漢書西域伝の里数と方位

このエントリーをはてなブックマークに追加
1日本@名無史さん
漢書西域伝に書かれている里数や方位を検討してみるスレです。
故あって日本史板に立てます(どうせ、世界史の人は興味ないだろうし)。

原文
(上)http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kan-sei1.html
(下)http://www.ceres.dti.ne.jp/~alex-x/kanseki/kan-sei2.html

GE Placemark
http://virtual.haru.gs/up/src/uho0987.kmz
2日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:11:57
[女若]羌

現在比定されているのは小河墓遺跡の真南にあるRouquianで、
楼蘭の南西220kmだが漢書には西北にzen善(楼蘭)と書いてある。
これは比定地が疑問。
3日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:13:28
zen善
        長安から    都護へ          且末へ     車師へ
西域伝(里) 六千一百里  西北千七百八十五里 西七百二十里 西北千八百九十里
西域伝(km) 3050km     西北890km        西360km     西北945km
実測(km)   1800km     西北450km       西460km     北280km
比       1.69       2.16            0.78       3.38

コルラあたりを経由する迂回ルートなら楼蘭-車師は約630km、比は1.5。
車師の方向が45度ずれて西北になっているのも、
一旦コルラに向かうからだとすれば理解しやすい。
4日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:15:03
且末
        長安から      都護へ           尉犂    精絶
西域伝(里) 六千八百二十里 西北二千二百五十八里 北に接す 西二千里
西域伝(km) 3410km       西北1129km                西1000km
実測(km)  2140km       西北410km          北430km 西250km
比       1.59         2.75                    4

尉犂はコルラの南約50kmでタクラマカンを挟んで且末の反対側にあり、
その間360kmほどもあるのだが“接する”と書かれている。
(下の尉犂国条にも“南與zen[扁善旁右鄰]善且末接”とある。)

精絶まで二千里は全く理解不能
5日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:16:17
精絶
        長安から      都護へ          [手于]彌
西域伝(里) 八千八百二十里 北二千七百二十三里 西四百六十里
西域伝(km) 4460km      北1360km         西230km
実測(km)   2380km      北480km          西260km
比       1.85        2.84             0.88
6日本@名無史さん:2007/04/24(火) 03:48:10
>>2
[女若]羌はその後も崑崙北麓に何回も出てくる上に
果ては崑崙を越えた南(おそらく現パキスタン北部〜
インド北部)にまで出てくる。都城を持つ国家という
存在ではなかろう。

おそらく陜西・甘粛・青海から流れてきた遊牧の民で、
あちこちに[女若]羌集団がいたとみたほうがいい。

このスレの意図がわからんが、しばらく見せていただくよ。
7日本@名無史さん:2007/04/24(火) 06:24:55

漢書西域伝を意識して作られた魏志東夷伝の倭人条

この西域伝の方位・里数を検証するとによって、倭人伝の方位・里数に

ついても、新たな見解がでてくるやもしれない。
8日本@名無史さん:2007/04/24(火) 06:54:12
倭人伝スレでやれよ
9SOY:2007/04/24(火) 07:28:11
このようなスレが作られるとは思っていませんでした。
時間の許す範囲でお勉強させていただきます。

(地理記述に馴染んでおきたいと日頃から考えていました)

>>3
>車師の方向が45度ずれて西北になっているのも、
>一旦コルラに向かうからだとすれば理解しやすい。

私も距離の記述からそう判断します。
山があるから迂回したのは当然かも。

>>4
>精絶まで二千里は全く理解不能

私もそう思います。どうしたらこういう誤記が生じるのか疑問です。
ある意味、考えるべき部分かも知れません。

>>6

私も[女若]羌については特定の位置には位置づけられないと思います。


因みに今まで挙げられた国々の私が考える比定地は以下のとおりです。

・zen善  楼蘭(クロライナ)
・且末  チェルチェン
・精絶  ニヤ
・車師  トルファン付近?
・尉犂  コルラ(の南約50km)
 
10SOY:2007/04/24(火) 07:31:27
因みにここに登場する『実測(km)』って道程でなく距離ですよね。
 
11日本@名無史さん:2007/04/24(火) 07:56:50
>>9
車師は5つぐらい国が有り、そのうち、車師前国はトルファン西方の交河故城、
車師後国はジムサールでわかっています。

