1 :
広瀬満:
私は長年、古事記の研究をしていますが近年大国主の神話が天武天皇の物語であることに気づきました。
例えば身の危険を感じたオオナムヂが木の国に逃げ、そこも危なくなったので根の堅州国に脱出、
そこで試練に耐えて力をつけ、根の堅州国を出て八十神の兄弟たちを倒し、
葦原中国の王となり国づくりを始めるという神話は、身の危険を感じて吉野に出家した大海人皇子が、
その後東国に脱出し、近江朝廷を倒した壬申の乱と同形の話です。
すなわち大海人皇子が天皇に即位したいきさつが大国主の神話として語られていたのです。
したがって出雲大社には天武天皇が国作りの神「大国主」として祀られていることになります。
また日本神話は飛鳥時代の天皇達、出来事をモデルに書かれていることも判明しました。
大国主、ヤマサチヒコは天武天皇
ウミサチヒコは天智天皇
スセリヒメは持統天皇
ヤガミヒメは額田王
スサノヲは蘇我馬子
アマテラスは推古天皇
ニニギは舒明天皇
コノハナノサクヤヒメは斉明天皇
タマヨリヒメは元明天皇
この研究成果は最近ホームページ上に[大国主伝」として公開しました。
ホームページのアドレスは以下のとおりです。
http://www.kojikiden.com この説に対する批評、意見を広く求めます。
広瀬満
2 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 19:17:09
記紀はそんなこと書いてない、却下。
危機に書いてあるんじゃないか!
4 :
小野小町:2007/04/22(日) 19:49:47
うんもー、止めて!イヤーン。
5 :
広瀬満:2007/04/23(月) 17:39:18
はい わかりました
7 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 23:22:21
>>1は趣味の歴史好きのアマチュア研究家?
それともリアルの学者?
もし、後者でリアル学者のスレ立て降臨ならある意味すごい。
8 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 23:56:51
またかよ
電波スレ認定
11 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 19:59:46
キチガイかテンサイがどっちかだな
12 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 20:15:33
よくいるデムパ
このひとの生い立ちが気になる
13 :
広瀬満:2007/04/24(火) 20:49:19
一度「古事記」の大国主の話を読んでみな
あの話が天武天皇の話だと気付かない人間はかなりのぼんくらだな。
主な配役
大穴牟遲・・・・・・・・・・大海人皇子→→大国主・・・天武天皇
八十神・・・・・・・・・・・・中大兄皇子、大友皇子他
八上比売・・・・・・・・・・額田王
須勢理比売・・・・・・・・持統天皇
須佐之男・・・・・・・・・・蘇我馬子
木俣神(大国主と八上比売の子)・・・・十市皇女
広瀬満
http://www.kojikiden.com
中の人変わった?
15 :
広瀬満:2007/04/24(火) 22:03:12
変わってねえよ。態度が悪くなっただけ。
よくがんばったな広瀬。これで喪前も一人前ら
17 :
広瀬満:2007/04/25(水) 18:22:35
だからさあ、オオクニヌシは、天孫に葦原中津国を明け渡してるから。
国譲り神話を知らないの? もしかして?
なんで国津神の代表者が、天孫の末裔たる「神にしませば」の天武なんだよ。
アホラシイ
19 :
広瀬満:2007/05/16(水) 13:43:59
日本神話が飛鳥時代の人物をモデルに、その人間関係と事跡を使って創作されたものであることは「大国主伝」で明らかにしたところであるが、
ここではそれを分かりやすく一覧にしてまとめておきたい。
★大国主の神話
登場人物 配役
大穴牟遲・・・・・大海人皇子・・・・・・・・・・・・・主役、八十神を追い払った後、大国主となる
大国主・・・・・・・天武天皇
八十神・・・・・・・中大兄皇子、大友皇子他・・大穴牟遲の敵、最後に追い払われる
八上比売・・・・・額田王・・・・・・・・・・・・・・・・・大穴牟遲の恋人
須勢理比売・・・持統天皇・・・・・・・・・・・・・・・大穴牟遲の大后
須佐之男・・・・・蘇我馬子・・・・・・・・・・・・・・・須勢理比売の父
木俣神・・・・・・・十市皇女・・・・・・・・・・・・・・・大国主と八上比売の子
20 :
広瀬満:2007/05/16(水) 13:44:43
★須佐之男の追放と八俣大蛇退治
登場人物 配役
天照大御神・・・推古天皇・・・・須佐之男の乱暴に悩まされる
須佐之男・・・・・蘇我馬子・・・・主役
櫛名田比売・・・馬子の妻・・・・須佐之男の大后
八俣大蛇・・・・・物部守屋・・・・尾に天叢雲剣(彦火明の孫の天村雲に由来する神剣か)を隠し持つ
★天孫降臨の神話
登場人物 配役
天照大御神・・・・・・・・推古天皇・・・・・天孫に降臨を命ずる
天之忍穂耳命・・・・・・聖徳太子・・・・・天照大御神の太子だったが降臨できず
邇邇芸命・・・・・・・・・・舒明天皇・・・・・降臨した人物
木花之佐久夜毘売・・宝皇女・・・・・・・邇邇芸命の妻、嫁ぐ前に国つ神と関係を持つ
火照命・・・・・・・・・・・・中大兄皇子・・・木花之佐久夜毘売の子、海佐知毘古
火須勢理命・・・・・・・・間人皇女・・・・・木花之佐久夜毘売の娘
火遠理命・・・・・・・・・・大海人皇子・・・木花之佐久夜毘売の子、山佐知毘古
21 :
広瀬満:2007/05/16(水) 13:45:56
★海佐知毘古と山佐知毘古
登場人物 配役
海佐知毘古・・・・・・中大兄皇子・・・弟の山佐知毘古をいじめるが最後には屈服する
山佐知毘古・・・・・・大海人皇子・・・主役、海佐知毘古の弟
豊玉毘売・・・・・・・・持統天皇・・・・・山佐知毘古の妻
鵜葺草葺不合命・・草壁皇子・・・・・山佐知毘古と豊玉毘売の子
玉依毘売・・・・・・・・元明天皇・・・・・鵜葺草葺不合の妻で豊玉毘売の妹
このように多少の違いはあるが神話と飛鳥時代とはほぼ一致している。これだけの一致をみると単なる偶然とは言えないであろう。
文字通り「大君は神にしませば・・・・」(万葉集)だったのである。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
>21
では神武はだれでしょう?
23 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 16:40:28
UPしました!!
24 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 11:29:38
UP!
25 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 17:50:08
アマテラス=斉明・皇極
オオクニヌシ=蘇我入鹿
日本の王朝をクーデターで奪った天孫族(漢人)
それを正当化するためクーデターを国譲りとした
神武は?
27 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 23:04:16
神武なんて実在の証拠がまったくないデッチアゲの奴じゃん
だから作為と思われる皇統譜を歴史年代に当て嵌めてみているわけですわ >27
29 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 23:42:51
30 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:20:59
??
31 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:05:57
まあ、某スレで架空の天皇やら年代に、あれこれ考証してるコテハン見てると、
無駄な時間と労力を費やしてると思うね。
本職の研究者にはマトモに相手にされない失笑物の数字遊びだよ。
32 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 10:52:17
33 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 18:41:16
違うでしょう。
34 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:29:08
この人は境界
奇説珍説の類
36 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 06:32:15
.....
37 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 07:17:51
age
38 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 07:29:17
age
39 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 07:43:10
大国主は、長脛彦。
40 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 07:44:21
広瀬氏、最近降臨されてないね
天武と聖徳太子はデムパな人には便利な存在だよね。
42 :
日本@名無史さん:2007/06/28(木) 21:57:28
それはいえる。
43 :
広瀬満:2007/07/01(日) 20:39:55
降臨しました。
私の説を馬鹿にする前に一度じっくりと神話を読み直してみた方がいい。
44 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 22:41:01
大国主は、長脛彦。
ニギハヤヒは、天穂日命。
45 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 18:53:58
age
46 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 15:58:32
age
47 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:53:06
48 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 13:34:54
このスレは神話に関することなので、スレ主が空想したネタの真偽についてあれこれ言う気はないが、基本的な態度については問題ありだと思う。
まず、一般に著作物について、他人が勝手に創作を加えて公表する事は許されない。
例えば、ドラエモンやハリーポッタのラストや番外編を勝手に作って公表してはいけない。
もちろん、頭の中で勝手な想像をするのは良いが、書籍の形態であれネットの上であれ、公表することは法に触れる。
一方、多くの神話や伝説の場合には著作権はなく、それらを題材にして新たな創作が行われることは昔からよくあることだ。
しかし、このときに大事なことは、題材となる神話や伝説に対するリスペクト、つまり敬意を払うという態度である。
神話や伝説を編纂した者たちに対し、たいした根拠(コジツケとも言えないレベル)もなく捏造だの隠蔽だの陰謀だのとまるで腹黒い人間であるかのようにみなして、自分の勝手な創作を付け加えたり、ねじまげた話を作ったりする。
こういうことを頭の中で想像することはあっても、陰謀等について明確な根拠がない限り、口にするものではない。
神話を創った古代の人たちの情念を土足で踏み荒らし、神話を文書に編纂した人達の労を何ら省みることなく、こういうことを平然と行える人は、精神的に病んでいるとしか思えない。
49 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 16:44:28
トンデモ説と言うこともできないほどレベルが低い内容なので、もうどうにもウザ。
空想してオナニーしているようなものだよな。
ここは学問板なので、神話のこととはいえ、勝手な空想でオナニーされるのは迷惑。
自分のオナニーを他人に見せつけて快楽を感じる性格なんじゃねェのか。
50 :
広瀬満:2007/08/01(水) 18:14:23
>>48 まずこのレス主には大きな誤解がある。
私は古事記の現代語訳は試みているが勝手に創作を加えて公表しているわけではない。
学問の対象として古事記を研究しその結果を公開しているだけである。
このレス主のように現代人が小ざかしいことを言うな、古代人の声を黙って聞けというのも一つの考え方ではあるが私とは大幅に考え方が異なるのでこれ以上の反論は控えたい。
なお私自身は古事記を編纂した古代人の智恵と知識には大いに敬意を持っていることを付け加えておきたい。
広瀬
51 :
◆16/YXRFBRM :2007/08/02(木) 09:41:50
宗教か?
52 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 19:20:53
古事記は宗教だろう。
53 :
衣笠宮:2007/08/19(日) 11:03:45
広瀬さんお疲れ様です。
あなたの説を展開していくと
櫛名田比売(馬子の妻)の父は足名椎命(物部尾輿)で
兄は八俣大蛇(物部守屋)で妹を七人も食べたことになりますよね?
八俣大蛇の物語は単なる家族騒動だったのですね?
ついでに、下記の人たちは神話では誰を演じているのか
教えていただけませんか!
敏逹天皇、押坂彦人大兄皇子、孝徳天皇、有馬皇子
用明天皇、穴穂部皇子、崇峻天皇、山背大兄王
古人大兄皇子、高市皇子、大津皇子、舎人親王
物部麁鹿火、蘇我入鹿、蘇我倉山田石川麻呂、中臣鎌足
54 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 16:47:53
UP!
55 :
広瀬満:2007/09/14(金) 10:07:27
56 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 16:06:18
.
57 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 16:48:36
58 :
Ina:2007/09/21(金) 18:02:06
はじめまして。いつも読ませてもらって勉強しているものです。
今回はどうぞお手柔らかにお願いします。
さて、私は広瀬さんの見解とは違いますが、歴史書について色々
解釈なりなんなりを加えていく事は別段問題があるとは思いませ
ん。信じる人、批判する人、色々な見解があって初めて色々な事
が解明されていくものと思います。
それに、歴史書というのは古今東西を問わず勝者の側から見た視
点であるという面もあるので、それについてどう解釈するのか?
