魏志倭人伝を読む   ???

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1阿蘇山は移動した
中国文献を主にして邪馬台国をさぐるスレです。
2日本@名無史さん:2007/04/17(火) 13:31:06
        ∧岡∧  世界に羽ばたく大都会岡山が2getだ!
        <丶`∀´>   シュッ
        (つ   と彡  ./
            /   ./ >>3 仙台人  飲酒運転するなよ。民度低いな。まるで大阪だよな(プ
           /    ./ >>4 広島人  ピカから60年だってな。自虐史観捨てろよ(プ
         /     / >>5 大阪人  破産寸前だってな。韓国に併合してもらえよ(プ
        /       / >>6 香川人  OH!くん体操覚えたか?あと溜池の水の心配してろよ(プ
      /  /     / >>7 福岡人  筑後の古賀、筑豊の生保、北九州のチョン。県ごと日本から出て行け(プ
     /  //    / >>8 静岡人  まだのぞみ止めてもらえないの(プ
   /  人 ツツー  / >>9 北海道人 よさこいソーランって恥ずかしいよな(プ
 アヒャ!! ..ノ桃ヽ、  ./  >>10東京人  ヒートアイランド必死だな(プ
/   ( ゚∀゚ )  /  >>11京都人  まだ野中の呪縛から逃れられないの(プ
    (ヽ、人/)/  >>12千葉人  また堂本が県知事だってな(プ
3阿蘇山は移動した:2007/04/18(水) 11:00:42
倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、
今使譯所通三十國。(アレックスさんより)

倭人は、帯方郡の東南の海にある、山や島で、国邑をなしている。
旧100余国あった。今、使譯の通じるところは30国である。

倭でなく倭人で始まるのはまだ、国として充分まとまってなかったと考え
られる。もっとも、金印をもらってるので中国は国と認めたことで矛盾は
するが、金印の記事は、親魏倭王で国の字はない。帯方郡は平城あたりで
朝鮮半島西側つけねあたり。旧100余国は、昔程度で前100余国あり、
あつまり、今30国になったとも、今も100余国あるとも言え、だちら
が正解かは、この文書では判断できない。ただ、岩波文庫など多くは集
まって今30国になったとしている。

高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮、wai[扁水旁歳]貊、東與沃沮、北與夫餘接。

東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。

yup[扁手旁邑]婁在夫餘東北千餘里、濱大海、南與北沃沮接、未知其北所極。

wai[扁水旁歳]南與辰韓、北與高句麗、沃沮接、東窮大海、今朝鮮之東皆其地也。

韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。

倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。

4阿蘇山は移動した:2007/04/19(木) 08:47:30
從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、

帯方郡から、海岸にしたがって水行し、韓国をへて、あるいは南し、あるいは東し、
倭の北岸の狗邪韓国にいたる。帯方郡から、狗邪韓国までが7000余里ある。
狗邪韓国の北は岸はないので、岸は南の海岸になる。つまり、狗邪韓国は、
倭国ではない。狗邪韓国の南の海岸が倭との国境になる。

5日本@名無史さん:2007/04/19(木) 22:02:58
プさんくるかな?
6阿蘇山は移動した:2007/04/20(金) 11:03:07
始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里。
土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、
多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。又渡一海、
千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。

始めて、海をわたる。千余里で対馬国にいたる。その大官いわくヒク、副いわくヒナモリ。
住むところ絶島。1辺400余里。土地は山がけわしい。森林多い。道は、獣道のごとく。
千余戸あり。いい田なし。海のものを食べ生活してる。船に乗りて南北に市にでてる。
また、南に海千余里わたる。なずけて瀚海という。一大国にいたる。官また、いわくヒク。
副いわくヒナモリ。一辺三〇〇里ある。竹、木多い。三千あまりの家あり。田にいい悪い
あり。田耕すも食べるに足りず。また、南北の市にいく。また、海をわたる。千余里、末
盧國にいたる。四千戸あり。山海に沿って住んでいる。草木さかんに茂る。前を行く人み
えず。
 プラムさんは、
始度一海
又南渡一海
又渡一海
Aの又南から@は、南。Bの又は、Aの又南でBは、南とした。すばらしい解釈である。
これは陳寿の文書の特徴がよくあらわれている。方位、距離、起点国名、到着国は必ずか
かれることを意味する。
7阿蘇山は移動した:2007/04/20(金) 11:04:18
放射式と言われる、伊都国から先は、伊都国からとする説、これは、距離と国名の書く順
番が違うので、解釈を変えるは、問題ある。陳寿は、繰り返しを嫌う文体なので、記述が
異なっても解釈を必ずしも変える必要はない。
韓国から対馬は、見える。壱岐から九州は見える。でも、対馬から壱岐は見えない。
山の上の展望台からでなく、海からである。壱岐は54キロメートルから見える。対馬、
壱岐間は六十キロメートルである。だから、瀚海という言葉が使われた。砂漠とか広いと
いう意味である。まさに大海原でみわたすかぎり、海。砂漠の砂みたいである。
8日本@名無史さん:2007/04/21(土) 00:53:12
>>3
>倭でなく倭人で始まるのはまだ、国として充分まとまってなかったと考え
>られる。もっとも、金印をもらってるので中国は国と認めたことで矛盾は
>するが

倭人が国名とする説もありますね
9阿蘇山は移動した:2007/04/21(土) 07:53:51
金印はでてないけど、親魏倭王 らしいので、どうかな?まあ、仮定の上の
仮定で断定できないけど。人も国もない。
10阿蘇山は移動した:2007/04/21(土) 13:39:44
好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。
有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南至奴國百里。官曰ji[冠凹脚儿]馬觚、
副曰卑奴母離。有二萬餘戸。東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。

よく、魚鰒とらえ。水、深浅関係なく、皆もぐってこれを捕る。東南りくを行く五百里、伊都国につく。官
いわく、ニキ。副いわく、シマコ、ヒホコ。千余戸あり。世王あり、皆、女王国に従う。これは、女王国を
統属とする人もあるが、金印など、女王と中国は言ってるので女王にでいい。郡使の来たとき常に
とどまるところ。東南百里で奴国に着く。官いわく、シマコ。副いわく、ヒナモリ。二万余戸あり。東へ、
百里不彌国につく。官いわく、タマ。副いわく、ヒナモリ。千余家あり。

対馬は、対馬。一大は、壱岐。末盧は、唐津。伊都は、前原。奴は、博多。で、ていせつになっている。
わたしは、不彌国を距離を無視し、東海岸とかんがえられるので、行橋としている。近畿説では、
これに近い説と思う。
魏略に戸数を伊都国が万とある。これを千は、書き間違いとしているが、ひょっとして、倭人の
数え方と中国の数え方の違いかもしれない。奴国も万の数になっている。倭人は、中国の10倍
の数え方をしてたのかもしれない。
11阿蘇山は移動した:2007/04/22(日) 19:40:39
統属:伊都国が三〇国を統治して女王に従っていた可能性もある。

南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。南至邪馬壹國、女王之所都、
水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。

南、投馬国には水行二〇日でつく。官いわく、ミミ。副いわく、ミミナリ。五万余戸ばかり。
南、邪馬一国つまり、女王の都するところへは、水行十日・陸行一月でいたる。官イキメあり。次に
いわく、ミマス。次にいわく、ミマカキ。次にいわく、ナカテ。七万余戸ばかり。女王国より北は、
その戸数、道里は略載できる。しかし、その他の旁国は遠絶で詳しくはわからない。

12阿蘇山は移動した:2007/04/22(日) 19:42:35
水行二〇日が何キロメートルかは不明であるが、隋書を参考にすると倭人の距離単位と考えられる。
邪馬台国への陸行一月の起点国名、方位がない。一大国から伊都国では上陸国名がある。
陳寿は、省略したのは連続式に読むのではないことをしめしている。つまり、あるいは式に読む
のである。投馬国から邪馬台国へいたるには、南に水行すれば、一〇日、陸行すれば一月。
邪馬台国を示すのが目的で起点の国だけ示したのに、ここで2つの方法を示したのは、当時の
ものさしを示すためと考えられる。つまり、水行一〇日は、陸行一月で三倍である。さらに、
九州の東海岸で南に水行も出来、陸行もできるということは海岸が南北になっている。今の
地図で調べると延岡市から宮崎市の日南海岸でそれを測ると七五キロメートルになる。
つまり、陸行一月は七五キロメートルである。不彌国から邪馬台国までは水行三〇日であり、
水行一月であり、陸行三月を意味する。行橋から宮崎市までの直線距離は、内陸部に
なるが、二〇〇キロメートルである。七五キロメートルの三倍は二二五キロメートルで
あり、国東半島迂回を考えれば妥当である。
邪馬台国は、『後漢書』から一を台にした。
13阿蘇山は移動した:2007/04/23(月) 08:41:51
隋書によれば、
夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。

南北より東西が長いので、九州ではなく近畿から西日本が統一されたと考えられる。
南北は、紀伊半島から若狭湾より、九州の南北が長いので、この三月行は、九州の
南北と考えられる。九州の南北は三〇〇キロメートルである。なお、福岡市から
奈良までの直線距離は約五〇〇キロメートルである。つまり一月行は約一〇〇キロ
メートルと言える。
つまり魏志の陸行一月は七五キロメートルと言う仮説は、隋書で正しいと証明された
と言える。
魏志は250年ごろで、隋書は600年ごろであるので数値がぴったりとはあわないが
特にとっぴともいえない。妥当とみるのがよい。
14阿蘇山は移動した:2007/04/24(火) 19:27:47
次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、
次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、
次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國、
此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
自郡至女王國萬二千餘里。

次に、シマコクあり、次にイホキコクあり、次にイヤコクあり、次にトキコクあり、
次に、ミナコクあり、次にココトコクあり、次にフココクあり、次にシヤナコク
あり、次にタイソコクあり、次にソナコクあり、次にコユウコクあり、次にカナ
ソナコクあり、次にキコクあり、次にイゴコクあり、次にキナコクあり、次に
ヤマコクあり、次にキュウシンコクあり、次にハリコクあり、次にキイコクあり、
次にオナコクあり、次にナコクあり。これ女王の境界のつくるところ。其の南に
クナコクあり。男子を王となす。その官にクコチヒクあり。女王にぞくさず。
帯方郡より女王国(邪馬台国)にいたるまで万二千余里なり。
15阿蘇山は移動した:2007/04/25(水) 08:20:09
陳寿は、邪馬台国の南に国名のみの20国、さらに南に奴国を置き、その南に
狗奴国と考えていた。奴国は2つと数えたと思われる。それが、詳しく書かれた、
対馬国から邪馬台国までの8国+21か国+狗奴国。計30国である。
しかし、郡から邪馬台国までは12000余里であり、狗邪韓国までの7000里+
倭の端から端までの5000里を足したものであり、邪馬台国は倭の端にあり、
邪馬台国の南に21か国をおくのは、矛盾である。つまり、陳寿は誤読していたの
である。邪馬台国からはUターンして、21か国は、北の陸上を一筆書きで戻り
奴国に戻った。これなら奴国は重出でうまく説明できる。また、旁国は脇の意味
で東、南、南と来た脇は、邪馬台国からは、北、北、西である。
狗奴国は、奴国から東へ行って不彌国で、その南が投馬国であり、奴国の南は
空いており、奴国の南に狗奴国を置いて問題ない。狗奴国は熊本県とする。

16阿蘇山は移動した:2007/04/25(水) 08:21:19
北部九州と東九州が連合して、逆L字にまとまり、囲まれた西九州と対立
していたとかんがえられる。逆L字だと南端は、北部九州にも南の端が存在
する。最南端ではないが。そこに女王の境界は存在し、その南を熊本県
とすることが出きる。熊本県と北部九州の南端に吉野ヶ里遺跡が存在
する。塀、濠、物見櫓は前線を意味するのでは。
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。
この文は陳寿が誤読して書き加えたものであろう。陳寿が南に延びていると誤読
したために、論争が終わらなかったのである。
17阿蘇山は移動した:2007/04/26(木) 01:23:24
抜粋解説
食飮用hen[冠竹脚邊]豆、手食。

当時は、手で食べてる。箸はない。箸で事故死する人は、卑弥呼ではない。

出眞珠、青玉。

日本で真珠が採れたことは確かであるが、あとで、中国から真珠をもらってる。鏡百枚の次にでてる。
中国からもらうようなものを中国にもってはいかない。後述。

國國有市、交易有無、使大倭監之。自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。
常治伊都國、於國中有如刺史。

大倭が不明だが、大和?一大率を邪馬台国の北のみおいたのは、邪馬台国が最南端の国だと
すると意味がよくとおる。

其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸。及宗族尊卑各有差序、

この宗族がよくわからない。親戚か?階級?後述の宗女は、鬼道の一人とは言えない。
鬼道が宗教との記述もない。血縁の可能性が残る。
18阿蘇山は移動した:2007/04/26(木) 01:27:20
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰:

中国皇帝は景初三年正月に崩御されてる。三年の六月は、喪中で、このとき行ったのでは死んで
よかったですねの意味になり、二年が正しい。鏡に三年銘があるが、外国へのプレゼントに
喪中の年号は、書かないしあげない。喪中あけを待って、鏡を届けるはず。この鏡は、日本製
を自供したも同然。

銅鏡百枚、眞珠、鉛丹各五十斤、

これが中国から真珠をもらった事の記述。

復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、

宗女は意味不明。名は、台与が正しいと思っている。

貢白珠五千、

白珠は、あきらかに真珠ではない。私は、臼玉の誤写と考えてる。
19阿蘇山は移動した:2007/04/26(木) 08:28:18
乃共立一女子爲王、名曰卑彌呼、事鬼道、能惑衆、年已長大、無夫壻、有男弟佐治國。

卑弥呼は、安本さんは、ヒメミコのこととおっしゃってた。4月22日講演。しかし、
次が壹與では、官名とするには無理である。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、
周旋可五千餘里。

邪馬台国の東に海があり、千余里で国があるのは、当然、九州説が有利である。宮崎市では、
海であるが、伊都国に駐留してるとこれくらいの誤差は、ありえると思う。倭種であるが、種とは
ここだけでは?かなり特殊なことと思える。近畿を意味すると思うが、近畿にもかなり巨大な国
の存在を証明してる。魏は、呉との関係で卑弥呼に金印を贈った可能性がある。親魏倭王で
国の字がない。
周旋は、端から端まで寄り道しながらその総距離である。1周では最大でも二五〇〇里で
七〇〇〇里と足しても九五〇〇里しかならない。万二千里にたらない。

20阿蘇山は移動した:2007/04/27(金) 08:58:31
スレちがいですが、奴国の金印は、重要。後漢に近畿は、中国と交易が
なかった証拠。また、それ以前も、近畿は中国と交易がない。
あれば、奴国は、金印もらえないはず。近畿で古いものがでるのは、奴国
経由か、偽物です。
魏の時代も、東に倭種は、近畿のようなので、近畿が中国と交易始めた
のは、早くても5王以後が妥当。
21日本@名無史さん:2007/04/27(金) 10:15:02
陸行一月というのは当時の感覚ではすごい距離でしょうね
当時の10qが今の30qに相当するようなものかな
道中コンビ二で食料や水を買えるわけではありませんし
魏書には山険しく深林多しとあります
ところで、宮崎県西都市にあった日向の国は魏書のどの国にあたるのでしょうか?

22阿蘇山は移動した:2007/04/27(金) 22:40:48
陸行1月は75kmです。隋書の600年では、1月行は100kmで
す。西都市は、投馬国では?
23阿蘇山は移動した:2007/04/29(日) 10:30:58
先日、NHKでした。近畿、九州の対決番組のビデオがでてきた。昨日
みたけど、やはり九州説有利みたいですね。2回とも九州が多かった。
24日本@名無史さん:2007/04/29(日) 10:41:41
★古文版ウィキペディアの成立のために同志の協力を仰ぐ★

《古文版ウィキペディア(テスト版)》
http://incubator.wikimedia.org/wiki/Test-wp/jpn-classical
《古文版ウィキペディアのメタウィキ内の提案ページ》
http://meta.wikimedia.org/wiki/Requests_for_new_languages/Wikipedia_Classical_Japanese_2

いまメタウィキで古文版ウィキペディアを作ろうという提案がなされています。
成立には多くの人の賛成意見が必要なので、簡単ですのでぜひご協力ください。
日本語は長い歴史を持つ言葉です。古文版が成立すれば日本語は古典を有する偉大な言語だということを
世界に知らしめることになります。
今の日本語は多くの漢語を交えますが、平安時代には漢語が殆ど使われず、多く和語を用いていました。
これぞまさに大和民族の精髄といえましょう。

日本を愛するなら、この企画にご協力ください。上にあるのは飽くまでテストウィキであって、
提案が承認されなければなくなってしまいます。古文が書けなくとも、
賛成意見を書いていただければよいのです。賛成は多ければ多いほどいいのです。

 【簡単】協 力 の 仕 方【短時間】
1、「古文版ウィキペディアのメタウィキ内の提案ページ」(上のリンク)に行く。
2、画面の右上の「Log in / create account」という所をクリックし、メタウィキのアカウントを取得する。
3、ログインし、古文版のArguments in favourという項目に'''Support'''と書き込み、
後ろに理由を書き込む(英語でも日本語でもどちらでも良い)。理由は一言でもよいので必ず書いて下さい。
末尾に必ず--~~~~と書いて署名する。(--~~~~と書けば日付とアカウントが表示される)

 ■□■その他、宣伝等■□■
1、ブログやウェブサイトなどを持っている人はそこで宣伝して頂ければ嬉しいです。
2、記事を書きたい人はテストウィキに行ってください。
25日本@名無史さん:2007/04/29(日) 11:21:18
>>23
マジか?www

26阿蘇山は移動した:2007/04/29(日) 18:49:42
>>25
tvみてる人の投票ですよ。2回とも九州が多いですよ。
九州35,087 近畿 21,102
27阿蘇山は移動した:2007/05/01(火) 07:10:16
NHK詳しいのわかりました。
放送開始25分頃、近畿10,106 九州20,236
同35分頃
九州地方の人
 近畿527 九州7,506
近畿地方の人
 近畿7,499 九州4,028
全体
 近畿21,102 九州35,037
でした。
28阿蘇山は移動した:2007/05/03(木) 09:51:25
昨日NHK教育みてたら、仁徳天皇稜は、ある建設会社の試算では、1日8時間
働くとして2000人が15年8か月かかるって。おかしいよね。あんな
大きな古墳みたら、普通、牛馬を使ったと思うけどな。産業革命が起きた
ってほうがいい。2000人が働くってそんなに人急にふやせない
だろうし、食料も必要。そんなに、急に人集めするより、従来の人数で
大きいのつくるのは、牛馬利用って、普通考えるよね?馬具がでるでない
でなく、あの大きさが証拠であり、存在が証明してると思う。
29日本@名無史さん:2007/05/03(木) 10:15:13
つまりどうだと?
30阿蘇山は移動した:2007/05/03(木) 16:48:19
古墳が大きいのは天皇の力が大きいとは比例しないってこと。
31日本@名無史さん:2007/05/03(木) 20:50:16
比例はしないかもしれないが(そもそも『てんのうのちから』が数値化できない)、
相関は間違いなくある。
32日本@名無史さん:2007/05/03(木) 21:01:39
どのようにあるのですか?具体的に。
33阿蘇山は移動した:2007/05/03(木) 23:15:21
国の領土をひろげて税金が多くなっていく。つまり、天皇の代数順に
古墳が大きくなれば、相関あるということですね?
34日本@名無史さん:2007/05/04(金) 14:28:09
魏志倭人伝を素直に読めば九州島しか思い浮かばないのは
誰人も認めることだろう
女王国の北が伊都国、周囲が5千余里程など
の記述からしても邪馬台国を近畿に置くのは異常すぎるといわざるをえない
35阿蘇山は移動した:2007/05/05(土) 00:44:07
近畿説って、鏡と巻むくと箸墓からの説明ですね。魏志からではない。
確かに、魏志に鏡もらったとでてくる。それを3角とする。この論理は、
銘年鏡でしょうね。景初3年とあるので、卑弥呼にむすびつけた。物証
を重視してる。これって旧石器と同じ。物があるから、正しい。
こんな学者と話しても時間の無駄。理由は、前に書いてあるので。
36日本@名無史さん:2007/05/05(土) 08:03:34
三角縁神獣鏡の出土が大きいな
景初4年という実際にない年号があると言ってもたったの1年違いだしな
37日本@名無史さん:2007/05/05(土) 08:24:41
>>36

>景初4年という実際にない年号

あります。
鏡に刻まれた年号がなによりの物証
38阿蘇山は移動した:2007/05/05(土) 09:29:48
>>25
奴国が後漢から金印もらってる。奴国が博多なら、近畿は、この時期、
中国と交易がない証拠。また、近畿は、それ以前も交易がないから奴国
が金印もらえた。だから、後漢以前のものは、近畿からでるのは奴国
経由か、偽物とすべき。
で、景初3年は、正月に皇帝が崩御で、1年喪中。外国への贈り物に、
喪中の年号は使わない。正始元年までまってから、贈ればいい。
つまり、景初3年は、偽物と自供したも同然。卑弥呼とは、関係ない。
39日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:48:49
おお! 良スレの伊予柑!
40日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:03:07
>>38

>奴国が後漢から金印もらってる。奴国が博多なら、近畿は、この時期、
中国と交易がない証拠。また、近畿は、それ以前も交易がないから奴国
が金印もらえた。だから、後漢以前のものは、近畿からでるのは奴国
経由か、偽物とすべき。

>>近畿がこの時期中国と交易がない証拠としながら、何一つ証拠を提出しないのは何故か?
  >>38に甲一号証の提出を求めます。

>景初3年は、正月に皇帝が崩御で、1年喪中。外国への贈り物に、
喪中の年号は使わない。

>>外国への贈り物に喪中の年号は使わない。
  とする事を証明する史料の提示がないので>>38は、甲ニ号証とし提出下さい。

>卑弥呼とは、関係ない。

>>卑弥呼と上記それらの意見を関係ないとする考証は
  上記の問題点に対する甲号証の提出がないので、現段階において判断する事は出来ないのではないでしょうか。
   
41黄金虫:2007/05/05(土) 10:52:30
>>38 >>40

>景初3年は、偽物と自供したも同然。卑弥呼とは、関係ない。

もともと、尚方でも無いものに偽モノも何も無いでしょうに。
42日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:14:31
ここがドンコイの次スレなの?
43阿蘇山は移動した:2007/05/05(土) 13:18:12
近畿と交易があれば、近畿に金印あげるはず。奴国は、もらえない。
あるいは、2つの国としてそれぞれがもらえばいいけど、近畿がもらった、
記述がない。さらに、後漢の前、近畿と交易があれば、奴国に金印を
だすはずない。近畿にだす。後漢書の記述と実際、金印もみつかって
いる。福岡で。奴国は博多でうごかない。近畿と中国が交易があった
証拠がない。鏡などでるからあったとするのは、旧石器と同じレベル。
ものがあるからあったというのは。やはり、近畿の鏡は偽物とする
ほうがいい。新井氏の鉛の同位体でも、3角や青龍が日本製
と判断してる。
景初3年(喪中)に使者をうけるのは、中国の冊封体制にはない。当然
そのとしにものをあげない。
44日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:25:11
>>42
>ここがドンコイの次スレなの?

ノー。ここは阿蘇山を移動させる大プロジェクト専用。

ドンコイ19立ってるよ。
45日本@名無史さん:2007/05/05(土) 15:18:15
親魏倭王の金印が現代に伝わっていない
このことから畿内であるとするのは無謀であろう
46阿蘇山は移動した:2007/05/06(日) 12:19:31
>>45
なるほど、そういう説明もあるのか。

ところで、思ったけど。喪中のイロハ考えれば、説明いらないんだ。
いくつか前のへのレスですが。
47日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:16:19
日本の裁判官は被害者の遺族に配慮していない。 性犯罪の量刑判断

東京都足立区東綾瀬で、18歳と16歳の少年が帰宅中の女子高校生を誘拐、両親も
同居する自宅に監禁し、暴行殺害する事件が発生した。40日の監禁中、少年らは
被害者の陰毛を剃り、手足に揮発性オイを塗ってライターで火をつけ、熱がるさまを
見て笑い転げた。遺体の性器及び肛門にはスポーツドリンクの瓶が突き刺ささっていた。
 このような犯行にもかかわらず、未決勾留期間が刑期に算入され、仮保釈制度が適用
されるため、主犯以外は最高でも6年半で仮出所、主犯も今年には仮出所した。
服役中は給料(作業報奨金)が支払われ、土日休業、平日は毎日3時間の自由時間がある。
主犯は7月には大検(高校卒業程度認定試験)を受験するという。
 受刑者1人当たり月20万円の税金が投入され、被害者側の税金(消費税を含む)
で賄われている。一方、被害者の遺族は、警察の検死場所から遺体を引き取るための
自動車代まで支払わねばならなかった。 女子高生コンクリート詰め殺人事件 より

  詳細は、女子高生コンクリート lynch で検索できます。 
性犯罪事件: http://www8.ocn.ne.jp/~moonston/lynch.htm
48阿蘇山は移動した:2007/05/07(月) 09:16:10
こんなスレにまでかきこか。全部にかいたのか。確かに、かわいそうですが、
私には、なにもできないな。
49阿蘇山は移動した:2007/05/09(水) 23:17:44
邪馬台国の官名に、伊支馬 がある。宮崎市に生目古墳群がある。イキメ?
この古墳群は、平成19年度に公園として公開される。古墳の発掘は、
ほとんど終わってる。さて、、、何がでるか?臼玉はでてる。
50阿蘇山は移動した:2007/05/23(水) 10:03:31
日本書紀はじめるかな?日本書紀は、歴史書?
51日本@名無史さん:2007/05/23(水) 10:27:26
イクメイリヒコできまり!
52阿蘇山は移動した:2007/05/24(木) 09:54:04
公園公開されたら、イクメイリヒコ実在かがわかりますよ。すべて、
発掘されましたから。調査報告1−5までだったかな?出てる。
国会図書館でみられます。
53阿蘇山は移動した:2007/05/29(火) 07:07:17
前にも書いたけど、箸墓は、卑弥呼の墓ではない。なぜなら、魏志には、
手で食べるとある。箸はなかったから。
あと、径100余歩とあるが、前方後円墳が径で表示されるのは変。
誰が考えても円墳でしょう。
54日本@名無史さん:2007/05/29(火) 07:34:09
>>53
そうとは言い切れない。
55日本@名無史さん:2007/05/29(火) 11:43:28
>>53

いまだに当時の箸を食器だと思っているやつがいるとは。
あれは糞箆だ。
君は糞箆で飯でも食ってれば?
56日本@名無史さん:2007/05/30(水) 09:17:17
前方後円墳は、径であらわすとするのは、結論決めてから、解釈して
るのでは?そもそも、日本書紀には、銅鐸がでてない。近畿の歴史書
ではないことは確か。
57日本@名無史さん :2007/05/30(水) 12:56:09
最初の銅鐸の発見は、天智天皇時代だが、そのときは粗末な扱いを
されており、発見された銅鐸も行方不明の状態。
忌まわしい過去を封印するような扱いしかうけていない。

記紀には一切でてこない。 銅鐸のなぞを解明しない限り
畿内論者がなにを記述しても、むなしい。

58阿蘇山は移動した:2007/06/02(土) 21:22:24
隋書には王の妻とある。33代推古天皇(女帝)の時代である。日本は、
中国から遠いので間違えたとされてきてる。しかし、変だ。なぜなら、
東の天子、、、のいわいる国書をだしてる。当然、王の名前も書かれてる
はず。それらは、資料として隋書作成につかわれたはず。つまり、王は、
男が正解。33代の日本書紀の記述は、作り話。
59太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/02(土) 21:31:30
倉西氏は成務が女(卑弥呼)だと主張している。
この人は推古が男だと主張している。

サガミハラハラ氏は顯宗、仁賢が双生児だと主張している。
九州ですが氏はミコト名の天皇は神話で架空だと主張している。

なんでこうなるの?w 猜疑心のしすぎがこうなるみたいね。
60阿蘇山は移動した:2007/06/04(月) 08:53:06
古事記が何故あるか?何故、古事記は33代で終わったのか?が大事。
日本書紀は41代持統天皇まである。古事記712年、日本書紀720年
完成。
推古天皇架空とするとその前は、正しいって理論きついと思います。
61太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/04(月) 09:25:02
古神道的には菊花弁の配座とかに理由がある。つまり十六菊とそれを統御
する中央(小さい丸)の座で17個でひととおり完成だが、16の倍数の32の
菊花は十六菊のデラックス版で、先の中央の1を含めて

 16×2+1=33

となるのが、古事記が33代で代数を仕切る事由だ。
62阿蘇山は移動した:2007/06/04(月) 23:22:34
掛けたり足したりすれば33になる。それでは、説明になってない。
神功皇后は、なぜ書いてあるの?また、足したり、掛けたりするの?
63太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/04(月) 23:39:16
それが古神道の論拠だよ。菊花は十六弁だがそのデラックス版
が32弁の倍の菊花だ。おのおのの天皇が32弁に対応し、もう一つ
中央の丸残り1名の天皇が占める。その天皇は16代の次の17代
履中天皇なのだ。

神功も仮的に1弁を非恒久的に占めるから、應神にとって変わら
れる。33全部天皇じゃあもとも子もない。要するに神功は交通安全
運動でよく見られる女の1日警察署長や1日消防署長のようなのに
似ているかな。w 公務員以外も仮的一時的に署長をやらせるのは
必要性があるからなのだろう? まぁそんなところだ。

zzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・
64日本@名無史さん:2007/06/05(火) 04:42:08
>>60

別に古事記に推古天皇が架空とは書かれていませんし一応、舒明天皇にも触れて
ありますが・・・
65阿蘇山は移動した:2007/06/05(火) 07:30:40
>>63
16代ならまだしも、それを2倍する根拠が弱い。それに3倍、4倍は
なぜないのでしょうか?
>>64
推古天皇は、女帝なのです。隋書は、王の妻とあり、天皇は、男で矛盾
するのです。架空でなく実在では、どのように説明されるのですか?
66太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/05(火) 07:54:21
>>65
3倍、4倍の菊花では美麗さが減殺されるからそれはやらないよ。菊でそれを
やると視覚的に込み入ってしまう。恒久的美麗さが重要なんだよ。
67日本@名無史さん:2007/06/05(火) 09:38:08
>>65

推古天皇の皇女の夫である押坂彦人大兄皇子では?
68阿蘇山は移動した:2007/06/05(火) 17:21:08
>>66
菊花のため古事記を作ったという、文献はどれですか?想像ではないです
よね?33代という数値だけでは証明にならないのは、理解できますよね?
>>67
国書に差出人がかいてあります。そして、王の妻ですから、天皇が男で
ないといけないのです。隋書には、王の名前も書いてあります。岩波文庫
でいいです、ぜひ、ご覧ください。大兄皇子でなく天皇で探してください。
69太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/05(火) 18:39:54
お前に証明などするつもりまではないよ。意見、説を云ったまでのことだね。
もともと証明する話を持って来いとはお前は云ってなかったぞ。云ってなかっ
たことは理解できるな。

ここは証明でなくて説でもいいわけだよ。証明は臥海でやればいいことだ。
さっきのは古神道の話、説だ。実に33代だろうが。
数字自体は余の言うことと一致してるだろうね。

そういうんなら、最初から証明しろと言って来い。

昨日今日の新聞に出ていた。レス夫妻の結婚だ。
≪そこまで言ってるお前だから≫、逐一さからうんなら
推古がレス婚でもマゾ婚でもないことをも厳格に証明してから言え。
70阿蘇山は移動した:2007/06/06(水) 08:22:30
結局は、脅迫でおわりですか。かなりレベル低いですね。どんとこいが
おにあいです。どうそ、そちらへ。
71太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/06(水) 10:07:37
脅迫だと? ふざけんなよ。
あんなことまでいちいち証明など必要はない。それは出来れば尚いいには
違いない。女王国ががどうのとか崇神の実在の証明がいるとかなのは必要当然
だろうが、これだって相当な論拠があれば証明の前段階的でも大いに言って
いいことだ。

ところで証明とか言うお前だから、自分の主張する証明はこちらが言い出さ
なくてもせねばなるめぇ。それをしないんなら、お前は自分に対しては甘い
ということになる。お前は他人に厳しく自分には大甘ではないのか?

そうでないなら、推古がチンポがついてる証明は厳格にやってくれよ。証明とは
お前が言い出したんだからな。
72阿蘇山は移動した:2007/06/06(水) 21:41:18
11の3倍は33になりますね。これは、お認めになりますね。
だから、推古天皇までなのです。
ちなみに、推古天皇についてですが、隋書には、王の妻とあります。天皇が
女性なら、女王の妻とするはずです。しかし、王の妻で、後宮に女6,700
人。これが学問というものです。
73太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/06(水) 21:51:35
>>72
お前それで証明になっちゃいないぞ。
記紀にはチンポは無いことになっている。
74太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/06(水) 22:05:58
>>72
お前は倉西裕子氏二の舞をやってるようだな?ww
お前は宝塚男装ガールにあこがれすぎだ。
推古は敏達5年3/10にチンポがついてないから皇后立后だ。
75九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/06/06(水) 22:38:56
>>70かなりレベル低いですね。どんとこいが おにあいです。どうそ、そちらへ。

とは無礼にも程があろう!「阿蘇山は移動した」なあーんていうコテつけて
平気でいられる方がよほど気が知れん。あそさんはね、うごかないの!
76日本@名無史さん:2007/06/06(水) 22:47:12
>>73

>お前それで証明になっちゃいないぞ。
 記紀にはチンポは無いことになっている

まずはそのソースを出してもらおうか。
77太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/06(水) 23:24:40
当時女が皇帝になることは中国でも未経験だから男のつもりで
その文書の書きこんだんだろうかな?
卑弥呼が日本にいるのにそんなつもりで書きこんだか、そのへん
だろう? 数歩譲って
中国はそのころ経験したんだろうがね? 不足点か?w

>>76
お前と話してるんじゃねぇ。横から猪っ戒を出すな。
証明するのは余のほうではない。要求の強い阿蘇のほうだ。
立后して男だとお前は考えてるんか。まぁとにかくお前はいま
関係ない。

zzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・
78阿蘇山は移動した:2007/06/07(木) 10:02:44
何度も言うけど、隋書には、王の妻とかいてある。男と隋書は証明してる。
国書にも当然男の名になっていたからです。
日本書紀が絶対に正しいとすると、矛盾おきませんか?長寿の人がいたり、
推古天皇が女としてるのは、『記紀』のみなのです。隋書を間違いと
長い間言われてましたが、逆に日本書紀が間違いという事も、成り立つ。
そしてその仮定のほうが矛盾がすくない。
倭の5王もワカタケルには、武の字も読みもない。武は、雄略天皇でない。
とするほうが矛盾がすくない。
つまり日本書紀はデタラメが多すぎる。歴史書として使えない。
卑弥呼も神功皇后ではおかしくないですか?応神天皇が、トヨという女王
では、応神天皇が女王になる。
79太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/07(木) 10:29:41
そんなくらいじゃぁ証明にはならない。なるんなら臥海が大騒ぎになる。

お前は紀の長寿が矛盾だとか言っているが、それは倍暦の為おかしくはない。
また紀でも推古の代はずっと後であり、仁徳前の天皇の長寿で矛盾だから
推古も信用できないというのは正着とは云えない。

倍暦でやってたんだから、何のことはない。今の人々と大して変わらぬ寿命だ。
紀の上っ面だけ見て矛盾だとか判定するのは早計。ただし推古の世ではもう
佛伝の関係でか通常の暦法のようだ。つまり1年が現代の1年と同等的だという
ことである。倍暦とはたとえて言うなら、1次元的1里と1哩がその長さが違う
ごとく、4次元的時間のほうも、中国、半島と日本とは時間が当時同等ではなか
ったということだ。だからむこうとこちらの古文献の記述とはいくらやっても
大幅に合わないという結果になって来るのだ。

なお倭の五王は当時の各天皇ではないことはお前の言うとおりだ。それが
わかるならばお前の頭脳はなかなかいいほうに切れる。そう、武は雄略天皇
ではない。それに卑弥呼は神功皇后でないこともお前の主張は正しい。
だからお前はこういう点では合格点だ。もし神功が卑弥呼だとすると、後代の
應神、仁徳天皇の寿命がそれぞれ111歳、143歳とか、生物学的に考えられない
連続数字になり、これを肯定したことになって論理の成立が困難になる。
だから卑弥呼が神功皇后であるとの主張は間違いと観てよい。ただし武内宿禰は
数代の天皇に仕え、神功にも仕えていた紀で唯一の長寿人で100歳以上を生き
た者である。アリランの長寿王とかエジプトのラメシスU世も相当な長寿の
古代人である。例外はあるようだな。

しかしながら、さきほどの弁のみでは推古にチンポがあったという証明には
ほど遠い。
80太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/07(木) 11:19:22
>>78 (>>79続き)
お前は紀はデタラメが多すぎると言っているようだが、神代は純の神話で素抜き
が多く史実とするには早計だろうが、神武以降は年月日が記載されておりそれも
倍暦で矛盾ではないのだからそんないい加減な書ではない。紀の欽明二年三月の
帝王本記云々の文にも編者らは雑多な古文献の誤記を真に正すのが本旨だとの
文言を残している。それにもかかわらず誤認とか調整の困難で正確にできなかっ
た箇所もあったことはやむをえないことではあった。

紀の神功39年の卑弥呼の文に関しては、大陸と日本との暦法の相違が大幅に
あって、紀の編者らが合わないので干支60の2倍の120年の記載を余儀なくされ
たということである。こちらは当時倍暦だから大陸と大幅のズレが生じ、
さらに多大に干支記述があったことからこの一致を見つけるには60の倍数しか
ないことから干支が同等の60×2=120年が正解に近いと思いこんで、その年数
の調整記述をしたのが真相である。この120年から那珂博士の1260年を故意に
舎人らが拡張して神武即位を古きにもって行ったという説は考えすぎの間違いで
あり、編者連が調整をいろいろと考え同一干支を正と為して、60年毎に来る同一
干支を正だろうとして次に巡って来る120年がほどよく合致(←本当は合ってな
かったが)する小康状態の採用を選んだということにある。それが神功39年と
やらの紀の記述なのである。

神功39年の記述の真の実年代は崇神3年=239年であり、この時が景初3年なの
である。
81日本@名無史さん :2007/06/07(木) 11:35:33
倍暦とかいうイカサマを使わなければ、紀はつじつまが
あわないということは、紀の年代がいかにいい加減かが
わかるというもの。

もう少し、冷静に議論しませんか?
82太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/07(木) 11:59:22
議論してやろう。大きく自信があるようだな。

た〜だイカサマでは論拠にならない。その理由を明確に説明しろ。できなきゃ
お前の糊塗の創作だ。つまりお前の論がデッチ上げだということになって来る。

欽明二年三月の条に舎人らは俺たちはイカサマをやってない、真の戻す方針だ旨
を言ってるんだよ。間違いがあるのは故意ではないく過失的、不可避的なもので
ある。お前、根拠がないと今舎人が生きていたら怒って訴えられると思うぞ。

それとも舎人らが文書偽造に関与した大いなる根拠があるのか?
言ってみろ。
83阿蘇山は移動した:2007/06/07(木) 21:23:45
だいぶ落ち着いてこられたようで。暦とかが途中でかわるとか、1まわり
とか2まわりずらすと合う。というのが、どうも私には納得がいかない。
天皇の実在は、ただしいけど、年号はいじってる。これは正しいけど
間違ってるということにならないですか?
私が、言ってるのは、古事記にでてる33代推古天皇までが創作ということ
です。このように統一理論でないと。ここは120年ずらし、ここは正しい
では、学問ではない。暦は確かに20代からかわっていますね。そこから
前が創作だというならわかるのですが。その場その場で変えるのは??
84太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/07(木) 22:00:00
お前のほうがよっぽど矛盾してるじゃないか?

推古はチンポマンだったと主張していたが、今度は創作だと云い
だした。どっちなんだ?
お前は言動がクルクル変わってるではないか?
85太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/07(木) 22:45:27
それに稲荷山鉄剣の銘文の「獲加多支鹵大王」が雄略天皇であること
は系譜の代数遡りの合理性と、斯鬼宮が強い関係ある四道将軍の大彦
のオオキミ、崇神のシキの瑞垣宮ということはが確実であるからして
記紀の記述が創作ではないことが充分云え、創作してるとは、他
ならぬお前の頭だということになる。

お前は頭脳の半分はなかなか大したもので武王と神功の正論は確実に
理性のコントロールが滞りなく回転してうなるほど賛辞、評価を
すべき、見事高得点の知能ではあるが、かたや古文献の結論に早計さ
が目立つなど、短絡的な面と中国の古文献を恣意的に偏重するところ
があり、ゆがんだ古代史の思いこみをし過ぎている欠陥が丸見えで
あるからして、早急に矯正が必要であると考えてよい。
86阿蘇山は移動した:2007/06/08(金) 08:30:15
矛盾してませんよ。神功皇后の実在に?を持ったり、雄略天皇に?を
もったり。そして、推古天皇は、日本書紀では、女性です。でも、隋書では
王の妻で男になってる。つまり、推古天皇も創作だということです。
33代までが創作であるとオオノヤスマロが後世につたえるため、古事記
を作った。これが古事記の存在と、33代でおわった理由。これが私の
考えの基本です。確かに1300年常識としたことを否定しても100年
程度では理解できないかもしれないけど。
87太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/08(金) 10:08:56
そういうのは創作っていうんではなく人物は男女の違いでいたと主張してるん
だから偽装だという主張ではないか。つまりお前の主張は創作というのは一歩
行き過ぎた言い回しであり、チンポの有無が不合なんだから怪人二十面相の変装
のように言うべきであり、お前は風が吹けば桶屋が儲かる式の考察態度だから
いくらでも孫悟空のような飛躍をやってしまう。

二、三日前も古代のヒスイが新潟産とかいう臥海の関係者か? の研究連の
イカサマを見破ったとして、地元九州産の間違いを指摘する報道があったから、
お前も新潟は女と観て九州は男と観て、臥海の論は創作だと言ってもらわんと
お前は自語相違の恣意的野郎だということになってくる。

稲荷山の鉄剣の銘文はお前がどんなに否定しても、四道将軍の大彦と崇神の
磯城宮の名との一致から記紀のイカサマ説は退けられる。つまりお前の恣意的
秤量の頭脳の露呈した軽率な論であり棄却すべきが相当である。

推古の当時中国は女帝の経験がなく、日本側の女帝を間違って男帝と思いこん
だかそのへんでの隋書とやらの誤記であり、時間が過ぎてそういう記述に
なったままというのが真相であろう? まぁ隋書とやらのころはそろそろ初の
女帝が中国に現れたことは確かだが、もう過去の推古の件は時間経過で記憶薄弱
に至り、そういう記載のままになったと推測できる。推古は576年3/10に立后
してるから中国の文献の女帝未経験の憶測の誤記であろう。鉄剣から雄略の実在
が確かだから、ずっと後代の推古の実在は確かなものである。要は阿蘇の片半
頭脳の霍乱労働がかような論に至ったものであり、その根源は奴の津田病の治療
が哀れ、まだ真っ当されたないことを物語っている。
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/08(金) 10:28:10
紀の欽明二年三月の帝王本記云々の条に編者連は「俺たちは誤を削り真に正して
記述した」旨の文があり、例えて紀の推古崩御頃の天文現象の日食の記録も
天体計算の結果とほぼ合致しているそうであり、この記述を見ても紀は阿蘇の
桶屋論のようなイカサマではない。小野妹子を中国人が女と誤認したことは
ありうる如く、推古のこともそんなところだ。
89日本@名無史さん:2007/06/08(金) 15:41:26
アホじゃないの?
100%白も100%黒もありえないだろ。
白黒がどこでどれだけの割合かを考えるのがまっとうなやり口だろ。

90阿蘇山は移動した:2007/06/08(金) 18:22:26
古事記は、序文にヒエダノアレイの口伝を書いた。日本書紀は、一書に
いわくとあり、文献参考。矛盾では?つまり、両方デタラメ。
>>89
自分の都合のいいことは、正しい。都合の悪い事は、間違い。これは、
学問ではない。1割記事使い。9割自分の想像が正しい。これのほうを
アホという。
91阿蘇山は移動した:2007/06/08(金) 18:36:21
推古天皇崩御時に日食が起きている。これをのぞいて、34代から41代
持統天皇までに10回の日食の記事が日本書紀に見られる。しかし、
推古天皇の崩御時以前には1つも日食の記事がない。中国の文献には
183個の日食がある。なぜ、日本書紀に日食の記事がないのか?
事実なら1つくらいあってもいいのでは?34代からはある。だから、
33代までは創作されたとみるべきである。
92太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/08(金) 19:33:00
>>89
君の言い分が厳格に言えばそのとおりだ。刑事裁判級の完全な証明はこれは無理
だ。古代史の場合はそこまで要求する必要はないと思うが、中には完全なる
証明を要求する奴がいるようである。しかし、そこまではまずいらん。稲荷山の
鉄剣の銘文の場合も多角的総合的に観て雄略天皇であることは確かである。
従ってそのずっと後代の推古の実在は堅いわけで、他の論でもしてたほうが
マシではあるが、阿蘇のような片半分の頭脳の即断が迷走状態にあり、まぁまぁ
相手をさせてもらっている。がしかし、奴は推古のチンポ接続論は証明からほど
遠く、主題を他のほうにはぐらかして奴はとぼけている。

それに日食の記事がないからおかしいというならば、中国も則天武后まで一つ
も女帝の記事もないのもおかしいということになる。ところが阿蘇はこういう
ことはつつかない。中国古文献ばかり恣意的に信用している、まるでバットマン
のツーフェイスのような脳内で片腹痛いわ。Pu!ww
93太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/08(金) 19:51:38
阿蘇の日食の言い分から云えば、中国は武則天の前に日本より古い歴史を持ち
ながらも1つも女帝がいないわけで、中国史が事実なら1つくらいあってもよさ
そうなのにこれがまるでない? だから武即天の前は各代々の皇帝らが創作
されたとみるべきだある。と、こう他人に反論されても当然だろう。
だって日食が推古の前に1つも記事がないそうで33代すべてが創作なのだから、
武即天の前の1つくらい女帝がいてもいいはずであるが、それがない。
だから創作だと阿蘇は言い出すのは時間の問題でなければなるまいが。ww

奴はバットマンのツーフェイスの脳内であり、その片方は津田も驚く超津田病
に感染しているらしく、見方によってはどうやら片半、重症の診断結果が出ても
おかしくはないほどひどくあり、末期状態に突進している。
94太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/08(金) 21:27:47
>>91
推古のオスメス論で阿蘇は推古を野郎だと主張しながらも、推古は創作で
あると隋書の文からそう主張しているが、そうなれば隋書も一応推古をいたこと
で扱っているわけだから、実在でないのならば実在のオスとしている隋書も
イカサマだということになる。だからどっちに転んでも阿蘇の言い分はおかしい
わけで、かような状況でも奴は中国古文献にはひいきをベッタリとしている。

ところでオスメスと云えば10円硬貨にもあり、昭和26年のと同27年の10円硬貨
はメスがあり、同28年以降のはみんなオスだということである。これは硬貨の
裏面の平等院だったか?その建物の絵の屋根の鳥がオスとメスの違いが
あることからそんな話があるわけである。

さて阿蘇の主張の仕方でいこう。この10円硬貨というのは昭和31年の物はまるで
日食のように欠けている。遠回しの言い方だったが、昭和31年の10円硬貨という
物は1つも存在しない。だから 阿蘇山は移動した の論理が正解ならば、現今
で使用されている10円硬貨は官庁のイカサマの創作であり、実ではなく、これは
33年迄全部偽造皇貨だということになる。昭和31年以前の硬貨には1つとして
未発行年の10円硬貨がない。だからお代は33年のまで全部デタラメの創作で通用
は無効である事になる。それが風が吹けば桶屋が儲かる式の 阿蘇山は移動した
の幼稚な化けの皮の論理なのである。つまり奴は33代全部を恣意的に実在しない
としたい訳だがそうはいかない。阿蘇は精神科で診療を受けねば頭が危ない。
95阿蘇山は移動した:2007/06/09(土) 04:52:43
隋書には、倭王は、姓は、アメ、字は、タリシヒコ アメキミと号す。王の
妻は、ヒミと号す。と具体的にかいてある。もちろん国書には王の署名も
あるはずである。男と女をはたしてまちがえるだろうか?私は、この時代
王がいたことは否定してるのではない。倭の5王もいたのは事実である。
しかし、推古天皇や、雄略天皇は、いなかったといってるのである。
5王も系図があわない。中国書物を信じるか、日本書紀を信じるかの
違いである。
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/09(土) 07:40:14
お前、中国はこの前も歯磨きか〜?毒のような物が混入してるとかアメリカで
騒いでいたぞ。それに同国の遊園地にはディズニーランドの漫画キャラクターも
勝手に取り入れたりなにか、CDとかの海賊版もべらぼうに多いとかの話が
出回っているようだが、こんな国の古文献でもイカサマがありそうに想う事件
ではないか。よくそんな国の真を誇大視してるな。お前もっとよく研鑚しろ。

そんなことで天皇が無いことにはならない。お前推古がそんな理由で無いなど
と云ってるなら、もう精神病院で頭をよく観てもらったほうがいい。
97太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/09(土) 08:21:33
>>95
お前の出した文は九州王朝の王だろう? そんなことだったのか。w

阿蘇の桶屋式論理だが、今は金融機関などで本人確認のために自動車運転
免許証の提示を求められようが、同証の免許の種別欄には以下のように

−普−−−−
 通
−−−−−−

記載があるとすれば、阿蘇の言い分だとこれは普通免の1つしか免許を保有
していないことになり、同証にはその免許の取得年月日が記載されているから、
その前には免許を取ったことがないわけであり、かようなことから阿蘇式論理
では、1つしか免許がなく、それ以前にもう1つくらい免許を保持していて
もよさようなものだが、その記載が免許証にない。だからこの免許証は
勝手なイカサマ(公正証書偽造)の創作であると阿蘇は結論付けるのだ。
こういうんでは、阿蘇は金融機関や警察とかには勤めされられない。頭半分が
妄想の塊になってるようだ。これでは阿蘇は精神科行きと云わざるを得ない。
98阿蘇山は移動した:2007/06/10(日) 09:43:53
政治と宗教は、議論しても結論がでないといいます。これは、学問の
論争ではないですね。書いてもムダですね。中国は、毒が入った書物
で、日本書紀はただしい日本の歴史なのですね。それは、それでいいと
思いますよ。
99太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/10(日) 09:49:19
逃げ口上はいいから、お前のおつむの半分点検と推古のチンポの厳格な証明を
はぐらかさずにやってみろ。お前は普免のほかに自二免持ってるのか?

