1 :
日本@名無史さん :
2007/03/31(土) 19:59:01 邪馬台国があった場所、北九州側と近畿側に分かれて 議論しよう。 理由も忘れずに
重複たてんなボケ!
八幡平
4 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 00:00:52
@
左側じゃねぇか?
↑理由かくのわすれた。 この前ね、NHKみたのさ あん時も、投票したんだけどさ(一回目だけ)。 あれみたからだお
7 :
猫厨改 :2007/04/02(月) 02:56:47
畿内
エジプト
9 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 10:15:24
現在の南極。 当時南極は、もっと北にあった!
そんな事 大林賢栄さん位しか 言わないよ だって馬鹿じゃないから
11 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 10:49:25
ジャマイカ
12 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 11:20:38
スマトラ島
13 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 12:41:17
ブラジル
14 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 13:42:14
存在しないが大正解! チンジュの考えた、架空の国です!
15 :
日本@名無史さん :2007/04/02(月) 13:49:41
>>1 邪馬台国は岡山にあったことが学会の定説であり真実。
糞スレを立てないでください
16 :
日本@名無しぃさん :2007/04/02(月) 13:56:26
>>15 近代ならともかく1000年以上前のことだろ。
いくら学会がそう主張したって、岡山にあったかもしれないだろ。
>>学会の定説であり真実。
「真実」??なぜわかる?????
17 :
日本@名無しぃさん :2007/04/02(月) 14:05:48
1 名前:日本@名無史さん 2007/03/31(土) 19:59:01 邪馬台国があった場所、北九州側と近畿側に分かれて 議論しよう。 理由も忘れずに >>北九州側と近畿側 北九州側と近畿側だけ???????????????
18 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/04/02(月) 14:06:33
女王国は岡山にはない。そこにあるなら、下図から 大陸 半島 ↓ 対馬等 ↓ 北九州−−−→(岡山)−−−−−−→畿内 岡山は日本版のシルクロード上に乗る。従って交易路途中の情報は畿内に当然 流入するに違いない。そうなるとそこの女王国の存在、状況が記紀に特筆 されるはずだ。百済等の半島の記事が記紀にあるのも、このロード上だからだ。 その特筆がないとすれば、女王国は岡山になかったと観るのが至当なのである。
1はさ、過疎るリスクをあえて承知でさ、しぼりこんだんだからさ、そのルールに則って遊ぼうよ! 他にも、そっくりなスレあんだしさ、南九州とか海外派の人はさよかったらそっちでどーぞー!
20 :
猫厨改 :2007/04/02(月) 23:47:41
畿内大和
八幡平は畿内側でいいよな
22 :
日本@名無史さん :2007/04/04(水) 22:46:28
水行20日陸行1ヶ月なんだからアメリカ東海岸に決まってるだろ 今のニューヨーク付近だ
アメリカ東海岸までおおよそ1万キロ 12〜13ノットださなきゃならんな 今の貨物船程度かな
24 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 22:51:26
畿内にあるなら福岡から奈良の道のりやその過程にある国のこと(現在の山口や岡山や大阪まで)を対馬国から不弥国までみたく詳細にわじん伝に書くはず。しかしそこまで書かれてない。という事は邪馬台国は対馬国から不弥国の近くにあったと思う。
25 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 22:56:11
畿内にあるなら なんで九州の端の国ばかり詳細に使者は書いておいて畿内付近の国の事は詳細に書かないのか?つまり対馬国から不弥国あたりを詳細に書くのはその辺りに邪馬台国があったからだ
26 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 22:59:56
中国人が船で奈良まで行くとしたら、通過点の北九州の事を細かく書かないだろ?奈良や大阪の関西圏のことを細かく書かないか?わじん伝はやたら北九州の事を細かく書いてる。
27 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 23:02:11
まんなか
28 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 23:05:24
中国人が船で奈良に旅行したとしたら、「福岡のとんこつラーメンやめんたいはうまくい」と報告する馬鹿いるか?普通なら「神戸ステーキうまい・たこ焼きうまい・奈良漬物うまい・鹿せんべいうまい。」と報告するだろー!
29 :
日本@名無史さん :2007/05/05(土) 23:09:19
わじん伝はやたら北九州の国の事ばかり詳しく報告してるから邪馬台国は九州。奈良にいくなら通過点の北九州の事ばかり詳しく報告せんだろ
30 :
日本@名無史さん :2007/05/06(日) 00:29:03
畿内のわけねーよ。 当時は祟神天皇がいたというのに無理やり女王国にしようとする馬鹿ども。 地獄へ落ちろ、この罰当たりどもが。
鹿せんべいはうまくないだろ
魏志倭人伝のオリジナルを書いた人物は不弥国までしか来ていないんだろ 伊都国あたりにとどまって、そこから先のことは倭人の外交担当から聴いた情報を元に書いている。 投馬国だの邪馬台国だのまでの道のりの記述がいきなり大まかになるのはそのせい。 しかも倭人が東(日向かし)と言ったのを南(太陽の方角)に取り違えている。 斯馬国から奴国まで遠絶の国として挙げられている二十一国は 本当は邪馬台国から伊都国にいたる経由地なのだろうな だから奴国は伊都国の隣にある奴国の重出
33 :
日本@名無史さん :2007/05/06(日) 18:46:07
どうでもいいが、邪馬台国スレ、統一汁。
34 :
日本@名無史さん :2007/05/06(日) 19:01:33
臭尻エリカ教授の香川讃岐説が妥当だと思う。
崇神天皇は四道将軍を派遣したがなぜか九州には派遣していない ミステリーだぜ
あまりに史書を軽視する畿内論者はなあ
37 :
日本@名無史さん :2007/05/06(日) 20:17:21
九州、特に玄界灘沿岸は初めから譜代か親藩だったから征討の必要無し
38 :
サガミハラハラ :2007/05/06(日) 20:39:24
崇神が九州に派遣しなかったのは、当時の九州には邪馬台国があって、ほかの地域のように簡単に 征服できないと判断したからです。(まだそこまでの国力はなかった。)
39 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/06(日) 20:41:17
天皇家が九州出身だからだろ
ハツクニシラススメラミコトですからね
42 :
日本@名無史さん :2007/05/07(月) 09:05:55
祟神天皇の時代の九州は熊襲が住んでいた。 邪馬台国ではないだろ。
43 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/07(月) 10:53:02
>>42 九州全土じゃぁないろう。九州の一地域だよ。九州だって拾いぞ。
44 :
日本書紀紀年法研究家 ◆RyFCZPFpzA :2007/05/07(月) 11:49:52
”邪馬台国はどっちにあったとおもう?”スレッドの住民の方々にお役にたつかどうかは
わかりませんが、HP「倉西先生のご学問所(
http://www3.plala.or.jp/kuranishigakumon/ )」の歴史学コースの
日本書紀紀年法入門にて、神功紀は西暦201年から389年までを扱っていることを、
日本書紀の編年にはプラス・マイナス120年構想が設定されていることを示すことで、
説明しております。魏志倭人伝の時代は、神功紀において扱われておりますので、
ご興味のある方々は、ご覧になってみてください。
お姉ちゃん! 宣伝乙。 ちなみに、彼女は機内説
46 :
日本@名無史さん :2007/05/08(火) 02:47:17
邪馬台国単体で考えれば四国が妥当。だが次の時代との整合性に苦しむ。 誰か解決してくれ。
47 :
日本@名無史さん :2007/05/08(火) 04:38:59
別になんの勉強もしていないが、九州に一票。 大陸から人が流れてきた歴史を考えると、古代日本最初の文明が 九州にあったことは必然かつ蓋然だろう。そこが当然最大の文明圏に なっただろうに、そこが滅んだ後ならまだしも、それ以上の連合国家が わざわざはるばる近畿に遠征してから生まれるとは考えにくい。
>>47 それは邪馬台国の少し前の話しだったということで、畿内に一票。
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50 :
日本@名無史さん :2007/05/24(木) 23:24:25
香川
陸行十日水行一月の問題だな。 魏の使者は行ってないから、その間に何があるか分からなかった。 邪馬台国自体は北九州のどこかだろうが、魏の使者に対して、 自分たちの国を大きく見せるため、自国の都は陸行十日水行一月行った先にある、 しかも南東方向に、と偽った、真相はそんなところだろう。
52 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 12:00:34
ここはネタスレあるいはあてずっぽうスレでおk?
53 :
日本@名無史さん :2007/05/25(金) 12:50:18
>陸行十日水行一月 この記述は帯方郡から邪馬台国までの合計 一万2千里の距離を陸行、水行するとそのくらいの 日数になるとの記述でOKです。
54 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/25(金) 13:29:14
>陸行十日水行一月 倭人の距離表現方法。(シナ人の距離表現方法は「里」) 邪馬台国から帯方郡までの距離。 >水行二十日 投馬国から帯方郡までの距離。
>>53 ,54
それは不自然な解釈だな。
陸行十日水行一月と、九州説を無理に両立させようとしている。
これは通説通り、投馬国から邪馬台国(の中枢部)までの距離としたい。
しかも、十日、一月という切りの良い数字は明らかに概数であり厳密ではない。
よって自分は
>>51 のように解釈する。
>>55 を少し訂正。
>>53 ,54
それは不自然な解釈だな。
陸行十日水行一月と、九州説を無理に文字通りに両立させようとしている。
自分は、これは通説通り、投馬国から邪馬台国(の中枢部)までの距離としたい。
しかも、十日、一月という切りの良い数字は明らかに概数であり厳密ではない。
よって自分は
>>51 のように解釈する。
57 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/26(土) 16:38:31
>>56 魏志倭人伝の内容は軍事調査書である。(木佐証言参照)
内容はできる限りの正確性を要求される。
裏付のない曖昧なことは記載されない。
帯方郡から邪馬台国までの距離は中国式表現で里数で書いた。
そして、帯方郡から倭の2大国の邪馬台国と投馬国までの距離は、
倭人式表現で其々陸行十日と水行二十日と書き足されている。
最後に距離の混乱を避ける為、帯方郡から邪馬台国までの総距離を12000余里と中国式でまとめている。
参考事項
@倭人の国「今使譯所通三十國」は、狗邪韓国から邪馬壹国までの屬女王国。
不属女王の狗奴国は含まれない。「今使譯所通」ではないから。
A投馬国と邪馬壹国は不彌国の南側に並んでいる。
なお、投馬国は筑後川右岸佐賀平野有明海北岸、
邪馬壹国は筑後川左岸有明海東岸と理解する。
58 :
日本@名無史さん :2007/05/26(土) 17:44:55
魏志倭人伝を読んでいて思ったんだけど、 松浦→糸都→奴(那)と、東に向かっていて、不や国(つや崎?)。 その次に南に向かって投馬国と来るんだけど、 これは遠賀川に入ったんじゃないかなあ? (投馬国はトバ国で現在の戸畑?) 遠賀川は南北に流れている。この辺りから距離が日数で適当に表されているのは、 倭人達に聞いて書いたからか? そして、遠賀川をさらに遡り(南へ水行)、ある地点で下船し、 陸上を邪馬台国に向かった(陸行)のではないでしょうか? あ、言い忘れましたが、私は邪馬台国甘木説です。 甘木に「オオナムチ神社」または「大神神社」と呼ばれる神社があります。 この神社は「おんが様」とも呼ばれているとか? 大和に向かう川が「大和川」であるように、 おんが様に向かう時に利用された川が「遠賀川」なのではないでしょうか? あと、倭人伝に記載されてる地域は基本的に女王卑弥呼の支配下にあったのでは? というのは、「官」「副」「次」は地名の紹介のたびに書かれているけど、 「女王」は邪馬台国にだけ現れるから。
59 :
九州王朝大好き :2007/05/26(土) 22:35:43
>>57 の書き間違い修正
誤 :倭人式表現で其々陸行十日と水行二十日と書き足されている。
正 :倭人式表現で其々「水行十日陸行一月」と「水行二十日」と書き足されている。
60 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 13:55:36
宇佐にあったんじゃない、邪馬台国は。
61 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 20:59:48
「不弥国から南へ水行20日で投馬国」と言う事だから、津屋崎を回り、
遠賀川へ入り、河口から南へ向かって少し行ったあたりが「投馬国」では?
「投馬国から水行10日&陸行20日で邪馬台国」と言う事だから、さらに
遠賀川を南へ10日間水行、ある地点で上陸、(上陸地点は飯塚あたりか?
江戸時代の街道は遠賀川沿いに延びており、飯塚で甘木方面へ分岐している。)
陸路20日で邪馬台国。
ちなみに、
>>32 さんがおしゃるように私も魏の使者は不弥国までしか来ていないと思います。
(不弥国から、距離の記載が、里から日数になる。記述もえらくアバウト。)
あと、糸島半島に一大率が置かれていたが、「邪馬台国より北」をそれは監視していた、
ようするに邪馬台国は糸島半島から見て南にあると言う事だそうだから。
邪馬台国は甘木では?
宇佐はトヨがいた国でしょ?
ヤマトはヤマトにあったに決まってる
63 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/28(月) 01:51:40
>>58 >>61 投馬国5万戸(15万家、人口30〜45万人)と
邪馬台国7万戸(20万家、人口40〜60万人)を
収容できる土地(耕作地)がないと思うが。
奈良時代の人口が全国でおよそ600万人と推定されているのに、 邪馬台国時代に邪馬台国だけで60万もの人口があるわけがない。
>>64 は邪馬台国は北九州の一部にあったというのが前提だからね。
66 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 20:53:45
遠賀川なんて浅くて船が渡れない。わざわざ船で浅い川なんて手間とることするか?
67 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 20:59:21
九州だと思うが川の水行はないと思う。黄河や揚子江と日本の川を一緒にしてないか?もしくは陸行一月は船が座礁して壊れて修理の日数を含めた日にちとかかな?
68 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 21:04:40
投馬は宮崎で四国の南を水行して高知沖を通り、鳴門海峡を通ろうとして船が壊れ、修理後に和歌山沖に到着。和歌山や奈良の山に迷いやっとのことで大和に到着。これで水行10日陸行1月になる。
69 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 21:08:01
和歌山沖から大和は北上するが、使節は山に迷ったり、船が壊れたりで精神がくたくただから方位を確認する余裕がなくて南へ行くと邪馬台国があるにしておいた
70 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 21:15:20
使者は邪馬台国までいったと思う。自分たちは三国志の強国の使者。みたいなプライドがあったから、わざわざ女王に会わずして帰るか?みたいなのがあったと思うよ。セコいことよりプライドを優先したと思う。
71 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 22:08:34
>>66 遠賀川逝ったことある? 十分舟渡れると思うぜ。水量が少ない時は河原を歩いていたんだろうし。
京都の高瀬川でさえ舟を通してたんだよ。舟での移動は楽だぞ。特に下りは。
「水行」は必ずしも舟での移動を意味せず、歩行による川に沿っての移動も含むのでは?
当時は今みたいに道路があるわけでなく、渇水期でも、歩きやすいし、水の心配が無い川はよい交通路だぞ。
よく言われる事だが、伊都国松浦国に比べて投馬国、邪馬台国は戸数が多すぎる。
この辺りは、距離同様、倭人の申告によるものだから、かなり誇張があると考えるべきだと
思うが、人口が投馬国:邪馬台国=5:7とは考えていいかもしれない。
ここで、Google Earthの航空地図で北部九州を見てほしい。投馬国があったと思われる遠賀川
流域:邪馬台国があったと思われる筑後川流域、は古代には5:7であったと思いませんか?
使者は邪馬台国まで逝ってないと思う。プライド云々って何の事?
もし逝ってたなら、松浦国に描写があるように、邪馬台国や、卑弥呼についての松浦より
詳しい描写があるはず。
72 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 23:02:39
プライド=卑弥呼はクナ国対策に頭を悩ましていたから、ぎの国に助けを求めていたのでは? 使節も助けを求めたなら、三国志最強国らしくして卑弥呼に面会したがってたのでは?
73 :
日本@名無史さん :2007/05/28(月) 23:12:04
皇帝の使節が邪馬台国まで行かないで途中で帰ったら、邪馬台国の人々に嘲笑されかねない?みたいな念が働いたと思う。なんか皇帝の使節ってプライド高そうだし。だから邪馬台国までは行ってると思う。
74 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/29(火) 00:46:08
>>64 邪馬台国の人口推定
7万戸×3家/戸×2人/家×1.2=50.4万人
投馬国は5万戸で36万人。
@1戸=数家:韓伝より引用
数個=3〜7個位であるから最小の3を採用。
A倭人伝から核家族と推定できるので、
1家=夫婦2人。又は、1家=長子+未亡人の2人(子が母親を妻とする)。
B未成年は成人の20%程度と推定し、係数は1.2とする。
75 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 11:08:21
遠賀川流域の遺跡はなにかあるの? 神籠石もあるし、古代では重要な拠点であることは 確かでしょうね。
>>64 :歴史修正委員会:2007/05/28(月) 02:31:38
>奈良時代の人口が全国でおよそ600万人と推定されているのに、
>邪馬台国時代に邪馬台国だけで60万もの人口があるわけがない。
奈良時代の本当の人口は分からない。
古代の人口は、弥生時代の開始時期を
土器編年で調べた紀元前3世紀に設定した上での話しだから。
この弥生時代の開始時期が数百年違うだけで、
卑弥呼の時代の推定人口も大きく変化してくる。
>>71 ありえね〜w
グーグルアースで調べたら
どう考えても、投馬国=出雲周辺
邪馬台国=大和周辺だろう?
78 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 15:58:25
古代の奈良盆地は湖沼や沼地だらけで、人はそんなに住めないよ
灌漑が要らない
>71 高瀬川は運河だろ、水門で仕切って淀川より水面上げてあるのさ 江戸時代の廻船だと、江戸→大坂 2昼夜弱だぞ 海の道がどんだけ速いか考えてみろ 陸路の方が峠超えあり渡河ありで、魏の役人なら輿か馬に乗ったろうし、 結局継ぎ立てに時間ばかり食う
81 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 20:53:23
>>77 漏れがグーグルアースで調べたらどう考えても、
投馬国=濃尾平野周辺
邪馬台国=関東平野周辺だろう?
それよりかさあ、いつも思うんだけど、忌内説の連中って、
出雲を投馬国にしたがるけど、根拠はなんなんだよ?
よく、倭人伝の記載が南と東を間違えてるからってのはよく聞くけど、
「倭人伝が間違えてる」って事が根拠なのかよ。
まったくなさけねえな。
太国ちゃんの二倍念力のほうがよっぽどマシだな。
82 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 20:57:40
>>80 だからこそ、水行10日や、水行20日が水増しされた、かつ倭人たちから
又聞きした数字だとは思わんかね?明智くん。
83 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 21:15:57
>>78 そうらしいね。そもそも、「山辺の道」が何故、山辺に造られたかというと
その先が湿地だったからだとか?
巻向は微高地といえるが、鍵唐古は盆地のど真ん中だぞ
85 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/29(火) 21:30:12
>>82 倭人伝は軍事報告書から引用されて書かれている。
上記詳細は木佐証言を参照。(ググってね)
だから倭人からの伝聞で裏付けのない曖昧な事は記載されない。
水行十日陸行一月と水行二十日は、
其々、邪馬台国から帯方郡と投馬国から帯方郡迄の道程を、
倭人風距離表現で書かれている。
以上
>>56 に既述。
なぜ倭人風?
87 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/29(火) 21:38:58
88 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 21:42:30
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y さんは、邪馬台国と投馬国はそれぞれ どこにあったとお考えなのですか?
89 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/29(火) 21:45:13
90 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 21:48:07
>>89 と、言う事は不弥国より先へは魏の使者は逝ってないと言う事になりますね?
91 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/29(火) 21:51:40
>>88 邪馬台国:筑後川左岸有明海東岸、狗奴国(肥後)に北接
投馬国:筑後川右岸有明海北岸
卑弥呼に接見した記述も無い
93 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/29(火) 21:57:55
>>90 魏の使者は行ったか行かなかったは書かれていない。
しかし、軍事司令官の張政は倭国に長期滞在しているので行っていると思う。
94 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/29(火) 22:11:26
>>90 張政は卑弥呼に接見はしていないが、その城郭には行っている。
95 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 23:05:39
96 :
日本@名無史さん :2007/05/29(火) 23:12:34
これに対し、幸いにも、この提案を満足させえたもの、それは一九七一年に発表したわたしの 立場であった。 第一、方角にあやまりはない。 第二、里程は真実(リアル)である。 三国志は、秦、漠朝の里単位(一里=約四二五メートル)ではなく、魏・西晋朝の単位(一里=約七七メートル)によって書かれている。 第三、帯方郡から邪馬壱国までの「総日程」は四十日(水行十日・陸行一月)である。 まるで九州ですがw
97 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 09:59:41
>>96 :日本@名無史さん:2007/05/29(火) 23:12:34
>これに対し、幸いにも、この提案を満足させえたもの、それは一九七一年に発表したわたしの 立場であった。
>第一、方角にあやまりはない。
これさ、ほぼ推定値が確かな奴国まですら
方角が90度間違っているんだよ。
その時点でアウト。
98 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/30(水) 11:46:14
>>97 だからと言って古田氏を全否定する必要は無いでしょう。
古田氏も伊都国(前原遺蹟)と奴国(金印)の呪縛から逃れられなかったのでしょうね。
だからなのか、古田氏から彼の論の微修正はなかなか出てきませんね。
又、僕は「ほぼ推定値が確かな奴国」とは思いませんね。
「又渡一海千餘里」「末盧國」「東南陸行五百里」「伊都國」「東南至奴國」等を、
先入観と言う呪縛無しに読み解きませんか?
99 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 17:56:51
「末盧國」⇒東南陸行5百里 魏の使節団は大量の卑弥呼への贈答品を運ばなければならない。 これを前提に考えると、船から降りて、陸行するときは、できるだけ 邪馬台国の近くまで船で行って、そこから陸行する筈です。 つまり「末盧國」から邪馬台国までは陸行可能でなければならない。 又、帯方郡から「末盧國」までで約1万里だから、残りは2千里程度 とすれば、「末盧國」をどこにするかで、邪馬台国は決定する。 「末盧國」は必ずしも、唐津近辺と決め手かかる必要はない。 松浦郡だから、「末盧國」との先入観をすてれば、「末盧國」は前原でも 博多でも良いし、遠賀川河口流域でも良い。 残念ながら、近畿・四国・吉備ではないことは分かる。
100 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 17:59:36
壱岐から一千里で唐津では少し距離が短い気がするね。 対馬⇒壱岐の距離と壱岐⇒唐津では確かに少し短い。
101 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 20:14:30
>>69 「まるで九州ですがw 」
失敬なっ!
魏使が40日にもなんなんとする道程を「水行十日・陸行一月」だけ、
などというアバウトな表記をする訳無いでしょ。
どこかで停泊した事くらい一言でもいいから書きなさいよ。
だからこれは帯方群からの日数を述べたものじゃて。
102 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/30(水) 20:21:38
>>100-101 渡海千里は50kmほどだよ。
狗耶韓國−対馬(最短距離) 55km
対馬−壱岐(最短距離) 50km
末盧國の可能性のある港湾は、
伊万里、唐津(松浦川)、博多(博多湾)、前原(船越湾)、津屋崎の5箇所となる。
芦屋(遠賀川)は遠すぎる。
103 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 20:24:09
末盧國はやっぱり、唐津(松浦川)じゃないですか?
104 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 20:30:32
105 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/30(水) 20:38:15
>>103 末盧國が唐津(松浦川)であるとすると、
陸行南東500里で、陸行ルートが国道203号か国道323号となり、
伊都國は背振山脈南山麓の小城・佐賀・神崎の周辺となる。
106 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 21:09:45
>>102 そこんとこが九州王朝大好きさんとの見解の相違なのよね。
「水行十日陸行一月」って水行のほうが陸行より短いでしょう。
これは「倭人は距離を日数で表す」とある通り、倭人の言う道程なわけ。
倭人も何度も大陸に渡ってるようだから。
しかし倭人は魏人のようには渡航に自信が無かった。
持斎を立てて渡航の失敗とともに殺害したと言うから毎回必死だったといえる。
故にマツラから壱岐対馬をへて目視出来るプサン辺りを目指したものと思う。
それが、水行十日、陸行一月、という女王国から帯方郡までの距離。
魏使は帯方群から乗船した。渡航技術に自信があったからである。
故に魏使の道程は水行が長く、「一万二千里」のうち、対馬国までで8千里
と水行で大半を消費しているのである。
かかった距離を魏使と倭人側からとの両方を併記している、というのが
せいかいのようよ。
107 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 21:53:23
「末盧國」を唐津にすると、その後500里を陸行していく伊都国が 問題になる。 前原方面には贈答品を運んでは行くには、地形的に無理がある。 また、前原方面に陸行するぐらいなら、最初から前原まで船でいける。 ただ、前原を伊都国とすると、奴国(博多)、不彌国(宇美)は特定 しやすい。 伊都国を背振山の南山麓の吉野ヶ里近辺とすると、その後の奴国 不彌国が問題なる。奴国(甘木方面)、不彌国(久留米・八女) となる。
108 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 22:03:18
倭人伝では不彌国までは里で表記し、その後は陸行・水行となっており、 邪馬台国までの記述は不彌国で完結している。 不彌国は邪馬台国または邪馬台国の入り口(玄関)であった可能性が高い 不彌国が邪馬台国の玄関であることは、古代人の常識だから、あえて邪馬台国 についたと記述しないということはある。 不彌国が宇美なら、邪馬台国は大宰府・朝倉方面 不彌国が久留米・八女なら、邪馬台国は山門郡 どちらの説も過去に学者が指摘した地域に合致する。
109 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 22:10:28
>>108 >邪馬台国までの記述は不彌国で完結している。
>不彌国は邪馬台国または邪馬台国の入り口(玄関)であった可能性が高い
わが投馬国をお忘れか。
む、無念じゃのう・・・・・・。 ──ミミ
111 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 22:33:08
>>110 代わってお答えします。投馬国は水行二十日。
倭人が有明海を舟で下って二十日のところにあったので
邪馬台国連合の飛び地だったと思う。
倭人伝を読んでも奴国などの南にはすぐクナ国が接していたと思われ
投馬国は南九州の南部のどこかだろうと思う。
112 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 22:45:26
>>111 投馬国の「馬」は、「馬の」略字が「与」と類似しているので、
間違われたという考えもあります。
つまり、「投与国」=「トヨ国」=「豊国」
113 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/30(水) 23:04:19
>>112 それなら水行二十日は無いんでは?
大分には、倭人伝中のヤマ国、杷木国、玖珠国{九重の転訛か}などが
存在したと考えるから北部九州のクニとともに陸続きだと考えます。
倭人伝を字義通り解釈すれば方位でも日数でも九州でも畿内でもあり得ない。
だから倭人伝の記述には誤りか虚偽があるわけだが、いつのころかの写本の際に
陸行一日が一月に書き間違えられた、というような説は考えづらい。
書写係の役人はとにかく正確に、特に数値には誤りないよう気を使うだろう。
よって残る可能性は虚偽で、要するに邪馬台国の倭人が魏の使者を欺いたのである、
自国を広大な版図を持った国に思わせるために。
>>51 ,56
後の倭の五王の時の上奏文でも、倭王はあたかも広大な地域を版図に治め大帝国を
築いているかのごとく主張しているのと同じ。
115 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/05/30(水) 23:30:16
>>114 祖禰とは皇祖皇宗のように五王を遡る神武以前の時代の人物
らしいな? 上表文? それは神武以前の貴重な記録のようだな。
神功、應神の時代のころ、九州で勢力をつけて王クラスとなっ
た短期九州王朝の王系だな。当時の各天皇とは別人物だ。
116 :
日本@名無史さん :2007/05/30(水) 23:47:30
>>114 まぁだが現存の三国志は南宋の版本なわけで、この時代の版本は極めて粗悪なことは
先学の指摘していることで。
そうでなくてもいくら書写に正確を期したとしても、
幾度かの転写の過程でいくらでも間違える可能性が大ありなわけで。
それを前提に倭人伝を解釈のが常識だと思いますね。
高千穂のすぐ近くに山都町っていうのがあるみたいだけど邪馬台国に読みが 似ている地名を洗えば手がかりが見つかると思う。
118 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 01:39:57
>>117 残念でした。熊本県の山都町は、いくつかの町と村が合併して最近出来た町。
町が出来たときに名前がついたので、名前も最近出来たもの。
ちなみに、あそこには幣立神宮という知る人ぞ知る神社がある。
知らない人は全く知らないが、外国からわざわざやってくる人もいるらしい。
ちなみに、私は去年行ってきました。そのとき、入れ違いに入ってきた車は、
姫路ナンバーだった。
119 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 01:55:27
>>118 ついでに、幣立神宮について説明すると、別名を日の宮というらしい。
祭神は、良くわからない二柱の神様。それに天御中主大神、天照大御神などと
なっている。由緒書きを見ると、神武天皇についても書かれている。
そこのあたりが高天原だみたいなことも書いてある。
どうもよくわからない神社である。
120 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/31(木) 02:21:09
>>106 結論を先に書きます。
邪馬台国と投馬國は共に有明海沿岸です。
投馬國の倭人が帯方郡に行く時は、有明海から水行のみで二十日。
邪馬台国の倭人が帯方郡に行く時は、有明海から水行十日で狗耶韓國に先ず行き、
狗耶韓國から帯方郡まで陸行一月で行きます。
邪馬台国は倭30国連合の盟主の立場として、
狗耶韓國を倭連合30国の三韓及び帯方郡への玄関として陸路を採った。
倭30国連合のナンバー2の大国である投馬國は盟主としての立場ではないので、
早くて便利な水行のみで帯方郡に行った。
調べたから合併して出来た名前ってのは分かってたよ。だからこそこれが邪馬台国 とまでは言わなかったの、ちょっと残念だったけどね。 まずは邪馬台国の読みをはっきりさせることから始めないと、ヤマタイ、ヤマト の他にヤバタやヤマイとも読めるし、山たい(山です)が転じたなんてこともあり得る
122 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/31(木) 19:37:47
>>120 早くて便利な水行
ほんとにそうですかねえ?その航路だと水行は危険が大きいと思いますけど。
123 :
日本@名無史さん :2007/05/31(木) 20:29:22
>>122 禿げしく同意。
そもそも、「渡海」は東シナ海や、玄海灘のように周りに陸影が見えなくなるような海での航行
の場合に使われ、「水行」は沿岸沿いや、川での航行に使われた(区別して使われている)
のではないかと思ったりするのですが、いかがでしょう、ですが ◆IhXqm1bg5c さん?
124 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/31(木) 21:36:07
>>123 そうですね。
壱岐対馬のところでは「渡る」という表現が見受けられますね。
海流を強く感じるところは「渡る」という表現で表されているような感じです。
ただ陸行に対して水行とひっくるめて言う場合もあるのではないでしょうか。
125 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/31(木) 22:15:28
>>122 安全で速いルートですよ。
水行二十日
有明海→島原湾→天草灘→野母崎→(北上)→平戸→
壱岐水道→壱岐島→対馬海峡→対馬島→朝鮮海峡→
巨済島→多島海→巨次群島→乍北半島西海岸→
江華島→帯方郡
水行十日陸行一月
有明海→(省略)→巨済島→馬山→(陸行)→帯方郡
陸伝い島伝いのルートで、常に陸影が見えています。
舟が陸から最も離れた場合でも30km未満です。
126 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/05/31(木) 22:40:23
>>125 今の舟でも高波などで転覆したりしますよね。
弥生時代の舟でははそれこそ命懸けだったんではないですか?
まあ季節や状況判断して安全を期したとは思いますが
まずは航海するに当たり吉凶を占ったりして大変だったと思いますよ。
半島はやはり陸路だったと思いますが。
127 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/05/31(木) 23:04:25
冬の北西の季節風の時以外は、瀬戸内と同程度の危険性ですよ。 命懸けだったのは、東シナ海(黄海)を渡る時。 倭人伝に書いていますよね。
隼人とか南方系かもしれない 外洋航海に長けたポリネシア系にも通じる人たちが居たと思うよ 天の鳥船って帆掛け舟の事だと思ってるし
129 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/01(金) 06:18:09
>>127 >>128 倭人伝のここの記述をもっとよく読んで欲しい。
まさに命懸けの航海だった事がわかる。
其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲
持衰若行者吉善共顧其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹
彼らは、中国にやってきたりする時は常に一人の人に髪の手入れをせず、
しらみをとらず、服は垢であかで汚れたままし、肉を食べず、婦人を近づけず、
まるで、喪に服しているかのようにさせる。これを名づけて、持衰(じさい)という。
もし、旅がうまくいけば、人々は持衰に生口、財物を与え、
もし途中で病気や、暴風にあえば、持衰を殺そうとする。
なにもかも、持衰が身を慎まなかったせいだからだというのである。
130 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 09:18:30
古代から船の難所は対馬⇒壱岐の海峡と下関と門司の海峡 流れがはやく、関門海峡は古代船は大事な品物を運ぶ時は、 避けていたらしい。
131 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/01(金) 10:12:29
>>129 「其行來渡海詣中國」が「命懸けの航海」であることは、東シナ海か黄海を渡ることを意味している。
なぜなら、
朝鮮海峡、対馬海流の流れる対馬海峡「瀚海」と壱岐水道は、
「乘船南北市糴」及び「亦南北市糴」の場であるから、
日常的に通行しており「命懸けの航海」にはあたらない。
132 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 11:54:00
邪馬台国時代の古代船は、まだ日常航行できるほど大型 ではないはずです。 当時日常航行できるだけの造船技術をもっていたのは 中国の呉の勢力のみです。 呉が晋に滅亡させられるのと、日本に大型船の建造が 可能になるのと前後している
133 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/01(金) 12:53:34
>>132 日常航行するのに大型船は必要条件ではないです。
小型手漕ぎ舟(ボート)でも日常航行するのに何の問題もありませんよ。
小型手漕ぎ舟(ボート)で東シナ海を渡るとするならば必死の覚悟が必要でしょうね。
余談:
空海が東シナ海を渡るのに何回も失敗していますが、
その失敗の理由を考えたことがありますか?
