1 :
日本@名無史さん:
天正10年6月2日未明、戦国時代最大のクーデター、本能寺の変。
京の信長の宿所、本能寺を家臣明智光秀の軍が包囲します。
信長は自刃、嫡男信忠も二条城にて自刃し、織田政権が大きく揺らぎます。
戦国時代末期に起こったこのクーデターで、ゴール目前だった信長の天下は潰え、こののち織田家に代わって天下を統一したのは逆臣光秀を討った秀吉でした。
しかし、秀吉死後、天下の形勢は家康に傾き、結局は徳川300年の天下へと時代は移り行きます。
本能寺の変というクーデターは、その後の覇権の行方に劇的な変動を生み出すきっかけになりました。
以後の織田家弱体の最大の原因となったと思われる、嫡男信忠の死。
もし、信忠が無事、京を脱出できていれば・・・、天下はどうなっていたか?
ちょっと語り合いたいです。
ひょっとして、2ゲット?
信忠が無事に京から脱出して安土にでも逃げ帰れれば、そのままの流れで織田家が天下統一することになったんじゃないかな。
政治方針と織田軍という組織はすでに完成してるので、信忠の能力に関係なく行けると思う。
どういう支配体制になるかは解らないな。
秀吉よりも強力な支配力は持つことになると思うが・・・
>>1 信忠に関するこの手のスレ、過去に何度か作られて
ループなお決まりレスでしばらくの間だけ賑わい、
そして過疎って消滅・・・の繰り返し。
それ知らないのって初心者?
4 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 12:52:48
信忠が名古屋に幕府を開くがね。
名古屋に幕府、なら清水義範の「金鯱の夢」風だな。
標準語が名古屋弁になるんだがね。
どえりゃーことだが。
織田信忠が生き残っていれば、同母弟の織田信雄の影響力がもう少し強くなっていたのでは・・・
ただ、問題は信忠が自身の軍勢たる美濃尾張衆を招集するあいだに、秀吉に先を越される可能性。
もちろん、信長の後継者たる信忠の地位は変わらないであろうが、秀吉が信忠の命令を待つことなく史実
のように短期間において光秀を滅ぼした場合、織田家中における秀吉の比重はやはり並々ならぬものとな
りそう。
また、信忠が美濃尾張衆を招集できたとしても、史実にあったように上野甲斐では混乱が生じ、そちらの
方面に家康が勢力をのばしたであろうことは想像に難くない。
織田政権の崩壊は、すぐには無いであろうが、家康に対し、押しの利く者がもはや家中にいなくなり、織田
徳川間の同盟における上下関係に変化が生じそうである。
そうなったら、やはり古狸家康が、徐々に織田家の力を削いだのではないかとも考えれるが・・・。
9 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 13:59:37
>>5 つか現代の標準語は三河弁
〜じゃんって関東地方の方言も三河のじゃんだらりんの名残
10 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 19:21:04
>>6信忠が生きていれば、「北畠」信雄のまま。復姓など出来ない。「神戸」信孝、「長野」信包にも主役はない。
徳川政権での結城秀康みたいな扱い。
11 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:38:18
>>7 滝川左近は信忠目付けだぞ!しかも東国は滝川の管轄だ。
あと古狸なのは本多がいるからそう見えるからだよ。
そもそも関東の所領を失っても織田家中で取次ぎの滝川の地位は下がらない。
むしろ左近は小田原北條攻めの先方となって大身になるだろう。
その際、甲斐信濃は信忠本知分なので家康は甲斐信濃の領有化や知行地は云々はできないだろう。
北條家滅ぼした後の伊豆相模が妥当と思われる。
信忠が生き延びた場合は織田家崩壊はむしろ全く起きないと思う。
12 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:45:02
>>10 神戸改め三好信孝だ。
それをいうなら秀康でなくて北條家での氏照だと思う。
13 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:04:58
なんで信忠って評価高いの?優秀なら脱出してただろ。
それを逃げられたのに判断誤り無駄死に。別に優秀とも思わん。
生きてても織田の天下は続かないと思われ。
>>13 その後の織田家の没落ぶりを考えると、京を脱出しなかったのは信忠最大の失敗だったね。
ただ、それが判断ミス(光秀を過大に評価して)だったか、心情的なものだったかはわからないが、
織田の跡取としての能力は充分にあったと思う。
だからこそ信長は形式的ではあるが早くに家督を譲り、美濃尾張を与えて甲斐攻めの総大将にも
任じたのだと思う。
信長横死後の混乱さえ乗り切れれば、それなりに乗り切れたかもしれない。
にしても、信雄、信孝の不仲も余計だった。
能力的には信孝に分があるんだろうが、なまじ三法師がいたからこれを秀吉に利用されてしまった。
まあ三法師が夭逝とかしてたらしてたで、秀吉は信雄を担いでるかな。
無能っぽい信雄なら秀吉も傀儡化しやすいだろうし。
結局、実際はより簡単で嫡流という理屈も通る三法師を選んだんだろうけど。
秀吉以外の宿老全員が一枚岩で信孝か信雄を推してれば、秀吉の天下も無かったんだろうなあ。
まあそうなったとしても、跡目を継げなかった方が、やっぱり秀吉か家康に接近して、乱を起こしそうではあるな。
16 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 00:27:45
信忠が生き延びることは 勝頼が許しません
何を書き込んでも手垢のついたスレしか無いぞ。
18 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 01:09:23
ってか信長を殺したのは秀吉という可能性があると結構前になんかの本を読んでから
信じてるからな俺・・・。
19 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 01:10:59
いっくぜぇぇぇぇぇ!!
ブーストォォォォォォォォォォォファイアァァァァァァァァァァァ!!!!!
フルパワッッッッ!!!!
20 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 04:43:15
ていうか逃げ延びたと仮定して勝家、秀吉、長秀、どっちに付くんだ?
21 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 05:07:27
>>20 信忠が生き残れば
その3人が争う事は恐らくないだろうと思う
全織田家臣団と共に光秀討伐だよ
嫡男の信忠が生き残って、信忠から勝家や秀吉に光秀討伐の書状を届ければ
織田家は信忠中心でまとまる。
当然秀吉や勝家が台頭してくる余地もなくなるので、信忠が信長ほど過激に無理押ししなければ
第2第3の光秀が出てくることもないだろう。
>>21 >>22 いや、ただ史実(事実かどうかはわからんが)では秀吉は、光秀から毛利宛の密書を持つ使者を捕らえ変を知った。
信忠が書状を送る前に単独で大返しを行う可能性もあるんじゃないか?
光秀が味方を得るためにはたとえ信忠を討ち漏らしていたとしても、そのことをバカ正直に密書に書くはずも無く、
その場合秀吉が信長父子が討たれたと判断したとしても不思議ではない。
そして、秀吉にはかつて越後攻めの際も、独断撤退も行っており、たとえ信忠が生きていると知っていても、その
下知を待つよりは光秀を叩くには時間的余裕を与えない方がいいと、単独で逆臣討伐に向かうのではないだろうか?
更に勘繰れば、それが政治的野心によってなされる可能性も少なくないように思うが・・・。
>>23 秀吉が信忠からの書状を受け取る前に動いたとしても、その後信忠からの書状が届いた時点で
信忠の指揮下に収まらなきゃいけないだろう。
信忠の命令を無視して勝手なことをするようであれば、光秀の後に秀吉が粛清される恐れが出てくる。
秀吉に織田家に対して謀反するつもりでもなければ、そこらへんの事は秀吉にも解ると思うが・・・
>>24 そうだな、史実のように山崎の合戦が起こったとして、それで秀吉が勝利してもその後は信忠指揮下に
戻らねばならないな。
ただ、その場合も信長の仇を討ったということで、発言力は大きくなりそう。
どっちにせよ、信忠の命を待たず大返しするのは損は無いように思う。
26 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 23:20:33
信忠が光秀に殺されなくて生き延びても
いずれは 家康か秀吉に暗殺されるだろう
と、いうことで終了だな。
特に家康は信長に長男殺されて恨んでいるしな
>>26 軍事的な手段で織田家を徹底的に潰さない限り、家康や秀吉に天下の目はないよ。
信忠を暗殺したところで、三法師なり他の兄弟が後を継いで暗殺犯を打倒するだけ・・
信忠を中心にまとまった場合、織田家の物量に敵う大名がどこにいると言うのか・・
もし、秀吉の独断大返しがそのまま行われてたら、以後、織田、徳川、毛利の同盟が成り、そうなると統一
スピードも速まったかもな。
1585年ころには信忠に将軍宣下、安土幕府あるいは大坂幕府あたり開いてたかも。
やっぱり将軍?
織田は平家を名乗ってたから、関白かもしれんが・・・。
信忠スレには付き物の腐れネタ。
きっと松姫を御台に迎えていたにちがいないよ!
33 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 12:06:20
鎖国はしていただろうか?
秀吉のようにバテレン追放しただろうか?
信長の南蛮かぶれや黒人の家来がいたのは有名だが
信忠もそれに習って異国文化を積極的に取り入れただろうか?
それによって日本の近代化はどれぐらい進んだであろうか?
あるいは、それが日本の欧米植民地化が早める要因になってしまうのか?
34 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 16:42:25
>>32 そんで頃合見計らって武田家再興、甲信統治を堅固にして
お松ーお菊ルート使って上杉懐柔、北條は言わずもがなで
とりあえず徳川あたりを潰すってか?
>>33 基本的に信長の政策の継承と考えられそうなので、
鎖国なし。
バテレン追放もなし。
日本の近代化のスピードアップはあったように思う。
ヨーロッパ(このころアメリカはまだ未開)の植民地化も、当時の日本の軍事力(鉄砲総数ではたぶん
ヨーロッパ総数をしのいでたと記憶している)があればそうやすやすとは出来なかったと思う。
>>31 32や34に便乗となるが徳川が新田を使って源氏と詐称したように
まずは関白あたりに収まって実権をガッツリ掴んでかららかみさんの
実家である武田を持ち出して源氏⇒将軍となったのではなかろうか。
徳川と違ってこっちの場合は詐称とまではいかないんだが。
>>34 手垢のついた腐れネタなんで
レスくれなくても良いのに・・・
もし信忠が生きてりゃ三法師も元服後、秀信なんて先に「秀」がくる名前にならなかっただろうなあ。
多分「信○」ってかんじで、織田家代々の伝統の「信」の字が先に来る名前になってただろうね。
だとしたら、後ろの字は?
織田政権三代目にふさわしい名前は・・・。
俺的には「信重」
かつて信忠が名乗った名だが、なぜか後に信忠と改名してる。
そこが気にはなるところだが、生きてれば平家滅亡も無かったといわれた平清盛の嫡男、
小松内大臣重盛から一字を頂戴。
もしもモノの中でもつまらないスレだな・・・
40 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 23:16:38
三代目だから信光とでも妄想しとこう。
41 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 00:03:01
信長が本能寺で死ななかったら
佐竹氏 北条氏 伊達氏 は恐らく信長に反抗
毛利氏 長曽我部氏が島津氏が同盟、本願寺、雑賀 根来寺が反抗
上杉氏が一向宗と結託ということになれば
ハイパー戦国タイムスタート
死んでよかったんじゃね?
北條は親織田(娘を嫁がせると約束していた模様)
伊達も同じくで佐竹は対北條で考えれば反にまわったかもしれんが
妹が兼見に嫁いでいるし家存続で考えればはたして・・・?
ってここは信忠スレだ。信長はまた別でヤレ
>>42 も少しまとまった文章を書くようにしようね
俺、信忠のイメージいいんだよね。
武田を滅ぼす等、武勲も申し分無き織田の惣領、覇王の後継者。
脱出できたかも知れない京都で、寡兵で光秀の軍に挑んだのは織田家の将来にとっては
決定的ミスであったかもしれないけど・・・。
25歳の血気盛んな若武者なら無理もないかもしれない。
好対照が織田長益。
「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五
むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」
織田家の将来のためにも脱出を進言しろよ・・・。
生き残ったのが逆なら良かったのに・・・。
45 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 03:29:29
>>41 変後に北条と滝川が衝突したのは信長が死んだから。
死んでいなければあえて刃を向けることもなかろう。
伊達は変前からすでに信長に近づいているんだが。
佐竹はとりあえず未知数。
>>45 織田には友好的だった北条だがその後秀吉には歯向かうんだよね。
やっぱ本能寺の変後の火事場泥棒的行為が後々の遺恨となるって思って結局徹底抗戦したんだろか・・・。
それとも神流川の戦いでで散々に打ち破った織田の後継である秀吉ふぜいなら、撃退できるって甘く見たのか・・・。
47 :
46:2007/04/06(金) 19:02:04
織田には友好的ていうより信長には友好的・・・と訂正します。
まあただ単に信長個人とその強大な勢力にびびってたんだろけど。
48 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:45:01
>>46 意地悪な見方だが成り上がりの秀吉風情にという一種のプライドも
影響したのかもしれない。勝頼が結局信長に頭を下げることが
できず滅ぼされたように。
北条と織田には武田&上杉という共通の敵もいたからね
秀吉が信長の後継者に納まるまでに、上杉に外交戦で先手を取られたのが一番痛かった
50 :
46:2007/04/09(月) 12:45:06
信忠が生きてたらの織田の同盟国ってどんな陣営があったんでしょう。
関東弁を標準語って言うやつなんなの
結局信長が目指してたのってなんなんだろ?
やっぱ日本国王?
本人しか分からないでFA
本人が分かってたかは知らんw
54 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 13:06:45
信忠は光秀に討たれなくても
勝頼の呪いで 数年以内に氏んでいただろう
特定人物の呪いとか云ってる奴、馬鹿? ニワカ風鈴?
織田が攻撃してたのは武田だけじゃないだろーよ
56 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:29:48
特定旅客の呪い。
やっぱりネタ切れ、人切れw
>1よ、もう駄スレ立てるなよ。
父信長を見殺しにして自分だけ逃げた不孝者の汚名を着せられ廃嫡。
その後、秀吉が三法師を世継ぎに立てる。
結果は同じよ。
信忠と信雄って仲良かったんだろうか・・・?
>>58 信忠はすでに織田家当主になってるから、誰も廃嫡にはできない。
信忠も信雄の無能ぶりには頭を痛めていたかも・・・。
ただ、バカな子ほどかわいいといわれるから、それと似た感じでバカな弟なりにかわいがってたかもな。
それに比べて信孝はそこそこできる弟だっただろうから異母弟ということもあって仲はあまりよくなさそうな気がする。
将来的に敵となる可能性も無くもなかっただろうし・・・。
63 :
??:2007/06/01(金) 00:44:58
本能寺にいた僅かな手勢で明智の大軍を少し苦しめたのだから武勇は優れていたのでは?
信忠は長篠後に対武田軍団の軍団長だったし、信長が甲斐侵攻を急ぐなと諌めるも、
信長到着前に武田を滅ぼしてる。
与力勢の力もあっただろうが大将としての器は信長、そして重臣たちも充分認めてたと思う。
だからこそ、光秀も信長父子が同時に京にいるときを狙ったんだと思います。
65 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 01:42:00
> だからこそ、光秀も信長父子が同時に京にいるときを狙ったんだと思います。
では、なぜ同時に攻めなかったのだね。
本能寺に2千、妙覚寺に3千で十分攻め落とせた。
1万以上もの大軍があったのに、本能寺を落としてから、
1時間から2時間後に信忠攻めに移っている。
だから、二条御所に逃げ込まれたじゃないか。
信忠が二条御所に籠もったのは致命的な失敗だったが、
それは結果論だからな。
信忠スレ程度だったら、ひとつにまとめれば?
67 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 04:53:12
信忠なんかよりヤスケが、どうなったか?の方が気になる。
68 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 12:01:17
>>28 今時、信康が信長の命で殺されたなんて事を言ってる人がいることに驚いた。
>>62 信忠と信雄は同腹じゃない可能性の方が高い。
>>68 >信忠と信雄は同腹じゃない可能性のほうが高い
はいはい、わかってます。
それを始めると濃姫スレになっちゃうよwww
70 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 18:04:38
信忠ごとき雑魚が生き残っても結局秀吉の傀儡になって内ゲバでアボンだろ
71 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 20:01:45
>>70 信忠が生きていて、無事戻ったとしたら秀吉のいいようにはなってないと思われる。
当時の最高権力者は信長だったけど、織田家そのものはすでに信忠が家督を継いでいる状態で
織田家の主は本能寺の変の前から信忠。
しかも信長の正室・濃姫の養子となっている為、正室腹扱いでどこからも文句がつかない生まれ。
もし生還していれば、秀吉が織田家の方針についてあれこれ言える立場ではなくなるし、
信長亡き後、織田家で一番の権力者は女主である濃姫だし、信忠も母親と組んで
織田家をまとめることも可能だったと思われる。
73 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:05:43
そのまえに織田家事体周りから潰されるだろ 信忠ごときが生きていても
雑魚の織田家では生き残れない
74 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:16:11
織田家に義理立てするような勢力はそれぞれに各個撃破されるだろう
烏合の衆はバラバラになる 秀吉だからあそこまで織田家を存続させれたんだよ
まあ邪魔者織田親子が死んでなけりゃ秀吉もあそこまでハッスルしなかっただろうしね
織田譜代の雑魚達は各方面で撃破され畿内は明智が勢力を築くだろうね
75 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:16:38
信孝は兄弟の中では1番容姿も気性も信長に似ていたせうな
76 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:23:44
>>74 信忠が次期当主なのは規定路線だったから、秀吉の権限が強くなるとは思えないんだけど。
当主が健在の状態で、柴田勝家や丹羽長秀を排斥できると思う?
77 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:29:58
明智と挟み撃ちされとるがな どの方面軍も
秀吉のような外交力が信忠にあるとは思えん 織田の政権?など脆弱
天下統一されたわけでもあるまいし
78 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:33:51
秀吉は人たらしだけあって補佐する部下に超優秀な奴が多かったからね
79 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 21:40:38
人たらし……
プライドの高い織田家には出来なかったんだね
80 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 22:33:59
81 :
義姫さまふたり:2007/06/02(土) 22:42:32
>>77 まぁ確かに、方面軍のひとつくらいはつぶされるかもな。
けど、のこりの方面軍はどうなのよ?
だいたい、明智光秀の行いはどうみても謀反だろ。
謀反という事実が消せない限り、その行為に正当性がないんだが。
正当性がないってことは、他者の協力を得るのが難しいってことだぞ。
82 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 22:53:55
戦国時代だぜ 将軍殺しが起こってるくらいだし
だいたい幕府を潰した織田なんてだれも支持しねーし もはや織田は空中分裂
83 :
義姫さまふたり:2007/06/02(土) 23:19:00
>>82 少なくとも、織田領内の民衆は織田を支持していたと思うよ。
そうでなきゃ、あんな経済的繁栄、できるわけがない。
まぁそうだな。
信忠が生き残っても領土半減&京周辺失陥はありえただろうけど、
即織田の滅亡にはならないと思うよ。
84 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:23:04
織田なんていなくても普通にやってるだろ
85 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:26:22
毛利と羽柴が将軍かつぎあげて再び上洛 光秀と将軍は通じてるから
将軍がうまくまとめそうだなぁ 少なくとも織田の出番はない
86 :
義姫さまふたり:2007/06/02(土) 23:35:06
>>85 おいおい、秀吉が毛利と和睦したのは、織田の名で、だぞ?
それだと秀吉が毛利と組んで織田に反乱したことにならないか?
87 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:37:42
小牧長久手で、家康の組む相手が信忠になる。
88 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:41:31
豊臣信忠
89 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:44:31
結局織田は細々とやって関ヶ原で滅亡だね 比叡山でジエンドか
90 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 23:48:29
>>87 もしかしたら小牧長久手自体起こらなかったんではと思われ
それと信忠が武田遺臣をいつ、どうやって取り込むかによって
甲信の情勢はかなり変わってくるんでは?
91 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 20:08:11
そうなると鍵の一つは松姫の行動かもな。
信忠が二条城から脱出かつ松姫が信忠の元にいたら
これまたどうなっていたんだろ
>67 弥助は明智に捕らえられたのち南蛮寺に預けられ、その後は不明
信忠が安土辺りに篭ればそこで本国の軍勢を召集できるし、秀吉が大急ぎで
帰ってきても信忠の指示を
指示を仰がないといけなくなるし、本拠地がどこになるかは分からないけど
信忠による織田政権の誕生は確実。
信忠にそれほどの人心掌握ができるとは思えない。
残念ながら。
根拠不明
96 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 02:38:35
生き残っても歴史の大勢には何の影響も無いと思われる。
何かここの意見読んでると信忠ってのは信雄とあまり能力が変わらないという前提で語られてるな。
でも、どの家老が権力を掌握しようとしても一番手っ取り早いのは信忠をお神輿にすることだというのは間違いないだろ。
ついさっきまでの最高権力者の後継者となることが規定路線、というか既に持株会社織田ホールディングの下にある中核企
業織田産業の社長だったんだから。
グループの次期総帥が存命しているのに、わざわざ光秀につくというのは事前の協議が出来ていない限り取れない選択だろう。
その後で、その一番家老がどう信忠政権を簒奪していくかはまた後の話じゃなかろうか。ただ、誰がその立場でも史実で秀吉
がやったようなお手並みで簒奪することは(たとえ当の秀吉でも)できないだろうけど。
だいたい信忠は建前上は当主になってたんだから
清洲会議がありえないよ
99 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 00:47:38
清州会議の結果は信忠当主が前提だろ
村井て京の情勢把握出来なかったのかね 奉行でしょ その時は違う?
100 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 16:24:18
信忠など恐れるに足りなかったんじゃないか
明智光秀すら天下を取るには信長を殺すことが最優先
信忠ぐらい打ちもらしても、
織田家家臣は信長の死と同時に離反すると
わかっていたんじゃないか
>>100 光秀は別としても他の軍団長連中は互いに疑心暗鬼に陥っていて、明白に離反の態度を取るのは難しかったのでは?
もちろん、誰かが口火を切れば雪崩を打って離反したり信忠に忠節を誓ったりする可能性はあるわけだが。
まあだいぶ貫禄は軽くなるし関係が多少違うけど、小山会議での家康と豊臣諸侯の関係みたいなものか。
> 信忠ぐらい打ちもらしても、
> 織田家家臣は信長の死と同時に離反すると
> わかっていたんじゃないか
史実で信忠の遺児を主君として扱った連中が
お前のIFでは信忠から離反するのか(プ
>信忠の遺児を主君として
結局それはお飾り、神輿みたいな扱いだったことに気づけ。
アホか
信忠が信長の後継者兼No.2だったことは、織田家臣の全員がすでに認めてたんじゃないの?
変後死亡してるか健在かによって、ずいぶんとその後の天下は変わってるかと思うけど・・・。
106 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 01:16:38
信忠健在なら家臣の離反は有り得ない。
織田の家督を継承していてなおかつ天下をも継がせると信長が宣言した程の男だぞ。
>>105 同意。
さらに義母というか、嫡母である濃姫も健在だし
信長亡き後は女主である濃姫が一族の中でのナンバー1だし
信忠さえ生きていれば織田家は当面安泰だったと思われる。
少なくとも内輪から崩れていくような事はなかったはず。
濃姫を過大評価しすぎだよ。
濃姫がそれほど力を持っていたとは考えにくい。
そもそもその晩年や没年等、定かな資料は残っていないほど。
濃姫生存説をとるなら、安土殿として信雄に庇護されていた女性を指すのだと思うが、もしそうだとしたら
変後の信雄自身の権力がもっと大きくなって当然だろう。
しかし、実際は信雄は清洲会議で後継者候補にも上らなかった。
庇護されていたというのはどうだろう?
信雄が織田家主流になったので、知行を出すのは信雄の義務。
濃姫自身は、輿入れ時の一代限りの化粧料と、信長が津田宗及に管理させた
御料所があるため、信雄に知行を出してもらおうがどうしようが、関係ない。
反対に信雄が出していなければ、信雄自身が非難されるだけだ。
最近では、濃姫は安土殿ではなく、御局と記載されている女性の可能性も示唆されているな。
>>110 >最近では、濃姫は安土殿ではなく、御局と記載されている女性の可能性も示唆されているな。
2chの濃姫スレだけでの話じゃん
112 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 17:52:31
ここの2ちゃんの濃姫スレから出張してきた連中は、
濃姫の命令なら家臣は絶対きくとでもと思ってんだな。
濃姫さまさま。
実際は、本当の正室腹の嫡子でも、
家臣が離反した例はいくらでもあるのにな・・・
まあ濃姫の話はどうでもいいよな。
生母が誰だろうが、それが生きてようが死んでようが、
信長が信忠への後継戦略を確立して
半ば以上終わらせていた事実は変わらんし。
114 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 18:10:20
信長が信忠に家督を譲っていたのは事実なので、
信長の死後、家督相続争いが起こらなかっただろうという点では賛成するよ。
それと、信忠が父信長の意思を継ぎ、
天下統一ができたかどうかというのは全くの別問題なので。
信忠自身の能力の問題。
能力がなければ、家臣に捨てられるだけ。
あの時点ではもう
当主個人の能力でどうこうなる段階は終わってるけどね
織田政権は、のちの徳川政権のような強固なものではなかったよ。
秀吉が、明智光秀を7日で討ったのも、天下を取れると判断しての
独自の判断。
信忠が生きていれば戦地を離れなかっただろうし、
信忠が家臣団を早急に組織して自ら光秀を討てればよいが、
それにとまどったり、明智政権を引き伸ばすようなことでもしていたら、
たとえ勝家や秀吉が露骨な態度をとらなくても、
周囲の同盟大名が離反する、家康も自立の動きを見せる。
織田家がすでに天下をとっていた、徳川家光以降の江戸幕府のごとく、
という段階ではなかった。
そりゃあ実際に天下をとった豊臣政権だって
「のちの徳川政権のような強固なもの」ではありませんでしたが何か?
対偶をとれば「のちの徳川政権のような強固なもの」でなくとも
天下はとれます
信忠が家督相続者になった、ということと、
信忠が天下を取れた、というのは全くの別問題ですが?
逆に、織田家がすでに天下人としての地位にあったというのならば、
信長やその嫡子が死んだところで、織田政権は揺るがない。
「天下をとる」という意味を、取り違えているんじゃないの?
なるほど秀吉が死んだくらいで揺らいだ豊臣政権は
天下を取ってはいなかったとおっしゃりたいわけですな
ご立派な「天下をとる」解釈、感服いたしました
120 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 16:07:49
そもそも「天下」てなに?
日本では、日本国全体の事を指すわけでしょ。
昔から天下を治めていたのは天皇家なわけで、正確には
秀吉も家康も天下を取っていない。
そもそも本能寺の変は織田家内の政変なわけで、織田家以外には
関係の無い話。そして、本能寺で実質的な当主と名目上の当主が
なくなった事で、きちんと定められた家督相続者がいなくなった事により
秀吉が入り込む余地が出来た。
よって信忠が生きている時点で、他者の入り込む余地は初期の段階
ではない。信忠と岐阜の側近たち、信長を討った光秀、地方に散らばっている
格軍団長達。ココからスタートでしょ。
121 :
120:2007/06/21(木) 16:09:06
各だ・・・
122 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 16:43:37
>120
話を戻そうか。
おたくが主張したいのは、信忠が生きていれば、
織田政権は存続した、ということだろう?
だが、実際は、わからなかったということだよ。
信長とその嫡子が死んだくらいで織田政権が揺らいだのは、
織田政権が成立していなかったからだよ。
その点では、家光以降の江戸幕府では、当主やその嫡子が死んだところで
揺るがない、徳川政権は成り立っていたからね。
おたくがいいたいのは、織田政権はすでにできあがっていた、
だから、信忠はまちがいなく天下人になっていた、ということだろう?
それは違うよ。
いいたいのはそれだけ。
父と子が死ぬどころか秀頼は生きていたというのに
秀吉が死んだくらいで豊臣政権が揺らいだのは
豊臣政権が成立していなかったとおっしゃるわけですな
まことに斬新な「政権」解釈、ほとほと感服いたしました
「織豊政権」なんて学者用語がありますが
織田も豊臣も政権は成立していなかったんだから
学者というのは本当に馬鹿でございますなあ
「IFのことはわかりません」とだけ言っときゃ恥もかかずに済むのにね
つまんない話してんのね
織田政権が揺らいだのは政権を運用する連中も悉く本能寺と二条城で死んだからだよ。
信長・官僚・各軍団の順で指令系統が成り立っていたんだから。
よく言われてるように、秀吉や勝家は子会社ないし支部の社長ですから。
彼らは直接軍事力は持っているけど、政権運用や企画を出来る人材ではなく、言われたことをやる立場。
本能寺の変を徳川に当てはめてみようか?
本多忠勝による謀反が起きて、徳川家康・秀忠、本多正信・正純、土井利勝、大久保長安、安藤直次、内藤清成、板倉勝重……等々
が纏めて死んだ。そういう状況なんだよ。その後、忠勝は井伊や酒井ら譜代に討たれたと。
この状況でその後の政権が揺らがない方がおかしいだろ。脳味噌と神経が全部イカれて手足しか残ってない状態だ
127 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2007/06/22(金) 10:58:42
その死んだ官僚というのは誰なんですか。
128 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 11:03:30
信忠は生きていても、
反旗を翻した家康に殺されたんだよ。
そして、家康が従来どおり、江戸幕府を開く。
よって、終了。
129 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 11:38:08
>124
ここのスレはそもそも、その「イフ」を議論するためのものでございます。
スレタイ読んだのか?
嫌なら、他行けば?
京も押さえずに信忠を弑したりしたら
逆賊として織田残党やその他諸大名に
総力で追討されて敗死確定ですが?
>>129 どうしてそういう反応ができるのかさっぱりわからん
もう一度文脈読みなさいな
・・・ああなるほど、
>>129は
>>124が「IFだからわからない、というのが正解だ(俺もそう言う)」
と言ってると思っちゃったのか
それじゃ全然読めてないぞ
133 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 12:09:22
まあ、織田信長は、
征夷大将軍にはならなかったし、
官職も右大臣で中途半端、何がやりたかったのかわからない。
息子にどういう待遇を与えようとしていたのかも謎。
信忠は将軍や関白になれたと考えるのか?
それとも、その他大勢の戦国大名の一人だったのか
>>133 なんかの本で、朝廷からの関白または将軍推任の知らせに対し、
「将軍職は嫡子信忠にやってくれ、わたしにはいらない。」
という趣旨の回答をしたようなことを書いてたような気がする。
結局は、信長は朝廷の権威を借りない、正に 「日本国王」 になろうとしてたんじゃないか?