が、おそらくここはシルクロード経路上にある車師前国(交河故城)でしょう。

>山があるから迂回したのは当然かも。

という点が共通認識とできれば、倭人伝の距離も同様に直線距離ではないということで、
議論の交通整理ができるのですがね。

>>10
GEで測った直線距離です。
12日本@名無史さん:2007/04/24(火) 07:57:50
>>6
まったりと同意。それにしても陽関から900kmとはどこをさすのか?
13SOY:2007/04/24(火) 08:03:29
>>11

回答感謝です。出勤前なので簡単に発言します。

>GEで測った直線距離です。

了解しました。道程だと解釈が入ってしまうのでこれがベストかも知れません。

直線距離と道程は必ずしも同じでないという点。
少なくとも私もそう考えています。

P.S. 前回見た時より『GE Placemark』がかなり充実していきているのには驚きました。
 
14日本@名無史さん:2007/04/24(火) 08:23:46
畿内説支持者です。
やはり漢書の距離と方角の記述は不正確なものですか。
ですがさんたちは現時点では道程距離というふうに解釈されているようですが、
それにしても誤差が大きすぎますね。
15日本@名無史さん:2007/04/24(火) 20:56:43
また、新たな自演スレが・・・
16日本@名無史さん:2007/04/24(火) 21:10:34
[手于]彌(于田Yutien)
        長安から      都護へ            龜茲    于ten       姑墨
西域伝(里) 九千二百八十里 東北三千五百五十三里 東北接す 西三百九十里 西北接す
西域伝(km) 4640km      東北1777km                西195km   
実測(km)   2480km      東北620km          北550km 西160km     北490km
比       1.87        2.87                     1.22

下の龜茲条にも西南與[木于]彌(接)とある

龜茲、姑墨の方向は45度ずれている
17日本@名無史さん:2007/04/24(火) 21:15:27
于ten(和田Khotan)
        長安から      都護へ            姑墨    [女若]羌  皮山
西域伝(里) 九千六百七十里 東北三千九百四十七里 北に接す 南に接す 西三百八十里
西域伝(km) 4835km      東北1874km                      西190km
実測(km)   2630km      東北680km          北450km        西北150km
比       1.84        2.90                            1.27

長安からの距離比と都護府までの距離比が、それぞれ、
そこそこそろった値になってるのにはちょっとおどろいている。
何か理由があるのか?

その他の近場までの距離は若干の例外を除いて0.8〜1.2ぐらいの幅におさまっている。
18日本@名無史さん:2007/04/24(火) 21:19:10
皮山(Pishan)
        長安から 都護へ            姑墨         烏to          莎車
西域伝(里) 萬五十里 東北四千二百九十二里 北千四百五十里 西南千三百四十里 西北三百八十里
西域伝(km) 5025km  東北2146km        北725km      西南670km      西北190km
実測(km)   2770km  東北740km         北430km      西260km         西北130km
比       1.81    2.90              1.69         2.58           1.46

烏toについては次項で
19日本@名無史さん:2007/04/24(火) 21:24:51
烏to Wucha

位置をここに修正
37.23770415452772,75.40845663143912

http://depts.washington.edu/silkroad/texts/weilue/notes7_10.html
を参照した。タシュクルガンの南70km。川の合流地点。

        長安から      都護へ           子合    蒲犂    難兜    縣度
西域伝(里) 九千九百五十里 東北四千八百九十二里 北に接す 北に接す 西に接す 西に有り
西域伝(km) 4975km      東北2446km
実測(km)   3030km      東北960km         東180km  北70km         南〜南西
比       1.64         2.55

どこに比定しても皮山の萬五十里よりは長安から遠ざかっているはずなのに、
九千九百五十里と近づいているのはどうにも解せない。
実測値は当然大きくなっている。

地形から見てこの谷から外に広がっていることはありそうになく、子合の方位は90度狂っている。
縣度も西とは言いがたい。

皮山はほぼ真東にあり方位が45度違う。とともに比が約2.6と高い。
道が険しいためと考えることもできるが、後出の蒲犂は同じような条件だがそうでもない。
逆に、皮山から西南に670kmならコンロンを越えてパンジャブヘ。
上の2.6という比を採用してもおよそ260kmでK2のあたり。
方位距離ともに合わない。
20SOY:2007/04/24(火) 22:47:27
>>16 扞彌
>龜茲、姑墨の方向は45度ずれている
私が見る範囲ではズレがないように思います。
扞彌は精絶の西で于テンの東。精絶は龜茲の南。于テンは姑墨の南。

