♪邪馬台国 ドンと来い♪ 19

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1日本@名無史さん
 ∧_∧
 ( ・ω・)=つ≡つ
 (っ ≡つ=つ
 /   ) ババババ
 ( / ̄∪

九州も畿内も四国も朝鮮も沖縄もエジプトもコテハンもドンと来い!
  出来るだけソースを出して後はお好きに!
*良識ある言動をしましょう。煽り、粘着禁止。

♪邪馬台国 ドンと来い♪ 18
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177078975/
2日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:24:20
うほっ! 2ゲット!!
3日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:26:10
>>1
「畿内説? ボコボコにしてやるよ。」
のセリフが抜けてる。
4日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:28:59
 ∧_∧
 ( ・ω・)=つ≡つ   九州説? ボコボコにしてやりまつニャー!
 (っ ≡つ=つ
 /   ) ババババ
 ( / ̄∪
5日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:29:09
魏志倭人伝に、
「又一海を渡ること千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。
 草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、
 皆沈没して之を取る。 東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。」 
とあります。この「伊都國」は現在の糸島半島あたりでほぼ合意がえられていると聞きます。
また、
「女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。
 常に伊都國に治す。」
という記述がその後にあります。
この2つをあわせると、女王国は糸島半島の南にある、ということになりませんか?
(女王国の北に一大率を置き、それが糸島半島にあったというのだから。)
ついでですが、
「その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。」
とあります。この「狗古智卑狗」は、菊池彦だと思うのですが、
そうすると、女王国(=邪馬台国)は、「糸島半島の南、菊池の北」というのが、
魏志倭人伝の伝えるところではないでしょうか?
61:2007/05/05(土) 13:36:36
関連スレのリンク一覧、誰かよろしく頼んます。
いくつか新スレ立ってるみたいだね。
7日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:45:07
>>5
伊都国=糸島半島は、きわめて有力だよ。通説といっていい。
だけど狗奴国=菊地は、どうかなあ。
九州説論者でもいろいろ意見が分かれてると思う。
8日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:50:59
>>5
じゃ、伊都(糸島)の東北陸行500里にある末盧國はどこだと思うの?
9日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:52:26
へ?
10日本@名無史さん:2007/05/05(土) 14:50:45
狗奴国(くなこく)は船小屋(ふなごや)かもしれん
11太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 15:26:38
クナドカミ フナドカミ??
12日本@名無史さん:2007/05/05(土) 15:34:42
>>10
>狗奴国(くなこく)は船小屋(ふなごや)かもしれん

そりゃだめぼ。アンタはまだ子供!

−−−−(引用開始)−−−−
船小屋の名も、立花藩の土木用の小船を納める御船小屋が堤防に作られていた事からついたものといわれています。
http://www.tsuru1963.co.jp/funagoya/funagoya.htm
13九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 15:45:49
991 :九州ですが
魏使はマツラ国に上陸し東南、東南、東、南へと東よりに弧を描くように南下し一貫した方向へと進んでいる。
これは何を意味するのか。各国の中心集落を結んだとしたらこうはいかない。
正確にあらわそうと思えばばその軌跡はジグザグにいびつになるだろう。
女王国への最短距離を通った為、各国の行政区とも言うべき土地を通過していると捉えるのが妥当。

と前スレで言ってるように今ある地名は弥生時代と全く重なるものではない。
対馬国から壱岐国は南となっており方角は正しい。上陸してから間違うという事は考えられない。
現代のように距離などを観測する地点がが市のほぼ中央たる市役所に設定されているわけではない。
どの地点で方角を調べたかによっても違ってくるだろう。
今発掘されている遺跡同士を結んで方角が合わないというのはナンセンスであることは既に説明したが
今の市や郡行政区と古代のクニの勢力範囲が国が重なるというわけでもない。
今古代の地名が残っていると推定される場所よりもっと内陸部だったかもしれない。
バルト沿岸国だったプロイセンが後ににドイツ全土を指すようになったような例もある。

14九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 15:48:45
>>12あれっ?そのもの言い。恵也さんじゃ?
15日本@名無史さん:2007/05/05(土) 15:48:49
じゃあ、狗奴国=クナシリ島でどう?

もちろん古来からわが国固有の領土。
不法占拠のロシアは即刻4島一括返還せよ!
16日本@名無史さん:2007/05/05(土) 15:58:55
狗奴国は久能山だろ
家康を最初に祭った久能山東照宮があるとこ。静岡県
17日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:01:00
>>5
>>7
末盧國の東南500里に伊都国があり、
伊都國=糸島半島なら、
末盧國は伊都國の北西500里にあることになる。
ところが伊都國の北西500里にあるのは一大國(壱岐島)である。
一大國=末盧國となる。
一方、末盧國は一大國の南1000里である。
この矛盾を説明して?
18日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:15:55
前原は、末盧国の候補地ではありえても、伊都国の候補地とは考えにくい。
末盧国の候補地としては、伊万里、唐津、前原、福岡市の四つが考えられる。
僕は、こういう地図ばかり見ているのだが。
http://map.yahoo.co.jp/pl?lat=32%2F50%2F2.469&lon=130%2F37%2F38.979&layer=0&sc=8&mode=aero&size=m&pointer=off&p=&CE.x=382&CE.y=178
19日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:20:15
トンデモ畿内説の愛知県民氏は、狗奴国も、とんでもないところに比定しているようじゃ。
もっと足元をよく見るべし。灯台下暮し。
ヒントは下のサイトにある。
まだ誰も気付いてないようだから、愛知県民氏は足場を生かして充分調査研究されたし。以上マジレス。

『久野氏+諸氏ミニ情報』 サイト
http://www.ann.hi-ho.ne.jp/oshd/index.html

追伸。>>16は見当外れに非ず。おぬし出来るのう。
20日本@名無史さん :2007/05/05(土) 16:24:17
末盧國から東南に陸路100里で奴国であることを
考えると、伊万里・唐津が末盧國は無理がある。
21九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 16:33:53
>>18 前原は、末盧国の候補地ではありえても、伊都国の候補地とは考えにくい。

まあ極端に言えばそういうこっちゃわなあ。どこまで国の範囲が及んでいたか知れんし。
福岡から熊本へ南下する際にも佐賀の鳥栖という大分道、長崎道への分岐点であり
熊本福岡という四つの主要道が交わる地点を通過するからインパクトが強く
福岡から見れば西にあるはずの佐賀県が、古代人の謂いでいけば「福岡国、南至佐賀国、南至熊本国」
と南にあるような印象を与える記述になる可能性はあるわなあ。
22日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:38:05
>>20
>末盧國から東南に陸路100里で奴国であることを
>考えると

それは通常の読み方と違うんだね。
末盧國起点にすべての国を放射状に読むわけ?
23九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 16:39:42
>>20
奴国はかなり栄えていて人口も多い。倭国大乱を経て周辺諸国を飲みこみ
福岡平野のかなり奥まで併合していた巨大国家だったとも考えられるから
距離を観測する地点しだいでかなり違ったものになる思うが。
24日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:41:44
一支国から末盧国については、倭人伝には方向が書いてない。
「又渡一海、千餘里至末盧國」だからね。

>>20
末盧国から東南陸行五百里で伊都国。伊都国から東南百里で奴国。
25九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 16:53:40
>>24
それは思うにマツラ国は海の民で沿岸の数多くの島々のいたるところマツラ人が住んでいたのでなないか。
ゆえに方角を言いにくかったのではないか。
26日本@名無史さん:2007/05/05(土) 17:27:37
末盧=松浦=平戸
27日本@名無史さん:2007/05/05(土) 17:30:20
北方アジアは一切抜きの偏向調査で作為的に中国・朝鮮に誘致していた
スットボケ遺伝学者(嘲笑)


宝来センセイによると、韓国や中国にはそれぞれドミナントなミトコンドリアDNAがあるのに、
日本本土では、とくにドミナントなものがない。つまり系統的にさまざまな人たちから成り立って
いるのである。また、これまで、大陸から渡来した弥生人によって分断され、北に追いやられたのが
アイヌ、南に追いやられたのが琉球人といわれてきた。しかし、アイヌと琉球は少なくとも1万2000年
以上まえに分岐しており、紀元前3世紀以降に渡来してきた弥生人によって分断されたんではないという。
1万2000年前にそれぞれ日本に住み着いたアイヌと琉球人。そこへ紀元前3世紀以降になって渡来し、
稲作をはじめた中国・朝鮮系の人びと。こうした人たちの子孫がわたしたちなのだ。
それにしても紀元前3世紀以降の大陸からの渡来って、それ、秦の始皇帝のころの、徐福たちじゃない?
http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/Yutenji/000115DNA.htm
http://youtube.com/watch?v=iRD3k2j9BeA
28日本@名無史さん:2007/05/05(土) 17:31:31


宝来mtDNAデータのトリックとその欠陥を簡単に説明してやると、

朝鮮半島にしろ中国大陸にしろ、古代より北方アジア人の侵入定着が絶え間ない
地域であったのにもかかわらず、データの中に北方アジア人に関するタイプの
データが一切出てこない。

しかも、調査サンプルにも北方アジア人のサンプルが一つも無い。

つまり、宝来mtDNAデータは、北方アジア抜きの偏向調査で出された単なる
偏向データなのであって、ただひたすら中国や朝鮮からやって来たと
錯覚させるだけの非常に悪質極まりない欠陥データに過ぎないのである。
29日本@名無史さん:2007/05/05(土) 17:43:19
>>28
おまえは、偏向思想だな。

>>28
ニブヒやコリャックは北方アジアでは無いのか?

>>28
ニブヒやコリャックは北方アジアに入るが、
>>367はヤクーツクやバイカル湖よりの人種が入っていないのを、
「北方アジア人に関するタイプのデータが一切出てこない」と、
ヒステリックに書いているだけじゃないのか。

バイカル湖・ヤクーツク・黒竜江中流域の現代少数民族のデーターを入れても、
彼らは新モンゴロイドだから無意味なデーターになるだけだと思う。
古モンゴロイドのデーターがもっと多ければより信頼性の高いデーターになるのだが。
30日本@名無史さん:2007/05/05(土) 17:46:56
自演くん。
アンカーのコピペ、ミスってるよw
31日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:05:48
873 :日本@名無史さん :2007/05/04(金) 20:48:44
めんどいのでごく簡単に書く。
詳細を知りたければ3世紀について書かれた専門書を読まれたし。
3世紀の日本列島は、九州も四国も中国も近畿も、東海も中部も関東も
すべて独立した首長国家(クニ)が大同小異の通称連合化していたというのが畿内説なんだ。
もちろん面ではなく点と点のつながりであって、それに属さなかったであろうと見られるクニはいくつもある。
その中には2世紀まで玄界灘沿岸で栄えた奴国・伊都国などのツクシ連合も含まれている。
これは再三言われるように、機内王権がツクシ連合王権を支配下に置いたものではない。
当時は並列として存在していた可能性が高いとも考えられている。
もちろんキビ王権やサンエン王権の存在すら視野に入れている。

なぜ統一国家や支配といった考え方が廃れたのかは、とても書ききれないし
できれば専門書既読のうえで質問してほしいが、徐々にならば書けるかもしれない(それほど資料が膨大にある)

すごく大まかに言うと倭人伝の記述のうち、卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら
他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており
さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている。
これが畿内説(実際は並列連合政権説)の基本的な考え方。

ただし未だに機内王権が鉄ルートを簒奪し、九州を支配下に置いたとする畿内自生説(樋口、白石など)も確かに学会には存在する。
両氏とも古代史の権威ではあるが、ほとんどの考古学者は同意していない。
北部九州や吉備の連合への影響などは、柳田や寺澤が提示しているように相当密接なものであった可能性が高い。
倭人伝記事との齟齬については文献史学も未だ明快な回答を提示し切れていない。
だが少なくとも協力な中央集権が畿内に発生し、それが他地域を3世紀初頭に圧倒したとする畿内説は、もうほとんど唱えられていない。
32日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:07:04
>>31は、実にすばらしい。

要約することの難しい畿内説を、丁寧に説明されている。

これで、畿内説への誤解がとければよろしいのだが。


33日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:13:40
邪馬台国が九州にあったとしても矛盾しないしね。
34日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:21:38
もちろん、東遷も無いよ。
35九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 18:22:36
>>31 については前スレでこのように言ったはずですが。

文中に不可解な部分が数多くある。まず
「卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら
他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており 」

の部分。この共立と専制統一国家という言葉はけして相反しない。
むしろ共立した、にわか連合だからこそ専制統一国家としての基盤固めが急務だったのであり
一大率などによる各クニの監視もその地固めとしての布石の一といえるものである。

これに対してのお答えは?
36日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:32:19
>>35

考古学の見解では、九州にも畿内にも、どこにも、
専制統一国家の存在を思わせるような遺物は無いということですよ。
つまり、魏志倭人伝の「共立」の記述が正しいと証明されつつあるということ。

貴方が、「邪馬台国が専制統一国家だった」と考えているなら、
それは証拠が無いということです。
どのような証拠に基づいて、
「専制統一国家としての基盤固めが急務だった」と考えているなら、
「急速に専制統一国家としての基盤固めがされた」ということを考古資料によって、
貴方が証明すべきことです。
37九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 18:33:04
>>31 又、「さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている。」

に関しても引用先を示して
「古墳にせよ土器にせよ、製造の絶対年代を狭い範囲で特定するのは現代の考古学をもってしても非常に難しい。
たとえば、ある古墳・土器を3世紀後半と推定しても、実際には「3世紀後半を中心とする」という程度しか言えず、
今回の箸墓古墳も4世紀前半の築造の可能性は依然として否定できない。
今回出土した土師器(甕・壷・高坏など)の大量の破片は
260〜280年頃の「布留0式」と呼ばれる様式と判明しているが、
学問的に厳密に言えばプラス/マイナス50年ぐらいの幅をみる必要がある。
すなわち、これらの土器の年代は「210〜330年の間」であって、
3世紀後半とは特定出来ない。墓誌・金石文・文献による特定、
例えば百済の武寧王陵は発掘された墓誌で523年の築造、
また高句麗好太王碑は刻まれた金石文で414年の建立と断定できる。
すなわち、出土土器による古墳の年代推定と墓誌・金石文・文献による年代断定とは、
精度に決定的落差がある。 古墳・土器の形式・様式は一種の流行のようなものだが、
古代では伝播のスピードは非常に遅い。同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。」
  引用先  http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/paper21.html
とこのように提示していますが、何の返答もありませんが?
38日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:38:43
>>37

そのサイトの人だけが、そう思ってるだけのことです。

ほかにも、サイトを探してきてはどうですか?
39太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 18:51:27
>>37 九州ですがさん
武寧王墓誌のそれは改刻痕があるのを古田先生が現地行きで確認しているそう
ですから、断定は早計だと思いますが・・・。
523年とありますが、原刻は524年とのことです。
40日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:56:40
>>37
>同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
>製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。

土器の耐用年数が100年ってどんな土器だろう?
10年も耐用できたとしても、すごいと思うのだが?
九州ですがさんは、どう思いますか?
41九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 18:59:27
>>39
すいません食事していたもんで。御指摘有難う御座います。
42九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 19:39:10
>>36
おたくは「なぜ統一国家や支配といった考え方が廃れたのかは、とても書ききれない」
と、既に卑弥呼の時代に統一国家や支配といった考え方が無かったように書いてますが
一体そんなクニが存在するでしょうか?
少なくとも北部九州の伊都国から畿内までの広大な範囲で邪馬台国連合が散らばっていたと考えるのなら
その様な緩やかな連合など不可能であり、各国は好き勝手な動きを見せたでしょう。
しかしそれが出来ないように一大率を置いて各国を監視させた。各国は大変それをけむたがった、といいます。
これも中央に権力を集中しようとする事以外の何ものでもありません。

倭人伝の「卑弥呼が王になってから、卑弥呼を見たものはいない。千人ぐらいの召使が身の回りの世話をしている。
男一人が、食事を差し入れたり、命令を伝えたりするために、出入りを許されている。
宮殿には楼閣(たかどの)や、城柵などが厳重につくってあり、警備兵が常に武器を持ち守衛している。」
また、「卑弥呼はすでに死んでいたので、大きな墳墓をつくらせた。直径は百歩余りで、男女の奴隷を百人以上殉死させた。」

などの記述は強い権威の集中をを表しています。もしおたくの言うような緩やかな強制力の薄いお互いの信頼だけで成り立っているような

連合国家があったとすれば北部九州のような狭い限られた地域に諸国がひしめき合って文化も同じ、というような
団結しやすい状況の下にあったならもしかして可能かとも考えられますが、まず無理でしょう。
まして異文化同士畿内から九州にかけての団結などありえるわけが無い。それは天下統一を意味します。
証拠が無いといっても倭人伝のこれらの記述だけで中央集権だったのは明白であり充分。また、何をもって証拠と成すのかも不明。
考古学の常識など日進月歩で変わるもの。数十年前の常識は今では通用しません。それと同じで土器や古墳の編年を
幅を持たせ論じるのが正解です。



43日本@名無史さん:2007/05/05(土) 19:44:27
>>42

貴方は、ヨーロッパ諸国がバラバラの独立国なのに、
穏やかに連合国(ECなど)を作ろうと模索してきたのは何故だとお考えですかな?
44日本@名無史さん:2007/05/05(土) 19:49:27
>>42
>まして異文化同士畿内から九州にかけての団結などありえるわけが無い。

異文化ということなら、九州・畿内より、
朝鮮・中国のほうが、よほど異文化であったでしょう。
45九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 20:03:44
>>43
ヨーロッパの歴史は侵略の歴史。有史以来の様々な戦いの数々、
また、近世においては2度の大戦などを経てやっと戦争反対の機運が固まり
ヨーロッパ統合への道を歩みだしたのでありそれまでには気が遠くなるほどの時間を要した。
またそれは交通インフラの発達整備、メディアの発達などと無関係には語られない。
そのことと弥生時代の日本とを同列にお考えでしょうか?
46日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:04:42
単純に九州とECじゃ国土の違いに差がありすぎるだろ
47九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 20:12:00
>>44
遠くの親戚より近くの他人ともいいます。卑弥呼にとって魏との友好が何より急務だったのではないか。
その理由は前スレ18も取り上げたが後漢書の記述にあるこの事件。

「壇石槐は広大な烏侯秦水を見た時、魚はいるがそれを捕れる人がなかったので、倭人がよく網で魚を捕ると聞き、
「東して倭人国を撃ち、千余家をえて、秦水のほとりに移住させ、魚を捕らせて糧食を助けた」という。
『後漢書』ではこの事件を一七八(光和元)年のこととしているがこの時期は倭国大乱と重なっており
吉野ヶ里遺跡が海岸から押し寄せる敵に対し防御態勢を敷いた造りになっているのはその為でなないだろうか。
呉の奴隷狩りもあっていたとは思うが。このような外国の侵略行為に対し、
倭国の為に魏との友好という思い切った手段に出るしかなかったのではないだろうか。

48日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:21:47
>>43
いくら何でも時代が違いすぎるだろw
49征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/05(土) 20:23:38
そんなものは里数表記になってない理由になってない
50日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:30:42
畿内説だけじゃなく九州説からも集中砲火浴びてるな>ですが

ですがが一所懸命なのは分かるけど
君の里程・方角解釈には、九州説からも誰一人賛同者が出ないのはなぜかを一度よく考えてごらんよ。
51九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 20:37:59
>>40の人。何か勘違いではないですか?
52日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:44:34
>>50
そりゃそうだろ
あっちこっちの九州説から
その場限りの反論のためにパクってきているのだから。
言うことに矛盾がありすぎるんだよなー。

>>37で引用しているのも鷲崎弘明のサイトからで、彼は宇佐説論者。
(トップページ)http://homepage3.nifty.com/washizaki/paper/index.html
ところが前に引用したのは安本関係のサイトだったりして、とにかく主張に一貫性がない。
宇佐説と甘木説が真っ向から食い違っていることさえ気づいていない。
もしかしてわざとやっているのかもしれないが
互いに食い違う主張を無理やりくっつけても、それこそ矛盾するに決まっている。
だから九州説からも相手にしてもらえない。
53日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:46:38
>>31
ところで、31さんは魏志倭人伝にある「邪馬台国」は、
どこにあったとお考えですか?
54日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:51:47
曲がりなりにも、ドンコイスレが19を迎えられたのは
九州ですがさんのひた向きな努力によるところが大きい。
ありがとう。九州ですが ◆IhXqm1bg5cさん。
55日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:53:31
>>51

>同時に発見されても、製造年代が100年ぐらい違う

こう書いちゃ、片方が100年間伝世したとしか読めないよ。
違うならファビョらずにちゃんと訂正すること。
56九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:02:01
>>52
そのサイトが言ってる事が正論なら引用して何の差支えも無い。
学者か何かじゃあるまいし。こちらは何らかの学説を持って世に出ているわけではない。
引用先の研究家と全く一致するなどあり得ない。
自分の考えを代弁する引用ならたとえ相反する結論を持つものでも借りてくることもある。
それ自体が僕の主張するところだからだ。矛盾があるというのならそこを突いて堂々と反論してくれば良いだけの話だ。
57日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:06:39
>>56

それを、他人のフンドシで相撲をとるという。

万人の認めるソースでないなら、
他人のHPなど引用しないで自分ひとりで主張すれば?
58九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:10:01
>>55「同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。」

が読んで字の如くで「片方が100年間伝世」なんてことはどう考えても読み取れないけどぉ?
59日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:10:13
>>57
古代史に関して、「万人の認めるソース」なんてあるのか?
それが無いからこそ、このスレが19にまで伸びてるんじゃないのか?
60日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:12:52
太国、寝てるのか?
なんか書け。
どうせ暇なんだろ?
61日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:15:34
>>45
>そのことと弥生時代の日本とを同列にお考えでしょうか?

人間の政治なんてのは、基本的に同じ。
時代は関係ない。

むしろ、歴史は繰り返すというように、
戦乱の時代もあれば、平和を模索する時代もある。

九州は大和政権の傘下に入ったあとも、
何度も大和政権に反乱を起こしては、鎮圧されるという繰り返しである。
邪馬台国の時代は、大和政権(畿内)と手を結んでいた時代と考えるべきだろう。
62日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:15:58
>>56
ところが深い考えなしにぱくるから、あちこち矛盾しまくりになる。
倭人伝の方角記事が間違っていると一番最初に指摘したのは
そのサイトのトップページで語られている富来隆。
土器編年についても、安本とはまた違う考え方をしている。
なのに一緒くたに引用すること自体がおかしい。

>同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
>製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
>別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる

これについて一般論じゃなく具体的に行こうよ。
どの様式と様式を指しているのだ?
庄内と西新か?
63九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:16:21
>>57
逆でしょう。研究家などは自分の考えを広くたくさんの人に知らしめて
賛同を受けようとするものでしょうが。本もたくさん売れて欲しかろうし。
たくさんアクセスする人が増えるのは嬉しいんじゃないかね。
全く無視されるよりは。だからどんどん使って良いと思うよ。
共感できる引用先ならその人の出した書籍を買って読んでみようとも思うし。
コマーシャルにもなってるんじゃないの?
64日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:20:26
>>56
>自分の考えを代弁する引用ならたとえ相反する結論を持つものでも借りてくることもある。

まあ、分からなくもないんだが、そういう場合は、
「ぼくはこの人の結論である××××××にはこれこれの理由で賛成できませんが
論証の中で××××××とされている部分はその通りだと思います」
と断ってから引用するのが学問の上でのマナーじゃないかな。

もちろんその方のサイトの全ページを読んでおくべきだし、
もし単にリンクを張るだけでなく文章(や図表等)をコピペするのであれば、
できるだけ手短に行い、その方に迷惑をかけないよう心がけることも肝要だと思うよ。
65日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:20:32
>>63
恣意的な引用や曲解をされても、作者も管理人も誰も喜ばない。
よしんば正確に引用し、紹介したとしても
2chに直リンで貼られることをよしとする管理者は少ない。
66九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:23:08
>>61 いや決定的な違いがある。それが
「交通インフラの発達整備、メディアの発達。
邪馬台国時代は「遠くの国は詳しく解らない」時代。だが現在は世界中で起こる出来事が瞬時にわかる。
そんな二つの時代を同列に考える事などその神経が解らない。

67太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 21:24:35
>>60
有難うございます。
わらわは女王国は九州王朝の始まりと思う主張です。卑弥呼の
親はその準備段階の王朝にはまだ乏しい、下積み王朝を形成して
いたようです。
そして毎回書きこんでもう周知かとお分かりでしょうが、倍暦で

崇神即位元年=237年=景初元年

と計上しており、崇神天皇が翌年(238年)に鏡を御殿に祭器し
たことから、畿内に関連鏡が多数出土するのは理の当然だと
思考するわけです。
そのころ九州では女王国があって、九州と畿内とで2朝並立の
状況にあったことは、江戸時代に京の朝廷と江戸の徳川幕府の
並立があったことと類似しています。さらにその手前の南北朝の
時代のごとく、九州も女王国と倭の五王朝が分離して存在して
いた一時期もありました、
68日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:26:04
>>66
>>61は古代と現代を一緒にしているのではない。
他人の自分が読んでも、決してそうとは取れない。
わざと論点をずらしてごまかすのはやめなさい。
69九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:38:17
>>62
そんな面倒な事をしなくてもおたくが具体的な事象に遭遇したとき
>>37に書いたことを念頭に入れて考えれば良いだけの話、>>37は普通に考えて常識だから。
考古学といっても常識はずれな思考ではいずれ行き詰ると思うよ。
今の時代のスピードと同じに考えてるような幼稚な思考力で頭でっかちになってる気がする。失礼。
土器が離れた地域で同時に使われ出したとかいうような。
当時の文化の伝播スピードさえ想像出来ないでいるんでしょう?
それだったら何と言っても通じない、解らない人だと思うけどね。
世の中にはそんな人いるのよ。だから自分で考えて行動していくしかないでしょうね。
70日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:43:33
>>65
>よしんば正確に引用し、紹介したとしても
>2chに直リンで貼られることをよしとする管理者は少ない。

そうかな。多いか少ないか、ちょっと検証し難いと思うがね。
俺はリンクは構わんと思うよ。トップじゃなく直リンでも。
 「httpの頭のhを省けば直リンじゃないから良し」
ってのも、どうもおかしいと思う。だいいち面倒だわな。
wwwネットの世界では、「リンクお断り」という主張は越権だと思うよ。

問題はコピペだね。
これは度が過ぎたら著作権の侵害につながる。
その意味も含むのであるなら>>65の気持ちには同感できる。
71日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:44:17
>>69
>当時の文化の伝播スピードさえ想像出来ないでいるんでしょう?

で、君は100年と考えてるわけね?
72九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:46:55
>>64
まあそうでしょうね。だから都合の良いとこばっかり持ってくると思われたのかもね。
でも今はそんな事より邪馬台国を議論してるんであって、そこに至るプロセスなんてどうだって良いんじゃない?
先生について学んでも教えを受け継ぐ部分と自分は違うという部分と持ってるもんでしょう。
全く同じならそれは洗脳というに近い。
73日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:49:46
>でも今はそんな事より邪馬台国を議論してるんであって、そこに至るプロセスなんてどうだって良いんじゃない?

これがどれだけ常識のないことなのか、自覚しているか?
74九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:52:24
>>68>
「>61は古代と現代を一緒にしているのではない。 他人の自分が読んでも、決してそうとは取れない。
わざと論点をずらしてごまかすのはやめなさい。」

といいながら>>61で「人間の政治なんてのは、基本的に同じ。 時代は関係ない。」といって
ごっちゃにしてんじゃないの!
75日本@名無史さん:2007/05/05(土) 21:54:00
>ですが

能書きはいいから具体的に
どの土器と土器の伝播スピードが100年なんだ?
それは弥生終末期に関係する話なのか?
こちらは君が庄内と西新を指していると捉えるが、それでいいのか?
76九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:56:01
>>71
「古墳・土器の形式・様式は一種の流行のようなものだが、
古代では伝播のスピードは非常に遅い。同じ様式の土器が九州と畿内大和で同時に発見されても、
製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。」

この文そのまんまよ。
77九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 21:58:17
>>73これがどれだけ常識のないことなのか、自覚しているか?

それって荒らしの手法よ。
78日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:01:50
>>67太国氏へ

太国氏は崇神天皇の実在を認める立場だよね。
モモソヒメに関しても、もちろん卑弥呼とは別人とするきみの主張は知ってるが、
彼女も大和朝廷の実在の皇女ということでいいんだよね。

だったら教えてほしいんだが、モモソヒメのご逝去はいつ?
倍暦理論はなかなか頭に入らないんでよろしく。
あ、それと、モモソヒメの墓が現在の箸墓古墳で合ってるかどうか、
きみの考えを披露してくれると嬉しいんだけど。
79日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:03:39
>>76
しつこい、具体的に書け
80日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:06:38
えっとぉ・・・そんなにいっぺんに質問されると
九州ですがと太国の中の人は答えられないの・・・
前みたいにハンドル間違えて答えちゃうかもしれないじゃないw

だからぁ・・・やさしくして・・・
81九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 22:06:49
>>75
どこに目をつけてるか知らんが
「製造年代が100年ぐらい違うことがありうる。また、ある土器の流行年代が数十年の幅しかないのに、
別の様式の土器の流行が100〜150年間の長期であることも有りうる。」

「〜あり得る。」という文が断定のように見える?ケースバイケースのように受け取れない?
82日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:12:09
>>81
ケースバイケースだからこそ
君の考えがどの様式を指すのか具体的に書くべきなんじゃないかな。
とりあえず>>75のいう庄内式土器の伝播は
北九州の西新町土器との供判事例から100年もかかったとは考えられないと言うのでいいんだね。
83日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:14:41
おまえはそれでいいやぁー!
84日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:15:59
「速度」には、「時間」のほかに「距離」という概念も含む。そこが論じられていない。

また、たとえばだが、
・日常土器
・祭祀土器
・武器
・祭器
・墳墓
・住居
・農業技術
といったさまざまな文化的要素に対し、すべて一律の伝播速度が適用できるのか、
そうしたこともいろいろ思考しなければいけないと思う。
85九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 22:19:46
>>82北九州の西新町土器との供判事例から100年もかかったとは考えられないと言うのでいいんだね。

だからなぜそれをこっちに聞こうとするわけ?人に聞く前に自分の考えを述べるのが礼儀でしょう。
今はこっちはそんなお題で会話してるんじゃないんだから、違うことを聞くのは失礼だと思うが。
86九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 22:27:22
>>84
せめてこちらに注文つけようと思うなら前スレくらい読んでから言わないと
コーヒーも入れずに相手してるてんだから。「距離」に関してはこう言ってるでしょ。

945 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 02:25:56
>>936
当時土器商人がいて「今度はこんな商品出ました。」「今はやりの土器はこのタイプです。」
などと行商して回っていたわけじゃあるまいし、先祖から受け継いだ文化はそう易々と変化するのもではない。
弥生人が現代人のようにあたらし物好きなどと同じように考えないほうが良い。
新文化という変化を受け入れるだけでも相当な年月を費やした筈だ。



950 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 02:50:52
>>949
方言なんかもそうだよね。もともと都で使われていた言葉が京都を中心に水輪状態に広がり、
何百年もかけて九州などに伝わり使い始められる頃には都では新たな方言が生まれる、
といった具合に、九州で先生を「しぇんしぇい」などというのはだいぶ昔は
都のある中央で使われていた言葉だったと聞いた事がある。
東北弁と九州弁の共通点も感じる。ばってんが東北でばってーというところがあったし、
どこ、も「どこさん」と「どこさ」とにてる。
それらと同じじゃないかと思うんだよね、弥生時代の土器などの広がり方も。

87日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:38:54
>>86

土器の行商人だって?
あたまおかしいなこいつは。
88九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 22:44:32
>>87
そこまでレベルを下げて説明しないと解らないから仕方ない。
でもナンバー87はそれでも解らなかったようだ。
幼稚園以下だよ実際。
89太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/05(土) 22:44:44
>>78
崇神天皇と百襲媛に関しては、記紀と稲荷山鉄剣の銘文で、

@ 文証(記紀の雄略の文と鉄剣の文)
A 現証(雄略と大彦の名ある鉄剣の現物出土)
B 理証(その銘文の雄略を遡る大彦までの系譜の代数の合理性)

の三証が具足されており、大彦の名あることでその頃の代の崇神とモモソヒメ
が実在であったとすることは問題ないと思います。しかも記紀の雄略の文は
大悪的なる天皇の行為をさらけ出していて、天皇の不利を露呈させていること
から、その文面が虚偽を書いたとは言い難いことでなおさらです。
紀の崇神十年の条にモモソヒメの死亡記事があることから、同年とすることは
通常ではいいわけなんですが、なにせ神話形式の内容で死んでますから、
反対意見が出ても反論は完璧をしにくいです。もしその年ならば倍暦計上で

紀の崇神十年=240年

となります。一時邪推したか?と思いますが、紀に箸墓とあるからこれも否定
はままなりません。言えることはその後の景行から仲哀までの間に皇統の乱れ
があり、日本武尊と仲哀との日継に不可解なる記述が記紀に存在し、仲哀世の
手前からモモソヒメ、景行あたりに、記紀に記述の抜けている某人物が一名
存在した気配があるかと観ています。箸墓がモモソヒメの墓でなければその
人物の墓の可能性がありますがね? いまのところ ? です。これがわらわ
の邪推の可能性は残ります。が・・・・・肯定ならば、
その者は火之迦具土神の縁があります。

zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・
90日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:46:40
ですが、が、考古学に全く無知というのがよく分かったよw
この点は太国と変わらないな
九州説に明日は無いはこりゃ
91九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 22:51:53
>>90やだー、ばかにかまってる間大事なニュース見損なったじゃないのよー。相手する価値無いのに。
おかしな漫才しかやってないし。僕って人が良すぎちゃってこまるったら。
92日本@名無史さん:2007/05/05(土) 22:52:40
>>89
太国氏、乙!
邪馬台国論では立場は違うようだが、大いに参考になります。
どうぞぐっすりおやすみください。
93日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:05:23
>>86
だから、西新から出る吉備や大和や播磨産の土器は、
それが造られてから100年(または50年)たって九州に到達したってことでいいのかい?
貴方の書いてることはそのようにしか読めないんですが・・・
94日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:16:05
>>88

土器の行商人ってなに?
95日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:27:00
そろそろですが氏も、返答するレス選べよ。
96日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:27:03
弥生式土器の場合は、弥生後期の始まりが畿内と九州では100年違うらしい。
九州では紀元0年あたりから弥生後期が始り、畿内では西暦100年頃から始まる。

西新式土器は、卑弥呼の時代の土器というらしいが、これに相当するのは、
畿内X期の土器と言われた。寺澤氏などによると、庄内式になるらしいが。
庄内式が200年くらいに始るとなれば、畿内X様式も前倒しされることになる。

このあたりはわれわれ素人には難しい。弥生時代中期から後期に限れば、
W期は、畿内では弥生中期になり、九州では弥生後期になるということで、
100年くらいの時差があるらしい。

ちなみに、縄文式土器も弥生式土器も、どうも女性が作っていたものらしい。
97九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 23:33:31
>>93うるさいねいちいち。
TVも見てるし猫にごはんやってるのに。いっぱいいるから。
大体「西新から出る吉備や大和や播磨産の土器」の編年からして「それが造られてから」って。
いつ出来たか自体100年ほどの幅を持たせて、それが伝播するのがプラマイ00の幅を持たせるんだから。
いつかわかるかそんなもん!

98日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:40:02
 こはん!
──v──
  ∧,,,,,,∧
 ミ,,´∀`彡 
  ミ   ミつ ___
 ミ,,,○,,,,,,,,,ミ |
99愛知県民:2007/05/05(土) 23:41:40
>>19
久努国造ですか。
これは調べる価値ありますね。
謝謝。
100九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 23:45:37
猫のえさ買いに行くの忘れたじゃないの。おかしなことぐずぐず聞くから。
ニャ―ニャーうるさいったらもう。
ちなみに>>98の絵はうまい。うちの猫の中のチャチャというのにそっくり。
101日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:48:49
>>96
素人にだってそんなに難しい話ではない

>弥生式土器の場合は、弥生後期の始まりが畿内と九州では100年違うらしい。
>九州では紀元0年あたりから弥生後期が始り、畿内では西暦100年頃から始まる

これは相当古い認識だね。
確かに畿内の土器編年では新しく見積もられた時代がある。
いわゆる小林編年とよばれるもの。
だが吉野ヶ里ブームも相俟って、80年代には日本各地で様々な出土物が出揃い
それらを体系的に整理したところ
九州、山陰、瀬戸内、東海などの地域編年が供出土器から相互関係にあることが判明し
また各地で出土する庄内式が西新町やS字甕と供出することが判明したため、畿内の土器編年もそれに合わせて前倒しされた。
これってだいたい90年代初頭の話じゃないかな。

なので一部の九州説論者がいう、布留0式(畿内における庄内式の次の様式)4世紀以降というのは
この古い編年をそのまま使用したものであろう。
102日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:50:06
あれ?チャチャっていうのはプラムのところの猫と同じ名前だぞ?

こりゃまた、えらい偶然もあったもんだねw
103九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 23:51:02
チャチャはおりこうでティシュをボールみたいに丸めて投げると
ジャンプ&キャッチするんだよね。
104日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:52:22
西新では吉備]様式や畿内系庄内が共伴し、
逆に吉備の津寺では西新や庄内が共伴する。
そして吉備]様式は庄内期の大和や河内でも出土する。

ですが理論によるとそれぞれの地域で何十年も前の他所のデザインが
突如流行したって言う現象らしい。
在地系の模倣モノもあるが、搬入モノの存在理由はどう説明するつもりなのか?

これらの土器は同時期に広範囲に流通しているつーことが
何で認められないのかなあ・・・
105日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:55:41
>>104

>何で認められないのかなあ・・・

 ○鹿だから。
106日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:58:39
>>101 >>104
ですが氏が認めずとも、他の人は理解できるだろうし
どうしても納得がいかない場合は、具体的な反論がくるだろうからそれでいいんじゃね?
何を突きつけられてもひたすら「認めない」「関係ない」をオウム返しするだけなんだから
彼以外の九州説論者の意見を待ってみようよ。

>>102
また自爆ですか、最近多いな。
107日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:59:02
>>96

>縄文式土器も弥生式土器も、どうも女性が作っていたものらしい。

小型土器や精製土器なんかは女性向きだと思うけど、
大型の甕、特に九州の甕棺なんかは複数の男性がかかわらなけりゃ無理でしょう。
108九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/05(土) 23:59:30
>>102 えーほんとに?
うちは黒ねこでたてがみフサフサのペルシャ系モン。
ちなみに愛称はオチャポ。ほかにプル。という親もいて、ピヨちゃん。これは甘えん坊だがばか猫。
ぐれ太。ペンちゃん。モモ。クマ。ワニ江。ギロ子。しろみ。などがおります。
外には、シマじ。コン太、クロ吉、などです。
109日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:03:13
>>108
おまえのところの猫の名前を書いているヒマがあったら
質問に答えろよ

ってか独居老人の猫屋敷ですか
そうですか、さびしいんだね
110九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 00:06:45
>>109
たまたま子を産んで増えてしまっただけ。
寂しいって言うよりうるさいのなんの。かなわん。かわいいけど。
111日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:11:27
ひとりで猫の世話をして、2chをやっては、
邪馬台国は九州ですがとくりかえし、
冥王星はとてもでかいと思い違いをしたまま老年期を迎えてるわけか。
112日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:14:19
>>96

>畿内X期の土器と言われた。寺澤氏などによると、庄内式になるらしいが。

違うと思うが・・・
畿内X様式とは区分されるべきもの。
113日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:15:11
>>110
スレ違い、ここはおまえの日記じゃない。

>>31のコピペだけど、あれは前スレにあったやつだよね。
非常にうまくまとめていると思うので、長文になっても後日でもかまわないから
論拠となる出土物や状況などを書いてもらえたらうれしい。
正直俺の九州説は土器編年(これについてはほとんど知らなかった)や連合政権説にかなり揺れ動いている。
妄想や雑談はお腹いっぱいなので、こういうまともなレスを望みたい。
他の畿内説の人でもいいので、とりあえずは今まで分かっていることをきちんと知りたい。
114九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 00:20:20
>>111冥王星はとてもでかいと思い違いをしたまま

だからそれは30年以上前の百科事典に載ってたというに。
確かに最近までそれを信じてはいたが。
115日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:22:05
>>114

>確かに最近までそれを信じてはいたが。

で、九州説は、まだ信じてるわけか。
116日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:22:39
>>31=>>873 は前すれでかなり突っ込まれているが、誰も返答できてないね。

>>873の一段落目は九州の公立中学校の日本史の歴史の授業で普通に習った通り。
だから目新しくも何もない。畿内も吉備も出雲もそして
九州もそれぞれ栄えた王権のあるクニがあって、それぞれに栄えていた。先生が言ってた通り

で、2段落目はさあ、畿内説として前提で、「もし」倭人伝の記述が本州列島も含む当時すべての
日本の体系を現していたのなら1段落目と比較して普通に納得できるね。(倭人伝の書かれている
ような専制君主の体系が日本全体にはなかった。)
しかし倭人伝の記述が本州を含まない、九州の邪馬台国連合30数国だけのことをいってるんなら、
女王以下の専制君主のクニと連合国で間違いないから、別におかしくない。

まあ↑は置いといて、ここで一番重要な疑問。>>873さんよ。何を基準に畿内=女王国としてるわけ?
吉備も出雲も四国さえ強力な国々が共立していた通称連合。なんの根拠で奈良盆地が女王国なの?
祟神天皇が居た。女王国じゃないわな。天皇が中国から金印もらった話もないわな。

畿内どころか出雲とか吉備だって中国の皇帝から同時期に金印もらった話なんてねーよ。
強力な政権が「共立」してんのに、なんで中国が全部すっ飛ばして畿内へいくわけ?

