邪馬台国畿内説を議論するスレ10

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883881の続き:2006/12/14(木) 18:37:55
九州南部の熊襲(狗奴国)は、出雲と同盟を結ぶために
出雲王権の畿内征服戦争に加勢することになった。
その派遣軍の司令官が神武天皇だった。

神武天皇は水軍を率いて、畿内へ上陸し、勇敢に戦ったものの
畿内王家の軍に大敗し、命からがら和歌山の裏手から上陸する羽目になる。
生き残った家来も少数だった。
しかし、神武の軍は大打撃を被ったが、
同盟者の出雲王権は遂に畿内王権を滅ぼし征服した。

そして、出雲王家は、援軍として駆けつけ大量の犠牲者を出しながらも
出雲王権の畿内征服に功績のあった熊襲の神武天皇を
畿内の領主に任命し、彼の妻として出雲王家の女性をあたえた。
そして、その後、何代かの天皇は、出雲王家から妻を迎え、
出雲王権と姻戚関係にある家臣として、畿内の狭い領主として存続した。
この時代は欠史八代というが、この時代はまだまだ出雲王家の家臣だったので
あんまり語ることが出来なかったのだろう?
884日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:42:43
>>975

堺や博多の商人たちは様々な財宝や武器を集める力はあったし、
商人が大名になった小西行長のような例はあるが、
堺や博多が王都であるかと言われれば、そうではない。

有史以前の玄界灘の商人たちも、
鉄製の武器や鏡を所有する事ができたという事も、
十分にいう事ができる。

諸国の王たちも、交易を重視すれば、当然玄界灘に倉を持ち、
役人を送り込んだだろう。
その典型的な例が邪馬台国の一大卒という事だな。
885883の続き:2006/12/14(木) 18:43:03
そして、出雲王家の家臣として畿内領主となった熊襲出身の天皇家は
自分たちの故郷を懐かしんで、和歌山の神武が通過した土地に
熊野と命名した。

しかし、そんな天皇家だったが、やがて主君の出雲王家を倒し
全国制覇に乗り出すのである。そう、出雲の国譲りだ。
その天皇こそ、初めての天皇らしい天皇だった崇神天皇だった。

ちょうど、その頃、九州では邪馬台国の卑弥呼の時代である。
886日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:44:20
>>882
海岸に近づくにつれ湿地になるからだろ?w
だだっぴろい平野のような湿地が
広がるっていたのが古代の福岡平野。

前原の中心街は海のそこで、平原は雷山の麓。

そんなところに邪馬台国なんて在るわけねーしw
887883の続き:2006/12/14(木) 18:46:34
そして、西暦4世紀の初頭、12代目の景行天皇の時
彼の息子の小碓命の活躍で、日本の大半を支配下におさめる。
この戦争で、強敵・熊襲との戦いは有名。
小碓命は、熊襲の勇者・熊襲タケルを倒すが
その暁に彼から名をもらい、ヤマトタケルを名乗るのだ。

これって、要するに、天皇家の出自は熊襲ですよって告白しているようなものw
888サガミハラハラ:2006/12/14(木) 18:50:46
紀州に熊野という地名ができたのは、崇神天皇の時代です。出雲振根の事件に連座させられた出雲熊野神社の近くの豪族が紀州に配流され、炭焼きに身をおとしたが、そのとき故郷の熊野神社の分霊を持参しまつってから、その地を熊野と呼ぶようになったのです。
889日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:51:59
んじゃ、熊本は?
890日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:53:49
妄想炸裂だな眼がチカチカするよwww
891日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:59:52
>>889
熊のような毛人って意味だろ? 原人色の強い地域だろ?w
892日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:01:17
いやはや
893日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:09:41
妄想アンポンがやけに多いなwww
894日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:11:30
妄想に批判を加える俺もバカだが…(苦笑)

>>885>>887
 >そう、出雲の国譲りだ。

それでは、神武の後に神代がきてしまうじゃないか!

 >ちょうど、その頃、九州では邪馬台国の卑弥呼の時代である。

卑弥呼が出てくるのはそんだけ?
狗奴国と不和だった、という倭人伝の記事はどうでもいいわけか。台与のことも。
895日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:25:28
>>894
神代の話は神代なわけでw
あれは、前とか後とか関係が無いんじゃ?

