皇国史観に基づいた正しい古代史

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460日本@名無史さん:2009/10/05(月) 21:44:44
どの辺が皇国史観?
461天之御名無主:2009/10/13(火) 03:04:13
 456ですが
ということは
雨の日は濡れながら外で排便していたということですか?
462日本@名無史さん:2009/12/27(日) 12:46:04
正しいことは正しいが、正しくないことは正しくない
463日本@名無史さん:2010/01/17(日) 23:15:17
上にいきます。
464サガミハラハラ:2010/01/27(水) 11:27:02
イザナギノ命には三貴子という天照大神と月読命とスサノヲノ命がいた。
このうちの月読命についてはほとんど記録がない。古事記に、大気津比売神を、スサノヲノ命が殺したとある。書紀に、月読命が保食神を殺したとある。
話の内容から、この話は同じで殺した人の名がちがっていることがわかる。
書紀の一書にはスサノヲノ命はタカマガハラに田をもっていたとある。
ところが、スサノヲノ命はイザナギノ命に海原(天下をおさめるようにいわれたが、泣き暮らしていたという。
となると、タカマガハラにスサノヲの田があったり、乱暴狼藉をおこなったというのはおかしいことになる。
これは、月読命とスサノヲノ命が入れ替わってつたえられたことによるものでないだろうか。
乱暴狼藉をした月読命を、スサノヲノ命の行為として誤伝されたのである。
その理由は、日本では古来臭いものに蓋で、悪いことは伏せるという習性がある。
特に名を秘すとか、口にだして言えない、とか噂のときに「あそこの奥さん」とかいい、実名を伏せたりする。
月読の場合も語られる時は、「天照大神の弟さん」という形で本名をふせたものとおもわれる。
真相が知られているうちはよいが、世代がかわるうちに、天照大神の弟さんがスサノヲノだけのこととみるようになってきた。
その結果、天照大神の弟さんがやったことは全てスサノヲノ命の行為とされるようになったのである。
一方では、正しい伝承もあったのでありそれが書紀の一書の記録である。
となると、天照大神とスサノヲの誓約も考え直す必要がでてくる。
そもそもこの誓約事件は内容がおかしい。潔白を証明する必要があるのはスサノヲノ命だけでいいのに、なぜか天照大神までが
潔白を証明するようになっている。挨拶がすんだらさっさと黄泉国に旅だてばいいのに、それまでの泣き顔はどこえやら、
かちほこって乱暴狼藉を行っている。
スサノヲノ命が挨拶にきたのは本当であろうが、安川をはさんでの誓約はアマテラスと月読みの対決ではなかったろうか。

原因は今さぐっているところであるが、ひとつには保食神を殺害したこととも考えられる。
そのとき天照は非常に怒ったとある。(以後昼と夜にわかれてすんだという。)
しかしもっと調べるひつようがあろう。
465日本@名無史さん:2010/01/27(水) 20:23:53
>>464 サガミハラハラ

センセイ「ハイヌウェレ型神話」って知ってるかい?wwwwwwwwwwwww


466日本@名無史さん:2010/01/27(水) 21:16:51
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら朝鮮煙幕を炊き付け、それを自ら叩いて
自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
467サガミハラハラ:2010/01/27(水) 22:27:14
>>465 知りませ〜ん。それがどうしたのでしょうか。
468日本@名無史さん:2010/01/28(木) 17:34:58
>>467 サガミハラハラ

知らないのか、知っていてすっとぼけているかは知らんがw
本当に知らないと言うのなら
この「保食神殺し」の食物起源の神話を取り扱うのにいくらなんでも無茶すぎるってレベルでw

要はこの話は食物起源の神話としてそれ自体で完結している。
(日本書紀にはキャスティングを変えて異伝を幾つか伝えているが…)

