日本書紀紀年法がついに解明されました[倭の五王編]

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1日本書紀紀年法研究家 ◆ZAGmRaJnCk
日本書紀紀年法は、応神元年を西暦三九〇年と位置付けて、以下の式に
表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統十一年の697年までの
一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって多列・並列構造になっています。
このように考えますと、日本書紀紀年法をきれいに説明することができます。
日本書紀紀年法について、自由に議論をいたしましょう。

日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1148693901/
日本書紀紀年法がついに解明されました[part3]
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145579835
日本書紀紀年法がついに解明されました[part2]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1140936342/
日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322
2日本@名無史さん:2007/04/06(金) 13:50:37
>>1
3日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:38:59
二倍暦説について。

ウイリアム・ブランセン(William Bramsen)が明治に提唱したという論文はこちらで読めます。
"Japanese Chronological Tables"

ttp://www.archive.org/details/japanesechronolo00bramuoft
ttp://ia340929.us.archive.org/0/items/japanesechronolo00bramuoft/japanesechronolo00bramuoft_djvu.txt

まず、指摘しておくべきことは、
ウイリアム・ブランセン本人が、二倍暦説を提唱しているわけではないということです。
日本神話の論考の中で、神武天皇の年齢が長いことについて、
「こういう説がある」ということを紹介しているに留めているだけです。
4日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:40:22
関連サイト

「倉西先生のご学問所」
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/
5日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:42:35
ウイリアム・ブランセンの、二倍暦説についての記述は、たったこれだけです。

-----------------------------------------------------------

Let us now revert to the topic to which merely a brief
allusion has been made, i.e., the manifestly artificial character of
the first centuries of Japanese chronology. Of this phenomenon,
there are several explanations. First, Bramsen, as may be seen
on pages 28-33, thinks that, in the earliest clays, the Japanese
year was reckoned from equinox to equinox, and was thus only
six months in length. In that case, the ages of the first seven-
teen emperors would be cut down about half, and would then
reach a natural span.
6日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:47:19
二倍暦だけではなく、その他の説を併記しています。
-------------------------------------------------------------

Was [Japanese] are not acquainted with the New Year or the
four Seasons, but reckon the year by the spring cultivation of
the fields and by the autumn ingathering of the crops." * * *
" They are a long-lived race, and. persons who have reached 100
years are very common"

A second explanation is that of Mr. Tachibana, who
" would make out that ten cycles of sixty years each have been
interpolated during this time " [from Jimmu Tenno to Nintoku
Tenno].

A third explanation is that the artificial portions of the
chronology were arbitrarily fixed, in a haphazard fashion, with-
out regard to any rules or system, except that important events
were placed on " lucky " dates.

A fourth explanation is very interesting and ingenious ; it
is given by Dr. K. Asakawa,* in his thesis on " The Early In-
stitutional Life of Japan " (p. 24) ; and it reads as follows :
7日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:50:41
4番目の説の方が解説は多いです。おそらく、もっとも有効と思われる説でしょう。
---------------------------------------------------------------

" Here it suffices to say that the year from which, accord-
ing to the Nihongi, the history of the Empire of Japan dates,
that is, the year 660 B.C., would appear to be not more
authentic than any date assigned for the Trojan War. The
reason is as follows. A man learned in the calendar is said to
have been sent, by request, from Korea in 554, and a really
earnest study of the Chinese science of chronology seems to
have been made since 602. That science had the famous
system of cycles, sixty years forming a smaller cycle, and
twenty-one such cycles, or 1260 years, forming a larger cycle.
The fifty-eighth year of the smaller cycle was supposed by the
Chinese to be the year in which some revolution was liable to
take place. It is possible that the writers of the Nihongi t seeing
that 600 A.D. was the first year of revolution before the adop-
tion of the calendar, may have counted backward for the space
of one large cycle, thus reaching the year 660 B.C., and called
8日本@名無史さん:2007/04/06(金) 14:55:47
以上のことからも、
ウイリアム・ブランセンが、
積極的に「二倍暦」を提唱したわけではないということが、おわかりでしょう。

二倍暦論者は、
ウイリアム・ブランセンが、「二倍暦」を提唱したと喧伝していますが、
その事実は無いようですね。
9日本@名無史さん:2007/04/06(金) 15:08:20
おいおい、味噌も糞も一緒にしないでくれ。

>二倍暦論者は、ウイリアム・ブランセンが、「二倍暦」を提唱したと喧伝していますが

私はウイリアム・ブランセンを知らないし、彼が提唱したと喧伝したこともない。
「ウイリアム・ブランセン二倍暦提唱説は否定されました」と結論すればいいでしょう。
10日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 15:11:31
>>3>>5>>6>>7>>8さん

>the Japanese year was reckoned from equinox to equinox, and was thus only
>six months in length. In that case, the ages of the first seven-
>teen emperors would be cut down about half, and would then
>reach a natural span.

という文章は、明らかに二倍暦を主張しているのではないでしょうか。
わたくしは、二倍暦論者ではありませんが、研究史上、ブランセン氏が、二倍暦を
唱えていたことは、確かであると思います。
また、このスレッドは、わたくしの立てた「日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]」
の続きという誤解を招いてしまっているのではないかと思います。
実は、わたくしのコテハンとトリップを用いて、何者かが立てたスレッド
なのです。この奇妙なスレッドに、どのように対処したらよいのか、
現在、わたくしは、困っております。

日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA
11日本@名無史さん:2007/04/06(金) 15:15:23
研究家さんへ

トリップは今すぐ変える宣言をされて、変えてください。
特に問題ないようですから、このスレッドはそのままお使いになってはいかが?
12日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 15:18:45
>>4さん
わたくしのホームページ、「倉西先生のご学問所」を、このスレッドの読者の皆様に
紹介してくださいまして、おそれいります。「倉西先生のご学問所」の
歴史学コースの日本書紀紀年法入門をご一読いただければ、わたくしが、
二倍暦論者ではないこと、さらに、プラス・マイナス120年構想論、
多列・並列構造論という考えを提唱しておりますことを、ご納得いただける
のではないかと思います。
13日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 15:31:18
>>11さん
この奇妙なスレッドにつきまして、アドヴァイスいただきまして、おそれいります。
実は、「日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]」の983からトリップを変更いたしました。
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA が、わたくしのコテハンとトリップになります。
コテハンが日本書紀紀年法研究家となっていても、トリップが「◆RyFCZPFpzA 」ではないレスポンスは、
わたくしが書いたものではないということになります。
うっかり、わたくしのコテハンを公開してしまったことから、混乱をまねきましたことは、
反省いたしております。
14日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:06:54
>>10

どちらにせよ、ウイリアム・ブランセンの本旨は、記紀神話の考察であって、
二倍暦説そのものでは無いと思われます。
外人の思いつき程度のものでしょう。


15日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:08:39
【都知事選】浅野史郎氏、志同じならと民団に支援を要請
ttp://news21.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1174%3623990/

東京都の人は、ぜひ読んでみてください。
現在、朝鮮総連や民団その他の反日団体が、総がかりで浅野を応援しています。
浅野が知事になれば、たぶん東京は終了します。
16日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:10:04
はあ?思いつきじゃないでしょ。あなたは頭のおかしな人ですね。
思いつきじゃなくて、従来からあった説の紹介でしょう。
17日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:12:33
従来からあろうが無かろうが、
支持してるのは、古田信者だけだ。
18唐松山:2007/04/06(金) 16:14:24
パート4の 書き直し
景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので,
元首は237−4046=−3808年すなわち3809BC(壬辰歳)の正
月の前の甲子夜半朔旦冬至(ユリウス暦3809BC1月6日[グレゴリオ暦
では前年12月6日])です。これだけのデータがあれば,あとは漢代の暦と
同様にして計算できますね。
上記の文章 出所
http://ime.nu/www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/
から 計算可能1欄→ 最下方にある 参考文献→ massaangeana氏(益山氏)
暦関係→暦入門→暦入門4?
私自身 行き着くのが大変なんだから 努力して 辿り着いてチョ

19日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:30:20
>>18

何を言ってるのか、ぜんぜんわからん。

http://ime.nu/www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/

このサイトの、まず、どこを見ればいいのだ?
きちんとした日本語で、箇条書きで書いてくれ。



20日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:35:02
>>17
明治時代の古田信者って、誰ですか?
21唐松山:2007/04/06(金) 16:46:09
景初元年(237AD)は元首のを離れること4046年と書いてあるので, ...

景初元年が 上記のように 西暦に換算されていたら 信じられるか?
今現在から 1800年前の景初に 素直に(干支を狂わさず)辿り着けません
その 景初元年を 西暦に換算する時に 使われた のが 上記の文章どうりだったら
景初元年=247年 は、信じられるか?
22太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 16:47:31
>>21
景初元年=237年 を支持しているのですか?
23太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 16:48:36
失礼、拙者の愚問でした。回答なしでかまいません。
24唐松山:2007/04/06(金) 16:49:36
まず 暦入門から
25日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:55:20
>>24

[暦入門]って項目がどこにあるんだ?

26太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 16:56:28
倉西氏はどうやら 成務天皇=女性 だと考えているが、女性だったら記紀に
明文で書かれるはずだ。だいたい成務と竹内宿禰が同日生まれだとあるん
だから、女性だったら男装の天皇だとの記事が見られて然るべきである。
しかしながら、それがない。日本武尊の女装も記述があるんだから、それがなけ
れば彼女の妄想だな。成務は卑弥呼ではないのが正解。
27日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 16:57:06
>>14さん

>どちらにせよ、ウイリアム・ブランセンの本旨は、記紀神話の考察であって、
>二倍暦説そのものでは無いと思われます。
>外人の思いつき程度のものでしょう。

とのご意見ですが、ウイリアム・ブランセン氏の論文の題は、"Japanese Chronological Tables"
です。「日本年代表」と邦訳されておりますように、明らかに、日本書紀紀年法を
テーマとした論文と考えられます。
28日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:07:18
>>27

4つの説を併記してるだけでしょう。
自説?の二倍暦は、さわり程度しか紹介してないし。
29日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 17:10:50
太国さん

成務天皇を女性と考えるおもな根拠は、神功皇后と同じ陵墓の名が伝わっていることです。
これは、日本書紀も古事記も、成務天皇と神功皇后には、何らかの関連があると
捉えていた証拠となるのではないでしょうか。
また、太国さんたちの二倍暦説に対して、わたくしは、プラス・マイナス120年構想、
多列・並列構造説を唱えておりますが、HP「倉西先生のご学問所」を開設いたしましたので、
歴史学コースの日本書紀入門をご覧いただきたいと思います。
アドレスは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/です
30太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 17:13:13
倭の五王が当時の各天皇ではない。それを無視して上代を計算すると、間違い
に至る。もともと名前は各自を判別するため違うのだから、相当な理由、資料
がない限り、別人と観るのがスジである。
しかし、稀に同一の場合があることも肯定されるが、それには納得できるブツ
とかが必要であろう。
倉西氏といらつめ氏は、最初のころは同一人物であろうと考えていたが別人
だった。倉西氏は別人を強調していたわけだが、これも五王にもピタリとあて
はまる。存命なら、「朕らは大和朝廷の天皇らにあらず」と反論するだろう。
31日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:14:33
>>27

ウイリアム・ブランセンが、自説として二倍暦のみを研究していたという、
傍証が何かありますか?

他の、研究者から、「ウイリアム・ブランセンの二倍暦説」について、
言及された論文が存在するなら教えてください。
存在しなければ、確定事項とはいえません。
32日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 17:19:37
>>28さん
4つの説を併記しているわけではないと思います。ウイリアム・ブランセン氏の
所見が述べられています。また、ウイリアム・ブランセン氏の論題は、明らかに、
氏の論旨が、日本書紀紀年法にあることを示していると思います。
論題が"Japanese Chronological Tables"で、内容が、長過ぎる在位年数を
氏の自説で説明しようとしているものですので、どのように考えても、
ウイリアム・ブランセン氏は、二倍暦説を唱えられていると考えられます。
わたくしは、二倍暦論には否定的ですが、氏の論文は、研究史上、
日本書紀紀年法研究に影響を与えた論文ですので、それを、
なかったことにしようとするような扱いは、好ましくないように思います。
33日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:21:58
粘着よ、引っ込みなさい>>31
34太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 17:23:55
>>31氏の質問は対立論者であっても正当だとおもう。
35日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:28:07
ああっ、太国さんに支持されちゃ、却って迷惑かも。
36日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:32:50
みなさん、見ましたか?>>31のズタズタな論理!!

>自説として二倍暦のみを研究していたという、傍証が何かありますか?

この世のどんな学者・研究者であろうと、「〜のみ研究していた傍証」など
絶対にあるはずがありません。この人、異常者でしょう。
37太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 17:34:21
>>26
倍暦から卑弥呼の時代は崇神世の前後あたりの相当する。従って成務が
卑弥呼には時代のズレでありえない。3倍暦で

景初3年=239年=崇神3年←(この年は紀の記載の崇神七年〜同九年)
38日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 17:38:47
太国さん

確かに、名前は、本人確認のために、たいへん重要なものです。
しかし、倭の五王の場合は、対外的に用いられているという問題があります。
例えば、太国さんは、国内では、「太国」で通用しますが、対外的には、
ローマ字で「futokuni」かもしれません。この場合、「太国」=「futokuni」であるのか、
「太国」≠「futokuni」であるのか、という問題が生じます。
39日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:41:08
>>32

>ウイリアム・ブランセン氏の所見が述べられています。

しかし、あまりにも、論考が弱いですね。
論証と呼べるようなものでは無いでしょう。

結果的に、二倍暦は以後の研究には役立っていません。
今現在、二倍暦を採用してるのは、古田信者だけでしょう。

40太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 17:41:20
>>31氏の要求は一応もっともである。それがなければ「今のところないよう
です。」と素直に回答すればいいことだ。
だが無いからといって、>31氏はその論文を軽視すべきではないよ。
41太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 17:43:33
>>38
そんなんだったら、どんなんでもみ〜んな等号が成立しちゃいます。
42日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:44:28
ナスカの地上絵が、宇宙人へのメッセージだという論文があったからと言って、
その論文が、参考になるかといったら、なるわけがない。

二倍暦などというのは、所詮、その程度のもの。

43日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 17:51:06
>>31さん

辻善之助氏が、『日本紀年論纂』(1947年)の序説で、「明治十三年(一八八〇)
ういりあむ、ぶらむぜん William Bramsen氏は、Japanese Chronological Tablesを公にし、
その序説に於て、支那暦法の伝来以前に於ける日本の紀年について論じ、…」と、
言及されています。
44太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 17:55:02
>>39
紀の繼體世の記録では、百済の暦かららしき百済太子の記事と、同帝の
即位前の先帝世の暦法に該当する時の活動記事の二つ以外は、総てが
1日〜14日までの上半月分に記録が終結している。
これは同帝の世が2倍暦をやっていた文証である。どう弁解するか?

倉西氏は繼體以前の雄略5年を固定、信頼して論を組み立て、それ以後は
通常暦と観て繼體世の2倍暦使用を看過したために、彼女の論は崩れ
ることになる。
45日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:56:50
>>43

すみません。

ソースを頂いて恐縮なのですが、
「日本の紀年について論じ〜」だけでは、
本人が二倍暦を主張してるかどうかわかりません。
その後の文脈も教えてください。

はっきり、二倍暦について、ウイリアムの説として紹介していますか?
46唐松山:2007/04/06(金) 17:57:25
暦入門は、massanageana氏 の下に在る。
47日本@名無史さん:2007/04/06(金) 17:58:42
>>44

倭国が二倍暦を使ってたなら、
「干支」と、どうやって共存できたのか教えてくれ。

倭国と中国・朝鮮じゃ、全然違う干支を使ってたのか?
48唐松山:2007/04/06(金) 18:02:06
49日本@名無史さん:2007/04/06(金) 18:02:28
>>18

>http://ime.nu/www.asahi-net.or.jp/~dd6t-sg/
>から 計算可能1欄→ 最下方にある 参考文献→ massaangeana氏(益山氏)
>暦関係→暦入門→暦入門4?


「計算可能1欄」とは、どの画面のことですか?
「最下方にある 参考文献」とは、どの画面のことですか?
50日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 18:03:30
>>39さん

ウイリアム・ブランセン氏の研究の研究史上における位置づけは、明治時代に導入された
実証主義史学において、日本書紀紀年法を説明しようとされたという合理主義にあります。
たしかに、今日では、氏の説には、欠点がありますが、当時としては、画期的なもの
であったのでしょう。
辻氏の言及については>>43で述べましたが、この他、ウイリアム・ジョージ・アストン氏が、
「日本上古史」(『文』第一巻第十四号、明治二十一年)で、『魏略』の春秋二倍暦に関連して
「然レドモ故人ぶらむせん氏、若シ此ノ文ヲ知リタリシナラバ、…」と述べて、
ブランセン氏の研究に言及されています。
51日本@名無史さん:2007/04/06(金) 18:11:25
>>50

どうもありがとう。

>当時としては、画期的なものであったのでしょう。
それは、ただの感傷です。
否定されるべき論文は否定しないと、先に進めません。


ところで、

>『魏略』の春秋二倍暦

これも、聞いたことがありませんが、中国の二倍暦ですか?
倭国の二倍暦ですか?

いずれにしろ、今日では研究されてないものですよね?
52日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 18:13:44
太国さん

倭の五王問題につきましては、太国さんご自身も、>>41で述べたおられるように、
特に、対外的に用いられる名前に対しては、本人確認が難しいという問題があるのです。
また、>>44で述べておられる継体紀についてですが、継体紀については、
紀年法だけではなく、さまざまな問題があるように思います。継体紀が二倍暦で、
編年されているとは、わたくしは、思いませんが、継体紀の編年は研究課題です。
ただし、わたくしの説は、神功元年から雄略五年までの間を対象としたものですので、
継体紀の編年がどうであろうとも、揺らぐことはありません。
53太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 18:15:34
>>47
余の倍暦の計上から、孝靈年間の世が当時の中国の靈帝の中平年間に
相当することが知れて来た。
ところが奈良県天理市の東大寺山古墳から出土した鉄刀には

「中平□□五月丙午 造作支刀 百練清剛 上応星宿 □□□□」

の靈帝の中平年間の銘文があるのが確認された。このことは当時畿内に
干支の流通があったことが予測できる。よもや後代に鉄刀を埋めたと
云ったって、そんなに後代にはまぁ〜行かないだろう。

つまりだ、欠史八代のあたりに干支が畿内に来ていたということになり、
朝廷の連中の中には、この意味は何かを中国の使者に疑問を持って聴い
たに違いないから、その運用をやれたことは充分云える。

倭国と半島、大陸とは違うやり方で干支を使っていたか否かは定か
ではないが、少なくとも朝廷側は干支の使用は出来ていたと云える。

今度は君がさっき>>44の質問に答えたらどうだ?
54日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/06(金) 18:23:20
>>51さん

わたくしも、二倍暦では、日本書紀紀年法は説明できないと考えております。
わたくしが、問題視したのは、ウイリアム・ブランセン氏の論文の内容ではなく、
氏の論文が、あたかも無かったか、もしくは、影響が皆無のように扱おうとしている方々が
おられたことです。
アストン氏や辻氏の他にも、たしか、ブランセン氏の研究に言及した研究書
はあったかと思います。わたくしも、『日本書紀の真実』で若干、言及いたしました。
氏の説は、明治時代においては、長過ぎる在位年数を説明する説として、説得力があったのでしょう。
また、「『魏略』の春秋二倍暦」という表現は語弊があったと思います。
『魏略』には、倭人は、春と秋とをもって年をはかっていた、という記述があるのみです。
55日本@名無史さん:2007/04/06(金) 18:27:40
>>53

君、なに言ってるの?

>少なくとも朝廷側は干支の使用は出来ていたと云える。

干支を知ってて、干支を運用できて、どうして二倍暦と共存できたのか?
ということを聞いてるのだ。



日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。

※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
       【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
       【土・日】21:00?24:00

http://www.ch-sakura.jp/index.html

57日本@名無史さん:2007/04/06(金) 18:35:27
>>54

>『魏略』には、倭人は、春と秋とをもって年をはかっていた、という記述があるのみです。

どうもです。

この記述を捻じ曲げ、倭人は、春と秋ごとに、1年が経過したと数えたとすると、
二倍暦になるわけですが、
百歩譲ってそのように計算しても、倭人の年齢が半分になるだけです。

「干支」と共存はできません。
記紀は干支で記録されているので、もし、二倍暦が事実なら、
記紀の干支の記録はすべて後世の捏造ということになり、
資料的価値が激減します。

58唐松山:2007/04/06(金) 18:46:14
日々の干支でみると
1年目 継体元年春正月,辛酉朔甲子として
14年目 同二十四年春二月,丁未朔
15年目 安閑 三月癸未朔戊子
この辺で干支が合う が もちろん24年でも合う


59サガミハラハラ:2007/04/06(金) 18:46:30
古事記分註天皇崩年干支は驚くべきことに2倍年暦での干支です。
60日本@名無史さん:2007/04/06(金) 18:56:01
>>57
共存する必要なんか、まったくないですね。
換算すれば通じますから。
メートルとフィートだって鯨尺だって換算すれば何でもありでしょう。
61日本@名無史さん:2007/04/06(金) 19:00:54
いまでも日本国内ではみなさんが、イスラム暦と皇紀と西暦を併用してますけど、
干支も使って何の問題もありませんね。どうしてこんなことが理解できないんだろう?
62日本@名無史さん:2007/04/06(金) 19:01:57
>>60

換算すれば通じる?

ということは、記紀の編纂者は、二倍暦を換算して干支に直してたんだな?
記紀が書かれた時代まで、二倍暦は知られていたということだな?
そんなことを匂わす文献はどこにもないがな。

63日本@名無史さん:2007/04/06(金) 19:03:13
いや、むしろ、換算してないから、古代の王は長寿だって話だろ?

もう破綻してるじゃないか。笑わすな。
64日本@名無史さん:2007/04/06(金) 19:05:31
はあ?破綻してるのはそっちでしょ。
干支と西暦とイスラム暦が両立できない証明をしてください。
65唐松山:2007/04/06(金) 19:06:12
崇神天皇十年(癸巳前八八)七月己酉(廿四)》十年秋七月丙戌朔己酉。詔群卿
曰。導民之本。在於教化也。今既礼神祇。災害皆耗。然遠荒人等。猶不受正朔。
正朔 とは 暦以外の何ももでも在りません

太陰暦である以上 1年は、354日プラス朔
66日本@名無史さん:2007/04/06(金) 19:12:02
記紀同士で、ちょうど没年寿命が2倍ちがう(矛盾する)天皇がいましたね。アレどうなってるんだろう?
67サガミハラハラ:2007/04/06(金) 19:15:26
そんなことを匂わす文献。
日本書紀がそうですよ。
68太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 19:53:08
>>55
君何を言ってるんだよ。それはこっちのセリフだろうがね。
繼體の統計の件は全く無答ではないか。これでは干支云々でスリぬけようと話を
そらして、繼體の主題をわきへおいやってとぼけているだけじゃないか。

誤魔化したってダメだぜ。答えられないなら、2倍暦を葬ることはできないと
君が認容したのも同然だ。それでも否定するなら、そらさず答えたらどうだな。
69日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:17:52
>>68
君の質問ってこれ?

>>44
>総てが 1日〜14日までの上半月分に記録が終結している。

つまり、2倍暦というのは、春と秋で1年が繰り上がり、
1年が24ヶ月あったと言いたいわけだね?

さて、古来より日本では、「月」を数えるのに、「1月」「2月」とは言わず、
「睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神無月 霜月 師走」と言い表していたね?
これらの名前が何時ごろ成立したかは知らないが、
「神無月」は、出雲に神様が集まるという伝承から生まれたことは間違いない。

つまり、神武東征以前から、倭人の暦は12ヶ月だったと言えるのではないかね?
70日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:18:48
まあ、天下統一の前の時代だからそれぞれの国が勝手な暦を使っていたはず、
始皇帝の前のシナもそうだった。
71日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:20:20
複数の暦が並立してるのは、皇紀・西暦・イスラム暦と干支がある現代と似たようなもの。
72日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:22:06
記紀は、並存して錯綜した紀年法の糸をほぐしながら書いたわけでしょ。
73日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:30:25
一年を立春とか冬至とかで二十四等分に区切った暦を使ってたのかもな
74太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 20:32:30
>>69
おとぼけもソロソロおやめになったら如何?
繼體の統計表の反論を始めたようで、反論にはまるっきりなってはいないぞ。
神武以前あたりは通常暦だよ。いまは繼體の話なんだよ。神武ではないんだよ。
まぁ、倍暦を認めたほうが君の身のためじゃぁないのかね?w

以下のようでは当時の1ヶ月は半月分ではないか。繼體の記録ではこうだって
言ってるんだよ。これじゃぁ、1年が半年分になって来るんだよ。
つまり2倍暦だと言わんばかりの記録だよ。どうこれに答えるんだい?

        ↓

日 月 火 水 木 金 土
    1 2  3  4  5
6 7  8  9  10  11 12
13 14
75日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:32:52
釈迦の没年を調査する方法のひとつにこういうのがある。
インドにある古代の年から毎年、石を規定数積み上げていく聖地があって、何百年もたったため、
その石を数えた上で、釈迦の没年とその聖地建立年との差が何年であったかを研究して、
釈迦の没年を推定しているそうだ。他にもいろいろあるようだが。
76日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:39:49
>>74

すると、君は神武の頃は通常暦で、繼體のころだけ、突然2倍暦が登場したと、
そう主張するわけだね?
77日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:42:01
太国、王手がかかったぞ。
78太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 20:46:18
>>76
そうじゃぁないよ。まだ例はいろいろあるが、そのうち出してやる。
早く知りたけりゃぁ「2倍念暦」の若い数字と同過去スレを読んだりするんだな。
神武から繼體世まで同一的暦法ではないぞ。だから突然ではない。
もっと前の天皇世に、すでに2倍暦を使用している。

はぐらかしばっかりやってるねぇ〜。まぁ〜答えられんのだろうな?
そうだろう?ww
79日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:46:25
各種資料が、錯綜してたんじゃないの?
継体だけじゃないかも。
80日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:47:50
>>78

はっきり答えろよ。

「2倍暦」があったにせよ、神武東征のときは、「通常暦」だったと、
そう主張しているんだよな?

イエスかノーで答えろ。
81太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 20:48:07
>>77
お前は>>76だろう? 有コテで書くことのできない弱虫か〜?ww
82日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:51:51
太国、王手がかかったぞ。
83太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 20:53:19
>>80
はっきり言ってるよ。神武以前は通常暦だよ。つまり1年が現在とほぼ同様の
日数だったはずだよ。神武即位前3年はほぼ12ヶ月の数字は出揃っているから
まず通常暦に違いない。ただそれよりもっともっと古い時代はわからんがね?

相変わらず體繼の記録の回答がないねぇ? だろうな〜当時は2倍暦だっ
たから回答、反論ができないの当然の当選確実だな。ww
84日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:54:11
膨大なバラバラ資料同士が、紀年法で錯綜してたわけでしょ?
「突然継体」どころか、各種資料がみんなバラバラなわけで、論理がおかしいね。
85日本@名無史さん:2007/04/06(金) 20:55:21
>>83

つまり、神武の当時は、1年12ヶ月365日だったと言うんだな?

では、神武の寿命については、2倍暦の影響ではなく、古代人の記憶違いという結論でいいんだな?

86太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 20:56:50
>>80
早く回答しろよ。>>74のカレンダーは動かせまい。降参したらどうだ?ww
くやしいから、こっそりこちらに王手か? お前だろうが。www
87日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:01:16
まいりまつた!
で前のスレ999迄うめてくれへん
たのむわー
88太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 21:02:03
>>85
そうじゃぁない。神武即位以後は3倍暦をやっていたのだ。
お前はまったくこちらの質問に答えてこないで、こちらに質問ばかりして
誤魔化している。

ハハーン
お前は繼體の記録表の回答ができないようだな。
よろしい。

        太国1勝!!!www
89日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:04:30
>>88

>神武即位以後は3倍暦をやっていたのだ。

あっそ。

でも、神武の当時は、1年12ヶ月365日であり、
神武の寿命については、2倍暦の影響ではなく、古代人の記憶違いということでいいんだろ?


90日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:05:11
太国初勝利おめ!
松阪も初勝利!
マー君未勝利
91日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:05:48
だから、錯綜してたって言ってるでしょ。
92日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:06:16
おちんちん
93日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:07:46
錯綜するよ!俺もしてるもん
94日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:07:49
愛国行進曲
95日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:09:24
偏ったみなさんこんばんわ。
96太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/06(金) 21:10:27
>>89
もう繼體世の件は終了!
神武即位前は通常暦だからそのとおりだろう。即位後は3倍暦を使って
いたようだ。
寿命か〜? 実の寿命は77歳だ。52歳で即位したと観る。

さぁ〜、風呂でも入るからそのうちな。
97日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:15:26
洗ってらー!ご苦労
98日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:28:20
土をいじったこともない机上の空論の皆さんこんばんわ。
99:2007/04/06(金) 21:29:49
それはあなたの特許でしょ。
100日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:35:29
土いじった事あります。
ガーデニング好きでつ
101日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:24:46
紀年法はガーデニングが必須だそうです。    >>98の珍説
102日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:38:47
2倍暦厨は内部崩壊したか。

太国が、神武以前は通常暦だったことを認めてしまったからな。

2倍暦厨は2倍暦厨同士で、専用スレでもう一度理論武装してこいよ。
103日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:44:27
あはは、記紀の資料は、それぞれがもろもろの紀年法であり、錯綜してました。
以上、>>102は否定されました。残念だったね〜
104日本@名無史さん:2007/04/06(金) 22:54:26
紀年法が百個くらいあれば、そりゃ、矛盾も無くなるよな〜

(藁)
105日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:00:59
そう信じてる104って池沼だね〜
106日本@名無史さん:2007/04/07(土) 00:54:10
二倍年暦というのは世界中どこでも層だろう?

天岩戸の話なんかそうだが、古来の人は
人が暮れるのが早い時期と遅い時期を知っていて
その境界線を区切りに一年としていたり、
あるいは、農耕の収穫の時期で1年としていたりした。

ただ、日本書紀の場合、それ以外に年代の改竄の後があるから
歴史書としての信憑性が著しく低下した。
日本書紀の編纂者たちがそれを実行してしまった最大の要因は
中国史書の邪馬台国の女王の記述。
そして、日本書紀の編纂者たちが、古来の日本の暦を
忘れてしまっていたこと。
107日本@名無史さん:2007/04/07(土) 01:53:45
たぶん天皇の生年と立太子年と即位年、崩御年が記録上
ごちゃまぜになってるんだと思う。
108日本@名無史さん:2007/04/07(土) 02:40:47
錯簡も多かったろうしね。
九州王朝の記録が畿内元明天皇の手に渡ったので、
漢籍に見る卑弥呼らの虚偽の整合性に必死になりながら、
九州元号との年代合わせも苦労したはず。
109日本@名無史さん:2007/04/07(土) 05:25:22
右翼団体モドキの皆さんおはようございます。今日も元気に愛国行進曲を歌いましょう。見よ東海の空あけて旭日高く輝けば 天地のせいきはつらつと ・・・♪
110征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/07(土) 08:06:33
私だってエイプリルフールに
研究家さんになってチョコっと悪戯したら楽しいだろうなァと
イロイロ想像してしまったトコロを想像までにして措いたのにぃ><


困ったさんが居たもんです
111日本@名無史さん:2007/04/07(土) 08:18:00
>>106
>二倍年暦というのは世界中どこでも層だろう?

まだそんな妄想を抱いてるやつがいるのか。

世界中探しても、「二倍年暦」なんてものはありません。
せいぜい、ウイリアム・ブランセンが日本の古代の王の長寿の説明に使っただけ。


>日本書紀紀年法研究家さん

貴方は、紀年法に詳しいようなので、はっきり言ってやってください。
「二倍年暦」は、ウイリアム・ブランセンが古代日本に指摘した以外に無いと。


112太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 09:28:44
>>111
繼體の統計表のカレンダーのこの回答が出来ないんだから、二倍暦を潰す
ことは不可能だね。昨日の無答の当事者はどうせお前だろう?w
113日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 09:55:33
ずいぶんと活発な議論が交わされているようで、驚きました(中には意味不明のものもあるようですが…)。
議論を整理してみますと、問題は、干支紀年法と二倍暦が両立しないという
ことにあるのではないでしょうか。
すなわち、仮に、弥生時代に、干支紀年法が日本に将来していたのならば、二倍暦ではなく、
干支紀年法で年を数えたと考えられます。一方、干支紀年法が将来していなかったならば、
二倍暦を用いていたことは、可能性としてはありえます。
それでは、史実は、どちらであったのでしょうか? →
114日本@名無史さん:2007/04/07(土) 09:56:19
>>112
>昨日の無答の当事者はどうせお前だろう?w

そうだよ?

繼體の頃に二倍暦があったかどうかは、興味ない。
おまえが、「あった」というなら、あったんじゃないの?

そして「神武の頃には二倍暦は無かった」ということだ。
「古代社会が二倍暦を採用していた」という根拠の無い盲信をまず潰せればそれでいい。

太国氏の言うように、
「なんらかの社会的要請で繼體の頃に二倍暦が採用されていた」というなら、
それを検討するのは、日本書紀紀年法研究家氏の仕事だろう。
115日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 10:04:50
→ 東大寺山古墳出土鉄剣(「中平」は元号です)、三角縁神獣鏡(「景行」・「正始」も元号)、
稲荷山古墳出土鉄刀、隅田八幡宮銘鏡などの金石文は、2世紀末には、干支紀年法や元号が年を
数える単位として将来していた可能性を示しています。金石文からは、二倍暦が用いられていた
可能性は、かなり低いことになります。
しかしながら、問題は、紀元前など、太古ではどうであったのかという点にあります。
神武元年は、紀元前660年に位置づけられています。周の時代に倭人が使人を遣わした
という『山海経』などの記述に信憑性を認めれば、あるいは、干支紀年法は将来していた
のかもしれません。しかしながら、これを証明するような考古学的発見はありません。→

116太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 10:17:13
>>114
そんじゃぁ、これは ↓ どう考えるんだ?

[欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表}

1日 4   15日 0   29日 0
2日 2   16日 0   30日 0
3日 3   17日 0
4日 1   18日 0
5日 3   19日 0
6日 3   20日 0
7日 2   21日 0
8日 3   22日 0
9日 4   23日 0
10日 1   24日 0
11日 3   25日 0
12日 4   26日 0
13日 2   27日 0
14日 7   28日 0


これは ↑ カレンダーが ↓ だということなんだよ。1ヶ月が1日〜14日。

   日 月 火 水 木 金 土
       1  2  3  4  5
    6 7  8  9 10  11 12
    13 14
117日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 10:19:11
→ 仮に、『魏略』が、春と秋をもって年を数えたという記述が、なんらかの伝承に
もとづくのであるならば、それは、紀元前などの大昔に、そのような数え方が、
あったのかもしれない、ということになります。明治時代に、二倍暦説が支持を集めた
理由は、ウイリアム・ブランセン氏の見解や、はじめのほうの歴代天皇の在位年数や
宝算が非現実的な数字となっていることが、『魏略』の記述に合致していたからです。
しかし、たとえ、大昔に二倍暦のような考えがあったとしても、日本書紀紀年法に
二倍暦が用いられているのか、といえば、そうではないように思います。→

118日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:22:52
>>116

神武以前の古代に二倍暦が無かった、ということなら、別にどうでもいい話だ。

なんらかの社会的要請で、1年を複数回カウントした時期があったと主張するなら、
その真偽は日本書紀紀年法研究家がすればいい。

119太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 10:29:00
>>118
神武以前に倍暦を行っていた可能性は捨てきれない。
記に 「日子穂々出見命 高千穂宮に坐すこと伍佰捌拾歳」 とある。
120日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:32:04
>>119

一晩で、考えを変えたのか?
その程度の奴かよ。残念だ。


さて、古来より日本では、「月」を数えるのに、「1月」「2月」とは言わず、
「睦月 如月 弥生 卯月 皐月 水無月 文月 葉月 長月 神無月 霜月 師走」と言い表していたね?
これらの名前が何時ごろ成立したかは知らないが、
「神無月」は、出雲に神様が集まるという伝承から生まれたことは間違いない。

つまり、神武東征以前から、倭人の暦は12ヶ月だったと言えるのではないかね?




121日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 10:34:08
→ 日本書紀に二倍暦が用いられていない根拠は、以下のとおりです。

1)日本書紀には、元嘉暦と儀鳳暦が用いられており、暦(一倍暦)という観念を用いて編纂されていること。
2)日本書紀は、政治倫理思想として、讖緯暦運説が応用されており、一年という単位が重視されていること。
  例えば、120という数字が天数として、頻繁に織り込まれています。
3)日本書紀に見える在位年数などの非現実的数字は、二倍暦ではなくとも別の説で説明することができます。
  わたくしが、まさに、この別の説を探究しております。 →


  
122太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 10:38:51
>>120
お前は本当に単純だな。かえちゃぁいないぞ。そんなことだからいい加減に
調べもせず、研究もなおざりでいて否定のための否定をしてるんだろう?

神武即位前の一定期間が通常暦でやっていたようだが、もっともっと古い時代
では倍暦をしていたようだということだよ。

お前のように高天原の天地初発から〜今日まで、全部通常の等倍暦でやって
いただろうという考えは大間違いのコンコン知既なんだぞ。
123日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:41:08
日本書紀紀年法研究家さん、

お願いしますから、
「二倍暦」は、ウイリアム・ブランセンが日本の古代の王の長寿の説明に使っただけで、
世界の暦を調べても、「倍暦」という暦が存在しないことを、
はっきり説明してください。

少しでも「二倍暦」の存在を認めてしまったら、議論など出来ませんよ?
124日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 10:41:37
→ 研究史上、二倍暦説が紀年法研究に影響を与え続けたことには、もっともな理由はあったことから、
わたくしは、太古に二倍暦が有ったか、無かったか、については、まだはっきりしていないと考えております。
しかし、日本書紀紀年法に、二倍暦が用いられていないことは、確かであろうと思います。
日本書紀の非現実的な紀年数を説明するための、わたくしの説については、先月、ホームページ、
「倉西先生のご学問所」を開設いたし、歴史学コースの日本書紀紀年法入門にて、わかりやすく
説明しておりますので、ぜひ、ご覧いただきたいと思います。
「倉西先生のご学問所」のアドレスは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります
125太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 10:41:51
倉西氏の説じゃぁ、日子穂々出見命の長寿を合理的に説明できまい。
倍暦なら説明可能だ。

極論だが、中国の西遊記は365倍暦をやっており、天上の1日は地上の
1年だそうだ。
126日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:43:06
>>122

>神武即位前の一定期間が通常暦でやっていたようだが

OK、それを認めてくれたら、言うことは無い。

そして、神武以前の、神代の「二倍暦」の証拠は全く無いということでいいね?

127日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:45:17
>>124

>太古に二倍暦が有ったか、無かったか、については、まだはっきりしていないと考えております。

二倍暦の可能性は、日本以外の暦には、ありませんね?

それだけ、はっきり説明してください。
128太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 10:50:15
>>116から
あの表が1日〜30日あたりまで、ランダムに数字が載っていたん
なら、倉西氏の説は可能性が出てくるが、これじゃぁ、まぁ1ヶ月が
半月ばかりだったということだ。

ただ八代間は欠史だから、一天皇あたり数字の割り当ては数個しか
ないから、もっと詳細が分からねば完璧とは言えないことは確かで、
追究してみたら、2倍暦は9代4代3代の数読みが九四三のコヨミの
数字の代だったということが知れてきたのだ。
129日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 10:56:15
>>123さん
わたくしには、”二倍暦は無かった”と言うことはできません。
人類史上においては、奇妙な暦を用いたり、暦という観念すら持たなかった人々があったのですから。
新石器時代や縄文時代に二倍暦があったということは、ありえないことではないからです。
二倍暦の有無は、誰にもわからないのです。
しかし、日本書紀紀年法の問題を議論するにあたっては、二倍暦の人類史上における
有無の問題は、たいした障害にはなりません。
日本書紀紀年法に、”二倍暦の有無の問題”と”二倍暦は日本書紀に用いられているのか”、
という問題は、別問題であるからです。
この問題は、日本書紀の非現実的な数字を、二倍暦以外の説で、きれいに説明することができ、
その説が、万人が納得するものであれば、解決するはずです。>>121>>124で述べましたように、
わたくしは、日本書紀の非現実的な数字に対して、多くの人々が、納得する説得力ある説を提起しています。
130日本@名無史さん:2007/04/07(土) 10:56:38
ユ〜コぴょん殿に質問です。

浦嶋は3ヶ月竜宮に滞在したつもりだったが、倭国に帰国すると100年の
歳月が経っていた。
これは、後に100年分の架空年を挿入したため辻褄が合わなくなってしまった
部分ではないですか?
131日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 11:04:12
太国さん
日本書紀には、紀年数の問題だけではなく、歴代天皇の長寿の問題もあります。
そして、宝算の記されている、もしくは、計算可能な天皇に限って、
古事記でも宝算が記されており、日本書紀と古事記の間で、それらの数字が異なっている、
という奇妙な問題もあります。
わたくしは、この問題は、「宝算年差」という構想が設定されているという仮説において、
説明しようと、現在、研究中です。拙論に「『紀』・『記』間における歴代天皇の宝算の年差をめぐる一考察」
がありますので、ご一読いただけましたならば、幸いです。
132太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 11:06:06
倉西氏はなければないでいいんだから、ないなら>>127の単純男に回答され
たい。尚、古代マヤと古代エジプトでは変則1.4倍暦を使用していたのだから、
自然数の2倍暦はあってもおかしくはない。
133日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:07:40
>>129


>日本書紀紀年法に、”二倍暦の有無の問題”と”二倍暦は日本書紀に用いられているのか”、
>という問題は、別問題であるからです。

わかりました。
そこまで、はっきりしたスタンスをお持ちでしたら、もう言うことはありません。

ですが、貴方がこの掲示板でしたい目的はなんですか?
自説の検証ではありませんでしたか?

今後、二倍暦・三倍暦を主張する方々に、いちいち反論して、
不毛な議論を続けたいわけですか?