またそれについて他の人はどう思っているのか? という事で発
表する事は自然な事だと思います。
59 :
広瀬満:2007/09/26(水) 14:48:35
>>58 歴史書が常に勝者の視点で書かれているとは限りません。
『先代旧事本紀』のように敗者の物部氏の一族によって書かれたと思われる歴史書もあります。
ただ著述者の視点で書かれているとはいえます。
歴史書を読むにあたって重要なことは著述者がどのような人たちで、どのような意図の下に、
どのような編纂方針で書かれているかということを見抜くことだと思います。
わたしの説はかなり大胆な推理を駆使していますがそのような考え方の下に研究を進めたつもりです。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
60 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:34:23
>>50 >古代人の声を黙って聞け
「多くの神話や伝説の場合には著作権はなく、それらを題材にして新たな創作が行われることは昔からよくあることだ」を無視か?
広瀬氏の創作は、その人間的な態度に問題があると言っているのが理解できんのかな?
つまり、↓
>古代人の智恵と知識には大いに敬意を持っている
「神話や伝説を編纂した者たちに対し、たいした根拠(コジツケとも言えないレベル)もなく捏造だの隠蔽だの陰謀だのとまるで腹黒い人間であるかのようにみなして」いるくせに、敬意とは笑わせる。
61 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:36:42
このスレは神話に関することなので、スレ主が空想したネタの真偽についてあれこれ言う気はないが、基本的な態度については問題ありだと思う。
まず、一般に著作物について、他人が勝手に創作を加えて公表する事は許されない。
例えば、ドラエモンやハリーポッタのラストや番外編を勝手に作って公表してはいけない。
もちろん、頭の中で勝手な想像をするのは良いが、書籍の形態であれネットの上であれ、公表することは法に触れる。
一方、多くの神話や伝説の場合には著作権はなく、それらを題材にして新たな創作が行われることは昔からよくあることだ。
しかし、このときに大事なことは、題材となる神話や伝説に対するリスペクト、つまり敬意を払うという態度である。
神話や伝説を編纂した者たちに対し、たいした根拠(コジツケとも言えないレベル)もなく捏造だの隠蔽だの陰謀だのとまるで腹黒い人間であるかのようにみなして、自分の勝手な創作を付け加えたり、ねじまげた話を作ったりする。
こういうことを頭の中で想像することはあっても、陰謀等について明確な根拠がない限り、口にするものではない。
神話を創った古代の人たちの情念を土足で踏み荒らし、神話を文書に編纂した人達の労を何ら省みることなく、こういうことを平然と行える人は、精神的に病んでいるとしか思えない。
62 :
日本@名無史さん :2007/09/26(水) 16:03:18
おおむね、
>>61の意見に賛成します。
ただ、古事記の編纂を指示したのは、天武天皇ですが、
なぜ、壬申の乱の平定後に編纂をせざるをえなかったのか
などという古事記や神話に対する疑問をもつことも、必要か
とおもいます。
それと古事記を先入観をもたずに、素人の目で改めてみる
作業もじゅうようです。
右翼に利用された本居説、極端に神話嫌いな、戦後の津田説
のどちらでもない、客観的な古事記の読者の誕生を期待します。
63 :
Ina:2007/09/26(水) 18:36:52
すみません^^; 私は浅学の素人ですので良く解らないのですが、
>>61さんの意見の通リだとすると、この世から研究とか検証とか
そういうのは必要ありませんよね?
>>62さんが仰っているのと重複しますが、右派史観や戦後の左派史
観、そして客観的な人、それらの人が発表したものを批判なり検証
なりする事によって発展していくものだと思います。
私も正直広瀬様に100%賛同は出来ません。自分とは考えの違い
があるところも多々あります。ひょっとすると、この世のあらゆる
説に対して賛同できる事なんて無いとおもいます。
それにこれだけの昔の話し、ドラエもんが出てきてタイムマシーン
でも出してくれない限り、真実なんて中々見えないと思います。だ
からこそ、あらゆる視点からの批評というのが必要なのではないで
しょうか?
もしそれらが全て駄目だというのなら、それで潰れていく学説も多
々あるものと思います。
64 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 18:43:08
>>63 研究とか検証あるいは批判と敬意は別物です。
先学や論客に対しては、敬意を払いつつ批判を行うことが多々あります。
広瀬氏の最大の問題点は、たいした根拠もなく他人を陰謀家のように囃子立てることです。
(ここでいう他人とは、神話の伝承者や記紀の編纂者のことです。)
65 :
Ina:2007/09/26(水) 18:58:47
敬意をはらう事は確かに必要だと思います。それは
基本的に人間の取るべき態度だと思います。私自身
その通りだとは思います。
ですが、敬意をはらいすぎて前に進まないというデ
メリットもあるのではないでしょうか?
歴史とは、考古学であり文学であり芸術であり、そ
れと同時に政治でもある、と言われた事があります。
歴史書なり書物には、著者自身の政治的立場なりそ
ういうのが影響している可能性というのがあるもの
かと思います。
そうした場合、誰かの陰謀だと安易に片つけるのも
考えものではありますが、そういうのを全く無視を
して話しを進める事はどうかと思います。
例えば○沢氏も当初天智天皇・天武天皇非兄弟説を
主張され、兄弟とされたのは記紀編纂者やその背後
にいる朝廷の策謀だと言われていますし、蘇我氏渡
来人説を唱えてる幾つかの学者も似たような主張を
しております。
私はそれらの考えとは一切受け入れない人間ですが、
だからと言って彼らの大和朝廷策謀という考えがと
んでもないとは思っていません。
66 :
日本@名無史さん :2007/09/27(木) 17:53:57
井沢説もそれなりに面白かったが、天武天皇時代から
伊勢神宮を格上げし、記紀の編纂に着手せざるをえなかった
理由は不明でした。
67 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 20:37:07
>>64 広瀬氏の最大の問題点は、たいした根拠もなく他人を陰謀家のように囃子立てることです。
聞き逃すことの出来ない発言である。
私がたいした根拠もなく他人を陰謀家のように囃子立てたというが具体的に説明してもらいたい。
広瀬満
68 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 11:09:44
どうやら説明できないようである。
このような無責任なことを言うことが
レス主の言う「先学や論客に対しては、敬意を払いつつ批判を行う」ということなのであろうか?
広瀬満
69 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 15:18:27
著名人(神)同士をイコールで結びつける発想には飽き飽きした。
70 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 16:01:12
>たいした根拠もなく
根拠は、「同形の話」だからというだけで、それ以上の根拠はない。
しかも、
>>53と
>>55のやりとりを見ると、神話や記紀をところどころ自分に都合の良いところだけツマミグイしたものであることが明らかで、たいした根拠がないことは明白だ。
(自説に都合の良いところだけ取り出せば、多くの話が「同形」になるだろwww)
>他人を陰謀家のように囃子立てた
記紀の編纂者が「単なる偶然とは言えない」ような記述をしたと自分で言っている。
つまり、記紀の編纂者が陰謀家のごとく、「飛鳥時代の天皇達、出来事をモデル」として日本神話を捏造したという主張している。
71 :
日本@名無史さん:2007/10/04(木) 16:15:57
広瀬氏の根拠に従えば、都合のよい話だけ抜き取ってツマミグイし、断片的に同形と呼べることができればよいので、
(今日の)九州から兵を引き連れて関西へ攻め込んだので、
神武天皇=応神天皇・神功皇后=足利尊氏=西郷隆盛 ⇒ 同形?
(今日の)関東から兵を引き連れて関西へ攻め込んだので、
源義経=北条泰時=足利尊氏=徳川家康 ⇒ 同形?
それぞれ、同一人物又はモデルとなった人物だとよ。
アホらしかwww
72 :
Ina:2007/10/04(木) 17:26:07
あの〜 歴史って、断片的な部分をつまみ食いしている部分って
結構ありますよね?
>>71 さん の言ってる事は揚げ足取りだと
は思います。
それにつまみ食いしない歴史というものがあるのであれば、是
非見せていただきたいと思います。
73 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 23:14:27
ドキュンからバックアップうけている反日本記事捏造のアサヒる新聞。
恥ずかしくて公共の場では読めない新聞。
74 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 02:22:57
確かに、日本の国号、点脳の称号(大王から)は壬申の乱で勝利した
天武からだわなあ。
記紀も奈良時代になってからだし、天武が神武の役割でもおかしくない。
75 :
広瀬満:2008/01/04(金) 11:21:44
11月11日、出雲大社の拝殿にて「五節舞(ごせちのまい)」が奉納された。
五節舞は宮中の新嘗祭、大嘗祭において天皇の前で舞われる特別な舞である。
五節舞の起源は吉野の宮に行幸した天武天皇が夕刻に琴を弾いたところ、
前方の山に雲が湧き立ち、天女が舞い降りて五度袖を振って舞ったことが起源と言われている。
なぜこのような舞が大国主神の前で舞われるのかは大社に祀られている大国主神が天武天皇のことだと考えればわかりやすいであろう。
出雲大社は大国主神が天武天皇のことであることはよく認識しているのである。
広瀬満
76 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 15:50:19
??
77 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 23:31:56
でやまたの大蛇は誰よ?俺の住んでる地域じゃ神様なんだけどさ
78 :
広瀬満:2008/01/09(水) 15:17:27
79 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 19:39:12
.
80 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 20:42:27
■シラキとは『知らす城』のこと
古代の半島東南部に、志羅紀(シラキ)という倭人国が存在した。天日矛の祖国・シラキの国号の意味が、
ついに明らかになった。
シラキとは、『知らす城』の意味である。つまり、「首都」という意味の言葉なのである。
シラキとは金城(現在の慶州)の別名であった。古代日本人は、金城とその周辺地方をシラキと呼んでいたのだ。
なんと、1世紀頃まで、つまり漢朝の時代まで、シラキは半島南部の全域を支配していたらしい。
紀元前1世紀の半島にあった漢朝の地方領である真番郡・臨屯郡の南方に位置した韓(カラ)という国。
実は、この韓(カラ)こそが、神武天皇の皇兄=稲飯命によって建てられた志羅紀(シラキ)なのである。
日本海側から東シナ海側に至るまで、4世紀以降からミマナ・クタラと呼ばれるようになる地域まで、
シラキ領土だったのだ。
大和朝廷が半島南部を支配するために置いていた官庁・任那日本府は、3世紀頃までは金城(シラキの都)に
置かれていたのである。
しかし、3世紀頃から、北方の太白山脈からワイ族(朝鮮人の先祖)という異民族が志羅紀領の北部に
侵入するようになり、やがて志羅紀はワイ族に乗っ取られた。こうしてワイ族国・新羅が誕生したのである。
神功皇后の『新羅征伐』は、ワイ族に奪われた日本領土・シラキを取り返すための軍事行動だったのだ。
けして侵略ではなかったのだ。
81 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 01:50:01
記紀は16世紀に成立
祟神は信長の焼き写しで四道将軍は
北陸:柴田=大彦
山陰:明智=丹波道主
山陽:秀吉=吉備津彦
東海:滝川=武淳川別なのは明らか
柴田→鬼柴田→おにひこ(いろはで、「に」の次は「ほ」)→おほひこ→大彦
明智→ミンチ(音読み)→ミチ→道+明智といえば丹波→丹波道主
秀吉→サル→桃太郎のサル(前田→犬千代→イヌ、丹羽→にわ鳥→キジ?)→吉備津彦
滝川→たきがわ→たけかわ(武川)→たけぬなかわ→武淳川別
徳川家康→建埴安彦
徳:TOKU
母音を一つずらす(A→I→U→E→O→A)
健:TAKE
建=徳川
『いへ』やす=《はに》やす
『い』ろ《はに》ほ『へ』 『いへ』→《はに》
埴安=家康
本能寺の変=建埴安彦の乱
>81
架空の名前の作り方に規則性がねーな
考古でも文献でも、そんな資料は信憑性がないと言われるよ
>あんたの作ったこじ付け偽説
「大海人皇子が天皇に即位したいきさつが大国主の神話として語られていた」
という広瀬氏の仮説を認めるとして、
その神話を語った者と語った時期および、
その語りを「古事記」に成書化した者と成書化した時期は、
それぞれ、誰であり、何時であると(広瀬氏は)考えていますか。
「大海人皇子が天皇に即位したいきさつが大国主の神話として語られていた」
という広瀬氏の仮説を認めるとして、
その神話を語った者と語った時期および、
その語りを「古事記」に成書化した者と成書化した時期は、
それぞれ、誰であり、何時であると(広瀬氏は)考えていますか。
85 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 16:18:32
>>75 ここまでバカだと、いいかげんウザい。
五節舞は、現代では新嘗祭や大嘗祭だけで舞われるものではない。
京都御所や冷泉家で舞ったという記事もあるし、アマチュアでこの舞を稽古し披露するサークルのようなものもある。
2007年11月11日に、たまたま出雲大社でも舞われたというだけのこと。
「出雲大社は大国主神が天武天皇のことであることはよく認識している」など、何の根拠もない妄想。
というより、悪質なデマ。
86 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 16:34:38
>>81-82 81さんも「記紀は16世紀に成立」など、本気で考えているわけではないでしょう。
これは、広瀬氏の説のパロディで、広瀬氏の方法論はこの程度の幼稚なこじつけ以下のものだと、暗に言いたいのでしょう。
神話の伝承者や記紀等の編纂者を捏造・隠蔽と陰謀家呼ばわりし、(
>>48)
自説に都合の良いところだけツマミ食いし、(
>>53、
>>55)
推論と呼べるような論理展開もなければ、たいした根拠もなく、(
>>71)
ときに悪質なデマを垂れ流す。(
>>85)
それが、広瀬流!!