他のエピソードと絡めて新たなお話を作るのにはチト無理があろうと言う話しwwwwwwww
469サガミハラハラ:2010/01/29(金) 15:07:43
歴史をまなんでいて、大きな勘違いをしていたことがあります。
それは、鳥取県米子や境港が島根県だと思っていたことです。
地勢でみると、境港のある弓ヶ浜や米子は島根県(出雲)にはいっていてもおかしくはない、いやそのほうが自然だからである。
出雲はかつて三つにわかれていて、それを統一したのが大国主命である。
西から木の国、古志の国、黄泉の国である。
大国主命は西から征服を開始し、東の黄泉の国をも征服して長江山にて宣言をしたのである。
ところで、先にあげた弓の浜(夜見の浜)も米子ももともと黄泉の国の一部をなしていたようである。
事実弓の浜は夜見の浜であったのであるから。では、この地域が出雲に入らなかった、つまり、大国主命がこの地域を征服しなかった理由は
なんであろうか。
ここで出雲神話に登場するもうひとりの人物がいる。
それはスサノヲノ命である。彼は高天原系の人物で、父から海原(天の下)を治めるようにいわれたのに、
しんだ母が恋しいと毎日泣き暮らしていたという。そして、母のいる黄泉の国にたびたったのである。
そして黄泉の国についたのであるが、黄泉の国の王様になったわけではない。黄泉の国には黄泉の大神がいたからである。
しかし粗略にはあつかわれなかったようで、黄泉の国の一部をあてがわれた様である。
それが根の堅洲国である。つまり読んで字のごとく、洲つまり新しく水辺にできた地である。
それが弓ヶ浜やその根元の米子なのである。
やがて時が移り、スサノヲノ命にはおおくの子がうまれたのであるが、その中のスセリヒメが大国主命と駆け落ちをしてしまったのである。
やがてまた時は移り、大国主命が出雲統一をはかり、東の古志国や黄泉の国を征服したときに、ここ根の堅洲国についてははたと困った。
前述したようにここは大国主の義父の土地(義父がまだ生存中なのか不明であるが、つまの兄弟がおさめていたであろう)なのである。
そこで征服するのを遠慮したのである。
それが、この地域が出雲にはいっていない理由なのである。
470サガミハラハラ:2010/01/30(土) 10:48:13
さて、スサノヲが出雲に移住しても、葦原の中つ国(福岡湾周辺那珂川沿い等)はスサノヲの領分であった。
その死後スサノヲの支配地は子供たちに相続されることとなった。根の堅洲は息子達が相続し、葦原中国は娘のスセリヒメが
相続することとなった。
スセリヒメの夫は大国主命である。夫婦は一心同体、妻のものは夫のもの、というわけでもあるまいが、
葦原のなかくには大国主命が統治することとなった。
やがて年がうつり、天照大神は次のように述べた。
「葦原中国は高天原のものである。ここは私の子の天忍穂耳におさめさせる。よって返却するように」
と出雲の大国主のもとに使者をおくったのである。
これが日本の運命を左右した国譲りのきっかけである。
大国主命がスセリヒメと結ばれなければ、日本の歴史は大きくちがっていたものであろう。
471太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/30(土) 22:22:38
サガミハラハラさん
あなたの言う日向風土記のA.D.41年の日食とやらの原文を必要個所
書きこんで下さいよ。どんなんですか?
472サガミハラハラ:2010/01/30(土) 23:21:46
日向の国の風土記に曰く、臼杵の郡の内、知ホの郷。天津彦々火ニニ杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を
排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、
物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大クハ・小クハと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手
以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大クハ等の奏ししが如、
千穂の稲をテモみて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。
後の人、改めて智ホと号く。

とあります。パソコンで出ない字はカタカナでうちました。
473日本@名無史さん:2010/01/30(土) 23:40:51
しかしこのサガミハラハラという人物の思考回路はどうなっているのだ。
神話を歴史とみていて、神話の非現実性を取り除き、史実としてなりたたせている。
474太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 11:37:58
>>472 サガミハラハラさん 感謝。
この文を拝見して思うことは、日食の可能性はあると言えるが、断定は
できないな。近くに阿蘇山もあるし、噴煙がものすごけりゃぁ、そういう
んで暗くなったとか分厚い曇天続きで真っ暗に見えていたのかが定かで
ない。しかし唐松山の神功初年の記載と違い、数日間続いたとかで
ないから、ありうる可能性に期待してこれで年代を強引に確定するのでは
なく、他の面から編年して、その結果が正確性が相当あると認識できて、
ここで日向風土記のこの文とを照合して可否を決めるべきでしょう。

