1 :
スレ主代行:
次の意見(老教授氏)に関して議論するスレなのだ!
「2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され
それが王権の礎になったってことです。
その母体は、参加時期や規模の差はあるが
北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
後の大和朝廷だと考えられています。
そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
荒らし厳禁。埋め立ても厳禁。
前スレ= 【ヤマト】纏向は王権の礎の地だったか【マキムク】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1166155276/ (元のスレタイが字数制限一杯なので「その2」が入らん。で縮めた。勝手してスマソ)
2 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 13:02:37
2げと
3 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 08:23:08
アゲ
4 :
サガミハラハラ:2007/05/06(日) 08:31:59
1をよんでみると、巻向がその中心だとするには規模や内容が(遺跡遺物からみて)貧弱すぎるのではないだろうか。
5 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:46:44
小城に比べれば圧倒的だろw
6 :
サガミハラハラ:2007/05/06(日) 17:54:39
>>4は、魏志倭人伝の記述からみると、ですよ。
7 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:12:37
遺跡から見ると貧弱と言っておいて、倭人伝から見るととなぜか変わっているがw
いずれにしてもサガミハラの話は議論の対象にならないレベルということですね。
なんで他の誰もサガミハラに全く賛同しないのか良く考えてみた方がいいよ。
つNGname
9 :
サガミハラハラ:2007/05/06(日) 19:35:34
倭人伝の記述から推測される遺跡の規模からみると、発掘された巻向の遺跡遺跡は貧弱であるという意味です。
10 :
サガミハラハラ:2007/05/06(日) 19:52:55
>>7 なんで他の誰もサガミハラハラに賛同しないのかよく考えてみた方がいいよ
私の小城説は、鴫沢遊児の古代史推理・邪馬台国への道のアンケート調査では、
294票で第6位の位置をしめております。
かなりの賛同者をあつめております。ご確認ください。
皆様も投票をどうぞ。
11 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:59:22
そんなマイナーなアンケートで6位でもねw
ていうか自分で何回も投票してんじゃないのか?
ご苦労様w
12 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:01:02
あのマキムクの規模で貧弱とか池沼ですか?
貧弱以前に何も無い小城説に言われても困るなw
13 :
サガミハラハラ:2007/05/06(日) 20:46:08
自分のに何回も投票しているのは1位の方です。
巻向の規模が貧弱とは皆さんそうみていますよ。
桜ヶ岡(直径150m以上あります)があります。また、甘木地区から南の農道には
弥生土器が砂利がわりに敷いたかと思うほど散乱しております。
14 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:56:26
桜ヶ丘の規模とかただの自然地形だろw弥生土器があるって弥生のいつだよ。
単に弥生の遺跡なら佐賀平野の丘陵地にたいがいあるが。
それだけじゃ根拠にならない
>>9 :サガミハラハラ :2007/05/06(日) 19:35:34
>倭人伝の記述から推測される遺跡の規模からみると、発掘された巻向の遺跡遺跡は貧弱であるという意味です。
すぐ近くに、カラコ遺跡があるじゃんw
16 :
サガミハラハラ:2007/05/07(月) 08:03:16
桜ヶ岡卑弥呼墳墓説の最大の根拠は魏志倭人伝の行路記事です。
単に大きな岡があったから卑弥呼の墓だと思ったわけではない。
で・・・・おまえは何回投票したんだ?
サガミハラハラよ。
>>1をよーく嫁。
倭人伝に絡めて議論しろなんて代行さんはひと言も言ってない。
倭人伝と小城説なんか別スレで思う存分やれ。この荒らしめ。
小城説の新スレ立てたっていいんだぜ。誰も文句は言わんだろ。
名無史よ。
藻前も挑発に乗るな。荒らし同罪。
19 :
サガミハラハラ:2007/05/07(月) 16:40:05
小城説の話を持ち出したのはわたしではない。
私は巻向にかんしてこのスレにレスしたのです。が、どなたかが私の小城説に関して意見をのべたので返答したまでです。
じゃあこのスレにもう出て来ないでね
このスレ、専ブラユーザの俺には、こんな風にしか見えないんだが・・・
いったい、ここで何が起きてるんだあ?
4 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
5 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
6 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
7 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
8 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/05/06(日) 18:32:11
つNGname
9 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
10 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
11 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/05/06(日) 19:59:22
そんなマイナーなアンケートで6位でもねwていうか自分で何回も投票してんじゃないのか?
ご苦労様w
12 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
13 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
14 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/05/06(日) 21:56:26
桜ヶ丘の規模とかただの自然地形だろw弥生土器があるって弥生のいつだよ。
単に弥生の遺跡なら佐賀平野の丘陵地にたいがいあるが。それだけじゃ根拠にならない
15 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
16 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
17 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/05/07(月) 08:38:35
で・・・・おまえは何回投票したんだ?
18 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
19 名前:あぼ〜ん[あぼ〜ん] 投稿日:あぼ〜ん
20 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2007/05/07(月) 18:53:41
じゃあこのスレにもう出て来ないでね
>>21 透明あぼ〜んにしとけ。精神衛生上、そのほうが快適だぞ。
23 :
サガミハラハラ:2007/05/08(火) 07:34:35
>>20巻向にかんしてレスするなら出てこないでととれるが、それではこのスレ事態の存在を否定することになるが、
あなたは、何がいいたいのですか?
>>21がいってるように、なんら建設的どころかスレの目的から遊離しているのでは?
嗚呼、今日も又あぼ〜んが増えている。
748 :日本@名無史さん :2007/05/10(木) 08:25:50
纒向京の本格的な発掘調査は、戦後の昭和四十年代からはじまり、
現在百回をこえる回数の調査がなされている。
この地域の多くは私有地であり、民家や田畑のなかに古墳が点在しているような土地である。
また代表的な古墳は皇族の御陵なので宮内庁の所管になっている。
したがって発掘調査は簡単ではなく、予算の関係もあり、
百回をこえる調査で調べられた面積は、推定される纒向京の
二パーセントていどにすぎないといわれている。
しかしそれでも、ずいぶんいろいろなことが分かってきた。
とくにこの十年の成果はめざましいものがあり、
規模からいうと飛鳥京を上まわり、
藤原京に匹敵するほどの大きさと計画性を持っていたらしい
と分かってきたのだ。
26 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 00:04:39
結局、マキムクという大規模な計画都市が、突然に出現した経緯に
興味のポイントはある訳。
つまりは、王権と都市が同時に誕生したのが、プレ・ヤマト政権の成立であり、
古墳時代の幕開け。
その誕生前に、胎動が感じられるのが、吉備、阿波・讃岐、播磨など東瀬戸内地域。
ここら辺りではっきりと、東瀬戸内沿岸部の海商国家群が集結して、
ヤマト政権が誕生したことを認めても良いのでは?
巻向の建設で重要なのは東海地方の勢力。
中世に濃尾平野の織田信長が畿内を中心に
天下統一を目指したのを思わせる。
28 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:38:18
>>27 「東海地方と畿内王権が敵対していた」とまでは言うつもりはないけど、
一応、前方後円墳と前方後方墳という墓制の違いがあるし、
別勢力と考えていいと思うのだが。
織田信長を出すなら、東瀬戸内を勢力下に置いて一時期天下を掌握した、
細川・三好政権の例もあるしなw
29 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 23:45:36
26にも書いたが、マキムクの、それまでの弥生遺跡との隔絶は、
都市と王権が同時発生している点だと思う。
それをどのように捉えるのか?
>>29 >都市と王権が同時発生
王様の住処ができただけでしょ。
で、その王様がいつから存在したかは不明ですよ。
31 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 09:33:17
>>30 要は、そのオウがどこから来たのか?って問題でしょ。
少なくとも、畿内の自生勢力がそのままマキムクに成長した、ってわけじゃ
なさそう。
32 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 09:52:43
前方後方墳は先代旧事本紀(物部氏・尾張氏)系だと思うな。
33 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 09:55:32
>>29つまり、王権者の住居(宮処)が東の山すそにできて、従者や工人、商人他貴族の生活に必要なものを供給する
人々の居住地が現纏向遺跡にできたのです。
宮処は天皇の変わるごとに少し場所をかえて造られたが庶民の住居はそのままのところでした。
>>31 > 要は、そのオウがどこから来たのか?って問題でしょ。
> 少なくとも、畿内の自生勢力がそのままマキムクに成長した、ってわけじゃ
> なさそう。
「自生勢力」って一言でまとめられると何ですが、
同じ畿内でも、大和より河内の方が地理的、経済的に優れていたんじゃないですかね。
北部九州のような伝統的な王権とはレベルこそ違え、
ある程度の地域王権の萌芽のようなものはあったわけで、
それが、出雲、吉備、阿讃、播磨、丹後などの他地域と刺激し合い、
大和川水系域としての王権に成長したってことは可能性があるでしょう。
時期的には庄内開始の少し前、実年代を言っちゃえば2世紀後葉から末のこと。
一ローカル政権が他地域を出し抜いてトップの地位に躍り出たのは、
やはり、東日本と西日本を結ぶハブに成り得る地理的条件と
後漢の混乱に伴う影響で北部九州勢力が相対的に弱体化したこと
などが考えられます。
「九州の弱体化」の証明は難しいが、
この時期には舶載鏡の輸入などが減衰することなどは認められること。
威信財など違い、消費財である鉄製品については、銅鏡のような痕跡は残こり得ないが、
同じような傾向であったのではと推定してみる。
35 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 19:22:49
>>34 >時期的には庄内開始の少し前、実年代を言っちゃえば2世紀後葉から末のこと。
せっかく実年代を言われているので、倭人伝を絡めて言うと。
諸国のオウに共立されたのが卑弥呼で、それは2世紀末〜3世紀初頭。
その成果がマキムク、と考えた方が素直でしょう。
つまり、大和川水系のみというより、他地域から色々人が集まって、
短期間にヤマト王権を創業したというのが真相では?
>>34 この古代史の研究で注目すべきことは
現在と上古代とでは、海岸線から、河川から、湖から
大きく異なるということ。
3世紀当時、大和盆地には、巻向、唐古鍵遺跡の近くに
大和湖が広がり、河川の幅も広く、
また、唐古鍵遺跡の近くに、大阪湾までに流れている河川があって
唐古鍵遺跡が重要な港町だった可能性が出てきたこと。
37 :
34:2007/05/20(日) 20:26:15
>>35 > >時期的には庄内開始の少し前、実年代を言っちゃえば2世紀後葉から末のこと。
> せっかく実年代を言われているので、倭人伝を絡めて言うと。
> 諸国のオウに共立されたのが卑弥呼で、それは2世紀末〜3世紀初頭。
> その成果がマキムク、と考えた方が素直でしょう。
> つまり、大和川水系のみというより、他地域から色々人が集まって、
最初の大溝が掘られたころの纏向は、まだ王権所在地といえますかね?
取りあえずは、大和川水系の統一が前段と考えることも出来るでしょう。
庄内が河内発祥だとして、その技術者集団が纏向に定着したころには、
ヤマト臨時連合王権みたいなものになっていたかもしれませんがね。
王都に纏向が選ばれたのは、多少なりともコアになるものが有った方がわかりやすいです。
38 :
34:2007/05/20(日) 20:28:55
>>36 > この古代史の研究で注目すべきことは
> 現在と上古代とでは、海岸線から、河川から、湖から
> 大きく異なるということ。
> 3世紀当時、大和盆地には、巻向、唐古鍵遺跡の近くに
> 大和湖が広がり、河川の幅も広く、
> また、唐古鍵遺跡の近くに、大阪湾までに流れている河川があって
> 唐古鍵遺跡が重要な港町だった可能性が出てきたこと。
でも、畿内での中心港は、庄内期には中田遺跡や久宝寺遺跡など
河内湾岸であることは間違いないでしょう。
39 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 03:45:53
>>37 >最初の大溝が掘られたころの纏向は、まだ王権所在地といえますかね?
そのような大土木工事を可能にしたのが、王権の誕生だと思います。
それまでは鉄器だって殆ど無かった訳ですし。
>王都に纏向が選ばれたのは、多少なりともコアになるものが有った方がわかりやすいです。
うーん。そうなると、倭人伝の記述と合わない気がしますが。
倭国全体を包摂する女王の共立と、マキムク開始が同時期になる訳ですし、
マキムクは他勢力との共同建設と見るべきではないでしょうか。
庄内開始を2世紀前半に持ってくるなら話は別ですが。
40 :
39:2007/05/21(月) 04:03:15
「倭国全体を包摂する女王の共立」=「ヤマト王権の誕生」という意味で
書きました。
私は別に、「大和・中河内地域が、政治勢力の空白地だった」と言うつもりは
ありません。
王都の場所に選ばれるくらいですから、それなりにイニシアティブを取れる
勢力ではあったんでしょう。
ただマキムクの立地は、対東海を見据え(交易もしくは競争相手として)、
三輪山の宗教的権威を利用するために選定された、と考えます。
何も無い所にいきなり都を造るのは、王権の存在が無ければ無理でしょう。
41 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 22:13:48
庄内開始期に起こっている、環濠集落の環濠一斉埋め立ても、王権の誕生を示唆している。
王権により王都が営まれ、弥生時代より続く自給自足的な拠点集落は解体されたのだろうと。
42 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 08:13:43
庄内開始を二世紀前半にもってくれば、全てが解決すると思うのだが。
筑紫、吉備、出雲に遅れて、二世紀前半に大和川水系でも王権が誕生する。
その後、二世紀末頃に、女王を共立することで、西日本諸国が連合。
後漢衰退に伴い筑紫王の権威低下。政治的混乱、寸断された交易航路の回復を目的に、
新しい権威を創造した。
恐らくは、漢からの独立を謀る公孫氏の思惑もあったのだろう。
公孫氏を通じて流入したとされる画文帯が、畿内を中心に分布することからの類推。
36 :日本@名無史さん:2007/05/21(月) 16:49:49
神武東征って、そのあたりの神話って
みんな意外にちゃんと読んでないだろう?
古事記、日本書紀、旧事本紀白河本、海部氏系図などを総合してみたら
もともと日本は、出雲王朝(本拠地は大和?)が支配していました。
そこの臣下にカチハヤ(官位はアメノオシホミミ)という人物がいて
その長子にニギハヤ、次子にニニギがいましたとさ。
まずニギハヤが出雲王朝に謀反を起こし革命が成功、
アメノホアカリとして天津系の初代倭王になりました。
しかし、それから三代後、弟のニニギの子孫である神武さんが
ニギハヤの三代後の倭宿禰命から王権を奪取、
神武王朝が始まりましたとさ。
ちなみに、「ミミ」「ミミナリ」というのは出雲の官の名称。
神武の先祖・子供などに「ミミ」がついた呼称が多いのは
出雲王朝の影響でその官名を引き継いだのが大きく影響しているだろう?
ちなみに、神武の正妻との子供の長子には「ヒコ」があっても「ミミ」がない。
これは彼が最早、一官ではなく、倭王の新しい後継者と確定したからであろう。
(ただし、彼は早く死んで王位を継承することはなかった)
>>43 神武東征神話って、成立したの、5世紀末〜6世紀初めとされてるからな。
イワレヒコじゃなくアナシヒコ、カシハラじゃなくマキムクなら、
まだもうちょっと信憑性があったんだけどね。
45 :
日本@名無史さん:2007/05/24(木) 21:48:25
>>42 大体合ってる。
庄内が2世紀前半に始まるってのは、最新のC14や年輪でも言われていること。
要は、弥生後期〜終末期に倭国全体でパラレルに起きた、王権の発生という現象が、大和川水系の首長間でも起きた、ということなのだろう。
石塚に埋葬された初代ヤマト王から数えて数代。三輪山の巫女が倭国大連合の代表に選出され、大和王権が生まれる。
彼女は、魏から倭国王として承認され、円筒埴輪が林立する最初の墓―箸中山古墳に埋葬された。
合ってるわけねぇだろ。最近へんなやつが増えたなぁ。
>>44 神武東征らしきことはあったんだけど、
それは、皇室のことではないのかもしれん。
やったのは、海部氏・尾張氏などの先祖。
また、元々は彼らは出雲王朝の臣下で、九州に派遣されていた連中が
大和で天下を取ったと。
>>46 合ってないというか、そういう解釈が妥当ということだろ。
49 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 08:11:26
神武東征神話は、大昔、九州から大王がやって来て大和で即位した、という口承がもとネタだろう。おそらくは応神がモデル。
ただ、マキムクの成立を見る限り、九州の影響はそんなに大きくはない。
実際のところ、鏡くらいで、しかも九州の破鏡の風習は採用されてない。むしろ東瀬戸内の影響の強さが、近年指摘されている。
倭人伝の記述とも相違がある。倭王権成立は、華々しい遠征でもたらされたものではなく、あくまで女王共立という政治的決着で成し遂げられた。
いい加減、ジンムの呪縛からは逃れるべきだろう。
>>49 それは最近、否定されているので、却下。
むしろ、神武東征の話は
出雲王朝、海部氏、尾張氏、物部氏、皇室との関係で
語られることのほうが注目。
51 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 12:43:05
そもそもジンム神話の内容自体が眉唾、信憑性がないんだからさ、「否定されている」とかの言い方自体がおかしいだろ。所詮「神話」なんだからさ。
ジンムは神話解釈や神話比較で語られるべき事。神話に無理矢理史実性を求めると、足をすくわれるよ。
52 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 13:13:42
神武伝承のどこが神話なのでしょうか、教えてください。
53 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 13:40:29
神武はその御名に『神』の字があり神話だという主張はできるわけであるが、
紀の神武の条は具体性に富むところ海部氏の古文書と二体の鏡のことから
単に神話だとして片付けるのは早計であろう。
54 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 13:50:30
神武の名は8世紀に淡海三船がつけた名だけど、彼が神という字を使ったからって何故神話となるのでしょうか。
どなたでしょうか、そんなことおっしゃっているのは、お考えが稚拙すぎませんか?
55 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 14:09:15
記紀成立後、それを見ながら書いた系図だろ。そんなものを根拠だと言われてもな。
56 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 14:11:10
>>55 二枚の鏡まで否定するのか?文証を否定して物まで否定か?
57 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 14:14:41
この鏡は記紀成立後ではないぜ。紀元1世紀、紀元前1世紀だ。
充分信用できる。これも否定なら津田病に罹患している可能性が
あるから、精神科で早急に診療を受けたほうがいい。
58 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 14:36:13
熊野から鴉に連れられて、吉野から奈良盆地に入ったと言われてもなーー
昔の皇国史観に毒された連中ならいざ知らず、現代においては信じろと
いう方が可笑しい。
59 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 14:51:23
>>58 お前はあまりにも左党をなめすぎて[固代歯]の忠崇神敬がいかれる寸前に来て
いるようだな。津田もそうかも知れんが、象牙の塔にこもる左糖が好きな学者
の説をなめすぎているようだから警戒せんといかんぞ。
そのまま行けば、お前は餌舐める質と象牙質が穴ー空きの危険な歯層の状態
に至る。あいつらは歯科医糖と強酸糖にとりつかれてるから、同道しない
ほうがいい。それ以上進むと「虫欠く歯」と「欠く0歯」と仲が具合よくなり
まもなく地獄の歯痛たる警告がやって来る。
60 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 15:05:41
完全に皇国史観よりひどい皇国宗教になってるな。
記紀の神話は面白おかしく読みとばせば、それで
いいと思いますよ。
もともと、当時の権力者が編纂した昔話でしかない。
61 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 17:31:55
庄内前半の萩原1号に建安年間=2世紀末から3世紀初めの画文帯神獣鏡があるから庄内が2世紀前半からとか論外
また九州の庄内式以前に平行する後期後半の時期に2世紀代の鏡がある
庄内式は早くて2世紀末からが妥当
62 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 17:41:27
鏡の編年自体の信頼性がどこまであるかだよな。
紀年鏡ならともかく、そこまで製作年や渡来年を断言できる代物じゃないのは確か。
63 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 18:25:28
>>60 お前もだいぶ危険な歯層に冒されているようだな。かなり思想脳露雨の状態に
あるようで、強酸糖でリトマス史見歯が赤化しているらしいな。ww
64 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/25(金) 19:37:04
>>62 君の場合はおおむね論が通っていえるかも知れない。
が、しかし、断言できない事情が二点の名詞で書きこんでいるだけで、
どのように製作年に疑問があるのか、たとえば測定者の器械が整備不良とか、
そこから出る結論の渡来年に誤差が著しく出ていて1000年位誤差が出て
いるはずだとかの例示、論拠とかが具体的に見られない。
そこまで詳細に書きこめれば、こちらはうんなるほど再考せねばなるまいと
いうことになる。それがないと君の抽象的一過言でおわりになてしまう。
何で、こんなところに太国が出張っているんだ?
えらくスレ違いだぜw
66 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 22:03:26
庄内開始の実年代を二世紀末にしたい連中が多いみたいだな。
実際、実年代なんて、そこまで詳細に分かっちゃいないだろ。結局、倭人伝の「女王共立」の記事を、マキムク王権の成立のことだと思い込んでいるだけ。
やれやれ。
67 :
sage:2007/05/26(土) 00:29:22
>>62 鏡の型式学的編年と紀年鏡と漢墓での出方で検証している。
萩原の神獣鏡を2世紀前半などにするやつはいない。
68 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 01:22:47
海部氏の伝承でも色々あって、ある海部氏の人の話では
アメノホアカリとニギハヤヒは同一神とする伝承はあるんだが
一方で、本当は別々で、両方とも大和への降臨伝承もあるらしい。
そのへん、いろんな伝承が混合しているとのことです。
その海部氏の伝承では、アメノホアカリは子や孫と一緒に
河内、丹波、大和へ降臨したんですが、
その曾孫は、孫が日向に派遣された時にできた子供だそうです。
つまり、アメノホアカリの子孫も日向とも関係しているらしいです。
>>67 だから、型式変化の年代幅も適当に決めてるんだし、
そこまで断言できるのはどうかと思うが。
>萩原の神獣鏡を2世紀前半などにするやつはいない。
71 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:14:56
昔は、弥生中期末の高地性集落や石鏃の大型化を「倭国乱」の証拠だとして、
その実年代に編年を合わせて、古墳時代の始まりは四世紀初頭とされていた。
それが今は、ヒミコ共立を庄内開始と同時期と想定して、大体の大雑把な実年代観を決めている。
少なくとも庄内開始を二世紀末と断言できる根拠は今のところはない。
というか、倭国大乱が、どの程度のものか分からんのよ。
いったい、どのくらいの範囲で
どの程度、続いたのか?とか。
戦国時代みたいに、何世代にわたって、頻発したのか、
あるいは、源平合戦、関が原みたいに、短期間で終結したのか。
73 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:40:28
倭国乱の時期(二世紀初めから末頃)が、土器編年でいつ頃に当たるのか分からない(議論が分かれている)ので、
何とも言えない。
ただ、編年で語れば、弥生中期末に大幅な人口減少があって、弥生後期は一転して人口増が続く。
その後期の流れの中、弥生終末期に倭国各地で同時多発的に王権が生まれてくる。
あえて言うなら、倭国乱とは、恐らくこの弥生終末期の状況を指すのだろう。
74 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:45:41
倭国大乱は中国の使者が見た倭国 中国は、戦乱=日常茶飯事
途中で倭国に来れなくなった=中国の戦乱の為
其の国が倭国大乱と記し7,80年と書いているのだから
話半分でも4,50年 10年以下は無いでしょう
崇神治世中は、畿内静謐、天下泰平
逆に読めば、他は、大変だ となる。
倭国大乱がどの程度の戦いだったか
明確な数字を表すことなんて不可能だし
この弥生時代の人口だって、確実なことは何一つ分からない。
考古学の力では限界がある。
中国の史書に書いてある倭国大乱は、
中国で起こった大乱と同時期に書いてあるから
かなり中国人の著者の推測が入っているので、
確かなことは全く分からない。
76 :
サガミハラハラ:2007/05/26(土) 16:05:58
倭国乱とか倭国大乱とは中国史書に現れる倭国の情勢です。
時期は156年から183年の卑弥呼共立までの期間です。
乱の原因は王位継承にあります。主に北部九州の地であらそわれました。
瀬戸内の高地性集落はこの乱とは全くの無関係です。なのに、考古学者は
これらの集落を倭国乱の時代のものとしたため、考古学の編年におおきな悪影響を
及ぼすこととなりました。
77 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:19:05
>>58鴉につれられて奈良盆地に入ったのが神話ですか。
では、ポチが「ここ掘れワンワン」とほえたので、ほったら大判小判がでてきた
というのも神話ですか?
78 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:47:45
「倭国乱」という言い方は漢文からそのまま抜き出したの表記なんだろうが、
日本語としてはこなれていない生硬な表現だな。
これなら、まだ「倭国大乱」の方がいい。
どうしても倭国乱を使いたいのなら、せめて「倭国の乱」とでも表記してくれ。
その方がずっと日本語らしくなる。
79 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 18:48:15
「倭国の乱」ではない。「倭国乱れ」です。
80 :
唐松山:2007/05/26(土) 19:35:20
戦乱より 上下の乱れ
に 賛成
81 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:18:25
だから、その倭国が「乱れた」状態や時期に名称を与えるのなら、
「倭国の乱」でいいんじゃないの?
82 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 20:41:37
どっちでもいいよw
ただ、倭国乱の実状が分からない以上、倭人伝から抜粋した「倭国乱」(倭国乱る)が妥当であろうと。
倭国大乱と書くと、物凄い戦乱があったというイメージが付いてしまうからな。
かといって、「倭国の乱」とか用語は誰も使っていないし、無用な混乱を招くことはしないでいいだろ。
大体、「《地名》の乱」って日本語自体おかしい気が。
明治以降なら佐賀の乱や萩の乱があるな。
確かに日本語としては違和感が残るが。「の」の使い方として。
年号+乱、人名+乱が普通の用法な気がする。
天皇一代一年号になったこと。反政府指導者が祭り上げられることを恐れた、明治新政府の指示かもしれん。
>「の」の使い方として。
おかしくはないだろ。あの当時、不平士族の反乱が頻発していたから、「《地名》の乱」と呼ばれた。
多くの乱を区別する必要が生じたから「の」が使用されたと。
「倭国の乱」って、日本語としておかしいだろ。
「日本の乱」とか「アメリカの乱」と書いてみれば分かる。
86 :
34:2007/05/27(日) 00:39:50
>>85 「乱」=「叛乱」ってわけじゃないから「日本の乱」に違和感の無い人がいてもいいんじゃないの。
中国側の視点に立った「戦乱」「擾乱」「騒乱」・・・そこら辺りをイメージしちゃう人もいるでしょう。
>>86 〜の乱と書けば、内乱、内戦の意味になるよ。
「倭国の乱」ってのが日本語としておかしいのは、「倭国乱」以上だと思うが。
もっと限定された地域なら、用法としておかしくない。
国全体で、〜の乱と使用するのがおかしい訳で。
たしかに、「〜の乱」の〜部分には、内乱・内戦の主体者か、その乱が起きた時の年号が
入る。国全体が〜部分に入る違和感は、そのあたりにあるのだろう。
>どうしても倭国乱を使いたいのなら、せめて「倭国の乱」とでも表記してくれ。
>その方がずっと日本語らしくなる。
その反論、そのまま熨斗を付けてお返ししますw
「倭国の乱」と書いてしまうと、
承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼も含まれてしまうなw
90 :
34:2007/05/27(日) 02:01:01
>>87 > 〜の乱と書けば、内乱、内戦の意味になるよ。
> 「倭国の乱」ってのが日本語としておかしいのは、「倭国乱」以上だと思うが。
> もっと限定された地域なら、用法としておかしくない。
> 国全体で、〜の乱と使用するのがおかしい訳で。
だから
>>81氏と貴方じゃ、「倭國」を眺める視点が違うんですよ。
>>90 正直どっちでもいいのだがw
日本語としてどうかという話だから、「倭國」を眺める視点がどうとかは、関係ないと思うけどな。
あなたの言うような意味で、「〜の乱」と使用された例を挙げてみて下さい。
92 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 07:49:59
ポチの話はどうなったのでしょうか?
93 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 08:23:27
でも「倭国乱」は日本語の歴史用語としてはこなれてない。
長くても、あえて「2世紀後半の倭国の動揺」とか書いた方が、まだマシだ。
94 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 08:28:42
そもそも、騒乱や戦乱ではなく、政治的・社会的な混乱にすぎないのなら、
「2世紀後半の混乱(動揺)」でいいんじゃないの?
あえて動詞を名詞化して「倭国乱」なんて、違和感のある言葉にしなくても。
>>93-94 じゃあそう書きなさい。
僕は別に、君に、そんな長々と書くのは面倒でしょ、とか言うつもりはない。
君の方も、自分が違和感を感じたからといって、他者に強要なんかしないこと。
大人の社会ってそんなものだよ。要は内容が伝わればいい。
96 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 12:29:51
別に怒ることなかろうにw
あのう、みなさん、纏向遺跡については、どんな考えをお持ちですか?
98 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:23:04
>>97 35 :日本@名無史さん:2007/05/20(日) 19:22:49
>>34 >時期的には庄内開始の少し前、実年代を言っちゃえば2世紀後葉から末のこと。
せっかく実年代を言われているので、倭人伝を絡めて言うと。
諸国のオウに共立されたのが卑弥呼で、それは2世紀末〜3世紀初頭。
その成果がマキムク、と考えた方が素直でしょう。
つまり、大和川水系のみというより、他地域から色々人が集まって、
短期間にヤマト王権を創業したというのが真相では?
99 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:36:11
>>98 庄内開始を二世紀末と考えればそうなる。
卑弥呼共立という倭王権誕生で、計画的に造営されたのが纏向。
ただ、布留0が3世紀半ばだと考えると、庄内の期間が50年となる。
あれだけの土器の型式変化を、50年の内に詰め込むのは無理が
あるように思うが。
庄内は50年ぐらいで100年に引き伸ばすのは無理じゃねぇか、
と昔から言われてるのだが。事実かどうかはともかく。
101 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:56:02
>>100 昔、っていつ頃の話?
むしろ、庄内甕が注目されてきたのは最近のことだろ
>>100 ほなら中とって75年にしまひょか。
どないだ? わりとええ線やと思うで。
これで手ェ打ってくれまへん? 頼んますわ。
と、まあこんなように、土器編年を実年代に合わせるのは非常に難しい。
常に、数十年単位の誤差を想定しないといけない。と。
じゃあ、どうすればいいか。
倭人伝に惑わされることなく、実年代じゃなくて、土器編年のみで語るか。
もしくは、C14や年輪などの、科学的年代測定法に頼るか、だ。
>>96 怒ってるわけじゃなく、諭してやってるんだよ。
106 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 16:07:18
土器編年のみで語れば、庄内開始時に、大和盆地南東部に王権が突如誕生。
近隣にある、弥生以来の自給自足の拠点集落が解体され、計画都市マキムクが
造営される。
それまで殆ど出土しなかった鉄器が、マキムク型に大量に副葬されるようになる。
吉備の影響の強い庄内甕が河内→大和の順に大量生産されるようになり、
倭国各地に多数搬出され、更には技術伝播するようになる。
107 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 17:21:10
素人としては、土器と歴史を関連付けるのがどうしても理解できない。
たとえば、磐井の乱や壬申の乱は土器でわかるのか?
たとえば、須恵器の登場・普及を政治的な出来事と関連付けられるのか?
>>107 遺跡や古墳の前後関係を推測する。
貨幣や中国鏡などが共出すれば、その土器が使用されていた年代が
大体わかる。
文献が倭人伝くらいしかない時代の話なんで、残り易い土器を
用いて、時代を区分する。縄文時代とか弥生時代など。
弥生のあと、土師器が生まれ古墳時代に。いま注目されているのは庄内甕。
それまで、地域ごとに特色のある弥生土器が作られていたのが、
非常に広範囲で出土するようになる。また全国各地で古墳が造られるように
なる時期でもあり、大和王権の成立と絡めて考えられている。
109 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 14:49:56
110 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 15:24:18
>それまで>殆ど出土しなかった鉄器が、マキムク型に大量に副葬されるようになる。
鉄器部族に征服されたあとだから、出土するのは当たり前。
マクムク遺跡分からは、石器や木製の鍬・鋤が出土する。
時代を適当にさばいて、記述するのはよくない。
111 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 15:50:24
>>110 その鉄器部族(笑)とやらはどこから来たんだい?
北部九州?
ならばなぜマキムクにほとんど北部九州の土器や武器形式が出土しないのだろうね。
ちなみにマキムクどころか河内や吉備、出雲でもほとんど出ないね。
飛行船にでも乗って攻めてきたのかねぇ。
まあホケノ山出土の鉄鏃は吉備形式の可能性が極めて高いから、吉備の鉄器部族(笑)にでも制圧されたとでもいうつもりかな?
もちろん石器(非常に少数だが)も木器も出る。
東海系の土器も大量に出る。河内も吉備も紀伊も阿波も出雲も丹後も北陸も関東もね。
さてどこの鉄器部族(笑)が征服したのですかw
112 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 16:02:29
「○○(笑)」とか使ってるヤツは未だにウケるとでも思ってるの?
VIPネタにしても古すぎるよ。
113 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 16:18:29
マキムク遺跡には、破壊された、銅鐸が多数出土している。
マクムク遺跡は銅鐸文化の農耕民族で戦闘集団ではない。
マクムク遺跡は環濠集落でないため、他部族からの侵略
には弱い。
残念ながら、マキムクの農耕民族は制圧されたのだよ
>>113 むしろ逆なんだよ。
巻向周辺にも環濠集落が多く発見されている。
よって、環濠集落は、この時代の畿内でもスタンダードだった。
しかし、巻向ではそれが存在しない。
これは、この巻向に出来た政権が圧倒的な軍事力と支配力があって
わざわざ環濠集落など作る必要が無かったと考えるべきなんだわな。
だって、平安京や平城京だって、環濠集落ではないわけだからww
なんか、スレのレベルが急激に落ちている気が。
「マキムクに、多数の破壊された銅鐸が」とか、いったいどこからそんな話が。
マキムクは庄内から二百年くらい続いてるだろ。
青銅祭器を捨てて古墳祭祀が始まるのは、庄内以前の話。
適当に書き散らさないでくれ。
なんかさ、九州説のやつ
適当に話を書きすぎ。
いまだに、和辻哲郎の邪馬台国東遷説を語る奴がいるのか。
119 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:10:55
>>118 いっぱいいるよ。真実は時代に関わらず不変だ。
コロコロ変わる虚偽の説とは違う。
>>119 馬鹿がいるのは何時の時代でも普遍だw
きみみたいなのw
121 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 09:37:32
>これは、この巻向に出来た政権が圧倒的な軍事力と支配力があって ・・
妄想ですよ
石器と木製の鍬で、どうやって周辺諸国を制圧できるのか
具体的に明示してくれ。
>>121 もういい加減に眼を覚ませ。
マキムク周辺からは普通に鉄器なども出てくるんだよ。
多分、マキムクと唐古鍵を勘違いしてると思う。
そう読み換えても、間違いが多いが。
124 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 16:00:29
>>122 時代が違うのにいい加減に気付けよ。
邪馬台国当時は、近畿は石器文化だよ
125 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 16:05:09
邪馬台国は2世紀から3世紀、
マキムクを含め、鉄器部族に制圧された後に、鉄器が
出土するのは当たり前。
畿内説論者は4世紀以降の話を、いつも2世紀3世紀に
置き換えようと詭弁を弄する。
126 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 16:27:32
そうそう。「謎の女王 卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!7 」では
「箸墓を300年より古く見るなんてカルトのレベルだから」
という説で固まりつつある。ここのスレのように 「庄内開始を二世紀末」だなんてとんでもない。
ドン来いスレでも僕が
「>庄内式が4世紀前後に開始する。ホケノ山はその頃の築造で、箸墓はその少し後」
と言ったら 「この前提が大デンパ。 ホケノ山は庄内初期じゃなくて「布留0」、箸墓は「布留1」以降。」だって。
すごいでしょう。
127 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 17:08:30
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 17:57:58
吉野ヶ里遺跡が発掘されるまで、マクムク遺跡や唐古・鍵遺跡こそが
邪馬台国の跡だとする畿内説が多数を占めていた。
ところが、唐古・鍵遺跡には楼観・邸閣がなく、倭人伝の記述と相違
しているとき、畿内説の連中は、倭人伝の記述は間違っており、当時の
邪馬台国と相違していると主張していた。
吉野ヶ里の発見により、その説がダメになると、今度はマキムク遺跡
唐古・鍵遺跡の年代を1世紀前倒しにして、畿内説を展開している。
いい加減にしろといいたい。
いいかげんにしなきゃいかんのは
商売がかかっている九州説。
土器編年と実年代の違いが分からない奴は書き込むなよ。
130 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 18:20:13
>>129 実年代?
何を指して実年代と?実年代とはあくまで石碑などに年代が刻まれて動かないものを言う。
そんなものは殆ど無い。「土器編年と実年代の違い」など言ってる自分さえよく解ら無いくせに
軽々に言うもんじゃない。
131 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 18:28:22
実年代の分かるものが殆んどないから、あくまで土器編年をメインで語るべき。
ていうかそれしか方法がない。
ここまでは分かる?
132 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 19:17:54
とことんまで追い詰められているな>九州説
ですが程度では到底ひっくり返せまい
133 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/29(火) 20:41:06
>>131>>132ですが程度では到底ひっくり返せまい
まあ確かにちょっとでも僕より考古学の専門知識に詳しそうだから
どのようにでも口八丁で誤魔化せる自信がありそうな口ぶりだな。
嘘ついてるのを自覚してるようだ。
>129
ならなぜ「土器編年と実年代の違いが分からない」などと言った!
実年代の例を出してみよ!土器編年も鏡の年代から割り出す不確実なもの。
誤差があって当然だろう。
>>133 >土器編年も鏡の年代から割り出す不確実なもの
はあ?何それ
そんなの初めて聞いた
おまい今までそういう風に土器編年を捉えてたのかよ
135 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 21:25:52
>>132 阿呆ですか? 何がどう追いつめられてるんだ?
136 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 21:32:28
>>132 藻前、巻向逝った事ある?
一度、逝って崇神天皇陵や景行天皇陵あたりから巻向遺跡の方を眺めてみな。
かなり傾斜があって、このあたりに自然発生的に大きな人口を持つ国が出現
したとは思えないぞ。
137 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 21:32:54
ですがクン
今宵は歴史用語の基礎をいくつか教えてもらえそうだよ。
ノートとエンピツを用意しておいたほうがよいよ。
138 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 21:52:17
>>136 >このあたりに自然発生的に大きな人口を持つ国が出現したとは思えないぞ。
そりゃそうだろう、2世紀末頃に人工的に生み出された集落なんだから。
それまでのどの弥生集落ともまったく性格が違う。
感情的な反論は止めてねハート
>九州くん
140 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:47:56
このスレでは、実年代、つまり倭人伝は、補足的資料として使ってるわけ。
あくまで考古学、土器編年で考察してる。
無理して付いてこなくていいから。
ドンこいスレに退散おながいします
141 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 23:09:29
>>140 土器変年などという、オタク学問も存在するのか・・
土器の埋蔵年代の資料をコツコツ収集して、地道に
学問するから、精神抑圧状態になって、こんなスレで
感情的になってるのかね。
単なる考古学の1手法を偉そうに講釈するのが、日ごろ
の抑圧の発散かね。
考古学の基本は編年。そんなことも分かってくれないのか
人と人は分かり合えないものだな
143 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 23:23:42
>>142 このスレは皆、邪馬台国大好き人間の集合スレです。
例え陳腐な記述であっても、自分に反する記述であっても
自分の説のみの優位性を自慢げに記述しても、よい記述で
あっても、感情的には賛同できません。
邪馬台国の問題に、絶対がないからこそ、皆に愛されているのに
絶対論を展開し、他のスレを意味が無いような記述では分かり合えませんよ
過去何十年も、江戸時代ですら、邪馬台国論争はあったのだから。
144 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:35:54
ごめん。
このスレは、その不毛な邪馬台国論争から脱却するのが目的なんだよ。
つまりは、考古学の発展で、倭人伝無しでもある程度、倭王権誕生のプロセスが解明されつつある。
とにかく、欧米の学会では
土器編年は相対年代であって、絶対年代は分からないんだから
日本も年輪年代測定法の研究を進めていくべきと進言しているんだろう?