要するに、卑弥呼と崇神天皇は同時代の人物。
卑弥呼は北九州、崇神天皇は畿内にいた。
896日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:39:46
>>882
どっかの本で得た受け売り知識で偉そうな口叩くなよ!馬鹿は馬鹿なりに謙虚がお似合いだ
897日本@名無史さん:2006/12/14(木) 19:41:27
>>895 >卑弥呼は北九州、崇神天皇は畿内にいた。

二人は相知らぬ仲か。
898日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:09:59
>>881
熊野の地名の由来は知らん。
「隈(くま・ひきこもる)野(の・未開の地)」という説もあるし、
出雲に熊野神社があって和歌山に分祀したというが、
実は、出雲の熊野は、出雲の勢力下にあった和歌山の熊野方面から
木材を運んでいたのが由来かもしれんし...
それを崇神が分祀して戻したのかもしれない、出雲征服のあかつきに。
また、九州南部の熊襲が由来という説もある。
神武天皇の故郷だし、後に神武天皇の故郷(熊襲)は日向一国から
日向・薩摩・大隈の三カ国にわけて
大隈は、「大(おお)隅(すみ・くま)」の隈は、
熊野とか熊襲と同一的な意味かもしれんし...

まあ、いろいろ説がある。
899日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:11:16
>>897
崇神って、結局、北九州を制圧したか?

900日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:33:00
時代的にあり得ないと思う
901日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:34:53
>>900
何が?
902日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:34:47
崇神天皇では、まだまだ出雲・吉備くらいまでじゃ
なかったのか?
北九州は完全には征服してないように思う。

記紀で注目されるのは、日本書紀の場合は
神武天皇以降(人間の世界)と、
それより前(神代の世界)では明確に話を分けているところ。
天孫降臨〜神武まで、数百万年という天文学的な時間を設定している。
これって、要するに、神話の時代と神武天皇は実質的に
何の関係もありません(事実ではありません)って宣言しているようなもの。

ただ、その神話世界の話って、その後の正史(人間界の話)での
天皇家を正当化するような話が出てくる。
畿内の出雲王家の入り婿に入って
最終的に畿内も出雲も乗っ取った天皇家を正当化するって感じでね。
また、神武天皇の出自である日向の神話と
神武天皇が入り婿に入った先の出雲の神話を重要視している感じだ。
それを統合するのが高天原神話って感じかな?
903九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 21:46:19
>>853「伊都や奴国を押さえ込むことのできる程の勢力 」

が、あったというより、卑弥呼は「鬼道によって衆を良く惑わす」と倭人伝にあるように、
{鬼道とは、初期道教の黄巾とされる}それによって人々の心をつかむのが上手く、
何らかの今でいうカリスマ性があった為、30カ国の王も容認したと思われる。
つまり、武力ではなく、宗教の力でクニをまとめていたといってよい。

904九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 22:03:11
>>850
この人の洞察は凄いと思う。ただ、魏王に対し、臣下の礼を拒むことが出来たかは解らないが。
後の遣隋使でさえ煬帝に、倭国を独立した国とは認めてもらえなかったようであるし。
理由としては律法がなかったというのが、最たる理由のようであるが。
又、卑弥呼が人に会わなくなったのは女王になってからであり、
黄巾の教えに基づくものである、といわれている。
905日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:13:55
>>889
熊本は加藤清正が名づけた。それまでは隈本といっていた。
906日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:24:29
>>894
記紀のエピソードの順序は当てにならないと思う。
30で童貞失った奴が、18とか嘘言ったりもするんだから。
だからバイ暦も嫌いなんだよ。
907恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:29:07
>>833
>>>828に対するレスは極めて見苦しいぞ!まるで餓鬼だ。

見苦しいのは名無しの分際でデマを流す行為!
おまけにデマを擁護する「馬鹿」ほど見苦しいものはない。
908恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:32:47
>>834
>そこで急に邪馬台国だけ、現在の県クラスの規模に置き換えるのは恣意的すぎ。

俺の最近の考えなんだけどな・・・
邪馬台国のメイン都市は宮崎市、西都市を考えてるが、宮崎県より大きいくらい
の領土を邪馬台国本土は所有してたんじゃないかね。

まあ俺の考えは、常に変化はしてることは認めてるぜ。
909日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:36:21
>>895
当時、魏に使いを送っていた国は30カ国。
つまり、狗奴国も魏と交流を持っていたらしい。
崇神天皇は魏と交流していなかった?
それとも、魏からは全く無視される存在だった?
九州の30カ国近い大連合の長である卑弥呼とも交流はなかった?

