謎の女王卑弥呼は誰か?邪馬台国問題に終止符!4

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665プラム ◆TOfHBAKZgM
>>661

私は訴えたり等しないし、出来ない。例え行動起こしても、門前払いになることは明白。

ここの住人でもあるし、同じ穴のムジナだから

誹謗中傷はお互い様
原告の資格無しだよ。
666日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:19:32
>誹謗中傷はお互い様
>原告の資格無しだよ。
また出任せ言いましたねw
出任せについて謝罪願えませんか!
667プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 13:21:51
>>666

>出まかせ


何それ?
社会のシステム判ってないね。
668日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:23:55
>>667
悪い俺はお前より解っているよw
土曜日に携帯でレスする仕事の奴よりwww
669プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 13:29:31
>>なら
説明には及ばないだろう。
670日本@名無史さん:2007/02/10(土) 13:30:15
まどうせニートだろうけどw
671愛知県民:2007/02/10(土) 13:30:24
>>644
魏志の「邪馬壱国」、隋書の「イ妥国」の例もありますから、
後漢書だけに頼るのも危険でしょう。

>>646
天照大神が日神とされたのはいつの時代かも難しい問題・・・
モモソヒメ=日神は勘注系図ですね。>>147
672九州出身:2007/02/10(土) 13:39:42
バカに平均在年数っいってみ
バカに言ってもバカだから解らないはず。
みんな試してみて!
673九州出身:2007/02/10(土) 13:43:02
>>665-670
口喧嘩はやめな。見苦しい。
口喧嘩できるスレ立ててやろうか?
674日本@名無史さん:2007/02/10(土) 14:14:31
>>672
平均在位説は学界の権威からは相手にされていない。
二倍年暦のほうは、学会からも気にされているけど。
あれは、数学素人を騙した素人統計学。
だからこそ、安本氏は、誤差を考慮しない天文学ソフトの
皆既日食説にも飛びつくという赤っ恥をかいた。
これは、素人・自称専門家の愛好家がおこす間違いだ。
675一応九州王朝説:2007/02/10(土) 14:17:07
プラムさんは、ほんとに厨房なの?

挑発に乗りすぎw
確かにレス時間は長いようですが。ほんとに無職なの?
676太国:2007/02/10(土) 15:14:26
>>651
自分でとか言ってることは、貴殿の自説のいい加減さを自ら暴露
してるように想える。逃げているわけだろうが。
旧事紀にそんなことは書かれていないことを遠回しに回答してるよう
なものだ。駄目よん、いい加減なことをラッパしてはね。

笑って、倍暦を認容しないようなのか? そうならば、その〜248年
とやらは通常暦の対応とかで決めこんだ年数だから、そうなると
古代天皇の寿命が200歳前後もぞろぞろいたことを、これも遠回し
に宣言しているようなもので、滑稽である。
677九州出身:2007/02/10(土) 17:38:46
>>674
はあ 解ってないな・・・じゃあ界王拳10倍じゃあまずいわけ?
あなたには初めから説明しないとわからないぽい。
神武天皇即位は紀元前660年2月11日なんでしょ?

>>676
>>649
>『モモソヒメが日神だとか、どこのどのへんに書かれているんだろう?』
という質問に対して自分でさがすよう言ったまでだ。
卑弥呼はモモソヒメではない。
よってたぶん旧事本記やないかなってヒントを与えただけ。

>>474>>476
二人まとめて倍暦か。
大体なんでバイ暦がでてくるの?神武即位は紀元前660年やないのか?
678奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/10(土) 17:43:39
>>674 相変わらずだな、「kkk」。

安本の平均在位説のどこがダメで、どこが良いのかという視点で
書いた方がいい。てゆうか、前に私と恵也氏がやった。
ここに残るなら、議論に参加しようぜ。
679九州出身:2007/02/10(土) 17:50:15
卑弥呼は推古天皇だ!っていう人は何故いない?
なんで天照大神、モモソヒメ、神功皇后とかなんだよ。
一人くらいは推古天皇っていう説もあっていい思うんだけど。
680九州出身:2007/02/10(土) 17:54:00
それは記紀に書かれた31代用明天皇以前の年数が異様に長いと解ってるからでしょ?
ていうことは神功皇后ではないといえる。
681日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:05:12
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
682日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:48:38
三足土器で炊飯のどこにどのような意味があるのかも解説しなさい、
あたまがおかしいのかとおもうよな
683日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:50:00
>>642
陳寿は297年に亡くなっているので、卑弥呼が4Cの人物と言うのには無理があるのでは?
684日本@名無史さん:2007/02/10(土) 18:54:46
推古朝ではぼつぼつ日本でも歴史書がつくられたりしていたから。
685九州出身:2007/02/10(土) 19:20:54
>>683
で太国が突っ込まれてる(笑)
そりゃそうなるわな
686唐松山:2007/02/10(土) 19:24:59

歴年  年度  誤差  閏   歴日   月齢  崇神
205年目 1年度 16日 75回 74899日 2536.05 崇神元年正月壬午朔
205年目 1年度 16日 75回 74928日 2537.03 元年二月辛亥朔
208年目 4年度 17日 76回 76257日 2582.03 四年十月庚申朔
211年目 7年度 18日 77回 77114日 2611.05 七年二月丁丑朔
211年目 7年度 17日 78回 77320日 2618.03 七年八月癸卯朔
211年目 7年度 12日 78回 77404日 2620.87 七年十一月丁卯朔
212年目 8年度 18日 78回 77793日 2634.05 八年十二月丙申朔
213年目 9年度 17日 78回 77881日 2637.03 九年三月甲子朔
213年目 9年度 8日78回77911日 2638.04 九年四月甲午朔
215年目 11年度 18日 79回 78649日 2663.03 十一年四月壬子朔
216年目 12年度 18日 79回 78974日 2674.04 十二年三月丁丑朔
216年目 12年度 18日 80回 79181日 2681.05 十二年九月甲辰朔
221年目 17年度 19日 80回 80716日 2733.03 四十八年正月己卯朔
221年目 17年度 20日 80回 80805日 2736.04 四八年四月戊申朔
228年目 24年度 21日 82回 83433日 2825.04 六十年七月丙申朔
230年目 26年度 22日 83回 84172日 2850.06 六十二年七月乙卯朔
231年目 27年度 24日 84回 84705日 2868.11 六十八年十二月戊申朔
687唐松山:2007/02/10(土) 19:37:04
全て 新月(のつもり)に合わせました。
倍暦 の方々は、このうち幾つの 新月を 認めますか?
歴年は、当方の都合ですので 無視してかまいません
崇神27年間は、もう少し縮んで(死亡時の増しが、まだ訂正されていません)23,4年

是でみる限り 卑弥呼 の余裕は、 ありません。
688唐松山:2007/02/10(土) 19:48:33
221年目17年度19日80回80716日2733.03四十八年正月己卯朔
221年目17年度20日80回80805日2736.04四八年四月戊申朔
228年目24年度21日82回83433日2825.04六十年七月丙申朔
230年目26年度22日83回84172日2850.06六十二年七月乙卯朔
231年目27年度24日84回84705日2868.11六十八年十二月戊申朔
689日本@名無史さん:2007/02/10(土) 19:56:50
卑弥呼が10代くらい同じ名前を使っていた
690日本@名無史さん:2007/02/10(土) 20:00:59
一日のことを、ついたち、と言いますね。これは、「月立ち」が語源なんでしょうか?
たしかヤマトタケルの物語に、「月立ち」が、女性のメンス(生理)の意味で使われていたのでは?

それと、関連して、もう一つ。(浅学ですので、みなさんにお尋ねしてます)
十五夜は、もちづき、ですね。
この「もち」という言葉の語源、元々の意味は?
「もち」、あるいは「ついたち」は、一体いつの頃から使われているのでしょうか?
ご存知の方、よろしく。
691愛知県民:2007/02/10(土) 20:30:23
安本美典氏の平均在位十年説には、大きな例外があります。
それは高句麗・百済・新羅の例です。
古い時代はともかく、百済滅亡(660年)までの200年で調べると
倭国は雄略〜斉明天皇まで17代ですが、
新羅は慈悲麻立干〜武烈王まで10代、
百済は蓋鹵王〜義慈王まで11代、
高句麗は長寿王〜宝臧王まで9代です。
私も昔は安本信者でしたが、身近にこれほど例外がある以上、
たやすく倭の古代に適用はできないと思うようになりました。
692太国:2007/02/10(土) 20:44:40
通常暦的に紀とつき合わせて年数をあてて行った場合、

神功39年=239年   神功66年=266年

だから、陳寿の259年っていうのはこれと同じやり方で通常暦で
あてている年数だということが一目瞭然で分かるから、この数字は
仮の通常暦計上で真とは言い得ない。
そうでないと應神天皇は110歳、仁徳天皇は143歳になってくる。
こんなことはありっこない。だから259年というのは実年代ではない。
もっと後世に遡るわけ。
693太国:2007/02/10(土) 20:46:41
>>692 訂正

× 遡るわけ    ○下るわけ
694太国:2007/02/10(土) 20:58:15
>>677 九州出身さん
前660年神武即位では以後仁徳までの大半の天皇の寿命が100〜
300歳ばかりになり、そんなことはありっこないだろう?
だから当時は倍暦をやってたわけ。ということは現今の人物とみんな
似たような、通例で妥当な寿命だったわけ。
695日本@名無史さん:2007/02/10(土) 21:37:02
>>694
>前660年神武即位では以後仁徳までの大半の天皇の寿命が100〜
>300歳ばかりになり、そんなことはありっこないだろう?

これは同感。ありっこない。

>だから当時は倍暦をやってたわけ。

ここがおかしい。「だから」と簡単にいうが、論理が飛びすぎ。
倍暦云々以外の理由だって、可能性としては、あるだろ。どうして太国はそこを考えてみようとしないのか。
696太国:2007/02/10(土) 21:57:27
>>695
讖緯説か? 以下をその説で説明できるか?

【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表】

1日 4   15日 0
2日 2   16日 0
3日 3   17日 0
4日 1   18日 0
5日 3   19日 0
6日 3   20日 0
7日 2   21日 0
8日 3   22日 0
9日 4   23日 0
10日 1   24日 0
11日 3   25日 0
12日 4   26日 0
13日 2   27日 0
14日 7   28日 0
       29日 0
       30日 0

これはほぼ1ヶ月を14日でやってた文証。讖緯説では無理だろう。
697太国:2007/02/10(土) 22:24:19
>>690
イザナギの阿波岐原でのミゾギハラヒにて成った12神の筆頭が
衝立船戸神で、記は通常8神ずつの記述なのにここのみは12神と
いうことは「月経つ2・7戸神」で1ヶ月が2×7の2週間で
古代は運用していたという論拠の一つ。

モチツキはウサギの餅つきの意味があるのでしょうかな?

数読みに

ヒフミヨイムナヤコト モチ ロ

とあり、11と12番目のことから1年を12ヶ月としたか?
そんなところでしょうか?
698日本@名無史さん:2007/02/10(土) 22:29:52
安本氏の信望者たちが哀れになる...

でも、今は九州説を煽る必要がある。
何故なら、邪馬台国論争を盛り上げないと
発掘調査資金を調達できないから。
699プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 22:58:02
>>690

>「ついたち」は、一体いつの頃から使われているのでしょうか?
ご存知の方、よろしく。



「ついたち」 漢字表記【朔】(サク /ついたち)
この文字に(しんにゅう)を付けたら 【遡】(ソ /さかのぼる)
(さんずい)付けたら【シ朔】(ソ /さかのぼる)
【塑】これは(ソ) 

【朔】関連の漢音は「サ行」がいっぱい


こんなのは役にたちませんか?
700プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/10(土) 23:06:30
>>697太国さん

>ヒフミヨイムナヤコト モチ ロ

とあり、11と12番目のことから1年を12ヶ月としたか?
そんなところでしょうか?



ヒフミヨイムナヤコト モチロネラ シキルユイ ツワヌソヲ

(モチロネラ)→勿論ですとも

太国さんは、こんなの嫌いですか?
701日本@名無史さん:2007/02/10(土) 23:27:27
ヒント スレタイ
702SOY:2007/02/10(土) 23:35:31
>>678:奴国
>安本の平均在位説のどこがダメで、どこが良いのかという視点で
>書いた方がいい。てゆうか、前に私と恵也氏がやった。

確かにそのように論議されるべきだと私も考えます。また、問題点が
分かれば、平均在位説も改善できると私は考えます。

>>691 愛知県民が挙げた1例も看過できない問題だと思います。

また、私がざっと考えただけでも、以下の問題があると思います。

1.直系継承か兄弟継承かを考慮すべき
2.1と絡んで長子継承かどうかを考慮すべき
3.暗殺など特殊なケースをデータから省くかを考慮すべき
4.重祚など特殊なケースをデータから省くかを考慮すべき
5.生前に譲位があるかないかを考慮すべき
6.男性天皇と女性天皇で在位年数に影響がないかを検討すべき
703九州出身:2007/02/10(土) 23:42:13
>>694太国さんへ
おれも>>685に同意
704九州出身:2007/02/10(土) 23:43:29
703を訂正
>>695に同意
705九州出身:2007/02/10(土) 23:49:07
太国さん
>寿命が100〜300歳ばかりになり、そんなことはありっこないだろう。
ていうのは解った。そこでなぜ君は倍暦を選んだのか説明してちょーだい。
説明はわかりやすくね。
706恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:19:55
>>691
>安本美典氏の平均在位十年説には、大きな例外があります。
>それは高句麗・百済・新羅の例です。

これは例外とはいえないよ。
高句麗・百済・新羅の例は、年代が信頼できる部類のものとはいえない。

この年代はこれらの国が滅亡してずっと後になって、朝鮮で作成された「三国史記」
の記述だろう。
これは日本書紀が書かれてから、400年くらいして書かれたもの。

だから西暦1100年頃の年代には信頼性があるけど、百済が滅亡した西暦660年頃
の年代記録は日本書紀よりも、はるかに格下の信頼性クラス。

モノサシ自身が狂ってるんだから話にならん!

−−−−−(引用開始)−−−−−
三国史記(さんごくしき)は、高麗17代仁宗(在位:1123年-1147年)の命を奉じて金富軾
らが1143年に執筆を開始、1145年に完成させた三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一
新羅末期までを対象
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98
707日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:36:20

恵也のせんずりは今日も激しい。こいつバカだぜ。
708恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:39:01
>>687
>倍暦 の方々は、このうち幾つの 新月を 認めますか?