よくTVに登場する早大のエジプト学の教授はアメン神とか太陽の神とかで
講義してるよ。当時の信仰なしに古代史の真は浮き出てこないんだよ。
100阿蘇山は移動した:2007/06/11(月) 08:35:54
過去の読んでください。何度も書いてる。
隋書の、王の妻ですべて決まりです。
101太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/11(月) 09:38:11
そんなんでは証明になっちゃぁいないね。お前が証明できないでこっちにトタン
に証明しろなどと言い出すな。

アメタラシヒコのことだと言うんなら、まず九州王朝の王だ。
ならば推古じゃないんだから矛盾なぞない。つまりお前の即断が記紀の全員天皇
がいないなどという津田も驚く妄想に至ったもので、お前はツーフェイスのよう
な片半頭脳を早急に治療せねばならない。

稲荷山鉄剣の銘文のとおり雄略天皇の実在は確かであるから、より後代の推古の
実在は動かない。それを補強するのが墨田八幡の人物画像鏡で、この銘文には

「癸未年八月十大王 男弟王 在意柴沙加宮時斯麻念長寿・・・・・・・ 」

と書かれてあり、繼體天皇の御名が厳然として残っている証がこれである。

この文からも、阿蘇の記紀の創作論は退けられる。つまり阿蘇は津田以上の
デタラメ、妄想の桶屋論理だということがこれで決マリとなるのである。
102阿蘇山は移動した:2007/06/12(火) 09:44:10
十分な説明、証明は、かきました。理解出来ないなら、理解できるまで
上記を繰り返し読んでください。それから質問してください。
103太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 10:06:18
お前精神科へ行って診てもらえ。甚だしく結論が早急だ。

全く証明にはならない。ただ隋書に全体重をおんぶしてもらってますとの
言い分であり、証明のカケラも無い。w
だいたい女帝が推古の当時一人しかいないから、紀の記述は信用できないなど
というのは例の桶屋の論理であり、デタラメの極致である。
とたんに他人に証明を要求しておいて、自分の証明は充分だとかの虚言にて逃げ
ようったってそうはいかない。もっともっと勉強するんだな。

この前、森さんがミスユニバースに選ばれたが、その前は日本では児島明子さん
のみがミスユニバースに選出されたということであり、森さんがこうならなけ
れば、日本にはミスユニバース嬢は児島さんのただ一人だから、阿蘇移動式に
それ以前に同嬢になった女性は誰もいないわけであるから、阿蘇移動の論理では
児島さんのミスユニバース選出は疑わしい創作の偽装になり、引いては児島さん
も男性であるとの阿蘇移動の論理となる。wwwww

このような論理の阿蘇移動は津田も驚く超津田病患者と確定せざるを得ない。
精神病院で至急診てもらえ。
104日本@名無史さん:2007/06/12(火) 13:49:33
「墨」田八幡w

アメタラシヒコなんて、どう見たって普通名詞じゃん。
個人名じゃない。天皇ってのと同じ。
105太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 14:12:40
九州王朝の王の名のようだ。
106太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 14:21:46
失礼した。「隅田八幡」でした。訂正します。
107太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/12(火) 22:10:26
>>102
充分はおろか毛の先ほどの証明にはなっていない。
質問はあとでしてやるから、キチンと証明をしろ。

言っておくが、稲荷山鉄剣と隅田八幡の鏡の銘文から雄略天皇と
繼體天皇の実在は動かない。これだけでも33代全部実在しない
などの主張は暖簾に腕押しのデタラメであり、これ以上いないなど
を言ってくる論は無駄な徒労である。お前のやる証明は推古に
チンポがあるという内容のことだ。
108日本@名無史さん:2007/06/12(火) 22:15:10
他の歴史板での愚痴を漏らすスレ
http://etc6.2ch.net/test/read.cgi/nanminhis/1172045056/
109阿蘇山は移動した:2007/06/13(水) 08:32:14
>>108
面白いのあるのですね。さすが、2chだ。
>>104
逆ですよ。今から考えると官名にみえるのでしょうけど。前にも
書いたけど、Y元教授は、ヒミコは職名って言ってた。
でも、次が、トヨ(イヨ)では、おかしい。
110日本@名無史さん:2007/06/13(水) 10:24:31
>>109
横レス失礼。
トヨ(イヨ)は、王に選ばれたときの、王位につく前の名前で、
トヨ(イヨ)が王に就任したら、やはり卑弥呼と呼ばれていたのでは?
卑弥呼にも、何らかの本名があったと思われるし(記載されてないが)。
111阿蘇山は移動した:2007/06/14(木) 10:35:26
>>110
岩波文庫の隋書よむと。67ページ。倭王あり、姓は、、、字は、、、
これが職名?苦しいと思いませんか?
1300年の常識というか、日本書紀の世界に支配されてると思う。
だから私の考えは、1000年は理解にようするというのですよ。
先入観を棄てて読まないと。
あと、文献を自分勝手に改竄しないように。卑弥呼も本名があったは、
創作です。魏志に書いてない。想像で自説を説明してはダメです。
112日本@名無史さん:2007/06/14(木) 10:56:14
>>111
隋書にある「アメタリシヒコ」が職名ではなく、
実名であるとでもいうのですか?
日本書紀にはそんな名前の大王はいないのですが、
日本の大王ではないのですか?
「アメタリシヒコ」が大王が世襲する職名ならば、
「卑弥呼」も邪馬台国王が世襲する職名であっているのだが。
113太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/14(木) 10:57:14
想像の創作はお前ではないか。いい加減デタラメやるのはやめにしろ。
114太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/14(木) 10:59:53
>>111 は想像創作のウソ王     >>113 は阿蘇移動の件。
115日本@名無史さん:2007/06/14(木) 21:18:48
アメタリシヒコ→天垂彦 又は 天足彦 又は 天照彦
116日本@名無史さん:2007/06/15(金) 06:58:22
おはよう卑弥呼
117阿蘇山は移動した:2007/06/15(金) 09:27:10
>>112
卑弥呼は、世襲されてませんよ。次は、トヨ(イヨ)ですよ。
>>115
天垂彦って日本書紀以外で説明されてるのですか?今、日本書紀は、
利用できないと言ってるのですよ。
隋書は、太子を名づけてワカミタヒラと書いてます。また、昼と夜
は、交代で政をおこなったと。これでも、日本書紀は歴史書として
使いますか?
118日本@名無史さん:2007/06/15(金) 09:29:44
>>117
原文、読んでる?
隋書にはそんなこと書いてないんだが。
自分の国の国書よりも中国かぶれの奴が、また沸いてるなw
119太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/15(金) 10:11:44
「アソは移動した」は証明もできないくせにこちらに証明を要求している。
お前はいまだ推古に男根があるとの主張の証明をとぼけてはぐらかして
やってはいない。そのことはお前の論が証明のできないデマカセだったと
いうことがが遠回し的に証明されたということになる。隋書以外に何もないと
言うべきなのがお前の論であり、これは過言ではない。

さらに歯磨きに危険物資らしき物が混入してたという米国のニュースとか
ディズニーキャラクター等の他国企業の物を恣意的勝手に使用したり、CO等の
海賊版が多く出回っているとかで昨今世界から不信がられている中国のその文献
を大したチェックもしないで固持する強信者ぶりであり、反面日本の文献は毛の
先ほども信用しないという中国びいきで、そんなお前の論述はデタラメの極致で
ある。「ウソはひどすぎた」のコテがお前にふさわしいと言うほかはない。
120阿蘇山は移動した:2007/06/16(土) 08:52:19
>>118
原文は、岩波文庫みてます。訳も、原文の写真もでてる。まあ、原文
もいくつか種類ありますが。岩波は500円ていどでやすくていい。

ここらへんで、最初に戻る必要があります。
何故、古事記があるか?何故、古事記は33代推古天皇で終わったか?
まあ、1300年の常識をかえるには1000年は、かかるでしょうけど。
121日本@名無史さん:2007/06/17(日) 01:33:18
阿蘇VS大黒の戦いはどうも大黒有利な状況にみえますな。
ところで、大黒のレスは下品ですな。
しかし、大黒のレスは面白いですな。ほほえましい。
どうも、大黒論で納得してしまいそうなので阿蘇の反撃に期待!
122日本@名無史さん:2007/06/17(日) 06:13:07
倭の天の国→イのアマの国→イアマの国→ヤマツ国→ヤマト国→大和国
123日本@名無史さん:2007/06/17(日) 06:18:00
倭の国→イの国→イツ国→伊都国
124日本@名無史さん:2007/06/17(日) 06:23:23
野(平野)の国→野国→ノ国→奴国
125阿蘇山は移動した:2007/06/17(日) 08:35:49
>>121
そうですか。私不利ですか。それもいいのでは。勝つためにしてるのでは
ないので。私の研究が進歩すればいいだけですから。
>>122
邪馬台国→大和 のほうがいいみたいな気がするけど。いえ、東遷が
あったとかは、また、別問題ですが。ご参考までに。
126阿蘇山は移動した:2007/06/18(月) 10:46:25
神功皇后に魏志等の引用4箇所。中国の資料では、魏志等7つの記事。
中国に狗奴国との援軍とか、トヨを女王にしてもらっておくる部分?
かな?日本にとって屈辱的なものは引用してないのかな?どうも
中途半端。のせるなら、全部のせればいいのに。
127太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/18(月) 11:09:46
>>126
天皇は33代創作だが、神功皇后とトヨとやらは実在だと思ってんのか?ww
128日本@名無史さん:2007/06/18(月) 22:04:38
日本と中国は同文同種と思ってるヤツが多い
そして誤った略字を使ってる場合が多い
浜≠濱
芸≠藝
台≠臺

邪馬臺国を邪馬台国と書くのは止めたほうがよい。

発音的には呉音では臺は全濁(d有声,同と同じ子音)、
台は次清(土と同じ子音t無声無気)だ。
「台」にはダイ以外にイという音もある。
臺にはイという音はない。
129阿蘇山は移動した:2007/06/19(火) 10:56:06
>>128
台はいけないのか。知らなかった。

ところで神功皇后49年に、新羅をうちてやぶり って
でてるけど、この時代、新羅あったの?馬韓、弁韓の時代
では?
130日本@名無史さん:2007/06/19(火) 11:37:17
神功皇后は応神の前、つまり倭の五王の前、つまり4世紀末、つまり
好太王碑記述の、朝鮮出兵のことを指している、つまりすでに三国時代。
131阿蘇山は移動した:2007/06/20(水) 08:23:53
日本書紀の注」で魏志引用してるけど、ずれてたのか。
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/20(水) 20:25:26
何でずれたのか? お前よく考えてみろ。
133太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/20(水) 20:30:58
ついでに推古にチンポがついていない証明のできないお前のふがいなさを嘆け。
134阿蘇山は移動した:2007/06/22(金) 08:34:35
前にも書いたけど、神功皇后が卑弥呼なら、トヨは、応神天皇
になるわけだ。女王ですね。トヨは。
135太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 08:55:08
>>134
そんな仮定は、お前は33代不実在なんだから、應神になるとの想像をして何に
なるんだ? もともといないって主張してれば、なるもならぬもそれ以前の話
ではないか? 笑わせるな。ww
136日本@名無史さん:2007/06/22(金) 09:11:47
日本書紀は、卑弥呼を神功皇后に当てているのに、
トヨは無視しているね。
大和王権と、邪馬台国が別物だった証拠だろう。
別に、邪馬台国が九州にあったといってるわけじゃないよ。
たとえ畿内にあったとしても、大和王権とはつながらないということ。
137太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/22(金) 09:14:38
じゃぁこっちがつっこんでさらに言ってあげよう。
女王国は九州にあった。紀無いとは遠隔の地。
138阿蘇山は移動した:2007/06/23(土) 08:51:16
>>136
邪馬台国と日本書紀がつながらない。なら、日本書紀は、
正しい歴史書?事実を書いてあるのでしょうか?
日本書紀は、全部正しい?間違ってるなら、どこから
正しいのか?
139日本@名無史さん:2007/06/23(土) 09:22:44
>>128
逆。万葉仮名では「臺」は「ト」。
「タイ」と読むようになったのこそ後世。
140日本@名無史さん:2007/06/24(日) 02:31:04
>>139
> 「タイ」と読むようになったのこそ後世。
そういう出鱈目を吹聴するということは、上古音と中古音の違いさえも知らないということだ。
141阿蘇山は移動した:2007/06/24(日) 09:12:31
>>140
私も知らなかった。ヤマタイコクってよんでますが。ほんとに2chは
怖い。詳しい人がなにげなく、専門的なこと書くから。
142日本@名無史さん:2007/06/24(日) 18:57:21
◆朝鮮の陶磁器について◆

★朝鮮の陶磁器は優秀だったのか?(その1)★
http://cgi.members.interq.or.jp/asia/showashi/cgi-bin/trees.cgi?log=&v=1562&e=res&lp=1562&st=0

 最近の文化考察が好評のようだ、と勝手に考え、朝鮮半島を代表する文化とされる陶磁器、
特に李朝と呼ばれる李朝陶磁器について考えてみよう。
 ここまで、他国が誇る文化のことをバラす必要も無いような気もする。が、あまりにもホルホルと
威張っているので、まあ、与太話として聞いてもらおう。
 まず、基本的な話として、朝鮮半島でなぜ、文化・文明が育たないか、の理由を述べたい。
それは、朝鮮半島の伝統的価値観、労働・勤労をきわめて低いものと蔑む、劣化儒教思想に原因があるのである。
 額に汗して、良いものを作ろうとする事を蔑む社会では、芸術・文化などが育つはずが無い。
今でこそ、チャングムとなど、いい始めているが、料理人は極めて身分の低い人が行う、蔑むべき労働と
されていたのだ。
 そんな中では「おいしいものを食べさせたい」という食文化が育つわけが無い。陶工職も同じで、
労働して生活する身分の低いものと扱われていたのである。そんな中で、良い陶磁器などできるわけが
無いのである。
 李朝陶磁器はその名声と裏腹に、「古い」というだけで、芸術的な価値などほとんど無いのである。
143日本@名無史さん:2007/06/24(日) 19:41:29
残念ながら邪馬臺は上古音から呉音への過渡期の時代。
上古音は先秦の詩経などの韻文などから再構成したもの。

「邪」は伊邪那岐、伊邪那美神で知られているように日本の古代史では
ザと読む。
万葉集巻13-3239番の歌に
嶋之埼邪伎 島の崎々
「邪」を「ザ」と読んでいる。
>>139
「臺」は万葉集に音仮名としては出てこない。
「臺」は全濁なので母音がoならドと読むだろうということです。

古事記、日本書紀、風土記その他に「臺」をトと読む例があるのですか。
144:2007/06/24(日) 20:00:35
コゴトムスビかな。
145日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:06:12
>コゴトムスビ
は「興台産霊」。「臺」ではないですね。
146サガミハラハラ:2007/06/25(月) 08:26:02
昨日は邪馬台国の会に参加した。
魏志倭人伝はだれが、いつ、どこで書いたのかという題であった。
現在、陳寿の三国志は魏略をもとにかかれたということであった。魏略のほうが先にできた。
しかし私考するに、魏略が先にできたにしろ、陳寿がそれを見て書いたとはいえないであろう。
最近ある漫画家が、あるミュージシャンが彼の作品を盗作したと訴えたというが、そのミュージシャンは
「その作品みてないっすよ」といっているそうである。私がみるにこれはミュージシャンに分があるようである。
次に、魏使の報告書からも引用したと述べ、結局は、魏志倭人伝は魏略と魏使の報告書からまとめたものであると
結論づけていた。
しかし、私が、この件について若干史料をみてみたが、どうももともと魏略や魏志倭人伝のもとになる資料が存在した
ようなのである。魏使の報告書のほかにである。
陳寿は晋の著作郎として書庫にはいることができたようであるから、そこに東夷に関する史料があって、それをみることができたようなのである。
それは、魏の時代のみならず、漢いやそれ以前の箕子朝鮮の史料まで含まれるものであったのではと私孝するものである。
従来の倭人伝の研究は魏の倭人伝に固執するあまり、大局で見るという姿勢を失っているのではないだろうか?
147阿蘇山は移動した:2007/06/25(月) 09:22:13
魏志倭人伝で矛盾するとこ1箇所ありますが、ほぼ、理解
出来る。何を参考にしたかは、詳しくわからないでも、ある
程度考察できるように思いますが。少なくとも、邪馬台国の
先生は、魏志を読んで解釈してない。高天原中心。この会は
かなりレベル低い。
148日本@名無史さん:2007/06/26(火) 00:23:11
昔の中国の地図には、日本列島は九州の南に本州が描かれていた。
ということは、プレートの移動によって九州を中心に日本列島が180度回転したということなんだ!!
な、なんだってー?!!AA略
149阿蘇山は移動した:2007/06/26(火) 10:49:20
伊豆半島は島だったらしい。日本列島もくの字の曲がりが
だんだんひどくなるとか。でも、卑弥呼の時代と、今は、
そんなにかわらないでしょうね。
本州が南にたれさがっていた、とするほうが方位の南を
東に変えるよりよほど説得力がある。意味理解できるかな?
150日本@名無史さん:2007/06/26(火) 16:55:32
おい!
聖徳太子しってるか?飛鳥に生まれたヤリちん野郎だよ!しらないおまえはどうしようもないちんカスの万カスだな俺はがっかりだよくらーけん鼻くそボケボケボケボケちんちんちょんぎるよバカタレカバ地タレ東コクバル
151日本@名無史さん:2007/06/27(水) 11:12:05
>>149
ということは、やっぱり八幡平・・・?
152阿蘇山は移動した:2007/06/27(水) 12:07:03
近畿では。本州が南にたれさがっていたなら。
153148:2007/06/27(水) 20:43:18
ごめん、180度じゃなくて90度だったw

      ■北海道
 ■九州
 ■四国  ■本州(東)
   ■本州(西)
          右斜め下から左斜め上向かってにプレートの力がかかる

こんな感じw
154阿蘇山は移動した:2007/06/28(木) 08:17:47
日本海溝みたいに、太平洋から、東北地方へ西向きと、太平洋から、四国へ
北向きの力では?
155阿蘇山は移動した:2007/07/05(木) 12:59:24
志賀島の金印は重要。後漢時代は、奴国と中国が交易。
何度もかくけど。後漢時代はもとより、それ以前も
近畿は直接に中国と交易はないので、古い鏡が近畿
ででるはずがない。国産か、奴国経由で手に入れた
ものです。近畿は、鏡で年代きめられない。
156太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/05(木) 14:45:44
>>155
どうして出るはずがないなどと分かるんだろうか?
157阿蘇山は移動した:2007/07/06(金) 00:53:29
福岡で金印が発見されたからです。金印が偽物でも
後漢書に記述がある。もし、近畿が後漢、あるいは、
その前に中国と交易してると奴国は、金印もらえない。
近畿は中国と交易してないのです。近畿で出た鏡みても
何もわからないのですよ。日本製ですから。
158太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/06(金) 07:11:38
>>157
この前の件は説明しないだろうからもういいよ。どうせ証明なんかお前様も
できないようだからな・・・。w
ところで別件を聞くが、籠神社の鏡はどうなんだ?
159阿蘇山は移動した:2007/07/06(金) 11:10:55
この神社など、伊勢じだいが日本書紀より前にさかのぼる
ことの証明がされない。後漢時代は、奴国が中心。
日本書紀には、これが書いてないから、日本書紀
は事実ではない証拠。
160太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/06(金) 15:00:29
お前は第三者には証拠がどうのこうの云い、自分のことには結論が早く勝手な
言い分ばかりしている。書いてないから事実でないなどと、短絡的な能書きを
ぬかしている。いい加減にしろ。
お前の論理は、風が吹けば桶屋が儲かるではないか。w
161日本@名無史さん:2007/07/06(金) 17:55:06
>159
後漢時代は奴国が中心・・・?
後漢に遣使したのが奴国だった、というだけで、
奴国が当時の倭を代表する国家だったというわけではないのだが。
貰った金印も、「奴国王」の称号であって、「倭国王」ではないし。
162時間潰しの店の片隅:2007/07/06(金) 22:43:22
金印の国は委奴国(倭奴国)であって奴国ではないのです。上古研究の最大の誤謬のひとつがこれであり、
これを克服しなければ正しい研究へと進まないのです。
なお委奴国は伊都国ではありません。
163日本@名無史さん:2007/07/06(金) 23:04:42
いや普通に倭の奴国だろ
164時間潰しの店の片隅:2007/07/07(土) 08:55:06
邪馬台国の位置について現在不明とされているのも、最初の前提がまちがっているからです。
解けない場合はじめに戻って考え直すということは何事においても重要なことです。
既存の結果を尊重しその枠にとらわれていては、学問は進展をみれないのです。
165時間潰しの店の片隅:2007/07/07(土) 09:16:30
訂正 尊重しを尊重しすぎに訂正いたします。
166阿蘇山は移動した:2007/07/07(土) 14:48:09
>>161
確かに、倭国王ではないです。でも、近畿は金印もらって
ないように見える。もらわないより、もらった方が、
進んでたのでは。もし、近畿が直接中国から鏡もらってたら
奴国は、金印もらえない。
>>162
奴国も色々解釈ありますね。でも、魏志ででてくる、奴国も
博多で確定してるのでは?
>>164
邪馬台国は、確定してないのは事実でsづね。そこで、
こんな証明はどうでしょう。北部九州説と近畿説の
どちかか?もし、どちらかが正解だったら、1年で
確定するはずだ。100年以上確定しないのは、両
説が間違っている証拠。正解のない中で正解さが
しても永遠に正解見つからない。
167時間潰しの店の片隅:2007/07/07(土) 16:36:27
ですから、奴国を博多に確定したことと、委奴国を倭の奴国と読んだことが間違いのそもそもの始まりなのです。
最初の曲がり角をまちがえたのであるから、あとは「迷い道くねくね」ですよ。
168日本@名無史さん:2007/07/07(土) 17:40:15
奴国は九州、邪馬台国は近畿のどこか。
これだけのことでしょう。
ただし、邪馬台国は小国であって大国ではなかった。
大和に滅ぼされたと考えるのが、合理的。
169阿蘇山は移動した:2007/07/07(土) 19:47:14
>>167
委奴国は、大和ですか?確かに、新説ではありますが。専門家の間違いが
わかるのですか?ちと、不安。

>>168
邪馬台国は、近畿ですか?本州が九州の南にたれてたら、うまく合いますね。
地形がこうなら、反対はいたしません。
南を東に変えるより、本州が動いたとするほうが説明楽ですから。
170時間潰しの店の片隅:2007/07/07(土) 22:19:36
委奴国はのちの邪馬台国です。(奴は国という意味ーヰの国ついで邪馬のヰの国つまり邪馬壱国そして邪馬の大いなるヰの国つまり邪馬台国となりました。)
委奴国の都は佐賀県吉野ヶ里です。邪馬台国の都は佐賀県小城市甘木です。230年代に遷都しました。
171日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:12:22
そもそも金印は志賀島から出土したんでしょ。
奴国が北部九州なんだから邪馬台国も九州でしょ。
172日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:43:54
>>169
魏志倭人伝の方角や道のりは全くあてになりません。
方角、距離、戸数の誇張は、魏が、呉の背後に巨大な国(邪馬台国)があり、
友好関係を築いていると主張したかっただけです。いわゆる、呉を牽制したかったがために
このような創作したものと思われます。
したがって、先に述べたような邪馬台国は、決して大国なのではなかったのです。
逆に小国であったがために、日本書紀編纂期には、その位置も、規模も解らなかったため、
書記編纂者たちは、邪馬台国について記述できなかったのでしょう。
173日本@名無史さん:2007/07/08(日) 02:00:34
>>172
倭人伝がすべて客観的かつ正確な事実だけを伝えているとは考えにくいものの、魏と呉の
関係などは、魏志が書かれた時点では忖度する意味がまるでなくなっているのだから、
それを忖度して事実を歪曲したという可能性は低いでしょう。

> 呉を牽制したかったがために
陳寿が、当時に存在していたはずの多数の資料から、何故に、選りに選って、「滅び去った
過去の王朝の都合にあわせて歪曲が加えられた記述」を採用する必要があったのか?
そんなものを採用する必要性など全然ないでしょう。
むしろ、過去の誰かの都合による歪曲があったなら、歪曲を指摘して修正するほうが自然。

魏志がいつ誰によって書かれたか勘違いしてませんか?
174日本@名無史さん:2007/07/08(日) 02:47:56
>>173
呉を牽制したかったというのは、そういう歴史を普が書きたかったということです。
呉書の中に台湾との友好(占領)が記入されていますが、それよりも南に大国(邪馬台国)があるんだと
そして、その大国と友好関係なんだと魏志倭人伝では言いたかったのでしょう。
もう一つ、普国建国に貢献した司馬懿の面子を立てるため、大国でもない邪馬台国に親魏倭王の称号を送ったのです。
司馬炎が、祖父の名誉を称えたかったために魏志倭人伝は造られたと考えています。

175太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 07:42:54
当時呉に女王国の情報の文が有ったのか無かったか分からんが、呉は卑弥呼の
女王国は感知していなかったということか?
感知していれば呉に女王国があるぞとの牽制はあまり意味がないように
思いますが?
176阿蘇山は移動した:2007/07/08(日) 09:08:32
倭人伝は、倭在ではなく、人がはいってるので、まだ、国とはいえない状態
でも、金印をもらえたのは、やはり、呉をけん制する意味があったと考え
でいいのではないでしょうか?西は、大月氏かな?押さえてるみたいだし。
この対が、魏の考えあらわしてる。
邪馬台国の場所は、多くが、近畿にあったとして倭人伝を読む。近畿に
なるように、魏志を変えてる。これが、そもそもの研究手法の誤りです。
方位を間違えたというのは、陸ならあるけど、海では、苦しい。太陽
みてれば、南から陽がのぼるはずない。
距離が長いといいますが、はたして長いのでしょうか?当時の陸行1月
は、何kmかわかりますか?私の試算では75kmになるのですが。
これは同時に水行10日の距離です。この距離では、方位東に変えても
岡山あたりで、近畿説は、距離的に遠すぎてあわないと言えるのですが。
ここらへんの解読が不十分だから結論だせなかったのです。陸行1月を
現代の距離で考えたとこに間違いがあるのです。
177日本@名無史さん:2007/07/08(日) 09:27:50
>>175
呉は卑弥呼の情報は知らなかったんだと思います。だって卑弥呼は大国の女王ではないんですから。
呉書には、台湾(夷州)のことが書かれていて、2千人奴隷をつれて帰っているんですが、
このとき、壇州にも向かっているんですが、到達できてないんです。
この壇州(フィリピン?)より遠い所に巨大大国があるというこを
魏志倭人伝は言いたかったのでしょう。
魏志倭人伝の道理計算をまともに読むひとはいないでしょうが、実はこれは
まともに読んだほうが解りやすく、魏としては、邪馬台国がグアムあたりに
あってほしかった。そして大国であってほしかった。さらに友好国関係でありたかった。
そういうことを、中国(便宜上)国内に主張したかったんですよ。

178太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 09:48:32
>>177
魏志倭人伝として呉に卑弥呼の国があった記事を教えて呉を女王国の間接的
威嚇で牽制しようとするなら、遣使を呉に送って女王国のことでも呉のえらい
のに話をすれば間に合うではないかね?
179日本@名無史さん:2007/07/08(日) 10:09:52
阿蘇さんのいう大月氏が大事なところで、魏はクシャンに親魏大月氏王
の称号と親魏倭王の称号を同格とみなしたかったんですね。
この大月氏の道里と戸数が、邪馬台国と一致するように魏が誇張した
ため、邪馬台国が大国だと勘違いしてしまったんですよ。

私は、邪馬台国は近畿だと思っているんですが、当時近畿は九州ほど
中国に知られていなかったため、逆に創作しやすかった。その近畿から
卑弥呼が朝貢してきたため魏は道里、戸数を捏造したんだと思いますがいかがでしょう?
180太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 11:17:31
近畿?なぜ近畿にいる記紀の編者に卑弥呼の国は殆ど知らされなかったの?
記紀に殆ど載ってないよ。神功39年とかくらいだよ。
181日本@名無史さん:2007/07/08(日) 12:15:01
卑弥呼と台与は伝説として語り継がれた。
天照伝説がそれだ。
182日本@名無史さん:2007/07/08(日) 12:43:57
>>180
記紀は大和の正統を記したいため、当時の邪馬台国が邪魔だったのではないでしょうか。
邪馬台国があった時代には、すでに大和が近畿に存在して、日本を支配していたことに
していないと、 辻褄が合わなくなるためにあえて邪馬台国を無視したように思えますが。
大和が邪馬台国連合を再統一したのだけれども、これでは王朝交代を意味する記述になってしまい
正統性が認められなくなるため無視をした。
または、邪馬台国は記紀で無視できるほどの小国であった。のどちらかではなかろうかと考えられます。
もし、邪馬台国が出雲のように大国ならば記紀にも記述していたかもしれませんね。

魏志倭人伝は魏の正当のため、邪馬台国は大国と記述した。
記紀は大和の正統のため、邪馬台国を記述しなかった。
ということだと、思います。

魏志倭人伝が記す道里、戸数は全くデタラメなんだけど
呉は海洋活動が盛んに行われており九州地方のことはもいくらなんでも
デタラメに記述できなかったために近畿からきた卑弥呼をデタラメに
記述したのではと思います。

183日本@名無史さん:2007/07/08(日) 14:23:53
>>181
天照が卑弥呼ということ?
184太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 14:47:38
>>182
その魏とやらの遠方の大陸からえらく遠い近畿にあるという女王国が、大和朝廷
を無視してよく見つけられたな?w

何で、魏志倭人伝は小国なる卑弥呼の国の隣にもっと大きい天皇国とかの国が
あることを記載しなかったのか? 君の言い分からだと、
記紀は近畿にある朝廷の隣国卑弥呼の国を記述しないでおき、倭人伝は逆に
近畿にあるもっと大きい天皇の国のほうを記述しなかったことになり、話が
うますぎると思わんかね?
185日本@名無史さん:2007/07/08(日) 15:32:03
>>182
近畿に天皇国は当時ありません。
小国の集合体がいくつかに分かれてあったのです。
その一つが邪馬台国ではないかということです。
186太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 16:10:09
天皇国はないというなら、女王国は神武以前だと主張するのか?
187日本@名無史さん:2007/07/08(日) 16:11:53
結構笑える。

所属事務所の契約を解除された華原朋美(32)が、和田アキ子(57)に「マギー審司にも裏切られ…誰を信じていいか分からない」という留守電メッセージを残していたとされる件で、マギーの事務所関係者は1日、「(2人の関係は)寝耳に水」と当惑気味に話した。

 メッセージの内容は、和田が6月30日に出演したラジオ番組で明かした。インターネットの掲示板では「マジ信じていた人にも裏切られ」というメッセージを和田が聞き間違えたのではとの書き込みが多数見られた。
188日本@名無史さん:2007/07/08(日) 17:45:02
いわゆる、天皇を中心とした「日本」は天智、天武時代で、
その全身となる「天皇系倭国」は仁徳でないかと思いますよ。
仁徳以前は各王族が乱立しており、それぞれ連合を組んだり、戦ったり
していたのでしょう。その一つが邪馬台国だろうと思います。
大黒さん、私は邪馬台国が近畿だと確信をもっているわけではありません。
ただ、九州ではおそらくないだろう、九州でなければ近畿であろう。というぐらいしか
言えないんです。
何故、九州ではないかというのは呉国が九州をよくしっている。その呉国
を牽制するためには九州では嘘がバレるために呉国が知らない地(近畿)に
親魏倭王の称号を与えたのだと思っています。
魏志倭人伝は倭人のために書かれた書物ではもちろんなく、魏の正統性、呉の牽制のため
に書かれているのですから、九州以外の地に邪馬台国があることのほうが自然だと思って
いるんですがいかがでしょう。

189太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 18:21:40
>>188
仁徳以前と云ってるが、神武から仁徳迄でも朝廷の勢力は近畿の範囲内に
つぼめて考えていいかもしれんが、近畿くらいの勢力があったのだから、
近畿の中に女王国があり、しかも天皇の朝廷をさしおいて迄遠い大陸に女王国
の小国の詳細な情報が書かれるならば、女王国より大きいはずの大和朝廷
の情報も同程度以上に倭人伝に載るよ。

大陸に朝廷以上に重宝がられる女王国ならばなぜ地図上で大和朝廷と目と鼻の
先にある女王国の記事が身内の記紀に殆ど載っていないのかね? それは
少しは載ってるがねぇ。神功39年の記事がそれだが・・・。

まさか君は神功皇后が卑弥呼だと思っているのかね? それはまずありえない
と思うよ。それを肯定すると、つまり神功39年の記事どおりになろうが、
そうなると後代の應神仁徳両天皇の寿命がそれぞれ111歳、143歳位となるのを
容認せざるを得なくなるから無理なんだよ。

これは生物学的にも成立はしないだろうがね。なれば記紀の記述を水増しとか
イカサマとしかしない限り卑弥呼が神功にはなりえないことを意味する。だから
神功39年の記事は神功世ではなく別の天皇の時代の記事だという事なのだ。
紀の編者連は半島大陸の年代と日本のとがどうしても合わせられないので、
ここではないのかとして神功39年としたまでのことだ。

さらに卑弥呼が神功でない朝廷の他の女とすれば、記紀に当時の各天皇の章の
間に一章が挿入されて卑弥呼女王の名称での章が造られるはずだ。記紀には
それがないから朝廷の女とは考えにくい。
これはどういうことを意味するのか? なぜ記紀に殆ど卑弥呼の記述がない
のか? なぜ日本の情報の入りにくい大陸に日本そのものの記述がそれも
詳細に渡り有るのか? この疑問を合理的に認容できる論は北九州を外れ
た中九州以下に存在したということになるのだ。畿内説では矛盾がでてくる
から、同説を肯定するためには遠回しに合理性を持ってきて矛盾の無いよう
糊塗する無理な論にならざるを得ない。
君の論もそんな感じだぞ。
190阿蘇山は移動した:2007/07/08(日) 18:55:44
日本書紀を信じる人多いですね。また、日本書紀をもとに年代などを
少しかえたり。ほんとに、そんなに確実な歴史書なんでしょうか?
中国の書と一致する部分はないのですが。
奴国の金印もでてないし、台与もでてないし、隋書の王も出てない。
まして、正しいけど、年号いじるって矛盾では?
やはり、魏志の解読しないといけないですね。まあ、近畿説は、南は
東のあやまりで終わるのでしょうね。ほんとに、南から太陽がでるのを
20回確認して間違いないとして記録したのかな?
191日本@名無史さん:2007/07/08(日) 18:59:52
邪馬台国の時代、女王国より大和朝廷が大きいということはなかった。
逆に大和朝廷は小国が乱立している一つの王国にすぎなかったと思っています。
また、邪馬台国と大和朝廷は対立関係ではなく、同盟国もしくは邪馬台国連合国
の一つの王国が大和朝廷であったと考えられます。そして、大和のクーデターによって
邪馬台国は滅んだ。または、邪馬台国の功績を大和が盗んだ。だから記紀には書けなかった。
すみません、勝手な想像ですが的外れでしょうか?

三国志以外には邪馬台国の位置を探る事はできないので、その時の中国国内の情勢を見ると
魏はとにかく呉を支配したい。そのためには呉の知らない地域、そして呉を挟む形で大国を
置いておきたい。それだけのために邪馬台国を亜熱帯地域に持っていったので、近畿ではない
かもしれません。ただし、邪馬台国が九州でないことは呉の海洋活動をみれば解ると思いますよ。
そうすると、後はやっぱり、近畿くらいしか思い浮かばないんですよね。

192日本@名無史さん:2007/07/08(日) 19:00:02
邪馬台国と大和王権はべつもの。
大和王権には、邪馬台国の伝承は伝わっていなかった。
それだけのこと。
193日本@名無史さん:2007/07/08(日) 19:20:16
やはり、少女持統の、神功ファンタジー傾倒が、日本古代史の最大の
ミステリーを産んだのではないか?と、それがしは推測しているのだが。

同国祖先史であるならば、明らかな人違いや、あきらかな事実虚偽は、
できないであろうが、編集時代から見て、少し前の時代の、同盟国の
歴史であるならば、「同国史」としてとらえるならば、多少の華美や
ファンタジーは加算することは、可能だろう。

継体前後、邪馬台は、畿内勢力と友好的競合勢力であったとするなら
ば、この解釈は可能である。

瀬戸内海文化圏を独立国家の国家郡として考えるか?
それとも、緩やかな連合体として考えるか?

この違いによって、邪馬台の解釈も、大和政権の天孫降臨逸話も
その意味合いを大きく変えるのではないだろうか?
194太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 19:28:43
「大和のクーデターによって邪馬台国は滅んだ」と主張するなら、戦勝国だから
勝利宣言的に記紀に載るよ。

「功績を盗んだ。だから記紀書けなかった」と云うのが貴殿の遠回しの矛盾の
糊塗的論述だと思うね。朝廷の誰がその功績とやらを盗んだというんだろう?
その功績ってなんだろう? 雄略武烈などは盗み以上の大悪をやってても記紀に
記載してあるから、下級兵士が何か金品を盗んだとかならいちいち書くことは
ないだろうが、国という名目で何か女王の重要物をかっさらったとかいうん
なら記述があるだろう?
195日本@名無史さん:2007/07/08(日) 19:30:04
日本初期よりも、魏志倭人伝を信じるのはどうかしているとしか思えない。

大陸の史書、とくに中原からみて『辺境』についての記述は
使節のやり取りに関することは信憑性が高いがそれ以外の記述内容はトンデモ本の類だよ。
196日本@名無史さん:2007/07/08(日) 19:54:04
>>194
日本書紀は大和の正統のために書かれた史書なので、
邪馬台国を紀元前に持っていくならいざしらず、正統の繋がりが何もない
邪馬台国を3世紀にクーデターで倒し、近畿を支配したと記述したら大変でしょう。
確かに私の説は物的証拠もなく、全くの想像の域をでないのですが、
九州以外で邪馬台国を語るとしたら近畿しかない。ということなんですよ。

>>195
魏志倭人伝をまるまる信じているということは決してありません。
しかし、邪馬台国を探るには「三国志」以外に何がありますか?



197太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 20:31:19
>>196
邪馬台国をクーデターで倒したなら、なおさら記紀に載るよ。だいいち
近畿の住民に隠せまいが。上の官僚に緘口令かい?ww わーっと広がるぜ。
隠してもいずれは漏れるぜ。そんなことより自国の正当化としていくらでも書き
こめばいいことだ。記紀には朝廷に謀反を企てた話が結構記述されている。
貴殿の話は現実を遊離したもの。

そういう近畿の近隣にあるという女王国の記述が記紀に蚊の鳴く程の文では畿内
にはある訳はなく、女王国は近畿から遠隔の九州にこそ有った事になる。
九州の情報は畿内より大陸に流れやすい傾向にある。距離が近くなるからだ。
そんな関係で、たまたま奥九州の女王国の記事が大陸へ到達したのだ。
198日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:07:02
>>196
奥九州の可能性はありますね。ただ、邪馬台国は奥九州だから
呉に知られていなかったというのはどうも・・・
まず、邪馬台国の場所の前提として、呉に知られていなかった。ということを
考えれば、九州より近畿のほうが自然だと思うのですが。

記紀についていえば、天皇国は幾度も王朝交代してるじゃないですか。
しかし、記紀は王朝交代などなく、紀元前から連綿と続いていると記述しています。
そういう書物から近畿にあった邪馬台国を探るのは不可能でしょう。


199太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 21:21:37
>>198
呉に知らせるには、遣使でも送った時それとなく詳細を呉人に話せばいいこと
で、倭人伝にこだわることもあるまい。
記紀のどこに紀元前から皇朝が続いていると書かれているのかい?
どのへんかね?

今までの貴殿の言うことが本当ならば、何も女王国を破った記述を書くのに
困ることもあるまいが。自国を正当化して記紀に書けばいいことだ。貴殿は
大和の正当のための史書だと云ってるではないか。女王国の記事は殆ど
無に近い状態だよ。こねくり返して糊塗的矛盾埋める論は避けて、冷静に何故か
を考察すべきだと思うよ。何故か? 簡単だよ。女王国が近畿になかったから
材料情報があまりなく、記紀にページ数を作れなかったものさ。

王朝交代をさかんに云ってますが、大陸のほうはもっとひっきりなしに後退して
るよ。大陸は易姓革命の国だからね。
200日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:55:48
卑弥呼は魏には遣使を送りましたが、呉には送ってませんよ。
魏から「親魏倭王」の称号を授かったのだから、呉に行く必要はありません。

私は、魏志倭人伝から見る邪馬台国を、近畿ではないかと推察しているので、
確信しているのではないんです。
九州説も十分有力なのですが、「三国史記」を見る限り、九州ではないのではと思います。
それは、魏、呉、蜀の対立関係にあるなか、呉の背後に呉の知らない大国がありその国は
魏と友好関係なんだと主張したい。そのため、呉の知らない大国を作り上げる(捏造)
には倭国は九州では難しいのでは思えるのです。
先にも述べましたが、呉は積極的に海洋活動を行っています。その呉が九州事情を知らない
とはとても思えません。もし、九州に邪馬台国があるのであれば、呉にとっては邪馬台国は
何ら脅威ではなくなるので、魏はわざわざ邪馬台国に対して親魏倭王の称号など与えなかった
のではないでしょうか。

201太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 22:13:05
>>200
貴殿のは魏志倭人伝が捏造だとの発想なのかね?
考えがこねくり返しの感が強くないかね? つまり考えすぎだという
やつだ。探偵小説の逆転逆転とか、はこういう結末が多いんではないの?

それはそういう小説の世界ではやれることだが、現実の世界では
自論の矛盾を合理的にならんかとあれこれ探し出しての矛盾を糊塗
した解決論で、こういうのはまず失敗に陥るよ。ただ、主張した本人は
末長くそれが本当だと思いやすく、なかなか治らん思いこみとなるもの
で、貴殿もその出ようとしない迷路の中に安穏といる状態となり、
とことんまで行って始めて覚醒するという類のものだよ。そのとき
は貴殿はこの世にいないときかもしれんぞ? つまりもう治らん可能性
が多分に大だということだ。

早く考えを改めないと、もうおしまいだ。

魏志倭人伝は呉人の耳の入らんと君のいう伝の作者らの目的は達せられ
ないわけだから、当然呉のえらい奴がそれを読んだという資料か何か
があるのかいな? そこまで調べてるのかい?
202日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:20:45
大国さん私は、邪馬台国九州説も十分有力と言ったのは
倭人伝に対馬、一支、未盧、伊都、奴、不弥、投馬+邪馬台国の合計戸数が
15万戸で、大月氏との兼ね合いがとれており九州の中に邪馬台国が存在
していたのではと思える節はあるんですよね。もちろん戸数は全くデタラメなのですが。。

ただ、呉と魏の関係を見るとどうも近畿ではなかろうかと考えています。


203日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:33:09
>>201
魏志倭人伝そのものが捏造ではなく、道里、戸数そして、邪馬台国の
国家としての規模は捏造であることは確信しています。

204太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/08(日) 22:33:42
>>202
おっしゃってる内容に文法的間違いがあるようで、ちょっと
意味が混線してしまいます。
一生懸命研究して下さい。それがしは九州のほうが合理的だと思い
ます。ただブレーキを怠らぬことです。

間違いと気づいたならば戻れれば是正は効きます。誰でも何らかの
失敗はします。一度やると懲りて用心深くなり、物事を多角的に
考えるくせがつき、失敗が少なくなりますな。
それがしも過去に恥ずかしい大失敗をしでかして、私も懲りてますよ。
205日本@名無史さん:2007/07/08(日) 22:57:49
>>204
では、大国さんは記紀だけではなく、三国史記を見て、邪馬台国
九州説に賛同しているのですか?