その理由は船の構造や航海技術が劣っていたからでありません。
失敗の背景には政治的人為的理由があったのです。
その政治的理由の為、現代でも東シナ海を100%の確率でヨット横断に成功するには、
GPSが必要でしょう。羅針盤や六分儀でも100%は無理でしょう。
遣唐使船が難儀したのは和船の構造に船としての致命的欠陥があったからだよ。 後代少しずつはマシにはなったが本質的には変わらず、 南蛮船によって得た造船知識も鎖国によって廃れ逆戻りしてしまい、 江戸末期に開国するまでその状況は変わらなかった。 このあたりのことは調べればすぐ分かる。
135 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/01(金) 19:34:01
>>134 和船の構造的欠陥は小さな弱点でしょう。
政治的人為的に大きな問題があったことを示す事象があります。
@7世紀には比較的安全に頻繁に唐渡航をしていたのが
(白村江に大船団を送る能力さえある)、
8世紀に入ると突然唐渡航の成功率が極端に下がる。
これは4世紀のレベル以下の渡航成功率とみなせる。
A8世紀になると、渡航の出発点が薩摩西海岸坊津になる。
何故に@Aの様なことがあったのでしょうね?
以上は「※九州王朝はなかったのか?※ 11」スレの内容になりますが書きました。
136 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/01(金) 19:40:21
>>133 空海が東シナ海を渡るのに何回も失敗
鑑真は5〜6回失敗してますね。倭人はギリシア人やフェニキア人のような
海洋民族ではなかったようで航海に長けていたとはいえません。
遣唐使船ですらこの有様ですから弥生時代は難破など茶飯事だった
その為いちいち持衰など立てたんだと思いますが。
なんか平行線ですね。僕ももっと詳しく当時の航海について調べてみる事にします。
違った事実が浮かび上がるかも知れませんし。
137 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/01(金) 20:00:03
>>136 航海そのものを調べるよりも、社会環境を調べるのが良いと思います。
8世紀の渡航成功率は20%程度でした。
もし3世紀の渡航成功率が20%なら、
8割の失敗率(死亡率)に賭けて、持衰になろうとする人間はいなかったと思うのですが。
138 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/01(金) 20:13:50
>>137 持衰って言うのも占いで決めたんじゃないですか?
それか生口になってもらったとか。
誰もなり手があるとか無いとかの問題じゃないと思いますけど。
139 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 21:22:25
新羅船に送迎をやってもらってたのでしょうか、
140 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/01(金) 21:26:20
>>138 8割の失敗率(死亡率)なら、
持衰になることは死刑宣告を受けたのと同じではないでしょうか?
死刑宣告受けたに等しいような者が節制した生活をすることができるでしょうか?
それとも死刑囚を救済する方法が、持衰にすることでしょうか?
141 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/01(金) 21:38:09
>>139 新羅船に送迎
倭船には大陸から渡来した当時最先端の航海技術を持ったエキスパートが
乗船していた可能性だってあります。当時も魏とのつながりがありますから。
しかし準構造船では限界があった、というところでしょうか。
142 :
日本@名無史さん :2007/06/01(金) 21:43:24
古代中国の舟は、所詮、河舟だからね。海を渡る必要もないし。 対馬海峡を渡りなれていた日本の舟あるいは操船技術のほうが優れていたかも。
143 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/01(金) 21:48:26
>>140 だから当時と今では社会の常識や通念といったものが全く違っていたという事でしょう。
持衰もうまくいけば「人々は持衰に生口、財物を与え」たといいますから一か八かでもあったでしょう。
とにかく持衰は航海がいかに困難だったかを物語るエピソードには違いありません。
東シナ海を渡る ⇒ 等緯度航法というか、真っ直ぐ東とかだと比較的簡単ですよ、羅針盤が無くても 造船知識も鎖国によって廃れ ⇒ 幕府が禁止したんですな、規制の上限が帆柱一本の千石船 暴風にあえば、持衰を殺そうとする ⇒ 海の生贄は日本神話にもよく出てきますね、日本武の話とか
145 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/02(土) 17:52:22
6月2日、 北朝鮮から青森への脱出者4名。 全長8mの手漕ぎ舟でやって来た。 全員健康。 ところが8世紀の遣唐使の渡航成功率は20%。 これは異状だね。
146 :
九州ですが ◆IhXqm1bg5c :2007/06/02(土) 18:06:56
>>145 今の舟は水の抵抗とかを考えて科学的に理に適った構造になっているが
当時はそれ自体いわば「つくりが変!」だったんじゃない?
高波にも弱い構造になっていたというような。
ところで舟の問題は九州王朝大好きさんの説である九州に王朝が存在した
という説とどう関わってるの?
147 :
日本@名無史さん :2007/06/02(土) 23:35:51
>>145 北朝鮮から日本に向けて出発した舟が何艘あったかがわかって、初めて
確率がわかる。
148 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 00:02:55
ただ渡航成功率は20%は低すぎるような。 それだと、死にに行くようなもの。
149 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 00:22:06
金印はどこにあるのか。
150 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/03(日) 08:50:46
>>145 の間違い訂正
誤:>全長8mの手漕ぎ舟でやって来た。
正:全長7.3mの発動機舟でやって来た。
船外機エンジンを取り付けていなかったので、手漕ぎと誤判断。
発動機2台を積んだ舟とは驚き。
50年以上前の日本のレベルだな。
151 :
日本@名無史さん :2007/06/03(日) 09:12:27
>>148 土曜にTVで古代ギリシアのスパルタのテルモピレーの戦いの事が取り上げられていたけど
やはりいちいち戦いに先だって巫女の託宣を仰いだんだと。
マヤとかインカでも呪術師が占って「こんなんでましたけど〜」に従って
生かされたり生贄にされたりしたように持衰も殆ど自由の利かない強制だったと思うね。
死にに行く事になろうと殆どそれ以前に自由を奪われた。
そしてまるで喪がりのような禁欲生活を強いられ体中に墨を塗りたくられ
船底に縛り付けられたようなかっこで航海したと思う。
これは想像だけど「塗炭の苦しみ」ってここから来てるんじゃないかと
前々から思っているんだが。違うかな?
152 :
九州ですが :2007/06/03(日) 09:23:28
153 :
九州ですが ◆UEukKMcVo2 :2007/06/03(日) 10:04:04
僕が手違いで消しちゃったようよ。
食えるだけで有り難い時代 貧農の娘が遊女屋に売られる様なもの
155 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/07(木) 21:47:25
>>146 >舟の問題は九州王朝大好きさんの説である九州に王朝が存在したという説とどう関わってるの?
九州王朝は699年に軍事的にも完全に滅亡したのですが、
続日本紀の記事を見ると8世紀に入っても九州王朝の勢力が残存していた事が伺えます。
特に畿内朝廷の支配が及んでいなかったのは九州西海岸地域(肥前・筑紫)です。
畿内朝廷の西九州非支配は、九州勢力が独自に中国に朝貢するなど、15世紀迄続きます。(倭寇)
又、半島西南端の1323年と見られる沈没船の積荷は、九州に畿内とは異なる勢力があったことを伺わせます。
この九州勢力が衰え始めるのは、大内氏が筑紫支配をし、中国交易を始めた頃からでしょう。
古代九州の川舟の構造についてはわかっていますが、外洋舟の構造は未だ明らかにになっていません。
多分川舟に近いものであったのであろうとの勝手な推測があるに過ぎません。
九州の外洋舟は、1世紀から3世紀には使節を中国に送り、3世紀には海峡交易をし、
5世紀からは軍団を半島に送る能力があり、又、7世紀には数百艘の船団を半島に送る能力があったのです。
九州外洋舟は9世紀以降の畿内朝廷には継承されなかったものと見られます。
源平海上戦では川舟で戦ったようなものです。
神武が鳴門海峡を通り、日下に侵入し、大敗後、南方を通過して脱出できたのも、
畿内の舟よりも優れた舟であったからだと考えます。
156 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/06/07(木) 21:50:12
>>146 続き
>>155 8世紀の遣唐使は薩摩半島南端から出発し、又、其の付近に戻らなければなりませんでした。
出発の時に、対馬海流や南西の風に船が北に流されると、
肥前の九州王朝残党に惨殺され(畿内朝廷が九州王朝残党に対したのと同等の処置)、
唐からの帰りには薩摩へのピンポイント帰着が必須条件でした。
九州中北部に到着しやすくなる対馬海流に乗ることは、帰国遣唐使にとっては死を意味していました。
鑑真の南寄りの漂流(琉球等へ)は、その事をよく物語っています。
九州王朝残党による惨殺と、そのプレッシャーによる漂流難破が渡航成功率を20%に下げたと見られます。
ただ、運良く五島列島に遣唐船が流れ着いたときには惨殺されることも無かったようです。
この成功率20%が九州海洋和船の構造と航海能力を、今まで低く見積もらせた原因のひとつと思われます。
畿内朝廷の操船能力も劣っていたのでしょう。
157 :
日本@名無史さん :2007/06/08(金) 19:19:31
最初は九州、遷都して畿内に移った。
しかも二度?w
159 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 02:56:08
森浩一さんは、魏鏡とされる三角縁神獣鏡は中国や朝鮮で一面も出土していないから、大和説の学者は、それをもって邪馬台国 が大和にあったというのはおかしいと言う。 大和説の人はこれについてどう説明するのか。 逆に九州説の人は、たとえ三角縁神獣鏡が国産鏡であったにしろ、それを作れるだけの政治権力が大和にあったということではないのか。 卑弥呼はその鏡を使って政治運営していたのではないか。 これについて九州説の人はどう考えているのか。
160 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 03:59:16
そもそも棺内に大事に置かれずに 外に何枚もばらまかれてる三角縁神獣鏡を 卑弥呼の鏡だなんて仮定自体がおかしいわけだが
161 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/15(金) 07:33:18
倍暦で卑弥呼の時代は崇神の時代の前後ころだ。計上すれば 崇神即位元年=237年=景初元年 だから畿内の鏡とやらは、殿内に鏡剣を祀ることにした崇神天皇の行事から 準じた一般の畿内民の鏡だな。
162 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 08:15:09
九州から畿内へわざわざ遷都する理由がない。 だれかさんがいっていたけど、 出雲王朝から日向に派遣されていた天皇家が 畿内へ移転して、そこから天下をとっただけの話だろう?
163 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 10:31:24
邪馬台国は無かったに一票
164 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 10:37:03
高天原思想の精神理論は 三角縁神獣鏡の裏面にその世界観が掘られているんだよ。
165 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 13:19:54
出雲は関係ないだろう 日本書紀、古事記にあらわれるスサノヲの話が、 出雲国風土記では一切現れないのを知らんのか 天皇家の神話が、出雲から出たものではなかったということ 天皇家が出雲と関係なかった証拠
166 :
日本@名無史さん :2007/06/15(金) 18:40:42
日本書記、古事記は捏造されてるから、信憑性にとぼしい まだ、出雲風土記の方が、信用できる気がする。 天皇家は過去に、何度も滅亡してるらしいから、それを捏造 して1つの書物に纏め上げた、藤原一族の功績はすごい。 AD720年に500年以上前の歴史を創作する熱意は尊敬します。 現代(2000年)において、戦国時代の武将の生い立ちを探す ような作業で、古代は文字がなかったから、なおさらでしょうね。
167 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2007/06/15(金) 19:09:52
文字がないとか言っても稲荷山鉄剣や東大寺古墳の鉄刀、おまけにペトログラフ とやらでもいくらでもある。 捏造した根拠、資料を具体的に書け。なけりゃぁお前の論が捏造だということ になる。 記紀はお前の頭より古代のことは確かだ。ww
168 :
日本@名無史さん :2007/08/12(日) 00:08:58
もちろん近畿 祟神・垂仁王朝と名称・内容共に一致しまくりなのに疑う理由無し 遺跡も発掘されてるし あとは金印だけだな
>>168 記紀は倭人伝を元に書かれたので一致するのは当然である
卑弥呼の墓は箸墓古墳だろうな
誰か箸墓の調査してくれないかね? それさえ出来れば、邪馬台国論争になにがしかの結論を出せると思うんだけどな。
172 :
日本@名無史さん :2007/09/13(木) 05:34:25
筑後平野には女性を祀った神社や古墳がいくつか存在します。
戦略的に考えて大宰府ではない? 防衛拠点としても、九州北部支配拠点としても。
174 :
日本@名無史さん :2007/09/13(木) 07:57:33
卑弥呼=吉永小百合 邪馬台国=東京 これ確定の赤ランプだ
175 :
ローガン :2007/09/13(木) 23:56:15
176 :
ローガン :2007/09/16(日) 00:44:32
三角縁神獣鏡の存在が畿内説の骨子だなんて、畿内派はあんまり考えていない。おもに九州説の畿内説に対する 批判材料になっているだけ。 黒塚みたら、誰でも解る。 前方後円墳の発生から広がりを考えてみたら日本である程度、首長霊(祖霊)祭祀方法が確立されたのは4世紀頃でしょう。3世紀はその黎明期。普通に考えたら、 前中期の前方後円墳がある地域は連合体と考えるのが一番常識的でしょう。 もし前方後円墳の発生と広がりを、充分認識した上で、 「それらが存在した地域が祭祀を共有した連合体でなかった。」とはっきりとした論拠を掲げた上で、 九州説を堂々と述べていただければ、直ぐにでも、逆に私が見事に畿内派を論破して差し上げますが。いかが? 少しでも学習された方には不可能でしょう。トンデモ説ならあるでしょうが。もし幸いにもお答えをいただけける 方があれば、論拠をよろしくお願いします。
177 :
日本@名無史さん :2007/10/05(金) 07:53:52
前方後円墳の発生から広がりを考えてみたら,完全に畿内説が優勝しました
178 :
日本@名無史さん :2007/10/05(金) 10:27:47
179 :
ローガン :2007/10/06(土) 00:17:31
誰からもコメはない…やはり九州説はただの絵空事であったか? 是非もない…
180 :
日本@名無史さん :2007/10/06(土) 11:58:31
声が大きいのは九州説支持者
181 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 00:46:29
邪馬台国は30程度の連合国家 卑弥呼は軍事的に力はなく、宗教的象徴で 豪族のバランスの上にいたお飾り 当然、卑弥呼が死ねば、混乱に陥り 新しい政権ができた
182 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 01:15:31
その新しい政権が大和政権 したがって邪馬台国は畿内
ものすごく正確には決して信用できない「魏志 倭人伝」にある 程度おつきあいするならば、(邪馬台国という発音も曖昧な不思 議な国があったとするならば) それはまあ、なにげに畿内じゃないの、という感じかね畿内派は。 だから「説」というほど力んではいない。邪馬台国に対してクール なんだな。 もはや「畿内説対九州説」というのは無い。あるのは「九州説」と いうトンデモなんだな世間的には。 でも俺、九州派応援。客観的状況証拠よりロマン、みたいな。
184 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 02:22:19
いや今や九州内のどこが卑弥呼の都かが問題であって九州説と十把一絡げにできない。 九州説 ・博多湾岸 ・甘木 ・宇佐 ・朝倉 ・山門 その他トンデモ説 ・エジプト説 ・アメリカ説 ・マキムク説←畿内説 ・宇宙人説 ・ハワイ説
185 :
サガミハラハラ :2007/10/08(月) 07:14:04
>>184 一番肝心の小城をおとしていますよ。
もっとも合理的にして現実的なのは小城なのです。
186 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 07:53:59
邪馬台国という漢字はあて字 「ヤマトの国」という意味でしかない 卑弥呼も単なる「巫女」を丁寧に言っただけ というわけで、畿内
187 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 08:00:37
邪馬台国の南になったとされる狗奴国は(木の国)→紀の国 つまり和歌山 神武伝説の熊野から上陸し吉野を経て奈良を征服と一致する というわけで、畿内
188 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 08:31:53
三輪山から伊勢神宮にご神体が移されたのは 政権交代があったからだろ つまり、九州勢力が前大和政権を滅ぼした 神武伝説を一致する といわけで北九州
189 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 08:43:33
>>185 小城説なんてだれも相手にしていませんよ。
もう、あきらめたら。邪馬台国は畿内ですよ。
190 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 08:48:26
>>189 馬鹿ですか?
九州に決まっているだろ
つーか、神武の東征は無視ですか?
191 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 13:49:11
どっちかって? そりゃ・・おめぇ あっちだよ
192 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 13:53:41
あっちって、どこだい
193 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 13:54:36
あっちか?・・・・あっちって言ゃあ そっちだよ
194 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 19:39:16
帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行し、韓 国(馬韓?)を経て、時には南行し、時には東行し、その北岸(?) 狗邪韓国(くやかんこく)に到る。七千里余りである。 始めて大海をわたること千余里で対馬に至る
195 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 19:43:54
有明海周辺で決着はついたんだがw
文明の条件として大河があるなら筑後川は流域の広さ的に申し分ない
197 :
日本@名無史さん :2007/10/08(月) 19:49:14
九州説の人は押しが強いな
198 :
サガミハラハラ :2007/10/08(月) 20:26:06
>>184 >>189 さん、あなたがたは、私の小城説をご存知なのでしょうか。一通りでも知ったその上での判断なのでしょうか。
もし、読みもせずに、小城説を否定するとしたら、いくら邪馬台国論者の多くが憶測と妄想で論争しているにせよ、
考えもせずに否定ではするべきではないでしょう。
199 :
日本@名無史さん :2007/10/09(火) 04:18:50
邪馬台国問題は、国家発展の歴史の問題でもあるのですよ。 倭人伝によると、卑弥呼という女王がいて、魏と交流していたことがわかる。 しかも、九州の各地や壱岐や対馬まで官を置いて支配していた。 もし、卑弥呼が九州にいたと仮定すれば、そのときの『倭』は、九州だけを 指していて、統一国家などとはまだ言えない段階と言う事が出来る。 しかし、もし、邪馬台国が近畿地方にあったとすれば、近畿地方の邪馬台国は、 九州を支配し、当然その間の地域も支配し、バランス的に言っても東側も 相当な地域を支配していたと考えられる。これは後期の大和朝廷に匹敵するほど 強大で、すでに統一国家が出来ていたとも言える。 果たしてどちらのほうが妥当なのか。崇神天皇の四道将軍派遣の逸話などから すると、邪馬台国が近畿地方にあるとするのは時代的に早すぎると思う。 これは、邪馬台国に狗奴国という強敵がいることからも想像できる。 また、邪馬台国の卑弥呼が支配していた国の数は、29カ国か30カ国。 五世紀末に倭王・武が宋に送った上表文に記載された支配する国の数は216カ国。 これから見ても、邪馬台国畿内説はありえないと思う。
200 :
日本@名無史さん :2007/10/09(火) 07:57:59
九州なんて言ってるのは馬鹿 >卑弥呼という女王がいて、魏と交流していたことがわかる。 はあ?何回か使者を送っただけ 邪馬台国は連合国家であり、支配の形跡はない
201 :
日本@名無史さん :2007/10/09(火) 09:31:40
それでは、王が伊都国にしかおらず(世世女王国に統属すとある)、諸国は官となっているのをどうみるのか。 また、刺史のような一大率を諸国が畏憚するとあるのはどういうこと。
202 :
日本@名無史さん :2007/10/09(火) 10:20:40
倭人伝が正しいって証明されたのか?
畿内説ってこうあってほしい説 2600年の天皇の歴史に反するからってのがこいつらの政治的思想 畿内説にとって歴史は学問じゃないんだよ、原理主義の宗教であり政治思想 何を言っても畿内原理主義以外は受け付けないからどうしようもない。
歴史が解明されて当時の天皇の先祖が 邪馬台国のしがない地方官だったりその辺の村長だったりしたらこいつら隠すだろうよw 都合の悪い歴史を焼却してしまうのは朝鮮人特有の物だが こういうところから畿内説論者がチョンと言われる由縁がある。
205 :
日本@名無史さん :2007/10/17(水) 18:34:18
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
206 :
日本@名無史さん :2007/10/17(水) 19:56:55
>>204 はあ?
都合が悪いも何も文献がねえのはしょうがない
風土記だって4カ国しか残ってないし
魏志倭人伝の記述だっていい加減
普通に計算したら太平洋だろうがw
207 :
大倭弟王 :2007/11/02(金) 14:51:12
>>206 >普通に計算したら太平洋だろうがw
素直に計算したら、邪馬台国は筑後平野久留米市近辺。
208 :
サガミハラハラ :2007/11/02(金) 15:04:18
メジャーと常識で計算したら、佐賀県小城市甘木です。 まちがいない。
日本に着いてからの航海時間の長さから九州ではないだろう 日数を数えるのはどの時代でも容易だが、方角は実際とずれる可能性は高いのではないか? あと邪馬台を当時の発音で言えばヤマトにかなり近いらしい
210 :
日本@名無史さん :2007/11/06(火) 21:40:33
水行XX日って書いてあるけど、帆船なのか手漕ぎなのかで全然速度が違ってくる 時速何キロくらいで計算したらいいの?
211 :
九州王 :2007/11/06(火) 22:05:54
海┏┛∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┏┛∵∵∵∵∵∵∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 ┗━┓∵∵∵帯方郡∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┗━┓∵▲帯方郡庁∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜┣━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┏━┛∵∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┃∵∵∵馬韓∵∵┃辰韓∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┗┓∵10万余戸∵┃弁辰∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜海 海〜〜┣━━━━━━┻━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┗━ 海〜┏┛投馬國5万余戸┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵ 海〜┃∵∵∵┏━━━━┛〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵ 海〜┗━━━┛〜〜〜〜〜〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵∵∵∵∵∵
212 :
九州王 :2007/11/06(火) 22:06:37
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓┛〜〜〜〜〜〜┏━┛∵∵∵┏┓∵┏━ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵倭種∵┃┗━┛海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┓〜〜〜〜〜┗━━━━━┛〜〜┏┓ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜┏━━┓〜〜〜〜〜〜〜┏┛┗ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵┗━┓〜〜〜〜┏┛∵∵ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵邪馬壹國∵┃〜〜〜┏┛侏儒國 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵┏┓∵7万余戸┗┓〜〜┗┓∵∵┏ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┃┗┓∵∵∵∵∵┃〜〜〜┗┓┏┛ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┏┻━━━━┳┛〜〜〜〜┗┛海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛狗奴國∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓┏┓∵┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛┃┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
213 :
九州王 :2007/11/06(火) 22:10:23
郡から伊都國までを計算すると下記のように11900里になる。 七千里+千里+(四百里×2)+千里+(三百里×2)+千里+五百里=11900里 ※方可とあるので、対馬南島と壱岐をそれぞれ半周したと考え、(四百里×2)(三百里×2) 「自郡至女王國萬二千餘里」とあり、帯方郡から女王國まで12000里。 伊都国から奴国まで百里、つまり帯方郡から奴国までが帯方郡から女王國までの12000里と同じ距離となり、奴国は女王国の一部であったと考えられる。 距離を時間で再説明 南へ水行20日で投馬国に至る(7000里)。南に水行10日陸行1月(3400里+600里、陸行1月は1日の誤り)で女王の都のある邪馬台国に至る。 (邪馬壹国)70000余戸=對馬國1000余戸+一大國3000余戸+末盧國4000余戸+伊都國1000余戸+奴國20000余戸+不彌國1000余戸+20國×2000戸 海〜〜┃∵楽浪郡∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┣━━━━━━━∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜┃∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
214 :
九州王 :2007/11/06(火) 22:11:11
海〜┌←←←▲帯方郡庁∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜↓┗┓∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜└┐┃∵帯方郡∵∵∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜↓┣━━━━━━┳━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵┗┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜↓┃∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜↓┃∵(馬韓)∵∵┃(辰韓)∵┃〜〜〜韓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜↓┃∵10万余戸∵┃(弁辰)∵┃〜方可四千里〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜┌┘┃∵∵∵∵∵∵┃4-5万戸 ┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜↓┏┛∵∵∵∵∵∵┃∵∵∵∵┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜↓┣━━━━━━━┻━━━━┫〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜↓┃(投馬國)5万余戸 ∵┏━━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜↓┃∵∵∵狗邪韓國◎━┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜↓┗━━━━━┛┌┤〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海
215 :
九州王 :2007/11/06(火) 22:11:57
海〜└→→→→→→→┘↓〜┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜七千餘里〜〜〜〜〜↓〜┃┃〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜水行20日〜〜對馬國├○┓┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜↓┗┛対馬下島〜方可四百餘里〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜水〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜行〜〜〜〜↓〜千餘里〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜10〜〜〜〜↓┏┓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜日〜一大國├○┛壱岐〜方可三百里〜〜〜〜〜〜〜海 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜└→┐〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━┓ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜千餘里↓〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵┃ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━○〜〜┏━━┓〜〜┃∵不彌國∵∵┃ 海〜〜〜〜〜〜〜┏━━┓〜┃末↓━陸行1日(月) ━┛∵∵∵∵∵∵┗ 海〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵┗━┛盧└→→○→→→◎→斯→己→伊→都∵ 海〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵國∵五∵伊∵百∵奴∵馬∵百∵邪∵支∵ 海〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵∵∵∵百∵都∵里∵國∵國∵支∵國∵國∵ 海〜〜〜〜〜〜〜〜┗┓∵∵∵∵∵里∵國∵∵∵↑∵∵∵國∵∵∵↓∵
>>214 なぜ投馬国を韓半島にもってくるのか、理解不能
投馬国は周知の通り、倭人伝では不彌國と邪馬台国の間に記されている
当然、日本列島の中にある
納得のいく理由を詳細に書いてくれ、文章で
ペタペタと妄想図を貼り付けるだけじゃ、誰も賛同しない
218 :
九州王 :2007/11/06(火) 23:44:17
海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┃∵∵∵┏┓∵∵∵∵烏奴國∵∵∵∵∵∵彌奴國 海〜〜〜〜〜〜〜┏┓┃∵∵┏┛┗┓∵∵∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵ 海〜〜〜〜〜〜┏┛┃┃∵∵┃〜〜┃∵支惟國∵∵∵∵∵∵∵好古都國 海〜〜〜〜〜〜┃∵┃┗┓∵┗┓〜┃∵∵↑∵∵(邪馬壹国)∵∵∵↓∵ 海〜〜〜〜〜〜┗┓┃〜┃∵∵┃〜┃巴利國∵∵∵7万余戸∵∵不呼國 海〜〜〜〜〜〜〜┃┗┓┃┏━┛〜┃∵↑∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵↓∵ 海〜〜〜〜〜〜┏┛∵┗┛┗━┓〜┃躬臣國∵∵∵∵∵∵∵∵∵姐奴國 海〜〜〜〜〜〜┗━━━━┓∵┃〜┃↑∵∵∵∵∵∵∵華∵∵∵∵∵↓ 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵┃〜┃邪←鬼←爲←鬼←奴←呼←蘇←對 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏┛∵∵┃〜┃馬∵奴∵吾∵國∵蘇∵邑∵奴∵蘇 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜┗━━━┛〜┃國∵國∵國∵∵∵奴∵國∵國∵國 海〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━┛∵∵∵∵∵∵∵∵國∵∵∵∵∵∵ 海〜〜〜〜〜〜┏━┓〜〜〜┗━━━┳━━━━━━━━━━━━━━ 海〜〜〜〜〜〜┃∵┃〜┏━┓〜〜┏┛∵∵∵(狗奴國)∵∵∵∵∵∵
219 :
九州王 :2007/11/06(火) 23:55:04
>>217 「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月」は帯方郡から邪馬壹國までのかかる日数を記したもの。
帯方郡から投馬國まで南へ水行二十日、更に南へ水行十日陸行一月で邪馬壹國に着く。
ただし、陸行一月は陸行一日の誤り。(毛筆で月と日は区別しにくい、他の文が日で記されているのに一か所だけ月はおかしい)
220 :
日本@名無史さん :2007/11/07(水) 07:25:06
221 :
日本@名無史さん :2007/11/24(土) 17:55:27
対馬國=対馬 一大國=壱岐 末盧國=松浦(唐津) 伊都國=伊都(糸島) 斯馬国=糸島の志摩半島 好古都国=博多 対蘇国=鳥栖 蘇奴国=佐賀 呼邑国=小城 華奴蘇奴国=神崎(吉野ヶ里遺跡)
222 :
日本@名無史さん :2007/11/24(土) 19:21:36
>>221 訂正
伊都国=多久市
対蘇国=対馬北島
蘇奴国=北九州市小倉
呼邑国=飯塚市
華奴蘇奴国=苅田
以上謹んで訂正いたします。
223 :
日本@名無史さん :2007/11/24(土) 23:30:18
>>219 はめちゃくちゃ。邪馬台国論争が過去にあった事も知らない様子。
話にならない。相手にしないほうがいいよ。でも…誰でも一番はじめはこんなものかな?
224 :
日本@名無史さん :2007/11/29(木) 10:22:05
225 :
日本@名無史さん :2007/11/29(木) 11:13:23
偉そうなのは2ちゃんではデフォw まあ古代史野郎なんて本職の学者でも案外適当な説をぶっかましてるがw
226 :
日本@名無史さん :2007/11/30(金) 00:42:27
>>224 >>223 のように、理由も言わずに、きつい批判だけするようなのこそ、
相手にしないほうがいい。
227 :
日本@名無史さん :2007/11/30(金) 19:52:44
たとえば神功皇后が北九州に宮を置いたとき「大和政権は九州にあった」となると思う? 古代は天皇親征が当たり前だったんだから熊襲と争ってた卑弥呼が本国から離れて九州にいて そこで魏の使者と面会しても不思議じゃない
228 :
日本@名無史さん :2007/11/30(金) 20:04:02
倭人伝を読むと、どうよんでも魏使は邪馬台国の都までいっているようです。 卑弥呼死後の混乱と葬儀、壱与の即位がかかれていますから。
229 :
日本@名無史さん :2007/11/30(金) 21:45:49
魏使が卑弥呼の葬儀と壱与の即位に立ち会ってなおかつ それについて実際に魏使が実際に見聞したものを報告書に作成したのか そうでなければ倭人による伝聞がソースでしかなくなって魏使が邪馬台国本国(神功皇后でいう大和の国)に 行った証明にならない それと古代日本にはおそらく「都」は存在せずあったのは王の代ごとに位置が変わる「宮」
>229 当時は妻の実家に通う通い婚 大王になると実家の支援で宮を設けて住んだのだろう 「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣つくるその八重垣を」 一夫多妻で、庶子はそれぞれの妻の実家で育ち成人したら父王のもとへ出仕する だから都(というか宮)は転々ただろう 幾重にも囲まれた環濠集落=八重垣ともとれるな この場合、妻の実家が治めるクニの環濠集落に特別な内郭を設けたという意味かも
231 :
日本@名無史さん :2007/11/30(金) 22:57:14
魏使は実際に見聞したことを報告していますよ。
232 :
日本@名無史さん :2007/11/30(金) 23:13:54
香椎宮とか母親の実家が香椎にあったわけじゃないでしょ 遠征中に臨時の宮を置くことは記紀にも記されてる
日本武尊の九州討伐の時に現地の娘に生ませた子(のちの仲哀天皇)がいて、 成務天皇なきあと皇子が途絶え、甥の仲哀天皇が九州で即位(穴門豊浦宮) その后、神功皇后も九州の出自、その子の皇子が応神天皇となって畿内にもどったとしたら?
234 :
日本@名無史さん :2007/12/01(土) 10:32:44
倭人伝では、 卑弥呼は、狗奴国(このこく・中古音)の卑弥弓呼との戦いが起こった直後に死んでいる。 (西暦247 か 248年) 一方、日本書紀では モモソヒメは、許乃国(このこく・京都宇治)の武埴安彦命との戦いが終わった直後のその年に死亡。 (崇神治世10年) 倭人伝と日本書紀は整合性がとれている。
235 :
ローガン :2007/12/13(木) 23:38:25
>>231 魏使は実際に見聞した事を報告したあ?
ほ〜? よくご存じだね。
その論拠を聞かせてくれる?
>234 そうだと思う
237 :
日本@名無史さん :2007/12/14(金) 19:11:23
>>235 君は魏使が見もせず、聞きもしないことを報告したと思っているのか?
その論拠を聞かせてくれる?
238 :
日本@名無史さん :2007/12/14(金) 19:49:51
見なくても聞いたことなら報告できるだろ 卑弥呼の死に目前で立ち会わないと卑弥呼の死を報告できないと言うのかね?
普通に考えて九州だ 学者の数や皇室の関係上畿内がでてきてるがな 福岡の北九州から豊前あたりに一票
240 :
日本@名無史さん :2007/12/17(月) 21:42:31
諸星大二郎が好きだから九州説を信じてる。暗黒神話。
241 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 01:07:38
九州の久留米付近じゃね? 筑後川云々もそうだが、あの辺から八女にかけて古墳群がゴロゴロしてるし、 八女津姫伝説もある
242 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 02:28:13
九州には王や女王がいて鉄器も豊富な中国と交流のあった国が ゴロゴロしていたと思う。 邪馬台国は大分・宮崎辺りだとおもう。山国川と山国町とかあたりだろ。 中津や宇佐・日田など、後の大和政権とも関連する場所がゴロゴロしてる。
243 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 03:45:17
入れ墨だらけというじゃないか。 つまり、見せつけるぐらい肌が露出しても寒くないとコ。 そうなると畿内はイメージにないな。
244 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 08:27:37
>243 畿内は暑いぞ。 大阪は日本一暑い。 って、日本に住んでりゃあ、たいてい夏はどこでも暑いだろうが。 九州が常夏で、冬でも素っ裸というならともかく。
沖縄か台湾、とにかく本土じゃないと思う。 ひょっとするとフィリピンかインドネシアかも。
>>243 あれは邪馬台国の記述じゃなくて狗奴国の記述。
>>244 盆地だから夏に暑いだけ。ビルが立ち並ぶから暑い都会なだけ。
九州の鹿児島・宮崎あたりは南国の気候。全然違う。
確かめたければその足で宮崎まで行って来い。大分のちょうど中部辺りから
魚や貝も南国のものになるんだよ。
山に椰子やフェニックスの木が混在し、冬でもジャケット一つでいい。
プロ野球で宮崎キャンプなのも理由があるんだよ。鹿児島や沖縄じゃなくね。
もちろん畿内でなくてね。
>>246 体中に刺青をするのは見せるため。体を出しっぱなし。
つまり相当暑くないとだめだよ。
これが当てはまるのは宮崎南部から鹿児島・沖縄あたり だけ。
つまり、都城辺りから南部が熊襲=狗奴国。
その北部の日向(今の日向市や延岡辺りね)と大分県が邪馬台国だったんだと思う。
大きいけどな。だから大国だったんだと思われ。
じゃなければ、相当数の国をまとめる力もないだろうからな。
249 :
日本@名無史さん :2007/12/18(火) 17:29:38
九州勢強いな、機内やぶれたり!