倍暦の連中は、何のために暦が作られたかの根源的思考力がない。

暦とは、農作物の栽培に必須の道具だから作られたんだぜ。
俺は昨日、ジャガイモを買ってきて畑に植えた。
種屋さんで売ってたから、もう植えてもいい時期なんだろうと素人考えで植えたのだが
ネットで調べたら3月頃から、植えるという。

温室ハウスで栽培する専門家ならこの時期だからと、売ってたんだろう。
まあ植えてたら芽を出してくれるだろう、と適当に考えてたがネットでよく見ると発芽の
条件はジャガイモでは厳しい事を書いてあった。

ジャガイモを切って分割して植えるときに、切断面に灰を塗り3日ほど陰干しして乾かし
弱い日光に少し当てて発芽を刺激し、それから埋めて3cmほど土をかぶせると発見した。

俺は20cmほど土をかぶしてた。
慌てて今日、植えたジャガイモを掘り出して陰干ししてる、1ヵ月後に植えようと思ってるが
・・・・・・・・手遅れかもな!!!!
709日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:46:11
>>708
お舞って本当にバカだな
710恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:52:36
>>702
>1.直系継承か兄弟継承かを考慮すべき

考慮すべきじゃない!
記紀の記述の信頼性が問題になってるのだから、数字だけでなく継承にも疑問が存在する。
それを確かめるべき、客観的記録が他に残ってない。

記紀の継承を信用するか、信用しないかの問題が関わってくる。
今は確認手段がないのだから、むしろ信用をしないという地点から論理を積み上げていくべき。

現代科学とは、再現実験が出来る事だけを基礎としてここまで発達してきたもの。
再現実験が出来ない歴史問題じゃ、疑問がある話は少しでもはずしてから組立てて考えるべきだ。
711日本@名無史さん:2007/02/11(日) 00:56:45
>>710
そんなことより、貴様の人生をどうするべきか良く考えろ
712恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:57:07
>>696
>欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表

自分で干支を日にちに変えれるようになってから、書き込みなさい!
他人が適当に書いた日にちを、くそ真面目に信用するものじゃない。
713恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 00:58:19
>>707
>恵也のせんずりは今日も激しい。こいつバカだぜ。

バカと天才は紙一重!
714九州出身:2007/02/11(日) 01:05:27
いや、バカと天才は紙一重やない 生まれついたもの
715日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:09:43
>>714
禿同
716九州出身:2007/02/11(日) 01:14:27
今日は建国記念日
717恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/11(日) 01:20:39
>>714
>いや、バカと天才は紙一重やない 生まれついたもの

エジソンを見てみろ。
子供の頃はバカ扱いで先生から、退学させたくらいの子供だったんだぜ。

−−−−−(引用開始)−−−−−
この子は頭が悪いと思われてしまった。退学させられたエジソンの先生は母ナンシーだった。
母なくして発明王エジソンは存在しない、と本人に言わせる程の影響力を持つ母の教育方針
は聞く事だった。

熱心にエジソンの話を聞き素質を伸ばした事で、旺盛な好奇心と最後まであきらめない信念
を開花させる事が出来た。
http://www9.ocn.ne.jp/~smatsu/J/2miraikousou/report/12Edison/01.htm
718日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:40:26
>>692
ゴメン言ってる意味がわからない。
記紀の年代が倍暦を使用したことにより実年代とずれるとしても、
3cの著者によって書かれた卑弥呼は3cの人物でしょ。
719日本@名無史さん:2007/02/11(日) 01:46:37
っていうか太国さんのいう4Cというのは、
世間一般でいう4Cとは違うって事だな
相手しただけ馬鹿だったよ。
720九州出身:2007/02/11(日) 03:06:50
卑彌呼の宗女「臺與」

この『臺』はなんて読むのが正しい?
てかどこからトヨという呼び方がでてきたか知ってる方いらっしゃいますか。
721奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/11(日) 03:24:17
>>702 :SOY
私は、平均在位説は、2〜9代目の天皇の実在を前提とした場合に、神武の即位が
230〜280頃に収まる可能性が高いというレベルで見ています。
前提である欠史8代は「たぶん」実在と考えています。

初期の天皇の実在を前提とした場合、その年代を推測するのに、後の時代の平均在位
などを参考にするという方法論自体を、間違いとはいえない。

但し、>>702 以外にも、即位したかどうかがはっきりしない天皇の扱いなどの不確定な
要素が色々あるので、安本が、ピンポイントに神武の即位年を割り出す根拠にしている
ニュアンスで述べているのは、誤りだと思います。

30代から遡る場合、平均値1年の違いで神武即位年での誤差が30年。
中間での誤差も無視できない。安本は、仲哀や崇神の即位年が彼が想定する実在値と
10〜20年の誤差になっているのに、神武で収束(予定調和)させているが、これはダメ。
欠史8代の実在を認めながらその在位が特に短いというのも、不徹底。

むしろ、記紀や朝鮮の資料などから、中間の位置にいる天皇について、別系統の検証値を
設定するべき。例えば、仲哀(神功)即位390年とした場合、神武即位は250〜260頃。
安本説でも、仲哀を起点にすれば、この頃になるという矛盾が存在する。
722九州出身:2007/02/11(日) 03:38:16
魏志倭人伝の壹與はじめは「トヨ」思ってたが調べると「イチヨ」になる。
「臺與」て知ってる方いらっしゃいますか?
723日本@名無史さん:2007/02/11(日) 04:22:47
>>720
壹與を、諸本の比較から「臺與」とし、豐鍬入姫に近いとして「トヨ」のルビを振ったのは、内藤湖南(虎次郎、1866〜1934)の「卑彌呼考」です。明治43年(1910)、雑誌『藝文』に分載発表。
ネットで本文が読めますが、以下に抄録しておきます。

 壹與  本傳には邪馬臺を邪馬壹と誤りたれば此の壹與も臺與の誤りなるべし。梁書及び北史には並びに
臺與に作り、宋本御覽には臺擧に作れり、證とすべし。卑彌呼の宗女といへば、即ち宗室の女子の義なるが、
我が國史にては崇神天皇の皇女、豐鍬入姫(又豐耜姫命)の豐(トヨ)といへるに近し。
國史にては豐鍬入姫命の方、先に天照大神の祭主と定まりたまひ、後に倭姫命に及ぼしたる體なれども、
人傳にては倭姫命の前に祭主ありしさまに見えざれば、豐鍬入姫の方を第二代と誤り傳へたるならん。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html
724愛知県民:2007/02/11(日) 05:55:12
>>706
確かに三国史記は12世紀の成立ですが、それ以前の古記録に拠っています。
百済本紀の近肖古王〜久爾辛王の7代については、その在位年代が
日本書紀の神功・応神紀に干支2巡=120年繰り上げて記述されており、
日本書紀の年代操作の跡が窺えますが、逆に三国史記の信頼性を高めています。

新羅本紀の阿達羅尼師今二十年(173年)夏五月、倭の女王卑彌乎が使者を送って来訪させた
という記事についてはどうでしょうか?
725SOY:2007/02/11(日) 07:45:41
>>722 九州出身
>「臺與」て知ってる方いらっしゃいますか?
その表記を使っているのは確か北史や梁書だったと思います。
726太国:2007/02/11(日) 08:19:57
>>706
お前の10年説がデタラメだということが、氷山の一角のように
現出したので、>>691が疑惑を持ったのは当然だ。
彼の言うように、用明からやってそんなうまく卑弥呼の年代が
ピタリと分かるなどとは、甚だしく滅茶苦茶だということだ。w

>>708
それは先に農作で暦法を決めたということも相当ありうることだが、
当時は参考にはなるが、江戸時代が士農工商のように、古代は腹が
満ちてれば刀、(朝廷の権威)と古神道(天皇の信仰)と迷信的な
ことが優先するから、農作は二の次に追いやられる。

>>710
お前はうまいものばかり食う主義で、自分にまずい(不利)なもの
は廃棄してしまうのが最悪の行為だ。同様に古い物は捨てて新しい
もの(でかつうまいもの)は頂くというのも、これも最悪のもう一つ
だな。古いものでも冷凍庫に入っていれば腐敗はしないのだから、
古い→信用しない→捨てる  のやり方は確実に失敗に至る。
古い→信用できるものもある→取捨を客観的に考察する
というふうにしないと。古き本物も廃棄してしまい、誤の自論に
なおさら固まる取り返しのつかない頭になる。お前がその典型。
お前のは100%に近く間違っているぞ。

するから、
727征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/11(日) 08:22:41
『三国史記』「新羅本紀」での新羅第四代、昔氏王統脱解は
AD57年に即位になりますよね

新羅本紀によれば脱解は倭の東北千里の多婆那国で生まれたと云う旨があります。
彼は海を越えてやって来た倭人と云う事になりそうですが。

『三国遺事』では『三国史記』とは少し違った話になるようですね。
脱解は龍城国から来たそうです。これ、海神/竜宮神話を半島に持ち込んだ倭人居るような感じがしませんか?


さて、日本書紀で倭迹迹日百襲姫命の死が書かれる崇神十年(日本書紀BC88年)を
AD247年に同期させ、日本書紀の進行年3年に対して実年代の進行年を1年として計算すると、
日本書紀で神武天皇が即位した神武元年(日本書紀BC660年)は、AD57年になります。


それと、平安期の文献に新撰姓氏録と云う物が在りますが、そこで皇別氏族として扱われる新良貴氏は、
「稲飯命」の後裔氏族として扱われる特異な出自を持って居ます。
それによると新良国の王になった旨がありますよね。


新羅本紀を書いた側の人間。或いはその元史料を遺した側の人間。
それに、新撰姓氏録編纂段階で皇別氏族として列せられた新良貴氏。

彼等は知っていたんじゃないですか?AD57年が本来日本の正史上に措いて如何なる年であったかを。
勿論、新撰姓氏録を作った側の人間も。


それから、古事記の表記では「稲氷命」ですが、古事記の上巻の最後に面白いエピソードがありますね。
稲氷命がハハの国として海原に入ったと。書紀ではまた少し違う扱いですが

さてさて
728SOY:2007/02/11(日) 08:26:23
臺與の件 よく読んだら>>723が解説していました。重複でした。

>>710 恵也
>考慮すべきじゃない!
平均在位年数を考える際に直系継承か兄弟継承かは考慮すべきと
考えます。政権が安定しているか等の諸条件でその割合は変わり、
それを考慮しなければ結果が大きくずれると思われます。

>今は確認手段がないのだから、むしろ信用をしないという地点から論理を積み上げていくべき。
記紀の記述をある程度信用することが前提で天皇の平均在位年の考えは
存在し得ると思います。もし、継承方法、天皇の数などが信じられない
のであれば平均在位年の考えは放棄した方が良いと考えます。

『信用をしないという地点から論理を積み上げる』という貴方の考えは
理解できますが、その発言をしつつ『信用できないものの上に論理を積
み上げる』という貴方のやり方はいかがなものでしょう。

>>721 奴国
>30代から遡る場合、平均値1年の違いで神武即位年での誤差が30年。
確かにこれは看過できない問題ですね。単純に平均在位年で長い期間を
推し量るのは危険ということですね。
>むしろ、記紀や朝鮮の資料などから、中間の位置にいる天皇について、別系統の検証値を
>設定するべき。例えば、仲哀(神功)即位390年とした場合、神武即位は250〜260頃。
私は兄弟相続かどうかを考慮に入れているので結果は異なりますが、
ある程度検証できる天皇で補正するといった考えには賛成です。
729日本@名無史さん:2007/02/11(日) 09:05:50
記紀を書いた時点でよくわからなかった事が今現在確定できるとはとうてい思えない
730唐松山:2007/02/11(日) 09:45:37
正月壬辰朔癸卯
160年目1年度5日58回58448日1978.96月 孝元元年正月辛未朔甲申
181年目1年度10日64回66067日2236.97月 開化天皇元年正月庚午朔癸酉、
205年目1年度16日75回74899日2536.05月 崇神元年正月壬午朔
226年目1年度17日83回82574日2795.95月 垂仁 元年春正月,丁丑朔
269年目1年度0日98回98406日3332.07月 景行 元年秋七月,己巳朔己卯
崇神から 景行 まで 全ての記事の 朔 を拾い出し適当と思われる 処に当てはめてみました。
その 一部です。 皇暦では、 朔 が合いません 
731唐松山:2007/02/11(日) 09:47:15

歴年  年度  誤差  閏   歴日   月齢  崇神
205年目 1年度 16日 75回 74899日 2536.05 崇神元年正月壬午朔
205年目 1年度 16日 75回 74928日 2537.03 元年二月辛亥朔
208年目 4年度 17日 76回 76257日 2582.03 四年十月庚申朔
211年目 7年度 18日 77回 77114日 2611.05 七年二月丁丑朔
211年目 7年度 17日78回77320日 2618.03 七年八月癸卯朔
211年目 7年度 12日78回77404日 2620.87 七年十一月丁卯朔
212年目 8年度 18日78回77793日 2634.05 八年十二月丙申朔
213年目 9年度 17日78回77881日 2637.03 九年三月甲子朔
213年目 9年度 8日78回77911日 2638.04 九年四月甲午朔
215年目 11年度 18日 79回 78649日 2663.03 十一年四月壬子朔
216年目 12年度 18日 79回 78974日 2674.04 十二年三月丁丑朔
216年目 12年度 18日 80回 79181日 2681.05 十二年九月甲辰朔
221年目 17年度 19日 80回 80716日 2733.03 四十八年正月己卯朔
221年目 17年度 20日 80回 80805日 2736.04 四八年四月戊申朔
228年目 24年度 21日 82回 83433日 2825.04 六十年七月丙申朔
230年目 26年度 22日 83回 84172日 2850.06 六十二年七月乙卯朔
231年目27年度 24日 84回 84705日 2868.11 六十八年十二月戊申朔



歴年年度誤差閏歴日月齢崇神
19年目1年度-22日7回6977日235.99月 崇神 春正月庚辰朔。天皇即帝位
38年目1年度-16日13回13889日470.05月 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯
59年目1年度-11日20回21803日738.05月 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申
71年目1年度-10日25回25966日879.02月 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子
80年目1年度-10日29回29243日989.99月 孝昭天皇元年春正月丙戌朔甲午。
106年目1年度-5日38回38722日1310.98月 孝安 元年春正月乙酉朔辛卯
732唐松山:2007/02/11(日) 09:49:27

