1 :
日本@名無史さん:
魏皇帝「おい、おまいら倭国調べてこいや。」
家来「は、はい・・・・」
その後・・・
家来A「おい、どうする?倭国だぜ」
家来B「船で渡るだけで命がけだ。マンドクセ」
家来C「もう行ったってことにして適当に話作ろうぜ」
A&B「さんせーーー」
家来C「じゃあまず王の設定からだな・・・・」
2 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 12:08:24
4世紀の日本、所謂空白の100年が気になる
曹操は調べてこいなんて言ってないけど、
大秦との繋がりを持った曹真に対抗するために
シバイが誇大に報告してる可能性はでかいだろうな。
一桁二桁は平気で大きく報告する国だし。
古代や近世以降の行政文書の数字は客観的な数字。
5 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 04:00:09
盲点だった
6 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 04:29:30
儒教圏では昔から軍勢を2〜3倍に水増して公表するのが常識なのに、
他の数字は鵜呑みにしても大丈夫だなんて理屈は無いだろ
7 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 04:05:52
この頃の皇帝は曹叡
8 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 14:19:14
9 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 23:50:49
10 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 09:14:52
明石散人も(乱暴な見方かもしれんが)概ね同じ意見だったな
11 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 11:06:24
正始元年・・・梯儁等・・・詣倭國拜假倭王
(正始元年に、・・・梯儁等は・・・倭國に詣り、倭王に拜假した)
壹與・・・送政等還
(壹與は、・・・政等(張政等)を送り還した)
使者が倭国へ来たのは2回以上(伊都國の記述ではもっと頻繁のようにも読める。)
梯儁と張政の両者とも、倭国へ来ないで報告を捏造したと考えるのは、も〜アホかと。
魏志倭人伝を読んでないだろ。
12 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 14:10:03
>>11 明石散人の意見では
魏がライバル国・呉を牽制するために呉の向いに
大国があるようにみせかけたのが東夷伝倭人章というものだった
だから方角も距離も戸数も捏造の可能性があるとのこと
やべ、中国に侵略されたら困るぞ!と思った邪馬台国の人が、わざと相手が混乱するような進路をとったんじゃないの?
無味に山の中ぐるぐるしてみたり。
14 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 10:51:51
噂で聞いた日本の一小国を
適当に書いたんだろう
15 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 16:17:39
黒歯国(たぶん南方の島)とか出すのが あやしい。いかにも「遠くまで行ってました」みたいな捏造だろ。
16 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 16:20:09
サボり営業マンの心理と同じだよ。サボりはかなり遠くまで行ったフリして報告するんだよ。
17 :
カナカナボウシ:2007/03/23(金) 19:20:36
三角縁神獣鏡は国産であり、その紀年は中国の史書の倭国に関した年号を、明鏡に刻したものである。
また中平年刀も同様である。つまり、古墳から発見される紀年の入ったもののほとんどは捏造なのである。
とはいっても、当時の人を騙そうというのではなく、ラーメン丼の万暦のようなものなのである。
そこで問題は、中国の倭国に関する物でやはり捏造されているのではないかと推測される有名なものがある。
それは「親魏倭王」印である。勿論金ではなく青銅製であろうが。
この捏造(模造)品は、当然天皇の墓におさめられているとおもわれる。いくらなんでも、地方の豪族の墓に
模造とはいえ倭王と刻された印を入れるわけはない。
その天皇を推定するには、紀年鏡や中平年刀のつくられた時期を探すことからはじめるのがよい。
どうもこの捏造品はある時期にまとまって作られたようであるからである。
そこで、景初三年鏡等紀年鏡が発見された古墳と古墳の年代を教えていただけないでしょうか。
ただ、近頃は年輪年代法により、古墳が古くされてしまっているようなので、
それ以前の年代による古墳の年代をお願いいたします。
18 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 19:47:44
19 :
カナカナボウシ:2007/03/23(金) 21:02:18
いいえ、私のオリジナルです。
この疑問をもったのは私が初めてでしょう。
20 :
サガミハラハラ:2007/03/24(土) 08:00:19
そうなると、「宣和集古印史」にのっている「親魏倭王」の印影は案外古墳から盗掘された印
から写したとも考えられますね。着眼点はよいと思いますよ。
22 :
フリージア:2007/03/24(土) 09:29:40
>>12 魏が呉をけん制ではなくて、公孫氏が魏や呉を牽制するためにですよ。
公孫氏の領土はあまりにも他の三国に比してせまいため、誇大にみせようとしたのです。
文献に関したことなんでもお聞きください。
23 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 11:49:21
これだけ大きな国が海を渡って朝貢してきたと、自分たちの手柄を大きくするために
皇帝に嘘の報告をしたんだろ。
24 :
フリージア:2007/03/24(土) 13:09:14
「親魏倭王」の印影については、古田武彦氏が「邪馬一国への道標」の中(p286)で
のべています。
銅印獣チュウと書いてあるそうです。そして最後に古田氏は「これは偽作ではなく、模印です。」と結論づけています。
つまり、カナカナボウシ氏がいった、紀年鏡と同じく捏造品で、どこかの天皇陵におさめられていて、盗掘され、中国に売り払われたものである可能性
がでてきました。
となるとその天皇とはだれかということになります。
25 :
桜:2007/03/24(土) 13:24:31
あっさりと神功皇后陵に納められたでいいのではないでしょうか。
26 :
警告:2007/03/24(土) 22:33:06
同板での複数ハンドル使用はマナー違反です。
どれかに統一して下さい。
27 :
フリージア:2007/03/25(日) 08:12:19
>>22説明不足でした。
公孫氏が過大に記述した文書を魏が入手し、晋の時代に陳寿が閲覧してそのまま魏志倭人伝
に載せたのです。
倭人伝の過大な距離等もその類です。
28 :
サガミハラハラ:2007/03/25(日) 08:21:05
なるほど、倭人伝に公孫氏がからんでいるとは、新たな視点ですね。
今までは、魏志倭人伝は全く魏使の報告のみとみられていたのですが、
種々の文献を元に編纂しているのは確かですからね。
其の点、研究者はもっと視野を広げるべきでしょうね。
29 :
警告:2007/03/25(日) 08:27:57
誰も見ていないからといって、複数ハンドル使用を続けるのはやめろ。
>>27 >公孫氏が過大に記述した文書を魏が入手し、晋の時代に陳寿が閲覧してそのまま魏志倭人伝
に載せたのです。
倭人伝の過大な距離等もその類です。
いいかげん脳内妄想を語るのはやめてください。
31 :
カナカナボウシ:2007/03/26(月) 09:02:19
昨日,新井宏氏(元日本金属工業)の講演「実年代考における年号鏡・年輪年代の問題」を聴講
してきた。年号鏡や三角縁神獣鏡は国産に間違いは無い、C14による年代はぶれがあるということを理科学的な分析から説明した。
しかしこの講演を聴いておもったのは、このような理化学的結果をうけいれずに論じている考古学者とはいったい心理を追求しよう
という心がけが全く持ち合わせて
いないのだろうか。まして、考古学者は邪馬台国畿内説であるなどとの囲い込みをしたりしているとするならば、
それはまさに真理追求への妨害といってよい。
32 :
フリージア:2007/03/26(月) 09:06:42
>>30 あまりの研究の進展の速さに、着いていけないでしょう。
しかし、研究は日進月歩なのです。次々と新事実新説新論が現れてくるのです。
33 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 10:10:49
こういうスレを見て、「新説!?みのもんたの日本ミステリー」が制作される。
制作スタッフは2ちゃんねるの歴史スレッドを見てとんでも新説をひねり出しているという。
34 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 12:30:35