これが日食と決めこんで、この先行により編年してこれが正解の年代だと
断定したりするのは唐松山の軽率手法と同類で、これでは失敗に至り易い。

また何でA.D.41年なのかの事由が客観的に不明であるので、どうしてなのか
をご説明願いたい。
475太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 11:48:53
>>473
唐松山のほうに強力に言ってやって下さい。
476サガミハラハラ:2010/01/31(日) 21:11:46
私は、AD57年の金印授受は、委奴国が倭国を統一したことから可能であったとかんがrます。
よって、倭国統一はAD57年に近い年代であるとみました。
ところで、出雲国譲りであるが、私は史実であるとかんがえます。記紀において倭国が統一されたような話題は(神武以前)これのみだからです
国譲りにおいて、当初は葦原中国(福岡湾周辺)だけであったのが、武力行使により出雲大国主からかれの支配地を全て入手することに成功しました。
その結果、葦原中国のみならず、新支配地全部に新支配者を派遣しておさめることになりました。
葦原中国にはニニギノ命、奈良にはニギハヤヒノ命、出雲にはアマのホヒノ命、伽耶には首露王ら6人、そして宮崎にもおくられました。
この中で年代のはっきりしている人がいます。それは伽耶の首露王です。
三国遺事にAD42年のことと明記されております。となると、天孫降臨はそのあたりとみることができます。
しかし、これだけでは薄弱だったのですが、日向国風土記に降臨伝承の時に日食があったらしいことがわかり、
この日食がAD42年に近ければ、天孫降臨がそのあたりと断定することができるのではとかんがえました。
それで調べてみましたところAD41年に種子島を通過する日食があり、宮崎では97%はかけた日食があったことがわかりました。
この2か所の年代からわたしは、天孫降臨の年代がAD40年であるとみたわけです。
477太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 21:59:17
いささか分かって来ましたが、史実に天孫降臨を入れるのは、この四字が
何を意味するのかを特定しなければなりません。それがハッキリしたの
なら、しかも現実的になるほどという意味に解されたなら、そういう論の
方向に持って行くことが可能でありましょうが、これは時期尚早では
ありませんか? それがしも天孫降臨とは現実的に何のことなのか、
具体的説明は十分にはできませんよ。
478サガミハラハラ:2010/01/31(日) 23:42:46
天孫降臨の字句はかなり後世の作出であるとみています。飛鳥時代ではないでしょうか。
事実は天神の一斉降臨であったとみます。その中で、現天皇家につながるニニギノ命が孫であったから天孫降臨となづけられたのです。
479唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/01/31(日) 23:54:31
>>472
その辺の話は、暦で民を治める話です。
暦が無くて、天(太陽)の動きが解らない民に、農事暦と共に種貸しをする。
暦が無くては天(あめ)に暗い(太陽を読めない)。
480日本@名無史さん:2010/02/01(月) 14:10:21
正確な暦がなくとも農作業は行えますよ。
481太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/01(月) 14:25:44
唐松山は出来ることを、抽象的説明で出来ないに鞍替えする妄想男。

ロクスッポ調べないで、当否を調べて言うのではなく、自説に不利な内容
は出来るものでも出来ないに置き換える常習男。ww 出来ない事由は
1行の文にも足りずに言い訳して出来ないを糊塗するいい加減な野郎だ。w
482日本@名無史さん:2010/02/10(水) 00:06:34
中国から直接日本に伝来した事にされているRM1-b遺伝子の稲の
調査が日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の朝鮮の炭化米で
なされていない。

かつては朝鮮半島にもRM1-b遺伝子の稲は存在したが朝鮮半島の自然環境に
適応できず遺伝子が消滅欠損してしまった可能性が十分に考えられる。

佐藤洋一郎容疑者はただちに日本に水田稲作が伝わったBC10Cより前の
朝鮮の炭化米でRM1-b遺伝子の有無を調査し、その結果を国民に公表せよ。

考古学界を混乱させた貴方にはその責任がある。

それをしない内はペテン、詐欺と言われてもしかたがない。
http://www.athome-academy.jp/archive/images/0000000116_discussion_004.gif
483日本@名無史さん:2010/02/10(水) 02:06:14
妄想と推論の違い。

妄想→「だ」「である」
推論→「と考えられる」「の可能性が…」

少し謙虚になれな、みんな。
484日本@名無史さん:2010/02/11(木) 20:50:45
■■■悪の王者『台湾人工作部隊』の卑怯で卑劣で悪辣な工作の手口■■■


