん:2007/06/04(月) 17:52:14
>>569
>養華院が濃姫ならその濃姫より上座に置かれた理由は

別に、信長正室より上座とか、そういう事は考えてなかったと思うな。
単純に寺の都合で、信長達と同格にしたかっただけだろう。
五徳は、五徳の直系の孫からも助言を求める書状が残るほど
徳川とは懇意だったと思われるから、秀吉一派と思われている総見院としては
徳川へのアピールが必要だったんだろう。
前田家が徳川に対して、秀吉一派ではなく、織田一派だと強調するために
信長、信忠、信長夫人(寺伝では濃姫といわれている正覚院)の石廟を建てたり、
生駒があわてて織田家との繋がりをアピール始めたのといっしょだろ。

アピールというと、土田御前が生駒の縁者だとされているのは、やはり寛政譜なんだが、
それ以前の織田系譜や系図ではどうなっているんだろう?
wikiの土田御前の項では、「小嶋日向守信房息女」「佐々木六角高頼息女」も
掲載されているが、「津島大橋記」は尾張大橋氏の記録だから、あながち信憑性に劣るとは思えず、
「小嶋日向守信房息女」が、なぜ生駒縁者の土田の女性にすり替わったのかを考えると、
信忠や五徳が、信雄と同腹にされた経緯も、見えてくるような気がする。
572日本@名無史さん:2007/06/04(月) 18:00:40
>>571 >>単純に寺の都合

敷地が狭くてそこしか五徳の場所がなかったとか・・・

土田家と生駒家の姻戚関係の家系図もつくりもんだったってこと?
寛政期に武家ではさかんにご先祖偽造が行われたというけど。
よくわからんけど当時の小嶋氏が信秀と縁組するような間柄であったのは確かなの?
573日本@名無史さん:2007/06/04(月) 18:24:24
「美濃国諸家系譜」を読んでいたら、濃姫の事は「桔梗の御方」と書かれているんだな。
「帰蝶」よりも「桔梗」の方があの時代にはありがちな名前なので、こっちが本名の可能性もあるな。
天文5年生まれになっている。
姉妹は5人。
あと、義興って庶子だと思っていたが、生母は浅井長政の妹となっている。
そうなると正室腹となり、永禄11年時の義龍後家は、義興生母で戻されていなかった
可能性も出てくるから、やはり浅井氏なんじゃないだろうか?
兄弟女子16人は、5人とその子供だけでも10人くらいはあっという間という気がするな。

「美濃国諸家系譜」の成立そのものは遅かったはずだし、いろいろ齟齬もあるだろうが
ご参考までに。
574日本@名無史さん:2007/06/04(月) 21:17:40
桔梗・・・明智家の紋・・・母親小見の方の実家は明智・・・
そういう繋がりで桔梗の方と呼ばれてる可能性もあるのかなぁとふと思った。
まぁないだろうけどw
575日本@名無史さん:2007/06/04(月) 21:53:12
でも濃姫が母方の家紋縁の名前をつけられるのは変じゃない?
濃姫は斉藤家の姫だから斉藤家の家紋縁の名前ならわかるんだけど。
576日本@名無史さん:2007/06/04(月) 23:01:27
女紋は女系で受け継ぐから母方でもおかしくはないが、
その場合、小見の方の紋が、桔梗紋とならなければならないが
小見の方の生母は、武田信豊の娘なので、桔梗紋の訳はない。
577日本@名無史さん:2007/06/05(火) 06:33:55
>>576 女紋というのもそんなにメジャーなことじゃないからね。
一般的には嫁入りの時には実家の紋付のお道具を用意してもらう。
桔梗や帰蝶という名前も室町末期の女性名ではありえないといっていい名前だから
濃姫と土岐明智を結び付けようとした後年の創作でしょう。
578日本@名無史さん:2007/06/05(火) 08:30:23
光秀が桔梗紋だったということは、出自の謎が多いがやはり土岐系統だったのは
間違いないのかな?家紋もいろんなことがわかるもんだよ。
織田家の家紋は出雲大社家と一緒だから、やはり系統的にはそっち方面だったみたい。
579日本@名無史さん:2007/06/05(火) 09:20:43
光秀は、妻木氏出身説が最近いわれてるな。
妻木氏も土岐氏傍流だ。

正室が妻木氏だが、光秀自身の姉妹が妻木氏と思える文献があるそうだ。
姉妹が妻木を名乗っているなら、実家が妻木だから妻木氏出身もあり得る。
妻木氏でも、一家族だけではないし、縁者と結婚したのかもな。

土岐氏系明智の明智城は可児市瀬田長山なんだが、光秀が在城したといわれている明智城は
恵那市明智町城山の説も有力で、妻木氏の分家辺りが、明智という土地に住んだので
同じ明智という姓になった可能性があるのかも知れないな。
ちなみに、妻木城は土岐市妻木町なんだが、土岐頼基が妻木郷を与えられた時に
妻木城を築城して妻木氏を名乗ったというが、元々土岐明智氏が住んでいて、
その後妻木氏の居城になったという説もある。
580日本@名無史さん:2007/06/05(火) 09:48:27
養華院殿要津妙玄大姉と正覚院殿桂岩清香大禅定尼だけど、
院殿号と併用されているから格が高いように思われるけど、
基本的には、大姉>信女>禅定尼なんだよな。
どちらも院殿号がついてるし、総見寺も瑞龍寺も臨済宗妙心寺派でいっしょだから
どう見ても、養華院殿要津妙玄大姉>>>>正覚院殿桂岩清香大禅定尼

581日本@名無史さん:2007/06/05(火) 11:48:57
>>580 信長が「大居士」だから妻は「大姉」とペアで戒名は
つけるもんだけど、この時代の大名の妻は夫が亡き後は出家する
慣習があったから、かならずしもその原則通りとは限らなかったはず。
形ばかりの出家ではなく、信長亡き後20年以上仏に寄与していたなら
大名夫人であっても「大禅定尼」の位号でもおかしくないよ。
ねねも元関白夫人で、化粧料は1万石以上の大名なみだったのに、
戒名はいたってシンプル。
秀吉の戒名とのつりあいはとれないけど、高台院の尼僧として
余生を過ごしたから、俗世間での身分に関係ない戒名を
つけられたのだと思う。
582日本@名無史さん:2007/06/05(火) 12:20:37
>>580
院殿号がついている大禅定尼は、それなりに格が高いが、大姉と比べると確かに
ちょっと格が下がるともいえる、でも>>581のいう事も尤もなので、
どちらが濃姫でも、どっちも濃姫でも、あまり深く考えるほどの差はないよ。
出家していても信女をあまりつかわない階級の在家の出家者は大姉にすること多いし、
在家出家ってことで、単純に大禅定尼にすることもあるし、寺の判断でしょ。
身分が下だと大姉は使えないけど、信女を身分がある人間が使ってはいけない訳でもないし
いろんな寺の判断があるんだと思うけどな。

むしろ、「久庵桂昌大禅定尼」は、本当に在家でもなく仏門に入っていたと思うよ。
形式上、院殿号や院号と対になっていない禅定尼は禅宗では最下層の法名だから
大を付けて大禅定尼にしているという事は、身分がそれなりにあって最下層にするのはまずいけど、
仏門に入っている女性につける位号になってしまうからね。
院殿号や院号がついていれば、また違う解釈ができるけど、ついていないからね。
583日本@名無史さん:2007/06/05(火) 12:20:55
こいつより広末と結婚して欲しかった 冗談さ
584日本@名無史さん:2007/06/05(火) 17:41:55
荒らしうざい
585日本@名無史さん:2007/06/05(火) 22:07:01
徳川家康生母(1602年没)の戒名も「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」
だから「大姉」>>「大禅定尼」はいえないよ。同格か場合によっては「大禅定尼」の方が上。
それと「大居士」と同格の女性の戒名は「清大姉」。「居士」と「大姉」がペア。
586日本@名無史さん:2007/06/06(水) 08:25:32
>>585
伝通院は浄土宗だろ?
禅宗とは法名の付け方のルールは違うよ。
禅宗は、出家していた禅定門・禅定尼は、居士・大姉や信士・信女とは
ちょっと違う位置づけだよ。
「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」の格が高い法名だというのはその通りだけど
それは大禅定尼が入っているからだけじゃなく、誉が号にはいっているからだよ。
浄土宗は大禅定尼は格が上に来る宗派ではあるけどね。
宗派毎のルールを考えると、
浄土宗の「伝通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」は最も格が高い法名。
臨済宗の「養華院殿要津妙玄大姉」はかなり格が高い法名。
臨済宗の「正覚院殿桂岩清香大禅定尼」は院殿号と対になっているのでかなり格が高い。
曹洞宗の「久庵桂昌大禅定尼」はあまり格が高くない法名。

あと、大姉を出家していないと思っている人がいるみたいだけど、
大姉は在家で修行に励んでいる人物につける位号だから、出家している事を示すよ。
院号のついていない禅定尼は、尼になって庵でも結んでる場合が多いよ。
院号がついていれば在家の場合が多いけどね。
臨済宗では、大禅定尼は大姉並みの意味で気軽に使われる位号だったから、同じくらいの格だよ。
厳密にいうと大姉の方が上だけどね。
曹洞宗はあまり気軽には使わないから、本当に仏門に入っていたんだろうね。
587日本@名無史さん:2007/06/06(水) 08:52:19
知識がないのだけど、戦国大名の正室と側室とでは戒名に歴然と差をつけるものなの?
例えば正室とは一格下の位号をつけるとか、院殿号をつかわないとか。
同時代の大名家で正室と側室の戒名を比較できる家があったら教えて欲しい。
588日本@名無史さん:2007/06/06(水) 10:10:33
>>586
法名について続くレスを見ながら
宗旨によって異なるつけ方があるだろうに、
色々断言しちゃっていいの?と思っていたところ。
解説ありがたいです。

戦国史に限ったことでなく、歴史を考えるうえでは
仏教の知識はほんとに必要だね。
深すぎて難しいことだけれど。
589日本@名無史さん:2007/06/06(水) 12:00:47
戒名・法名・法号について
ttp://www.kaimyo.jp/

このページ見ると、臨済宗では大居士と対になるのは院殿号付きの大姉だな。
居士と対になるのは院号付きの大姉か。

他の宗派を見ると、浄土宗は大禅定尼が一番格が高いみたいだけど、
曹洞宗は禅定尼が一番下で、基本は大禅定尼はないな。
臨済宗は禅定尼自体がない。
でも、昔の臨済宗は、大禅定尼をよく使う宗派だといわれていたのは聞いた事があるから
同じ禅宗の曹洞宗と似てるとしたら、大禅定尼の格が高いって訳じゃないんだろうな。
浄土宗でも禅定尼と大禅定尼の格は区別しているみたいだから、曹洞宗、臨済宗でも
最下層ってことはないんだろうけどな。
出家と言っても切り下げくらいの在家信者が大姉で、剃髪尼姿になって仏門に入っているのが禅定尼で、
院号や院殿号つきの大禅定尼は、大姉と同じ程度の使われ方って感じなのかな?

あと、ざっと調べてみたんだが、江戸後期になると清大姉が徳川家辺りで見れるようになるけど
戦国期で使ってる例って見つけられなかった。
あと、臨済宗では清大姉の法名も、時代がかなり下がっても見つけられなかった。
その辺どうなのか知ってる人、教えてくれ。
590日本@名無史さん:2007/06/06(水) 13:12:18
>>589
>臨済宗では清大姉の法名も、時代がかなり下がっても見つけられなかった。

紹介されてるサイト見る限り、臨済宗では清大姉を使わないんじゃね?
だから時代が下がっても見つからなかったんだろ。
清大姉は天台宗、浄土宗、曹洞宗しかないじゃん。
591日本@名無史さん:2007/06/06(水) 13:26:44
結局養華院殿要津妙玄大姉も正覚院殿桂岩清香大禅定尼も
信長夫人として戒名的にはどちらも問題がない、ということでいいの?

同じ臨済宗の寺なので、二つを比べると若干養華院の方が格が高いという
印象を受ける程度で、だからといって顕著な差ではない、ということでいいの?
592日本@名無史さん:2007/06/06(水) 13:41:14
久庵桂昌や久庵慶珠の戒名がそんなに格の高いもんじゃないというのは
その頃のそれぞれの実家の家格に比例してるのかな?

不思議なのは久庵桂昌の戒名で、寺が改名するほど重要人物の戒名なら
寺がもっと格の高い戒名つけるもんじゃない?
ほんっとに久昌寺は怪しい。
593日本@名無史さん:2007/06/06(水) 13:59:57
臨済宗で院殿号+大姉だと最上位だから、信長の大居士とペアっていう意味では
正当な法名なんだろうね。
でも、きっと信長死後出家してただろうから、出家して20年も経ってたら、
在家でも尼姿になってたかも知れないし、だったら寺によっては大姉じゃなく
大禅定尼を用いた所もあっただろうし、だから、両方とも問題ないんだろうね。

久庵桂昌は久庵桂昌大禅定尼って分かってるから格が低いって分かるけど
久庵慶珠は院殿号や位号が分からないから(禁制なんかは道号+戒名で書く場合多い)
格が低いのか高いのかも分からないよね。

久昌寺が怪しいってのには激しく同意。
594日本@名無史さん:2007/06/06(水) 14:38:40
ここでの検証はほんとに面白い。
寺での法名や墓石、供養塔などでもその人物の
生前の姿がかいま見える気がする。

595日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:30:04
>>594
戒名は生前どういう人だったかをわかってもらうためにつけたものだからね。
被差別部落の人の戒名には一目でそれとわかる漢字を
入れたというんだ。死後も差別されたってわけだな・・・

道三の戒名の検証は新鮮だったな。
盲点だった。
そこまで立派な戒名をつけてもらったというなら
やはり信長がからんでいたろうし、濃姫への配慮もあったこと
じゃないかな。そう考えると濃姫は生きて信長の妻として側にいたはずだな。
596日本@名無史さん:2007/06/07(木) 11:18:22
>>572
信秀の娘が小嶋信房の養女として大橋重長に嫁いでいる。
これは信秀と大橋氏の抗争の和睦のためだとされていて、
その後大橋氏は信秀に従うようになるので、関係は深かったと考えられる。
その大橋氏の記録で、信秀正室が小嶋信房息女なのだが、
なぜ、信秀の娘が嫁ぐ時、小嶋信房の養女としてなのか疑問だったが、
正室が小嶋信房息女なら、別におかしくはないと、改めて思った。

実は、織田信孝の異父兄とされる小嶋少輔という人物がいて、信孝の神戸氏粛正時に
山路氏に変わって高岡城主になっている。
この人物は小嶋信房の縁者と考えられている。

家康の祖母は大橋氏の二男の川口氏に嫁いでいるが、川口氏より前の松平清康と婚姻したとき、
取り持ったのが岡本善七秀成といわれている。
また、この岡本秀成は、信孝の生まれた家である熱田の岡本氏の関係者だが、大橋氏の縁者ともいわれている。
ちなみに、岡本良勝は信孝の母方の大叔父だという説があるな。
家康の祖母が川口氏との間に生んだ川口宗吉は、小嶋信房の娘と婚姻している。

かなり大橋氏、小嶋氏、岡本氏辺りと織田氏は、かなり密接な関係があると思える。
信孝も、その関係で母親が信長の側室になったのかもな。
597日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:20:44
>>596
なるほど。密接な関係があるのは信雄生母の生駒よりも、信孝生母の
坂氏の関係の岡本家なわけだ。
だとすると、やはり生駒の縁者である戸田氏が信長生母であるというのは
でたらめだということになるな。
だけど、小嶋信房息女が信長生母かもと思えるけど、でも一方で
佐々木六角高頼息女説もあるんだよね。
一体どっちがほんとなんだろ。
598日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:00:17
>>597
>佐々木六角高頼息女説
「美濃国諸旧記」の記載だから、江戸中期の記録なので、
大橋氏に残ってる記録の方が確かだと、自分は思うがな。

>>596を書いてて思ったんだが、家系図的には


     ┌岡本良勝(?)ーーー岡本良勝(?)
     │
岡本氏ーー┴ー女    信長
      │     │
      │     ├ーーー信孝
      │     │
      ├ーーー信孝生母
      │     │
      │     ├ーーー小嶋少輔
      │     │
      坂氏    小嶋氏

           大橋重長
            │
     ┏━←養女━┓│
     ┃     ┃│
小嶋信房ー┻ー女  ┌くらの方(他の側室の子供かも知れないが)
       │  │
       ├ーー┴ー信長
       │
     織田信秀

こんな感じなのかな?(ずれてたらすまん)
岡本良勝が祖母の兄弟なのか、甥辺りなのか分からんが。
599日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:24:53
信長の父親の信秀の縁談ということは、祖父信定の時代の政略的なことが絡んでくると思う。
織田信定はまだ清洲三奉行の一人にすぎなかったものの、勢力を拡大し
津島の港を手中に収めてる。ここを基盤に信定系織田家は発展していくんだけど、
そう考えると信定の代で津島に土着していた津島衆といわれた尾張津島四家七党との
関係はとても重要だったと思うんだ。
岡本家も大橋家も四家の一つだし信定・信秀の代では津島を支配する
上では津島衆と婚姻関係を結んで姻戚関係になり、基盤を固めることが必須だったのでは
ないかと考えられる。

逆にその当時の土田氏と織田家が婚姻関係を必用とされるほどの関係だったかは
疑問。土田氏が織田家に降った証に土田御前が信秀の側室になったのは事実で、
それがどういうわけか正室というふうに伝わったでのはないかな?
600日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:31:40
つまり坂氏の出自や信孝の後見人たちの出自はまったく問題ないわけだな。
むしろ生駒家の方が当時は格下のようだ。
601日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:39:43
しかし、信秀時代の土田氏は、生駒氏の関係から犬山城の信康、信清親子についてたんじゃないか?
そうすると、信秀ではなく信康の方に側室を出してた方が自然に思うんだが?
信康正室の出自は不明だったと思うが、こっちが土田氏ならまだ分かるんだが。
602日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:26:36
そもそも土田氏と生駒氏の関係もあいまいだし、怪しいよ。
小折と美濃の遠距離で、なぜ土田氏から養子を迎えたというのも不自然だし。
生駒の最初の旦那の土田弥平次もどこの土田氏だか詳細は不明だし。
姻戚関係にありながら後年の生駒家に土田氏と名乗る武将はまったく
見当たらないというのも変な話だ。
603日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:41:43
土田弥平次は明智の家臣で土田城の城主の二男といわれているな。
604日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:50:21
土田御前の実家の土田氏は出自が2説なかった?
605日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:50:55
>>602
>小折と美濃の遠距離で
別に遠距離じゃないと思うが。
美濃と言っても、土田城があったのは可児市土田。
犬山の近くだぞ。
606日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:53:19
>>604
>土田氏は出自が2説なかった?
小折の土田(どた)氏と清洲の土田(つちだ)氏

でも、ここまでくると、信忠生母、徳姫生母、永姫生母、土田御前、生駒直勝と
生駒絡みの捏造か?ってことばかりで、一体どうなんだって感じだな。
607日本@名無史さん:2007/06/07(木) 16:35:02
ホント捏造もここまでとは凄いね。
戸田氏が信秀正室であるのも嘘なら、その子信長の正室に生駒がなったって
のも嘘だし、信忠生母も嘘だし、信長の隠し子を養子にもらったのも嘘。
ここまで嘘だと、さすがに徳姫生母も嘘かと思えてくる。どう考えても
徳姫と生駒のつながりもないし、なのになぜか永姫生母の件や金沢の久昌寺
の件は無視。
徹底的に信長とのみ深い縁があるかのように装っただけか。
608日本@名無史さん:2007/06/07(木) 16:45:34
家系を強引に源氏や平氏にしちゃった寛政期の武家のこととは
ちょっと問題の質が違うよね?