2ちゃんにうらみをもってるミイラとりがミイラになってるみたいだ
35 :
カナカナボウシ:2007/03/26(月) 12:47:10
年号鏡や中平鏡が国産の模造(偽造のほうが正しいか)ならば、「親魏倭王」の金印の
模造も国内で製作され、どこかの天皇陵に副葬されたと考えられる。そして盗掘され中国にわたり「宣和集古印史」
(銅印獣チュウの注あり)に収録されたのではないだろうか。
36 :
カナカナボウシ:2007/03/26(月) 12:53:59
中平鏡は中平刀の間違いです。
37 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 18:19:17
.__________
|| // // |
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|| ( 人____) | ( )
|| |ミ/ ー◎-◎-)| (ヽミ |
|| (6 ゜(_ _) )|. ( 6) |
|| __| ∴ ノ 3 )| (∴ \____ノ_
|| (_/.\_____ノ | >--(っ___□__)
|| / ( )) ))ヽ| ( )) |三| ヾ
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|_|| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
(_)\|三三三三三|
(:::::::::::::::::::::y:::::::::ノ)\
なんで俺の顔がAAになってるんだ?(・∀・)
39 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 01:37:01
豚が居ないってのはおかしいよ
40 :
フリージア:2007/04/05(木) 07:51:14
中国の史書は、前代の史書を引用したり、若干の修正や付加をしているのであるが、当然陳寿の魏志倭人伝も
他書から引用したりして記述しているのは明白である。(魏略等)
その結果、邪馬台国への行程記事は朝鮮の書から引用したために、周尺を用いた文章を修正せずに用い、魏尺にしては異常に長い距離となってしまった。
それでは、この他にも朝鮮の記事を参考にした箇所はないであろうかと、かんがえてみた。
それは戸数の記述である。
戸数についての問題点は、数のみならずその表記法にある。すなわち「戸」と「家」の違いである。
41 :
カナカナボウシ:2007/04/05(木) 08:22:49
この件については、かの邪馬台国の発見者であるサガミハラハラ氏も解決できずにお手上げという状態であった。
しかし、周文化とのかかわりが指摘されている現代、新しい観点から再検討することができるかもしれないね。
42 :
サガミハラハラ:2007/04/05(木) 08:27:04
確かに、いままでは、戸と家は区別する必要はない。同じようにつかわれていたということであったね。
しかし、同じ書のなかで同じページにありながら、何故陳寿は統一しなかったのだろうかという疑問があった。
43 :
フリージア:2007/04/06(金) 09:16:45
三国志後漢書の東夷伝をみてみると、「戸」は韓、夫余、高句麗等のように大まとまりにつかわれていて、家は小さなまとまりにしようされているようだ。
家と表記しているのは、「扶余伝の(諸加はそれぞれ四出道を司り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配している)」
「高句麗伝に(また逃亡してきた胡族の五百余家を配下にした。」
「後漢書韓伝に(【馬韓諸国のうち】大国は万余家、小国は数千家で総は十余万戸)」とある。
これからみると、国の中のまた小さな国(江戸時代ならば藩にあたる)は家と表記しているとなる。
それでは、倭国ではどうなのかということになる。
44 :
サガミハラハラ:2007/04/06(金) 09:55:21
倭人伝では同じような国が戸だったり家だったりしているが、ほとんどが戸の表記だね。
おなじような中で違いを見つけ出すということになる。
倭国という大きな枠ではとであるが、其の中の国々での違いは大小によるとはかぎらないということであろうか。
45 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:31:41
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
46 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 16:49:43
三足土器さんへ、せいぜい三行ぐらいにしてください。
甘い。1行で十分。
その代わり、スレタイ邪馬台国問題と古代中国の三足土器がどう関わるか、
そこを書かなければ他人に迷惑を掛けるだけの単なるアラシ。
「人様に迷惑かけちゃダメ」と、一度ぐらいご両親から諭されたことはあるだろう。
いいトシして親の意見を守らぬこの親不孝者めが!
配偶者や子どもがいるのだろうか?
もしかして、「姑息なことをやっちゃダメだよ」なんてわが子にしつけしてたらお笑いだ。
自分の子どもに、姑息な行為を毎日繰り返すおのれの姿は、絶対に見せられないだろう。
48 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:12:59
>>17 年号の刻まれた鏡はけっこうたくさん見つかっているけど、景初三年は二枚。
一枚は、島根県加茂町、神原神社古墳出土の三角縁神獣鏡。
神原神社古墳は、方墳で竪穴式の石室。また木棺ということで築造年代は
四世紀中ごろと見られているようです。
もう一枚は、大阪府和泉市の黄金塚古墳出土の平縁神獣鏡。
黄金塚古墳は、前方後円墳で木棺、築造年代は四世紀後半と見られているよう
です。
黄金塚古墳の紀年鏡は、棺の外に置かれているようで、どうもあまり重要視
されていないみたいです。黒塚古墳の三角縁神獣鏡と同じで宝物的なものでは
なくて、葬式の道具扱いじゃないかと思いますね。
葬式の道具だったら、作ってすぐに副葬されたと考えられるので、これらの
鏡が作られたのは、四世紀中ごろと考えてよいかも知れませんね。
ついでにもう一つ書くと、正始元年が刻まれた三角縁神獣鏡が出土した
群馬県高崎市の柴崎蟹沢古墳は、10m程度の円墳で、これも築造年代は
四世紀後半と見られているようです。
49 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:16:08
偏った皆さんこんばんわ。井の中の蛙大海を知らずということわざを御存知ですか。
50 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 21:40:09
>>47 関わるもなにも、邪馬台国中から三足土器なんか出土しねえよ馬鹿w
51 :
カナカナボウシ:2007/04/08(日) 11:12:02
距離については、時代により変化はないが、戸数というと、時代による変動がある。
陳寿はもっとも近いものを記すであろうから、魏使の報告書ということになるのだが、
はたして魏使は戸数を調査したのかということになる。
魏の時代というのはそれまでの長期安定政権であった漢が滅び、中国が大混乱におちい、
人口も急減した時代である。
また後の隋使いも倭の個数などしるしていないね。
倭人からの聞き書きということも考えられる。
確証はないが、漢の時代の戸数を書き写したとみてもよいであろうか。
誰が調査したかからは、戸と家の相違はみつけられないだろう。
52 :
カナカナボウシ:2007/04/08(日) 11:13:31
53 :
フリージア:2007/04/08(日) 11:56:46
魏志倭人伝で家を使っているのは一大国(三千許家)と不弥国(千余戸)です。
官名は一大国が官が卑狗で副官が卑奴母離(ヒトモリ)
不弥国が官が多模で副官が卑狗母離(ヒトモリ)
副官が卑奴母離(ヒトモリ)でないのが、伊都国、投馬国そして邪馬台国である。(狗奴国は邪馬台国連合でないので除く)
官は対馬国が大官で卑狗、一大国は官でやはり卑狗であり、他の国はそれぞれ異なる。
興味深いのは邪馬台国が卑弥呼ではなく伊支馬となっていることである。
54 :
桜:2007/04/08(日) 12:12:38
狗邪韓国、末ろ国に官名がないのは行程上に宮処がなかったからだね。
55 :
フリージア:2007/04/08(日) 18:09:38
副が卑奴母離(ヒトモリ)でない伊都国と投馬国と不弥国、邪馬台国について考察してみよう。
邪馬台国(小城市)は女王のいるところであるから別格であるから、官名が異なっているのだろう。
投馬国は、宮崎県中心で遠いから、女王の統率下にあったかどうか疑問である。
伊都国(多久市)は世世王ありとして特別な国のようであり、邪馬台国発祥の地であるかもしれない。
次は、副官の名が共通の国々である。
対海国(対馬南島)は大官である。一大国(壱岐島)は海峡の国である。対蘇国(対馬北島)も同様である。
対海国は他の二国の中心的存在であったようだ。
奴国(肥前山口)の官の名の角瓜は伊都国の副官名と共通である。奴国は伊都国の南どなりであるから、
伊都国の副官と位は同じ序列だったのでは。伊都国の植民地みたいな国だったのでは。
不弥国は宮処の直近に邪馬台国の都を移されてきている。
殆ど独立性はなかったのではないだろうか?