250 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 02:32:38
>>248 やはり暑いとこじゃないと、
入れ墨なんて見せつける習慣は起こらないもんな。
251 :
日本@名無史さん :2007/12/19(水) 18:31:35
神武天皇に仕えた大久米命は黥面で 後に皇后になったヒメタタライスケヨリヒメを迎えに行ったとき怪しまれたとか 撃ちてし止まむの久米の子らを率いた大久米命が邪馬台国もしくは狗奴国の風習を引き継ぎ 大物主の娘のヒメタタライスケヨリヒメは黥面に縁がなかったからこういうエピソードが出来た
252 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 17:25:47
鴫沢遊児氏のHP「邪馬台国への道」の所在地アンケートで、小城説の得票が 倍増いたしました。長らく1票だったのが2票となりました。順位も7位となっています。 大躍進といtたところで、今後も大きくのびることが予想されます。
253 :
日本@名無史さん :2007/12/22(土) 18:16:07
邪馬台国は九州だけど 後に支配層が畿内に移り 大和朝廷になったんだよ
254 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 00:10:08
邪馬台国なんて、そもそも九州全土も支配してないだろ
255 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 00:19:41
九州北部の耕作に適した肥沃な土地と鉄の大生産地の韓半島とその間の対馬海峡の制海権さえあればいい
256 :
日本@名無史さん :2007/12/23(日) 17:41:52
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の位置についてですが、現在の日本地図はあまり参考にならない かも?という話を大学で聞きました。アメリカの研究結果で、邪馬台国のあった時代の日本列島は今 よりも大きく傾いていて(地下プレートがかなり活発な活動をしていたそうです)、当時現在の近畿 地方が南国の様な気候だったという可能性もあるそうです。) そして、その当時の(傾いた)日本列島のデータに、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国の位置を当ては めると、ピッタリと今現在の奈良県の位置と重なるそうです。 現在の発掘調査の結果等も考えれば、畿内説(特に奈良)が一番しっくりくると様に感じます。 橿原の考古学研究所が、重要な証拠を持っているそうですが、九州説を唱える学者等との摩擦も あり、まだ発表は出来ないそうで・・・。焦らさずに、早く発表して欲しいと思っています。
257 :
日本@名無史さん :2007/12/30(日) 20:08:51
邪馬台国は与那国島の古代巨石文明
258 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 17:24:19
なんか沖縄近辺の気がす
259 :
日本@名無史さん :2008/01/01(火) 20:30:10
どっか忘れたけど、 冬でも生野菜食ってたと記載してるらしいから 九州有力じゃ?
260 :
ローガン :2008/01/01(火) 20:47:10
菜とは、野菜の事ですか?料理とか食事とか言う意味では無いでしょうか
菜確認がいるわけだな
262 :
汽笛一声 :2008/01/01(火) 23:49:24
生菜を食すとあるから、刺身をくっていたのだろう。 醤油とワサビはあったのか?
263 :
日本@名無史さん :2008/01/23(水) 13:00:22
入れ墨はサメよけのまじないの可能性もある。好んで沈没して魚介類を取っていたのだから。 そうすると当時サメがいた場所となると九州の方が可能性が高そうだが。
264 :
日本@名無史さん :2008/01/23(水) 14:17:52
このスレタイがシンプルでいいな。
>>263 サメは日本中にいるよ。
采とはおかずのこと 江戸時代でも初鰹はからし味噌で食べていたらしい ちなみに米はふかした強飯
魏は北方系の王朝だから モンゴルの食習慣の様に魚そのものや、増してや野菜でも生は食べなかったのでは?
267 :
日本@名無史さん :2008/02/05(火) 15:42:31
一応連投スレで結論が
268 :
日本@名無史さん :2008/02/15(金) 22:52:21
九州北部から普通に対馬海流に乗ると山陰沖にでる。海流速30km。 つまり南に船(ボロ船)を漕がないと北東に流されて死んでしまう。 海図は船の漕ぐ方向で決まり。 投馬は出雲地方の可能性が高い。
長崎から船に乗って神戸に着いた♪そこは大和街♪ 女が泣いています♪大和の女はお人好し♪ これが正解のような気がするけれど…
270 :
世界@名無史さん :2008/02/16(土) 20:45:27
南米チチカカ湖
どしゃぶりか
272 :
日本@名無史さん :2008/02/16(土) 22:49:26
なにをいまさら( ´,_ゝ`)プッ
倭人は時代を先取りしたペジタリアンだったのだ
274 :
日本@名無史さん :2008/02/17(日) 10:00:13
ごきげんよう、邪馬台の諸君。
275 :
世界@名無史さん :2008/02/17(日) 22:30:47
チチカカ湖はどしゃぶり ごるご13にあったな あんなとこに邪馬台国あったて古田は言ってるよ
,,,,,,---,,,,_ ./` `゙''ー、、 ,i´ _.. ゙i、 l゙ .‐[♀`!―-、,,, 、 ゙i、 │ : ,i´`'"'_;;;;;;;;;;"'ヽ、 ゙l, 「馬鹿め」と言ってやれ。 │ ||.,z=''"゙;;;;;;;;;;;;;;ノルヾ゙l,,、`'i ヽ/,,--;''~/'--‐ ゙ )v-、 ! ‘'゙゙|i''''r_,--┴z,,_ノ ノj.}'-'゙--z,,_ _.,,ノ [ ._,,,,,,--,,,ゝ `ゞ)ノ ニェ 、">---,,、 .,/゙゙"ン:l゙ `゛ー- _,////:::::::\,/"''''''''!┴- . /_,,、::::〈:::;i|i、v,、_,,,,,,,,,,,,r'"ソ,// ./ . _/,ン'''iヽヽ_゙=(.,,,,,,,ソ,,,,,ノ,,,,,,ノノ'" __,,,,,,,,,,,- ィ'゙ン'゙,.〈〈〈/r-ニニニ===="''''''~~/ニ i---―一='''" . ^~.,,/'"^ l .|::::/'゙` `,! l |:::::::::::::::::::::::::::::::::::: ,/`l゙ .l.|:::/ ◎二ニi、i |:::::::::::::::::::::::: ノ | | __,,,,,,,,,,,,,,,,.|,l_|:::::::::: ―┴ー'''''''''''''''"゙゙゙~ ̄ ̄ ̄ .|::::::| ,,,,,,,,,,,,,,|::::::| " "
277 :
日本@名無史さん :2008/03/07(金) 02:37:26
畿内説はムリがありすぎる
278 :
日本@名無史さん :2008/03/07(金) 02:53:53
千葉じゃないのかw
279 :
日本@名無史さん :2008/03/07(金) 07:40:31
邪馬臺は 「邪馬ジャワ」と「臺湾」の聯合国家。 「馬」は「対馬」「但馬」の例のように「シマ」を表す。 「邪」は上古〜六朝まで濁音字。 「ガダルカナル島」を「ガ島」と略すように 「邪馬」は「Ja島」という意味。
福井県鯖江市らしいな
邪馬台国とは、日高見の国、つまり常陸国
>281 それは日本国 日の本の国が日高見の国、つまり原初は九州から見て東の畿内方面 大和政権初期は、伊勢湾越しに蓬莱山(富士山)を遠望し日出ずる方、東海〜東国全般 少し時代が下ると常陸国、平安初期は東北(日高見川=北上川)
邪馬台国は九州説の1票
284 :
日本@名無史さん :2008/03/12(水) 16:48:11
九州 連合体制崩壊後に連合内で離合集散してるところを大和王権が侵攻。 戦って滅ぼされる国と、侵攻に協力して君の地位を与えられる国に分かれる。
285 :
日本@名無史さん :2008/03/12(水) 22:20:25
邪馬台国は、徐福集団が3年住んだという紀の国 これに間違えない。文化的にも女王国だ。
徐福の正体は項小龍なんだぜ
287 :
日本@名無史さん :2008/03/13(木) 09:43:11
畿内しかないだろ
288 :
日本@名無史さん :2008/03/13(木) 11:46:27
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
徐福は今でいえば持ち逃げ、業務上横領で国際手配の身。 許してほしいばかりに、秦の始皇帝の末裔だといえば国譲 りでも何でもしました。 最後は、百済のインチキ秦氏まで畿内や上野毛の自分の 領地に迎え入れて、国をむちゃくちゃにした。
290 :
日本@名無史さん :2008/03/21(金) 20:42:02
昔、「邪馬台国は間違いなく四国にあった」って本を読んだな。 知ってる人居る?
292 :
灰神楽 :2008/03/21(金) 23:05:03
テレビ見ましたけどすごいですね。四国に確定みたいでした。 卑弥呼の墓まで断言していましたですね。 邪馬台国は四国できまり!ですね。
293 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/21(金) 23:08:36
四国は考えすぎですよ。
鳴門に住んでるけどテレビでやってた通り確かに古墳多いな。
295 :
:2008/03/21(金) 23:32:13
ほらね、古墳おおいでしょ。殉死の奴婢一人一人に一つずつ古墳をつくったのですよ。
296 :
日本@名無史さん :2008/03/21(金) 23:48:48
関東に女王あり。名を卑弥呼と称す。 四万十戸畔の娘なり。
297 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 00:00:04
奈良です。 鹿男あをによしにそう書いてありました。
298 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 00:57:55
徳島説も結局南を東に読み替えてるから 行程記事的には畿内と同じ問題があるんだよね
さいたま
300 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 08:01:42
まくはり
301 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 08:10:42
ちば
302 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 08:29:43
当時の海岸線は今よりずっと内陸部まで海が侵食していたはずだから、 現在の地図で照らし合わせるのでなく、当時の予想地図で判断しなくてはいけないのでは?
303 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 08:41:11
FBIの超能力捜査官の透視では 山口県長門市あたりとあった。
304 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 10:55:05
四国88箇所の1番札所が卑弥呼の墓
305 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 11:12:48
s
306 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 11:13:32
昨日のテレビ見たけど、徳島がかなり有力ですね
307 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 11:21:58
>>298 大杉さんは倭人伝の日程を曲がり伸びた1本の糸的考えで考えるから四国世界
だと思ったんだろうが、そういう考えは誰でも思いこみがちになるがそうえでは
なく、北九州までは目的地ではないし比較的道筋が知られていたから一本線的に
行いいたもので途中道草はそんなにやってなかろうが、北九州以南は未知の世界
で観光を兼ねて九州の奥を右往左往で準ジャングルをかき分けて女王国を探し
たもので、その結果女王国を発見したことと卑弥呼の国で滞在もして女王国の全貌
を掴む時間が費やされているわけだから、陸行一月はかかってもおかしくはなく、
もっと観光したけりゃぁ二月、三月でもいいわけである。
308 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 11:27:13
>>307 訂正
× 四国世界 ○ 四国正解
× そうえではなく ○ そうではなく
× 行いいたもので ○ 行ったもので
観光だったら四国でもOKでは?
310 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 11:48:55
>>609 だったら蝦夷でも八丈島でも成立しちゃいますよ。大杉さんのは論の拡大が
あるということです。それに徳島なら畿内に情報が届きやすくなるわけで、
記紀に載ってもいいでしょうが。後代の反正は淡路で生まれてますし、一歩
超えれば四国ですからね。應神も淡路に行ってますし。畿内へ女王国の情報は
徳島なら入るでしょう。
311 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 11:50:53
昨日の、みのもんたの番組うpしてくれ!
312 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 11:58:59
よかったじゃん、徳島
313 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 12:01:49
阿波だと嬉しいですね ずっと畿内に下に見られていたわけですから
314 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 12:05:49
>北九州側と近畿側に分かれて議論しよう。
>>1 涙目w
現時点では近畿。 出土点数の多さ、古墳時代に近畿から関東まで同一王権が成立していたと考えられる点、 これを考えると、九州地方王朝説は少し劣る。
317 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 13:12:35
邪馬台国は徳島
318 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 13:23:40
水銀遺跡があるのは徳島だけ
319 :
九州王朝大好き :2008/03/22(土) 13:43:18
言葉の発音アクセントから見るに、 阿波は播磨より畿内だよ。 蛭子神(蛭女神)系神社の分布から見ると阿波は淡路・摂津まで影響していた。 テレビ放送の阿波勢力は国産み神話の蛭子系勢力のことではないかと思う。 勿論邪馬臺國とは関係ない。
320 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 13:49:31
発音アクセントは時代によってまったく変わる
321 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 13:54:23
大和政権のルーツは徳島にアリ
322 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 14:16:26
オレは前々から徳島だと思ってたんだよなぁ
323 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 14:34:46
>>310 記紀は朝廷に都合の悪い事実は抹殺している可能性が高いようです
太国さんも、ある時は記録がないと言って退け、
そしてある時は観光だと言ってごまかすなど、ご都合主義が目立ちます。
知ってか知らずしてか、記紀の編者と同じ手口を使っているから不思議です。
血は争えない?
324 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 14:37:35
九州と畿内が先頭を走ってる中、 後ろから一気に徳島がまくったな
325 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/03/22(土) 14:39:57
>>323 女王国、卑弥呼に関しては都合が悪いからの抹殺したというのは成り
立たない。紀の神功39年等の記事は女王国、卑弥呼の存在を披露して
るわけだから、紀の編者が女王国の抹殺などしておらず、君の妄想
だということの文証が神功39年等の記述なわけよ。
326 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 14:46:05
都合の悪い部分はと言っているのに…またよく読まずに答えてる。
327 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 14:52:02
阿波踊りでも見に行くか
328 :
九州王朝大好き :2008/03/22(土) 15:14:03
神武の東進ルートから見ると、 備前児島から阿波鳴門を通り、大阪湾時計回りの定常沿岸海流に乗って、 淡路島東岸沿いに北上し、摂津東部南岸沿いを東進した。 南方(中島南潟)を通り河内湾に侵入、湾最奥部日下盾津で交戦し敗戦、 河内軍に追われ、そして南潟で更に摂津軍の追撃を受け南潟水路を通り抜け、 大阪湾時計回り湾岸流に乗って和泉沿岸を南下敗走した。 神武の河内湾侵入が出来たのは、淡路島、摂津西部を勢力圏にしていた阿波勢力の支援によるもの。 ちなみに、摂津西南部は畿内で最初に銅鐸文化圏でなくなった地域。(桜ヶ塚銅鐸等出土の地域) なお、阿波は神武と同じ文化圏。
329 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 17:43:43
九州はまず場所を特定しないとね 九州などというアバウトなくくりなら好きなように解釈できる
330 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 18:22:43
うちの母ちゃん徳島の大麻町だから昨日のモンタナの番組の話したら 昔から発掘マニアとかバイトが異様に多かったって言ってた。
331 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 18:25:56
言われてみれば徳島の田舎度って邪馬台国があったんじゃないかと 思わせる雰囲気はあるよなあ
332 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 18:29:35
>>313 徳島生まれで育ちは完全に近畿の俺は九州以外ならどうでもいい。
小学生の時、地図帳広げたら徳島と和歌山って同じ地名が多いからビックリした記憶がある
勝浦とか海部とか。あれって何なの?
333 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 18:36:02
>>332 徳島から移住した人間が同じ名前をつけたんでしょうな
テレ東の番組でもそう言ってた。 山城だの河内だのの地名も徳島にあるんでしょ。
徳島見直したぞ!!
336 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 21:47:47
337 :
日本@名無史さん :2008/03/22(土) 22:07:07
338 :
日本@名無史さん :2008/03/23(日) 08:55:09
>>336 驚いた。
祇園祭とはユダヤの王の祭りだったのか。
それにしてもコーヘンイスラエル大使と解説の久保さんがうり二つ。
遠い兄弟ではないのか??
339 :
日本@名無史さん :2008/03/23(日) 13:06:10
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
340 :
日本@名無史さん :2008/03/23(日) 15:43:50
>>307 陸行一月をわざわざ説明する必要があるかね?あれは倭人からの伝聞情報だろう
俺は魏使は倭人の案内により水行10日で邪馬台国の王都に近い港に着いたと考えるけどね
水行10日の起点は伊都国で、旅程から外れた地にある東の奴・不弥と遠い南の投馬は訪れてないよ
魏の皇帝から託された重要な任務と荷物を携えて不要な旅程を組んだり関係ない国に寄り道するわけがない
ちなみに俺は邪馬台国九州説の立場ね、具体的に言うと佐賀平野を中心部とする筑後川流域一帯説
みのもんたの番組だれかあげてくれよ
学会的には九州でFAでてるけどね
344 :
九州王朝大好き :2008/03/23(日) 22:56:36
345 :
日本@名無史さん :2008/03/23(日) 23:27:31
東海道53次は江戸から陸行12日。女の足でも18だったそうです。 道路の整備されていない奈良時代以前は東山道を使って陸行した と思われます。山越えもあったので1カ月を要したというのはうなづ けます。 何を言いたいかというと、現在の堺市あたりで船を下りて、陸行1か月 たどり着いたのは関東平野です。 東国に女王あり。名を卑弥呼と称す。
だから邪馬台国は八幡平だって
自分は九州だと思っているが、どこの学会だ? 史学会か?寡聞にしてそんなことを聞いたことがない。 支援情報となるので、アカデミックな学会ならば、掲載誌と 題名を教えてくれ。 学会発表でもいいぞ。発表年月日と学会名、発表題名、発表者 著者などが分かれば検索できる。
348 :
日本@名無史さん :2008/03/24(月) 10:56:09
349 :
日本@名無史さん :2008/03/24(月) 10:59:05
田原総一郎なら知ってる なんか喧しい親父
350 :
日本@名無史さん :2008/03/24(月) 11:07:58
つまらん質問 家を建てようと思い土地を買いました 工事が始まって地面をほじくりかえしたら邪馬台国の遺蹟がでてきました この場合に秘密にして工事続行し遺蹟を跡形もなくグチャグチャにして家を建てたら何か犯罪になる?
見つからなければ桶 見つかったら業者が捕まるんじゃねえの? 申請の段階で報告の義務とかあるんじゃないか?施主の一存で工事続行は出来まい。 しかし、自分が買った土地から遺跡が出てきたら、ひょっとしてお宝の山かも知れないから 黙っとくのは損だと思うけどなあ。 昔近鉄の梨田(現日ハム監督)が藤井寺に家建てようとして遺跡が出てきて 2〜3年マンション暮しだったとか。その後無事建ったけどね。
352 :
日本@名無史さん :2008/03/24(月) 13:57:26
その2〜3年マンション暮らししたときの費用は自腹? それとも研究機関が迷惑料(?)として払ってくれるのかな 例の吉野が里遺蹟なんかの時は造成中に遺蹟見つかって 土地を二束三文で無理矢理買取されちゃったよね ああいうのが嫌だから遺蹟がでてもバックレようと思うんだけど
354 :
日本@名無史さん :2008/03/24(月) 18:35:28
発掘調査費用も建主の自腹だよ。勿論発掘調査しなければ家は建てられない。
親魏倭王の金印が見つかったら邪馬台国の位置は確定するよね? あと400万円の懸賞金が出るって先生が言ってた聞いたんだけど本当かな? 安すぎだよね。一億円以上すると思うんだけど。
356 :
日本@名無史さん :2008/03/25(火) 00:22:55
とりあえず徳島を掘ってみたらいいのに。
近畿地方は四国・山陽・九州・中部・北陸・山陰各地からの 入植人達の子孫達。土着の近畿人は部落化してるのが真実です。
秘境徳島はまだまだ未発掘 これから続々と出てくるぞ
359 :
日本@名無史さん :2008/03/25(火) 22:34:04
剣山の鍾乳洞探検ツアーの募集しているのはこのスレでつか?
360 :
日本@名無史さん :2008/03/25(火) 23:28:17
361 :
日本@名無史さん :2008/03/26(水) 11:55:22
剣山にソロモンの秘宝館があるんですか?
>>361 それは探してみないとわかりませんが、
イスラエルのコーエン大使も、たぶん、職務上の制限がなければ、
いっしょに探したいと思っているんじゃないかと思います。
363 :
日本@名無史さん :2008/05/03(土) 16:02:09
緊急あげ
364 :
日本@名無史さん :2008/05/03(土) 17:11:23
>>329 邪馬壹國は七萬餘戸もある大きなくにです。
九州説をとるなら福岡県、佐賀県、長崎県、大分県、熊本県の北中部九州の大部分が邪馬壹國とするしか考えられないでしょう。
問題はその中心都市の奴國や伊都國の正確な位置です。
365 :
日本@名無史さん :2008/05/03(土) 18:21:58
邪馬台国は当時すでに九州筑紫地方から吉備、阿波、紀伊あたりまで 支配していて、大和に食指を伸ばしていたと見るべきではないでようか?
これって徳島で決まったんだろ?
↑多分、徳島で決まり。
369 :
日本@名無史さん :2008/05/20(火) 21:54:07
あげ
370 :
サガミハラハラ :2008/06/02(月) 21:42:39
>>366 邪馬台国の勢力圏は関門海峡までです。中国四国は圏力外です。
奴国や伊都国の正確な位置。
奴国は佐賀県肥前山口土元
伊都国は佐賀県多久市南多久町下多久
以上です。伊都国の都については延寿寺とみていましたが、その後の調査の進展により、
寺の北方2〜300mの地点であることがわかりましたので、ここに訂正いたします。
徳島はすべての条件が揃っている
372 :
日本@名無史さん :2008/06/04(水) 00:12:02
筑後川から矢部川の間。間違いない。
373 :
日本@名無史さん :2008/06/27(金) 23:50:16
>>364 二万戸の奴国、五万戸の投馬国はどうします。戸数を正しいとみる以上、奴国が北九州であることは明らかなのだから、投馬国や邪馬台国を北中部九州に想定するのはむずかしいと考えるべきです。
やはり5万戸の投馬国は筑紫で、2万戸の奴国が佐賀平野ってことではないでしょうか? その奥の八女あたりを邪馬台国とするのが 素人には一番わかりやすい。
375 :
日本@名無史さん :2008/06/28(土) 09:49:33
>投馬国は筑紫で、2万戸の奴国が佐賀平野 倭人伝の方角や日数は完全に無視ということですか? それに、北九州だけで人口百万ぐらいを想定することになります。 無茶な話だと思いますが。
いまや100万都市福岡。 全く問題ないのでは?
377 :
日本@名無史さん :2008/06/28(土) 11:37:58
明治の初めでも4万人に過ぎませんでした。まして弥生時代には・・・。
長年耕作を続け、山林を伐採し続けると、 土地は枯れて作物の収穫も人口許容力も 減退するのです。 弥生末期の筑紫は、明治時代より、 ずっと肥沃な土地だったと考えられます。
379 :
日本@名無史さん :2008/06/28(土) 12:48:11
邪馬台国ってどこにでもあったんじゃないの 邪馬台国って一種の国家連合みたいものだから EUとかアセアンみたいなもので そこにどこに首都があるかなんて議論がいらない
380 :
日本@名無史さん :2008/06/28(土) 12:54:55
そのブリュッセルを探しているのです。
381 :
日本@名無史さん :2008/06/28(土) 13:58:32
>>379-380 良い視点ですね。
邪馬台国が連合国家だったとすれば、卑弥呼が居たのは大国ではなく、
地理的にも政治的にも中立国だったと思われます。
その点でも筑紫と佐賀の中間、八女地方が最適なのですが・・・
というか、共立の女王という意味からして、王家が固定していなかった感がある 連合国内の有力な国の王または王族から適時、選任されていたんじゃないの? それなら王都が固定していなくて当然 「邪馬台国はどこか?」という時に、卑弥呼の君臨した時代の王都と限定して話を進めるなら別だが 例えば、<某広域暴力団>の組長の決め方も、その時有力な組織内の組長のトップが就任するよね <○○組>系△△組という言い方があるけど、邪馬台国系伊都国という感じで国家連合だったのではないかな
383 :
日本@名無史さん :2008/06/28(土) 22:30:04
邪馬台国が九州だとしたらその後は大和に吸収されたはずだし そのへんの伝説が残ってないあたり、やっぱり大和説のほうに分がある気がするな。
日本神話には、九州から大和盆地に入ったと、はっきり書いてある訳だが
つうか徳島だったんでしょうが。
>385 それは前方後円墳のルーツの話だろ 邪馬台国の卑弥呼の墓は直径100歩の円墳と書いてある 全然つながらない
387 :
日本@名無史さん :2008/06/29(日) 03:28:20
距離、方位、日数をあれだけいじっていいなら北海道でもいーだろう。 陸行水行の日数から言ったらいくら古代でも九州どころか大和でも無理だし、最低関東か北海道も有り得る。沖縄もありそうだが陸行が無理。 やっぱ北海道だ。
388 :
日本@名無史さん :2008/06/29(日) 03:59:56
何でもアリのごった煮。それが大和の土地柄。
389 :
日本@名無史さん :2008/06/29(日) 04:19:26
>>387 伊都国を通る時点で北海道東北はまずあり得ない
伊都国が伊東国、つまり、伊豆半島だとしたら、 北海道説がにわかに信憑性を帯びてきます。
391 :
日本@名無史さん :2008/06/29(日) 23:45:35
>>370 投馬国や邪馬台国はどのように比定されるわけですか?
392 :
サガミハラハラ :2008/06/30(月) 08:46:48
投馬国は宮崎県と鹿児島県東半(薩摩も含むか?)です。 邪馬台国は佐賀県小城市甘木です。卑弥呼の墓は小城公園内桜ケ岡です。
393 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 13:52:31
なるほど。水行十日、陸行一月はどう読んでおられるのですか?
394 :
名無しさん :2008/06/30(月) 14:04:17
>>393 「水行十日、陸行一月」
過去の偉人が一番頭を悩ました問題です。
○昔の水行10日がどのくらいの距離なのか
当時の手漕ぎ船で1日8時間として何キロか?
○陸行1月がどのくらいの距離か
魏からの貢物を一緒に運んだのだから、出来る
限り、邪馬台国のそばまで船で行って陸にあがる
のが常識だから、畿内はありえないことは分かる。
395 :
サガミハラハラ :2008/06/30(月) 14:05:23
勿論郡から邪馬台国(小城甘木)までの総日数です。
396 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 16:05:46
395 古田説ですね。郡からの総日数という理解に無理があるとは思われませんか?
397 :
サガミハラハラ :2008/06/30(月) 16:49:32
全然おもいません。なぜあるとお考えですか。 もっともわたしは韓国内陸行説ですけれど。
398 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 16:58:09
イタコに頼んで卑弥呼を口寄せすれば解決する問題だろうが。 いつまでもウジウジやってんじゃねえよ!
399 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 21:02:46
既成観念をす捨て取り組んだほうがいい。 でないと真実は見えてこないものです。
400 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 21:31:23
>>397 郡からの日数を表示するのに、私はけして倭人伝のような書き方はしません。
倭人伝の書き方では読んだ人が北九州からの日数だと理解するにちがいないからです。
郡からの日数ならば、書く場所を考えますし、少なくとも「自郡」という文字をつけます。
陳寿も必ず私程度の注意は払ったはずだと思っています。
失礼ですが、疑問を感じないとおっしゃるならばあなたの文章は怖くて読めませんね。
401 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 21:41:21
402 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 21:51:20
おれが珍壽だったら、別冊付録の倭人伝なんて、 その辺の資料丸写しで済ませただとろうと思う。 本篇さえ、きちんと書いてあれば、辺境の東夷のことなんか、 どうだっていいじゃないの?と思う。
403 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 22:07:56
>>402 同意。東夷伝の調査に時間をかけるくらいなら、やるべきことはいくらでもある。
404 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 22:17:10
邪馬台国九州説の人が 今晩、金縛りなりますように。
え?そんなに追い詰められてんの?
406 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 23:25:43
そこが陳寿とあなたのちがいです。
407 :
日本@名無史さん :2008/06/30(月) 23:56:00
私の誓い 12時になったら本日の書き込みを終了いたします。 ほた〜るの ひか〜り 窓のゆ〜き〜〜。 では皆さんまた明日。
後世の陳寿からしたら、東夷の記述は脇かもしれない が、三国時代の魏にとっては半島情勢は国の安危を左右する関心事だったのだ 魏は西に蜀、南に呉、北は騎馬民族に接している 残る東方も呉の冊封を受けた公孫氏が半島に興っている 4面戦争をしない為にも、東方の優位は確保しておかなければならない生命線と映った筈だ 魏の時代は、東夷に関してもっと正確な資料が公文書として沢山存在したことだろう 公文書は魏の陥落とともに焼けたろうから、断片資料をもとに陳寿は繋ぎ合わせて倭人の条を書いたのだろう 距離や方位の錯誤など、その辺から生じたものではないか 少なくとも陳寿の時代は、適当に書いても許された むしろ魏朝を正等とする西晋に仕える身としては、魏の版図を誇張して描いた方が利口と考えたかも知れない
409 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 01:39:59
水行十日だから糸国からでも瀬戸内海を余裕で大阪。古代でも十日もかからないんじゃ?。日本海なら新潟まで行きそう。 陸行一月だから関東どころか青森県まで楽勝で行ける。一月もあったら北海道だって。 糸国からで九州じゃこんなに奥行き無いよね。
410 :
サガミハラハラ :2008/07/01(火) 06:20:08
一月のほとんどは韓国内(郡山から固城)をすすみます。
411 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 07:08:06
近畿在住ですが、 大宰府あたりにあったと思う。 戦略的に、九州北半分統治するのに便利。
やまたいこく と読むから間違える ジャバダイノグニ わかるかな? ヒントに過ぎないが
413 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 13:12:35
>>409 隋書は、「南北3月行」と書いています。近畿とすれば敦賀あたりから和歌山の南端まで、九州とすれば福岡から鹿児島南端まで。
いずれにしろ、それが3月もかかるということですね。青森などとてもとても。
414 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 13:32:19
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
415 :
日本@名無史さん :2008/07/01(火) 13:55:48
南北三月ならそんなちっさくないワラ、ちょうど日本列島だ。
416 :
日本@名無史さん :2008/07/02(水) 01:07:06
>>413 >隋書は、「南北3月行」と書いています。近畿とすれば敦賀あたりから和歌山の南端まで、九州とすれば福岡から鹿児島南端まで。
ンなわけないじゃん。
どっちだって、そんなん三ヶ月もかかるなんて有り得ない。
>いずれにしろ、それが3月もかかるということですね。青森などとてもとても。
有り得ないことを前提に話しされてもね。
あんた馬鹿ですかワラ
いちいち煽るな。子供か。
418 :
日本@名無史さん :2008/07/02(水) 06:53:46
>>416 ではどこが3ヶ月かかったんでしょう。貧困な推理力でどんな結論がでるのか見せていただきたいですね。
419 :
日本@名無史さん :2008/07/03(木) 07:16:00
古代の旅は、どのように行われたとみるべきか。唐六典には一日五十里(廿数キロ)とかあるが、これは軍隊などの移動可能距離。実際の使者らの旅とはちがう。 使者は大官だからかなりの年齢。それに一行はかなりの人数がいたはず。病人がでたら? 雨のときは? それに連中が前触れもなく、いきなり対馬に上陸したら、海賊とまちがえられるだけ。狗邪韓国に立ち寄ったのは、そこから対馬に連絡させたのでは? 対馬は独断では受け入れが決定できない、少なくとも一大率の許可を得てからだったのでは? 使者が倭国に入ってからも、ホテルがあるわけではない。一大率の配下が先の豪族に連絡し、受け入れ準備をさせたうえで進む。そんなことでは? となれば、飛脚みたいな日程で進めるわけがない。どの程度の速度を考えるべきか?
420 :
サガミハラハラ :2008/07/03(木) 08:48:11
私は次のように考えています。水行十日陸行一月は郡から邪馬台国(小城甘木)までの総日数とみます。 小城甘木を出発して不味国をつうか、伊都国(多久市下多久)にて一泊。 あくる日は厳木にて一泊。 さらに山本にて一泊。 そして、唐津八幡町の迎賓館に到着。一泊 ここまで陸行4日。 ここまで陸行41.1kmを四日で1日に10.2kmである。 壱岐かつもとに到着一泊。 対馬小茂田浜に到着一泊。 鴻島(固城と小茂田浜の中間地点)に到着、島影で一泊。 固城に到着一泊。 ここまで水行4日。 海峡を渡るのに253.9kmを4日で、いちにち63.4kmである。 ついで韓国内陸行である。固城から群山まで259.7km。 1日10.2kmであるから、25.4日、すなわち26日である。 ついで西海岸を水行である。 仁川まで210.4kmを1日63km進み、3.3日すなわち4日である。 仁川からソウルまで33kmぐらいで4日かかる。 こうして水行を合計すると8日。 陸行は34日である。 これでだいたい水行十日陸行一月に合う。 一日に進む距離はまいにち同距離とはならないであろうから、それを勘案するならば上記であうとしてよいではなかろうか。 邪馬台国についてな詳しい解説は、「神功皇后は実在した 後藤幸彦 明窓出版」の「付録メジャーで辿る邪馬台国」にあります。
421 :
日本@名無史さん :2008/07/03(木) 10:54:22
韓国内陸行は倭人伝の明文に反すると思いますが。 それに、西海岸用と対馬海峡用と別の船を用意するのですか? 荷物を積んだり降ろしたり、考えられない無駄だと思いますが。
422 :
サガミハラハラ :2008/07/03(木) 11:06:44
魏志倭人伝の行路記事は」魏使の計測報告によるものではなく、箕子朝鮮由来の書物から陳寿が引用して倭人伝にのせたものとおもわれます。 よって、行路記事は漢の時代に計測されたもので周尺によるものです。 魏使は魏の公孫氏討伐のために半島に派遣されていた軍船で半島に残してあった船を使い、仁川あたりから、半島西海岸を大きく迂回して対馬にはいったものとおもわれます。 クヤ韓国によったかはさだかではないが、おそらくよらなかったものとおもわれます。 帰路は同じ船を使用して帰還したものでしょう。
423 :
日本@名無史さん :2008/07/03(木) 11:13:15
陸行一月は、実際にはほとんどが水行だったというわけですか?