信長とそこまで深い縁をもちたがるというのはむしと現代人の発想のような
気がしてならない。家系図製作が本業だった武功創作者。
やりやがったな?と思うのは俺だけ??
609日本@名無史さん:2007/06/07(木) 16:51:06
秀吉の与力で、どっぷり秀吉方と思われていたのに、
関ヶ原で息子を東軍につかせ、親父は西軍につくも出陣しない生駒家だぞ。
秀吉方じゃないと、徳川にアピールするために、信長との関係を強調しまくったんだろ。
信忠や、信孝の家系が残っていたら出来なかったかも知れないが、
幸い生き延びたのが、生駒筋の信雄だしな。

武功創作者といわれている人物だけなし得る事じゃないよ。
610日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:10:17
だけど、それが問題なのはろくに調べもせずに、生駒文書や
武功夜話だけを見てそれを史実かのように宣伝した一部の
歴史家やマスコミでしょう。
それも全く他は史料がないならわかるけど、「津島大橋記」
とかで信長の生母ははっきりと小嶋信房息女だと書かれているし。
信長正室の件も信忠生母の件も、他の史料を照らし合わせてみれば
生駒関係の文書はおかしいと気づくはず。それがなかったのは
捏造と知ってて宣伝した確信犯か、あるいは歴史家の勉強不足。
611日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:19:07
>>609
信長との関係を強調するために・・
というが、信長の次男信雄は生駒氏が生母だし、信長との関係といっても
それだけで十分じゃないか?
なぜそれ以外で捏造する必要がある?
全く酷い話だよな。
612日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:37:38
俺は久昌寺に腹が立つ。
あの怪しげな久昌寺縁起や名前忘れたけどもう一つのさらに怪しい
史料はなんだ?武功の吉乃に関する箇所はこの寺の史料がソース
じゃないかと思ってるんだ。
613日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:37:42
>>610
津嶋大橋記の記述については、歴史読本に出典付きで載ったくらいだから
実際にある文献なんだろうが、どこに保存されているとか、
書籍化されているのかも分からないな。
一度読んでみたいのだが、どこで読めるか教えて欲しい。
614日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:39:58
生駒家どころか織田家にも土田と名の付く家臣がいないよな?
正室の実家なら誰かしら嫁ぎ先にも一族のもんがいるだろうに。
615日本@名無史さん:2007/06/07(木) 18:30:05
信忠の子の三法師の生母は武田の松姫だという怪文書が
以前に2ちゃんで話題になったけど、
(あの文書を肯定する動きがあったのは驚きだったが)
あれには信忠の母は吉乃と記述があったらしい。

捏造が捏造を生む例のひとつだな。
616日本@名無史さん:2007/06/07(木) 18:33:26
 ┌縁者ー岡本秀成
 │  ┌岡本良勝(?)ーーー岡本良勝(?)
 │  │
岡本氏ー┴ー女    信長
      │     │
      │     ├ーーー信孝
      │     │
      ├ーーー信孝生母
      │     │
      │     ├ーーー小嶋少輔
      │     │
      坂氏  ┌ー小嶋氏
┌ーーーー縁者ーーー┘
│┌ーーーーーーーーーーーーーー女
││              │
││      ┌ー川口宗定ーー川口宗吉
││      │
││ 大橋定広 ー┴ー大橋定安ーー大橋重長
└┴ーーー┐           │
     │┏━←養女━━━━━┓│
     │┃         ┃│
小嶋信房ー┴┻ー女  ┌ーーーくらの方(他の側室の子供かも知れないが)
        │  │
        ├ーー┴ー信長
        │
      織田信秀
617日本@名無史さん:2007/06/07(木) 19:59:09
>>613
「津嶋大橋記」ですが、昌平坂学問所旧蔵本ということで国立公文書館で
見れるようですよ。
618日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:10:16
坂氏が北伊勢の豪族関氏一族の庶流の一つだが、どこで岡本家と接点ができて
坂氏に岡本家から嫁をだすことになったのかな?岡本家が信孝生母の母方実家
という説が正しいのであればだけど。

「勢州軍記」によると、信孝が神戸家に養子に行った時に同行したのが、
幸田彦右衛門(乳母の夫)、岡本良勝(生母の母方親族)、坂仙斎(生母親族)
坂口縫殿介(坂仙斎と同一人物という説あり)、河村氏(津島七党の一家の河村氏か?
)、それ以外の三宅氏、山下氏は不明だけど、織田家の有力家臣でないことは
確かだ。

岡本氏は信孝の家老としてぎりぎり最後まで行動を伴にしているし、
事実上生母の実家みたいだ。
信孝生母は岡本良勝の息女で坂氏の養女になってから信長の側室になったのかもよ?
619日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:34:05
>>628
自論なんだけど、坂氏が本家から離反しようとしていて、
その仲介役が岡本家だったんじゃないかな?
本格的に織田家にくだった証に側室に差し出したのが信孝を生んだ坂氏だったんじゃ
ないかなと。
620日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:57:56
>>617
ありがとう
621日本@名無史さん:2007/06/08(金) 03:34:24
【織田信長は悪人扱いされすぎ】
あの時代の坊主(主に一揆)って武装して大名に媚を売り平気でレイプやら殺人 略奪を繰り返した
わけで!むしろ罪もない平和な外国に侵略して国を戦争カオス状態にし3万から10万人を鼻そぎし虐殺し内戦を引き起こた
秀吉のが悪人
ブッシュ並みの悪人だ!
俺は最近の秀吉がまるで善人みたいに描かれているのが気に食わん!
秀吉の大河うざい!
後徳川家康も凄い悪人だ!250年も部落身分固定して何十万人も苦しめたり日本の歴史の中で一番重い刑罰を市民に科した悪人
大体信長はこの2人程悪人ではない
ただ戦争でほかの大名より多く
の悪い僧を殺しただけなのだ
622日本@名無史さん:2007/06/08(金) 05:23:03
あのさぁ、嘘だと確定したわけじゃなく 
あくまで推測だろ? 
状況がそうだからといってなんでもかんでも 
確定させるというのは危険じゃないのかな。 
 
それになんでそんなに親の敵のごとく 
武功ばかりを叩くわけ?結局自分たちが 
釣られていただけだろ?
623日本@名無史さん:2007/06/08(金) 06:12:06
じゃあ、武功が正しいことを言っているという根拠を示しな。
信長生母が生駒文書にある戸田氏でなく、別人という資料は
複数の文献にあるしな。
信忠生母だって生駒でなく別人だということははっきりしている。
生駒が信長正室になったってのも、そうはっきりと書かれている
文献をまず出せよ。ないだろ?
ここまで証拠がそろってて、まだほざくのかよ。
何が単なる推測〜だよ。はっきりとソースがあるからいってんじゃないか。
624日本@名無史さん:2007/06/08(金) 07:42:16
歴史の検証なんて臆測でしか成り立たない。
一次史料ですらばらつきがある。

あらゆる可能性を考えたり、違った角度からの検証が叩かれる理由はない。

基本的にここのスレは「武功夜話は偽書」という前提で話が進めているので
それが不愉快なら「武功夜話は偽書ではない」という前提で信長や
その周辺のことを語るスレをたてればいいと思う。
625日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:01:28
相変わらずな言い訳ぶりに萎え
626日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:04:42
>>621 >>むしろ罪もない平和な外国に侵略して国を戦争カオス状態にし
3万から10万人を鼻そぎし虐殺し内戦を引き起こた

これも歴史的には珍しいことでもなんでもない。
大陸でもヨーロッパでも繰り返されてきたこと。
現に日本も大陸からの侵略をされかかっている。
秀吉があの時代には珍しく大陸的な発想の持ち主だったというわけだな。
627日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:33:35
>>623
戸田氏じゃなく、土田氏だよ。
小折の土田氏だと「どた」と読むから変換間違えたのか、
勘違いだろうけど、気をつけてな。

武功が偽書かどうかはともかくとして、
当時の信憑性のおける史料を検証するのは大切だな。
言継卿記やその他の公家の日記などの一次史料や、
古くから重要な資料として保存されてきた資料は、
やはり、歴史の保管には重要だと思う。
津島大橋記も、干城録も、来歴を調べると、
調査対象としては、有力な物だな。
いろいろ範囲を広げて、信長関連を調べていくと
複合的に公証できるだろうな。
628日本@名無史さん:2007/06/08(金) 08:42:04
土田氏を信長生母と明記しているのはどの史料なの?
生駒家からの視点でしか残されていない史料だけを鵜呑みにするのは危険。
肝心の土田家ではどういうことになってうのかな?
629日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:01:21
>>623,624
偽書は結構。自分も偽書だと思ってる。
ただ資料に自分の都合のいいこと書いてあったからこれが正しいんだな!
みたいなノリはどうかと思うぞ。
単純に「そういう可能性もありうると示唆する文献がある」程度のこと。
自分の知らなかった話や、自分は今まで暖めてきた説を披露したい気持ちはわからなくもないが
ちょっとのぼせすぎ。
冷静になって考えてみろ。ここは2ch。いくらお前らが「この説は捏造でこれが正しい」って
叫んだところで結局井の中の蛙。
説を唱える事。説の内容がどうこうってわけではなく、
井の中の蛙である状況を把握せずにあたかもここが学会であるかのように
誇らしげな態度がかなり痛い。
いくつなんだか知らんけど、文献解読できるほどの年齢だから二十歳はこえてるだろうし
いい加減ちょっと逆上せ上がらずにできないか?
ここのノリは同人サイトかと思うほどちょっと異様だぞ。
630日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:22:22
生駒家や信雄系統が関わってない史料では知らないな。
だから、昔から土田御前の出身は諸説あるんだし、
武功夜話で小折土田氏だって事になったが、未だに根強く清洲土田氏説も
残っているんだから、はっきりしないのは確かなんだろう。
美濃国諸旧記に信長生母が佐々木六角高頼息女とあったから、
信長は庶子で信勝(信行)が嫡子なので後継者争いが起きたと言う説もあったくらいだ。
おまけに、当時の織田家に近しい大橋氏の記録で、小嶋氏となっていれば、
また違う候補が出てきた事になるしな。
小嶋氏は、傍流が残っているので、その辺から調べられないかと思うが。
小嶋氏が信長生母で産後すぐ亡くなって、土田氏が継室に入って信勝を生んだ
なんて事も考えられるが、後年の信長のお袋様の人質へなんて持ち出し方を見ても、
それは考えにくいしな。

土田氏が、織田家の家臣として取り立てられていないのも不審だが、
小嶋氏の方も聞かないしなぁ?
小嶋少輔は城主にされているが、信孝関連だろうし。
生駒氏は秀吉の家臣扱いだし、織田家としては信雄の側近につけたくらいしかないし。
だが、信長が岐阜にいた頃は、小嶋氏の住んでいた薮田に住んでいたといわれているし
全く繋がりがない訳じゃないだよな。
631日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:27:00
>>629
まぁ、どちらも冷静に。
いろんな史料を検証できるんだからいいじゃまいか。
信秀正室と信長生母が同一人物とも限らないし、
可能性は低いが久庵慶珠が生駒かも知れないし。
同じ文献を検証するにしても、噛み付くだけじゃなく
別視点での見解を示してくれるとありがたい。
632日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:33:33
>>629 
>>冷静になって考えてみろ。ここは2ch。いくらお前らが「この説は捏造でこれが正しい」って
叫んだところで結局井の中の蛙。


書いてる本人がそれで満足ならいいじゃないか?
大きなお世話だ。
自分こそこんな2チャンの書き込みぐらいのことを大げさに考えて
のぼせすぎw
633日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:42:08
>>630
信長、信行の後継者争いがおきたのは二人とも正室の子、
つまり先妻と後妻の子同士だったため、というのが可能性が高いような気がする。
信秀が亡くなって、後妻の権限が強くなったので信行擁立派が、
生母の実家がらみの側近もいたろうし、強気にでたとか?

信長は2才から嫡子として扱われたから側近は生母の実家のものが
入っていないかもしれないが(恐らくいただろうけど補佐程度だと思う)、
信行の場合は側近に生母の実家関係者が中心的な役割でいたと思うんだけど、
そのあたりで推測できる人物はいないか?
634日本@名無史さん:2007/06/08(金) 09:49:00
>>ただ資料に自分の都合のいいこと書いてあったからこれが正しいんだな!

誰も正しいなんて主張してないがな。
ただ、生駒とは別の複数の史料に信長生母やその他の内容に、
生駒文書とは違うことが書かれているから、生駒文書の信憑性が
疑われているってことだろ?
しかも検証していくと、生駒文書以外の他の史料の方がそれなりの
根拠があると考えられるんだから、仕方ないだろ。
635日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:06:12
>>633
だとすると、信長と信行の同腹説は違うことになるな。
信秀が正室をもらったのは二人だと思われていたが、実は三人正室を
娶ったかもしれないってことかな。
最初の正室が織田大和守で、次が小嶋氏?もしくは佐々木氏?三回目が
戸田氏?ってことになるのかな?
636日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:07:43
>>633
でもそれだと、荒木村重の謀反の時に、信長がお袋様を人質に差し出すって
交渉したのと合わないんだよ。
その交渉をした時点で、お袋様が生きていなくてはならない。
信長自身がお袋様と言っているから、それは生母の事になるしな。
継母をお袋様とは呼ばないからな。
637日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:18:11
「信長公記」のやつだな。
でも荒木の謀反でなんで信長がへりくだって自分の生母を人質に
だすんだ?とすごく不思議なんだけど。
勝敗は明らかで、げんに本人逃亡、妻子処刑という結果に終わってる。
秀吉が家康に生母を人質にしたけど、ああいう力関係とは
全然違うわけで、荒木の謀反も謎が多いけど、
御袋様を人質にという箇所も不可解だ。
638日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:26:18
>>637
それを実際に言ったかどうかは別としてだな、
荒木の謀反時には側近だった太田牛一が、
創作するにせよ、継母をお袋様とは書かないってことさ。
639日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:28:44
かきわすれた。

だから、荒木謀反時には、土田御前(という名前だったとは限らないが)は
信長の実母という認識が周囲にあったということ。
また、生母が離縁されて、継室が土田氏だったとしても、織田家を離れて実家に戻った女性を
織田家のために人質にはしないという事だな。
640日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:34:47
>>638
ということは、やはり信長生母は小嶋氏?か佐々木氏?かは
わからないけど、荒木謀反事件の時は生きていたということだよね。
でも大名家では代々、母方の実家の一族が側近として仕えるのが
普通だったなら、信長の側近に母方の一族がいないとおかしいけど、
確かにそう考えると信長の周りに母親の一族らしい人がみあたらないのが
とても気になるな。
あと、荒木の謀反になんで信長生母が人質に?というのも意味がわからない。
ホントに信長がそういったのなら、荒木一族と信長生母と何かつながりがあるのかな。
641日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:47:21
単純に、信長は荒木が好きだっただけかも知れないが、
何しろ、明智光秀の娘を荒木の嫡男の嫁に斡旋しているしな。
642日本@名無史さん:2007/06/08(金) 10:59:39
この時代の御袋様という呼称はどちらかというと子供を産んだ側室に対して
つかわないか?正室なら御方様や大方様とか。正室の母なら御母堂様とか。
牛一の立場で信長生母、つまり先代の正室を御袋様と称するのは違和感あるけど。
643日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:04:10
>>641
信長は優秀な人は取り立てて使う人だったから。
荒木の謀反にしても本気にしてなかったのかも知れないな。
説得に際して、自分の母親を人質にだそうとまでしたなら、荒木を
よほど信じていたんだろう。
松永久秀も許されているし、信長ってホントお人好しだったのかも。
なんか荒木謀反は誰かにハメられたのかも知れないな。
644日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:15:56
戦国期は主君の鞍替えは当たり前だし、気に入らなければ
別の大名のところにいけばいいわけだ。
謀反という言葉はそれこそ光秀みたいにある日突然主君を殺して
乗っ取りを図ることをいうわけで、荒木の場合はなんか違うような気がするな。
妻子をすてて逃亡したなんていう武士として最低のことをしておきながら
市民権を得てその後も生き延びてるあたりからしても。
645日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:18:14
>>642 確かに武家では正室のことは実母であっても御方様と呼んでいたらしいし、
側室である淀殿はどんなに権力を掌握しても諸侯から御袋様と呼ばれていたね。
646日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:50:20
確かに信長の立場なら御袋様なのかも知れないが、
牛一の立場なら、御袋様という表現はおかしい。
だとすると信長生母は信秀の正室ではなかったのか?
でもそれならなぜ信長は生まれてから2歳の時に早々と
嫡男としての教育を受けたのか?
信長が信秀の最初の男子誕生ではなかった筈だし。
信広という兄がいた筈。
だけど、こんなに有名になって一時は天下人として君臨していた
信長の生母が誰かわからないなんて・・・ちょっとな。
しかも正室だと言われているけど、もしかしたら違うのかも知れないし。
本当に織田家の女性は謎だらけだな。
647日本@名無史さん:2007/06/08(金) 12:51:33
信長の生母がどこの誰かというのは、いまだはっきりしないけど、
でもこの人ちょっと変だなって思うところはある。
まず、信秀死後に早々に信行派に加担して、信長を討とうとしている。
というか信行一味に加わっている。
いくら2歳のときに信長を手元から離されたて愛情を注いでいる時間がなかった
からといっても、織田家を継ぐ嫡男としての教育を受けているのである。
息子が立派に成長する姿を影ながら見守っていくのが普通ではないのか。
なのに自分の息子ふたりをあえて対立させている。というかそういう行動をとっている。
また、信長死後だが織田家の親族が誰も秀吉主催の葬儀に出席しないのに、
なぜかお鍋や他の信好生母や秀勝生母と一緒に出席している。
一説では信長の妹お市も信長と同腹ではないかという話だが、
それならなおさら、お市が秀吉主催の葬儀に出ないのに、信長生母が出席
したのかという疑問もある。その辺りちょっと解せない。
648日本@名無史さん:2007/06/08(金) 13:01:15
葬儀に出た信長母という女性は、信行の助命嘆願を申し出ているから信行の生母
であることは間違いないんじゃないかな。
それと最終的に信包のもとに身を寄せたから信包の生母であった可能性も高いと思う。
お市はちょっと判断しかねるな。
信包のもとに親子で身を寄せていたからあるいは信行・信包・お市は同腹なのかも
しれないけど…?