となると、対海国は邪馬台国の直がい地であったのではなかろうか。
つまり、副官が卑奴母離(ヒトモリ)である国はあまり独立性がないとみられるのではないだろうか。
56 :
SAKURA:2007/04/08(日) 19:17:08
いままでは、官名については語呂合わせでのみ解釈しようとしていたけど、
相互の地位関係を読み取ろうとする考察は始めて聞くわ。
こんな考察ができる人って尊敬しちゃうわ。
57 :
サガミハラハラ:2007/04/08(日) 21:31:30
つまり、戸数を家であらわしている一大国と不弥国はあまり独立性のない国であったということになるのだろうか。
確かに、三国誌では、大きな枠での国は戸でその中の国(江戸時代の藩のような国)は家であらわしていた。
58 :
サガミハラハラ:2007/04/08(日) 21:44:26
そうなると、一大国と不弥国は何故独立性が薄かったのかということになる。
59 :
さくら:2007/04/08(日) 21:49:22
更に深く深くほりさげていくんだね。
邪馬台国=大和
投馬国=出雲
以上。
61 :
フリージア:2007/04/09(月) 07:53:00
一方で伊都国に従的な立場の奴国が何故家ではないのかという問題もある。
62 :
フリージア:2007/04/09(月) 13:06:08
まず一大国から調べていきたい。ここは現在の壱岐である。
亦の名を天比登都柱と謂う、とある。これは国生みの大八島のなかにない。
海峡の島々も同様である。ということは海峡の島々はもとからの領域であったということになるだろうか。
天国は海峡国家であるとの説がある。となると、この島は海峡国家の一員であるとのことになる。
つまり高天原の領域であったことになる。海峡国家の島の中でもっとも耕作地等が広く人口の多いのはここ壱岐の島である。
海峡国家の主要をなす国である。にもかかわらず、戸数が家であらわされている。
63 :
フリージア:2007/04/09(月) 16:55:15
次は不弥国(佐賀県小城市不二町)である。南に邪馬台国の都が隣接してある。
これは、230年代に卑弥呼が吉野ヶ里から遷都してきたからである。このことから不弥国は
ほとんど独立国とはいえない状態の国である。
記紀に、イザナギノミコトが死んだ時、近江の多賀にまつられたとあるが、神話の設定はんいや神々の行動範囲から考えると、
滋賀県に唐突にまつられるのはおかしい。
そこで私は、これは、不弥国の高田ではないかと考えた。
不弥はオミと発音する。それが後にオキ、そしてオギに変化した。
このオミの国が記紀の編者に近江と誤解されたとみた。
ここまでの一大国と不弥国の共通点は、両者とも高天原系の国であるということである。
64 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 18:59:09
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
65 :
サクラ:2007/04/09(月) 20:50:05
高天原系って、他にどんな系があるのでしょうか?
66 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 22:40:00
>>62 一大国は、一支国の間違いと考えたほうがいいのでは?
67 :
フリージア:2007/04/10(火) 08:33:38
ここは、岩波文庫の記述で行きたいと思います。
68 :
フリージア:2007/04/10(火) 08:51:35
記の神代記によると、「天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、
天之御中主神。次に高御産巣日神。次に神産巣日神。」とある。
天之御中主神は高天原の神、神産巣日神は出雲の神。そして高御産巣日神は
邪馬台国の神であるという説がある。
邪馬台国は佐賀平野に存在し高天原の背振山地の南麓である。
高天原は在来の国であるのに対し、邪馬台国の先祖は半島から渡来し唐津に上陸、
松浦川をさかのぼり、多久盆地に居を構え、そこで勢力を培い、やがて東へと勢力を拡大していった。
高天原とは友好的であったが、地位としては高天原が上であった。
つまり、高天原の天照大神の方が邪馬台国の高木の神より地位は上であった。
69 :
フリージア:2007/04/10(火) 20:42:23
ところが、天石屋戸事件でもってこの位置関係が逆転し、高木の神が主導権を握るようになってきた。
その結果、高木の神の差し金で葦原中国の領有を出雲にせまることとなった。
初めは葦原中国のみの領有を交渉したのであるが、思いがけなく、出雲大国主命の勢力圏を全て手に入れることができた。
そして新領土に高天原の名をもって新支配者をおくりこんだのである。
高天原、
この名前を聞いたら分かるけど
ようするに、水源のある山頂を現している。
そして、葦原中国。
これは葦のある湿地帯・川辺の平地。
水源を抑えたものが、天下を支配する。そういうことだ。
71 :
チェリー:2007/04/11(水) 08:18:35
となると高天原が背振山で葦原中国が福岡市一帯、が地理的にピッタリということになるね。
72 :
フリージア:2007/04/11(水) 08:47:34
名目的な首長は高天原であるが実権は邪馬台国が握っており、邪馬台国はその支配を広げていき、高天原の諸国をもその支配下においていった。
そして残ったのが不弥国と一大国である。そしてこの2国も事実上権力を奪われており、特に佐賀平野の中庸を占める不弥国は、施策上骨抜きにされ、
植民地同様となったのである。
その結果、邪馬台国関係国は戸で表示され、高天原系は家で表示されているのである。
(奴国は、伊都国の分かれであるが邪馬台国系であるからとをつかっている)
73 :
桜:2007/04/11(水) 12:33:20
なるほど、高天原は天の石屋戸事件以来ずうーっと落ちこんでいったわけですね。
74 :
日本@名無史さん :2007/04/11(水) 12:43:09
スサノオが高天原から出雲に出向くが、高天原が
福岡一帯なら、確かに納得しやすい。
宮崎では遠いからね。
75 :
カナカナボウシ:2007/04/11(水) 12:54:10
ところがそうでもないようなんだ。
葦原中国に降臨したニニギノ命の国は倭面土国として中国の史書にのっているのだよ。
ニニギノ命の戸のホスセリノ命が帥升であったようなのだよ。
つまり、高天原はこの時代に再び復活してきたようなのだよ。
76 :
さくら:2007/04/11(水) 18:00:31
復活してきたとは、どうしてわかるのですか。
77 :
フリージア:2007/04/11(水) 18:49:16
つまり倭面土国(イメンドコク)の登場にある。つまり高天原系の国が勃興してきたことは、邪馬台国の衰退を意味する。
邪馬台国は高木の神か思金神のあとの王位継承がうまくいかず、混乱状態に陥り、衰退したということになる。
しかし、やがて邪馬台国に強力に国を統括できる王があらわれたのだ。
倭人伝に、「その国、本また男子を以って王となし、住まること7,80年。」とある。
7,80年は2倍年暦であるから、35,40年となる。
この王は邪馬台国の王であり、倭面土国を滅ぼしたのである。
高天原系の国々は滅ぼされ、一大国と不弥国のみが残されたのであるが、
しかし残されたとしても、邪馬台諸国とは差別され戸数は家であらわされたのである。
これが、倭人伝中の戸数の表記が戸と家にわかれている事由である。
78 :
SAKURA:2007/04/11(水) 21:51:55
古代の日本で、こんな複雑な歴史があったなんて初めて知ったわ。
けど最近、古代史が凄いピッチでどんどん解き明かされていくわね。
ぐずぐずしているとついていけなくなっちゃうね。