とても、検証作業に効率的とは思えませんが。



134日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 11:08:43
>>130さん
浦島太郎伝説には、わたくしも注目しております。
>>130さんがご指摘された点と浦島太郎伝説との関連を、いずれ、調べてみようと
考えておりました。浦島太郎伝説は、日本古代史の謎を秘めた伝説であるように思います。
135太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 11:12:54
倉西氏が成務天皇を卑弥呼に当てたい由緒は、崇神即位が91年計上と
なったから、成務の年代に卑弥呼が来ないと矛盾が見え隠れする気分なん
だろう? 成務が卑弥呼なら、紀は日本武尊の女装のように、具体的に成務
が男装していたと記述するよ。

彼女はヅカガールにあこがれてるみたいね。w
136征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/07(土) 11:13:14
架空年を挿入と云う言い方よりも年代列の移動でしょうね

浦嶋伝説は丹波ですから海部氏関係で私も関心があります
137日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 11:21:13
>>133さん
たしかに、スレッドを立てた目的は(実は、「日本書紀紀年法がついに解明されました」の[倭の五王編]」については、
わたくしが立てたスレッドではなく、わたくしのコテハンとトリップを使って、何者かが立てたスレッド
なのですが、…)、わたくしの説を、多くの人々に知っていただき、ご意見やご批判をお寄せていただき、
検証していただこう、というところにあります。
しかし、わたくしの説に反対である二倍暦論者の方々が、二倍暦について、スレッドに
書き込むことを禁止することは、わたくしにはできません。また、太古にはあったかもしれない二倍暦を
無かったと言うことも、研究者として言うことができません。自分の説のために、よく検証もせずに、
他説を否定することは、卑怯であるからです。
したがって、わたくしの論法は、たしかに効率の悪いものになっているかもしれません。
138日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:22:19
>>134

浦島太郎伝説は、東南アジアの民話が起源という説は、ご存知の上ですか?


東南アジアの民話でも、時間が経過していたのですから、
紀年法の検証とは関係ないと思われますが。
139日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:25:25
>>137

>自分の説のために、よく検証もせずに、他説を否定することは、卑怯であるからです。


科学的にはそうですが、そうではありません。

世界のどこにも、「二倍暦」があったという証拠や論文が無ければ、
「二倍暦があったかもしれない」という部分は、棚上げにしてもいいだろうということです。

世界のどこにも、「二倍暦」は無いわけでしょう?

ご理解いただけませんか?

140日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 11:31:42
太国さん
日本書紀神功紀には、魏志倭人伝が引用されていて、卑弥呼と台与が神功皇后として、
扱われていることになります。しかし、日本書紀は、神功皇后の名として、「息長足姫命」
という名を伝えているだけです。そこで、「息長足姫命」の名は、卑弥呼と台与のどちらの
名であるのか、という問題が生じます。わたくしは、台与と考え、斎宮的な性格を帯びる
卑弥呼は、「稚足彦(稚足姫)」ではないかと、推論いたしました。
141征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/07(土) 11:34:23
日子穂穂手見の話が出ましたが
地神五代の下二代はどうなんでしょうね

先代旧事本紀は物部系の伝承と見ても良いようですが
先代旧事本紀を見る限り、海彦/山彦とウガヤの話を先代旧事本紀は本来認めて無かったと思います
これを容認すると世代数が合いません

これとは逆にこの二代を認めているのが海部氏伝承です
海彦/山彦とウガヤの話も丹波系の伝承なんじゃないでしょうか

余り古事記の日子穂穂手見の長寿の説明を考える必要はないんじゃないでしょうか


私の考えでは瓊々杵尊の次の世代が、地神4〜5代目を飛ばして神武です
~日本磐余彦火々出見天皇

こう云う事だったんじゃないでしょうか
142日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:39:56
>>141

>海彦/山彦とウガヤの話も丹波系の伝承なんじゃないでしょうか

海彦/山彦は、東南アジアの民話が起源だという説をご存知の上での発言ですか?


143征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/07(土) 11:46:32
三国史記や三国遺事の新羅4代の脱解王の出生説話にしても
丹波伝承系に由来すると思うんですけどね

新撰姓氏録の皇別氏族の新良貴氏は解脱王の後裔と云う設定でしょう
稻飯命→解脱王

こう云う共通の設定が列島側にも半島側にもあった筈なんですけどね
144太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 12:07:42
>>139
論文は別に外人じゃなくても、日本には相当程度あるよ。
日本しかないから無いということのはならんぞ。

たとえば古代マヤ文明の暦法に同文明固有の819日周期暦法がある。こんなの他
の国では使っていまい。マヤ固有の暦法だろうし、日本独自の暦法があり、
特性のあることは、充分に存在していたとしての論が成り立つ。こんな暦法も
臥海で承認されてるのもののはずだ。
145日本@名無史さん:2007/04/07(土) 12:20:44
>>144

>日本しかないから無いということのはならんぞ。

結局、日本しかないってことだろ。

マヤ暦を例に出しても、日本独自の暦法があった証拠には、ならない。
146日本@名無史さん:2007/04/07(土) 12:23:29
>>138

明治以降浦嶋の話が東南アジアにひろまり、各地のヴァージョンができた
147征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/07(土) 12:24:13
記紀の各神話要素の世界の神話の類型から分析論ぐらいは以前に興味があったので知っていますよ
それが東南アジア系だかは忘れてしまいましたが

ま、ただ丹波伝承系と云うのはほぼ海部氏伝承関係なんですね
海部氏、その分派する前の尾張氏の先祖が、最初に丹波に来たのは
天孫彦火明命が丹波に降臨してからなんですが

彼等がこの神話体系のプロットを持ち込んだとして、
天孫降臨直前の海人系の氏族集団が何処に居たかにも寄る筈なんですけど
そこに居た海人集団がそう云う神話体系を持っていた結果、記紀に取り入れられたと思う訳です


先程も少し言いましたが、先代旧事本紀が物部系伝承だとして
物部氏は、海彦/山彦とウガヤを認めてない筈なんですよ

先代旧事本紀には尾張氏(ここから分派して海部氏が生まれます)の事も書いているですが

先代旧事本紀では、この二世代がそもそも存在しなかった事を前提に組まれる筈だった事が
各世代の同期関係から解ります

先代旧事本紀では本来『天神』である物部氏の祖神の饒速日尊を『天孫』として書いている訳ですが
この伝承体系の違いから、海彦/山彦とウガヤは尾張/海部氏系が持ち込んだとしても
物部氏が持ち込んだ訳じゃないと解ります。この二氏族の素性は本来別なんですよ
さぁ〜て、どちらの伝承体系がより古伝承でしょうか


それから、この二世代が事後挿入神話だとすれば、

・瓊々杵尊の降臨地点
・神武東征の出発地点

こう云うものの比定地にも影響する筈なんですけどね。隼人が居る近くへ行く必要もないですし
148日本@名無史さん:2007/04/07(土) 12:25:10
>>144

あるいは、古代のフヨまたは、中国江南地方で、2倍暦が使われていたという、
証拠や論文があるなら、古代倭国で2倍暦が使われていたかも知れない傍証になるかもしれない。

そういう論文があれば提示して欲しいわけだよ。
マヤ暦なんぞ、関係ない。
149日本@名無史さん:2007/04/07(土) 12:28:28
>>147

征東大将軍氏の説は、全然しりません。

かいつまんで、自説を説明してください。

>・瓊々杵尊の降臨地点
>・神武東征の出発地点

あなたは、どこだと?

150日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/07(土) 12:43:55
>>139さん

>「二倍暦があったかもしれない」という部分は、棚上げにしてもいいだろうということです。

わたくしが、二倍暦について棚上げして、言及しなくとも、太国さんなどの二倍暦論者の方たちが、
このスレッドで、二倍暦について、書き込まれることでしょう。
ウイリアム・ブランセン氏について、前スレッドとこのスレッドで、わたくしが、二倍暦説があったことを力説した理由は、
二倍暦説を擁護するためではなく、存在した論文を無かったことにしようという意見があったことを、
問題視したためです。
掲示板は、誰でも意見を表明できる場ですので、>>139さんは、わたくしではなく、
太国さんたちに、”二倍暦について書き込まないでください”とお願いしなければならないのです。
ご理解いただけましたでしょうか?
151太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 13:02:54
>>145
大きく出たな。よっぽど無い自信がありそうだな。

ならば、紀の記録 >>116 は、これをどう説明するのか?
立派な文証だよ。 どう崩すのか? 聞きたいもんだよ。
152日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:03:46
倭の五王 (漢帝の臣)

唐の皇帝と天皇号や真人等、称号で競争してる天武帝が、
自ら編纂を指示した記紀で、
滅んだ漢の臣だった、倭の五王 を 天武の直系祖先と記述するわけがない。

継体帝を応神帝の5代先の直系と記述する事で、倭の五王を天武の直系からそっくりはずし、
八色の姓改革で、継体帝以外からの皇統を皇統から外した整合性もある

もっとも作為性がある、そこらへんの記述を2倍法とか言って割り当てるのはナンセンス。
ここらあたり全部嘘
153日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:08:44
>>151

何度も言うように、
神武以前に「二倍暦」が無いということなら、こっちは何も言わない。
古代社会で、「二倍暦」があったという世界レベルでの証拠は無い。

>>116は、日本書紀紀年法研究家に聞けばいい。
なんかの都合があって、そうなったんだろう。
154太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 13:10:32
真矢と矢的の関係は、いずれ明確になることがあろう。まあそれはいいとして
さっきの件、>>145の回答待ちだ。
155太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 13:12:37
>>153
お前だろ? マヤが関係ないと言ったのは?
ならば世界がどうのこうのとか地域を広げるな。
156日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:14:04
>>154

神武以前に、「二倍暦」がないという見解で、
貴方とは意見の相違は無い。

神武以降の話は、記紀の日付の捏造も含めたいろんな解釈が可能。
日本書紀紀年法研究家に聞けばいい。

157太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 13:22:31
>>153
古代エジプトでも1.4倍暦をやっていたが、こんな不規則な倍暦があるのに
単純半分の2倍暦をないとはいいきれんぞ。
158日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:25:26
>>157

証拠がなければ「仮説」の域を出ません。

証拠の無い「仮説」は、科学的に証明されたとは言えません。

「証明されていない仮説」に基づいた「推論」をしてはいけません。
159太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 13:28:59
>>158
だから>>116の文証をどう潰すんだよ?www

聴きたいもんだねぇ〜。これを見ると「うちらは1ヶ月が未来の半分です。」
と彼らが言ってるとしか聞こえないがねぇ。 大口たたくなら早く答えろ。
160太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 13:51:43
奴は逃走だ逃走だ!!
161征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/07(土) 13:52:53
別に何処かであるべきを決めてる訳じゃないですよ
ただ、高千穗の比定地の候補が割れる事も解っているので

そう云う話にとっても記紀の記述通りの解釈のままで優劣を競う必要はないんじゃないかと云う事ですよ

仮に海彦/山彦説話が事後挿入だとすれば、隼人を扱う必要も無い訳ですから
地理的拘束だってなくなる筈じゃないですか?

じゃあ本来南九州の最果てを出す必然性はあったんだろうか?と云うシンプルな話ですよ
162日本@名無史さん:2007/04/07(土) 14:30:28
>>159

神武以前に、「二倍暦」がないという見解で、
貴方とは意見の相違は無い。

神武以降の話は、記紀の日付の捏造も含めたいろんな解釈が可能。
日本書紀紀年法研究家に聞けばいい。

163太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 14:57:40
>>162
舞い戻ってきたか?w
そんなこと主張した覚えはないぞ。よく読め。
神武即位前あたりはそのとおり二倍暦はなく通常暦だが、それよりもっと古い、
たとえば日子穂々出見命の時代のころは何らかの倍暦を使用していた可能性が
あり、もっと高い倍暦だったやもしれぬ。だからそれ以後の過渡期とかで
一時的に2倍暦の時代を経過したかもしれない。そういうことだ。
164日本@名無史さん:2007/04/07(土) 15:08:43
>>163

>それよりもっと古い、 たとえば日子穂々出見命の時代のころは何らかの倍暦を使用していた可能性が
あり、もっと高い倍暦だったやもしれぬ。

証拠は無いよな。

「あったかもしれない」では、どんな説だって成り立つだろう。

5倍でも10倍でも100倍でもな。
証拠は無いが、あったかも知れないな。

>神武即位前あたりはそのとおり二倍暦はなく通常暦だが

これだけ、言質を取れれば、こちらは言うことは無い。
勝手に倍暦を主張して、日本書紀紀年法研究家と話をしてくれ。
165日本@名無史さん:2007/04/07(土) 15:20:11
>>150

>掲示板は、誰でも意見を表明できる場ですので、>>139さんは、わたくしではなく、
>太国さんたちに、”二倍暦について書き込まないでください”とお願いしなければならないのです。
>ご理解いただけましたでしょうか?

非常に残念ですが、太国氏その他の人に、
”二倍暦について書き込まないでください”とお願いしても”無駄”なことは、
貴方よりもよく知ってるので、そのような無駄な労力は使いたくありません。

当方としては、
太国氏より、「神武即位前あたりはそのとおり二倍暦はなく通常暦」という言質をとったことで満足です。

「二倍暦」は、貴方のおっしゃるように、古代には、あったかもしれません。

が、貴方の説を立証するためには記紀の紀年法としての「二倍暦」を否定しなくてはいけません。
それは、貴方の選んだ仕事です。
当方は、これ以上横槍を入れるつもりはありません。

166日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:06:23
天皇によっては在位年数が、古事記が書紀の半分だったり、書紀が古事記の半分だったりする。
編集に使った資料には2倍暦のものも混ざっていたのでは?
167太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 16:08:17
>>164
だからお前のほうも、神武以前がずっと等倍の通常暦でやっていた証拠は
どこにあるんだ?お前のほうもないだろう。そこを余だけ責める筋合いは
なかろうが? 
だいたい神武以前のさらに古い時代のことなんか、お前だって通常と勝手に
決めこむのが、お前の得意十八番の鸚鵡返し語の「証拠がない」為、そう余に
主張したって、違う主張でもこの件は同じ穴の狢ではないか?
たまにはお前の主張も証拠(文証でいい)を出したらどうだ?
168太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 16:12:53
>>165
お前はどうして神武即位直前が通常暦だと満足せにゃぁならんのだ?
理由を言え。好き勝手に暦法が時代時代でいいんだよくないのえり好みを
恣意的にやってるようで、不審極まりない。
169日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:27:32
>>168

それより、貴方もさあ、
「神武東征の頃だけ、通常暦だった」という言い訳を、訂正する気は無いの?

いまなら、まだ訂正できるよ。
「神武東征の頃も2倍暦だった。」と。

あとで、自分の首をしめることになってもしらないよ?
170日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:36:39
太国、なみだ目。
171日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:45:19
う〜ん、ここまで読んで、太国さんの圧勝だな。
枝葉末節に走っちゃったら、負けでしょう。
172日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:55:30
うん。太国さんの圧勝だな。
173太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 17:08:41
>>169
何かおかしな言い訳だねぇ?
神武即位前3年の記述は1年12ヶ月のうち各月記述がある。
無い月は1個くらいのはずだ。これは通常の暦だと考察したい。
174太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 17:11:46
>>173
失礼、説明漏れがあった。
それらの記述は全体で、上中下旬がひととおりあるから通常暦だね。
175日本@名無史さん:2007/04/07(土) 17:21:11
>>173

あっそ。

じゃ、「魏略」の以下の2倍暦っぽい文言は、
「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」

神武東征以後の倭国の記述ということでいいね?
176太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 17:48:02
>>175
神武が九州にいたそのころ、大陸と神武側の連絡可能な状況があったのかい?
わからんだろうが? ないと思いたいがね?

紀の神武の記録では即位前は通常暦と観る。そうでなければ、なにか暦法の途中
変更が間接的でも記録があればだが、中ば変更した状況がないとすべきでみだり
に換えるとは思われない。なにせ、まだ天皇には誰もなっていないのだからな。
未知数が多いので神武以前はまだ特定は無理だよ。

ウガヤ朝が神武とは別の暦法でやってたとなると否めないが、神武においては
紀の即位前はまず通常暦といいたい。

だいたい神武が九州にいたとき、九州全体を統治していないんだから、北九州
あたりと神武のいた九州の地域とは内容が別物と観たい。だがそれは同一に近い
状態もありえるかも知れないがね。

魏略のそれは九州の狭小地域の神武の情報ではないと思うがねぇ?
プラムさんでないから、そこんところは判然とせず、きめちゃぁいないよ。
なにか神武のことだと書かれているのかい?
177日本@名無史さん:2007/04/07(土) 17:52:20
>>176

あっそ。

(たぶん)北九州では2倍暦で、「魏略」はそれを記録したと。

(たぶん)神武の統治していた日向(?)は、通常暦だったと。

神武が九州にいたとき、九州全体を統治していないんだから、おかしくは無いと。

そういうことで、いいね?
178太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 18:00:07
>>177
そうかも知れない。神武以外の件では、神武が九州にいたころのお隣さんの
暦法はどういうんだか定かではないから、君の説が合っていることは否定はして
いない。だいたい、うちらは神武即位以後が重点なんだよ。君の話とは
すれ違いなわけさ。
さぁ夕飯だ。またあとでな。w
179日本@名無史さん:2007/04/07(土) 18:11:51
>>178

でもまあ、また面白い言質を聞けたからよかったよ。

神武が九州にいたころ、北九州は神武とは無縁の領域だったんだねえ。
180日本@名無史さん:2007/04/07(土) 19:42:02
食ってらー!
太国連勝しそうなのか?
内海2連勝
181日本@名無史さん:2007/04/07(土) 19:43:20
》179 聴けてよかったね!
182質問のいらつめ:2007/04/07(土) 20:05:14
皆様方へ

 本スレッドの本来の目的は、”日本書紀”において、どのような紀年法が
用いられているのか、ということを論じることにあります。しかるに、わが国の
古代において、どのような暦が使われてたのかという問題は、別のスレッドにて
論じるべきものと思われますが、如何でしょうか。
183日本@名無史さん:2007/04/07(土) 20:14:38
>>182

「2倍暦」と、「干支」が共存できたかどうかという問題は重要だと思うけど?

太国氏は、共存できないと考えてることはわかった。
184日本@名無史さん:2007/04/07(土) 20:31:21
ひとつの王朝の中で、複数の暦は共存できないというのは、
世界でもよくある例。

そのことは、暦が変更になったときは、
王朝が変わった可能性も示唆するということだね。
185質問のいらつめ:2007/04/07(土) 21:20:06
>>183さん
 確かに、183さんの仰るとおりに日本書紀の紀年法には、複数の暦が使用されて
いたという可能性はあると思います。そういたしますと、今度は、”日本書紀”
のどの時期にどの暦が使われたのかという、適用範囲の問題に議論は移るという
ことになりましょう。私は、姉の日本書紀紀年法研究家のように日本書紀には詳しくは
ありませんので、この議論を深めることができないことを、大変残念に思います。
186日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:36:13
>>185 いらつめさん
別人ですが・・・

ハイエクのように、多くの人間が生活していける政体の国が住民を増やしていくと、
私は思いますが、春と秋の収穫が共同体の最大関心事であったろうことは容易に
想像できますし、年中行事においても近似した祭りや習慣を春と秋に行なうことは
よく見られます。

古事記が書かれた直後に、畿内王権の手によって、九州内で九州王朝の文書が
押収される事件がありました。九州王朝は独自の元号を用いて文書を記載しており、
その暦法も唐や畿内国とは別であった可能性があります。郡・評問題においても
抹殺された「評」制を布いていたのは九州王朝でした。押収した九州文書には、
多くの倭国王の行幸記録や交戦記録があったことでしょうが、日本書紀を編纂する
契機となったのは、古事記から漏れていたこれらの情報です。この編纂過程で
何通りかの暦法が錯綜、混入したため、日本書紀の紀年がおかしくなっている
ことも、念頭に置く必要があると思います。
187日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:41:54
>>186

現在、存在しない文書を想定しても、存在が証明できない以上、
念頭に置いてもどうしようもありません。
ああ、そうですか。としか。


188日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:50:40
続日本紀には載ってますがね。
189日本@名無史さん:2007/04/07(土) 21:54:28
>>188

何が?
190日本@名無史さん:2007/04/07(土) 22:39:47
日本書紀の元ネタが、同質の同系統の資料ばかりと考えるのは間違いだ。
191太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 23:01:59
卑弥呼は九州王朝の始祖的女王。その親らは同王朝の準備的下積み王系。
192日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:10:45
太国!晩飯うまかった?
193日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:21:47
>>191

九州王朝は、2倍暦を使ってたんだよな?
194太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 23:21:59
おいしかった。チャーハンとかでね。w
倉西氏は卑弥呼を男装の成務天皇だと、まるで探偵小説のようで宝塚ガールのようでもあり、投影映画的話を真と思って説明している。w
非常に困ったさんであり、あれほど間違いだと教示しているのに未だ目
が醒めていないようだ。

彼女は崇神即位を91年と言ってるが、拙者は237年の計上であった。調べて見ると驚いた。崇神即位が景初元年になったからだ。これで畿内に鏡がうんと出る理由が氷解した。238年にミマキイリヒコは鏡を御殿
に祀っているからである。翌年が景初3年だから。当たり前だな。
195日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:22:50
》182 2chで議論をコントロールするのは、難しいですよ!
関連が0パーセントな場合や、本来の議論の妨げになっている場合をのぞいてはね。
ホストさんが、テンプレ等でスルー対象等を指定しないと、一般の人は華麗にスルーしにくいかもね!
まぁ、新しいテーマを唐突に投げ掛けてみれば?
196太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 23:24:49
>>193
そこは何とも?だな。可能性はあろうがね。九州王朝はウガヤ朝は別として崇神
の世からだから、神武即位前とは考察をまるで変えねばなるまいな。
197日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:33:36
太国!その炒飯はいわゆる三足土器で炊飯されたご飯でつくったのか?
198日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:34:36
>>192

>拙者は237年の計上であった。

俺は2倍暦批判派だが、妙に同意できる年だな。
199太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/07(土) 23:37:08
>>197
まさか〜。w

>>198
有難う。
また明日 zzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
200日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:42:21
太国さん、お茶目で好感度高いですよ〜!
201日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:45:09
やっぱり、太国は最高だぜ!
202日本@名無史さん:2007/04/08(日) 00:03:20
古代、気候が温暖で二期作が可能な時期があったんじゃない?
米を年二回収穫していた時期を二年とカウントしてしまったんじゃ
ないだろうか?
203日本@名無史さん:2007/04/08(日) 00:53:20
>>200>>201
自演はヂ・エンド
204日本@名無史さん:2007/04/08(日) 00:55:00
>>203は三足土器厨のジエンでした。
205日本@名無史さん:2007/04/08(日) 00:57:51
二期作は栽培出来る土地が限られる。西日本の太平洋岸かな。
二千年の隔たりがある現代ですらそういう感じだから、誤差があってもそんなに可能なエリアが広がっていると思えない。ましてや奈良盆地や筑紫平野で可能だったとは考えにくいね。

ただ、二毛作ならCfa気候である本州、四国、九州で可能かもしれない。奈良盆地程度の気候なら問題ないだろう。
米の収穫の季節が終わると1年が終わり、麦か豆類の収穫で2年目が終わるという具合かもな。

まあ、思いつきだけどね。
206日本@名無史さん:2007/04/08(日) 01:06:06
いまの農業から考えるとちょっと違ってくると思う。
春には蕨やぜんまいが採れ、秋には栗や芋がとれる。
こういったプレ農業的産物が代表的な収穫だったように思う。

春と秋の収穫期が、紀を刻むべき変わり目だったのではないだろうか?
207日本@名無史さん:2007/04/08(日) 09:08:52
あまえら、弥生時代末期が寒冷期だってことも知らんのか。

>春と秋の収穫期が、紀を刻むべき変わり目だったのではないだろうか?

春から秋が「今年」という認識はあったとしても、
秋から冬が「次の年」という認識だったとはいえない。

魏略の記事は、倭人の暦には、「正月」とか「お盆」とか、
そういう細かい暦の歳時記が無いという意味でしかない。
208日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/08(日) 10:31:18
>>165さん
わたくしは、二倍暦を否定する仕事など選んでおりません。>>165さんは、”学問の自由”という言葉の
意義をもっとよく勉強なさるべきであると思います。
わたくしの研究テーマは、日本書紀紀年法の解明であって、他の説を否定することではありません。
太国さんたちが、人が何と言おうとも、二倍暦説を取り下げる人たちではないことは、
>>165さんも、よくわかっておられるのではないでしょうか。
それこそ、あったかもしれない二倍暦を否定するために、太国さんたちと、
いいかげんな議論の応酬をすることは、わたくしにとりましては、時間の無駄なのです。
なぜ、>>165さんが、二倍暦を否定させることを、わたくしにさせようとなさっておられるのか、
なぜ、勝手に、>それは、貴方の選んだ仕事です。 >などと、高飛車な態度で言う
ことができるのか、わたくしには、不思議でなりません。
二倍暦を否定する仕事は、ご自分でなされたらいかがでしょうか。
209日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/08(日) 10:56:16
>>183さん
日本書紀は、神武元年の紀元前660年から持統十一年の697年までを扱っていますが、
その間、干支紀年法が将来していたことには、間違えはないと考えられます。
一方、紀元前などの太古、もしくは、地域的に、二倍暦のようなものがあった可能性も
完全には否定できないのではないか、と思います(二倍紀年法であるのか、二倍暦であるのか、
という問題はありますが…)。
地域差であった場合には、史実としては、二倍暦と干支紀年法は、併存していたかもしれませんが、
地域差がなかった場合には、併存しません。太国氏は、どうやら地域差があったと
考えているようです。わたくしは、地域差があったという説も否定しませんが、
問題は、日本書紀紀年法や古事記には、二倍暦は用いられていないということです。
210日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/08(日) 11:06:19
太国さん
太国さんは、卑弥呼と崇神天皇の関係は、どのようなものであったと考えておられるのでしょうか。
魏志倭人伝によれば、景初元年は、卑弥呼が擁立されていた時期です。そして、
三角縁神獣鏡には、景初の年号銘が見えます。
211征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/08(日) 11:16:10
この辺りの太国さんの書紀の年代観は私と近いのですが

太国さんは邪馬台国九州説の立場から言って、
卑弥呼は九州の女王、崇神は畿内の天皇で

同時代ながらも両者は関連無し
と云ったトコロでしょう
212質問のいらつめ:2007/04/08(日) 11:34:51
>>186さん
 186さんは、九州に独自の王朝が存在したという九州王朝説の支持者であられる
ようです。九州王朝が大和王朝に吸収されるいきさつを詳しく説明してくださいま
したが、『続日本紀』に関連の記事が載せてあるということは、本当のことなのでし
ょうか。ぜひ、詳しくお教えいただきたく、お願い申し上げます。
213日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/08(日) 11:47:26
征東大将軍さん
それでは、崇神天皇は、狗奴国王であるとお考えなのでしょうか。
214日本@名無史さん:2007/04/08(日) 11:51:25
>>209
日本書紀の紀年は神武東征開始のBC667年から始まっているのではないですか?
215質問のいらつめ:2007/04/08(日) 12:09:26
皆様方へ

 ”日本書紀”において、いかなる紀年法が用いられていたか、という
問題につきましては、姉の日本書紀紀年法研究家が設けております
ホームページ「倉西先生のご学問所」
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/
の「歴史学コース」をご参照されますようお願い申し上げます。
216日本@名無史さん:2007/04/08(日) 12:17:01
神武東征開始は古事記を参考にしますと、660+16=676年となるのでは。
217日本@名無史さん:2007/04/08(日) 12:24:56
古事記の神武即位年はBC660年とは限らない
218日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/08(日) 12:37:58
>>214さん
日本書紀において、年代が登場するのは、紀元前667年(干支紀年法による表記)です。
しかし、「日本書紀紀年法」といった場合、これは、紀元年(Epoc Year)が神武天皇の即位の年と
定められた紀元前660年となります。日本書紀紀年法とは、神武元年の紀元前660年から
持統十一年の697年までの1357年間に配布される紀年の構成法であると捉えることができるでしょう。
219日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/08(日) 12:39:40
>>216さん、>>217さん
どのような根拠にもとづいて、古事記の神武即位年は、紀元前660年ではなく、
別の年代(紀元前667年?)とお考えなのでしょうか。
220日本@名無史さん:2007/04/08(日) 13:23:14
古事記には神武の即位年の記載はありません。
日本書紀には己未とあり、これがBC660年といわれています。
東征開始は甲寅でBC665年にあたるのではないでしょうか。
古事記では東征期間は16年ですのでBC660たす16で676年が東征開始年となります。
221太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 13:42:39
>>210>>211でほぼそのとおりです。

237年 崇神即位 景初元年
238年 天皇鏡をご殿へ祀る 
239年 記の神功29年 景初3年
240年 正始元年
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
246年 垂仁天皇誕生
222太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 13:45:12
>>221 訂正

× 記の神功39年    ○ 紀の神功39年

>>212
九州王朝の年号が書かれてるという話ですが・・・。
223征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/08(日) 14:40:30
崇神=狗奴国王説は考えた事がありますけどねぇ

パート4でちょっと言ったと思いますが、日本書紀なんかの天皇系譜には天皇の世代の重複がある筈なんですね。
恐らく本来は孝霊天皇と孝元天皇辺りで一つ、世代の重複がある筈なんです。

もう少し言えば孝霊系の王朝と、孝元系の王朝があった事も考えられるんですね。


そうすると大和朝廷の崇神天皇の御先祖様ではない筈なんですね、孝霊天皇は。
その孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命を、日本書紀の製作者は卑弥呼に設定しています。


ですから卑彌呼死後に倭王として君臨しようとした男王が、狗奴国王の男王としての崇神だとしても筋書き上はおかしくないですけどね
孝霊系の王朝こそが、邪馬壹國/邪馬臺国であると考える事が出来ますから


ま、考え過ぎでしょうか♪
224日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:05:20
>>223
考えすぎじゃないのか?w 一応、あの系図どおりじゃないの?
ただ、皇位継承の面で重複があるというのはそうだと思う。
欠史八代の天皇かで、死後38年間、埋められてなかったケースもあるし。
こういう箇所は、天皇が重複していたように思う。
あと、欠史八代の天皇の兄弟やらが吉備の国王になる場合が多く
吉備には大和に匹敵する古墳が登場することから
大和と吉備で東西王朝対決をしていた可能性もある。
225太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 15:16:18
>>223
考えすぎですね。16代の菊花弁の16数までは兄弟継承はないです。
これは厳格と考えます。
226日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:19:50
>>208
>わたくしは、二倍暦を否定する仕事など選んでおりません。>>165さんは、”学問の自由”という言葉の
>意義をもっとよく勉強なさるべきであると思います。

申し訳ないですが、奇麗ごとですね。

貴方のいう「学問の自由」が、
現状のように、邪馬台国畿内説・九州説・九州王朝説などを乱立させ、
議論の妨げになっているではありませんか?

確かに、誰がどんな説を立てようと自由です。
しかし、貴方もご存知のように、学会では邪馬台国は畿内で決着しており、
次はどのような過程で王権が生まれたかの議論に移行しています。

アマチュアだけが、「学問の自由」で九州説に固執しているばかりに、
こうした掲示板で多くの意見を募ろうとしたときに、
畿内説VS九州説という前段階の呪縛から逃れられず、
結果的に、貴方の紀年法を検証する作業まで至らないでいるではありませんか?
これで、5スレ目だと思いますが、まだわかりませんか?



227日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:23:21
>>209

>問題は、日本書紀紀年法や古事記には、二倍暦は用いられていないということです。

[日本書紀紀年法や古事記には、二倍暦は用いられていない]

しかし、

[二倍暦は存在したかもしれない]

というのが、貴方のスタンスということは、よくわかりました。

しかし、貴方の紀年法を検証するためには、
記紀の年代の中で二倍暦を唱える方々の説を否定しなければ前に進めません。

違いますか?

二倍暦を否定するのは貴方の仕事だと言ったのは、そういう意味です。

228日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:31:30
二倍年暦は当時なかったけど、朝廷が記紀を編纂するときに
年数を二倍に水増しした可能性まで否定するものではない。
229太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 15:36:09
>>228
2倍に水増しして何の利害が埋まるのか?
イカサマというのは利害がでかいときにやることがある。利害が少なければ
そんな冒険は精神異常者とかでない限り、やるわけがない。
なかったけれどは、君の脳内の考察に留まる。
230日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:48:14
>>229

水増しすれば利益になるよ。

中国(始皇帝)より古い王朝が日本にあったと主張できる。
231太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 15:51:18
>>230
それがB.C.660年くらいで始皇帝より古くなるのか?
232日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:51:57
>>231

え?始皇帝って、いつの時代だと?
233日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:53:23
がんばれ!太国!
234日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:55:39
太国は、きょうもまた一勝をあげたか。 無敵だな。
235太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 16:00:33
>>232
まぁ始皇帝はいいが、それより中国の皇と帝は神武以前にうんとあるんで
ないのか? たとえば国は殷とか。さらに伝説では夏とかがある。
二倍暦の水増しとかで、B.C.660年くらいでは中国には追いつかんだろう?
236日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:05:07
>>235

だから(始皇帝)と明記したろう。

中国史で初めて皇帝を名乗った人が始皇帝であり、
それを意識して、日本ではじめて天皇を名乗った人が記紀を編纂させたんだよ。
ここまでは、常識の範囲。

もしかして、君ってバカ?
237日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:19:38
太国さん、お茶目で好感度高いですよ〜!
 


238太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 16:25:23
>>236
始皇帝のそのくらいで日本の歴史が中国以上に古くはならんぞ。
三皇五帝が始皇帝の前にいるだろうが? 始皇帝より古くたって8人は目の上の
たんこぶではないか? その水増しを何故せなんだ、おぬし??

だいたい紀の雄略、武列天皇の記事には天皇の不名誉の記録もちゃんと書かれ
ているから、君の言うとおりならば、こういうのも隠匿ゴマカスはずだろうが。
239日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:26:30
だいたい、2倍暦の先鋒を行ってる人が始皇帝の年代を知らないってんだから、
学問もたかが知れてるというわけでね。

240日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:29:17
だいたい、2倍暦の先鋒を行ってる人が始皇帝の年代を知らないってんだから、
学問もたかが知れてるというわけでね。

だいたい、2倍暦の先鋒を行ってる人が始皇帝の年代を知らないってんだから、
学問もたかが知れてるというわけでね。

だいたい、2倍暦の先鋒を行ってる人が始皇帝の年代を知らないってんだから、
学問もたかが知れてるというわけでね。

だいたい、2倍暦の先鋒を行ってる人が始皇帝の年代を知らないってんだから、
学問もたかが知れてるというわけでね。

241日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:32:46
今日も、太国は快進撃か?

みんな、太国の味方だからな!

応援してるぞ!
242太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 16:33:13
それはいちおうそうだな。w
拙者は隠匿しないんでね。だいたいこちらは中国人ではないし、
また歴史の研究の専門家でもな〜い。だいたいこの倍暦論も素人だよ。
だからまだ研究書も出してないよ。
アマチュアでここは仲間に入れるんだよ。

こっちの本筋のやってることは古神道の学的理論だよ。倍暦はそれに
必要だからかじってるのさ。しかし中国のことでも西遊記のことは
いささかうるさいぞ。
243太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 16:37:28
>>240
こやつはいつもの有コテの足をすくうのがたまらない快感の男だ。
やることは相変わらずだな。
244唐松山:2007/04/08(日) 16:52:58
1ヶ月が10日でも15日でも 善いのだが
朔 月の満ち欠けには 29.5日必要だ
百姓をするには、正確な暦が必要 翌年の干支がなんであろうとも関係ないが
1ヶ月が29日か30日として 12ヶ月なら 2でも3でも割り切れるからまだ良いが
13ヶ月ある 有る時は、どうすんの?
翌年に廻すのか そんな事をしてたら真夏に正月が来るくらいなら未だ良いが
まさか 真夏に 冬至 は持ってこれない
そんな 暦で百姓出来ないでしょ
245日本@名無史さん:2007/04/08(日) 16:57:37
>>244

太陽を観察するだけで、夏至・冬至を越えたくらいはわかるよ?
246日本@名無史さん:2007/04/08(日) 17:04:49
しかし、太国も8年以上、2ちゃんで邪馬台国論争してるんだから、
アマチュアと言えるのかどうか。
247太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/08(日) 17:29:26
>>246
8年なんかやちゃいないよ。3年余りだろうが。
倍暦の研究だってまだ1年余りだよ。古神道のノートは100冊近いが、去年
から倍暦一緒のノートにした。
歴史はアマチュアの域だから中国史とくに朝、韓史はこれからだよ。ただ
西遊記は拙者の本場以上の独断場を持っている。
248日本@名無史さん:2007/04/08(日) 17:39:44
太国さん、俺はあんたの純朴さが大好きだよ。
249日本@名無史さん:2007/04/08(日) 20:26:43
太国!》246 は倍暦でゆってるんじゃまいか?
何倍暦かわしらんが・・・後3年やってて先日が1勝なのか?
まぁ勝ち負けは関係ないが苦労人なんだな、炒飯もっとたべろよ!
250日本@名無史さん:2007/04/08(日) 20:37:53
》226 2ch で学会並の議論を期待するのは無理があるよ!
あんま難しい事ゆわんでも研究家さんが、たてたスレが気に入らないなら、別スレ立てるでしょ!
あんたが立ててもいんだし
まぁ、ほむぺの宣伝にもなっているからそう心配しなくてもいいべ
251日本@名無史さん:2007/04/08(日) 20:51:46
太国は、始皇帝の事は詳しくないが、一昨日と昨日は本人いわく、好調だったんだぞ!
3年もここにいるし、中国の事だって、西遊記と炒飯・三足土器には詳しいんだからな!
252日本@名無史さん:2007/04/08(日) 21:11:18
自己客観視もまともにできないから何年もバカにされたり無視されたりするんだろ
253日本@名無史さん:2007/04/08(日) 22:06:39
みんなで寄ってたかって太国さんを馬鹿にしやがって!
太国さんの都合のいいように時間の長さなんか自由に変えられるんだよ!
分かったか、下民共!!!!!!!!!!!!!!!!?
254日本@名無史さん:2007/04/09(月) 00:40:19
ええとね、日本書紀が編纂されたいきさつは、
中国からバカにされないようになのね。

ついこのまえ、白村江で、唐・新羅の連合軍に大敗したでしょ?
で、倭国としては独立国の体裁を保つために、
対外的に、倭国は長い歴史あるクニなんだと証明するための国史が必要となり、
日本書紀を作り、中国人に見せつけたわけですよ。
なめんなよと。そっちが皇帝なら、こっちは天皇だぞと。
天皇の祖の起源も、そっちの始皇帝より古いぞと。

そういうわけで、初代神武天皇即位を「辛酉年春正月庚辰朔」紀元前660年2月11日としたわけですよ。
中国には「讖緯説・辛酉革命説」なんかがあって(?)縁起がよかったのでしょう。

ようするに、倭国の王は、中国・始皇帝より格上だと言わんがために、
歴史を水増ししたのは、誰が見ても明らかなわけで、
その間の歴代天皇が長寿になってしまったのは当然のことなんです。

そうした研究のいきさつを知らないで、二倍暦云々だの主張するなんて、
勉強不足すぎて恥ずかしいというより無いわけです。
255日本@名無史さん:2007/04/09(月) 01:27:25
いやいや、日本書紀は「倭国」=「畿内国」という偽装の大義名分を打ち立てるとともに
唐との国交を狙って作成したもの。古事記は資料不足のまま作ったので抹殺した。
256太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 07:54:15
>>255
だったら三皇五帝より古くせねば目の上のたんこぶはまだぬぐえていな〜い。
かならずそれで中国側に鼻をへし折られる言葉がかえってくる。だから君の
主張はおかしい。だいたい辛酉なんかよりも権威付けなら革命よりも元始を
強調するため、「甲子」のほうがよっぽど都合がいいはずだ。
それに雄略と武烈の悪業も善業に隠匿、改竄して書くのが名誉保全に都合が
いいではないか? そうなっていないねぇ。

また国の始まりも、殷や伝説の夏より古くしなければ水増ししても中国側に
これで面をとられる。B.C.660年くらいでは国の古さは勝てないことになる。
そんなんでは水増しではないな。欠史八代を水増した論もあるが、これでさえ
8代くらい増やしたってあまり効果は薄い。だからこれも水増しではないねぇ。

さらにだ、欠史八代での>>116の倍暦の文証がある。これはどうだ?
彼らは

「うちらは未来の1ヶ月と違い、1ヶ月が半月分です。」

と言わんばかりの統計表なんだがねぇ〜。
257日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 08:12:39
>>220さん
神武東征のはじまりの年は、甲寅年ですが、西暦ですと紀元前665年ではなく、
紀元前667年になります。
258日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 08:24:16
東征大将軍さん
崇神天皇が、卑弥呼の没後に短期間王であった人物であったのならば、遅くとも、台与が266年には、
女王に擁立されていますから、その在位は、最長でも十数年となります。
崇神天皇の紀年数の68年と、この十数年という数字とは、どのような関係式にあるのでしょうか。
また、このスレッドは、パート4の続きではありません。
わたくしが、新たにパート5を立てようとしたところ、なぜか、「新ホスト云々」という
規制にあって立てられず、そうこうしておりますうちに、何者かが、
わたくしのコテハンとトラップを盗用して、勝手に立ててしまったスレッドなのです。
259日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 08:36:33
>>224さん
『漢書』には、倭は100ヶ国に分かれてあったといいますし、魏志倭人伝には、
女王国は30ヶ国によって構成されていたとあります。倭諸国の離合集散と統合によって、
我が国は、形成されてきたわけですので、歴代天皇の重複といった問題は、
たしかに、あり得ないことではないと、考えられます。
しかし、重複問題には、「天皇」の定義の問題もかかわっているのではないかと思います。
研究史上、「祭政二重政体」という考えが提起されています。これは、日本古代においては、
祭王と執政王があって、二頭体制であったというものです。
わたくしが唱えている、多列・並列構造説でも、天皇の在位期間は重複します。
「天皇」号は、七世紀に成立したと考えられておりますので、それ以前の歴史を編纂するにあたり、
どのような立場の人物を「天皇」として扱ったのか、という問題があるように思います。
260日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 08:53:46
>>226さん
わたくしは、邪馬台国畿内論者です。しかし、九州の歴史については、看過してはならないと
考えております。ちなみに、学会とは、何の学会でしょうか。
アマチュアの方々だけではなく、九州説の研究者の方々もおられるのではないでしょうか。
また、わたくしは、別に、自分の説だけを、このスレッドで検証・議論していただきたいと
考えているわけではありません(>>258で述べましたように、この「倭の五王編」は、
わたくしのコテハンとトラップを盗用して、わたくしになりすました人物が立てたスレッドです)。
日本書紀紀年法の構想には、歴史が投影されているからです。その意味で、派生的な問題も議論に含まれてきます。
ちなみに、>>226さんご自身は、わたくしの説について、賛否、どちらのご意見をお持ちなのでしょうか。
わたくしの説につきましては、先月、HP「倉西先生のご学問所」を開設いたし、
歴史学コースの日本書紀紀年法入門にて、説明いたしておりますので、ぜひ、
ご覧になってみてください。
アドレスは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/です
261日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 09:00:26
>>228さん
日本書紀の非現実的な在位年数は、「延長紀年」という考えで、説明することができます。
一律に二倍したというわけではなく、歴代天皇にかかわる何らかの歴史的理由によって、
「延長紀年」という操作が、特定の天皇にのみ施されているのです。
「延長紀年」につきましては、>>260で述べましたように、hp「倉西先生のご学問所」の歴史学コースの
日本書紀紀年法入門で、わかりやすく説明しておりますので、ぜひ、ご覧ください。
262日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 09:15:39
太国さんたちが、神武即位の紀元前660年と中国の歴史の古さについて議論なさっておられるようですので、
一言。
中国の王朝史は、黄帝からはじまるとされておりますので、日本書紀が紀元前660年という年代を
神武即位年としていることに対して、江戸時代から議論がありました。
中国史への対抗意識から、紀年を引きのばそうとしたのであるのならば、紀元前数千年まで、
引き伸ばさなければならないでしょう。そこで、わたくしは、神武元年が、紀元前660年に
設定されていることには、やはり、何らかの歴史的な事件なり問題がかかわっていたのではないか、
と考えております。例えば、日本国の形成において、最重要の役割を果たした国の建国など。
263日本@名無史さん:2007/04/09(月) 09:27:40



日本書紀紀年法研究家さんみたいな、「八方美人」も珍しいと思う。




264日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 09:31:36
>>254さん
中国史との対抗意識から、紀年の引き延ばしを行ったのであるのならば、
歴代天皇の在位年数を延ばすことをせず、歴代天皇数を増やしたのではないでしょうか。
あまりに、非現実的な在位年数や長寿ですと、かえって、偽書の汚名を被ることになります。
しかし、日本書紀が正史と見做されてきましたので、それには、もっともな理由があったと考えられます。
江戸時代、後陽成天皇によって日本書紀が、いわば、公開されますと、おもに、儒者や国学者の間から、
編年に疑義が呈されるようになりますが、それ以前までは、信頼性のある立派な正史として通用しています。
わたくしは、その理由は、日本書紀紀年法の構想のデザイン(プラス・マイナス120年構想や多列・並列構想など)が、
たとえ正確ではなくとも、およそにおいて伝わっていたからなのではないかと、
推論いたしております。
265日本@名無史さん:2007/04/09(月) 09:41:55
>>264

日本書紀紀年法研究家さんに質問!