私は、記紀と三国史記を多角的に見ても合理性がどうしてもとれないでいるのです。
そうすると、当時の邪馬台国を情勢を唯一教えてくれる三国史記にたよって
しまい、三国史記を客観的にみると近畿ではなかろうかと思っているんですよ。


206日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:47:07
中国人の学者らは
邪馬台国=大和国だ。
邪馬台国をヤマタイコクんばんて言うな!
って言っていたけどな。
207日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:50:34
確かに我が国には古来ヤマト国はあってもヤマタイなんて国は
ないからな。和語としても変だし。その点では奴らが正しいな。
208太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/09(月) 08:00:12
>>200 >>205
>もし、九州に邪馬台国があるのであれば、呉にとっては邪馬台国は何ら脅威
 ではなくなる

半島からは、畿内は九州より遠くなるから脅威度が減るという見方にもなる。

呉のえらいのに倭人伝を見せに行ったとかのことが無ければ、呉に脅威を
与える目的で倭人伝が書かれたとは考えにくいと想う。仮にそうだとすれば
まだ抽象的脅威にとどまり、伝の文では具体的脅威に至るものとは想えない。
具体的脅威に直結する記述となり伝が当時確実に呉の上層部に渡らしめたと
なってくれば、そういう目的で書かれたことになって来るが、しかしそうは
ならんだろうが。

三国史記に女王国が九州でなく近畿にあるとかの記述はないんだろう?
どうして近畿にあることになるのかい? 推理小説的考察ならばうまくない。
ゴリ押しするんなら、もっと踏みこんだ根拠がいると思うよ。
209ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/09(月) 08:06:17
>>206
中国の学者さんがつきあっているには、日本のえらい学者さんで、彼らは邪馬台国畿内説ですので、
そう吹き込まれ、日本を代表する偉い学者さんたちのいうことだから邪馬台国は畿内だろうとおもっているだけなのです。
中国の学者さんは他国の意見にまどわされず、「任那存在説」のように独自に解釈して欲しい。
210阿蘇山は移動した:2007/07/09(月) 09:05:51
三国史記は、14世紀ごろのしかない。新羅など、紀元前200くらいに
王になってる。また、日本書紀にも古いところに、百済記引用してるが、
3世紀は、馬韓、弁韓、辰韓などの時代で百済建国まえで、あきらかに
後世の作と思われる。三国史記は、日本書紀なども参考にされて復元
した可能性がある。やはり、魏志しか使えない。
狗奴国は、熊本県とすると、呉と近い。邪馬台国を北部九州にすると
魏と呉の代理戦争が卑弥呼と狗奴国の争いにみえるが。
邪馬台国が近畿では、魏に使者を送るより呉の方がいいように思えるが。
211ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/09(月) 09:38:42
よく魏と誤の対立の影響が云々されることがあるが、実際のところその可能性はあるのか?
狗奴国に呉使がきたことがあるとか。
確かに呉の将軍が東海に派遣されて、兵士狩をやったとの記録はあるが。
兵士狩をやられた国が呉と連携するような行動をとるだろうか?


上記の「三国史記は、日本書紀なども参考にされて復元した可能性」、卓見です。
212阿蘇山は移動した:2007/07/10(火) 11:20:27
>>211
確かに呉の文書には残ってないから、推測ですね。トンデモ説なのは
認めますが。卑弥呼と敵対する国力。卑弥呼は、後に魏がいるのに。
武器等、半島からは無理ですね。卑弥呼が押さえてるから。では、
どこから敵対できる。武器、技術が????からの推測。まあ、聞き
ながしてください。
213太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 12:45:57
お前の証拠だとか言っている、まるで証拠にならない言動論こそトンデモでは
ないかね。w
214日本@名無史さん:2007/07/10(火) 20:43:41
>>213
笑ってる暇があったら、呉からどういうアプローチがあったとか、あることないこと書いてちょ。
215ふと聞こえてきた君の歌:2007/07/10(火) 20:49:37
卑弥呼は後ろに魏が居たが、武器は輸入しなかったのでは?
双方の実戦闘で使用された武器は国産では?
もっとも、武器を製作をするための鉄はどこからとなると狗奴国は不利であろうが。
216太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 21:11:25
>>214
ここはあいつに言わせる目的の時間なんだよ。彼の言ってることを遡って
読んでごらん。推古が男だとか33代の天皇が神武から『孫々』の代の全部迄が
『空想』だとかぬかす極端な『孫呉空』的主張をしてるからどういうわけ
でそんなひどいことを抜かすのか聴いてるわけさ。

だから今はあいつに言わせるのが主流。あいつに聞け。
217s165233.ppp.asahi-net.or.jp):2007/07/10(火) 21:53:42
確かに三国史記は1145年?に作られた書物で、それをそのまま信用するわけではありません。
しかし、三国史記の百済本記のなかにも高句麗王を殺したのが百済王であった史実を教えてくれているので
多少は使えると思いますが。

さて、話は、三国志にもどりますが、阿蘇山さんは、倭人伝の方角を南を東へと読み替えると
近畿もとおっしゃっていますが、私は先にも言ったのですが、道里、戸数などは読み替える
必要なく、そのまま亜熱帯地方へ邪馬台国をもっていったほうがいいのです。
もちろん、道里、戸数は魏の勝手な都合で、全くの捏造なのですが、魏が邪馬台国を大月氏と同じ
大国にしたくて、捏造したことですからこれはそのまま読んで無視すればいいことです。
いわゆる、魏、大月氏、邪馬台国の三角形で呉を囲い込みたかった。それだけのために、道里を
捏造しさらに、邪馬台国に対して「親魏倭王」の称号を与えたのですから。
結局、道里で、邪馬台国を九州だ近畿だと言う事は全く無駄な作業だと思っています。

次に、呉の海洋活動ですが、呉書には朝鮮半島から、長江口に向かう航路がこの時代すでに
開けていて、活発に貿易をしていたことがわかります。
そうすると、当然九州地方と貿易もしていた可能性もあり、九州地方の情報も
よく知っているわけだから、ここに邪馬台国があったのであれば、邪馬台国は
呉に遣使を送るのが普通だと思われます。
それと、大国さんが呉の脅威になるには近畿より九州だと言っておられますが、
九州情報をよく知っている呉が、九州に邪馬台国があったのだとすれば、大月氏
ほどの大国ではないことを知っているのは当然のことなので、魏が、いくら
倭人伝で邪馬台国を大国だと書いても嘘だとすぐにわかり何ら脅威にはならない
ということです。
そうすると、やっぱり、近畿が有力に思えますが。
218太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/10(火) 22:15:24
>>217
そうは言ったって、魏志倭人伝の記述位では呉には抽象的危険の認識に留まる。
九州をそんなに詳しく知ってるならそこから畿内が遠い位はよく分かるだろう
から、女王国が近畿にあっても遠隔を知り危機感は薄まるよ。

女王国が畿内ならば、むしろ危機感を持つのは朝廷と女王国の双方ということ
となる。地図上で目と鼻の先に両者の国があったとなるんだからね・・・。
219日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:38:22
私の近畿説というのは、九州でなければ、当時の国内では近畿ではないかということで、
仮に、邪馬台国が近畿にあったとしても、呉は、邪馬台国の存在は亜熱帯地方(おそらく
フィリピンの南)に邪馬台国があることに脅威を感じているんです。
いわゆる、呉の知らない、脅威になる位置に邪馬台国がある。それは、呉のよく知っている
九州では脅威にならない。フィリピンの南に邪馬台国があることが大事なんです。

邪馬台国と朝廷が当時敵対関係であったか、友好関係であったかは計り知れませんが、
邪馬台国が、九州であれ、近畿であれ、当時の朝廷はそんなに力がある勢力ではなかったのではと
思われます。
これは、大国さんの九州東征説を採用するにしても、当時の近畿には東征を防ぐ事が出来ない
勢力しか存在しないことになり、また、畿内朝廷でも、邪馬台国の存在を当時の勢力では消す事
が出来ない。ということになります。友好関係ならば問題ありませんが、敵対関係だったとしても、
危機感をもつほどの勢力ではなかったのかもしれません。
220日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:47:39
開幕から右に左に打ちまくり、 打線を引っ張っていた矢野が (12日)、左足小指付け根付近に痛みを訴えて東京都内 の病院で検査 を受けたところ、「左足第5中足骨の疲労骨折」と診断されたそうです

    |       |       |
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    | ガンッ!! |      |
    |     ,l     ヽ
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    | 从/ /      |
    | _.,/ ,   /   lノ
    |_ //__' ,   i
  / (_(_`/- ,_, ノ
/     ゝ(  丿
っっっっっっっつっっっっはああああいいいいい!!!
これまたこれまた!!きてるきてるあいいいいあああ〜〜〜!
ああああ〜〜〜〜〜〜ユートピア!!!!ああぁ〜〜〜〜ユートピア!!!
なるほどなるほどなるほど!!ああぁ〜〜〜〜〜なるほどなるほど!
あああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜これはどうも!!ああ〜〜〜いやこれはまたどうも!!
ぶっべっらっぽっぷっしっぴっぱっぴっぷっぺっぽっっっっをををおおおおおおをををを!?!?
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// // ///:: <   _,ノ , 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  /////// //// ///
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221阿蘇山は移動した:2007/07/11(水) 13:58:54
>>215
狗奴国不利ですか。でも、卑弥呼は、魏に援軍頼むってことは、苦戦
してたのでは?さて、鉄はあるこってことに?どこから?
まあ、これ以上は、推測ですね。熊本の鉄の分析してみたいな。
>>217
『三国史記』は、あまり詳しくないけど、『日本書紀』の記述と一致
するから事実っていうのは、危ない。まあ、中国の東夷伝からなら
いいですが。ここらへん、『日本書紀』の史料としての価値考えないと、
神功皇后の注の『魏志』の年代見ると1年は1年です。2年1年暦など
ここでは、証拠ないです。他の人のレスまざったかな?失礼。
>>217
邪馬台国は、近畿。九州は、呉が知ってる、というより一歩進んで
支配してたとすると、近畿は、脅威でしょうか?逆に魏の脅威ですね。
近畿説の人は、邪馬台国近畿で決めてから合うように『魏志』を解読
する。これが、変な解釈になることもあります。先入観なしに、
読んでみたいものですが。

>>219
フイリッピンの南に邪馬台国ですか。それ呉の脅威になりますか?
難しい。理解できない。饅頭かって甘いもの食べて脳に栄養送ってから、
読み返します。
>>220
よくこられましたね。2chで認められたのかな?レベルは低いが敷居
は高いこのスレへようこそ。
222日本@名無史さん:2007/07/11(水) 22:11:17
阿蘇山さん、三国史記、日本書紀、公開土王碑の3つを読み比べていくと、
結構面白いですよ。

魏が、何故邪馬台国の道里をフィリピンの南あたりに持っていったかというと、
呉書には、「壇州は海の中にある。」というくだりがあるのですが、この壇州が
問題で、呉の遠征部隊は壇州に向けて航海してるのですが、遠すぎて到達できなかった。
しかたなく、夷州(台湾)から2千人を連れて(奴隷)帰国しているのです。この、壇州が
沖縄かフィリピンかというこになるのですが、海流や、小島の置換系等推察すると
台湾〜沖縄ルートは容易に航海できると思われますし、呉書には壇州には住人が数万家あり、
布が特産物なっているとかいてあるので、おそらくフィリピンルソン島だと思われます。
呉の正式な遠征部隊は壇州に到達できていませんでしたが、おそらく商人などは、昔から壇州と
貿易していてその人たちの証言によりここに大きな国があることは知っていたのではないでしょうか。
魏は、ここに邪馬台国がある。もしくは、ここよりもう少し南に大国邪馬台国があって
魏と仲良しなんだ。と言いたかったんだと思います。
先にも述べましたが、呉は活発に海洋活動をしていたので、やはり、呉の後に魏と仲良しの
邪馬台国が、あれば脅威に感じると思いますよ。

223阿蘇山は移動した:2007/07/12(木) 08:44:46
>>222
『日本書紀』は、中国の文献参照して作ってるはず。たしかに3つ読み比べる
必要ありますね。
壇州 これが、台湾かと思った。違うのですね。九州ともちがうのか。
ルソン島ですか。なんだか、難しくなってきた。陸行1月は、どうなる
のかな?
224日本@名無史さん:2007/07/12(木) 23:38:19
>>223
水行20日、さらに水行10日、そして陸行1月この合計が1300里ですね。
ただ、道里は全くの捏造であって、帯方郡から邪馬台国まで1万2千里あるとの
辻褄合わせのための道里なのでこの水行、陸行、方位は邪馬台国検索には
何の役にも立ちません。
その証拠に、東夷伝では、帯方郡の南の韓族の居住地を方4000里と言って
いますが、この大きさだとここだけでインド半島くらいの大きさになってしまいます。
韓地が4000里とか帯方郡から狗那邪韓国まで7000里とか朝鮮半島が無茶苦茶
な大きさになっています。
道里だけではなく、戸数についても無茶苦茶で邪馬台国だけで七万戸なんていうのは
ありえない数字です。

ここで、信用できる数字は道里合計と戸数合計だけなのですが、これは、もちろん史実の合計
ではなく、大月氏の合計に合わせたということが信用できるということです。
すなわち、邪馬台国連合国は大月氏と同じ大国だということを魏が言いたかったんですね。
ちなみに、後漢書には、洛陽から監氏城(大月氏の首都)まで16370里
戸数10万人口40万兵力10万人とあります。
魏志倭人伝を見ると、12000里、戸数15万。どうも似ていませんか。


225阿蘇山は移動した:2007/07/13(金) 09:42:20
>>224
大月氏と似ていることは、認めますが。方位まで架空とすると東でも
いいことに。近畿説もありになりそうですが。
数値に対して前にも書きましたが。伊都国が魏略で万戸。魏志で千戸。
これは倭人の単位が1桁大きいとするのが私の説です。つまり水行20日
は2日で、7万戸は7千戸。卑弥呼の墓も10歩とする考えです。
陸行の起点国名、方位がないので、ここは、あるいは式に読む。南に
水行すれば10日、南に陸行すれば1月。で、さらに南北の海岸線は、
今の地図でみると延岡市から宮崎市の日南海岸とし、距離は75km
とする考えです。陸行1月は75km。陸行10日は25km。今
1時間に4kmあるけます。で、1日8時間歩くと32km。10日
を1日とするとあいませんか?随書も南北3月行とある。九州は南北
300kmです。1月行は100kmになります。はたして、誇張
として無視するのはどうかと思いますが。
226日本@名無史さん:2007/07/13(金) 20:45:01
>>225
確かに、中国人というのは今も昔も誇張が大好きで何でも水増しする民族なので
阿蘇山さんが言うように道里を読み替えると九州になるのですが、道里を読み替える
というのは結局、畿内であれ九州であれ、倭人伝の記述のままでは邪馬台国にたどり着けないため、
お互いの都合のいいように利用してしまっています。
これでは堂々巡りで何の解決にもならないのではないでしょうか。

道里は、何故捏造されたのかという原点を振り返ってみると、決して当時の倭人を惑わすため
でもなく、ましてや今の我々を惑わすためのパズルでもありません。
当時の魏が、中国制覇に向けて最も有利になるように、最も都合のよいようにように捏造する。
そして、魏の最大の敵である呉蜀の裏側(亜熱帯)にもって行きたかっただけの道里だと理解
するほうが自然ではないでしょうか。

では、道里以外で何をヒントに邪馬台国を探るのか。これは当時日本には文字がないため
どうしても中国の文献に頼るしかないのですが、隋書の航路、初代倭王(当時の仁徳天皇を
初代とする河内王朝)などを見ても「倭王」と言われるのはやっぱり近畿ではないでしょうか。



227阿蘇山は移動した:2007/07/13(金) 23:32:39
道理捏造してませんよ。陸行1月が75kmだということです。何故か、
は必要ないのです。それが単位だからです。陸行10日が25kmです。
どこもいじってませんよ。何か?
どうして突然、近畿がでてくるか、理解できないのですが?
南にいくのですよ。地球1周しても近畿には、行きませんが。
近畿に行く根拠が知りたい。
228日本@名無史さん:2007/07/14(土) 00:23:43
>>227
お尋ねしますが、何故「帯方郡より倭に至るまでには〜」のくだりで、
対馬国〜不弥国までは、「〜里」と表現しているのに、その後からは「里」
ではなく、水行何日、陸行何日(月)と使われています。何故「里」を使わ
なかったのですか。同じ九州にあるのであれば「里」という最もわかりやすい
単位を使えばいいと思うのですが。
229阿蘇山は移動した:2007/07/14(土) 01:50:41
隋書に夷人里数を知らず。日をもって計るとある。日にちの
部分は倭人からの伝聞とすべきです。陸行1月は75kmは短い
ように感じられますが、それは現代の距離の尺度です。ここが
皆さん間違えた。現代の尺度で邪馬台国を探すから、わから
ないのです。長い、短いは現代の尺度。邪馬台国を探すのは、
邪馬台国時代の尺度をもちいないと。つまり、
水行10日=陸行1月=75km
これで邪馬台国を探せばすぐ邪馬台国がみつかります。
230日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:05:54
>>227
南にということですが、元の時代「昆一疆理図」という古地図が書かれているのですが、
この地図で日本列島を見ると、思いっきり南に垂れ下がっています。当時の地図はどれも
今の日本列島と90度角度が違うのですが、まさかそれ以降に日本列島に地殻変動が起こって
今の位置になったとは思っていないでしょう。
もちろん、当時中国に人工衛星などあるわけもなく、何かを基に日本列島を描いたのですが、
それが、魏志倭人伝だとは考えられませんか。
倭人伝では、邪馬台国の道里を「会稽郡の東冶県の東」とあります。ここは
今の福建省の福州市ですが昆一疆理図の東に書かれている場所とは「近畿」です。
さらに、倭人伝では日本列島の果てを「儋耳・朱崖と同じ」と言っています。
儋耳・朱崖は今の海南島ですから、魏が日本列島を熱帯地方に持っていきたっかたのは
間違いないと思われます。
もちろん、この地図の方位が90度捻じ曲がっているのでこれをそのまま信用するわけには
いきませんが。
ただし、「昆一疆理図」が書かれたのは元の時代なので、少なからずとも
13〜14世紀までは、中国人にとって日本列島が今現在の位置関係であるとは把握して
いなかったのです。

結果、魏志倭人伝の方位・道里はあてにならないということです。
231日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:19:22
>>229
え?
魏の使者も髄の使者も九州北部までは行って、邪馬台国も大和にも
行っておらず、倭人からの伝聞で歴史書を作り上げたのですか?
232日本@名無史さん:2007/07/14(土) 03:23:59
邪馬台国は熊野
金印は帰り道にむしゃくしゃして捨てた
233ふと聞こえてきた君の歌 実はサガミハラハラ:2007/07/14(土) 08:34:09
昆一疆理図の日本は南に90度垂れ下がって描かれているが、近年長崎かどっかで正常な位置にかかれた昆一疆理図
が発見され、今までの昆一疆理図は、紙面の都合で南に方向を転換して描かれたものであると決着がついているようです。
234阿蘇山は移動した:2007/07/14(土) 17:26:14
>>230
九州の南に近畿があるので、
>結果、魏志倭人伝の方位・道里はあてにならないということです。

これって、正しいと思いますか?これを理解しろって言われても。
235日本@名無史さん:2007/07/14(土) 22:25:26
>>233
知らなかった。勉強になりました。
和漢三才図会とかもみんな紙面の都合上で南に書かれているのかな?
和漢三才図会の右端の陸地が日本かどうかは怪しいけど。

>>234
倭人伝の、邪馬台国の道里を「会稽郡の東冶県の東」とか日本列島の果てを「儋耳・朱崖と同じ」
とかはどう説明できるのですか?
不弥国までが「里」でそれ以降が「日・月」を使って邪馬台国に至ったのですから、不弥国までが
九州でそれ以降は九州を離れ倭人の住む都に向かった。そのため「日をもって計る」とある倭人の
尺度を用いたと反論できそうですが。
ちなみに、その「尺度」とは何か文献等のようなものがあるのですか?
236日本@名無史さん:2007/07/14(土) 23:54:39
>>233
妥当ですな。
土台からして、方向感覚が出鱈目では海路を生きて往復できるはずがないから、
有史以前から、航海者は正しい方位を把握していたに決まっているけど。
237日本@名無史さん:2007/07/15(日) 00:27:51
阿蘇山さんの当時の倭人が10倍単位で道里や戸数を数えてた。というのは
大国さんの2倍暦、3倍暦と同じように当時の倭人の「単位」が、今の日本人の
何でも縮小してしまう民族性とは違って、何でも拡大する民族だと言いたいのでしょうか?
確か、阿蘇山さんは大国さんの2・3倍暦などなく、1年は「1年」と言っていたような気が・・
魏志倭人伝は倭人のための書物ではなく、魏(普)の正統性のための書物ですからわざわざ
魏にとって解りにくい、当時の倭人の単位・尺度を使う必要はないと思うのですが。

ちなみに、邪馬台国の戸数7万というのは「普」の時代の首都洛陽の人口にあわせたものです。
280〜290年当時の普は首都洛陽を含め約11万5000戸しかなく、洛陽だけで10万戸以内
のはずです。それより前の魏の時代の洛陽は7〜8万戸であったでしょう。
いわゆる、邪馬台国は魏や、大月氏と同じ大国で「親魏倭王」の称号を与えるのに申し分ないのだ。
と、魏が主張したかっただけで、戸数に関しても魏の捏造です。
238阿蘇山は移動した:2007/07/15(日) 00:43:30
>>237
魏は、伊都国が多く、その先は詳しくないから倭の尺度をもちいただけでは。
魏が解りやすくするなら、日数で表示しないのでは?議論が逆でしょ。
縮小とか拡大というのは、現代の尺度です。尺度に短い、大きいはない
のです。そういう尺度を用いてたというだけです。標準尺度が短い、おお
きいなど、するから解がみつからないのです。当時の取り決めを今論じて
意味あるのでしょうか?
邪馬台国の時代、水行10日=陸行1月=75km 。ただ、これだけです
。これが短い、大きい、縮小、拡大とか論じるのは、間違いです。
みなさん、距離を現代の尺度で考えてたから、解が見つからなかったのです。
一度、この尺度で魏志をよんでください。たぶん、邪馬台国はすぐ、
みつかると思います。邪馬台国を探すのは邪馬台国の時代の尺度で読む
ことです。数が大きいから誇張は、現代の尺度です。意味わかりますか?
239日本@名無史さん:2007/07/15(日) 01:58:56
>>237
当時の取り決めがどうして解ったのですか?
タイムマシンがあるわけでもなく「水行10日=陸行1月=75km」
という単位が何故今の10倍だと解ったのですか?何を基礎に用いているのですか?
道里が、2倍でも3倍でもなく10倍と言う根拠を知りたい。
例えば、現在の1mといえば我々は今使用している定規を置いて1mの長さを測ることが出来ますが、
もし、昔は1mが今の長さと違うとなれば、その当時使われていた定規が必要になります。
そして、その定規が存在するから同じ1mでも昔と今の長さが違うと証明できるのです。
昔の「水行、陸行」の単位が今の単位と異なるという「定規」はどこにあるのですか?



 
240日本@名無史さん:2007/07/15(日) 02:36:14
もう一つ、東夷伝では帯方郡以南(今の調度韓国北朝鮮の国境あたり)の韓族
の項目でも、当時の倭人が用いていた尺度を使うのですか?
東夷伝を素直に読むと、狗邪韓国は、日本の小笠原あたりに来るのですが、
狗邪韓国(韓族)も当時は倭人と同じ尺度を使っていたということですか?
241阿蘇山は移動した:2007/07/15(日) 05:50:59
>>239
私あてではないのですが、
水行10日=陸行1月=75km
は魏志と現代の地図からです。これが邪馬台国時代の尺度です。
>>240
韓族の尺度はわかりませんが、里でかいてあるので、魏の尺度の可能性
があります。ただ、それが、中原の単位かは議論あるでしょうね。
私は、日数表示だけ調べてるので詳しくはないので。
242阿蘇山は移動した:2007/07/15(日) 06:47:23
追伸
魏志の陸行1月には、起点国名、方位が書いてない。一大国からや、奴国
など、水行からは、末ロ国や次の方位がある。また奴国の陸行から水行の
不彌国の起点国名があり、次の方位がかかれてる。だから、陸行は連続で
読まずに、あるいは式に解釈する。投馬国から南に水行なら10日、南に
陸行なら1月。
水行10=陸行1月
つぎに、南に水行できて南に陸行できるのは、南北に海岸線があることを
意味する。現代の地図でそれを捜すと、延岡市から宮崎市の日南海岸に
あたり、それを計ると75km。故に
水行10日=陸行1月=75km
前にも何度か書いてあります。
243コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/15(日) 07:11:47
混一疆理図については、安本美典氏の「邪馬台国の会」のHPの解説にのっています。
244阿蘇山は移動した:2007/07/15(日) 10:38:09
ありがとございます。リンクできるかな?
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/konitu.htm
今日、例会ですよ。14時から。台風で無理かな。電車とまる?
245日本@名無史さん:2007/07/15(日) 13:09:13
>>241
魏志に「水行10日=陸行1月=75km 」など書かれていませんよ。
あくまで、阿蘇山さんの解釈でしょう。
九州論者が水行陸行をどうにかして短い距離にしようと考える。
畿内論者が方位をどうにかして東によみかえようとする。
どっちもどっちで、まりにも倭人伝の方位・道里に固執しすぎていて
全体の方向性を見失ってます。
何故、狗那韓国をあれほど巨大な陸地にしてしまったのかというのは、
当時の韓族の尺度でもなんでもなく、司馬懿の普朝建国に対する功績
と賛辞のために狗那韓国を巨大大陸にしただけのことです。
このことは、烏丸・鮮卑・東夷伝を魏志に注記した成立過程からも明らかで、
東夷伝自体が誇張されているのに、その中の倭人の条だけ誇張されていなく
道里・方位が正確に記されているなどというこはありえません。
246阿蘇山は移動した:2007/07/15(日) 22:12:55
誇張ではありません。尺度が違うということです。伊都国は魏志では千余戸
ですが、魏略では、戸万余 とある。これは誤記ではない。字が似てない。
倭の尺度を魏の尺度にかえただけです。誇張とは似てますが違います。
たとえば、魏の人が、千と言ったら、倭人が、「ああ、万ですね。」と
いうことで、これは誇張とはいいません。尺度というか、数え方が
違うというか。誇張ではない。これが誤解の原因です。誇張だから
デタラメというのは、ごまかしです。魏志にそんなでたらめを書くはず
ない。正史ですよ。解らなければ書かない。誇張とか過小評価とかは、
現代の尺度でみてるから、生まれる。邪馬台国を現代の尺度でみるから
わからないのだということです。長い、短いは現代の尺度です。
247日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:34:01
>>246
散々日本の正史「記紀」をデタラメだとか、誇張とか言っていた人とは思えない。
三国志であれ、日本書紀であれ、そこに書かれてある真理を探るのが歴史探索のはずです。
阿蘇山さんは、中国の史書は間違いや誇張などなく、日本の史書はデタラメだと
主張してるのだと理解せざるおえません。
ところが、魏志では朝鮮半島を「里」で使われていたにもかかわらずインド半島ほどの
大国に誇張してるじゃないですか。
この魏の朝鮮半島の道里をそのまま用いたら、狗那韓国は大体小笠原諸島あたりですが、
そこから、近畿式道里、九州式道里をどう解釈しても太平洋のど真ん中に行きますよ。
魏志では邪馬台国を「会稽郡の東冶県の東」と言っていることと、太平洋のど真ん中に来る
道里自体が合わないじゃないですか。
ま、台湾から東、東と行くと確かに太平洋のど真ん中はきますけどね。

戸数でいえば魏志には、伊都国千余戸と書かれています。一方、邪馬台国は7万戸と書かれ
ていますが、投馬国・邪馬台国だけは倭の尺度で書いたっておかしいでしょう。

魏の使者は中国人です。日本人ではありません。そして、魏書は中国人(当時)のために
書かれた歴史書で日本人のためではありません。
そうすると、倭人尺度の道里・戸数を魏志に記すのではなく、中国人の尺度に直して記すはずです。
実際に魏の使者は邪馬台国に行ってその里程を知っているのですから、仮に「里」が計れなかった
としても素直に水行何日、陸行何日と記せばそれでいいじゃないですか。そのほうが当時の中国人
にとって、どれほど解りやすかったことか。








248太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/16(月) 07:06:02
阿蘇山は移動した氏は記紀と中国の古文献が会わないときは、かれの頭脳は
記紀はデタラメという判断に即着する。w
昨今ニセ物で評判がおちている中国のものが信用できるとは、勝手かつ短絡的
思考の人間だと観たく、こちらもそう即断したい。

例のディズニー・キャラクターの盗用疑惑とか毒入り歯磨き、ダンボール入り
の肉まん、有名ブランドのニセ物とか、現今中国の物は際限がないように信用
が落ちている。彼の言動から記紀の33代の天皇は抹殺されてしまい、これは
津田病の末期症状かと診断される?
249阿蘇山は移動した:2007/07/16(月) 10:37:16
そうですね。日本書紀の箸墓などみると夜神が作った、とか
蛇が人間になったとかは、事実だと思う。上野の動物園で
みてたら、蛇が人間になるの確認しました。日本書紀は、
正しいですね。魏志など、日本からは遠いので誇張が
あり信用できないですね。みなさんは、賢いと思います。
どんとこいでがんばってください。
250阿蘇山は移動した:2007/07/16(月) 10:41:59
魏志に誇張あるというのは、邪馬台国、近畿説の人は、
結論決めて魏志を解釈するため、誇張、デタラメとする
のでしょうね。東アジアのHPみてたら、
http://homepage2.nifty.com/e-asia/
末ロ国上陸後、度海がないので、邪馬台国は、九州内と
断定してる人がおられた。ご参考まで。
251日本@名無史さん:2007/07/16(月) 11:44:39
さて、魏志倭人伝の道里は全くあてにならず、これを基礎に近畿だ九州だと
論じても無駄な作業だと結論付いたようです。繰り返しますが、魏志倭人伝が
あてにならないのではありません。道里があてにならないのです。
邪馬台国の文献は三国志に書かれているのですから、当時の魏、呉、蜀の政治情勢
を踏まえたうえで、魏と日本(倭国)呉と日本の関係、そして晋の成立過程を探り
ながら判断していく。そして、日本書紀を補足程度に引用させてもらうのが一番の
近道ではないでしょうか。
ちなみに、日本書紀の神功皇后39年の条は魏志倭人伝のことを書きたかっただけで、
これをもって邪馬台国の位置を探るのは不可能でしょう。




252日本@名無史さん:2007/07/16(月) 12:26:39
>>250
私は、散々九州でなければ畿内であろう。といっています。
「あろう」は決め付けではありません。
そして、九州も十分有力だとも言いました。
魏志倭人伝という中国人のための歴史書の道里を阿蘇山さんの勝手に倭人読みに
読み替えようとすることのほうが無理があり、結論を九州だと決め付けて
魏志を読んでいるとしか思えない。

253阿蘇山は移動した:2007/07/16(月) 17:23:13
>>251
魏の使者は20−30人はきてるのですよ。それは、地理
とか植物の専門家とか。魏志をみればわかると思います。竹でもその
種類が、記述されてます。道理などは、もっとも重要なことで、測量
など専門が来ています。たしかに、今の陸上での方位に問題があるところ
もあるが、それをもってデタラメとするのはいかがなものか?
水行では絶対に方位は間違えません。
>>252
よくある、パターンです。名無しさんの得意な戦法ですね。ハイハイ
あなたは天才ですよ。どんとこいへいってください。
254日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:39:48
>>253
地理とか植物の専門家とかはわざわざ来ていないだろう。
たまたまそっち方面に詳しい随行の人とかはいたかもしれんが。
中国の使者の一般教養だったんじゃね?
255日本@名無史さん:2007/07/17(火) 01:36:58
阿蘇山さん、特にこの時代に書かれた書物は偽者、捏造、誇張が多いので
気をつけて読んで下さい。孔子家語なんて無茶苦茶ですよ。ま、これは歴史書では
ありませんが。

道里の問題で「1万200里」は、何を表すのかといえば今の中国の南京大虐殺30万人
と同じで、すごく遠い、すごく多いという意味です。日本の八百万の神と同じですね。
帯方郡から邪馬台国まで1万2000里あったのではのではなくて、帯方郡から遥か彼方
に邪馬台国があるのだといいたいだけです。
漢書では、烏戈山離国7「12000里」、安息国「16000里」、唐居国「16000里」
ケイ賓国「12000里」、大月氏「11600里」。この1万里以上とは実数ではなく朝貢国
を表します。いわゆる、中国の駐留軍が及ばない地域と言いたいのです。

さらに、私は大月氏のことを散々言ってきましたが洛陽から大月氏までの距離は
約16000里です。一方邪馬台国は、帯方郡から邪馬台国まで12000里
洛陽から楽浪郡まで5000里です。楽浪から帯方までは正確には知りませんが
これが仮に300〜500里として、合計17500里の道里で、ほぼ
大月氏と同じ距離になります。
道里合計が大月氏と同じ距離にしたいだけのための捏造されたのに、この道里の中の一部に
書かれている「水行陸行」だけが真実などというこはありえません。
戸数にしても、先に述べましたが邪馬台国の合計が15万戸、大月氏の合計が10万個、
これらの妙な一致は実に簡単で、「親魏倭王」と「親魏大月氏」の称号を一致させるためだけの
ものです。

もし、阿蘇山さんがどうしても「水行10日=陸行1月=75km 」と言いたいのならば
倭人尺度の根拠となる「定規」を是非示してください。
倭人尺度で測るとなると、最も古い史書の日本書紀なんかいいかもしれませんね。
日本書紀は日本人が作っているので、どこかに倭人尺度のヒントが隠されているかもしれませんよ。
もし、倭人尺度とやらが日本書紀に記されていたとしたら、阿蘇山の「記紀」に対する考え方も大きく
変わることでしょうけど。。
256太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/17(火) 07:28:37
>>253
それをもってデタラメとするのは→記紀だったら似通ったくらいでお前さんは
デタラメにしちゃうだろう?w
257阿蘇山は移動した:2007/07/17(火) 10:39:02
>>254
中国のことを勉強してください。あなたの、感想は他で。
>>255
誇張という人多いですが、何故、誇張する必要があるのか、理解できない。
魏志は、魏が滅びて、晋がつくったものです。誇張する理由ないはず。
尺度:だから魏志にかいてあるでしょ。あと隋書でも裏をとったのが、
書いてあります。記紀は720、712年の作です。そんなものでつかう
なら、現代のモーターボートで、20日行ける距離を調べたほうが
参考になります。私お金ないのでぜひ、あなたが実験して報告して
ください。そしたら、尺度の話始めていいです。
258太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/17(火) 10:49:03
倭人伝はもっと古い作でないの?w
259阿蘇山は移動した:2007/07/17(火) 19:20:24
>>258
おみやげあげるから、早く消えろ。
魏が滅びたのは265年。三国志ができたのは、280年。こんなのも
しらないやつは、どんとこいへ行ってください。2度とくるな。
260太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/17(火) 19:49:44
だからそのとおりではないか?ww
自論の証明が出来ずに妄想の塊で決めこんでるんじゃ、お前は滅茶苦茶王だぞ。
261日本@名無史さん:2007/07/17(火) 23:01:42
>>257
晋に時代に造られたため、誇張が大きくなったのです。
すなわち、三国志の著者「陳寿」は魏の敵国、蜀の出身です。蜀の敗北により本来
埋もれるしかなかったこの陳寿を拾ってくれたのが「張華」という人物です。
この張華は、晋の武帝、恵帝の側近にまでなった人物で、陳寿としては張華の迷惑に
なるようなことは書けないし、まして、晋国建国に大功績のある司馬懿の不利になるような事
など書けるわけもありません。司馬懿に不利になるような事は避け、司馬懿に有利になる
ことは、ことさら強調して書いたのです。
司馬懿のクーデターにより、魏の全権を司馬懿が握り、司馬師、司馬昭が司馬懿の後を次ぎ
司馬昭の長男の司馬炎が晋朝を開いたのです。
この晋朝建国者の祖父司馬懿は、魏の東北から帯方郡辺りを地盤としていました。
だから、魏志には東夷伝が載ることになったのです。
もし、司馬炎が晋朝を開かずに、曹真が晋朝を開いたとなれば、東夷伝ではなく西夷伝になって
いたでしょう。そして、東夷伝倭人の条(魏志倭人伝)ではなく、西夷伝大月氏の条となって
いたでしょう。
結局、陳寿は司馬懿の功績を最大限誇張して「三国志」を作り上げたため、帯方郡より南の地域
があんなに大きくなったのです。

ちなみに、魏志倭人伝を書いたのは、南朝の宋の裴松之ですが、これは、陳寿の多量の資料をもとに
作り上げられたものです。
262日本@名無史さん:2007/07/18(水) 00:13:16
>>261
どこから電波が飛んできたんですか?
263阿蘇山は移動した:2007/07/18(水) 09:13:10
>>261
>南朝の宋の裴松之ですが

この人、注をかいたというか、書き写しただけでしょ。
魏志は、陳寿がかいたものと認識してますが。
何か、基本的なことから始めないといけないのかな?
264日本@名無史さん:2007/07/19(木) 23:43:38
あってますよ。
ただ、陳寿の死後150年後のこの注記をもって正史「三国志」です。

それと、専門家もたくさん来ているということですが、確かに竹やら、着物のこと
など色々書かれていますが、色々風俗記事を書いた最後に「儋耳・朱崖と同じ」
(海南島)と言っているんですよ。
道里も倭人風俗も南へ南へと持っていっています。

ところで、晋書には、朝鮮半島の道里がほぼ正確にかかれています。
晋書は唐時代の編纂ですが、張華列伝は張華自身の報告なので、張華もその後援者の
陳寿も当然朝鮮半島の道里は知っているのです。
ところが、魏志には先にも言ったように朝鮮半島が無茶苦茶な大きさに書かれており、
この中に含まれる邪馬台国の道里だけ正確ということはまずありえないのです。

阿蘇山さんがまず、道里で邪馬台国の位置を九州だと主張するのなら、少なからずとも
帯方郡から狗那韓国までの道里を魏志の中で正確に示さないとその後の邪馬台国につながる
道里も正確に示せないと思いますが。
265日本@名無史さん:2007/07/20(金) 01:09:57
>>264
始めに何らかの結論を出しておいて、それにあわせて事実を曲げてますな。
266コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/20(金) 07:54:58
道里の問題は、尺度の問題でもあります。
道里の比率が現地図にあてはまるのであるから、魏志倭人伝の東夷伝の尺度が、
魏の尺度ではない、別の尺度を使用していることがわかります。
267阿蘇山は移動した:2007/07/20(金) 08:29:55
>>264
注が出来て完成ですか。それは知らなかった。ありがとうございます。
道理ですが。日数表示の部分は倭人から聞いたと考えてるのです。
その理由は、前にもかきましたが隋書です。倭人から聞いたなら
しょっちゅう行き来していたので、この部分正確と考えたしだい。
里数が、あやふやでも、その先、正確ってありえるのでは?
>>265
結論もってても、道理があぶないなら、どこへも決められない
ってことですよね。わからないって結論もってるのでしょう。
>>266
尺度、平井進さんの説がいいですね。1里80mの周の尺度論。
268コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/20(金) 08:45:37
私も同様、周の尺度説をとっています。
ただし、わたしは1里67.5mとみています。
平井さんの80mの根拠はなんでしょうか?
269日本@名無史さん:2007/07/20(金) 23:58:28
>>266
私の計算では、晋書では、朝鮮半島がほぼ正確に書かれているのですよ。
東夷伝では合わない。

みなさん、「里」を67.5mとか80mで計算しているのですか?
270阿蘇山は移動した:2007/07/21(土) 09:47:04
平井さんは、街の道路の間隔や、建物の柱間隔からです。邪馬台国
時代は建物ないので、朝鮮半島のなにかを基準にして計算してた。
ちなみに、ヤフーで、吉野ヶ里 柱間隔 で検索すると2m20cm
って出てくる。倍にすると440cm。魏は1里435mかな?
面白いと思います。
271コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/21(土) 10:04:41
一丈は周代は2.25m 漢代は2.304m 魏代は2.412mですから、
吉野ヶ里は周代の尺ですね。
272日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:25:54
度量衡の統一は現在でも難しい問題で、各国が各単位を使っていますが、「一里」が
80mなんていうのはいくらなんでも縮小しすぎでしょう。
阿蘇山さんやコーヒーカップさんは、魏志に書かれている距離を勝手に解釈して邪馬台国の位置を
決めてたのですね。

例えば、仮に今アメリカが歴史書を書くとして、アメリカ史日本伝を書いたとしましょう。
現在日本は「メートル」を使っています。一方アメリカは「マイル」を使っています。
日本で1キロメートルを使ってたからといって、アメリカで1マイルとは書かないでしょう。
アメリカの歴史書なのだからアメリカの単位に直して0.625マイルと書くでしょう。

帯方郡〜邪馬台国12000里は何度も言いますが、距離ではありません。「すごく遠い」
という意味です。
八百万の神を一つ一つ数えるに等しい無駄な作業です。
273阿蘇山は移動した:2007/07/21(土) 19:06:04
>>271
コーヒーさん それほんと?だと、やはり、1里も周か。80m
有力ですね。平井さん説意外な点で証明したな。
>>271
アメリカの書に1キロメートルとあるのを、日本人が1マイルだ
と言っていることですよ。おかしいと思いませんか。
どうも、考え方が追い出した人間に似てるな。これからは名無しさん
無視するか。
274世界@名無史さん:2007/07/21(土) 20:00:14
>>272
それがそうでもないんだなあ
七里ヶ浜のように里の付いた地名があるでしょ
これがどんな距離でも適当に何里ってわけじゃないのよ
1里500mくらいとか1里75mくらいとかになるわけ

ここなんか中国の観光地だけど海岸から75km沖にある「千里」
http://www.sd.xinhuanet.com/wq/2007-01/18/content_9071603.htm
275コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/21(土) 22:17:32
あれ?敵に塩を送ってしまったかな?
276震え出したのが恥ずかしくて 実はカナカナボウシ:2007/07/21(土) 22:27:28
名無しを無視するとは何事?
2ちゃんねるは名無しがデフォ。
コテが占有するスレは削除対象だよ。
277日本@名無史さん:2007/07/22(日) 00:30:45
>>274
だから、大月氏に合わせた距離だとずーと言ってきてるじゃないですか。
洛陽から邪馬台国までの距離は大月氏にあわせた。
親魏倭王の称号は親魏大月氏にあわせた。
これだけのことです。

晋書張華列伝に幽州(北京?)から馬韓まで4000里となっています。
このくだりから計算すると帯方郡から狗邪韓国までどう大回りしても1000
〜2000里になりますが、魏志倭人伝では7000里ですよ。
まず、この矛盾から解明して次に倭人の条を解明するのが本筋かと思いますよ。
278阿蘇山は移動した:2007/07/22(日) 09:58:32
別に、削除されてもいいですよ。とくにこまることない。
だいたい、言いたいことは言ったからな。
279コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/22(日) 10:16:58
>>276は私ではありません。 カナカナボウシ 実はサガミハラハラ
280阿蘇山は移動した:2007/07/22(日) 19:19:40
書いてもお金にならないから、削除されてもこたえない。また、別名
でくればいい。名無しでもできるし。
コーヒーさんmixiはいる?タダだから送ります。別名ですが、削除
しないでね。
281コーヒーカップを持つ手がふいに 実はサガミハラハラ:2007/07/22(日) 20:53:42
ありがとうございます。
早速登録いたしました。
282阿蘇山は移動した:2007/07/23(月) 08:15:14
はたして、mailとどいたかな?
>>277
7000里か。1里80mなら560kmか。だいたいいいのでは。
283日本@名無史さん:2007/07/23(月) 21:24:44
1里80mで、北京から馬韓まで320kmか。だいたいいいの?
284阿蘇山は移動した:2007/07/24(火) 12:15:58
なんだ、その北京って?たいほうぐんから、狗邪韓国が7000里。
狗邪韓国から邪馬台国までが5000里。それぞれ、560km。
400km。いいのでは?
285日本@名無史さん:2007/07/24(火) 22:28:15
晋書張華列伝に幽州(北京?)から馬韓(朝鮮半島南西端)まで4000里となってるから
1里80mで、320km。     ダメでしょう。
286日本@名無史さん:2007/07/24(火) 23:09:47
新書は調理。単利は三國志だけ。















って言われたらどうする?
287阿蘇山は移動した:2007/07/25(水) 08:41:52
>>286
晋書は、みてなかった。考えてみます。

私の書きたいことかいたから、削除されてもいいと思ったけど、
役にたつこともあるな。名無しさんの力かな。まったりいくかな?
288ローガン:2007/07/25(水) 16:17:59
》191
289ローガン:2007/07/25(水) 16:38:48
》191 殆んどその考え方で良いと思います。ただ、魏志は太康年間成立なので呉への牽制は考えられない。報告された習俗から陳寿が「会稽東冶之東」にあると考え、方角を南としたのではないか?と考えます
290ローガン:2007/07/25(水) 16:40:36
》191 殆んどその考え方で良いと思います。ただ、魏志は太康年間成立なので呉への牽制は考えられない。報告された習俗から陳寿が「会稽東冶之東」にあると考え、方角を南としたのではないか?と考えます
291ローガン:2007/07/25(水) 20:00:06
>>328 >>329
ご無礼。お許しを。
292ローガン:2007/07/25(水) 20:27:54
ありゃ!番号違い。
>>288 >>289 に訂正です。
293日本@名無史さん:2007/07/25(水) 20:48:51
>>286
晋書は長里と理解すればいい?晋書の張華列伝ですから、これは張華自身が報告したものです。
張華についてはすでに書いてあるのでそれを参考に。

>>289
陳寿が、書いた三国志は歴史書というより現代史に近い感覚で読んだほうが素直に読めると思いますよ。
陳寿が三国志を書き上げたときまだ呉国は存在していて、その呉国を滅ぼした杜預の推薦で陳寿は治書侍御史
という位に任命されています。その後色々あって陳寿は死んでしまいますが、張華の力によって、勅命が下り
陳寿の家で三国志を写さしめたものが、「正史三国志」です。(但し注記はまだない)

現代史感覚で三国志を見てみると、高句麗(当時)と呉が魏を挟んだ形で同盟を組んでいて、その一方の高句麗
を司馬懿が滅ぼし、ここに拠点を作った。そんな時、聞いた事も無い「倭国」というところから使者が来た。
倭国の使者から話を聞くと、とても遠い所から来て、且つ呉とも国交を結んでいない。
司馬懿はこれをいいことに、今まで呉・高句麗に挟まれてた仕返しに魏・邪馬台国で挟み返すことを目論んだ。
私の勝手な解釈ですが・・・
また、風俗記事など色々南方系のことも書かれていて呉の裏側にもって行きたかったことがうかがわれます。
294阿蘇山は移動した:2007/07/26(木) 07:38:37
呉がまだあったのですか。でも、魏は、もうないですよね。
ここらへんも、考えると面白いですね。やはり、誇張かな?
悩む。
295ローガン:2007/07/26(木) 16:04:19
296ローガン:2007/07/26(木) 16:21:32
>>293
するとあなたのお考えでは「倭人の国は南方にあるとある」と書きたい為に習俗等の記述をそれに合うように書き換えた。と云う事ですね?梯シュンや張政がもたらせたであろう報告を無視したのですか?
297日本@名無史さん:2007/07/26(木) 22:43:10
>>293
張政の報告を全く無視したわけではなく、南方系の風俗と倭国の風俗をおりまぜて
書いたのではと思われる箇所が、いくつかあります。ただ、当時の資料があまりにも
少なく判断に難しい所がありますが、色々風俗記事を書いた後に「儋耳・朱崖と同じ」
と書いたのは、道里の「会稽郡の東冶県の東」と書いたこととが偶然ではないと
確信しています。

牽制は考えられないとローガンさんはおしゃっていますが、例えば、呉書では239年
に呉軍は海上から遼東を攻撃し捕虜を連れ帰ってます。この239年はご存知卑弥呼の
使者が魏に朝貢したまさしくその年です。こうした呉の海上活動に魏は脅威を感じてい
たと思いますよ。
298日本@名無史さん:2007/07/26(木) 23:18:55
>>296
訂正です。失礼しました。
299ローガン:2007/07/26(木) 23:31:59
>>297
そうです。偶然では無いのです。あなたの確信はその部分では正解なのです。ただ呉への牽制にこだわっているだけなのです。東夷伝のコンセプトはなんですか?以四夷之変に備えるでしょ。呉に読ませてその効果に期待する事が第一目標ですか?
300日本@名無史さん:2007/07/27(金) 00:41:47
>>294
晋朝建国が265年です。
呉は280年に滅んだのですが、その直前か直後から陳寿が三国志を書き
はじめ290年ごろまでには三国志の原本を書き上げたのだと思います。

一般に言われる正史三国志とは3世紀後半に世に出された書物だと思われ
がちですが、我々が読んでいる三国志は5世紀に作られたものです。
三世紀時代の三国志は史実のみを淡々と記した簡素なものでした。
そこで、5世紀の宋の時代の文帝が裴松之に注を書くよう命じたのです。
この注記は陳寿が歴史とは認められないと切り捨てたものを使用しているの
ですが、裴松之の注記を文帝は絶賛し正史として認めたものですから、この注記は
特に用心して読む必要がありますよ。
道里はこの注記のなかに書かれているものです。
301日本@名無史さん:2007/07/27(金) 00:55:09
>>300
だうと。
302日本@名無史さん:2007/07/27(金) 00:58:53
>>299
呉にとって脅威になる位置に邪馬台国があるんだということを歴史書で
記したかった。
と、いうことを言いたかったのです。言葉足らずですみません。
現在進行形というものではなく、お父さんが息子に「あの時は、邪馬台国が
呉にとって脅威な位置にあったんだよ。」と言っている感覚でしょうか。
余計に解りにくいかな・・
303日本@名無史さん:2007/07/27(金) 01:07:00
>>302
そんなことをやって、誰にとってどういうメリットがあるのか?
「まるで何の意味もない」。
304阿蘇山は移動した:2007/07/27(金) 08:33:25
>>300
注で書いてる人が、本文いじるかな?ちと、疑問?
305ローガン:2007/07/27(金) 16:23:49
>>302イエイエすみませんと言われると恐縮いたします。里数を大月氏国と対比させている事は私もそう思います。確かずっと以前に故松本清張氏も書いておられたような記憶があります。つまり初めに「万二千余里」ありきなんですね。
306日本@名無史さん:2007/07/28(土) 01:36:04
>>305
魏志倭人伝の邪馬台国には魏の主張が2つあると思ってます。
一つは、呉への威嚇、牽制。
もう一つは、司馬懿の貢献。
これは、魏の正当性、そして晋朝建国の正統性を歴史書で記すためのものですから、
メリットは十分にあると考えています。
呉への牽制のため邪馬台国を亜熱帯にもって行き、呉への威嚇のため邪馬台国を「大国」
にふさわしい親魏倭王の称号を与えた。そして、この大国が見方した魏は正当な朝廷で
その後を引き継いだ晋は正統な後継者である。という事を主張したかったのだと思います。

松本清張氏は確か九州論者だったような記憶があるのですが、彼も道里は全くあてにならない
と主張していたと思います。1万2千里は漢書に色々書いてあるので、陳寿はそれを参考にし
ているのは間違いないでしょう。


307阿蘇山は移動した:2007/07/28(土) 12:24:16
誇張?この基準は?1月って今の1月ってことですか?ここらへんが、
現代の感覚、基準で考えてるのでは?当時の単位が大事では?
隋書など参考にしてみては。
308ローガン:2007/07/28(土) 15:29:32
>>307
誇張はそもそも「万二千余里」なんです。行程を積み上げた数字ではなく、「万二千余里」を適当に割り振っているのだと考えます。つまり郡使が移動した距離ではなく、机上で考えられた里数だと思います。とすれば、一里が何メートルであるか等、考えても仕方ない事です
309ローガン:2007/07/28(土) 17:07:52
阿蘇山は移動した氏のご指摘の通り、日数表記部分は倭人からの伝聞でしょう。つまり郡使は行っていない。しかし張政等は20年間倭国にいました。「郡使常駐」伊都国に居たのでしょう。北部及び中部九州に邪馬台国があったのならおそらく訪れているはずです。
310ローガン:2007/07/28(土) 17:14:02
つづきです。訪れていれば里数表記されているはずです。つまり邪馬台国は北部及び中部九州にはなかった。
311阿蘇山は移動した:2007/07/29(日) 11:44:21
>>308
なるほど、納得いきました。

>>309,310
なるほど、だとすると、南九州か、近畿ですね。っていうか、近畿って
いいたいのでしょうね。説得力ある説明ですね。
312ローガン:2007/07/29(日) 22:09:40
ご理解いただけて幸いです。でも九州説支持者にはきっと都合のいい解釈なのでしょう。反論お待ち致します。楽しみにしています。
313阿蘇山は移動した:2007/07/29(日) 23:47:58 0
伊都国に中国か、たいほうぐんの役人がいたって、奈良が邪馬台国なら
大阪に居たほうがよくないかな?入り口だから伊都国なのかな?
少し、奈良では遠すぎると思うな。まあ、私は、邪馬台国宮崎説ですから、
いいのですが。なにせ、南、南ですから。倭人から聞いたなら、間違える
ことはない。方位は。倭人が、東のことを南と言っていたならいいのですが。
314日本@名無史さん:2007/07/30(月) 08:34:59
>>309
張政等が倭国に20年いたとの論拠はなんでしょか?
20年も滞在したのであるならば、日数表記部分にもいけたのではないでしょうか。
315阿蘇山は移動した:2007/07/30(月) 09:15:30
中国の使者が20年いたかは、私はわからないが、中国の使者って2,3人
ではないらしい。200名も派遣された例もあるらしい。日本の動植物
詳しく書いてるから、それぞれの専門家が来てる。薬味もしらない。
って倭人から聞いたのではないことは確か。
316ローガン:2007/07/30(月) 15:58:53
>>313倭人伝に書かれた植生、習俗は夏のものです。その報告書を読んだ陳寿は漢書にある南方の習俗と同じであると考え、「おそらく会稽東冶之東に在るだろう」として記述したのではないでしょうか。方角が南になっているのは陳寿のイメージに拠るものと思います。
317ローガン:2007/07/30(月) 16:23:52
スレ違いですが…。奈良で発生したばかりの前方後円墳が早い段階で九州北東部に見られます。3世紀後半に於いて奈良と同じ首長霊祭祀方法を取り入れている事は連合体であると考えれば理解しやすいと思います。
318ローガン:2007/07/30(月) 16:44:01
>>314書紀が引く晋書起居注に武帝泰始二年十月倭女王重訳貢献とあります。266年です。倭人伝最後にある壱与の朝貢でありその時張政等は帰っています。来倭したのは正始8年のヒミコの要請に答えての時です。246年です。
319子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/30(月) 19:09:09
246年の件はわかります。しかし壱与の朝貢の時に張政が帰ったとの記事はなかったと思いますが、それを暗示している
箇所があるのでしょうか?
320阿蘇山は移動した:2007/07/30(月) 20:14:01
倭を南方に書いたのは、名無しさんが何度も説明されてる。もう、蒸し返す
必要ないのでは?
>>318
書紀は、安易に使わないように。神功皇后が卑弥呼なら、応神天皇が、
トヨのはずです。これをうまく説明してから使ってください。
321太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/30(月) 20:34:02
>>320
そんな仮定から應神がどうのこうの云っても無意味だろうが〜。」

だって君は〜神功は天皇ではないから余は何もあぁだこうだとは云わないが、
應神は君は無でいないと云っていたではないか。33代抹殺だと抜かして
いた君が應神がトヨのはずになるわけがあるまい。
322ローガン:2007/07/30(月) 22:55:16
>>319
倭人伝にあります。壱与遣倭大夫…送政等還因詣臺 お子さんがいらっしゃるんですね。
323子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/30(月) 23:12:00
この倭人伝の記事は266年のことだとはいえないと思います。
248年か249年のことではないでしょうか?