79 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 12:09:55
これはど露骨な自作自演も珍しい
80 :
サガミハラハラ:2007/04/16(月) 10:55:28
邪馬台国小城説にかんして。
この論の重要な点は、伊都国が松浦から東南の多久にあるということなのであるが、
この説が受けいられない理由の一つが、多久の延寿寺(伊都国の宮処)の近辺が
いまだ発掘されておらず考古的裏づけがないということにある。
そこで、今度延寿寺の近辺を探索してみることにした。
めあては伊都国王墓である。
邪馬台国系の国々の墓はその配置に特徴がある。
吉野ヶ里 北に墳丘墓その南に居住地(北内郭・南内郭)さらにその南または隣接して市場である。
甘木 北に墳丘墓(甘木公園の丘)南に甘木市街地その南に牛木の地名。
小城公園 北に墳丘墓(桜ヶ岡)南に甘木の地名さらに南に石木の地名
という具合に、南北のラインにそって都はつくられているのである。
そうすると、伊都国の場合も之に当て嵌まり、延寿寺(甘木にあたる)の北に墳丘墓があると推測できる。
そこで地図をみると、寺の北方に八幡宮の社があり、そこは丘となっている。
どうもそこが伊都国の墳丘墓と見当づけられる。
この夏に九州に出かけ調査をしてみようと考えている。甕棺が出土していれば、かなり確立は高いことになる。
近々「伊都国王墓探索隊」を結成しようとかんがえている。
81 :
震え出したのが恥ずかしくて 実はサガミハラハラ:2007/07/27(金) 21:25:32
本の出版がすんで一息ついてからということになるかな。9月か10月か。
82 :
子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/30(月) 10:12:32
倭人伝における戸、家の使い分けと官名についてレス40〜77にかきこんだのですが、
いかがでしょうか?
何か反応がないようなので。ご意見お寄せください。
83 :
子供ができたいまでさえ、あの頃は忘れない 実はサガミハラハラ:2007/07/30(月) 20:27:44
魏志倭人伝の著述において陳寿が参考とした資料は魏略と魏使の報告書であるととある講演会でとある講師の方がおっしゃられたが、
といったが、それでは魏略の資料はなんだったのかということになるのであるが、この点については今まであまり論ぜられていないようである。
わたしは、倭人伝の資料は、魏略、魏使の資料のほかに、晋の書庫にあった漢以来の資料があったものいでそれを参考にして三国志後漢書等が記述されたものであると考えるのであるがいかがでありましょうか?
84 :
オーオージョニー それだけが 実はサガミハラハラ:2007/08/03(金) 07:57:36
85 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/04(土) 01:18:53
>>82-84 城郭・城柵があり人口の多い国が「戸」表現、城郭・城柵があっても人口の少ない国は「家」表現。
魏志東夷韓伝の記事
馬韓:「散在山海間無城郭」「凡五十餘國大國萬餘家小國數千家總十萬餘戸」
辰韓・弁韓(弁辰):「有城柵」「弁辰合二十四國大國四五千家小國六七百家總四五萬戸」
馬韓は50ヶ国平均8千家として40万家、1戸≒4家。平均2千戸。
又その8千家が散らばっているので一箇所での「家」数は少なく、「戸」表現には足らない。
馬韓には城郭・城柵も無い。
弁辰は24ヶ国平均2百戸、即ち平均8百家。
弁辰には城柵はあっても人口が少ないので、「家」表現。
倭国伝の記載例から見て、3千家未満では「家」表現、
城郭・城柵があり、千戸=3千家以上では「戸」表現。
倭には倭国大乱があったので、城郭・城柵があるのが普通
86 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/04(土) 02:13:52
修正
誤:城郭・城柵があり、千戸=3千家以上では「戸」表現。
正:城郭・城柵があり、千戸=4千家以上では「戸」表現。
87 :
春を愛する人は 心清き人 実はサガミハラハラ:2007/08/19(日) 11:06:55
伊都国、対海国はともに千余戸で戸で表記されていて両者共城郭があったと思いますがこれについてはいかがでしょうか。
88 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/08/20(月) 00:56:49
>>87 倭については特に城郭無しと書かれていないので、
当然城郭があった事になります。
一大國3千許家と不彌国千余家においても城郭があったことになります。
中国人の常識では城郭があるのが当たり前。
韓地においては城郭が無いことに注目しているから。
だね
90 :
サガミハラハラ:2007/10/17(水) 21:51:17
魏略と魏志がともに晋の図書館にあった同じ資料を見たとすれば、魏志は魏略を参考にしたとはいえないであろう。
★『万葉集』に記載の、斉王 芳(魏の少帝)が支持した、
臺与(君臨)の「邪馬臺(連合国)・蘇我系(秋)」の成立は、西暦248年。
当時の臺与の都は、京都郡香春=現京都郡みやこ町御所ケ谷(神籠石あり)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikuhou/gosyogatani/gosyogatani.htm ⇒「(小野妹子の)イ妥国」・『隋書』……蘇我系(秋)・大和朝廷(わが国の北朝)
『万葉集』より
大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる (巻3・420)
豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず (巻3・421)
岩戸破らむ手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく (巻3・422)
豊国の香春(かわら)は我家(わぎへ・わが皇統家)
紐【皇緒】児(ひものこ)にいつがり居れば香春は我家 (巻9・1771)
青によし奴国【奈良】の都【香春(京都郡)】は咲く花【君臨者(むろ女王)】の
にほふが如く今盛りなり 小野老朝臣【美努王(のちに、聖武天皇)】(巻3・331)
『古今和歌集』より
人はいさ【いざなみ(&)いざなぎ】心も知ら【斯廬(しろ・新羅の古名)】ず
ふるさとは花【君臨者】ぞ昔の香【香春(京都郡)】ににほひける 紀 貫之
共立された女王・卑弥呼(君臨)の「邪馬壹(連合国)」成立前夜、
■畿内は、奴国(→邪馬臺)側を傘下の、銅鐸族の公孫氏(欠史八代)支配だった⇒
⇒銅鐸族の公孫燕と奴国の君臨者は、斉の太公望の末裔で、従兄妹関係になる)⇒
⇒司馬懿に依り、滅亡。
ブログ・真の『万葉集』
http://hitomaro.air-nifty.com/
「日本国(大和朝廷)」の成立は、西暦660年。聖武天皇の生誕年。
国父・「神武天皇(ヤマトタケル)」=【実像は、聖武天皇(大津皇子=諡号は、聖徳太子)】
国母・「神功皇后」=【実像は、持統太上天皇(桜児・人麻呂大津皇子の恋人)】
「神功皇后」は、【卑弥呼・物部系と天照大神・蘇我系の神格の両方を、合体している】
俺も「邪馬台国」そのものが無かったと思うなあ。
とにかく魏志倭人伝の記述はほとんど信用すべきではない。
当時の日本の事が正確に伝わるわけが無いんであって書いた本人はもちろん日本に来て見たわけじゃないし日本人と直接話したわけでもない。
全て伝聞。
遠い海の向こうの蛮人国なんてどうでも良かったわけで白髪千丈式で適当な事を書いたかもしれない。
使者の方もどうせ日本に来るわけないとタカ括って大げさに吹聴しただろうな。
そもそも使者がどうやって中国人と会話したか?
