【初心者】スレッド立てる前に質問をPart19【歓迎】
9 :
日本@名無史さん:
後の付く天皇、後醍醐とか後一条・後嵯峨等、それ以前に後の付かない天皇が居る分は良
いんですが、後奈良とか後柏原とか後西とかの奈良・柏原・西ってなんですか?
あと後冷泉とか後陽成みたいに縁起の悪いのは何を思って付けたんですか?
>>9 奈良は平城天皇、柏原は桓武天皇のこと。
奈良も縁起悪いな。
桓武と平城ですか、どうもありがとうございます。
しかし醍醐・村上・一条・嵯峨あたりはまあ一応名君的な評価が有りますが、
さすがに安徳とか崇徳とかまでは使わなかったけど、
どうも縁起とか評判とかあまり気にしてないみたいですね。
12 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 11:37:26
徳川3代目前後あたりの時代での言葉使いについて質問なんですが
美男美女を指す言葉はどういうものが使われていたんでしょうか?
あの人はイケメンだ、とかあの人美人だ、という時です
美しいとか美丈夫だとか佳人だとかはわかるんですが…
他にバリエーションがあればもっと知りたいです
「美形だ」という言葉があったんですが、少し違和感感じたけど
江戸時代にも使われていました?
14 :
日本@名無史さん:2007/03/19(月) 21:49:34
よく考えてみたら何で別称なんでしょうね?
後桓武や後平城では何かまずかったんでしょうか?画数が悪い?
あと後深草・後小松・後水尾も誰かの別称ですか?
それと余談ですが、自分で選んだらしい後醍醐、実子の後一条・後伏見・後桜町・後桃園、
外孫として外祖父に対する思いが有ったらしい後三条、こういった例はともかく、
後の付く天皇ってあまり後付かない天皇と縁がない場合も多いですね。
後冷泉・後朱雀・後光明・後二条・後陽成とか先祖でさえないし。
先祖では有っても特に事績が似ているわけでもないことが多いし、
一体どんな基準で選んでいるんでしょうね。
>>14 深草→仁明、小松→光孝、水尾→清和
そもそも歴代天皇の呼称をかっちりと一対一対応で決めたのは
明治に入ってからだろ。
あと、それぞれどうしてその呼称になったのかの理由はとりあえず
Wikipediaでも読め。
>>11>>14 安徳や崇徳は諡号なので後加号にはしない。
後加号は追号にのみ行うものという解釈が既にあったもよう。
まあ諡号というのはその天皇の事績に基づいて贈られるものだから当然ではある。
後奈良や後柏原は時代背景を考えると分かるよ。
当時は即位の礼はおろか、葬儀も行えなかった時代だからね。
追号も多分に適当(というのは言いすぎかもしれないが)にならざるをえなかった模様。
ちなみに後加号は名君になぞらえるかどうかというのはあまり関係ない。
後醍醐天皇のように遺諡(生前から追号を自分で決めておくこと)を残したケースは
別として、平安朝の後加号は単純に西洋の〜二世に近いつけ方。
鎌倉時代の後深草などは意味あっての遺諡のようだ。説明すると長くなるのでそれは割愛。
また後陽成→後水尾は親子の確執から派生した後加号。
後加号についてまとめると…
・基準などはない。
・遺諡によるもの、追号によるものなど決定者もばらばら。
・時代背景によって天皇の位置付けも異なる。
・ゆえに時代によって諡号・追号の概念や感覚も異なる。
したがって全体を通して考えるのではなく、個々の事例をみていく方がよい。
何か具体的に知りたい事例ある?
霜月騒動に出てくる、内管領の平頼綱って何者なんですか?
清盛一家の末裔か何かなんですか?
にしても、名字+名前が一般化してた鎌倉後期に氏+名前なんて珍しいですね。
ウィキにその辺の事情が詳しく載ってるよ
20 :
14:2007/03/20(火) 19:17:13
>>15-17 どうもいろいろとご丁寧な解説ありがとうございます。
疑問がはれてすっきりしました。
22 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 22:04:53
もうって言うか、過去にも勝てた時はないような気がするけど。
あれっ大誤爆。失礼しました。
24 :
7:2007/03/21(水) 01:49:10
自己解決したのでやっぱいいです
25 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 12:42:12
1万石の大名に仕える側用人は、大体どのぐらいの禄高を貰っていたのでしょうか?