やはり、卑弥呼と大和政権が並存するという考えは無理がある。
910恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:40:05
>>848
>そのほか伊声耆を含め7人も印をもらっているだろう。

そんなに貰ってるのかい?
魏志倭人伝を読んでも、卑弥呼以外に貰ってるという記述はないのだけど・・・・
911九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 22:41:39
畿内説の、古墳の年代をごっちゃにするやり方はもう、うんざりするほど聞かされた。
宮崎の古墳に時代の食い違いがあるなら、証論をもって示すべき。
それが出来ないならただの中傷に過ぎない。
912日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:42:44
>>910
おいおい、大丈夫かよ・・・
913日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:44:02
>>903
鬼道と言うのは、「怪しげな術」という意味。
つまり、中国人から見て、わからないものということだろうと思う。
道教に近いものなら、そのように書くと思うが。
914日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:53:17
>>910
卑弥呼と難升米、牛利は印をもらったと書かれている。これで3個。
そのほか、正始四年に伊声耆・掖邪狗ら八人を派遣し、掖邪狗等は
等しく率善中郎将の印を授かったとある。
ここで多分、八個。合計11個だと思う。
915恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 22:53:44
>>853
>つまりは遺跡が九州に存在しないことの方が重要だろう。

「存在しないことの方が重要」なんて詐欺師の言い分。
ないことを証明するのは悪魔の証明というけど、人間にはなかなか出来ない作業。

あなたは悪魔ほどの知恵があるとは思えないから「詐欺師」というべきだろうね。
916日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:54:28
>>908
>まあ俺の考えは、常に変化はしてることは認めてるぜ。

いや、変化するのはいいじゃん。別に邪馬台国のありかは人生のスジではないのだから。

ただ
>してたんじゃないかね。
などという語尾を用いられると、「え?」ってなっちゃうじゃん。
これって頭から邪馬台国=宮崎って決め付けたいいかたになってる。
ここは、せめて
>してたと考えたい。
とか
>してたと考えれば説明がつかないこともない
とか言ってほしい。
そうでないと、やはりムッとなる人いると思うよ。
917日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:57:26
>>909
>やはり、卑弥呼と大和政権が並存するという考えは無理がある。

全く無理は無い。
魏略には、邪馬台国の東にも違う倭種の国が永遠と広がっている
みたいな記述がある。
中国にとっての最初の日本は、あくまでも
九州の国々だろう?
918恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 23:00:03
>>864
>銅鏡を何十枚と独占できるような王の墓は、筑後や肥前・肥後には無く

平原遺跡じゃ、何十枚と出なかったかい?

ーーーーー(引用開始)−−−−−
方格規矩鏡       32面
http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/tusin/honbun/tusin1.html
919日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:00:25
>>917
そだね。親魏じゃない国は十把ひとからげでほぼ無視状態ってのは
スジが通る。
920日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:03:15
>>917
ただ
>中国にとっての最初の日本は、あくまでも九州の国々だろう?
ではなく
>中国にとっての最初の日本は、あくまでも 邪馬台国だろう?
だろう。どさくさにまぎれて、邪馬台国が九州になってるなw
921九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 23:07:45
>>913 違います。惑わす、という文言からそういう印象を受けるのだろうが、
ここで言う「衆をよく惑わす」とは、「民衆をよくまとめ導いた」の意味。
黄巾の影響は吉野ヶ里などでも見られ、墳丘墓の入り口がが真っ直ぐ東南の
方向に向けられている事も黄巾の影響とされる。
卑弥呼が女王になった後、民衆に姿を見せなくなったのも黄巾の影響といわれている。
大陸では黄巾の乱が頻発しており、倭人も大陸で活躍していた、
逆に、難民として、倭国に渡来したものもいたであろう。
又、実際に、「鬼道とは黄巾なり」と記した中国古代の文献がある。
全く同じのもというより、シャーマニズムを取り入れていたとは思う。
922日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:20:32
>>919
しかし、卑弥呼の時代に畿内に大和政権があったとすれば、大和政権は
いつから始まったのだろう。その本拠地らしき痕跡が大和にあるのだろうか?

