1 :
日本@名無史さん:
兄尊氏を超える才能を持ちながら、毒殺を余儀なくされた悲劇の英雄
足利幕府創設には、この男の力なくしてあり得なかった。
2 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 23:06:09
2ゲト
3 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 23:18:15
直義なら、優柔不断の尊氏と異なり後醍醐も早い段階で処分してくれただろう w
直冬と結城秀康て境遇にてるね
5 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 02:04:14
マニアックな人物スレだな・・・
この時代ってイカれすぎ
何がなんだかサッパリ分からん
足利直義は南朝に下ったのはまだ分かるが尊氏まであとで下ったんだよね?w
このへん意味不明w
この時代で人間としての魅力なら
円心が最高峰だな。
7 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 22:44:10
8 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 22:52:04
センズリして精液だせや
観応の擾乱だったか
10 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 10:29:51
直義って、鎌倉以来の古き良き伝統を引き継いでいた最後の人みたいな気がする。
11 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 13:08:01
12 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 14:09:13
教科書の源頼朝像は実は直義像らしいね。
直義のイメージがそれでがらりと変わった。
13 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 23:28:00
尊氏と直冬を引き合わせたり、養子にしたり
凄くいい奴なんだが。
14 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 15:45:46
尊氏と直冬を引き合わせたことなんてあるの?
15 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 04:46:30
バカだらけのスレだなw
17 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 21:11:15
19 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:16:56
神護寺三像 今までは
頼朝
重盛
光能
といわれてきたが
最近は
直義
尊氏
義詮
とする説が有力
隆信はこの三像の作者でないことが判明
20 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 02:04:47
光能ってどういう人物?
21 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 02:55:11
22 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 12:39:03
実家の近くに直冬の墓と言い伝えられる墓ありました。
今は広島・八田原ダムの底だけど
確か行方不明扱いでしたかね?
23 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:44:43
>>20 藤原光能。
藤原道長の六男・藤原長家の後胤。
大江広元の実の父親でもある。
大江広元は幼いころ、両親が離別し、
大江広元は母親の大江氏を名乗ることになのった。
広元が鎌倉幕府に登用されたのは、父親の光能の推薦。
24 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 18:08:53
中原親能も藤原光能の子だっけ?
25 :
リバティ ◆dXgNZ2yJ32 :2006/12/25(月) 01:56:27
にわか南北朝ファンのリバティです。
南北朝時代は本当にわけがわからないのですが、
高師直と足利直義の対立の根源がわかれば、
南北朝の騒乱の根源もわかるような気がしました。
いろいろ検索するキーワードを得るために、
しばらくみなさんと議論をしてみたいです。
まず、単純に、高師直と足利直義はどっちが偉かったんですか。
もし、高師直がいなかった場合と、足利直義がいなかった場合と、
どちらが歴史に大きな影響があったんでしょうか。
27 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 12:54:06
神護寺3像の頼朝・重盛とあともう一人が・・・ という奴は意外と多いと思う
あと尊氏像だと言われた騎馬武者像は最近では高師直像だとする説が有力
28 :
日本@名無史さん:2006/12/25(月) 17:33:21
あくまで一つの仮説にすぎないけどね。
29 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 17:46:21
ここは肖像画について語るスレではありません
30 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 16:20:58
31 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 22:58:04
んだんだ
なんで直冬を養子にしたんだろ。
養子にした以後も尊氏に嫌われてたっぽいから尊氏の意向ではないようだけど。
自分に子がいないからってんなら尊氏の子他にもいるのに。
同情とか叔父としての情だとしても何も養子にしなくてもなあ。
後々禍根になる事考えなかったのかな。
33 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 23:07:12
故・石井進先生がこの人物のこと大好きだったみたいだな。
34 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 22:43:27
俺も好きだ
そして直義派の武将で南朝が弱っても反足利を貫いた桃井直常も好き
35 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 17:43:07
>>34新田一門だが武家方 = 山名
足利一門だが宮方(観応後) = 桃井
渋いよね。ところで、能登畠山家臣の温井家が桃井直常の後裔って本当?
本当なら、表立って桃井を名乗れない(逆臣)から家名を変えたのかな? 音読みならどちらもトウセイだね。同族の畠山を頼ったのかな〜?
36 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 23:56:37
いまだに高嶋政伸のイメージが強烈だからなあ。
毒殺されるシーンは凄かったけど。
37 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 02:56:50
>>35 「温井」をどうやったら「とうせい」と読める?
38 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 16:01:52
なんとなく秀吉の弟とかぶる。
39 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 07:35:02
高嶋政伸がどっちも演じてるからだろう
40 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 13:45:03
大河の太平記は 桃井の暴走を止められなかった。西郷どんにかぶるところあり、負ける戦 心情やむなし。
41 :
日本@名無史さん :2007/03/14(水) 23:45:20
直義の専門書なりオススメ直義小説、ない?
昔読んだ漫画の直義と高氏に涙したのでまた感動したい。
42 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 04:16:53
>>41 中公の「南北朝動乱」(佐藤進一著)でも読めば?
43 :
41:2007/03/16(金) 21:44:32
日本の歴史か。
サンクス読んでみる。
44 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 23:38:36
아
게
45 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:15:54
征夷副将軍だったんだよな
>>25 どっちも必要だったと思う。
結局、尊氏の成功は旧幕府勢力(守護・地頭)と新興勢力(悪党)の間で
中立的立場を保てた事によるからね。どちらとも仲良く、適度に距離
を保つためには、高兄弟と直義を自分と両勢力の間におくことが必要
だった。
別の言い方をすれば、どちらも尊氏のかわりに泥をかぶる「汚れ役」
という事になるな。
47 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:00:35
室町幕府の初期構成員のなかで純然たる悪党出身なのは赤松くらいだろ。
48 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 01:18:29
赤松もそうだが悪党は護良親王傘下に多かったんだっけ?
49 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 03:06:55
で、その連中はみんな村上源氏を僭称。
50 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 02:19:31
赤松と名和だな
北畠が村上源氏だったから倣ったのかな?
51 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 17:29:33
大塔宮派には北畠の他にも中院や堀川など村上源氏系の奴が多くいた。
つまり大塔宮派=村上源氏みたいな結びつきがあった。
52 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 22:34:47
麻原尊氏
53 :
日本@名無史さん:2007/10/07(日) 19:20:58
>>45 直義が目指していたのは鎌倉幕府における執権のような地位。
それは彼が理想としていた時代が、得宗専制化する以前の鎌倉幕府(主に泰時期)であることを考えても自明。
54 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 09:58:08
今や電車の中で朝日を読んでると馬鹿にされる時代だからな。他の新聞なら大丈夫なのに。
55 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 15:43:36
>>53 尊氏ー直義の二頭政治は、
武官の尊氏と文官の直義体制であって執権政治とは違うぞ
将軍を骨抜きにしてしまう政策ではなかった
直義には長らく子がなく、40を過ぎてから正室が生んだ一粒胤の男子も夭折、
兄尊氏の庶子で養子の直冬を後継ぎにしていたが、
直冬は尊氏の嫡子義詮の兄であり、自らが足利家の嫡流となってもおかしくないという対抗心も強く、
尊氏にとっては厄介な存在だったが。
56 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 01:44:06
新田先生は執権といってるよ。
新田信者降臨!!!
58 :
日本@名無史さん:2007/10/18(木) 21:08:32
59 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 01:00:55
将軍=主従制的支配権=象徴的な政権のトップ
執権=統治権的支配権=実質的な政務の担当者
60 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 19:38:55
>59
室町幕府では一氏族独占の執権は置かれず、
交代制の管領だったはずですが?
61 :
日本@名無史さん:2007/10/19(金) 21:14:03
直義は政治家だし、尊氏は戦争滅茶苦茶強いし
頼朝=直義
義経=尊氏
とダブる。兄弟の歳の順は逆だけど。
直義が兄で尊氏が弟だったら歴史も変わったか?