まず方向無視、倭人伝の記述無視、邪馬台国の詳細すべて無視、の畿内説。
原文読み直せばわかるが、倭人伝では倭国ではなく、邪馬台国としての記述が羅列されてるが
それに畿内があてはまらないのを無理やり奈良盆地に設定していて矛盾炸裂。

しかも旧唐書であるとおり、当時の日本が「日本」と「倭国」に分かれて表記されている。
倭人伝は九州だけだろ。並列連合政権のね、日向にあった女王国なんだよ。

なんで並立連合政権内の一国の畿内の女王をまるで日本全部の専制君主のように書くわけ?
それが間違い。伊都をはじめとする九州だけの女王国連合のことが書かれているんだよ。そんだけ。
「東の大海の向こうにまた倭人が住む倭国ではない場所」なんて記述も納得。

だから>>873を読んで ますます九州説ですな。だって畿内説の一番肝心な部分が抜けているWW
117九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 00:23:18
>>109おまえのところの猫の名前を書いているヒマがあったら 質問に答えろよ

だから土器編年は決めつけが出来ない、というのが僕の答え。
118日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:23:33
>>31に対する九州説の反論 

1 独立した首長国家(奴・伊都国含)が大同小異の通商連合化していた説は
 はじめから九州説に取り込まれている。

2 3世紀の列島情勢は倭人伝の政治体制とは一致していない、ことこそ
  倭人伝に本州の列島情勢など初めから含まれてない証拠。

3 >>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
  結びつける要素が全く書かれていない。
119日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:24:30
弥生終末期には、こう言う広域流通が活発化してるんだろうね。

そんな中で吉備と畿内の土器様式に薄型加工などの最新技術などが連携して
庄内式が生まれたんだよね。
吉備と畿内だと、弧文嗜好とかもあるけど。
120日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:25:26
「邪馬台国」の詳細が書かれている時点で、実際に行って記録した人間が
いて、そのレポートを項目にわけて付け加えているのは原文を読めばわかる。

しかもその部分は「伊都国辺りまでしか行ってない」と思える前半部分とは
全く別物。その辺りを巧妙というか詭弁のようにしてごまかそうとしている
人間がいるのには本当に笑える。まあ、南国の雰囲気アリアリだからな、
間違った地図のせいにはできないからかw
121日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:26:25
>>118

>3 >>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
>  結びつける要素が全く書かれていない。

無茶いうなよ。
数十行でレスできる問題じゃないぞ。


122日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:31:15
>>114

>確かに最近までそれを信じてはいたが。

最初からそう言って訂正すれば大炎上せずにすんだのに
続いてこんな嘘までついて言い訳するから、馬鹿とか言われるんですよ

691 :九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/02(水) 21:44:15
僕が子供の頃は、天王星、海王星、冥王星の事はよく解っていなかったので、
どの百科事典にも木星、土星、などとあまり変わらないくらいに大きく表されていたのだ。
つい最近までその記憶を事実だと思い込んでいたというわけだ。
しかし今は天体の話をしているわけでもないのに、はぐらかし工作。

冥王星の大きさや質量がかなり正確に判明したのは1974年
しかし天王星や海王星は19世紀からかなりの部分が判明していた。
なので30年前と言えども、木星や土星(どんだけ大きいねんw)と同じくらいの大きさで書かれたいい加減な事典はないと思う。
123九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 00:39:46
僕も>>31については>>42で突っ込んでるんだけど、最後に
「考古学の常識など日進月歩で変わるもの。数十年前の常識は今では通用しません。それと同じで土器や古墳の編年を
幅を持たせ論じるのが正解です 」
なーんてくっつけたばっかりに、そちらの方ばかりクローズアップされてこっちに質問してくる始末。
これが手練手管なんだよね。相手の虚をついて自分の瑕疵を覆い隠すという。
ずっと前からいつもこのはぐらかしでやられちゃって・・・。マイドの事。
なかなかのペテンだもんなー。さすがというか。こっちこそ>>42の前半の質問に答えて欲しいのに。
124日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:44:17
>>116
>倭人伝では倭国ではなく、邪馬台国としての記述が羅列されてるが・・・

「記述」というのは、「男子無大小・・・・」に始まる習俗や特産などを述べた部分ですか?
これは「邪馬台国としての記述」と断定はできませんよ。
そんなふうにとるのは、あなたの勝手な思い込みでしょう。
125日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:44:47
>>118

1はどう見ても撤回だね。
前スレでも指摘されてるが、地域連合と広域連合じゃ内部構造が違うでしょう。

3については、前レス873氏も「膨大なので徐々にしか書けない」としているが、
わかりやすいところから言うと、地域性かな?
公孫氏の半島経営が破綻していた3世紀初頭には、
北部九州の地勢学的優位は弱まっていた。
独立状態になった弁辰地域からの鉄輸入の供給量が増えて在庫過剰状態となり、
逆に仲買人としての独占的地位が低下してしまったのかもしれない。
また、「消費者」である西日本地域が先に「消費者連合」を形成(纏向への参入は、
九州が一番遅い)したため、相対的な政治力も低下していたと思われる。
「消費者連合」内では、畿内自身は傑出したところの無い存在であるが、
吉備、出雲、丹後、阿讃、東海、関東などの諸地域の中心に位置するため、
拠点となりえた・・・とも言われている。
126113:2007/05/06(日) 00:47:36
いや>>42は九州説から見てもありえない。
なぜならそのような中央集権連合が九州にあったのなら
わずか数十年後に跡形もなく消え去ったことになる。
九州説をとるにしても、それほど強力な繋がりがあったとは考えられない。
127日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:47:36
>>104
いろいろあるってことだろう。土器の製作技術が、ある地域から別な地域に
移動するとすれば、時差があると考えるのが自然ということになる。

同じタイプの土器があるから同じ時代と考えるほうが、古代の交通事情など
からしても不自然。ヨーロッパでは、異なる地域では相当の時差があると
考えるのが自然となっている。

まあ、鉄で言えば、中央アジアで普及するのと、中国で普及するのと、
日本で普及するのとでは当然異なる。土器も同じで、同じような時間を
考えるほうが無茶だと思う。
128九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 00:48:43
>>122冥王星の大きさや質量がかなり正確に判明したのは1974年

あっそう。1974なんだ。解ってきたのは。だから弟達に聞いても
冥王星の大きさは解らないといってたわけね。
あーそれより随分前だもん。そんな前だったっけねえ。
129日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:50:31
>>128

弟たちがかわいそうだな。
こんな兄貴をもって。
130日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:50:57
>>112
年代的にという意味だよ。
畿内第X様式は、年代的に西新式の時代に当たるとされていた、ということ。
131日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:51:54
>>121
書けないってWWW そこが畿内説のポイントだというのにかけないんだとWWW

 無いってことでいいんだねWW  関係ないことばかり長々書きやがったくせに
畿内説って馬鹿じゃねーのか?こんな誤魔化し方しやがって。

邪馬台国畿内説とは関係ないことばかりかいてる>>31
132九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 00:53:23
>>104これらの土器は同時期に広範囲に流通しているつーことが
何で認められないのかなあ・・・

よく読んでなかったけど今この文に気が付いた。
絶対無い無いそんなこと。
133日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:53:45
>>124
邪馬台国は倭国のことだが?勝手に必死な解釈続けたってどうにもならないぞ。
134日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:54:13
>>131

書けないんじゃなくて、
少し書いてるうちに横槍がはいるから、先にすすまないだけだよ。
135日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:55:57
↓頭おかしいんじゃないのか?1000もレスできるこの2ch上の
スレを19も続けて書けないんだとよ。畿内説の根本だろうが。


>3 >>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
>  結びつける要素が全く書かれていない。

>無茶いうなよ。
>数十行でレスできる問題じゃないぞ。



136113:2007/05/06(日) 00:56:12
>>134
横槍やあおりは無視して、少しずつでいいから書いてください。
137九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 00:57:49
>>129それはいえてるかもね。
でもそれなら1960年代かも。でっかい冥王星を図鑑で見たのは。
138日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:00:50
>3 >>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
>  結びつける要素が全く書かれていない。

畿内説つーか考古学的見地からは
西暦250年あたりに奈良盆地に祟神天皇がいたなどとは誰も思っていない。
その実在は記紀妄信派以外は完全に疑われている、もちろんモモソも。
なので普通の畿内説からすれば、まったく筋違いの話となる。
139日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:02:16
>>137
でっかい天王星と海王星はいつ見たの?
140日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:02:38
>>101
土器の編年は、専門家にも難しいらしい。
考古学者一人に一説といわれるくらいたくさんの説がある。
寺澤、石野あたりは、西暦200年頃に庄内期が始るとするらしいが、
橿原考古学研究所にも、確か庄内期は300年頃に始まるという人もいた。

佐原編年でも、300年頃に始まるとなっている。畿内説は、都合の良い説
ばかりを持ち出すが、けっこういろんな説がある。
141日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:04:39
まず畿内説がおかしいのは 巻向と祟神天皇を邪馬台国と同時期に
もってきたまではいいとしても、卑弥呼の存在がそこにない。

で、祟神だが、欠史8代とこいつの代まで結婚相手が地元の豪族の娘ばかり。
これが、いかに王権が小さいものだったか現している。
が、祟神の功績はあちこちに残されてる。例えば社伝など。
しかし、こいつが中国に遣いを送り「倭王」の金印をもらったなどという話はない。
142日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:05:14
>>127

「技術」じゃないだろう。
「モノ」の伝播だよ。

2007年日本製のPS3がアメリカでX−BOXと一緒に出土し、
同じ組合せが日本でも出土するようなもんなんだよ。
わかるかい?
伝播の方向は一方通行じゃない、相互に伝え合ってるんだよ。
それに、土器だけじゃないよ、鏡とか木製品とか他の遺物との相関も考慮されてるんだけどね。

キミの言い分は、2007年日本製のPS3と2107年アメリカ製X−BOXがアメリカで出土し、
日本では2107年日本製PS3が2007年アメリカ製X−BOXと出土するようなもんだ。
143九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 01:06:01
>>122最初からそう言って訂正すれば大炎上せずにすんだのに
続いてこんな嘘までついて言い訳するから、馬鹿とか言われるんですよ

1970年頃の事は何にも知らないくせに人を無知馬鹿呼ばわりすんな!くそガキ。
144日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:06:17
天皇家で「女王」格の女性といえば神功皇后。しかし朝鮮遠征や熊襲退治
応神の出産などあちこちに話が残っているが、やはり中国と関わりのある話は
ない。
145日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:10:46
>>138
>西暦250年あたりに奈良盆地に祟神天皇がいたなどとは誰も思っていない。
>その実在は記紀妄信派以外は完全に疑われている、もちろんモモソも。
>なので普通の畿内説からすれば、まったく筋違いの話となる。

つまり、邪馬台国時代に天皇は畿内にいなかったと?凄い展開になりますw

自分の言っていることわかってんの?? 
欠史八代の頃を言っているのか?
あるいは君は神武=祟神説かな? 

日本史を知らないのなら考古学板から出てくるな! あっちでもかなりやられている
みたいだけどねぇw

146日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:10:50
>>140

嘘は書いていないけど重大な事実を省略しているな。
実にうまいやり方だ、それ何てマルチ勧誘?

>橿原考古学研究所にも、確か庄内期は300年頃に始まるという人もいた。
確かに居た、樋口もだし佐原もそう。
けれどそれは編年が統一される前の70年代の話だ。
その当時のつたない資料から推測された一時的な編年をいまさら持ち出し
さもこの平成の世にまだ存在するかのように書く手法は誰の真似なのかなw

そういう詭弁が得意な数理文献学者とやらを一人知っているが、彼のやり口を学んだのかな。

147征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/06(日) 01:10:56
倭迹迹日百襲姫命の没記事のある崇神十年が
卑彌呼の推定没年の正始八年になるように日本書紀は設計されてるんですよ

つまり日本書紀は倭迹迹日百襲姫命が卑彌呼と対応するように設定してるんですよ


卑彌呼が居る居ないの問題自体は、倭迹迹日百襲姫命が書かれている事で解消します
148日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:14:03
またモモ説がでてきた。だからアフォだというんだ。
149日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:14:20
>>142
そういう問題ではないと思うが。
土器の場合は、普及ということが重要になる。
同じものが普及すれば、同じ時代と考えるのは、ヨーロッパで自動車が
普及するのと、アメリカで普及するのと、中国で普及するのと、インドや
アフリカで普及するのと同じ時期という捕らえ方だと思う。
150日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:15:39
>>143
大阪万博に何度も行った俺が来ましたよ

天王星や海王星が木星・土星と同じ大きさで書かれていた図鑑はさすがになかったぞ
俺の周りの同年代も冥王星の降格が話題になったときに、そんなよた話したやつは居ない
それって日本の図鑑じゃなく、どこかの発展途上国の話じゃね?
151日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:16:16
モモが金印もらったといいたいわけだなwww はいはいw

で>>崇神十年ってことは祟神天皇も居たんだが、なんでモモの女王国なの?
天皇は?女王国じゃないぜ。
152日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:17:25
>>146
現代でもいるよ。ちょっと思いつかなかったが、関川尚功だった。
153日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:18:19
>>133
>邪馬台国は倭国のことだが?勝手に必死な解釈続けたってどうにもならないぞ。

あなたは 邪馬台国=倭国 と捉えておられるようです。
わたしは 邪馬台国⊂倭国 と捉えます。邪馬台国は倭国の中の部分領域、という意味です。(⊂は集合論の記号を拝借)
したがって、たとえば伊都国に関してもわたしは 伊都国⊂倭国 と捉えます。

他の九州説の方、賛否をお聞かせください。
154日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:18:22
モモって生涯独身かな〜? 設定なんかされてないよw
155日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:19:41
>>141

>で、祟神だが、欠史8代とこいつの代まで結婚相手が地元の豪族の娘ばかり。

どうしてこういうデタラメがまかり通るんだろうな?



156日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:20:15
>>145
天皇制つーか弥生後期から古墳時代に入っても
記紀にあるようなオオキミに該当するような王家など実在しなかったと考えられているんだよ。
一部の皇国史観畿内説にはこれが耐えられないらしいんだけどね。
157日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:21:58
>>146

>そういう詭弁が得意な数理文献学者とやらを一人知っているが、彼のやり口を学んだのかな。

はげしくワロタ。
その通りだ。

158九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 01:22:31
つまり土器の編年などという不確かなものを以って
邪馬台国に関連する年代を決めよう等という試み事態が無理があるのであり、
>>37のレスの謂いはその不確実さ、当てにならない事を強調しているものであって、

71 :日本@名無史さん :2007/05/05(土) 21:44:17
>>69
>当時の文化の伝播スピードさえ想像出来ないでいるんでしょう?
で、君は100年と考えてるわけね?

と聞く人間が最大の馬鹿といえよう。
159日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:22:45
土器編年の問題点は、大まかに言うと。
1、庄内式はいつ、どこで始まるのか?
2、九州と畿内で庄内式は同時並行と考えられるのか?
3、九州の庄内式はいつ始まるのか?

畿内説の理屈は、平原=200年=庄内式直前期=畿内での庄内式の並行。
この理屈の問題は
A、同じ庄内式期でも九州と畿内で出土する鏡(の年代観)が違うこと。
B、平原200年説は三角縁国産説に配慮した年代であること。
C、吉野ヶ里終末期の北墳丘墓を250頃とすると平原はそれ以降となること。
吉野ヶ里は庄内式がごく少量出土しているが、まさに庄内直前期までの遺跡。
D、そこで、平原を270年頃とすると畿内説の前提が崩れる。

畿内説が年代遡上する前の年代観であれば、吉野ヶ里北墳丘墓は230〜260頃、
平原は250〜290頃で、庄内式は、その頃に九州で始まり300年頃に畿内でも
庄内式が始まり、330頃に古墳時代が始まり、箸墓、崇神は330〜350頃という
ことになろうが、それでは自生を断念した畿内説は成り立たない。それ故の遡上か。
160日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:24:34
>>152
ついでになるが、布留0式の出た箸墓古墳を4世紀半ばに比定している
田辺昭三氏も、当然、庄内式は300年ころということになる。
吉野ヶ里遺跡の高島忠平氏も同じような年代観。
161征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/06(日) 01:27:59
問題は、崇神十年の日本書紀の設計上の真の想定年代が正始八年である事を肯定出来るからといって、

卑彌呼は大和に居たのか?
箸墓が箸中山古墳なのか?
箸中古墳の被葬者は倭迹迹日百襲姫命なのか?卑彌呼なのか?
倭迹迹日百襲姫命=卑彌呼なのか?

と云う問題なんです。

文献史学の領域からは考古学と全く独立して、崇神十年=正始八年と肯定出来ます。
第一の問題は、考古学上の箸中山古墳の年代が、247年に没した被葬者に対して矛盾しないか
と云う事です。


書紀が出来た8世紀には近代考古学なんて在りませんから、
書紀を設計した彼等は四百年以上も前の墓を決め打ちして、
247年に没した者の墓である事にしたんです

もし彼等が、卑彌呼のイメージを倭迹迹日百襲姫命に投影させる事が目的だったなら
箸中山古墳の年代自体も合わないでしょう

彼等は古墳比定を誤って、当初の目論見に反して卑彌呼年代と合わない古墳を
倭迹迹日百襲姫命の墓としてしまう事が考えられます。


ただ考古学上、箸中山古墳の年代が、卑彌呼の年代と矛盾しないなら、
彼等は、知っていた筈なんですよ。

書紀編纂の年代から四百年以上の前の伝承上の墓の被葬者を

面白い話でしょ
162日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:33:29
>>149
「モノ」っていうのは「実物」のこと、「様式」「モデル」の話しにしないでねって言ってるの。
何で100年も前の土器を輸入したり、模倣したりする必要があるんですか?
そんな屁理屈を放屁しまくってまでして、西新と庄内と吉備]と廻間式の併行関係を認めたくないのかな?
163日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:33:36
>>156

>記紀にあるようなオオキミに該当するような王家など実在しなかったと考えられているんだよ。

なかなか詳しいね。
確かに、鉄剣なんかが出土しても、銘文に「大王」なんて称号が登場するのは、ずっと後のこと。

以前、三角縁が畿内王権から地方に配布されていたという説も主流だったけど、
そういう中心的役割も担ってなかったようだな。

164日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:35:53
>>152
関川編年で庄内式の実年代に言及しているのは
「近畿・庄内式土器の動向」1986 ですよね。
もともと須恵器以降が専門の方だし、今でも庄内式に関しては同じ説なのですか?
「纏向」では石野さん共々実年代に関しては慎重な立場でもあったのに
えらく言い切っちゃってるなーと当時思ったんですがね。
弥生期遡上や寺澤編年などが登場した今も、その頃と同じことを言ってるのならば驚きだけど
最近関川さんは見瀬丸山あたりの話しかしないので、どうなんですかね。
165日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:36:25
土器って胎土から産地がわかるんですよね。
166九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 01:36:58
>>150
こたえる気にもならんが答えてやろう。それはおのれの勉強不足なのだ。
ガキならいざ知らずいい年こいてそのくらいしっとけ。
ただ昔の記憶だけじゃない。冥王星が惑星から外されたとき新聞で読んだが
かなり大きいと思われていたと書かれていたのは最近の記憶だ。
確かに天王星よりはちいさかったが地球などよりかなりでかかったのだ。
167日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:38:23
>>165

そうそう、それで、土器が流れてきたのか、土器職人がやってきたのかがわかる。

庄内土器なんてのは、九州の人は上手に作れなかったみたいだな。
168九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 01:39:32
つまり土器などで年代を判断するのは大バカとしか言えないという事だ。
169愛知県民:2007/05/06(日) 01:39:47
>>153
横レスですが。
私も邪馬台国⊂倭国と考えます。
奴国、投馬国の戸数を足しただけで邪馬台国の戸数と同じになりますので。
170日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:41:40
>>168
天文学をしらないと、冥王星がでっかいとか思い込むんだよ。
171日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:45:39
>>161

意味がよくわからんが、日本書紀を書いた人は、
卑弥呼がモモソ姫だと推測して、
なおかつ、それを隠す?ために、神功紀に魏志倭人伝を引用したというのか?


172日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:46:55
>>163
俺も△配布説は相当疑問だと思ってた。
いや正確には、畿内王権が諸国への威信財のひとつとして生産したという考えが納得できなかった。
そうではなく前方後円墳(後方墳)も含めて、連合政権参加の証のひとつであり
それは全国の首長達も任意の上で進められたものだと今では思う。
△の生産工場は畿内(おそらく大和北部か丹波南部)にあった蓋然性は高いようにも思うが。

ところで>>159がすげえ面白いことを書いている。
どうやったらそう考えることができるか、一晩じっくり考えてみてからつっこみ入れるわ。
173日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:52:11
>>170
冥王星の質量は発見前から計算できてるのにね。
つーか、それがわからないと海王星の軌道のブレから冥王星の軌道は予測できないから。
ただ「大きさ」は計算できないからな・・・・ですがジイサンが何十年も前にトンデモな図を見たということは有り得る。
174日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:56:29
崇神天皇は、最初の大王じゃなくて、
市場を仕切る問屋の主人みたいな立場の人でしょう。

吉備や越や丹後や東海からの物流を仕切っていたわけ。
だから「シキ」という言葉が残ってる。

問屋の主人は、やがて地方の豪族と顔聞きになるから、
地方と地方の調停なんかも任され、信用の上に、やがて「王」として共立されていったろう。
卑弥呼もそうした立場の一人だったろう。
175日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:59:06
>>166
またまたご冗談をw

>ただ昔の記憶だけじゃない。冥王星が惑星から外されたとき新聞で読んだが
>かなり大きいと思われていたと書かれていたのは最近の記憶だ。

そんな捏造記事載せるのって、何新聞?
嘘じゃないのなら新聞社の名前書いてね。
それにもしそんな嘘が新聞に書いてあったのなら、悪いのはその新聞社じゃない?
ここで大笑いした人たちはぜんぜん悪くないよ。
176九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:02:57
冥王星に関するこんなサイトは見つけた。

明らかになった冥王星の実像
 冥王星が発見された時の位置は、ローウェルの予想からそう遠く外れてはいませんでした。
そのローウェルは冥王星の質量を地球の6.6倍と見積もっていましたが、
その後の調査により、せいぜい地球程度。その一方で、冥王星の直径も地球と同じくらい、
と推測されるようになりました。
要するに、「冥王星は地球と同じような天体だろう」というイメージに落ち着いてきたのです。

 しかし、1955年、カイパーによる冥王星の掩蔽観測から、驚くべき結果が導かれました。
冥王星の半径は2900kmで地球の半分以下。この値を採用すると、冥王星の密度は水の50倍ということなります。
惑星の常識を破る、へんちくりんな天体です。カイパーの観測結果はなんらかの事情により、サイズが過小に測定された、
と当時の天文学者は考えました。

ところが、1978年アメリカ天文学者・クリスティが冥王星に衛星を発見したことにより、事態が一変しました。
冥王星と衛星の運動から、両者の詳しい質量が計算できたのです。その値は地球のおよそ1/500。冥王星と衛星を合わせても、
何と月より小さいというのです。こんなチビッコでは他の惑星を振り回すことなど、到底できません。
何のことはない、ローウェルの計算自体が間違っていたのです。惑星としての立場がだんだん危うくなった冥王星ですが、
小惑星セレスより充分大きく「太陽系の果て」ということで、9番目の惑星の位置を確保していました。
177九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:05:41
>>176のHP

http://www.geocities.jp/celestial_calendar/planet/pluto.html

「ローウェルは冥王星の質量を地球の6.6倍と見積もっていました」をそのまま書いた
図鑑を読んでたのかも。
178征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/06(日) 02:10:54
>>171
日本書紀が真の年代上に措いて、
倭迹迹日百襲姫命と卑彌呼が対応するように設計しているのは完全に肯定できますが

>それを隠す?ために、神功紀に魏志倭人伝を引用したというのか?

これに付いてはこう云う事なんかが考えられます

彼等が、本当に、倭迹迹日百襲姫命が卑彌呼が対応している事を隠したかったら
正に崇神十年に箸墓伝説の記事なんか載せる必要はなかったんじゃないでしょうか?

確かに神功紀に措いては、日本書紀の設計者は読者に対して
神功紀の年代が真の卑彌呼の年代であるかのように錯覚する事を期待して
漢籍を四回引いて見せた事は疑いありません。

しかし同時に神功紀には、神功紀の年代が真の卑彌呼の年代ではない事が明白になる
百済王の記事を120年ズレで載せていますよね。

もし、動機として、本当に書紀上の百襲姫と卑彌呼の関係を「隠す」至上命題が存在するなら
神功紀が真の卑彌呼の年代だと判断させる、漢籍引用記事だけを載せて、
神功紀が真の卑彌呼の年代ではない判断させる百済関係の記事を掲載すべきではない筈なんです。

寧ろこの矛盾する記述によって、注意深い読者に対しては、
神功紀が真の卑彌呼の年代では無い事を明確に宣言しているに等しい訳です。

そして、真の卑彌呼の年代を示す為に用意された決定的な記事が崇神十年と考えられます。
本当に誰にも隠したかったら初めから書かなければ良いんですよ。

でも彼等はパズルが解けるようなヒントを残していた訳でしょう?彼等の本心はなんでしょうか?
「決して本当の事を言う訳には行かないが、嘘をつく訳には行かない」
或いは、たんなる想定年代上の定点として意味があるだけでしょうか?
崇神十年が反映しているのは、書紀の想定上の真の年代だけなのか、それとも「史実」も反映しているのか?
179九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:10:54
>>175
ありゃ?175の馬鹿ガキ。何か言いたい事は?
180日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:12:11
>>172
生産集団を押えていれば「配布」者と呼べないことは無いと思うけどね。
ただ鏡職人達が最初からヤマト政権配下にいたかどうかもわかないけど。
181日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:15:30
>>176
あのねおじいちゃん。
みんなが笑っているのはね、冥王星が大きいかもといわれていた頃の話じゃないの。
その頃にはそう考えられていたのだから、それは仕方ないの。
でもね、それが30年近く前に否定されたのについ最近までそう信じてたってのはちょっと情けない。
さらに情けないのは、確かめもせずに間違った例を挙げたこと。
でもこのくらいなら誰だってひとつやふたつ身に覚えがあるかもしれない。

最悪に醜いのは、最近の新聞でも読んだとか言い訳しまくりなところ。
ここまで醜悪な人間性の持ち主はちょっと見当たらない。
そこをまさに後ろ指差されて笑われてるのよ、おじいちゃんは。

ってかそんなの一所懸命ぐぐらんでも、wiki見ればいいじゃんw
182日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:19:24
>>178

日本書紀は、複数の人が編纂に関わってますが、
神功紀を書いたグループと、崇神紀を書いたグループが別であれば、
そうした年代の錯誤ミスは起こりえます。

そうは、考えないのですか?
183日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:21:20
>>179
はい!175とは違う馬鹿ガキですが質問です。

一人暮らしで無職で家族は猫たちということですが
年金生活なんですか?それとも生活保護?
前に日本全国あちこち住んだとか書いてましたけど、それはあちこち追われたからですか?
その頃に奈良や福井の人にいじめられた思い出があるから、アンチ畿内説になったのですか?

おしえてちょーだい
184九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:28:19
>>181
おのれはこっちが証明できない事を良いことに屁理屈を並べているだけだろうが。
おまえのような醜悪なヤツはいない。「その頃にはそう考えられていたのだから、それは仕方ないの。」って嘘をつけ嘘を。
おまえは大きな冥王星という事自体を否定していただろうが。 故意かどうか知らんけど。
おまえのような人間ははいずれ社会からかならず追放される。
新聞社からコピーとってきたらおまえは今度は何と言い訳するつもりだ?
185九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:32:03
>>183
奈良や福井?
そんな田舎モン何の関係があるのだ?
186九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:37:20
奈良や福井への恨み言といえば繁華街で買い物をしようとホテルから探しに行ったが
繁華街らしきものさえ見つからなかったという嫌な記憶だけだ。
187日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:44:54
>>184
そこまでいうなら新聞社の名前晒せ
コピーもうpしる
188九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:46:30
>>187西日本新聞よ。
189日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:48:19
西日本新聞はですがにひどいことしたね
190日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:49:31
>>188
ここで暴れる前に、西日本新聞に文句言うべきだと思う
あんたのとこの記事を真に受けて2chで恥かいたってw
191九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:49:53
>>187奈良や福井
あんたひょっとしてどっちかの人?しずかでいいとこねー。車も走ってなくて。
うらやましいワァ。グーグルアースで見えるのかね。
192日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:58:00
何で冥王星の話になってるんだ?
レス番飛びまくりで話が見えない
193日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:58:52
>>185-186
おじいちゃんたら、もう忘れたのかしら
福井県の遺跡で大量の鉄器が出土したという話題のときに
福井や奈良なんて田舎モンだと、まるで関係ないレス書いて火だるまになったこと

その後「これはキーボードの練習だ」とか爆笑ものの言い訳したり
「俺にとって他人は利用するためだけにある」とか痛いこと書いてまた炎上したし
かと思えば「SOYさんや太国さんは違いますよー」とかみっともなくへつらったりして失笑を買うし

今お住まいは福岡でしたっけ
思い切り田舎ジャン、ってか目糞鼻糞ってやつだよ
田舎モンのおじいちゃん、本当に反省してね

淳子のお・ね・が・い(はぁと)
194九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 02:59:55
>>187
ありゃーごめんなさいね。何にも見えなかったのね。
悪いこと言っちゃった。でも近頃は人口20万人台でも駅前とか大都市みたいよ。
奈良や福井って人口20万じゃなくて昭和20年代のまんまじゃないの?
そんな感じはしたわなあ。
195日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:01:47
>>191
お国自慢や他県民への悪口はスレどころか板違いです。
夜中に年寄りが何みっともないことをしてるのですか!

●荒らし・煽りは『完全無視』+削除依頼しましょう。
煽りにはsageでもレスしないこと。無視できない貴方も荒らしです。
196征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/06(日) 03:08:08
>>182
述作者は誰か?みたいな研究や、各種の書紀区分論の研究も知っていますが、
先行研究者が対象にしている書紀での語句や用法や音なんかから導かれる区分と、
書紀の年代研究から解る書紀の区分は独立しています。

つまり、本文のライターらによる、年代分配を司る設計者達はイコールである必要もないですし
イコールである事を肯定する材料は何処にも無く、独立している事で寧ろ否定する事は可能です。

本文を書く人間と、年代操作を設計する人間、それを統率している人間は、
その異なる専門分野の能力を考えても別人である事の方が望ましいですしね


どの記事が、書紀のどの記録位置に分配されるかは、本文を書く人間の仕事ではなくて
年代操作を設計する側の人間とその統率者の先見事項でしょう。
ライターの出る幕ではない筈じゃないでしょうか。

特に外事記事との対応で、書紀の真の想定年代の露見を左右してしまうような記事の
掲載可否に付いてライター自身には何の権限も無かった筈ですよ

彼等は設計者じゃないのですから
197九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 03:08:57
>>193あのねなかとみのカマ子。何を勘違いしてるかは知らないけど
キーボードの練習とかはそのままよ。他人は利用するためだけにある
は何十年も前からそうだし、何一つ変わった事は言ってないけど?
どこが問題なん?ありのままのべただけよ。それにうちの実家は東京だから。福岡はそうでもないけど
奈良福井如きに言われたかーねーわな。
198日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:13:29
九州ですが ◆IhXqm1bg5c が前日も今日も
ほぼ一日中2chに貼りついてレスしまくってる事実に慄然とした

元気なじいさんだなw
人生の終着駅が2chというのはなんとも哀しいが
199日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:18:47
>>197みたいなこと書くと嫌われるよ、おじいちゃん
ってかそんな態度だから、行き着く先が猫と2chしか友達がいない独居老人になったんでしょ?
心配してるのはほんとうだから、たまには若い者の諫言を聞いてやってくださいな

愛されるお年寄りになりましょうよね
おやすみ、明日も元気でね(はぁと)
200九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 03:19:39
>>198
雨が降って出かける予定がくるってひまなのよ。
こちらの真面目な質問をはぐらかす為にこのプルート馬鹿が出汁になって
邪魔してくるんでハエを追い払っているわけよ。
爺さんは取り消せ!40代前半だ。山口百恵より若いのだ。
201九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 03:21:04
>>199そのまま死ねばか。
202九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 03:24:00
あと少しで畿内説の息の根を止められるかと思ったのに
親衛隊の考古学ゴキブリが多数出現。惜しくも取り逃がす。
203日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:24:20
>>200
40代前半の無職だと、よけいにヤバいと思うのだがw
204日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:25:52
>>202
>あと少しで畿内説の息の根を止められるかと思ったのに

2chでなに力んでるんだ、馬鹿かおまえ?
現実の世界でやれ
205日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:28:10
>>200
その落ち着きのなさは40代にも見えないのだが
てっきり高校中退のひきこもりだと思ってた
206九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 03:35:00
>>204現実の世界で息の根を止めるなんて出来るか!
せめて言論戦でだけでも畿内説者の首を三条河原に並べたいものよ。
207日本@名無史さん:2007/05/06(日) 03:40:26
その舞台が2chですか…orz

人生オワタ
208九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 03:43:30
>>31
さあ、吉良上野介!逃げてばかりいないで>>42の質問に答えたらどうだ。
おまえが放ったうじ虫どもの妖術「プルート馬鹿しぐれ」の術は敗れたり!
209九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 03:57:35
しかし今夜もまた馬鹿のせっせと作った罠にはまってしまった。
「聞けうじ虫どもー!」って僕も3時間以上やってると本質が出るようだな。
210日本@名無史さん:2007/05/06(日) 05:05:33
昨日も『ですが劇場』炸裂したみたいだな。
おまえら、短気でさみしいおっさんをいじめ過ぎだぞ。
211日本@名無史さん:2007/05/06(日) 06:43:04
ですが、九州説からも疎ましがられてたんだね

なんというか・・・
212太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 08:03:56
>>138

>>89のオオビコの件で、津田病に感染してるらしい貴殿の考えすぎ。
213太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 08:06:54
>>138
なんで記紀は不信で倭人伝は信なのか? 津田病に感染すると恣意的になる。
214九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 08:23:39
前スレの終盤からこのスレの>>50まで完全にこちらのペースで進んでいるが
>>50>>52が引いちゃいけないカードだったな。これが必死で引っ掻き回している。
何が>>31は実にすばらしいだ。自作自演して。こちらの>>42で殆ど論破されている。
>>42ほどおろかな推論はあまり聞いた事が無い。
215九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 08:43:47
>>かわいそうだけどこの>>181>>50>>52の人間。
近いうちあんた達の生活すべて駄目になると思うよ。仕事も家庭も周囲との人間関係も。
近所で猫を嫌って僕に文句ばっかり言ってきた人間はここ2年くらいの間に殆ど死んだ。
後は永久入院になったり追い出されたり火事になったりしてとにかく10人が10人全滅した。
ま、あんた達ここ数年でおわるよ。相手が悪かったと諦めなさい。

216日本@名無史さん:2007/05/06(日) 08:49:09
だから日本史板以外の人間(お国自慢、最悪、VIPとか)は相手にするなって。
217日本@名無史さん:2007/05/06(日) 09:06:11
四道将軍の派遣も九州には征伐に行ってない
九州は独立した国があったと考えられる
それが邪馬台国でしょう
218九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 09:06:37
はしけ男=ミドリムシちゃん=プルートばか=「ゆれてるよ・・ですが・・」=>>50
>>181=いなかもの=なかとみのカマ子???。
揃いも揃って馬鹿ばかり。というか天性のペテン師というか社会の邪魔。
日本の邪魔。考古学の邪魔。

はい、後は>>31のおろかな持論の人。つたない反論おねがいね。
219愛知県民:2007/05/06(日) 09:11:14
>>178
神功紀の新羅関係記事については、どうお考えですか。
微叱己知波珍干岐、波沙寝錦、宇留助富利智干(これは一説ですが)時代バラバラ。
微叱己知=未斯欣の時代(400年前後)が神功の真の年代ではないでしょうか。
220日本@名無史さん:2007/05/06(日) 09:12:36
九州ですがはもう荒らしと化してるな
この人にレスはしないように。完全スルーでいきましょう
221九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 09:16:16
>>220こちらの質問に答えられなくなるとほっかむりか。
222九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 09:20:34
あら?夕べのうじ虫は出てこない?
223九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 09:25:45
冥王星ペテン田舎もんは?
さんざんこちらを嘘つき呼ばわりして会話の邪魔をして引っ掻き回して
おまえなんか冥王星で死ね冥王星で。
224九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 09:28:17
いや、冥王が迎えに来る冥王が。おまえの家族に不幸がある。
225九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 09:55:18
では冥王星プルート馬鹿さんにインタビューしてみたいと思います。

Q,お住まいはどちら

A,プルート「はい。集落市 竪穴式住居2丁目です。」

Q,最近どの町でも100メートルを越える高層ビルが林立してますがそちらはいかがですか?

A,プルート馬鹿「はい、再開発複合施設の竪穴式住居2階建てが完成しました。たくさんの買い物客で賑わう事でしょう」

Q,・・・。
226九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 10:31:26
第二次大戦中、空襲を試みる為B-29はプルートの自宅上空を飛行していた。

上官「ないっ。町が無いっ。」

パイロット「地面に穴がたくさんみえるでしょ。あれにヤツらは住んでいるんですよ」

上官「・・・クマかおまえは。」
227日本@名無史さん:2007/05/06(日) 10:48:43
というか、日本書紀の編纂者は
過去の暦が二倍年暦だったことを考慮しないまま
魏志の卑弥呼が誰なのか考えた。

その結果、その年代に合致する皇室の人物がいなかったので
少々、時期がずれるが、未亡人で執政をしていた神功皇后を
卑弥呼の年代に合わせようとした。
そのために、神功皇后の後の人物で、仁徳天皇の在位期間と
生存期間が辻褄の合わない事態になった。(つまり、仁徳天皇は在位期間は水増し)

しかし、卑弥呼と神功皇后はあまりにも経歴が違いすぎるんだよな。
卑弥呼は生涯独身だし、その活躍範囲は国内にとどまるし、台与という少女の跡継ぎがいた。
しかし、神功皇后は未亡人で子供もいるし、少女の跡継ぎが女王になったような形跡がない。
228九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 10:58:16
>>181
あんた顔が間違ってんじゃない?
「生まれるとき難産でむりやり出されたの。」
それでそんな失敗した福わらいのような顔になったのね。
229太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 11:02:15
>>181
こやつは ALUCARD の弟子?で、ゾンビと言われるのも無理はないか?w
2ちゃんの迷惑者の典型。
230九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 11:13:37
>>229
何とかして追い出せませんかね?なんか効き目が無いみたい。
>>50くらいからずっとですよ。この荒らしは。ところで ALUCARD ってなんなんですか?
231太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 11:23:13
ww 不乱剣酒多飲と大神男と、ほら、もう一名仲間がいるでしょう。
追い出しは困難ですね。困ってるのはわらわも同じでうs。
232九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 11:35:23
>>231
ドン来いスレがかわいいからこそ追い出そうとして敢えてこっちまでおかしな事ばっかり言わないといけないし。
最初真面目ぶってるから解らないんですよね。冥王星もほんとに知らなくて教えて欲しいのかと思ったら
そんな事はどうでも良い荒らし、つまり引いちゃいけないジョーカーだったんですよねこれが。
巧妙に隙を突いて入り込んでくる。悪質詐欺まがいの人間がいるとこにはいるんですねえ。
233太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 11:51:24
>>232
誠意なる論戦をやるに、通常は論説のアッパーやフック等で双方武器とし応銭
するわけですが、昨晩の連中にもいたようで、審判と審判の採点そのものを
自己の武器として論に出る奴が多々いるわけなんですよ。

そういう奴がいたら自分で審判兼選手の真似はせずに選手と選手の競技で
やって来いと厳重に注文、警告して切捨てるのがよろしいですよ。
わらわも他のスレで自分が採点を武器とする審判兼選手の書きこみでやって
来られる経験を幾度か味わっています。審判の採点を相手側にさせぬことです。
不公平になりますから・・・・・。

降伏させられない危機がくれば、審判自体を武器に装填して論戦をしかけて
来ますから、その手に乗らぬことです。特に臥海とか大学教授の学術的権威
を自論への、審判の採点をつける武器として葬り去ろうとやって来ますよ。
採点が武器ならば勝ちはおぼつかないから、こちらは舐められます。
234太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 11:52:36
>>233 訂正

× 応銭    ○ 応戦
235SOY:2007/05/06(日) 12:03:46
>>232 九州ですがさんへ

昨日は遺跡めぐりをしていたので、一連の発言を今日まとめて見ています。

その流れを見て、九州ですがさんのお気持ちは分からぬではありませんが、
既に嵐は過ぎ去ったようですので、コーヒーなどを飲みながら、あるいは
資料を集めながら、のんびりと次の論議を待ってみてはいかがでしょうか?

簡潔な文章を好む私としては、怒りの言葉は一点に集約し、、
軽く相手に突き刺すくらいの方が効果があると思いますし、
怒りを静めて、のんびり構えるゆとりこそが次の論議で
プラスに働くと思います。

僭越とは思いましたが、
畿内説の方から九州説の方にも指摘するよう言われていることもあり、
ちょっと発言させて頂きました。

因みに私は今、GWの遺跡めぐりの資料をまとめながら、
このスレで登場している畿内説の主流?の通商連合?の
定義の理解に頭をひねらせています。
 
236日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:37:09
>>235

>このスレで登場している畿内説の主流?の通商連合?の
>定義の理解に頭をひねらせています。

「理解できねー」って意味?
大きな博物館言って、学芸員か誰かに聞いてみたりはしなかったの?
237九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 12:38:24
>>233 なるほど。じゃ>>31の自説を論破されたので、それを隠した、と結論付けて良いんですかね。
しかしこれが畿内説のやり方とは、なんとも情けない。負けを自分で認めているわけですよね。
でも読む人が読んだらどちらが勝ってるか一目瞭然ですよ。自分でも敗北感にさいなまれてるんじゃ無いんですか。
今に倍して責め続けていくべきだと思います。それが因になって、やつらはまともに世の中でやっていけなくなりますから。
日本の考古学に携わろうとする前に自滅する因をここで作ってやるのですよ。ここで悪行の因を作らせ、天網恢恢祖にしてもらさず。で、
世に名が出る前にその命運を断つ事が出来ますから。僕がこうして叩かれるのも無駄じゃないです。
必ず奴等の息の根は止まります。日本のダニ退治です。やつらが滅びる時間はもっと早いかもしれませんよ。
238日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:40:42
873 :日本@名無史さん :2007/05/04(金) 20:48:44
めんどいのでごく簡単に書く。
詳細を知りたければ3世紀について書かれた専門書を読まれたし。
3世紀の日本列島は、九州も四国も中国も近畿も、東海も中部も関東も
すべて独立した首長国家(クニ)が大同小異の通称連合化していたというのが畿内説なんだ。
もちろん面ではなく点と点のつながりであって、それに属さなかったであろうと見られるクニはいくつもある。
その中には2世紀まで玄界灘沿岸で栄えた奴国・伊都国などのツクシ連合も含まれている。
これは再三言われるように、機内王権がツクシ連合王権を支配下に置いたものではない。
当時は並列として存在していた可能性が高いとも考えられている。
もちろんキビ王権やサンエン王権の存在すら視野に入れている。

なぜ統一国家や支配といった考え方が廃れたのかは、とても書ききれないし
できれば専門書既読のうえで質問してほしいが、徐々にならば書けるかもしれない(それほど資料が膨大にある)

すごく大まかに言うと倭人伝の記述のうち、卑弥呼の即位がが「共立」という言葉で示されていながら
他の記述がまるで専制統一国家を思わせるような記述になっていることそのものが、もうすでに疑われており
さまざまな出土事実から推測される3世紀の列島情勢が、倭人伝にいう政治体制と一致しないというのが有力な見方となっている。
これが畿内説(実際は並列連合政権説)の基本的な考え方。

ただし未だに機内王権が鉄ルートを簒奪し、九州を支配下に置いたとする畿内自生説(樋口、白石など)も確かに学会には存在する。
両氏とも古代史の権威ではあるが、ほとんどの考古学者は同意していない。
北部九州や吉備の連合への影響などは、柳田や寺澤が提示しているように相当密接なものであった可能性が高い。
倭人伝記事との齟齬については文献史学も未だ明快な回答を提示し切れていない。
だが少なくとも協力な中央集権が畿内に発生し、それが他地域を3世紀初頭に圧倒したとする畿内説は、もうほとんど唱えられていない。



239日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:43:06
118 :日本@名無史さん :2007/05/06(日) 00:23:33
>>31に対する九州説の反論 

1 独立した首長国家(奴・伊都国含)が大同小異の通商連合化していた説は
 はじめから九州説に取り込まれている。

2 3世紀の列島情勢は倭人伝の政治体制とは一致していない、ことこそ
  倭人伝に本州の列島情勢など初めから含まれてない証拠。

3 >>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
  結びつける要素が全く書かれていない。


138 :日本@名無史さん :2007/05/06(日) 01:00:50
>3 >>873の「畿内説」に、奈良盆地の祟神天皇がいた首長国と、倭人伝の女王国を
>  結びつける要素が全く書かれていない。

畿内説つーか考古学的見地からは
西暦250年あたりに奈良盆地に祟神天皇がいたなどとは誰も思っていない。
その実在は記紀妄信派以外は完全に疑われている、もちろんモモソも。
なので普通の畿内説からすれば、まったく筋違いの話となる。
240日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:44:20
156 :日本@名無史さん :2007/05/06(日) 01:20:15
>>145
天皇制つーか弥生後期から古墳時代に入っても
記紀にあるようなオオキミに該当するような王家など実在しなかったと考えられているんだよ。
一部の皇国史観畿内説にはこれが耐えられないらしいんだけどね。

163 :日本@名無史さん :2007/05/06(日) 01:33:36
>>156

>記紀にあるようなオオキミに該当するような王家など実在しなかったと考えられているんだよ。

なかなか詳しいね。
確かに、鉄剣なんかが出土しても、銘文に「大王」なんて称号が登場するのは、ずっと後のこと。

以前、三角縁が畿内王権から地方に配布されていたという説も主流だったけど、
そういう中心的役割も担ってなかったようだな。
241九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 12:45:23
>>235
僕は雨で出かける事が出来なかったので夕べからテレビ半分でやっていたんですが
ちょっと油断して>>31を取り逃がしました。

畿内説の通商連合ですか?常識を逸脱したたわごととしか思えませんが?
242日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:50:47
>>241

冥王星が最近まででかかったのが、おまえの常識だろ。
まず、自分の常識を疑ってみたらどうだ?
畿内説の常識も、ここ10年でどんどん覆って修正されてるというのに。
243九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 12:57:06
>>242「畿内説の常識も、ここ10年でどんどん覆って修正されてるというのに」

よく言った!褒めてつかわす。
畿内説はさらに今からの10年でどんどん覆って修正されるから今の時点でさも正しいかのように主張すな!
こっちが言いたいのはまさにそれじゃ!
244日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:01:16
>>243

九州説の常識は明治から変わってないじゃないか?
245日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:10:48
>>243
俺は畿内説だが、
20年前の畿内説ではほぼ主流だった、
「九州から鉄ルートを簒奪するために機内王権の誕生が要請された」
「△鏡は、威信材として、機内王権が魏から輸入して同盟国に配った」
などという説には懐疑的だったよ。
畿内説といっても、上の説は、仮説というにも証拠に乏しい空想の域だったことは否めない。

しかし、今は昔よりもかなりの様子がわかってきてる。
「戦乱の痕跡がない」「強大な王権がない」「土器が拡散している様子」などから、
通商連合という仮説は、証拠に基づいて証明されつつあるのが現状。
246日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:16:49
畿内説が修正されてるからといって、九州説にブレるどころか、
畿内説がどんどん補強されていっているというのが考古学の現状。

考古学の発展の無かった昭和の中頃までは、
文献主体の九州説が元気だったが、
考古学が急速に発展してる現在においても、
九州説は、いまだに文献にしがみついている。

もっと、考古学上の発見から、九州説を補強されてみてはいかがですかな?
247九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 13:23:14
>>245「戦乱の痕跡がない」「強大な王権がない」「土器が拡散している様子」などから、
通商連合という仮説は、証拠に基づいて証明されつつあるのが現状。

畿内はそうだったんだろうが、それでは邪馬台国のイメージとは程遠いわなあ。
248日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:24:12
通商連合といっても、数年前までは、まだ、
「強い王権が無ければ、商人は交易できない」とされ、
「商人が交易を円滑にするために、強い王権の誕生が要請された」という説が主流だった。

それが、今となっては「強い王権」自体を想定しなくても良いほど、
「交易の結びつき」やら、「王権の不在」などが明らかになっているということなんだよ。
249日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:31:05
>>247

で、九州にあったという邪馬台国は、その後どうなったと考えているわけ?

1、畿内の通商連合に組み込まれて消えた
2、畿内を武力制圧して東遷した。
3、その他

九州の邪馬台国は、強い王権だったそうだから、当然「2」なんだろうな?

250九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 13:44:00
>>246畿内説がどんどん補強されていっている

無理に土器や古墳の年代が、故意にどんどん遡上されていってのであって、年代の辻褄合わせをしてるとしか思えず、
これについても>>37の内容はは正しい。以前の年代判定で十分である。
251九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 13:49:51
>>248畿内は畿内でそうだったんだろうが、九州とは殆ど交流があったとは思えない。
252SOY:2007/05/06(日) 13:53:13
通商連合という概念が今の畿内説の主流と2chのスレでは述べられていますが、
その実体が今一つ掴めません。

主流とする割りには、ネットで調べてもスターウォーズ関連で引っかかるくらいです。
その定義が全くもって不明です。ネット上での定義は以下のとおり。

『通商連合は銀河最大規模の公益企業体で、銀河系各地で盛んに貿易を行い、
その馬蹄型の貨物船は銀河共和国のほとんどの有人惑星で見ることができた』

実体の分からないものに対し、ステレオタイプ的な見方で論じること自体、
まやかしの様に思えます。通商連合とはいったい何物なのでしょうか?

・ギルドのことを言っているのでしょうか?
 それとも共和制のことを言っているのでしょうか?
・盟主はいるのでしょうか?
 また、どうやって盟主を決めると考えているのでしょうか? 世襲制?
・それは墓制までをも共有してしまう性質のものなのでしょうか?
・卑弥呼の墓以上の古墳を量産できるほど権力を集中させているものなのでしょうか?
・貿易商人の組合が個人の為にあれほど大きな墓を造るものなのでしょうか?

これらの定義がもう少し明らかになってはじめて、本当の論議が始まるように思えます。
 
253九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 13:54:14
>>249
1、だろう、邪馬台国勢力は自然消滅だろう。
254愛知県民:2007/05/06(日) 14:13:24
狗奴国=東海王朝か?
次の休みに考えます。

九州ですがさん、いつもご苦労様です。
冥王星談義は面白く拝見しました。
因みにローウェルは通算約3年間、日本に滞在し、神道の研究等日本に関する著書も多いとか。
調べてみると面白いかも。
255日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:19:04
>>253

おいおい、なんでそうなるんだよ?
おまえの考えでは、九州は鉄器が多くて強い王権があったんだろ?
どうして消滅するわけ?
256日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:33:00
>>255
>おまえの考えでは、九州は鉄器が多くて強い王権があったんだろ?
>どうして消滅するわけ?