姑墨−−−−龜茲
 | \/ |
于テ−扞彌−精絶

こんな感じかと…

>>17 于テン(ホータン)
>長安からの距離比と都護府までの距離比が、それぞれ、
>そこそこそろった値になってるのにはちょっとおどろいている。
実距離と道程の比率がたまたま一定だっただけなのかも知れません。
結論は全体を見るまでは何とも言えませんが…

>その他の近場までの距離は若干の例外を除いて0.8〜1.2ぐらいの幅におさまっている。
こうして見るとあたらめて地理記事は正確に書かれてあるものだと実感します。

>>18 皮山(ピシャン)
>>19 烏タ
烏タについては私も比定地は知りません。おおよそクンジェラブ峠付近を考えてました。

>どこに比定しても皮山の萬五十里よりは長安から遠ざかっているはずなのに、
>九千九百五十里と近づいているのはどうにも解せない。
ルートの違いのようにも思えます。龜茲−姑墨を経由するタクラマカンの
北のルートから、できる限り無駄なく、蒲犂を経由して烏タにたどり着く
ことが可能であれば、有り得る話なのかも知れません。

このあたりの位置関係。ムズカしすぎです。(^^;
 
21日本@名無史さん:2007/04/24(火) 23:30:07
>>20
>私が見る範囲ではズレがないように思います。

思う思わないじゃなくて事実としてズレてるからしょうがない。
22日本@名無史さん:2007/04/25(水) 22:14:16
西夜・子合

子合は現在の葉城。西夜は子合と同じ国か、もしくはすぐそばにある。

        長安から      都護へ         莎車    皮山    烏to      蒲犂
西域伝(里) 萬二百五十里  東北五千四十六里 北に接す 東に接す 西南に接す 西に接す
西域伝(km) 5125km      東北2523km
実測(km)   2850km      東北790km      北60km  東90km  西南180km 西180km
比       1.80         3.19
23日本@名無史さん:2007/04/25(水) 22:16:14
順序が西域伝とことなるが先に莎車を

莎車はヤルカンド。

        長安から      都護へ            蒲犂        疏勒
西域伝(里) 九千九百五十里 東北四千七百四十六里 西南七百四十里 西五百六十里
西域伝(km) 4975km      東北2370km        西南370km      西280km
実測(km)   2860km      東北760km          西南190km     西北160km
比       1.74         3.12              1.95         1.75

疏勒であるカシュガルはヤルカンドから見て北西よりやや北にありどちらかと言えば西よりは北。
実際、疏勒条では莎車は南五百六十里になっている。
どうして西が出てきたのか理解できない。
24日本@名無史さん:2007/04/25(水) 22:17:40
西域都護までの距離比がやや大きいのが気になっていたが、
莎車が東北四千七百四十六里でその先の依耐國(イェンギザール)が東北二千七百三十里、
疏勒(カシュガル)が東二千二百一十里なのを見て気がついた。

南道の国々(莎車まで)は楼蘭経由の東回りの道のりと考えるのがよさそうだ。

楼蘭経由で西域都護へ

zen善    西北千七百八十五里  西北890km   450km  1.98
且末    西北二千二百五十八里 西北1130km   920km  1.23
精絶    北二千七百二十三里  北 1360km  1160km  1.17
[手于]彌  東北三千五百五十三里 東北1777km  1290km  1.37
于ten    東北三千九百四十七里 東北1970km  1440km  1.37
皮山    東北四千二百九十二里 東北2150km  1600km  1.34
子合    東北五千四十六里   東北2523km  1680km  1.50
莎車    東北四千七百四十六里 東北2373km  1720km  1.38

何事もやってみるもんだ・・・・
ただ、方位は明かに直線で結んだ方向をさしている。

こうなると、zen善-車師のところで書いたことが成立しなくなる・・・・
困ったもんだ。
25SOY:2007/04/25(水) 23:39:56
>>23
>疏勒であるカシュガルはヤルカンドから見て北西よりやや北にありどちらかと言えば西よりは北。

西北が西と認識されたり北と認識されたりすることは多々あったと思います。
仮に東南が南と記されたとしてもそれほど理解不能なことではないのでは?