424 :
ご参考まで :2008/07/03(木) 13:39:11
サガミさんの『魏志倭人伝』は「魏使倭人伝」に非ずという、行程記事に関しての 御見解には、賛同致します。当然の事ですものね。 ただ、陸行一月、という記事記述は極めて不正確かつ誇張でありましょうね。 理由は、陳寿が、遼東の穣平から洛陽までの行程を二十日と記述していることです。 距離は御案内のとおり四千里です。一日200里の移動速度になります。 もっとも、これは、公孫淵の首が早馬で移動した速度ですが、一応は参考基準と してもよいでしょう。 ですが、地図帳を見てください。 陸行一月は、絶対的客観的に見て、遠すぎますし、長過ぎます、と思います。
425 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/03(木) 14:18:28
全然長すぎないね。大陸の遣使連はま〜ず滞在したりしてるよ。だからもっと いたけりゃぁ二月三月でもおかしくない。そういう滞在期間とかでそのくらい 経過したという旅行記なわけ。
426 :
ご参考まで :2008/07/03(木) 14:52:00
あのーですねー。皆さんは、遣唐使とか天平の甍の船のイメージが強いんですよ。 魏が遼東の公孫淵を攻めたとき、渡海して二郡を接収したと、陳寿は書いてますよ。 前漢の時代にも楼船将軍が武帝の命を受けて海路から朝鮮半島を接収していますよ。 遼東の公孫淵と呉の孫権の海路での通交は、いとも短日にて行なわれることを、 魏の明帝が嘆いている記事が、明帝紀にも記してありますよ。 サガミさんの見解は、倭の船が魏に朝貢する行程として書いておられますが、 それこそ、ここの部分こそ、「魏使倭人伝」で可なのではありませんか。 太国さんへ。 魏志倭人伝は「旅行記」に非ず、でーす。
427 :
ご参考まで :2008/07/03(木) 14:58:50
そもそも、水行十日・陸行一月は畿内説のひとつの拠り所でしょう。 そもそも、魏志倭人伝に一字一句たりとも不正確な点無し、などとするは失当です。 倭人伝も魏書の一部です。 しからば、帝紀にすらさえも、不整合矛盾箇所は沢山沢山有るのです。 倭人伝のみが、何故に正確無比に記されていると主張されるか、不思議ですなー。
428 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/03(木) 17:14:17
旅行記でないんなら何だい? 彼らは旅したんだよ。旅でないなら生活日記か?w
429 :
日本@名無史さん :2008/07/03(木) 21:24:10
毎日新聞によると日本人は変態なんだそうです。 何が目的なのか分かりませんが、釈明一つ無い様なので 毎日新聞英字版が垂れ流していた記事の一部まとめとき ました。にしても9年間継続していた事に尋常ならざる 情念を感じる次第であります。 ■思春期の受験生の集中力を増すために母親はフェラチオで息子の性的欲望を解消する。 ■24時間オルガズムが止まらない病気で苦しむ日本人女性の数が増えている ■六本木のあるレストランでは、コックは食事の前にその材料となる動物と獣姦する ■福岡の米祭りは、顔にベトベトの白い液体を塗るため、AV業界が「顔射」と呼ぶものによく似ている ■日本人の若い女性はファーストフードを食べると性的狂乱状態になる ■日本人主婦は皆コインランドリーに附属のコインシャワーで売春している ■日本のティーンたちはバイアグラを使ってウサギのようにセックスをする ■日本の最新の流行 : 70歳の売春婦 ■老人の売春婦の人気にもかかわらず、日本では小学生の売春婦にも仕事がある ■屋外でセックスをすれば、犬の散歩がもっと楽しいものになる ■日本の女子高生は、刺激のためにノーブラ・ノーパンになる ■利益は痛みという犠牲を伴う、と十代の売春婦は発見する ■ほとんどすべての漁師は海でマンタとSEXしている ■男色は日本の伝統。八坂神社では女装祭りを行っている ■日本男子は柔道や空手の部活で男相手に童貞を捨てている ■日本の首相は結婚生活ではなくオナニーで政権が取れると言っている ■横浜の女装祭りはゲイの宣伝になる ■日本人女性の55%は、出会ったその日に男と寝る。 (失恋した女性や孤独な女性がどのようにして一夜で男と寝るか、という記事) ■かつてパールハーバーと南京大虐殺を起こした日本政府が、 ペドフィル(児童性愛者)向けのマンガを作ってオタクを自衛隊にひきつけようとしている
人生は旅そのもの。 秦の始皇帝などは、死ぬまで自分の統治する国を 巡幸していたし、古代の王は、自ら出向く以外に 国を統治する手段がなかったのだから、旅慣れて いたとみてよい。 それを変えたのが雄略天皇=大泊瀬幼武(おおは つせわかたける)。 白瀬とは、「知らせ」、つまり、詔を木簡に記録して 命令を知らせるという当時としては画期的な統治 手段を使った革命的な王だったといえます。
431 :
日本@名無史さん :2008/07/03(木) 22:34:48
素人の意見ですが、鏡が国産だとしても邪馬台国時代の年号の入ったものが 同年代の畿内から多数出土する以上、やはり畿内説のほうが有力なのでは? 仮に邪馬台国が九州だとしたら何故巻向から鏡が多数出るのでしょうか?
432 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/03(木) 22:50:06
>>431 それには倍暦の計算が重要になる。この結果によると
景初3年=崇神即位3年=239年
なのだ。畿内から出る景初3年鏡の類はその前年の景初2年に
当たる崇神即位2年(紀の崇神即位六年)に崇神天皇の同床共殿の策
により剣鏡を殿内に安置することにした畿内人民への右へならえ策
で、そのことから一般住民の家でも同年以後鏡を祭祀する習慣ができ
たのであろうと思われる。その鏡がそれらの鏡だということになる。
だから九州女王国の卑弥呼の鏡とは別物と観てよい。
どんだけ出るんだよ?ってなもんだしね タダも同然だよ あとやっぱ、九州は普通の甕棺墓でも副葬品がゴーカなんだよね バカみたいにあるし。かつては住みやすかったんでしょう
434 :
日本@名無史さん :2008/07/04(金) 00:20:38
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
435 :
日本@名無史さん :2008/07/04(金) 00:36:26
卑弥呼女王の邪馬台国は九州北部。 次の女王トヨ(イヨ)の時に畿内大和地方へ移ったと考えれば良いかと。
436 :
日本@名無史さん :2008/07/04(金) 02:34:45
初代首都は大阪 645年 難波宮 710年 平城京 794年 平安京
437 :
日本@名無史さん :2008/07/04(金) 11:32:02
>>431 邪馬台国が九州にあった場合でも、邪馬台国勢力が近畿など東方に勢力を延ばし、そのときに、邪馬台国の支配下に入った人々に、鏡を与えたかも知れません。
九州からは見本程度のものを持ってきて、同じようなものを作りながら配っていったということも考えられます。
438 :
日本@名無史さん :2008/07/05(土) 10:33:49
>次の女王トヨ(イヨ)の時に畿内大和地方へ移ったと考えれば良いかと。 何のために? なぜ、中国史書はそのことに触れないのであろうか?
439 :
日本@名無史さん :2008/07/05(土) 11:15:45
大和に王朝が移ったのは白村江の戦で筑紫が破れてからおことではないのか? 筑紫から明日香への遷都、これが真実。
440 :
日本@名無史さん :2008/07/05(土) 14:55:16
九州の有明海のあるあたり
>439 その説を採ると、では巨大古墳は誰が作ったのか?と言う疑問が浮かぶ あれだけの大土木工事をやってのけた勢力が、飛鳥朝廷の前にあったと言う事になるが・・・・
巨大古墳なんてどこにでもある 石舞台も古い古墳潰して作ってるらしいし 明日香調停じゃなくて地方首領たちが作る墓のトレンドwに なってたってことでしょう
>>441 大和には、母の実家があったのです
夏休みになると、河内とか葛城とかに避暑に出かけます
墓もそちらに作るのが習わしでした
444 :
日本@名無史さん :2008/07/06(日) 00:04:13
>>418 >>419 そんなチッチャイ地域、いくら古代でも三ヶ月もかかるか(爆笑)
根拠?は、常識で考えましょーワラ
445 :
日本@名無史さん :2008/07/06(日) 00:56:35
>442 あれが遷都以前の土着の首領たちの墓なら、 なぜ朝廷は大王の墓として皇統譜に記録したのだろうか? 本来の九州出自の立派な歴史があるなら、そっちを記録に残すべきだろうに
447 :
日本@名無史さん :2008/07/06(日) 07:35:10
>>446 記紀に記されている天皇の陵の記録が真実ではないというのは常識ですよ。
自分たちの本当の先祖の墓ならば、そんなにまちがえるはずはない。
本当の墓を記録に残すことができない事情があったんでしょう。
448 :
日本@名無史さん :2008/07/06(日) 20:25:15
>>424 遼東〜洛陽間は100日じゃないか?
[一]干寶晉紀曰:
帝問宣王:「度公孫淵將何計以待君?」
宣王對曰:「淵棄城預走、上計也;據遼水拒大軍、其次也;坐守襄平、此為成禽耳。」
帝曰:「然則三者何出?」
對曰:「唯明智審量彼我、乃預有所割棄、此既非淵所及、又謂今往縣遠、不能持久、必先拒遼水、後守也。」
帝曰:「住還幾日?」
對曰:「往百日、攻百日;還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」
4000里を100日なら一日40里
人間の一日に歩けるスピードは20k程度
すると一里は500mくらいになるなあ。
だが、大軍での移動なら20kmは歩けず、16km程度になるかもしれない。
すると、一里は400mで漢代の一里430mと近似してくる。
>447 「真実でない」ことを立証することの方が難しいと思うのだが、論理として
>>448 賛成して補足
景初2年8月 公孫淵斬首のとき総指揮官の司馬イ(仲達)は遼東壌陽で立ち会ったはずである。
翌年正月元旦 首都宮殿で帝のご臨終に立ち会っている・・・・三国志の有名場面だ!
451 :
素人ですが :2008/07/07(月) 17:18:53
卑弥呼より前に九州から畿内に入った勢力があり、その子孫が卑弥呼でしょ。 卑弥呼のときに初めて畿内を中心とした西日本連合国家になり、 それまでは九州のほうが力があり倭国を主導していた。 女王国というのは卑弥呼の支配力が及ぶ領域をさし、 それが北九州までだったから万二千余里だということでしょ
452 :
日本@名無史さん :2008/07/07(月) 21:20:53
ニギハヤヒの子スサノオの子孫ですか?
453 :
日本@名無史さん :2008/07/07(月) 22:24:21
>>451 卑弥呼が神武天皇の子孫?
じゃ、君は卑弥呼が天皇家の人間だといいたいわけ?
卑弥呼天皇がいて、中国と公易したり貢いだりして倭の女王と呼ばれたのに
なんで皇族の歴史には出てないんだろうねw
遣隋使や遣唐使より以前にそんな畿内から九州まで凌駕する国家が
成立して中国とも交易して皇帝にしられてたのに、なんで
日本古来の歴史書にはそんなものがなかったように書かれてるんだろうな。
って、そんな国家はそのときには存在してないよw
454 :
日本@名無史さん :2008/07/07(月) 22:33:50
神功皇后と名を変えて出てきているのに・・・
455 :
日本@名無史さん :2008/07/07(月) 22:40:13
>>454 あ、じゃあ君の説は、神功皇后=卑弥呼?
神功皇后が巫女だったんかw それは知らなかった。根拠は?
あと、神功皇后は中国の皇帝に貢いでた?
隼人退治のときに死んだ?死んでないよ。
朝鮮遠征は中国には非常に大きな事柄なんだが、倭人伝には書かれてないね。
戦争中に死んで男王→台与にうつる。
台与は、どの天皇?
456 :
日本@名無史さん :2008/07/07(月) 22:41:16
神功皇后が卑弥呼はないな。
457 :
日本@名無史さん :2008/07/08(火) 00:08:45
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
458 :
日本@名無史さん :2008/07/08(火) 00:25:26
神功皇后は神の言葉を伝えた。巫女だね。 皇后には男弟が1人いた。息長日子王。 中国に貢ぎ物・・・贈らなかったとは書いてない。 新羅征伐は239年よりだいぶ前。中国は知らなかったな。 応神の后は3人の女王。その中に台与がいたかもね。 皇后が没したのは楯が並んだ狭い城。
奈良大和路が大好きな者だが、 やはり卑弥呼は火山か何かを背景にした 火の国の女っぽい雰囲気が似合う。 九州のどこかでいいや。
460 :
日本@名無史さん :2008/07/09(水) 19:21:30
記紀に邪馬台国の記述がないのは簡単なことで、 三世記当時卑弥呼という巫女を中心とした国だったなんて書くのが 恥ずかしかったからでしょ。そんなん国の恥やん。なので神功皇后を創作してそれを卑弥呼のように仕向けたんだよ。
461 :
日本@名無史さん :2008/07/09(水) 22:17:03
ジャワだった説があるんだろ? ジャワ大国で 距離もあうらしいし 日本じゃなかたのかもよ あとアラビアンナイトの「シラギの東方の島ワクワクランド」も 黄金の国ジパングも風俗とかを冷静に考えれば 日本ではなく黄金がたくさんあったジャワらしい にほんじゃなかったんだね
462 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/09(水) 22:46:59
アラビアンナイト「ハサン・アル・バスリの冒険談」に日本のことを一説に 「ワクワク島」という話がある。逆読みだとクワクワ(桑桑=ニ桑」島になる。 扶桑のことか?
463 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/09(水) 23:16:01
>>460 そんなのは国の恥にならない。創作すれば舎人親王は公文書偽造で
準死罪だ。あんたの空想作だ。
ワクワク島=屋久島これだ!
465 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/09(水) 23:19:01
ワクが二個でワク二(倭国)
466 :
日本@名無史さん :2008/07/09(水) 23:26:00
467 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/09(水) 23:40:30
だから「わクワく」島でクワが わ く の間にある。 桑が和久産巣日の間にあるか。
468 :
日本@名無史さん :2008/07/10(木) 00:06:00
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
469 :
日本@名無史さん :2008/07/10(木) 11:19:29
>>460 >>463 463のとおり、卑弥呼が巫女だから恥ということはない。それに、神功を創作して卑弥呼のように仕向けたなどといっても何の解決にもならない。卑弥呼を卑弥呼として立派に描けばすんだはずなのだ。
神功は確かに、卑弥呼に見えるように創った人物。→458 しかし、神功=卑弥呼とは明記しない。そこに仕掛けがある。
一方では、卑弥呼=神功と見えるようにしている(倭国と大和は同一ということになる)。
他方では、違うように見えるようにしている(倭国と大和は別の国ということになる)。
それが何のためかが、おもしろいところですね。
>>469 > 463のとおり、卑弥呼が巫女だから恥ということはない。
「巫女」と多少意味が違うが「司祭者」と言うことであれば、紀編纂時の天皇の基本性格の一つであり、
都合の悪いことじゃない。
何が「恥」かと言えば、中国皇帝から「冊封」されていた事実の方。
推古以降の対中国外交は対等外交路線、「冊封経験」は邪魔な事実。
> 神功は確かに、卑弥呼に見えるように創った人物。→458 しかし、神功=卑弥呼とは明記しない。そこに仕掛けがある。
性別以外に一致する点は何も無い、註の存在は後世の人間にとって「仕掛け」となっているかもしれないが、
これが何時ころ附けられたものなのかは不詳でしょう。
471 :
日本@名無史さん :2008/07/13(日) 10:23:24
>>470 >性別以外に一致する点は何も無い
仲哀死亡後、夫婿なし。神寄せ(鬼道)ができた。男弟1人あり。
神功記には、宇美(不弥国)、怡土(伊都国)、末羅(末盧国)といった地名も出てますが。
472 :
日本@名無史さん :2008/07/13(日) 17:04:05
未亡人を強引に夫婿無しつーのは、初めてお目にかかる。 卑弥呼の鬼道って詳細は判らないが、 神功への神託は日常的に行われていたものでも無い。 神功の「男弟」君は、姉を補佐して国を治めていたのか? エラクこじつけ度の高い説明だね。
473 :
日本@名無史さん :2008/07/13(日) 22:29:36
そもそも神功皇后は架空の存在。 神武を崇神まで男系で繋げるためにでっち上げるために創造した架空の皇后。 女王国の神話を時代考証なしに結びつけたからおかしなことになったのです。
474 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 22:34:08
でっちあげたら舎人親王は公文書偽造で準死罪だ。ただですまない。 そんあ危ない橋をわたるわけがない。 創造したというのは君の頭の創造なわけだな。
475 :
日本@名無史さん :2008/07/13(日) 22:42:37
>>472 魏の使者が来たとき、亭主がいなけりゃいいわけですからね。
鬼道・・鮎がつれたらどうのとか、結構何回もやってますよ。
弟の関与・・してないとも書いてませんしね。
仲哀の死亡は壬戌。182年とも読めます。暗示的では?
要するに、倭人伝をみながら物語を作ったな、ということですよ。
476 :
日本@名無史さん :2008/07/13(日) 22:52:05
亭主元気で留守がいい! by 卑弥呼
477 :
日本@名無史さん :2008/07/13(日) 23:30:36
魏志を読めば女王国は北九州でほぼ確定するが、考古学的には明らかに畿内なんだよな。 何故このような矛盾が生じるのか?思うに魏志は過去の資料や伝聞から総合的にまとめて書かれたものであり、 二世紀後半までは明らかに女王国は九州にあったが、三世紀にはすでに 畿内の邪馬台国に中心地が移っていたのではなかろうか? そうした情報がごちゃまぜになったせいでこうした矛盾が生じるものと考えるが。
478 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/13(日) 23:38:30
>>475 >182年と読める
意味不明? どういう計算か?
479 :
名無しさん :2008/07/14(月) 13:08:35
>考古学的には明らかに畿内なんだよな そうなんだよね、畿内説の人は出土したものをなんとか こじつけようと努力してるよね。 でも、弥生前期には畿内は古代中国の影響はほとんど 見受けられないのも事実で、当時は北九州からしか絹 は出土していない。 畿内は破壊された銅鐸程度かな。
480 :
(・へ・) :2008/07/14(月) 15:28:55
>>477 「魏志の邪馬台国は九州にあった。畿内にも国があったが、文献の記録には残っていない。」
これだけの事でしょ。
481 :
日本@名無史さん :2008/07/14(月) 17:27:23
鯨統一郎「邪馬台国はどこですか?」の中の 至ると到るの違いは信憑性ありますか?
482 :
(・へ・) :2008/07/14(月) 19:11:40
鯨統一郎の至ると到るの違いは知らないが。 手持ちの辞書によると到は至+人。・・・だから到は人が至、到は人が意識して至。 至は無意識に至、方向が至などでしょう。 刂を刀と勘違いしてる人が多いが、到の刂は人です。
483 :
日本@名無史さん :2008/07/14(月) 21:24:11
>>478 干支は六十年で一回り。182,242,302,362年、みんな壬戌。
普通は4世紀の壬戌だと思われてるけど、古事記の編者は梁書を参考に182年に設定しているのですね。
484 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/14(月) 21:38:49
>>475 そういう意味ですか。182年は孝靈の時代であって仲哀崩御のころ
ではないよ。239年の卑弥呼の活躍ころで神功世に合わせたん
だろうが、あれは紀の編者らが時代を特定できなくて困っていて、
ここかな? と、やむを得ず神功紀に挿入したもの。
485 :
日本@名無史さん :2008/07/14(月) 22:07:20
欝色謎姫とか、適当に、なぞなぞみたいな名前を考えれば済むところを わざわざ神功皇后に持ってきたのは、それなりのわけがあるのではない でしょうか?
486 :
日本@名無史さん :2008/07/15(火) 02:12:49
卑弥呼は夫がいないと魏志には書いてあるのにわざわざ嘘ついて神功皇后にするほど 記紀の編者は馬鹿なのか?
487 :
日本@名無史さん :2008/07/15(火) 02:23:04
つまり卑弥呼=神功皇后とすることで、応神から九州邪馬台国系列の血筋が 畿内王権に入ったことを指し示しているのだろう。仲哀と応神との間には血縁関係はない。 神功皇后なんてのも創作で実際は九州の王が仲哀を殺し畿内に入ったのだろう。
488 :
日本@名無史さん :2008/07/15(火) 02:55:49
>>479 邪馬台国が弥生前期のお話ですか?
銅鐸の破壊が弥生前期から?
なんでこの板の九州説論者ってこんなに馬鹿なのか?
489 :
日本@名無史さん :2008/07/15(火) 05:04:28
>>483 ちなみに漢字は大陸にいた古代漢人が作ったも知れないけど
中国大陸の魏志倭人伝や他の書物にも使われてる「干支」や「十二干支」や「旧暦」は、古代の日本人が作った暦だよ
ホマツタエなどの漢字伝来以前の書物の暦も干支や旧暦が使われてるらしいしさ
490 :
日本@名無史さん :2008/07/15(火) 05:24:27
a[
491 :
名無しさん :2008/07/16(水) 16:23:21
グスン 畿内説厨のアホに馬鹿と言われた・・ アホよりましか。
492 :
日本@名無史さん :2008/07/17(木) 07:33:17
>>484 「182年は孝靈の時代」とか「仲哀崩御のころ」というのは、どうやって特定しているのでしょうか?
493 :
日本@名無史さん :2008/07/17(木) 07:36:22
>>492 大丈夫。あなたの言い分は分かる。畿内説の記事の読み方は分からないけど。
494 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/17(木) 10:33:14
>>492 当時倍暦を使用していたことで、実年代182年は孝靈の時代に相当
する。それに孝靈はそのころ吉備行幸を果たしているのも大乱鎮圧
の関係だ。さらにそのころ月支国が出雲に大船団で攻め入って
いるが、これも大乱での日本弱体時にそれに乗じて攻めこんで来
たようである。月支の軍勢は神風で大海の藻屑と消えた。
「天文方と陰陽道」林淳著を読むと、 中国は、紀元前の前漢の時代から天子が変わるたびに、時には、同じ王朝でも皇帝が 変わるたびに40回以上の改歴をしているとあります。 しかし、日本では、持統天皇4年(690年)以前には、暦はなかったことになっています。 卑弥呼の時代には日本には暦はなかったのではないでしょうか?
496 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 00:54:01
>>494 そうですか。太国さんは倍暦説なのですね。しかし、10歳の少女が20歳と称し、30歳の女は60歳と称していた。
到底、信じがたいですねえ。それに、干支で年を特定する方法は中国から伝わってきているんですよ。我が国だけ倍の速度で進んだら合いませんよね。
「ヤマタイ」「ヤマト」 同じような名前の有力な国が2つも在るわけない! 在るとしたら1つは偽ブランドです。
498 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 07:23:40
>>496 紀の仁徳以前の天皇が百数十歳生きるわけがなく、こっちのほうがよっぽどw
信じられまいが? それともなにか〜? こっちは信じるのか。当時倍暦を行使
してたからこんな紀の記述なわけさ。何のことはない。現今の人間と大差ない
寿命だったということだよ。
紀元前から漢字が日本に流入してたんだから、そのことで干支が日本に来て
てもおかしくない。神武は紀元前後の人物だから、以後の天皇の年数、歳等は
干支でやることは可能だ。
日本が倍暦でやってたから、大陸半島側の年代と日本の年代が合わないため、
これを感知してない紀の編者らが合わない事由がわからず、その調整に困惑、
苦心し、こうではないかと、伝の卑弥呼の記述を神功39年に挿入したわけ。これ
は編者らの間違いになってしまった。
だから卑弥呼と神功の年代は干支60の倍数の120年(120年ピッタリでないが
これは通常暦と倍暦行使での偏差が少し出るため)ズレている。
499 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 22:00:29
仁徳以降ではなんで急に倍歴をやめたわけ? そもそも、仁徳以前の天皇の死没年が 正確に伝わっていたとも思えないしね。 実在していたかどうかもあやふや。
500 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 22:28:25
>>498 >紀の仁徳以前の天皇が百数十歳生きるわけがなく、こっちのほうがよっぽどw
信じられまいが? それともなにか〜? こっちは信じるのか。
百数十歳などというのは、単に「お話」と考えるべきでしょう。倍暦などというのは、半分は信じているんだなという感じですね。
501 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 22:40:28
>>499 仁徳以後も倍暦はやってたようです。倍暦廃止は佛伝の影響から
でしょう。
>>500 単なるお話ではないですね。紀の神武以降は年齢で書かれていると
いうより、年月日付けで詳細の日付けで記述されています。単なる
お話なら××歳とかの年齢だけで記述すれば間に合うわけで、年月日
がキチンと載っているということは単なるお話ではないですな。
勿論年齢も書かれている個所もありますよ。しかし大半は年月日まで
書かれています。
502 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 22:53:52
ということは日本書紀に 「暦」が百済から伝わったとあるのは嘘だったんですね。 それで、日本書紀や古事記のどこに 「○○年に日本古来の暦、倍歴をやめました」 と書いてあるの? そんな重要なことだから当然書くよね。
503 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 23:04:51
重要なことで書かないことなどいくらだってあるだろうが。 重要なことは口伝のみという古書もある。そんなことが書いてあれ ば暦法でみなが困惑することもないし、苦労せずして神武以下の 天皇の年代も容易にわかるだろうが、書かれてないからいろいろ 暦の論戦が出るわけだよ。 忍法の書「萬川集海」の内容でも重要な部分は口伝とあるぞ。文面 の□□□とかで口伝になっている。だから「口」の字はその字の空き の□からできた文字かとも、つい想ってしまうくらいだ。
504 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 23:06:38
>>503 それで?
暦が百済から伝わったというのは出鱈目?
君の言い分にほんの一行でもいいから
「史料」という裏付けはあるの?
505 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 23:11:39
>>504 百済から伝わった、それは本当だろう。が、しかしそれ以前に別の
暦法があったとしてもおかしくはない。すでに重要秘密的で暦を
編んでいれば、百済からの暦を公開用として採用してもおかしく
はない。今の日本だって場所にとっては太陽暦だけでなく相違した
旧暦でやる田舎もあるだろう。単一と考えるからおかしくなるんだ。
506 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 23:14:14
「史料」? 何に言ってるんだ? 倍暦のことの史料か?
507 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 23:19:59
百済から「暦」が伝わる前の日本独自の「暦」 が発見されたという考古学的史料を挙げたら? 日本なんか、弥生時代から中国の暦をぱくっていて 日本独自のものってありませんでしたよ。
508 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 23:24:33
ぱくれるなら暦を使えるわけだから、アレンジができないわけが ないでしょう?月読命だって月齢を読めると観た名だし、無いという 保証がどこにあるだね?
509 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 23:26:30
>>508 史料を出せないなら、事実とは認められませんね。
残念。
510 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/18(金) 23:35:44
とにかくぱくったなら暦法はアレンジでも出来る。お前がパクった と認めたんだから、あちらさんの暦があったことになる。だから お前の言う無いというのは自語相違ということになる。旧式でも 大陸半島の暦があれば日本に暦があったことになる。それをお前は 認めたんだから、こんな矛盾したことをを言うな。 月読命の名からあったと想うべきだ。だいたいなぜ欠史八代間の 日数の記載が、なぜ1日〜14日までしかないのか? でかいことを言う ならその答えるんだな。 言い分あるなら書いておけ。明日以降・・・。 ZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZZ・・・・・・・・・・・
511 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 23:42:03
>>510 毎日、暇人ですねw
結論;
日本にはぱくった暦しかなかった。
反論があるなら、日本独自の暦を出すべし。
ないもん出せないもんね〜
「史料は何ひとつな。すべて俺の脳内史料」
とお前自身が言っているのだから。
残念。お気楽クン。
512 :
日本@名無史さん :2008/07/18(金) 23:44:54
だいたい、大和王権に暦の専門職が置かれるようになったのも 百済から伝わった後。 それ以前はだれが暦を作り管理していたのだろうね。 日本書紀も読んだことがないなんてw
513 :
サガミハラハラ :2008/07/18(金) 23:50:40
日本には二倍暦というのがありました。天皇の在位年や年齢党に使われていました。 古事記日本書紀が証拠です。
514 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 00:05:28
>513 日本書紀や古事記に新なめ祭が2年に1回しか行われなかったとか、 日本書紀や古事記に田植えが2年に1回しか行われなかったとか、 冬であるはずの11月は2倍歴のために暑くて死にそうだったとか、 そういう史料を挙げたらいいんです。 季節は太陰暦にぴったり合っている、 行事も太陰暦にぴったり合っている。 これでは証拠になりませんよね。
515 :
サガミハラハラ :2008/07/19(土) 00:40:45
だから、記紀の天皇の年齢や在位年(神武から安康までの在位年、年齢等は推古天皇まで)が それであらわされているからそれが証拠なのですよ。
なんとなく九州
同じく。自分も転向wしました
518 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 07:01:05
>>511 >>510 で自語相違と言われたのが相当こたえたようだな。これで
お前の論述はデタラメだったということになる。ww つまりお前は中国から
パクったと認めたんだからお前自ら日本に暦があったことを自認したことに
なるわけだ。お前から暦があることを進んで肯定したわけだ。
ハハッ! ドジの笑い止めだな。ww
↓
>>507 >弥生時代から中国の暦をぱくっていて←wwwww
↑
暦はぱくって、以後独自性が出る。日本に弥生時代から暦があったことを自認
いたお前の豆脳が滲み、考え出した笑い話の文だな。wwwww
非常にこちらはお前の自認してるとおり気楽なものだよ。気楽でないのは自語
相違してるお前の脳内だろ。ww
519 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 07:25:54
>>509 以下の史料統計を説明してから文句を言うんだね。この文証をどう思うかな?
↓
【日本書紀の欠史八代の立太子、即位、崩御、立后等の日数統計表】
1日 4 15日 0
2日 2 16日 0
3日 3 17日 0
4日 3 18日 0
5日 6 19日 0
6日 3 20日 0
7日 2 21日 0
8日 3 22日 0
9日 3 23日 0
10日 1 24日 0
11日 4 25日 0
12日 3 26日 0
13日 3 27日 0
14日 7 28日 0
29日 0
30日 0
数字が1日〜14日までの2週間しかない。月後半が全くない。(さらに八代の
天皇は全て月上旬崩御である。)これは当時1ヶ月が2週間しかなかった等の
文証なのである。つまり当時は2倍暦等を行使していたのだ。
520 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 07:32:39
>>514 太陰暦がぴったりでも上の表はぴったりにならなんのだよ。表の右半分が
ないのはどういう釈明をするのかね〜? お前はぴったりだと豪語しているが、
そうなると紀の記載は計算から仁徳以前の天皇の百数十歳がズラリといる年齢を
遠回しに肯定したことになる。しっかりしてくれよう〜。www
卑弥呼の時代は春分・秋分・夏至・冬至といった二十四節気、太 陽暦を用いていたものと思われます。 箸墓と伊勢斎宮を結ぶ太陽の道は正確に東西を指しているし、重 要遺跡の配置、ストーンサークルなどから、縄文時代以前から太 陽を基準としていたと考えられます。また、暦を司る日置氏と いった天文方がおり、また、全国の飯盛山と呼ばれる神奈備型の 三角山に通信員を配置し、鏡による光通信、、狼煙やかがり火によ る通信を行うことで広大な国を支配っていたのではないかと考えら れます。
522 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 09:07:18
>>519 あるクラスで任意に8人を選び、誕生日を尋ねると
15日以降生まれの者が誰もいませんでした。
よって、太陽暦は1日〜14日までしかないのである。
君の言い分はそういうことだよね。
支離滅裂。
523 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 09:11:20
>>520 仁徳以前の天皇の年齢が出鱈目なのは学会の常識。
乳幼児死亡率が高かった当時、
たとえ年齢半分としても軒並み当時の天皇が
一人の例外もなく50歳以上まで生きたとでも信じているの?
実年齢が検証できる天皇で立証してみなよ。
医学の発達していない当時、天皇が誰ひとり夭折や早死にすることなく
必ず50歳以上まで生きたとね。
524 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 09:13:16
>>521 卑弥呼のいた九州と天皇のいた畿内とでは暦法を別に考えたほうがいいでしょう。
525 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 09:18:59
>>522 じゃぁその学校の資料を出してくれ。とくに生徒の生年をな。
生徒は一人二人か?wwww 簡単にイカサマを言うなよ。
お前精神病院で診てもらったほうがいい。wwww
526 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 09:20:59
527 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 09:30:01
精神病院行きは君だよ、太国君。 月の動きを暦にした太陰暦、 太陽の動きを暦にした太陽暦、 天文学的にはこの2つが世界で用いられ、 日本にも暦を管理する官僚がいたわけだ。 しかし、君は月の動きも太陽の動きも無視する 暦があったと言い切るのだからね。 地球上どこの地域の人も用いたことのない 天文学を全く無視した暦が。 史料は何一つないがw
528 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 09:35:33
>>501 >年月日付けで詳細の日付けで記述されています。単なるお話なら××歳とかの年齢だけで記述すれば間に合うわけで、年月日がキチンと載っているということは単なるお話ではないですな。
また、ずいぶんと単純な理由で信用するのですね。詳細な日付を作って書くことは、別に難しいことではありません。
それに、正確な記録が残っていたのならば、なぜ日本書紀と古事記の崩年が一致しないのでしょう。
529 :
太 :2008/07/19(土) 09:40:42
>>527 自語相違のブチ切れゴクロウサんでゴザル。www
自語相違では支離滅裂どころか、お前は史離滅裂だな。www
それとも支邦滅裂か〜?www はやく精神科へ行ってお前の豆脳
を診てもらえ。www
530 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 09:45:44
天文学をを無視した暦はある。古代マヤの819日暦なんかはそれだな。お前 知らないのか〜? ところでお前は「改め」か〜? それとも以前余に大負けした コテハンか〜? まぁそのへんだろう?