直義なら人は付いて来なかったんじゃないかな。
兄貴ほどではないにせよ直義もわりと人望はある方だと思うから人はついてくると思うな
64 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 01:13:38
>>62 いくら実務能力があっても、将軍を立てないと誰も付いてこないという点で、
直義は鎌倉期の執権にイメージが重なる。
まあ尊氏が変に人望だけはあるのに、自分で政治をする気が全くないからでも
あるのだが。
>>60 管領制の成立は義詮将軍期の後半以降。
直義の死後、執権的な立場の人間がいなくなり、全ての実権が義詮の元に
集約されたが、その後義詮死後のことも考えて、将軍家執事を改組&強化した
管領制が成立する。
>>61 天然なのか計算なのか尊氏には人を惹きつけるものがあった。
家臣に褒美は与え放題、許しを乞う敵を許し、戦で窮地に追い込まれるとめっぽう強い。
現世に嫌気がさし来世に救いを求めたからこその行動だったと思う。
直義にはそういったカリスマ性は無い。生真面目で何事も杓子定規で計って物事を進める。
性格の違いよりも時代の空気を読んだ(認めた)のが尊氏で、あくまでも保守的だったのが直義。
直義が惣領であれば同じ保守層のみが従い、寝返った者は許されず、尊氏ほど大成出来たかは疑問。
>>65 人望がないから、所領をどんどん家臣に与えて人を引きつけようとしたんじゃないの?
室町幕府とはいっても尊氏、義詮の頃は生涯を戦に明け暮れ、どっちに転ぶか全く余談を許さなかった
むしろ3代将軍義満の手腕でなんとか足利が将軍でもいいか、ということで諸々が納得した感じ。
それも、初代尊氏が所領を配りすぎて将軍直轄領が少なかったせいで基盤はもろく、
義満の息子の代には早くも将軍が臣下に殺害されるなど権威失墜。
尊氏がカリスマ的君主だったのならば、こんな失態は犯さなかったと思うが。
>>66 時代が大義より損得で動く時代だからそうしたわけで、
「人望がないから」と言うのは乱暴じゃないかな?
これは無欲な尊氏だからこそ出来たと思う。
義満の頃は手腕よりも南朝やそれ以外の勢力が弱まってきた事が
一番じゃないかな?勿論、義満は有能だったと思うけど。
68 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 16:48:32
>66
直轄領が少ないのは足利政権云々というより「中世」という時代の宿命ではないのかな。
室町時代には数か国の守護を兼ねたり、「六分の一殿」なんてのもいて大量の所領を
持ってる直臣がいっぱいいるように見えるけど、彼らにしても自分の家来達に所領を
大量に与えて直轄領は少なかった。自身で多くの直轄領を持てる時代ではなかったんだと思うよ。
69 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:34:22
観応年間、直義は兄尊氏を破って降伏させ、政権を取った
直義は、謝罪した兄尊氏を許し、命も将軍の地位も奪わなかったが
尊氏は南朝後村上天皇に寝返ってにわかに直義を攻撃
ついには直義を毒殺するという非合法手段で殺害した
尊氏にはカリスマ性どころか根性の悪さしか感じない
70 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:46:58
>>66 >それも、初代尊氏が所領を配りすぎて将軍直轄領が少なかったせいで基盤はもろく、
室町幕府の御料所(直轄領)が、前代の鎌倉幕府に比べて少なくなったという証拠でもあるの?
71 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 17:52:52
>68
そうですねぇ。「分権化」は時代の流れだったかもね。
その流れに逆らって領地も権限も得宗家に集中させて
鎌倉幕府は滅んだわけで。
72 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 21:00:53
73 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 01:29:29
>>68 頼朝なんて直轄地はなかったしな。
それに比べれば足利家はまだ増えた方。
大内氏も直轄地はほとんどなかったために、陶に謀反をされるとお手上げだったり。
トップが直轄地を多数持つということを明確にしたのは信長かもしれん。
74 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 06:45:07
>73
執権北条氏より直轄領の多かった守護、地頭はいるの?
室町将軍より山内などの諸大名のほうが直轄地が多かった点については?
結局、これが大名が将軍より力を持つようになったゆえんで、
応仁の乱のときには将軍家単独で挙兵できるだけの力がなく、
もろもろの後継者が諸大名に頼った理由じゃないの?
>>74 中世が封建制だった事、ピラミッド型の主従関係、応仁の乱は将軍家を中心としたお家騒動、
これらを考えれば、あまり影響のなかった地方領主の方が一枚岩でまとまっていただけの話。
ここは歴史の流れを考えず、勢力の多さが優劣とする手合いが多いのか?
76 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 08:02:01
>74
諸大名だって直轄領は僅かですって。
諸国の武士は守護をアタマに戴いて、
現地の大部分は在地の領主が支配している。
中世ってのはそんなもん。
広大な直轄領を支配し、直轄領以外の領主も鉢植えのように
異動を命ずることができるようにな強力な領主がでてくるのは
もっと後の「近世」になってから。
室町時代は将軍の守護大名に対する統制力が弱かったのと同様に、
守護大名だって国内の諸領主への統制力は弱かった。
78 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 09:30:28
室町時代の歴史地図見てると、「細川氏守護国」「山名氏守護国」なんかが
それぞれ着色されてて、あたかも守護大名がその国々を強力に直轄支配してるかのような
印象を受けてしまうんだよな。実際にはそれぞれの国内は国人領主やら惣村やらが
各地を実質的に支配してて守護の支配権はスカスカなのに。
79 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 10:08:01
武田や長尾といった戦国大名だって国人・地侍に苦労してたんだがなぁ。
山城国一揆を始めとする国一揆でその辺は分かりそうなものだが。
>>74は小説でしか歴史を知らないのか?
ところで山内ってなに?一豊?