信長に関しては5分5分。
政宗生母や家光生母の例もあるので、実母であっても家臣や実家の兼ね合いから
我が子の廃嫡を望む場合もあったと思う。
信秀もばりばりの政略結婚だったろうから、離婚再婚を繰り返していたとしても
おかしくないし、信長がわずか2歳で家督を譲られたというのも、後室に
男子が生まれた場合を見越しての信秀の策かもしれない。
649日本@名無史さん:2007/06/08(金) 13:40:49
可児と言えばぷらっとホーム
650日本@名無史さん:2007/06/08(金) 15:21:27
信長公記の荒木村重の逆心の時の「御袋様」は、
解釈の仕方はいろいろあるが、村重が信長に対して
村重生母を人質に差し出したという解釈の方が、
普通だと思うのだが。

現在信秀の没年は天文21年が有力だと思うが
信勝が稲生の戦を起こすのはそれから4年後だし、
死後早々って訳でもないと思うが。
信秀と信勝が同じ城に住んでいたから、
正室も信勝と一緒に住んでいて
死後も引き続き一緒に住んでいただけで、
積極的に謀反を焚き付けた証拠もない。
651日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:05:27
稲生の戦いは、信秀の死後というより道三の死後じゃないかな。
信秀死後に道三と信長の会見があって、その後道三が援軍を出したり
信長に全面的に協力するようになったから、信行派も手が出せなかった。
道三の死後、信長に協力する勢力がいなくなってから、謀反をおこした
のではないかな。
652日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:11:33
それはもちろんそうだろう。
ただ、信秀死後、道三との会見まで1年以上ある訳だし
そうなると、信長死後早々に信秀正室も加担して
謀反を起こしたかといわれると、違う気がする。
林美作などの方が、正室を利用した感じはあるがな。
653日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:12:35
>>652
>正室を利用した ×
信秀正室と同居しているのを利用した ○
654日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:41:35
>>650
荒木謀反事件の御袋様を人質に差し出す〜のは信長側でなくて
荒木側だったってことだよね。でもそれがなぜ信長側が人質に
母親を出すって解釈されているのだろう。
一般的な解釈はどちらになっているの?
655日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:24:57
>>654
おそらく、どちらも解釈されていると思う。
気になって、手元にある信長公記の訳本を見たら、
信長側も、荒木側もあった。
荒木側が差し出したとしている訳本の方が、最近の物だ。
個人的には、「安土日記」に信長生母が中川清秀に荒木から離れた事の褒美に
槍を下げ渡していると書かれている事から、荒木と何か関係があったと推測しているが、
「信長公記」の記載はどちらにも解釈できるようにも思う。

「十月廿一日 荒木摂津守、逆心企つるの由、方々より言上候。不実におぼしめされ、
何篇の不足候や、存分を申し上げ候はゞ、仰せ付けらるべき趣にて、宮内卿法印、
惟任日向守、万見仙千代を以て仰せ遣はさるるのところに、少しも野心御座なきの通り、
申し上げ候。御祝着され、御人質として、御袋様差し上げられ、別儀なく候はゞ、出仕候へと、
御諚候と雖も、謀反をかまへ候の間、不参候。」
656日本@名無史さん:2007/06/08(金) 18:35:57
「逆臣の噂がたっているが、人質として荒木のお袋さんをよこすことに
差し障りがないようなら信用してやるので、出仕せよ〜」

と解釈できるのだが。

どう解釈しても信長が実母を差し出すという流れには読めない。
状況から信長が家臣の荒木に人質を差し出すわけもないしな。
657日本@名無史さん:2007/06/08(金) 19:01:48
>>少しも野心御座なきの通り、申し上げ候。御祝着され

少しも荒木に野心がないことを(信長に)申し上げた。
(信長は)大変お喜びになり・・・

となるから、確かに荒木の母親を人質に〜という話の流れでないと不自然だ。

何で信長生母人質説が否定されずにあるのかが不思議だ。
謙譲語の使い方からして解釈が二通りになるはずがない。
658日本@名無史さん:2007/06/08(金) 20:01:57
時々思うんだけど、少し昔の、ネットがこれほど普及してなくて、
出版されていたり、直接原文を国会図書館なりに見に行くしかなかった頃の
古文書解釈って、絶対今の自分たちよりも古文書に近しく接している年代の
はずなのに、解釈がどう考えても間違ってるよなって思う物多くないか?
確かに、多面的にいろいろな文献を見る機会は今の方があるから、
おかしいだろうと思う目も肥えているのかも知れないが、
それ以上に、自分以外にはあまりその文献は見る者いないだろうなんて思って
自分の論説に都合のいいように解釈してるんじゃね?って、思う事ないか?
659日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:08:58
「御袋様」という言葉一つでここまで検証が広がるここのスレの住人は
すごいかも・・・
660日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:55:53
つかここでの内容そのまま誰か論文で出せないのかね?
一昔前の間違った捏造説さえも恥ずかしげもなく出していた史家もいるし、
それに比べればここは検証がきちんとしていて、真実を突き止めたんだから
誰か論文書いて現在はびこっている生駒厨を黙らせるようなものを仕上げて欲しい。
661日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:56:34
>>632
それはチラシの裏に書いてろって言われるもんだな。
662日本@名無史さん:2007/06/08(金) 21:57:25
自分達の都合いい方向に進むように 
解釈するんだからそりゃいろいろと広がるべな。 
検証とは実に便利な言葉だべよ
663日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:00:46
>660 
はいはい真実真実w
664日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:02:58
>>662
それでは>>662の解釈を教えて欲しい。
まったく違う解釈があっても然るべきだと思ってるよ。
感情的にならずに納得のいく根拠を述べ、理論的な見解で頼む。
665日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:35:31
妙な煽りを書き込んでる暇があるんだったら、史料でも色々とあさって
ここの流れとは違う解釈でも書き込んでくれればいいのにね。
666日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:51:47
>>665
662みたいな批判を冷静に受け止めないで、
聞き飽きたような逆切れをするのは
いつも同じ奴だろうな。
こう言うのに限って、解釈なんでして無いのだろう。
667日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:14:33
>>662
都合のいい方向へ解釈というが、生駒厨といわれる人だって
自分の都合のいいように解釈してるんじゃないか。自分はあまり
厨〜とか言いたくないけど。
しかも史実に基づいていない根拠のない妄想や解釈をしている人を
未だに見かけるけど。
〜だった。〜に違いない。ってここの住人が決め付けていると言うけど
逆に決め付けている一方的な断定は生駒厨と言われる人の方だと思うけど。
ここでの検証が生駒を否定するものだからといって、荒らしに来るし。
反論するだけの根拠や資料を出してと言われても出さないし。
668日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:41:04
>>666
そういうレスも飽きた
669日本@名無史さん:2007/06/08(金) 23:46:29
勝てば官軍的なもの言いは如何なものかと… 
正直生駒を否定されていることに対しての 
反論は見受けられないのだが… 
それに生駒が最愛の女性だったと 
力説している人もいないのだが… 
 
いい加減批判する人=生駒厨という見方ぐらいは 
改めるべきだろうし生駒厨でなくても 
濃や信長好きでもここの流れなどがおかしいと 
思う人ぐらいは普通にいるだろう。 
 
そして定説だの真実だの決定だのと 
断定的な書き方は反発をくらいやすい傾向に 
あることも理解すべきだろう。
670日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:14:20
生駒で思い出したけど、読売新聞の連載小説は「小督」が主人公なんだけど
例の吉乃が死んだ時信長が寺のある方を眺めては涙したってエピが出てきたよw
秀吉が信長に仕えるきっかけは生駒ってのも。
おそらくこの物語の中の濃姫は早死にしてるんだろうな。
671日本@名無史さん:2007/06/09(土) 00:28:23
>そして定説だの真実だの決定だのと 
>断定的な書き方は反発をくらいやすい傾向に 
>あることも理解すべきだろう。

釣るためにわざと書いてるのかもね。
毎回すぐ釣れてこのパターンになってるし。
672日本@名無史さん:2007/06/09(土) 03:05:48
利用価値の無い者は信長なら殺すだろ
信長クォリティーだからな
673日本@名無史さん:2007/06/09(土) 03:22:58
利用価値のない者を、信長が殺したなんて話は聞いた事ないな…
674日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:25:10
>>672
実際に、信長が殺したとされる利用価値のない者って一体誰のこと?
信長は特に理由のない殺しはしてないと思うが・・・
根拠は?
675日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:37:20
>>671 
要するにここは釣り堀なんだねw 
なら戦国板でやれば?
676日本@名無史さん:2007/06/09(土) 06:49:52
>>660
論文って誰でも出せるの?
677日本@名無史さん:2007/06/09(土) 07:22:15
>>669
断定的な物言いになっても、文献上そうと受け取れるのだから
しょうがないんじゃないかな?
生駒が信長最愛の妻であり、正室になったというものだって
単なる自分の希望を形にした捏造にすぎなかったのに、断定してたじゃん。
ここの意見はきちんと当時の文献を考察して、その上で断定している。
それの一体何が悪いの?

>>676
まずは歴史読本みたいな雑誌に投稿してみるとか・・・?
私は文才ないし、ちょっと無理そうだけどorz
678日本@名無史さん:2007/06/09(土) 07:57:17
>>669
真実があきらかになるのがそんなにいやなの?
生駒継室になり信長最愛だったっていうのも、何か根拠のある史料や文献など
があるならともかく、いくら武功の話を真実だったって言ったって、実際には
信長の行動にそれが表れていないからね。考察を普通にしていくと、どうしても
生駒関係の話は捏造という結論しか出ないよ。

>>677
歴史読本って、専門家が自分の研究なりを出す本ではないの?
全くの素人でも出せるのかな?
ここでの検証に出ている話でも、すでにどこかで発表されている説もある
と思うのですが。前に発表されていた説でもいいのでしょうか?
679日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:01:51
>>677,678
別に>>669は生駒が信長最愛だとは言ってないし、
そもそも生駒が信長最愛という説に反論する事自体を否定してもいない。
680日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:02:44
とりあえず、これまでのここでの検証のまとめサイト作ったほうが
早くね
681日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:22:24
この辺に投稿すればいいんじゃないか

財団法人史学会
ttp://wwwsoc.nii.ac.jp/hsj/
投稿規定
ttp://wwwsoc.nii.ac.jp/hsj/
682日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:40:16
歴史読本の「霊界通信」で濃姫を呼び出して真相を聞いて欲しい。
(まだあったっけ?このコーナーw)
683日本@名無史さん:2007/06/09(土) 08:52:40
もし聞くなら あと、勝長の母親が誰かも聞いてくれ〜
684日本@名無史さん:2007/06/09(土) 09:13:41
>>682 
以前そのコーナーで信長を呼び出した時に 
お濃のことも聞いていたけど 
殺したとの返事だったよw 
理由は邪魔になったとかではなく 
口うるさいだが生意気だかだったと思う。 
子供は一度妊娠しだが落馬で流産したそうだ。
685日本@名無史さん:2007/06/09(土) 09:32:02
>>684
それ、いつ頃のこと?
686日本@名無史さん:2007/06/09(土) 09:47:24
>>684
ホントかなあ〜
じゃあなんでどの史料にも記録がないんだ?
信長が濃姫を殺したのがホントなら、後世あんなに暴君扱いされている
のに、家康が築山殿を処刑した件と同様にもっと話が広まっててもいい
けどなあ〜
実際にはそんな話が全く逸話や江戸時代の創作にも出てこないし。
687日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:01:48
つか、霊界通信なんて武功よりも真偽を語る価値のないものかと・・・
688日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:02:59
>>686
いや。。。あの。。。w
そのコーナーは単なるお遊びコーナーだってわかってます?w
子供向けの歴史の本で、偉人が質問に答えてるのと同じだよ?w
689日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:04:36
生駒氏って、土田弥平次の後家といわれているんだよな?
土田氏は明智の家臣なので、土田弥平次後家が正しければ
信清絡みの人質という生駒家繋がりよりも、
明智城が落城して離散した明智の女性が、濃姫の元に身を寄せたりして
その関係でついてきた、明智の女性に仕える侍女辺りだったんじゃないか?
土田城も、明智城が落ちた頃に落城して、結構戦死者出しているし、
土田家の妻女が、明智の侍女になるのはおかしくないだろうし。
久庵慶珠がその明智の女性とかで、濃姫繋がりで側室にあがり、
懐妊したので閨の御務めの代理を、後家の生駒氏が務めたとか。
もし信忠が、明智の女性が生母だったら、岐阜を支配するのに
この上なく都合がいい、おまけに濃姫の養子ともなれば最強。
そして、光秀謀反で、明智の血筋だという者がいなくなったとか。
690日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:07:54
お遊びコーナーだったらわざわざこのスレに書くなよ。
なんだよ。さっきから、アンチ信長だかなんだか知らないが
根拠のないこと書くなよ。
そんなに信長の評判を下げたいのかよ。
691日本@名無史さん:2007/06/09(土) 10:29:55
>>690
そういう必死さが痛いって言われてるんだよw
あんたみたいな「ネタをネタとして笑えない」人間が
このスレでまともに考察している人間の足引っ張ってるのわからないの?
批判は全て生駒厨?
批判してる人間があれこれ言ってるのは濃姫の問題でも信長の問題でもなく
あんた自身のことだよ。いい加減気づけ。


お遊びコーナーの話題にしてもただの雑談のネタ話。
真面目に受け取る方が頭おかしい。
空気読めないってよく言われないか?
692日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:39:52
荒らしうざい〜
693日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:44:09
どうでもいいけど、本当かどうかわからないネタ話を
面白おかしく載せているような「歴史読本」にここでの
考察を投稿する意味あるのか?
694日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:48:01
>>693
歴史読本なんて捏造ネタばっかりだし、まともな史家は相手にしてないよ。
まともな知識ある歴史好きも、みんな捏造だと思っているしね。
2chとかウィキとかの方がよっぽど信頼できるし、考察も真実を突き止めたし。
これからはネットの時代ってことなのかな?やっぱりw
695日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:55:00
やっぱりここでの検証のまとめサイトがあるといいなあ。
前スレも見れない人もいると思うし。
696日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:01:38
>>695
そうだねぇ。
いちいち生駒厨のアンチがうざいし、ここらでいっぱつ黙らせるほどの
検証まとめがあるといいかもw
697日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:06:25
696>>
賛成!!
698日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:09:24
それにしても、アンチも必死なんだな〜
こんなに絡んでくるのはここでの考察が真実をつきとめたからだろな。

やはりどこかで論文などを発表した方がいいかもな。

699日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:16:52
武功夜話の元史料公開はどうなったんだ?
700日本@名無史さん:2007/06/09(土) 12:33:21
>>699
誰か観にいった人いる?
701日本@名無史さん:2007/06/09(土) 16:15:14
>>689
明智家つながりで〜というのは考えられなくもない。
生駒氏は一般的に言われているように生駒宗家の娘ってのは確定なのかな?
確か「津島大橋記」では、信雄生母を生駒半左衛門の妹とかかれてるけど
これって生駒宗家の娘とイコールでいいの?
土田弥平次の後家というのは正しいのかな?

はっきりいって、武功に書いていることも生駒文書も信用できないから
信雄生母に関しても別ルートでの検証が必要になると思う。
702日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:07:52
土田弥平次の妻が生駒家宗の娘という逸話は江南市には古くからあるようなんだ。
2人が暮らした屋敷跡が、土田城の近くの具体的な場所として逸話に残っていたりする。
しかし、後家になって信長の側室になったという話しは、その逸話の中にはない。
つまり、江南市の逸話に詳しかった、武功夜話創作者といわれている某氏が
信雄の生母が生駒氏という話しとくっつけて作ったんじゃないかと思っている。
だから、別人の可能性は高いんだよな。
そうなると、土田弥平次の戦死時期と、側室にあがった時期の考察は無意味になる。
久庵慶珠が信忠の生母だろうとは思うが、それが生駒ではないとは言い切れないという事にもなる。
久昌寺の寺名改称のいきさつから、久庵慶珠は関係ないとは思うが、
久昌寺の逸話そのものが、武功夜話を受けての後年の創作で、実際は大して何も伝わっていなければ
久昌寺に伝わる没年も、信雄喪主も捏造されたものかも知れない。
スレの最初の方に出ていたように、もしも久昌寺の墓が武功夜話以降に突然出来たものならば
位牌だってそれに合わせて作っているはずで、何の証拠にもならない。
だが、明智縁者ならともかく、生駒縁者を崇福寺で位牌所を設置するのもおかしい。
結局、生駒や信雄が絡まない文献や、武功夜話以降に出てきた文献をのぞいて、
考察し直す必要はあると思う。
703日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:30:21
すまん、ちょっと間違えた。

>>土田弥平次の妻が生駒家宗の娘という逸話は江南市には古くからあるようなんだ。 ×
土田弥平次の妻が生駒家の娘という逸話は江南市には古くからあるようなんだ。 ○

生駒家の女性だったという逸話だけで、生駒家宗の娘とまでは残っていなかった。
704日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:57:54
>>702
信雄生母にしては、生駒の法名に院殿号がついてないのは変だなと
思っていたんだが、久昌寺の話がでっちあげなら、納得がいくね。
やはり久昌寺に葬られている墓の主は、信雄生母とは別人だと思うね。

信忠生母だと推測される久庵慶珠は院殿号がつけられているのだろうか。
崇福寺には記録にはどう記されているのだろう。
705日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:15:47
>>704
久昌寺に葬られているかどうかは別として、信雄生母は生駒氏ではある。
久昌寺は生駒家の菩提寺ではあるから、葬られてもおかしくはないが
それが久庵桂昌かどうかは微妙。
寺名改称のいきさつだって、信雄生母が亡くなった時に改称したなんて
あり得ないんだよな。
なぜなら、その当時の信長は、尾張一国を支配したかしないかまだまだ微妙な時期で
とても改称するほどの人物ではないので、改称したとしたらもっとあとのはず。
仮に、その頃改称したのだとしたら、別の理由だと思う。
しかし、永姫が金沢久昌寺を作った頃までには改称しているはず。

ただし、久庵慶珠が信雄生母とは思えないんだよな。
信雄の家系が残っているから、もし久庵慶珠が生母なら、
織田家に認められた位牌所なので、こちらを優先して守るはずなんだ。
そう考えると、やはり信雄と信忠は別腹の可能性が高いと思う。
706日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:00:43
濃姫が史料にほとんど現れないからって、頂点とするのはどうかっていうけど、
それなら他の側室たちは信長生前そんなに史料に残されてた?
(武功は別として)ほとんどないじゃない?
濃姫スレの目的は濃姫の正室としての立場の検証としてのスレなのだし、
それを含めて他の側室たちのことも議論にしたいわけで、しかも未だに
信長参考本などには、濃姫は離縁もしくは死亡していて、生駒が正室だった
なんてあきらかに事実と違う情報が載っていることがおかしいということで
検証してるのだし。
別に自分は濃姫を頂点としてというより、濃姫をメインとして他の側室たち
のことも語る分にはいいと思うよ。
しかし、「帰蝶」の名が武功にしかかかれてないならやはり信憑性が問題
だと自分も思う。他の史料には本当に濃姫の嫁ぐ前の名前は「帰蝶」と
記入されている文献は他にはないの?
707日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:01:56
すると勝長が濃姫の実子であったとしても、信忠嫡男というのは                                   
確定だったわけだな。                                         
もっとも生駒御前は亡くなり、当時の生駒氏には政治的な力は皆無だったし、
まさに借腹そのものだったから、養子にして嫡男にしても                                     
濃姫も感情的に問題はなかったろうけど。                             
                                                 
ずっと疑問に思っていたのだけど、信忠と松姫が婚約して約6年後に                    
婚約破棄になっている。年が若かったということで松姫の輿入れを                     
先延ばしし、織田家お預かりの状態で甲斐にいたそうだけど、信長は自分の                
姫を10才なるかならないかで嫁がせたりしているし、なぜ松姫の輿入れが              
そんなに長い間据え置かれたの?                               
夫婦としての実態はなくても、松姫を織田家に迎えて正式に婚姻し、
ある程度の年齢になってから夫婦として生活するということは                       
できなかったのかな?(秀頼と千姫みたいに)
そのぐら強い絆がないとかなり不安定だったのでは?と思うんだけど。  
信玄に何か含みがあって松姫の輿入れの時期を遅らせたかったとか?                   
                                                        
織田家にしてみても大切な嫡男の嫁取りがそんな宙ぶらりんのままで                  
よく何も文句を言わなかったな?と不思議なんだけど。                         
708日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:02:41
生駒家に残っているのは、逸話も含めて                                     
信雄関連は意外とある。                                
それこそ、生駒の氏神が信雄の守護神だとか                       
久昌寺って菩提寺に信雄を通して650貫の                           
知行を与えられているとか、                                 
生駒女の喪主は茶筅(信雄)だったとか。
当時のリアルタイムに、表に出てきている史料で 
はっきりと信忠生母が生駒女と書かれているものは
自分は知らないな。                                  
                                                    
武功は昭和以降の編纂という説もあるから                  
リアルタイムじゃない史料には、信忠の生母は信雄と同じと                   
書かれているものもあるし(それこそ前スレで出ていた文献とか)、                  
それを元にしていれば、通常信忠の生母も生駒女だと思うのが普通。                     
                                                
反対に、武功の信憑性を疑うようになったから、本当に信忠の生母も                   
生駒女なのか?という疑問をここの住人が持ったって事で、                    
それまでは、誰もそんな事を疑った事も無かったんじゃないかな?             
疑って調べてみたら、意外にリアルタイムでの記述が無かった……
ってことだと思う。                                             
709日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:03:23
信康自刃は一説には浜松派と岡崎派に二分されつつあった徳川家の内紛が
ことの発端で、信康を盾に反家康の動きが見られたためという。
内紛で足元が揺らいでいる時は織田からも武田からも攻め込まれる
絶好の機会になりかねないので、家康の独断で徳川を守るために
信康と築山殿を始末し、事態を収拾したという話。
実際はこの二人にはなんの罪もなかったような気がするけど、
岡崎派の象徴である二人を処分したために最小限の被害で
すんだのかもしれない。
徳姫の信長への12か条のチクリの手紙とかは後世の創作のようで、
家康の治世になってから、正室と我が子を死に追いやった罪を信長に責任転換
したのではないかな。                  

そう考えると徳姫も気の毒だが、信康死後家康に恨まれる事なく                     
あたたかく実家に送り出してもらったことも納得いく。                        
姫は信康の忘れ形見として家康に託したのかも。                            
謀反人として処罰された信康の姫を織田家に連れ帰るのも                         
姫たちに肩身の狭い思いをさえると考慮してのことかもな。                           
710日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:04:05
濃姫一人の意向ではなく、織田家内の反秀吉派の総意ということだろうね。
全面に信長の正室が立てばさすがの秀吉も何もいえなかったはず。
秀吉も対面を取り繕うためにお鍋の方を見方に引き入れたんだろうけどさ。
(息子を取り立てるとかなんとか甘いこと言ったんだろうな)                   
総見院でのお鍋の方の墓を見ると、なんか織田家内でのお鍋の方の立場を
象徴してる感じがする。(実際は墓石とは関係ないことかもしれないけど)
                                                       