神武天皇は、本当に紀元前7世紀頃に即位したということなんですね?
266日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 09:43:42
>>263さん
八方美人ではなく、学術的に歴史の真実を追求しようとしているだけです。
歴史においては、まさか、と思うことが史実であったり、何らかの考古学的発見などによって、
通説が簡単に覆されたりといったことがよくあり、確実と言えることは、そう滅多にあるものではないように
思います。その意味で、すべての可能性は、排除しないというのが、わたくしの研究姿勢です。
邪馬台国九州説にいたしましても、多くの研究者が九州説を支持するだけの歴史的経緯があった可能性までは、
否定できないと考えております。
267日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 09:51:20
>>265さん
「天皇」号の成立と「日本国」という国号の成立はいつか、という大きな問題があります。
これは、七世紀末頃と考えられております。
語弊はあるかもしれませんが、”神武天皇の即位”とは、紀元前七世紀の頃に発生していた、
「天皇」号と国号の成立に多大な影響を与えた歴史的事象ではなかったか、
と推論いたしております。
たとえ、それが、日本書紀や古事記に伝わるような経緯ではなかったとしても
(日本書紀と古事記の間でも、神武天皇の事績については、多くの点で相違があります)。
268日本@名無史さん:2007/04/09(月) 10:15:59
>>267

>語弊はあるかもしれませんが、”神武天皇の即位”とは、紀元前七世紀の頃に発生していた、
>「天皇」号と国号の成立に多大な影響を与えた歴史的事象ではなかったか、
>と推論いたしております。


そうした、歴史的何かが、実際に紀元前7世紀頃に起きたということが、
伝わっていたということですね?

では、「伝えた媒体」は、何でしょうか? 口伝ですか? 文書ですか?
「干支」も、紀元前7世紀に倭人が利用可能だったのか、
倭人独自の暦があったのか? どう、お考えになっていますか?


269日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 12:51:07
>>268さん
干支紀年法は、殷の時代にはあったという説があります。
紀元前660年は周の時代ですし、また、『論衡』という史書には、
周朝との間に通交があったと記していますので、伝来していた可能性は、
なきにしもあらず、と思います。しかし、神武即位に投影される歴史的事象については、
文書として伝わった可能性よりも、口伝であった可能性のほうが、高いのではないかと思います。
また、倭人独自の暦につきましては、独自の暦、すなわち、独自の暦日の計算法は
無かったのではないか、と考えております。
したがって、『魏略』の記述につきましては、
一年を二期、すなわち、春期と秋期に区別するといった慣習について述べたのではなかったか、
と推論しております。
270日本@名無史さん:2007/04/09(月) 13:08:43
う〜ん、ニニギの筑紫上陸がBC100年ごろ、神武の畿内定着がAD100年ごろでしょう。
神武がBCなんて、ご冗談でしょう。
271日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 13:17:04
>>270さん
日本書紀や古事記に記述されている通りのことが、紀元前660年にあったと
言っているわけではありません。例えば、弥生時代のはじまり説をめぐって、
昨今、紀元前1000年とする説が唱えられておりますように、
神武即位年の紀元前660年とする位置づけは、弥生時代の幕開けを告げるような、
歴史的事象のことを意味している可能性もあるのではないでしょうか。
272カナカナボウシ:2007/04/09(月) 13:18:28
いえ、ニニギの葦原中国(福岡市周辺)就任がAD42年、神武の橿原での即位は131年です。
273カナカナボウシ:2007/04/09(月) 13:20:25
ニニギの降臨以前に、倭国には別な世界があったようです。
274日本@名無史さん:2007/04/09(月) 13:22:37
当時壱岐や対馬でやっていなかった、稲作の国、猿田彦の国でしょう。
275日本@名無史さん:2007/04/09(月) 13:36:38
猿田彦の国は伊勢。

神武は何処から大和に入ったか?
神武のモデルとなった部族は何処から来たか?
276日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:09:01
神武の部族(といっても数十人でしょうが)は糸島半島出身の久米族ですね。
277日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:17:45
おまえら好き勝手に解釈するなよ、記紀を。
おまえら、ちゃんと記紀を原文で読んだこと無いだろう?

278日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:33:16
>>275
糸島半島の伊勢です。
279日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:33:53
国譲りの交渉が出雲で行われ、出雲の神と無関係の諏訪の神が息子になって国譲りに反対する。

天孫は出雲に降臨せずに南九州に降臨する。

その天孫を伊勢の神である猿田彦が道案内の為に九州まで出向く。
280日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:39:21
>>271

>神武即位年の紀元前660年とする位置づけは、弥生時代の幕開けを告げるような、
>歴史的事象のことを意味している可能性もあるのではないでしょうか。

学歴は高いようだけど、頭の中身は小学生みたいだな。

「可能性もあるのではないでしょうか」だけでいいなら、どんな可能性も意味づけられる。
地震でも、津波でも、寒波でも、鉄器伝来でも、なんでも理由になってしまう。

誰も「可能性は無い」とは言えないんだろうが、
なんら、具体性の無い推論は、検討する価値もまた、無い。


281日本@名無史さん:2007/04/09(月) 14:58:57
>>277

まったくだ。
日本書紀は、高天原にいる最初の神は、「天御中主尊」だと言っているのに。
日本書紀の最初からよく読めば、↓のような意見は出てこないだろう。

>>262
>中国の王朝史は、黄帝からはじまるとされておりますので、日本書紀が紀元前660年という年代を
>神武即位年としていることに対して、江戸時代から議論がありました。
>中国史への対抗意識から、紀年を引きのばそうとしたのであるのならば、紀元前数千年まで、
>引き伸ばさなければならないでしょう。

1、神武天皇は、天皇の祖であるが、神武の前に「天御中主尊」その他の神代の神々の歴史を日本書紀は書き残している。

2、新唐書には、「其王姓阿毎氏自言初主號天御中主至彦瀲凡三十二世皆以尊為號居筑紫城
  彦瀲子神武立更以天皇為號徙治大和州」とあり、
  神武の30代以上前から「天御中主尊」という神代の神々の歴史があることを唐も認めている。
  これは、日本書紀の功績。

282日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:05:04
>>267
初代天皇は、持統天皇あたりだと思います。九州王朝の天子=薩夜麻が
唐の捕虜から帰還を許されて、内乱状態にあった九州と畿内を収拾したのが
天武ですが、まだ天皇と名乗りきる体制はなかったでしょう。
九州王朝には、釈迦三尊像の光背銘にあるような宗教的法皇と、政治的
天子が居たようです(二君制)。
大嘗祭を初めて「主催」できたのは次の持統天皇ですね。幼少の文武天皇
からは、我々に理解しやすい「天皇」になりました。
283日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:15:51
中国の初代首長は、神農、伏羲、天皇!!など、諸説ある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E7%9A%87%E4%BA%94%E5%B8%9D
284日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:21:45
上古代史の研究というのは
日本書紀に書かれている年代を本当の年代に
直すことが最大の研究だろうと思う。

>>281
確かにそうだが、日本書紀の編纂者は
神武以前を神話という風にばっさり切り捨てている。
だから、日本書紀の編纂者が、中国の歴史に近づけるつもろは
なかったと思うね。
285日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:25:13
事実かどうかは別としても
記紀では、神武天皇の東征は
畿内にいたニギハヤが神武天皇を受け入れたことになっている。
で、この両者は、数代前に先祖がつながっていたことになっている。
つまり、感覚から言って、徳川時代に例えるのなら
神武東征とは、紀伊の徳川吉宗が東征して江戸の徳川宗家を継承するような話なんだよ。
286日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:28:00
>>284

こういう知ったぶるやつが、本当に困る。
おまえも、日本書紀をちゃんと読んでからモノを言えば?


>だから、日本書紀の編纂者が、中国の歴史に近づけるつもろはなかったと思うね。

日本書記には、ニニギの天孫降臨から、1792470余年経ったと明記してるんだよ。
どこの国の歴史より古いだろ。


287日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:32:18
日本書紀紀年法研究家さん、
日本書紀に書いてある、ニニギの天孫降臨から、1792470余年という数字について、
なんらかの歴史的事象のことを意味しているのか、
あるいは、ただの「水増し」なのか、
見解をお願いしますね。
288日本@名無史さん:2007/04/09(月) 15:50:06
>>267
「日本呼称開始論」は、旧唐書日本伝が基本になると思います。

1. 日本国は倭国の別種なり。
2. その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。
3. あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。
4. あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと。
289日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 15:57:59
カナカナボウシさん

>ニニギの葦原中国(福岡市周辺)就任がAD42年、神武の橿原での即位は131年です。

どのような根拠にもとづいて、そのようにお考えになったのでしょうか。
ににぎの尊の就任と、西暦57年頃の「漢委奴国王」金印の年代とは、
十年ほどの年差がありますが、関連があると考えておられるのでしょうか。
290日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 16:10:00
>>280さん
例えば、世界史を眺めてみれば、ロムルスとレムスによる伝説的ローマ建国年は、
紀元前753年ですが、これは、ラテン人による建国であって、その後、ローマは
サビーニやエトルリアなどを統合して、国家として成長してゆきます。
英国史でも、9世紀初頭に、ウェセックス王がヘプターキー(七王国)を統合して、
王国を形成してゆきます。
このように、およそ国家の成立には諸国の統合が作用しているわけですので、
統合に中心的役割を果たした国の建国年が、重要であった場合もあるのではないでしょうか。
日本史では、弥生時代になって国家が形成されてきますので、日本書紀が、神武即位という
国家形成のエポックを、紀元前660年という弥生時代のはじまりの時期に設定したことには、
何らかの意義があったのではないか、と考えたのです。
291日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:19:42
神武即位の実態とは、数十人程度の夜盗まがい集団が、
奇襲によってわずかな領土を得たというだけの、
小領土強奪話。列島を揺るがす大事件でもなんでもない。
松平家に坊主が転がり込んだだけという「徳川家発祥譚」と
同じレベルの些細な事件。
292日本@名無史さん:2007/04/09(月) 16:22:16
ちなみに、今の橿原も、明治時代に大騒ぎして無理やり特定し、
地域住民を強制撤去して仕立て上げた場所。本当の橿原は誰も知らない。
293日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 16:23:26
>>287さん

>日本書紀に書いてある、ニニギの天孫降臨から、1792470余年という数字

については、研究史上議論があります。しかし、>>290でも述べましたように、国家形成という視点から
神武即位年を理解すれば、このような数字は、それこそ人類発生から縄文時代まで、
すなわち、国家という概念が生じてきて、まがりなりにも統治機構が形成されるまでの
悠久の歴史を意味しているのかもしれない、と考えております。
他方、讖緯暦運説の天数に関連しているのではないかとも推論してみましたが、どうも
これらの数字をきれいに説明できるような天数は無いようなのです(あるいは、
もう少し研究を進めてみれば、有るのかもしれませんが…)。
したがいまして、現時点では、研究課題として位置づけておきたいと思います。
294日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/09(月) 16:38:23
>>291>>292さん
神武即位の実態が、どのようなものであったのか、多くの見解が出てきてしまうことは、
しかたのないことなのかもしれません。およそ、世界中のどのような国の歴史も、
建国をきれいに説明できるような国は少ないのではないかと思います。
例えば、建国時期の新しい米国にしても、コロンブスの新大陸発見、プリグリム・ファザーズの植民、
1776年の13州の独立宣言、ワシントンの初代大統領就任といったぐあいに、
多くの歴史的事象が、建国に関連しています。
日本書紀と古事記の神武即位の記述には、わたくしは、いくつかの歴史的事象が
重なっているのではないか、と考えております。そのなかには、今日の道徳的観念からは、
非難されてしかるべきような出来事もあったかもしれません。しかし、重大な歴史的事象も
また、あったのではないでしょうか。
295太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 16:44:56
>>256 訂正

× >>255     ○ >>254

>255と>256の双方は同一人かなあ?
296太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 16:57:51
>>295
だめだねぇ←自分  視力の落ちてる関係で間違いが多いな。m

下段は数字間違いで  >254氏と>255氏ガ同じ人か?ということ。
297初心者:2007/04/09(月) 17:16:39
日本書紀紀年法研究家さんはじめまして。
いつも大変興味深く拝読させていただいておりますが、ここの議論は私はレベルが高するので
今まで書き込みしたこたはありませんでした。

ただ、紀年延長がなされた理由について、私なりに以下のように想像してみました。

120年の紀年延長がなされなかった場合、実際の神武天皇の即位は前540年。
大国主神から禅譲される形で倭の国を引き継いだ神武天皇の即位年を辛酉年とする発想は
記紀編纂以前から既にあったのでしょう。
問題は繊維説に基づく次の革命がいつ起こるのかというと

 前540年+1260年=西暦720年

つまり日本書紀成立の年です。
この翌年の辛酉年に革命が起こり王朝が交代するという思想が繊維説ですよね?
紀年延長は、これを阻止する目的があったのではないでしょうか?

そこでまず神武天皇即位年を干支一巡繰り下げ、前600年とすると皇紀1260年が
西暦660年に当たることになりますが、これは具合が悪い。
日本が支援していた百齋滅亡の年に当たり、その三年後には白村江で大敗北をきっしています。
これを以て「現王朝の天命は既に尽きている」などと言い出す輩がないとも限らない。
そこでさらに干支一巡繰り下げると1260年は西暦600年。翌年の辛酉年は推古9年、
この年は王朝の衰退を思わせるような事件は何もありません。
書記より先に成立した古事記は推古記迄で終わってますが、これは要するに神武天皇即位から
1260年後の辛酉年に結局何も起こらなかったと言うことを暗に示すことによって、
繊維説に基づく革命論を封殺しようとしたのではないかなどと想像してみたりします。

以上、知識の乏しいにわか古代史マニアが思い付くまま書き込ませていただきましたが
的外れだったらごめんなさい。
298カナカナボウシ:2007/04/09(月) 17:17:38
>>289
ニニギノミコトの降臨は高天原が倭国を平定して降臨したものとかんがえます。金印は倭国の覇者と中国が認めたものであると見ます。
金印は光武帝が病床にあるときに貢献したもので、見舞いへの返礼ともかんがえられるが、それが金印であることは、倭国の覇者であったからであろう。
ニニギノミコトの降臨であるが、彼は葦原中国(福岡市周辺)の王として降臨したものであり、倭国のほかの地域にはそれぞれ別の人物が派遣されたものとかんがえます。
当時倭の領域であった朝鮮半島南部にも派遣されそれが亀旨峰伝説にあらわれており、
三国遺事によれば42年とあるので、それがニニギノミコトの降臨の年であるとみました。
それを基点として、記紀の登場人物をライフサイズであてはめていくと、神武の即位年が131年となります。
一方崇神天皇の崩御を古事記干支から288年とみて、2倍年暦を2倍した年代で計算していくと、やはり131年神武即位となります。
以上で、日本書紀の編年では神武即位年は131年ということになります。
299日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:22:17
>>256

>>286で論破されてるよ。
300日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:35:58
>>290

おまい、いってること無茶苦茶。

301太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 17:47:31
>>299
論破なんかされてないぞ。そんな1百79万余年の記述があるんなら、
それを後生大事に持っていればいいことで、なにも編者はB.C.660年に
こだわる必要などない。こんな長年月を自国にあるというんだから、神武の
即位年が遅かろうと大したことはない。ということは水増しする必要
もないということになる。

かたや新大陸のマヤ文明の暦法の数字ななんて、もっともっとどでかい。
1アラウトゥンからすれば、1百79万余年なんかひよこの年月だよ。w
302サガミハラハラ:2007/04/09(月) 17:50:31
>>293
平成15年2月11日、横浜県民センター305号室におけるユニバーサルフォーラムの会の
講演会において、原田実氏は「天降り神話とヤマト王権のルーツ」という講演を行い、
1792476年の数字は中国の唐代に宇宙が一巡する年であると述べた。

以上から見るに、この数字は中国のオカルト集団が考えついた妄想による数字と見てよいであろう。
303日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:51:07
>>298

現実の歴史上の場所や人物を出すなら、
高天原がどこにあったかくらい、書けよ。

ニニギを派遣した高天原はどこにあったんだ?
朝鮮や北九州や出雲や畿内に高天原の神が降臨してるんだから、
それ以外の地域なんだろうね?
304日本@名無史さん:2007/04/09(月) 17:56:14
>>301

マヤ暦法の数字上の話と、ニニギが降臨してから神武に至る年を一緒にするな。

マヤ文明が、何万年も過去から続いてたとでも言いたいのか?
そんなこと、古代マヤ人も思ってないよ。
305太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 18:02:10
>>304
だったらお前も中国がどうのこうのいうやつを文句言え。
それに古代マヤ人の脳内がお前はどーして分かるのか?
タイムマシンで最新脳測定装置を搭載して一緒に過去へ行ったのか?ww
306日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:10:52
>>305

マヤ暦を話題に出してるくせに、
52年周期で滅亡・再生するというマヤ人の思想をしらんの?
307日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:48:16
日本書紀紀年法研究家さんは、
紀元前660年に拘ってるみたいですね。

紀元前660年に「何か」が起きていないと貴方の説が破綻するのでしょうか?

HPを見ましたが、神武天皇や紀元前660年についての記事を見つけられませんでした。
このへんで、貴方の考えを要約していただけますでしょうか?

紀元前660年に「何か」が起きていないと、貴方の説は破綻するのか?
神武天皇の実際の即位年を、いつだと考えておられるのか?
308サガミハラハラ:2007/04/09(月) 19:06:07
>>303
高天原は佐賀平野北部の背振山地の高原地帯です。
ニニギノミコトはそこから麓の福岡湾沿岸に下りていったのです。
309日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:17:22
>>308

なるほど、それなら十分考えられるね。

もともとあのあたりは、縄文時代から遺跡が良く出てる場所だし、
立地的にも、半島文化を受け入れるときに、福岡を経由しないですむしな。
近くに銅山もあるから、そこで、銅鏡や銅矛を作ってた可能性もある。
狭いながらも、当時としては、最先端の文化を謳歌していた土地だったはず。

佐賀の地で、天照大神や他の神々の饗宴があったことだろう。
そして、自分たちの先進文化で、他の倭人の地を教化するために、
平定に乗り出したんだな。
第一陣が出雲へ、そして、畿内のニギハヤヒ、日向のニニギに連なるわけか。
310日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:25:46
>>298

これは目からウロコだったなあ。

ニニギが降臨して九州でクニを作ったのは確かなわけで、
なれば、その時期は、金印を受け取った時期と重なるってのは、その通りでしょう。
はじめての倭国王として承認された人物は、ニニギ以外に考えられないってことだから。
その後の神武東征、祟神王朝という時間の流れも無理はないし。



311太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 19:28:07
>>306
知ってるよ。
312日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:30:38
>>298

>一方崇神天皇の崩御を古事記干支から288年とみて、

これは、誰も異論の無いところでしょう。

あと、宇佐津姫が卑弥呼なら、すっきりするんだが。
313日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:33:59
まとめると、こうなるかな?

日向で、神武の即位年が131年。

神武東征開始

宇佐を開拓し、邪馬台国を建国。
宇佐津姫=卑弥呼?

神武、さらに東征。畿内へ。

神武の子孫の崇神天皇が、畿内を統一

崇神天皇の崩御が288年。
314唐松山:2007/04/09(月) 19:34:00
1792476年の数字は中国の唐代に宇宙が一巡する年であると述べた
暦の計算の数字だろ
暦入門 5 にある数字
唐書では,y=96961740年  (星の巡航も入れる)
年月のみ考える場合は107340年で構いません
315太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 19:34:14
崇神天皇崩御 259年
316日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:39:49
神武が、宇佐を開拓して邪馬台国を作った後、
さらに神武は瀬戸内海を東征したわけだが、その混乱が、倭国大乱。
高地性集落が作られる。

神武は東征にいそがしかったので、
宇佐の邪馬台国の統治を、卑弥呼に任せた。
卑弥呼は外交を担当し、魏から女王と呼ばれた。

その間に神武は畿内に侵攻し、イワレに居城を構えた。
邪馬台国では、トヨが新しい女王になった。

もしかしたら、トヨが神武と仲たがいしたのかもしれない。
そして、九州王朝と、大和王権という二大王朝が、日本に生まれた。


317太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 19:42:01
>>316
最下段はいいとして、卑弥呼は崇神の前後の頃の女性。神武はもっと古い。
318日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:44:47
もっとも、宇佐津姫は、天児屋根と結婚してるから、
卑弥呼は、その娘かもしれんね。

宇佐で宇佐津姫と結婚した天児屋根は、
紀元200年前後の人だから、邪馬台国と、ピタリ年代が一致するんですよ。

319日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:51:44
>>317

>神武はもっと古い。

いいえ、天児屋根と同じ紀元200年前後の人ですよ。
詳しくは、ことらで。
ttp://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-23.html

天児屋根を祖とする中臣系図を調べると、
確かに、天児屋根を紀元200年前後の人として年代が一致するんです。
同時に、天皇家の系図が、古く古く引き伸ばされてることもバレてしまうんです。
氏族ごとに伝わった系図は、ウソをつけないってことです。

ですから、>>298さんの、
>神武の即位年が131年となります。
これが、実に信憑性ある数字になるんですね。

320日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:56:33
倉西のHPが不愉快
なぜ日本史板やこのスレへのリンクがないのか?
321日本@名無史さん:2007/04/09(月) 19:57:30
ついでに言えば、
ttp://www17.ocn.ne.jp/~kanada/1234-7-23.html
ここにもあるように、
中臣氏の祖は、天御中主尊なんです。

天御中主尊は、高天原の最初の神で、天照大神よりも格上なんですよ。
ということは、もともと神武(天孫)より中臣(天神)の方が格上だったということなんです。
それはつまり、宇佐を開拓して、宇佐津姫と結婚した天児屋根(中臣祖)が、
真の大王だったとも言えるわけです。

ですから、宇佐に邪馬台国という国家の中枢が誕生したのも頷けるわけです。

322太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 19:58:59
>>319
アマノコヤネノミコトは皇祖の時代の天の岩戸の時代の人物だよ。
その時代がいつだかの特定はまだ無理だろう?

皇祖のずっと時代が降下して皇宗の時代だ。だからアマノコヤネノミコト
と神武とは別時代の関係だ。当然神武のほうが新しい。
323日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:01:32
神武というのは、本当は中臣氏の部下だったのかも知れませんね。

中臣に東征を支持されて、神武は畿内に向かったのでしょう。

神武が畿内で王権をつくると、神武は中臣と決別し、対決しようとしたんじゃないですかね?
力関係が逆転したということです。
それで、記紀神話では、神武が天皇の祖とされたと。
しかし、中臣氏の力も排除できないので、中臣氏は、ナンバー2として君臨してきたんですね。



324日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:04:01
>>322
>アマノコヤネノミコトは皇祖の時代の天の岩戸の時代の人物だよ。

あ、すいません、「天種子命」のほうですね。
どちらも、中臣氏の祖ですから、同じことです。
325太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 20:05:43
>>323
対決と云ったって、九州と畿内じゃぁ遠隔すぎてそんなことは
ありえんだろうが?w
326日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:07:22
>>325

武力で直接対決ってことは無いでしょうが、
鉄器の輸入権益で対立したことは想像に難くないでしょう。

祟神以降、畿内でも鉄器が多くなり、九州は衰退していくわけですから。
327唐松山:2007/04/09(月) 20:08:36
中国 3皇5帝時代は、
舜が摂政となって八年目、堯は在位九十八年で崩じた 
BC500年 孔子 の時代は、 人生80年
紀元0年(西暦1年)頃は、   人生60年
328太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 20:08:38
>>326
遠隔だから、対決なんかより神武は畿内のことの専念だよ。
329日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:11:07
>>328

もちろん、神武はまだ、奈良盆地全体を征服するのに手一杯だったでしょうね。

祟神・垂仁あたりで、筑紫征伐の記録が出てきたんじゃあなかったかな?
330日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:14:41
ちゃんと計算してないけど、神武が畿内を征服したのは、
紀元150年くらいではないでしょうか?
唐古・鍵遺跡の頃ですかね?

ニギハヤヒは、それよりもっと前の王朝だったのかな?
331太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 20:17:54
神武天皇即位 紀元元年のようだ。
332日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:20:42
神武崩御がだいたい、紀元160年くらいとして、
崇神天皇の崩御が288年とすると、
その間を、欠史天皇で埋めると、
だいたい、1代20〜30年くらいでしょう。

ほら、すごく、現実的な数字になるじゃないですか!
天皇の年代は、これでほぼ決まったようなものですよ。

邪馬台国も、宇佐でほぼ決まりでしょう。
同時に畿内で大和王権が生まれていたというだけで。

333太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 20:23:58
神武天皇崩御 26年
崇神天皇崩御 259年
334唐松山:2007/04/09(月) 20:25:48
ほつまでは、
神武は、オオモノヌシの部下
東征時 オオモノヌシの配下を嫌って(一緒に都を作ったが) 巻向に単独で
都を作る 当時数十国在ったでしょうが其のうちの1国に過ぎなかった
大王(アマキミ)は、オオモノヌシ
ホ30036   ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる

335日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:26:20
>>333

欠史天皇で200年埋めるのは無理あるでしょう。
336日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:29:45
>>334

>ほつまでは、
>神武は、オオモノヌシの部下

へえ、そうなんですか。
ホツマも、資料的価値を感じてるんで、見過ごせないですねえ。

オオモノヌシも天神に国譲りした後だから、
神武がオオモノヌシの部下でもおかしくは無いでしょうね。

337太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 20:31:01
>>335
10代−1代=9代

259−26=233

233÷9=25年強で可。
338日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:35:29
>>337

なるほど、まあでも、神武が26年崩御か、160年崩御かなんて、
たいした問題では無いのでは?

神武が九州を統一して、邪馬台国を作って、畿内に東征して大和王権を作った時系列は、
変わらないでしょう。
339日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:38:59
惜しむらくは、卑弥呼が誰かってことが、
日本側の資料からじゃ、わからないってことだなあ。

せいぜい宇佐神宮のヒメ大神をその人とするしかない。
もうちょっと九州側に系図が残ってればよかったのに、
朝廷側に焼かれてしまったんだろうね。
340太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 20:39:48
>>338
100数十年の違いは大違いだよ。
それに神武が九州を統一したなどというのは聞いたことはないが?

女王国は崇神世の前後にまたがった時代だよ。

崇神天皇即位=237年=景初元年
341太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 20:41:55
比売大神は卑弥呼にあらず。
342サガミハラハラ:2007/04/09(月) 20:43:33
神武の崩御は150年春年です。(生まれは101年春年です。)
ニギハヤヒノも事は85年以上生存していれば、大和で神武と遭遇していることになります。
343日本@名無史さん:2007/04/09(月) 20:57:28
卑弥呼は田油津媛以外考えられない
問題あるだろうか?
344日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:03:51
太国!おかえり!
今日はがんがれよ!
345日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:31:59
>>341


卑弥呼は、誰なんですか?
346日本@名無史さん:2007/04/09(月) 21:35:50
太国はこのスレのスターさんだぞ!
なんでも気さくに聴きなさい。
347太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/09(月) 22:12:15
>>345
卑弥呼は崇神の世の前後あたりに日本版シルクロード上の北九州を外れた九州
の奥まった地域で勢力を振るっていた女王であり、比売大神ではないな。
348日本@名無史さん:2007/04/09(月) 22:14:58
やっぱ、田油津媛だな。
349日本@名無史さん:2007/04/09(月) 22:17:35
350日本@名無史さん:2007/04/09(月) 22:25:11
前スレに書き込んだが

『史記』の「呉太伯世家」によると呉は越王勾践に前473年に滅ぼされている。
神武元年をそれより古い時代に設定したかったと思われる。
351日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:23:03
>>342 :サガミハラハラ :2007/04/09(月) 20:43:33
>神武の崩御は150年春年です。(生まれは101年春年です。)

自分は、神武の崩御は120年くらいで、神武の誕生は50年代で
神武の東征は70代〜80年代という認識。
352日本@名無史さん:2007/04/10(火) 03:00:03
>>294
神武が奈良県で行なった行為と立場を、真摯に見てください。
あれは決して日本列島の統一話じゃありません。
「神武の即位」はいいとして、就いた地位で支配する領土の面積はどうでしょうか。
支配して従えている人口は、一体何人ぐらいなのか。
神武の支配、神武即位など、非常に些細な事件であって、本州在住の人間の
ほとんどが知らないような事件に過ぎないのです。
原点批判をしながら、記紀に書いてあることを、先入観なしに観察すべきです。
353日本@名無史さん:2007/04/10(火) 03:28:57
神武天皇は、斉明天皇七年の660年前に即位したんだけど、
記紀の編者が単純に二倍水増ししたので1320年前になった。
動機は>>350参照。
354日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 08:20:39
>>297 初心者さん

 初心者と自称なされておられるには、たいへん古代史や日本書紀紀年法についての知識が
おありであることには、驚きました。
 さて、延長紀年の問題ですが、プラス・マイナス120年構想では、応神元年(390)から
雄略五年(461)までの間に加算された120年は、神皇紀の120年分の紀年不足によって
解消されていますので、神武元年の設定の660年に影響があるわけではありません。
しかし、辛酉革命を防ごうという考えが、日本書紀紀年法の構想にあったという
初心者さんのご指摘は、わたくしも、同じように考えているところです。→
355日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 08:33:13
→ そこで、日本書紀紀年法の多列・並列構造において、応仁列と仁徳列という基本年代列が、実年代との対応関係が120年
ズレていることは注目されます。初心者さんがご指摘された紀元前540年は、応仁列上に於いて、神武元年となるからです。
 年代列につきましては、わたくしのHP「倉西先生のご学問所」、歴史学コースの
日本書紀紀年法入門をご覧いただきたいと思います。
アドレスはhttp://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります。→
356日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 08:42:02
→ 日本書紀の撰進年の720年(養老四)と讖緯暦運説における一蔀(1260年)との
関連は、研究史上、議論されています。推古九年の601年に、四六二六相乗説の二六の120年を加えた
年代の前年となるからです。
幕末まで辛酉年には、ほとんど必ずといってよいほどに改元が行われた理由は、
日本書紀紀年法の構想として讖緯暦運説が応用されていたからなのではないかと
推論することができます。
357日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 08:52:08
カナカナボウシさん

>記紀の登場人物をライフサイズであてはめていくと、

のライフサイズは、どのように算出されたのでしょうか。記紀の登場人物たちの寿命には、
かなりの幅があるように思います。
358日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 09:01:22
>>300さん

日本書紀紀年法では紀元前660年に神武即位年が位置づけられていることについて、
倭諸国の統合過程において、その中心的な役割を果たした国の歴史を投影しているかもしれない、
ということを、世界史の事例を示すことで述べたまでです。
359日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 09:06:01
>>302さん

原田実氏の

>1792476年の数字は中国の唐代に宇宙が一巡する年

とは、どのような史書にあったものとおっしゃられておられるのでしょうか。
360日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 09:20:37
>>307さん
日本書紀紀年法には、讖緯暦運説が応用されていると考えられます。
神武元年の紀元前660年は、推古九年(601)から、一蔀年数の1260年を
遡った年代です。この点において、神武元年は、史実であったということには、
問題があるかもしれません。しかし、一蔀の起点年を推古九年ではなく、もっと遡らせれば、
神武元年は、紀元前660年以前の太古に位置づけることはできたはずです。
そうとはしないで、紀元前660年という年代に位置づけたことには、
この時期に、”建国”という事象とかかわるような歴史的事件があったのではないか、
と推論いたしました。
また、神武元年の問題など、HPに記載した構想以外は、HPの日本書紀紀年法入門の「おわりに」でも述べましたように、
研究課題であって、現在、研究を進めております。神功元年から雄略五年までのように、きれいに説明できる段階ではありませんので、
いずれ、解明が進みましたならば、HP、もしくは、書籍などにて、発表いたしたいと考えております。
361日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 09:28:19
>>313さん
神武即位が131年で、その後に東征に出立し、途上の宇佐に於いて卑弥呼を擁立
したといたしますと、年代的に矛盾しているのではないでしょうか?
362日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 09:40:54
>>320さん

>倉西のHPが不愉快
>なぜ日本史板やこのスレへのリンクがないのか?

とのことですが、リンクは、リンク先の許可が必要なのではないでしょうか。
また、「日本書紀紀年法がついに解明されました」スレッドは、part1からpart4までは、わたくしが立てたスレッドですが、
この倭の五王編は、何者かが、わたくしのコテハンとトラップを盗用して、勝手に立ててしまったものなのです。
親切心からだったのかもしれませんが、やはり、コテハンとトラップの盗用は、”なりすまし”されたようで、
気持ちの悪いことです。
スレッドの削除をお願いしようか、と考えたほどです。
このように問題のあるスレッドですので、リンクすることには、問題があるのです。
363日本@名無史さん:2007/04/10(火) 09:41:11
>>361

他人の考えに文句つけるまえに、
矛盾しない考えがあるなら、それを書きなよ。

君はいつも文句しか言わないじゃないか?
364日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 09:51:24
>>363さん

>君はいつも文句しか言わないじゃないか?

とのことですが、まず、文句ではなく、矛盾しているから矛盾していると
述べただけです。神武天皇が131年に在位されていたのであるのならば、卑弥呼が
西暦247年頃の人物であることとの矛盾は、明白ではありませんか?
矛盾しない考えとは、神武即位は131年ではない、ということです。
また、日本書紀と古事記における神武即位については、重層的で、複雑な問題が
関連しているように思います。わたくしは、いい加減なことは述べたくありませんので、
現段階では、神武即位という事象について、もっと研究を進めてから、
発表いたしたいと、考えております。
365太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 09:54:02
>>354
『神皇紀』 三輪義X著(古史古伝の一)
366カナカナボウシ:2007/04/10(火) 10:01:22
>>302の原田氏の権であるが、講演会の時には史料の名はでませんでした。また、この件について、この数字の話題が出る時にたびたび上記のように書き込んで
いるのですが、原田氏はみているのかいないのか、なんの反応もありません。
367日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:18:06
>>366

その講演会って、まさか金払って行ったんじゃないよな?

368日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 10:19:51
>>365太国さん
初心者さんとは、三輪義Xさんと、おっしゃられる方であったのでしょうか。
369日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 10:29:11
カナカナボウシさん
唐の時代には、讖緯暦運説について新しい解釈があらわれてきたようです。
なかでも、『開元暦紀経』は、影響があったとする研究があります(勘文類には、
この書に言及した記述が見えます)。
その逸文でも、あったのでしょうか。
370太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 10:50:34
>>368
解かりません?おそらく違うでしょう。
371日本@名無史さん:2007/04/10(火) 11:01:51
>>364

矛盾していませんよ?

神武東征が130年頃で、宇佐を開拓。
その後、倭国大乱(神武東征)。
畿内で、神武崩御が150年。
247年、九州で邪馬台国連合が生まれ、宇佐の女王を共立→卑弥呼。

神武と卑弥呼が、同一年代の人とはどこにも書いてないですよ?
自分勝手に他人の説を解釈して、矛盾してるなどと失礼な話です。

372太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 11:16:10
神武即位 紀元元年

崇神即位 紀元237年
373日本@名無史さん:2007/04/10(火) 11:18:33
>>364
>現段階では、神武即位という事象について、もっと研究を進めてから、
>発表いたしたいと、考えております。

どう研究しても、神武即位は紀元50〜150の間にしか収まらない。

このスレの人たちは、邪馬台国問題に関しては君よりキャリアが長い。
先人が培ってきた通説を無視すべきでは無いと思いますがね?
374日本@名無史さん:2007/04/10(火) 12:22:29
>>362
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/pluralstructure2.html
履中・反正はpart1の400-500あたりを参考に?
375日本@名無史さん:2007/04/10(火) 12:27:45
どうでもいいだろそんなこと
376日本@名無史さん:2007/04/10(火) 12:55:49
>>362
> とのことですが、リンクは、リンク先の許可が必要なのではないでしょうか。

ネット上においてリンクする際にリンクされる側の許可は必要ありません。
中には勘違いしてる人もいますが、それは公道に勝手に道路標識を立てるようなものです。
ま、そういう勘違いしている人とわざわざ関係したいと思わない限り、リンクとかせず相手にしない方が良いでしょうが。

それとリンクするしないもリンクする側の自由ですから、>>320の人がどう思うと研究家さんがしたいと思われるようにされるが良いでしょう。
377日本@名無史さん:2007/04/10(火) 13:04:11
倉西さんのHPを不愉快だなんて、思えないがね。
楽しく見てますよ。
学術的なサイトに、無理に2chのリンク貼らなくてもいいでしょ。
378日本@名無史さん:2007/04/10(火) 13:46:03
というか、2ちゃんの他に学術系の掲示板は無いのか?
379日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 13:47:23
>>370 太国さん

太国さんが、>>365にて、わたくしの>>354の書き込みに対しまして、

>『神皇紀』 三輪義X著(古史古伝の一)

と書き込まれたことから、初心者さんとは、三輪義Xのことではないかと考えました。
それとも、>>354で述べた、わたくしの見解は、三輪氏の『神皇紀』という本と何らかの関連がある、
ということなのでしょうか。もし、そうであるのならば、わたくしは、『神皇紀』という書を知りませんでしたが、
一度、一読してみたいと思います。
380日本@名無史さん:2007/04/10(火) 13:47:54
あ、学術系掲示板じゃ、逆に相手にされないか。
>日本書紀紀年法研究家

アマチュア相手だから、かまってもらえるわけで、
先生達相手じゃあ、無視されるだけだろう。
381日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:03:14
>>371さん

>>371さんが>>313で述べられたことは、以下の文章です。

>日向で、神武の即位年が131年。
>↓
>神武東征開始
>↓
>宇佐を開拓し、邪馬台国を建国。
>宇佐津姫=卑弥呼?
>↓
>神武、さらに東征。畿内へ。
>↓
>神武の子孫の崇神天皇が、畿内を統一
>↓
>崇神天皇の崩御が288年。

>>313>>371では、371さんは、違うことを述べています。
313では、東征途上の宇佐にて宇佐津姫があり、これを卑弥呼であったとしていますが、
317では、卑弥呼は宇佐津姫ではなく、その100年後くらいに宇佐にあった女王としています。
どちらが、371さんの言わんとするところであるのかは、わかりませんが、
313でのご見解は、明らかに誤解を招くものなのではないでしょうか。

382日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:16:12
>>373さん

日本書紀の難しさは、史実はどうであったのか、という歴史伝承の側面と
政治倫理思想の具現化という側面があることです。
日本書紀から史実を追求すれば、373さんが、

>どう研究しても、神武即位は紀元50〜150の間にしか収まらない。

とおっしゃられているように、50年から150年の間に、神武即位という記述に投影されるよう大きな
歴史的事件があったのかもしれません。
しかし、讖緯暦運説を応用して紀元前660年に神武元年を位置づけたことも、
”遥かなる記憶”、とも言うべき弥生時代の始まりと関連した何かがあったのではないか、
とわたくしは推論いたしているのです。

383日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:23:45
>>374さん

>履中・反正はpart1の400-500あたりを参考に?

『日本書紀の真実』の発表後に、履中紀と反正紀の属する年代列を、允恭列から仁徳列に
換えたほうが、古事記崩年干支と整合することに気付き、part1で、その見解を述べました。
part1の400-500あたりは、わたくしの書き込みですので、他者の意見を参考にしたわけではありません。
384日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:25:26
>>382

>”遥かなる記憶”、とも言うべき弥生時代の始まりと関連した何かがあったのではないか、
>とわたくしは推論いたしているのです。

推論したから、何なの?