「子供ができたーー」はアリスのジョニ−の子守唄の歌詞です。
「時間潰しの店の片隅」からずうーっとつづいてきています。

当家では子供はおりませんです。
324ローガン:2007/07/30(月) 23:14:19
>>320
神功皇后がヒミコなんて思っていません。晋書起居注の事を言いたかっただけなのです。ただ結果的に太国氏をあぶり出した事はお詫び致します。
325日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:19:46
>>318
壱与は300年か313年のどちらかまでは朝貢していたと思います。
その後、初代大王仁徳天皇が建国した年が369年。
この、半世紀の間に邪馬台国は滅亡、あるいは吸収されたと考えて無理はないと
思っています。

さて、九州論か畿内論の話ですが、もし、滅亡なら九州。吸収なら畿内。
ではなかろうかと思っています。以前大国さんが「朝廷が滅ぼしたのであれば、
記紀に大々的に書くはずだ。」とおっしゃっていました。それは、確かにその
とおりかもしれませんが、逆に吸収したのであれば朝廷側が邪馬台国を同じ血統の
扱いにしてしまう事を考えると思います。それが、神功皇后39年に載せた理由かも
知れません。
326ローガン:2007/07/30(月) 23:26:27
>>323
では、晋書武帝紀、四夷伝、起居注の泰始二年に朝貢した倭王は誰ですか? 知らぬ事とはいえ失礼しました。でもアリスはやっぱり遠くで汽笛を聴きながら…
327太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/30(月) 23:26:31
仁徳即位は倍暦計上で 391年 である。
328子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/30(月) 23:26:46
288年に東夷30カ国が貢献したとの記事があります。
これは北部九州の諸国がまとまって使者を送ったものとおもわれます。
もし邪馬台国が健全であるならば、邪馬台国が倭国代表として貢献するはずでくぁるから、
このときには邪馬台国は衰退か消滅していたものとかんがえられます。
329子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/30(月) 23:40:02
266年の貢献は、晋の建国への祝賀の使者です。
このときの倭王は壱与であったとみて問題はないと思います。
梁書にはこの後男王がたったとかかれておりますが、梁書は今一信頼できないといわれております。
330日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:48:06
>>328
東夷30カ国が貢献したのは289年だったと思います。
邪馬台国は壱与の代になり衰退していたのはそのとおりかもしれませんが
最低でも300年まではあった。313年の帯方郡の滅亡には耐えられなかった
のだと思っています。
331日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:54:31
>>327
応神は架空の人物なので369年が仁徳です。
332ローガン:2007/07/31(火) 00:14:53
>>330「国中遂定」ですから倭国は壱与の代になって安定したのでしょう。安定したが為に塞曹掾史は無用となり、帰ったと思います。
333ローガン:2007/07/31(火) 00:40:34
壱与に関しては記述が少ないので、想像するしか無いのですが、倭国を安定させるだけの力(カリスマ性と云うか)が倭人伝からは読みとれない。ヒミコ死後の内乱を征した部族によって、ヒミコの一族の者という理由で壱与が担がれたのではないでしょうか?
334日本@名無史さん:2007/07/31(火) 01:31:19
>>333
それでも、卑弥呼の弟よりマシだったと。
335子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/31(火) 01:39:21
私の記憶違いでした。東夷30か国の貢献は289年でした。
288年は崇神天皇の没年だと思います。
崇神の時代の末期に大和朝廷は九州に働きかけ、大和の勢力下に入るように働きかけたものでしょう。
そこで九州の諸国は中国に善後策の相談にいったものとおもわれます。
もし、大和の申し入れを拒絶した場合戦いになるかもしれないが、そのとき、中国は九州諸国を助けてくれるか?と。
結果はノーだったので、大和に敵しえないと判断した九州諸国は大和と連衡することになったのです。
もし邪馬台国が健全であったなら、邪馬台国単独で中国と交渉したでしょう。
このことから、この当時邪馬台国は倭国の盟主たりえなかったことがわかります。
336太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/07/31(火) 07:31:58
>>331
確か高木彬光氏は仁徳が架空だったが?(→古代天皇の秘密 同著)

君のは應神が架空ですか? その架空の理由は何だい?
337阿蘇山は移動した:2007/07/31(火) 10:28:30
266年は、トヨ説が多いですね。しかし、記録がすくないの
で、まあ、断定しずらいですね。
トヨのあと男王がたつは、北史にもありますが、これは倭の
五王と魏志をつなげただけで、とくに、新しい資料はないと
いわれてる。岩波文庫の解説にここらへんが書いてあります。

神功の魏志引用は、全部でないとこも注意する必要があります。
日本によくないもの抜いてるように思えた。今、資料手元に
ないので詳しくはいえないですが。
338子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/31(火) 11:53:57
問題は卑弥呼が死に男王が立ち国内が乱れ壱与によってようやく安定するまでの機関がどのくらいあったかということでしょう。。
私はその期間はきわめて短く1年未満であったろうと考えます。
倭国大乱の時は相攻伐であり、この時は相誅殺であるから永い間武闘を繰り返したとはみえない。
おそらく反対勢力を一族もろとも一網打尽にして河原に並べて首を打つということであろうか。
千人もの大量処刑であるから、国の主だったものはほとんど消滅したといってよく、
壱与以降の邪馬台国の衰退した一因と見てよいであろうか。
339ローガン:2007/07/31(火) 16:41:58
>>338
仰る事の論拠があれば教えてください。出来れば、>>326の質問に答えていただければ幸いです。
340子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/31(火) 22:53:19
泰始二年(266年)に朝貢した倭王について。
泰始元年は魏の禅譲を受けた晋朝が始まった年です。
翌年に倭王はお祝いを述べる賀使をおくったものです。
晋書武帝紀に「其女王遣使至帯方朝見。其後貢 不絶、及文帝作相
又数至。泰始初、遣使重訳入貢」とある。
卑弥呼の遣使以来度々遣使していたということである。ここにあらわれていることは倭の政権は卑弥呼以来一定の王朝であるということである。
つまり、邪馬台国の王が朝貢していたということである。さらにこの表現は倭国に政変があり権力が交代したことを否定するものである。
次に倭王は男なのか女なのかということであるが、この文からはどちらともきめかねる。
しかし壱与が13歳で王となったとあるから、266年には約31歳であるから、壱与であってもおかしくはない。
倭国に権力の交代がなかったのであるからこの王は壱与であった可能性がかなり高いものである。 
341ローガン:2007/08/01(水) 00:03:44
>>340
なんで266年で31歳て解るんですか?貴方の個人的な見解は全く必要ありませんので、端的にその論拠のみ教えてください。いえ、やっぱり論拠は要らないです。何に書いてあるかだけ教えてください。
342日本@名無史さん:2007/08/01(水) 00:11:31
>>336
このレスで詳しくは述べませんが、初代大王=仁徳と思っているのです。
倭国統一は369年以前だと思っていますが、それが何年かは確定できません。しかし、
七支刀の日付から、遅くとも369年には倭国統一したことは間違いないと思われます。

>>340
私も壱与でいいのではと考えます。
壱与はその後291年まで朝貢していたらしい事は晋書で伺われます。その後朝貢は一旦
途絶えたかに思われがちですが、300年〜313年までは朝貢していたと考えてます。
300年の八王の乱で洛陽は大混乱となり晋朝の権威は失墜してしまいます。
その時、邪馬台国はどうなったでしょう?
もともと、大国でもない連合国の一つの国であったに過ぎない邪馬台国は「親魏倭王」の
称号だけで、担ぎ出されていた小国ですから、晋朝の地位の失墜と同じく邪馬台国の地位
も失墜したものと思われます。ここで、混乱の時期が再び訪れた事は容易に察しがつきます。

313年西晋が滅び369年仁徳が倭国統一を果たした期間の約半世紀は倭国混乱期であったと
考えます。
邪馬台国九州論だと、ここもうまく説明できないため、畿内ではなかろうかと思っています。



343日本@名無史さん:2007/08/01(水) 00:34:24
>>341
魏志倭人伝にちゃんと書いてあります。
344ローガン:2007/08/01(水) 00:40:41
>>342もう少しお話しを聞かせていただけますか?今の考古学の年代観を信じれば、貴方が云う混乱の最中に大和では巨大前方後円墳が造られています。人的、経済的に考えれば権力の集中が充分想像出来ると思いますが。
345ローガン:2007/08/01(水) 00:47:30
>>343すみません。頭が悪くて…倭人伝のどこに書いてあるか教えていただけませんか?
346日本@名無史さん:2007/08/01(水) 00:48:24
>>342
313〜369年に造られた巨大前方後円墳とはどこですか?
347ローガン:2007/08/01(水) 00:59:29
西殿塚。行灯山。渋谷向山。宝来山。メスリ山。等
348日本@名無史さん:2007/08/01(水) 01:08:10
>>246
247年か248年に卑弥呼は死んでいます。その後13歳壱与が王となっています。
そこから引き算すると、266年には31歳か32歳になります。
349ローガン:2007/08/01(水) 01:12:51
あ〜そうなんですかもういいです疲れましたさようなら
350日本@名無史さん:2007/08/01(水) 01:25:51
>>347
考古学のことは詳しくないので何とも言えませんが、もし混乱期に何も
造れないのだとしたら、戦国時代といわれる時代にあれほど大きく立派な
城が続々と造られていたのは何故でしょう?
逆の考え方をすれば、混乱期だったからこそ我先にと巨大古墳を造ったとも
言えるかもしれません。
351阿蘇山は移動した:2007/08/01(水) 07:26:42
倭の五王の武は、戦闘があったと思えます。前かも知れませんが。
あと、むしかえしますが。神功皇后の魏志の注。使者を全部のせ
ないのは、歴史書といえるかな?それも注でいいものでしょうか?
352子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/08/01(水) 08:25:45
問題の核心は、張政がどのくらいの期間倭国に滞在したのかということでしょう。
張政は使者で倭王に告諭するために派遣されたのであるから、用がすんだら帰国し報告するのが義務でしょう。
長期間滞在した例もあるとおっしゃるならば、張政が例外的に長期滞在した理由を述べなければなりません。
266年の遣使は晋王朝成立への賀詞が目的です。張政を送るための遣使ではありません。
353ローガン:2007/08/01(水) 17:34:47
>>348ハラハラさん。貴方の私見などどうでもいいのです。ただ私は壱与が何年に王になったかが倭人伝のどこに書いてあるのか教えて欲しいだけです。繰り返しますが貴方の私見など別に聞きたくもないのです。
354ローガン:2007/08/01(水) 17:47:32
>>351阿蘇山さん。貴方は晋書武帝紀泰始二年の朝貢、四夷伝の泰始初の朝貢、書紀がひく泰始初の朝貢は同じ事を書いているとは考え無いのですか?
355日本@名無史さん:2007/08/02(木) 00:07:49
>>351
倭王武(雄略)の時世には倭国はほぼ平定されていると思われます。
478年に武が宋朝に送った手紙が488年に書かれた宋書に載っています。
簡潔に言うと、武の祖父の時代から勢力圏を広げ、毛人(中部・関東)、倭人
(西日本)の諸国そして朝鮮半島の多くの国々を保護下に入れている。内容が
書かれています。そうすると当然倭国(近畿地方)はそれ以前に平定されている
と考えるのが普通で、その平定された時期が遅くとも369年だと考えられます。

書記の神功皇后39年、40年、41年にそれぞれ魏志倭人伝の記述がありますが、これは、
書記編者がこの時期に卑弥呼がいたことにしたい。若しくは、神功皇后が卑弥呼だと言いたい
だけの記述ですのでこれを史実とは見ていません。順番としては、書記編者はまず魏志を読ん
でその後神功皇后を作り上げた可能性が高いと思っています。書記の神功皇后は史実としては
実に疑わしいと思っています。
前にも書きましたが、神功皇后の子応神も架空の可能性が高く、史実性が高い人物は「仁徳」
からが大王(天皇)ではないでしょうか。
356阿蘇山は移動した:2007/08/02(木) 08:34:29
>>354
同じことだと思います。詳しくしらべてないけど。とくに調べなくても
いいかと思ってた。私は、邪馬台国がメインで魏志中心なので。まあ、
関係する部分は、他もよみますが。
>>355
倭の5王は、武列天皇(あれ?字違うな。まあいいか)に収束する。この
血は悪いとして、元の血の5代孫の継体天皇がつぐ。これは、日本書紀
編纂時の天皇と5王は血がつながらないことを示すのでは。ここらへん
日本書紀編纂の手の内を見るような気がする。
357太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/02(木) 09:12:12
つぐだと? お前は繼體は架空とか非実在とか言っていたではないか。
いないとなれば、それでつぐことなどありえないことになるではないか。
お前の説は矛盾だらけの出鱈目。ww
358子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/08/02(木) 09:36:32
>>353
魏志倭人伝のどこにも壱与が何年に即位したかなど明記していません。おそらくあなたは魏志倭人伝をお読みになっているからそのことは承知しているでしょう。
だから、壱与の即位年については、前後の文や他の資料や社会的常識通念によって推測をして、もっとも
合理的と思われる結論をだすことになるわけです。
それでいて人の意見は聞きたくないとおっしゃるのであれば、人に問いかけるようなレスは控えていただきたい。
359日本@名無史さん:2007/08/02(木) 14:33:43
>>350戦国時代に続々と建てられた大きな立派な城て、どの城の事や?続々と云うからには沢山あるんやろねえ?安土桃山時代以降に建てられた城と比べても規模や装飾等、遜色ないのが、戦国時代に続々と建てられたって云うのん?
360阿蘇山は移動した:2007/08/02(木) 21:31:22
混乱期に巨大古墳造った、って私もどうかな?って思うけど。
まあ、見てたわけでないので、古墳何時造られたかは、
わからないな、、
361日本@名無史さん:2007/08/02(木) 22:20:27
>>358
正始八年の難升米の記事のあと、
「卑弥呼、以って死す。〜卑弥呼の宗女壱与年13なるを・・・」
ですから、サガミハラハラさんの計算で合っています。
32歳の可能性はありますが。
362ローガン:2007/08/02(木) 22:27:11
361の方。ヒミコ以って死すって、どう云う意味ですか?
363風のうわさで聞いたけど君はまだ燃えていると:2007/08/02(木) 22:42:17
>>362
文節が欠落しているのではないかと考えられています
364風のうわさで聞いたけど君はまだ燃えていると:2007/08/02(木) 22:43:14
>>362
文節が欠落しているのではないかと考えられています。
365日本@名無史さん:2007/08/02(木) 22:56:09
313年〜369年の約半世紀に混乱があったというのは私の勝手な解釈
ですので、なかったと言われればそれに反論する文献資料も知らないので、
これ以上は言いません。ただ、漢が崩壊したとき漢委奴国王の力が弱まった
ように西晋の滅亡によって親魏倭王の力も弱まったと見るのが普通だと思います。
権力者の力(親魏倭王の称号)が弱まれば、国内は混乱が起こるのが世の常です。

369年以前、無名の大王(私見では仁徳)が畿内を統一し、「倭王」と名乗って
いるのですから、369年時点で倭国は河内王朝となっています。

邪馬台国が、九州にあるのならこの約50年の間にどのように倭国が畿内に移り変
わったのか合理的な説明が出来れば邪馬台国九州論の理解ができると思います。
よく、謎の4世紀とか空白の150年とか言われますが、私はこの50年の空白を
埋めることが出来れば邪馬台国はどこにあったか解ると思っています。
366ローガン:2007/08/02(木) 22:57:54
サガミハラハラさん。お気を悪くされたようで、申し訳ありませんでした。
そうです。倭人伝には何処にも書いて無いのです。貴方が勝手に妄想しているだけです。その妄想を元にして寄をてらった事を言っても誰も相手にしない。妄想するのは自由ですが、論拠がある程度支持出来るものでないと。
367日本@名無史さん:2007/08/02(木) 23:00:57
>>362
「卑弥呼、以って死す。」は色々な意見があると思われますが、素直に魏志を
読むと「以って」=「すでに」だと思います。
247年帯方郡から遣使が来日した時には卑弥呼は死んでいた。と言っている
のではないでしょうか。
368ローガン:2007/08/02(木) 23:03:42
>>363私もそう思います。さて、その欠落をどう埋めますか?
369ローガン:2007/08/02(木) 23:33:24
>>367孫已死…湖南説ですか?それも考えられますね。
370日本@名無史さん:2007/08/03(金) 00:34:27
>>356
倭の五王が誰であったかは、私は倭王讃が履中で、倭王武が雄略と考えています。
色々意見もあるでしょうがここでは省きます。
肝心なことは、369年に百斉の貴須が七枝刀を倭国に贈った無名の倭王が大王として
存在していることです。表には369年の年代が、裏には百済王世子が倭王のために命令し
七支刀を造らせこれを記念とした。との内容が書かれており、ここに百斉・倭国同盟が成立
しています。
この七支刀の銘文は三国史記の369年記述とも一致しています。

これが、河内王朝で、邪馬台国の後継者、すなわち「倭国」だと言いたかったのです。(但し、
血統が繋がっているという意味ではありません。)
371日本@名無史さん:2007/08/03(金) 01:19:32
>>367
それが穏当ですね。
何か意味を付け加えたい人には都合が悪いかも知れないけどね。
372日本@名無史さん:2007/08/03(金) 01:26:45
> 表には369年の年代が
書かれている年号は字画が必ずしも明確ではないので、その数字を確定的に扱いたいという作為があるのでないなら、諸説に分かれている点を略さないほうがよろしいかと。
373阿蘇山は移動した:2007/08/03(金) 07:59:54
>>367
私も、これに賛成。日本人ですが、外語大で中国専攻の
人も「すでに」と解釈されてた。
374ローガン:2007/08/03(金) 16:14:37
>>370 という事は百濟は当時、東晋の年号を使っていたと貴方はお考えなのですね?
375ローガン:2007/08/03(金) 16:54:34
>>361壱与が王になって間もなく朝貢した事はご理解いただけますね。ヒミコ以降の朝貢は266年迄無いのです。もしあれば朝貢を迎えた記録が文献に書いてあるはずです。晋書起居注にある様に倭王が女性であれば266年は壱与の初めての朝貢です。年齢は13〜15歳が妥当
376オーオージョニー それだけが 実はサガミハラハラ:2007/08/03(金) 17:19:09
壱与が朝貢したのは魏志倭人伝にかかれているので魏の時代です。
266年は晋の時代です。
こういうのを論拠というのです。
377日本@名無史さん:2007/08/03(金) 18:07:57
〉376
本気でそう思っているの?
378日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:38:02
>>375
全く違います。
晋書では「文帝(司馬昭)が相となるに及んで、またしばしば至った。」
とあるので、265年までに倭王(壱与)の使者は何度も来訪しています。
265年12月に司馬炎が晋朝を開くと壱与は祝賀の意を表して266年冬に朝貢
朝貢したのです。
379日本@名無史さん:2007/08/03(金) 21:14:15
>>357
失礼しました。
朝貢したのは、266年まで、ありません。
380日本@名無史さん:2007/08/03(金) 22:13:30
266年の朝貢が壱与だという根拠はなに?
381ローガン:2007/08/03(金) 22:42:22
>>379イエイエわかっていただければそれで結構です。
382ローガン:2007/08/03(金) 23:03:35
>>326に書きました
383ローガン:2007/08/03(金) 23:22:47
>>380ごめんなさい。ちょっと酔ってます。晋書武帝紀に泰始二年倭王朝貢。四夷伝に泰始初めの朝貢。日本書紀が引く起居注に泰始初めの倭女王の朝貢があります。同じ朝貢に対する記述だと思いますよ。
384日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:39:06
同じだと思う根拠は?
特に誰にということで質問してるわけではないんだが。
385日本@名無史さん:2007/08/04(土) 00:47:16
壱与って要するに玉依姫の事だろ?

卑弥呼は豊玉姫
386日本@名無史さん:2007/08/04(土) 01:01:40
>>385
その壱は刊本の誤植で、臺と思われる。
387阿蘇山は移動した:2007/08/04(土) 07:47:50
トヨ(イヨ?)は、魏志の最後に使者をだしてますよ。これが
最初でしょう。白珠5000のものです。266年は、トヨ
とは書いてありません。でも、今では、トヨで定説化して
ますね。ほんとかどうかは別ですが。これは、論じても結論
でないでしょう。書いてないから。
388日本@名無史さん:2007/08/04(土) 22:30:34
ところで、ローガンさんは畿内説、九州説どっちですか?
また、その根拠があればお聞かせ下さい。
389ローガン:2007/08/04(土) 23:30:00
スレ主さん。書いてない事からと言ってそこで終わりですか?名無しさんが呉への牽制って言っていました。そう云う考え方が大事ですよ。百か0か、そう云う考え方は古代史にはそぐわない。生意気ではありますが老婆心ながら…
390ローガン:2007/08/04(土) 23:43:52
大和説支持です。面倒かも知れませんがカキコを読んでください。九州説ではその後の展開が説明するのに凄い想像力が必要です。
391ローガン:2007/08/05(日) 00:01:07
ところで太国氏の2倍念力って何?
392日本@名無史さん:2007/08/05(日) 00:12:12
邪馬台国も倭王武も繋がっているんじゃないのか?

最近、そう思えてきた。

卑弥呼はモモソヒメ、台与は豊鋤入姫だろう?
393ローガン:2007/08/05(日) 06:31:58
>>392ヒミコはモモソヒメか?面白そうですね。よかったら論拠を教えていただけますか。
394阿蘇山は移動した:2007/08/05(日) 07:27:22
書いてないこと、想像しても、賛成えられないのでは?学問
ってそういうものです。根拠ないと。
呉のけん制は、名無しさんの説得力あります。これは、想像
ではない。
モモソ姫って天皇でない。こういうのは、想像です。神功皇后
なら学問ですけど。皇后ですが。この違いが解らないと。
文献史学でも結構わかることがある。
395日本@名無史さん:2007/08/05(日) 08:30:53
畿内説のほうがよほど想像力妄想力が必要です。
それと病的な執着心必要かな。
396ローガン:2007/08/05(日) 09:36:59
>>394そうです。モモソヒメは天皇では無いのです。では何故書紀の編者は箸墓の被葬者をモモソヒメとしたのでしょうか?箸墓はどうみても王墓ですね。
397ローガン:2007/08/05(日) 10:50:44
そうですね!畿内説もたくましい想像力が必要ですね。
398ローガン:2007/08/05(日) 11:47:27
そのたくましい想像力で…。箸墓は王の墓だと書きました。その被葬者モモソヒメとしている事は、女性である事を知っていたのではないでしょうか?つまり崇神に先立つ女性王がいた。しかし後の天皇家との血縁が無いため被葬者をモモソヒメとしたのではないでしょうか。
399日本@名無史さん:2007/08/05(日) 12:50:14
皆さん、海部氏系図の本(金久さんの本)を一読されたら良い。
この本は基本的に、海部氏系図の記載について
記紀や旧事本紀などと比較しながら
淡々と語っている本なんだけど...

あれは、欠史八代の謎がなんとなく推測される。

金久さんは、あんまり意見は言ってないのだが
彼が最後に書いてあることは、要するに

アメノオシホミミからなんとなく存在が見えてきて
この人物には、ホアカリとホノニニギという息子がいた。
兄のホアカリの子孫は祭祀を受け持っていて、
弟のホノニニギのほうが政事を司っていた。

というふうにしめている。

ホアカリは別名をアマテルといい、男の太陽神アマテルは彼のこと。
彼の子孫には、尾張氏、津守氏、海部氏がいて、
三種の神器の本物の草薙の剣は、熱田神宮の尾張氏が持っていた。
天皇家(ホノニニギの子孫)の持っている草薙の剣はレプリカ。
また、伊勢神宮の外宮は、崇神天皇のちょっと後の時代に
丹波から移されたものなんだけど、その時の丹波国造が海部氏。

つまり分かりやすくいうと、出雲を倒したヤマトの初代国王はアマテル(ホアカリ)
しかし、その曾孫の代に、ホアカリの弟のホノニニギの子孫であるホホデミが
日向から東征してきて、その後
祭祀はホアカリの子孫が、
政事はホノニニギの子孫のホホデミ(神武)が受け持ったということらしい。
400日本@名無史さん:2007/08/05(日) 14:38:28
>>399
それ書名と出版社はどこ?
読んでみたい。
401オーオージョニー それだけが 実はサガミハラハラ:2007/08/05(日) 15:14:51
ホアカリとはニギハヤヒのことですか?
402日本@名無史さん:2007/08/05(日) 15:23:57
>>394
阿蘇山さんとは意見が真っ向対立していますが、「書いてないこと・・・」
には賛成ですね。
まず、文字のないところに歴史学はありえないということを肝に銘じていなければなりません。
考古学はあくまでも考古学で、歴史学とは一線を置くことが必要でしょう。
例えば、金印にしても銅鏡などにしても考古学としての価値はあるかも知れえませんが、歴史学の資料
になるためには、そこに文字が刻まれていてはじめて歴史学としての価値が見い出せるものと思っています。

畿内論者の多くの人に箸墓が卑弥呼&壱与の墓などと言われますが、私の無知もあるかもしれませんが、全く
信用していません。
箸墓以外の歴代の天皇陵にしてもほとんど信用出来ないと思っています。
403日本@名無史さん:2007/08/05(日) 16:06:23
スレ違いは他でやれよ
404日本@名無史さん:2007/08/05(日) 16:30:49
箸墓以外にも歴代の天皇陵にしてもほとんど信用出来ないと思っています。

に訂正
405阿蘇山は移動した:2007/08/05(日) 16:44:57
スレ違い。ごもっとも。
しかし、畿内説多いですね。
箸墓って、大きさからきてるのかな?夜神が造った、というのが理解
できない。昼のことは、正しくて、夜が物語りっていうと、学問でなく、
また、人により異なる。だから、モモソ姫は、全部作り話とせざるを
えないけどな。日本書紀より、隋書などを引用して説明がほしい。
406日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:07:04
>>401 :オーオージョニー それだけが 実はサガミハラハラ:2007/08/05(日) 15:14:51
>ホアカリとはニギハヤヒのことですか?

それについては、いろいろな説があるらしい。
407日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:13:09
>>400
アマゾンで調べれば出てくるよ。
408ローガン:2007/08/05(日) 17:17:38
>>402立派な見解だと思います考古学の全否定ですね。文字資料の伴わない考古資料はなんら価値の無いものと仰る訳です。墓誌のない古墳などいつ頃造られたかわかったものじゃない。

土器や青銅器等の遺物集落跡等の遺構その他文字による年代観が推測出来ないものについては全く資料として採用しないし考古資料から年代観を得ているものが在るとすれば、一切認めないって云う事ですね
409日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:26:21
>>406
コイツラの事だよ>>406-407
410日本@名無史さん:2007/08/05(日) 17:27:21
>>406じゃなくて>>405宛てな
411日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:14:41
>>400
古代海部氏の系図 (単行本) 金久与市 (著)
學生社
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/50387296.html
412阿蘇山は移動した:2007/08/05(日) 20:44:10
系図ですか。ご自身でかかれたのかな?確かに天皇家より古い系図がある
ことは聞いてます。でも、中国の書物にでてくる人がいるといいのですが。


日本書紀などにもウソがあるかもしれないけど、考古学で例えば景初3年
の年号(鏡)そのまま信じていいか、疑問が残る。
413ローガン:2007/08/05(日) 22:36:57
スレ主さん!>>402の方と同見解なのでしょう。古墳など、いつ頃造られたなんて全くわからん。人類誕生から昨日迄のいつかに造られたと云う事ですね?其処にあった青銅鏡は当然人類誕生から昨日迄のある時期に造られたものであると云う事ですね。


景初三年と云う銘は有るものの、歴史資料として全く価値の無いものなのですね?(私は邪馬台国畿内説の所謂銅鏡百枚と古墳からでる青銅器はあまり絡めては考えてないのですが)

402の名無しさんと、もし考え方が違っていたら御詫び致します。が、考古学の全否定ですから、年代観の論拠にたとえ少しでも文字資料のない考古資料がある場合は、その考え方そのものを全て排除し否定すると云う事だと理解されますが当然それでよろしくのでしょうね
414ローガン:2007/08/05(日) 22:38:43
スレ主さん!>>402の方と同見解なのでしょう。古墳など、いつ頃造られたなんて全くわからん。人類誕生から昨日迄のいつかに造られたと云う事ですね?其処にあった青銅鏡は当然人類誕生から昨日迄のある時期に造られたものであると云う事ですね。


景初三年と云う銘は有るものの、歴史資料として全く価値の無いものなのですね?(私は邪馬台国畿内説の所謂銅鏡百枚と古墳からでる青銅器はあまり絡めては考えてないのですが)

402の名無しさんと、もし考え方が違っていたら御詫び致します。が、考古学の全否定ですから、年代観の論拠にたとえ少しでも文字資料のない考古資料がある場合は、その考え方そのものを全て排除し否定すると云う事だと理解されますが当然それでよろしくのでしょうね
415ローガン:2007/08/05(日) 22:43:17
>>414エラーが出たのでダブりましたすみませんです。
416阿蘇山は移動した:2007/08/06(月) 19:14:43
早○田のキク○先生は、文字はウソをつくが、遺跡はウソつかないと20年
前言われてた。直にお話しました。旧石器が問題になる前です。
あるからある。でしたが、旧石器の捏造から、考古学に対して疑問をもつ
人増えたのでは?私は、鏡の年号には、疑問持ってます。考えは前に書いて
ありますが、また書きます。明日にでも。
417日本@名無史さん:2007/08/06(月) 23:26:34
もし、畿内であれ九州であれ、「魏印倭国王」みたいに書かれた金印が見つかれば
決定的な証拠にはなるでしょう。
逆に、何も文字が書かれていない金印など証拠にも何もならないというこになります。
景初三年と書かれている銅鏡は考古学の価値は確かにあるし、畿内にも出雲にも当時には魏の
何らかの影響があったのではないかと考えられますが、邪馬台国畿内論の決定的証拠には
なりえないと思っています。ただし、考古学の発達のおかげで2〜3世紀の畿内にも九州を
凌駕するような勢力があったらしいことは認められます。
文字の補足としての遺物ならばいいのですが、何も書かれていない土器や遺物から歴史を語って
しまうと本末転倒になりかねないのではと考えています。
418ローガン:2007/08/07(火) 00:35:39
>>417仰る事はよく分かります。考古学の主体は編年です。

「下から出土したものは上にあるものより古い」これが基本です。
文献や金石文との合致が考えられるものに実年代を与え、其処に共伴する土器等の遺物にある程度の年代観を与えてそれをスケールとして様々な遺物、遺跡遺構の年代を考えている訳です。(捏造等は論外ですが)

勿論そういうルールをご承知の上で考古学を排斥されているのでしょう。
私は考古学至上主義ではありません。勿論歴史に興味があれば実年代が知りたい。私はそう思います。
しかしいかんせん、中国の文献の一部に登場する事柄を知りたいって思った時、文献の解釈だけにとどまらず、ルールに則ったものであれば、考古資料を参考にすると云う態度は大切な事だと思います。
419阿蘇山は移動した:2007/08/07(火) 08:09:24
魏志には、景初2年になってる。三角の年号は3年。3年1月
1日に皇帝が崩御されてる。1年間は、喪中です。外国のお土産
に、喪中の年号つけるかな?2年ならいいが、あるいは、正始元年
までまって造るのでは?歴史学的考察だとこうなる。考古学
では3年ってあるから3年にもらったでしょうね。ここらへんが
違う。
420日本@名無史さん:2007/08/07(火) 08:12:08
42 :本当にあった怖い名無し:2007/08/07(火) 07:36:16 ID:9rlUPCRn0
中国政府の研究機関が、日本の稲作の伝来を科学的に照明した。
諸外国の研究機関も納得している。
韓国だけが感情的に反対しているがw
日本の歴史教科書や世界の教科書も大きく書き換えられるかもな。
遺伝学的、農学、植物学、生態学でみて、
稲の伝来は、中国南部→日本列島→朝鮮半島
詳しくはここ。


日本から朝鮮半島への米の伝播
http://blogs.yahoo.co.jp/deliciousicecoffee/12585608.html
>日本の稲作開始は陸稲栽培で6700年程度前まで、
>水稲栽培で3200年程度前まで遡ることが判明している。
421阿蘇山は移動した:2007/08/07(火) 20:57:44
なるほどね。朝鮮半島は、寒いから、無理なのか。なんだか、説得力
あるな。
422オージョ二− ただ嬉しくて 実はサガミハラハラ:2007/08/07(火) 23:34:44
朝鮮半島の水稲稲作が1500年前までしか遡れないとするのはあたらしすぎでは
ないだろうか?
423日本@名無史さん:2007/08/08(水) 03:26:38
邪馬台国は、大和国。
狗奴国は、許乃国(このくに)・・・宇治のあたり(山城国風土記逸文より)

魏志倭人伝は、
最初の北九州の国の漢字名については、
漢の時代の上古音をもとにつけられた名残があって
後の北九州以外の国の漢字名については
魏の時代の中古音をもとにつけられた名残がある。
つまり、伊都国・奴国などと邪馬台国・狗奴国とでは
中国人がこれらの地域と交流を緊密化させる時期が異なっていて
伊都国・奴国などは、57年の金印の頃の上古音時代につけられた可能性が高い。
しかし、邪馬台国・狗奴国などは240年前後の卑弥呼の時代につけられた漢字名で
魏の時代の中古音でつけられている。

よって、魏志倭人伝には、20数カ国の戸数を記していない国が多く列挙されているが
その殆どに、「奴」という字がつくが、これは中古音で「の」と呼ぶ。

狗奴国=許乃国(このくに)=山城の宇治
ここは、日本書紀の崇神期に武埴安彦命が謀反を起こした地域である。
武埴安彦命は、河内と山城の両方に拠点を持っていて
彼は、甥の崇神天皇や伯母のモモソヒメを
山城と河内の両方から、大和を挟み撃ちするように攻めた。
こういう二方向からの攻撃だから、魏志の方角観も混乱したのだろう?

狗奴国=許乃国(このくに)=山城の宇治
狗奴国男王・卑弥弓呼=彦命=武埴安彦命
狗奴国官・狗右智卑狗=河内彦
の可能性が高い。
424阿蘇山は移動した:2007/08/08(水) 04:01:06
>>422
卑弥呼の時代、対馬かな・良田なく、南北の市に行ってたな。
北からお米かったのかな?南からかな?えー250年ごろは
いいって。。。。
>>423
発音から日本書紀まで幅広く研究されてますね。ここはもっと
狭い範囲です。どんとこいがむいてますよ。
425日本@名無史さん:2007/08/08(水) 09:29:33
狗奴国は許乃國(山城の宇治)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34476515.html

426日本@名無史さん:2007/08/08(水) 19:19:28
>422
じゃあ 1501年。
427阿蘇山は移動した:2007/08/09(木) 10:15:16
>>425
狗奴国が近畿ですか。後漢書なども、そんな風になってます。私は、奴国
が、博多にしてる。発音わからないから、過去の研究者に従った。特に、
私の考え入れずに。いれても同じか。難しい問題ですね。
428阿蘇山は移動した:2007/08/10(金) 14:24:47
のんびり、、、狗奴国、熊本って、無理かな?
429阿蘇山は移動した:2007/08/11(土) 18:25:57
奴国、博多なら、その南は、熊本県ですが、、、、、
430日本@名無史さん:2007/08/11(土) 19:33:02
>>427
日本書紀の研究をされている有名な先生である森博達先生の話によると、
魏書の音韻は中古音らしい。
よって、魏志倭人伝に登場する倭の単語も、
その殆どを中古音で考えないと駄目らしい。
例外は最初のほうに登場する奴国で、
これは上古音時代だった西暦57年の頃から中国側の文献で有名だったので、
中古音時代になっても、上古音時代につけられた奴国という
漢字の当て字をそのまま記してあったとか。

で、狗奴国は、中古音で、コノ国と発音しないと駄目らしい。
実際に、魏志倭人伝には、「卑狗」という官名が登場し、
これは「ヒコ」のことだと思われるので、「狗」という漢字では、
中古音で「コ」と発音していることが分かる。

で、狗奴国=コノ国という名称がどこにあるのか?
だが、それは、山城國風土記逸文の中にあった。

狗奴国は許乃國(山城の宇治)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34476515.html
431日本@名無史さん:2007/08/12(日) 02:07:32
>>430
上古音なのか中古音なのかは、本場の中国で長年にわたって研究されても「どちらなのか断定する
決め手がないから分からないというのが定説」とされているのだから、厳密を尊ぶ学問ではない
「始めに結論がある宗教活動の類い」でないなら、どちらかと断定すべきではない。
432阿蘇山は移動した:2007/08/12(日) 15:05:36
では、もう1つ。名前だったかな?クコチヒコとかの場所
をキクチにする。熊本県のキクチですが。これの正しい
発音教えて?

あと、日本書紀の研究で有名な小島先生は、日本書紀は、
芸文類聚の孫引きでつくられてるとされてますが。中国
の文献つかってるので、日本書紀は、中国人が書いたと
みなすべきで、多数の文献を引用してるので、多数の
中国人が書いたと考えるべきで、時代も異なる発音が
まじってるので、日本書紀の研究では、書いた発音など
わからない。魏志は、陳寿が書いたから同じ発音でいいけど
日本書紀の研究者には、発音はわからないはず。もっと
専門家の意見がしりたい。
433日本@名無史さん:2007/08/12(日) 17:22:29
魏志は中古音の音韻でというのは
森博達先生が言っている。

>>432 :阿蘇山は移動した:2007/08/12(日) 15:05:36
>では、もう1つ。名前だったかな?クコチヒコとかの

これは、無茶苦茶だな。
何故なら、狗古智卑狗の
最初の狗と最後の狗を違う発音で読んでいるわけだから。

卑狗というのは、高い確率でヒコでしょう?
だったら、中古音だわな。
434日本@名無史さん:2007/08/12(日) 20:01:10
>>433
[狗]が[コ]なら、
狗古智卑狗の[古]は、どう発音してたんだ?


435日本@名無史さん:2007/08/13(月) 05:05:45
>>434

邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32352359.html
436阿蘇山は移動した:2007/08/13(月) 13:11:03
森博達さんは、レベル低すぎるから。引用しないで、もっと
専門家の説ないのですか。
437日本@名無史さん:2007/08/13(月) 16:21:23
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32352359.html
↑で卑彌呼を「pieg-mier-hag,pie-mie-ho」釣られて「ヒミホ」と
するのは誤り。
日本の古代(飛鳥以前)のハ行子音はpであるから
「卑」を現代のヒに射影するなら
「呼」を現代の「ホ」と射影することはできない。
万葉仮名のハ行の漢字は中国音で総て重唇音(双唇破裂音)だ。
現代日本語のハ行子音はローマ字でhを使うが
現代韓国語のhに比べると喉の擦り方が強い。
438日本@名無史さん:2007/08/13(月) 22:36:59
>>432
「日本書紀は、中国人が書いた」は、そのとおりでしょう。
というより、7世紀までの日本の文化、政治は中国(華僑)が創ったことを素直に
認めないと、とんでもない歴史解釈になってしまいます。その点での阿蘇山さんの
意見は冷静に判断されているのではないかと解釈していますが、ただし、中国という
文明は文字の文明です。現実の世界がどうであれ、文字でさえ辻褄が合わせられれば
よい。という 伝統をもっているので歴史記録のうえで仮に捏造や誇張があっても、
宮廷側がいかに前皇帝から現皇帝の正統制概念の辻褄を合わせているかを同時に見る
必要があると思います。魏志倭人伝だけを読んで、邪馬台国を探そう。としてもそれは
無理なのではないでしょうか。

中国史も日本史も嘘を書きます。日本史だけが嘘を書いて中国史は嘘を書かないということは
ありません。同じ中国人が書いたものなのですから。
その典型が、魏志倭人伝の道里、風俗だと思っています。
439太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/13(月) 22:40:41
ダンボール入り饅頭か〜? 猪八戒も喰いたくない〜。
440日本@名無史さん:2007/08/14(火) 00:19:21
>>437

じゃ、正しい発音は?
441日本@名無史さん:2007/08/14(火) 00:35:12
2月17日リチャード・コシミズ東京単独講演会ダイジェスト版
http://video.google.com/videoplay?docid=-7654256446381089725
2月17日講演 フルバージョン
http://video.google.com/videoplay?docid=3894395222162251717
9月15日東京青山講演会予定のプロモーション・ビデオ
http://video.google.com/videoplay?docid=4515284009033478654&q=
9.15pv.MPG&total=1&start=0&num=10&so=0&type=search&plindex=0
442日本@名無史さん:2007/08/14(火) 01:45:47
>>438
日本書紀の編纂目的は、
対中国外交に使うためのものだから。
たとえば、中国の外交官が日本へ訪問する時に
日本書紀で予習してから来るんだよ。

そんなわけだから、日本書紀では無理して、中国史書のように
編年体で記述しようとしている。
おそらく、それ以前にあった歴史書は古事記みたいに
大雑把なものだったはず。
443日本@名無史さん:2007/08/14(火) 06:01:12
>>436 :阿蘇山は移動した:2007/08/13(月) 13:11:03
>森博達さんは、レベル低すぎるから。引用しないで、もっと
>専門家の説ないのですか。

おい、おまえ。レベル低すぎるって、正気か?
この先生は漢文の専門家だぞ。
444太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/14(火) 22:55:38
阿蘇氏は主張がもぅ〜極端だからねぇ〜。彼の説はどれも信用できないと
云ってよい。
445日本@名無史さん:2007/08/14(火) 23:07:56
阿蘇氏というと語弊があるので阿蘇さんぐらいにしてほしい
446日本@名無史さん:2007/08/14(火) 23:57:10
>>442
日本書紀の編纂目的は言うまでも無く皇室の正統性が第一です。
そして、中国のためではなく、日本が白村江での敗北で孤立したため
新たに日本国家(皇室国家)の成立を確立するために創られたものです。
逆に言えば、反中国のために創られた書物が日本書紀です。
ちなみに、古事記より日本書紀のほうが古いですよ。
447日本@名無史さん:2007/08/15(水) 06:44:10
>>446
日本書紀や古事記は、共に小中華主義があって
中国に対抗しようとする意思があるのはそうだが

日本書紀が、対中国外交上、重要だというのは、その通りなんだよ。
日本書紀が完成した時代は、中国との外交関係も再び成立していたし。

皇室の正当性というのは、ずばり、
大和王権の出雲王権に対する革命と、
初代大和国王アマテル(ホアカリ)の嫡流である尾張氏・津守氏・海部氏に対する
ホノニニギ(ホアカリの弟・皇祖)の正当性を示すためのものだろう?
448阿蘇山は移動した:2007/08/15(水) 15:17:08
最初のほうがいいのですが、おわりに神みたいな名が
でてくると?????