日本語専門の通訳がいたとも思えないし使者が身振り手振りカタコトの中国語で話したんだろうし正直に言った所でどの程度伝わったか知れたもんじゃない。
まあ九州あたりの豪族の一人が日本代表みたいな顔して使者送ったってのが真相じゃねえのかな。
96 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 16:46:06
邪馬台国はまちがいなくあったね。倭人伝、後漢書、宋書、隋書、一貫して倭国を伝えている。それがなかったはずはない。
問題は日本国だ。旧唐書で日本国が書かれるまで、まったく中国の史書に書かれたことがない。日本国がなかったのではないかと考えるべきなのでは?
97 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 15:06:59
邪馬台国は日本(倭国)には無かった!
これが正解だな。
98 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 16:02:54
緊急あげ
99 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 17:01:42
>>96 7世紀まで九州の倭。
8世紀から畿内の日本ですね。
100 :
日本@名無史さん:2008/05/03(土) 18:22:22
101 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 23:00:10
荒らし
きたぞあげ
102 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:27:57
宗教観念が、古神道と邪馬台国では違い過ぎるというのも、
捏造の可能性が高い理由の一つ。
神道は不浄を嫌うが、邪馬台国では不潔な奴隷を神に捧げる。
103 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 20:30:28
邪馬台国の人々は全身に刺青をしていたそうだが、
日本書紀には犯罪者に罰として刺青を入れるという記述がある。
刺青が珍しくないのだとすれば、罰にはならないだろう。
民俗学的におかしいもんな、今の大和民族が完全な北方系とはイワンが。
中共もニタついて眺めてる可能性があるw
105 :
サガミハラハラ:2008/05/25(日) 22:27:44
今日都内の某所でァ子なわれた講演会で、「候補地がばらばらの九州説は一つにまとまるべきでは」という悲痛な意見がとびだした。
確かに一つにまとまっている畿内説に対し、候補地が互いに反目していてはぶが悪いであろう。
そこで、邪馬台国九州説支持者は大同団結して「小城甘木説」を支持すべきであろうと思う。
むりをとおせば道理がひっこむ
かもしれんが、学問ではないな。
>>105 九州説の中でどれが可能性があるか、と言う検討もしないで統一するの?
>107
サガミハラハラさんはいい加減な引退ジジイやけん、
質問が正当でも納得できる回答は期待でけへんで。
>>1 そもそも何で
「邪馬台国(=ジャップ)はどこにあったんだろう」とか
「卑弥呼(=ビッチ)は誰だったんだろう」
なんて論争になってるんだか
>>102 >>103がいいことをいっている。
邪馬台国の生活、風習の記述は日本のものとしては違和感ありまくり、むしろ
東南アジア系のものを思わせるのに、その辺はスルーされてるんだよな。
九州説にしろ畿内にしろ、邪馬台国論争ってト系の議論と同じにおいしか
しないんだけど。信憑性なんてまったくわからない書物の記述を、
目を皿にして一字一句拾い上げ、解釈にあーだこーだ言ってる様は異様。
>>1や
>>95のいってるのが真実に近いんじゃないの。
111 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 11:12:12
>信憑性なんてまったくわからない書物の記述
刀の銘とか木簡は誰が何時書いたのか、何を書いたのかはっきりしないものがほとんです。
それに比較すれば、3世紀に生きた陳寿が3世紀のことを書いたのです。頼るべき史料といえます。
しかも陳寿は史家の中ではかなり信用されている人です。資料の取捨選択もいい加減なはずはありません。
史料の中では1級史料というべきものなのですよ。
112 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 14:22:24
倭人伝を信用できないという人は、倭人伝のとおりに進んだのでは自分が思っている候補地にうまくたどりつけないというだけです。
先入観を捨てて倭人伝のとおりに進めばいいのですよ。そうすれば、邪馬台国の所在地などすぐに見当がつきます。
今は一番素直な考え方が忘れられているのですね。
113 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 15:06:47
高天原が韓国にあるんだから
邪馬台国も韓国にありますって
なんで言わんのだろう?韓国の人、どう?
114 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 15:22:34
>105
むしろ、邪馬台国九州説支持者は大同団結して「小城甘木説」を排斥すべきであろうと思う。
115 :
サガミハラハラ:2008/07/02(水) 15:23:30
>>112確かにそのとおりだと思います。
しかし、皆さん「私の邪馬台国」にお固執して、広い目で現実をなかなかみつめられないのですね。
確かに邪馬台国の風俗は歴史時代の日本とは大きく異なっている。
風俗ってそんなに簡単に変わるんだろうか?
その後に大規模な民族移動があったのか?
どうも邪馬台国は琉球か台湾かあのあたりだとしか思えないんだけど。
少なくとも狭義の日本でない地域。
117 :
サガミハラハラ:2008/07/02(水) 17:04:51
しかし、排斥しようとしたところで、理論的に実質的に小城甘木説が最も納得のいく候補地であるからには、
小城甘木説でおしていくのが最良ではないだろうか。
118 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 17:19:20
>>116 狭義も糞もあるかよw
日本つぅのは、種子、屋久から北な頭入れとけよツングース。
119 :
サガミハラハラ:2008/07/12(土) 11:20:38
東京富士美術館での大三国志展に中国の地方で発掘された金印が六個も展示されていた。
いずれも墳墓からの発掘とおもわれる。
となると、卑弥呼の金印も卑弥呼の墓に副葬されたものとみられることが極めて濃厚となってきた。
私は、親魏倭王印は伝世で、壱与の時代に魏から晋に変わったとき中国にもっていって親晋倭王の印鑑と交換
してきたものとおもっていたのであるが。
120 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 11:31:41
邪馬台国は無かった
121 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 00:08:19
邪馬壱国しか無かった
122 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 00:50:01
123 :
日本@名無史さん:2008/08/30(土) 10:54:45
124 :
日本@名無史さん:2008/10/30(木) 20:49:43
金印って日本国内で見つかってるん?