これは個人的な憶測だけど、濃姫はそんなに秀吉に敵対心を持ったとは
思えない。あの時代の女性だから、織田家存続のためにどうすればいいか?
もう秀吉にすがるしかないのではないか?と素直に思ったと思う。
三法師を当主にすえ、秀吉が裏で実権をとるのはわかっていても、                  
織田家が嫡流の流れで残っていくならいいと思ったのではないかな?
でも野心がでてきた信雄や信孝、柴田勝家やお市とのからみで                   
関係が悪化していったのは事実だと思う。
                                            
もし秀吉との関係が良好なら秀吉が濃姫を崇めていろいろ心付けとか                 
してそうだもの。生活を全部面倒みたり、立派な庵を建ててあげるとかして、
そのことをさらに大げさに史料に残させて、織田家を最後まで主君と仰いだと                      
いう秀吉像を演出してそうだ。                                        
711日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:05:43
遅ればせながらルイス・フロイスの日本史の抜粋読んだんだけどさ
岐阜城での生活について                                              
「彼は内部においては、婦人及び姫君、息子達によってのみ仕えられていた」
ってとこなんだけど、息子達は信忠13才と信雄12才なのね。それぞれ一人なのかな?
原文に詳しい人が居たら教えて欲しい                                      
                                                               
1569年なんで、徳姫はもう徳川に嫁に行ってるし、信孝も神戸に養子に行ってるのね
だから、信雄と信忠だけが息子として登場しているだけで、側室の坂氏とも一緒に暮らしていたのか
濃姫だけ内部(特に奥まったところという意味のよう)で暮らしていて
坂氏は城の何処か別のところに部屋をもらっていたのか、どっちなんだろう
濃姫だけと暮らしていたのなら、信雄も濃姫が面倒を見ていたってことなのかな?
姫君も一人だけとすると、ここに出てくる姫君が家系図に残ってる濃姫の生んだ姫なのかな?
誰も内部に入れなかったらしいんだけど、侍女とか小姓とかは入れたって読んで良いのかな?
                                                                   
私生活は純粋に家族だけなんだとしたら、激しく現代的だな・・・・・・。
                                                                
原文でも一人だったとしても、単にフロイスが出会った人のことだけを書いているのかもしれないし
断定できることはあまり無さそうだけど、それでも興味深いよね   
712日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:06:34
だから、墓一つとっても織田家正室の扱いを受けてないからわかるんです。    
あなたのいうことだと、歴史考証はまったく意味をなさないことになるますね?
当時は子供を敵の家に10歳満たないのに嫁にだしたり、人質に差し出したりが
当たり前の時代ということはおわかりでしょ?
そういう価値観であった時代に、現代人の恋愛感覚や親子の情愛を
おし通そうとする考えの方がよほど不自然だ。                       
                                  
お家騒動になるのは、パターンが決まっていて、代表的なのは
長いこと正室の子供ができなくて、側室にできた子供を嫡男にしようとしたら、              
ひょっこり正室に男子が生まれた場合。                          
当然正室の子供が有利なので、そっちを嫡男に据えようとすると、                
すでに嫡男扱いだった側室の子供の取り巻きが反対して、
家臣団が真っ二つに別れるパターン。
寵愛の深さが原因なのではなく、正室の子供の正統性が強いことからおこる                    
ためのお家騒動です。そのへんも思い違いをしているようですね。                   
                                        
そもそも生駒が信長の寵愛を受けていたというのは「武功夜話」にのみ
記載されていること。その武功夜話が時代考証も、事実関係も、年代的なことも               
めちゃくちゃな偽書だということをご存知ないのでしょうか?                    
武功以外で生駒が史実に登場することもなく、信長のもとを去ったのは                 
亡くなる直前ではないこともわかっているのですから、位置付けとしては                   
大勢いた奥の側室の一人であるといっても過言ではないと思います。                   
713日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:07:25
信高実子説が無いの根拠をもちっと詳しく教えて欲しい・・・・・・。
高齢だからはなしね。数えの42なんて余裕で子供生めるし。当時でも生んでる人居るし。
ホント近江地誌が出てきてから、イタイ妄想ばっかりして自分がヤダ。
でも、濃姫については、重要な人なのにもかかわらず残ってなさすぎなので
当然残ってるはずのものがないことに作為性を感じてしまって、地誌の方が正しいような気がしてしまう。
近江の人間は乱世慣れしていて、表面では権力者にへつらいつつもしっかり記録は残すカンジ。
だから一般的な史書より近江地誌の方が個人的な感覚としては信頼できる。(根拠になってないけど)
とすると、信房が信長と濃姫の子じゃないかと。それは、後の厚遇を考えても無茶な想像とは言えない気がする。
でもこの子の母は記録されて居ない。つまり、濃姫の子は記録に残らないか、残せない可能性がある。

信房が濃姫実子で、信忠が養子だったら、遠山夫人に養子くれって言われた時は最大のチャンスなんだよね。
信忠はまだ元服していないので、お坊は駄目だけど奇妙なら養子に出せるよと答えれば、何もかも丸く収まる。
これで家督争いも無い。信長が10年ほど余分に頑張らないといけなくなるだけで。
でも養子に出されたのはお坊だった。濃姫の子は記録に残らないとすると、信忠も濃姫の子かと、思えるようになる。
(手塩にかけて育てた養子は実子と何ら変りません信忠が嫡男ですといったやり取りがあった可能性も否定できないけど)
信長は1573年頃から急に子沢山になっている。これは信長が権力を握った時期と重なるようで、そうでもない。
私には1572年の信房が人質に取られる事態を招いた手駒不足を反省して子作りに励んだように取れる。

で、信秀(1570年誕生)と信高(1576年誕生)なんだが、この人たちは幼名からして同母兄弟だろう。
また、この二人は、信雄信孝を除くと、残った信長の子息では別格扱い。
誰か別の側室が居た可能性も確かにあると思う。その側室の一族が生き残っていたら、徳川を憚って
家系図に載せないだろうから(土方氏もそうだね)、単に実家の都合で解からないだけかもしれないけども。
ただ側室の子とすると、序列の謎が上手く解けない。また信長の父である信秀の名が、側室の子に与えられるとは思えない。
714日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:09:28
正式に養子にする=嫡男になるとは限らないので
嫡男候補筆頭になったと考えればよいのだと思う。
また、一人だけ正室の養子にしておけば、信長に何かあったとき
信雄、信孝を巻き込んでの跡目争いも起きにくいと考えることができる。
だから、個人的には生後すぐではなく、2〜3歳での養子ではないかと
推測している。
長男だから優先的という訳ではないのは、信長が次男(三男説もあるが)
であった事を見ても分かる。
優先度は正室長男>正室の長男以下>側室の庶子であったわけで
厳密には庶子しかいなければ、跡目争いが起きる危険性は高くなる。

>信忠嫡男決定後に濃姫の実子が産まれても廃嫡してまで
>濃姫の子にこだわらなかったのではと思うけど。
濃姫の実子にこだわったなどとは書いていない。
7年待ったけれど、無事育つ子供は持てなかったという中で
側室を持ったのだとすれば、半ば正室の子供を諦めて側室を持ったと
考える方が普通ではないだろうか?という事。
また道三の威光が無くなった正室の立場の補強の為にも、
養子にした可能性もあると書いたつもり。
美濃攻略の為にも、濃姫にいてもらった方が信長にはよいが、
当時の織田家にとって同盟関係により都合の良い他家の女性を正室に
という声が家臣から出ないとは限らない。
正室濃姫の実家である斎藤家は、道三の死で敵対関係になっているからだ。
だからその辺りの思惑もあったかもしれないというのは、自分の推測。
715日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:09:42
濃姫が信忠を養子に迎えたのは生後間もなくではない可能性も大いにある
わけですね。勝長が濃姫の実子であるという説もあるようですが、
勝長が生まれたと推定される時、信忠は恐らく11〜12才ということなので             
その時点で濃姫が信忠を養子に迎えていなかったら、織田家嫡男は
勝長という認識になったと思うんです。                      
濃姫も早々に勝長を養子に迎える必用はなく、それこそいよいよ
子供をあきらめるような年になってからでも構わないわけで、                
そう考えると勝長が濃姫の実子であると考えるのはやはり不自然な                   
点が多いように思います。                     
伊達家でも10年近くたって生まれた正室の男子を側室の産んだ長男を       
退け当主になっていますし、(それまでは側室の長男を嫡男扱いで厳しく養育した
ということですが)やはり勝長は濃姫の実子ではないだろうと思っています。
ただし姫を産んだ可能性は捨てきれないですね。             
成菩提院の御台様平産の記述があるので。                 
716日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:10:44
武功夜話は信用できないため史料としての価値を認めていないので、
信忠の生母が生駒御前だとはっきり明記されている、信憑性の高い史料は
ないですか?という意味と思われ                     
                               
基本的に武功夜話によって生駒御前が信忠の生母という認識が定着したけど
他の側室が産んだ可能性もある。生駒御前は信雄と五徳がいたし、生駒家が
いろいろ画策して生駒御前の名を後世に残したが、信忠生母が        
信忠一人しか子供を産まず、すぐに亡くなったような状況だったら、
名前、出自もはっきりせずそのため「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也」と
表記されたのかもしれないし。                  
                                       
717日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:11:44
生駒の墓の横に柱がたってて、戒名と『吉乃の墓』と書いてある。
『吉乃の墓』とある時点で、断定材料は武功夜話だとわかるし、
そうなると墓の信憑性も怪しいなと思ってるよ。
生駒家に類という女性がいたのは事実だとしても、
はたしてその女性が信長の側室になったのか、どうかは
推測の域をでていないと思う。                           
側室になったのは生駒家のまったく別の女性だった可能性もある。
そもそもあの墓は後年建立されたものだしね。                       
                                                     
それと信雄が喪主になったというけど、生駒が亡くなった当時は
まだ8歳。喪主をつとめたのは本当か?と疑問だった。
だいたい久昌寺って『久昌寺縁記』で「吉乃を失った信長殿は、
小牧山城の望楼に登り、はるか西方、小折新野葬地に向かい、
涙して佇む日が多かった」なんて伝えているところからして
怪しい寺。                                           
718日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:12:45
大大名だった頃は安土殿が側に居て                                    
実の母の墓に手をつけるような状況じゃなかったんじゃない?                    
フロイスの本だと、信雄と信忠って、ごっちゃに育ってるみたいだったから               
生駒女の死後、生駒女の子供達は濃姫が後見してたんだろうと思ってた。                     
まあ、実際に面倒を見るのは乳母だろうけど。                                   
御料地があるはずなのに更に知行与えているし、以外に信雄と濃姫は親子らしい関係だったのかも?
                                                                  
前スレで、国中往還認可状が本物なら永禄3年9月に奥を下がっていると考えている人が居たけど
そんな早い時期から奥を下がって居たんだとしたら、生駒氏のこと、母親って実感はなかった 
かもしれないね。                                                         
乳飲み子置いて奥を下がったとしたら、産後の肥立ちが悪くて一時帰郷のつもりが
病が癒えずそのまま奥を下がってしまったとかなのかな。                       
って、推論に推論を重ねるとどんどん事実から遠ざかっていきそうだけど。
                                                       
墓に全く手を加えていないなら、あまりにも早い別離の為に、                 
お腹様としての敬意は払いつつも、親子の情のとなるとピンとこなかったというのも               
ありえなくは無い気がするね。                                  
719日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:13:52
実子にとっても生駒がその程度の存在だったとしたら                        
信長にとったらさらにそれ以下の存在価値の女性だったということになる。             
                                                         
類は弥平次と結婚し、後家になってから                     
出家して39歳で亡くなって葬られ、それがあの墓。                    
信雄の生母は武功の話とはまったく関係ない生駒家の女性で                     
信長の側室としてあがり、何らかの理由で                            
側室を下がることになったあとに誰かと再婚したので、                    
生駒家に墓がないのでは?                                      
                                                    
生駒家に伝わる家伝書の類でそのへんがごちゃごちゃになっている                      
可能性もあるんじゃないかな?                                
                                                   
久昌寺縁記が信長に関することが捏造なんだから、寄進されたとか、
信雄が喪主だとかいう箇所も捏造ではないとは言い切れない。                  
720日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:14:43
久昌寺の生駒の墓は後年配置換えされてああいう並びになった。                             
その際墓石も建立しなおしたということだ。
いくら信長側室だったとはいえ歴代当主の並びにあるというのは本来ありえない配置。          
生駒を生駒家当主なみの配置にしちゃうあたりが久昌寺の計算高いところだな。
                                                            
生駒を商業化しているのは生駒家ではないんだよ。 
生駒家の子孫にしてみれば武功のような偽書のせいで
史実と異なる生駒像を語られるのも、先祖に対する侮辱さ。                  
721日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:15:29
この時代で大名夫妻がともに祭りを楽しむことが珍しいことで               
なければ単なるレジャーだったんだと思うけど。                           
異例のことなら、何かしら意味のあることだったのかもしれないな。
御簾中という表現は貴人の妻に対する呼称だから間違いなく                    
この時点では濃姫を指すと思う。同じ年に濃姫の依頼と思われる                    
道三の肖像画が常在寺にあるから。                               
                                                    
御台やこの御簾中という呼称を側室にも用いたのだろうと                      
ここのスレでも主張している人がいるけど、このような                              
記録を作成している人物は当時ではかなり教養が高いはずなので               
そんな適当な表記はしないよ。                              
722日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:16:28
                                                     
                                                     
小見の方が明智光継の姫なら、祖父は美濃守護だった土岐成頼だし、
土岐家とのつながりは義龍よりも小見の方の産んだ濃姫の実弟たちのほうが
強かったと思うが、なぜに美濃国の旧土岐派の連中は
それこそまぎれもなく土岐の血をひく弟達を手にかけた義龍を                        
支持したんだ?                                                  
                                                     
それと濃姫は美濃国守護の土岐家の血を引く母に持っていたので、
濃姫の子が美濃国の国主になった場合、道三の譲り渡し状により
信長が治めるよりも、より正統性があり、そういう理由もあって
信長があっさり信忠に美濃国を譲ったのでは?とも考えている。
実権はどうせ信長が握っているのだから、美濃を安泰に治める
ことが先決だったのではないかな。                               
                                                
                                                          
723日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:17:09
>>545 信忠の生母を示す当時の史料が存在しないということは、後だし
じゃんけんで言ったもの勝ち。生駒氏なら信長の次男、長女を翌年に
立て続けに産んでいるので誰の目にも不自然ではない。そこで
後年生駒家が半信半疑ながら主張をしだしたということは充分考えられる。
それなら生駒氏が徳姫出産後信長の寵愛もなくなり、奥を下がり、出家し、
ひっそりこの世を去ったのも納得いく。

>>693 Wikiより抜粋
実際に織田信長に「征夷大将軍拝命」の勧めの勅使が来ていることもあり
(これは源氏でよいなら平氏でも、とも理解できる。
もちろん、源氏、平氏より貴種の藤原氏も同様。)、現実的には源氏でなければ
将軍になれないというのは根拠がない。
また、頼朝以降に限っても、摂家将軍や皇族将軍の例があり、
現実に清和源氏に限られていない。

秀吉は征夷大将軍になれなかったのではなく、それより地位の高い
関白になれたので構わなかったのではということだ。

源氏云々が本当で、仮に勝長の子が濃姫の子であっても、女系の場合はどうかな?
血は引いているが正統性は欠けると思う。
皇室、武家は伝統的に男系を重んじているので、そのことで
勝長が信忠より正統性があるとは判断されないだろう。
724日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:18:01
言継卿記を読んでも斎藤氏の名前は出て来ないからね。
一色義龍で出てくるから、パッと流し読みしたら、斎藤家周辺の話とは思わない。

言継卿記の壷事件が注目され始めたのは、武功以降だから、
武功で吉乃が正室扱いになったというのが定説になってしまったあと。
それ以前から注目されていれば、誰も濃姫ではないとは疑わなかっただろう。
定説を覆すのは、学閥などが絡んで、難しい。                      
武功夜話は偽書で、まともな論文の引用にはされないが       
未だに、側室関連は                      
武功夜話の記述にそった説で終始しているから
言継卿記の信長本妻を濃姫だと                     
認定するには、その武功夜話にそった信長の奥関連を
最初から潰さなくてはならなくなる。                      
725日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:19:17
>>724
>>95
俺もそう思うな。
勝手にイメージを膨らませて一族みんなが信長に詰め寄っていると思ってたけど、
実際は信長ぬきのところでそのぐらいの勢いで盛り上がっていただけかも。
意外とあっさりと騒動はおさまったのかもしれん。

ところで正月暇だったので例の「御台平産」の件を検証してみた。
信長は上洛後すぐに岐阜にもどっている。その後永禄12年1月5日に
三好3人衆が義昭の居所の本圀寺を襲撃したので、知らせを受けて
再度京都にむかったんだ。それからけっこう長く京都に滞在し
義昭のために二条城を普請したり、ルイス・フロイスと会見してる。

最初の上洛は上洛戦というくらいだから戦闘中でもあるのに臨月近い妊婦である
御台を連れていくというのはどう考えても不自然なんだよね。
でもその出産の話が事実なら御台と子供は岐阜に戻り、
御台は一度戻った信長と再度京都に随行したのではないかな?
10月に出産したから、2度目の上洛の時は心身ともに回復してるから
御台を慰安旅行がてら連れ出しても不思議じゃない。
今度は戦が目的ではなく、義昭警護と京都の治安維持がメインだから
御台を随行していてもなんら問題がないと思う。
永禄12年の2月29日の「公方様御台様〜」が信長御台であることはほぼ間違いないだ
ろうしね。
調べたところによると当時の大名の奥や側室達の楽しみは四季折々の者詣や
遊山、湯治、花見、茶会だったそうだ。思っていたより外にでてレジャーを
楽しんでいたようだし、なんといっても京都は女性の憧れの地であったらしい。
御台が夫の上洛に便乗して京見物をしたがったとしても不思議じゃないんだ。
726日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:20:30
>>725
自分も、その事は考えたなぁ。                 
だが、上洛戦の時はゆっくり京に進軍してるんだが、           
正月は3日で雪の中を駆け通して驚かせる程のスピードだったらしい。       
戦の時に同道しているなら、無防備に供を付けて戻すより、          
信長の本陣と一緒に行動する方が安全だと思う。
正月も、あとから呼び寄せたでもいいが、そっちの方が考えにくい気もする。
御台の寝所に近付かせないようにというのも、赤ん坊がいたからと考えた方が
自然じゃないかと思うのだが?                      
生後随分経って、岐阜に連れ帰ったから誰の子供か不明であったとする方が、
記録に残ってない辻褄は合う。                   
もちろん、信忠との兼ね合いで、生母を曖昧にしておいたと考えた場合だが。
                                     
727日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:21:45





                                                                

                                                                



                                                             

                                                                



                                                                

                                                              
                                                                




                                                              

                                                                

濃姫と明智光秀がいとこだと最近知った。ほんとびっくり
728日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:23:24
分限帳の安土殿は、他の女性の記載方法などから見て
安土城の「女主」であるというのは確定だと思う。
そして、それはお鍋ではない事も間違っていないと思う。
「女主」が誰かという事になると、濃姫と確定ではないが、
言継卿記の壷事件を精査すれば、斎藤家親族の女性が
正室であった事は間違いない。
                                                                                                         
斎藤家で、濃姫以外に信長の正室になった女性は知られていない。
馬場殿は、濃姫が生きているから、叔母姪の間で正室側室なんて駄目だから
信長にはやらんと言われているくらいだからな。
                                                      
もっとも、信憑性の高い文献ではないので、馬場殿の存在自体「?」だが。
                                                                
永禄11年の上洛以降、信長の動向は公家衆の日記や記録に出てくるが、
側室に上がった公家の娘の話みたいなのも出てくるのに、
正室が変わったとか亡くなったという記述はないから、
おそらく正室が変わっていないと考えるのが妥当。
                                                      