前にも書いたとおり、何故、古事記があるか。
なぜ、古事記は33代で終わってるのかの説明が先。

森さんが専門家ですか?東○の放射式の説、正しい
と思いますか?専門家なのですが、レベル低いと
思いませんか?肩書きでなく、内容検討して判断を。
449太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/15(水) 22:04:33
古神道の見地から、その答えはお前に云った。証明が欲しいならお前もキチンと
正攻法で証明をしろ。
450風のうわさで聞いたけど君はまだ燃えていると:2007/08/15(水) 23:00:57
>>449
誤爆でないならどのレスに対するカキコかアンカーくらいつけてくれ
451阿蘇山は移動した:2007/08/16(木) 19:11:20
おや、ウジムシがまだいるのかな?ここは、トイレではないよ。
452阿蘇山は移動した:2007/08/17(金) 07:20:41
>>449
電波の人は、どんとこいへ、いってください。ウジムシってあなた
ですよ。多分、理解できないでしょうけど。
453太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/17(金) 07:25:17
どうだ33代記紀は実在しないとか抜かしたお前のお笑い論は撤回するのか?
きちんと証明してみろ。w

だいたいお前が呼び出したようなものだろう。あまり大出鱈目を宣伝するな。
454日本@名無史さん:2007/08/17(金) 08:57:57
確かに「奴」という字を指して「と」「な」「の」と色々な読み方をしているのは気になるな
国名に「奴」と付くのが多いのを見ると、「〜の国」を意味する可能性もあるな
彌奴國なんか「美濃国」でぴったりだ
455阿蘇山は移動した:2007/08/18(土) 06:24:04
地名って、美濃国だけでなく、他にもありそうで、、、結論決めて
こじつけてるって、いわれないように。
456日本@名無史さん:2007/08/18(土) 13:02:30
「美濃」って、漢字二文字で国名をつけなさいって言われてからの国名だろ?

昔は濃州(のノ国)だったはず。
457阿蘇山は移動した:2007/08/19(日) 08:15:05
2chのすごいところと、同時に怖いところですね。私も知らなかった。
458日本@名無史さん:2007/08/19(日) 09:52:31
>>456
それ本当?始めて聞いたので、是非、ソースを教えてください。
泥ソースの濃いとこお願い。
何時の時代の誰の命令か教えてもらえると有難い。
ところで、泥ソースって、関西以外で知名度どれくらいやろう?
459日本@名無史さん:2007/08/19(日) 10:35:13
>>456
豊前豊後は「トヨの国」、肥前肥後は「ヒの国」筑前筑後は「チクシの国」ですね
ちょっと思いついたんだが、卑弥呼は実は「ヒの国の巫女」で後を継いだ「トヨ」って
「トヨの国の巫女」のことだったりw
信長云々の伝わり方を考えるとこのくらいのことはありそうだ
460日本@名無史さん:2007/08/19(日) 13:07:48
>>458
ttp://www.geocities.co.jp/NeverLand-Homeroom/2348/timei.htm

全ての旧国名が漢字二文字であるのは、713年、朝廷より”国名は漢字二文字、
そして好字(縁起の良い字)を用いること”という命令が下されたためです

美濃:中に青野・大野・各務野(かがみの)の三つの野、つまり三野があることに由来する。濃州とも呼ばれる。
461阿蘇山は移動した:2007/08/20(月) 06:18:51
>>459
ヒの国説は、私も賛成だな。日でなく火だと思う。阿蘇山の火。
巫女説面白いですね。悪いことしたとき、宗門だったかな、ほろぼすって
あるから宗って同族っていうか、血のつながりがあることを意味します。
宗女は、血のつながりあります。鬼道は、宗教とはかかれてませんね。
462458:2007/08/20(月) 10:15:53
>>460
レス有難う。勉強になりました。
463日本@名無史さん:2007/08/20(月) 17:09:10
阿蘇山の火で火の国から肥の国はまあいい
それがどうなると、佐賀が肥前の国、熊本が肥後の国
になるのかわからない

筑前、筑後は、筑紫(大宰府付近)で分かれているし
豊前、豊後は宇佐付近で分かれている。

肥前、肥後の間にも何かありそうなんだけどみあたらない
464日本@名無史さん:2007/08/20(月) 20:41:22
>>461
宗教なんて言葉は明治に出来た言葉、当時はそんな概念すら無い
465太国(偽物):2007/08/20(月) 20:42:50
>>459
それ、禿げしくガイシュツですよ。
ちなみに私も同じ意見です。
466日本@名無史さん:2007/08/20(月) 20:45:30






                                            .
467阿蘇山は移動した:2007/08/21(火) 07:18:31
なるほど、宗教って言葉、明治ですか。でも、これ、鬼道は、宗教
って考える人多い。まあ、文字は後でも、宗教は昔からあったので
いいのですが、宗女は、鬼道をする人って考える人がおられるのが
問題。
468日本@名無史さん:2007/08/21(火) 07:38:03
魏志倭人伝でわかることは  中国の属国民族じゃぱん


それだけ
469阿蘇山は移動した:2007/08/22(水) 03:52:33
そうですよ。中国の一部になったということです。中国へ、お土産
もっていって、中国の位もらってきたことです。でも、おかげで、
狗奴国との戦闘に魏は、兵をおくってくれた。倭にあふれる魏の兵士。
これで、狗奴国に勝てた。
470日本@名無史さん:2007/08/22(水) 09:30:21
416 :日本@名無史さん:2007/08/21(火) 20:50:43
最近、日本国内外から、海部氏の調査に多く学者がくるらしい。
理由は、日本の皇室の創世記を知るため。
これが明らかになることは、物凄い大発見になるわけだから。

出雲から政権を奪った初代の大和国王は、アマテル(ホアカリ)。
このアマテル(ホアカリ)には、ホノニニギという兄弟が居て、
この系統は、出雲王朝時代に日向に派遣されていたわけだな。
畿内に派遣されたホアカリは大和で勢力を蓄えて、出雲を倒したわけだ。
一方、日向に派遣されたホノニニギの系統は、神武の代まで田舎で大人しくしていた。

しかし、ホアカリの曾孫の代くらいに、執政のナガスネヒコが専横を振るった。
そのために、日向で分家していた神武が、宗家の大和王家(ホアカリ系)を助けるために
大和へ駆けつけたわけだ。それを神武東征という。

その後、祭祀の長がホアカリ系、政事の長がホノニニギ系(神武皇統)が握った。
が、やがて、ホノニニギ系が祭祀の長の座も奪ってしまった。
このへんのことが
日本書紀の欠史八代であり、
魏志倭人伝の 元々は一人の男王→歴年争う→卑弥呼共立
なのであると。
471日本@名無史さん:2007/08/22(水) 09:35:11
>>454 :日本@名無史さん:2007/08/17(金) 08:57:57
>確かに「奴」という字を指して「と」「な」「の」と色々な読み方をしているのは気になるな
>国名に「奴」と付くのが多いのを見ると、「〜の国」を意味する可能性もあるな
>彌奴國なんか「美濃国」でぴったりだ

魏志の書かれた時代は中古音の時代だから
「奴」は「の」と発音しないといけない。
しかし、その解釈がなかなか出来なかった背景は
九州の博多にあったであろう奴国は、どう考えても上古音で
「奴(な)」と読めそうだったから。
しかし、この奴国という名称は、おそらく上古音全盛期だった
57年の金印時代に中国側がつけた漢字名だから
慣習として、那の県を上古音で、「奴国」と呼ぶのが定着していたのだと思う。
472日本@名無史さん:2007/08/22(水) 23:39:08
>>471
> 魏志の書かれた時代は中古音の時代だから

嘘を書かないこと。
473阿蘇山は移動した:2007/08/23(木) 03:50:48
>>470
神話の類は、使用するには、まず、史実か、どうかの検証が
必要です。すくなくとも神話をつかった古代史には説得力は、
まったくないと思ったほうがいいでしょう。
474日本@名無史さん:2007/08/23(木) 07:14:22
>>472
うそじゃありません。
475日本@名無史さん:2007/08/23(木) 08:16:34
中古音は切韻の体系
476阿蘇山は移動した:2007/08/24(金) 08:35:25
発音はわからないな。どちらが、正しいのかな?
477日本@名無史さん:2007/08/24(金) 10:28:08
博多にあった奴国は
57年に中国から国名が出てくるほど交流があり
57年とは高い確率で上古音の時代だから
「なこく」は、上古音で奴が「な」と発音されたために
この漢字名をつけられた可能性が高い。

しかし、この漢字名が慣習化すると
中古音の時代になっても、この上古音の漢字名が慣習化されることは多々ある。
478日本@名無史さん:2007/08/24(金) 15:34:21
>>477ちと意味がとりかねるが、一度「奴」と記録された国名はそのご国名(倭国での)が変化しない限り、中国ではその漢字の音が変化しても
同じ漢字がつまり「奴」がつかわれ続けます。
479日本@名無史さん:2007/08/24(金) 23:12:35
新唐書・東夷伝 日本伝には、
「日本古倭奴也」とあるけど?

「倭奴」ってどこの国?
480すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/24(金) 23:33:11
AD50年頃から吉野ヶ里に都した倭国の代表国です。のちに邪馬台国となりました。
ただ新唐書には誤解による混乱があるようだ。
481日本@名無史さん:2007/08/24(金) 23:57:15
>479
やっぱり、[倭の奴国]の誤りだろうな
482阿蘇山は移動した:2007/08/25(土) 04:46:39
>>479
わたしも、倭の奴国に1票。邪馬台国論争の本の多くは、
奴国をナコクとよんでるけど。これが正しいのでは?
483日本@名無史さん:2007/08/25(土) 08:05:23
奴国は、博多湾沿岸の奴国(那の県)だと思うよ。
吉野ヶ里は、メタ地だから
面土国じゃないのか?
後に漢字の知識が深くなって、意味に忠実な漢字に当てはめて
米多国としたと思われる。
484すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/25(土) 09:05:33
奴をナとよむようになったのは比較的に新しく、戦後の邪馬台国研究のなかからナと読むと
都合がよいとしてナと読むようになったのです。
そうなるとおもしろいものでそれに符牒するようにさまざまな解釈がうまれてきて、いまでは中国の学者までそれに
幻惑されて奴はナと発音すると信じています。
恐ろしいことです。
485日本@名無史さん:2007/08/25(土) 13:52:00
それは、邪馬台国が九州だと言うのを同じことだろ。

邪馬台国は九州だと言い始めたのは江戸時代になってから。

486唐松山:2007/08/25(土) 16:27:13
邪馬台国と書かれるようになったのは、何時からですか?
487日本@名無史さん:2007/08/25(土) 20:33:36
隋書によれば魏志から
488すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/25(土) 23:02:38
237年に魏に貢献をして金印をもらってからです。
その直前までは、邪馬壱国と称していたのですが、金印を貰ったことから、我々は偉大であるとして、
「邪馬のイの国」から「邪馬の大いなるイの国」すなわち邪馬タイ国と称し、魏はそれに邪馬台国という漢字をあてたのです。
つまり魏の時代の途中から国名を変更し魏も似たような字をあてたことから、後世の人は壱は台の間違いと思ったわけです。
489日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:29:17
『宋書』『南斉書』『梁書』『隋書』『旧唐書』が日本(倭)について書かれてある事が滅茶苦茶なのに
なんでそれ以前に書かれた『魏志倭人伝』が正確と言えるんだ
何時までそんなクダラン史書に引きずれらてるんだ?
490日本@名無史さん:2007/08/25(土) 23:41:14
別に無茶苦茶ではないが
491日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:02:13
>>488
何言ってんだか
ソースは?
492日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:03:13
現に倭の五王の名など誰一人特定できんだろ?
493日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:04:26
>>491
だから『魏志倭人伝』に書かれてある事は無茶苦茶だって
494日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:34:11
情報が足りない



無茶苦茶

はまったくちがう
495日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:43:36
491です
魏志倭人伝が無茶苦茶とは全然思ってませんよ
>>488さんに質問してるだけです
496日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:44:29
情報が足りない =「邪馬台国は南」
というのと、
「邪馬台国は、関門海峡を南に抜けてすぐに東に行くべし」
とは、無茶苦茶違う。
497YAP?:2007/08/26(日) 00:49:52
AD57年段階では上古音だから「奴」が、倭人語の音写であるならば、
その音は「な」を写したものである可能性は高い。
問題は、「倭」も「奴」も倭人の語彙を音写したものではなく、
漢語の意味を考えて、あるいはその歴史を踏まえて、与えられた可能性もあることだ。
その場合は、「倭」或いは「委」は歴史的に中国側が、日琉祖語話者に与えていた
種族名であり(その「倭」あるいは「委」が倭人語起源の語彙である可能性は大きいが、
その種族名の起源は紀元前数世紀に遡る可能性が高いだろう)、「奴」は「倭」を
卑しめるために付加されたと考えるべきだろう。

「奴」が倭人語であったとすれば、「な」即ち、満州・ツングース語のnaa等と
同源の「な」(上代日本語「なゐ(地震)」の「な(地)」、その母音交替形が
「の(野)」)だろう。
つまり、「倭奴」は、「倭地」を意味した一般名詞の可能性が高い。
「漢倭奴国王」とは、つまり「漢(に認められた)」「倭奴=倭地(倭人の住む
地域)」の「国王」と解釈可能だ。
そうなると、「倭奴国王」は、別に北部九州に限定されないことになる。

とはいっても、AD57年段階では、筑紫仁いたと思うが。
で、帥升の前後に東征を開始し、大量の生口を得て、後漢に献上したわけだ。
ただし、帥升の攻撃が、東方ではなく、同じ九州の中南部の「東〈魚是〉人」
という、倭人の別種で、会稽郡に献見していた二十余国であるが可能性もある。
後漢への生口大量献上は、後漢に東〈魚是〉人諸国をも併わせた事の報告と
その承認を求めたのだろう。
498日本@名無史さん:2007/08/26(日) 00:56:49
>>497
はっははあwww
失礼
499日本@名無史さん:2007/08/26(日) 01:22:08
>>488
アホかお前
日本書紀を書く時に参考にした
その当時の魏志倭人伝には既に邪馬台国と書かれてあるわボケ!
500ローガン:2007/08/26(日) 01:31:50
>>489
>>492
>>493 魏志倭人伝や漢籍のスレですよ。論拠を云うつもりもないなら、カキコ不要。
501ローガン:2007/08/26(日) 01:35:13
オット!500戴いた!
502日本@名無史さん:2007/08/26(日) 01:38:50
>>501魏志倭人伝や漢籍のスレですよ。論拠を云うつもりもないなら、カキコ不要。
503日本@名無史さん:2007/08/26(日) 02:03:57
>>488
気持ちの悪い妄想を撒き散らさないように。
504日本@名無史さん:2007/08/26(日) 06:35:59
>>487
107年の帥升については、無理に
日本書紀や古事記の内容に当てはめなくても良いように思う。
505阿蘇山は移動した:2007/08/26(日) 07:30:31
奴国を、ナコクと呼ぶことに、学者は、異論すくないような。
確かに学問は多数決では決められないが、発音などの学者も
検討してると思う。その結果がナコクでは。
それらを超える知識の上でのお考えならいいのですが、、、
魏志と日本書紀同列に考えないように。ここは、魏志中心で。
506すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/26(日) 09:11:26
>>503ややこしい解釈であるが、最も合理的にして真実に限りなく近い、というよりも真実です。
>>504倭面土国については、著名な学者さんも糸島郡に存在したといっています。(日本の歴史 中央公論社刊だったかな?)
となると、天孫降臨地糸島郡福岡市西区説からすると、倭面土国はニニギノ命の国と考えられます。
記の登場人物のなかで帥升(シュセン)に似た人物を捜すと、ニニギノ命の子のホスセリノ命があげられます。
スセリの命の年代を計算すると、帥升の時代と重なります。
よって、これに対抗する説がない限り(ないと思う)記の内容にあてはまります。
507日本@名無史さん:2007/08/26(日) 09:27:13
>>506
著名な学者って、誰だよ?
面土国は、米多国のことだろう?
その解釈は間違いだわな。
508日本@名無史さん:2007/08/26(日) 09:29:03
>>506
おまえさ、それは、アマチュアの歴史愛好家の話だろう?
著名な学者って、ピンからキリまである。
509日本@名無史さん:2007/08/26(日) 09:32:52
相撲原x2さんは昔から大量に書き込みをしているが、1度も人を納得
させる意見を言った事が無い気がする。
人ごとながら非常に心配である
510すみれの花のような ぼくの友達 実はサガミハラハラ :2007/08/26(日) 10:16:48
日本の歴史1 神話から歴史へ 井上光貞著 昭和40年発行 中央公論社刊 p195に、
わたくしは、『東洋史上よりみたる日本上古史研究』という大著を書かれた橋本増吉が、「面土」をmetuiaと読み、面土国は糸島半島の西にある東松浦半島のあたりだとした説に魅力を感じる。
とあります。
糸島郡より西よりではあるが、海峡に面していることには違いはない。
511日本@名無史さん:2007/08/26(日) 11:11:54
ニニギとか神話の神様を平気で書いてるあたりで何の説得力もない。
512阿蘇山は移動した:2007/08/27(月) 08:26:18
面土国は、情報が少なすぎる。金印の奴国や、卑弥呼時代の
伊都国などが北部九州だから、面土国も北部九州だとは、
思うけど、断定は危険。
513阿蘇山は移動した:2007/08/28(火) 11:45:17
やはり、魏志読んで邪馬台国論ずるのが、資料も豊富でいい。
面土国は、結論だせない。資料すくなくて。
514日本@名無史さん:2007/08/28(火) 20:24:53
倭面土をヤマトと読む可能性も有るしな
515夏を愛する人は 心強き人 実はサガミハラハラ:2007/08/28(火) 22:24:56
倭は当時ヰと発音していた。面はメン。土はドであってナではない。よってヰメンドである。
やまとに転訛することはない。
1世紀では倭面奴国となっていたはずであるが、この時代もしくは通訳はトよりドと発音したらしい。
516夏を愛する人は 心強き人 実はサガミハラハラ:2007/08/28(火) 22:32:25
訂正 1世紀では倭面奴国となっていたはずであるがを1世紀なら倭面奴国と記されたはずであるがに訂正いたします。
517日本@名無史さん:2007/08/29(水) 01:25:00
>>506

天孫降臨の地を玄界灘と考えるのは、まったく見当違い。

玄界灘の守り神は宗像三女神で、アマテラスとは別系統であり、スサノオに近い。
どう説明するつもりかな?
518阿蘇山は移動した:2007/08/29(水) 03:05:26
倭面奴国ですか?深入りはさけたほうがいいのでは。肯定も否定も
できないからな。
519夏を愛する人は 心強き人 実はサガミハラハラ:2007/08/29(水) 10:09:08
天照大神はあそこはもともと高天原のものだといっています。
そして大国主の命に国を返せといっています。
520夏を愛する人は 心強き人 実はサガミハラハラ:2007/08/29(水) 10:14:26
深入りもなにも、倭面土国は外国資料と記紀をつなぐきわめて重要な国です。
これからの古代史研究はこの国を中心として進められるでしょう。
521警告:2007/08/29(水) 10:30:47
>>サガミハラハラ君
無断で歌詞を継続的に利用すると、著作権法違反になります。
次にみかけたら、法的処分をとります。
522日本@名無史さん:2007/08/29(水) 11:12:22
>>475
>中古音は切韻の体系

《切韻》に完本なく、残巻が伝わるだけ。
《倭名類聚抄》が引用したのは《唐韻》だ罠。
実質的には《廣韻》を指して《切韻》体系と呼んでいる。
以後《廣韻》と呼ぶように。
523夏を愛する人は 心強き人 実はサガミハラハラ:2007/08/29(水) 11:21:09
そろそろこちらもあきてきたので、やめる事にします。
524サガミハラハラ:2007/08/29(水) 11:23:12
といいながら、消し忘れてしまった。ごめんなさい。
525サガミハラハラ:2007/08/29(水) 23:34:45
倭面土国をイメンド国と読み、博多湾から糸島郡にかけてと場所を特定することにより、
古代史は全く新しい局面を開くことになります。
それは永い間無視否定されてきた記紀の復活であり、日本の歴史の再生でもあるのです。
526九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/30(木) 00:15:19
倭面土国はイメント国じゃないの?
米多国(メタ)= 面土国(メト)
527阿蘇山は移動した:2007/08/30(木) 04:23:47
記紀と関係あるのですか。記紀は、712,720年完成。はたして、
そんな古いとこがわかるかな?邪馬台国でも、神功皇后と、矛盾
してるみたいですが。トヨなどがでてきてない。
528日本@名無史さん:2007/08/30(木) 16:05:49
>>527
上古代の日本は春秋暦といって、
半年で一年と計算して考えていた。
その上で計算している。
529日本@名無史さん:2007/08/30(木) 16:17:35
>>514 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 20:24:53
>倭面土をヤマトと読む可能性も有るしな

絶対に読めない。漢文の専門家から見たら。
530阿蘇山は移動した:2007/08/31(金) 04:49:29
>>528
日本書紀をしんじないのですか?紀元前660年に神武天皇即位
ですよ。これはでたらめで、でも正しいのですか?どこまでが、
2年暦で、なぜ、そのような、暦がつかわれたのですか?
ただ、年号あわせにつくりだした暦の気がしますが。
日本書紀をいじってはダメです。正しいか、間違ってるかの
選択しかありません。正しいなら全部正しいとしないと
いけません。都合のより、これがただしい。これは創り話では、
学問ではありません。
531日本@名無史さん:2007/08/31(金) 16:48:56
>>530
春秋暦というのは、もう
かなり言い尽くされてきたことだが...
532日本@名無史さん:2007/08/31(金) 19:00:28
>>531
春秋暦という言葉だけで、

どうして春秋で2年と数えたと思えるのだろう?

春夏秋冬で1年と数える中国に対して、
日本では春秋で1年と数えた=春秋暦という解釈しかできないわけだが。
533昔々:2007/08/31(金) 19:22:21
>>572
いや
むしろ、当時の日本には一年というスパンは必要なかった。
春種を蒔き、秋収穫する行為だけが重要で、一年で区切る必要性がない。
534日本@名無史さん:2007/08/31(金) 19:43:58
>>533

寝言はよせ。
535日本@名無史さん:2007/08/31(金) 19:53:19
中国は一年と言うスパンが必要な根拠と、
日本には必要がなかった根拠を提示しろ
536日本@名無史さん:2007/08/31(金) 21:53:39
>>575

めんどくさいから自分で考えてくれ
同じ時系列で考えれば解る。

俺は『荒らし』だそうだからソロソロ消えます。


じゃぁっ
また何時の日かお会い出来る時まで
537日本@名無史さん:2007/08/31(金) 22:05:37
そんなもんか
考古学なんて
結局想像を定説のように言うだけ
538日本@名無史さん:2007/08/31(金) 22:07:07
考古学じゃないよ。
二倍暦なんて言ってるのはデムパの人。
539太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/08/31(金) 22:13:07
>>538
フフン!大きなことを言ってるな。
それなら仁徳以前の超長寿の記録を具体的に説明してみろ。
紀の舎人もデンパでおわりか〜? 
540プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/08/31(金) 23:20:52
>>539
太国さんお久しぶりです。暑さ負けしていませんか?

久しぶりに書き込みしたので挨拶をと・・・・


ではまたの日を
541阿蘇山は移動した:2007/09/01(土) 07:59:15
日本書紀は、全巻春秋暦ならいいのですが。都合のよいときだけ
使うのが、よくないと言ってるのですよ。この意味わかりますか?
542太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/01(土) 09:02:19
>>540 プラムさん
お久しぶりですね。再度日本史板で活躍されるのを期待しております。
夏バテの状態です。貴殿もお体を御自愛下さい。
543日本@名無史さん:2007/09/01(土) 12:22:49
都合のよいときとはどういう時でしょうか。
具体的箇所をあげていただけたらありがたいです。
544日本@名無史さん:2007/09/01(土) 20:16:44
>>533
引きこもりの異常性が如実に表れているな。
545阿蘇山は移動した:2007/09/02(日) 06:30:35
都合のよいとき:日本書紀が神話から持統天皇まで、すべて、
春秋暦だというならそれはそれで説になります。しかし、一部
だけその暦を使うのは、学問ではないということです。
546日本@名無史さん:2007/09/02(日) 09:08:52
一部だけといっても、安康天皇以前が春秋暦とはっきりとわかれていますが、
それが都合というなら全篇春秋暦でもなにかの都合によりとなるでしょう。
547太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/02(日) 10:05:30
暦法は幾度も取り替えてますよ。最初から最後までおんなじ暦法ではないです。
548阿蘇山は移動した:2007/09/03(月) 05:42:18
はっきりわかっているとか、暦を取り替えるって、どこに、どうして変えたか
の証明をしてもらいたい。
549太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 07:29:38
>>548
なんでお前はとたんに執拗に証拠証拠というのか? ならばお前も>>546を証明
したらどうだ? お前のほうが先ではないか、だからこの野郎と相手に思われ
るんだ。近代でも太陰暦→太陽暦へ取り替ってるし、そんなことが
古代にあってもおかしくはない。裁判制度も今度変わるし、金だって両から円
へ替るし、替るのはおかしくはない。
古代は倍暦を行使しており今は倍暦はやっていない。文証がある。
見てみろ、これを ↓ 1ヶ月が1〜14日までの前半しかない。倍暦だからだ。

【欠史八代の立太子即位崩御葬儀日数表】
   立太子 即位 崩御 葬儀
綏 3日 8日 10日 11日
安寧 7日 3日 6日 1日
懿徳 1日 4日 8日 13日 
孝昭 12日 9日 5日 14日
孝安 14日 7日 9日 13日
孝靈 5日 12日 8日 6日
孝元 1日 14日 2日 6日
開化 14日 12日 9日 3日
 
550太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 07:42:00
>>548
>>549は紀の文だ。単なる神話だとかお前はぬかすかも知れぬが、仮にそう
でも15日以降がまるで無なのは当時の暦法の一端が現出してるという事になる。

いい加減だという神話だけならまんべんなく1〜30日まで日数が分散して記載
されて来るはずだ。ところがそうなっていない。月の後半が無い。

つまり当時のカレンダーは ↓ のとおりだということだ。これは現今と違う。

日 月 火 水 木 金 土
     1 2 3 4  5
6 7  8 9 10 11  12
13  14

それでも否定するなら、なぜ15〜30日が記述に無いのか【証拠】を出して
説明しろ。
551太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/03(月) 10:35:44
>>549 訂正
 >>546ではなく、>>545です。
阿蘇は移動した氏はこの>>545の、一部だけ春秋暦を使うのは学問ではないと
いうことの証拠を見せてもらいたい。
552日本@名無史さん:2007/09/04(火) 01:50:03
>>549
「記録がいい加減なせいで数字がおかしくなっているだけ」だろ。
倭人伝をちゃんと読めば、そんな奇妙な暦など使っていなかったことは分かる。
553阿蘇山は移動した:2007/09/04(火) 05:56:49
太国誰がここに書きていいって言った。おまえは、くるなって言っただろ。
あんたは天才だからどんとこいへいけといっただろ。何度
言えばわかるんだ。
554日本@名無史さん:2007/09/04(火) 08:18:15
雨季と乾季しかないところとかなら、わからんでもないが、
四季のある日本で2倍暦なんてありえんわな
555太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 09:32:18
>>554
じゃぁ>>549はどう説明するのか? 死亡月日は数字の移動説は困難だぜ。

阿蘇は移動した氏が煙ったがってるから、他へ行ってやってもいいが、
ここんところは看過できないのさ。奴は自分の証拠はいつも出ない、いい加減な
野郎なわけさ。w もともとこやつがちょいちょい余を読んでるわけだがね。
他人への証拠の要求は物もらいのようにすごくうるさい奴。
556日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:01:01
倍暦に限らず、文献に記載がないことと存在しないことは、等価じゃないです。
だから>>549の表に15日以降の数字が無いからといって、
月の後半が存在しなかったという証明にはなりません。
それは論理が飛躍しすぎています。
存在しないことの証明は、いわゆる「悪魔の証明」というやつだから、
そんなに簡単にはいかんと思います。

倍暦にすると超長寿の天皇の記録が説明できるというのが、
一つの根拠になっているみたいだけど、
そう考えると説明できるというのは仮説として成り立つということに過ぎません。
説明できることは魅力的ではありますが、それ自体が仮説の正しさの証明にはなりません。
つまり、説明できるということは必要条件であって充分条件ではないです。

魏略曰:其俗不知正歳四節,但計春耕秋收為年紀.
この記述が、倍暦のもう一つの根拠のように言われているようです。
「正歳」を大漢和で引くと、「夏暦の正月」とあり「周礼」天官・小宰の以下の注が引かれています。
「正歳とは、夏(か)の正月の、四時の正しきを得るを謂う」(四時=四節)
つまり、正歳四節とは、暦法のことを指しており、「其俗不知正歳四節」とは、
学問としての暦法を知らなかったということで、「但計春耕秋收為年紀」とは、
春に種まきをし秋に収穫するといった、農業の作業工程が暦の代わりだったということです。
「春秋」という言葉が、「春秋に富む」のように使われ、
「春秋」だけで一年を表すのは、ごく普通の用法です。
だから、「但計春耕秋收為年紀」を見て、春から秋までが一年だったというのは誤読だと思います。
※夏暦や夏正については、Wikipediaの中国暦の説明などを参考にしてください。

私自身、日本史の知識はあまり無いので、倍暦があったかどうかは判断できません。
ただ、少なくとも、証拠として挙げられている上記の論拠は、証明になっていないと思います。
ですので、倍暦を主張される方は、もっと強力な論証が必要だと思っております。
557日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:01:47
連投すみません。

>>533
>むしろ、当時の日本には一年というスパンは必要なかった。
>春種を蒔き、秋収穫する行為だけが重要で、一年で区切る必要性がない。

一回種まきをして、次に種まきをするまでの間は、一年のスパンでしょう。
一回冬が来て、次に冬が来るまで、やはり一年のスパンでしょう。
農作業は、やはり一年のスパンで考えます。
春夏秋冬がワンセットの方が自然だと思います。
558日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:36:21
>>597

一年というスパンが必要なのはだれかな?

それを先ず考えようよ。
559日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:41:59
>>597

政治的な話しと、百姓をごちゃまぜに考えちゃダメだよ。
560日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:48:45
それに『春夏秋冬』で一年じゃなく、一年の中に『春夏秋冬』が有るんだよ
これも大事な事。
561太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 13:39:41
>>556
お前の言う都合論を不可避の不合理で減殺しよう。

お前がそういう大きなことを言うのは分からんわけでもないが、死亡日が全部
月上旬になるのかね? 一歩ゆるめて月前半の1〜14日に朝廷の都合で死亡日
(>>549)が集まるものなのかね?これはお前が何を言おうと自然界でこんなこと
の起こる確率は0に近いんだよ。紀が出鱈目ならなおさら隠匿のために死亡日
を月全体に分散させて誤魔化し記述をするだろう。だから出鱈目とは考えにくい。

それでもお前の主張も嘘ではない個所がある。月後半が記載が無くても後代の
天皇世では確かにそれがあった。月後半を忌み日凶日で活動をせずに過ごし
たようで、記述が無くても後半の日があった時代がどうもあったようなのだ。

であれど欠史八代は死亡日が月前半しかないことが8代も続くなどということは
考えにくく、お前の言う月後半の記述がなくても事実その後半日があったとは
この時代に関しては言えない。それとも天皇は2度も死ぬのかね?ww それとも
天皇は8代も自殺したり暗殺されたりするものなのか? そうならお前の主張は
いやでも通るがね。月前半で殺害すれば確かに死亡日はそっちに集まるからな。

「008は二度死ぬ」のか〜?ww
562556:2007/09/04(火) 15:37:18
ちなみに、上の方で都合論云々と言っていた人と私は別人です。
もう一つちなみに、私は、倍暦は仮説としては尊重していますが、仮説の域を出ていないなと思っています。

30日の内、1日から15日の間に死亡する確率を1/2と考えると、
8代連続で1日から15日の間に死亡する確率は1/2の8乗で1/256つまり0.33%
確率的に考えれば、非常に蓋然性が低い。しかし、0ではない。
コインを8回振って裏表のどちらが出るかに置き換えて考えてみよう。
コインを8回振るという試行を何百回と繰り返していけば、0.33%という数字は限りなく真実に近づいていく。
ところが、欠史八代という事象は1回しか起こっていない。
一発勝負でコインを8回振ったときに、全部が表あるいは裏という現象は、
自然界ではありうることなのです。その場合の結果は、0.33%ではなく、0か1かです。
つまり、0.33%という数字は、試行の回数が多いほど、その値に近づくという意味に過ぎず、
一発勝負の試行で、その現象が起こることをなんら妨げるものではないのです。
ですから、確率が0で無い以上、月の後半が存在しないという証明にはならないのです。
「ある事実・現象が全くない(なかった)」ことの証明が困難で、悪魔の証明と言われる所以です。


>>558
一年のスパンを必要としているのは、農作業をしている農民です。
もし、農業とは別に政治的に半年のスパンの暦が必要だったと仰るのなら、
それは農業とは直接的には関わらないことになります。
ならば、「春種を蒔き、秋収穫する行為だけが重要」ということを根拠にするのは矛盾でしょう。
農作業が重要で、それを元に暦が作られるのなら、
農作業に必要なスパンに基づくと考えるのが自然ではないでしょうか。
倍暦というなら、種まき・収穫より、年越しと夏越の祓いのほうが、まだ関連がありそうな気がします。
まあ、それも良くはわかりませんが。
563日本@名無史さん:2007/09/04(火) 15:43:35
百姓に一年などとする概念は必要ない。
必要なのは、春、桜の花が種蒔きの頃合いを報せ、秋、黄金色が収穫をしらせる。

この繰り返しが死ぬまで続く。
支配される百姓には、今日が何月何日かなど関係ないし
年月日が必要なのは支配する側。
毎年毎年同じ日にちに、その年の租税を集める。
564日本@名無史さん:2007/09/04(火) 15:54:59
>>563
つまり、それが「其俗不知正歳四節,但計春耕秋收為年紀.」ということなんですね。
「あいつら暦も持たず、花が咲いたら種をまいて、実ったら収穫しているだけの未開人だ」と。
魏略の編者からしたら、倭の人間なんて、支配者も被支配者もみな野蛮人に過ぎません。
それが、朝貢に来て中国の暦を押戴いて帰ると、殊勝な奴じゃということで冊封されます。
565太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 16:41:31
>>562
刑事裁判とか数学の証明級の厳密さはこの際必要はない。
そんなんなら現今の古代史学説は証明が完璧なのは皆無に近いことになろう。
要するに古代史に関してはどんな論でも成立しますというのが、遠回しに
言えばお前の論だということになる。そんなことやってたら1000年だって
古代史の真実は亀の進行より遅いということになる。
そんな少ない確率の理屈のほうに支持するようなのはヘソ曲がりのお前とか、
同論者か経験してないことは無いと決めこむ猜疑の強い者しかいないことに
なる。後者が一番否定者で多いとは思うがね。欠史八代の死とは8回起こって
るんだよ。くらましの出鱈目理屈など出すな。通常で自然死が連続で8回も
上旬になるわけがない。
566日本@名無史さん:2007/09/04(火) 17:46:14
>>549のような、「サンプル」から、倍暦の存在を「仮定」することは出来る。
しかし、倍暦の「証明」を「サンプル」を用いてすることは出来ないのだよ。

太国の論は、「倍暦の証拠がある」=「倍暦は存在する」というもの。
これを循環論法という。

倍暦を証明するためには、倍暦の存在によって導かれる別の「予想」を立てて、
「予想」が事実であると確認できること必要。

例えば、日本書記のある人物の死亡年が、別の史書の同じ人物の死亡年と違う場合、
倍暦計算でピタリと一致するような事例が、多く見つかればいい。
相手に反論する前に、事例を列挙したほうが自説の正しさの証明になる。
567日本@名無史さん:2007/09/04(火) 18:31:56
>>565
古代史学説が、数学的厳密さで証明できるはずがないことは、仰るとおりです。
だから、蓋然性の高い証拠を複数組み合わせることが必要だと考えます。

上記3つの根拠のうち、超長寿の話と魏略の記述は、上述の通り全く証拠にならないと思いますが、
欠史八代の崩御の日付は、かなり有力だと考えています。
しかし、「自然死が連続で8回も上旬になるわけがない」というところが主観的判断で、弱点になっています。
本当にそうだった可能性が、否定しきれないからです。8人という数字では、どうしても少なすぎます。

そこで、同程度に確からしい証拠が、あと2つ3つあれば、「自然死が連続で8回も上旬になる」ような偶然が
3つも4つも重なるという方が圧倒的に無理があると判断できるので、主観的判断という弱点が補強されます。
>>566さんの言われるような「予想」の検証も、確認できれば有力な証拠になりますね。
そうすれば、倍暦の存在は否定しがたいものになります。
倍暦論者の方々には、そういう論証をしていただきたいなと思っております。

1000年たっても真実にたどり着けないとしても、主観的な判断による間違いを犯さない方が良いというのが
科学の手法なので仕方ありません。
宗教の場合、逆に主観的体験で真実を掴み取ることが大切なのでしょうが、
それだけに、間違いを犯さぬために、師匠の指導というのがとても大切なのでしょう。
禅宗が、師匠の印可証明を大切にする所以ではないかと思います。
’(今は形骸化しているかもしれませんが。)
568太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 19:02:03
>>566
お前は選手の論法で論じればいいことなんだよ。何も審判をお前が兼ねて戦いに
やって来る必要はない。つまりお前は選手兼審判論法なわけだ。
自分で選手でやって来ながら審判の採点を自分でして採点を武器にシテ来るよう
なマネは止めるんだな。

>>567
1000年をかかる道を選ぶならお前の論説は死ぬまで証明は出来ないね。ソレで
いいわけだ。w

さっきも言ったが古代史の証明は刑事裁判、数学論くらいの厳密さはいらんよ。
それでもそうしろというなら、現今古代史の通説は総崩れだよ。反面、遠回しに
どんな滅茶苦茶説でも力をつけ成立たせてしまう逆効果を生む。

じゃぁどうだ8人で不足だというが、数字だけなら神武から仲哀まで全部月前半
の死亡だぜ。かようにあと3つ4つあるでないか。これで満足かね?
そんなに死亡が左半分に集まるのかね。
8人で少な【すぎる】とは容易にあるいは通常で起こりうるということかね?
具体的に説明しなよ。説明できないならお前が恣意的に少ないと否定に回るため
の口実よ。
569日本@名無史さん:2007/09/04(火) 19:21:13
物事の正しさの証明には、演繹法と帰納法というものがありましてね。

太国はどうも、演繹法で倍暦証明をしようとしてるところが、
反発を買ってるわけですよ。

古代に倍暦は存在する→記紀には倍暦が使われた証拠がある→だから記紀には倍暦が使われた

これじゃ、ダメなんです。
演繹法で使える前提は、「暦法が現代と違う」という部分だけであって、
「倍暦」というシステムの存在の証明には使えません。

より多くの事例を列挙して、「倍暦があった可能性が高い」と、
帰納法によって結論付けるしかないわけです。

太国への批判ではなく、助言ってやつですよ。

570太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 20:36:47
>>569
そこまで出来ていれば臥海行きさ。ここでは否定するやつを崩せばいい
だけのことだ。お前はま〜だ採点を武器にしてどうのこうの抜かしているが、
そんなのは無しで選手のつもりで遣って来い。新派の採点が選手の武器では
相手の選手が負けるに決まっている。ふざけるな。

なにも学術用語みたいなものをチラつかせて主導権を取ったようなマネは
やめるんだな。そんな審判法でなく、正攻法のやりかたで反対意見を述べ
るなら述べたらどうだ? 今回は選手が兼審判だというより、審判が選手と
なって採点をしているようで、お前小ずるいぞ。
571太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 20:40:06
>>570 訂正
×遣って来い   ○やってこい
×新派       ○審判
572横槍:2007/09/04(火) 21:00:16
俺は2倍暦はあったと考えている
例えば、允恭の在位や孝元の寿命が、書紀が古事記の調度2倍になっていたり
するからだ。倭人伝の記事も2倍暦の事を言っているようにも読める。
しかし3倍暦は無い。
論拠が無いので単なる思いつき、ご都合主義、と誰もが思う。
573太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 22:13:40
>>572
あんたはそういうがね、小中高校だって一年は1学期2学期3学期の三分
ですよ。これをあんたは信じないのかね? それともうちらのときだけかね?
今はそうでないのかい?

欠史八代の死亡日は全部1〜10日までの30日間の1/3だよ。11〜14日の死亡は
ないんだよ。即位日等では14日とかあるがね。なんでこんなに綺麗に1/3なの
かね? 3倍暦をやっていた小さい論拠なんだよ。それに神武即位〜崩御までも
1月〜4月までの記載しかなく、これも1年の丁度1/3だぜ。ところが即位前と崩御
直後は4月を越えた記述が紀にあるのだ。つまり神武在位中は3倍暦を行使して
いた可能性が相当あるが、その前後は暦法を変えているという事になりうる。

なぜ欠損させたかというと、おそらく畿内で一戦交え、この時五瀬命が戦死した
いることから神武は相当のショックを感じてたようだ? この事から5月以降を
喪の意味もあってか無と為し、1年を4月で終了させたと想える。さらに高天原
の五月蝿なす状態を嫌うために5月以後の使用を取りやめたものだもと云える。
方位において五黄殺が凶なるごとくだな。
574横槍:2007/09/04(火) 23:11:53
>欠史八代の死亡日は全部1〜10日までの30日間の1/3だよ。11〜14日の死亡は
>ないんだよ。即位日等では14日とかあるがね。

死亡日の正確なデータが残っていたとは考えにくいだろ。
恐らく葬式の行なわれた日付。満月の日は避けたのかもしれない。
冠婚葬祭の式目が歴史編纂の主要な資料になったと俺は考えている。
575太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/04(火) 23:14:46
>>572 2段目
允恭の在位と孝元の寿命の件を年数、数字で説明されたい。
576横槍:2007/09/04(火) 23:34:34
すみません
允恭の件はなんか勘違いしたかも知しれません。
もう一度見直します。
577日本@名無史さん:2007/09/05(水) 00:25:42
太陰暦であれば、月の満ち欠けで吉日かどうかを判断していたことはあるだろうな。

月後半は、月が欠けていくわけだから、それを忌み嫌って、
月前半の日付につけなおしたことはありうる。
578阿蘇山は移動した:2007/09/05(水) 03:44:58
>>556
さんが一番まともにみえるな。ここは、
日本書紀はサブ。魏志がメイン。話は、魏志中心に。
579太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/05(水) 07:42:05
春秋暦から軌道が外れて倍暦の話に重点が行き過ぎたので、阿蘇は移動した氏に
迷惑となるからここで止めることにしたい。最後に言うが、
>>574
葬儀は日付の変動が可能だが、自然死の場合は変更はできない。冠婚葬祭は
人間の決めることだから容易に日付の変更は可能である。死亡は自殺とか暗殺
とかでない限り月前半に全員が8人死ぬとかは考えにくい。
>>577の説は少し可能性がありそれを拙者も以前から考えていたが、忌み嫌う
人間の死亡を半月前の若い数字の日にもっていくということはこれも考え
にくく、逆に月後半に忌み嫌って数字をもって行ったことは少々考えられ
るであろう。仁徳紀の記述でこの数字を引っ張っような形跡を見つけている。

後段は説明が分かりにくかったかも知れぬが、要するにたとえば5日の死ん
だのを忌み嫌って半月後の20日とかにもって行くことはありうることであり、
丁度午後2時を14時の記述に変え12数増加しても意味は同じであるように
数字の取替えはありうるが、死の20日から逆に、およそ人の死亡を若い数字の
5日に変更するなどということはちょっと考えにくい。これが通るなら古代史
のどな日付もくるくる取り替えたという論理がまかり通るわけで、極端には
年数もそうやったという暴論もうんと云わざるを得なくなる。だから日付の
変更論は充分注意が必要と思う。
日付が正確でないと云っているが、当時新しい干支をもって逆算記述をして
日付が左半分に寄っていることは相当正確だという名残り、証跡と思える。
正確でないと思える場合は月の30日全体に日数が分散した記述となってる筈
だ。しかし左に片寄ってることは相当正確であると観ている。ただ大陸文献
の不整合でその有関係個所は誤りが多分にある。暦法が日本と違ったからだ。
580横槍:2007/09/05(水) 20:48:05
>>579
2倍暦の説明にはなっても、3倍暦の説明にはなっていませんね
581太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/05(水) 20:52:51
>>580
ここは魏志倭人伝のスレのため倍暦のスレで論をしましょう。
阿蘇は移動した氏からスレの移動を求められています。
3倍暦の説明はすでに倍暦の過去スレに書きこんであります。
582YAP?:2007/09/05(水) 22:33:07
東北アジアの狩猟漁撈民で、生業の関係で、一年2歳の暦法に従っている民族が存在するわけだから、
倭人が、その故地から、そのような暦法を持ち込んだとしたら、春秋暦というか、2倍年暦は
十分ありえる話だろう。

北海道のアイヌの伝承にも「夏の年、冬の年」と言う表現があり、本来は、1年を、
二歳に分けていた可能性が窺える。

要するに、定住生活であるが生業の必要上、「夏の家」と「冬の家」を別々に設ける習俗のあった民族が、
仮に、農耕を生業として受け入れた場合、夏・冬の一年二歳を変形させて、「春秋」の一年二歳に
変わったのではないだろうか。
583日本@名無史さん:2007/09/05(水) 22:52:23
>>582

春夏秋冬が一年じゃなく、一年の中に春夏秋冬があります。
一年という単位が必要なのは支配層
支配される立場の人には一年と言う単位は必要ありません。
支配される立場の人は、桜の花が咲いたら種を蒔き、黄金色に色づいたら収穫する行為を
死ぬまで続けるだけだから、年月日などは不要なのです。

百姓の習慣と行政をごちゃ混ぜに考えてはいけませんよ
584日本@名無史さん:2007/09/05(水) 22:55:25
味噌と糞を遠くから眺めただけで同じ土俵の上にあげてはいけません。
時々近づいて、よく吟味しなければいけません。
585太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/05(水) 22:57:49
どっちが糞なんだろう?
586日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:41:53

>>585


さぁ?
どっちなんでしょう?