81 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 10:42:57
山内上杉氏のことだと思われ。
信長や秀吉でも直轄地は商業地区を中心にした。
信長は不明だが秀吉の直轄領の石高は200万石だという。
しかしこの頃には兵農分離で直轄領=兵力にはならない。
システムが機能していれば直属の軍団を持たなくてもうまく行く。
機能しなければ豊臣を破った徳川幕府でも駄目。
83 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 11:20:11
>80 >81
山名のつもりじゃないのかな?山名にしろ山内上杉にしろ
直轄領は僅かだったのには違いないが。
84 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 11:29:39
>80,>81
74は、大内氏と山名氏のことを混乱しているだけだと思うよ
85 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 11:33:58
いずれにしろ74は未熟者。まだまだ修行が足りぬ。
86 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 12:16:33
同時代の南朝方を見ても後醍醐天皇の直轄領なんか無かったけど
極めて高い指導力を発揮してる。
87 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 14:10:05
>86
天皇は直轄領(荘園)を持っていたよ・・・・
88 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 15:01:53
>>74 北条氏というのは、公式なトップではなく、あくまで御家人中の第一人者でしかない。
「執権」という地位も、教科書に書いてあったり、室町の管領や江戸の大老老中のようにほかの機関の上に
公式には立っていたわけではないし。
あくまでほかの後家人より過労死するほど働いて、それをほかの御家人が認めてくれての、実質的トップでしかない。
だから、あまり参考にはならないと思われ。
あと北条氏は一門家臣で全国の3分の2の守護を握るまでになったけど、
足利氏も一門と譜代家臣でいうなら、全国の同じくらい以上の守護大名は持っていたのでは。
89 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 19:24:45
それはそうと、足利将軍家全盛時(義満の頃)の直轄領は後の石高制に換算して8〜10万石程度という研究があったかな。
それでも各守護でこれを上回る直轄領を持つ者なんていなかったそうだから。
11カ国の守護を兼ねた山名氏でも直轄領は5万石を上回ることはなかっただろう、とのこと。
90 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 04:27:27
>>73 頼朝なんか土地もそうだが、そもそも自前の兵力すらゼロ。
挙兵段階での頼朝は北条氏の軍事力の上に乗っかっているだけ。
その後も三浦氏とか千葉氏とかの勢力を味方に付けてその上に
乗っかっているだけ。
あと戦国大名や織豊政権の直轄地は、新規にある場所を武力征服するたびに
設定される。
だから新規征服地には直轄領をある程度自由に多く設定できるが、元々の
本貫地では旧来の国人領主や地侍の権利をそのまま認めているケースが多いので
直轄地は多くない。
例外的に支配領域が全て新規征服地の後北条氏は直轄地が割と多く、逆に大した
内紛も経験せずにすんなりと戦国大名化したような勢力は直轄地が少ない。
江戸幕府の場合は、その成立時に日本全国を巻き込んだ関ヶ原の合戦を
経験しているので、西軍側に属した勢力からの大量の没収地があり、当初から
大量の直轄地を持っていたという側面がある。
91 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 04:28:21
>>76 そもそも守護職=一国領主権というわけではないから、守護と主従関係にない
国人領主はもいくらでもいる。
特に幕府の奉公衆の所領に関しては、その国の守護権力が立ち入れない
守護不入地とされていることが多い。
もっともこれは、奉公衆の所領の多くが幕府の御料所(直轄地)の預置という
形式で成立しているからでもあるが。
>>87 それらの荘園のうち、後醍醐の南朝の手に渡ったものはほとんどないと思うよ。
持明院統と大覚寺統の分裂時に大覚寺統に継承された八条院領に関しても、
南北朝期には木寺宮家(後二条の系統)に渡っているはずだしね。
>>89 あと戦国期を挟んでそれ以前とそれ以後では、日本全体の総石高自体に大きな
違いがあるから、室町幕府の直轄領を後の江戸幕府の直轄領と石高で
比較するのは、この点でもナンセンス。
石高を数値化したところで、その時点での相対的な位置がわかるわけでは
ないのだから。
92 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 05:00:16
>>82 直轄領といっても、その領地の実際の経営は現地の勢力に委託されていることが
おおいよね。
室町幕府の御料所は、奉公衆とか現地の守護とかに預け置かれていることが
普通だし、豊臣政権の蔵入地も名義だけで実際の支配は周辺の領主に任せている
ケースが多い。
江戸幕府の天領の場合も、直接幕府から代官を派遣せずに周辺の大名なんかに
管理委託されているケースは実際にはかなりある。
もちろんいずれのケースでも、委託されている者が現地から上がる
年貢を(管理者得分を除いて)ちゃんと中央に納入することが条件だが。
93 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 05:59:08
直轄領なんかそもそも存在できるわけがないじゃん。
兵農未分離、兵農一体なら、兵の視点からいえば、軍事の面で、
一軍の統率者は複数の軍団長の統率者でなければならない。
これを農の視点からいえば、大領主は自分の領地を重臣に与えないと達成できない。
自分の領地を代官に差配させて、そこからの上がりで足軽を雇い、
城下に足軽長屋を作って駐屯させるような仕組みとか、
数千石ぐらいの小隊長くらいの小領主を沢山作って、それを与力として部隊長につかわせる仕組みとかが整わないと、
直轄領を作れるわけがない。
軍事力を形成するってのは、多数の人間に所領を持たせてやるしかないんだから。
94 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 09:00:12
徳川氏の直轄料(天領)だって実際には
将軍の代わりにそこを管理し年貢を巻き上げる人間がいたからな
律令制度の公地公民だってそう
土地と民は天皇のものですったって、
実際には天皇の代わりに官僚がいって年貢を巻き上げていた
室町幕府に直轄料が少なく、そのために日野富子が金策に走り回ったのは事実
室町幕府以外の将軍や権力者だって、直接支配する直轄料は
ほとんどもたなかったって、少し理屈が違うだろ。
室町幕府の場合、幕府に入る年貢そのものが少なかった。
95 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 20:25:48
直轄領を周辺領主に任せずに中央から代官が派遣されているケースだって、
結局はその代官に現地の支配・管理・運営を委託するわけだから、そうした
代官が現地で領主的な性格を帯びることは多い。
96 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 20:49:42
代官派遣も数年で交代させんと、
代官が地元に根を張ってしまう。
国人層を被官化してしまう。
97 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:32:12
無期限での預置は、実態としては宛行と変わらなくなるということだな。
98 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:34:20
>>94 日野富子の金策は、応仁の乱が原因で地方の幕府料所からの年貢収入が中央に
上がってこなくなったことも大きな理由。
スレタイにふさわしいレスがほとんどない件について
100 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 01:16:12
直義の話からだんだん室町幕府論的な話に変化した。
101 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 17:09:40
兄よりすぐれた弟などいない
102 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 17:43:09
>>101 そういや足利尊氏には足利高義という異母兄がいたな。
母は北条顕時の娘で、本来なら足利家の嫡男であった(早世したが)。
足利尊氏についで将軍になった義詮も三男坊。
ちなみに足利尊氏の長男は、直義の養子で長らく尊氏義詮親子を悩ました
足利直義。
104 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 02:57:08
>>102 最後の直義は直冬の誤記か?
ただ庶出を除外すれば義詮が長男ともいえる。
とゆうか足利将軍家はよくこういう数え方をする。
例えば、
足利政知は義政や義視よりも年上だが弟扱い(義教の四男扱い)、
足利義維は義晴よりも年上だが弟扱い(義澄の次男扱い)、
など。
いづれも庶出を理由に弟扱いされている。
義詮長男(or次男?)・柏庭清祖、義満長男・尊満清師も、
庶出のためか出家させられているし、
庶長子の扱いについては早いうちからマニュアル化されてたんだろうな。
106 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:35:38
第2、第3の直冬を出さないようにってことが念頭にあったんだろう。
ただ義維の例は、結局彼が義稙の養子として阿波に赴いたことが状況を
複雑化したような感じだが。
107 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 21:10:24
実子がいないのはなぜ?
108 :
直義:2007/11/25(日) 10:33:31
いたのだが早世したのぢゃ。
109 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 15:08:30
>>108 一人だけね。
1347年に40過ぎでやっと生まれたのに1351年に早世してる。
110 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:10:27
>>107 直義に実子が生まれたのは、直冬を養子にした後。
十代の頃から連れ添った正室が41歳で初産。
男子を産んだが、夭折した。
111 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:33:19
直義って奥さんいたの?
112 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 23:40:29
>>111 直義の正室は渋川貞頼の娘。
ちなみに渋川氏は足利氏の支流。
113 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 02:09:55
子沢山だったら、面白かったのに!!
114 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 10:15:22
側室がいてもよかったのに。
自身が嫡男ではないからそんな空気ではなかったのかな。
115 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:27:56
実子ができないなら、兄貴のところから養子を貰えばいいって感じだったのかも。
116 :
日本@名無史さん:2007/11/30(金) 17:40:40
名前が残っていないだけで、直義にも側室は居たんじゃないの?
直冬は、当初、父に認知されず、武士にもなれず寺へ入れられている。
しかし、自分は将軍の子であり武士になりたいという思いから自ら上京。
すでに正室登子に多くの子を産ませていた尊氏はこれを無視したが、
子のない直義が直冬に同情して養子にしたらしい。
直冬は、あとあとまで養父直義の恩を忘れず、
実父尊氏や異母弟義詮と交戦をしている。
117 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 12:13:21
>>116 側室は子を生んでないと名前が残りにくいのかもしれないが…
尊氏の子のうち男子は、
庶出…竹若(早世)、直冬(直義養子)
嫡出…義詮(嫡子)、聖王(早世)、基氏(直義猶子?、鎌倉公方)
早世の2人と嫡子義詮以外の2人は直義と養(猶)子縁組をしているようだ
118 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 12:20:49
>>117 庶子の竹若丸は早世(病没)ではなく、足利尊氏が幕府に反逆した際に
幕府方に捕らえられて殺害されている。
尊氏は夭折せずに育った男子のうち、
正室登子腹の義詮(2代将軍)、基氏(鎌倉公方)以外はすべて寺に入れて出家させている。
直冬が直義の養子だったことは疑いがないが、
ほかの尊氏男子が直義養子になっていたことは何の資料にある?