そう言われると、たしかにヘンだな
257日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:37:51
つか二倍年暦ってなんだよ?
こんなのまともな学者は一人も言ってないんだろ?
なんか2chじゃはびこってるけどバカバカしいにも程があるよ
258日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:38:35
>>245
「土器の拡散、広域的流通」について、九州説の人は必ずスルーしますね。
259日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:46:51
つまり、九州説が生き残るためには、九州王朝説しか道は無い。
太国の勝利というわけだ。さすがだな。
260日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:50:28
>>258
その事実を認めたら破綻しますからね。
往生際の悪いのが、庄内式の発祥が北部九州だとかむちゃくちゃいってる。
土器拡散状況と、九州に邪馬台国どころか投馬国に相当する遺跡群がないことから
九州説が議論対象外になったのはもう20年も前の話なんですけどね。
261日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:56:25
>>260

そうそう。
庄内式の発祥が北部九州でないと、土器編年の話は絶対できない。

九州説では、土器を無視しないと、成り立たないんだよね。

一方、土器の研究はものすごく進んでる。
日本中で開発がすすみ、遺跡が発見されては調査が急ピッチで行われてるからな。
262日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:57:47
だいぶ論点が明確になってきた。

倭人伝の記述に沿って推理し、考古事実を軽視するのが九州説。
土器編年や墳墓築造変遷を重視し、倭人伝記述のほとんどは信用しないとする畿内説。
263日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:04:31
土器の並行関係で相対編年を確立し、
製作年代のわかる鏡や年輪年代などで各土器様式の実年代の上限を絞っていく
264日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:05:24
安本美典氏のサイトでは、まだ庄内式土器が九州発祥だとか説いてるな。

それだけ、庄内式土器が九州発祥でないと都合が悪いということだろう。

265日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:05:50
邪馬台国は九州にあって鉄文化が盛んだった、その他に土器と古墳の国があった近畿地方

これで終了じゃん

邪馬台国は倭人伝に登場する国でありその他の集落王権はまた別の話し
266日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:06:33
通商連合説といえば考古学研究の最新号にあったな
267日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:09:33
>>264
そうか、その手の妄想の元ネタは奴だったのか、ひどく納得した。
ちょっとぐぐってくる。
一通り読んだ上で突っ込みいれてみるわ。
268日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:10:00
九州で鉄器とか凄い遺跡があるって言っても伊都国と奴国に集中しているのだが。
九州説の主要な比定地の筑後川流域とか宇佐とか日向とか一枚も二枚も劣る訳だが
269日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:12:46
邪馬台国は伊都国、奴国含めた連合国だから邪馬台国は鉄文化が盛んだったと解釈してなんら問題は無い。
270日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:15:35
269の理屈なら畿内説でも問題ないなw
271日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:20:53
畿内は100%邪馬台国じゃないから無理だ

せいぜい畿内王権の確立と優位性を模索するべし

以下奈良派はスレ違いなので荒らさないでね
272日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:22:47
>>265
だとするとおかしな話になる。
その土器と古墳の国とやらに鉄文化の盛んだった九州邪馬台国が
わずか数十年で消滅させられてしまうことになる。

また倭人伝にある「女王国より北は大体分かるが、その他の地域は遠いのでよく分からない」との主旨の記述があるが
事実は日本海沿岸の広い地域で、すでに帯方郡(楽浪郡)との通商ルートが成立しており、分からないはずがない。
実はこの記述は「女王国の東の海を超えるとまた国あり」と矛盾していることでも有名。
九州説を採用するにしても、瀬戸内や近畿は「その他の隔絶の地」ではなく、邪馬台国連合に属するものでなければいけない。
九州内に30ヶ国があったとする説は、そのために消滅した。
273SOY:2007/05/06(日) 15:24:23
>>258
>「土器の拡散、広域的流通」について、九州説の人は必ずスルーしますね。

九州説の人が邪馬台国の所在地の決定打として『土器の拡散』を論じないのは
個々の論拠のありどころの違いに過ぎないと私は考えます。

広域的な流通が行われるということは、広域な領域内での流通に対する障壁が減り、
ある程度一枚磐になったということを示しているのかも知れません。

その広域的な流通の範囲が邪馬台国までの国々と部分的にでも重なるのであれば、
何故、一大率を伊都国に置いたのかといった話にもなるのではないでしょうか?

つまり、古墳時代における広域な流通範囲は、
寧ろ、邪馬台国畿内説にとってはマイナスの面も持ち合わせている
というようには考えられないでしょうか?

(スルーせずに語ればそういったところも論点になるかと思います)

伊都国が瀬戸内まで監視するといった話と
伊都国が北部九州だけを監視するといった話とでは
どちらがありえそうな話でしょうか?

そもそも『女王國以北』を『女王國以西』とすること自体が…
苦しい…
 
274日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:26:09
倭人伝の記述に出てこない近畿を持ち出すのが一番おかしな話

畿内説はスレ違いです
275日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:28:33
安本の詐欺的なところ
かなり前の橿原研究所作成の九州の庄内式分布図を出して九州には広く庄内式があるとする。
一方、畿内は庄内式が河内の一部と奈良盆地東南部にしか無いとしている。
実際は前者は庄内式という様式範囲をかなり広くしたもので、器種もいろいろでそれぞれの遺跡では必ずしも主体的ではない例が多くある。また庄内式の系統というだけで布留に下るものもある。
後者の畿内は庄内式古相から庄内カメを主体的に作り多く出土する範囲のことで、狭義の純粋な庄内式の範囲だ。
九州の庄内式分布図の基準なら畿内全域に広義の庄内式が色濃く分布し、畿内の狭義の庄内式の基準なら九州は博多遺跡ではなど福岡平野あたりしか庄内式は無い。
だいたい安本の邪馬台国比定地の甘木あたりは庄内式自体が少ないと思うが
276日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:40:56
そこでクローズアップされたのが、いわゆる東遷説。
これはなぜ鉄器を多数保有したはずの北部九州が、鉄器の少ない他地域に急激に圧倒されるのかを説明した
いわゆるコペ転的発想であり、当時としては画期的で、数多くの疑問に答えることができる優れた説だった。

ちなみにこれらは、20〜30年前の邪馬台国論争の話。
そういった論争史をまったく知らないまま、未だに単純に考えれば九州ですとかのたまう方がおられるので、あえて書く。

当時の東遷説は矛盾解決とともに、神武東征を連想させることもありアマチュアにも人気が高かった。
考古学者にしても決して無視できない要素が多くあったので、非常に精緻な検証が行われた。
その結果、実年代2世紀から3世紀と思われる時期には九州から瀬戸内を通じて畿内にまで、戦乱の痕跡が一切出土しないこと。
逆に畿内において九州の土器様式や武器様式が、ほとんど出土しないこと。
逆に大和からは、河内はもとより丹後や播磨、紀伊はおろか出雲、吉備、東海などの土器が多数出土し
さらには前方後円墳が各地の築造技術の集大成であることが判明した。
ここにきて東遷説も成立しないことがはっきりした。
277日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:44:14
>>275

わかりやすい解説ありがとう。

安本の論説が詐欺師と同じレトリックなのは言う
までもないが、
知らない人は、簡単に騙されてしまうからな。

>>273
SOY氏は、どう思う?
安本説と>>275と、どちらが信頼できると思う?
278日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:44:35
庄内式九州起源説のおかしい点は他にもたくさんある。
まず、例えば庄内カメの古い型式が九州にはほとんどない。またカメを含めて各器種の形態や製作技術が九州の在来の土器とは系譜的に全くつながらないこと。畿内の場合、新しく吉備の技術影響が一部にあるが基本的には畿内5様式からスムーズにつながる。
また土器様式の年代について、そもそもあまり根拠のない佐原真の旧説の影響下にある関川説に依拠して畿内の庄内式の年代を下げるが、九州はなぜかこの時だけ柳田説で庄内式の年代を上げ、だから九州の庄内式が古いとする。
これは詐欺的だ。
柳田の手法で鏡などで年代を検討すれば畿内の庄内式も古くなるはずだが。だいたい柳田の編年表で畿内との並行関係があるはずだかこの場合はなぜか無視。
土器の並行関係は互いに異地方の土器が出土しあっているので畿内の土器だけがどっちかで著しく新しく出るとかはありえない訳だが。
279九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 15:50:14
>>272 その土器と古墳の国とやらに鉄文化の盛んだった九州邪馬台国が
わずか数十年で消滅させられてしまうことになる

九州邪馬台国が滅びた原因は畿内王権ではない。カリスマ性の強い卑弥呼の死後連合国同士の団結が薄れ
内乱が起きて弱体化したところに追い討ちをかけたのではないか。そして自然に霧散した。
280日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:51:34
>>275
>>橿原研究所作成の九州の庄内式分布図
→そうなると、同じものを引用している寺沢や白石も詐欺的ですね。なるほどw

>>畿内は庄内式が河内の一部と奈良盆地東南部にしか無いとしている。
→そんなことはない。「しか」とは言っていない。庄内式分布地に偏りがあり、
  物部氏の畿内の伝承地と重なるというのが安本の指摘。

>>安本の邪馬台国比定地の甘木あたりは庄内式自体が少ない
→これはそのとおり。しかし、庄内式が250年以降と考えれば問題ない。
→物部氏の九州での伝承地が奴国を中心としていることには整合する。

>>狭義の純粋な庄内式
→庄内式の設定の基準レベルと範囲は畿内説でもはっきりしていないのでは?
281日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:55:10
さらに安本らは庄内式は物部氏の土器などと適当なことを言ってトンデモに輪をかけている。
物部の祖は九州だとして、庄内式はどこかに行ってなぜか九州における物部氏の分布を示すが、それは筑後や筑豊にあって庄内式がほとんどないところなんだがw庄内カメがたくさん出土する旧那珂郡周辺にはむしろ物部はほとんどいないしw
物部氏の九州での分布は興味深いが庄内式云々とは無関係w
282日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:58:02
>>280 を一部訂正

白石× →石野○
283日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:00:59


さあ、約1名の安本信者があぶり出されてきましたよ。


284日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:01:25
>>280
九州と畿内で庄内式分布を示す基準が違うのは問題
白石はともかく寺沢はあの図はあまり使っていないが。むしろ布留0式論とからみ福岡平野の分布集中を強調している
また物部の九州での伝承地は安本のでは奴国周辺にはないが
庄内式について庄内カメは庄内式の要件。伝統的5様式と庄内式として分けられている
285日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:03:17
石野は土器屋なのでそのあたりは最近の資料でしっかり九州での庄内式のあり方について修正しているが
286九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 16:04:36
>>272「女王国の東の海を超えるとまた国あり」と矛盾している

これは九州北部から見て東、つまり四国の事。
「その他の地域は遠いのでよく分からない」のは女王国の境、つまり
連合30カ国の境を奴国としている。九州から出ない。
287日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:05:46
ですが=プラム=恵也=安本信者でぉk?
288日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:07:08
甘木や筑後あたりに大した鉄器文化はないが
289日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:07:53
しかし東遷説検証などの議論は無駄にはならなかった。
80年代から一気に出土量とその分析が進んだ考古学が、それらを総合し
従来の土器や銅鏡などの編年を修正した、新たな編年を発表した。
その結果、かつて考えられていたよりも広範囲かつ密接な通商交流が弥生終末期に存在したのは確実となった。
90年代からの10年は、畿内自生の王権が各地を圧倒したとの仮説が提示され、その流れに沿って論調が展開された。

だがまたもや状況は一変する。
黒塚での多量の三角縁出土や、各地の古墳築造技術がより精緻に検証されたこと
また布留0式などの畿内様式の編年が各地の編年とのすりあわせがなされたことなどから
強力な自生王権ではなく、広範囲な首長国連合政権が誕生していたとしか解釈できなくなった。
これに輪をかけたのが、石野、寺澤や柳田、また北條、村上などが主張する畿内以外のクニの強い影響の存在だった。
その物流拠点としてまずマキムクが作られ、同タイプの新設集落が全国的に現れると同時に、弥生期から続いた集落は次々と放棄または再編成された。

これでついにかつての邪馬台国論争は意味を成さなくなった。
邪馬台国はどこかというのは、3世紀の日本列島の政治や実態を知るために非常に重要な手がかりであったはずなのに
先に3世紀の実態が判明してしまったのだ。
残された問題は卑弥呼がどこにいたのかなどという、副次的な宗教施設の場所程度に格下げされた。
なので彼女の居場所などは、九州でも畿内でも、また東海でも関東でもどこでもよく、大筋にたいした影響を与えなくなった。
おそらく>>238のコピペの主旨は、そこにあるのではないだろうか。
実際、卑弥呼の居場所に強い興味を示す考古学者は多くなく
シンポジウムなどで話題づくりのために引用されるケースがほとんどとなった。
290日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:09:38
>>281 ソースを出して議論しようよ。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku221.htm の下の方。
九州の庄内式出土地
(橿考作成のものをそのまま引用、寺沢、石野も著書で引用している)
291日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:11:34
ただ最初は一時的な王の所在地だったのに王権が自己運動化してあらゆるものが集中化して結果的に強大化したというのが真相では
292日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:12:53
>>290
安本のサイトだけでなくまともな論文読んでから議論しようね
293日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:16:04
>>286
ところが九州から東の本州は弥生中期から後期の間にすでに半島と直接交易をしていたとみられている。
四国西部は、弥生終末期には庄内式の大量発生を伴う小規模集落が一挙に出現する。
その数は高知県だけで、それまでの弥生遺跡の総数に匹敵する。
とてもじゃないが、よく分からないなどと書ける状況ではないし
本当に分かっていなかったのなら、倭人伝記事は実態に即しておらず信用できなくなる。
294日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:16:19
『庄内式土器研究』の各号や『古式土師器の年代学』『考古資料大観ー土器U』でもよんでくれ
295日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:17:26
庄内式の基準設定と範囲はいまだに統一されていないのでは?
庄内式を1、2、だけではなく3まで分ける考えもあるが一般的か?
年代遡上のためだけの細分化とも見える。
また、纒向系統で分けるものと、学者により一部混同している。

畿内での庄内式分布図を出している学者はいるのか?
分布の偏りが指摘されてからは、そこにもタブーができた感じがする。
畿内の庄内式の分布は物部氏の分布とほぼ一致する。
296日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:19:20
>>262
> 土器編年や墳墓築造変遷を重視し、倭人伝記述のほとんどは信用しないとする畿内説。

それはもう「畿内説」ではないのでは?
297日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:19:49
本州が半島と直接交易というのは異論があるな。
ある程度はあったと思うが鉄器の様相や鍛冶技術、半島系土器の出方から見ると弥生末まで北部九州経由が主体じゃないの?
298日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:22:25
>>290
さきほどから何人かが書いているのは
まさにそのページの引用や論理展開がいかにむちゃくちゃなものかの具体的な指摘。
出土地図そのものに大きな間違いはないが、そこから導かれる結論は幾多の考古事実をわざと無視しているようにしか思えない。
>>275に詳細解説があるので、それを読まれたし。
299日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:24:33
>>298  >>幾多の考古事実
それを具体的に。できればですが。
300日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:25:09
書紀の記述を信じるならという前提付きだが、磐井が反旗を翻すと半島との通商が封鎖されたくらいだからね。
強力な上下関係が無いなら北九州勢力の方が半島との関係は深く強かったろうね。
301日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:26:52
>>295
畿内での庄内式の分布図ってありすぎて作れないよw
特に橿原作成の九州での分布図での基準ならね。
だから庄内カメ主体遺跡に限定すると中河内と奈良盆地東南部になるが、物部云々は古くからの大王直属氏族だからそりゃ合うように見えるだけ。大伴氏でも別にいい訳だが。
むしろ物部の伝承地は各地にあるが庄内式がないところが多かったりするが。そんで肝心の九州での庄内式の分布と物部の分布が実際は全く合っていない訳だが
302SOY:2007/05/06(日) 16:31:35
>>277
>SOY氏は、どう思う?
>安本説と>>275と、どちらが信頼できると思う?

ちょっと流れが早すぎて発言を全て読みきれていません。
私は長文が苦手なのでできれば箇条書きにして頂ければありがたい。

SOYの文字が見えたので発言します。

庄内式土器についての考えは私と安本美典氏とでは異なります。
その時点で庄内式土器について私が安本説を信じることはありません。

庄内式土器についての私の考え方は絶対年代を除けば畿内説とは大差ないです。

以下が私のスタンスですが、安本美典氏は2の点で私と考えが違うのではないでしょうか。

1.前方後円墳が畿内を中心に広がっている。しかし、その時代を邪馬台国の時代とは考えない。
2.庄内式土器が畿内を中心に広がっている。しかし、その時代を邪馬台国の時代とは考えない。

安本美典氏の本を読んでいないので詳細は分かりかねますが…
 
303日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:33:31
安本の『奴国の滅亡』というのも詐欺だなぁ。
安本の言う箱式石官時代=弥生後期〜終末に奴国の遺跡群って全然衰退していないが。
304日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:34:03
>>296
そういってもいいかもしれない。
畿内自生王権が他を圧倒したり、中心になって全国展開したというのが畿内説だとすれば
現在の考古学はそういう事実はなかったと考えているから。
コピペにあった並列連合説を=原ヤマト連合説と捉えてもいい。
単に物流の中心が半島交易が盛んだったころの北九州から、列島内流通主流にシフトチェンジしたのが終末期から古墳初期だと考えられているから。

大まかな分類で畿内説に属するとする理由は
その中心が奈良東南部のマキムクにあり、前方後円墳という新形態がそこから登場することから
宗教施設の中心もその周辺にあったのではないかとの仮説に基づくものであり
ならば倭人伝と同時代の邪馬台国と卑弥呼は、それのことを指しているのではないかと言う程度の話。
なのでどこかで大規模な墳墓や金印などがもし発見されれば、別にそこが邪馬台国であってもなんら問題ない。
邪馬台国が畿内になければいけないという前提はまったくない、あくまで副次的なもの。
305日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:37:26
庄内、布留の土器製作技術や特徴的な器形は、吉備の影響があったと推測される。
きわめて薄い器壁の甕、タタキ&ヘラ削り、丸底、小型祭祀土器(器台、壺)、etc.・・・

「庄内式」(田中琢さん)や岡山の総合編年(高橋徹さん)提唱以前の昔話で恐縮だが、よく
畿内の布留式土器(古墳時代)には、吉備の酒津式(弥生末)の強い影響がうかがえる、と
言われたものである。
306日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:38:06
>>302
いや、安本も庄内式を250年以降に無理やり下げているので考えは同じかと
そうでもしないと九州説が成り立たないのをよく分かっているから。
むしろ今は例えば箸墓の時期である布留0式が3世紀半ばまで上がるかどうかが争点で、庄内式の開始が3世紀半ばとか言うのは論外
307九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 16:40:24
>>293
半島と畿内が交易したという証拠は少なくとも文献には出てこない。
「女王国の東の海を超えるとまた国あり」というのは遠く離れていて詳しく解らない」という記述とは別物。
308日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:42:42
文献だけでなく物証も重視しろと
309九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 16:45:04
>>296
そう。倭人伝を認めない事は畿内説でありながら畿内説をを否定することでもある。
310日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:48:33
>>299

>>275>>278>>281に具体的考古事実が詳細に述べられている。
さらに詳しく知りたければ、以下が入手しやすい。

「 邪馬台国の考古学(歴史文化ライブラリ− ) 」
「邪馬台国時代のツクシとヤマト」
「三国志がみた倭人たち―魏志倭人伝の考古学」
311日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:52:00
>>289

>これでついにかつての邪馬台国論争は意味を成さなくなった。
>邪馬台国はどこかというのは、3世紀の日本列島の政治や実態を知るために非常に重要な手がかりであったはずなのに
>先に3世紀の実態が判明してしまったのだ。
>残された問題は卑弥呼がどこにいたのかなどという、副次的な宗教施設の場所程度に格下げされた。
>なので彼女の居場所などは、九州でも畿内でも、また東海でも関東でもどこでもよく、大筋にたいした影響を与えなくなった。

まったくその通り。

考古学では、邪馬台国がどこで卑弥呼が誰かなんてことは、もう視野に入ってない。
それ以上の古代の倭国の様相がわかっちゃったからだ。
312日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:52:53
>>307>>309
ひとりだけどうやら分かっていないようだが
倭人伝や記紀を重視する文献史学的見地の畿内説などもう存在しない。
それらは考古学見地からみた現代の畿内説が、九州説や東遷説とともにすでに駆逐した。

313日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:53:52
>>290

>庄内式土器の分布は、畿内と九州に集中する点で、県・県主の分布と同じ傾向のように見える。
>しかし、図に示すように九州の庄内式土器は北九州全般に広がっているのに対し、
>大阪では「八尾とか東大阪」あたりに、また、奈良県では「磯城郡」に集中している。

これが如何わしい書き方の見本なの。

九州でも集中するところは「比恵・那珂」近辺に限られ、製造集団はそこに所在したものと思われる。
中期以降は三雲や筑後川河口地域からの出土も見られるが、後は大分に点在する数箇所のみ。
「北九州全般に広がっている」というのはその程度のこと。しかも、中には畿内産の搬入物も含まれている。

逆に、畿内での分布については、ここでは「集中している」としか表現せず、その生産物や模倣品が
遠く南関東から九州までに分布している事実は「忘却」したかのような結論なのだw
314日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:57:15
>>304
> ならば倭人伝と同時代の邪馬台国と卑弥呼は、それのことを指しているのではないかと言う程度の話。

魏志倭人伝の情報はあてにならないと言いながら、それでも邪馬台国を畿内に比定するのはいささか卑怯な論法かと思いますが?
倭人伝からの比定は諦めるべきです。学問的な態度といえません。
315日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:58:15
>>289
倭人伝を解明したら邪馬台国が畿内じゃないことがはっきりわかり
捏造でもなんでも発掘ででっちあげて畿内には邪馬台国を凌駕する勢力があったんだ

まで読んだ
316日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:59:21
畿内説圧勝かよ

てか昔の畿内説も一緒に論破されてたんだね
ずっと九州説と畿内説の議論がかみ合わなかったのはそういうことか
317SOY:2007/05/06(日) 17:01:20
>>306
>むしろ今は例えば箸墓の時期である布留0式が3世紀半ばまで上がるかどうかが争点で、
>庄内式の開始が3世紀半ばとか言うのは論外

庄内・布留の絶対年代についてはまだ確定ではないと私は考えます。

畿内説の人が唱える絶対年代は絶対であると箸墓の年代を250年頃に考えていた人たちが
箸墓の年代をあっさりと280年頃に変えることさえもある段階ですから…
 
318日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:01:45
>畿内自生の王権が各地を圧倒したとの仮説が提示され

>強力な自生王権ではなく、広範囲な首長国連合政権が誕生していたとしか解釈できなくなった

>石野、寺澤や柳田、また北條、村上などが主張する畿内以外のクニの強い影響の存在だった。


全部妄想じゃんw
319日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:02:04
>>307
>半島と畿内が交易したという証拠は少なくとも文献には出てこない。

それはあなたが邪馬台国九州説で、それを前提として倭人伝を読むからそんな判断になってしまうんだよ。
邪馬台国九州説は確定していない。卑弥呼の墓や宮殿など、何か九州で見つかっているのか?
確定していない結論を前提としてしまう論法は「循環論」といい、論理学では虚偽(論じ方として)とされる。
320日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:03:49
>>314
いやだから、もし考慮するならといった雑談程度の話であって
>>289のいうように、該当する遺跡が見つかれば別にどこでもかまわない。
あなたの言うように、もう卑弥呼とか邪馬台国の位置はは学問の範疇からとっくの昔にはずされている。

>>315
そんな巨大な闇の組織があれば面白いのにね。
それ何てアニメ?
321日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:04:47
>>312
> 考古学見地からみた現代の畿内説

これ自体矛盾した概念なんじゃね?
倭人伝のような世界は九州から畿内、さらにはその東方を倭国の範囲とした場合、実情と食い違うということを明らかにしたんだから。

邪馬台国畿内説は破綻した。
邪馬台国九州説は倭国の範囲を上の概念より狭く設定すればもしかしたら辛うじて成立するかもしれない。
しかし、学会では邪馬台国九州説はまともに扱われていない。
こういう状況なんじゃない?
322日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:05:04
>>292
創作にしてはイマイチ…
323日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:06:40
実際、このスレを覗いてる畿内説の人は、
邪馬台国問題の議論動向を生暖かく見守ってるだけだろう。

ときどき、考古学的に間違った発言がされたときに、
暇つぶしに相手をすることはあるが。

いわゆる九州説の、
九州だけで強大な連合国をつくってた?なんて可能性は微塵も無いから。
324日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:07:20
>>317
布留0の開始年代にはまだ諸説ある、それは事実だし同意する。
だが庄内開始を前後させる根拠はまったくない。
両者をひとくくりにしてはいけない。
325日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:08:20
魏志倭人伝に見放された畿内説あわれwww
326日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:09:22
>>321
その通りでしょうね。
327日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:12:08
畿内って行政地名はないのだが、誰が言いだしっぺ? 頭悪そう
328日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:12:12
>>316

それが正しい認識。

>>321

>邪馬台国畿内説は破綻した。
>邪馬台国九州説は倭国の範囲を上の概念より狭く設定すればもしかしたら辛うじて成立するかもしれない。
>しかし、学会では邪馬台国九州説はまともに扱われていない。

ある意味正しい。
だから、最後の勝利者は、太国なのだ。
329サガミハラハラ:2007/05/06(日) 17:12:48
>>319
邪馬台国は佐賀県小城市で卑弥呼の墓は小城公園内桜ヶ岡で宮殿は甘木地区(未発掘ではあるが
甘=天、木=城で天使の居住地を思わせる)である。
>>319のいいかたは、「小城説以外、何か九州でみつかっているのか?」というのが正確です。
330日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:13:30
>>321
そうだね、おかしな物言いだった。
考古学見地から見た初期ヤマト連合説かな。
これもヤマトという言葉が入っているから誤解されそうだけど。
単純に初期倭国における首長国連合体ってことかな。

ちなみにどうやら何人かのひとは
大和とヤマト、筑紫とツクシ、また国とクニ、村とムラなどといった
考古学におけるカタカナ表記をそのまま漢字の意味で取っちゃうようで、そこで誤解しているのかもしれない。
概念的にはまったく別のものだから、混同しないでほしい。
331日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:15:47
>>330
邪馬台国じゃないのならなぜこのスレにいるの?
自スレに引っ込んでなよ
332日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:21:01
>>331

通商連合国が、邪馬台国でいいじゃん。
333日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:21:12
>>331
いやこれが、今現実にある邪馬台国論争の真の姿だから。
九州説とか昔の畿内説なんて、アマチュアでもきちんとした知識を持っている人たちは誰も顧みない。

で、自スレってどこ?
334日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:24:02
>>329
小城に3世紀の巨大遺跡や宮殿や王墓がでてんのかよw
スレ違いだからロムってていいよ
335SOY:2007/05/06(日) 17:24:16
>>317
>だが庄内開始を前後させる根拠はまったくない。

確定の根拠があるということでしょうか?
どちらも難しい問題だと私は考えます。

確定の根拠についての水掛け論をする気はありませんが、
庄内開始の年代については気になるところです。 (畿内説理解の為に)

それによって楯築の年代をどのくらいに考えているのかも押さえておきたいと思います。

楯築が140年頃、箸墓が280年頃で、特殊器台の時代が百数十年。
このあたりが畿内説の認識だと私は想像していますが、
今もこのあたりの年代は揺らいでいるでしょうか?
 
336日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:24:41
わたしは畿内説が正しいと思う人間である。で、ひとこと横レス。

>>320
>もう卑弥呼とか邪馬台国の位置はは学問の範疇からとっくの昔にはずされている。

320氏よ。わたしは大和盆地の東南部、桜井市か天理市あたりが邪馬台国の中心(都)と思うのであるが、
あなたの主張に従うなら、邪馬台国の位置を探究するのはもう学問ではない、ということになる。

そうではないと思う。
337日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:26:04
>>333
ここは邪馬台国スレなんだから、畿内スレにすっこんでれ
ということ
338日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:26:49
邪馬台国論が無意味とかは言い過ぎ
考古学と文献が総合できるのが理想だろ
339日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:27:10
「邪馬台国は無かった 俺流大和政権一元論」

なにがなんでも学会は関西支持!と多数派工作装うも、草の根レベルは茶番を無視して圧倒的に九州支持。
辛い現実に買収された先生方は胃腸薬を飲む毎日。


と日本史の素人が言ってみる。
340日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:27:59
>>327
> 畿内って行政地名はないのだが、誰が言いだしっぺ? 頭悪そう

やっぱ「内藤湖南」かなあ?
ちなみに「畿内」って言うのは律令に基づく概念。
「畿内」と言う行政機関が置かれたことは無いが、
域内(大和、山城、摂津、河内、和泉、時代によって違う)を
総称することばとして具体的に使用されている。

「九州」よりは出所の顕かな言葉。
341日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:28:57
SOY氏は、土器編年は信頼を感じるが、実年代には慎重といったところか。

結構結構。良識ある姿勢だと思うよ。安本氏よりは。
342日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:29:37
九州に邪馬台国があったという説も
モモソが卑弥呼だという畿内説も、みんなとっくの昔に否定されてたんだねー。
結論が出たというより、その事実から目をそらし続けてきたのが2chの邪馬台国関連スレの正体か。

だから学会や考古学は信用できないとか、目の敵にしていたのか。
九州説、畿内説どちらをとるにしても一部を流用するだけで
根本的なところに両者触れないのはなぜかと思ってたんだ。
343日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:30:25
慎重な九州説でしょう

予防線の張り方からして
344日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:32:01
庄内式の年代は出土する鏡の年代から追求されています。
2世紀末から3世紀初めというのが最もコンセンサスが取れている意見。それからするとタテツキが140年というのはむしろ古すぎ。それくらいにする人もいますが。
箸墓については250年説から280年説あたりの間で揺れていますが、これより新しくするのはほとんどいない。
345日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:32:05
>>342

まったくその通り。

視野が開けて、レベルアップした気分だろ?
346日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:32:06
>>340
概念とか言われてもなぁ
現代人にそんな概念ないしほとんど国民(関西除く)は畿内なんて知らないし

出所云々以前にマイナーな俗称を名前にするのは頭悪いんだよ。
347日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:34:17
畿内という歴史用語がわからないとかどっちが頭悪いんだかw
348日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:35:25
本当は九州説or大和説or他
349日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:35:42
畿内って現代語でいえば首都圏という意味?
なら頭悪いと言われてもしょうがないねw
350サガミハラハラ:2007/05/06(日) 17:37:17
何かみつかっているのかという質問ですので、未はっくつではあるが、それに相当する
岡や地名があるというのです。
ほかの九州説では吉野ヶ里ぐらいでしょうか。
畿内説では、おおきな墓はあるが伝承があいませんし、巨大遺跡のまき向もとても宮都
とはいえないしろものです。
はい。
351日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:38:52
>>320

>邪馬台国の位置を探究する

これを目的にする必要はないという意味。
まだ先に話になるだろうが、宮内庁指定以外の墳墓の調査が進めば、それらはおのずと判明するだろうから
取り立てて目的とするほどのことではないだろう。
宮内庁指定陵墓にしても今年から踏査が開始されたし、時代の流れから言っても徐々に本格調査に着手するだろう。
世界遺産登録に申請された百舌鳥・古市古墳群にしても
いざ認定となれば本格調査の報告書が必要となる。
352SOY:2007/05/06(日) 17:41:00
>>341
>SOY氏は、土器編年は信頼を感じるが、実年代には慎重といったところか。

問題点が皆無と言いませんが、土器編年を信頼せずに考古学を語るのは
難しいという認識です。

実年代については、考古学的知見と文献が一致すると納得できる時まで、
或いは、絶対年代確定の絶対的な根拠(貨泉くらいのレベル)が出土する
までは確定にしないつもりです。
 
353日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:41:27
その内容はともかく遺跡があるかないかは分布調査で分かってるんだろうなw
マキムクは東の巻の内の高台地区に宮を思わせる遺構が出つつあるがな
354日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:44:27
SOY氏は邪馬台国は九州の何処にあると思ってるの?
355サガミハラハラ:2007/05/06(日) 17:51:30
墳墓の調査がすすんでも、それらは邪馬台国とは関係ないということがわかるだけで
畿内説にとっては位置は振り出しですよ。
356日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:51:57
>>349
> 畿内って現代語でいえば首都圏という意味?
> なら頭悪いと言われてもしょうがないねw

いろいろな用法があるけど、基本的には、律令国を区分するときの五畿七道の「五畿」5カ国を指す。
域内だけの規制があって、貴族は畿内以外の土地に勝手に転居できなかったりした。
今の「近畿」はこれに播磨だの伊勢だの近江だのまでに拡大した地域で、「畿内に近い」と言う意味だね
357SOY:2007/05/06(日) 17:52:36
>>344
情報ありがとうございます。ある程度、畿内説の認識が分かりました。

>庄内式の年代は出土する鏡の年代から追求されています。

画文帯あたりですね。いづれの論戦の為に勉強しておきます。

>>354
>SOY氏は邪馬台国は九州の何処にあると思ってるの?

東北岸あたりです。(まだ論議する段階ではありません)

そういうこともあって、
庄内式土器については畿内説と大差ない考えになるのではないかと考えます。

そのあたりの遺跡の調査報告書をチラ読みする範囲、庄内式土器は西からではなく
東から入っているように見えますので…
 
358日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:52:36
九州説の候補に吉野ヶ里が存在する事自体笑える
359日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:54:37
なんだかんだ言っても>>31のコピペは凄いなー。
でも本当は2chでは開けてはいけないパンドラの箱だったような気がする。
いっぺんに興味なくなった。
360日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:55:40
>>355
関係ないって何を根拠に
小城説は関係あるか無いかも考古資料自体が無い訳だが
361日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:58:31
>>359
>>31乙。自分で神レスとか言って恥ずかしくない?

あ、畿内説支持だもん恥ずかしくないか
362日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:58:31
九州の東北岸だと畿内説に方位の件で何も言えないですね
363日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:01:06
2chで九州説を自滅させたのは九州ですがだと思う。
あまりの人間性の痛さに、まわりが引いてしまったから。
364日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:04:14
畿内説の人間に役1名痛い人がいるのは確認できる。
365日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:04:30
>>361
まったく他人ですが、何か。
てか古代史シロウトでつ。
366日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:04:32
ていうか、九州説ですが=プラムだろw
そりゃ引くわw

他の九州説といえばサガミハラか太国だもんな。まともなのがいやしないw
367日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:04:42
>>31 首長の連合???ネタですよねww
368日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:07:37
>>364
ゴルゴサーティワンだなw
369日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:08:28
首長連合とか学会でふつうに言われてますが何か?
他の国の国家形成の議論でもふつうに言われてますが何か?
370日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:09:29
>>365
古代史素人で畿内支持だから>>31本人で当たってる。
371日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:12:32
>>370
わけわかめ???
372日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:13:47
>>344  >出土する鏡の年代

(畿内説の鏡年代の問題)
1、△舶載説に従い、画文帯を180〜240、△を240〜とする説
→△舶載自体がいまやトンでも説(日本500枚、中国0枚の外国製ですか?)

2、△国産のニュアンスで1と同じ年代観
→180頃まで遡る画文帯も、240頃まで遡る△も出土していない状況で国産を
認める前提で、紀年を信用するのは、ただのバカ。

畿内説って面白いねww
畿内説は、同位体比のデーターは20年以上ほとんど無視ですね。
373日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:15:19
>>351
>>邪馬台国の位置を探究する

>これを目的にする必要はないという意味。

学問というものは、個々人がおのれの関心や興味に基づいて、自由にされるべきものだと思う。
中国の古い史書に、当時の日本の姿を記したと思われる文献がある。
女王がいたこと、その女王の死で大きな墓をつくったことなど、いろいろ書いてある。

では、その女王はどこに居たかというと、その文献だけではどうもハッキリしない。
だったら、その女王がいた国はどこか、墓はどこにあるか・・・・そういったことに興味や
関心をもち、あれこれ探究してみようと思う人間が出てくるのは、すこしも否定されることではないと思う。

むろん、俺はそんなのは興味は無いよ、という人もいるだろう。それはそれで構わない。
しかし
「もう卑弥呼とか邪馬台国の位置はは学問の範疇からとっくの昔にはずされている」>>320
は、他人の自由な探究心を否定する書き方に読める。
374日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:19:00
>>373

研究は自由にしてもらっていいんだよ。

ただし、考古学で知られてることを無視してトンデモ説を立てるのは間違いということ。

>>372みたいに、「△舶載説」で畿内説批判するとかな。
もう、十年も前に廃れた話。
375日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:19:39
>>372
言ってることが支離滅裂w
『シンポジウム三角縁神獣鏡』でも読んだら
376日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:21:09
三角はともかく画文帯は紀年鏡も中国にある訳だが
377日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:22:51
>>375 >『シンポジウム三角縁神獣鏡』

6人全員がバリバリの舶載説ですよww
漫才の掛け合いのような畿内説は楽しみました。
378日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:23:35
魏志倭人伝を書いたのは魏の中国人で半島人じゃないから
半島と倭国の交易がいくら盛んだったとしても
倭人伝の記述とは関係なくね?
379日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:23:58
通商連合論というのは面白い議論と思うが、ごく最近の傾向じゃないの?
380日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:26:00
>>377
小山田氏は三角については国産説

だが、考古学者で九州説がほとんど皆無なのも事実
381日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:28:49
その小山田氏も三角の紀年鏡は他の三角と様相が異なるとして舶載としているが。>>377はよく読んでないだろうし、議論の内容をほとんど分かってないだろw
382日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:28:54
△鏡は国産だろ。
魏鏡だという考古学者はもういないんじゃないの?
383日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:32:42
国産説はむしろまだ少数。
逆に従来のホウ製をも全て実は舶載とする説もあり、議論は混沌としている。
まあ三角国産説は邪馬台国九州説よりは可能性があるだろうが。
384日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:34:53
『シンポジウム三角縁神獣鏡』の6人中5人が中国鏡説
もう一つの問題は短期編年か長期編年かという問題
385日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:36:31
漢式鏡の編年論でも始まるのかと思ったらとんだ珍客の乱入だねw
386日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:38:58
>>383
>国産説はむしろまだ少数。

ええ?マジかよ?
中国から1枚も出てない鏡を舶載とするなんて学問とは呼べんな。
九州説の主張に分があるとしか言えない。
387日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:39:42
『シンポジウム』は△全部国産から一部国産までの学者6名
一部国産説はほとんどを舶載とするが、これが普通の舶載説。
しかし、ほとんどを舶載とするのは、いまでは無理だろ。
ごく一部が舶載で日本で大量複製というのはありうると思うが。
紀年鏡のみ舶載というのはなおさら無理。
388日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:43:34
>>387
>ごく一部が舶載で日本で大量複製というのはありうると思うが。

俺はてっきり、そのへんが最近の説だと思ってたよ。

踏み返しの鏡が大量になかったっけ?
389日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:48:35
>>388
いまや舶載説は、△の紀年鏡を舶載とする「ための」議論をしている。
というのが、『シンポジウム』の実体。

紀年鏡を舶載とするためには、紀年鏡を舶載鏡の変遷の中に位置づける必要がある。
変遷の中期と終期に紀年鏡があるので、ほとんどを舶載とせざるを得ない。
岡村のように紀年鏡を変遷の出発点にすべしという人もいるが。
390日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:53:36
>>387  全部国産(誤)→全部舶載(正)
391日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:59:12
だから小山田氏は紀年鏡段階のみ中国鏡でほかは国産の説。当たっているかは別だが。賛同者は少ない。
踏み返しを認めても三角の場合、同型がたくさんあり、原型を持つ工房が限られているのと紐孔の問題からも工房が限られていると見るべきだが。また確実な中国鏡の単位文様の変遷と一致するところがあり、するとやはり中国鏡説が有力。
問題はどこまで中国鏡の範囲でホウ製はあるのかということと、中国のどこで作ったのかという問題。ただし楽浪の製作の可能性はあるが、当時の状況からは楽浪鏡なら中国鏡としてよい。
この件について先日の森下氏が考古学研究会でやった発表が関係するみたいだが、誰か聴いた人いる?
392日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:04:31
>>388
三角の紀年鏡群は三角の中でも最古の段階というのは岡村に限らず『シンポジウム』の論者の共通項だし、三角全面国産説の奥野も同じだが。
三角の紀年鏡が三角の変遷で中期とか後期とか言う論者はいない。ちゃんと読んでないか、わざとウソついているのか?
393日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:05:52
>388は>389の誤り
394日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:08:40
ということは、今でも、三角縁の古いものは卑弥呼のもらった鏡という説が主流なんですか?
395日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:10:33
そうなる。
ただし、三角ではない鏡が実は主体で三角はこれに付け加えたものという説もある。
396日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:14:41
△の議論では、△の定義(どこまでを△とするか)というのもある。
具体的には、斜縁等の「亜種」まで△の範疇に入れるかの問題。
『シンポジウム』は、斜縁等の「亜種」は含めない方向での議論。

しかし、縁以外は△としての要素を備えていて同時代性があり、
△の範疇で議論すべきと思う。
しかし、亜種を△と同時代とすると、柳本天神山の鏡が畿内説の
ネックになる。天神山は崇神稜隣接で崇神稜と同時代の古墳。
△が崇神稜時代に始まった(と私は考えているが)との見方に
つながるため、彼らは「亜種」として△の議論から除外するが、
これも「ためにする」議論である。

『シンポジウム』は発言の「裏」を考えながら読むと、別の面白さ
がある。
397日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:16:57
ホケノ山ですら出ないんだから「卑弥呼の100枚」はあり得ないと思うけど。
最後には藤崎とか那珂八幡を頼りに九州説の人の方がガンバリそうな感じだけどね。
398日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:21:32
>>392  違う。
△の変遷については、文様が具体的→抽象的という方向での変遷を考える
というのが基本ライン。
紀年鏡のなかには文様の抽象化が終期に属するものも存在する。

それを直視するかどうかだが、直視すると紀年鏡の変遷が広くなり、
舶載鏡がほとんどであるとする舶載説のなかの多数説につながる。
399太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 19:23:09
>>257
当時は1年が半年だったということが2倍暦だ。

それじゃあ仁徳以前の天皇の超長寿を認めるのか? しっかりしてくれよ。
学者が論じる論じない以前で考えろ。
400日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:27:29
誰も知らない>>396の考え方を気にして議論している訳ではないがw
ついでに言うと天神山が崇神陵の陪塚というのは今は否定されている。土器や石室から崇神陵より古くなるとされる。だいたい崇神陵以前に編年される段階に権現山や西求女塚、雪野山、安満宮山、桜井茶臼山その他にたくさん三角が入っている訳だから>>396は当たらない。
天神山の半三角縁鏡は文様構成がいわゆる三角の一群と全く異なるからかなり前から三角から排除されているが。むしろホウ製とさえされて来た。最近は中国に類似鏡があり、三角とは別系統の西晋鏡とされている。
またいわゆる斜縁神獣鏡は径や紐孔が三角とは異なり別系統で問題ない。
401日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:29:09
だいだい遺跡って辺鄙な所のが現代まで残ってるわけでしょ
残り物みたいなのがさ
メインのムラなどはとうの昔に潰されて残ってるわけないし
遺跡がないから国がないってのはおかしい
あの佐賀、熊本平野みてて畿内説の人は古代に国がなかったと思うのでしょうか?
402日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:32:26
>>398
そんな変遷のべている椰子はいないが
三角の紀年鏡群は以前の画文帯同向式神獣鏡の内区をそのまま持って来るが、その後の三角は画文帯神獣鏡や画像鏡の文様要素を自由に組み換えて変化し、文様自体も粗くなるものがあるが、紀年鏡群にはそういう段階の特徴が無い。
403日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:35:29
>>397
藤崎や那珂八幡って三角の古い副葬例ではあるが、博多湾岸は奴国で邪馬台国ではないが。
安満宮山とか権現山とかも古い副葬例だし九州だけにある訳ではない。
404日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:38:14
>>400
>天神山の半三角縁鏡は文様構成がいわゆる三角の一群と全く異なる。

そこから、△が定型化される以前の時期のものと考えるのが自然。
△が定型化した後に、あの亜種が作られたとは考えにくい。
そうなると、△の開始時期が新しくなる(私は350頃と考えている)。
405日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:38:45
凄い遺跡があれば断片的でも凄い遺跡だと分かるぐらいは残っているもの
大阪や福岡の遺跡はそういう例
406日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:42:16
卑弥呼の墓は改修されてゴンタ山古墳になっちゃったんだよ
407九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 19:42:42
>>312
今の限界のある考古学見地とやらですべては語れない。
畿内の土器の広がりとか盛んに最近学校で習ったような事を自慢げに
書き立てているようだが土器の編年は前後100年の幅があって
決め付けることは今の考古学を以ってしては難しい。
決め付けは学問ではなく洗脳の類である。
考古学といえども推定の学問に過ぎない。
現在ほぼ断定して良いのは文献に出てくる金印奴国が博多付近にあったこと、
壱岐国、対馬国、マツラ国、伊都国が北部九州にあったということだけで、
後は畿内に土器の広がりがあろうと倭人伝にも関係なく、邪馬台国にも関係ない
ああそうですか、勝手にどうぞとしか言えない。
408日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:44:53
>>404
あの天神山の型式学的に全く異なる半三角縁鏡からどのように三角縁鏡が出てくるだよ?あれが祖型とか苦し過ぎw
3世紀半ばから後半の中国出土の倣古方格規矩鏡の文様変遷と三角の文様変遷が一致しているのだが。なぜいきなり350年?
要はトンデモ安本信者かよ
あとな、天神山は崇神陵より古いし、その前から三角が出土しているんだけどな。
409日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:45:04
九州ですが氏は邪馬台国は九州の何処にあると思ってるの?
410日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:48:37
天神山のは三角とは全く別系統だから三角の編年には無関係だと思います。
三角縁は国産の可能性があると思いますが、年代を下げる説には根拠が無いと思いますが。
411九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 19:51:10
>>319
倭国大乱や、倭人伝を彷彿とさせる遺跡は吉野ヶ里遺跡だけである。
畿内に卑弥呼の宮殿などの大掛かりな建物は存在しない話題にもならない
とっくに復元してる筈だがしていないのは違うからである。
412日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:51:17
3世紀の日本が通商連合国家だったとして、
ではそこから天皇制にどのように繋がっていくのか?
記紀の信憑性は?邪馬台国と大和朝廷の関係は?
このようなところに興味のある人にとって、
邪馬台国の位置は大事なことなのでしょう。
考古学的には長年の懸案事項に解決の目処がたったとしても、
それで収まらない人は一杯いるのでは?
世間的には現状の考古学成果だけで満足しない人も多いでしょうから、
目的は達したと終わりにしないで欲しいですね。
>>356の言うように天皇陵の検証が進むことを祈ります。
413日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:52:41
九州ですが氏の第一候補は吉野ヶ里か
414日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:53:25
年輪年代法はまあ正確だとしても土器からその時代を割り出すのは不可能でしょ
415日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:53:41
景初四年という間違いが起こるのも同時代故だからだろ。
確かに洛陽でそういう間違いするというのは苦しいが、中原から遠い倭や楽浪あたりなら改元情報が遅れて間違うとかありそうだ。
むしろ後世の作なら元号の変遷が分かっているだろうから間違うことは無いと思いますが。
416日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:55:41
考古学的には長年の懸案事項に
解決のめどが立ったのかもしれませんが、
通商連合国家から大王制の転換、
記紀に記された内容の信憑性、
などに興味のある人にとっては、
現状の考古学の成果に満足できないのでは?
目的は達したとばかりに終わりにしないで欲しいです。
>>356の言うとおり天皇陵の検証が進むことを祈ります。
417日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:56:19
吉野ヶ里はほぼ全面掘れたからだけだろw
418九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 20:06:26
>>323そう思っているのならとんでもない事。
「九州だけで強大な連合国をつくってた?なんて可能性は微塵も無いから。」自体詭弁。
狭い九州北部に団子状にクニが集まっていたと考えればさほど強大な権力は要らない。
北部九州から畿内まで連合国が散らばっていたという畿内説の考え方なら
強く結びつけるものがいる。卑弥呼の「鬼道を持って衆を惑わす」というのがそれであり、
その威力があって連合国は結びついていたのである。
419日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:08:46
世界遺産にするために天皇陵掘るとかそんなことあるかよ
420日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:13:22
北部九州と畿内や吉備、出雲なと土器の動きや古墳の広がりなど政治経済の結びつきがが広域化しているのに、邪馬台国連合が九州の中だけというのはぶっちゃけ今やキツいよな。
421日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:24:22
>>407
この時期の編年は今や前後100年の幅も無いですが。
まあ考古学について行けないだけでしょうがね。だったらいい加減なことは言わない方がいいですよ。
422日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:26:00
>>418
じゃあ畿内説もありでいいね。
423日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:33:09
>>418
>卑弥呼の「鬼道を持って衆を惑わす」というのがそれであり、
>その威力があって連合国は結びついていたのである。

ほほう、では九州には強力な宗教国家連合か共同体があったと。
では具体的な祭祀具はなに?
それらは君の想定する30国に共通して出土するんだろうね。
祭祀遺構でもいいから具体的に示してくれたまえ。

さて朱がでるか銅鏡が出るか、それとも他のものか楽しみだ。
424サガミハラハラ:2007/05/06(日) 20:35:34
現在断定されているものでも、間違いはある。金印奴国の都は吉野ヶ里である。
倭人伝行路中の奴国は肥前山口です。
吉野ヶ里は邪馬台国(旧金印奴国)の都だったところです。
あの北内郭に卑弥呼は暮らしていました。
吉野ヶ里が邪馬台国とみとめられないのは、魏志倭人伝の行路記事とあわないという理由からです。
魏志倭人伝の信憑性を云々するわりには、魏志倭人伝をたよりにしているというわけです。
(230年代に卑弥呼は小城に遷都しています)
425日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:39:49
サガミハラはスルー
426九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 20:46:28
>>357>庄内式の年代は出土する鏡の年代から追求されています。

畿内説は画文帯などから土器年代を割り出してるってほんとに??
それで始めて解った思い。
427サガミハラハラ:2007/05/06(日) 20:49:05
あまりにも斬新でついていけないでしょう。
428サガミハラハラ:2007/05/06(日) 20:53:45
>>425あまりにも斬新な説でついていけないでしょう。
429九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/06(日) 20:54:35
>>424
>230年代に卑弥呼は小城に遷都

何を基に上記の判断をされたのですか?
430九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 20:56:43
>>366
その「まともなのがいやしない」九州説にに負けそうになっては汚い手を使って
撹乱して太国さんに>>233ここまで言わしめる禁じ手まで使って相手の口封じを
してくるのはどこの何説の方でしょうか。九州説は一度も汚い手を使った事は無い。
これは正しい説だからである。
431SOY:2007/05/06(日) 21:01:42
>>426
>畿内説は画文帯などから土器年代を割り出してるってほんとに??
私もその点で疑問を感じています。画文帯からはまだ年代は確定できないはず。
今までの論議は以下の流れで進んでいます。

通商連合→土器の拡散→庄内式土器→庄内式土器の年代→年代の根拠→画文帯神獣鏡

もし、画文帯神獣鏡の年代がまだ推測の範囲でしかないのならば、
通商連合から続く一連の主張が全てひっくりかえるようにも見えます。

あと私がした以下の質問が無視されています。

>>252 『通商連合の定義』についての質問
>・ギルドのことを言っているのでしょうか?
> それとも共和制のことを言っているのでしょうか?
>・盟主はいるのでしょうか?
> また、どうやって盟主を決めると考えているのでしょうか? 世襲制?
>・それは墓制までをも共有してしまう性質のものなのでしょうか?
>・卑弥呼の墓以上の古墳を量産できるほど権力を集中させているものなのでしょうか?
>・貿易商人の組合が個人の為にあれほど大きな墓を造るものなのでしょうか?