>>24
>こうなると、zen善-車師のところで書いたことが成立しなくなる・・・・
>困ったもんだ。

ゼン善-車師がコルラ経由という考えは合っていると思います。
それが比率の1.98に表れているのではないでしょうか。

他の国については必ずしも楼蘭経由にする必要はないと考えます。
比率の数字がzen善ほど大きくないのはそれほど迂回したコースではなかった
ことを示しているようにも見えます。
 
26日本@名無史さん:2007/04/26(木) 00:43:12
>>25
>比率の数字がzen善ほど大きくないのはそれほど迂回したコースではなかった

近距離のオアシス国家間の距離の比はだいたい1.3前後の値になってるんですから、
それを都護府までつなぎ合わせた結果も1.3そこそこになる方が自然なんです。
楼蘭−烏塁が大きすぎるんですよ。

今、楼蘭−烏塁間は、一旦北上して車師へ行ってから西南方コルラを経由して
都護に至るルートを考えています。これだと実距離660kmほどで比が1.35ぐらいになります。
西域伝の序文に『自車師前王廷隨北山、波河西行至疏勒、為北道』とありますし。
27日本@名無史さん:2007/04/26(木) 00:51:18
あ、ダメか。今度は楼蘭−車師間の比が大きくなりすぎる。
うまくいかんのう・・・・・
28SOY:2007/04/26(木) 07:27:42
>>26
>楼蘭−烏塁が大きすぎるんですよ。

私もそう考えます。
楼蘭−車師はコルラ経由、楼蘭−烏塁間は迂回なしと私は考えています。

且末−精絶の2000里、ゼン善−都護の1785里。
これらは迂回せずに済むところだけに説明が難しいです。

机上のトリックなのか… (無意味な迂回ルートで計算?)
 
29日本@名無史さん:2007/04/26(木) 11:18:05
単純に測量技術レベルが低いのかと。
30日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:11:16
>>28
且末−精絶は2000里ぽっきりというところがぁゃιぃ。
エイヤッ!と決められた匂いがし、一海千里を髣髴とさせる。

楼蘭とコルラの間は、当時まだ経路として開かれていなかったことが疑われます。

>>29
いろいろ考えてどうにもならなければ最終的にそうなりますね。(“測量”の意味は別にして。)

あわてない、あわてない。ポクポク・・・・
31日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:14:51
蒲犂(パミール高原のタシュクルガン)

        長安から      都護へ            疏勒       莎車       西夜子合   無雷
西域伝(里) 九千五百五十里 東北五千三百九十六里 北五百五十里 東五百四十里 南に接     西五百四十里
西域伝(km) 4780km      東北2700km         北275km     東270km              西270km
実測(km)   3040km      東北950km          北200km     東190km     葉城東60km ?
比       1.57        2.84               1.38        1.42
32日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:17:08
依耐

西域伝に

少穀、寄田疏勒,莎車。(穀物が少なく、疏勒・莎車に田を借りている)

と書かれており疏勒・莎車の間にある平地の国と思われる。
英吉沙Yengisarに当てられる。(新疆ウィグル自治区人民政府HP他)

その一方で、疏勒が北六百五十里、莎車が東北五百四十里と書かれており、
このままなら蒲犂の南に位置するパミール高原の国になる。

で、どちらに信を置くかということになるが、前者をとる。

        長安から      都護へ           疏勒       莎車         無雷        子合
西域伝(里) 萬一百五十里  東北二千七百三十里  北六百五十里 東北五百四十里 東北五百四十里 南に接
西域伝(km) 5075km      東北1370km        北325km     東北270km    東北270km     東南150km
実測(km)   2950km      東北810km         北60km      東南110km     ?
比       1.72         1.69             5.42        2.45

都護府までの距離が莎車と比べ半減しているが、
前述のとおり経路が北道経由にかわったためと思われる。

子合と接するというのもやや無理があるか?
あるいは“接”の意味を考える必要があるか?
33SOY:2007/04/26(木) 22:48:14
>>30
>いろいろ考えてどうにもならなければ最終的にそうなりますね。

私も同じスタンスです。結果はどうあれ検証することが大事と考えます。

>>32 依耐
>その一方で、疏勒が北六百五十里、莎車が東北五百四十里と書かれており、
>このままなら蒲犂の南に位置するパミール高原の国になる。
>で、どちらに信を置くかということになるが、前者をとる。

私の資料では『莎車は依耐から東北五百四十里』ではなく『至莎車五百四十里』となっています。
その点でも前者を採択するのは正解かと思われます。ご確認を…

個人的には依耐を疏勒(カシュガル)と莎車(ヤルカンド)の間くらいに考えています。
 
34日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:24:30
>>33
東北
・至都護治所二千七百三十里、
・至莎車五百四十里、
・至無雷五百四十里、