119 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 14:10:19
基氏が直義の猶子になっていたというのは「続群書類従」の足利系図や古河公方系図の注記に記されてますよ〜
120 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:37:40
>>119 てゆうかこの時代の研究者には結構常識ですな。
基氏の側近には元直義派が多いしね。
121 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:56:03
>>112 直義が嫌いな義詮も正室は渋川氏なんだよな・・・。
つーか無知なヤツほど鼻息荒いよな、言い切り口調に加えて「何の資料にある?」とかエラソーw
123 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 16:59:33
>>116 庶出に英仲法俊(円通寺開山)が抜けていますな。
寺に入って出家したのはこの人だけのはずだが…?
124 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 20:21:04
>>121 義詮の正室は直義の正室の姪だったよね。
男児を生んだけど夭折してしまっているところが、直義室と似ている…
125 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 03:10:00
>>122 まあ資料と史料の違いも分かってなさそうだしな。
126 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 14:13:34
なんで直義も義詮も正室が渋川なの?
127 :
日本@名無史さん:2008/01/13(日) 21:43:36
渋川氏が足利氏の支流によるところの同族婚
足利氏が代々正室を迎えてきた北条氏は滅亡。
中先代の乱の際、渋川氏の若き嫡男渋川義季は
足利尊氏の命令でこれを静めようとし、戦死。
足利一族は当主を失った渋川一族の女性や遺児を庇護した形跡があり、
義季の妹が義直の妻、義季のまだ幼かった娘がのちに義詮の妻となった。
義季の嫡子は尊氏側近高師直の娘を妻に迎えている。
この頃はまだ直義と尊氏は反目しあっていない。
128 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 19:34:08
>義季の妹が義直の妻
(訂正)義季の妹が直義の妻
129 :
日本@名無史さん:2008/01/15(火) 22:07:08
130 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 20:39:44
ただよし
この人初めは高直といったんだっけか。
やはり北条高時の片諱貰ったのかな?
だとすると直義に改名したのは建武の中興以後か。
132 :
日本@名無史さん:2008/02/09(土) 01:30:29
側室いっぱい囲めばよかったのに
134 :
日本@名無史さん:2008/03/09(日) 05:01:47
この時代で高直だと大仏高直になってしまうな
135 :
武陽隠士:2008/03/09(日) 09:37:03
別に批判するつもりじゃないが、なんで「家系」「血」に関する話ばっかなんだ。
ほかのスレも似たようなもんだが、退屈千万。
あと誰が強いとかいうゲームレベルの話もうんざりだな。
そういうのがダイキスなんだろ。
天皇家が長々と続いと続いたのも、そういう血筋大好きからくるんじゃないのか。
137 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 20:43:17
高というと、足利の執事である高一族を連想してしまいますが、
後に決定的に対立する高一族にちなんだ名前なのでしょうか。
確かに多いですね、正直血統には大して興味がないです。
ただそう思うのなら愚痴じゃなくて自分で話題をふってみたらどうでしょう。
他スレで自称されいるとおりなら知識は相当豊富なんでしょう。
その方が建設的だと思いますけど。
139 :
武陽隠士:2008/03/11(火) 23:36:12
>>138 グチじゃなくて小馬鹿にしるだけさ。
バカみたいだからW
オブラートに包みすぎたな
140 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 06:19:51
>>137 高の字は得宗北条高時からの偏諱ではなかったでしょうか?
だから改名したのでは
141 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 21:19:55
走り尊跳び
>>139 小馬鹿にしるだけさ。
しるだけさ。
しるだけさ。
しるだけさ。
げらげら
揚げ足取りじゃなくて小馬鹿にしるだけさ。
バカみたいだからW
オブラートに包みすぎたな
144 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 16:20:06
>>137 高氏は執権北条高時からの偏諱
後醍醐天皇に従った際に
後醍醐天皇の諱である尊治親王から一字受け
尊氏と名乗った
145 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/12(月) 00:41:43
>>142 なんか嬉しそうだけど、私のレスなんてだいたい打ち込みミスだらけだよ。
ていうかそんくらいのミスしか指摘できない君の馬鹿さが哀れに思うねw
146 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 00:56:52
>>145 なんか嬉しそうだけど、君のレスなんてだいたい鳥のクソのようなものだよ・
ていうかそんくらいのレスしか書き込みできない君の馬鹿さが哀れに思うねw
147 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/12(月) 01:00:46
誤爆
150 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 13:50:06
1352年2月26日 くもり
兄貴がお茶菓子を出してくれたので食ったら、体中に痺れが…
しかも今日は、高師直の命日だ。兄貴がニヤニヤしている。
いやがらせか?殺すか?
151 :
日本@名無史さん:2008/05/14(水) 20:39:33
>150
・・・日記を書いているという事は無事だったんだよな?w
歴史が変わる
152 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 13:25:58
いいえ、最後の気力を振り絞って書いたのです
153 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 17:38:42
尊氏が直義を毒殺したとするのは「という説もある」程度で確証はない。
兄より優れた弟などいねえ!
155 :
日本@名無史さん:2008/05/21(水) 20:43:32
尊氏が関東へ下った途端
直義は死んでるからな
156 :
日本@名無史さん:2008/05/22(木) 23:31:14
もし毒殺じゃなかったらちょっと尊師かわいそうだよね
>>153 毒殺に「確証」なんて滅多にあるもんじゃないけどな。
特に成功した場合は。
158 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 10:01:26
>>150 >兄貴がニヤニヤしている。
そうなのかな。
大河の太平記で泣いた俺としては、内乱を終わらせるために苦渋の政治決断を下した尊氏は悲痛な表情をしていたと思いたいわ。
完全に想像ですが。
>>154 スベったな、ジャギw
お前には2人の兄がいたなww
160 :
日本@名無史さん:2008/05/24(土) 18:41:00
2人の兄って高義と尊氏か。
高義の器量はどれほどのものだったんだろう。
例の日記ガイドラインを知らない人が増えてるんだな
まあ4年以上も昔のネタだから無理もないけど
162 :
日本@名無史さん:2008/05/25(日) 18:50:26
ブヨウは文句しか言わないケンカ腰だからくるとどんなスレでもくそスレになる・・・
163 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:13:24
しかし、自分の妹の嫁ぎ先を攻め滅ぼし
自分の弟を毒殺して
自分の息子を戦いで殺そうとする。
尊氏って、ケダモノだな。血に飢えた外道もいいところ。
164 :
日本@名無史さん:2008/07/01(火) 06:26:53
妹の嫁ぎ先?