531 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 09:52:28
>>528 貴殿はわりと冷静だね。あの自語相違の奴とは別の方か?
古事記は阿礼個人の記憶からのもの。紀は原書群から厳正に紀の編者らが厳選
した上での採った記述。記より8年後の成立だから記も原書の一になる。記の
記述を修正した感があるのが紀だから相違があるところが出る。
解: 邪馬台国=((九州)畿内)=ヤマト
533 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 22:17:16
>>531 >古事記は阿礼個人の記憶からのもの。
古事記は、単純に阿禮の記憶ではなく、削偽定実したはずです。それが、なぜ8年後には大幅改訂になったのか、そこが問題なのです。
>記の記述を修正した感がある
そのとおりですね。明記はしませんが、古事記を徹底的に意識しています。古事記を否定しているかに見えて否定していないのですね。
534 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 22:48:16
>>533 阿礼の記憶に関しては、よっぽど明確な誤でない限り偽を削るとか
はできにくいと思う。できるんなら阿礼の記憶は必要ないわけで、
知って削るものがその頭に真の歴史を把握してるから、阿礼に
たよることもないわけだと思うが。
人間記憶気なんて所詮あてにならない。なぜなら、検証 すべき証拠がないから。しかも、半島から大和の文化も 風俗も理解していない筆記者を連れてきて、口伝を筆記 させたものだから、もう無茶苦茶ですよ。 そんな古文書を当てにするほうがおかしい。それだったら 秀真伝えのほうが信用できそう。
536 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 23:20:38
>>534 阿禮に誦習させたのは、諸家の帝紀、本辞です。けして一通りのものではありません。
甲家の伝承、乙家の伝承という具合に、複数のそれを比較検討して、何が正しいかを判断し、実を定めたのです。
537 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/19(土) 23:25:34
>>536 まぁそういうことも言えると思いますが、結局紀のほうは記に違え
てる部分があるんだから、ストレートに言えば、紀は紀の改訂版の
雰囲気だということだ。だから編年にあっては紀を採るのがよいと
思う。しかし記の崩年干支の記述も、何らかの参考になるものを
含んでいると観てる。
538 :
日本@名無史さん :2008/07/19(土) 23:41:51
539 :
日本@名無史さん :2008/07/20(日) 00:19:57
>>538 東海って何処?日本海って大昔は東海って言ってたの?
540 :
日本@名無史さん :2008/07/20(日) 03:05:11
徳島との説もあるらしいね。
541 :
日本@名無史さん :2008/07/20(日) 08:43:50
徳島に阿蘇山はないな。
542 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 07:52:11
>>537 >紀は紀の改訂版の雰囲気だということだ。
そのとおりです。そこで、紀の倭人伝引用が最初からのものならば、記も神功=卑弥呼という設定になっているはず、となります。
で見てみると、>475のようになっている。それを見れば、紀の倭人伝引用は記から始まったと言える、そうゆうことです。
543 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 08:01:49
先に、仲哀の崩年は182年と書きました。仲哀の死によって、神功は倭の女王になった、その時、彼女が二十代後半とすれば、百歳の時には248年前後のはず。 どうです、神功の年齢も卑弥呼に合わせてあると言えるでしょう?倍暦計算してしまったら、そこの仕掛けは見えなくなってしまいます。
544 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 08:08:54
いま朝飯だ。あとでな。
>>544 わろた
太国さんも朝飯を食うんだという当たり前の事実に気づいた。
546 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 09:57:36
>>543 実年代182年は仲哀の年代ではない。同年は孝靈天皇在位年代で倭国大乱のころ
だよ。同年大乱に乗じて月支国大船団が出雲に攻め入ったが、神風によって沈没
退散した年だ。
紀の編者らは倍暦に無知だったのであろう、大陸半島と日本側の年代の大幅な
段差が100年以上?とかあって、年代調整に困っていた。それで欠史八代間はその
落差が激しいので信用を確保するため紀に記述するを避けざるをえなかったのだ。
なぜそのように100年以上?とか、むこうとこちらの年代差があるのだろうか?
普通に考えてみて調整しようとするとき、あちらとこちらの年代の誤差は1〜2年
あるいは数年でしか出ないはずだ。しかし大幅にズレていて、舎人親王らはこの
調整に会議を開いただろうが、論議噴出ハッキリとした解釈は得られなかった。
その断差の原因は大陸半島が通常の暦法であったが、日本側は倍暦を行使して
いたことからである。だから大きな年代の相違が生じていたのである。
親王らは結論は得られないものの、小康状態でこの問題を解決しようと、また
卑弥呼が神功ではあるまいかとの推量も手伝って、およそ干支の倍数の120年
移動となる神功39年に卑弥呼の記事を挿入したのである。本当の239年たる
景初3年は崇神即位3年に相当するのである。孝靈の時代が倭国大乱だとすれば、
崇神の時代は卑弥呼の活躍年代であり、つじつまが合う。かつ崇神の時代に彼女
は死亡したのだ。
547 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 10:01:42
訂正 × 欠史八代間はその落差が激しいので ○ 欠史八代間はその落差が調整できないので
琉球
549 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 10:19:07
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
>>546 しかし、日本で倍暦を使っていた証拠はない。
実は、大陸半島では半歴を使っていたのではないだろうか?
551 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 11:29:35
じゃぁ半歴っていうのは証拠があるのか? 半歴だと日本の紀の仁徳以前の天皇の超長寿の記述は合理性が出るのか?
552 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 11:35:57
553 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 11:39:34
>>551 だからそれはこれから考えればいいことで、
仮説を立てて検証してゆくのが歴史研究というものです。
半島が半暦を使っていたとすれば日本との年のズレはなくなる。
554 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 11:44:33
ではこちらもこれから考えればいいことで。仮説を立てたりしてやって いるわけだ。 >日本との年のズレはなくなる それはそうだが、そうだと紀にある仁徳以前の 天皇の、百数十歳の寿命はどのように解決するのか?
記紀は、数代にわたる一つの王朝を一人の天皇として書いている。 当時の大和は、複数の豪族による連合国家で、天皇が変わるとい うことは、別の豪族に政権が移るということ。そう考えたほうが現実 的です。
556 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 12:14:00
だったら間に天皇がもっといたことになる。10代だった30〜40代と天皇の代数が 増えてしまう。そういうことは考えにくい。多分あたなの即興による考えで あって、おかしな点が出てしまう。 単に、半島が半歴をやってたというなら、仁徳以前の天皇の大半は寿命が 百数十歳どころか、2百数十歳〜3百歳以上に増えてなおさら不合理となる。
男子一系という神武天皇以来の血の繋がりを正当なものであると主張 するため記紀の編者はいろいろ骨を折っているようだが、そのために 矛盾だらけの正史になってしまったのです。 欠史8代、ワケ王朝とやイリ王朝と継体が血のつながりがあったのか? ましてや本当に男子一系だったのか、歴代天皇が実在の人物であった 証拠すらないのに、いったい何をもって天皇の年齢だの倍暦だのを考え 出したのか理解に苦しむ。
558 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 12:36:45
記紀は文証だよ。文献も証拠の一。考古ででないから無いという のは考えすぎ。神武からの皇統譜とか系譜を創作すれば舎人親王は 公文書偽造で身の上が危うくなる。だか創作などとは神武以前 なら伝説でどうだかわからんが、神武以後は年月日が殆ど書かれて あるから存在しないなどとは津田病患者の論拠だということとなる。 正当なものとするんなら、雄略、武烈の悪事とか皇族同士の騒乱、 浮気などを記紀に載せてはまずいこととなり、目的は正当のものと するためとは言えない。
559 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 12:42:22
>>558 訂正
× 神武以後は年月日が殆ど書かれてあるから存在しないなどとは
○ 神武以後は年月日が殆ど書かれてあるから、存在しないなどとは
>>558 もし舎人親王が、神武天皇と継体以前の天皇とは血の繋がりがないと
書いたとしたら生きていられたと思いますか?
殺されたか投獄されて別の人が編集にあったったはず。
時の権力者に都合の悪いせい死なんて書けるわけがない。
当然でしょう。
561 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 14:12:27
>>560 だったら雄略、武烈の悪事を書いたんだから、それ以上に投獄されるだろうが?
実際投獄されてはいない。だからあんたのいう故意の創作などとは考えにくい。
おまけに武烈は史での隣接繼體の先帝ではないか。だからあなたの考えすぎだよ。
記紀に血の繋がりはないとでも書かれてあるのかい? あのへんではそういう
記述はないだろうが?
>実在の天皇がなかった
そうは言ったって、隅田八幡鏡には繼體の名があるし、稲荷山鉄剣には雄略の
銘文があり、さらに崇神のシキ宮の記述とそのころの時代に活躍した大彦の名も
あるし、また雄略世から遡る系譜の人数も崇神世の年代経過とは合理的にあって
いる。ということは記紀の天皇系譜の記述に疑念を抱く必要はない。ただ寿命
が仁徳以前では百数十歳とかいうのが不審なわけだ。しかしこれも倍暦をやって
たから、倍暦のやり方は各天皇の代で各々特性があるようで異なりがあろうが、
この不審性も解消するし、証拠もたとえば
>>519 のとおり存在する。
また日野郡誌には倭国大乱での吉備行幸を果たした孝靈天皇の記事も満載されて
いるし、広島県沼隈郡沼隈町に所在の艮神社にも開化10年孝靈の皇子吉備
武彦が大乱の残党か? クマソ新羅王を討った伝承があり、別に欠史八代は記紀
だけの話ではないから、八代が舎人親王の公文書偽造罪は成立し難し、無実で
あることが確信できる。それに日御崎神社記には大乱の頃の孝靈世、月支の船団
の襲来を受けている記述があり、ここにも孝靈の話が記紀と独立して存在する。
さらに畿内の多数のご陵も天皇の代数をほぼ合致し、おかしくはない。津田は
こういう詰めをしないで論を組み立てているから失敗してるのだ。最初からウソ
だとの先入観が極めて強く、その論説は真もあるがデタラメも多いと観る。
これらご陵が天皇のでないなら、まさか百姓のため、馬の骨のために数十年
かけたりして、過酷な労働をするわけがないだろうが。だから天皇が実在しない
なんてことはなりっこなく、考えにくいね。
そもそも天皇という称号すら存在しなかった時代に、天皇を名乗った大王は 存在しない。それでも、神武を初代天皇として男系が貫かれていることの アリバイ創りのために記紀は編纂されたのです。 その歴代天皇とされた人物のモデルとなった豪族が存在したというのなら 否定はしないけれど・・
563 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 16:32:50
天皇という称号は後からつけたことは確かだよ。この前の良子皇太后陛下が崩御 したが、香淳皇后の称号も後付けだよ。だからと言って、お前の言うとおりに この皇后が創作ではあるまいが? 便宜上大王をそのまま天皇として論陣を 張るのは余だけではなく、殆どの方がそうしている。お前は枝葉末節の揚げ足 を取ってるだけで、天皇の号で古代のこれらの大王を天皇を呼称して論ずること は別に支障はない。
564 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 16:43:52
>>562 男系を貫くなら、なぜ皇祖のアマテラスは女性にしたのかね? 女がいやなら、
なにも神功皇后や推古、皇極天皇を記紀に書いたりするのを抹消するだろうし、
記紀成立時代の元明、元正という女性天皇も存在が疑われることになり、こう
いうことはよっぽどのヘソ曲がりでない限り、元明、元正まで創作とは言わん
だろう。その後には孝謙女帝もいるし、これはお前の考えが成立しないことを
意味しているのだ。
565 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 16:48:42
>>458 皇后って時点で巫女じゃない。
息長日子王は次の天皇じゃない。つまり次の男王でもない。
中国皇帝との交流が全くかかれてないのは存在しなかったから。
魏志倭人伝を編纂したのは朝鮮半島に住んでいた中国人。
新羅征伐を知らんわけがない。
しかも台与は女王であって、王の妻ではない。
だからもう、神功皇后が卑弥呼なんてありえないってことがよくわかるね。
566 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 18:33:34
紀元前660年が架空である以上、神武の存在も架空であると考えるのが妥当。 モデルはおそらく崇神であり邪馬台国の時代に日向から大和に入ったのだろう。
567 :
サガミハラハラ :2008/07/21(月) 18:44:10
そうとはいえないですよ。とある芸能人の年齢(芸名も)が架空(偽装やキャラクターエイジ)だからといって、 当人の存在が架空であるとはいかないでしょう。 神武は101年頃の出生で、天皇の橿原での即位は131年です。(復元日本書紀紀年法によれば 後藤幸彦)
568 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 19:57:21
紀元前660年が架空だからといって神武自体も架空にはならない。 貴方の腕時計が狂ッて架空の時間を指していて会社に遅れたことが あったとしても、貴方自体は架空ではないぜ。自分自身まで架空と するのは妥当ではない。被疑者が刑事にアリバイを作るため、架空の 時間で所在を偽っても、被疑者本人まで非実在とはならない。
569 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 20:11:23
重要なポイントは邪馬台国に魏の使者が実際訪れている点。 畿内では遠すぎる気がするし、また二世紀後半の時点で すでに大和が西日本をおさえていたとは考えづらい。
570 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 20:18:50
>>566 >モデルはおそらく崇神であり
この方は崇神は実在と考えているのだろう。となれば神武の紀元前
660年は架空の神武即位年であるとの主張だが、そうなら実在を肯定
している崇神の即位年たる紀元前97年は彼は架空でないとの考え
だということになる。だから今後貴殿は実年代ということにしてい
る崇神即位を始点として、編年してもらいたい。
それで正確に合うのか? どうかね?
571 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 20:26:33
>>570 が
>>566 氏の考えであるから、紀元前97年の崇神即位事に
卑弥呼は生存していることになるから、彼の主張からは紀元前97年
から倭人伝で卑弥呼が死んだ紀元248年までは卑弥呼は生存してい
たことに彼の主張からはそうなることとなる。
すると
97+248=345年
から卑弥呼は少なくとも345年間サンジェルマン伯爵のように
生存していたことになる。w
>>566 氏の主張は遠回しに卑弥呼が
345歳以上の寿命だったと主張したこととなる。
572 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 20:44:18
>>566 >モデルはおそらく崇神であり邪馬台国の時代に日向から大和に
入ったのだろう
崇神の実在を肯定して崇神は女王国の時代に大和入りしたので
あるから、神武即位の紀元前660年が架空の場合は神武は架空が妥当
だと言ってるから、>から崇神即位の紀元前97年は架空でないと
遠回しに認容していることとなる。なぜか? 崇神即位の紀元前97年
が架空ならば、当然
>>566 氏は崇神が架空であるとするのが妥当と
いうことになるのであるから、紀元前97年は崇神が架空でなく実在
であると肯定しておることとなる。すると紀元前97年に女王国から
大和に崇神が行ったのであるから、卑弥呼はこの年に生存していたわけで、卑弥呼の死2は48年(あるいは247年)のことから、卑弥呼は
345歳(344歳)まで生存していたと
>>566 氏は説明したことになる。
それともその時代は壱与の時代に即興ですりかえるかい?w
573 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 20:46:47
訂正 × 卑弥呼の死2は48年 ○ 卑弥呼の死は248年
574 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 20:47:45
卑弥呼が天照大皇神のモデルに成ったと考えれば 九州北部を卑弥呼が支配した邪馬台国が存在し その後、神武東征で邪馬台国が大和地方へ移った って考えれば良いかと。
575 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 20:54:52
そう考えると時代的に応神が神武のモデルになるな。 しかし巻向から古墳も鏡もでるし、困ったもんだな
邪馬台国なら、新宿西口方向から大ガードをくぐって右に行って、最初のの丁字路を左に行ったところだよ
577 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 21:16:35
太国さん、反論になってませんね。 男系でも女帝は存在する。 ただし女性天皇も男系天皇の直系であることが条件。 女性が好きとか嫌いとかそういう話をしているわけではありません。
578 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 21:36:19
邪馬台国が九州にあったなら伝説伝承が残ってなきゃおかしいですが それらしきものはない。その点をどうお考えですか?
崇神が東遷したという説には賛成です。神武は、古代日向王朝だった。 日向の諸県(もろがた)にピラミッドで北斗七星を描いた勢力と同一で はないかと考えています。 北斗七星というと妙見信仰と結び付けられがちですが、日読み月読み 星読み、暦の作成を体系的に行える高度な科学的な知識や土木技術 を持った勢力であったと考えたほうがいい。 したがって、倍暦なんてまがい物を使っていたはずがありません。 箸墓と伊勢斎宮を結ぶ線上の太陽の道を作ったのは、高度な天文知識 を持った日向の勢力以外に考えられません。
580 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 21:50:28
筑紫舞が伝わっていますね。
北極星の高度が同じなら等緯度 三輪山付近の居住地から真東にあって、日の出ずる方、当時の勢力範囲が尽きる場所、それが伊勢の五十鈴の地 二見ヶ浦から東を望めば、陸はさらに東国へと連なり、飽くなき「日出ずる東の方へ」という野心がたぎった事だろう 遠く蓬莱山も望見でき、日の出ずる方の土地、それが「日高見の国」であった
582 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 22:25:30
>>577 なぜ男系にしなければならないのかの書きこみが当初から
ないではないか。その理由の書きこみがな〜い。
そうなら記紀はアマテラスを男神に設定するはずだ。反論に
なってないのは君だよ。
583 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 22:28:04
>>579 >使っていたはずがない。
高度な科学的知識があるなら容易に倍暦はできる。
つまりはずがあるのだ。
584 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 22:31:06
邪馬台国は次の角を曲がって三軒目です
586 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/21(月) 23:14:51
>>579 >月読み
新月(朔)〜満月(望)で1ヶ月、満月〜新月で1ヶ月とすれば、
科学的知識が豊富だと言ってるんだからこれで容易に2倍暦は
出来うる。
太国氏、必死だな。w 自分の説が間違っていないというのなら、いちいち反論せずに悠然としてればいい。 自信がないなら次節はひっこめたほうがいい。 この末ですら、倍暦を支持しているのh太国氏1人。 それでも主張を曲げないのは立派だとは思うが、 いちいちうるさいですよ。 あなたの相手をしているほど暇じゃない。
588 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 23:35:56
まあ、一般論として、2倍暦の完全否定も難しいと思うが。
589 :
日本@名無史さん :2008/07/21(月) 23:53:02
なんでイヨじゃなくてトヨになっちまったんだよ・・・ イヨのほうが音の響き的に美少女な気がするのに トヨだとデブスのイメージ
トヨ=トヨケ=トヨウケ=トヨキ どれも同じ イヨって誤記だろ
591 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 01:34:16
>トヨだとデブスのイメージ 明治時代には、とら、なんて女性名も多かった。 その時代の感性は、いまの感性とはちがう。
水行十日で大阪上陸、陸行一月で東北。 これしかない。
593 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 01:36:33
あれは出張費多くとるための水増し記述だから
594 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 02:59:14
もしかして・・・ 「この地域通過は一月十日の行程です」と偽証(わいろガッポリ) → 不正な教員採用試験の伝統へ
595 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 03:18:39
三角縁神獣鏡は産地偽装の嚆矢www
596 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 11:08:34
>>592 水行十日で大阪など到底無理。それはともかく、従来忘れられているのは、使者はどんな船を使ったのかの問題。
対馬海峡を渡ってきた時の船か?それとも、倭の舟で投馬国や邪馬台国に向かったのか?
597 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 12:43:28
伊都国までしか魏の使者は行ってないだろ
>>597 それ俺も思ってたわw伊都国から後がいい加減だよね
599 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 14:10:30
伊都国までしか行ってないと言う説は、伊都国から先の行程がうまく説明できないための言い逃れ。 郡から派遣されてきた使者が、卑弥呼に直接会わないはずはないと考えるべきです。
600 :
サガミハラハラ :2008/07/22(火) 15:26:38
>>593 当時出張費が出ていたという根拠(資料)はなんでしょうか。
>>596 魏の使者の船は、公孫氏征討の際、楽浪帯方攻略に使用した軍船です。
使者が邪馬台国の都に赴いている間、唐津に停泊していました。
水行十日陸行一月は総日数です。
よって投馬国にはいっていません。
>>599 そのとおりです。
601 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 15:46:23
関西圏から九州沖縄まで全部。こう考えると道理がゆく。
602 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 16:11:29
ネタにマジレスする、元教員もいるんだね。 まあ、出張費は軍資金という意味以外に取りようがない。 無一文で日本列島に遠征できたと断定する根拠もないでしょ?>600
603 :
名無しさん :2008/07/22(火) 17:00:12
>>599 伊都国が邪馬台国の玄関だと考えたらいかがですか。
邪馬台国は連合国家なのだから、その外国との交易拠点
が伊都国であれば、すでに使者は邪馬台国に着いたことに
なります。
604 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 17:13:34
邪馬壱連合国の入り口が伊都国 邪馬壱連合国の中心国が邪馬台国(女王国)
605 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 18:07:44
つまり邪馬台国内を隅から隅まで回るとだいたい水行十日陸行一月かかるということなんじゃないか?
606 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 18:37:36
90年代では役所で
>>593 みたいなことして問題が起きまくてったのでというおっさんのネタじゃ?
607 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 18:39:09
常に動いてたわけじゃなく一月のうち20かぐらいは なれぬ異郷で腹でも壊して寝込んでたんじゃね?
608 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 18:47:01
次々に襲ってくる海賊と盗賊から逃げるのが大変でした(汗
609 :
サガミハラハラ :2008/07/22(火) 21:02:27
>>602 その軍資金はどこでつかうのでしょうか?
倭国で使うとなると、当時の倭国は貨幣経済が発達していたということになりますが。
610 :
日本@名無史さん :2008/07/22(火) 21:08:59
貨幣がない時代にも軍資金はありましたが何か?
魏の都から派遣された特使様が、わざわざ僻地にある邪馬台国まで 出向くと思いますか?特使様は伊都国に坐して、使いの者が帰ってくる まで待っていればいいのです。 現在の厚生労働省のキャリア組を見ていれば、高級官僚の手口はわか るでと思います。 賄賂を贈れば、その使者に距離も方向も改竄して報告書を書かせることも できます。そうすれば、魏の国から攻撃を受けることもない。 地図は国の安全保障上の最高機密ですから、敵対する国に教えることは ないと思われます。 倭の首都、邪馬台国の場所を隠すことで、その後の元寇から邪馬台国を 守ることができたのだと思われます。
612 :
サガミハラハラ :2008/07/23(水) 00:17:47
どんなのが軍資金ですか。
613 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 01:29:23
現地で有効な財でしょ。 軍資金を、貨幣だけで所持しているほうが例外的だと思いますが。
614 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 03:09:21
>>611 邪馬台国まで行かなければ、そこの産物や風俗を描くことはできません。それに魏は敵対国ではありません。
615 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 13:24:01
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
616 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 21:30:20
>>614 あなたは甘すぎる。
水と安全はただの国日本の生ぬるい体質に毒されている。
都がどこにあって女王が誰かということは、国の最高機密。
友好国を装って間者を送り込み、その手立てで攻め込むの
は古来からの常とう手段。そんな手に乗るほど卑弥呼は馬
鹿ではなかったはずです。
楽浪郡からの使者を騙し、嘘の報告をさせた卑弥呼の戦術
には恐れ入ります。
617 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 22:15:41
根拠のない想像であれこれ言う前に、基本的な知識は身につけましょう。 楽浪郡ではなく帯方郡ですよ。
618 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 22:37:39
どうして根拠がないといえる? その根拠を示してほしいものだ。 戦国時代だけでなく江戸時代も 太平洋戦争でも地図は国家の 最高機密ですよ。
619 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 22:47:00
機密だからと中国側に見せなければ、金印なんか貰えない。
620 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/23(水) 23:20:45
TVで以前何の番組だったか忘れたが、幕末近くでのアメリカだっ たか、幕府に日本の測量をさせろと要求したが、幕府は伊能の測量 した日本地図を見せて、すでにある旨を披露したという。これでその 外国は日本にも高度なことがなされていると驚異の感を持ち、日本 をなめることなく、日本の信用度が増した旨の内容だったと思う。
>>619 小さな金印一つで数千〜数万の人間がいる国が属国になるだから、魏以外の地域
から自ら出向いてきたのならすぐに金印なんか渡すだろう
623 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 23:48:01
国内事情を一切知らせないとか、郡使を都へも案内しないというぐらいならば、最初から卑弥呼が魏に使者を派遣したりするはずはない。
624 :
日本@名無史さん :2008/07/23(水) 23:56:36
>622 話が逆だ。 呉から防衛してもらえるよう、魏との友好関係を結びたい(といっても一種の冊封関係だが)のが第一目的で、 印鑑やら鏡をもらうのが主目的ではない。 呉から防衛してもらうのに、国家機密を進んで見せるぐらいの事をしなくて、どうする。
魏なんか容易に信用するほど卑弥呼は甘くない。 邪馬台国は、伊都国から1千里の大国。 そう信用させれば、対等の立場で外交ができる。 金印?そんなおもちゃ欲しいのか?
626 :
日本@名無史さん :2008/07/24(木) 01:12:17
呉から攻撃を受けていたのに、そんな悠長なこと言ってられないだろ。
627 :
sage :2008/07/24(木) 10:25:06
九州説に一票。 やまとは国のまほろば。 国を守ろうとした男たちと戦艦大和が九州沖に沈んだのが 妙に因縁めいていると思いませんか? あくまでヤマカンですが。
金印を貰う=冊封国になる
朝貢して、このあたりを納めている東夷でございますと名乗って挨拶をする。 それ相当の貢物をする。 すると、みやげとして、貢物の価値に見合った品々を賜ります。 金印を賜るには、生口20、魏にはない薬草や珍味、毛皮、絹織物・・ こんなところでしょうか。 地方からこういうのが時々来るからめんどくせえんだけど、 一部を懐に入れられる役得があります。
630 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 10:21:55
倭人伝を素直に読んだら、誰だって使者は卑弥呼に会っていると考えるはず。まず、そこから出発すべきでしょう。 使者は自ら体験したことを水行十日、陸行一月と書いている。そこに嘘があるはずはない。 そう考えて、我々は徹底的に考えるべきなのですよ。邪馬台国の所在が分からないというのは、どこかに間違った先入観があるのではとね。
>>630 「使者は自ら体験したことを水行十日、陸行一月と書いている。」
倭人伝を書いたのは、「使者」じゃないでしょうw
「どこかに間違った先入観があるのでは」
正しく貴方のことw
632 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 10:39:08
>使者は自ら体験したことって・・・ 想像でいわれてもなあ。
633 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 10:39:49
倭人伝の資料は、使者が書いた報告書かそれに基づく魏略等の史書。あまり細かいことをいわないこと、実質的な議論をしましょう。
634 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 10:43:23
>>632 倭人伝の風俗記事を自ら見ないで書けると思いますか? 常識的な判断ですよ。
635 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/26(土) 10:46:07
畿内説論者女王国は即 大和=畿内 だとかの先入観が強く、なかなかそれから 抜けられないのだ。彼らの大半がそうだと想う。カルト化だな。いったんそれに 入ったら、いくらそうでないぞと云ってももうなかなか抜けられない。哀れだよ。
636 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 10:52:11
>>635 そうですね。門脇の転向など、一生かかってこの程度かという気はしますが、彼にとっては大変な努力だったのかも知れませんね。
637 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/26(土) 10:55:55
門脇さんも畿内説でいるときいろいろ矛盾に気づき苦しんだんだろう? それに 臥海(学会)の関係もあろうし、間違いに気づいて九州説になりたくとも葬ら れるのを恐れて、死期を覚っていたのか、頃合と観て転向したのでは あるまいかね? どうだろう?
638 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 10:59:58
そうゆうことでしょう。しかし、買って読んでみましたが、彼の倭人伝解釈は結構まちがってますね。
>>633 > 倭人伝の資料は、使者が書いた報告書かそれに基づく魏略等の史書。
> あまり細かいことをいわないこと、実質的な議論をしましょう。
「細かいこと」じゃないでしょうw
先ずは「間違った先入観」は排除しなければならないのではないですか?
使者が書いたに違いない>そこに嘘があるはずはない>記述内容は正しい
と言う前提条件を勝手に導くレトリックに過ぎない。
「実質的な議論」の前の致命的な決めつけをスルーしろというわけですか?
>>634 > 倭人伝の風俗記事を自ら見ないで書けると思いますか?
風俗を見聞して記録した人と卑弥呼に詔を行いに行った人は同じでないといけないのですか?
もし、そう思うなら「倭人伝の資料は、使者が書いた報告書」と言う「先入観」だけで判断していませんか
640 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 11:10:42
少なくとも原資料は使者が書いたに違いない>そこに嘘があるはずはない>記述内容は正しい。はい、これで結構です。 風俗を見聞した人と卑弥呼に詔を伝えた人は、同じでしょう。ちがうとでも?
641 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/26(土) 11:11:18
>>638 ははぁ、そうですか? 間違いが多い?!
とにかく畿内説者というのは最初から強い強い女王国は畿内だとの想いが
あって、その前提で研究し論を組み立てて「畿内です」と主張し、省み
る頭を持ち合わせていないのが大半だと思う。
九州論者はどっちなんだろう? との考えで先入観が少なく両説の利点
欠点を調べながら行くようなやり方だから、一時的には畿内かなと思う
揺れもあろうが、最終的に畿内ではなく九州だとの考えに至って主張
するようで、適正な論の組み立てをやる方が多いと感ずるね。
>>640 > 風俗を見聞した人と卑弥呼に詔を伝えた人は、同じでしょう。ちがうとでも?
何故、そう思うのですか?
理由が知りたいw
>>641 >適正な論の組み立てをやる方が多いと感ずるね。
じゃ、オマエさんは例外中の例外だなw
644 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 12:27:50
>>642 倭国への行程、国々を書き、そこの風俗について説明する。文の流れが一貫しています。
しかも、かなりの名文。倭国を最初に訪れた使者の報告として一体のものと理解できます。
645 :
日本@名無史さん :2008/07/26(土) 13:23:41
文体は、ばらばらだし、重複もある。 とても記述者が一人、一回だけの見聞とは思えないのだが。 単一渡航の記録だとしたら、名文ではありえない。
646 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/07/26(土) 14:03:29
最近、古墳や神奈備山を見て歩いているのだけれど、 他人の墓を掘り返して家立てている人のなんと多いことか。 この罰あたりが!と思いますね。
>>644 > 倭国への行程、国々を書き、そこの風俗について説明する。文の流れが一貫しています。
> しかも、かなりの名文。倭国を最初に訪れた使者の報告として一体のものと理解できます。
そんなことは無いでしょう。
例えば、伊都は「郡使往來常所駐」と書かれている。
郡使の渡来は、一度、二度のことでは無かったから、「常」と書かれているのでしょう。
對馬、一大、末盧、伊都は、方位+距離+国名+官名(末盧は欠落)+風俗記事
奴、不彌、投馬、邪馬壹は、方位+国名+距離+官名で風俗記事を欠く。
国名記述だけでもこれだけ統一を欠く、別系統の資料のつぎはぎの典型。
見聞記録は複数あって然るべきものです。
事実に反して嘘を書きならべたほうが素人目には名文に見えるものです。 本当のことを書けば、よれよれの服を着た山姥のような老婆が立っていて、 笑うとお歯黒が見えてぞっとした。体中入れ墨を入れていて握手も気持 ちが悪かった。と書く必要はないのです。 歴史書とはそういうもの。賢明な読者ならもうお分かりでしょう?
新たに冊封下に入った国に派遣された検察司の報告だからな 金印まで授けた国が実は大した事もない島国でしたとは、皇帝には報告できんだろ 役人の心理察してやれよ
651 :
日本@名無史さん :2008/07/27(日) 01:24:24
>>648 >郡使の渡来は、一度、二度のことでは無かったから、「常」と書かれているのでしょう。
郡使の渡来は239が最初と解されています。「常」は「これまではいつも」ではなく「往来するときはいつも〜すべき」の趣旨に解すべきです。
>国名記述だけでもこれだけ統一を欠く、別系統の資料のつぎはぎの典型。
伊都国までとその後の記載の変化は、放射説に関係するものであると指摘されていることをご存じありませんか?
それに、もし、別人が書いた別資料をつぎはぎしたものならば、副官の卑奴母離は伊都国までとその後で異なるはずです。
日本人の発音をどう聞くか、それにどのような文字をあてるか、記録者が異なれば異なるはずですからね。
652 :
日本@名無史さん :2008/07/27(日) 08:36:03
>651の239は240に訂正。
>>651 > 郡使の渡来は239が最初と解されています。「常」は「これまではいつも」ではなく「往来するときはいつも〜すべき」の趣旨に解すべきです。
「常」は単に「普通」「いつも」と言うことですので「これまでは(回顧)」などと補う必要はありません。
また、「すべき(必要)」の意味で使用されることも無いと思います。
日本語「つねに」の解釈であれば、「べき」とはもともと推量の「べし」から派生した表現なので「べき」と似た状態を表す場合もありますが。
貴方の説のように後続の郡使へ伝う記述なのであれば、その場合は「常」では無く「要」を使うのかなと思います。
> 伊都国までとその後の記載の変化は、放射説に関係するものであると指摘されていることをご存じありませんか?
貴方も放射説支持者なのですね。
私も放射説を採ります。
伊都までは連続式の記述、そして伊都以降は漢書西域伝のような放射式の記述。
つまり、伊都を前後して文体が換わるのです。これこそ書き手の変化の証ではありませんか?
> それに、もし、別人が書いた別資料をつぎはぎしたものならば、副官の卑奴母離は伊都国までとその後で異なるはずです。
> 日本人の発音をどう聞くか、それにどのような文字をあてるか、記録者が異なれば異なるはずですからね。
貴方は「異なるはずですからね」と強気に言い切りますが、先人が表記した文字を後人が継承することは不自然では有りません。
例えば「奴國」です。既に漢代から知られていた国名なのでしょう。
後漢書、魏志ともに「奴」と言う文字を充てています。
また、風俗記事においては文頭から指示代名詞「其」を多用していますが、「倭地温暖」のように文中で固有名詞に戻したり、
「其地無牛馬虎豹羊鵲」「有ビ猴黒雉」などと動物に関する記述が二箇所に分かれて表記されたりしていることも複数記録の例証かと思います。
654 :
日本@名無史さん :2008/07/27(日) 13:26:28
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
655 :
日本@名無史さん :2008/07/27(日) 21:34:02
>>635 >「これまでは(回顧)」などと補う必要はありません。
「常」に回顧の意味がないというならば結構なことです。それこそ、私が言いたいところです。
>伊都までは連続式の記述、そして伊都以降は漢書西域伝のような放射式の記述。つまり、伊都を前後して文体が換わるのです。これこそ書き手の変化の証ではありませんか?