ヨロシクお願いいたします。
26 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 21:47:30
織田信長は足利将軍を追放した後、どのような大義名分というか政治的正統性をもって領国を統治したのでしょうか。
一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
本来朝廷が持つべき支配権を武士達が持っていられるのは、幕府があってこそのはずです。
それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
> 一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
朝廷が任命する国司とごっちゃになってない?
28 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 22:52:38
>27
たとえば駿河守護職を認めてもらおうとした小鹿範満あたりですね。まだ戦国時代とはいえませんが。
国司については織田、今川による三河守の猟官運動など幾つかの事例は知っていますが、質問の焦点がブレる恐れがあるので敢えて書きませんでした。
ここは天正前後の織田信長政権について絞ってお願いします。
>それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
朝廷への任官に関してでなく、守護職などに関してならば幕府が朝廷の窓口ではないと思いますけど。
当時の領国支配に守護職が必須だとも思えません。
(無いに越したことはないと思いますが)
例えば守護出身の戦国大名である武田家が少なくとも一部は支配していた信濃や駿河、上野の守護職を要求したりしてないと思います。
30 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 23:05:34
先土器時代と旧石器時代って同じ時代ですか?
>26
>織田信長は足利将軍を追放した後、どのような大義名分というか政治的正統性をもって領国を統治したのでしょうか。
不明
>一般的な戦国大名なら自分の領国を支配するのに守護代や守護職を幕府に申請したりしたでしょう。
競合勢力との力の差が無ければ有用ではあるが地域勢力が存続するのに不可欠な要素では無い
>本来朝廷が持つべき支配権を武士達が持っていられるのは、幕府があってこそのはずです。
?
>それなのに武士達の朝廷に対する窓口ともいうべき幕府をつぶしてしまって、
>果たして諸国民を統治していられるのでしょうか?
諸国民はそんな事を考えてはいない
自己の権能が及ぶと考える範囲を他者から容喙されなければ誰にも異論はない
秀吉の官職(?)についてなのですが、筑前守なんてものは本当に朝廷から叙任されたものだったのでしょうか?
家康さんの三河守になるための必死だなな工作を知ってから疑問に思っています。
【質問】
むかしの人ってエライ人の名前とかどれくらい認識してたんですか。
江戸時代の町民は今の将軍が何代目で誰々だとか知ってたんですか。
要するに「今は五代目で綱吉さまだ」って知ってたもんですか。
35 :
名無し募集中。。。:2007/03/25(日) 03:00:13
水戸藩の大日本史は今読んでも日本史の勉強になりますかね?
書いてることが一々豊富な史料に基づいているところが感心させられます
36 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:20:26
>>11 「後」を付けることができるのは追号だけ。
「安徳」や「崇徳」は追号じゃなくて諡号だから、「後」を付けることは
できない。
なお「桓武」「仁明」「光孝」も諡号であるが、これについては後世に
「桓武」「仁明」「光孝」のそれぞれ異称である「柏原」「深草」「小松」に
それぞれ「後」を付けた追号が登場した。
また「平城」「淳和」「清和」については、これ自体も追号であるが、さらに
それぞれの異称である「奈良」「西院」「水尾」に「後」を付けた追号が
出現した(後西院=後西)。
因みに「後鳥羽」には当初「顕徳」という諡号が贈られたが、のちにこれを
やめて「後鳥羽」の追号に改めている。
さらに「後花園」の崩御の際には、当初「後文徳」という追号が贈られるという
話が出たが、「文徳」は追号ではなく諡号であるという指摘がなされたため、
「後花園」に改められたという話もある。
37 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:38:28
>>16 後加号には、「三条」と「後三条」のように明らかに後者が前者の継承を
意識しているようなものも多いな。
「後醍醐」「後村上」の場合も、彼らが理想としていた「醍醐」「村上」に
敢えてしたという感じだよね。
38 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:49:30
>>16 >また後陽成→後水尾は親子の確執から派生した後加号。
「清和(水尾)→陽成」の親子関係が、「後陽成→後水尾」というふうに
後加号では逆になっているわけね。
反対に、後加号の親子関係がもとの追号の親子関係と対応しているのは、
「嵯峨→仁明(深草)」と「後嵯峨→後深草」、
「宇多→醍醐→村上」と「後宇多→後醍醐→後村上」、
「桓武(柏原)→平城(奈良)」と「後柏原→後奈良」、
の3例かな?