@まず日本人のふりをしながら組織で劇団型工作で朝鮮煙幕を炊き付け、
それを自ら叩いて自家発電でもって正義の味方を装う。
(朝鮮人を叩く正義のおじちゃんだ!と、この時点でバカ落ちる)

Aバカがダマサれ切ったのを見計らって、何十年もかけて作り上げてきた
それはそれは高度な誘導用の捏造創作を使って勝手に自分たちの祖先、
長江江南人が渡来したと狂言しまくる。
(バカ、ダマサれ信じ込む)

Bバレかけたら、邪魔な日本人に対して朝鮮人呼ばわりをする卑劣な狂言を
働く事で防衛し、再び@に戻って、A、@、A、@・・・と無限に繰り返す。

Cハイ、直接的関係など何も無い台湾人祖先「江南土人」が日本人の祖先になりました。
485日本@名無史さん:2010/03/12(金) 12:55:52
愛国
486サガミハラハラ:2010/04/04(日) 12:45:58
日本書紀に記されている太歳について。
講談社学術文庫には次のような説明がある。
 木星の異名、木星は十二年の周期で巡航することから、十二支とむすびつけて太歳干支を記すことがおこなわれた、
古代中国の暦法から生じ、百済本紀にもちいられていた。
 しかしほかに、次のようにもかんがえられる。
 太は太郎次郎三郎の太、すなわち本家とか嫡流とかの、中心という意味をもつ。
すなわち、天皇は国の中心であるから、天皇にかんしての年代については、太という字をつけたのである。
 もうひとつは、
 古代においては、複数の暦法がつかわれていた、中国の万国共通の暦、そして倍暦である。
倍暦とは1年2倍年暦(1年2歳暦や春秋暦ともいう)とか3倍暦とか4倍暦とかいう歴訪であり、2倍年暦には
表と裏の2種あることがしられている。
 かような日本独特の暦に対し、本来の暦であるとして太の字をつけたとみられる。
以上3つあるが、最初のはなりたたないであろう。
 したの2つの考えの内どれであろうか。
487太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/08(木) 17:51:45
>最初のはなりたたない
どれが成り立たないらしいんですか? 複数の暦法は全地域ではないで
しょうが、使われてた可能性はあることは確かです。古代マヤでも複数
での並行暦法でして、古代日本も通常暦法に並行して複数暦の行使は
堅いようですし、妄想の唐松山も古代日本が二重暦だという珍語を出し始
めて肯定しているようです。
488サガミハラハラ:2010/04/10(土) 22:04:14
最初とは、木星の異名云々です。
489太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/04/10(土) 22:44:30
あぁ、そうですか。
490日本@名無史さん:2010/04/16(金) 13:59:27
大和朝廷って朝鮮からの渡来人が多くいて朝鮮からの入植地みたいだったのではないのか?
朝鮮の一国を経営してた。なんであんな関係が深いんだ。
遣唐使なんて命がけの航海だったというし、なぜ海を渡ってまで行くか?

もともとアイヌ人が原住民で北方へ追いやられた。アイヌや沖縄は南方系の人の顔立ち。
蝦夷のアテルイはアイヌか?民族が違うのが顔立ちだけで判断できたか?
いろいろ想像はふくらむ。
491サガミハラハラ:2010/04/20(火) 20:59:46
倭の五王に何故履中ははいっていないのか・
倭の五王は讃が仁徳、珍が反正、済が允恭、興が安康、武が雄略とほぼかたまっているが、
履中がいない。その理由は、従来は、治世が短く貢献する間もないまま没してしまった。
記録にないだけである、とかあるが、ここで私見をのべてみたい。
宋にばかり関心がむいているが、中国は当時南北朝の時代であり、北部には北魏という国があった。
そうなると、天皇によっては、南朝ばかりではなく北朝の北魏に貢献した天皇もいたとかんがえられる。
となると、履中は北魏に貢献したのだとみていいであろう。
履中の他に北魏に貢献したとみられる天皇は、応神天皇、雄略天皇の初期であろう。
492天皇陵を掘った男:2010/04/22(木) 22:33:13
私は天皇陵を掘ったのかもしれない。
場所は奈良県御所市玉手山である。
宮内庁が孝安陵とする場所の約300m南の尾根である。

次のブログのタイトル写真でNo2とする場所である。
http://yamatai.sblo.jp/category/790493-1.html

ここから古墳時代初め頃まで遡るであろう土器片を発掘した。
493天之御名無主:2010/04/23(金) 13:04:42
>>492
卑弥呼に夫はいた・・・?
確かに魏の使者が来たときには死んでいた可能性もあるが、
夫がいたのなら邪馬台国の役人が説明しないか?

