>>1 武田も入れちゃうあたりがワロタw
とりあえず乙!
勝手に松姫入れてんじゃねえよ馬鹿
松姫が主流になりそうだ
松姫イラネ
スレ立て代行のスレがあるのに
前スレの1は相当なアホだな
そしれこの結果
すんごいブスだったから信忠が嫌って破談になったというのに。
武田に人質にいっていた勝長から松姫の容貌を聞かされていたそうだ。
ブスで後ろ盾もないいわくつきの貧乏姫なんて織田の嫡男が相手にするわけもない。
松姫は今でいうストーカーだな。
破談になったことを受け入れられずに「自分は信忠様の妻」と
粘着質に思い込んでいたのだろう。
キモイ姫様だ。
マジで松姫もいれんのか勘弁してください
史板濃姫専用スレたてていいか
>>13 真面目なスレタイでお願いします。
こっちははきだめスレになりそうなんで。
16 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:16:16
>>13 お願いします。
まともなスレ立てようとしたら、自分もホスト規制でたてられなかったので。
なんでwiki?w
このスレの住人はわがまますぎ
こっちのスレはどうなるの?
\ /
\ /
∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧
( ・∀・) ( `ー´) ( ´∀`) ( ゚ ∀゚ ) ( ^∀^)
( つ┳∪━━∪━∪━━∪━∪━∪━┳⊂ つ
| | | ┃ このスレは終了しました ┃ | | |
(__)_) ┻━━━━━━━━━━━━━━┻ (__)_)
24 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 21:15:03
本スレage
いっそこっちを松姫専用スレにしちゃえばいいんじゃない?
本家スレに必死で妨害しにくる松姫マンセーの馬鹿ども。
いい加減にあきらめろ。
誰一人相手にせずスルーされてるだけだぞw
27 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:04:21
↑重複スレに必死に書き込み続ける馬鹿
松姫ネタだけではもたんな。
倉庫行き決定。
31 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:31:02
同類だもんwwwwwwww
オウム返ししかできない馬鹿wwww
32 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 22:31:54
とりあえず、勝長が人質になった頃の織田と武田の考察でも
始めてみないか?
もう少し遡って信友が岩村を攻めることになった
あたりからの方がよくね?
それから信友が岩村を攻めたのは信玄の命令と言う話と
信友が暴走して勝手にやったという話があって
暴走した理由が信友が家康から預かっていたの人質の
松平源三郎勝政(はて?)という人に逃げられたという
汚名返上のためらしいんだと。
汚名返上については人質になった経緯バージョンもあるんだけどね。
逃げられたって猛牛マヌケすぎw
>>34 信友が岩村に信長の息子が養子に入ったのを知って
奪いに行ったという話のことか?
だったら、まずは信玄に報告してどうするか指示を仰ぐだろう。
37 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 23:35:25
信玄に報告しても奪いに行けだろうから結果は一緒だな。
ん?奪いに行けとは限らないんじゃないのか?
あの頃の織田と武田はほぼ絶縁状態だから危険な思いをしてまで
わざわざ人質を取りに行く必要性なんて本来はないだろ?
当時の武田が劣勢ならまだしも。
で、断絶はしたものの信玄からの打診もあって信忠と於松の文通は
許されたという話はどの程度信用できるものなの?
経緯はどうあれ甲府に連れて行かれたご坊の様子を知るためには
これってかなりの有効手段だから許したとかならありかなと思うけど。
でも、信玄死後は不可能だったともいうからそうなるとこの推測って
崩れ去ってしまうけど。
>>39 許可を得て文のやりとりなんて、何に書いてあるんだ?
41 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 02:41:44
信松尼の「信」は、信忠の「信」
>>39 普通に考えて婚姻中でしか文通はありえないよ。
両家断絶となったのに敵方と文通していたら内通していたと
疑われる。信忠は廃嫡のどころか、下手したら
信康の運命をたどったぞ。
いいかげん信忠と松姫の悲恋伝説の線はあきらめないと。
信忠なんて嫡男といっても正室の実子ではなく、
立場は微妙だったんだから、信長の機嫌を損ねるような
真似は絶対しないよ。
松姫一人が勝手な妄想を抱いて脳内信忠の妻でいた可能性はあるけどな。
>>42 信忠とのことは松姫の自作自演かもしれんと?
44 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 11:57:42
そのうち信忠と松が婚約したという話も
松の自作自演による妄想だと言い出すぞw
何でもかんでも否定していたら史学なんて発展しない。
>>44-45否定するわりには、否定するだけの根拠となる資料もないわけだよな?
だから濃姫軍団に馬鹿にされるんだよ。
>>42 信忠の立場が微妙なわけないだろ。御台の養子になり嫡男として
周知されているしその立場が揺らぐことなんてまずない。
だからといって、二人が断絶後も密かに文通していたと
言っている訳じゃないぞ。
ただ、確かに敵対同士であるが故に情報収集のツールとして
この二人の文通を黙認して利用しようと考えていたのではないかという
推測が出るのは止むを得まいとは思う。
>>47 手紙の内容を第3者に知れるという条件で文通していたなら
手紙に相手をかく乱するために偽情報を書いてくる可能性もでてくるぞ。
松姫もどきがなりすまして文通していたらどうすんだ?
そんな危険な情報網誰が信じるか!
信忠が養子になった時期はどの資料にも書いてないんだよ。
産まれて早々だったら問題ないが、後年である可能性もある。
もしそうなら非常に微妙で不安定な立場だったんだよ。
養子になる前にお濃に実子が産まれたら嫡男の席はなくなったわけだしな。
ちなみに武田に人質になった勝長こそが濃姫と信長の実子である
とまことしやかに別スレで推測されている。
確かにそれなりに根拠のある資料も残ってはいるし、
織田に戻ってから勝長は信長に厚遇されている。
誰かこいつに年表を教えてやれ
アホに付ける薬はないからスルーするかいっそ弄んでみますかw
>>50-51 馬鹿だな、お前らみたいなリアクションをするからますます馬鹿に
されるんだよ。悔しかったら年表と資料で詳細に反論してみろ。
ちなみに「武功夜話」「甲陽軍鑑」は資料ではなく、
創作歴史小説と見なされているから、それ以外の信憑性の高い資料で頼むぞ。
こいつどこまで何様?
つうか信玄が信長との同盟の証として娘を奇妙に嫁がせると
決めたということは、織田家内での奇妙の立場は明白。
それだけでも十分だろうに。
仮に勝長が濃の実子であったにしても、岩村に置かれた段階で
奇妙との差は付けられている。
>>54 信忠と松姫との婚約直前に勝長が誕生。
したがってその頃はまだ嫡男に松姫をもらったという意味合いではなく、
同盟の証として信長長男に松姫をもらう、という認識であったことも大いに考えられる。
信玄の手前嫡男候補の実子が誕生したことを伏せておきたかったとも考えられる。
岩村の城主夫人(未亡人)は信長の実伯母。
養子にいったとはいえ、一族の伯母が女主人として采配をふるっていた
岩村に養子にだすのは、他の兄弟(乗っ取り目的)とは明らかに意味が違う。
その気になれば簡単に織田の支配下におけると想定し、
いずれ呼び戻すことも容易にできる。養子云々のことは実子ではありえないと
推論できるほど強い説得力はないんだな。
勝長が永禄11年の生まれだったら、婚約直後に妊娠になるけどね。
>>55 当時の岩村遠山氏は織田から遠山夫人が嫁いでいた関係もあって
武田方ともつなぎはあったようだが織田領内の国人扱いで
あのあたりは織田の支配下。
>>46 そういう言い方は濃姫好きの一人として誤解されるから迷惑なんだけど。
第一、バカになんて私はしてないよ。
松姫を含めて武田家は良質な史料がほとんど残っていなくて
仕方ない部分があるんだから、甲陽軍鑑すら出すななんて言うのは
正直横暴なんじゃないのかな。
あとね、前スレに参加していて思ったんだけど、濃姫が好きなのはわかるけど
だからといって他の姫や女性のことについてバカにしたり、さげずんだりは
少しやりすぎなんじゃないのと思う。
>>58 当時の生駒家や塩川家は織田家に比べて格が落ちる。
武田は没落したので織田とは釣りあわなくなった。
というのは客観的に見ても事実なのでバカにしてるわけじゃない。
でもブサイクだのどうだの言うのは、根拠がないから言いすぎだな。
>>57 だからこそ内側から武田に寝返る国人が出ると困るということで
実子を送り込んだんだろうな。
簡単に支配下におけるなんて舐めてかかっているなら養子とって
その子を送れば言い訳なんだし。
舐めてかかるような場所でも城でもねーよ。岩村は。
でなくても武田には信勝というは苗木遠山の血を引いている
子もいるんだからさ、武田の方が若干有利だな。
>>59 嫁取りに関しては家格の釣り合いばかりが条件ではない。
>>58 甲陽軍鑑てまず山本勘助が架空の人物だということが明らかになってしまった
ので、信憑性が問われている。同姓同名の人はいたらしいんだけど
あんな天才軍師ではなかったらしい。名前だけ拝借した架空の人物なんだ。
だから甲陽軍鑑を持ち出すならその箇所に偽りがないか他の資料と
照らし合わせてからじゃないと信用できない。横暴でもなんでもないよ。
歴史考証では複数の資料を照らし合わせて、矛盾があるかないかを
調べ上げるのも仕事。一つの資料、それも後年編集されたような
甲陽軍鑑のようなものに固執すれば当然認識も偏り、誤った知識を
持つようになる。
松姫に関しても当時の武田と織田の関係をみても、婚約破棄後に
やり取りするわけがないだろう。同盟も破棄になり敵対国になったのに、
織田家の嫡男(に一番近い男)と敵国の姫が交渉を持つはずがない。
それぞれの家への裏切り行為だ。
愛だの恋だのと戦国時代に生きた二人のことを今の感覚で語るのは
愚かだと言っているんだよ。
>>60 信長の伯母が跡取りがいなくて困っており、信長の後押しも欲しいということから、
固辞し続けた信長にようやく了解をもらって勝長を養子にむかえた。
その伯母さんがどうしても信長の実子にこだわったんだよ。
その時の信長の手ごまは勝長しかいなかったので、必然的にそうなったわけ。
武田も徳川も狙っていたのは知っていたから実の伯母を信頼して実子を養子に
だしたら、まんまと裏切られたようなことになったので、のちにそお伯母は
逆さ磔にされるほど信長の怒りをかったわけだ。
>>62 どうでもいいけど偉そうに講釈をいうなら史料と資料の
区別ぐらいいい加減使いわけろよ。
>>65 史料→歴史研究の資料、文献資料 資料→研究、判断の材料
使い方に問題はありませんが?
>>59 58の後半3行に対するレスだから、46の事を言ってるわけじゃないよ。
家の格が落ちるというのは客観的事実だから、
誹謗中傷の類ではないよってことを言いたかっただけ。
>>66 勝長は養子に行って岩村城主となったものの、まだ幼かったため、
事実上この伯母さんが女城主として采配をふるってた。でもいずれ
勝長が元服を迎えれば伯母は一線を退くだろうから、そうなれば実父信長の
思うがままだよね。実の伯母だから北畠家みたいに皆殺しまでしなくても
他家よりは簡単に行くと思ったからしぶしぶながら承諾したんだと思う。
まさかあんな展開になるとは信長もさすがに読めなかったろうけど。
読めなかったというより信玄を信頼していたんだろ。
信長は変に人を信じるところがあるからな。
>>70 どちらかというと、伯母さんが城に攻め入った武田方の武将秋山信友と
結婚する、というのが想定外だったと思う。信玄も家康も突然何をしても
おかしくないという時代だけど、よりによって信頼していた身内の伯母さんが
まさかの再婚で寝返りなんて…と呆然となったと思うよ。
伯母さんといってもけっこう美人だったというけど、あり得ない展開。
しかも伯母さんの方から婚姻を申し入れたというだから。
>>71 >しかも伯母さんの方から婚姻を申し入れたというだから
ソースは?
通説では信友から条件と言われているが…。
>>72 この伯母さんの参謀みたいな存在だった織田掃部が秋山信友の
合戦をかわすため、伯母さんと信友を縁組し、勝長の養育を条件という
和睦を申し入れるように伯母さんに提案した。
最初は難色を示した伯母さんも城が耐え切れない状態になったので、
その案に従うことにしたそうだ。
正確には織田掃部の案に従って婚姻の申し入れをしたというわけだが、
秋山はその和睦の条件をのんだということ。
ソースはネット上のどっかの資料だったかな?
ごめんはっきりとは覚えてない。
そして掃部助も粛正されたって訳か
【おつやの呪い】
信長によって逆さ磔で処刑される時におつやは
「信長も必ずあっけない死に方にさせてやる」といったという。
事実信長は、本能寺の変であっけない最期を遂げた・・・
本能寺の変は明知光秀にとりついたおつやの怨霊のなせるわざ!?
オレ様な奴と論議する気がないだけ
他の人間には史料どうのと言っておきながら自分のソースが
某サイトの参考資料とはちゃんちゃらおかしい話
あと、勝長が生まれたと推測される11年前後の奇妙について簡単に書いておく
永禄10年11月:武田松姫と婚約(総見記)
〃12年5月:信長がフロイスを饗応した時に信忠を隣に置いていた(日本史)
〃11月 :近江長命寺の保護と諸役を命じる(長命寺文書)
これを見てもわかるとおり、客のもてなしに同席させ、寺に対しての保護や諸役を
命じることが許されていたのだから嫡男とみなしても差し支えないし
たとえ11年にお濃が男児を産もうと、その後に寺へ命じていることから
その立場が不安定ということもまずない。
故にこの頃は既に正室養子としてまた嫡男として認識されていたのだろうから
わざわざそれを覆してお家騒動の火種を撒くようなこともまずないはず。
長命寺諸役の命じたのではなく免じだぞ。
寺への諸役免じなら元亀2年に崇福寺にも出してるよ(崇福寺文書)。
同じ頃に西美濃の一部も貰っていなかったっけ?
79 :
日本@名無史さん:2006/10/19(木) 07:56:38
>>78 バテレンが残した記述がはっきりと誰かまでは書いていないから
それが信忠なのか信雄なのか別の子なのか断定はされていないけど
状況から信忠が一番妥当という見方が強いかなと。
信忠がちょくちょく文書に出てくるのが松姫との婚約が成立してから以降で
地盤固めや当面の実務面は河尻達が行っていた感じだろうけど徐々に
統治の基礎教育も始まっているから、武田との縁組が整ったことで
嫡男としての地位を確実にしていった感じも否めないかな。
嫁が決まったのだから当たり前ったら当たり前なんだが。
嫡男との婚姻でなくても一時的な和睦を結ぶ事は可能だったから、
松姫との婚姻が信忠の嫡男説を強める根拠としては薄い。
たまたま松姫と似合う年恰好の男子が長男の信忠だったというだけとも
考えられる。もし信忠がすでにだれかを娶っていたら次男の信雄との
縁組になっていても、同盟成立したでしょ。
それから織田掃部の話は有名だぞ。
密かに織田と武田をてんびんにかけ、信長に揺さぶりをかけて
勝長を養子にむかえるように指示したのも織田掃部らしい。
武田と内通していたと疑われまさに粛清。
内通はありえるかもしれん。
ところで松姫と信忠に関する記述のある史料を具体的に教えて欲しいんだけど。
講談師見てきたような(ry
一時的な和睦ってこの頃は別に敵対関係だったわけではないんだが…。
婚約話を持ち出したのは織田方だろ。それではまるで武田方から
言ってきたような話しぶりだな。
いい加減、オレ様説をさも事実のように語るのはやめてくれないか?
>>82 いい加減て?
自分は今回はじめて書き込んだのだが??
それに武田方からの申し出とどこを読んだらそうなる?
>>82はなんなんだ???
>>83 気にするな、無視しろ。
だいたい* 織田信忠 * スレがすでにたっており、重複
しているのに無視して無理矢理嫌がらせで立てたアホスレにまともなやつが
レスしてはいかん。
>>82の思い込みと妄想ぶりは明らかだろ?
書いてることも妄想だらけの空想君だから相手にすんな。
>>82みたいのはいつも幻聴や幻覚があるんだろうな・・・
>>77-79 要するにみなさんは既に嫡男だったという推測なのでしょうか?
それとも限りなく嫡男に近いただの御台養子→確実な嫡男という感じに
変わっていったということなのでしょうか?
>>80 掃部が揺さぶりをかけれるほど権限があったとはとても思えません。
そんなことをしたらその場で首が飛んでいると思います。
信玄方の使者がこういう話を持ってきているがどうしたらと相談したというなら
わかりますけど。(こういう場合は揺さぶりとはいいませんよね?)
仮にご坊を養子にと彼が指示としたら、遠山夫人と一緒に処刑されていると
思いますよ。天正7年まで生かしておくことはまず無かったと思います。
普通に考えて分国に対して織田方の一武将が指示なんぞできるわけなかろう。
それこそ遠山家臣にてめー何様だと思われるのがオチだ罠
>> 信玄方の使者がこういう話を持ってきているがどうしたらと相談したというなら
わかりますけど。(こういう場合は揺さぶりとはいいませんよね?)
断固固辞の姿勢だった信長を口説き落とす手に、「実は武田方からも・・・」と
いう話をして、勝長を養子にだしてもらったという憶測はたつな。
その場合揺さぶりといえば揺さぶりじゃないか?
岩村城がどうでもよいところなら信長は絶対実子を養子に出すことはせず、
養子にした男子を養子として送り込んだと思うから。
どこが揺さぶりなのかと小一時間
>>89 どこが揺さぶりなのかと小一時間考えてもわからない馬鹿w
>>88 >岩村城がどうでもよいところなら信長は絶対実子を養子に出すことはせず、
>養子にした男子を養子として送り込んだと思うから。
では、信長は武田をどうでもいいと思っていたんですかね?なにしろ勝頼に
養女を娶わせていますから。
岩村は絶対織田の所領にする気満々。
武田とは同盟関係が結べればOK。
その差がでただけ。
でもその養女は遠山勘太郎に嫁いだ信長の実妹が生んだ娘だから
信長の姪。信長が実子同然に手元で育てていたんだよ。
武田と岩村を同格に論じていることがボケ茄子。
>>93 自分の言動がこれまでと振り返って、何箇所矛盾ダブスタを演じているか
数えてみなボケ茄子。
>>92 信長の嫡男と信玄の娘が婚約してんじゃんよ。
どうでもいいと思ってるわけねぇだろ。
>>94-
>>82は一緒の妄想野郎だな。
明日にでも精神科に行けや、池沼さん。
>>94は明らかに挑発するような発言だよね?
正直第三者が読んでも気分がいいものではない。
反論されれば感情的に反発するだけだし、
これでは前向きな情報交換できない。
ああいいうレスの書き方する方もどうかと思うよ。
アンチや荒らしはスルーというルールを守りましょう。
100
>>98 それは
>>93も同じ。
>>93 そう断定的に書くならソースを出した方がいいぞ。
武田は織田から見れば背後の位置関係だからこそ岩村は
大事だったとも言える。逆の言い方をすれば武田の脅威が
なければ岩村は重要視されることもなかっただろうに。
だから岩村城の攻防と武田は切っても切れない間柄。
100歩譲って君のいうとおり岩村を分国ではなく
直統治にすることさえできるなら武田は適当に同盟さえ組んでいれば
いい相手とタカをくくっていたのなら、信玄はそのあたりを
勘ぐって松の輿入れを伸ばしていたのかもしれないな。
1%でも負の恐れがあればそれに備えるのが信玄流だからね。
まっ、実際にはそんな甘い考えでは無かっただろうし
武田と織田の婚約が決まったころは遠山景任もまだピンピンしていたから
遠山家を乗っ取ろうなんて国人の離反を招くような愚考なんて
まず無かっただろうけどね。
>>101 ソースソースと騒ぎながら自分も書いてること全て妄想と憶測だけの
見解について
しょせんここの住人の程度が知れるよ
>>101 そう断定的に書くならソースを出した方がいいぞ。
婚約した同じ月に勝頼に嫁いでた信長養女が出産後死亡or肥立ちが悪く
瀕死の重体になってますよね?
国の主なので割り切っていたとは思うのですが、養女とはいえ嫁いできていた
娘がそういう状態なのに、すぐさま次はと言ってきたことに信玄は何か
憂慮することが心の内にあったとは考えられないでしょうか?
そういう親心はもちろんあったかもしれない。
大名と言えど人の子、子供の幸せを願うことは親としては
当たり前の心境だろうな。冨士御室浅間神社及び北口冨士浅間神社には
娘への親心を表す願文も残っているからね。
106 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 12:28:46
信玄はすぐに輿入れさせても構わなかったけど甲斐の国人や家臣達が
それに猛反発した可能性はないのけ?勝頼の時と違って於松と奇妙の婚約には
かなり難色を示した者が多かったという話もあるぞよ。
親心どうのというより106の推測の方が何かしっくりきますね。
織田家だって同盟が結べればよかったわけだから急ぐ必要もなかったと思う。
現に同盟が破棄させるまで友好関係が続いたわけだし。
>>104 信長お必死さが伝わっただけじゃないか?よほど武田が脅威なんだなと。
実際脅威だったろうから。この時代は縁組による同盟は一代限りという
決まりがあったから、いくら遠山夫人が子供を生んだところで、遠山夫人が
亡くなれば同盟も消滅する。間をあけずに武田とは同盟を結んでおきたかったんだ
ろうな。
>>101 岩村城は1570年に信玄から攻められ信長の援護でなんとか持ちこたえている。
その翌年に当主の遠山景任が病死し、その年に御坊が養子に迎えられた。
この流れから信長がただ養子をあげて終わらせるはずがないと思わんか?
同盟関係にありながら、岩村を援護し御坊を養子にしたあたりから
信長の下心が見えてくるわけで、内心はどうだかしらんが、
御坊を犠牲にしても利のあるかけにでたように思う。
結果的に岩村城攻撃の立派な大義名分もでき、卑怯な手をつかったが
手中におさめ、勝頼から無事に御坊も取り戻してるしてるし、
結局は当初の狙いどおりいったのではないかな。
111 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 16:28:22
別に思わん。
岩村が落ちれば尾張や美濃への道を開けることになるから
死守したかっただけじゃないかな。あの頃の信長に二兎を追うような余裕なんて
まずなかっただろうし、あのあたりは離合を繰り返す国人が多いから
一歩間違えば西に東に挟まれて最悪アボン
岩村は東の岩村、西の大垣と俗称される軍事、交通の要衝だったから、
武田も織田も徳川も欲しかった。要となる陸路をおさえることは軍事的な
利益だけではなく、産業的な利益も生む。
>>111 少なくとも御坊が養子になって2年後には信玄死亡。
信玄亡き後は赤子の手をひねるレベルになった武田軍。
二兎追うどころか、一石二鳥であっという間に両方ゲット。
信玄死後わずか2年後には長篠合戦で勝頼敗退。
その後すかさず岩村城を攻め落としたんだったな。
なんでも信玄が死んだ事を悟られないように
必死で隠そうとしていたそうだが、あっさり
ばれてたらしい。そのせいで信玄公の墓の謎が
生まれたのかな?
東濃18城がガンガンに落とされたのは信玄死後だお
長篠の結果が同じ負けでも重臣があそこまで戦死しなければ
岩村は守り抜けたと思うお
勝頼は武将としてなら優秀だお
重臣の死=大将の愚
114 戦略に長けていても、大将の器ではなかったということだな。
でなきゃ、武田家があんな形で滅亡せん。
それを言ったらみんな愚将だ罠。
勝頼は采配を持たすより戦わせた方が良いタイプだったとオモ。
そして高天神を落としたのは評価してあげるべきだな。
118 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 17:33:03
確かに高天神城を落としたのは素直に凄いと思うよ。
家の存続という一番大事な使命を果たせなかったことで、勝頼の評価が
悪くなっても仕方ないね。武将の評価って勝った負けただけでは
ないと思う。名門武田家を勝頼親子の代で終わらせちゃったのは本当に残念だ。
松姫なんか本当にかわいそうだよ。落ちに落ちて八王子でその日暮らし。
八王子に集まった武田衆も悔しかったろうに。
>>118 では高天神城の戦いPartUの評価はいかに?
勝頼と言うより信玄が残した負の遺産が
全てを決定づけていたようなもんじゃね?
勝頼に全ての責任を押し付けるのは酷というものだろう
松姫の場合も、信忠とのことは心痛察するに余るところだが
秀吉や家康の側室に強引にされることもなく
政治利用にも使われず、武田の遺臣達に囲まれて暮らしていたのだから
苦しくともこの時代の姫の中では幸せな方だろうて。
>>121 でもさ、勝頼の母親は滅ぼされた諏訪氏の姫で信玄の側室になり
その子は諏訪氏継いだ。信玄公亡き後の武田家の当主は自分の孫。
諏訪御寮人は不幸ばかりとはいえないと思うけど。諏訪氏の血が武田家嫡流
になったわけだし、諏訪氏に生まれた姫として立派な仕事をしたよ。
茶々も秀吉の寵愛と嫡男を産んだことで浅井の血を持つ子を天下人に
することもできた(途中までだけど)。江与もまさに政治の道具
としてあちこちやられたけど、将軍家にも天皇家にも浅井の血を残した。
当時の側室って権力者の慰み者という認識ばかりではないと思うよ。
もし松姫が秀吉の側室にあがり、茶々よりも先に男子を授かれば、
嫡男のいない秀吉の寵愛を一身に受け、武田を何らかの形で復活
させるほどの力を持てたかもしれん。
松姫は最初は苦労したが、家康の保護のおかげで
晩年は穏やかに暮らせたようだし、旧武田衆の心の拠り所的存在だった
そうだから、それはそれで不幸だとは思わないけど。
123 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 18:21:39
相変わらずな無茶苦茶な理論に萎え
>>121 信玄の負の遺産というが、元々信玄の代から甲斐統治は不安定な
地盤だったんだからカリスマ信玄公が亡くなったらとたんにああいう形で滅亡した
のもうなずける。
>>122 松姫は早々に出家したから手が出せなかったのだろう?