公人としての官職と織田家家督は信忠に取らせて
自分は私人として(つまり朝廷の下につかずに)
力を振るう、という戦略を一時期信長が取ってたのは
諸学説の一致を見るところだな。
説が分かれるのは三職推任の背後の意図だけど、
朝廷の権威を借りたくなくとも結局は対外事情がそれを許さず
正親町帝との神経戦を経て疲れ果てた挙句の
信長の挫折としての三職推任
という説が一番もっともらしいと俺は思う。
あくまで公の官職は信忠が受け、自分は私人、
という姿勢の再確認のための三職推任保留
という説はちょっと無理がある気がするし。
まあ信忠が三職を引き継ぐことは公武両側にとって
確定路線だったわけだけど。
136 :
大納言:2007/06/22(金) 15:16:49
>>127 【主な戦死者】
織田信忠・織田信勝・織田長利・赤座永兼・猪子高就
下石頼綱・斉藤信五・坂井越中・菅屋長頼・野々村正成
塙安弘・福富秀勝・村井貞勝・森成利(乱丸)・毛利良勝
137 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 15:25:24
>134
それならなんで織田は「平氏」なんだ?
征夷大将軍なら「源氏」を名乗るはずだし、
関白ならば「藤原」。
というか、武家が関白として政権を掌握するのは秀吉までなかったわけで、
信長にそんな構想があったのか?
>>127 俺は126じゃないけど、
織田政権に徳川における本多父子や羽柴における秀長の様な家臣はいなかったが、
奉行等を務めた有名どころで、菅谷長頼、村井貞勝父子、野々村正成などかな。
本能寺(二条城)で死んでいないのでは、長谷川秀一、祖父江秀重、松井夕閑、それと堀秀政も入るか。
信忠付だと、団忠正、前田玄以(三法師を連れて逃れる)なんかかな。
おいおい
140 :
139:2007/06/22(金) 15:31:57
ごめん
139は137に対する「おいおい」
>>137 正直なところ、それまで、将軍職は源氏長者というのが伝統ではあったけど・・・。
信長がそれまでやってきたことを考えるに、平氏長者としての征夷大将軍も有り得たんじゃないの?
もともと将軍職は武家の棟梁、源氏も平氏も相並ぶ武家の名門であったから・・・。
事実、信長には朝廷から三職(関白、太政大臣、征夷大将軍)のいずれかへ推任状がきてたわけだし・・・。
結局は135さんの言うように「私人」として権力を振るおうとしてたけど、最後の上洛はその推任に対するなんらか
の回答をするつもりだったという説もあるよね。
142 :
大納言:2007/06/22(金) 16:12:27
>>137 私が思うに「旧体制である幕府の否定」というメッセージが隠されていたのでは?
『信長にそんな構想があったのか? 』との発言について私の意見は、逆に秀吉の
方が信長の構想を踏襲し又は、アレンジをたのではないかと思います。
> 逆に秀吉の
> 方が信長の構想を踏襲し又は、アレンジをたのではないかと思います。
そういうこと言う研究者はけっこういるよ。
まあ証拠が豊富とは言えないし、
モロに三職推任問題と絡んできちゃうけどね。
一つ確たる例を挙げるとすれば、
大坂城が信長の構想の踏襲なのはほぼ確実、
とかかな。
144 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 16:37:44
むしろ、信長は征夷大将軍ではなく
平清盛の大相国、太政大臣構想であったのではないかと思うのだが
すでに五摂家はあったし、関白を目指したのでもないと思う
隠居してもなお、第一線にあった清盛、
信長にとてもかぶるのだが。
実際、長男に家督を譲った後も、中国出兵に向かおうとしていた。
家康は引退後の関が原に、形だけでも将軍秀忠を行かせて
自分は一切出陣しなかったからな
145 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 16:42:15
| | | | | | | | | | || | |
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| | | J | | | し || | |
| レ | | レ| || J |
J し | | || J
| し J|
J レ
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_ ム::::(l|l゚Д゚)| …うわぁ
ヽツ.(ノ::::::::::.:::::.:..|)
ヾソ:::::::::::::::::.:ノ
` ー U'"U'
146 :
大納言:2007/06/22(金) 16:50:48
もっと話を飛躍させるなら、天皇家乗っ取りを画策していたのかもしれない。
事実、自分の娘を嫁がせて“織田の血”を天皇家に入れようとしてますし。
外戚政策でのっとりはないだろう
秀吉は養女、秀忠は娘を天皇家にいれたが
のっとりはしない
天皇家に娘をいれてものっとるのは無理
>>137 つ[坂上田村麻呂]
つ[摂家将軍]
つ[宮家将軍]
我ら坂上・藤原・天皇家ですが何か?
お決まりの展開になってきた
150 :
大納言:2007/06/22(金) 17:37:37
皇室の生まれでない者が治天になるという
先例が既にあったからね
>>141 >それまで、将軍職は源氏長者というのが伝統ではあったけど・・・。
源氏の氏長者になった征夷大将軍は、足利義満が最初(それまでは嵯峨源氏→村上源氏)。
足利氏が衰退した信長の頃は、村上源氏が氏の長者。
徳川が政権を奪って以降は、徳川家。
どうも返答ありがとうです。村井さんはともかくその官僚という人々が京都に
集結していたとしたらやっぱり何か重大なことが起こる筈だったんでしょうね。
多分信忠の将軍宣下か、秀吉のような大陸統治プランの披露。
官僚は官に僚するから官僚じゃないか
>>153 どこかの国のように武班と文班が分かれているわけではないので、
菅谷や野々村などは馬廻で、軍にも従軍する。
これが検地や普請などで奉行を勤め、訴訟などでも信長(信忠)への取り次ぎ役を勤める。
>>136氏が上げてくれたので言えば、
赤座永兼、猪子高就、毛利良勝、斉藤信(新)五、坂井越中、福富秀勝らが馬廻衆。
これらは、信長の赤/黒幌衆の出身の者もあって、この時点(中国遠征)では信忠に付いていたらしい。
話は変わるが森乱は信長が長寿であった場合、後の柳澤吉保みたいになったのかな。
>>155 ありえそうだね。
信長は酒もあまり飲まなかったみたいだし、体も鍛えていたから変が無ければけっこう長生きしそうだが・・・。
ただ、あまりにキレやすかったので脳溢血でポックリってこともあったかもな。
光秀も裏切らなけりゃ九州探題くらいの役職にはありつけてただろに・・・、もったいない。
157 :
大納言:2007/06/23(土) 01:24:30
近所のブックオフにいったら、信忠主役の数少ない作品の一つ
誰それ?な作家の、しかも松姫萌えの信忠が炸裂する、
「さくらの城」が、三冊も並んでいて笑えた。
>>155 スレの主旨に戻りますけど、その人達が死ぬことによって信忠新政権にどれくらい
の損失があったと思いますか?秀吉による旧織田家統合の手間を考えれば信忠さえ生
きていれば国内統一はそれほど苦では無いと思います。
ただ、親父見捨てて逃げ出したら世間体悪いかも。
赤/黒幌衆は秘書兼親衛隊みたいなもんで
要するに将来の行政官・司令官候補。利家や成政、秀隆とかはここ出身。
彼らが死ぬことで人材の空洞化現象が起こるだろうな。歳食った後が短い武将と、若すぎる武将しか居ないという。
そして何より、政権を運用する駒が足りない。それこそ
>>138で死んでない連中にあげられたメンツ程度。
親父見捨てようがキッチリかたきうちすれば問題ない
信忠は既に織田家の家督を相続しているので当然、後継者争いは発生せず、
秀吉のような時間はかからなかったと思われます。
仮に人材の空洞化が起こったとしても光秀討伐の論功行賞で空きポストの
穴埋めはできるはずです。
では、新信忠体制での配置は・・・・
信忠が京を脱出したとしても、秀吉と毛利の講和、中国大返しはあったと思われる。
楽観的推測になるが、山崎の合戦は秀吉が更に信忠を総大将に戴いてなされる可能性もある。
もちろん結果は史実どおり光秀軍が敗北するだろうし、以後、毛利は織田陣営として組み込まれる可能性が
高いんじゃないかな?
>>160 一応、信忠は家督を継いでいるし、どの時点で逃げたかにもよるかも。
本能寺での変を聞いて、妙覚寺からそのまま遁走すれば、衆望を失った可能性が高いと思う。
史実どおり、妙覚寺から本能寺の救援に向かい、その途中で村井貞勝に会い、本能寺が落ちたと知らされてから逃げた場合、
若しくは二条城に入り親王一家を移してから、二条城で落ちるよう進言された時に逃げた場合では、
父を見捨てたとはならないかと。
ただ、信忠が落ちたとなれば、三法師や長益が落ち延びたのと違って、
明智勢は全力で追跡してくるだろうし、その場合は逃げる決断が遅れる程、捕捉される可能性が高くなる。
>>161 人材の空洞化ってポスト埋めれば回収できるもんじゃないだろう……
若い衆を抜擢して入れたところで、経験が少なくてポカやる可能性が高い
丁度、三国志の夷陵の後で若手の人材が馬謖しか居ない状況だと考えよ
そりゃ三国志人口は日本じゃ結構多いから、それに例えるのは楽でよろしくてね
靖難の変とかよりは判りやすいでしょ
信忠が明智討伐に京都まで戻ってくるのにどれぐらいかかるかな。
京ー岐阜間の往復距離が秀吉の大返しとほぼ同じだから迅速に対応
すれば秀吉を待たずに討ち取れる可能性も弱冠はあるかも。
>>166 三戦板に帰ってください
ここは日本史板です
>>167 少数で逃げた信忠を、明智はそれが分かった時点で追うだろうから、
信忠が追討軍を組織する暇がないと思う。
二条城(妙覚寺)と光秀のある本能寺の位置、逃げる距離の問題から、
西(南)に逃れるより、東に逃れる方(瀬田まで行けば山岡景隆が保護?)が信忠の生存率も上がるだろうが、
その場合、近江や美濃で光秀に互する兵力を集めるより、光秀の追撃のほうが速いと思う。
楠木正成の千早城じゃないが、どこか(岐阜?日野?)に籠城して援軍を待つという形になるんじゃない?
岐阜まで戻れればいいが、近江の城に籠城となると集められる兵力は多くは無いだろうから、
キツイ籠城戦になるかと(近衛邸の屋根から攻撃される二条城籠城よりはるかにマシだろうが)。
幸運が重なって西に逃げて丹羽や信孝と合流した場合でも、その与力が散ってしまった後であれば、
会戦での決着は厳しいと考え、結局は摂津、河内、和泉のどこかの城で籠城しての援軍待ちとなるかも。
明智の立場で考えると、信忠にどこかの城に籠城された時点で、
ほぼ滅亡は避けられない詰みの状態にはなると思うのだが。
信忠一人生きてもしょうがないから
最低限、政治人材として村井親子、軍人として斉藤、対武田懐柔用に勝長は確保して連れて帰りたいな
河尻は……徳川に謀殺された方が後々、口実が出来てよいかも知れん
> その場合、近江や美濃で光秀に互する兵力を集めるより、光秀の追撃のほうが速いと思う。
それはどうだろうか。
信忠が健在なら光秀の近江調略は史実ほど順調にいかない。
安土城が史実のように無主になったわけでないなら
城詰の旗本達は史実のように退去したりはしない。
光秀軍の安土到着は史実でさえ変から3日後の5日なので、
信忠が安土に入れば美濃や伊勢からの後詰は間違いなく間に合う。
信忠自身が岐阜まで戻る必要はたぶんない。
従って光秀は信忠が安土に入る前に補足する必要があるが、
史実でも瀬田の山岡景隆に1日近く足止めされているので、
信忠が生き延びた場合それ以上早く瀬田川を越えられるとは思えない。
(信忠を全力で追うから早くなる、ということはない。史実でも
安土行は光秀の最優先課題で、既に「全力」だった。)
というわけで信忠が瀬田か大津まで辿り着けば光秀は終わりだろう。
あるいは粟田口か今道口までに補足できねばその時点で既にアウトか。
(史実で光秀が何故これらの口を押さえていなかったのかは
全く理解不能だけど今の話では関係ないよね。)
↓のおっしゃる通りだろう。
> 明智の立場で考えると、信忠にどこかの城に籠城された時点で、
> ほぼ滅亡は避けられない詰みの状態にはなると思うのだが。
>>171 >史実で光秀が何故これらの口を押さえていなかった
明智軍が京の口を押さえていなかったというのは本当ですか?
ソースがあれば、題名だけでも、是非。
信忠も、明智ならば遺漏はあるまいと思って逃走をあきらめたであろうのに、、、
なんか、悔しいです。
>>169 >二条城
二条城って何だよ。
も少し勉強してね。
>>171 理解不能というのは黒幕など存在せず
事前に手を打っていなかった、すなわち
明智が謀反を決断したのは上洛した信長の警護が
手薄だと分かって急に決めたからと考えれば納得がいく。
「これらの口を押さえていなかった」というのが
信忠の逃亡防止のために洛中のあちこちに手を
廻してなどいなかったという意味なら、
「当代記」に次のように書かれている。
「この儀に定まる、惟任深く隠密しける間、路次へその
擬成らざる間、安土へお移りは別状あるべからず所云々」
つまり光秀は謀反の意思を深く秘めていたために、とても
そのような手配りをする時間はなかったというのである。
どうでもいいけど
口って洛中に入るんかね?
少々スレ違いになるが「本城惣右衛門覚書」には、
信長の小姓が1人出てくるのがやっとで、
「信長公記」にあるような明智軍と信長、家臣団の
大立ち回りがあったとはまったく書かれていない。
これはどう考えるべきか。
惣右衛門のいないところで戦闘が行われていたのか、
「信長公記」の記すような情景はまったくなく、
信長はすぐに自刃してしまったのか。
>>177 惣右衛門は、自分が見たことしか書いてないってことだろう。
当然、惣右衛門が見てないところで激しい戦闘が行われていただろう。
惣右衛門が描いたのがすべてだったら、信長は脱出を試みちゃうかも(w
本城惣右衛門が侵入したのは、本能寺の裏口だったの?
180 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 22:53:36
うP
の豚ダサい今日
182 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 01:10:11
>>177 大田牛一は華々しく戦って死んだことにしたいんだよ。
実際は違っていてもね。
本城惣右衛門が侵入したのは、隣の家だったんだよ
>>182 確かにそういう見方もあるようだ。
「是非に及ばず」までは本当としても、
その後信長自身が弓や槍を持って戦ったというのは
牛一の創作ではないかと。
明智軍が鉄砲まで繰り出してる以上、戦闘の前面に
出れば、名もなき雑兵に討たれる可能性もある。
信忠が「逃げる途中で雑兵に討たれたら無念」だからと、
逃亡を諦めたことから考えても、信長が自ら戦うのは
不自然かも知れない。
それから大軍を相手にひとわたり戦った後、奥の部屋に
入って切腹、そして遺骸を隠す、などという余裕が
あったろうか。
はっきりしてるのは信長の遺体は燃え落ちた建物に
押し潰されたのか、発見されなかったということだが。
死に際の描写の粉飾というのは良くあることだね。
186 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 01:32:25
>>184 「是非に及ばず」も怪しいもんだな。
ただ虫けらのように殺されたんだろう。
信忠が当初の予定通り、家康、梅雪を引き連れて堺見物に行っていれば、
信長だけ倒してもしょうがないので、本能寺の変は起きなかったけどね。
>信長だけ倒してもしょうがないので
へー、そういう考え方もあるのか。
自分は信忠好きだけど、影響力のある人物には思えないな。
いや普通に信長・信忠・家康が纏まっていなかったらクーデターなんておこさんでしょうに
189 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 18:49:37
>自分は信忠好きだけど、影響力のある人物には思えないな。
まだ影響力強大な父親がいたからね。
でも将来性高いから光秀としては生かしておけなかったんでしょ。
190 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:00:40
光秀討ち入りのときは隣の屋敷から提灯がともされたり、
幕府も事前察知しながら見てみぬ振りだったんだよな。
192 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 23:02:34
信忠が京の都を脱出できるような人間なら、それだけでかなり見上げた男。
きっと信長の後継者として、そこそこやれたと思う。
信長・秀吉・家康は、この時代にも稀な見識を持っている。
この3人だけではないと思うが、大多数の当時までの武将とは違う。
それは「諦めない」こと。
武士って、すぐに「もはやこれまで」「命を惜しむな、名こそ惜しめ」だ。
そんなことでは、とてもではないが、天下を平定できない。
誰だって負ける事があるが、負けたらさっさとその場から逃げて、再起を図ることが最も重要。
それができる人間なら、天下を平定できる機会が巡ってくる。
まあ、機会をモノにできるかどうかは、また次の課題としてあるのだが、逃げられなかったら、「もはやこれまで」
193 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 23:23:55
あきらめないちゅうか、はやる気を抑えて、まける勝負をいかに回避するかだな
つーか、長益が余計な事言わなきゃ済んだ話
どうせ逃げるなら甥もつれて逃げろよ。
信忠と一緒に逃げると自分も危険だから、自分だけで逃げたかったんじゃないの。
長益は信長の弟、信忠連れてなくても充分危険でしょ。
>>192 待てよ、信長も本能寺で「諦めて」いるんじゃないか。
ある研究者の書いたものの中に、かつて将軍義昭が
京にいたところに三好三人衆や斉藤龍興らに襲撃されたのを
例に挙げ、この時の信長も味方の来援まで時を稼げれば
なんとかなると考えたのではないかとしているものがある。
それからすれば、敵の規模などにもよるが信長も「諦めた」
ことになるが。
信長は間違いなく諦めたろ
そんで自分の美学の為に死んでいった
普通のコト
199 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 20:19:47
仮に信忠が脱出して、どこへ逃げる?柴田のいる北国か、それとも近隣の信雄か信孝の
所か。
>>199 少なくとも京を脱出すればどうにでもなった・・・っていうのが
現在の見解らしいね。
まぁ賊に襲われるというものは却下で。
信雄のところなんかより自分のところのほうが近いだろ
202 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 00:53:17
そこらへんにいる誰にでも命乞いをしたら大丈夫だろ
203 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 00:58:23
信長の場合、130対13000。
これでは超能力でもない限り、逃げられない。
火をかけられたから、隠れていても凌げないしね。
凄い発想をするかと思えば、とんでもないマヌケをやったりする。
信忠が逃げるなら、伏見から淀川を船で南下するルートだろう。
丹羽長秀と信孝に合流。こうなっていたら、家康はどうしただろうね。
204 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 01:09:19
三年は、喪を秘せ・・・
205 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 02:34:54
>>203 兼見卿記や言経卿記によれば本能寺は100人前後だったようだ。
>>187 すでに天正3年に織田家の家督は信忠になっており、尾張、美濃を譲られていた。
まあ、会長信長、社長信忠ってとこだろう。誰もが認める後継者だ。
松永久秀討伐戦では、明智光秀、羽柴秀吉らを率いて総大将となり、
信貴山城を落とした功績で、従三位左近衛権中将になっている。
対毛利の上月城救援でも総大将となり明智光秀、丹羽長秀、
滝川一益らを率いて参陣、羽柴秀吉も指揮下に入っている。
武田征伐でも総大将となり、家康には駿河を攻撃させ、自身は美濃・尾張・伊勢
の5万の軍を率いて侵攻、武田を過大評価していた信長は、
明智光秀、細川忠興、筒井順慶、丹羽長秀、堀秀政、長谷川秀一、
蒲生賦秀らを直率して援護するはずだったが、その必要も無く武田を壊滅させた。
寄騎の河尻秀隆が甲斐と信濃国諏訪郡、同じく寄騎武将の森長可が
信濃国高井・水内・更科・埴科郡、毛利長秀が信濃国伊那郡を与えられ、
信忠は尾張・美濃・信濃・甲斐を支配することになった。
また、おって甲府にやってきた信長はその戦功を賞して
「天下の儀も御与奪」(天下もまかせる)と表明した(信長公記)。
No1を倒しても、No2を逃がしたら天下は取れないので、
もし、信忠が逃げられる状況なら本能寺の変は起きない。
206 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 08:09:04
信忠は仮に生き残っても、徳川家康に殺されてただろうがなw
誰が家督を継ごうが、織田家は征夷大将軍でも関白でもなく、
周囲の大名に対する圧倒的な為政者として
世襲を貫くにはいたっていなかった
三職推任があった直後だから
信忠が生きていればそのまま
信忠が将軍か関白になるだけ
208 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 16:01:10
20代前半の若い信忠に、
父の遣り残した天下統一ができたかというとねえ〜
信長の家臣の秀吉、勝家は勿論、
同盟者の家康からしても信忠は子供の世代。
役不足と判断されれば、捨てられるだけ。
滝川を使いこなしてるのに役不足もなにも無い。
武田征伐を独力でやったことが信忠にとって家中統制のアドバンテージになることは間違いない
信忠生きてるなら家康が甲州方面に策謀しないから河尻は死なないし(やったらやったで家康征伐の口実
210 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 17:29:41
信忠過大評価のスレだなw
そこまでいうなら、信長は家督を譲った時点で出家でもなんでもして、
中国征討などに自ら出陣すべきではなかった。
長男行かせておけばよろし。
211 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 17:42:42
なんで家督譲ったら出家すんだ?阿保か
212 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 17:48:54
少なくとも、中国征討に出陣するいわれはない。
関が原勝利の総大将を息子の秀忠に譲った家康を見習え。
晩年は駿河に住み、江戸城を明け渡した。
信長も、安土城を息子に明け渡し、影で手を引くのみで
大掛かりな出陣などはやめるべきだった。
信忠は織田家を背負って立てなかった。
信忠が東に軍を進める予定なのに西の毛利征伐の大将にはしないだろ、普通
214 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 02:09:01
>>210 天正5年2月の雑賀攻めが、信長が総大将となって起こした軍事行動の最後で、
天正5年9月に松永征伐に総大将として出陣してからは、播磨攻め、荒木村重討伐、
武田討伐と全て信忠が総大将。軍事は信忠におまかせ状態。
また、右大臣を辞した際に、その辞状で顕職は嫡男信忠に譲与したいと述べている。
(兼見・総見寺文書)
215 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 10:58:42
>213
ほかの息子がいるだろw
親父が出てくることが間違い。
216 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 14:25:10
>>215 織田信雄は伊賀攻めで一度だけ総大将を経験してるが、
父信長や兄信忠に比べると暗愚で、伊賀攻めで最初は大敗を喫し、
信長に譴責状を遅られて叱責され、親子の縁を切るとまで言われている。
信孝は信勝よりは期待されたのか、四国攻めの総大将。(ただ能力は未知数)
使える息子はいないし、ひさびさに自ら出陣しようかってところだろう。
勝ちが決まってる戦だしね>対毛利
>>217 武田攻めもそうだが、戦後処理の仕置きに、現地調査も含めて信長が出張る必要があったの鴨。
219 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 13:40:06
甲斐には快川国師もいたしな。
仕置きや現地調査もだろうが彼を懐柔しようと
自ら乗り出した感じもしなくない。
(火定されて結局失敗だが)
あとはついでに富士山観光をしたかったのかもw
220 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 16:26:08
信長は富士山麓を騎乗で走り回ったらしいからね。
それはあったと思う。
信長の本拠地安土が京に近かったことが、うまく行かなかった原因かな。
頼朝と比較してみれば判りやすいかも。
頼朝は、討伐は終始義経とか範頼に任せ切りで鎌倉を殆ど離れていない。
221 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 16:45:46
>>219 信長は叔母が嫁いでいた犬山浅間神社(浅間大社から勧請)の
復興にかなり協力していたり大宮(現富士宮市)に向かう途中
富士山を眺めながら古今和歌集にある富士山を詠んだ歌を
つぶやいたともいうから富士山への思い入れはかなり
あったんじゃないかな。
芝川の西山本門寺にある信長の首塚話もあることだしね。
223 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 01:49:57
ただ今、大雲院特別公開中。
224 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 14:22:51
のーぶーたーだ〜♪
たわけものが! なぜさっさと逃げない!!
225 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 14:28:25
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
226 :
平山貴士:2007/11/27(火) 00:16:34
織田信忠が生きていたなら秀吉の台頭はなく
信長の遺志を継いで天下人になってたろう
オクタビアヌスや曹ひ(漢字がない)のように
優秀なカリスマの後継者でありながら
初代君主という存在になりそう
227 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 12:25:28
本能寺の変時点で既に織田家の家督を譲られていた信忠。
信長の後継者としてはそん色ない人物だったはず。
本能寺の変から何を逃れていれば、
織田家の天下になったと考える。
おそらく信長横死の一方によって、反乱が起きる可能性が高いが、
それでも鎮圧できる範囲だと思われる。
信雄、信孝も兄信忠には叛意を示すことはないだろうし、
秀吉とも勝家とも関係は悪くなく、家中が信忠でまとまった可能性が高い。
一時的に織田家が混乱しても、あの時点での勢力を考えると、
織田家の混乱に乗じてという大名家もあまり考えにくい。
家康もそこまではやらないと思う。せいぜい信濃甲斐の平定ぐらいか。
敵対しても徳川家自体が一枚岩ではなかったから、
親織田、反織田で家中が分裂する可能性がある。
ただ信濃甲斐の一揆は実際に起こったことだが、
信忠の実質的な領地であったので、その打撃は大きいだろう。
>>227 信忠が生き残れば、甲信の一揆も規模が小さくなる可能性が高いと思う。
229 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 14:31:08
>>227の訂正
本能寺の変時点で既に織田家の家督を譲られていた信忠。
信長の後継者としてはそん色ない人物だったはず。
本能寺の変から難を逃れていれば、
織田家の天下になったと考えられる。
おそらく信長横死の一報によって、反乱が起きる可能性が高いが、
それでも鎮圧できる範囲だと思われる。
信雄、信孝も兄信忠には叛意を示すことはないだろうし、
秀吉とも勝家とも関係は悪くなく、家中が信忠でまとまった可能性が高い。
一時的に織田家が混乱しても、あの時点での勢力を考えると、
織田家の混乱に乗じてという大名家もあまり考えにくい。
家康もそこまではやらないと思う。せいぜい信濃甲斐の平定ぐらいか。
敵対しても徳川家自体が一枚岩ではなかったから、
親織田、反織田で家中が分裂する可能性がある。
ただ信濃甲斐の一揆は実際に起こったことだが、
信忠の実質的な領地であったので、その打撃は大きいだろう。
230 :
日本@名無史さん:2007/11/27(火) 15:13:34
>>228 そこなんだけど、あの一揆は家康が仕組んでいたとすると
かなり厄介な話になるよ。
>>230 ありえますね〜
家康のことだからそれくらいはやりそうです。
信長横死後の家康の強かさが好き。
233 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 11:45:39
信長が死んでいても、
信忠は征夷大将軍になれたのか考えてみるとおもしろい。
本能寺の変がなければ、すぐに征夷大将軍になっていたはずだが。
信忠が生き残ったら、先延ばしにされたりはなかったのだろうか。
バレた時のリスク考えれば一揆を煽ることはしないと思う
信忠が生きてたら秀吉死後の家康みたいにはならんでしょ。
ず〜っと律儀者で通すよ。
>>226 優秀なカリスマの下でキッチリ軍団長も代理政治もやってて
本能寺なかったら東国総司令官なんだから
耶律阿保機と徳宗みたいな感じになると思われ
237 :
平山貴士:2007/12/02(日) 01:31:37
信長をカエサルや曹操に例えたまでよ
238 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 02:15:05
っていうかこれそのまんまのif小説あったな。
10年以上前にちょこっとだけ読んだわ。
死ぬほどつまらんかった
信長とカエサル・曹操ってよく例えられるけど似てないよな〜
240 :
平山貴士:2007/12/03(月) 01:49:17
似てないか。そうか。
241 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 08:56:56
>>235 家康は自分よりも年上で才知のある信長には
律儀の一面で仕え続けただけで。
家康だってかつての主家今川家を裏切っているし、
信長亡き後、天下を「乗っ取れる」と確信すれば、
いつでも牙をむくよ。
問題は信忠相手だと
乗っ取れると確信する機会がないってことだね
243 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 18:12:44
まあ、無理だね。
規定方針どおりに関東は滝川が関東管領になり領有。
甲斐、信濃は信忠の所領で徳川が伸びる余地は無く、徳川は駿遠三で70万石止まり。
滝川、丹羽、柴田、羽柴らより遥かに下位レベルの武将で政権内部にも入れない。
どっちみち無理だよ。
信忠が生きてたら。
猿吉も爆走しないだろうし。
245 :
平山貴士:2007/12/07(金) 04:22:26
信雄のバカが安土城本丸爆破する事もなかったろう
数々の宗教芸術の集大成
安土城天主
実に惜しい
246 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 12:26:05
247 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 20:44:00
∧_∧
=≡( ・ω・)、 ∧_∧ ,
と と ))):;)ω・).・∵ ;
=≡</</ ⊂ O)
( ヽ
∪ ̄\ )
なんだかんだ言ってもあそこで死んでしまった以上、信忠の命運はあそこで尽きてるしそれまでの人物であったとしか言い様がない。
もちろんそれは信長も光秀も同じ事。
ただ信忠の場合は変が起きたときにすぐ逃げてれば逃げられたからなあ
信長が金ヶ崎で将兵放り出してさっさと逃げたのと比べると
勝負勘が鈍い、親父や親王を見捨てて逃げたなんて言われたくなかったのか
まあそれも命運の内か。
難しいところだな。
有楽は逃げ帰ってボロクソ言われたらしいし・・・。
逃げ帰ったら信忠も同じように陰口叩かれないとも限らん。
陰口で済めばいいが、下手したら後継者失格だなどと言い出す輩もいるかも・・・。
天下狙う家臣の野望が交錯して、それこそ信孝あたりを担いで織田家分裂もあるかもしれん。
とすると、賤ヶ岳の戦いは信忠、勝家軍VS信孝、秀吉軍(明智討伐実績あり)なんて構図にもなってたかもしれない。
>>250 織田家も信忠も、結局信長あってのもの。
信忠自身も信忠側近もそれがわかっていたから脱出して再起を図る事をしなかった。
信忠を秀吉や家康らと同列に考えるのは贔屓の引き倒し。
彼自身にはそこまでの力は無い。
信孝、信雄より優れていると言うよりはマシと言う程度。
252 :
平山貴士:2007/12/28(金) 01:14:40
秀吉は信忠に逆らえるかな?
織田家を敵にまわして天下取れるだろうか?
秀吉は織田家の宿老に徹する以外ないと思うが
253 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 01:35:34
というか信忠政権下では宿老になれたかも怪しいな…。
宿老は柴田勝家か丹波長秀だろ。
信長を評価する人は信長個人を評価してるのであって信長抜きの織田家の実力は?
史実も信長の死によって織田家の崩壊がすすんでる。
武田家の例を見ても信忠よりよほど実績をあげ実力が上と思われる勝頼がああなってしまう所みると、信忠が生きていたとしてもかなり疑問だろう。
>>250 信忠が逃げ延びてたら秀吉軍(明智討伐実績あり)にはならないと思われ。
仮に脱出できたとしてすぐ追手がかかるけど信忠にそれがはねのけられるかな?