だからこそ、日本の考古学会もこの研究に力を入れだした。
今のところは光谷氏中心だけど、他の人もやりたがっている。
なのに、九州説論者は必死になって、年輪年代測定法を否定し
土器偏年だけで、絶対年代を割り出そうとしている。
土器偏年は相対年代しか割り出せないと明言しておきながら
必死になって九州説の願望にかなう絶対年代を主張しまくることの矛盾を
どう考えている。
>>136 あのさ、現にあのあたり
大和国は45万石くらいあったわけだから中世は。
十分に人口を養えるだけの実績があるんだよ。
なぜ、九州説論者が必死になって
意味不明なことを言いまくるかは分からんけど
おそらく、これまで九州説の多くの書籍を販売したために
商売上、もう後戻りができないからというのがある。
よって、あんまり商売に足を突っ込んでいない九州説論者は
ほどほどにして畿内説へ転向して、別の学問に転向した人もいる。
148 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 05:27:15
あら?ここに書き込んだことすっかり忘れてた。
笑えるレスの数々。眼福ご馳走様です。
149 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 10:46:03
>>143 >>144も書いているが、邪馬台国の位置論争をするスレじゃないんだよ。
学問レベルとしては、すでに九州説そのものがまったく取り上げられなくなってしまった。
現に考古学だけでなく、他の歴史に関連するすべての学問において
九州説を主張する論文(もちろん正式なもの)は、少なくともここ30年ほどはひとつもない。
たまに他分野からの参入で、そういった主張が出されることはあるが
残念ながらそのどれもが正式な手続きを踏んで提出された学術論文ではない。
それらを踏まえ、学術論文レベルの話をしようというのがこのスレであって
邪馬台国の場所がどうたらなどという過去の亡霊は
乱立する他のスレで好きなだけやればいい。
ここは邪馬台国大好き人間の集合スレではないんだよ。
150 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/30(水) 12:06:28
女王国の学術論文が『あるとかない』とかは女王国の位置には全く関係がない。
関係があるのは、記紀に女王国の記述が詳細に『あるかない』かという事である。
遠い外国の外様の古文献たる倭人伝に内地の記紀を大幅に越えてその詳細の
卑弥呼の情報があるのに、なんとご本家の古文献には雀の涙しか卑弥呼の記述が
ない。このことが重要なのである。これは卑弥呼の国が大陸に近い九州の所在で
あったことを物語っている。
だから大陸に近く畿内から遠い日本の場所に女王国があったから、記紀に女王国
の記述が蚊の鳴くほどしかなく、遥か彼方にあった倭人伝にその詳しい情勢が
記述されたのである。
しかしながら彼の言うとおり、ここは女王国のスレではないから、これまでと
してずらかることにする。
151 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 12:37:44
ここはマクムク遺跡のおたく学界厨のスレでつか
152 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 13:05:59
そうです。ここはマキムク遺跡のスレです。ここ(畿内を含む)は邪馬台国の所在地ではないので、
今後邪馬台国や卑弥呼のことは話題にしないでください。
153 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 17:46:53
せっかくだから、畿内厨をからかおうかと思っていたのに・・
いや、考古学に比重を置くなら、ヤマタイコクの話やヒミコの話もオッケーだろ。
155 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 18:58:49
それでも避けてください。
156 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 19:12:46
>>155 倭王権成立の議論は、別に推理小説や思考実験って訳じゃないから。色々なアプローチがあっていい。
当然、重要度は考古学>倭人伝になるんだけど。
157 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 19:25:55
ヤマタイコク万歳の人たちは、倭人伝解釈がメインだから。倭王権どうこうは関係ない。
倭人伝を読めば全てが分かるように書いている、という信仰的な大前提がある。
聖書の暗号などの類と同じ。
そもそも、ヤマタイコクやヒミコが話題になったのは、倭王権成立との絡みであった筈なのに、
いつのまにか、謎の国・女王自体に興味が移ってしまったわけだ。
これらヤマタイコク厨と、倭王権の話がしたい連中は、十分に住み分けが可能だと思うが。
158 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 19:32:36
弥生後期、倭国王の地位に玄界灘グループがいたことは確かだろう。
北部九州から畿内へ倭国王位が移るのが、土器編年で庄内の頃に該当するのも、異論はないと思う。
で、庄内の頃に起きたこの政権交替劇をどのように解釈するのか。大和の急激な台頭。その時何が起こったか。
159 :
しきり屋:2007/05/30(水) 20:52:04
ここはマキムクを中心とした王権についてのスレです。
ヤマタイ国とのすみわけの必要はありません。
160 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 21:09:31
まあ、なんだな
要するに邪馬台国厨つーか特に九州説の連中は
相手にして欲しくてしょうがないのかね
倭王権についての考察スレだから
九州説はおろかニニギ・物部・神武あたりが大好きな自称畿内説もスレ違いなんだがねえ
ここで荒らし認定され無視されながら、誰も読まない文章を書き連ねるくらいなら
各地のシンポジウムにでも参加して、直接質問するほうがよほど建設的だと思うが
そういう、まともな行為はしないつーか出来ないのかね
161 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 21:29:06
>>158 この「倭国王位が移る」というのは微妙だね。
確かに中国の認定する倭国王の所在は移動したと見てもいいかもしれない。
ただそれは政権交代ではなく、ツクシという地方王権のオウが倭国の王と認定されていた時代から
さらに広域な主張連合の代表としての、倭国王の時代に移行したと見るべきだから。
2世紀末にこの連合が成立したとすれば、当時はツクシだけでなくイズモやキビ、カワチ、トウカイその他
数々の地方王権が並列していたと考えられる。
それらが一種の空白地であった大和に、通商拠点である纏向を共同で築いたその時点では
政権交代などという政治劇は起きているかどうかは、まだはっきりとは言えない。
まずツクシがすんなり同意したのか、それともやむにやまれぬ状況だったのか
またこれは東遷でも東征でもないが、特に宗教概念においての影響や実質的な人材移動があった可能性もある。
また初期母体であった東瀬戸内以東のクニグニが招聘した可能性も、現時点では捨てきれない。
柳田などはこういった考え方をしているので、それも含めて出土物から見てその可能性はどれくらいあるのかを考察してみるのも面白い。
>>1にあるように「どこが」主導したのかが、纏向の正体を掴む重要なアプローチだろうから。
しかし念を押しておくが、記紀やら倭人伝やら邪馬台国やらとの、語呂合わせ的パズルごっこは要らんぞ。
ところで、考古学からは、
頼朝が京都からやって来たとか、
家康が三河からやって来たとか、
分かるの?
163 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 23:52:43
>>162 考古学の限界でしょうな。
人間の心理というものがまるで加味されない。
164 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 00:21:04
>>162 そういった文献に残された事象が、真実であったかどうかが分かる。
古代史ではないが、比叡山焼き討ちが史実ではなかったとか
永らく存在が確認されていなかった難波京が実在したとかね。
165 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 00:42:02
倭の奴国王の金印の話は
単に、倭の中央政権の混乱期に
地方政権の奴国王が独自外交を強めていただけだと思うがね。
ちょうど、戦国時代に九州の大名が
独自外交をしまくっていたみたいに。
166 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 03:47:10
>>165 さすがに1世紀中葉に連合政権があったとは考えにくい。
その頃に畿内どころか吉備や出雲などが
北部九州との密接な交流があったとするには、お互いあまりにも外来式土器が出土しない。
庄内式の広範囲で大量の分布というのは、日本土器史においては画期とでも言うべき大事件だからこそ
その時期に広範囲な通商が組織的に行われたとする考えが出てきたわけで
それ以前に遡るのはさすがに無理がありすぎる。
墳墓や副葬品にしても形式がまったく一致しない。
2世紀頃から徐々に各地で外来式が目立った形で出土することから
その萌芽をそのあたりに見ることは可能だろうが
むしろそういったゆるやかな繋がりを経て、徐々にその下地が形成されたとみるべきだろう。
167 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 08:04:17
>>166 そんなことはない。
つーか、そんなもんだけでは、
その時代の実態を完全に把握することは不可能だ。
一応、ひとつの国家にまとまっていたとして
邪馬台国時代に比べたら、下の庶民層の人口移動が少なかったとか?
とにかく、文献なしでは、完全なことは何一つわからない。
168 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 12:28:22
倭国大連合の交易拠点としてマキムクが建設され、暫く時代を経て、そこに大王権力が生まれたと。
うーん、どうなんだろう?
まず最初の疑問が、倭国全体の交易拠点として、マキムクの立地が相応しいのかどうか、ということ。
倭国全体というより畿内、もっと限定すれば大和川水系の中心でしかない。
立地的に唐古鍵と殆んど離れていない訳だし。
初期大和王権の主体は、大和川水系の中河内・大和及び、阿讃播の東瀬戸内の首長層連合ではないか。吉備が入っていたかは微妙。
>>167 だから〜w
その頼りになる文献がたったひとつしかなくて、それも外国人の伝え書きだから、
考古学が重要になってくるんだよ。
170 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:23:04
>>168 東西の通商拠点を単に欲していただけなら
大和より河内や播磨のほうがはるかに立地条件はいい。
そこにあった放棄寸前の旧集落を再開発したほうが、よほど楽に都市形成は出来たはず。
ところがその安易且つ廉価な方法をとらずに
あえて微高地と低湿地の入り混じった、ほぼ無人の大和東南部を干拓造成してまで纏向を作り上げている。
ほぼ隣接する唐古・鍵にしても、そこを接収するような真似はしていない。
これらのことから通商拠点都市開設にあたっては、最初から新設することしか考えていなかったのではないかと思われる。
もし強大な勢力が(これは北部九州背も吉備でも河内でも東海でもどこでもいい)存在したとするならば
そのようなまどろっこしいことはせずに、さっさと征服して再開発したはずだろう。
結局そのようなことは現実的に不可能だったから行わなかっただけであろう。
瀬戸内以西と東海・関東・北陸を繋ぐ拠点という通商実利的な部分以外にも
例えば大型墳墓作成と言う、もうひとつのプロジェクトも可能な土地が求められており
それは通商拠点計画と同時に、宗教拠点計画も同時進行していたと考えたほうが
特異な立地条件に膨大なヒトとカネをつぎ込んでまで新規造成したことの説明になると思う。
171 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:51:43
>初期大和王権の主体は、大和川水系の中河内・大和及び、阿讃播の東瀬戸内の首長層連合ではないか
これはおそらくそのとおりだと思う。
ただ相当早い段階から三遠(東海)が絡んでいた可能性も極めて高いと思う。
外来式の物理的な多さだけでなく、先に述べたように伊勢や丹波経由の陸上ルート経由による
密接な繋がりが弥生後期にの大和や河内に顕著に見られるから。
東海勢力が大和を中継地に、以西の勢力や半島、大陸を睨んでいたと考えれば
膨大な労働力の供給減としての大量移住の説明がつく。
また大和川水系に古くから通商拠点集落を持っていた吉備と出雲は
ある程度の開発が進んだ時点で、積極的に参加したと見てもいい。
特に吉備はそれまでほとんど自国の土器が北部九州に流入していなかったのに
庄内式の少し前あたりから、徐々に西側に浸透し始めている。
突然ともいえる巨大流通網の整備は、これらの地域王権的なクニグニの利害が一致した結実ではないかと考える。
これに紀伊、土佐、日向、大隈などで出来つつあった太平洋ルートも活性化し
特に土佐で小規模集落の建設ラッシュを招いたとしたらどうだろうか。
同じ大和でも芝などはその連合に属さずに、後に併合されたと見られることから
各地の地方王権が大和川水系の各集落に働きかけたとの考え方も出来るが、これはまあ今はその可能性もあると言う程度として
問題は古くから畿内に積極的展開をしていた出雲の影響が、思いのほか薄いこと。
また衰退気味であったとはいえ、北部九州という最先端地が本当に初期からは絡んでいなかったのかなども問題ではある。
出雲は弥生後期から北部九州と土器交流が濃密であった、唯一の地域と言ってもいいので
この2大勢力がいつ頃、どう関わったのかが今後の焦点だと思われる。
山陰の発掘調査が比較的遅々として進まないので、ここが一種のミッシングリンクになっている。
172 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:55:03
近在の集落の環濠が一斉に埋め立てられていることの説明は?
弥生以来の自給自足の拠点集落が解体して、マキムクを中心としたシステムに組み込まれた、と考えるべきだろう。
東アジアの古代王権の特徴として、王権と都市が同時に成立する、というのがあるらしい。計画都市は王権の衰亡と共にその役割を終え、放棄される。マキムクはまさにそれ。
173 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 18:43:29
文献と考古学などを総合してみたら
日本で一番最初の全国規模(といっても西日本)の
巨大王権は、おそらく出雲王権で
そこから畿内へ覇権が移動したように思うんだよね。
で、2世紀後半から3世紀前半のマキムクでも分かるんだけど、都というのは
文化・情報の発信者というだけではなくて
文化・情報の受信者でもあるんだよね。
そこが、まさに流通の中心になる。
2世紀後半〜3世紀前半は、そういった流通の中心はマキムクなんだけど
それ以前の西日本で、そのような地域って
考古学的に分かっているんですか?
とくに出雲が気になるんですよね。
174 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 19:38:19
弥生後期は、西日本各地域の首長層が、各々の経済ブロック毎に連合し、広域王権の準備がされた時代。
その経済ブロックとは、特殊器台の吉備、四隅突出型墳丘墓の出雲、銅鐸の畿内・東海、広形銅矛の北部九州。
こんなちっぽけな国、すぐにまとまるだろ。言語も同じなんだし。
中国の春秋戦国の一国よりも遙かに小さい。むこうでいったら郡県レベル。
176 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 20:10:31
なんか、壱岐のほうにいったら
楽浪郡と出雲の両方の土器とか出てくるらしいね。
177 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 20:29:24
四隅突出型墳丘墓って、
いつの時代ぐらいから作られたの?
178 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 20:30:23
さあな。
179 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 20:43:11
出雲って、記紀の神話からいっても
考古学的に考えても
仮に日本の広範囲の覇権を握ったとしても、
わりと直ぐに大和に取って代わられたような気がする。
180 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 11:06:20
弥生後期の、各地域の首長連合の形成過程を経て、弥生終末期に各地に次々と王権が誕生する。
伊都の平原、吉備の楯築、出雲の西谷など。
遅れること二〜三十年、大和川水系でも同じ現象が起きた。ヤマト王権の成立とは、ただそれだけのことである。
181 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 11:11:40
では、何故、ヤマト地域のみ、その外来性を強調されるのか?
それは、過去の邪馬台国東遷説の影響なんだろう。
外来部族がヤマトにやって来て、ヤマト王権を樹立したという論を補強するために、ことさら外来性を列挙する作業がしばしば行われた。
ただ最近になって、外来要素はひとつに絞り切れない、各地の要素が入り混じっていることが分かってくる。
そこで「各地のオウたちが集まってマキムクを建設した」と言い出した訳。
なぜ、各地の技術者をヤマトが招集しただけと考えないか?その方が至って普通の考え方だと思う。
182 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 12:27:36
つまり、大和川水系が中心になってヤマト国が誕生。三輪山の神官をオウに選び、マキムク建設を始める。
その後、ヤマト、吉備、筑紫などと女王を共立することで、大同団結。ここにしてようやく倭王権が成立した、と。
183 :
シキリ屋:2007/06/01(金) 19:46:29
ヤマト、吉備、筑紫と倭王権が成立とありますが、倭王権とは邪馬台国のことです。
ここはマキムクのヤマト王権について論ずるところです。
ところでここの女王はヤマト、吉備、筑紫のどこの出身でしょうか。
184 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 20:08:30
>>183 普通にヤマトの出身だと思うけど
吉備とも関係が深いらしい。
女王の弟かなんかが吉備の国主についているとか。
185 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 00:06:54
>>181 >過去の邪馬台国東遷説の影響なんだろう
それは無いと前置きして
>なぜ、各地の技術者をヤマトが招集しただけと考えないか?
まず纏向及び周辺地域に、弥生終末期に地域王権と呼べるだけの規模の集落や
共通文化圏が無かったことが挙げられる。
今更銅鐸を持ち出して、これを畿内王権の母体だとする人は居ないだろうから
それ以外の条件として、各集落遺跡の墳墓形態や土器、各種工具などを比較すると
2世紀当時の畿内ではまず圧倒的に中河内が強い。続いて南河内、播磨などの沿岸地域
それらとは別の丹後、越などの日本海側、そして近江。
だいぶ差がついて山間部の丹波や伊賀などの順になり、奈良盆地はそれよりさらに下位に属する。
唐古・鍵が例外的に発展したのは、古くから河内を通じて瀬戸内や山陰と交流を持っていた為と見られ
盆地中部や北部の集落は、ほとんど東海よりの様相を示している。
つまりそこに各地の技術者を招聘できるような存在があった可能性は、きわめて低いということ。
もちろん三輪山とて、考古学的にも2世紀と見られる遺構が無く、その多くは5〜6世紀頃に形作られたと見られている。
仮に古代(地方)宗教の場として三輪が存在していたにせよ、各地に影響を与えるようなものでは無いし、また3世紀以降にその痕跡も無い。
それでも纏向大溝の建設に際しては、唐古・鍵が重要な役割を果たした可能性は高いだろう。
溝の最低部から大量に出土する鳥型木器がそれを示している。
186 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 00:29:01
>>183 そんなの分かるはずが無いし、ただの妄想合戦に堕する恐れがある。
それでもあえて燃料投下するならば、以下の条件提示が必要となる。
1、倭人伝にいう卑弥呼が、初期ヤマト連合のトップだったと仮定して
記事のとおり「年長大」で、つまり連合形成から148年の死に至るまで一人であったのか
それとも実際は複数の女性が代替わりしていたのかについての言及。
2、また現在判明している「早い時期に纏向造成に参加したとみられる勢力」
大和東南部、中河内、南河内、阿波、讃岐、播磨、紀伊、丹後、三河、遠江などの地域から選ぶか
招聘の可能性も考えて、北部・中部・南部九州、出雲、吉備なども視野に入れるかを提示せねばならない。
3、また各地から巫女(神官)が派遣され、人為的に短期間で複合宗教が形成された可能性についての言及。
更に宗教オウと為政オウ(または宗教者代表会と為政担当の実務機関)による二元制についてや
連合内において真に宗教オウに代表権があったのか、それは実際問題として可能なのかを同時に論じる必要がある。
187 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 00:40:38
>>185の5行目「弥生終末期に地域王権と呼べるだけの規模の集落」を
終末期ではなく後期後半と訂正。
どうやらここでは論者によって、終末期の期間や古墳時代開始の定義が統一されていないようなので
念のためわざと大まかな書き方に変更する。
特に終末期終了=古墳時代開始のメルクマールをどこに持ってくるかに関しては
まだ議論の余地もあり、はっきりとした線引きというかガイドラインは完成していないが
1、纏向型の創生を以ってして古墳時代開始とする。
2、大型かつ定型の定着と見られる箸中山を基準とする。
3、那珂八幡、赤塚などの前方後円墳の拡散が認められた時点とする。
最近は1を採用する学者も増えてきているが、とりあえず考古学用語を使用する以上
どの意味で使用しているかを明記せねば、議論どころか会話も成立しないので
スレ的にはどうなのよ?との取り決めは必要だろう。
188 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 00:55:26
堅い話ばかりだとつまらないだろうから、少し雑談的なおはなし。
仮に卑弥呼や台与がフレイザーのいう「見えない王」であったとしたら
二元政治以外のものは考えにくい。
為政者(オウ)の説明や情報を分析し、真偽を見極める方法が実質的に無いためである。
さらにもし弥生中期の中部九州にて顕著であった「人前に出ることの無い巫女」の概念が
北部九州を経て吉備や畿内にもたらされたと考えるなら
女王は人前に出ることが無いどころか「人前に出られない顔と身体」に変形させられていた可能性すらある。
有名な前原長溝遺跡出土の、変形頭蓋骨などは
宗教的意義を持つ「見えない王」(これをシャーマンとするか否かは別の問題として)が
どのような形で実際行われていたのかを如実に示している。
>>185 >共通文化圏が無かったことが挙げられる。
>今更銅鐸を持ち出して、これを畿内王権の母体だとする人は居ないだろうから
後期の見る銅鐸は、北部九州の広形銅矛のように、首長連合共通のレガリアと
して使用されていた、と思うが。
>2世紀当時の畿内ではまず圧倒的に中河内が強い。
だから、大和でなくヤマトと書いた訳で、あくまで大和川水系を一まとまりで
考えてよ。
>>185 唐古鍵は例外、か。大和を下げようと必死だな。
まあそれは置いておくとしてw
私は、大和川水系と東瀬戸内地域は利益共同体、ひとつの同じ経済ブロックだと
考えているので、あなたの言説には全く賛同出来ない。
このブロックは、弥生後期、見る銅鐸を共通のレガリアとした首長連合を形成していた。
マキムクとは、その経済ブロックの首長が結集して、広域王権を樹立したということ。
こういったことは、吉備や伊都、出雲でも起きていることなんだし、あえてヤマトだけを
特別扱いする必要はないのでは?と思うが。
>>1 >いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。
うーん。この文章でいうマキムクを唐古鍵に換えるべきでは?と思う。
王権が生まれた後に、何も無い土地に、計画都市マキムクが建設されている。
東アジアの古代王権によく見られる、王権と都市の同時発生だよ、普通に考えれば。
やはり、箸中山が画期なんだと思う。倭王権初代大王の墓に相応しい。
吉備由来の特殊器台を周囲に並べた、超巨大前方後円墳「土師(はし)の墓」。
被葬者であるとされる伝承上のヤマトトトビモモソ媛は、吉備と縁が深く、
初めて特殊器台を配した前方後円墳という事実とも符合する。
もしかすると、倭国のオウたちから推戴されたヒミコなる女性は、吉備出身
なのかもしれない。
・箸中山以降、前方後円墳の祭祀が全国に拡散する。
・卑弥呼の鏡とされる三角縁神獣鏡が布留以降にしか出土しない。
この2点をもってしても、庄内開始より布留開始を倭王権の端緒と見るべきである。
庄内開始は、あくまで大和川水系豪族が団結して地方政権を打ち立てた、という
だけに過ぎない。
192 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:36:43
>>191 卑弥呼自身は、大和の生まれだけど
皇室の親族に吉備の国主になったものが多そうだよ。
ヤマトトトビモモソ媛の父親は孝霊天皇と言われているが
その兄貴(つまり、ヤマトトトビモモソ媛の伯父)も吉備の国主になった模様。
そして、卑弥呼の弟も吉備の国主になり
その子孫は、皇別氏族・吉備氏として長い間、継承されてきた模様。
>>192 2世紀や3世紀に皇室の概念があったかは疑問。
倭人伝では、女王を共立するような状況だし、
大分後世になっても、天皇が即位する時には、大夫たちに推戴される形を取っている。
おそらくは、大王位は有力豪族による持ち回りの時代が長らくあって、
一つの血統が大王位を独占的に世襲するようになるのは、
応神か雄略か、下手をすると継体以降かもしれない。
194 :
193:2007/06/02(土) 17:04:27
女王共立による倭王権誕生について言えば、
おそらくこの時以降、各地のオウたちの同族化・神話の共有の流れが始まったのだろう。
そして、倭王権全体の共通の始祖王としてハツクニシラススメラミコトが創作される。
その他にも、各地域のクラン同士を結び付ける神話的人物である、
日子坐王や吉備津彦、大彦などが、ヤマト王権に採用され、
天皇の系図に組み込まれていったと。
崇神の四道将軍の記述は、そのために作り出されたのだろう。
このように考えれば、記紀でいう崇神の頃に、ヤマト王権の勢威は全国的に
拡大するようになった。三輪山山麓に大王たちが居住した、という伝承なども、
比較的「正しい」歴史が記憶されているように思う(考古学的に見ても)。
崇神の後、比較的近い時代には、マキムクの記憶が、帝紀のような形で編纂されていた
のではないかと思う。口承かもしれないが。
個人的妄想としては、応神の時。
王位を簒奪したものは、自らの正当性を主張するために、歴史書を作り(捏造し)たがる
ものだ。
195 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 18:13:39
祭祀の跡が見つからないからといって、マキムクの三輪山祭祀すら否定するって。
考古学者は専門馬鹿ですか?
三輪山全部発掘したつもりでいるのか。
そもそもマキムクの立地から考えても、見事な円錐形、典型的な神南備である三輪山が無関係な筈がないだろ。
少しは神話学、記紀とかを読みなさい。
196 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 18:46:47
>>195 誰もそんなことは書いてないが、突然どうしたのだ?誤爆か?
>>185の「もちろん三輪山とて」以下でもそうは読めない。
つーか君は現在の神道と三輪山祭祀を混同して、ありもしないマイ宗教にしてしまっているのではないか?
4行目からそれが顕著に感じられる。
神話学や記紀を勉強したほうがいいのは君のほうだよ。
短いレスからも、この人はまるでとんちんかんな解釈をしていることが如実に分かるから。
197 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 18:53:23
>>196 いやだから、君の主張は何なの?
マキムクとか倭王権に、三輪山信仰の影響は殆んど無かったって主張だと思ったのだが。
君の立ち位置を鮮明にしてくれないと、反論も出来ないよ。
198 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 22:28:14
185本人だが
>マキムクとか倭王権に、三輪山信仰の影響は殆んど無かったって主張
全く違う。
>>185では
>>182(
>>195などと同一人物の書き込みとして)にある
>三輪山の神官をオウに選び、マキムク建設を始める
これが考えにくいと主張している。
まず纏向造成開始を庄内開始頃(具体的に2世紀後半としてもいい)として
それ以前に大和東南部に見られた祭祀形態が、その後の纏向ではほとんど採用されていないこと
中でも最重要祭祀具と思われる木製鳥型が、大溝築造初期にしか出土せず
以降は唐古・鍵でも出土しなくなることから
3世紀以前に大和川水系にあったと想像される祭祀形態は、ヤマト王権には引き継がれていないと見るべきだろう。
銅鐸の消滅は、単なる祭祀具の変遷というより
いわゆるムラの豊穣祈願からクニの首長霊祭祀に移行した中で、省みられなくなったと考えられるので
これを3世紀以前にあったと君が考える、大和川水系の地方王権のクニとしての祭祀具にはあたらない。
何より「見る銅鐸」そのものが近江や紀伊、そして伊勢、東海などで顕著に出土し
中河内、大和東南部などのいわゆる大和川水系ではほとんど出土しないことからも、君の考えには根拠が無いと言わざるを得ない。
つまり纏向以前に三輪山を奉る地方祭祀があったかどうかはわからない。
何せ出土物も文献もないから、それは単なる想像であるとしか言いようが無い。
具体的な出土物か文献のひとつでも提示してくれなければ、それを論ずる意味は無い。
(だから今更銅鐸などと言う筋違いなものは持ち出さないでくれと念押ししたのに)
証拠も文献も無くていいのなら、三輪山はキリストの墓だったというのもありになる。
纏向で創設された「新しいタイプの首長霊祭祀」が三輪山を重要視したとの可能性はあるが
それ以前については全く分からない。手がかりすらない。
>>198 >>三輪山の神官をオウに選び、マキムク建設を始める
>これが考えにくいと主張している。
君は、ただ適当に王都の場所が選ばれたと主張したい訳ね。
うーん、どうなんだろう?
古代王権にとって、宗教的なものは、もっと大事だったと思うよ。
特に、神南備信仰は、日本各地で古くから見られている。
で、日本でも有数の神南備である三輪山山麓に突如造られた計画都市がマキムクなわけだ。
古代の王は祭祀王であったことを考えても、三輪山祭祀がマキムク王権に
とって重要だったことは、ある程度自明だと思うよ。
ましてや、民衆を畏怖させるのは権力者の命題であって、宗教的権威を
利用しない手はないと思う。三輪山という霊山を利用したんだと、普通は思うわな。
記紀でも三輪山は特別な山と記載されているし、わざわざ否定するのもどうか、と思う。
何か、特別なイデオロギーの持ち主の方ですか?
>>198 >いわゆるムラの豊穣祈願からクニの首長霊祭祀に移行した中で、省みられなくなったと考えられるので
>これを3世紀以前にあったと君が考える、大和川水系の地方王権のクニとしての祭祀具にはあたらない。
ここのロジックがまったく分からない。
北部九州の広形銅矛はどうなの?
>何より「見る銅鐸」そのものが近江や紀伊、そして伊勢、東海などで顕著に出土し
>中河内、大和東南部などのいわゆる大和川水系ではほとんど出土しないことからも、君の考えには根拠が無いと言わざるを得ない。
この反論は確かにもっともだ。
しかし更に反論するなら、見る銅鐸が畿内を中心に分布しているのは確か。
見る銅鐸の分布圏、その中心部である畿内から何故か出土していない。
ドーナッツ状になっている。
要はそれをどう解釈するかだと思うよ。
つまりは、銅鐸の埋納方法の違いであって、完全に破砕するか再利用したか、
加茂岩倉みたいに一箇所にまとめて埋められたのが見つかっていないだけか。
この議論をする時、黒塚以前の三角縁神獣鏡の議論を思い出す。
それまでは三角縁神獣鏡が大和から殆ど出土しないことから、九州説は批判し、
畿内説はいずれ見つかると言っていた。
結果はご存知の通り。
考古学の限界というのも知っておいた方がいい。老婆心ながら。
202 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:02:44
>>199 論点がまったくずれているなあ。
わざと理解できない振りをしているのかも知れないが。
君の言いいたいことは、纏向造成以前から
三輪山や周辺地域には、元から後のヤマト王権に引き継がれる宗教概念があったということだろう?
こちらが聞きたいと言うか、それはないだろうとするのは
その纏向以前の三輪山信仰が、ヤマト王権の祭祀には全く採用されていない事実からであって
しかも布留0式ともなると、各地の祭祀が入り乱れたごちゃまぜ宗教に変貌するんだよ。
イデオロギーなんちゃらと言うのなら、そういった事実を一切無視して
ヤマト王権の宗教観が三輪山発祥であると無理にしたがる点にこそ、イデオローグの悪影響を受けていると言わざるを得ない。
後の時代に三輪山は神聖視されたかもしれないが、それは少なくとも纏向以降の話で
それ以前にそれを示すものが全く無いだろう?もしあるならば具体的に提示してくれ。
君の考えはいわゆる畿内自生説という、今ではもうほとんど省みられていないものなんだわ。
偶然、何となく選んだ場所が、見事な円錐形で、古くより神南備として信仰されていたであろう三輪山の麓。
偶然にしては出来過ぎている。
マキムク王権が三輪山信仰と無関係に誕生したなんて、かなり苦しいコジツケだと思うな。
>その纏向以前の三輪山信仰が、ヤマト王権の祭祀には全く採用されていない事実からであって
いやだからさ、見てきたように言うけど、君の言うその「三輪山信仰」って何なの?
具体的にどんなのを想定してるわけ?
205 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:21:27
>>200 >北部九州の広形銅矛はどうなの?
全然時代が違うものを持ち出されてもなあ。
銅鐸もそうだが、本来はムラのマツリのための祭祀具なんだよ。
ただ首長霊信仰の考え方は、列島無いでは北部九州に最初に上陸して
そこから徐々に東進していったと見られている。
だが銅鐸や銅矛の分布状況をして、それをひとつの王権と見る考えは成立しない。
同一祭祀圏であるから政治的にもひとつのものだったという考え方は出来ない。
ここがヨーロッパなどと東アジアの国家成立の違いでもある。
逆に君は祭祀を持ち上げすぎなんだよ。
纏向以降でも驚くほど短期間に祭祀具や墳墓形態が、簡単に変化するだろう?
民衆を畏怖させるためには、それまでの地方宗教じゃ無理だから、新たな形での首長霊信仰を具象化していったのだろうし
もっと要ってしまえば、祭祀形態など重要視していなかったのかもしれない。
弥生後期後半から終末期にかけて発生した広域通商連合の首長たちは
もっとドライに考えていたからこそ、短期間での変遷を繰り返しているんじゃないかとさえ思う。
どこのクニも自分のところの宗教観を通しきれて居ないんだよ。
そうして出来上がった纏向型前方後円墳は、不謹慎な例えをするならば
右手にコーラン、左手に十字架を持った釈迦の前に三種の神器が飾られているかのごとく、ごちゃまぜになってしまっている。
その結果からすると、とてもじゃないがそれ以前に三輪山にどんな宗教的権威があったにせよ
半世紀も経たずにまるで吹っ飛んでしまったということになる。
>>205 >逆に君は祭祀を持ち上げすぎなんだよ。
>纏向以降でも驚くほど短期間に祭祀具や墳墓形態が、簡単に変化するだろう?
私はまさにその事を主張している。
そのお言葉、そのままそっくりお返しします。
そもそも、ヤマト王権の外来性を主張する人たちは、主にその首長の葬祭儀礼が
外来的要素が多いことを、その根拠としている。
君の言うように、簡単に外来のものも簡単に受け入れられるなら、
大和川水系の人々が、各地の葬送儀礼を受け入れ、またはパッチワークして、
前方後円墳の祭りを創始したとも言えるだろう。
図らずも、平行線と思った議論が交差した訳だな。
207 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:34:18
>>204 何度も鳥型木器だと書いてるんだがなあ。
それと唐古・鍵で採用されていた墳墓は基本的に共同埋葬だろ?
何一つ後のヤマト連合に持ち越されていないじゃないか。
要するに、今の段階ではっきりいえることはヤマト連合の採用した祭祀形態とは
各地のごちゃ混ぜ形式のもので、それを分析すると不思議なくらい地元である大和東南部のものは含まれていないということ。
この事実を勘違いして、征服とか言い出すものも昔はいたが、今ではそんな主張をするものなど一部のアマチュアしかいない。
しかし唐古・鍵を始め、大和川水系の各集落が纏向造成に大きな役割を果たしたことは否定していない。
だがそれは宗教的指導力などではなく、もっと物理的な労働力や技術力、そして財力であろう。
>207
何か意固地になっている気が。
わざわざ三輪山の麓を選んでる時点で、三輪山祭祀と無関係なんて思えない訳でね。
普通の人はそう思うんだろうけど、なかなか難しいね。
専門馬鹿と言われないよう気をつけよう。
>何度も鳥型木器だと書いてるんだがなあ。
三輪山祭祀に鳥型木器が不可欠という根拠は?
210 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:53:06
>>206 ならば別に大和の土着宗教を基本に持ってくる意味が無いじゃんw
パッチワークというのはいい得て妙だがね。
もし纏向以前からあった三輪山信仰が基本だとするならば
まずそのパッチワークの大元にある、大和東南部独特の祭祀形態を提示せねばならないんだ。
おそらく君自身がそこを漠然と考えているために、説得力に欠けるわけよ。
もしこれが「○○という祭司的出土物があって、これが大和東南部を中心に分布し、それが纏向での祭祀にも使用されている」と具体的に例示出来るならまた話は変わってくる。
悪いけど要するに何一つ証拠が無いどころか、君の主張に反する出土物しか出てこないんだわ。
畿内自生説が下火になったのは、鉄ルートの簒奪が考えられなくなったことと、この祭祀具の問題があるんだ。
ただ、外来のものを受け入れやすい下地が唐古・鍵などにはあったとする
>>206の内容には同意する。
それを指して特殊だとか例外的だと述べたのだがね。
でもそこからたった一つも物証の無い説を導き出すのは無理だし、反証が多すぎるので「考えにくい」と要っているのだが。
211 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:56:11
三輪山と巻向川と初瀬川とが成す三角形内に集落や墳墓が造られなかったって話はどうなった?
>>210 >ならば別に大和の土着宗教を基本に持ってくる意味が無いじゃんw
実際、三輪山の麓に王都が築かれてるからしょうがないじゃんw
>もし纏向以前からあった三輪山信仰が基本だとするならば
こんなことは誰も言っていない。古くより信仰されていた三輪山を、
大和川水系の豪族たちが、結束の中心として利用したということ。
>畿内自生説が下火になったのは、鉄ルートの簒奪が考えられなくなったことと、
>この祭祀具の問題があるんだ。
むしろ、最近の若手の研究者には、畿内自生の人が増えてきたように思うがな。
鉄の話も、村上説が、ある種の人々にとって、都合のいいように一人歩きしている
ように思う。
要は、畿内>九州になっていないだけの話。
庄内以降、畿内で爆発的に鉄が増えているのは、マキムク成立と無関係な筈がない。
213 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:08:59
>>208-209 >わざわざ三輪山の麓を選んでる時点で、三輪山祭祀と無関係なんて思えない訳でね
なんだそういう「宗教」のひとだったのか。
道理で過去に葬られた主張を力説すると思った。
もう一度まとめようか?
君は「纏向以前からあった三輪山祭祀」の権威を以って、「畿内大和川水系の首長たちが連合したヤマト王権」が
「各地から技術者や労働者を招いて」巨大王権化したと主張するわけだ。
そこで「纏向以前からあった三輪山祭祀」とは何なのかと聞くと
後のパッチワークで跡形も無くなくなったと答える。
なのでこちらは、そんな頼りないものが宗教的権威として機能する訳無いだろうと反論するし
「○○は跡形も無く消えた」なんてのがありなら、三輪山がキリストの墓ってのもありだねと茶化した。
どうやら君の主張を簡単にまとめると
「何一つ証拠は無いが、初期ヤマト王権は三輪山の宗教的権威を以ってして発展したと信じたい」
こういうものになる。
反論があるならまず客観性のある物証を挙げていただきたい。
「〜の可能性がある」「〜と考えるのが普通」なんて主観的意見はいくら書き連ねても誰一人説得できない。
214 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:15:13
>>212 >むしろ、最近の若手の研究者には、畿内自生の人が増えてきたように思うがな。
それも具体的に書いてくれ。
出来れば論文名も。
奈良や橿原の現場の人間からは、そういった主張を聞いたことが無いが
こちらが知らないだけかもしれないから。
とにかく
>古くより信仰されていた三輪山
これの具体的な内容と、そう考えることの出来る出土物を明記して欲しい。
211
マキムク以前の話か。ごめん。取り下げます。
217 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 01:21:39
>>215 おつかれ、毎日常駐しているわけではないので、ゆっくりまとめてくれれば良いよ。
ただその際には何度も言ってしつこいが、具体的な遺跡名や出土物を例示して論じて欲しい。
そうでないと、可能性の列挙を試みる思考実験の場に成り下がってしまうから。
可能性ではなく蓋然性の議論なら、こちらは大歓迎だから。
>>213 >そこで「纏向以前からあった三輪山祭祀」とは何なのかと聞くと
>後のパッチワークで跡形も無くなくなったと答える。
逆でしょ。
あなたが、三輪山祭祀がマキムクに継承されていないと断言するから、
あなたの言う「昔からの三輪山祭祀」ってどんなの?と聞いても答えてくれない。
君の言ってるのは鳥形木器だけだから。鳥形木器=三輪山祭祀の根拠をまず
述べてみてよ。
>何一つ証拠は無いが、初期ヤマト王権は三輪山の宗教的権威を以ってして発展したと信じたい
なんじゃそりゃw
何度も書くけど、三輪山山麓に、まったく何の理由も無く都を築いたとは
僕は思えないだけで。
一から十まで根拠を求めるタイプみたいだけど、ある程度自明なことって
あるんじゃないかなあ?
君のような姿勢じゃ、殆ど喋れなくなるし、このスレが盛り上がらないぞw
>君は「纏向以前からあった三輪山祭祀」の権威を以って、「畿内大和川水系の首長たちが連合したヤマト王権」が
>「各地から技術者や労働者を招いて」巨大王権化したと主張するわけだ。
大体、僕の主張をまとめてくれている。阿波讃岐播磨の東瀬戸内地域も参加していた、
とは思うけど。
各地の王権化の流れからみて、自然な考え方だと思う。
庄内開始から4〜50年して、ヤマト王が、倭国王として吉備やら筑紫から共立され、倭王権が誕生する。
>>220 傍目で読んでいて思ったのだが、お二人は殆ど同じ意見じゃね?
どこが議論の争点になってるかが分からない。
222 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 13:52:33
邪馬台国東遷説の影響かな、やっぱり。
外来文化が入ってくるのは、大規模な外部からの入植があったからに違いない、と思い込んでいる。
技術や文化は伝播するもの。例えば那珂八幡や庄内甕生産を見て、マキムクから奴国に大量入植があったとは普通思わない。奴国の人々がマキムクの祭りや技術を導入したというのが、普通の捉え方。
223 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 16:39:23
そもそも、当時のオウは拠点集落の首長であり、自らの地盤を捨ててまで、遠隔地へ異動・入植するとは、常識では考えられない。
征服で土地を奪うならともかく、各地のオウたちが遠くからやって来て、既住者との軋轢を避けて入植するとするなら、基本的に未開地の開墾となる。
そのような状況を、マキムク開始時に想定することは難しい。
むしろ、突然大土木工事が着手され、突如王権が誕生したことが窺われる。
>だが銅鐸や銅矛の分布状況をして、それをひとつの王権と見る考えは成立しない。
>同一祭祀圏であるから政治的にもひとつのものだったという考え方は出来ない。
>ここがヨーロッパなどと東アジアの国家成立の違いでもある。
銅鐸も銅矛も、一括生産されて配布されてるだろ。
そこにある種の政治的繋がりを見るのが当たり前だと思うのだが。
言ってることが無茶苦茶。
なぜ
>同一祭祀圏であるから政治的にもひとつのものだったという考え方は出来ない。
と言い切れるのか。まずその根拠を述べてみて。
>ここがヨーロッパなどと東アジアの国家成立の違いでもある。
はあ、そうですか。そんなことを言ってる研究者がいるの?
225 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 12:35:53
弥生後期に特定首長墓の発展が見られることから、個人崇拝、首長権力の高まりが語られることが多い、と思うが。
終末期に突然王権が生まれたというより、後期を通じて、その下地が作られたと見るべきだろう。
では、弥生後期に、なぜそのような王権化の流れが生まれたか?
226 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:38:57
>>224 >銅鐸も銅矛も、一括生産されて配布されてるだろ
はあ?それなんて架空弥生戦記?