126 :
サガミハラハラ:2009/02/11(水) 11:34:10
楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時をもって来献するという。
*これからだと半島南部に和人が居住していたのかははっきりしない。
ただ中国人の認識としては、倭人の主な居住地は島であるとみているようである。
127 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 11:47:16
>>126 島と言ってる以上、九州かその周辺ぐらいしかなさそうだよな
本州を島だなんてヤマト王権が知らんだろーし
本州の規模を古代人が島扱いするのもなんか違う
ヤマト王権て・・・・( ゚д゚)ポカーン
それ漢書だぞ
129 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 12:24:10
倭国王が知らんことを中国人が知るわけがないってことだろ。
130 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 14:36:40
日本のどこかに来たのは確実だろ
倭の国の名前が和語の数詞や漢字なのは偶然にしちゃできすぎ
1 一支国
2 不弥国(ふ)
3 弥奴国or末慮国(み)
4
5 伊都国(いつ)
6 弥奴国or末慮国(む)
7 奴国(な)
8 邪馬台国(や)
9 狗奴国(こ)
10 投馬国(と)
どう見ても日本語を聞いて当て字したもの
日本語圏に来たのは確か
日本語は倍数同子音だから3と6は入れ代わりがありうるが、
1と2は1が漢数字であること、
4と8は4が黄泉の国で生きた人間の住むとこじゃないから欠番なこと
から推定でき、
むしろ確実に日本に来たと思える
一支国は使者にとっても倭人にとっても
「とにかくここはナンバリングでONEと呼ぶ」
という概念が共有できたから漢数字と思うが自然かと
131 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:38:21
邪馬台国は大和にあったが、九州にはなかった。
132 :
サガミハラハラ:2009/02/12(木) 08:03:57
会稽の海外に東テイ人あり、分かれて二十余国、歳時をもって来献す。
*東テイ人は半島南西部に居住していたという。
会稽海外ということから、楽浪の担当ではなく、会稽の担当であるということである。
楽浪郡が設置される以前から、この地域は会稽地方とのつながりが強かったということである。
倭が楽浪の範疇であるということは、倭人の郡に往来するときは、半島を船で迂回せずに、半島内を陸行したものであろう。
133 :
サガミハラハラ:2009/02/12(木) 21:51:11
後漢書
倭は漢の東南、大海の中にあり。島山の拠って住むこと百余国である。
漢の武帝が朝鮮を滅ぼしたのち、漢に通訳を連れて使者を送った国は三十ばかりで、各国は皆、王がいるといい、
代々系統をつたえていた。その大倭王は邪馬台国におる。楽浪郡境は邪馬台国を去ること一万二千里で、倭の西北界
狗邪韓国を去ること七千余里である。倭の地はだいたい会稽地方東冶の東にあり、朱崖、タン耳に近く、したがって、
その制度や習俗には同じものが多い。
*前は百国であったが、後漢の時代には朝貢するものが三十国となっている。
これは百が三十に統合されたのではなく、70カ国が漢に朝貢することをやめたということである。
この時代において、漢に従う正統な倭の諸国は30カ国であるということである。
残りの70カ国は出雲や蝦夷の諸国であろう。
三国志の時代には官の置かれている国がほとんどであるが、この時代にはまだすべての国に王がいたということである。
朱崖タン耳に近く云々はまちがって記載したものであろう。
クヤ韓国は倭の西北界であるというから、
クヤ韓国は倭を構成する1カ国である。問題はその広さ、領域である。
134 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:44:24
どれほどひどい読み方をしているのかが良く分かったよ。
135 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 07:18:59
132
>*東テイ人は半島南西部に居住していたという。
どこにそんなことが書いてあるんだ?
>会稽海外ということから、楽浪の担当ではなく、会稽の担当であるということである。
>楽浪郡が設置される以前から、この地域は会稽地方とのつながりが強かったということである。
>倭が楽浪の範疇であるということは、倭人の郡に往来するときは、・・・
東てい人と倭を一緒にしてんのか? まったく別の話だぞ。
>倭人の郡に往来するときは、半島を船で迂回せずに、半島内を陸行したものであろう。
郡から水行だって書いてあるだろうが。「乍南乍東」はすっと南へいき、すっと東へ行く
ということ。どこにも繰り返したなどとはないぜ。
だいたい、船で出発し、船を捨てて陸行したら、また狗邪韓国で船造りから始めなければ
ならんだろ。使者一行は少なくとも数十人、そんな一行を運べる船を調達するのにどれだ
けの日数、費用がかかると思ってるんだ? 船で行けるところは船で行く、それが当然だ。
136 :
サガミハラハラ:2009/02/13(金) 07:29:38
当時の韓国[馬韓)は一国に統一されてrいたわけではない。
半島南西部(東テイ人居住地州胡)は岩礁とうの障害も多く、継体天皇の時代においても困難であるとして、迂回したということが日本書紀に書かれている。
また楽浪と会稽と担当がことなっていることからみても、倭への行程は半島内陸行とされていた可能性もある。
また、当時の船は沿岸行であるならば海賊による妨害も考えられる。
137 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 08:19:44
陸行ならば山賊の危険もある。
138 :
サガミハラハラ:2009/02/13(金) 09:38:13
そうですね。卑弥呼の最初の貢献の時、貢物が生口10人班布2匹2丈と貧弱であったのは途中で山賊におそわれたからですねきっと。
139 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 12:51:47
魏の使い張政が錦の御旗をもって来て邪馬台国と狗奴国の戦争で檄をとばしているんだから来日したのは確実だろう。
140 :
サガミハラハラ:2009/02/14(土) 10:21:26
後漢書
建武中元二年(57年)倭奴国が貢物を献じ、朝貢してきた。−−倭の最南端である。
*この時代には西暦40年頃倭国の統一がおわり、もはや倭奴国は最南端なのではないのであるが、
中国にはまだその事情がつたわっていなかったか、ハンヨウの記録違いであろう。
当時の倭奴国の都は吉野ヶ里であった。
141 :
サガミハラハラ:2009/02/16(月) 16:57:56
倭人は帯方郡の東南、大海の中に住み、国や邑をつくっている。もと百余国からなり、漢の時代に朝貢知ってくる者がいたが、今、通訳を連れた使者のやってくる国は三十国である。
郡から倭に至るには海岸にそって海上を行き、韓国を暦て南ながら東ながら、その北岸狗邪韓国にいたる。7千余里である。
*海岸とは郡の海岸である。
ここでの注意は後漢書が倭の西北界とあるのに、その北岸とあることである。
狗邪とは後の伽耶加羅のことであるとかんがえられる。
そして、伽耶加羅は半島南部の中央部である。となると、そこが西北界であるとするならば、伽耶加羅の西側は倭の領域ではないということになる。
そこが私の言う東テイ国なのである。
魏使のその北界とは、単に北ともさすので、半島南部の東端から西端までのどの部分をしめしているのかこの場合判然としない。
143 :
サガミハラハラ:2009/02/19(木) 09:48:15
大和朝廷の半島進出については、記紀における神功皇后の三韓征伐がそれにあたるといわれているが、神宮皇后の新羅征伐の記述をみると、新羅は軍事降服、百済、高句麗は自ずから
となっている。ここで注目すべき点は、三韓の中に加羅ははいっていないということである。なぜはいっていないのか?