同じ書き手が連続式と放射式を必要に応じて使い分けることは考えられることです。
連続式から放射式に変わったからといって、書き手が変化した(別人)と解釈する理由にはなりません。
風俗記事の書き方についても、同一人が書いたものとみて何ら不自然ではないと思いますね。
「其地無牛馬虎豹羊鵲」「有ビ猴黒雉」も前者は倭の地にいないもの、後者は山にいるものです。分けて記載する理由はあると思いますが。
656 :
日本@名無史さん :2008/07/28(月) 11:27:06
邪馬台国は無かった
657 :
日本@名無史さん :2008/07/28(月) 19:14:26
魏志倭人伝には邪馬台国など一切載っておらず、 どの本にも邪馬壱国しかなかった。
658 :
日本@名無史さん :2008/07/28(月) 19:58:42
↑ツマンネ
659 :
日本@名無史さん :2008/07/28(月) 20:02:57
いやそれ、事実だから。
字体は時代とともに変わるものです。 邪馬台国と耶馬壱国が同一のものか、全く観念の異なるものかを議論するには、 魏志倭人伝が書かれた時代だけではなく、その写本がいつの時代のものかが 重要になります。 現代の歴史家が書いた注釈本を当てにすると、とんでもない錯誤に陥る危険が あります。
661 :
歴史ファン :2008/07/28(月) 21:47:11
邪馬台国は、ヤマト国と読める。大和国すなわち大和朝廷のことで はないだろうか。
662 :
日本@名無史さん :2008/07/28(月) 23:04:07
読めなかったら大和朝廷じゃないワケね。
663 :
日本@名無史さん :2008/07/28(月) 23:26:49
加治祥一読んだの?
664 :
日本@名無史さん :2008/07/28(月) 23:32:05
名前間違えてた。 舞い降りた天皇(上) 加治 将一 だった。
665 :
日本@名無史さん :2008/07/29(火) 09:31:48
なかったものをあったという 前提が間違っている だから邪馬台国はなっかた くやしかったら証拠をみせろ
666 :
日本@名無史さん :2008/07/29(火) 09:35:43
だからそれは原典批判で出すべき結論でしょ
667 :
夏祭 :2008/07/29(火) 10:41:57
668 :
日本@名無史さん :2008/07/29(火) 10:53:52
おいおい、古代史って語呂合わせなのかよ。 だから夏祭って馬鹿にされるんだよ。
669 :
美濃もん太 ◆hF.jG29Cew :2008/07/29(火) 11:16:41
>>665 邪馬壹國と呼ばれる倭人が治めてた國はあったよ
ちなみに倭人の女王が治める弥烏邪馬國って國もあったよ
ただ邪馬壹國って國名は、漢民族だか司馬氏族だかの呼び方なだけで、日本側はその國を邪馬壹國だなんて呼んでないよ
670 :
日本@名無史さん :2008/07/29(火) 11:36:54
美濃もん太さん、変質者の夏祭があちこちで粘着してくるので、 住民が困ってます。退治してあげてください。
671 :
日本@名無史さん :2008/07/29(火) 20:55:40
つまり、倭人とは何者か?という問題に行き着きますね。 倭人とは広州や貴州に住んでいて、秦の始皇帝、 前漢の武帝などに追われた民族。呉、越、斎などの住人。 一部は直接、東シナ海を渡って日本へ来たけれど、 多くは、何百年もかけて朝鮮半島経由で日本へ渡来している。 人類学、または民俗学・宗教学的同一性を持った集団だと解釈すれば、 倭が日本で、朝鮮半島や日本海沿岸でもあったことが理解できると思う。
672 :
日本@名無史さん :2008/07/30(水) 00:04:13
>>665 後漢書には邪馬台国とあります。その邪馬台国は、三国時代には何と呼ばれたのでしょう。
673 :
日本@名無史さん :2008/07/30(水) 07:46:39
>>668 伊都国やら奴国やら不弥国やら投馬国やら狗奴国の比定で
君が馬鹿にしている語呂合わせが活用されていることを知らんのかね?
語呂合わせを使っちゃいけないのなら、どこへでも持っていける。
674 :
日本@名無史さん :2008/07/31(木) 12:56:09
いや、語呂あわせの結果どこへでも持っていけるのではないでしょうか。
675 :
日本@名無史さん :2008/07/31(木) 13:42:06
実は朝寝鼻貝塚からは6000年前の小麦とハトムギのプラントオパールも
稲と同時に検出されていて、小麦が中国よりも数千年も前から、江戸期に
伝来したハトムギが5500年以上も前から栽培されていた事になってしまい、
改めてプラントオパールの調査自体が極めて疑わしいと言わざるを得ない。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
676 :
夏祭 :2008/07/31(木) 22:10:54
>>674 語呂合わせを禁ずるよりは遙かに候補地は減るよ。
677 :
日本@名無史さん :2008/07/31(木) 22:17:24
当時の読みも不明なまま、今日の読みで語呂合わせをするのは、百害あって一利なし。 神=上=髪=紙 なんていう馬鹿な説がいくらでも作れます。 夏祭のおかしな信仰を捨てて、マトモな学問をしましょう。
678 :
日本@名無史さん :2008/08/01(金) 00:09:11
そうですね。空想、妄想に走らず、倭人伝に従って進んでみるべきです。
679 :
サガミハラハラ :2008/08/01(金) 10:22:39
結果は佐賀県小城市甘木となります。 現在邪馬台国小城甘木説宣伝強化月間です。
680 :
日本@名無史さん :2008/08/01(金) 10:28:13
そのご当地小城市では、小城説に対して相当冷ややかです。
681 :
日本@名無史さん :2008/08/01(金) 22:46:03
合理的な説明ができなければ、いくら小城だと叫んでも意味はないでしょう。
682 :
日本@名無史さん :2008/08/01(金) 23:57:15
俺ってば佐賀県人、やっぱ畿内だろ?
683 :
日本@名無史さん :2008/08/02(土) 01:02:34
倭錦の出土はほとんど福岡県。 倭人は海に沈没するのが特徴で、畿内大和国=奈良県はありえない。
684 :
日本@名無史さん :2008/08/02(土) 01:37:29
高天原=葛城=奈良県御所市高天 天武天皇が隠したかったことは 天照国照彦(火明命)=アマテルの直系の子孫である尾張氏の存在。 出雲の国譲りとは、 出雲国王の大国主命が、娘婿である大和国王の火明命に降伏した出来事。 (播磨国風土記、国宝海部氏系図などを参照) よって、火明命と大国主の娘の間の子供である香山命に 倭国皇位は継承されなければいけない。 そして、その後もずっと...その男系子孫に受け継がれていくべきだった。 しかし、この火明命の弟には、ニニギ命がいて、 彼は大和朝廷の日本全国支配のために、九州高千穂に派遣される。 このニニギ命の曾孫が、後に大和本国に呼び戻される神武天皇である。 そして、その神武天皇の子孫は、大和王朝宗家である火明命の子孫を 補佐して政治を行っていたのだが、途中、その地位を奪ってしまった。 このへんが欠史八代の部分であり、魏志倭人伝の倭国大乱の部分である。
685 :
日本@名無史さん :2008/08/02(土) 01:42:17
>>683 今倭水人好沈没捕魚蛤
だからね。倭の水人の話で邪馬台国人の話じゃないよ。
スゲー屁理屈・・・
錦についてはどう屁理屈捏ねるんだろう
屁理屈というか、文章をそのまま読めばそうなる。
689 :
日本@名無史さん :2008/08/02(土) 20:14:41
>>689 だから何度も言うように、稲作が伝来した縄文末期は、土器の本場は日本。
中国よりすぐれた土器が作られていたため、土器は伝わっていないのです。
中国から安価な農作物や雑貨を輸入しても自動車や付加価値の高い生産
技術を輸出している現在の日本と中国の関係に似ています。
691 :
日本@名無史さん :2008/08/03(日) 03:37:02
それを詭弁と言います。
>>690 縄文土器ではメシが炊けないので弥生式土器が輸入され、普及したわけだが・・・
693 :
日本@名無史さん :2008/08/03(日) 09:20:22
新種の外来穀類が来ても、人間は調理法について保守的な場合があり、 従前の土器で調理しただけだろう。食材と調理法は別なのである。 明治時代に、日本人が欧米のまねをして獣肉食をするようになった。 しかしむき出しのステーキを焼いて食べる習慣が馴染まず、結局 鍋の中で肉を煮て食べる(すき焼きも同様)ことが主流だった。 印度からカレーがもたらされた時、日本人は決して素手では食べようとせず、 箸で食べようとした。のちにスプーンで食べるようになったが、素手で食べる 習慣は根付かなかった。
>>693 > 新種の外来穀類が来ても、人間は調理法について保守的な場合があり、
「保守的」なんじゃないよ。
それは調理する技術・道具が伴わないからだよ。
> 従前の土器で調理しただけだろう。
「従前の土器」って、何を使ったと思うの?
具体的に示せるかい?
> 食材と調理法は別なのである。
どうやってコメを調理したのかな?
どんなイメージを持って、レスしてますか?
> 印度からカレーがもたらされた時、日本人は決して素手では食べようとせず、
> 箸で食べようとした。のちにスプーンで食べるようになったが、素手で食べる
> 習慣は根付かなかった。
インド式カレーなんて日本でお目にかかるようになったのは最近の話だろう。
想像で語るなw
縄文式土器というと、博物館に飾ってあるような飾りのついた厚手の土器を 思い浮かべるかもしれませんが、日常使う雑器も存在していました。それら の土器は飾りもなく薄手で、縄文式土器に繋がるものです。 飾りのついた縄文式土器は司祭の道具だったのかもしれません。その役目 は、銅鐸や鏡に取って代わることになります。
>>683 大分の海部古墳群って知ってるか?4世紀からのものなんだが。
大分県南部の現在の佐伯辺りは奈良時代ぐらいから海部郡って呼ばれていた。
海に潜って海の幸とったりする奴らの国だった。大体11月初めぐらいまで
素で潜って採れるよ、もちろん昔はスーツとかない。さすがに海水浴とかはないけどな。
倭人伝の水人の記録はこのあたりだと思われ。
だから、縄文人はどうやってコメを食ったんですか? 具体的に御説明下さい。 日本で主要食物の地位に立てたのは弥生前期のことであり、 石包丁や遠賀川式土器の急激な東進が起きた時期のことでしょう。 籾がいつごろ入ってきたかと言うことよりも重要なことです。 この時期には、文化だけでは無く、その担い手である人も東に移動したと 考えるのは不自然では無い。
大分県で最初の海部古墳がつくられたころまでの 水人達が海に素潜りしてた時期考えて、倭人伝が編纂されたころだろ。 中国人が佐伯湾ぐらいまで行ったら、12月ぐらいの真冬でも今の現代人で ジャケット一枚いるかぐらいの暖かさだし、海の幸食べたり果物食べたりしてるだろ。 東には四国がある。これってまさに倭人伝の中の描写にぴったりだな。すっげー険しい 山脈だらけで平地もなく海に山々がズボッ!っと入り込んでるような地形だけどな。 ただ大分でも、もう少し北や山間部にいくと寒い。 佐賀の甘木なんか滅茶苦茶寒いじゃん。
699 :
サガミハラハラ :2008/08/03(日) 14:32:59
>>681 かなり合理的に説明したつもりですが、どこが不足ですか。丁寧に説明いたしますので、弱点疑問とうおしらせください。
当2ちゃんの日本史版に小城甘木説のスレがありますのでお読みください。
700 :
サガミハラハラ :2008/08/03(日) 14:33:42
>>681 かなり合理的に説明したつもりですが、どこが不足ですか。丁寧に説明いたしますので、弱点疑問とうおしらせください。
当2ちゃんの日本史版に小城甘木説のスレがありますのでお読みください。
701 :
日本@名無史さん :2008/08/03(日) 15:40:39
>694 >「保守的」なんじゃないよ。 いや、食文化は保守的だよ。 >「従前の土器」って、何を使ったと思うの? >具体的に示せるかい? 縄文時代は縄文式土器。弥生時代は弥生式土器。 わざわざ三足土器なんか使いません。 >どうやってコメを調理したのかな? 従前の穀物と同じような調理法でしょう。 土器に入れて煮たり炊いたり、いろいろでしょう。 で、米が入ってきたときだけ、従前の土器や調理法を 突然捨てたと断定した根拠を言ってもらおうか? >694
古代日本の住居といえば竪穴式住宅であり、奈良時代まで続いている。 竪穴式住居の中央には囲炉裏があって、自在かぎで土鍋を吊るして煮炊き をしていました。従って、三足土器を使う必要がなかったのです。
703 :
日本@名無史さん :2008/08/03(日) 22:53:14
まあ、邪馬台国は土器の国じゃなくて、むしろ「倭錦」「絹」が特徴の国。 絹が圧倒的に出土するのは福岡県。他からはほとんど出ません。 九州説しかありえませんね。
704 :
日本@名無史さん :2008/08/03(日) 23:07:05
絹が北九州から出土するといっても弥生中期のもので、弥生後期のものは出ていないとか。
705 :
日本@名無史さん :2008/08/03(日) 23:09:26
C14から科学的に考えて「デタラメな土器編年」で 「弥生中期だ、弥生後期だ」といってもあまり意味がない。
>>701 > >「従前の土器」って、何を使ったと思うの?
> >具体的に示せるかい?
> 縄文時代は縄文式土器。弥生時代は弥生式土器。
> わざわざ三足土器なんか使いません。
縄文時代の話をしてるんだから、土器の時代区分じゃなくてさ
器種を尋ねてるに決まってるでしょう。
> >どうやってコメを調理したのかな?
> 従前の穀物と同じような調理法でしょう。
従前の、従前のと言ってるけど何をイメージしてるのか伝わらないな。
> 土器に入れて煮たり炊いたり、いろいろでしょう。
> で、米が入ってきたときだけ、従前の土器や調理法を
> 突然捨てたと断定した根拠を言ってもらおうか? >694
コメを煮たら粥になっちまうぞ。
ドングリを炊くなんて調理法は聞いたことがないぞ。
キビや陸稲だって炊くことはしない。
蒸すか、挽いて粉にして団子にするとかだよな。
弥生甕っていうのは短時間に高温で熱する、つまり「炊く」ための調理具。
水稲が普及する以前には、あまり用途が無かったと思うんだよな。
だから、「従前」には存在しない器種なわけ。
判るかな?
707 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 00:05:30
>706 食習慣を維持したんだよ。 使い慣れない土器なんか、別に使う必要はないでしょ。 米粥は一般的な食べ方の一つですが何か? で、米が入ってきたときだけ、従前の土器や調理法を 突然捨てたと断定した根拠を言ってもらおうか? >706
>>707 >食習慣を維持したんだよ。
ほぉー。
>使い慣れない土器なんか、別に使う必要はないでしょ。
「使い慣れない」じゃないだろう。
より優れた、「使いやすい」土器に替わったんだろう。
>で、米が入ってきたときだけ、従前の土器や調理法を
>突然捨てたと断定した
※↑これ、キミの脳内改定ね。他人のレスは正確に引用しよう。
>根拠を言ってもらおうか?
違うだろう。
今はキミがコメを調理できる縄文土器を呈示するべきところでしょう。
コメの伝播とともに遠賀川式土器は縄文土器を駆逐してるんだよ。
もう混乱しちゃって、自分自身でも何が言いたいのか判らなくなってるでしょうW
709 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 00:28:20
× コメの伝播とともに遠賀川式土器は縄文土器を駆逐してるんだよ。 ○ コメの伝播とは関係なく、調理法は特に変わらず、しかし土器は長期的には変遷した。
710 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 01:01:36
>706 で、米が入ってきたときだけ、従前の土器や調理法を 突然捨てたと断定した根拠を言ってもらおうか?
>>710 > で、米が入ってきたときだけ、従前の土器や調理法を
> 突然捨てたと断定した根拠を言ってもらおうか?
コピペ、しつこいね。
理由は
>>692 に最初から書いてあるだろう?
ちゃんと日本語で書いてあるから読めるだろう。
で、キミの方は、頑として返事を拒んでるところを見ると、
コメを炊いた縄文土器を紹介できないわけなんだね。
そして、日本人は弥生時代になってもコメの炊き方を憶えなかった、
キミ流に言えば保守的なので変えなかった(土器は変えたがかW)の
一点張りですか。
ついでに、一つ質問を増やすよ。
「米が入ってきたときだけ、従前の土器や調理法を 突然捨てたと断定」
この言葉って何番のレスを指しているのかなあ?
キミの脳内変換システムにちょっと興味があるんで教えて欲しいな。
712 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 01:21:20
縄文土器でふつうに米を調理できるよね。 なんでそれを否定しちゃってるわけ? それがさっぱりわからない。 米を手に入れた途端、突然従来の調理法を変える必然性ってあるの? いままでどおりに調理すればいいでしょ? そうしなかったと断定してる根拠はなんなの? お前>711の妄想がさっぱり理解できないんだが。
>>712 > 縄文土器でふつうに米を調理できるよね。
> なんでそれを否定しちゃってるわけ?
> それがさっぱりわからない。
> 米を手に入れた途端、突然従来の調理法を変える必然性ってあるの?
> いままでどおりに調理すればいいでしょ?
> そうしなかったと断定してる根拠はなんなの?
> お前>711の妄想がさっぱり理解できないんだが。
寝言は止せ。
現実に土器の形式は変わっている。
縄文土器で問題無いと言うのなら、形式の変化の理由をちゃんと説明しなさい。
コメを炊いたという、その縄文土器を見せてくりゃれ。
一年くらい待ってやるから、しっかり探せよW
714 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 02:06:49
だから、土器の変遷は現実。 米の伝播も現実。 以下は 妄 想 で す 「米を手に入れた途端、突然従来の調理法・調理器具を変える」
715 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 02:12:26
「米の伝播で、一切が変わった」と断定しちゃいたい>713の気持ちはわかる。 産業革命のような画期にしたい思惑があるからな。 しかし現実は、従来同様の調理法で米を食べることが出来る。 いままでの調理器具を一切捨て、いままでの調理法を一切やめ・・・なんて必要はない。 残念だが現実を見れば、713の説は713の脳内妄想に過ぎない。
716 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 11:03:28
717 :
日本@名無史さん :2008/08/04(月) 20:55:17
>>716 古代日本の住居といえば竪穴式住居であり、奈良時代まで続いている。
竪穴式住居の中央には囲炉裏があって、自在かぎで土鍋を吊るして煮炊き
をしていました。従って、三足土器を使う必要がなかったのです。
>>715 あれあれ、最初の勢いは何処へやら・・・・
一気に後退しちゃいましたねw
もう、他人のレス自分に都合よく改変したフレーズ(脳内変換か)にしか「反論」出来なくなっちゃたのね。
キミに出した宿題は一年待ってやるからちゃんと勉強しておくように。
そして、こんな恥かしいことはもう書いちゃいけないよ。
>>690 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2008/08/02(土) 22:50:30
> だから何度も言うように、稲作が伝来した縄文末期は、土器の本場は日本。
実際、北部九州では、縄文晩期に水稲耕作が始まると、
時を置かずプレ弥生式とも言える夜臼式土器の製作も始まり、
浅鉢などが現象し、甕、壺類が出現するなど器種構成が一変する。
そして、この夜臼式と一部重複して、弥生タイプの古形板付T式群の製作が始まる。
これの発展した様式群がいわゆる遠賀川系土器で、水稲耕作の東進と併せて、
西日本一体に伝播して行く。
伝播に要した時間は、諸説あるが僅か3〜4世代で伊勢湾まで到達したと言う意見もある。
ここら辺は基本なので押えておくように。
719 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 01:13:18
>718 お前、誰に向かってしゃべってるの? なんか、大勢の人間を、一人の人間だと勘違いしてない?
720 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 14:36:54
神功皇后が架空の人物とは思えない。伝承が残りすぎてるし詳細すぎる。 が、卑弥呼とは全く違う人物なのも確か。 記紀で神功皇后を無理やり100年以上も遡らせ 魏志倭人伝の卑弥呼と合わせている。その行為によって明らかに 記紀を編纂した学者達は、魏の時代に天皇家の伝承には存在しない 卑弥呼と呼ばれる人間が魏の皇帝から「倭王」の称号をもらったことを知り 工作している。 この行為自体、卑弥呼も邪馬台国と呼ばれる場所も、朝廷や天皇家の伝承とは 関わりのないものだということを立証している。
721 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 14:56:02
邪馬台=大和でいいんじゃないかな。 読みが似ているくらいしか根拠はないが。 それに「神武東遷」を考え合わせて、 邪馬台国はもと九州にあり、やがて畿内に移った(侵攻した)。 ぼんやりとそんなふうに捉えている。
722 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 15:01:02
>記紀で神功皇后を無理やり100年以上も遡らせ魏志倭人伝の卑弥呼と合わせている。 本当にそんなことしますかね。実在の神功皇后を百年以上さかのぼらせたら、神功の真実の記憶を消し去ることになりますよ。 神功が実在したのならば、その記憶は正しく残し、神功をモデルにして卑弥呼の時代に卑弥呼らしい人物像を作りあげればすむことでは?
723 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 15:25:44
応神天皇は「倭の五王」の「讃」で、実在したようだから、 当たり前だけど、その母親という意味で神功(皇后)も実在した。 各種伝説の多くは?だけど、皇后が 巫女(仲哀天皇の前での神がかり)だったのはありそうなこと。 で、年代も200年代で卑弥呼と合う。 神功=卑弥呼説は捨てがたい。
邪馬台=大和なら、 卑弥呼・台与といった魏志の所謂「倭王」を輩出した一族が「ヤマト国王家=邪馬台国王家=天皇家」 という考え方もあり得ますね。 この二人の女性を出したことによって、ヤマト国=邪馬台国は大いに国威・国力を伸長させ、大和政権(大和朝廷)へ進化していったと。 邪馬台国が史書から消える(というか魏が滅亡した)頃から、日本列島内では、 全国的斉一性を持った布留式土器・葬制・副葬品(前方後円墳体制)の急速な広がりが見られるわけですが、 これを推し進めたのが、卑弥呼(=百襲姫)を大叔母(叔母)に持ち、台与(=豊鍬入姫)を娘に持つ、 ヤマト国王家の当主・崇神天皇だったのでしょう。 ちなみに「神武東征」は、2世紀の倭国大乱における「動きの一つ」ではなかったかと、私は思っています。
725 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/05(火) 16:36:35
>>720 ということは女王国は畿内になかったということを物語っている。つまり卑弥呼
の国は九州所在なのだということになる。
>>721 最初は殆どの人が 邪馬台=ヤマト だろうとしてこれを考える。それがしも
最初はそう考えた。卑弥呼=神功皇后 も当初に考えていたものであった。
だが、そうするとどうしても倭人伝の記載とかと合わない不合理が出てくるわけ
で、これは畿内ではないなという想いに次第に変わっていった。九州説でも
一見して不合理があるように想えたが、いろいろ考えると九州説での不合理は
みかけ上のもので、思索を重ねると不合理ではないのだということに行き着く。
それで 邪馬台=ヤマト=畿内 の等式はならないものなのだ。
>>722 そういうことを紀の編者らはやむを得ずやってしまったということ。なぜか?
それは神功の前後の古代、大陸半島と日本の古文献の年代に100年以上の段差が
あったため、これに気づいた彼らが何とか調整しようとしたが、うまくは行かな
かった。それで干支の倍数の120年をめどとしてズラし、卑弥呼の年代を神功の
時代へと合わせて小康状態にして記述したということが正。なぜそんなに年代
が100年以上も違った古文献の内容なのかといえば、当時大陸半島は通常の
暦法を行使していたが、日本の朝廷はそれを知りつつも2倍暦等を行使して年代
を記載していた。その積もりが100年以上になっていたということである。それで
倍暦の計算から卑弥呼は神功の時代ではなく、その活躍は崇神の時代となるのだ。
726 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 17:00:01
>>725 結構まともな考え方をしているのに、倍歴とかいう妙な考え方にとりつかれてますなあ。我が国は中国と始終交流があったのですから、我が国だけ倍歴を使うなどということはあり得ませんよ。
727 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 17:14:14
>>721 >邪馬台=大和でいいんじゃないかな。
むしろ、ずばり「阿蘇山」という記述のほうが当たってるね。
ヤマトの語呂合わせなら日本中に無数にあるから、全然特定できない。
>「神武東遷」
記紀のよれば「神武東遷」の実態は、王様じゃない人間のわずかな集団が、
畿内に侵入して、領主として居座ったという話。国王や国家の移動ではなく、
非常にちゃちな事件に過ぎない。国家の移動だったら、記紀になぜ矮小化
して書く必要があろうか。
結局、金印と阿蘇山が邪馬台国のありかを示している。
728 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/05(火) 17:47:32
>>726 始終付き合ってる中国は平成をつかうのか〜? 年号は使わない、暦法はむこうも
同じのを使うでは恣意的だぞぅ。
729 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/05(火) 18:07:34
フランス革命暦という徹底10進暦法はしじゅう付き合ってるイギリスとはロシア
とかではやってはいない。これは当時のフランスだけの暦法であって、隣国でも
やってた暦ではないだろう。暦法は隣の国と同じでなければならぬなどとは
>>726 の勝手な考えで、明確な論理の大間違い。
730 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 18:20:48
だから邪馬台国はなかったの!もう
731 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 22:08:18
>>729 >これは当時のフランスだけの暦法であって、隣国でもやってた暦ではないだろう。
妙な暦つくっても長続きするものではないという見本だな。
それに、倍暦などというのは世界に例がないね。一年は365日、これが自然なのだ。
732 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/05(火) 22:22:04
>>731 それはそうだろう。倍暦は途絶えている、永続はしなかったのだ。
奇異な暦法だから、そうなのかも知れない。がしかし、古代マヤ文明
の260日暦法とか、今でも現地で使われており、2012年のバクトゥン
満了を彼らは待っているし、その後でも継続されるであろう。
なお世界で類例のない、独自的暦法もいくらでもあるようだ。マヤ
の場合は、他のどこでも使用してない819日暦という、これまた奇異
なる暦法が存在する。
実は、崇神天皇はグレゴリー暦を採用していた。卑弥呼=アマテラス。 その証拠に、天の岩戸伝説は西暦247年3月24日に北九州地方で 見られた皆既日食が起こったことを予言していた。 これほど高度な天文観測技術、暦学を駆使できたのは、グレゴリー暦 を使っていたからに間違えない。 誤解を避けるために付け加えれば、グレゴリー暦という呼び名は、後 の世につけられたもので、実は、古代九州王朝で使われていた。
734 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/05(火) 23:45:08
>>733 予言は誰がしたのか?古代マヤ文明だって高度の天文観測、暦法を
行使してますよ。グレゴリオ暦を古代マヤは使ってたんですか?
古代九州王朝で使われていたとすれば重要な情報なので、
それを具体的にどうして分かったのか?説明されたい。247年とやら
の日食がなぜ天の岩戸伝説と直結するのか、不審ですな??
735 :
日本@名無史さん :2008/08/05(火) 23:52:49
>>720 神功皇后のあの記事は干支が239年と合うようになっているよね。
これは、どこからすり合わせたのか?
(前提)卑弥呼の事件の干支が後世に伝わっていた。
これは、必然の前提で、これがなければすり合わせも不可能。
魏志や魏略が記紀編纂時に日本に存在したことが、議論の出発点。
となると、神功紀の記事は全てこの干支が起点になっているのかというと
挿入が不自然なので、神功紀の干支は別の起点から来ていて、そのなかの
239年と同じ干支のところに卑弥呼の事件を入れたと考えられる。
とすると、神功記の干支はどこが起点か。
朝鮮関係の記事も当時の伝承と干支が整合するように挿入されている
とすれば、こっちの方が基準になりやすそうではある。
736 :
日本@名無史さん :2008/08/06(水) 06:52:28
>>735 どうゆう趣旨なのか、もう一つ伝わってこないが?
737 :
サガミハラハラ :2008/08/06(水) 08:57:27
神功紀の年代であるが、日本書紀の編年の際、安康天皇以前を2倍年暦であらわす際、偶然神功皇后の年代が230年代となることから、卑弥呼を神功皇后に比定したものです。 そのとき仁徳天皇の在位を水増ししています。 神功紀の和歌山滞在のときの日食についてであるが、これは201年に和歌山で日食があった(新羅でもあった。三国史記百済本紀)件であるが、この日食は本来皇后とは関係なく、皇后が滞在したことからこの日食伝説とを融合させたようである。 紀の編纂の際、和歌山での民間伝承の皇后の日食が、三国史記の新羅の日食から、201年のことであるとし、 神功皇后の摂政元年は201年としたわけである。
>>734 謎解きとしては簡単な部類ですね。
古代マヤ文明を起こしたのも九州王朝を起こした縄文人。
縄文人は、カヌーで世界中を旅していたのです。
それを可能にしたのが、すぐれた航海術と自らの位置を
知るための天体観測技術、そして暦法だったと考えられ
ます。
もう全く妄想の世界に入って申し訳ないのですが、 今、日本で、縄文人の血を最も受け継いでいるのではないかと思われるのが野口氏。 1.野口みずき・・マラソンの女王。連続金メダルを期待。 2.野口健・・・・・世界のアルピニスト。世界最年少で7大陸の最高峰を制覇。 3.野口聡一・・・生粋のパイロット。宇宙飛行士。東京大学工学部航空学科卒。 4.野口英世・・・細菌学者。その、すさまじいまでの名誉欲は常人ではない。 弥生人との混血がすすみ、縄文人らしい縄文人が少なくなっています。
740 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 03:47:52
>>737 神功皇后は実在したという前提ですか?最近は、非実在説の方が強いように思いますが。
741 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 05:10:26
>>740 戦後は何でも実在を疑うのが流行ったらしいけど、いま現在の日本史はどうなんだろうね?
中国の歴史学者も、戦後すぐは何でも疑う懐疑派が主流だったけど、
今は、何でも肯定派が多いらしいよ。
確か、殷も殷墟が発掘されるまでは、実在が疑われてたよね。
742 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/09(土) 07:21:20
>>733 グレゴリオ暦っていうのは、1582年誕生の暦法でしょう? 崇神天皇は倍暦計算
から 237年=景初元年 〜 259年 の天皇だから、そのころグレゴリオ暦
っていうのは無いでしょう?
今は、学問として日本の古代史を研究している学者はほとんどいない。 資料が少なすぎて学問として成り立たないのです。 考古学系の学者なら多いけれど・・・
744 :
日本@名無史さん :2008/08/09(土) 12:14:40
宇佐神宮の比売大神は気になる。 三女神みたいだけど、卑弥呼や台与の流れが反映されてるんじゃないかなあ。 根拠は薄い、というより無いけど。
745 :
日本@名無史さん :2008/08/14(木) 09:48:13
>>741 まあ、戦前戦中は「何が何でも記紀は絶対だ!」て風潮だったからね。
その反動だね。我々が強制されていた知識は本当の事なのか、と。
津田左右吉も、戦前の人間としてはよくやったと思うよ。
でまあ、今は戦後と比べて余裕が出てきたから、
「やっぱ神話には事実の反映があるんでねえの」という事も言える。
原田大六とか安本美典とか古田武彦、神話から史実を見出そうとした学者は多い。
全部フィクションって言う人たちは零から物語を作るということを軽く見すぎてる
747 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 08:39:35
>>746 いやいや、それは確かにそうなんだけれども
だからと言って津田左右吉は馬鹿か、というとそうでもない。
記紀絶対視の当時としてはある程度科学的に記紀を見ようとしたわけで。
津田左右吉の価値はそこにある。
>>747 津田の真の価値は、学界の多数派に与せず発言し続けたことだろう。
戦前は反皇国史観で権力とも多数派とも戦ってきた。
戦後は、一転して皇室を擁護する発言をして戦後の潮流とは一線を画した。
対して、戦後に「津田学派」を自称した連中は数に依存して、異説を排除し
続けた点で津田の精神とは対極に位置する。
津田は、出雲が古代に勢力を有していたことは、文献から窺えるという立場に
あって、全ての文献を否定的に見ていたわけではない。
749 :
日本@名無史さん :2008/08/15(金) 22:11:28
映画「実録邪馬台国論争―真実はいつも一つ」 監督・井筒和幸 主演・藤間生大(北九州説代表) 加治木義博(南九州説代表) 木村政昭(琉球説代表) 河合敦(畿内説代表) 大杉博(四国説代表) 大川誠市(中国地方説代表)
750 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 01:51:40
おいおい、井筒がやった時点で、邪馬台国はウリナラ起源で決定だろうに
751 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 09:49:50
752 :
:2008/08/16(土) 10:14:30
いや井筒さん、在日意識が相当つよそうなので、作品にもろにでそうですよ。
753 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 16:06:46
>>752 「パッチギ」みてそっちに意識が行くのは一部の偏屈な嫌韓厨だけだって
「パッチギ」なみの喧嘩を邪馬台国論争のテンションに欲しい
754 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 17:20:08
九州説はワルないよ。。
755 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 18:20:32
756 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 20:24:34
どきどきするね!!!!!!!!!!!!
757 :
日本@名無史さん :2008/08/16(土) 22:42:40
実録邪馬台国論争―こんなん実現したら面白いよな― 「藤間生大VS安本美典―共産党員VSつくる会賛同者 真実の歴史は―」 「藤間生大VS原田大六―唯物史観VS叩上考古学 本当に進歩的なのは―」 「藤間生大VS古田武彦―皇国史観からの脱却とは―」 「安本美典VS古田武彦―長年の決着は付くのか―」 なんか殆ど藤間生大が参加してるけど、彼は唯物史観の九州説だから、色んな人間と対照的なんだよね。 しかし、2番目のは実は一番見てみたいんだけど、原田は85年に死んじゃってるから実現しない。 残念だ。
ハッチギ王朝衰亡の歴史
759 :
日本@名無史さん :2008/08/21(木) 01:43:41
そろそろ、破綻した畿内説は、日本史学会から追放しましょう。
定説のない古代史は、大学入試問題にもならないし、 文系学科の中でも古代史の講座は人気がないみたいです。
761 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 13:27:24
>>759 まずは九州王朝説を追放するべきじゃないのかい?