87 :
広瀬満:2008/01/16(水) 18:12:35
>>83 出雲大社に天武天皇が大国主として祀られているというのは私にとってはもはや仮説ではなく確信である。
*天武天皇の下で編纂されたといわれ天皇家の歴史をしるした「古事記」に天皇家の歴史とは関係の無いような
大国主の神話がいきいきと並々ならぬ分量でなぜ記載されているのか。
*皇統が天武系であった奈良時代の初め(神魂神社に716年創建の記録がある)に出雲に巨大な神殿がなぜ建造されたのか。
*天皇家と大社を祀る出雲国造の間で他に例を見ない「出雲国造神賀詞」奏上のような重儀がなぜ執り行われていた。
これらの謎も天武天皇が大国主として出雲大社に祀られていると考えればわかり易いだろう。
また日本の国の形を創った天武天皇を祀る神社だからこそ出雲大社は日本大社とも呼ばれていたのである。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
*皇統が天武系であった奈良時代の初め(神魂神社に716年創建
の記録がある)に出雲に巨大な神殿がなぜ建造されたのか。
←(鳥越説にヒントを得た)上山=梅原説だと、神祇革命で神々が
流竄(ルザン)されたからである、という説明になりますね。
89 :
広瀬満 :2008/01/16(水) 20:33:59
90 :
広瀬満 :2008/01/16(水) 20:37:48
>>85 バカはそちらにお返しするが、このすっとこおやじにしては比較的まともな質問なので答えてみたい。
抽選に当たったわけでもあるまいし、たまたま舞われたというのでは説明にもならないし反論にもなっていない。
五節舞に関する法的規制は無いのでアマチュアでこの舞を稽古し披露するサークルのようなものがあっても問題ではないし、不思議でもない。
首相官邸で首相の前で舞われたというのならともかく、京都御所で舞われるのなら「宮中」に準じたものであるし、皇室の行事に深く携わ
りいまなおその伝統を保持する冷泉家が伝統継承のために舞うというのも当然だろう。
問題は皇室を崇敬すること特に篤い出雲大社で宮中で舞われる五節舞がなぜ舞われたかである。
出雲大社には天武天皇が大国主として祀られているという認識があるものと考える。
広瀬満
91 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 20:55:38
じゃあ奴名川姫や建御名方命って誰になるの?
92 :
広瀬満 :2008/01/16(水) 21:17:42
>>91 すべての神にその実体があるとは言っていない。
93 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 21:26:13
酔っているのかね?
「義経が、チンギス・ハン」だと言うのと同じレベルに聞こえるが!
きっと「4400」を信じているだろう!
88を書き込んだ者です。
「日本の国の形を創った天武天皇を祀る神社だからこそ
出雲大社は日本大社とも呼ばれていた」
←広瀬氏の「大国主伝」にはこの説明はありませんが、
「日本大社」の出典は何ですか?
95 :
広瀬満 :2008/01/17(木) 09:26:27
>>94 出雲大社が日本大社とも呼ばれていたことは大社に関する多くの書籍、HPで紹介されている。
古書では真言宗正林寺蔵版木、駿府記等にその名が見える。
広瀬満
96 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 11:02:45
>>90 「出雲大社は大国主神が天武天皇のことであることはよく認識している」ということを出雲大社の者が名言したのか?
「出雲大社には天武天皇が大国主として祀られているという認識があるものと考える」
広製氏が「・・・考える」だけのこと。
すなわち、きちんとした出雲大社の話が無ければ、広瀬氏の妄想にすぎない。
88と94を書き込んだ者です。
オオクニヌシはオホナムヂ、ヤチホコなど、複数の神を重ね合わせてできた神格ですが、
この複数の神々が日本を表すとも考えられるので、
上山=梅原説と広瀬説を習合した方が、より古代の真相に近づくと思います。
その場合、たとえ天武がオオクニヌシを創作したのだとしても、
現「古事記」での位置付けは、天武以降の誰かによるものです。
98 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 11:21:55
>>90 「出雲大社は大国主神が天武天皇のことであることはよく認識している」ということを出雲大社の者が明言したのか?
「出雲大社には天武天皇が大国主として祀られているという認識があるものと考える」
広瀬氏が「・・・考える」だけのこと。
すなわち、きちんとした出雲大社の話が無ければ、広瀬氏の妄想にすぎない。
出雲系の神様はトンデモの材料としてよく使われるが、こいつの説は発想貧困かつコジツケがひどくて、面白くもなんとも無い。
大いに迷惑。
自分のサイトにひっこんでいろっての。そこで口の端から泡吹きながら妄言を垂れ流していればよかろう。
99 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 11:23:16
>>87 >天皇家の歴史とは関係の無いような大国主の神話
大国主が豊かな国を治めていたというのは、記紀のメインテーマのひとつの天孫降臨や天譲無窮の大前提じゃんか。
記述の分量が多いことに不思議はないし、「天皇家の歴史とは関係の無い」など記紀そのものへの無理解が丸出し。もうアホかと。
>天武系であった奈良時代の初めに出雲に巨大な神殿がなぜ建造されたのか
天武系であった奈良時代の初めに編纂された記紀に、きっちり理由が書いてあるじゃんか。
天武系であった奈良時代の初めに編纂された記紀の信憑性を高めるためにも、その記述どおりの建造をすることに、なんの不思議もない。
>出雲国造神賀詞
時代は? 天武系との関係は?
(天皇家と関係があるのは、このスレでは何の根拠にもならんぞ。論理的思考力、大丈夫か?)
>これらの謎も天武天皇が大国主として出雲大社に祀られていると考えればわかり易いだろう
謎などない。むしろ、こんな考えをすれば、かえって謎が増えてしまう。
100 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 11:33:19
>>90 問題は皇室を崇敬すること特に篤い出雲大社で宮中で舞われる五節舞がなぜ舞われたかである
「皇室を崇敬すること特に篤い出雲大社」が「伝統継承のために舞うというのも当然だろう」
自分で答えを言ってるようなものじゃん。
問題解消
ゆえに、五節舞は根拠にならず。
101 :
日本@名無史さん:2008/01/17(木) 11:36:44
>>92 すべての神にその実体があるとは言っていない。
自分に都合のよいとこだけ、ツマミぐいするな!!
さらに追加して助言すると、
広瀬氏の仮説(妄想であれ真相であれ)を成立させるために、
古事記序文偽書説を採用する必然性はない、と考えられます。
103 :
広瀬満 :2008/01/17(木) 16:31:36
>>97 「古事記」を読む限りオホナムヂは大国主の前名、ヤチホコは別名としか読めないが
大国主が複数の神を重ね合わせてできた神格だとする根拠は何か?
現「古事記」での位置付けは、天武以降の誰かによるものだということだがもっと具体的に説明してほしい。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
104 :
広瀬満 :2008/01/17(木) 17:35:16
このすっとこおやじもなかなかがんばるものである。
>>96,
>>98 きちんとした出雲大社の話が必要なら大社に電話して聞いてみたらどうだろうか。
>>99 たしかに大国主が国を治めていたというのは、天孫降臨や天譲無窮の前提にはなっているが前提だけなら「大国主という神が地上を支配していた」と書くだけでよい。
あのような大分量で大国主が国を治めることになった波乱万丈の物語を書く必要は無い。
神武東征では荒ぶる神々の存在がその前提としてあるが大国主のような物語は皆無である。
記紀の信憑性を高めるために、その記述どおりに巨大な神殿を造るぐらいなら最初から記述しておかなければよいだけのことである。
「出雲国造神賀詞」については「続日本紀」に霊亀二年(716)出雲国造果安による神賀事の奏上の記事があるのが初見である。
>>100「皇室を崇敬すること特に篤い出雲大社」が「伝統継承のために舞うというのも当然だろう」
たまたま舞われたといっておきながら答えに窮したのか今度は伝統継承のためだと言い出した。
「伝統継承のために舞うというのも当然だろう」というのは大社ではなく冷泉家に関しての話である。
「自分に都合のよいとこだけ、ツマミぐいする」とはこのような行為を言うのである。
>>101 自分に都合のよいとこだけ、ツマミぐいするな!!
そのまますっとこおやじにお返しする。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
>>103 83,88,94,97,102を書いた者です。当スレッドにおけるハンドル名を
「にんとく」とすることに決めました。
(広瀬)「古事記」を読む限りオホナムヂは大国主の前名、ヤチホコは別名
としか読めないが、大国主が複数の神を重ね合わせてできた神格だとする
根拠は何か?
←スサノヲの5代目が大国主。亦の名はオホナムジ云々。「それぞれの神名
による神話を大国主神に統一したのである。」(岩波文庫『古事記』42頁
の注記)「オホナムヂは大国主の前名」というのは広瀬氏の誤解です。
(広瀬)現「古事記」での位置付けは、天武以降の誰かによるものだ
ということだがもっと具体的に説明してほしい。
←天武が自らの位置づけのために大国主の形象を用いたというよりは、
天武以降元明までの間に、アマテラスと対比させるために
天武に大国主の形象を与えた、と考えた方がよい、という意見です。
私は上山=梅原説を都合のいいように採択しているので、
不比等の名が口元に出てきます。
あと、ついでに書きますが、天孫の降臨は、(広瀬氏のいう)敏達―舒明
以外に、景行―仲哀、持統―文武、元明―聖武、のケースがあることを
お忘れなく。
106 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 10:32:49
・・・・
107 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 14:16:30
>>104 >出雲大社の話が必要なら大社に電話して聞いてみたらどうだろうか
「出雲大社の話」を必要としているの広瀬氏のほうだろうが・・・。
自説の重要な根拠なのだろう。
他人の「認識」を勝手に「考える」だけでなく、きちんとソースを示せということだ。
ここまで論理がムチャクチャだと、ますます頭が大丈夫か心配になる。
>「大国主という神が地上を支配していた」と書くだけでよい
記紀は業務報告書ではないので、用件だけを簡潔に書いているわけではなく、説話なども書かれている。
例えば、浦島太郎の原型となる話(雄略二二年の浦嶋子)まであるというのに・・・。
また、記紀は単なる皇統譜ではなく、日本の成り立ちを扱う書物である。
大国主の事跡、特に少彦名と協働での国造りや少なくとも出雲から大和の三輪に至る国造りは、日本という国の成り立ちを語るうえで重要。
(中学生あたりに古事記入門のおはなしをしているみたいで・・・orz)
「出雲国造神賀詞」については、天武と直接の関係はないという結論でよいのだな。
108 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 14:18:31
>>104 五節舞が舞われたことを自説の根拠にしたいなら、本来は、五節舞について、どのような時期に、どのような契機で、出雲大社で舞われたのかを明らかにする必要がある。
例えば、毎年なのか、何年かおきなのか、特定の季節や時期に舞われるのか、などである。
(こういう説明がないのが、そもそも不誠実である。)
ところが、
もしも、出雲大社で何度も何度も舞われていたというのであれば、
「五節舞は宮中の新嘗祭、大嘗祭において天皇の前で舞われる特別な舞である(
>>75)」
という広瀬氏の前提がウソということになる。
逆に、去年、舞われただけというのであれば、
目的:伝統継承のため
時期:たまたま
で矛盾はない。
ゴミ箱の隅を突付くような揚げ足取りばかり考える下劣な性格だから、こんな簡単な論理も分からんのだろ。
109 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 16:30:59
記紀のメインテーマである天孫降臨において、出雲側を直接制圧したのは建御雷である。
大国主の子の事代主は建御雷に脅されて自害、もう一人の子の建御名方は建御雷に諏訪湖まで追撃されて殺害され、大国主本人も建御雷に促されて自害というのが、ありきたりの読み方だ。
そして、建御雷が藤原氏の氏神であることは、常識中の常識。
大国主が天武をモデルとしたのでは、藤原氏の氏神が天武親子を滅ぼしたことになってしまう。
大国主が天武をモデルとしたなどありえない。
110 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 16:34:49
大国主を取り巻く人物は速須佐之男や須勢理毘売や八十神だけではない。
大国主と「兄弟になって」国造りを行った少名毘古那
大国主と大和地方との直接の関係を示す三輪山の神(御諸山上に坐す神)
大国主親子を滅ぼした建御雷
この三人も大国主を語る上で欠かせないのだが、広瀬氏は無視 !!!