どこで「一括生産」されたか述べよ
227 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 18:27:04
どこで、という質問が間違い。
問題は、物の材料と型式が同じかどうか、だろ。
228 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 19:25:22
弥生後期を通じて首長権力の増大が起きた理由とは、それまでの弥生経済のような、自給自足では済まなくなったからだ。
遠隔地交易の需要の高まりは、その交通路の安全性を保証し得るような、広域的権威を希求する。各地域ごとの首長層が結集し連合化したのはその所為。
端的に言えば、鉄無しでは立ち行かなくなってしまった弥生拠点集落の首長が、独立採算を諦め、連合化を模索した訳だ。
さらにはその交易の利権を求めて、地域間の競争が激化。ついには王権の誕生に至ったと。
229 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 22:20:28
昔より王権の重要な機能の一つに、国内交通の安全性確保がある。
当時、西日本諸国において、瀬戸内海航路は超重要なルートであったが、舶載品の時代別出土数を見ると、度々そのルートが遮断されたようである。
政治的混乱が主な要因であろうが、結果的に代替ルートとしての日本海航路の発展を促した。出雲王が睨みを利かせる日本海ルートは、隊商の安全がある程度保証されたのだろう。
そんな中、瀬戸内海海商国家群が交易路の安定供給を求め、連合化を模索する。その最初の試みが、吉備楯築墳丘墓。
>>194 >各地のオウたちの同族化・神話の共有の流れが始まった
これはつまり婚姻関係によるものでしょうか?
231 :
34:2007/06/09(土) 08:55:54
>>229 > 昔より王権の重要な機能の一つに、国内交通の安全性確保がある。
そうですね。
> 当時、西日本諸国において、瀬戸内海航路は超重要なルートであったが、
> 舶載品の時代別出土数を見ると、度々そのルートが遮断されたようである。
> 政治的混乱が主な要因であろうが、結果的に代替ルートとしての日本海航路の発展を促した。
> 出雲王が睨みを利かせる日本海ルートは、隊商の安全がある程度保証されたのだろう。
舶載品の出土量は、供給もとの中国、朝鮮半島側の政治情勢にも強く影響されるでしょう。
> そんな中、瀬戸内海海商国家群が交易路の安定供給を求め、連合化を模索する。
> その最初の試みが、吉備楯築墳丘墓。
「楯築」の時点で「連合」状態だったかどうかは疑問ですね。
地域王権の証だとは思えますが、交易ネットワーク自体はかなり不安定なのでは?
瀬戸内ルートの中継点、海の関所的な存在として吉備が隆盛したことは間違いないですが・・・
当然、畿内などは日本海ルートとの二又だったのではないですかね。
そして、力関係は九州>吉備・出雲>畿内その他。
「交易連合」の成立は、まずは「広域畿内王権」の後と考えたい。
大和川水系に琵琶湖・淀川水系や播磨、紀伊、丹波などが統合された時点があれば、
東西ルートの最重要中継点(ルートの入口自体は九州王権が押えているわけですが)として、
王権の所在地として「選ばれる」ことができるとは思います。
>当然、畿内などは日本海ルートとの二又だったのではないですかね。
でも、実際のところ、古墳時代以降、日本海ルートは低迷してるみたいだし。
あくまで、瀬戸内海ルートの代替として、畿内や東海などに重宝されただけでは?
>>231 >「楯築」の時点で「連合」状態だったかどうかは疑問ですね。
>地域王権の証だとは思えますが、交易ネットワーク自体はかなり不安定なのでは?
タテツキは以降続かないしな。最初の広域的権力の創造は、失敗だったみたいだ。
しかし、「マウンドを造る」という行為はマキムク型へと継承されているし、
吉備から大和へ場所を変えて、同じ試行がなされたのだろう。
>>231 >「交易連合」の成立は、まずは「広域畿内王権」の後と考えたい。
まったく同意見。
ていうか、「交易連合」と「広域畿内王権」は同時成立であろうと。
それまでの、出雲や筑紫、吉備、畿内・東海などの各地域毎での首長連合や、地域間競争ではなく、
西日本全体を包括するような「倭国王」が布留0の頃に誕生した。
235 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 06:45:46
236 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:03:54
倭国各地のオウたちが大同団結して、ヤマト王権が誕生した。
で、倭人伝でいうところの「ヒミコ共立」がそれに当たる、と。
ヒミコ共立は二世紀末から三世紀初頭のことだろうから、
要は、その実年代が、土器編年でどの辺りになるかで揉めている訳だな。
ヒミコ共立は庄内開始期か布留開始期か?
個人的には布留に同意する。
庄内期のマキムク型は吉備の特殊器台か無いことからも、まだこの時点では吉備はヤマト王権に参画していないということ。
最近のC14でも、庄内開始が二世紀半ばという結果が出ている。箸墓=ヒミコの墓か。
237 :
シキリ屋:2007/06/11(月) 22:37:45
ようやく邪馬台国卑弥呼から離れて真摯なヤマト巻向中心の論議が続いていたのに
また妄想を述べる方がでてきましたね。
>>237 じゃあ、ヒミコ箇所は省いて読んで下さい。
うーん。あえて邪馬台国や卑弥呼を外さなくてもいいと、私は思うんですけどね。
「倭王権成立のプロセス」というテーマから逸脱さえしなければ。
まあ、抜きで書いてみますが。
少なくとも箸墓が画期なのはみんなが認めていること。
マキムク型とは明らかに形が違うし、特殊器台を周囲に配置したのも最初。
何より、突然巨大になっている。
庄内→布留への過渡期に造られたのも意味深。
それまで各地の葬送儀礼がヤマトという一点に集められていたのが、
箸墓以降、ベクトルが完全に逆向きになり、ヤマト発「前方後円墳の祭り」が
全国各地に拡散していくようになる。
箸墓築造時に、かなり大きな政治変動があったのだろう。
平たく言えば、ヤマトのオウが、吉備やら筑紫、東瀬戸内のオウたちから
倭国王に推戴されて、倭王権(広域的畿内王権)が誕生した、と。
このように、庄内開始期より、布留開始期にこそ倭王権誕生の飛躍があったように思う。
240 :
シキリ屋:2007/06/12(火) 09:44:51
このスレはヤマト王権がどのようにはじまったのかが中心になります。倭王権(中国から認知されたー委奴国や邪馬台国)
は北部九州ですのでそれとは別のということになります。
241 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 12:46:26
ここでヤマタイコク論争をするつもりはないがw
少なくとも、庄内の時点で、畿内王権と北部九州は無関係ではない。
むしろ奴国は積極的にヤマトと交流をもっていたようである。
画文帯や三角縁もヤマト中心で出土するようになるし、ヤマト王権=倭王権は動かし難いと思うが。
242 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 11:22:09
グローバル化、広域的経済連携、EU統合など。弥生後期の日本もそんな流れやったんやな。
おや?流れ的に畿内王権優勢になってきた?
いいことだ。バカが減って。
244 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 12:32:45
畿内王権が優勢もなにも、畿内王権を語るスレだから。
王権誕生のプロセスを巡って、
交易が先か、王権が先かで揉めてるらしい。
弥生終末期、庄内開始期に畿内王権が突然生まれたのは間違いなさそうだ。
で、王権成立のトリガーになったのは一体何なのか?
245 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 21:47:34
広域畿内王権誕生のトリガー。
半島からの鉄資源の需要が高まり、西日本全体の経済連携が模索された。
その結果が畿内王を盟主とした、西日本各地のオウの連合政体。
ここまでは、もう確定と見ていい。
あとは、その広域畿内王権誕生の実年代をいつ頃とするのか?
また「鉄」厨かよ。
いいかげん、小林から卒業したら?
畿内王権誕生とは言うが、王権と呼べるようなものが当初から機能してたわけではない。
そんな証拠は無い。
近畿中心の交易ハブとして、奈良が自然発展したにすぎない。
交易の中身も「鉄」という一元的なものではない。
そんな証拠は無い。
「鉄」が王権誕生のトリガーだというなら、黙って九州説でも東遷説でも唱えていればいい。
考古学の発展の歴史は、小林の唱えた鉄優位の考えを否定する歴史だった。
小林の頃は、近畿を掘れば鉄がざくざく出ると信じられてたが、
実際に畿内には鉄は乏しく、王権が鉄を求めたという証拠はどこにもない。
逆に、鉄以外の交易が近畿中心に盛んに行なわれていたことが明らかになった。
鉄が無くても、畿内が交易ハブセンターとしえ機能していたという事実が、考古学が証明したことだ。
交易のハブであるということが、畿内を発展させ、その後の王権誕生へと繋がったのだ。
249 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:39:35
>>246 村上が出てから、妙な輩が増えたな。
弥生後期の、鉄需要の高まりまでを否定するつもりなのか。
ここらではっきりさせたい。
村上の言っていることは、「畿内が北部九州から鉄ルートを奪取した」という説に
対する批判だけ。
庄内以降、畿内で鉄が爆発的に増えるが、それでも北部九州>畿内は変わらない
という主張。
畿内に北部九州の鉄の技術が伝わっていない点から考えても、
マキムク王権に北部九州が参画していなかったことが窺える。
つまりは、畿内の鉄ルート奪取説だけでなく、北部九州がヤマト王権成立に大きく関与したという説も
否定することになる。
村上は、鉄が多い方が強い、という昔ながらの思い込みを批判しているだけ。
思えば、今までの考古学は鉄=北部九州の優位性を無条件に信じ過ぎていた。
マキムク以降も、暫くは、畿内と北部九州は共存。
北部九州は「鉄」を、畿内王権との交渉のカードに用いたようである。
>>247 >畿内王権誕生とは言うが、王権と呼べるようなものが当初から機能してたわけではない。
>そんな証拠は無い。
意味不明。
君のいう王権とは、どのようなものを想定しているのか?
で、君の思う「王権」が誕生したのは、いったいいつ頃なんでしょうか?
>>248 >「鉄」が王権誕生のトリガーだというなら、黙って九州説でも東遷説でも唱えていればいい。
だから、弥生後期から始まる、西日本経済統合を促した大きな要素が鉄なんだって。
鉄以外の物資なら、別に今までの弥生拠点集落のように自給自足でやっていけた。
ていうか、それまで何百年もそれでやってきたんだからな。
それが出来なくなるのは、遠隔地交易でしか入手できない鉄が重要視されるようになったから。
弥生後期の首長権力の高まりは、遠隔地交易の活発化と不可分。
>>251 >だから、弥生後期から始まる、西日本経済統合を促した大きな要素が鉄なんだって。
だから、そんな証拠がどこにあるっての?
村上が否定してみせただろ。
4世紀になっても鉄の優位は九州の方が上なんだよ。
>鉄以外の物資なら、別に今までの弥生拠点集落のように自給自足でやっていけた。
物資を自給自足してたなんて証拠は無い。
あるのは、広域の土器の流通があったという事実。
>>250 おまえこそ意味不明。
「畿内王権」の「王権」を文字通り使ってる考古学者などいない。
実際は、緩やかな首長連合集合体だ。
古墳時代初頭まで、結びつきは緩やかに祭祀の共有という形で進められる。
文字通り「王権」が生まれたと確証されるのは「ワカタケル」の頃だろ。
>>249 >北部九州は「鉄」を、畿内王権との交渉のカードに用いたようである。
そこまで理解してるなら、畿内が九州と交渉するカードは何だと思ってるわけ?
まさか、九州だけが鉄という「カード」をもってて、
畿内は何もカードを持ってないなどと考えてるわけではあるまいな?
それなら、畿内に主権国家など存在しえないぞ。
当然、畿内には鉄と交換できる「カード」があった。
日本の広域から畿内に集められた(鉄以外の)物資。
九州は、(鉄以外の)物資が欲しいから、徐々に畿内に取り込まれ、屈したんだよ。
>>252 >だから、そんな証拠がどこにあるっての?
ていうかさ。
弥生後期、畿内の石器量が激減してるけど、鉄器の普及によるとは考えてないのか?
それに庄内以降、畿内で爆発的に鉄器が副葬されるようになるのをどう考えるわけ?
マキムクの運河や古墳に鉄器は使用されなかったのかい?
君は鉄器を過小評価し過ぎだよ。
過ぎたるは及ばざるが如しだな。
>物資を自給自足してたなんて証拠は無い。
>あるのは、広域の土器の流通があったという事実。
ある程度、自給自足だろ。むしろ広域流通やら遠隔地交易の痕跡の方が希薄だろ。
外来土器って、何パーセント? どこの遺跡もそんなに高くないだろ。
だからマキムクの比率の高さが重要視されている。
>>253 >「畿内王権」の「王権」を文字通り使ってる考古学者などいない。
ていうかさ。俺も、広域畿内王権は、ゆるやかな連合政体だと考えているわけで。
的外れな反論は止めてくれないかな。
レスの無駄遣いだし。
>日本の広域から畿内に集められた(鉄以外の)物資。
>九州は、(鉄以外の)物資が欲しいから、徐々に畿内に取り込まれ、屈したんだよ。
君の論には、何故広域畿内王権が誕生したのか?という視座が決定的に欠けている。
なぜ、西日本諸国が経済的政治的統合を要請したのか?
1千年近く続いた、弥生拠点集落を中心とした経済圏が崩壊して、
弥生後期末に広域王権が次々に誕生していったのか?
まるで説明できていない。
抜けているキーワードは「遠隔地交易」=「鉄」。
鉄を求めんがため、地域は連合し、交易路の安全を保障し得るような広域政権が
希求されたわけだ。
>>255 おまえ、自分の言ってることどこまで理解してる?
マキムクには、外来土器が多く、遠隔交易のハブだったことは知ってるな?
で、マキムクに鉄器が無い頃から、マキムクには、外来土器が多かったということは、
マキムクが遠隔交易のハブだったことと、鉄が欲しかったこととは、無関係ということなんだよ。
マキムクに鉄が増え出したのは、交易ネットワークに九州が参加したからであって、
九州を抱き込むために、マキムクが交易ハブとして生まれたわけじゃない。
反論あるか?
>畿内には鉄と交換できる「カード」があった。
わけが分からん。
なぜ、北部九州と鉄を交換しなくちゃならんのだ?
畿内は、西新町で、独自に半島と交易したんだろ。
言えば、北部九州勢力を介さない独自ルートを開拓したということ。
>>258 まず最初に、弥生の拠点集落が、自給自足出来ていないという根拠を述べてね。
マキムクの話で誤魔化さないでさ。
>マキムクに鉄器が無い頃から、マキムクには、外来土器が多かったということは、
そもそも、この前提自体が疑問な訳で。
大運河工事が始まってるのに、鉄は全く無かったの?
信じられないなあ
248 :日本@名無史さん:2006/10/28(土) 15:23:35
>結局、九州勢力が、畿内に流通を許した背景について、
>何も説明できないではないか?
北部九州も畿内も、同じように大陸と交易しただけだろ。
何故、どちらかの独占でないと駄目なのか?
何か思い込みがあるよな。
確かに昔は北部九州が流通を独占していて、それで莫大な利益を
上げていたのが、畿内勢力の参入で、徐々に北部九州が衰退していく。
>>261 極端な揚げ足取りはやめろ。
土器の広域流通が、鉄の流通より前に存在したということだ。
つまり、鉄を求めて流通が生まれたわけではないということ。
先に流通が確立し、後から物資の一つとして鉄が加わったということだ。
>>262 マキムクから鉄がざくざく出てるか?
マキムクから鉄がざくざく出てるなら、
マキムクに集まった広域の土器と鉄が交換されたと考えられるが、事実として鉄が無い。
鉄とともに九州から土器などの物資が運ばれてきた証拠も無い。
鉄に拘った小林と同じ間違いをするなよといいたい。
当時の鉄は強度が低いから、実用武具として役に立たない。
強い衝撃を与えればすぐに変形するからだ。
しかし例えば木材を削るなどの加工具としてなら、もちろん青銅や石器などよりはるかに便利だから
主にそちらの用途としての訴求はあったのではないかとは思う。
しかしそれも弥生後期後半には、必要分は関東にまで行き渡っていたことは明白なので
ことさら鉄を重要視して簒奪を画策したとは考えにくい。
やはり鉄「も」含めたあらゆる生産物の流通ハブ基地が、巻向の役割であり
そこが次第に各地を凌駕したというのが一番蓋然性の高い考え方だろう。
本来は各首長たちにとっては、自分たちのクニを潤すための便利な流通ハブ基地だったのだろうが
そこに派遣された各地の技術者や宗教者や首長関係者たちが、結果的に地元を凌駕する財力や経済力
そして調整力を身につけたのではないか。
倭人伝にある女王共立が真の意味でのキング・オブ・キングスの誕生かどうかはかなり疑問だが
いずれにしても巻向発の墳墓形態や祭祀を全国に広めるいい大義名分にはなったとは思う。
鉄の強度が低くて実用武具として役に立たないっていうのは無理があるな。
鉄は青銅よりも融点温度が高くて加工しにくい素材だが、そんな鉄が何故普及したかと言うと
青銅を凌駕する強度があったからこそであって。そんな強度不足なら鉄なんてイラネってことになる。
そもそも木材を削れるだけの強度があるなら、木よりも柔らかい人体なんて簡単に傷つけられるだろ。
>>266 まったく物事を知らないな。
当時の鉄の使い方は、現在とは違う。
鉄の塊の鉄剣なんてのは、あったとしても、すぐ折れる。
出土する鉄剣はどれも細くて薄い。あれでは実用とは呼べない。権威のためのもの。
鉄を鋼に鍛えられる技術はもっと後のもの。
カンナに使うような鉄は、小さい鉄片にすぎない。
大きくしても強度が持たないからだ。
農具に使う鉄は、木の板に薄い鉄板を巻き付けて強度を増してる。
木を削ろうと思えば、石器でも削れる。縄文時代でもそうやって木を加工してきた。
268 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 08:05:55
鉄剣の強度の問題としてはおっしゃる通りだが、ホケノを見ても分かるように、主に鏃の材料として考えるべきだよ、武器としての鉄は。
遠戦近選の議論もあるところだが、基本的に弓矢の有効性は、剣なんかと比較にならない。
たしかに当時鉄は貴金属だったから、そんなにバカバカ射てなかっただろうが。
無理矢理鉄を貶め過ぎ。無理すんな
269 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 08:12:15
鉄鏃が石鏃を凌駕したのは、鎧などの防具の普及と鏃の形状が改良されてから。
同じ重量で同様の形状の場合、石鏃の方が貫通力が高い。
270 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 12:24:35
で、鉄の鏃が石の鏃を凌駕したのはいつ頃なの?
ホケノの鉄鏃は祭祀用で実用でない?苦しい反論だな。
鉄の鏃があっても悪いとは言わないが、
銅のほうがコストパフォーマンスがいいし、磨けば光る。
実際に実戦で、鉄の鏃が石鏃・銅鏃を凌駕するほど優れてたとも思えないが?
重さでいえば、銅の方が鉄よりも重いのではなかったか?
鉄の比重(7.9)
銅の比重(8.9)
鉄の方が銅より重いというソースがあったら教えてくれ。
>>270 ホケノ山の鉄鏃は、先端や返しの部分を研磨していない
いわば実用武器としての仕上げをまったくしていないものだから
副葬目的の祭祀具(威信具)とみたほうが自然だろ。
それと君自身が
>>268で述べているように
バカバカ射てなかったという点からして、弓矢の最大の利点が失われてしまう。
弓の利点は致命傷を与えることでなく、牽制と負傷者作成によつ戦力削減にある。
その点では実は鉄どころか銅や石よりも、加工が楽で費用がかからず
しかも体内で破片と化して毒を仕込みやすい骨鏃が、一番費用対効果が高い。
つまり弥生・古奮期における鉄製武器とは
剣や矛にするには強度不足。
鏃にするにはコストパフォーマンスが悪すぎるといもの。
もっぱら威信具として使われたのは、当時としてはそれが一種のレア物であり
後世の金の剣のような価値観であったと考えられるから。
七支刀のように装飾や呪術的意味合いを持ったものに変化していくことからも、それは伺える。
工具、農具としての実用性の高さが、青銅や石器以上の物だったというのは
>>265>>267がすでに述べている通り。
なので武器としてより、生産性を高めるための工具としての訴求はあったとは見てよい。
一転して鉄器が強力な武器となりうるのは、少なくともたたら製鉄の浸透とともに
不純物を取り除く鍛冶技術が進化した時代以降の話。
東北の蕨柄刀などは、まさにその走りかもしれないし、だからこそ少人数で朝廷の侵略を阻む脅威となりえた。
弥生時代、古墳初期でもっとも普及していた鉄器は刀子、
これを使うと魚がきれいにさばけるし、栗をむくのも簡単。
275 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 21:03:40
ホケノの鉄鏃は、あの状態から仕上げをして、実用するわけだろ。
無理矢理、鉄鏃が祭祀具として用いられたとか噴飯ものだな。
鉄鏃が沢山副葬されたのは、その実利的な部分、鉄鏃の有効性が認められていたから。
貫通力か石に劣るとか、イメージ操作が多いけど、具体的にどの研究者が言ってるわけ?
276 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 21:10:01
マキムクがハブ基地に選ばれたとか、どうかなあと思うぞ。
そもそも唐古鍵と近接、立地条件が同じ。
大和川水系豪族の中心ではあっても、西日本の中心だったとは思えない。
マキムクが西日本の中心足り得たのは、そこに強大な王権が誕生したから。
277 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 21:20:08
その強大な王権というのが、大和川水系豪族による連立政権。
庄内の頃は畿内王であったのが、布留0で各地の王たちから共立され、伊都王に替わり倭国王に就任。
その初代女王は箸墓に埋葬された、と。
いまだに、東海からの入植者が多いという視点が欠落してるやつが多いな。
279 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 21:40:44
280 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 22:21:20
>>279 しかし庄内輸出もさることながら、搬入・在地製を含む外来式が総数の15%を占めるってのは
実際異常な数字だと居わざるを得ないし、それを入植(派遣含む)抜きに考えるのは難しくないか?
これが搬入のみならば、各地の商人なり使者が物産を持ち寄った名残だと見ることも出来るが
在地製外来の多さからして、やはり人の移動も相当にあったと見るべきだろう。
またこの外来式の出土状況が厄介で、古留0以降から共伴例は増加するが
それ以前からもめったやたらと出て来るんだよな。
とすると少なくとも出土例からすれば、河内、播磨、東海、阿讃、丹波、丹後、山城、紀伊、伊賀、近江
それに出雲、吉備あたりは相当初期から参加していることになる。
仮に巻向プロジャクト発案者が、大和川水系プラスαくらいの規模だったとしても
実行段階では最低でも上記地域にあった有力なクニが参加していた蓋然性は高い。
もっと少量でいいのなら北部や南部九州のも古留0以前に出るから
巻向は近畿の地方連合王権だけが母体とは考えにくいのだが。
しかし巻向以前に、畿内というか東瀬戸内通商連合みたいな存在があった可能性は高いだろうね。
その東端で東海通商連合と接していたかダブっていたのが大和であるとは言ってよいと思う。
281 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 22:38:34
282 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 22:59:30
>>276-277 それなら当時過疎化して環濠さえも自然埋没していた唐古・鍵を再開発するか
もっと地勢的に便利な河内の石津川あたりの再開発で事足りるんじゃないかな。
巻向は今でこそ唐古・鍵のすぐ隣にあるから、空き地を利用したように見えるけど
当時は微高地と低湿地の入り混じった使い物にならなかった土地だったのを
わざわざ川の流れを変えて埋め立て造成しているのだから。
その為に他地域からの大量の労働者を呼び込む必要はあるまい。
もし以前から強大な畿内王権が存在したとするならば、そもそも巻向以前はどこが中心だったのかという問題もある。
前述のように唐古・鍵ではないだろうし、加美、八尾南、瓜破などの河内寄りや
平等坊・岩室、新上小阪なんかでは役者不足だろう。
久宝寺はちょっと面白いかもとは思うがね。
>>280 >やはり人の移動も相当にあったと見るべきだろう。
この事は誰も否定してないのだが。
外来土器=入植者という短絡を笑っただけで。
>仮に巻向プロジャクト発案者が、大和川水系プラスαくらいの規模だったとしても
>実行段階では最低でも上記地域にあった有力なクニが参加していた蓋然性は高い。
君の言うプロジェクトとか、クニが参加とか、具体的にどのようなものを
想定しているかが分からない。
外来土器の出土からここまで空想出来るものなのか?
>>282 >もし以前から強大な畿内王権が存在したとするならば、そもそも巻向以前はどこが中心だったのかという問題もある。
だから、庄内初めに大和川水系が結集したんだよと。
「以前から強大な王権が」とか誰も言ってないのだが、どこをどう読めばそう
なるのか?
普通に、畿内にも王権が誕生した。筑紫や吉備、出雲のように。
ただこれだけのことを、何故認められないのだろうか。
畿内が、東海地域など東方との交易を重要視したのは間違いないが、
西日本諸国の中心地としてマキムクが選ばれたというのは、根拠が弱いのでは?
マキムクの立地は、西日本全体で見れば、対東海との玄関口であることは間違いない。
しかし西日本各地域の物資の集積地、交通路の結節点では、余りに東に寄り過ぎている。
吉備や筑紫が大きく関与したなら、こんなに自分の根拠地から離れた場所を
都には選ばないよ。
そうじゃなくてね、
河内〜近江〜若狭湾の交通の要所と、
紀や東海とも交易しやすい場所として奈良盆地が選ばれたんだろ。
王が選んだわけじゃあなくて、行商人が川づたいに集まったところというだけ。
288 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 08:12:38
>>287 まあ、そうやって生まれたのが唐古鍵なのは認めるが。
西日本各地の首長が、交易に便利な場所としてマキムクを選んだ、というのは説得力に欠けるな。
外部勢力主導の結論有きの後付けか。
畿内が、西日本と東海との交易の仲立ちをして力を付けたのは、地勢上そうなのだろう。
しかし東海との交易で考えても、初瀬川の谷筋がそれほど有効であったとも思えない。また、初瀬川とマキムクでは離れている。
東方交易の利便で考えれば、奈良盆地より北方、近江や山背の方がいい。淀川水系も利用出来るし。
289 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 09:42:23
鉄鏃は、古墳時代に平根式から貫通力の高い細身の尖根式に改良されてる。
290 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 10:01:06
環濠がない 投稿者:himiko 投稿日:2007年 6月20日(水)15時39分57秒
>〈C2〉環濠がない
これと似たような事例はいくつもある。
戦国時代の越前では、朝倉家は山に囲まれた一乗谷に拠点を構えた。
ここは、地理的に防衛に適しているが、交通・流通という面では不便な地域だった。
次に朝倉家が滅亡して進出してきたのが織田家配下の柴田勝家だったが、
一乗谷のような不便な地域は廃棄されて、彼が新しく拠点にしたのは、
北の庄(現・福井市)だった。ここは、地理的に防衛には適さない地域だが、
交通・流通には適した地域だった。
この両者の違いは何かというと、朝倉家は越前という地域王権なのに対して、
柴田家は日本全国王権(織田家政権)の一行政区間であって、
前者は国力に限界があり、防衛に集中した国造りをしなければいけないのだが、
後者は織田政権という他を圧倒する国力を誇る全国政権に組み込まれた政権であって、
防衛よりも経済の発展に重要が置かれたということである。
よく、邪馬台国九州説論者のなかには、纏向遺跡は環濠が無い防衛の弱い弱小集落で、
その後、九州に遠征されて占領したというふうに解釈する傾向があるが、
むしろ逆の解釈をしなければいけない。
纏向遺跡の領主は、もはや他に比類なき国力を誇り、
防衛よりも交通・流通の面に重点が置かれた街づくりを
したというふうに解釈するべきである。
つまり、このような状態に置かれた王権というのは、
日本国内では後世の織田政権同様、日本全国に覇権を行使できる王権だと解釈するべきである。
>>288 >しかし東海との交易で考えても、初瀬川の谷筋がそれほど有効であったとも思えない。
どうして?
古代から関所としても有名な伊勢街道を守る墨坂は、崇神紀にも登場しますが。
292 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 19:37:35
実際、悪路だろ。
桓武が山背に都を遷したのも、東方経営に本格的に乗り出すため。
奈良盆地から東海へ行こうとすれば、どうするだろう?
大阪湾〜紀伊半島南下〜伊勢へと、小舟で行くだろうか?
太平洋側は海も荒れるだろう。舟で上陸できる浜も少ない。
一方、伊勢街道を使えば、江戸時代でも2日の道のり。
どちらが安全かつ効率的?
294 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 20:32:05
何で「奈良盆地から」なんだよ。
西日本全体が、東海と交易する時の拠点として、マキムクが選ばれた、って主張だろ。
混乱してる?
>>294 ええと、奈良盆地とマキムクと何か大きな違いがあるの?
296 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 20:46:04
だから〜
東海との交易の利便性だけなら、マキムクは選ばないでしょ、ということ。
東海の人が、伊勢から奈良盆地に行くとき、
初瀬川を上っていけば、三輪山の裾を右手に見ながら、すぐにマキムクにたどり着くんだけど?
>>297 いつの時代の話だ。
むしろ峠道の多い、険しい道で有名。
陸路整備が弥生終末期にされてたとか、夢見過ぎ。
299 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 22:15:26
>>295 少なくとも奈良盆地の北中部と東南部では、それまでの交易の歴史が違う。
北中部は芝遺跡に代表されるように、東海勢力との付き合いが深く、あとは隣接する河内、山城との交流が主。
対して東南部は唐古・鍵や大和川、初瀬川水系の各集落とともに、東海から吉備、出雲まで幅広い。
巻向誕生後も北中部は、その広域交易網に参加しなかったか、相当遅れて参加した(あるいは隷属化した)と見られているので
一概に奈良盆地だけで括ることは出来ない。
これは福岡平野や濃尾平野でも同じ現象が起きている。
西新町や那珂のように、積極的に再開発を推進した(あるいは受け入れた)地域もあれば
須玖のようにそのまま消滅した場所もある。
濃尾では朝日なんかが、その堅固な防衛施設を見ると、最後まで抵抗した集落だと言えるかもしれない。
巻向の立地条件については、瀬戸内と東海の橋渡しが最も重要視されたとは思うが
どちらの勢力とも付き合いがあったという、ハブの役目を古来から受け持っていた(結果的にそうなったのだとは思うが)実績が買われたのではないかと思う。
300 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 22:42:42
ただ弥生後期までの大和と東海の付き合いというのは
お互いに活発な通商を行うほどではなかったようには思う。
これは山城や近江もそうなのだが、か細い陸路を使ってのバケツリレーのようなものだったことが
互いの地域の途上にある各遺跡での、外来式出土量から推測される。
東海、特に遠江にしてみれば、伊賀経由(点在する小規模集落跡をつなぐ、現在の西名阪高速に近いルートかもしれない)で
冬場は無理としてもそれ以外の季節に陸路が確保できるのはありがたかっただろうし
何よりも瀬戸内以西という巨大な顧客との直接通商が可能になるメリットは計り知れなかっただろうし。
もちろんその逆もそうで、瀬戸内にとっても東海は魅力的な顧客であったろう。
自分はその他のルートはどうだったのかも考えてみたいと思っている。
南部九州とは、紀伊、讃岐、土佐、日向を結んだ太平洋ルートが終末期から特に活発になるのは知られているが
日本海沿岸の出雲から北陸、越後にかけてのラインは
丹後→近江→丹波→大和北部→大和東南部と来たにしては、大和北部にその痕跡が薄い。
出雲などは吉備、播磨を通じて河内に入るルートを古くから持っていたようだが
大和北部が交易網に参加するまでは、主に丹後→近江から山城→摂津→河内と迂回するルートが一般的ではなかったかと考えている。
これは琵琶湖西部と山城の調査があまり進んでいないので、推論にしか過ぎないのだが
いきなり攝津、河内に北陸産の搬入土器が増える背景には、陸路での経由ルートの存在が考えられると思う。
301 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 23:07:47
長文ばかりで悪いが、もうひとつ考えねばならないのが
巻向がハブ基地だったにせよ王権所在地であったにせよ
果たして各クニは取引品のすべてを持ち込み、物々交換して互いに持ち帰っていたのか否かということ。
実際問題として、そこまでの巨大物流地点とは考えにくく、またそれだけのインフラ整備も海路利用だったとしても
あまりに各地に痕跡がなさ過ぎる。
奈良盆地が本来の意味での物流拠点になりえたのは、後の時代に私市倉庫群などの保管施設が機能してからの話で
巻向の時代には、サンプル品の持込による見本市の役割が主ではなかったかと思う。
自分はハブ基地であると同時に、その実態は取引目的の見本市会場であったと考える立場だが
商取引とは駆け引きはあったとしても、基本は公明正大さが求められる。
なので各クニの神々(首長霊)を一挙に集めて、その前で互いの神に誓い合うよな「ウケイ」にちかい約束事が同時に必要になった。
それが反映され、各地の墳墓や祭祀具などの祭祀形態がごちゃまぜになったのではないかと考える。
実際、古留0式以降の円筒埴輪にしても、あれが完成したての墳墓に並べられる様は、見慣れぬものには相当に異様だっただろうし
葺石や後円部上の柱状建設物も、他の地区からすれば随分と目新しいものであったろう。
つまり巻向にて人為的に発生したと見られるパッチワーク宗教が、ジャッジメントを司るなかで急激に権威を増し
それが王権の礎になったのではないかと考えるものである。
302 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 23:27:00
最後に、王権発生が先だとすれば、巻向以前の大和の勢力(主に経済力や生産力)があまりに弱く
また畿内有数の勢力であった河内がなぜ主導できなかったのかなど、疑問点は多い。
倭人伝記事を信用するならば、巻向着工や庄内式開始と女王共立がほぼ同時に一気に行われたことになり
これも可能性がないとは言わないが、あまりに唐突過ぎる。
ハブが先でも、やはり祭祀王の誕生が早すぎるし、巻向型前方後円墳そのものが巻向と一体のプロジェクトだったことになり
事前に綿密な調整と、何らかのプロトタイプが必要になる。
これについては、共立はいいとしても倭国の実質的な女王であったかどうか
魏による女王認定は、当時の倭国においてもオウであったから自然にそうなったのではないのではないかと考えねばならない。
また各クニが実際に荷揚げや中継地とした集落遺跡が、全国にもっと存在せねばならないことも、問題点としてある。
これについては3世紀以降に再開発されたと見られる、西新町や那珂などと同様の形跡を持つ集落遺跡が全国にあると考えねばならない。
今後の再調査や出土物のすり合わせなどが重要な鍵となるのは、間違いないと思う。
分かりにくい理屈ですね。
文体牛のよだれの如し、とはこのことか。
そもそもが、初期ヤマト政権を全国政権と考えるのが間違い。
庄内開始時は、所詮は大和川流域を統べる程度のローカル政権。
布留期に、他地域から頭一つ抜き出た程度。所詮は諸国のオウたちに共立された
に過ぎない。
ヤマト大王権力が全国規模に拡大したのは、半島を南下し始めた高句麗に対し、
挙国一致で立ち向かう必要が生じた、4世紀末以降。
記紀でいうところの応神・仁徳〜雄略。中国史書では倭の五王の頃。
>文体牛のよだれの如し、とはこのことか。
感情的な反論は、読んでいて虚しい。
抽象的表現は避けた方がいい。
主張ごとに要点を絞ったがいい。
最低限、事実と結論くらい分けた方がいい。
事実と解釈の違いも意識した方がいい。
そうしないと、ごまかしと邪推される。
307 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 23:47:45
>>304 いや実態はその通りだと思う。
なのに倭国王とかに選ばれてしまったものだから、名前に実力がついていかなかった時代が長かったんじゃないかな。
また高句麗南下に対し、挙国一致を唱えてその方向に向かわせるだけの発言力を持った勢力が台頭するにあたって
実質的に流通を抑える為政王的存在が、祭祀王の権威を凌駕したとも考えられる。
これも記紀で言うなら、指摘通りの時期だと思う。
巻向や各地の集落の廃棄をもってして、初期ヤマト政権(広域流通連合)は、第2の段階に進むのではないだろうか。
ちなみにこれは王朝交代などという大層なものではなく、政権交代程度に考えてほしい。
>>303 別にわかりにくいとは思わないが。
丁寧に、しかも資料に沿った論だと思う。
とりあえず、魏志倭人伝にあるような倭国大乱とか、
強大な女王が共立されたとかいうような事実は、
考古学上認められないということ。
魏志倭人伝は、相当誇大な表現がされていたということに注意を払うべき。
外部勢力主導とも在地主導とも言い切れないんじゃないか?
流通拠点の存在は、両者とも多大なメリットがある話しだろう。
そこに誤算があったとすれば
大和は、各地の文化を受け入れすぎたあまりに埋没化してしまたこと。
外部のクニグニは、よもやそれぞれの地元を凌ぐほどの勢力を手に入れるとまでは考えてなかったことだろう。
>>309 そうかなあ、高地性集落や環濠集落は争いがあったから作られていたんだろうし、
戦闘の痕跡の残る人骨や鉄製武器なども争いの痕跡てみて良いんジャマイカ。
312 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 02:31:43
青谷上寺地遺跡で検索を。
>>310 >大和は、各地の文化を受け入れすぎたあまりに埋没化してしまたこと。
埋没? マキムク発の前方後円墳の祭りは全国に拡大していくのだが?
315 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 08:16:34
マキムク=見本市とかは、無理矢理感があるな。マキムクが王都ではない、という大前提(思い込み?)に基づいてるんだろうけど。
>>309 倭との交流の裏には、呉の側面に強大な魏の友好国がいることを仄めかす政治的な目的があったというからね
蜀の西の側面に位置するクシャーナ朝にも金印送っているし
呉に対して脅威感を与えるのが目的なんだから、誇張が含まれている可能性はある
317 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 11:23:57
畿内が東西物流の仲立ちで、力を蓄えた。他国から人・物が集まり、やがて王権が生まれた。と、シンプルに考えたい。
自生にしろ外部にしろ、この点には異議がない筈だ。
で、自生説は、弥生後期を通じてそのプロセスを語るのに対し、外部説は庄内の期間(50年くらい?)で、その変化が全て起きたと言う。
激変の理由は、外部勢力が平和裡に、現地勢力と衝突する事もなく、そのそばに大量入植したため。
クニを作り、土着化して畿内の有力豪族になったとの事。それも庄内の50年?の間に押し込める。
冷静に考えれば、無理があり過ぎだよ。
318 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 12:09:21
>>309 そんなことはない。
というか、考古学の力だけでは
限界があるというわけで。
319 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 12:21:24
首の無いまま埋葬されてたり、石鏃や石剣の先が刺さったまま埋葬されてる事が多い時代は戦争の多い時代と想像できるだろ。
321 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 14:07:46
>>309 認められないという言い方だが、遠回しに言えば考古学に女王国等の立証力が
現今ではほぼ無い、〜つまり無力だということだ。
322 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 14:28:25
弥生時代は意外に平和だった
>>321 おまえは九州説だから、畿内のことは関係ないじゃん。
324 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 15:07:16
325 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 15:26:44
人が増えるとレベルが落ちるなw
自生が外部かで議論している連中は、考古事実を認知し、なおかつ自説の弱点を知った上でやってるんだよ。
>>314 両説とも、巻向型が畿内どころかどこかの完全なオリジナルでないことは知り抜いている。
パッチワークであることは明白だから。
>>317 >>302がすでに述べている。どちらの説にしても時間が短すぎるし、唐突だと。
おそらく両説とも、巻向に先立って何らかの畿内地方連合があったことは認めているが
それが巻向以降ではガラリと畿内色が失われるし
以前にしても他の地区を押さえて主導するだけの実力がないというのが自生説の弱点。
外部説は、相当な調整が事前に必要だが、それは可能かとも疑問を投げかけている。
>>319 場所よりもまず、時代が少なくとも100年違う。
キミの言ってることは吉野ヶ里や土井が浜の話だろう。
後期後半では
>>312指摘の青谷上寺地が、今のところ唯一の例。
しかも埋葬もせずに、死体を環濠に捨てている。
戦争による自国の被害者とするには、扱いがひどすぎるので、内乱説が唱えられている。
>>321 文献記載が事実かどうかを検証するのが、考古学の役割でもある。
つまり考古学の、ではなく証明されないのは文献の限界ということ。
てかお前は、スレ違いだから消えると宣言したじゃん。
人が増えると、へこへことついて来る節操のなさがカコワルイ。
326 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 16:04:10
記紀は文証である。それに逆らうのが全部ではなかろうが考古学と云われても、
お前の記紀軽視ならしようがあるまい。w
一方で、記紀の正しさを考古学が証明してる部分もあるわけだが。
328 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 16:54:06
つまり記紀の正しさを証明するのは、いい考古学
記紀の間違いを指摘するのは、悪い考古学ってわけだ。
ずいぶん都合のいい話だなw
だから文献厨とか呼ばれて除外されてしまう。
まともに文献を扱える論者が居るのなら大歓迎なんだけどね。
佐伯や三好に精通した者が、ひとりくらい居てもいいようなもんだがなあ。
329 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 17:22:06
弥生前期の戦いの痕は、播磨・新宮宮内遺跡がある。
播磨・養久山古墳墓群は弥生から古墳時代へとつながる物で吉備の影響を受けてる。
全古代史スレで完璧なるスルー対象といわれてるアラシの
相手をするやつがいるとはな…
331 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 17:48:19
記紀にも間違いはある。これは確かだ。指摘は結構だが指摘側が間違えること
もあろう。考古学を恣意的に使って記紀の権威を低下させてるんではお話に
なるまい。
記紀は「文献」という「資料」のひとつにすぎません。
記紀に「権威」を求めてる人はお帰りください。
333 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 20:51:34
綺麗にまとまったところで、本題に戻ろうや。
畿内王権の成立について、期せずして纏まった部分はおおむね以下の通り。
1、畿内自生勢力主導と、外部勢力主導の2派に分かれる。
2、自生説は纏向建設の目的が、畿内連合の王都であると考えている。
3、外部説は、広域連合がハブ基地を必要とし、過去の実績もあって大和東南部が選ばれたとする。
4、いずれの説を採るにしても、纏向以前の畿内に地方王権が発生していた可能性は高いと見ている。
5、両説とも、纏向以降で採用された祭祀は、どこかの地域のオリジナルではなく、各地のパッチワークだと見ている。
6、結果的に3世紀に端を発する畿内勢力が、全国を席巻することになる。
その時期は記紀で言うなら応神、雄略のころ、中国史書で言うなら倭の五王の頃。
それまでは並列的な通商連合で、各クニにオウがいるままであったとする。
7、その実態は当然記紀とは整合しないが、魏志とも整合していない。
いずれの史書についても重大な誤謬か誇張がある。
8、この広域通商連合が機能し始めるのは、土器編年では庄内式開始あたり、実年代では2世紀末ごろと考える。
9、(重要)邪馬台国の場所など、ぶっちゃけどうでもいい。
3世紀以降の日本列島の政治・経済状況を総括的に探求することが、このスレの目的であり主題。
10、スレ違い、荒らしは放置。
文献の記述が正しいか間違ってるかは、他の(考古学的)資料とつき合わせて、
整合性があるかどうかで判断されるもの。
他の(考古学的)資料と、文献の内容が矛盾しなければ、その文献は正しいと言える。
他の(考古学的)資料と、文献の内容に矛盾があれば、どちらかの資料が間違っていることになる。
どちらの資料が間違っているかの判断は、資料の質と量の多さで決まる。
そこには、恣意的判断が入る余地は無い。
考古学的資料は山ほどあるが、記紀や魏志倭人伝は、それしかない。
考古学的資料と、魏志倭人伝に矛盾があれば、「魏志倭人伝が間違ってる」と結論するのが、
「科学」という学問である。
「科学が信用できない」=「論理的価値判断ができない」という人とは、
まともな議論は出来ないので、スルーするのが建設的。
これが、荒らしをスルーする根拠。
336 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 21:16:30
>>332 記紀は津田病やイカサマ古代史からの危機防護の金剛盾であ〜る。
弱力の考古に権威をおくなら、お前は日本から消えてよい。
>>333 4、いずれの説を採るにしても、纏向以前の畿内に地方王権が発生していた可能性は高いと見ている。
ここはもっと突っ込んだ議論が必要だとおもう。
地方王権が王都を「新設」した事例は、それまでの先行するどの地方王権にもない。
日本初の試みであるとするのが自生説なら
外部説はどこが中心集落であったか提示する必要がある。
唐古鍵は時代的にありえないとすると、八尾南あたりが候補地か?