逃げかけたは良いが史実より醜態さらして殺されるのがオチな気がする。
さらにほうほうの体で逃げおおせても、大返しで殺到してくる秀吉より先に光秀討伐を果たせるか?
仮に秀吉陣営に逃げ込めてもコッソリ始末されたりして。
家康でも同様。
本当に信長と言う重石無しに信忠が織田家を纏めていける?
信長の方針受け継ごうとしたら命幾つあっても足りないし、仮にあとを継げても体のいい操り人形じゃないかな。
>>255 信長&信忠の死
後継者が幼児の三法師じゃねぇ。
なんで信忠に夢見てる人がいるか疑問。
信忠は信忠であって決して信長ではない。
信長の政策や夢を実践できるわけでもない。
信長も実践出来なかったわけだが
つまり織田家の役割は本能寺で終わったでFAですね。
信忠が生き残っても意味が無い、と言う事で。
ここでは信忠個人が有能か否かは、あまり問題にしていないような。
個人の有能無能の判断って、基本的に小説や映画やドラマやゲームの範疇のものでしょ。
本能寺があって、既に織田家の家督を相続している者が生き延びた場合の、
織田政権がどうなったかのif。
>>250 京都から落ちても高確率で死ぬとは思うが(それなりの兵を引き連れて逃げれば惟任軍に捕捉される率up、少数で逃げれば落ち武者狩り)、
山岡や蒲生と合流、日野城あたりに籠城、千早城じゃないが援軍が来るまで持ちこたえていれば、
織田家家督としての地位は失わないだろうとは思う。
あとは、織田家で信長程の専制権を持ちえたか否かだろうけど、ここはそれこそ信忠の能力次第。
秀吉が主導して明智を討ったのならば、史実の清洲会議じゃないが、
信忠の能力とは関係なく、秀吉を始めとした宿老の立場が重くなるだろうし。
落ち武者狩りは本能寺の変後実際にはあったんだろうか・・・。
大規模野戦の後などは周囲の土民や賞金、武具目当てのそういう輩が横行しそうだけど、本能寺の変のような
小規模奇襲クーデター後では、探索の手は光秀配下の将兵に限定されるような気もするが・・・。
さらに明智軍は京の治安維持という大事な仕事もこなさねばならない。
信忠に対する追手に部隊を割くのも大規模なものとはなりにくいのでは・・・。
俺は信忠が京さえ脱出すれば案外楽に本拠の岐阜まで逃げおおせたとおもうのだが・・・。
ただし、岐阜方面への脱出では光秀討伐軍編成に手間取り、信長の仇討ちの武勲は秀吉にもっていかれてた
可能性が高い。
となると、播磨方面へ脱出して秀吉の大返し軍に合流できれば山崎合戦は信忠総大将のもと行なわれてた
だろうが(実際の山崎合戦でも信孝が名目上の総大将だった)、信忠が秀吉の大返しを予想できたはずはなく
普通に考えればやはり岐阜目指しての脱出となった気がする。
>>262>>263 農民は状況をみて落ち武者狩りをしてる、まずは身の安全。
周辺に軍隊が来るのを察し避難していて、合戦後にちりじりなった敗残兵を襲う。
勝利者側から許可を貰うケースも有るし。
だから、本能寺の変ようなクーデター・事後の状況を考えると、時間的にも、
信忠が素早く逃げ出していれば、「落ち武者狩り」には遭うこと無いだろう。
そもそも逃亡するってのに、わざわざ鎧を着けては出ないし…
>>262 それなりの兵を引き連れて逃げれば惟任軍に捕捉される率up
奇襲に遭ってそんな事してたら、普通は愚策だよ。 状況によるが
奇襲やクーデターってのは、大体が時間との勝負だから、万全を期しても、磐石はそうは無い。
事実、変の直後は「明智軍」の及ぶ範囲は広くないし。
だが信忠は、京の周囲及び、周辺の大名は明智に抑えられている可能性が高いと考えたっぽいがな。
>>250 有楽が逃げ帰ってボロクソ言われたのは、次期天下人信忠を見殺しにして逃げたからであって単に逃げ帰ったのが理由では
ないような。
これが信長なら、有楽を捨石にしてでも脱出しただろう。親父を拉致者ともども射殺した東北の片盲よりは余程マシだ。
会社で言えば、社長と次期社長が一度に事故死したようなもの。本来なら両者が同時に京に滞在することも避けるべきだった。
>>265 信忠は覚悟を知っていたと言うより、身の程を知っていたのかも。
光秀クラスの武将と比べた自分自身の実力、信長あっての自分と織田家……
少なくとも脱出さえすればと楽観視するほどお気楽で無能では無かった。
本能寺さえ最初は少人数だったようだし、時間が過ぎればますます不利になる・・・・ような。
結果論かね
脱出さえすれば秀吉家康も逆らえない、織田政権が続くと主張してる方が、
史実の脱出しなかった信忠の行動を批判してると言う点で信忠自身を貶めてるんだろうね。
こういうある人物が生きていればイフは、ともすればその人物にとって都合の良い事ばかりを積み重ねる自慰行為になりがち。
不利な部分も十分考慮しなければなんの説得力も無い。
信忠の能力を云々してる阿呆の自慰に
なにか説得力があるとでも?
>>270 もう少し理性的に考えてみましょう。
脱出して云々と言う仮定なんですから少なからず本人の資質が関係してくるのは当然でしょう。
個人の資質抜きに考えるのは逆にかなり大変です。
個人の資質に関係しない変動性の少ない事象のみに想定を留める等の配慮が必要になってきますし。
そうなると時間や範囲の小さい想定しかできません。
ここで語るような面白い壮大な話にはならないと思いますよ。
>>269 逆らうことは可能だと思うんだよ。そもそも下克上の世の中なんだから。
ただし、それと平行して建前ってものも必要になるが、史実の秀吉以上に大義名分をこしらえることが難しくなるわな。
三法師みたいに判断力のない幼児でもないし、秀頼みたいに政治的には他力の影響だけで動く存在でもない。
言ってみればまだ「織田コンツュエルンの総帥」ではないものの、自前の部下を擁する「織田株式会社の現社長」ではある
既に一人前の人物を叩き潰すだけの大義名分をどうひねり出すかだよ。
そうしないと、同格の存在である他の(通称)方面軍司令官を抱きこめない。抱き込めなければ、彼らは信忠についてしまう
だろうから彼らも含めて滅ぼすか、自分が滅ぶしかない。
これは逆らうのが光秀だろうが秀吉だろうが勝家だろうが家康だろうが条件としてはほぼ同じだろう。
逆に、それをクリアする方法さえ見つかれば、信忠が脱出していようが恐れることはない。
ただ、それは何だ?
織田家は天下とったわけではないし、相当恨み買ってるよね。
信長が死んで喜んだ人間は多いし、信忠が死ぬ事で織田家崩壊を加速させられるならそれを喜ぶ人間はそれこそ無数だろう。
脱出してもどっかで殺される、と言うのが一番あり得そうだけどなぁ。
274 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 17:25:00
信忠が生き残って安土に戻れば、信長の正室だった濃姫もいることだし
権力はそこまで四散しなかったと思う。
>>273 既にめほしい強豪は潰してるし
残りの有象無象は様子見するか安心して内ゲバ再開するかだろ
>>275 一番内ゲバしそうなのはむしろ織田家中ジャマイカ?
実力主義で将軍家も追放しちゃう信長が抜擢した連中なんだから、信長無き織田家に対して色々画策するのは普通にありそうだと思う。
その過程で信忠を利用する事も考えられるし、信忠が単なる操り人形となるか消されるかはたまた主導権握れるかは本人次第でしょう。
信忠周りはすでに美濃衆でガッチリ固められてる訳で
信忠生き残ったIFで一番最悪の状態で織田軍団が分解でしも
信忠の下の直属の岐阜城を中心とした大大名としての軍事力は健在してると考えるべき
>>277 濃尾両国を抑えれば、他の軍団に与力として入っている武将の親類も多数配下にいるだろうから調略しやすかろう。
>>263 信忠が京から逃げるとすれば、自分の本拠地の岐阜に逃げるのが順当だろうね。
反撃するための戦力も結集しやすいだろうし。
ただ、当然明智側もそれを予想するだろうし、光秀の勢力圏が京と岐阜の間に
あるのだから、途中で捕まってしまう確率の方が高いんじゃないだろうか。
>>279 それはわからんな。どっちの可能性も大差ない。
家康のように逃げ切った例もあるし、穴山のように逃げ切れなかった例もあるから。
信長も信忠もすぐ死んでくれて良かったね。
信長が生きてたらご先祖さまが殺されてた人も少なくないはずだからね。
信忠は切るべき所で腹を切った。
武士として見事な最後である。
その覚悟にイチャモンつける方が不粋。
スレタイ自体が矛盾してる訳か。
IFってたいていどっか破綻・矛盾してたり都合の良い想定だから仕方ないよ。
我々は信長も信忠も本能寺で死んだ歴史に生きてるのだ。
彼らが生きていたら我々は今ここに存在してない可能性が高い。
彼らが殺された事をありがたく思いこそすれ、悔やむ必要も惜しむ気持ちも無くて良い。
本能寺の変は秀吉の謀略だったんだよ。
信長から折檻を受けいていたのは光秀はなく秀吉。
毛利攻めにおいて秀吉が信長に援軍を要請したときには実は既に和議を結んでいた。
信長はそれを見抜いていて、光秀に出雲と石見をやることを前提に光秀を援軍に出した。
石見をやるということは石見銀山をやるということであり、光秀を中国管領にするということであり、
毛利攻めの軍功を秀吉よりも光秀を評価していたということであり、
秀吉はそれを知って激怒したわけだ。
秀吉は近衛前久を使って光秀をそそのかし信長を討たせた。
秀吉は光秀が信長と朝廷ならば朝廷を選ぶだろうことを知っていたからね。
秀吉は信長に取って代わろうとして本能寺の変を画策したわけだから、
信忠を討つ方向に動いたはずだよ。
良スレ
289 :
日本@名無史さん:2008/04/14(月) 21:35:46
つまんないこと聞くな。清洲会議では羽柴秀吉が織田秋田城介信忠をおんぶして諸侯を引見したであろう
290 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/14(月) 22:27:04
高橋直樹の小説であったな。
傑作だった。
このスレの命題そのものの内容だ。
291 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 15:02:50
保守
294 :
日本@名無史さん:2008/06/01(日) 22:07:34
信忠には正室はいないが、生きていればいずれ正室を迎えたのだろうか?
松姫を娶るということはないだろうが。
そうしたら織田政権下で息子の一人が武田家復興かな。
296 :
日本@名無史さん:2008/06/03(火) 17:45:50
ってゆーか光秀はそこまで計算して京を包囲したんじゃないの?
光秀なら信忠も殺すという計算もしてたと思う。
逃すはずがないね。だからこのたらればは通用しない。
ところが有楽斎は脱出に成功した。
光秀陣営に見つかったが、信忠ではなく叔父(信長から見れば弟)だから逃亡を許してくれた
などと言う話は聞いたことがない。
有楽斎は生かしててもなんの支障にもならないし。
有楽斎が脱出できたように、信忠も脱出できた可能性はそこそこあったってことでしょ。
でも現実の歴史においては100パーセントかゼロでしかない。
可能性と言ってしまえば何でも可能性あるからね。
でもこのスレは可能性はすっとばして脱出したと仮定してのものだから。
まあ、土台が土台なんで砂上の楼閣と言ってしまえばそうなんだけど。
史実ではない事を前提にする以上、信忠にはなんらかのペナルティを与えた方が妥当だと思う。
手足切断、顔や半身大火傷、視覚聴覚等の喪失……
脱出生存というあり得ない状況なんだからハンデ負うのは当然。
303 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 12:19:09
信忠だけでも生き延びてれば織田政権は存続した可能性は高いと思われ
304 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 13:18:16
当主は信忠だったしな
万が一、運良く天下統一できても長期安定政権にはならないんじゃないかな。
>>305 スマンが予想できるその根拠を教えて欲しい。
信忠脱出なら山崎の戦いに参加できるかどうかでその後の当主としての権力の度合いが変わりそう。
もともと織田家連枝衆の序列でNo.1の信忠とNo.2の信雄では天地の差があったから、秀吉軍と合流できさえすれば
名実ともに総大将となっていたと思う。
そうすれば後の織田家での実権も確立できただろうが、もし秀吉軍に合流できなければやはり秀吉の発言権は強化され、
後に内紛が起こる可能性もあったかも知れない。
但し秀吉以外の諸将はまず間違いなく信忠を盛り立てようとするだろうから、秀吉も表面上は信忠に追従、No.2としての
権力を保持しようと画策するにとどまるやも知れないかな。
そして、鎌倉幕府における執権のような立場を目標とするかも。
あとは、狸親父の家康、どさくさにまぎれて甲斐、信濃に侵攻した徳川家の仕置をどうするか。
まあある程度の領地は恩賞として与えるように思うが、甲斐の金山は渡したくないところ。
いずれにせよ、あまり強大化させたくない同盟者であることは確かだと思う。
>>307 甲斐の金山は江戸初期の水銀流しが始まるまでは産出高が激減していたような
徳川家は次男の秀康(名前は忠康になるのか?)と三男の秀忠(名前は・・・)に分割するのが妥当かと
信忠覇権が成立したとして、以後は毛利とは同盟関係が築かれることになるな・・・。
そうなれば当時の所領から言って織田同盟国の中での最大勢力は徳川ではなく毛利ということになるのか・・・。
秀吉の独断とは言え山崎合戦の勝利を確定的にさせたこの同盟は、新当主となった信忠といえども反故にはできないだろう。
以後の西国戦略は信長の構想とは大幅に違うものに変更せざるを得なくなりそうに思う。
この後順調に織田家の天下統一が叶ったとしても、同盟国としての徳川、毛利、北条(こちらは一時的?)が大大名として
生き残り、徳川政権のような超強大勢力による長期政権が確立できたかは疑問が残る。
ただ、信長の政権構想の基盤であった重商主義は引き継がれそうで、日本は徳川政権の重農主義とは違った発展をみせ
たのではないかな。
鎖国政策を取らないことも十分に考えられ、その場合は織田政権は緩やかに解体の道をたどるか、或いは権力縮小のまま
明治維新ならぬ享保維新とかを迎えていたかも知れない。
いずれにせよ、日本の経済、工業技術等の発展は、徳川政権とは比べ物にならないものが期待できそう。
日本の首都は大阪となり、2回の世界大戦も違った形で経験し、もしかしたら戦勝国として今日を迎えてたかも。
そこまで飛躍すると行き過ぎ。
江戸時代の様々な蓄積あらずして維新後の驚異的な発展があるとは思えない。
ほどなく疲弊するか失速してありきたりな中小国程度で落ち着くのではないかな。
とにかく信忠脱出が二十世紀の大国に直結するのは贔屓の引き倒しだし全く別な話だと思う。
秀吉が強化された所で直系の跡継ぎ居ないから殆ど無意味だろう
毛利が仮に同盟者になっても、そのまま九州戦線に回されて疲労、徳川も北条相手(滝川を攻めたのを口実に縁切り)にボロ雑巾のように扱われると思う
>>311 なるほど、かなり的を得ている。
信忠存命なら茶々が秀吉側室になることはまずないから、秀頼誕生もなかったと考えるべきか。
或いは他の側室に子が出来た可能性もあるが・・・。
出来なければ信長から養子にもらった信忠の弟、秀勝を次期羽柴当主として決めておくのが妥当か。
但し秀勝は秀吉が死ぬより早く病没しているから、結局は羽柴家は秀次あたりが相続するんだろうな。
本能寺の変とか信忠の新資料は
どこから出る可能性があるのでしょう?
織田家にはないのですか?
取り立てて言うほどの人物ではないので新資料の発掘は熱心に行われてないし期待もされてません
新資料が出たからって、歴史を覆すような大発見なんて出てくるはずもない
本人の証言が残ってたとしても本能寺の変の黒幕なんて知ってる筈も無いしw
なぜ、本能寺は移設されたんでしょう?
南蛮寺には地下通路はあったんですか?
わかりません
318 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 21:06:21
秀吉の区画整理で移動させられたんだよ
319 :
日本@名無史さん:2008/07/24(木) 21:20:09
信忠が生き延びてたら信忠の天下だろ。秀吉、家康にしろ信長の後継者の信忠が生きてるのに謀反はしないと思うが。信忠が秀吉、家康より先に死なない限りは織田家は安泰だと思うけどな。
320 :
日本@名無史さん:2008/07/25(金) 17:42:29
>>1 信忠に関するこの手のスレ、過去に何度か作られて
ループなお決まりレスでしばらくの間だけ賑わい、
そして過疎って消滅・・・の繰り返し。
それ知らないのって初心者?
別に過疎って消滅してもいいじゃん。
過去スレには書き込めないんだし・・・。
どうせIFスレなんだから
もし松姫が本能寺の変前(安土で徳川接待の頃)に信忠の元に
行っていたら?
もし信忠の下に武田の遺臣が集っていての本能寺の変勃発だったら?
同じくで山崎合戦だったら諸侯の動きは?
あたりで議論すすめてみたらどうよ?
323 :
日本@名無史さん:2008/07/25(金) 20:33:40
松姫がその頃に行っていたら信長が何かに利用しそうな感じがするな。
根絶やししてたというのはデマだよーんと朝廷に大PRとか
大穴で自分の側室にしてしまうとかw
IF設定を考えてみたくなるほど魅力的だったり有能だったりするような人物じゃないし信忠
そだな。
織田家というのは信長個人によるところが大きいから
信忠が脱出できたからといって、信忠政権、みたいな仮定になるのが
よくわからない。
他の武将も信忠には逆らえないだろう、という前提も不思議。
秀吉の行動見てたら、彼がどうしてたか、のほうがはるかに重要で。
結局同じように織田家反逆に秀吉が動いたら同じような歴史に
なってたんじゃないかな。時間はもう少しかかったかもしれないけど。
充分魅力的で有能な人物だと思うが>信忠
家臣の気持ちを良く察してあげる貴公子であり
文通で本気になっちゃうような純粋培養のお坊ちゃんであり
戦になると激情家で果断であり
マイナスになりそうな要素で失敗してないのは有能な証なんだろう
脇を固めるのも森兄弟の長男の長可や、斎藤道三の息子である新五、幼少の折に武田に連れ去られた信房
燻し銀で紆余曲折な奴らが揃っている
327 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 04:28:41
>>325 それは秀吉が天下を取ったと知ってるから、そう感じるんじゃないかな。
織田家に反逆たって三法師担いで信雄信勝に対抗したんだし
反秀吉も各個撃破されちゃったんだし。
信忠が生きてたら秀吉が担ぐ神輿が無いし
信雄信勝も果たして勝手な事が出来たか?
信忠が逃げ延びて信長の弔い合戦で大敗して信望を失うような事でもなけりゃあな。
でも史実の信忠はここの天下統一な信忠ではなく、あそこで腹切っちゃうおばかさんだから。
信長が信忠の立場だったらなりふりかまわず逃げ出してるだろうけどそれができなかったのが信忠。
矛盾してるが信長父子に脱出の可能性を考えさせなかったのが光秀の力量。
生き延びたら天下統一できると言うのはその最前提自体(脱出)ができなかった事なのだから全くもってナンセンス。
脱出できても信忠がどっかで頓死すると言う方が遥かに正しい予測。
実際になかった事なんだから、信忠が脱出してたら天下統一したって可能性が低いと思う方が普通なんじゃないの?
329に同意。
よく328みたいに言われるけど、まさに仇をうったのは信忠を助けた
秀吉、みたいなところから始まって、秀吉がその発言力を増す、と
いうのは十分ありそうだけど。
ここで切腹する、なんてお坊ちゃん的な2代目であった
以上、天下を狙って本気になった秀吉の毒牙にかかるのは
目に見えてる。
秀吉の敵は家康であったろうし、その家康をつりだす意味で
信忠が利用されることすらあったかもしれない。
その前の六月五日あたりで光秀に安土包囲されて
やられてる可能性も高いぐらいだ。
信長も「ここで切腹する」だったような
落ち着け
>>329は「矛盾してるが」とちゃんと断り書きしてそれをさせなかったのが光秀の力量、と書いてる。
いつもの信長だったら形成不利と判断したらプライドかなぐり捨てて脇目もふらず逃げている、それが信長の強さ。
だがそれさえ諦めさせてしまう光秀。
山崎の合戦に目を奪われて過小評価しがちだが、信長信忠から見た光秀は我々の想像以上の実力者だったんだろう。
信長を観念させてしまった位だからそこで信忠に脱出可と判断させるのはやはり無理と言うもの。
信忠が脱出可能と言うイフは逆に信長が信忠より矮小だと言ってるようなもの。
でも長益は脱出した
殺さなきゃいけないのは信長と信忠だけだろ
重要人物とそれ以外では扱いが違うわ
源五が逃げられたからって信忠も逃げられると主張するのはそれこそ糞味噌だろ
>>333 反論じゃないが、信長は完全に包囲されて脱出不可能だった。
信忠は、200m離れた二条城に移ったように、その時点で「脱出可能」 だったんだよね。
だから329のいう「可能性を考えさせなかった」と言うのは少し違う。
そして「光秀の力量」というのも少し違ってきてしまうんだ。
なので、信長を観念させた〜信忠〜、というのもまた前提が違ってきてる。 ごめん。
ただね、光秀の力量を語るのには大賛成だし、実力者っていう捉え方にも 大賛成。
ちなみに、本能寺包囲軍が13000って言うのは「川角太閤記」あたりが 出典で、その信憑性はかなり疑問。
3軍に別れ、桂川を渡り、包囲するまでの時間とかシステムとか
前に論議したことがあるのだけど、確定してるのは本能寺だけは完全包囲で絶対に
脱出不可能、ってこと。
あきらめさせた、というのはこのあたりを勘案して「あきらめるしかなかった」ということね 信長は。
でも、信忠は違う。
妙覚寺から外に出てるのだし、そこで思いっきり駆ければいい。
結果論じゃなくて、逃げる気があれば絶対にそうしなきゃ。
イフ、じゃなくて、そういうチャンスを逃してる信忠はかなり割引だよね。
だって、親がそういうこと教えてるはずだものね、「嫡統」としての振る舞いを。
このあたりは、親子の会話、だから史料はないけど、実際チャンスを
逃してるのは事実だろう。
あえて、村井を持ち出さなかったし、京の各脱出路、までは言及しないけど 「信忠は十分脱出可能だった」とこれが今のところの結論にしてる。
338 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 17:52:05
逃げる途中で落ち武者狩りの農民にでも殺されてたらアホ扱いだったろうから
信忠は逃げずに戦って死んだのが正解。
335です。
ちょっと調子にのります。
光秀は信忠がすぐ近くにいたことを知っていたのか知らなかったのかどっちでしょう。
自分は知らなかった説です。
知ってたらその重要性からみて600m先の妙覚寺を囲んだでしょう。
「知ってたが信長が先で最重要、だから2時間後に信忠を狙った」という論を
見ましたが、知ってたら絶対に囲んでますよね。やっぱり。
細かい論だと、29日あたりに家康について堺に下る予定だった信忠がどうして
京に残ったかというと、父のいきなりの上洛で予定変更になったのでしょう。
なので、光秀も信忠は京にいない、そう判断したに違いありません。
イフで言うならもう1日ずれたら、光秀は、信長親子に家康と四天王まで
全部討ち取れたわけです。
これは日本史上かなりハイレベルなイフと思います。
結局、光秀と秀吉、1日の運がまさに日本史を変えたかもしれません。
参考までに言うと、秀吉が変を知ったのが3日夕刻、その日のうちにエケイを呼び出し
翌日毛利との講和。
秀吉のは神業ですが、このあたり、本当にすごいですよね。
>>338 京から安土までは自分の領土。落ち武者狩りどころかみんな味方に回ります。
また、早朝に馬を駆ければ農民だって何がなにやら。
落ち武者狩り、というのは勝ったほうが「お触れ」をだしてこそ成立する、ってぐらいです。
農民の方だって準備がいるのですよね。
なので、信忠は十分に脱出可能であった、というように解釈してます。
なんだけど、その後はどうだったでしょうね。
安土で孤立、まさか秀吉が戻ってくるとは夢にも思わないでしょうし
自分の味方とは限りません。
「部下なんて信用せんがや、はぁはぁ」だったでしょうか。
このあたりは小説のネタとしてとっておきたいくらいですけどね。
341 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 18:07:09
>>340 それは結果を知ってる人間の思考じゃないか
342 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 18:10:55
みんな味方にまわるどころか、光秀がすでに根回ししてて
もう取り囲まれてる恐れもあるんだぞ。
現代人はそんなことはなかったことは知ってるけど
信忠には知りようがない。
こらこら、根回ししてたら、誰か「チクる」だろ。
暗殺なんて極秘中の極秘だってば。
兵隊さんだって知らなかったんだよ。
農民だって、2時間前に信長が暗殺されたなんて知るわけないでしょう。
「控えぃ、上様の先駆けなるぞ、控えぃ」と走ればみんなよけるよね。
なので、お寺さえ抜ければ、かなりの確率で脱出できたはずなんだ。
で、追撃云々、って反論もあるだろうけど、それこそ「結果知ってる」からいえるわけで
脱出したかどうか、どっちに走ったか、誰にもわからない。
ちゅうか、信忠がいたかどうかの確認もできなかったのに、追撃しようもない。
だがね。
344 :
日本@名無史さん:2008/07/26(土) 18:51:53
>>343 だからそれも結果を知ってる現代人の思考なんだって。
光秀謀反なんていう予想外の出来事が起こってるんだから
どんな可能性だって考えられるだろ。
安土に逃げるのを予測してそちら方向に兵を置いてるとかは
普通に考えられるし。
光秀の謀反は穴だらけだったとこの時は誰も知らないんだし。
物理的に可能で楽だったと言うなら。
なおさら何故信忠はそうしなかったのか、あるいはできなかったのか。
脱出可能と強弁すればするほど現実の信忠が不甲斐ないか役立たずと言う事になってしまうよ。
そんなヤツが生き延びてもろくなことにはならない。
IFを強弁するほど矛盾が激しくなってゆく。
浅井の裏切りからの逃避行で「信長なら何が何でも逃げる」ってイメージが先行しすぎてる感じが
与えられる情報量、自軍の勢力図からして、妙覚寺の信忠の方が遥かに困難な状況だし
信忠の立場に信長が居てもやっぱり逃げないで死ぬのではないかと思うのだが
長益が逃げられたんだから何かしら“穴”はやっぱあったんじゃないかな。
そもそも長益が「お腹召せ召せ召させておいて・・・」なんて狂歌にあるように変な進言したのも、
信忠の判断を曇らせた原因の一つになった可能性もあるように思う。
こいつこそ織田没落のA級戦犯だったかもしれん。
長益は身一つで逃げれば後は一人でも茶人でもやって生きていけるからな
本能寺と妙覚寺にいるのは当時の織田家の首脳陣&高級官僚
長益なんか「価値ゼロ」に近いから
逃げられてんだよ。
信忠アホだね、と思うのは
親王をなんで逃がしたかなぁ、と言う点。
親王盾にして立てこもって、
朝廷使って堂々退去すりゃよかったんだよ。
350 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 06:00:06
>>349 助かるだけならそれでいいが織田家の名誉、後世の評判とかを考えたら出来なかったんじゃないか?松永とかなら気にせずやるだろうが。その変が貴公子っぽくて潔すぎるイメージになるんたろうな。
親王にどれだけの価値があるというのか
南北朝の騒乱ですでに宮家なんて失墜しているのに
逆に朝廷を引き立てていたのが織田家なのだから
ココにいたって親王を盾にしてどれだけ意味がある(しかも相手は成り上がりの明智光秀)
自分で引き立てていて、人質にしてポイ捨てで、しかも人質の価値がない
評判を落とすだけ
少しは本でも読もうぜ
こらこら、恐ろしいこと言うんじゃないの。
親王の皇子を信長は猶子にしてたわけで、タテになんかできるわけないでしょ。
価値が云々、なんてバチあたりにもほどがあるし。
ほんで、344に反論じゃないけど、それこそ矛盾してない?
逃げるのを予測して兵を置く、ということは信忠がいたことを知ってた
と言う前提だよね。
ならどうして妙覚寺を囲まなかったの?
お寺を囲んでない、という事実から、信忠がいたことを知らなかった、という
想定で、それならば、「逃げるのを予測した」なんてのもありえない、と思うけど。
知ってたのに本能寺が最優先で妙覚寺を囲むのに2時間かかった、という説も
あるのだが、それならなおさら、逃げ道に兵をおく、なんてことは不急でありえない
と思うけどな。
むしろ信忠無視して手持ちの兵力で信長に全力投球しているのは
周囲のバックアップが完璧だからだと思ってしまうが
中2全開だけど長益と玄以が内応者だったとしたら話が繋がるんだよね。
歴戦を重ねてきた光秀が穴だらけの布陣を敷くってのは変だし、京都宇治で不通となってる当事の記録も
あるから街道封鎖は通常通り行われていたと思う。
それに変後しばらくは情報が錯綜してるからそれも一つの傍証じゃないかな。
「信忠と三法師がこのまま一緒に討たれれば嫡流が途絶える。賭けになるが三法師をつれて岐阜に向かう
うまく逃げ帰ったら軍勢を引き連れて戻ってくるのでそれまで逃げ遂せてくれ」とでも言ったとか。
実際には三法師を擁立する形で岐阜を馳走する計画があって、
妙覚寺を取り囲まなかったのは謎ではなく予定調和だったとか。
玄以も利三と共にあの怪しい連歌会の参加者だったりするしね。
こんな小説読みたい。
小説ならいいけども、穴だらけの布陣、ってことはないと思うよ。
本能寺は完璧に囲んで脱出不可能にしてる。実際に信長ですら脱出不可能
だったんだから。
これがまず基本の基本だからね。
でも妙覚寺は違う。
二条城へ移動したぐらいだから外へは出てる。
つまり、本気で逃げるならばそのチャンスはあったということ。
そして、待ち伏せ兵がいた、とか、農民に落ち武者狩りの準備をさせた
みたいな史料がない以上、脱出の可能性は高かった、ということね。
実際はあきらめてしまったのだからそれが武将としての限界だったんだろうけど。
逃げる身からしたら、待ち伏せとか落ち武者狩りなんてのは次ぎの話で
いかにその現場から駆けに駆けるか、だからね。
妙覚寺から二条城までの間に農民とか落ち武者狩りとかいたら嫌だw
>>357 約100mの距離。
門がどこにあったとかは知らないけど、絶対にいないと断言する。
ってか、光秀の兵がいないのが不思議なぐらい本能寺のすぐそばでもある。
359 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 16:50:16
>>353 信忠というより信長が逃げるのを予測して、その方向に兵を置くぐらいは
用意周到な光秀ならやるだろうと、当時の人が思っても不思議じゃないんじゃないの。
信澄だって光秀と内通を疑われたぐらいなんだし、光秀単独ではなく安土でも
謀反が起こってるんじゃないかとか疑心暗鬼になったりもするのでは。
光秀はかなり高評価されてたらしいから、それが逆に深読みさせすぎる結果になったような。
前田玄以は関ヶ原の時も敵側で内通してたな。
謎が残る結果論よりは理屈が通る。
長益って信長からは重用されてないし、光秀の誘いに乗りそうなタイプではあるよなw
光秀が本能寺を起こしてから二時間後だっけ?