足利尊氏という人物は、誰にでもいい顔をしたくて
却って悪い結果を招いた人のようにも思える
>>159 死の灰を浴びた後のトキ(それでもジャギよりは遙かに強いだろうが)ならまだしも
ラオウが伝承者になるなら文句は言わないだろう。怖いし。
あの二人がいながら、よく「親父もさっさと伝承者を俺に決めたらどうだ」なんていってたもんだな。>ジャギ
168 :
日本@名無史さん:2008/08/18(月) 23:39:54
高義=ラオウは無理があるし直義に弟はいない
169 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 00:24:09
age
直 今 後 今 た 猶 後 尊 こ
義 生 生 生 う と 生 氏 の
建 あ の た の 心 く た に 世
武 ん く す く た と す た は
三 を わ け わ ば く け う 夢
年 ん ほ さ ほ せ と を 心 の
八 に う せ う 給 ん は た こ
月 ま を 給 に 候 せ し は と
十 も は 候 か へ い ま せ く
七 ら 直 へ へ く し し 給 に
日 せ 義 く て 候 た 候 候 候
給 に 候 く へ て
候 た 候 く
尊 へ は 候
氏 く せ
候 給
候
て
171 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 08:21:42
二頭体制にしたこと、直冬を直義の養子にしたことが南北朝時代を長引かせた原因だろ。
基氏が直義の影響受けちまったことがこれまた問題で
直冬亡き後も氏満から持氏、成氏にまで後遺症がつづくわけだ
173 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 21:15:10
観応の擾乱といい、将軍と鎌倉公方の対立といい
兄弟は他人の始まりとはよくいったもんだ
尊氏vs直義、義持vs義嗣、義教vs義昭・・・
将軍の宿痾みたいなもんだな。
175 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 04:30:23
現代でも兄弟は遺産相続で醜い争いをするし
176 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:32:35
上でもでてたけど
尊氏 直義の兄の高義っていつごろまで生きてたんだろう?
たしか息子二人 娘二人がいたんだからいい年まで生きてたんだよね
父の貞氏って早くに出家してたはずだから家督を継いでたのかな?
177 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 16:53:08
>>176 足利高義の死没年は不詳。
ただ、元応元年(1319年)10月10日には異母弟の高氏が15歳で
得宗北条高時の御前で元服を行い、従五位下治部大輔に任じられてその偏諱を受け、
その後そう遠くない時期にのちに執権となる赤橋守時の妹登子
(高氏と1歳違い)を正室にめとったとみられるため、
この頃には長兄はすでに存在せず、
高氏が父貞氏の後継とされていた可能性が高い。
高義は正室をめとる前に没しており(4人の子は私生児)
10代で死亡した可能性もある。
貞氏の死は、元徳3年(1331年)9月5日のことで、
これ以前に家督が譲られていた形跡はなく、
高義の2人の男子が出家させられていることからも
高義へ家督を譲ったことはなかったと思われる。
178 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 19:38:49
大河ドラマでは、尊氏が師直と示し合わせて直義を陥れ、師直は直義が殺害を指示(上杉の独断?)したけど実際は師直殺害も尊氏の指示だろう?
179 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 19:57:09
直義は赤橋登子の妹と結婚してほしかったと思っている人は多数だろう。
まず家柄でアウトじゃないかな
181 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 23:08:23
>>178 観応の擾乱における高一族赦免後の高一族皆殺し以後、
足利尊氏は直義追い落としへ奔走するので、
おそらくは高一族処刑は足利直義の命令。
182 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:04:10
腹黒い尊氏の事だから師直殺害に直義を唆すぐらいはしたんじゃね?
183 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 00:06:42
自らの手駒であり、敵に回った直義への唯一の対抗勢力であった高一族を、足利尊氏が殺すとな?
それは冗談が過ぎる。
184 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 20:14:13
>>183 尊氏にとって師直は最初は都合の良い手駒だった。
ただ、尊氏が征夷大将軍となり入京したころから師直は尊大になり、
家臣が光厳上皇の行幸の列を乱して上皇が輿から転げ落ちても謝らなかったり、
果ては都の貴族の姫君たちのもとへ毎夜のように夜這いをかけては
自分の後宮を増やしていくので師直一人ばかりか
尊氏率いる軍は田舎者で狼藉者だと都で嫌がられるようになった。
東国にいることには武骨な師直は有能だったのかもしれないが
平和な時代には似合わず、尊氏だんだん師直を持て余すようになっていた。
「太平記」にある狼藉が事実に近いものだとしたら、
師直はあとあと尊氏の悩みの種だったと思うよ。
185 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 23:26:13
猜疑心の強いトップの敵はNo.2だからな。
186 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:03:57
>>184 個人的な意見お疲れ様。
役に立つ軍を持った手駒を処刑する一方、尊氏の全てを奪って安堵する直義に対抗する軍備を
尊氏は0から臥薪嘗胆で作り上げた、って馬鹿みたいな見解。
187 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:07:07
まぁ客観的に見て、あの時点で師直が殺されたのは尊氏にとっては大打撃だと思うんだけどね。
でも歴史の素人目に見て、
戦に負け、実権を直義に奪われ、高一族という最大の武力的背景も失われた状況で、
尊氏が短期間で巻き返せたのが不思議と言うか、訳が分からん所がある^^;
師直が嫌いだからこそ敵に回ってた連中が
尊氏の側に戻ってきたというラッキー展開を
尊氏が計算した上で演出した、とは思えないしな
畠山国清とか細川顕氏とか転向が早すぎだろ
>>177 高義は正和4年(1315)11月14日に、
足利氏家督が補任権を持っていた
鶴岡八幡宮両界壇所の供僧を補任してるので(鶴岡両界壇供僧次第)、
この段階で足利氏の家督を継いでいたと考えられている。
んで、
>得宗北条高時の御前で元服を行い
これってそんな史料あったっけ?
高時の偏諱ではあるだろうけど、
どこで元服したかまでは分からないのでは?
>高義は正室をめとる前に没しており(4人の子は私生児)
これも、高義の室が誰だったかは分からないはず。
頼朝といい尊氏といい・・・・
191 :
日本@名無史さん:2009/02/16(月) 23:13:04
直義は義経と違って猪武者ではない
>>189 > >得宗北条高時の御前で元服を行い
> これってそんな史料あったっけ?
> 高時の偏諱ではあるだろうけど、
> どこで元服したかまでは分からないのでは?
177じゃないけど
偏諱を貰う=烏帽子親になって貰う
という説があるので足利家の家格を考えると
十分にありえるという話なんじゃないの?
もちろん断定は出来ないんだろうけど。
sage
>>191 直義は戦の天才の義経とは違って、戦下手だろ。
いま、大河を見ているが、未だに高島政伸の直義は納得がいかん。
登子に「義姉さん、大変です・・・」と手紙ばかり書いていそうだ。
195 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 21:46:56
「ヒドいよ、姉さん!」
「カツオ!」
そういや佐藤進一先生もダメ出してたな < 高島直義
197 :
日本@名無史さん:2009/04/16(木) 22:55:46
なんか最初は緒方直人に直義役のオファーがあったとかなんとか。
198 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:02:37
大塔宮を土牢に押し込め
命を頂戴し奉った仕打ちは
ひどすぎる。
真の大悪人は尊氏でなく
直義。
199 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:04:19
2ちゃんねらーで、
土牢に耐えられるやつがいるか?
200 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:13:39
野や山にあれほどの大活躍をされた大塔宮様。
戦場で散ることの方が本望であったろう。
201 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:20:13
>>200 お前は本人に会ったことがあるのか?
キモいわ。
202 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:25:22
権力闘争なんてそんな物だ。
どっちが善でどっちが悪とかバカバカしい
203 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 22:40:49
大塔宮の件で、人情的な意味で酷すぎると責められるんだとしたら、
直義よりむしろ後醍醐帝の方じゃね?
204 :
國學院大學卒:2009/04/19(日) 22:57:56
帝は幽閉までは命じていない。
205 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 21:56:20
後醍醐天皇は護良親王殺害を知るや否や
足利兄弟を朝敵としてるしな。
太平記に載ってる尊氏の弁明書、嘘くさい。。。
宮を殺したのは直義で、私の心は潔癖ですって、
尊氏が朝敵とされたのにはそれなりに理由があるんじゃないの?
護良親王殺害は尊氏・直義の共作だったと思えるんだけど。
兄尊氏に敗れ滅びた直義ばかりが悪者にされてるけど。
206 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:02:50
しかし、尊氏はわりと
帝を尊ぶ気持ちをもっていた純なやつだったが、
直義はいろいろと陰険な
陰謀を巡らす小人的なやつだったから、
やはり直義が勝手にやった可能性は高い。
207 :
日本@名無史さん:2009/04/22(水) 22:27:23
>>206 その純な男が弟を毒殺し、実の息子と死闘をするのかね?
