23 :
日本@名無史さん:
広瀬大社のある場所おかしくね?
奈良の大社は何処もおかしいよ
>>23 あんな川の合流地点に、
古代の神社つっくたのかねw
考えてほしいよなw
なんか古田武彦の香りがする
28 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 22:30:43
>>23-25 弥生以降に他地方から進出して来た神社の立地は、
主要河川沿い・川の合流点・川の分岐点・中州である。
最初の広瀬大社も川の下流方面(海の向こう)からやってきた人々による設置とみなして良い。
29 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 22:31:30
>>23-25 弥生以降に他地方から進出して来た神社の立地は、
主要河川沿い・川の合流点・川の分岐点・中州である。
最初の広瀬大社も川の下流方面(海の向こう)からやってきた人々による設置とみなして良い。
広瀬大社は川の合流点ではなく湖沼の西岸の川の流れ出し口に置かれたと思うよ。
32 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 00:41:57
>>30 奈良盆地中央部の現大和川南西部(天理の南西・橿原の北部・法隆寺の南東)にあった湖沼。
この地域は19世紀までは洪水になりやすく一面沼になる低湿地であった。
>>32 現在の広瀬大社なら、
湖沼の底だと思うけどね。
君の意見は少し考えた方がいいよ。
34 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 01:38:48
>>32 湖沼の底ではないでしょう。
低めに見積もっても湖面レベルの高さ。
古墳時代には低湿地から外れる古墳(大塚山古墳・城山古墳・他名無し古墳)のレベル。
35 :
34:2007/01/06(土) 11:22:14
間違い修正
>>33 現在の広瀬大社は湖沼の底ではなかった。
現在の広瀬大社のレベルは低めに見積もっても湖面レベル以上。
前方後円墳の時代には、現在の広瀬大社の位置は、
大塚山古墳・城山古墳・他名無し古墳のレベルで、
既に湖沼水面以下でも低湿地でもない。
しかし、現在の広瀬大社の最初の設置は、
前方後円墳の時代より遡るのか、当時なのか、
又は下るのかは今のところ不明。
殆どの神社の来歴沿革は8世紀初頭に全国的に改竄されている為。
>>34 水は低い方に流れるんじゃないの、
各川の合流点ってどうゆう意味だろね。
調べなくてもあの位置が低い事が解るよ。
廣瀬神社の鎮座地は、日本書紀に「廣瀬乃河曲(ひろせのかわはら)」、
延喜式祝詞には「廣瀬乃川合(ひろせのかわあい)」と記されています。
一説には奈良盆地には
社地は元水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地
だったそうだが・・・
さて大和盆地の川合の地に、広瀬大社が本当に立ってたでしょうか?
38 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/06(土) 11:51:22
>>36 現在の河川の合流地点と言う意味であると思う。
広瀬大社設置当時は湖沼低湿地の沿岸であったとしか考えられない。
もし当時から河川の合流地点であれば、
現在の地形の説明がつかないし、
河川反乱の真ん中の地に神社を設置したことになる。
>>38 昔も川合って書いてあるって
何読んでんだw
>>37読めよwww
太国さんアホレスご遠慮頂けませんか?
40 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/06(土) 12:13:17
>>39 8世紀初頭には既に川べりになっていたことを日本書紀に書いたものと思います。
僕は太国さんではないですよ。
「一応九州王朝説」さんも書いています。
「九州王朝はなかったのか?」スレを読めば判ると思うんですがね。
「武蔵国」「【毛野】関東に大王あり【武蔵】」スレでも判ると思います。
>>40 あのさ 証拠も無い反論なら辞めてくれないw
相手するのも疲れるからさ
別人だったの?
しかし太国さんとは良く似てますね、
馬鹿さ加減と、反応の仕方が特に似てますよwwwww
42 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2007/01/06(土) 18:03:14
>>41 太国さんと似ているのは、年齢や立場が近いからと思うのですが?