>>273 『一大率を伊都国に置くこと』についての質問
>その広域的な流通の範囲が邪馬台国までの国々と部分的にでも重なるのであれば、
>何故、一大率を伊都国に置いたのかといった話にもなるのではないでしょうか?

>伊都国が瀬戸内まで監視するといった話と
>伊都国が北部九州だけを監視するといった話とでは
>どちらがありえそうな話でしょうか?

都合の悪い質問になると論点がズレるみたい…
 
432九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 21:12:08
>>409
北部九州です。
433日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:12:39
>>431
>通商連合から続く一連の主張が全てひっくりかえるようにも見えます。

そんな単純な話なら、楽でいいよな。
434サガミハラハラ:2007/05/06(日) 21:12:43
>>429 魏志倭人伝の行路記事の解釈から倭人伝の邪馬台国の都は小城であることがわかりました。
ところが、小城には甕棺等の遺物や遺跡がすくない。
近くの吉野ヶ里には倭人伝を彷彿とさせる遺跡である。吉野ヶ里は3世紀後半から急速に衰退
吉野ヶ里の人たちがどこに移動したのかというと、倭人伝に登場する小城であると考えられる。
435日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:20:02
別に画文帯だけではなく中国鏡全般の年代。後漢から三国の中国鏡の変遷はかなり詳しく分かって来ている。
例えば弥生中期末の三雲や須玖の王墓の年代が紀元前1世紀後半なのは前漢鏡の年代からだし弥生中期から後期の境が紀元1世紀前半前後なのも中国鏡から。
弥生の終末から古墳初めの年代も同じ方法。
ただ画文帯がよく使われるのは2世紀から3世紀まで紀年鏡が多く、型式学的編年に年代を当て易いから。他の鏡は紀年鏡が少ないので結局中国の出土墓の年代から推定していることが多い。
画文帯のうち建安年間の型式群が庄内式の途中からまだ少ないが出だし、庄内式末=布留0式から239から240年の紀年鏡群を最古とする三角とその関連鏡群が出る。
また最近は晋鏡も分かって来ているがこれは布留1式以降に出ると。
そうすると各土器編年の年代はおよそ分かって来る。
436日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:25:52
>>430
何説というのではなく貴方の言動に我慢できない人ではないですか?
437日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:30:30
一大卒は後の大宰府のように対外交易や外交の統制と、ほって置くと勝手に外交や貿易をする北部九州諸国への牽制だろ。ふつうに言われているが。
もっともどこまで統制できたかは問題だが。ただ三角を除外しても中国鏡は畿内の方が多いからある時期以降は北部九州を通り越して畿内にもたらされているのである程度統制されたとすべき。

438太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 21:30:31
あのおじいちゃんとか言う ALUCARD の弟子? の迷惑に我慢が
ならない。
439日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:32:30
なんかしんないけど・・・
ですがきんもぉーー!
440日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:36:55
>>408 
では天神山の鏡を△の変遷のどこに位置づけますか。
前ですか、後ですか、中ですか。
△定型化以降に文様が急激に復古して天神山で大量生産ですか?
それは無理ですね。そうなると△定型化より前に置くしかない。
つまり、△の定型化は天神山以降の時期となる。

だからといって別系統というのは、・・・もしかして天神山宇宙人説ですか?
畿内説は、ホントにすごいなあwww
だれでも考え付きそうなことを誰も言わない。みんなが気付いていても。

安本をトンデモといいつつ自分はそのトンデモ以下なんだから。
441九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 21:39:29
>>423では具体的な祭祀具はなに?

まず鏡でしょう。後は銅剣銅矛などでしょう。ほぼ文化圏が一緒だから。
多少の違いはあったようだが畿内と北部九州ほどの違いは無い。
442日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:39:39
通商連合の印が前方後円墳という説もある。岡安光彦説だが。連合の盟主が畿内ヤマトに置かれただけで、最大古墳は盟主が作ったものの、古墳自体は連合参加者が割りとルーズに作ったのではないか。
また連合参加の各国自体、ヤマトに集まっていたという寺沢説も魅力的だ。
通商連合についてはお互いの衝突を避けて共通の宗教=古墳祭祀のもとに交易を円滑化しようというものだろう。もちろんこの連合の内部に優劣はあるが古墳前期前半は顕著なものではなかっただろう。
443日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:48:27
通商連合www
444日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:50:07
>>440
だからさ、天神山の半三角縁鏡は文様構成から三角縁鏡とは全く系統の異なるものだから前後関係は無意味だと言っているが。
鏡を全く分かってないんだね。
獣像表現や縁は全く異なるが。天神山鏡の獣像はかなり稚拙でかつてはホウ製鏡にさえされたもの。
三角は画文帯神獣鏡に画像鏡の要素が加わったもので、最古の一群の紀年鏡群がこれを証明するし、天神山鏡を挟む余地は無い。
また橿原の『古墳のための年代学』によると天神山=布留1式でも新しい方だが、より古い土器の時期から三角が多量に存在するのでそういうトンデモ編年は却下。
445日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:52:24
天神山鏡を三角の最初というのは新説だなw
ぜひ学会で発表してれ
446九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 21:56:36
>>431
画文なら西晋頃造られたものだとだと思うけど。
熊本の江田船山古墳は、5世紀後半の築造で、ここから出土する画文帯鏡は
国宝に指定されている。
447日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:56:53
>>440

http://www58.tok2.com/home/miyosida/kofun/nara/tenri_tenjinyama/tenjinyama.html

ただしこのサイトでは「三角縁神獣鏡が含まれておらず」とあるが
正確には三角縁変形神獣鏡2面が含まれている。

>>441

>まず鏡でしょう。後は銅剣銅矛などでしょう

あれ?ということは鬼道の拡散範囲に瀬戸内西部や山陰も含まれることになるよ。
30ヶ国は九州内じゃなかったのか?
448日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:04:35
三角縁「変形」神獣鏡というがミソ
報告書当時からの認識だが、他の三角とはかなり違うなという認識が当初からあり、「変形」とされてホウ製鏡の疑いさえ指摘されていた。
これを三角と系統的に関連付けるのは無理。
画文帯神獣鏡は2世紀から3世紀までの紀年鏡がたくさんあるし、後漢晩期から晋代まで中国の墓からもたくさん出土している。
5世紀のそれは技術的に明らかな踏み返し鏡で古墳前期までのとは異なる。
449日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:07:31
九州に3世紀段階に銅剣は無いだろ。
鏡にしても九州だけに特徴的なものがないとやはり倭国連合は広域とすべきだろう。
450SOY:2007/05/06(日) 22:07:37
>>435
>他の鏡は紀年鏡が少ないので結局中国の出土墓の年代から推定していることが多い。
本当に魏晋鏡とされる位至三公鏡から年代を推定していますか?
それ以外の鏡で邪馬台国の時代を『特定』しているのだとしたら、
それは何鏡ですか?

>画文帯のうち建安年間の型式群が庄内式の途中からまだ少ないが出だし、
建安年間の型式群という言葉が曖昧です。
その庄内式と併行する鏡を建安年間の型式とはせず、
なぜ、型式『群』とするのでしょうか?

もしかして、似ているというだけで、
そのものではないという意味を隠していませんか?

>庄内式末=布留0式から239から240年の紀年鏡群を最古とする三角とその関連鏡群が出る。
それだと箸墓の280年と整合性がとれないように思えます。
伝世鏡論でしょうか?

>また最近は晋鏡も分かって来ているがこれは布留1式以降に出ると。
>そうすると各土器編年の年代はおよそ分かって来る。
因みにその年代の確定に使っている晋鏡とは何でしょうか?
次の論議の機会に備える為にその晋鏡を勉強したいと思います。

>>431
>一大卒は後の大宰府のように対外交易や外交の統制と、
>ほって置くと勝手に外交や貿易をする北部九州諸国への牽制だろ。ふつうに言われているが。

それだと『女王國以北』が北部九州諸国とはなりませんか?
(太宰府が瀬戸内海全てを監視していたわけではありませんし)
 
451九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/06(日) 22:09:34
>>438太国さん
僕も「ALUCARD の弟子」とやらにすごく嫌悪感があります。
畿内説の中でもキワモノ。
452日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:16:55
>>450
位至三公鏡は三国から晋代の鏡の一つに過ぎない。
中国の墓は他の器物の編年と紀年で年代が分かることが多い。
位至三公鏡以外にも三国から晋代の鏡式はたくさんあるんですがね。
画文帯の型式「群」とするのは系統が一系ではないから。ただし各系統鏡に紀年鏡があり、単位文様や外区などに共通要素があり変遷も同じなのであまり問題ない。
453日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:17:37
天神山は画文帯多数とわずかな亜種の△を出土している。
画文帯→△という流れのなかで見れば、その接合時期と見るのが普通。
文様からも△定型化以前の時期になるというのは普通の考えだと思うが。

画文帯は中国でも出ているが、日本のほうが多く出土している。
とくに同向式はほぼ全部日本で出土。これらの多くが日本製であることは
既に同位体比で結論が出ている。舶載論者は無視し続けているが。

画文帯より後の△はなおさら日本製と見るのが普通。
平原の巨大鏡を製造する技術があれば、日本での製造は容易。
多数の銅鐸、銅矛の出土からは、原料の存在も認められる。
この状況で△のほとんどを舶載と主張する人の精神構造からして理解不能。
454日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:25:38
>>450
一二世代程度の伝世は伝世鏡論とは言わないよ。また箸墓280年説は比較的新しめの説だしね。
布留0式に3世紀半ばの鏡が出始めるというのは事実。実際は次の布留1式まで多く出るがその程度は伝世鏡とは言わない。
学史上の伝世鏡論とは小林行雄など京大学派のある特定の論理ですが。

むしろ中国の3世紀の実例を無視して画文帯までもことごとく下げようとするのは安本流ネオ伝世鏡論かね?
455日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:26:12
>>453  画文帯多数は訂正。
出土する鏡からみて、画文帯、△の接合時期という結論は同じ。

http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002hei/2002hei_42_2-5.htm
 方格規矩鏡 6面
 画文帯神獣鏡 4面
 内行花文鏡 4面
 獣形鏡 3面
 画像鏡 2面
 獣帯鏡 1面
 三角縁変形神獣鏡 2面
 人物鳥獣文鏡 1面

天神山古墳の時期には、△は定型化していない。
誰が考えても同じ結論になると思うが、天神山と崇神稜が同時期という
位置関係から、畿内説はこれを無視し続けている。
456日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:36:32
同向式は中国や楽浪にありますよ。知らないの?
画文帯全体も今は中国にたくさんあるのが分かってますが何か。
天神山からいろんな鏡が出ているがそれらが製作レベルで関連しているかは別問題だろ。他の確実なホウ製鏡や確実な舶載の方格規矩や内行花文は関係ない訳だろ。ただ同じ古墳から出ただけ。同じ工房遺跡から出た訳ではない。
また三角についても方格規矩の関連鏡群が遼寧や山東に出ているんだけどね
鉛同位体比は中国側の数値が不明確なので結論は出せないはず。同位体比がホウ製鏡と同じと言うが、弥生小型ホウ製鏡も中国鏡と同じだが。同じ原料が東アジアに流通していたと言うことに過ぎない。
457太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 22:40:11
九州ですがさん
ローマ字は逆黄泉です。
458日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:40:32
だから崇神陵と天神山は同時期ではなかったのだが。
崇神陵の埴輪から崇神陵がやや新しい。
天神山はただ近いだけで方位とか規模とかいわゆる陪塚的な存在ではなく独立首長墓とすべき。
459SOY:2007/05/06(日) 22:41:21
>>452
>位至三公鏡は三国から晋代の鏡の一つに過ぎない。

それが『重要』なのです。

三国から晋代の鏡が弥生X期から出土するということになりますから
弥生X期が魏晋代ということになります。

そう考えると、庄内・布留の時代は魏晋代を含めてそれ以降となり、

『呉鏡の流れを組む画文帯や三角縁などの鏡は晋が呉を併合した280年以降』

という九州説の年代観とも整合性が取れることになります。
 
460日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:43:37
何度も言うように、天神山と同じかより古い古墳からすでに三角縁が多量に、数型式段階まで出ているので、天神山鏡群から三角の成立を言うのはそもそも間違い。
天神山はたまたま三角縁を入れなかったとすべき。
461日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:46:14
>>456
たしか、中国の同向式とみられるものは2、3枚。楽浪は1枚。あと全部日本で出土。
この状況では、日本の同向式はほとんどが日本での複製品と見るのが普通。

天神山出土の鏡の内訳からは、それが△定型化より前というのは自明では?
「ただ同じ古墳から出ただけ。同じ工房遺跡から出た訳ではない。 」はネタですよね。
462日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:47:22
弥生5様式の位至三公鏡は西村俊範の分類の1式2式だが。これは後漢代の墓にもあるが。洛陽漢墓とかね。残念でした。
西村分類の3式が三国から晋代の鏡で、これは古墳初め以降に出土している。
463日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:48:24
>>460
黒塚、椿井大塚山は天神山より後の時代と見るべきですね。
464日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:49:30
画文帯って呉鏡が多いものの、それ以外の系統が存在することを知らないの?
例えば同向式はむしろ呉には無くて山東や楽浪にあるんですが。
465日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:53:04
>>463
いや同じくらいなら分かるが。
確実なのは三角のある権現山、桜井茶臼山、西求女塚、雪野山、那珂八幡なんかは天神山より古いだろ。
466日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:56:20
黒塚も椿井大塚山も、崇神稜より前方部が発達している。
普通に考えれば、崇神稜の方が古い。

そこで、一部の畿内説は「バチ形だけは古い」と言い出したww
たしかに、バチ形出土の△はいくつかある。
しかし、バチ形が多すぎて全部が古いとはとてもいえない。
しかも、黒塚はバチ形ではなく、普通に前方部が発達している。
まさに、古墳被葬者にバチ当りな暴論。
467日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:02:43
紐孔の作り方とか日本の同向式も中国のと変わらないし、ホウ製鏡とは異なる。
中国での数量の現状はまともな報告が少ないだけなので、それを根拠にするのは危険すぎる。
また天神山についてはたまたま日本の共伴出土の一例で製作レベルの系譜関係を論じることが本末転倒というのがわからないのか?ネタですか?

468日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:08:07
バチ形で言っているのではなく土器や埴輪で言っていますが。
だいたい安本の前方部の幅だけの一系的変遷観自体がおかしいのだが。
墳丘墓やマキムク型からの流れや立面観から考えたら箸墓のが崇神陵より格段に古いのは確実だし、それは土器や埴輪の型式で証明されている。
近藤義郎ぐらい嫁
469日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:30:13
安本の前方部一系変遷観なら宮崎の柄鏡形前方後円墳はみんなムチャクチャ古いことになるな。
実際は出土遺物からはそうはならない訳だが。
470日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:43:30
なんだ、また安本かw
471日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:46:11
前方部の発達で分類する古墳編年など聞いたことないと思ってたが
なんだ、また安本かw

めんどくさいから、まず最初に「ネタ元は安本です」と明かしてくれないかな。
そうすれば飛ばして読むから。
472日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:56:54
おお、同じような突っ込みが入っているw
473日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:58:34
あんぽんもうだめぽ
474日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:03:49
安本は古田批判は良いのだが、自身の説に固まり過ぎて考古学の発展について行けず、考古学との矛盾をごまかし続けて結果、トンデモ化している。
安本の東遷説や邪馬台国九州説は当初はそれなりに考古学とも整合化を目指したはずだが、結論に固執しすぎてもはや修正できないところに来ている。
しかしそれが一般には影響が強いのも事実で不幸な状況だ。

475日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:16:25
やっぱ倭国が九州から畿内東海までの広い範囲なら
こんな広い範囲全体を巻き込んで大乱なんて起きないと思う。
道とか地図も全く無い時代だし。
地方ごとの独立性も強くお互いが長距離遠征してしつこく戦争するほどの時代でもないでしょ。
しかも女王なんかが奈良あたりで鬼道を使った所で
九州から東海まで全国がひれ伏すはずも無いと思う。
大体本州は戦争するより開拓したほうが効率いい位土地とか余ってたんじゃないの?
今の東北くらいの感覚でしょ?当時の本州なんて。
やっぱ倭国全体に及ぶ大乱が起きる倭国の条件は倭国の範囲がある程度狭くて
国々が密集して開拓も進んでた地域じゃないと起きない時代だと思う。
女王が鬼道を使って丸く収まるってのもやっぱその程度の地域レベルって雰囲気がする。
大乱するにはそれなりの目的がある訳で
それはずばり言えば倭国の王になって中国から金印を貰い
半島との交易権を独占し銅や鉄を独占する事だと思う。
倭国が大乱する以前にそういうシステムが倭国に出来上がっていたからこそ
倭国の王になろうとして皆争ったわけですでに卑弥呼の前の大乱以前に
そういう倭国のシステムが出来上がっていた。
つまりいろいろ総合するとやっぱ倭国大乱って北九州地域としか考えられないよね。
476日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:23:16
そもそも「倭国大乱」って後漢書だし……
477日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:26:56
発狂して一人で何役もやってる人がいるね。いつものことだけど。
安本トラウマか何かだろうか?
478日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:32:11
あんぽん信者涙目w
479日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:34:25
>>475
倭国大乱といっても全体を巻き込んでというワールドウォーみたいなイメージはないがな
隣国同士のいざこざがあちこちで起こって収拾がつかなくなった程度の意味かと
480SOY:2007/05/07(月) 00:35:21
>>462
>弥生5様式の位至三公鏡は西村俊範の分類の1式2式だが。
>これは後漢代の墓にもあるが。洛陽漢墓とかね。残念でした。
>西村分類の3式が三国から晋代の鏡で、これは古墳初め以降に出土している。

これについては私が不勉強だったようです。

西村俊範氏の論文を読まないと詳しくは分かりませんが、
西村俊範氏の見解を信じて、岩屋遺跡の鏡を2式(2C後〜3C前)とし、
弥生X期〜楯築〜萩原〜箸墓〜布留0(3C後)までの期間を調べて
どの程度、弥生X期を後に考えることができるのか、
どの程度、楯築や庄内を前に考えることができるのかを検討してみます。

西村俊範氏の見解を信じる限りは、弥生X期の位至三公鏡が伝世鏡であることを
証明せねばなりませんが、一二世代程度の伝世なら、前途多難ではありますが、
何か良い説明が見つかるかも知れません。
(弥生X期の位至三公鏡は全て破片で穴を空けているものもありますから)

今日はそろそろ寝ます。
 
481日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:37:44
>>475
倭全体の交易システム、鉄や銅の流通の話しならなおさら東日本まで視野に入れるべきで、九州だけとかおかしいが
482日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:52:11
庄内期は、以前は300年頃から始まるというのが通説だった。
最近は、200年くらいから始まるという人もいる。
畿内説の人の中には、200年に始まるのが正しいと思い込んでいる人もいる。
100年も遡った理由について説明してもらいたいものだ。

年輪年代論議に再度突入するかな。

ちなみに、庄内期4世紀説を取る関川尚功氏の見解は次のようなるらしい。

須恵器は、だいたい、五世紀のまん中ごろに出現する。
須恵器のまえの布留式土器は、三つないし四つの型式に分類でき、その長さ
は、100年を大きく越えることはないとみられる。よって、布留式の初現
は、四世紀のまん中前後とみられる。
布留式のまえの庄内式土器は、いくら分けても、せいぜい二型式にしか分類
できない。したがって、そんなに長い時期とは考えられない。
よって、庄内式土器の前段階である纒向の石塚がつくられた時期、纒向の1
という時代は、三世紀後半までさかのぼれるか否か、疑問である。(つまり、
四世紀以降であろう)

関川尚功氏は、纏向遺跡を発掘した人である。
483日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:53:55
>>477
>発狂して一人で何役もやってる人がいるね。いつものことだけど。
>安本トラウマか何かだろうか

モモ説や学会厨にもそういう奴が居るのがよーく見えるけどねえwww
484日本@名無史さん:2007/05/07(月) 00:57:53
外国からみれば、九州の西側のほうを見ながら北上して
朝鮮半島や長崎やら鹿児島に舟を降ろす人間が多いわけだから
倭人伝(つまり倭国のレポートの編纂したものな。)を
北部九州だけで済ますわけがなかろ。
全体的に南国風なのは中・南部九州のことを含めているからだぞ、当然。


485日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:00:14
巻向を作った人間達が九州から来たんじゃねーの?これで記紀やら皇室史の史書と
遺跡の辻褄があう。
486日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:02:33
大体、巻向以前に他の地域よりマシな遺跡があんのかい?畿内にさ。
487日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:09:52
>>485
> 巻向を作った人間達が九州から来たんじゃねーの?これで記紀やら皇室史の史書と
> 遺跡の辻褄があう。

逆だね。
庄内期には大和、河内、吉備などが西新や御床松原に進出している。
488日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:12:54
>庄内期には

 は? だからそれ以前の話だが。神武w
489日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:24:41
>>488

あ〜〜、紀元前5〜10世紀ころの話ね。
なら、そう言えないこともないよな。
半島からにしろどこからにしろ、あっちこっちから人はやってくるからねえ。
490日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:35:05
卑弥呼は神功皇后で決まりでしょ。
もちろん、100%記紀の記述どおりではありませんが。

応神、仁徳の時代に多数の渡来人が日本にわたり
さまざまな新技術をもたらしたと言います。

これこそが、魏使によるものではないでしょうか?

年代の問題ですが、継体による政権交代の混乱により
口伝伝承に散逸が生じたとすれば100年やそこらの誤差はありえるでしょう。
491日本@名無史さん:2007/05/07(月) 01:58:02
>>482
庄内式開始が300年とか佐原真が4様式が石鏃の大型化から倭国大乱=2世紀後半としてた時代の説で、今となってはトンデモ説だが。
その頃=1960年代後半から九州の考古学者は九州の弥生末を鏡などの舶来遺物から3世紀前半としていたのだが。年輪年代以前の話し。
その後、近畿の学者も九州との土器の並行関係と近畿でも出土し始めた舶来遺物の検討から近畿の年代を上げた。森岡や寺沢ね。この過程も年輪年代の台頭以前だが。
むしろ今は年輪年代やAMSをストレートに当てると古くなり過ぎていないかというのが議論になっているが、庄内式が少なくとも3世紀初めには開始しているというのは了解事項。
関川氏は、自身も書いているが、後の5世紀から遡及させているだけで、庄内式そのものの資料から年代を推定していない。自身があまり根拠はないとも書いている。
マキムクを掘った云々なら石野氏も一緒に掘った訳だし、その後寺沢も掘っている。発掘者かどうかとその年代論が正しいかは全く別問題だろ。
492日本@名無史さん:2007/05/07(月) 02:03:32
>>487
西新はともかく御床松原に吉備や河内があったっけ?
あと土器以外なら鍛冶技術とか明らかに北部九州起源。鏡重視とかも素直に考えたら北部九州起源。
もちろん吉備などの中・東瀬戸内の要素や丹後の鉄器多量副葬などもあるから単純に北部九州の東遷とかは無いが
493日本@名無史さん:2007/05/07(月) 02:23:35
西新は国際交易センターと言われているからな。いろんなところから来るのは当然。逆にここに来ないと大陸のものが直接入らない時期があったのでは?
ちなみにこれは庄内より新しいみたいだけど。
494日本@名無史さん:2007/05/07(月) 02:55:20
古代史や考古学の分野で
安本なんて名前、恥ずかしくて出せないよw
495日本@名無史さん:2007/05/07(月) 02:59:14
>>490 :日本@名無史さん :2007/05/07(月) 01:35:05
>卑弥呼は神功皇后で決まりでしょ。
>もちろん、100%記紀の記述どおりではありませんが。

そんなわけない。

>応神、仁徳の時代に多数の渡来人が日本にわたり
>さまざまな新技術をもたらしたと言います。
>これこそが、魏使によるものではないでしょうか?

時代が違う。これは明らかに三韓征伐の後の話だろう?
496九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/07(月) 06:17:17
>>459 庄内・布留の時代は魏晋代を含めてそれ以降となり、
『呉鏡の流れを組む画文帯や三角縁などの鏡は晋が呉を併合した280年以降』
という九州説の年代観とも整合性が取れることになります。

はい。僕も全面的にその説に賛成です。
西晋が、南方の銅材料や南方の文様を入手し、画文帯神獣鏡を製作できたのは、
280年に、中国南方を支配していた呉を滅ぼした後のことと考えられ、
これが画文帯神獣鏡による年代判定のポイントとなる。
というのは正解だと思います。
熊本の江田船山古墳は、5世紀後半の築造で、ここから出土する画文帯鏡は
国宝に指定されている。
この画文帯によって土器や古墳の年代を決定するのが畿内説のやり方なら
従来通りの年代測定値と何ら変化は無いと思う。

 
497日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:07:08
画文帯は呉鏡系統以外にあるし、280年以前の紀年鏡が厳然と多数存在するが。
画文帯が280年以降とかムチャクチャだよw勝手なデタラメ編年するなよ
280年以降の画文帯は末期型式か、技術的に粗悪な明らかな踏み返し鏡だけ。
498日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:11:37
また画文帯だけ、で決めていないが。
3世紀の鏡は画文帯だけ、ではないし。
例えば倣古方格規矩鏡とか。要素的に三角の関連鏡であり、3世紀半ばから後半の紀年鏡があり、中国華北にも出土しているが。
499日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:19:42
>>497
前にも書いたが、景初とか正始とか赤鳥とかあるいは青龍とか、3世紀中ごろの
年号の入った鏡は、4世紀半ば以降の古墳から出てきている。
しかも、棺の周りに立てかけられる、葬具のような扱いのものもある。
黒塚古墳でも30数枚の三角縁神獣鏡がそのような扱いだったが、これらは
作ってすぐに副葬された形跡がある。
つまり、鋳型から取り出したままで、バリさえも取っていないというやつ。

景初などの年号の入った鏡は、ひょっとしたら、4世紀半ば頃に作られたもの
かも知れない。
500日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:22:33
同向式とか呉鏡系統ではない画文帯。
山東や楽浪にあるし、そもそも建安年間からある。
だいたい建安年間鏡の画文帯がすでにたくさんあるのに画文帯が280年以降とかどういう編年だよw2世紀代からあるし、洛陽漢墓の後漢末期にも出土しているが。
画文帯が呉鏡以外に多くの系統があるのは上野祥史氏の研究で明らかになっているが。
501日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:26:27
>>499
4世紀半ば以降から出ている、というのがそもそも根拠薄弱な決めつけだが。
また前方部の変遷からとかトンデモ編年かよw仮に前方部の一系変遷観で編年してもそれ自体に実年代根拠は無いが。
502日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:28:22
>>499
それ△の話であって画文帯じゃない
503日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:32:39
中国出土の画文帯や倣古方格規矩鏡の紀年鏡の型式変遷から見て、同じ要素を共有する三角などの日本出土の紀年鏡だけが後世のものということは無いが。流れは矛盾しない。
また景初四年とかかえって同時期ゆえの中原以外の周縁での間違いとすべきで、歴代年号の流れが分かっている後世にはかえってありえない。
504日本@名無史さん:2007/05/07(月) 07:38:09
>>502
そうでした。間違えた。
しかし、画文帯神獣鏡も布留式土器と出土するんじゃなかったかな。
505太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/07(月) 07:55:05
>>490
卑弥呼は神功皇后ではない。もしそうなら後代の應神、仁徳の超長寿を肯定
するわけで、それぞれ111歳、143歳であったことになる。生物学的にはとても
困難であり、仁徳では現代でもギネス入りの世界記録でいたということになる。
だから神功を卑弥呼だとすると、この双方の天皇の記録に水増し年があったと
いう論理位でしかやっていけない論となる。

ところが欽明2年3月の紀の文には、帝王本記云々の話において、文面は
「真正に帰す」と、誤認を正すのが本来であるとの編者側の言葉が書かれて
いる。つまり俺たちはイカサマを正して書いてますとの内容であるから、
双方の天皇の寿命の水増しなど考えにくい。雄略、武烈の大悪ぶりを真摯に
隠さず記述しているわけで、水増しではない。
となると、神功が卑弥呼ではないと考えるのが正であり、神功39年の記述の
239年は、これら超長寿との不審を解決の考えにて、編者側が当時に倍暦を
知らずに魏の年を当てていたという論を妨げない。倍暦計上から

239年=崇神3年=紀の崇神七年(〜同九年)=景初3年

つまり卑弥呼は崇神のころの人物であるのだ。
506SOY:2007/05/07(月) 08:12:28
>459
>弥生5様式の位至三公鏡は西村俊範の分類の1式2式だが。これは後漢代の墓にもあるが。
>洛陽漢墓とかね。残念でした。

1.因みに『洛陽漢墓から出土したという位至三公鏡』は何枚ほど出土しているのでしょうか?
2.また、その『洛陽漢墓から出土した位至三公鏡』は何によってその年代を決めたのでしょうか?
  (洛陽漢墓なら墓誌なり年代確定の明確な根拠があるはずです)
  (核心的な部分なのでどうしても知りたく思います)

今、西村俊範氏の論文は手元になく、検証のしようがありません。

発言から見ると、洛陽漢墓の情報を持っているようなのでお教え願います。

現状、『洛陽漢墓から出土した位至三公鏡』云々の話はあなたの発言を信じるしかありません。
よろしくお願いします。

(鄂城ならどうにか手に入れられそうなのですが…)
 
507日本@名無史さん:2007/05/07(月) 08:14:56
画文帯は庄内式の出土例があるが。
型式的に建安年間鏡と考えられる同向式が萩原1号にあり、同型鏡が楽浪にある。萩原は庄内でも古い方。
他に綾部山39号もある。
ホケノは布留0という説が強いが。
画文帯自体、洛陽漢墓の6期、2世紀後半にはすでに成立し、2世紀末以降に多く作られる。
508日本@名無史さん:2007/05/07(月) 08:31:40
西村論文は京大の史林にある論文。かなり前のもの。
この中では3式でさえ2世紀末に登場するとされるが、最近は3式の主要な製作年代は三国とされる。
しかし1式2式は確実に後漢代だが。洛陽漢墓以外の例もいくつもあげられている。岡村編年などの多数の鏡研究にも引用されているから号数は自分で調べな。
また比較的最近の号の『古代学研究』の鏡から見た寺沢氏の実年代論論文も探して読んでくれ
509日本@名無史さん:2007/05/07(月) 08:32:43
だいたい洛陽焼溝漢墓も知らないで鏡の年代論をするなよw
510日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/07(月) 08:40:06
”邪馬台国ドンと来い”のスレッドの住民の方々のお役にたつかどうかはわかりませんが、
HP「倉西先生のご学問所」(http:www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の歴史学コースの日本書紀紀年法入門にて、
神功紀は、西暦201年から389年までを扱っていることを、日本書紀では、プラス・マイナス120年構想が設定されていることを
示すことによって、説明いたしました。
興味のある方々は、ぜひ、ご覧ください。

511日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/07(月) 08:41:59
>>510にてHP「倉西先生のご学問所」のアドレスを間違えてしまいました。
ただしくは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります
512日本@名無史さん:2007/05/07(月) 09:17:09
自演工作員31のたまたま理論はヌルーでいきましょう。
513日本@名無史さん:2007/05/07(月) 09:31:40
SWもどきの通商連合とかいうとんでも統一組織はあったが倭国大乱はなかった

発言すればするほど畿内説派の壊れて行くさまを見るのは実に嘆かわしいw
514日本@名無史さん:2007/05/07(月) 09:39:22
>>512-513
相当な致命傷だったんだね
515日本@名無史さん:2007/05/07(月) 09:57:45
>>514
傷付けたと一応思ってるんだwww
516日本@名無史さん:2007/05/07(月) 10:54:09
通商連合みたいな同盟は古代ギリシアとかフェニキアにもあるし、倭国乱とかその盟主争いとすればいいだろ。
アテネとスパルタとテーベの争いみたいな。
さしずめ最後に覇権を握ったヤマトはマケドニアやローマみたいな存在かと。
弥生時代から古墳時代の日本列島が典型的なアジア的社会ではなく、古代地中海的な社会の要素もあったのではないかというのは最近は松木武彦氏が唱えている。
517太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/07(月) 11:01:28
>>505 倍暦計上から

神功摂政元年=353年   同崩御=375年

紀の崇神六年=崇神2年=238年=景初2年

 ↑ この景初2年、崇神天皇は鏡剣を殿内に奉安してるから、畿内に鏡が
   うんと出てくるのはうなずけることになる。
518日本@名無史さん :2007/05/07(月) 11:38:06
>>516
邪馬台国当時の倭国の現状と、地中海文明の高度に造船技術の
発達した世界と混同するのか?

長崎や島根の美保関に残る古代海人族の船は手漕ぎ船(ペーロン船)です。
瀬戸内を航行するのも生死をかけるほど必死じゃないと無理です。
紀伊半島の熊野にもその名残があります。
519日本@名無史さん:2007/05/07(月) 12:40:15
社会のあり方としての比喩で文明段階が同じとは言ってない。松木氏の『人はなぜ戦うのか』(だったっけ)を嫁
戦争回避としての通商連合(交易同盟)の形成という考え方は岡安光彦氏も唱えており、最近の有力な考え方。
白井克也氏などの『原の辻貿易』『博多湾貿易』という「交易機構」の想定もこれに近い考え方だろう。
520日本@名無史さん :2007/05/07(月) 12:52:15
文明段階が相違しているのは比喩とはいわない。
あたかも、邪馬台国時代に古代船で通商が盛んだった
と思わせるような比喩は、本人の意識が時代錯誤している
可能性すらある。
521日本@名無史さん:2007/05/07(月) 13:08:40
南北市テキとか国々に市ありとありますし、現実に舶載文物が鏡をはじめ鉄器素材、ガラス玉、青銅原料がありますが。
また韓国特に加耶には倭人が頻繁に行った痕跡があり、また西新には韓諸国が頻繁に来ていた証拠がありますが。
ギリシアのような古代船でなくてもポリネシア人のように海洋交易ができるのはふつうでしょう。
ましてや日本列島の海上交通は沿岸航海ですが。
また社会の類型は文明段階だけではありませんので文化人類学を参照してください。
522日本@名無史さん:2007/05/07(月) 13:12:56
楽浪や帯方に倭人はどうやって行ったんだろうねw
523日本@名無史さん:2007/05/07(月) 13:19:27
横レスだが船についてコメント。
絵画土器の船の絵や舟形埴輪、実際の構造材の出土から弥生後期から古墳中期には少なくとも準構造船があったのは確実。ペーロン船レベルよりは上。
524日本@名無史さん:2007/05/07(月) 13:22:32
妄想ばかりだな
嫁参照しろというのは畿内論者お得意の逃げ口上
525日本@名無史さん :2007/05/07(月) 13:35:54
>>523
古代構造船は鉄器時代でないと、不可能だと思われる。
3世紀の邪馬台国時代の畿内は石器、木製鍬が主流。

それを踏まえた上で、沿岸航海との発言は認めよう。
526日本@名無史さん :2007/05/07(月) 13:52:14
戦中は対馬で病人が出たときは、九州でなく韓国
の病院に行くほうが近かったらしい。

邪馬台国時代に倭人が韓国に行くのも、沿岸航海
のひとつとの判断で、良いと思う。
当時の航海は貧弱で通商貿易などという表現は
明らかに、妄想だと思われます。
527九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/07(月) 14:11:41
>>526
>通商貿易などという表現は明らかに、妄想だと思われます。

上記は君の妄想。
魏志倭人伝
「至一大國・・・・・・亦南北市糴」
528日本@名無史さん :2007/05/07(月) 16:34:23
>亦南北市糴

対馬、壱岐の島のうち、対馬では米がとれないので、小船で
物々交換をやっていた程度で、通商貿易ではない。
529日本@名無史さん:2007/05/07(月) 17:48:08
ガダルカナル戦のころ(1946−47)、ガ島はまだ原住民の島だった。
カヌー作りはお得意でも、ガ島住民に鉄の軍艦や大型輸送船は造れる筈ない。
しかしソロモン海域は、当時の日米の軍艦や輸送船が多数沈んでいるね。

>>525
あのね、船は移動の道具なんだよ。移動することができる構造体なんだよ。
造船した場所を離れ、水面をどこまでも動いて、見知らぬ土地へも行けるんだよ。

世界の国々で航空機をなんとか自力生産できるのは、まだ20数カ国ぐらいかな。
でも、それ以外の多くの国々に空港、滑走路があり、
毎日のように航空機が離発着してるんだよ。
530日本@名無史さん:2007/05/07(月) 18:12:06
>>520

原の辻での港の遺跡や、瀬戸内における高地性集落は幻ですか?

>>524
>嫁参照しろというのは畿内論者お得意の逃げ口上

普通それはソースが明記されているという風にとるのだが、読書はお嫌いか?

>>526

「沿岸」航海の意味分かってる?
北九州⇔半島でどこの岸に沿って航海するんだろうね。

>>528

それをまさに通商というのだが、タンカーか大型貨物船がないとそう呼んではいけないのか?
531日本@名無史さん:2007/05/07(月) 18:18:42
>>528
生活必需品を細々と物々交換するような島の住人だったら、なぜこんな立派な副葬品を?
対馬、塔の首遺跡。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJINDEN2004/02-3.html

壱岐、原の辻遺跡も、出土品をよく見て再検討してくれ。
http://www.pref.nagasaki.jp/haru/gishiwajinden/koueki/koueki.html
532日本@名無史さん:2007/05/07(月) 18:27:04
>>531
リンク乙。原の辻のページにはこんな記述があったよ。おもしろいね。

「原の辻遺跡から出土する土器は主に北部九州産のものですが、中には、それ以外の地域のものも出土します。瀬戸内系土器・山陰系土器・肥後系土器等があります。」
533日本@名無史さん:2007/05/07(月) 18:40:57
弥生中期の原の辻や弥生後期の吉備の上東遺跡には船着き場がわざわざ構築されていますが。
また>>525は見当違い。3世紀=弥生末期〜古墳初頭はさすがに鉄器時代だろ。ホケノ山に大量の鉄器があるが。また弥生後期の近畿以東は石器が意外にまだ残ることと鍛冶技術のレベルの低さが村上氏に指摘されるも、鉄器の普及化自体は否定されていない。
だいたい弥生中期後半には九州は鉄器普及しているし、その前は青銅製ヤリガンナが九州にはあり、工具の金属器化は九州で早く、準構造船も作られただろう。
近畿以東も弥生後期以降なら可能だ。準構造船を題材にした絵画土器は弥生後期には東日本まで出土しているが。
534日本@名無史さん:2007/05/07(月) 18:43:11
同じ九州説でも>>527の九州王朝大好きの方がまともだなw
535SOY:2007/05/07(月) 19:44:03
>>508
>洛陽漢墓以外の例もいくつもあげられている。
>岡村編年などの多数の鏡研究にも引用されているから号数は自分で調べな。
答えになっていません。
どうして、一行で答えられるはずの質問に答えないのでしょうか?
人を嘲る文章を書く余裕があるのなら簡単に書けるはずです。

一人の研究者の見解を鵜呑みにしているのならばともかく、
口で言うほどに洛陽焼溝漢墓を知っているのなら
根拠にしている鏡の枚数と年代の根拠くらいは簡単に言えるでしょう。
私なら専門家の発言でも鵜呑みにはしません。
専門家の発言に対しても疑惑をもつべきと考えます。

もう一度質問します。

1.因みに『洛陽漢墓から出土したという位至三公鏡』は何枚ほど出土しているのでしょうか?
2.また、その『洛陽漢墓から出土した位至三公鏡』は何によってその年代を決めたのでしょうか?
  (洛陽漢墓なら墓誌なり年代確定の明確な根拠があるはずです)
  (核心的な部分なのでどうしても知りたく思います)

論議の場において検証することを大切さを知っているのならば、お答えください。
貴方の理解の範囲を越えた質問ではないと考えています。

まさか『限りなく少ない』なんてことはないと思いますが、
どの程度の枚数でどのように決めたのかは気になります。

>だいたい洛陽焼溝漢墓も知らないで鏡の年代論をするなよw
洛陽焼溝漢墓から位至三公鏡が何枚出ているかを知らないからと言って
論議してはいけないということにはなりません。
寧ろ、よく知っていると自負するあなたが正しく簡潔に説明し、
デマを排除するのが望ましいと私は考えます。
 
536日本@名無史さん:2007/05/07(月) 19:56:01
埴輪や絵画じゃなく準構造船そのもの、つまり実物も、船首や波除けの部材だが
大阪府八尾市の久宝寺遺跡から出土している。

大阪府、八尾市は素人向けにか、、「古墳時代初頭の準構造船」と発表しているが、
他の埋文関係では弥生終末期としているページもあり、まあ、庄内期とみていいのかも。
537日本@名無史さん:2007/05/07(月) 20:37:13
準構造船って、クギが無くても造れるの?
538九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/07(月) 20:44:09
>>501 4世紀半ば以降から出ている、というのがそもそも根拠薄弱な決めつけ

>>499の人の言う事は正しいですよ。
熊本の江田船山古墳は5世紀後半の築造で、ここから出土する同向式画文帯鏡は
国宝に指定されている。など弥生時代とは明らかに異なる装飾古墳などからも多数出土する。
539九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/07(月) 20:53:12
>>499は三角縁鏡の事と混同してない?>>538に挙げた>>501の文だけ
紋切り型に読んでくだんしょ。今帰ったばっかりなので勘違いのようよ。
540日本@名無史さん:2007/05/07(月) 20:58:46
もうどこでもいいじゃんよーーー
史書を疑ってんならもはや議論など無意味wwwww

541日本@名無史さん:2007/05/07(月) 21:13:17
彼と比較したら、大概まともになるぞ
542日本@名無史さん:2007/05/07(月) 21:18:08
SOYあんまり追い込むな!
543日本@名無史さん:2007/05/07(月) 21:19:42
>>499  同意です。
三角縁は、ほぼ全部が墳墓から出土し、生活遺構からの出土は皆無である。
つまり、日常生活に用いるための鏡ではなく、宗教的な意味から巨大化して墳墓に
入れるためのものとして製造されている。つまり、製造と埋納とは同時期である。

黒塚と椿井大塚山の三角縁は、椿井大塚山の方に新種が含まれているという関係に
あり、この点も製造と埋納とが同時期とみる根拠になる。伝世では説明不可能。

紀年鏡がその紀年とおりに製造されたのであれば、その紀年ころの年代の墳墓から
出てしかるべきであるが、その年代(画文帯180年、三角縁240年)にさかのぼる
同種鏡の出土例さえ1例も存在しない。
紀年鏡は、後の時代に年号が入れられたと見るべきである。
544日本@名無史さん:2007/05/07(月) 21:35:49
ちくしょう。話についていけねえよ。
邪馬台国は九州でいいだろ!ばヵ!
545日本@名無史さん:2007/05/07(月) 21:58:42
また九州の何処か説かよ
546日本@名無史さん:2007/05/07(月) 22:15:01
話についていけないなら、あらたなネタを振れ
547日本@名無史さん:2007/05/07(月) 22:47:19
モモは卑弥呼にひどいことしたよね
548日本@名無史さん:2007/05/07(月) 22:47:45
三角鏡が舶載というのは、どうにも納得いかないのだが。
どういう根拠で舶載だというわけ?