信忠が本能寺に気付いてから二時間後だっけ?
前者だと信忠にはあんまり時間がないんじゃないのか
当の信長ですら最初は小姓同士の喧嘩だと思ってたぐらいだし>本能寺
つかどのみち本能寺の側で軍隊動かしてたんだから
信忠に動きがあれば光秀もわかるか
>>359 そう、どこに逃げるかも問題なんだけど、とりあえず現場を離れるのが第一。
二条城でも戦ってるのだから、待ち伏せ兵がいたとしてもそのぐらいは覚悟の上。
なので、あの場で駆けてれば脱出できた可能性は高いというのが事実ね。
村井も「大殿無事脱出、若殿もお急ぎあれ」とか「お家再興は若殿の務め、
お逃げくだされ」ぐらい言えばいいのに「御楯篭然」はないよな、自分もやられちゃったし。
ざっと15〜30分ぐらいは信忠も自分の判断で逃げるチャンスはあったはず。
このあたりは光秀もラッキだったんだが、そのラッキを最大限に利用したのが
一番遠くにいたぐらいの猿だったとは何をか言わん。
そいえば長益も大阪の陣の時にも怪しい動きしてたな・・・。
>>362 本能寺開始から2時間後ぐらいに御所攻撃開始。
気付いてそこで妙覚寺を出て本能寺に向かうところを村井とバッタリ。
ここで、「御殿も焼け落ち」だからたぶん攻撃後1時間ぐらいの時点だろうね。
そこで相談してるんだったら逃げればいいし、二条城入っても「詮議マチマチ」だから
まだ余裕があった。
ま「切腹」なんて言い出してウダウダしてるうちに取り囲まれて攻撃開始。
結構勇敢な部下もいたみたいだから「ついて参れ」って駆ければ
待ち伏せの兵ぐらいはやっつけられたはずなんだがな。
本当に無念ってとこか。
雑兵ならただ逃げればいいだけだけど、信忠はとりあえず逃げようって立場じゃないからな
そう?
家督継承してるんだから、ただ逃げればいい、じゃないの?
ひどい言い方だが、自分さえ生き残ればいい、と考えていい立場だもん。
逆に言うと、信長、とか信忠さえ殺せればそれで謀反は大成功なんだよね。
ちなみに、いろんな戦があるけど、まともに大将首を取れた戦いなんて
あんまりない。桶狭間ぐらいかな。
敗走してくのを捕まえる、というのはよくあるんだけどね。
光秀本人も・・
ロクに情報も入ってない状態で「御殿も焼け落ち」のみの状況で行動を開始すればいいと言うのは後出しジャンケン過ぎる
親王とかどうするよって話だし、逃げるにしたって馬の補充のメドすら立たない(←俺達は畿内は織田の味方だから補充できるなんて知ってるけど)
連れて行く人間もどうする?織田家における重要度か、戦力になる順番か、そもそも誰が生き残ってるのかすら分からない
村井はなんか死にたがってるし。仮に1時間として、1時間って相当短いぞ
荒木村重みたいにか
>>367 一人だけ生き残っても裸の王様になるだけだが
会社で会長シボンヌ、自分社長、周りにいるのは常務、専務、秘書、部長、幹部候補のエリート、
社長一人生き延びて、本社には最近昇進したばかりの河尻専務、若手の森課長、あとは一緒に仕事をしてきた滝川支社長
他の支社長に海千山千の柴田(信孝を擁立とかしちゃう)、羽柴(三法師を擁立とかしちゃう)、子会社の徳川(どさくさに紛れて甲斐に侵攻しちゃう)
暴発しやすい兄弟の信雄、信孝
少なくとも妙覚寺にいた幹部クラス全員、あるいは半数でも持って帰らないと織田家は機能しない
村井の爺さんはいい死に場所ができたと思ってたのかもね。
佐久間とか在庫一斉処分してたからな
そもそもなんで秀信まで連れてきてるのか。黒幕
秀則なんじゃないの
>>368 言いたいことはわかるが、ちゃんと村井から聞いた時点で「父はダメ」
ぐらいの判断はできる。
馬とか連れて行く順番、なんてのこそ平時の発想で600m先で戦闘が
行われてる状態なら、逃げる、か立て篭もる、しかない。
だから、とにかく「ついてまいれ」って駆けてしまえばね。
それが出来ずに「馬ある?」「誰と逃げよう、うーん」なんていってるような
武将だったら少なくとも問題外のアホ武将だし、信長も家督は譲らなかったろう。
>>370 これも答えようが無いけど、織田家の中枢の武将はみんな健在だったでしょう。
連れてたのは普通の営業マン程度だよ。親衛隊だから忠義は尽くしてくれるけど。
だから、自分が生き残って自分の号令の元にその後の始末をする、ぐらいは天下に
近づいた一族の長男として当然。
織田家は機能しない、って、結果的に全部生き残ってるのだしね。
荒木みたいな無様な逃げっぷりを信忠にもしろと
誰もみてないって。
デジカメも何もないのだから。
自分ひとり生き残ればいいんだから、即効で逃げ出せ。
親王や家臣なんてどうなろうと知ったこっちゃない、自分が助かればいいわけだし。
家名を気にして死ぬなんてバカバカしいよな。
これからどうするかとか待ち伏せされてるかもなんてことは
逃げてる途中に考えればいいんだよ。
ま、きっとここから逃げ出せば何とかなるって。
途中で捕まって首とられるかもしれないけど、その時はその時ってことで。
なんてことを考えてる信忠って何だか嫌だw
>>374 「逃げる」という選択肢が補給線の問題その他で難しいから「立て籠もる」と選択したんだろ?
お前ばバカか?「ついてまいれ」しか考えられないような奴の方がよっぽどのアホ武将だろうが
ドコに逃げる気だ?本領の岐阜か?岐阜までどれくらいだ?その間の補給は?明智の警備は?
浅井領を通過して湖上に出ればいい信長の時とは全然違うんだぞ?
>>376 本能寺の変での信長の最後の詳細なんかが事細かに残ってるのはどうしてだろうな
妙覚寺に軍勢を寄せた事は公家の日記にも書いてあるよ。
信頼性は低い資料だけど、江源武鑑には本能寺の援軍として向かおうとして場外に出たところで
横合いから待ち伏せを食らったとある。
内容自体は公家の日記や他の軍記物とも整合性が取れる内容で十分信用に足る。
つまり二条御所には備えが云々というのは建前で、
親王がいる限り手出しが出来ない二条御所に逃げ込んだと言うのが事の真相。
信長公記はそういったところ調整するところがあるから鵜呑みにしないほうがいいかと。
>>378 補給線って話が大きすぎるよ。
とりあえず安土ならすぐそこでしょう。
60キロとしても2〜3時間も駆ければ着くよ。
なんか大返しとか神君伊賀越えみたいに思ってない?
とりあえず1時間駆けて草津あたりまで行けばかなり安泰だと思うけどね。
ほんで明智の警備、ってのも、極秘の謀反だからそんなにおおがかりでは出来てないって。
28愛宕山、29下山、翌日1日の午後から準備だよ。
おまけに、信忠がいたこと知らなかった、という前提なんだし。
たてこもって「切腹する」ならそれでいいけど、実際はとめられてどうしよう・・
と言ってる間に攻撃されてるしね。
もう一度言うけど、家臣団に謀反告げたのも当日。
事前に京に待ち伏せ兵、なんてチクラれたらおしまいだから
絶対にありえない。
信長や信忠の部下に「なんで明智のてのものがここに?」なんて
見られたらおしまいでしょう。
それと、安土城まで行かなくても自領なんだから物資補給用施設
はいっぱいあったからね。大軍が通ったりするコースだし。
とりあえず、このくらい。
織田の中枢はアボンしているって
残ってるのは堀みたいな各軍団に出向してた軍監ぐらいだ
本能寺後にまったく機能してなかったから清洲会議なんて起こったんだぞ
本能寺後の織田家なんて関ヶ原後の豊臣家状態の人材難だ
村井、毛利、野々村、福富、菅屋、猪子、森、斎藤、坂井らが死んでいるし
津田姓も五人アボン
何が普通の営業マンだ
>もう一度言うけど、家臣団に謀反告げたのも当日。
>事前に京に待ち伏せ兵、なんてチクラれたらおしまいだから
>絶対にありえない。
信長も信忠もそんなこと知りようがないだろうに
結果ありきで語りすぎ
家臣団に謀反告げたのも当日なんていう予備知識は頭から抹消して
その時の信忠の立場にたって考えてみないとな。
結局ただのアンチ信忠なのね・・・
あの信忠の選択ってのは結局、
色んな所で言われているようにベターだった
間違いじゃないけど正解でもなかった
>>380 うん、ざっと知ってます。
ただ、アウトラインとして公記に従ったほうが簡明だからね。
379の質問でもあるけど、是非に及ばず、って誰が聞いたの?
ってね。
これは牛一が本能寺にいた女性あたりの聞き書きをして、それから
描写してるのですよね。
ただ「中から戸をしめて切腹」というのなら、実際は切腹するとこを
誰も見たわけじゃなくて牛一の想像なんだよね。
さらに「無情」なんて感情が入ってる。
公記は鵜呑みどころかかなり疑問に感ずるところも有るけど、
「ソース出せ」とか言われると煩雑だからとりあえず、ということでね。
ちなみに、28愛宕山、というのも公記からだけど、これ24日説もありますよね。
安土がすぐそこなら明智の軍勢のすぐそこにいけるだろうな
明智と婚姻を結んでいる細川や筒井の軍勢の姿がみえませんし?
信忠は、それまで攻められて負け戦を経験したことがなかったから、
うまく対処できなかったんじゃないの?
嫡子は大勢力の武家ならなおさら大事に育てたいからね。
だから、アンチとかじゃなくて、選択肢は二つ。
逃げるかたてこもるか、でしょう。
で、逃げてたら助かってた可能性が高い、という論証ね。
もちろん安土が安全かどうかもわからない、ただ、逃げるとしたら
安土が一番近くて便りになるであろう、ってことね。
実際にそうしなかったんだから、別にいいですよ。
他の方も言われてますけど「それが限界」「あそこでやられててはどっちみち」
とかね。
その方がよほど情けないというか、悲しい、織田家家督として。
だから応援してる意味で、逃げてたら、という仮定をしてその
脱出成功可能性を論証してるわけでしょう。
待ち伏せ、落ち武者狩り、とかいう反論を順番に「成立しがたい」と
論じているうちに、バカか、とかおかしくなってきたわけで。
もう一回言うけど、逃げてたら、という仮定の下に「事実」と「結果」から
論じているのですよ、その結果がどうなってたであろうかを。
これを、「結果ありきすぎ」というのはちょっと違うでしょ。
結果を知ってる人間が上から見て語るのは簡単だよな。
>>389 そそ、それがまさに事実で信忠の本来の姿。
逃げる、タイプじゃなくて、たてこもって「切腹してしまう」
タイプね。
それでは悲しいから、スレタイ通りに「脱出できてたら」という可能性を
現実のものにしようとしてるのに、アンチか、はないな〜。
織田家を立て直して秀吉に号令をかける信忠、「敵討ちじゃ」ってね。
こういうとこまで話したいんだけどな、現実可能性をね。
状況が状況だったから、信忠が脱出しなかったのも仕方なかったかもしれない。
でも、躍動的な時代での大事件だったので、やはり信忠だけでも脱出していたら、と考えてしまう。
というわけで、信忠が生き延びた場合の情勢を、私なりに想像してみました。
秀吉・家康が、織田政権の存否に関わらず、天下取りの野望を抱いていたと仮定する。
事件後、秀吉が中国から引き返し、光秀とともに京都を制圧。
信忠は蒲生氏郷の日野城へ落ち延び、細川藤孝、筒井順慶らも籠城の構えをとる。
柴田勝家の軍勢の到着まで持ちこたえて、なんとか織田家崩壊の危機を免れる。
その後、日本国内は以下のように分裂。(すぐに思い出せる人物のみを取り上げる)
織田信忠側・・・織田信雄、織田信孝、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、池田恒興、
村井貞勝、細川藤孝、筒井順慶、前田利家、佐々成政、森長可、
高山右近、蒲生氏郷、九鬼嘉隆
羽柴秀吉側・・・宇喜多秀家、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景、荒木村重、明智光秀
中立・・・徳川家康、上杉景勝、北条氏政、伊達政宗、長宗我部元親、島津義久
織田側の背後には徳川、上杉らの脅威、秀吉側の背後には長宗我部、島津らの脅威があり、
両者は容易に動きがとれず、争いは膠着状態となる。こうして、第二の戦国時代となる。
疲労困憊で安土に向かった信忠一行であったが
すでに安土には細川と筒井の旗が
惨めに抜け道を探そうとしていると
土民が出てきて竹槍で脇腹をさされ信忠は絶命
なんと天下に王手をかけた織田信長の嫡男の最後であった
こんなシナリオがあの場にいた人間には思い浮かんだことだろうな
そんな事を超越して
安土に逃げろ
そうしなかった信忠は、そこが限界、情け無い
私は信忠を応援しています。アンチ呼ばわりは悲しいよ〜
信忠は戦うタイプなんだぜ!!
その状況で秀吉が光秀と組むとか有り得ない
信忠のタイプとか、すごい固定観念があるんだろうけど
他人に押し付けないでくれ
って、いうと、いや僕はあくまで仮定なんですけどね〜なんて言い出すんだろうが
396 :
393:2008/07/28(月) 21:21:56
>>395 いやいや、そんな言い訳しないしない。
押し付けってわけじゃないからね。
>>393 いいね。素晴らしい。
で、まずは信長の敵討ちが急務でしょう。
信忠が自分でやるか、秀吉が一気にやってしまったか。
このあたりからその後の力関係が違ってきますよね。
それで織田家の背後の徳川の脅威というのはどうだろう。
この時点で織徳同盟は生きている。
脅威どころか同盟を結んで、秀吉に対抗する、ぐらいじゃないのかな。
1562以来そうやって三河尾張は安定してたわけだしね。
>>394 本能寺より山崎のほうが後だぞ。
未来のシナリオがうかんだわけか。
>>398 皮肉を皮肉と受け取れないよい精神をしておられる
その鈍感さがあれば脱出できたでしょう
まあその後は信雄コースでございますが
あの時点では反逆者光秀とは組まないよね、秀吉は。
逆に実際そうだったように、敵討ち、をして織田家内での立場を
家康よりもよくしようと画策したろうな。
家康だって、ちゃんと同盟にのっとって兵を出してる。織田家というのは
忠義の秀吉、信頼できる同盟相手家康という強い2枚看板がある。
それに号令する信忠、カッコいいじゃん。
・・だから逃げてくれって・・
家康はいい契機だから離反しそうだけどな
結果を知ってる人間が、結果を知らずに行動した人間をバカにするのは簡単だけど
この時逃げなかった信忠をバカにする気にはならないな。
できれば逃げ延びて欲しかったとは思うけど。
>>401 ということは信長なきあとの織田家に魅力を感じなかった、と。
このあたりは各論だけど、事実と結果から推定してってもいいよ。
まずは秀吉と家康が何を考えたか、だよね。
バカ、になんか誰もしてませんよ。
お前アホか、というカキコ以来感情的になってきてるけどね。
魅力があるから付き従ってたと言うよりは抗う方法がなかっただけだよ。
史実でも帰国後すぐに尾張の国境に布陣して伺ってたけど、山崎合戦ですぐに決着がついてしまった。
それで秀吉に軍を退くように言われたんだけどしばらく踏ん切りがつかなかったのか、しばし滞陣した後帰国した。
>>405 じゃあお前は潜在的に信忠をバカにしてるんだよ
お前の文章からそういう感情が滲み出てるもん
信長信忠無き後の織田なんて信雄と信孝と三法師に分裂しているじゃん
何に魅力を感じろってんだ?
魅力以前の問題だな
>>407 ではとりあえず、事実、の確認ということで、安土までは2〜3時間、
落ち武者狩りの農民とか待ち伏せ兵は、ほぼ、いなかったであろう、
というのはいい?
結果はともかく、逃げておけばかなりの確率で助かってた、という
のも認めてもらえるとうれしいけどな。
結果ありき、とかそういう話じゃなくて、イフを語るスレなんだから
信忠脱出成功説にしたいぐらいだけど。
>>410 君は結局上から目線で語りたいだけなんだな。
ここにいる人達だって、結果を知ってる人ばかりなんだから
逃げてれば助かった可能性があることぐらいわかってるよ。
でもその視点で結果をしらない信忠を評すると
全て見通してる神様視点から優越感を持って
哀れな者を評してるだけになっちゃうじゃないか。
その場合、明智のクーデターが突発的というのが即座に分かってしまうから
とっとと蒲生辺りの湖南北の兵を糾合して、大坂の四国軍と挟撃して終了
秀吉?家康?それ食えるの?
生き残る事=完全勝利だもんな
精々後の大名配置ぐらい
生き残って信忠が統一したら
信長は「信忠の親」ぐらいの位置づけだったかも知れん
そして2ちゃんに「信長再評価スレ」とかが立つ
織田家が天下統一したらって言うと、すぐ
「こんな薔薇色な未来が」
て妄想モードに突入する連中が何故か多いが、その手の妄想だけは勘弁して欲しい。
薔薇色な未来になるかどうか知らんが
統一までに障害がない事は分かりきっている
IFにIFをどれだけ重ねるつもりかい?
秀吉も家康も自分に好機がやってくるまで動かなかったのが史実だしなぁ
現実に明智が突発的に謀反起こしたから
そういう障害が絶対にないということもないだろうが
悪魔の証明をしても仕方ないしな
低確率を切り捨てていくのがIFだし
>>416 ちょっとスレチだけど、本能寺なかったら秀吉、家康は
どうしてたと思う?
やっぱり信長の一武将で終わってたか、それとも信長が先に
死んだ時点で・・
さらに、自分から動く可能性・・
もしかして本能寺は秀吉とか家康の天下人としての才能に火を
つけてしまったのか、それとも最後まで長生きしたであろう、という
一点においてやっぱり家康がなんかやらかしてるか。
どうだろうね。
秀吉は息子が信長の血だから10万〜30万ぐらい貰っておわりでは
家康は自分の都合で信長の娘婿の信康を斬ってるから印象悪いよーな
改めて秀康か秀忠(って名前にはならんだろうが)に織田の血縁を貰っておいたほうが安泰な気がする
ただ大封を得てたとしても、やはり家康の後ろには蒲生辺りが立ちはだかりそうではある。歴史の妙か
織田の血は外的要因で殺されない限りは長生きなのだが
信長本人は塩味がキツイのを好んだからどうだろうな
統一後に内政を固めるのか、海外に伸張するのかもよくわからんし
ただ、家康が天下人としての才能に火が付いたのは本能寺よりももっと後
豊臣政権でbPになって、秀吉が唐入りで人心を無くしてたあたりだろう
小牧長久手の頃ですら天下に大志はないんじゃないのかな
ふむふむ。そか。
わしは、あの二人は結構エグいことやってるし、本能寺みたいなのは
案外歴史の必然じゃないかと考えたりもする。
つまり、完全に信長が天下統一してどうしようもなくなる前に
ワンチャンスを狙ってたんじゃないか、ってね。
家康は、小牧長久手あたりでは完全にその意思はあったような。
ただ自分から仕掛けるタイプじゃないし、年下だし、よく辛抱したなって。
ま、自分の跡継ぎも成長してないし、仕掛けたくても出来なかった、というのはあるだろうけどね。
そう考えると信忠が脱出したあとはもっとドロドロの展開が予想される。
秀吉と家康に信忠は対抗できたか。
こうなると小説になっちゃうわけだが。
信忠が生き残った場合に起こる問題として、毛利への対応がどうなったかは興味がわく。
秀吉が主体となって光秀を討った場合、毛利は安泰だろうけど。
と、その前に、備中の秀吉への報告に「左中将様、御無事」とあった場合、
単独講和、大返しがあったかどうかも分らないか?
信忠からの命令があって、講和の後に播磨に戻ると言う形になるのかな?
本能寺は歴史の必然で正しいと思う。
信長が統一したら日本の民族性は今より悪い方向に向かった気がする。
織田による天下を望まなかったものは多いと思う。
信忠が無事あの場を脱出しても落武者狩り等とは別の形で危険にさらされていたかも。
信忠を一番簡単に始末できるチャンスだし。
やっぱり毛利との講和は秀吉が成功させたんじゃないか。
ほんで、光秀を討ちに大返ししたと思う。
ただ、そこで本当に信忠に忠誠誓ったかな。
野望丸出し本気モードの秀吉だからなんかやらかした可能性も
考えてみたい。
信忠さえいなかったら後は、史実通り、なんだからね。
どさくさに紛れて、というのはありそうに思えるんだ。
黒田とかそっち系の側近もいるし。
とりあえず信長も信忠もあそこで死んで良かったと
勝手に講話して戻ってきたら
幾ら大殿の一大事とはいえ命令違反で
地位を解任されるのがオチではないかな>秀吉
信忠についてあそこで死んだからこその過大評価で、生き延びても案外信孝や信雄とさほど変わらない役回りになってたかも。
こう書くと必死で否定してくるヤツ多いだろな。
>>422 そうかもしれない。
さっきまでの流れでは言えなかったが。
安土城で権六、池田、丹羽とちゃんと合流できたかどうか。
あせって、光秀討ちに出立してたら返り討ちの可能性もある。
光秀が「わしが行くまでまっとりゃぁ」と文を送ったとは思うけどね。
「はさみうちにしよみゃぁか」と乱戦に持ち込んでそこで秀吉が・・
>>425 そう、あの講和も不思議なんだよね。
別に黒幕説じゃないが、事前に講和準備してないと1日で講和成功はしない。
で、応援要請までしておいて、講和準備、というのも不思議でね。
毛利側の講和要請をうまいことあしらい続けて、ギリギリで利用したとするなら
これも秀吉の末恐ろしさの一つかな。
で、信忠は秀吉を解任どころか光秀討ちの最大の協力を命令するんじゃないかな。
はっきり言って、たよる、わけだが。
>>423 一応、織田家の家督は継いでいる信忠の場合、結構微妙になると思う。
ただ、大返しをしていたとしても、信忠にそれを非とする事は出来ないわけだから、
やっぱ、単独講和、大返しと言う流れなのかな。
秀吉がどう決断するかだから、IFとしても個人の判断をどう予想するかだから難しいな。
その後の事は、秀吉が織田家の政権を奪う場合でも時間はかかるように思う。
史実での池田や丹羽の協力を得られるのかが、かなり微妙になるとは思うんで。
本能寺を経ての場合、どのみち織田家宿老の力は増すだろうから、
それに不満を持った信忠と宿老、一門(特に信孝、信雄)の関係が悪化した場合でないと難しいような。
>>415 > 薔薇色な未来になるかどうか知らんが
> 統一までに障害がない事は分かりきっている
> IFにIFをどれだけ重ねるつもりかい?
信忠のその後は少なくともこの人みたいなお花畑じみた楽な話ではないね。
「信忠脱出」という実際には無かった事をあった事にする以上、むしろ史実では無かった別の障害や危険が生じる可能性が高いと思う。
信忠派の意見は神の視点な上にそれを全く考えない想定なので、都合の良い展開にしかならない。
その為説得力に乏しく見える。
具体的には?
なんて説得力の乏しい批判なんだろう
>>429 いや持ち場を離れて戻ってくるのは充分非と言えるだろう
そして池田は織田氏と密接、堀久太郎もただの出向、蒲生氏郷・前田利長・丹羽長重はみんな信忠の義兄弟
史実で秀吉の味方をした連中は悉く味方にならないという・・・
秀吉本能寺黒幕前提で進んでてワロス
嫌われてるな
ところで
信忠はどう心変わりして脱出したの?
>>433 非を咎めるには、信忠の側にも相応の兵力がなければならないので難しいとは思う。
京都から脱出しても、即座に兵力を集める事は出来ないし、
標的の信忠が逃げたとなれば光秀側も追うだろうし、信忠がどこかに籠城して耐えると言う形のなれば、
仮に大返ししてきた秀吉と合わせて光秀を討った場合でも、やはり命令違反は難しいのかなあと。
単独で光秀を討つような事が出来れば別だけど。
秀吉の側としても「左中将の危機を知り」とか「左中将無事を知らず」でも言いわけは出来るしね。
ただ、後の秀吉による簒奪は、その通りで難しかったと思う。
柴田や弟達と信忠が不和になり、秀吉がどちらかについてなんていうIFにIFを重ねるような状況でもないと。
信忠脱出後はどんな形でもIFにIFを重ねてる事に違いはない。
むしろ史実に近づけて史実通りの流れに戻すのが一番IF重ねにならずにすむんじゃないか。
>>435 松姫たんと会う約束してたのを思い出したのさ
>>436 岐阜に行けば2万ぐらいは常備出せるんだ
近江辺りで史実では蒲生と前田の婿コンビが数千で粘っている
加えて細川と筒井は味方せずでは攻勢は無理でも余裕で耐えられる
そして数日で岐阜から明智より同等の兵力が揃えられる
単独で光秀を討つこと自体は可能
さらにいえば史実で大返しはしたけど、実際に山崎で戦ったのは畿内の部隊であることを考えれば
秀吉なんかより信忠の方がはるかに旗印になるし
大坂の信孝の軍も瓦解するか分からない
釘付けになるのは光秀で
大返ししてきた秀吉はクタクタ。
「お前、外交権が無いのに毛利と和睦して、使い物にならない兵隊つれてきて、なんのつもり?」
信忠の生きていた場合に秀吉が駆けつけたら間違いなくKY
>>439 こういう事書かれれば書かれるほど、史実の信忠がアホに見えてくるんですが。
この乖離性はどうしたものでしょう。
だって安土以東が安全ってことも
細川筒井が明智に同調してないってことも
当人は知らないんだもん
今はIFで逃げた設定で、全部知っている状況で話を進めているわけだし
そんな事をいう君がアホに見えてきたが
光秀自身が細川筒井を当てにしてたんだから
周りからみれば当然なんか成算が有って決起したと思うわな。
>>441 このスレの信忠は後世の史実を知ってる信忠だったのか。
なに?その超設定。
あり得ない話の上に史実を更に改変するならその先は超信忠さえも知らない流れなはずだし。
あー超々設定スレなら日本史板では明らかにスレ違いだな。
話戻して、光秀討ちを信忠が自力でやるか、秀吉単独か、そのあたりでも
新清洲会議みたいなのの結果は違ってくるよね。
丹羽や池田も、信忠がいたら秀吉には味方しないだろう、というのも普通なら
そうなんだろうけど、領地新割当の損得を微妙に生かして、秀吉がなんかやらかす、
可能性も高いはず。
つまり、秀吉に光秀領とかの分与があったら、「これはみなの手柄である」とか何とか
言って遠慮するフリして丹羽、池田、下手したら信雄、信孝あたりまでうまく味方につけるとか。
そうして、織田家筆頭家臣の地位をまず固め、おもむろに・・てね。
信忠単独敵討ちだと439さんが言うようにいったん岐阜まで戻るのかな。
ただ、しばらくは安土で篭城っぽくなってすぐには岐阜までは脱出しないでしょう。
そうしてるうちに徳川も来るし、やっぱり実際は秀吉が単独で光秀を討つと思うな。
そうすれば忠義の猿だから、毛利和睦を咎めるどころか、信忠も認めざるを得ないような。
信忠の手を取り、信孝にしたように「やったがや、仇うったがや、後はおみゃぁさん、しっかり
織田家を盛り立ててちょう、わしもがんばるがや」とかワンワン泣きながら、ね。
>>443 全部知ってるはこのスレの住人が主語ね
そのために改行しているわけだから
逆ギレやめてくれる?
>>444 本能寺から山崎の戦いまで11日
岐阜から京都までは2〜3日
どうしても秀吉を参戦させたい場合
大軍ではなく少数だけで馳せ参じるて
「無き大殿によって引き立てられた身ゆえ、全て投げ出しても仇を取りたかった」
とでも言った方が印象がよろしかろう
>>445 何か見透かしたかのような行動をとりたがるのがここの信忠でしょ?
史実の信忠は皆知ってる通りあそこで死んだ信忠なんだから、ここの信忠は超信忠で正解。
無かった事が正しい予測になってしまうと言う発想の方がおかしい。
>>435 > ところで
> 信忠はどう心変わりして脱出したの?
435氏の問いに対する合理的な理由付けってないの?
心変わりした事前提のifなのにKYだなぁ
>>448 何も見透かしてないよ
「安土で逃げた」という行動を取った後に入ってくる情報からごく当たり前の行動をしてるダケだ
超行動ってのは、安土の少数の兵で明智に突貫して明智の首を獲っちゃうような事をいう
安土まで逃げれば、史実で細川がそうしたように、自分は明智の味方でない事を信忠に表明してくる
明智の派閥の第一党である細川が話すら聞いていないという事から、明智の謀反のレベルが知れる
当たり前だが信忠の本領の岐阜は無傷
安土から岐阜までに障害はない
岐阜から援軍呼んで明智を伐つのは当たり前すぎるほど当たり前な判断
これが超信忠だと言うなら、俺は君の為に黄色い救急車を呼んであげる
>>448 何の説明も無しの心変わり前提スレだ
最初からマトモでないのだから深く考えず信忠マンセーすれば良い
河尻あたりが岐阜の軍を率いるんだろうけど
そうすると実際に家康が北上して甲信を狙ったように空き巣泥棒するんじゃないかな
信忠が家康にも仇討ち戦に参加しろともいわない限り
甲信が蠢動してたので信忠様の背後で何かあってはまずいと思い平定しました
そういわれて信忠は
A家康の支配を追認する
B報酬分の領土を与えて返して貰う
Cじゃあ全部返せという→徳川・北条連合と全面戦争ルートへ?