もし、纏向遺跡だ言うのなら、纏向遺跡がいつから始まったかという議論にも
なる。畿内説同士でも意見が分かれるのではないだろうか。
923日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:22:04
おまえら、記紀を読め。
おまえら、本当に洗脳されまくっているな。

924恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/14(木) 23:25:08
>>880
>何も無いだだっ広いゴビ砂漠よりはまし

世の中は常に変わってるんだよ。
ゴビ砂漠も大昔は、鬱蒼とした密林で恐竜もいたし、旧石器、新石器、青銅器の遺跡も
あるんだけどね。
諸行無常って知らないのかい?

ーーーーー(引用開始)−−−−−
この遠征隊はゴビ砂漠で化石化した恐竜の卵を発見した。このほか考古学的発見としては、
旧石器時代、新石器時代、青銅器時代の遺物などがある。
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/dairy/encart/gobisabaku.htm
925太国:2006/12/14(木) 23:27:58
>>909
交流がなかったは、まぁどっちもそのとおりだろう。
卑弥呼は大和朝廷と並存していたのが正解。つまり九州は女王国、朝廷は
畿内にだ。畿内に女王国などあるわけがない。天皇の近所に住んでいるくらい
で倭人伝に載るくらい大なる女王国ならば、記紀に倭人伝以上に卑弥呼ら
の詳細が記述されて然るべきだ。だがほとんどそれがないのは、知れたことよ、
天皇の近所には卑弥呼は住んでいなかったということを意味している。
つまり卑弥呼は天皇と関わりにくい、遠い九州に住んでいたのだ。

卑弥呼が神武のころだとか神武以前の者だというのは、時系列を滅茶苦茶に
した暴論だ。神武以前としたいのは、卑弥呼とアマテラスをべったりくっつけ
たい、はったはれたのwエッチな論理で間違いだ。こういうレスビアン好きの
説に惑わされてはならない。www
926日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:28:19
>>922
畿内の政権は結構、交代が激しかった気がするな。
少なくとも現皇室が来たのはすごく新しい時代だと思う。
そうでなければ、古墳を秘匿する意味が分からない。
巻向だって出てきた何を隠したか分かったもんじゃない。
927九州ですが ◆cdEg7T5ias :2006/12/14(木) 23:35:44
>>925
おっ、太国さんも来た。太国節も健在だ。そしてこの説にも大賛成だ。
928日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:44:43
安本氏が、天照大神=卑弥呼にするために
平均在位説をぶちまけたけど、
神話学の観点から、天照大神を実在の人物に無理に
当てはめようとして見苦しいらしい。

そもそも、安本氏は崇神天皇を4世紀半ばの人物にしようとしているがw
どう考えても無理だw 代数からいって、ぎゅうぎゅうって感じw

929日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:48:20
>>925
そして邪馬台国は大和朝廷に武力で滅ぼされたか、吸収されたんだな。
だから九州ってえのかしらw
930恵也 ◆o4NEPA8feA :2006/12/15(金) 00:09:57
>>911
>宮崎の古墳に時代の食い違いがあるなら、証論をもって示すべき。

宮崎の古墳にはずいぶん古い古墳がある。
時期的には畿内より古いのが多数あるんじゃないかね。
発掘してない古墳が90%くらいあるというしな!

ーーーーー(引用開始)−−−−−
宮崎大学グループは遺物の発掘状況も加味し、81号墳は卑弥呼の墓とされる奈良県の
箸墓古墳より古い3世紀前半の古墳とみている。
http://www.pmiyazaki.com/saitobaru_81/pano.htm

同時代に全く様式の異なる形式の古墳が同じ場所に作られている珍しい場所。
http://www.gurunet-miyazaki.com/kankouti/saitobarumain/kofun/kofunsaito.htm
931日本@名無史さん:2006/12/15(金) 00:17:36
>>930
それ、まだ前方後円墳とは確定していない。
ただ、同時代の北九州にはそういうものは見つかっていない。
宮崎だというのが味噌。
932日本@名無史さん
>>929
古代も戦国時代も、九州は近畿に負けっぱなしだから、
いろいろ恨みつらみがあるんでござしょー。