というかね、イライラするんだよ。
何かを証明するでもない、具体的な論拠を示すでもない、
「何かがあったのではないか」というなら、「何かあった」でしょう。
だから、どうした?ってことだよ。

君が推論しなくたって、紀元前7世紀まで遡る間に、弥生時代に何かあったと言われれば、
何かあったくらいのことは想像できるよ。
なんにも無いわけないからな。




385日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:26:12
>>380
たしか誰にも相手にされないからここに来たんだったよな
一年以上いるんだから2ちゃんのリテラシーくらい身につけてもらいたいもんだが…
普通に検索とかもできなそうだから無理か
386日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:32:19
ネタじゃなく自分のことを先生なんて書く時点でキモい
見下したい気持ちは まぁ、分からなくもないがw
387日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:33:54
376さん

リンク問題につきましてアドヴァイスをいただきまして、恐れ入ります。
388日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:35:59
>>377さん
わたくしのホームページを楽しんでご覧くださいまして、うれしく思います。
389日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:39:48
この人、一年以上も、のらりくらりしてたの?

で、肝心要の神武の年代についても、自説を固められないわけ?
現時点での仮説でも何でもいいから書いてみればどうよ?

「何年〜何年の間の年代の人」くらいの具体性がある想定はできるだろ。

将来の出版予定のために、企業秘密で公表できないってなら、話は別だけどな。
それこそ、この掲示板で何をしたいのかさっぱりわからんが。
390日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:42:40
>>378さん
わたくしのホームページにも掲示板を立ててみました。
わたくしの説や著作に対しまして、ご意見やご批判などがあれば、ぜひ、
お寄せいただきたくお願い申し上げます。
391日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:48:21
たとえば、魏志倭人伝には卑弥呼共立前に倭国大乱という記述があり、
考古学的には、瀬戸内海に高地性集落が作られ、
記紀には、神武が瀬戸内海を東征した記述がある。

これだけで、神武東征譚が紀元0〜2世紀の倭国の事変を暗示してるくらいのことはわかる。
他の解釈は考え付かないし、別の解釈を考える必要も感じない。
392日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:51:16
>>380さん
学術的であるかどうかは、わたくしのHP「倉西先生のご学問所」の歴史学コースの
日本書紀紀年法入門をご覧いただきまして、わたくしの説に説得力と蓋然性があるかどうかを
お確かめくださいませ。ご覧になったうえで、学術的ではないと考えられるのであるのならば、
具体的な点をご指摘いただきたいと思います。
また、HPの日本書紀紀年法入門に記した自説につきましては、2004年の史学会大会の古代史部門で、
研究発表いたしております。
393太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 14:54:49
>>379
初心者氏とは三浦氏ではないでしょう。

研究を拡げるには参考になります。特記することとしては、神武以前に
あったと推定されるウガヤ朝(宇家澗不二合須朝)51代と阿祖山太神宮の記録
が書かれている内容です。
394日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:56:22
>>392
>また、HPの日本書紀紀年法入門に記した自説につきましては、2004年の史学会大会の古代史部門で、
>研究発表いたしております。

で?
史学会大会の人達と意見交換したほうが実りが大きいんじゃないの?
アマチュアの意見を聞いて、何か今まで実りがあったわけ?
395日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:57:12
批判するなら批判するで内容に関して批判すべきで本人が主張していないことに関してまで答えをムリに求めようとするなよ。
396日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 14:57:19
>>384さん

わたくしは、日本書紀紀年法の数学的構造物としての側面に目を向けております。
数学的構造物として、紀元前660年に紀元年が位置づけられているという点を
重視しているのです。
397日本@名無史さん:2007/04/10(火) 14:59:52
>>396

ああ、なるほど、やっと意図がわかったよ。
ようするに、紀元前660年を紀元年として「何か」が無ければ、
君の説は破綻するってことだろ?

そうならそうと、はっきり言えばいいのに。
紀元前660年頃に、どんなことがあったか、調べようと思えばいろいろ調べられる。
398太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 15:02:28
>>397
君の説はどういうの?
399日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:06:27
紀元前660年頃というと、中国では春秋時代で、孔子や老子の思想が生まれた頃だろ?

大陸から、倭国に流れてきた中国人もいただろうから、
倭人を教化したことは十分考えられるよな。
絹織物も伝えられたことだろう。
400日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 15:07:53
>>385さんと>>394さん

現在、日本書紀紀年法の講座を持っている大学があるでしょうか?
日本書紀紀年法は、日本古代史を解明するうえで、基礎となる研究でありながら、
学術的議論ができるような場は、ほとんど存在していないのです。
そこで、ちょうど、「2ちゃんねる」の掲示板に日本史板があることを知りまして、
研究者、アマチュアの方々をまじえて議論の場を作ろうと考えたのです。
par1からpart4までは、わたくしが立てたスレッドです。
もし、仮に、わたくしの説が、ほとんど確実に日本書紀紀年法の構造を説明するものと
なっていると、多くの人々に認められるようになれば、日本書紀の紀年を実年代に
位置づけることができるようになります。
日本書紀の紀年を実年代に位置づけることができたならば、古代史研究は
進むのではないでしょうか。
401日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:09:32
>>397
違うよ。全然違うよ。
402日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:13:35
『論衡』
「周時天下太平 倭人來獻鬯草」

周の時代に倭人が朝貢したそうだから、
紀元前660年頃に、すでに中国と通行があったことは確定だろう。
倭を代表するクニが生まれ、王が生まれていたということだな。



403日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 15:15:26
>>386さん

HPを「倉西先生のご学問所」と名付けた理由は、政治学コースを担当しております妹が、
大学で非常勤講師を務めているため、生徒さんたちとの質疑応答に、HPを活用しようと
考えたからです。とりたてて他意はありません。
404日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:16:58
>>400
煽りのようなものはスルー推奨。

それはさておき、
・書紀の編者は神功紀から雄略紀までの年代について元史料を操作した。
というのが御説の主旨かと思いますが、
神武の即位年代に関して、
・編者のなんらかの意図に基づき改竄、創造されたもの。
・この部分は元史料のままで書紀の編者の改竄、創造は含まれていない。
のどちらのお考えなのでしょうか?
405日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:20:00
紀元前660年頃は、中国の史書に倭人が朝貢した記録が初めて載った頃だろ。

ということは、倭に王が生まれクニができたってことだ。

>>262で、日本書紀紀年法研究家の言う、
日本国の形成において、最重要の役割を果たした国の建国などというのは、
これで解決してると思えるがね?
なぜ、ハッキリと、そう主張しないわけ?
406日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 15:23:14
>>393 太国さん


『神皇紀』とは、ウガヤ朝(宇家澗不二合須朝)51代と阿祖山太神宮の記録なのですね。
太国さんの古神道研究に関連がありそうですね。
神武元年の問題を考える際には、参考となりそうですので、一読することができましたならば
(国会図書館などの図書館に所蔵、もしくは、市販されている本なのでしょうか)、
読んでみたいと思います。
407日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:24:49
>>405
なんか色々言質を取ろうとして必死な感じに見えるけど、肝心の「プラス・マイナス120年構想」に関してどう思っているの?
成り立たないと思ってるの?一理あると思ってるの?
408日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:29:06
>>407

日本書紀紀年法研究家の腹の中に何があるか把握しないと、
成り立つとも成り立たないとも言えないということだよ。

ある意味では成り立つし、ある意味では成り立たないこともある。
日本書紀紀年法研究家が、どういう意図で、紀元前660年に拘ってるのか、
こちらが、はっきり知ることができなければ、論評は不可能。

OK?
409日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:37:34
日本書紀紀年法研究家さん、

君はどうも主題を隠しているようで、話を聞いてても気持ち悪いんですよ。
紀元前660年に拘るなら、それに関係する主題があるわけでしょう?

紀元前660年の古代に、なんらかの出来事があったと想定し、
それに絡めながら、プラスマイナス120年構想が組まれているのではありませんか?

君が想定してるものが何なのかを、明かしてもらわなければ、
意見のしようも無いということですよ。


410太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 15:38:38
>>406
古本ならば東京神田街で入手しやすいかな?
それとも出てるか八幡に問い合わせですな。
『神皇紀』を臥海でストレートに持っていくのは、拒絶反応が多いか? と
想い、御止めになったほうがいまのところ無難でしょう?
411日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:39:52
>>408
> 日本書紀紀年法研究家が、どういう意図で、紀元前660年に拘ってるのか、

本人じゃないから推測でしかないが、書紀にそう書いてあるからだろ?
何故そう書いてあるかに関しては推測はしてるが断定はしてない。
それが何か問題なのかな?
412日本@名無史さん:2007/04/10(火) 15:47:13
>>411

大いにある。

例えば、
「倭国の王朝(大和朝廷)の歴史は、紀元前660年から始まり、絶えることなく続いている」
という証明をしたいのか?とかな。

大和朝廷の歴史書である日本書紀が、紀元年として紀元前660年を想定し、
それに意味を持たせていると想定するのであれば、そういうことだよね?
413太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 15:53:27
>>406
分厚い書だから、読むのに時間がかかります。
414日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 16:01:49
>>389さん

>この人、一年以上も、のらりくらりしてたの?
>で、肝心要の神武の年代についても、自説を固められないわけ?
>現時点での仮説でも何でもいいから書いてみればどうよ?

日本書紀紀年法についてのわたくしの研究が進んでいないことの理由は以下のようになります。

1)日本書紀紀年法についての研究成果を拙稿にまとめ、出版社に刊行のお引き受けを
  お願いしても断られる可能性が高いこと(採算の問題があるのでしょう)。
2)わたくしの関心が、近年、百済観音像など別のテーマにあったこと。現在、完成稿の段階の拙稿が3本あり、
  それぞれ、出版社に刊行のお引き受けをお願いしておりますが、出版は未定です。
  したがって、古代史研究自体は進めており、のらりくらりとしていたわけではありません。
3)学術雑誌への掲載を試みても、日本書紀紀年法をテーマとした論文は、
  査読・審査を行える研究者が皆無であることから、論文掲載も難しいこと。

 どのような研究をしようとも、発表の場がなければ、意味がありません。
日本書紀紀年法については、研究者や出版社の関心が薄いのです。このような状況に対処するために、
先月、ホームページを立てたのです。
415日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 16:15:08
>>408さん

日本書紀紀年法とは、史実を伝えるという側面と政治倫理思想を具現化させるという
2つの側面を機能させるために構想された数学的構造物と考えております。
この数学的構造物については、プラス・マイナス120年構想と多列・並列構造については、
解明することができました。プラス領域につきましては、史実を伝えるという目的と
政治倫理思想(讖緯暦運説)上の目的が、120年という重要な天数を媒介にして、
きれいに一致しているために、問題はありません。
しかし、神武元年となると、これは、2つの目的が乖離しているのか、一致しているのか、
という問題が生じることになります。  →

しかし、皆様がたが、問題にされているのは、
おそらく神武紀から神功紀までの紀年構想であると思います。これにも
讖緯暦運説の
416日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 16:24:04
「讖緯暦運説の」から続けます。→
→ 讖緯暦運説の影響が多大であるのです。
そこで、史実としての神武即位についての研究を怠りますと、皆様から、非難されることに
なってしまうのですが、
現段階で、わたくしが言えることは、少なくとも、時代を異にした幾つかの歴史的事象が投影されており、
そのうちの、一つは、10年間在位された人物をめぐる事件であるということです。
417日本@名無史さん:2007/04/10(火) 17:18:52
研究家さん

私にとって日本書紀紀年法は、原点批判の一環だという理解しかできないのですが、
年代が引き伸ばされていたりする「構造やしくみ」だけではなくて、その「理由」を
並行して考えなければ、無味乾燥な研究になりはしませんか?

日本書紀紀年法を研究することが、日本書紀というものの存在を従来とは異なる
側面からあぶり出し、浮き彫りにして、より日本書紀を知ったことになるはずだと
思うのです。それが原点批判の真骨頂でしょう。

外枠としての「紀年法というしくみ」だけなら、「安っぽい分類学」みたいなもので、
意味論の付帯しない学問になってしまいます。

私の観察では、文系の一流学者というものは、瑣末な研究でも大きな問題でも、
すべて学問の巨大テーマを見据えて骨格を見失わず、堂々たる研究になります。
三流の学者は、誰も取り上げなかったテーマを、巨大テーマに関連付けることなく、
瑣末な事象の中だけで論じますから、あまり価値もなく、深みも生じません。

日本書紀の成立はいかなるものであったのか。当時の国家はどういうスタンスを
持っていたのか、日本書紀は誰が誰に対して何を言わんがためのものだったのか、
そしてそこで隠している部分はどこか、嘘をついている部分はなにか、日本書紀の
外的にみた座標上の位置づけや為政者たち内部としてはどういう存在だったか、
そういった一環として紀年法研究があらねばならないと、私は考えるのです。
418日本@名無史さん:2007/04/10(火) 18:17:05
全日本空手道連盟  沖縄人中心で、朝鮮系が多い。 注意 国籍や渡来または帰化した時期によらない。
日本少林寺      朝鮮人の主催する朝鮮系団体  
葦原空手        言わずと知れた朝鮮総連系
正道会館        朝鮮人とパキスタン人のハーフ 石井和義が作り朝鮮人角田信行主催の創価系団体
極真会館       朝鮮人大山倍達創始 朝鮮人 松井章圭率いる統一教会系朝鮮人団体 フルコン系は大体朝鮮系
拳道会         北朝鮮に指導員を派遣する、言わずと知れた朝鮮系団体
日本のキック          言わずと知れた・・もう、書くのが面倒臭い。成り立ちと創始者の経歴を考えよう。
亀田兄弟       疑惑試合山盛りの、もちろんそれ系の協栄の選手で親父は山口組系右翼の所属でもあった。バックアップは主にTBS
これらの背後には、大概暴力団や右翼や人種の繋がりがあります。朝鮮人が絡めば、どこかで暴力団や部落とも接点があります。
 ちなみに、日本の右翼と左翼や、オウム 創価学会 統一教会 部落 山口組 極東会などはもちろん朝鮮系です。
教科書を鵜呑みにしないように。社民党の党首などや民主の菅などや公明党や、自民党の河野レポートの河野や武部
にもよく注目しましょう。ちなみに、極東会は北朝鮮政府の麻薬の正規販売代理店です。
おまけ、TBS乗っ取りの経緯 朝日でも朝鮮系社員が反日記事書いてますが、それをペン
による権力との戦いとか勘違いしないように。部落と朝鮮系(帰化時期に関わらず)で、日本の暴力団のほぼ全てを
占める現状をよく鑑みましょう。ちなみに、大阪民国は創価と右翼の巣窟です。大阪本拠の流派にも注意しましょう。
http://blog.so-net.ne.jp/current_affairs/2006-10-06-1
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/nida/1112979768/
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/nida/1174203075/
【朝日や毎日は、レイプ犯が朝鮮系であった場合、その事実や朝鮮名などほとんどの場合書きません。最近の猟奇
犯罪やレイプや重犯罪はなどはかなりが彼等であると言うのにです。その上、朝鮮優遇、日本人からの謝罪と賠償
主張、出稼ぎ誘致などをやっています。出所後は、すぐ名前を変えられてしまうので、在日の通名報道は無意味です。】
419日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 19:30:17
>>417さん
多列・並列構造である理由は、以前に述べましたように、「天」と「地」という概念の問題があると思っております。
短いレスで説明することは難しいので、拙著『「記紀」はいかにして成立したか −「天」の史書と「地」の史書』を
ご一読いただきたいと思います。「天」と「地」の問題は、日本史を考えるうえで、
たいへん重要な問題、それこそ、巨大なテーマであると考えております。
420日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 19:34:55
>>410・413 太国さん
『神皇紀』を神田の古本街で探してみてもよいのですが、時間がかかりそうですし、
見付からないかもしれなですね。どうしても必要と考えた場合に、
探してみたいと思います。
421日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/10(火) 19:38:05
>>418さん
わたくしが、まったく知らない世界の情報のようですが、
このスレッドと、どのような関係があるのでしょうか。
422征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/10(火) 19:41:48
いいえ、関係無いです
423日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:10:57
>>419


>短いレスで説明することは難しいので

いや、短く説明してくれ。

説明できないってことは、自分の頭の中で整理ができてないってことだぞ。

424太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 20:13:18
>>420
ちょっと高価でしょうから無理はしないほうがいいでしょう。
ただそういう書があると参考に知ってれば、それでいいと思います。
そのうちどこかの書店で見つけて、気に入ればお買いになるのもいいでしょう。
425太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 20:14:13
>>423
短く説明が出来にくいものもある。
426日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:24:30
短いレスで説明できたら、本が売れないだろ!
空気読めよ!
このスレがなんの為にあると思っているんだ?
427日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:29:16
>>425

おまえも、古神道を短く説明しろっての。
428質問のいらつめ:2007/04/10(火) 20:35:23
<<417さん
 私は、姉の日本書紀紀年法研究家とともにHPを開設し、政治学コースの方を
担当いたしております。その際に、統治に関して分類学を用いた説明をおこなって
おります。先ほどのレスで、417さんは、”安っぽい分類学”との表現を用いて
おられましたが、どのような分類でありますと、”安っぽい”ということになる
のでしょうか。私は、本質に即した分類でありますならば、如何なる表現を用い
ようとも、有益な分類と言えるのではないかと思うのです。
429日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:45:29
>>428

俺がかわりに答えてやるよ。

本が売れない=市場価値が無い=安っぽい

おわかり?

430日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:48:21
おれも政治学コース読んだぞ後半斜め読みだが。
論理的には、納得いったぞ古代にこだわった内容ではなかったけど、あれはあれでよくまとまっているぞ
120年構想より解りやすかったぞ。
431日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:50:14
みんな馬鹿ばっかりだね
卑弥呼時代以前の歴史が奈良時代まで残っているわけ無いじゃん
3世紀以前の金文が今まで全く発見されていないのに
神武が実在したとしたら卑弥呼以後になるのは絶対条件ですよ
それを踏まえて考えれば、皇紀元年なんて簡単に答えが出るだろ
432太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 20:54:28
>>427
お前じゃぁ、説明して解かるのに・・・〜そうだな〜〜〜?
まぁ〜簡略でも辞書くらいの厚さになるだろう?w
せいぜい30年経過後だな。ww

それにここは古神道のスレでな〜〜い。
433日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:55:09
みんな馬鹿ばっかりは余分な表現だから、なくてもいいじゃん。
たぶん、頭のかたちが良い人とかもいるぞ
434太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 20:56:12
>>431
簡単か〜〜? じゃぁ早くやってくれ。w
卑弥呼は神武の後代の女だ。
435日本@名無史さん:2007/04/10(火) 20:59:25
太国!おまえ釣られ過ぎ。
華麗にあしらうイメージでよろしくどーぞー
436太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 21:01:15
はいはい。
437日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:08:48
太国は、すっかりムードメーカーだから、これでいいんだよ。

>>435こそ黙ってろ。
438日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:11:22
はいわかりましたー
439日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:15:42
>>434
>卑弥呼は神武の後代の女だ

そんな前提条件は誰がつけた。昭和天皇が言ったのか?

まさか証拠もなしに帥升を神武とか決め付けていないだろうな?
やめてくれ・・・・・・・・・・・・恥ずかしいから
440征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/10(火) 21:19:58
カナカナボウシさんはサガミハラハラさんだと思うんですけど

>>298
>一方崇神天皇の崩御を古事記干支から288年とみて、2倍年暦を2倍した年代で計算していくと、やはり131年神武即位となります。


こう云う話は筋が通らないでしょう。

そもそもサガミハラハラさんの説は、云うなれば古事記二倍干支年歴説ですから、確か
崇神の古事記崩年干支戊寅を258年春年に設定して、そこから時代を下って二順目の辛未が
住吉大社神代記の垂仁崩年干支の辛未として314年秋年としている訳ですから、
サガミハラハラさんの説では崇神没は258年説をとっている筈なんです。

崇神没258春年を原点にして垂仁没314秋年と算出し、その半期先を景行元年にして論考している訳ですから。


一体何を根拠に288年と言っているのでしょうか?


例えば、258年を原点に使って措いて314年を算出しているのに、
算出値である側の314年の側から遡って、
一巡目の戊寅288年を算出したかのような論理展開は成り立たないのではないでしょうか?

勿論、崇神没258年を原点に計算しているのに、
直接一巡先の同干支の戊寅の288年に崇神没を移動させる事もそんな根拠はそもそもないですよね。


以前にもこの手の話をしましたよね
441日本@名無史さん:2007/04/10(火) 21:22:56
前やった話はもういんじゃまいか!
442征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/10(火) 21:38:38
良くないですよ

サガミハラハラさんの正当な根拠の無い288年説と二倍x二倍説での論考を
何も検証せずに引用してる人達がサガミハラハラさんの投稿の後に居るじゃないですか


サガミハラハラさんの自分の説の限界を正直に親告していないんですよ

循環論法でも使わないと正当化出来ない物を立脚点になるかのようにして
議論のテーブルに載せてしまうなんてオカシイと思いますよ


しかも以前に私が指摘しているので、この事をサガミハラハラさんが知らない訳じゃないんですよ
443太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 21:38:53
>>439
紀は卑弥呼らしき記事を神功39年等の神功の時代に当てているが、
これが真となると、次代の應神、仁徳はそれぞれ寿命が111歳、143歳
と異常なくらい長すぎるのを容認せねばならない。だから紀の当て方
は何らかの理由で記事の位置を間違えたと観るのが至当である。

中国側は当時もどうやら通常の等倍暦をやっていたことは殆どの者が
異論がないようでこの点はそのとおりだと思う。ということは紀の編者連
が故意か過失かでの誤りをしたもので、欽明2年3月の記述から彼らが
言うには「自分らは誤りをなくし真正に記述をしていますよ」旨の文が
あることから、三皇五帝のいる中国に始皇帝に勝つくらいのB.C.660年
への神武即位の延長が故意に行われたとは考えにくいし、欠史八代の
代数の増加も一桁の8代くらいじゃぁ殷、夏には追いつかないから、
これも故意ではありえない。

それを踏まえて、当時は倍暦を使用していたものであり、中国の等倍暦
からして神功39年は等倍239年に相当するのは動きにくい。それに
日本側は倍暦だから、この計算により、239年=景初3年 は崇神即位
の等倍での3年なる崇神3年(紀の崇神7年〜9年に相当)に相当する。

このため卑弥呼の時代は崇神前後のころの時代にあたるわけで、神武は
もっともっと古い時代の人物であることが判明する。
444太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 21:40:52
>>440
崇神崩御 259年
445日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:00:49
書紀の崇神紀にはヤマトトトビモモソ姫の活躍にかなりの行数を割いているが、
古事記には全く彼女が出てこない これはどうゆう事なのか?
446太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 22:07:01
>>445
どんな活躍が載っているのか?
447日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:08:33
何行割いてるの?
448日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:17:44
4月20日の珊瑚記念日に、はてなブックマークとか、deliciousで同時ブックマークしよう
ブックマーク数が多くなれば、多くの人に見て貰えて
多くの人に事件を知って貰えます。

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449日本@名無史さん:2007/04/10(火) 22:29:08
倭トト日百ソ姫の活躍は、1、大物主神が憑いて、自分を祀るようつげる。
2、武埴安彦の謀反を予見する。
3、箸墓伝説
450太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/10(火) 22:51:22
>>449
まぁ行動だが、活躍と言っても間違いではないよな。

記は稗田阿礼の脳内だから、記憶忘れではいたしかたあるまい。
そういうんでないなら必要のはずだが、当時の表舞台では特に重要
ではなかった面があろうかのらないんだということになるか?
余は重要と思うがね。書き手により相対的だからしようがない。
451417:2007/04/11(水) 00:24:31
>>428
いらつめさんの分類学は立派ですよ。皮肉に感じられたら申し訳ありません。
安っぽい分類学とは、基準にほとんど意味を持たない分類を懸命にしても
学問としての果実がないということを申したくて挙げました。

図書館にある書籍を重量別・サイズ別に並べて分類してみても、
ほとんど意味がありませんね。全昆虫の色を仔細に調査し分類してみても、
ただ分類しただけでなんら果実がありませんね。

紀年法を研究する際には、原点批判の視点がなければ、せっかくの研究が
非常に価値の薄いものになってしまうと思います。日本書紀紀年法の研究自体
に価値がないのではなく、大きなテーマ=日本書紀の原点批判という視点が
あってこそ、重要な研究たり得るということなのです。
452日本@名無史さん:2007/04/11(水) 02:31:01
アクセス500記念age
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/
453日本@名無史さん:2007/04/11(水) 03:38:53
百襲媛命の生母の名前も
意富夜麻登玖邇阿礼比売命
という大層な名前。
大倭という名前だからね。
そして、その家系は、大国主神の子孫。
454日本@名無史さん:2007/04/11(水) 03:41:06
ヤマトトトビという名前が凄い。
なにか日本の代表の皇女みたいな名前だ。
このような名前がついている皇女は
百襲媛命以外に何人かいる。
455日本@名無史さん:2007/04/11(水) 03:48:12
紀年法はここのほうが、すっとわかる感じなのだが・・・
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/33783418.html
456日本@名無史さん:2007/04/11(水) 08:43:31
日本記紀の年代の謎

A.日本書紀の前半部分の天皇の在位期間や寿命が長い理由は、
その時代の日本の暦が二倍年暦(現在の一年を二年と計算)だったからである。

B.日本書紀の編纂者は、二倍年暦だったことを考慮しないまま神功皇后の活躍年代を
魏志倭人伝の女王の活躍期間の年代に合わせようとしている。
そのために、彼女の後に活躍した天皇の在位期間を改竄して引き伸ばしをしている可能性がある。

C.応神天皇の出生については、二倍年暦だったことを考慮すれば生物学的に問題ではなく、
古事記では特に問題にしていないのに、日本書記の編纂者は、かつて二倍年暦だったことを知らなかったために、
応神天皇の出生を不審に思い、無理な言い訳をして納得しようとしている。

D.B、Cから、日本書紀の編纂者は、上古代の日本の暦が、
二倍年暦だったことに気がついてなかったように思われる。
日本書紀が編纂された西暦8世紀の日本にとって、かつて二倍年暦だったことは完全に忘れ去られていた可能性が高い。

E.日本書紀の編纂者は、神武天皇即位紀元を革命年である「辛酉年春正月庚辰朔」にするために、
一部の天皇の在位期間を改竄・引き伸ばしをしている可能性がある。

F.皇位継承時の混乱によって、日本書紀に記載されている天皇の在位期間に混乱がある可能性がある。
一部の天皇と天皇との間に、在位期間がダブっていたりしている可能性があり、これは、ある天皇が生存期間中に譲位をしたり、
皇位継承争いで天皇が二人いた時代があったからなのでは?と思われる。

G.古事記は、年代に関して、天皇の寿命や干支崩年という曖昧な記述しかなく、
古事記の著者の意図的な改竄の可能性は小さい。
間違っていても、それは意図的な改竄ではない可能性が高い。
457日本@名無史さん:2007/04/11(水) 08:46:36
>>455-456

これが、いわゆる、アマチュアの間で信じられてる通説。

日本書紀紀年法研究家は、自説の立証のためには、
まず「通説」を批判することから始めないと、誰も耳を傾けないよ。
それには、通説の根幹となる「二倍年暦」を明示的に否定しないといけないということ。

458日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 09:57:35
妹の質問のいらつめとわたくしとを混同している方々が多いようですので、ここで、説明させていただきたいと思います。
HP「倉西先生のご学問所」は、妹とわたくしの二人で、開設いたしました。
「倉西先生のご学問所」は、政治学コースと歴史学コースの二つのコースから構成されています。
政治学コースは、妹が専門とする学問領域ですので、妹の質問のいらつめが担当しております。
歴史学コースは、わたくしの専門とする学問領域ですので、わたくしが担当しております。
妹は、日本史については、門外漢です。わたくしも政治学については門外漢です。
質問のいらつめいとわたくしが、双子の姉妹であるから混乱されているのかもしれませんが、
それぞれ、別人格です。
政治学コースの内容と歴史学コースの内容を、混同して書き込まれておられる
方々が多いようで、このような書き込みに対しては、レスポンスのしようがなくて、困っています。
質問のいらつめとわたくしを、よく区別していただきたく、お願い申し上げます。
459日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 10:14:18
>>456>>457さん

456・457さんは、わたくしのHP「倉西先生のご学問所」歴史学コースの日本書紀紀年法入門をご覧になられたでしょうか。
日本書紀に見える非現実的紀年数について、二倍年暦による説明と、わたくしが提起しているプラス・マイナス120年構想・多列並列構造
など、数学的構造物として捉える説明と、どちらが、説得力があるか、投票でもしていただいたほうがよいのかもしれませんね。
もちろん、投票結果によって、決まるわけではありませんが…。
アマチュアの方々でも、わたくしの説に賛意を示してくださるかたは多いのではないでしょうか。
数学的構造物であるということは、数字的に一目瞭然であるからです。
460日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:23:13
>>459

投票しても、二倍年暦による説明のほうが支持を集めると思うけど?
461日本@名無史さん:2007/04/11(水) 10:27:41
>>457
> これが、いわゆる、アマチュアの間で信じられてる通説。

> それには、通説の根幹となる「二倍年暦」を明示的に否定しないといけないということ。

ギャグ?w
462質問のいらつめ:2007/04/11(水) 11:34:02
>>417さん
 分類学上の”安っぽさ”につきまして丁寧なご説明をいただきまして
ありがとうございました。また、立派であるとのお言葉に気恥ずかしい
限りでございます。
463日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 12:24:58
>>460さん

投票したら、本当に、二倍暦による説明のほうが支持を集めるでしょうか。
わたくしのHPの日本書紀紀年法入門をご覧いただきますと、
プラス・マイナス120年構想に妥当性があることは、足し算と引き算さえ
できれば、誰にでもわかります。
二倍暦支持者は、単純な計算もできない方々ということになってしまうのではないでしょうか。
464日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 12:30:29
>>461さん

わたくしは、二倍暦が大昔にあったという点は、否定していません。
二倍暦はあったかもしれませんが、日本書紀紀年法には用いられていない、
ということです。
むしろ、『魏略』にも見えるように、春秋二倍紀年法のようなものがあったからこそ、
日本書紀の編纂者は、紀年を非現実的な数字に引き伸ばしても、さして、偽書扱いは
されないのではないか、と考えたのかもしれません。
465日本@名無史さん:2007/04/11(水) 13:27:14
古代に二倍暦があったことを認めたら、
日本書紀に二倍暦が使われて無いことの証明はできないと
何度いったらわかるんだろうな。
466日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:11:55
>>464
いわゆる「二倍年暦」と言われるもの、それに類するものがあったかも知れないということまで否定はしていませんよ?
ただ、「二倍年暦」がアマチュアの中で「通説」になってるとは寡聞にして知りませんが、そうなんですか?
アマチュアの中ですら少数派なのではないでしょうか?
魏略のあれはあくまで1年の区分の話で、中国では1年を4つの季節に区分してるが倭では2つにしか区分していないというだけのことだと思います。
その季節をそれぞれ1年としていると解釈するなら「各」みたいな字が入ると思います。
絶対とはいえませんが。

>>465
無かった事の証明なんてできませんよ。
まずは「二倍年暦」が存在していたこと、使われていたことを先に証明すべき話。
467日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:21:04
>>466

>ただ、「二倍年暦」がアマチュアの中で「通説」になってるとは寡聞にして知りませんが、そうなんですか?

通説でしょ?
468日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 14:29:35
>>465さん
何度も申し上げているように、”古代に二倍暦はあったのか”という問題と、
”日本書紀紀年法に二倍暦は用いられているのか”という問題は、別の問題です。
したがって、”古代に二倍暦はあったかもしれませんが、日本書紀紀年法には二倍暦は
用いられていません”という答えがあってもよいのです。
ちなみに、465さんは、わたくしのプラス・マイナス120年構想説と多列・並列構造説に、
賛意を示しておられる理由から、>>465のようなご発言をなされているのでしょうか。
スタンスをお示しいただきたいと思います。
469日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:31:50
>>467
×「通説」→○「痛説」
470日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:35:27
>>468
私は465じゃないですけど、研究家さんの説は書紀編者が元資料に対してどのような操作を加えたか?の問いに対する回答であると認識していますがいかがでしょうか?
その元資料が史実であったかどうかまでは証明できないような気がするのですが?
471日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 14:39:06
>>466さん
わたくしも、アマチュアの方々のなかでは、二倍暦説が通説となっていることを知りませんでした。
>>456>>457さんが、そのようにおっしゃられていることから、そうなのかしら、
と考えたまでです。
また、『魏略』につきましては、「其俗不知正歳、但記春耕秋収、為年紀」ですので、
やはり、春秋二倍紀年法のような考えはあったのではないでしょうか(仮に、あったならば、
たぶん、暦法ではなく紀年法であると思います)。
472太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 14:42:11
倉西氏の論は卑弥呼が男装の成務天皇であるという説に行き着く他は無く、
このような通常人なら誰でも考えない探偵小説の世界くらいで通用する、奇抜な
考えを要求しなければ氏の説は成り立たないわけだから、遠目でその論を見れ
ば、ハハーン間違っていると素朴に感じるものである。
473日本@名無史さん:2007/04/11(水) 14:52:09
>>471
「其俗不知正歳、但記春耕秋収、為年紀」

倭人の風俗は、正歳=四季を知らず、二つの時季を記して年季となす。
中国:正歳を1セットとして年季としている。
倭人:春耕・秋収の二つの時季を1セットとして年季としている。
という風に対応させて解釈すべきだと思いますが?

春耕を1年、また秋収を1年と言いたいのであれば、
「但記春耕秋収、各為年紀」
という感じになるんじゃないでしょうか?

この『魏略』の文章から「二倍年暦」が存在したのではないか?という推測は不可能とは言いませんが苦しいと思います。
別の根拠があった場合にこれはそれを反映してるのかもしれないと言うことはできるかも知れませんが。
474日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 14:55:49
>>470さん
日本書紀や古事記の元となった資料については、様々な議論があります。
おそらく、当時あった多くの歴史書を参照にしたのでしょうけれども、そのなかで、
年代をさかのぼることのできる史書として、津田氏の継体・欽明朝の頃に帝紀と旧辞が
編纂されていたという説は有名です。
しかし、日本書紀の雄略紀からは元嘉暦が用いられていますので、このころから歴史的事象を文字で
記録した文書があったのではないかと、わたくしは考えております。
それでも雄略紀ですので、雄略紀以前の天皇紀となりますと、どの程度信憑性があるのか、
という問題は、たしかにあると思います。しかし、倭の五王など、海外資料との比較において、
妥当性を主張できれば、口伝であろうと文書であろうと、元資料は、ある程度、信頼できるものと
見做すことができるのではないでしょうか。
例えば、日本書紀の編年は、五世紀が多列・並列構造となっていると考えますと、
倭の五王の遣使年と整合してきますので、古事記崩年干支には信憑性を認めることができます
(かりに、崩年ではなく、譲位年であろうとも)。
475日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:04:20
>>468

>ちなみに、465さんは、わたくしのプラス・マイナス120年構想説と多列・並列構造説に、
>賛意を示しておられる理由から、>>465のようなご発言をなされているのでしょうか。
>スタンスをお示しいただきたいと思います。

「論の進め方」というものがあってですね、
”古代に二倍暦はあったのか”という問題と、
”日本書紀紀年法に二倍暦は用いられているのか”という問題は、別の問題ですと、
申されていましても、他人に対して説得力は生まれないわけですよ。

他人は、”日本書紀に、二倍暦が採用されている”と、信じてるわけですから。
まず、他人が信じてる通説を批判して否定しなければ、
日本書紀紀年法が、広まる可能性は無いということです。
まず、そのことを、理解して欲しいということです。
476日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:06:43
>>468

”日本書紀紀年法に二倍暦は用いられていない”ことを証明するには、
”二倍暦そのものが古代にも存在しない”と言い切ったほうが簡単なわけです。
古代に二倍暦があったという証明はされてないわけですから、それだけで論拠になります。

にも関わらず、
”古代に二倍暦はあったかもしれません”
”しかし、日本書紀紀年法には二倍暦は用いられていません”

と、するなら、

”日本書紀紀年法には二倍暦は用いられていない”という証明をしなければいけない。

これは、ずっと難しい話になるわけです。
君が、どう考えているかということとは、別の話です。
どのように、証明できますか?
477日本@名無史さん:2007/04/11(水) 15:38:15
>>476
良くわからないんだが、
「二倍年暦」が過去に使われていたら「プラスマイナス120年構想」は成立しない
というのは何故?
478日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:29:37
>>477

>「二倍年暦」が過去に使われていたら「プラスマイナス120年構想」は成立しない

そうではなく、二倍年暦が記紀に使われていたと信じてる人を納得させられないってこと。
他人を納得させられない説は、広まらない。


479日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:34:05
>>478
ソノハッソウハナカッタワ!w
480質問のいらつめ:2007/04/11(水) 17:15:23
>>478さんと479さんへ
 私は、姉の日本書紀紀年法研究家ではありませんが、HPの日本書紀紀
年法入門を読みますと、日本書紀に二倍年暦が使われていないことは、
よく理解できました。思いますに、この論争の核心は、歴代天皇の非現
実的な紀年を説得力をもって説明することにあります。二倍年暦論者は
、それを、単純に二分の一に計算することによって説明しようとしまし
た。一方、多列並列論では、歴代天皇の紀年には、延長された紀年が
加えられていることによって説明しようとしているのです。この延長
紀年の合計は丁度120年であり、この数は、江戸以来の先行研究の結果
と一致しています。どちらに説得力があるかと申しますと、やはり多列
並列論にあると思われるのです。もしも、おふた方が仰いますように、
”信じている人を納得させられない”とするならば、それはもう、学問
ではなく、理性を離れた”信仰”の世界のお話になってしまいます。こ
れでは、未来永劫にわたって、”信じる人々”が”納得”することはな
いでしょう。
481太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 17:56:53
>>480 質問のいらつめ殿

>>116の表は1ヶ月が上半分の二分の一ばかりですがねぇ?

これでは当時1ヶ月が今の半月分と考えたいですよ。この表だと2倍暦の可能性
が濃厚と思いますが?

まぁ一天皇あたり数個の記録ですから、地球で火星を見てる状態ですから、
月のフォボス衛星から火星を見ないとまだ判然とはしませんが、倍暦は捨て
切れないですがね。やはり詳細を調べましたところ、2倍暦は9、4,3代
ものと判断してはいます。
482日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:05:02
>>480

>理性を離れた”信仰”の世界のお話になってしまいます

それは、姉様にも申し上げてください。

「古代に2倍暦があったかもしれない」という思い込みこそ、
理性を離れた”信仰”の世界です。
2倍暦の証拠が無いのに、どうして思い込みを捨てられないのでしょうか?

「古代に2倍暦がない」という論拠を持てれば、
2倍暦を信じてる人の話など、論破できます。
2倍暦の証拠が無いのですからね。

483日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:11:05
>>471
>また、『魏略』につきましては、「其俗不知正歳、但記春耕秋収、為年紀」ですので、

2倍暦の根拠がそれだけならば、
>>473の解釈が妥当かと思われます。

>中国:正歳を1セットとして年季としている。
>倭人:春耕・秋収の二つの時季を1セットとして年季としている。


484日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:22:20
太国氏がさんざん例に出してる

>>116の表にしても、簡単に論破できる。

当時は、一ヶ月が15日で、12ヶ月が約180日で、24ヶ月で約365日だといいたいのだろう。

そうなると、例えば、1月が「春」の場合と、「秋」の場合が出てくる。

日本書記の日付には、
「春一月」という記載はあるが、「秋一月」という記載は無い。
「冬十二月」という記載はあるが、「夏十二月」という記載は無い。
春・夏・秋・冬という季節に、今と同じように1〜12月が割り振られている。

わざと、春夏秋冬の季節の記載を無視してたとしたら、悪質だな。
485日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:23:39
記紀でちょうど寿命が2倍異なる天皇がいたでしょう。
月に1〜15日までしか出てこないのもそうですね。
信仰ではなくて、学術的にこれを論破していただく必要があります。
486日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:25:48
>>485

どの天皇の寿命が2倍異なるって?
487日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:28:59
逆にきくけど記紀相互で、天皇は全員同じ寿命なわけ?
違うでしょ。
488日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:31:13
>>487
はぐらかすな。

>>486
どの天皇の寿命が2倍異なるって?

489日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:40:11
はあ?聞いた話だ。だからきいてるんだが、全員同じなのかよ?
俺が答えられないから否定されましたなんて、馬鹿言うなよ。
あるサイトで話題になってたが、誰も異論がなかったな。
記紀相互でちょうど2倍の寿命がある天皇の存在。
490日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:44:22
何だそのレス。
聞いた話、あるサイト、天皇の名前も言えないw
491日本@名無史さん:2007/04/11(水) 18:44:52
>>489

笑わすな。
どの天皇のことかも覚えてなくて、しかも伝聞では議論にならん。
492質問のいらつめ:2007/04/11(水) 18:46:09
>>太国さん
 太国さんは、二倍暦は、9代、4代、3代に用いられている申されて
おりますが、この見解は、太国さんが、日本書紀では唯一二倍暦が使わ
れたのではなく、一部であるということをお認めになっている、と解釈
してもよろしいのでしょうか?
493日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/11(水) 19:28:31
>>485->>490さん

>記紀相互でちょうど2倍の寿命がある天皇の存在。

は、無いと思います。
例えば、87年という非現実的紀年数が配布されている仁徳天皇ですが、
仮に、仁徳紀が二倍年暦で紀年が配布されているのならば、仁徳天皇の実際の
在位年数は43〜44年となるでしょう。しかし、古事記崩年干支にもとづきますと、
仁徳天皇の在位年数は、30年となります。このように、非現実的紀年数は、二倍年暦では
説明できないのです。
HP「倉西先生のご学問所」の日本書紀紀年法入門の確定紀年と延長紀年の内訳図をご覧いただけましたならば、
わかりますように、延長紀年は、二倍暦ではなく、別の理由によって配布されているのです。
494太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 19:32:05
>>484
それじゃぁ君は当時1年が24ヶ月だったというのかいな?

春夏秋冬くらいをを悪質的に編者側がやるとは考えにくい。彼らは2倍暦を
知らないとなれば、単に月数字に合わせて四季を乗せて記載しただけと思える。
知ってれば確かに冬六月とか書くだろう。秘密ものならこの限りではないぞ?