そう考えると、壷事件は永禄12年だから、
「女主」が濃姫の可能性が高いとなる。
                                                        
そんなところだろう。 
                                                         
武功夜話で吉乃が正室になったなどという、おかしな説が出てきたせいで
濃姫がその時点で死んでいたとされたのが、
それ以降の文献に出てくる御台が誰か分からないとされた一番の理由だし
吉乃死後、秀吉絡みで有名だったお鍋が正室代わりだったなんてことになったのだろう。
729日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:23:53
信忠の養子の時期は7才以降だと思う。
当時の乳幼児の高い死亡率から子供は7才ぐらいまで神様の預かり物
という認識だったので、乳児の頃養子にすることはしないと思う。
7才過ぎたあたりで早い子は元服を迎えたりしたので、
峠を越え、無事に成長をしたことを見届けたあたりで
養子にしたと思う。
正室の子でなければ嫡男になれなかったわけではないし、
養子にしたのは美濃支配のため信忠に正嫡性をつけたかったからだと思う。
730日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:24:17
実際、武功夜話で吉乃が正室になったとされる以前に、
信長御台と書かれている文献群が、広く知られていたら、
特に言継卿記の壷事件などが、有名であったら、
御台が誰か分からないなんて事にはならなかったんだろうか?
                                                
それでも、武功夜話で吉乃が正室になったって事になって、
濃姫と思われていたが、濃姫ではなかったとされていたんだろうか?
それとも、吉乃が正室代わりで、濃姫は別居させられていた
岐阜に信長が入ったら、吉乃も死んでるし、岐阜にいる斎藤一族達の
親戚の力で復権したみたいに言われてたとか?
                                                           
そういえば、壷事件が知られ始めて、武功がまだ真実を書いていると
思われていた頃に、そんな説を言っていた人がいた様な……。
あれは誰だったかな?
                                                         
自分としては、何故「武功夜話が真実を書いている」という事になったのか
という事の方が、興味があるんだけどね。
普通に史学部出身程度のリーマンである自分でも、読んだ瞬間に
「戦国期の常識も知らんのに、戦国期の文献を創作するなんてチャレンジャーだな」と
思ったものだがな。 
731日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:25:10
>>711 遅ればせながらルイス・フロイスの日本史の抜粋読んだんだけどさ
岐阜城での生活について                                              
「彼は内部においては、婦人及び姫君、息子達によってのみ仕えられていた」
ってとこなんだけど、息子達は信忠13才と信雄12才なのね。それぞれ一人なのかな?
原文に詳しい人が居たら教えて欲しい



その部分訳本によって微妙に違っていて、原点で調べてみたいなとは思っていたんだ4.
確か東京の国会図書館にはポルトガル語版があったはずです。
私自身はスペイン語は多少わかるけど、ポルトガル語は勉強してないので解読には自信なし。
同じロマンス語系なので何となくはわかるかも知れないけど、正確には無理。
誰か解読お願いします。確か1568年の記事だったと思う。
732日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:25:32
お鍋の方も諸説あるんだけど、こういう説もあるよ。
小倉左近大夫良親の息女で、本能寺の変後に実家の小倉に帰って親元にいたそうだ。
「近江輿地志略」「淡海温故録」参照。
ちなみに小倉賢治の室で切腹後どうのこうのは後年の創作話と考えた方がいい。
小倉家出身だったので、小倉なべ、と名乗っていたのだろう。

本能寺の変の時お鍋の長子である信高は大垣城主の氏家氏のもとで養育されていたこと、
安土城内の信長の親、妻妾、子供たちは蒲生家の保護のもと近くの日野城に
避難しているのに、お鍋が日野城に避難せずに実家にいたことから、           
お鍋は安土城の奥で公認されていた側室ではなかったのではないかと考えられる。
坂氏同様に城内におかれず、安土城下もしくは、居館を与えられていたのではないだろうか。
ただ実家のある小倉は滋賀県で安土とは遠いので緊急時の避難先にはちょっとリスクが
高いので不自然さは残るが、とりあえず日野城に避難して落ち着いてから
実家に逃れたとすれば不思議はない。

お鍋は濃姫たちと行動を伴にした様子はなく、信雄に庇護されていた痕跡もない。
秀吉の取立てによってお鍋が表舞台にでてきた経緯から、
正室の息のかかっていないことから、信長の男子をもうけた側室を                            
秀吉が利用したのだろう。                     
                                        
お鍋が正室格といわれてきたのは崇福寺への書状が根拠だったんだ。
あたかも正室クラスのがだす命令書だし、家臣の丹羽にもあのような指令を出せる
立場なのは安土城内でも相当権力のある女性であるはず→お鍋は正室格、
となっていただけ。                        
もしお鍋の書状でないと判明したら、たんなる側室以外の何ものでも
なかったことになる。                              
733日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:26:43
おぉ!
すごい検証がされてるんだね。
お鍋ではない、としたら濃姫なのか土田御前のどっちか、あるいは
それ以外の信長に関わる女性なのかが気になるな。
もしお鍋が一緒に日野城に逃れたとしたら正室を差し置いてそんな
命令書をだしたり、勝手に位牌所を設置したことが解せなかった。
お鍋が正室と行動をともにしていないなら、今度は安土城内にいなかった
ことになって、お鍋が信長の寵愛を受けていた、ということと矛盾が生じる。
でもこの書状をお鍋が書いたものでないならそのへんの疑問が解消されるよ。
一文字だけの解読だけなんだから、この消息の検証は簡単といえば
簡単なことなんだけど……
734日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:27:48
それで質問ですが、以前のスレの視点から見たら
類(吉乃)の性格はどうなってくるんでしょう。
秀吉とY談したりする、某ブログに書いてあるような
お下品な性格なの?
735日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:28:57
>>734

武功には確かにそういう記述がある。

某ブログというと、多分あそこというのは分かるが
あそこは小説ネタとして武功に出てくる「キャラ」としての
吉乃を利用するのは面白いと書いていた。
「類」の事は分からないとも書いていたな。


実際には、某ブログで書いているように「類」の事は分からない。

736日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:29:58
Y談とかのネタ元は武功夜話だからまったく信憑性がない。
性格に関する記述は資料等には皆無なので、憶測だけだけど、
当時の側室制度の常識だと、側室を管理していたのは正室だから、
濃姫が類の人柄や器量を認めて、信長の側におくことを許可しない限り
類は側室にはなれなかったはず。そう考えると類は濃姫が認めるだけの
女性であったろうから、家臣と軽口をたたくような品格のない女性とは
思えない。

類の実家の生駒家は信長の実母の土田氏と親戚関係にあり、血筋的にも
卑しい出自ではないし、一度武家に嫁いでいるのでそれなりの教養や
所作なども身に付いていたろう。

また信長の寵愛をかさにきて、実家の重用などを願い出ているふしもないし
(実際生駒家は信長の時代は武家としてなんの活躍もしていない)、
どういう事情かわからないけど亡くなる前に出家するなど、
子供を産んだ後には信長の側を離れているようなので、野心などもない女性
だったようだ。

武功夜話のような女性像は到底思い浮かばないが、かといって悪い印象も
思い浮かばない。出すぎたところのない、控えめな性格だったから
濃姫も類の子を養子にすることに抵抗がなかったのかなとも思う。
737日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:32:27
信忠と信雄が清洲で生まれたと、寛政重修諸家譜に出てる。
五徳は出てないな。

「寛政重修諸家譜」て信用できる史料なの?
738日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:34:18

















もうちょっとレベル高い話しろよ
739日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:36:08
>>737
信用できるかどうかは、分からんとしか言いようがない。
織田家が出した史料によって織田家の箇所が記載されている
徳川幕府が編纂した家系図だからね。
当時の織田家では信忠と信雄は清洲で生まれたと言っているのであって、
武功夜話みたいに生駒屋敷で生まれたとは言っていないということだけが
はっきりしているという事だろうな。
でも、信雄はともかく、信忠は嫡男だから、
秀吉だの使用人だのと気軽に猥談出来るような環境で生まれているとは
思えないけどね。
生駒家が、「信長様以外の男は近づけさせていません!!」って
言い張ったとしても、そんなの信用されるとは思えないんだし、
だったら嫡男なんかになれるとは思えない。
が、正室の養子になって嫡男になってるんだから、
他の男が近付かなかったって、第三者も分かってたってことだろ。
740日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:37:13
生駒氏を城の奥に閉じ込めて完全に正室の管理下におかない限り、
いくら生駒氏が信長の子供だと言い張っても周囲を納得させられないよね。
そう考えると武功夜話の生駒屋敷の出来事はすべて空想、夢想、虚言だな。
741日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:38:14
ところで生駒家と信長の接触はある程度あったのは本当だったの?
馬借で財をなした生駒家の援助やいろんな情報をもらったのでは?という
話もあるけど。

政略結婚の典型だった濃姫との結婚生活は意外とうまくいってたみたいだね。
TVなどのイメージにあるような気が強くしっかりものの濃姫ではなく、
でしゃばらず、逆らわず、内気で大人しい女性だったような気がするんだよね。
だから壷事件でいつも逆らわない濃姫が「私も死にます」と訴えたら
すぐに信長がおれたんじゃないかな?普段大人しい濃姫だけに本気だと
思わせるだけの迫力があったんだと思う。その後すぐに信長は濃姫の実母に
挨拶に行ってるし、斉藤家の長老である濃姫の実母に謝罪をして、
斉藤家に対し壷事件のことを詫びたことにしたのでは?と想像してる。
742日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:46:12
信長が毎夜城外に出歩いてるため
濃姫が信長に何故毎夜出歩くのか問い合わせたら
美濃に信長に内応する家臣があり、
その家臣からの合図の烽火を確認するために
烽火が良く見えるところに行っていると答えたところ、
濃姫は道三にそのことを知らせて
信長の口から名が出たその家臣は処罰されたという。

たぶん毎夜の外出は生駒の方の元に出向いていて
そのことに対する言い訳を濃姫が鵜呑みにしてしまった。
濃姫は愚かだったのでは・・・
743日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:49:42
帰蝶=お鍋説というのをどこかで読んだことがある。
帰蝶の幼少名が鍋だっとらしいんだけど、誰か聞いたことない?
ただそうなると、お鍋の産んだ子は帰蝶の子ということになるけど、
嫡男は生駒の子だから、そのへんが矛盾していて違うだろうと思った。
あの時代後から生まれても正妻の子の方が家督相続の権利は強かったはずだから。
信長も次男だけど、正妻の子ということで嫡男になっている。
744日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:50:55
お鍋の方こと小倉の本名も不明であくまで高畠氏女でしかないのに
お鍋の方だから本名もお鍋という見方自体が短絡的すぎだったわけで
一度リセットして考える必要があるのは確か

【しかし、歴史学者や研究者はそういうのをなぜか嫌がる傾向に
あるから研究があまり進まないのもまた現実

そんなはずはない、あり得ない、誤って伝わっているだけでしょと
そこで終わらせてしまったら、史学の発展もそこで終わる】

ちなみに信長はお鍋のことを鍋ではなく「小倉」と呼んでいたらしい。
この時代の慣例どおり、縁のあるにちなんでだと思われる。
745日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:54:22
ここではどうして勘九郎って名前になったか疑問説出まくりなんだが
個人的にこの名に何の疑問もない。道三の名と一緒だから。

元服した時、信雄や信孝と一緒だったと逸話が残っているけれど
ホントは一足先に美濃平定を祝って名をつけたんじゃないかと
疑いたくなる名前だと思わない?

濃姫の養子で信雄より一つ年上の嫡子が信雄と一緒に元服するのは相当不自然だし
信長が元服時点で信忠の器量疑ってて、この元服で見極め云々なんて俗説は
あいた口が塞がらないし

つか、個人的に一番疑ってんのは、信雄と信忠が同腹って説かな
徳姫が10月生まれって伝わってるところを見ると、ホントは記録残せたのに
故意に誕生日についての記録を消している可能性も捨てきれない

信雄3月生まれ説が濃厚なんで、よっぽど頑張らないと前年に信忠生まれないし
生まれ月がばれると同腹じゃないと解ってしまうのかもww
そう穿って見ると、誕生日は伝わってないのに3月7日生まれの信孝より後に生まれました
って逸話がやたら有名なのが、自分の誕生日を実際より遅く見せたい小細工に思えてくる

まー信忠と同腹ってことにしたら何が得なのか解らんのでいい加減な話なんだが
746日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:55:59
妄想で申し訳ないんだが、もしも信忠が生駒吉乃の子でないとすれば
一番可能性が高いのが帰蝶の実子だったって説じゃないかと思う
ここまで側室なしで推移してきたのに、信忠の後ぽこぽこと二人も庶子が
登場していることからも、個人的に割と良く出来た妄想じゃないかと思うんだが
嫁さんが孕むと浮気する旦那は多いんで

信忠と信房が同腹なら信房を養子に出す気持ちも
信房を信忠の与力にする気持ちも解らんでもないし

信忠の与力にしたのは、近くに置いて家臣団の対立に巻き込まれないように
する為だけだったかも知れないし、まーもー今となったら何もかも解らんのだけど
747日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:58:37
ふむ、なるほど。
確かに信忠がお濃の養子だったことを裏付けると言われている史料勢州軍記でも
「彼ノ信長公ノ之御台斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也、
嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也、弘治三年丁巳誕生、是御台ノ之御養子也、
次男信雄生駒ノ息女之腹也、永禄元年戊午誕生云々」だから
信忠も生駒腹だったとは断定できないかもね。

ってことは信忠の実母は誰?妾とは書いてあるけどもしかして濃姫とか?
748日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:59:46
>>746
最近の研究では西村勘九郎は道三の父で長井新九郎規秀以降を斎藤道三ではないかという話になってるようだが。
道三二代説が正しいかわからないが、この説の通りだとすると戦国大名斎藤氏の実質的な祖は西村勘九郎になる。
また信忠は濃姫の養子になっているわけなので、系譜上西村勘九郎は外曽祖父になる。
後に美濃を任せていることから見ても、信長の意図は信忠を織田の後継者であるとともに
斎藤家の後継者的な立場に据えようとしたのかもしれない。ところで生駒家と信長の接触はある程度あったのは本当だったの?
馬借で財をなした生駒家の援助やいろんな情報をもらったのでは?という
話もあるけど。

政略結婚の典型だった濃姫との結婚生活は意外とうまくいってたみたいだね。
TVなどのイメージにあるような気が強くしっかりものの濃姫ではなく、
でしゃばらず、逆らわず、内気で大人しい女性だったような気がするんだよね。
だから壷事件でいつも逆らわない濃姫が「私も死にます」と訴えたら
すぐに信長がおれたんじゃないかな?普段大人しい濃姫だけに本気だと
思わせるだけの迫力があったんだと思う。その後すぐに信長は濃姫の実母に
挨拶に行ってるし、斉藤家の長老である濃姫の実母に謝罪をして、
斉藤家に対し壷事件のことを詫びたことにしたのでは?と想像してる。
749日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:02:48
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
るかもしれないというレベル。
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
750日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:05:06
幕府の公的な記録では、信忠も信雄も清洲城で生まれてる。
つまり生駒御前は清洲城で側室になっていたと考えるのが妥当で、
清洲城の産屋で出産だったと思われる。
つまり、生まれた瞬間から、家中には広く知られた事になる。
反して、信孝は熱田で生まれた事になっている。
熱田から清洲まで報告が遅れた経緯はよく分からないが、
後日に熱田の神司の岡本という人物が報告に行っている。
生まれたのも岡本という人の宿所に関係あったらしい。
熱田は、津島と並んで、父信秀の時代から織田家の収入源だから
信長も重視していたと思われ、熱田神宮の関係のところで
信孝が生まれたとしたら、信長的にはそう大きく扱いに差があったとも
思いにくいのだがな。

結局後世残った織田の家系が信雄の家系って言うのが大きい気がする。
751日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:06:55
なにこれ、コピペ荒らし?
752日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:07:08
勝長を養子にほしいという叔母の申し出を信長は何度も断ったのに、
承諾したのは御家安泰のためもあったということか?

もし勝長がお濃の子なら織田家の後継ぎにできなくても
いずれ美濃を与えるつもりだったかもな。
753日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:08:37
>>752
岩村のように国境周辺地域は双方の国と通じることが特例として
許されていたらしいから、織田側の所領として岩村をがっちりと
引き止めておくには、そこに嫁いでいた叔母の頼みを引き受けざる
おえなかったという見方もできるかも?

叔母にしても遠山家に仕えていた家臣も家を断絶させたくはなかっただろうし
ぬかりない信玄のことだからそこをついて養子をやるから武田側に付けと
裏でつなぎをとっていたかもしれないし。
もし、そんなことを叔母が信長にチラつかせたとしたら、
信玄との直接対決は避けまくっていた信長はやらざる負えないだろうよ。
たとえそれが正妻腹の息子であっても持ち駒がそれしかないなら、
断腸の思いで決断するだろ。

信長が信玄に命や東濃を差し出す覚悟ができていたなら話は別だけどな。
754日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:08:50
>>751
前々スレ辺りのログのコピペだね。
なにがしたいんだろう?
755日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:10:25
そういや武田には信勝がいたからね。
信勝の母は信長の養女だけど苗木遠山家の娘でもあったから
岩村を引き継ぐ大義名分は十分成り立つわけで、信玄ならいい機会と
ばかりにねじこませるぐらいは考えても不思議ではないね。
ただこれは信玄が義信亡き後の跡目についてどう思っていたかによるが。
756日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:12:12
>>753

やはり政治的な駆け引きがあっての養子というわけだな。
あの当時の養子や縁談では当然だけど。

養子になったからには正式に岩村にいた信長の伯母の子として相続人になった
と思うんだけど、その後武田から奪還されて戻ってきて、立場はどうなったんだろう?
伯母夫婦は信長に処刑されたけど養子縁組を簡単に解消できるもんなのかね。
757日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:14:08
信長って男と女どっちが好きだったんだろ・・・
なんか女は子供をつくるためだけ、って感じがするんだが。

>>756
処刑されたのは叔母夫婦だけじゃないしな。
叔母が秋山と結婚する為の交渉役だった織田掃部助も粛正されてる。
信長はかなり怒ってたんだろ。
で、戻ってきたあと、すぐ犬山城主、信忠与力、安土での対面
その時の豪勢なお祝い品と続く訳だ。
名前も織田源三郎信房、または津田源三郎信房に改めてる。
まぁ、岩村城自体も、既に奪還して森乱丸が城主になってるし。
相続だとかって問題以前の状態だからな。
758日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:15:49
>>757
どっちも好きだったのかもな。
ただ、確実に衆道の相手と言われているのは利家だけだから
乱丸のように、荒小姓だったらしいのに、衆道の相手なんて
江戸期に創作されちゃったから、そのイメージが大きいよね。

側室は後家も多いし、子供作る為の道具って感じはするけど。
後家だったら、既に子供を生んでて産めるの証明されてるし
そういうところにも信長の合理性が出ているのかもしれない。
759日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:17:25
武功夜話って、地元の逸話や伝承や系図に詳しくて、大久地古事記って偽書の
制作も疑われている津田応助が作って、所有者である吉田龍雲が清書したって
話をよく聞くよね。
元の原書自体は、朝鮮戦役の辺りくらいだけで、その他の信長と関わるような
辺りの話は、津田応助が地元に伝わる逸話とかを取り入れて作ったって。
土田弥平次なんかも、江南市に伝わってる逸話を利用したと考えると
結構納得いくんだけど。
でも、津田応助って江南市では地元に貢献した立派な人物って評価だけど、
生きてた当時って、古物の転売してたんでしょ?
特に、吉田家に売ってたらしいね。
自分の家にあった古物を津田応助に売ったら、いつの間にか吉田家に
代々伝わるものとして吉田家で見せられたなんて話も聞くし。
津田応助は死んじゃってるけど、吉田龍雲は生きてるんだし、その辺弁明はないのかね?
760日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:18:51
>>751
まとめサイト用に過去ログをアップしてくれてると、好意的に解釈しておこう
761日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:19:16
古代史には近親相姦の間柄を匂わす伝承や事件も多いけど
時代が進んで畜生道としてそれを禁忌する風潮ができているし、
当時の常識やぶりの信長とはいえ、男女間の肉体関係で
そこまで外すかな?という感じはある。私感だけどね。

>出し惜しみしていたとも考えられる
歴史上の人物といっても生身の人だから、
その感情について想像することも大切だけど、
愛憎思慕は憶測に偏るので、過剰の想像しないようにしてる。
女の器量や度量性格、政略上のタイミング、相手側との折衝など
嫁ぐ時期の遅い早いの事情は色々と見つかると思うけど。