キレやすい信忠はCやっちゃうかもね
そこで中国方面が取り敢えず安定したから秀吉は東海道から家康を攻めて
後の世に小牧長久手の戦いと・・・
>>454 そこでなぜ北条・徳川連合になるのかわからない。
むしろ北条・信忠連合と徳川の全面戦争ルートだと思うが。
滝川をやっちゃうかなーと思って>北条
信長父子が死んだとわかったから北条は滝川とドバチンコしたと思われ
この時の織田当主は信忠なんだからその信忠が生きていれば同盟も
まだ有効なわけで・・・。
山崎の戦いの三日後に攻めだしているんだけどね>北条
徳川盾にして今のうちに関東制覇……北条はやるかな
史実から考察するのをif設定といい
完全なる妄想をトンデモという
基本的にトンデモスレだ。
細かい事、気にすんな。
対徳川という状態になれば北条は日和見するのはありえるだろう
滝川に対してあんまり良い風に思ってないみたいだし
基本的に451に同意なんだが、岐阜から援軍よぶか、
自分がより安全な岐阜に帰るか、このあたりはまず安土で
情報確認が必要だよね。
細川、筒井が信忠が生きてたら中立じゃなく織田につくかもしれない。
丹羽軍も、信忠さえいたら兵が逃げずにもっとまともな軍だったかもしれない。
ということで、信忠自身が光秀討ちを実行してた可能性は高いと思う。
なんだけどそれはやっぱりイフであって、たてこもって切腹考えるような
ヤワな跡継ぎだと、たとえ安土までたどり着いても、混乱の中正確な
対応ができたかどうか。
というわけで秀吉があだ討ちして、歴史は同じようになる・・と。
立て籠もって切腹はそれまでの信忠の行動からすれば
ヤワというよりは果断とか潔いとかから来る美意識だろ
二条城の戦闘でも、死んでいく部下を励ましたりしている、そういう人
混乱の中正確な対応をしなかったとして
秀吉が仇討ちしちゃうのを目の前で見てるような
愚図愚図は信忠じゃなくて、もう別人
本能寺直後に切腹しようとして家臣にとめられたヤワな野郎が
後に征夷大将軍になったりしたらしいぞ
実はその行動が一番イミフだったりする
なぜ切腹しようとしたんだよ
敵に囲まれてる訳でもなしその辺ブラブラしてただけだろ
秀吉と一緒で単なるポーズ
美意識だのなんだのでホントに腹切っちゃうお坊っちゃんとは訳が違う
>>468 寺の中でブラブラしてたら本当に囲まれちゃったの。
そして「雑兵の手にかかり候〜無念」なんですよ。
だから意味は通ってるのだけど、通り過ぎて「なさけない」
というところまではオケ?
誰の話をしてんの?
焼き味噌男
焼き味噌男ってどこの寺で誰の手勢に囲まれたの?
家康って本当に切腹しようとしたのかなー。
秀吉も、自称、だしね。
あの人は割とよく切腹したがる人だと思うが
まあ全部が全部演技だーっていいたいならどうぞ
逆に
何度も切腹したがったのに結局しなかったって事は
お得意のパフォーマンス
だったと言えるかも
家康が切腹しようとした、というのはどういうのに載ってるの?
自分の書状とかある?
400年以上の後の掲示板でウダウダ言ってるような人間にすら見透かされるようなパフォーマンスで
よく天下を獲れたモンだな
ホントに腹切っちゃうボンボンとは色々な意味で格が違ってたんだろ
やることなすこと全部計算尽くって
司馬遼太郎の主人公だよね
計算尽くで脱出して天下とっちゃう信忠より、潔く切腹する本物の信忠の方が百倍カッコいいと思う。
というか「家康パフォーマンス論」は家康が矮小な人間になるので止めて欲しい
一度目の嘘が上手くいったからって、ずっと同じ嘘をし続ける狼少年のような知恵足らずだとでも言いたいのか?
家康をバカにするにも程がある
三方ヶ原の時も、本能寺の時も、関ヶ原の時も、大坂の時も(一向一揆の時もだっけ?)
追いつめられると潔く腹を切ろうとする人からこそ、家臣達も家康を盛り立てていったんだし
後々に武辺の人っていう評判を得て、それを財産に天下を取ったんじゃないか
実際の事を大きく見せたり小さく見せたりすることはできても、無いものを人に信じさせるのなんてできると思ってるのか?
このスレ自体が秀吉や家康、なにより信忠自身を貶めるようなスレだけどな
信長の跡継ぎとしてのプレッシャーや反発はあったんだろうけど
ひねくれたり屈折したりしたところは感じられないよな。
可愛がられて育った素直で真面目な青年っぽい。
そこが甘いとは思うんだけど、人としては嫌いじゃない。
確かに最後の場面で計算高く動いたりしなかったからこその信忠だね。
あそこで脱出するようならそれはもう信忠であって信忠じゃないよ。
それで信忠けなして信忠は素直だからいいって自演してどこに行きたいの?
ある種の連中
信忠が生還してれば天下統一も簡単に成し遂げてたとあたかも賞賛しているように見せかけ
その実、だからあそこで死んだ信忠はくだらないと嘲笑しようとしているのが見え見え。もしくは自分ならもっと正しい判断ができたと言った誇大妄想か。
自分に反する意見は自演だと決めつけるようなのがいる所でもよくわかる。
そんなんいいからスレタイに添った話しろや
そんなんいいから夏のせいにしてクーラーガンガン効かせろや
クーラー入れると電気代かかるので今年も扇風機だけでがまんします(;ω;)
過疎ってるね。
本能寺の変で信忠が脱出したら、救援が来るまで籠城するのは、
安土城?それとも、日野城?
安土城でいいんじゃない?
494 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 15:06:57
織田武神伝
495 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 17:12:14
外国人歌手が
「有楽町で会いましょう」を
ビックカメラで歌わないのは確か
人でないよは追放だな
信忠の最後の句とかなかったの?
信忠が生きていたら猿政権になるはずもなし…
信忠が生きていたからって天下とれるわけでもないし。
いいねぇ、信長といい死人は生きてればなんでもできてたと妄想してもらえて。
できなかったから死人なのに。
499 :
日本@名無史さん:2008/09/23(火) 12:06:49
死人の話題はここまで。 妄想は時間の無駄です。
そんな事言ったら歴史は全て死人の話題だろw
ほしゅ
502 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 12:07:48
確実に信忠を呼び出してもらえるのなら恐山へ行ってもいいんだが
503 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 13:06:07
前田が最大の諸侯には
ならないのは確実
504 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 22:48:57
それはいい。実に残念だ。
しかし家康殿は相応に扱ってくださるのだろうな?
505 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 00:19:02
家康は伊賀越えで
逃げ帰った罰で切腹
506 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 06:31:54
507 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 11:14:42
家康は、甲斐・信濃に勢力伸ばせないだろう
508 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 11:56:04
百万石大名は
外様の毛利と北条だけ
譜代トップは丹羽か
509 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 12:33:11
歴史でたられば言ってもしょうがないが、信忠の下で天下統一になったと思われる。
秀吉も家康も地方大名で終わってたはず。
義兄弟だからそこそこよいポジション貰えるんじゃね>前田利長
511 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 15:34:34
柴田が潰れた後の
越前40万石くらいか>前田
なんで柴田が潰れるの?
513 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:27:13
信忠は家臣の誰と仲が良かったの
514 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:32:41
滝川一益
515 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:39:16
100万石越え…北条、毛利
100万石弱…徳川、上杉
50万石越え…宇喜多、丹羽、羽柴、柴田、島津、伊達、
国持ち…佐々、滝川、前田、池田、など
516 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 22:42:20
じゃあ、滝川一益に何貫文やればいい?
毛利はこの先生きのこれるのか
518 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 00:59:18
中国の4〜5か国召し上げ
替わりに豊前と筑前
同様に、越中と信濃と上野の上杉領を召し上げ
変わりに佐渡と出羽を切り取り勝手
徳川は三国安堵もしくは駿河召し上げ
519 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 08:14:01
毛利はきのこ
だが北条は何かやな
520 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 20:05:10
毛利は信忠の足元に平伏して許しを請うた。
信忠はそれを受け入れ、毛利家の子息を従妹の婿にとることに決めた。
521 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 16:30:52
北条は
武蔵、相模、伊豆、下総
で130万石くらい
織田政権で最大諸侯となろう
変後、北条氏の上野乱入が無いことが条件
523 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 19:53:02
徳川は逃げ出した罰で
駿河を没収
秀吉も
毛利と勝手な条件で
和睦した罰で
近江長浜を没収
518だと
上杉は史実と同様に
佐渡と出羽を得られそうだが
毛利は九州とれないかも
525 :
日本@名無史さん:2008/10/25(土) 20:03:20
柴田は信孝かついで反逆か?
>>525 それはない。柴田の目的はあくまで織田政権の維持だったので。
527 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 18:25:55
滝川、川尻、斎藤
あたりが出世し
池田、前田、浅野、山内の
ジミヘンは泣かず跳ばず
528 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:40:28
生き残った信忠は安土幕府を開いたもんだろうか。それとも、太政大臣・
関白コースをたどったもんだろうか。それとも・・・
529 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:07:10
勝頼時代の武田氏のような状態になるんでないのか?
530 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:11:00
531 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 23:38:37
秀吉(関白・太政大臣)や徳川家斉(将軍・太政大臣)は二職までは兼任したな。
やろうと思えばできたんじゃない?
関白と将軍という組み合わせは実例がないけど、どうなんだろう?
532 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 01:20:55
>>527 池田はどう考えても間違いなく出世組。
滝川や河尻よりよほど信忠と一緒に行動しとるがな。
池田が摂津に行ってからはそうでもなくなったが、それでも
武田討伐の時は元助も輝政も信忠に従軍しとる。
あと、池田は確かに地味だが閨閥でみるとこの家ほど
信長や信忠と強く結ばれているのも珍しいんじゃないかという
ぐらいつながっているぞ。
言わせておけよ。
信長のお気に入り家臣というと羽柴や丹羽や前田しか
思い浮かばないレベルだろうからさw
本能寺の変勃発直後頃の池田と織田の関係というとこんな感じか。
・母親は信長の乳母、信長父の側室。
・自分は信長と義兄弟であり乳兄弟。
・長男の嫁はお濃の妹(道三の娘)、信長の養女。
・長女の婿は森長可、その長可は信忠家臣。
・何女か不明ながら女の一人は信長の息子勝長の側室?
・信忠の側室に森家の女がいたらしい?
>>518 毛利は秀吉の単独講和を信忠が承認すれば、
領国安堵されるだろうが、上杉はどうだろう。
勝家×秀吉の対立があってこその、上杉と中央政権(秀吉)の講和同盟だが、
>>289のように(w、信忠が秀吉の完全傀儡にでもならないと、
信長の方針は続行され上杉はそのまま潰されるんではあるまいか。
すでに上杉は越後国境に近い魚津城の後詰救援は失敗していると言っていいし、
ここが落ちると、武田のように瓦解すると思う(信長が生きている頃よりは延命?)。
あとは、中央でゴタゴタ(内紛)があったり、長引いたりで、
北条が仮に織田の敵になった時まで上杉が存続していれば生き残るかも。
北条も信長が討たれて信忠は生き残っているという状況で、
史実通りに北条の上野に侵攻したら、信長時代の同盟関係から、
間違いなく敵に移行するでしょ。
家康は北条が織田の敵になるなら取りあえず安泰。
北条の上野侵攻がなく、甲斐で家康が本当に国一揆を扇動したのなら、
北条が織田と組んで徳川が終わり・・・
と想像。
御館の乱以降、上杉の軍事力は劇的に弱体化。
本能寺の変が無ければ早々に織田に呑み込まれてた。
変後信忠が生きてれば、北方戦略の大幅な変更も考えにくくやはり早い時期に上杉は滅んでいたか、
あるいは屈辱的講和で細々と生き長らえるか。
537 :
日本@名無史さん:2008/11/14(金) 21:07:02
>>532 恒興が信長の乳兄弟で物心ついた頃には信長の御付きやってたんだから
信頼度はかなりのもんだろうね
森家に対する信頼度もかなりのもんだとおもう
>>532 輝政はのちに家康とも姻戚にもなっとるね。
家康の次女娶ったお陰で姫路52万石の大身になり一族で100万石領した。
池田氏は政略結婚のプロw
>>538 森可成が浅井・朝倉に殺されたときの信長の怒りは尋常じゃなかったとか。
その怒りが、比叡山延暦寺焼打ちの原動力になったそうね。
それに、森長可は本能寺の変のせいで運命狂わされたわね。
織田政権が維持されていれば、徳川との戦いで血を流さずにすんだだろうに。
柴田勝家、池田恒興、森長可・・・
本能寺の変をターニングポイントに、日本は実直な実力者たちを失ったのよね・・・。
いいれす
>>540 森可成が葬られているからという理由で、聖衆来迎寺は焼き討ちを免れたと伝わるしね。
保守
二条御所って籠城で使えるほどの設備あったのかな?
あれば家康は二条城作らないでしょ
信長だって人にあげちゃって本能寺に泊ってたんだし。
長益のおっさんが自害を勧めたとか聞くがあれは嘘だな。
自害勧めるような状況になるまで御所に留まってたら長益も逃げきれないだろう。
織田信忠の今年の運勢
547 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:00:13
>>539 利隆と忠雄に分裂した事を考えるといいことばかりでもない
548 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:51:55
>>544 信長が作った二条城(のちに二条御所)は城壁を備えてそれなりに堅固だったらしいけどね
京都市営地下鉄東西線が作られる時に信長時代の石垣の一部が発掘されているよ
(それによれば徳川時代の二条城よりやや東に城壁がはみ出しているらしい)
信忠も京で一番堅固な場所は二条御所だというので儲君には他へお移り頂いて入場した
もっとも信長同様、信忠が率いた手勢も少数であったために自害、織田政権の二条城は燃えてしまった。
信長時代の二条城は灰になったので、その後入京した秀吉がここに二条邸を建設、
聚楽第完成までここが秀吉の京における本拠地だった。
(現在の二条城より東に大幅にずれ、聚楽第完成後はさびれたらしい)
秀吉も没した後、家康が徳川家の京における拠点として二条城を建設。
わざわざ町屋を立ち退かせており、信長や秀吉時代のものより更に西に建設された。
つまり、家康が築城したとき信長の二条御所は存在していなかったし、
信長時代の二条御所にも城壁(石垣・堀)があった(公家や御所のようなものではなく、
戦闘に備えていた)事は分かっているよ。
>>545 自害を薦めたのは戦闘開始前だ。
自害と言うよりは、死ぬ気で戦えという意味での発言と思われるが、
当人はどさくさまぎれに逃げおおせているから当時の戯れ唄に
「織田の源五は人ではないよ、御腹召せ召せ、召させておいて〜」
などと唄われている。
550 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 13:02:15
>>534 謀反の罪で殺された織田信勝(信行)の未亡人が恒興に嫁いだという説あり(未確認)。とすると津田信澄と、池田元介、輝政は異父兄弟。
信澄の妻が明智光秀の娘であったにもかかわらず、その子が無事生き延び、のちに旗本になっていることから考えて、この説、信憑性があると考える。
551 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 13:17:59
>>538 森一族は織田政権の中でのエリートでだが不運がつきまとう。失敗に終わった越前攻めの前哨戦、手筒山の戦いで長男義隆討ち死。
すぐ後、可成討ち死。本能寺で乱丸,坊丸。力丸討ち死、長久手の戦いで長可討ち死。六男の忠政のみ生き残る。
秀吉も気の毒と思ったのか忠政を厚遇している。
江戸時代、津山森家は一時取りつぶしになるが、松の廊下の事件で取りつぶしになった赤穂の浅野家の後、赤穂を領したのが森家。
552 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 13:36:54
信忠には二条御所に行かなければいけない理由があったと聞いた。
連歌使の里村と言う謀反の謀略グループの1人と疑惑のある人物が
二条御所に誠仁親王を救出に行った時、信忠は誠仁親王に詰め寄って
詰問していたと証言している。本能寺の変の首謀者は誠仁親王である。
その首謀者を解放しちゃったわけだ、信忠は。
554 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 15:51:35
>>496 死ぬ寸前まで戦った家臣に、「見事、今生で褒美はやれないが来世でやるぞ」と言ったとかはあるけどな。
その家臣は奮起して敵に突っ込んで討死。
当代記なんかだと、信忠の武勇はかなりのもので「一ノ太刀」を使って敵を切りまくってから自害したそうだ。
間違えた。当代記じゃなくて惟任謀反記によると、だ
>>554 それ足利義輝のエピソードが混じってないか?
「一ノ太刀」は、義輝の剣の師である塚原ト伝の起こした新当流の唯授一人の奥義。
もっともこの奥義を相伝したものは義輝を含め3人と言われているがw
永禄八年、京都二条第において松永久秀の軍勢に取り囲まれた義輝は、
己の命運尽きたことを悟り、近習たちと別れの酒宴を催した後に
辞世の句を書き上げ、集めた銘刀の数々を畳に突き立て松永勢を待ち受けた。
やがてなだれ込んできた松永勢を、刀を取り替え取り替え次々と切り伏せること数十人に及んだと言う。
557 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 11:36:59
>>556 いくらなんでも将軍と勘違いはしないだろう。
年月にも差があるし。
ちなみに原文だと「一太刀」とあるだけで、それが一ノ太刀という技、なのかそれとも「一太刀で」討ったというのかは不明。
流派も「当流」とあるだけで。
OK、言い換えよう。
義輝のエピソードを下敷きにした創作ではなかろうか。
559 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 12:07:01
>>558 創作だという証拠はどこにもない。
思いつきと現実性の間には往々にして差があるものさ。
蓮成院記録にも、信忠が打って出て三度敵を撃退したが最後には多勢に無勢でやられた、とあるしな。
信長の息子なら、金ヶ崎の信長みたくなりふりかまわず逃げて後日を期すほうが似合ってたかもね。
それをいったら信長自身も、だけども。
蓮成院記録の記述は、惟任謀反記における信忠最期の描写の裏づけにはならないと思う。
信長も同様の最期の様を語られているのは知っているだろう?
思うのは勝手だが、それだけで史料を創作扱いするのはどこの偉い様のつもりなんだろうか?w
563 :
日本@名無史さん:2009/02/07(土) 13:17:26
>>562 逃げる場合だが、近江坂本が光秀の領地であったのが問題だ。敵の真っ只中に飛び込んでいくようなものだ。実際は坂本の明智軍は、たぶん連絡が届いていなかった関係で、これといった動きを見せていなかった。
瀬田橋近くの山岡氏は反光秀となって瀬田橋を焼き落としたくらいだから、近江を目指せば無事安土城に戻れた可能性も大きいのだが、それは結果論だ。
史料と文献の違いが理解できてない間抜けは物言わなくていいよ。
そもそも惟任謀反記をではなく、信忠最期の描写を創作ではないかと言っているにすぎない。
>信忠最期の描写
おまえ見てきたのかよ!
て事だよなw
織田一族の人材不足がたたったな。
能力・地位ともに信長が圧倒的、ついで信忠。
他にはこれといった人材がいなかったから家臣団の台頭を許した。
信雄と信孝は能力も信忠に及ばなかったが、最悪なのは仲悪くてお互いを潰すことしか考えなかったこと。
>>559 二条攻めでは、明智五宿老の一人・明智光忠も負傷しているしね(療養中に山崎敗戦を聞き自害)
具体的に討った相手の名前も出ているんだから別人の逸話に大雑把ににているからって創作だとするのは無理がある。
状況、戦いぶりそのほかもまったく違うし。
568 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 16:33:25
子供のころにみた歴史題材にしたテレビ番組で、
「暗愚な信忠のために、優秀な徳川の跡取りを殺した信長」
という筋書きで再現ドラマやってたんだが。
そこで信忠は軍議中に鼻くそほじっているバカボンに描かれていたw
実像はかなり違うんだね。
勇猛な若武者って感じだ。
高遠城攻めでも陣頭に立ってなかったっけ?
>>566 信雄と信孝は、当時の史料ではそれほど仲悪くないぞ。
信忠、信雄、信孝の3人の交流はそれなりにある。
だが、本能寺の後、秀吉が三法師を担ぎだした辺りから
決裂していく。
>>568 2代目としては申し分の無い人物ではなかったかと言われてるね。
というか一般に流布してる「優秀な信康」という話自体がかなり怪しい。
通行人に矢を射掛けたりした、という話もある。
あと関係無いけど、少し上で出てる惟任謀反記。
これは軍記物だろ。
その記述の真偽を論じてもねw
571 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 12:27:10
日本史板にいるくせに、軍記物語と軍記物の区別がつかない人がいて、「思う」だけで暴れているの?w
むしろ信長の息子らしい最後では。
信長というと、天下の過半を一代で手にした勃興ばかりが有名だけど、元は家督継承時家臣に信頼されず、弟以下の兵しか集められなかった状態。
稲生合戦ではやっぱり弟側の軍勢に負けかけて本陣まで攻め込まれたんだが、
ここで信長自らが敵に突撃して敵将の一人すら討ち取って戦況をひっくり返している。柴田勝家なんか、これですっかり信長にしたがうようになった。
天下布武の元手は信長自身が武勇で勝ち取ったもの。
武勇の血が濃く伝わったんだろ。
まぁ他の息子h(ry
573 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 14:42:15
軍記物語=武将や戦乱を題材にした文芸
軍記物=物語形式で武将や戦乱の事跡を記録したもの
まぁ後者も創作が混じってるとか指摘される例はあるけどな。
根拠もなく創作呼ばわりはいかがなもんか。
ちなみに謀反記は秀吉側近もつとめた同時代の大村氏が書いた。他にも天正記とか書いてるな。
日本には正史を著述するって習慣がないからね。
お隣中国は記録マニアみたいなところがあって、倒した相手の王朝の事跡すらしっかり記録する。
優れた部分、優れた人物という倒した側からすれば都合の悪い部分も、はっきり残す。
日本にはそれがないから、私的記録かせいぜい読み物に頼らないといけない状況。
575 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 18:49:12
>>573 「関白任官記」なんて問題作も書いてるけどなw
>>574 ちと違う。
前王朝の事跡は次の王朝が記すとの不文律があるんそうだ。
576 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 13:05:02
>>574 中国では正史以外は認められず、正史編纂後、一次資料は破棄されてしまい残らない。
歴史を語ることができるのは権力者だけで、一般人が歴史について自由に論じたり、考えることは弾圧の対象。
中国が日本の歴史観に文句をつけるのはこのため。
577 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 13:15:00
正史以外の歴史書が多く残っていることに関してはスルーか
578 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 13:37:49
権力者サイドの編纂した史書の類を鵜呑みにする奴なんざ、
素人でもない限りいるわけねーし。
579 :
日本@名無史さん:2009/02/10(火) 13:41:46
>>578 中国だと一族郎党皆殺しだな
権力者の語る歴史こそが正しい歴史
>>579 三族だよ。
下手すると九族かもしれんw
とはいえ権力者の語る歴史こそが正しい歴史というのには少数の例外がある。
どこの話か忘れたが、偉いさんが「○×と書け」と命じたところ
記録係か何かが「それは真実と異なります」と抵抗、ついには自害した。
その後継ぎがやはり同様の経緯で自害、その弟が後任となるもやはり抵抗。
そこで偉いさんが諦めたそうだ。
581 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 12:52:28
>>574 権力者が編纂する正史は六国史で終わってしまうが、それ以後もさまざまな書物で日本の歴史をたどることが出来る。
ようするに、日本では1000年以上前に歴史編纂が官から民に移行したということ。それは言論の自由ということでもある。
いまだに言論の自由がないのが中国。
なんでこんな無関係スレにまで無知な嫌中は沸いてくるんだ?
都合悪い事実もきちんと記述されているのが正史。
例えば明は元にかなり酷い目に合わされたが、それでも元の長所ははっきり記録されている。
ウリャンハタイという元将は戦場でさえ無意味な殺害は許さない人物だった、とかも記述されている。
さらに皆殺しというのもステレオタイプなレッテル貼り。
例えば宋王朝は簒奪した元の主筋を上級貴族として最後まで厚遇した。
歴史はお前らが考えるほど単純じゃないんだよ。
嫌中やりたいだけなら相応しい板へ帰れ。
583 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:48:23
>>569 清須会議では、同席できないほど険悪な状態だったそうだよ。
あと信雄と信孝の確執はかなり根深い。
信孝のほうが生まれが先だったが、信雄の母に信孝の母が遠慮して後で届けたとか。
清須会議でも、信雄は誰にも後継者に推されず、信孝は後継者になれなかった後も三法師と岐阜城を預けられたりとかなり優遇。
実際、一致団結するどころかそれぞれ秀吉と勝家について騒乱おっぱじめるし。
ナンバーツーを決めないのが君主論的には正しいんだけど
そこが逆にあだになった感じだねぇ。
585 :
YAP?:2009/02/11(水) 22:10:26
少し前の話題と関連するのだが、信忠は確か、新陰流の疋田文五郎に剣を学んだとかいう話だったが?
何に書いてあったか失念したが、確か、「侏田分五郎」宛の入門の文書(多分写し?)が、あったはずだ。
>>585 それは事実。
上泉伊勢守信綱と別れて単身諸国をめぐる中で信忠の指南役を務めている。
それは凄いな
588 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 13:20:05
でも、信長自身は個人の剣ってたいして価値を見てなかったんじゃ?
信忠が自分で疋田陰流の門を叩いたのかな?
信長は蒲生氏郷が一揆との戦いで一騎打ちして勝っても褒めるどころかたしなめてたし。
有名な剣士を好んで招聘して弟子入りし、自身も奥山陰流の総帥代行を務めた徳川家康と違って。
>>589 嫌中は、すべてのほかの資料は焼かれた、と主張しているのにどうして改ざんと判定できたんだ?w
まぁ巣にかえってくれ。ここは学問板でな、一応は。
軍記物と軍紀物語の区別もついてない奴に続いて、正史(前王朝をついだ正統の証明の一つとして編纂)と稗史野史についても知識無いウヨのお出ましかぁ。
なぜ関係ないスレにまで出てくる?
相手にするからよってくるんだろ・・・本論に関係ないレスは無視しろよ
593 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 18:28:45
まったくだ
中華オタは失せろよ
>>582 何でこんな無関係なスレにまで無知な支那畜が湧いてくるんだw?
>>588 所詮、匹夫の勇でしかないとする価値観は武将なら共通だろう。
さりとてまともに剣もとれない武将は、いていいものではないだろうな。
信忠の入門の経緯は知らないけど、上泉信綱も疋田も方々で弘流に努めているから
誰かが引き合わせたか、評判を聞いて召し出したってところではなかろうか。
596 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 15:44:53
信長への謀反ってはじめてじゃないのに、全然身内への備えがなかったな。
監視とかしてなかったんだろうか?
京へ多数の兵が入っても信長らは敵が直接くるまで探知できなかったし。
下克上が当り前の戦国時代にちと迂闊すぎるような。
597 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 13:43:20
松姫とどうなったかが知りたいな
598 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 15:53:48
>織田信孝
秀吉の側近が書いた「天正記」でさえ、「知勇ともに人並み外れていた」と評されるように、決して暗愚ではなかったと思います。
他の資料に見る同時代の評価も高い。
が、本能寺の変や賎ヶ岳戦では戦わずして配下の兵を離散させてしまったりと、統率者としての器量まではなかったんでしょう。
>織田信雄
伊賀の土豪程度を独断で攻めて大敗したり、安土城を確保したのに焼いてしまったりと、実績はあまりよくないですね。
個人の力量評価も良いものは見当たらないし。
元々織田家自体が成り上がりで、織田家臣団は急速に膨張したもの。
信長の開明性として出自に囚われず最高幹部まで登用したことがあげられますが、逆にいえばそうしないと人材が間に合わない織田家の基盤の脆弱さの表れともいえると思います。
後の徳川政権が、首脳部を殆ど譜代の人材で賄えたのと対照的。
599 :
598:2009/02/14(土) 15:57:13
(切れた)
仮に信忠が生き延びたとしても、第二第三の光秀が出るだけでしょう。
信長の主要家臣の多くは信長の代に服従した者達で、伝統的なつながりがあるわけでもない。
秀吉もこれに悩まされ、養子や賜姓(名)を乱発したりしたけど、結局秀頼の代で家康に政権を奪われてしまってますし。
600 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 16:47:07
信孝は本能寺の変の当日
配下の軍から離れて
船団の視察に出かけていたんだっけ?
寄せ集めの遠征軍で
留守を預ける将に欠いていたのが痛かったなあ。
信雄は能楽は大得意だったらしく、秀吉や家康も感嘆した記録が残っている。
が、今川氏真(一般に暗愚とされていて大名武人としての実績は、せいぜい粛清工作ぐらいでたいしたことないが芸能や剣術といった個人技には優れていた)みたいで所詮芸能では……。
602 :
601:2009/02/14(土) 16:59:50
間違えた
秀吉が主催した能で公家を感嘆させたり、徳川実記にも高い評価が書いてある、だ。
>>597 変な小説の類は抜きにして、信忠と松姫は一度も直接会ったことがないよ。
松姫の父武田信玄が晩年都を目指して甲斐を立った時、
通り道に当たる徳川家康が信玄を通さじとして対戦。
同じく信玄の都入りを快く思わない信長が家康に援軍を送ったことから
武田に敵対した織田に娘はやれぬということで婚約破棄になった。
信玄亡きあとの武田家は、松姫のかつての婚約者織田氏によって滅ぼされる。
松姫は八王子に隠棲、かつての婚約者信忠の没後は出家して信松尼となり、
生涯独身を通した。
>>601 信雄だけじゃなく、信忠も能だか舞だかにはまってたんだよな。
信雄や信忠は、個人的なごくごく内輪の能楽や舞の披露に、
それぞれ信孝を呼んでるよな。
信忠は信雄と信孝、信雄は信忠と信孝を。
信孝はそういう趣味の集まりに関して記録がないから分からないが、
そうやって呼んだり呼ばれたりしてた頃は、信忠の存在が要になって
それなりにうまくやってたのかな?
>>604 そういうことだと思う。
自他ともに織田家継嗣と認める信忠が居ればこそ
信雄も信孝も一定の立ち位置に落ち着くことが出来たのだろうと。
派閥争いの根幹は後継あらそいだからなぁ。
606 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 11:58:18
一門中でにらみを利かせる大物、がいなかったからね。
毛利家も当主隆元が若死したけど、「両川」こと小早川隆景・吉川元春がお家騒動もなくしっかり嫡流を支えた。
それも元就が生きていればこそ、だろう。
しかし織田家ではそんな大物は信長その人をおいていない。
織田有楽斎とかの信長の弟は、実力や所領で既に秀吉らに抜かれているし。
信長がそういう大物になりえる人物を全部排除してるからな。
スレ違いなので詳しく言わないが、信長が織田家棟梁として確立するための
暗闘には凄まじいものがある。
身内の謀反への監視役って、信長から付けられた与力(寄騎)がその任務じゃないの?