卑弥呼が天足彦の夫なら、トヨは?
494天之御名無主:2010/04/23(金) 13:37:56
495日本@名無史さん:2010/05/12(水) 20:05:58
ふと思ったんだが。

九州北部の狭い地域で細々と数百年ばかり続いていた「早期弥生」稲作文化から、
西日本の広い範囲へと稲作が拡大して弥生時代前期に移行したのが二千六百年余り前。
って、この時代は、いわゆる神武東征神話の時期に近接してるよな。

ひょっとして神武東征神話の本来のモチーフって、これだったんじゃないか?

東征の前に居た「日向」というのは、後の日向国じゃなく、九州のどこかの地域、って程度の話だったのでは?
496唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/14(金) 21:13:57
西暦42年 神武即位
ホ30036 ヲヲモノヌシは アワウミの ヲヲクニミヤを つくりかえ コシネのクニも
サホコみな タミをおさめて しつかなり いまアマキミの クラヒなる
コシネ=北陸、サホコ=出雲
神武の即位した時を同じく、大物主は近江に入る。この時代の大王は大物主。
崇神5年 ホ33047 ヰトシゑやみす ナカバかる ムトシタミちる
ホ33051 フタミヤを さらにつくらせ ムトセアキ ヲヲクニタマノ カミうつし 
ナツキソムカヨ アスのヨハ アマテルカミの ミヤうつし
ホ33120 このミキは わがミキならず ヤマトなる ヲホモノヌシの カミのミキ
神武東征時、大和に入った神武の後を追って大物主も合流。大物主は、ウマシマジの元上司である。
大物主の下に入ることを嫌った神武は、単独で橿原に移る。大物主は、ウマシマジの飛鳥から
近江に移り、そこに移り祀りを執る。
近江伊瀬遺跡の衰退は2世紀末で、時を同じくして纒向遺跡の興隆。
纒向石塚古墳の築造は、周濠から出た檜板が177年、プラスアルファが18年。
つまり177年から195年が目安となる。
 もしこれが、崇神紀の箸墓と同時期なら、新羅192年=崇神5年と見れば、
崇神12年=192+7=199年。プラスアルファをさらに5年上乗せすれば合う。

497唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/05/15(土) 20:48:09
魏は、初め倭国の王として、女王卑弥呼を承認した。
しかし魏は女王卑弥呼の軍事的実力を無能と判断する。
そこで魏は景初3年の朝貢の帰途に使いを同伴させる。そして大和へ着くが、そこの王
伊支馬=イクメ=垂仁の崩御を知る。
 魏使は、景行に大倭国統一をうながす、その為の後方支援として、政治手法(屯倉の導入)から軍の編成
軍備までを伝授することを約束する。
景行は奴国王と語らい、魏の要請を受け入れる。
倭女王卑弥呼と難升(斗)米=難(奴)戸畔=ナトベはセット。
倭王←タリヒコ =景行と伊聲耆掖邪狗=伊勢のベテランイワカ=磐鹿六雁はセットになる。

難升(斗)米と伊聲耆掖邪狗が魏から同じ位を叙勲されたことが、別の王朝であることを表す。
伊聲耆掖邪狗の叙勲は、景行が応諾したしるしであり、これ以降倭王と表記される。

大倭国統一は日本武尊の関東平定で終止符を打つ。

この時の軍事力はその後も継続し、神功渡海、百済に領土を割譲と続く。
498日本@名無史さん:2010/05/16(日) 11:59:52
最近、日本海海戦は英国武官の指導化で行われたという説を出しているやつがいるが、
何となく、それを思い出した。
499日本@名無史さん:2010/05/16(日) 12:39:34
新鋭艦の供与(といっても商取引の規制を解除する便宜だけだが)と、
ロシアの同盟国がロシアに協力するのを阻止したことと、
日本優勢の報道キャンペーンでロシア劣勢を世界にアピールした(一部は印象操作もある)のと、
講和を斡旋して日本に優位な講和になるようにしたことぐらいで、
武官の派遣ってのは戦術や戦略の指導じゃなくて戦況の監察・記録だけだよな?