39 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 04:57:20
>>26 むしろ足利将軍家を立てなくても、朝廷を直接推戴すればそれで十分に自らの
正統性は担保できると判断したからこそ、義昭を追放したのではないかと。
もっとも義昭を追放してもなお足利将軍家を担いで正統性を維持し続けようと
するなら、14代義栄の実家である阿波公方系を連れてくる選択肢も
あったはずではあるが、これをしなかったことからしても、信長は朝廷さえ
自分が掌握していれば問題ないと踏んでいたのだと思うよ。
40 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 05:02:53
>>28 当時の幕府は結局小鹿範満を駿河守護とは認めなかった。
義忠が死ぬと早々に龍王丸(のちの氏親)に対して家督相続を認める旨の
御教書が出されている。
もっともこれには、氏親の伯父である伊勢盛時(北条早雲)の幕府内での工作も
あっただろうし、実際には幕府の意向と関係なく小鹿範満は現地で守護として
振る舞っていたような形跡もあるけどね。
41 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 14:40:34
>>34 江戸の庶民とか天領の住民は知ってたんじゃないかな。
でも名前をいちいち綱吉様とかは呼ばず
総じて公方様とか今公方とかだったんじゃないかと思うが。
根拠ゼロですまんね
戦国時代で大名と家臣が条約を結ぶ時に、紙に円を書きそれにそって氏名を連ね、
誰が上の者かわからなくする条約ってなんですか?
>>42 国人一揆の時の唐傘連判状を言ってるのかな?
東大寺にあったといわれる100M越えの木製の塔や出雲の空中大社とか
本当の話なんですか?建築学的に無理じゃないですか?
>>38 そう。後水尾は父帝をひどく恨んでいたから
悪帝と言われる陽成を後加号としただけでなく
親子関係をひっくり返すために自らは後水尾と遺諡したと言われるね。
後嵯峨→後深草はまさに嵯峨から仁明への継承になぞらえて
持明院統の正当性を主張するための追号と考えられている。
一方、大覚寺統の亀山は嵯峨天皇ゆかりの地である嵯峨亀山の地を
根拠とする追号とすることでこちらもその正当性を表現した。
>>37 そもそも後加号は村上朝で生まれたわけだが、
兄弟相続が多かった村上朝において一統としての皇位継承を強調、
正当化するために後加号を用いたと考えるから自ずとそう見える。
後醍醐天皇の遺諡は有名でしょ。宋代の君主専制を目指した後醍醐にとって
延喜・天暦の治の醍醐・村上は当然目指すべき皇祖であったわけだから。
水戸徳川家は、幕府の旗本以上に名門の血筋の人間を召抱えていますが
これはどういう風潮から来たものですか?朱子学的な問題ですか?
天狗党の武田伊賀守とかが有名ですよね。
>>46 ・17世紀初め、主なし武家の多くは再仕官か帰農かの選択を迫られていたこと
・関東では特にそうだが、名門武家が多かったこと
・水戸藩は元々が新設の為、子飼いの臣が少なかったこと
・水戸藩は格式が優先されていたこと
…などが理由と思われる。
>>43 唐傘連判状でしたか。ありがとうございます(´▽`)
昔、学校の日本史で、「漢委奴国王」の金印は「かんのわのなこくおう」
と読み、倭が委になってるのは技術不足などの諸説があるって
習ったんですけど、本当は「かんのいわこくおう」で漢が統治を委ねる奴国王って読むのが
正しいと思うんですけど、ちがうんですか?