論破したことにはなるまいね。
あの表から24ヶ月を主張するなら、具体的にどういうふうに記紀の記述から
24数を出すのか?
それに開化天皇は11月即位だから旧暦的にこれは秋になるが、これと違えて
宮名を半年手前的季節の『春日宮』としている。これはどう観るんだ?
半年手前ということは2倍暦を示唆しているように想えるがねぇ。
495太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 19:35:28
>>485
雄略天皇は

古事記  124歳
日本書紀 62歳

だそうだ。古事記は2倍になっているな。
496太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 19:40:10
>>492
欠史八代では『孝』の字のつく号の天皇世は3倍暦法ですよ。
綏世は通常の等倍暦法を使用してます。
天皇の即位のたびに、時代を変えるつもりか倍暦を換えていたようです。
例外はありましょう。
497征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/11(水) 19:41:39
>>465
>>475
>>476

えぇ、

”古代に二倍暦はあったのか”という問題と、
”日本書紀紀年法に二倍暦は用いられているのか”という問題は、全く別の問題ですよ


ですから、”日本書紀紀年法には二倍暦は用いられていない”事は
研究家さんが全ての年代列を確定させて、結果として証明される事であって


仮に貴方が”日本書紀紀年法には二倍暦は用いられていない”事を証明したかろうが
研究家さんを利用して、”古代に二倍暦はなかった”と言質を取って、「だから」
”日本書紀紀年法には二倍暦は用いられていない”と持っていこうと画策するのは動機も手法もオカシイんですよ
498日本@名無史さん:2007/04/11(水) 19:45:12
>>494

>それじゃぁ君は当時1年が24ヶ月だったというのかいな?

それは、おまえが言ってる2倍暦のことだよ。

現在の1年=2倍暦の2年=2倍暦の24ヶ月だろ。


>単に月数字に合わせて四季を乗せて記載しただけと思える。

では、月数字の伝承が先にあり、四季の伝承は無かったというのだな?
499日本@名無史さん:2007/04/11(水) 19:50:38
>>498
そう。
農耕にとって何より大事な気候は軽視します。
500太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 19:50:51
>>498
視力が落ちてるので間違えた、上部分はそのとおりだ、24月と24ヶ月との
思い間違いだ。それではそこは論を戻したい。

下半分はそうかも知れない。よくよく考えるべきだろう。
501日本@名無史さん:2007/04/11(水) 19:52:11
>>497

君、何を言ってるの?

研究家さんが何を考えていようと、俺は「二倍暦」は認めませんよ?

俺は、俺の立場から「助言」しているだけ。
受け入れるのも拒否するのも研究家さんの自由。
俺のしったことじゃない。

君はどうなのかな?
”日本書紀紀年法には二倍暦は用いられていない”とする研究家さんの説を支持してるのかね?

502日本@名無史さん:2007/04/11(水) 19:58:30
アマチュアの定義がいまいちわからんが、120年も2倍暦も知らんとゆうか、そもそも日本書紀の年が西暦に合わせられないとゆう事を知らなかった俺がいる!
503太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 20:02:00
>>499
天皇は農耕を軽視して暦をこさえたり変更しているものでもないが、
農もあるが、神と刀が優先する策が多大にあっただろう。それに
崇神62年7/2 の紀の記述で天皇は農耕を勧める文証がある。

1月〜6月の前半年が1年分と為し、7月は後半の1年(半年分)の最初
の月だ。その2日は後半の1年の第2日目で先行重視している。これは
2倍暦の開化世の暦法を捨てずに副次的に使用していたみたいである。

ただ崇神世はメインで3倍暦法の時代であり、欠史八代と異なり1ヶ月
が30日(または28日位までか?)、ほぼまるまる使用している。
504太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 20:04:28
>>501
認めませんよ? の疑問符は何? これ!
505日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:07:38
>>503

>1月〜6月の前半年が1年分と為し、7月は後半の1年(半年分)の最初の月だ。

えー?

それ、真面目に言ってるの?
506太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 20:08:35
>>501
ところでお前は >>116 をどのように説明するのか?
こっちの説明を書きこんで、自分の論は四季の文句以外になさそうだが?
倍暦否定なら逃げずに説明しろ。
507征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/11(水) 20:10:00
>研究家さんが何を考えていようと、俺は「二倍暦」は認めませんよ?


そもそも如何して、こう云う発言が出て来るんですか?

研究家さんが貴方に「二倍暦」を認めろと言った事なんてない筈ですし
そもそも研究家さんは倍歴理論の立場に立って居ないですよ。

研究家さんが”古代に二倍暦はあったのか”と云う問題で否定的見解を表明しないから
研究家さんが「二倍暦」は認めさせようとしているとでも勘違いしているんですか?


”古代に二倍暦はあったのか”という問題と、
”日本書紀紀年法に二倍暦は用いられているのか”という問題は、全く別の問題ですよ



貴方がここ数日で言ってる事は「助言」でもなんでもないですよ

貴方は「俺はこう思う。だから、俺の言う通りに従え」と言わんばかりに
研究家さんに指図しているだけじゃないですか。

貴方は自分の屁理屈を反映させたいだけでしょう
508日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:12:11
>>506

常識的に、古代の文書が伝わっていたとは思えない。
伝えるなら、口伝であり、
「春の終わりごろ、なになにがあった」という形だったろう。

後から「春の終わりごろ」という口伝に、
「3月2日」とか適当に月日を決めて書いたのだろう。
月の前半しか日が無いのは、書記官が後半を書くのを面倒に思って割愛しただけだろう。

説明するまでもない、常識的な回答だろ?
509太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 20:12:17
>>505
開化の記録も >>116 の表で月前半の14日以内だよ。1ヶ月が2週間
では半年で12ヶ月になる。秋の即位なのになぜ春日宮にしたんだ?w
510質問のいらつめ:2007/04/11(水) 20:13:27
>>480さん
 ”思い込み”と”可能性の推測”とは、違うものではないでしょうか。
おそらく、姉が、古代にはあるいは二倍暦があったかもしれない、と申しま
したのは、可能性としては完全には否定できない、という意味であったと思
われます。この場合、可能性を推測すること自体は知的に誠実な態度であって、
決して、”信仰”と同レベルの行為ではないはずです。さまざまな可能性を
検討してみることから、学問は始まると考えるのですが、いかがでしょうか。
511日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:13:30
太国!お姉ちゃんが、卑弥呼を成務に比定したっていいじゃまいか?
いろんな人が、いろいろ比定してるだろ。
答えは一つしかないけど、男とゆわれている天皇に比定するなんて、ユニークじゃまいか。120年構想よりおもしろいぞ
512日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:14:23
>>507

君ねえ、突然、研究家さんの肩を持ってるけど、
そういう君も、俺を悪者に仕立てようという意図がモロ見えですよ?

513日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:16:31
ところで投票まだーー?
514日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:18:28
>>509

「小春日和」を春だと思ってる人?

>>510

もちろん、あくまでも、二倍暦の可能性を捨てないつもりなら、それでいいのでは?
515日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:19:15
悪者がいるのか?
だーれ?だーれ?
太国さんは、このスレのスターさんだぞ!
516日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:19:49
>>483
>倭人:春耕・秋収の二つの時季を1セットとして年季としている。

なんでわざわざその程度の事を正史に記さなきゃいけないんだ?

倭人伝の倭人の寿命の非常な長さは、どうゆう事なんだろう?
517日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:20:46
春日の局を春だと思っている人?
518日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:21:17
投票するか?

俺は「日本書紀に二倍暦は採用されていない」という、
研究家さんの考えに一票入れるよ。

俺に続く人、どれくらいいる?
519太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 20:21:40
>>508
苦しい、マズイ、下手な言い訳だなあ。ww
そんなスリぬけ弁ならやろうとすれば余も倉西氏も征東大将軍氏も他も誰
でもできうる。
要するに、お前は覆すことが出来ないわけだよ。
520日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:22:42
>>512
悪者というかバカにされてるだけでは?
「二倍年暦」を否定したければ自分ですればよい。
他人に押し付けないように。

ちなみにオレは>>466,473(他にもレスしてるけど)なんで「二倍年暦」を証明しろ!とは言わないように。
521日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:25:30
>>519

>要するに、お前は覆すことが出来ないわけだよ。

一応、「世界中の国と地域と過去において、二倍暦を採用してる例は無い」という論拠はあるがね。
それじゃあ、論拠にならないって言うならそれでもいいよ?
俺が何か困るわけでもないからな。

で、お前は「n倍暦」に一票なんだろ?投票しようぜ。



522太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 20:26:25
>>517
開化天皇 大日日尊←「日」が2個ある。2倍暦を想起したくなるんだよ。
523日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:27:31
めちゃ長寿もしくわ、複数人の伝説を一人に合わせた等の捏造とミス
はたまた、同性同名の出現、実は役職名の様なものだったのだ!
524日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:29:51
>>520

で、君は、「二倍年暦」否定派かい?

研究家さんと同じく、あったかもしれない懐疑派かな?

何度も書いてるが、
「世界中の国と地域と過去において、二倍暦を採用してる例は無い」
というのが、俺の否定の論拠。

誰かに言われなくても、俺は最初から自信たっぷりに否定してますよ?

525日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:32:21
>>522
連想したくなるのは結構ですが、人には言わない方が良い類のものです。
と前にも言ったような……と思いログを見返してみたらちょうど一年前のことだったw
526太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/11(水) 20:34:48
>>521
論拠はあっても日本固有のものはあるべきはあ〜る。

マヤ暦にもマヤ固有の暦法はある。819日周期暦がそれだ。こんなのは
他国で使用例はないだろう? だから日本にも固有の暦法があっても
当然だ。

お前は自分の顔が他人とそっくりでなきゃぁ気がすまんのか?w
まさか倉西姉妹もそこまでそっくりではあるまいが。
527日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:35:16
日本書紀に於いて、2倍暦か120年構想か、どっちが説得力あるかの投票ですよね?
2択でいいよね。
528日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:35:39
この本って太国の説に関係あるの?
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/2587418/s/~allprd

そういえば、故高木彬光氏も仁徳天皇は3倍に引き延ばしがあると言っていたはず
529日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:36:22
>>524
あったら面白いなと思ってる程度。
あると主張するなら、納得のいく証拠を出してくださいという立場。

> 誰かに言われなくても、俺は最初から自信たっぷりに否定してますよ?

ならそれでいいじゃないですか。
何故、研究家さんに否定しろと迫るのでしょうか?
530日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:39:09
>>527
後、還暦繰り入れと架空年があるだろう。
531日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:39:37
暇だからじゃまいか?
532日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:42:01
4択なの?まんどくさいなー
その二つてどんな案、このスレにでてた?
533日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:44:18
>>529

>何故、研究家さんに否定しろと迫るのでしょうか?

完全否定したほうが、議論がしやすいからに決まってるでしょ?

「古代には2倍暦はあったかもしれないが、
日本書記の中では2倍暦は採用されていない」

という、複雑な主張をして、
2倍暦を信じてる他人を納得させることは不可能だと助言したわけ。

事実、太国氏らは、全然納得してないでしょ?






534日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:47:20
>>532
還暦繰り入れは、例えば
垂仁は99年の在位の内、39年までと60年以降しか記事が無い、
ということは60年=0年とすれば、垂仁の在位は39年となる。
535日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:48:47
2倍暦批判派の俺だって、
「古代に2倍暦があったかもしれない」なら、
「日本書紀に2倍暦の名残が残っててもおかしくない」
と、考えるだろうね。

536日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:49:04
太国さんを納得させるのは3年かけても無理だぞ!
もっと素直そうな人を基準にしれ!
537日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:50:29
>>532
架空年は例えば
成務は60年もの在位があるが、記事は5年までしかない。
残りの55年は引き延ばしであるとする
538日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:52:13
》529 そしてあなたが、お姉ちゃんを説得させるのもむりぽ
539日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:53:16
>>538
お姉ちゃんって誰?
540日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:57:55
ところで》530で出た二つの案に投票するひといますかぁー?
541日本@名無史さん:2007/04/11(水) 20:59:47
とりあえず投票は他所でやってくれ。
アンカーに"》"を使うのはやめてくれ。
542日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:00:39
》530 過去レス読め!
双子なんだよ、あんま似てないけど
543日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:04:03
投票を最初に提案したのは、お姉ちゃんなのに、ここでやらないと意味がないよ!
アンカーあかんかー?
544日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:12:13
>>543
”》”だと専ブラ(JaneDoe View)リンクしてくれないので”>”か”>”のどちらかにしてくれると助かる。
それとアンカー先も時々間違えていないか?

それと投票は研究家さんが言い出しっぺだねw>>459
無意味かつスレの主旨にそぐわないのでやめた方が良いですよ。>研究家さん
545日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:14:40
投票しても、研究家さんの説に票を入れるのは、キチガイしかいないですよ。
546日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:20:48
一人で大勢になりすまして、票を入れるに1票!!
547日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:33:46
すまぬ
〉542は〉539に対してのコメントでしたぁー
548日本@名無史さん:2007/04/11(水) 21:37:22
>>547
やはりそうでしたか。
研究家さんが双子の姉だということは知っていましたが、何故私が説得しなきゃいけないのかわからないので何か違うものを指してるのかと思ったもので聞いてみました。
あと、たびたび申し訳ないですが”>”の後にスペースを空けられるとアンカーが無効になってしまうのでレスナンバーは続けて書いてください。
注文多くてすまない。
549 ◆16/YXRFBRM :2007/04/11(水) 21:50:11
投票の選択肢に紀年の対称構造の古い方は架空紀年説もいれてくれ
550征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/11(水) 23:01:56
>>480
>この延長紀年の合計は丁度120年であり、この数は、江戸以来の先行研究の結果
>と一致しています。どちらに説得力があるかと申しますと、


いらつめさん。

研究家さんのプランの説得力は、仁徳列と允恭列での立太子記事や殯で同期関係が取れる事ですよ

延長紀年の扱いに付いてなんかは必ずしも次帝以降に持ち越す場合だけで無く
応神15年記事等は、仁徳列で処理して構わないと思いますけどね。


それから延長紀年の合計が120年であるのは、応神列から雄略列を計っているだけの事ですので、
これ自体は多列構造の説得力を左右しません。

ですので多列構造は肯定出来ても±120年構想なんかには根拠がないです


>二倍年暦論者は、それを、単純に二分の一に計算することによって説明しようとしました。
えぇ、これは単純に1/2にして最終的に算出してしまう事は出来ないと思います。

書紀には最終段階で水増しされている筈ですから。
例えn倍歴論が正しい場合でも(勿論等倍でも)その分を最初に減算のステップが必要な筈です。

この分が結局は虚構年や延長紀年と云う範囲ですね。
551日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:02:45
>>495で太国さんが指摘したことに、誰も反論がないなあ〜
552日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:07:11
>>551

おまえが反論しろよ。
553日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:12:30
これってほんとうかな?
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku219.htm
554:2007/04/11(水) 23:15:56
孝元天皇と開化天皇も、ほぼ2倍じゃないか!!
555日本@名無史さん:2007/04/12(木) 01:53:24
古代、子供時代は通常の暦で歳を数えて、成人後は二倍年暦で歳を
数えていたというのはどうか?
これなら、子供の見た目と年齢を一致させることが可能。
このややこしい習慣は、記紀の編者を混乱させる原因となった。
556日本@名無史さん:2007/04/12(木) 02:21:17
神功元年から雄略五年までの期間だけで、日本書記紀年法を語るのはなぜだろう。
確定紀年、延長紀年、空位年がバラバラで、何ら法則性が無いのは、
単なるデタラメに近いもので、「多列・並列構造」が存在しているのではなく
「無構造」だと思う。
「プラス・マイナス120年構想」が存在しているのではなく、干支表記が
60年の倍数ズレしているだけで、「無構想」なのだと思う。
557日本@名無史さん:2007/04/12(木) 07:58:52
日本書記の紀年に構想があったとしても、
8世紀の編纂時に作為があったということが証明されるだけで、
史実年代と一致すると考えるわけにはいかない。
558日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/12(木) 09:50:50
投票について、
わたくしが、投票を提案した理由は、説には説得力が必要であるからです。
定説や通説は、多くの人々が、その説を理解し、納得したことによって成立してきます。
投票も、理解度、納得度のバロメーターになるのではないかと、考えました。
ただし、2チャンネルのスレッドにて投票することは、技術的には、難しいようです。
匿名を原則とする掲示板では、一人が一票を投じるとは限らないからです。
また、日本書紀紀年法をめぐるどのような説があるのかを、あらかじめ、投票者が
知っておかなければななりません。
したがって、投票には問題があるかもしれませんが、いずれ、何らかの方法で、
投票を行ってみることも、よいことかもしれません。
そこで、わたくしは、ここ2、3日中に、HP「倉西先生のご学問所」の歴史発見物コラムにて、
主要な説の概略をまとめて、掲載しておきたいと思います。投票に興味のある方、また、日本書紀紀年法を
説明するどのような説があるのかを、知りたい方は、ぜひ、ご一読していただきたいと思います。
わたくしの説については、HPの日本書紀紀年法入門をご覧ください。
アドレスは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります

559質問のいらつめ:2007/04/12(木) 10:39:18
>>征東大将軍さん
 征東大将軍さんは、応神列と雄略列の間に120年のずれがあることを重視されて
おり、延長紀年の合算と神功紀のマイナスにより構成されるプラス・マイナス
120年構想は評価されていないようです。私は、日本書紀紀年法の専門家では
ありませんが、年代の算術的な足し引きを考えますと、プラスとマイナスの数が一
致することの方に説明力を見出しました。専門的なご意見につきましては、日
本書紀紀年法研究家にお尋ねくださいませ。
560日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/12(木) 14:18:23
早速に、HP「倉西先生のご学問所」を更新して、歴史発見物コラムにて、
日本書紀に見える非現実的紀年数を説明するために、これまで提起されてきた諸説について、
まとめてみました。どの説に、説得力があるのか、ぜひ、ご一読いただきたいと思います。
ただし、諸説は、歴代天皇紀それぞれに延長されている紀年数の問題を扱う説に限らせていただき、
例えば、全体で600年延長されているなど、全体数に関する説は、省かせていただきました。
また、わたくしの管見の限りの諸説ですので、他にも、どなたか、ご存じの説があれば、
お知らせいただきたいと思います。
HP「倉西先生のご学問所」のアドレスは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります
561太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/12(木) 14:50:12
>>525 (>>522と・・・。)
ならば「開化」の号を見てみろ。『開』の字の上部にも『日』が二つ並んで
いる。「春日宮」の『春日』を見て見ろ。『日』は二つあ〜る。
562日本@名無史さん:2007/04/12(木) 15:03:04
>>561

たしかにその通りだ。
2倍暦でしか説明不可能だ。
563日本@名無史さん:2007/04/12(木) 16:48:20
仲哀さんは、神功さんと武内さんたちに殺されたんですか?
お葬式を中臣鎌足の先祖が行なったんですか?
564日本@名無史さん:2007/04/12(木) 18:16:31
神功皇后は実在しませんよ。
565日本@名無史さん:2007/04/12(木) 18:40:43
仲哀さんと武内さんは、実在しますか?
566太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/12(木) 18:45:25
>>564
そうなると、應神は誰の胎内から生まれたのか?
567日本@名無史さん:2007/04/12(木) 18:53:59
モデルになる人はいたんちゃう?
568日本@名無史さん:2007/04/12(木) 19:06:02
そのモデルとなった方は、後にオキナガタラシ姫の命とオクリナされました。
569日本@名無史さん:2007/04/12(木) 19:27:58
三韓征伐をした勇ましいお姫様でつね!
新羅が熊襲のあと押しをしていることを、お見破りになった方ですよね!
570太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/12(木) 19:36:26
>>568
それだけ自信があるなら、>>566の件を答えろ。
571日本@名無史さん:2007/04/12(木) 19:40:14
>>561
だから何なの?としか言えませんが……

ところで
> 69年(神功紀の紀年数)−189年(実際の経過年数)=-120年(不足する紀年数)
> 192年(応神元年〜雄略五年までの紀年数の合計)−72年(実際の経過年数)=+120年(超過する紀年数)
以外にはズレはないんですかねえ?
572日本@名無史さん:2007/04/12(木) 19:50:22
>>570

神功皇后=オキナガタラシヒメだけど、
この息長という氏族は、ぜんぜん表舞台で活躍してないし、系図も伝わってない。
573太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/12(木) 19:51:09
>>571
「開化」の『開』の字は上部に二個の『日』があるが、門ガマエの二本
のタテ線に支えられている。門ガマエの中の鳥居も二本のタテ線が、接着
させて『二』を支持している。『二』字と二本のタテ線が鳥居のマークだ。
『二』は、大日日尊の二個の『日』の重要性を示唆している。

2倍暦の黙示なのさ。ここの鳥居はヒストリー(秘素鳥居)として、
暦史の秘密を暗に語っている。
574征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/12(木) 19:51:17
「ズレ」の問題で、±120年構想の推理自体は誤りと断定して良いのですが
多列構造として年代列が他にもないかと云えば、ある筈ですよねぇ

等倍で構成する訳ですから、
神武紀〜神功紀までに十本以上は見つけなくてはならないんじゃないですか
575太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/12(木) 19:52:20
>>572
それくらいで「実在しない」に結論が行くのか?
576日本@名無史さん:2007/04/12(木) 19:56:06
>>575

それくらいどころじゃないよ。
他に天皇に妃を出した氏族は、系図がしっかりしてるのに、
息長氏だけが不詳なんだよ?
577太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/12(木) 19:59:31
>>576
だから胎中天皇の母親は誰なんだ?不詳だから実在しないにはならない。
578日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:02:52
>>577

竹内の愛人だろ。
579日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:08:40
>>574
> 「ズレ」の問題で、±120年構想の推理自体は誤りと断定して良い

その心は?
過去にも言及してるなら過去スレのどの辺か教えてくれませんか?
580征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/12(木) 20:09:07
>>559
いらつめさん。120年に拘っているのは研究家さんなんですよ。

この値自体は応神列が雄略列に対して切片が120年分ずれて設定されて居るだけの事で、

それを研究家さんが「2つの年代列間を越えて」計算しているので
実年代上でも、紀年上でも120年差のペア関係に見えるだけであって
これ自体にそれ以上の意味はないんですよ。
581日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:28:11
>>580
> この値自体は応神列が雄略列に対して切片が120年分ずれて設定されて居るだけの事で、

違うんじゃない?
外に取った定点に合わせるために伸ばした分をそのままにしないで(トータルが増えてしまうから)他方で縮めた。
これが基本なんじゃないの?
それと古事記の分注にみえる崩年干支の問題との適合という観点からも補強されるという話だと思ったんだが……
582日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:37:46
武内さん超長生きだおね!仲哀さんを殺すなんてこわー!
583日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:42:39
蘇我蝦夷ってさ名前へんだおね!
馬子もさネーミングのセンスないおなー
584日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:42:52
そうそう、武内の長寿の説明もしてもらわないとな。
585日本@名無史さん:2007/04/12(木) 20:45:35
説明できる人いるの?
586日本@名無史さん:2007/04/12(木) 21:03:19
捏造だろ?
587太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/12(木) 21:12:36
【紀の應神世の日数統計表】
1日 3   16日 0
2日 0   17日 0
3日 2   18日 0
4日 0   19日 0
5日 1   20日 0
6日 2   21日 0
7日 0   22日 0
8日 1   23日 0
9日 0   24日 0
10日 2   25日 0
11日 0   26日 0
12日 0   27日 0
13日 1   28日 0
14日 1   29日 0
15日 1   30日 0

應神世は1ヶ月が15日制で、現今の1ヶ月を半月分としてやっていた。
この時代は3倍暦の時代である。應神世の紀の記録は月までで日の記入のない
記事がだいぶあるから、それについては表に入れられない。
588日本@名無史さん:2007/04/12(木) 21:59:48
武内スクネの長寿の理由を数学的に説明できたら、たいしたものだ。
本物と認めてやる。
589日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:15:08
まず何歳まで生きたかわからんと計算のしようがないな。
590日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:55:51
武内宿禰

伝説では、実に360歳という長寿を誇る怪物的な存在である。
それにちなんで延命長寿の神さまとして知られている。
また、不思議な霊能力を発揮する武運長久、厄除けの神さまでもある。

「古事記」には、景行天皇に始まって成務、仲哀、応神、仁徳まで五代の天皇に
244年間に渡って仕えたと記されている。
591日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:57:44
>>588
簡単だよ
ヒント:
古事記 孝元の孫
書紀  景行の息子
武内は両書で親が全然違う。その理由を説明せよ
592日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:02:40
武内宿禰が、景行〜仁徳の時代まで、300年生きたというよりも、
武内宿禰の一世代を、300年に引き伸ばしたとしたほうが理屈が通る。

仁徳がA.D.400年くらいとして、
景行がA.D.350年くらいの人物なら、
祟神がA.D.300年前後の人物として、計算がピタリと合う。

日本書紀紀年法、終わったな。

593日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:13:59
武内は景行の息子ではない。
武雄心命の子となっている。
594日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:32:59
>>591
訂正
書紀  景行の息子X
書紀  景行の息子の世代○
595日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:33:09
>>593

もとをたどれば、どちらも孝元天皇が祖になる。

日本書紀は、孝元天皇の5代孫
古事記は、孝元天皇の3代孫
年代的に大きな差は無い。
596日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:35:54
>>595

と思ったら違うじゃん。
孝元天皇の3代孫でOK。

597日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:22:22
孝元ー彦太忍信ー(屋主忍男武雄心)ー武内
598日本@名無史さん:2007/04/13(金) 03:03:02
古事記 孝元の孫  10代崇神と同世代?
書紀  孝元の曾孫 11代垂仁と同世代?
          14代成務と同じ日に生まれる
武内は複数いたのか?
599日本@名無史さん:2007/04/13(金) 03:45:17
だから宿禰はカバネだっつってんだろうが
武内宿禰が300年生きたってのは
徳川将軍が300年生きたと言うようなもんだ
600日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 08:05:28
>>561 太国さん

「日」が二つならんでいることが二倍暦と関連しているののならば、
草壁皇子も日並皇子(ひなめしのみこ)と称されています。
草壁皇子は、7世紀後半の人物ですので、七世紀後半にも二倍暦が用いられたことに
なってしまいますが、いかがお考えでしょうか。
また、>>560でも述べましたように、二倍暦など、研究史上、日本書紀紀年法における
非現実的紀年数を説明するためにとなえられてきた代表的諸説を、「倉西先生のご学問所」の
歴史発見物コラムの第二回コラムとして掲載いたしました。
1ページほどですので、ご関心があれば、ご覧くださいませ。
アドレスは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります
601太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 08:10:38
>>587
應神天皇世は1年の使用月が

1月2月3月4月 8月9月10月11月 の8ヶ月であった。同天皇世の記録を
確かめると、これらの月しか記述がない。1ヶ月が15日の使用だから

15×8=120日  で、正味4ヶ月分である。

12ヶ月÷4=3  にして、3倍暦をを行っていたことが解かる。
602日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 08:14:15
>>571さん
プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造の他にも、日本書紀には、紀年構想が
設定されていると考えられます。
現在、わたくしが注目しているのが、崇神元年から応仁天皇の即位・立太子の年までの間の
紀年問題です。崇神元年を西暦91年に位置づけると、神功三年(応神天皇の立太子年)は、
西暦390年となります。390年は、プラス・マイナス構想における応神天皇の即位の年
ともなります。
603太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 08:17:39
>>600
仏伝以降は無関係と観てます。たとえば欠史八代の『孝』の字のつく号の
天皇は3倍暦ですが、後代の孝徳天皇や仁孝、孝明天皇は倍暦と無関係です。
仏伝は6世紀ですから7世紀の皇子は無関係ですし、この方は代々の天皇
ではないでしょう。
604日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 08:20:55
>>574 征東大将軍さん

多列・並列構造(プラス領域に設定されています)よりも、プラス・マイナス構想のほうが、
理解しやすいのではないかと、考えておりますので、なぜ、征東大将軍さんが、
プラス・マイナス構想をご理解されないのか、不思議でなりません。
応神元年が390年で雄略五年が461年で、この間に実際に経過した年数は72年です。
しかし、応神元年から雄略五年までの紀年数を合計しますと、192となります。
120年分の紀年が加算されていることは、一目瞭然であると思います。
605日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 08:31:18
武内宿禰の長寿につきましては、わたくしは、ひとつの推論として、神功紀が、
プラス・マイナス構想のマイナス領域を構成しているとが関連しているのではないか、
と考えております。
神功紀は西暦201年から389年までの189年間を扱っています。しかし、配布された紀年数は
69です。すなわち、神功紀では、69年と思いきや、実は、189年も経過しているのです。
武内宿禰を仁徳天皇の時代まで生き続けた人物とする設定には、このような経過年数を示す狙いがあったのかもしれません。
ひとつの推説を提起させていただきましたが、他にも、武内宿禰の長寿には、理由があるのかもしれません。
606日本@名無史さん:2007/04/13(金) 08:47:50
>>602

>崇神元年を西暦91年に位置づけると

日本書紀紀年法は、崇神紀にある箸墓古墳造営の記事を無視してるんですか?


607太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 09:48:32
>月の前半しか日がないのは、書記官が後半を書くのを面倒に思って割 愛しただけだろう。

はあ? そうですか?w

ならば聴きますが、割愛しなかったことになる>>116表での崩御の記録
ですが、死亡記事は不動的ですから、割愛されずに残った死亡記事がすべて月前半に位置するものなんでしょうかね?
そうなりますと書記官が面倒で割愛した上、残りのそれを紀に書きこんだ当時の天皇はすべて月前半に死亡したことになるんでよ〜?w
こんなことは生物学的にありえるんですかねぇ?君の肯定してる当時が通常暦ですと、すべての天皇の死亡が月の前半に死んだことになるんですがねぇ? 8回も連続で全部月前半に死ぬものなんですかな? おかしいんじゃありませんかね〜?www
608日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:15:10
[プラス・マイナス構想]の用語において、わざわざ「構想」と呼称している主張がよくわかりません。
「構想」という立派な思想や概念があったのではなく、数字がぶれているだけだと思えてならないのですが。

ある区間、道路の右側の電信柱が12本多かった、その隣の区間は12本少なかったとします。
これは「プラス・マイナス構想」どということでしょうか?


609日本@名無史さん:2007/04/13(金) 10:32:08
日本の歴史解釈すら、外人に頼って有り難がるこの体質ってどうなのよ。

自分で考えることが出来ないほどレベル低いのか
徒弟制度で違った見解だせないのか、

どっちなんだよ?
610太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 10:35:25
>>607は >>508 の抗弁の矛盾です。抜けてしまいました。

続き >>508の抗弁への回答

君の主張は應神世の表>>587 (解説>>601)ならば、そのスリ抜け論の余地が
できようが、>>116の場合は應神世の一般的記録を含まず、欠史で、天皇の生涯
で立太子、即位はただの1回しかありえないから、8代も続いて割愛などはあり
っこな〜い。

まぁ立后は後妻の皇后多数回を選べばこれは君の言い逃れが効くがね。w だっ
て、一人残して他の皇后らは割愛可能だからな。w 即位も崩御も天皇の人生
で各々ただの一度しかないんでから、割愛などありえんわけだよ。それともここ
の各天皇は多数回即位、重祚したと言い逃れするのかいな?w 押し通したって
死亡記事は探偵小説じゃぁないんだから、2回以上はないだろう。各々1回しか
起こりえないないものを割愛などやれるわけはない。
つまり、君の抗弁はデタラメで破綻してるのさ。
611太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 10:36:48
>>609
サッカーの監督はどうだな?w
612日本@名無史さん:2007/04/13(金) 11:16:07
>>611
>自分で考えることが出来ないほどレベル低いのか

こっちだったのか・・・・情けないな・・・
まだ、違うと思うけど言えない、の方がマシだったな。
613日本@名無史さん:2007/04/13(金) 12:15:39
日本書紀紀年法研究家みたいな博識な人もいれば、
太国みたいなただのバカもいる。

両方とも、世間から相手にされてないところは同じ。
なぜか?

ちょっと研究してみるわ。
614日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 12:52:04
>>608さん
研究史上、日本書紀紀年法がどのような構想になっているのかは、まったくわかりませんでした。
プラス・マイナス120年構想が設定されていることが明らかとなったことによって、
紀年に相当する実年代を求めることができるようになったことは重要なのです。
プラス領域には多列・並列構造が構築されています。単に、プラスが120、マイナスが120というだけではなく、
プラス領域において、きれいに多列・並列構造となっていることが、肝要なのです。
HP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の日本書紀紀年法入門の多列・並列構造
についての解説と図も、ぜひ、ご覧いただきたいと思います。
615日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 13:02:43
>>608さん
研究史上、日本書紀紀年法がとのような構造にあっているのかは、まったくわかりませんでした。
プラス・マイナス120年構想は、単に、プラスが120年、マイナスが120年というわけではありません。
プラス領域に、多列・並列構造が構築されており、応神元年から雄略五年までの紀年に相当する
実年代を求めることができるようになっているのです。
多列・並列構造につきましては、HP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の
日本書紀紀年法入門の多列・並列構造についての解説と図を、ぜひ、ご覧いただきたいと思います。
616日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 13:05:29
>>615は、>>614を書き込みエラー思い、同じような内容を再度書き込んでしまったものです。
617日本@名無史さん:2007/04/13(金) 13:08:44
まず、珍説・奇説をぶちあげる人は、
その素質として、ある学問に興味があって傾倒していることが第一です。

第二の要因として、人格形成時に、その学問との出会いによって、
人格の方向性を決められてしまったこと。
その学問=その人の人格であり、学問を否定されることは人格否定に等しいということ。

第三の要因として、「反抗期」があると思います。
その学問に傾倒していたものに、自我の目覚めによって、
一定の距離を取ろうとし、自分で学問を深めようとします。
それは「既存の学問の中に何か新しい発見をしようとする」行動として現れます。

第四の要因として、自我の確立を目指すという本能的行動があるでしょう。
既存の学問の中に何か新しい発見をしようとして、実際に何か、
新しい発見をした(と、錯覚する場合も含めて)ときに、
当人には、例えようのない陶酔感を感じられることでしょう。

第五として、他者に、自分の存在を認めて欲しいという欲求が生まれます。
それは、往々にして、他者にとっては「迷惑な存在」として映ることでしょう。
618日本@名無史さん:2007/04/13(金) 13:12:21
珍説・奇説をぶちあげる人は、
子供の成長過程とよく似ています。

いずれ大人になれば、落ち着きを取り戻すでしょうが、
それまでは、他者に対して反抗的・攻撃的になる場合もあります。

この場合、周囲は、大人としての対応が求められるでしょう。
熱が冷めるまで、なま暖かく見守るということが肝要かと思います。
適当に話をあわせることも良いかもしれません。
頭ごなしに否定するよりも。
619日本@名無史さん:2007/04/13(金) 13:20:49
珍説・奇説をぶちあげる人は、
夢を見ているときのように、現実と区別がついていない状態なのでしょう。

脳内の情報処理の一部、「自己を客観視する」というプロセスに、
傷害が現れてる可能性もあります。

相手の話をよく聞こうとするだけでも、心理カウンセリングになるので、
周囲の人は、よく話を聞いてあげることが大事でしょう。

スルーしたり、否定したりすることは、かえってその人の人格形成にマイナスになると思います。
極端な被害妄想に陥るケースもあるかも知れません。
ある人は攻撃的になり、ある人は自傷行為にはしるかもしれません。

といっても、周囲の大人全員に、心理カウンセリングをマスターしろというのも、
酷な話かも知れません。
620太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 14:04:22
>>612 >>613
外国人、日本人とやらはそんなにこだわることもあるまいて。
それは記紀は日本のだから日本人がメインであったほうがいいがね。
外国人がやれば記紀の話は世界に拡がりやすくなり、世界的に有益になっていく
利点がある。だから外国人がダメだにこだわるのは、お前の未熟な脳の活動で
あり、こういう状態は奇特ないまわしい研究結果になるきらいがあろうて、
非常に芳しくない。
621日本@名無史さん:2007/04/13(金) 14:55:50
掲示板という場所の意義とは?

様々な人が集まり、意見交換が自由に出来る場が掲示板でしょう。
掲示板を利用して自説を発表するのも良いかと思います。
送り手としてはそれでいいですが、受け手の問題もあります。

受け手は、興味を引いた掲示板を見つけて参加しにくるわけですが、
興味の対象はひとつではありません。
議論の内容に興味がある場合、議論をしている人物に興味がある場合があります。


*議論の内容に興味がある場合
議論内容について、触発されて自分の意見を発言するなどして、
考え方を補強したり修正したりする。

*議論をしている人物に興味がある場合
議論内容には興味がなく、特定の人物がどのような発言をしているか、
ウォッチしたり、議論に参加して気を引いたりする。ストーカー的とも言える。
好感を持ってる場合は積極的に同意し、好感を持っていない場合は、否定に奔走する。
622日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:02:14
えてして、人というのは、議論の内容よりも、論者のキャラクターの興味が行くものです。

NHKの討論番組が退屈で、朝生が面白いのは、
討論内容ではなく、討論に参加してるパネリストの面白さによるところが大きいのです。
論者が個性的であるほど、また、論者同士の言い争いが過熱するほど、
討論は面白くなります。

しかし、それは、議論本来の目的と言えるでしょうか?
623日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:07:56
論者同士の言い争いは、議論を面白くしますが、
平行線のままでは、議論は進展しません。
議論していないのと、同じことです。

では、議論を進展させるにはどうしたらよいのでしょうか?

1.考えの似ている論者だけで議論をする。
これは、他説を排除するのと同じで、必ずしも好ましいとはいえません。

2.自分が折れて、相手の考えを組み入れる。
折れていい部分と、譲れない部分があるでしょう。
互いに、譲れない部分で対立していた場合、歩み寄ることはできないでしょう。

624日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:12:39
討論会や、掲示板での議論は、
議論内容を不特定多数の人に見てもらえるという利点があります。

複数の論者が意見対立していた場合、
どの論者の意見に同意できるか?
静観している人たちに判断を委ねるというのも、一つの方法かもしれません。
つまり、アンケートです。

しかし、アンケート結果が、必ずしも正しい結果を出すとも限りません。
625困惑のいらつめ:2007/04/13(金) 15:14:30
>>618さんと619さん
 誰に宛てたのかわからない文章は、誰にとりましても、いやみで
不愉快な文章となってしまいます。これでは、大人の世界にも陰湿な
”いじめ”があることを立証するようなものではありませぬか。また、
正々堂々とした議論を避けているようにも見受けられますが、いかが
でしょうか?
626日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:16:33
そうなると、議論というのは、どういう帰着を迎えたらベストなのでしょうか?

いちばん小さく考えるなら、
「自分と違う考え方の人がいる」という確認をしただけで、
よしとするのもいいかもしれません。

おそらく多くの論者はそれでは満足せず、
自分の論を、相手に認めさせることを最終目標にするでしょう。
そうして、議論は振り出しに戻るのでしょう。
627日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:23:01
2chで持論を納得させる事にどれほどの意味があるのか?
そもそも納得させられるのか?
628太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 15:25:17
奇説、珍説は古代史論ではあってもかまわない。ただそれが全部OKだとの意味
ではない。ものによる。
古代人の脳内は現代的でいう迷信に満ち満ちていると観て過言ではない。極端
ではあろうが、熱帯雨林の蛮族の風習を考えればあてはまる。だから古代人の
脳内の(2chでよく出る語→)デムパはこうであっただろうとかからの珍説、
奇説は素直に耳を傾けるべき必要がある。そうでないと永遠に古代史の不明
箇所は解明ができないかもしれないのだ。
629日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 15:36:58
>>621>>624>>626さん
おそらく、二倍暦説とわたくしの説のどちらが説得力があるのか、
投票してはどうかしら、というわたくしの提案に対してのご意見と拝察いたします。
少なからず、学術的議論は、論理的に矛盾が無いという条件をクリアしたうえで、
説得力のある説に支持が傾く、ということになるのかと思います。
そこで、重要なことは、まず、候補説が論理的に矛盾しているか、いなかい、
投票者が、投票前に判断する段階が必要であるということです。
そこで、わたくしは、HP「倉西先生のご学問所」の歴史発見物コラムにて、
春秋二倍暦説、復元紀年説、六十年配分説、移設説、そして、わたくしの説の概略を
掲載することにいたしました。1ページほどにまとめましたので、もっと、仔細にわたって
諸説について、記載してほしいとのご要望があれば、HPを更新したいと思います。

630日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/13(金) 15:41:34
→それぞれの説に、論理性と説得力があれば、投票してみることで、問題点がはっきりしてきますし、
日本古代史に対する研究も進むことになるでしょう。日本書紀紀年法をめぐっては、
議論する場が皆無です。2チャンネルの掲示板は、稀少です。
技術的には、問題はありますが、その意味において、投票は、有益であると考えております。
631日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:42:08
自意識過剰過ぎる件について・・・
632日本@名無史さん:2007/04/13(金) 15:44:00
「議論」というものは何か?