歴年年度誤差閏歴日月齢崇神
19年目1年度-22日7回6977日235.99月 崇神 春正月庚辰朔。天皇即帝位
38年目1年度-16日13回13889日470.05月 綏靖天皇元年春正月壬申朔己卯
59年目1年度-11日20回21803日738.05月 安寧天皇元年冬十月丙戌朔丙申
71年目1年度-10日25回25966日879.02月 懿徳天皇元年二月己酉朔壬子
80年目1年度-10日29回29243日989.99月 孝昭天皇元年春正月丙戌朔甲午。
106年目1年度-5日38回38722日1310.98月 孝安 元年春正月乙酉朔辛卯
136年目1年度2日48回49649日1681.00月 孝霊天皇元年春正月壬辰朔癸卯
160年目1年度5日58回58448日1978.96月 孝元元年正月辛未朔甲申
181年目1年度10日64回66067日2236.97月 開化天皇元年正月庚午朔癸酉、
205年目1年度16日75回74899日2536.05月 崇神元年正月壬午朔
226年目1年度17日83回82574日2795.95月 垂仁 元年春正月,丁丑朔
269年目1年度0日98回98406日3332.07月 景行 元年秋七月,己巳朔己卯
733唐松山:2007/02/11(日) 10:02:40
征東大将軍さんへ
年数は、大体良いと思いますが
AD247年=崇神10年の 根拠を 教えてください。
734太国:2007/02/11(日) 10:03:34
>>712
適当ではないだろう。お前は確率統計を強信するからなおさら
>>696のように左側に数字が集まるなどということの適当で
ないことが覚知できるわけで、ランダムではありっこない。
逆にこういうかたよりは、古代の記録からほぼ正しく伝わって紀が
成っているとうなづけることになる。

そりゃぁこの前のお前の言い分のように、記は稗田の頭からの外部
伝達だからなるほどお前の言うとおり数字は間違ってはいるよう
だが、これもお前の言い分どおり紀はさらに冷凍庫的確保していた
多数の原書群により、さっきの左終結の数字の状況から、古代の紀
の記述は信用が充分おける。そうでないものは、彼らは「一書に
曰く・・・」の書きこみで未来の人間に多説の中の一つでありと
いうことが知れる工夫にて判別できるようになっている。

古いから信用できないから捨てるでは、古き物の中の本物までも
一緒に捨ててしまい、論の失敗に行き着くのは当選確実である。
少し前のニュースでの2千数百万円を古新聞とうっかりゴミと
間違えて捨ててしまった件が報道されていた。
お前もこの大失敗をしてるのさ。
735唐松山:2007/02/11(日) 10:13:02

垂仁が長くなっていますが、朔を並べただけですので このように成ってしまいました。
時至9ヶ月24日後で 訂正が必要です。
736唐松山:2007/02/11(日) 10:29:05
太国さんへ質問
太国さんは、 日の干支を信用していますか?
とりあえず崇神21年としましたが(そこに干支が有る)チトきつい 26,7年の方がスムーズ。
737太国:2007/02/11(日) 10:43:20
>>712 続き
お前は>>696の表がお前のデタラメが一目瞭然になるから、これを
覆い隠したいために、干支がどうのこうのと言ってるわけだ。
まるでアルカードがクルスに覆いをかぶせ投棄したいのと非常に
よく似ているな。ww じゃぁ次表はどうだ?繼體も2倍暦だよ。

【紀の繼體の日数統計表】

1日 3   15日 0
2日 0   16日 0
3日 2   17日 0
4日 2   18日 0
5日 3   19日 0
6日 1   20日 0
7日 2   21日 0
8日 1   22日 0
9日 2   23日 0
10日 1   24日 1←即位直前大迹楠葉行き先帝武烈の通常暦残
11日 1   25日 0
12日 0   26日 1←武寧王の子の死の百済の通常暦
13日 1   27日 0
14日 2   28日 0
        29日 0
        30日 0

即位直前繼體元年1/24→即位は同2/4  同7年8/26百済王の子淳陀死
738太国:2007/02/11(日) 11:36:31
>>736 唐松山さん
システム的には問題なく、信用出来ましょう。

>崇神21年云々
なんだか意味が分かりません? >>733の征東大将軍さんの
247年=崇神10年 は拙者の説に近いです。拙者のは以下のとおり

実年代240年=紀の記載の崇神10年
739征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/11(日) 11:52:08
例えば神功紀の年代は、『三国史記』「百済本紀」との同期関係に120年分のズレがみられる訳ですよね?

じゃあ、それ以前の年代はどうなっているのか?と云う時に
漢籍と同期を取っているんじゃないか?と云う事ですよ

書紀三倍説に従って、AD57から計算するか、AD247年から逆算するかすればそう云う結論になります
その時AD107年は懿徳元年になります。

AD247年=崇神10年は、
卑弥呼の没年をAD247と日本書紀を作った側の人間が解釈したと仮定して
崇神十年の倭迹迹日百襲姫命没と同期させて書紀三倍説で逆算しただけですよ

ただ彼等が卑弥呼没をAD248年没としていたなら、この計算は1年繰り下がりますよね
740日本@名無史さん:2007/02/11(日) 12:10:30
だから帳尻あわせの暦ばっかり作るなって。
既に邪馬台国と大和朝廷は完全な別物だと認識汁。
741征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/11(日) 12:40:30
日本書紀は当初は漢籍とも百済人が持ち込んだ史料とも帳尻が合うように設計されて居る筈なんですよ
今の様に年代操作されたのはその後のステップでの話です。

ですから、ある特定の年代を規準にしたり、特定の法則に従って計算して行くと
矛盾しない年代が芋づる式に出来上がる事が考えられます。
彼等が有用な痕跡を残していればですが

彼等が行なったステップを逆から辿る事さえ出来れば、
年代操作する以前の日本書紀の紀年が完全に復元される寸法です


勿論その時に復元される年代に想定される人物が「史実上の」その人物か如何かは別の問題ですが


それに我々の机上の計算を見て苛立つ必要もありませんよ
日本書紀を創った人間こそは机上の計算をやった張本人な訳ですから

冷静にお願いします
742太国:2007/02/11(日) 13:10:47
>>705 九州出身さん
簡単にっていうのはなかなか難しいですが、他の考えで具合よく
仁徳以前の天皇の超長寿が合理的に説明できますか?
他って云えば讖緯説か、適当っていういい加減か、故意なる偽造か
創造上の物語とかいうことになりますよ。

1年が当時の半年でやっていたというのが倍暦の基本的考えです。
とにかく>>696>>737の表を見て下さい。当時は1ヶ月が14日間の
2週間でやっていたことが可也あったということの文証です。
743太国:2007/02/11(日) 13:29:49
>>709
陳寿の没年が259年ならば、紀のストレートの記述とつりあって
いるわけだから(→紀の神功39年=239年)、この259年を容認
するということは、應神仁徳の寿命が現実離れした大数で生存して
いたことを君は信じることになる。w
744日本@名無史さん:2007/02/11(日) 14:30:15
>>743
>>709ではないが、誰か陳寿の没年が259年と言っているのか?
言っている香具師がいるとすればそいつはおかしい。
745太国:2007/02/11(日) 15:05:20
>>744さん
失礼しました。259年は誤記です。2ちゃん書きこみ重厚、不自由の
ため訂正を怠らざるを得なくなったためです。
297年と云われているそうです。 >>925さんの問いからです。

この数字のところ、紀のストレート記述対応では
神功39年=239年 神功66年=266年 で
陳寿没年が297年となると見た目ではは帳面が合ってますが、これ
を容認すれば應神(とくに)仁徳は超長寿だということの矛盾が
でます。
746太国:2007/02/11(日) 15:24:34
訂正 目が疲れているようです。すみません。

>>692 >>743
云われている陳寿の没年 ×259年   ○297年

>>745

× >>925  → ○ >>683
747奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/11(日) 15:28:09
>>728  SOY
直系か兄弟かの伝承の違いを重視する考えは、宝賀寿男と同じですね。
宝賀は、直系での在位期間という視点で神武をたしか180頃とする。
初期は直系ばかりなので、かなり古い時代に遡る。

宝賀は、安本説を詳細に検討して、その不確定要素の指摘もしている。その上で、直系承継を
重視して、各天皇に対応する豪族の世代数との一致を指摘して、これを補強する。

たしかに、父親が在位25年で50歳で死亡した場合、父が25歳のときの子供は25歳で即位
というように、長期間の在位を正当化できますが、初期の天皇に直系が続くという伝承をどこまで
信用できるのか、という根本的問題もあります。
また、結論として出てくる神武即位年が200年より古いと、ちょっと古すぎると感じます。
748日本@名無史さん:2007/02/11(日) 15:45:39
>>745
中国の正史と記紀を直接結びつけることに無理があるのでは?
三国志以前から中国では等倍暦(とでもいうのでしょうか、今の1年とほとんど同じ1年の暦)を使用していたので、
中国側の記録を西暦に当てはめてもズレはないはずです。
しかし、当時の日本では等倍暦を使用していたとは限らず魏志倭人伝の記述で
倭人の寿命が80−90 あるいは100と倍暦の使用をうかがわせる記述もあります。

なので、中国側の記録は今と同じ感覚で扱ってよく、記紀などの日本の記録は疑いの余地もあり
慎重に扱う必要があるということではありませんか?
そして、陳寿の生没年、卑弥呼の年代などは中国側の記録なので
素直に西暦換算するのに問題はないはずです。
749太国:2007/02/11(日) 15:56:16
>>748
そのように中国の記録を心配ないと固定して、日本の年代を遡って、
後で仁徳以前の天皇の寿命がみな当たり前の寿命になってくれたと
云うんなら、これはOKの可能性が相当出てくると言えるが、
そんなうまく行くのかい?

297年陳寿没では應神仁徳はべらぼうの長寿のままだろう。
このへんの天皇(神功を含む)と後代の繼體ころが(全部でないが)
倍暦となれば、当然陳寿の寿命も後送りということになる。
念のため言うが。卑弥呼は神武前後の人物ではないから、当然陳寿の
没年は4世紀以降になってくるわけ。
750九州出身:2007/02/11(日) 16:10:30
>>742 太国さん
ほうほうそれはなかなか面白いデーターですね。
では太国さんがいう倍暦での初代神武〜31代用明天皇までの年代は
どうなるのですか?
面倒だが初代〜用明までの年代を表示させてください。
よろしくお願いします。
751日本@名無史さん:2007/02/11(日) 16:11:43
>>749
なんで話がかみ合わないのかな
当時の中国の暦は解明されているから、それを西暦換算するのは問題ない。
そして中国古典で應神仁徳の寿命を述べているわけではないから矛盾もないでしょ。
752太国:2007/02/11(日) 16:22:12
>>750 九州出身さん
用明を云ってるところをみると、貴殿は安本氏説なんですか?

この板の「邪馬台国は大和朝廷になったのか part21」のスレの
>411〜>499に断続的に年表をこさえてあります。
そちらをお読み下さい。

>>751
貴殿は甘いんじゃないの?
753九州出身:2007/02/11(日) 16:30:08
安本説やないが自分の目で見て大体、用明らへんからと
754太国:2007/02/11(日) 16:45:29
>>753 九州出身さん
お求めの用明のところ、欽明元年から以前になっています。
というのは、欽明以降すべて、用明までも通常暦であり、一般の
暦表の数字と変わりありませんから。
755日本@名無史さん:2007/02/11(日) 17:12:44
卑弥呼って「ひめみこ」つまり女の皇子という一般名詞のこと
じゃないの?


756日本@名無史さん:2007/02/11(日) 17:59:44
757九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 18:08:10
>>559  
忙しかったので時間差ですが。

>「す」と言う言意
「い」と言う言意
「か」と言う言意
が揃って初めて、あの物体を「スイカ」と表現した。

そお言う学問が「言意学」です。

これちょっと違うんじゃ?
スイカは、西瓜つまり中国語のシークァが 訛ったものですよ。
758愛知県民:2007/02/11(日) 18:14:20
>>741
>それに我々の机上の計算を見て苛立つ必要もありませんよ
>日本書紀を創った人間こそは机上の計算をやった張本人な訳ですから
>冷静にお願いします
別に怒りませんが、日本書紀の「帳尻合わせ」を解明しても・・・
我々(少なくとも私)は史実が知りたいわけでして。

>>755
卑弥呼=「ひめみこ(女王)」
卑弥弓呼→卑弓弥呼=「ひこみこ(男王)」
でしょうね。
759日本@名無史さん:2007/02/11(日) 18:18:59
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
760SOY:2007/02/11(日) 18:21:26
>>747 奴国
>宝賀は、直系での在位期間という視点で神武をたしか180頃とする。
>初期は直系ばかりなので、かなり古い時代に遡る。

宝賀氏の計算方法が予想できませんが、私の計算では神武はA.D.100
くらいの人となりました。ただ私の計算は崇神の年代を予想するのが
目的だったので、あくまでもその理屈で考えると神武がそのくらい
になるといった認識でしかありません。

正直、神武の実物像はよく分かりません。崇神については陵墓の位置
から庄内期以降の人という思いがありましたので、試算してみようと
考えましたが、神武についてはまだまだ私は研究する段階にさえあり
ません。

>初期の天皇に直系が続くという伝承
初代から九代にかけての直系。確かに私も疑わしく思っています。
同時並行説など、いろんな説も聞きます。そういったこともあり、
私はこれらを平均在位年では扱いませんでした。

ただ、9代以前については、2倍暦?に絡むあたりの話(月の前半に
事件が集中する)には興味があるので、それがこの掲示板でどう展開
していくかについては興味があります。

原形となる暦がどういう形をしていたのか実に興味深い話です。
761九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 18:32:22
>>573 「>>567 九州ですがさん 」
は僕ではありません。元気は良いが、ちょっと単純が玉にキズの「彼」です。
762九州出身:2007/02/11(日) 18:36:25
プラムへ
ほら>>757で言われるるぞ
なんて言い返すんだ(笑)

太国氏へ
>>754
その通りです。
763一応九州王朝説:2007/02/11(日) 18:44:08
太国さんはトリップとらないの?俺みたいなチンピラと違ってレス数も
多いしw

時々本人と違うのが混じるからややこしくて。
764日本@名無史さん:2007/02/11(日) 18:48:59
やっぱり半分助平師匠の言ってる発音が大事なんですね、でも発音も
どんどん転化していき、またききでひみこことかに
765プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/11(日) 18:54:19
>>762


そのうち判るよ
766九州出身:2007/02/11(日) 18:56:18
>>757 九州ですがくんへ
プラムのかた持つわけや無いが、漢字の基本を言いたかったと思う。
「一つの漢字は一つの言葉」っていうのは基本だから。
767一応九州王朝説:2007/02/11(日) 19:08:50
基本ですな
768九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/11(日) 19:24:55
>「す」と言う言意
「い」と言う言意
「か」と言う言意