戦術面、軍事技術面で世界中の注目が集まっていたとかいう話だから、
同盟国という利を活用して特等席で観察する機会は逃さなかったって事だろ?
500日本@名無史さん:2010/05/21(金) 11:53:51
>>495
俺もその考えをしたよ。
新聞に「稲作のルート判明!?」みたいな記事が載ってからね。
 時代的・道のり的には大体あってるから
「やべぇ俺歴史的な大発見しちゃった??」とか思ってたな。
今思えば米のイケメソ武将化だったんだね。
501サガミハラハラ:2010/08/27(金) 16:37:30
上にいきまーす。
502日本@名無史さん:2010/09/04(土) 06:40:07
>>495
神武天皇は南九州から来たんだよ。
北九州から来たのではない。
503日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:09:10
>502
名称を見る限り、神武天皇はイワレ地域出身、
つまりヤマト(当時の中心地域だった大倭の付近)には、西ではなく北から侵入したと考えられそうだ。

後の時代に、外来者という点以外の部分が変更されて「西から来た」に変わったんじゃないの。
504日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:22:42
>>503
そういうふうに解釈したら、なんでもありだな。
いくらでも、新しい説を作り上げられる。

記紀伝承にかぎらず、神社の分布でも
ワカミケヌは日向出身で、神武東征戦争では
大阪湾から上陸戦をこころみるも、大敗し、
命からがら、和歌山方面から上陸し、
運よく、ナガスネヒコを倒したことになっている。

で、このワカミケヌ(神武天皇)の奇跡的な勝利をもたらしたのは、
彼を近畿に煽動した現地の豪族たちの存在が確認できる。
そして、その多くが、ワカミケヌ(神武天皇)の親戚だったことが確認でき
また、ワカミケヌ(神武天皇)が、自分の出自は、
この地域(近畿南部)の出身だと告白している。
505日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:22:47
>>503
それだとハヤトとの対決は冷酷非道で良いんだがな朝廷側の記述に
何か勇ましい記録でもあるのか?
506504:2010/09/04(土) 15:28:58
また、現在の奈良県御所市高天、このあたり一帯は葛城といわれた地域だが
この高天こそ、高天の原の伝承とされている。
ニニギは、この地(御所市)から、九州南部の高千穂に
降臨したことになっている。(高天彦神社の伝承によると)

つまり、近畿王権(首都は高天原=葛城周辺)が出雲を倒した後
ニニギという王族が、この地から、九州南部に派遣される。
そこで、ニニギ一族は3代知事をまかされ、
その後、ニニギの曾孫のワカミケヌ(神武天皇)の代に
再び近畿に移り住んだことになっている。
507日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:31:29
やっぱ、文字だけで記しても、みんな、
あんまり、のみこみがよくないなw
図だとか、系図だとか、参考文献とか分りやすく記さないとな。
508日本@名無史さん:2010/09/04(土) 15:34:57
おそらく、天皇家は、ある事実を隠したかったんだろうけどw
(おれは、なんとなしにわかるが)
それを隠したせいで、後世の人間たちが
トンデモ説を連発して、天皇家の歴史が崩壊しているのが、なんとも
因果応報というかw

やはり、ずるをしたら、報いを受けるんだなw
509日本@名無史さん
ヤマト王権の建国は、神武東征からではないんだがな。
中国の歴史書でも、その王朝の正統性をとくのに、
いかにして、自分達の王朝が、前王朝から
天下を引き継いだのかということを重視する。
日本書紀や古事記も、このことを凄く重視しているのだが
それは、神武東征ではなくて、それより3代前の出雲国譲りからなんだがな。
ヤマト王権は、出雲王朝をたおして、天下を統一したんだがな。
それは、ニニギの代におこっている。
神武天皇が近畿へ東征する大義名分も、彼の曾祖父のニニギの時代に起こった
出雲国譲りが影響しており、私はもともとは、
この地(葛城地方=高天地方)の出自だと宣言しているわけだがな。