中国で1枚も出ていないのに、舶載だというのは、
縄文土器の起源が中国というのに等しいと思われ。
549日本@名無史さん:2007/05/07(月) 22:59:10
禿同

そもそも、中国でだけ出土する鏡も全部日本で作られて中国に輸出された鏡

中国で出土しない鏡は勿論国産
550日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:26:52
九州説の場合は、いろんな比定地があるわけだが、ここが邪馬台国だと
はっきり言う人は少ない。
しかし、どうも佐賀平野を含む筑後川流域と思っている人が多いらしい。
特に、久留米周辺が多いらしい。
ほかには、宇佐がけっこう多く、玄界灘沿岸、熊本、宮崎もあるが比較的
少数というところだろうか。だいたいこんなものだろう。
少数意見を入れていたらきりがないという状態か。
551日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:27:28
九州説安本信者の自演スレはここですかw
552日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:30:54

ゴールデンウィーク、出雲〜萩〜下関と旅行に逝きました。その際、下関で見かけたものなのですが、
ちょっと書かせていただきます。

「数方庭の由来と鬼石」(忌宮神社:いみのみやじんじゃ 境内にて)
第14代仲哀天皇は、九州の熊襲の反乱を平定の為御西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮
の皇居をおこされたが、仲哀天皇7年旧暦の7月7日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し、
豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが、宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次い
で討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された。
賊軍は色を失って退散し、皇軍は歓喜のあまり矛をかざし、旗を振りながら塵輪の屍のまわりを
踊り回ったのが数方庭(8月7日より13日まで毎夜行われる祭り)の起源と伝えられ、塵輪の顔
が鬼のようであったところから、その首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

「壇具川」(功山寺近くの川にて)
壇具川の名称は、神功皇后が三韓鎭治の時、この豊浦の地(長府)で祭壇を築き天神地祇を祭り、
その祭壇に用いた道具を流した川と言う事からその名がついたと伝えられる。昔は祭事が終わると
その都度祭具を川に流したと言う。又その祭壇を築いた場所(忌宮神社正面の惣社町一帯)を
「壇の上」といい、その地名が伝えられている。

とありました。
これらをみて思った事は、
1:神功皇后は間違いなく実在の人物であり、卑弥呼と同一の人物などではありえない事。
 (上記のように伝承がいかにも生々しく、いかにもありそうな話である事より。)
2:この当時、朝鮮半島の勢力と九州の勢力はかなり深い関係にあった事。
3:神功皇后が北九州の「女酋長」を征伐したとあるのは、この新羅の同盟軍を討伐したのでは
  ないかと言う事。
4:仲哀天皇が暗殺されたのは、玄海灘を渡って朝鮮半島の敵の本拠地を叩くべきか否かで、意見
  が対立した為である事。

などです。皆さんはいかが思われますか? ^^
553日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:31:08
>>543
太田南5号墳はそれだが。3世紀半ば〜後半の庄内式新相並行。三角縁関連鏡とされる倣古方格規矩鏡ですが。
554日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:37:01
>>535
西村論文を読んでから家w
洛陽焼溝漢墓知らない時点で論外な訳だが(嘲笑)。
ソースは安本のサイトしか認めずに他の論文以外はデマとかただの安本教だなwまさか本人降臨じゃないよなw
555日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:39:38
準構造船は釘は使ってない、というか飛鳥時代までの古代建築に釘を使う方が稀
556日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:46:58
ネットの情報だけに頼ってで自分で原報告や原論文を調べようとしないのは困りものだな。
最近の学生にもそういうのが実際いるから困る。
557日本@名無史さん:2007/05/08(火) 01:42:44
自分の引用する文献に書いてあるとだけ言うよりも、その文献に
書いてある理屈を言った方が早くないか?ネタバレ危険なのか?
『学者』の文献でも9割は紙資源の無駄遣いなんだから、全部は読まない。
引用された理屈を見て興味が出たら読む。
月5万円は本代に費やしていても、無駄遣いは避けたい。
558日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:53:15
話を豚切りして恐縮ですが…

「ミ」という言葉には尊称や敬意の意がありますよね?
という事は、「ミマキ」には「偉大なるマキ」の意味があると解釈可能です。
つまり「ミマキイリビコ」とは「偉大なるマキに入ったヒコ」となります。

この「マキ」、「マキムク」の事ですよね?
559日本@名無史さん:2007/05/08(火) 03:00:32
本高いよね。

一冊2000〜3000円以上はするからなあ。
最近でた「弥生時代はどう変わるか」は、勉強になった。
縄文時代が16500年前まで遡り、
弥生時代の始まりも500年ほど早くなった。
稲作が伝来してから、急速に広まったとされていたものが、
穏やかに広まったことになった。

鉄器も古墳時代に畿内に急速に広まったとされ、王権と結びつけられていたが、
王権とは関係なく、弥生後期から徐々に広まってきたものと修正されるだろう。
560日本@名無史さん:2007/05/08(火) 03:12:44
ここの住人は遅れている人が多くいるから言うけど
邪馬台国は大和でガチで、卑弥呼が崇神天皇の時代の人でガチだ。
文献的にも考古学的にも、ほぼ確定になりつつある。

しかし、それでも邪馬台国論争は完全には決着がつかない。
今、専門家の間で論争になりそうなのが、
卑弥呼が誰に相当するのか?ということ。
これは、おそらく、記紀に出てくるモモソヒメなんだけど
そのモモソヒメの出自について、論争になるかもしれない。
モモソヒメは、本当に孝霊天皇の皇女なのか?ということ。
キーワードは、記紀、海部氏系図、物部氏の旧事紀 の内容比較について。

海部氏の縦系図では、記紀の欠史八代に相当するであろう世代の当主の
部分が完全に削除されています。つまり、朝廷の命令で削除されたもよう。
それに反抗してか、9世紀に書かれた海部氏が隠していた勘注系図には、
崇神天皇の妃の一人が海部氏の出身なんだけど、その姉に当たる人物に
日女命という女性がいるんだが、彼女の亦の名前に
モモソヒメをはじめ、記紀に出てくる孝霊天皇の皇女の名前が出てくる。

561日本@名無史さん:2007/05/08(火) 03:17:02
卑彌呼31(記紀以外の百襲姫命1)
http://www.kenkenfukuyo.org/reki/ormoru/himiko/himiko31.html

562日本@名無史さん:2007/05/08(火) 03:17:29
>>559  
私は古代史以外の本の方が多いけど、専門書はとにかく高いね。
しかも、ほとんどが他の人の引用で新規性のある部分は10%以下
というのが専門書の常。さらに、その新規性がダメなものが大半。

古代史は思想的対立から、ソースに偏りがあり、色々読まないと
本当の事情が見えてこない。推理小説的要素が強い。

「弥生時代はどう変わるか」はまだ読んでいないけど弥生遡上論に
対する思想的対立もあって、あまり期待していない。
春成は新井の批判に応えているのかは気になるが、たぶん無視かな
と思うと興味がわかない。
563日本@名無史さん:2007/05/08(火) 03:47:18
>>562
新井の批判とは、要するに
炭素年代というのは、海岸線に近い(5キロメートル)ぐらいの
ところだと、年代が古く出てしまうということだろう?

ただ、そうではないようなところも、年代が古く出る傾向が強く
そもそも、これまでの土器編年年代自体、実にイイカゲンな決め方で
年代を決めていたために、今までの定説自体、あてにはならない
ということは正しいと思う。

現在、主流になりつつある考古学年代の導き方は、
欧米の学会では圧倒的に支持を集め、向こうの考古学会の報告でも
日本の部は、炭素年代や年輪年代測定方法の年代が記載されている。
564日本@名無史さん:2007/05/08(火) 06:02:38
本高いとか言うなら図書館に行けばいいだろ。ネットで安易に情報を手に入れることだけ考えるなって。セコいぞ。自分の目で確かめろと。
考古学の研究室があり大きな図書館がある大学図書館に行けばいい。一定の手続きで一般人も閲覧できる。必要文献の部分をコピーしろと。たまには自分で調べな。
また都道府県や政令市クラスの埋蔵文化財センターに行けば考古学関係の文献はたいがい閲覧コピーできるぞ。文献について問い合わせしたらいい。コピー代ぐらいはケチるなって。
またコピー代が高杉だが国会図書館なら雑誌含むたいがいの文献が手に取れるぞ。
565日本@名無史さん:2007/05/08(火) 06:08:14
畿内ヤマトが邪馬台国としても崇神で決まりとかはまだわからないが。
箸墓が3世紀半ばまで上がるかはまだ問題あるし、崇神陵は箸墓とは数型式の差があり2世代ぐらい後という問題があるので記紀を鵜呑みにできない。
566太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 07:36:34
>>560
卑弥呼は崇神の時代のころの人物は同意。しかし大和の人物にあらず。

>>561
モモソヒメがそれほど偉大で女性天皇ならば、記紀は落とさず代数に入れて
記述するはずだ。家系のひいきというものはあるはずで、同家およびその
近親関係者は名誉を上げて記述するだろうから、偉大的なるように家系の
文面等に載るものであろう。

卑弥呼とは「日巫女」の意味を持つ名であろうことはいなめないから、太陽神
を尊神として巫女をやるならば、九州でも畿内でも古代での時代がズレてても
命名するであろうから、似たような名前のある女性が古代にいても、それは
魏志倭人伝の云うところの卑弥呼ではない。しかし「日巫女」の名を長年使用
して行けば、固有名詞的とか権威付けとかで特定の巫女的重要女性に限定したり
して「日巫女」の名を使用することもあったわけで、倭人伝の卑弥呼はそういう
固有、限定的での意味の名ではなかろうかと考察する。

卑弥呼が崇神世ころの人物で記紀に記載ないところを思えば、この卑弥呼の
女王国は九州にあったということが遠回しで確定できて来る。これのURLの
書かれた方は大和説なるも、用心をしている解説であるから、間違っては
いるがえらいと思う。
567SOY:2007/05/08(火) 07:38:08
>>554
>西村論文を読んでから家w
>洛陽焼溝漢墓知らない時点で論外な訳だが(嘲笑)。
どうして、一行で答えられるはずの質問に答えないのでしょうか?
本当に西村論文を読んでいるのなら簡単に書けるはずです。

声高らかに固有名詞を並べる割りに、いざ質問すると根本的なところが答えられない。
それでは正しく理解しているのかさえ疑問に思います。

あなたが述べた以下の言葉にさえ疑問を持たざるを得ません。

建安年間鏡、山東や楽浪の画文帯、洛陽漢墓の画文帯、建安年間の型式群=萩原1号

・山東の画文帯ってそれほど枚数が出ているのか
・呉と関係ないところも建安年間鏡はそれほど枚数が出ているのか
・洛陽漢墓の画文帯ってそれほど枚数が出ているのか
・画文帯と画像鏡の区別くらいはちゃんとつけているのか

楽浪鏡にしてもそれが魏の時代と確定するにはまだ論拠不十分と考えます。

それはともかく、もう一度質問します。

1.因みに『洛陽漢墓から出土したという位至三公鏡』は何枚ほど出土しているのでしょうか?
2.また、その『洛陽漢墓から出土した位至三公鏡』は何によってその年代を決めたのでしょうか?
  (洛陽漢墓なら墓誌なり年代確定の明確な根拠があるはずです)
  (核心的な部分なのでどうしても知りたく思います)

ある程度の枚数だけならここで分かりますが、確かにネットの情報だけでは完全ではありません。
http://kkuramoto.web.infoseek.co.jp/p-7.htm

誤魔化さずに答えてくれることに私は期待します。
 
568日本@名無史さん:2007/05/08(火) 08:12:02
>>567もしつこいね
誰もがいつもネットに貼り付いて2chできる訳じゃないんだからさ
ネットに貼り付いてるヒマあったらホント自分で調べようぜ
文献のヒントが出されているんだからさ
569日本@名無史さん :2007/05/08(火) 09:19:21
>邪馬台国は大和でガチで、卑弥呼が崇神天皇の時代の人でガチだ。
>文献的にも考古学的にも、ほぼ確定になりつつある。

こんなのが一番怪しい。畿内が邪馬台国じゃないと困るのだろう。
皇国史観に凝り固まった右翼か?
570日本@名無史さん:2007/05/08(火) 10:25:50
>>566
そうは思わない。自分が推測するに
卑弥呼は、男系で見たら
神武皇統じゃなかったんでは?
海部氏の主張だと、卑弥呼はニギハヤヒの後胤だったと。
571日本@名無史さん:2007/05/08(火) 10:34:15
>>569

その手の煽りはもう飽きた。

邪馬台国が九州でもいいし、畿内が遅れていてもいい。
だが、阿讃や吉備が九州並みに発展してたことはどう説明するわけ?

邪馬台国が九州だけの話なら、
魏志倭人伝の記述と、阿讃や吉備の様子はどう整合性をつけるのか?
「東海を渡ったら別の倭人が住んでる」程度の記述はあったが、
阿讃や吉備の九州との結びつきはもっと深いんだよ。
銅剣文化も共有してるしな。
572日本@名無史さん:2007/05/08(火) 10:52:45
学者さんのほうでもトップのほうは
日本も世界も、邪馬台国問題に関しては
大和で規定路線になりつつあって
問題は、その卑弥呼の出自についてに移りつつある。

その最大のキーワードは、ニギハヤヒとニニギの兄弟。
海部氏の伝承では、神武東征を受け入れたのは、ニギハヤヒの曾孫で
(記紀では、ニギハヤヒが神武を受け入れたことになっている)
記紀よりも、海部氏の伝承のほうが、世代的にしっくりくる。

海部氏の伝承が馬鹿に出来ないのは、物部氏の旧事本紀と同じで
アメノホアカリ=ニギハヤヒという解釈。

これらのことから、日本の権力は、
スサノオ王朝→ニギハヤヒ(ニニギの兄)王朝→神武(ニニギの曾孫)王朝
と移行していったということ。

系図で見たら、まず、ニギハヤヒとニニギの兄弟の代で
物部氏・尾張氏・海部氏など と、神武皇統 が 分派し
その曾孫の代で、ニギハヤヒ系のほうは、物部氏 と尾張氏・海部氏 に分派した。
573太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 10:58:21
>>570
神武皇統であろうと皇統の分枝系であろうと別の王朝系の女性であろうと、
倭人伝に書かれるくらいの女王ならば、畿内にあればその情勢が朝廷の
ほうへ近隣のことから容易に伝わるから、記紀への記載に落とされるはずは
ない。隠匿してるという論者がいるようだが、国一個の情勢はその周辺の
者らにはよくわかるわけでうわさは伝播していくから隠しようがないし、
記紀には武烈、雄略の悪業も隠し立てなしに記述しているわけだから、編者
が隠匿などする意味もまるで薄い。
そういう近国の情報を容易に得やすい記紀に、女王国の記述が伝達し難い
ほど遠い外国の伝より著しく少ない猫の額ほどの記載内容では、女王国が
畿内にあったとは到底首肯し難く、貴殿の主張は意味をなさない。
574日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:10:54
>>573
日本の古代史を研究している世界の学者でも
海部氏系図やその伝承、物部氏の旧事本紀に
注目が集まっているわな。

モモソヒメが神武皇統ではなかったからこそ、
記紀の編纂者は、彼女のことを触れたくなかったのでは?
だいたい、モモソヒメの生母は、その出自が明確には記されてなく
一方で、名前にヤマトがつくなど、かなり偉大な名前だったりする。
つまり、記紀の編纂者は、ニギハヤヒ系の卑弥呼を
神武皇統の系図に付け加えたのでは?

おそらく、欠史八代のころは、ニニギ系の神武皇統と、ニギハヤヒ系が
交合に皇位を継承していたんじゃないのか?
そのなかで、ニギハヤヒ系からは巫女が皇位を継承した。
海部氏が朝廷に提出していたであろう縦系図には、
欠史八代の部分が、ばっさり削られているww
575日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:16:33
>>572

>学者さんのほうでもトップのほうは
>日本も世界も、邪馬台国問題に関しては
>大和で規定路線になりつつあって
>問題は、その卑弥呼の出自についてに移りつつある。

移りつつなどなっていないし、そんな妄想を語る学者などいません。
こういうのが典型的なエセ畿内説。

九州説や東遷説はとっくに死亡したけど
最近は考古学便乗型のとんでも皇国史観畿内説がちらほら出てきているので、これもたちが悪い。

576日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:22:03
>>575

>九州説や東遷説はとっくに死亡したけど
>最近は考古学便乗型のとんでも皇国史観畿内説がちらほら出てきているので、これもたちが悪い。

同意。
九州説や東遷説のかわりに、物部氏(ニギハヤヒ)が九州から来たとか、
形を変えてトンデモ説が流布されて、畿内説のような顔をされると困るな。
577日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:42:56
倭国、即ち当時の西日本一帯は複数の民族が混在していたんじゃないか
その中でも鏡崇拝族が中心となって興した国が、卑弥呼を頂点とする、いわゆる倭国・連合国なんだろう。
因みに畿内の氏族の9割以上が筑紫出身と自認し膨大な系譜を残している、土着を自認していた氏族は極少数。
この事から筑紫の主勢力が畿内に移り、宮を構え、諸国に官を置き監視した、というのが当時の状況だったんだろう。
578日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:49:44
>>577

もちろん、2世紀より前の話だよな?
579日本@名無史さん:2007/05/08(火) 12:02:49
2世紀のお話。
筑紫で起こった乱が西日本一帯に飛び火し
大乱となった後のお話。
580日本@名無史さん:2007/05/08(火) 12:33:15
>>569
>畿内が邪馬台国じゃないと困るのだろう。
>皇国史観に凝り固まった右翼か?

こういうレスはなにかトンチンカンを言ってる気がしてならんのだが。

九州説の一部の方が皇国史観そのものじゃないのか?
本居宣長や近藤芳樹などの国学者が熊襲偽僭説を唱えたのは、
卑弥呼や台与がもし大和朝廷関係者だったら、天皇家の先祖たるものが
支那の帝にせっせと貢いでたことになるから、それはあり得ん、との立場だろ。

鶴峯戊申も同じようなこと言ってるが、この人はいわゆる九州年号の先駆者。
九州年号は、邪馬壱国=博多説の古田武彦「九州王朝説」につながるが、
邪馬台国と大和朝廷を切り離せば切り離すほど、大和朝廷の独自性を謳うことになるわけ。
古田はおそらく、「多元」なんて言って自分は皇国史観じゃないと主張したつもりだろうが、
意に反して逆におのれが皇国主義とも見なされ得る構図であることに気付いてない。
581日本@名無史さん:2007/05/08(火) 12:50:57
>>580
色々あるんだよ。
あなたの言うような図式もあれば
>>572>>574の如く、なんとか欠史八代に繋げようとする皇国史観畿内説もある。
ひどいというか笑うしかなかったやつに
三角縁は素晴らしい国産鏡だから、中国やましてや半島でで作れたはずがないとかいうのもあった。

当方は九州王朝説でもないし、あんぽん信者でもないのではっきり言うが
倭人伝を鵜呑みにしたり、記紀を絡めて語りたがるものは
そのほとんどがまずイデオロギーありきであって、真実なんてどうでもいいんだろうなと思う。
学者、特に文献史学の立場にあるものは
はっきり言って考古学より、魏志や記紀の記述を疑っている。
だからこそ故・佐伯有清などは「あらゆる史料を比較検討した結果、邪馬台国の位置や実態など史料からは全く分からない」と言い切っている。
582日本@名無史さん :2007/05/08(火) 12:55:29
皇国史観と軍部が結託して、戦時中は言論を統制したのだろ?
邪馬台国の議論もできなかったと聞いている。

本居宣長の九州説が天皇家を養護する立場だったかもしれないが、
皇国史観とは別の話でしょ。

天皇家と大和朝廷と邪馬台国が畿内でなければ、困る連中がこの
スレに存在し、「邪馬台国は畿内で定説」とか繰り返してるのが
嫌なだけですが・・・
583日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:05:43
他にもお国自慢ありきってのもあった、これは九州説に多い。
商売上の理由もあるか。
吉野ヶ里周辺で卑弥呼の湯とかやってる連中にしてみれば死活問題だからね。
実はマキムクの面白いところは、地元民は結構迷惑してるというところ。
ただでさえ弥生から平城京まで遺跡に振りまわされて、公共工事は遅れまくるし、挙句は自宅の建て替えもままならないのに
邪馬台国まで来やがったかってなかんじ。
そういう意味では地元びいきが逆になさすぎるってのも可笑しい。
そういえば同じ九州でも福岡などは、また弥生か!てな感じで遺跡出土にため息つく人も多いね。
584日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:07:38
>>582
そんなこといったら、じゃ、いまや
邪馬台国畿内説が学会でほぼ主流になっている状態を
なんというふうに考えているのか?

邪馬台国九州説が湧き上がってきたのは、300年前の
本居宣長であり、それが後の尊王思想に繋がったんだよね。
今でも、西尾幹二みたいな右翼に、邪馬台国九州説が人気がある。

そうなんだよ、不思議と、近代右翼に人気があるんだわな、邪馬台国九州説は。

でも、ここ数十年に、海部氏系図が開放されたり、
考古学の科学的な進歩があって、ここにきて一気に邪馬台国畿内説が圧倒しつつある。
最近、外国で出版された皇室研究の本でも、
卑弥呼はほぼ大和王権と関係のある女性だと思われだしている。
585日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:08:25
天皇は日向から来たって記されているじゃんか!
大和朝廷は100%畿内でしょう!
邪馬台国は正直どうでもイイが、場所は畿内なんじゃないの?
586日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:17:42
>>582
いやなら無視するか、たまに笑い飛ばして突っ込みいれる程度でいい。
上のほうにあるように、邪馬台国の場所なんて3世紀の状況が判明しつつある今では、もうどこでもかまわない。
大和東南部であった蓋然性は今のところ高いが、どこかで有力な祭祀遺跡が出土すればそこでなんら問題ない。
天皇家にしても、飛鳥以前に彼らが統治していたとする史料は記紀しかない。
某一名が必死に言う武列の暴挙にしても、中国の借り物でしかないので誰も事実だとは思っていない。
ヤマトとかネコなんかが名前に入っている欠史八代などは論外。
柳田風に言うなら、そんなものを信じる文献史学者は一人もいない。
587日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:20:09
神代系図というのも馬鹿にはならんわな。
たとえば、神武天皇の四代前で
アマテラスの誓約によって出来た子供である「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」
略して「天忍穂耳(アメノオシホミミ)」というんだが

この「ミミ」というのは、出雲神話に多い名前で、投馬国の官もそういう名前。
つまり、「天忍穂耳(アメノオシホミミ)」は出雲(投馬)国の官の名称だった可能性がある。
およそ、紀元前1世紀〜紀元1世紀にかけてか?

だとすると彼の本名は「勝速日(カチハヤヒ)」であり、
その長男の「天火明命(アメノホアカリ)」は
「饒速日(ニギハヤヒ)」と同一人物だった可能性がある。
「勝速日(カチハヤヒ)」と「饒速日(ニギハヤヒ)」という名前に
連続性があるから、この二人は親子のように感じる。

そして、旧事本紀では、アメノホアカリことニギハヤヒのことを
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやのみこと)
といい、天照という名称から分かるとおり、神武に先駆けて
ニギハヤヒの系統が大和の王にあった可能性がある。

そのニギハヤヒの子孫が、物部氏、尾張氏、海部氏なわけで。
588日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:30:22
>>584
畿内説が有力視されるようになったのは、考古成果のためであって
海部氏系図などの証左すらできない文献のせいではないよ。

>>585

>天皇は日向から来たって記されているじゃんか!

それを裏付ける考古事実が全くないばかりか、日向を宮崎にしようが筑紫にしようが
それとは全く反する出土事実が佃煮にするほどでまくっている。

大和朝廷・・・これは早くとも飛鳥期の仏教伝来以降の成立。
邪馬台国(プレヤマト王権または初期ヤマト連合)が大和にあったとしても、両者は畿内が舞台というだけで
政治的にも、おそらくは血統的にも全く別物。
ただし王朝交代や他民族侵略などではなく、いくつもの派閥や一族による権謀術数を駆使した政権交代劇がくりかえし行われたとする見方が有力である。
これもまた考古学が証拠固めをしつつあるが、文献史学では常識として語られている。
589日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:34:22
畿内でも九州でもオアフ島でもアラスカでもどこでもいい。

我々が知りたいのは真実だ。
590日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:41:38
>>588
>政治的にも、おそらくは血統的にも全く別物。
>ただし王朝交代や他民族侵略などではなく、いくつもの派閥や一族による権謀術数を駆使した政権交代劇がくりかえし行われたとする見方が有力である。
>これもまた考古学が証拠固めをしつつあるが、文献史学では常識として語られている。

それも、まったくは分からん。血統的にまったく別物かどうかも分からん。
判断しようがないわけで。
591日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:44:19
外国の研究者は海部氏系図とか
旧事本紀に飛ぶつくよね。

欧米の研究者なんか、このへんの神社伝承で
ニギハヤヒとニニギの研究に興味をもったり。
592日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:45:58
>>582
>天皇家と大和朝廷と邪馬台国が畿内でなければ、困る連中がこの
>スレに存在し、「邪馬台国は畿内で定説」とか繰り返してるのが
>嫌なだけですが・・・

心情的に嫌だ、っていうわけだね。(笑)
戦前の皇国史観のボスと言えば東大教授の平泉澄だ。
戦後、平泉の名声は急落するが、それでも平泉の教え子たちの中で
戦後も平泉流皇国史観を引きずった国史学者が一人いて、
それは元皇学館大学学長の田中卓さんだ。
だが卓先生は畿内説ではないのだ。筑後山門説なんだよ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%8D%93

万世一系の皇国史観、純粋の右翼であれば、卑弥呼はどうしても異端者なのだ。
鬼道とか中国の柵封体制下とか、皇国史観者や右翼が皇祖皇国に認めよう筈がない。

邪馬台国畿内説に対して「皇国史観」とか「右翼」とかのレッテルを貼って論難し、
それで心情的にウサを晴らそうとするする輩・・・・、実に愚かとしか言いようがない。
593日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:47:33
>>587
考え方が逆なんですよ、というか岩波文庫の古い解釈を信用しすぎ。
たとえば邪馬台国の官名であるイクマ、ミマキ、(漢字変換出来ず、申し訳ない)などが
活目、御間城と連動しているというふっる〜い語呂合わせ畿内説もあるにはあったが
今では逆に魏志の記述を元にして、彼らに名前を与えてのではないかとする説が有力。
伝承としてあいまいな形で異聞も多く、どれがどれやら分からなかったものを
記紀なりに必死で、これはこうではないかと考えた理屈ゆえにその名がつけられていると見られている。

欠史八代などはさらにいい加減な7〜8世紀風の名前になっているところが、記紀の限界でもあるが。
言うなれば平成の時代に書かれた歴史小説の登場人物が、ナルトやおじゃ丸になっているようなもの。
594日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:59:31
>>593
>今では逆に魏志の記述を元にして、彼らに名前を与えてのではないかとする説が有力。

そんな説は有力でもなんでもない。

邪馬台国九州説こそ、右翼思想にかなった異端の歴史観なわけで。
安本とか、西尾とか、新しい歴史教科書に署名したメンバーじゃん。

これは、ここ300年の日本右翼思想の迷走を表している。
右翼的思想で邪馬台国九州説を押したのに、
実際は、彼の思惑とは逆の方向に行っているww

とにかく、右翼にとったら、卑弥呼という中国に朝貢した人物が許せないわけで。
だから、彼らは邪馬台国九州説を支持してしまうわけだ。
しかし、結果的に日本の歴史は整合性が取れなくなってしまい、
彼らの思惑とは逆の方向に進んでしまった。
595日本@名無史さん:2007/05/08(火) 14:10:04
邪馬台国九州説こそ、近代日本右翼の原型。

そして、近代右翼というのは、見かけは愛国者だが
彼らのやった行いは、彼らの思惑とは逆に
売国の方向に進んでしまったというわけだ。
596太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 14:10:34
>>574
じゃぁ武烈と雄略の犯罪的行為も都合悪いから触れなければいいはず
だろうがね。卑弥呼のことが記紀にないということはだ、あれだけ倭人伝に
書かれていている女王だから畿内の人物ではないというストレートに結論
を持って行けばそれでいいんだよ。
一国分の広大な領土のある女王国なんか隠せっこないしね。マァ諦めが
肝心だな。削った痕跡は刀か鑿か、ヤスリか? どれだね?
597日本@名無史さん:2007/05/08(火) 14:12:35
めんどくせえなあ

要するに
右翼の畿内説と左翼の畿内説があって
同様に右翼の九州説と左翼の九州説もあるってことだ罠

ところがそのいずれもが、学問としての連合政権説から見ればたわごとに過ぎないってことさ。
598592:2007/05/08(火) 14:23:41
>>569
>畿内が邪馬台国じゃないと困るのだろう。
>皇国史観に凝り固まった右翼か?

>>595
>邪馬台国九州説こそ、近代日本右翼の原型。

レッテルの貼り合い合戦か。(笑)
これからの日本をどうするかとか、天皇制をどうするかとかは、
もちろん議論があっていいと思うし、現に2chにもそういう板がある。
日本近代史を議論する専用板もある。
どうかお二人ともそちらに移動してやってくれないかね。頼む。
599太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 14:26:54
>>586
>どこでもかまわない

 そうだろう。臥海の連中とその飼い犬は結局どっちにしていいか分からなくて
 困ってるわけだよ。だからその視点を他のほうへ向けさせて論から逃げて
 いるわけ。

>史料は記紀しかない

 あるあるさ。墨田八幡の鏡にも飛鳥前の繼體の銘文があるし、稲荷山鉄剣にも
 雄略、大彦の銘文がある。それは君のデタラメ文。

>だれも事実だとは思っていない

 いくらでもいるよ。津田病罹患者とかは思っていないわけ。ww
600太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 14:31:03
>>588
このスレで最大のデタラメ論文。ww
601日本@名無史さん:2007/05/08(火) 14:42:02
こんな2ちゃんの糞スレで吼えていても
意味がないでしょうが...

在野の歴史愛好家は、所詮、歴史学・考古学の最先端においては
何の影響力もないわけで。

こんなところで吼えてないで、ちゃんとした学会で
論文を発表したりしたら良いじゃん。
602日本@名無史さん:2007/05/08(火) 14:43:37
2ちゃんは九州説論者のうめき場所。

リアルな世界では、完全に追い込まれてしまっているから
ここで何度も論破されてしまったことを
ひたすら叫ぶしかない。

もう自己満足世界だわな。
603日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:06:52
本当に歴史が好きで興味があるなら、
調べれば調べるほど畿内説になると思うんだけどね。

大和朝廷に影響力のあった氏族のほとんどが九州出身だなんてデタラメもいいとこ。
いったい、どの氏族と氏族が九州出身だというのか?
リストアップを何度も頼んでるが、リストが出てきたことは一度も無い。
604日本@名無史さん :2007/05/08(火) 16:20:19
本当に歴史が好きで興味があるなら、
調べれば調べるほど九州説になると思うんだけどね。

大和朝廷に影響力のあった氏族のほとんどが九州出身じゃないなんてデタラメもいいとこ。
いったい、どの氏族と氏族が畿内出身だというのか?
リストアップを何度も頼んでるが、リストが出てきたことは一度も無い。
605日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:34:29
葛城氏、蘇我氏、息長氏、和邇氏、
初期大和王権と婚姻関係を持つ豪族の本拠地は、いずれも畿内。
天皇家が豪族とともに九州からやってきたのなら、
当然、豪族の本拠地は九州の地名のはずだが。
606日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:43:38
賀茂氏・尾張氏・海部氏・紀氏・中臣氏・和邇氏・忌部氏・春日氏・三輪氏

このへんは近畿の豪族

物部氏は、ニギハヤヒが祖なので当然畿内。
607日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:48:20
で、九州出身というと、安曇氏と、あと、誰かいた?
608日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:52:32
畿内説は説得力がないというか、読んでいて犬の遠吠えのようで空しい。
こういう理由で邪馬台国は畿内なのだという根拠が示されない。
積極的な根拠がない。

九州説の示す根拠に対して、それは違うと言い張るだけ。
609日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:58:52
大伴氏は、大和盆地東南部(橿原市、桜井市、明日香村付近)であったらしく、
その後、甲斐国に移ったらしい。

甲斐国一宮浅間神社の神主の祖は大伴金村。


610日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:04:26
>>608

で、九州出身というと、安曇氏と、あと、誰かいた?
611日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:06:12
>>604>>605>>606
同じワザをかけ直して一本取ったつもりの>>604だろうが、これは案外良い設問と思った。
生真面目に返レスした>>605>>606も、もう少し次のような着眼で考えてみてくれ。

考古学では「初期ヤマト政権」というが、記紀の記述に当てはめたって構わんだろう。
で、どこからどこまでを記紀の「初期ヤマト政権」とするか。
最初はやはり神武にしよう。実在がどうとか、とりあえず無視でいこう。
どこまで、だが、景行でいいのでは。纏向に宮があったらしいから。

そうすると、初代神武から12代景行までが調査の対象。
記紀の系譜から、婚姻関係がわかる氏族を全部ピックアップしてみよう。
トンデモ畿内説の愛知県民氏にも作業をお願いする。
初期ヤマト政権に協力した連中がどの辺りの氏族だったか、浮かび上がってこないか。
612日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:20:29
神武は実在したよ。紀元前660年ごろにね。

支配者じゃなく、そのへんの縄文人だったかも知れんが。
613日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:25:24
「先代旧事本紀」の国造リスト

ttp://www.dai3gen.net/kokuzo.htm

ttp://www.geocities.jp/jp_kozoku_ken/Kokuzoh-0.htm

九州の国造は少ないねえ。
614日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:31:19
>612
わろたw
確かに、大和王権の先祖を遡れば何代か前に神武に当たる人はいるわけだ
神武という名ではなかったが。
農民だったかもしれんが。
615日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:49:51
>>611

呼びかけに応じよう。

天皇と婚姻した妃の出自リスト

神武−ヒメタラライスズヒメ−事代主
綏靖−イスズヨリヒメ−事代主
安寧−ヌナソコナカツヒメ−鴨王(事代主系)
懿徳−アマトヨツヒメ−皇族系
孝昭−ヨソタラシヒメ−尾張
孝安−オシヒメ−皇族系
孝霊−クハシヒメ−磯城
孝元−ウツシコメ−穂積
開化−イカシコメ−物部
  −タカノヒメ−丹波
  −オケツヒメ−和邇
崇神−ミマキヒメ−大彦(皇族系)
  −トオツアユメマクハシヒメ−紀
  −オワリオオアマヒメ−尾張
垂仁−サナヒメ−和邇
  −ヒハスヒメその他数名−丹波
  −カリハタトベ−山背
景行−ハリマノイナヒノオオイラツメ−吉備
  −ヤサカイリヒメ−尾張
  −ミハカシヒメ−日向
  −イチフカヤ−熊襲
616日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:10:07
>>615の考察

九州から来たという神武は、事代主の娘と婚姻。
孝元までは、奈良盆地のローカルな族長と君臨してるっぽい。

たぶん、このへんから3世紀になる。

開化・崇神から丹波や尾張と交流を持つ。海部氏・尾張氏と合流か?
景行は、九州を巡幸している。このとき、南九州を大和連合の傘下に治めたか?
617日本@名無史さん :2007/05/08(火) 18:27:06
まず、蘇我氏の系譜は石川麻呂(宿根)に始まり、満智・韓子・高麗
となって、稲目・馬子に続いていく、「日本書記」には先祖は竹内宿禰
に始まると、蘇我氏自身が称している。

>>605
のように、単純に考えれば、日本の歴史は簡単だが、蘇我氏や物部氏
葛城氏の滅亡に際して、当時の権力者によって第1級資料が廃棄された事実
を無視して、簡単に決め付けるのは、危険だと思います。

単に蘇我氏、物部氏が畿内出身と固定して考えないほうが良い。
この部族は九州出身らしき根拠が多々存在する。
618日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:27:33
>>611  「出身」ということなら、>>605>>606で出てくる豪族は
ほぼ全部九州出身。尾張氏でさえも氏姓録等では九州出身とされる。

記紀、旧事紀、新撰氏姓録の記載が事実かどうかは争いあるも、
それら書かれた時代に、彼らが自らを九州出身と信じて自称していた
というレベルでは、争いがなかろう。
619日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:28:02
>>615
こんなのも記紀を読み解く面白さだな
紀年法、倍暦とかは数学パズルみたいなところがあるが、
数字を離れても記紀は楽しめる

尾張はけっこう気に入られてるみたいだな
昔は名古屋、美人が多かったんか? む・か・し・はwww
620日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:44:29
>>618

>尾張氏でさえも氏姓録等では九州出身とされる。

ニギハヤヒが九州出身だからだろ?
それがどうした?
621日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:51:42


ニギハヤヒが九州出身などと、どこに書いてあるんだ?





622日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:54:34
>>619
>尾張はけっこう気に入られてるみたいだな

政略結婚だべ。
623日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:58:15
孝昭天皇から、尾張は奈良に食い込んでる。

東海土器の拡散状況と同じ。
624日本@名無史さん:2007/05/08(火) 19:19:40
古代氏族は、本拠地の地名をとって呼ばれている。
古代氏族の氏の名は、ほとんど畿内の地名なんだけど?
九州説を取る人は、同じ地名が九州にあることを証明しないと、
厳しいんじゃないの?
625日本@名無史さん:2007/05/08(火) 19:37:22
蘇我氏は半島から来た説あるよね!
626日本@名無史さん:2007/05/08(火) 20:22:00
記紀に卑弥呼の記事が無いって言ってるヤツ
日本書紀読んでないだろ
神功皇后のところに魏志倭人伝からの引用があるだろうが

627日本@名無史さん:2007/05/08(火) 20:44:31
>>625
ゴールデンウィークに出雲大社に逝ってきたのですが、大社に素鵞社(そがのやしろ と読みます。)
なる末社があります。 また、大社すぐそばに、素鵞川という川がながれています。
蘇我氏といえば、欠史八代に含まれる孝元天皇を祖とする、となっていますが、じつは出雲出身
だったのではないかと思えてなりません。欠史八代は国譲りの真最中。蘇我氏は、出雲出身であり
ながら、北部九州出身である神武の子孫である孝元天皇たちに協力したのではないかと思えて
ならないのです。(その結果、孝元天皇を祖とする事を許された。)
628日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:06:18
普通に考えろ
倭人伝に登場しない関西地方なんかあるわけないだろw
629日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:09:05
生野もでてくる?
630日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:11:07
邪馬台国の広域比定地で有力な順位は

1南部九州
2北部九州
3沖縄
4出雲・吉備
5関西

こんな感じでFA
631太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 21:16:33
>>626
そんなもんだろうが。ww あとは毛の生えた程度だよ。〜読んでるよ。

お前さんの言いたい ↓ のが

神功39年=景初3年=紀の崇神7年(〜同9年)=崇神3年=239年

 ↑  これだろうが。倍暦計上で ↑ こうなるのだ。

つまり卑弥呼の真の年代は崇神天皇の時代あたりなんだよ。
632日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:40:38
>>621
饒速日命は、神武天皇と同族。いわゆる天神の子と日本書紀に書いてある。
まあ、天孫族ということか。
九州出身だろうなあ。
633日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:49:24
>>632

天孫族は、高天原から九州に降ったのである。
九州が故郷ではない。
634日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:00:00
>>633
天孫が、高天原から降りた場所は日向。

饒速日命は、高天原から天磐船に乗ってやってきた。
わかる?船に乗ってやってきた。

邇邇芸命は、日向に下りるとき、船に乗って来てはいない。

高天原はどこだろう?
635SOY:2007/05/08(火) 22:00:51
>>568
> >>567もしつこいね
> 誰もがいつもネットに貼り付いて2chできる訳じゃないんだからさ
> ネットに貼り付いてるヒマあったらホント自分で調べようぜ
> 文献のヒントが出されているんだからさ

声高らかに固有名詞を並べる割りには、いざ質問されると根本的な部分は答えられない。
異常にプライドが高いと苦労しますね。

とりあえず、3度それを示して頂けば十分です。

今は欠史8代あたりで話が盛り上がっていますので、
洛陽漢墓から出土したという位至三公鏡については、
次に『通商連合(Trade Federation)』の話が出た時で結構です。

>>606
>賀茂氏・尾張氏・海部氏・紀氏・中臣氏・和邇氏・忌部氏・春日氏・三輪氏
>このへんは近畿の豪族

中臣氏は九州出身だったような…
忌部氏はどちらかと言うと阿波や讃岐のイメージも強いです。
 
636日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:13:51
>>634

また、こういうバカが、おかしなことを言うから議論が先に進まない。

>饒速日命は、高天原から天磐船に乗ってやってきた。
そんな記述は、どこを探しても見付からない。

どこの古文書の、どこの箇所か、具体的に説明してみろ。
637日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:21:22
>>634は、自分で日本書記を読んだことが無いんだよ。

饒速日命が、天磐船に乗ってきた地は、畿内ですから。
638日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:25:01
>>633
あのさあ、天孫族も人間なんだよ。高千穂の峰には当時はヘリコプターも鉄道も無いわけだから、
歩いてくるしかないのだよ。九州以外からどうやって歩いて高千穂に来られるんだね?(舟にのらないで)
高千穂からは、天孫族は東に向かい、コノハナサクヤヒメを日向で娶っている。
ふつうに考えれば、天孫族は高千穂(九州山地)の西の九州から歩いてやってきたのだ。
639日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:33:01
>>638

おまえは、檀君神話も事実だと思ってるのか?
640日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:44:30
>>636
日本書紀の、神武天皇が大和に行こうと決意したところに書いてある。
つまり、神武天皇の最初の部分。
641九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/08(火) 22:49:39
邪馬台国と倭人伝の直接の証明となるものは、はっきり言って志賀島出土の奴国王の金印しか無い。
壱岐国、対馬国、伊都国、はほぼ間違いないだろうということであり、
後はすべて推定に過ぎず、まして畿内と邪馬台国、倭人伝を結びつけるキーワードは何も無い。
考古学的な事実はそれはそれとして存在するのみである。
642日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:50:53
>>640

あれは、饒速日命が大和に行ったことについての記述で、
饒速日命が高天原から天磐船に乗って日向に降りたなどという記述は無い。
バカ?
643日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:53:29
>>641

幽霊の存在は、文献に多く登場する。
科学的な事実としては、幽霊の存在は肯定されない。

おまえは、幽霊を信じるわけだな?
644日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:53:30
>>639
そういうのを詭弁という。
檀君神話はこの際関係ない。関係あるというのなら、その根拠を示してから
言うべき。

邇邇芸命の天孫降臨伝説は、神武天皇の先祖が九州山地を越えてやって来たと
考えることが出来る。天孫降臨の地である高千穂は二つあるが、
二つとも、九州の西側から日向、つまり宮崎にやってくる道筋になっている。

十分に可能性のある考えだと思うが。

饒速日命の場合は、舟に乗ってやって来たとわざわざ書かれているから、
瀬戸内海を舟で越えてきたと考えても不思議ではない。
645日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:57:26
>>642
あのね。饒速日命は、高天原から舟に乗って大和に行った。
邇邇芸命は、高天原から日向に行った。
邇邇芸命の子孫である神武天皇は、日向から大和に行った。
ということだけど。
646日本@名無史さん :2007/05/08(火) 23:00:51
>幽霊の存在は、文献に多く登場する。
>科学的な事実としては、幽霊の存在は肯定されない。