それはもともと加羅は倭の領域であるからである。
わたしは、加羅が大和朝廷の版図に組み入れられたのは垂仁天皇の時代からであったと考える。その結束の仕方はかなり緩いものであったと考えるのであるが。
おそらく、加羅の諸国は、大和朝廷を倭の正統な継承者あることを認めたという程度で、各国はかなり独立性をもっていたものであろう。
しかしその結果、加羅諸国は1国にまとまった国家をつくることができなかったのである。
144 :
日本@名無史さん:2009/03/23(月) 21:00:15
「始めて一海を渡ること千余里、対海国に至る、」
対馬に第一歩を記した旅人は開口一番、第一報で
「其の大官を卑狗と云い」
大官は、長官とか重臣を意味する。王が居なければトップの権威者だ。
その名は 「捨て犬」 または 「乞食犬」。これほど人を馬鹿にした言葉が
あるだろうか。ところが日本人の学者で、これを唯一の文献として有り難
がっている人も少なくない。いい加減に書いた物だと早く気付いて欲しい。
次の文言に進もう。
「副を卑奴母離と曰う」
大官が長官なら、副は次官のことだ。二番目に偉い人を、「卑しい奴隷」
その上に「みなし子」という字をあてている。賤しい孤児の奴隷と呼ばれた
副官は、どんな顔をすればよいのか。普通の人ならばこんな悪態は思い
つかないし、もし思いついても口にする勇気は無い。
この思い付きがよほど気に入ったのか、副官の名が出ている七カ国の
うち四カ国に使っているのだから、有頂天の様子がまざまざと示される。
この編者の程度の悪さが推量できるではないか。
これでも貴方は、こんな著述を信用しますか。
145 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 11:16:39
ヒナは田舎だろ。
146 :
日本@名無史さん:2009/04/08(水) 11:28:20
この卑狗はヒコ(彦)で身分の高い人の尊称で、卑奴母離はヒナモリ、鄙守で
地方太守の意と推定できる。
147 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:21:04
>>144 単に表音文字というだけじゃないかな。良い文字を使うと、当事者(それぞれの
国の人)がそのような文字を使っているのか表音文字にすぎないのかがはっきり
しなくなる。それでは具合が悪い。
当事者が使わないはずの文字を使えば、表音文字にすぎないことがはっきりする、
それも一つの智恵かなと思うけど。
148 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 21:11:11
>>146 名前の意味だけでなく、国にはどんな役人がいるのかを考えるべきだろう。
書かれているのは、卑狗と卑奴母離。となれば、卑狗は文官の長たる総理大臣、
卑奴母離は武官の長である国防大臣だろう。ヒナモリの鄙は遠い田舎を意味す
るというが、周辺国を刺激しないように軍の総大将にそんな名前をつけていた
のだろうと思うね。そう解釈しなければ、田舎担当の大将が書かれているだけで
本隊の総大将が書かれていないということになる。
149 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 22:46:22
>>144 彌彌とか彌彌那利という単語はどこが人を馬鹿にしているんだ?
彌彌那利に似た単語「耳成山」という地名も奈良にあるが。
150 :
【^▽^】酔鯨ジョーカー土佐守ジーモン ◆.5DV4fMpf6 :2009/04/28(火) 03:43:28
>>1 アッーって感じ。ひょっとするとありかも・・・
もし行ったとしてもせいぜい加羅や対馬までで、
後は風聞と捏造かも、な。
151 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 08:19:37
>>1 張政はコウドウを持って邪馬台国まで来て檄を飛ばしているぞ。
153 :
日本@名無史さん:2009/04/28(火) 22:02:37
魏志東夷伝 ?婁
穴居生活、豚の飼育、住民は不潔で家の真ん中に便所を作りそれを囲むように暮らしている。
・・・、これは明治時代の日本人の朝鮮観察とほとんど同じだ。
射撃が上手・・・これも同じだ。
漢の時代から夫余の家来となっていた。夫余が重い税を課したので黄初年間(220年〜226年)には反乱を起こした。
掟や習わしにはもっともルールが欠けている民族である。
・・・これは朝鮮人の先祖に間違いない。
154 :
日本@名無史さん:2009/06/09(火) 23:16:57
まず,邪馬台国への “旅” の出発点は,帯方郡だ.
これは『魏志倭人伝』の冒頭に「倭人在 帯方 東南大海之中」と書いてある.
この『帯方郡』は,ソウルの近辺にあった.
『帯方郡』から女王國まで,12,000里. この旅の途中には…,
「対馬国」や「末盧國」(松浦)があり,いかにも日本列島への “旅” と思ってしまう.
ところが,この “常識”,完全な誤りなのだ.
中国の歴史書には…,
「百済は遼西に都した.そこは帯方郡の故地であった」 という記述が多数ある.
これは『帯方郡』が,朝鮮半島のソウル近辺ではなく,『遼西』にあったということだ.
すると,どういうことになるか?
『遼西』にあった『帯方郡』から『魏志倭人伝』にしたがって『邪馬台国』を目指すと,
決して日本列島に到着することはない.せいぜいソウル近辺までしか到達しない.
つまり,『邪馬台国』は日本列島に存在した国ではないのだ.
どこに『邪馬台国』はあったのか?
江戸時代から日本人は,九州だ畿内だと論争し,発掘し,探しつづけてきた.
しかし,見つからない.当たり前である.ないものは見つからないのだ.
捏造に決まってるじゃないか!
南京大虐殺と同じだよ。邪馬台国て
証拠が何もでて来ない。叫び続ける奴がいるだけ!
今の日本の史観じゃぁ、捏造でトドメ刺しといた方がいいぞ。学者先生よ。
メリケンや中共にトドメ刺されるぞ。
157 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 09:06:14
魏志倭人伝が何回書き写されているかが、問題で580回なら580カ所間違えるし
●日本の史書・伝説・言い伝えに無い!
●日本で遺跡や遺留品などが発見出来無い!
●素人が面白可笑しく叫んでいる!
159 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 22:49:02
魏志倭人伝が捏造とは思えないけど
隋書日本伝とかみると日本書紀との矛盾は多いよね
そうしたことから考えてみると当然間違いが多いという推測はできるよね
160 :
日本@名無史さん:2009/06/13(土) 23:01:56
161 :
日本@名無史さん:2009/07/18(土) 14:48:36
この偽書を元に更に仮説が立てられるというのが、一番の問題。
元が捏造の産物なのだから、そこからの推察なんて全部間違い
なのに、それらが有力な仮説扱いされている。
162 :
日本@名無史さん:2009/07/19(日) 23:47:27
記紀だって偽書なんだから、そこは原点批判して、論を立てることが大事。
偽書だから触れるなといったら古代史なんかできなくなっちゃうよ。
163 :
日本@名無史さん:2009/07/28(火) 23:08:42
>>162 記紀の記述を立証する遺跡が発掘されることは度々有るが、
邪馬台国の痕跡は皆無だ。
>>159 中国史書がまちがっているのではなく、記紀がちがっているのです。
166 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 14:18:47
>>162 古事記はともかく、日本書紀が偽書だという根拠は?