338 :
337:2007/06/22(金) 22:25:05
ふと気付いたのだが、盾築は巻向に先行するのだろうか。
自分の理解ではほぼ同時期のようにおもうが
盾築周辺に中規模集落遺跡ってあったかしら?
庄内式と併行するのは、岡山市の高塚遺跡などがあるが
これは3世紀中葉の事例だよね。
盾築はどこの集落の首長墓だと考えられているのだろうか。
339 :
SOY:2007/06/22(金) 23:15:00
>>338 >盾築周辺に中規模集落遺跡ってあったかしら?
楯築墳丘墓に比較的近い位置にある遺跡としては
あの有名な大東遺跡があるのでは?
340 :
SOY:2007/06/22(金) 23:18:29
>あの有名な大東遺跡があるのでは?
すみません。『上東遺跡』…
楯築墳丘墓は土器編年から、庄内0より古いとされている筈。
埋葬形態から見ても、マキムク型より古いと考えた方がいい。
>>337 >地方王権が王都を「新設」した事例は、それまでの先行するどの地方王権にもない。
古代の東アジアではよく見られるようだが。
王権とともに王都が造られ、王権の消滅とともに王都が破棄される。
>>333 >9、(重要)邪馬台国の場所など、ぶっちゃけどうでもいい。
これは違うだろ。3世紀とか実年代を使う以上、ヤマタイコク問題も避けて通れない。
議論が混迷するから九州説を排除したい気持ちは分かるが。
自生説という呼び方もどうだろうか。
大和川水系(中河内・大和)、東瀬戸内地域の首長層が連合した、
みたいな説を「自生」と呼ぶのに違和感がある。
「畿内連合」説の方が良いのでは?
>>333 >2、自生説は纏向建設の目的が、畿内連合の王都であると考えている。
庄内開始期に、近在する環濠集落の堀が一斉に埋め立てられるという事例がある。
さらには、運河建設という大土木工事の開始。
強力な王権の誕生を考えざるを得ない。
見本市とか暢気な話では説明出来ないこと。
346 :
34:2007/06/23(土) 13:09:59
環濠の消滅は「守るべき物」の移転があったからでしょうか?
「財産=米等」、それ以前には集落単位で備蓄・管理されていたのもが、
拠点集落での管理する体制に移行していった。
具体的には、各集落での剰余を一旦「王」に献納し、換わりに鏡等の宝器が下賜される。
王に集約された備蓄米は新たな治水事業や自衛制度の維持に当てられる。
下賜された宝器は単位集団としての集落内で威信財として使われる。
そんな感じの社会制度が出現していたとしたら、それは「王権」の成立といえるでしょう。
>>343 邪馬台国問題なんて、今の考古学から見れば、すでに小さい問題だよ。
魏志倭人伝が語ってる以上の3世紀の倭国の様子がわかってしまったんだからな。
とくに九州説が言うことには、魏志倭人伝は九州内部のことしか書いてないそうだから、
日本全土を俯瞰する考古学から見たら取り上げる必要性すらない。
>>346 >具体的には、各集落での剰余を一旦「王」に献納し、換わりに鏡等の宝器が下賜される。
それを、「王権」と見るのか「商業」とみるのか、区別はどうつけるのか?
4世紀までは、まず王権ありきではなく、
商業活動として、鏡等と食料品を商人が物々交換したことから、
徐々に発展していったと見るべきだろう。
物々交換が、ルールも定められ円滑に進められば、略奪行為もなくなり、環濠も必要なくなる。
商人が力を付ければ、おのずと「王」の位置につく。
>>347 それなら、実年代など口に出さず、土器編年だけで語りなさい。
>>348 おいおい。箸墓とかは、単なる富裕な商人の墓、と言いたいの?
351 :
34:2007/06/23(土) 14:00:11
>>348 >それを、「王権」と見るのか「商業」とみるのか、区別はどうつけるのか?
「ことば」の問題にしてしまうと主観対主観の堂々巡りになりませんかねえ。
でも、強いて言えば集約された蓄財が公共投資に回されるか否かかな?
352 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 14:27:17
>>347 大してわかっちゃいないよ。 取り上げない=分からんから逃げの一手
>>348>>351 まさに「王権」をどう定義するかの、言葉つーか用語の問題だね。
寺澤は王権誕生の中で、
>>348が言うような状況の中で発展していったことを説いているが
それでも巻向という弥生都市の誕生をもってして、王権とみなしてよいと定義した。
これが妥当かどうかは色々あるだろうけど、狭義での絶対王権ではなく
「弥生王権」というある意味曖昧なカテゴリーを創設して、便宜上分類したわけだから
このスレでは、考古学用語としての「オウケン」の意味で、取り扱うとの取り決めをすればいいんじゃないかね。
通商連合説、地方王権並列説いずれにしても「商業」「交易」をベースにして発展したという考えには
おそらく誰も異論はないだろうと思うから。
戦争や侵略を想定する「軍事王権」なんて古臭い考えは、連合説にはそぐわないし
そういう話は別スレでやればいい。
354 :
34:2007/06/23(土) 15:09:46
>>348 これも私の主観ですが「商人」と言うと「生産手段を持たない存在」と言うイメージもあります。
「王」は生産手段も流通手段も同時に支配しうる、そんな感じですかね。
纏向に「王権」を認めるとして、その「王」がどの程度生産手段を支配していたか、
当然、直接的な支配は各単位集落の手にあるわけですが、
私は、用水や河川交通網の整備、安全な備蓄施設の経営等として還元される資財を
貢納させる制度によって間接支配が為されていたと思います。
>>353 寺澤の「王権」定義は、基本的には滝村隆一などの史的唯物論の系譜に属するもの。
「弥生的」と称していても、既に初期国家段階に到達した存在との認識でしょう。
「通商連合」が互恵的な性格を有するとしても、そこにはヒエラルヒーも発生しており、
ましてや、連合内の単位集団である各首長の支配体制も階級的なものだとみるべきでしょう。
私は、庄内期における「通商連合」内でのヒエラルヒーについては甚だしく疑問なんですがね。
>>350 ヨーロッパを支配したメディチ家のように、
商人がムラの首長より、墳墓建設の動員力を得ることはありうるだろう。
墳墓がでかければ、強大な王がいたと考えるのもいかがなものか?
記紀を読んでも、モモソヒメは王ではなく巫女扱いなのだし。
魏の使者が、箸墓を見て、モモソヒメを女王だと勘違いしたこともありうる。
356 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/23(土) 15:17:30
倭人伝は過去形なのかい?
わかっているのは、箸墓が、3世紀末頃につくられただろうということだけで、
王の墓とも、モモソヒメの墓とも、卑弥呼の墓とも決められない。
3世紀の倭国に、ものすごく人望のあった人物が畿内にいたということだけ。
それは、王なのか、国連事務総長なのか、ということだろう。
祭祀様式がよせあつめなのだから、各地から集まった司祭達が共同で祀ったということだろう。
各地から司祭を派遣したのは、各地のムラの首長だったろうが。
358 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 18:59:18
>それは、王なのか、国連事務総長なのか、ということだろう。
実態は、国民的アイドルか、カリスマ占い師ぐらいのものだったと思うけど。
こんなかんじじゃね?
「えっ、卑弥呼ちゃん死んじゃったの?うそーん!俺の永遠のアイドルだったのに・・・
それなら立派なお墓建ててやらないと、ウチの国の威信もあるし・・・おい、豪華な副葬品見繕って送れ!」
>>355 商人=首長層だろ、当時は。
別に議論するようなことじゃないと思うが。
何に拘ってるんだか
360 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 20:58:05
魏帝も商人?
>>360 ていうかね。
商人がマンパワーを召集し得る財力を持った時点で、首長と呼ぶべきだと。
>>359 商人=首長層に近い実力者だろうが、首長ではないだろ。
首長がムラを空けて市場に出かけるわけにはいかん。
ようするに、通商連合説に分があるということだね。
>>362 ウィキで商人の項を読んで。
基本的な知識を持った上で、再度書き込んでね。
>>362 なんなんだ、この子供の理屈は?
首長が商取引を行うなら、必ず自分自身が市場に出向かないと駄目なのか?
>ようするに、通商連合説に分があるということだね。
で、君はどういう結論に導きたいのさ。
365 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 21:36:06
>>362 >首長がムラを空けて市場に出かけるわけにはいかん
なに言ってんだ。
いつの時代でも社長が自ら買い付けに行くケースのほうが稀じゃないか。
人を使うって発想はないのか?仕事したことある?
トップは命令だけ出して、ふんぞりかえっているんだよ。
それくらいの権力がないとクニなんて維持できないだろうが。
もうその時点で、商人あがりの首長なんだよ。
そして弥生のムラヤクニは、ほとんどがこのタイプのものだと考えられている。
軍事に秀でていても、宗教に特化したにしても、最後はカネを握った奴が強いんだよ。
夢のない話だが、俺らは理想を語り合っているんじゃない。
実際に何が起きていたのかを推察しているんだからね。
366 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 21:38:22
>9、(重要)邪馬台国の場所など、ぶっちゃけどうでもいい。
そうかな。
実際、このスレで議論になっているマキムク王権(畿内連合)の誕生は、
実年代では、殆ど卑弥呼の時代と被ってるわけなんだから、無視出来ないだろ、
普通に考えてさ。
ヤマタイコクなるものが、筑紫か吉備にあったとしたら、畿内連合の成立プロセス解釈も
全く変ってしまう。
367 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 21:40:37
>>364 確かに商人=首長じゃないとする主張と
通商連合説は矛盾するな。
いったい何が言いたいのか、よくわからん。
本人もよく判っていないのではないだろうか。
オウ=宗教者or軍人で、それ以外はなしって考えか?
商人≠首長層の人が、サンドバック状態なので、この話題はここら辺りで終息。
>>366 どうでもいいとまでは言わないが、要するに困ったちゃん対策じゃね?
2つも3つもある邪馬台国や倭人伝スレから人が引いて
ここが今では活発だと見るや否や
かまってオーラを撒き散らしながら、一部コテが鼻を鳴らして擦り寄ってきているじゃん。
ただのトンデモさんなら無視だけでいいけど、自演や名無し変身を繰り返してまで
かまってくださいと付きまとうストーカー的存在なのだから。
彼らに実は主張なんてないのだろう。どうやら九州説ですらないとも思える。
少なくとも古代史が好きなようにも見えない。
要するにかまってくれる相手なら、誰でもいいんだろうね。
厳しいようだが情をかけると、糞を撒き散らしてスレを機能不全に陥らせるような無自覚の荒らしなのだから、もう仕方がない。
370 :
34:2007/06/23(土) 22:01:23
>>367 正規の交易相手として互いに信任しあうこと。
これは「王権」の構成要素の一つではあるけど、
別に根源的なものじゃないでしょう。
商業関連で言えば、「市」での公正取引を管理する権能、
港湾や航路での安全保障などだって「王権」の一部でしょう。
こう言った機能であれば、「警察」とか「裁判官」とか呼んだ方がぴったりする。
「王>商人」は同意できても、「王=商人」みたいな表現には違和感がありますね。
>>369 ヤマタイコクの話は、考古学者も嫌がってるからな。
土器編年で語り、実年代では殆ど語らない。
素人にはそこが不満な訳で。
確かにヤマタイコク論争とか倭人伝解釈は、本当にどうとでも解釈出来る代物で、
学者先生が避けたい、巻き込まれたくない気持ちは分かる。
C14や年輪の結果待ちなんだろうけど。
>>370 >「王>商人」は同意できても、「王=商人」みたいな表現には違和感がありますね。
どうだろう?
オウの捉え方の違いじゃないか?
オウ=拠点集落の首長程度の意味合いだろうし。
古代日本においては、首長権力と商人層が未分離であったわけだし。
>>370 「王」の定義はあなたの言うようなものだろうし、その成立には様々なケースがある。
ただここで議論されているのは「王」ではなく「オウ」なんですよ。
同様に「クニ」は「国」ではないし、「ムラ」も「村」ではない。
慣れるまで判りにくい考古学用語独特の言い回しだけど
出来れば使い分けて考えてくださいな。
>>370 >「王>商人」は同意できても、「王=商人」みたいな表現には違和感がありますね。
あなたの言うとおりで、商人と王(オウ)では、性質が違う。
人々を統率するのがオウであり、交渉して取引をするのが商人。
交渉上手でもカリスマがなければオウとして認められない。
信頼できる人間でも、交渉ごとが下手なら商人として成功しない。
まずは、商人同士が集まり、商人の中からカリスマを有した人物がオウとなったと見るべき。
>>374 わけの分からない議論なんで、もう止めたら?と思うが。
君の思うような、「商人」とか「王」の抽象的・概念的議論をしたい人はここにはいない。
商人≠オウとして、いったいどんな主張をしたいのか?
まずそこから書いていってくれ。
その上で反論するから。
>>341 >楯築墳丘墓は土器編年から、庄内0より古いとされている筈。
上東・鬼川市V式だな
後漢時代の鏡出土 鳴門の萩原2号墓 2007/06/22 10:34
徳島県教委は二十一日、国内最古の石積み墳丘墓とされる鳴門市大麻町萩原
の萩原二号墓(二世紀末−三世紀初頭)で、石積みの内側に木材を立てた墓室
「木槨(もっかく)」内から中国・後漢時代の一世紀中ごろから同後半に作ら
れたとみられる銅鏡「四葉座内行花文鏡(しようざないこうかもんきょう)」
の一部が見つかったと発表した。同墓が築造された時期から、前方後円墳の起
源となる王墳への鏡の副葬が始まったとみられる。
発見されたのは、長辺四・八センチ、短辺一・四センチの鏡片。厚さは一・
四−二・一ミリで、櫛歯(くしば)文や松葉文など四つの模様が描かれていた。
当時の墳墓では鏡を割って副葬する例があり、見つかった鏡も人為的に割られ、
棺(ひつぎ)の上か木槨のふたの上部に置かれていたと推測される。
徳島文理大学の石野博信教授(考古学)は「前方後円墳につながる墓であり
ながら、鏡を砕く弥生時代の風習も残し、過渡期の墓の姿が見えて興味深い」
と話している。
【写真説明】萩原2号墓から見つかった中国・後漢時代のものとみられる銅鏡
(県教委提供)
ttp://www.topics.or.jp/contents.html?m1=2&m2=&NB=CORENEWS&GI=Kennai&G=&ns=news_118247623632&v=&vm=1
萩原2号墓:埋葬施設の構造判明 前方後円墳発生の謎に迫る−−鳴門 /徳島
◇徳島大総合科学部の東教授「貴重な資料だ」
三重構造の珍しい埋葬施設「積石木槨(つみいしもっかく)」で知られる萩原2号墓(鳴門市大麻町萩原)
を調査していた県教委と県埋蔵文化財センターは21日、最終報告を発表した。埋葬施設の構造が明確
になり、新たに中国から伝来した鏡の破片が見つかった。【加藤明子】
県教委によると、萩原2号墓は弥生時代終末期(2世紀末〜3世紀初頭)の墳丘墓。積石木槨の底には
一面に厚さ1〜2ミリの薄い青石(結晶片岩)がタイルを張るように敷き詰められていた。同様の構造を持
つ古墳は朝鮮半島にあるが、日本では例がないという。
木槨の構造は直径20センチ程度の木材をログハウスのように積み上げたシンプルなものだったと推
定。同じように木槨を積石で囲む全国最古級の前方後円墳、ホケノ山古墳(奈良県桜井市)では枕木や
柱の痕跡である溝が見つかっており、技術の変遷がよく分かるという。
(続く)
(
>>379の続き)
出土した鏡の破片(長さ48ミリ、幅約14ミリ、厚さ約2ミリ)は、渦などの独特の模様から、中国・後漢で
作られた銅製の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)(直径16・7センチ)の一部と推定。割った鏡を棺の上
に置いたらしい。県教委は「被葬者の魂を閉じ込めたり、弔う意味があったのだろう」と説明する。
また、埋葬施設の東北部分の一部で、人為的に石を動かした盗掘の痕跡が見つかった。副葬品を狙っ
たかどうかは不明だが、県教委は「掘っても掘っても石だらけで、途中であきらめたのではないか」とみ
る。
徳島大総合科学部の東潮教授(考古学)は「萩原2号墓とホケノ山古墳は、埋葬施設の類似性だけでな
く、サイズにも規格性があり、非常に興味深い。前方後円墳の発生の謎に迫る貴重な資料だ」と話してい
る。
鏡の破片や土器などの出土品は23日〜7月1日、板野町犬伏の県立埋蔵文化財総合センターで一般
公開される。無料。問い合わせは同センター(088・672・4545)。
毎日新聞 2007年6月22日
ttp://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/tokushima/news/20070622ddlk36040541000c.html
381 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 02:10:11
破鏡まで出たか・・・しかも内行花文鏡。
そして結晶片岩・・・これの産地が知りたい。
なんか讃岐の古墳は、筑紫と出雲・吉備の両ルートの結晶みたいな雰囲気だね。
四国は古代祭祀氏族忌部の里だから、当然といえば当然。
383 :
SOY:2007/06/24(日) 09:01:44
>>381 >そして結晶片岩・・・これの産地が知りたい。
普通に考えると、吉野川流域ではないかと思います。
昔、現地説明会に行った時、そんなことを聞いたような…
384 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 16:31:18
萩原2号は1号より前なんだね。
阿波地域の墳丘墓造りが、大和に波及してマキムク型が生まれた、という解釈でいい?
>萩原二号墓(二世紀末−三世紀初頭)
>中国・後漢時代の一世紀中ごろから同後半に作られたとみられる銅鏡
>「四葉座内行花文鏡(しようざないこうかもんきょう)」の一部が見つかった
思いっ切り、伝世鏡なんだな。100年以上か。
やっぱり、庄内開始の時期は2世紀半ば頃が妥当な気がする。
2号墓と同時期とされる萩原1号墓からは画文帯同向式が出ている。
鏡だけではなく、墳墓の構造もホケノ山に類似する。
以上から、ホケノ山とほぼ同時期でいいんじゃないの。
3者とも350年頃。下らぬ年代遡上には辟易する。
350年ね。いつもの御方か。プゲラ
391 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 12:40:39
萩原二号墓が、二世紀末−三世紀初頭とするなら、
破鏡された鏡は、100年以上伝世したということ。
ここにして、小林の伝世鏡説が復活するとは。
>>391 伝世がすべてという訳ではない。
伝世された鏡もあった、ということ。
393 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:01:07
伝世鏡説に感じる疑問は、当時、倭人たちが鏡を欲した理由と乖離しているためだ。
倭人たちは、ヒラバル以降、特定首長を埋葬するアイテムとして、中国鏡を利用していた。その人物が生前愛用した品を、単に一緒に副葬したのだとは思われない。それ程にヒラバルの大量破鏡の形態は歪である。
つまり首長霊祭祀において、中国鏡は非常に重要な役割を持っていて、そのために倭人たちは、大量に鏡を輸入した。
葬式に使う実用的でない大型鏡を、大事に百年以上使用するとは考え難い。入手したのとほぼ同時期から副葬していったと見るべきだろう。
394 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:04:10
三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡だとした場合。
三角縁が布留以降にしか出土しないことから、布留0≒239年。その前の庄内式が型式変化などから7〜80年のスパンがあると考えられており、結果、庄内0は2世紀半頃となる。
なんかC14にしろ、萩原墓にしろ、すべてのベクトルが、庄内0=2世紀半を指し示すようになってきているように思う。
やたらと実年代にこだわっている奴がいるが。
庄内開始が通説である三世紀初頭であるか、君の言う二世紀なかばで、そんなに違うものかね?
畿内王権成立のプロセスを語るのに、実年代は不要。土器編年で語るべき
396 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 01:57:36
>>395 同意。
話題がぶれたり、変なのが寄ってくる一因に
文献から推測した実年代と、考古資料からのそれを
味噌も糞も一緒にして論じたがる者が後を絶たないためというのがある。
確かにそういう「妄想古代史」は楽しいのだが、完全なスレチなので
土器編年で語ることによって、基礎知識の無い者をふるいにかけることができる。
過疎化はさらに進むだろうが、枯木に占領されるよりいいだろう。
>>395-396 まったくもって同意。
「妄想考古学」とはよく言ったものだ。
妄想で飛躍するのは、その場では楽しいだろうが、
新しい考古資料が出てきたときに、対処できなくなるだけ。
さらには、自分の妄想と合うように勝手に解釈してしまう。
結果、迷宮に陥るだけ。
冷徹に事実だけを吟味する姿勢こそが、真実に迫る近道だろう。
398 :
SOY:2007/07/03(火) 07:47:56
>>395 >畿内王権成立のプロセスを語るのに、実年代は不要。土器編年で語るべき
私もその意見に賛成です。
せっかく、このスレが邪馬台国ここにありきでは語らないとしているのに
下手に邪馬台国論争に毒されたような曖昧な実年代で語ってしまっては
纏向を不要なフィルターを通して見てしまうことにもなりかねません。
邪馬台国の所在地、実年代を決め付けて纏向を論ずるよりも、
まずはそのような先入観は捨て、真摯に纏向を探求する方が
研究は深まるように思います。
基本的に考古学者はこのようなものかと私は考えています。
399 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 12:26:50
庄内0を2世紀末から3世紀初と言う連中は、ヒミコ共立がマキムク王権の端緒だったと思っている。
その思い込みからは、なかなか抜け出せない訳だ。
実年代を無理に、考古学と切り離す必要はないと思うが。C14も年輪も考古学なんだし。
学者たちが実年でなく編年で語るのは仕方ないが、素人にはそこが不満。
折角、倭人伝や記紀があるんだから、考古学ベースの知識を、それら文献史料と絡めていって欲しい。
401 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 17:19:39
>>398 おまえこそ、九州説派のくせに何を言いたい?
考古学を批判しにきたのか?
402 :
SOY:2007/07/03(火) 20:21:14
>>401 >おまえこそ、九州説派のくせに何を言いたい?
正論を言っているつもりでしたが、考え方が違うようですね。
>考古学を批判しにきたのか?
基本的に九州説は文献も考古学も重視です。
文献にはっきりと書かれているから九州説を唱え、
現状の考古学的成果から語れることに限度があるから可能性を主張するに留める。
考古学についても九州説は至極まっとうだと思いますが…
少なくとも邪馬台国とはっきり分かる文字資料が出土していない段階で
纏向=邪馬台国を前提にした論を組み立てたりはしません。
考古学的見地の上に想像を重ねたものを考古学的見地とするのではなく、
考古学的見地と想像の部分は分けて語るべきと私は考えています。
確かにY本も「考古学」って「使って」るよな(w
安本は、軸足が倭人伝にあり過ぎて論外だけどな。
考古学者が実年代を語りたがらないのは、今現在決め手に欠けるからであって。
本来、実年代を推測するのも、考古学の重要な使命の筈。
405 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 22:16:45
>>402 >基本的に九州説は文献も考古学も重視です。
この前提から、間違ってるな。正論でもなんでもない。
結局、↓のような結果にしかならない。
「文献と符合する考古学は、正しい考古学として利用する。」
「文献と符号しない考古学は、見ないふりをするか、捏造と決め付ける。」
正しくは、こうだろう。
「物証に基づく事実のみを検証する。」
「物証と合わない文献は保留。」
「物証と合う文献は、より慎重に取り扱いに注意し、事実と断定的に決め付けない。」
魏志倭人伝は、事実と合わなくなってきてるから、保留するのが正解。
SOYも、コテハン論客として、もうちょっと賢くなってくれよ。
どういう事実が出たんだろう〜?
自演ウザイ
>>405 倭人伝が事実と合わなくなっている、ってどの辺りが?
方角や距離が違うのは、当時の測量技術から考えれば仕方がない。
基本的に、魏使節団が聞いたという事実は間違いないと思うが。
>>408 >基本的に、魏使節団が聞いたという事実は間違いないと思うが。
魏使節団じゃなくて、帯方郡使もしくはそれ以前から続いていた通商の過程での知識な。
聞いたという事実は、それでいいとは思うが
聞いた(もしくは調べた)内容が事実だったかどうかが怪しいわけ。
少なくとも3世紀のものと見られる遺構や出土品からは
畿内どころか瀬戸内も日本海側も、そして北部九州さえも倭人伝と一致していない箇所が多すぎる。
例えば壱岐・対馬にしても、倭人伝にあるような貧相な有様とは、一致していない。
場所はそこで間違いないと考えられるだけに、そのギャップが浮き彫りになる。
念のために言っておくが
倭人伝の信憑性が落ちているからといって
記紀の信頼度が上がったということは絶対に無いからな。
古墳後期以降の登場人物の実在性や、舞台となった遺構の存在は徐々に確認されているが
記述どおりの行動や思考をしていたかどうかは、まだまだ未知数。
それ以前ともなると、幾多の中国史書以下の信頼性しか有していない。
だから古代史においては文献は副次的、それもかなりプライオリティの低い資料だとしか見なせないわけよ。
このスレ(てか古代史)で、文献に沿った解釈がほとんどされないのは
その扱いには慎重であるべきで、ぶっちゃけどこまで本当か判らんから。
その嘘か本当か判らん文献を、考古資料と同列に扱う時点で、その考え方は破綻しているとしか言いようが無い。
411 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 19:34:12
>>410 通常の文献はお前の頭の結論より信頼度は確かだよ。
412 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 19:57:11
>>411 「通常の文献」という言い方がすでに信頼性が無い。
413 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 20:16:07
>>412 まぁお前は古文献は猫に拒んだなぁ〜。ww
それよりも根子に紀版と言ったほうが適切か〜??
猫にこんばんわ
記紀の記述を裏付ける発見が増えてるのが現状だけどな。
ようやく、津田史観からの脱却が図れるようになったというか
416 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/04(水) 23:01:57
「根子に古文」の者はまだだいぶいるんだろうな?ww
417 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 04:17:54
つーか、倭人伝と記紀の整合性って
大分、取れ始めているんだろう?
それを、九州説論者は必死に否定している。
九州説論者の多くが、歴史を商売にしている愛好家(非学者)だから。
418 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/05(木) 10:35:51
記紀の編者側が大陸と日本の古文献の年代が大幅に食い違いがあるために
整合性を求め、編纂の際に悪銭苦闘したということです。それでやむを得ず
小康状態を選択して、神功39年の女王の記事として神功紀に入れこんだという
ことのようです。
実際の239年は倍暦計上で崇神3年(紀の崇神七〜九年の箇所)に相当します。
こういうことを知れば、
>>410のような不信として価値を貶める短絡的判断
の豆脳回転をする必要はなく、充分有効の古文献です。
419 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/05(木) 10:49:17
>>418 訂正
× 悪銭苦闘 ○ 悪戦苦闘
× 豆脳 ○ 頭脳
420 :
日本@名無史さん:2007/07/11(水) 18:13:45
あげ
421 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 08:45:16
マキムクの性質について、皆さんはどのように考えておられるのでしょうか?
都市か市場か王都か宗教施設か。もしくはそれら全てか?
422 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:41:45
全く素人なんですが、質問です。
纏向遺跡には箸墓建設のためのコロニー的性格がある。
という説を良く見ますが、「古墳建設のためのコロニー」って発掘例があるのでしょうか?
箸墓よりはるかに巨大な古墳があるのに、建設コロニーって聞いたことが無いのですが、
423 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 14:44:45
誰がそんな説言ってんだよタコ
>>422 マキムクが箸墓建設のためのコロニーという説は聞いたことがないですが、
少なくとも、運河建設などで大量の労働者が流入したのは確かなようです。
外来土器から考えれば、特に東海からが多かったと考えられてます。
その大規模な労働力を、特定首長=個人の墓に向けたのが前期の巨大古墳なのでしょう。
橋墓に限定せず、その辺一体の古墳造営キャンプだっていう説は昔からあるよ。
たしか、奈良のどっかの大学の先生が主張してたな。極めてマイナーな意見だが。
どっちにしてもその近くに王都があったことには違いがないのだが・・・・
ところで纏向遺跡には民衆の生活痕がないっていうけど
後に都が置かれた飛鳥は民衆の生活痕って見つかってるの?
聞きかじりなんだが、藤原京は下水の排水がうまくいってなくて、
ものすごく臭かったんじゃないかと言われてるとか。
そういう方面だと、確か巻向でもうんこか何かがでていたようなきもするが。
ウンコ考古学(環境考古学ともいふ)に詳しい人よろ。
マキムクの発掘状況が進めば、ある程度出てくると思うけどね、住居跡。
三輪山山麓の聖地として、特別な階層の人だけが住んだ、って説もあるが、
それにしちゃあ大規模過ぎるし、日本史上そのような特異な都があったこともないし。
429 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 01:22:12
古代大和盆地の豪族分布図みたいなのあるじゃないですか。
南西に葛城氏、北のほうにワニ氏、西のほうに物部氏、みたいなの。
今で言えばひとつの町村ぐらいの範囲ごとに強大な勢力があったようですが、
そんな狭い領地で恒常的な軍隊って養えるのでしょうか?
そんな狭い領地で貴族階級を維持できるくらいほどの生産はあるのでしょうか?
農業生産物が経済活動の大部分で交易がそれにプラスアルファぐらいで
現代風に言えば○○町農協ぐらいの規模だと思うんですけど、
農協じゃ軍隊養うの無理ですよね。
>>429 当時は軍隊を養うという考え方がなかった。
平時は主に農業に従事している集落の構成員たちが、有事には軍事的指導者から武器を配られて戦った。
庄内期にヤマト王権が誕生することからも分かるように、
弥生後期を通じて富の蓄積が行われたであろう大和で、なぜ首長層の墳墓の発展が見られないのか?
大和は政治的空白地域だった。
まだ見つかっていないだけ。
他地域に比べ、階層化が進んでいなかった。
432 :
429:2007/07/15(日) 02:53:12
ありがとうございます。>430
>平時は主に農業に従事している集落の構成員たちが、有事には軍事的指導者から武器を配られて戦った
こういうことはどうやって判ったのでしょうか?
銅鐸にそういう絵が残っていたりするのですか?
魏志倭人伝にそういう記述があるのでしょうか?
>>431 階層化が進んでなかっただけだろうね。もともとド田舎だし。
奈良盆地を開発しようってことになって、各地の豪族が集まってきたんじゃないかな。
奈良盆地が選ばれたのは、やっぱり海賊からの防御の意味もあったんじゃなかろか。
奈良盆地自体が要塞と考えれば。
>>432 普段の農民が、戦闘員に借り出されるのは世界中共通だよ。
職業としての軍人を抱えてたのは、よほどの大帝国だろう。
>>433 > 階層化が進んでなかっただけだろうね。もともとド田舎だし。
階層化=クニの発展度と捉えるのは間違い。富裕なクニで階層化が進まなかった例もある。
> 奈良盆地を開発しようってことになって、各地の豪族が集まってきたんじゃないかな。
これは同意。大和湖の跡、湿原の開拓に大量の労働力を注ぎ込むプロジェクトが、ヤマト王権の正体ではなかったかと。
>>433 > 奈良盆地が選ばれたのは、やっぱり海賊からの防御の意味もあったんじゃなかろか。
これは意味不明。東瀬戸内地域、阿波讃岐播磨、吉備などもヤマト王権体制に参画している。
そもそも君の言う「海賊」ってどんなものを想定してるの?
>階層化=クニの発展度と捉えるのは間違い。富裕なクニで階層化が進まなかった例もある。
すると、裕福だったけど、政治的空白地域だったってこと?
>そもそも君の言う「海賊」ってどんなものを想定してるの?
飢えた島の漁民が徒党を組んで近隣のムラを襲って作物を奪う程度くらいだと思ってるけどね。
それくらいは、いつの時代でもいたんでないの?
>>424 箸墓古墳の後円部には、特殊器台型埴輪・特殊壷型埴輪(吉備系)
前方部には、壷形埴輪(東海)が並べられていた。
どちらも、両地域の首長墓に供献された土器様式の流れなどから、
箸墓古墳の埋葬者の出自は、おおよそこれら2地域の豪族同士を親族に持つと見ていいのでは?
祭祀に関わってるわけだから、吉備や東海勢力が、ただの労働力として使役されていたとは思えないわけで。
438 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 12:03:29
呪術的な力を持つ巫女みたいなのは、どこのクニにもいっぱいいたと思うんだけど、
なぜ大和盆地の巫女が選ばれたのですか?
>>438 >なぜ大和盆地の巫女が選ばれたのですか?
私は、吉備出身か、吉備に縁の深い巫女では?と考えてますが。
大和盆地が王権の所在地に選ばれたのは、その地域が、東西交易の仲介者として富裕であったため。
大和中河内が筑紫に替わって倭国内で発言力を持つようになり、
吉備から王女を迎えることで、倭国大連合=ヤマト政権が成った。
440 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 12:35:51
>大和盆地が王権の所在地に選ばれたのは、その地域が、東西交易の仲介者として富裕であったため。
確かにそう考えるのがシンプルだね。
対東海交易の玄関口として、とか、政治的空白地だから大規模な都を造営し易かったとか。
果ては、海賊の害を逃れて、とか。
大和=辺鄙なド田舎という思い込みが、議論の進展を妨げていると思う。
もっと言ってしまえば、ヤマト王権=前方後円墳体制を主導した首長層が
大和南東部にいたから、都がマキムクに選ばれたと。
自らの影響力を保持するために、自らの根拠地近くに都を造りたいと思うのは、
権力者として当然のこと。
441 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 13:30:53
網野善彦は東日本と西日本は別の民族であった。と言っていますが、
私もそう思います。
弥生時代までは自然に鎖国体制だった西日本が、弥生後期に突然「開国」して
幕末の横浜みたいな存在になったのが、纏向遺跡なのではないでしょうか?
対東国との交易が突然活発になる契機というものはあったのでしょうか?
倭国大乱と銅鐸祭祀の中止と何か関係があるのでしょうか?
東国世界は、東海土器拡散状況からも、
早くから物々交換体制が確立し、平和的に交易が盛んだったと考えていいだろう。
土器の大量生産には相当のゆとりがあったはずだし、それらは、諏訪、関東にまで拡散してるので、
中身の交易品(おそらく保存食、酒)は品質が良く、高値で買ってくれる客が多かったのだろう。
中身が酒であれば、その効用から、宗教的意味でも伊勢が信仰の対象になっても不思議で無い。
天照大神信仰の起源かも知れないし、天照大神以前から信仰の対象があったかも知れない。
交易が平和的に発展を促すと、畿内以西諸国が交易の有効性に賛同したなら、
マキムクを拠点として東西交易市場を開こうと、豪族達が集まるのも自然なことだろう。
443 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 14:58:45
>>442 >畿内以西諸国が交易の有効性に賛同したなら、
>マキムクを拠点として東西交易市場を開こうと、
>豪族達が集まるのも自然なことだろう。
だから、対東海の交易拠点なら、北近畿に都を造るって。
北近畿って、関が原を通じて東海交易するってこと?
そう考えると、美濃に権力が集中しすぎるような気がしますね。
畿内勢力や、美濃以外の東国勢力は、それを嫌ったのかもしれませんよ?
445 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 15:23:07
実際、東西交易で近江や美濃が重要だったのは事実。
信長もここを押さえることで天下を奪えた。
ましてや、陸路が殆ど整備されていない古代の話。
奈良─伊勢の道は、確かに対東海への最短路ではあるが、
交易路として整備されていたとは思えない。
446 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 15:38:15
メインストリートである近江関ヶ原美濃ルートは纏向連合とは別の勢力が
押さえていたんじゃないの?後のオキナガ氏に連なるコシの勢力とかさ
これは出雲とも関連性がある勢力なわけだが、かなり複雑な状況であったと。
まあ推測だけどさ。
伊勢は濃尾平野をパスしてダイレクトに東国に向かえる土地だよね。
纏向勢力の対東国貿易では濃尾平野の勢力が中間マージン取っていた
から、もっと実入りの良い直接貿易をするための拠点として伊勢が
重要視されたんじゃないの?
伊勢湾横断の海路は海人勢力がかなり重要だったと思う。
それから伊勢ってはるかかなたに富士山が見える土地ですよね。
日の出の方向に。これってむちゃくちゃ宗教的アイテムだと思うんですけど。
>>446 マキムクに北近畿が参画していないとは思えないのだが。
北近畿どころか北陸まで参画していたと。
外来土器からはそう読み取れる。
外来土器から東海の重要性を主張してるんだからさ。
そのあたりチグハグになってない?
448 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 15:49:48
結局、マキムク建設を「対東海の交易拠点として」
西日本諸国が共同で行なったという自説に拘ってるだけ。
マキムク建設に外来勢力が無関係だったとは思わないが(阿波影響のホケノとかあるし)、
やっぱり、都に選ばれた地域の首長たちが中心勢力だったと考えるべきだろう。
つまり、大和川水系、大和中河内豪族連合がプレ大和王権を造ったと。
奈良盆地の古墳群を見ると、大きく3つに大別されますよね。
それぞれ、古墳が作られる前に、そこを拠点としていた豪族グループがあったでしょう。
豪族A→その後の佐紀古墳群−これは淀川水系近江勢力とみていい。
豪族B→馬見古墳群−大和川水系を遡上してきた吉備勢力か?
豪族C→大和・柳本古墳群−マキムクを含む、奥まった場所で地盤を固めた勢力だろう。
メインストリートでないものの、山を越えて細々と伊勢と交易していたのが、Cだろう。
だから、東海と繋がりを持てたはず。
次にABが奈良を開拓にやってきた。吉備勢力だとすれば、それはBだろう。
箸墓古墳造営に協力したのがA+Bという痕跡から推測してみたが、どうだろう?
ABが、プレ大和王権で、Cが加わったことで畿内中心の王権の基礎が確立したと。
不思議という意味でいえば、東国との交易を考えるなら、
淀川水系近江勢力が美濃と組まなかったのはどうしてだろう?