はいはい。これはたとえ話なのね。あーびっくりした。
769日本@名無史さん:2007/02/11(日) 20:09:52
使い慣れない漢字を当て字に使ってるのでよけいにわかりにくいよね
770神奈川県民:2007/02/11(日) 20:50:37
卑弥呼は誰だ?
西暦180年代頃に王に推された
(2)鬼道を得意とした
(3)未婚で、弟が国政の補佐役をしていた
(4)婢千人が侍っていた
(5)城柵に囲まれた宮殿に住み、ただ一人の男子のみが飲食を運び、辞を伝えるための出入りを許可され
ていた
(6)死んだときに径百余歩の塚が作られ、奴婢100人余りが殉葬された

771神奈川県民:2007/02/11(日) 21:00:26
772日本@名無史さん:2007/02/11(日) 21:10:11
>>770神奈川県民さん

やっとここまで来ましたね(感泣)。ぼく大好きなところです
よかったら神奈川県民さんお得意の読み下し、きぼ

>西暦180年代頃に王に推された

これね、異論アリ!の人、あんがい多いような悪寒するけどな・・・・
だって倭人伝に、そんなに、はきーりとは、書いてないでつ
773日本@名無史さん:2007/02/11(日) 21:23:15
>>770神奈川県民さん

それとさ、ここ

>ただ一人の男子のみが飲食を運び、

たしかにそう書いてあるけど、でもなんだかヘンだよね
だって婢千人もいるんだよ
婢サンたち、「あ。私お給仕、します!」て申し出ないのかなあ?
男子にばっか飲食の世話させて、サボリの婢サンたちだなあ  (ーー:)
774日本@名無史さん:2007/02/11(日) 21:40:53
>>773
婢千人は誰かが中国側に誇大表現して報告したのだと思う。
史実ではなかろう。多めに見積もってもせいぜい百人程度。
775日本@名無史さん:2007/02/11(日) 21:41:45
>>772
倭国の大乱の時期について、後漢書や隋書には桓、霊間と書かれている。
桓帝は西暦147年から166年まで在位。霊帝は168年から188年まで在位。
だから、桓、霊間というのは、147年から188年までとなり、かなり広い。

一方、梁書や隋書には、霊帝の光和中と書かれている。これは西暦178年から183年。
これらから卑弥呼がいつ女王になったのかが推定できる。
776奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/11(日) 21:55:02
>>760  2倍暦については、部分的にそれを裏付けるようなものとして、

1、継体の宝算が、古事記43年、日本書紀82年で約2倍というのは、6世紀の
始め頃まで2倍暦があったようにも取れる。
2、若くして亡くなったと思われる仲哀の宝算が52年というのは、2倍暦で26年
とみると、整合しやすい。
3、倭人伝に「倭人はみんな長寿だ。」とあるのは、年齢の数え方が違う根拠になる。

などを考えていますが、初期の天皇には2倍でも長すぎる人がいるので、伝承が
不正確だったと考えています。
777愛知県民:2007/02/11(日) 22:14:24
>>770
魏志倭人伝の卑弥呼・台与の記述は、過度に神秘化されていると思います。
日本書紀は倭迹迹日百襲姫(私は台与と考えますが)について
「聡明叡智、能く未然を識りたまへり」と記し、武埴安彦の乱でも
崇神天皇に適切な助言をしています。
まずは卑弥呼のイメージを変えましょう。
778日本@名無史さん:2007/02/11(日) 22:18:02
28歳のときの卑弥呼さま♪   え? 14歳? そんなはずは・・・・
      ↓↓↓
http://www.m-t-o.co.jp/kodai.html
779九州出身:2007/02/11(日) 22:49:27
卑弥呼ってこんなに綺麗なのかな?
780九州出身:2007/02/11(日) 22:52:44
>>772>>773のレスは、九州ですが君っぽいんだけど違うかな?


781日本@名無史さん:2007/02/11(日) 22:53:59
卑弥呼もたぶん少女のときに女王になったんだろうけど、
卑弥呼も台与も当時の美少女だったと思う。
そのほうがカリスマ性があるわけだから。
782日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:19:02
>>781
しかし、何十か国、あるんだ。
卑弥呼一人がとびきりの美人というわけでもあるまい。どんなムラにも可愛い子は、一人や二人、居ただろう。

それよりも、身に付けている服や装身具、メイクやヘアスタイルが、普通の女の子とはかなり違っていたのではないか。
要するに奇抜なニュー・ファッションで、そこに多くの人の、好奇(=好貴?)の目が注がれたのでは。
そういう人と違うスタイル卑弥呼自身の好みで、親や周囲もそれを認め、入手し、与えていた・・・。それができる階級だった。

もちろんそれは、卑弥呼の宗教的な特異な体質が、すでに幼くして、現れていたんだろうと思う。
783愛知県民:2007/02/11(日) 23:21:22
>>778
これは現代人の卑弥呼ですね。イメージ変えすぎ。

次に考えたいのは、日本書紀が卑弥呼=神功皇后としていること
(異論のある人もいそうですが・・・)
最も古典的な説として、今でも示唆に富んでいると思います。
784太国:2007/02/11(日) 23:22:25
飛鳥美人画のようなかんじ。
785愛知県民:2007/02/11(日) 23:39:53
日本書紀の編者は、魏志倭人伝をそれほど正しいとは見ていなかった。
あの記事の通りなら、卑弥呼はまるで現代の何処かの将軍様か教祖様であり、
まともに国を治められるはずが無いと思ったのでしょう。
実際、歴史の何処を探してもあのような卑弥呼は見つからず・・・
神功皇后という比定は、それなりに妥当だったと思います。
786日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:44:34
倭人の風俗習慣、社会制度を記録した魏志倭人伝の中段のところに、有名な「貫頭衣」が出てくる。

 >婦人被髮屈[糸介]、作衣如單被、穿其中央、貫頭衣之。
 > (婦人は髪を屈[糸介]していて、衣は単被のようなものを作り、その真ん中に穴を開けて頭を通して着ている)

だから逆に、卑弥呼や台与(壱与)は、貫頭衣ではないファッションを多くの場合、着ていたと俺は思う。
王族であり、庶民とは身分・階級が違う。
それは特にファッションで、強く表現されなければならなかっただろう。
787太国:2007/02/11(日) 23:44:58
卑弥呼は神功の頃の時代の人物。
788日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:46:38
>>787
それがどうした、ボケっ
789日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:53:03
ボケはやめれ
790日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:55:11
791九州出身:2007/02/12(月) 00:00:35
>>787 太国さん
あなた言ってることが矛盾してるよね。
>卑弥呼は神功の頃の時代の人物

倍暦よく言ってるが、それだと神功皇后にならないんじゃない?
792愛知県民:2007/02/12(月) 00:04:04
あとは、卑弥呼=意富夜麻登久邇阿礼比売命という、私の説です。
アレヒメも神功皇后と同じく、皇后とはいえ天皇の子孫で、れっきとした皇族。
孝霊天皇よりかなり年上で、天皇は頭が上がらなかったと思われる。
日本書紀ではモモソヒメのほうが詳しく書かれているが古事記では逆で、
箸墓の被葬者もアレヒメではないかと思われます。
>>655 も参照の上、批判等あればどうぞ。
793太国:2007/02/12(月) 00:05:55
>>791
矛盾はないですよ。(神功世は3倍暦の時代)

神功39年=365年(紀の記述のストレートの対応では239年)
神功66年=374年(同 266年)

zzzzzzzzzzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・・・
794日本@名無史さん:2007/02/12(月) 00:06:41
>>790
ジジイの寝言なんて聞きたくないぞ、禿
795日本@名無史さん:2007/02/12(月) 00:18:10
>>784 太国氏へ
>飛鳥美人画のようなかんじ。

貴殿がイメージする卑弥呼像は、これか? (↓高松塚古墳壁画。たぶん中央の女性だろうが)
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/rekisi-siryou/z0170shiode-hideo-togyuu/sanshou-shiryou/takamatsuduka-kofun/takamatsuduka-kofun.htm

しかし邪馬台国の時代と飛鳥時代では、それこそ400年、離れてるぞ。
まあ、顔はそんなには変化はせんだろうが、卑弥呼のファッションも、こんなのをイメージしてるのか?
796日本@名無史さん:2007/02/12(月) 00:23:06
邪馬台国の所在地(官名・人名などから推定)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32352359.html

邪馬台国の所在地の推定(諸国の国名から推定)
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32405249.html
797恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/12(月) 01:39:43
>>724
>確かに三国史記は12世紀の成立ですが、それ以前の古記録に拠っています。

肝心の古記録が歴史の闇に消えて、信頼性が確かめられないのなら古記録とやらは無視すべき。
俺は日本書紀にしても三国史記にしても、作成された年代のずっと前の年代に関しては無視してる。
年代に関する信頼性はゼロ。

新羅本紀も三国史記の一部だから、12世紀頃の年代なら信頼性はあるけど2世紀ころの年代記述は
全く信頼性はないよ。
798一応九州王朝説:2007/02/12(月) 01:54:11
>>792
「大倭」の冠についてはどうお考えでしょうか。
男王じゃないのにそれがついているということは、九州王朝説なら
「淡島出身の九州王家の血族」となるんでしょうかね。まあある意味
楽な考え方ですが。

ただ、孝霊天皇から勢力を拡大し始めた事については、何か政治的
背景があるように思いますが。アレ姫の墓が箸墓だというのは十分に
あると思いますが、墓の形状については、九州発信と考えていま
すから、それをわざわざ持って来るほどの大物だったのではないか。
或いは、吉備との関係も濃いので、そっちからかもしれませんが。

そして、その後エリアと勢力を拡大するたびにモニュメンタルな前方後
円墳を残して、九州との政治的結合と物質的優位性を誇示したのでは
ないかと考えます。

まあ孝霊の墓の比定地もいい加減な物ですが、私はホケノ山じゃない
かと。その周辺の墓についても、実際掘ってみないと分からないんです
が、宮内庁っていう狂信者集団がいますのでどうにもこうにも。マキムク
については、九州から正式に叙任されたことで強力なバックを得ることで、
大きな政治都市・耕地集落を持つことが出来たのではないか。

まだ所詮仮説の一つですが。箸墓が孝霊の墓かもしれませんしね。その
後狂ったように各地に前方後円墳が作られていくのは、九州統一からそ
の軍事・経済的プレゼンスが大きくなり、その支援を得るために柵封体制
に入ることでヒエラルヒーが形成されていったからではないのかな、と。
畿内発でもその意味は同じだけど、当時ヤマト南部の小勢力だった一豪
族がいきなり墓と支配を全国化はできない。
799九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 05:16:13
>>773
>婢サンたち、「あ。私お給仕、します!」て申し出ないのかなあ?
男子にばっか飲食の世話させて、サボリの婢サンたちだなあ 

だから僕が言ってる黄巾、つまり初期道教の影響は否めない。妄想じゃないんですよ。
黄巾では王位に就くと人前に姿を見せないという考え方なんです。
そしてたった一人の男子というのも、宦官だったと思います。
「鬼道とは黄巾なり」という文献もありますから。全くの同じものではなくとも、
シャーマニズムと掛け合わせたようなものだったんでしょう。
800愛知県民:2007/02/12(月) 06:57:18
>>798
>「大倭」の冠についてはどうお考えでしょうか。
「大倭」でなく「意富夜麻登」という表記ですね。
娘の夜麻登登母母曾毘売命とあわせて、古事記ではこの二人だけが「夜麻登」という文字になっています。
意識して書き分けたのかどうか、気になります。
801日本@名無史さん:2007/02/12(月) 07:29:42
宦官って性別があるのですか?
802太国:2007/02/12(月) 08:07:45
>>795
まぁそんなところです。その絵はちょっと頬あたりが太りすぎ
ですな。w
803日本@名無史さん:2007/02/12(月) 08:24:31
卑弥呼は当然当時の中国人がヒアリングした当て字だが、
日御子とか、日巫女って意味だと思う。

ホツマツタヱを読むと、
天照(アマテル)カミとか、下照ヒメとか、
若仁(ワカヒト 若日人の表記のほうがより原意に近い)とか、
若昼女(玉津島神社表記では稚日女尊だが、原意に沿う表記はこうなるらしい)とか、
とにかくお日様に関係した名前が多いね。

姫の原意は「日女」なんだよね。
804日本@名無史さん:2007/02/12(月) 08:32:56
そうそう、当時のカミは神の意味ではなく、御上(オカミ)なんだよね。
つまり為政者(上様 うえさま)のことをそう呼んでいたわけで、
天照大神なんかも、死後祀られて神様扱いになっているだけで、
生前の原意に沿った漢字表記は天照上(アマテルカミ)が正解だそうだね。

おっと、ここで、音読み訓読みは関係ないよ。
なにしろ、後世になって適当に音に漢字を当てているだけのことだから、
どっちの読みで字を当てなくてはならないかなんて規則はないし、
基本的には関係ないこと。

ホツマツタヱは記紀より内容が正確で情報量が倍以上あるから、
後世の改竄を受けているとしても、伝承内容のほうはかなり正しいと感じる。
古事記より信頼できるのは確かだね。

卑弥呼は原意に沿った正しい漢字表記は日巫女。
805日本@名無史さん:2007/02/12(月) 09:03:03
漢字の使える渡来人を書記にやとって書いたのでかなりハチャメチャになるかも
806SOY:2007/02/12(月) 09:17:34
>>776 奴国

2倍暦。あったことを匂わせる状況証拠的なものは
多いのに実証が難しいところに興味をそそります。

私が最初に2倍暦を認識したのは『100歳を越えても
200歳を越えない年齢』に何らかの法則性を感じたか
らです。

とりあえず、今は『事件が月の前半に偏ること』と
2倍暦がどのように関連しているかを考えたりして
います。

しかし、これはどちらかと言うと、邪馬台国の問題
というよりは記紀の問題ですね。
807征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/12(月) 09:24:52
>>758
仮に日本書紀の内容が史実を反映させて居るとしても、
日本書紀が本来どう云う年代観で書かれていたかが解らないと始まらない訳じゃないですか。
ま、考古学もありますが。

ただ、日本書紀が史実を反映させて書いてるかどうかは私の責任では有りませんので、
日本書紀の紀年問題を完全に解いたとしても、書紀から史実が見えるとは言えないですし、
取り敢えずその限界を頭に入れた上で考古学的成果に左右されず、
文献史学者は文献史学として書紀の年代を算出すべきなんですよ。