というより「同形」という陳腐な屁理屈をもってしても、まっとうな解釈は不可能らしい(爆笑)
広瀬氏の説は、トンデモとしてもC級以下の汚物
111 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 16:35:56
オオクニヌシは雄略天皇。
継体天皇の即位から大和入りまでの20年は、雄略朝と継体朝の戦いの20年。
112 :
にんとく:2008/01/18(金) 16:47:11
>>109 藤原氏の氏神が天武親子を滅ぼしたことになってしまう。
←藤原氏の氏神(いつから氏神だったかは不明)が、
天武親子のイメージを(神話における語りとして)滅ぼしたことになる、
というのが正確な表現。不比等(の一派)が天武親子を滅ぼしたという
歴史的事実があるなら、この語りもありえる、と私は考えます。
113 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 18:16:30
114 :
日本@名無史さん:2008/01/18(金) 18:17:39
115 :
にんとく:2008/01/18(金) 20:13:48
>>113 どのような根拠に基づけば、「不比等(の一派)が天武親子を滅ぼしたとぼした」と言えるのだ?
←「天武親子」というのは若干言いすぎであった。草壁亡き後の皇位継承において、
最適の候補者(吉野の盟に加わった王子たち)が次々と去っていくのは
ご承知のとおり。これは、本音において天武の反乱を快く思っていなかった
天智系の者たちが、持統と不比等に協力したためである。(私は、不比等天智落胤説を
ありうることと考える。)高市皇子の死も怪しい、というのは梅原氏も
漏らしている(単に直観にすぎないが)。
>>95 出雲大社が日本大社とも呼ばれていたことは大社に関する多くの書籍、
HPで紹介されている。
←検索してみたが「日本大社」のタームでは出てこない。「HPで紹介されている」
というのは本当か?「出雲大社は、古代より杵築大社と呼ばれていたが、
明治4年に出雲大社と改称した。」というのが本当らしく思えるが。
117 :
広瀬満:2008/01/19(土) 14:15:12
>>116 Googleで検索したのではなぜか出てこない。Yahooで検索すればよい。
広瀬満
>>117 「Yahooで検索すればよい」との助言には感謝。
しかし、「日本大社五社稲荷大明神、宇治黄壁山、平等院、等々」
というページも出てくる。ここの「日本」は「日本有数の規模の」
という意味かもしれず、広瀬氏が、日本大社と呼ばれていたから
オオクニヌシ=天武である、とする論拠にはならないのではないか
と感じた。たとえ傍証のつもりだとしても危ういと思う。
119 :
日本@名無史さん:2008/01/19(土) 16:57:05
で奴名川姫と建御名方は誰になるの?
120 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 11:57:53
大友皇子が大国主であり、長脛彦であると思うけどね。
>>119 奴名川姫はヤチホコの妻で特定は困難と思う。建御名方は拙論の要で
あって、気づいた人には解るだろうと言っておく。
>>120 広瀬氏はそれなりに体系だって構想しているらしい。
大友皇子が大国主であると思う理由は何でしょうか。
体系だった構想の場合は、自費出版もあり得るでしょう。
広瀬氏に助言をさせていただきます。
蔵書のリストを拝見すると、多種多様の古代史家の著作を読まれたようで、
古代史マニアのお一人だということがわかります。
日本古代史はさっぱり真相がつかめない。素人であっても仮説が立てられる。
たしかにそのとおりだと思います。あとは、(1)仮説がどれくらい検証に耐えられるか、
あるいは(2)その仮説によって何が明らかになるか、が、その仮説の価値になる
わけです。オオクニヌシ=天武という定式は、どのような派生的な結果を
もたらすでしょう。これは(2)に係る質問ですが、(1)の方もちょっと怪しげなので、
御解答は気が向いたらで結構です。
123 :
広瀬満:2008/01/21(月) 08:42:23
>>105 いろいろ質問をいただき感謝する。返答が遅れていることをまずはお詫びしておきたい。
岩波文庫『古事記』の注記は仮説に過ぎない。
他人の仮説に無批判に便乗するのはどうかと思う。
大国主に別名が多いのは天武が大国主以外にも多くの名前で祀られていたとも考えられる。
オホナムヂが八十神を追い払い、葦原中国の支配者である大国主となったのであるからオホナムヂは大国主の前名でよいのでは。
持統―草壁ー文武、元明―文武ー聖武の2組は確かに直接血で繋がっているが
アマテラスーオシホミミーニニギのアマテラスとオシホミミの間には直接的な血の繋がりはない。オシホミミは
スサノオの側で誕生している。その後アマテラスの太子とされたのである。
上山=梅原説は持統天皇が文武への譲位を正当化するために天孫降臨の神話を創作したとしているがもしそうだとすると
なぜアマテラスとオシホミミの間が直接的な血の繋がりがないような話となっているのか理解できない。
私は上山=梅原説に対しては否定的である。
広瀬満
http://www.kojikiden.com
124 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 12:48:17
高市皇子=たけみかづち
栗隅王=事代主
(広瀬)なぜアマテラスとオシホミミの間が(太子ではあっても)
直接的な血の繋がりがないような話となっているのか
←血縁関係は、捏造できる場合と、できない場合があるでしょう。
「記紀に異伝があるが、最終的にはアマテラスの子と認識される点では
一致している。}(出典:『日本神話必携』177頁)
通説を否定するには、論拠が必要。後輪の場面は、タカミムスビーニニギに、
アマテラスーオシホミミを接ぎ木(言わば捏造)したものとされています。
126 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 14:42:05
>>115 単に直観にすぎないが
「不比等(の一派)が天武親子を滅ぼしたとぼした」の根拠はないという結論だな。
127 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 14:45:10
欠陥だらけの妄想。その一つが、
大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)の説明が不可能なまま。
これでは、トンデモ説以下の汚物
>>126 「広瀬氏」と「にんとく」は、発想も仮説も異なります。
というより、まだ体系化しておりません。
「不比等(の一派)が天武親子を滅ぼした」の根拠はない
というテーゼは認めますが、
「不比等(の一派)が天武子を滅ぼした」の根拠はある
というのが私の仮説です。127が言及しているタケミカヅチは
不比等(の一派)をイメージさせます。
「トンデモ説以下の汚物」かどうかは、もう少し体系化してからで
ないと、決めつけられないと思いますよ。
129 :
広瀬満:2008/01/21(月) 19:09:49
>>125 確かに最終的にアマテラスの子とされるのだが確実に血の繋がった実子と
血の繋がりのあやふやなまるで養子のような関係とは大きな差があるのでは。
あなたはなぜそれほどまでに通説にこだわるのか。
通説は定説とは違う。通説は論拠は不十分でも支持が多ければ成立する。
論拠が不十分なのだから否定するのに十分な論拠を示さなければならないほど重要なものではないと思う。
広瀬満
>>129 なぜそれほどまでに通説にこだわるのか
先ず、上山=梅原説は通説ではないと思います。
津田説も怪しい、くらいではないでしょうか。そこで百家争鳴状態。
だが、通説にも、異端説にも、部分的な「真相解明」が含まれている
というのが現状だと思います。広瀬さんの蔵書には無いようですが、
岡田英弘の倭国論だって採用すべきところがありそうですし、
古田説も、信奉はしませんが、無視するわけにはゆきません(景行天皇)。
「通説にこだわる」というのでなく、自説を固めてゆくためには
通説の誤りを指摘・訂正しながら進めるべきである、ということです。
でないと、匿名の人から妄想家呼ばわりされます。
例えば、川副武胤の古事記論でも、採るべきところは採ります。
異端説ですが、説として命脈を保っていると判断して。
131 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 12:43:21
これまでの経緯
1 デタラメな説をタレ流すが、しだいに相手にされなくなる。 (2007/04/22〜)
2 基本的な態度について問題ありと指摘されるが(
>>48)、旗色悪しと見るや「大幅に考え方が異なるのでこれ以上の反論は控えたい」(
>>50)と一方的に引きこもり。(これも広瀬氏お得意の卑怯技)
議論がいやなら、こういう場にでてこなけりゃいいのに・・。 (2007/07/23〜)
3 「たいした根拠もなく他人を陰謀家のように囃子立てること」は問題だと指摘されたことに怒って見せるが(
>>67)、一撃で返り討ちにあい、またまた沈黙にはいる。 (2007/09/29〜)
4 年が明けて、五節舞という新ネタがはいったので喜々として書き込むも(
>>75)、何の根拠にもならないと完全論破され、この話題も沈黙。(2008/01/04〜)
5 ほぼ同時期に「にんとく」というお友達ができ(
>>105)、二人のやり取りで相互にドーパミンを出し合ってエエ気持ちになるも、話の内容は本質から関係ないものへどんどんズレ、ついに「通説とは何か」みたいな学生の歴研の飲み会のようなレベルに。
より本質的な、
>>109-110 について説明不能であり、また同じ方法論を用いると
>>71 のようなアホらしか状態になるので、
大 国 主 伝 は破綻しました。
>>131 「これまでの経緯」は、とりわけ「にんとく」に対するもの、と受け取りました。
トンデモ本の制作にお金をかけるだけの気構えもないが、トンデモ本のレベル以下の
デタラメ説をタレ流す場として2ちゃんねるが使われるのは不愉快この上ない、
という発想はよく理解できます。しかし、少なくとも広瀬氏は固定ハンドルを用いた上に、
手の内をさらけ出しているという点では、匿名の131より評価すべき点が、
僅少なりとはいえ、あると考えます。
「議論がいやなら、こういう場にでてこなけりゃいいのに・・。」という指摘についても
同感ですが、古代史マニアの中にはこういうタイプもある、
と捉えるだけでよいのでは?
「ほぼ同時期に「にんとく」というお友達ができ(
>>105)、二人のやり取りで
相互にドーパミンを出し合ってエエ気持ちになる」との指摘は、
ちょっと誤解が混ざっています。私は「オオクニヌシ=天武」の位置づけに
関心を持ったのであって、今現在、広瀬氏の論拠は極めて薄弱だと思い、
失望しております。「大国主伝」は、古代史の一仮説としては破綻している
かもしれません。しかし、「学生の歴研の飲み会のようなレベル」の話も、
2ちゃんねる向きと言えるのではないですか?