>>123のような荒らしはスルーしましょう。せっかくレスが軌道に乗ってきたので
>>125 というか、家康も後々家来から聞かされるまでその存在を把握して
いなかったから、意図的に敵から身を隠していたんじゃないか?
一緒に落ち延びた姫たちもいたそうだし。
>>122 全て同意とはいわんが、手っ取り早く実家や自分の身を建て直す
手立てではあるな。城を攻め落とすこと同様、敵の大将の子供を産むというのも
戦略のうちかもしれない。
秀吉は実子が一人もいなかったから、側室になった女性たちも実は野心満々
だったかもな。自分が男子を産めば豊臣家の嫡男生母。正室に次ぐ立場に
なれるからな。茶々なんて自分から色目を使って秀吉に取り入ってたりして。
茶々の場合は復讐心も相まっていたかもしれない
男子さえ産めばどうせ老い先短いじい様だと思えば、数年の信望だ罠。
>>112 それは結果論にすぎない。ご坊を養子に出した時に信玄の死期を
わかっていたかのような推測はあまりにも都合が良すぎ。
133 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 20:18:49
もし遠山夫人が信長実子だったら、実孫にあたる信勝を自殺に追いやるようなことを
したかな?いくら自分の養女の産んだ子とはいえ、義孫の首を京にさらすというのも
むごいな。(養女でも自分の実姪だったというのに)
>>124 う〜ん、自分も信玄の負の遺産だと思うな。
外交面ではあれだけ周りに敵を作りまくり、さらに駿河侵攻や
一方的な同盟破棄など信頼を失うような前科作り
家内では義信死後のしこり解消や長いこと跡目未決定、そして順番から
いえば跡目妥当と思われる勝頼に嫡男教育をすることもなく
立場も明確にせず、国人衆対策に有益かもしれなかった盛信の立場も
どうしたわけではない。
例え地盤が良かったとしても内外にこれだけ負の遺産が残っていれば
衰退するのは必然だよ。織田も力をつけだしていた時期でもあるし。
逆に言えば地盤が悪いところにとどめを刺すだけ刺して逝ってしまった
ようなもんじゃなかったのかな。
もちろん、勝頼にも非は多々あるけど・・・。
>>134 勝頼は諏訪氏を継いだ信濃・伊奈谷の高遠城主。
そのため武田の家臣からよそものという違和感をもたれていたらしいけど、
結束の固かった武田家臣を上手く統率できなかったのは
勝頼の力量のなさだと思う。裏切り、寝返りが敗戦の要因ともいえる。
それに信玄の時代から武田氏自体が甲斐の絶対君主などではなく、
国人領主の盟主という不安定な基盤に立っていたわけで、つまり
武田氏と利益を共有する「利益集団」的な体制だった。
武田氏の勢いが萎えてくれば利益の共有が危うくなり、
その利害関係はあっという間に崩壊していく構図になっていた。
武田家崩壊は国内からの崩壊も原因の一つ。
負け戦よりもこっちが大きいかもしれない。
>>133 信勝は信長の孫という織田方である前に勝頼の息子という武田方だから
両家が講和でもしない限り、戦となり劣勢となれば死に追いやられるのは
いか仕方ないことだったと思われ。
ただ、信長公記では信勝の最期を褒めたり面差しまで書いていたり、
関八州古戦録では滝川が勝頼父子を殺した他で出家したいと
申し出て信長が了解したと書いてあるのが何ともな…。
>>134 同意。三国同盟のドンだった今川を攻めたのはまずかったな。
甲斐は土地が貧しいから領民の生活のためにも仕方なかったと
いう見方もあるようだが、氏真を追っ払ったのはちとね・・・
せめて北條に何かしらの配慮をしておけばなぁ〜
執拗に今川に救援隊を送ってきているから氏康の怒りは
凄まじかったんだろうな…。
それから徳川との駿河−遠江割譲案の反故もかなり痛い
これで無用の恨みを買ったも同然だもんな。
駿河侵攻前後の信玄は血迷っていたとしか思えん。
>>136 この部分だね。改めて読返してみるとベタ褒めだし勝長同様に
かなり詳細に書き残しているのが印象的だな。
勝頼の段もそうだけど武田方に同情的だったり褒めていたりもするから
牛一の目には信長の武田への思いはただ憎かったという側面なのではなく
真髄は可愛さ余って憎さ百倍みたいなもんのように写っていたのかもと
ちょっぴり思うよ。
(信長公記・武田滅亡より抜粋)
勝頼の子武田太郎信勝はこのとき齢十六、さすが名門の子とあって容貌美麗、
肌は白雪のごとくで、美しきこと余人に優れ、見る者であっと感じ入りつつ心を
奪われぬ者はなかったほどであった。しかし会者定離の悲しみ、老いたるを残して
若きが先立つ世の習いからは、この者とて無縁ではいられなかった。
まことに朝顔の夕べを待たぬがごとき、蜻蛉にも比する短き命であった。
信勝は家の名を惜しみ、けなげにも敵勢の中を切ってまわり、ひとかどの功名を
残して果てていったのだった。
(同・四郎勝頼の部分より抜粋)
天をも恨まず人をも咎めず、闇より闇道に迷い、苦より苦に沈む。
嗚呼、哀れなるは四郎勝頼。
牛一は
>>138の現場に居合わせたの?
牛一は信勝を実際見たことってあるのかな?
>>138 内心そういう気持ちがあれば、京都に首を持っていってさらす
ような真似はしないと思うんだけど。討ち取ったという事実で充分。
孫(義理だけど)までさらし首にしたというのは、ちょっとなぁ。
大田牛一は槍奉行として信長に仕えていた頃の日記を元に作ったのが信長公記。
年代的なことや事件、出来事など客観的な事実と思われることに関しては
かなり信憑性があると言われているけど、それ以外の主観的な感想と
思われる部分などは、参考程度。江戸初期に自分の日記を信長公記として編集
した時に、ある程度肉付けをする必用から付け足したとも考えられるので。
自分も晒しただろうと思う。そのあたりは戦国大名だから非情に
割り切ったと思うし、それは仕方ないことじゃないかなと。
私情を挟む前に武田を滅ぼしたと言うことを確実に周囲に周知させて
織田の力を誇示させるには、獄門にかけるというのは必要なことだった
だろうから。京都に晒したのも方々から人が集まるというのを利用すれば
全国に知れ渡りやすくなるし公家や朝廷への牽制も兼ねていたと思うよ。
毛利に知れれば毛利家内の士気が下がる可能性も否めないし。
それと確かに身内に甘い感がある信長だけど136も言っているとおり
孫であっても信勝はあくまで武田の人間。そして長男にして嫡男で
年齢も元服の頃合だから、勝頼だけ晒して信勝を晒さないというのは
できることじゃないとオモ。
>>138 >天をも恨まず人をも咎めず、闇より闇道に迷い、苦より苦に沈む。
>嗚呼、哀れなるは四郎勝頼。
天候をも恨まず穴山をとがめず、長篠敗退から家臣・家内・国内統制に迷い
御館の乱から外交オンチのドツボにはまり撃沈する。
バカ親父信玄のせいで・・・勝頼は被害者なんだよ、カワイソウニ・・・・
といった感じかな。
>>143 つまり、信玄が悪い、勝頼親子は被害者、勝頼親子がさらし首になったのは
信玄の不徳の致すところで、信長様は悪くない・・・
と第3者に思わせたくて、牛一が書いたわけだ。
信長に早い段階で恭順の意を示し、一諸大名に甘んじても
武田家存続をはからなかっっておれば、信長死後またまた
戦局は変わったかもしれなかったのに。
>>137 確かに北条との事前交渉は必要だっただろうが賭でもあるからな…。
だが、氏真が上杉と手を結びつつことなどを強調しつつ、
河東割譲や早川殿の出来る限りの保護などちらつかせれば、
北条も戦国大名、共闘は無理でも黙認くらいは取り付けられる
可能性は少なくないと見るから、やはり事前協議はすべきだった
のだろう。結局、北條に侵攻されて一時的だが駿河からの完全撤退を
余儀なくされているわけだから。
北条・今川ネタは完全スレチ。
よそいってやっとくれ。
うっとうしくて邪魔。
147 :
143:2006/10/21(土) 11:32:25
>>144 >つまり、信玄が悪い、勝頼親子は被害者、勝頼親子がさらし首になったのは
>玄の不徳の致すところで、信長様は悪くない・・・と第3者に思わせたくて、
>牛一が書いたわけだ
そこまで言い切る気は自分には全く無い。
>>146 確かにスレチだけど自分の推測(妄想)を元に突っ走る奴よりよほどマシ
>>147 スレチの方が明らかなルール違反。
2チャンルールで相当するレスに移動するのが当然だと思うが?
マシかどうかの問題ではない。
>>146 私は鬱陶しくないですよ。このあたりは複雑に絡み合って
いるわけですし。かなり詳しそうな方々かなとも思うので
いろいろな視野で考察してくれそうかなという期待も。
もう少し様子見でもいいと思います。
>>149 君一人の意見を通そうとするのは我侭だ。
少なくとも私は鬱陶しいし、今川、北条、武田の件で
情報交換したかったら、自分でスレをたてればいい。
信長、濃姫、松姫、信忠とはまったくかけ離れていくだけだし、
いくら関連者のことであっても、ある程度逸脱したら
レスの書き込みを遠慮するのが当然だ。
内容を批判しているのではなく、スレ違いはルール違反だと
言っているのだよ。
元々松姫オタが濃姫スレの嫌がらせでたてたスレだから内容が武田がらみになるのは
当たり前。武田関係以外は無知丸出しなのでバレバレ。
ここの住人から武田ネタをとりあげたら書き込むネタなしw
確かに。人物像を追求するのもいいけど外交戦略等の側面から
二人の婚約や婚約破棄、それに付随する織田と武田の外交等を
語るのもまたいいのではないかな。
今川や北條も関係していないようでしているし
駿河侵攻の背景には甲尾同盟もあるのだから。
>>153 言い訳がましい反論なんかしないで、スレチはスレチと認めて
しばらく話題を慎んだらどうだ?荒れて困るんだよ。
荒れている感じはしないな…。
ヲタ臭が漂いやすい姫スレに外交戦略などハード面での
考証をしそうな史板らしい雰囲気になってきたから
参加するのを楽しみに来てみたのだが、どうやら
私の勘違いだったようで残念だ。
>>155 最初からよくロムるように。それにすでに今日荒れてるだろうに。
このむちゃくちゃなスレタイを見たってまともな情報交換なんて
期待するだけ無駄。残念がってないで、自分のお望み通りのスレをたてればよい。
単発スレは負担がかかるから遠慮しとく。
まともな情報交換ができるかどうかはスレタイ関係なく住民しだい。
それにむちゃくちゃでもないうな?
自分は信長父子に関する妻女と受け止めているが。
>>157 遠慮しないでたてろ。
単発スレに何の負担があるのか疑問。
埋もれていくのを自演で必死でageするのが大変だからか?
ここが信長親子に関する妻女のスレと思うならならその話題限定で盛り上げろ。
ぐだぐだ武田家の滅亡のことで今川、北条の話まで持ち出すな。
それなら書き込んでもいいぞ。
>>1に>>信長や信忠の奥に関係している人以外の話題はご遠慮ください。
とあるんだから、今後は↑をきちんと守りましょう。
武田家にまつわる話ばかりで濃姫のことも松姫のことも
まったく触れられていないけど?
サーバーに負担がかかることも知らず、急に自演とわめき
ageの意味すらわからないとは・・・もしや初心者坊やか?
>>160 つか、それがすでにスレチの書き込みなんですけど?
心の中の声までいちいち書かないでくれる?迷惑なんですけど。
一人で必死に暴れて荒らしているのがいるなw
>>161 160ではないけど自分からもお濃なりお松について何か書いたらどうかな?
>>164 そんなこと人に言う前におまえがまず書け
分家のあの勢いはどうしたんだ?
本家は荒れずにちゃくちゃくとレスをのばしてるぞ。
167 :
日本@名無史さん:2006/10/21(土) 20:16:42
>>166 日本語でおK
書き込みたくてもむやみなことは書けんよここでは。
自分は織田・武田・(上杉も出るかな)・北條の外交や戦略側面から
松姫逃亡時〜信忠の許に向かうまでのことで議論したいことがあるけど
結局松姫とは関係ないとか、他家話=荒らしだとい出だす人が
出てくるだろうからスレの雰囲気を壊さないためにも書き込まないでいる。
>>167 書き込めないというなら、わざわざのぞいてちょこちょこ関係ない
レス書き込まないでくれる?非常に鬱陶しいんだけど。ここにいつまでも粘着せずに
信忠レスにでも好きなだけ書き込んでくれば?
>>166 分家にはまともに織田家のことを語れるやつがいないから仕方がない。
>>167のように、強引に武田や北条と結びつけることからしか導入できんのよ。
誰一人斉藤家と織田家から濃姫、信忠、松姫、と議論を進められるだけのやつが
いないくせに、このスレに粘着してしがみついている池沼ばかりさ。
分家もまさに三日天下で終わったな・・・・・
武田の残党は松姫を追って八王子にでもいくのかな。
本家か分家か知らんがはたから見ればどちらも一緒だ。
だが、外交政策や戦略など複雑に絡み合う当時の情勢も含めた
視野も含めて考察しようとする心意気があるだけでも、
濃姫のことさえ語れれば良しとする所よりかは何ぼかまともに感じる。
結局、語れる奴がいないんではなく語ろうとする芽を摘む人の方が
多いのがこのスレの問題点に思う。
議論なんていうのはどう発展していくかわからないのだから
頭ごなしに荒らしだと否定したら何にも話にならない。
何がまともなんだか
>>172 >>外交政策や戦略など複雑に絡み合う当時の情勢も含めた
視野も含めて考察しようとする心意気があるだけでも、
これは
>>172の勝手な思い込み。
スレタイにも
>>1にもどこにも書いてないよ。
>>1には>>信長や信忠の奥に関係している人以外の話題はご遠慮ください。
とあるじゃないか?
勝手にスレの主旨を勘違いするな。
それと>>濃姫のことさえ語れれば良しとする所よりかは何ぼかまともに感じる。
どこがいけないんだ?スレたてた人の勝手だろうに。
自分勝手な思い込みで他人の領土をけなしてんじゃないよ。
気に入らなければのぞかなきゃいいし、他のスレを非難する必要はないだろ?
自分がとことん納得できるようなスレを戦国版にでもたてればいいじゃん。
戦国版にはすでに武田家関連のスレがいくつもあるから重複しないようにな。
>>172 ちょっと間をおいてみたら?
しばらくは何を書いても叩き返されるだけだと思うけど?
>>172 僕も
>>175に同意
言いたいことはよくわかるけどここはマジレスしても無意味。
あっちの隔離スレみたいなもんになっているから。
逃亡ルートとか討伐後の甲信統治の影響とか探るとおもしろそうな
話題が松姫にはあるけど、そういう話題も今の段階ではご法度らしい。
>>172 何にしろ他スレを貶めて自分を持ち上げるのは見苦しいよ。
はいはい。そうやって粘着してれば〜?
ところで話題をそろそろ戻さない?
外交系だと反発でそうだから置いといて、例えば信松尼公記にある
松姫が向嶽寺に一ヶ月近く隠れ住んでいたと言われている期間は
正しいかとか高遠城に移ったのは実際にはいつ頃なのかとか
信忠の高遠城攻めの不可解な点とかそのあたりを仕切り直しも兼ねて
>>178 GJ!
公記中にある向嶽寺滞在は2月下旬から3月24日と書かれているけど
信忠達が甲府入りしたのは信公では3月5日だから、信忠が甲斐入り
してから約19日、善光寺での一門仕置きや勝頼達が自刃してからは
13日〜14日だから、その間に見つからなかったというのは
この寺の立地からして少し無理があるように思う。
実際はもう少し前倒しだったんじゃないのかなと。
向嶽寺って恵林寺の隣だっけ?
信松尼公記って、北島藤次郎さんの著作のこと指してるのか?
184 :
180:2006/10/22(日) 00:53:01
185 :
178:2006/10/22(日) 01:58:08
>>179 実は私もそこが引っかかっている。
もし、それが本当なら信忠にしても滝川や河尻にしても
一体どういう残党狩りをしてたの?状態かなって。
お寺側も隠すのに限界があるだろうし。
ただ、肝心の向嶽寺に以前問い合わせをしたら言葉を濁されたり
そんな話はないと怒られているような?返事だったりと
曖昧というか話したくないというかな感じで、お寺にはお寺の
事情もあるだろうからこれ以上確認のしようがない…。
>>183 そうですよ。今のところ逃亡関係についてはこの書籍が
良質史料と言われていますので。
実際に伝わっていないのかあっても事情があって出さないのかは
定かではありませんが管理人さんがそこのお寺で松姫について聞いたみたら
門前払いされてしまいあれは一体何だろう?と書いてあるサイトもありますね。
素性の良く知らない来たり者にはむやみなことは言わない、教えないという
風潮がある山梨なのである意味らしいといえばらしいエピソードですね…orz
>>185 牛一も残党狩りとは書いているけど実際はそんなに
熾烈を極めるような戦後処理では無かった感じは
否めないから結構抜けてたんじゃないかな。
織田側が処刑した人間も戦後処理なら仕方ない連中だし
荒木の時のような残酷な処理方法はしていない。極真っ当な方法。
>>185 史料という言葉の用い方、間違っていないか?
自分も信松尼公記は持っている。
あれは松姫への愛情に満ちた好ましい著作で、今も大切にしている。
督姫や貞姫、香具姫のことについても丹念に訪問して聞き書きし、
本当に素晴らしい本を残されたと思っている。
だが、あれは「史料」ではないぞ。
(断っておくが、北島氏を貶めているわけだは全く無い)
あれは史学には全くの素人であった氏が、手探りで取材し
足を使って探索し、たくさんの史家や地元の方々から教えをうけ
聞き書き・研究した結果の労作で、個人の研究成果をまとめた本だろう。
たくさんの手がかりを後続の者に残してくれた愛すべき本、
だが、史料とは異なるものだ。
>>186 檀家でもなく、知己でもなく、紹介者もなく
突然に訪ねたきた者に色々と喋らない云々は、
別に山梨に限ったことじゃないよ。
(歴史好きなら経験はあると思うけどね)
そうですね。良質な参考文献と書くべきでした。すみません。
>>188 中には門外不出という史料もあるからね。
「信松尼公記」は自分も読んだ。松姫の生涯がよくわかって興味深かった。
ただわずかに残された史料や足跡を少し強引に自分の憶測に結び付けている
感はあったかな。
それと刊行されたのが1972年のためか、解釈の感覚が
現代的すぎるところがあったのも気になった。
大まかな松姫の足跡を知るのにはわかりやすい一冊だと思う。
松姫に関しては信忠との悲恋物語より、落ち延びて八王子で
必死で生き抜いて、元武田家臣たちの心の拠り所となる後半生が
素晴らしいと思った。
>>188 186はそんなことは知った上で書いてると思われ
残党狩りが抜けていたのか?
寺にいるのは知っていたが敢えて見て見ぬふりをしたのか?
同じく知っていたが何か目的があって逃がしたか?
(この場合は逃げれるよう風聞を流し領民を混乱させるなど
さりげなく助けた可能性もある)
さらにこれらを踏まえて、
松姫逃亡劇の信忠軍との共謀だったのか?
同じくこの逃亡劇は北條が一枚噛んでいたのか?・・・etcまで
いろいろと考察したらおもしろそうだね。
>>189 >>190 きつい言い方をしてたかもしれないけど、レスありがとう。
「信松尼公記」は素人の方が信松院を通じて松姫に興味をもち、
伝承や故事を拾い集め、思いをめぐらすという視点もあり
また著者は学者ではないので検証に不十分な部分もあるのは当然なのに
「史料」扱いされると、
「でも、嘘書いてあるじゃん」的な見方をされることも起こり得て、
信松尼公記の前書で述べられた著者の思いが伝わらなくなる。
それも何だかなぁ、と思ったのできつい言い方したかもしれない。
話の流れを切って失礼しました。
「信松尼公記」今度読んでみます。
ところでこの「信松尼公記」には松姫と信忠のことはどう解釈されていますか?
195 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 18:13:02
通史どおりの解釈
>>194『寛政重修諸家譜』 第十八巻の下嶋の政茂
武田信玄及び勝頼に仕へ、勝頼没落の後政茂信玄の女を携て、
織田信忠が許に送らんと尾張國に至る。
信忠害にあふてのち東照宮かの女をもつて大久保長安にあづけらる。
政茂これに属して長安が許にいたり、彼家にありて死す。法名蓮心。」
これをそのまんま。
しかし松姫は勝頼の娘、兄の娘、武田家臣の娘も連れての逃避行なので
敵の大将だった信忠のもとへ喜んでいくくつもりだったかどうかは疑問の残るところ。
>>196 元婚約者という縁で自分と姫たちの命乞いをお願いし、
なんとか段取りがたったところで本能寺の変がおきたんじゃないか?
なんか再度結婚とかなんとかはあまりに信憑性がない話だけど、
姫たちの命乞いに一役買うぐらいの、そのぐらいの松姫への情が
信忠にあったと信じたいな。
八王子に逃れたのが正解だったな。
家康は松姫の義姪の下山殿を側室にして、その間に生まれた
男子に武田姓を認めている。家康の側室の中ではもっとも血筋が
良かったし、武田の血筋を尊重してくれたのだろう。
家康が松姫を厚遇したのも、そんな背景があったかもしれない。
信玄ブランドって戦国大名でもありがたがったのではない?
どちらかというと甲斐武田家ブランドだと思われ
信玄だけが一人歩きして独立したのはどうも
家康の信玄loveが影響していると思う。
201 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 12:48:10
>>197 小山田の娘→郡内と御師(修験)系も(?)
勝頼の娘→諏訪で周辺国人と諏訪大社大祝関係も(?)
盛信の娘→仁科で高遠周辺国人もしくは油川(川窪)で甲斐国人
松姫への情もだが、甲信はそれでなくても長いこと国人が強かった
地域だから、領国経営の面からも信忠は一役買ってくれたかもしれんし
そうなると、変な言い方になるが、人質みたいな感じで信忠の所に
行こうとしていたのかもしれんな。
で、ほとぼりが冷めた頃に養女にして嫁ぎ先の世話やお家再興をすれば
織田の株も上がる。
下2行は養女にはしていないけど家康が使った手だね。
>>201 松姫に託された姫三人、そんな思惑は無いだろう。
そのような痕跡や文献はなにも無いからな。
信忠を頼りにしようというなら、
織田の甲斐侵入時に投降することも可能。
信忠と松姫の関連をひきずりたい意識?で
想像しすぎなのではないかな。
>>196 肝心の信忠はその頃京都にいて尾張にはいなかった。
知らなかったのか?
滅ぼした後の領国経営や国人対策では血縁者を取り込むというのは
無難な方法の一つだから全く否定してしまうのもどうかと思うよ。
信忠がその姫たちを連れていることを知っていればの話だけど。
投降についても信長が甲斐から去った後なら兎も角甲斐入りする前に
投降したら下手したら殺されてるよ。高遠遺臣もいたのだし
仮に松は助かったとしても彼らは間違いなく処刑される。
高遠攻め前ならどうにか助かるかもしれないけどね。
濃姫の「の」
本能寺の変後旧武田領は家康の支配下になったから松姫や他の姫も家康の庇護を
受けることができたんだろうな。
松姫たちは明らかに命の危険から逃亡していたのだろうから、
俺もあの段階で織田方に捕まれば命の保証はなかったかも。
出家するからとか、それこそ織田家有力者の側室になるなどの
保身をはかる以外はそのまま生かしていくことはなかったろうな。
濃姫の「う」
>204
送ろうとして尾張に行ったという意味なのか、別に目的地があって
そこに送ろうとしていた道中に尾張があり入ったという
意味なのかでかなり違ってきますね。
>>209 >>織田信忠が許に送らんと尾張國に至る。
(信忠は岐阜城主だったから)尾張國の信忠の許に送ろうと尾張國に到着した。
その前後を読んでも↑のようにし解釈できない。
信忠は武田攻めが終わり、信長が帰ったあとに武田家に加担した恵林寺を焼き討ち
するなど新領地の仕置を任され、信長に遅れること一ヵ月後に安土の信長のもとに
行き(5月14日)、その後信長より先に中国攻めのために5月27日に京にのぼり、
尾張には帰ってないんだ。
それなのに松姫を信忠の許に送ろうとして尾張国に来たというのは
不自然。信忠不在を松姫たちが知らないはずはないよ。手紙などでやり取りして、
信忠の承諾を得ていれば、尾張にはいないから京都に来るように
指示するはずだろうけど、でも京都に呼んだところで信忠は明日にも毛利攻めに
出立するかもしれない戦局で、その緊迫した状態でそんなやり取りができたかも
疑問。
まだ命を狙われている危険な身の上の姫を八王子から尾張にしろ京にしろ
呼び寄せるというのも松姫に愛情があればよけいあり得ない話。
その時松姫一行は北条氏照に保護されていたのだから、その時期あえてそんな
危険を冒す必要も無い。
なので頼る人もいなく、信忠になんと助けてもらおうと事情も知らずに尾張まで来て
本能寺の変を知ったという説も信憑性がなさすぎる。
これらの矛盾が下嶋の政茂の箇所は後年の捏造史料といわれる所以。
>信長が帰ったあとに武田家に加担した恵林寺を焼き討ち
焼き討ちは4月3日、信長はその頃まだ山梨にいたよ。
信長が甲斐から出たのは4月10日頃。
>その時松姫一行は北条氏照に保護されていたのだから
保護まではしていない。
それと捏造するなら大久保長安の名はむやみに使わないと思われ。
>>211 「信長公記」には4月2日に信長は諏訪を発ったとある。
信長が発った後に事後処理を全てまかされた信忠が恵林寺の焼き討ち等の
仕置きをしたということ。どっちにしても信忠はその後尾張には帰っていない。
松姫たちが当初八王子で身を落ち着けたのは心源寺の別院金照庵。
心源寺の住職のト山禅師は、城主北条氏照の禅の師でもあり、
氏照が一時養子に出た大石氏の家系でもある。
このような寺にかくまわれたのは明らかに氏照の保護下に置かれていないと不可能。
敵方松姫一行の存在は北条家にとって非常に危険なことにもかかわらず
氏照縁の寺でかくまったわけだから。
捏造となったら信憑性をだすためにどんな著名な人物でも名前を使う。
江戸期以降編纂の史料なんてひどいもんだ。
武功夜話の元本だってむちゃくちゃだぞ。甲陽軍鑑だって信玄と
山本勘助のやり取りは全て捏造。甲陽軍鑑の中の山本勘助は想像上の人物だから。
松姫はえらい!