これは、詭弁です。
というか、書いた本人もこの文章が何故、詭弁として
バカにされるか気づいていない。

647日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:04:15
>>641
そうだよね
魏志倭人伝をいくら紐解いたって邪馬台国の位置なんてわかりっこないんだ
書いて無いんだから
648九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/08(火) 23:09:17
>>643 意味不明。
畿内でもし金印が見つかっていたとしたら邪馬台国は畿内で決まりと決め付けて大騒ぎすると思う。
奴国という国名が実際に漢書や倭人伝に出てくる意義は大きい。金印が九州で出土した意義も大きい。
三角縁鏡が卑弥呼の鏡では無いといわれる昨今、畿内説はどのような物証を持って畿内邪馬台国説を裏付けるのだろうか。
と、こう言ってる訳。
649日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:12:08
九州の詭弁厨必死すぎw
650太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/08(火) 23:14:33
畿内説 惨敗!!
651九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/08(火) 23:19:59
真面目に聞いてんのよ。九州の奴国、金印、吉野ヶ里の楼閣などの倭人伝の証明となるものに当たる
畿内説の物証は一体なんだろう?と。今はどのような主張なのだろうか。
652日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:20:43
>>635
都合の悪いことは調べたくないだけだなw
アホらし
653日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:26:14
吉野ヶ里の楼閣っていつのものと思ってるの?
654日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:28:36
奴国の金印は奴国の話であって邪馬台国の話ではないが。
九州邪馬台国の物証なんて無い訳だが。
655日本史@名無しさん:2007/05/08(火) 23:34:02
>>654
馬鹿なの?
奴国or倭奴国の金印が九州から出たのに、邪馬台国が畿内というなら、
その断絶や九州との関連を明示する必要がある。面倒な話だろ?
中国がそんな簡単に金印を乱発するわけはない。
656日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:45:09
なんだ>>580-586あたりでやっとまともになったと思ったのに…

657日本@名無史さん:2007/05/08(火) 23:49:34
そうだね
金印は「魏」でも「邪馬台国」でもないってことは
漢の時代に奴国がもらったんだろうね
658日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:05:52
「西村論文」調べたよ。
京都大学の史学研究会発行の『史林』66巻1号、1983年「双頭龍文鏡(位至三公鏡)の系譜」のことだね。
位至三公鏡について内区の外縁の連弧文があり櫛歯文帯がない1式、連弧文が無くなり幅狭い櫛歯文帯が内区外縁に出てくる2式、幅広い櫛歯文帯になり界圏線が二重になる3式と分類される。
龍文の表現がマトモなものから細線表現で稚拙化する方向性から1式から3式に変遷したとする。
中国の墓の出土例から1式は2世紀前半に出現とする。この時点の1式の7例は全て2世紀の墓とする。焼溝漢墓の2例もこれ。なお墓の編年は陶磁器や紀年明器、墓誌など総合的に考察されている。
2式はこの時点で3例だがうち1例は後漢晩期、2世紀後半とし、次の3式の最古例が2世紀末にあるからその前の型式とする。
3式が「位至三公」銘が一般的なものだが(2式にもあるが)、この時点の10例のうち2例は後漢晩期であり、3式も2世紀後半のうちまで(末というニュアンスか)に成立したと。
ただし3式は三国や晋代出土が多く型式が停滞してずっと作られたのではないかともある。
日本出土例14例も検討され、弥生終末までのは全て2式までで、古墳時代前期に初めて3式が出土しそれが多いと。
岩屋遺跡例は2式
ということ。
簡潔だがかなり詳しく明快な論文で、問題はほとんどないと思う。中国の例も複数あり年代の検討もあまり問題ないでしょうね。
以上のようですのでSOY氏も素直に見解を改められたらいかがでしょうかね。
まだ疑問があるとか言うならもうそれは自分で調べないとだめじゃないかなあ。
659日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:08:26
奴国は奴国で邪馬台国は邪馬台国
中国側の王朝が違うし乱発とか筋違いだよな
660日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:21:35
>>659のいうとおり。
志賀島の金印は、1世紀に有力な首長国が玄界灘中心にあったことの有力な物証。
これについては偽者説など特殊な考え方以外は、ほぼ全員が奴国を中心とした
ツクシ王権の存在を想定している。
しかしこの話から邪馬台国の位置を探るというのは、いささか無理があり
ましてや根拠にするなどありえない。

楼閣にしても、吉野ヶ里程度のものでいいのなら
大阪和泉市の池上曽根にさらに巨大なものが出土、復元されている。
これも吉野ヶ里同様、邪馬台国とは時代も違うので、誰も根拠にしない。

どうしてことごとく無関係なものばかり挙げて、自説の根拠とするのかさっぱり判らない。
661日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:34:39
>>660

>どうしてことごとく無関係なものばかり挙げて、自説の根拠とするのかさっぱり判らない。

無知だからだよ。
662九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/09(水) 00:36:19
>>660邪馬台国の位置を探るというのは、いささか無理があり

女王国の位置を探るとまではいかないが倭人伝に奴国名が明記されている事は一つの証拠といえる。
吉野ヶ里も北部の楼閣は弥生後期に当たり倭人伝と無縁ではない。その後も人が住み続けている。
両方とも邪馬台国と同時代に存在していたものである。
今日はここまででゴメンなんしょ。明日の仕事に備えます。
663日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:38:24
>>662
>両方とも邪馬台国と同時代に存在していたものである。

だからなに?
664日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:38:59
>>662
無縁ではないかもしれないが、むちゃくちゃ遠い親戚程度のもの
665日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:47:05
奴国というのは魏志倭人伝ではじめて登場した国名
いっぽう倭国王帥升が授受したと思われる金印は、西暦57年の話
そこには200年もの開きがある
もし金印が出土していなかったら、帥升が奴国王の系統にあったとは文献からは想像すらできない
考古学的にはその蓋然性は極めて高くなるがね

ですがは考古学が嫌いなはずなのに、そういうところはちゃっかりとお世話になっているところが萎える
666日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:52:44
>>665

>ですがは考古学が嫌いなはずなのに、そういうところはちゃっかりとお世話になっているところが萎える

自説と都合のいい考古学は利用するんだよ。
667日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:55:30
>>666
やつらは自説に合致する考古学証拠しか認めないんだよ
それ以外はなかったことにするか分析がまちがってることにするw
668日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:57:13
>>658

話題の筋が多少が違うが、「位至三公鏡」と言えば、
とある「数理統計学者」が「これこそ卑弥呼が特賜された鏡」とか言っていた気がする。
今もそんなことを言い続けているとは限らないが、
仮にも「王」に任じたものに「三公レベル」の立身を願うような銘鏡を賜るかなあと思った。
こう言った世俗的な吉祥句は△鏡にも見られ、その是非は国産論争で賑っていた当時も
俎上に上がっていましたね。
669日本@名無史さん:2007/05/09(水) 01:07:18
>>666

> 自説と都合のいい考古学は利用するんだよ。

少し違うよ。
正しくは「自説と都合のいい"と思った"考古学」だろう。
引用したところで中身は理解していないから、逆に「不都合」なものばかりw
670日本@名無史さん:2007/05/09(水) 01:33:39
>>660
>大阪和泉市の池上曽根にさらに巨大なものが出土、復元されている。

たしか、あれは土器に書いてあった絵から復元したのでは?
671日本@名無史さん:2007/05/09(水) 01:48:06
>>668
安本の位至三公鏡についての考えは、なるほどと思う点もあるが、いまひとつ
納得というところまではいかない。安本の画文帯の考えも同じ。
例えば、位至三公鏡は5世紀とされる古墳からも出土している。
http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/sitei/houga/sitei-7.html
位至三公鏡は年代確定のための要素の一つとはなっても、それ以上ではない。

>>658での中国の年代を正しいと仮定しても、日本での年代との隔たりの程度は
決まらない。
その古墳を総合的に検討して、最も新しい要素を基準に年代を決めるべきである
と森浩一はよく述べているが(年代遡上に批判的なニュアンスで)、そのとおりで
あると思う。
672日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:09:10
>>615
垂仁までは全部畿内のローカルだな。

何が通商連合だよWWW このころまでの畿内の王族の位置付けはこういうところでも
推測できる。畿無ィ説って笑わせてくれるね♪
673日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:13:20
高天原を日本のどこかから探そうということ自体間違っているうえ
スレ違い。
まず高天原は読めば日本じゃないだろ。つまり天か少なくとも外国。
淡路島・九州・四国・本州ではない。これでいいんだよ。
馬鹿どもがいい加減にしろ 
674日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:14:42
>>670
それは唐古・鍵。
池上曽根は巨大柱跡と木材痕がきっちり出土している。
年輪年代もその木材痕から測定された。
唐古・鍵と吉野ヶ里の復元遺構の最大の問題点は、柱跡から推測される建造物の強度が低いため
実際にあのようなものが建っていたとは考えにくいこと。
台風などで何度も倒壊するたびに建て直した可能性は否定できないがね。
纏向にも巨大ではないが、高床式とみられる柱跡が多く確認されている。
ここの最大の特徴は、日本列島に先例のない魏尺によって設計されているということ。
なのでもう短里とか言ってる場合ではないのは明白。
675日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:21:27
>>672
事跡どころか系統や本名すら判らなくなっていた古代天皇の伝承において
婚姻相手のみが正確であると考えることの出来る脳に感心した。
676日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:23:15
>>671

もともと漢鏡の役目でほぼ確実なのは、遺跡の実年代の上限を決めること。
それも岡村編年みたいなものもあるので、議論を進める上で若干のブレは認めざるを得ない。
製造から埋納までの期間については、個別の検討結果が一致することはさらに少ない。
つまり、「下限」については不安定過ぎるので、それをもって自説の補強には使えても、
他説の否定には使いがたいものだ。
SOY氏が「本当に魏晋鏡とされる位至三公鏡」などとネタ振りしてくれたので、
今回は彼のよって立つところを少し垣間見ることができた。
今まで、その物言いが「慎重過ぎ」て主旨がよくわからいことが多かったんだよねw
677日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:25:48
>>630
>邪馬台国の広域比定地で有力な順位は

>1南部九州
>2北部九州
>3沖縄
>4出雲・吉備
>5関西

>こんな感じでFA

種子島や奄美大島辺り怪しいのう 海南島に似ているという表現がぴったりくる。
とりあえず女王国は南部九州に間違いなかろう。日本神話の発祥の地とも多く被るな。

678日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:28:02
種子島はもう、海が珊瑚礁で緑色の浅瀬の海岸がずっと続く。

本当に美しいところだった・・・・トロピカル。
679日本@名無史さん:2007/05/09(水) 02:34:02
>>675
正確もなにもWWW 本当に馬鹿だなあw そういうことになっているんだからWWW

とりあえず、それ以外の候補ゼロ。
つまり祟神まで畿内の娘としか結婚してない。昔から言われていたことだが?
確かにこんな「王族」が吉備や安芸、北部九州を越えて「倭王」の金印を
授かるわけがない。大体、女王自体居ない。
何を考えてんだ、「畿内説」とやらはWWWW
680日本@名無史さん:2007/05/09(水) 03:02:46
>>675
古代天皇においては伝承しかありませんが?全部伝承ですがw
それ以外何もありませんがww
記紀からわかる名前と伝承さえあれば十分ですが?他に何もありませんよ?w  

畿内からは三種の神器や王冠でさえ他地域より遅れて出てくるるのも良い証明だね。

681日本@名無史さん:2007/05/09(水) 03:08:07
>>634 >>645

そうだね。南の島じゃねーのか?
あるいは秦などの中国からか?しかしそれにしては文字を使わないのが変だ。

太陽神・自然崇拝の宗教と、口伝文化のあるところが怪しいな。環太平洋一帯の
原住民は今でもそうだ。その辺りだろ。
そうじゃなければ、ただ単に天から降りてきた。そんなところで十分。
682日本@名無史さん:2007/05/09(水) 03:53:46
はて、南の島から鏡が出てるか?
683日本@名無史さん:2007/05/09(水) 04:01:00
>>676 >「下限」については不安定

そんなことはないですよ。
位至三公鏡のみで下限を検討するのであれば、不安定かも知れませんが、
それ以外の要素で検討する場合には、下限はある程度はっきりします。

むしろ、位至三公鏡、画文帯、三角縁などを総じて上限近くに設定する
年代遡上派の考えはかなり特殊であると思います。
684日本@名無史さん:2007/05/09(水) 06:26:13
いずれにせよ邪馬台国に関しては魏志倭人伝から派生する国であり
倭人伝の解析なくして邪馬台国はありえないが正論。

発掘調査の物的証拠、考古学的見解も倭人伝を根本に有益無益を振り分けなければならない。
ここは邪馬台国について語るスレであり、いくら2ちゃんといえどスレチの畿内首長族優位論は遠慮しろ。
685日本@名無史さん:2007/05/09(水) 06:38:52
魏志倭人伝など中国の書物がなかったら、邪馬台国も卑弥呼も存在しない。
もちろん、卑弥呼がいつの時代の人物かなどもわからない。
古事記、日本書紀などがなかったら、箸墓も存在しない。神武天皇も崇神天皇
も倭迹迹日百襲姫もいない。
まあ、縄文時代のようなものか。このように考えると、考古学もいかに文献に
依存しているかがわかるというもの。
686九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/09(水) 06:48:30
>>665
もっと単純に考えて、奴国という国が北部九州にありしかも倭人伝など文献に登場する、
といった基本的なことが畿内に欠けていることだ。
奴国の存在も奴国王の金印でさらに動かぬものとなった。
それに対し畿内はどうか、倭人伝などの文献と一致するものが見当たらない。
強大な勢力を誇り大陸と交易をしていたというのなら、伊都国の一大率のような記述が
何らかの形で倭人伝などとは別に、大陸の記憶として文献などに遺されても不思議ではない
にも拘らず、畿内の当時の事が大陸から全く無視されているに等しいのはいかなる事かと
疑問に思うわけ。

>>663だからなに?

奴国、伊都国と吉野ヶ里は近距離にある。何らかのつながりがあった然るべき。
吉野ヶ里遺跡は倭国大乱や邪馬台国時代の姿を遺す遺跡として、大きな証拠とも言える。
687日本@名無史さん:2007/05/09(水) 06:50:56
>>671
相対編年的に古いところから古い鏡が出るが
5世紀=古墳中期に位至三公鏡が出ても全体を下げることにはならないね。古墳中期の年代が5世紀だからということから庄内式の年代は定まりません。
中国の3世紀の鏡がことごとく4世紀に出土するという、同時期には一切入らないという年代下げ下げ派は理屈が立たない。中国が混乱し文献上の日中交渉が疎遠になる4世紀になんで一番大量に鏡が入るの?
念のため言うが三角が全部国産としても古墳前期にはそれ以外の中国鏡がたくさん出土してますが。
各時期の最新の鏡で各時期の年代を定めて行くので矛盾は無く、その結果庄内式=北部九州の弥生終末が3世紀前半を主体にし、布留0が3世紀後半が堅く上限が3世紀半ばななるかもというのはほとんど動かない。
20年ぐらいは不確定なブレがあり得るが庄内式が3世紀後半以降に中心があるとかはありそうもない。

だいたい弥生終末が3世紀前半というのは九州の考古学者が鏡と土器編年の対応関係からもう1960年代に言っいた説で年輪年代で初めて言い出したとかではない。

はて、池上の復元が絵画からとか言う椰子がいるが巨大な柱列が発掘されているがw上屋構造の復元にあたり絵画土器を参考にしただけ。
688日本@名無史さん:2007/05/09(水) 06:59:04
文献が一応、不確かでもあるのなら
その研究をするべきだろう?

考古学の力だけでは、足利家や徳川家が天下を平定したことなど分からない。
この時代には文献が豊富だから、よく歴史が分かるんだわな。

古代史も、考古学だけじゃなくて
文献史学、地質学、自然科学、天文学など、様々な分野から
アプローチするべき。
689SOY:2007/05/09(水) 08:03:50
>>658
ようやく少し見えてきました。感謝します。

>2式はこの時点で3例だがうち1例は後漢晩期、
>2世紀後半とし、次の3式の最古例が2世紀末にあるからその前の型式とする。
洛陽焼溝漢墓の2式の枚数は分かりませんが、2式については3枚の鏡によって決められており、
2式の下限は3式の最古例によって決められているということですね。

>3式も2世紀後半のうちまで(末というニュアンスか)に成立したと。
>ただし3式は三国や晋代出土が多く型式が停滞してずっと作られたのではないかともある。
本によっては3式が三国までとするものや2世紀後半までとするものがある理由が分かりました。
3式が出土する古墳時代前期が2世紀後半というのは3式を伝世としない限り、
さすがに無理があるのではないかと考えていました。

>以上のようですのでSOY氏も素直に見解を改められたらいかがでしょうかね。
>まだ疑問があるとか言うならもうそれは自分で調べないとだめじゃないかなあ。
確かにこれ以降は自分で調べる話です。

(1) 2式の出土地。(魏の領域? 呉の領域?)
(2) 後漢晩期としている1例の年代的根拠 (どの程度絞れるのか)

2式が3式の出現とともに消えるのであれば、かなり期間を限定することができ、
年代確定の一要素としての意味はかなり高いと見ます。

数の少ない点が難点ですが、1式7例と2式3例から2式の上限が決められれば、
弥生X期の下限を考慮する上でも大いに役立つのではないかと思えますし、
2式の出土地などが明らかになれば、どの地域のどの時代の鏡が弥生X期から
出土するかといったことを押さえることもでき、仮説も立てやすいです。
このあたりを考え、論を組み立てることにします。

失礼とは思いましたが、3日間喰らいついた甲斐がありました。
 
690日本@名無史さん:2007/05/09(水) 08:07:40
あのさ、後は自分で調べな
691日本@名無史さん:2007/05/09(水) 08:56:05
>>686
奴国が北九州にあったのは事実だが、
遣使したのは西暦57年、卑弥呼の時代と二百年もの差がある。
逆に卑弥呼の時代から二百年たった五世紀には畿内に巨大王権があったわけで、
西暦57年に奴国が遣使したからといって、
二百年後の邪馬台国も九州にあったという証明にはならない。
二百年という年月は、それほどに長い。
692日本@名無史さん:2007/05/09(水) 11:38:50
だな。現代でも200年前は鎖国してマゲ結ってたしな
693日本@名無史さん:2007/05/09(水) 12:48:53
卑弥呼がモモソヒメだったら、神武・欠史八代・崇神の間に
何か、いろいろあったんだろう?

海部氏が朝廷に提出した縦系図のほうでも
欠史八代と同世代と思われる当主の部分がバッサリ削除されている。

海部氏が秘密にしていたほうに、その削除されていた部分があるんだけど、
その中に、日女命という女性があり、またの名前が
モモソヒメなどの皇族の女性だったりする。
694日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:02:57
>>687
>三角が全部国産としても古墳前期にはそれ以外の中国鏡がたくさん出土してますが。

交渉が疎遠な時期に中国鏡が存在することについては、国産も視野に入れるべき。
鏡の複製が技術的に可能なので、全ての鏡について国産かどうかを検討する必要があります。
庄内式・布留式の時期の遺跡、墳墓出土の鏡と古墳出土の鏡とでは、同位体比の傾向に
顕著な違いがあるという新井の報告もあります。

九州の庄内式が遺跡、墳墓からの出土が多いのに対して、畿内は古墳時代が中心であり、
同位体比の違いもあるので、九州の年代観をそのまま畿内に当てはめることもできない。

その九州の年代観とて三角縁の紀年(239年)を重視した編年であり、三角縁国産説に
立てばその年代観を新しく見直す必要があります。
695日本@名無史さん:2007/05/09(水) 15:32:30
中国出土の倣古方格規矩鏡は無視かw三角関連鏡だが。紀年鏡もあるし。
布留式の墳墓って古墳だと思うが。誰が入れ知恵したか知らんが新井宏氏の表の遺跡の時期はかなり混乱している。
またかつてはホウ製とされたが最近は中国の類例が判明して三国六朝の鏡とされるものもホウ製のままだし。
表の九州の庄内式とかいう遺跡も布留0かそれ以降のものも中にはあるしね
そもそも中国側の三国鏡の同位体データがあまり分かってないからあれで三角がホウ製とか後代の作とかは全然言えません。ある時期に中国と日本に一定の幅の青銅原料が流通しているというだけ。
同じ三角国産説の奥野氏なんかは紀年鏡の年代は認めた上で中国の画文帯神獣鏡からの系譜をきっちり踏まえて発言しているのとは違いすぎだな安本説は。
だいたい年代を下げる根拠自体が存在せず、古墳初めが4世紀以降という謎の前提があり、だから時代の違う日本の中国鏡はホウ製とかいうただのトンデモ循環論に過ぎない。
ホウ製鏡と中国鏡の型式的技術的違いが何ら説明されない。
謎の前提自体が何ら証明されていない。
696日本@名無史さん:2007/05/09(水) 15:54:21
九州の弥生終末を3世紀前半とする年代観は三角縁だけではなく、他の鏡を含む総合的検討からだが。
弥生終末に三国鏡は出土していないという状況は変わらない。
697日本@名無史さん:2007/05/09(水) 17:55:43
同位体比で鏡の製作地を言うのは相当な慎重さがいるのではないか。
青銅の原材料自体の流通が考えられるし、事実インゴットが出土している。
弥生の銅鐸や小型方製鏡の鉛同位体比は型式により異なるが前漢鏡や後漢鏡の同位体領域と一致する。
これから銅鐸や小型方製鏡を全て中国製にできますか?逆に弥生出土の前漢鏡や後漢鏡も全て日本製にできますか?違いますね。
新井氏の研究は三国から六朝期の同位体領域のバリエーションを示した可能性はあるが、ある領域の同位体の鏡全てが日本製とか短絡的過ぎと思います。
698日本@名無史さん:2007/05/09(水) 18:12:18
このあたりの年代観はなかなか難しい。

吉野ヶ里遺跡が発掘されたとき、倭人伝の伝える邪馬台国時代の環濠集落だと
いわれた。「居處宮室樓觀、城柵嚴設」というような部分。
発掘責任者の高島忠平氏も年代的に重なると言った。
しかし、庄内期が始る頃には、吉野ヶ里遺跡は衰退する。環濠に大量の土器が
捨てられ、引っ越したような形跡も見られる。

甘木市の6重の環濠集落といわれる平塚川添遺跡も同じような経緯を
辿るようだ。だいたい同じ頃に衰退する。

つまり、庄内期が300年頃に始まるとすれば、吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡は、
倭人伝に書かれた邪馬台国の時代に重なる。しかし、庄内期が西暦200年頃に
始るとすれば、倭人伝の邪馬台国時代には、吉野ヶ里遺跡はすでに存在して
いなかったことになる。

果たしてどちらが妥当かという点からも考えてみたほうがいいのかもしれない。
699日本@名無史さん:2007/05/09(水) 18:21:56
吉野ヶ里の北内閣や高床倉庫群は庄内式でも新しい時期まであると思います。
大環壕は埋没しているでしょうが、そもそも全てが同じ時期にあったような復元がおかしい訳で。遺構の変遷を見極める必要がありますね。
平塚河添も最盛期は弥生終末だったと思います。
700日本@名無史さん:2007/05/09(水) 18:24:02
九州の弥生終末は250年頃まででしょうね。庄内式に平行するでしょう。
701日本@名無史さん:2007/05/09(水) 18:42:58
大和の庄内は、弥生終末でしょ。
九州の弥生後期は△じゃなくて、漢鏡や貨銭からの割出し。
完璧にスレの流れを無視してますな。
702日本@名無史さん:2007/05/09(水) 19:14:26
>>697 私も新井の報告をそのまま正しいとは考えていません。
一応の考えとしては以下のとおり。

(確実と思われるもの)
1、同位体比の値そのもの
2、ほぼ全部の三角縁の同位体比が狭い領域におさまること。
3、三角縁の領域が、舶載鏡と考えられている領域と異なること。
4、画文帯は、舶載鏡の領域のものと三角縁の領域(近辺)のものとに分けられる。

(検討中の考え)
三角縁の全部が狭い領域にあるわけではなく、ごく少数は領域外にある。
そこで、@三角縁の一部が舶載である、A国産でも製作時期が違うものは同位体比
が異なる、という可能性のうち、Aの可能性を考えている。

画文帯は、古い型の舶載鏡の領域内の同位体比のものがかなり存在する。
そこで、それらは@全部舶載である、A他より古い時代の国産である、のうちのAの
可能性を考えている。同向式のほぼ全部が日本で出土していることを重視。

以上のように私は、新井のように同位体比だけで区分する考えではありません。
>>697の考えに近いかもしれません。
703日本@名無史さん:2007/05/09(水) 19:21:54
データは嘘をつかない。

データを評価する人間が嘘をつく。
704SOY:2007/05/09(水) 20:15:12
>>690
>あのさ、後は自分で調べな

了解です。

>2式はこの時点で3例だがうち1例は後漢晩期、2世紀後半とし、

まずは3例しかない2式から調べることにします。
この3例は恐らく広州漢墓出土の銅鏡だと睨んでいます。

3式についても、どの程度、洛陽焼溝漢墓から出土しているか気にはなりますが、
弥生X期から先に片付けたいのでこれは後回しにします。

気になったのは、
西村俊範氏が双頭龍文鏡の1式を位至三公鏡とされている点です。
世間では位至三公鏡を魏晋鏡と説明しています。
さすがに私も1式は後漢鏡と考えていますが、
このあたり、世間は1式を後漢鏡と見ていないのか、
位至三公鏡と見ていないかのどちらかということになりますね。

3例しかない2式をカウントから漏らすことはありえるとしても、
ほぼ確実に後漢鏡と考えられる1式を位至三公鏡に含めているのなら
位至三公鏡を後漢魏晋鏡としていいように思えます。

世の中の情報は結構当てにならないということですね。
 
705九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/09(水) 21:08:00
>>691 卑弥呼の時代と二百年もの差がある。

遣使は200年前だとしても倭人伝に奴国とあることで十分なのでは?
ただ奴国、と倭人伝にあったとしても場所の特定に諸説が出来てしまうが
金印の出土で場所の特定が限られた事の意義は大きい。
706日本@名無史さん:2007/05/09(水) 22:06:11
「天孫降臨神話」のポイントは、大隅のコノハナサクヤ姫を娶った事にあるのだよ。
人間が天から降ってくると思うお目出度い人はこのスレにはいないよな?
707日本@名無史さん:2007/05/09(水) 22:58:29
ここにおるぞ!
708日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:29:36
上のほうで、勘違い馬鹿がいたから
言っておくが

帥升は107年の話で、彼が奴国王かどうかは分からないし
金印を貰ったかどうかも分からない。
709日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:32:01
>>665 :日本@名無史さん :2007/05/09(水) 00:47:05
>奴国というのは魏志倭人伝ではじめて登場した国名
>いっぽう倭国王帥升が授受したと思われる金印は、西暦57年の話
>そこには200年もの開きがある
>もし金印が出土していなかったら、帥升が奴国王の系統にあったとは文献からは想像すらできない
>考古学的にはその蓋然性は極めて高くなるがね


>>708を読め!
710日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:36:23
>>704
これからは安本のサイトの情報を鵜呑みにしないようにしてくれゃ
711日本@名無史さん:2007/05/10(木) 00:39:03
上にも出ているが、邪馬台国は九州の政権で、それとは別に畿内にヤマト王権の母体となる政権があったという方が、すっきりする気がするけど。
712日本@名無史さん:2007/05/10(木) 00:44:43
邪馬台国は北部九州。

魏志倭人伝の「朝貢」は、畿内勢力の勃興の影響により衰退の一途を辿っていた
九州邪馬台国の窮余の策であり、起死回生を図る最後の手であった。

邪馬台国を畿内にあったと仮定すると、考古学的視点「以外の」点で矛盾が生じる。
例えば、明らかに九州に特別な意味をこめている記紀神話の九州偏重の理由さえ、
畿内説論者は満足に説明できておらず、逃げているのが実情である。

邪馬台国について論じるならば、さまざまな視点からのアプローチが必要不可欠である。
畿内説論者の中には、「神話は虚構。記紀神話など何の意味も無く、顧みる必要は無い」といった
個人的な信条・思想を多分に含んだ、偏った物言いをして憚らない者も、時代遅れながら存在するのである。
713日本@名無史さん:2007/05/10(木) 00:46:49
三角縁の話が出ているので関連して。
藤崎6号墓出土の鏡、備前車塚古墳出土の兄弟鏡とのこと。
時代は西新まで遡らないらしいが、いずれにしても畿内出土のどの鏡より早い埋納だよね。
もしかして、オーパーツ?
714日本@名無史さん:2007/05/10(木) 00:51:37
>>712
日本中から出土する考古学的遺物を無視してるのもいるけどなw
715712:2007/05/10(木) 00:55:20
>>714
無論、日本中から出土する考古学的遺物を考慮した上で主張しているのです。
716712@九州説:2007/05/10(木) 01:02:17
実際、九州勢力をしのぐ勢力が畿内に存在していたのは間違いありません。
しかし、いくら畿内勢力の巨大さをアピールしてみても、
それがイコール邪馬台国を意味するというところまでにはいきません。
717712@九州説:2007/05/10(木) 01:11:12
話を単純化するために、主張を少し開陳します。

神武〜欠史八代 は、実在の可能性はほとんど無い。
(神武がなぜ必要とされたかは後述する。)

崇神とは、九州邪馬台国を圧迫していた畿内の巨大勢力の、早い時期のリーダーであり、
「四道将軍」に象徴される、勢力の拡張事業を大々的にはじめている。
(古来、「崇」のつく天皇には特別な意味があり、崇神も例外ではない。これも後述する)
「四道将軍」の事業を発展させたのが、ヤマトタケルの伝承であり、この伝説が
畿内勢力の支配圏が、日本全国的な規模に広がっていく過程を示しているのである。

しかし、それは邪馬台国ではない。
718日本@名無史さん:2007/05/10(木) 01:17:47
>>716
712@九州説氏の説は、邪馬台国@九州衰退説ということでしょうか?
3世紀の「邪馬台国@九州」に関連する各国の位置づけはどのようになっていますか?
・倭国の範囲は?本州や四国は含まれますか?
・倭国大乱は九州島内の事件という位置づけですか?
・南の狗奴国とは?
・邪馬台国はその後どのような変遷をたどったのか?
・神武東遷を事実とするか?(神武実在の肯/否と東遷そのものの肯/否)

質問ばかりになりましたが、非常に興味深かったので。
719712@九州説:2007/05/10(木) 01:18:50
崇神王朝(=畿内勢力)は、景行天皇が最盛期であったと思われる。

景行とは、いよいよ畿内勢力が九州に進出する時代のリーダーである。
話は飛ぶが、神武が虚構だと考えるひとつの理由として、
景行が九州に渡るときにあたり、自身の先祖である神武の東征の出発点、
ひいては天孫降臨の地という重要な地方であるにもかかわらず、
感慨深げになったり、九州の地に敬意を表したりするという
当然あるべきはずのことが、「全く何も記されていない」ことが挙げられる。

景行天皇は、神武東征のことを、そして天孫降臨さえも「知らなかった」のである。
720712@九州説:2007/05/10(木) 01:33:39
景行の九州遠征時、九州のかなり零落した勢力が平らげられていくが、
そのリーダーとして、女性が描かれているシーンがある。
九州地方において、女性がリーダーとして君臨していたという、
卑弥呼なる女性をリーダーとする九州邪馬台国が存在するための
必要条件たりうる記事で、非常に興味深い。

仲哀とは、崇神王朝=畿内王権の最後の王であるに相違ない。
そして、仲哀とその子たる 応神 の間に血縁関係が存在しないことが
暗示されている書き方がなされているのは、至極有名な話である。

「崇神〜景行〜仲哀」の系譜とは、畿内王権の歴史の記述に他ならず、
応神以降の天皇家とは「関係の無い」一族である可能性がきわめて高い。

そして九州邪馬台国。これは、景行天皇の九州遠征の時点で、
滅ぼされたか、あるいは畿内勢力に吸収されたかということで間違いない。

では、邪馬台国の話はそれで終わるのか?
721712@九州説:2007/05/10(木) 02:00:23
応神は、もともと畿内王権の兵馬の権をつかさどっていた将軍クラスの人間か、
クーデター的な策略をもって、九州から畿内に逆に攻め上ったと考えられる。
応神は、九州で滅んだ、しかし由緒正しい邪馬台国の後裔を自称したか、または
リーダーであった女性指導者かその後裔の女性を探し出し、祭り上げたかした可能性が強い。
後者だと考えると、神功皇后とは、その過程で神格化された女性と考えられるのである。


崇神の称号における「崇」なる文字とは、「崇峻」「崇徳」など、
怨霊化する・タタリをなす と恐れられるような天皇におくられる文字である。
崇神の晩年・最期においては、そのような記事は見当たらないが、
崇神〜景行〜仲哀王朝を一体のものとして考えると、意味が通じる。

応神が、畿内王朝自体を乗っ取った形である。名だたる歴代のリーダーたちが
こぞって怨霊化するような、恐ろしく陰惨な謀略を仕掛けたのではないか。
だからこそ、その初代リーダーに「崇」、それでは足らないので
始祖を意味する「神」の称号を与え、怨霊を封印したのだ。

長くなったのでここで終わるが、次のような等式を提示して終わりにしたい。
「邪馬台国」=「高天原」、「崇神王朝」=「畿内王朝」=「出雲」、「崇神天皇」=「スサノオ」

オオクニヌシとは、出雲大社という霊魂の牢獄に封印された神であるが、
それはまぎれもない、応神によって封印された、畿内王朝そのものの神格化である。
722712@九州説:2007/05/10(木) 02:03:23
蛇足:
神武天皇とは、崇神天皇よりも古い始祖の存在を必要としたために創作されたと想像する。
723日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:12:55
神武は磐余の王、崇神は機内の王
724712@九州説:2007/05/10(木) 02:15:43
>>718
>・倭国の範囲は?本州や四国は含まれますか?
>・倭国大乱は九州島内の事件という位置づけですか?
この2つについては、特に考察していません。

>・邪馬台国はその後どのような変遷をたどったのか?
景行天皇あたりのところに書いておきましたが、やはり畿内に滅ぼされたと思います。

>・神武東遷を事実とするか?(神武実在の肯/否と東遷そのものの肯/否)
神武東遷は、おそらく応神天皇が、畿内乗っ取りを成功させたときのことを、
「東征」などという華々しい、しかし考古学的にありえないに美化した記事でしょう。
明らかに神武東遷は応神東遷の焼き直し+時代遡及バージョンです。

・南の狗奴国とは?
よくある説のように、南九州にあったと考えてもいいですが、
ひとつだけ面白い仮説をもっています。「狗奴国」を畿内勢力と考える方法です。
当時「邪馬台国」は「狗奴国」と交戦中、苦戦していた。これは九州勢力が
畿内勢力にかなり押されていたという歴史的事実を表すと考えます。

もうひとつトンデモを披瀝しておきます。クナとは「くに」の語源である。
大いなる存在感をもって本州を広く支配下におさめていたその力強い勢力の姿、
「くに」という語源となり、そのクニのリーダーこそ「オオクニヌシ」である、と。
725日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:28:00
712@九州説 は妄想を広げすぎ。

>・南の狗奴国とは?

>もうひとつトンデモを披瀝しておきます。クナとは「くに」の語源である。
>大いなる存在感をもって本州を広く支配下におさめていたその力強い勢力の姿、
>「くに」という語源となり、そのクニのリーダーこそ「オオクニヌシ」である、と。

これには同意する。


726日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:36:16
>>712  武光誠と似ているね。
彼は、魏志の記述を詳細に検討して邪馬台国は北部九州とする。
邪馬台国所属の国の比定地の検討は本当に優れていると思う。
安本の比定とかなり重複するが、武光の方にやや分があると思う。

一方、マキムクの遡上年代をそのまま認めて、同時並行で畿内に九州の
邪馬台国をしのぐ勢力があったと見て、後に九州が畿内に征服されるとする。
この部分は、学会の多数説を組み合わせただけとも言えるが、その並行関係が
不自然なことは否定できない。

その不自然さが、記紀の記述の「読み替え」となり、昔の通説であった記紀捏造
史観を土台として、畿内による九州の征服という形になっている。
武光の世代的な感覚としては、記紀捏造史観の取り込みは必然か。

大陸との交渉の窓口の九州よりも畿内の方が先進地域であったとすることや、
記紀の読み替えが必要なこと、氏族伝承の全部否定が必要なことなどが、難点。
727日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:36:39
あと、応神東遷はありえない。

応神・神功は、ともに息長系であり、
但馬〜丹後〜越の若狭湾から琵琶湖周辺の出自ということは、
いろんな文献から明白。

728日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:39:41
>>712

>例えば、明らかに九州に特別な意味をこめている記紀神話の九州偏重の理由さえ、
>畿内説論者は満足に説明できておらず、逃げているのが実情である。

まったく逃げていない。
神武東征は、1世紀だと何度も指摘されている。
729日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:44:07
>>725


ところで、そこまで妄想を広げるなら、
クナ国は、具体的にどこかわかるかい?

クナに最も音が近い、大和朝廷に反抗してた国は、「毛野国」である。
730712@九州説:2007/05/10(木) 02:46:23
>>727
「出自」が九州だとは言っていません。

>>728
そうですか。それは失礼しました。
731日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:46:41
「毛野国」=クナ国は、
崇神天皇の時代の四道将軍に平定される。
その後、親大和の豪族が「毛野氏」を名乗ることになる。
732712@九州説:2007/05/10(木) 02:51:38
>>729
>クナ国は、具体的にどこかわかるかい?
南九州か、畿内。もう言っていると思いますが。

邪馬台国を畿内とすると、その対立国である
狗奴国の話題は概して苦しくなるんじゃないですか。
東海か、毛野・・・
733日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:53:38
崇神は何世紀と?
734712@九州説:2007/05/10(木) 03:02:56
>>733
>崇神は何世紀と?
そういうのは、実を言うとほとんど興味ないんですね。申し訳ないですけど。
735日本@名無史さん:2007/05/10(木) 03:21:41
712@九州説氏の仮説は検討するに値するのではないか。
今まで登場したどの九州説よりもまともだと思う。

ただ惜しむらくは、記紀の記述が事実に即して書かれたものか
(特に崇神から応神までのあたり)
それとも実は記紀編纂者も、すでに実態の分からなくなっていた邪馬台国と卑弥呼を
景行紀の熊襲征伐などにあてはめたものであるとの可能性にも言及してほしかった。
日本書紀では、神功紀に注釈として彼女が卑弥呼ではないかと記してあるが
712@九州説氏の指摘するように、実はあちこちの時代にこれが邪馬台国のことではないかと思わせるような記述が多い。
記紀の読み解きは確かに面白いのだが、いったんそれから離れてみるのも良いかと思う。

また考古学は、狗奴国についてまだ言及していないが
仮に南九州だとしても近畿にしても、北九州との対立を示す遺物は出土していない。
これが畿内説の立場で、東海や関東に比定しても同様である。
なのでこれまた軍事的対立という観点をいったん捨ててみて、双方の利害関係による通商同盟内の不和と見たほうが整合性は取れるのではないか。
736712@九州説:2007/05/10(木) 03:34:02
狗奴国の問題を、通商同盟内の不和、政治的な対立とみなす
見方がどうも、牽強付会で好きになれないんですね。

邪馬台国を畿内とすると、最近の考古学的成果から、
畿内が「とてつもない」存在になってしまっている、
それに対抗する狗奴国というもの自体が考えられなくなった、
ならば、「和せず」を政治的対立、通商同盟内の不和だった、
ということにしておこう・・・というのが。
737日本@名無史さん:2007/05/10(木) 03:37:22
兎にも角にも、3世紀の倭国はそれまでの近隣どうしのクニの取引から
広範囲で濃密な通商に発展した時期であるので
その中で倭の女王として金印を授受したとされる卑弥呼がどこにいたのかであって

1、もしそれが大和なら、後の前方後円墳体制に直接繋がっていくものである。
  女王についてはその存在を認識していなかったか、あるいは認めたくなかった。
  その結果、倭の五王同様、中国への朝貢や官位認定のおねだりと見られる内容は、記紀からすっぽりと外された。
2、それ以外の地域であれば、ほどなく滅びたか吸収された。それを熊襲征伐などの形で記紀は記録した。
3、九州王朝説のように長期にわたって並列した。その存在に関して記紀は正確に伝えていない。
  ただし風土記逸文などには、記紀に登場しない神々や伝承も多くあることから
  王朝とまでは行かずとも、ある程度の独自性は永らく維持していたものとは見てよい。
文献検討からは、この3つのどれかしかない。
なぜ2と3があまり顧みられないのかというのは、それに反する考古資料が次々と出土したからであって
そういう点で考古学は2や3の論者から忌み嫌われているのだが
次の段階として、712@九州説氏は考古資料を当たってみると良いと思う。
それが自説補強になるか否定材料になるか、それもまた学問のの醍醐味のひとつだから。
738日本@名無史さん:2007/05/10(木) 03:45:57
>>736
いや東海などは、仮に3世紀にヤマト王権が成立していたにしても
それに匹敵どころか、ある意味凌駕するほどの規模と生産力を有している。
これは吉備も出雲も同様で、もちろん古参である北部九州もそう。
これらのどこかとどこかが、仮に物理的な交戦状態にあったのならば
確実にその痕跡を示す遺跡が出土して然るべきなのだが、それがないために考えにくくなっただけのこと。

確かにヤマト通商連合はけっこう「とてつもない」ものだが
実は畿内のうちでも大和はまわりの河内や丹後に比べるまでもなくしょぼい。
それが一気に3世紀からあちこちの技術と人材が結集し始める。
そうして出来上がった新造都市が巻向だというだけの話で、別に畿内(大和)がとてつもないのではないよ。
739日本@名無史さん:2007/05/10(木) 03:46:20
狗奴国を出雲に比定するのもありかもね。
妻木晩田など立派な遺跡もあるし、青谷上寺地遺跡なども面白い。

そうなると、記紀の記述も考えなくてはならない。出雲の国譲り、これは実際
は戦争だったと考えられる。高皇産霊尊は、3度か4度、支配下の神を出雲に
派遣する。そしてやっとのことで、国を譲ることを約束させる。

そのあとで、天孫の邇邇芸命が日向に天降る。

記紀の記述はどうしても、東遷に帰結するので毛嫌いする人もいるが、
これはこれで立派に筋が通っていると思う。
740日本@名無史さん:2007/05/10(木) 03:49:38
>>738
戦乱のあとを考古学的に証明するのは、人骨が残りにくいために困難だと思う。
しかし、そんな中で、青谷上寺地遺跡には明らかに戦乱のあとと思われる人骨
が残っている。
741日本@名無史さん:2007/05/10(木) 04:03:08
>>739
人骨のような不確定なものではなくとも
焼土や環濠の破壊、実用武器の存在の有無や防御施設の痕跡などで容易に推測できる。
そういったものがないどころか、自然放棄されている集落がほとんどなので、物理的戦乱は考えにくい。
青谷上寺地の人骨は、殺傷痕の位置や深さから動けない状態にして殺害したと見られる。
また女性や乳児、老人などの非戦闘員の遺骨がありながら
集落そのものはその後も継続され、のちに自然放棄されることから
内乱か疫病蔓延によるものである可能性が高い。
死体を環壕(環濠ではない水を流さない堀)にゴミと一緒に捨ててあることからも、それは伺える。
742日本@名無史さん:2007/05/10(木) 04:22:37
>>741
古代の戦乱のあとを考古学的に証明するのは難しい。焼土といっても、土が
焼けるほどの火事があったかどうかわからないし、環濠を破壊したかどうかも
わからない。証明するのが難しいから、なかったともいえない。

青谷上寺地遺跡の場合は、殺傷痕と疫病を結びつけることは出来ないと思う。
また、内乱だと女性、子供の殺傷は考えにくい。一般的には、外敵の侵入が
一番考えられるのではないかと思う。
743日本@名無史さん:2007/05/10(木) 04:58:56
>>741>>742の意見を見ると
どうも大規模な戦争とは考えにくい
焼き討ちも城攻めもない、せいぜい野盗の略奪程度の小規模な戦いにしか思えない
これを弥生時代の国と国の戦争と見るかどうかは、かなり微妙
倭国乱の実態もその程度のものだったのではないだろうかね
744日本@名無史さん:2007/05/10(木) 06:08:05
>>693
日本書紀と記紀の何百年も後で書いた縦系図などを盲信している馬鹿はここか・・・。
自分の都合の良いように過去の重要人物を繋げたり造ったり、そういう争いは
政治的意図も多いというのにまともに信じるほうがあほ。
745日本@名無史さん:2007/05/10(木) 06:48:23
邪馬台国伝承はアマテラスとスサノオだと私見します。

ところが、畿内政権との血縁はないとも考えます。

日本書紀編纂当時、すでに欽明以前の歴史は曖昧になっており、
色んな伝承をもとに歴史を再構築する必要があった。
その中で、「女王と男弟」の伝承が祖先の伝承に組み込まれ
記録されたと考えます。

邪馬台国は、おそらく九州の中堅国家であり
古代畿内により出雲、吉備とともに連衡した。

その古代畿内も、何度かの政変により王家が変転し
正確な伝承が失われていった。

このように素人考えします。
746太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/10(木) 07:27:48
712@九州説氏の説は推理小説的過ぎる。なお 邪馬台国≠高天原
747SOY:2007/05/10(木) 07:41:00
>>710
>これからは安本のサイトの情報を鵜呑みにしないようにしてくれゃ