>>655>>792
大市と云えば勘注の神大市姫命を連想出来ますし、
箸墓の被葬者がモモソのままでも問題無いと思いますけど、如何でしょうか
808征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/12(月) 09:29:07
>>776
伝承がおかしいんじゃないですよ。
治世年間の設計に合わせて、寿命が算出されるだけであって
そう云う伝承に基づいている訳でも何でもないです。
809日本@名無史さん:2007/02/12(月) 09:45:12

卑弥呼の生年と没年はいつか、それと台与の生没年も、みなさん、推理してほしい。

というのは、「宗女」ということから、台与はだいたい卑弥呼のひと世代下のイメージで
語られる方が多いような気がする。違うと思う。
ふた世代差、つまりおばあちゃんと孫ぐらいの年齢差があったのではないか。
もし卑弥呼、台与を、記紀の系譜中に探すのであれば、これは案外大切だろう。

卑弥呼存命中に、もちろん台与は生まれていたと思うが、卑弥呼の死のとき、台与は
いくつだったか。狗奴国との争い、これへの卑弥呼の対応など、台与は理解できていたか、
台与は卑弥呼から、なにか「教義」みたいなものを伝授されたか、など、とても興味がある。
810日本@名無史さん:2007/02/12(月) 09:51:27
>>776
以前、テレビを見ていたら、どこかの途上国の、田舎の老人が、年齢は
120才だと言っていたんですね。ところが、息子というのが若い。
どうも正確な年齢を知らないらしい。

古代の日本もそんな感じで、正確な年齢を知らなかった可能性が
あるんじゃないかな。だから、自分は百歳と言う人も多かった。
晋書にも、倭人について「不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀」と
あるわけだから。

また、「秋の収穫の時を以って年紀となす」ということから、2倍暦も
どうかと思う。2倍暦に疑問を持つのは、区切りがわかりにくいと
いうことが大きいと思うのだが。
811日本@名無史さん:2007/02/12(月) 09:59:41
春耕を忘れてますよ
812日本@名無史さん:2007/02/12(月) 10:01:09
>>809
>ふた世代差、つまりおばあちゃんと孫ぐらいの年齢差があったのではないか。

いやいや、ひょっとしたら3世代差ぐらい、あったかもしれませんよ。
ひいおばあさんと、ひ孫、ぐらいね。

うん、なかなか面白い課題なので、倭人伝を読み直して、二女王の生没年、考えてみましょう。
813日本@名無史さん:2007/02/12(月) 10:10:10
>>810
>晋書にも、倭人について「不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀」と
あるわけだから。

また、「秋の収穫の時を以って年紀となす」ということから、2倍暦も
どうかと思う。2倍暦に疑問を持つのは、区切りがわかりにくいと
いうことが大きいと思うのだが。

以前何処かでプラムが言ってたように《秋收之時》は収納で、納税を年の最後とし一年の区切りとした
考えがしっくり来るんだが?
814愛知県民:2007/02/12(月) 10:35:59
>>807
征東大将軍さん、失礼しました。
素人がお仕事を侮辱しているように取られたかもしれません。
今週はこれで退場しますが、今後も会話に応じて頂ければ有り難いです。
本当に、失礼いたしました。

>>809
卑弥呼即位が180年代とすれば、かなりの年齢差でしょうね。
ただ私は即位はもっと後と見ています。
魏志には「住七八十年」とあるだけで、年は長大だったとあるので。
815日本@名無史さん:2007/02/12(月) 10:41:21
寿の思想による年号の増しを正確に補正できる、ホツマツタヱと、
記紀と魏志倭人伝などの4書を、しっかり照らし合わせれば分かることですが、
日巫女さんの日本での正式なお名前は、ヤマトトビモモソヒメです。

生まれたのは160年頃で、没年は247年。
ネヤト26年ずらし(正始八年、崇神十年)ってことになります。

お墓はもちろん箸墓古墳です。


これでほぼ無矛盾で、ファイナルアンサーと見ていいから、
このスレッドは終了かも。
816唐松山:2007/02/12(月) 10:47:11
「不知正歳四節、但計秋收之時以爲年紀」 これは、下民 の事
支配階級は、暦(農事暦)をもって支配していた。
だから 会稽で開かれる秋の市(ダラダラ長期間開かれていたとは思わない。)
に 時節をもって やって来る。
817太国:2007/02/12(月) 10:50:16
だから大祓いの6月の末で区切る。半分づつだからそんな困難
ではない。女王国とか九州王朝はどうだか可能性のみに留まっては
いるが、畿内では倍暦をやっていたわけ。

3倍暦の崇神世は2倍暦の開化世の暦法の延長っていうか、3倍暦
との並用があるんではないかということで(現今の午後2時が14時
でもあり、両者が並用のごとく)

紀の文 崇神62年7/2(6月末の翌々日、実年代257年)
 
 詔したまひしく「農は天下の大きなる本にして云々・・・今河内
 の狭山の埴田水少なし云々・・・百姓農事を怠る云々・・・
 民の業を寛かにせよ。」とのりたまひき。

これは半年後(2倍暦では、当時の新年の)第二日目に農業を天皇
が勧めている。つまり年の初めのためしとてである。
818太国:2007/02/12(月) 10:53:55
819太国:2007/02/12(月) 10:57:29
>>818は誤入力です。

>>815
貴殿の説はすべて間違い。卑弥呼は崇神世の人物にあらず、神功の時代
の4世紀の女性です。箸墓は卑弥呼と無関係。
820日本@名無史さん:2007/02/12(月) 11:00:26
スルーでいきましょう
821日本@名無史さん:2007/02/12(月) 11:03:32
>>816
>支配階級は、暦(農事暦)をもって支配していた。

当然の事だろう
漢書には樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。暦があればこそ
822日本@名無史さん:2007/02/12(月) 11:04:55
>>820 おまえの決める事ではない
823唐松山:2007/02/12(月) 11:09:21
ほつま でみる限り
卑弥呼は、筑紫の オオミケ

増しのある 年の干支は、年代測定には、使い物にならない。
日の干支は、書紀で見て 崇神から景行までで (年号、月、干支)をワンセットでみる
間違いと思われる所は、2ヶ所
1ヶ所目は、 崇神7年11月 丁卯  崇神8年11月とすると ピッタリ治まる 
その他の 年代に関係なし。
困るのは、垂仁5年から18年にかけて 閏がひとつ多くなりすぎる 
7年7月 を7年8月 等操作が必要 
垂仁 末も操作が必要。
824唐松山:2007/02/12(月) 11:22:22
当時の暦の 新暦は、5月(現在は4月)

支配階級の シノギは、 種貸し よって天皇は、種貸やの大親分
揚がりの 種籾を運ぶ道は獣道ていど 
畿内で 支配できる範囲は、おのずと限られる。
825SOY:2007/02/12(月) 11:22:36
>>809
>卑弥呼の生年と没年はいつか、それと台与の生没年も、みなさん、推理してほしい。

卑弥呼の即位年に関わるあたりの記事を少しまとめてみました

1.倭面上國王師升 (107年)
2.住七八十年 (xxx〜xxx年)
3.桓霊間倭國大乱 (147〜188年)
4.漢霊帝光和中倭國亂 (178〜183年)
5.歴年無主 (xxx〜xxx年)
6.乃共立一女子爲王名曰卑彌呼 (xxx年)

気になるのは以下の点です。

(1)倭國大乱と歴年無主の同じ時期を示すのか
(2)桓霊間や光和中というのは倭國大乱の始まりを示すのか全てを示すのか

180年頃に大乱があり、歴年倭国の主がおらず、すぐに卑弥呼が
即位したと考えれば180年という解釈もありですが、歴年を短く
考えなければならないところがひっかかります。

年長大は必ずしも老人にのみ使われる言葉でないので、卑弥呼
がある程度若い可能性はあるように思います。
826太国:2007/02/12(月) 11:58:00
>>825
帥升は107年ころの人物ではない、この年は実年代で孝昭天皇の世
になり、そのころ九州には主だった国王的人物は居なかったという
のが真相であり、当時は畿内からも大陸からも圧力的な事件はほぼ
無く、攻められる心配もない時代だったということである。江戸
時代の鎖国的状況が非故意的な状況で時代が経過していたのである。
が、しかしまったく大陸との交通的出来事が0なのかと言うと
そうではなく、国をひっくり返される事件ものは起こらなかったと
いう意味である。

帥升は崇神〜景行、あるいは一歩譲って前代の開化の時代の九州の
人物で、時代の数字は200〜300年前半あたりと観る。
神武が九州から畿内に移った時点で、九州は他国の干渉が少ない
主のいない王朝の空白時期になり、崇神の時代ころに以後の九州王朝
ができたということなのである。
827唐松山:2007/02/12(月) 12:01:04
歴年  年度  誤差  閏   歴日 月齢垂仁
232年目1年度23日84回847342869月垂仁元年春正月,丁丑朔
233年目2年度24日85回851482883月二年春二月,辛未朔
236年目5年度24日86回864762928月
238年目7年度24日87回871262950月五年冬十月,己卯朔
240年目9年度20日88回877122970月七年秋七月,己巳朔
240年目9年度20日88回879192977月十五年春二月,乙卯朔
245年目14年度22日89回895143031月二十五年春二月,丁巳朔
245年目14年度-8日90回895443032月三月,丁亥朔丙申
246年目15年度-8日91回900753050月二十六年秋八月,戊寅朔
263年目`0000-7日97回960973254月九十年春二月,庚子朔
262年目`0000-5日96回958633246月九十九年秋七月,戊午朔
262年目`0000-6日97回960403252月冬十二月,癸卯朔壬子
263年目`0000-6日97回961283255月明年春三月,辛未朔壬午
828唐松山:2007/02/12(月) 12:02:19
歴年  年度  誤差  閏   歴日  月齢景行天皇
263年目1年度-6日97回962463259月景行元年秋七月,己巳朔
264年目2年度-5日97回964833267月二年春三月,丙寅朔
269年目7年度-3日98回984323333月十二年八月乙未,朔
274年目12年度-3日103回1001153389.94十七年春三月,戊戌朔
275年目13年度-2日103回1004993402.94十八年夏四月,壬戌朔
276年目14年度-2日103回1010013419.94十九年秋九月,甲申朔
277年目15年度-2日104回1011783425.94廿年春二月,辛巳朔
282年目20年度-1日105回1032173494.98廿五年秋七月,庚辰朔
284年目22年度0日105回1037783513.98廿七年春二月,辛丑朔
285年目23年度0日106回1041623526.99廿八年春二月,乙丑朔
286年目24年度-4日106回1046603543.85四十年秋七月,癸未朔

829日本@名無史さん:2007/02/12(月) 12:05:54
>>825
普通に考えれば、倭国の大乱をもって「歴年無主」。
大乱が治まってから卑弥呼が女王になったのではなく、卑弥呼が女王に
なる事により大乱が治まった。
大乱の治まった時期は、範囲の狭い霊帝の光和中をとり、最も遅くても
西暦183年。これは同時に卑弥呼が女王になったと考えられる最も
遅い時期と考えられる。

卑弥呼の没年は、倭人伝の時系列から正始八年(247年)よりもあと。
一般的に言われている西暦248年頃かな?

となると、卑弥呼の在位年数は、65年から70年。
女王になったのが台与と同じ13才とすれば、享年は80才くらい。
830唐松山:2007/02/12(月) 12:09:23
ごめんなさい
暦日と月齢が 合体してしまった
景行元年 暦日94246日
です。
831日本@名無史さん:2007/02/12(月) 12:20:30

>>829
>となると、卑弥呼の在位年数は、65年から70年。
女王になったのが台与と同じ13才とすれば、享年は80才くらい。

桓霊間すでに年已長大(年既に長大)となっているので13才とは考えがたい




832唐松山:2007/02/12(月) 12:24:47
193年 倭人が大飢饉となり避難民到来
この記事を 崇神6年 民散る に合わせると
倭国大乱の 収束は、景行の時代となり 景行18年 ?筑紫のオオミケ倒れ…
同20年 イオノ姫(五百野皇女)14才 これ筑紫向け

833日本@名無史さん:2007/02/12(月) 12:40:16
>>831
倭人伝の記述は、帯方郡の使いがやってきた景初三年(西暦238年)
よりも後の記録。
同じ部分に、「王となって以来見たものは少ない」と書かれているわけで
これが王になったときのこととは思えない。
同じく、「年已長大」も帯方郡の使者がやってきてからのことと思う。

>>832
それは三国史記の新羅本記に書かれていることだと思うけど、
大飢饉というのは、江戸時代を含めけっこう頻繁に起きているので
それを倭国の大乱に重ね合わせるのはどうかと思う。
834唐松山:2007/02/12(月) 12:40:21
この時 景行は、ひとつ?の和歌を残しています。
...ただ巫女想う...
この歌を平安の閑人貴族が ...畳薦... などと訳してしまうのでかみ合わなく成ってしまった。
835日本@名無史さん:2007/02/12(月) 12:44:34
>>833
>倭人伝の記述は、帯方郡の使いがやってきた景初三年(西暦238年)
よりも後の記録。
同じ部分に、「王となって以来見たものは少ない」と書かれているわけで
これが王になったときのこととは思えない。
同じく、「年已長大」も帯方郡の使者がやってきてからのことと思う。

あの文章には目をつぶるの
836唐松山:2007/02/12(月) 13:02:52
たしかに 飢饉は、常時在ったでしょう
でも 国外にまで 散った民が押し寄せる 
記録では、6月に1600人以上 田植えの終わった真夏にですよ
その年のソウルでは、5月に積雪30センチ 
 四道将軍の 行動は、半年 治めたものは、まつろわぬ人等とまだ感化されていない人等
タケハニヤスは 腹違いの兄弟 当然の事であり 乱れ  では無い
出雲を治めたのも この飢饉の結果  此処に一度は、軍を出す 当然
よって 畿内静謐 (九州は、この反対)と書かれている
837日本@名無史さん:2007/02/12(月) 14:47:24
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
838九州出身:2007/02/12(月) 19:31:39
>>793
なぜ神功皇后が3倍暦なんだか。あなたの倍暦がいまいちわからない。
どこか解りやすいカキコしてますかね?
839太国:2007/02/12(月) 19:52:17
>>838
3倍暦だということは、神功世が等倍とか2倍暦では武内宿禰の寿命
がとてつもなく数字が大きく、現代では考えられないほど長い事になり、それはありえないということから来ています。