勝頼を裏切って寝返った家臣の娘まで面倒をみたなんて。
考えてみたら武田の残党狩りの大将が信忠なわけで、その信忠の
誘いを信用して応じるかな?罠かもしれないのに・・・と思ってみた。
>>213 知らなかったけど、本当なんだ。優しい姫様だったんだな・・・
ええはなしや。
>>212 諏訪を発った後に甲府に入ってんだろ
そして10日に甲府を発って大宮経由で13日に駿府入り(信長公記)
それと当時の寺は一種の治外法権。そこの住職に采配によることが
多いから氏照どうのはあんまり関係ないだろ。
氏照が逃亡の手引きをしていたというなら話は別だが。
>>215 私が>>信長が帰ったあとに、と書いたのを、みなさん勝手に「安土に帰った」
と解釈しているようですが、信忠に事後処理を一任して信忠と別れて諏訪を発った、
という意味。どういう経路で帰ろうが、帰途についてることには違いないわけで
そのことについてなぜえんえんからまれのか理解できない。
どっちにしてもそれ以降信忠が尾張にいた事実がないわけで、
松姫が「尾張國に至った」という記述と矛盾するということが
わかってもらえればけっこう。
氏照が見てみぬ振りをしなければいくら住職に権限があっても無理なこと。
氏照が姫たちの引渡しを要求し、それを住職が拒めば、
信長の手前、心源寺も恵林寺同様焼き討ちをされてたかもな。
『寛政重修諸家譜』の
信忠害にあふてのち東照宮かの女をもつて大久保長安にあづけらる。
ここも変なんだよな。
信忠は1982年に亡くなった。家康が江戸に入って八王子の支配についたのが
1591年。八王子に松姫や武田衆がいたのは大久保長安が北条の旧領地を
もらって赴任してくる前なのに?
>>政茂これに属して長安が許にいたり、彼家にありて死す。法名蓮心。
政茂は長安が赴任してくる10年近く松姫と行動をともにしたの?
>>215 >>当時の寺は一種の治外法権。そこの住職に采配によることが
多いから氏照どうのはあんまり関係ないだろ。
治外法権の寺に身を寄せて庇護してもらっているならなおさら危険を冒して
信忠の許へ行く必要はない罠w
下嶋は武田家臣だから守役として一緒にいても不思議ではあるまい。
松姫が家康の意向で大久保長安の預かりとなったという事実はないんじゃないか?
八王子に赴任してきた大久保が松姫の存在を知り、個人の支援の後、
家康が知ることとなって、家康も松姫たちの面倒をみたんじゃなかったか?
寛政期からみたら結果的にそういう見解にしたのかもしれんが。
てか、そもそもその尾張って戦国期の尾張?
江戸期の尾張?
>>216 アジールってご存知?
当時寺社に逃げ込んだ存在は俗世権力は手が出せなかった。
これを否定したのが信長。しかしあくまで信長の権威権力が宗教を上回った
から可能になったのであって、全ての俗世権力(戦国大名、武将)がアジール
を否定できたわけでも、拒否られたら焼き討ちができるわけでもない。
>>222 じゃあ信長軍がきて焼き討ちするだろう。見せしめにな。
恵林寺が焼き討ちされたの六角義弼の引渡しを寺が拒否したことに
かこつけた見せしめ。
義経は寺にこもったけど、自害するまで追い込まれ、寺ごと焼かれたよな・・・
>>221 どっちでもいい。どっちにしても信忠はいなかった。
北條と織田を一緒に考えるとはめでてー頭をしてんだな。
>>224 そうそう、延暦寺も信長に焼き討ちされる前に何度も時の権力者と
争い、焼失してる。細川政元も延暦寺を攻めて一部灰にしてるしな。
>>226 北篠とはなんぞや?ひょっとして「北条」のこと?
かなーりめでてー頭をしてんだな。
条の旧字体が條だし書簡でも両方が見受けられるから
後北条(便宜上そう呼ぶ)に変わりはないと思われ
寺の焼き討ちも個人の宗教観や情勢などが左右するから
やる人間もいればやらない人間もいた。
で、後北条の絡みだけど当時の織田と北条の関係からすると
織田から武田や小山田の残党を見つけたら出してねという
要請が出されていれば別だが、そういう話が無ければ
さして何をするわけもなかっただろう。あくまで北条領国内の
ことだからそこまで織田が干渉することもできない。
だから存在は知っていても氏照があっそと思えばそこまでの話。
自ら火種に近づくことも無かっただろうしさ。
>>229 ぷぷっw 旧字体だってさ。負け惜しみばっかり。
結局のところ松姫は氏照に存在をスルーされ、織田家に密告されることもなく、
身の危険は回避されたわけだろ?「アジール」のおかげで。
ということは、危険を冒してまで信忠のいない尾張に行く用事はないわな?
つまり『寛政重修諸家譜』 第十八巻の下嶋の政茂 の箇所は
捏造だと思われても仕方ないなw
織田方の連中が勝手に相模領にまで入って残党を追ってることを
氏照はよく思っていなかったという話があの周辺にはあるらしい。
真偽は全くの不明だけど。
北条も織田への接近については家内がまとまっていなかったり
実際北条に匿われた武田や小山田残党も少なくなかったらしいから
あながちかもなんて思ってみたりして。
下嶋政茂って本当にいた人物?
くぐっても情報があまりに少ないんだが。
軽輩のことだしなぁ・・・
山本勘助同様創造上の人物と思われ
「おんな風林火山」でしか出てこない人物だな。
>>233 遺臣のほとんどは依田氏・保科氏など一部を除けば軽輩ばかり
下嶋の行動なんて、自分の家の先祖自慢のための家系図箔付けだと
ずうっと思ってたけどね。
単純に考えて、あの混乱の時期にそんなドラマじみたことできるかよ。
街道はどこを通ったのか、供の人数、構成は? 松姫は徒歩?輿?
また、他にそれを示唆するような文献なり、
ましてや「伝説」さえも無いのに、その件がさもあったことのように
2ちゃんで語られ始めたのが不思議だったよ。
信忠と松姫の逢引にしたってそうだな。
三法師の母が松姫・・・なんて与太説も言語道断だ。
あの滅茶苦茶な説を必死になって唱えてた奴、今なにしてるんだろう。
>>237 松姫と信忠の空想物語は、冗談ぬきで「おんな風林火山」の影響が大きかったのかも。
松姫伝説自体は八王子〜神奈川県北西部にかけてきちんとあるよ。
松姫のかは断定されていないけど桧原村では武田菱の入った
手鏡などが発掘されている。
下嶋については箔をつけるためにと思ったりもするけど
だったら保科正之につけられたといわれる高遠遺臣や千人同心の誰かを
使うんじゃないかなと思ったりして。大久保長安はその死体が磔に
されるほど家康の怒りを買った事件が有名だし連座して大久保家は
ほとんどが切腹させられてもいるから、汚名を晒すことはあっても箔を
つけることはまずないんじゃないかな。
甲斐から八王子に落ち延びてきたのは事実なんだろ?
ただようやく落ち着いた八王子から、3ヶ月足らずでまた尾張に
旅立って信忠に会いに行くか?しかも信忠は尾張にいなかったぞ?
となるので、それは嘘なんだろうけど。
241 :
237:2006/10/25(水) 21:08:27
>>239 多摩地区の生まれ育ちなんで、甲武に残る松姫の逃亡路伝説は
承知してるよ。
ただ、下嶋氏の家伝承が胡散臭いという事。
最終目的地が尾張じゃなかったらという選択はここの住民はないらしい。
尾張まで行って本能寺を知ったとなっているだけで
尾張が目的地とは書いてないね。
また、信忠がきちんと自分の城の奥に話しを
通していたかどうかも分からない。
勝手に行ったのどうのといっているが、
もしも、信忠と打ち合わせの上で向かったのなら
信忠がいようがいまいが、城に迎えられて待っているという
手はずになっていたとも考えられる。
信忠が死んでしまったわ、戦になって織田家中混乱だわの中で
八王子に落ちたと考えられもする。
あと、八王子に落ちたあとに尾張に向かったという事も
書かれておらず、八王子に落ちる前に向かったという
説もあるので、その辺の事は分からない。
否定も肯定もしないが、ちょっと考えれば
この程度書けるくらいには、いくらでも選択肢があるだろうに。
>>243 だいたい信忠が妻としてもらいたいというなら、織田家嫡男の正室に
相応しい待遇で迎えるのが普通だろうに。
当時の嫁取りは政治問題そのものだから、こそこそ奥だけで決められることじゃ
ないんだよ。
それに信忠は中国攻めに行くわけでいつ帰れるかもわからず、
自分の生死の保証もない戦にいくんだぞ?
そんな状態で松姫を無責任に呼び寄せたりするわけないだろうが。
しかも信忠がいつまで京都にいるかも自分自身だってわからん状態だったんだぞ。
すぐにでも秀吉の援軍に行く予定だったんだから。
尾張でなければどこに呼ぶつもりだったというんだ?
行く予定になっていた備中の高松か?
ちょっと考えろという前にもっと当時の織田の情勢を勉強しろ。
君の提案している選択肢はどれもこれもありえなさ過ぎる。
普通に岐阜によびよせるつもりだった。
ふさわしい待遇で迎えるためにも、まず織田家の庇護下に入れる必要があった。
(身寄りのない女を仰々しく飾り立てるために)
別に想像でよければ、これくらは思いつく。ありえないというほどではない。
尾張には犬山に顔見知りだっただろうにの勝長がいたし
犬山近郊には織田の奥向きに詳しかったと思われる信長乳母の
養徳院もいたから、庇護場所としてはここらは最適なんじゃないかな。
突然、岐阜城に入れるよりワンクッションがあった方が旅の疲れも
癒せるし、連れている遺臣(下嶋以外にもいたと思うんで)の
様子を見張れる。うまくすれば甲斐の国侍等情報も聞き出せるだろうし。
あくまで憶測の範囲だけどね。
そういや勝長は信忠と違って尾張に戻っていたっぽいね。
信忠も安土に行く前に道すがら岐阜に立ち寄ってるだろうから
留守役にそれなりの話を通していても不思議ではない。
まず、下嶋家の家伝に信憑性があるのかを考慮してから
行く先云々を考えるべきだな。
あと、織田家サイドに松姫を迎える用意があったような事跡も
見当たらず、八王子周辺や信松院にもそんな伝承が無い。
松姫とて旅程の危険を冒してまで信忠のもとへ向かう理由もないし。
>>245 >身寄りのない女
って、信玄の娘には変わりないぞ。その点についてなら・・・
嫁入りの支度をするなら、(本能寺の変の前なら)穴山梅雪も健在
異母姉の梅雪夫人もいる。話をとおすことも良かろう。
木曽義昌夫人とているんだ。
滅びた武田の娘といっても、時流にのった血縁者はいる。
信忠の庇護下の置くまでの事前の保護なら、依頼はできるだろう。
北条氏照は4月の時点で戦勝祝いに信長に鷹を贈っているぞ。
松姫を改めて正室にと思うならば、滅びた隣領の姫の保護くらい
容易に頼めるであろうし、もっと公にしたって不思議はないよな。
信長の後継者の妻になろうというなら、
他の記録に何も残されていないような供をつれてお忍び的にしなくても
方法はいろいろとあったはずだな。
憶測に憶測で応えてしまったけど、
なんで松姫と信忠をこうも繋ぎたがるのか不思議だ。
信長が朝廷倒してどうのなんていう奇抜な政権構想ではなく
家康みたいに自分は後ろで糸を引けるような構想だとしたら
次代の嫁は変に力がある実家持ちより実家がないもしくは
しゃしゃり出てこれない、かつ、それなりの家格の方が
都合が良かったのではないかな。そういう意味では松は
最適の一人だと思う。腐っても鯛ならぬ滅んでも武田家。
立場は正室か側室かはわからなけど、実家没落どうのなら
庇護下においた後に信長と懇意だったと思われる三條西家を通じて
いろいろこじつけて三條家の養女にねじこみ、信忠に嫁がせるぐらいの
考えを信長なら考えそうにも思う。
>>248 氏照(というか氏政)が鷹を贈ったけど不興を買っているんだが…。
木曾夫人もこの頃はまだ旦那に抗議の意味合いも込めて
山中に籠っていたようだし、穴山がいても徳川配下でもはや
徳川家家臣みたいなもんだからな。芦名でいう小笠原みたいな
客人とは訳が違う。
>>251 以下の推論は、松姫が織田家に向かうのだったら、
こういう方法も考えられるじゃないかと言う>248のレスへの
反レスについての応答レスのようなものとして書く。
自分は松姫の信忠行きは無かった、と思ってる者だからね。
穴山の正確な位置付けが徳川家家臣かどうかはともかく、
それならなお更、織田家の意向が浸透しやすい関係じゃないのかね。
安土、堺訪問は、家康の同行者としてでもあるけれど、信長の招きだろ。
梅雪といえば家康に差し出した下山殿・お都摩の方の例もあり、
自分の係累が織田家の室になるのだったら、
天下の権力者と繋がりが出来る、喜んで輿入れの準備しそうだが。
あと、木曽義昌夫人を頼るとは言っていない。
>身寄りのない女、という語彙に引っ掛かって
親類縁者ならまだまだ健在だろうということを言ったまでだよ。
それと、木曽義昌夫人が山中に篭る・・・という境遇は
下総での一万石没収後の晩年以外にもそういう行動が記録されてるのか?
その話は何に載っていたのだろうか。
253 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 13:01:22
何かと言い訳がましい奴がいるな。ここにはw
はい。うんざりして反論する気も起きません。
塩川氏が正室だとか言ってたやつだったりして
>>253 言い訳ととるならそれはそれで、
その言い訳者にも納得できる理由を呈して欲しいな。
わざわざ名の知れてない家臣が、あの混乱の時期に
武蔵から尾張方面まで連れて行こうという・・・
二人をとりまく当時の環境を踏まえて、
誰の主導で?何のために?疑問譜が多くつくのは当然だろう。
>>255 塩川氏に関しては信忠の子を産んだ側妾ととらえてるけど?
自分が塩川氏贔屓で正室にしたいがため、
松姫の尾張行きを否定していると思っているなら、了見違いだよ。
話の土台が違う問題にひっぱらないでくれ。
>>249 確かに信忠で考えればそれもありかもね。
自分の血縁をどこかの家の養女にして自ら公家界に入り込むようなあからさまな態度に出て
公家達の反発を買うより大義名分というこじつけとはいえ比較的反発を買いにくい方法で
松姫が公家の養女にできるなら、それを利用して養女にしてから信忠に嫁がせれば
自然と公家界に信忠は入り込むわけだし。武家の名門と公家の名門、
両方取れて信忠の代にはウマーな状況かも。前例をかざして三条夫人が嫁いだ時みたいに
朝廷から勅使を出させればより箔もつくわけだし。
と過大な妄想をしてみました。
なるほど。なかなかおもしろい。
織田家が松姫の輿入れを望んでいたという仮定の上にたった妄想。
260 :
258:2006/10/27(金) 00:02:57
そんなことはわかりきった上での返レス。
松の輿入れを望んでいたかいなかったかすら
分からないのに、望んでいた仮定の上に立ったら
駄目とする理由が分からんなぁ。
ですよね。両方の見方があってもいいと私は思います。
これからどう動くかの直前に本能寺が起きてしまったのが
かなり痛いですね。
信長にその気があったなら、織田家嫡男の正室に相応しい待遇で家来を付き従え
豪華な輿をやって丁重に迎え入れただろう。
それがこそこそ名もない侍従を連れ、こっそり安土の城の奥に迎える?
それだけでも松姫の輿入れを望むどころか頭の片隅にもなかったということさ。
戦国期の輿入れは家と家の問題。実家がなくなり、後ろ盾ののなくなった
松姫には正室になる資格すらなかったというのに、そういう武家の常識を
きちんと認識してから妄想してもらいたいもんだ。
当主である兄を京にさらし首にされた姫などではなく、これから反対勢力になりそうな
九州、中国の有力大名から信忠の正室を政略的にもらうつもりだったというなら
まだ妄想も理解できるがね。
ただ100歩譲って信忠が個人的に哀れんで側室にして面倒をみる
気があったという案は考えられなくもない。
でもその場合生涯松姫という身分を伏せ、どこぞで見初めた下級武士の
身寄りのない娘、という位置付けだったろうな。
両方の見方なんてありえないんだよ。
一方的な武田寄りの都合のいい妄想にすぎないのさ。
本能寺の変の時三法師は2才だから、信忠がその後正妻をもち、その間に
男子が授かればそっちが嫡男になっただったろう。
そう考えると信忠の正室はそれなりの家柄からもらわないといかんな。
島津、毛利などの大名も考えられけど、奥州だって可能性は捨てきれない。
信忠には敵対勢力との縁組で、その子の代から摂関家や宮家との縁組で
嫁の実家に権力なし、しかし権威と格式はある、という図式の嫁鳥取り
になっていったように想像する。
ようするに、徳川将軍家とまったく一緒のパターン。
【警告】
史料もとづく憶測、推測はOKですが、
たんなる希望的観測や妄想はなるべくご遠慮ください。
スレッドの主旨を守りましょう。
そうなると佐竹とか最上あたりかな。
でも、そう考えるとなんだかんだ言っても一番無難なのは
とりあえず武田なんだよね。あの時点では結局ねw
滅んでいるからこんな都合がいいことはなし。
三條家との縁組とそれに伴う勅使を立てた前例もあるから
公家や朝廷へ前例ないとは言わせないという強みもあり
信玄の娘に変わりないと養女ねじ込みも十分可能。
>>266 あの時点だったからこそ武田はありえない。
だってまだ天下統一してないから。
嫁取りは大事な戦の戦略。そんな大切な手を武田の姫につかう価値はない。
どうしても松姫を手元に置きたければ側室で迎えれば充分お互いの
利益を享受できたわけだから。正室と側室の意味合いが全然違うんだよね。
それと松姫を公家の養女にしてから娶るという考えもまったくのナンセンス。
いったん養女にしてしまったら、武田とは縁切りという立場での嫁入り。
それでは意味が無いんだろ?
武田の姫というところに価値をおくなら、その考えこそ否定するべきだよ。
養子縁組をするとあらたな養い親の家から嫁ぐことになり、
武田の血はつながっていても武田の姫扱いはされないから。
>>257 >>266 公家との養女縁組にこだわりたいみたいだけど、
武田家と転法輪三条家の婚姻とは情勢も公家に対する考え方も違うだろ。
信長の行動からして、今さら公家の権威をありがたがると思う?
「気の毒な松姫を側室にして庇護する」というありえそうな妄想ではなく、
まわりくどく「公家に養女にだしてから信忠の正室に迎える」という無理矢理な
妄想になるのだろう?
それと
>>247では勝長が尾張に戻っていたっぽいということだが、
なんの史料にそう書いてあったのか知りたい。信忠付与力の勝長が
中国攻めを前に信忠の元を離れて単独行動をしたとは思えないのだが。
二人は二条御所で共に自刃しているわけだしな。
史料、文献の提示を求めると、とたんに黙り込む妄想民。
反論できない場合に完スルーを決め込み、
うやむやに終わらせるパターンも有り。
一文無しで実家がなくなり、何の後ろ盾もない貧乏姫様の松姫。
松姫ファンは苦肉の策で公家に養女という形で「公家の姫」の衣を羽織らせ、
時の最高権力者の嫡男の正室として結婚させたいわけよ。
そうそう、家系図で織田信忠の室と記載されていた件だけど、図書館で
織田家の家系図をいくつかみたが、どれもこれも違うんだ。
子供の数が違う、兄弟姉妹の順番が違う、信忠のところに「室松姫」
の記載がないものだった。
織田家だけでも10以上の家系図があるそうで(恐らくもっとたくさん)。
家系図は2級史料の参考程度のものでしかないということなんだな。
幕府公認の家系図だって格藩で江戸期に提出した資料をもとに作成した
わけだから、たまたま提出したのがその史料だったというだけだろう。
俺が見た史料のなかには勝長が信玄養子と記載されているものもあったが
その事実はない。勝長は遠山家の養子になったのは事実なのにその記載も
ないものもあった。
後年作ったような家系図はしょせんその程度の信憑性ということだ。
松姫ファンもそんなもので浮き足立つなよ。
>>271 自分は松姫ファンwだけど、
彼女の人生に過剰な劇的さは求めていないよ。
むしろ、好きだからこそ信憑性の乏しい伝承や
悲恋話に疑問を持っている。
こういう松姫好きは他にもいると思うけど。
織田の家系図について、
色々と調べたことを書いてくれてありがたいです。
幕府に提出した家伝の系図といえど、
提出時の事情や背景で内容も違ってくるだろうし、
幕府側がいちいちその申請内容を検証してたわけでは無いよね。
その人物が好きゆえに飾りこみたい気持ちがあるのだろうけど、
一つの伝承や系図のみを頼みに、他系図には目を向けず
憶測ばかりで語るのはいただけないと思ってるよ。
実家が滅び後ろ盾もないが名家というだけで生き延び
江戸時代には高家になった氏真という人もいるから
滅びたとか後ろ盾とかはあんま関係ないと思う。
>>273 武家や貴族社会に限定すると、男と女では全然違う。
女は嫁ぐ前は家の父兄に庇護のもとにあり、嫁いだら夫と嫡男の庇護におかれる。
女の縁組は実家の格と経済状態で相手が決まり、父親や後継ぎの後ろ盾がない女は
嫁ぎ先も制限された。
こういった特権階級の女性の結婚事情は戦国期にかかわらず、戦前まで続いていた。
松姫のような女が表舞台で生き残るとしたら、それなりの権力者の側室となって
子供を産むことだけしか道は無かったろう。正室は家と家との縁組だが、
側室は正室に腹を貸すだけだから、名家だろうと卑しい出自だろうが
関係なくなれたから。
日本の歴史を語るには「家制度」「家長制度」ぬきに語れない。
関係ないどころか、日本の歴史はほとんどがその制度の上に
なりたっているんだから。
275 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 20:22:29
今川氏真と松姫を同じレベルで語ってるやつがいてびっくりした・・・・・
>>263 織田信長は、実家が滅ぼされて(正確には別流に支配されて)政治的後ろ盾を
失って価値のなくなった濃姫を正室として遇し続けてますよ。
政治的後ろ盾も無くなってというなら上杉景勝もだな。伊達政宗も同じ。
>>276 当たり前じゃん。信長正室として正式な婚姻関係があるんだから。
結婚後は織田家の庇護のもとに生きていくのは当たり前だ。
濃姫が信長と結婚した頃は圧倒的に斉藤家の方が勢力があっての縁組だったし、
織田家がぜひにと望んだ婚姻だったのは、全て斉藤家の後ろ盾あってのこと。
もし縁組前に武田家が滅んでいたら当然織田家との縁組はなかっただろう。
それに実家が滅んでも織田家嫡男を養子にしている濃姫は堂々と
織田家で女主人としての立場を維持できてたよ。
実家の後ろ盾のない松姫はまともな相手とは婚姻関係を結ぶ資格がないと
言ったつもりだけど理解してもらえないようだね。
仮に信忠の正室で織田家の人間だったら武田が滅ぼされても
織田家の正室として堂々と君臨し続けられただろうにな。
>>277 大名夫人なら、築山殿、江与の方、ガラシャもだな。
江与は秀吉が後ろ盾になっているから徳川家に嫁げたんだろうけど。
280 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 21:52:43
>>276 濃姫、築山、ガラシャ、景勝夫人、政宗夫人はいづれも嫁いだ時点では
実家に力があって婚姻をむすぶ意味があったが、松姫は嫁ぐ前に実家が滅びたんで
織田家からしてみればわざわざ嫡子の正室に迎えるだけの価値がなくなった。
濃姫は比較する対象にならない。
これまた凄い断言だな。どこぞの家に養女という手もあるだろうに。
大名筋なら例えば佐竹、一門筋なら例えば穴山、秋山、逸見
母方実家の川窪等
平安あたりからそうだけど、実家が没落ないし後見がいない
家格が釣りあわない場合等は養女にして嫁がすという手を
まま使ったりしたそうだ。
>>281 そこまでして松姫にこだわる理由はあるか?
養女にしたら武田の姫が穴山に姫、秋山の姫、逸見の姫として輿入れになり、
格下扱い。せっかくの武田の血は無視される。
武田の姫が欲しかったら実家が武田を名乗ってなきゃだめなんだよ。
>>280 いちいちageてんじゃねーよ。
価値がない?甲信を丸く治めることと武田遺臣集めとという
重要な役割があったんじゃねーか?
釣りであっても滅亡したり没落した家を再興させるっていうのも
統治する上に案外重要だったりするんだぞ。特に古くから長いことそこを
治めてきた国人集中地域はな。
285 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:05:24
>>281 織田家にとってそこまでして松姫を迎える意思もその必要もない。
何で松姫オタは無理矢理でも信忠とくっつけようとするの?
286 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:06:11
実際のところわからないのに断言的に書くから突っつかれることに
いい加減に気づいたらどうですか?