遠くから見ると同じように見えちゃうんですよね
587日本@名無史さん:2007/09/06(木) 00:06:30
>>582

>東北アジアの狩猟漁撈民で、生業の関係で、一年2歳の暦法に従っている民族が存在するわけだから、

平気でデタラメを言うやつだな。
東北アジアの狩猟漁撈民とやらのソースを出してもらおうか。
588日本@名無史さん:2007/09/06(木) 01:29:53
>支配される立場の人には一年と言う単位は必要ありません。
アフォか。農業生産活動従事者にこそ必要なんだよ。

>百姓の習慣と行政をごちゃ混ぜに考えてはいけませんよ
混ぜてるのはお前だよ。より自然に密着した生活をしてるのは
どっちかよく考えてみろ。
だいたい物事の循環てのは、起点から始まって再び同じ状況に
戻ったら次の起点が始まるんだよ。隔年ごとなんてややこしくて
暦の意味がねえよ。
589阿蘇山は移動した:2007/09/06(木) 05:28:58
暦:日本書紀から古代を考えるのはどうかな?日本書紀で、魏志を
解読する人多いけど、逆では?
魏志に引用の魏略に春たがやし、秋収穫だったかな?これの、春が
1年に2回あるっていわれてもな、、、
590日本@名無史さん:2007/09/06(木) 07:41:21
>>588
頭の中の百姓はしないこと。自分で苗植えて稲刈ってみなよ



稲の起点は稲刈り
591日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:13:38
はあ〜。
592日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:26:29
>>588
いいかい
話しを中学生の日本史レベルにあげて話しするよ。


百姓に必要なものは『節』であって、決して一年などという数値じゃないんだよ。
数値が必要なのは
支配する立場にある行政なんだよ
だから必ず度量衡の数値を支配しようとするだろう。

数字を支配するのは百姓じゃないのさ
百姓は、節が解ればそれで十分事足りるわけ


一年という数値は行政が支配した数値だよ
だから、政治的な一年と、節の一回りを同じ土俵で考える事は。ナンセンス
593太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 10:13:23
出来た米は升様な物で量ったろう? 数字はやはり百姓も必要だろ?
でないと1斗も2斗も同じにされちゃう。
594日本@名無史さん:2007/09/06(木) 11:44:44
>支配される百姓には、今日が何月何日かなど関係ないし
>年月日が必要なのは支配する側。
>毎年毎年同じ日にちに、その年の租税を集める。

じゃあ、支配される百姓は、何時現れるともしれない税の取立てに、ずっと怯えて暮らしてたの?
それとも、租税を納める準備もせずに、突然現れた役人が、勝手に租税を取っていくのをボーっと見てたの?
支配・被支配は、相関関係なんだから、「何時何時に租税をあつめるぞ」「はい、わかりました」っていう交渉があるでしょ。

節の一回りと政治的な一年が同じでないなら、政治的な一年って何を基準に定められたの?

30日で月が満ち欠けするのに、庶民に日付の概念が無かったの?
電気の照明も無い時代に、何百年もの間、百姓はそれに気付かなかったの?

支配者と被支配者の区別にやけに拘るけど、マルクス主義でもやってたの?
ところで、>>592の人はプラムさんだろう。
595日本@名無史さん:2007/09/06(木) 12:26:42
>>593

太国さんまで〜
貴方もご存じのように、つい先日まで多くの庶民は文盲が当たり前の時代だったんですよ


>>594

租税を集めるのは収穫後だろう
596日本@名無史さん:2007/09/06(木) 12:59:26
>>594

前レスでも言ったように、百姓には百姓の暦があったんだよ
それが『節』

行政の一年は行政がつくり行政の思惑で移動するが、百姓の節は不動のものだよ

>プラムさん

さぁ〜?
通りすがりの流れ者です
597太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/06(木) 14:06:56
>>595
なるほど。だが一斗マス形の一個二個三個くらいの大小とか判別できるだろう?
農具も本数くらいは1〜2本無くなれば気が付くだろう。w
598日本@名無史さん:2007/09/06(木) 14:15:56
>>596
あなたの主張が見えないんですが、その百姓の暦が、春夏と秋冬に分かれていて、
人は春夏と秋冬で二歳、歳を取るということですか?
それとも、今で言う一年の期間で二歳、歳を取ると数える倍暦は、行政上の暦であって
百姓の暦とは無関係ということでしょうか。
599日本@名無史さん:2007/09/06(木) 14:29:00
それから、租税を集めるのは収穫後だろうと言ったって、年だけでなく月日の概念すらなかったら、
収穫後のいつ集めに来るやら解らんでしょう。
結局、何時来るか解らん役人を、怯えて待つか、ボーっと待つかってことになるでしょうが。
600日本@名無史さん:2007/09/06(木) 15:07:44
>>597
勿論数の概念ぐらいは当然あるでしょう。
現に、我が国内だけでも「ひ、ふ、み」や「いち、にぃ、さん」が古くから伝承されていますから。
しかし、
それら数の概念と、(数+単位)は別なレベルの話しです。
単位は学習が下地にあるからです。
つまり度量衡ですね
勿論月日もその範疇ではないでしょうか?

殷暦にしたり夏暦にしたりと
601日本@名無史さん:2007/09/06(木) 15:21:39
>>599

年月日を知らなくても、百姓には不動の暦「節」がありますよ
〇〇節には収税があることをお互いに認知していればいいだけですから
その〇〇節が、行政側の〇月〇日に当たるのかは百姓側は知らなくても影響ありません。

より自然サイクルとマッチングしているのは節ですから
農耕民族におこりうる道理ですね
602日本@名無史さん:2007/09/06(木) 15:22:20
>>599

年月日を知らなくても、百姓には不動の暦「節」がありますよ
〇〇節には収税があることをお互いに認知していればいいだけですから
その〇〇節が、行政側の〇月〇日に当たるのかは百姓側は知らなくても影響ありません。

より自然サイクルとマッチングしているのは節ですから
農耕民族におこりうる道理ですね
603日本@名無史さん:2007/09/06(木) 15:23:39
ダブルレスごめんなさい
604日本@名無史さん:2007/09/06(木) 18:10:28
>>595

>貴方もご存じのように、つい先日まで多くの庶民は文盲が当たり前の時代だったんですよ

日本人の識字率が世界一なのを知らんのか?
605日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:01:25
キチガイの耄碌ジジイの太国は早く死ね!
606日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:06:34
>>598-599

農業というものを全く知らないようだね。
正確な暦を知らないようでは農業は出来ないよ。
弥生時代は弥生時代なりの正確な暦を知っていたからこそ農業ができたんだよ。
縄文時代の遺蹟遺物にも暦があったことを示すものがあれば、
縄文時代にも農業があったといえる。
また、縄文時代の農業遺蹟があれば、そこには暦があったといえる。
607日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:20:47
>>606
>また、縄文時代の農業遺蹟があれば、そこには暦があったといえる。

ばかだなあ。
縄文時代で稲作がされてたとしても、野生種だから、
人間が種まきしたり手入れしなくても勝手に育って勝手に実る。
収穫量は少ないがな。暦を知る必要は無い。
608日本@名無史さん:2007/09/06(木) 20:30:27
>>604さんはたぶん
「先日」という発言に対して過敏に反応したようだ
609日本@名無史さん:2007/09/06(木) 21:02:24
数字で百姓やるようになったのは近代農業
今でも節暦を基本にしてるけど
610日本@名無史さん:2007/09/06(木) 22:20:32
>>609
論点は、三つ。
まず、一つ目は、支配者側と農民側で暦が違うかという点。
これについては、農民が、○○天皇の何年何月と数えていたとは思われないので、
官とは違う農事暦を用いていたことは充分考えられる。
実際、中国でも、皇帝から頒布される正式な暦とは別に、農民は農事暦を用いていたらしい。
別に反対はしない。

二つ目は、農民に一年の概念があったかどうか。
農事暦であっても、春夏秋冬が巡ることは、農民は肌で知っていた。
同じサイクルが循環するなら、例えば元旦のようなサイクルの起点を設けても不思議ではない。
それが、冬至なのか春分なのか春耕なのか秋収なのかは、資料によってしか特定できない。
原始時代には、そんな起点は無かったかもしれないが、百姓も随分昔から正月を祝っているので、
かなり昔にサイクルの起点が設けられたことが解る。
田植え祭りや収穫祭は、そういう起点を意識させるのに充分な行事だと思う。
だから、農耕が充分に発達して、租税を集めるような支配機構が出来上がった社会で
農事暦に起点がまだ設けられていないとは考えにくい。
基点を設ければ、その基点を過ぎるたびに、サイクルが一つ巡ったことがわかる。
これが一年の概念。別に官が制定しなくても、農民は一年を自然に感得していた。
農民に年の概念が無かったなんて、農民を動物扱いしているとしか思えない。

三つ目。
結局、キミは倍暦を肯定するのか否定するのか、それとも判断できないのか。
肯定するなら、倍暦は、官の制定した暦なのか、農事暦なのか。
少なくとも、魏略の「其俗不知正歳四節,但計春耕秋收為年紀.」という記述は、
「あいつら、正式な暦も知らず、農民の経験的な暦しか知らん野蛮なやつらだ」
っていう記述だから、これを倍暦の証拠にするなら、農事暦が倍暦だったということになるが、どう考える。
質問に答えず違う返答をする、安倍首相みたいなプラム節はあいかわらずですねw
611プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/06(木) 22:41:12
>>610

わたしは以前から倍暦否定派ですよ

>一年の概念

『一年』と述べてる段階で既に行政的な考えですよ。
612606:2007/09/06(木) 22:45:32
>>607
>ばかだなあ。
>縄文時代で稲作がされてたとしても、野生種だから、
>人間が種まきしたり手入れしなくても勝手に育って勝手に実る。
>収穫量は少ないがな。暦を知る必要は無い。

だから君は農業について全く知らないといえるのだ。
縄文の陸稲も人間が大陸からわざわざ持ってきた栽培種だよ。
陸稲が海流に乗って自然のままに東北まで流れ着いたと言うのかね。
栽培して収穫するには正確な暦なしではできないよ。
元は野生種の栗でも栽培すれば、できるだけ多くの収穫を望むから、暦が必要となる。
613プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/06(木) 23:04:19
>>610

>農民に年の概念が無かったなんて、農民を動物扱いしているとしか思えない。

ないよ
百姓に年の概念なんて必要ない。
必要なのは、今が『睦』『霞初』『暮新』・・・・・・『春待』『梅初』だとかいう
農業用カレンダー

『また種蒔きの時期が来たな〜』

そのサイクルを一年とするのは別な話
614日本@名無史さん:2007/09/06(木) 23:16:02
>>611
>『一年』と述べてる段階で既に行政的な考えですよ。

太陽信仰だろ?行政ってなに?
615プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/06(木) 23:24:16
>>614

毒されてますな

一「年」というのは単位
単位を司るのは行政ですよ

それとも
太陽信仰が度量衡を司るのかな?
616日本@名無史さん:2007/09/06(木) 23:25:28
百姓とか農事とかいう以前に、人間は、狩猟採集の時代を経験してる。
寒くなれば動物は冬眠するから、食い物が無くなる。
あたたかくなれば、食い物が増える。
暖かい時期、寒い時期が交互に来るのは、太陽の動きと関係することくらいは気がつく。
夏至と冬至が、まず一番先に認知される。

夏至→冬至で1年、冬至→夏至で1年、と数えるか、
夏至→冬至→夏至、冬至→夏至→冬至で1年と数えるか、
当然、後者が1年のサイクルとして認知される。
617日本@名無史さん:2007/09/06(木) 23:30:56
人間は1年中発情するが、動物の発情期は多くは春であり、
動物も人間も、出産は、1年に1度しかない。
出産の時期から、次の出産の時期がきたとき「一つ、歳をとった」ことになる。
1年が、365日なのは、生物学的な事実だ。
618プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/06(木) 23:45:08
稲刈り前に台風で稲が寝ちゃうよ〜

来週稲刈り予定してるのに
619日本@名無史さん:2007/09/06(木) 23:51:18
もう、論破されたか。

620日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:14:53
>>615
頭固いな。現代日本語で、一年という表現しかないから「年」と言っているだけでしょう。
古代中国でも、「年」と言ったり、「歳」と言ったり、「載」と言ったり、王朝によって単位の名称はばらばらだし、
そのサイクルの起点の日だって、王朝ごとに、この日が始まりと勝手に決めている。
そんなのは当たり前で、いま議論しているのは、そんな単位の名称の話ではない。
人間が自然の季節の循環を一まとまりとして認識し、そのサイクルを基本にして生きていただろうと言うこと。
その一まとまりが、例えば春夏と秋冬だったのか、春夏秋冬だったのか、そういう話。
その基本サイクルを何と呼んでいたかなんて、地方ごと、時代ごとに違うだろうから、
そんなことを議論しているんじゃないよ。便宜上、現代日本語で「一年」と言っているに過ぎない。
それなのに、「一年」という言葉に食いついて、それは行政単位にすぎないと言い出すのは、的外れだな。
「年」が行政単位で、人為的に定められた概念だということを知って感動したのかもしれないが、
今の議論とは関係ない。

稲は心配ですね。
今年は、異常に暑かったし、せめて台風は避けて通って欲しいですね。
621日本@名無史さん:2007/09/07(金) 00:30:43
そうそう、>>611のレスありがとう。礼いうの忘れてた。
622プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 07:55:10
>>620
レスを拝読しました。


古代から身分の違いに関係なく、自然の移り変わりがある間隔で繰り返す事を感じていたのは事実でしょうし、当然の事かと
それをサイクルととらえるのは、あくまでも外からの視線で内を見、全体像を眺める行為、決して農業従事者の視点ではありません。農民は常に内からしか物事を判断しません。
先ずは手元にある作物の成育から物事を広げていくからです。
その辺りが支配者側とはまるで違う所であります。
つまり
サイクルは認識していても、決して農民は外からとらえたワイドな括りを設定しないと言うことです。
623日本@名無史さん:2007/09/07(金) 08:09:58
年が無くても節で一定の繰り返しを認識していたのなら、現代の年に相当する概念はあっただろう
624日本@名無史さん:2007/09/07(金) 08:18:51
いやもう、プラムに何言ってもムダ。
625プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 09:35:36
>>623

>だろう


ちょっと待ってよ
こちらとしても実体験に基づく経験をベースに語っているんだから、それに対する反論を「〜だろう」で片付けないでよ。



>>624
直ぐコロコロ変わっちゃうような発言はしないから
626日本@名無史さん:2007/09/07(金) 10:04:33
>>625
農業用カレンダーを主張していたのはプラムだし、農業用カレンダーてのは一年のうちに何時蒔くかとかを
決めるためのものじゃないか
農業用カレンダーがある時点で「年」という単語が無くても、「年という概念」はあるだろ
627日本@名無史さん:2007/09/07(金) 10:06:06
プラムはカレンダーはあるが暦はないとか言い出しそうで困るw
628日本@名無史さん:2007/09/07(金) 10:37:22
>>626

概念なんて後世の人が勝手に当て嵌め、それを云々するものだからな〜っ
リアルで概念なんて考えられないし、
農事カレンダーがあっても、それはその場の目安にしかすぎない。
農事カレンダーにしても同時系列でいきなり全部の節が組み込まれたわけじゃなく、長年に渡りすこしづつ組み込まれただけだから


農事作業者なんて
「また種蒔く時がやってきた」
くらいの感覚だよ

それを「概念」の枠の中に入れられても………?
629プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 10:56:18
一年二倍暦、三倍暦が実在していたのかしていなかったのか?などという答は正直解らない。
仮にそういう暦が実在していたとしても、決してそのこの根拠に農事を当て嵌める事には否定する考えです。
もし、二倍暦・三倍暦を主張される方は他の根拠を模索してください。
農事を根拠に語る場合は私が徹底的に抵抗致します。
630日本@名無史さん:2007/09/07(金) 11:18:20
>>628
> 「また種蒔く時がやってきた」
これこそ一年だと思うが
631プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 11:49:18
>>630

それは今だから言える事で、結果一年と呼べるだけじゃないか?


「また種を蒔く時期がやってきた」は、あくまで「また種を蒔く時期がやってきた」にすぎないんだよ。
632日本@名無史さん:2007/09/07(金) 12:11:54
>>631
だから、一年と言おうが言うまいが現在の一年に相当するって事だろ
それとも言葉遊びがしたいだけか?
普通「アメリカは未だに暦が無い」とか言うか?
633日本@名無史さん:2007/09/07(金) 12:33:45
>>632

時間的に新しい考え方を古いものに当て嵌めちゃダメだよ
それをやったらなんでも当て嵌まっちゃう。


>言葉遊び


そう感じるのは自由だけど、こっちはその気はないよ
634プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 13:01:13
自然を相手とする農事サイクルは当然自然サイクルと合致するし、自然サイクルをもとにした一年とするシステムは、当然自然サイクルに合致する。

だからと言って、農事サイクルを一年サイクルと同一視するのは
時系列的に誤りがある
635日本@名無史さん:2007/09/07(金) 13:05:22
確かに無駄だな
636日本@名無史さん:2007/09/07(金) 13:24:57
>>606

>>607に賛成だな。
縄文時代の稲作に暦なんてない。
春夏秋冬を肌で感じていただけだ。

奈良県北部で縄文時代に稲作がされてた跡が発掘されている。
地質学調査で奈良県北部は湿地帯が多かったことも調査された。
もちろんその遺跡も湿地帯だった。

湿地帯に植えれば人間が手入れしなくても勝手に育って勝手に実る。
中国南部やフィリピンやベトナムの稲作を知っているか?
彼らは1年に3回、種を蒔く。
時期なんか決まっていない。
みんなバラバラだ。
縄文時代の原始的な農業もそんなもんだ。
1年にサイクルがキッチリ決まっているのは日本だけだ。

もちろん日本各地にある「徐福伝説」のように、
中国南部の稲作の発祥地の長江から稲をもって来た中国人がいただろう。
中国南部の稲作もバラバラの時期に植える。
637日本@名無史さん:2007/09/07(金) 13:41:31
>>633
たとえば、家の二人の息子は、兄が生まれてから田植え三回やって弟が生まれた。
そういう状況があったとしよう。
田植え三回分の差でうまれた兄弟。これって、まさに「年齢」の概念でしょ。
「年齢」の概念があって「年」の概念が無いわけないよね。
それとも、自分とこの子供達が、田植え何回分はなれて生まれたかも解らないほど、
農民というのはボーッと生きてるものなのかい。
追記しとくけど、あくまで、「年齢」も「年」も、現代語であって、
昔のの庶民が、どの地方で、どのようにそれらを呼んだかは知らんよ。
638606:2007/09/07(金) 14:30:02
>>636
春夏秋冬があり、梅雨、夏季旱魃、秋の長雨、台風のある日本では、
東南アジアの水稲作のようなことはできないよ。
陸稲作についても同様。

縄文時代の稲作は、たとえ湿地に植えられていたとしても、収量の少ない陸稲だよ。
あたかも水稲であるかのような印象を与えるごまかし表現は避けましょう。
「陸稲」「水稲」と書かないで、「稲作」と書く時点でまともでない。
ごまかしの魂胆が見え見え

縄文時代の温暖期には、西日本は夏季旱魃となる為、陸稲でも湿地に植えざるをえなかった。
陸稲:おかぼ 岡に植える穂
水稲:みずほ 水に植える穂

>日本各地にある「徐福伝説」のように、
>中国南部の稲作の発祥地の長江から稲をもって来た中国人がいただろう。
これは水稲で陸稲ではない、ましてや栽培種で野生種ではない。
下記>>607発言とずれている。
「縄文時代で稲作がされてたとしても、野生種だから、人間が種まきしたり手入れしなくても勝手に育って勝手に実る。」
639プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 15:01:13
>>637

ちょっと待って下さいな


概念なんて当事者はわからないものですよ(気付かない)
後世の第三者が理由付けするだけじゃないの?
後世の人から見ればその行為が概念の誕生に見えても、当事者達も概念を同時に意識できたかは別問題でしょ
640日本@名無史さん:2007/09/07(金) 16:04:58
>>639
わかったような気がする。
普通の人間は、道すがら神社仏閣があっても気にしない。ときには、困ったときの神頼みでお守り買ったりもする。
ところが、偏狭は教義をもった宗教の信者は、神社仏閣の前を通ると、魔除けのおまじないをしないといけない。
(神社には絶対入らないという、キリスト教徒の知り合いが実際にいたんだよ。)

そういう訳で、
一般人が、神社でお守りに頼り、お寺の朱印をありがたがって、十字架のペンダントでお洒落をし、
それを特定宗教の信者が、おぞましいものとして嫌うように、
我々が、日本史の話をするとき、古代に何と呼ばれていたか解らなければ、
「一年」とか「年齢」とか「概念」とか、現代語を援用して議論しているのを
プラムさんは、いわば言語虫言語教の信者だから、それがどうしても許せないんじゃないか。

弥生時代の農民の生活サイクルを、便宜的に一年と呼ぶなんて、
農民はそんな言葉を使っていなかったはずだから許しがたい言語の冒涜だというところでしょうか。
概念なんて言葉は、もってのほかなんでしょうね。
いつも「その言葉は、何時出来たんだ。字意は何だ。言意はなんだ。」とか、
言語虫教に則った考え方しか出来なくなっているので、言語感覚が、一般人とズレすぎて、
仲間内でしか議論できなくなっているのかもしれない。
原理主義をつきつめすぎると、自然な本質が見えなくなるよ。
641プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 16:52:22
>>640
長文乙なんだけど
ちょっと違うかも。


この論点に言語云々なんて持ち出していないしね
しいて言えば『視点の問題』かな?
視点を何処に設定するかで見えてくるものが違うだけだよ

現在から古代を見るのと、古代のリアルタイムな視点から色々眺めるのとでは、見えたり感じたりするのが違うんだよ
642プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/07(金) 17:05:01
と、言うことで

そろそろお暇致しますか


では
またお会い出来る時まで。
643日本@名無史さん:2007/09/07(金) 17:57:50
また論破されたのか。
644日本@名無史さん:2007/09/07(金) 18:22:08
>>625
>こちらとしても実体験に基づく経験をベースに語っているんだから、それに対する反論を「〜だろう」で片付けないでよ。

プラムも縄文時代に生きてたわけじゃなく、
「実体験に基づく経験をベースに」想定してるだけだから、
プラムも「〜だろう」という言い方しかできないんだよ。

宗教を語ってるなら、別だけどな。
645阿蘇山は移動した:2007/09/07(金) 19:12:15
銅鐸の絵に鹿がある。なぜ、鹿かというと角があるかららしい。角は、春
はえて、秋にりっぱになる。角が大きくなったら、稲を刈れ。あるいは、トンボ
が飛んだら稲を刈れ。蛙が鳴いたら水を抜け。って暦なら、2倍とか
の発想はうまれないと思う。仮定の上の仮定の気がするが。
646日本@名無史さん:2007/09/07(金) 20:06:49
>>645

>角は、春 はえて、秋にりっぱになる。角が大きくなったら、稲を刈れ。あるいは、トンボ
が飛んだら稲を刈れ。

これは同意だな。
647日本@名無史さん:2007/09/07(金) 21:17:16
太国さん、遅レスですみません。
倍暦のスレを見つけられなかったので、ここに書かせてください。
それから、皆様、毎度の長文すみません。
岩波文庫版日本書紀に拠って書きます。

綏靖天皇は治世の三十三年五月に崩御され、安寧天皇がその年の七月癸亥朔乙丑の日に即位されている。
安寧天皇の元年冬十月丙戌朔丙申の日に、綏靖天皇を葬っている。
綏靖天皇の元年は太歳庚辰とあり、安寧天皇の元年は太歳癸丑とあり、
綏靖三十三年の翌年が安寧元年であることがわかる。
さて、綏靖三十三年七月一日が癸亥の日であり、翌年の十月一日が丙戌の日である。
綏靖三十三年七月を大の月(30日)として、その後小の月(29日)と大の月とを交互に配置して数えると、
綏靖三十三年七月一日つまり癸亥の日から安寧元年十月一日つまり丙戌の日まで444日。
癸亥から444個目の干支は丙戌であって、ちょうど両日付の干支とその間の日数の関係が一致する。
一方で、ひと月が15日だったとすると、七月一日から翌年の十月一日まで226日。
癸亥の日から226日後は戊申の日で、安寧元年十月一日であるはずの丙戌の日とは随分はなれている。
前には22日、後ろには38日ずらさないと丙戌の日にならない。だから、二倍暦があったとは考えにくい。
岩波文庫版日本書紀の校異を見る限り、この部分の干支の文字は、ゥ本間で異同は無いようです。
つづく
648日本@名無史さん:2007/09/07(金) 21:20:55
死亡日が前半に偏る確率は0.33%と書いたが、その八回が全て小の月なら確率は0.51%になる。
一方で、1日から15日の間で、死亡日が2日から10日の九日間に収まる確率は、
9/15の8乗で、1.6%になる。1.6%の現象が起こるのはノープロブレムで、
0.51〜0.33%の現象は絶対ありえないというのは、主観的判断でしょう。
ちなみに、8人が14人になっても、「そんな確率の現象が起こるはずはない」
という主観的判断の部分は何も変わらないでしょう。
私が言っているのは、神武天皇とかを加えて崩御の日付を増やせと言うことではなく、
崩御の日付とは別で、同程度の蓋然性がある証拠が他に2つ3つあればということです。
それと、自然死の日付は動かせないと仰ってましたが、始皇帝の例のあるように、
権力者の死というものは、発表の仕方に気を使います。
発表された日付が、常に正しいとは限りません。
政治意図によって実際の死亡日と異なる日付が発表され記録される場合もあろうかと考えます。
が、そこまで言うと、もう何でもありになってしまうので、それは考えないほうが良いかなとも思います。


ところで、岩波文庫版日本書紀では、孝安天皇の即位を、元年春正月乙酉朔辛亥の日として27日にしています。
底本の天理図書館蔵卜部兼右本に元年春正月乙酉朔辛卯(7日)とあり、
異文として辛亥の注記があるのを、北野本によって改めたとあります。
改定の理由は書いていなかったし、両者の景印を見たことが無いので、何故改めたのかはわかりませんが、
一応、そうなってますが、どうお考えですか。
649日本@名無史さん:2007/09/07(金) 21:43:11
これは、物理の話なんで投下しようか、だいぶ迷ったんですが、勘弁してね。

>1000年をかかる道を選ぶならお前の論説は死ぬまで証明は出来ないね。ソレで
>いいわけだ。w

そういうことになります。
物理の話ですが、1600年代に光に波の性質があることがわかりました。
そこで波が水を媒質として伝わるように、光にも媒質があるに違いないと考えられました。
(ここが主観的な判断ですね)そして、それをエーテルと名づけました。
ところが、1880年にマイケルソン・モーリーの実験によって、エーテルの存在は否定されました。
そして、1900年代に量子力学が確立されて始めて、光の性質が説明できるようになりました。
つまり、およそ300年の間、主観的判断によって、間違った学説が行われていたのです。
そして、それに反対する人は、死ぬまで正しい説明が出来ませんでした。
でも、その時点では量子力学が無かったので、説明できない方が正しかったのです。
逆に、エーテル学説を支持した人たちは、説明しちゃったわけです。
仮説を立てる人は、常に説明しちゃう危険性を考慮しておかなければなりません。
説明できるということは必要条件であって充分条件ではないというのは、こういうことです。
もしエーテル学説がずっと行われていたら、現在の科学技術の発展は無かったのです。
そういう訳ですので、条件が揃わなければ、死ぬまで証明できなくても仕方ないのです。
それが科学的手法というものですし、沢山の科学者が無数の実験を繰り返しても、
成果が偶然に左右される所以です。

おわり
650日本@名無史さん:2007/09/07(金) 21:57:54
やれやれ
651日本@名無史さん:2007/09/07(金) 21:58:42
相変わらずプラムが登場する時は、スレの消費が速いな。
652日本@名無史さん:2007/09/07(金) 22:10:27
>>649
>仮説を立てる人は、常に説明しちゃう危険性を考慮しておかなければなりません。

その通り。
科学や数学や哲学や宗教もすべて論述を伴って説明しようとする場合、
「完全に説明できる」ということが、すでに怪しいというわけ。

説明できるという主張は、論述が間違ってる可能性があるが、
説明しないという態度は、少なくとも間違ってはいない。

何か持論を立てて「絶対間違い無い」と思うこと自体が間違いを含んでいる。
653日本@名無史さん:2007/09/07(金) 22:11:52
酷い自演を見たw
654日本@名無史さん:2007/09/07(金) 22:27:33
>>653
自演に見えますか。
まあ、>>649を書いた本人が、こんなストレートな賛同があるとは思ってなくて
びっくりしたくらいだから、自演にも見えるだろうなあww
655日本@名無史さん:2007/09/07(金) 22:51:14
>>653は、649=652だと思ってるかも知れんな。

649=652だとして「自演」だと説明することは出来る。
しかし、それは間違ってる可能性を含む。
649と652は、同一人物か他人かは、「わからない」と保留するのが正解。

この場合、同一人物かどうかは問題ではなく、
「説明できる事は、間違ってる可能性がある」ということ。
656太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 23:10:38
>>647
そんなにビッシリ書きこんじゃあ読みにくくて混迷するよ。もっと具体的に
簡明に書かれたい、なんない理由がそれじゃ分からん。干支はまず後付けだよ。
正確のようだ。
倍歴(倍暦の字とスレ主は変えています)のスレ上げました。今夜は遅いので
書きこみは詳細をやりません、後日だな。
孝安即位日は下旬のが紀にあるわけだが、別本は7日だよ。そこは征東大将軍氏
が調べているので現れたら聞くといいよ。
657太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 23:19:20
>>647
ここのスレ主が迷惑してるので倍歴スレ見つかればそちらへどうぞ。
ここは彼のこの要望でこの件は書きこみを止めだよ。

なお365日の日数計算で否定だとの考えだが、倍暦を知らぬ編者らの後付け
だから、エンジンのアイドリングの不走行の車のようであり、走って
いるつもりで計算して、ひっかかって通常暦だと考えるのは早計。
走っていればそうだろう。ww
658太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/07(金) 23:33:55
>>647
古代史の証明は物理や刑事犯の公判廷級の証明は必要はない。0.何パーセント
の可能性を捨てないのは、古代史でも反論者のよくやること。畿内か九州の論争
もその状態。スズメの涙の栄養では数日しかもたんだろうが?ww

お前もそれだな。まあいい。8回サイコロを振って腕が上がるまで全部丁か
全部半になるようやってみたらどうだ? そんだけ豪語するならお前も常態
で8回全部サイの目を全部奇数か全部偶数に容易にやれるよう技を磨くんだな。
お前はそれが生易しいもんなんだろ?ww そういう口はお前がルービック・
キューブのチャンピオンのようになってからたたけ。

zzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
659九州出身:2007/09/08(土) 14:20:01
>>611
同感。
日本で倍暦とか考えられない。
なんかの本で読んだけどアマテラスと時代から春、夏、秋、冬があxっつあと聞くし、
ふつーに考えたら倍暦なんて日本でありえない。
660太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/08(土) 14:22:50
考えられない根拠を(→倍歴のスレへ)どうぞ。
661阿蘇山は移動した:2007/09/08(土) 21:44:47
逆の気がするが。日本書紀は、引き伸ばしがあるということを
後世に伝えるために、前半だけにしたのでは?
信じるなって。
662阿蘇山は移動した:2007/09/09(日) 22:03:15
やはり、百済滅亡の660年が日本の建国だということでしょう。
紀元前660年の倍が作り話ということでしょう。
663日本@名無史さん:2007/09/09(日) 23:13:32
>>662
日本建国というのは間違いで、「日本」という対外向けの国号を定めたにすぎない。
664阿蘇山は移動した:2007/09/10(月) 05:20:52
倭国は、昔からあったが、今の天皇は、百済から来た支配者が
元なのでしょう。天智天皇が初代として間違いないのでは。
665日本@名無史さん:2007/09/10(月) 08:42:27
>>664
天皇が百済から来た支配者?という説にはいくらでも反論できるけど、
一応、根拠を聞かせておくれ。

666太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/10(月) 08:58:04
>>664
この御仁に対しては根拠じゃ手ぬるい。初代の証拠を出してくれ。
667日本@名無史さん:2007/09/10(月) 09:08:45
>>665
>>664が超汚染人だから
668阿蘇山は移動した:2007/09/10(月) 21:47:21
西暦1年から紀元前660年が月の前半だけなら、1年から660年
までが、後半?百済王は、紀元前18年から660年まで31代か。
古事記の終わりは、33代推古天皇。33の倍は66か。
在位年数も百済王と合わないな。よく、わからん。660年以前の
日本書紀の記事は創作か、百済王の記録でしょうね。倭王武は、武寧
王でほぼ決まりと思う。
669日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:12:04
>倭王武は、武寧
>王でほぼ決まりと思う。

その根拠は何でしょう?

>倭国は、昔からあったが、今の天皇は、百済から来た支配者が元なのでしょう。

百済は倭国に人質まで差し出してますが何か?
支配地域に支配者が人質を差し出す事もあるのかw
そんな珍しい支配者がいたのかw
670日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:14:17
>>668
数字を見たら計算したくなる

多分?そこには答はないかもね
数字じゃなく言葉かも


二十は(はたち)だし
三十は(みそ…)
671日本@名無史さん:2007/09/10(月) 23:47:57
>>668

前方後円墳は、朝鮮半島の全羅南道が起源だとでも思ってるのかな?

やめとけ。
672日本@名無史さん:2007/09/11(火) 09:13:59
>>668
さかさま 
673阿蘇山は移動した:2007/09/11(火) 23:07:45
>>669
中国の書物に人じきってでてるの?知らなかった。
中国って広いですね。

百済王はあわないな。デタラメにつくったっぽい。
推古以後も作りばなしか?でも、古事記は推古までだから、
33代まで作り話でよさそうですね。
674日本@名無史さん:2007/09/12(水) 00:47:51
>>673
人じきって何?どんな字を書くの?
675日本@名無史さん:2007/09/12(水) 01:02:32
賎人は漢字使わないからw
676阿蘇山は移動した:2007/09/12(水) 05:22:26
人質のまちがいでした。
まさか、日本書紀などつかってないですよね。天才は、
日本書紀つかうらしい。そんな天才は、どんとこい、
いってくださいね。ここへは、2度とこないように。
あしからず。
677日本@名無史さん:2007/09/12(水) 07:47:13
>>676
おまえこそもう来るな
678天才:2007/09/12(水) 07:51:19
>>676そんな天才はーーー

まあそう言わず居させてくださいよ。
679阿蘇山は移動した:2007/09/13(木) 23:01:46
>>677
うざい、消えろ。ここは、おれがスレたてた。いやなら、自分で
つくれ。
>>678
ここは、敷居は高いが、レベルは、低いです。
ここは、日本書紀で古代を考えるのでなく、魏志などで、考える
スレです。
680ローガン:2007/09/13(木) 23:43:37
久しぶりです。なんと!もう少しで700ではないですか!これも人徳。スレ主の人徳。
あんまり怒ってはダメ。
漢籍中心、誠に結構!でも仮に漢籍だけで説明出来ない事があったら、どうしましょう?
681阿蘇山は移動した:2007/09/14(金) 05:30:59
漢籍でわからないことは、解らないで、終わりでは。日本書紀
もってきて説明してはいけない。
682太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/14(金) 07:00:08
>>681
お前は中国人か?
683阿蘇山は移動した:2007/09/15(土) 05:35:07
日本書紀利用するには、次の問題を解決する必要がある。
隋書にある、王の妻 の文書である。日本で言うと600年ごろの
推古天皇の時代である。推古天皇は、女帝である。つまり、
推古天皇は、架空の天皇を意味してる。33代推古天皇が架空で、
それ以前の天皇が実在とするには、無理がある。やはり、33代
までは、架空の天皇とせざるをえない。だから、日本書紀は、
物語であり、史料として利用できない。
684太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/15(土) 07:15:58
まぁここまで完全な津田病の末期症状を津田がみたら、さぞかし驚く
だろうな?ww 反面それのほうが津田にも自病を治す役に立つのかもしれ
ないぜ? こいつの語を聴いて津田もわが身を振り返るだろうからな?

推古紀には日本最古の日食の記録があり、天文計算でほぼ記述どおり日食が
あったことが確認されているから推古紀の記述はウソがそんなにあるわけが
なく、推古を創作としたい大した利害も考えにくい。まぁこいつはそれと
これとは別だとか抜かして頑張るんだろうな? 他人をデンパだとか言って
いたが、自脳を治療したほうが正着だな。www Pu!
685日本@名無史さん:2007/09/15(土) 07:54:21
漢籍原理主義者と記紀原理主義者の争いだな
686太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/15(土) 09:22:00
まぁあいつはもう数百年とか遅く生まれてたら、明治天皇手前は架空だとか言い
出すに決まってる。ww そういう奴が出てくるのだ。推古が創作なら舎人は
重罪でしょっ引かれているさ。
687ローガン:2007/09/15(土) 23:46:29
スレ主殿は日本書紀推古紀をお読みでしょうか?もしまだならよく読んで、その上で隋書と何が違い、どこが符合するのか。考えてみるのも面白いですよ。ね!太国さん。
688阿蘇山は移動した:2007/09/16(日) 00:57:21
日食:推古天皇の崩御数日前に日食がおきてる。まさに、最古の
日食記事です。これ以外に日食の記事がない。この日食をのぞいて
34代から41代持統天皇までは、日食の記事が10個ある。
何故、推古以前に日食の記事がないか。中国の書物には、卑弥呼
の3月の日食から、推古まで183個の日食の記事がある。
つまり、推古以前に日食の記事がない。これは、物語で、記録
でない証拠。
689阿蘇山は移動した:2007/09/16(日) 05:09:49
古事記は、なぜ、33代で終わってるか。また、何故、古事記が
存在するか?33代までが、架空ということを後世に伝える
ためとするのが、もっとも、説明しやすいのでは?
690日本@名無史さん:2007/09/16(日) 05:26:20
普通は、用明天皇までの記事が公平な伝承を伝えたもので、
舒明天皇の記事からは編纂者への政治的圧力が酷くなり古事記からカットしたと解釈するだろうな。
691太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 07:22:24
かなりの津田病は重症であり、もはや治療しても回復は困難に近い。そのうち
明治天皇以前の天応はすべて実在せず、架空の天皇であり物語であると言い
出す日がもう近いのではなかろうか?? これはもう今のうち精神病院行きを
お勧めするほかはない。PuPu!!

まるで風が吹けば桶屋が儲かる式の稚拙な論理であり、かような頭脳の判別で
あるから、 日食の記事がない=物語であり記録でない証拠  だと結論つけて
しまう。そして推古以前の天皇つまり33代の天皇はすべて架空の物語だと
チャチャーと断を下してしまう。おかしいっやらありゃぁしない。津田も驚き
「俺より凄い上がいた」とあきれるであろう出鱈目なる判断なのである。

33代架空というのは大きな間違いであり出鱈目論の極限である。関東出土の
稲荷山鉄剣には雄略天皇の銘文があり、しかも崇神の宮のシキ宮とオオビコの
記述もあり記紀の記述と正確に符合している。しかも隈田八幡所在の鏡にも
繼體天皇の名文があり、阿蘇山は移動した氏の説が超出鱈目の苦茶目茶で
あることは火を見るより明らかであると言うべきだある。wwww

稲荷山鉄剣は重病末期患者への注射器たるべきものであり、これで治療不可能
ならば、もはや脳の回復は絶望と云ってよいだろう。wwww
692太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 07:29:07
>>691 訂正
× 天応      ○ 天皇
693太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/16(日) 07:42:15
>>691 再訂正 スレ数字多用となり失礼。
× 隈田八幡     ○ 隅田八幡
694日本@名無史さん:2007/09/16(日) 08:03:09
継体天皇は武寧王の弟だと何度言えばわかる?
695阿蘇山は移動した:2007/09/16(日) 22:40:09
>>687
逆ですよ。日本書紀は、隋書を参照して書いてるから、一致する
点みても意味がない。異なる点を探すべきである。それが、些細な
ことならいいのですが。

>>690
何故、古事記は存在するのですか?なぜ、日本書紀は、カット
されないのですか?
696ローガン:2007/09/17(月) 01:01:56
>>695日本書紀は隋書を参考にして推古紀が書かれてるとすれば、
馬の数が違っている事、王の性別が違う事が
説明出来ない。隋書を参考にして書かれた物語であれば、
ある程度の合致がある筈ですよ。
中国側、日本側にそれぞれの資料が存在してそれに基づいて書かれたと考えるのが極めて妥当なものの考え方だと思いますが
いかが?
697日本@名無史さん:2007/09/17(月) 01:18:22
異なる点を探すべきとある。
矛盾してない。
698阿蘇山は移動した:2007/09/17(月) 04:33:07
完全に一致させたら、事実になる。王を女性にしたのは、後世の史家が
考えたとき、歴史を復元できるようにかえた。倭の5王も系図が微妙に
かえてある。つまり、古事記は、33代まで架空とわかるように、
ヒントとしてつくられた。
何度もいうように、日本書紀には、銅鐸がでていない。事実の歴史書
ならあるはず。
699太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/17(月) 07:38:31
銅鐸はいいが、稲荷山鉄剣はどうなるんだ?
倭人伝には銅鐸は出てるのか? 異国のだから出てないと逃げるのか?
ならば神武は九州からきたから銅鐸が出ても、畿内は神武には異国の地だよ。

700大和:2007/09/17(月) 14:46:40
>>697
同意。年季が入っている。
701ローガン:2007/09/17(月) 16:32:25
>>698
>倭の五王の系譜を微妙に変えてあるとは
どう云う意味ですか?
記紀には倭の五王の記述はありませんよ。
702日本@名無史さん:2007/09/18(火) 00:18:14
どうでもいいから日本語で書け
703阿蘇山は移動した:2007/09/18(火) 05:20:39
>>699
鉄剣のワカタケルの漢字に、武はない。ブという音もない。つまり、倭王武
とワカタケルは、一致点がない。別人です。
704日本@名無史さん:2007/09/18(火) 06:10:57
>>703
「ワカタケル」って何だよw
あれは「エカタシロ」だぞw
705日本@名無史さん:2007/09/18(火) 06:17:13
458 名前:日本@名無史さん :2007/09/17(月) 16:43:43
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AA%E3%83%AA%E6%97%8F

魏志倭人伝の倭人(男子)のイメージって、これに近いのかな。


706日本@名無史さん:2007/09/18(火) 06:52:45
>>704
獲加多支鹵をエカタシロとする読み方は隋唐音
西晋時代の中原正音で「支」は「キ/ケ」
歌あり、証と為す。
安我毛布「支見」我 弥不根可母加礼(万葉集4045番)
我が思(も)ふ「君」が御船かもかれ
707日本@名無史さん:2007/09/18(火) 07:30:03
中国の南北朝以前の古い発音を伝承している
ビン南方言や客家方言は共に
「支」をkiと発音する。

西晋末の永嘉の乱により中原洛陽の難民が南下して
最後にたどり着いたのが今の福建省だ。
客家人は中国各地に散在するが、比較的まとまっているのが
梅県だ。
張籍《永嘉行》に
北人避胡皆在南
南人至今能晋語
と歌われている。
「南染呉越,北雜夷虜」
《切韻》を代表とする中古音体系は「支」の頭子音を
「章」と同じとするが、これは南北朝に古来の発音が
乱れた後の枠組なのだ。

http://chinese.pku.edu.cn/tangPoem/fullText.jsp?a=1&e=0&u=20264&b=4
永嘉行 唐・張籍
黄頭鮮卑入洛陽,胡兒執戟升明堂。

晉家天子作降虜,公卿奔走如牛羊。

紫陌旌幡暗相觸,家家鶏犬驚上屋。

婦人出門隨亂兵,夫死眼前不敢哭。

九州諸侯自顧土,無人領兵來護主。

北人避胡多在南,南人至今能晉語。
708日本@名無史さん:2007/09/18(火) 11:40:22
>>706
つまり「エカタキ(ケ)ロ」であると?
709日本@名無史さん:2007/09/18(火) 12:41:01
最近、朝鮮大学校の高寛敏という無名教授の隋唐倭朝鮮関連のものを読んだんだが、
滅茶苦茶だね。驚いたよ。願望によるこじつけ満載。
何としても倭を隋唐朝鮮の下に置きたいと言う願望で日本を罵しってる。
一応学術論文の体裁を取りながら、随所に学術逸脱の記述。
朝鮮大学校だけじゃなく、大阪経済法科大学もそういう教員が多いみたいだね。
大阪経済法科大学は全員がそうではないんだろうけど。

2chで朝鮮を嘲る馬鹿どもには腹立たしく思ってたが、朝鮮の人がもともと
こんなことを久しく続けていたのなら、嘲られても仕方ないかも知れん。
710太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/18(火) 18:17:15
>>703
そのとおり別人だが、お前の論はワカタケルは透明人間的だから、別人です〜
などとさも実在したような言い方をっするなど、とぼけており、矛盾のテレ隠し。

論のイカサマ、クラマシをするな。鉄剣の銘文は五王と無関係の雄略天皇だ。

これはお雨の33代非実在論こそが砂上の楼閣的幽霊論だということを物語って
いる。
711ローガン:2007/09/18(火) 23:51:10
>>703ワカタケル大王と倭王武が別人かどうか、
ではなくて、鉄剣のワカタケル大王と雄略は
普通に考えたら同一人物ですね。
712日本@名無史さん:2007/09/18(火) 23:53:56
加多支鹵の読みは納得いくが
獲をワって読む?
713日本@名無史さん:2007/09/19(水) 01:19:40
>>712
ちゃんとした漢和辞典を手元に置いたほうがよろしい。
714日本@名無史さん:2007/09/19(水) 07:58:27
>>713
古代の発音に関しては漢和辞典もあまり役に立たない。
漢和辞典の音読みは呉音、漢音という
切韻(7世紀初頭、実質は廣韻(11世紀)を参照している)
の中古音体系だから。
その後廣韻の体系も李白や杜甫の時代には実情に合わなくなって
韻の併合が行われた。
源信の倭名抄(10世紀前半)は《唐韻》を引用している。

普通の漢和辞典で「支」に「キ」という音を示しているものは
殆ど無い。「枝、肢」なども魏志倭人伝の体系では「キ」だ。
715日本@名無史さん:2007/09/19(水) 09:25:01
>>714

おまえはバカか?
「獲をワって読む?」かって話だろ。
716日本@名無史さん:2007/09/19(水) 09:31:05
江方士郎
717日本@名無史さん:2007/09/19(水) 09:58:13
本来の漢和辞典では、奴をナと発音すると書いてあるものはない。
漢音でト、ドで呉音でヌである。
718日本@名無史さん:2007/09/19(水) 12:27:42
>>717
だから何?
719日本@名無史さん:2007/09/19(水) 13:13:14
悔い改めよ。終末は近い。真実の前に妄想は無力である。
720日本@名無史さん:2007/09/19(水) 13:26:39
奴 説文の音注は「乃都」のようにも「刀都」にも見える。
玉篇は「乃都」なので音は「ヌ」か「ノ」か。
万葉仮名で「都」は「ツ」からやはり「ヌ」だな。
漢音はローマ字で表わすとndoだ罠。
721ローガン:2007/09/19(水) 14:07:46
サガミハラハラさんは、どうしているのでしょうか?近頃、お見受けしませんが。
722日本@名無史さん:2007/09/19(水) 15:39:42
>>720
「ノ」でも「ヌ」でも「ナ」でも
皆同じ「ナ行」じゃない?
何処が違うの?
723太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/19(水) 15:48:19
>>721
あの方は紀年の研究書の出版が真近なのでいそがしいんだと思いますね。
724日本@名無史さん:2007/09/19(水) 18:40:11
>>722の疑問に興味津々
725阿蘇山は移動した:2007/09/19(水) 22:02:29
色々発音でてますが、ブ は、あるのでしょうか?