というのは、やっぱりありますね。
美濃とは仲が悪かったのか?くらいしか想像できないけど。
妄想すれば、美濃がクナ国だったと考えられなくも無いでしょう。
美濃には「カニ」という地名がありますしね。まあ、これは妄想の域。
美濃路談義で話が盛り上がっているところスマソだが・・・
美濃は東海道じゃなくて東山道の国ですね。
近畿と三遠(東海)とのルートは江戸時代でも「海路」。
街道筋としての東海道はご存知のとおり、熱田から桑名は船旅になる。
これは、その当時でもまだ三大河川の治水が出来ておらず、
尾張伊勢美濃相互の陸路は難路であったこと証明しています。
ちなみに東海道の近江入りは関ヶ原経由じゃなくて鈴鹿超えの関宿からです。
壬申の乱の大海人軍もここから近江入りしています。
関宿には大和街道も通じているので、ここが東海側からみた西日本への入口なんでしょう。
>妄想すれば、美濃がクナ国だったと考えられなくも無いでしょう。
前方後方墳=クナ国と考えれば、近江、美濃共にクナ国地域になるでしょう。
私はそうは考えませんが。
前方後方墳なら、出雲にも多いのが面白いよね。
あまり誰も知らないみたいだけど。
出雲に多いのは方墳だお
455 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:06:27
近江、美濃、北陸はグル。マキムク連合とは対立している。
イズモは邪馬台国連合だが、近江、美濃、北陸連合と仲が良いので
いつ寝返るか判らない。ヤマトやキビはイズモを潰してしまいたいが、
大国なのであなどれない。恐る恐る懐柔している状況だな。
>>454 え?手持ちの資料では、前方後方墳の数はこうなってるけど。
島根42←
石川40
群馬37
千葉32
栃木28
滋賀/岡山25
福島24
愛知19
富山/埼玉/茨城18
長野17
兵庫16
岐阜14
奈良/宮城13
京都/大阪12
福井11
広島10
三重/鳥取9
山形8
新潟7
神奈川/静岡/福岡6
佐賀/和歌山3
愛媛/香川/徳島2
長崎/東京/山梨1
大きさの問題もあるだろうけど。
年代の問題もありそうだけどな。
三世紀段階なら方墳のはずなんだが。記憶違いなら須磨そ。
すいません、年代まではわかりません。
高速道路の建設での墳丘墓発見の事例が多い。
弥生後期の墓が、丘陵の尾根の末端に造られることが多く(国見のため?)、またそういった場所が道路建設に選ばれ易いため。
私の地元でも、去年古墳が見つかった。古墳中期のものだったけど。
弥生後期の畿内の首長墓が見つからないのは、その墓がある場所が高速道路の建設地に選ばれないため。
葛城山や三輪山を掘れば、色々と出てくると思う。
460 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 00:20:53
倭国大乱の跡? 亀岡で竪穴住居出土
亀岡市千歳町の出雲遺跡で弥生時代後期(2世紀後半)の六角形の竪穴住居
跡が見つかり、府教委が19日、発表した。邪馬台国が日本国内を統一する直
前の「倭国の大乱」の時期にあたり、住居の中には使える状態の土器がそのま
ま残されていた。府教委は動乱の中、敵が迫ったたため、住民が何も持たずに
逃げ出した可能性もあるとみている。
この竪穴住居跡は広さ約50平方メートル。全体の形は六角形で、一辺は4
〜5メートル。住居跡の中からは甕や壺など土器計15点が確認された。いず
れもほぼ完全な形で残されており、散らばった状態の米も数多く見つかった。
米はすでに炭化していたが、脱穀されていた。
こうしたことから府教委は、住居は住民がいなくなって、そのまま放棄され
たと判断。しかし、まだ使用できる貴重な甕や壺をそのままにして住まいを放
棄するのは、当時としては異例で、これまでの発掘調査でも火災を受けていな
いケースはほとんど確認されていないという。
「魏志倭人伝」などによれば、邪馬台国の女王、卑弥呼が倭国を統一する前
、日本国内は100国以上に分裂、戦いを繰り広げていた。発掘調査で見つか
るこの時期の竪穴住居には、戦闘で火災に遭い焼け落ちた状態のものもあるが
、今回の遺構には火災の跡はなかった。
この住居跡は盆地を見下ろす山の中腹につくられていた。府内ではこれまで
に計12例の多角形住居が確認されている。
府教委は21日午前10時から現地説明会を開催。この後、古墳時代の住居
跡が確認された亀岡市教委の発掘現場(同遺跡内)でも現地説明会が開催され
る。
(2007/07/20 02:55)
http://www.sankei.co.jp/chiho/kyoto/070720/kyt070720001.htm
461 :
震えだしたのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/23(月) 00:08:20
邪馬台国は佐賀県小城市に存在したことを認めたうえで話をすすめましょう。
462 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 19:07:04
>>459 三輪山なんか掘れるわけないでしょ!御神体でしょ
ふたかみ文化センターの邪馬台国シンポ、台風で中止だったんですね。丹波・丹後と大和でしたっけ。
何日に変更になったんだろう?
464 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 07:21:55
卑弥呼は、やはりモモソヒメ。
問題は、紀元1世紀の
アメノホアカリとニニギの兄弟の話だな。
465 :
震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/26(木) 08:32:27
卑弥呼はやはりモモソヒメ。
これは、邪馬台国東遷が卑弥呼の生存中におこなわれたということでしょうか。
記紀の記述からすると、卑弥呼の遺骨を九州からもってきて、墓をマキムクに
造ったとはおもえないのですが。
アメノホアカリとはニギハヤヒのことでしたか。
彼が、85歳以上の長寿であれば、年代の計算からいくと、神武と奈良で遭遇することは可能です。
466 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 08:31:26
>>465 纏向=大和朝廷=王権=卑弥呼=邪馬台国
低脳なおまえに教えてやるよ、何が東遷やw
昔は東遷説が有力だったんだが。
結局はマキムクが三世紀初頭というので崩れたか。
卑弥呼の墓は箸墓古墳だろうな
>>443 だから、瀬戸内沿岸勢力が東日本と交易するための拠点が奈良盆地。
北近畿は日本海ルート
(山陰ー)北近畿ー近江ー美濃(東海)と瀬戸内ー畿内ー伊勢(東海)のルートの主導権争いかと
末期の銅鐸祭祀の中心の近江と北近畿の結びつきに対して、瀬戸内ー畿内がこれに対抗したのでは?
その際、前者のルートは伊都国と、後者は奴国と関係が深いのではと考えたらどうだろう。
>>463 そのシンポ、日程変更してするんですか?
470 :
サガミハラハラ:2007/09/01(土) 12:01:01
巻向は朝廷にさまざまな物品を供給するための工人や労働者等の町です。
これ以上発掘してもそれ以上の成果は期待できません。
それよりもなぜ、東側の山麓の諸天皇の宮といわれる地区を発掘しないのでしょうか、私にはそれが不思議です。
発掘しようとするだけで、皇国史観論者だと冷遇されるからでしょうか?
471 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 18:28:01
発掘の原因になる埋蔵文化財が壊されそうな工事開発がほとんど無いから
472 :
サガミハラハラ:2007/09/02(日) 21:39:59
そうですか。宝くじがあたったらそのあたりの土地をかいしめて、マンションを建てる計画を申請してみます。
いまや、邪馬台国=大和国で、ほぼ決まり。
神武東征は、紀元1世紀〜紀元前2世紀くらい。
で、その実態は、畿内王朝の内紛に
畿内王家の傍系で日向で分家していた神武が援軍として奮闘した話。
神武軍自体は、大惨敗して、命からがら、和歌山の裏から大和へ入った。
しかし、その奮闘が評価され、なお、畿内王家の親戚だったので、
その以後、神武皇統は、畿内王家の執政の座に着いた。
しかし、その後、神武皇統は実権を握り、ついに、
自分たちの家から巫女の女性を出して
畿内王家から大和王朝の祭祀を奪う。
それが、ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼)
474 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 22:48:55
だから〜w
記紀で言うような「神武東征」なんて、「無い」んだって。
考古学で言えば、北部九州、吉備、出雲に王権が生まれ、
少し遅れて大和で王権が生まれる。
大和の王権は、九州の影響が希薄で、むしろ東瀬戸内地域の影響が大。
ほぼでなくて、もう九州で断定。
>神武東征は、紀元1世紀〜紀元前2世紀くらい。
神武東征は、紀元1世紀〜紀元2世紀くらい。
>>465 たぶん、アメノホアカリとニギハヤヒは別人だろう?
物部氏はそう主張しているが...
478 :
唐松山:2007/09/08(土) 18:43:17
各天皇の 治世を 推定しました。 西暦は,プラス2年が妥当かと,
天皇 即位西暦 即位 世継ぎ 死亡 増前;増中;増後
神武天皇 西暦36年 ?;19;36 増しを年齢に加算すると書紀の年齢
空白(タギシミミ) 3年
綏靖天皇 西暦58年 17才 19才 31才 36;0;19
安寧天皇 西暦72年 14才 16才 23才 19;0;28
懿徳天皇 西暦83年 8才 孝昭は弟 13才 28;2;26
孝昭天皇 西暦88年 5才 16才 31才 26;37;20
孝安天皇 西暦114年 15才 21才 41才 20;43;33
孝霊天皇 西暦140年 20才 25才 39才 33;11;46
孝元天皇 西暦159年 14才 20才 33才 46;0;38
開化天皇 西暦178年 13才 17才 21才 38;4;48
崇神天皇 西暦186年 4才 19才 28才 48;11;32
垂仁天皇 西暦211年 10才 16才 32才 32;12;64
景行天皇 西暦234年 17才 21才 40才 64;1;37
これから モモソ姫を推定します。
西暦143年孝霊3年 モモソ姫 誕生
西暦162年考元5年 オオヒコ 誕生
西暦172年考元14年 ハニヤスのイムナタケハル 誕生 母はハニヤス姫
西暦185年 開化天皇 治世8年で潰える 継ぐのは,崇神天皇ですが,崇神の母は,どちらかと言うと 下賎の民を召した物(孝元の妾)であり、崇神立太子は、とても全員が賛成出来る状態ではなかった。
ハニヤス乱は、開化天皇の崇神立太子又は,崇神の母をウチメとする。頃の 出来事とするのが 本当?
崇神天皇元年 西暦186年 モモソ姫43才 結婚には遅すぎ 子作り女30まで、
当時の常識,それを40近くで妊娠?なら...
崇神10年四道将軍の時代 大物主は、もう居ません。たたねこ を 立てたのが最後の仕事。
崇神10年 西暦196年 おおひこ35才,息子と四道将軍,娘11才崇神の妃 共に可能な年齢
同じく モモソ姫53才 年長大には,若すぎる。
前回は,ハニヤス、モモソ姫の年齢を間違えました。 モモソ姫殿ごめんなさい。
今回 開化天皇即位13才少し若すぎる?。
479 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 15:29:39
480 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 10:08:27
ほ
481 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 13:15:50
>考古学で言えば、北部九州、吉備、出雲に王権が生まれ、
>少し遅れて大和で王権が生まれる。
>大和の王権は、九州の影響が希薄で、むしろ東瀬戸内地域の影響が大。
大和の連続性の無さを考えると
東海系が一生懸命作った国を出雲や北九州が交代で蹂躙してできたのが大和朝廷と言える。
482 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 13:21:16
最新の学説では前方後円墳も方墳に北九州の王が円墳の要素も入れさせ住民懐柔調和の象徴としたと考えられてる。
483 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 21:56:23
誰が言ってるかくらいかけないの?
485 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 23:08:42
鈴木博士の最新の研究学説だよ、世界考古学会の権威で邪馬台国研究家。
根本的に鈴木博士を知らないなら話にならないな、もっと本を読め。
486 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 23:19:49
487 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 23:27:18
そんなバカ検索じゃ出るわけ無いw
488 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 00:12:34
【シンポジウムのおしらせ】
『ヤマト王権はいかにして始まったか〜唐古・鍵、纒向から考える』
(ヤマト王権の成立過程とその実態について、唐古・鍵遺跡と纒向遺跡を中心に多角的に検証します)
◎特別講演 石野博信(徳島文理大学大学院教授、香芝市二上山博物館館長、兵庫県立考古博物館館長)
◎コーディネーター 寺沢薫(奈良県立橿原考古学研究所調査研究部部長)
◎パネラー 森下章司 秋山浩三 松木武彦 藤田三郎 橋本輝彦
▼日時 10月28日(日) 午前9時30分から午後5時
▼会場 弥生の里ホール(田原本町田原本青垣生涯学習センター1F)
▼定員 700名(事前申込要・先着順) ▼参加費 無料
■申し込み方法 往復はがきに住所・氏名・電話番号を明記の上、下記のどちらかの事務局の「シンポジウム係」へ
〒633−0074 奈良県桜井市大字芝58−2 桜井市立埋蔵文化財センター
〒636−0247 奈良県磯城都田原本町阪手233−1 田原本青垣生涯学習センター内唐古・鍵考古学ミュージアム
※桜井市と田原本町の共同企画です。ただいま桜井市立埋蔵文化財センターと唐古・鍵考古学ミュージアムで、それぞれ特別展:『ヤマト王権はいかにして始まったか』を開催中!
http://www.city.sakurai.nara.jp/event/event02.html#01 http://www.karako-kagi-arch-museum.jp/event.html
489 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 00:48:25
490 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 02:53:27
>>485 フルネームで書かないのはなんでなの?
知らないから話にならないってのはまぁいいんだけど
あえて苗字しか書かないところが胡散くさいな
「鈴木博士」のフルネームとその学説が載っている論文のタイトルをどうぞw
書けないなら・・・いわずもがな
すずきひろし、なんじゃないのか?フルネーム。
492 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 23:34:13
婦負の国(ねいのくに)弥生フォーラムのおしらせ(主催:富山市埋蔵文化財センター)
「婦負のクニ」成立のころ−四隅突出型墳丘墓から前方後方墳へ−
とき 平成19年10月28日(日) 午後1時〜午後4時
ところ 神保地区コミュニティセンター多目的ホール(神保公民館) 富山市婦中町上吉川403-1
定員80名 無料(申込不要) 座席数に限りあり
◆特別講演;「墳墓から王権の成立を読み解く〜東アジアにおける王位の継承と王陵の形成」 岡村秀典(京都大学)
◆フォーラム:「弥生のクニ成立のころ〜四隅突出墳丘墓から前方後方墳へ」
◇事例報告;「北陸地域の弥生時代末から古墳時代の墳墓の状況」
橋本博文(新潟大学)、伊藤雅文(石川県埋蔵文化財センター)、小黒智久(富山市埋蔵文化財センター)
◇討論;司会 高橋浩二(富山大学)
http://homepage2.nifty.com/kitadai/center/news/yayoif/yayoif2.htm
493 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 23:36:18
天理参考館 トーク・サンコーカン『ヤマト王権を語る』シリーズ(全5回)
◇ 会 場:天理参考館地下1階 研修室 奈良県天理市守目堂町250
◇ 時 間:午後1時30分から
◇ 受講料:入館料のみで受講できます(友の会 300円、一般 400円)
◆第177回 10月27日(土)
シリーズ1 「ヤマト発祥の地と大和古墳群」 学芸員 竹谷俊夫
http://www.sankokan.jp/event/talk/177.html (以下予告)
◆第178回 12月15日(土) 2 「邪馬台国時代の墳墓と遺跡 ―箸墓を造った人々― 」
◆第179回 2008(平成20)年1月19日(土) 3 「黒塚古墳と三角縁神獣鏡」
◆第180回 2月23日(土) 4 「東大寺山古墳と鉄刀」
◆第181回3 月15日(土) 5 「大和古墳群と中世山城 ―古墳を壊した人々―」
>>1 「纏向に西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結し」
「以後各地を凌駕することになる王権が発生した」
こういう決定的な動きが武力ぬきで生まれたってところが
どうにもイメージできません。
>>494 武力抜きで生まれた、というより、
武力は有効でなかったので、政治的決着(卑弥呼共立)が求められた、ということ。
高地性集落などで、軍事的膠着状態のなっていたと。
遠隔地交易などの商業取引で重要なのは、治安が維持されていること。
陸路・海路が安全に通行できるためには、強大な権威による安全保障が必要だった。
交易路の安全保障は、王権の重要な役割のひとつ。
もっと具体的に言えば、瀬戸内海航路の安全を保障し得る新権威(筑紫に替わる)として、
三輪山の巫女が選ばれた、ということ。
三輪山の古くからの宗教的権威を利用したということなんだろう。
でも世界的に見て国家統合や広域化は武力が大きく介在して起こる現象なんだけどねー
日本って例外なのかな?
どうも武力を排除するのは不自然さを感じるな。
ところで当時の鉄剣が細いから実用性が無いとか言ってるけど
中国や韓国の鉄剣も実用性が無かったのか?
>>495 >もっと具体的に言えば、瀬戸内海航路の安全を保障し得る新権威(筑紫に替わる)として、
>三輪山の巫女が選ばれた、ということ。
↑ここが滅茶苦茶。妄想と同じ域。盆地の巫女が海神ねぇ。
宗像神とかって聞いたことある?まずはそこから勉強してください。
>>498 でも実際、ヤマト王権発祥の地がマキムクだからな。
>>496 そうかもしれないが、倭人伝で卑弥呼共立と書いてるから仕方ないんじゃない?
考古学では庄内開始時に突然大王権力がマキムクで誕生しているが、
大規模な戦乱があった様子はない。ていうか見つかっていない。
倭人伝の記述とも符合するし、あえて否定しなくても。
神武東遷バカ、乙、ということで。
>↑ここが滅茶苦茶。妄想と同じ域。盆地の巫女が海神ねぇ。
>宗像神とかって聞いたことある?まずはそこから勉強してください。
だれも、海神なんて言ってないのだが。
海路を保障する政権が、海神信仰でなければならない理由は?
宗教的権威さえあれば、太陽神信仰でもいいと思うが。
短絡思考?
502 :
サガミハラハラ:2007/10/26(金) 23:40:59
今日はヤクルトホールで行われた桜井市歴史観光フォーラムとやらにいってきた。
講師が三人いずれも邪馬台国畿内説のかたがたばかり、三人は当然いずれも畿内説マキムク説をヨイショ。
聴衆もそれがわかっているから、巻向が邪馬台国だ箸墓は卑弥呼の墓だといわれても、皆さん終始二ッコニコ。
桜井市を持ち上げること大成功でした。
ところで、大塚初重先生、卑弥呼の即位は180年代後半であるといっていました。
わたしは183年説です。大塚先生とほぼ同意見ということでしょうか。
>>495さんの
軍事的膠着状態というのは
初心者の私にもイメージしやすいです。
倭國大乱から卑弥呼が共立されて、治まったとすれば
卑弥呼は第三勢力でないと説明がつかないわけだが
三輪山の巫女が共立されたならヤマトは第三勢力か?
戦争による王権樹立なら考古学的痕跡も残るだろうが
共立だと、結果についての痕跡はともかく、経緯や理由については
考古学では裏付けにくい
宗像信仰のはじまりについて確かなところでは
どの程度研究がすすんでいるのでしょうか?
現存の宗像信仰資料は非常に記紀成立以降の匂いが強いと思います
>>504 「倭国大乱」が土器編年でのいつ頃に当たるか?が問題。
昔、小林行雄が昔言ってたように弥生中期末なら、大規模な戦乱であったことが
考古学的に推察される。
「倭国大乱」が、現在言われているように弥生終末期に当たるなら、
大規模な戦乱状態であったとは考えられない。
509 :
サガミハラハラ:2007/10/27(土) 14:06:30
倭国大乱は157年から183年までと確定しています。
土器編年を問われているのに絶対年代で答えてる莫迦がいるなと思った。
511 :
サガミハラハラ:2007/10/27(土) 15:42:30
絶対年代を基に土器編年を考えてください。
512 :
サガミハラハラ:2007/10/27(土) 16:06:58
尚、争いのあとがあれば、なんでも倭国大乱に結びつけないでください。
争いは倭国大乱以外でも、アダムの子供たちいらいずうーっと続いてあります。
>>511 > 絶対年代を基に土器編年を考えてください。
その「絶対年代」を基にした土器編年で答えてみなよw
514 :
サガミハラハラ:2007/10/27(土) 17:53:07
>>513考古を専門にやっているかたお答えお願いします。
516 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 18:30:34
弥生時代の「銅戈」2本出土──中野市柳沢遺跡 /信濃毎日新聞10月23日(火)
県埋蔵文化財センター(長野市)は22日、中野市の柳沢遺跡から、弥生時代の青銅製の祭器「銅戈(どうか)」が2本出土したと発表した。腐食や欠落が少なく、ほぼ完全な形での出土は東日本で初めてとみられるという。
当時、この地域にも西日本のように青銅器を使った文化圏があった可能性を示す成果だ。
柳沢遺跡は飯山市に近い千曲川右岸に位置。銅戈は地表から約1・5メートル下で、刃を上に向け2本がほぼ接して埋納されたような形で見つかった。
1本は全長32・3センチ、刃の長さ29・5センチ、厚さ0・6センチ。もう1本はそれぞれ36・0センチ、33・5センチ、0・7センチ。重さはまだ量っていない。格子目の文様があり、国内産とみられる。
同センターによると、銅戈は古代中国の武器の一種。弥生時代に日本に伝わり、儀礼に使われた。全国に約110の出土例があり、9割が九州北部で、残りは中国や四国、近畿地方など。群馬県でも破片の出土が2例ある。
県内では大町市平の海ノ口上諏訪社に伝わるが、出土場所は不明。今回の銅戈は、大阪湾周辺で出土した形式に属する可能性が高いという。
県遺跡調査指導委員会の笹沢浩委員(考古学)=長野市=は「ここで出土するとは思わなかった。西日本のように青銅器を使用した文化圏があったと考えられる」と話している。
http://www.shinmai.co.jp/news/20071023/KT071022GDI090008000022.htm
517 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 18:45:53
518 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 20:22:37
>515
つまり、土器編年は絶対年代を算出するのには何の役にも立たないということだな
せいぜい、前後関係を知ることくらい。それさえもあやふやだが
>>518 「土器編年しか分からない」という大前提が抜け落ちてるな。
ただ、貸泉とか紀年鏡など指標となる遺物が一緒に出てくる場合もあるので、
実年代が絶対に分からないとも一概に言い切れないが。
最早「実年代は分からない」とした上で、土器編年でヤマト王権成立の
プロセスが語られ始めている。
ちゃんとした若手の学者は、倭人伝解釈とかはやっていない。
実年代が分からない以上、倭人伝解釈は慎重であるべき、というのが
学問的態度。
いつまでも、実年代が確定しているみたいに思ってる奴らは、
現実を見つめず、モラトリアムを楽しみたいだけ。
実年代が分からない以上、一旦は倭人伝を棄てよ。
一見まともな意見なんだが、
箸墓は4世紀後半なんだぁ・・・といいたいだけの遁辞だからねぇ。
>>519 少なくとも、古墳から出てくる紀年鏡で、古墳の年代は決められない。
△舶載説が崩壊した現在では、古墳時代とその直前期の鏡の全体に
国産の可能性が存在する。
魏志の外交関係部分は史実として確実。
邪馬台国が、狗奴国との交戦で魏の援助を求めて、魏が激を出したりして
いたという内戦の存在は、全国に前方後円墳が普及した時代では絶対に
ありえないことは、明らか。
前方後円墳の全国的な普及は、統一権力のよる支配の証拠である。
この時代に国を二分する勢力が存在しないことは、明らか。
つまり、古墳時代を邪馬台国時代にまで遡上できないことは、明白。
>>521 邪馬台国が、狗奴国との交戦で魏の援助を求めて、魏が激を出したりして
いたという内戦
これは考古学資料と整合させるとすると、どのあたりに関係してくるのでしょうか?
>>519 >一旦は倭人伝を棄てよ。
いい言葉だなあ。
私も「一旦は記紀を棄てよ。」と言ってみたい
△舶載とかはもはや批判する価値もないだろ。
あれは宗教。
>>523 記紀が前提にならんことは当たり前だろ。
何言ってんだか。
526 :
サガミハラハラ:2007/10/30(火) 20:59:34
日本の考古学の方々はあまりにも倭人伝を重視しすぎではないだろうか。
出土品等をもって事実を組み立てていくべきであるのに倭人伝でもって解釈しようとするから、
文献史学者の反発をかうのではないだろうか。
>>526 倭人伝重視してないって、考古学では。
実年代がはっきりしない以上、倭人伝を俎上に載せるのは危険。
っていうか、学問的ではない、という立場。
未だに倭人伝に拘泥しているのは、おじいさんの学者。
もしくは、客寄せパンダとして地方自治体が利用している。
528 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 21:10:51
>>526 >文献史学者の反発をかうのではないだろうか。
その「文献史学者」とやらの実名を挙げてみてくれ、10人ほどでいいから。
529 :
サガミハラハラ:2007/10/30(火) 22:12:12
一人目 後藤幸彦 ほかはさしさわりがあるので省略。
殆ど在野です。
530 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 12:50:11
531 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 13:00:00
なんでこの時代の建物の遺跡は柱の穴ばっかりなの?
逆にききたいんだが、他に何が残りうるの?
まだ礎石はないし、木製柱の下の部分がかすかにでも残ってれば
めっけもんの時代に。
533 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 01:04:26
534 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 01:05:11
長野埋文関係者、必死すぎ
536 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 19:54:11
考古学の人教えてください。
埴輪っていつの時代の人たちなの?
537 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 19:54:58
三重県からたくさん埴輪がみつかってるよ。
卑弥呼の埴輪はあると思う?
どうやってつくるの?古墳にあった?
538 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 20:06:57
魏志倭人伝の
倭国大乱や狗奴国の乱が
どの程度の規模だったかは
明確には分からない。
よく、この記述で、歴史を推測する人がいるけど...
無意味なことだ。
たとえば、倭国大乱や狗奴国の乱があったのに
前方後円墳を作る余裕があったのか?とか。
でも、そんなこといったら、戦国時代に
安土城や大阪城ができたのに...となる。
島津征伐や小田原征伐みたいな倭国大乱があったのにだ!
>たとえば、倭国大乱や狗奴国の乱があったのに
>前方後円墳を作る余裕があったのか?とか。
実際、政治的に混乱してたからこそ、大きな古墳が必要とされたんじゃないか、
と思うが。
目に見える、分かり易い、権力・宗教的権威として。
さらに言えば、各地から労働力を徴発出来るメリットもあった。
「大王さまの御陵造り」という名目で。
実際的には地方の反乱抑止になる。
540 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:03:41
生目古墳。
541 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 21:09:47
>>538-539 巨大な土木工事は、あんがい安全に行われるのではないかな
だって、何千、何万の人たちが一箇所に結集して,、立ち働いているんだ
手にしたクワや斧は、そのまま武器になるしね、すぐさま反撃されるよ
そんなとこを攻めにかかるのは、ヤバイんじゃないかな
542 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 15:56:00
応神天皇が大陸から到来し九州王朝は天皇に政権を譲りヤマト誕生に至った
九州王朝なんてぼやいてる人がまだいるのか
武力による実力行使で人が何百人死ぬより、
呪術による天変地異で人が何千人死ぬことのほうが恐怖であったような
時代をつい想像してしまいます。
545 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 22:27:10
寺沢が、マキムク近くにある「今まで円墳と考えられていた古墳」のいくつかが、
最古級のマキムク型前方後円墳の可能性がある、と言っていたが。
ホケノより古いとされる堂ノ後の話といい、漸く、ヤマト王権成立前夜の状況が
分かってきたように思われる。
546 :
日本@名無史さん:2007/11/12(月) 22:25:00
>>545 堂ノ後が、ホケノより古いのはほぼ確定?
纏向型前方後円墳は前方部が小さいから、後世削平されることが多かったように
思う。で円墳と思われていると。
箸墓とか大王級の大きさではない、ましてや円墳では、後世、王墓とは認識されず、
不当な扱いで壊されたものが多数あったんでは?
桜井の田んぼの真ん中で、柿畑になっている古墳を見たことがあったが、
あれなんかも調べたら、庄内期の初期古墳だったりするのではないだろうか?w
最古級の前方後円墳か-「巻野内石塚」など6基【纒向遺跡】 (2007.5.8 奈良新聞)
大和王権誕生の鍵を握る桜井市の纒向遺跡で、円墳とされる古墳の中に、最古級とみられる前方後円墳が少なくとも6基存在する可能性のあることが分かった。
県立橿原考古学研究所の寺沢薫・調査研究部長と桜井市教委の橋本輝彦主任が、同研究所の機関誌に踏査結果を発表した。被葬者の階層差をめぐる論議にも一石を投じそうだ。
寺沢さんらは纒向遺跡に点在する約40基の小規模古墳を平成3年に踏査。市教委などが行ったその後の発掘や測量結果も踏まえて見解をまとめた。
寺沢さんは、箸墓古墳(3世紀中ごろ〜後半)で定型化する以前の前方後円墳を「纒向型」として分類している。全長と後円部、前方部の比率が3対2対1(前方部が未発達)などの特徴がある。
巻野内石塚古墳は直径約40メートルの円墳とされているが、水田のあぜに前方部の名残りがあり、前方後円墳の可能性が高いと判断。前方部の長さは約20メートル、全長約60メートルに復元でき、纒向型に当てはまる。
最古級の前方後円墳とされるホケノ山古墳と約300メートルしか離れておらず、墳丘の規格もちょうど4分の3程度になることから、近接した時期に築造された可能性があるという。同遺跡の纒向型でふき石を持つのも両古墳だけだ。
そのほか、小川塚東古墳▽平塚古墳▽北口塚古墳▽堂ノ後古墳▽ツヅロ塚古墳▽南飛塚古墳―の6基がいずれも前方後円墳に復元できる。
堂ノ後古墳は、天理大学歴史研究会の電気探査でホケノ山古墳に先行する可能性が浮上。平塚古墳は平成15年の発掘調査で埴輪が見つかり、6世紀前半まで下るとみられている。
纒向型の前方後円墳は九州から東北まで全国各地に分布。大和王権の勢力拡大に伴う可能性が強い。本拠地・纒向遺跡でも、墳丘の規模に一定の差があり、被葬者の階層差に関係すると寺沢さんはみている。
寺沢さんは「規格が地域差でないとすれば、王権を支える人々の間に階層差があったことになる。今回の報告が発掘や測量の基礎資料になれば」と話している …
http://www.nara-np.co.jp/n_arc/070508/arc070508c.shtml
>水田のあぜに前方部の名残りがあり、
>前方後円墳の可能性が高いと判断。
何を今更。
>>547 こんなの記事にしていいのかという、まれにみるひどい記事だったな。
考古ネタの記事でまともなのなんて見たことないよ。
551 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 00:03:51
552 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 10:13:06
これらの古墳はヤマト王権の古墳であって、邪馬台国とは無関係ということでしょう。
なにしろ邪馬台国は九州佐賀県小城ですからね。
553 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 10:44:12
発掘する前に「結論」を大々的に報道しないと費用が出ないのねww
そう。「縄文都市」がいい例。
実際のところ、弥生後期〜終末期に、畿内の首長墓の発展が余りにも見られないことから、
畿内が政治的空白地であったとか、階層化が進んでいなかったとか言われてきた。
それも修正される時期にきているのかもしれん。
弥生時代における
北部九州>>>>>出雲、瀬戸内>>>>>畿内>>>>>>ヤマト(奈良)
はいまや明白だから、畿内説の学者達は古墳時代を極端に古く見るように変わった。
それだけのこと。
ヤマト王権の発祥について語るとき
関連性があるのは古墳時代初期と弥生時代末期で
それ以外の弥生前期や中期はあんまり関係ない。
弥生時代っていっても無茶苦茶長いんだよ。
700年続くのか1000年以上続くのかはともかく。
なんか
>>547の記事にやたらとクレームつけてる人がいると思ったら
邪馬台国九州説の人?
559 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 23:42:47
大和王権の誕生を骨太の歴史にするためには
出雲の研究が最も重要だと思うが。
560 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 23:48:07
阿波が重要と思われる。
あわわわわ・・・・
そうすると地元大和の人達がやまと王権発足にあまり関らなかったということか
唐古・鍵の人達ってどこに行っちゃったんだろう
564 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 20:31:34
>>562 河内は重要とか言うより、ヤマト王権中枢、王権そのものと言うべきでは?
大和・中河内の大和川水系首長層が連合して、大王を共立したのが、
ヤマト王権成立のプロセス。
実際、吉備や東海、出雲のように河内には、初期王墓が見つからない。
なぜなら、河内の人々はマキムクに王墓を築いたから。
565 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 02:00:29
>>519 だからさ、おまえの視点が無茶苦茶。
邪馬台国と狗奴國が日本を二分するような存在だったのか?本当に?
それが、お前の勝手な創造なんだよ。
実際のところは分からない。
566 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 03:14:21
倭国大乱とは、古代の南北朝時代みたいなもんだろう?
要するに、兄弟から分かれた二つの家系が戦争したんでしょう?
一つが兄(弟?)の家系であり、出雲を倒して大和王朝を創始したホアカリの後胤(尾張氏)で、
もう一つが弟(兄?)の家系であり、日向に派遣されていたホノニニギの後胤(神武皇統)
倭国大乱は日本全国規模というよりも、大和の中央での権力闘争で、
その結果、大和の全国での統制力が弱まったんじゃないのか?
南北朝動乱、応仁の乱という中央政界の権力闘争で、地方までもが混乱したように。
神武東征は、その倭国大乱よりも少し前で
あくまでも、大和中央政界で家臣が専制を強めて、それを鎮圧した戦争。
その中に、日向分家出身の神武も本家を助けるために参戦した。
つまり、神武軍は一つの援軍にすぎなかった。
567 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 00:21:55
>>566 2世紀の倭国に中央集権国家があったとか、かなり夢見がちな子だなw
倭人伝にあるように、卑弥呼共立でようやく纏まったくらいの、
有力豪族たちによる連合政権と見るのが普通なんだが。
568 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 02:20:22
ヤマトはトヤマちゃ
569 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 02:45:52
>>1 >2世紀末頃、纏向に各地の文化の集合体である「ヤマト」が新設され…。
イメージがつかめない。
過去の歴史上のどういう出来事をイメージすればいいのやら。
570 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 04:35:16
斉明天皇(650年頃)
開拓、水路、石垣などの大型の都市開拓を実行し、7万人もの民衆に過酷な労働を課した天皇
天皇皇族が人民から「狂心の渠」って呼ばれてた時代
これがマキムク遺跡だよ
マキムクも橿原も奈良も京都も6世紀頃に開拓した都だよ
マキムク遺跡は作ったのは斉明天皇で600年頃だよ
>>566 無理に兄弟にせんでも。
まあそういう妄想歴史仮説はファンタジーとして好きだけどな
磐井の乱と継体朝あたりにその発想をもちこむとおもろいかもよ。
572 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 06:16:13
つかこの時代までくれば、イワレビコとかホホリノミコトとかより、蘇我○○や、物部○○や、大判○○って表記に統一してくれた方がわかりやすいのになあ
573 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 17:33:36
>>567 そんなことはないんだが…
というのは、卑弥呼が擁立される前に
80年ほど、男王が治める時代が続いたというんだがな。
徐々に変わってきている。
574 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 18:54:18
そうですね。123年から156年まで男王が倭国を統一していたようです。
その死とともに倭国大乱がはじまっています。王位継承権あらそいです。
575 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 19:05:34
>>573 王は全部、男だってば
卑弥呼の時代も男王だよ
倭人伝に書いてあるのは「卑弥呼の兄弟が納める邪馬台国」だよ
推古とかも女帝なんてされてるけど、推古なんてそれこそ、後付けの天皇称号なんだしさ
○○天皇なんて称号は6世紀以降に作った称号や地位な訳だしさ
576 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 19:12:41
平安時代以降はまたすぐに、源氏に実権を奪われたりしてる訳だしさ
天皇称号は実権握った勢力や権力者に対する称号じゃなく、天照からの正式な血統氏族って意味の称号として考えるべき地位な気がするけどなあ
国内の勢力による権力闘争なんて江戸時代になるまで続く訳だし
577 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 21:08:48
邪馬台国というか倭国では
基本的に一人の男王が君臨していた国なんだわな。
それが一時期、国が乱れて、女王を立てたとある。
その名前は卑弥呼。おそらく個人名ではなく職名だろう。媛命のこと?
その間、男弟が実際の政治を行っていたと記載されている。
で、その卑弥呼が死んだら、再び男の王が君臨したとある。
で、また国が乱れて、少女の巫女(卑弥呼の親戚)を再び立てた。
つまり、邪馬台国・倭国の王統とは、基本的に男系で継承されていた可能性が高い。
それが、臨時に独身の巫女を象徴として、国を治めたと解釈できる可能性が高い。
よって、倭国・邪馬台国の政治的なトップは常に男だったことが分かる。
しかも、登場する女性は巫女であり、独身だから子孫はないし、
あくまでも祭祀をする象徴であり、政治の実権はない。
578 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 21:36:09
>>577 おまえには、その頃の倭国がひとつの国っていう勘違いがあるね。
いろんな国が倭国にあったんだよ。
579 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 21:48:30
580 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:10:24
猿田彦の案内で天照の岩戸まで来てマンコを見せて狂ったような儀式をした、鏡を持ってる鬼道使いの、紀記で言えばヒメコの事だよ
猿田彦に案内させたから猿ヒメって呼ばれたり
中国では西王母仙人って呼ばれて三蔵法師の一人として扱われてたり
西王母仙人は通りかかった猿田彦の前に立ちはだかり、マンコを見せる狂った儀式をやってみせて岩戸へ案内させたり
信濃では何とか紅葉の話になってたり、豆まきの行事の元の話になってたりする
紀記では彼女は素戔嗚尊の系統氏族とされてるよ
この女の鬼道師から更に男の鬼道師まで探ってみると、七夕神話の東王父仙人や、覚林坊仙人や、伊吹山の仙人や赤鬼や、ヤマタのオロチとの伝承や、、、
飛騨美濃信濃辺りの伝承だけで、ほぼそういった神話は網羅出来るぐらいの伝承が残ってるよ
「鬼」や「龍」や「天狗」や「大仙人」とかってのは実際にそう呼ばれてた人なのか部族なのかは現実にいた事はいたんだと思うよ
ただ信濃側から見たら悪い奴として伝承されてるけど、、、とかややこしいんですよ
多分、この時代に伝来した密教との関連もある話だろうしさ
かと言って、邪馬台国は卑弥呼が納めた統一国って解釈も違うと思うから、邪馬台国は単に邪馬台国で、
卑弥呼と同じ氏族(卑弥呼がヒルメならつ素戔嗚尊氏族)が国造りにより統治してる国が一つでもあればそこが「卑弥呼の兄弟が納める倭人の邪馬台国」と呼べちゃう訳だし
ただ卑弥呼や鬼道の話であるなら天照よりだいぶ後の時代の話ではあると思うよ
581 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:20:59
具体的な伝承だと卑弥呼は天照のいる恵那山だか恵那郷を最終地としたみたいな伝承もあったけど、これ「卑弥呼」って伝わってるって事が逆に後付けの伝承のような気がするからどうかとも思うしさ
ただヒルメ(猿ヒメ)が恵那山へって伝えてる伝承もあったから、こっちなら理解出来るんだよ
恵那山にある「その後、南南東に向かった」って伝承を通りに向かうと、
景行天皇が猿田彦を投げて殺した伊勢(昔は三河のこの辺りが伊勢)の「猿投神社」もあるし、
この景行天皇の息子の神社や伝承もあり、彼は日本武尊として恵那山や伊吹山や神坂へ行った事になってるよ
で、伊吹山や神坂にはやはり日本武尊の伝承があったよ
582 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:26:05
なんか上手くまとめられずにわかりづらいかも知れないけど、卑弥呼に当たる人はいる事はいるよ
ただ卑弥呼が大和を統一国家として統治した女王だとか、日本を始めて収めた国の女王って解釈が絶対で、それに当たる国や人物を探せって言うなら、そんな人は日本の歴史上に存在しないってのが答えになる気がするよ
583 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:40:57
ちなみに美濃や飛騨や信濃って言い方してるけど、
正確には素戔嗚尊が収めた信濃の伊都、伊国、科野国
イザナミは美濃(御野)国
飛騨は肥田、、つか肥国や火国
南は景行のいた三河(御川)の国
どこが発祥だとか統一してた氏族や国だったとかは別に特定しなくてもかまわないと思うよ
ただ木曽氏や阿蘇氏や播磨や吉備など沢山の氏族の祖がいた場所は信濃の伊都ではあるよ
扶桑国とも呼ばれ、日出る神木の箒木が実際にあったのが伊(伊那)国だから
今でもこの箒木は残ってるんだよ
かれちゃってるけどさ
584 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:53:03
マキムクや藤原京や平城京など畿内に出来た京は、結局、飛騨美濃信濃三河辺りの寺から地名からを移設した都だと思うよ
マキムクから出て来た鏡や険などの遺跡の、ほとんどが東海系なのも東の都を移設したからだと思うよ
大和川や飛鳥川が流れる蘇我氏の朝廷も畿内じゃなく岐阜の各務原にあったのをまんま河川の名前から何から移設しようとしてるから無理があるんだよ
東大寺も恵那の東山道の大井宿にあった東禅寺だかなんかを移設しただけじゃん
東大寺建てたとかいう良弁と仙人との伝承の山や杉も、奥美濃から畿内に移設してるしさ
畿内にある都や京や古墳は古くても5世紀頃より後に都の移設目的でつくられたものばかりだよ
畿内は日本の歴史的には一番新しい都だよ
統一王朝ではあったとは思うけどさ
585 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 00:08:29
移設前と移設後を理解しとかないと場所を間違えたまま解釈されちゃうからややこしいよ
例えば義経記
・鞍馬天狗と修行した山→飛騨位山
・鴨川→美濃加茂にある加茂川
・五条大橋→美濃の加茂川にかかる橋
平安京は平氏達の都なんだから源氏の義経や弁慶が平安京で修行したり出会う事がおかしい事ぐらい普通は解ると思うよ
空海の高野山も飛騨の高屋山の事で、刺さった槍ってのは穂高連峰の槍岳や剣岳の事だよ
確か有名な話で「古い書物に記された飛鳥の街並みと畿内の飛鳥の風景はまるで違う」とか言う話があるけど、その書物は各務原にあった飛鳥の事を書いてるからだよ
畿内へ移設するのは構わないけど「○○年に○○から移設」ってきちんと伝えるべきだよ
じゃないと義経伝にしろ古史にしろ、せっかく沢山の書物が残ってても、正しい歴史が伝わらなくなるんだしさ
586 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 02:52:05
卑弥呼=媛命=百襲媛命
卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
邪馬台國=大和國
狗奴國=許乃國
以上です。
587 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 03:34:32
>>586 まあそれでいいよ
大和国を名乗りだしたのは確か7世紀以降だっけ?