167 :
サガミハラハラ:2009/07/31(金) 22:09:16
邪馬台国の痕跡ですか?吉野ヶ里がそうですよ。230年代に小城甘木に遷都するまで
卑弥呼は吉野ヶ里北内郭にすんでいました。あの北内郭は卑弥呼の館としてたてられたものです。
168 :
日本@名無史さん:2009/07/31(金) 23:04:34
>>165 大陸の史書では、かなり時代が下った物でも日本に関する
記述はいい加減。何で古代の物だけ正確だと言えるのか。
>>167 それって全部推測じゃないか。
無理やり当て嵌めて考えただけで、全く証拠が無い。
169 :
サガミハラハラ:2009/07/31(金) 23:45:05
無理やり当て嵌めてとは、大概初めに結果ありきというものであるが、
私の場合は倭人伝をたどっていった結果、小城に到着し、そこに倭人伝の記述に相当する独立した遺体だらけの丘があったので
そこが邪馬台国であると結論ずけたものです。
証拠は倭人伝と桜ヶ岡ですよ。
170 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 01:40:57
倭人伝にはそんなことは書いてないな。
171 :
サガミハラハラ:2009/08/01(土) 08:24:16
桜ヶ岡とは江戸時代につけられた呼称です。倭人伝には大きさと卑弥呼を葬ったとかかれています。
172 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 17:42:59
>>169 そこから邪馬台国とか卑弥呼とか書いてある物が発掘されない限り、
ただのこじ付けに過ぎない。
卑弥呼の館w
174 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 21:31:47
女王様プレイを希望します。
176 :
日本@名無史さん:2009/08/01(土) 23:36:48
男は黙って鬼道プレイ
177 :
サガミハラハラ:2009/10/14(水) 23:32:34
シュリーマンの発掘したトロイの遺跡。あそこからは、トロイとかかれたものはでてきていませんが、あなた、あそこがトロイだと認めないわけね。
日本古代史ファンの遊び心をさそうのだろうけど、邪馬台国とか卑弥呼に
あまりこだわりすぎて、日本史の全貌がかえってわかりづらくなってるんじゃ
ないのかな。もっと別の切り口を探したほうが面白そうなのに。
たとえば、シナノ王権とか。日本各地にはまだまだ埋もれた史料がいっぱい
あるのに。
179 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:01:08
俺も捏造だと思う。 朝鮮半島南部から北九州に分布してた倭人のちょと大きい村の一つ! そんな国と言えるほどじゃない。
有名なシャーマンがいたんで噂になってたんを適当に書いただけ。付近の村には信者がいたから統一感があるように見えたんだよ。
大国扱いするからわけわからんのだよ。
もちろん出る杭は打たれるで滅びましたけどね。だから遺跡もでない!
180 :
日本@名無史さん:2009/12/05(土) 00:15:40
また馬鹿マスゴミが
馬鹿の一つ覚えで卑弥呼卑弥呼〜wwwwwwwww
181 :
日本@名無史さん :2009/12/05(土) 01:17:00
トロイの木馬と同じものが見つかったからトロイ戦争は神話じゃないということが
分かっただけ。邪馬台国もマスコミ→学会の順に国立機関の一つが発表してるから
ややこしくなっただけ。
182 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 14:19:24
魏史をなんで 日本だけ真面目にとるの?
馬韓の所なんか 面積は数倍だし、背中の皮膚に綱を通して木に繋がれて働いてるんだよ、ありえない。全てを信じてはいけない!
数字の誇張はあるかもしれんが、今の世でも体に穴あけてたりするからなぁ
下唇に穴あけてでかい皿はさんでるのとか見たことあるっしょ
184 :
日本@名無史さん:2009/12/26(土) 16:30:19
ただですね、
熱心な魏志倭人伝信徒がいるんですよ。
まるでとりつかれているように。
一字一句間違いはない、といった感じでね。
辻褄を合わせようと、無意味なややこしい考察を続けています(どちらかといえば九州論者に多い)
あほらしいけど現実にあるようです。
信仰は恐ろしい。
畿内論者は考古学的だが、九州説の否定も考古学的に説明してくれないかな?
辻褄合わせやややこしい考察してるのは畿内説ではないか
187 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:42:48
三韓は確かに 魏から見たら 征服すべき土地ではあるけども。 魏志は 倭でもワケわからん事を書いてる。倭人の寿命は長く百歳も少なくなく、八十 九十も多数。
東の果ての不老長寿伝説のイメージで適当にふくらまして書いたんだろうけど。
魏志信者は 使えそうな所ばかり主張してて、その他多数の滑稽な所は話題にしてこないね。
188 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 11:47:26
陳寿は 読者へのサービスで 東の海には徐福の探した不老長寿の国があるかもって感じで書いたんだよ。
娯楽小説の付録のようだね
今の時代だが、田舎では80〜90の年寄りはけっして珍しくない
新聞でも100歳を祝う記事だってよく見かける
現代社会人の一般的な認識は、田舎の暮らしは昔と大して変わらないので昔も長寿は珍しくはなかったのではないだろうか
ただ、武士は短かったようだが
武士がいわゆる渡来してきた騎馬民族だった可能性はあると思う
人生50年が100歳を見たら不老不死伝説も納得するだろう
ありえない、ワケわからん事いくつか挙げられてますけどそれは個人的主観
裸族がヤリ持って狩りしてたり、体に穴あけて装飾などしたりしてる民族が今でもいます
倭人の風俗が今の現代社会人から見て変だとしても、ありえない事ではないと思う
魏志の中でほかにありえない、ワケわからん事ありましたら挙げてください
192 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 12:41:58
女王国は「セックスで国々を支配した女王がいる国」の意味で
性娯楽が無かった時代にはそれだけで勃起モノ
昔いたAV女優「卑弥呼」もあながち間違っていなかった…
だったら、みんな九州説も畿内説も「お前とこに有ったんだろ」って邪馬台国を押し付け合うだろうなwww
それだったら、ヤマト政権の母体が邪馬台国だと考えてる畿内説は間違いなく押し付けようとするだろうな
194 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 15:12:19
ありえない事かは わからんが
倭人は一夫多妻制とは書いてるな。
だいたい庶民平均でも4、5人
多い時は20人を越える。
まあ、ありえない話ではないが。うらやましい!
中国の読者も、長寿で沢山の妻を持てていいなぁ〜と ため息をついて読んだにちがいない。
もう週刊ゲンダイ並みだね
魏志アンチ面白いな
その書き込みじゃあ週刊ゲンダイ並みなのはあんたのお頭だぞw
畿内説お得意の考古学で九州説を否定できないので記述を叩くことしかできない
196 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 22:21:44
魏志を信用できないと叩いてはいるが。
俺は九州説だぞ!
真実は 魏志は信用できない。
倭人からの朝貢はショボイ。
隣国の狗奴国に攻められたら 死にそうになる。
間違って金印を出してしまってからは救援依頼ばかり。
魏もうわべだけしか援助しない。
邪馬台国は北九州にあったショボイ国。
たぶん トヨの時代に滅んだ。
陳寿は、中華の面子があるので、真実が書けなかった。
曹操の墓が見つかったらしいな
墓の規模や状況などが当時の記録と合致したそうな
記録とは陳寿の三国志か
姫后 大倭 魏鏡 上がり
ねつぞう若造 真偽上げ
純金象がんあげ
邪馬台国
203 :
日本@名無史さん:2010/04/07(水) 22:30:57
スレ 伸びないな!
結論→邪馬台国は金儲けの手段
205 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 12:24:54
邪馬台国・卑弥呼が付けば、本は売れるし観光客は来るしで、みんな笑顔(^^)
>>1 結論→捏造
これは当たり前
◇16世紀のマルコポーロは日本をジパングと言って、あの記述だろ!
邪馬台国は2〜3世紀の記述だぜ。
しかも誰かはっきりしない!
日本人が知らないのに!邪馬台国論争なんてナンセンスなんだよ。
207 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 23:35:14
伊都国までは現在の地名と似ていて特定しやすい。
郡使が常駐している、とあるので比較的確かな情報をもとに記述されたのだろう。
でもその先は記述が大雑把で魏の人間の往来があるようには読めない。
たぶん倭人の供述を元にした伝聞記事で不正確な記述になったのだと思う。
邪馬台国のようなもの、はあったかもしれないがその場所も実態も倭人伝の記述とは大きく異なると思う。
208 :
サガミハラハラ:
邪馬台国は佐賀県小城市甘木に実在しました。
皆さんそれを認めたくないだけです。
みとめたら、それまでの自身の否定につながるからです。
ですから、みなさん、小城甘木説をさけているのです。