次は、より本質的な、
>>109-110 についてです。
109 出雲側を直接制圧したのは建御雷(藤原氏の氏神)。
事代主は建御雷に脅されて自害。建御名方は建御雷に諏訪湖まで追撃されて殺害され、
大国主本人も建御雷に促されて自害。
←原文には「子等(・)の白す随に僕は違はじ」とありますから、
「大国主本人も建御雷に促されて自害」は一解釈にしかすぎません。
110 大国主を取り巻く人物は速須佐之男や須勢理毘売や八十神だけではない。
少名毘古那。三輪山の神(御諸山上に坐す神)。建御雷。
←各々は異なる神であったものを、オオクニヌシの名で一括した
(そして流竄させた)というのが梅原説です。私はこの説に賛同したい
と感じています(まだ体系立って考えてはおりませんが)。
私は、たとえ「広瀬氏の説はトンデモとしてもC級以下の汚物」であっても
なお得るところがあるかな、と期待して、ネット上のやり取りを
楽しんでいるわけです。
仏典に、本文、注、疏があるように、文献には、一次資料、二次資料等々がある。
これは一種の比喩であるが、古代史は、A:あるべき一次資料、
B;Aを加筆潤色した二次資料たる記紀(の歴史記述)、
C:Bの解釈である三次資料(主流傍流を含む通説)、
D:トンデモ本(邪説に近いもの)、E:完全な邪説、と階層づけられよう。
広瀬氏の論は、ある人々にはEであるが、私はDの評価であり、
本人が柔軟になってCに持っていってくれればよいのにと思っている。
広瀬氏のテーゼ「大国主の神話が天武天皇の物語であること」は、
天武自らの創作という発想を改めれば、一仮説として成立すると考える。
また、「日本神話は飛鳥時代の天皇達、出来事をモデルに書かれている」(広瀬)
というテーゼは、「日本神話は飛鳥時代以降の天皇達、出来事をモデルに
(古伝等を踏まえた上で)構成されている」(にんとく)に改めれば、
これも一仮説として成立すると考えます。
広瀬氏の論が、EでなくDであると考えるのは、
(1)「素戔嗚」の名は「蘇我」を「素鵞」と書き、これを次の順序で変化させる
ことで創り出されたものと考えられないだろうか。蘇我→素鵞→素我烏→素戔嗚。
(2)スサノオの正体は蘇我馬子で、ヤマタノオロチの正体は物部守屋なのでは..
(3)朱鳥元年(六八六)六月十日天武天皇が病気になりその病を占うと、
草薙の剣の祟りとでたので、すぐに尾張国の熱田神宮に送って安置したとの記述が
『日本書紀』にあるが、このことからも草薙の剣が物部氏に由来する剣だとわかる。
というような、一見荒唐無稽と思わせるところのある論調が、川副武胤のある論を
思わせ、完全な空論ではなさそうな点です。
>>103「古事記」を読む限りオホナムヂは大国主の前名、
ヤチホコは別名としか読めない
>>129 あなたはなぜそれほどまでに通説にこだわるのか。
103のこの主張自体(「前名」)が誤読に近い、あるいは誤読そのものである。
が、おそらく広瀬氏はこのことを理解しないであろう。
129の「通説」については、通説がどのような根拠で成立しているか、
個々のテーゼについて押さえる必要がある。
ここで「にんとく」による現時点での、広瀬氏の論の位置付けを述べよう。
広瀬氏の論は、およそ学問的検討に値しない妄想に近いのであるが、
その一方で、上代の『古事記』の読み手の中に「大国主の神話は
天武天皇の物語である」と感受した人物がいた、
という可能性を示唆しているのである。
私は、このスレッドのタイトルに惹かれて参加したわけであるから、
@大国主の神話は天武天皇の物語である。
A日本神話は飛鳥時代以降の天皇達、出来事をモデルに
(古伝等を踏まえた上で)構成されている。
という仮説が成り立つかどうかを、このスレで順次論じてゆくことにする。
(第1回)
ほとんどの古代史家は、オホクニヌシの物語を、
『古事記』の記述に従って理解している。
つまり、オホアナムチか、ヤチホコか、それ以外か、
という行動の主体を区別していない。
しかし、『古事記』を偽書でなく秘書(秘密の書)である
と捉えるのであれば、『日本書紀』に従って理解すべきである。
原文を見れば判るように、オホクニヌシは、本文には現れず、
一書に「スサノヲの6世の孫」として名称だけが出現している。また、別の
一書では「オホクニヌシ、別名オホモノヌシ、別名オホアナムチ、云々」
と、これまた名称のみで、実際に活動するのは、オホアナムチなのである。
つまり、日本古代国家が720年に認定したオホクニヌシは名称のみであって、
現代人のほとんどが知っているオホクニヌシの事績は、
712年の『古事記』の読み手にのみ通用するのである。
このことをまず熟慮してもらいたい。(第1回おわり)
139 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 16:39:13
140 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 18:27:07
>>133 大国主親子の最期について、事代主:自害、建御名方:殺害、大国主:自害というのがトンデモの世界の常識のようなものなので、きちんと原文に当たらずに書いてしまいました。すみません。正しくは、次のとおり。
事代主 :船を踏み傾けて・・・隠れた(記) 船の側板を踏んで海中に退去(紀)
建御名方:(生死不明(記)) (記載なし(紀))
大国主 :(生死不明(記)) 隠れた(紀)
大国主は古事記では八十神に2度も殺されており、1度目ははっきり「而死」と書かれていますので、「隠れた」と「死んだ」は別というのも一理ありますが、やはり「隠れた」は「死んだ」の意味ととり、前後の状況から大国主は自害したという解釈が一番しっくりきます。
建御名方は殺されたのではないという解釈は、一理ありです。しかし、出雲や大和から遠い諏訪から出ることは許されなかった。
事代主は、その記述を読めば、船から入水自殺したというイメージを思い浮かべるのが普通の感性ではないでしょうか。
いずれにしろ、建御雷が大国主親子を滅ぼしたといって、過言ではありません。
建御雷は鹿島神宮や春日大社の祭神であり藤原氏の氏神であることは常識中の常識ですので、大国主=天武とすると、
藤原氏の氏神が天武親子を滅ぼす話をわざわざ記紀で創作したことになってしまいます。
141 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 18:33:19
142 :
日本@名無史さん:2008/01/24(木) 18:36:15
例えば、天照大神を取り巻く神はたくさんいますが、その中で、
天照大神、忍穗耳、瓊瓊杵を取り上げて、それぞれ、持統、草壁、文武の投影であるというのは有名な説ですが、これなどは、ありえるかなとも思えます。
記紀における重要性や、忍穗耳を中心とした系譜の類似性が高いからです。
しかし、広瀬氏の、天武が大国主のモデルというのはだめです。
広瀬氏は「葦原中国の王となり国づくりを始めるという神話」、すなわち大国主が葦原中国を治めるまでしか着目しません。
この時期に重要な神としてスサノオがいますが、古事記では大国主は須佐之男の6世の孫、日本書紀では素戔嗚の子となっていて、記紀に系譜の混乱があり、ここで系譜的なアナロジーを考えることはとてもセンスが悪い。
天武のほうでも、高市や英雄である雄依など、また大友の側なども、まったく投影されていないことになる。それでも「同形」なんぞと強弁しているだけです。
しかも、記紀において、皇統の系譜上、より重要な天孫降臨・国譲りの場面では、主要な神の説明が不能、また系譜の類似性も低い。
まったくダメダメです。
(ブレークタイム)
>>139 「御自分のスレを立ち上げたほうがよい。書き込みが低レベルの中に
埋没してしまうのはもったいない。」はありがたいお言葉ですが、
立ち上げ方を知らないのと、まだ完全に体系だっていないので、とりあえずは
139さんのような方もご覧になっている、ということで満足できます。
>>140 事代主の位置付けは意見を同じくします。建御名方が日本書紀に
記載のないことは従来から大問題なのですが、これは拙論の要(カナメ)の一つです。
説話の語りは、建御名方の殺害を示唆しています。大国主の物語は、青年の
通過儀礼等複雑ですが、これも日本書紀に出てくるのは名前だけである点に
注意しましょう。
○大国主=天武とすると、藤原氏の氏神が天武親子を滅ぼす話をわざわざ
記紀で創作したことになってしまいます。
←ここが考えどころです。草壁皇子の死去から文武の即位までに、吉野の盟に
参加した皇子たち、志貴(天智の皇子。天武の皇子のシキは不明で、
ここにも謎があります。)、大津、河島、忍壁、高市は、どのような末期を
迎えたでしょう。天智系のアマテラスに対抗するスサノヲ=オホクニヌシ、
つまり天武と天武系の皇子(志貴、河島は天智系ですが)とを、一括して
根の国に追いやらねばならなかったのです。何のために? もちろん、
説明を迫る元明天皇のために、です。
>>141 梅原の「神々の流竄」・・はムチャクチャ・・。
梅原氏は、三輪山の神の部分については8割方誤りだと(文庫版の後書きで)
述べています。ですから、私は盲信しているわけではありません。
聖徳太子は未だに不分明ですが、「水底・・」の人麻呂水死説は
大いにありえると考えます(実はこれも拙論の要です)。あと、
「海女と天皇」の「不比等の娘宮子は養子」というテーゼも多分真実でしょう。
>>142 天武が大国主のモデルというのはだめです。記紀に系譜の混乱があり、
ここで系譜的なアナロジーを考えることはとてもセンスが悪い。
←これもおっしゃる通りです。私は、「天武が大国主のモデル」なのではなく、
アマテラスと対抗するスサノヲ=オホクニヌシという対立項を構想せしめたのが
天智対天武である、というテーゼですから、推古以降に生きた人々が誰を
スサノヲに投影したかというようなことを、この線で考えるつもりです。
(第2回)
「アマテラス−オシホミミ−ニニギ」の系譜が「持統−草壁−文武」
「元明−文武−聖武」と繰り返される点に注目・強調したのが、上山
=梅原説であった。(この発想自体は、筑紫申真『アマテラスの誕生』
に溯る。あるいは、この説は戦前には公にできなかったかも知れない。)
この説について、西宮一民等の異論があるが、それでは「(降臨の主体が)
皇子でなく皇孫である理由は何か」との設問については、「降臨するのは
嬰児でなければならないから」というような説明しか与えられていない
(中西進)。私は、タカミムスビ−ニニギの降臨に、アマテラス−
オシホミミを接合したと考える説に与する。景行天皇−仲哀天皇、
敏達天皇−舒明天皇、の時代にその原型ができたという仮説は不可能では
ないが、その時代以降の皇位継承が説明困難になり、不毛であろう。
さて、万167(西暦689年)から要所を引く。「天照らす日女(ヒルメ)の尊
天をば知らしめすと、葦原の瑞穂の国を天地の寄り合いの極み知らしめす
神の命と・・神下しいませまつりし高照らす日の皇子は・・天の原石門
を開き神上りあがりいましぬ」
この長歌に描かれているように、天は日女の尊が、地上の国は天から
下っていた日の皇子が統治していた。反歌に「あかねさす日は照らせれど
・・月の隠らく惜しも」とあるように、ここでは、天−日、地上−月、
という対比が観想されている。つまり、689年の時点における王権の
コスモロジーは、アマテラスとツクヨミに対応しており、
スサノヲは未だ組み入れられてないのである。
(第2回おわり)
(第3回)
第2回前半部分で言及した西宮一民の異論はこうである。(西宮説要約)
「天孫の説明として皇祖母から皇孫へということの反映である
との説は当たらない。(1)アマテラスが司令神として
タカミムスビに代わるのは天武朝に高まった皇祖神としての
位置づけと権威づけによるもので、皇祖母の観念ではなく、
(2)また草壁皇子が即位してもよい年齢であったのに
母の持統女帝が即位してしまっているからである。」
上記の(1)は反論になっておらず、(2)も同様。持統の即位は、
大津を自害させた直後に草壁を即位させることができなかったため。
吉野の盟の生存者(とその支持者)を配慮して、あるいは、
草壁が病弱であったため、と考えられる。(ここは想像。固執しない。)
要するに、天孫降臨の要となる箇所が712年に近い時代に潤色された、
という(一部の人々にとっては法外な?)可能性を
全く斟酌できない論者の反論なのである。
上山=梅原説を採用した場合にのみ、人の短命を述べるコノハナノ
サクヤヒメの段で、『日本書紀』が「世人のいのち短き縁(コトノモト)なり」
と記述しているのに、『古事記』が「故(カレ)天皇命等の御命長く
まさざるなり」と記述していることが理解できるのである。
(弘文天皇を含め、天皇の寿命一覧表を参照)