そっか、邪馬台国も卑弥呼も平安時代の事だったんだね
588 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 04:17:52
>>587 はあ?
日本国を名乗りだしたのは7世紀らしいけど
ヤマト国は、それよりもずっと前からでしょう?
何を言っているんだかw?
589 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 04:56:58
>>588 本気で畿内発祥とか思ってんだ?
都を橿原に移設して藤原京としたのが7世紀頃
その頃の斉明天皇などが7万人もの民衆達を大規模な土木工事につかせ畿内を開拓した事も史実として残ってるよ
だいたい飛鳥朝廷があった場所は美濃の各務原だよ
飛鳥も畿内にあったとか言う事にしますか?
ねつ造した歴史や文化なんか何の価値も無いと思うけどな
>美濃の各務原
>美濃の各務原
>美濃の各務原
591 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 22:16:59
久しぶりに日本史板でワロタw
美濃の各務原って郡役所しかなかっただろw
邪馬台国は三河なんだよ。
本に書いてあったから間違いない。
本とかwwww
そして、邪馬台国が仮にあったとしてもなぜ飛鳥が美濃にwwww
飛鳥の豊浦とか飛鳥寺とか大量の王家古墳とか、丸無視かよwwwww
どうせ大げさな根拠もない叩きかとおもって読み飛ばしてたが
暇なので読んでみてクソワロタ
>だいたい飛鳥朝廷があった場所は美濃の各務原だよ
さらに
>飛鳥も畿内にあったとか言う事にしますか?
こうくるとは!あるいみセンスあるな
596 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 00:37:50
597 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 03:55:59
>>594 邪馬台国が美濃なんて言ってない
美濃に邪馬台国なんてねーよ
飛鳥朝廷があったって話だよ
近つ飛鳥
遠つ飛鳥
飛鳥は2つあるんだよ
「飛鳥川や大和川では沢山の舟が物資を、、、」
これ畿内にある川の事じゃないよ
奈良の大和川って、そんなデカい川じゃないし
598 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 04:05:18
王申の乱で攻め込まれて倒されたのが美濃にあった飛鳥だよ
蘇我氏とかがいた方の飛鳥ね
ちなみに美濃が発祥だって意味で言ってる訳じゃないよ
扶桑国(いま美濃にもある)や伊那国は元々は信濃にあった訳だしさ
599 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/11/30(金) 04:20:10
畿内にあるものは神仏社寺地名や由来にいたるまで、全て移設したものでしょ?
だいたい「遷都」って「都を移す(移設)」って意味だしそのまんまだよ
神仏社寺や地名や由来をほぼ畿内一カ所に集中させたのは権力を誇示する為じゃないのかな?
畿内は古墳とかもやたらデカく作ったりしてる訳だしさ
誰か、この電波本に犯された
可哀相なヤツを助けてやってくれ。。。
あと、関電波の本とか辞めとけよ
601 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 00:32:12
602 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 01:48:07
>>601 吉備との関係云々って、考古学者が騒いでいるが
古事記や日本書紀に書いているだろう?その理由を。
卑弥呼と噂される百襲媛命の同母弟には、
吉備津彦になったものもいるし、
彼女のおじさんにも吉備の名称が出てくる人がいる。
603 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 10:10:45
>>601 大和主導か吉備主導か。
考古学だけで見れば、そういう命題になるよな。
俺個人的には、吉備からトトヒモモソ姫が迎え入れられて、
マキムクで女王として共立され、
大和・吉備連合が成立したのでは、と思っているのだが。
604 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 10:22:37
>>603 つーか、孝霊天皇の時に播磨から吉備を攻めたらしいじゃん。
で、トトヒモモソヒメの同母弟が吉備津彦になっている。
よって、モモソヒメが吉備と関係が深かったのは事実だと思われ。
魏志倭人伝の倭の大使の中に、このモモソヒメの弟の吉備津彦らしい
名前が登場するし。
605 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 10:37:21
>>603 邪馬台国問題が長い間、解けないのって
学界での縄張り体質があって、
考古学、文献史学、植物学などが、おのおの別々に考えているからだろう?
これらの全てが協力して体系的に考えていれば
もうとっくに邪馬台国問題なんて解明できているだろう?
考古学の中でも対立はあるしそんな簡単な問題ではないよ。
もう決着してるって。学界では。
今は在野の残党狩りフェーズ。
考古学界の邪馬台国論争が決着したっていうソースは?
話題に上がらない=決着なのか?かなり強引過ぎないか?
お互いが決め手を欠いて膠着状態だということなんだろ?解決でもなんでもない。
全く、歴史を捻じ曲げたであろう藤原氏は歴史の大罪族だな。
611 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 03:37:18
>>610 藤原氏が歴史を曲げたという話だが
藤原氏は自分の家系を
天孫にも皇別にすらしていない。
612 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 03:46:21
>>610 考古学では畿内でほぼ決まりなんだよ、実は。
ただ、そうあっさり決め付けはよくないから、
九州説を完全には否定していない。
613 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 04:38:50
>>612 勘違いしてるかも知れないけど、考古学こそあれ単なる文系だよ
全てが推測の積み重ね
進化論なんて文系の最たるもんじゃん
だいたい「マキムク」ってなんだよ?
マキムクの由来は何ですか?
どーせ考古学者が勝手にそう呼んで付けた名前でしょ?
文系だよ。文系
614 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 05:29:58
>>613 考古学って文系なのに
その割には文系とかの読解力に乏しいような...
なんだかな。
考古学の先生って、土堀しかしてないのか?
そう考えたら、考古学って他のへの潰しが全く効かない学問だな。
知り合いで考古学が好きで、考古学部に入ったものの
幻滅して、他の学部に受けなおしたものもいる。
615 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 05:42:46
纏向遺跡の石野先生って、
考古学は科学だ!
って言っていたらしいけど、
傲慢にもほどがある。
まあ、纏向遺跡・唐古・鍵遺跡が、
邪馬台国と関係があるという説には
同調するが、
考古学は文系に過ぎないという謙虚さだけは持ってほしい。
616 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 06:22:18
>>614 考古学者が文系の読解力に乏しいのは、考古学は自分が理系だと思い込んでるからだよ
「同じ形の土器が見つかった事で○○が証明された!」
これを科学として扱かっちゃうのが考古学
全ての学者がそうだとは言わないけどさ
617 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 07:19:24
考古学は文型で非科学というのは皮肉ですか?
皮肉だったら私も大賛成です。
618 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 10:01:32
考古学は古代の文化を研究するもの。
文献があるから歴史にも口を出すが、なかったらわからない。
考古学では縄文時代の歴史は全くわからないわけだから。
まあ、歴史上の出来事で土の中に残るものは少ない。
残っても、出てくるものは限られている。
これで歴史を語ろうとしたら、推測や独断的な解釈が多くなる。
>>610 >話題に上がらない=決着なのか?かなり強引過ぎないか?
>お互いが決め手を欠いて膠着状態だということなんだろ?解決でもなんでもない。
ソースは?今度はオミャーが出す番だがや。
>全く、歴史を捻じ曲げたであろう藤原氏は歴史の大罪族だな。
行き成り藤原氏批判だがや?自分の脳内だけで進行させず、もっと読者が流れを掴めるように書け。
>>613 >勘違いしてるかも知れないけど、考古学こそあれ単なる文系だよ
文学部所属なんだから誰も勘ちがいなどしないと思うが・・・何故そう思う?
>全てが推測の積み重ね進化論なんて文系の最たるもんじゃん
理論と実験と言うのは科学の二大要素ってことも知ってるけ?
>だいたい「マキムク」ってなんだよ?マキムクの由来は何ですか?
うーん、これが難問なんだぎゃね。実は語源がわからなんげな。
万葉集では「檜原」にかかる枕詞として使われているようにも見えるが、
既に地名としても定着しており、纏向山や纏向川の意でも使われている。
コトバのつくりとしては「真東を向く」と言う意味ではないかと言う説もあるぎゃ。
>どーせ考古学者が勝手にそう呼んで付けた名前でしょ?
「纏向遺跡」と言うネーミングは、既に桜井市の大字名となっていた地名からとった。
命名者は御推察のとおりだぎゃ。
>>614 >考古学って文系なのにその割には文系とかの読解力に乏しいような...
>なんだかな。考古学の先生って、土堀しかしてないのか?
高齢の大先生なんかは自分じゃ「土掘り」しないよ、パートのオバちゃんか学生任せだ。
>知り合いで考古学が好きで、考古学部に入ったものの幻滅して、他の学部に受けなおしたものもいる。
日本の学校に「考古学部」はない。「知り合い」はカイロ大でも受験したのかw
家康と信長と秀吉とつぼイノリオで満足だろ?
もう黙れよwwwww
>>613 マキムクは古くからの桜井市の地名です。
今は巻向と明記されますが。
「纒向村」は明治の復古地名だから、
近世には存在しなかった地名。
纒向山の名前が残ってたくらい。
大字は昔からあるよ。
地元民の俺がいうのだから間違いない。
てか、当たり前だけど、巻向山も昔からあるから考古学者が勝手に付けたわけじゃないのは確定。
624 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 16:58:54
纏向遺跡というネーミングは悪くないと思うがね。
あそこが、そういう地名だというのは、そのとおりだったわけだし。
石野さんがつけたらしいが、
まあ、このネーミングは、事実上、邪馬台国=崇神天皇時代あたり
を意味するわけで、考古学者の先生である石野さんは
もろ文献を意識していることにはなる。
実際に、石野さんは、邪道としながらも、延喜式にどう書いてあるとか
よく公言したりしているし...
>>624 倭人伝の話は、いい加減な思い込み、牽強付会になるから。
実年代を抜きにしてヤマト王権を語る、っていうのが主流みたいだね。
おじいさんは未だに邪馬台国論争から抜け出せないから、そういった話をする。
素人にとっては、その方が面白いのだが。
>>625 倭人伝はマキムクとは合わない。
朝鮮半島南部で韓や倭が鉄を入手していると書いてあるが、マキムクは
鉄器の出土が異常に少なく、畿内の近隣拠点と比べても特に少ない。
倭人伝では「鉄のやじり使う」とあるが、マキムクでの出土は皆無であり、
北部九州で100倍以上の量が出土している。
・・・140回以上の発掘でマキムクが「邪馬台国」ではないことが完膚なき
までに完全に証明されてしまったというのが、率直な見方だろう。
>>610 とまぁ、このように邪馬台国論争は
終わってないことが分かったわけで。
三輪山麓のタタラは?
630 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 02:24:01
おしらせ (※開催日が変更となっています。ご注意ください)
天理参考館 第178回トーク・サンコーカン
ヤマト王権を語るシリーズ 2(全5回) 『邪馬台国時代の墳墓と遺跡─箸墓を造った人々─』
講師/小田木治太郎 当館学芸員
日時/2007年12月15日(土) 午後1時30分から
場所/天理大学附属天理参考館 研修室(地下1階)(奈良県天理市守目堂町250)
受講料/入館料のみで受講できます(友の会 300円、一般 400円)
定員/100名
http://www.sankokan.jp/event/talk/178.html 奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳は最古の古墳と言われます。箸墓古墳とその周辺は、まさにヤマト王権誕生の地です。この地には箸墓古墳の以前から、たくさんの人々が暮らすムラが営まれ、墳墓もたくさん築かれました。
最古の古墳ができあがる前夜、つまり邪馬台国時代のヤマトの様子を見てみましょう。
631 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 02:50:53
PR活動乙
青銅器のリサイクル工房か 銅鐸破片や鋳型出土
2007年12月6日 18時18分
奈良県桜井市の脇本遺跡で、古墳時代初頭(3世紀初め)に捨てられた銅鐸の破片や銅くず、鋳型などが見つかり、県立橿原考古学研究所が6日、発表した。
銅鐸は弥生時代の祭祀で使われたが、古墳時代には使われなくなったことから、同遺跡は不要になった銅鐸をリサイクルして、別の青銅器を鋳造した小規模な生産工房とみられるという。
北西約4キロで大和王権につながるとされる巨大集落跡・纒向遺跡が同じ時期に出現しており、同研究所の寺沢薫調査研究部長は「纒向の都市建設と関係があり、王権の意向により、ここで青銅器を生産していたのかもしれない」と話している。
銅鐸の破片は3点で、最大で長さ約4センチ、幅3・5センチ。発掘した計9棟の竪穴住居跡のうち、1棟を埋めた土から見つかった。周囲には土製鋳型の外枠や鋳造の際に出る銅くずなどが散乱。集落内の別の場所で生産し、捨てられた可能性が高いという。
(共同)
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007120601000453.html
634 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:01:36
「邪馬台国ドンと来い24」スレからコピペ。勝手してスマソ。
708 名前:707[] 投稿日:2007/12/02(日) 04:50:39
【特殊器台および特殊器台形埴輪の出土遺跡名(抄)】
■立坂型特殊器台
▽立坂墳丘墓 (岡山県総社市新本)
▽楯築墳丘墓 (岡山県倉敷市矢部)
▽黒宮大塚 (岡山県倉敷市真備町岡田)
▽鋳物師谷2号墳 (岡山県総社市清音三因)
▽雲山鳥打1号墳 (岡山県岡山市津寺)
▽中山遺跡 (岡山県真庭市落合垂水)
▽古坊遺跡 (岡山県新見市神郷下神代)
▽浦尾5号墓 (岡山県岡山市門前)
▽貝ケ原遺跡 (広島県尾道市御調町貝ケ原)
▽西谷3号墓 (島根県出雲市大津町下来原)
635 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:02:31
■型式不詳、特殊器台に類似する「特殊な大型器台」
▽津島遺跡 (岡山県岡山市いずみ町)
■向木見型特殊器台
▽向木見遺跡 (岡山県倉敷市木見)
▽西江遺跡 (岡山県新見市哲西町上神代)
▽愛宕山遺跡 (岡山県赤磐市黒本)
▽鯉喰神社墳丘墓 (岡山県倉敷市矢部)
▽西山遺跡(箭田西山遺跡) (岡山県倉敷市真備町箭田)
▽便木山遺跡 (岡山県赤磐市山陽)
▽秦山崎遺跡 (岡山県総社市秦)
▽矢部南向遺跡 (岡山県倉敷市矢部)
▽矢谷古墳 (広島県三次市東酒屋町) ※「矢谷古墳」は史跡名称
▽東郷遺跡 (大阪府八尾市光町他)
■型式不詳、特殊器台(壺)形土器片(向木見型か)
▽小阪合遺跡 (大阪府八尾市小阪合町他)
▽萱振遺跡 (大阪府八尾市萱振町他)
636 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:03:29
709 名前:707[] 投稿日:2007/12/02(日) 04:52:39
■矢藤治山型特殊器台
▽矢藤治山古墳 (岡山県岡山市西花尻〜東花尻)
■宮山型特殊器台
▽宮山古墳(三輪宮山古墳) (岡山県総社市三輪)
▽西殿塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽中山大塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽箸中山古墳(箸墓) (奈良県桜井市箸中)
▽葛本弁天塚古墳 (奈良県橿原市葛本町)
637 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:04:34
■特殊器台形埴輪(都月型円筒埴輪および亜式)
▽都月坂1号墳 (岡山県岡山市津島本町)
▽浦間茶臼山古墳 (岡山県岡山市浦間)
▽七つグロ1号墳 (岡山県岡山市津島西坂〜津島笹が瀬)
▽中山茶臼山古墳 (岡山県岡山市吉備津〜尾上)
▽網浜茶臼山古墳 (岡山県岡山市赤坂南新町)
▽操山109号墳 (岡山県岡山市平井)
▽宍甘山王山古墳 (岡山県岡山市宍甘)
▽矢部(B)42号墳 (岡山県倉敷市矢部)
▽矢部17号墳(矢部大ぐろ古墳) (岡山県倉敷市矢部)
▽矢部伊能軒遺跡 (岡山県倉敷市矢部)
▽矢部堀越遺跡 (岡山県倉敷市矢部)
▽権現山51号墳 (兵庫県たつの市御津町中島)
▽西川遺跡 (兵庫県尼崎市次屋)
▽西殿塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽中山大塚古墳 (奈良県天理市中山町)
▽馬口山古墳 (奈良県天理市兵庫町)
▽波多子塚古墳 (奈良県天理市萱生町)
▽箸中山古墳(箸墓) (奈良県桜井市箸中)
▽玉手山9号墳 (大阪府柏原市旭ケ丘)
▽元稲荷古墳 (京都府向日市向日町北山)
▽壺笠山古墳 (滋賀県大津市坂本町)
638 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 21:58:31
>>629 美濃国の大神神社があるところはタラ。関係あり?
640 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 19:04:49
ない。
美濃には郡役所があっただけ。美濃から平城京遷都は考えにくい。
>>639 あれは奈良からの分祀。東国に三輪山の信仰を普及する為の拠点の一つだろうな。
642 :
唐松山:2007/12/15(土) 19:13:25
邪馬台国=崇神天皇時代あたり などと 考えるのは,文系ですか?
もし そうだとすると 何にも無いのが当たり前 文系は邪馬台国=崇神天皇時代で 文字には何も書かれていない。
なのに 邪馬台国=崇神天皇時代に成るのですか?
誰か 私の 単純な疑問にお答え戴ければ幸い。
私は 邪馬台国=景行天皇時代 で読んでいます。
643 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/15(土) 21:07:48
卑弥呼と、景行天皇と九州行幸時に双方が会ったという記事も記紀に無いが?
644 :
唐松山:2007/12/15(土) 21:43:20
卑弥呼と、景行時代 はとりあえずおいといて
崇神11年 異属多帰=考古学の2世紀末巻向に急に地方の土器が集まる。
これより前
崇神5,6年凶作=新羅本記西暦193年倭人凶作の為押し寄せる。
このような記事を事実と合わせないのは 何故か?
645 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/15(土) 23:03:52
193年? それは孝元天皇の御世だな。その凶作っていうのは九州のことだろ
うな。凶作が倭の大乱の原因かどうかはしらんが? 大乱はそのころから
孝靈のころだろうがね?
だいた新羅本紀って信用できるの? だれかさんが173年の卑弥乎遣使の記事は
信用おけないって書きこみで言ってたから・・・?
考古学で崇神11年とまで正確に確定できるの? おかしくない? そのころは
崇神の中期で、あと13年ばかりでマキムク関係の垂仁世になるから不審は
ないと思うけど・・・。
646 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/15(土) 23:33:10
唐松山さん
貴殿は女王国畿内説なのか九州説なのか、どっちなの?
倭の大乱が記紀にないのは、当時が八代の欠史の時だから載って
なくてもおかしくない。
647 :
唐松山:2007/12/16(日) 15:48:48
凶作は、各時代に有ったでしょうが 2年連続,人口減、離農 を
書紀から探すと 崇神5,6年だけです
新羅本記では,6月に倭人が多数 来ています。
8月の収穫を期待できない。状態 考霊時代にはこんな記事は有りません。
神功元年日食 これを正しいとすると 西暦273年になります。
もし4世紀にこの日食を探しても 適当な日食が無い。
三韓征伐で考えると 西暦250年頃 魏の弱体化に共ない 百済、新羅国の発生
任那はまだ 国といえる状態では無い ここに 神功は乗り込む
もし あと50年後では 百済も新羅もそこそこの国として固定
とても 小船を多数仕立てても 三韓征伐は 失敗するでしょう 仲哀を殺してでもこの時しかない。
だから、その倭人は九州勢ではありませんか? 孝靈時代は記紀は欠史八代の
欠史の為、記事がなくてもその時代にそういう状態があったことは可能性として
残ります。だいたいそんな長い日食があったんなら、当時の日月の運行速度は桁
が違う位現代と異なっていたことになり、ジュラ紀とか前世紀ならありえましょ
うが、4世紀あたりでは考えにくいでしょう?w
それに仲哀が殺されたとかは記紀にはなってないでしょう? 殺されたんなら
安康、崇峻と同様に誰かに殺されたとハッキリ記紀は書くはずです。仲哀だけ
隠し立てする特段の理由などないでしょうが?
唐松山さんは女王国がいずれか明示してないから、迷ってるんですな?
649 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/16(日) 20:48:58
例えば本年の3/17、TVの番組「世界不思議発見」で放映されてましたが、
いまからおよそ3億5千年前は1年が400日近くあったそうで、当時地球の自転
が早かったことがサンゴの年輪によって判明してるそうです。しかし4世紀
あたりではそういうことはないと思いますがね?w
以下は2倍念暦の過去スレ(去年12/22 無コテ氏)にありましたので、関連
サイトも見て調べましたが、富士の公園について
今から孝靈世の約1800年前、富士山噴火があり、
2007−約1800=約207年
右辺の207年は、そのままなら、拙者の倍暦計算で開化元年になり、孝靈年間は
162年即位〜187年崩御だから、20年くらいのズレでだいたい合致しています。
南麓大淵丸公園北駐車場にその溶岩樹型が現存しているそうです。
「富士大縁起」によると、孝靈5年に噴火ありとのことである。
「富士本宮浅間社記」によると、孝靈の代に富士山が大噴火したとある。
650 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/16(日) 21:00:41
207年あたりが孝靈、開化世となるなら、273年は垂仁か崇神の末期
ころとなり、それがしの数字はマキムクの盛んになろうとする始期
に数字が合うようです。
651 :
唐松山:2007/12/16(日) 21:39:23
富士山噴火は,考霊時代に有ったと思いますが、
年代決定は, 現在大方の人が考霊は西暦200年頃と言っていますので、其れにあわせた。
木材が炭化してでも出土すれば正しい年代測定可能でしょうが 空洞ばかり。
卑弥呼は景行時代
神功が273プラス5,60年では 三韓の地 もっと安定していて 鉄器の少ない倭軍では
治められない 可能性大
崇神時代の記事に 畿内静謐と書いてある=他では乱れがある と読みます。
652 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/16(日) 21:44:35
孝靈の後の噴火はどうやら清寧3年ですから、景行世には噴火はないん
だはないですか? 清寧3年だと倍暦で496年ですが・・・。
女王国は迷っておられる??
653 :
唐松山:2007/12/16(日) 22:09:25
太国さんへ 「そんな長い日食があったんなら」って何処に書いてありますか?
神功元年の日食を考えると
神功軍は春に豊浦を出立 難波に着く前 古老に聞く所から 久しぶりの日食
当然2,30パーセントの小さい日食では無さそう
そうなると 273年5月4日(太陽暦)は久しぶりの日食、食率95パーセント位
是より1,2ヶ月早い日食と考えると 仲哀末年12月生まれの応神 幼すぎる。
仲哀が殺されたとかは記紀にはなってないでしょう?
それでは 仲哀の死亡原因はなんですか?
654 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/16(日) 23:11:04
紀に曰く
「この時に適りて、昼の暗きこと夜の如くして、既に多くの日を経たり。」
こんなに数日も暗いことが続くんですか?
何らかの天候不順か、さっきの例から火口の大煙がもくもくと空一面にあれば
数日とやらもあるでしょう? 日食なら「日が欠ける」とか「日が蝕する」
とか具体的に欠きますよ。推古世のそれは具体的でしょうが。
死因は書かれてないが、病気があったのか単なる頓死でしょうが? 反問し
ますが、それでは何故仲哀のほうは安康、崇峻のように暗殺されたとの記述
はなされてないんですか? 暗殺されたなら、そのときは秘密が必要かも
知れんが、後代まで隠す意図あ不要と思いますが? 忘れたぐらいのことで
すかね?
どうやらマキムクの景行年代にこだわってるところを考えると、唐松山さんは
女王国畿内説のようですね? 畿内の卑弥呼がいるから、景行が九州行幸で
鬼女から逃れておしまいになったわけでもありますまいが・・・?
自演ウザス
んな事どうでもいいよ。
ヤマト王権は奈良にあった。
マキムクも人工的な都市があったと思う。鍵・唐古の遺跡も近くにある。
古墳も大量にある。平地にこんもりしてるやつは全部そうだ。
至る所に小さい古墳が点在してる。
田んぼの中にも森の中にも誰のかわからない古墳がいっぱいある。
王権の礎の地だろう。邪馬台国がどこかどうかはこれから解明されるんだろうが、
ここに凄いクニがあったのは間違いないと思う。
大物主を監視できる三輪に鎮めてる点から見てもそうだと思う。
657 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/17(月) 11:14:00
唐松山さん
景行の時代にマキムクに卑弥呼の女王国があったんなら、同じマキムクの日代宮
の景行と克ち合せで大もめになるでしょうし、記紀に卑弥呼と景行との葛藤が多
大に載るでしょうが。だから畿内説ならば貴殿の編年はおかしいことになります。
658 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 14:00:27
>>656 それはそうだね
橿原朝廷や、近つ飛鳥朝廷、吉野、平城京、平安京、、
紀記にも記述がある訳だしさ
659 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/17(月) 14:12:08
てか巻向遺跡も何も紀記や他の書物にも「巻向宮」とか「巻向日代宮」ってちゃんと書いてあるじゃん
あとウィキに書いてあるのは
「発掘された遺跡の大半が東海から搬入されたと見られる」らしいよ
つか景行天皇は三河尾張の辺りに伝承が沢山ある天皇だよ。猿田彦や息子の日本武尊とかさ
美濃の笠置山の名前を付けたのも景行天皇で
「いずれ帰ってきて、この山に祭られよう」
とか言い残して吉野だか筑紫だかに行ったって話もあるよ
660 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/17(月) 14:17:18
マキムクは記紀にあるが、卑弥呼とかの記述は倭人伝等からの挿入意外
記紀には書かれてないってことだ。
遺跡の大半が東海から搬入されたってのは、
外来の土器の半分くらいが東海産ってことだよね
662 :
唐松山:2007/12/17(月) 18:50:59
太国さん 已經多日
已 の読み方が違います
已=干支の6番目=方角 南南東=午前10時
已=時の(一日の)中程 と訳す。
1日の途中で 1日を数えてしまう
垂仁天皇元年は、西暦213年 2世紀末では有りません。
崇神10年 四道将軍 とは
崇神6年の凶作の為 離散した 農奴を連れ戻すとともに 新たに 人攫いをして農奴とする。
東海地方の人が多い=日本武尊に強力な反撃をした,人々の仲間。
もん太さん 漢字に 直せました?
何処産であれ、大和に集められたって事は
中心地だったって事だよね?
>>659 筑紫か吉野行ったんなら
君の言う、美濃に飛鳥は無いわなw
尾張氏の中心地で
東国攻略の前線基地だったかもしれんけど。
それなら武人の伝承があるのは納得できるわな。
664 :
雲黒齋:2007/12/17(月) 20:17:12
巻向は三輪…
唐古は石…
それぞれの邑でしょう。地名は現在も残されている!
665 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/12/17(月) 21:00:27
>>662 それ、書きこんでから誤字を知りましたが、支障ないだろうと思ってそのままに
していました。しかしそれを干支に取り替えるのは行き過ぎではありませんか?
だいたいそれが日蝕なら、何故他の日蝕は仏伝以前に記載がないんでしょうか?
これもおかしくないdすか? 月蝕も同様に仏伝以前は記録皆無ですよ。 これ
がなくて、朔ばかりは蟻の大群のごとくうんとある。月蝕だって特殊な朔のよう
なものでしょうがね・・・。だからそいつは日蝕じゃぁないですよ。
垂仁即位が213年だとの理由は何なんですかな? 卑弥呼がマキムクの年代なら
九州説しか考えられんですが、あなたは畿内説なんでしょう? 最初からそう
決めこんで編年をやりませんでしたか? 卑弥呼がマキムクに景行の時代に
いたと言うなら、卑弥呼は女王だから、神功皇后のように記紀に卑弥呼女王と
して景行と共在の形で記紀は書くはずですよ。斎宮じゃぁ鬼道にはならんし、
大陸まで知れ渡るには行動が消極的で論外ですね。
666 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/17(月) 22:02:52
>>662 ギブアップっすw
つか漢字以前に、俺まだ日本語を理解してないことを実感したっす;;
邪馬台国は魏志の記述が元だから漢文解釈の話になってるけど、日本の歴史に関してはやっぱり漢字以前に日本語を知る事もすげー大事な気がするよ
おれ全然知らなかったよ
667 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/17(月) 22:13:42
>>663 美濃に飛鳥はあるよ
大和川、飛鳥川、蘇我石川麿、入鹿池、十七条、聖徳、蘇我屋敷、物部屋敷、、
畿内にもあるかも知れないけど、これらは美濃にあるんだよ
そもそも畿内の大和川じゃ舟で海からの物資を運んだり無理でしょ?
近つ飛鳥、遠つ飛鳥
飛鳥は2つあるよ
668 :
雲黒齋:2007/12/17(月) 22:30:40
>667
大和川は河内の国分あたりで船から荷を降ろし牛馬で亀の瀬越えをする。
その後、王寺の潜戸や船戸からまた船に荷を乗せる。
ただし、この河川交通権益は河内物部の弓削あたりが開発したんだろう。
その後は上宮王家から蘇我、そして長屋王に伝承されたと考えられる。
この交通権益は大和の物流の死命を制するとともに、莫大な富をもたらしたのだろう。
古代の政変は案外、経済戦争の側面ももっていたのかもな。
669 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 02:33:40
>>667 勝手に山のなかでコピーしただけの地名www
670 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 03:54:54
>>669 蘇我屋敷跡や蘇我石川の古墳まであるんけどな
入鹿池とかもさ
犬山の桃太郎伝説は多分この頃の話だと思うよ
恵那山の神坂峠の伝承では「日本武尊が吉備氏の協力を得る為に、、」みたいな形て伝わってる話だよ
天照大神が神坂峠で白い犬に姿を変えて日本武尊の前に現れる話だよ
あとどっかの山腹から各務原付近を見た風景は、飛鳥宮の記述とそっくりらしいよ
でかい川が流れ犬山がなんたらとかっての
そもそも王申の乱って関ヶ原であった戦いの事だしさ
まあでも、どちらかの地名がコピーなんだろね
>>670 大和川は昔は今と流れてる場所が違う。でかい船は無理だが 今の水量でも船は出せる。
なぜ、飛鳥は美濃にあるなら、
王墓がないの?飛鳥寺ある?
文献の豊浦って地名はある?
入鹿は後世の人が付けた名前で、本名じゃないのに
池にまで名前がw?
672 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 04:54:57
>>671 入鹿池は犬山だけど、入鹿神社は橿原にあるんだよ
明治政府が橿原神宮や神武天皇陵を建設した時に「蘇我氏なんて祭るな」とかなんとか橿原の地元の人にケチ付けたらしいよ
その頃の話って俺はまだ理解出来てないけど、結構詳しく伝えられてないっけ?
誰かが裏切って王を暗殺して、入鹿だか馬子だかが自害して、誰かが墓を掘り返して遺骨を探して持ち帰っただのなんだの
その時代の少し前の山幸彦の話では、ワニが産まれて(俺は嫁が浮気して違う氏族の子を産んでたって解釈してるっす)怒りくるっただのなんだの
あと俺は飛鳥は美濃って言うより、飛鳥は近つ飛鳥と、遠つ飛鳥の2つあるって言いたいんだよ
美濃はどのみち負けた方だよ
673 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 05:09:21
>>671 ちなみに「豊浦」あったよ
木曽三河の河口の尾張三河の方の地名だね
知多の方は豊浦や豊橋やそういう地名
負けた飛鳥って何?誰?
飛鳥の甘樫丘豊浦は 誰の館跡?
美濃に葛城もあるの?
文献では入鹿の愛人の家があったとか。
入鹿の怨霊が出た葛城山とか、大津皇子の二上山とか。
葛城氏は蘇我氏の源流だけど。
大体、美濃なんて外交的に何の利便性ないし。
676 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 05:28:55
こりゃ参ったw
移設処理されちゃ、手も足も出んわwww
空海関係ないしwwwってか、比叡山と美濃なら
えらく近くないか?
弟子の取り合い時、弟子は何処で道草食ってたんだよwww
678 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 05:44:26
679 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 05:56:48
>>677 うんとさ、同じ地名や言われのある場所が2つあるとするでしょ?
例えば近江ってのも石川新潟の港も、あそこは近江って呼ぶんだよ
水銀採掘跡と丹生神社があるのは信濃の高屋山の方だしさ
あと話それるけど、例えば義経は畿内の鞍馬天狗のいた鞍馬山で修行してたって事になってるけど、平氏のど真ん中の平安京で修行してたって事なのかな?
鞍馬天狗の伝承は飛騨の位山、乗鞍山にある伝承で、位山の水源を下ると加茂川に出るんだよ
ちなみに弁慶が修行してて、和歌も残してる修験道の大船寺も奥美濃にあるし。この山は良弁杉もあった場所だし
>>679 平清盛は母の嘆願により源義朝の子らの命を助けて、頼朝は伊豆へ島流し
牛若は鞍馬寺に。
もう少し平家物語の勉強したら?大体、弁慶は出身がはっきりしてない人物。
681 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 06:17:22
>>680 どこまでが後の脚色の部分なのか良くわかんないや
まあ勉強不足なのはその通りっす
源平時代は話それたから置いといて下さい
俺がそれを主張するにはまだ全然勉強不足でした
682 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 06:50:21
あと邪馬台国邪馬台国って言うけど、別に邪馬台国や卑弥呼が日本の発祥じゃないと思うよ
大和統一以前は、葛城氏、物部氏、蘇我氏、大伴氏、藤原氏、吉備氏、出雲氏、、
沢山の氏族があるにはあるけど、これらの氏族は血縁関係がある訳でしょ?
その中での権力争いって言うか政略結婚とかも天皇たる血統の観念があるからする訳なんだろうしさ
例えばアメリカ人がやって来て、いくら武力で制圧した所で日本の天皇には慣れないんだよ。血統が無い訳だから
この血統の観念は昔の方が強がったと思うよ
仮に卑弥呼の邪馬台国が発祥なら天皇は卑弥呼の血統を継ぐ地位って意味になるよ
俺は違うと思うけどな
少なくとも、俺は邪馬台国論議はしとらん。
大体、それはスレ違いだ
日巫女として、アマテラスだとし、トヨを神功皇后だとする学者もいるし、
ただの九州の女首領だとする人もいるし、
その辺は物品の発掘しか解明できないね。
685 :
雲黒齋:2007/12/18(火) 09:51:32
カズラギ族は葛城山に盤踞した部族!
複数の集団からなりたっている。
御所市は俺の故郷に近い場所なんだが、
確か、大元は金剛山下の高天原の首領民族が
鴨氏を占領したのが カツラギ氏だよな
あの辺は 欠史八代の伝承が多い。室に古墳が出てきたみたいだし
688 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 13:11:44
>>686 >畿内邪馬台国の最有力地
アホか
つか巻向宮の事なら、ちゃんと古い文献に記述が残ってるんじゃないの?
天皇は畿内へ遷都(都を移す)に当たって、平安京に落ち着くまでは、あちこちに宮を替えてた訳だしさ
藤原京には十数年しか居なかったりとかさ
んん?平城京は?
そのあなたの持ってる古い文献という、デンパ本には
マキムクはなんて書いてあるの?
690 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 14:08:51
691 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 14:15:01
巻向遺跡のある場所は地名に「巻向」ってのがあった地域でしょ?
他に日本中の現在とその当時の時代まで遡って「巻向」って地名を探して他になければそこなんだろうしさ
地名って時代によって氏族と一緒に移転したりするからややこしいよ
後付けの地名とかもあれば、現在は使わなくなったりした地名とかもあるから、その当時の時代の地名の場所を探さないと意味が無いしさ
けどたいがい地名って名前が付いた言われが残ってたりするよ
692 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 15:39:35
九州にもあるよね、マキムクって場所。
693 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 16:01:47
>>692 元々はなんかの氏族の呼称なのかな?
巻向日代、巻向珠城とかだしさ
橿原の藤原京ってのも藤原鎌足とかの藤原氏の意味な気がするし
平城京、平安京の平は平氏とか?
けど名称には、なんか意味はあるんだろうね
まんまパクるパターンもあるけどパクるにしてもパクりたい意味がある訳だし
694 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 16:25:40
695 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 16:30:49
「2世紀頃に作られた都」
ってのは記述や伝承にある訳じゃなく、巻向遺跡を調べた考古学者が唱えた年代なだけみたいだから当てにならないよ
「木の年輪年代法」だかを使って得られた年代から考古学者が解釈したのが2世紀頃って事だね
けどまあ藤原京よりは古いような気はするなあ
自演ウザス
697 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2007/12/18(火) 18:53:21
>>696 ごめ
携帯だからすぐに名前付け忘れちゃうよ
おぃおぃ、平城京の時代に平氏はおろか、武士はいないぞw
マキムクは大字名で桜井に昔からあるよ。マキムク山もあるしな
699 :
雲黒齋:2007/12/18(火) 20:36:16
桜井には
粟殿
粟原
忍坂
がある!
読み方は
オオドノ
オオバラ
オッサカ
粟原の西には大西がある!
オオニシと呼ぶ。
ここオオの地がオオビコやオオササギなどの名前のベースになっている。
オオハツセワカタケルというのもあったな!
700 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 22:13:36
>>699 大西から初瀬川(大和川本流)の対岸の村は江包といいます。
江包は、「えっつみ」と読み、出雲(いづも)の転訛した地名です。
大西〜江包の両村から巨大な縄を初瀬川に架け、江包のスサノオ神社前で合体させる神事があります。
纏向遺跡のすぐ近くです。
桜井市にはまた別に出雲という村があります。三輪山の南麓です。
吉備という地名もあります。ここの吉備遺跡からは古墳時代前期の小児用と思われる壺棺が出土しています。
銅鐸出土で有名な大福遺跡のお隣りです。
701 :
雲黒齋:2007/12/18(火) 22:46:02
ヤマトにはほかにも飛騨、土佐、というのもあるからなぁ…
藤原京造営の庸として役された民がすんだ地域かも知れないな!
ただマキムクはオオの地の北に位置する。
カラコはシキの地の西に位置する。
例えば人口増加と治水の成功によって
マキムクからカラコへの移住という事もあったのかもな?
てs
703 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 00:58:43
初歩的な質問なんだけど纏向の年代って年輪年代方による
古墳時代の開始前倒し(てか既に合意事項?)だけじゃなく
発掘された物自体から確定ってできないの?
邪馬台国とされる都市が卑弥呼の即位(?)前後に作られたなら
日本の何処にあっても時代的に微妙な境界線上ってことで
クレーマーの発生は免れないのかなあw
>>703 > 発掘された物自体から確定ってできないの?
「確定」は出来ない。
ただ、位相的に畿内V様式から布留までだから200年以上は存続していると推定はできる。
畿内V様式と言うのは、弥生末期に当たり、出土土器の併行関係から同時性が確認できる
北部九州でも中小環濠が消滅して、比恵・那珂遺跡群のような巨大平地集落へ集約化が
始まる時期と一致している。
なので、纏向に限らず、日本の何処かの同時期遺跡の実年代が確定できれば、
纏向も確定できる。
705 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 01:44:10
>>704 サンクス。
>実年代が確定
やっぱ建造物に使われた木の柱とかなのかな。
(朽ちずに残るのは無理っぽいか?)
…しかし上の方で空海の高野山が飛騨信濃って電波があったけどスゲーなwww
ていうか、実年代の確定って、そんなに意味があるようには思えないのだが。
707 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 01:11:28
主に邪馬台国論争のことじゃね?
でも搬入土器とかの経歴つうか時代を追ってその変遷は知りたいなあ。
纏向に最初に入ってきたのは何処の地方でその比重がどう変わって行くかとか…
最初から最後まで東海地方のがトップシェアつうわけじゃないんだろ?
まあ素人が単純に考えて東海地方が最大の受益者っぽいとは思うけどw
逆に出雲吉備の西国はヤマトの勃興で
「♪西から来たものを東に受け流すー」だけの存在になりかねないんだから
あまりメリットが無いようなwww
土器の話が出たついでに聞きたいけど、
ホケノ山古墳や纒向石塚古墳は、結局布留式で落ち着いたのか。
確実に布留式より先行する古墳がないように思うのだが。
709 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 13:34:39
纒向にはないだろうね。
>>708-709 へっ?
石塚が布留以降なんて話は聞いたこともないが。
庄内の1あたり(胎土中に庄内2以降の土器片が混じらないことから)に
持って来るのが大勢ですけどw
ちなみにホケノ山は庄内3か布留0か
どっちが大勢なんでしょうか?
>>710 それは『大勢』ではなさそうだが。石野の本しか読んでないと大勢に見えてしまうんだろうな。
もっとも、フル0というのは寡聞にして聴かないが。
>>712 正直、寺沢薫は最近まったく逆のことを言ってるのだが。
今まで円墳だと思われていたものの内、いくつかは
箸墓以前のマキムク型の可能性があると。
堂ノ後の話もあったよね。
>>711 逆に庄内を4まで分けるのが大勢かを聞きたい。
指標は確立しているのかと疑問に思う。
えーっと。
石塚およびホケノ山にの築造時期について。
最新の議論の中心はどういうあたりになってるのか、
どなたかまとめてくれないでしょうか?
>>713 堂の後が神門古墳群の陸橋付円墳みたいなタイプなのであれば、
「プレ纏向型」みたいな設定ができまいか?