光秀はそれを承知していたから、謀反成功まで細川父子とかと接触しなかったと思ってたんだけど。
(細川は光秀に協力するどころか、信長を悼んで出家しちゃうんだけど)
>>609 光秀が細川に届けた6月9日付けの「覚書」があって、
その2条目に「但馬、若狭は前の約束の通り」なるくだりがある。
610 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:05:46
組織統制論から言えば寄騎に監視の役目は与えない。
相互協力が前提となる合戦で相互不信の原因になるから。
普通に目付役を置けば済む話。
徳川家康は、商人と伊賀あたりの土豪(一般には忍者といったほうが通りがいいw)のネットワークを持ってたお陰でぎりぎりで助かったんだよね。
そのせいで家康黒幕論とかがいわれるわけだけども。
信長父子はそういう情報網がなかったんだろうか。
>身内への監視
荒木村重とか松永久秀とかも謀反できているから、監視体制ってほとんどなかったんじゃないか。
荒木謀反のときなんか、事前に詰問使まで送っているのに相手の言い逃れをつっこめず、実際にやらかされるし。
>>611 無い。
一向宗と事を構えたせいで、そういうネットワークから締め出されてる。
614 :
;:2009/02/15(日) 16:14:14
信忠が落ち延びたとして大阪あたりで四国攻めの兵を集めていた丹羽長秀に身を寄せるだろう。丹羽が信忠を担いで光秀に一戦を挑めばどうだっただろう?
615 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 17:34:17
信忠討ちもれとなれば、光秀の目論みは全くの失敗となるわけで、
進度は緩くなるけども、織田の天下統一も有りえたかもな。
616 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 12:50:29
信長って若いころから迂闊なところがあるんだよね。
美濃の斉藤が送った刺客団の前にわざわざ出て行って、俺を殺せるならやってみろ、とすごんで追い払ったとかいう逸話が信長公記にある。
他にも浅井や本願寺が裏切ったり敵方にまわる可能性をまったく考慮せず布陣してあわや、となったり。
実は他人や他勢力を信用しすぎて裏切られるタイプじゃないんだろうか。
617 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 21:48:46
>>616 たしかに、いろんな人に裏切られてるよね。
でも、人をきちんと信用するところが良かったんだと思う。
家臣が能力を生かして活躍できたのは、信長に信用されていたからこそのことだろうね。
新参者ばかりだし、古参の家臣や肉親でも裏切る時は裏切るし
疑ってたら切りがないしな。
619 :
日本@名無史さん:2009/02/17(火) 20:17:35
信忠が二条城から逃げ延びて岐阜に帰ってたとしたら、彼を中心にして天下統一事業が継続されてたんだと思う。
ただ信長がやってた武断政治から方向転換し、顕如を赦し京都に本願寺を建設させたり、足利義昭を京都に戻したり、毛利や上杉は領土を安堵して中途半端な天下統一になってたと思う。
秀吉は九州辺りに2カ国の大名で収まってたと思う。
620 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 12:12:49
本能寺って、寺といっても当時の武装化した宗教勢力らしくそれなりに堅固だったんでしょ?
それに警護人数は総計で数百いたわけで普通の謀反なら十分対処範囲内じゃ?
いきなり一万余が裏切り、かつ探知されず京に出現するという状況が異常すぎたんじゃ?
迂闊は結果っぽい。
しかもその劣勢の中で信忠軍は明智軍首脳を負傷させたりかなり善戦しているし、警備部隊の質で考えるとかなり強かったとみていいだろうし。
621 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 16:13:05
何故、明智みたいな義昭と縁の深い新参者を京近くに置いたのか
それが信長の誤算だったと思う。
明智は高山・中川・筒井・細川などの畿内の武将がついてるし勝算があったんだと思う。
しかしその後の光秀の行動がわからん。
公家を取り込むまではいいが、毛利と組んで秀吉を挟撃しようと思えば出来たはず。
622 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 14:47:40
明智光秀は政治軍事ともに優れ、かつ京とのパイプがあったからこそ付近においたんじゃ?
謀反というイレギュラーが発生しなければ、それほどの人材を活用しない理由はない。
信長好みの人材って、羽柴秀吉とか松永久秀とか荒木村重のように低い身分から自力で成り上がったタイプだが、光秀も出自すらはっきりしない身分から出世した人物
やっぱり伝統的忠誠の形成がなかったのが痛いのかもね。
しかもこればかりは信長一代ではどうにもならんし。
623 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 15:55:14
光秀は信長に国持ち大名に取り立てて貰った事に何の感謝も無いのか?
土岐源氏が奉行からの成り上がり天下人に仕えるのはよしとせず謀叛を起し恩を仇で返してる。
主君に対し謀叛を起すような輩には敵側の毛利も上杉もついてこない。
義昭や顕如にしても秀吉を取るか光秀を取るかだったら秀吉の味方をするのも当然。
>>623 自分は石ころのような立場から信長様に拾ってもらった、と軍役を指示する文書に書いたのは残っているけども。
恩義より野望ないし大義じゃね?
戦国時代では貸し借り無視は当たり前。
上杉今川北条の三者を敵に回して信長に仲介してもらった武田信玄は、「信長を粗略にしない。したら当家は滅亡する」とまで書状を送ったのに、信長の弱り目に乗った。
625 :
624:2009/02/20(金) 16:02:45
乗った→は手のひら返した
626 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 18:45:21
>>624 平気でそういうことをするから信玄は北條からも今川からも上杉からも信用されなかったんだろうね。
松永久秀もそうだが裏切りを繰り返してたら、その武将はそのうち周りから信義を失くす。
もしかして朝倉義景も味方であるはずの信玄を全く信用してなかったかもしれない。
627 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 19:27:39
信長に入れ込みすぎだ。信玄は、将軍の呼びかけに呼応したんだから、公平に
見れば信長よりも信玄の側に正当性がある。
628 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 19:29:44
信長は主筋の将軍をないがしろにして好き放題やってる人間に過ぎない。
政治的に義昭の動きを封じられなかった以上、正当性はないよ。
629 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 19:34:08
むしろ、義昭を謀殺して、所領をなくした今川氏真をお飾りの後継将軍にして
意のままに操るなどといった発想は信長にはなかっただろうか。
630 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:14:38
足利将軍なんて初期のころから都を敵に奪われて
地方に下っているのなんて当たり前だったからな
正統性も何も
別の人間が天皇から将軍に任じられてしまえば
すべてひっくり返る
631 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:18:57
足利将軍が義満以降に公家化したことも原因なんじゃないの?
632 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:30:28
「錦の御旗」の効果は太平記なんかに強調されてるけど
(天皇の命令ね)
幕末の将軍の権威なんてどれほどのものなんかな?
天皇は滅ぼされなかったけど
将軍家は入れ替わり、滅んでるわけだからさ
将軍の命令が絶対じゃない時期が来るってことだよね
633 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 20:32:18
信玄も都に昇る以上、将軍になりたかったんだと思うんだよね
じゃあ、これまで上洛の口実にしてきた足利将軍をどうするんだよと
結局やることは信長と一緒じゃないかと
まだ将軍にならなかっただけ信長のほうが考えは数段上かもね
634 :
日本@名無史さん:2009/02/20(金) 21:01:48
いくさには大義名分が必要。朝廷や幕府の令に呼応するのはこの上ない大義名分。
命令する側に実権があろうがなかろうが、周囲がそこに正当性を見出す以上は
是非もない。
信玄に将軍の継承権があるのであれば、軍事力を盾に政治的に義昭に圧力を加えて
後継者として認めさせればいいこと。それができなければ諸勢力を敵に回すだけだから、
自滅するか義昭のお飾り状態への不満からごねるのをなだめすかしつつ実権を握るかの
どちらかだろう。
635 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 09:35:06
仮にもしも信玄が都を制圧してたとしても、義昭の武田倒滅の密命が朝倉や浅井や毛利や上杉や北條に行っただろうな。
義昭に限らず足利将軍は有力大名を利用しようとしてるけど、結局、己に力が無いから謀叛を起されて殺されるか、あるいは京から追放されるかのどちらかしかないと思う。
松永久秀は将軍を殺したが、信長はそれをあえてせずに河内の若江城に追放するに留まった。
636 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 19:21:22
一説には信長は将来的には天皇制を廃止して自らが王になろうとしてたと言われてる。
それを恐れた公家衆が光秀に謀叛を唆したんじゃないかと。
ただし近衛前久は信長とは懇意だから加わってなかったかもしれないし。
637 :
日本@名無史さん:2009/02/21(土) 19:32:27
公家筆頭の近衛家が、わざわざ自分の正当性の根拠である朝廷を否定して
新興勢力である信長に与するとも思えんが。
638 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 01:16:47
公家衆の勧修寺晴豊が信長に三職を薦めてたのは何で?
信長を関白か太政大臣か将軍のどれかに任命することで満足させようとしてたのか?
中国に出征せずに京の泊まったのは朝廷に対し、その返答をするためじゃなかったの?
639 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 15:13:01
足利義昭は、それこそ流浪して朝倉にも体よくあしらわれてたところを信長に助けられて上洛できて将軍にもつけたわけだからな。
恩義の問題でいえば、武家の棟梁自体がその恩ある相手をないがしろにしているんだ。
ほかは推して知るべし。
だいたい武田信玄自体、足利義輝時代に将軍からの和睦要請に従わず、したがった謙信の留守を狙って攻撃して幕府の敵、とはっきり指定された相手。
義昭はそれにすがったわけだからもうひっちゃかめっちゃか。
640 :
日本@名無史さん:2009/02/22(日) 18:51:52
信長と義昭が不和になったのは信長が義昭に五箇条の覚書を送った辺りだと思う。
諸国の大名に送る御内書を一々信長に許可を取らないと駄目だとか将軍の力を規制しまくったからな。
信長は幕府を不要なものと感じてはいたが、かといって滅ぼそうという考えもなかった。
しかし元々、織田との確執が深い朝倉が義昭に唆されて打倒信長を決意すると、周囲の大名もそれに乗じ反織田連合軍が結成されるようになった。
連合軍たって各大名の動きを調整する親分がいる訳じゃなし
武田が西上してる時に朝倉は勝手に退却するし
ハッキリ言って烏合の衆。
642 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 11:54:08
足利義昭は、どんな将来像があって織田と敵対したんだろうね?
単に将軍の地位を保ちたいだけ、なら信長に任せればいい。
誰の指図も受けたくない、というのならそれこそ本末転倒。幕府自身に力がないからこそ、将軍が京から追い出されたり暗殺されたりする事態が続いたわけで。
諸大名の連合の上に君臨しよう、というのも虫がいい話で、そんな綱渡りが実現する可能性は低いし。
643 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 15:00:02
>>642 愛され上手(笑)な私を盛りたててくれるスイーツ(笑)なデキる戦国大名大募集。
高級ブランド「副将軍」の地位は、あなたの自分磨きに役立ててね(笑)。
滅私奉公の大名が私を無償で守り立ててくれる、と期待したんじゃないか。
645 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 15:49:45
義昭は政治力に優れているから、田舎大名程度ならコントロールできる
自信があったんだろう。
646 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 16:47:07
>>641 信玄は朝倉義景の退却の報を聴いてキレてたんだっけ。
>>644 義昭の魂胆が見え見えなんだけどね。
大名からすれば「こいつは俺を利用しようとしてるな。じゃあ逆手を取ってこっちが利用してあげるよ義昭ちゃん」って感じだもんな。
朝倉の撤退は、最大の原因が経済的破綻という説があったような。
義昭が信長に敵対したのは芥川の一件を根に持ったからだと思う。
信長の政治オンチ、あるいは人たらしの手腕の無さを物語っている。
経済破綻云々以前に豪雪地帯なんだから
降雪で交通が遮断される前に引き上げなきゃならん
勝家も謙信も冬は動けなかった
義景が勝家や謙信以上の猛将であることを期待する方が非現実的。
そういう大名それぞれの事情を思いやらず、俺様の為にお前ら必死に戦えなんて無茶な要求をする
足利義昭や武田信玄の戦略は机上の空論と言える。
所詮、烏合の衆だからな反信長は。
統一された指揮系統があるわけでも、信長打倒後のビジョンを共有してたわけでもない。
史実として信長の戦略と外交によって各個撃破くらったし。
この時信長と和睦しなければ……というのは本願寺にも浅井朝倉にもあったが、それを他者が止めるのは無理だし。
650 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 13:47:45
だいたい信玄自身がどこまで本気で上洛する気だったのやら。
自分は徳川領切り取りに熱心だったし。
上洛喧伝して朝倉らが織田を拘束しているうちに手じかに領土拡大、が本音だったんじゃないの?
651 :
日本@名無史さん:2009/02/25(水) 16:04:50
織田が天下取れたのは京に比較的近い美濃を平定したからといっても、近江北三郡の浅井に妹・お市を嫁がせて信孝を北伊勢の神戸へ養子にして、南近江の観音寺城などを陥れて六角を蹴散らし入京。
それも上杉とは密約を結んで武田を牽制してる辺りは手抜かりは無い。
織田でさえ上洛がこれだけでも大変なのに、武田のいる甲斐は京より程遠く、北は上杉謙信、東に北條がいるわけで上洛すれば必ずその隙を攻めいられるだろ。
信玄が本気で天下獲りを目指していたとは俺には思えない。
信玄が天下を狙うというのは普通になかったんじゃないのかな。
ただ、あの時に上洛しようとしたのは事実で、義昭はものすご〜く頼りにしてただろな。
来ないとわかった時の失望はいかに・・
いろんなタラレバはあるけど、信玄がもう少し長生きしてたら、信長は忘れ去られたような存在になってたかもね。
最終的には徳川の世になってただろうけど。
653 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 12:04:11
無理でしょ。
信玄が長生きしていようが、大勢は変わらない。
浅井朝倉らの滅亡が少し伸びた程度じゃ?
江戸期の講談とか、幕府が甲州流軍学採用したりとかのイメージのせいで信玄強い、となってるけど。
現実に信玄は必勝を約束されたわけでもなし。
むしろ信長に蹴散らされて後世ほど虚像が作られなかった、というオチになった可能性も十分ある。
国力からしたら織田がもう圧倒的優勢だし、信玄が抱えていた後背の上杉なんかは、畿内の反織田勢力よりはるかに強大な相手だし。
空にして長期遠征とか無謀すぎる。
仮に信長を打ち破れたとしても、上洛にかまけたせいで没落した大内氏あたりの二の舞になるだけじゃ?
654 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 14:04:16
普通の大名は別に上洛なんか興味ない
織田信長と上杉謙信
あとは大内くらい
桶狭間と三方原もはたして上洛戦だったのか?
畿内勢力だけだろう
天下取りだとか天下を動かすとか考えるのは
もし信玄が天下取りに本気なら
川中島なんぞにこだわらない
655 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 15:51:51
>>606 そこは大事だね。秀吉も一門の力がなく自滅。
その点家康は御三家を創設している。信雄と信孝に力が
あれば良かったけどね。信孝は四国征伐の途中で軍が
混乱したのが痛手だった。一族に力を与え過ぎると内紛に
なるけど、力が無さ過ぎると、家臣の台頭を招く。
656 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 18:52:06
あの謙信だって「天下を取る意志は無い」とか言ってしまうと、家臣団の団結が削がれてしまう。
本人が望む望まない関係なしに、越後の国威高揚、家臣達のために上洛を考えるようになる。
少なくとも謙信は戦国乱世を終わらせたいとは考えてたとは思う。
織田信忠も天下取りを
考えていたんだろうか
謙信以上に執着心が薄いようにも思えるが
658 :
日本@名無史さん:2009/02/27(金) 20:14:25
京都〜岐阜(または清洲)の直線距離に匹敵する距離
1 上越(春日山)〜高崎(上州)
2 甲府(甲州)〜掛川(遠州)
3 高田(安芸)〜足守(備中)
4 米沢(出羽)〜余目(出羽)
5 鹿児島(薩摩)〜八代(肥後)
6 駿府(駿河)〜蒲郡(三河)
7 小田原(相模)〜島田(遠州)
ちなみに
ロンドン(イングランド)〜パリ(フランス)の直線距離(約340km)に匹敵する直線距離
1 仙台(陸奥)〜むつ(陸奥)
2 江戸(武蔵)〜古川(陸奥)
3 江戸(武蔵)〜関ヶ原(美濃)
4 清洲(尾張)〜尾道(備後)
5 鹿児島(薩摩)〜宇部(長州)
戦国時代の日本各地方及び他国の人口
http://www.cosmoplan.co.jp/study/data/todouhuken/tyoutyouki_jinkou.htm http://www.geocities.jp/kingo_chuunagon/kikaku/kokuryoku.html 現中国領域16000万人(明朝・万暦帝) 現印度領域13500万人(ムガール朝インド・アクバル大帝)
露西亜全域*2070万人(ロマノフ朝ロシア) 仏蘭西全域*1850万人(ブルボン朝フランス)
現独逸領域*1600万人(プロイセンほか) 伊太利全域*1310万人(ローマ教皇領、ハプスブルク家その他)
西班牙全域**824万人 (ナバラ王国・レオン王国・アラゴン王国・カステーリャ王国その他)
英蘭国全域**617万人 (チューダー朝イングランド・エリザベス1世)
日本国全域*1227万人 (正親町天皇)
摂津国全域***86万人 (荒木氏や高山氏など)
陸奥国全域***73万人 (南部氏や津軽氏)
武蔵国全域***71万人 (北条氏)
愛知県全域***48万人 (織田家や徳川家)
千葉県大半***47万人 (里見氏など)
河内&和泉***47万人 (三好氏→松永氏)
新潟県全域***42万人 (上杉氏)
三重県大半***36万人 (神戸氏や九鬼氏)
出羽国全域***34万人 (伊達家や最上家)
岐阜県全域***33万人 (織田家)
岡山県全域***33万人 (宇喜多氏)
近江国全域***32万人 (六角氏や浅井氏や京極家→織田家)
静岡県全域***30万人 (今川氏→徳川家)
広島県全域***28万人 (毛利家)
常陸国全域***26万人 (佐竹家)
肥前国全域***25万人 (竜造寺家→鍋島氏)
豊後国全域***21万人 (大友氏)
紀伊国全域***20万人 (筒井氏)
土佐国全域***15万人 (長曾我部氏)
鹿児島全域***13万人 (島津氏)
>>659 あれ?
確か中国の人口が億超えたのって、清の康煕帝か乾隆帝の時代だったと思うが、そのサイトは何を参考にしているのだろう。
万暦年間の初期で6千万くらいだったと思うが。
それで明末の戦乱でかなり人口が減ったような記憶があるが。
>>653 そうだよ、大勢は変わらない。
ただ、信長包囲網が完成してれば、ってことでね、信長はあの時点でかなり危なかった。
その前でも義昭が講和したからよかったものの、実際は信長からはなんの手段もなかった。
だから、信玄が生きてたら、ってのはあくまで信長限定でね、信長に信玄を蹴散らす力はなかったろうし、なにせ包囲網が強力でどうしようもなかっただろう。
もちろん、信玄が天下を狙うとかは違う話で。
>>654 桶狭間はいろんな説があるけど、どうだろうね。
上洛、と言っても即天下を狙う、という意味ではなく、あくまで足利の要請とか、自領をの安堵を確固としたい、ぐらいの意味でしかなかったろうし、もう少し他国の侵略という意味で上洛したのはやっぱり数少ないだろうしね。
662 :
日本@名無史さん:2009/02/28(土) 12:13:42
>>661 信玄が西進しはじめたのは、包囲網が破綻しかけた時期じゃないか。
信玄は朝倉の退陣を怒ったが、その浅井朝倉は信長本隊が引き上げた後、虎御前山(防壁付き補給路さえ備えていた、信長得意の野戦築城)を守っていた木下秀吉の一隊にあっさり撃退されている程度。
動員兵力が互角程度でも信玄の勝率はせいぜい五割。(徳川も潰れたわけじゃないから、その分さらに不利か)
危険な賭けだろう。
663 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 13:51:13
信玄だって元々は信長の同盟者かつ幕府の敵、だったわけだからなぁ。
ばらばらの包囲網側と、信長というリーダーの下統制された織田軍。
短期的にはともかく、長期的には勝てるわけないね。
664 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 15:22:21
665 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 20:28:50
毛利はすぐに羽柴と講和したし、北条も当初は滝川に不戦通告を出していたらしいじゃん。
信長が死んでも後継者が天下人になることは既に敵対勢力も想定していて、内紛の
際の諸勢力に肩入れして自勢力の生存に有利にもっていこうとしたのは明白。
毛利や北条がそのように判断したターニングポイントが、本願寺降伏か、武田滅亡だったかは
分からないけど。
>>619 別に一向宗自体は信長の時代から保護してたよーな
信長が滅ぼしたのって実際に土地と民をもって政治をやっている宗教勢力であって宗教そのものじゃない
攻撃的な日蓮宗は嫌いだったみたいだが
あくまで宗教という範囲で留まるなら信長はむしろ寛大な方だよ
あと信長より信忠の方が熱気盛んで全部ぶち殺して平らげるぜってタイプだと思う
森長可とかと割と気の合っていたみたいだし
>>631 明応の明変で奉公衆が壊滅しちゃったからでしょ
室町幕府の有名無実化
それまではなんやかんやいって将軍家には力があったよ
将軍という名と、奉公衆っていう実があったから
それ以降は軍事的基盤が無くなって右往左往
>>661 包囲網完成してもまだ手元に2万ぐらい動員できた計算じゃなかったかしら>信長
信玄なんかは信長よりずっと早くうまれかつ戦国大名として独り立ちしていたんだから、最初から上洛→それによる天下取りというビジョンをもって動いてたら歴史が変わったかもね。
でも現実にそのビジョンをもち、かつ現実に対処する戦略を持ってたのは信長だけだった。
668 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 12:08:20
天下布武、という印章を使い出したころかな?
信長が独特の価値観を明確化して動き出したのは。
669 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 13:59:12
キリシタン弾圧も起きなかったかも知らんのにな。
キリシタンは弾圧して正解だった気もするけどな。
布教と侵略が一体化していたのが当時だから。
まぁ信長自身は神とか一切信じてなかったそうだから、領土まで宣教師に献上した大名のようにはならんだろうが。
671 :
日本@名無史さん:2009/03/05(木) 15:11:35
信長に弾圧は出来ただろうかな。諸国大名は鉄砲欲しさに
ヨーロッパに日本人をバンバン奴隷出し続けてだ。
キリシタン弾圧は秀吉がうまいことやった。
大名なんかは改易すればいいのだけど、農民は動かすことが出来ない。
なので農民に異教が広まる危機を察知、すぐに行動してる。
あの時代に宗教の怖さを理解、対処するというのはたいしたもんだ。
一向宗と十年戦争した織田の武将が理解してない訳無いだろw
一向宗以外でも寺社が普通に武装してた時代。
ちょっと言い方が誤解を招いたな。
海外からの異教、というのを強調したかった。
日本というのは外からの文化はうまく取り入れ日本的なものに作り変えてしまう特質がある。
飛鳥時代の仏教からはじまり朝鮮系の文化、技術もそう。
現代でも戦争に負けた敵国の文化、言葉を平気で受け入れている。
カタカナで言うと何でも素晴らしいもの、カッコいいもの、に聞こえてしまうのは今となっては当たり前すぎてかえって気がつかないぐらい。
それはともかく、「十字架あたえておけば言うこときくがや」みたいに利用しようとせずに、向こうが海外の珍しいものなんかを持ってきても、信長と違って心を奪われなかった。
具体的な日付とかは忘れたが、かなり迅速に効果的に禁をだしたりしてる。
信長は別に心奪われてないだろ、キリスト教に
あ、ごめん、キリスト教じゃなくて珍しいモノのことね。
フロイスだったかオルガンだったか忘れたが、立ち話でずっと質問してた、とかいう話も残ってるし、珍しいモノ好きではあったんだろな。
黒人さん、洗濯したり。
だんだん主張が後退してるなw
珍しいモノ好きじゃなくて立証好きなんだよ>信長
池に大蛇が出ると聞けば自ら潜って確かめるし、生まれが存在しないとホラ吹く坊主には問いただすし、黒い人間が居れば洗って本当に黒いのか確かめる
もらってもどうせ壊しちゃうし、壊れたの直せるのはアンタたち南蛮人しかいないから時計は要らない、帽子でいいや
信長ってこういう人だし、南蛮品の希少の部分に価値を見いだす人じゃない
立証好き、というのは面白い言い方だぬ。
よく、自分の目、頭で見た、確認したものしか信用しなかった、みたいな表現からその好奇心とか独立心とかに話をもっていくのはあるけどね。
ひどいと、猜疑心、とかそっちへ持っていって信長の中傷みたいな言い方してるのもいるもんね。
性格や人間性は単純にこうであった、なんて一概に言えるものではないけど、公記の最初にでてくるような話はやっぱり「うつけ」に結び付けて信長が周りとはいかに違っていたか、の強調と考えるのがいいのかな。
安土城が出来た時にわざわざバテレンさんよんで案内してるけど、こういうのもやっぱり回りから見て「印象的」だからこそ記述が残ったのだろうけどね。
信長は宣教師に地球儀を見せられたとき、地球が丸いということを他の家臣が理解できなかったのに、「理にかなう」といって即座に納得したそうだよ。
後世の作り話くさいけどさ。
681 :
日本@名無史さん:2009/03/07(土) 16:49:02
フロイスの日本史に載ってるから、後世の話ではないんじゃ?>地球儀
まぁフロイスはキリスト教を信じているか、理解があるかで評価の起伏が激しいと評価されるけども。
あれ、地球儀なんて載ってる?
地図は確認されてるけど、信長は地球儀はみたことあるのかな。
最新訳とか知らないから、信長が地球儀みたっていう該当箇所あったら、教えてたもれ。
>>682 フロイスの日本史・48章に載ってるらしい。
どうやって日本に来たか、を説明するのに使ったそうだ。
今手元に全訳ないんでググった結果だからあまり信用しないでくれw
>>683 さんきゅ。
48章か、今度見てみよう。
>>653 上杉は北陸と関東で忙しくて1574年末まで武田どころじゃないぞ。
実際信玄は当時から評判高かったし、その兵も上杉と並んで日本一と
書いてる当時の記録もある。
情勢で見ても十分勝算あるな。
>>662 朝倉が虎御膳の秀吉勢相手に勝利してる事は複数の書状にあるんだが、
信長公記は完全に黙殺してるのな。
もともと公記は秀吉の時代にできたといわれてるから都合悪い敗戦は
隠してるんだろうな。
春からも朝倉勢は出陣して武田に呼応する構えを見せてるから
信玄生存なら十分勝算あるだろ。
>>667 信長も途中までそんなもん持ってたとは思えんが。
>>663 勝てないとはとても思えんが。
実際志賀の陣で屈服してるのは織田だからな。
>>685 勝利ってどんな勝利?
主将の秀吉を自刃させたの?
それに勝ってるのに何で家臣が寝返るの?
織田にとっては十分な勝利だろw
>>686 屈伏って、8月には朝倉浅井がもう織田の城を攻撃して返り打ち
半年時間を稼がれただけでもうダメポ。
>>687 少なくとも周辺諸国に響き渡るほどの勝利で
はるばる常陸からお祝いされてるくらいだな。
主将が自害するなんてよっぽどの事じゃないとないしな。
その寝返った朝倉家臣は馬上で義景に無礼を働いて許されなかったから
織田に寝返ったんだけど。
いやいや。君の夢を壊して悪いが完全な屈服。
浅井に対して「朝廷や公方の事はそちらの思うとおりにいたします」と
信長自身が書き送ってるくらいの完全屈服。
第一、志賀の陣は9月から始まるんだが。8月の事出してなにいってるんだか。
森可成・織田信治・坂井政尚・織田信興・その他といった多くの武将が戦死してるし。
逆に返り討ちにあってるのは織田。
>>685 戦国時代に「日本一」の称号さがしたら両手じゃたりない
>>689 例えばどんな?
れっきとした織田領の中で
「武田上杉の軍は天下一である」と書かれてるんだけど。
ここまで明確に一次資料で天下一強い、と書かれた例って他にどんなのがある?
691 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:16:03
その信玄が、ほんの数年前には信長に泣きついて和睦斡旋してもらって、
「信長を粗略にしない。したら当家滅亡である」と書状ではっきりいっているわけだが。
強弱というのは相対的なものであって、○○の軍は強い、という風評だけで勝てるのなら誰も苦労しないよ。
島津家が、奮戦してまけた真田家を惜しんで、天下一といったら真田最強なんだ、という奴と一緒かw
でも現実には真田は天下取ったわけでもなく、大阪の陣で滅んだ後。
勝ち組徳川についたほうの長男家は残ったが。
書状の文面なんてそんなもんじゃないの?
相手に歯の浮くような言葉いわれて舞い上がって、結果逆襲されて滅ぼされたらそりゃただのアホだ。
693 :
692:2009/03/19(木) 15:26:35
天下一→日本一
>>691 織田も織田で、その数年前には武田に「こちらから子息四郎様に嫁を出しますから
婚姻同盟してください」とはっきり言ってるんだが。
当家滅亡っていうのは織田が自分達より強いから、じゃなくて
当時の武田は北条・上杉という2大勢力を相手にしていたから
これに織田が加わったらという仮定の話。実際当時の織田にそんな事できるわけもなし。
意味取り違えないでね。
少なくとも武田が強いと見られていたことは事実だし、西上時の状況から見ても
勝算は十分あるが。
>>692 >>相手に歯の浮くような言葉いわれて舞い上がって、結果逆襲されて滅ぼされたらそりゃただのアホだ
だから勘違いすんなと言ってる。
どうしてこう恣意的解釈したがる奴が多いんだか。
「武田上杉の軍は天下一」と日記に書いたのは織田家中枢とはまるで関係のない
大和の国の住職だ。庶民レベルで武田が強いという風評があった事がわかるな。
当然それで武田が舞い上がるわけもない。
現実にはその武田も上杉も天下取れたわけじゃないしな。
武田にいたっては、滅ぼされているし。
上杉だって本能寺というアクシデントがなければ自力で織田撃破なんて無理だっただろう。
>>694 それがしゃれにならない事態だから、信玄はへりくだったんだろ?
信長が敵にへりくだって見せたのと一緒。
後世の無責任な戦国ファンと違って、連中は命がけだからつまらん面子なんて必要あれば捨てるだろ。
そもそも強い、という風評の出所がわからんからな。
武田や上杉は、劣勢の敵に大敗したりしている。(上田原・臼井)
逆に弱いとされる尾張の織田兵が、桶狭間の大逆転とかやっているわけで。
意味があるとは思えんが。
>>696 強い、という事と国力や周辺状況とは違うからな。
織田の持ち味は物量戦だし。
だからそれは
>>691が期待するような織田が武田より強いから、じゃないわけよ。
>>697 大和国興福寺の記録。
ていうか劣勢の敵に大敗したというなら織田のが話にならんだろ。
伊勢長島にどれだけ痛い目見せられてるんだか。幼君の斉藤にも言うに及ばず。
朝倉浅井にも苦渋。
武田は上田原でも反撃して村上の武将を何人も討ち取り、戦場から先に引いたのは
村上だが。
>>698 勝手に人のレス無視して内心まで決めるな。
オレははっきり「強弱は相対的」、といってるぞ。
いくら誰も自分の賛同してくれないからって……。
700 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:49:21
まぁ史実は歴然だけどな。武田対織田、という話なら織田の圧勝・武田滅亡。
このスレはさらにその後の話じゃないか?スレタイからいってw
701 :
日本@名無史さん:2009/03/19(木) 15:52:23
織田兵はともかく、信長は鬼みたいに強いな。
稲生合戦(弟との家督争い)、桶狭間合戦(対今川)、森部合戦(対斉藤)、天王寺合戦(対本願寺)で優勢な敵軍を陣頭指揮で撃破している。
>>699 相対的、っていうのは武田と織田を比べて、って事だろ。
わざわざ書状を都合のいい部分抜き出してきた以上狙ってやったのかはしらんがな。
いくら織田を持ち上げたいからって無理だと気づけ。
>>700 織田はその後すぐに崩壊したがな。
西上のときに信玄が死んで反撃が消えたのは惜しかった。
>物量
それをいったら武田だってそうじゃないか。国力兵力の優越があったから、それより小さな相手に勝ってこれた。
まさか少数で大敵を破らないといけない、とかもろゲーム厨みたいなこと考えているのか?