(第3回おわり)
(第4回)
・吉野の盟は679年(天武8年)5月。参加者は上述した。草壁(-689)、
大津(-686)、高市(-696)、川嶋(-691)、忍壁(705)、シキ(-715or716)。
・天武が、川嶋皇子、忍壁皇子らに「帝記及上古諸事」を記定さ
せたのは681年である。「執筆以録」とあるから、実質的には
(文書の束のようなものだとしても)書物である。日本の名著
「日本書紀」の注記には、「帝記、上古諸事(=旧辞)は、
六世紀前半に朝廷を中心にまとめられた」「日本書紀編集の出発点」
とあるが、これは想像にすぎない。天武の意思に基づく「王化の鴻基」が
一旦は記定されたと捉えるべきである。むろん、「日本書紀編集の
出発点」ではない、と言うには及ばない。この書(または書類の束)
における王の降臨は、現行の日本書紀の本文とは大きく異なっていた
であろうが、これまた想像は禁物。
・この間の680年に、唯一制作年の判る人麻呂の短歌があることに
注意を喚起しておこう。天の川安の川原の定而神競者磨待無(万2033)
がそれだが、「万葉集注釈」が写本を通じて「磨」を「麿」に改めたほどの
難訓歌の一つなのである。私は、漠然とではあるが、(人麻呂の他の
和歌と同様)ここにも王権のコスモロギーの片鱗が出ているように感じる。
(第4回おわり)
(第5回)
・ここで、草壁薨去後の皇位継承をめぐる関係者を一覧しておこう。
持統(645-702)、元明(661-721)。不比等(659-720)。草壁(662-689)、
大津(663-686)、高市(654-696)、川嶋(657-691)、忍壁(?-705)、
シキ(?-716)。文武(683-707)。元正(680-748)。聖武(701-56)。
・次に、降臨説話との関連で重要と思われる事件の年譜。
679吉野の盟。681上古諸事記定(川嶋、忍壁が参加)。
686天武崩御、大津死を賜わる、持統称制。690持統即位。
696高市没す。697文武即位。700律令撰定(忍壁)。
707文武崩御、元明即位。712古事記撰上。715元明退位、元正即位。
・以下の点は不審である。@忍壁は、壬申の乱(672)当時10歳に
満たなかったとされるが、その彼が681年の上古諸事記定に参加
していること。川嶋の24歳も同様。後見人がいたのではないか。
A上記は天智天皇皇子のシキだが、天武皇子のシキの動向が不明。
B上記シキ皇子の没年も不審だが(万葉集と続日本紀の記述の齟齬)
この問題は扱わない。
・先ず、大津の死の要因となった大津の莫逆の友、川島であるが、
万34「白波の・・」は万141「岩代の・・」(有間皇子)を踏まえたもので、
作者は自ら傷(イタ)むべき事情を抱えていたと思われる。
・草壁、大津以外は、卑母の子であるとの理由で皇位継承者の資格を
欠いており、持統朝では高市が太政大臣を務める(690-696)ことで
均衡が保たれていた。高市没後に文武が即位したことは辛うじて
理解できるとしても、文武没後の元明の即位は極めて不自然である。
元明本人が持統のような執念を抱いておれば別だが、不本意ながら
帝位に就かされたとすれば、そのことへの理由付けを本人に
納得してもらわねばならない。
(第5回おわり)
(第6回)
681「上古諸事」記定(川嶋、忍壁が参加)について若干の補足をしよう。
川嶋(657-91)、忍壁(662以降-705)、広瀬王(-722)、竹田王(-715)、
桑田王(?)、三野王(栗隈王の子とは別人)(?)、上野毛三千(-681)、
忌部首(-719)、安曇稲敷(?)、難波大形(?)、中臣大嶋(-693)、平群子首(?)。
記定に参加したのは以上12名。実際の筆録は中臣大嶋と平群子首である。
・川嶋は24歳、忍壁は19歳以下ゆえ、川嶋の協力者として山上憶良(660-733)、
忍壁の補佐役として柿本人麻呂(?)(650頃-708頃か?)を想定するのは
妄説ではない。(万葉学者の阿蘇瑞枝は、人麻呂は忍壁皇子への出仕説である。)
憶良については、702年に渡唐し、721年東宮侍講となったことに注目。
(ちなみに「山柿論」については、人麻呂一人のような気がするが、判らない。)
・上記のうち、安曇稲敷は、672年3月18日、天智の死亡(671年12月3日)を
郭務ソウに伝えるため筑紫に赴いている。
・人麻呂は草壁と高市への挽歌を詠んでいる。万194は実質的には
川嶋への挽歌である。人麻呂に、持統(640以前?-702)への挽歌は
ありえぬとしても、天武への挽歌がないのは不審である。これは、
人麻呂作歌の一部が代作として残っているか、あるいは抹消された
と考えたい。
・天武の意思に基づく「上古諸事」(681)の(おそらく一部)は、
草壁没後、皇祖母から皇孫(具体的には持統から文武)への
皇位継承が合理化できるように改変を受け(これが「原古事記」)、
さらにこれを元明本人が読者となるよう修正を施したのが現行の
『古事記』(712)である。これが私の「古事記」の位置付けである。
(「古事記」を骨格として・あるいは「古事記」と平行して、
編纂した歴史書が714年の「国史」(紀清人ら)。
「国史」を改めた最終版が『日本紀』である。または、
「古事記」と「国史」を統合・改編したのが『日本紀』である。
が、「国史」については誰も明示できない。2年異なる暦を
用いていたという友田説の真偽も不明である。)
(第6回おわり)
(第7回)
「五世の孫」について。後世の令では天皇の五世までを皇親と認める
ことを規定している。継体天皇が応神天皇五世の孫であるとされること
について、造作説と事実説があるが、いずれにせよこの令に関連するもの
と考えられる。アマテラス−オシホミミ−ニニギ−ホヲリ(ヒコホホデミ)
−ウガヤフキアヘズ−ワカミケヌ(イハレヒコ=神武)の系譜において、
神武がアマテラスの五世の孫であることについても同様である。
・しからば、スサノヲとオホクニヌシの系譜は如何。「書紀」の本文の
系譜では、スサノヲ−オホアナムチ。一書では、スサノヲ−ユヤマヌシミ
ナサロヒコヤシマシノ−(4代)−オホクニヌシ。別の一書では、
スサノヲの六世の孫をオホアナムチとする。さらに別の一書では、
スサノヲの五世の孫をアメノフキネとする。つまり、『古事記』の
スサノヲ−ヤシマジヌミ−フハノモヂクヌスヌ−フカブチノミヅヤレハナ
−オミヅヌ−アメノフユキヌ−オホクニヌシの系譜は、
「書紀」の本文となる伝承を無視し、オホクニヌシが皇親となりえない
ことを寓意しているのである。
(第7回おわり)
(第8回)
国譲りの経緯はこうである。
(日本書紀)
@邪神を払いのけるため、アメノホヒ、次いでその子のオホセイヒノ
ミクマを遣わすが、オホナムチに阿って返答しない。
A次に遣わされたアメワカヒコは、ウツシクニタマの娘を娶り、中国
を治めようと思い復命しない。アメワカヒコは殺され、その喪を弔った
タカヒコネが死者の生き返りであると誤認される。
B(司令神は、記:アマテラス、紀本文:タカミムスビ)フツヌシと
タケミカヅチの二神が、オホアナムチのところに交渉に赴き、オホア
ナムチの指示に従って先ず子のコトシロヌシの承諾を得た(船の上
を踏んで隠れた)あと、オホアナムチも同意して(八十隅(ヤソクマデ)に
隠れた)二神に広矛を授ける。
・ただし、紀の一書第二によれば、最初オホアナムチは二神に従わず、
フツヌシの報告を受けたタカミムスビは、天つ神の孫が「顕露(アラハニ)
のこと」を治め、オホアナムチは「神の事」を治めるよう求め、
要求に従ったオホアナムチは「日隅の宮」に隠れた。次いで、フツヌシ
は従わぬ者を殺したが、オホモノヌシとコトシロヌシは従った。
(このように一書第二は他との相違が甚だしい。)
(古事記のストーリー)
@アメノホヒは復奏しない。Aアメワカヒコも復奏しない。Bタケミカ
ヅチとアメノトリフネの二神の派遣により、コトシロヌシが国譲りを承諾
(船を傾けて隠れる)、次いでタケミナカタが力比べの末に服従(諏訪
の地に閉じこもる)。コトシロヌシとタケミナカタの服従の結果、
オオクニヌシも国譲りに同意する(出雲の宮殿に隠れる)。
・紀の一書第二の方がまだしも古形を保っていそうだが、記の説話を
はるかに溯るものではあるまい。ここで個別のケースについて対応させる
のではなく、あらかじめ一括して(つまり全体像として)、『古事記』
の国譲り説話の構図を、「天武とその皇位継承資格者を投影させた系譜
である」と仮定してみよう。オオクニヌシを天武の投影と仮定した場合、
この説話の他の神々は誰を投影させたものと見なされだろうか。
・吉野の盟が空文化していなかったとすれば、文武即位(697)までに、
(仮に持統が即位しなかった場合に)皇位を得る可能性があったと
考えられる天智系の皇子は、川嶋、志貴。天武系の皇子は、(皇太子)
草壁、大津、高市、忍壁。文武没後(707)に、即位する可能性があった
と考えられるのは、天武の皇子という資格では、舎人(-735)、長(-715)、
穂積(-715)、(弓削(-699)は省く)、新田部(-735)、これに加え、
吉野の盟の参加者の生き残りである志貴(-715 or 716)も存命中である。
(天武の皇子であるシキの動向の不在が気になるところである。
文武即位に反対したらしい弓削が早世しているのは怪しい。
・ともあれ、707年、孫の首皇子(将来の聖武)に皇位を引き継ぐため、
他の候補者を差し置いて、元明が即位するためには、皇位が男子直系に
引き継がれる規則(のようなもの)と、他の候補者が皇位継承から
離脱したことを、元明に理解してもらわなければならない。皇祖母から
孫への皇位継承は、持統−文武、元明−聖武、と繰り返され、
天孫降臨の神話として成立した。
・もともと文武の即位自体が横暴(ごり押し)だったのではないか。
大津を亡き者にする持統の策略はよろしくないのではないか。
このような元明の疑問に対する説明として、国譲り説話を捉えてみよう。
つまり「他の候補者が皇位継承から離脱したこと」を「国譲りの説話」
として構成してみよう。
・素材は「上古の諸事」または「上古の諸事」を潤色した物語もしくは
創作説話である。オホナムチ(−コトシロヌシ)の説話とアメワカヒコ
(アヂスキタカヒコネ)の説話は、従来は無関係であるが、これらを
接合する。フツヌシにタケミカヅチを加える。オホナムチと無関係の
タケミナカタを、オホナムチの子とする。このような改変を加えた上で、
オホクニヌシ=天武に対するに、系譜上の形象として、アメノホヒ=志貴
または川嶋、アメワカヒコ=大津、コトシロヌシ=忍壁、タケミナカタ
=高市、を擬えることにしよう。そうすれば、大津の事件や高市の
早世について、元明はこれらの前例として『古事記』の当該部分を
理解するだろう。(説話ではコトシロヌシは殺されたと考えられるが、
忍壁は殺されたのではなく皇位継承を拒否したと捉えるのである。
また、タケミナカタ神話の古事記への転用については、「高市の母は
宗像君の出身であり、宮廷神話に吸収される道は開かれていた」との
指摘がある。高市の死因は不明であるが、没後すぐに文武が即位して
いることを考えると、当時高市の死についての悪い噂が元明の耳に
入っていたと推測される。(この推測は、いささかトンデモ本的発想
であるが、こう考えることで初めて、該説話が『古事記』のみ記載されて
『日本書紀』に記載されていないかが理解できるのである。)
(第8回おわり)
(第9回)
『古事記』の問題に取り組んだことのある人には、上記の新説が
画期的であることが理解できるだろう。どう画期的であるかを説明する
なら、@上山=梅原の天孫降臨皇祖母皇孫反映説をさらに推し進めた
ものであるから、妄説からは程遠く、真相の一端である可能性が大きい
こと、A「出雲神話とは何か」という設問に対して「持統−文武、
元明−聖武の皇位継承を元明天皇に納得させるために、天武の
後継者が脱落していった過程を(おそらくは従来から伝わる説話に
潤色を加えつつ新たに構成して)物語化したもの」という明確な回答が
与えられること、Bさらに推し進めれば、「古事記上巻」の構想が
ようやく白日の下に晒されること。以上である。
Bについて説明しよう。
『古事記』は推古の系譜で終わり、推古以降は舒明の名称のみの記載
がある。(天智天武非兄弟説のように)日本書紀の記載を疑問視しない
限り、「父舒明・母皇極」の子が「天智・天武」である。これに
「イザナギ−イザナミ」の子「アマテラス−スサノヲ」を宛てよう。
「天智系に繋がる持統、草壁、文武、元明、聖武」「天武系の皇子たち」
には、「アマテラス−ニニギ」「スサノヲ−オオクニヌシ」を宛てよう。
これで、日向三代までの系譜が出来上がる。あとは初代天皇に接続する
ために、実際には皇孫の活動のない日向三代を付加する。これが現行の
『古事記』上巻の構想だったのである。