石塚の前方部が陸橋では無く周濠で区切られていることは確定したので
さらに古いタイプの墳丘墓なのかもしれない。
邪馬台国の証拠出るか…纒向遺跡を本格調査
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20080109p102.htm 邪馬台国の最有力候補地、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(3〜4世紀)について、市教委は新年度から、初めて中枢地域の本格的な発掘調査を進める。
「日本最初の都市」とされる遺跡の実態解明につながる成果が得られると期待される。
文字資料など、中国との直接交流を示す遺物が見つかれば、邪馬台国の所在地を決定づけ、長年の論争に決着がつく可能性もあり、関係者らは調査に大きな関心を寄せている。
纒向遺跡は、古代の王宮が営まれたとされる三輪山山麓(さんろく)にあり、東西約2キロ、南北約1・5キロ。邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓説がある箸(はし)墓(はか)古墳(3世紀後半)もある。
県や市による調査は1971年に始まり、現在まで153回行われたが、住宅開発などに伴う緊急調査が85%の130回を占め、調査が終わったのは全体の5%程度。
遺跡の中枢は時期によって異なり、3世紀前半は、祭殿とみられる建物跡などが近くで見つかった太田地区、同後半には、朝鮮半島の影響を受けた土器や絹製の袋などが出土した巻野内地区に移ったとみられている。
市教委は両地区の発掘を長期的な計画で順次、進めていく。
同遺跡の調査では、東海や瀬戸内など他地域の土器が出土量全体の2割以上を占め、全国各地との交流があったことが知られているほか、板で護岸した幅5メートルの溝など、大規模な土木工事が行われていたことも判明。
最近の調査では、染織に使われたベニバナの花粉が大量に検出され、中国の史書「魏志倭人伝」に記された、卑弥呼が魏に献上した織物と関連する可能性も指摘されている。
纒向遺跡の大規模発掘と整備を公約に掲げる谷奥昭弘市長は
「考古学的にも画期的な調査となるはず。邪馬台国の手がかりをつかみたい」と期待する。
文化庁記念物課も「本格的な調査が進めば、全国に類例のない成果が得られる可能性がある。史跡指定をして遺跡を保存するためにも、早急に実態解明を進めてほしい」とする。
(2008年1月9日 読売新聞)
石塚は、S46からの第1次調査で纒向T式の出土があり、重視された。
その後、布留0より一段古い纒向V式が前方部を区画する溝内から出土。
周濠内の初期の堆積層からは、T〜V式が出土(T式が過半数)。
前方部では新しい土器が出る傾向があり、後円部が先行して築造されたと
すれば、かなり古く見れるがその見解は支持できない。
『大和・纒向遺跡』では数名が独立して各自の見解を述べているところ、
布留0の可能性を認めつつも、それより1段古いV式が優勢か。
>>718 前方部の発達が余り無いマキムク型は円墳と間違われている可能性があるということ。
そこじゃない。
>>713 >正直、寺沢薫は最近まったく逆のことを言ってるのだが。
と
>>710 >庄内の1あたり(胎土中に庄内2以降の土器片が混じらないことから)に
>持って来るのが大勢ですけどw
の関係が意味不明。
石塚は、纒向Vまでが出土している以上、これより古くはできない。
布留0の時期まで下るかどうかは、纒向Vが布留0と時期が重なるかという問題。
重なる可能性は否定できないだろう。
その意味では、確実に布留0より古い古墳とはいえない。
結局、箸墓の陪塚といわれていた当初の年代に回帰したとも言える。
周濠の堆積層からだろ。
それより新しく見ることは出来ない、とかは言えるけど、
逆に古く見ちゃいけないなんて理屈は成立せんだろうが。
逆に、長年使ってきた纒向Vを布留が出た後に廃棄したとも言える。
一方、初期の堆積層にVがあるということは、Vより前にはなりにくい。
初期の堆積層の大半がTだからTの時期というのはちょっと無理。
>>724 「纒向Vまでが出土している以上、これより古くはできない。」説は、
不成立ということで撤回ですね。
726 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 13:34:38
石塚は、1次調査では円墳と考えられていて、纒向Tが大半だったこと
もあり、石野は纒向Tと考えた。ただし、Vまで出土している以上Vと
すべきではあった。
3,4次で前方後円墳と確認でき、その場所で布留0も含まれていたことや、
1、2次の土器に布留0が含まれていることの指摘をして、寺沢は布留0と
した。現時点では、布留0でほぼ決まりだろう。
>>726 >寺沢は布留0とした。
またこうやって、息を吐くように嘘をつく。
いいかげんにしなよ。
729 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:16:10
>>727 嘘を書いているサイトを参考にすると、余計に迷宮に落ちるぞ。
そんなデマに惑わされてはならない。
寺沢でも石野でも誰でもいいから、専門書をまず読め。
そのうえで、そのサイトをもう一度よく読んでみるんだ。
730 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:31:36
向く(ムク)という言葉には、「従属させる」「支配する」という
意味があるよね。
731 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 23:18:43
>>728 『大和・纒向遺跡』231頁で寺沢は布留0式期と明言している。
241頁以下でも同じことを書いている。
>>731 周濠の堆積時期が布留0期だと書いてあるだけだよ。
日本語ぐらい読めるようになろうね。
そこのパラグラフの題名が『周濠の堆積と時期』で、その上、
ご丁寧に、p231には『築造時期に近い堆積とみなすことは正しくない』とまで書いてあるのに。
>>731 もうひとつ。
この『大和・纒向遺跡』という本は、出たのは新しいけど既報の論文を集めただけだから、
情報的には古いものも入っている。
p231もp241も、1989年の4次調査概報当時のもの。
巻末に初出一覧があるから見るヨロシ。
>>732 その周囲もちゃんと読もうよ。
p231の、「従来のように黒色粘土二層のみの遺物をもって築造時期に近い堆積とみなすことは
正しくない。」というのは、1、2次調査での石野の結論に対してこと。
これは、寺沢の担当した調査ではこの層自体が出ていないという流れでのべたもの。
つまり、寺沢は1、2次調査でこの層の上の層から出たものに同時代性を認めてもいいとする。
その理由として、p231で「各種の木製品や土器が植物層下部においてプライマリーな状態で
面的に形成されていることを考えれば、」と前置きしている。
これは、1〜4次での植物層下部を見渡して、全般的に出土している状況からは、後世の混入と
いうよりも築造時期に近い時期のものであろうという意見。
その上で、「その時期は後述するように布留0式期と考えられる。」と結論を述べている。
「後述」の部分では、布留0式が1,2次でも出ていたとも指摘している。
うーん。その『大和・纒向遺跡』という本(結構高価だが)、
最新考古学成果が記されてるわけでは
かならずしもないのだな?
>>734 >「その時期は後述するように布留0式期と考えられる。」と結論を述べている。
だからさ、投棄の時期に関するもの。築造じゃない。
で、築造時期についてはまとめの中で(p242)、『その築造は微妙に庄内3式にくい込む公算もあり』と
書いていて、この報告の後で寺沢は石塚の年代を庄内3としている。
>>736 ちゃんと読もうよ。
p241は「こうして石塚古墳の上限は遡っても庄内式期であり、周濠底への製品の
一括投棄は、布留0式期に下ること必死であろう。」と書いていて、布留0が築造時期
と考えるが、庄内式期に遡る可能性もあるとしている。
p241で「庄内3式期に食い込む公算もあり、」というのは、基本は布留0式期という立場で
考えるからこのような表現になっている。
前方部の最下層から布留式甕が出ていることや、1、2次調査での黒色粘土二層に布留式
がある(p241)と述べていることからは、基本が布留式にあるという主張は明らか。
石野が(意図的に?)見落とした布留式に言及しているから表現が回りくどくなっているだけ。
>>737 そんなことは書いてない。
>周濠底への製品の一括投棄は、布留0式期に下ること必死であろう。」
ほれ。【投棄】と明記されてるだろ。布留0は下限を書いてるだけだ。
一括投棄がいつの間にか築造に化けるそのおかしな日本語、いい加減直したほうがいいぞ。
で、241から242にかけて書いてあるだろ。
布留0が出ている植物腐敗土の下のシルト層には布留様式的な土器様相がないって。
ただ、この段階ではこの土器群の性格がはっきりしないままなので、
庄内期から布留0にかけてという広い表現になっているだけ。
その後、検討を加えて庄内3という結論になった事実は動かんよ。
>>738 だから全体をちゃんと読もうよ。
1、2次調査で最下層とされた黒色粘土二層に布留式がある(p241)と指摘している。
同じ層の遺物のうち、一番新しいものが年代の指標になるのが原則で、この層の
時期が布留期との推定が働くのが普通。
一方で石野に配慮して、庄内に遡る「可能性」を述べている。
逆に言うと、庄内は「可能性」しか認めないということ。
基本が布留にあるから、庄内は「可能性」でしかないという単純な論理だよ。
生前に築造して祭祀が築造の10年後かもしれないから、築造が遡る「可能性」はある。
この視点からは、前方部の出土品の方に新しい傾向があるというのも頷ける。
ともかく、寺沢は祭祀が行われて多くの物が投棄されたのは、布留0の頃と考えている
ように読めるよ。その上で築造は遡る「可能性」ありということ。
正直、寺沢薫は最近まったく逆のことを言ってるのだが。
↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓
寺沢は布留0とした。
↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓
『大和・纒向遺跡』231頁で寺沢は布留0式期と明言している。
↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓
「庄内3式期に食い込む公算もあり、」というのは、
基本は布留0式期という立場で考えるから
↓↓↓ ↓↓↓ ↓↓↓
寺沢は祭祀が行われて多くの物が投棄されたのは、布留0の頃と考えている
ように読めるよ。
741 :
君は面白いね:2008/01/13(日) 22:12:20
´ ヾ
゛ (⌒) ヽ
((、´゛))
|||||
||||||| ドッカーン!!
/ | ∠|
(゜\./,_ ┴./゜ノ( 「石塚は絶対庄内ニダ!!」
\ \iii'/ /,!||!ヽ
ファビョ━━ /V,,ニ..,ニ、、 ノ( \━━━ン!!!!
\ヽY~~/~y} `/~,/
| ,k.,.,!,.,.,r| ,! く
/ <ニニニ'ノ \
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| ( ●)(●) / \
. | (__人__) __|__(M)__|
| ` ⌒´ノ ./ ─ ─ \
. | } / (●) (●) \
. ヽ } | (__人__) |
ヽ ノ .\ ` ⌒´ /
/ く / \
どうしておなじ文章を読み合って
ここまで正反対の結論が書いてあるとお互い言い張れるのだろうか?
素人ですが質問させてください
マキムクは庄内から
古墳は布留から
でも石塚だけは庄内からの可能性もある。
と理解して良いですか?
要するに、石塚は纒向T〜Wまで出ていたのに、石野はWを見落として、
T〜VのうちTが一番多いのでTの頃とした。
その後、石野が更迭されて寺沢が担当者になり、W(布留期)とした。
・・・石野の資料の見方には疑問が多いね。
彼の能力的なものかもしれんが。
>>745 もう、いいかげんにシル。
そういう妄言の垂れ流しは自分達サイトの中だけにしなさいな。
安本の手口は、用語の意味を自己流で定義し、それと異なる意味で使われている
他人の文章に当てはめ、当人が言ってもいない「明言」を作り出してしまう。
少し長くなるが現在の主管団体・桜井市教委の見解を引用しよう。
纏向石塚古墳第9次調査 現説資料
ttp://www.gensetsu.com/060325makimuku144/doc1.htm >第8次調査では墳丘の断ち割り調査を実施し、この古墳のほとんどが盛土で造られて
>いることや葺石や埴輪をもたないことが改めて確認されています。
>その際に『盛土内から出土した土器片に庄内式の新しい段階のものや布留式期の土器
>片が混じらないことから庄内1式(3世紀前半)の築造の可能性』【これが寺澤の分析】が
>新たに指摘されました。
>よって、現在纏向石塚古墳の築造時期に関しては、西側周濠の出土土器を評価する考え
>方(庄内0式期 3世紀初頭)、盛土内出土土器を評価する考え方(庄内1式期 3世紀前半)
>と導水溝出土土器を評価する考え方(庄内3式期【庄内3式を認めず布留0と言換えることは、
>可能か】3世紀中頃)3説があります。
これが、要するに「世間の常識」なんですよ。
>>743 > どうしておなじ文章を読み合って
> ここまで正反対の結論が書いてあるとお互い言い張れるのだろうか?
言い張り合いというよりも安本な人の言い方だけがどんどん後退してった様に見えるが?
とうとう、最期は「築造時期」じゃなくて「遺物の投棄時期」の話にすりかえて、
言いつくろってるだけだろ(爆
>>746 西側周濠の出土土器を評価する考え方(庄内0式期 3世紀初頭)
・・・この場所の最下層からは布留0も出ているが、纒向T(庄内0)が一番多いので
庄内0というのは、全然ダメだろ。布留0が出ているなら布留0だよね。
導水溝出土土器を評価する考え方(庄内3式期 3世紀中頃)
布留0は、古墳西側、前方部くびれ、導水溝と全般的に出ているが、この説明では、
導水溝だけのように見えるから不思議だ。しかも、布留0ではなく、あくまで庄内3と
いう説明にこだわるのも不思議だ。
こんな発表をしていたら、藤村某の事件のような見方をされかねないなあ。
749 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 15:56:25
庄内を三期に分ける人にとって布留0と庄内3は別物。
市教委のサイトでもちゃん両者を使い分けてるじゃん。
あなたは、それを勝手に言い換えている。
また、寺沢の庄内期築と言う見方が
墳丘胎土に庄内2以降の遺物が見つからない、
と言う事実を論拠としている以上、
周濠遺物の投棄時期が布留0と
書かれていようがいまいが、
「寺沢が周濠遺物をもって築造時期を布留0とした」
とは読み様がないな。
750 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 18:16:09
>>737で
>p241で「庄内3式期に食い込む公算もあり、」というのは、基本は布留0式期という立場で
>考えるからこのような表現になっている。
とありますが、
>>749さんは、この点はどう理解するのでしょうか。
寺沢が布留0とした土器が
>>746のリンク先で無視されていることについては、どのように
理解すればよいのでしょうか。
>・・・が更迭されて・・・
更迭とは、ある地位に就いている者を他の者に替えることで、
一般的な用法だと、その任に不適格ゆえに、とのマイナスイメージがある
順調にキャリアを積み重ねてきた石野さんに対して「更迭」とはな・・・・(絶句)
なんだか誹謗中傷を意図しておる如き底意が見え隠れするやうな気がする
そのやうな言葉遣いをする者のレスは、真に学問的と言えるかどうか
少なくとも拙者のやうに警戒心を持ってしまう人間も、居るのである
論戦の場での過激かつ不用意な言葉遣いは、却って逆効果と知るべきであらう
仕方ないよ。
石野はT〜Wまで出ている状況で「Tが一番多いからTだ。」とやってしまった。
これは学者失格と言われても仕様がない。そんなレベル。
>>547の記事を読む限り、寺沢が石塚築造を布留0と主張しているとは思えないな。
これは古い、最古だよ!と費用を出させて発掘する立場の人間が
マスコミ相手に言うことだからなあ。
そもそも土器の分類にも疑問があるね。
布留の中でも古く見れるものがあるとして、布留0を設定して「最古の古墳」の
箸墓に適用したが、その後布留0がどれだけ出たのだろう。
庄内は、せいぜい2つにしか分けられないとされてきたのに、1、2のほかに0と3が
設定されけど、独立して設定するほど出ているのな。
分けたいものを分けるだけの泥縄式で、少数の出土で1型式として期間を与えて
年代を遡上させているだけにも見えるんだよね。
この調子で10年後には庄内5式、布留5式なんてことになるのかな。
>>755 庄内式の期間はもっと短いとされていたのが、
土器の形式変化の多いことが分かってきて、長く見積もるようになった。
年代遡上遡上とか言い過ぎると、全てが畿内説の陰謀に見えてくるんだね。
>>754 寺沢は積極的に箸墓=布留以前のマキムク型前方後円墳を評価してるからな。
なんか勘違いしてるよね。
倭人伝の西暦247年の出来事と
日本書紀の崇神天皇治世十年の出来事って
そっくりなんだよなw
倭人伝では
邪馬台国・卑弥呼VS狗奴国・卑弥弓呼の戦い
→その直後、卑弥呼急死
→その直後、大きな墓が作られる。
日本書紀では
大和国・百襲媛命VS許乃国・武埴安彦命
→鎮圧直後、百襲媛命急死
→その直後、箸墓という大きな墓が作られる
759 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 23:34:13
だからなんなの?w
大体日本書紀書いた人は読んでるでしょ倭人伝
760 :
霰黒齊:2008/01/16(水) 23:54:00
茶臼山古墳と箸墓古墳との違いはなんだと思う?
>>760 茶臼山って岡山県浦間茶臼山古墳のこと?
箸墓の1/2の規格とされているよね。
岡山の方は、埴輪と特殊器台形埴輪がある。
清水市袖師の神明山1号古墳は箸墓の4分の1とされる。
>>758 崇神紀あたりの記述は考古学的にはどう裏付け得るのか?
三輪山祭祀が本格化するのは遺物(子持勾玉など)的には5世紀のこと。
伊勢神宮祭祀の本格化もおよそそのくらいではないのかな?
むこうの記録でいう「武」。こっちの記録でいう「雄略」。
おおよそこのあたりで、記紀のいう「宗教革命」みたいなのがなされたのでは
ないのかなあ、と思う。
書紀の崇神垂仁あたりの宗教政策の記述は、
5世紀あたりのそれの伝承化だと思う
763 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 07:38:52
伝仁徳陵の造営期間は、延べ680万人の人が、一日当たりピーク時2,000人が働いたと仮定し、その工事期間は15年8ヶ月以上かかった計算となるらしい。(大林組プロジェクトチーム「王陵」『季刊大林・第20号』1985年より)。
伝仁徳の時代の5世紀ともなれば畿内にも十分に鉄器が入ってきているので、木製の鍬や鋤の頭部には「鉄」を付けて補強したものとして使用できたはずです。
しかし、3世紀中・後期の纒向には、潤沢には鉄器は入っていない。
単なる木製の鍬や鋤で膨大な造営がなされたため、両者の規模は異なるものの、同程度以上に時間を要したとも考えられます。
となれば、箸墓古墳の造営開始時期は、完成前どの程度から始められたと推測できるのでしょうか。竣工年を3世紀後期としても少なくとも中期以前には着工が必要だったのではないでしょうか。
そして、5世紀の陵のように、王陵自体が権威の象徴として、生存時から造営を開始するに対し、3世紀中・後期の初期大王陵の造営に関しても同じく生存時から工事開始されていたのでしょうか。
この2点(工事道具の未発達・生存時からの工事開始)の考え方次第では、半世紀程度は簡単に動いてしまう。後期が中期に、中期が前期にと・・・
この私の疑問にどなた様でも結構です。わかりやすく解説していただければ幸いです。
764 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 08:31:14
倭人伝の記述では、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、殉?葬者奴婢百餘人」
となっている。そのあと、男王が立ち、國中不服で相誅殺。その後、台与が
王になる。台与は、張政等の帰還に二十人の供を付けて送る。
この記述では、卑弥呼が死んでから冢を作っていると解釈できる。
しかも、そんなに長期間かかった様子は見られない。
となると…。
765 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 08:47:39
考えてみれば、張政などの郡使は卑弥呼の葬式を見ているのだろうか。
見ていれば、葬式の様子がちょっとくらい書いてあってもよさそうなものだが。
>>262 うんなことが〜ない。わざわざ、伝承化する意味が無い。
普通に3世紀に三輪山の祭祀は始まっていたし、考古学的な裏づけもある。
つーか、それ以前から祭祀は存在している。
崇神天皇が天照(アマテル)を宮中の外に移したのは
疫病の原因は天照(=火明命。大和の真の初代皇帝)の祟りだと考えたからだろう。
崇神天皇の祖父や父あたりが、火明命(神武天皇の大叔父)の直系を
祭祀の長の座から引きずりおろしたからでしょう。
>>763 最近の説だと1年以内に出来たというのが有力になってきたんじゃなかったのか?
768 :
サガミハラハラ:2008/01/17(木) 10:10:30
仁徳陵は自然の丘を利用してつくったという説があります。
卑弥呼の墓(桜ケ岡)は風化堆積岩の自然の円形の丘(径191mと154m高さ16m)
を利用しています。もともとの円丘を利用してつくったのでわりかし短期間にできたでしょう。
>>763 ピーク時1日2000人ではなく、2万人とすると1年半。5万人とすると数ヶ月。
仁徳稜でも1年前後という可能性がありますね。
箸墓は、大坂山から手渡しで石を運ぶほどの人数(数万人)が使われたと
すると3、4か月くらいか。
770 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 15:23:17
>>769 2万や5万もの動員をかけることが可能だったかと
それだけの人数が集められたのなら、居住遺跡のひとつも出ねばならないのだが。
またこの時期の巨大墳墓は、あちこちで同時築造されているので
各地にそれだけの動員がかかっていたことになるけど
さすがにそれは考えにくいんじゃないか。
むしろ2千人くらいで十数年、その上で各地にそういった墳墓建設が行われていたと考えたほうがいい。
771 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 15:31:10
>>768 無いよ、そんな説。
初期のマキムク型は微高地を基礎に、次の柳本などは高地利用だとは判明しているが
その後の200m級はほとんどが平地からの築造。
大仙はさらに、河川敷や低湿地などの土台のゆるいところを干拓しており
大和川の流れを変える河川工事としての側面も持っている。
だから何度も崩落している。
明治期の後円部崩落など、聞いたことあるだろ。
>>770 労役税として、万単位の動員は可能。動員できるがしないという理屈はない。
千の動員ができて万の動員ができないという理屈はない。
労力を細分化させて、ちまちまやるより一気に作るほうが合理的。
住居施設としては、纒向の掘っ立て建物跡が存在する。あれは家族生活という
所帯じみたものではなく、労働者の詰め込み施設と見る方が自然。
その時代の寿命や王の在位期間(平均10年ほど)から考えれば、
10年もかけるはずはない。
773 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 17:42:50
>>772 >纒向の掘っ立て建物跡
そんなもの出土してないぞ。
高床式の建築物群を指しているのか?
もしそれが労働者用宿舎なら、えらく豪華なところに住んでいたんだな。
あれは豪華な建物なのか?
在位10年未満の王も多いのに10年以上かけて陵墓を作るかな。
775 :
霰黒齊:2008/01/17(木) 19:00:09
大仙古墳はたしか西向きだよなぁ…
西には何があったっけ?
古墳の向きには重要な要素がある。
葬送儀礼に壇上での儀礼。
征服地を野望するなどなど。
これから考えたら大仙古墳の被葬者はわかるだろ!
776 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 20:43:56
古墳の盛土って、運河とかの掘削で出た廃土を使った。
と、言うかそういった廃土置き場をそのまま古墳に流用したと言うことを
言っている人がいます。
778 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:10:49
>>77 北條芳隆だね。
前方後円墳が定型化したあとに新設された集落では
都市開発と墳墓建造が一体化した事業となっているというもの。
特に新規開拓された集落の多い関東にその傾向が強い。
九州、中国、畿内、中部などの既存集落の再開発にしても
その傾向が見られるらしいので、そうとういい線いってる説じゃないか?
779 :
霰黒齊:2008/01/18(金) 09:50:07
鬼門に向いてる
780 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 18:15:32
おしらせ (明日です!)
【天理参考館 第179回 トーク・サンコーカン】
ヤマト王権を語るシリーズ 3(全5回) 『黒塚古墳と三角縁神獣鏡』
講師/藤原郁代 (当館学芸員)
日時/2008年1月19日(土) 午後1時30分から
場所/天理大学附属天理参考館 研修室(地下1階)(奈良県天理市守目堂町250)
受講料/入館料のみで受講できます(友の会 300円、一般 400円)
定員/100名
http://www.sankokan.jp/event/talk/179.html 内容は――
奈良県天理市の黒塚古墳は、33枚もの三角縁神獣鏡が出土したことで有名です。
そして、奈良県では黒塚古墳以外にも50枚を超える三角縁神獣鏡が知られています。
天理参考館ではそのうちの3枚を所蔵しています。
奈良県の古墳と三角縁神獣鏡、そのほかの副葬品を手がかりに、ヤマト王権について考えてみましょう。
予告:
第180回 2月23日(土) 『東大寺山古墳と鉄刀』 山内紀嗣
第181回 3月15日(土) 『大和古墳群と中世山城――古墳を壊した人々』 太田三喜
781 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 23:38:22
782 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 00:27:59
後世の人が勝手に前後きめちゃったwww
783 :
霰黒齊:2008/01/19(土) 01:03:39
わかってるよん!
しかし、前と後は彼我で逆転するんだ!
だから前円後方ともいえるかな?
>>766 >3世紀に三輪山の祭祀は始まっていたし、考古学的な裏づけもある。
つーか、それ以前から祭祀は存在している。
考古学の裏付けって、あるんでしょうか?
少なくとも遺物遺構等では今のところ確認されていないような
気がするんですが。
>>772-774 勉強不足でよくわからんのですが、
後世の、たとえば平安京造営などで駆り集められた人夫たちは
竪穴住居に居住していたんでしょうか?
それとも掘立小屋?
上のほうの議論がもうすこよくわからんのだが
結局いまのところ2-3世紀の土器編年がいまいち確定してないということなのか
出土状況の解釈にブレがあるということなのか。
787 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 07:19:13
>>78 竪穴式住居は関東・中部地方以北では平安時代まで続いていたらしい。
東海地方では一部で残るも、近畿にあっては飛鳥時代からは掘立柱建物に
移行していった。
>>786 >結局いまのところ2-3世紀の土器編年がいまいち確定してないということなのか
だいたいは「確定」しているけど、区分の仕方は人それぞれだし、
編年の確定と実年代への比定は別問題なので、
「2〜3世紀の」が確定しているわけでもないかな?
>出土状況の解釈にブレがあるということなのか。
「解釈」以前の問題。
他人の文章を適当に切り取って、全く逆の解説を付け、
さも、その人の意見であるかのように言い張った人が一人いただけ。
寺澤が布留と判断したか庄内と判断したかなんて御当人に聞けば
すぐ判ることw
土器の区分で、寺沢は庄内と布留の区分が不分明のものを布留0として、
同様に弥生と庄内の間に庄内0を設定した。
その後、庄内0、布留0の「0式」を取り入れる学者も出てきたが、今は、
布留0を、庄内3または庄内4とする学者の方が多いようである。
布留0は呼称のとおり布留の方に比重がある見方であったが、年代遡上が
本格化した以降は庄内のなかに取り込まれたともいえる。
古墳出土の土器のうち、周濠、墳丘盛土、墳丘上などから時期の異なるもの
が出土したときにどれを重視するかでも違いが出る。
年代遡上の先端を行く人たちは一番古いものを重視し、及び腰の人は同じ層の
なかで新しいものが指標になるという原則を捨てきれない。
>>789 >布留0を、庄内3または庄内4とする学者の方が多いようである。
ソースキボン。ていうか、全部コピペかな。
>>790 ソースと言っても、いくつかの文献からの感想だから特定できない。
季刊考古学、普及版『土師器と須恵器」では、p19の表に4通りの区分があり、
布留0を設定した時点では、布留式を古く見る方向性が窺える。
しかし、今では年代遡上に逆行する古い説である。
庄内式は各地の弥生土器の影響が強いため、関川は庄内と布留0をY様式
と分類している。関川は、布留式の始まりを4世紀中葉とする(p21)。
須恵器の開始が400年頃になるとしても、布留が450年頃まで続いていると
いうのが関川の考えで、これは箸墓周濠の布留1の層の馬具は、乗馬が
始まった400年頃とする考えに整合する。
しかし、最近では須恵器開始頃に布留が終わるようなニュアンスで布留全体を
古く見る方向性がある。一方で庄内開始200年頃という「前提」に変わっている。
これは、『古墳の始まりを考える』での森岡の部分や『大和の古墳U』の米田の
部分などを参照。
>>791 やっぱりまたお前か。
ちなみに、季刊考古学、普及版『土師器と須恵器」は、土師器が1988年、
須恵器が1993年の記事の再録な。合本出版されたのは2001年なんだけどねぇ。
>今は、
とあるが、そういうことだから。
793 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 01:28:46
この安本な人はわざとやってるのかねえ。。。
それとも思い込みが激しすぎて、都合のいい解釈を勝手にしてしまうのだろうか?
根っからの嘘つきか、天然さんかどっちなんだろ?
794 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 01:43:04
だいたい、年輪年代法が畿内W期だったかX期だったかを遡らせる理由の一つに
なっているわけだから、考古学者としても土器の絶対年代にそんなに自信がある
わけじゃないと思う。
確固たる年代観を考古学者が持っているとすれば、年輪年代法が権威を持つのは、
考古学者としてはけっこう屈辱だと思うのだが。
絶対的な自信があるわけでないから、それぞれの考えで年代観を出す。
それにはいろんな幅がある。素人は好みのものを信じる。
というところじゃなかろうか。
>>793 反論は論理的にお願いする。
負け犬の遠吠えはそれからでも良かろう。
>>794 年輪年代はそれ自体の信頼性がいまだに確立していないのが難点。
これをそのまま根拠にする学者はほとんど居ないし、最近は無視される
傾向が強いように感じる。
796 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 03:17:16
てか絶対年代割り出す年輪年代法が相対年代より優先されるのは普通じゃねえの?
>>795 マジッすか?
(樹木の伐採時期とかの問題は信頼性とは別っすよね?)
じゃあ今絶対年代割り出す方法として何が主流なんすか?
>>796 >絶対年代割り出す方法
1、貨泉(いつ日本に来て、いつ埋められたのかは不明なのが難点)
2、須恵器(400年頃から始まることでほぼ異論ない)
1と2の間に邪馬台国時代と古墳時代初期が来ることは、争いない(当たり前w)。
逆に言うと確実性のある(異論のない)絶対年代はこの間には存在しない。
それ以外の方法による絶対年代は、解釈の幅と争いが大きくなる。
1、鏡の編年(三角縁等の紀年を後世とすると意味がなくなる)
2、天皇稜と対応する天皇の在位時期
(初期天皇の実在性、古墳の被葬者、在位時期ともに争いが大きい)
3、甕棺墓の編年(九州のみ。終末期の年代ははっきりしない)
4、朝鮮資料との関係(広開土王碑の頃からしか確実性がない)
5、土器編年(絶対年代の根拠にはならない)
>>795 「負け犬」
キミさあ、
>>736以降のやりとりで完全論破されたひとでしょ。
指摘は全てスルーしてりゃ、ついたウソをつきとおせたと思ってるの?
まっとうなレスが欲しけりゃ、まずは己の思考方法から改めなさいな。
>>798 反論は論理的にお願いする。
負け犬が勝利宣言とはみっともない。
>>794 >確固たる年代観を考古学者が持っているとすれば、年輪年代法が権威を持つのは、
>考古学者としてはけっこう屈辱だと思うのだが
そんなこたないだろ。実年代が分かれば分かるに越したことが無い。
逆に現時点で「確固」たる年代観を持ってる考古学者の方が頭がおかしいだろ。
まともな考古学者は土器編年で語り、実年代で言う時は慎重に幅を持たせるように
している。
確固たる年代観を持っている考古学者=安本
>>797 >2、須恵器(400年頃から始まることでほぼ異論ない)
これ自体、年輪年代+土器編年で割り出してるんだが。
「ほぼ異論がない」で片付けるのもどうかな。
>>802 年輪年代?そんな学者もいるのか?ソースキボン。
400年頃としたのは、まさに「頃」という意味。
TK47から逆算するやり方にしても、誤差が生じる。
400年以降の天皇の陵墓の埴輪、土器との比較でも誤差は生じる。
しかし、だいたい400年頃ということでまとまっている。
350とか450とかの異論があると言うなら具体的に。
>>803 >TK47から逆算するやり方にしても、誤差が生じる。
>400年以降の天皇の陵墓の埴輪、土器との比較でも誤差は生じる。
これはまったくそのとおり。なのになんで、
>しかし、だいたい400年頃ということでまとまっている。
の一文で片付けるかなあ。その根拠は何なのよ?
ちなみに、七三型式須恵器と共伴した木製品が、412年に伐採されたヒノキ材
で作られてるって、年輪年代で測定されてたよ。
のように、年輪年代を頭から否定せず、も少し信用してもいいんでは?と思うのだがね。
君の大嫌いな安本は年輪年代それ自体は信用しているようだが、
年輪年代は検証が不十分という基本的な問題がある。
奈良以降は正しいであろうと思うが、それ以前は半信半疑。
半分は信用しているが、半分は藤村のような事態を危惧している。
仮に年輪年代が正しいとしても、伐採から使用までの期間の問題が残る。
この期間が100年前後のものが後世には多く存在する故、現時点では
上限を決めるときに参考にする程度のものと見るのが穏当。
>>805 では君は、
>しかし、だいたい400年頃ということでまとまっている。
って結論をどうやって出したの?
土器編年も信用できないとしてるし、いったいどうやって思いついたのやら。
須恵器が400年頃に始まる、ってのは、君の嫌いな
土器編年とか年輪で妥当とされたんだよ。
>>805 >半分は藤村のような事態を危惧している
データ出してんだから、藤村扱いは流石に失礼だろ。
間違いを指摘するならともかく。
808 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 04:47:16
>>797 >>絶対年代割り出す方法
>1、貨泉(いつ日本に来て、いつ埋められたのかは不明なのが難点)
>2、須恵器(400年頃から始まることでほぼ異論ない)
貨泉は結構やけど「須恵器」にはワロタww
古墳時代の須恵器に紀年銘あったか?
まさか史書に「何年に初めて須恵器を焼きました」なんて出てるわけでもなし・・・
馮素弗墓や武寧王陵を知らん人みたいやねww
809 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 05:38:38
>>800 しかし、庄内期が西暦200年頃に始まったというのが、畿内説の唯一の根拠に
なっているんじゃないのかねえ。つまり、纒向は卑弥呼の時代に重なると
いうわけで。
それとも、三角縁神獣鏡魏鏡説はまだ生きているんだろうか。
庄内期に関連してだろうが、吉野ヶ里遺跡についても意見が分かれるらしい。
吉野ヶ里は卑弥呼の時代の前に衰退していたとする説と、吉野ヶ里は
卑弥呼の時代に重なるという説と。
寺澤編年を支持する人は、衰退説となるわけだろうが、吉野ヶ里発掘責任者の
高島忠平さんは重なるという考えらしい。
もし、吉野ヶ里遺跡が卑弥呼の時代の前に衰退していたとすると、
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」という倭人伝の
記述が宙に浮いてしまう様な気がする。もちろん、吉野ヶ里が邪馬台国と
言うわけではないが、はたして郡使は、倭国でいったい何を見たのかと。
810 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 07:26:17
>>809 「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」と解釈できるクニは当時
倭国大乱時にはどこにでもあったのだろう。
伊都国まではリアルな情景が記載されているが、上の表現はリアルさに
欠ける。少なくとも陳寿は見ていない。
>>809 吉野ヶ里の終焉時期は、難しいね。
1、九州のほかの環濠集落と同時期に終焉したのか
2、青銅器の編年での位置づけ
北墳丘墓で吉野ヶ里の終焉時期を決めるという理屈が確実なわけでもないが、
北墳丘墓の青銅器からは、他の環濠集落より早く終焉した可能性がありそう。
しかし、他の環濠集落より特に早く環濠を埋める状況は想定しにくい。
吉野ヶ里が先行して終焉したとすると、吉野ヶ里で周濠が埋められた時期に
庄内式が出ていることと、他の環濠集落でも終焉前後と見られる時期以降に
庄内式が出ていることと整合しない。
>>811 何を言っているんだ?北墳丘墓の青銅器?
>>809 >庄内期が西暦200年頃に始まったというのが、畿内説の唯一の根拠に
>なっているんじゃないのかねえ。
根本的に勘違いしてるよ。
畿内王権の成立プロセスについては、倭人伝と切り離して、
極めて「学問的に」考察されてるんであって、
邪馬台国がどこか?みたいな議論をしてる訳じゃないんだよ。
だから実年代にも大して拘らない。
三角縁が国産にしろ舶載にしろ、あくまで畿内王権の誕生時期に重要な
役割を与えられ、各地に配布されたもの。という点で重要。
ここでは九州東遷説は死滅しているみたいですね。
ではマキムク王権を立ち上げた勢力とはどこだったのでしょうか?
815 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 00:50:21
>814
最初は吉備だったらしい。
816 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 01:15:08
>>814氏へ
再読してみてほしい、
>>1を。
>>1 >その母体は、参加時期や規模の差はあるが
>北部九州、吉備、出雲、阿波、讃岐、播磨、大和、丹波、東海などのクニであり
>いわば技術、文化、物流の集積地となった纏向が王権化して各地を凌駕したものが
>後の大和朝廷だと考えられています。
>そこには西日本のありとあらゆるクニの技術とモノが集結しています。
>問題はそれだけの勢力を「どこが」主導したかなのです。
>それは北部九州かもしれませんし、吉備や畿内かもしれません。
>そのあたりは過去に散々議論されていますし、各説一長一短があります。
>伊都国主導というのも有力説ですし、また阿讃、東海も一概に否定できません。
>ただ、どこかの任意のひとつの勢力が、単独の力で征服や建国を成したとは考えにくいですね」
ここで重要と思われるのは、わざわざ老教授氏が、「参加時期や規模の差はあるが」と断ってる点。
だから纏向遺跡は、俺には
庄内前期、 庄内後期、 布留0期、 布留1期、 布留2期
のそれぞれの段階で、その時どきの主導勢力(の組合せ)が交替してたかも、という気がする。
それが具体邸にどう変化したかは、纏向遺跡を含め、もう少し桜井・天理市内の発掘調査を
進めないと見えてこない感じ。
まあ直感的だが、河内勢力が庄内前期からのベースで、意外と東海勢も古くから関与。
庄内後期で阿波、播磨あたりの東部瀬戸内勢がじわっと力をつけ、
布留0では吉備勢が最大の力(といっても求心力?)を発揮・・・そんな感じだが。
ただな、北部九州、出雲、丹波の位置づけ・・・これ相当難しそう。
>>815氏へ
吉備は少し遅れるんじゃないか。
>>816 私は播磨・阿讃の東瀬戸内圏と連携する河内と
東海方面の勢力が東西から大和に進出したのが契機だと思いますね。
次いで吉備>北部九州と交易路沿いに西方拡大。
南九州、出雲、丹波、近江、三遠以東はかなり遅れる。
>>816氏へ
個人的な見通しでよいので
北部九州、出雲、丹波の位置づけについても
貴方なりの意見がもらえるとうれしい
819 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 02:18:28
>>817氏へ。
うん。
この方面の研究はまだまだこれからだろうから、今はいろんな可能性を考えてみるといい。
お互い頑張りましょうや(笑)。
見通し的に言うと、各地における外来系土器の研究が基本として重要だが
今後は玉製品のもっと詳細な分析が威力を発揮してくると思うね。
玉原料の産地同定とか、加工地とか。
出雲、丹後、それに越の動向が、各地出土の玉の分析から分かってくると面白い。
>>815氏へ
さっき俺、「吉備は少し遅れる」て言ったが、纏向だけを見れば、なんだ。
誤解しないでくれ。
河内の久宝寺、中田あたりの遺跡、今の八尾市だけど、ここは庄内式土器の中枢と思えるし、
いろいろ吉備との関連を匂わせるものが出てる。
庄内式土器自身が吉備の技術的影響を受けて河内で発生したようだし、河内〜吉備の関係は深いし、相当古い。
纏向ヤマト政権に吉備が直に関わる前、ということなら、吉備はかなり古くから河内と関係してる。
ただ吉備はね、なんか「播磨越え」してるみたいな印象があるんだよな。
>>817氏は「播磨越え」って、聞いたことあるだろ。「播磨を飛び越えて」の意味。
こいつも難しい問題だよ。
このスレは考古学に比重が置かれているみたいなので以下のカキコは無視してくだされw
>>816 >河内勢力が庄内前期からのベース
そう言えば神話で神武より先にヤマト入りしていた天孫族ニギハヤヒが
高天原より最初に下ったのが河内だっけ?
821 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 03:04:14
>>818氏へ。
>北部九州、出雲、丹波の位置づけについても
難しいから意見がまとまらないんだ(苦笑)。
で、またまた今後の見通しだけ言うが、
北部九州というか、九州は弥生に貝製の腕輪があるだろ。
おそらく宗教的司祭を行う首長が身につけたものだが、これが古墳時代に向かい石製・碧玉製と
変化していく。金属製もある。
ここいらの変遷がもすこし解明できないかと思うね。
見通しとして丹後が案外この方面で重要ではないか。
あ、それと丹後は鉄器だな。
出雲ね、これ最大の難物(苦笑)。
まずは「葺き石」がキーワードかな。
葺き石の「葺き方」の型式学的研究が必要だろう。
四隅突出墓とヤマトの古墳の葺き石を細かく見ていくとかね。
それと前方後「方」墳の研究がだいぶ進んで、その前段階の前方後方形墳丘墓もわかってきた。
近江や東海に注目だが、これは相当古くまた広範囲にあって、大和にも北部九州にも
前方後方墳のめちゃ古いのがある。
ところが時代が下り、本家?の近江東海勢が前方後方墳に飽いて?前方後円墳が主力となっても、
出雲はやけに前方後方墳にこだわっているんだな、いつまでも。
この辺、どう考えたらいいか。
−−−−−−−−−
鏡、これ最重要と言っていい遺物だから、いろんなことが言えるし、北部九州との関わりでは最右翼だ。
ただやはり鏡は難しい。
ちょっと思いつきもあるけど、2ちゃんに鏡を書くと揉めるので、いずれ将来。
ごめん、眠い。
>>821氏へ
眠いのにありがとう。
たくさんのヒントをもらった気がします。
これからもこっちの方向で意見交換の場になればいいのになあ
正直マキムクは、中河内・大和の首長層を仲立ちにした、
東瀬戸内海商国家連合と、東海勢力を中心とした東日本国家連合との
大同団結の都として共同造営されたのではないか?