>>49 ハンコを作る場合、分かるなら偏を略す場合がある。
さすがに漢は略せないのかw
>本当は「かんのいわこくおう」で漢が統治を委ねる奴国王って読むのが正しいと思うんですけど、ちがうんですか?
何で正しいと思ったのか根拠を聞かせて欲しいところですが。
中国の王朝が、外国に送った印章は他にもあるので、それらと比較して「かんのわのなこくおう」と読むという説が有力になっていると思ったんですが。
「かんのいとこくおう」(漢の伊土国王)と読むとかいう説もあるけど
>>49 同形式、すなわち<(王朝名)+委+(国名)+国王>の印が他にもあるようならその可能性もあるでしょう。
>>49 そもそもハンコというのは、捺した人が誰か、誰が捺したかを示すアイテムです。
だから刻されるのは、必ずその人の名か肩書き、あるいはその人を示す記号です。
そうでないと意味がないのです。
ですから「委の奴国」ではなく「委奴国」と読むのはアリですが(初めはこの説だったらしい)
「漢、(汝を)奴国王に委ぬ」という文ともとれる形式で刻され使用されることはほぼ考えられない。
委任の一文ではないのだから。現実、中華の公印においてそのような形式のものは
後にも先にもないでしょう。
また、中華王朝が外国を「委〇国」と記した国も、私は寡聞にして知りません。
明治時代、南朝正統になると後南朝はどういう扱い方したの?
南朝の公家の子孫とかが騒ぎ起こした事あったよね?
56 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 14:05:41
熊沢天皇
57 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 14:10:44
>>57 >>54が言っている>あるいはその人を示す記号 じゃないの?
信長が自分の政治姿勢を表すスローガンを古典から選んだわけだから。
>>44 出雲大社については、高層建築だった時代の柱が出土した記憶があるけど。
ただ、御指摘のように、こんなもん当時の技術で堅固に作れるはずもないので、
古来、何回も倒壊したという記録があったはず。
>>55 南北朝合一のときに神器が北朝に移り、これをもって以後は北朝が正統なんだ、
という整理をしたんでしょ。だから、後南朝及びその子孫を名乗る人たちには
実質上も名目上も正統性はなく、騒いでも当然のように無視された、と。
61 :
日本@名無史さん:2007/03/31(土) 23:16:01
●『隋書』倭国伝中の「倭国の王は暗い内は自分が仕事をし、明ければ、弟にそれを委ねている」は何を表現しているのか忘れました。
「天皇は神(日)の子であり、その位は代々血統で引き継がれる」というつもりで小野妹子は言ったのでしたっけ?
●外国人に「聖徳太子は日本で初めて法律によって国を治めました」と説明したところ、「それ以前は、人々はどうやって日本を治めていたのですか?」と質問されました。なんと答えれば適切でしょうか?
それと↑のようなことも含めて聖徳太子について英語で紹介されているページはありませんか?
いろいろ検索してみましたが、Wikipediaもさほど詳しくはなかったのです。
>>61 >●外国人に「聖徳太子は日本で初めて法律によって国を治めました」と説明したところ、「それ以前は、人々はどうやって日本を治めていたのですか?」と質問されました。なんと答えれば適切でしょうか?
十七条の憲法は、心構えを説いたようなものなので社是とか校訓みたいなイメージで捉えればよく、規則・法律ではないと思います。
体系化された法律が制定されたのは大宝律令で、それ以前は慣習法だったり、体系化されずに個別に法律を作り適用していた とかでいいのでは。
63 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 15:31:42
>>52 この時期の中国漢字音で、「いと」の音訳として「委奴」を当てることは
あり得ないというのは言語学の世界では常識。
64 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 17:06:30
>>16 >後奈良や後柏原は時代背景を考えると分かるよ。
>当時は即位の礼はおろか、葬儀も行えなかった時代だからね。
>追号も多分に適当(というのは言いすぎかもしれないが)にならざるをえなかった模様。
政治的に混乱している時代だからこそ、平安建都の初心に還って平安時代の
最初の天皇である桓武や平城の名前を使ったんじゃない?