神功と5代に遣えたことから、武内の生存時期の天皇、神功世は
(例外あり)3倍暦をやっていたとせねば合理性が薄くなります。
武内大臣はそのまま暦では285歳で生きられっこない数字ですし、
仮に2倍暦でも142歳、←どうですか? 貴殿でもそういうことは
ありえんと言うでしょう。彼の真の寿命は111歳ですよ。
840日本@名無史さん:2007/02/12(月) 20:28:06
武内宿禰が倍暦説の弱点ということで良さそうだな
841日本@名無史さん:2007/02/12(月) 20:38:01
「安帝の永初元年、倭の国王帥升等」の部分が、『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、唐類函・変塞部倭国の条所引の『通典』には「倭面土地王帥升」とあり、北宋版『通典』には「倭面土王帥升」とある。

この「面土国」は、「筑志米多国」のことである。

http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32720152.html
842太国:2007/02/12(月) 20:38:34
3倍なら弱点にはならないでしょう? だいたい2倍暦より通常暦説の
ほうが弱点であり、前者より後者のほうが寿命が馬鹿でかくなるから
それが分かる。
843日本@名無史さん:2007/02/12(月) 20:44:40
倍年暦では武内宿禰は説明できない。
3倍暦は説得力がない。
844太国:2007/02/12(月) 20:56:56
>>843
コヨミは古黄泉にして、古代の暦法の朝廷の採用方法は迷信深い、
より太古にあった神事等に依っていると考えております。
それは黄泉の国の、二神の産室と絞殺との言い合いからにあり

1500:1000=3:2

の関係から2倍暦と3倍暦を用いたもので、朝廷がイザナミの呪い
の恐ろしさを回避すべく、このような暦法をこさえたということ
になります。

なお コヨミ→9・4・3 から、欠史八代間の3代4代(安寧、
懿徳)と9代(開化)の時代は2倍暦を使っています。八代間の
他の天皇世は他の倍暦法です。
845九州出身:2007/02/12(月) 21:11:28
>>839
>3倍暦だということは、神功世が等倍とか2倍暦では武内宿禰の寿命
>がとてつもなく数字が大きく、現代では考えられないほど長い事になり、
>それはありえないということから来ています。

それは有りえないからあなたが勝手に3倍にしたんですか?
それに武内の年齢も勝手に決めてるに過ぎない。
有りえないっていうのは解るんですがあなたの説は適当にごまかしてるとしか思えません。

846九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 21:47:02
>>780 
違います。僕ではありません。でも、この語尾に「何々でつ」という言い方、
何か懐かしい響きがあるような、ないような。
847九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 21:55:00
>>801
宦官は男でしょう。去勢した男子です。
848太国:2007/02/12(月) 22:11:26
>>845
『神』の号のつく天皇は3倍暦ですよ。たとえば神武を見て下さい。
神武即位から同崩御までは3倍でやってるようです。

【神武即位〜崩御までの月数表】

神武元年1月 即位
同 2年2月 国造県主を定める
同 4年2月 鳥見山で天神を祀る
同 31年4月 巡幸
同 42年1月 神沼河耳尊 立太子
同 76年3月 崩御

この記録を見ると1月〜4月までしかないんですよ。このことは
当時1年が1月から4月までの四ヶ月しか無かったことを匂わせ
ています。四ヶ月ということは1年の三分の一ですから、このこと
は当時3倍暦をやっていたということです。

じゃぁ何故5月以降を使わなかったのかという疑問が出ます。それ
は高天原の五月蝿なす暗黒の世を嫌ったものであり、畿内平定の業
の最中に五瀬命が戦死したのが5月だからです。神武はこのことに
非常にショックを受けたようで、黄泉国の呪いのせいで天照大御神
からの守護が無かったのは5月にある、この月は凶と観たという事
です。だから5月以降を絶ったんですよ。当時縁起を担ぐのは、
神武は日を背にして戦おうとしたことからうなづけます。

また黄泉の国の黄色も嫌ったのか、方位でも五黄殺を嫌うのです。
五瀬命の御名にも五の字があることからもなおさらです。
ただ、崩御直後からは通常暦を使用し始めます。
849九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/12(月) 22:30:01
ドン来いは1000までいってたんだ。スレ主のプラムさんに拍手。
850九州出身:2007/02/12(月) 22:43:40
>>848
ほうほう、5月を凶とし縁起を担ぐとはなかなかですね。
でもそれなら5月だけを排除すればいいことだしそこのところはどうなんですかね?
太国さんがいうのは神武、祟神、神功皇后、応神は3倍暦で、それ以外の30代までの天皇は倍暦。
その計算だと神功皇后が卑弥呼の時代と重なるんですかね?
851太国:2007/02/12(月) 23:15:24
>>850
『神』の号の天皇以外の世でも3倍暦はやっていますよ。
5月だけを排除するんでは2倍も3倍も出来にくいし、11月分に
なるから、そういうんでは 1.09倍暦 で運用は困難でしょう?
11数は素数のうちでも2桁で、1桁なら単純的でやり易さはあるも
これじゃぁ使用が難儀するんじゃないんですかな?

この計算から神功世が卑弥呼の時代と重なるんじゃないんですよ。
紀の神功39年と同66年の記述は当時の九州の卑弥呼の記事だという
蓋然性が極めて強いのですから、神功世にあちらに卑弥呼が生存
していたということですよ。編者側は卑弥呼を神功と見立てたと
するは編者側の恣意が入りますから、見立てたのではなく、その時代
ころに両者が並存していたということです。もし見立てたのなら、
「一書に曰く・・・」的書き方か、推定で挿入してますよとかの
断り書きをして誤解を防ぐ算段を彼らはやりますよ。

それで紀の並存はあの記載方法なら信用すべきで、神功39年、同66年
の紀の書きこみから倍暦で算出しますと、それぞれ365年、374年
に相当するわけです。このことは卑弥呼が4世紀の人物であること
を物語っています。
852日本@名無史さん:2007/02/12(月) 23:20:44
>>839 >>840 >>843

武内宿禰の長寿は干支120年繰上の前後にまたがったからという見方は
できないでしょうか。
神功皇后のときに、卑弥呼時代と三韓征伐時代を混同する干支繰上が生じた
ので、倍歴で165年のところが285年になったという見方です。
853太国:2007/02/12(月) 23:42:05
>>852
紀のストレート対応なら285歳ですが、165歳はまだまだ超長寿で、
この年齢はありっこないでしょう?
854九州出身:2007/02/12(月) 23:43:09
>>851
だから魏志倭人伝に記される248年頃亡くなった卑弥呼がなぜ4世紀の人物なの?
大国さん途中までいいんだが最後おかしいよ?(笑)
855太国:2007/02/12(月) 23:55:37
>>854
倭人伝のどこに248年ころ亡くなった記述があるんですか?
いいですか、後代の繼體世も2倍暦なのは半信半疑でしょうが、
もしやと思ってくれてるんではないかと拙者は想ってますが?
ならば今までの臥海の年数合わせが大きく狂っているんではない
んですか?
もしや中国でさえも倍暦だった時があったかも知れませんよ。
あと書きこんでおいてくれれば明日以降に考えます

小説ですが、西遊記にも天井の1日は地上の1年とありますがね。
zzzzzzzzzzzz・・・・・・・・・・・
856恵也 ◆o4NEPA8feA :2007/02/13(火) 00:12:56
>>809
>卑弥呼存命中に、もちろん台与は生まれていたと思うが、卑弥呼の死のとき、台与は
>いくつだったか。

約13歳

−−−−−(引用開始)−−−−−
倭人たちはまた、卑弥呼の一族の娘で十三歳の台与(とよ)を王に立てた。
国中はようやく、定まった。張政は前の回状を使って、台与を励ました。
http://www.webtelevi.com/yamataigisi.htm
857九州出身:2007/02/13(火) 00:24:59
>>855
中国も倍暦となる根拠を示してほしい。
何か握ってるの?
858SOY:2007/02/13(火) 00:37:12
>>852
>武内宿禰の長寿は干支120年繰上の前後にまたがったからという見方は
>できないでしょうか。

私も寧ろその考えの方が妥当のように思えます。

また、武内宿禰は古代天皇とは違って、没年齢が記録として残されて
いたのではなく、彼が景行天皇の頃に生まれ、仁徳天皇の頃に死んだ
という記録からその年齢が算出されたのではないかと私は推測してい
ます。

古代天皇はデタラメな年齢のようで100歳を越えても200歳を越えない
というある種の法則性があります。

そんな長寿の中において彼の年齢は突出しています。そういった点で、
彼の年齢と古代天皇の年齢は事情が異なると私は考えます。
859日本@名無史さん:2007/02/13(火) 00:45:41
>>855
大国氏の場合は、ここは通常の暦、ここは2倍暦、ここは3倍暦。
場合によっては中国も2倍暦をとっていたかもしれない、となる。

それでは、自分で勝手に歴史を作っておいて、文献の歴史を自分の
作った歴史に合わせることになる。本末転倒というべき。

倭人伝の記述によると、景初三年(239年)に卑弥呼が魏に使いを送る。
正始元年(240年)梯儁が詔書・印綬を持って帯方郡からやってくる。
正始四年に、卑弥呼は伊声耆・掖邪狗を派遣し朝貢。
六年に難升米に賜る黄幢が帯方郡に到着する。
八年(247年)に帯方郡の新しい太守が着任。卑弥呼は載斯、烏越等を派遣し、
狗奴国と戦乱状態にあることを説明する。
張政が黄幢などを持ってやってきて戦争を止めるよう檄をなして告喩する。。
ここで「卑弥呼以死」となる。
男王が立つが国中が服さず戦乱状態になる。台与が王になる。
台与は掖邪狗らに張政の帰還を送らせ、同時に朝貢する。

となっていて、一般的には、西暦248年頃死んだとされる。
860九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/13(火) 00:51:21
古代の天皇は、医療技術も発達していない中、病没とかで個別に大きく差があってしかるべきなのに、
揃いも揃って長寿なのは倍歴論云々以前に、おかしい。
861日本@名無史さん:2007/02/13(火) 01:04:26
>>860
熊本県の阿蘇と宇土市の古墳から二人の女王の骨が出土しているが、
両方とも30歳代とされるから、そんなものだと思うけど。
まあ、骨が出れば年齢もわかる。そんな調査で、弥生時代の平均寿命は
かなり低かったと思うが。

ちょっと調べてみたら、弥生時代の平均寿命は30才らしい。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/3863/tyouzyu.html
862日本@名無史さん:2007/02/13(火) 01:10:07
ついでに、これによると、弥生時代に50才まで生きる率は30%程度。
現代は95%程度。
70才以上生きた弥生人はほとんどいなかったらしい。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/3863/tyouzyu.html
863九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/13(火) 01:11:10
鎌倉時代も30歳くらい。縄文人は狩猟して肉を食べていたので、結構栄養状態がいいが、
弥生人は穀物中心で栄養が行き届いていない。その為短命だったのではないか。
864日本@名無史さん:2007/02/13(火) 01:11:48
>>862のリンクは間違い。
こちらが本当。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/235.html
865九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/13(火) 01:15:15
うーん。脳が寝ている。明日に備えてもう寝まZ。
866日本@名無史さん:2007/02/13(火) 01:23:43
こちらも限界だ。もう寝よう。
867奴国 ◆BdeghU15Mk :2007/02/13(火) 01:27:41
>>864 によると古代〜近代では乳幼児期の死亡率の高さが平均寿命を
押し下げる大きな要因だけど、10歳まで生きた者のその後の平均寿命で
みると40歳を越えるように思う。

平均寿命が社会階級によって異なることは、産業革命期のイギリスの例が
有名だけど、古代でも支配者層と平民では平均寿命がかなり違っていた
可能性が高いと思います。
868太国:2007/02/13(火) 07:14:16
>>859
>それでは、自分で勝手に歴史を作っておいて、文献の歴史を云々

それでは、臥海で勝手に歴史を作っておいて、君はそれにたぶらか
されたのを信じているだけのことではないか?w

繼體世が先帝の普通暦の日付と百済暦の通常暦らしいこの記述以外
は総て記録は1日〜14日までしかない2倍暦が濃厚なのに、それを
知らずか、無視してそれより先代(武烈以前)の年数合わせをやっ
てれば、当然先代になる卑弥呼の記述なんか合いっこないぜ。

神功39年が239年ならば、應神仁徳両天皇はべらぼうの超長寿の
ままで、こんなことはありっこない。拙者が歴史を作ってるなどと
いうのは極論であり、説は紀の矛盾をいかに合理的に説明しよう
としてるかをやってるのさ。
869日本@名無史さん:2007/02/13(火) 07:48:30
倍年暦では武内宿禰は説明できない。
3倍暦は説得力がない。
870日本@名無史さん:2007/02/13(火) 08:31:36
寿の発想で暦に増しが行われている事実を無視して、
何倍暦って空論ばかり語る人が大勢いるスレはここですか?