君が「九州王朝説はもう追放された」と考えていることを祈る。
762 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/08/22(金) 14:33:54
年号は追放できない。これで決まりだ。
763 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 22:19:19
個人的畿内説の中での各国比定 末盧国=東松浦半島(首都・唐津市菜畑遺跡周辺) 伊都国=旧糸島郡(首都・前原市平原遺跡周辺) 奴国=福岡市(首都・福岡市比恵・那珂遺跡周辺) 不弥国=旧宗像郡(首都・福津市旧津屋崎町) 投馬国=吉備王権(首都・倉敷市楯築遺跡周辺) 邪馬台国=畿内王権(首都・桜井市纏向遺跡周辺) 狗奴国=毛野王権(首都・鬼怒川流域) 一応「魏志倭人伝に記された方角には一定のズレがある」と言う見方だと、 不弥国は嘉穂郡や飯塚市や宇美町よりも宗像、 投馬国は出雲王権より投馬王権に比定するほうが無理がない。
764 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 23:03:11
>>763 倭は旧百余国、今使訳所通三十国とありますね。
あなたの比定に出てこなかった日本海側や東海、四国、南九州などはどのように考えるのですか?
国名がわかっているいずれかの国に所属したとみるのか、人が住んでいなかったとみるのか、それとも?
765 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 23:11:38
横レスだが、漢籍に出てこない、中国に縁無き列島諸国が、各地にあったでしょう。 北海道にも遺跡があることだし。
766 :
日本@名無史さん :2008/08/22(金) 23:34:59
>>765 まあ、東北や北海道は未知の地域ということでいいかと思いますが、狗奴国まではどんな国があるか情報収集の結果が書かれている感じですよね。
そうなると、栃木あたりまでを三十国ぐらいに分けるべきかと。不弥国までで7か国も使ってしまうと・・名前の類似だけで栃木まで行くのはちょっと苦しくなるかなと。
日本人が指導して台湾の特産品となった、樟脳(しょうのう)とは樟=楠くすのきから抽出する古来の衣服用防虫剤。 伝えたいのは、樟 は魏志倭人伝に出てきます。つまり、倭人は樟の育つ日本列島の暖地にいた。 奈良県の寒さでは、樟(くすのき)は天然自然には育たない。
>>767 補足
昭和40年代、小学生向けの歴史図鑑に、記年鏡が解説されるくらいに近畿説で決まり。一部の頑固学者がだけが九州説だという風潮があった。
そんな頃、あまり強調されないが植物については九州説を支持すると知って、私も九州説者の頑固さの理由の一端と了解して、どちらに分があるのかについて保留することにした。
「邪馬台国」はなかった が世に出たのは、その後のことだった。
さて、銅鐸はどうだ。金色の、あのデッカイ器物が魏使の目に入らなかった、ないしは記録に残らなかった理由を考えたらいかがですか?
九州説には、妙な理屈を必要としない有利事実が出てくる。
>>116 >現存の三国志は南宋の版本なわけで、この時代の版本は極めて粗悪なことは
>先学の指摘していることで
科挙という高級官僚任用試験制度が普及した宋時代から、木版印刷が隆盛した。その印刷は美しいと聞いていたのですが・・・
粗悪なのですか?
どういう学者さんが、どういう言い方で、なのですか?
わが、徳川時代のものと比べたらば粗悪ということでなのでしょうか?
業務連絡 (のんびりひまじんさんの圧勝)
>>770 ありがとう。でも、もうひとつ加えたい。
布目順郎さんの著書である 絹の考古学 はいかが?
弥生時代に関する限り、絹の出土は、北部九州に限られると書いてある。しかも古墳時代になって、九州では隆盛のまま、絹は東漸してゆくと表現している。
つまり、北部九州にあった邪馬台国が根こそぎ東遷したのでなくて、根っこが九州に残ったままで、分派が東侵したと主張する九州王朝説とも矛盾がない。
著者の布目さんは、京都工繊大学というまったく理系の先生だった。(惜しいことに後継者もないまま引退らしい。)
邪馬台国論争に参加するわけでなく、資料を顕微鏡で検査してきた知見を発表した。まして九州王朝説など知らない。
773 :
↑ :2008/08/27(水) 23:15:56
馬のいなかった卑弥呼の時代にはない、馬具が見つかっている箸墓。 だから箸墓は、卑弥呼とは隔絶した時代の古墳であることが判明しています。
もうクソミソだよね・・・。いつまでこんなことやってるんだろうね 自分だったら恥ずかしくて顔を上げられないよ
775 :
日本@名無史さん :2008/08/29(金) 00:48:08
畿内説が窮すると、必ず出てくる三足土器爆撃。
777 :
日本@名無史さん :2008/08/31(日) 10:17:49
>>776 そうだったのですか。
三足土器氏が自分の主張を繰り返し書き込んでいると思っていたら、
実は畿内説信者のゲリラ攻撃だったのですね?
だとしたら、迷惑極まりないです。やめてください。
元「ですが」の仕業だろう。
779 :
日本@名無史さん :2008/09/01(月) 16:18:02
作ったら面白そうな映画 「ドキュメンタリー・黙殺された倭面土地国―原田大六は吉野ヶ里遺跡を予言していた?―」 「確固たる邪馬台国―喧嘩大六物語―」主演 原田大六・ガッツ石松 原田イトノ・御本人
780 :
日本@名無史さん :2008/09/05(金) 22:56:42
「悲劇の金印現代版」監督・和泉聖治 大和考古学研究所副所長・石本浩伸(六角清児)は、奈良県鎖位市巻向遺跡橋墓古墳の発掘中、大変なものを発見する。 それは、かつて邪馬台国の女王、卑弥呼が魏から貰ったという「親魏倭王」印であった。 もしこれが本物ならば、長い間続いた邪馬台国論争を終結させることになる。 このことはすぐにニュースとなり、一週間後には金印の公開鑑定も行われることになった。 石本も発見者として有名になり、一躍時の人となった。 ところが、公開鑑定の結果、金印はなんと「最近作られた贋物」であった。 大和考古学研究所は「何者かに摩り替えられた」と発表したが、その一方で 「旧石器捏造事件に匹敵する、自説を証拠付けるための悪質な捏造」と批判を展開する人間がいた。 それは、文献科学の立場から古代史の本を大量に出版し、九州説の顔となった安田実(安本美典)、 独自の仮説を発表し、一部からカルト的な人気を誇る神話学者・古市岳夫(古田武彦)、 そして、石本と同じ大和考古学研究所所員の森高一郎(森浩一)の3人であった。 マスコミは金印発見当時と一転、この3人の支持に回る。 石本は「捏造者」「二代目ゴッド・ハンド」の烙印を押され、あちらこちらで叩かれる存在となった。 石本は自らの無実を証明するため、本物の金印を見つけ出すため、調査を開始する。 一方で、安田・古市・森高と同じ九州説陣営にも、捏造に懐疑的な人間がいた。 それは95歳のマルクス主義歴史学者、都丸清太(藤間生大)であった。 石本と都丸は出会い、共に真相を追究していく事となる。 こんな映画を見てみたい。
781 :
日本@名無史さん :2008/09/07(日) 12:52:56
>>744 >宇佐神宮の比売大神は気になる。
なるほどねぇ〜!
鹿男あをによしに出てくる卑弥呼の銅鏡に
卑弥呼の本当の名前として『比売命』と書いてあって
ヒノミコと読むというシーンがありますが、
宇佐神宮の比売大神が元ネタだったのですね。
782 :
日本@名無史さん :2008/09/07(日) 13:02:29
アトランティス
783 :
日本@名無史さん :2008/09/07(日) 13:21:57
邪馬台国なんて支那の妄想ってことはないのか?
まあ、桃源郷伝説か浦島伝説みたいなものだろうな。
785 :
日本@名無史さん :2008/09/07(日) 17:59:47
原田大六の予言(つーか彼の自説) ・佐賀県旧三田川町(現吉野ヶ里町)を中心とする古代国家の存在 ・銅鐸・銅矛文化圏仮説の消滅
786 :
日本@名無史さん :2008/09/08(月) 16:35:30
そういえば、数年前、伊豆の山中に卑弥呼の墓を発見!っていうTV特集があった。 発見したのは伊豆の山中に住む爺なんですが、 TVのクルーが爺と一緒に卑弥呼の墓に行ってみると 爺が卑弥呼の墓だと言っているものは山奥の岸壁にある単なる岩の窪み。 TVのクルーが、ここが何で卑弥呼の墓だとわかったんですか?って爺に質問したら 「昔の人は、こういう場所に住んでいたのだろうし、ここが卑弥呼の墓なら村おこしにもなるし と思って考えました」って言ってました。ようするに爺が勝手に決めただけでした。
教室の掃除道具入れに、校長室と落書きするレベル
788 :
サガミハラハラ :2008/09/11(木) 14:00:58
最近の朝日新聞の書評欄から、 地質学の分野では、プレートテクニクスに対する拒否反応が続いたという。ようやくうけいれられたのは、80年代なかばであった。 なぜそういう遅れが生じたのか。そこにこの本は、戦後日本の知識社会に特有の要因を見出す。 冷戦構造を背景として、マルクス主義を奉じる学者集団が地質学の人脈を支配し、米国に発する新学説を拒んで、日本の学界にしか 通用しない理論を生きのびさせたのである。 驚くべき証言である。翻って このような体質が現在の考古学歴史学の社会に残っていないであろうか。 畿内説がいぜんとして優位とされ、証拠にもならない遺物が証拠であるように喧伝され、あげくは考古にゆうりになるように 文献を修正したりという逆転現象さえみられる。 世代交代をまつしかないとすれば、歴史学の進歩発展は在野の活躍によるしかないであろう。
789 :
日本@名無史さん :2008/09/11(木) 14:04:54
>>788 サガミさん、たまにはいいことを言う!!
791 :
日本@名無史さん :2008/09/11(木) 18:02:43
サガミが言ってるわけじゃない。 書評のコピペ。
792 :
サガミハラハラ :2008/09/11(木) 22:09:47
前半は書評で後半は私の意見です。
793 :
日本@名無史さん :2008/09/11(木) 22:30:39
仮冒ですな…
794 :
サガミハラハラ :2008/09/12(金) 18:26:17
上げ足をとるようですみませんが、仮冒ってどんな意味でしょうか?
795 :
日本@名無史さん :2008/09/12(金) 18:31:00
意味がわからないことを質問するだけなら揚げ足取りじゃない。 私のレスが揚げ足取りの見本。 わかりましたか?
例えば、朝鮮人が東京を占領して、東京太郎を名乗るのが仮冒。 そして、東京姓を代々継げば、あたかも古くから東京は東京氏が 支配していたような印象を後の住民に与えることができる。 要するに乗っ取りのための手段です。
>>788 ほかの分野だが、新説の承認が遅れた経緯の実例として参考になる。
こういう正論が出てくると皆が重苦しく沈黙するのはスレ参加者が、基本的にオチャラケ、おふざけに化したというか、
精神的に重傷して人生そのものを投げているからと見える。
なお、サガミハラハラ氏の場合、珍説だから、欠点を直さないと部分的にも評価されないだろう。この人の著書を買おうとは思わない。
798 :
サガミハラハラ :2008/09/13(土) 08:44:18
お願い!図書館にリクエストして、借り出してよんでみてください。 あなたが知り得た以上に、斬新な説が満載。唖然愕然びっくりとすること請合です。 しかもそれは真説なのです。
サガミ氏紹介の「書評」の本は、多分朝日編集委員の泊次郎氏の著作でしょう。 内容は未読なので何ですが、ある特定の学会のドンに対する批判の為の書物かと思う。 三角縁舶載説のあの人みたいな話が他にも有ったのか、はたまた著者の単なる私怨かはわかりませんが。 で、プレートテク「ト」ニクス Alfred Wegenerが大陸移動説を発表したのが20世紀初頭。 その後紆余曲折をへてJohn Tuzo Wilsonのプレートテクトニクス理論にまとめられたのが1968年のこと。 地震学会などでは、プレートテクトニクスはほぼ欧米とリアルタイムで取り上げられていたはず。 そして、小松左京が日本を沈没させてしまったのは1973年のことであった。 斯様に、この学説の日本での受容は、普通に行われたのかとは思う。
800 :
サガミハラハラ :2008/09/13(土) 09:22:44
思い出すこと38年前。当時プレートテクトニクス論はTVでも解説されるほど一般的でありました。 ある時、地学系の学部を卒業した人と話題となったとき、その人物はその説はしっているが間違いであるとはっきりいっていました。 それを聞いて唖然とした記憶があります。 当時の大学では否定的であったようです。 もっともその人物は何年もしないうちに、肯定的意見にかわっていましたが。 学生時代の呪縛が解けたようです。
>>800 なるほど。
平凡社世界大百科事典の場合、1955−60版の最終32巻の補遺になって、
(つまり安保闘争の1960年に)「大陸移動説」が、多くの現象を説明できるので注目と紹介あったと記憶する。
あくまで、一般人向けの仮説紹介なのだが、事典編集者の中に、この説を一般にも紹介すべきと判断した人がいたのだろう。
遅かったと判断するのか、否かは判断できかねる。ただし、地震国日本には検証データは専門家にいくらでもあっただろうにとはシロウトのワシにも察知できる。
>>801 昔から大陸移動説は中学の教科書にだって載ってますよ。
大陸移動説とプレートテクトニクス説は次元の違う話なのです。
大陸が移動する仕組みの説明の一つがプレートテクトニクス説。
日本の一部の学会に、これとは違う垂直説の一派が居たと言うことです。
>>802 1960(昭和35)年、優等生卒業した我が中学の教科書には、大陸移動なんて載ってなかった。
参考までにルイセンコ学説なるものは載っておったのじゃ。
で、近畿説と九州王朝説とは、
いずれかがルイセンコ説、いずれかがプレートテクトニクス説であろうか、はたまた第3の真実が浮上するのであろうか。
>>803 補足せにゃならんかった。
ルイセンコというインチキ学者がソビエトロシアにおって、遺伝形質を人為的に変えることができたと主張した。
確か秋蒔きコムギを(冷蔵保存後)春に蒔いたら実ったというのが証明実験だったとか。
いくらソビエトがインチキ政府国でも、いつまでも放っておかれず摘発された。
戦後の日本には、科学的社会主義をかかげる共産主義ならあやしくても宣伝したがる(科)学者がおったのじゃ。
日本の中学高校の教科書にはそのようなルイセンコが写真入りで載っておった。
近畿説・九州王朝説のどちらかは、ルイセンコ説に似て見えるが・・・
本題の どっちがにあった? に戻そう。
冬に生野菜を食べる習慣があるのは、畿内か九州か。 絹を産出したのは、畿内か九州か。
>>804 古田氏の「邪馬台国はなかった」や「失われた九州王朝」の版元は70年代の朝日新聞社、
「赤旗」文化欄や「文化評論」誌の執筆者だったし、その活躍媒体は「ルイセンコ」っぽいですねw
その朝日新聞社とは「裸国・黒歯国項削除問題」で古田が喧嘩して、 「削除するなら出版お断り」と戦った挙句に朝日が呑んだってこと、知ってた?
>>808 古田は、ルイセンコ風出版社と戦って勝ち進んで、みごとロングセラーにしたという顛末。
810 :
日本@名無史さん :2008/09/13(土) 22:22:41
夏に食べていた生野菜と、冬にたべていた生野菜を具体的に名(食材)をあげておしえてください。
具体的に名(食材)をあげておしえるために、タイムマシンください。
812 :
日本@名無史さん :2008/09/13(土) 22:43:13
つまり、現在の九州の生態からはなんの植物であったかわからないということですか。 現代九州で食されている野菜はほとんどが江戸時代以降のものですね。 それ以前となるとどんな植物だったのでしょうか。
>>807 どうでもいいですが・・・・・・・・・・と書きつつ
新井白石、本居宣長のヨメさんは歯を黒く染めていた。(鉄漿・お歯黒の風習)
白鳥庫吉、内藤湖南は、お母さんが歯を黒く染めていたことを覚えている。(明治初年来日したドイツ医者ベルツがお歯黒を止めさせた。)
これらの学者たちには、魏志倭人伝にある裸国黒歯国は異常には思えなかった。それだけでもいいのだが・・・・・・
ああ、そうかこの時に裸人黒歯人が漂流漂着していたに違いない。魏使が見とがめ尋ねて記録となったのであろう・・・・とゆうくらいに留めないで、
黒歯人を引見した女王壱與がマネしたのが後世に伝わったらしい・・・・・などとしておくように古田氏に教える側近がいなかった。
(以下真面目に戻る)
日本列島の、お歯黒習慣についての起源は不明である。
魏志倭人伝に記載がない。卑弥呼と会見した魏使が伝えていない。
隋書イ妥国伝に風習として記載がない。高貴の女性は見なかったのであろうか。
>>812 漢籍に書いてあるとおりですが、何かご不満でも?
816 :
日本@名無史さん :2008/09/14(日) 00:23:40
サイキバ君たち 野菜しかいわなくなったね。薄葬とか樟とかどうしたんだろうね? WWWWWWWWWW
818 :
サガミハラハラ :2008/09/14(日) 00:39:51
それって野草じゃないですか。
「菜」ですから、山菜も野菜も含みます。
820 :
日本@名無史さん :2008/09/14(日) 01:00:43
けど、熱とおさずに生で食うんですか。似たら柔らかくなるでしょうに。
>>818 野獣→家畜
野草→野菜
すずな→蕪
すずしろ→大根 これくらい調べましょう。
>>820 30年以上むかしの邪馬台国論争では、諸君と同じようなバカバカしい議論を学者たちがやった。
その当時、以下の書物は出てなかった。
古代王朝ここにありき 古田武彦
鉄の考古学 奥野正男
絹の考古学 布目順郎
>>816 薄葬について
白石太一郎さんと言えば、古墳の博士だろう。
その著書に、ヤマト王権とか、その他共産主義者の抽象用語が並んでる。
具体的な遺跡遺物を対象とする考古学者が一足飛びの抽象概念を並べる。
著書に、大化の薄葬令を実証するなど見えなかった。
大化の詔は時期が50年ズレておるとの文献考証指摘あるのを知らぬらしい。
>>815 > せりなずなおぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろ・・・すべて冬野菜です
正月の七草粥に入れる春の七草。
せり、なずな(ぺんぺん草)、はこべら、みんな、普通に関東・東北辺りでも自生している植物ですね。
すずな(カブ)、すずしろ(ダイコン)別に九州特産じゃない。菜っ葉の冬獲りも多いですよ。
万葉集では山部赤人が次のように詠っています。
「明日よりは春菜つまむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ」
823 :
日本@名無史さん :2008/09/14(日) 06:58:18
>>821 ヤマト王権が共産主義者の用語かw
「天皇制」が古代の体制にも使われるようなもんか。
自分の感性に合致しない存在は全て同じに見えるのでしょう。 まあ、戦後の史学用語は、社会学、政治学からの借用語が多いから仕方ないけど。
>>748 >戦後は、一転して皇室を擁護する発言をして戦後の潮流とは一線を画した。
この津田左右吉への理解は、共産党系の理解。
津田左右吉自身は、
「われらが天皇」、「国民的結合の象徴」という天皇観は、戦前から一貫。
(昭和21年4月号雑誌「世界」に寄稿した「建国の事情と万世一系の思想」)
津田の理解を私流の表現にしますと、2600年余りの天皇王朝の歴史のうち、
日本書紀の1300年は、事実性を疑う
それ以後の1300年は、「お飾りとなった中世以降の天皇」(=象徴天皇) です。
さらに、明治なかごろ以降、
お飾り天皇をさらに飾る主張が増加(天皇ゼッタイみたいな主張)し、例えば
南朝正統 とか、
卑弥呼は天皇の先祖=近畿説とかが派生した。
826 :
日本@名無史さん :2008/09/15(月) 22:05:45
倭人伝には「冬夏生菜を食す」とあります。生野菜ではありません。 菜とは一汁一菜の菜であり、おかずのことです。 つまり、倭人は刺身を食していたということです。(もちろん熱をとおして調理したおかずもあったであろうが、生食をしない 中国人にはめずらしかったものであろう。)
生菜とは、多分、保存処理(塩漬け、干物等)を施さない非加工の食材のことだと思うけど。
828 :
日本@名無史さん :2008/09/15(月) 23:07:01
>>823 ほんの15年くらい前までヤマト王権なんて言葉は学校教育ではなかったね
大和朝廷は大和朝廷と習ったし天皇は天皇と習った
日本最大の古墳は「仁徳天皇稜」と習った
が当の教師達が色々問題があってヤマト王権や大王
仁徳天皇稜の名称は天皇を含むので
今は違う名で教えていると言ってたよ
830 :
夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/16(火) 15:00:15
>>825 何故卑弥呼を皇族に求めたら即皇国史観なのかが分からない。
学術的論争にイデオロギーを持ち込むことが愚かなのであって、
○説=□イデオロギーとか決め付けて排除することは何の役にも立たない。
>>829 筑紫、出雲、吉備、大和、毛野等の王権の中で
別に大和だけが特別なわけでもないから大和王権。
天皇と言う称号を制定したのは天武天皇で、それ以前は大王か治天下大王。
本当に仁徳天皇の陵か分からないから大仙古墳。
明らかになった事実に則って表記を変えているわけだから、
何の問題もない。
証拠もない造作天皇礼賛説だから、右翼だね>夏祭 夏祭が造作した妄想とは・・・ 「神武が畿内に東遷して邪馬台国を建国し、初代天皇になった」
832 :
日本@名無史さん :2008/09/16(火) 17:26:35
今回、新規に無料学習ゲームサイト”ソレ★スタ”を立ち上げました。 URL : soresuta.jp もしくはgoogleから”ソレスタ ゲーム”で検索 アクセスの際一切課金等ありませんので、よかったら、 ゲームで遊びながら日本史を初めとするいろんな科目 の勉強をしてみてください!
833 :
日本@名無史さん :2008/09/16(火) 17:31:34
834 :
日本@名無史さん :2008/09/16(火) 17:31:53
>>1 畿内にあったと思うね。箸墓と言う古墳があるが、あれは卑弥呼の墓である可能性が強い。
しかしその付近に邪馬台国の遺跡が全く発見されていないので、断定はできないね。
魏志倭人伝によれば、卑弥呼の国には倭絹や鉄鏃がある。 倭絹や鉄鏃の出土量をみると 九州>>>>>>>>>>>>>>>>>>>畿内 魏志倭人伝によれば、卑弥呼の国には多数の巨大古墳は出てこない。 むしろ、墓に石室を作る習慣がないのが特徴。墓に土盛りをしている 習慣も記載がない。年代的に新しい箸墓が、卑弥呼の墓である 可能性は思い切り低い。
836 :
日本@名無史さん :2008/09/16(火) 22:22:05
>>835 >年代的に新しい箸墓
はてな?
箸墓は「最初の大王墓」だろ。逆だよ、年代的に古いんだよ
「巨大古墳」の定義にもよるだろうけどさ
仮に墳丘の長200メートル以上の古墳を「巨大古墳」とするなら
箸墓は巨大古墳の中では最も古いんじゃないの?
森浩一先生がそう書いてたと思うよ
卑弥呼の死より、半世紀も新しい初期巨大古墳ですが何か?
838 :
日本@名無史さん :2008/09/16(火) 23:10:16
>>837 >多数の巨大古墳
畿内には「多数」と言えるかどうかは知らないけど
墳丘の長さ200メートル以上の巨大古墳が30基ほどあるね
でもこれらは一斉に造られたわけじゃない
古墳時代の前期〜中期〜後期にわたって順々に築造されていった
だから遡っていけば巨大古墳が10基だけの時もあったし
さらに遡っていけば巨大古墳はまだ5基しか出来てない時もあった
そう考えていくと「一番最初の巨大古墳」に行き着くわけ
きっとそれまでにはなかった大きな社会変化があって、
初めて「一番最初の巨大古墳」が造られたんだと思う
それが箸墓古墳・・・・・ってことを言いたかっただけ
839 :
サガミハラハラ :2008/09/16(火) 23:20:07
社会変化とは、大和が邪馬台国に遭遇して、その対抗として卑弥呼の墓より大きいい箸墓 をつくったということですか。つまり邪馬台国を意識するようになったとでも。
840 :
夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/17(水) 07:23:39
>>831 だぁかぁらぁ、俺の所は親父の代からの共産党支持で
近現代史について発言すれば「売国奴」扱いなんだってば。
>>840 はやく、終戦に気づけよ。
こんな馬鹿な考えは、さっさと捨てろよ。
馬鹿な考え → 神武天皇=邪馬台国建国主=天皇始祖=大和朝廷始祖
842 :
日本@名無史さん :2008/09/17(水) 16:40:32
843 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 05:32:16
一番最初の巨大古墳が箸墓古墳 でも何で卑弥呼の墓が「最初」・「当時最大」である必要性があるの?
844 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 06:18:18
吉野ヶ里遺跡って魏志倭人伝の中のどの国なんでしょうか?
845 :
夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/18(木) 07:28:23
846 :
夏祭 ◆Ekl.ZY5KxU :2008/09/18(木) 07:29:33
847 :
サガミハラハラ :2008/09/18(木) 08:54:20
>>844 そのものずばり、邪馬台国の都ですよ。
>>843 倭人伝には卑弥呼の墓が「最初」・「当時最大」であるとは書いてないね。単に大塚とあるね。
848 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 09:42:23
松浦から内陸を通って吉野ヶ里まで行くと仮に仮定して 「今の」道路事情で最短約80`、整備されていない 山道を踏破しても魏志倭人伝に書かれたような 日数は必要ない
849 :
サガミハラハラ :2008/09/18(木) 09:47:15
陸行一月のことですか? これはほとんどが韓国内(郡山〜固城)陸行ですよ。 唐津から小城までは2泊3日か3泊4日ですよ。
850 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 09:54:58
水行二十日無視でつか?
851 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 10:00:41
>>849 韓国内陸行などと言い出した時点でアウト。倭人伝は水行であることを明記
しています。常識で考えても、船で来られるのに、船を捨てて荷物を担いで
陸行し、狗邪韓国でまた船を手に入れるなど面倒なことをするはずはありま
せんよ。
852 :
サガミハラハラ :2008/09/18(木) 10:27:35
水行二十日は不弥の港(小城市大江)から投馬国(宮崎県)までの日数です。 明記しておりません。海岸にしたがっては、郡治のソウル(南方)から郡山までです。 それ以降はどちらともとれる表現です。 それをいうなら、江戸時代の朝鮮通信使だって、ソウルから江戸まで船できたらとなりますね。
853 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 10:54:38
末慮國 \ 伊都國 \ 奴國─不弥國 │ 投馬國 │ 邪馬台國 東南→東南→東→南→南 これが書かれている上陸からの進行方向だよね? しかし奴國が博多方面の北東なのに、スタート時点で東南って言ってるんだから 初期の段階で実際の方向とは かなりの誤差が出てるわけだ 当時は日の出日の入りでおおよその方向を認識してたんでしょ? まあ、星とかもあるだろうけどさ。で、距離当てはめて上のような図を作って地図上 でグルグルまわしてみたんだけど、奴國が博多近辺だと仮定すればね 最終的に彼らの行きたかった方角って瀬戸内海方面なんじゃないかな? 奴國の位置が合っていればの話ねw
854 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 11:00:56
魏志から旧唐書 邪馬台国=倭=九州 新唐書以降 日本=本州ほか 国土の範囲から中学生が読んでもわかること
855 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 12:45:09
>>854 それが正常な判断。
>>853 伊都国の比定が問題。それに、伊都国から先は放射説を考えること。
方角をまちがえるなどということはあり得ないことですよ。
856 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 12:49:59
>伊都国から先は放射説を考えること そこが説得力がない点だよ
邪馬台国九州説に1票 邪馬台国自体はイヨたんの時代で衰退し消滅 邪馬台国と大和朝廷はまったく関係ない別々の国
858 :
サガミハラハラ :2008/09/18(木) 13:02:14
>>856 伊都国の次の奴国と不弥国では、奴国は行の字がなく、不弥国には行の字があります。
つまり、奴国にはいかない(行路上にない)ということです。
伊都国の次は不弥国に行くということです。
859 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 13:06:39
邪馬台国にも行っていないことに
860 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 13:57:04
>>858 単なるこじつけ。それでは駄目ですね。
>>856 これまで多くの議論が費やされているところですね。
「邪馬台国」(榎一雄)や「邪馬台国の暗号」(安田哲也)をお読みになったらいかが
かと思いますが。
861 :
サガミハラハラ :2008/09/18(木) 14:28:04
862 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 15:55:16
>>861 隋書は、ツシマから「又東至一支国、又至竹斯国、又東至秦王国」などと書いていますが、
ツシマ→一支国→竹斯国→秦王国であることは明らかです。また、奴国に「行」がないか
らといって、百里行かなければ奴国に至るわけはありません。つまり「行」の字の有無は
進むか進まないかを区別するものではないということです。
不弥国に「行」を入れたのは、単に調子を整えただけのことです。
864 :
サガミハラハラ :2008/09/18(木) 16:10:37
単に調子を整えただけ。 つまり、どうしても奴国には行くのだという信念をお持ちのようですね。
865 :
サガミハラハラ :2008/09/18(木) 16:25:54
太平御覧には奴国へも行字があります。これは御覧の著者が形を整えるために 行字をいれたのです。 こういうのを整えるというのですよ。
866 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 16:26:20
>>864 いいえ、伊都国から放射式です。奴国へ行く必要はありません。
867 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 16:28:32
>>865 律儀に入れただけで、形は崩れています。
868 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 22:04:45
>>847 まあ、当時最大であっても「大塚」には違いない。
>>855 方角は間違える要素はあるけども
距離や日数は間違えようが無いだろうが。
869 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 22:06:46
日を月に等の見間違い書き間違いは考えられる。
870 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 22:52:06
>>869 そういう根拠の見出しようの無い間違いを前提として構成されているのが
北部九州説というわけか
畿内説は里程論以外でも、漢籍の記述や出土物の年代判定など、すべてにわたって抜本的改竄が前提。
872 :
日本@名無史さん :2008/09/18(木) 23:39:37
もし畿内に吉野ヶ里級の遺跡が発掘されたら、年代が会わなくても 場所がずれてても、全力で邪馬台国に比定するだろうな。それこそ 年代遡上でも魏志倭人伝の迷解釈でもなんでもして。 どうでもいい巻向遺跡でさえ、あれほどの迷解釈をしているのだから 間違いない。 そして、九州説はあれだけの遺跡が出ればしかたがないと泣くんだ。 九州説はちょっとお人よし過ぎるような気がするんだ。 あれだけ魏志倭人伝の風景に一致して、しかもそれより古いとなれば 結論は決まっている。それだけで、本来は反論などできないくらいの 成果だ。また、恣意的な解釈の入りにくいC14でも補強される。 畿内説に有力な根拠など一切ない。
べつに、しないけど。
ひそひそ話を紹介します。関西の大古墳は、ホントは九州王の墓ではないか とゆう。 沢宮優さんの1000キロの海を渡った「大王の棺(ひつぎ)」 九州から大阪へ考古学実験航海 関西の(小さなのは別として)大古墳に限っては、発掘された 半分以上が、 10台以上が、 九州産の石棺なのです。 まさか!? と思うけど、 九州で、納棺したご遺体を運んで埋葬クルージングは温泉(道後、有馬、白浜)とセット旅行だったり・・・ (若い2ちゃんねらなら知っていてもよさそうなのに話題にしない不思議) おなぴ顔負け奇説に、我ながら恐ろしいので、ここで中断します。 なお、ポイントは、関西の大王クラス古墳に限ると、石棺が九州産という考古学現象。
大和の古代古墳を覆っていた土や石積み、 これも遠く九州からわざわざ運んだもの。 どうしてそんなことをしたかというと、 大和の山という山には大物主が祭られて いて、その山を削ると祟りがありますから 使えなかったのです。
関西の大王クラス古墳に限ると、石棺が九州産という考古学現象。
>>875 =おなぴ
ちなみに現地調達した△が、棺外。
877 :
日本@名無史さん :2008/09/19(金) 13:36:41
878 :
日本@名無史さん :2008/09/19(金) 16:24:11
>>874 分かりやすく言えば、大和は九州王朝の墓場に過ぎないということですか?
879 :
日本@名無史さん :2008/09/19(金) 16:45:35
880 :
日本@名無史さん :2008/09/19(金) 16:54:02
出土したヒスイは新潟の糸魚川産なので、邪馬台国のあった場所は新潟決定ですね
高句麗好太王と半島内陸部で戦えるのは、九州勢力しかありませんね。 半島で戦える勢力が、糸魚川まで行くなど朝飯前。 鉄器のほとんど無い木器軍の畿内勢力は、高句麗好太王と戦えませんね。
882 :
日本@名無史さん :2008/09/19(金) 17:34:44
ひつぎが一匹ひつぎが二匹
>>895 何とおっしゃる太好王、
そなたと戦ったのは東国は毛野氏の部隊ですぞ!