>>284 そんなこと言ったら、滅ぼした国の姫をその都度正室に迎えないと
その国は統治できないわけか?国人衆はね、利害関係で時の当主と
強く結びついたり、あっさり離れてりしてきたんだよ。信玄の時代から
そうだったろ?その後甲斐を治めた家康はどうだ?松姫がいなくても
立派におさめたぞ。武田家の姫を二人「側室」にしたが、どちらも
正室にはしらおらん。当時家康には正室がいなかったにもかかわらずだ。
松姫には織田家嫡男の正室になるだけの価値がないというのは
紛れもない事実だったんだからしょうがないだろ?
>>287 実際のところわからないのに自分の妄想を書くから突っつかれることに
いい加減に気づいたらどうですか?
>>280 景勝と政宗のかみさんの場合はどう考えても違うだろ。
特に政宗のかみさん実家なんて佐竹や芦名に押されまくって
実力があったとはとても思えん。
正直もっともらしいこと書く割りに(ry
>>288 実際後に甲斐を治めた家康にしたって側室こそ迎えたが、そこまで気を使わなくても
うまく甲斐を統治してるぞ。武田遺臣にしたって織田に遺恨を持つものは
少なからずいるだろうが、より強い者が現れればそちらに靡くのが戦国の常。
すでに滅びた武田家に忠義立てする物好きはほとんどいないよ。
むしろこれから平定する中国以西や東北の大名、もしくは朝廷から迎えるという
選択肢の方が織田家にとってメリットがある。
亡国の姫をわざわざ正室にする意味なんてないんだよ。
>>288 家康の側室になった「武田家」の姫って誰?
293 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:25:04
>>291 ホント馬鹿なんだな。
まがいなりにも大名家として存在してるし、伊達家にとっても
葦名家に対抗する上で結ぶ政治的意味はあった。
この意味で家が滅亡した松姫よりも濃姫や景勝夫人に近いんだよ。
295 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 22:26:12
本スレから来たけど荒れてるね
だ・か・ら武田家の姫って誰?
>>290 政略結婚は必ずしも対等な力関係から生じるとでも?
当時の伊達家は弱小大名を事実上の配下におくためにどんどん縁組してたんだよ。
愛姫の祖父母も伊達の先代の姫。当時の田村は伊達あってのお家存続だった。
だからぜ〜んぜん不思議じゃない縁組だよ。
織田家だって濃姫との縁組の時点では圧倒的に斉藤家>>>織田家だぞ。
>>297 武田信吉の母だな。
正確に言うと武田縁者の娘。
>>297 武田家縁の姫だろ?下山殿とお牟須。正確には武田家臣の姫。
武田新吉の母親は秋山の姫だったが穴山信君の養女になってた。
穴山の実母は武田信玄の姉で、妻は信玄の姫だったから
一応は武田の姫に準ずる立場だったのに、側室だったな。
下山殿の義母の穴山夫人のおかげで子供に武田姓を賜ったんだろうと思う。
滅びた家の姫は、いくら名家出身でも側室がせいぜいだろうね。
諏訪御寮人しかり、淀殿しかり、三の丸殿しかり……
信忠が生きていたとしても、松姫もそうなるだけ。
それは武田家の姫とは言わないんですが?
>>301 秋山の実子、穴山の養女でも家康の側室にしかなれんわけだな。
じゃあ
>>281の案なんて無理じゃん。松姫が秋山の養女になっても
穴山の養女になっても、織田家嫡男の正室なんて絶対無理じゃん。
残念!
>>302 諏訪御寮人も淀君も三の丸も正室がいたから仕方ないというのも
あるけど、じゃあ正室がいなかったら正室になれたかというと無理だったろうな。
敗戦国の美女は勝者の側室としておかれることがお決まりだもんな。
織田家内≠徳川家内他
何でもかんでも一緒にするのは良くないとオモ
諏訪も淀も三の丸も正妻がいたから側室なのは仕方なし。
いなかったらどうなっていたかはわからない。
>>274 >>275 禿同。
れっきとした守護大名家の元当主と、姫一人では比較にならない。
>>281 281がどの意見に対するレスか不明だけど、
松姫に関しては養女云々の痕跡が無いから、仮定されてもな。
あと、家康側室の下山殿・お都摩の方(妙真院)は秋山虎康の女で
穴山家から家康のもとにいったことくらい、知ってる人は多いぞ。
>>284 285と288をよく嫁。
>>307 ループするが、諏訪も浅井も京極もああなっちゃったら
大将の側室になれただけでもラッキーだったよ。
京極殿は秀吉に土下座して弟の命ごいと引き換えだぞ?
諏訪も淀も家臣や身内の保身のために側室になったようなもんだ。
正妻にしろという立場じゃない。
>>301 下山殿・お都摩は側室ではあったけど、
家康の侍妾のなかでは「殿」付けされて、
地位は高いほうかと。
松戸の本土寺に水戸家の建てた立派な墓があるしね。
>>310 でも側室は側室。嫡男を産んだわけでもなく、その他大勢の側室の一人。
確かに一応出自がわかっている側室の中では下山殿が一番名門の姫といってよいと思う。
武田姓を与えたのもそのことの影響は否定できないけどね。
>>311 あのー、側室としての下山殿の説明をしただけなのに、
>でも側室は側室。
なんて、きつい言い方されても困るよ。
最初から読んでみたけど都合よく解釈してるのが暴走していてワロス。
ぶっちゃけ前後のレスが噛み合っていないというか
すり替えられているというか。
まぁ、なんだ。実際の戦国時代なんて正直誰もわからない。
絶対あり得ないとも言えないしあり得たとも言えない。
松姫に関する信忠とのくだらん妄想話は付き合いきれないけど、八王子で
苦労して姫たちを育て、旧武田衆の心の拠り所となって生涯を終えたという
話の方がよほど興味がある。あの時代の深層のお姫様では考えられない
人生だ。いいかげん、舞台を八王子に移したいんだが…
戦国の姫さまは深層じゃないだろ
ごめん、「深窓」・・・。
317 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 00:03:19
あー。少し落ち着いたか。
でも、以前のこのスレで下嶋氏系図の添え書きの信憑性の怪しさは
充分に指摘されていたのに、また蒸し返しだったな。
他にネタもないからループするんだろうけど。
>>314 その後の信松尼といえば、保科正之と生母・お静(志津)の方との
関係が目立つことの一つかな。
ともに甲斐から逃れた三姫のことについては概出だよね。
仁科盛信の姫は尼になって八王子に留まったけど、
早世して気の毒なことだった。
下嶋の添え書きの信憑性が怪しいなら寛政家譜集そのものも
怪しいことになりかねない。そうなると史学で使われている
家系図も全て怪しいから史学の一部は崩壊しかねない。
とんでもない発見をしたんでつねw
>>318 ループさせたいの間違いだろw
人の意見には耳を貸さず自論を押し付けるオレ様くん。
>>319 >> 271にあるように家系図は2級3級の資料なんだよ。
ある程度信憑性のある史料と照らしあわせて人物を特定する
作業に使うけど、確かに子供の数が違っていたりは当たり前。
まったく一緒のものは存在しないかも。
有名な大名や公家の家系図なんて全国に何通りもあるよ。
例えば松姫が信忠室と記載されているものは、
二人が婚約中に見切り発車で書かれた家系図に継ぎ足されていったもの。
明らかに捏造とはいわんが、信憑性はその程度と思っていればいいのさ。
別の言い方をすれば、「信忠室」とあるから二人に結婚の実態があったはずだ!
と主張すれば、笑いものにされるよ、ということ。
>>321 すでに松姫妄想オタは笑いものになってますだw
まぁ、織田家が幕府に提出した系譜(「寛政譜」)では、はっきりと
「(正)室は武田大膳大夫晴信入道信玄が女」となってるけどね。
後世においては当の織田家でも公認されているって事でしょ。
>>323 だからその認識でいると笑いものになると言ってるのに。
公認もなにも正室になった実態がないのは後世では武田家からの史料でも
織田家からの史料からでも明らか。
家系図と数点の史料を照らし合わせて確かかどうかを考察するもんだよ。
家系図だけでそう主張するのは歴史を語る資格のないド素人ですな。
信忠と信玄の娘との正室としての婚約がなったが、織田家と武田家
との手切れ、武田家の滅亡、信忠の本能寺の変での戦死に伴い、婚
約が履行されることは無かったって事でしょ。何の問題もない。
信玄の娘が武田家滅亡後、信忠を追っかけてったなんて話は全く別
問題。
「寛政譜」の記述が正しくないと反証するなら、一級史料じゃなく
とも「信忠の正室は別人である」であるとい史料を提示すればいい。
>>325 婚約と婚姻とでは全然違うでしょ?
婚約中に婚約破棄になったのに、どうして信忠の室という記載があるの?
そこがおかしいでしょと言っているの。
輿入れせいずに、室扱いなどしませんので。
正式に婚姻関係にもない相手を家系図に「室」と記載している
家系図のどこに信憑性があると言えるのでしょうかね?
それとも正式に婚姻関係にあって、松姫が織田家に輿入れし、
信忠とともに夫婦として織田家の城で暮らしたという
史料でもあるのですか?
あるなら教えてくださいな。
正式に婚姻が履行されはしなかったが、織田家としては正室と「認識」して
いたって事でしょ。当の織田家がそう認識しているのだからしょうがないで
しょ。
>>327 信長の時代がどうだったかの真実を知るための家系図でしょ?
当事者の信忠が見に覚えのない正室が存在してたったこと?
それならその当時のことに関して他のこともまったく信憑性のない
家系図だということになる。
それにその家系図だったと思うが、
勝長が武田晴信養子という記載もあった。
勝長は信玄と正式な養子縁組などしていない。
養子扱いの人質になっただけ。
しかも遠山家への養子縁組のことなどは記載もされていない。
そのことをとってもいかに家系図はアバウトかということがわかるわけだ。
家系図とはしょせんその程度の参考資料にしかなりえないということを
言っているのに、なぜいつまで松姫の記載にこだわるのか
理解できないね。
現代人の感覚では理解できなくても、そう認識してる事実があるんでしょ。
かくたる反証史料もないのに、うけうりの一般論を振りかざすのは危険で
すよ。
理解してほしいとも思わないし、させる必要もない。
一資料を提示しているだけです。どうとるかはスレを見てる人におまかせ
します。
>>327 武田家の家系図はどうなってるの?織田家嫡男の室になっているという
記載があるの?婚姻関係にあったなら両家が合致してないとな。
>>329 反証史料は織田家関連史料全てということだよ。
どっこにも信忠と松姫の婚姻の実態の記載がない。
松姫の輿入れの記載も、その後いつ武田に返されたのか、帰ったのか
もどっこにも書いてない。ゆえに二人は婚約段階で破棄なってそれっきりの
関係ということ。
武田方の史料にはどこかに松姫が信忠に輿入れしたという記載のあるものが
あるの?あったらぜひ知りたいから教えてくれと言ってるんだけどね。
ないんだろ?
それと松姫のことが事実という認識なら、勝長のことはどうやって
事実と認識させるの?勝長が遠山家の信長伯母の養子になったことは
いろんな史料にもあるのに、どうして記載されてないの?
晴信の正式な養子になったという武田方の史料はあるの?
矛盾だらけの家系図を事実とかたくなに信じられる思考が不思議でならない。
寛政譜の家系図って信長室が二人いるやつ?
濃姫と生駒。濃姫は信長死後も生きていたことを証明する史料が
ぞくぞくあるから、生駒が室になれるわけもないのに。
生駒マンセーが鼻息荒かったのはこのせいもあったわけよ。
作る方も適当すぎるんだよ。
室が正室の場合はあるけど、室=正室じゃないだろ
>>330 武田側の系図では記述によってニュアンスが若干違いますが、例えば群書本
の「武田系図」では「永禄十年十二月約織田城介信忠不約。為尼。」とあり
ますね。
>>331 不思議と思うならスルーして下さい。
>>332 「寛政譜」には信長の室は「斎藤山城守入道道三が女」としかありません。
見もせずに適当な事は書かないで下さいね。
>>333 「寛政譜」では室は「正室」の事で意外に区別して書かれています。
側室(妾)はその子の「母」としての記載されるだけです。
ですので信長の室の記載は道三の娘だけで、生駒氏は信忠の母としか
書かれていません。
>>332 でも生駒以外の側室の記載は誰もないんだ。
茶々などは「秀吉妾淀殿」という記載だったから
側室扱いなら「妾」と記載されただろうな。
なのでこの場合は明らかに正室として記載されていた。
訂正します。
「永禄十年十二月約織田城介信忠不嫁。為尼。」
>>334 俺は「寛政譜」とは断定してないぞ。お前こそよく読んでから書け。
>>334 「寛政譜」では室の区別はちゃんとつけてあるのか。
それなら室=正室のパターンなんだな。
「永禄十年十二月約織田城介信忠不約。為尼。」
これと信忠の正室だったということがどう証明されるんだ?
松姫が出家の理由をこの史料を書いた人物に直接語ったとでも?
松姫となると張り付いてくる人物がまたきたね。
いつもと同じパターンで、だんだん立場がやばくなると
逆切れして、荒れるし迷惑なんだよな。
あいかわらず松姫と信忠の幻の結婚に粘着しててさ。
いいかげんキモ杉。とっととでてって欲しいな。
松姫が出家したのは武田一族が滅んだ事を弔うためがメインでしょう。
なんで身内を滅ぼし、自分の国を奪った大将を弔うために出家するんだよ。
自分の身内よりも敵のために出家するような大馬鹿でいいの?
一資料を提示しているだけですよ。キモければスルーして下さいね。
>>343 松姫はな、甲斐が滅ぼされて命からがら八王子まで逃げてきたのに、
その後すぐにのこのこ敵国尾張まで信忠恋しさからやって来る大馬鹿だったんだよ。
だから、自分の兄や甥がさらし首にされ、家臣の多くが死に、武田家菩提寺を
焼き討ちされたのに、それでも信忠が愛しくて出家したのさ、チャンチャン。
>>345 今でいう「ストーカー」に近いもんがあったのかもな。
「私の夫は信忠様ただお一人!」と勝手に思い込んで、
アポなしで尾張までやってきたとか。
>>346 いや、それは無いでしょ。
その気になれば、信忠は武田攻めで甲斐に来ていたわけだし、その時に出頭
すればいいだけじゃない。
松姫のいる高遠城を信忠が総大将で総攻撃してるんだよな。
この時松姫の兄の仁科盛信は戦死したけど、場内の女子供は
落ちているはずだから(現に松姫は脱出してるし)、
どうしてこの時信忠のもとに命乞いに行かなかったんだろう?
信忠も降伏を勧告してからの総攻撃だったから、非戦闘員は
皆殺しにするつもりもなかったろうに。
後日信忠に尾張まで会いに行くというのはどう考えても不自然なんだけど、
もし二人にそんな気持ちがあったら落城の時に松姫が
信忠のもとに姫たちを連れて命乞いに行くというなら自然なんだよね。
そういうことが出来ない間柄、つまり同盟破棄後は織田家は敵になってしまい
兄を殺した憎い織田家の総大将、というふうに思ってたのかな。
>>334生駒が信忠の母というのも織田家関連の史料に明記されているもの
って実はないんだよな。
武功夜話と生駒家に伝わる書簡だけだそうだ。
武功夜話は言わずと知れた偽書だし、生駒家に伝わる書簡もなんだかなぁ。
生駒が信忠を産んだとされる根拠は、翌年に信雄、五徳と
立て続けに信長の子供を産んでいるので時期的に相当するというだけ。
あとの証拠とされるものは、全部生駒家の手が入っているものばかり。
>>346 八王子から尾張に向かったことじたいが
眉唾話だからなー
どうでもいいけどバロン曽志崎さんが御本家の濃姫スレにも
顔をだし、思いっきり無知をさらけだしているようです。
それこそ家系図にものってないような女を義龍の正室だとほざいています。
どうでもいいんなら書かなきゃいいのに。
そういう粘着の方がキモイよ。
ソース出せずに逃亡しちゃったみたいだね。
武田家の家系図では松姫は誰の室にもなっていなくて「信松院」とあるだけ。
つまり武田家では織田家に正室として松姫が輿入れした公認していない。
織田家が公認していたから事実なんだという言い分は通用せんよな。
なんで武田家の家系図のことは一切触れずにあんだけ言い切れるんだよ?
俺は「信玄の娘が正室として信忠に嫁いだ」史実があるとは言ってないでしょ。
当の織田家では形式上にしろ正式に公認していた事実があると言ってるだけ。
一般論で出典が系図だからといって叩くのではなく、反証資料を出して検討
してみたら?と言ってるだけ。
俺は系図・軍記の類でよけりゃ、婚約が沙汰止みになったという資料を提示
できるよ。
そうしなきゃいくら2chとはいえ、都合のいい脳内ソースだけで話しててもつ
まらないでしょって事。
例えば
「八歳にて織田信忠と婚を約し、十二歳の時絶婚、(中略)、親族婚を勧めれ
ども聞かず、十八歳にて薙髪尼となる。」とかね。
>>357 それならば
>>まぁ、織田家が幕府に提出した系譜(「寛政譜」)では、はっきりと
「(正)室は武田大膳大夫晴信入道信玄が女」となってるけどね。
後世においては当の織田家でも公認されているって事でしょ。
と発言する前にまず自分で「武田家家系図では公認されてない」という反証資料
を検討してから意見を書くようにしてくれませんか?それこそ都合のいい
脳内ソースだけで話をしててもつまらないよ。
それと婚約が破棄されたのは、信長が徳川に援軍を送ったという事実からだけで
充分証明できてます。同盟破棄になったので婚約破棄になったのだから。
なんだかあなたは何を主張したく、何を証明したいのかさっぱりわからん。
「八歳にて織田信忠と婚を約し、十二歳の時絶婚、(中略)、親族婚を勧めれ
ども聞かず、十八歳にて薙髪尼となる。」
1567年に婚約したからその時8歳なら、本能寺の変の時は
1582年だから23歳。本能寺の変があって信忠の死後出家したから
18歳で剃髪したというのでは全然計算が合わんが?
すでに怪しげな史料をだしてるし・・・・・
>>358 「寛政譜」云々は「松姫が記載されていない系図がある」に対し、江戸時代
の最も公的である系図に記載があるというレス。
>>信長が徳川に援軍を送ったという事実からだけで充分証明できてます。
状況証拠はあくまで状況証拠。推論でしかない。
同盟破棄になっても婚約破棄になっていない(普通考えられないが)可能性
は0%とはいえない。
二級、三級資料であろうとも、文書なり記録なりを提示するのが大事。
>>359 怪しい、怪しくないは資料を検討するのが大事。
婚約破棄が「否」なら、婚約遂行が「是」でいいの?
>>360 では婚約破棄をしていないという状況証拠ではない明らかな
証拠を提示してください。2級、3級でもかまいせんよ。文書なり、記録を
提示するのが大事なんでしょ?
あなたが提示してきた史料には年代の矛盾はともかく「十二歳の時絶婚」と
あるようですけど、これはどう解釈するの?この表現では婚約破棄は
決定ということ。だから親族は松姫に結婚を勧めたわけでしょう?
自分で婚約破棄が明確ととれる史料を提示してきて、とても矛盾した
主張をしているようですけど。
バロンさ〜ん、ここ戻ってたのね。
濃姫関連のスレであなたのこと探してましたよ。
ソースがどうたらとか、どこの一条さんだとか、早く行ってレスしてきてね。
>>361 よく文意を読んでください。
私は「婚約破棄」を否定していません。
一級史料による確定が出来ない以上、両説の資料を提示しているだけです。
>>362 複数の軍記資料に義龍と一条氏、その子がほぼ同時に無くなったとあります
が、あのスレッドに資料価値の低い軍記類を提示する必要はないでしょう。
興味のある人は、土岐氏関連あたりの軍記を参照してください。
>>363 両説といっても、あなたが提出している資料は明らかに婚約破棄を証明するもの。
武田家の家系図も同様。
織田家関連の史料には松姫の輿入れに関する箇所はどこにも見当たらない。
織田家の家系図の記載だって、勝長一人とっても矛盾だらけの記載で
いくら公的なものといってもそれを信用するに値するものではない。
婚約遂行を証明するものは何もないですね。
松姫の墓も織田家とはまったく関係のないところにあるし。
信忠正室なら、織田家のものが同じ菩提寺に葬ってくれたでしょうけどね。
>>364 敵前逃亡か。卑怯だな。じゃあ何であのスレに書き込みしたんだよ。
>>359 こんなちょっと自分で計算すればわかるような矛盾だらけの史料を
えらそうにだしてくるようじゃ、あちらにいったら袋叩きだな。
もし松姫が正式に信忠と結婚していれば、武田家の菩提寺だった恵林寺の
過去帳に松姫のところに、「織田信忠室」みたいな記載があったはず。
寺の過去帳は檀家のことなら下手な家系図より確かだから。
でも焼けちゃったろうな・・・
369 :
家康:2006/10/30(月) 19:53:33
松姫ハァハァ
織田家関連の一応信憑性の高い史料には松姫と信忠との婚約、
それにともなう織田・武田の同盟のことは一切かかれてない。
したがって松姫との婚約の事実すらなかったのではと推測している。
実際そのような話はあったのかもしれないが、具体化せずに終わったのだと思う。
松姫が何年も婚約状態のまま据え置かれ、織田家に嫁ぐこともなかったことも
説明がつく。婚約そのものの事実がなかったからだ。
三方ヶ原の戦いでは武田と同盟関係にないので武田と交戦中の家康に援軍したのだろう。
信長の養女と勝頼が結婚したことで武田、織田の同盟関係が
あったことは事実だろうが、遠山夫人が亡くなったことで
両者に同盟関係がすでになかったのだから問題はない。
と、織田家末裔の友人が力説してたよ。
371 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 23:19:20
三法師の母を思わせる資料は存在する。しかし、出典は教えられない。
まだどこにも発表してませんので。
でも、信忠の正室ではつりあわないでしょう。
あと、キリスト教の宣教師に信忠は一夫一妻制さえなかったらキリシタンになると
語ってることを皆さんご存知?
寛政譜の記述の論議になってますが、その織田家はただたんに公記を参照しただけ
ではないでしょうか。
義龍室一色氏は若狭か丹後出身ではなかったかと思います。
龍興も一色氏を名乗ってますが何か。
>>371 何のレスなの?大丈夫?
>>キリスト教の宣教師に信忠は一夫一妻制さえなかったらキリシタンになると
語ってることを皆さんご存知
信忠さん死んじゃったから誰一人そう語っていたのを聞いた人はいないよ。
あなたには聞こえたの?
明日にでも精神科に行って、↑と織田信忠さんという人が言っている
と医者に言おうね。今日はもう遅いから眠剤のんで寝なさい。
××の末裔から聞いたという話ほど怪しいものはなし
>>371 >しかし、出典は教えられない。
まだどこにも発表してませんので。
何に対しての反レスか、または誰の事跡に関しての史料かくらい
ちゃんと書いてよw
>>373 また、いい加減な(自称)史料の存在を掲げた奴が
その史料の成立事情を聞かれても答えずにあいまいにスルーしたり
「門外不出なので、詳細は語れません」というのも良くある例だよね。
375 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 05:43:42
372は無知ですね。フロイスの日本史ですよ、出典は。信雄は父がキリシタンになるなら
自分も従うといい。信孝は自分はなかばもうキリシタンであると言ってます。
三人が南蛮寺を訪れた際に語ったもので三人の性格を表した比喩としてよく引用
されてると思いますがご存知ないんですか?一度読んでみては。
374さんいいかげんに思わせるようなかきこしてごめんなさいね。
史料は門外不出ではなく、見落とされてるか、専門家でもスルーされている史料
なんでしょうかわかりませんが、女性史研究している大学の教授は少ないから
ですかね。
>>375 ぷぷっフロイスか…
バテレンに好意的な人物のことはあからさまにもちあげ、反キリストの人は
ぼろくそに書いてあるあれね。あんなものを根拠にえらそうに…
フロイスって時事はともかく、信仰に関する記述はいい加減だし
松姫が信忠の子供を産んだなんて信じている馬鹿まだいるのか。
当時の姫様はいずれ敵対する他家に嫁ぐために城の内部すら
出歩く事を禁じられて、ましてや外出なども制限され、
国内、城内の情報が他家に漏れないようにされていたというのに。
どこでどうそんなことができるんだ?ということも考えないなんて
ウルトラ浅はかな女性史研究だな。
しかも結婚前に私生児を産むなんて名家の姫にあってはならぬ
大不祥事。もし松姫が結婚しずに妊娠したら、子供は堕胎薬で始末され、
出産してもその場で殺されるか、寺にでも預けられるかで、密かに処理されただろう。
織田家だって誰の胤だかわからん子供を信忠の子と認めて引き取るわけがない。
当時の婚姻制度、奥の制度すら無視したウルトラお馬鹿な女性史研究だな。
>>378 なんか変な事言ってる人って三法師の母親は
信忠と身分の釣り合わない別の女性だと言っているのではないの?
正室になれない身分ってことだし。
これで塩川女とか言われちゃったら大笑いだけど。
どっちにしろ、史料も提示できないような世迷い言を
まともに聞いてても仕方がないと思うけどね。
塩川氏女が三法師の母親であっても別に不思議じゃないよ。
正室であったという説には大いに疑問があるというだけ。
>>379 >>どっちにしろ、史料も提示できないような世迷い言を
まともに聞いてても仕方がないと思うけどね。
同意同意。
まさに世迷い言だね。
フロイスの世迷い言を根拠にしてくるとは、驚きだ。
>>375は手遅れにならないうちに病院に行けばいいのに。
>>380 ん?