むしろその前の後花園や後土御門の名前のほうが微妙。
増鏡を読みたいが色んな出版社から色々出てるからどれがいいかわからん
原文と現代訳がついてて出来れば解説もほしいがどこの増鏡を買えばいいでしょうか?
よろしくおねがいします
66 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 20:20:15
率直な質問です。郷士と地侍って何が違う?
67 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 21:06:21
地侍=中世史における用語
郷士=近世史における用語
地侍
:中世後期、郷村に勢力をもった侍・武士。幕府や守護の家臣ではなく
国人以下の階層。用水の管理や加地子の集積などで郷村の実質的支配者と
なり、下剋上の風潮の中で、郷民の一揆の主役となった。戦国大名の下で
下級家臣となったが、兵農分離により近世社会では郷士などとして存続した。
>>64 元々後花園は「後文徳」の予定を「文徳は諡号だから後加号出来ない」と知って慌てて決めた筈。
70 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 01:48:10
神社は中に入るのに無料なところが多いのに寺は有料が多いのは何故なんですか?
71 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 02:14:44
系図ヲタです。いろいろ系図の本をみていますが、近代以降、生母の記入がないのがほとんどです。
けれどWikipediaとかをみると『生母は家女房の〇〇氏』と書いてあるのが、かなりあります。
一体どうやって調べているのでしょうか?
お薦めの本とかあったら教えて下さい。お願いしますm(__)m
72 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 02:49:10
>>44 転載で申し訳ありませんが、
出雲大社の現在の高さは24m、
社伝による古代の高さが16丈(48m)です。(現在の東大寺の屋根ぐらいに社がくる高さ)
当初はこのような高層建築は現実的にありえないとされてきました。
構造は、出雲大社の平面図を書いた「金輪御造営差図」によれば、
3本の木を金輪(鉄の輪)で1つに束ねた太さ1丈(3m)にもなる柱が9本
使われていたそうです。
工学博士・福山敏男と建設会社・大林組プロジェクトチームによる検証では
当時の技術でも建設可能であると答えが出ましたが、記録では
平安時代の中期から鎌倉時代のはじめまでの200年間で、6度ないし7度倒れたとの事です。
その後の平成11年9月からの発掘調査で、3本をたばねて1本とした巨大な柱の根本部分が見つかりました。
1本の木の直径が約1.3mで、3本をたばね1本とした直径は約3mで
まさに『金輪御造営差図』の通りでした。
さらにその後の調査で、心御柱(しんのみはしら)(岩根御柱とも呼ばれる中心の柱)と
もう1本の側柱(がわばしら)が出土しました。どちらも3本の柱材をたばねて、1本の巨大な柱としています。
>>69 「後文徳」の話は
>>36で既出。
せめて最新50レスくらいは読んでから書きなよ。
それに貴方のレスは「後花園の追号が微妙」といってる
>>64に対する答えにも
なってないだろう。たぶん。
>>64 いやそれは無理があると思うんだよ。
少なくとも平安に立ち返るという発想であれば後奈良はないだろう。
奈良帝は文字通り平安朝へのアンチテーゼとしての位置付けであるし、
その後の天皇も嵯峨帝を皇統の根拠としているところを見ても。
後花園や後土御門の方が微妙、というのは何が微妙ということなのかな。
76 :
74:2007/04/02(月) 13:52:06
ちがうよ。なんでそうなるんだ。
77 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 14:50:09
>>74 「後奈良」の追号は、「後柏原」のあとを受けて、元の追号の親子関係を
後加号でも踏襲したからだろう。
「嵯峨」の後加号は既に使われていたから、それ以外で桓武の皇子に当たる
天皇ということになると、平城か淳和になるわけだが、完全に断絶して子孫の
いない淳和よりは、嵯峨と同腹で子孫もいる平城のほうがいいというような
判断だったと思う。
子孫もいる平城、とは言っても臣籍に下ってるし。
まあこのへんの追号に関しては資料がないので全て憶測の域を出ないのだが、
多分そこまで深い意味があったわけでなく、先帝が後柏原だったから単純に
後奈良としたのかと推測してるのだが。葬儀やらなんやらでさえどうにもならない
時代だし、追号もその程度だったんじゃないかと。