・至疏勒六百五十里、


・與子合接、俗相與同。

だと思いますが。
35SOY:2007/04/26(木) 23:46:30
>>34
>東北
>・至都護治所二千七百三十里、
>・至莎車五百四十里、
>・至無雷五百四十里

ようやく認識の違いの理由が分かりました。私はその漢文を以下のように読んでいます。

・東北至都護治所二千七百三十里
・至莎車五百四十里
・至無雷五百四十里

『東北至都護治所』の『東北』が莎車、無雷にまでかかってくるとは考えていません。
そういう読み方があることすら思いもよりませんでした。

因みにこのあたりの位置関係を記述から大雑把に以下のように考えています。

■■■疏勒■■■
■■■■■■■■
■■■依耐■莎車
無雷■■■■■■
■■■蒲犂■■■
■■■■■■西夜
 
36日本@名無史さん:2007/04/27(金) 00:24:39
>>35
日本語でも漢文でもそんな読み方はないですよ。


同じ例はzen善でも出てきます。

西北去都護治所千七百八十五里、至山國千三百六十五里、

山國条は西域伝下にありますが、そこには

東南與zen善、且末接。

とあり、山國がzen善の北西にあることが確認されます。
37SOY:2007/04/27(金) 07:49:34
>>36
>日本語でも漢文でもそんな読み方はないですよ。

漢文の読み方の過ちを指摘しても聞く耳を全く持たぬとは残念です。

真摯に学ぶ姿勢がなければ、独りよがりな見解しか出せなくなるでしょう。

>同じ例はzen善でも出てきます。

方位の記述のない『至(場所)(距離)』という用例は幾つもあります。
直前の地理記事と方位が同じであるかは運次第です。

直前の地理記事に方位があれば、それを採択、直前になければ、
直前の直前の地理記事の方位を採択。

日本語と漢文にはこういった読み方しかないとは甚だ眉唾です。

それはともかく、こういう状態で果たして意見の交換はありえるのでしょうか?

検討を目的とせず、一方的な垂れ流しに過ぎないのであれば、何を言っても無駄ですね。
それはそれで私は構いませんが…
 
38日本@名無史さん:2007/04/27(金) 20:46:58
はぁ。私のほうもそれはそれで構いませんが…
猿ものは追わず、来る者は拒まず
39日本@名無史さん:2007/04/27(金) 20:48:14
無雷

蒲犂 西  五百四十里=パミール西部
依耐 東北 五百四十里=アクス〜イシククル湖あたり
        (ただし、これは依耐の位置に西域伝のなかで混乱があると思われる)
難兜 西  無雷三百四十里=パミール東部〜タクラマカン
無雷 北  捐毒接=パミール北東部
    南  蒲犂五百四十里=パミール北東部
    南  烏to接=タシュクルガン付近
    西  大月氏接=パミール西部〜アフガニスタン北部

結局パミール高原のどこかとしかわからない。

顔師古は

捐毒即身毒即天篤也、本皆一名、語有輕重耳。

と註を付けているけれども、身毒=インドが北側にあるはずがないので、
この註は明かに誤り。この捐毒はカシュガル北西の烏恰Wuqia。
40日本@名無史さん:2007/04/27(金) 20:51:17
難兜

烏to  西  難兜接=パミール西部〜アフガニスタン北部
難兜 北  休循接=パミール北部〜アフガニスタン北部
    南  [女若]羌接=?
    西南 kei賓三百三十里=?
    西  無雷三百四十里=パミール東部〜タクラマカン
    西  大月氏接=パミール西部もしくはアフガニスタン北部
kei賓 東北 難兜國九日行=?