・この(あるいは途轍もないと受け止められるかもしれない)説を補強
する説話が、サルタヒコの説話である。サルタヒコが降臨を先導する
話は記紀に共通であるが、話の内容がかなり異なり、ヒラブ貝に手を
挟まれて溺れたという話素は「古事記」にのみ記述され。これは、
人麻呂のことを指している。人麻呂が天孫降臨に先立って皇祖母から
皇孫への皇位継承をバックアップしたことはほぼ確かであるが、
その最期は不明であって、梅原猛の著名な(石見での)刑死説がある。
私は、刑死か否かは確定しないものの(つまり、屈原のように身を
沈める生き方もありうると考える)、「古事記」にこのような形で揶揄
される生涯を送ったのは間違いないと思う。該当箇所を再読願いたい。
「ナマコの口が裂けている」というような話は、不比等の周辺の
官僚たちの笑い話なのである。(話が細かくなるが、水溺れの箇所は
伝説で、ナマコの箇所は創作かも知れない。)
(第9回おわり)
(第10回)
これまで書いてきたハンドル名「にんとく」の新説は、
「古事記上巻の構想一斑」という名の論文として流布させるつもりである。
この画期的な説は、更にどのような推論をもたらすか。
梅原猛は古田古代学=九州王朝説を一切認めていない。
古田武彦は梅原の神話説を津田説の亜流として完全に拒否している。
この新説によると、梅原説古田説両者の統合(いいとこ取り)が可能に
なるので、画期的と称するのである。
基本的な入門書(井上光貞「日本の歴史1」)から要点を引用しよう。
「神代史の最初の構想は、天地の分かれ、イザナギ・イザナミの国生み、
アマテラスとスサノヲの誕生・両者の対立、天の岩戸、オオクニヌシの
国譲り、天孫降臨、ニニギが土豪の娘を娶ってできた子どもホホデミが
大和へ東進。これが最初の形で、これに、アメノミナカヌシ等と日向
三代が加わったのが最終の形。こうした物語は、日の神を信仰する皇室と、
それをいただく大和朝廷が、ほぼ全国の統治者としての地位を勝ち得た後に、
(・・)それを体系的な物語として構想したものであろう。」(文庫108頁)
161 :
にんとく:2008/01/27(日) 21:33:00
井上の論は、津田の「帝紀と旧辞は六世紀の継体−欽明朝につくられた」
との説を前提としており、いわゆる出雲神話の古事記のみにある
オオクニヌシの伝承については、天武朝であるとしている(文庫74頁)。
六世紀に原型が成立し、原型の修正を天武朝までとしているために、
記紀の本質が理解できなかったのである。
今回の新説(「古事記上巻の構想一斑」)によれば、「日の神を信仰
する皇室と、それをいただく大和朝廷が、ほぼ全国の統治者としての
地位を勝ち得た」のは、六世紀ではなく、天智・天武朝になる。すなわち、
天智が秦の始皇帝に、天武は漢の高祖に、相当することになる。古事記は
解説者(例えば西郷信綱)自身が「わからない」との嘆きを連発して
いるのであるが、天智が初めて日本全国を統治した、というテーゼを
承認しない限り、記紀は永久に解釈できないであろう。
(第10回おわり)
(連載おわり)
162 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:49:08
長い書き込み、終わった? で、結論は、↓
大 国 主 伝 では、大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)の説明が不可能なまま。
大 国 主 伝 は、トンデモ説以下の汚物
>>109-110 について説明不能であり、また同じ方法論を用いると
>>71 のようなアホらしか状態になるので、
大 国 主 伝 は、破綻しました。
(補論その1)
・連載終了後、古いノートを捲っていたところ、小林恵子「天武天皇の
年齢と出自について」(『東アジアの古代文化』16号)からの書き抜き
が見つかった。草薙剣と『漢書』の斬蛇剣との類似性を述べているこの
論文で、小林は「天武紀において「生而有岐巍之姿、及壮雄抜神武」と
いわれ、壬申の乱を勝利に導いた天武は、スサノヲにふさわしいであろ
う」との見解を表明している。これは拙論を補強するものである。
・『古事記』を位置付けるために『釈日本紀』を援用すればどうなるか。
「或る説ではこう云っている。日本紀は古事記を以て本と為す。多く相
違の文有り。古事記は只立意を以て宗と為す。文句の体を労せず。
仍(ナホ)撰修の間にすこぶる改易あり云々。」−−私の解釈では、古事記
は神代史を含む上古史の構想を試みたもの、ということになる。
「日本紀の調度(材料)となったのは、先代旧事本紀、上宮記、古事記、大倭本紀、仮名日本紀である。」−−私の想像では、ここに云う仮名日
本紀は714年撰修の国史である。
この他『釈日本紀』には「倭国の中南北二倭あり。これの意味は
何か。」というような問答が出ている。なぜこれほど重要な古典
に注釈本がないのだろう。
(補論その1おわり)
164 :
にんとく:2008/01/28(月) 16:05:55
(補論その2)
・『水底の歌』が主張するテーゼ(厳密にはヒポテーゼ=仮説)の一つ、
柿本人麻呂=猿丸大夫同一人物説について補強しておこう。以下は提唱
者が気付いていない(したがって「にんとく」の創意に係る)論拠であ
る。この場合に「同一人物である」を厳密に言えば、「猿丸伝説の核に
は常民に投影された人麻呂の像が存在する」を意味する。
・柳田国男は、全国に残る猿丸大夫の伝承を跡付け、「神を助けた話」
を著わした。そこでは「小野といえば朝日長者がかつて住み、必ず一人
の猿丸がその家から出た。」「猿麻呂の小野神が、神の孫なるが故に召
されて助成した。」というテーゼが紹介されている。さらに、「朝日と
謂ふ女性の、半ば人間に在って半ば霊界に遊んで居た」「神を助けた話
は、元何れも同じ源に出たとしても、何故に狩人の名が猿であったかの
一点だけは、今有る材料だけでは解説し得るの望みがないのである。」
という記述・資料にも(読み手は)遭遇できる。アマテラス(またはア
マテラスとその妹)の孫のために朝廷に召されたのが、小野氏の一族で
ある柿本人麻呂(本名は猿)であると大胆に仮定すれば、柳田の疑問は
解きうるのである。
(補論その2おわり)
165 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 16:10:35
今どき小林恵子を根拠にするとは、笑われるだけだよ。
165の意見を考慮し、もともと根拠でもなんでもないところの
小林恵子説を、「補強」とみなすのはやめておく。
重大な書きもれに気付きました。広瀬氏の「大国主伝」は破綻している
(あえて言うならばトンデモ説以下である)と思います。
で、にんとくの連載において、藤原氏の祖神タケミカヅチは当然ながら、
文武の擁立を支えた藤原不比等(一派)を指します。おそらく、後の
長屋王自刃事件にも似た暗躍があったでしょうが、これは歴史の闇に
葬られたと考えられます(天武の子のシキ皇子は多分これでしょう)。
(補論その3)
スサノヲとオホクニヌシの活躍する出雲神話の本質については、@史実
の中核存在説、A信仰的世界観に基づくという説(例えば、日本国土に
東西の軸を設定し、東の聖地に伊勢神宮、西の辺地に出雲大社を創建す
る。)、B巫覡信仰宣布説、C作為説(津田左右吉他)等、諸説入り乱
れている。この神話が、アマテラスの岩戸隠れとそれに続くはずのスメ
ミマ降臨の間に挿入されており、しかもそれが天子降臨ならぬ天孫降臨
の直前であることに鑑みれば、上記以外に、D亡き天武の後の皇位継承
の経緯を説話化したものという説、を加えなければ、出雲神話は解読で
きないだろう。
(補論その3おわり
(補論その4)
コトシロヌシ等について。
葦原の中つ国の平定を「日本書紀」で確かめよう。
本文:アメワカヒコの死。タケミカヅチとフツヌシによる
コトシロヌシの承諾、それと併せてオホナムチの承諾と広
矛授与。オホナムチは「やそくまでに隠れる。」タケミナ
カタを欠くが、これは「古事記」の説話に最も近い。
一書第一:アメワカヒコの死。タケミカヅチとフツヌシに
よるコトシロヌシ、オホナムチの承諾。ただし、「天つ神
が求めるので奉りましょう。」というふやけた言葉のみ。
一書第二:タケミカヅチとイハヒノウシ(フツヌシ)によ
るオホナムチへの問い掛け。オホナミチが承諾しないのを
受けて、タカミムスヒの説得により、オホナムチは神の事
を治め、顕露(アラハニ)のことをスメミマが治めることで決着
する。フツヌシの神は国を経巡り平定する。この時に帰順
したのが、オホモノヌシとコトシロヌシである。
以上から読み取れるように、タケミカヅチがオオクニヌシ
と二人の子(コトシロヌシ、タケミナカタ)から国を譲り
受けたという説話は「古事記」のみに記載がある。タケミ
カヅチがコトシロヌシ等を殺したなどという説話は一切見
られない。
(補論その4おわり)
(補論その5)
アマテラスとスサノヲは、天の安の河を中に置いて、ウケヒを行った。
天安河は、高天が原にあった神話上の河で、この川原は天つ神たちの
集会場となり、天石屋戸の時の神議りも、天孫降臨の決定も、この川
原の神集えでなされた。人麻呂の、天の川安の川原に定まりて神し競
へば磨待無(あるいは麿待無)(万2033)は庚辰の年(680年)の作であ
る。翌年(681年)には、草壁の立太子があり(2月)、「帝記上古諸事」
が記定されている(3月)。万2033の「磨」を「麿」に改める説を採る
なら、前年の吉野の盟(4月)を踏まえた歌と解釈できる。要は、人麻
呂は吉野の盟を追認しており、持統朝を迎えて草壁が亡くなってから
は、文武擁立、つまり皇祖母から皇孫への皇位継承に協力している、
ということである。ただし、万39の左注にみるように、人麻呂は、
持統5年(691)4月または5月以降、天皇に従駕できなくなる事情が発生
したものと考えられる。川嶋皇子の死亡は691年9月である。
(補論その5おわり)
171 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 04:38:28
.
172 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 17:24:17
UP!
173 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 18:09:42
もうとっくに結論済みなのに、わざわざ上げるな、ボケ!!
で、結論は、↓
大 国 主 伝 では、大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)の説明が不可能なまま。
大 国 主 伝 は、トンデモ説以下の汚物
>>109-110 について説明不能であり、また同じ方法論を用いると
>>71 のようなアホらしか状態になるので、
大 国 主 伝 は、破綻しました。
174 :
日本@名無史さん:2008/02/04(月) 20:29:15
大国と太国はまた違うのか?
175 :
売国マル半:2008/02/04(月) 20:47:03
大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)
の説明が不可能なまま。
←藤原氏が天武系の皇子たちを皇位継承から阻害したこと
の投影であるって、何度も言ってるじゃん。
にんとくの説に基づき、建御雷という重要人物(神)の説明をしよう。
「タケモカヅチとは、藤原氏が天武系の皇子たちを皇位継承から
阻害したことの投影である。」
178 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 15:12:02
>>176 それは「にんとく」さんの説です。
その説は、志貴、大津、河島、忍壁、高市といった天武の子を滅ぼしたのが藤原だという根拠レスな話です。
志貴と河島はよく分からんが、
大津は、鵜野讃良(=持統)に滅ぼされたという以外に考えようがなく、不比等とも時代的に接点は薄く(両者の接触は不可に等しい)、藤原氏の関与の余地はない。
忍壁は、事跡(大宝律令選定)や地位(知太政官事)から、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
高市は、功績(壬申の乱の功労者)、地位(知太政官事)、死んだときの扱い(万葉集の人麻呂の挽歌)、子の長屋王の待遇などから、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
そして、
「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」に直接対応付けるなら
「天武の親子(特に重要なのは草壁)を藤原氏が滅ぼす」(何のこっちゃ?)