安本美典氏を鵜呑みにしていません。私は疑り深い性格です。

洛陽漢墓から出土した位至三公鏡は何枚か?という質問に対する
最終的な回答は『双頭龍文鏡1式が2枚』というものでした。

双頭龍文鏡1式を位至三公鏡に含めるかも異論があると思える為、
これさえも鵜呑みにせず確認するつもりです。

双頭龍文鏡1式を位至三公鏡とするかしないかは
認識を合わせなければいけない問題と私は考えます。

仮に西村俊範氏が双頭龍文鏡1式を位至三公鏡と考えていたとしても
それを鵜呑みにせず、問題がないか考え、さらに適切な分類を考える、
常に私はその姿勢です。
 
748日本@名無史さん:2007/05/10(木) 08:25:50
纒向京の本格的な発掘調査は、戦後の昭和四十年代からはじまり、
現在百回をこえる回数の調査がなされている。
この地域の多くは私有地であり、民家や田畑のなかに古墳が点在しているような土地である。
また代表的な古墳は皇族の御陵なので宮内庁の所管になっている。
したがって発掘調査は簡単ではなく、予算の関係もあり、
百回をこえる調査で調べられた面積は、推定される纒向京の
二パーセントていどにすぎないといわれている。
しかしそれでも、ずいぶんいろいろなことが分かってきた。
とくにこの十年の成果はめざましいものがあり、規模からいうと飛鳥京を上まわり、
藤原京に匹敵するほどの大きさと計画性を持っていたらしい
と分かってきたのだ。
749日本@名無史さん:2007/05/10(木) 10:59:36
>>747
とりあえず弥生終末までは1式と2式のみの出土です。後漢代までの鏡で、弥生終末を三国以降に下げのは難しいです。
ただし位至三公銘は双頭龍文鏡1式には少ないですが。君宜高官銘などが多いです。2式以降は位至三公銘が多いです。
なお西村論文以降も資料が中国、日本とも増えていますが基本的な出土状況は変わりません。ただし3式はほとんど三国以降の出土ですので型式の初現は2世紀末でも製作の大半は三国以降でよさそうです。
750日本@名無史さん:2007/05/10(木) 12:09:44
マキ向が藤原京や平城京と匹敵以上の「計画性」とかそれは冗談だよなw
751日本@名無史さん :2007/05/10(木) 12:42:41
マキムクは石器と木製の鍬や鋤で計画的につくられたのか
どんな部族かしらんが、当時の北九州方面に比して、ずいぶん
文明の遅れた部族であることは納得した。
752日本@名無史さん:2007/05/10(木) 14:26:35
マキ向はさすがに完全鉄器段階だろ。ホケノの多量の鉄器、博多遺跡と共通する鍛冶遺物群、大溝の矢板の加工痕がそれを証明していますが。鍬鋤は木器だがこれはこの時代ふつう。加工は鉄器によるが。
753日本@名無史さん:2007/05/10(木) 15:56:15
>>751
マキムク遺跡はある特定の一部族がつくったものとは違うでしょう。
いろんな外来系の土器がたくさん出ていますからね。
754日本@名無史さん:2007/05/10(木) 18:22:52
>>751
巻向建設には北九州のクニも主導的役割を果たしたという説もあるのだが
彼らも文明の遅れた部族なのかな?
いつまでも古い説にしがみついていないで、一歩前に踏み出してごらんよ
755日本@名無史さん:2007/05/10(木) 19:19:14
投馬国について。
投馬国はどこにあったのか? 手がかりはたったこれだけ。

>南至投馬國水行二十日。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。

小生思うに、福岡県には非ず。また福岡県に接する佐賀・熊本・大分の3県も可能性は薄い。
理由。
1.それまでの不彌国までの里数表記と違って、何泊もしなければ行けない土地と思われる。
2.倭人伝では対馬国→一支国→末盧国→伊都国→・・・と記述が進むにつれ、
次第に中国大陸や朝鮮半島からは遠ざかる形で書いてある。
756日本@名無史さん:2007/05/10(木) 19:45:21
>>752
そうだぞ。それが九州方面からの勢力の移動をあらわしているんだな。
そして問題は それ以前の鉄器の少なさは致命的。
757日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:01:44
>>755
フミから九州西海岸へ水行南下。あの辺地図みてみな。
あの入り組みまくった海岸線みてみ?普通に説明がつくが。
758日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:03:18
ひょっとしたら、あの辺りを沿岸水行しながら小さなクニやムラを
転々としながら着いたんじゃねーか? 
759日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:12:26
■-韓国人教授の妄言-■

【日韓】 金容雲漢陽大名誉教授「日本語は全て古代韓国語から始まった」★3[08/25]

 「お前がいくら私を嫌いダケド、私はお前が好きだ。」
ここで「〜ダケド」は「〜だとしても」を短く発音した慶尚道(キョンサンド)の方言だ。
「ダケド」は日本語でも同じ発音と意味で使われる。

 金容雲(キム・ヨンウン)漢陽 (ハニャン)大学名誉教授は、現代日本語が慶尚道全羅道(チョンラド)の方言と
似ており、日本語は韓国語に由来したと主張する。金教授は最近出版した著書『日本語は韓国語だ』
(カナブックス)で、「ダケド」のように現代日本語に残っている慶尚道と全羅道方言を紹介する。
日本語の「〜だっけ」と「申し」は、全羅道方言の「〜(ダンケ)」と「(マシ、言葉)」に、それぞれ由来したというのだ。
 金教授は7世紀以前まで、古代韓国語の発音が日本語のようにパッチム(終声になる子音字)がなくて、母音が単純で
形態がそっくりだったと説明する。
 また嶺南と湖南地域では、日本の東海(日本海のこと)隣接地域と往き来して、お互いに意思疎通をしたはずだ
という分析だ。
 金教授は、「言語は文化」と言い、「日本語は韓国文化を収容した歴史と一緒に発展した」と強調した。
慶尚道でよく使う方言である「(イパク、話)」が日本語の「イワク (曰く、おっしゃる)」と変形された例は、
韓国人が書く言葉を『高級語』として崇めた彼ら(日本人)の歴史が盛られているという説明だ。

【日本語は全て古代韓国語から始まった】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1156556821/100-1001


>韓国人が書く言葉を『高級語』として崇めた彼ら(日本人)の歴史が盛られているという説明だ。
                ↑
               高級語(苦笑 
760SOY:2007/05/10(木) 20:17:37
>>749
>とりあえず弥生終末までは1式と2式のみの出土です。

私もその理解です。ただ、その中でも1式は弥生後期初、2式は弥生後期末といったような感じで
年代差もあるだろうと考え、これらを一まとめにはしていません。

というよりも、私は1式を位至三公鏡には含めていません。
2式以降が位至三公鏡と考えています。(異論はあろうかと思いますが)

1式までもが位至三公鏡では双頭龍文鏡=位至三公鏡となってしまわないかと
疑問を感じています。

>後漢代までの鏡で、弥生終末を三国以降に下げのは難しいです。

しかし、出土地までも含めて調べてみる価値はあると思います。2式が三国
時代になるかだけが重要なことでもありませんし、例えば、弥生後期のある
時期が後漢後期のどの時期かといったことを絞り込めるだけでも大きな前進
になると私は考えています。

楯築が140年頃と考えている考古学者が世の中にはいます。

仮に楯築よりも前と思われる遺跡で150年以降(後漢後期)にしか出土しない
鏡が見つかっていることを示せるようになるだけでも意味はあると思います。

>ただし位至三公銘は双頭龍文鏡1式には少ないですが。君宜高官銘などが多いです。
>2式以降は位至三公銘が多いです。

その為、双頭龍文鏡の2式以降を位至三公鏡と便宜上呼ぶものだと私は考えていました。
 
761日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:28:10
後期初頭には双頭龍文鏡は無いと思いますが。後期後半以降に出土でしょう。
後期初頭は1世紀前半の可能性が貨泉や直前の中期末が前1世紀後半なので高いです。双頭龍文鏡はまだありませんよ。
また2式までは文様が繊細緻密で型式が連続的ですが3式に粗雑になります。
後漢鏡全体の様式変遷から言っても2式の成立はあまり新しくはならないでしょう。後漢後期のうちでしょう。
762日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:34:14
>>756
マキムク以前のヤマトは鉄器の出土は少ないが木製品の加工痕跡や後期の石器の減少(前半は石器が残るとしとも5様式後半はほとんど無い)から基本的には鉄器が普及したとすべき。
ただし、村上氏が言うように鍛冶技術は九州から瀬戸内に比べ畿内は低く、鉄斧の刃先がかなり短くなるまで使う例などから潤沢な九州に比べて量的に劣っていたのも確かでしょうが。
763日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:38:33
まだ、鉄器と王権を結びつけるバカがいるのか?
764日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:43:15
↑結びつけると死にそうな畿内説必死w
765日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:43:49
まだ、塩と王権を結びつけるバカがいるのか? 
766日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:45:36
鉄器の普及は九州からの勢力を現すもので、それ以前にみられないこと
巻向では鉄器が北部九州並みに出てくること。

これを必死で無視しようとは、なんたるたわけ者。学問などと言う資格無し
767日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:54:14
マキムク段階に鉄器が急に増えることは画期的でその背景については意見が分かれるかもしれないが、列島における鉄器の普及一般を九州勢力の進出とするのはどうかと思うが。
マキムク以前の弥生後期にもある程度の鉄器普及があったのは事実だし、それは九州勢力の進出とかではない。
交易で新しい文物や技術が広まることもあるはずだが。
だいたい九州での鉄器の普及は弁韓諸国の進出なのかよ?
768日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:54:54
>>755
投馬国は邪馬台国に次ぐ戸数5万の大国とされる。
もちろん卑弥呼共立にあたっては協力したし、大きな発言権があったと思うが
倭国連合30国の中ではかなり独立性を保持していた大国という印象をもつ。
官曰彌彌、副曰彌彌那利の、独自の官名がそれを物語る。

「卑奴母離」を副官とする国が、壱岐対馬と北部九州に四カ国ある。
卑奴母離は「鄙守り」、すなわち辺境警備部隊の長であろう。
壱岐対馬と奴国・不彌国では、正官が行政の長、副官の卑奴母離が軍事の
長という二頭支配だったと思われるが、投馬国はそうではなかった。
彌彌那利はミミ成り、すなわち次にミミに成り得る者とすれば文字通りの次官
であり、正長官ミミは行政軍事を兼ね投馬国支配の大きな権限を有していた。
769日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:56:13
>>766
解釈が単純、短絡的過ぎて学問という資格が無いな
770日本@名無史さん:2007/05/10(木) 20:59:27
>>767
>マキムク以前の弥生後期にもある程度の鉄器普及があったのは事実だし、それは九州勢力の進出とかではない。

その通り。
鉄器は、吉備からの輸入。
つまり、九州勢力とは無関係。

直接九州から輸入してたと考えてるやつはバカ。
771日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:00:07

ミミタン・・・・・・・・
772SOY:2007/05/10(木) 21:02:04
>>761
>後期初頭には双頭龍文鏡は無いと思いますが。後期後半以降に出土でしょう。

すみません。記憶を頼りに書いていたもので…

馬場山遺跡を古く見てましたが、確かに本を見るとこれも弥生終末ですね。

ということは双頭龍文鏡は併行する時期を省いたとしても、かなり短いスパンで
1式→2式→3式と移り変わったことになり、
1式の最新と3式の最古がある程度分かれば、枚数が少ないことが難点ですが、
2式は時代を特定する要素に成り得るように思います。

>また2式までは文様が繊細緻密で型式が連続的ですが3式に粗雑になります。

すると1式から位至三公鏡ではなく、私のように2式から位至三公鏡でもなく、
3式から位至三公鏡と分けてやる方が適切かも知れませんね。
 
773日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:09:01
>>768
ミミって?
アメノオシホミミと関係あるって説ですか?
774日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:15:24
鉄器が急激に増えたのは、中国地方で鉄が発見されたからじゃねーの?
775日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:23:45

>>770
吉備から輸入の根拠が分からない
鉄素材は朝鮮南部からの輸入
精錬鉄は古墳初め以降に国産されるが(製鉄ではない)、村上氏によると博多遺跡のものが量的質的に群を抜き広域流通している可能性があるという。博多遺跡に近く鍛冶精錬技術は古墳初めに広まるが博多にはかなわないと近著に書かれている。
鉄器製作自体は鍛冶遺構が広まる弥生後期以降各地でしているが量的質的に優秀なのはやはり九州で、一部の良質な鉄器は九州から流通している可能性があり村上氏は剣や斧の例を示す。古墳初めまでそういう鉄器があるようだ。
一部山陰から北近畿に独自型式もありこれが他地域に一部流通している。もちろん弥生から古墳時代通じて朝鮮半島産の優秀な鉄器も輸入流通している。

776日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:25:16
製鉄の国産化は5世紀後半以降とされています
777日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:33:32
村上恭通『古代国家成立過程と鉄器生産』青木書店、を参照しています。
778日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:35:35
>>775-776
するってぇと素戔嗚尊がヤマタノオロチの腹から取り出した天叢雲剣は
5世紀後半のものだと?
天叢雲剣は崇神天皇の娘である豊鋤入姫によって皇室にもたらされたとあるが
これも5世紀後半ってことか?
779日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:44:11
>>778
鉄生産=製鉄(砂鉄や鉄鉱石から原料としての鉄素材を生産)と鉄器製作=鍛冶を混同しないように。
鉄剣なら弥生後期以降日本列島で製作可能。
一般向けには同じ村上氏の『倭人と鉄の考古学』青木書店を一読されたい。
780日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:44:46
九州→吉備→畿内。 吉備からの輸入で十分。

それ以前に吉備や九州の鉄器もたいしてもらえず畿内の天皇の結婚相手は
祟神まで畿内の娘ばかり。もう何をいわんかはwwwwwww
781日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:49:28
>>773
アメノオシホミミ以外にも、ミミの付く記紀の古代人名、けっこうありますよね。
どこかのサイトに一覧表ないかな。

それと、ビビの人名もありますね。
美(mi、bi)、馬(ma、ba)、無(mu、bu) のように、m音、b音は転訛しますから
ビビちゃんも一緒の一覧があればいいですけど。

それにしても投馬国のミミは、一度聞いたら忘れられない官名ですね。ww
782日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:50:16
>>780
>九州→吉備→畿内。 吉備からの輸入で十分。


その通り。
鉄器は、吉備からの輸入。
つまり、九州勢力とは無関係。

直接九州から輸入してたと考えてるやつはバカ。
783日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:51:05
>>780
古墳時代初めには鉄器は広域流通してますが。九州とや朝鮮半島と直通もふつうにありますがまた逆に古墳前期の短甲なんかは畿内に多く九州ではむしろ少ない。畿内王権に王権直属の特殊な鉄器製作工房がすでにあったとおもわれます。
780は何の根拠にもなりませんね。
784日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:52:10
>>781

開化天皇が「日日」の名を持ってる。
785日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:53:02

ビビタン・・・・・・・
786日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:53:29
>>782
マキムクの鍛冶遺物は博多からの直通ですが。
吉備経由とか吉備からの輸入という考古学的根拠を示しなさいね。
787日本@名無史さん:2007/05/10(木) 21:56:31
村上氏が示すように九州産と考えられる型式の鉄器もある。もちろん在地でも作っているだろうし。しかし吉備からの輸入にこだわる根拠は見いだせないな。
788日本@名無史さん:2007/05/10(木) 22:06:43
鉄器の移入に関しては出雲や丹後の可能性も。
可能性はあちこちだが、考古学的根拠って言われても、そりゃチョー難しい問題だわな
789日本@名無史さん:2007/05/10(木) 22:12:06
むかし投馬国=筑後三潴郡、邪馬台国=筑後山門郡という説があったが、両立は無理
790日本@名無史さん:2007/05/10(木) 22:15:21
後世、畿内の大和朝廷が全国支配しているのが明らかな飛鳥時代以降でも大王や天皇の妃は基本的にほとんど畿内の有力氏族の娘から。
単に手近なところから妃が出ているに過ぎない。妃の出ている範囲が勢力範囲とイコールとは言えない。
791日本@名無史さん:2007/05/10(木) 22:20:59
>>788
出雲や丹後などの日本海側からも吉備など瀬戸内からもあるし、九州直接や朝鮮半島から直接もある。
もちろん在地製作が多いだろう。やや質の悪い鉄器ならば畿内でも弥生後期から自前で作っているし、古墳前期以降は質の良い鉄器を畿内でも作り逆に各地の古墳の副葬品として各地にもたらされるという状況だろう。
792日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:03:53
邪馬台国は北九州だと思う。
793九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/10(木) 23:09:06
>>768 and to>>755
768氏と同意見です。

そこで帯方郡に単独でも遣使していたのは、
倭人30ヶ国の最大の2ヶ国、投馬国(5万戸)と邪馬台国(7万戸)ではないだろうか。
彼らは帯方郡へ行くルートを独自に持っていた。
投馬国は水行20日の距離を(投馬国→有明海→九州西海岸→海峡→半島西海岸→帯方郡)、
邪馬台国は水行10日陸行1月の距離である(邪馬台国→有明海→九州西海岸→海峡→狗邪韓国→陸行→帯方郡)。
邪馬台国に匹敵する狗奴國は帯方郡に遣使していないので倭人風の距離表示がない。
よって使譯所通三十國に狗奴國は含まれず、其北岸狗邪韓國は使譯所通三十國に含まれることになる。
狗邪韓國は邪馬台国の同盟国と言うよりも配下国。
邪馬台国へのルート上の国々6ヶ国は全て配下国。
卑弥呼が魏使をルート上の国々6ヶ国を通して来倭させたのは、
卑弥呼の立場の不安定さを示すものではないか。

なお、投馬国は筑後川右岸佐賀平野海岸部、邪馬台国は筑後川左岸有明海東岸。
794日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:26:20
>>793
>なお、投馬国は筑後川右岸佐賀平野海岸部、邪馬台国は筑後川左岸有明海東岸。

たしか九州王朝大好きさんは前スレだったか、伊都国・奴国も佐賀県に比定してなかった?
そりゃちょっとギューギュー詰めで無理じゃない?
一大率が邪馬台国に近すぎるし、奴国に卑奴母離がいるのが不自然になちゃう。
795九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/10(木) 23:30:04
>>759
基本的に金容雲氏と同意見だ。解釈は違うが。
即ち、韓国南部と日本は同一言語であったことを示す。
言い換えれば韓国南部には倭人が住んでいて、
現代の南部地域韓国人はその倭人の子孫であることを示す。
彼らは1400年近く朝鮮人に支配された結果、朝鮮人に身も心も売った倭人の成れの果てである。

関西弁に慶尚道全羅道方言との共通性をより強く感じます。
796日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:30:53
718です。
712@九州説氏、いろいろと伺いましたが回答ありがとうございます。

当方興味を持ち始めたばかりなのですが、712@九州説氏の説を非常に面白く読みました。
九州説を提唱される方の多くが、関西の存在を関連のない世界にように捉えるように感じ違和感をもってしまう中で、
考古資料とのすり合わせという点で、起死回生説に興味を抱いた次第です。
九州説の多くが九州内にすべてを収めようとする傾向があるように思えたので関西との位置づけについて
>・倭国の範囲は?本州や四国は含まれますか?
>・倭国大乱は九州島内の事件という位置づけですか?
>・南の狗奴国とは?
と質問した次第です。それゆえ

>「狗奴国」を畿内勢力と考える方法です。
という回答は私が従来の九州説に対して感じた上述の違和感を払拭するものでした。
議論に値する九州説だと思います。感謝。
797日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:44:10
親がどんなに極悪人であっても、その親から生まれてくる赤ちゃんには、なんの責任もないと思う。
現代に生きる私の考えである。
798九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/10(木) 23:53:08
>>794
筑後川右岸佐賀平野が約7万2千戸、(筑後川から鹿島市まで)
筑後川左岸有明海東岸が7万余戸、
同じ位の広さで納まるのではないですか。

卑弥呼のいる場所が久留米市近辺なら近すぎるとしても、
筑後市八女市以南なら近すぎると思えない。

「奴国に卑奴母離がいるのが不自然になる。」のは何故?
799九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/10(木) 23:59:56
>>795の補足
ココで言う朝鮮人とは正確には、新羅を建国したワイ族のこと。
新羅の前身のシラギは倭人の国。
800日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:02:22
伊都国奴国が筑後川流域という時点でトンデモ
中国鏡や朝鮮半島系土器の多い玄界灘沿岸から伊都国奴国を外すのは無謀
投馬国邪馬台国伊都国奴国の具体的遺跡を示せや
801日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:08:25
新羅の国が倭人だった証拠は?考古学的根拠は無いし、中国文献は辰韓とされ倭とは区別されるが。
三国史記で新羅の古い王に倭出身とされるのがあるが、仮に史実を反映してもマレビトとしての王に過ぎないだろう。
王だけがマレビトでも民族集団総体として倭人とするのは全く根拠が無い。
802日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:09:31
また中国文献ではワイと三韓は区別されていますが。
803日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:20:25
>>786
なら>>786は九州から直通とする考古学的な根拠を持ってるとでも?
804九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/11(金) 00:34:29
>>800
伊都国は背振山脈山麓、奴国は筑後川流域ではなく右岸。
玄界灘沿岸にも国々があったが殆ど特定できないだけ、
倭人伝ラストの奴国を玄界灘沿岸に比定できなくもない。

投馬国邪馬台国伊都国奴国の具体的遺跡は今のところ見つかっていない。
有明海沿岸は、文化的には玄界灘沿岸より後進地域だから、
遺蹟が見つかるとしても軍事的性格のものと思う。
805日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:36:43
辰韓の民族集団総体は秦人ですよね
806日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:37:07
【埼玉】「ドーナツに穴が開いてる」とイタズラ抗議電話数百回→逮捕
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/news7/1177973382/
807九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/11(金) 00:54:20
>>801
古いシラギはモザイク国家ではないの?
倭人は稀人ではないですよ。
この倭人は新羅語を話す人達に圧倒されますね。

ワイ族の半島北東部がワイ人、半島東南部が新羅になったのでは。
どちらも話す言葉は古朝鮮語。


808九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/11(金) 01:10:40
>>805
でも、辰韓と弁辰は雑居ですよね。

>>802
3世紀のワイが新羅となったのでは。
809日本@名無史さん:2007/05/11(金) 01:25:13
九州王朝大好きさんの筋でいうと、弁韓人が倭人と同類種なんでしょうか
810日本@名無史さん:2007/05/11(金) 03:12:33
>>801
朝鮮人が奴隷の植民地だったわけで、王族が倭人だったんだろ。
そんなの普通にわかる。
811日本@名無史さん:2007/05/11(金) 06:30:26
新羅はその後朝鮮半島を統一するから民族的に韓人の主体のはずだが
またワイと韓は中国文献で区別されているし、韓と倭も区別されている。
新羅に倭人が多くいた証拠は無い。
812日本@名無史さん:2007/05/11(金) 06:35:21
新羅も王の姓が変わるので古い伝説的王系のみが倭出身とされる。倭人の国とするのは問題。
韓がモザイク国家というなら同じくらいの程度で当時の倭もモザイク国家だろう。
813日本@名無史さん:2007/05/11(金) 06:44:13
>>807-808
3世紀のワイがって言うが三国志東夷伝には辰韓は韓伝にありワイは別だろ。
また弁辰に倭人がいるとかとも言うが基本的には韓伝にあり韓人の国。
考古学的にも倭と韓は異なり、加耶などに倭系遺物はあるが全体の僅かであり大挙して倭人集団がいた訳ではない。
同じくらいの状況で倭側にも朝鮮半島系遺物があるが大挙して韓人がいたとは言えないのと同じ。
814日本@名無史さん:2007/05/11(金) 06:47:07
だか5世紀には韓式土器や半島系住居の集中出土から韓人が大挙して渡来していた集落が九州や近畿のあちこちにあるのも判明している。
815日本@名無史さん:2007/05/11(金) 06:49:05
それは記紀の通りでしょう
816日本@名無史さん:2007/05/11(金) 07:07:41
>>812
新羅の場合は、国王に倭人や中国人がいたということ。

倭の場合は、上層階級は完全に倭人で
下層の役人や技術者に、渡来人がいたということだろう?
古代においては、技術者は基本的に下層とされた。


ちなみに、おそらく辰韓の時に、その北部に
中国から来たワイ族の支配地域があったんだよね。
それが南下して、辰韓を占領したんじゃないの?
817日本@名無史さん:2007/05/11(金) 07:35:04
初期新羅や辰韓についてだが
基本的に、王統が複数ある
連合政権で、原住民の韓人を、外来の倭人・漢人、ワイ族が
共同統治していたというのが正しいだろうけど、
最終的にはワイ族が占領したというのが正しいと思う。
818日本@名無史さん:2007/05/11(金) 07:43:08
ワイが占領したという根拠が不明だろ。何の根拠も無い
考古学的には文化的に4世紀まで加耶に近く、4世紀末以降の国家形成で独自化するがそこにワイの影響は無い。
秦人云々と言うが伝説的な話で中国系住人がいた証拠は無い。同様に倭人がいた証拠も無いな。
伝説的な話で良ければ倭は呉の太伯の後だしあるいは徐福の後だな。
819日本@名無史さん:2007/05/11(金) 07:56:46
>>818
忘れちゃならんのは、新羅人が書いた正史に
倭人が王になったと記載されていること。
新羅人自身のな。
だから証拠は無いで片付けたら、キリがなくなるのよ。
820日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:09:57
>>816
>古代においては、技術者は基本的に下層とされた。

そう簡単に言い切っていいのだろうか。
日本の場合、律令以後、中世・近世はたしかにそんなイメージでとらえられると思うが、
律令以前は果たしてどうだったんだろう。
まして弥生時代とかまで遡ったら、どうやって「技術者は基本的に下層」を証明できるんだ?
律令期に成立した文献であれこれ言っても、あやしいと思うな。
821日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:14:04
倭系とされるの王統は古い時期の伝説的王統だけで、4世紀以降の国家形成期は違う。
また1〜3世紀の新羅の考古学的資料からは倭人の痕跡などほとんど無く、基本的に韓人の文化であり伝説が事実としても倭系の王はまさにマレビトとしての存在としか考えられない。
で、新羅をワイが占領したというソースは?
822日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:23:01
しかし脱解王の故地という「倭の東北千里の多婆那国」ってどこだろ?そもそも倭のうちなのか?
823日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:33:21
>>807
古朝鮮語ってあるんですか?
824日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:59:40
>>822
そうそう。新羅の正史ではそうだな。
この多婆那国は、丹波の国でしょう?
丹波の神社伝承でも、丹波の人が半島に渡って
半島の王になったという伝承があるらしい。
ただ、それは何世紀のことかは分からない。
825日本@名無史さん:2007/05/11(金) 09:02:09
新羅が初期に倭人が王になったとしても
国全体としては韓人が優勢なんだろう?
そこが任那との違いだな。
つまり、任那ほど、倭による直接支配は受けてなかったんだろう?
826日本@名無史さん:2007/05/11(金) 09:08:59
どうやらかつての住人たちが少しずつ戻ってきたようだな

一部コテがスレに何時いてしまい
おまけに電波飛ばしまくったのにあきれて去っていったのかと思っていたが
気にかけてROMってたんだね、嬉しいよ

かつて邪馬台国スレは文献研究を主とした「どこですか」と
考古学的アプローチ主体の「なったのか」の2大スレがあって
どちらも非常に見事な論客が何人も居たもんだが、やっとその頃のふいんき(なry)に戻ってきつつあるようだ
827日本@名無史さん:2007/05/11(金) 10:15:40
>>>投馬国邪馬台国伊都国奴国の具体的遺跡

これほど栄えてたところの平野は現在は大都市だろ!しかも当時の中心部大きな神宮がそのまま
建てられて封鎖状態かもしれん。アフォか、少しは頭つかえ、と。

伊都が福岡市としたらビルディングだらけ。だから考古学など当てにできるのはほんの一部じゃ!
しかも九州は山間部が険しいので、畿内の人間にはわからんだろーが
県庁所在地は全部海辺都市。山間部に県どころか平野も大きな盆地さえ存在しない。

倭人伝は倭国のレポートを編纂したものであって、中国に一番近い西側や南部を
抜かすわけがなく、投馬は阿蘇から北部が怪しいと思うね。
長崎市・佐賀市・荒尾・阿蘇、あの辺りの地図みてみろ、沿岸水行したら相当な距離だぞ。
そして南部の熊襲=クナをさけるため東部にある女王国へ横断陸行。

ちなみに自分は西都ー西臼杵辺りが女王国だったと思う。つまり東の中・南部。
ちなみに武力の東遷ではなく、支配層の王族だけが畿内政権の支配層へ後に合流した。
例えば天皇の結婚相手みてみろ、祟神のあとから九州の嫁。
828日本@名無史さん:2007/05/11(金) 10:21:19
>>827

>ちなみに武力の東遷ではなく、支配層の王族だけが畿内政権の支配層へ後に合流した。
その時期は?

2世紀以前なら許す。
829九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/11(金) 10:36:19
>>809
>弁韓人が倭人と同類種なんでしょうか
言語風俗は倭ではなく、あくまで韓だと思います。
ただ、韓の中では倭に最も近かったのではないかと。

>>817
>>821
>最終的にはワイ族が占領したというのが正しいと思う。
ワイ人が占領したのではなく、ワイ人が最初に作った国家が新羅[シ(ン)ラ]。
その前に倭人が作った国家がシラギ[シラキ(シラ城?)]。
ワイ人が最も多い雑居地域。

>>823
新羅語系の言語を便宜的に古朝鮮語と表現した。
馬韓人の言葉は新羅語系の古朝鮮語とは全く違う系統の言葉。
その言葉は倭語と同系統の最も近い言葉と思うが、15世紀までに消失した。

>>822
「倭の東北千里の多婆那国」は言葉通り倭ではない。
韓地で半島東南部と推定できる。
830日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:04:49
>>828
>>827
>>ちなみに武力の東遷ではなく、支配層の王族だけが畿内政権の支配層へ後に合流した。
>その時期は?
>2世紀以前なら許す。

おれ考古重視の畿内説だが、これはなんつーか面映い。畿内を買いかぶり過ぎでは?
2世紀以前に「畿内政権」なるものがあったとは到底思えない。
831日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:30:37
>>829
ちがうわな。
「倭の東北千里の多婆那国」は
文字通り、倭の丹波の国だろう?
これは明らかに日本の丹波に国のことだ。
832日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:31:49
>>830
前から思っていたが、畿内説の場合は、文献を中心に考える人間と、考古学
を中心に考える人間とでは、年代観がまるで違う。

文献中心派は、倭迹迹日百襲姫と卑弥呼を同一視しようとするために、崇神
天皇と卑弥呼の時代を同年代にしようとする。
そうなると、神武天皇の時期が相当に古くなる。2世紀初めとか1世紀になる。
これは、大和ではまさに唐古・鍵遺跡の時代。考古学中心に考える人には、
石器しか出てこないような唐古・鍵を邪馬台国と結びつけるわけには
いかない。邪馬台国が畿内にあるとしたら、纏向遺跡でなくてはならない。

倭人伝に記述のある卑弥呼の時代は、まあ西暦180年頃から西暦250年頃。
これだけが動かしがたい事実としてあり、そのほかの出来事をこの卑弥呼の
時代の前後にどのように差し込むのかが邪馬台国問題となっている。
年代観が全てと言う事になるのかな。
833日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:09:27
>>830
>2世紀以前に「畿内政権」なるものがあったとは到底思えない。

そういう意味じゃない。
なぜそんなに恣意的に極端な解釈をするのだ?

3世紀以後に九州勢力の東遷はありえず、
神武東征神話が事実を伝えてるとしても、
記紀にあるように紀元前の話だという意味だ。


834日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:52:02
>>829
だからさ新羅を建てたのがワイ人というソースが無いだろ。
三国志東夷伝などでは辰韓、シラ国はワイとは区別されている。
根拠の無い妄想は止めてくれや。
なお任那=加耶は倭が支配していたというのは日本書紀の一方的主張に過ぎない。考古学的にも倭人が支配したという根拠は無い。倭系遺物を根拠にするなら同じように倭側の朝鮮系遺物を根拠に倭の三韓分国論を認めるのか?
当然ながら朝鮮側史書は任那支配なんて認めていない。金官加耶や大加耶に独自の王統が伝承され、それを示す考古学的資料がある。
倭人の文化とは異なる文化である。
835日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:57:47
>>827
福岡市や春日市などは都会だか日本有数の密度の多くの遺跡が調査され、奴国の繁栄を証明するとされてますが。まさに考古学的な証明ですが。あなた九州のこと知らないね。
また伊都国は福岡市というより前原市が中心と思いますが。
阿蘇や東九州に7万とか5万戸とか思わせる遺跡の密度は無いと思いますが。
836日本@名無史さん:2007/05/11(金) 13:01:21
原田大六は東遷2世紀後半説ですが。
これならマキムク成立と合う。当否はまた別ですが。
837z:2007/05/11(金) 13:51:25
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     \ / く l   ヽ._.ノ   ', ゝ \       < 837getだ!!>
     / /⌒ リ   `ー'′   ' ⌒\ \    /          \
     (   ̄ ̄⌒          ⌒ ̄ _)    ̄|/\/\/\/ ̄
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        |    |  ヽ__ノー─-- 、_   )    − _
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    (  〈              ヽ.__ \        \
     ヽ._>              \__)
838日本@名無史さん:2007/05/11(金) 19:34:56
>>832
>石器しか出てこないような唐古・鍵

ここに収蔵品一覧があるけど俺には石器だけには見えないw
ttp://www.karako-kagi-arch-museum.jp/page4/index.htm
839日本@名無史さん:2007/05/11(金) 20:15:44
>>827
>投馬は阿蘇から北部が怪しいと思うね。

具体的にどこと書いてないので批判するわけじゃないが、ひとこと。

投馬国は海に面している。決して内陸部の盆地ではない。
なぜなら「水行二十日」のみで、陸行は不要だから。
船だけで行ける。

なお、そう考えると、邪馬台国は内陸部であった可能性がやや高い。
840日本@名無史さん:2007/05/11(金) 20:44:09
>>834
★カラとは何か★
 加羅と書いてカラと読む。韓と書いてカラと読む場合もある。
カラの語源は、日本語古語の離る(カル)である。カルとは「離れる」という意味の大和言葉である。
このカルが変化してカラとなった。「大和から離れた土地」「海の向こうの土地」という意味である。
 また、伽耶(カヤ)の語源も日本語である。日本語古語の離ゆ(カユ)は「離れる」という意味であるが、
カユが変化してカヤとなったのである。つまり、カラとカヤは同じ意味の地名なのだ。
 カラ=カヤの地には、紀元前から多くの倭人(日本民族)が住み、華やかな日本文化が栄えていた。
カラは倭人の世界だったのである。
 現在、カラ半島に住んでいる朝鮮人は、4世紀頃(300年代)に、カラ半島北部から南下してきた
ワイ人の末裔なのである。
 結論は、朝鮮人はカラビトではない、ということである。

カラ=カヤの国
http://www.kase-hideaki.co.jp/k005/trees.cgi?tw=&log=&search=&mode=&v=1237&e=res&lp=1181&st=0
841九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/11(金) 20:44:24
>>826
ざんねんでした。仕事が忙しいのと指を怪我しちゃったのとでレス出来なかっただけだよん。
それより邪馬台国から論点がずれてるんでは?

>>827
」のようなレスはなかなか論点が的を得て良いレスだと思うがね。
842九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/11(金) 20:54:19
>>827の、この人のように都会になったから遺跡は残っていない、と僕が以前言ったとき、
「遺跡は必ず残る」と言うのがいた。
しかし現代ならいざ知らず縄文遺跡を壊して弥生遺跡が出来、それを壊して
奈良平安から鎌倉へと家々を立て替えながら村落が発展したとしたらどうだろう。
跡形も無く前の時代の遺跡は崩れると思うのだが。
843日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:03:46
素人考えですけど
縄文と弥生って生活形態が違うから集落がピッタリ重なる事はないような・・・
奈良→平安→鎌倉と仰っている通り、やはり権力自身の性質によって場所を変えてる訳で・・・
844九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/11(金) 21:10:54
>>835阿蘇や東九州に7万とか5万戸とか思わせる遺跡の密度は無い

人口の多いこれらの国は密度が大きかったというより、国自体が大きかったと考えている。
又当時戸籍や人別帖があるわけでもないし人口を多めに申告したのかもしれない。
845九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/11(金) 21:24:25
>>843
遺跡を見学に行くと、ここは縄文時代から人が住み着いていた、というのもある。
一つの遺跡が縄文から奈良平安まで続いていたりする。そしてそのまま現在まで続いていることもある。
この場合、竪穴式住居は壊され、鎌倉時代にはその痕跡をとどめていない可能性もある。というような意味だ。
846日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:25:48
>>845
地層って知ってる?
847日本@名無史さん:2007/05/11(金) 21:55:48
地層が堆積するのってやっぱりメインは火山灰なの?
それとも砂ぼこり?
砂ぼこりが何メートルもたまったのだとすると昔の人はずいぶんと掃除が嫌いだったのだな
848SOY:2007/05/11(金) 21:56:10
>>826
>おまけに電波飛ばしまくったのにあきれて去っていったのかと思っていたが

明日は仕事が休みなので、ちょっと遠出をして
畿内説の方が主張する『双頭龍文鏡2式の後漢代確定』について確認してきます。
(史林を入手するのはそれほど難しくないのでちょうどいい機会です)

双頭龍文鏡の2式が確実に後漢代とするわりには2式が洛陽漢墓から出ていない点
が気になりますし、

>2世紀後半とし、次の3式の最古例が2世紀末にあるからその前の型式とする。

といった曖昧な表現も気になります。

また、2式が出土したという3例の墓名や出土地についても非常に気になります。

おそらくまだ年代を確定できるだけの要素が完全には揃っていないと考えています。

このスレが1000件到達するまでに間に合えば、墓の名前くらいは書くつもりです。

弥生X期を三国時代にできれば、九州説としては非常に嬉しい話ではありますが、
それを省いたとしても、こういった情報を集めることは大切だと私は考えます。
 
849九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/11(金) 22:10:37
だからその話をしてるんよ。
平安時代といっても都こそ立派な建物が立ち並んでいたとはいえ、ちょっと田舎になると
竪穴式住居であった。それが鎌倉時代になると現代のような造りの家が一般に普及し始める。
屋根は板張りで大きな石をいくつも並べて重石にしていたようだが。
前の竪穴式住居を壊して新しく掘っ立て小屋風の家に徐々に変わっていくならば
前の住居の痕跡は跡形も無い。
850本田:2007/05/11(金) 22:43:59
>>840
ソースの無い妄想。
851712@九州説:2007/05/11(金) 22:50:48
>>796 ていねいなレスをいただき、ありがとうございました。
2日空けてこのスレを見てみると、レスがかなり進んでいてびっくりしました。

>当方興味を持ち始めたばかりなのですが、712@九州説氏の説を非常に面白く読みました。
>九州説を提唱される方の多くが、関西の存在を関連のない世界にように捉えるように感じ違和感をもってしまう中で、
>考古資料とのすり合わせという点で、起死回生説に興味を抱いた次第です。

「考古資料をあたり始めると、お前みたいな九州説論者は転向せざるを得なくなる」と
以前よくいろんな方によく言われましたが、実際は考古資料とすり合わせてみても、
それほど自分の考えている九州説はトンデモな存在だとは思っていません。

私はもともと、高天原系より、オオクニヌシ系の方が好きですから、
おそらくオオクニヌシの国であろうところの畿内王権の姿が、
考古資料によってどんどん明らかになっていく過程が好きなんですね。
畿内説の人はそれを邪馬台国と考え、私は葦原中国と考える。
私は邪馬台国が九州と言いたい、というより
むしろ葦原中国を畿内と考えたい心情のほうが強いです。
もしかしたら邪馬台国は朝鮮でもいいかもしれないw
あと、現在の考古資料というものは、天皇陵の発掘が進まない限り、
いつまで経ってもまとまった参考資料になっていかないと思います。

いまどき九州説?とよく言われますが、私のトンデモ九州説に
興味をもっていただき、ありがとうございました。
852日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:10:45
>>851 このスレは九州説の方が多いですよ。
「学会では畿内説で決まり。」と頑張っている人がいますが。

>>712さんの考えに対する疑問は、>>726でも書きましたが、
より根本的には、纒向は他の地域からの流入で成立した都市であり、
流入元には九州も含まれているので、纒向と北部九州の「邪馬台国」
との両立は、流入元と流入後の都市が同じ時代となり、矛盾すると
思います。

そのため、纒向を200年前後からとする論者は、平原や吉野ヶ里を
200年頃までにして、「以後は纒向」という考えをしています。
私は吉野ヶ里のような環濠集落は280頃まで存在したと考え、纒向は
300年前後からと考えています。
853日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:12:11
ここに書き込んでいる九州説は
ほとんどノイローゼ状態だな。
854日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:28:14
そうだね
魏志倭人伝では表現を誇張してまで「邪馬台国は遠い遠い」と強調しているんだから
九州ってことはないだろうね
855本田:2007/05/11(金) 23:30:48
>>853
邪馬台国、近内説を唱える人間は、
土建屋と同様に、
発掘調査とゆう公共工事で飯を食ってる人間が多い。

畿内にあったのは秦王国で邪馬台国ではない。
856日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:33:45
卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命

卑弥呼と台与の間に短期間だけ即位した男の王=大田田根子命

台与=豊鍬入姫命

卑弥呼の男弟=卑弥呼の即位時は孝元天皇
       239年の時点では開化天皇
       442年くらいから崇神天皇

狗奴国の男王・卑弥弓呼=武埴安彦命

難升米(239年、卑弥呼が魏へ使わした大夫)=梨迹臣(崇神時代の中臣氏の先祖)

都市牛利(239年、卑弥呼が魏へ使わした次使)=丹波大県主・由碁理

伊聲耆(243年、卑弥呼が魏へ使わした大使)=彦五十狭芹彦命
857日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:35:50
>>855
そんなこと、ありえない。
むしろ、商売とか観光業がバックについているのが、九州説。
858日本@名無史さん:2007/05/11(金) 23:38:40

何回も一人で連続カキコしている人がいると思っていたが、違うな。


多重人格だな、あれは。
859九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/11(金) 23:53:03
>>834
この話題はスレタイからずれ過ぎるのこのへんで。
新羅を建てたのがワイ人であることは直接的には証明できない。
辰韓にいたのは、辰韓人・弁辰人・倭人・ワイ人であった。
一方、新羅語は古朝鮮語であり、馬韓辰韓語は古朝鮮語でなく、弁辰語と倭語も古朝鮮語ではない。
又、辰韓滅亡後できた国は新羅国。
故に、新羅人=ワイ人となる。
860本田:2007/05/12(土) 00:03:46
>>857
一部の邪馬台国九州説は、とんでもないと思うけど。
邪馬台国機内説はすべてとんでもない。
861本田:2007/05/12(土) 00:06:53
>>859
相変わらす理解できない。
862日本@名無史さん:2007/05/12(土) 00:54:29
>>849
分かりやすい例として、京都市内の遺跡を挙げてみよう。

具体的には考古資料館などに行って現物を見ればすぐ理解できるのだが、それは無理だろうから簡単に書くと
明治以降の地層に下に江戸期、その下に安土桃山から室町、その下に鎌倉期
さらに下から平安京、その更に下から飛鳥、弥生、縄文まで京都中心部では出土している。
神社にしても、下鴨神社内の糺の森からは飛鳥期の遺構と弥生期の集落跡が出土。
現在、烏丸御池交差点付近でも弥生期の集落遺跡まで掘り下げられている。
もちろん周辺の山々のふもとや中腹からは、無数の土器工房が出土している。

京都のように1200年間次々に様々な人たちが住み続け、戦乱もあり
神社仏閣がうんざりするほどある場所でも、完全に破壊されたというケースはない。
福岡でも後世に破壊されたと見られる遺跡がごろごろあるが、それも破壊痕からその存在が確認されている。
今は空港の下にある板付遺跡などは、その最たる例だ。
863日本@名無史さん:2007/05/12(土) 00:55:45
864日本@名無史さん:2007/05/12(土) 01:10:32
更にいうと、各地の高地性集落遺跡は
そのほとんどが鎌倉から安土桃山にかけての長期間に、何度も山城が作っては壊さている。
これらも多重遺跡であることは、その破壊痕から判明する。
遺跡発掘現場の写真などは見たことがあるだろうか?
自然に埋まった環濠と人為的に埋められたそれとの違いすら容易に判別できるし
柱の跡やすでに削られて存在しなくなった墳墓の形状まで割り出すことが出来る。
平城京建築の際に破壊された四条古墳(真の神武陵との説がある)も、その基底部から大きさや形状まで判明している。
大阪の難波京跡も、現在は上に大阪府庁や高速道路が立ち並んでいるが、それでもまわりの竪穴式住居跡まで出土している。
つまり完全に破壊するなんて無理なんですよ。
865日本@名無史さん:2007/05/12(土) 01:36:22
ヨーロッパの集落遺跡では、石造建築だから遺跡がどんどん高く積層していくと聞いた事がある。
前の世代の建物を壊して次の建物を作るのだが、石造のため基礎まで完全には取り除けない。
壁とかを壊して使える石材は再利用し、あとは瓦礫を均してそこに建てるから前の遺構は残るというのだ。
だが、日本の建築は時代が下るごとに大型化し、基礎を深く掘る様になるから、前の遺稿は破壊されるわな。
竪穴式→掘っ立て柱式高床→掘っ立て柱式大型建造物→基壇付き大型建造物 だからな
866日本@名無史さん:2007/05/12(土) 01:41:36
遺跡の発掘調査に熱心な地域とそうでない地域があるような気がする。
宮崎は、熱心ではないほうじゃないかな。
せいぜい古墳の調査をするくらいか。
遺跡なんか出てきたら困ると思うタイプかもしれない。
そのまんま知事も、遺跡なんかよりも鶏肉とかマンゴーに熱心みたいだし。
掘れば何か出てきそうな気がするのだが。
867日本@名無史さん:2007/05/12(土) 02:01:24
>>865
土地ってね、人が住めば自然に土砂が堆積するんですよ。
そしてそれが地層を形成する。
上ものが田畑なんかだったら、分かりやすい場合とそうでないのとあるけどね。
先の京都などは弥生期の遺跡にまで行き着くには、3bくらい掘り下げなきゃいけない。
また大型建築物の柱と柱の間から、竪穴式住居跡が見つかった例もある。

実は真の問題は歴史の積み重ねじゃなくて、戦後に破壊された墳墓や遺跡が数多くあることなんですよ。
百舌鳥古墳群などは戦後から昭和末の間に、実に百基以上が破壊されて住宅などになっている。
私有地になると、保護法があっても実質手が出せない状態だし
どんな重要遺跡でも地権者の同意がなければ調査発掘すら満足に出来ない。
特に福岡や大阪などの弥生遺跡は、十分な調査がなされないまま埋め戻されてたものがほとんど。
下水道や地下鉄工事のために跡形もなく破壊された遺跡も少なくない。

868日本@名無史さん:2007/05/12(土) 02:03:32
>>865

そんなこと言ったて日本でも判るところは判る。
判らないことも有るかも知れんが、今は発掘技術も進んでいるので心配すなw

869日本@名無史さん:2007/05/12(土) 02:13:26
>>866
地方によって温度差はあるよね。
でもまだ九州は比較的協力的なほうだよ、福岡以外。
奈良、大阪、京都などはまた遺跡か!って住民がうんざりしている。
遺跡分布が多いところほどその傾向はあるというか、拒絶反応も高いのは当然かもね。

また吉野ヶ里での工業団地計画、青谷上地寺での市民病院計画などの撤回で
発展もままならずに中途半端な赤字テーマパークを抱え込んでいる都道府県もまた、反応が鈍い。
民間でもそごう奈良店のように、長屋王邸宅跡が出土したものだから
開店が十年遅れてバブルに乗り遅れ、土地収用代の利子が経営破綻の一因となったケースもある。

俺もそうだけどおまいらも、突然教育委員会から人がやってきて
「ここらに重要な遺跡があることが判明したので、改築の際には調査させてもらいます。
 その間の滞在費や工期の遅れに関しての補償は一切ありませんのであしからず」
とか言われたら、いくら古代史ファンでもげっそりするだろ?
だから仕方ないといえば、仕方ない。
870日本@名無史さん:2007/05/12(土) 02:17:41
イギリスとかだったら王立基金とかあって
企業やオネモが寄付して売名にするとこだがな
日本には歴史に対する自負が無いから、考古はビンボーと相場が決まってる
871日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:11:41
↑嘘八百は辞めろ。遺跡が発見されて地主と政府で争ったり
遺跡つぶして豪邸建てようとして非難されてもシャーシャーとして新聞で
正当化するようなことはしょっちゅうだが。
872日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:13:52
で、ここの考古学の畿内説者とやらは、熊本や長崎には
大国など存在しなかったことにしたくて必死みたいだねぇ・・・・

なんせ九州の西海岸に投馬があったら畿内説大破滅wwww




873日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:21:08
>>872
長崎はムリポ
874日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:21:32
海辺の熊本平野部から阿蘇にかけて3世紀ごろの遺跡は
大したことないの?あまり人が住んでいたなったと?
それにしては遺跡が(ry

佐賀と長崎の内海側、熊本、この辺りを完全無視して倭国記編纂など
できるのだろーかwww 女王国の連合国は当然、この辺り含むにきまっとる。
875日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:24:57
オンガル川の河口って何かあるのかな?
876日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:30:54
>>873
自分がいってるのは周辺国、つまり投馬まで水行20日に
長崎や佐賀辺りの有明海で順に寄るって理論なんだな・・・。
とりあえず地図みてみろよ。
し か も 倭人伝のリポートは南国風、つまり九州南部を絶対含んでいる。
北部だけじゃあんな倭人伝にはならない。

20日どこにも寄らずに食料も調達せずに手漕ぎ船の水行はきつすぎ。
途中あちこち寄ってるはず。投馬は海辺から山間部にかけて広い地域だろ。

行程でわかる通り、投馬は海辺でしかも大きい。当然山間部含む。
女王国というのは水行10日陸行1月と言われる場所にある。なのに着いた先はさらに東に海。
これは九州の西海岸の国から東海岸の国へと縦断したんだろ。
877日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:34:51
九州説の畿内説批判が方位の読み替えなのに、
九州西海岸なんてそれこそ何重にも読み替えが必要だな
878日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:39:16
吉野ヶ里邪馬台国説は ある意味タチが悪いな・・・
現在の畿内説と一時期定説だった吉野ヶ里説は非常に仲間同士だとつくづく思う。

しかしあれだけの遺跡なんだから、倭人伝にかかれている国のひとつには
違いないと思うんだな。
879日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:41:03
>>877
いや、普通に南下の水行でいけるが? 
西だとか東だとか読み替える必要がない。しかも当然南下すればするほど
倭人伝のレポートと描写が重なる。寒くなる畿内説と違ってなw
880日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:41:45
何処の国から南下する気なんだよ
881873:2007/05/12(土) 03:45:54
>>876

弥生期の熊本は、玄海灘地方より人口は多いと思うよ。
九州では、あと豊後も多そう。
吉備や播磨、摂津、河内の一帯も熊本に匹敵する地域だけど、
1位と2位は毛野と東海でガチ、これは縄文時代からの蓄積が多きから。

確かこの説のソースっぽい推定図を出してるサイトがあったが失念した。
882日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:47:31
>>880
北部沿岸w だから地図みてみな 
883日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:51:15
「不弥国から南へ行くと、方位の読み替えなしに九州西海岸に行けます。」

ねぇーよ
884日本@名無史さん:2007/05/12(土) 03:54:10
>>851
>むしろ葦原中国を畿内と考えたい心情のほうが強いです

豊葦原中つ国のことかい? 豊前の中津じゃねーかな。あそこは宇佐神宮の
祖宮のひとつもあって、代々宇佐の神官を務めているそうだ。
大体、日本書紀の神代にでてくる「宇佐嶋」って宇佐と周辺地域って意味だろ。
皇祖神繋がりからも考えて、有力な候補地のひとつだと思うが。
邪馬台国と関連はあまりないと思うけどね。

885日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:28:30
>>883
おいおい・・・w

南至投馬 水行20日 ← 結局南下した方面にあるってこと。

なにもフミから南直行することじゃなく、そこから南部方面に着くんだよ。
そこまで説明せにゃわからんとはお前は猿かっつーの。
九州の西側で十分、南下になるが。

結局北上したことに畿内説と逆ってことな。
886日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:35:08
>不弥国から南へ行くと、方位の読み替えなしに九州西海岸に行けます

だれもそんなこと言ってないが。
不弥国から有明海まで沿岸水行して南につけばいい。大体水行20日も
真南に船を20日連続で手漕ぎまくったことだと解釈する必要はないが。
もう少しリラックスして脳みそ鍛えなおそーね。
887日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:42:51
先ず、九州東海岸南部論者だけが、読み替えせずに成立できるのに
ソコにはどうも考古学的には邪馬台国が存在出来そうにないから論者が少ない

それ以外の九州論者では、九州東海岸北部論者は日数の読み替えて、
九州西海岸論者は方位の読み替えをしてるのに
後ろ二つの論者は読み替えしてる事を認めないんだよ

読み替えを畿内説を否定根拠にしてるから


これってダブスタも良い所だろ

九州東海岸南部論者以外の九州論者は、
倭人伝の表現が実態に則してないから読み替えてるのに
読み替えている事を認め様とはしない
888日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:47:42
>>835阿蘇や東九州に7万とか5万戸とか思わせる遺跡の密度は無い

密度じゃなく7万とか5万と報告されている地域は広かったんだろ。
当然、大国だったわけで、だからわざわざ報告されている。
密集している必要はない。なぜ報告するのかという重要性を考えれば。

北部九州の沿岸地域、そして北西部、そして中・南部の東海岸という順に
編纂された=旅順 のではないかい?