そうとでも考えないと、庄内開始後に突然全国規模の前方後円墳体制が
生まれる説明がつかない。
日本海側連合と筑紫勢力のマキムク参画は微妙なところ。
少なくとも、越地方の庄内以降の急落は、
マキムク王権誕生により瀬戸内海航路の安全が保たれるようになり、
相対的に日本海航路の立場が弱まったと考えるより他はないかと。
824 :
霰黒齊:2008/01/24(木) 10:06:10
それなら、何故ヤマト三輪が山城から日本海への交易ルートを維持していたんだ?
ヤマト葛城が河内から瀬戸内ルートを使っていたのは何故なんだ?
その説ならマキムク成立後に日本海への交易ルートが維持されたわけは?
825 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 04:45:37
老教授氏って誰
827 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 02:27:27
>>825 5年くらい前の、日本史板がまだまともだったころのコテの人。
現役の考古学者らしく、専門用語を廃した判りやすい解説で人気があった。
そのころはまだ九州説にもまともな人がいて、考古学から文献にいたるまできちんとした議論がされていた。
老教授氏が現代の邪馬台国論を例示したことによって
2chの邪馬台国論争は一旦沈静化した。
その後は自作自演に終始する一部基地外が粘着し続けることもあって
まともな論客は、IDの出ない日本史板から相次いで去っていった。
老教授氏もまた再登場することなく今に至る。
古き良き時代の名コテハンだったと今にしてみれば思う。
自賛乙
>>考古学から文献にいたるまできちんとした議論がされていた
そういう時代をまた再興しようじゃないの。このスレで。
830 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 13:09:36
考古に詳しい人たちは古代史板に引っ越してしまったからな・・・
ここはIDが出ないのが致命傷だよ
831 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 10:50:41
832 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 18:35:27
このスレ、ちょっと盛り上がってないね...
でも、邪馬台国関係は凄く盛り上がっている。
箸墓が邪馬台国でほぼ確定してきているから
今後、盛り上がることに期待。
833 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 19:39:33
なんか邪馬台国畿内説をいっしょ懸命持ち上げてるひとがいるね。
834 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 22:29:33
>>833 畿内説と九州説というよりも
殆ど畿内説が定説だろう?
九州説を一所懸命持ち上げてる人もいるし、どっちもどっちだろ
ふと思ったんだが、棚上げにするのも持ち上げるの一種だよな。
そうなのか?知らなかった
838 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 01:08:53
>>832 邪馬台国論争持ちこむと”アレ”な人が一杯流れ込んでくるから
みんな敬遠してんじゃね?w
てか纏向の重要性は単に邪馬台国論争の範疇に収まらないと言うか…
839 :
ローガン:2008/02/06(水) 01:16:24
>>838 同意します。
アレな人の一人ではありますが・・・
敢えて聞くが、アレな人とは何ぞや?
ナニな人でしょ
842 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 04:33:09
邪馬台国の場所なんかよりはるかに、重要な謎の鍵となる遺跡だからな。
果たして纏向の誕生が弥生の終わりを告げて、古墳時代の開始となるのか。
当時の日本列島には広域王権が誕生していたのか、それとも各地方が広域貿易を始めただけなのか。
纏向に次々と集った勢力は、後の大和朝廷の直接の祖となるのか、それともまだ紆余曲折があるのか。
前方後円墳や銅鏡は、本当に勢力拡大の証だったのか。
一気に交易が進み、各地で集落が再編成されるのは統一の証か、それとも独立性の発揮なのか。
このスレでも弥生終末期や古墳前期の定義をどう捉えるかすら一定していないくらいだし
話し合うのは難しいだろうが、邪馬台国の場所や卑弥呼が文献上誰に当てはまるのかなど些細なことに思える段階に到達したことは間違いない。
843 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 11:54:35
古代史の研究って今どれくらい進んでるの?
>>843 記紀以前のことは、日本側の史料に
リアルタイムでの文献が無いわけだから
どうしても限界があったけど
もし、卑弥呼=モモソヒメの線が強くなったら
はじめて、中国のリアルタイムの文献(倭人伝など)と
日本側のリアルタイムではないがより詳しい文献(記紀など)との間に
一つの整合性が出来るんだよ。
考古学者は責任のある学会などでは、そういう断定はしないのだが
彼らが箸墓を調査しだしたのは
明らかに記紀の記述を元にしているのは確か。
>>844 なるほど。
んでもし整合性があったら記紀の記述もあながち嘘とも言い切れなくなるわけだ
記紀は、「あの時点での」伝承や神話を切り取った真空パックみたいなもの。
伝承や神話は、時代とともに変質していくものという大前提が必要。
さらには当時の権力者に都合が良いように書かれている。
そのあたりを斟酌して考えないとね。
ツタンカーメンの名を後生の王が抹消したようなものか
848 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 00:46:42
日本書紀の崇神のトコに崇神が”海辺の民が船を持っていないから造らせた”
とかなんとか言う記述があるけど
あれって纏向で瀬戸内海・大和川を使っての舟運が盛んであった事の反映かな?
そもそも神代で神様が人間に船を与えるならともかく
崇神の治世で船って言うのも大概変な話。
おいおい、神武は瀬戸内海を泳いできたのかとw
別に変ではないだろう
ごく限られた時期の一個人、一政権が古代日本に船というものを広めたというのが
事実だというのなら無茶すぎるが
史実ではなく伝説としての記述だからねえ。
だったら技術を持たない庶民に
技術を持つ支配者側が
技術を流出してやったというような話だろうと
何も問題はないわけだが
850 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 02:05:14
>>848 >神武は瀬戸内海を泳いできたのかとw
記紀は確かに初期ヤマト王権の解明に繋がる話が多く含まれているであろうことは否定しないが、
本当に神武天皇に相当する人物が存在したのかに関しては疑わしい。神武天皇と崇神天皇の類似性は指摘されてるし。
年代に関しては異意見もあろうが、おそらく3世紀末の時期に突如として纏向という巨大都市が誕生し、
同時に各地の墓制を集約した巨大前方後円墳である箸墓古墳が出現する。この墓制が急速に南東北から九州までを席捲する。
いずれにしても崇神天皇の時代というのが、初期ヤマト王権を理解するポイントであることは間違いなかろう。
箸墓古墳の被葬者が伝承どおりモモソヒメであり、なおかつ件の卑弥呼である可能性が高くなったとしても、
崇神政権の誕生に関する謎は多く残る。
崇神天皇すなわちミマキイリヒコ・イニヱという人物の出自。あるいは吉備との関係。
記紀ではモモソヒメは吉備に縁の人物であり、箸墓古墳の特殊器台もまた吉備との関係を示唆している。
また息子である垂仁天皇イクメイリヒコ・イサチの妻ヒバスヒメの背後に見える丹波系の存在。
丹波もまた四道将軍の派遣先である。また纏向遺跡において搬入土器の過半数を東海系が占めているにもかかわらず、
東海道を平定した建沼河別に関する記述はことのほか少ない。
この様に記紀の記述と纏向遺跡の考古遺物とは、ある程度の一致を見せているのは確かである。
しかしながらすべて記紀通りであるという記紀原理主義をとるわけではない。
欠史八代に関する断片的記述では、崇神政権の誕生に関する情報があまり得られないからだ。
もはや邪馬台国の場所などどうでもいい。なぜ崇神天皇の時期に彼を中心とした政権が奈良盆地に出現したか?
四隅突出型墳丘墓を形成した出雲勢力との関係は?それ以前の政権なのか?謎は尽きない。
>>850 まあ、神武と崇神が同一人物というのは、かなりの暴論だけどな。
あと、よく記紀には、あらゆるものの起源説が書かれているが
たとえば、相撲の最初は垂仁天皇の時と書いてあるが
裸の力比べぐらいは、それ以前からあるだろうし、
漢字が入ってきた時代だって、おそらく、記紀に書かれている応神天皇
よりも前の時代からでしょう?
だって、57年の奴國の時代から中国と外交しているわけだし。
また、倭人伝に、戸数が登場するということは
漢数字の概念も存在していた可能性がある。
漢字は、右肩上がりに広まったと単純には言えないだろうね。
57年の奴国の朝貢の前後には中国との交渉のために漢字を読める人が
少なくなかった可能性もある。西新町遺跡の土器の2%は朝鮮系であり、
この人々を通して漢字を学んだ可能性も考えられる。
台与以降は一時期、漢字という外国文字がすたれていた時期が
あるかもしれない。
>>852 直接、中国人から漢字を知ったんだろう?
つーか、一般庶民は漢字を知らなかったと思われ。
外交とかの時ぐらい漢字が必要だったわけだから。
そんな土器を使うそうでは、日本だろうが、中国だろうが、朝鮮だろうが
文字に疎い階層だから、関係ないだろう。
あと、記紀の応神天皇の段では、あれは千字文が入ってきたとあるんだろう?
でも、これは6世紀に中国を誕生したものだから、実際はおかしい。
応神天皇は4〜5世紀ぐらいの時代だから。
おそらく、応神天皇の時代に入ってきた漢字というのは
それ以前にあった漢文と大きく形式が違っていたので
そういう意味で「千字文」というふうに記紀の著者が誤解したんだろう?
つまり、応神天皇以前も漢字は知られていたはず。
で、応神天皇以降というのは活発的な対中交渉が復活した時代だ。
台与の時代から150年くらい経過して、漢文の形式も変わっていただろうから
対中交渉の上でも、古い漢字の形式だと、支障をきたす事態だったと思われ。
だから、楽浪郡の官僚の子孫だった人物を雇ったんだろう?
854 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 09:12:30
最初の「千字文」は魏代に出来たが、現在知られているのは王義之が書写した物を基にして、散逸した物を書き足したりして再編集した物。
南朝・梁(502-549年)の武帝が、
文官の周興嗣(470-521年)に文章を作らせたものである。
周興嗣は,皇帝の命を受けて一夜で千字文を考え,
皇帝に進上したときには白髪になっていたという伝説がある。
文字は、能書家として有名な東晋の王羲之の字を、
殷鉄石に命じて、模写して集成し、書道の手本にしたと伝えられる。
王羲之の字ではなく、魏の鍾繇の文字を使ったという異説もあるが、
有力ではない。
発音からみると紀元前から使用していた可能性のほうが高そうだが・・
証拠がないというだけで可能性は否定できない。
>>856 世界の常識では、文字の書いた遺物が出てきた時代から
一応、歴史時代の始まりだとされているんだけど、
そういうふうに考えたら、奴國の金印が出てきたんだから
遅くとも、その時代(西暦1世紀頃)から文字の時代が始まったことになっている。
858 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 14:47:48
>>850 >3世紀末の時期
これは2世紀末のタイプミスか?
年代に関しての異論とかいう問題じゃなく、額面どおりとれば卑弥呼は4世紀の人ということになり
倭人伝の年号も間違いだと主張していることになるが。
異論、反論以前に単なるミスだろうと解釈して読んだがそれでいい?
859 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 15:02:35
吉野ヶ里から紀元前1世紀の有漢字鏡が出土している。
纏向遺跡は邪馬台国に関係する可能性があるから
まあ、この日本史板にスレがたつのは分かるが
纏向遺跡の話題に直接関係するのは
考古学のほうだと思うんだよね。
しかし、考古学板の纏向遺跡スレのほうは殆ど盛り上がっていない。
>>859 吉野ヶ里の有漢字鏡って、正式名称は何と言うですか?
862 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/02/07(木) 16:20:41
>>861 正式名称はそれがし考古専門等でないので知らんが、前漢時代の直径
7.4cmの連弧文鏡(内行花文鏡)というんだそうだ。銘文は
「久不相見 長母相忘」
吉野ヶ里の甕棺墓から出土の中国製銅鏡。
863 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/07(木) 19:07:47
とうとうこのスレも息を吹き返したか・・。
>>1 論は「夢でもみたんかい」としか思えないけどね。
纏向遺跡って、九州説論者から
そうとう嫌われているな...
865 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 20:04:47
てか、池上曽根遺跡で見つかったヒノキの柱みたいなのが見つからないかな?
そうすりゃ、九州説論者の断末魔が聞けそうだがw
ところで今後の発掘調査で搬入土器の地域毎の割合って変わる可能性ってあるの?
九州説論者は半分願望だろww
九州にも京都や奈良に匹敵する観光名所があって欲しいっていう
まぁ皇室と深い関わりがあるのは認めるがな
867 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/07(木) 21:08:04
>>866 まぁ皇室と深い関わりがあるのは認める
へぇ〜今時の畿内説としては珍しく謙虚ですな。
でも残念でした。現在において九州説の総論は凡そ天皇家と邪馬台国とは
無関係であるとの結論に達している。
868 :
ローガン:2008/02/07(木) 21:08:29
>>865 1980年の桜井市教育委員会によると、
搬入土器の内訳は、
東海49% 北陸山陰17% 河内10% 吉備7% 関東5% 近江5% 瀬戸内3% 播磨3% 紀伊1%
2002年の橿考研によると、箸墓付近の土器の内訳は
在地系59% 播磨30% 讃岐15% 吉備13% 東海5%
だという事です。
既出でしたらごめんなさい。
869 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:16:14
>>864 嫌われてないよ。神武が東遷してきた頃に畿内にあった国の遺跡であって、
べつに「魏志倭人伝にある邪馬台国は北部九州にあった。」という事実を
否定する材料にはまったくならないから。
870 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:20:34
>>868 箸墓の頃には東海系激減してるんですね。
それが一時的なものか、急激に減ったのかどうかは分からないけど。
>>867 いや、でも九州は何かあると俺はにらんでるよ。一応俺は畿内派だが
872 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:47:27
>>869 東遷や東征が考えられなくなったのは、纏向の調査が進んだせいなのだが。
>>870 それは箸中山の周濠調査の結果だから、全体と比較は出来ない。
ただ、まだ上手くデータとしてまとまっては居ないのだが、布留0や1あたりから在地系が増え
反対に外来系(搬入ではない)は現地生産の外来系が多数を占めるようになる傾向がある。
>>871 何かあるというか、長きに渡って日本列島最先端の地だったわけだから
逆にもっと色々出てくれないと困るよな。
>>872 搬入か外来の現地生産かの判定は難しいのでは?
胎土とかで具体的に分かってるの?
874 :
古代史トーシロー:2008/02/07(木) 21:54:32
吉備って人達の故地は岡山付近じゃないの。
この人達は岡山から巻向へ東遷してきたんじゃないの?
875 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 21:56:59
>>872での
>>870へのレスの補足。
これは労働者や住民の出身地割合が変化したというより
単に新型のより使い勝手のいい土器に移行しただけと見るべきだろう。
それまでの各地の弥生土器に比べたら、庄内式などは格段に性能がいいのだから。
>>871 マキムクに九州系土器の出土が殆どないこと。
崇神紀に書かれる四道将軍の記述に筑紫が含まれていないこと。
このふたつは符合しているわけで。
少なくとも、マキムクに北部九州は初めからは参加しておらず、
結果的に発言力を失ったと考えるべきかと。
877 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 22:03:36
まあ邪馬台国がどっちだったかは置いといても
マキムクと北部九州の関係ってどうだったんだろう?
半島からの鉄の入手には玄海灘・関門海峡は通らなきゃならないわけで
それができなければマキムクの存在意義すら危うい?
ぶっちゃけ邪馬台国の位置なんてほんとはどうでもいいわけで。
>>875 マキムクの搬入土器は、後代の御食国との関連で語るべきだよ。
マキムクに集められた搬入土器は、その中に各地の物産が詰め込まれていたんだろうと。
すなわち、マキムクの大王に海水産物を中心とした穀類以外の副食物を貢いだもの。
塩やアワビ、海草などの海産物は、神事の際などに貢がれる神饌として古くから重要視されていたんだよね。
本来は各地の神に捧げられていた筈の贄を、大和の大王が食するという形で、
各地を支配しているという儀式が執り行われた。
>>877 それまでの倭王だった伊都国に代わる存在として、マキムク王が台頭したんだろうと
私は思います。
ヒラバルの後継は続きませんし、奴国なんかは積極的にマキムク王に接近したんじゃないかと。
>>868 >既出でしたらごめんなさい。
いやいや、別々の報告を一つのレスに収めて言ってくれたから、有難い。
>>870 箸墓の頃には東海系激減してるんですね。
このような感想が出てきただけでもローガン氏のレス
>>868は意義があったというものだ。
ただ、纏向遺跡は広いので、土器パーセンテージの違いを時期差と捉え得るか、
それとも纏向遺跡内において外来系土器が出土場所による偏在を見せているのか、
いま少し詰めて考えてみたいところだ。
纏向の最初の本格的な発掘は太田地区の小学校敷地の調査だったと記憶しておるが、
「ト」形に分岐した人工水路があり、その最初の掘削時期は庄内期でも比較的早い段階だったように思う。
それから
>>868では
>>868 >北陸山陰17% (ほか略)
とあって日本海側を一つにまとめてしまっているが、小生としては
出雲系、丹後系、越系ぐらいには分けて数字を見てみたいと思う。
どうなんだろう、出雲系は多いのであろうか、少ないのであろうか?
自分はとても報告書を丹念に読むこと迄は中々出来かねるが、
土器に興味があって調べておられる方で、もし何がしかの印象をお持ちであらば、是非レスして頂きたいと思う。
>>848 >日本書紀の崇神のトコに崇神が”海辺の民が船を持っていないから造らせた”
>とかなんとか言う記述があるけど
>あれって纏向で瀬戸内海・大和川を使っての舟運が盛んであった事の反映かな?
マキムク王権の成立プロセスのキモだよ、それは。
マキムク王権とは、瀬戸内海交易路の安全性を保障する権威として誕生したもの。
ミマキイリヒコのミマキとは御真木=杉のことで、真っ直ぐな木材である杉は
船材として珍重された。
地中海を席捲した海商国家である古代フェニキアが、王家の紋章にレバノン杉を
採用したように、初期ヤマト王権にとって杉は象徴的な存在だった。
大神神社が「杉の御社」と呼ばれているのも象徴的。
もっと言えば、山処(ヤマト)国が吉野の木材資源を押さえて、瀬戸内海に海上覇権を
築いたのが、ヤマト王権の始まり。
箸墓を調査させてください。
宮内庁が邪魔をするなら正直言って宮内庁なんていらないと思う。
おまえが要らん
>>883 天皇陵の指定や陵墓参考地などが、ヤマトの王権の成立プロセスをブラックボックス化している主因だからね。
箸墓掘ったら、やっぱり山ほど三角縁が出てくるのだろうか?
箸墓って、江戸時代とか拝観料を払って
庶民があそこを自由に入っていたんだろう?
で、あそこで茶会を開いたとかいう逸話もあるらしいじゃないか?
だから、あそこに物凄いものが発見されることはない。
>>867 畿内説は、皇室と九州の関係では
日向三代の話があるから
それは認めるが
邪馬台国自体は大和国だという見解があるわけで。
大和高天原⇒九州南部⇒大和という解釈だろう?
箸墓も掘っちゃいけなかったの!?
>>886 まあ中はスッカラカンの可能性は高いんじゃね?w
でも盗掘者が目も向けない物からでも意外な事実が分かったりする事はあるだろうし
調査は無駄にはならないと思う。
エジプトのツタンカーメンの墓と言えば黄金の仮面他、豪華な黄金製品が有名だけど
ぱっと見地味な鉄製のナイフがエジプトにおける鉄の使用時期を早めたって話もあるしw
890 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:15:41
>>877 >マキムクと北部九州の関係ってどうだったんだろう?
これはぶっちゃけまだ判らない状態。
確かに北部九州系の出土物は極端に少ないのだが、無関係とは言い切れない。
関係を匂わす物も出土しているから。
この辺りを書くとすごく長くなるので、いつか。
>>881 実際、発掘面積が狭すぎるので統計を出したくても出せない状態だね。
昨年の次点で外来式の出土比率は、88年の15%から20%近くにまで上がっているし。
その中でも山陰系は、必ずといって良いほどひとつは見つかるようになってきたし
播磨などの出土比率も増えている。
北陸系は大溝の段階では九州系より少ない。まだ見つかってないだけかもしれないけど。
北陸系が出始めるのは相当後から(布留1以降)なので、これは奈良北部や山背、近江などの地域が参画した後なのかもしれない。
891 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:19:44
>>889 見ただけで古墳と判るようなもののほとんどは
鎌倉時代には盗掘されている可能性が高いからね。
しかし割れた鏡の破片などは、盗掘者が洗いざらい持っていけるはずも無いのでそういうものはゲットできるかな。
ただ副葬品より墓そのものの築造工法が解明するほうが情報としての価値が高い。
892 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 23:28:17
>>881 山陰(出雲)系に関しては
>>819が挙げた久宝寺、中田がポイントになる。
ここは纏向着工以前から、総出土量の4%以上が外来式という他に類を見ない特徴を持っている。
その中でも吉備系が多い久宝寺、山陰系が多い中田など
隣接する同じ大和川水系でありながら、いわばお得意さんが違う。
唐古・鍵も当時としては異常なくらいの外来式が出る。
纏向以降はそれが全国的に一気に動き出すわけだが
弥生後期としては異例の多文化交流地帯ではあったと見ていいだろう。
893 :
ローガン:2008/02/07(木) 23:35:23
けど、箸墓ってクビレ部に道があるのですよ。 確か、付近の住人の方の土地だと思います。
細かい事を言えば、宮内庁が「大市墓」としているのは、墳丘ダケだったような記憶があります。
間違ってたらごめんなさい。
よく、纏向遺跡がどこまで日本を支配していたかという話で
大いに議論になって、論争になるのだが
支配と被支配の境界線って曖昧で難しいだろう?
当時は国連みたいな明確な物差しなんてないわけだし。
領土と非領土の境界も非常に曖昧だ。
で、文献や考古学の最新研究から考察して
紀元1世紀頃には、なんとなく、畿内を中心として
九州から関東までの連合王権らしきものは出来ていたけど
その時点では、まだまだ緩やかな関係で、中央の統制力がゆるい状態だった。
だから、それぞれの地方がかなり独自に勝手に動けたように思える。
まあ、徳川政権だって、約10家ほどの大外様諸侯と徳川親藩譜代グループによる
連合王権みたいな感じなわけだし。
895 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 00:28:11
しかし北部九州の鉄の独占寡占が瀬戸内・畿内・東海・関東に至る首長の連合を促し
結果、当時としては反則レベルの大都市纏向を生み出したなら歴史の皮肉としか言い様が無いなw
>>894 >紀元1世紀頃には、なんとなく、畿内を中心として
>九州から関東までの連合王権らしきものは出来ていたけど
2〜3世紀ころの間違いだよな?
唐古鍵とか池上曽根が、列島広範囲の連合王権の首都ってことは流石にない。
>>894 確かに当時は「日本列島がひとつの国」なんて意識、なかっただろうな。
>>898 そーゆう意識ができあがるのは近世になってからだもんな
兵力を向上させるため、生めよ増やせよと最大限増やそうと努力はしていただろうな
そもそも、本州は島だということを知らなかった。
東北から北は蝦夷地で未開の蛮地だから西日本の人間は
陸が続くのか切れるのかすら知らなかっただろう。
902 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/08(金) 18:19:30
>>901 そうそう。そして邪馬台国は「周囲を海に取り囲まれた島に存在する」
と明記されている。まさに九州を指している。
えー、あたしも九州に傾いておりますが
ここは畿内説主力のところだと思うので、
断定はほどほどにお願いします。
自演かよ
>>840 >敢えて聞くが、アレな人とは何ぞや?
取りあえず以下の二つのアレな搬入土器が発掘されますた。。
>>862 太国 ◆yVAs7uaYlY
>>863 九州ですが ◆UEukKMcVo2
九州説の根拠って何だ?
文献の記述じゃなくて、考古学的なさ。
>>902 九州が島という認識もまだなかったのでは?
>>908 それは畿内説に対するアドバンテージにならない。
むしろ九州の鉄の独占寡占が瀬戸内・畿内の首長連合の発生を促し
マキムクを誕生させた原因になってしまったw
911 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 00:50:51
>>908 それが九州説のとどめになったとも言えるんだけどね。
纏向築造に、鉄の保有量の差が関係していない。
言い換えれば圧倒的な鉄器保有量を誇る北部九州が
最先端の土木技術を駆使することが出来なかったわけだ。
また纏向が巨大古墳を築き、それが九州に波及する時代に入っても
鉄器保有量は以前として九州のほうが圧倒的に上位。
なのに勢力地図は鉄器に関係なく逆転している。
畿内説の重鎮でもある白石太一郎は、纏向創設の頃に鉄器ルートを畿内が九州から簒奪したと唱えているが
これは上記の出土量からも明確に否定されている。
そんな単純な問題じゃないことが判ってしまったんだわ。
古墳時代に入り、九州にも前方後円墳が至る所に築かれ
庄内式土器が北部九州に大量に入り込み、各地区で集落の再編成が行われていた動乱の時代でも
鉄器そのものは九州のほうが圧倒的に保有量が高い。
しかし立場はそれまでの弥生のペースから見たら濁流の如く一気に逆転している。
これはもう鉄器の優位性とかは考えられないとしか言えない。
それを裏付けるように、当時の鉄器が武具として不完全なものであったとの論文が
強度、硬度、製鉄技術の面からも次々と提出されている。
だから軍事力とかとは別の何かによって、最先端の都会だった北部九州がその他の田舎に飲み込まれたとしか考えられない。
その原因がひとつやふたつではなく、相当に複合的なものだろうと見られるので、話はややこしいのだが。
そのうちマキムク政権とか言われそうだな
>>911 む、難しそうだなあw
そうか単に鉄器の流通ルートの変更だけじゃないのか…
鉄器と言う言わばハードのみならず
社会構造の変化と言うソフトの変化も関係あるのかな?
914 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 01:55:20
>>909九州が島という認識もまだなかったのでは?
倭は多くの島々で成り立っているような事を倭人伝には書いているが
大きな陸地などの記載は一切無い。よって女王国は畿内にはない。
方や九州は「女王の国は山島にあって 周旋すること何千里」という記述に符合する。
畿内説の言い分に拠れば「水行十日陸行一月」は畿内までの道のりだとかw
それほど活動範囲があれば九州を一巡りくらいわけがない。
又倭人から九州が海に囲まれた島だと聞くことも出来よう。
よって九州を島と認識していなかった事などありえない。
915 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 01:59:04
>>911 言い換えれば圧倒的な鉄器保有量を誇る北部九州が
最先端の土木技術を駆使することが出来なかったわけだ」
その理由はたやすい答え。九州と畿内は全く往来がなく無関係の地域だった。
ただそれだけの事だ。
>>914 オイオイ、邪馬台国は九州全土を統治してたっていうのかい?
大陸からみれば島だろうが、当時の倭人にとっては九州は島というには広すぎたと思うが
搬入土器が大暴れw
>>915 >古墳時代に入り、九州にも前方後円墳が至る所に築かれ
>庄内式土器が北部九州に大量に入り込み、各地区で集落の再編成が行われていた動乱の時代でも
>鉄器そのものは九州のほうが圧倒的に保有量が高い。
読めないの?
畿内説さえ論破すれば消去法的に九州説優位になると思ってる人がそもそも多すぎるな。
学問はそんなに簡単じゃないだろう
920 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 02:57:10
>>915 少なくとも邪馬台国時代は九州と畿内とは無関係だった。
倭人伝に「そのほかのクニグニは遠すぎて{遠絶して}詳細がわからない」とある。
倭人伝には当時の代表格、吉備や出雲に相当する地名が出てこないことからも
ましてや、その先の畿内についても知られていなかったことが解る。
幾等寂しいからって、自己レスしなくてもToT
>>920 その「遠すぎて」は「九州から遠すぎて」じゃなくて
「中国から遠すぎて」じゃないか?
まぁ主語がないからわからんが、中国側の史料だから後者の解釈が自然な気がするが。
いちいち九州を基準にする理由はないし
924 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 03:13:45
自女三國以北其戸敷道里可得略載其餘旁國遠絶不可得詳
って女王国が基点みたいよ。
みたいって…断定じゃねえのかよ
926 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2008/02/09(土) 03:29:59
読めば解るってこと。女王国の北には〜から文章が始まってるし。
それをオブラートに包んで柔らかに言ってるだけでしょ。
927 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 04:02:23
>>923 原文で読みな。 どう読んでも中国からにはならない。
段落分けとかないけど、文脈のかわりかた・漢字の置き方の違いとか
すぐにわかるようになるから、どこからどこまでが同じ資料でここからは
付け加え、とか大体見当つくようになる。
それは調査した支那人たちが「九州から先は遠すぎてわからない」と言っただけであって
九州に住んでた倭人たちが遠くの地方のことを知らなかったと書いてるわけではないだろ。
単に製作者が遠くまでまで調べなかっただけ。
九州と中国・近畿地方との関わりがなかったことを示すものではないな
いい加減もう寝ます(-.-)zzZ
>>917 > 搬入土器が大暴れw
≠土器。
搬入DQN。
えらく場違いなので「稲荷山式」あたりだと思う。
こんなの誰が持ち込んだんだw
邪馬台国の話はスレ違いだから纏向の話しようぜ
これから邪馬台国ネタ降ってくる奴がいてもスルーな
巻向の大規模発掘はいつ?
932 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 22:11:13
つうか箸墓、骨の欠片ぐらいは残ってるよね?
分析すりゃあ性別ぐらいは一発で分かるべ?
(ヒ○コかどうかは別にして…)
それとも宮内庁が待ったをかけるのかな?
ぶっちゃけ宮内庁は考古学の癌
>>932 来年度ってことは今年(2008)の4月ぐらいか?
まぁ何にしても国がやっと金出す気になったのは嬉しいことだ
古代史研究もこれで少しは進むかな
936 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 23:30:37
>>933 >骨の欠片
盗掘されていたら、確実に残ってないだろうね。
6世紀の未盗掘でも残ってないんだから。
甕棺や濠から出てきたのって、あれ奇跡的なことなんだよ。
なんで骨なんか取ってたんだろうな盗賊さんは
>>936 えええっ!
んじゃあ文字通りものけのから?遺物はゼロ?
いや実は壁が二重で…って事はないかw
骨は盗らないよ。
盗掘抗が開くと内部環境が劣化して腐敗等が進み何も残らなくなる。
現代版の「盗掘」として高松塚を見ればわかるでしょう。
予算を掛けていろいろと対策を講じてもあーなっちまうんだよ。
うーん、、、ネアンデルタールの化石からDNA抽出したり
最近じゃあ北朝鮮から送られてきた火葬済みの骨の灰からでもDNA情報取れたって聞いたが…
腐敗ってそう言う情報自体破壊されるんかね?
941 :
ローガン:2008/02/10(日) 00:12:26
土壌的に、奈良県では骨は難しいのではないでしょうか?
よっぽど条件が揃わないと残らないって思います。
942 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 02:03:10
そう言えば「○○媛陵」ってされた全長200m以上の前方後円墳とかも
幾つかあったと思うけど…
被葬者が女性って確認された事例ってあるんですか?
944 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 03:08:01
>>943 ありがとうございます。
でもやっぱ畿内のだと宮内庁の認可とか降りなくて事例無いんでしょうかね。。
邪馬台国=大和国。首都は纏向遺跡のあたり。
もう、すでに決着はついているけど、
邪馬台国論争が沈静化すると、発掘資金を捻出できなくなるから
そういうことは言えないわけで。
邪馬台國=やまと国=大和國
卑弥呼=媛命=倭迹迹日百襲媛命(7代・孝霊天皇の皇女)
台与=豊=豊鍬入姫命(10代・崇神天皇の皇女)
狗奴國=この国=許乃國(京都の宇治)
卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命(8代・孝元天皇の庶子)
拘右智卑狗=こうちひこ=河内彦(武埴安彦命の生母が河内彦の娘)
>>911 極端な意見だな。鉄を軽視し過ぎだよ。
貴重で、のちには貨幣として使用されたくらいなんだから。
ヤマト朝廷が半島に拘り続けたのも、半島の鉄を重要視したからに他ならない。
鍛造技術が稚拙で武器としてはまだまだでも、日常生活や土木工事には
重要だっただろうし。
卑弥呼が公孫氏に属したり、魏に遣使したりするのも、要は半島の鉄を安定的に入手するためであった
と考えるべきだろう。
マキムク王権にしろ、運河やら大規模古墳に鉄器は使用しただろうし大幅な需要増。
ホケノの鉄器副葬などからも、マキムク成立のおおきなファクターとして「鉄」を考えるべきかと。
鉄で筑紫>大和が古墳時代以降も続くのはそうだが、ヤマト王権は鉄ルートに
存在する首長たちに三角縁を配布したりしてるし、また庄内以降、画文帯など
大陸系の文物が畿内で沢山見つかることからも、ヤマト王権は対半島ルートを押さえていたと
考えた方がいい。ただ筑紫から奪取した訳じゃなく、共存したと考えるべきだろうけど。
947 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 00:51:59
卑弥呼は三輪で太陽祭祀をやっていた巫女でマチガイナイ!
三輪に神坐日向神社(みわにいますひむかいじんじゃ)と言うのがあるが…
みわにいますひむかいじんじゃ
↓
三輪に居ます ひむこ 神社
↓
三輪に居ます 日の巫女 神社
↓
三輪に居ます卑弥呼神社
↓
バンザイーイ!バンザーイ!
>>947 そんなこというと日向国が…といってみるw
949 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 02:28:34
>>911及び
>>946を読んで…
確かに鉄の重要性は変わらないだろうけど
あまりに過大評価と言うかそれのみで他のファクタ考えないのも不味いかなと反省w
考えてみりゃ鉄を知らずに巨大帝国築いた文明は幾らでもあるし
古代ヒッタイトはエジプトを滅ぼす事はなかったわけでwww
じゃあ大和の勢力拡大は如何なるファクタによりなし得たのか?
俺みたいなのには良く分からないけど、、、
『 三輪朝に無くて河内朝にあったもの 』がその答えのような希ガス。
まあスレチガイだけどw
>>949 そうだよなw 古代ヒッタイトは
それを武器に世界を征服したわけではないしなw
結局、古代ヒッタイトよりも鉄の導入が遅かった国に
逆に消されていったわけだしw
951 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 03:23:42
オオヒルメムチムチ
ムチってどういう意味?何語なの?
貴という字をあてるね。おそれおおいとか、えらいとかいう意味じゃないかな。
でも「ムチムチ」は違うだろう
ムチムチってなんかエロいな
>>947 「ひむか」っていうのは、宮崎の古代の呼び名。宮崎の北・中部辺りをさしてる。
その後「ひゅうが」に変わり、「宮崎」になる。
ちなみに「宮崎」っていうのも「宮」がある場所って意味だが。
古来から近年まで朝廷も政権も日本書紀を信じて宮崎のほうを神の来た場所と
あがめてたんだよ。だから手近い場所につくるんだよ。
日向市の海岸に「伊勢」という地名があり、大御神社というのがある。これが
鎌倉時代から歌われたさざれ石の石群があり、伊勢神宮の元になった宮では?
と地元ではいわれているが。
>>946 >ヤマト王権は対半島ルートを押さえていたと考えた方がいい。
>ただ筑紫から奪取した訳じゃなく、共存したと考えるべきだろうけど。
それはそうだろう。
「畿内が筑紫から交易権を奪取した」とか極端な話ではなく、
畿内も、筑紫と同じように、半島との交易を行なうようになったということ。
イメージとしては、室町期の堺(細川)vs博多(大内)みたいなものか。
956 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 00:18:34
鉄器の所有数の逆転があって畿内と九州の勢力の逆転があったというより
むしろその逆なのか…
勢力の逆転があってその結果畿内に鉄が大量に流れ込んできたと…
なんか「鶏が先か卵が先か」みたいな話だけどw
考古学の調査じゃあそうなっちゃうんだね。
鉄が軍事・国力にそれほどの決定力を持つのなら、逆に九州が西日本の大半を押さえる
一大帝国築いていなきゃならん訳だしw
(まあその考えが東遷説って奴なんだろうけどw)
957 :
ローガン:2008/02/13(水) 00:47:11
素人の考えですが、大和や河内は、「遺跡」になる前にすぐ後から後から人が住んだため、良好な遺跡が比較的少ないのではないでしょうか?
私は大阪ですが、地元では以前、ほんの5cm掘っただけで土師器が出たそうです。
もし、鉄製品であれば、他に流用された可能性が他の地域より多いのではないか?なんて考えたりします。
根拠のない孟宗竹ですが。
958 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 03:12:54
しかし、もし箸墓から倭人伝の言う殉死者100人(奴婢百余人)の骨とか出たら
…たいていの日本人ドン引きだろうなwww
墓の周りに人を生き埋めにするのは古代中国の風習だろ。
古墳の周りから人骨がゾロゾロっていうのは
九州の古代の古墳ほうがありそうだ。
畿内勢力が大陸との交易を行なう場合、瀬戸内海航路の安全を保障し得るような、
大きな権力の存在が必要となってくる。
平清盛、足利義満、豊臣秀吉などがその例。
マキムク王権は、そういった時代の要請により誕生したと考えるべきだろう。
巻向には水洗トイレの跡があるってほんとかい?
962 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 23:44:11
搬入土器の中に入っていた物って何なんですか?
ぶっちゃけ西から東へは半島・大陸の鉱物資源等想像し易いんですが
逆に東から西へ流れた物資ってなんだったんだろう?
東海系が突出して多いそうだけど・・・うーん海産物(干物)系?
963 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 23:47:12
食器、炊飯器の類がほとんど。
後期になると一部祭祀系土器も混じる。
964 :
962:2008/02/18(月) 01:06:17
>>963 ありがとうございます。
そっか出張か出向みたいだなw
>ALL
それはそうと自分みたいな初心者に
「巻向についてこれだけは読んどけ」
ってお勧めの本てありますか?
>>963 >食器、炊飯器の類がほとんど。
そんなんでは、わざわざ遠方から搬入する意味がないのでは?
966 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 00:42:14
>>965 ある程度は身分の高い人物らが移動したって事じゃない?
食器等まで運ばせるんだからそれを運搬する従者(?)みたいなのが居たんじゃ…?
持ってきたんじゃなくて作ったんだと思うよ。
>>967 どうなんでしょ。
弥生の頃から土器は結構運ばれてますし。
それら全てが外来系在地生産、ってわけでもないでしょう。
そうすると、弥生土器の地域性を否定することになりますし。
「土器はなぜ運ばれる」って疑問が素直にあります。
話の流れ無視で悪いけど、研究が進めば「弥生・古墳・飛鳥」といった時代区分も変わってくるのでしょうか?
塩、酒、油脂類なんか運ぶのに薄地の壺などを使うことはあるでしょう。
また、生活土器なんかは、適当な土と簡単な窯があれば作れます。
外来集団が、出向先で出身地の様式の土器を作ることも不自然ではないかと。
971 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:50:38
使用された粘土の成分でそこらへん解からないの?
てか現地巻向で造られたなら「搬入土器」じゃないしw
972 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:54:51
>>969 うーん、どうなんでしょ?
そう言った時代区分の名称は変わらないんじゃね?
ただその時代が何時に始まったかと言う絶対年代(暦年代)が変わるんじゃね?
弥生→土器、古墳→墳墓、飛鳥→都を名に冠した時代名に
そもそも無理がある
古墳までは考古学的区分、飛鳥から江戸までは政治センターの区分
らしいな
>>973 それを言うなら縄文→土器特徴、弥生→遺跡名
だから最初から無理を承知で使っているんだろう。
>>970 庄内式以降は、その薄さが画期的なわけだから
それまでの簡単な窯では作れない。
土師器になると、さらに専用の窯と知識が必要になる。
>>971 解っているものと、調査中のものがある。
それと注意深い人は、搬入土器ではなく外来式土器と表記する。
纏向で出土した東海系などにも、搬入もあれば現地生産も外来式もある。
じゃ、仏教伝来までは弥生時代継続で、以降は平安遷都までを大和時代。
そもそも飛鳥時代って区分が無理ある気がするな。
何でわざわざあそこで分けるの?
○○は弥生土器か土師器か?
みたいな議論は今現在はどうなっているのでしょうか?
>>977 あれは飛鳥・白鳳という仏教文化の伝来が顕著になって
それまでとは明らかに変化したから。
その結実が平城京であると言う見方は普通だと思う。
平城にしても、新文化勢力の支配が磐石のものになったと見えて
そこから50年も経たずに、さらに新しい文化に侵食されるけど。
980 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 21:51:48
>>970 >また、生活土器なんかは、適当な土と簡単な窯があれば作れます。
>外来集団が、出向先で出身地の様式の土器を作ることも不自然ではないかと。
あくまで出向なんでしょうか? 移住ではなくて?
982 :
日本@名無史さん:
奈良女子大学COEで都市の成立っていうシンポジウムがあってマキムクの話もあったらしいけど、誰か行った人いる?