という対応関係でなければならず、ムチャクチャです。
179 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 15:14:30
(続き)
さらに、広瀬氏の大国主伝では、
「ニニギは舒明、コノハナノサクヤヒメは斉明」となっていて、建御雷より後の時代の人物が不比等より前の時代の人物をモデルとしており、
「天武系の皇子たちを皇位継承から阻害した藤原氏が建御雷のモデル」というのも無理。
時間軸を好き勝手に捻じ曲げてコジツケてよいなら、妄想としてももはや歴史板の領域ではない。
結論として、
大 国 主 伝 では、大国主の親子を滅ぼした建御雷という重要人物(神)の説明が不可能なまま。
大 国 主 伝 は、トンデモ説以下の汚物
>>109-110 について説明不能であり、また同じ方法論を用いると
>>71 のようなアホらしか状態になるので、
大 国 主 伝 は、破綻しました。
「志貴、大津、河島、忍壁、高市といった天武の子を
滅ぼしたのが藤原だという根拠レスな話です。」
178さんの「滅ぼした」という断定は、説話の一解釈であって、
書紀の神代巻を参照するなら、その解釈が一面的であることが
判ります。私の説は「滅ぼす」ではなく「皇位継承から除外する」
です。
大津→滅ぼされた
河島→亡き者にされた(または単純に「亡くなった」)
高市→亡くなった(が、悪い噂があった・・・というのが私の仮説)
忍壁→皇位継承から降りた
志貴→皇位継承から降りた
コトシロヌシは、神功紀と天武紀に再出する。つまり滅んでいない。
タケミナカタが古事記にのみ出ることの説明は、拙論以外に不可能。
182 :
siraki:2008/02/06(水) 11:27:00
183 :
siraki:2008/02/06(水) 11:30:49
184 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 11:33:18
>>180 「にんとく」さんの言うとおり、次のように訂正します。
「にんとく」さんの説は、志貴、大津、河島、忍壁、高市といった天武の子を皇位継承から除外したのが藤原だという根拠レスな話です。
志貴と河島はよく分からんが、
大津は、鵜野讃良(=持統)に滅ぼされたという以外に考えようがなく、不比等とも時代的に接点は薄く(両者の接触は不可に等しい)、藤原氏の関与の余地はない。
忍壁は、事跡(大宝律令選定)や地位(知太政官事)から、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
高市は、功績(壬申の乱の功労者)、地位(知太政官事)、死んだときの扱い(万葉集の人麻呂の挽歌)、子の長屋王の待遇などから、藤原氏が滅ぼしたなど考えられず。
そして、
「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」に直接対応付けるなら
「天武の親子(特に重要なのは草壁)を藤原氏が滅ぼす」(何のこっちゃ?)
という対応関係でなければならず、ムチャクチャです。
>>「にんとく」さんの説は、志貴、大津、河島、忍壁、高市といった
>>天武の子を皇位継承から除外したのが藤原だという・・
←厳密には「天武の子(の説話への投影像)を皇位継承から除外したのは
藤原の先祖(の投影像)たるタケミカヅチ(の功績ないし意向)である、
ということを、第一読者の元明に印象付けようとした」という説です。
古事記の説話は、もちろん歴史そのものではありません。
>>「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」に直接対応付けるなら「天武の親子
>>(特に重要なのは草壁)を藤原氏が滅ぼす」・・で、ムチャクチャです。
←草壁の死(多分病死)以降、皇位継承のありえた者を疎外し、
孫の文武に皇位継承させ、今また元明に孫(聖武)への皇位継承をすることを、
184さんに対してでなく、元明に対して物語をもって説明するのが、
当該説話なのです。(このスレがいかがわしい説=トンデモ説の者によって
立てられているので、184さんは「大国主の親子を建御雷が滅ぼす」を
毎度しつこく繰り返されていますが「滅ぼす」ではなく「降臨を承諾させる」
「出しゃばらせない」というのが説話の内容であることに気づいてください。
そうすれば、書紀と古事記の説話の齟齬や、タケミナカタの記事が古事記
にしか見られない、という大問題についても、光明が得られるでしょう。
>>184 大津は、持統に滅ぼされたという以外に考えようがなく、
>>不比等とも時代的に接点は薄く、藤原氏の関与の余地はない。
←大津は、アメワカヒコの位置にいます。タケミカヅチは関与しません。
河島、志貴は、アメノホヒの位置です。タケミカヅチは関与しません。
187 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 11:48:40
>>185 「にんとく」さん、ちょっとしつこいですよ。どんどんボロが出てきてます。
天武の親子を「滅ぼす」ではなく「皇位継承から除外」なのだという反論も、実際には、
>>112 の
「不比等(の一派)が天武親子を滅ぼしたという歴史的事実があるなら、この語りもありえる、と私は考えます」や
>>128 から後退しているのですよね。
で、今度は(2月に入って
>>180 あたりから)、大国主の親子を「滅ぼす」ではなく「降臨を承諾させる」「出しゃばらせない」ということなのだという反論ですか。ますます後退してますね。
188 :
日本@名無史さん:2008/02/07(木) 11:51:44
タケミナカタについても、古事記に記載があって、日本書紀に記載がないことの説明はぜんぜん出来ていませんよ。
元明に高市の早世を理解させるためか何からしいけど、日本書記に書けないことならこっそり教えればよいこと。
自分自身で「トンデモ本的発想」(
>>157)と言うくらい、恥ずかしい説ですよ。
しかも、高市が早世って何じゃコリャです。
(まさか現代の統計上では65歳以下は早世だからとかの屁理屈は言わないですよね。
ここでわざわざ早世と書いているのは、不自然に若く死んだ、なにか陰謀臭い、という含意ですよね。)
高市は672年の壬申の乱で主力軍を指揮し、696年7月に死亡するので、どう考えても40を超えているでしょう。
これを早世というのは、やはりトンデモですよ。
なお、スレ主の広瀬氏はタケミナカタについては、
>>91-92 のとおり説明を完璧に放棄しているので、
この議論に参加する資格もないというのが、哀れというか、みっともないというか、惨めというか、・・・所詮トンデモ以下ですな。
「不比等(の一派)が天武親子を滅ぼしたという歴史的事実」は
文字通りだとするとナンセンスなので、後退させました。
後退させたのでこの説は誤り、ではなく、仮説を洗練させていきます。
「タケミナカタについて、古事記に記載があって、日本書紀に
記載がないことの説明」
←元明天皇に物語でもって説明するため、です。公には承認
されませんから書紀には載せられません。こっそり教えたのです。
古事記がこのような性格をもった書物だからこそ、続日本紀に
記載がないのです。「早世」についても、いくらでも後退させる
つもりはあります。ただ、古事記のオオクニヌシの系譜に出ない
タケミナカタがいきなり現れることの背景に、高市皇子の存在が
あった、という仮説はトンデモ説とは考えていません。
あと、187さんが、上山=梅原説をトンデモ説と考える方なら、
最初から拙論については無視されてけっこうです。
「不比等(の一派)が天武子を滅ぼした」と自分で書き込んでいました。
>>190 に続けて。これに注を付すなら、
「タケミカヅチが行動する、対コトシロヌシとタケミナカタが象徴(または
表象する人物を滅ぼした(=皇位継承権を失くさせた)」になります。
いくらなんでも、藤原が天武親子を滅ぼす、などというのは空論以下です。
それはそうと、タケミナカタについて、納得のゆく説明を、拙論以外に
聞いたことがありませんが、どなたか解説できる方はいらっしゃいますか?
191に続けて。「諏訪に特有な古代的性格とは、荒ぶる国としての独自の
イメージであり、歴史的には、信濃国造金刺氏と多氏との線で『古事記』
につながる。」・・・これは武藤武美の論。
「出雲大国家の地域的ひろがりを示す必要から、ことさらに諏訪神を登場
させたのではないかと考えられる。」・・・これは鳥越憲三郎の説。
「高市が皇位継承せず、文武が祖母から孫へ皇位を引き継いだことを
元明天皇に納得してもらうために、当該の説話を配置した。」・・・拙論。
オシホミミがいざ降臨という時に、ニニギが生まれたのでこの子を降臨
させるように、と、オシホミミが提案する。そこで、アマテラスと高木
が、ニニギに降臨を詔する。
タケミカヅチとアメノトリフネがオオクニヌシに国譲りするか否かを
問い掛けた時、大国主は「自分は言えない。コドモに訊ねてくれ。」
と言った。どうして自分で返答しないのか、と我々は思うが、これは、
オシホミミの言い分と対称になっており、ここで漸く、オオクニヌシ、
コトシロヌシ、タケミナカタ、がそれぞれ、天武、忍壁、高市、に
割り振られて当該説話が構想されたことが判明する。
712年の時点で、天皇:元明、知太政官事:穂積親王、
左大臣:石上麿、右大臣:藤原不比等、である。
石上麿は大友皇子に最後まで付き従っていた人物で、
穂積親王(673-715)以外は天智系・天智寄りである。
恐らく、従来の古事記観は、天武の詔勅によるもの
という権威付けを解釈しそこねたのであろう。
古事記自体がトンデモ本めいた要素を持っているのだ。
195 :
日本@名無史さん:2008/02/10(日) 19:41:29
>>194 古事記自体がトンデモ本みたいだなんていったらお仕舞いだよ。
「古事記自体がトンデモ本みたいだ」とはちょっと誤解だ。
「トンデモ本めいた要素を持っている」というのは、
稗田阿礼が匿名である、歴史と神話を理不尽に混同している、
というようなこと。
言葉じりをとらえて何かもっともらしいことを言うのは
2ちゃんねるの醍醐味かもしれないね。
分ってきただろう。元明は、持統のようには
わが子の皇位継承に執着していなかったはず
という、もっともらしい仮説を設けることで、
「玉」を確保したい勢力がどのように動いたか
が、古事記から読み取れるわけだ。
カミムスビ、タカミムスビ、イクムスビ、タルムスビ、タマトメムスビ、
オホミヤノメ、ミケツカマ、コトシロヌシ、は、宮中に祭られていた。
コトシロヌシが滅ぼされた、というようなことはありえない。
コトシロヌシのヒントは、一つは「高市社」、今一つは「うなて」、だが、
まだ良く判らない。
青柴垣神事のコトシロヌシは、祭る神がすげ替えられたものである。
199 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 01:13:11
199の方もそうですが、それではあなたの通念は、と尋ねると、
古事記はよく分からない、と返事なさるでしょう。
つまり、「妄想」かどうかの判定基準を、ほとんどの人は
持っていないと考えられるのです。
hoshu
202 :
にんとく:2008/06/06(金) 10:23:40
私は、「天智天皇が初めて日本を統一し、天武天皇がそれを簒奪(?)し、
持統・不比等のコンビでそれの揺り戻しがあった。」という大局観を持って
います。副次的に、九州王朝説に賛同せざるをえなくなっております。
古事記は日本書紀の下書き・青写真に相当するもので、いわゆる日本神話の
アマテラスとスサノヲの対立は、天智系と天武系の対立を軸として説話化
したものと見ます。スサノヲ=オホクニヌシとその子は、全体として天武系
を表象しているという神話解釈です。私が固定ハンドルを用いているのも、
この主張の提唱者の痕跡を残すためであります。拙論は、出雲神話の解釈の
一つであって、特に、このスレッドの>138以降に、詳しく述べています。
壬申の乱が実質的に越と倭の内戦で、記紀が天武絶対化の為、天武の来歴を反映したものになってるって事は
否定しないよ。でもそれって目新しくないよ?
204 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 17:49:42
205 :
広瀬 満 :