自分も塩川女でも疑問はないよ。
これまでさんざんスレで出てる説を
ご大層に言っている
>>375が言い出したら
大笑いだって事。
>>375 フロイスの記した織田家の面々と信教の関連話なら
そんなに勿体ぶって明かさなくても、
たくさんの歴史好きが知ってることだと思うけどな。
ただ、彼は布教を目的としてはるばる来日したわけで
書き残した内容も、彼らの目的や任務を考慮したうえで
読み解かねばならぬ部分もあるってことを、
わきまえてる人は多いから、注意して引用する人が多いだけで
別に無知なんかではないんだと思うよ。
あと、史料についての意見だけど
文意がとりづらい文面で、言わんとしてることが不明瞭。
その史料は発表されてないと前レスで言ってるけど、
>専門家にもスルーされている史料
なら、ある程度は内容の明らかなものととるけどね。
このレスにはいちいち応じなくても良いけど
スレタイ内容に一説を投じるなら、もう少しきちんと理屈たてて、
わかり易い文章で書き込んで欲しいな。
「日本史」におけるフロイスの人物評価
織田信長
『彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、髯は少なくはなはだ声は快調で、
極度に戦を好み、軍事的に修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格で
あった。彼は自邸においてはきわめて清潔であり、自己のあらゆることを
すこぶる丹念にしあげ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、
ごく卑賤な家来とも親しく話をした』
明智光秀
『裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが・・・(略)
忍耐力に富み計略と策謀の達人であった』
豊臣秀吉
『彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた。
彼は身長が低く、醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。
関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており、
抜け目なき策略家であった』
露骨に主観入りまくりで、どこを信用してよいものやら。
信長って比叡山焼き討ちしたりしたけど、そういう残虐行為はスルーなのね。
大友家の耳川合戦のときは、寺社焼き討ちを大絶賛していたな。
大友義統が棄教したときは「女とヤりたいから教えを棄てた」とか批難していたし。
ああ、奈多夫人なんて「怒れる獅子」って散々ないい様だもんね。
388 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 18:25:47
奈多夫人はキリスト教を嫌ってたから宣教師が「イザベル」と記してるくらいだものな。
もっとも最初は自分も教会に行ってたらしいから何か決定的な出来事があったのかも。
>>385イエズス会は寺社破壊を奨励していた。なんてキナ臭い説もあったりw
秀吉が多指症というのは本当か?
墓を掘り返せば真偽がわかるけど。
>>389 説じゃなくて、実話ですぜ。
たしか大村純忠が洗礼を受けてイエズス会からの援助を取り付けたときは、その
交換条件で領内の寺社を焼いている。
他に信者を扇動して寺社の焼き討ちもやらせている、フロイス自身もどこぞの寺
にいってそこにあった「悪魔の像」を持ち出してブチ壊して薪にしたとか報告書に
書いている。のに、後秀吉からキリシタンの寺社焼き討ちを詰問されると「それは
信者が勝手にやっていることで我々バテレンは無関係デース」とか言っている。
フロイスって過激だったんだな。
悪いやつだ。
393 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 12:42:41
384さんフロイスのあのくだりはご存知でしたようですけど、372は明らかに
知らなかったと思うレスですよね。松姫の男性観は分かりませんが信忠の女性観は
これ以外ないと思われるので紹介したのですが。また、安土城に入った三法師に
付き添ったのは濃姫ではなく信忠の乳母だった女性で(正法山妙心禅寺米銭納下帳)
母は表舞台に出てきません。塩川氏が三法師の母というのは自称子孫の大学学長の
系譜にでてくるもので名前の寿々(もしくは鈴)というのもここからが出典で、岐阜
の円徳寺の住職で郷土史家でもあった松田氏が発表されたもので、後に一条氏に再嫁
しているのは荒木略記が出典である。
世迷い言ととらえられるのも仕方ないとは思いますが誰も指摘されたことのない
資料をここで出しても、病院行けとか眠剤飲んで寝ろとか言う方に言っても仕方ない
でしょう。人のことあれこれ言うとかネットだけで検索せず一度自分自身で調べてみたら。
新しい資料に出会えた喜びなんかは382なんかは一生味わえないのでしょうけど。
>>393史料がどうの以前の問題。子供じゃないなら、一言逃げに一々反応するな。
信忠の女性観と言っても、一人の人を愛したいか
複数の人を愛したいか以前の問題として
一人だけと結婚するというのが無理な立場であったという
表現であると思えるけどね。
織田家の当主として一杯子供を作らねばならなかったという
現実的な事情があるから、信忠の女性観というのもなぁ。
もっとも、その割に子供が少ない、側室を置くのも、
遅かった父親よりも更に遅いと思われるってことで、
女性に対して淡白だったか、何か他に理由があったかは
考えられる事ではあるけどね。
あと、三法師に付き添ったのが安土殿なんて言っている人間は
このスレには誰もいないし、ちょっと自分の論が先走ってるよ。
あ、それとね、信忠のその箇所のところだけど、
フロイスの日本史においては、直接信忠がそういったとは
書かれていません。
そのように言っている武将が多数あって、信忠は宣教師と話して
それは、おそらく、フロイスが書く肉欲以前の問題として、
「(後継者確保のための慣習上難しいので)便宜を図ってはどうか?」
と、話し合ったと書かれているのですよ。
>>393 >>信忠の女性観はこれ以外ないと思われるので紹介したのですが
女性観の問題なんかじゃないよ。
戦国時代においては婚姻関係は大事な戦略の一つ。
大名クラスの婚姻は全てといってよいほど敵国、あるいは傘下に治めたい
国との同盟関係を結ぶための手段に過ぎなかったんだよ。
そのために手駒を多く作るのは当主の務めであって、世継ぎのスペア以外に
男女ともに大勢必用だったわけ。信忠が一夫一妻制に賛同しかねたのは織田家嫡男として
当たり前のことだ。非常に浅はかな見解だね。
こんな当たり前のこと女性史の側面からだって学ぶだろうに。
いったい何勉強してるんだ?
>>398 ちょっと、はしょって書いたんだけど、その箇所は
フロイスが武将達の肉欲だの姦淫だのという誘惑に負けて
信仰を選ばないと嘆いている箇所なのよ。
それさえなければ入信すると言っている武将は大勢いるのだが……って
信忠に関しては、キリスト教に好意的であったとしていて
それさえなければ入信するという風にフロイスは解釈しているようだけど
「便宜を図れば入信者は増えますよ」と言って
3〜4回話し合ったとしているだけで、自分が一夫一婦制でなければ
などという直接的な話しはないのさ。
むしろ、フロイス側に婚姻における政略構想というものの理解がなく
一夫一婦制を武将が拒む理由を、肉欲のみに根拠を求めているから、
その辺りの説明をしたけど分からなかったという風に読み解くのが
いいと思える感じかな?
>>フロイス側に婚姻における政略構想というものの理解がなく
一夫一婦制を武将が拒む理由を、肉欲のみに根拠を求めているから、
だから
>>関白は極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺しており
の評価になるわけだな。
外国人だから日本の文化を理解するのは難しいだとうけど、
それにしてもものっすごく偏ったものの見方だな。
>>393 すまん。
相変わらず文意がとりづらい。
5W1Hとまでは言わないが、主語を入れたり
何年何月の誰それの行動については、的な文章で
わかりやすく自論展開してください。
393の文章は改行も変だよな。
もっと他人が読んでもわかりやすい文章を書いた方がいい。
みんな
>>393を責めるなよ。
精神を病んでいるんだから何を言っても無駄。
そういう煽りカキコはいただけないよ。
確かにまともな文献も提示せずに持論のみを展開しているのは
責められるべきだと思わなくはないが、だからと言って、
病んでるなんて言い方がいいとは思えないけどね。
滋賀県の聖衆来迎寺に『織田秀信公の母「鈴」の墓』というのがあるが、
そこは一条家の菩提寺なのか?
そこは、実は、森可成の墓があるんだよね。
だから自分は、森家関係の女性の可能性を考えていたんだが。
あ、でも、森家の菩提寺って訳でもないよ
信忠の側室が他の家に再嫁することって実際にあり得たの?
いちよ三法師の母と言われているような人なら普通は再婚って
あり得ないんじゃないの?
それにその一条氏ってどこの?
公家?土佐?
荒木略記を疑うわけじゃないけど、元助後妻の件もあるから
何かと混合してるんじゃないのと思ったりもする。
>>408 死別などなら女性の再婚はあっても不思議じゃない。
家康実母も何度か離婚、再婚してる。
信忠亡き後塩川女が再婚してもまったくおかしくはないけど、
普通は織田家嫡男生母として織田家で堂々と面倒をみてもらえるはずなのに、
再婚しているのは不思議なんだよ。
信忠死後実家に戻り、塩川家の事情で他家に嫁がされたのかな?としか考えられない。
そうなると、実家に戻ったということは三法師の実母というのも怪しくなる。
もっとも三法師亡き後、織田家嫡流が事実上絶えたので、実家に戻り
再婚したならそれは筋が通るけど、その頃塩川女は再婚するような年では
ないと思うな。
吉乃末裔同様、塩川末裔も自分の祖先が織田家嫡流の作った女性が
いたとかたくなに信じたいんだよ。
それらしい文献をネタにね。
吉乃末裔なんて歴史小説の武功夜話と生駒家だけに伝わる書簡だけが
根拠だから驚きだよ。他のどの史料にも信忠生母という書き込みはないのに。
塩川学長さんも必死なのはわかるけど、塩川家が織田家を援助して助けていた
ので、縁組があってしかるべきだったみたいなことも言ってるし、
ご先祖マンセーは見苦しいな。
>>371 >>義龍室一色氏は若狭か丹後出身ではなかったかと思います。
龍興も一色氏を名乗ってますが何か。
おいらはこれが何が言いたいのかが気になるんだけど。
義龍の正室に一色氏なんていたか?
浅井長政の姉が正室で、その後一条氏という女性が正室になったという
説があるが、それを証明するだけの史料などは残ってないし、
浅井家と同盟関係でなくなった時期と義龍が亡くなった時期から
長政姉が義龍の正室のままだったと考えられるのが通説だ。
義龍が斉藤家と袖を分かつために一色を名乗るようになったので、
息子の龍興も一色を名乗っただけなのに、
>>371は何が言いたいのかな?
武功夜話がなかったら、書簡まで疑われる事もなかっただろうにね
武功は生駒家が作ったもんじゃないからな。
生駒家を責めるより、前野家末裔吉田家を責めるべき。
ただ、自称吉乃の末裔が、大喜びで吉乃正室説を
至る所で語っているから同じ事かな?
塩川利員氏も至る所で大喜びで語ってるんだよね。
塩川家先祖鈴姫が秀信と秀則兄弟の実母だって。
まぁそういう意味では、三法師の生母が塩川女じゃない文献があるなら
出してきてもらいたいものだと思うね。
あの学長にはイライラさせられるのは事実だ。
>>409 嫡男生母であっても子供をおいて離縁して実家帰りというのは例がないわけじゃあない。
そちらも挙げている、徳川家康生母のこと。
他には竜造寺隆信の生母が鍋島に嫁いでいたりもしたな。
>>416家康の実母も龍造寺家の慶ァも家のための再婚だから、
塩川氏が織田家のために一条氏に嫁ぐことによって織田家にメリットが
生じたというものがあればそれもありえるけど、
当時の織田家と一条家に(どこの一条家でも)そんな利害関係あるか?
慶ァは当時としても異例の家臣との再婚だったけど、鍋島直茂を
息子隆信と義兄弟とすることで、龍造寺の家を守ってもらいたいという
計算ずくの再婚で、このかけは見事に成功してる。
>>393の隠し玉の資料って荒木略記のこと?
塩川氏がさんざん言いまくってるけどな。
ちょっと期待してたのに、正直今さらだな。
え〜、いくらなんでも、まさか荒木略記はないんじゃないの?
もし本当に出してきたら、ちょっと真面目に1から歴史を学べと言いたくなるけど。
でも、本人雲隠れしちゃってるし・・・!?
>世迷い言ととらえられるのも仕方ないとは思いますが誰も指摘されたことのない
>資料をここで出しても、病院行けとか眠剤飲んで寝ろとか言う方に言っても仕方ない
>でしょう。
「誰も指摘されたことのない資料」みたいだからね。
細かい事言うと、「誰にも指摘されたことのない」か「誰も指摘したことのない」じゃないのかと。
>>405 >>406 坂本の聖衆来迎寺は滋賀県を代表する名刹の一つだよね。
自分の持ってる歴読増刊1992年(素人臭くてゴメン・・・)の
「戦国名将の夫人と姫君」の夫人・姫名鑑での徳寿院は、
(正室とあて書きしてあるけど、そこんとこは昔の歴読なんでw)
出自は不詳で、塩川氏とも森氏ともいわれるが詳細は不明の旨
書かれているんだ。肖像画も載っている。
何で森可成の娘説が?と思ってたけど、
可成の墓があるためなのかぁ。勉強になりました。
森可成の娘のなかには信長との間に姫をもうけた人も
いたらしい。(岡田氏の信長総合辞典より)
そうだとしたら、森家が三法師に対して
それほど庇護していないのは何故だろう?
森家は長可が本能寺の変の2年後に死んで
当時若干15歳の忠政しか生き残って居なかったから
鈴が森家の娘だったとしても庇護する能力があったかどうか
森家って、清洲会議に出てたっけ?
三法師と、信孝のどっちについてたっけ?
可成の後を継いだ長可は本能寺の変後は旧領地に逃亡してるから、
清洲会議では森家は圏外だったのでは?
後に秀吉に味方をし、小牧・長久手の戦いで戦死してから弟の忠政が
森家家督を相続して、秀吉から羽柴姓をもらうほどの関係だから
秀吉サイド=法師側だろうな。
>>415 塩川氏息女、秀信と秀則、それぞれ墓があるわけだから、
遺骨からDNA鑑定をすれば一発じゃないか?
秀信と秀則が塩川息女と同腹かどうかもわかる。
塩川家がかたくなに調査を拒むと思うけど。
あくまでグレーゾーンにしておきたいだろうからな。
>>428 ついでに秀信と松姫のDNA鑑定をすればお馬鹿な妄想をするやつも
いなくなってすっきりするのだがな。
>>428 塩川氏息女と確定している墓じゃなく、秀信の母の墓でしょ?
森氏息女の可能性すらある女性の墓だからね、意味ないよ。
当時の信忠の側室と考えると、塩川氏はともかく
森氏の娘が側室に入っていてもおかしくない程
織田家と森家は密着状態だからなぁ。
意外と秀信の母親は森氏息女であったと判明しても
誰も驚かないと思う。
森氏息女の生んだ子供であったなら、安土殿が
三法師擁立に、秀吉の策略が分かってただろうに
異を唱えなかった理由も分かる気がする。
森長可があんなに早く死ぬなんて思わなかっただろうから
秀吉だけではなく、森家も実家筋としてもり立てていくだろうと
考えたのかもしれない。
>>430 鈴姫って塩川家の姫かどうかも不明瞭だったの?
家系図とかに載っていた女性だから学長さんも自信満々なのかと思ってた。
森家出身の側室でも不自然なことはなにもないな。
森可成の墓所と同じ寺院に埋葬されているなら可能性は否定できないね。
むしろ塩川家とはまったく関係ないところに墓があるなら
そっちの可能性の方が高そうだ。
>>431 実母が誰であれ濃姫は信忠を養子にしたわけだから
嫡流が信忠の系統になることに異存はなかったと思う。
信孝に嫡流がいってしまえば、正室の子供(義理だけど)の
系統がないがしろにされるわけだから、信孝派には賛同しかねたと思う。
信長と森可成の長女との間に生まれた子(落胤)とされるのは、加賀藩士で
芳春院付きだった生駒内膳直勝。
勝長の子勝良も加賀藩士になってるな。
その勝良の母親も森氏の娘だっけ?
なんで森家の女の子供はご落胤扱いなんだ?
森家ほどの家柄なら文句なく側室にあがって、生まれた子供は正式な織田家の子供
扱いされて当然だし、手駒の子供が一人でも多く欲しかったろうに。
織田姓も与えられず、落胤扱いなのは不思議だな。
信忠も誕生後のことだろうし。
勝良の母親は池田恒興の娘じゃなかったか?
>>437 要するに、現在有力説として言われている信正の
庶子にもなれない扱いと同じなんじゃね?
信長の正式な側室じゃなく、ちょっと手をつけちゃった。
でも、その時信長の他にも通ってたか婚姻してた男がいた。
そして、信長の子供か、その男の子供か分からない。
だから、正式な庶子に出来ない。
でも、信長の子供である可能性もあるから、
ある程度の配慮はした。
って事なんだろうな。
>>439 でもさ、武家のそれなりの家の娘ならそんな誰の子かもわからん
子供を身ごもるようなことになるのはありえん話だし、信長の手がたった
一度でもついたらなんの躊躇もなく側室にすると思うんだよね。
もし何らかの事情で信長以外の男の子の可能性もあるような子を
身ごもったら、人知れず堕胎薬で始末をするなりのことで
子供のことは闇に葬られるのでは?森家の女にとっても
傷ものにならずにすむし、森家の世間体だってあるだろうに。
たんにご落胤という噂にすぎないんじゃないかな?
生駒内膳直勝ってことは、生駒家に養子にだされて、それから加賀藩に行ったの?
ま〜た生駒家がからんでくるの?
信長様のお子様が養子になっているので生駒家にも信長様の血が
云々かんぬんってか?
そんなに信長に信頼されてたら、信長時代に生駒家は
もっと取り立てられているはず。
それこそ、土田御前が美濃土田の出身なら親戚なんだからさ。
でも、母衣衆に取り立てられた生駒勝介の他には全然だめじゃん。
生駒勝介は個人の能力だったぽいし。
そう考えると、眉唾だね。
>>443 嫡男の母の実家が有力にならないように深慮遠謀だろう
>>444 信忠が生駒の子でも濃姫の養子になったわけだから
完全に生駒家とは切り離され、扱いは他の家臣と平等だったはず。
純粋に信長に認められるような能力がなかったんだよ。
敵方だった美濃衆を厚待遇にし、嫡男の周囲を固めさせていたの
だって将来的な美濃攻略のためという理由もあるだろうけど
やはり能力的に秀でたものがあったからだと思う。
信長は能力が優れてると思ったら誰だろうと重用しただろうからね
その最たる例が秀吉。
百姓あがりを大抜擢。
北条と小山田と(葛山)と武田の関係を見ると松姫逃亡には
氏照が一枚かんでいても不思議ではないよ。
小山田の娘を連れているならなおのことね。
つか武田一族が根絶やしで、行く先々武田の残党狩りの最中、
頼る相手は敵方であっても多少なりとも縁のある北条しかなかったん
だと思う。幼い姫を連れて辛かったろうな。
450 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 16:57:03
信長も信忠も根絶やし命令なんぞ出しとらんぞw
自害以外の処刑された面々を見ても至って普通の戦後処理だって。
だね。織田は武田討伐で根絶やしをしようと徹底的な武断的な行動を…
一方家康はそんな織田軍の目を盗んでは遺臣を匿うという温情な行動を取り(略
なんていうステレオプロバガンダからはいい加減目を覚ますべき。
葛山信貞だって徳川に殺されたという見方の方が最近は強いし
向嶽寺での鎧掘り起こしも昔あったことを真似て広めた都合良い美談じゃないの?
と実は思っていたりする。
なんで織田信忠正室が織田から逃げまわるんだ?
この事実からも信忠正室話はまったくの架空だったとわかる。
後年織田家が武田の裏切り行為を強調し、徳川への援軍の正当化をするために
当時武田と同盟関係だったということにしたくて、家系図に書き加えただけだろう。
婚姻話だって怪しいもんだ。武田がらみの史料からしか記載がない。
織田がらみの史料ではそれに関してまったくスルー。
>>451 もしかしなくても昔あったことって重信の伝承のことだよね?
確かにこの話と向嶽寺での話はよく似てるんだよね。
埋めることになった状況までまんまそっくりだから怪しいとは
俺も思っているよ。火事場泥棒を正当化するためだったりしてなw
信貞の死については諸説があるけど徳川に殺されたと地元では伝わっているんだよ。
よりによって家康が隠居した駿河地域の駿東にもかかわらずね。
信貞が養子に出た葛山は少し複雑な家で、今川健在時は今川国人だったけど
血統的にみると実は北条の方との関係が深いんだよね。
で、信貞が養子に出たときに小山田の娘が嫁になったという話もある。
あの鎧って徳川が河尻あたりからかっぱらって埋めといたんじゃねーのか?w
甲信どうのではなく信玄様〜loveという純粋無垢な気持ちから
つい欲しくなってだったと思えば家康もかわいい奴よのうということで
仮にかっぱらったとしても許してあげようぜ。
家康が信玄ラブだったのは信玄の埋蔵金とかを狙っていたからでは?
信玄は金山経営で相当もうけていたそうだし(奴隷売買でも)。
お金大好き家康公だからねぇ。
長安に黒川金山の再掘をさせて成功しているぐらいだからな〜。
あながちかもしれんよな。三河の連中は甲府に多く移住して
後の悪名高き甲州商人の礎を築いてもいるわけだしなぁ。
458 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 10:48:49
お金大好きじゃない武将を探すほうが難しいと思うけどね。
合戦するにも謀略戦するにも先立つものは金だろ。
徳川の埋蔵金ちゅうのもあったな。
家康は細川に金を貸して恩を売ったりしている。
大名クラスだと嫁にだすほうも大変だったんだよな。
花嫁道具どっさり、持参金どっさり、お付の侍女多数、
一代限りの固有財産である化粧料をもたせ嫁がせた。
逆にいえばそれができる後ろ盾の実家がなければ縁組もできないということ。
没落した松姫にはそれだけの後ろ盾はなかったから、それなりの相手との
縁組は不可能だったし、一緒に落ち延びた姫たちがそれなりの縁組で嫁げたのは
家康が後ろ盾になったからこそだろうな。
>>460 後ろ盾を失った名家の姫は有力者の側室になって庇護を請うしか
なかったわけだな。でも当主の子供を産み、それが男子で、しかも
嫡男にでもなったら人生一発逆転劇の可能性もあったろうけど。
勝頼の生母ってそういう人生じゃなかったか?
秀忠が堅物でなく側室を持つ男だったら、松姫に目をつけた
家康が連れの姫達の将来を保証と、八王子の武田衆の保証を条件に
松姫を還俗させて秀忠の側室にすることも考えられたかもな。
甲斐国や、八王子周辺に多くいた旧武田の残党への徳川への忠誠も
得られるし。男子を産めば正室の江与より格上の出自だし、
どこぞの国の大大名になったことは間違いないだろう。
家康は武田縁の姫を側室にしてなかったか?
その側室に生まれた男子に武田姓を認めていたはず。
もし
>>461のように松姫が秀忠の側室になって、男子を産めば
武田姓を認め、大名にしたかもしれん。
つか、家康が松姫を側室に狙ってたという噂あったよな?
463 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:40:53
松姫は秀忠より20歳近く年上だよ。
無理がある。
家康の女狩りは与太話だというのにwww
史板か戦国板でもその話題は巷説、稗史と言われてるよ。
>>46 下山殿やお竹の方の話は色んな板でさんざん概出なのだが。
前のこのレスにいた人たちが居なくなったのかな?
またネタがループか。
秋山虎康の娘で穴山家から家康の側妾にあがった下山殿・お都摩の
産んだ子が万千代の武田信吉で、天正十一年生まれ
(天正18年下総小金三万石、文禄元年佐倉十五万石、
慶長7年水戸二十五万石、翌8年死亡)だよ。
家康は秀吉みたいに高貴な血筋の女をありがたがっている様子はまったくないし、
秀忠以降の将軍も正室以外はむしろ出自の悪い側室が好まれていたからな。
>461
>勝頼の生母ってそういう人生じゃなかったか?
諏訪頼重が死んだだけで、諏訪氏自体は残っていて影響力を持っていたから、
またちょっと違うなぁ。
>>466 諏訪氏を継いでいた勝頼を武田家嫡男としたことが
武田滅亡の要因の一つだったな。
武田の家臣にしてみれば勝頼をしょせんよそ者。
468 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 12:57:29
信玄は勝頼を嫡男になんてしてねーよ。
えっ?勝頼は武田家の跡取りじゃなかったの?
じゃあ嫡男は誰だったんだ?
信玄が勝頼の息子を当主にすることを遺言したという
説もあったが、そのこと?