上田原はじめ「信玄の三大敗戦」といわれる戦で負けても致命傷にいたらざずすんだのは物量のお陰。
バカ?w
>>701 大良川原、14条、河野島、伊勢長島第一次、伊勢長島第2次、
餓死寸前一揆800人に一族10人殺された伊勢長島第三次、
屈服した志賀の陣と負けも十分多いが。
森部が敵優勢っての何が根拠なんだか。
>>702 >都合のいい部分抜き出してきた
つ鏡
>すぐに崩壊したがな
武田が負けて滅んだ事実は変動しない件。そろそろ負け惜しみのネタも尽きた?
>>703 三大敗戦なんて言い方誰がしてるんだか。いってみ。
まさかと思うが第4回川中島を入れてるんじゃないよな?
武田は上杉北条という対等以上の相手と戦って勢力を伸ばしてきたがな。
そこらへん見ないで同格とは戦って領土とったこともない織田を同列視するとは
馬鹿なのかゲーム脳なのか。
>>705 少なくとも俺はそんな事してないが。
あるのなら出してみ。
もともと西上で勝算があるかどうかだからな。
十分あった、を否定するネタはなさそうだな。
まぁ武田が厨がいうほど最強なら、それこそ堂々と天下決戦に臨めばいいわけで。和睦斡旋とかで世話になった信長の窮地を狙って裏切り攻撃かける必要性自体ないだろうからな。
>>708 俺は別に最強とかどうとかは興味ないがな。
当時の評判として天下一強いというのがあるだけだ。
その織田自体が武田と織田の両属していた岩村遠山を勝手に併合したんだが。
よく被害者面ができたものだ。
史実=織田が武田に勝利、滅ぼした
でもこんな記述をどっかの坊さんがしていたから武田が強かったはずだ!
別の当事者の書状をひき、相対的、と状況次第で武田が強くなる可能性も認めているレスを勝手に脳内でそう信玄が書いた理由と織田贔屓である相手だ、と一方的決め付けしている、として噛み付くレスも正当だ!
ってかw
……戦国板あたりに帰ってください。
敗戦が多いからって、劣勢破って勝利した戦が消えるわけじゃないしねぇ。
何いいたいのかさっぱりわからん。
五分の条件なら、そら勝敗は五分五分。
だから史実では双方必死に有利になるように寝技みせたりへりくだって見せたりしていたわけで。
武田厨のゲーム厨は論旨をまとめてください。
>>710 頭大丈夫か?
もともと上のほうで武田は強くないから信長に勝てない、
みたいな事かかれてたからそれに対する反論として
当時の記録をだし、それに対して織田に当家滅亡だと信玄が言ってるとか
明らかに織田持ち上げたレスを出し
今になって突っ込まれると前後関係歪曲して印象操作か?
少し前のレスさえ見れない痴呆かは知らないが。
>>711 5分じゃなくて明らかに優勢の状態で劣勢の相手に大敗してるんだが。
これで敗北回数多い事を隠して武田上杉の少ない敗戦を大きく出し、
織田が強いといわれてもな。
まあろくに史実の流れも見れない織田厨のゲーム厨はもう少し勉強しとけ。
まぁ、偏った武田贔屓の妄想はおくとしても、信玄と信長ガチでやったらどっちが強かったか、は非現実的とはいえ面白いテーマだね。
ファン同士の泥仕合が落ちだけども。今みたいになw
信玄が長生きしていたら、というが当時の基準からすれば十分生きてたのでは?
自分が甲斐と信濃過半を手にしていた頃、尾張半国もなかった織田がいつの間にか天下を左右する勢いになった。
自分が存命のうちに潰しておかないとこりゃ大変なことになるぞ、と余命に鞭うって無茶したんだろうな。
まぁむしろ信玄が敵対したせいで織田と不倶戴天になってしまった、ともいえるが。
普通に後背に敵を抱えていた同士、同盟結んだままなら徳川家以上に頼りにされただろうに。
>>714 >>偏った武田贔屓の妄想
織田贔屓にも言える件
若い頃は将軍家の和睦命令すら平気で無視して幕府の敵、とまでなった信玄が、死に際になって将軍家の命令に応じたのはやっぱり危機感だろうね。
信玄は一生かけても二ヶ国と数カ国の分国しか切り取れなかったが織田は一代で六ヶ国以上を制圧。
名門甲斐源氏の誇りで、格下の織田に従うという選択j氏がない以上は無理しても叩くしかないからな。
四ヶ国では?甲斐、信濃、駿河、飛騨
あとは一国に匹敵する石高の西上野、美濃の一部、遠江の一部、三河の一部
慶長検地の石高を参考にすると、武田が勝頼時代の最大領土でさえ120万ぐらいなのに、
織田は四百万に迫っているからな。(最大は八百万)
五分でやったら、仮に風説どおりであっても数の差で武田ぶっつぶれ。
同盟破り、朝倉らせっつきも当然だろう。
>>719 信玄時代でも120万近くはあると思う。
勝頼時代は最大で130万石強かな。
織田は信玄西上時なら200万石くらいだけど。
武田の家臣は何かしら随一って話題になって笑った記憶がある
今川の岡部元信ですら日本一の名将なんて言われているな
弓日本一、槍日本一となると各地方でゴロゴロ……まあ戦国時代の名の通り群雄割拠の時代だから
東北の武将と九州の武将のどっちがスゴイかなんて比べようが無くて言ったモン勝ちみたいなものだろう
で、そういった話題は大都市である京都には話のタネとして、あるいは政治的な理由として集約されていくという構造
>>721 一次資料で明確に、話題の集約である畿内の記録に
「天下一の軍」と書かれてる例が他にあるの?
講談じゃなくて。
それこそ信玄とかのように、先代から一国ぐらいの基盤を貰って、それを一生かけて百万石ぐらいに育てたら名君、と呼ばれる時代。
信長の勃興がいかに常識はずれだったか……
天皇から直接の綸旨を貰い、「天道に感応する名将」と、岐阜制覇の時点で褒められているぐらいだからな。
他の大名に与えたインパクトは、今日じゃちょっとわかりづらいぐらいあったんじゃないか?
信玄は確かに一代の英雄だが、スタンドプレイで危機を回避するタイプじゃなくて堅実に動くことで成果を挙げた側。
だから信長のような派手な逆転劇とかはないけど、敗戦が連戦の割りにすくなく、大敗も致命傷にならなかった。
だけど後半生からは博打的な同盟破りまでして貪欲に上洛意識するようになるね。
縁戚で長年の同盟者だった今川を裏切り、その今川攻めのために組んだ徳川にも盟約破りの攻撃を駿河制圧しないうちから仕掛ける。
同盟を堅持することで攻勢正面を限定してきたそれまでの信玄とは別人のような危ない橋ばかり渡るようになる。
これも信長ショックの影響かね?
時代の流れが旧来の慢性的中世戦乱から、近世を求めてたってことでしょ。
それに適合したのが信長。
その信長が潰れても、時代の流れはかわらなかった。そういうもんさ。
宗教勢力とかとのしがらみずぶずぶのほかの大名では……。
>>688 無礼を働いたって負ける方にわざわざ寝返らないし
寝返ったのも一人や二人じゃないんだが。
>主将が自害
自害しなくても結局虎御前山を占領して朝倉の勢力圏にする事は出来なかったんだから
意味無くね?戦闘には勝ったけど土地は取れませんでしたってw
>思うとおりにいたします
そりゃ交渉の席では何でも言うさw
で朝倉はその言葉に見合うような権限を行使した事があるの?
>は9月
12月に講和翌年8月に朝倉は攻撃してるんだが。
>多くの武将が戦死してるし
そんなら浅井朝倉は主君が死んでるw
よく〜石、と勢力圏だけでその大名の力みるけどさ。
当時は独自性もった土豪とか寺社が乱立していて、後の大名権力で一元化された時代とは違う。
実効支配がどれだけあったか、でも汲みだせる国力に違いが出るだろう。
それこそ織田や徳川、あるいは島津のように一向宗とかを潰したところとそうじゃないところの差って結構あるんじゃない?
727 :
日本@名無史さん:2009/03/20(金) 16:13:07
「坊主の害毒」を潰したことが信長の功績だ、と江戸期の学者もいってるけどね。同時の凄惨だ、ともしているが。
そうなると宗教勢力と仲良しの連中が天下とったら、また中世続行かな?
>>724 信長も十分、宗教勢力とずぶずぶだが。
他の大名の政策の模倣ばっかりの信長に何をそこまで
求めているのやら。
>>725 少なくとも前波を除けば他の連中はたいした身分でもないがな。
無礼を働いただけでなく、それを義景に許してもらえなかった事が原因なんだが。
普通に逐電ものだな。
よくある話だが。
実際秀吉勢に打撃を与えてその力を削げば春からの反撃には十分な布石になるしな。
普通は負けてる側じゃないとこんな事いわんがな。
戦時交渉でこんな事言い出す側は負けてる事確定だな。
そして結構勝利を得てるんだがな。
織田陣地焼き討ちしたり、織田勢破ったり、例によって信長公記では一切スルーしてるが。
>>そんなら浅井朝倉は主君が死んでるw
志賀の陣での事言ってるんだが。頭大丈夫か?負けを認められなくてごまかしか?
>>723 そんなわけがない。
普通に今川と上杉が武田を挟み撃ちにする計画を立ててたから
武田は可能な限り速やかに今川を始末する必要があっただけ。
信長のショックって・・・。
>>726 正直な話信長もたくさんの宗教勢力を保護してて
争った事例のが少ない。
一向宗とも比叡山とも当初は戦うつもりなんかなくて
味方に引き入れようとしてるくらい。
>>727 江戸時代のどんな学者だろうか。
まあ実際は織田も法華宗や熱田神宮をはじめとして随分宗教には甘かったがな。
岐阜の命名をしたのも信長に使えてた僧侶のブレーンである沢彦宗恩だし。
731 :
日本@名無史さん:2009/03/21(土) 14:20:07
坊主の害毒、というのは明らかに一向衆を指してるだろ。
フロイスにも本願寺は「日本の冨の大半はこの坊主の所有」と記録している。
実際、加賀のように大名権力追い出した例さえあるしな。
一向宗禁令を出した戦国大名は多いし、一揆(イメージとしては江戸期の農民一揆だろうが、実際には武士階級も多数含まれ鉄砲装備率なんかは下手な大名を上回っていた)と抗争したところも多い。
家康自身、若いとき家臣団を割っての三河一揆と戦っている。
上杉謙信だってそうだったし、祖父も一向宗との戦いで死んでいる。
信長が不思議なのは、恐らく一向宗にもっとも苦しめられた大名のはずなのに、信仰するなとかは一切いってない。
信長側近の森一族も、ずっと本願寺同様の真宗だし。
732 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 13:50:30
まぁ、副将軍も管領もいらんから経済要地の支配権よこせ、という信長は当時としてはやっぱり常識はずれだったんだろうな。良くも悪くも。
それを信忠が無批判に継ぐかなぁ?
父ほどのエピソードもないし、常識路線に回帰しそうだが。
>>729 その原因を作ったのは、武田が義元の死をいいことに今川領を伺ったからだろ。
今川被官に内応の誘いかけたり、
挙句に氏真に遠江くれれば徳川追い払ってやる、とか挑発的な手紙送ったり。
>>732 そのあたりは興味深いどころで、とりあえず継いでしまって経済的に安定したらそれなりに続いたんじゃないかな。
でもやっぱり当時は経済よりも武力で、秀吉みたいなのが本気で反旗を翻してたら歴史は同じように動いてたかな。
この場合、信長がいつ死ぬか、というのが重要だし、生きてるうちに謀反起こすかどうかはまた別の話か。
当時にしたら信長もそれなりに長生き、という意見が出てたが、当時の寿命はどのくらいなんだろ。
わかってる公家さんとか皇族さんたちは結構長生きしてないかな。
全部知ってるわけじゃないけどこの前チラッとなんかでみたら60台、70台もいっぱいいるんだよな。
詳しい人いないか〜。
もちろん農民なんかわからないから、平均、って意味じゃなくて、わかってるだけでも長生きはいるんじゃないか、ってことだけどね。
信長が残した国掟がいくつか残っているが、その通りの政治が全域で継承していたらどうなっただろうね。
本年貢以外は徴収するな、とか通行税廃止、とかは被支配側にとってはかなりの恩恵だし、中間搾取することでもっていた寺社勢力とかの独立勢力にも打撃。
そういうのを信長の近代的合理性みたいに解釈するのが流行ってるみたいだけど、詳細に見ると決して旧勢力を駆逐しようとはしてないし、それどころか旧勢力と結びつこうとしている例もある、らしい。
つまり急激な領土拡大における統治の初期の一形態というか案外そのままの状態が続いていたんじゃないだろうか。
秀吉が検地刀狩りでそれなりに安定させた地方政治状態を作り出したわけだが、信長がこういうことを出来たかどうかはまったく未知数。
どういう政治システムになってたかは推測するにはおもろい点なんだけどね。
737 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:18:00
ゲームじゃないんだから、後世のイメージどおりの織田信長という能力と思想を最初から最後まで持ち続けたわけじゃないだろ。
何か変わるきっかけがあったんじゃないの?
前半生の信長って、部下の苦闘に涙したり、謀反した相手も一度は許して信頼したり、乞食に手ずから施しをしたりかなり情け深いし。
でも後半生になると、「信長に一度憎まれたら許されない」と評されるぐらいになる。
>旧勢力を駆逐
駆逐、は確かにしてないな。敵対著しかった本願寺さえ、武力反抗能力をそいだら別に宗派つぶしに走ったわけじゃないし。
収入を絶てば、強いて攻撃しなくても屈服するしかなくなるからな。そのほうが合理的。
他の大名だと、坊主を優遇してご機嫌取りするか、逆に禁制しいて内心まで規制するかどっちかだからな。
合理的かどうかはともかく、特異だったのは確か。
旧勢力ってのを宗教的なものとしてだけど、弾圧しなかったのは確かに合理的なんだろね。
収入を断つどころか保障したりしてその土地の支配をスムーズに行えるようにしてる。
つまり自分に忠実なら認めてしまってるわけだ。
宗教以外にも降伏した松永を許したり、利用できるものは何でも使うってとこか。
ただあくまで一時的なものであって決して経済的な先読み能力とか理想とする政治システムがあったかとかは確認しようがないから、それを今の感覚で判断するのは誤解のものだろな。
>>731 どんなもんだろうな。上杉とかも宗教勢力と戦ったりもすれば手を結んだりもしてる。
畿内勢力も戦ったり和睦したり。
>>733 義元の死から少なくとも5年以上は特に何もなかったんだがな。
遠江よこせなんて言ってない。
今川から独立した家康を一緒に倒して三河を半分こしましょ、っていっただけ。
>>734 60代70代もいるけど40代、30代で死んでるのもごろごろいる。50代で死んでるのも。
前に誰か書いてたけど、江戸時代の大名の平均寿命は51歳くらいだったそうだ。
>>735 中間搾取っていうか、そもそも寺社も武家と同じく領土を持っている存在なので
そこからあがった年貢を寺領の主である寺社が得るのは全然不思議じゃないんだけど。
>>739 それは当時の大名達において同様の傾向。
領土内の宗教は従うならば保障し、従わないなら叩く。
>>740 寿命の話だけど、よくわかった。
30で死ぬやつがいれば70まで生きるのもいるわけでやっぱり50ぐらいになるわけか。
徳川将軍も最初と最後が一番長生きで70越えてるけど若くして死んだのもいるし、ざっと50ぐらいなのかな。
でも70台が結構いるってことは思ったより長生きって感じがするな。
742 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 15:53:47
僧侶の特権を認めて、その上でその僧侶に税金かけるという二重徴税を行っていた武田なんかと比べても変わっているな。
税の簡素化という点では、後北条氏に近いか。
後北条も逆らう伝統的国人層の弱体化を狙ってそうした、という説もあるし。
地球が丸い、という理屈を一発で理解できた当時の日本人ってほかにいた?
当時の日本人の常識からするとそれこそ驚天動地の考えだったろうに。
敬愛して、自分の変わり者っぷりも受け入れてくれた親父の病平癒を大口叩いた僧侶の祈祷でやらせても死んだ、という原体験があったからじゃないかね?
当時の日本に生まれて、最初からそんな割り切った考えもってたと考えるほうが困難じゃ?
745 :
日本@名無史さん:2009/03/25(水) 13:33:30
一般武家社会から見れば特異でも、織田家にとっては伝統じゃないの?
信長の祖父は、当時としては異例だった商家との婚姻を進めて津島の利権を入手。
信虎が、領地でいえば中小大名程度だったのに尾張の第一人者として振舞えたのも、経済要地である津島から伊勢へのルートを抑えられたお陰。
まぁそれも織田家が元々家格があまり高くない家だからできたことだろうけども。
商家との結婚ってあまり聞かないけど、ネタはなに?
津島の利権というのも「水上貿易」「津島神社」とか推測は出来るのだけど、そんなはっきり史料とか書状とかあったっけ。
747 :
日本@名無史さん:2009/03/26(木) 12:07:40
信長の母の実家・土田氏が抑えていたのも、当時の尾張経済の要地の一つだった萱津だしな。(こちらは主に陸上交易だが)
合理性でいえば、当時の日本の商人はかなりのものだったしね。敵対している大名間でも交易する、外国ともつきあうで武士なんかよりよっぽど柔軟。
淀屋常安のような、先物取引に合理的根拠を導入した経済人も信長よりやや後の時期にでてきている。
まぁ、だからってそれが信長に影響を与えた、とするのは小説的にすぎるだろうが。
室町中期の経済ってそんなに盛んだったのか。
中世研究の本、見直してこなくちゃいかんな。
749 :
日本@名無史さん:2009/03/27(金) 11:41:19
正親町天皇の即位式に、中国の大勢力である毛利元就が献上したのが約二千貫。
一方、尾張一国も制圧してない織田信秀が内裏修理費に献じたのは約四千貫。
織田家の経済力は、支配地と比べても強大。
だから美濃一国の斉藤や、三河〜駿河三ヶ国の今川ともやりあえたんだろう。
信長の才幹を否定する気は無いが(ってかあらゆる面で優れていたよな、武勇も戦術も戦略も、負けや不利を逆手にとるしたたかさも)、
いくらなんでも徒手空拳からじゃあもっとスタートはきつくなっただろうさ。
そそ、だからその信秀の経済力の礎はなんだろう、という話でね。
伊勢神宮の修理にも寄付してるし、具体的にどうやって継続的な収入があったのだろう。
信長祖父の話が出てたけど、そのあたりの史料はなんかあるのかな。
751 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 10:26:56
当時は、特権階級だった寺社の領内を主に市や座が立ち、そこが経済流通の中心だったからね。
真言宗甚目寺の寺内町を中心に当時の尾張経済は発展していた。
他には熱田神宮のあたりとか。
その中でも正暦年間からの歴史を持つ津島神社を中心に発展した一帯は、「尾張の金銀はすべて津島を経由する」といわれたほどの要地。
当時の武士階層が求めたのはあくまでも土地であり、動員軍役の基盤もそこだからこれが直接どれぐらい軍事力に変換されたかは定かじゃないが、
まぁカネがあれば行動の選択は増えるだろうな。
少し時代はずれるけど、1600年頃の全国の石高(商業・工芸の石高換算は含まず)を
その国のおおよその面積で割ってみる。
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html -400石
-375石
-350石 尾張357
-325石 河内335
-300石
-275石
-250石 和泉244
-225石
-200石 摂津209 筑後205 隠岐205 山城194 近江192
-175石
-150石 加賀155 上総152 越前151 伊勢149 伊賀143
-125石 備前131 下総129 大和121
-100石 筑前112 能登111 淡路104 武蔵102 遠江102 丹後101 常陸100 播磨*97 相模*97
若狭*94 安房*90 志摩*89
-*75石 美濃*85 三河*83 豊後*79 丹波*78 薩摩*77 美作*69 讃岐*66 備中*66
出雲*64 全国*64
-*50石 豊前*61 伊予*59 下野*58 因幡*55 但馬*54 伯耆*53 甲斐*52 周防*51 備後*49
肥前*48 長門*47 伊豆*47 肥後*46 阿波*44 紀伊*43 安芸*41 駿河*41
-*25石 陸奥*36 越後*33 大隅*31 石見*31 信濃*30 佐渡*21
-*13石 出羽*16 日向*16 土佐*14 飛騨**9
-000石
753 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 19:57:19
>>745、
>>747 尾張は平安時代から肥沃な土地として知られ、高い農業生産力によって
室町時代末期には既に物資の集散などからなる都市経済が領内各地で
進展していたらしい。
商業地に関しては門前町でもある津島や宮の渡(熱田)・一宮はもちろん、
武具の生産地から発達した甚目寺や醸造業・漁業から進展した半田等も
なかなか規模が大きくて有名。
信長はポテンシャル・持ち味・素地をうまく活かす才能は間違いなくあったと思う。
美濃を手に入れたことで東海道も中山道も支配下に置くことに成功できたしね。
そこを考えると、尾張の信長・秀吉は西に行って商業的な政策を重視し一方で
三河の家康は東に進み重農的な政策を重んじたところからも、日本の東西の
境界線ってやっぱり静岡〜関ヶ原付近にあるのかも。
754 :
日本@名無史さん:2009/03/28(土) 20:59:11
当時の有名な商業地
蝦夷:?
東北:酒田、下北(むつ)、本荘、相馬
関東:小田原、古河、桐生、川越、佐原、鎌倉
北陸:金沢、輪島、北ノ庄(福井)、敦賀、小浜、伏木
信越:春日山(上越)、長野、甲府
東海:津島、尾張一宮、熱田、甚目寺、半田、宇治山田、津、桑名、加納、垂井、駿府
近畿:京、堺、伏見、郡山、八尾、尼崎、大坂、池田、富田林、大津、草津、八幡、姫路
中国:倉敷、鞆の浦(福山)、音戸、西ノ京(山口)、米子
四国:坂出、徳島、今治
九州:博多、小倉、府内(大分)、唐津、平戸、長崎
琉球:那覇
756 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 19:56:02
信忠が生きてたら状況は変わっていたんちゃう。2番目に権力、発言力を持つのが信忠だから。3番目‥勝家、秀吉、光秀、家康、長秀、信雄、信孝‥これは全部いっしょ。まあ勿論、信忠は徳川秀忠程、しっかりしてないということは言うまでもない。
757 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 19:58:35
親子揃って、バカなんだから。
758 :
:2009/04/02(木) 20:02:36
信忠が殺されたから、わけのわからない信雄や信孝や三法師なんかが出てこなきゃいけないことになるんだ。
759 :
日本@名無史さん:2009/04/02(木) 20:10:14
信忠が殺されたから、秀吉の天下になり、その後家康がひっくり返して江戸時代になり‥明治、大正、昭和、平成になり、インターネットができ‥‥今日俺がこの掲示板見つけて書き込んだ
信忠が生きてれば家康も所領をどさくさにまぎれて広げられなかったと思うし
秀吉も信長から貰った養子を足掛かりに織田家に近づく位だったんじゃないかな
逆に信長が公言していた朝鮮出兵を信忠が実行できたか?
というところが気になるな
隠居した信長が朝鮮で指揮を執り、日本を信忠が治めるという形をやるつもりだったようだが
三法師が元服し、政務を任せることができるまで待ったかな?
>>760 三法師は庶子だから、正室娶って嫡男が誕生してってなるとさらに時間がかかるな。
762 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 19:09:46
前田玄以が26歳の信忠を抱き抱えて清洲まで逃げてたらなww
763 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 20:41:41
>>760 三法師はいわゆる「庶長子」。
正室の腹の長子である嫡子や側室腹の庶子とは異なり、
正室を迎える前に作った子である庶長子は庶子とすら認定されず、
こっそり仏門に入れられることが多かった。
そう考えると、三法師は父信忠が長生きしてれば
確実に日の目を見ることがなかった人物ではある。
>>763 織田の家督を継がせてくれた秀吉に感謝してたらしいじゃないか。
そりゃそだよな。
一つ間違ったらどうなってたのかわからないんだから。
秀吉だっていつだってなんとでもなるから継がしたのだろうしね。
766 :
日本@名無史さん:2009/04/09(木) 23:04:48
歴史にだったらはないから、このスレ自体がスレちがい。すべて妄想。
767 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 06:09:54
あまえんな
768 :
日本@名無史さん:2009/04/10(金) 06:13:06
信忠だけでも無事脱出できてたらって・・・・・・・・・わけのわからないことぬかすな。
そうか?
村井がそう言うか、本人が「是非におよばず」ってとりあえず単騎安土まで脱出する、というのは十分選択肢として可能だったぞ。
そっからのタラレバは、ま、お遊びだが、いろんな人がその時の状況をどう把握していたか、というのが理解できておもしろい。
長益や三法師抱えた前田玄以が脱出できたんだから
全く不可能だったって事は無いだろ。
信忠が頑張ってたから脱出できたという味方もできる
実際に長益なんてそういう風に後世言われちゃっている
>>771 こらこら、もう少し勉強してからレスせい。
村井が二条に篭城することを進言したということが通説の様だが
そのことから勝手に想像するに軍事的に京を抑えられることで
村井は自身の朝廷への工作が白紙になることを恐れて信忠に篭城を進言したのかな?
でも信長が討ち死にした報を受けた時点で戦に不慣れだが村井だけで篭城し
信忠を逃がすという選択肢もあった筈なんだがなぁ、相当混乱してたんだろうな
774 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 17:41:32
>>773 村井の朝廷への工作ってなんのこと?
で、村井はまさか親王がいるところまでは攻めてこない、と思っちゃったのかな。
村井にしろ、信忠にしろ、結果論ではなくてどうして安土まで逃げようとは思わなかったのだろう。
部下を見捨ててでも自分だけが助かる、ぐらいのことをしないと戦国では生き残っていけないと思うのだが
そのあたりが信忠の限界だったってとこか。
775 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:53:25
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
そりゃオメー
あの策謀多き人と呼ばれた明智っちゃんが親父殺した後なんだぜ?
まさか細川や筒井ですら協力してなくてラクラク逃げ出せるとか思いもよるめーよ
「信長さまは戦って華々しく討ち死したのに息子ときたら逃げようとして捕まってやーねー」
「あのみすぼらしい格好、とても一軍の将には見えませんわね、奥様」
「渋柿くうかw渋柿ww」
なんて状態になったら涙目だろ
漢、と書いてオトコと読むタイプだったんだろうなw
逆に無事逃げていたら今頃
「息子さんはちゃんと脱出したのに、信長さんったら明智なんかに殺されてやーねー」
「ま、しょせん桶狭間とか運とかだったのよ運」
「ホントに人生五十年で死んでやんのwwwテラワロス」
なんて言われていたんだろうな
779 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 10:37:49
わっはっは。
巷に多い信長ファンにみせてあげたいな。
所詮他人事だからな。
我が身だったら、それこそ明智に降伏とかやりかねんだろ、命惜しさにw
782 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 19:24:24
有楽斎みたいに自分だけ逃げるかもな
783 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 21:08:40
織田包囲網息を吹きかえす
784 :
日本@名無史さん:2009/06/27(土) 14:37:52
785 :
日本@名無史さん:2009/07/15(水) 06:25:40
わかんないよー。
実は、信長って本能寺から隠れ通路使って、福井の方まで逃げて・・そこから
中国やちょんの方に逃げちまったかもしれないじゃん。
。。。んで、さるが朝鮮出兵したとき、撃退したのが・・実は。。
なわけないか。。
他にもレスしたんだが
信長と信忠がそんな少数部隊でなぜ京に滞在したのかわからん。
その部隊で中国地方に行くつもりだったのか?
あるいは光秀の部隊と一緒に行くつもりだったか?
787 :
大注目:2009/08/08(土) 05:22:36
ダイヤモンドDDになりました
何それ
789 :
日本@名無史さん:2009/08/12(水) 21:55:06
信忠が逃げるとしたらどんなルートを辿ったかだな。
安土か岐阜か?
しかしその時点で信長の生死がわからないよな。
790 :
日本@名無史さん:2009/08/14(金) 23:33:12
信忠が生きていたら
松姫を娶り
景勝と義兄弟同盟を成立させたな。
>>782 もし信長が本能寺から生還したら、有楽斉は罵られてたかもね
794 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:22:28
>>793 武勇は武田追討戦で確認済みだから、後は政略だな。
795 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 23:36:50
>>786 光秀は信長の近衛連隊なかんじだったんじゃないの?だから安心と思ってたんじゃない?
まさかその光秀が裏切るとは!ってんで「ぜひもなし」なんだよ。
>>795 なぜそこまで明智を信頼してたのか分からん。
何かあるんだろうか?
明智は気が弱いとか
798 :
日本@名無史さん:2009/08/22(土) 17:19:53
確かに剛毅なタイプじゃないよな
秀吉を信頼したのと同じでしょ?どっちも根無し草から信長が引き立ててやった訳じゃん
内側(手元)に坂井や森のような苦しいときに付いてきた家を置いて
外側(軍団)に秀吉や光秀や一益のようなバックホーンのない連中を使っている
正直明智が謀反ってみんなキョトンとしたと思うが
>>797 気が弱いから謀叛なんて起こすまいってか
>>799 秀吉と光秀は一番恩恵を受けてたもんな。
一介の浪人から成り上がって
譜代の家臣とか居ないから
反逆しようとしても家臣が付いてこないか
少なくとも与力が注進しに来ると思ってたのかなぁ。
というか一代で背景も無い奴がそうそう下克上できる世の中でもないしな
下克上して大名になった連中は元々それなりの身分だったり土着した元手があったりする訳で
加えて光秀の場合、信長より年上だよな
だから本能寺の変は黒幕説だったりノイローゼ説だったり色々言われる
秀吉下克上じゃないだろ
信長の息子を自害させたりしてんのに?