これほど、答えを出すべきなのに、答えの出せない議論は無いでしょう。

ある人は、答えなど出なくてもよくて、
「議論をすること」が目的な人もいるでしょう。
ある人は、「暇潰し」かも知れません。
ある人は、「言葉による暴力」をただ楽しんでるだけかもしれません。
ある人は、一歩も二歩も引いた視点で「高見の見物」をしているかもしれません。
633太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 15:48:12
>>632
もう審判、観客はいいよ。選手になって論をしろ。
634日本@名無史さん:2007/04/13(金) 16:24:01
日本書紀紀年法研究家氏は、自身のサイトで、他説を紹介し、
論理的に納得のいくものを選んでくださいという考えのようですが、
他説の紹介だけでは、だめですよ。

自分以外のそれぞれの説が、論理的に正しくないという反証をしなくては、
どの説も一理あって正しいということになり、
読者は、どの説がもっとも論理的なのか判断することが出来ません。

まず、太国氏が何度も求めている>>116への反証を述べるべきであると考えます。
635日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:08:47
なるべく主観をいれないで判断してほしいと思っているんだと思うよ!
それだけ自信があるんだろう。
それと、ここで他の案を否定するのは得策ではない。
それは、過去スレが証明している。
636日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:15:29
日本書紀紀年法研究家氏は、
>>580
>実年代上でも、紀年上でも120年差のペア関係に見えるだけであって
>これ自体にそれ以上の意味はないんですよ。

という指摘についてもきちんと反論すべきです。
637日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:16:20
お姉ちゃんに期待する事は、紀の年が西暦で表せる様になった事により、こんな事が明らかになりました的な発見をしてもらいたい。
その方が120年構想の宣伝にもなると思うし。
たぶん、既に取り組まれていると思うが、がんがれ!
638日本@名無史さん:2007/04/13(金) 17:50:27
奇説・珍説にこそ、世紀の発見があるんじゃないか?
まぁ、何にでも程度はあるがな。
馬鹿と天才は紙一重!
639唐松山:2007/04/13(金) 19:18:04

四分暦 風 計算式
歴年を 暦日に換算
1年目354日より 76年940ヶ月27759日
200年で +1日  (月齢も狂います) 閏月自動抽入
=INT(INT((A4*365.25)/29.53059+0.5)*29.5309)
一応700年位は、使えます。
わたしは、この式で干支を4日分(閏+30日も同数)並べて使っています。

四分暦は、神武より垂仁25年迄使われた?。
640日本@名無史さん:2007/04/13(金) 19:19:11
>>634
まず>>116に関しては反論する必要ない。
何故なら仮にいわゆる欠史八代の期間に「二倍年暦」が使われていたとしても影響はないから。
「書紀は二倍年暦で記述されていない」≠「二倍年暦は使用されたことがない」だから。
つまり別の問題。

>>636
増やされた分、別のところで減らすことによってトータルの年期を変えないよう操作が為されている。
そして問題の期間のズレに関して古事記の分注に見られる崩年干支の問題とも符合する。
つまり全体像と作為の部分の整合性が取れてる。
征東大将軍さんの説はこれらを説明しえてないので研究家さんの説に軍配を上げざるを得ない。
ただし、こちらの方の問題に関しては両者の説に対してまだ誤解してる部分もあるかもしれないので、改めて征東大将軍さんと研究家さんの間で論を交わしていただきたいなあと思ったりする。
641太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 19:48:53
そんな楽観的言い分でいいのかねぇ〜?
臭い物にフタまでは行かないだろうが、あまい批評に想えてくる。
642日本@名無史さん:2007/04/13(金) 19:58:46
う〜ん、>>116での指摘事項が、>>640の主張を根本から破壊しているように見えるが。
643唐松山:2007/04/13(金) 20:00:08
1ヶ月の記事が14,5日しかない
此処までは良いですよ
でも 1月○○朔××日 2月△△望▲▲日 でなければ為らない
この辺は、ドウなんでしょ?
644唐松山:2007/04/13(金) 20:16:51
もう一つ
春1月はありますが、秋1月は無い
645日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:21:20
>>642
日本書紀では日付も干支で表わされていて、その干支を頼りにすれば一ヶ月は大体30日。
この一事を以ってしても書紀上において二倍年暦表記が用いられていないことがわかる。

ただし、欠史八代の期間中の日付に15日を越えるものがないことを単なる偶然と片付けることには賛成できない。
日を数える上で15日周期の単位があり、これはその反映であると想定することは必ずしも奇異なことではないと思う。
それが二倍年暦であるのかどうかまでは断言はしないが、少なくともそう簡単に否定できる類のものではない。

ただし、仮にそうであっても1段落目にある通り書紀上ではその構想から二倍年暦は排除されていることに変わりないのです。
646日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:35:44
こっちも回答が無いのでもう一度。

>>602

>崇神元年を西暦91年に位置づけると

日本書紀紀年法は、崇神紀にある箸墓古墳造営の記事を無視してるんですか?
647太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 20:52:08
>>645
じゃぁ何故紀は>>495の半分(←2倍暦連想)なのかいな?
これで排除なのか?
648日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:54:52
>>647
アホか?
古事記は2倍のまま、
日本書紀は補正されてるの!
649太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 20:58:00
>>648
何言ってるんだ。1/2で2倍暦だとの文証の一つだよ。
650日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:58:07
>>647
表記としては排除されてるよ。
記紀でデータ処理上の過程で違いがあった可能性が大。
全部の天皇の年齢がそうなってるわけでもないし、一例だけ挙げられても有意とは言えない。
651征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/13(金) 20:59:36
>>640
違いますよ。

Yを書紀年代、Xを実年代とすると
 ・雄略列はY=X、応神列はY=X-120
 ・これをXについて解けば、雄略列はX=Y、応神列はX=Y+120
シンプルでしょ

これを座標(x1、y1)から座標(x2、y2)への移動と考える場合
x1≦x2でy1≦y2なら


「並列」多列構造は、同一倍率(このケースなら一倍)で構成されていますから
Xの増加数に対してYの増加数は1倍ですので、そのまま

応神列側の座標を起点として、雄略列側で終点を取って
両座標間でのXの差+1の値と、Yの差+1の値を比べれば、
紀年数(Y)の累積分は、実年代(X)の累積分より120年分「多い」んですよ。

切片が-120の側の年代列から、切片が±0の側へ飛ぶんですから。
これが+120年の正体


逆に、雄略列側の座標を起点として、応神列側で終点を取って
両座標間でのXの差+1の値と、Yの差+1の値を比べれば、
紀年数(Y)の累積分は、実年代(X)の累積分より120年分「少ない」んですよ。


切片が±0の側の年代列から、切片が-120側の年代列に飛ぶんですから。
これが-120年の正体

簡単でしょ
652日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:00:11
>>650

おまえも、偉そうに代弁してるなら、回答しろよ。

>>602

>崇神元年を西暦91年に位置づけると

日本書紀紀年法は、崇神紀にある箸墓古墳造営の記事を無視してるんですか?

653太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 21:00:29
>>650
じゃぁ >>587 はどうだne?
654日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:02:39
う〜ん、このサイトを見ると、ほぼ2倍寿命の天皇がゾロゾロいるわけだが。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku219.htm
655日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:05:50
というか、歴代中国皇帝からパクった、というか劣化コピペしただけの連中ばかりのような気がするのだが。
656591:2007/04/13(金) 21:07:05
ヒント2:
7代孝霊の娘ヤマトトトビモモソ
10代崇神と同世代のヤマトトトビモモソ
2人は別人か?
何故、古事記は彼女を無視しているのか?
657日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:12:16
>>656=>>591

無視されてるのはおまえ。
658征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/13(金) 21:15:08
こう云う訳ですから

別に応神列での応神元年の座標から、雄略列での雄略五年での座標を比べて+120だぁ
雄略列での神功元年の座標から、応神列での神功末年での座標を比べて-120だぁ

と言っても、切片の値が雄略列に対して応神列が120年分小さい事がそのまま反映しているだけの
シンメトリーですから

この現象自体に切片の差が120年だと云う以上の意味はないんですよ



これを勘違いしてそれ以上の意味を捉えて、
神功元年(書紀年代201)を
Y=Xである雄略列がそのまま実年代側に乗っていると、研究家さんが思っちゃたもんだから

神功元年の実年代は201年だぁ、崇神元年は当然これ以前だぁ、と考えて
崇神元年の実年代はAD91年とかまで行っちゃった訳ですよ


>>652
私のレスを参考にして下さい
659日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:15:42
>>653
>>645で述べたとおり。

> 日本書紀では日付も干支で表わされていて、その干支を頼りにすれば一ヶ月は大体30日。
> この一事を以ってしても書紀上において二倍年暦表記が用いられていないことがわかる。

元資料がどうであったかまでは不明。
可能性までは否定していない。
660日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:23:04
>>658
私も同意します。
+120は−120の原因です。
ゆえにプラス・マイナス構想は日本書記に内在しているのではなく、
解釈側の理解に内在しているだけの構想ではないかと。
661591:2007/04/13(金) 21:27:56
ヒント3:
景行の親征という大事件を何故、古事記はマルムシしているのか?

ここまで言っちゃうとわかちゃうな〜

「キャーや・め・てー」(一同騒然)
662日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:32:06
それは、九州王朝の天子行幸記事のパクリだからです。
663日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:38:13
征東大将軍のほうが、説得力あるなあ。

崇神元年の実年代はAD91年とか、ありえないし。
頭でっかちの考古学オンチだと、こうなるんだなあ。
664591:2007/04/13(金) 21:38:46
>>662さん(多分太国さん)半分正解!

ヒント1&2にも挑戦して下さい。
665太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 21:43:16
>>662
パクリだったら紀は小説であることになる。いい加減なことを言うなよ。
666日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:58:51
>>665
意図的にパクリ小説を織り込んだ、というのが真実でしょう。
古事記発刊以後に見つかった九州王朝書庫からのパクリ記事。
667日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:05:12
やっぱ、九州の年号とも整合性をとって欲しい罠。
668日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:07:01
>>663
同意。
しかも彼女は崇神の在位期間を48年間としている。
推古以来40年以上の在位の天皇は明治と昭和しかいないのに

因みに倉西先生のHPでは「確率が20分の1以下の現象は偶然とみなさない」
としている。ここを読んで勉強すればいいのに
669日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:09:28
>>668
>「確率が20分の1以下の現象は偶然とみなさない」

ふぅん。

この確率はどうなんだろうね?>>587

670日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:19:38
>>669
1/2の14乗

「偶然とはみなさない」
671太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 22:28:29
>>666
根拠、資料はどこにあるんだ? そういうことは堅牢な資料等を出してから
言え。なけりゃぁおまえの脳内のデッチ上げ。
672日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:45:20
記紀に書いてある事は、真実と創作と両方あるよね!
そして、創作にはたぶんモデルがあったんだろうなー
673日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:50:06
神功皇后は作り話だけどね。
674太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 22:54:35
>>673
お前らは津田病患者だな。w かなり重症のようだが?ww

>>668 拙者の計上は

崇神即位 237年    同崩御259年

その在位は23年
675日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:09:12
〉673 神功さんは実在はしたと思う。
そして、半島にもいったと思う。
しかし、日本が圧勝したとゆうのはうたがわしい
676日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:12:02
>>675

違うよ。九州の王が朝鮮出兵して大勝したの!
677日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:13:27
>>671
続日本紀に書いてあるでしょう。
678太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/13(金) 23:18:12
>>677
書いてあるじゃものタリンねえ?まだ抽象的だ。
具体的にそこを掲げな。zzzzzzzzzz・・・・・・・・・
679日本@名無史さん:2007/04/13(金) 23:29:55
〉676 そうだったんだ。
圧勝ってどの程度?
三韓を征伐して、新羅や高句麗を服属させたんですか?
はぁー知らなかったよー
680征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/13(金) 23:50:01
研究家さんの±120年構想説は、
そう云う構想があった事自体を否定されるべきなんですけど

±120年構想説が否定されるからと言って
研究家さんの多列構造説が否定された訳ではありません
仁徳列や允恭列では上手く説明出来てる訳ですから
整理するとこうですね

 允恭列(C列)Y=X-21
 仁徳列(D列)Y=X-84

(切片が-21の整数倍になって居ますよね。
 もっと細かく-7の整数倍に意味があるかもしれませんが)


研究家さんの多列構造の理論通りなら成務48年あたりから神功13年までをフォローする
切片が応神列の-120より小さい、別の年代列がありそうなんですが


 応神列(A列)Y=X-120

この切片-120に、-21の整数倍の-42を加えて

切片が-162として
年代列Y=X-162と云う仮説で決め打ちすれば
仲哀末年(書紀年代200)の実年代は、+162をした362年と云う事になりますよね

コレ、仲哀の古事記崩年干支、壬戌/362年とピッタリです。
681征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/13(金) 23:56:46
古事記で仲哀が死んだのが壬戌/362年六月十一日で、
神功が半島から帰って来た後の月が四月ですから、
6月→4月と云う事は、翌年363年4月までに半島遠征があった筈ですよね


新羅本紀では奈勿九年(AD364)の 夏四月の記事に倭兵来襲記事が

>九年 夏四月 倭兵大至 王聞之 恐不可敵
>造草偶人數千 衣衣持兵 列立吐含山下 伏勇士一千於斧?東原
>倭人恃衆直進 伏發撃其不意 倭人大敗走 追撃殺之幾盡


363年4月と、364年4月で一年違いなんですが、
ちょっとこちらのサイトの論考を見て下さい。

>(5)四世紀代『三国史記』王暦年次に一年の狂いがある。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/2-5nennzi.htm


もしそう云う解釈が可能なら、
年代列Y=X-162で行けそうですけど

この年代列を合法ならば神功元年(書紀201年)の実年代は363年ですね
682日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:12:01
>>679

てめえ、何度同じこと言わす気だ?

アンカーには「>>」を使えってんだよ。
683日本@名無史さん:2007/04/14(土) 00:25:40
>>681
これで、
武内宿禰の件も決着したな。

一人の人物の普通の寿命で無問題だ。
684日本@名無史さん:2007/04/14(土) 02:06:26
》682 70回ぐらい言って戴くイメージでよろしくどーぞー
685太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 05:38:27
それがしの計算

神功摂政皇太后元年=353年
686日本@名無史さん:2007/04/14(土) 08:08:39
>>684
つ >>
687日本@名無史さん:2007/04/14(土) 08:33:53
>>684

ふ。 名無しのつもりが、コテハンも同じじゃないか。
688日本@名無史さん:2007/04/14(土) 09:01:47
>>686 >>687
どうもすいませんでした。
689661:2007/04/14(土) 09:53:03
景行、成務、仲哀等は恐らく、伊都国王か一大率あたりの後継者でしょう。
景行、成務は在位年数がぴったり60年、還暦繰り入れを考慮すれば、二人は0年。
つまり元々はヤマト王朝の正統ではなかったと思われます。
景行は遠征はしたが、当時は親征ではなかったと言うことです。
690日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/14(土) 10:11:33
>>668さん

>因みに倉西先生のHPでは「確率が20分の1以下の現象は偶然とみなさない」
>としている。ここを読んで勉強すればいいのに

わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)には、
「確率が20分の1以下の現象は偶然とみなさない」という文章はありません。
>>668さんは、どちらか別のHPと間違っていらっしゃられるようです。
このままですと、読者の方々の間に虚偽の情報が流れることになってしまいますので、
ご訂正をお願いいたしたいと思います。
691日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/14(土) 10:32:53
征東大将軍さん

>研究家さんの±120年構想説は、
>そう云う構想があった事自体を否定されるべきなんですけど

征東大将軍さんは、以下の3つの質問にお答いただきたくお願い申し上げます。

1.応神元年が390年で雄略五年が461年ですと、この間に経過した年数は何年でしょうか。
2.応神紀、空位年、仁徳紀、履中紀、反正紀、空位年、允恭紀、安康紀、雄略元〜雄略五年までの紀年数の
  合計は、何年になるでしょうか。
3.神功紀が201年から389年までの189年を扱っているにもかかわらず、
  配布された紀年数が69年となりますと、経過年数に対して不足する紀年数は何年でしょうか。

3つの計算によって、応神元年の390年を折り返し点として、
神功元年から雄略5年までの間がプラス120とマイナス120の関係となっていることが確かめられたならば、
プラス・マイナス120年構想が日本書紀紀年法に設定されていることは事実なのではないでしょうか。
692日本@名無史さん:2007/04/14(土) 10:36:48
668じゃないけど「確率20分の1・・・は見た気がするぞ
でも今は無しということでOK?
693日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/14(土) 10:47:05
HP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の日本書紀紀年法入門では、
1.プラス・マイナス120年構想→2.多列・並列構造→3.確定紀年と延長紀年という順に、
それぞれ図を交えながら、説明を進めています。
全部で8ページですので、ページおくりは、ぼんぼりのアイコンをクリックしてください。
694日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/14(土) 10:58:20
>>692さん
692さんは、HP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の日本書紀紀年法入門をご覧になって、
「確率が20分の1以下の現象は偶然とみなさない」という文章があったとおっしゃられておられるのでしょうか。
別のHPと間違われたのではないでしょうか。
もし、仮に、わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)で、
確率云々の文章をご覧になられたのでしたならば、ハッカーによって、一時的に、わたくしのHPの内容が改ざんされた
可能性があることになります。
それは、いつ頃のことでしょうか。また、どのような画面となっておりましたでしょうか。
695太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 11:24:24
>>689
論の飛躍が極端に多すぎる。つまり妄想。種々の他説は大なり小なりもっと
論拠を根底に言っているから間違いでもやむを得ないが・・・。
君のはひどすぎる。
風が吹けば桶屋が儲かるとかいう話を思いだす。
696日本@名無史さん:2007/04/14(土) 11:32:54
太国にダメだしされちゃあ、おしまいだ。
697日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:05:33
>>695
その言葉おまえにそのまま返す
犬も笑われる 糞馬鹿論
698太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 12:30:23
>>697
くやしけりゃぁ、景行らが伊都国王らの子孫、後継だということをもっと濃密
に説明しろや。・・・〜が、
だれでも間違いはある。余もあるかも知れぬ。その昔は大失敗のデンパ論も
やった。その失敗を猛省して此処まで来たが、誤りはまだ出るかも知れない。

お前さんの場合は飛躍のしすぎで、他者の各説は誤があっても一応根拠、資料
などからよく説明している。それだけ君の跳躍は世界記録を超える ↑ か?
と思ってしまうほどのまずい論だ。ただし根拠、資料、証拠から説明すれば、
驚天動地ながら日本にとどろき、臥海を揺るがすニュースとなる。
腐らず、他人の言を聴き、今後の奮闘をされたい。
699太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 12:32:38
>>697
糞馬鹿論なら>>116に答えてくれ。
700征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/14(土) 12:45:46
昨晩の投稿の後で、こう云う反応が出るのは

・私の投稿内容が、研究家さんに十分に伝わってない。
・±120年構想を私が十分に理解していない、と研究家さんが思っている。

と云う事なんだと思うんですが


>>691
1、合計72年
2、合計192年
3、120年不足

研究家さんの言いたい事は解って居ますよ。



では、私も研究家さんにちょっと質問します。

【問1】
応神列での垂仁30年から、雄略列での平成19年までの
・紀年数の合計
・経過年数の合計
・紀年数の合計-経過年数の合計

【問2】
雄略列での垂仁30年から、応神列での平成19年までの
・紀年数の合計
・経過年数の合計
・紀年数の合計-経過年数の合計
701日本@名無史さん:2007/04/14(土) 13:30:40
景行元年即位、二年皇后即位
  三年紀伊行幸
  四年美濃行幸
  十二年筑紫行幸
  十三年高屋宮に居ますことすでに六年
  十七年子湯県(西都原?)に幸
  十八年筑紫巡狩
  十九年日向より至る
  廿年天照大神を奉る
  廿五〜四十年 大和武尊の記事
  五十一年立皇太子、五十二年皇后屍
  五十三年上総国に至る、五十四年伊勢より還る
  五十五〜六年蝦夷を討つ
  五十七年坂手池を造る
  五十八〜六十年滋賀に居す。死去
こんなに外征ばかりというのはありえない気がする
  
702征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/14(土) 13:36:06
たぶん景行紀は切片が15年ズレた年代列があるんですよ

景行12=27

景行25=40

703征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/14(土) 13:57:11
景行27年2月12日記事と、景行27年2月8月の間で分断されて多重化されてる筈です


年代列甲                            年代列乙
(略)
12年7月熊襲反                
   8月                     27年  8月熊襲亦反 (年16) 
   9月
  10月                         10月 
  11月
  12月2日熊襲タケル倒す             12月日本武尊に襲名
13年5月熊襲征服終了、6年居住     28年  2月奏上
(略)
25年 7月3日遣、武内            40年  6月東夷多叛 (年30)
                               7月16 斧と鉞()

27年 2月12日武内、還 
                          43年   武部設置
                                 (略)
704征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/14(土) 14:10:06
チョット修正

12年12月5日熊襲梟帥を殺す      27年12月 川上梟帥を殺す。日本童男〜日本武皇子

これで正確カナ
705日本@名無史さん:2007/04/14(土) 14:47:35
>>703
成る程、
十二年筑紫行幸
十三年高屋宮に居ますことすでに六年
この辺も矛盾があるが、やはり年代列のズレですかね?
706日本@名無史さん:2007/04/14(土) 16:20:06
征東大将軍

そういうことだな。

複数の年代列がゴチャゴチャになってるということだけが真実であって、
120年構想というものは無いということだ。
707日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/14(土) 16:24:50
征東大将軍さん

ご質問の意図がわかりかねますが、以下のようになるのではないでしょうか。

質問1の答え:
応神列の垂仁30年は西暦121年で、雄略列の平成19年は2007年。
紀年数の合計(垂仁30〜平成19)は1887。経過年数も1887年。
したがって、紀年数の合計−経過年数=0。

質問2:
雄略列の垂仁30年は西暦1年で、応神列の平成19年は2127年。
紀年数の合計は1887で、経過年数は2127年。
したがって、紀年数の合計−経過年数=240。

また、>>700にて、質問1、2、3にお答いただきまして、たいへん恐縮いたしておりますが、
もう一つ質問させていただきまして、それでは、2の答えの数字から3の答えの数字を引きますと、
いくつになるでしょうか。
708日本@名無史さん:2007/04/14(土) 17:32:08
>>707

>質問2:
>応神列の平成19年は2127年。
>経過年数は2127年。

応神列の平成19年は、「理論値で」2127年なわけでしょ?
実年代では2007年ですよね?


雄略列の垂仁30年→西暦1年(実年代)
応神列の平成19年→2127年(理論値)→2007(実年代)

経過年数は、西暦1年(実年代)から、2007(実年代)までを言うのでは?
経過年数が、2127と計算されるのは何故でしょう?
経過年数というのは、実年数にズレた分の理論値を足してもいいわけですか?



なぜ、経過年数は2127年?




709日本@名無史さん:2007/04/14(土) 17:35:00
>>706
年代がゴチャゴチャというより、色々な人物がゴチャ混ぜになっているのだろう。
景行は遠征先ではやたらと子供を作る。
これは各県主達に天皇の血が入っていると言いたいのだろう。
モデルの元になったのが筑紫の高屋宮の王で、それに四道将軍の各地の言い伝えを
加えている。
よって十三年の記事が正解と思われる
710日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:44:34
>>701

>十二年筑紫行幸
>十三年高屋宮に居ますことすでに六年

この矛盾は、「十二年筑紫行幸」が、実際は「六年筑紫行幸」だったということ。
「十二年筑紫行幸」は、2倍暦側から見た記事だってこと。

711日本@名無史さん:2007/04/14(土) 19:54:18
大将軍とお姉ちゃんの議論が白熱してますね!
正直中身は理解していないが、どっちもがんがれ!
712日本@名無史さん:2007/04/14(土) 20:07:04
>>711

一番消えて欲しいのはおまえだ。
713日本@名無史さん:2007/04/14(土) 20:11:52
はははは!
こりゃまた、手厳しいね!
では、お先にドロンさせていただきます。
どーーろーん!
714太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 20:38:39
>>710
崇神、垂仁世は3倍暦だが、景行世は2倍暦ですね。
715日本@名無史さん:2007/04/14(土) 21:56:52
>>714

神武 通常暦
欠史 2倍暦
崇神 3倍暦
垂仁 3倍暦
景行 2倍暦

この後は?

716太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/14(土) 22:31:21
>>715
違っていますよ。
神武は即位前の一定時期が通常暦でやっていたのであり、即位後は3倍暦
ですよ。神武崩御の翌年から綏は、即位を待たずに神武即位前の通常暦に
戻したんです。欠史八代の中で唯一の通常暦をやっていた時代でして、次代の
安寧、懿徳は後代の開化とともに2倍暦を施行していました。途中の『孝』の
号ある4人の天皇は続けて3倍暦をやっていたのです。

その後、崇神、垂仁は1ヶ月が28日(〜30日?)での3倍暦の使用をやり、
景行の世には3倍暦をまた廃して2倍暦をやっています。倍暦の変更で一時代
を画したもようです。景行世が通常暦でないと観たのは、竹内宿禰の超長寿の
疑問からでして、3倍暦でもないとしたのは、3倍ですと日本武尊の寿命が
1桁位になり紀の活動記録から考えにくいとしたためで、2倍暦は大臣と尊の
いずれの矛盾を解決してくれる暦法ですし。先ほどの>>710の高屋宮の記述と
ともになお合理性が出ます。2倍暦の場合日本武尊の寿命は16、7歳となり、
童男の名前と一致しますし、尊のエゾ等の手柄はその取り巻きの援助の力が
大きかったと考えています。

以後は成務〜仁徳(神功を含む)まで3倍暦法の時代です、武内宿禰の長寿は
2倍暦ですとまだまだ長すぎて生物学的の矛盾が解消しないことからこれが
解かります。但し例外で、在位の短かった仲哀世は通常暦でした。短い為大臣
の超長寿の矛盾には影響は寡少です。

今夜は疲労が激しいためこれまでです。質問は書いておいて下さい。明日以降〜
717日本@名無史さん:2007/04/14(土) 22:42:45
なるほどねえ。

どのみち、日本書紀紀年法は崩れたわけだし、
あとはn倍暦をどのように適用させるかが焦点ですね。
718日本@名無史さん:2007/04/15(日) 02:06:19
研究家の姐さんの本読みましたが
仁徳天皇の年代列(でしたっけ?)に属する外交記事も
後半は仁徳天皇と関係ない人物のものが入っていると

この解釈でいくと、仲哀天皇の崩年が362年でほぼ確定として
2代(数十年前)の景行天皇の記事も実際のところは
4世紀末ぐらいのものがかなり入ってしまっているような
気がするのですがそのへんはどうなんでしょう

プラスマイナス120年構想というのも何となく分かりますが
3世紀前半から4世紀中頃までスコーンと飛んでしまってると
結局その間には何があったんだ??みたいに思えます。
こんなに年代列をすっ飛ばしていいんですか


719征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/15(日) 08:33:50
>>707
72年ですよ。
研究家さんの言いたい事は解っているんですョ♪


えぇ〜っと、では、研究家さんからの解答について

1、
>紀年数の合計(垂仁30〜平成19)は1887。

これ、オカシイですよね。垂仁30年の「書紀の紀年上」の西暦値は何年ですか?
そこから数えて平成19年まで合計何年ですか?
121年(応神列での垂仁30年)から計算が必要なのは「実年代」の経過年を求める場合ですよ。


2、
>紀年数の合計は1887で、

ここも同じですね、垂仁30年の「書紀の紀年上」の西暦値は何年ですか?
そこから数えて平成19年まで合計何年ですか?


それが出来たら

1の・紀年数の合計-経過年数の合計
2の・紀年数の合計-経過年数の合計

の解答も改めてどうぞ

(※引き算の結果の、正負の符号の誤りには気を付けましょう)
720日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 09:54:41
>>708さん
応神列と雄略列とでは、実年代の位置づけが120年ズレています。
例えば、神武元年は、雄略列ですと紀元前660年ですが、応神列ですと紀元前540年
となります。雄略列は、日本書紀の可視的編年、すなわち、神武元年を紀元前660年、
持統元年を697年に位置づける編年と一致しています。
したがって、応神列上の紀年は、雄略列上における位置づけよりも、120年後の年代に位置づけられ、
平成19年も2007年に120年をプラスした年代となるのです。
721日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 10:01:17
>>716 太国さん

暦と紀年法は異なるものです。暦では、暦日を計算しなくてはなりません。
n倍暦、すなわち、2倍暦や3倍暦では、1年は何か月、一月は何日で構成されているのでしょうか。
722日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 10:07:51
>>718さん

仲哀天皇の崩年干支は、神功元年の201年より前に、設定されているのではないか、
とわたくしは、考えております。
ただし、神功紀では、201年から389年までの189年間を扱っているにもかかわらず、
配布された紀年数は69ですので、不足分の年代をカバーする構想が設定されていると推論できます。
その構想に、仲哀天皇の崩年干支が、何らかの役割を果たしている可能性は、あるのかもしれません。
いずれにしましても、応神元年以前の紀年と実年代との関係については、多くの研究課題があります。
723日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 10:17:57
>>719 征東大将軍さん

>>700にて、征東大将軍さんにお答いただきました以下の年数につきまして、

>1、合計72年
>2、合計192年
>3、120年不足

わたくしの質問は、2の数字(192)から1の数字(72)を引いたならば、
いくつになるのか、というものです。
したがって、答えは、72ではありません。
また、征東大将軍さんからのご質問に対しての、わたくしの>>707での解答につきましては、垂仁30年と平成19年を
応神列と雄略列それぞれに位置づけた実年代からの計算を設問されているようですので、問題はないのではないでしょうか。
724征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/15(日) 10:30:10
>>723
>わたくしの質問は、2の数字(192)から1の数字(72)を引いたならば、
>いくつになるのか、というものです。
>したがって、答えは、72ではありません。

こう云う質問をされたならこの答えは72ではなく120ですし


>>707の研究家さんの質問のように

>もう一つ質問させていただきまして、それでは、2の答えの数字から3の答えの数字を引きますと、
>いくつになるでしょうか。

と聞かれれば、この答えは72でしょう



>また、征東大将軍さんからのご質問に対しての、わたくしの>>707での解答につきましては、
>垂仁30年と平成19年を応神列と雄略列それぞれに位置づけた実年代からの
>計算を設問されているようですので、問題はないのではないでしょうか。

「紀年数」の尺を計る時は年代列に左右されないんですよ
725征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/15(日) 10:35:14
出題意図が良く伝わらなかったかも知れませんが

【答1】
・2007    -1  +1=2007
・2007 -(1+120) +1=1887
・2007   -1887   =+120

【答2】
・2007     -1 +1=2007
・(2007+120) -1 +1=2127
・2007   -2127   =-120


こう云う事です。これが±120年の意味です
>>1と同じ事をやってるんですよ
726日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:05:02
研究家さんへ
下記の件はどう考えますか?

>7代孝霊の娘ヤマトトトビモモソ
>10代崇神と同世代のヤマトトトビ
>2人は別人か?
>又、何故古事記は彼女を無視しているのか?
727日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:23:43
>726

今は関係ない。ひっこめ!
728日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 13:07:49
>>724 征東大将軍さん

わたくしの設問の意図は、>>723が正しく、>>707での設問は、わたくしの間違えでした。
2の答えから1の答えを引きますと、+120となることを、お答いただきたかったのです。
したがって、3の答えは、不足120、すなわち、−120ですので、
プラス・マイナス120年構想が成り立っていることになるのです。
また、

>>1と同じことをやっているんですよ

につきましては、まず、>>1の述べてある説は、わたくしに”なりすまし”て、このスレッドを立てた人物の説ではなく、
わたくしの説です。征東大将軍さんは、わたくしの説と同じ事とおっしゃられておりますが、同じではありません。
プラス120年の領域に、多列・並列構造が構築されていることが、プラス・マイナス120年構想において
重要なことなのです。
多列・並列構造につきましては、「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の
日本書紀紀年法入門の多列・並列構造、ならびに、確定紀年と延長紀年の記述をご覧いただきたいと思います。
729日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 13:18:46
>>726さん
「ヤマトトトビ姫」と「ヤマトトトビモモソ姫」とは、表記が違いますので、同一人物か、別人かについては、
議論があろうかと思います。卑弥呼に充てる説などもありますが、わたくしは、皇女のなかには、
神祇祭司を担うに適した皇女があったことを伝える目的があったのではないか、と考えております。
卑弥呼も、こうした皇女の一人であったのかもしれません。
730征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/15(日) 13:19:25
>>728
えぇ、>>1が研究家さんのトリップを使った別人の投稿である事も知っていますし

>192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
>69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

この内容の事ですよ


これと同じフォーマットに書き直すと

2007年(垂仁30年〜平成19年までの合計紀年数)−1887年(実際の経過年数)=+120年
2007年(垂仁30年〜平成19年までの紀年数)−2127(実際の経過年数)=−120年

こう云う事なんですよ
731日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 13:25:19
HP「倉西先生のご学問所」(http://plala.or.jp/kuranishigakumon/)の歴史発見物コラムにて、
神武即位年について、第三回のコラムとして掲載いたしました。興味のある方々は、ぜひ、ご覧ください。
また、日本書紀紀年法に見える非現実的紀年数をめぐる諸説(二倍暦説・復元紀年説・60年配分説・移設説・わたくしの説)
について記した第二回コラムは、過去コラムに移動させておりますので、アイコンをクリックして、過去コラムをご覧いただきたく
お願い申し上げます。
732日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 13:29:24
>>731にて、HP「倉西先生のご学問所」のアドレスを間違えてしまいました。
正しくは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります
733日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/15(日) 13:43:24
征東大将軍さん

>>1での記述は、わたくしの説ですが、何者かが、わたくしのコテハンと以前に使用していたトラップを盗用して、
勝手にスレッドを立てて書き込んだもんです。以前に用いていたトラップを知られてしまったことから、
わたくしは、トラップを変更しています。
現在使用しているトラップが、日本書紀紀年法研究家、すなわち、わたくしのアイデンティティーを示すものとなります
(また、盗用されないとよいのですが…)。
さて、同じことにはならない理由は、応神元(390)年から雄略五(461)年までに経過した年数は、72年ですので、
プラス120年分の紀年が、この間に折り重なっているということにあります。これは、ズレによって説明されえるものではなく、
多列・並列構造によって説明されえるものです。允恭列と仁徳列の存在にも、
注目していただきたいと思います。
734征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/15(日) 13:48:08
書紀の紀年数は年代列に左右されないんですが
実年代の経過年数は年代列の移動に切片の値の差に左右されるんですよ


問い1のケースなら、もしこれが、
「応神列での」垂仁30年から、「応神列での」平成19年までの経過年数の合計なら
年代列が移動していない訳ですから

応神列での垂仁30年=西暦121年から、応神列での平成19年=2127年まで
の経過年数の合計は2127-121+1で2007年間ですよね。ここまでは単純な話ですよね


しかし、問い1では応神列での垂仁30年から、雄略列での平成19年までの経過年数の合計ですから
応神列での垂仁30年=西暦121年から、応神列での平成19年=2007年まで
の経過年数の合計は2007-121+1=1887年間なんですよ。


つまり応神列と云う、切片-120の年代列を起点にしている為に、実年代に対して
書紀の年代に+120年されて始まってる換算値が、

終点に措いては雄略列で取っている為に+120年されて居ない訳ですから
書紀の紀年数の合計に対して120年分足りない訳ですから、2007-120で1887になっている訳でしょ。

だからこうなるんですよ

紀年数の合計-経過年数の合計
2007-(2007-120)=+120


これが
>192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
とやってる事が同じだと言ってるんですよ。応神列での応神元年から雄略列での雄略五年までを計ってるんですから
735征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/15(日) 13:59:03
A、192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
B、69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

上記Aを応神列での座標〜雄略列での座標までを比べるケースと定義し、
上記Bを雄略列での座標〜応神列での座標までを比べるケースと定義して一般化すれば



A(応神十年〜平成元年までの合計紀年数)−(実際の経過年数)=+120年
B(神武元年〜仲哀二年までの紀年数)−(実際の経過年数)=−120年

これも±120年が成り立ちますし


A(昭和十年〜平成五万年までの合計紀年数)−(実際の経過年数)=+120年
B(開化30年〜天武六年までの紀年数)−(実際の経過年数)=−120年

これも±120年が成り立ちますし


A(BC三万年〜延暦二年までの合計紀年数)−(実際の経過年数)=+120年
B(景初二年〜安康元年までの紀年数)−(実際の経過年数)=−120年

これも±120年が成り立つんですよ
736日本@名無史さん:2007/04/15(日) 14:18:04
日本書紀紀年法研究家と征東大将軍が何を話してるかさっぱりわからん。

誰か、第三者にもわかるように解説してくれんかな〜。
737説明のいらつめ:2007/04/15(日) 15:52:16
>>763さん
私は、日本書紀紀年法の専門家ではありませんが、おそらく、実年代
との間にあるプラス の120年の内容についての議論であると思います。
両者とも、実年代に 120年が加算されているということは認めている
ようです。しかしな がら、征東大将軍さんは、応神列と雄略列との間
に存在している120年の ズレのみによって、この120年を説明しようと
し、一方、姉の日本書紀紀 年法研究家は、延長紀年が設けられている
応神列、充恭列、仁徳列のそ れぞれの延長紀年の合算によってこれを
説明しようとしているのです。
 この説明で、少しは分かりやすくなったでしょうか?
738日本@名無史さん:2007/04/15(日) 17:55:18
いらつめさん、邪魔なので余計な擁護はやめてくたさいな
739唐松山:2007/04/15(日) 17:58:10

四分暦 年+月付き の 計算式
=INT(INT((B4*365.25)/29.53059+0.5)*29.5309)+CHOOSE(MOD(C4,13)+
1," ",0,30,59,89,118,148,177,207,236,266,295,325)+$D$1
B欄 年目、 C¥欄 月(とりあえず1月を入力しておいてください)
$d$1 補正値 (幾つでも良いのですが現在19を入力、 安寧元年を閏年にする為 安寧元年アフミ月)
0年目1月=19日  神武元年=21年目7697日
71年目10月26213日  安寧元年
…崇神末まできれいに並びます
垂仁元年(崇神末かも)ほつま
あき あ におくれ ふゆおさめ  秋 あ=天=太陽 に遅れ 冬修正
垂仁25年2月詔    多分新しい暦の導入
740718:2007/04/15(日) 19:32:26
>>722

仲哀天皇の崩年が201年以前に設定されているとすると
2人の人物像が神功皇后として設定されてますよね

応神天皇の父=仲哀天皇ですので4世紀中頃の人と
3世紀までのある人物が投影されていると考えたら
おかしいでのでしょうか?

その間の150年あまりを書紀の編集者がどういう
位置づけをしてるのかがやっぱりわからないです。
741日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:26:25
ぜんぜん日本書紀紀年法研究家から直接返事がが返ってこないんですけど。

>>602

>崇神元年を西暦91年に位置づけると

日本書紀紀年法は、崇神紀にある箸墓古墳造営の記事を無視してるんですか?
742日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:40:05
自分勝手な意見に答える義理はないでしょう
743日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:44:26
>>742は誰に対するレスなんだろう?
まさか、>>741じゃないよなあ。

もし、>>741に対するものだとしたら、
よほど>>741の指摘が都合の悪いものだということなんだろうな。
ますます、>>741の回答を、日本書紀紀年法研究家から聞きたいものだ。
744日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:53:03
>>743
チャットじゃないんだから、そう焦るな。
745日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:56:29
>>744

べつに焦ってませんが?
焦ってるのは、君の方なんじゃないの?
746日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:56:58
実際の事象と日本書紀が設定した紀年はイコールではない
この設定上の紀年は日本書紀の編纂者の思想を反映しているからだ
747太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/15(日) 21:00:51
>>716 訂正

× 神武崩御の翌年から綏は、即位を待たずに神武即位以前の通常暦に
  戻したんです。

○ 神武崩御後のその年から綏は、即位を待たずに神武即位以前の通常暦に
  戻したんです。

>>721
拙者は天皇の即位年のたびに倍暦を変更したものと観ていますが、
>>716(←上記の○のほうに訂正)は綏世のような例外もありますし、次代
の天皇が先帝の暦法を継承した場合もあるようです。

暦日のやり方もこのような傾向が見え、紀の各天皇世の日数の記録からして即位
するごとに変動が行われていたらしく異なっており、一律にこうだとは言えず、
記紀の記録ぐらいでは記録が不足のため、その殆どは確定するのは信用の
おける新資料が出現しない限りは不可能に近い状況です。稀に既述のとおり應神
の日数表は明確性が強く、その日の使用法はある程度解かって来ましたし、
繼體世もわりかし簡明なのでその様相は把握しやすいかなと思います。

解かってきたことは、各世、1ヶ月を14日だとか15日だとか、あるいは28日、
30日等、さまざまな変更を行いながら暦法を使用していたと思われます。365日
に過不足あれば、閏月など何らかの手を打っていたでしょう。
748日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:09:30
>>747
書紀の日付等は干支で表わされていて、そこからわかるのは書紀の表記上、月の日数は約30日としてることです。
これは動かしえません。
仮に一定の期間n倍暦が用いられてたとしたら、その元資料はどのような方法で記録されていたとお考えでしょうか?

これはあくまで記録上の方法の問題であってn倍暦の是非の問題ではないです。
749太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/15(日) 22:10:49
>>748
それは原資料を見てないから推定など出来ないよ。干支かも知れないし、通常の数字を紀でも使用してるんだからそれかも知れない?