嫡男は勝頼の息子の信勝だね。
勝頼は信勝成人までの後見役。
>>470 その話は一次史料の裏付けがないから、俗説扱い。
勝頼は信玄が亡くなった年に、家督を相続し、武田氏第20代当主となったと
考えられてるよ。ただ嫡男として幼少期から養育されてはいない。
嫡男は長兄の義信だったけど、信玄と対立したことから幽閉、
次男は盲目だったので出家、三男は夭折したために、自動的に
後継ぎになっただけ。
幼少期に諏訪氏を継ぎ諏訪四郎勝頼と名乗ってたぐらいだから、
当初は信玄は武田家の当主にする気はさらさらなかったはず。
一次史料厨いい加減ウザイ
【武田家内】に関する一次史料なんて無いに等しいから
一次史料では裏づけがといちいち否定していたら
【武田家内】の話なんてほとんどが俗説だ罠
>>472 その通りだよ。「甲陽軍鑑」なんて「武功夜話」レベルのフィクション
小説だからね。松姫に関することも織田家の資料には出てこない。
信忠と婚約した事実はなかったという見解の専門家もいる。
婚約後何年も嫁入りせずに甲斐にいたままだったという
のは不自然だが、婚約の事実がなかったなら説明がつく。
当時の嫁取りは人質を取ることと同義語だから、
信長が松姫を尾張に迎えないと同盟関係にはなりえないからな。
でもさ、江戸時代にブームを巻き起こし
たくさんの人々に愛読された甲陽軍艦と
台風の夜に出現した武功を一緒くたにするのも可哀想。
>>461 自分は松姫が好きだけど、過大評価はしたくないなー。
家康が関東に入府した天正18年の頃合いだったら、
多摩地区・八王子には後北条の浪人や帰農民が大量に居たわけで
>旧武田の残党
より、滝山城・八王子城の氏照に仕えた後北条の残党のほうが
多かったんじゃないかと思ってるしね。
だいたい、天正十年の時点で大量の武田遺臣が家康に起請文を書いて
仕官してるわけだしね。
>松姫を還俗させて
そんな、青岳尼や家光のお万の方みたいな事もちょっとねw
松姫の影響力を過大評価はしないけど、
祖先の菩提を弔いつつ修行の日々を送る旧主の姫だからこそ
地元民の崇愛を受けていたのではないだろうかね。
>>474 >>祖先の菩提を弔いつつ修行の日々を送る旧主の姫だからこそ
地元民の崇愛を受けていたのではないだろうかね
おいらもそう思うよ。なのに信忠に会いに行ったとか、信忠の子供を産んでいた
なんていう俗っぽい話で松姫のイメージが損なわれているのが残念だ。
「甲陽軍艦」は一般大衆向けに創作された歴史小説。
昭和期に作られた歴史小説の武功夜話とさほど変わらん。
山本勘助は創造上の人物、従って勘助と信玄のやりとりや、勘助の軍師としての
大活躍は全て創造というわけだ。松姫のことも怪しいかもな。
良く考えたら甲斐に館をこさえて、そこに住む理由はない罠。
その費用を持参金に、とっとと織田家に輿入れするのが普通だもんな。
478 :
日本@名無史さん:2006/11/20(月) 12:23:11
創作物については事実を基にしたフィクションというものもあるからな。
武功にしても甲陽にしても全てが全て嘘というものではないだろ。
そうでなければ甲尾同盟自体も怪しくなるわけで、比叡山焼き討ち後の
正月頃に信玄から夕庵宛てに出された書簡の内容も矛盾してしまう。
「信長の棺」同様に、史実と実在した人物を登場させ、そこに空想話をいれると
真実味がまして感じるものだ。
実際の「信長の棺」はありそで、なさそで、絶対ない話がばればれで
興醒めだったけどな。登場人物も時代的にめちゃくちゃだし。
「武功夜話」などその典型。
そんなことをしたせいで、事実と思われる箇所も全て懐疑的に思われるようになって
しまった。「甲陽軍艦」も同様な位置付けだと思っている。
甲尾同盟は遠山夫人が亡くなった時点で同盟が消滅していたと考えれば
一番すっきりする。当時の婚姻に伴う同盟は一代限りが原則。
婚姻=人質に差し出す、ということで成り立っていた同盟関係だったからだ。
なので信忠と松姫の婚約話はなかったか、
あるいは、婚約話はあっても実現できずにポシャッたのでは?
婚約しても肝心の松姫が甲斐にとどまっていたのでは人質にならず、
同盟関係はなかったのだろう。
「同盟関係にあったのに信長が裏切った」ということをでっちあげるために
後年付け加えたのだと思っているよ。
三方ヶ原の戦いの前に信長が家康に武田との合戦を考慮して
指示をしたためた書簡も残っている。
最初から家康を傀儡し、主導権をとった上での戦いだとしたら、
同盟などなかったと考えた方が自然だろう。
織田家関連の一次史料には信忠と松姫の婚約話は一切のってないしな。
信長の棺と武功や甲陽を同じに考えるとはいやはや・・・失笑
実在しない山本勘助が大活躍しちゃうんだから偉そうないえん
歴史読本かなんかに誰か投稿したら?
戦国女人哀史の常連登場人物・松姫と信忠との婚約は無かった!
婚姻話は甲陽軍艦のでっちあげ、とネット上でもっぱらの噂!
>>482 俺が大学に在学中(15年前)に既に教授にそう教わったよ。
歴史読本には信忠と松姫悲恋のことが小説風によく載ってるよ。
かつての婚約者で相思相愛であった相手が総大将で城攻めに・・・
兄を殺され城を落ち、八王子に落ちのびた松姫は生涯夫をもたず、
信忠だけを思い続けた。
信忠の呼び出しに応じ、会いに行く途中で本能寺の変で信忠が自害。
松姫はその後出家し、生涯信忠を弔った。
松姫は信松院と名乗り、信松院の信は「信忠」の信の字をとったと
言われている・・・というお決まりのオチ。
信松院の信は実父の「信玄」の信だろ、普通に考えて。
信は両家の通字なんだから別にどっちでもいいんじゃねーの?
小さい頃の洗脳みたいな教育は大人になってもなかなか解ける
ような簡単なものじゃないんだし。
滅ぼすか滅ぼされるかの時代、そのあたりは案外ドライだった
可能性だってあるし、現代の感覚では到底理解できないことが
あってもおかしくはないだろ。
歴読の戦国女性特集の常連だからね、松姫。
踏襲逸話の焼き直しばかりで、もう飽き飽きしてる。
松姫が信忠と密会して出産した説を2ちゃんで展開してた人
今どこに居るんだろう・・・?
そもそも法名は髪をおろして、本山の認可を得てからもらうもの。
自分の好みの法名なんてつけられん。
法名は出家前の人柄、人物像を示す漢字を用いるので、
信松尼は信玄縁の姫ということを配慮してつけたものだと考えるべき。
「信松院殿月峰永琴大禅定尼」美しい字感ではあるよね。
信玄公の娘、松姫殿、山頂はるか彼方に輝く月のごとく、厳かで、涼しげな
趣があって、琴の音のようにはかなげながら、凛としたお方でありました・・・
というイメージかな。
本当に美しい字感だね。
出家後の松姫を考察すると、かなりの賢婦でたくましい一面もあったから
信忠正室として嫡男をもうけていたら歴史は変わっていたかもしれない。
信松院殿→【院号】 天皇や上皇が居住していた場所などを示していたことが始まり
自身が開基した「信松院」からとったものと思われる
院殿号は身分が高いことを示す
月峰→【道号】家名、地名、趣味、性格などを示し、戒名と組み合わせてある
一字は必ず実字を用いることが約束事となっている
この場合は「月」が実字
永琴→【法号】いわゆる戒名 本来はこの漢字2字のみが戒名であったが、
全部合わせて戒名という認識になっていった
大禅定尼→【位号】信仰心の厚さに比例して与えられる
出家した尼僧の中では「大」がついているので格式はかなり高い
戒名から伝わることは、院殿号を与えられているので、生前の身分は大名や
その室なみに高かった事。
出家していて、信心深いことを認められていること。
「月峰」が何を示しているのか詳しくはわからないが、
茶道や華道における呼び名でなければ、生前の松姫の性格
や容姿や様子を示す漢字であったのかも。
松姫の戒名はこの法名である「永琴」なので、信松尼と名乗ったというのは
かなり疑問が残る。院号を名乗ることは考えられないので、
「永琴尼」と名乗っていたはずだが。
例えば父親の武田信玄の戒名は「法性院機山信玄」なので、
法名の「信玄」が通り名になっている。
保科正之の生母、お志津が大宮氷川神社に納めた安産願文には
信松禅尼とはっきり出てくるから信松尼と名乗っていたのは
間違いないんじゃないの?
うやまって申祈願の事
南無氷川大明神、当国の鎮守として跡を此の国に垂れ給い、
衆生普く助け給ふ。
ここにそれがしいやしき身として太守の御思ひものとなり、
御胤を宿して当四五月頃臨月たり。
しかれども御台嫉妬の御心深く営中に居ることを得ず。
今「信松禅尼」のいたわりによって身をこのほとりに忍ぶ。
それがし全くいやしき身にして有難き御寵愛を蒙る。
神罰としてかかる御胤をみごもりながら住所にさまよう。
神明まことあらばそれがし胎内の御胤男子にして、安産守護し給い、
二人とも生を全ふし、御運を開くことを得大願成就なさしめたまはば、
心願のこと必ずたがひたてまつるまじく候なり
慶長十六年二月 志津
日陰の身でありながら、将軍御台の悪口や男子が欲しいなどと
継承問題に関わる重大なことを文書に残すか甚だ疑問なんですけど。
これが公になれば一族ただでは済まないんじゃない?
後年保科正之が将軍御落胤であるという証拠づくりのための偽書???
>>491 「信松禅尼」じゃなくて、「信松善女」と記されているものを
みた事がある。
地元民などには「信松院に住む尼僧」ということで、
信松尼様と呼ばれていたのかもよ。
ところで信玄は生前は自らを「信玄」と名乗っていたのか?
出家後の書簡などにはどう署名していたんだろう?
>>492 じぶんに都合が悪い文書は全て偽書かよw
というか・・・。
志津が氷川に納めた願文(所蔵は元氷川社人の岩井家)での
その部分はしんしょうせんにとかなで書かれてあるから
それが禅尼なのか善女なのかは不明なのが実際の所だけど
状況からすれば禅尼が妥当といった見方が有力。
どちらにしても松姫はこの頃には信松+敬称で普通に呼ばれていたのは
間違いなさそうだよ。
>>494 信玄(花押)
【善女】 - 仏法に帰依した女子
【禅尼】 - 仏門に入った在家の女性
松姫は在家じゃないので、「信松善女」が正しい。
帰依って仏教を信じたって意味で、出家したって意味じゃないよ
【善女】 - 仏法に帰依した女子 → 仏教の信者の女性
【禅尼】 - 仏門に入った在家の女性 → 寺に入らず在家で出家した女性
松姫は出家しているので禅尼が正しい
>>491 お静の安産願文に一番世話になった見性院のことがまったく触れていないのは
なぜだ?出産後は見性院の子として養育され、お江与の追求にも「自分の子だ!」
と突っぱねたと聞く。信松院に匿われていたというわけではないし、
八王子の信松尼がどれだけ助力したのかも疑わしい。
保科家の養子になったのだって、見性院とかつて武田家の武将だった保科正光
とのからみからだし、保科正光は甥を養子にすることを諦め、血のつながりのない
わけ有りのご落胤を引き取る事になったのも、ひとえに見性院の尽力あってのことなのに。
秀忠の子供を授かったとされる女性は複数いるんだ。
お通という人物もそうだという。
ただし、子供ができても堕胎させられるという暗黙の処置がされていたそうだ。
それを拒んでお静が強引に出産したのだろう(最初の子は堕胎したとされる)。
親子の命にかかわることだから隠密に、表ざたにならないようにしていたことだろうに
これだけ後世に事情が詳細に知れ渡っているのは不思議なことだ。
>>500 「帰依」とは、仏法僧の三宝を堅く信じて修行の拠り所とすることであり、
仏教徒としての出発点。つまり、仏教の教えを信じたものであれば
出家したものも、しないものも含まれる。
>>501 松姫が松信院を創建したのは1590年。そこに住んで尼として暮らしていたので
在家出家ではない。お静が安産願文を書いたのは1611年。当然信松尼は在家信者ではないわな?
なので信松禅尼はありえん。
信松善女が正しい。
信松院は松姫の時代は普通に庵でしょ。
見性院は信玄正室三条夫人の姫だったな。
松姫と違って武田家没落後早くから家康の庇護を受けられたのは、
信玄公の姫だったからかな。
東浦和にある清泰寺(うちの近所)に墓所があるんだけど、
墓の手前に葵のマークがついた鉄扉?があったがなんでだ?
>>504 【庵】
1 世捨て人や僧侶などの閑居する小さな草葺(くさぶ)きの家。
2 大きな禅寺に付属している小さな僧房。
出家してすぐに松姫は心源院に居住し、
その後八王寺の御所水の草庵に居住を移した。そこが後の信松院。
在家というのは、在俗のまま仏教に帰依した人や
正式の戒を受けていない人をいうので、正式に出家した松姫には
どっちみちあてはまらんのさ。
お志津の手紙にある「しんしょうせんに」は「信松善女」に決定だな
どっちにしても松姫を指し示す言葉なんだからどうでもよいと思う
>>496 ところで信玄は戒名なんだから本来「武田信玄」というのはありえない名前よね?
509 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 22:12:54
生前付ける戒名を、逆修戒名という。
戒名を名乗ったりもする。
例えば、謙信も戒名。
511 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 23:05:44
>509
>502や>505もかなり頭が悪そうだyowwwwwwwww
512 :
488:2006/11/22(水) 23:32:12
>>490 自分の知ってる塩山市の人は、もっぱら機山公と呼んでいたね。
>>491 >>496 >>497 自分の持ってる本の原文掲載は「しんしようぜんに」
>>505 忘れていないか?
見性院は穴山梅雪夫人だったことをw
『柳営婦女伝系』には、お静(志津)の避難先として「信勝院比丘尼」
「信勝院尼」と書いた部分があるという。
まあ、柳営婦女伝なので記述も混乱。
道号と戒名を合わせて名乗ることはあったと思うよ。
法号は戒名と組み合わせてあるものだから。
一休宗純は一休が道号で宗純が戒名。
小さい頃は苗字が一休で名前が宗純だとばっかり思ってたけど。
信玄は生前出家した後は徳栄軒を軒号に徳栄軒信玄と名乗ってたようだ。
>>512 信勝院は下山殿のことでしょ?
お静が懐妊した頃は信勝院はとっくに亡くなってるんだよね。
柳営婦女伝系には信勝院のことを「武田信玄の御娘也」
なんて書いてあるぐらいだから、見性院と混乱していると思われる。
余談だけど、正之の子の代になって松平姓を認められはれて会津松平家になった。
時は流れ、現代の徳川宗家18代目当主は、会津松平氏の当主を父にもつ
徳川恒孝氏が1963年に継承している。
516 :
512:2006/11/23(木) 23:31:36
>>513 うーん、水戸家から始祖の母として扱われ
「妙真院」という号をもつ下山殿(天正十九年死亡)を、
信松院や見性院と間違えるとは思えないけどね。
柳営・・・の記載は、やはり見性院と信松院が混同されて
なおかつ、家康の侍妾になったという誤解のまま書かれていると
思うけど。
ちなみに、家康の側室・お竹の方(一般に市川氏・良雲院)の
出自を「信玄公女」と記してあるものまであるらしい。
こういうお竹や下山殿・お都摩の存在や出自の諸説から
「松姫の身代わりになって家康のもとへ」の巷説が出来たのでは?
と自分は思っています。
>>516 しかし『柳営婦女伝系』には「信勝院殿は神君の御八男信吉卿の御母堂の事也」
とあるので、明らかに下山殿をさしている。
家康の息子なのに武田姓を継ぐことを許されたので、武田信吉の母下山殿が
信玄の御姫と誤解され、なおかつ、見性院とごちゃごちゃになったのでは?
信松尼のことは静の祈願文が後世公になるまで表立ってでてない存在だと思うんだけど。
柳営婦女伝系のその辺りの記事は
混同のままの誤記も多いということで・・・。
それに柳営婦女伝系の記載のみを頼りに
人物の詳細を語る研究者もいないしね。
ところで、松姫が信忠室だったと本気で信じている人たちに質問なんだけどさ。
祝言をあげた事実がない、当然夫婦?が一緒に暮らした形跡がない。
妻の?松姫がいるのに高遠城攻めの総大将が信忠。
夫であるのに?信忠が松姫スルーで松姫命からがら逃避行。
城落ちした松姫一行に織田家はいっさいノータッチ。
織田家が信雄で落ち着いた頃になっても、
松姫の機織や寺子屋での収入によるその日暮らし。
信忠正室なのに織田家の墓に入ってない。
信松院にある松姫の墓にはかの有名な武田菱の武田家家紋が
ばっちりある。
↑の事実をどう解釈して、信忠室の話がありえると納得できるのか知りたい。
ちゃかしではなく、自分は絶対あり得ない話だと思っているのだが、
別の視点があるのかなと思って。
結局
お互いの本当の気持ちは、当事者しか知らないのではないかと
気持ちも何も本人達は「はぁ?とっくの昔にポシャッた縁談話なんですけど・・・」
と思ってると思うよ。
西山家文書って今はどこで眠ってるんだろw
524 :
日本@名無史さん:2006/11/29(水) 00:34:11
>>520 とりあえず織田宗家になんで幕府に提出した家系図で信忠室を
信玄女としたのか?もし違うなら訂正してもいいと思われるのだが
なぜ未だ訂正しないのかということを聞くのが先だと思われ。
改竄やこじつけが他家に散見されるのが普通なんで
いちいち審査したり追及なんてしなかったんじゃないの?
というか
>>520はヘリクツを並べたただの煽りだからスルーするがよろし。
久しぶりに覗いたらまた変なのが沸いていてワロタw
両家が戦状態なら仮にそれまでは婚姻状態であっても
離縁になるというのに…まじでアホじゃねーの?
勘違いされると困るから補足、>527は>520のこと
坊丸奪還までは、信忠が松姫を云々の噂は積極的に織田が流した可能性もあると思うけどな
1581年に武田が坊丸を返したのはあまりにうかつな出来事だ
坊丸が織田にいるかぎり、織田は武田に攻め入れなかったようなのに
勝頼は坊丸を返せば嫡男信忠に甘い信長と再度同盟を結べると踏んだのかもしれないが
これは勝頼の方が甘かったな
>>527 でも二人に婚姻関係がなかったのは両家の史料からも明らかじゃないか?
婚姻関係にない二人は離縁になんてならんよ。
そもそも婚姻が成立していなかったら同盟関係も成立してない。
武田家の家系図には松姫は未婚となっているが、そっちはスルー?
>>529 1575年の長篠の戦いで織田家と合戦して負けてる。
でも勝長が報復で殺害されることはない。
信長も躊躇なく武田をちゃくちゃくと攻めてるし、坊丸の人質としての
存在価値がないことがわかってあっさり帰したのかも。
「息子さんは無事にお返ししますので、ここはひとつ!」だったかな。
当時の情勢で考えてみるとご坊の人質としての存在価値がなくなったと
いうのは結果論にすぎないように思うな。
逆にいえばあの情勢で返すなんてことは普通ならやらないだろ。
そんなこと言ったって実際返しているわけだしさ。
すでに同盟関係にないのに威嚇材料にもならない人質を
おいておく意味ないじゃん。
殺せば織田家にとって武田侵略の口実を与えるだけだし。
>>527 おれも君にワロタw
婚姻状態もないのに離縁て?
…まじでアホじゃねーの?
てか527は仮定上の話をしているだけに過ぎないと思われ。
乱暴な言い方になるが後年の織田家で室として認められているのなら
信忠室でも別にかまわんだろ。武田家もそのことに対して抗議している
わけでもなし。そもそも他人がとやかくいう問題ではない。
>>535 おれも君にワロタw
「仮に」って断ってるのに
…まじでアホじゃねーの?
>>536おいおい、当事者の武田家では認めてないのになんでかまわんのさ。
武田家が抗議してないのはいまさらする理由がないだけだろ?
それに織田家の全家系図に信忠室と記載されているわけではない。
何十種類も存在する家系図の中で数件のみ。(自分が見たのは寛政期のものと
別のもう一件だけ)
>>537 さらに君にワロタw
「仮に」なら
>>520の疑問に対してなんの回答にもなってないだろ?
…まじでアホじゃねーの?
今さら武田家が訂正を求め、それを織田家が承諾しても、
今さら寛政譜の訂正は不可能でしょ?
江戸期に作られ幕府に提出した資料なわけだしさ。
統括する幕府もないし。
今現在の織田家に伝わる家系図がどうなっているのか気になるところだけど。
織田家家系図といっても庶流で家系図が異なっているという話もある。
結局家系図一つでは何の証明も証拠にもなりえないということさ。
いくつもの家系図を照らし合わせて、一次史料等で事実確認をして、
人物特定をしたりするもんだ。特に女の場合は名前すら記載されないので、
双方の家の家系図を照らし合わせて人物特定をする。
だいたい松姫といわれる姫は四女説や六女説もあって、
武田家家系図でそれぞれ記載されているのを見た。
ちなみに両方とも「織田信忠室」という記載はなかった。
家系図を盲信すべからず ↓参照のこと
寛政譜は寛政年間に幕府が編纂した大名、旗本の公式系譜集である。
各家の系譜を提出させ、さらに編纂過程で疑問が生じればそれも記すという
厳正な態度が執られた。
しかし、各家提出という特性から、故意に系図を書き換える者もいたようだ。
かつて、武家は出自の良さに価値を見いだしていた。
少しでも自家の出自を良くするため、系図を書き換えることもしばしばあった。
そうした系図の書き替えを商売にする者もいたようだ。
>>536 それを言いはじめたら、歴史学なんて必要なくなるw
抗議する、しない云々も的はずれのような・・・
>>539 今の流れから少しそれるけどゴメン、
自分は上杉家譜と米沢林泉寺に残る菊姫の享年から逆算した生年から
姉・松姫、妹・菊姫と認識してます。
>>540 現代でも「系図屋」は存在しているし、
だいたい徳川家も出自を操作しているわけだしね。
>>538 おれも君にワロタw
俺は
>>527じゃないから答える義理なんてないのにw
…まじでアホじゃねーの?
アホ合戦はそろそろ止めたらどうかと思う。
>>542 いい加減うざいからやめてくれないか?迷惑なんだよ。
寛政譜に関しては明らかな捏造と思われる他家の家系図の存在もわかっている。
捏造だったのか、昔の事実確認ができなくて適当に書いたものを提出しただけかもしれんがね。
少なくとも織田家のそれに関しては、他の資料と比較検討しても
正式に松姫が輿入れした事実も、離縁して実家に戻ってきたという事実は
どの史料にもないので、寛政譜の家系図は明らかな誤記(捏造?)だと思われる。
家系図の誤記は別に珍しいことではない。
また婚約期間が数年に及び、その後婚約破棄ということも二人の年齢を考えても
不自然なことで、(濃姫と信長は話がまとまって2ヶ月余で輿入れ)
婚約した事実があっても、その後比較的すぐ破談になったと考えるほうが自然な
流れであろう。
>>541 甲陽軍鑑によると、菊姫は長島一向宗派の願証寺の僧と婚約をし、
その後破棄になったということだが、この二人の婚約に関する史料や、
本願寺側の記述がまったく見当たらないんだよね。
松姫のことといい、どの程度まで史実に忠実なのかが疑問を感じるよ。
もし松姫が菊姫より先に生まれていたとしたら、年の順で松姫が景勝に輿入れする
白羽の矢を立てられたと思うんだよね。
信忠のことで縁談を断っていたなんていう俗説なんてでたらめだしな。
当時の大名の姫に当主の決めた縁談を断る選択肢はないから。
二人のどっちが姉でも構わないけど、そのへんに疑問は残る。
>>533 勝頼の外交オンチここに極まりって感じだよな。勝長の返還。
自分の引退、信勝は即元服させて当主、織田に臣従+信忠が所望するなら
松姫もやるぐらいのオプション付けて返せば武田家の末路もまた違った
だろうにと思う。所領は減っても信濃2郡と甲斐一国ぐらいは安堵して
くれたかもしれんしさ。上杉が雪で動けなくなる時期を目の前にして
返すとはもはやヤキがまわって自殺行為をしたとしか思えん。
>>547 どんなにへりくだった条件をつけて勝長を返還させても、結果は同じだったと
思うよ。信玄亡き後の甲斐は国人衆の武田離れも著しく、勝頼では家来の統制もできず、
内部崩壊が進んでたからな。その期に乗じない信長ではなかったろう。
強国甲斐を徹底的につぶして、他国へのみせしめにするという意味合いもあったろうし。
勝長を信長が厚遇したのは、武田の人質だったのに長篠の合戦をして勝長の
命を危険にさらしたことや、勝長が人質になった経緯が自分の身内への甘さから
という罪悪感もあったからかも。
信忠以外の息子には冷淡だった信長が、勝長には破格にいい扱いをしているのは
他家で苦労した分器量も備わっていたからというのも大きいと思うけど。
もし勝長の器量が信長も認めるほどのものであったとしたら、
幼い頃から身近に接した信玄や武田家の武将の影響だろうな。
549 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 20:22:28
なんだその結果論
てか国人衆が著しく武田離れしたのは木曾が離れて以降。
国人なんて己や領民を守るために常に強い方に傾く傾向があるから
武田に限らず家が衰退した場合なんざ最期はどこもそんなもんだ。
滅びる時はどうあがいたって滅びるもんさ。
ただ正統に武田家が残る方法はあったと思うよ。
織田家にもっと早く恭順の意を示せば家の存続は可能だったんじゃないかな。
もっとも豊臣、徳川の時代でどうなったかわからんな。
552 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 14:03:52
>>551 武田家が存続したら、
本能寺の後、家康は大大名になれない。
てことは、秀吉に簡単につぶされて、江戸幕府の時代が来ない。
553 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 15:11:36
武田家が存続したら本能寺自体も起きたかは未知数
そうなると秀吉の時代も来なかっただろう
来年の大河は楽しみだ!
松姫と信忠のラブロマンスはどうなるんだろう?
割愛希望っす。
三法師の名前の意義を考えてると、三法師生母が信忠の寵愛を得ていたような気がしてきたので。
信長は信忠に三郎と名づけなかったけど、家康の子に三郎と名づけたり、この名に執着している。
最初は勘九郎は美濃斉藤家の当主でもあるしという意味で気楽につけたのだと思っていたけど
滅多やたらに三郎を連発していることに気がつくと、斉藤家の意向に負けて勘九郎にせざるを得なかったと考える方が
自然な気がしはじめた。元服1572年だし。ピンチの時に美濃に頼ったんだろう。
三郎を襲名できている間は拘らなかったものが、襲名できないとなると大きく感じられてきたのだとすると
三法師の名は、この子には三郎を襲名させる予定であるという宣言のように感じられる。
そんで、この名をつけたのは、信長じゃなくて、信忠だと思うんよね。
信長なら、もっとトンチの効いた幼名にするだろうから。(根拠が全く無いのは申し訳ないが)
後、吉丸生母も三法師と一緒だったらいいなぁと妄想中
乱丸は乱法師と記載されていることもあるし、そんな風に、吉丸が吉法師でもあったのだとすると
名そのものが、側室の子だと侮らず敬えと厳命してるぜよ。
松姫伝説は、甲斐調略の手段で、甲斐を平定してしまえばそれまでだったのが
タイミング的に解明されずに残っただけかと。
いくら嫡男信忠の子でも、側室の子が当主となるには、生前の根回しもあったのだと感じる今日この頃。
だって、基本の立ち位置は、信雄も信孝も三法師も変わらんもんなぁ。(全員側室の子)
普通は大将も任されていた信孝が後継ぐだろ。
>>555 >だって、基本の立ち位置は、信雄も信孝も三法師も変わらんもんなぁ。(全員側室の子)
全然違うよ。
信忠は、信長の嫡男というよりも、家督相続は済んでるから、堂々たる織田家当主。
三法師はその庶長子。
信雄・信孝は、信忠から見れば弟で、他家に養子に出されて、織田家の籍はない。
信長と信忠が同時に死んだからややこしいが、
信忠がすでに継いでいた織田家家督は、その長男が継ぐのがスジ。
557 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 03:05:31
というか、三郎という名は織田家嫡男に代々使われている名乗りだから
正妻も定まらずの信忠はむやみに使えなかったんじゃねーの?