妻の兄も見殺しにしてるし。
208 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 12:00:32
うさみちゃん。ペン助君。見事な推理だったよ。
しかし1つだけ見落としていることがあるよ・・・。
尊氏もまたわがままな主上に踊らされた被害者の一人に過ぎないってことさ。
209 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 17:26:54
>>204 もう少し勉強したまえ。
万里小路季房の事例で明らかなように、誰かの
もとに配流する、ということはその人に生殺与奪の権を
委ねる意味があった。
加えて、『太平記』に拠るならば、護良親王は
「尊氏よりも後醍醐が恨めしい」と述懐しているんだが。
210 :
日本@名無史さん:2009/04/24(金) 17:30:38
>>204 そうだ、きみさあ、
「大塔宮護良親王」にルビ振ってごらん。
読めないようなバカなら、人に説教する資格はないな。
>>209 > 加えて、『太平記』に拠るならば、護良親王は
> 「尊氏よりも後醍醐が恨めしい」と述懐しているんだが。
『太平記』‥‥ですか?原典『太平記』ですよね?
吉川英治とか大河ドラマじゃないですよね?
どこにそんな記述があるのか教えてください。
巻数で結構です。
>>209 >
>>204 > もう少し勉強したまえ。
> 万里小路季房の事例で明らかなように、誰かの
> もとに配流する、ということはその人に生殺与奪の権を
> 委ねる意味があった。
物凄く乱暴な話ですね。
一体誰が唱えている説でしょうか?
> 加えて、『太平記』に拠るならば、護良親王は
> 「尊氏よりも後醍醐が恨めしい」と述懐しているんだが。
「太平記」に拠ると、「帝もそこまでの気持ではなかったのに
直義が宿年の恨みから親王にそのような仕打ちをしたのは
何とも浅ましいことであった」とあります。
身柄を預ける=殺してもOK
が常識であるなら「太平記」の著者は常識外れのおかしなことを
書いていることになりますが?
213 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 18:16:22
『太平記』ではなく『梅松論』だな。
その誤りは済まなかった。だがちゃんと書いてあるぞ。
「武家ヨリモ君ノウラメシクワタラセ給ト御ヒトリ言アリケルトソ
承及侍シ」
君は史料の原文は読めないようだが、これくらい簡単なら分かるだろう?
あとな、いったい誰が、と聞いているけれど、
それこそが君がど素人のあかしだよ。
じゃあ、いまは鎌倉幕府開設は1185年説が
有力だが、誰が唱えてるんだ?
もちろん誰か一人が突出して唱えるわけではない。
コンセンサスは次第にできていくものなんだ。
わかる?
214 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 20:10:26
>>213 212氏とは別人なんだが、
おたくの引いている部分は、護良親王が京を離れ足利直義に託される場面での話だよね?
父後醍醐天皇が自分の言い分よりも足利兄弟の言い分を聞き入れたので、
赤の他人である足利兄弟よりも、身内を信じない父後醍醐天皇が恨めしい、と思う場面。
この時点で護良親王の殺害は決定していた、
後醍醐天皇がわが子の殺害を足利直義に託した、とするのはどうかな?
護良親王の殺害を聞いて後醍醐天皇が足利兄弟を朝敵とすることと矛盾しないかい?
護良親王が殺される時に、直義よりも父後醍醐が憎い、と言っているのではないよ。
215 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:37:45
護良に罰を与えるために隠岐島に流した、というのとは
ワケが違うんだよ。わざわざ政敵である足利直義に引き渡したんだ。
それが生殺与奪の権を与えたのでなくて何だね?
あの騒乱の時代、どさくさに紛れて親王が殺されることを
想定していないのなら、後醍醐はよほどのバカだよな。
っつーか、おまえら大きな構図が見えてないよ。
護良は武力の存在を容認し、自分が武力を統括しようとしている。
後醍醐は武士の介在をできるだけ排除しようとしている。
護良と同じ路線の北畠親房が東北に左遷されていたのと同じく、
後醍醐にとって護良は基本的に邪魔だったんだよ。その辺を
考慮して小さな事実の解釈しようね。木ばかり見て森が見えない
初心者くん。
216 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 21:51:31
>>215 北畠親房が左遷ってww
建武の新政が始まると北畠親房は息子陸奥守北畠顕家とともに陸奥へ赴いた。
しかし、北畠親子は錦の御旗とともに、何よりも後醍醐天皇の愛息を伴っている。
このとき北畠親子に伴われていたのは義良親王。
後醍醐天皇と愛妾阿野廉子との間に生まれた皇子で、
後醍醐天皇がこの皇子を愛していたことは、義良親王がのちに後村上天皇となることでもわかる。
義良親王は、北畠親房・顕家に生殺与奪の権をゆだねられていたとでも?
足利直義もまた、護良親王以外にも後醍醐天皇の皇子を委ねられていた。
こちらも後醍醐天皇と阿野廉子の皇子で成良親王。
義良親王の同母兄で、のちに光明天皇の皇太子にたてられている。
義良親王の生殺与奪の権もまた、後醍醐は直義に与えていたんだな。
217 :
日本@名無史さん:2009/04/25(土) 22:43:12
笑ってろよ、バカ。
おまえの言ってるのは、誰でも考えるウイキレベルの常識だ。
そこに留まっている限り、新しい解釈は生まれねえんだよ。
ためしに親房の生涯を追ってみろ。
彼が後醍醐天皇に重く用いられた、なんて説明は嘘だとすぐに分かるから。
建武政権は京都重視、中央集権だ。実際に主要な貴族はみんな
京都にいるだろ。親房が批判してやまない吉田定房も、もちろん
京都にいる。
そんなときに多賀城くんだりにいることが左遷でなくて何だ?
後醍醐が本当に地方を重視していたんなら、北畠顕家が
死ぬ間際に「地方をもっと重んじろ」って言うわけないじゃないか。
まあ、おまえの知的レベルは知れた。ようするに歴史読本レベルだ。
もう少し人の話は謙虚に聞くもんだ。そうしないと進歩しないよ。
後醍醐帝の精神構造は、はっきりいってどうなってるのかよくわからない。
皇室において次男(大覚寺系)の次男という家系なのに、
他の長男筋をすべて排除して自分だけが正統と主張したり、
武力で北条を倒したのに、武家にはまるで恩賞をやらなかったり、
それなら南朝方で武力のある北畠を重視するか、というと全くそういうことはないし、
家系に依存していると思いきや、自らの皇子は全員使い捨てだし。
219 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 00:07:30
使い捨てといえば、恒良親王なんかは哀れだよなぁ
>>213 > 『太平記』ではなく『梅松論』だな。
> その誤りは済まなかった。だがちゃんと書いてあるぞ。
「宮方偏重」とされる太平記と「足利政権を正当化する御用史書」梅松論とを混同するのは
かなりのミスだと思いますが、その自覚は無いようですね。
> 「武家ヨリモ君ノウラメシクワタラセ給ト御ヒトリ言アリケルトソ
> 承及侍シ」
> 君は史料の原文は読めないようだが、これくらい簡単なら分かるだろう?
誰と勘違いしているのか分りませんが、太平記も梅松論も原文で読んでいるからこそ
あなたの「太平記によれば‥‥」にすぐさま「えっ!?」となったわけです。
あなたは太平記も梅松論もごちゃ混ぜにしているようですが、
護良親王の流罪事件1つとっても太平記のスタンスと梅松論のスタンスではだいぶ差異がありますよ。
221 :
続き:2009/04/27(月) 18:47:32
> あとな、いったい誰が、と聞いているけれど、
> それこそが君がど素人のあかしだよ。
> じゃあ、いまは鎌倉幕府開設は1185年説が
> 有力だが、誰が唱えてるんだ?