とりあえず一番中国から上陸地点が近い西側を倭人伝に入れない・報告もしない
役人が訪問することもない、ということが考えにくいんだよ。
889日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:48:27
>九州西海岸論者は方位の読み替えをしてるのに

し て な い
890九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 05:24:23
>>862
あくまで時代間の遺跡の間に地層があるということででしょ。
その場合はとりもなおさずその間に時間のズレがある。つまり暫く放置されていた部分に地層が積み重なり
後の時代の建物がその上に積み重ねられていく。
それに対し外国の日干し煉瓦や、ローマのような町では前時代の城壁などの上に土台を置いて新しい街づくりが成されていく。
弥生集落の場合数十センチ掘り下げただけであり、
それと同時期にそこに住んで人によって遺構を潰して違う建物に幾度も立て替えられるうちに跡形も無くなってしまう可能性もある。
僕の場合倭人伝にいう7万などの人口はどう見ても発見済みの遺跡だけでは足りず、
又一箇所だけに人口が集中していたと見られる遺構の発見も無いことから
ある程度国域が広くその中にこじんまりとした集落がかなに数多く存在したのではないか、
そしてその殆どが奈良平安くらいまでに同期に真上に暮らした人々によって破壊され
新しい別の建物に生まれ変わったのではないか、その繰り返しで今日まで来ているとすれば現在も
弥生集落跡地に住んでいてそれと気づかない場合があるのではないか、と考えている。
891日本@名無史さん:2007/05/12(土) 05:30:39
>>890
馬鹿すぎで話にならない・・・
複合遺跡の勉強しなおして来いよw
892日本@名無史さん:2007/05/12(土) 05:50:35
西海岸論者って投馬国や邪馬台国が筑紫平野とか言い出すんだろ

これが読み替えじゃなきゃなんなんだ
893日本@名無史さん:2007/05/12(土) 06:36:25
7万戸や5万戸を説明するために国の領域を広くするなら、それが一つの国である共通文化要素、共通祭祀、共通の墓、共通の土器様式などを考古学的に抽出してから言え。
地図上だけで勝手に国の範囲を決めるのは簡単だなw
また国の範囲だけでなく、国の規模に見合う首都遺跡も指摘、考古学的根拠で特定してもらわないとな。地図上で勝手に決めるのだけなら誰でもできる。
またその遺跡内容は、連合配下になる伊都国や奴国の中心遺跡にせめて肩を並べてくれ。それらより明らかに見劣りする遺跡内容だと伊都国や奴国に力を及ぼすことができたとは言えないだろうな。
で、結局九州の他には伊都国や奴国の中心遺跡群より明らかに見劣りする遺跡しか無いのが事実で、考古学的に九州には邪馬台国や投馬国という大国は無いとするしか無いな。
894日本@名無史さん:2007/05/12(土) 06:42:41
>>833
>3世紀以後に九州勢力の東遷はありえず、
>神武東征神話が事実を伝えてるとしても、
>記紀にあるように紀元前の話だという意味だ。

祟神天皇まで嫁が全部、畿内周辺国。その次の代から九州の嫁。
まさに3世紀以後に畿内と九州が繋がっている証拠だが。東遷とか言わないが。

なぜなら祟神天皇の代で、息子の嫁を九州から手配している。(ヤマト畿内政権時代)
開化天皇の時代にはそれがなく、息子・祟神の嫁は畿内の豪族の娘。(非畿内政権・小国時代)

大体、何もかもヤマトの天皇らしくなっているのは祟神天皇から。
それ以前は天皇でもなく、ただ単に祟神が自分の祖先8代前までを勝手に天皇と名付けた。
どこか捏造されているようw
しかし9代前の神武の日向から畿内までの旅誌と係わった人物を事細かに伝承されているとは驚愕。

その割に欠史8代まで何も記憶にないらしいうえ、墓も不明。嫁は全部地元らしい。
勝手に都合よく神だと名乗り、好きに編纂できる立場にあって、これは誤魔化しようがなかったらしいね。
895日本@名無史さん:2007/05/12(土) 06:55:18
>>862
だいたいいいのだが板付は空港の下ではないよ。板付は史跡公園になっている。空港の下は確か雀居遺跡。弥生後期の環壕集落だったと思う。
ビルが並ぶ都市部中心でも地下にたくさんの遺跡があり調査が進んでいるのが博多遺跡。弥生から中世まである複合遺跡。発掘現場を見たことがあるがかなり深いところで作業していた。
春日市の須久岡本遺跡とか福岡市の那珂遺跡とかは住宅街でこんなところに遺跡が残っているのかなという感じだが、遺跡は残っていてよく調査やっている。
破壊されている部分もあるようだが、元の遺跡の内容が凄いのか青銅器鋳型とかも多く出てくる。春日市の資料館には須久遺跡の鋳型がたくさん並んでいるよ。
那珂遺跡では邪馬台国時代の直線道路が判明したとこの前報道があったし、やはりこのあたりの遺跡は凄いし奴国とするのは正しいだろうね。
896日本@名無史さん:2007/05/12(土) 06:58:42
>>892
よく読みなおせ!
 チ ミ は 大きな 勘 違 い を している。

>西海岸論者 など存在しない。西は投馬の話をしている。(昔に阿蘇説が居たが消えた)

つまり北部沿岸 → 有明海沿岸水行  →  更に水行+九州横断 → 東海岸の日向
 (伊都・フミ)          (投馬)             (女王国)

つまり、南部薩摩の熊襲をさけて上陸して東海岸の日向まで陸路を使ったのでは。
897sage:2007/05/12(土) 07:12:53
>>848
その論文以降も中国の資料は増えていると思うが。
『考古資料大観』の「鏡」というのに中国鏡の最新の編年の解説が載っているよ。
ただし2式については製作下限を下らせる意見もある。
鏡と年代論の関係は寺沢薫が最近詳しく書いているよ。『古代学研究』169、170号「古墳時代開始期の暦年代と伝世鏡論」ね。
この中で庄内式は3世紀前半、布留0式は3世紀第3四期にしている。これだと箸墓は布留0式の初めよりは下るから卑弥呼にはならない。
でも寺沢氏の年代観は一部の九州説のように庄内式を3世紀後半とかそれ以降に下らせるようなことはしていないし。だいたい妥当な年代観だと思った
898日本@名無史さん:2007/05/12(土) 07:17:53
九州ですが、は遺跡の発掘現場をほとんど見たことが無いんだろうな。
遺跡の形成過程やその残り方について全く分かっていない。
まあ考古学に無知だからあんな説を言えるのだろうけど。
899日本@名無史さん:2007/05/12(土) 07:21:08
>>894
初期の天皇の寿命が信じられないくらい長くなっているのは、日本の歴史を
引き伸ばそうとしていたとも考えられるので、いわゆる欠史八代もその延長で
追加したのかも。
そうなると、神武=崇神もありうることになる。
これを言うとかなり反発する人がいるのだが。

>>895
でも、佐賀平野も遺跡や遺物の豊富さでは負けていない。
吉野ヶ里遺跡や惣座遺跡などの環濠集落もあるし、青銅器鋳型といえば
安永田遺跡などもある。こちらのほうも奴国の可能性もあると思う。

>>896
日向は有力な候補地だと思う。個人的にも有力視しているのだが、唯一
気がかりなのは、記紀の日向神話の中に女王が出てこないことかなあ。
900日本@名無史さん:2007/05/12(土) 07:24:12
つまり倭人伝というのは、まず北部九州の詳細
そして有明海を沿岸水行して西の大国投馬、次に東海岸へ移動して
女王国の日向へ。
北部・西部・東部と徐々に南下するわけだ。

こう考えるとかなり整然としたレポートだな、と思う。最後の南国風も頷ける。

あと。北部沿岸から有明海を水行して熊本北部へ水行20日したとして一行でなんと表す?

 南至投馬国水行20日 ← これでいいと思うんだが。

つまり伊都/不弥から南西沿岸水行+長崎沿岸南下水行+内海沿岸水行方角不明+最終南下至熊本

畿内説だと、北上しながら、南下のはずだから暑いはずと脳内南下状態だったわけで。
最後に説得力を持たせるために盆地で寒さに震えながら海南島に似ていると書いたわけか。
さすがだな。    
901日本@名無史さん:2007/05/12(土) 07:36:47
>>900
それでは、末盧国から伊都国への「東南陸行五百里」が抜けることになる。
そうならないためには、末盧国から陸路で有明海を目指すのが良い。
つまり、あくまで外海を避けて、内海と陸路を取った。

吉野ヶ里近辺が不弥国で、投馬国が宇土半島からその付け根の地域、
そこで有明海から八代海に変わる。芦北町付近で陸路を取る。
確かに、これが倭人伝の記述からすると一番妥当ではあるのだが…。
902征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/12(土) 07:38:54
宮崎県高千穂町を通って日向に出れたら天孫降臨ッポイですね
903征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/05/12(土) 08:04:35
それとも景行紀の様に高千穂峰の傍を通る経路でも良いのかな
904太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/12(土) 08:08:23
>>856
百襲姫は日本の記紀に神功皇后なみに一章があてがわれておらず、情報が
入りにくい遠国の三国志の倭人伝が一章となって詳細記述だから権威持つ女王
の地位とは言い難い。九州へ行ったとの記述もなさそうで、卑弥呼には
相当とは云えないな。
905九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 08:10:47
>>891
そんなのは偶然の賜物以外のなんでもない。
うちの近所にも遺跡はいくらでもある。僅かにでも痕跡をとどめたそんな偶然に残った遺跡ではなく
生活の為に使い続けた家ならその真上に建物を立てることもある。古代から人が住み続けた土地は利便性が高いからすみ続けているはずだ。
そのようにして失われたり、海岸の地形の変化や地震、水害などで破壊されたりしたため
弥生時代の人口、邪馬台国7万などの遺構が全て見つかるわけではないのだ。
遺跡として残っているだけが弥生時代の人口なら当時の人口は5万、7万の人口を抱えたクニがあったという記述と合わず、
それどころかほんの僅かな人口しかいなかったことになる。絶対にありえないことだ。
一世紀倭国大乱の時代、「倭人を数千人拉致した」と漢書にある。倭国はこのころから相当数人口があったことが解る。
この人口を補う遺構があるとすればどこなのか、まだ見つかっていない遺跡がそれほど多い人口を抱えていたとも思えない。
弥生時代の遺跡は必ず残されるとしたとして邪馬台国7万などの人口を補える遺構がどこにあるのか、
以上のように考えないと合わない。たとえ畿内だとしても合わない。
最近学校で習った事だけが正しいと思い込んでる>>891>>898答えてもらおう。
一応理屈が通っているように見せかけている>>893.にも。
「一つの国である共通文化要素、共通祭祀、共通の墓、共通の土器様式」である必要は無い。なぜなら
邪馬台国というのは連合国家の名だからだ。ここに七万の人口。
奴国は大国と考えられるから福岡平野南部まで及んでいただろう。
しかしさすがに畿内説の言うような馬鹿だだっ広い県以上の広さの国は想定していないがな。
906九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 08:54:26
>>893 一つの国である共通文化要素、共通祭祀、共通の墓、共通の土器様式などを考古学的に抽出してから言え

それがいつの時期の様式なのかさえ意見が分かれる中で確定のような言い方をするもんじゃない。
907日本@名無史さん:2007/05/12(土) 09:08:08
>>901
いや・・>>つまり伊都/不弥から南西沿岸水行云々・・・以下は
南の投馬までの至る水行20日の全体像を現しているだけで。

出発地が不弥国(宇美町?)説と、伊都からという説の両方を考えて
伊都/不弥と書いたまで。

有明海と八代海の入組みまくった内海の海岸線を見ると、水行の長さが
よく説明できるんだが。あそこは舟をつかうしかないだろう。
途中に所々寄れる場所でもあったんではねーの?
908日本@名無史さん:2007/05/12(土) 09:12:06
不弥から畿内に行くにも南(東)にストレートにはいけない。宇美か津屋崎から関門海峡を渡るには一度北上しなければならない。「畿内論者の「不弥から南に言ったら西海岸いけねーよ」という発言はあら探しに過ぎない。
909873:2007/05/12(土) 10:39:13
>>908

何れにしても方位錯乱の事実は認知されるわけですね。
910熊本ですが:2007/05/12(土) 11:51:05
907さんの有明海と八代海の入り組みまくった内海の海岸線から水行の長さを説明
できるとの御説は無理ですよ。
先日、船釣りに行きましたが、ベタ凪の日であれば、手漕ぎでも、一日もかからずに
有明海は渡れますからね。
911日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:14:29
>>905
>海岸の地形の変化や地震、水害などで破壊されたりしたため

水害や地震で破壊されれば、
そうなったことを如実に示す状態で発掘されるんですが…

ばかばかしいからもうやめろや
912日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:19:53
>>905
考古学では不利なのが分かったから開き直った訳だなw
残っている遺跡が多数あることは無視とは恐れいった。もっとも邪馬台国の比定地をはっきり言ってくれたら遺跡の有無や残り具合も分かるのが実際だけどな。
まあ考古学無視ならそりゃ邪馬台国はどこでも好きなところに持って行けるよ。
その変わり、自分以外は納得できない珍説がまた生まれるだけw
913本田:2007/05/12(土) 12:22:23
>>872
> なんせ九州の西海岸に投馬があったら畿内説大破滅wwww

投馬(ツマ)は薩摩。
914日本@名無史さん:2007/05/12(土) 12:28:05
>>899
青銅器鋳型の数量は春日の須久がダントツです。佐賀平野全て集めても須久一遺跡にとうていかなわない。
また遺跡規模も須久や那珂は吉野ヶ里の数倍らしい。
伊都や奴国を佐賀平野に持っていく論は、楽浪土器や鏡がもっとも多数出て中国との交流の中心だった前原付近や最大の集落遺跡や青銅器大生産地のある福岡平野を無視する点で空論。倭人伝なこれらが出ていないとはとても思えない。
また佐賀平野には楽浪土器は出ていないだろうし
915sage:2007/05/12(土) 12:43:56
>>906
何でもありだなw
916本田:2007/05/12(土) 12:58:47
>>914

> 伊都や奴国を佐賀平野に持っていく論は、楽浪土器や鏡がもっとも多数出て中国との交流の中心だった前原付近や最大の集落遺跡や青銅器大生産地のある福岡平野を無視する点で空論。
>倭人伝なこれらが出ていないとはとても思えない。

九州北岸には狗邪韓國。
917日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:15:04
うん
918日本@名無史さん:2007/05/12(土) 13:26:50
>>913 >投馬(ツマ)は薩摩。

倭人伝の地理記事がもし投馬国で終わってるなら、それはあり得る。
唐津、前原、福岡、・・・・と諸国を通説通りに比定していって、
投馬国の「水行20日」で、「あ、ポーンと飛ぶんだな」と考えて
薩摩に投馬国をもってくる・・・・・そこまではよろしい。 しかし、だ。

しかし倭人伝にはそのあと邪馬台国を記し、名前だけの21国を記す。
ここでハタと困る。
もし邪馬台国を、薩摩投馬国より北のラインに比定してしまうと
「自女王國以北、其戸數道里可得略載・・・」の記述と辻褄が合わない。
かといって薩摩投馬国より南の南西諸島に邪馬台国を比定すれば
「陸行1月」は南西諸島のどの島にも求められないから不合理。

よって残念だが投馬国=薩摩説は成り立たない。
919873:2007/05/12(土) 13:29:25
>>914

須久や那珂は、遺跡と遺跡の間隔が密で切れ目が無いからね。
920712@九州説:2007/05/12(土) 13:45:50
>投馬(ツマ)は薩摩。

投馬は日本海側のイヅモ勢力ではないかと考えます。

邪馬台=九州、投馬=日本海側勢力、狗奴=畿内勢力
921日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:00:05
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922本田:2007/05/12(土) 14:16:53
>>918
伊都國から投馬國に水行二十日。
伊都國から邪馬壱國に水行十日、陸行一月と考えればよい。

したがって投馬國は、薩摩。

畿内にあったのは秦王國で、
邪馬壱國は九州東岸にあった。

九州北岸には狗邪韓國。
923日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:33:16
>>922

>九州北岸には狗邪韓國。

さっさと氏ね。

>從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、
>始度一海、千餘里至對馬國

狗邪韓國から海峡を渡って對馬國ってかいてあるじゃねーかw
924太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/12(土) 14:33:47
>>899
引き伸ばすんならもっと天皇を製造して100代とか500代とか追加したという
感じの記述とすればいいことで、なればそういう疑惑が出るのは理があろうが、
たった8代くらいでの引き伸ばしではメリットが薄い。だから君の主張は肯定
するに至らない。
仁徳以前の天皇の寿命が著しく長いのは、当時倍暦を行使していたからで
あり、実際の寿命は通常人程度になるから不審性は消える。
925日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:33:52
>>922
「自女王國以北、其戸數道里可得略載・・・」
(女王国より以北は、その戸数道里が略載できたが・・・)

投馬國も戸数道里を略載しているぞ!
きみのように投馬國が邪馬壱國よりも南の比定だと、矛盾するではないか!
それを>>918は指摘しているのだ。
926日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:48:29
投馬国の難しさはある意味、邪馬台国以上だね。
いったいミミは、どこに居たんだろうなあ。
927本田:2007/05/12(土) 14:52:34
>>923

923は漢文読めない人だ。

「始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。」

「始めて」は郡に起点をもどすとゆう意味だよ。

北岸狗邪韓國が起点じゃないよ。
928日本@名無史さん:2007/05/12(土) 14:53:29

ミミタン・・・・・・・・
929日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:00:26
>>927

>「始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。」
>「始めて」は郡に起点をもどすとゆう意味だよ。

対馬は帯方郡の対岸1000里かあ・・・
コイツの書込みにしちゃ、珍しく哂えるネタだな。
昔は、ただただ薄気味悪いだけだったからなあw
930日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:01:50
>>927
>「始めて」は郡に起点をもどすとゆう

そんなことしたら
郡〜狗邪韓國 7,000リ
郡〜対馬國 1,000リ
ではないかw

対馬國が江華島なるぞw
馬鹿にするのも大概にしる!
931本田:2007/05/12(土) 15:08:44
>>930
「始めて一海を渡ること千余里、対馬國に至る。」

千余里は、千里以上とゆう意味で、
千里とゆう意味ではない。
932日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:12:38
アホかホンダ
933日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:13:50
>>931
>千里以上

およそ千里、約1,000リだろ。
おまいこそ漢文どうこう言う前にあたま異常だぞw
さっさと帰れ!
934日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:25:53
>>928

928は漢文読めない人だ。

郡から狗邪韓國までは、
海岸沿いの水行で、まず乍南し次いで乍東しているから、
一海を渡っていないぞ。
935本田:2007/05/12(土) 15:36:19
>>934
朝鮮半島南岸にあれば南岸狗邪韓國になってたはず。
九州北岸にあるから北岸狗邪韓國。
936日本@名無史さん:2007/05/12(土) 15:59:18
本田!
最高っす。
ですがを弄るのにも飽き飽きしてきたところだ。
もっと、恥ずかしいこと書いてください。
937日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:11:32

>>935
ふぁ〜!!

中国式発想も知らないんだね。

狗邪韓國は一海(朝鮮海峡)の北岸。
(対馬海流の流れる海峡を河に見立てればわかりやすいよ。)
(中国側は、倭人が半島南端部からその南方諸島に分布しているとの認識であった。)
938日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:12:45
次から次へトンデモが出てくるのが2chクォリティーw
939本田:2007/05/12(土) 16:21:37
>>937
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。

「その北岸狗邪韓國」の「その」は、「倭」を指していて「一海」なんて指してない。
940日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:33:17
>>895

>板付は史跡公園になっている。空港の下は確か雀居遺跡

そうだった、板付空港の名前に引きずられて勘違いしたorz
訂正サンクス。

>>905

そんな珍説やとんでも理屈ふりまわすのは君だけ。
君以外の人は九州説でも複合遺跡についてきちんと分かっているようだから
君はたったひとりで道なき道を進みなさい。
あと、人口7万ってなんじゃそらw
「戸数」の意味も知らなかったのか。
941日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:37:58
ですがが本当に壊れちゃったみたいだし
もう面白くともなんともないので
これからは本田いじりが旬だな
942日本@名無史さん:2007/05/12(土) 16:55:41

>>393

またいじっちゃうよ。

其は倭を指していますね。
よく知っているね。

(中国側は、倭人が半島南端部からその南方諸島に分布しているとの認識であった)のだよ。
「其」は上記の分布域の倭をさしているのだよ。
「其北岸狗邪韓國」は「倭地域内にある海峡の北岸にある邪韓國」の意味だよ。
943本田:2007/05/12(土) 17:11:35
>>942
> >>393
> またいじっちゃうよ。
> 其は倭を指していますね。
> よく知っているね。
> (中国側は、倭人が半島南端部からその南方諸島に分布しているとの認識であった)のだよ。

それは、この部分の説明で、

女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。
人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。
倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり。



この部分の説明ではない、この部分の倭は九州を指している、七千余里もそれを裏つける。

郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓國をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓國に至る七千余里。
944日本@名無史さん:2007/05/12(土) 17:26:44
狗邪韓国はまさに韓の国だから倭の領域とするのは違うだろ。弁韓の狗邪国と同一。倭と韓は境を接するというのもあるが一海渡るが接していて連続しているということ。
その北岸とは倭の北岸というのはいいが、単純に倭とは海峡隔てた北岸との意味で対岸まで倭とするのは拡大解釈。
弁韓南部に倭系遺物など倭人の痕跡はあるが、それだけが集中するコロニー的遺跡は無く、三韓の遺物の海に倭系遺物が少数あるに過ぎないから倭の領域とは言えない。
同じような程度かそれ以上に北部九州に三韓系遺物があるが、北部九州が韓の領域とは言わない。
945SOY:2007/05/12(土) 18:00:48
>>897
>ただし2式については製作下限を下らせる意見もある。

このような意見を待っていました。双頭龍文鏡2式が後漢鏡とは断定できないということですよね。
寧ろ、このような意見が隠されてしまっていたかと考えると恐いです。

一犬虚に吠ゆれば万犬実を伝うという事態にも成りかねません。

それはともかく2式出土の墓は以下のとおりです。

1.江西省瑞昌県馬頭西晋墓
  → 西村俊範氏は呉代(3世紀第2もしくは第3の四半世紀)と『思われる』としています。
    彼の見解ですら呉代です。晋代の可能性さえあるとも解釈できます。
2.湖北省随県唐鎮三号墓(漢魏墓)
  → 報告では三国代となっています。この時点で三国代の意見があることは明らかです。
    西村俊範氏は後漢晩期に年代を上げうる『可能性がある』としているだけです。
3.河南省洛陽市晋墓
  → 古い報告で年代の確定はできないとなっています。これも後漢代とは断定できません。
    それはともかく洛陽漢墓でなく洛陽晋墓から出ていたんですね。

ここから考えただけでも、
双頭龍文鏡2式が魏・晋代(正確には三国・晋代)の可能性は十分に残されており、
論文名までも挙げてなされた一連の後漢代確定の発言に対しては疑問を感じます。

論文名を挙げても実を語らないのであれば、それは正しい姿勢とは言えません。
妙に隠すので人間の心理的に何かあるのだと疑い、調べてみて正解でした。

まだ双頭龍文鏡の2式は後漢鏡などと断言すべきものではなく、
さらに多くの点で研究されるべきものだと私は考えます。
 
946坂本龍牛:2007/05/12(土) 18:07:31
>>944
>倭と韓は境を接するというのもあるが
>>ないない
947日本@名無史さん:2007/05/12(土) 18:58:49
>>946
▽『三国志』韓伝  
「韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す」。
948九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 19:21:08
>>911
ナイル川とかの洪水と混同してるんじゃないのか?堆積物が徐々に溜まっていくというような。
それが浅はかだというのだ。ここでいう「洪水で破壊された遺跡」というのは外国人をして滝のようだと言わしめた
川の洪水によって河岸が削り取られ土砂とともに川中に落ち、流れていっただろう遺跡の事を言ってるのだ。
これだと跡形も残らないだろう。何故地震を併記してるのかというと島原の大地震のとき山の一部が大きく崩れ
ふもとの集落とともに海中に消え去ったという俗に「島原大変」というのがあった。
これも跡形も残っていない。この内容のどこが馬鹿馬鹿しいのだ。子供でも解る事だ。
それよりこちらの質問に答えてもらおう。災害で失われた遺跡が存在しないと言い張る以上
邪馬台国7万などの人口の証明は完璧な考古学とやらでは畿内説ではどのように解明しているのか
具体的に教えてもらおう。
949九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 19:30:07
>>912残っている遺跡が多数あることは無視とは恐れいった

なんのことやら?その残ってる遺跡を人口想定し、すべて足して
畿内で邪馬台国人口7万に届くのか、と聞いているのだ。
もし足りなければ残りの人口はどこへ行ったのだ?
墓の数ならなお解り易い。邪馬台国人口7万は瞬間人口だから何代にも亘って
墓が造られたとしたら相当な数が必要だ。そのような人口を畿内の遺跡で満たしきれているのかどうか、
足りないならその理由はどこにあるのだ?答えてもらおう。
950日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:39:00
ですが、今日は休んでていいよ。
本田チンの出番が減るじゃないか。
951日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:43:20
>邪馬台国人口7万

馬鹿
952日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:48:36
>ですが

おまい、まだ判ってないのか
邪馬台国の人口が「7万」(投馬国は「5万」)なんて、どこの何と言う名前の史料に書いてあるのだ?
俺は5万戸、7万戸と書いてある魏志倭人伝しか知らないがねw
953日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:53:48
>>943

当時(今でもだが)、「岸」と言うことばは水陸の境を示す用途が多かった。
で、倭なり狗邪に北とか南とかに境があったとして、それに対して「岸」と言うことばは使わない。
何故なら、倭も狗邪も国名、地域名ではあっても海や島の名称ではないからだ。
だから、「其」とは倭のことでも狗邪のことでもない。
954日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:02:13
>>953
倭は厳密には国名ではなく地域名。
倭国と総称される倭人たちの住む地域があり、その中に奴国、伊都国、邪馬台国といった国がある。
なので「其の」は倭国全体を指す。
955日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:06:49
>>954

だから、その地域名の境を「岸」と標記した例がありますか。
956九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 20:36:04
>>951
わかっとるわいそんなもん。毎日のように倭人伝見とるんだ。
そのくらい7万戸の略だくらい想像して読め。くだらん事問題にしやがって。
957九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 20:39:55
>>951>>952の馬鹿国連合に。

それよか>>948>>949に答えんかい!
またお得意のごまかしか?
958日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:42:55
邪馬台国?卑弥呼?
「ヤマト国の姫御子」にでも当て字したとかジャネーノ?
959九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 20:49:50
7万戸より7万世帯の方がそのような人口を畿内の遺跡の推定人口で満たしきれるのかどうか考えてみるがいい。
よけいそちらが答えきれんようになるのは目に見えておる。
>>948 >>949 の問いに答えるのに墓穴を掘るとはこの事だわな。
960942:2007/05/12(土) 20:54:04

>>943

諸説並んで混乱しているようなので整理しますね。

以下の人が漢文を読めるのですよ。
>>947
>▽『三国志』韓伝  
>「韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし、南は倭と接す」。

>>953
>当時(今でもだが)、「岸」と言うことばは水陸の境を示す用途が多かった。
>で、倭なり狗邪に北とか南とかに境があったとして、それに対して「岸」と言うことばは使わない。
>何故なら、倭も狗邪も国名、地域名ではあっても海や島の名称ではないからだ。
>だから、「其」とは倭のことでも狗邪のことでもない。
解説:
「倭」は国名ではない。

>>954
>倭は厳密には国名ではなく地域名。
>倭国と総称される倭人たちの住む地域があり、その中に奴国、伊都国、邪馬台国といった国がある。
>なので「其の」は倭国全体を指す。
解説
「厳密には」の語句は不要
「倭国」は「倭」の書き間違いであろう。
「倭国全体」ではなく「倭地域の海(朝鮮海峡)」を指す。


961九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 20:56:00
>>959は「7万戸より7万世帯」はまちがいね。「7万より7万世帯」がせいかいね。
頼みの綱たる考古学でさて、どう出ますかな?
962日本@名無史さん:2007/05/12(土) 20:58:40
>>943-944
うましかだなw

・水害のばあい
そもそも集落は、洪水などに備え周囲の低地から一段海抜が高い部分に形成されるのでは?
川沿いであっても自然堤防などに形成されるはず。
それでも集落が溢水したときには遺物は環濠などに堆積物として残存する。
旧河道など流露変遷もあわせて発掘されるんですが…ね。
ましてや初期古墳は山裾を削りだすように造形しているんだから、
そんな山裾まで溢水するような洪水があるとでも?

・地震など
まず。「島原大変肥後迷惑」は雲仙普賢岳の噴火に伴う眉山の山体崩壊なんですが…。
土砂崩れに伴う集落壊滅例は、20世紀では1984年長野県西部地震による山体崩壊とか
1923年大正関東地震の熱海線(現・東海道線)根府川駅の崩壊など。
いずれの場合も崩落の痕跡が確認できる。20世紀でも2件程度なので、3世紀でも発生確率は数件かと。
もし7万戸の大規模集落である「邪馬台国」相当の遺跡が山体崩壊などに
巻き込まれれば、当然それほど大規模な山体崩壊部位は、地形に明瞭に残存するはず。
上述したような規模の山体崩壊でも、さすがに7万戸を埋めるのは無理かと。
確かに上述の長野県大滝村のそれは大規模で、崩落体積が3500万立方キロと莫大だが、
これは流下標高差が約1400メートル、崩落距離約10キロだが、
「邪馬台国」の場合はそんな全集落が埋没するような急斜面のある山裾に
集落を作るでしょうかね?
963日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:11:45
>>962
しまった>>948-949のまちがいだった。
964942:2007/05/12(土) 21:23:11
>>961
「一戸」は「数家」である。・・・魏志韓伝より引用
「数」は3〜6を指すとして、
「一家」は成人1〜2名で構成するとする。

上記条件で邪馬台国7万戸の人口は、
(1〜2)×(3〜6)×7万=21万人〜84万人、
成人人口で21万人〜84人となる。

考古学的考察ではないが、いかが。

965九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 21:25:27
>>962 水害の場合、

無知の勝手な決め付けでしかない。
現代でもどれほど洪水で護岸が崩れ多くの家が川に落ちて流されたかさえ知らないのか。
「そもそも集落は、洪水などに備え周囲の低地から一段海抜が高い部分に形成されるのでは?」
とは限らない。
「7万戸を埋めるのは無理」
そんな事はどこにも言ってないだろう。>>911の馬鹿が
「水害や地震で破壊されれば、
そうなったことを如実に示す状態で発掘されるんですが… 」と言うから
跡形も無く痕跡が残らない遺跡と言うのも存在した筈だ、と言ってるのだ。
どこまでもそれを否定するからだ。海岸近くに存在した集落もあったはずだ。

>>941思い上がりも甚だしい。どうせ机上の空論をもてあそんでるだけだろう。
「過ぎたるは及ばざるが如し」とはうってつけの贈言だろう。

966九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 21:29:13
>>963まちがっていいのよー。
うましかは御自分を指してるんでしょうから。
967日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:29:30
結局ですがは九州から発見されない邪馬台国を
災害で無くなっちゃったことにしようとして論破され
逆ギレしてるのかw
968日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:31:40
ですがが本当に面白くともなんともないので
さっさと壊れちゃってください
969942:2007/05/12(土) 21:35:24
>>964を書き間違えた
×成人人口で21万人〜84人となる。
○成人人口で20万人〜80万人となる。
970九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 21:36:09
>>964
家には部屋があり、父母、兄弟、別々に寝ます。

と倭人伝にあるから、今でいう核家族みたいな印象を受けるけどね。
84万人、 いくらなんでも多すぎだと思う。吉野ヶ里規模の遺跡が
主流だったと思う。
971日本@名無史さん:2007/05/12(土) 21:52:49
718です。

>>851(712@九州説氏)
>むしろ葦原中国を畿内と考えたい心情のほうが強いです。

神話をどこまで史実とするかの線引きは非常に難しいですが
出雲と畿内の関係は確かに非常に興味深いですね。
古事記や日本書紀などからも畿内側からは無視できない出雲の存在の大きさは見て取れますし
荒神谷や加茂岩倉といった大量の青銅器を有する遺跡群や四隅突出型墳丘墓などの存在も
出雲には弥生末期から確かに強大な地場勢力の存在があったことがわかります。
三輪山などでは出雲出身であるはずのオオクニヌシがオオモノヌシいう別名で祀られていることから
もし事実ならば「出雲が奈良盆地へ東遷」したことになります。
非常に興味深いと思います。

>>964
鬼頭宏「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫 1430では弥生初期の人口は57万人、
西暦600年ごろでも450万人程度としています。三世紀ならば200万人程度ではないかと。
すると提示された84万人という人口は当時の日本列島の総人口のおよそ4割ということになりますが…
そのほか投馬国も60万人程度、この2か国だけで総人口の7割以上になってしまう。
弥生遺跡が九州や畿内のみならず東海や関東にもたっぷり存在することを考えると
総人口の2/3超をすべて九州に押し込めるにはいささか無理があるのではないかと思いますが、
いかがでしょうか?
972魏志倭人伝は伝聞:2007/05/12(土) 22:02:08
古事記、日本書紀を読めば天皇家のルーツが宮崎の日向神話から
始まってる事だけは「事実」だよ。
征服王朝(統制)が、勾玉・鏡・草薙の剣と各部族の宝を神器としてきた。

東夷伝なんぞ、散文に過ぎない。いまの中国を考えたら解るだろう
歴史の捏造なんか、鼻糞程度。
973日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:08:17
>>972

それでも、3世紀の東遷は無いけどな。
974本田:2007/05/12(土) 22:13:53
>>944
> 狗邪韓国はまさに韓の国だから倭の領域とするのは違うだろ。

いや狗邪韓国は、東夷伝の倭の説明のところに出てくるので倭です。
東夷伝の韓のところには狗邪韓国は出てきません。
975日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:26:43
>>956
>そのくらい7万戸の略だくらい想像して読め。

「邪馬台国の人口7万」と書いて戸数のことだと読むような日本語はありません。
そういう場合は「ワタシ日本語不自由、ダカラ大目ニ見ルアルヨ」と断ればいいのですよ。
外国の方から見れば日本語は難しいでしょうが、頑張って下さい。

>>965

>跡形も無く痕跡が残らない遺跡と言うのも存在した筈だ、と言ってるのだ。

存在した「筈だ」というのは希望的観測と言いまして
往々にして追い込まれた人が最後の言い訳に使うことが多いです。
これもみっともないどちらかと言うとみっともない部類の日本語なので、あまり使わないようにしましょう。
ちなみにそんな大災害が起きたと見られる痕跡はありません。
あなたの言うように海岸線が自然侵食されるには、2000年では短すぎます。
むしろ自然堆積や人為的な河川改修により、海岸線は大きく後退しています。

>>970
倭人伝の戸数が誇張されているのではないかというのは、どの説に限らずほとんど通説化しています。
ちなみに吉野ヶ里の規模って何ですか?
まさか環濠内「のみ」に人が住んでいたとでも思っているのでしょうか。
吉野ヶ里程度の中規模環濠集落でも、環濠外からは無数の竪穴式住居が出土しています。
多すぎて正確な数を把握しきれないくらいです。
考古学では5〜10戸程度の小規模集落を「ムラ」と呼びますが
そういうムラは全国で数万以上報告されています。
ちなみに環濠集落などは「クニ」と呼びますが、これは国のことではなくましてや国家などでもありません。
そこを勘違いすると、まさに国家だらけになりますのでご注意を。
日本の古代史は、概念からして外国の方には少々難しいかと思いますが
まず正しい現代語をきちんと学んでから、古典や文献に入られたほうがよろしいかと思います。
976日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:28:53
>>971

その本は昔興味深く読みましたが、倭人伝の戸数記事そのものが怪しさ満載なのですので、参考程度に留めておきましょうよ。
前にSOY氏か一応九州王朝説氏かどちらかが
「5万や7万もある戸数を正確に国勢調査したとするならば、いったい魏の使者は何千人編成でやってきて、何年かけて調査したと言うのだろうか?」
と非常に明確な形で否定されていました。
まったくもって仰るとおりです。
977日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:31:14

ここだけ邪馬台国に時空移動しているスレ
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1133558512/
結論→邪馬台国は捏造
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1172286025/
君は邪馬台国はどっちにあったと思う?
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175338741/
978日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:32:28
 
979日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:35:42
 
980日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:37:13
980
981日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:45:11
 
982日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:46:17
 
983日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:47:48
 
984日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:49:24
 
985日本@名無史さん:2007/05/12(土) 22:52:16
985
986日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:03:17
埋め立てって、人を不愉快にする行為だな。
ものすごく精神が歪んでるヒネクレ者だろうね。
987狗奴国男王 卑弥弓呼:2007/05/12(土) 23:09:58
 ∧_∧
 ( ・ω・)=つ≡つ 邪馬台国?卑弥呼?
 (っ ≡つ=つ ボコボコにしてやんよ。
 /   ) ババババ
 ( / ̄∪

988九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 23:10:34
>>975あなたの言うように海岸線が自然侵食されるには、2000年では短すぎます。

まーた猿並みの頭脳。あーめんど。
700年くらい前の海岸線で今海底になってるところもある。
なんか考古学より常識を教えてくれる学校に行った方が身のため。
「倭人伝の戸数が誇張されているのではないかというのは、どの説に限らずほとんど通説化」
言ってますよこちらだってそのように。だけどそう極端には違わんから。
クニとムラをごっちゃにした事は無いが言い返すのがうっとおしい。
文の全体を通して・・ああこれ以上書くのも億劫。面倒、ばかばかしい。
後は僕が何を言いたいか自分で考えなさいよ。
989日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:15:04
九州ですが の最近は 誤ることいっぱ〜〜い

九州ですが きょうも遺跡が壊滅とか妄想垂れ流しなんで・す・Yo!

そしたらSO〜! 集中砲火されちゃったんです><

あーいとぅいまて〜〜〜んw
990九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 23:16:36
>>989
ライオンにでも食われろ
991日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:18:52
>>988
>700年くらい前の海岸線で今海底になってるところもある。

どこどこー?脳内?
992942:2007/05/12(土) 23:20:15

>>971
邪馬台国の総人口は、
2×3×7万+未成年人口と考えて、
未成年人口は成人人口の3割程度とすれば、
50万人位でないでしょうか。
倭人伝に出てくる人口の総数は100万人のオーダーになると思います。
馬韓、辰韓やワイの人口は其々70万人、30万人、15万人となるので、
倭30ヶ国の総人口は下限150万〜上限200万と推定できます。
韓倭の平野部の広さの比較からもこの程度の推定が妥当でしょう。
魏にとって倭は大国だったとおもわれます。

鬼頭宏氏の推定は生産力を低く見積もり過ぎていると思います。
弥生時代の倭の農漁業生産力は過小評価されていると思います。
縄文時代の日本の生産力もしかり。

1世紀末〜2世紀の西日本混乱の原因は何だと思いますか?
弥生高温期による少雨旱魃で飢饉があったからだと推定します。
民俗風土地勢気候を総合的に分析して、当時の社会状況を判断する必要があると思います。
根拠の無い通説に惑わされないようにしましょう。



993九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 23:29:55
>>991
又無知ばか出現。めんどい。どこまで無知だと気が済むのか。折角PC使ってるなら自分で調べろ。
ばか者の共通点はまず人の言う事を信じない。
しかしおろかなばか者教授などにはすぐ引っかかって洗脳され、真実と思い込んでしまう。
師弟ともにばかくらべ。ばかはばかよりいでてばかよりもかえってばか
994日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:31:16
>>993
そのばかも言い包められないなんて・・・
995坂本龍牛:2007/05/12(土) 23:33:43
>>960
>以下の人が漢文を読めるのですよ。

漢文読めても漢字がわからないみたいだな
996九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 23:35:39
そうねえ、ばかだけど悪知恵は働いてああいえばこういうだもんねえ。
こんな人間生まれて始めて遭った。ばかと悪知恵が両立してて。
997日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:38:18
>>996
それってバカっていうのか?
998日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:40:51
文献しかみないバカと揚げ足取りする馬鹿が
ーガードで殴りあいだなwww
999九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/12(土) 23:42:51
>>997
そこが微妙なのよねー。
でも九州にはいないんじゃない?。関西はやっぱ珍しいのが多いのかもよ。
1000日本@名無史さん:2007/05/12(土) 23:43:38

以上の議論の結果、邪馬台国は畿内に決定です。

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