未来の895は過去の883に話しかけられて、大変だな。
鉄器といっても軟鉄と鋼では雲泥の差 軟鉄なら青銅器と互角だ
886 :
曲学の徒 :2008/09/20(土) 22:21:14
887 :
↑ :2008/09/20(土) 22:29:40
大局観が無いから、ミクロな情報に埋没して、見失っているサイト。
たたら式の製鉄技術を使っていたか、 それが最大の問題です。
たたら製鉄は鋼が作れるんでしたっけ? 木炭で砂鉄を還元するから高炭素鋼が得られる ただし軽石の様にブローホールだらけで不純物だらけ だから何度もハンマーで打っては練る作業で気泡を潰していく (この作業は、炭素を飛ばし不純物を酸化除去する作用もある) この折り返し鍛錬の結果、緻密な鋼の層が幾重にも重なった組織になり、 強くて折れない日本刀が生まれたということ
890 :
日本@名無史さん :2008/09/22(月) 09:04:53
>
>>888 たたらとして一番古いものは6世紀ぐらいだと思うけど、もうこれ以上古いもので出土することは
ないと思うよ。現在、弥生鉄器として残っているのは、原料が鉄鉱石で大陸製のものばかり。
ただ砂鉄を利用し、何かをしようとしていた可能性がないわけではないと思う。
ただし、玉鋼とかそんなレベルではなくて、あったとしても、低温度鋳造による粗悪な鉄製品で、
現存できなかった代物だと考えられるね。
>>889 木炭だけでなく、釜戸も忘れないでねw
野焼きの温度では砂鉄は溶けないし、 るつぼを使うか、やもしくは穴を掘って 熱を閉じ込める必要があったはずなんだけれど・・
892 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/27(土) 20:10:41
>曲学の徒さんは、他人の論を批評するときは、非常に鋭い 読んでいて気持ちが良い。 ただし自論に成ると 卑弥呼の墓=住所がない。 時代が私と合わない 等 全く使い物にならない。
893 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/27(土) 20:34:34
曲学の徒さんへ @ 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■ A 泰和四年五月十六日丙午正陽、百練の鉄の七支刀を造る。 B 泰和四年は東晋の大和四年と解釈され、西暦369年のこととされる。 下記の文章に大きな誤りが有ります。 西暦369年=泰和四年五月十六日丙午 十六日丙午=辛卯朔になります。 西暦369年に辛卯朔が有ったことを証明してください。 @ を満たす西暦は、326年3月辛卯朔 東晉明帝太寧元年 ?次:癸未 生肖:羊 西元323年4月22日(星期一)起 12月甲辰朔より数える、 東晉廢帝太和元年 ?次:丙寅 生肖:虎 西元366年1月28日(星期六)起 12月甲午朔。 B 東晉廢帝太和4年 を主張するには 読めない文字を読み、読める文字を読まない 事で成り立っている。
894 :
日本@名無史さん :2008/09/28(日) 06:27:14
>B 泰和四年は東晋の大和四年と解釈され、西暦369年のこととされる。 何となく怪しげな解釈だ。
>>881 漢字の大和とは和睦している大連合という意味があるのだが…
訓読みではまた意味が違うが
896 :
日本@名無史さん :2008/09/28(日) 12:33:12
倭の地を参問するに海中洲島の上に絶在し、或は絶え、或は連なり周旋すること 五千里可りなり。 ・・・倭国の領域が周囲五千里しかないのなら、北九州に決まっているだろう。 近畿なら到達するだけで一万里とか、周旋○万里という数字になるはずだ。 また近畿なら瀬戸内海を通って行くだろうが、瀬戸内海についての記述が ないのはおかしい。対馬、壱岐や北九州の描写に比べて、その他中国、四国、 瀬戸内、近畿地域の描写がないように見える。 東、渡海一千里というのが四国か、周防灘のことだろうな。
897 :
唐松山 ◆V0F34EbmQA :2008/09/28(日) 13:43:03
西暦336年=神功52年 神功元年=275年 この様に読むとその直前の273年日食から 神功記は、書かれている。 そうですよねえ 曲学の徒さん。
まぼろしの 邪馬台国 映画オメ
899 :
日本@名無史さん :2008/09/29(月) 08:40:50
水行十日、陸行一月が問題にされるが、周旋五千里はあまり話題にならないのは 何故だ?
900 :
日本@名無史さん :2008/09/29(月) 09:40:28
>>897 273年の日食はどこでみられたのでしょうか?教えてください。
901 :
日本@名無史さん :2008/09/29(月) 13:03:00
>>874 熊本県宇土市の馬門石。ピンク色をしている阿蘇凝灰岩。
まあ、色が良かったんだろうが、数トンもある棺をこんなに遠くから
運ぶというのは謎と言えば謎なのかな。
902 :
日本@名無史さん :2008/09/29(月) 16:56:32
273年の皆既日食は中部地方の東南から西北にかけてよこぎって通過しています。近畿地方は部分日食であったようです。 これは神宮皇后の日食とは関係ないようです。唐松山さん如何。
903 :
日本@名無史さん :2008/09/29(月) 17:09:58
八島の中心地が邪馬台国にきまっとるだろうがw いつまで無駄な議論をしていることやら・・・・
904 :
日本@名無史さん :2008/09/29(月) 19:23:31
皆さん、面白い事実を教えてあげましょう!! 実は、古代の京畿湾(黄海に面する京畿道の湾)に、倭人が住んでいたんですよ。 中国の歴史書=漢書・地理誌に、その記録があります。 「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国を為す。歳時を以って来り献見と云ふ」 <漢書・地理志> 『楽浪郡の海の中に倭人が住んでいるよ。100ヵ国あまりの倭人国があるよ』 と、いう意味です。どうですか、面白いでしょう。 「楽浪郡の海」っていうのは、黄海のことですね。半島中部の西側。それは京畿湾しかない。 今の江華島、永宗島、喬桐島、席毛島、霊興島、仙才島、大阜島、これらの島々に倭人が住んでいたと 記録されているんですよ。 つまり、半島の南部はもちろん、半島中部(西側)も古代日本領土だったということです(笑 楽しい話でしょう。
905 :
日本@名無史さん :2008/09/29(月) 20:26:40
朝鮮最古の歴史書、三国史記=新羅本紀の中に、 「新羅を建国した初代王、キム・アルジが鶏林(ケリン)という林の中で、 柩(ひつぎ=カンオケ)の中に入った状態で発見された」という記録がある。 どうやら、新羅本紀の原資料となった古文書は古代日本語で書かれていたらしい。 その古文書には、おそらく、次のように書かれていたのだろう。 「初代王=キム・アルジは、鶏林(ケリン国)において、ヒツギ(日嗣=王の意味) になった」 日本人ならば、ヒツギが日嗣(王)の意味だと理解できるが、三国史記の編纂者=金富軾は ワイ族なので、日本語で書かれた新羅古文書の「ヒツギ」(比通魏などと書かれていた可能性がある)の 意味が分からず、国語辞典のような古文書を調べて、「ヒツギ=棺のこと」という説明文を見つけたのだろう。 それで、ヒツギとは棺=カンオケのことだと勘違いして、上記のカンオケ伝説を創作したのだろう。 笑える話である。
906 :
のんびりひまじん :2008/09/30(火) 00:09:39
>>901 レスありがとう。
石棺を現地調達して、ご遺体を九州から運んだという説が、むかしあったと記憶します。
・仲哀天皇(一説では熊襲の矢に当たった。)・・・熊襲の地で、どう棺を調達?
(仲哀天皇陵は大阪 藤井寺球場近く・古市古墳群の一つ)
・近江毛野臣は、加羅喪失=新羅に投降 という失敗に、対馬あたりで悶死。のち、
ご遺体は、船で淀川を遡上。葬送曲の描写がある(書紀 継体紀)。
すでに、関西の古墳に10台以上の九州石棺とは、九州で死んだ要人がそんなに多い?
907 :
日本@名無史さん :2008/09/30(火) 02:04:07
九州で死んだのかどうかはわかりませんが、馬門石は九州王国からの一種の下賜品だったのでは? 下賜された側は、高校球児にとっての甲子園の砂みたいに、珍重されたことでしょう。 九州王国に反抗的な九州内部族に対して、勢力衰退を狙って、馬門石運搬を命じたとしたら面白い。 ・・・以上、あんまり本気で聞かないでくださいね。
908 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 02:35:47
南を東だと言って 水行十日陸行一月なら 関東まで行けるな。 水行十日で瀬戸内海だって日本海だって、そこから陸行一月なら関東まで行ける。大和じゃむしろ近すぎ。 南を東の間違いと言っていいなら北だっていいじゃん。青森まで行けるんじゃないの。
909 :
のんびりひまじん :2008/10/01(水) 09:02:07
>>907 ま、実態未詳の中での仮説だからほどほどにしておきましょう。
>>908 そのとおりです。
魏志倭人伝に、瀬戸内海沿岸の描写が見えない。
910 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 13:59:05
911 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 15:04:39
あるいしいひさいちのマンガ 参謀「将軍、大変です!」 将軍「どうした!」 参謀「今までに我軍が進撃した距離を総合すると…」 「地球を2周してしまうのです!」 将軍「よし、ではこうしよう。」 「A地点までは確かに一直線に進んだが、B地点からは放射式に進んだのだ!」 参謀「邪馬台国じゃないんだから…」
912 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 15:07:49
>>907 馬門石をわざわざ九州から取寄せたのは、関西の古墳に葬られている者が馬門石に強い愛着を持っていたからでしょう。
彼らは九州出身で、先祖が棺に使っていたのと同じ馬門石を自分の棺にも使いたかったのでしょう。
913 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 15:12:46
>>911 放射式はないと思う。
「一日行三百里」(1日に行く、300里)などの表現と同じようなもので、
魏志倭人伝の説明は、最初に距離数を書いて、後に掛かった日数を書いたものであろう。
914 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 15:14:15
若い頃の榎一雄と助手 助手「大変です!」 榎「どうした!」 助手「魏志倭人伝の行程を実際に当てはめると…」 「福岡県に収まらないのです!」 榎「よし、ではこうしよう。」 「伊都国までは確かに連続して進んだが、伊都国からは放射式に進んだのだ!」 助手「それは畿内大和説の豊田伊三美のパクリじゃないですか…」 「それに、伊都国から水行十日陸行一月て、結構かかりますよ?」 榎「大丈夫!それは水行すれば十日、陸行すれば一月と読めば良いのだ!」 助手「それも畿内大和説の志田不堂麿のパクリじゃないですか…」 「おまけに、それでも福岡県には収まりませんよ?」 榎「大丈夫、有明海を遠回りすれば水行十日、陸行一月は机上の数字!」 助手「…なんで遠回りする必要があったんですかね…」 榎「知るか!だが、こうすれば邪馬台国が福岡県に収まる!」
915 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 15:19:23
「陸行一月」は謎ですね、畿内でも収まらない。本当は関東にでもあったのでしょうか?
916 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 15:35:17
「陸行一月」は「陸行一日」の誤りだと思う。 陳寿は魏書で三十日とか四十日とか普通に使っているし其の直前に二十日とか十日と書いているら「陸行一月」ではなく「陸行三十日」と普通なら書くはず。 わざわざ「陸行一月」と日を月に変えた意味が分からない。
917 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/01(水) 15:41:22
収まる。遣使らは遊覧を兼ねてあっち見こっち見で九州周遊をして いたものだな。途中休んで停泊だとか、未知の土地を道に迷ったり して疲労困憊を重ねたこともあっただろう。何らかの事情で迂回し たりして薮蛇、山賊等の回避もして身の保全もしたろうから、長く 行程がかかったということだ。
918 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 16:04:54
軍事国家に変貌していく過程で、道路が整備されていっただろうが、ローマの 国道じゃあるまいし、3世紀の時点では朝鮮半島や日本列島の道路など、 ろくに整備されておらず、ひどかったはず。 呉軍船が朝鮮半島沿岸まで出没するなか、魏使節団の行進中には、その土地での 諜報活動やら呉軍への偵察活動をし、魏や倭へ通信使を送りながら進むわけだから、 非常に日数がかかる。「単身の人間なら一日で30km移動できる」なんていう話とは全く異なる。
919 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 19:28:32
魏使節団は伊都国に滞在し、女王に会う為に邪馬台国の都との間を何回か往復している。 滞在地が伊都国なのだから、伊都国と邪馬台国の都との間は交通の便は非常に良かったのである。
920 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 21:45:16
瀬戸内海は潮の満ち引きを利用すると、下関から淡路島まで簡単に行けた。 しかしそうすると、卑弥呼の時代に、九州から大和までの瀬戸内海を支配し ていた勢力が存在したことになる。 それはどうでしょうね?
921 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 22:10:28
>>920 >しかしそうすると、卑弥呼の時代に、九州から大和までの瀬戸内海を支配し
>ていた勢力が存在したことになる。
>それはどうでしょうね?
存在してたんだと思うよ。吉備に。
倉敷の楯築墳丘墓は、規模としては当時では列島最大級だよ。
墓の主は、卑弥呼よりかちょっと先輩かも。
2世紀後半か3世紀初頭頃と違うか。
吉備は、河内とも出雲ともつながっていたようだね。大勢力を誇ったクニの一つだと思うよ。
922 :
日本@名無史さん :2008/10/01(水) 23:42:07
「陸行一月」は?
923 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 00:21:23
924 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 00:43:13
>>916 >わざわざ「陸行一月」と日を月に変えた意味が分からない。
月で数えられる数字になったからでしょう。三十日、六十日、九十日よりは
一月、二月、三月の方が普通だと思いますが。
925 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 00:54:30
>>915 >「陸行一月」は謎ですね、畿内でも収まらない。
大阪で上陸して一月歩けば大和は突き抜けますね。北九州説も一月について合理的な説明はできません。
しかし、南九州の場合には陸行一月は問題ないのです。
926 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 01:43:41
>>925 陸行一月は日本海ルートだと畿内で説明がつく。
南九州だと未開人地域になってしまう。
927 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 02:10:36
帯方郡から北部九州邪馬台国まで、陸路は一ヶ月ぶんあるだろう。
奈良時代でも大宰府ー畿内は水行30日。これは記録がある。 日本海回りで大宰府−丹後も似たような日数だろう。 プラス、丹後−奈良を陸行1月でぴったり。 琵琶湖回りじゃなくて、古くから土器の移動が確認されている 川沿いに神戸あたりに出るルートだと思う。
929 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 03:09:42
>プラス、丹後−奈良を陸行1月でぴったり。 なんか君自身が可哀相になってくるよ 君の心の中の邪馬台国でいいんじゃない?
930 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 03:21:47
>>928 お、同志がいた。(嬉)
>>929 丹後半島は遺跡の宝庫。軽視するとはもってのほか。(怒)
931 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 05:15:44
>>928 普通、そうだよね。
>>930 [丹後半島は遺跡の宝庫]って言っても知らない人は知らないし興味も持てないんだろうね。
説明したってどうせ人の話なんて聞かんだろうし、
最近は邪馬台国スレもレベル低くてクチをはさむ気にもなれない。
932 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 06:49:37
>>926 当時の南九州は最先端地域。
>>928 大和へ向かうのに日本海はありえない。
しかも、近畿は朝鮮半島からの帰化人入植地。
933 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 07:37:17
>>916 その説の一番の弱点、それは
「証拠がない」こと。
>>927 何故「帯方郡から陸行一月」と読めるの?
それが恣意的な読み方だってんのに…
934 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 09:15:25
>>932 >>932 >大和へ向かうのに日本海はありえない。
根拠は?
日本海ルートは鉄等の物資の運輸によりそれが実際に使われていた事が分かる。
まさか
「瀬戸内の方が穏やかだから」
なんて話じゃないよな?w
935 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 09:59:24
>>934 >「瀬戸内の方が穏やかだから」なんて話じゃないよな?w
いや、それもあるでしょう。危険は少ない方がよい。
それに、大阪に上陸すれば、陸行は1日か2日ですむ。苦労して1月も歩く
必要はない。
倭人伝の記述と対比しても、東北へ向かった者が南と書くはずはない。
936 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 10:23:42
都合の良いところだけ東と南と書き間違えたのか? それとも倭人伝全部が東と南を書き間違えてるのか? そこんところをはっきり言ってもらいたい。
937 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 13:00:55
魏の使節は日本海ルートを使用した。 北九州⇒丹後⇒奈良で決定で結論が出た。でOK。
938 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 13:43:17
邪馬台国の記述に全く符合しないのが奈良。 冬に生野菜を食べ、海で潜水漁をするのが邪馬台国。
939 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 13:58:17
好んで外海を通るのは考えられないな。 しかも、長い陸路を通らなくてはならない。 奈良県に行くとすれば、比較的穏やかな瀬戸内海を通り、大和川を遡るのが普通だろう。 そう考えられない理由があるとすれば、瀬戸内海を敵対する勢力が押さえて いることくらいか。 畿内説の場合は、場所が決まっているから、それに合わないものは間違いにしてしまう。 畿内説自体が間違いだとすれば、問題ないのだが。
940 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 14:01:43
邪馬台国の記述に全く符合しないのが奈良。 邪馬台国には絹や鉄鏃があったはず。 奈良と比べて、北部九州の出土量が圧倒的。
941 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 14:40:31
>>936 基本、全部の方角がある程度狂ってるんだけどね…
>>940 ほおーう、
古代中国人は北九州を「会稽東冶の東」に在るぐらい
遠い所だと認識してたと?
古代人を単なる馬鹿と思っちゃいかんよ…
忘れてはいけないのは、
北九州筑紫と畿内大和、どちらにしろ魏志倭人伝と矛盾するという事だよ。
畿内大和には矛盾がある、だから北九州筑紫で間違いないんだ尊師万歳将軍様マンセー
と言うわけにはいかないよ。
942 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 14:43:22
3世紀、掘っ立て建築と墓と木器しかない奈良県に、邪馬台国はないでしょう。
>>939 それは至極もっとも。そこでクナ国吉備説ですよwww
944 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 15:31:27
>>932 >当時の南九州は最先端地域。
ほらね。邪馬台国スレのレベルって、いまだにこんなものなのよ。
南九州っていったら、鉄器も無いし絹もないし、九州名物の銅矛だって無いってことも知らないんだ。
945 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 16:31:35
>>939 しかし現実に弥生後期、瀬戸内の流通が低調になり
代わって日本海側が活発になっているのは考古学的成果として確かめられている。
何も無理矢理、当時文物の運搬のルートとして使われなかった物を挙げている訳でもなんでも無い。
理由も敵対勢力の存在の他
・治安の問題(瀬戸内は無数の小島が点在、島影に海賊が潜み易い)
・山陰の勢力(投馬国)が魏使を自国に招きたかったので日本海ルートにしてしまった
等々色々考えられる。
それに
「じゃあ九州の何処で船から降りたら陸行一月もかかるんだ?」
っちゅう話でw
放射説だの「水行なら二十日、陸行なら一月」だのと言った珍説よりはるかに説得力があるw
946 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 17:17:28
>>942 >掘っ立て建築
きみは建築史にも考古学にも全く無知だから、こんな言葉使いをするんだよね。(笑)
きっと無知すぎて、「掘立柱」と聞いても、「掘っ建て小屋」のイメージしか湧かないもんだから、(笑)
建築史における「掘立柱」の重要性を、まるで理解できないでいるんでしょうね。
★日本の民家の変遷:
竪穴式住居 → 高床式住居(掘立柱建物) → 高床式住居(礎石建物)
まあおおざっぱだが、このくらいの基礎知識は持っていてくださいよ。頼みますよ。(笑)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8E%98%E7%AB%8B%E6%9F%B1%E5%BB%BA%E7%89%A9 今度からは、もし発掘ニュースで、「掘立柱の柱穴を検出」とあるのに目を触れたら
「むうう!!!・・・、高度な建築技術が求められる高床式住居かもしれんぞ・・・、すごいな!・・・」
とでも思ってた方がよいだろう。(笑)
礎石建物は飛鳥朝から。ご存知の通り、寺院・宮殿・国衙などから始まった。
だが、礎石を使った高床式住居は、江戸時代でようやく一般の民家に広まる。
これは現在も木造日本民家の主流です。礎石はコンクリートになったけどね。
947 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 17:44:36
>>946 サイキバ君に何言っても無駄だよwwwwwww
948 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 18:49:15
>>944 発見されてないだけだろう
土の奥深い中に、高い確率で相当なものが眠っているかもよ
えらい受けがいいな、日本海ルートw
調子に乗ってこんなもん作ってみた。
ttp://virtual.haru.gs/up/src/uho1108.kmz この舞鶴−神戸間て、以外と抜けてるのよね。
参考に鯖街道のなかでも最も古いと言われる針畑越えをいれたけど、
これと比較すれば舞鶴−神戸は平地みたいなもん。
神戸から先は陸行なので河内潟を迂回させ、竹内街道から横大路という
ルートにして見た。
水行なら河内潟に入って大和川の水運を利用してツバイチまでだろうけど。
舞鶴から巻向までは総距離で230km程。
一週に一日休むとして一月では6日×4週で24日。
一日に直すと10km弱/日。
道はたいがい曲がりくねってて道なりの距離は2倍くらいまでは伸びるので、まあ、いい数字じゃない?
950 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 19:42:10
>>946 マキムクに住居跡がないと言われるけど、
倉庫と見られてる高床式住居の中に炊飯場所があればOKだと思うけど、どう思います?
高床式住居でも竈は屋外の地上にあったと思う?
951 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 19:53:25
>>949 この地図はいいね!
マキムクの勢力範囲を東に見ると、三河まで楽に貿易圏なのがよくわかる。
952 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 20:49:29
邪馬台国は竪穴式住居に住む縄文系土着民の国だったのか、 それとも鳥越のいうところの揚子江流域から移住してきた高床 式住居に住む倭人だったのか・・それが問題だ。 どっちなんだよ?
953 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 21:22:53
屁理屈並べても、所詮、纏向には掘っ立て建築と木器と墓ばかり。
954 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 22:14:42
強大な古代丹後王国 京都府の丹後には5000基以上の古墳がある。これは大和に匹敵する数だ。 丹後町の神明山古墳から舟に乗る人が描かれた埴輪が出土している。 弥栄町のニゴレ古墳から準構造船の舟型の埴輪、峰山町の古殿遺跡から 舟の木製品が出土している。 弥栄町の大田南5号墳から青龍3年銘の方格規矩四神鏡が出土している。 近くの遠所遺跡から製鉄コンビナート、奈具遺跡から水晶の加工工房が出土。 久美浜町の湯舟坂2号墳から4頭の龍を彫った金銅装環頭太刀が出土している。 近くの函石浜遺跡から新の王莽が鋳造した貨泉が出土している。 さらに途中ヶ丘遺跡から陶けんとよばれる珍しい土笛が出土している。 天橋立の籠神社に前漢の昭明鏡と後漢の長宜子孫内行花文鏡が伝世されている。 大宮町の大宮売神社は弥生時代から神聖な地で邪馬台国のトヨ(豐受大神)の 出身地だとされる。さらに付近は遷宮伝説、元伊勢の地だ。 近くの大谷古墳からなんと女性の遺骨が出土している。 以上のことから魏の使節が立ち寄る中継地に最もふさわしいのは丹後である。
955 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 22:16:04
>>950 あせらない、あせらない。(笑)
纏向遺跡は、発掘したところはまだ全体の5パーセントにも満たない面積。
そのうちいろいろ出てくるよ。
研究者が今後どこに目をつけているか・・・、ちょっと面白い文章見つけたから
これからマキムクスレに行って、書き込みしておくよ。
>>953 ほら、また考古・建築学無知を曝け出してきたよ。(笑)
「掘っ立て建築」は、知ってる人なら思わず笑ってしまう言葉遣いなのに、ね。
956 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 22:20:47
>>954 そんな、いっぺんにドバッと出しても、あちらさんは消化不良になるばかり・・・、かもよ。(笑)
957 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 22:22:14
>>950 大和に進駐してきた九州勢力の駐屯地かも知れないな。
しかし、改めてみてみると大和にはまともな遺跡がないんだね。
958 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 22:35:39
>>944 あなたの方こそ何も知らないのでは。弥生後期には、環濠集落があり、鉄器も
あったんだよ。あちこちに広がっていた花弁状住居などという言葉も知らない
のでは? 日向は紀元前から中国と通交し、中国から候王の証しである玉壁を
与えられたりしていた。弥生後期には国内各地と交流していたことが遺物から
分かっている。古墳時代に入れば、もっとも古い形式の古墳が多数存在する。
それは当然、邪馬台国時代の繁栄に続くものなのだよ。
959 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 22:49:09
>>945 >理由も敵対勢力の存在の他
> ・治安の問題(瀬戸内は無数の小島が点在、島影に海賊が潜み易い)
説明がつかなくなると、ここは通れない理由があったんです、なんて言い出すんだな。
魏に使者を派遣しようと言うのに、瀬戸内海ぐらい押さえられないでどうする?
>「じゃあ九州の何処で船から降りたら陸行一月もかかるんだ?」
倭人伝てのは、こう読むんだよ。末盧国で上陸したら南東に五百里(40キロ)。有明
海の沿岸にでる、そこが伊都国。そこから放射式。南水行二十日で薩摩。伊都国から南
水行十日、熊本県内で上陸して日向へ抜ける。それが陸行一月。方角も距離もごまかし
なし。
>>958 を良く読みなさいね。記紀が日向に天孫降臨したと書いている理由も分かる
だろう。
960 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 22:49:51
「水行二十日、陸行一月」と思うから迷うんだ 「陸行一月、水行二十日」と入れ替えれば答えは明白。 沖縄 これ真説。
>>958 >日向は(中略) 古墳時代に入れば、もっとも古い形式の古墳が多数存在する。
「多数」と書いておられますが何基存在していますか?
10基以上ですか、未満ですか?
962 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 23:40:51
>>959 弥生後期に丹後が繁栄してるのが明らかなのに、
魏志倭人伝に記載が無いのはおかしいだろ。
って言っても無理か。丹後がどこにあるかも知らない人なんだろう。
963 :
日本@名無史さん :2008/10/02(木) 23:58:43
>>961 宮崎県内の9カ所の古墳群内で計35基確認されているそうです。
964 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 00:07:08
西都原に古墳が多いっていっても、奈良の方がオリジナルだしな。 西都原の方が奈良より古いってんならまだしも。
意味不明
966 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 00:18:02
邪馬台国の特長は、前方後円墳の大きさでも、数でもないから、奈良も宮崎も違う。
967 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 00:20:55
>>963 その9カ所の古墳群と35基の古墳の名前を挙げてくれませんか?
面倒でしたらソース(出典)だけでもいいです。
それと、「もっとも古い形式の古墳」とおっしゃるのは、当然ながら、出現期の古墳、という意味でしょうね?
968 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 00:32:44
>>967 バチ式(箸墓)とか柄鏡式(茶臼山古墳)といわれるものです。このバチ式と
柄鏡式は時代的には競合していたといわれますし、柄鏡式で先が少し開いているの
をバチ式というとか、名称は混用される場合もあるようです。
出典は「古代日向の国」日高正晴。もちろん、そのほかでも解説されてますが。
969 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 00:35:14
上に名前を上げたのは大和の古墳ね。日向の古墳は西都原13号とか、81号とか。
970 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 00:51:49
ちょっとググッてみた。 九州最大の古墳群で、特別史跡の「西都原(さいとばる)古墳群」(宮崎県西 都市)から、国内最古級とみられる前方後円墳が確認された。宮崎大学などの 発掘調査でわかった。出土した土器から、築造は3世紀中ごろと考えられ、南 九州では最古。大和政権があった畿内でも、このころ古墳が造られ始めており、 本土の南端でも同じ動きがあったことになる。これまで、大和政権が主導した とされてきた古墳文化成立に、再考を迫ることになりそうだ。 確認されたのは西都原81号墳。長さ52メートルで、卵形の後円部と短いバ チ状の前方部を持つ「纒向(まきむく)型前方後円墳」と呼ばれるタイプだ。
971 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 01:07:15
畿内の古墳年代をどんどん繰り上げ、 畿内以外が新しく見積もって、 畿内以外の古墳に「纏向型」と名づけるそのやり方。 西都原マンセーよりも、纏向マンセーのほうが要注意。
>>970 このニュースもそれっきり立ち消えになったなぁ。
結局もう少し新しくなったんだっけか?どうだったかな。
973 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 03:23:42
>>972 九州説のセンセイは、こぞって西都原を古くしたがったはず。
でも、上手くいかなかったんだよね。
974 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 03:34:10
西都原マンセーは少ないから、心配するな。
975 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 05:31:35
素朴な疑問なんだけど、どこしらべると古墳の築造年代わかるの?
976 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 09:36:19
>>959 >魏に使者を派遣しようと言うのに、瀬戸内海ぐらい押さえられないでどうする?
瀬戸内海の制海権完全掌握か?
お前の考える邪馬台国ってのはえらく強大な武力を持っているんだなw
だったら「共立」なんかされなくても
その武力でさっさと周辺諸国を征服すれば宜しいって話だなwww
>倭人伝てのは、こう読むんだよ。
悪いw
太平御覧に連続式に書いてあるんだしそっちの方を信用するわwww
977 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 09:46:16
>>949 >えらい受けがいいな、日本海ルートw
結局、先に出ている丹後地域や荒神谷、妻木晩田、青谷上寺地、等々の遺跡が発掘され
日本海側のイメージが一新された事によるんじゃないのかな?
九州の奴国の二万戸の倍以上の五万戸の大国「投馬国」 を比定するにリアリティが出てきたと言うか・・・
978 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 10:01:55
>>976 太平御覧には、「東」って書いてあったかな?
979 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 10:07:38
>>958 >日向は紀元前から中国と通交し、中国から候王の証しである玉壁を
>与えられたりしていた。
多分、串間の璧の事だと思うがいつそんな事まで分かったんだよwww
>もっとも古い形式の古墳が多数存在する。
>それは当然、邪馬台国時代の繁栄に続くものなのだよ。
だーかーらー
その論法がまかり通るのなら畿内説で終了だっつうのwwwwwwww
980 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 10:53:51
>>975 近年の墓のように、○○年建立とか書いてあれば、古墳の築造年もわかるん
だろうが、書いてないのでわからない。
箸墓についても、3世紀という人もいれば、4世紀後半という人もいる。
古墳の周辺から出る土器などで推定するんだろうが、その土器についても
年代については諸説ある。
古墳の編年、つまりどういう形のものが古く、どういうのが新しいのかと
いうのに付いても、人が勝手に決めるものなので、どうも良くわからない。
たとえば、以前、箸墓は、前方部が発達しているので、比較的新しいと
されてきたが、いつの間にか最も古いタイプになっていたりする。
前方後円墳は、畿内で生まれ全国に広まったとされるらしいが、これも仮説
みたいなものなのだろう。奈良の古墳と宮崎の古墳のどちらが古いかなどは
わかるわけがないと思う。
981 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 11:28:14
箸墓については 二重の周溝が出てきたので邪馬台国城の内堀外堀と考えられる さらに卑弥呼が使用したであろう馬具も見つかっており 卑弥呼が住んでいた掘っ立て小屋の跡も見つかっている。
サイキバ君らしい言い回しだ罠w
983 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 12:15:27
草しか生やせぬ、その舌を抜けぃ!
984 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 12:17:22
だから沖縄だっていってんだろ。どっちがってどういう意味だ。
985 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 12:19:27
古墳だの文献だのいろいろいってるが、紀元7世紀にようやく史料に現れる 沖縄にすでに日本語の文化と習俗があったわけだよ。 その時点で古墳なんか必要ない、今ある沖縄の文明文化が日本と近似性を 持っていることそれ自体が沖縄が邪馬台国である証拠だ。 古墳がなけりゃ証明できない他の説はみんな雑魚www
○ ○ 。 。 >ー-"'" ⌒,,ィシヽミミiミミ、 / 三彡彡彡ィ`、ミミミ`、 / シ彡彡彡彡ノ'ヽミミミ`、 ,' ,三彡彡彡彡彡ソ,ー--' l _ _ """'彡彡彡彡彡ノi {;、 ';;;='''"""` 彡彡彡 - 、ノノi kr) .ィェー 彡彡' r、ヽ}彡i レ' .. シ彡' )ァ' /彡' と思う吉宗であった {_,,,、 ;、 シ彡ニンミミ{ l '''"::. 彡ミi ! ̄"` ...:::::::: ノ""{ l .......::::::::: / \_
987 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 12:34:30
古墳だの文献だのいろいろいってるが、紀元7世紀にようやく史料に現れる 沖縄にすでに日本語の文化と習俗があったわけだよ。 その時点で古墳なんか必要ない、今ある沖縄の文明文化が日本と近似性を 持っていることそれ自体が沖縄が邪馬台国である証拠だ。 古墳がなけりゃ証明できない他の説はみんな雑魚www 最近、仕事のほうで管理職することになり、 引き継ぎやら〜忙しくてなかなか来れない。 よって、みなさんでスレまわしてちょーだい!河童さんもが居るか! まあ、引退&休暇も考えてるが、たまには来るかも。 あくまでも仕事優先つーことよ。 zzzzzzzzzzz
改めはもう来なくて良いよ
989 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 12:49:39
990 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 12:53:36
しかし、生きの永いスレだったね ようやく終わりか
991 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 14:45:58
>>979 >その論法がまかり通るのなら畿内説で終了だっつうの
日向と大和の決定的なちがいは、日向は倭人伝が伝える行程記事のとおりで行き着く
ところであり、大和は行程記事と始めから終わりまで矛盾するということです。
大和には邪馬台国の邪の字もないということですな。
992 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 15:32:33
九州説のセンセイは、こぞって西都原を古くしたがったはず。 でも、うまくいかなかったんだよ。
993 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 16:18:21
邪馬台国が北九州にあったのなら、 何で陳寿は「会稽東冶の正に東」なんて書いたんだろうね。 少なくとも、当時の中国人は邪馬台国が伊都国からかなり遠方にあると考えてた 北九州地方にあるのなら、普通に直行すれば良い話。
994 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 16:18:52
伊都国から陸行数日で着く。
995 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 17:19:44
>>993 お説のとおり。南の遠いところにあったんだよ。
>>959 もし、北九州や大和にあったなら、後漢書など後の史書が訂正しないはずはない。
訂正しなかったのは、ずうっと南へ行った所にあるという話が本当だったからさ。
996 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 17:24:42
沖縄なら九州上陸しないで直行するだろ。
997 :
太国 ◆yVAs7uaYlY :2008/10/03(金) 17:27:22
紀無いなら、北九州でなく山口県のほうに上陸するだろ。
998 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 17:44:37
卑弥呼は山口県にいましたが。
なんでさ
1000 :
日本@名無史さん :2008/10/03(金) 18:38:03
あのね、太国ってさ、実は
1001 :
1001 :
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