日本書紀は、作り話だと言ってるのに、日本書紀に書いてあるって。これ、
証明にはならないのがわからないのですね。1300年は長かったかな?
洗脳も1300年続くと変えるのに1000年かかるのかな?
726日本@名無史さん:2007/09/19(水) 22:05:23
>>725
>色々発音でてますが、ブ は、あるのでしょうか?

何が?
727ローガン:2007/09/19(水) 23:25:14
>>723ありがとうございます。いつまでも暑いですね。太国さんもご自愛ください。
728ローガン:2007/09/20(木) 00:04:32
日本書紀がどうしてもお気に召さない様ですね。
スレ主殿に質問です。
>>13で、「7世紀の初めには近畿から九州が統一されている」とお考えの様ですね。
隋書に「都於邪摩堆則魏志所謂邪馬台者也」と有ります。
これは、「7世紀の倭国の都はヤマトで魏志で云う所の邪馬台国だよ」と云う意味ですね?
貴殿は7世紀には西日本は統一されていると考えておられるのでしょう?
3世紀の邪馬台国は九州にあったのですか?もう一度言いますが隋書では、「7世紀の倭国の都はヤマトにある。魏志で云う所の邪馬台国ですよ」と書いてあるのですが…。
隋書が何か間違ったのでしょうか?それとも3世紀から7世紀の間に何か起こったのでしょうか?
729日本@名無史さん:2007/09/20(木) 03:07:53
>>714 >>717
話の本質からずれたピントのぼけたことを書く悪い癖があるという自覚はあるかね?
730日本@名無史さん:2007/09/20(木) 03:09:11
>>715
要するにそういうことだな。
731九州王朝大好き:2007/09/20(木) 13:59:58
>>728
隋書に「都於邪摩堆則魏志所謂邪馬台者也」と有ります。
これは、「7世紀の倭国の都は九州で魏志で云う所の邪馬台国だよ」と云う意味ですね?
貴殿は7世紀には西日本は統一されていると考えておられるのでしょう?
3世紀の邪馬台国は九州にあったのですよ。
もう一度言いますが隋書では、「7世紀の倭国の都は九州にある魏志で云う所の邪馬台国ですよ」と書いてあるのですが…。
隋書が何か間違ったのでしょうか?それとも3世紀から7世紀の間に何か起こったのでしょうか?

以上の様に書き換えてみたのですが。
いかがでしょうか?
732ローガン:2007/09/20(木) 15:30:59
>>731王朝殿素晴らしい!
「隋書の記述は全て九州内の話である」と云う事ですね。
それなら理解出来ます。(私の見解とは違いますが)
ここのスレ主は>>13で「九州ではなく近畿から西日本がされたと考えられる」と書いておられたので、質問した迄の事です。
スレ主殿はスルーするでしょう。答えられなくて。
では王朝殿にお尋ねします。隋書と日本書紀では裴世清を出迎えた馬の数が違いますね。何故でしょうか?
733九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/20(木) 16:48:05
>>732
ご質問の意味が理解できません。
別件だから馬の数も違います。
734日本@名無史さん:2007/09/20(木) 19:01:57
>>731
原文で九州に当たる部分はどこなのでしょう?
735ローガン:2007/09/20(木) 20:32:29
なるほど!別件ですか!別件なら馬の数など違って当たり前ですね。
そうすると隋書の裴清と日本書紀の裴世清は別人とお考えなのでしょうね。
736太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/20(木) 20:36:52
>>727
暑いですなぁ。拙者もだいぶスタミナを消耗しています。
サガミハラハラさんはまもなく出版でしょう? 9月決着のような話だったと
思いましたよ。それきり出版の日時とかの話はないようですが、すぐでしょう?
737サガミハラハラ:2007/09/20(木) 21:03:35
はい、もうじき出版です。ご心配をおかけいたしております。
738日本@名無史さん:2007/09/20(木) 21:10:00
>>737
昼間さんざんプラムにやられていたのに出版とわ
739阿蘇山は移動した:2007/09/20(木) 21:28:20
隋書:南北3月行、東西5月行ですから、近畿から西が統一されたの
でしょう。隋書には、確かに邪馬イ国が近畿のようにかかれてますね。
1つの根拠になるでしょう。しかし、魏志は、東でなく、南。また、
海を東に渡る、倭種の記述も。これは、九州の得点になるでしょう。

それより、銅鐸はどうしたのでしょうか?日本書紀に記述ないから、
関係ないのかな?
魏志にも銅鐸の記述ない。九州に1点得点。
740九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/20(木) 21:31:28
>>734
原文で九州を示す部分ね。
@『俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山島而居』
畿内なら「東南」が「東」になるね。
A『魏志所謂邪馬臺者也』
『都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也』
邪馬臺(邪馬壹)は在九州。
B『帯方郡並一萬二千里在會稽之東與[イ澹]耳相近』


>>735
いいえ。
隋書の裴清と日本書紀の裴世清は同一人物ですが、
随書は倭人の国を代表する国である俀國について書き、
日本書紀は畿内と隋の関係について書いている。
つまり、裴清(裴世清)は主体国の俀國に行き、
つでに余旁国である畿内調査の為、足をのばした。
裴清の正式の報告書では俀國についてしか報告できないから、
余旁国である畿内のことは一切触れられていない。

と思います。
741サガミハラハラ:2007/09/20(木) 23:34:05
>>738 出版する本の題名は「神功皇后は実在したーその根拠と証明ーです。
邪馬台国に関しては、付録として載せてあります。「メジャーで辿る邪馬台国」
今までの邪馬台国論はあまりにも実地を無視した論ばかりです。
そこで実際に行路を進み、メジャーで計測(勿論地図上ですが)して邪馬台国の行程を
論じたものです。
742ローガン:2007/09/21(金) 00:21:46
サガミハラハラさん!昼間のレス拝見しました。さすがです!
郡使の行程を自殺者になぞらえておられましたね。私のような凡人には不可能な発想です。
今後ともよろしくご教示お願い致します。
>>739>隋書には確かに邪馬イ国が近畿のようにかかれていますね。一つの根拠になるでしょう。


「其国境東西五月…」其国(邪馬イ国)とは近畿が統一した近畿以西の国と仰りたいのですね。私もそう思います。
「其地東高西下都於邪摩堆則魏志所謂邪馬台者也」
という事は「其地」も当然近畿が統一した近畿以西の地となりますね?
そして都は邪摩堆で魏志で云う所の邪馬台国。ほらね。邪馬台国は九州じゃないでしょ。
743サガミハラハラ:2007/09/21(金) 09:40:15
中国史書の外国記事の信憑性について
これは、二種類にわけられるとおもわれます。
一つは古い時代の探検家による報告資料と、時代がくだった国使や高官による報告資料とでありう。
古い時代の資料は実地に見聞したリアルな資料であるが、後世の資料は、国使や高官がその国の官吏
からの説明をそのまま記録しているようである。
つまり、足を使って調査したのか、高座にふんぞりかえって話を聞いたかの違いである。
その顕著な例は明史である。
744プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/21(金) 10:44:11
>>743

例え踏ん反り返ろうが、寝そべろうが、そこに信憑性のモノサシをあててはいけませんよ。
最終判断を信憑性に委ねるなんて、歴史家のすることではありません。
それに、明史の信憑性のモノサシを魏書にも用いようとする根拠は何なんですか?
745サガミハラハラ:2007/09/21(金) 12:21:49
魏志と明史が信憑性が同じとはみていません。
魏志は古い時代と後世のふんぞり返る時代の過度期であるとみています。
つまり、古い時代の資料と、たいして調査していない時代の資料をつなぎあわせて
編集したのです。
746プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/21(金) 17:49:42
>>745
たいして調査していないとする根拠は?
747阿蘇山は移動した:2007/09/21(金) 23:17:57
>>742
魏志と後漢書で狗奴国の場所が異なっていますね。あるいは、邪馬一国
とか、中国の文献も誤りがあるのですよ。それ1つで他の条件無視は
いかがなものか?
邪馬台国が近畿なら、神功皇后が卑弥呼ですね?紀元前660年から、
西日本が統一されてたとおみとめですか?古墳時代が660年から始まって
いるってことですよね?
それより、銅鐸の説明が聞きたい。
748ローガン:2007/09/21(金) 23:42:02
>>747中国の文献の誤り?とは?
意味がよく分かりません。銅鐸をこのスレの爼上に揚げていいんですね。日本書紀の記述は嘘八百の物語なんでしょ!
あれだけ、日本書紀の記述を考察に使うな!と言ってたのに…
銅鐸が日本書紀にあるとかないとか。
子供のケンカ以下ですね。ありがとう!なんか若さをいただいた気分になれます。
749日本@名無史さん:2007/09/21(金) 23:52:18
>>747

仮定「邪馬台国が近畿なら」

A、神功皇后が卑弥呼ですね?
B、紀元前660年から、 西日本が統一されてた
C、古墳時代が660年から始まっている

仮定からの推論ABCが、まったく関連性がありませんな。
750九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/22(土) 10:54:32
>>732 ローガン殿
質問です。
日本書紀卷廿二推古天皇条の下記部分、
「年号」と「唐」のいずれが間違っているとお考えですか?
掲載文以降も「年号」と「唐」が続き「隋」は一度も出てきません。
畿内朝廷は「隋」についての認識はなかったのではありませんか?

(十五年)秋七月戊申朔庚戌大禮小野臣妹子遣於大唐・・・・・
十六年夏四月小野臣妹子至自大唐・・・・・
即大唐使人裴世清下客十二人從妹子臣至於筑紫遣難波吉士雄成召大唐客裴世清等・・・・・
六月壬寅朔丙辰客等泊于難波津・・・・・
秋八月辛丑朔癸卯唐客入京是日遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴世衢・・・・・
751阿蘇山は移動した:2007/09/22(土) 22:38:53
しかし、みなさん、ほんとにレベルが高いですね。どんとこいが向いて
ますよ。むこうでがんばってください。
752日本@名無史さん:2007/09/22(土) 22:53:53
>>751
2ちゃんねるでは閉鎖的な掲示板利用は禁止されてます。
あしからず。
753九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/22(土) 23:09:21
>>751どんとこいが向いてますよ。

これは随分と失礼な発言。ドン来いはそんなに程度の低いスレではありません。
それにスレ主が参加者の選り好みをしてはならないと思いますけど。

754ローガン:2007/09/23(日) 00:25:09
>>750すみません王朝殿!レス拝見したのが遅くご無礼しました。
さっそくお答え申し上げます。
日本書紀が編纂された頃かの地は唐だった。だから、年号と「唐」の記述にとりたてて不自然を感じない。以上!




と思います。
755日本@名無史さん:2007/09/23(日) 00:38:01
プラムとサガミハラハラって、ボケとツッコミ。名コンビやね。
プラムハラハラとか。ツッコミはうまいけどボケがひどい。
756日本@名無史さん:2007/09/23(日) 00:39:43
天然やからしょうがない
757阿蘇山は移動した:2007/09/23(日) 05:18:08
>>752
では、すごし、レスするかな?
>>748
日本書紀が正しいなら、近畿に紀元前660年から、国があった。近畿
中心にでる銅鐸に関し記述がないと、後世の作になるのでは?日本書紀が。
だから、日本書紀は後世の物語という結論になるのでは。史実なら、銅鐸
に関し記述がないと。神話の部分にもないですね。もっとも、神話は、
九州なのかな?
中国の文献:岩波の魏志の解説よむといいですよ。
ある人が北史よんで女王のあとは、男王と書いてある。新発見とよろこん
でた。これは、魏志と宋書あわせただけです。あまり、意味がないのです。
中国の文献が全部正しいなら邪馬一国と魏志にあるから、邪馬台国は、
違うという意味がわからないのでしょうね。後漢書などより、邪馬台国
の誤刻というのが定説です。つまり、中国の文献も100%は、信用
してはいけないのです。
>>749
日本書紀がただしいなら、紀元前660年から西日本が統一されていた
ことになります。当然、卑弥呼の250年ごろは、近畿に王がいたこと
になります。魏志の引用が神功皇后にあるので、卑弥呼は神功皇后。
神武天皇の古墳が実在してます。古墳時代は、はじまってることに
なる。これでも、日本書紀が正しいのでしょうか?当然、邪馬台国
は、近畿になるでしょ。
758阿蘇山は移動した:2007/09/23(日) 05:24:01
>>752
閉鎖的ではありません。レベルの低い人は、書いていいのですから。
>>753
どんとこいは、レベルが高いと私はかいてるのですよ。
>>754
横レスですが。日本書紀は、正しいのでは?日本書紀作成時に内容
変更してもいいのですか?史書を?
759日本@名無史さん:2007/09/23(日) 05:51:31
誰か、日本書紀が正しいとか言ったのか?
760ローガン:2007/09/23(日) 09:05:56
>>757 >748だから私宛ですね。あれ?
「日本書紀は全て史実を伝えている」ような事、私、言いましたっけ?
761日本@名無史さん:2007/09/23(日) 21:56:07
コテのレベルは低いな
762阿蘇山は移動した:2007/09/23(日) 23:35:20
>>759
日本書紀が正しいから、引用してるのでは?多くの人が引用してるような。

>>760
正しいか。物語か。の2つしかないのです。1部正しく、1部間違ってる
ってありえないのです。まあ、邪馬一国みたいな、誤りが証明できれば
いいのですが。勝手にここは、正しく。ここは間違ってるっていうのは
学問ではない。推理小説ならいいのですが。
763ローガン:2007/09/24(月) 00:52:19
>>754の補足です。
隋書裴清来倭の記述は推古紀の内容とよく符合しており、史実と考えるべきですね。
馬の数の事を前に少し書きましたが、隋書が「二百余騎」日本書紀が「七十五匹」です。後で書かれた方が、約3分の1になっているという事は、
隋書に基づいて創作された記事とは考えにくい。両国に存在した別々の資料に基づいて記述されたと思います。
王朝殿は頭の切れる方ですので、「別件」と答えられたのでしょう。さもないと聖徳太子を抹殺してしまいますから。

このスレのはじめで、推古が男か?女か?
言っていましたが、書紀の記述では裴世清来倭の際、推古は面会してないですね。
18年にもよく似た事例があり、新羅任那の使いが来た時も推古は面会してない。
「以奏使旨乃四大夫起進啓於大臣時大臣自位起立廳前而聽焉」とあります。
最終的に奏上を受けたのは大臣です。裴世清来倭時も同様であったとすれば、使者は馬子を王と認識したのではないかと考えます。
764日本@名無史さん:2007/09/24(月) 04:38:53
>隋書が「二百余騎」日本書紀が「七十五匹」

馬を船団に乗せて運んで、すべての船が無事に到着したわけではあるまい。
中国を出航したとき二百余騎でも、日本に着いたときに七十五匹になったわけで、
約3分の1というのは、リアルな数字だ。

黒人奴隷船も、それくらいは失っていた。
765日本@名無史さん:2007/09/24(月) 07:22:11
邪馬壱国は邪馬台国の誤刻ではないという説があります。念のため。
766ローガン:2007/09/24(月) 09:22:48
>>764 意味がわかりません。
767日本@名無史さん:2007/09/24(月) 12:53:17
水行十日陸行一月
 は、いかに解釈したらよいのですか。どなたか教えてください。
768日本@名無史さん:2007/09/24(月) 15:50:41
勿論総日数ですよ。水行は仁川から群山まで6日、固城から唐津までが4日。
陸行はソウルから仁川までが4日、群山から固城までが23日、唐津から邪馬台国まで3日です。
769プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/24(月) 16:11:48
>>767

>>768のレスは、ツッコミだけで半日遊べるよ
770日本@名無史さん:2007/09/24(月) 17:06:28
じゃあ、遊んでえ〜。
771ローガン:2007/09/24(月) 17:08:08
>>765「隋書三十三経籍志二」の「三國志六十五卷」は「裴松之注」ですから、魏徴は
裴松之の注の入った三國志を見ていたのですよ。
そして隋書に「魏志所謂邪馬臺国也」と書いた。
後漢書は「邪馬臺国」となっていますね。もしオリジナル三國志に「邪馬壹国」と書いてあれば、裴松之が三國志に注を入れたでしょう。
つまり隋朝が持っていた五世紀に書かれた裴松之注の三國志には「邪馬臺国」と書かれていたのですよ。
つまり、「邪馬壹国」という表記も国も、唐代以前にはないという事です。
772プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/24(月) 17:40:21
>>771

すると
すべてのモノサシを裴松之の註訳一つに委ねるのかい?
773ローガン:2007/09/24(月) 18:18:31
全てのモノサシってなんのこと〜
774プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/24(月) 18:37:48
>>773
いや〜
五世紀に書かれた裴松之の註訳という事で、全てを委ねるに値するかなぁ〜と思ったので


すごい発見ですね
一日も早い一般公開をキボン
775太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/24(月) 19:39:39
倭人伝の「邪馬壹国」の記述は伝の最重要部分だから前後の文献に「邪馬臺国」
とあっても、前者を覆してはならない。陳寿が中国人ならなおさらである。
当時のころの前後、九州には双方の国があったということが真である。
776プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/24(月) 19:57:20
>>775太国さん
それもチト違うと
『邪馬壹』と『邪馬臺』が時系列上ダブる事は一度も無い
777ローガン:2007/09/24(月) 20:28:22
>>773いやあ〜お褒め戴けるとは恐縮です。
もっとも、畿内説支持者には常識ですが。
プラムさんまだ居てる〜?魏徴は裴松之の注だけを見ていたんじゃないですよ。五世紀に隋朝にあった三國志を見て、隋書に引いたんです。
778プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/24(月) 20:53:20
>>777

>もっとも、畿内説支持者には常識ですが。

そりゃすごい
私の情報の限界は宋代版本(紹煕本・紹興本)が限界なもので
五世紀の註訳が存在している事を知りませんでした。(畿内説恐るべし)(九州説者にも公開してください)


>五世紀に隋朝にあった三國志を見て、隋書に引いたんです。

丸写し?
779ローガン:2007/09/24(月) 23:06:31
まあまあ!涼しくなってきましたね。
隋書でもゆっくりお読みになったら?そうそう塩辛でお湯割りいいんですよ!
おや、雨ですね。


さて!丸写しって書きましたっけ?オリジナル三國志に「邪馬壹国」ってあれば、後漢書に「邪馬臺国」とある訳ですから、裴松之の一筆あって然るべきだと言った迄の事です。
「裴松之の一筆」あれば、魏徴は果たして、魏志所謂邪馬臺者也と書いたでしょうかという事ですよ。
肩肘張らずごく普通に考えましょう。
あ!私は何も「邪馬壹国」を否定している訳ではありません。
刊本に有るわけですから、唐代以降のある時期に存在していたかもしれませんが…。
とりあえず、「邪馬壹国」は3世紀とは関係なさそうなので、特に考えはありません。悪しからず。
780阿蘇山は移動した:2007/09/24(月) 23:27:26
>>763
日本書紀の記述が正しいというのを証明するのに、中国書物を使っては
ダメです。参照して書いてる可能性があるから。違う方法で日本書紀の
記述が史料として使えることを証明しないと。
781プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/24(月) 23:28:46
>>779

>オリジナル三國志に「邪馬壹国」ってあれば、後漢書に「邪馬臺国」とある訳ですから、裴松之の一筆あって然るべきだと言った迄の事です。

オリジナル三國志に「邪馬壹国」は魏時で陳壽
後漢書「邪馬臺国」は後漢時で范曄 

>裴松之の一筆あって然るべきだと

いいえ別に入れる必要がなかったから入れなかっただけでしょう
陳壽の魏時「壹国」も范曄の後漢時「臺国」も正しいから

>「裴松之の一筆」あれば、魏徴は果たして、魏志所謂邪馬臺者也と書いたでしょうかという事ですよ。

裴松之は一筆加えなかったし、魏徴は魏志所謂邪馬臺者也と書く必要性があったから書いたでしょう

782プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/24(月) 23:37:39
倭語「ヤマタイ」と「ヤマイ」の区別の問題です。

陳壽も范曄も裴松之も魏徴も
この「倭語」を区別出来ていたというだけですよ
783日本@名無史さん:2007/09/24(月) 23:55:42
病は木から
784ローガン:2007/09/25(火) 00:34:18
秋の夜長、後漢書でもいかが?李賢君も頑張って書いたんだから!
「邪馬臺国案今邪摩惟(堆)音之訛也」
今あるヤマトという名前はヤマタイの訛ったものだよ。という意味ですね。
「ヤマトとは昔ヤマタイだったのだろうか?」ではないですね。
「ヤマトとヤマタイ、音が違うのは訛ったのが原因だと考える」という意味ですね。
つまり、邪馬臺国=邪摩堆だと言っているのです。

7世紀の中国の認識です。
785ローガン:2007/09/25(火) 00:39:51
うーん眠い。又明日。すみません。
786阿蘇山は移動した:2007/09/25(火) 06:35:45
隋書書いた人が、魏志みて、邪馬台国のことだと思っただけでは。
邪馬台国問題にとって、それそど重要な記述とはおもえないけど。
1つのコンキョにはなるけど。
787日本@名無史さん:2007/09/25(火) 09:52:08
>>780
> 参照して書いてる可能性があるから。
可能性があるというだけでは駄目です。きちんと参照したと証明できない以上、それは憶測に過ぎません。
788ローガン:2007/09/25(火) 14:46:04
>>782倭語「ヤマタイ」「ヤマイ」の区別?
確か「邪馬嘉国」もありましたね。「ヤマカ」ですか?
「ヤマタイ」「ヤマイ」「ヤマカ」これらは別々の国で、全部九州にあったの?群雄割拠ですなあ。
789プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 17:25:57
>>788

「ヤマイ」も「ヤマタイ」も同じ

どちらも「イ/ヒ」国
ただ編纂者の意図で表現が変化しただけ
「邪馬臺國」と書いた范曄は(後漢時、倭伝)
「邪馬壹國」と書いた陳壽は(魏時、倭人伝)

比較するものが全然違う事に気付くだろう。


いくら十五夜とはいえ、けんちん汁みたいにごった煮しちゃだだよね


後、ヤマタイの転訛は「ヤマト」じゃないよ。
ヤマタオの転訛が「ヤマト」
790ローガン:2007/09/25(火) 18:23:40
>>789ごめんなさい。別々の国って言ってたのは太国さんでした。
なんか全然わからない。「よくワカル解説」をお願い致します。


けんちん汁ってどんなん?大阪にはおまへんなあ。
791九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/25(火) 18:52:14
けんちん汁は、大根、にんじん、ゴボウ、里芋、蒟蒻、豆腐を胡麻油で炒め、醤油で味を調えたすまし汁である。
建長寺の修行僧が作っていたため、「建長汁」がなまって「けんちん汁」になった説と
普茶料理の巻繊(ケンチェン-モヤシを胡麻油で炒め、塩・醤油で、味付けした物)がなまり
、けんちんになった説がある。 なお、肉が入ったものはけんちん汁では無い。

関東のものだが九州では結構ポピュラーな食べ物。
ちなみに僕は建長汁説を支持しています。
792九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/25(火) 19:19:26
>>763 ローガン殿
>王朝殿は、「別件」と答えられたのでしょう。さもないと聖徳太子を抹殺してしまいますから。

ぼくは聖徳太子を既に抹殺しています。

日本書紀卷廿二推古記の記事は、
殆ど全部が、7世紀末の畿内朝廷の出来事を、
人名は変えて、転載したものとみています。

ぼくがフォーカスしているのは、プレ九州王朝(邪馬台国・倭五王)よりも九州王朝(6・7世紀)ですから。
793ローガン:2007/09/25(火) 19:54:02
>>791けんちん汁の「よくワカル解説」ありがとうございました。
794プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 20:19:13
今食べたばかりだけど
家の“けんちん”は、味噌醤油味です。
おでんと同じ様に、味のしみった明日が旨いんだよね
特に大根と里芋(八つ頭)は最高。冷や飯に熱い汁をかけてサ〜ラサラと
795九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/25(火) 20:21:40
>>794  
いいですねえ。僕も食べてくなってしまった。
家のは澄まし汁ですが鶏肉を入れたりします。
796ローガン:2007/09/25(火) 20:36:18
>>763「あまのはらふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」
いい歌ですね。三笠山ってどこでしたっけ?王朝殿。
797プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 20:40:33
>>795
スマシで鶏肉だとびみょ〜に雑煮?

あと、
味噌を気持ち多めに入れれば、最後の残り汁にご飯とさいの目に切った餅を入れグズグズ煮込むと
“けんちんおじや ”の出来上がり。食べる前に七味をパァ〜ラパラ
寒い真冬に最高です。




もう一杯食べよ
798プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 20:46:41
安倍仲磨呂?

悲しいかな歳が記憶を奪う
799ローガン:2007/09/25(火) 20:53:47
あ〜けんちん汁を食べてみたい。うらやましい。ハラヘッタ。
800プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 21:04:00
>>799

マジで旨い
801九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/25(火) 21:46:52
>>796
>三笠山ってどこでしたっけ?

宝満山
この部分は古田説をそのまんま支持です。

奈良の三笠山でないことは確か。
子供の頃、奈良の「三笠の山にいでし月かも」でしたから。
802プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 21:54:21
>>801

奈良県若草山の別名です。
803プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 21:57:45
ここは妥協しないと
万葉のミステリーサークルに埋まりますから
804ローガン:2007/09/25(火) 22:38:18
質問の意味をご理解頂きありがとうございます。盲信のレッテルをハローかなあ、なんてちょっと思っただけです。常識人でよかった〜。お二人とも。ただ考えが私とは少し違うだけ。でも…


プラムさん宅のけんちんはが喰いたい。
805阿蘇山は移動した:2007/09/25(火) 22:45:27
>>787
編纂時期を調べればわかること。

けんちん汁:カツ丼についてる。根津のそばやさん。

奈良県若草山同意。意味不明ですが。
806九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/25(火) 22:48:34
>>802
三笠山は御蓋山(春日山)もしくはそれに花山をあわせた山群です。

子供の頃、若草山が三つ重なった山になっているので三重(笠)山と思っていましたら、間違いだと教えられました。
なお花山には大小3つの峰があります。確かに三笠になっています。
今では若草山のことを三笠山と言うのが普通になっているようです。
807プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 22:52:37
>>806

>みかさのやま

本心は「若草山」や「御蓋山」じゃないと考えています。
808九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/25(火) 23:03:30
>>806

追補 奈良の三笠山について

奈良盆地平野部からみて、手前から御蓋山(春日山)、花山、芳山と
三つの山が重なって一つの山に見えます。
三つの笠が重なって一つの山に見えるので、
三山合わせて三笠山だと教えられたのかもしれません。
809プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/25(火) 23:13:13
>>808王朝さん

>三つの笠が重なって一つの山に見えるので

その考えだと
三笠の山の命名は、笠よりも後の時代となりますね?
笠が存在するからこその「三笠山」ですから 
810ローガン:2007/09/25(火) 23:20:43
あらあら!王朝殿のご幼少の事でしたか。
勘違いしました。では「春日なる」はやっぱり今の春日市ですね?
811ローガン:2007/09/25(火) 23:55:09
春日なる三笠山…
お!福岡にもミカサ(御笠郡御笠)が在るぞ。お!そうか!大野の近くか。
お!春日も近くに在るぞ!「いでし月」フムフム東だな。ええと東の山は宝満山だな。よっしゃ出来た!仲麿派遣はやっぱり九州王朝だ!以上古田史学でした。
でも残念、春日の地名は件の歌が詠まれた頃にはまだなかったんですよ。
812九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/26(水) 00:12:47
>>809
「蓑笠」の「笠」はそんなに新しいのですか?
「傘」は新しいものですが。
813九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/26(水) 00:23:08
>>809

日本書紀に「素戔嗚命が蓑笠をつけて高天原から追われた」と書いてあるそうです。
原文はまだ読んでいません。
814九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/26(水) 00:37:00

食べ物で、アレルギーが出て、痒くて眠れん。
抗ヒスタミン剤が効いてくるまで寝られぬ。
815プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/26(水) 07:09:50
>>809

「笠」の文字は古いですよ史記にも使われていますしね
816日本@名無史さん:2007/09/26(水) 07:13:23
>>805
参照したか否かの問題であって時期の問題ではありません。
あなたは論理学について学ぶ必要があります。
817阿蘇山は移動した:2007/09/26(水) 11:23:16
>>816
もう読まれてると思いますが、
『上代日本文学と中国文学』小島憲之著。
を最度読まれることをおすすめします。これ読まずに日本書紀は、
理解出来ないでしょう。
818日本@名無史さん:2007/09/26(水) 20:34:17
>>765
オリジナルとは無関係の単なる後世の誤刻であるという定説を覆すのは無理。
819日本@名無史さん:2007/09/26(水) 22:10:26
中国の資料を、詳細に検討すれば、誤刻ではないとみれるそうです。
つまり、委奴(イト 奴は国に意味つまりイ国となる)−邪馬壱国(邪馬のイ国)ー邪馬台国(邪馬の大いなるイ国)
と変化していったということです。
820日本@名無史さん:2007/09/26(水) 22:19:47
訂正 奴は国に意味は奴は国の意味の誤りです。
821ローガン:2007/09/26(水) 23:25:48
>>818詳しく書いて!多分同じ考えのように思う。邪馬壹国は魏志の刊本だけですね。
822日本@名無史さん:2007/09/27(木) 00:01:09
>>819
何故に嘘を広めようと企むのかね?
823阿蘇山は移動した:2007/09/27(木) 04:59:37
邪馬一国は、もう終わった議論では?なぜ、まだ一国論者いらっしゃる
のかな?理解できない。
824太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/27(木) 07:40:13
終わるのは結構だが女王国は「邪馬壹国」だ。邪馬臺国ではない。後者とは
別物だ。国名は倭人伝の最重要箇所だ。陳寿も調べ上げた上で、ミスの点検は
やってる筈だ。そういう箇所を間違えるなどとは考えにくい。
だから前者が女王国の名だ。
825日本@名無史さん:2007/09/27(木) 07:58:33
>>823それが真実だからです。
邪馬壱国は西暦120年代に倭面土国を滅ぼしてから、委奴国が名称をかえたものです。
この名称は230年代に卑弥呼が魏に朝貢して金印を貰うまで続きました。
よって卑弥呼の最初の朝貢時は邪馬壱国と称し、次の朝貢からは邪馬台国となのったのです。
同一国家の同一王の時代の出来事であったために、後の史家が混同したのです。
826太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/27(木) 08:13:23
女王国は素直に「邪馬壹国」と陳寿の云うとおり受けとればいいことで、伝の
最重要部分だと考えを想い、漢字の間違いなどとの論は遺棄すべきである。

「高天原」の場合も稗田阿礼、太安万侶の云うとおり「天」は註からアマと読む
べきであり、「高天原」はタカマガハラとか本居宣長の云うタカマノハラとか
いう読み方は遺棄されるべきで、真は『タカアマハラ』と読むのが正なのである。

女王国の国名も「邪馬壹国」であって、他の漢字の入れ替えは棄却するべき
である。
827ローガン:2007/09/27(木) 09:34:33
太国さん、高天原はとりあえず置いといて。
邪馬壹国の初見は南宋の刊本。その事について後で書きます。
>>818の方ハンネつけて書いて。
828日本@名無史さん:2007/09/27(木) 11:54:53
900回も書き写したのでその内に間違えた
829九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 12:06:09
>>810-811
>勘違いしました。では「春日なる」はやっぱり今の春日市ですね?

「春日市」は新しいが「春日」は古いよ。
830ローガン:2007/09/27(木) 15:02:46
>>829仰る通り、春日という地名は春日市より古いですね。
春日の由来はご存知ですね? 仲磨呂の没年はご存知?
ほらね!「春日なる三笠山」九州ではなかったですね。
古田史学ってこんなものですよ。
831プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/27(木) 16:36:21
>>830
>古田史学

ヤクルトの?
832九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 18:08:36
>>830
諸説いろいろありますが、
春日市の「春日」は少なくとも7世紀には遡れますよ。
「春日」の起源は7世紀より古いと思います。

「春日(村)にやって来た神社を春日神社と名づけた説」
「カスガ」の地名に、後世「春日」の字を当てはめたのでしょうね。
833太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/27(木) 18:14:17
開化天皇 春日率川宮
834日本@名無史さん:2007/09/27(木) 19:35:40
>>824
陳寿は間違えなくても後世の写し間違いや後刻はあり得る。

>>826
嘘はいけない。
835太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/27(木) 19:46:05
>>834
『壹』と『臺』の見分けくらいつくよ。そんじょそこらのありきたりの駄文を
書くものではないんだよ。そんなものを間違えるくらいなら、書き終えた後に読ん
だ付き合いある学者とかがクレームを言って陳寿に直せと云いに来るはずだよ。
836日本@名無史さん:2007/09/27(木) 20:17:44
>>835
今見ることの出来る最古の三国志は、宋の時代に筆写されたもの。
陳寿との時間の差は、およそ800年。
その間に、何人の人の手で、何回筆写が繰り返されたかわからん。
その時に写し間違えられた可能性は否定できん。
後代に写し間違えられたクレームを、ずっと前に死んでる陳寿に直せとは言いに行けんな。
837九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 20:33:01
>>830
「カスガ」について、こんな説を唱えているかたが居られます。
ぼくの説を裏付ける説ですが、内容は未検証。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1188003709/95
上記は、ぼくの立ち入り禁止スレです。
838ローガン:2007/09/27(木) 20:55:45
>>837そろそろ「スレ違い!」ってスレ主さんが起こりそうなので、これで最後にしますが。
ご指摘の通り、由来は春日神社ですね。春日神社勧請は神護景雲二年(768)
仲磨呂没年は770年。「あまのはら…」はその10年前に詠まれた。
839太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/27(木) 21:41:01
>>836
『1』という単数を意味する漢字を間違えるほど連中は間抜けじゃないぜ。
840日本@名無史さん:2007/09/27(木) 21:49:18
>>839
魯と魚を間違えるほど連中は間抜けだぜ。
魯魚の誤り 魯魚亥豕の誤り 魯魚章草の誤り 焉馬の誤まり 三豕渉河
などなどググれ。
841日本@名無史さん:2007/09/27(木) 22:24:04
>>838起こりは怒りの誤りです。
842日本@名無史さん:2007/09/27(木) 22:29:01
連中にとっては
「邪馬壹」と「邪馬臺」の違いなんて
たいしたことではない。
それより「邪馬台」とウソ字を書くほうが問題だ。

もし「邪馬台」が許されるなら「台」には「イ」という音も
あるから「邪馬台」と書いて「ヤマイ」「ザマイ」と読める。
「邪馬壹」も「ヤマイ」「ザマイ」と読める。

すると「邪馬台」と書いても「邪馬壹」と書いてもほぼ同じ音だwww
843太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/27(木) 22:29:32
>>840
そういうのは間違えることはあるだろう?
その字は「1」だ。そんなの間違えるくらいいい加減ではないだろう。それを
否定するなら卑弥呼の名前も魯弥呼だと言われても肯定せざるを得まいが。
844九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/27(木) 23:06:50
>>838
春日神社勧請の神護景雲二年(768)以前から春日神社は存在する。
春日神社は御笠郡大城山からやって来たのだ。

『筑前國続風土記拾遺 巻之十一那珂郡』
春日神社 春日四所大神を祀る。
武甕槌命 斎主命 天兒屋根命 姫大神なり。
當社はむかし御笠郡大城山の上に鎮座し給へり。
後に爰に奉□といへり。

845日本@名無史さん:2007/09/27(木) 23:30:04
>>835
現存する最古の本がいつのものなのかさえも知らない無知蒙昧な輩であるという自覚を持つことが先決だよ。
846日本@名無史さん:2007/09/27(木) 23:32:41
>>843
> 「台」には「イ」という音もあるから
嘘はいけない。
847ローガン:2007/09/27(木) 23:59:56
太国さん!他の人は知らないが私は陳寿が、邪馬臺国を邪馬壹国と書き間違えたとは考えてないのです。
邪馬壹国と書かれた書物は南宋の刊本以降だけです。
そしてその以前に編纂された文献はすべて、邪馬臺国と書かれているのです。
後漢書から太平御覧まで多くの書はすべて邪馬臺と書かれているのです。(翰苑は嘉)
邪馬壹国という表記が登場するのは、南宋の刊本以降です。今書いた事はすべて事実であり、私の想像とか、説とかではありません。
南宋の刊本以降、元、明、清代の書はすべて邪馬壹国表記です。
それをさして、古田さんは、「三國志はすべて邪馬壹国表記だ」という訳です。
ここまで書けば賢明なROM者は理解されていると思う。
もしオリジナル三國志に「邪馬壹国」とあれば、魏志を引いた文献に書かれているはずです。
それに魏志に注を入れた、裴松之が黙っているはずがないのです。
彼は倭人伝で「絳地交龍錦」にまで字が違うぞって注を入れたんですよ。
そんな彼がオリジナル三國志に邪馬壹国とあって後漢書に邪馬臺国とあれば、必ずコメントするはずです。
つまりオリジナル三國志には「邪馬臺国」と書かれていたのです。
848日本@名無史さん:2007/09/28(金) 00:03:43
>>843
三豕渉河というのは、己亥を三豕と間違えたという話。
干支や「3」を間違えてるんだから、「1」は間違えるはずは無いというのは説得力無いな。
魯っていうのは、孔子が尊敬した周公旦という聖人が開いた国の名前で、当時の知識人なら誰でもしってる名前。
むしろ壹より魯の方が良く目にするくらいの頻出の漢字だな。

>>846
嘘じゃないみたい。辞書引いたら、台に「イ」の音あったよ。
849ローガン:2007/09/28(金) 00:25:51
>>841あ!どうもありがとうございます。
850日本@名無史さん:2007/09/28(金) 02:19:52
>>848
リンクを間違って書いていたけど、>>842のいうのは時代関係がデタラメなのだから嘘。

>>842
> すると「邪馬台」と書いても「邪馬壹」と書いてもほぼ同じ音だwww
気持ちの悪いデタラメを並べるな、大馬鹿者。
851阿蘇山は移動した:2007/09/28(金) 05:13:02
脱線もいいけど、一国って問題にしてたら、多分、学者連中からは、
やはりアマチュアって言われそうですが?えーここには、プロも
いらっしゃるのかな?
ヤクルトの古田さんこれで辞任決めたのかな?
852太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 07:12:45
>>847
>間違えたとは考えていない。
そこんとことは倭人伝の最重要部分だから失敗はないよ。となれば「邪馬壹国」
も「邪馬臺国」もどちらもあった国名ということであり、双方別々のものだ。
倭人伝には「邪馬国」というのもある。だから当時『邪馬』という名の一部を
冠する国が複数あったということだ。陳寿の誤記ではない。女王国名は当然
「邪馬壹国」である。
853太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 07:33:27
古事記にも壱岐島の記述が前のほうにあるが、別に「台岐島」的誤記は聞いた事
がない。あるとすればふざけたりそんな理由くらいだろう?
陳寿は当時の起点での古文献も一応目を通してるはずだろうし、倭人伝も書い
た後にチェックを怠ってはいないはずだ。それが最重要部分の国名とくれば、
間違えるなどとはよっぽどの超大ボケだということになる。ましてや単数字の
「1」ならば、そんな誤記なんて可能性は極めて薄いと観るべきである。

オーストリアとオーストラリアとはよく似た国名だが別国であるし、京都と
東京都も関西と関東ながら別物である。ヤマト国と邪馬壹国とは別と考えるのが
正解なのである。
854プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/28(金) 08:00:07
私も誤字・誤写の可能性類には懸念を覚える。
日本人が漢字を扱う感覚と、漢字だけが全ての中華人が漢字を扱う感覚はまるで違うのではないか?

一字のミスが文章をめちゃめちゃにする。
しかし、日本人にはその感覚が見えない。
855日本@名無史さん:2007/09/28(金) 08:58:59
魏志は「一支」を「一大」と誤記している。
実は「支」を何君閣道碑には「丈」と似た形で書いてある。
http://140.111.1.40/cutshing/cutshinga/sa00006/a0000611.jpg
魏志は西晋時代に書かれたが今日見ることのできる刊本を
刻んだ彫師も編集者も、その元になった写本の筆者も
「一支」が中国域外の地名なので「支」の古い字体の判読が出来ず
「一大」と誤記したことは明々白々だ。
金石文との比較をしないと原文が書かれてから数100年も経て
刊行された印刷本など信用できないよ。
856日本@名無史さん:2007/09/28(金) 09:13:05
99回も書き写してたら間違いは99カ所はでるかもしれない
857日本@名無史さん:2007/09/28(金) 09:15:45
>>854
>漢字だけが全ての中華人が漢字を扱う感覚はまるで違うのではないか?

中国人は中国領土内のことは正確に書くかも知れないが
領土外のことは不正確。
現代でも外国人の名前や有名ブランドの発音を音訳するとき
何通りかの漢字表記が現れ、やがて一つに統一されていく。

「示威僧侣到門口 翁山淑枝含泪出迎」
http://www.zaobao.com/yx/yx070923_503.html
この中で「翁山淑枝」が日本では「アウンサン・スーチー」と
訳されている。「翁」は今の普通話(中国の標準語)ではwengウォンと
発音する。
台湾出身の女優ジュディ・オングの「オング」の漢字が「翁」だ。
「アウン」に近い音を持つのは潮州方言だ。
http://hpcgi2.nifty.com/Gat_Tin/fangzi.cgi?kanji=%B2%A7
「翁」という漢字一文字に対して「オウ」「オング」「アウン」「ウォン」
と4つの音がある。
「翁山淑枝」を日本式の「オウサン・シュクシ」と読んでは
誤りだというのは誰の目、耳にも明らかだ。
858太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 10:07:35
>855
一大を「二大」「三大」との誤記があるかね? 一のほうは後続の漢字と違って
数字だぞ。暦法の相違で計算の間違いとやらでの誤記はあろうが、数字は物の
個数、台数、量数のゴマカシを避けるためのものであり、一里は二里、三里と
大違いだ。一大の「大」も結局物の数量の多いほうの形容字であって、後続に
ついているところを見ると、一数でもここは大きい量に観ていた意味にとれ、
数字の意味の強調をするためにそんな「大」字を使ったのだろう。

お前もコンビニへ今日でも行って10円おつりのところ1円出されれば文句を言う
だろう? 数字というのはそういう厳しいものであり、利害に関わるものだから
伝の国名での「1」の単数漢字を使用した部分は誤魔化しではまずない。

当時国名で『邪馬』を使用する国がわりかし慣用で準常用していたのが真相だ。
だから邪馬壹国と邪馬臺国とは別の国であり、邪馬国というのもあったことから
複数で『邪馬』のつく国名があったということである。

現今でも国に次いで大きい県にも「山形県」「山梨県」「山口県」などがあり、
ヤマというのはけっこう使用での読みよいのか使われれ易い語だということだ。
断じて女王国は「邪馬壹国」である。
859太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 10:12:21
壱岐を一大と書き、女王国の名で『壹』を使用しているところを鑑みれ
ば、一大の「一」は国名の中の『壹』字を注視強調させる意図があったと
考えてもよい。だから伝の国名は「邪馬壹国」 そのもの である。
860日本@名無史さん:2007/09/28(金) 10:47:02
一二三の誤写なんて古文書古典籍じゃしょっちゅう
861太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 11:06:30
>>860
だから暦法、推定とか計算上とかの場合はあるよ。ここは数字において国名
だろうが。それも単数だぞ。なにか他で、推定なら狂ってくるよ。それでも
間違いをしないでと考えた上での誤認だろうが。写し間違いが数字の単数まで
間違えてんなら、伝の他の文もスレ主にはわるいが、間違いだと言われても仕方
あるまい。現今の銀行なんか1円のズレでも計算しなおしで、行員は帰宅がおぼ
つかないだろうが? お前も1万円の電卓を買うに1円を出したきりでは、売店
の店員が苦笑するぞ。ww
862日本@名無史さん:2007/09/28(金) 11:45:14
一、二、三の誤写はよくありますが、壱、弐、参の誤写はありませんよ。
863日本@名無史さん:2007/09/28(金) 12:27:41
>一のほうは後続の漢字と違って数字だぞ
「一」は漢字じゃないってかwww
864日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:38:07
「いき」の島が「一支」から「壱岐」に変わったのは
隋或いはその前の北魏、北斉、北周の時代には
記紀や風土記を編纂した時代には「支」の発音がkiから
tsi或いはtSi(仮名では「し」に対応)に変化したしたため、
当時は漢土の都でもkiと発音していた
「岐」の字を宛てたと考えるのが妥当。

万葉集では3689番の歌の題詞に
「到壹岐嶋雪連宅満忽遇鬼病死去之時作歌一首并短歌」

3694番の歌に「由吉能安末能」=壱岐の海人の
3696番の歌に「由吉能之麻」=壱岐の島の
という表記がある。

「いき」=「由吉ゆき」「壹岐いき」で日本人でさえも
書き方が不安定だwww
865太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 14:13:38
>>863
お前は揚げ足取りだろうが。そんなことを言って崩すのか?
「一」もそれは漢字だよ。漢字じゃないとは言ってないはずだ。
だが数字でもあるわけだよ。
866ローガン:2007/09/28(金) 15:29:01
>>852では、太国さんに聞きますが、後漢書の
「自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許国国皆稱王世世伝統其大倭王居邪馬臺国」
の部分にある大倭王と卑弥呼は別人であるとお考えなのですか?
867太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 16:14:09
>>866
後漢書のほうはそれがしのテリトリーでないから貴殿と知識が大きく開いて
いるし詳細は書けるわけもないが、この文は432年成立かね?
そうだと倍暦で計上すればこの年は日本では允恭の世だ。
まだ考えが固まっていないところはあるが、その大倭王は卑弥呼ではないよう
だな。天皇の可能性も相当あるので断定はしないが、倭の五王朝の王だな。
どうも卑弥呼ではないね。ここでの邪馬臺国は五王朝の国のようだ。
>>847の件
裴松之が間違ってると注を書いたということですか? そうなるとこの人は
邪馬臺国は知ってても邪馬壹国のことは知らなかったということだな。二つ
国があることは知ってなかったということだ。他にも『邪馬』の国名のつく
国が多少なりとも存在していたが、彼は一つだと思っているから間違って
いるぞと注をつけたことになる。二つ以上あればその注は無意味となって来る。
868ローガン:2007/09/28(金) 16:35:39
太国さんごめん。後半の意味がわからない!頭が悪いので、分かりやすくお願い致します。
869日本@名無史さん:2007/09/28(金) 16:58:28
太国さん、プラムさん
邪馬臺國の他に邪馬壹國があったとする根拠は何?
870日本@名無史さん :2007/09/28(金) 17:03:11
ローガンさんへ

お願いですから、倍歴亡者に火をつける行為は
謹んで下さい。
他の人が迷惑します。
871太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 17:19:46
>>868
>>847からですから、そこの後段をいま一度説明願いま〜す。

>>870
お前は通常暦カルトか? 暦法論日本古代史年代特定に重要密接不離なものだ。
それがいやなら日本史板からとっとと消えろ。
872日本@名無史さん:2007/09/28(金) 20:19:12
>>858
>一大を「二大」「三大」との誤記があるかね?
莫伽な事を訊くね
873ローガン:2007/09/28(金) 21:28:44
>>871私の書き方が下手やったのでしょう。
裴松之が三國志に丁寧な注を入れた事はご存知の事と思います。
当時、裴松之が倭国の記事を目にする事が出来た史書は、自身が注を入れた魏志と後漢書東夷伝ですね。
後漢書の倭人の記事は先に成立した魏志倭人伝からの引用が多いですね。
そして国名は「邪馬臺国」です。
魏志はご存知の通り「邪馬壹国」です。
陳寿が記したオリジナルの魏志倭人伝に「邪馬壹国」とあれば、裴松之は、後漢書との違いを注記した筈です。
しかし、国名に関する注記が無い。という事は、彼が読んだ魏志と後漢書には同じ国名が書かれていたと思うのです。
つまり「邪馬壹国」か「邪馬臺国」です。

その後に書かれた魏志を引いた史書は、私の認識が間違っていなければ、太平御覧まで「邪馬臺国」です。
それ以降「邪馬壹国」になります。ちょうどその境目に今、我々が見ている「三國志南宋刊本」があると思うのです。
そう考えれば、南宋刊本以前の魏志には「邪馬臺国」と書かれていたのではないか!と思うのです。
874太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/28(金) 23:21:22
>>873 ローガンさん
深夜なので少しとしますが、
>>847の件
>もしオリジナル三國志に「邪馬壹国」とあれば、魏志を引いた文献に書かれ
 ているはずです。
これは魏志を引いた文献とやらの作者が貴殿らのように「邪馬臺国」だと
信じすぎて勝手にそう思いこんでいたからですよ。だからこの作者の考えの
間違いから「邪馬臺国」との決めこみで字を「臺」にしてしまったということ
です。だからそれはアテになりません。

裴松之が違いを注記したはずだとおっしゃられますが、書くとは必ずしも決め
られません。というのは、彼は先述の文献の作者のような勝手な想いこみから
のゴリ押しをしたのではなく(この点、裴松之は立派だと云えるようですが)、
裴松之は迷ってたか、その字の違いを悟っていて「臺」とは思ったかも知れぬが、
万一「臺」でなく「壹」だったとしたら後世に誤報をしてしまうとおそれたため
無言で触れなかったということです。だから彼は自信がなかったわけで、無理
やり「邪馬臺国」とするのを躊躇したということです。
つまり真は『邪馬壹国』です。

紀にも成務の記述が少ないのもこれと似ているようで、舎人らは書けないある
困った事由が文献等にあったために、誤報をさけるために記述を保留したもの
です。そんなようなことですよ。
875日本@名無史さん:2007/09/28(金) 23:44:43
>>852-853
奇妙な間違いにかじりつく悪癖を改めること。
876日本@名無史さん:2007/09/28(金) 23:46:06
何年いつまで毎日毎日こんな不毛こと議論してんだ?頭おかしいんじゃないか?
877日本@名無史さん:2007/09/28(金) 23:46:34
>>855
「一大卒」も「一支卒」ですな。
878日本@名無史さん:2007/09/28(金) 23:47:17
>>876
ざっと数百年。
879ローガン:2007/09/29(土) 00:07:54
私も深夜なので少しにしましょう。あなたのレスはいつも楽しみに拝見してました。ただ先ほどのお話は残念ながら、今は亡きサガミハラハラ氏の弁のごとき内容でした。まあ、ご専門ではないとの事、お答え頂きありがとうございました。
880ローガン:2007/09/29(土) 00:23:51
>>876確かに不毛ですね。でも結構楽しんですよ。
881九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/29(土) 01:28:54
>>855
>>864
>>877
「一大國」は「倭支國」又は「壹支國」で、
「一大卒」は「倭支率」又は「壹支率」だね。
882日本@名無史さん:2007/09/29(土) 02:22:23
>>881
いや、「一大」は「”一”大」だけど?
883九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/29(土) 06:52:16
>>882
漢籍では、「”一”大國」とは書かない。
もし書くなら、、「”一”國」か「”一”奴國」だろう。

>>855>>864の様に、「一支國」の写し間違いが「一大國」になったと考えるのが妥当。
884プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 07:04:49
漢語「一大・率」と「一大・事」は、同じ使われかた。
885九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/29(土) 10:08:37
金思Y(くむさよう)氏は百済(くだら)の官職名として次を挙げている。

達率、恩率、徳率、杆率、奈率  (北史百済伝)
大率、恩率、徳率、杆率、奈率  (隋書東夷伝)
      竃セ石書店発行「古代朝鮮語と日本語」より

役職名の可能性が高いんじゃないの?