> もちろん誰か一人が突出して唱えるわけではない。
> コンセンサスは次第にできていくものなんだ。
> わかる?
別に玄人自慢をしたいわけではありませんし、ど素人でいっこうにかまいません。
しかし、もしあなたがきちんと体系的に勉強している人間なら 、
いつ、どのようにしてコンセンサスとやらが次第に形成されていったのか、
つまり、それまでの定説がどのようにして変わっていったかの過程を
きちんと説明できる筈です。
あなたは誰かの研究本を鸚鵡返しにクチにしているだけでしょう。
例えば鎌倉幕府の開設がなぜ現在では1192年ではなく1185年とされるのが主流となったか、
についてあなたは何の疑問も感じていない。
「そういうことになっているんだから」「コンセンサスだから」でおしまいです。
そして古い説を口にする人間を見下し、バカにして自己満足する態度をとっている。
権威にしっぽを振って、他人を見下したいだけ、という風に見えてしまいます。くだらないことです。
これは
>>210にある「大塔宮護良親王」の読み方で得意になっている人についても同じことが言えますね。
222 :
続き:2009/04/27(月) 18:50:04
しかし、そもそも現在定説となっていることも、いずれまた覆る可能性があるのが歴史学というものです。
もっと言えば、歴史研究で大事なのはコンセンサスだの定説だのをふりかざすことではありません。
そこに至るまでの論証の過程こそが重要なのです。
定説から外れた学説にはもう見るべきものは無い、ということなぞありえません。
歴史学は常に先行研究の成果を踏まえていくものだからです。
もう1度質問します。
「身柄を引き渡す=生殺与奪の権を与えた」
が当時の常識にまでなっていたとすれば、なぜ太平記は直義の行為を「あさましい」と評したのでしょうか?
また「後醍醐天皇はそこまでのお気持ではなかったものを云々」とも書いてあり、
ついでにいえば、その後、新田義貞が足利の罪を数えるに際して「護良親王弑逆」を挙げています。
「身柄を預ける=殺してもOK」が常識なら、これほどの波紋を呼ぶと思いますか?
まぁ原文を読めばまだまだ出て来ますが、コンセンサスだのとごまかすようなことを言わないできちんと答えて下さい。
ご自分の言葉で答えられないのなら、どこでその説を仕入れたか、
ネタ本を言ってくれてもかまいません。
この板の住人って
第3者からみるとどうでもいいことで
延々と争うよね。
たまには、外に出てみたらどう?。
224 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:32:02
まあ、後醍醐天皇は護良親王を
たくした時点では直義が
そこまで糞野郎とは
わかってなかった。
ってとこだろう。
225 :
日本@名無史さん:2009/04/29(水) 20:40:15
尊氏はなんだかんだ言っても
後醍醐天皇に敬意はもっていた。
直義はおそらくこれっぽっちも
そんなものは持ち合わせてないだろう。
>>223 どうでもいいなら来なけりゃいいじゃん。
2chやってる時点で同類なんだよボケ。
227 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 19:52:21
228 :
日本@名無史さん:2009/05/01(金) 20:37:20
>>218 大覚寺統の祖、亀山天皇は後嵯峨天皇の第八皇子だよ。
ちなみに持明院統の祖、後深草天皇は後嵯峨天皇の第四皇子。
次男、という言葉を使うとちょっと違う。
鎌倉幕府将軍宗尊親王は亀山・後深草両天皇の異母兄で後嵯峨天皇の第三皇子。
あの時代、天皇が自分の大勢の子の中から天皇を自由に選んでいたからね。
後深草と亀山は同母兄弟だが、後嵯峨が後深草を退位させて亀山を帝位につけ、
さらに亀山の子を皇太子に据えた。
後嵯峨が死ぬと後深草・亀山の母である大宮院が亀山が直系である、と述べたために
亀山が治天の君になったという。
持明院統と大覚寺統が別れた当時は亀山の血統である大覚寺統が朝廷でも幕府でも正統とみなされていた。
ただし、亀山天皇が最大外戚である西園寺家と仲が悪かったために関東申次を世襲する西園寺家が
幕府に陳情して後深草の系統を復活させただけ。
後醍醐がピンチヒッターの天皇でその父後宇多上皇は後醍醐の兄である
二条天皇の血統を大覚寺統の嫡流にしていたというのはそうなんだが。
>>225 尊氏vs直義派vsバサラ派の三つ巴だったわけですね
230 :
日本@名無史さん:2009/05/17(日) 21:11:26
直義って病死じゃなかった?
黄疸で死んだって当時の記録にも残ってるはずだし
>>66 >初代尊氏が所領を配りすぎて将軍直轄領が少なかったせいで基盤はもろく、
>義満の息子の代には早くも将軍が臣下に殺害されるなど権威失墜。
義教が殺されたのが直轄領と全く関係ないし・・・
むしろ義満以上に将軍専制下にあったはずだけど。
義満も触れなかった、鎌倉府を滅ぼした訳だ
(ただ義満の時代は鎌倉公方も自制する部分はあったから滅ぼす名目もないが)。
強大な所領を持つ守護家の統制策も上手くやってたし
(惣領一族の別家を優遇して、惣領を監視させるシステム、近習上がりに家督を継承させるなど)
将軍の気質激しさが、鎌倉公方を滅ぼせる事でタガが外れて、気に喰わない守護を殺すなど露骨な実力行使で、
守護を震え上がらせ、窮鼠猫を噛まれるオチとなったが・・・
232 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 10:28:27
歴史文化ライブラリーで「尊氏と直義」出たね。みんな買った?
234 :
日本@名無史さん:2009/09/12(土) 19:14:59
age
>>233 わたし的には今年読んだ本No.1候補☆
しかし降将はみな許されてるから
尊氏が直義を毒殺してないと言う峰岸さんの推測はどうなんだろう?