それもう独立した後じゃん
秀吉は本能寺で空白になった畿内と織田家の軍団を背景に
信長が育てていた天皇という身分制度の背景に滑り込むことで
自分の勢力を確定させて独立したんだぞ
下克上とは違う。乗っ取りに近い(家の乗っ取りではなく、企画の乗っ取り。木曽義仲から平家打倒路線を奪った源頼朝みたいな)
808 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 19:17:45
下克上は悪くて乗っ取りなら良いのか
良い悪いって誰が言ってるんだw
秀吉が明智や柴田を倒したのは、同僚だから下克上じゃないな
811 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 21:59:29
信忠が生きてたら、秀吉はどうしてたと思う?
812 :
日本@名無史さん:2009/08/27(木) 22:40:49
信長っていう
超カリスマな男のワンマン体制だから
信忠が生き延びても
みんな勝手なことやりだすんじゃないかなと思う。
その場合、旧織田家軍団による織田家包囲網でも作らんと
信忠の直轄領相手に戦うのは厳しいんじゃないだろうか
やはり信忠が生きておれば、か…
武田討伐戦の時も目覚ましい働きをあげた勇将だしな。
大陸に無謀丸様がご存命なので、兄信忠といえども、属国の雇われ王です。
勿論、金国王で後の属国満州国王兼左将軍ホンタイジの指揮下にあっても、
臣下の礼をとらなければなりません。
生き残ってたら命からがら逃げのびた信忠と
主君の仇討ちをした秀吉の死闘に…ならないかw
818 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 22:28:54
信雄や信孝といった兄弟は信忠に従うだろうか?
819 :
日本@名無史さん:2009/08/29(土) 22:45:05
>>817 明智を討ったのが信忠ではなく秀吉だったら
結果同じことになってただろうね
表向き信忠は主君として秀吉の忠孝を褒め
当初は秀吉も臣下のふりをしてはいるけど
世間は信忠を見捨て秀吉になびき始める・・・
関ヶ原だって秀頼は関係ない私闘であったにもかかわらず
関ヶ原に勝利した徳川家康は征夷大将軍となって
豊臣家無視で勝手に政治をはじめちゃったしね
秀吉は信長の葬儀を執り行ったり、戦後の知行配分を仕切ったりして
自分が信長の政治的な後継者であることをアピールしている
上、信長の女婿である丹羽や蒲生などを取り込んだなど色々と精力的にやってるが
成人して織田家を既に継いでいる信忠は紛れもない喪主だし、知行配分も生前からやってきた
むしろ秀吉は大きすぎる戦功で狙われないように上手く遊泳すると思う
っていうかまず自分で明智を撃たず、信忠に合流して信忠の下で「功第一」になった方が
はるかに美味しいだろ
三法師なんて中途半端なのが生き残ったのが秀吉に付け込まれた
アレが死んでただけでも秀吉の躍進は無かった。
信雄がいるだろ
彼なら傀儡に出来そう
いや待てよ…秀吉から領地替えを迫られて断って改易された
信雄だからなぁ…
先祖代々の土地を離れたくないというのが理由だったらしいが…
信孝がいるだろ
辞世の句からも彼が秀吉他にあっさり政権を渡すはずがない
山崎の戦いで仇も討ってるし
勝長までは想定しないですかね〜
つい最近まで扱い悪かった信孝じゃ重みないだろうな
せめて四国遠征で結果だした後なら……
>>825 信孝は本能寺の時にまだ四国に渡海してなかったんだな
だから秀吉と一緒に山崎の戦いに出れた
もし信孝が渡海していたら…
信忠が生きてても、秀吉は大返ししただろうし
その場合二人が合流して光秀を討ったとしたら
論功行賞はやっぱ信忠がやるのかなぁ、やるんだろうなぁ
>>826 信孝軍無しの山崎の戦いか。
信孝軍て何万いた?
信忠生きてた場合大返ししない方が秀吉にはメリットがある
信忠が負けたりしたらそれこそ自分に芽があるし、キチンと大軍集めれるようなら
それから合流しても遅くない
しかし柴田と合流しちゃったら元も子もないのではないですか
その場合、対毛利方面司令官、家老筆頭の下って従来の地位が維持できれば十分でしょ
柴田らとの対立が決定的になったのは清洲会議での話
従来の織田家中心の体制で行くなら序列は現状維持でしょ
元も子もないなんて状態にはならないでしょ。
>>828 四国方面軍か?わからんけど1万以上はいたんでない?
四国へ渡ってて来れなかったら、山崎の戦いに臨む秀吉に多少は打撃になったかもな。
信忠生還で彼が仇討ち軍を起こす場合、秀吉は何も全軍取って返さなくてもいいと思う
っていうか勝手に毛利と和睦して全軍で疲労しまくった軍が帰ってきても逆に印象が悪いだろw
秀長あたりに戦線を任せて数千〜数百ぐらいぐらいの数で秀吉本人が駆けつけ
「御館様の仇討ちに筑前も参加したく単身かけつけて参りました」の一言で充分だと思う
なんなら「今の所領投げ打ってでも仇討ちの戦に陣をお貸し下さいませ」と言えばかなり印象いいと思うが
むしろ待ってましたとばかりに全軍取って返してたら疑われる
今でも知ってたんじゃないかとか裏で光秀そそのかしてたんじゃね?て疑われてるのにw
>今でも知ってたんじゃないかとか裏で光秀そそのかしてたんじゃね?て疑われてるのにw
こんな超℃級情報を携えた密使が間違えて秀吉軍が展開してるあたりをウロチョロしてました、
なんて信じてるやついるのか?
>>835 密使の是非はともかく、謀叛を察知してた可能性は高いよね。
信忠だけでも生き残っていたら...
まあとりあえず、クーデター勢力と一発やらねばならんのだろうが
「勅命下る 軍旗に手向かふな」
「兵ニ告グ、今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ」
なんて書状や口上がきて、明智軍は瓦解しただろうね
朝廷って鞍替え早いしね
武力もないし
840 :
日本@名無史さん:2009/09/13(日) 01:29:44
信長が秀吉の中国攻め支援に向かうために外出したのなら、そもそも光秀軍と
一緒に行動したはずだし、信忠まで一緒だったのは不自然。
やはり、信長謀殺を狙う朝廷が、将軍宣下などを口実に京に誘い出したということ
ではないか?
この場合、信長は官位を受けるつもりはなく、信忠を将軍にし、猶子の親王を
天皇に即位させ、名実ともに日本の頂点に立ち、明征服に向かう予定だった。
それが、義満暗殺以来の朝廷の逆鱗に触れたというわけ。
ちょっとスレチかもだが、暦問題ってあったよな
信長が三島暦?に暦を変えさせようと朝廷に押したっての
842 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 17:34:27
>>841 暦の問題で朝廷が信長暗殺するわけねーだろww
843 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 18:04:40
命からがら逃げた信忠にみんなついてゆくか?
一旦は信忠を当主にして
仇討ちしても離合集散激しい時代だし
大きな領国を与えられてる連中がそのうち言うこと聞かなくなって互いで争いを起こしそう。
自立→内紛→織田政権傀儡化→瓦解
>>843 柴田や丹羽だって信忠が生きておりゃ仕えてたさ。
秀吉はちょっと…
>>843 柴田、丹羽、滝川、池田、細川、筒井、森長可などはついてきていたでしょう。
秀吉は離反していたでしょうね。そして毛利と手を組んでいたかもしれない。
家康も同盟を破って敵にまわっていたかもしれない。
織田政権の維持はできても、敵勢力との戦線膠着が続くことになっていたでしょうね。
柴田と秀吉は逆だ
二度も信長を裏切って変後も信孝拾って後見人になろうとした柴田は裏切る可能性が高い
秀吉の方は真偽の程度は微妙だが一応信忠とは懇意だったと言われている
家康が同盟破って敵に回って勝算あんの?
家康馬鹿すぎね?
とりあえず信忠がどっちの後ろ盾を選ぶかじゃね?
成人してるんんだから後ろ盾要らないでFAだな
しかし自力で光秀を討てないわけなんだから
仮に秀吉が討ったとして、発言力を軽視できなくないかね
与力の後押しもあるだろうし執政にするか、討伐するかの2択になる気がするんだけど。
織田家が官僚化を推し進めてたからってもまだ全然戦国時代でしょ。
美濃尾張甲斐を領していて地力で明智撃てないとかねーよw
>>851 家康も岡崎に帰ってすぐ兵を向けたけど間に合わなかったぜ
信忠がすんなり尾張まで帰れるとは思えないんだけど。
変後4日内に脱出生還した上で岐阜から秀吉に飛脚を送れれば思いとどまるかもしれないが
その間に毛利と和議を結んでるのにわざわざ引き返す理由がない。
天下は取れなくとも敵討ちはできるのに。
ましてや11日内に生還できなきゃ光秀は死んでる。
嫡男が生きてるのに勝手に敵討って粛清フラグ立ててるようにしか見えないがw
信忠生きてるっていうIFを語っているのに
何故か秀吉だけは史実通りに動くのか、環境無視してw
よほど想像力が欠如しているか、秀吉の能力を低く見積もっているかのどちらかだな
まず信忠が生きてることが知れなきゃIFの始めようがないだろって言ってるんだけど
色々な可能性を語る気がないならこの遊びも面白くないしもういいや
死んでるコトにされてんのかw
命からがら妙覚寺から逃げ出した信忠は供の者とも離れ、重症をおって倒れた
そこを偶々通りかかった村人が、落ち武者狩りをすることもなく、家に運んでくれて看病してくれた
数ヶ月間も目を覚まさない信忠を見返りもなく看病してくれた釈迦の如く心の優しい村人のお陰で
信忠は回復し、目を覚ました
しかし信忠が見たのは秀吉が明智を討ち天下統一に足がかりをつけた世だった
こんな限定状況のIFだなw
面白い
861 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 13:44:55
有楽斎は脱出できてるんだよね
862 :
ぴーす ◆mQup6l1Ha. :2009/12/26(土) 16:06:16
清洲会議も終わって天下取っちゃおっかなー
とか思ったら信長生きてた。
今更信長の呼び出しに応じられない秀吉は
独立し大坂に城を築くが・・
ていう小説なら読んだ。
信忠が生存して近江に逃げれば柴田勝家のお膝元。
大坂方面に逃げれば丹羽長秀に合流出来る。
上手く逃げれるとしたらこの2箇所かな?
勝家っつうか近江は蒲生が待ってたんじゃないのか
基本的に安土城の城主の持ち物だと思うが
866 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 01:55:51
>>1 信忠の死体は在るのか?生きていたが秀吉に抹殺されたんじゃないのか?
867 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 11:47:59
もしも、生きていたなら、織田家の嫡男であり家督を継いでいたわけだから、
次男、三男もしたがっていたでしょう。それに柴田勝家など織田家の重鎮も同じくしたがっていたはず、
そこで、秀吉だが、後ろに毛利がいながら明智を討ちに行くかどうかだが疑問ですね?
もともと援軍をたのんだくらいですからね、それが明智軍を打ち破るのですからわからないものです。
これは歴史のイレギュラーで、本当ならば柴田、滝川、丹羽の連合軍に打たれるのが本当だろう。
そして、織田家が日本を治めていた。
イレギュラーで政権を取った豊臣はやがて歴史の修復にあって滅亡したということでしょうか!
逆に取らなければ羽柴家として後世にの残っていたのでは?
徳川はどちらにせよ大大名で世襲していたと思います。
歴史の修復で豊臣が滅亡したというなら織田ではなく徳川が天下人になるのは理屈にあわない
もともと信長自身が数多くのイレギュラーな幸運でのし上がってきたんだから
歴史の修復とか必然なんてものを求めるのはおかしい
869 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 23:56:06
868さん、信長自身もイレギュラーでのし上がってきたから本能寺の変で歴史の修復にあって
殺戮されたのではないですか!
豊臣政権が発足する最低条件は信長の死とその嫡男である信忠が揃って討ち死にすることである。
光秀の討伐はその後の出来事であり、秀吉が討たなくてもいずれ誰かに討たれていたことは明白である。
また、徳川が天下人になるのは理屈に合わないとは?織田の目はあったが、小牧長久手の戦いで秀吉軍と徳川軍が戦った時に、徳川が担いでいた織田の三男が
勝手に秀吉と和議を結び秀吉討伐の機会を削いだ為に徳川が手出しできなくなり、結局、織田家の衰退につながった。
つまり、信忠が生きていれば織田政権が誕生していたが、信忠が討ち死にしたので織田にかわり徳川政権が誕生したのではないだろうか、
ただ一つ言える事は光秀政権はないということである。
もともと歴史の修復とかいう神秘論や運命論には歴史学では求められない
小牧長久手で徳川は確かに豊臣に勝ったが局地戦で勝っただけで
全体的には豊臣は織田信雄の勢力を次々と潰していった
信雄にしても豊臣と和議を結んだのはあのままでは自分が枯れてしまうという
危機感によったものだった
光秀にしても秀吉がもしも毛利と対峙戦を続けたままだったら
光秀は敗れていたかは微妙
光秀は柴田の動きは想定していたし、明智軍の精鋭である秀満の部隊を近江において
柴田に備えさせ、いざというときは主力でそれを応援し柴田を抑えるつもりだった
信孝や丹羽は軍勢が離散して泡沫勢力と化していたし
滝川は関東にいて北条に大敗しているので加われる可能性はない
つまり光秀にしても本人が細川宛の書状で言ってるように
羽柴がこないであと百日程の時が稼げれば畿内を抑えて万全の態勢をつくれたはずだった
それだけの日数があれば筒井や畿内衆といった秀吉に味方して山崎で光秀を敗北させた要素も
おそらく光秀にしたがっていたはず
山崎の事は何分秀吉の帰還が急激過ぎたにすぎない
871 :
日本@名無史さん:2010/01/01(金) 16:37:25
みなさんの言うとおり、いろいろな要素が重なり豊臣政権が誕生したわけであるが、
ここでは、もしも信忠が生きていたならどうなったかである。
私は織田家の当主として秀吉、柴田など諸侯に光秀討伐の号令を発して見事に信長公の
仇を討ち、天下をまとめていたと思います。
仮にその命令に背けば光秀と同様に反逆者となり歴史の流れに葬られることになったのでは!
また、そうなればその後に起こった戦などは起こらないことになってしまいますね、
例えば、朝鮮征伐、関が原の戦い、大阪夏の陣、冬の陣とか、
但し、別の戦いが起こったかもしれませんがね、また家康の江戸開府もなかったでしょう。
鎖国もないのだから、明治以後の歴史も全部変わってきますよね、
やはり、本能寺の変は現在にもすごい影響を及ぼしている日本史の急所ではないでしょうか、
朝鮮征伐は武士の失業対策事業だから織田政権でも起きたかもしれん
関ヶ原、大坂の陣は平和になって不要になった武士の首切り(文字通りのw)リストラでもあるから
織田政権でも大戦争は起きただろう。
873 :
日本@名無史さん:2010/01/02(土) 11:40:48
確実に言えることは織田家が信忠中心でまとまる以上、豊臣政権→徳川政権という流れは100%ありえない。
但し、織田家による天下統一も難しくなるから、下手したら戦国時代はもう50年長引いたかもね
このスレとか俗説だと長益が自害を勧めた、あるいは抗戦するよう進言して
自分だけ逃げたってことになってるけど、それってあの狂歌だけしか根拠ないのかな?
まぁ一族の嫡男見捨てて生き残った時点で悪く言われるのは仕方ないんだろうけど
875 :
日本@名無史さん:2010/01/26(火) 11:21:22
信忠が生きていれば秀吉の天下はなかったが、九州四国勢は織田には従わなかっただろう。
しかし従わなかったとしても踏みつぶされるだけじゃね?
さあ
878 :
日本@名無史さん:2010/03/18(木) 21:41:53
織田中将が生きていたとしたら、せいぜい毛利と上杉を服従させたくらいじゃないのかな
879 :
日本@名無史さん:2010/03/20(土) 22:07:14
信忠にとっては京からの脱出が信忠の「桶狭間」だったんだ。
親爺信長はみごとその賭けに勝った。
今から見れば信忠の安土美濃方面への生還の確率は高い。
しかし当事者の判断はそうではなかった。
それが信忠の器量だったんだろう。
たとえば村井貞勝でなく前線の武将なら間違いなく脱出を薦めていたはずだ。
そこが吏僚の限界だな。
もしこの二人が危機を乗り越え生きていれば話が全然違う。
秀吉の中国大返しと同じか、あるいはそれ以上のインパクトを光秀に与えたろう。
何の関係もない穴山が家康と勘違いされて殺されてる事や
家康があちこちで襲われながら、伊賀者の援助を受けてなんとか逃げ伸びた事からも
信忠クラスの人間なら人相風体は出回っていたのではなかろうか
脱出が楽にできたかは謎
881 :
879:2010/03/22(月) 20:25:57
重要なのは光秀が信長を討つのを決意した引き金が
信忠が京に信長ともども滞在しているという情報を
光秀が掴んだということ。(谷口克広『検証本能寺の変』2007)
また光秀の部下への告知がギリギリなのでとても京口を押さえる
余裕がなかったということ。
妙覚寺にも同時に兵を送りながら大分到着が遅れたこと。
しかしいずれにしても信忠が死地にいたのは事実。
この一瞬のときが信忠の武将としての力量が試された。
騎馬による強行突破しかなかった。
おそらくこの瞬間信忠は自分が織田家の当主であることを忘れていた。
それは村井貞勝も同様。
信忠が生きていれば山崎の合戦は起こらなかった。
光秀は丹波への後退戦を取らざるをえず
いずれ秀吉に討ち取られるにしろ秀吉の急激な出頭はなかった。
親父の金ヶ崎の逃げ足の速さをもっと二代目は学ぶべきだったな。
失礼三代目か。
織田家の当主だから討死したんだろ
親父が矢尽き刃折れるまで戦って自刃したのに
ちょっと前の武田勝頼みたいに無様な死体晒すような事してどうする
家康はウンコ漏らして逃げ帰って、後に天下取ったけどな
無様な死体たって長篠の戦いの敗北以後も戦いぬいて刀折れ矢尽きての話
織田軍団健在で信忠から見れば下っ端の秀吉でも勝てる相手に討ち取られちゃソッチの方がよっぽど恥だろ。
家臣に殺されるような織田家に討ち取られた勝頼は恥って話ですね、わかります
祖父親父と二代にわたって家臣にヌッコロされた松平は
勝頼以上の恥さらしってことでw
887 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 23:59:45
確かに秀吉の行動は興味深いな。
大返しを始める(=毛利と上司の許可なく勝手に和平するという意思決定をする)上で、
信長だけでなく信忠も死んでいるという情報を掴んでいたのだろうか?
もし、信長死亡、信忠は不明だけの情報で、意思決定していたのならば、
信忠の存在がどれくらい織田家中で大きかったのかがおしはかれないだろうか。
もし信忠の精子に関係なく、秀吉が史実のような意思決定をしたならば、
信忠が生きていても、秀吉の専横はとめられないのかもしれない。
信忠が不明って情報になる方が難しいだろ
信忠が不明なら信長も不明だ
889 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 19:49:20
>>881 光秀は用意周到なやつだから
京都封鎖をしているに違いないと思い込んだんだろうな。
>>886 親子そろって首とられた織田家よりはマシ
>>890 首は、取れなかったけどな。光秀は
信長の首を三条河原にさらしたら、もっとたくさんの味方が集まったかもな。
892 :
日本@名無史さん:2010/04/15(木) 11:38:52
信長の遺体を引き取って埋葬したという話はあるな
どっちが本当なのか?
光秀は信長の死が確認できぬままに山崎の戦いまでいった。
だからそれが変後の光秀がいま一不決断不調の原因のひとつともいえる。
信長の首の有る無しは結構大きい。
実行部隊の長斉藤利三と光秀は変後すきま風があったのではないか?
そこらへんは謎だな。
>>892 あの時代にタイムスリップして
阿弥陀寺の住職と一緒に本能寺の焼け跡に行けば宜し。
そんなことより1よ、ちょいと聞いてくれよ。天下の行方とは関係ないけどさ。
昨日、本能寺に行ったんです。父上に挨拶しに。
そしたらなんか公家がめちゃくちゃいっぱいで入れないんです。
で、よく見たらなんか前関白太政大臣近衛前久も来てて、祝辞を述べてるんです。
もうね、アホかと、我御料かと。
お前らな、祝辞ごときで普段から陰で悪口言ってる父上に頭下げてんじゃねーよ、ボケが。
公家なんか眼中にねぇんだよ、父上は。
なんか吉田兼和と土御門久脩もいるし。こんなのが吉田兼好と安部晴明の末裔だとよ。おめでてーな。
よーし麿右府殿の西国平定の戦勝祈願するでおじゃる、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、西国を平らげた暁には父上と共に禁裏を粛正するから覚悟しろと。
今の禁裏ってのはな、もはや腐りきったものなんだよ。
形ばかりの権威や慣例を掲げ、時の権力者にすがって政治には介入しない。
都合の悪い相手は朝敵にして我が身を守ろうとする、そんな雰囲気が父上に嫌悪されてんじゃねーか。女子供みたいな輩はすっこんでろ。
で、父上との会談が終わって妙覚寺に戻ったと思ったら、貞勝が、明智殿謀反です、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな光秀、天下統一を目前にして世を乱してんじゃねーよ。ボケが。
得意げな顔して何が、敵は本能寺にあり、だ。
お前は誰のお陰で国持大名になれたのかと問いたい。問い詰めたい。半刻弱問い詰めたい。
お前、後世に謀反人の名を残すだけちゃうんかと。
父上救出が無理だった俺から言わせてもらえば今、馬廻り衆の議論内容はやっぱり、
二条御所へ篭るか京都からの脱出か、これだね。
明智の大軍をかい潜って脱出して再起を図る。これが後世の自称歴史通が考えるであろう机上の作戦。
俺の元にいる馬廻り衆はわずか。そん代わり士気だけは高め。これ。
でも、落ち延びる途中で名も無き者の手にかかれば織田の名に傷がつく。これ最悪。
しかしここで潔く自害すれば織田の天下は一代限りで終わってしまう危険も伴う、諸刃の剣。
源五には薦められたくない。
まあ三法師よ、生き延びて織田家嫡流の血だけは残してくれ。
895 :
日本@名無史さん:2010/04/18(日) 12:20:34
いまいつ緊張感足らんのでね?新忠さん
896 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 08:47:32
織田信長
- 2代織田信高(七男)
- 3代織田高重
- 4代織田一之
- 5代織田信門
- 6代織田信倉(養子)
- 7代織田信直(養子)←←← 大和宇陀松山藩主織田高長の孫(信雄の系統)
- 8代織田長孺
- 9代織田長裕
- 10代織田信真(1842〜?) ←←←明治維新後、写真師になって、その後消息不明
- (11代から14代は不明)←←← 親戚に迷惑をかけるから、あえて16代信義氏が製作配布した家系図では4代不明としたとか(週刊新潮の記事より)
- 15代織田重治(1917〜1995?)←←←1842から1917の間に5人もいる
- 16代織田信義
- 17代信成(次男)←←←信雄の末裔なのに、大徳寺でなく信孝建立の本能寺・信長廟へ行って、信長の声が聞こえたらしい…
織田信成が織田信長の子孫って本当?【2代目】
http://hideyoshi.2ch.net/test/read.cgi/skate/1271421161/
897 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 04:31:00 BE:903874853-2BP(0)
秀吉は信孝を大将に立てて光秀を討ったにもかかわらず、秀吉の手柄になっている。
ならば、信孝が信忠であっても同じこと。
秀吉は信長の4男秀勝を養子にしているので、三法師がいなくても担ぐ相手はおり、
結局、柴田らと権力争いになったと思う。
信長の最大の失敗は実力主義に傾きすぎで、このような場合に織田家を守る
譜代の家臣を冷遇し続けたことだな。
もし、佐久間ら実力のある家臣をそのまま取り立てていれば、秀吉に織田政権を
乗っ取られることもなかったであろうに。
んで信忠旗下の美濃尾張軍はまるごとどっかに消えてるのかw
結局のところ、信忠、信雄、信孝の3人の
能力はどの程度だったのか?
901 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 17:14:41
信忠がなんであの時期京くんだりにいたのか?
武田旧領の差配とか上杉攻略の後方支援の指揮とか
てんてこ舞のはず。
あんまりそういうことに論者は触れんな。
902 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 17:59:03
信雄がぼんくらだったことは史実が示している。
信孝のほうが信雄よりマシだったと思われるが、早死にしたから確かめようが無い。
信忠については、かなりの能力があったことは間違いない。
武田攻めでも、実質的な総司令官は信忠だった。
信長ってのはかなりの教育パパだった。
>898
大きな違いは織田家当主か当主弟かの違いだなw
904 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 21:38:19
【織田信成さん、本能寺を知らなかった】
知らないナリ。
織田信成さん(22=文学部休学中)は、一族因縁の地・本能寺(京都市中京区)を知らなかった。
20日付の新聞各紙が、織田さんの“本能寺参拝プラン”を報じたが、
当の本人は会見で「どこにあるんですか」と発言。
フィギュアスケートの世界国別対抗戦後に、周囲を凍らせてしまった。
【河田悌一学長(左)も“本能寺くらい知っとけ”とアキれた?写真は2月25日・千里山キャンパスBIG100ホール】
殿が仰天発言だ。
本能寺の変は1582年、先祖にあたる戦国武将・織田信長が明智光秀の謀反に遭い、自害したとされる。
受験生が“いちごパンツ”と覚える一族の宿命の時、ゆかりの地。末裔の織田さんには決して忘れない場所…と思いきや
「本能寺?どこにあるんですか。行ったことないんです」と、あっさり答えた。
昨年のシーズン開幕前、織田信長が武運を祈った福井県の剣(つるぎ)神社をテレビで知り(何でテレビ?)、
わざわざ電車で2時間かけ参拝。 お守りを身につけ、大会に出ていた経緯がある。
今年は本能寺はどうですか?と、記者からの“無茶振り”な質問にマジボケしてしまったのだ。
本能寺が織田さんの家から近い、京都市中京区にあることを知らされると
「めっちゃ近いんですね。調べてぜひ行ってみたいです」
と笑顔を見せた。ゲンかつぎになるかどうかは疑問だが、細かいことは気にしない。
五輪出場、そしてメダル獲得。信成の野望は、ご先祖の夢が破れた地からスタートする。
●ソース●
関西大学と関大前の情報紙「ブームスポーツ」
http://www.boom-sports.com/archives/51641958.html
905 :
日本@名無史さん:2010/04/26(月) 22:09:00
むしろ知らないのが普通。
現在の本能寺と、信長が討たれた本能寺とは違うしな。場所が。
>>901 武田旧領の采配ならもう終わってるだろ
上杉方面への後方支援なら軍団長クラスの信忠がすることじゃない
907 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 13:34:30
信忠は、家康を京都を案内するために、京都に来ていた。
この後、信長と合流して、秀吉の中国攻めに援軍に行く予定。
その直卒軍として、美濃尾張で約一万の軍勢が出撃の準備を整えて待機していたはずだ。
908 :
日本@名無史さん:2010/04/28(水) 14:13:39
「城之介別心か?」というのが信長の第一声らしいな。
まとまった軍勢は京では信忠の廻りしかいない。
信長が疑うのも無理ない。
父子関係というのが一番ヤバイのが戦国だ。
家康のお相伴のために入京していたというのもな。
そのあと家康とともに堺に向かう予定が
信長に挨拶ということで最後の夜に本能寺で面会した。
最後に光秀に裏切られたんでねえの?信忠卿。
909 :
日本@名無史さん:2010/04/28(水) 15:27:05
>「城之介別心か?」というのが信長の第一声らしいな。
出典は何ですかいのお?
まさか小瀬甫庵とかじゃないじゃろうのお?
>>909 自分は908じゃないけどw
それはね、あの大久保彦左衛門の「三河物語」に
書かれていたような事なので、スルーしてもいいんですよー。
908はその内容からして、戦国初心者と思われる。
911 :
日本@名無史さん:2010/04/29(木) 08:35:24
戦穀ヲタよりましだろ
912 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 14:58:52
>>905 京都にあることすら知らなかったってんだろ
論外だw
913 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 16:06:56
_,,,,,,,,
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,r' /=ミ
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!-- .、 ,、、、、,,, 彡lノ
l,,,,,__ / ___ 'r''゙ヽ
. |`゙'' ./ `'゙'''" .〉,l |
|. ,' // 信成、おまえはワシの末裔じゃないだろう
. ',. ,' , r'
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゙、''゙ ,,、二''‐ ノ l、
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>>910 おお、さようであったか。
大久保彦左衛門の『三河物語』が出典か。
勉強になった。かたじけない。
『三河物語』は歴史資料としては鵜呑みにできない部分もあるが、尾瀬甫庵よりは、はるかにマシと思われる。
執筆の動機は家康を批判することにあったと推測できるな。
>>912 まあ、そう息巻くこともあるまい。
彼の本分はフィギュアスケートなんだから。
915 :
日本@名無史さん:2010/05/05(水) 19:56:20
宮城谷昌光の『新三河物語』はさらに辛辣な家康批判だな。
さすがの東証辛君もトホホだ。
>>915 いや、全体的には家康を褒め称えてるぜ。
たださ、どんな人間でも絶対的な権力を握っちゃうと、ついつい我儘が出ちゃうってことでしょ。
家康だからあの程度で済んだわけで、秀吉の朝鮮出兵だの、関白秀次処分だののことを考えれば、家康ははるかにマシだわな。
917 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 15:50:05
たしか『新三河』では信康はボロクソだったな。
してみるとあの関ヶ原の「息子がいれば」という伝説も案外ガセだったかもしれん。
918 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 02:20:48
>>881 光秀のターゲットは、あくまで信長であり信忠はノーマークなんだがな。
浅いな。
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920 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 06:44:13
>>1 ま、秀吉が天下を取れないことだけは確かだな。
ということは家康も天下を取れない
織田家が二つに分裂することもないから、織田による天下統一は成る
921 :
日本@名無史さん:2010/06/02(水) 21:14:01
6月2日は、本能寺の変の日!
実際は7月1日だけどね。
923 :
ぴーす:2010/06/05(土) 01:14:26
信長、信忠、秀信、秀則も?こんなに一カ所
に集まったらだめだろ。
924 :
日本@名無史さん:
おそらく信長が信忠を京に呼び寄せたのは
朝廷に信忠へ征夷大将軍の内諾を受けさせ
三職問題のケリを付けるためだろう。
むろん自分は隠居の身だから無位無官。
時間はまだたっぷりある。
信忠の開く幕府は岐阜や那古野でなく「江戸」。
江戸幕府。
徳川なんか奥州の出羽あたりまでふっ飛ばす。
佐竹みたいなもんだ。
それで一応信忠には東をまかせ自分は九州まで名物茶器を取りにいく。
それが信長の目論見だったんではないの。