【江上】騎馬民族説は今。。。vol.8【波夫】

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532ネオ騎馬民族説
高句麗と対抗する扶余は、崇神が任那に拠を構え、北部九州に侵攻。
そのため、大和は、邪馬台国以来の半島経由大陸ルートを喪失し、中国への使者派遣は不可能に。
扶余系連合国は、任那の鉄資源の直接輸入が必要となった大和と交易するようになる。
扶余は応神時代に中国地方を回避して海上ルートで河内に侵攻して王朝を形成。
しかし騎馬戦術が通用しにくい内陸盆地の大和への侵攻は困難だった。
続いて大和と半島を繋ぐ交通の要衝である吉備も屈服させた。
勢力を増して、高句麗と大規模の交戦を企てる一方、扶余河内を警戒する大和とも対立。
半島情勢が緊迫する状況で、中国との連係を模索する外交を試みた結果が、
いわゆる倭の上表文である。
しかし思うように半島での苦戦を打開できず、高句麗に半島から駆逐されかねない情勢となった。
そのため扶余は外交革命と言うべき大和との連合を模索した。
その結果として生まれた扶倭連合王国の初代国王は扶余系大王・蘇我馬子だった。
そのお披露目も兼ねて、高句麗と対抗する中国へ使者が派遣されたが、
これが隋書倭国伝に記録されたところである。
当時の倭国王は女帝の推古天皇とされたが、記録には「多利思比孤」と言う名の男王である。
これは、本当の国王・蘇我馬子を指しているためである。
蘇我氏が自らを大王と称し、一族の邸宅を「上の宮門」「谷の宮門」と呼び、
「国記」「天皇記」を史書として残していたとされることからもそれは明らかである。
藤ノ木古墳などは蘇我稲目の墓である。以下、キトラ古墳、高松塚なども蘇我氏系であろう。
蘇我一族は、扶余系一族として、百済で普及してる外来仏教の普及にも努めたが、
こうした宗教文化上の対立もあり、倭人系豪族の激しい反発を招き、
倭人系・天智天皇がかつがれて、大化の改新という宮廷クーデターにより滅ぼされることとなった。
ここに、扶余王朝は、遂に倭人豪族によって簒奪される羽目となった。
533532:2007/01/17(水) 04:41:32
今日の天皇家の直接の祖先は天武(及び天智系の血統の)天皇であり、
彼に都合よく歴史(記紀)が記載されることとなったことは改めて言うまでもない。
魏志倭人伝や隋書倭国伝など中国の歴史書、そして蘇我氏の国記・天皇記や、
天智天皇系の帝紀など、あらゆる歴史書を矛盾なくつなぎ合わせようと図った結果、
邪馬台国・卑弥呼は天照大神となり、
自らの系図を、そこから続く一系の系譜であると天武天皇は主張したのである。
一方、歴史を粉飾する際には、その中での蘇我氏の業績は無視するにはあまりに巨大であり、
そこで蘇我氏を悪人と描く一方、その優れた業績は別人格に分離した架空の人物・聖徳太子に
仮託し、聖徳太子という存在を合理化する目的で、推古天皇を仮の“女帝”だと偽装して、
「摂政」を捏造したわけである。。女帝が初めて“誕生”したのはそのような事情からである。
また国記・天皇記に記された、応神天皇など、河内王朝の存在は、
その巨大古墳が存することからも無視し去ることは困難で、
やむなく扶余河内王朝も強引に飲み込んだが、さすがに吉備の大古墳はほぼ無視するより他なかった。
こうした結果として、記紀には、高句麗王伝説などの扶余系神話に類似するエピソードや修辞など
が含まれることとなったが、これは扶余系蘇我氏の国記・天皇記の影響である。
扶余族の任那から九州、河内への東遷の歴史は、
時系列上の都合から、邪馬台国(高天原)と大和とをつなぐ神話時代の記録として
切り離され、神武神話になったものと思われる。
いわゆる神武以前にニギハヤヒという天孫が何故か既に存在していたが、
これは壬申の乱で大友皇子と天武天皇が対立したことを描いたものであり、
天武が勝利して飛鳥浄御原宮で即位するまでの経緯は、
神武がナガスネヒコを降し橿原宮で即位するまでに相当しており、
ニギハヤが天智、ナガスネヒコが大友皇子にあたると考えられる。
すなわち、神武の神話は、崇神から応神、天智から天武に至るまでの歴史を
神話風に叙述したものと見ることが出来よう。