886九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/29(土) 11:28:34
百舌古墳群を世界遺産に、という動きに、今あってるTV番組で付けた題が
「世界遺産に名乗り続々。仰天候補地の思惑は・・」だと。
887プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 12:16:09
>>885

じゃあ『確率』も役職なの?



また自演だと言われるかな?(笑)
888日本@名無史さん:2007/09/29(土) 13:25:36
>>883
>漢籍では、「”一”大國」とは書かない。

「一大」が表意的なものではなく
万葉仮名のような表音的なものならあり得る。

「率」が役所の名前なら「卒」のほうがふさわしいかもしれない。
「一大率」も「一支率」を誤記誤刻した可能性がある。
というのも「【大率】=大概、おおかた。」という熟語(複音節語)が
あるから。
《三國志》呉書,周瑜傳「性度恢廓,大率為得人。」
《史記》平準書:「於是商賈中家以上大率破,
         民偷甘食好衣,不事畜藏之産業。」
889太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/29(土) 14:11:51
「大」という字は「支」という字の、中の小▽を除いた漢字だからな。w
890九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/29(土) 15:37:56
>>888
>「一大」が表意的なものではなく万葉仮名のような表音的なものならあり得る。
「大」が表音であるなら、卑字もしくは中立的な文字を使う。
「一大國」なら「一」の(と言う)大国と取られかねないから。

>「一大率」も「一支率」を誤記誤刻した可能性がある。
同意。
891九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/29(土) 15:45:45
一大率って周りの諸国が畏怖してるんでしょ。そして伊都国以北には設置されている。
「魏の使者は必ず伊都国に立ち寄る」という事は魏使は一大率の出迎えを受けたんでは?
一大帥と同じ発音である事からこれと同義であり軍隊でしょう。
892九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/29(土) 16:02:00
>>891
「一大率」が「一の大率」なら、数字である「一」に意味が成り立たない。
「支」を「大」と誤認した「一大の率」が妥当。
893九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/29(土) 16:47:15
>>892
数字である「一」に意味が成り立たない。

そんな事は無いと思う。「大率を置いて」と意味合いは同じでしょう。
894九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/29(土) 16:57:01
>>892 さらにこのようにある
「女王国より以北には、特に一大率という役職を置いて諸国を検察させている。
諸国はこの一大率を畏(おそ)れ憚(はばか)っている。伊都(いと)国に常駐している。
その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである。
 魏(ぎ)の都・帯方(たいほう)郡・朝鮮半島の諸国などとの外交文書や贈り物は港で検査し、
間違いが無い様にする」
「中国の地方長官の刺史」は地方において絶大な力を持っていた。
特にこの時代の刺史はその傾向が強い。孫栄健氏は次の様に述べている。
都督(方面司令官)と刺史は兼任職となった。もはや単なる行政監督官ではなく、
兵・民・財政各部面に亘って強大な権力を有する軍政長官となったのである。
これが邪馬台国の時代の刺史の実情であった。
                 大和書房発行「魏志東夷伝への一構想」より
このような権力を持てば、「諸国がこの一大率を畏れ憚る」のも当然である。
「畏れ憚る」とは恐れて対等な言動は出来ないという事である。
「一大率」が「一大率」という役職であるのか、一人の「大率(だいそつ)」という役職なのか
議論があるようであるが、勿論一人の「大率」であり、役職名が「大率」である。

こう考えるのが妥当でしょう。
895プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 17:23:21
>>893

>数字である「一」に意味が成り立たない。

そんな事は無いと思う。「大率を置いて」と意味合いは同じでしょう


数詞「一」に意味はないよ。あるのは漢字「一」の字義だけ
896九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/29(土) 17:36:18
「一」は英語で言う「a」「ひとつの」と同じかもしれません。
中国の地方長官・「刺史」は絶大な権力を持っていたといいますから
一というのが当時の中国でどのような意味合いで使っていたかが重要と思われます。
あるいは「ちょっとした」「こじんまりとした」という意味合いで使っていたのかもしれません。
897プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 19:03:55
>>896
そんなに難しく考えなくても
『一』はどう転んでも『一』単なる記号ですよ
別に単なる記号だから“点”でもいいんです。
サイコロの『一』だって一つのマルでしょう?
漢数字の『一』だって一画、

敢えて『一』に意味を持たせるなら(一番小さな、或は少ない数詞)


詰まり
『一』『大』の組み合わせは、全く対象的な組み合わせな表現なのです。
898日本@名無史さん:2007/09/29(土) 20:37:37
>>884
「率」には大も小もない。
899日本@名無史さん:2007/09/29(土) 20:38:21
>>897
「一支」の写し間違い。「一支の率」。
900プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 21:08:05
>>898

>「率」には大も小もない。

当然ないよ
901阿蘇山は移動した:2007/09/29(土) 21:53:35
あーあ、邪馬一国で900こえか。
注で、きずいたけど、奴国2つ出てくるのに注ないのね?何故?
902プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 22:23:09
>>901
同一だからだよ
903日本@名無史さん:2007/09/29(土) 22:34:34
>>902
同一なら同一と注を付けるはず。だれだって疑問を感じるところなんだから。
注が付いていないということは、裴注成立以降の誤記である可能性もある。
904日本@名無史さん:2007/09/29(土) 22:57:06
ローガンさん
オレも邪馬壹國は誤記だと考えてるけど、裴松之が注を付けるはずというのには、ちょっと賛成しかねる。
裴松之と范曄は同時代人だけど、裴松之が三国志注を作るときに、既に范曄の後漢書が完成していて、
裴松之がそれを読んでいたという確証が持てないんだけど、どうでしょう。
それに、同時代人の新作を、注に引用するのかという疑問もある。
謝承の後漢書とかは引用しているけど、范曄の後漢書は引用例がなかったと思う。

>>874
太国さん
裴松之は、疑わしきは記載するという姿勢で三国志注を作ってる。
例えば、山陽公載記の記録を引いて、自分には信じられないと否定している。
捜神記のような史書と言い難いものまで注に引いている。
邪馬臺國と邪馬壹國の違いで躊躇するようなことはない。

レスを見ると、邪馬臺國として引いた文献を実際に読んだことはないみたいだが、
読んだことの無い文献を、編纂者の思い込みと決め付ける態度は如何なものか。
それほど邪馬壹國の存在を確信する証拠は何?
905プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 22:57:12
>>903

>同一なら同一と注を付けるはず。だれだって疑問を感じるところなんだから。
注が付いていないということは、裴注成立以降の誤記である可能性もある。


疑問を感じるのは今の日本人ぐらいなもんだよ
ご当地でも疑問視されているのかい?
普通に考えれば同一、それをあれやこれや引っ掻き回すから異質に見えてしまうだけ
906日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:08:53
>>905
九州島一周説は成り立たんよ。
907太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/29(土) 23:14:24
>>904
それは古神道の「卜事」だよ。最高機密を知ってるからさ。軽く言おう。
臥海や文部科学省が教科書で縄文弥生とかで時代を考古で区切ってるようだが、
古神道にも時代の区分はあったんだよ。
どういうのかというと、神武以前が基本的に1番目の時代なんだよ。神武以降
は2番目の区分の時代に入る。3は明治で仕切られる。
ところが場所的には1は九州と、2は畿内、3は東京と決まってるのさ。2の
時代に入って1の時代の再来をやりたかったのが卑弥呼なのさ。だから国名に
それを強調するため数字の『壹』がつくのだ。鬼道は特殊神道だよ。そのへん
だな。
裴松之が疑わしきは記載するといっても例外はあるのさ。絶対ではない。
女王国は邪馬壹国が真である。

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・
908プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/29(土) 23:19:36
>>906

>九州島一周説は成り立たんよ。

一周しなければ規模が解らない
909日本@名無史さん:2007/09/29(土) 23:38:20
>>908
規模が解らないのはおかしいから、記述は一周しているはずだというのは、本末転倒だね。
910日本@名無史さん:2007/09/30(日) 00:05:00
>>907
その最高機密を公開するつもりが無いのなら、発言しない方が良いのではないか。
根拠を示せない限り、世間から馬鹿扱いされるのは避けられないし、
それが嫌なら公開するしかなくなる。どちらも、自分の不要な発言が招く結果だ。
いやしくも自分は秘伝・口伝を伝承する者だという自覚があるのなら、
沈黙は金というのが取るべき態度だと思うんだが。
911プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 00:08:40
>>909

何をおっしゃるウサギさん
九州島一周の理論は過去に散々書きまくっているよ

>規模が解らないのはおかしいから

解らないのは(おかしい)などという主観的な発言は一度もしていません。
話を都合のいい方に誘導するのはよしましょう。

912日本@名無史さん:2007/09/30(日) 00:24:09
>>911
908のレス
>九州島一周説は成り立たんよ。

一周しなければ規模が解らない


だから一周しているという以外に、どんな読み方があるのかな。
913プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 00:54:10
>>912

では、九州一周が成り立たないと最初に言い出した貴方の説明でも聞きますか?
914プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 00:56:58
規模を測量するためにね
915日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:18:31
>>913
キミの九州一周説は、斯馬國から奴國までの國が女王國の北側にあることで成立してたよね。
でも、それは「略載」の誤読だということは、以前に指摘しておいたはず。
戸数道里の略載だと陳寿自身が書いているのだから、倭人伝は精密な測量記事ではありえない。
916日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:40:41
>>900
「率」の意味からいって「大率」と解釈するのが誤り、ということが分かっているとは思われないが?
917日本@名無史さん:2007/09/30(日) 01:41:50
>>911
> 九州島一周の理論
ほう、そういう牽強付会の説もあるのかね?
918ローガン:2007/09/30(日) 02:03:12
>>904そうですね。私が思う事をストレートに書きすぎたかも知れません。
ただ范曄の正史「後漢書」に先立つ、所謂7家後漢書は三國志にも引用されている書もあり、
この辺りのそれぞれの史書の引用関係、ややこしいですね。
もしよければ、お説を聞かせて下さい。HNをつけて書いてもらったら助かります。
レスの区別が難しくて!
919日本@名無史さん:2007/09/30(日) 05:56:44
>>897
>敢えて『一』に意味を持たせるなら

「一」を意味あるものとして使うなら
當其盛時、王畿千里、固結爲一大國
  (支那通史、第三篇諸侯本末、第一章周代封建之制)
の様に分裂していたものが統一されて「一大國」となった
という意味合いだ。
>別に単なる記号だから“点”でもいいんです。
単なる記号ではないから“点”ではない。
「一」が“点”なら「統一」が「統・」となってワケワカメwww
920九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 06:59:04
とにかく「一大」だろうが「大率」だろうが知れたこと。
これはどういうものであるかというと「如刺史」と記されているから
「その様子は、まるで中国の地方長官・刺史(しし)のようである」
という意味になり、この意義は動かし難い。
このような強大な権力を持ったものが九州にあったことが重要であって
もしも邪馬台国が畿内にあって伊都国に一大率という地方長官が
置かれていたという事になれば畿内からあまりにも遠すぎる。
しかも本州のどこにも他の一大率があった具体的な場所は書かれていない。
「女王国以北に一大率を置く」と言うのは伊都国のことを指しているのであって
九州域を出ない。さらに女王国は伊都の南に位置していた。ということになり
畿内説は成り立たない。ただそれだけの事である。
921プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 07:40:57
>>915
『略載』が誤読だって?


略載の解釈は『自女王國以北』と『自女三國以北』の問題が片付いてから概ね判断してよ
こっちだって全部を出してるわけじゃないんだし


あっ
『女三國』が誤版や磨耗は無しだよ 臭いものに蓋をしても、蓋をした事実はのこるから


ま、韓半島歩いて調整するよりはいいけどね(笑)
922九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 07:44:10
あ、ごめんね今は畿内説の事なんかそっちのけで話題にも上らなかったね。
わるいわるい!
923日本@名無史さん:2007/09/30(日) 07:55:51
「自女王國以北」の前段の
「使大倭監之」の「大倭」も変だな。
>>920
何で「倭」の前に「大」が付くのだろう。
「倭」は「東海中女王國」(龍龕手鑑)の他に
「順皃」(説文解字)
「慎皃」(高麗本龍龕手鏡)
という意味がある。
924太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 07:57:10
>>910
お前も名無しで書きこんでるだろう。名無しの沈黙ではお前は自語相違では
ないか。そこまで言うならお前も本名コテハンで堂々と書きこめばいいでは
ないか。こちらは最低限の説明はしている。

たっぷりと時間が経過して研究が進展したときは、世間に出してやるよ。
ノーベル賞をもらいたいところだが、神々を論じる古神道の内容では敬遠され
るだろうな?w お前はシ−ンとなるだろうがね。 マァそれでも能書きは
くやしいながらお前は絶やさないだろうがな?ww
925日本@名無史さん:2007/09/30(日) 08:02:07
>>920
>畿内からあまりにも遠すぎる
【倭遲】=「歴遠之皃」トヲキヲフルノありさま。
     詩經,小雅,四牡:「四牡騑騑,周道倭遲。」
【騑騑】=「行不止之皃」

倭亦作威,遲亦作夷。=「倭」は亦た「威」とも書くし、
           「遲」も亦た「夷」と書く。
倭人は古代から距離を大げさに報告する習性があったようで
「倭遲」「倭夷」が「はるばる遠い」という意味を持っているのが
面白い。これも倭人が大昔から距離を過大に報告していたためではないか。
926日本@名無史さん:2007/09/30(日) 08:21:22
>>923
>「順皃」
>「慎皃」

「順」と「慎」は字形がよく似ている。
これも誤認、誤刻の可能性がある。
「中国は漢字の国だから印刷職人が字を間違えることはない」
という認識は改めなければならない。
927九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 08:40:12
>>925 倭人は古代から距離を大げさに報告する習性があった

とは、どの箇所からそのように判断されたんでしょうか。
また、こちらが>920に言っている「畿内からあまりにも遠すぎる」とは
畿内説をとった場合、伊都国の一大率が畿内から離れすぎている為、
魏王からの女王の品を伊都国を通らずに直接本州のどこかの海岸に運ぶ、
いわゆる抜荷のようなことにもなりかねない為、関所は一箇所でなく
一大率のような機関がが本州の数箇所にあって然るべきではないかと考えたもの。
それは畿内の女王の都に近づくほど厳しいチェック態勢があるのが当然で
倭人伝にはそれの記述が無いのはどうしてか、という事を言っているのです。
928日本@名無史さん:2007/09/30(日) 08:56:21
>>921
プラムさん
女三國は女王國の誤刻以外の何があるのかな。あるのなら、是非ご教授願いたい。
それとは別に、女三國だろうが女王國だろうが、略載の意味は変わらない。
略載が「簡略化した内容を記載する」という意味であることは、
異論は無しと考えてよろしいか。

>>924
太国さん
これは、失礼しました。
神道の秘伝っていうのは、普通公開しないものと思い込んでいたので、
まさか世間に出す予定があろうとは、思いもよりませんでしたよ。
てっきり、太国さんも死ぬまで公開はしないんだと思っておりました。
まあ、そういうことなら、分野的にノーベル賞は無理ですが、文化勲章くらいは目指して頑張ってください。
しかし、伝授の際に他言無用とか言われないのですか。
公開なんかして、同門の人たちに怒られたりしないんですかね。
929プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 09:02:31
>>926
>「順皃」
>「慎皃」

その誤認、誤刻の可能性は日本人によく見受けられる「見る/形」行為による判断で
字義的な見解が全然示されない曖昧な判断ではないのかな?

>「中国は漢字の国だから印刷職人が字を間違えることはない」
という認識は改めなければならない。


一般雑誌などとは分けて判断しよう
宋代版本に目を通した当時の学者達の見解はどうなのかな?
「誤」の可能性をピーチクパーチク騒いでいるほとんどは、日本の(つまり外国の)関係者が
ほとんどじゃないか?

確か?註訳はされているが、「誤字」の判断で訂正しなければならない
なんて部分はないはずだが?



930プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 09:14:41
>>928

>略載が「簡略化した内容を記載する」という意味であることは、
異論は無しと考えてよろしいか。


略載を「略載」とするか「略」「載」とするかで意味合いが変わってしまいますが、
ここは大まかに
『省き載せる』と言う考えが私のはんだんです。


 『女三国』の解釈はおいおい書き込みしていきたいと思います。
多分?文才がおありの方なら、このネタだけで一冊の本を書くことの出来るネタなもので


931九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 09:42:11
「順皃」(説文解字) 「慎皃」(高麗本龍龕手鏡)
という意味がある。

実際に使われた例はないんでは?
932日本@名無史さん:2007/09/30(日) 10:15:47
>>929
>字義的な見解が全然示されない曖昧な判断ではないのかな?

何に対する「字義的な見解」か書いてないのは
プラムさんの落ち度という風に記録しました。

「説文解字」は「倭」を篆書体で示した後、字義を「順皃」 としている。
「順皃」とは「逆らわず大人しい様子」だ。
「龍龕手鏡」は「倭」の意義を「慎皃」と書いている。

今手に入る香港版《辞海》は「倭」の意義を「順皃」として
「説文解字」の説を採用し、「龍龕手鏡」の「慎皃」を無視している。
康熙字典も「【説文】順貌。 又倭遲,回遠貌。」として
「龍龕手鏡」を無視している。
これは「慎皃」が誤写であると中国人が考えている証拠だ。
933太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/09/30(日) 10:17:56
>>928
他言無用としたいものもありますが、「卜事」(ウラゴト)は最高機密でも
全部公開することになります。ほかにも別物持ってますんで・・・・・。
別物の片鱗を書きこんだら名無しさんに書きこみは勘弁してくれとあわてて懇願
された事があるので、停止しました。出されると非常に困る、商売が成り立た
なくなるらしい。
934日本@名無史さん:2007/09/30(日) 10:21:15
>>929
>宋代版本に目を通した当時の学者達
この字句で「当時」というのは何時を指して当時といってるのですか。
「当時の学者達」とは誰のことですか。
雰囲気で判断してほしいという意味ですか?
935日本@名無史さん:2007/09/30(日) 11:12:05
>>930
プラムさん
自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳.
上記のように、「可得略載」と「不可得詳」は対になっているので、「略」と「載」をぶった切ってはいけません。
それから、『省き載せる』というのは、「簡略化した内容を記載する」と、どう違うの。

>「誤」の可能性をピーチクパーチク騒いでいるほとんどは、日本の(つまり外国の)関係者が
>ほとんどじゃないか?

儒教の経典ですら、誤刻の可能性をピーチクパーチクやってるよ。
訳註を作る場合は、底本の字をなるべく変えないってのが基本的なルール。
936プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 12:04:54
>>935
『可得略載』と『可』『得』『略』『載』
の違いかな〜ぁ?

現代の我々の視点からは「可得略載」なんだろうけど(同じ列びの用例もあるし)
937プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 12:19:08
>>935

貴方が対と判断した「可得略載」と「不可得詳」
何処が対なの?
938日本@名無史さん:2007/09/30(日) 12:57:29
倭人は東北や北海道よりも
アムール川沿いに広く分布していたんだろう?
939日本@名無史さん:2007/09/30(日) 13:05:28
>>937
可得⇔不可得 略載⇔詳 で意味的に対。 4文字ずつで字数でも対。
940プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 13:23:47
>>939
内容的な事を期待したんだけど無理っぽいね?

それに
「可」⇔「不可」
「略」⇔「詳」
の事?
941日本@名無史さん:2007/09/30(日) 13:40:06
>>940
可得⇔不可得 略載⇔詳 って、内容そのものじゃん。何が不満なのかわからんなあ。
どういう回答を期待していたのか、ちょっと書いてみてよ。ご期待に応えられるかもしれないよ。
それに、可得⇔不可得 略載⇔詳 をわざわざ「可」⇔「不可」「略」⇔「詳」って言い換えたい理由は何?
今日は、ちょっとこれからレスできないので、悪しからず。
942ローガン:2007/09/30(日) 14:11:40
>>920九州ですがさん。亀レス失礼。
一大率は「如刺史」でまるで「中国の地方長官」との事。
九州ですがさんが九州のどこに女王の都を考えておられるのか知らないのですが、
もし邪馬台国を北部九州にあるとお考えなら、貴方が仰る所の「地方長官」は必要ないでしょ?
離れた場所だから、「地方長官」を置く必要があるのではないですか?
943神奈川県民改め三重県民:2007/09/30(日) 14:28:05
みなさんにお聞きしたいのは「魏志倭人伝の信憑性」ですね。
本当に信頼できるのでしょうか。魏の国にもほかのライバル国に対する、
政治的ななにかがあったのでは・・・。
944九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 15:21:15
>>942
疑問は御尤もですが、私が考える女王の都は甘木あたりで伊都まではかなり距離があります。
一大率は魏からの積荷の検査なども兼ねて行っていたのではないでしょうか。
大陸からの玄関口に位置している為いざというときの一大率の軍も常駐していたと思います。
一大率は中国の刺史のようだ、という事であって、勿論中国のそれとは別物です。
945ローガン:2007/09/30(日) 16:03:01
>>944なるほど、了解しました。ではもう少しお訊きしましょう。
甘木にあった邪馬台国は卑弥呼死後、どうなったのでしょう?
あ!今されている、一大率の「論戦」が、一区切りついてからで結構です。
946九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 16:59:26
>>945
私は卑弥呼の死後どうなったか、まではあまりタッチしていません。
なんせ邪馬台国は文献からも忽然と姿を消してしまいますから、
想像でしか書けません。が、僕の考えではクナ国との争いの中で
魏の援護も受けられなくなり両国とも次第に衰退して
女王国の都もやがては放棄され野に帰ったのではないか、
そして邪馬台国の記憶も人々の記憶から次第に忘れ去られていった
のではないかと思っています。その衰退に止めを刺したのが
大和朝廷の遠征によるものであったはどうかまではしかと解りかねますが。
両者に何らかの接点はあったでありましょう。
947九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 17:26:02
>>946続き
もう一つ付け加えるならこの頃大和朝廷側には「ヤマト」という名は無く
「倭」であり大陸では名の知れ渡った北部九州の邪馬台国の名を冠したと考えます。
そのときに「倭」は「大倭」となり「大和」と字は変わりましたが
ヤマトと呼ばせることにしたのです。
948ローガン:2007/09/30(日) 18:11:25
>>946
>この頃大和朝廷側には「ヤマト」という名はなく「倭」であり

卑弥呼が死亡した頃、大和は「倭」であった。という事ですね。

なるほど!そうすれば後漢書でいう所の大倭王は大和にいた訳ですね?よく分かりました。
949阿蘇山は移動した:2007/09/30(日) 18:44:45
なんだか、レベルがあがってきたな。ついていけなくなりそうだ。
奴国同一か。なるほどね。でも、九州一周は、どうかな?邪馬台国から
Uターンは、ダメ?
950ローガン:2007/09/30(日) 20:12:07
そうですね。レベル上がってきたのでしょう。古田史学ははしかのようなもの。
私もそうでした。畿内説など歯牙にもかけなかったのですが。やっぱりはしかでした。
皆さんのレスみてたら、凄く楽しいですよ。
951プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/09/30(日) 20:42:30
★思わず“プッ”としちゃう『漢和事典』の説明


『可得』を某漢和事典で調べてみると
☆可能の助動詞「可」と「得」とが熟して可能を表す助動詞として機能する「可レ得ニ…」(…スルヲうべし)あるいは「可ニ得…」(えテ…スベシ)の形で「…できる」「…しうる」と訳す。


『この説明笑える』
952九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 20:55:47
>>950
40年前、眉唾で『邪馬台国はなかった』を読んでみた。
それ以来、40年間麻疹に罹りっぱなしらしい。
という事かな?

しかし、「古田史学」なんて知らない。
ぼくが知っているのは古田説。
953九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 21:26:46
>>946
卑弥呼死後=壹與後はどうなった?

壹與後数十年、
狗奴國狗古智卑狗が北上攻め込んで来た。
邪馬壹国は敗北し狗奴國の支配下に入った。
それは、菊池の中部九州古墳形式の北上として物語たっている。
そして倭五王政権へと繋がっていく。

狗奴國=3世紀熊本の国、として。
狗古智=菊池ではないかと思われる。
(狗古智卑狗=菊池王)

954九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 21:49:05
>>953 (狗古智卑狗=菊池王)

一つ聞きたいけど、狗古智卑狗って王じゃなく
クナ国の長官の名前じゃ無かった?
955九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 22:04:35
長官クラスにとどめているは、
魏使と女王の政治的立場による偏見。
女王に敵対して並立しているのだから、狗古智も王となる。

卑狗=彦なら、彦は王です。
中国式の「王」は古代日本では「大王」
956九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 22:25:49
>>955 狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗

が原文ですが、男子を王となす。
狗古智卑狗という官がいる。に分かれてません?
957九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/09/30(日) 22:42:56
王の名は卑弓弥呼(ひこみこ)。狗古智卑狗は長官だと思います。
958ローガン:2007/09/30(日) 22:44:29
>>953「菊地の中部九州古墳形式の北上」が、狗奴国の北進を証明している、という事ですね。
レスを拝見する限り、狗奴国の墓制は「中部九州古墳」ですね。
3世紀の狗奴国の墓制、「中部九州古墳形式」の祖型は、どこに求めておれらるのでしょう?

>そして倭五王政権へと繋がっていく
北進した狗奴国が「倭五王政権」になると仰る。
貴方のいう「中部九州古墳形式」の墓制を持った集団の王が所謂、倭の五王であったとするなら、その王墓をどこに比定されますか?
また、「中部九州古墳形式」の持つ顕著な特徴とはなんでしょう?
是非!ご教示ください。
959九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 22:55:30
>>956-957
「其官」は魏使と卑弥呼の政治的立場による呼称です。
実際は、女王と狗古智卑狗は対等に対立しているのです。
これは、卑弥呼が王なら、狗古智も王であることを示しています。
960九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 23:02:42
>>958
菊池川流域
横穴式で装飾古墳として発展するタイプ。
961神奈川県民改め三重県民:2007/09/30(日) 23:27:44
>>911-915
九州一周説・・・それは無理と思いますよ。

魏志倭人伝の記事が本当に実在した国を書いてるのであれば、九州南部に狗奴国。

敵対していた狗奴国が、卑弥呼と親しかった魏国の調査隊をこころよく受け入れるでしょうか。
少しありえないですよね。それより二つの都を書かれてるとみたほうがよいかと思います。
962九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/09/30(日) 23:28:51
>>958
回答忘れを追加
倭五王の古墳の位置は特定できていません。
963神奈川県民改め三重県民:2007/09/30(日) 23:29:40
狗奴国の協力なしでは調査隊など難しいということです。
九州南部の人に見つからずに協力なしでは無理。
964九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/10/01(月) 05:06:01
>>959 
其官は、ただ単に「その官」と読んで「其」は
クナ国を指しているだけだと思うんですがねえ。
965九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/10/01(月) 11:39:26
>>964
何を勘違いして書き間違えたのか?
狗古智卑狗は官ですね。

狗奴國王は卑彌弓呼です。
卑弥呼も王で、卑彌弓呼も王であると書いてありますね。

修正文:「壹與後数十年、狗奴國(弟)王が北上攻め込んで来た。」

既に狗奴國王は卑彌弓呼は王でなかったでしょう。
実際に攻め込んだのは、魏使によって「官」と呼ばれた、狗古智卑狗でしょう。

九州は兄弟政治でしたから、
卑彌弓呼は兄王で、狗古智卑狗が弟王では、とみています。
つまり、兄王がいたのは、邪馬壹國、狗奴國と伊都國の3国だけです。
王の存在について、餘旁國では不明ですが、
特に取り上げられていないので兄王はいなかったと見ています。
966日本@名無史さん:2007/10/01(月) 12:12:03
>>951
プラムさん
では、是非“プッ”と失笑せずにすむご説明をお願いいたします。
これまでも、エキセントリックな説を様々披露していただいたので、
今回もきっと面白い説が聞けるのではないかと期待しております。
967阿蘇山は移動した:2007/10/01(月) 12:52:02
現代の論点は、邪馬一国と2倍暦みたいですね。この2つは
私は、どうかな?って思ってた。つまり、否定的。
でも、皆さんの書き込みみてると確かにな、って思う。
21か国の解釈。略載とかの箇所は、興味あるな。
968プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 13:15:08
>>966

笑えませんか?

『可能』がどうたらこうたらって、
じゃあ
『可得』には(可能)が必要であり、可得よりも先に可能が存在したって?
だから可得を説明出来る


そう言ってるようなものでしょ
969日本@名無史さん:2007/10/01(月) 13:26:57
>>968
それって、もしかして「可得」の説明に「可能」という言葉を用いているのがおかしいってこと?
ということは、「可得」という言葉の意味・用法を説明するのに、
「可得」より以前に存在していたことが明白な言葉を使わなければいけないということ?
辞書や文法書に、そんなルールがあるなんて聞いたことがないですね。

例えば、今たまたま国語辞典を開いたら「朝野」という言葉が載ってました。
「政府に関係のある者と民間の人」という説明でした。
「朝野」には「政府」や「民間」という言葉がが必要であり、「朝野」よりも前に「政府」や「民間」とうい言葉が存在したのかい?
だから「朝野」を説明できるの?
970日本@名無史さん:2007/10/01(月) 13:38:00
>>967
略載の意味・用例については、プラムさんの立てたスレ

「魏志倭人伝」等を読む
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175779841/

に詳しく紹介してありますので、興味があれば御覧下さい。
何回かに別けて書いてますので、スレ内を「略載」で検索すると見つけやすいかと思います。
971プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 13:44:18
>>969

仮にも辞書に携わろうとする人の行為じゃない
と、いいたい訳ですよ

例えば『可』の読みには(べし)や(ばかり)等が記載されていますが、
何故、そのような読みになるのか根本の部分もせつめいしなければならないのでは?
それを『可能』の『可』で説明しちゃうなんて
素人じゃあるまいし…

『可』→(口)(┐)
(口)→限定された範囲
(┐)→把握する
★範囲の把握

そういう根本的な字義があるからこその(べし)や(ばかり)なんだと。
972プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 14:25:41
>>971続き

詰まり
『可』の文字を使った言葉には、必ず『可』の意である(範囲の把握)が含まれるのです。
973日本@名無史さん:2007/10/01(月) 14:42:52
>>971
プラムさん
「可能」の「可」で説明しているのではありません。
「可」という古漢語に、現代日本語の文法用語で言う「可能の助動詞」という働きがあるといってるのです。
古漢語の「可得」を、現代日本語の「可能」という言葉を使用して説明しているのです。
あなたのいう「根本的な字義」は、あなたがた、きわめて少数の人が唱えている特異な説でしかありません。
そのような説が、辞書に載るはずもありません。

それから、辞書は、語源や漢字の成り立ちを載せることが主目的の書物ではありません。
どのような意味・用法があるのかが主目的で、漢和辞典では、付録的に漢字の成り立ちを載せるものもある程度です。
なぜそのように読むのか、なぜそういう意味になるのか、語源は何なのか、
そういうことは、辞書の役割ではなく、専門の論文・著作で論じられるべき内容です。
974プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 15:07:07
>>963

辞書の性質は理解しています。

>そんな特異な説、載るはずもなく


そんな事はないですよ
ちゃ〜んと(べし)や(ばかり)と掲載されていますよ。
貴方達は“特異”で処理してしまいますが、貴方達は無意識のうちに使用しているんですよ、その特異を
私はただ、無意識の部分を文字で表面化させたにすぎません。
それを“特異”と言われても……
975日本@名無史さん:2007/10/01(月) 15:28:59
>>974
>ちゃ〜んと(べし)や(ばかり)と掲載されていますよ。
ここの意味が解りません。
「べし」「ばかり」は、「可」の訓であって、古漢語の「可」を日本語に訳したときの意味です。
それを載せるのが辞書本来の目的なのでしょう。掲載されていて当たり前だと思いますよ。

>貴方達は無意識のうちに使用しているんですよ、その特異を
>私はただ、無意識の部分を文字で表面化させたにすぎません。

あなたのいう「根本的な字義」を、私たちが「無意識に使用している」ということも、
「根本的な字義」が、わたしたちの「無意識の部分を文字で表面化させたもの」だということも、
あなたが主張しているに過ぎません。広く一般に承認された事実ではありません。
あなた、もしくは、そのお仲間だけが主張していて、
日本語や漢字に携わる人間の大部分が与り知らぬる説は、
“特異”としか言いようがありません。
976プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 15:53:45
>>975

そうですよ
(べし)や(ばかり)は訓であり、日本語訳
私もぜんぜん否定しません。

でも
何で(べし)や(ばかり)なんでしょうね?
わかりますか?
977日本@名無史さん:2007/10/01(月) 16:19:24
>>976
訓読法を創始した人々が、「べし」「ばかり」の訓をあてようと決めたからです。
話がそれてしまいました。
二つの奴國が同一か否かの問題でしたが、そのためには、下記の部分の読みを確定しなければなりません。

自女王國以北,其戸數道里可得略載,其餘旁國遠絶,不可得詳.
女王國より北は、戸数道里は簡略化した内容を記載することができる。
その余の旁の国々については遠くて、詳細を記述することが出来ない。

「不可得詳」との対比からも、「可得略載」の「略載」が「略」と「載」に別れるものではないことを説明しました。
それに関しては、「可」と辞書の話になってしまい、有効な反論はありませんでしたね。
「略載」の用法については、既に説明してあります。
戸数道里を略載していない21国は、女王國の北にはありません。
だから、21国の最後の奴國は、一周して初出の奴國に戻ってきたのではありません。

さて、「略載」の問題と、「女王國と女三國」の問題で、反論がありましたらどうぞ。
978ローガン:2007/10/01(月) 16:41:15
>>967では邪馬壹国についてもうひとつ…
対馬は魏志では、「対海国」ですね。魏志から引用している文献で対馬が登場するのは、「太平御覧」「通志」「文献通考」だけですね。
この中で、我々が今見ている三國志南宋刊本と同じように、「対海国」と書かれているのは、1317年に出来た「文献通考」だけです。「三國志南宋刊本」以前に書かれた太平御覧や、同時代の通志は「対馬国」と書いてあります。
これも、「壹」と同様、南宋刊本を境に表記が変化したと思いますよ。

やっぱり邪馬壹国の存在を信じる人は、対馬と別の対海国があった!なんて考えているのでしょうね?
979プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 16:47:57
>>977

二つの奴國については
もっと根本的な事を議論しなければ何時までやっても平行線です。

結局は原文の解釈の違いによって様々な方向に分散しますから
どうしてもと言うなら

まず
『自女王國…』の『自』からですね
既にそこから違っていますから
980日本@名無史さん:2007/10/01(月) 17:11:31
>>979
プラムさん
では、「自」の解説から、「『魏志倭人伝』等を読む」でやってください。そのために自分で立てたスレでしょう。
「可」の問題も、そちらだったら他の人の迷惑にならないので、いくらでも議論できますよ。
981太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/01(月) 18:12:23
>>978
それは字がまるっきり違うでしょう。w 

それはいいとして、「邪馬壹国」も「邪馬臺国」もいずれもあったということ
ですよ。前者は女王国で、後者は倭の五王朝あるいは大和朝廷のことですな。
当時九州のほうは十数国とか数十国か? とにかく国が分裂していて『邪馬』
の字が普及的になっていたようで、「邪馬国」もそれでしょうがね。

貴殿のいうオルジナルの伝とやらに、数歩譲って後者とあったとしても、文字の
書き換えがあるならば誤記のほかに訂正もあるわけで、オリジナルが間違って
いるを発見した何らかの日本の正確な情報を知っていた者が、後世にオリジナル
を訂正で『臺』から『壹』に直したということだって充分言えますよ。
982九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/10/01(月) 19:02:48
>>977 戸数道里を略載していない21国は、女王國の北にはありません。

ではそれらはどこにあると考えていられるのでしょうか?
女王国は甘木にあると考えているので21カ国のうち、大分県把木のハリ国、
玖珠国、邪馬国、きい国、など殆ど女王国の北にあるものだと思ってきました。
女王国の南にはクナ国が広がっていた筈ですし。

983日本@名無史さん:2007/10/01(月) 19:58:01
>>982
福岡県朝倉市甘木のことですか?(甘木市は合併して朝倉市になったそうです。)
ならば、杷木も玖珠も耶馬溪も甘木の北にはないですよ。
984日本@名無史さん:2007/10/01(月) 20:10:04
朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも稲と
同時に検出されており、小麦が中国よりも数千年も前から、ハトムギが
通説の江戸時代よりも5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。


岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
985ローガン:2007/10/01(月) 20:51:11
>>981太国さん。
という事は仰る所の「何らかの日本の正確な情報」とやらが、
「邪馬壹国という女王の国が3世紀に存在した。」事を証明している訳ですね。
その何らかの日本の正確な情報とはどんなものでしょう?
又、何を根拠に言っておれらるのか?
是非それをお訊きしたい!
986プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 21:24:20
>>980

>プラムさん
では、「自」の解説から、「『魏志倭人伝』等を読む」でやってください。そのために自分で立てたスレでしょう。
「可」の問題も、そちらだったら他の人の迷惑にならないので、いくらでも議論できますよ。


ありゃ〜っ
迷惑でしたか?こりゃあ申し訳ない
いや〜悪気はないんです。
しゃべりだしたら止まらない性分なもので、ついつい

でも、韓国横断ウルトラクイズよりは役に立ちますから
987日本@名無史さん:2007/10/01(月) 22:05:08
>>986
魏志倭人伝を読むために、漢字の成り立ちからやるというのも一つの方法論ですが、
スレ主さんや他の住人さんが賛同するかどうかはわかりません。
専用スレをほったらかして、わざわざこっちで可の成り立ち云々をやって、
もし、そんなの関係ねーと怒られるたらアホみたいですやん。
そのためにご自分で立てたスレがあるのだから、あっちでやるのが無難でしょう。
興味を持ってくれる人は、あっちのスレも覗いてくれますよ。
988プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/01(月) 22:22:05
>>987

>専用スレをほったらかして、わざわざこっちで可の成り立ち云々をやって、
もし、そんなの関係ねーと怒られるたらアホみたいですやん。


アホですか?
やっぱり

そ〜でしょうね〜
989ローガン:2007/10/01(月) 22:44:52
987の人、大阪弁ですけど。 私ではありませんので。
990九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/10/01(月) 22:48:24
>>983
こちらの言う「北にある」という表現は変ですね。
女王国は甘木に都があって菊池と比定しているクナ国と直接、南接していたと考えていますから、
玖珠国などは女王国と横並びでクナ国と南接していたクニだったのではないか、というのが
前から抱いていた考えではありますが。
991太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/01(月) 22:50:28
>>985 ローガンさん
拙者は貴殿のおっしゃるオリジナルという原本のことですが、それには拙者は
「邪馬壹国」と書かれてあると思うわけですよ。それを別の無コテの方がそんな
ことはない、裴松之が必ず注を入れるのことを主張しておられましたから、それ
でもしも彼の云うとおり、また貴殿の云うとおり原本に「邪馬臺国」と書かれて
いたとしても、必ずしも『臺』のほうが正解だとはまだ云えず、逆に考えれると
いう論もあるだろうということです。

もしも原本が貴殿らの云うとおりであろうと、それで女王国が「邪馬台国」だ
とは決定的にはならんでしょう。なぜかというに、文字が取り替えられていると
主張することは誤記という場合もあるが訂正の場合もあるでしょうからね。

とりわけ根拠を持ってるものでもないですが、『臺』だったとしても、訂正の
可能性論を成立しないとしなければ、女王国は「邪馬臺国」だにはまだならんと
いうことです。つまり逆の考えを合理的に否定できて貴殿らの論が正解になるわけ
で、まだまだ字がそうなっていたとしてもヌカ喜びの段階ですよ。
992ローガン:2007/10/01(月) 23:30:50
>>991早速のお答えありがとうございます。
私はこう考えるって言った迄で、私の考えが100l間違っていないとは思ってないんだけど。
名無しの人の考えかたもきっと違うものでしょう?
勿論太国さんとも違う。
それはそれで良いのです。貴方が「邪馬壹国は邪馬臺国とは別の国として存在する」と考えるなら私は頭からそれを否定しょうなんて大それた考えはありません。
ただ貴方がその考え方に至った、その根拠をお訊きしたいだけです。
993日本@名無史さん:2007/10/02(火) 00:39:22
>>990
「女王國より北」という場合、概ね北東方向から北西方向の90℃の範囲にある地点を指すと思うのです。
たとえ緯度的に多少女王國より北にあっても、上記の範囲からはずれる場所は、東もしくは西と表現されると思います。
それで、戸数道里が略載されている對馬國から投馬國が、だいたい上記の90℃の範囲に入っているのだと考えています。
そして21ヶ国は、上記の範囲から外れているということになるのでしょう。
それが、女王國とならんで狗奴國に接していたか、女王國より南にあって狗奴國との間に挟まっていたのかは、
「女王境界所盡」をどう解釈するかと関わりますが、正直なところ倭人伝だけでは全く解りませんね。
古地名や考古学的な知見に頼るしかないと思います。

そもそも論ですが、倭人伝自体、その信頼性にちょっと疑問を感じます。
裴松之の注では、三国志本文で三箇所の伝写の誤りを指摘しています。内一箇所は倭人伝です。
陳寿が使用した資料が既に誤っていたのか、三国志編纂以降の伝写の誤りかはわかりません。
もし前者なら、全ての元資料が正確だったわけではないということになり、倭人伝の元資料は大丈夫かという疑問に繋がります。
後者なら、裴松之以降宋本ができるまでの期間(700年くらい?)に伝写の誤りは蓄積されたと考えるのが妥当でしょう。
一大國や邪馬壹國や二つの奴國や一大率などは、大変怪しいと考えています。
どのような立場の人が三国志を書写したのかわかりませんが、本紀や有名人の伝は頑張っても、
辺境の國の伝は、書写するのに注意力が散漫になったとしても不思議はありません。
994日本@名無史さん:2007/10/02(火) 06:07:25
「女王境界所盡」
これは「奴國」の処で海岸線に達するという意味ではないかと思う。
995太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 07:45:51
>>992
だって貴殿は女王国が「邪馬壹国」でなく「邪馬臺国」だとの考えなんで
しょう? それは倭人伝の国名の『壹』が後世の誤記でその原本のほうは『臺』
だと裴松之の注の作為不作為から結論つけておられるのでしょう?
拙者のほうは原本は『壹』だと思うから誤認はないだろうという考えなわけ
です。つまり国名という重要部分に間違いするようではもうおしまいだ、伝の
信用はドカ落ちする、女王国の存在性にも不信を大きく抱かれても致し方ないと
いうことになってきます。だから陳寿は伝を書くにあたって、幾度も、書き上げ
文のチェックをしているはずだということです。重要部分ですからしっかりと
点検をして怠っていないとみるべきです。だから原本もその字であると観るのが
至当という考えに至るわけで、文字が変わってるんだよいう主張は裴松之の件が
どうであろうと可能性が薄いと想うわけです。
貴殿の考えでの原本と写しが別字に換わっていると主張なさるならば、文字の
改変は誤記と訂正か、あるいは極論ですがイタヅラのいずれかがありうるわけで
しょう? ですからその件を誤記だと確定するのはまだ早計であり、貴殿は少な
くても後世の誰かが真を知っていて訂正したんではないのかという線も一応
洗っておくべきではないですか? それをしないで誤記と結論するのは片手落ち
だということですよ。
996ローガン:2007/10/02(火) 09:36:56
>>995
そうですね。仰る通り、陳寿は国名は重要てあるから入念にチェックして書いたのでしょうね。
その絶対間違っていない国名を、北史隋書、通史、太平御覧が引用していますね。
すべて「臺」です。
お分かりいただけなければ結構です。この件はこれくらいにしておきましょう。
997太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/10/02(火) 09:42:54
>>996
そうなると、彼らは大和朝廷をヤマトの一国と考えて「邪馬臺国」としたん
ではないですか? このスレもまもなく終わりなのでこちらもこれでfineです。
998プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/10/02(火) 10:01:38
『壹』と『臺』に終止符


陳壽も地理志だけの編纂なら『邪馬臺國』と書いたろうね

それだけの事。


お・わ・り
999サガミハラハラ:2007/10/02(火) 10:07:55
最初に魏に貢献した時は邪馬壱国となのり(この時だけです)、その直後国名を邪馬台国と変更しこれは長く続きました。
両者はにた字であったために陳寿は間違えなかったが後世の人たちは間違えたのです。
これが真相です。
1000サガミハラハラ:2007/10/02(火) 10:09:10
真相が解明されてこのスレは終了です。めでたしめでたし。
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