休循は捐毒西方のパミール高原の国でおそらく
現在キルギスタン領になっている高原地帯。

これから考えると、情報は錯綜しているけれども、
カシュミールに持っていくのはどう考えても無理そうだ。
で、ワハーン回廊を抜けてすぐにあるクンドゥズ付近ではないかと推定してみる。

多くの場合、難兜国はカシュミール北部のギルギットだと言われるが、
そこは縣度の地である。

西域伝ではこの縣度は烏to国条の最後に付け加えられているだけで、
まわりがどんな国に接しているともその先に何があるとも書いていない。
縣度からガンダーラへ抜けるルートが後の時代にあったことは確かなようだが、
西域伝では

縣度者、石山也、谿谷不通、以繩索相引而度云。

と書かれているのみである。
この記述から見ると、この縣度からガンダーラへというルートが
漢書が書かれるまでの時代に開かれていたとはとうてい思えない。
41日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:22:10
烏弋山離
順番が入れ代わるが先に烏弋山離。

烏弋山離はヒンドゥークシュ南側。一説にガズニからカンダハルにかけての回廊というが、『大國也。烏弋地暑熱莽平。至烏弋山離、南道極矣。』という記述から考えると、
ガズニ〜カンダハルの高原地帯よりはむしろカンダハルの西側、レギスタン砂漠北側の低地平野部の方がよりふさわしく感じる。
カブールから続く回廊はわずかにイラン領に入り込んだヘルマンド湖付近でどん詰まりになり、アレクサンダーの遠征路も北からここに来て東に折れている。
これは、『絶遠、漢使希至。自玉門,陽關出南道、歴zen善而南行、至烏弋山離、南道極矣。』という西域伝の記述とも符合する。

いずれにしても拠点はカンダハルだろう。

kei賓   西南 烏弋山離接
安息   東  烏弋山離接
烏弋山離 北  撲挑接
     東  kei賓接
     西  犂[革干]
     西  條支接。行可百餘日

安息はイランで正しく西側に有る。
撲挑は不明。北側ならもう一つのアレキサンドリア、ヘラート周辺かもしれないが全くの憶測の域をでない。(ヘラート 34.34544034434768,62.16443105341213)
犂[革干]は、魏略西戎傳によれば大秦国=ローマ。
條支はシリア。

        長安から      都護へ
西域伝(里) 萬二千二百里  東北六十日行
西域伝(km) 6100km
実測(km)   4220km      東北2220km
比       1.45

位置が長安のほぼ西にあたるため、タクラマカン経由だと北側に膨らむ分、直線距離が短くなり、その結果距離比が小さくなっているがそれほどおかしな数値ではない。
都護への方向は正しい
42日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:23:32
kei賓

漢書西域伝には

kei賓地平、温和。糞治園田。
地下濕、生稻、冬食生菜。
出封牛,水牛,象,大狗,沐猴,孔爵,珠[王幾],珊瑚,虎魄,璧流離。

とあり、地平、温和であること、水牛,象などを産することなどからカシミールではなくその南のパンジャブとした。

ただし、kei賓はパンジャブだけでなくカイバル峠を越えてカブールあたりまでを支配下においていたとみている。

というのは、kei賓国は大月氏・烏弋山離と接しているが、烏弋山離はkei賓国のみと接し大月氏とは接しているとは書かれていない。したがって、kei賓国は大月氏と烏弋山離のあいだに割って入っている必要がある。

カブール周辺もkei賓国なら確かに西南に烏弋山離と接していることになるし、大月氏も西北にあたる。

kei賓  東北 難兜國九日行
    東  烏to國二千二百五十里
    西南 烏弋山離接
    西北 大月氏接

国都循鮮城がどこにあるかわからないのでとりあえずラホール付近においてあるが、どこにあったとしても難兜國の上の推定地は北西になり方位があわない。
43日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:24:27
といって、一般に言われるように難兜國をギルギットとし、kei賓国をスリナガルとしてみてもやっぱり方位はあわない。ギルギットはスリナガルの北やや西であるし、
そもそも、縣度を南にとったところから方位は90度ずれている。漢書西域伝では、縣度は烏toの西であり、難兜國も烏toの西である。

のみならず、魏略西戎傳には

從玉門關西出、經[女若]羌轉西、越葱領、經縣度、入大月氏、爲南道。

とあり、パミールから大月氏に向かうルートの途中に縣度はある。このルートは大月氏に直接向かうルートなのでガンダーラなど経由していないのは言うまでもない。

これら史料の記載事項を優先するならば、縣度とは、タシュクルガン付近からワハーン回廊に入るために越える山間部、もしくは、パミール高原西部の山岳部と見るのが普通であろう。

にもかかわらず、縣度〜kei賓がパミールの南に当てられているのはどうも法顕の影響が大きいようである。法顕はたしかに苦労しながらパミールからギルギットを経由してガンダーラへ抜けたようである。
いつのころからか、法顕がたどったルートが西域南道と混同され、本来はパミールにあった縣度がコンロン山中に移動してしまったのではないだろうか?けわしい山岳部にはにたような場所はいくらでもあるだろうから。