>>759
武功夜話については、中身はともかくw
その発見から発表の経路、出版戦略とかに興味が沸く。
面白そうな話なので色々聞かせて下さい。
養子になったからには正式に岩村にいた信長の伯母の子として相続人になった
と思うんだけど、その後武田から奪還されて戻ってきて、立場はどうなったんだろう?
伯母夫婦は信長に処刑されたけど養子縁組を簡単に解消できるもんなのかね。
762日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:20:25
なるほど、信忠と信雄が同腹なら「次男信雄モ生駒ノ息女之腹也、」ってなりそうだよな。
ところで勢州軍記っていつ頃成立で著者は誰なんだっけ?
「勢州軍記」は神戸良政が書いたもので、基本は伊勢の戦国史だね。
寛永15年(1638)に「勢州軍記」の抄録の「兵乱之記」を書いてるから
「勢州軍記」そのものの成立はそれ以前。
17〜18歳くらいから、蒲生氏郷に仕えた父親の政房の記録をまとめる形で
「勢州軍記」を書き始めたと言われているから、1609年生まれだから
1626〜1627年にかけて書き始め、その後伊勢に戻ってから更に
伊勢の人に聞き取りながら加筆したと言われている。
まぁ、神戸氏なので、信孝の事がよく出てくる文献ではあるけど、
だからと言って、信忠や信雄を貶めたりしているような記述は
特にはないと思うけど、これは私見なので信雄贔屓の人から見たら
どのように見えるかはちょっと不明。
信長死後40年位してから書き始めたものではあるけど、信長公記の
成立直後くらいだから、信長公記にあまり影響されてないように
自分には思えるかな。
生駒が信忠の母親なら「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也」と書かずに、
信雄同様に「駒ノ息女之腹也」と書いてあるはず。
お濃が信忠を養子にしたのは23歳の時だから、彼女の子であっても不思議はないけど
「妾ノ腹」と書かれるのはもっと不自然だな。
嫡男になるほどの実母なら、生駒よりも身分が高いと推測されるんだけど、
それなら生母についてきちんとした資料が残っていてもよさそうなものだ。
考えれば考えるほど謎。
普通、偽文書を歴史捏造目的ではなく、各家の記念的顕彰作品として作る場合
作者は専門家が見ればすぐに偽文書だと分かるようにしておくものという。
武功夜話などは、専門家からすると、このパターンに当てはまるらしい。
「門外不出」
「当本貸出しの儀平に断るべし」
などの一文は、常套句である(武功夜話にもしっかりこの一文がある)。
だが、
濃姫が中心とは言えないまでも、当事者になった事件は
永禄12年の壷事件だろうな。
763日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:24:09
>>759
武功夜話に関しては、実際に読んでみたら分かる事だけど、
信長と生駒屋敷が絡んで出てくる辺りは本当にめちゃくちゃ。
吉乃の夫が弘治2年に亡くなったと書いてあるのに、
同じ人間が、吉乃は濃姫が嫁ぐ前の天文20年頃には信忠を身籠っていたとか
弘治元年の正月に信忠が生まれたので祝いに踊り興行を生駒屋敷でやったとか
証言していたりする。
信忠の生年は弘治3年というのはほぼ間違いないので、まずそこからして違う。
もちろん、濃姫の輿入れは弘治以降って事にしたいらしい記述。
墨俣の一夜城に関する記述がおかしいというのはよく言われるけど、それは説明
しやすい箇所だからピックアップされているだけで、そこだけじゃなく
桶狭間の戦いの記述とかもおかしい。
最近じゃ、桶狭間は正面衝突のガチンコで、上洛戦じゃなく鳴海城などの
救援に今川が出てきたと分かってきているから分かる事だけど、
小六が村人に化けて画策してたり、まぁ、所謂昔から講談なんかで書かれている
奇襲戦を更に色付けしてある感じ。
あと、信長は、財力的には最近では熱田湊や津島湊をおさえていて豊かだったと
考えられているけれど、お金がなくて生駒に援助してもらってる事になってる。
ちなみに、昭和以降の市町村合併による合成地名が出てきたり、戦国期に実際に
生きていた人間だったら知っている筈の、当時の河の流れが、後世変わってしまった後の
河の流れで記述されていたりもする。
他には、閏月のあった年の記述など、閏月があったのを知らない状態で書いたのか
閏月が無視されていたりする。
戦国期、特に織田を専門にしている史学者などは、はなから相手にもしてないし
偽文書と言われている。
発表された頃、本当だとお墨付きを与えたのは、織田を専門にしていなかった
小和田氏とかだね。
あと、遠藤周作などの小説家とマスコミ。
結局、ある程度信憑性を有していると考えられているのは、織田とは関係のない
朝鮮戦役の記述の辺りだけというのが最近の見解。
764日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:25:41
>>759
普通、偽文書を歴史捏造目的ではなく、各家の記念的顕彰作品として作る場合
作者は専門家が見ればすぐに偽文書だと分かるようにしておくものという。
武功夜話などは、専門家からすると、このパターンに当てはまるらしい。
「門外不出」
「当本貸出しの儀平に断るべし」
などの一文は、常套句である(武功夜話にもしっかりこの一文がある)。
だが、
>自分の家にあった古物を津田応助に売ったら、いつの間にか吉田家に
>代々伝わるものとして吉田家で見せられたなんて話も聞くし。
というのが、本当の事だとすると、吉田龍雲という人は
自己顕示欲と名誉欲が強いと思われる。
しかしながら、元の持ち主に誇ったりする程度に粗忽者とも言える。
武功夜話の中身がそういうパターンに当てはまると気がつかないまま、
津田応助死後に本物だというふれこみで出版してしまったと考えられるのではないか?
765日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:27:35
信長ならまだ日本が安定しきってないことがわかってただろう。
秀吉は所詮成金で他の大名から尊敬されてないんじゃないかな。
石田光成とかは忠臣中の忠臣だけど本当に豊臣を立て直そうとしたのは彼だけじゃないかな??
やっぱ尾張の小国から上洛するに至った信長を尊敬、あるいは目標にしていた大名はたくさんいたんじゃないか?
信長の成り上がりを知らない大名は先代の大名に「信長に注意しろ」とか言われてたんじゃない?
推測だけど。彼なら絶対的な統率力が生まれたと思うのは俺だけか??
まぁ参勤交代みたいな制度は必要だけど。アレはホントにすごい合理的な制度だと思った。
ポルトガルとあのままずっと交易を続けてたら南米みたいに植民地にされた可能性があったと思うんだな。
だから鎖国のオランダと清だけ交易するって言うのは成功じゃないかな?欧米のこともなんとなくわかるし。
その辺を信長が理解していれば信長の政権も上手く行ったと思う。
外国を攻めるのはもっと内政が安定して金がダブついてから。
オランダと相談して攻めるとか彼は外交が上手いからね。
失敗しないように策を張り巡らせていたと思う。
766日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:29:14
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767日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:31:45
信長の遺体は、変時にこっそり忍び込んだ信長と親しかった
阿弥陀寺の清玉上人が持ち帰って埋葬したと伝えられている。
おそらく首だけだろうが。
これは、秀吉が法要を行う際に、阿弥陀寺に最初に頼んでいる事、
遺骨の差し出しを命じている事からも信憑性が高いと言われている。
ただ、清玉上人が秀吉の織田家乗っ取りをもくろんでいるような行動に
不審を抱き断った為、秀吉は致し方なく総見院を建て木造を火葬にした。
そして、その後秀吉は、阿弥陀寺の財産など没収して不遇な扱いをしたり、
阿弥陀寺を無理矢理移転させてもいる。
そのとき、遺骨も掘り返して移転したのか、そのままに移転したのかは不明。
だが、おそらく、現在の阿弥陀寺に遺骨はないと思われる。

ちなみに、信長の墓や霊廟は、もちろん遺骨の埋葬されていない墓だが、
確認できるだけでも各地に10箇所くらいある。
一番有名なのが、秀吉の建てた総見院。
768日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:33:14
幕府の公的な記録では、信忠も信雄も清洲城で生まれてる
光秀軍に包囲され、第清玉上人が火のかけられた本能寺に忍び込んで、
信長の遺体をみつけ、首だけでも持ち去るのは現実問題として不可能だと思う。
本能寺の変を聞いて駆けつけたというけど、その前に光秀がくまなく
探させているわけだしね。
味方の放った火が遺体を炭の様に燃えさせ、誰が誰だか識別不可能になったと
考えるのが妥当だろう。 にはそう大きく扱いに差があったとも
思いにくいのだがな「¥
結局後世残った織田の家系が信雄の家系って言うのが大きい気がする。
清玉上人が信長の遺体を火葬して持ち去った説もあるけど、生の人間を
骨になるまで焼くには相当な時間がかかって、その間に光秀に
見つかってるはずで、この説も信憑性がない。
つまり生駒御前は清洲城で側室になっていたと考えるのが妥当で、
清洲城の産屋で出産だったと思われる。
つまり、生まれた瞬間から、家中には広く知られた事になる。
反して、信孝は熱田で生まれた事になっている。
熱田から清洲まで報告が遅れた経緯はよく分からないが、
後日に熱田の神司の岡本という人物が報告に行っている。
生まれたのも岡本という人の宿所に関係あったらしい。
熱田は、津島と並んで、父信秀の時代から織田家の収入源だから
信長も重視していたと思われ、熱田神宮の関係のところで
信孝が生まれたとしたら、信長的
769日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:34:27
武功夜話って、ひとくくりにされているけど、何種類かの文献の寄せ集めな訳よ
そのなかで、どうやら朝鮮の役の辺りは、信憑性があると言われている。
どうも、いわゆる江戸期に作られたという原本はその辺だけだったんじゃないかと
推測される訳だ。
だから、それ以外の信憑性のない辺りは、それこそ昭和年間に捏造されたものと
考えられる。
実際、普通は、昭和以降の地名だとか、後世の自然現象で変わってしまった
地形を元にした記述だとか、吉乃がらみで言えば、弘治2年に夫が亡くなった
なんて書いているにも関わらず、天文20年や弘治元年正月に信忠生んでたり
濃姫の輿入れが弘治2年だったりするような、他の資料と付き合わせて
明らかにおかしな記述がある時点で、アウトな訳。
で、武功に信憑性を見いだしたい人間は、その寄せ集めの文献の中でも
朝鮮の役を持ちだしてきて、信憑性があるから、武功夜話全体も
信憑性があるのだという論調。
反対に、武功夜話全てを否定する人間は、アウトな記述があるから
寄せ集め文献の中でも、アウトな記述がないものも含めて偽書という
そういう状況な訳よ。
で、専門家の検証を受けていない時点では、専門家としては何も言えませんよ
というのが、学者達の意見という感じかな。
770日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:35:40
>765 
日本語で桶というか意味不明
771日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:36:00
勝長が濃姫の子であることに不自然さはないんだけど、なぜ濃姫の子で
あるという記録がないのでしょう?

濃姫の実子であっては不都合な理由があったとしたらそれはなんなのか?
で悩みます。

側室腹の嫡男信忠と正室腹の勝長とで家督争いがおこることを避けたかったため?
ぐらいしか理由が思い浮かばないのです。
772日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:37:28
今目に見える形の信憑性のある文献からは
それくらいしか思いつかないよなぁ

これは完全に推理で妄想だから、読み飛ばしてくれればいいのだが
勝長が永禄11年に生まれたんだとしたら、信忠はかぞえで13歳くらいか?
12年わが子同然に育てた子供がいたら、実子が生まれても
相続争いを考えれば理性的に行動できるともいえる。
信長自身が信勝と相続争いで骨肉の争いをしているのを濃姫は
目の当たりにしているわけだ。
そして、その二人の生母である土田御前の苦悩だって
同じ女として濃姫は見ているに違いない。
信忠と勝長に二人にさせたいとは思わないだろう。
まして、こういう場合これほど歳が離れていれば
粛清されるのは弟のほうである可能性が高い。
だから、親戚にお預けという形で離したとしても不思議ではない。

>>770
同意
意味わからん
773日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:39:40
信忠の母方が生駒氏だとするとその割には冷遇に近い扱いをされている気がする。
織田家時代の生駒氏って秀吉の与力扱いしかされてないけど、
濃姫の養子になってるとは言え、嫡子の生母の家にしてはずいぶんな扱いだ。

あと勝長が濃姫の実子って話が出てるけど、だからといって嫡子の
競争相手をわざわざ作るような真似をするかな?
それこそ信忠と信雄、信孝を明確に差をつけてきた信長の考えと
真っ向から矛盾すると思うんだが。
774日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:40:23
自分も寛政重修諸家譜の信忠の生母の記載はでっち上げだとは思わないな
ただ、勝長の生母に関しては、巧妙に削除したんじゃないかとは思う
秀勝の生母なんかは、不明だが、その足跡はある程度分かっている
書状なども残っていた筈。
冬姫の生母と同母らしいというのも分かってきている。
しかし、勝長みたいに信長生存時に元服した人間の生母が、
全く分からないというのもおかしい。
ただし、寛政重修諸家譜が編纂され始めた19世紀に削除されたんじゃなく
信雄が生きていた時代に削除されたんじゃないかと……。
だから後年子孫が、寛政重修諸家譜の為の資料を出す時には不明に
なっていたんじゃないかと思う。
それこそ、勝長の子供が生きていたから、仮に生母が濃姫なら
隠さなくちゃいけないと、信雄が思ってもおかしくはない。
775日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:41:16
信忠は信長の子なんで秀吉の場合は参考にならないかと
近いのは伊達家かな
政宗の側室の生んだ第一子は、分家になってる
でも秀宗は正室の養子にはなってないから単純に比較は出来ないよね

というか、正室がまだ23才なのに養子をとっているのが異例な気がする
養子にするまでも無く、側室にしか子供が出来なかったら
側室の子を側室の子のまま世継ぎにすることが多いし
側室の子が継いだら、濃姫が尊重されないかもしれないこと気にして養子という流れなら
もう数年、濃姫が30超えてもう子作りは無理と諦めがつくまで待つんじゃないかと
美濃が欲しいだけで濃姫についてはどうでも良いっつんなら別だけど……
後は濃姫本人が諦めていて養子でも良いから早く子供が欲しいと思っていたとか

信房について、もし濃姫の実子で、だから養子の信忠は美濃支配に留めて
織田を継ぐのは源三郎信房というプランがあったとしたら
信忠は即効で信房を殺したと思うんだよね
与力だから、戦でちょっと危険な所を任せて、うっかり指揮を取り間違えたように見せかければ
簡単に殺せる
殺したところで誰も信忠を罰することが出来ない
信房が居なくなってしまったら、信忠しか織田を継ぐ人が居ないからね
「源三郎」が、いずれ織田の跡取りにいう意味なら、戦国の常識に従うと同母の兄弟でも殺すし
信長も伊達に弟に謀反起こされた訳じゃないから
信忠が嫡男というのが揺るがないことが内外に明白なのでなければ
信房を信忠の与力にはしないと思う

源三郎については、後で周囲に誤解招くかと反省したんじゃないかと思うけど
だから半年後、信忠に「天下の儀も御与奪」とわざわざ言ったのかも

つーことで、信房が濃姫の子なら、信忠も濃姫の子と、セットで考えてる
逆に言うと、信忠が濃姫の実子でないなら、信房も違うと思う
776日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:42:37
信忠に関してはやはり側室腹と考えるのが自然だと思う。
それも>>653のような流れであればなんら不思議はない。
濃姫の認めた人柄の女性を側室に差し出し、自分の代わりに
子供を産んでもらったというだけの側室。
立て続けに子供を3人も産んだから寵愛が深かったという
誤解を与えたけど、逆に年子3人ということは、褥の数は最小3回でも可能。
妊娠中は褥をすることもなかったろうから、信長との関係は
側室と当主のそれを超えるものはなかったと思う。
第3子出産後はぱったり子供が産まれてないのが寵愛がその程度であった
証拠。

勝長は実子である可能性は大いにあるけど、信長が目の黒いうちは
嫡男を退けてまで勝長をという考えはなかったと思う。
その気持ちがあれば養子にだしたりはしないはず。

嫡男として育てておきながら当主の怒りをかい、廃嫡されるというケースは
あるので(細川家、ガラシャの長男は廃嫡)、家督争いのためというのではなく、
信忠に嫡男としてあるまじき粗相があったら廃嫡して、勝信が嫡男に
ということはありえるだろう。

いろいろ考察すると、濃姫は世間が思うほど影の薄い正室ではなく、織田家に根を
はって、正室として実権を握っていたというのが本当のところではないかと思う。
それには信長の理解あってのことだから、夫婦関係は良好だったんだろうとも
思える。信長が道三のかたきをとってくれた、濃姫のおかげで念願の美濃を手に入れた、
というお互いの利害関係も一致していたしね。
777日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:44:17
>>775
伊達家の場合は秀宗を豊臣家に人質に出したものの、
徳川の時代になるから徳川に人質として送っていた忠宗に跡を継がせるという
政治的な意味もあるから濃姫の事例とは微妙に違うな。

そもそも勝長は本当に濃姫の子だったのか?
濃姫が若いうち信忠を養子にしたということはもしかすると夫婦間が不仲で
早くから関係がなかった=子供は望めないということだったのかもしれない。
また渋々とはいえ、正室腹の長子を外様の最前線に送るってのも考えにくい。
また織田(津田)姓のままだったといっても帰国してからまだ半年、
いずれは他家に養子に行く予定、もしくは信長としてはその腹づもりだったが
養子に行く前に本能寺の変が起きてしまっただけというのも考えられる。
何より源三郎≒三郎説は根拠としては弱いし、勝長が濃姫の子というのも何の根拠も無い話。

仮に勝長が濃姫の子として、信忠という壮年で器量も優れた長男がいるのに末子を無理に
立てるようなまねをすれば信長の目が黒いうちならともかく、死後に内紛が起きる危険もある。
次男以下を他家に送り出した信長がわざわざそんな愚を犯すかな。
また濃姫、ひいては美濃衆に対する配慮という話も出てるが信忠は濃姫の養子だし、
美濃衆の多くは信忠配下になっているわけだから彼らからしてみれば順当に信忠が
後継になったほうが政権中枢参画できるんだから、信忠後継のほうが望ましい話だろう。
778日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:45:16
俗に濃姫と呼ばれる織田信長正室(斎藤道三の娘)についての
史料は少なく、消息ましてや個人的資質についてはほとんどわからない。
とりあえず信長の正室についてのことだと思われる史料を挙げておきます。


「さて、平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤道三婿に取り結び、
 道三が息女尾州へ呼び取り候ひき」(改訂信長公記・新人物往来社)

 この道三息女の名前は信長公記には載ってません。『美濃国諸旧記』という
江戸時代に書かれた史料では、「天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主
織田上総介信長に嫁す。帰蝶の方といふ。又鷺山殿ともいふ。」となってます。

それから公家の山科言継が美濃に下向したときに見聞した事件として、
彼の日記『言継卿記』の永禄12年7月27日の記録に、
 「故一色義龍後家壷可為所持、可被出之由信長連連被申、一乱之刻被失云々、
  尚於責乞者可自害云々、然者信長本妻兄弟女子十六人可為自害、國衆大なる衆十七人、
  女子之男以上卅余人可切腹由也、仍中分失弗に治定、今日無事に成了、」
というのがあります。簡単に説明すると信長が故・一色(斎藤)義龍の未亡人所有の壷を
欲しがったが、未亡人は無くしたといいこれ以上責められたら自害すると言った。
これに対して信長の本妻とその兄弟や主だった国人衆などが、
(未亡人が自害するようなことになれば)自分たちも自害・切腹するといって、
信長に反抗、結局信長が無くしたという未亡人の言い分を認めて無事解決、
という事件です。
ここでいう信長本妻はどう考えても信長の正室で斎藤家に深い関係のある女性なので、
俗にいう濃姫のことかと思われます。彼女の性格がわかるような史料はこれぐらいしか
知りません。
779日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:47:04
それは当時の当人達にしか分からないんじゃないかな?
ただ、信長は御台を連れていろんなところへ行ってるし、意外と仲は良かったのかもしれん。
濃姫にとって吉乃の事は、普通に正室から見た側室、子供を産む為の使用人と思ってたかもな。
吉乃は、武功夜話でこそ生駒屋敷にいて信長の最愛の人だけど、幕府の公式な家譜では
清洲城で信忠も信雄も生んでるし、真っ当に清洲の奥で側室の務めを果たしてただろうさ。
信忠は正室の養子で、斉藤家美濃衆にがっちり囲まれて育ってる事からしても、
別にそれほどどうという事もなかったのかも。
信長が生駒家の女を側室にした事自体、犬山城と生駒家の分断の為だろうしな。
もし、吉乃が最愛の人だったとしても、早くに亡くなってるし、濃姫が安土殿で
正室としての立場を全うし続けたんだったら、吉乃の実子である信雄が600貫文も
知行を与えてる事からして、尊重されてただろうし、特に気にしてなかったんじゃないか?
吉乃が側室だった期間より、いなかった期間の方が濃姫の人生の中では長いんだし。
780日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:47:34
何が何でも史実に昇格させたい人々かぁ。
じゃぁ、反対に史実昇格(?)に反対する人の目的は?