言い方を変えれば嫡男にするつもりなら信長に説明して使ったと思うし
信長だって事情が事情なのだから了承するだろ。
松姫伝説も甲斐平定のためならもっと早い時期から誇張して過大宣伝しまくっただろ。
情報戦は織田のお得意技だしな。
同じ側室の子でも、当主が正室を娶ってから出来た子と娶る前に出来た子とでは
扱いが天と地ほど違うんだよ。
正室を娶る前に出来た子は「家の恥」とされ、子供とすら認知されないことも
珍しくない。認知されても庶子扱いで、明らかに正室がきてから出来た側室の子
たちとは扱いが別とされた。
正室を娶ってからの側室の子は「正室の借腹」ということで堂々と認知され、
当主の子として扱われた。
嫡男は原則として正室の産んだ長男。
正室に子がなければ側室の産んだ子を正室の養子にして実子扱いされ、
嫡男の権利を与えられた。
本来三法師は婚姻前に出来た側室の子なので、扱いはかなり低かったはず。
庶子の長子にすぎず、名前の問題を論ずる以前に家督相続の権利なんてなかった
存在。嫡男になるためも諸条件を満たしていないので信雄も信孝も三法師擁立に
意義を唱え、信長実子である自分たちの正統性を主張したわけだ。
松姫伝説はもうあきらめなよ。
松姫が信忠の正室だったら、早々に松姫の養子にするなりして
三法師を嫡男として披露してたろうからさ。
信忠死後あれだけ後継者争いでもめたってことは、別の見方を
すれば松姫のことなんてまったくのでたらめだということでもあるんだから。
三法師の存在は清洲会議で初めて知ったという武将も多かったと思うよ。
「・・・秀吉の用意した替え玉?」という疑念もあったかもしれん。
正式な披露目をされていない非公認の子供なら身内ですらその存在を
知らない可能性もあるしな。
聞いてないぞ〜なんでそんな怪しげな子供が?と反対意見がでるのも納得だ。
信忠存命なら信正同様の運命をたどったような子供だったんだろうに。
で、塩川息女正室説はきっぱり消えたんかな?
>>559 >塩川息女正室説はきっぱり消えたんかな?
もともと、某学長の妄想だから。
三法師の母親が、塩川氏女かどうかも本来は分かってないからね。
墓の事を考えると、森可成の娘の可能性の方が高い気がするけど。
塩川学長のご先祖が三法師を産んだといってもかまわんよ。
その息女が信忠の側室にあがったという史料でも残っているなら。
ただ「織田家嫡男の正室」というのだけは、どこをどう検証してもありえないので。
学長さんは歴史が専門じゃないのかな?
戦国〜安土桃山の大名の結婚制度というもんをきちんと認識していれば
そんな妄想するわけないのに。
生駒の話も同様。
歴史上側室から正室になったケースはないし、ありえないことだ。
三郎に関しては、源三郎を貰ってる勝長こと信房が気になるところだな。
信長の実子で、三郎がついてるのが信房だけだからなぁ。
信勝濃姫実子説はちょっと無理があると思う。
事実なら正室の産んだ子なので、何かしらの記録があって然るべきだと思うし。
側室であっても生母がはっきりわかっている子供のことを考えてもあり得ないよ。
信忠以外の他の息子たちより厚遇されているのは、信長が気を使っているというか、
自分の不手際で幼い頃から人質生活の不自由をかけ、命の危険を負わせてしまった
ことへの罪の意識というか、謝罪の気持ちや罪悪感から、厚遇しただけだと思う。
信房が武田にいるのに、長篠の合戦があったわけで、信房が見せしめに殺されても
仕方がない状況もあったわけだしさ。
「三」の字は他の息子達にも使ってたりするし、特別な意味はないんじゃないか?
信忠がすでに嫡男として家督を相続してたし、兄弟間で確執がおこるような
真似を信長がするとは思えない。自分も家督争いで苦い経験をしてるんだから。
564 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 03:42:43
『三』の字だけ使っているなら兎も角も『三郎』となると話は変わってくるだろうて。
「源」「三郎」だからなぁ。
「源」=物事の起こるはじめ。起源。根源。源流。
「三郎」=織田家の跡取りの通称。
「信房」の方になると、
「信」=織田家男子の通字。
「房」=束ねる。
極めて意味深だね。
信雄が信房の子供を、信房に戻る前の勝長からとって、勝良にして
信房って名前を隠蔽しようとしたと思われても仕方がない名前だ。
>>565 信忠の与力ってことは、他の子供達と同様嫡男の家来という扱いをされていたし、
信長もそうしたったことだろ?兄達より厚遇されているかのような印象があるけど
信房が織田家に戻ってきた時期が他の兄達と違ってすでに織田家が勢いに乗って
天下を取る、取らないの大勢力になっていたから、その当時の織田家の息子に
相応しい対応をされたというだけのことだよ。
信長には10人〜12人(養女含むかどうか不明)姫がいたということだから
濃姫が出産したというなら、そのうちの誰かと考えたほうが自然かな。
姫なら女子としか記されず、生母の記載がある方が珍しいぐらいだ。
自分も濃姫が生んだのは女子だと思う。
勢州軍記には若君がいなかったってなってるから
姫君はいたんだと思う。
ただ、前に「冬姫かも」と書いている人がいたが、それはないと思う。
勢州軍記の作者は、蒲生氏郷の家臣だった父親のメモを元に書いているから
冬姫が濃姫の子供だったら、それこそ絶対に記録に残ってるだろうから。
568 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 10:20:00
>>561 まあ、大陸には曹操の例があるがこの際は無関係。
>>558 地方のマイナーの話だが、上総の真里谷氏が正室娶る前の側室にしか男子が出来なくてそいつに家督を譲って隠退したところ、正室が男子を生んで御家騒動となって里見・北条両氏の介入を招いた。
569 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 10:21:53
仮に信房が濃姫の子供とする。
「お前が本来の嫡男だぞ」と織田家嫡男に縁のある源三郎の名前と
織田家当主を示すかのような信房の名前を与える。
だけど「嫡男は信忠だから」と、信忠の下におき、与力として
完全に主従関係を強いるような配置をされたわけだ。
信房にしてみれば、そんな屈辱的なことってないよな?
信忠だって、そんな境遇の信房と穏やかに信頼関係を築けるかな?
しょせん自分は側室の子であることに危機感を持つようになっただろうな。
それにものすごい火種を残すような人事を信長がするとも思えない。
信房が側室の子であれば、信忠も信房もその人事を躊躇なく受け入れるだろう。
信長がそうしたなら、やはり素直に信房の出自にはなんの含みもないんだろうと
思うよ。
>>567 濃姫の産んだのが姫で、生存していたとしたらどの姫が該当するんだろう?
嫁ぎ先がはっきりわかっている姫の他にずいぶんいたようだね。
危険にさらされぬように、信頼のおける家臣でしかも安土近辺に
住めるような相手を選んで嫁がせたのかもな。
他の姫たちの嫁ぎ先も明らかな敵国に差し出すようなこともせず
無難な相手を選んでいるし。(養女の遠山夫人は除くけど)
冬姫のいた日野城も安土城は10キロと離れていないところだったそうだし。
本能寺の変後に嫁ぎ先が断絶でもしてしまって織田家の家系図に詳細が
添付されなかったのかもしれん。
>>570 はた目にはそう見えてたのかもな。
だから三河物語なんかに、信忠が逆心か?なんて信長が言ったって
書かれちゃったのかもしれない。
信忠と親子喧嘩して、信長が馬を送って仲直りした話を
聞いたが、それって史実だっけ?歴史小説の創作エピだっけ?
普通に考えて信忠にその気があったとしても天下統一目前の
あの時期ではなく、統一後織田政権が安定してからことをおこすんじゃないか?
>>568 すいませんが、その続きはどうなったか教えてください。
伊達家も愛姫が輿入れから10年近くたってようやく男子を授かったので、
それまで誰もが嫡男だと思っていた側室の産んだ長男があっさり
退けられているよね。それまでその長男を嫡男と想定して厳しく養育して
たというけど。
その後愛姫は40才過ぎても子供を産んでるのもびっくりだが。
>>567 逆に考えれば、冬姫が濃姫の子だと知っていたからこそ
子がいなかったではなく、若君がいなかったと書いたのかもしれないよ。
某歴史関連の霊視ブログでは、濃姫の子供は冬姫じゃないかと書いてあったな。
ただ例の寺での出産の時の子供の件に関する質問でそう答えおり、
蒲生との縁組の年代を考えてもその時の子が冬姫ということはありえないので、
やっぱり眉唾。
霊視wwwwwwwwwwwwwwwww
歴読の霊界通信っていう企画まだあんのか?
578 :
日本@名無史さん:2006/12/13(水) 20:46:51
正直、信忠、信房、秀勝、信秀、信高、冬姫、全部まとめて濃姫の子だと思ってる。
信高は、席次の謎から(あと他のお鍋の子と扱い違いすぎる)。信秀は信高との幼名の類似性から。
秀勝、信房は双子で。
一人しか子が生めなかった人が安産のご利益ありなんて言われるとは思えん。
姫だけでも居たら信長と仲が良好だった正室の子だもの、総領姫だのどうだのこうだの
煩く騒いでるに決まってるのに。
皆覚えてんのに、姫が居たともいわず若君はいなかったとか歯切れ悪いったら。
要はタブーだったんだろ。
まことしやかに秀頼の父が石田三成ではと噂するように(有り得ん)、当時の情報工作は陰湿だ。
秀信殺しちゃったから、徳川政権としてはせめて「どの腹とも解からん子だし」って風に正当化したかったんだろ。
織田の当主2代続けて母親も解からずって、徳川260年はやっぱりすごいわ・・・・・・。
後、信房は、信包と名前が良く似てる気がする。
統率がどうというより、非常に清廉潔白で常に兄を助けた信包のように育って欲しいという意味ではないかな。
分家として残すという意味もあったかもしれないが(房=家)
>>579 なんか、その、うん、チャレンジャーGJ
>>563 たぶん、人質の意味について誤解がある。
あなたが言ってる人質は現代の意味であって、当時の人質は意味というか概念がことなる。
現代の誘拐犯の「人質の命が惜しければ〜」なんて同じことで戦国武将が「人質の命が惜しければ
降服しろ」とか戦に負けろとか言い出したら、逆に「オマエ、戦で勝つ自信が無いんだなこのヘタレ
が」と周囲から部下から全てから馬鹿にされて威信も名誉も地に落ちるだけです。
>>581 そんなことは言わないが、根本的な意味合いは同じ。
差し出した側の行動を制限し、威嚇材料に使った。
逆らったために女子供でも人質が処刑されている例もけっこうある。
戦国時代の戦ははかなりえげつなくて卑怯な手を使っていること知らんのか?
濃姫のタブーというより、信雄とか秀吉とか家康のタブーって意味合いじゃないの?
秀吉のタブーって秀吉は百姓どころかエタ出身だったってやつ?
>>579みたいに、あれだけ濃姫の子供って仮定に立つと、タブーということは
秀吉が秀勝暗殺したのかもと言われていることとか、
家康が信秀殺しちゃったこととか、信雄は信忠と同腹と言い張ってることとか
って意味じゃないの?
自分は他の子供はともかく、秀勝が濃姫の子供というのだけは疑問だけどね。
秀勝が亀山城主になった時に一緒に暮らしてるから、
安土殿として知行を信雄から貰っているのがおかしいことになる。
それに、秀吉が近江の城に来ているところに、わざわざ生母側が亀山城から
出掛けて会ったりするのは、なんだかなぁ。
でも、吉田兼見は秀吉への訴訟の口入れを、秀勝の生母に頼んでいるから
秀吉への影響力はあったんだろうか?
でも、濃姫が秀勝生母だったとしても、吉田兼見が濃姫の事を「御次御袋」なんて
書くとは思いにくいけどね。
信長公御台も一緒に書くと思える。
「御袋様」は大名家の場合は、「男子(特に嫡男)を産んだ側室への敬称」として
用いられることが多いから、正室には用いないと思う。
>>582 だから、人質の意味が違うんですよ。通常の人質と、信勝の場合は。
通常の人質というのは、文字通り人による質(担保)です。本来の人質というのは、
忠誠の担保として「自らの意思」で差し出されるのです。借金を返せなければ担保
の土地が好き勝手に処分されるように、忠誠を裏切れば担保の人質の命を自由に
処分されるわけです。この場合、人質を受け取っている側には、その命を好きに
扱える権利が生じるわけです。だからこそ「差し出した側の行動を制限し、威嚇材料」
にもなったのです。
しかし信勝と信長はそうではありません。信勝は信長の意思で武田にやられた人質
ではないのです。信長からすれば拉致されたもので、その意味では現代の誘拐など
犯罪による人質の意味であって、中世における武士社会の慣習としての通常の人質
ではないのです。だから当然、武田には信勝の命をもって信長を威嚇したり行動を
制限したりできるものではありません。そんなことをすれば、武田は礼儀知らずの
マナー、ルール違反者として威信、名声をなくすだけです。
それから「戦国時代の戦ははかなりえげつなくて卑怯な手を使っていること」とのこと
ですが、そんなことは当然です。しかしそれでも、武家社会にはマナーとルールと
があり、それに背いた者は武家社会からはじかれてしまうのです。「マナーとルール」
の内容が、時代とともに変わってゆくことはあっても。
>563の言うような、合戦に負けたから人質でもない存在を腹いせに殺すなんてことをして
いたら、たちまち武家社会から白い目でみられますよ。
マナーとルールはいいから、何度信勝じゃなく勝長、または信房と言えば……
信勝といえば、武田勝頼の嫡男に決まっておろうが!
すいません、素で間違えました
593 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:44:44
信勝は信長の弟で、信行のことだよな、確か。
濃姫に関しては、「帰蝶」という名前はホントかどうか微妙。
「勢州軍記」「言継卿記」などから美濃制圧後も存命だった。
そんなところじゃないか?勝長が正室の腹って話はどっからでたんだ?
>>589 だったらとっとと「勝長」を織田家に返すべきだったのではないか?
君の理屈なら武田はとっくに礼儀知らずだよ。
あれは秋山が信玄に対し織田家に寝返っていないという証拠のために
差し出したものだ。「勝信」は武田方のいわば戦利品。
戦利品がどのような扱いを受けようと勝者に文句は言えないのさ。
それも戦国時代のいわばルール。
家康だって転売同様に織田家に人質としていた。
今川時代も人質だ。人質だったから三河衆はただ働きで今川に
従って戦の最前線に駆り出されてたわけだよ。
波多野兄弟と光秀の母親(姑という説もあるが)のケースだって戦国時代にはあったわけだよ。
秀治と秀尚は信長の命で磔にされたため、人質になっていた光秀の母親は
仕返しに磔にされ殺された。
それでも双方が世間から白い目でみられることはなかったろうさ。
人質に出すということはそういう結末も想定内だから。
勝信って誰?
>>594 つまり、勝長は「秋山&おつや夫妻が武田に差し出した人質」であって、信長が差し出した
人質ではないのですね。信玄および勝頼は秋山に対して「裏切ったり逆らったりしたら勝長
を殺すよ」とはいえるが、信長に対しては言えないのです。
ちなみに家康の場合は、まず織田に売られた時の場合は父親はまったくその命を考慮せず
そのまま今川への臣従を続行。宙に浮いた形の家康の身柄は、実質は人質でも信秀は客分
を預かったかたちにして一応遇した。今川時代はまったく問題ない。家康は松平家の総意
として今川に身柄を預けることになったのだから。たとえそれが岡崎衆にとって不本意な
ものであっても。
光秀母の件はさらに問題ない。あれは波多野兄弟の命の保証する担保として母が差し出された。
だから波多野兄弟が殺されれば契約違反として母が殺された。これらは戦国時代の通常のルール
の範囲です。よって世間から白い目でみられることもない。
しかし何度もいいますが、勝長は信長の意思で武田に差し出された人質ではないのですよ。
みんな、もっと落ちついて書き込みしよう。
誰が誰だかわからん。
ところで
>>593 後年当て字でそう記されたと記憶している。
「きちょう」「こちょう」「ききょう」とかなんとか
呼ばれていたらしい。
勝長実子説は永禄11年「近江國輿地志」に「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。
不図平産あり。〜」の記載があったから。
男子ならば生母不詳の勝長が該当するのでは?ということになり、
その説を裏付けるように幼名「源三郎」や元服名の「信房」が
含みがありそうだ、ということになった。
人質は人質。
殺されようが、だまし討ちにあおうが、おめおめと人質にとられたのは信長の失策。
その人質を殺そうが、いたぶろうが、誰も非難せんよ。
勝長なんぞという屈辱的な名前を与えていたことからも
扱いの程度がしれる。
人質を送る大義名分や事情はいろいろあるが、結果的に人質の意味合いは一緒なんだよ。
>>596 それじゃなんの目的があって勝長は長いこと武田家におかれていたの?
>>597 補足するなら、「近江國輿地志略」のそれが書かれている箇所は
学問所として有名な成菩提院の箇所で、記述の元ネタは
一緒に書かれていることなんかから判断して、
成菩提院に残っている記録であったようだ。
成菩提院の記録群は、本格的に史学者に研究されたことがほとんどなくて
極一部のみ活字化されている箇所もあるが、信長の時代のものではない。
史学者が研究して、これがどういう経緯で記録に残されたのか
調べてほしいところだな。
自分は、やっぱり、勢州軍記の
「彼ノ信長公ノ之御台斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也」
にこだわりを持ってしまうから、姫だったと思うんだがなぁ。
しかし、それならば、何故織田復帰後の「信房」に倣わず、
武田時代につけられたと思われる「勝長」に倣って、
信房の子供に勝良という名前を、信雄が付けたのか疑問が残るから、
信雄の立場的に、信房系統の血筋は追い落としたい何かがあったのかと
思えなくはないな。
安土での対面は、やはり、印象に残る程のものだったから信長公記に残されたんだろうし。
>>597 >幼名「源三郎」
幼名じゃなく、通称だよ。
幼名は坊丸。
寺で生まれたから、坊なのかなという気もするけど。
もっと別の理由で勝良を織田家の家系から抹消したかったのかも。
勝良がもすごい家の恥になるようなことをしでかしたとか?
勝の字を用いるのは確かに変だよね。
もしかしたら、本当に勝長の子供だったか怪しい存在だったので、
信の字を使いたくても使えなかったとか?
宿泊先での急なお産。
しかも火事までおきて・・・
さすがの信長もも〜のっすごいあせったろうな。
火事がおこって、あわてて逃げ出ているうちに産気づいたとかじゃないかな?
TVとかだとショックなことが引き金にお産が始るシーンをよく目にするが。
その後京都まで新生児を抱えてどうやって移動したんだろうか?
横になりながら移動できるようなものがあったのかな?
と疑問だ。
>>603 信長の正室くらいになれば、輿に乗れる身分だから輿だろ、普通に。
>>603 「永禄年中織田信長当寺に止宿の節俄に舞馬の変に遭ぬ。」
の一文があってから、
「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。時に護摩堂より失火。 」
って、文に続くから、火事があった上で産気づいたんだろうね。
「舞馬の変」っていうのが火事の比喩だし。
>>604 あの輿って寝れるスペースあんのか?
>>605 「御台様〜火事です、お逃げください」
「なに、火事!あっ!」(破水の水がたらたらたら・・・)
っていう感じだったのかな。
せめて安産だったらよかったな。
火事、お産、難産、なら目も当てられん。
>>606 女性用の輿って、意外とでっかいよ。
完全に仰臥は出来ないかもしれないけど、
出産後に仰臥していなきゃいけないのは、
当時でも丸1日くらいだと思うよ。
現代では初産なら8時間後、二度目以降なら
4時間くらいで、歩かせて悪露をおろすのうながすし。
意外かもしれんが出産後すぐに横になれるようになったのは近代に入ってから。
それまでは出産後はすぐに横にはなれずに背もたれによっかかって
半分起きた状態で数日過ごすのが当たり前の習慣だったそうだ。
(その方が悪露が出やすいと思われていたから)
江戸に入るとこの習慣に輪がかかり、一週間はお産椅子があれば椅子に
ずっと座り続け、ない場合は藁を積んだものによっかかりと・・・。
産婦にとってはまさしく地獄の一週間だったと思われ。
他にも出産後は丸一日寝ないようにおしゃべりの相手をさせられたり
寝そうになると酢を嗅がせられたりと拷問かよwといわんばかりの
ことも普通にあったらしい。
>>608 じゃぁ、普通に輿で移動だね。
新生児はいきなりで乳母がいなかったかもしれないから
正室が授乳しつつだろうか?
それとも、急遽乳母を募集したので、周辺住民に出産がばれたとか?
やっぱり、京都で御台の寝所に人を近づけさせなかったのは
新生児を守るためかな?
610 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:33:45
そんなことするから産婦死亡率も高い訳だ。納得。
>>609 乳母は急遽呼ばれてつれてこられたと思うよ。
母乳は赤ちゃんに吸ってもらわないと出が悪くなるから
乳母は乳飲み子のいる女性に限られていたはずだし。
まったく地理に疎いのだけど、その出産したという
寺と尾張、京都の距離ってどのぐらいで、
当時ならどのぐらいの時間をかけて移動していたんだろう?
会陰切開をしなければ、出産後すぐに座ったり、歩いたりは可能。
帝王切開だとそのへん楽だけど、切腹の傷が麻酔が効かないほど痛い。
しかし、産婆がいなければ、会陰切開どころか会陰裂傷でずたずたになるぞ。
経産婦だったら、そんなことはないから、裂傷も起こさず生まれたかもしれないけど。
あと、火事で俄に産気づき・・・だったら、少し早めに生まれて、
赤ん坊が小さくて裂傷になってないかも。
それでも、初産だと難しいな、裂傷なしは。
産婆がいるかいないかで、その後の行動の制約は、随分変わると思うぞ。
何せ、産婆は産道に手を突っ込んで、赤ん坊の頭を縦長にして生ませる技術を
持っていたらしいからな。
生まれた子供は1ヶ月くらいかけて、元の丸い頭に戻したそうな。
おまつはそんなことを8回も・・・
えよは10回か?
>>613 それがタイミングよく産めれば無傷で産めるそうです。
出産にともなって収縮しやすくなってるそうで。
昔は粗食のせいもあって、赤ん坊も小さく、お産が軽くすんでいたとか。
昔の暮らしは自然と身体を使うことが多く、
そのこともお産が軽いことにつながったそうですよ。
大名の奥方も、広い城内を歩くだけでもかなりの運動量だったと思う。
心配なのは前置胎盤などの出血を伴う出産でしょう。
遠山夫人などもこれが原因で亡くなったのかもしれませんね。
>>613 産婆や医師はさすがに同伴していたと思うな。
それと当時は自宅出産だから、実家にいた頃お産を身近に
経験している侍女などもいたと思う。
>>615 遠山夫人というと、岩村城の方と勘違いされるから、
遠山夫人(勝頼夫人)って書く方がいいお^^。
遠山夫人といえば、岩村の毒女の最期は、
逆さ磔、信長成敗、城に篭城したまま自刃、
と諸説あるけど、どれが正しかったのかな?
信長よりも年若い叔母で、かなりの美女だったというけど。
>>598 そうだね。信長にとって勝長は拉致された存在。信長にとっては子供をみすみすと
奪われた屈辱の事件ではあるだろう。でも別に武田に差し出した人質ではないので。
妻子を拉致拘束して脅迫というのはそりゃ中世にもありましたよ。でもそれは山賊
夜盗の類のすることであって、まっとうな武家の行いではない、とみなされるのです。
とにかく、「人質」という単語が同じだからといって、現代と中世ではその意味合い
が異なるというのはこの件に限らず普通にあることです。その違いを抑えないと豪い
間違いをしでかしてしまいます。
もし寺の出産が濃姫であれば、待望の子供が誕生した、というのではなく、
既に何人か無事に出産したので、ある意味余裕の出産、だったのでは?と思った。
京都まで遠出するのもへっちゃらで、信長もそれを許したということは
濃姫が経産婦で、しかもお産に強い体質だったという裏付けではないだろうか?
当時の彼女の年齢を考えてもかなりお産に自信がなければ同行はしないと思う。
そう考えると、既に一人以上は出産経験があると想定されるな。
>>611 >まったく地理に疎いのだけど、その出産したという
>寺と尾張、京都の距離ってどのぐらいで、
>当時ならどのぐらいの時間をかけて移動していたんだろう?
今の米原の辺りだね。
http://www.mapfan.com/index.cgi?MAP=E136.24.10.5N35.20.40.3&ZM=5 成菩提院に泊まったのが上洛戦の時と仮定して、信長公記によると
永禄11年9月21日、成菩提院宿泊
22日、桑実寺
24日、守山
25日、瀬田
26日、三井寺の極楽院に陣構え
28日、東福寺に陣を移す
29日、勝竜寺寂照院に陣を移す
30日、山崎
10月2日、池田城を攻める
その後、14日に京都に戻る
戦の途中だから、比較的ゆっくりの進攻だったのが幸いしている感じだ。
29日の辺りで、御台が京に残ったか、そのまま池田城攻めについていったか分からないが。
>>621 わぁありがとう!
さらにびっくりだけど、出産翌日にもう移動して、しかも合戦に行く
途中だったんだね。
輿での移動で、ゆっくり進んでいるようだからあまり妊婦に負担には
ならなかったろうけど。
しかしなんでそんな状況で、しかも身重の濃姫を同行させたかったのかな?