ということでkei賓をカシュミール地方と見る通説には、全くもって同意できない。
kei賓がカシュミールだと力説していた人の考えを聞きたいものである。
44日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:27:27
        長安から      都護へ           烏to國
西域伝(里) 萬二千二百里  東北六千八百四十里  東二千二百五十里
西域伝(km) 6100km      東北3420km       東1125km
実測(km)  3240km      東北1480km        北630km
比       0.94        2.31             1.79

ちなみに推定経路沿いに距離を測ると

ラホール−カブール−クンドゥズ−烏to 1400km 比0.80
ラホール−カブール−クンドゥズ−南道−楼蘭−都護府 3260km 比1.05

と、こんどは比が小さくなりすぎる。
どこかでかなり無理をしないとkei賓国はおさまらないようだ。


烏弋山離とkei賓の道がカブールで分かれるとすると、カブール−カンダハル、カブール−ラホールはさほど差がないので、長安からの距離が同じ萬二千二百里は当然。

ところで、この萬二千二百里が架空の数値であるとする件について、漢書張騫傳には武帝からの問に張騫が次のように答えているという記述がある。

以騫度之,[五]大夏去漢萬二千里,居西南.

これは、苦労して大月氏から漢にもどってきた張騫が西域に対する計画を策定するさいの重要な問答に答えている場面であり、いいかげんな数字すまされなない。
(実際この問答の後、蜀から南に進みインド経由で中央アジアを目指すルートの構築が試みられている。結局失敗するのだが。)
したがってこれにより、萬二千里という遠距離であっても何がしかの根拠によって見積もられた距離であることがわかる。

萬二千里を越えたらはるか遠方を示す架空の距離であるなどという愚説は
いいかげんで葬り去るべきであろう。
45日本@名無史さん:2007/04/29(日) 22:02:10
安息 アケメネス朝ペルシア

首都はヘカトンピロスにおかれていたがBC1世紀にクテシフォンに都を移している。西域伝に書かれている番兜城とはどちらかということが問題になるが、
張騫が戻った後、孝武帝は安息国に使節を送っている事からその時の都である可能性が高い。よってここでは、ヘカトンピロスと考えることにする。語感的にもその方が近い。

ただし、ヘカトンピロスは位置が不明のままであるらしいので、なんらかの方法で推定する必要がある。

漢書西域伝には、『其屬小大數百城、地方數千里、最大國也。臨[女爲]水、商賈車船行旁國。』とその都城が[女爲]水(アムダリア)に臨んでいると書かれており、
また『東界去王都數千里、行比至、過數十城、人民相屬。』とも書かれているので、位置としてはその一番奥近く、つまり、アムダリア下流域ではないかという推定が立つ。

ただし、アムダリアは現在と違ってかつては西に流路をとりカスピ海にそそいでいた。
これを知ったうえでGEでカラクムを見るとその中央部を東西に水たまりらしきものが点々と続いているのが見える。これがかつての流路だとすると、その西の端、
カスピ海近くに推定地をおいても大過ないのではないかと思われる。
実際の距離は、現在のトルクメニスタン東端あたりからカスピ海まで1000km=2000里ほどの直線距離である。
大月氏との境界がもう少し西であっても『東界去王都數千里』という記述とはそう矛盾することにはならないだろう。

推定地 39.91438911604359,55.74632026701136

長安まで萬一千六百里=5800km
推定値から実測4700km、距離比1.23

北  康居接
東  烏弋山離接
    則大月氏
西南 條支接

康居はおそらくカラクムからキジルクムの東側にかけてと思われるので確かに北に接している。
現在のイラン全域が安息国に含まれると思われるのでバクトラ周辺の大月氏もカンダハル近くの烏弋山離も東側でよい。
條支がシリアだとすると、クテシフォンからならほぼ真西だが、上の推定地からなら西やや南。
46日本@名無史さん:2007/04/29(日) 22:34:21
>>45
いきなり間違えてる

×安息 アケメネス朝ペルシア
○安息 アルサケス朝パルティア

47震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/27(金) 21:20:50
すごく熱心にかきこまれたわりには後がつづきませんですね。
しかし、西域伝の里数と東夷伝の比較、大事ですね。
48日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:04:41
だね
49
急に仕事が忙しくなって、ほったらかしてる間にすっかり忘れてしまった。
大事だと思うなら後は任せた。