それとも何か原資料の日数の書き方がこうだったとかの記録があるのかい? 原資料の中に双方各々あったのかも知れないし、何とも?だ。
言えることは、億計尊とかの天皇の既述があることから、多大な計算は
出来たと想える。さらに卜兆がはやっていただろうから、兆、京等の計算もやれたはずだ。ただ、干支のほうは欠史八代の頃にすでにあったと観ているから、崇神以降に作った原資料は干支既述は可能だろうな。

表記上か〜、ああそうだろうな。拙者は1ヶ月が60日もあったとは主張はしていないしね。
750日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:23:07
>>749
そういうことじゃないんだけどね。

仮にある期間にn倍年暦が使われていたとする。
そして、月約15日の暦が使われていたとする。
その場合、書紀の編者(もしくは干支表記で記した人々)はそれをn倍年暦と捉えられていたか?ということなのよ。
オレはそういう認識は持っていなかったと思うんだが、どう?
751太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/15(日) 22:51:23
>>750
表ざたは知らんように見えるがね〜?拙者も可能性が大きいほうと
いうかそういうんで言ってはいたので、否定的な見解をやんわりと
言うことくらいしかで終わり、断定的は避けていたんだよ。もしや
という事で、100%否定ではないんだよ。いい例が天皇の号だな。

「開化」の号から『日』2個で2倍暦を隠匿しているように想え
るし、「懿徳」の号から字のヘンの『壹』(=1)にツクリの
上部が『次』(=2)を想起して2倍暦をとか、「景行」の『景』
字の上部の『日』にさかさナベブタ(亠)が点が(-)を秘めて
『二』を黙示することから2倍暦とか、反正の御名の『蝮』の
ツクリが重復の『復』のツクリを示唆し重復が2倍暦を隠し、
そのツクリに『日』があるし、「宣化」の『宣』字もウカンムリ
下が『日』が『二』を挟んでいることで、やはり2倍暦を隠匿して
いるように思えたのだ。

言えることは紀のところどころに2倍暦等の消息が伺えるし、
少なくとも編者らは不審と気づいてはいたはずだ。真相は、日数
の記述のない天皇の即位は日の数字が2個あっていずれにしよう
か困っていたんだよ。だから月までしか記述しなかったのさ。
752太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/15(日) 23:22:48
>>751 訂正 下から3段目から

【真相】は、紀の即位日の記述ない天皇は、先帝の崩御日より
以前が即位日となってる原資料があり、編者らは困っていたんだよ。
それでその天皇は、即位を月までにしか記述しなっかったのさ。
なぜ崩御前の日数だったか考えな。
753太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/15(日) 23:29:38
>>752
それが真相の全部じゃぁ〜ないと思うけどねぇ〜〜?
754日本@名無史さん:2007/04/15(日) 23:57:52
>>751
何言ってるんだか
別に書紀の編集者が天皇の名前考えたんじゃねーだろ
755日本@名無史さん:2007/04/16(月) 00:15:27
別に編者にとっちゃ生前譲位で構わないじゃん。
756日本@名無史さん:2007/04/16(月) 00:16:55
>>752
> 紀の即位日の記述ない天皇

允恭、武烈、宣化くらいみたいだけど、それがなんなのか良くわからん。
もうちょっとわかりやすく言ってくれ。
757太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 00:17:38
>>754
編者らかその前のある人物だな? オウミミフネ?誰かは知らん。
考えた関係者か子孫かもね...??
zzzzzzzzzzzz............
758太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 00:19:58
>>756
今夜遅いので、次回。再zzzzzzzzzzzzzz...........
759日本@名無史さん:2007/04/16(月) 01:10:20
恣意的な言葉遊びは不毛だね。
760日本@名無史さん:2007/04/16(月) 01:14:39
『日本書紀』には、例えば「神日本磐余彦天皇」とあるのであり、
「神武天皇」は後世の加筆。
こんなイロハもしらん誰かさんは一回しんでくれ
761日本@名無史さん:2007/04/16(月) 04:09:46
日本書紀の編纂者が、年代をいじくったから
後世の学者らが苦しむはめになった。
おかげで、現代では日本書紀が歴史書としての信憑性が
大きく欠落する事態になってしまった。

じゃ、なぜ、日本書紀の編纂者は年代を弄くったかというと
魏志の女王卑弥呼の記載が気になったから。
そして、日本書紀編纂当時は、上古代の日本の暦(半年で一年)が
すでに忘れ去られていたから。
そして、日本書紀という史書の特性が、対中国外交上、重要で
中国に自国(日本)の歴史を説明しなきゃいかんので、
女王卑弥呼の箇所で、整合性が取れないとマズイということになった。

一方、古事記はあくまでも日本国内向けの歴史書であり
年代に関しても、干支没年という曖昧なものしか記載されていないから
わざわざ年代を修正する必要がないわけだ。
よって、上古代の日本の年代を研究するうえで、古事記の干支没年が
重要になってくるのは、そのためである。
762カナカナボウシ:2007/04/16(月) 08:04:59
そうです。ところがその古事記分註天皇崩年干支は2倍年暦だったのです。
普通暦と今まで見ていたため、倭の5王が中国史書の年代とピタリと整合しなかったわけです。
763日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 08:07:38
>>734 征東大将軍さん

応神列上の平成19年が2007+120=2127年となるように、応神列と雄略列では、
120年ズレ続けることになります。征東大将軍さんは、これをプラス120年と考えているようですが、
わたくしの説のプラス・マイナス120年構想での定義は異なります。
わたくしの説では、応神元年から雄略五年までの間に限定したものなのです。
したがって、プラスされた120年は、複数の年代列が並行することによって、
解決されています。プラス・マイナス120年構想に、多列・並列構造が含まれているのは、
こうした理由によります。
むしろ、応神列と雄略列という基本年代列が、120年ズレていることは、別の構想があると、
言ったほうがよいのかもしれません。応神列と雄略列のズレについては、
拙著『聖徳太子と法隆寺の謎』で扱っておりますので、ぜひ、ご一読いただきたいと思います。
764日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 08:16:40
>>740さん

神功紀、すなわち、マイナス120年の領域の歴史は、どのように扱われているのかという問題があるかと思います。
神功紀が西暦201年から389年までを扱っており、配布された紀年数が69となりますと、日本書紀は
マイナス120年に相当する年代を記録していないことになってしまうからです。
そこで、わたくしは、崇神元年を91年に位置づけると、応神天皇の立太子年の神功3年が、
390年となることに注目しています。
マイナス120年をカバーする構想があるようなのです。
仲哀天皇の問題は、マイナス120年のカバー構想において説明できるようになるのかもしれません。
765日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 08:23:33
>>741さん

>日本書紀紀年法は、崇神紀にある箸墓古墳造営の記事を無視してるんですか?

わたくしは、崇神紀の箸墓古墳造営は、前方後円墳の築造がはじまった経緯を暗示した記述と考えております。
最も年代を遡ることのできる前方後円墳は、纏向遺跡の纏向石塚古墳といわれていますが、
その築造は、2世紀とされています。おそらく、卑弥呼のような神祇祭祀を担った女性のために
築造されたのではないでしょうか。
766日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 08:31:54
>>746さん

>実際の事象と日本書紀が設定した紀年はイコールではない
>この設定上の紀年は日本書紀の編纂者の思想を反映しているからだ

日本書紀の編纂には、複雑な統合過程をどのように表現するのか、といった問題があったと考えられます。
そこで、全体の紀年数、プラス・マイナス120年構想、多列・並列構造などなど、さまざまな構想を
讖緯暦運説を応用しながら構築していったと推論できます。
したがって、746さんもご指摘しておられるように、実際の事象と紀年はイコールではなく、
多少ズレる場合がある、ということになります。
767日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 08:40:52
太国さん、ならびに、n倍暦論者さん

わたくしは、『魏略』の記述からは、仮に、二倍暦のようなものがあったとしても、
それは、二倍年紀年法であると考えます。
どうも、日本においては、暦法に対する関心は薄いようです。例えば、日本書紀では、
紀年法には拘って、複雑な数学的構造物を構築しながら、暦法については、元嘉暦や儀鳳暦を、いわば、
借用しています。奈良時代でも、暦法を学ぶ人が少ないことから、暦法が廃れることが心配されたほどです。
1年という単位は重視され、暦日は軽視されていたようなのです。
768日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 08:46:44
>>761さん

古事記崩年干支は、たいへん重要です。日本書紀の編年の謎は、古事記崩年干支が鍵となって、
解くことができるのですから。
古事記崩年干支が、どのような役割を果たしているのかについては、
HP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の歴史学コースの
日本書紀入門の3.確定紀年と延長紀年をご覧いただきたいと思います。
769日本@名無史さん:2007/04/16(月) 09:12:44
>>767

とうとう、2倍暦の存在を認めましたね。
次は、120年構想なるものが妄想だと気づくべきですね。
770日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 14:24:27
カナカナボウシさん

古事記崩年干支は、2倍暦ではありません。
古事記にも天皇の在位年数が記されていますが、通常暦で計算された年数となっています。
また、古事記崩年干支を用いて求めた歴代天皇の在位年数のうち、
いったいいずれの天皇の在位年数を2分の1としたら、倭の五王の遣使年と整合するようになると
おっしゃられておられるのでしょうか。
771日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 14:27:59
>>769さん

二倍暦のようなものが存在していたのならば、それは、1年を春期と秋期に区別して、
それぞれの区切りに神祇を執り行ったような、二倍年紀年法のようなものであったのではないか、
と述べたまでです。天文観測にもとづいて暦日を計算したような二倍暦は存在しなかったと思います。
772太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 15:06:06
倉西氏の間違い

@ 雄略5年を461年に疑わずに固定して、どう天皇世以前に2倍暦の時代
  があるのを見過ごして、真の 雄略5年=475年 を把握しなかった。
A 120年とやらの発見数字を讖緯説の重要数字と観て捉えて黄金の数字と思い
  こんでこれに飛びつき、実際は黄銅の数字だということに気づかなかった。
B 倭の五王を当時の各天皇に決めこんで論を張ったのがさらなる間違いで、
  彼らが各々別人だという可能性を無視したので各年の特定にズレが生じた。
C 当初からか論の進みで女王国畿内説が正解だと結論付けたため、記紀に
  倭人伝の大活躍的陽動女性卑弥呼を畿内の静閑的斎王だと即断し、派手と
  地味との矛盾に気がつかず、91年崇神即位からの論の不合を怖がってか?
  卑弥呼を男装の成務天皇と思いこみ、探偵小説的宝塚的上映用の非現実的な
  考えをまるでおかしいと思わずに想定して現実離れに終始し、女王国九州説
  を拾おうとしなかった。
773太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 15:08:18
>>772 訂正

× どう天皇世    ○同天皇世
774日本@名無史さん:2007/04/16(月) 15:25:23
>>771

詭弁だな。
二倍年紀年法も、二倍暦も、
現在の1年を、古代では2年とカウントしていたという意味では、同じことだろ。

太国の言うように、n倍暦を無視したままで記紀の年号の謎解きは出来ないんだよ。

775日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 19:28:42
>>772 太国さん

わたくしの説に対しての@〜Cまでのご指摘につきまして、以下のように、お答いたしたいと思います。

@につきましては、雄略五年が西暦461年に相当することは、研究史上においても定説となっています。
1970年代に発見された武寧王墓誌によっても明示されています。
A三善清行の「革命勘文」に、讖緯暦運説の「四六二六相乗説」が見えます。
辛酉改元が慣例となる契機となった重要な勘文ですが、4×6=240と2×6=120を重要な天数として、
言及しております。さらに清行は、神武元年から昌泰四(901)年までを240年と120年で区切っています。
120年という数字は、日本書紀紀年法において重要な天数として認識されてきたのです。
B倭の五王の爵号や上表文から、これらの王たちは、かなりの勢力を保っていたと考えられます。
5世紀の祭政二重統治体制において、執政王としての天皇が倭の五王であった可能性は、
かなり高いのではないかと思います。
C現実ばなれしているのではなく、研究史上議論のあった、日本書紀における神功紀の編年の矛盾を合理的、
論理的に説明しえる説を提起させていただいているだけです。
776日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/16(月) 19:35:09
>>774さん
暦法と紀年法は異なるものです。
暦法ですと天文観測にもとづいて暦日を割り振ってゆかなければなりません。
紀年法ですと、アバウトに春期と秋期に区切って、それぞれ1年の如くに考えた可能性はあります。
もしかしたら、年齢の数え方に関係していたのかもしれませんが…。
n倍暦は暦法ですので、天文観測によってどのように暦日(月日)を算出できたのか、
不思議でなりません。
777征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/16(月) 19:46:02
>>735
訂正
×応神列での垂仁30年=西暦121年から、応神列での平成19年=2007年まで

○応神列での垂仁30年=西暦121年から、雄略列での平成19年=2007年まで
778征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/16(月) 19:47:41
>>735じゃなくて>>734の訂正でした

訂正
×応神列での垂仁30年=西暦121年から、応神列での平成19年=2007年まで

○応神列での垂仁30年=西暦121年から、雄略列での平成19年=2007年まで
779太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 19:48:38
>>775
定説は自論の保険のようなものだと彼女自身は考えているらしい。
そんな定説保険は必ずしも安穏としていられるものでもない。現に昨今の
保険会社の多大な不払いをみてもわかるだろうが。w が、しかしご当人は
結局、行き着くところまで行き着かないと目が醒めないんだろう?
780カナカナボウシ:2007/04/16(月) 20:08:18
>>770
説明いたしますと本一冊分になってしまいますので、もうしわけないですが
説明いたしかねます。
781太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 20:21:29
>>775
1970年代とか言ってるが、1998年に古田先生が武寧王陵碑を見たところ、
改刻痕を発見し、そこから王没年は1年のズレを認知した。
ということは461年説は崩れると観たい。
782カナカナボウシ:2007/04/16(月) 21:00:35
武寧王生誕は461年で間違いありません。
雄略紀5年夏6月に筑紫の加羅島でうまれています。461年秋年のことです。
783日本@名無史さん:2007/04/16(月) 21:46:23
夏なのか?秋なのか〜♪
784太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 22:29:18
>>782
それは臥海が等倍で遡った数字でしょう? 繼體世は2倍暦だから既存の
1年対1年の数字合わせは間違いですよ。おまけに紀の編者側が2倍暦を
知らず、等倍で計上してるなら百済の文面は間違いが起こります。現に
神功39年に卑弥呼の記述を等倍で合わせた間違いを見ても、誤記の可能性充分
です。じゃぁなぜ何者かが改刻をやったのですか? 伊達や酔狂でそんな真似
はやらんでしょうが?w

等倍だけをみた場合、1年の改刻で雄略5年が462年になってしまいます。まぁ
拙者は倍暦ですからこの説は採らんですが、おかしいだけでも想わないのなら
ば、貴殿の自説の擁護に終始してるため否定するわけですな。
おかしいと想ったほうがいいですよ。それで合うんなら、それからでも遅く
はないです。
785カナカナボウシ:2007/04/16(月) 22:59:09
武寧王碑は普通暦です。紀の雄略紀の元年から5年までは2倍年暦です。その後は普通暦となります。
古田氏の改刻説は韓国及び日本の学界で認められているのでしょうか。
古田氏は偽書として有名なツガルソトサングンシを真書といってみたり、つぼの碑をほんものといっている方です。
786太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/16(月) 23:14:05
>>785
貴殿は古田先生の九州王朝説を信じていないんですな?
ならば信じる信じないは貴殿の自由ですが、あっちが出鱈目やって信用を
落としたからといって、こちらもデタラメとは限らんですよ。貴殿はそこん
ところ、こちらもデタラメだと決め付けているわけだから、今後もそんなやり方
ならば失敗が起こりますよ。だいたい2倍念暦のスレの繼體の日数統計表
をいかに抗弁しますか? あれは2倍暦の文証ですよ。

ということは、雄略5年はもう少し後代だったということが真だということで
す。だから臥海と紀の編者側の等倍とみての1年対1年の数字合わせの遡りは
ちぃとも正確ではありません。定説は間違っていたんです。

拙者は九州王朝を肯定してますので、古田氏の説は一応聴く耳をもってますし、
信用おけるものもあるわけです。
反論あれば書きこみどうぞ。明日以降に〜zzzzzzzzzzz.........
787日本@名無史さん:2007/04/17(火) 02:58:50
江口洌はこのスレで既出ですか?
788日本@名無史さん:2007/04/17(火) 07:01:12
辛酉革命説は三善清行が捏造したものだ。というらしいけど…
789太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 07:51:29
人身攻撃で自論を防護するようじゃぁ、他に自論を支えるものが希薄
だと観られてもしようがあるまい。
古田先生が主役でイカサマをやるようだったら、もう先生の歴史研究の生命は
終りになろうよ。青森の件は弁護士的立場で論を張っただけくらいだろう?
脇役では故意性は考えにくい。
790日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/17(火) 08:14:57
>>太国さん

武寧王墓誌の改ざん説などあるのでしょうか。カナカナボウシさんという方が、
>>785にて指摘されているように、疑問があります。
また、仮に、改ざんがあったとしても、日本書紀紀年法の研究においては、何の問題もありません。
それは、日本書紀の編纂者が、当時、武寧王の出生を461年と認識していたとうい事実が、
紀年構造の構築において重要であるからです。
791日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/17(火) 08:26:31
カナカナボウシさん

>武寧王碑は普通暦です。紀の雄略紀の元年から5年までは2倍年暦です。その後は普通暦となります。

どのような理由から、雄略紀の元年から5年までが2倍暦とお考えなのでしょうか。
また、カナカナボウシさんは、先の質問に対しては、説明するのに本一冊分になるとのことで、
お答いただけないようでので(たしかに、何かを説明するのに本一冊分になることはあります)、
簡単な質問をさせていただきたいと思います。
応神天皇、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇、允恭天皇の古事記崩年干支の年代は、
何年であるとお考えでしょうか。
792カナカナボウシ:2007/04/17(火) 08:27:44
九州王朝については壱与の時代まではそうよべるだろうが、それ以降は無理でしょう。
確かにデタラメとは限らないでしょうがそのような前歴のある場合にはより慎重に検討しなければなりません。
古田氏についてはそのより慎重のなかに入るわけです。ですから、韓日の学界ではと質問したわけです。
これらについては、スレ違いですのでこのへんで終わりにしたいと思います。
793日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/17(火) 08:36:11
>>788さん
三善清行の勘文には、240年と120年の区分の仕方がおかしいなど、
たしかに間違えがあります。しかし、朝廷が清行の勘文を聞き届けて、
辛酉改元を行ったことは事実です。以後、幕末まで、辛酉年には必ずといってよいほどに
改元が行われたのですから、清行の勘文には、何らかの説得力があったはずなのです。
わたくしは、その説得力とは、日本書紀紀年法には、四六二六相乗説が用いられているという
伝承によってもたらされていたのではないか、と考えております。
清行が間違ったように、その伝承は、正確には伝わっていなかったのかもしれませんが、
”四六二六相乗説は日本書紀紀年法に応用されている”というような、
おぼろげな伝承はあったのではないでしょうか。
朝廷。
794日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:07:31
三善清行が菅原道真を失脚させる手段として革命勘文を作ったという説に
興味があります。10世紀以降の朝廷が辛酉・甲子ごとに改元したことは
日本書紀の紀年となんの関係もない。
795カナカナボウシ:2007/04/17(火) 09:10:41
雄略紀の元年については、雄略紀は普通暦だといわれていますので、紀の雄略没年の479年からさかのぼっていくと、
元年は457年となりますが、これは允恭38,39年にあたり、允恭の没年は459年の春年です。
しかし、雄略5年は461年であります。そうすると、雄略元年は459年秋年となり、459年から461年までは2倍年暦であることになります。
この考えでは安康天皇の即位は認めないということになります。これは安康天皇の抹消ということです。安康天皇の年代は2倍年暦です。
応神天皇は410年春年の没で記干支壬午(記の甲午は間違い)です。仁徳天皇の没年は432年秋年で丁卯です。
履中天皇は435年春年の没で壬申です。反正天皇は437年秋年の没で丁丑です。
允恭天皇は459年春年の没で庚寅です。(ただし、安康天皇の時代もこの天皇の治世と考える説では、治世は46年として461年春年の甲午までとしています。
空年があった場合は空年は前の天皇の治世にいれています。
允恭天皇の記干支はT類で他はU類です。記干支は二種類あるのです。
796日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:23:36
>>297
日本書記の記述が、全部8世紀に出来たわけではない。
百済とは関係ない。

推古天皇の時代に、大和朝廷は隆盛し、辛酉革命論がもてはやされ、
大和朝廷の祖としての神武即位を、推古天皇の時代から1260年前に規定したということだろう。

それ以上の意味は無い。


から、
797太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 11:22:22
>>792
前歴があろうとなかろうと慎重でなければないものですな。貴殿は昨晩の
言い訳だと、あの者は慎重検討以前に捨て去るというような話っぷりでしたよ。
こんなんでは自説の防備を本論なしにしているようで、崩れる言い逃れにして
いるようにしか感じられないね。
慎重検討なら自説が間違ってるかも知れんという、そっちの慎重な検討は
なおざりで、臥海の定説保険の上にのっかているわけで、もしかしたら貴殿の
自論は大きく落下ですよ。不払い保険でだまされてるとしたら〜ねぇ?
461年説は疑惑のもので、それをぬぐい去る書きこみはどれも無いな。
798カナカナボウシ:2007/04/17(火) 13:22:06
言い訳などした覚えはないのですが、どの部分が言い訳にきこえたのでしょうか。
慎重検討の最たるものは実見してみることですがわざわざ韓国まで行って通訳を雇い交渉して、
それでも改刻されてるかどうか調べるほど近づけるかどうか保障はできない。
となれば、調べられるであろう学者さんの意見を聞いたほうがよほど信用がおけるものである。
それが定説保険であろうがなかろうが実際はどうなのかということです。
定説保険に乗ってるのってないは無関係です。書き込みはないということは、この場合定説でよいということでしょう。
799日本@名無史さん:2007/04/17(火) 13:37:24
ようするに古田は詐欺師なんだよ。

ところが、被害者は、自分が被害者という認識が無く、古田を擁護する始末。
宗教詐欺師と同じ。
800日本@名無史さん:2007/04/17(火) 14:14:38
日本書紀紀年法研究家も痛々しい妄想にとりつかれてるが、
太国もそれ以上に病的。

傍から見てるだけなら、面白いが、
ときどき交わされる知的で正常な議論に割り込んで来るから困る。
そんなに自分の意見を他人に聞いて欲しいなら、
自分専用のスレを作ればいい。
自分専用のサイトを作ればいい。
それすらできずに、狂犬のごとく他説に噛み付いてばかり。
日本書紀紀年法研究家のほうが、まだ救われる。

太国が自分専用のサイトを作れないのは、ようするに自信が無くて、
批判にさらされるのが怖いんだろう。
801太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 15:01:00
>>798
古田先生が改刻の件でイカサマをやったような疑念があるんなら、青森での
大騒ぎがあることから、もっと大騒ぎになり失脚してるだろうがね。そんな話
はあんまり聞かないところを観ると、イカサマはやってないだろうが?

貴殿の説は461年定説保険で安穏のようだが、保険不払いの現実のごとく、
もう破綻が見え隠れしてるな。あの繼體の日数統計表からも一目瞭然だよ。

>>799
詐欺師っていうのは犯罪者だ。古田先生がどのように犯罪に関与したのか具体的
に説明、立証できるのか? 言い回しを変えれば、君は古田先生を刑法犯の
犯罪者だと言ってるのも同然だぞ。それでもそうだと言うなら、捜査機関が
捜査に乗り出しているはずだ。いい加減ならば、とんでもないぞ。先生は
激怒されるぞ。名誉毀損になりうる。

>800
サイトだって? そんなの関係ないね。今のところ作る気もないし、別に
怖くもな〜い。それは必要条件ではな〜い。お前の脳内だけの勝手な注文な
わけさ。そんなことを言うところをみると、お前、倉西氏に気があるんだ
ろう?www
802日本@名無史さん:2007/04/17(火) 15:59:57
武寧王墓誌改竄が事実なら、韓国でビッグニュースになるはず。
韓国人は必死に自分たちの過去の歴史を探してるからな。

ところが、そうしたニュースは聴いたことが無い。
韓国の学者からも無視されてるということだ。
803太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 16:07:05
改竄というより、前年が正解だと思い改刻したようだ。
1年ズレの暦もあったんだろうとかの説明のようだ。
しかし2倍暦なら疑問は解けそうだ。1年が当時半年だったから1年ズレても
同じ1年の中。
804説明のいらつめ:2007/04/17(火) 16:35:14
>>800さん
 どのような基準から、”痛々しい妄想”と判断されたのでしょうか。
これまでに議論されてきましたように、日本書紀紀年法研究家の多列
並列構造を用いますと、紀年数の計算はプラス・マイナス120年という
結果となります。どなたが計算されても、同じ値となるはずですので、
どうか、”妄想”であるという”妄想”を払うために、ご自身で計算
をなさってくださいませ。
805日本@名無史さん:2007/04/17(火) 16:37:36
太国さ〜ん、このサイト注目!

ttp://kr.blog.yahoo.com/oonam715/1363029

武寧王は、462∼523年だそうですヨ!


806太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:09:10
>>805
ご協力有難うございます。確かにそうなってますね。
807日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:11:08
太国は、462∼523年ということでいいのか?
808太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:23:47
>>807
何でも当地には1年ズレの暦(並用?)がある話です。そのもう一つ
のほうの暦だと461→462ということなんでしょう。

ということは武寧王陵碑の改刻は、当時相当の理由があってやらざるを
得なかったか、そのへんでしょう? それでこのことは現地に行った古田先生
の改刻発見が、カナカナボウシ氏の云いたそうな先生の捏造ではないという
ことを意味しています。

半島のほうは1年のズレを通常暦の等倍で考えていましたから、462年が真の
正解ではなく、2倍暦分、後代に数字が降下(増加)するのが本物と思います。

その年は 雄略5年=475年 と観ています。
809カナカナボウシ:2007/04/17(火) 17:25:42
私は初めは武寧王生誕は462年とおもっていましたが、慎重に検討致しました結果、
461年が正しいという結論に達しました。
810日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:25:45
811日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:26:17
9条は改憲してはならない。日本の為にならない。
日本人ではない朝鮮総連や民団でさえ、日本を心配して改憲への反対運動を行ってくれている。
私は日本人だが、「改憲すべき」などという者は、日本人として彼らに恥ずかしいと思います。

Q.中国から身を守る為、戦争に対する抑止力が必要では?
A.前提から間違っています。そもそも、中国は日本に派兵しようと思えばいつでもできました。
  なぜなら、日本には9条があるため、空母や長距離ミサイル等「他国を攻撃する手段」がない。
  つまり日本に戦争を仕掛けても、本国の、命令をだした幹部の命は絶対に安全なのです。
  「安心して戦争を仕掛けられる国」を、中国は、今まで攻めずにいてくれたのです。

Q.それは日米安保によるものでは? そして、その日米安保も絶対ではないのでは?
A.中国の良心を信じられないのはなぜですか? そして、日米安保は絶対です。
  知り合いの韓国人の評論家も「絶対だ」と言っていますし、私も同じ考えです。
  更に、9条が消えても米国の戦争に協力する義務は発生しませんが、米国が被害者の場合は別です。
  米国は日本を守る為に戦っても、(9条があれば)日本は米国を守る為に戦う必要がないのです。

Q.9条が本当に「平和」憲法なら、世界中で(日本以外に)1国も持とうとしないのはなぜか?
A.これは、日本以外のすべての国が誤っているとも言えます。
  「敵国に攻撃が届く国は攻められづらい」というのは、誤った負の考え方です。
  (もっとも韓国や中国の軍に関しては、日本の右傾化阻止の為でもあるので例外ですが)
  更に日本の場合、隣国が韓国・中国・ロシアと、GDP上位の安定した信頼できる国ばかりです。

Q.「9条改憲派」は「戦争反対派」。侵略者に戦争を挑発する、戦争憲法(9条)を撤廃したいのです。
A.それは、貧しい考え方ではないでしょうか?    
  中国や北朝鮮を信じる「強さ」があれば、そんな考えにはならないはずです。
  日本が信じれば、彼らも信じるでしょう。そして、真に美しい関係が始まるのです。
812太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:30:36
>>809
おかしいではないですか? 貴殿は古田先生の発見の改刻(原刻462年)を
捏造?のような言い回しをしていたでしょう?
それとも、その先生の捏造らいいということから461年を採ったのですか?

慎重なる検討はどうして捏造と判断したのですか? 青森の件での即断
なんでしょう?
813日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:36:52
>>812

>貴殿は古田先生の発見の改刻(原刻462年)を

古田先生は、武寧王墓誌の原刻462年が461年に改刻されたと言ってるのか?

おまえ、頭だいじょうぶか?

814太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:40:09
>>813
先生が発見したんだそうだ。
815日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:43:10
>>814

そうじゃなくて、
原刻462年が461年に改刻されたのか?ということだよ?
そう思ってるわけ?
816太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:44:17
>>809
最初は古田先生発見の改刻痕の462のほうだと思っていたんですね?
それが先生の捏造臭いと思う慎重?な検討から、461としたんですね?
それが慎重な検討なんですか?
817太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:48:27
>>815
何行ってるんだよ?思ってるだと? 462年の原刻痕があったんだという話だ。
「甲辰」字の跡を確認したということだ。
論点はそこから出発してるんだよ。
818日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:51:34
>>817

・・・・・あのねえ、



「甲辰」は、462年じゃないよ?

819太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:52:00
すまん。誤認を与える言い方だった。以下のとおり

462が原刻−−−−−−−−−→甲辰
461は改刻となる後の字−−−→癸卯
820日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:53:47
>>819

462年は、「甲辰」じゃないし、
461年は、「癸卯」じゃないけど?

また、2倍暦ですか?
821カナカナボウシ:2007/04/17(火) 17:57:02
武寧王墓誌にきざまれているのは王の崩御年であり、生誕年ではありません。
崩御年は523年であり、年齢から生誕年を461年とわりだしたのです。
822日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:58:48
>>821

その通り。

太国は、
古田先生の説も、ちゃんと理解してない「バカ」なんだよ。
823太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 17:59:16
>>819 【訂正】 混迷、一緒くたにしちまった。 上もならえです。スマン。

【王没】        【王誕生】
524年 甲辰(原刻)−−→462年
523年 癸卯(後刻)−−→461年



824日本@名無史さん:2007/04/17(火) 18:01:07
太国は今日も完全勝利か。

明日もホームランだな。
825太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/17(火) 18:03:19
>>824
スマン。アリラン史はまだまだ小学生で、アドバイスよろしく願いたい。
ここは苦手の個所。だが、やらねばなりません。
826日本@名無史さん:2007/04/17(火) 19:44:10
太国さんは、悪者じゃないぞ!
保険金がおりなくて、少しイライラしただけだ。
みなさん、おおらかに応対ねがいますうーーっ
827日本@名無史さん:2007/04/17(火) 20:24:31
太国は小学生に失礼
828日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/18(水) 10:04:29
>>794さん

>10世紀以降の朝廷が辛酉・甲子ごとに改元したことは
>日本書紀の紀年となんの関係もない。

辛酉改元と日本書紀紀年法は大いに関連しています。辛酉改元をめぐっては、その都度
朝廷の僉議において、日本書紀紀年法にもとづく清行の理論について議論がされています。
その結果として改元されているのです。
仮に、菅原道真を失脚させるためであったのならば、一過性の事件であって、その後の辛酉年には
改元されなかったことでしょう。
829日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/18(水) 10:15:25
>>795カナカナボウシさん

>応神天皇は410年春年の没で記干支壬午(記の甲午は間違い)です。
>仁徳天皇の没年は432年秋年で丁卯です。

カナカナボウシさんのお説ですと、仁徳天皇の在位年数は、23年となりますが、
日本書紀での仁徳天皇の在位年数は87年です。仁徳天皇は4倍暦、雄略天皇(雄略5年まで)は
2倍暦ということになるのでしょうか。
また、履中天皇の古事記崩年干支の壬申年は、432年となるのではないでしょうか。
830日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/18(水) 10:26:07
>>800さん

「妄想」という言葉の定義は、事実にもとづかないことを事実と思い込むことをいいます。
800さんは、HP「倉西先生のご学問所」(hppt://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の日本書紀紀年法入門を
ご覧になって、プラス120年とマイナス120年の関係が成り立っているかどうか、
ご自身で、計算をなさってみてから、ご発言なさっていただきたいと思います。
わたくしの説は、事実にもとづいておりますので、800さんのわたくしに対する
「妄想」というご発言は、学術的議論のマナー違反であると思います。
831日本@名無史さん:2007/04/18(水) 10:29:07
>>830

>プラス120年とマイナス120年の関係

それは、意味の無い数字合わせだって、指摘されてるじゃないか?
832日本@名無史さん:2007/04/18(水) 10:31:47
昨夜の太国の混乱は、古田教祖様が批判されてカッと頭に血がのぼった結果だな。

ところで、武寧王碑文改刻について、初出は古田武彦氏の『「失われた九州王朝 朝日新聞社」のp118
の写真説明の第3行第1字の「卯」字に刻し直されたような跡がみえる。』であると思うのであるが、
その後、詳しく彼の著書でのべていたような記憶がある。なんという書だったか、内容はどうだったか等、知っているかた教えてください。
833日本@名無史さん:2007/04/18(水) 10:53:23
矢塚古墳はホケノ山タイプで、東田大塚古墳はポストホケノ山タイプ?


古墳“発祥”の纏向古墳群はすべて前方後円墳 奈良
2007年04月12日
 奈良県桜井市にある最古級の纏向(まきむく)古墳群(国史跡)を調査した同市教
委は12日、形が明確でなかった東田(ひがいだ)大塚(3世紀後半)、矢塚(同半
ば)の両古墳が前方円墳とわかったと発表した。これで、女王・卑弥呼(ひみこ)の
墓との伝承もある箸墓(はしはか)古墳(3世紀半ば〜後半)などの古墳が密集し、
「古墳発祥の地」とも言われる一帯の主要墳墓がすべて前方後円墳と確定。厳密な年代
や古墳出現の状況など謎の多い古墳時代を探るうえで重要な発見だ。

 両古墳の範囲確認調査として、前方部があると推定される場所計192平方メートル
を発掘した。

 東田大塚古墳(桜井市東田)は、従来の調査で後円部が直径68メートルと判明。
今回は西側で5カ所を掘った結果、前方部の盛り上がりを確認した。その長さは40
メートル前後になるとみられる。このため、後円部の直径が前方部の長さの2倍ある、
最古タイプの「纏向型」よりも新しい古墳の可能性が高まった。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200704120073.html


前方後円墳の発展過程、奈良・纒向遺跡の発掘で確認

 同遺跡内には、3世紀代の最古級の前方後円墳が点在。「纒向型」と呼ばれる最
初期の前方後円墳は、前方部と後円部の長さの比率が1対2。矢塚は後円部の直
径が64メートル、前方部の長さが32メートルと推定されることから同型に当てはま
るが、東田大塚は後円部の直径が68メートル、前方部の長さが40メートル以上に
達するとみられる。
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070412i215.htm
834日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/18(水) 12:05:41
>>830にて、HP「倉西先生のご学問所」のアドレスを間違えてしまいました。
正しくは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります
835日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/18(水) 12:08:36
>>831さん

プラスマイナス120年構想で重要なことは、プラス領域において多列・並列構造が構築されており、
応神元年から雄略五年までの紀年の実年代を求めることができるようになったことです。
プラス・マイナス構想は、日本古代史研究において、たいへん意義があるのではないでしょうか。
836日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/18(水) 12:10:56
>>832さん

雄略五年が、461年であるのか、462年であるのかが議論となっていると思いますが、
日本書紀紀年法研究においては、日本書紀の編纂者が雄略五年を461年と設定していることが重要なのではないでしょうか。
837カナカナボウシ:2007/04/18(水) 12:12:13
仁徳天皇の在位数には22年(2倍年暦で44年)の虚構年(水増し年)がふくまれます。
これは神功皇后の元年を』201年に持っていき、237年に倭人伝にある長生になるように調整したものでしょう。
履中天皇の没年壬申は記干支2倍年暦説では435年春年となります。
838日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/18(水) 12:15:57
>>833さん

纏向に宮所としていた天皇は、垂仁天皇と景行天皇です。
纏向遺跡の年代は2世紀と考えられているようですので、
わたくしは、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇の在位は2世紀ではないか、
と考えております。箸墓(大市墓)も纏向地域にありますので、
崇神紀に見える「やまとととそ姫」にまつわる伝承は、前方後円墳のはじまりを
暗示しているのではないかと、推論いたしております。
839太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/18(水) 22:54:30
>>836
日本書紀が重要なのは確かだが、これにも間違いがひそんでいる。
そのいい例が神功39年の文で、実際の卑弥呼の年代は神功世では
ない。倭人伝の挿入位置を、編者側は間違えざるを得なかった為
で、実年代は上代に遡るのが真である。

かようなことで、何故紀が重要だから紀を採用するというのは
検討心がまるで無く、自説の有利を保持するため、臥海の定説
だとか、重要だとかで保険にはいったつもりで、具体的紀の採用
理由が書かれていない。

そんじゃぁ、462年になるほうの文は非重要なのか?
何故か? 462年の筋が見えれば、自論に間違いがあるか否か
しっかり確かめて、これこれこういう理由でこっちが正解ですとか
を行うのが学者の態度だろ? 間違ってたら振り出しだぞ。
その覚悟は必要だ。
840太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/18(水) 23:00:14
倉西氏とカナカナボウシ氏はひっこみがつかなくなってしまったようだ?
それがしも大間違いをしでかした苦い経験がある。それなしでストレートに
全部正解で最後まで100点というすご腕研究家はメッタになかろう。

一度苦い汁を舐める。そして再出発すべきだな。
841日本@名無史さん:2007/04/18(水) 23:06:06
>>839
>>756についてkwsk
842太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/18(水) 23:15:54
>>841
それえらく手間が食う説明となるんだよ。これの過去スレか「2倍年暦の真実」
の過去スレにおおむね書きこんであるが。去年の今ごろのあたりに書きこんだ。
読めないか? 
843太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/18(水) 23:19:36
多分、これの過去スレだったと思う。表入りだ。
ついでにそのとき、誰かからの矛盾の指摘でその謎が解けたものだ。
ただ三天皇全部がその理由からかは、まだ判然とはしないがね。
おかげで、これらの天皇の即位日の推定が可能になったのさ。
844カナカナボウシ:2007/04/19(木) 07:18:04
>>840
引っ込みがつかないとは、間違いとわかっていても改めずに主張を続けるという意味であると思うが、
私のどこが引っ込みがつかないのでしょうか。
845太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/19(木) 07:25:04
>>844
例の繼體の日数統計表の件で回答がないことと、人身攻撃を自論に入れ込んで
いるようだから、論の手の内がなさそうが見えるではないか?
それでもまだ自信が大有りなのかい?w
846カナカナボウシ:2007/04/19(木) 07:46:01
継体への回答がないことが何故ひっこみがつかないことになるのか。(まだ継体のところまで研究は進んでいない)
壬申攻撃とやらにばかり眼をむけて、私の論の方はご覧になっておられるのでしょうか?
847太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/19(木) 07:57:27
>>846
読んではいるが、何が何だか分からん個所が多い。
よければ自論スレを別に作り、最初の方から解説されたい。他の2ちゃんを
やる連中にも理解が浸透する。

人身攻撃は当然目が行く。そんなことよりも、自論がおかしくないか?を
その表のにらめっこと改刻から、論の足元に火がついていないか確かめ
て、念入りに検討したほうがいいよ。自説が間違いらしいと気づいたら
それを宣言して論の再構築をすればいいことだ。
それとも、大自信が脳内に起きており、心配無しか〜?
848日本@名無史さん:2007/04/19(木) 08:19:17
>>847

「おまえが言うな」
849日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/19(木) 09:18:13
>>839>>840 太国さん

神功紀が西暦201年から389年までを扱っていると考えますと、神功39年条などに
魏志倭人伝の記事が見えることは、おかしなことではありません。
また、カナカナボウシさんのお説はn倍暦説ですので、わたくしの説とは、まったく異なるものです。
850日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/19(木) 09:22:43
カナカナボウシさん

カナカナボウシさんは、n倍暦論者のようですが、お説の内容や論理構成がどのようなものであるのか、
どうもはっきりしていないようです。
お説の根拠や太国さんのお説との違いを、もっとはっきりとお示しいただきたいと思います。
851太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/19(木) 11:06:04
>>848
お前は口出しするな。

>>849
おかしいよ。おかしくないなら、後代の應神、仁徳の寿命がそれぞれ111歳、
143歳となり今度はそっちがおかしくなるし、武内宿禰の寿命が解決すまい。
だから、編者らのあてた時代が狂っていておかしいわけ。
852カナカナボウシ:2007/04/19(木) 13:33:24
簡単にいうと、紀の編者たちは紀の年代をきめる時、まずいろんな史料から普通年の正しい年表を作成いたしました。
次に、それを基に、安康天皇から仲哀天皇までを2倍年暦に引き伸ばしました。更に卑弥呼を皇后にするいため、仁徳天皇の所に虚構年を44年(2倍年暦)いれました。
この時点で120年年代がさかのぼりました。
次に、応神天皇3年百済アシン王即位年であることから、ここを基点にして普通暦の百済王の年をいれていきました。
ざっとこんなところです。
853日本@名無史さん:2007/04/19(木) 13:36:01
>>852

なるほど、そう考えればわかりやすいな。
854日本@名無史さん:2007/04/19(木) 13:46:56
>>842
一応、このスレの過去ログは全部あるが、二倍年暦の方は微妙だな……
要点だけでもムリかな?

>>852
> 安康天皇から仲哀天皇までを2倍年暦に引き伸ばしました。

実際は二倍年暦は使用されてなかったのに、ということですか?
855カナカナボウシ:2007/04/19(木) 14:12:57
おそらくいろんな史料のなかには、2倍年とおもわれるものもはいっていただろうが、まとめる時に普通暦(または2倍年暦)に換算したものと思われます。
856日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:03:48
なるほど、納得した。
ご苦労ちゃん
857日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/20(金) 08:09:35
>>852 カナカナボウシさん

日本書紀において非現実的数字が見えるのは、闕史八代など年代の遡る歴代天皇たちです。
n倍暦から通常暦に換算するためには、このような天皇たちの事績について、
正確な暦日が記録されていなくてはなりません。
日本書紀の原典となったようなn倍暦できちんと暦日を記した史料があったとおっしゃられるのでしょうか。
858日本@名無史さん:2007/04/20(金) 10:54:13
あったんだろう。

無いなんてどうして言えるんだ?
859カナカナボウシ:2007/04/20(金) 11:12:18
干支による記録について。
最初あらわれるのは崇神天皇の没年干支ですが、この記録は崇神天皇のじだいではない。
なぜならば、崇神ならば、その前の開化の没年も記録可能なはずである。
垂仁の時代でも、確かな在位数がわかっていれば記録できたはずであるが、垂直の父の在位年数がわからなくなっていることはないであろう。
それでは孫にあたる景行の時代では、となっていくと、崇神の没年の記録は景行か成務仲哀応神(神功)あたりとなってくる。
大和朝廷が中国のことを知ったのは、ツヌガアラシトアメノヒボコの時代からであろう。
つまり、崇神垂仁の時代からであり、更に干支の使用をはじめるのはもっとあとであろう。
はっきりと中国の文化を取り入れるようになったのは神功の半島遠征からではないだろうか。
860日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/20(金) 14:53:24
カナカナボウシさん

暦法と紀年法は異なるものです。干支紀年法による記録でしたならば、単位は明らかに
通常暦です。一方、暦法では、月日も算出されたはずですので、仮に、二倍暦によって編年された史書があったならば、
それは、月日まで記されていなければなりません。
崇神天皇の時代に、そのような二倍暦史書があったとは、
わたくしには、到底、思えないのです。
861日本@名無史さん:2007/04/20(金) 15:31:01
仮にそんな記録があったとしても大雑把なものだろうしね。
途中整えられたということもあるかもしれないが。
862日本@名無史さん:2007/04/20(金) 15:52:56
「思えない」って何なの?
もっと論理的に根拠を述べてほしいね。

863太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/20(金) 16:48:24
>>854

【即位日表】数字は日数

    神武 1
          2 垂仁
    安寧 3
    懿徳 4
          5 成務

    孝安 7
    綏 8
    孝昭 9
          10 神功
          11 景行 仲哀
孝靈 開化 12
          13 崇神
    孝元 14

ただし、神功は日数でなく立皇太后の月数で見る。なお6日がない。
864太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/20(金) 17:13:50
>>863 続き (>>854

【即位日数表】

應神 履中 顯宗 1
       反正 2 崇峻
       仁徳 3 敏達
          4 繼體
          5 仁賢 欽明 用明

          7 安閑
          8 推古

          10(推古立后)
          11 武烈

       雄略 13
       安康 14
       清寧 15

以上から、允恭は12日、宣化は9日と推定できる。ところが安閑崩御は17日
だからそのままでは、宣化は崩御前即位ということになる。
865カナカナボウシ:2007/04/20(金) 20:58:57
暦法で事件がきちんと記録されるようになったのは、応神頃からだと思います。
それまでは、年だけとか正確でない月や日を記録していたとおもわれます。
2倍年暦とはいいますが、実態は年だけで正確な月日は使用していない、つまり、暦はなかったかきわめて原始的な暦だと思います。
866太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/20(金) 21:22:58
天皇の御名に億計尊とあるところから、『億』の計算は容易でありましたよ、
卜兆も行われていて、その際『兆』の数字をなんらかに使用していたんで
しょうし、八百萬神の国ですから『萬』以上ははたしかです。
ということは、複雑な暦はやれたはずです。
なにせ、179万余年の年数云々と紀に書かれていますからね。
867日本@名無史さん:2007/04/20(金) 21:40:26
「179万余年」を、当時のやまとことばで言うとどうなるの?