通常、最近発見されたような文献や史跡や資料があれば
これまでよく分かっていなかったというだけの人物の場合
経歴として反映される。
全く違う経歴が史実として、資料等があって流布している
場合は、書き換えるか否かはもっと議論されるとは思うが。
全く違う経歴の史実はなく、単純に分かっていなかった場合
ある程度信憑性が高いものが出て来たら、こうなってしかるべきだろ?

結局のところ、別段大きく文献に残る程特殊な事件が起きなかった
女性などは資料が残る事は少ないという事実を踏まえれば
ごく普通に夫婦でいたんだろうと考えるのが、これまでの
女性史としてのありようなんじゃないの?
信長の御台だとか、疑問の残る武功夜話の吉乃の箇所とか
そういうものを大きく考えるから、濃姫が資料として
残っているものが少ないという事を、ことさら重大に
考え過ぎなんじゃないの?
781日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:48:50
しかし、>>758はかなり読解力がないか
史実を知らないのだろうか?

徳姫永禄2年誕生は史実だ
生駒女永禄9年没も史実だと思われる
短期間で死んでなんかいないんだけどな?
それを指摘しているのに>>756を読めというのは
意味分からん。

短期間で死んだと思われている理由も>>542には
書いておいたんだが、細かく言わなくては分からなかったのだろうか?

武功夜話では
吉乃は徳姫産褥後病に臥せっていた。
小牧御殿が完成したので、吉乃に座敷を与えるから来いと言った。
信長は吉乃の病を知らなかった。
吉乃は信長の計らいで輿で小牧にきた。
翌年ほぼ寝たきりのまま小牧で亡くなった。
となっている。

詳しい年代記述は亡くなった年だけなので、武功の情報を鵜呑みにすると
産褥後の病を知らなかった期間なんて、長くて数ヶ月だろという風に思われている
そのため、徳姫出産後すぐに亡くなったかのように言われているが、
じつは7年も経ってから亡くなってる。
すぐに亡くなった訳じゃないというのはそういう意味だ。
782日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:50:25
生駒家の家系図でも「吉乃」なる女性は存在せず該当すると思われる女性は「類」。
信忠、信雄、五徳は清洲城内で産まれた記されているので、生駒屋敷に類がいて
信長がせっせと通ったこととも矛盾する。
濃姫公認の側室として清洲にあがり、奥で側室奉公をしていたという事実を歪曲
しているのは確か。
武功夜話の年代的な矛盾も甚だしく自分で調べてみるといいよ。
呆れるほどだから。
信長の寵愛が深かったという証拠となるのは武功夜話に書かれていることだけが
根拠。
一般史料からわかることは、類はその他大勢の側室となんら変わりない扱いを
受けていた。それどころか、生前出家していたことがわかっているので
五徳を産んでから信長のもとを去っているんだよ。
寵愛が深かったらそんなこと信長が許さないし、する必要もないでしょ?

年子で3人産むということは、さほど信長と交渉回数がなかったということの
裏返しでもある。何を根拠に信長の寵愛が深かったと信じられるのかな?
783日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:51:49
一度、みんな平明な思考で検証をしなおしたほうが良いと思う。

ここの人たちは自分の好きな人物に肩入れしすぎの感がある。
また、憶測が多いのも難点・・・妄想と紙一重の危険性があるぞ。
784日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:53:34
匿名掲示板で叩かれたところで痛くもありませんから。
主張したいことは主張するだけです。

これはあまりに自己中心的な態度ではないですか?
自分は痛くもなくとも、当事者以外に貴方の煽り発言を不快に思っていた人は
たくさんいるし指摘されてもなお挑発するような書き込みを続けている態度には
自分も憤りを感じました。
他人に迷惑をかけないという前提でご自分の主張をしてください。
それから傍からみていると、 「信忠の母は生駒氏では無い」という主張に
固執している人たちと同じレベルで「信忠の母は生駒氏である」と
感情的に固執しているようにしか見えません。
生駒が信忠の生母でなないと主張する人の中には、
可能性の一つとして、生駒が生母ではないということも考えられる、
という意見もありましたが、
そのこともまっこう否定できるだけの確実な史料をお持ちならともかく、
そうではないのでしょ?信忠の生母の記載のない史料もあるのですから。
なんでそこまで双方が信忠の生母にこだわっているのか理解できませんけどね。
しょせん生駒は側室でしかないし、史実の表舞台には濃姫以上に出てこない人物
だから。

とにかく荒らし行為だと他人が感じるような書き込みはルール違反だと思いますよ。
785日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:55:30
上の西洋社会の人食いで思い出しました。
大昔、第二外国語のフランス語でペローのシンデレラを習ったとき、
以下のような後日談がついておりました。
シンデレラの姑の女王は実は人食い女で、王子様の遠征中、
シンデレラの子供(要するに自分の孫)たちを食べようとする。
しかし家来が同情して、女王を騙して鹿の肉を与えていたが、
それがばれてしまい、今にもシンデレラと子供たちが
女王に食べられそうになったとき、
王子様が帰ってきて、女王は蛇やら蟲やらなめくじで
いっぱいの穴に落ちてくわれちゃう、という話。
「子供にロベールソース(どういうソースか不明)をかけて」とか、
蛇にお后が食われるとき「骨がぎしぎし」したり、
シンデレラ本編より後日談の方が猟奇的でかなり面白いのですが、
不思議と日本のどの本にも出てこない。ペローの原作はフランス語
忘れて二度と解読不能(泣)。
786日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:56:45
土岐成頼─┬政房
       ├頼定(明智)
       ├頼尚(明智)┐
       └元頼─頼連│
┌──────────┘
├明智光継┬光綱──────光秀
│      │  │┌妻木広忠  │└┐
│      │  │└妻木範熈─熙子..│
│      │┌妹            .│
│      │└武田義統       ...│
│      │  │           . │
│      │┌姉           . │
│      │└足利義昭       ...│
│      │               │
│      ├光信(山岸)─────千草
│      ├景行(遠山)(光安?)─秀満
│      ├光忠(小里)
│      ├頼房(原)
│      ├光廉(三宅)
│      └小見の方
│         ├──帰蝶
│       斎藤道三 │
│             織田信長
└土岐頼明─定明
         ├───定政
  菅沼定広─娘
787日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:56:45
>775 
信忠が勝長を殺すという発想になぜなるのかが 
いまいちわけわからんなぁ… 
信忠も勝長もお互いの立場は理解していただろう 
他スレだったかで誰かも言っていたが 
いずれは信玄でいう信繁みたいな存在に 
なるよう見込んでいただけじゃないのか?
788日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:57:44
土岐成頼─┬政房
       ├頼定(明智)
       ├頼尚(明智)┐
       └元頼─頼連│
┌──────────┘
│       朝倉孝景
│         ├──────義景
│武田元信┬広徳院
│      │        ┌足利義昭
│      ├        └姉
│      ├元光┬信親  ├─元明
│           ├信豊┬義統
│           └信高├信方
│               └お牧の方
│         ┌─────┘
│         │喜多村保光─伏屋姫(光秀室)─喜多村弥平兵衛
│         │┌妻木広忠
│         │└妻木範熈─熙子
│         │         ├娘(秀満室)
│         │         ├娘(光忠室)
│         │         ├玉子(細川忠興室)
│         │         ├娘(津田信澄室)
│         │         ├光慶
│         │         ├定頼(筒井)
│         │         │
│         ├──────光秀
789日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:58:31
├明智光継┬光綱
│      ├光信(山岸)───千草(光秀室)─光重
│      ├景行(遠山)(光安?)─秀満
│      ├光忠(小里)
│      ├頼房(原)
│      ├光廉(三宅)
│      └小見の方(道三室)─帰蝶(信長室)

└土岐頼明─定明
         ├───定政
  菅沼定広─娘
790日本@名無史さん:2007/06/09(土) 22:59:56
>>783
でも歴史検証にとって一番大事なのは当時の信憑性の高い資料の検証。
それに即して当時の風習、慣習、時代背景を視野に入れた憶測で肉付け
していくわけです。根拠のない妄想は危険だけど、資料を根拠に憶測をして、いろんな角度から
意見を言い合うことは大切な事だと思う。

吉乃マンセーが叩かれるのは、武功夜話や早わかり信長辞典みたいな、
ものしか目を通さず、他の資料と照らし合わせればいろんな矛盾が
すぐにわかるのに(年表と比べただけだって矛盾だらけ)、
それもせずに鵜呑みにしてるから。

濃姫に関しては、信長御台という記述の残る資料を集めてもたいした量は
ないけど、そこからみえてくる濃姫像はけして信長に冷遇されていた
という事実はないということ。

ということは夫婦の営みもあってもおかしくはないので、
濃姫に子供が生まれても不思議ではなく、
「近江國輿地志略」の「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。」
の記述を根拠に、勝長が濃姫の実子では?とたどりつくわけです。

好きな人物だからと肩入れをしてそう結論づけるようなことはしません。
少なくとも私はそうです。
791日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:01:52
信長の生母について話を戻したいけど・・・
信長の生母は土田御前でないかもという話が出てきた。
しかし、信長の生母でしかも信秀の正室でもあるのに
なぜ名前が残らなかったのだろう。
しかも信長生母は、信長の死後、
なぜか織田一族主催の葬儀には出席せず、
秀吉主催の葬儀に出席していると
どこかのスレで見たが、これって信長生母としては
おかしくないか?

あと信長生母 = 土田御前 ではないとして、
信長と同腹だった兄弟は土田御前が生んだのではないことになるし、
この土田御前って人は別に信秀の子供を生んでることになる。
だとすると、なぜそっちの方が記録に残らずに
土田御前=信長生母 という記録だけが残ったのだろう?

ややこしくてごめん。
792日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:03:03
秀吉主催の葬儀に出たのって、信長の生母らしい土田御前と
信長にものすごく寵愛されてたらしい側室のお鍋だっけ。
単なる信長の父親の側室だった女性や、数多くいた信長の側室の一人が出席するより
生母や寵妾が出席する方が葬儀の格が上がって主催者は嬉しいのかも。
793日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:03:32
>784 
このスレのどこに君らの推測に 
異議ありと唱え続けている人がいる? 
生駒こそが生母だと訴え続けている人がいる? 
794日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:03:52
田氏の検証もどっかで読んだことあるけど、土田氏のことは謎だらけなんだ。
信長祖父の信正の時代はまだまだ地方の豪族の庶流の一つにすぎなくて
織田家内でもぱっとしない頃。ただ津島に目を付け経済力で基盤を固める
基礎固めのため信秀の正室をその方面からもらった可能性がある。
津島に土着していた土豪集団(津島七党等)と争いが絶えなかったというし、
政略結婚によって津島の反織田勢力を支配下においていったのではないかと推測できる。
土田氏と婚姻関係を結ぶよりも、直接的な利益につながることから
その線を押している専門家もいたよ。
土田氏とは婚姻関係を結ぶほどの必要性がない関係じゃないかって。

信長生母で正室だというのに、土田氏一族が織田家で重用されていた記録は全然ないし、
当時の婚姻制度だと正室の実家の家臣が婚姻の時に付き従って、嫁ぎ先でもそこそこ
重用されていくもんだから、そのへんは確かに変ではあるけど。

ちなみに信孝生母の坂氏は津島七党の一つ岡本家が母方実家筋にあたるそうで、
坂氏が信長の側室になったのも、政略的な意味合いからじゃないかと思ってる。
信孝の筆頭家老が岡本良勝で、信孝は良勝の屋敷で誕生したということだし、
関氏一党であった鹿伏兎氏の庶流坂氏が、早々に関氏に見切りをつけ、
織田家にくだり、人質として信長に信孝生母を差し出した、という説を
密かに信じてる。坂氏の身分が低いっていうけど、馬借侍の生駒家に
とやかくいわれる家柄じゃないよ。
795日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:04:30
>>793
バロン
796日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:05:09
明らかにスレ違いの話とは思うがある作家(だったと思った)の
信長の本に、信長の兄弟信広、信治、信興、秀孝、さらに叔父
信次らも信長が暗殺したなんてことが書かれてた。
一般には彼らは伊勢長島や浅井朝倉との戦いなどで戦死したという
ことになってるがこの本ではそのことが公記に書かれてないこと
が一つの根拠になっている。
確かに記載はないようだが、自分が読んだ信長公記現代語訳では
戦死した者の内、叔父信次は出奔していたのを信長が再び守山
城主に据えたという記事の続きにそのことが書いてあった。
そう言われれば信広、信治などについては記載があってしかるべき
とは思うが。
自分としては信長が信勝(通称信行)以外の兄弟をここまで殺し
つくしたなどとは信じたくないが・・・
まあ所詮作家の書いたものなんだが。
797日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:05:27
信長は、側室は子供を産ませるために必要と考えていただろうから
後家で子供を産んだ経験がある女性は、条件にかなっている。
家康も、天下を掌握するまでは、後家を側室にして子供を産ませているし。
持ち駒としての子供が必要な時代には、そういう風潮があったのかもしれないな。
また、経産婦なら、婚姻した事もなく側室に上がった女性よりも
子供を確実に産める可能性が高いし、だから史実に残りやすいという構図かもしれない。
処女のまま側室に上がって、子供を産んでいない女性などがいても、
歴史には残らないからな。
また、生駒もお鍋も、秀吉といくらか関わりがある。
生駒家そのものが秀吉の与力で譜代だし、関ヶ原で家康側に「も」ついて生き延びてる。
お鍋も秀吉の法要に出席して、信長の後継者という権威付けに貢献している。
秀吉が天下を取ったから、その2人が目立っていると考えると、
スタートラインをフラットにしてみたら、信長の側室としては、
それほど飛び抜けていた訳でもないのかもしれない。
複数の子供を産んでいる側室が、他にいたとしても、特定されていないから残っていないしな。
もし本当に、お鍋が信長の奥で力があったら、信雄が知行を与えていただろう。
秀吉の庇護下に入ったのは、織田家から捨て置かれていたからだ。
信雄の分限帳を見れば、織田家で重きを置かれて当然の女性には知行を与えているからな。
798日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:06:38
どのレスがバロン氏なのか言ってもらいものだな
799日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:06:46

戦国時代の特色として嫡男であっても当主である父親の意向で
廃嫡の可能性がいくらでもあったということ。
斉藤家だってそのことを恐れた嫡男が先手を打って道三を亡きものにした。
伊達家や織田家のごたごたも次男であっても嫡男になれる可能性は当然あった
ということの証明。
家光の時のごたごたまでは戦国感覚でその可能性もあったので、家臣も真っ二つに
わかれたけど、家康の鶴の一声で長男優先が定着した。
でも正室の子ということが前提。
正室に男子がいない時に限り側室の産んだ男子を養子にして嫡男としていった。

濃姫が早々に側室腹の子を養子にしたのは不思議なことだが、戦国時代は当主は
明日の命もわからない時代だったので、嫡男問題は先延ばしできない事態になって
いたのかもしれない。嫁いでから7年たっていたし、道三も亡くなっていたし、
家臣からの圧力もあって濃姫としても仕方がなかったのだろうと思う。



>>796
山岡荘八?
800日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:08:40
>>797

>織田家から捨て置かれていたからだ

というより、最高権力者である秀吉になびいたんじゃないか?
織田家についてもお鍋も子供達も厚遇はしてもらえないだろうからさ。
そのあたりにもしかしたら正室への対抗意識があったのかもしれないけど。
801日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:10:35
学者や研究者が取り合わないのはなんで?
別に研究者みんながみんな濃姫の早世を主張していたわけでは無いのだから
こういう文献があって御台として尊重されてたようです、と
発表する学者がいても良いように思うのだけれど。

やはり妻妾のことなどでは著作のメインにならないとか、
戦国女性史分野が軽いものと見られているとか?
岡田氏もあれから進んだ著作を出して無いよね。
802日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:11:19
近江國輿地志はともかくとして、
言継卿記や近衛前久第門外町人中宛日乗朝山等連署奉書や
今井宗久の書状などは、別に無視されていた訳じゃないよ
ただ、元々戦国期の妻妾の事を突っ込んで研究している人は
在野の人に多かった訳だから、武功夜話信奉者に多くが流れた後
武功夜話に都合の悪い記述は、それをいかに濃姫ではない事に見せるかに
そういう人達は腐心してきたと言っても過言ではないと思う。
一番呆れたのは、言継卿記の信長本妻は、吉乃死後斎藤家からもう一度
正室を娶ったのだと主張した人がいたこと。
もしそういう事実があれば、それこそ文献に残る筈だというのに
そういう事は無視だからね。
さすがに、吉乃の辺りの矛盾点を、多くの人が認識しだした昨今では
声だかに主張する人はいなくなったけど、歴史読本など読んでみると
いまだに吉乃正妻説を、常識の事のように書いている在野史家が多い
安土殿にしても、養華院殿要津妙玄大姉にしても、濃姫と確定できないと
主張する程度で、じゃぁ、安土殿、養華院殿要津妙玄大姉、そして種々の文献に出てくる
御台や北の方や本妻という記述の女性に、誰が当てはまるのかという事には
そういう人達は誰も答えられない訳だ。
養華院と、興雲院の墓が総見院に建っていて、体裁が違うというのに、
どっちもお鍋の墓だと主張する人とか、氏郷記に出てくる御台もお鍋だと
主張する人とかいる訳で、織田信雄分限帳の安土殿だって、お鍋に違いないと
言う人達を何人見た事か。
その頃には、高台院の侍女になって知行を与えられてた事は無視ですかと
思ったものだ。
とにかく、吉乃の正妻説を真実にしたい人達にしてみれば、濃姫が生きてて
信長と普通に夫婦であった事は認められない事で、それを声高に主張する
論調だけが世に広まっていってたって感じなんだよね、ここ20年近く
803日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:13:05
>>801
やっぱり調べ辛いのは確かだよ。
「近江國輿地志」にしても「養華院」にしてもどちらとも解釈できるから。
可能性は十分あっても、これといった決めてがないから。
「書いてないからそうかもしれない」は史学では通じないから

>>802
せっかくの良スレなのに、なんで執拗に「武功派」を叩きたがるの?
はっきり言って、斎藤氏を調べたいのか、叩きがしたいのか真意が見えない。
そんな「斎藤氏叩き」の主張は見たこと無い。
論文等があるなら教えて欲しい。郷土研究史の類も見るようにしているが、
出会った事が無い。もちろん「武功推進派」の江南郷土史研究会のヤツもね
804日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:14:50
しょうがないよ。
濃姫だけじゃなく、あの時代の女性が大抵そうだったんだから。
史実に残ってるのは数奇な運命だったお市みたいなタイプか
歴史の表舞台で身体を張らないといけなかった高台院みたいなタイプか
為政者にとって都合のいいお鍋みたいなタイプだった訳だから。
吉乃だって、残ってる残ってるって言っても、あの偽書の武功夜話だけだぞ
それに、織田家は女性についての記録を信秀以前から残さない慣習があったと
織田家では言っているくらいだし、土田御前だって、本当に生駒と縁戚なのか
それとも全然違うのかすら、本当のところよく分かっていない。
805日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:16:08
研究者は何とも言えないが学者が取り合わないのは
学閥もしくは教授間の相関関係が影響しているから。
戦国といえばあの人という彼が武功にお墨付きを与えてしまい
それについて撤回をしてなければむやみなことはできない。
学会で偽書という見解が出ているにも関わらず、信長妻妾に関しては
未だ武功よりな見解なのはそのため。
806日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:19:28
前から言われてる事だけど、大徳寺総見院の墓石群は大きく2グループに
分けられる。信雄のグループと興雲院(鍋)のグループ。
信雄のグループが
信雄、秀雄(信雄の長男)、信雄の娘とその夫(佐々長朝)。
広くとれば、同腹の兄・信忠と姉・見星院(徳)もこのグループ。
興雲院(鍋)のグループは
興雲院(鍋)、子の信高、信吉、娘の江声院。信高の子・高重と信吉の子・
良甫とその妹と娘。
その他として、信長、その両親と妹一人に秀勝とその侍女。
あとは名古屋山三郎とよくわからん井上さん。そして養華院。
こうなると信雄の母があってもいいけど、生駒氏とすると、慶長まで生きて
いないはずだし。
なら、何故「信長公御寵妾」としたか。斎藤氏そ存在をもみ消したいなら、
墓石を造らなければいいだけ。ここが難しくところ。
本当は墓石の位置関係を考慮したかったがコピー記事が見あたらん。
807日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:20:33
自分が他スレで書きこんだ覚えのある内容が 
ここでコピペされまくっていて萎える(´・ω・`) 
お前は俺かよろしくで勝手になりすますなよ
808日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:27:22
ヤフや濃姫サイトBBSで三条夫人を擁護する人のレスは酷いな
気持ちはわかるが、もう少し文章表現を考えられないのかな…
勝頼までか山梨県民まで非難しているしさ、正直引いた。
菩提寺だって、墓が荒れたのは根本的に住職や檀家の責任なのだから
関係ない山梨県民(と一つに括るのは問題なんだが)にまで責任転化する
なんて筋違い。まっ、判官贔屓もホドホドにって感じだな。