天皇が即位したり死んだりしたとき、
10年とか30年といった単位で年号が足されているんですよ。

寿思想があるんです。
皆さんこの存在をちゃんと勉強して、矛盾を解決しましょう。
871太国:2007/02/13(火) 09:46:48
>>869 
神武の3倍暦を匂わすのがこれ↓(当時の1年は4ヶ月のもよう)

【神武即位から崩御までの月統計表】

1月 2   5月 0   9月 0
2月 2   6月 0   10月 0
3月 1   7月 0   11月 0
4月 1   8月 0   12月 0

即位前及び即位直後は通常暦である。
872サガミハラハラ:2007/02/13(火) 09:52:53
寿思想での割り増しに何か法則性がない限り、日本書紀の紀年の復元は
不可能となります。在世の終わりのほうの記事のない年数はそっくり割り増しとなるのでしょうか。
873太国:2007/02/13(火) 09:55:14
>>870
下表を見てみろ。増すより15日以降が引く以上の0だ。
増す張本人は他ならぬ君だ。↓なぜ当時は1日〜14日迄なんだい?
答えてみろい。

【欠史八代間の立太子、即位、立后、崩御、葬儀の日数統計表】

1日 4  15日 0
2日 2  16日 0
3日 3  17日 0
4日 1  18日 0
5日 3  19日 0
6日 3  20日 0
7日 2  21日 0
8日 3  22日 0
9日 4  23日 0
10日 1  24日 0
11日 3  25日 0
12日 4  26日 0
13日 2  27日 0
14日 7  28日 0
       29日 0
       30日 0
874日本@名無史さん:2007/02/13(火) 09:56:42
中国人は、自分達以外の民族を書くとき賤しい字を当てる
倭とか蒙とか
だから卑弥呼→ヒミコという音にわざと無茶苦茶な字を当てたんだろう
日巫女という役職のことであって、根本的に個人名ではないんじゃ?
875日本@名無史さん:2007/02/13(火) 10:29:47
>>867
おおざっぱに言えば、弥生時代、生まれた人は10才までに半数が死亡する。
10才の人でも50才になるのは半数。
さらに、60才になるのはその半数。
70才まで生きる人はほとんどいないということになる。

一方で、現代は、生まれた人の半数が80才くらいまで生きることになる。

倭人伝に書かれている倭人は長寿というのはなんかからくりがありそう。
876○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/13(火) 10:42:20
○人大杉状態をなんとかするべし。自由に書き込めないぞ。

○卑弥呼が偉大な女王とされたなら、その使っていたものは代々受け継がれても不思議ではない。
とくに魏からの金印は、この国の所有の絶対証明になる。
しかし、残っていないのは?
877日本@名無史さん:2007/02/13(火) 11:05:38
>>868
記紀とかを編纂する上で基本になったのは、神武天皇の即位で、
まず、これを紀元前660年あたりに決めてしまった。

記憶に残っている歴代天皇をその期間に割り当てた。
これが事実じゃないかと思う。

神武天皇の即位はそんなに古くないので、結果として天皇の寿命は
間延びしてしまった。
つまり、過去の天皇の詳しい年代は記録として残っていなかった。
古事記と日本書紀で天皇の在位期間がばらばらなのがその根拠となる。
878日本@名無史さん:2007/02/13(火) 11:11:07
>>876
古代では、死は汚らわしいものだったらしい。
だから、亡くなった人の持ち物も穢れた物と扱われた。
受け継がれずに、墓に副葬されたのは、それが理由の一つだったんじゃないかな。

卑弥呼の「親魏倭王」の金印は、魏が滅んでしまったら、あまり意味が
ないので、後には大切にはされなかったと思う。
879日本@名無史さん:2007/02/13(火) 11:36:36
寿思想は、対中国対策外交文書である日本書紀には、気取られるような形で記されていないよ。

国内向けに作られたホツマツタヱのほうを読むと、ちゃんと補正できるように書いてある。

日本書紀は、ホツマツタヱの伝承内容の5割以下しか翻訳されていない。
また、ホツマツタヱ以外の文献の伝承も多少付け足してあるかな、程度のものにすぎない。

しかも、編纂を統括していた中国人の翻訳者が、日本の文化に対する認識レベルはかなり低くて、
日本人が妻のことを「妹」と呼ぶことすら知らなかったりと、けっこう致命的だから、
もう笑ってしまうしかない記述部分がある。

なので、ホツマツタヱをまともに正しく翻訳できずに、記述内容が不完全で意味不明になっていたり、
明らかな誤訳になっていたり、コピーミスで文法的に変な文章になっている箇所がけっこう目立つよ。
880日本@名無史さん:2007/02/13(火) 11:37:55
日本書紀では意味不明で有名な、夜間箸墓古墳を築く部分の記述なども、
原典のホツマツタヱでは、ちゃんと意味が通じる文法的に正しい日本語で書かれているよ。
これは、日本人が二つの文献の記述を見比べれば、一目でおかしいと気付くんだけど、
当時の編集者は見落としてしまったみたいだね。

撃ちてし止まんなんて、戦前の教育で使われた箇所も、
記紀では神武天皇が皇軍に対して、シタタミ貝のように見苦しく這いまわって戦えと、
なにやらとんでもないナンセンスな意味不明の命令を出しているようにも読めてしまう、
かなり曖昧な描写になっていたりする。
ところが、ホツマツタヱでは、シタタミが貝の名前と下民の二つの意味を担う掛詞になっていて、
敵兵が右往左往混乱しながら無様に戦う様を、神武天皇が蔑んで語った言葉だと分かるように書かれている。
そして、敵の大将が皇軍との戦に負けて、スサノヲのように流浪の身になることを恐れ、
自分に大義名分がなく、反論の余地がないことを悟って軍を引いて敗北を認めたと、
ちゃんと書き手の意図が明確に読み手に伝わるように記述されているんだよね。
881日本@名無史さん:2007/02/13(火) 11:38:36
記紀はホツマツタヱと比べて、情報量が半分以下だし、
書き写すときに、変な思い込みで、原典にない描写を勝手に書き加えて、
原典が伝えようとしていた真意を損なう記述にしてみたりと、
編集がいい加減なだけでなく、やってはならない誤訳のオンパレードになっている部分すらあるんだよね。

そんな不完全なものを頼りにしているだけでは、邪馬台国問題は決着しないと思う。
神代文字捏造ブームの話に惑わされて、偽書だと頭から決め付けないで、ホツマツタヱをちゃんと読もう。

そして、寿思想を理解して、正しく年号の増しを取り除いた推理をしてみようよ。
882日本@名無史さん:2007/02/13(火) 12:07:41
上の撃ちてし止まんのくだりの解説では、少し説明が舌足らずのようなので、
文献解読に必要な予備知識を補足しておきます。

ホツマツタヱは記紀と多少違う記述箇所があり、天照大神は基本的に男神と記されています。

スサノヲが天照大神の13人いる妻のうちの一人を、過失とはいえ殺してしまい、
アマキミ(天皇の意味)に逆らったことを理由に、
宮号を剥奪されて、下民(したたみ)の身分にまで落とされて、流浪の身になって、
まるでシタタミ貝のように、各地を転々と徘徊して這い回った故事になぞらえた歌を
神武天皇が皇軍に歌わせたら、敵の総大将が戦意を失って軍を引いた、
というのが、ホツマツタヱが伝えている真意です。

ホツマツタヱでは天照大神は基本的に男神と記されていますが、
どうも、伊勢神宮の扱いや、古事記の描写などと照らし合わせてみると、
女神性も伺えるため、重大な事実を隠して書いていない可能性が見え隠れしています。

天の岩戸伝説を思兼尊が思いついて実行するしかなかった、当時の差し迫った状況を推理することで、
伝説の真意を解き明かして、天照大神の神の姿を浮き彫りにすることが出来ます。
男神と女神どちらの伝承も正しくて、
記紀が後世改竄されて、男神が女神になったわけではないと、示すことも可能です。

また、なぜ日本には、没後功績のあった人を神社に祀る風習が生まれたのかといったことまでを、
明らかにする謎解きの試みを、
この板の『天照大神は男神か女神か』スレッドで行う予定です。

天照大神が卑弥呼だという説もありますが、そうではないことも明らかになってきます。
まだ書きかけですが、興味がある方はあちらのスレッドも読んでみてください。
883橿原一派 ◆6Zok7FAjsY :2007/02/13(火) 12:11:56
>>881
そのあたりを分かりやすく書いたお勧めの本があれば、教えて下さい。
また、ホツマからは邪馬台国はどこだと読み取れますか。
貴兄の解釈をご教授お願いします。

九州説(筑紫、大分、南九州)・九州王朝説・東勢(東進)説・畿内自生説・・・
どれが近いのでしょうか。
ちなみに私はクナ国東進説です。
884橿原一派 ◆6Zok7FAjsY :2007/02/13(火) 12:24:27
>>882
あちらにも書きました。失礼しました。
885日本@名無史さん:2007/02/13(火) 12:51:03
ホツマツタヱ…。
初めて聞いた。どんなものかぜんぜんわからない。
まず、信憑性を確かめるほうが先では?
886日本@名無史さん:2007/02/13(火) 12:51:23
全員死ぬ間際に子供ができるなら在位期間の間延びも意味が有る。
でも15〜30ぐらいの間に子供を作るわけだから
100年生きようが200年生きようが跡継ぎが生まれた後の期間は被る。
先代の天皇が200歳で死んだ、よって次の天皇は0歳からスタートではない。
先代が200歳で死んだなら跡継ぎの息子は180歳で天皇になる。
となれば跡継ぎの天皇は在位期間は短くなる。
887日本@名無史さん:2007/02/13(火) 13:16:27
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
888日本@名無史さん:2007/02/13(火) 13:55:34
>>885
ホツマツタヱは、かなり悲惨な扱い方をされてきた文献で、
道鏡の焚書で消えてしまうところを、
命と引き換えにある人物が、家宝として江戸時代まで子孫に伝えていたとされています。

ところが、江戸時代に神代文字捏造ブームが巻き起こって、
ストレートにこれに巻き込まれてしまい、
偽書疑惑満載になって、一般の研究者の目から隠蔽されてしまっていた、
五七調の古代和歌で記されている日本最古の叙事詩です。

ただし、当時捏造された神代文字は、それを用いて書かれたまともな文献が無かったり、
あっても、内容が荒唐無稽すぎてお粗末なので、すぐに捏造と分かります。
ホツマツタヱ他ヲシテ3文献は、そのような一般的な捏造文字とはかなり異なる特徴があり、
分量も記紀の倍近くあるだけでなく、
記述内容が記紀よりしっかりしていて、より高い整合性を備えている印象があります。

文字の音韻体系が新しすぎて変だとか、和歌なんて音読みの人物が当時いるのは変だとか、
「かくれんぼ」とか「めかけ」なんて言葉が弥生時代に本当にあったのかとか、
さまざまな憶測に基づく理由を付けられて、長い間偽書と指摘されてきましたが、
ほぼその全てに対して、十分な反論が完了しているようです。

したがって、安易に偽書と判断してよい物ではないと思われます。
889日本@名無史さん:2007/02/13(火) 14:00:37
詳しいことは、ウィキペディアのホツマツタヱの項目などで。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%80%E7%9C%9F%E4%BC%9D

ただし、この記事の内容はかなり公平性を欠く改竄が繰り返されているらしく、
要注意と思われます。

ホツマツタヱは江戸時代に人々の目に止まってから研究されはじめて、
多くの人の手で偽書と判断する研究が先行して存在するのに、それを明らかに無視して、
「30数年来の蓄積をもちつつあり、学問的な再評価が待たれている」などと、
中立性を欠いた、読めばすぐに嘘と分かるような記述が散見されます。

たった一人しか学術的な検証に耐える解説書を記述できる研究者がいないように、
偏った記事を書いてしまうひとがいたりするようなので、
全てを鵜呑みにしないで警戒したほうがよいと思います。

ある程度参考にはなりますけどね。
890プラム ◆TOfHBAKZgM :2007/02/13(火) 18:43:08
コピペになりますが

『求む お知恵拝借』


『景初四年』の状況証拠にもなんとかメドがたち、次に『景初五年』の状況証拠作りを試みたく思い
つきましては、謎多き古代史解明の為、一人でも多く知恵を拝借致したく
ここにレス致した次第です。
何か情報が御ざいましたらレス宜しくです。
m(._.)m


では また……。
891九州出身:2007/02/13(火) 20:09:29
>>873
神武天皇以外は?w
892九州出身:2007/02/13(火) 20:18:01
ホツマツタヱは・・あの奇妙な旧日本字か・・・少しだけみたくらいかな
893太国:2007/02/13(火) 20:45:17
>>891
例えば、崇神垂仁世は3倍暦ですが、書きこみが非常に長くなり
ますので、すでに書きこんである

「2倍念暦」のスレの

 崇神 >133 >135 >137
 垂仁 >154 >155 >158 (>161 訂正)

にそれぞれ書きこんでいますので、そちらをお読み下さい。
894日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:09:45
>>886
垂仁天皇は崇神天皇が81才のときに生まれている。

ところで、日本書紀の景行天皇の記述はちょっと不可解。
景行天皇は、垂仁天皇16年に生まれた。そのとき垂仁天皇は55才。
垂仁天皇は、在位期間99年で享年は154才くらいのはず。
ところが、日本書紀には140才で崩御と書かれている。

また、そのとき景行天皇は83才。
つまり、景行天皇は83才くらいで天皇になる。
在位期間は60年。だから、景行天皇の享年は144才くらいのはず。
ところが、日本書紀には106才で亡くなったと書かれている。
書記の計算ミスかこちらの計算ミスかどっちだろう。
895日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:14:51
>>894
ちょっと間違えた。
全文訂正。
ところで、日本書紀の景行天皇の記述はちょっと不可解。
景行天皇は、垂仁天皇16年に生まれた。そのとき垂仁天皇は55才。
垂仁天皇は、在位期間99年で140才で崩御。

また、そのとき景行天皇は83才。
つまり、景行天皇は83才くらいで天皇になる。
在位期間は60年。だから、景行天皇の享年は144才くらいのはず。
ところが、日本書紀には106才で亡くなったと書かれている。
書記の計算ミスかこちらの計算ミスかどっちだろう。
896太国:2007/02/13(火) 22:23:04
>>894
紀のどこに106歳で亡くなったとありますか?
897日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:26:32
在日って結論ありきで議論しようとするから気持ちが悪い。
898日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:29:18
>>896
景行天皇紀の一番最後に書かれているはずだけど。

899太国:2007/02/13(火) 22:34:52
>>898
なるほど、成務もそんな矛盾がある話だな?
何かあるね? それは。箸墓の秘密に関わるかもな??
有難う。今後の参考になる。
900日本@名無史さん:2007/02/13(火) 22:35:34
ネットで調べてみたら、だいたい106才で崩御と書かれていたが、
ウィキペディア(Wikipedia)だけは、143才で崩御となっていた。
901太国:2007/02/13(火) 22:44:16
2倍と3倍の調整困難か? 日本武尊との調整の観点か?
矛盾が解決できないので、遠回しを含み、二つの歳で矛盾のまま記述
したんかな?
902征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/13(火) 22:45:47
推理としては、

・もともと106歳で設計されていた
・成太子時の年齢は改変されてない21歳は正しい
・成天皇時の年齢は84歳
・106-84+1=23、実際の治世は23年だった
・治世年間の分配法則により景行の治世年間が60年に拡張された→差分は虚構年
・それによって成太子時の年齢から逆算すると143歳になる
・しかし、成天皇時の年齢は余りにも高齢
  この理由の可能性の推理
   1、n倍歴として解釈して解消すべき問題
   2、先帝の垂仁が天皇が、景行を太子を立ててから崩御するまでの間に虚構年がある
   3、先帝の虚構年の問題


さて
903SOY:2007/02/13(火) 23:07:42
>>895
>日本書紀の景行天皇の記述はちょっと不可解。

昔から指摘されています。38年間はいったい何処にいってしまった
のか確かに奇妙な話です。

でも、矛盾のない記述よりもこういった計算のミスこそが古代の暦
を解明する切欠となりそうな気がして興味深いです。

古事記の干支崩年では137歳。年齢が長い方が正しいとするなら、
立太子の記事は垂仁37年ではなく、実際は+38年した75年とすべき
なのかも知れません。

どちらにせよ雲を掴むような話です。

いつも思うのですが、2倍暦を考えた時、天皇は確かに長寿なのに
立太子の年齢は意外にそれらしい数字なので何か違和感があります。
904征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/13(火) 23:08:49
垂仁40年〜垂仁86の計47年が空白年だから、仮にこれを全て虚構年と認めて処理すると
84-47=37