ももななここのよろず?
868日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:17:48
ももよろづあまりななそよろづあまりここのよろずあまりとし
869日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:45:41
俺、すごいこと発見したよ!

日本語には
今年(ことし)
一昨年(おととし)
という言い方があるけど、
去年(きょねん)は外来語で、日本語には無い言葉なんだ。
これって、古代では2倍暦を使ってた証拠じゃね?

つまり、
現代で言う「今年」は古代でも「ことし」だけど、
現代で言う「1年前」は古代の暦で2年前だから、「おととし」なわけで、
古代では「1年前=去年」という概念が無かったんだよ!

365日で、必ず2年経過していたから、
日本語には、「ことし」「おととし」という言い方しかないんだ!
870日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:55:44
>>869

すごい発見だね!

これだけ決定的な証拠がある以上、研究家さんも2倍暦を認めるしかないね。
871日本@名無史さん:2007/04/20(金) 22:59:41
「こぞ」
872日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:43:22
>>871

「こぞ」が成立した年代はいつだい?
平安時代か?
873日本@名無史さん:2007/04/20(金) 23:56:35
>>872
じゃあ「ことし」「おととし」の読みが成立したのはいつよ……
874日本@名無史さん:2007/04/21(土) 01:44:42
「こぞ」は万葉集にも出てくる古語です
875日本@名無史さん:2007/04/21(土) 02:55:09
「こぞ」なんて一般に浸透してない言葉だろ。
ということは、古代からあった言葉じゃないんだよ。
「ことし」「おととし」みたいに「とし」が付いてないしな。
876日本@名無史さん:2007/04/21(土) 09:55:02
「来年(らいねん)」
「再来年(さらいねん)」
という言葉も、日本語には無いね。

これも二倍暦を使ってたから、概念が無かったからだろう。


877日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/21(土) 13:02:21
『万葉集』には万葉仮名で「許序(こぞ)」とありますので、「去年」という概念は、
昔からあったと考えられます。
また、仮に、二倍暦があったとしたならば、二倍暦説では通常暦の1〜6月までで1年(12ヵ月)、
7〜12月までで一年(12ヵ月)であったのでしょうから、
例えば、通常暦でのある年の9月に、5月について述べる場合、「去年」と言ったのではないでしょうか。
「去年」、「来年」、「再来年」などの用語の有無によって、二倍暦の有無は、
判断できないのではないかと思います。
878日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:32:30
その例えっぽい記述あるの?
879日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:58:11
数字遊びで妄想して楽しい?
880日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:14:20
楽しいからやってみたら、おすすめします
881日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:08:02
日本書紀の編纂者は
日本書紀を中国の史記みたいな立派な史書にしたかったんだろう?
だから、無理して、具体的な年代も書こうとした。編年体にするために。
そのことが返って後世の歴史家を混乱させる原因になった。

本当に素直なのは古事記みたいな大雑把なほう。
882日本@名無史さん:2007/04/22(日) 03:13:36
>>875
普通逆だろ。
「こぞ」なんて現代人が使わない、いかにも古語。
883日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/22(日) 09:29:34
>>879さん


>数字遊びで妄想して楽しい?

わたくしの説にたいするご意見でしょうか。
もしも、そうであるのならば、妄想ではありません。
日本書紀の編年に、プラス・マイナス120年構想が設定されていることは、
妄想ではなく事実です。「妄想」という用語は、事実にもとづかない場合に
用いられる言葉なのではないでしょうか。
わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/
の日本書紀紀年法入門をご覧いただきたいと思います。図示しておりますように、
神功元年から雄略五年までの間は、応神元年の390年を基点に、
プラス・マイナス120年の関係がなりたっており、プラス領域においては、
多列・並列構造となっていることは事実です。
884日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/22(日) 09:40:46
>>881さん

日本書紀の編年は、日本書紀なりの構想にもとづいているように思います。
多列・並列構造における各々の年代列は、古事記崩年干支が鍵となって求めることができるように、
わたくしは、日本書紀と古事記は、二書一対の史書として成立したのではないか、と推論
いたしております。日本書紀紀年法における古事記崩年干支の役割については、
わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の
日本書紀紀年法入門の確定紀年と延長紀年をご覧いただきたいと思います。
885日本@名無史さん:2007/04/23(月) 04:33:48
>>884
あなたは、女王卑弥呼については
どう解釈しているんですか?
886日本@名無史さん:2007/04/23(月) 21:41:11
過去スレみれ。
お姉ちやんは、稚足彦天皇に比定してるぞ。
ちなみに、台与は気長足姫尊で、男弟が武内さんだ。
理由は、お墓がどーとか、ゆってたぞ。
ちなみに、太国さんには内緒にしとけよ!
887日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/24(火) 08:12:28
>>885さん
>>886さんが、親切にもお答くださっておられるように、女王卑弥呼は稚足彦天皇(成務天皇)
に投影されているのではないか、と考えております。理由は、神功皇后(少なからず、卑弥呼と台与が投影されています)
の陵墓の名が稚足彦天皇と同じであることや、
神祇祭司をもっぱらとした卑弥呼と政治を担った男弟との関係が、稚足彦天皇と武内宿禰との関係に投影されているのではないか、
と推論できるからです。
888日本@名無史さん:2007/04/24(火) 09:06:52
>>887

稚足彦天皇と神功皇后の
陵墓の名前って、どういう名前ですか?

889日本@名無史さん:2007/04/24(火) 10:34:53
稚足彦天皇とはどういう人なんですか?
890日本@名無史さん:2007/04/24(火) 17:38:49
田村さんに聞かないとわからないよ
ttp://z.z-z.jp/?tamura
891日本@名無史さん:2007/04/24(火) 19:57:33
ぐぐったほうが、早いし詳しい
892日本@名無史さん:2007/04/24(火) 19:59:18
女子高生コンクリ詰め殺人犯人の本人(現 朝鮮人&部落暴力団 極東会)光臨 つっつき軍団VS犯人のスレ
本人、必死で偽装霍乱工作中 
http://human7.2ch.net/test/read.cgi/wom/1174068203/

フュージョントラップに引っかかって、自分のIPを自爆で晒した女子2名と男3名あり。
そうならないように気を付ける事。
893日本@名無史さん:2007/04/24(火) 21:53:34
>>891
ぐぐるってなんですか?
894日本@名無史さん:2007/04/24(火) 22:23:17
895日本@名無史さん:2007/04/24(火) 22:25:36
896日本@名無史さん:2007/04/24(火) 23:55:33
それがどうしたっていうんですか?
897日本@名無史さん:2007/04/25(水) 00:41:33
2chにお子ちゃまは来ちゃダメだよ
898日本@名無史さん:2007/04/25(水) 09:24:54
>>887

もういちど、お尋ねします。

稚足彦天皇と神功皇后の
陵墓の名前って、どういう名前ですか?
899日本@名無史さん:2007/04/25(水) 10:43:23
>>898
狭城盾列陵(さきのたたなみのみささぎ)です
宮内庁の治定では、佐紀石塚山古墳を成務陵、五社神古墳を神功陵としています
いずれも奈良市西部で、500bほど離れて南北に並んでいます
続日本後記の承和10年条に、この2つが取り違えられていた、という記事があります
900日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/26(木) 12:29:15
>>898さん
ここ数日忙しく、2ちゃんねるを見ておりませんで、ご質問のお答えが遅れて失礼いたしました。
>>899さんが、親切にもお答してくださっておられますように、狭城盾列陵です。
神功紀に魏志倭人伝からの引用文が見えるように、神功皇后に投影される人物の一人として、
卑弥呼が設定されていると思います。そこで、神功皇后と稚足彦天皇の陵墓が同じ名であることに、
着目いたしました。
901日本@名無史さん:2007/04/26(木) 15:44:09
>>900
狭城盾列陵についてなんですが、盾列は「盾を並べたような」という意味で、
多くの古墳がならんでいる様子を表すのではないか、とも考えられます
そうすると、成務と神功の陵は、同じ名でも、特定の陵を指すのではなく、
単にこの古墳群の中にありますよ、ということを言ったに過ぎない、とは考えられないでしょうか?
902太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/26(木) 15:52:27
倉西氏はどうしても男装の宝塚ガールを演出してみたいらしい。w
投影映画化では事実から遠のく。当人は甘い心の持ち主らしい。
903日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:00:07



http://ip1.imgbbs.jp/read4/bhw55/


KAT-TUN亀梨二股疑惑
904唐松山:2007/04/26(木) 20:03:50
景行 の 日々の干支 朔は、前回 発表の 四分暦で 治世60年で書かれていました。
合わせ場所
E83= 84966日 =INT(INT((C83*365.25)/29.53059+0.7)*29.5309)
+CHOOSE(MOD(D83,13)+1," ",0,30,59,89,118,148,177,207,236,266,295,325)+$D$1+B83
$D$1=36 B83=0 C83=232年 D83=7月
84966日を干支に直す
己巳=CHOOSE(MOD((E83+69+$K$1),10)+2," ","甲","乙","丙","丁","戊","己","庚","辛","壬","癸")
&CHOOSE(MOD((E83+71+$K$1),12)+2," ","子","丑","寅","卯","辰","巳","午","未","申","酉","戌","亥")
$k$1=0 E83=上記式で割出した日数84966日
1日の誤差は、+CHOOSE(MOD(D85,13)+1," ",0,29,59,88,118,147,177,206,236,265,295,324)+$D$1+B85
上記のように 月の廻しを逆にする 閏の廻し3ヶ所狂いあり(B欄に29又は、30を入力)
垂仁は まだ誤差が大きい(狂いが大杉)ので 保留

905日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:57:23
太国!もう許してやれ・・・
どんな説を唱えようと、卑弥呼が確定されていない現在の状況では、0%とは言えないんだから・・・
古代は、しょうがないんですよ、いろんな意味で・・・
906日本@名無史さん:2007/04/27(金) 00:27:38
研究家さん いらつめさん
なんだかんだ言って、みんなあなたがたが大好きですよ。
2chには稀な好感度バツグンのお二人へ、応援age
907日本@名無史さん:2007/04/27(金) 00:32:12
>>863,864
遅くなって申し訳ない。
えと、即位日の記述のない天皇の即位日を全天皇の即位日分布図の空白日に当てるとそれは前天皇の崩御日以前の日付になるということですか?
それは思いっきり仮説の上、それがどう倍暦とつながるのかさっぱり分かりません。
908日本@名無史さん:2007/04/27(金) 00:41:13
>>906

それはただの哀れみの同情か?
909日本@名無史さん:2007/04/27(金) 01:16:29
いえいえ、研究家さんのHPを見れば、誰でも思いますよ。
910日本@名無史さん:2007/04/27(金) 06:14:06
元嘉暦がもたらされたのは450年以降。
それ以前に紀年もクソもない。
911朴洋仁:2007/04/27(金) 07:00:35
卑弥呼が大和朝廷側の人なら景初暦を使用していたと推論できます。
912日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/27(金) 09:12:20
>>901さん
確かに古墳群のなかに陵墓があることはありますが、奉幣などが行われることもありますので、
やはり、歴代天皇陵や皇親陵は、それぞれ一つの陵墓に特定されていたのではないか、と思います。
913日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/27(金) 09:29:05
太国さん
神功紀に見える魏志倭人伝や晋書起居注の記述から、日本書紀では、神功皇后を
卑弥呼と台与として扱っています。
このことは神功紀が189年間を扱っていることと無縁ではありませんが、
神功紀の編纂には、かなり困難な問題があったことがわかります。
日本書紀の行動的な神功皇后は、どちらかといえば台与を想定しているようですので、
卑弥呼については、稚足彦天皇に投影させたのではないか、と考えました。
914日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/27(金) 09:34:20
>>906さん
応援してくださいまして、ありがとうございます。
915日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/27(金) 09:38:15
>>910さん
暦法は無くとも、紀年法はあった可能性があります。
紀年法は、年の数えることですので、暦日が無くとも、一年は一年であるからです。
干支紀年法などは、かなり早い段階から将来していたのではないか、と考えられます。
916日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/27(金) 09:53:01
>>911 朴洋仁さん

魏志倭人伝では、距離が記されている諸国には所要日数が記されてなく、
所要日数が記されている諸国には、距離が記されていません。
仮に、距離が記されて無い諸国には、魏からの使節団は実際には訪れておらず、
倭人から、所要日数を聞いたのであるのならば、日数という概念は、当時、あったことになります。
そこで、暦日には利便性がありますので、暦法を導入したことは、ありえることと考えられます。
しかし、弥生時代に、どのように日を認識し、計算していたのか、まだまだ研究課題であるように思います。
917太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 11:04:31
>>913
紀には稚足彦とあり、稚足姫とは書かれていないんですよ。つまり紀は『彦』
だよ、男だよと明確に記述してるのに、陵名が同じとかで女だろう、卑弥呼
だろうと主張するのは間違いですよ。もしそうなら日本武尊の女装のように
明確に説明を追加するはずですよ。つまり成武天皇は卑弥呼ではないとするのが
正解です。もう一つ、もし女なら、倭人伝に卑弥呼は男装が好きでだまされ
るほど変装が上手だとかの記述ができますよ。
あなたはメスをオスだとか、プラスとマイナスの転換論の主張をしており、
白を黒と言うわけで、どんな論も滅茶苦茶に成立しちゃいますよ。
918太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 11:36:51
倉西氏の説は、まるで明智探偵の弟子の小林少年が女装をやるようなもの
で、このような奇異な主張をまことしやかにそうだと考える理由とは、崇神元年
が91年と説定したことによるのだろう。そうなると神功39年の記述は拙者も
そうだが紀の編者の誤解で他の時代へ移させるのが本物であり、ここまでは
いいのだが、その設定の91年の無理が祟っているわけで、これを正解と主張
するから、成務の時代の卑弥呼を存立させねばならない、いやそのはずだとの
思惑となるわけであり、これから成務を卑弥呼、トヨを神功と当てざるを
えないわけである。こういう無理な主張たる成務の男性説を夢想のようでも
決めこんでいるということは、冷静に見つめれば 崇神元年=91年 説が
もう間違っていると思うのが正常の頭脳人間である。
919日本@名無史さん:2007/04/27(金) 13:31:01
>>909だって、崇神元年=91年が無茶苦茶だとわかってるだろう。
誰だってそう思うよ。
920太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 14:11:41
倉西氏は研究の進展から崇神元年を91年と設定したわけで、このことが
景初年間が成務の時代になるという計算になったものであろう。そこで女王国
畿内説を捨てればいいものを、自説に有利とみた同説を過信したのか九州説
を省みず、91年説から景初年間が成務世となったことから、その適合を図る為
に神功をトヨとしておいて卑弥呼を男装の成務と推論したようで、そうなれば
自説に矛盾がなくなるという考えから、一寸待てとのブレーキ・ペダルを
踏む用心を忘れてひたすらアクセルをふかし、ついに八幡の藪知らずの
迷宮に自論を置き、そこが正規の目的地だと思いこみ確信している哀れな
有り様にある。
921日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/27(金) 18:25:05
太国さん
例えば、神功紀では、神功皇后を卑弥呼と台与として扱っていること、
歴代天皇が非現実的に長寿であること、仲哀天皇は父の日本武尊の薨去
後40年も経ってから出生していること、これらすべては、
稚足彦天皇に誰が投影されているのか、といった矛盾と同程度の不整合ではないでしょうか。
日本書紀に、このような不整合や矛盾が散見されることには、理由があるのです。
もちろん、稚足彦天皇についても理由があるのです。
922征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/27(金) 18:42:36
神功紀の書紀上の記録位置が3世紀になっているから、漢籍上の3世紀の話がそこに挿入されているだけですよ
923日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:03:57
太国、そんなに駄目だしするなよ。
おおらかに、願います。
924日本@名無史さん:2007/04/27(金) 19:22:59
>>923

デタラメをデタラメと指摘するのがなぜ悪い?
925唐松山:2007/04/27(金) 20:02:20

四分暦で見た 景行 途中は、略してありますが全て合います。
-231年度 0年 1月 1日 甲子
1年度 232年 7月 84966日 己巳 景行
2年度 233年 3月 85203日 丙寅
3年度 234年 2月 85527日 庚寅 差1日
12年度 243年 8月 89012日 乙未
17年度 248年 3月 90695日 戊戌
18年度 249年 4月 91079日 壬戌 差1日
19年度 250年 9月 91581日 甲申
20年度 251年 2月 91758日 辛巳 差1日
25年度 256年 7月 93737日 庚辰
27年度 258年 2月 94298日 辛丑 差1日
28年度 259年 2月 94682日 乙丑 差1日
40年度 271年 7月 99200日 癸未
51年度 282年 8月 103246日 己酉 閏年
52年度 283年 5月 103541日 甲辰 差29日
55年度 286年 2月 104545日 戊子 差1日
58年度 289年 2月 105638日 辛丑
60年度 291年 11月 106642日 乙酉 差30日
61年度 292年 1月 106701日 甲申 成務

52年度と60年度は、閏年ではない
それ以外は、全て合う
926日本@名無史さん:2007/04/27(金) 20:43:52
合うように設定してあるから当たり前バカか?
927日本@名無史さん:2007/04/27(金) 21:44:12
同じデタラメにおなじ指摘を繰り返しているうちに、表現が激しくなっているんでね・・・
まぁ、古代の事は、確定できないし・・・お姉ちゃんは、説を改めないよ!たぶん
928太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 21:46:00
>>921
なるほど。その話は氏の説明不足で困りましたが、何で成務を卑弥呼に当てた
理由が少し解ったような気がします。
つまり事の発端は日本武尊の死後40年にして、子である仲哀が生まれたという
不審点が増幅して稚足彦が女ではないかとかの推論に至ったんですね?

さすがよく研究しておられます。それはどうやら記紀の記載に、そこんところ
に重大な誤記か欠落が故意か過失かは不明なるもそういうものが存在したという
ことを物語っており、40年の差とはそれが発覚したと観るべきだとそれがしは
慎重に熟考しているところであります。このごろどうも古代史に一点の不合理が
あるということをうすうすと察知して来ていますが、どうやらその疑問が氷解
する発端となりそうな気がします。

それではその不審について、それがしも説明不足が否めませんが、率直に
一刀両断で解説しますと、記紀にその時代あたりに何者かは名は不明ですが、
ある皇統に強く関わる人物が独りスッポ抜けて闇の中になっているんでは
ないかとこう推測しています。すると40年が埋まります。その人物こそが他
ならぬ箸墓古墳に埋葬されている人物(←卑弥呼に非ず)ですよ。  (終り)
929日本@名無史さん:2007/04/27(金) 21:57:34
箸墓と言えば、倭トト日百襲姫
930日本@名無史さん:2007/04/27(金) 22:06:00
>>921

単純に、干支が60年ズレてるだけという考え方はできないわけ?

931太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/27(金) 22:11:07
>>929
貴殿のおっしゃるほうが正解かもしれません。
いまは冒険の論議ですので、撤回はおおいにするかもしれません。
現地に行ってませんのではっきり云える筋合いではないそれがしの勝手な
言い分ですが、古墳が天皇級に大ならば、可能性があるやも? という
いまの心境です。
932朴洋仁:2007/04/28(土) 06:00:36
たしかに倉西の作品である紀年法にケチをつけても仕方ないかもしれない
933日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/28(土) 09:50:19
太国さん
仲哀天皇の出生と日本武尊の薨去との間に40年の差があることは、江戸時代から
すでに指摘されていた問題です。
しかし、日本書紀の崇神紀から仲哀紀あたりも、多列・並列構造にあると考えればどうでしょうか。
わたくしは、仲哀天皇出生と日本武尊の薨去がつながる年代列を仮説として提起しております。
矛盾や不整合の理由を考えることによって、日本書紀紀年法の構造が明らかとなってくる可能性があるのです。
ちなみに、紀年法の矛盾問題の一例として挙げたまでです。
934日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/28(土) 09:57:10
征東大将軍さん
神功紀の実年代への位置づけが、研究史上問題視されてきた理由は、
神武元年を紀元前660年、持統11年を697年に位置づける編年のとおりでは、
たしかに3世紀に相当しますが、百済王についての記述からは、4世紀に位置づけられるからです。
この問題は、単に、3世紀に位置づけるためといった問題ではありません。
わたくしは、神功紀は西暦201年から389年までの189年間を扱っているために、
神功皇后については、複数の人物像が投影されたのではないか、と考えております。
このように想定いたしますと、神功皇后が卑弥呼と台与に比定されていることには、
何ら問題はないことになります。
935日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/28(土) 10:04:54
>>930さん
単純に60年ズレているわけではないことは、たとえば、神功紀には、なぜ、
「69」という紀年数が配布されているのかを考えればわかります。
神武元年を紀元前660年、持統11年を697年に位置づける日本書紀の編年では、
神功元年は201年に相当しますが、神功69年は、研究史上、西暦389年に位置づけられる
とされています。そこで、神功紀が西暦201年から389年までの189年間を扱っていると
考えると、なぜ、「69」であるのかが、明らかとなります。
189−69=120となって、ちょうど、二運分の120年(60×2)となるからです。
わたくしのHP「倉西先生のご学問所」(http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の
日本書紀紀年法入門にて、日本書紀紀年法の構造を扱っておりますので、ぜひ、ご覧ください。
936日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/28(土) 10:10:56
>>932 朴洋仁さん
わたくしの説に対して、ケチではなく、学術的なご批判、疑問、ご質問などがありましたならば、
ぜひ、掲示板にて、お書き込みいただきたいと思います。
937征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 10:13:31
研究家さん、神功元年は201年を扱ったものではありませんよ
古事記崩年干支での仲哀没の362年以降です


201を肯定する為に120年を持ち出す事にも根拠がありません
年代列を移動しているだけだからです
938日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:19:41
>>937

いやいや、神功元年は201年は、たしかに日本書紀の編年ですよ。正しいかは別として。
ただし、日本書紀の編年では、神功崩御(神功69年)は、269年です。

>>935
>神功紀が西暦201年から389年までの189年間を扱っていると
↑これが、大ウソなわけです。
日本書紀編年の201年と、実年代?の389年を計算してるわけですから。

201から389の189年から、日本書紀編年の神功崩御69年を引くと120ですが、
389には根拠がありません。

根拠が無いのは、389の方なのです。

根拠は、↓の一文だけ。
>神功69年は、研究史上、西暦389年に位置づけられるとされています。
939征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 11:27:09
えぇ、だからそれは日本書紀の編年上の年代が201年なのであって
年代列の移動による±120年説を根拠に
研究家さんのように201年が実年代側に乗っているとは肯定出来ないと云う事ですよ
940征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 11:32:07
389は百済関係の記事が実年代側の座標が120年分ズレている話ですよ
941日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:34:23
うーんと、定点の片方が実年代で、もう片方が書紀の編年上の年代なのはおかしいという指摘なのかな?
942日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:40:34
ふむ。
研究家さんは、
日本書紀編年の神功崩御269年が実年代と一致していないとし、
日本書紀編年の神功元年201年が実年代と一致していると考えているわけですか?

すると、
>神功69年は、研究史上、西暦389年に位置づけられるとされています。
↑の根拠がますますわかりません。

神功69年を、西暦389年に位置づけた今までの研究が間違いだと、言うことですよね?
すると、その間違った数値をどうして計算式に導入できるわけですか?

943日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:46:05
>>940

そういうことなら、120年ズレてるという話は、
「百済関係の記事が実年代側の座標が120年分ズレている」という意味でしか無いですね。

天皇の崩御年やら即位年と絡めるべきものでは無いわけで。

120年ズレてる百済関係の記事を元に、
天皇の崩御年やら即位年を計算したら、120年ズレるのは当然では?
944征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/28(土) 11:49:51
違いますよ。研究家さんは、神功元年は書紀の虚構上の年代のままの201年が実年代で且つ
百済関係の記事から検証可能な神功69年の年代を269+120の389年が実年代
っと言ってる訳です


これを肯定する根拠が、±120年構想なんですが
そんな構想はありません

計算がピッタリだから在るに違いないと彼女は言いますが
彼女は何故±120年になるかを誤解している訳で
945日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:56:23
「百済関係の記事」って、どれのこと?
946日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:37:04
1.神功66年が注により晋武帝泰始(泰初)二年=266年とされている。
2.神功69年=269年
3.神功元年=201年
4.応神3年、百済阿花王即位。三国史記によると392年。
5.応神元年=389年。

書紀上、神功66年から応神3年まで6年しか経ってない。
しかるに海外の動向をみると126年も経ってる。
120年分、飛んでる。これは何故かという問題に対しての見解の相違があるということで良い?>研究家さん、大将軍さん

記事内容を無視して年数だけを見た場合、それぞれの年代はいつになるのかな?
947日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:25:32
なんかまた良くわからなくなったので。

1.神功66年、分注により266年である。
2.応神3年、百済阿花王即位。三国史記によると392年。
3.神功皇后66年→応神3年=6年間。
4.266→392=126年間。
5.書紀上では6年しか経過してないのに比定される実年代では126年経過している。+120年。
6.雄略5年、分注により461年である。
7.応神3年→雄略5年=189年間。
8.392→461=69年間。
9.書紀上では189年経過してるのに比定される実年代では69年しか経過していない。-120年。

(解釈は別にして)書紀の編年はこういう構造になってるでいいんだよね?
948日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:30:25
>>947

だから、神功紀を古く見せるために、120年前の外国の記事を挿入しただけなんだよ。

それ以上の意味は無い。
949日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:42:33
>>948
> だから、神功紀を古く見せるために、120年前の外国の記事を挿入しただけなんだよ。

まあ、卑弥呼や壹与に比定するために後代の神功皇后の年代をずらしたのだろうというのはわかるんだけどね。
問題は応神3年→雄略5年もいじられてること。
研究家さんは古事記の分注にある崩年干支と関連させて考察されてるけど、もう一度読んで理解を深めてみる。
単純に古く見せるために挿入しただけでは終わってないと思うんだよね。
950日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:45:24
書紀の編年上、神功66年、応神3年、雄略5年はそれぞれ何年に当たるの?
応神3年の部分だけ他書からの注ではないのもなんか意味があるのかな?

なんか一人で連投してしまって恥ずかしいなあ……
951日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:52:52
>>949
>問題は応神3年→雄略5年もいじられてること。

神功紀を古くしてるんだから、応神もいじる必要があるだろ。
それ以上の意味は無い。
952太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/28(土) 19:59:06
神功66年=374年  應神3年=376年(=同元年)  雄略5年=475年

 應神元年と應神3年は3倍暦の関係で実年代では同一年になる。
953日本@名無史さん:2007/04/28(土) 20:53:50
>太国氏へ
いまさらだけど
>>864
反正、五年春正月23日崩御→允恭、(五年春正月、即位を断るも翌年の)元年冬十有二月、即位。

仁賢、十一年秋八月8日崩御→武烈、(大臣平群眞鳥臣などを討った後)同年十二月即位。

安閑、二年冬十二月17日崩御→宣化、(安閑に跡継ぎ無し)同年十二月即位。

一応、即位日不明で前天皇の崩御と同月に即位したのは宣化天皇しかいないみたいだけど?


> 11 武烈
これはどっから出てきたの?
>>907の疑問と共に答えて頂けるとありがたい。
954太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/28(土) 22:07:54
>>953
そうみたい。あの時は過去スレの記憶を頭でたどっていたので漠然とした説明
になってしまった。スマン、そう、宣化天皇だね。

それが拙者の昔買って使っている古ぼけた年表の本が、武烈の即位を11/11と
しているんですよ。古事記では12月で日数がないようだが、旧事紀では11/11
が即位になってるのが解かった。拙者の本の年表は後者を採用してるので
数字が11なわけですよ。その日は古事記では即位の前月で一波乱あった記事が
やはり11/11で記述されている。しかし旧事紀ではその日は即位だと記述
している。これは旧事紀が正解の可能性が倍暦が正ならそう云える。

冬11月、戌寅の朔、戌子の日が11/11

つまりだ、2倍暦の時代開化の即位11/12を受けているわけで、1日手前の
日が武烈の即位日となる。武烈世は等倍暦の時代だから、11/11→11/12
ということは、1→2 即ち武烈の次代を 1倍暦→2倍暦 としたいのであり、
繼體から1倍暦を廃し2倍暦となる示唆だと考える。

繼體の即位は2/4で、同じ2倍暦の懿徳と同即位日であることから、なおそれ
が云えるのだ。
955太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/28(土) 22:21:02
2倍暦だと1年の前半が当時の1年で、残りの後半が次の1年なわけであり、
旧事紀の11月と古事記の12月は等倍暦だと1ヶ月分で収まる。
どうもこのことは、編者の取り巻きか原書記載の者らか?〜が、1ヶ月で
収まるのを分離記載により、隠匿の2倍暦を故意にか垣間見せた技では
なかったろうか? どうもそんなふうに感じてしまうのだ。
956日本@名無史さん:2007/04/29(日) 02:04:14
>干支紀年法などは、かなり早い段階から将来していたのではないか、と考えられます。

早くとも東国での一般化は稲荷山鉄剣銘前後。西国では江田船山より以降。
957日本@名無史さん:2007/04/29(日) 06:45:17
>>954,955
ぱっと見では理解しづらい。
のでもうちょっと考えてから賛同なり反論なりしてみたい。
武烈の即位日11日の件は了解しました。
書紀の記述ではないのでこの場合適当ではないようですね。
958日本@名無史さん:2007/04/29(日) 06:50:42
改めて自分で書紀の編年を確認して思ったこと。
研究家さんのプラスマイナス120年構想は成立しないのではないか?
何故なら神功66年と応神3年の間に126年分の紀年があったとは想定しづらいから。
水増しされた紀年はあっても、削られた紀年が存在するとは思えない。

結局、
本来の編年だと卑弥呼、壹与の年代に当たるのは景行、成務である。
天皇家の正統性を主張するためにはその事を糊塗する必要がある。
それには神功皇后が適任(かなり条件は合わないけどw)である。が、年代が合わないので120年分引き上げよう。
こういう構想であったと考えるのが一番適当であろう。

何故120年かというと干支一回りの60年でも三回りの180年でも年代が合わなくなるから。
120年引き上げられたということは古事記分注の崩年干支の問題からも裏づけが取れる。

雄略5年・神功66年は共に書紀の編年上の年代と記述内容から比定される年代が合致する。
しかし、応神3年は書紀の編年上の年代と記述内容から比定される年代が合致しないのは何故か?
乱暴な言い方になるが応神天皇と神功皇后と近過ぎたため、操作がしづらかったから。
神功皇后を240年も引き上げるわけも行かず、そのままにせざるを得なかった。
「なら記述しなければ良かったのに」と言われてしまうと「そうだね」としか答えられないけど……

ちょっと朝一なので論旨の伝わりづらいところもあるかもしれませんが、研究家さんの日本書紀紀年法への批判ということで。
考え方がずれてるところがあれば指摘してくれるとありがたい。
959サガミハラハラ:2007/04/29(日) 08:32:12
スレの流れとはあまり関係なくて恐縮ですが、現代私は欽明天皇の年代の研究をしております。
継体天皇が崩御した後、欽明と安閑・宣化が並立したとの説があるのですが、
この説について実際のところはどうなのか論じていただきたいと思います。
960唐松山:2007/04/29(日) 11:11:47
926の天才 さんへ
暦に合うように設定してある?
じゃあ 質問しますが、 景行元年7月己巳朔として
垂仁90年まででも良いので たった10年程
暦日を このページで教えてください  
961日本@名無史さん:2007/04/29(日) 11:15:03
次スレでな
962唐松山:2007/04/29(日) 11:58:00
有難う 期待していますよ
 現在 このスレでは、 干支の類は、後世書紀の編纂時に点けられた とする方々が多い
ように見受けられますので、 暦法と 暦日の割出し を行い
書紀の伸長された干支と現実の朔との差を見つけたいと思っていますので
963太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/29(日) 15:05:07
>>954 >>955

11日と12日、11月と12月の変動、このへんが注目点だ。
11→12 とは 1→2 の、1倍暦→2倍暦 を示唆する数字ではないのか?

2倍暦の時代、懿徳の「懿」の字も、『壹』(1)→『次』(2)を黙示して
いるようだ。
964日本@名無史さん:2007/04/29(日) 15:14:56
イザナミと称する韓国人が、ミョーな文を投稿している。
自分を百済人の末裔だと信じ込んでいるようだ。
韓国人は朝鮮人であって、百済人(倭人)ではないのだが・・・。

http://chrysanthemum.iza.ne.jp/blog/folder/7251/

また、第1次百済を建国したのは、高句麗に楽浪郡を滅ぼされた楽浪郡出身の
漢人・倭人の役人たちであり、彼らはヤマト朝廷の援助を受けて百済を建国した。
つまり、日本人が支援したことにより、百済は建国できた。
百済に対するヤマト=日本国の絶対的優位性を、韓国人は理解しなければならない。

また、
1)百済は日本人の国であり、韓国人とは無関係であること。
2)韓国人は百済に対していかなる権利も持っていないこと。

以上の2つを認めなければならない。
965日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/29(日) 17:43:32
昨日から神功紀のマイナス120年について、活発な議論があったようですが、
応神元年の実年代への位置づけを間違った上で、議論しておられるようです。
応神元年は西暦390年となります。
神功紀は、神功元年の西暦201年から神功69年の西暦389年までの189年間を扱っているにもかかわらず、
配布された紀年数が「69」であるから、マイナス120年となるのです(69−189=−120)。
なぜ、神功元年から雄略五年までの間にプラス・マイナス120年構想が成立しているのか、
その理由を図も用いて説明しておりますので、HP「倉西先生のご学問所」(http:www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/)の
日本書紀紀年法入門をご覧ください。
966日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/29(日) 17:45:05
HP「倉西先生のご学問所」のアドレスを間違えました。
正しくは、http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/となります
967日本@名無史さん:2007/04/29(日) 18:53:11
>>965
> 応神元年の実年代への位置づけを間違った上で、議論しておられるようです。

間違えてません。

書紀の編年上、
・神功皇后66年→6→応神天皇3年→189→雄略天皇5年です。
一方、記述内容から比定した場合、
・神功皇后66年→126→応神天皇3年→69→雄略天皇5年です。
そして肝心なのは、
・神功皇后66年と雄略天皇5年は書紀の編年上の年代と記述内容から比定された年代は合致すること。
・しかし応神3年は書紀の編年上の年代と記述内容から比定された年代が合致しないこと。
です。
応神3年は書紀の編年上の年代は272年、記述内容から比定された年代は392年。
つまり120年引き上げられている。それは何故か?という話なのです。

> 神功紀は、神功元年の西暦201年から神功69年の西暦389年までの189年間を扱っている

この考え方が間違ってるのです。
神功皇后紀は書紀の編年上でも、記述内容から比定された年代を基にした編年上でも69年です。
神功皇后没と応神天皇即位との間に120年の空白があると考えるべきなのです。
そしてその120年の空白は元々が存在しないものなのです。
神功皇后を卑弥呼・壹与に比定するために120年引き上げられた。
そしてそれに引きずられるように応神天皇紀も引き上げられた。
その引き上げによって生じた空白を埋めるために応神から允恭までの紀年に加算された。
それだけのことです。
研究家さんの主張される-120年は幻の120年と言わざるを得ません。
968日本@名無史さん:2007/04/29(日) 19:04:58
>>963
その辺の考え方にははなはだ疑問的ですが、今は論評は控えます。
具体的なイメージが浮かびませんので。

それはそれとして古事記の崩年干支を見てて気付いたこと。
允恭の前代反正の崩御日は書紀上では5年春正月甲申朔丙午(23日)となっていますが、古事記の崩年干支だと日付が不明になっています。
ちなみに全部を見たわけではありませんが、他の天皇の崩年干支記事には日付まで記述されています。
・允恭紀には即位日の記述がない。
・反正紀によると反正崩御日は23日。
・反正記だと反正崩御日は不明。
うーん、なんかあるのかな?w
969太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/29(日) 19:44:31
>>968
「2倍念暦」の真実 のスレの 繼體紀の日数表 から

>370 >372 >377 >379 >396 >400

に関連を含め解説してあります。
970日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:45:17
970
971日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:46:44
 
972日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:47:54
 
973日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:48:43
このスレ意外にのびてるね。
倭の五王につづく、サブタイトル何かなー?
ひそかに楽しみ
974日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:49:25
 
975日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:50:21
975
976太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/29(日) 20:51:24
『宝塚の女王』か?w
977日本@名無史さん:2007/04/29(日) 20:57:32
大日本足彦国押人
978日本@名無史さん:2007/04/29(日) 21:29:19
「次スレ名」案

日本書紀紀年法がついに解明されましたY[幻の太国]
979征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/29(日) 21:48:35
[part6]とすれば良いだけで、他に余計なサブタイトルは要らないですよ

研究家さんが建てればそうなる筈ですし
明日にでも建つでしょう
980日本@名無史さん:2007/04/29(日) 22:00:09
パート6かぁー!
まぁ、それでもいんだけどさぁー、せっかく出来た流れだから、貪欲に楽しんでみるのも一興
981日本@名無史さん:2007/04/29(日) 22:10:28
もう研究家が立てる必要ないよ
立てられる人が代行したほうがいい
982日本@名無史さん:2007/04/29(日) 22:13:35
では、たてられる人よろしくどーぞ
983日本@名無史さん:2007/04/30(月) 00:14:49
紀年法とあの秘密が解明されましたE(双子の女王篇)
984太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 08:05:24
何だろう、あの秘密って?
985日本@名無史さん:2007/04/30(月) 13:26:14
スレもそろそろ終わるけどまだ疑問があるので書いとく。
それは古事記の崩年干支から確定紀年を導き出す手法の是非について。

・各天皇の即位年を紀の前天皇没後何年の即位かという記事から援用させているが、それは正しいのだろうか?
・応神天皇の即位年だけ応神3年の記述から比定される年代を逆算して求めるのは正しいのか?
・安康に崩年干支はない、雄略の崩年干支は10年ずれてる。それなのに安康3年間、雄略元年から5年までの5をそのままスライドさせて大丈夫なのか?

以上のように確定紀年を導き出す手法が一貫していないのは問題と考える。
さらにそうして確定紀年を求めても1年ずれるのは問題ではないか?
986太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 13:59:11
自動車も前代の旧式より現代のはよく改良されて性能が格段に優秀になって
いる。昔のはナビなんかは装備されていなかったが、今ではそれが普及していて
運転操作の向上にも相当寄与している。

こういうことと同様に、日本書紀編纂にあっては当時既存の古事記の文面を
編者側はよく読んで検討してるはずで、絶対とは言えないが、記の記述の
翻しをやっている個所はそうとう改良に自信があったようだとそう考えるところ
である。かようなことから記のそういう干支の部分は、紀のほうが検討吟味等
を多々やっているはずあるから、記のは参考には充分なるが、紀のほうを支持
したほうが無難だと考える。
987日本@名無史さん:2007/04/30(月) 14:43:30
次スレを誰かお願い。
スレタイ→日本書紀紀年法がついに解明されました[part2]

日本書紀紀年法は、応神元年を西暦三九〇年と位置付けて、以下の式に
表されるような「プラス・マイナス120年構想」が設定されています。

192年(応神元年〜雄略五年までの合計紀年数)−72年(実際の経過年数)=+120年
69年(神功元年〜神功六十九年までの紀年数)−189(実際の経過年数)=−120年

また、日本書紀紀年法は、神武元年の紀元前660年から持統十一年の697年までの
一本の年表のような年列ではなく、応神列(A列)、雄略列(B列)、允恭列(C列)、
仁徳列(D列)などの、複数の「年代列」によって多列・並列構造になっています。
このように考えますと、日本書紀紀年法をきれいに説明することができます。
日本書紀紀年法について、自由に議論をいたしましょう。

前スレ
日本書紀紀年法がついに解明されました[倭の五王編]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1175834481/
日本書紀紀年法がついに解明されました[part4]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1148693901/
日本書紀紀年法がついに解明されました[part3]
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1145579835
日本書紀紀年法がついに解明されました[part2]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1140936342/
日本書紀紀年法がついに解明されました
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1132131322

関連サイト
倉西先生のご学問所
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/index.html
988征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/04/30(月) 14:45:53
日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1177904768/
989日本@名無史さん:2007/04/30(月) 15:25:41
(双子の女王篇)は幻に終わったか。ちょっと萌えたんだけどW
990日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/30(月) 15:28:40
>>985さん
確定紀年を導き出す方法は、古事記崩年干支年と次帝の立太子との関連、
ならびに、海外資料から確認される百済王の即位と薨去年から割り出すというものです。
一貫しているのではないでしょうか。
また、雄略天皇の古事記崩年干支は、神功元年から雄略五年までのプラス・マイナス120年構想
の範囲外です。
したがいまして、確定紀年を導き出す方法には、問題は無いと考えております。
991太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 15:33:46
あ〜あ、[宝塚の女王]編が・・・・・?
992日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/30(月) 15:34:05
>>987さん
日本書紀紀年法がついに解明されました[part2] は既にあり、過去ログに入っています。
[part4]まで、わたくしがスレッドを立てておりましたが、どなたかが、
わたくしのコテハンとトリップを流用して、[倭の五王編]を立ててしまったことから、
混乱をまねく結果となったと思います。
次のスレッドは、日本書紀紀年法がついに解明されました[part5]として、
わたくしが立てました。
993日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/04/30(月) 15:37:29
>>989さん
双子とは、わたくしと妹のことでしょうか?
994日本@名無史さん:2007/04/30(月) 15:43:14
それでは第7スレ
日本書紀紀年法がついに解明されました[七支刀伝説]
でお会いしましょう
さようなら
995太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 16:05:18
終局のようなので、一言。
[倭の五王]を当時の各天皇としての編年は間違いのもと。
996日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:31:20
そりゃそうだ新羅医者が金氏名乗ってる時点で允恭の時代は六世紀
997太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/30(月) 16:54:51
允恭誕生 400年   同即位 426年    同崩御 467年

よって五世紀。
998日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:58:57
>>993
姉  ゆーこりん=ひめこ
芋音 ま○こりん=男足媛尊
999日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:14:21
>>1はアホ
1000日本@名無史さん:2007/04/30(月) 17:15:07
1000
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