太国さんがどの様な方か全く知りません。
僕は世代のズレか?車種板ポルシェケイマンSスレでもよく叩かれています。
崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、
一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えた事が天皇に伝わり、
この地に社殿を建てまつられれる様になる(広瀬大社縁起)。
各縁起や史書の不一致は、移設の為出来たものでしょうね。
太宰府の近くに、
遺称地名と、
河川合流地、
そして由緒不明の神社があります。
こちらは大和よりも傾斜があり、
元々湖だった所じゃないようです。
かなり怪しいですね。
酷いな何もかもwww
奈良説を主張する人は、
文章読めない上に考えない人だなw
一般に水神様は貴船神社とか、
丹生川上神社とかが有名ですね、
広瀬を含め、
これらは同神や身内神と考えられます。
移設前は同じ神だった可能性が高いでしょう。
九州王朝大好きさん
君さ、他に誰からもかまって貰えないのか?
他のスレで別コテ沢山要るじゃないか、
そいつらと楽しくやってればいいのに、
もうこれ以上此処ではご遠慮願いたいね。
>>43 これだけ古い由緒に、
実際は湖の底だった訳だし、
移設元宮の由緒を詐称していることは、
直ぐ判断がつくよね。
まさか一夜で干上がるなんてねw
問題は何処から移設したかとなるけど、
その他多くの寺社同様、
九州からの移設が有力だよね。
広瀬が移設となると、
セットの龍田大社も、
移設となりますよね?
>>51 風神龍田大社も崇神の創始とあるが、
これも移設前の元宮の由緒であろう。
近所の三室山(龍田山)中腹に元宮跡がある。
風神の鎮座地としては少々風当たりが弱いようだ。
あと異常な事に、
この山には古代からの祭祀施設には付き物の、
古墳が少ないとのこと、
http://ttm.south-ac.com/02.html これは致命的である。
やはり移設も頷ける地域のようだ。
53 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 12:18:15
>崇神天皇九年(前八九年)、広瀬の河合の里長に御神たくがあり、一夜で沼地が陸地に変化し
湖沼周辺部の水害を防ぐ為、河川改修の土木工事があり、湖沼の水位を下げたことを言っているのではないの?
水路(大和川)を掘り下げ水位を下げた結果、河合と広瀬が出現し、そこに神社を設置した。
上記工事が仁徳の時ならば、広瀬大社は九州からの移転と見るのも当然であるが、
崇神の時となると、崇神の元集団は九州方面(吉備か?)から河内移動してきた集団であることが必要。
崇神9年は崇神が河内から奈良盆地に勢力を伸ばしていた時期になる。
>>53 自信満々で妄想だねw
広瀬大社の下流に大規模土木工事の跡でもあるのか?
聞いた事無いな〜
それよかこんな返事疲れるからさせないで、
お願いします畿内説の人!
55 :
53:2007/01/08(月) 13:55:19
妄想と呼ばれてもいいけれど、
畿内説ではないよ。
返事したくなければ返事はいらないよ。
大規模土木工事の必要はない。
河床を少し掘り下げ流れを良くするだけ、工事の跡は残らない。
又、工事の主は崇神の被支配側、記録に残らない。
現地勢力(神武側勢力)の工事による水位低下で低湿地の新田化を見て崇神側が攻め込んだのだろう。
>>55 あの水の仕組み解ってる?www
低い方へ流れるんだよw
>妄想と呼ばれてもいいけれど、
なら書くなよ迷惑だ!
酷い荒らしですね。
せめて予備知識は持って、ここに来て欲しいですね。
60 :
日本@名無史さん:2007/01/09(火) 11:08:04
最初は自然信仰の山・川・木・岩
続いて祖先信仰
古墳が無くてもおかしくは無い
近畿は本来信仰されていた聖地に大和王権の都合で
別の神を乗っけたと思う。
常識知らん奴は思考もお粗末だね。