成天皇時の年齢は37歳、つまり崩御が59歳
905SOY:2007/02/13(火) 23:19:41
>>903
別のことを考えながら計算していたので計算違いしていました。

>立太子の記事は垂仁37年ではなく、実際は+38年した75年とすべき
>なのかも知れません。
立太子の記事は垂仁37年ではなく、実際は+37年した74年とすべき
なのかも知れません。
906太国:2007/02/13(火) 23:34:02
実年代で10歳前後で立太子がありうるよ。
907太国:2007/02/13(火) 23:48:58
景行天皇 実年代

誕生   265年
立太子  270年  6歳
即位   293年 29歳
崩御   322年 58歳
908太国:2007/02/13(火) 23:56:29
成務天皇 実年代

誕生  299年
立太子 318年 20歳
即位  323年 25歳
崩御  342年 44歳
909SOY:2007/02/14(水) 00:03:37
>>906 太国
>実年代で10歳前後で立太子がありうるよ
もちろん在り得ない話ではありません。ただ欠史8代あたりの立太子
の年齢を半分にして計算すると予想以上若い年齢ばかりが続くことに
なるので2倍暦があったっとしても太子の年齢には適用できないもの
なのかと考えたりしています。

もちろん当時の制度がよく分かっていないので絶対にないという話で
はありません。
910征東大将軍 ◆pRDe3lEVnE :2007/02/14(水) 00:06:02
>>906
等倍ならざっと立太子は20歳前後
二倍で10歳前後
三倍で7歳前後

どれも無理はないですね


>>903>>905
垂仁74年あたりは、垂仁40年〜垂仁86年の空白年次区間なんですよね。
この空白が事後挿入だったと考えると、
この年間に記事をシフトさせるべき可能性はちょっと考え難いと思うんですが

太国さん等のように、書紀の全区間に虚構年を全く認めずに三倍年歴まで駆使するなら、
この場合事後挿入ではなく、予め空白年が1/3程度あったと云う事で、15年程度ですから
それ程目立たない訳ですが、それでもそう云う理由で記事の記録位置自体は移動させたりはしないですね。

他にもイロイロ説は在りますが。


それに、書紀の長い方が『正しい』寿命かと言っても、
日本書紀編集者側も1年違いの誤差の場合でも、恐らく立太子時の年次と年齢記載から、
崩御時の年次を以って算出しているだけの事でしょう。我々がそうですが。

それ以外の場合の記載の方に意味があると云うのは私もそう考えます。
現段階になる以前の、1ステップ前での算出値ではないか?なんて思っています。

「伝承」などではなくて。
911九州出身:2007/02/14(水) 00:10:23
太国さん
いま「2倍念暦」の真実 拝見しましたが、

>現今の午後3時が15時でも同等の意味であると同様

とか考えてみる余地ありそうですよね。

912SOY:2007/02/14(水) 00:33:30
>>910 征東大将軍
>垂仁74年あたりは、垂仁40年〜垂仁86年の空白年次区間なんですよね。
>この空白が事後挿入だったと考えると、
>この年間に記事をシフトさせるべき可能性はちょっと考え難いと思うんですが
あくまでも1つの可能性としての意見で、違うと言われれば、
それまでの意見です。

>現段階になる以前の、1ステップ前での算出値ではないか?なんて思っています。

私も1つの可能性としてそれを考えています。辻褄が合わないところ、
通常とは違ったパターンのところ、私はこういったところが気になる
性質です。

編纂時にまぎれこんだ間違いは編纂過程を知る手がかりにきっとなる
と信じたい。
913日本@名無史さん:2007/02/14(水) 02:31:31
神武天皇は初代と息子の一人二役って説は有望なのかな。
914太国:2007/02/14(水) 07:15:32
>>909

立太子

神武 15歳
綏  5歳
安寧 21歳
懿徳 11歳
孝昭  9歳
孝安  7歳
孝靈 10歳
孝元  6歳
開化  6歳
915日本@名無史さん:2007/02/14(水) 07:16:43
普通に考えれば、人物が生きた年月じゃなく神武という年号が百数十年続いただけだろう。
916日本@名無史さん:2007/02/14(水) 09:50:31
年号は後年になってから創作したと聞いてますが、現実にはなかった事かも知れないらしいですね
917日本@名無史さん:2007/02/14(水) 10:41:14
>>915
そのような説は、もう、信じられていないわけ。
わざわざ、神武天皇という個人を作る必要が無いから。
もし、数代の人物を一人に纏めようとするのなら
そこは神代ということにしている。
神武天皇は、一様、人間界の最初の人物なわけで。
918日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:00:26
>>917
神代紀は『紀』全体のあらすじ、決して神世の時代を書いたわけではない。全てここに要約されている
919日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:22:10
人物神は記紀の産物。それまでのカムイは主に自然神であり、人では無い。
その点女性も人では無く自然の一部
しかし、記紀編纂時には過去の人物を神とし奉らねばならない背景がそこには有った。
920日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:38:49
神武天皇の息子さんについては、
当時の文献のなかで注意を払う必要があるようなことが書いてあったと思うけど。
必要もないのに、そんなことを普通は書かないよね。

襲名というのは、ホツマツタヱにも明記されているケースが多々あるよ。

同じ名前を継ぎながら、代替わりしているケースは、天照大神以前にあったみたいだね。

天照大神(イミナはワカヒト)自身も、スサノヲが暴れたとされる、
天照皇朝8年の内乱の時点で一度死んで、天の岩戸伝説で復活しているらしいよね。
このとき、どうやら思兼尊の妻で天照大神の姉のワカヒメが、
復活した天照大神役を、一時期務めていた可能性があるらしい。

そのあと、天御影命が、アマキミ(天君)の影武者を勤めて、
天孫降臨を命じていた可能性すら指摘されているね。
記紀の倍近い情報が記された文献だから、当時のことがよりはっきり分かってきたってことかな。

天御影命の名前を率直に解釈するなら、天照大神の御姿を留めた人物ということになるらしいね。
天照大神は男神か女神か論争や、天照大神影武者説、
執権政治形態説まで飛び出してきて、かなり面白くなっているね。

詳しいことは、ホツマツタヱと記紀を照らし合わせて謎解きをしている、
この二つのサイトを読めば分かるかな。
http://www1.ocn.ne.jp/~hotsuma8/
http://www.geocities.jp/crossmi_ray/

もっといいサイトがあったら教えてね。
921日本@名無史さん:2007/02/14(水) 13:31:11
>>914
初期の天皇は、皇太子になってやがて天皇になるという風に、あまりにも
整然としすぎているような気がする。
記録の確かな時代になると、まずそのようなことはなくなる。
天皇が崩御しても跡継ぎが決まっていなかったりする。
922日本@名無史さん:2007/02/14(水) 17:00:12
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
923日本@名無史さん:2007/02/14(水) 17:17:08
人多杉をなんとかしろ!
924日本@名無史さん:2007/02/14(水) 17:29:58
ひと大杉がこのまま続くようならば、2ちゃんねるに見切りをつけて、ほかに移動するしかない。
925一応九州王朝説:2007/02/14(水) 18:32:45
>>919
いつから人が信仰の対象だったのかはわかりませんが、決して
神武以後だとは思えません。既に八百万の神は出雲に集まる時
代があり、その神は祖霊神=地方の各部族だと考えます。
926日本@名無史さん:2007/02/14(水) 18:43:38
>>923,924
半年ロムってろ、いいことに気がつくから。
927日本@名無史さん:2007/02/14(水) 19:06:50
人口から考察したら、どう考えても
邪馬台国、投馬国は九州に治まらんのよ。
九州説の多くが、狗奴国を熊本にしている。
で、狗古智卑狗を菊池彦と解釈して...
で、その場合、邪馬台国、投馬国をどこにするのかだが、
収まらんのよ、九州には。
928日本@名無史さん:2007/02/14(水) 19:42:22
出雲に集まって国内会議をするので首都は出雲でした
929日本@名無史さん:2007/02/14(水) 20:01:08
>>925

>決して
神武以後だとは思えません。既に八百万の神は出雲に集まる時
代があり、


その情報は何処からでしょうか?
『八百万の神』
何故七百万や九百万ではなく、八十万や八万じゃなかったんでしょうね
930日本@名無史さん:2007/02/14(水) 20:04:06
>>927

>人口から考察したら

どのように人口を割り出したのですか?説明いただけると助かるのですが
931九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 20:07:10
>>924
ひと大杉がこのまま続くようならば、2ちゃんねるに見切りをつけて、ほかに移動するしかない。

こんだけ人が居るんだから、誰か知恵の有る人居ないの?
僕だって会話さえ楽しめればいいんだから。

>>927 
収まるのねそれが。
932日本@名無史さん:2007/02/14(水) 20:31:49
その人口は多分『戸』より割り出されたと考えますが
この書が中国の書である以上、中国の律令に照らし合わせねばならないと思います。
あくまでも参考ですが
『官制大観』にその律令は纏められており

(戸主条)

戸主には、皆、家長を以てなすこと。戸の内に課口があるならば課戸とするこ
と。課口がなければ不課戸とすること。{不課というのは、皇親、及び八位以
上、男年16以下、また、蔭子、耆、癈疾、篤疾、妻、妾、女、家人、奴婢を
いう}。

(三歳以下条)

男女は、3歳以下を黄とすること。16以下を小とすること。20以下を中と
すること。男は、21を丁とすること。61を老とすること。66を耆とする
こと。夫がなければ寡妻妾とすること。

・・・参考として一部抜粋・・・・・

このように事細かに書かれています。

それを基にした割り出しでしょうか?


933九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 20:38:06
八百万、は古代から数大くを表す表現の一つ。
八と言う文字には大きく広がっているという意義が。
934日本@名無史さん:2007/02/14(水) 20:38:32
>>923
>>924
とりあえず、誰か3ちゃんねるに古代史スレ立ててよ〜ん。
935日本@名無史さん:2007/02/14(水) 20:46:58
>>933

>八と言う文字には大きく広がっているという意義が。


その意義でいくと『八咫烏』はどう解釈するの?
936日本@名無史さん:2007/02/14(水) 20:57:40
『八百万』ヤオヨロズ

ヨロズ屋→解決出来ない物事だけ扱う仕事→(正常でない)仕事
937SOY:2007/02/14(水) 21:34:08
>> 914 太国

何か認識が違うような… 何か特殊な計算をしている?
私の認識では→の右側のとおり

>立太子

神武 15歳 → 15歳
綏  5歳 → ?
安寧 21歳 → 21歳
懿徳 11歳 → 16歳
孝昭  9歳 → 18歳
孝安  7歳 → 20歳
孝靈 10歳 → 26歳
孝元  6歳 → 19歳
開化  6歳 → 16歳
938日本@名無史さん:2007/02/14(水) 21:41:54
やはたがらす
939太国:2007/02/14(水) 21:59:08
>>937
安寧は一致してますねえ? 計算は倍暦です。但し開化までで、
神武即位の前年以前(←全部でないでしょうが)と綏(神武崩御
直後から)世は通常暦です。
940九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 22:19:50
>>935
「中国古代の説話で、太陽の中にいるという3本足の赤色の烏。また、太陽の異称」
という事だし、八と言うのは道教でも神の座する場所と言う意味だったと思う。つまり世界。
この場合とても大きなという意味でしょう。
太陽を意味することからも、太陽が出て明るくなり、行く手がはっきりした、
というのを奥ゆかしくこのように表現したものかも。
941太国:2007/02/14(水) 22:22:09
>>935
片手の掌を拡げた長さが咫として8倍でも、八咫烏と八咫鏡とは
大きさも違うんじゃぁないでしょうか?

日神は八咫鏡の冠をかぶってますが、烏と大きさを合わせることを
頭に浮かべれば、だいぶ大きさが違うと想います。因みに日神は
小柄な美姫です。アイス・スケートの安藤美姫さんには似てない
ようです。

それに八咫烏の神武即位直前の頃は、神話と実際の歴史との交錯帯
の時代で烏詮索は日本史スレではひかえたほうが無難と考えます。
942九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 22:30:19
>>941
は、間違いなく太国、御本人のようです。
943日本@名無史さん:2007/02/14(水) 22:42:47
>>940

>「中国古代の説話で、太陽の中にいるという3本足の赤色の烏。また、太陽の異称」
という事だし、八と言うのは道教でも神の座する場所と言う意味だったと思う。つまり世界。


3Cの頃朝鮮の渡来人が、太陽に三本足の烏を故国の旗印としていました。
(烏は太陽からの使者である)という伝説が、中国、朝鮮辺り在地化したと考えられます。
それらの人達が大宇烏脇に天津小屋根命を神明神社に祀り、その旗印を神紋と
宇脇には古くから太陽に三本足の向かい烏に波を図案化した、村の紋所があり、幕や提灯に描かれ今に
伝えられています。
朝鮮高句麗真シンハリ古墳より出土した壁画には太陽と三本足の烏が描かれている。
そして、大正天皇の即位儀式には数本の八咫烏の旗が飾られた
中国の鳳凰の足は二本なのに? 高句麗では三本に?
944九州ですが ◆uZFVMLIhZI :2007/02/14(水) 23:00:44
>>943
かなりお詳しいですが、「中国の鳳凰の足は二本なのに云々」の部分はどうでしょう。
鳳凰は、鳳と、凰の二匹で一対。不死鳥フェニックスで、八咫烏とは全く関係が無かったと思います。
945日本@名無史さん:2007/02/14(水) 23:10:19
>>944

いや〜っ 御輿に乗っている鳥が二本足なもので参考までに(あれは鳳凰でしょう)?
946太国:2007/02/14(水) 23:12:52
このごろTV、新聞報道とかで知るわけですが、金色のカエルが見つ
かったとか、金色のサンショウウオが発見されたとか、これは
突然変異だろうとかで、珍しい動物で吉祥のなんとかになるのか?
こういうニュースはたまにあったようです。
ということから、神武のころに金鵄が飛んできたとかいっても、
それは充分ありうることだと思いますね。
947日本@名無史さん:2007/02/15(木) 00:06:41
>>946太国さん
>>943で訂正する個所があったら訂正願います。 私ではあれが今の限界

よろしくです。
948九州出身
>>941
>日神は小柄な美姫です

なぜ小柄ってわかるんですか?