このスレにはそういう人がいなくて良かったよ。
809日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:28:31
ヤフーでは信忠のまわりが斎藤縁者や美濃衆でがっちりと固められ
生駒関係者はいたの?状態だったのを知ってか知らずか
美濃攻略中の信長にとって濃姫は不要な存在になったから返したとまで
思い込んでいたご様子です。
810日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:29:59
由孝の父由成の墓誌には、「・・・祖妣斎藤山城守女先考諱由之号出羽守・・・」
とあって、由孝の曾祖母は斎藤道三の娘であると書いています。
ただ、「寛政重修諸家譜」には池田由之の母は伊勢兵庫頭某女とあり、
倉敷市にも「池田元助の室は伊勢兵庫頭貞良の女、斎藤山城守竜興の外孫女
由之を生み卒す。一説に斎藤義興の女とするは誤なり」とあります。
これについては一応次のような関係になるのかと理解しています。
斎藤道三というと日本歴史上でも有名人ですが、その子女になるともう名前すら
判らないのです。

斎藤道三┬義龍
      ├濃
      └女
        ||─由之─由成┬由孝…
        ||         └熊子(大石内蔵助の母)
池田恒興┬元助(之助)
      └輝政

http://www.kct.ne.jp/~kshimizu/saito.htm
811日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:31:38
お鍋といえば、他板のスレに書いてあったことですが
信長元服時におとなを務め、徳川時代は酒井家の家老を
務めた家では「濃姫の本名はお鍋」という話が頑なに信じられ
語り継がれているって末裔さんのブログに書いてあるそうですよ。
元服時におとなを務めたような家なら、もちろん濃姫の顔を
知っているでしょうから、側室のお鍋と混合するなんてことは
まずないと思うので、興味深い話な反面謎は深まるばかりです
812日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:32:38
>>811
まぁ、当時の女性の本名が伝わる方が不思議なんで、今じゃ吉乃で通ってる信忠、信雄、五徳の母親だって、
前野家には「類」ってのが伝わってるし、本名らしいからなぁ。
濃姫の本名が「鍋」でも驚きはしないよ。
別に、側室の「お鍋の方」とたまたま同じ名前だってあり得るだろうしね。
信長は実際に「お濃」と呼んでたらしいし、混同したりはしなかっただろうし。
ただ、濃姫とか帰蝶とかって方が華やかではあるよね。
813日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:33:21
>>807
何なんだろうね、このコピペ荒らしは
814日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:34:53
津田(織田)源三郎勝長の別名は織田信房
織田に戻ってきて元服した時にもらった名前らしいのだが
この房という字は総にもなるそうだ(by広辞苑)
そして女房という言葉でもわかるとおり、常に傍らにいる人とか
置く人という意味を持ち、總とも書く。

こじつけだが、房(総)を上総介の総、源三郎の三郎を三郎信長の
三郎に当てはまるという解釈もできなくはないかなと。
そうなると、信長が生存時に元服した息子達の中で彼だけは
父親の名前を二つも貰ったことになるから、信長公記中にある
返還時の信長の彼に対する厚遇ぶりやかわいがりぶりを加味して
考えると、人質生活への労いもあるだろうが、子煩悩とはいえ
信長にしては少し異常さも感じるね。
(特に織田の膝元でもある尾張犬山に城を即与えたこと)

牛一も嫡男信忠でさえ、さしてあまり書いていないのに勝長の部分は
詳細に書き残しているのも引っかかるなと。書いた当時は高齢だったはず
なのだが、詳細に覚えているということはそれだけ安土での親子対面や
信長の行動が印象深かったのだろうとも考えられる。

そこまで信長が喜び、また厚遇し、戻ってきたばかりにも関わらず
尾張に城を与えることや信忠の与力に付けることを重臣達も意見した
節がないということは、少なからず信雄以上信忠以下もしくは信忠と同等の
立場だったのだろうから、母親も最低限お鍋以上の権限を持っていたような
女性、すなわち御台ということになるだろう?
815日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:35:42
自分が書いた覚えのあるものと、
書いた覚えのない物がくっついている。
dat落ちしてるものを書いてるんだろうが、
せめていつくらいのログかも、書いてくれればいいのにな。
816日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:36:17
>>814
「酒井家 濃姫」で検索したら、その末裔かもしれない人のブログが
ほんとにあっさり当たりましたがw

>自分の先祖が○○家で酒井家の三番家老・・・だったらしい。
定かではないが。(←本人さんのつぶやき)

>織田家の家臣でもあったらしい。織田家には○○という家臣がいるそうだから。
適当です。(←本人さんのつぶやき)

濃姫の名のことも>残ってる言葉、という書きこみですね。

でも、比較的「・・・らしい」調のライトな文体で文献等の引きも無いので
574氏の元ネタとは異なるのかも。
817日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:37:07
>>814
でも、それだったら、そんなに大切な息子を
なんで、あんな最前線の城に置いていたのかわからんな。
調略が絡んでいたとはいえ・・・
818日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:39:05
岩村城は、一応、美濃だからじゃないかな?
東濃は、武田の影響力も大きいけど、斉藤家の影響力も大きいからな。
ただ、信長は坊丸を岩村城に養子にやる事に関して、最初は絶対拒否って姿勢だったらしい。
でも、叔母の願いでもあるし、信忠との兼ね合いもあって、離しておきたかったのかも知れない。
信長自身が、跡目争いで苦労しているからね。
そのかわり、武田に人質として渡された時の信長の激怒は、尋常ではなかったという逸話がある。
実際、叔母でさえ磔にされているくらいだしな。

あと、これは個人的な推測だけど、御台出産の記事は上洛戦の最中に成菩提院で、
予想外にあった事らしいので、あまり多くの家臣には知られていなかったのかも知れない。
御台はそれほど人前に出てきていなかっただろうし、打ち掛け着るタイプの小袖なら
少々お腹が大きくても誤摩化せたのかも知れない。
何らかの理由があって、無事に出産するまではあまりおおっぴらにしたくなくて、
上洛時に一緒に連れて行って京都で極秘に出産の予定だったのかも。
実際、出産後しばらくは床上げも出来ない筈だから、出産したのが本当なら
御台はしばらく京にとどまっていた筈だ。
そう考えると、明けて2月に、京で御台の寝所に誰も寄せ付けるなと命令した理由も
その辺りにあると思えなくはない気がする。
実際に、身二つになっていれば、乳母がついているから御台が授乳する事はない訳で、
信長が「御台に子供が生まれた」と言わなければ周囲にはよくわからない訳だから。
そして、その頃信忠は既に12〜13歳で、嫡男として内外に広まっている訳だから、
無用な争いは避けたかったのかなとも思う。

推測だけどね。
819日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:40:37
疑問なんだけど、永禄11年って、信長の濃姫が結婚してから19年後だよね?
それまで子供出来てなかったのに、夫婦関係があったのかな?
信長が後家を側室にしているのって、子供を産んだ実績のある女性だからっていう
説があるでしょ?
戦国大名なんて、子供いっぱい作らなくちゃいけないし。
生駒の方を愛妾にしたのも、生駒の方が後家で出産経験があるからだよね?
(信忠以前に生駒の方には男子が生まれてるって聞いたけど、この辺よく知らないから
間違ってたら訂正よろしく)
で、信長の子供かどうかはっきり分からなくて庶子扱いの原田直政の妹の子供が
天文23年に生まれてるよね。
生駒の方が愛妾になったのは弘治2年くらいって言われてるでしょ?
武功夜話の記述だから信用は出来ないかも知れないけど、3人年子で生んでるってことは
生駒の方は孕みやすい体質だったとすると、愛妾になって意外とすぐに孕んだと考えられるし、
弘治2年って言うのはあながち間違ってない気もするんだよね。
坂氏の娘も弘治4年に信孝生んでるし、その辺りで愛妾や側室を持ったって推測が出来るよね。
そうすると、どっちにしても、本格的に子づくり始めるの遅くない?
普通、嫁して3年とかいうけど、それよりはゆっくり目だよね。
原田直政の妹は、信長の子かどうか分からないとか言ってるくらいだから、ご愛妾じゃ
なかったのかも知れないよね(いわゆるつまみ食い?お互いに)。
勝長なんかは、その時代の武将としては、別に珍しくない程度の若年で子供作ってるけど
信長はなんで若いうちに子供あまり作ってないんだろ?
(そういえば、信忠も、あまり若いうちに子供作ってないなぁ)
濃姫との間に出来た子供って、永禄11年が最初なのかな?
意外と、若いうちは何度か流産して、熟年になってから無事に出産する女性もいるし、
そういうのが何度かあって、子づくりが遅れたとかなのかな?
いくらなんでも、全然子供出来なかったら、閨房の事って意味の夫婦関係なくなりそうじゃない?
820日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:40:52
わざわざアンカーまで修正してコピペしてるのは意味があるのかw
821日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:42:07
大名の正室の役割、位置付けって、やはり特殊なもの。
特に戦国期までは完全に政治の道具で、家と家との和睦の道具だった。
敵同士だけど、婚姻関係を結ぶ事で和睦し、親族関係になることで
味方同士になったわけ。
両家にとって家の存続のメリットが発生するメリットがある縁組であったはず。

例えば織田家にとっても、当時の斉藤家にとっても、濃姫が信長に嫁ぐことで
緊張関係から一変して和睦し、斉藤家は織田家に援軍を送る間柄になれた。

仮に濃姫が何らかの事情でいなくなり、正室のポストが空いたからといって、
吉乃の正室にするメリットは織田家にとってまるでない。
正室がポストが空いたなら、和平を結びたい家から子女を正室として
新たに迎えられる絶好の機会だから当然そうしたはずなんだよね。

いくら嫡男を産んだからといって正室にするということは当時の慣習から
考えられない。織田家との釣合いからいっても家来筋なら
やはり側室どまりというのが妥当だと思う。

家康はそういう意味で旭没後は正室をもらう必用がなくなったから晩年は
正室不在のままだったのだと思う。

どんなに当主の愛情があっても、それとこれとは別問題なんだよ。

正室に子供がいなくても、側室が産んだ子供を養子にすれば
生後すぐに側室から離され正室が実子として育てるし、それが武家の慣わしだったから
子供がいるいないも関係ないんだよね。

こういった当時の武家社会の常識を考えても、濃姫亡き後は正室吉乃が正室に
なったとか、正室なみの扱いだったとか、ましてや濃姫がいるのに
事実上の正室のような立場だったなどということは絶対あり得ない。
822日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:43:16
Wikiの織田信忠を読む限り信忠生母が生駒という線は完全に消されてる。
すでに生母は「久庵慶珠」と編集されてるしなw
偽書武功や久昌寺の胡散臭さから、信忠の生母である久庵慶珠を
モデルに勝手に久庵桂昌という女性を作り上げたんじゃないかとさえ
思えてきた。
だいたい生駒が3人の子供を産んだのなんのというのは前田文書と
久昌寺の伝承でしか確認されてないんだろ?
823日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:44:54
実は信忠は戦争孤児で、とある戦の折に信長に拾われて、
当時なかなか子宝に恵まれなかったお濃に、面倒を見させた、
織田家とも斉藤家とも縁のない、童子だったのではなかろうか。

信長もお濃も、この童子・奇妙丸を実の子供のように慈しみ大切に育てた。
そして、時機を見て、お濃の養子として信忠を織田家に迎い入れ、
信長はこの一切血の繋がりのない子に、惜しげもなく家督を譲り、美濃尾張を与えた。

生みの親より育ての親というではないか。ロマンがあるじゃないか。

この少々安っぽい妄想ドラマ(?)が、仮に、仮に、事実だとすると、
本能寺の変における明智光秀の戦略と織田信忠の最期について、
ワシはある程度、納得のいく答えが出る。
824日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:47:36
吉乃って最愛の女性といわれていたわりに、しょぼい戒名しかもらえなかったのね。
吉乃の墓の方を眺めて夜な夜な泣いていたという信長の話っていったい・・・

と、つつけばつつくほどボロがでてくる「武功夜話」

しょせんTBSの「水戸黄門」なみのレベルなのね
825日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:48:36
そろそろ我々も512KB規制を視野に入れてみませんか
826日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:51:38
最初から読んだ。非常に面白いね。
信長と濃姫は意外や意外、穏やかな夫婦だったのかもな。
普通に子供もいて、側室にやきもちやいたり、信長がなだめたりしたのか?
なんて想像できる雰囲気を感じる。
なんかそう考えたらお市と浅井長政はどこか冷めた夫婦だったのかも。
夫を裏切って兄に窮地を教えちゃったし、落城した時も旦那の元に
残らなかったもんな。典型的な政略結婚で、しっかり実家のために
仕事をしてきて帰ってきましたよ、という感じさえする。
827日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:52:21
このスレの住人の方はレベル高いですね。変な方もいませんし。
では、総見院の墓所ですが初めからああいう位置にあったかどうか疑問がある。
それは雍州府誌に信長母つまり花屋寿永尼の墓があったとあるのですが現在
見当たらないからである。信吉他同じ基壇上にある子女の墓石は後から建立した
ものと考えられるからである。つまりお鍋の方の墓石の下には遺骨があるかどうか
疑問である。反対に養華院の墓には遺骨は入ってると思われます。

828日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:53:44
ここの内容、
全部Yahoo掲示板の書き込みまんまじゃないですか、、、
あそこで語られた事を、
ここでさも自分の意見のようにしてる人恥ずかしくないんですか?
ちゃんと一言「ここで見た事なんだけど」
って断ってから書くならまだいいけど
何で人の調べた事を自分の手柄のように扱うの?
829日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:54:30
信高実子説が無いの根拠をもちっと詳しく教えて欲しい・・・・・・。
高齢だからはなしね。数えの42なんて余裕で子供生めるし。当時でも生んでる人居るし。
ホント近江地誌が出てきてから、イタイ妄想ばっかりして自分がヤダ。
でも、濃姫については、重要な人なのにもかかわらず残ってなさすぎなので
当然残ってるはずのものがないことに作為性を感じてしまって、地誌の方が正しいような気がしてしまう。
近江の人間は乱世慣れしていて、表面では権力者にへつらいつつもしっかり記録は残すカンジ。
だから一般的な史書より近江地誌の方が個人的な感覚としては信頼できる。(根拠になってないけど)
とすると、信房が信長と濃姫の子じゃないかと。それは、後の厚遇を考えても無茶な想像とは言えない気がする。
でもこの子の母は記録されて居ない。つまり、濃姫の子は記録に残らないか、残せない可能性がある。

信房が濃姫実子で、信忠が養子だったら、遠山夫人に養子くれって言われた時は最大のチャンスなんだよね。
信忠はまだ元服していないので、お坊は駄目だけど奇妙なら養子に出せるよと答えれば、何もかも丸く収まる。
これで家督争いも無い。信長が10年ほど余分に頑張らないといけなくなるだけで。
でも養子に出されたのはお坊だった。濃姫の子は記録に残らないとすると、信忠も濃姫の子かと、思えるようになる。
(手塩にかけて育てた養子は実子と何ら変りません信忠が嫡男ですといったやり取りがあった可能性も否定できないけど)
信長は1573年頃から急に子沢山になっている。これは信長が権力を握った時期と重なるようで、そうでもない。
私には1572年の信房が人質に取られる事態を招いた手駒不足を反省して子作りに励んだように取れる。

で、信秀(1570年誕生)と信高(1576年誕生)なんだが、この人たちは幼名からして同母兄弟だろう。
また、この二人は、信雄信孝を除くと、残った信長の子息では別格扱い。
誰か別の側室が居た可能性も確かにあると思う。その側室の一族が生き残っていたら、徳川を憚って
家系図に載せないだろうから(土方氏もそうだね)、単に実家の都合で解からないだけかもしれないけども。
ただ側室の子とすると、序列の謎が上手く解けない。また信長の父である信秀の名が、側室の子に与えられるとは思えない。
830日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:55:44
源氏物語で源氏が出家するという妻を泣いて止めて、それでも出家されてしまって
悲嘆にくれた・・・なんていう記述があったけど、本来出家って現世での永遠の
別れというぐらい意味のあることだよね。二度と男女の契りもかわせないわけだし。

吉乃が前夫のために出家したというのは考えられない。
そんなに殊勝な気持ちがあれば夫の死後何年のたたないうちに、
あっさり信長の側室にならないはず。

産後の肥立ちが悪くて寝込んでいて、早死にしたというのは
信憑性がありそうだから、本格的に尼寺にこもっていたというのも考えられない。

病気になって、側室稼業を引退し、治る見込みもないことを悟って
ひっそり病床から出家をしたんじゃないかな?
仏にすがるほど孤独だったのかとも思うけど。

なんにせよ、生駒家の女性が信長の側室になっていたというのは
事実なわけだから、正しい足跡は知りたいものです。
831日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:57:17
生駒と信長よりも、濃姫と生駒、のストーリー展開のほうが
ドラマティックで一般受けするよ。
生駒との話はふくらましようがないじゃん。
信長の心の拠り所というには、同時期側室もいたし、
あっさり信長の元を去ってしまうし、ちょっと説得力もない。
信長との接点がせいぜい7,8年でしょ?
濃姫だと信長が14才の頃からの話も盛り込めるし、
斎藤家がらみの話も引っ張れるから、
脚本的においしい。
最後はお決まりの本能寺の変でのなぎなたの応戦でともに亡くなる、
で瞬間視聴率もぐっとあがる、というのは製作側も捨てられないだろう。
そうなると信長と濃姫が仲の良い夫婦で、いつも濃姫の膝枕してなきゃ
面白みも半減。
832日本@名無史さん:2007/06/09(土) 23:59:07
>>831
生駒は生駒、濃姫は濃姫で、きちんと正妻、側室の位置付けで
描かれていれば両者がドラマの華をそえることはできる。
どっちかをいかすために、どちらかの立場を陥れるしかないというのは
問題。そうしなくてはドラマがおもしろくならないのかな。

833日本@名無史さん:2007/06/10(日) 00:00:04
もし信長生前中に濃姫が亡くなったら織田家の菩提寺だった万松寺
あたりに葬られてるはずだな。あれば過去帳などに記載もあるはず。
道三の譲り渡し状から、道三が亡くなるまでは濃姫が
生きていて、信長が婿殿だったわけだから、
それ以降どうなったかだな。
離縁されても帰るところはないし、小見の方のところか、
斎藤か明智の縁者でも頼って身を寄せたのだろうか?
でも譲り渡し状の効力がなくなってしまうので、離縁はありえないか。
834日本@名無史さん
秀吉はお市と3姉妹全員側室にしたかったろうにw
冗談はさておき、かつての天皇家では自分が産んだ皇子に自分の実妹を
入内させて世継ぎを一族でかためたするのはよくあることだったよね。
古代の天皇家では異腹の姉妹を妻にしているケースはよくあったし、
その子供同士の婚姻もあった。
血族結婚は流産や夭折してしまうことが多く、
不具者のまま長生きする事ないということでそういった
血族婚のデメリットよりも、血縁を濃くすることで保証される
一族の繁栄を優先していたようだ。
夭折せずに成長できた場合は優性遺伝で優秀な逸材がでてくることもある
メリットもあったようだし。聖徳太子なんかがその最たる例なのかな。

戦国期になると大名クラスでは婚姻制度が他家との政略結婚がメインだし、
側室も政略的な意味合いであがってくるケースが多いから
濃い近親婚は意図的にしなかったようだね。
むしろ閉鎖的な地域の庶民あたりはかなり濃い近親婚を
していたようだね。戦後までそういった地域は一部にあったようだよ。