237 :
日本@名無史さん:2009/09/25(金) 07:42:00
たぶん直義は中国産ギョーザを食べてしまったんだろう
>>216>>217 北畠親子の奥州入りは後醍醐による左遷でもなければ戦略でもなく
北畠親房自身の望んだ戦略だろ
中央集権思考を持っていた後醍醐に対してモロに反対する奥州幕府構想は
左遷ならそんな権限与えないし、戦略なら基本から外れる
そして親房の理想が鎌倉幕府にあるのは彼の著書からも明かで、顕家の奏状もそれの延長よ
源頼朝や北条泰時を賞賛してるんだから、後醍醐のような天皇親政至上主義者とは一戦を画してる
後醍醐と尊氏の争いをこれ幸いと親房が自分の理想のモデルケースに選んだだけよ。息子と親王巻き込んで
だから親房っていうのは南朝における直義なんだよ。鎌倉幕府式の政治を再興しようっていうな
始め北畠親子の奥州府と直義の鎌倉府は並立して存在したし
降伏した奴は領地3分の1って言っちゃう親房より顕家は現実を見てたと思うけどね
郡検断システムは後から入ってきた吉良や畠山が真似しなきゃ奥州支配を確立できなかったし
>>236 尊氏には直義を害する理由がない。
勝敗は既に決しているのだから。
その上で命まで取るなんて道義的な非難の元となるようなことを尊氏がするとも思えないし、
何より血を分け苦楽を共にした弟ですし。
うーん、毒殺説の根拠も薄弱だけど、だから病死と言うのもどうかなあ
「上杉憲実」を書いた田辺久子は直義は兄弟了解の上、基氏の元服に合わせて自刃と言う見解だけど。
その場合でも処罰的な意味合いはないけどね
242 :
日本@名無史さん:2009/10/02(金) 11:13:26
師直を選んで直義を死に追いやった尊氏の姿と、世襲批判に対して曲りなりに
対応しようとした自民党の動きが、どこか重なり合う。
>>241 うん、まぁ病死というのは私の希望的観測。
しかし師直殺害のちょうど1年後ってのが出来過ぎなのは事実で、
師直残党が報復として直義を害した、
尊氏は全くあずかり知らなかった、と私は理解しています。
>「上杉憲実」を書いた田辺久子
不覚にもその本未読です。読んでみます。
いずれにせよ基氏の存在が重要なのは確かで、
尊氏の次子(本当は三男)というより直義の猶子である基氏こそが
かつて「鎌倉将軍府」の「執権」であり、
且つ幕府開設地として鎌倉を主張した直義の後継者であり、
基氏の後見として法体の直義に東国の鎮撫を委ねたかった
というのが尊氏の真意だったのではないでしょうか。
基氏を尊氏三男と書きましたが、長男竹若、次男義詮、三男基氏、という理解です。
直冬が本当に尊氏の子なのかは今となっては誰にも分かりませんし、
DNA鑑定などない当時、「尊氏庶子」を称する直冬の登場は
世人からは胡散臭く受け止められ、尊氏・登子・義詮にしてみれば迷惑以外の何者でもなかったところ、
心優しい直義がこれを憐れんで養子にしたものの、
直義にとっての後継者は如意丸、その夭逝後は基氏ということです。
そうした満たされない承認欲求が直冬をあのような叛逆行為に駆り立てたことは察して余りあります。
そうそう、峰岸氏は、さった山体制は上杉氏排除の体制であると喝破されています。
高氏を族滅に追い込み、高−上杉の均衡を破った上杉氏を許せなかったと。
私もこの見解に同意します。
尊氏が排除したかったのは直義ではなく上杉氏であり、
従って尊氏に直義殺害の動機は皆無であったと。
247 :
日本@名無史さん:2009/10/27(火) 21:45:26
>>240 尊氏・直義間の個人関係は修復できてもそれぞれの与党は元の鞘におさまるのは不可能だから、
後顧の憂いを断つ意味でも・・・
弱腰で優柔不断なイメージの尊氏
冷徹で邪魔者は必ず始末するイメージの直義
しかし最後の最後で非情に徹したのは尊氏だったという
249 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 17:00:39
どうして子供がいなかったの?
男色家だったの?
直冬とは衆道の契りがあったの?
250 :
日本@名無史さん:2009/11/13(金) 22:01:03
如意丸という子供いたし。
北方謙三小説ではなぜかホモ設定なんだよな足利兄弟。
花一揆つくった尊氏はまあ仕方ないとして、
直義の男色疑惑が発生するような文献はないよね?
北方謙三はアホ
254 :
日本@名無史さん:2010/02/19(金) 10:39:02
なんで直冬を養子にしたんだろう。
単純に情だけで養子にしたのか?
自分のシンパを増やしたかったっていうのもある?
どういう意図があったんだろう
足利
しかし一周忌に殺すのに、わざわざ毒殺しようと思うかね。
そこまでこだわってたら、普通に自刃しろと言うでしょ。
何だか仏事の後に食ってた料理が腐ってて兄弟で腹痛起こして兄は助かったとか、
意外と中国産ギョーザみたいな話じゃないの?
260 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 00:13:34
兄貴への当てつけ自殺かもよ
北条は腐って
後醍醐はいきあたりばったり
護良、楠木、新田は天皇バックにして敵視してきて
高は乱暴すぎ
兄貴は戦争、人心つかむのは上手いが政治家としては人良すぎ
苦労したろうよ・・
262 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 01:10:47
兄貴は無能確定?
>>262 あの戦の強さや時流読む力は無能ではないだろう>尊氏
ただ敵と戦って勝つことは出来るけど、敵になったはずの後醍醐天皇に未練たらたらだし
何より平和になったとき味方を切ることができない。
平和になったとき非常に徹して味方を切らないとその味方がいつ寝返るかわからないし
その味方の財産を庶民に分け与えて人心獲得する必要もある。
これができなかった点が漢の高祖や徳川家康、源頼朝と尊氏との大きな違い。
実際室町幕府では義満がなんとかこれをやったからちょっと長生きした。。
それこそ直義や高師直には味方切る資質あったかもしれんが。
でも仕えるなら尊氏だよね。
平和になった時が存在しない罠w
尊氏はライバルの南朝つぶしきれなかった
また、自軍を統率しきれなかった
頼朝は平氏、家康は豊臣、高祖は項羽を完全に潰した
自軍は完全に統率していた
自軍統率しきれなかったのが直義のせいじゃん>尊氏
NO2を早くから確定させておけばなあ。
ところがその尊氏が直義にぜんぶ任せると言って信頼しきってるんですな。
田楽に夢中で政務を任せ、困ると出家すると言い出す兄貴(高時の場合病弱なだけだったが)と
田楽なんぞとんでもない、酒も飲まない、責任は取る、公武協調に意を砕く弟
直義のせいだなんて言ったら佐藤進一師匠が黙っていないぞ
高師直もつらいよなあ
尊氏はのらりくらりだし
直義は真面目すぎ
結局やられちゃった。
直義の問題は極端な言い方すると武家版後醍醐だったところだろうか
鎌倉以来の坂東流の御家人・田畑中心志向で西国の悪党・商業の発展についていけなかった
270 :
日本@名無史さん:2010/07/01(木) 01:07:27
age
271 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:42:55
>>251 早世した実子はいたが子供が少なかったからそういう話が出てくるのかと。
272 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 19:53:40
>>251 足利兄弟は前半一心同体のごとくに仲が良すぎ、
そして後半は高師直をはさんで尊氏をとりあって気味が悪すぎ。
兄弟で戦をして大勢の部下が死んでいるのに
それでも直義はなぜか降伏してきた兄を無防備に許したり。
不可解な結びつきの兄弟だから恋愛感情があって
妙にくっつきすぎたりすねたり恨んだりっていう風にしたのかな。
直義にも尊氏にもホモ説はないと思うけど。
>>271 尊氏は正室赤橋登子との間に最低3人(二男一女)、
その他側室や愛妾との間にも子がいたから特に少ない印象はない。
直義は実子がないために当初兄尊氏の庶子直冬を養子にしていたが
40歳過ぎてから正室に男子が初めて一人だけできた。
この男子は夭折したけど。
直義は子は少なかったけど、ホモではないだろう。
>>272 直義の嫡男如意丸って生没年分かってるんですか?
274 :
日本@名無史さん:2010/07/06(火) 21:00:21
>>273 直義の嫡男は貞和3年(1347年)生。
母は正室の渋川貞頼女。
当時、直義と長年連れ添った正室はいずれも40代。
観応2年(1351年)に死亡。
275 :
日本@名無史さん:2010/07/07(水) 10:16:23
>>271 尊氏の場合、花一揆はヤバいな。
特に饗庭氏直。
直義も、積極的にホモとする史料はないけど、否定する史料もないよな。
長年連れ添った奥方との間に
高齢になってから子ができているということが
普段から仲が良かった証拠だと思いたい。
子を残すためだけに女抱くなら
若い側室娶った方が出産のリスク的にもいいだろ?
277 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 22:43:18
>>276 それ、証拠になるの?
仲が良い=他に女性がいない、ということにはならない。
現代的な感覚で考えたらダメなんじゃないの?
>>277 直義はくそ真面目一直線の面白くない男だからなあ。
ばさら大名の対極だから。
関東が飢饉に襲われた時、宮方の結城なんかは領民から略奪横領して兵糧を集めたのに、
上杉憲顕はそういうことを一切せず、そのため参陣が遅れた。
直義は憲顕の行動は、我が意を得たものであると誉めたたえたぐらいだもん。
279 :
日本@名無史さん:
>>278 それと女性関係、或いはホモでも良いけど、
関係ないじゃん。