戦国時代は合戦の時は女人、特に妊婦は禁忌と聞いたけど。
出産後とりあえず濃姫は城に戻ったのでは?
>>622 合戦時に女は禁忌というのはよく言われる話だけど実際のところは疑問。
というのも、池田隊には女小隊が実際にあったし家康も側室を連れていってる。
それと女が禁忌というのは出陣前までで出陣したら無礼講もんだったらしい。
永禄12年の年明けに、御台が京にいた記録があるから、
京都に伴って、そのまま曲直瀬道三のとこにでも預けたんじゃないかな?
丁度中間くらいのところだし、護衛付けて濃姫だけ戻すより、
信長の側においておいた方が安全。
濃姫がそこまでして京都に行かなければならない理由って一体なんだったんだろう?
意外と、妙覚寺で道三の法要でも弟に頼むつもりだったとか?
13回忌あたりだろ、確か。
身分の高い人物との拝謁を御台も一緒に賜らなければならないことがあったとか?
>>624 池田の女小隊は、鉄砲隊だったというね。
鉄炮で敵を殺しても、首を取れないから報償に関係ない女性がになったのかもな。
鉄砲なら、体力的に男性に負けても平気だし。
死化粧隊や慰安部隊も軍にくっついてぞろぞろいたらしい。
合戦は女達にとっても小遣い稼ぎの場でもあったわけだな。
敵の首を笑いながら洗って死化粧しているおあむ絵巻をみると、
当時の感覚なら妊婦が長旅するぐらいのことどうってことないかも。
>>628 逆にすごーくプライベートな理由だったかもよ。
何か神事的なこと(厄払いとか願掛け)で、京都の寺に用事があったとか。
それこそ妙覚寺に仏事的な用事があったとか。
夫婦そろって茶器収集に夢中になっていて、茶器購入のために
どうしても京に行きたいとゴネたとか?
あるいは公方とも一緒になっているから、公方の招きとか?
織田家興隆のために共に頑張ってきた正室と共に、将軍を擁して堂々と上洛したかった。
なんて理由だったら、萌えるんだが。
だが、真面目な話、当時の社会慣習上、公式の場で夫婦同伴でなくてはならないような
話はないから、公式なものではなく、信長側の個人的な理由だと思う。
その出産したのは側室の誰かじゃないか?なんという推測もあったけど、
そんな状況で無理をおして信長と同行するなら、側室とは考えられないな。
織田家の何かしらの重要な用事のために、御台も上洛する必要に迫られていたんだろう
と思う。
永禄11年「近江國輿地志」の御台出産の件だけど、
ttp://tenkafubu.fc2web.com/yosijoraku/htm/gifu.htm この方の説明書きによると、信長は上洛戦が成功した美濃への
帰途の10月27日にもこの寺に泊まっているらしい。
さらにその後150石の寺領を寄進した、ということだ。
もしかしたら出産は美濃への帰途のことだったかもよ?
あるいはやはり行きに出産し、信長は戦の後いったん一人で美濃へ帰り、
濃姫は子供を産んだばかりなので上洛したまま京都にとどまり、翌年また信長が
迎えにきて合流、という流れだったかな?
翌年も濃姫が京にいたという史料の記録があるからそっちのほうが
ありえる話かもしれない。
どっちにしても寺への寄進は、安産の感謝の意味と火事のことを配慮して
寺に寄進したということかもしれないし、御台出産の話は信憑性が高いと思った。
>>150石の寺領を寄進
男子誕生ゆえの出血大サービス?
>>635 そのサイト見ると、成菩提院は天正6年に火事が起きてるね。
しかし、「近江國輿地志略」では永禄年中に信長が泊まった時に火事が起きてる。
意外と頻繁に火事が起きてるのかな?
信長が泊まったときは、敵方の放火だったりして。
もしかしたら護衛のもっていたたいまつなどの火が
風にあおられて寺に燃え移ってボヤとかになったのかもね。
そうしたら寺に大迷惑をかけたから寄進ぐらいしなきゃばちがあたるわな。
>>637 この地誌ではない別の地元の地誌に永禄11年に寺での出火のことが
記載されているとどこかで読んだ。そこの検証では、逆に火事は事実だろうが、
地元民の信仰心を得るために、信長や御台の出産の話を捏造して火事の話に
くっつけたのでは?ということだったけど。この話のメインは
火事でまいあがった書仏が柿木に引っかかり、その直後に火事がおさまった、
その時とても身分の高い方のお産があったので地元民がその書仏に安産祈願を
するようになった、というあくまで地元の伝承話みたいだった。
だけど、本当に濃姫出産と火事が同時期におこったのかもな。
スレチだけど
>>635のサイトの寺の説明のところの
>>歴代住職の中には徳川家康の懐刀といわれた天海大僧正がいる
に、90へぇ。
ここで家康とコネクションもったのかもな。
っつうことは、光秀=天海説はありえないよな?
顔われてるし。
成菩提院の記録の研究に期待したいね
誰か研究してくれないかな?
山奥の田舎寺かと思ってたらすごい古くからの歴史ある寺だったんだ〜
それに80へぇ。
坊丸だっけ?信房の幼名。
信房がこのとき誕生した子なら坊丸が誕生した、
寺の宿泊所という意味の「宿坊」からとったのかな?
坊そのものに、「幼い男の子」という意味もあるから、
まんまつけた可能性もあるけど。
「人」とつけるような親父だし。
もし信忠が濃姫の子だったら誕生後すぐに嫡男決定だから、
吉法師とか○法師という名前をつけたのかな。
森乱の弟にもいるじゃん、坊丸。
あの時代の平凡な名づけだと思っているけどね。
あの時代では平凡な名前でも信長の名づけの傾向からすると
御坊丸ってかなりまともな名前というか、唯一子供への愛情を
感じられる名前感じるけど。奇妙、茶筅、三七なんかに比べたらさ。
人なんて下になればなるほど適当になっていく。
奇妙はどういう意味でつけたか解からないけどな。
”まれにたえなる”の意味でつけたのかもしれないし
生まれたばかりの子供って、ものすっごい不細工じゃない?
翌日になったら、見違えるほど可愛くなる。
初日のすごい状態をみてインパクトが強かったかとすると
「へんてこるん」の意味での奇妙は、信長が信忠の誕生に立ち会った証拠になってしまう。
wikiのは酷いけど、岐阜市立博物館にある信忠の肖像画はまぁまぁで
こっちの顔の方が本人に似てるんだとすると、当時のセンスを考慮すると美男だし。
Hするとどうしてこんなもんが女のあそこから産まれるんだ???
と医学的な知識のない当時の信長が素朴に「奇妙だなぁ」と
感じたので、そのまんま名前にしたのでは?
御坊丸って信行の子供で津田信澄の幼名といっしょ。
よりによって信行の子供と同じ名前つけるかな?
大事な子と思うならその名前は避けると思うけど。
信行の子が大事な子だったんだからそれで良いんじゃ。
信澄は、信長の側近だよ。
信長の子達だって、そんな地位には登れなかった。
自分の2男3男には織田姓を名乗ることを認めなかったが
信澄は津田姓だし。
馬揃えでは、信孝の次に登場して、5番目。
謀反人の子なのに5番目って、信長本人の気持ちとしては
信忠の次にでも登場させたいくらいだったんじゃないかな。
だからこそ、本能寺の時に信孝に殺されたんだろうし。
信行って、当時の書類では信勝の名乗りだったらしく、信行は見つかって無いらしいよね。
で、ノブカツって音を、信雄に名乗らせてる訳で、(貴族になるまではノブカツだったらしいね)
弟を殺さないといけなくなったのが、よっぽど無念だったんじゃね?
信雄の読みは、「ノブオ」「ノブカツ」どちらとも判明していないと思ったけど。
>>647 信澄の幼名については別名としている資料があるにはあって、甥との混同か
もしれない。
>>649 かなり以前から「お湯殿の上の日記」に「のふかつ」と仮名で書かれていて
判明してますよ。
自分も、ノブカツ以外の読みかたをしたことないな。
>>644 奇妙や茶筅や五徳・・・とかの名のほうが
信長独特の愛情を感じるのだがなw
653 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 09:28:40
>>652 どっちも全く愛情を感じないんだけどw
幼名に関しては、「見たまま」「感じたまま」適当に決めたような気がするw
「変な顔。奇妙でいいや」
「生まれたばっかりなのに髪の毛ふさふさで茶筅ゆえそうw茶筅でいいや」
「3月7日生まれ?んじゃ三七でw」
「おっとこんなところに五徳が。んじゃ五徳で」
こんな気がするんだけどw
坊丸以外はどの大名の子の名前にもないようなユニークな名前。
そこを親の愛情ととるか、無関心ととるかじゃないか?
坊丸もよくある名前なら無関心ととるか、他の子よりも愛着があったのかととるかだな。
個人的な見解では、この時代男女ともに代々嫡男を示すような幼名以外は
あまり意味のないものだから、信長がひらめきだけでつけた適当なもので、
そこに大きな含みはないと思う。
655 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 10:50:28
>>653 そんな感じするw
アイススケートの子孫の人見てるとw
656 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:36:08
>>654 >坊丸以外はどの大名の子の名前にもないようなユニークな名前。
どっかの大名の幼名は姫何とかじゃなかったっけ?
あと親の愛情を全く感じないような変な幼名の武将が
他にもいた気がする・・・。誰だか忘れたけどw
657 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 12:41:44
そういや姫の名前は五徳は変わってるけど、
他はいたって普通だな。(冬姫、栄姫 etc.)
それともこれって創作?
ユニークといえば政宗長女の「五六八」。
「いろは」という響きはいいけど、
ぱっと見た目「ごろはち」と読んでしまう。
男子を欲しがっていたからそんな名前にしたという説もあるけど。
最初に女子が生まれたら、男っぽい名前をつけると次は男子が産まれてくるんだって。
だしかにその通りになってるんだよね。
>>652 >>653 どっちでも考えられていいんじゃない。
命名は大事なことだけど、
ほんとに各家庭の思惑によって・・・だろうからさ。
でも、五徳の場合は徳姫のほうが周知されてるな。
姫の名前こそ信長の個性がでててもいいよね。
順番に一姫、二姫、とつけるとかさ。
そうしてくれれば冬姫が長女なのか、五徳が長女だったのか、
一目瞭然でわかったのに。
でも姫の名前って気合入れて名づけてもあんまり意味がないのかもね。
この時代、夫や息子、住んでる場所なんかで女の呼称はころころ変わるし、
話題になってる五徳にしたって「岡崎殿」って呼ばれていたみたいだし。
昔は、近しい人物(両親、夫)などが本名(幼名?)で呼び、
それ以外の人物から「○○御前」「○○の御方様」「○○殿」みたいに
呼ばれていたのかと思っていたけど、
信長晩年の側室・興雲院(お鍋の方)なんかは、元夫の小倉実澄の姓から
信長に「小倉」と呼ばれていたようだし、親がつけた名があるとは思うんだけど
それは基本的に、夫などでも呼ばないものなんだろうか。
濃姫も信長がつけた名前という説があるけど、その辺どうなんだろう。
夫でも他人行儀な呼び方(本名ではない呼称)をするんだろうか。
秀吉は手紙の中でねね様を「そち」という呼称を用いたいたので、
他のお殿様も普段は御台と相対の時はそう呼んでいたのかもしれませんね。
もしかしたら、お床の中では本名を呼んでたりして・・・ぽっ(恥)
>>662 間違って側室の名を叫んで、正室にぶっ飛ばされないように、すべて「ソチ」で統一してました
正室が側室にやきもちをやくとうのは現代人の感覚だよ。
大名のお姫様クラスなら、自分の親兄弟がみな多くの側室を持ち、
異母兄姉弟妹大勢の中で育っているから、側室がいるのが当たり前の環境だった。
正室、側室の立場も充分把握して育っているから、やきもちなんてそうそう
やかないと思うよ。
ねねは下級武士の出身だから大騒ぎしてたけど、
信長は「なんで正室なのにそんなことで大騒ぎしてるんだ?」と
半分理解できなかっんじゃないかな。
身分の高い女性のたしなみとして感情を露骨に出さないという
作法もあったから、少なくとも表面上は悠然とふるまってたと思うよ。
当主のほうも正室は他家からのお預かりもの、側室は自分の子供を
産むもの、という一線をきちんと引いていたろうしね。
当時の婚姻は男女ともに若いから、信長&濃姫みたいなカップルは
幼馴染みたいな愛着も生まれてきたろうと思うな。
徳姫は側室の子なのに、姑の讒言を行ったようだけども
当時の常識とは別に、個人の考え方もあるんじゃないかな
>>666 姑の讒言はともかく、信長が激怒したのは武田との内通のことだから。
家康もグルだったのかもしれんが、とにかく母息子を粛清することで
信長の疑念を払拭した。
もし武田内通のことを父親に報告したとしたら、それはスパイでもある
正室の仕事だから当然なことをしたまでだな。
でも家康は徳姫を実家に返すときに化粧料を持たせたというし、
後年徳姫に1700石以上の所領を与えているし、恨んでいる様子はない。
信長に五徳がチクリの手紙を書いたなんていうのは嘘じゃないかと思ってるよ。
668 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 05:12:57
>>667 自分らのトラブルを織田父娘になすりつけた可能性大
>>666 築山殿の悪行申し立てといっても、
実のところはどれだけ徳姫の意志が動いた不明ではないかな。
政略婚の習いで、徳川家には姫付きの家来や侍女がともに入って
実家に情報を流していたわけで
讒言の件も姫の周囲が行ったものだとか、諸説あるではないか。
それに>側室の子なのに・・・というのは意味がわからない。
そもそも、徳姫が出した手紙の現物どころか写しもないんだよね。
将軍となったからには過去のダークな部分をなんとか偽装工作するに
かられて、信長や徳姫の死後、家康が悲劇の夫&父親、という
脚色がされたんじゃないか?
築山殿が家康の命で家臣に殺害されたのも、信康が自害しのは事実だから、
徳川家で一大事がおこり、家康の一存で粛清したが、正室と嫡男を死に追いやったというのは
世間体が悪いので、残虐というイメージがある信長に悪役になってもらい、
信長のせいでそのような無慈悲なことをやらざるを得なかった、
というのが真相だったりして。
だいたい娘が姑の愚痴を手紙でかいてよこしたら、
ねねの手紙にはあれだけ心温まることを書いてくれる信長様だから、
「姑殿と諍いをおこすな、敬いなさい、そなたは信康殿の正室だぞ、
次は徳川の世継ぎを産め、この手紙を家康殿にもみせなさい」
なんていう返事を書いてよこしそうだが。
>>671 自分の娘は、ほとんど政略結婚にも使わず、近しい信頼おける家臣の子供辺りに
嫁がせている信長が、徳姫だけそんな謀略使わせるはずもないよな。
徳姫の不幸は、信長にとっても想定外だったんじゃないかな?
そうそう、冬姫なんて安土城からわずか5〜6キロしか離れてない日野城に
嫁いでる。しょっちゅう実家に入り浸ってたりして。
でもそのおかげで本能寺の変後濃姫以下信長の妻子が助かったんだよな。
冬姫といえば、永禄元年生まれ説と、4年生まれ説のどっちが正しいんだろう?
『氏郷記』では12才で輿入れ、『蒲生氏郷記』では9才で輿入れ
と記載されている。永禄元年説なら冬姫が長女となるけど、
徳川との婚儀が1567年、蒲生との婚儀が1570年ということを
考えると、順番からいって長女から嫁ぐだろうから、
やはり徳姫が長女だと思うな。
>>673 嫁に行った時点ではまだ実家は岐阜城だから。
結婚後数年たって実家の方が近所に引っ越してきたの。
嫡男を15歳で元服させた信長に順番通りを期待するのは難しいと思う。
純粋にどちらの史料が信頼性が高いかで決めた方が良い気がする。
>>676 信長が娘かわいさに婿殿の家を実家近くに配置したとか?
もともと氏郷の日野城の側に安土城を築いたんだよ。
偶然だろうけど。
680 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:01:03
hosyu
681 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 13:38:57
>>671 でも自分が滅ぼした今川の姫だからなあ。
ねねとは反応が違ったかも。
682 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 11:21:28
>>681 築山殿は瀬名家出身で、今川義元の姪であっても今川の姫ではない。
瀬名家は曽祖父までは今川姓だから、親戚関係にある今川重臣の家。
今川が没落した後は瀬名家も没落したけど断絶はしてなくて、
浪人後、家康に取り立てられ旗本となって代々続いている。
瀬名家を家康が庇護してあげたくらいだから、築山殿が亡くなったのは、
息子が廃嫡され、自害に追いやれ精神病でも病んで自殺しただけかもよ。
683 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 15:27:26
YO YO!
一生一緒にいてくれや♪
>>682 築山殿が精神に異常をきたしながらも生き延びていたという設定
諸田玲子「月を吐く」
686 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 20:01:06
>>683 築山殿の父親は瀬名氏出身。
嫡男ではないので養子にだされ関口姓を名乗るようになった。
小説で築山殿を「瀬名姫」とあって、あたかも「瀬名」が名前のような
扱いをしているが大間違い。父方の元々の姓を姫の名前と誤解しているようだ。
関口氏もいったんは没落したが、家康の庇護を受け旗本として続き、紀州藩にも
同族の関口氏がいたそうだ。
どんな理由があったにせよ息子&妻を死に追いやったのは家康なのは明らか。
信長に罪をなすりつけ、悲劇の父&夫を演出したんだろ。
だから瀬名家や関口家を罪悪感から保護してたんだと思う。
瀬名氏や関口氏を少禄で召抱えた件に関してまで、理由づけしなくてもいいような気がするけど。
少々過去に確執があっても捨扶持で拾ってやるのは徳川政権の美徳だと思う。
三成の曾孫が家光の側室になって娘を挙げていたりするし。
もしも長男を生んでいたら石田三成の子孫が征夷大将軍になっていたのだと思うとたまげる。
なるべく穏便に、表立った敵を作らず、絶やす必要がある家だけはきっちり絶やす
このやり方が、信長や秀吉のような圧倒的武力を持たなかった家康が天下を取れた理由だと思う。
それと、自分達の過去の行いを知っている人間を逆に積極的に召抱えて
恩を売って恭順させるという意味もあるのかも。
信高の子孫を召抱えたり、信雄も拾ってやったりしているし。
信雄系が織田の主流になったから、「徳姫、信雄、信忠が同腹」なんて話にも発展できた訳だし。
実際は、信雄と徳姫は同腹はほぼ確実だけど、信忠はどうなんだろうな?という印象だけど。
徳川厨の人と話していると解かるんだけど、徳川厨の人達は、織田信長の同盟者の中で唯一
信長の娘を貰えたことを、とても誇りに思っている。
それまでは個人的に信雄とか生駒とか中心に考えてたんだけど、そうじゃなくて、
徳姫が誰の腹かというのが大事だったのかも。
「徳姫が信長の最愛の人の娘」であることは、260年間、徳川幕府関係者にとっての願望だったんだろうね。
長女にして、嫡男と同腹。数多い娘の中でも最重要人物を差し出されたことにしたかったんだろう。
勿論、そんなしょうもないことに全力で取り組むわけはなく、「そうだったら良いな」程度だろうけど
それでも260年あったら、生駒吉乃伝説くらいは生まれるんだなぁと思う。
そして、濃姫の存在も跡形もなくまるっと消し去られるんだなぁと。
捏造するとしても、徳姫を正室の子とせず、信忠を徳姫と同じ腹の子としたところが、時代を現してるなぁとも思う。
江戸の将軍で御台所の腹なのは家光だけで、戦国と違って正室をことさらありがたがる風潮はないから。
それに、正室腹の子を正室の子ではないとするのは割りとやりやすいけど(養子とすれば良いし)
側室の子を正室の子とするのは、難しいよね。
そんな訳で、その徳姫よりも、冬姫が先に生まれたという記録があるなら、きっとそっちが真実だと思う。
徳姫は信長にとって冬姫ほど重要でなかったので、9歳で嫁に出しましたが
大事な娘は12歳になるまで手元に置き、嫁に行ったら追いかけて近所に引っ越しましたなんて
徳川にとってはあってはならんことで、時の権力者にとってあってはならんことが記録に残っている以上
こちらが正しいのだと思う。
689 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 10:19:55
>>688 現代人の感覚で歴史を語ってはいけないよ。
武家にとって子供は嫡男以外はどうでもいい存在なんだよ。
男子は嫡庶長幼の年功序列。次男以下は養子にだされるか寺に行かされるか
で正室の子であっても嫡男の家来で家督を何一つ相続する権利はない。
女子は長幼の順で嫁に出されるだけ。
嫡男以外の生母は全くといっていいほど重要視されない。
日本は家系は男系優先だから。
女子なんて家系図に本名すら記されることもなく、生母の記載もあるほうが
珍しいくらいだ。五徳が信康と結婚したのは年功序列ゆえにだよ。
それから永姫と信雄は同腹。
永姫が実母の久庵桂昌の菩提を弔うために金沢にも久昌寺を建ててるんだ。
永姫は前田家の史料や久昌寺の寺伝から、信雄と同腹なのは明らか。
でも五徳が同腹であると示す史料はない。信忠も同様。
信忠生母と思われる女性が美濃の崇福寺に位牌所があったことが
史料に残っているから、信雄とは異腹なのは間違いないけどな。
だいたい3人兄妹説を提唱しているのは「武功夜話」だけだ。
いい加減専門家も素人も偽書「武功夜話」から脱却してまともな史料を
検証して欲しいものだ。
690 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 10:24:52
>>687 >>少々過去に確執があっても捨扶持で拾ってやるのは徳川政権の美徳だと思う。
それと、↑は権力者はみなそうだよ。
信長も秀吉も敵方であっても恭順の意を示したものは拾ってやってる。
徳川の美徳ではなく、戦国期までの武家では当たり前の慣習だったんですけどね。
>それから永姫と信雄は同腹
でも信雄の母とされる生駒氏が死んでから、永姫は生まれてないか?
永姫の生年をどうにかすればそこらは大丈夫でない?
上の兄弟と年の差が開き過ぎとか、
夫の前田利長との年齢差もおかしいとか。
幼少で嫁がせることも多かったけど、年齢的な釣り合いはしっかりとっていた信長だから、
7歳の永姫を19歳の利長に嫁がせるのは確か合わない。
家臣に嫁がせるなら、それこそもっと成長してからでも良いし。
永姫を+5歳くらいにすると釣り合いも取れるし、生駒氏腹にも出来る。
生駒氏は信雄・徳姫・永姫の三兄妹の母になるのか。
永姫の生母の没年って元和4年って前田家には伝わってるけど、
生駒氏は永禄9年没じゃないの?
その矛盾の説明はどうなるのかな?
694 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 21:11:31
>>693 生駒氏=生駒類は確定じゃないんだ。
類ぐらいしか相当する女性がいないということらしい。
生駒は類ではないとすれば、没年などが類と違っていても不思議じゃない。
だいたい吉乃は創造上の人物なのに「吉乃の墓」と大々的に宣伝している
尾張久昌寺は怪しすぎるから、この寺のいっていることは信じられない。
695 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 13:37:14
武功が創作だとするなら、生駒が土田の後家という話なんかも創作になる。
誰の生母かということは他の史料から明らかなのは信雄だけじゃないか?
永姫のことは今回初めて知ったので、くぐったら金沢関連のHPにでてた。
信雄の姫を養女にしてるし永姫と信雄は同腹つながりは濃厚かもしれん。
類の子供は信雄と永姫が濃厚って事か?
信忠は、最近同腹ではないんじゃないかって話が出てたが、
徳姫まで同腹ではない可能性はどのくらいあるんだろうか?
徳姫って、本能寺後は秀吉と信雄の駆け引きの絡みで、
信雄と関係の深い小折にすんでたけど(生駒家の地元)、
最期は京都に移り住んで生駒とのつながりは切れてるし
実際に、生駒腹じゃなかったとしても、疑問には思わないが。
そうなると、嫡流に近づける&徳川と繋がりがあるという理由で
織田家主流になった信雄が、嫡男信忠と、信康室徳姫と同腹という事にしたんだろうか?
結局武功夜話のせいで生駒が産んだのが信忠・信雄・五徳3兄妹という
ことが定説化してしまったせいで、異母の可能性に目を向けるもんが
いなかったわけだ。
そういえば「利家とまつ」では永姫は吉乃の産んだ姫ということになっていたな。
>>696 >>本能寺後は秀吉と信雄の駆け引きの絡みで、
五徳は信雄の人質という立場で本能寺の変後すぐ京都に住んでいた。
その後小折に住んだのは秀吉の命によるもので、数年後また京都に移住し
五徳は京で亡くなってる。
信長夫妻や兄達と同じ菩提に葬られているので、五徳は案外正室濃姫の
実子だったんじゃないか?と思っている。
相変わらず何でもかんでもお濃の偉業といいたいわけか。
>>699 僻むな。
生駒は織田家の菩提にも入れず、信忠生母でもないんだしなw
なんで僻みになるんだか・・・。
信雄の人質という立場だったんなら、やっぱり信雄と五徳は同母だったんじゃ
>>700 その前に姫を一人ぐらい産んでどこが偉業だ?とつっこめ。
704 :
日本@名無史さん:2007/03/13(火) 10:29:17
それだけ濃ヲタのマンセーぶりがウザイんだろ
そういえば実家の近所に金沢久昌寺ってあるな。
あの久昌寺の姉妹寺とは知らなかった。
生駒の供養搭でもあんのかな?
>>699-
>>701は、もはや定番のやりとりだなw
初めての大河が「国盗り物語」だったので
子供心からの刷り込みで濃姫好きだが、
何がなんでも濃姫の事跡!という姿勢には呆れ気味。
707みたいなのも定番台詞になってきてるし
>>707 でも定番だった吉乃と信長愛の物語よりまし
>>708 うん、でも書き込みたくなる気持ちはわかる。
徳姫が正室濃姫の子であったら
なんで記録に残されなかったのか?
この手の疑問もすっかり定番だよね。
>>710 よく考えたら徳姫の生母が生駒と明記されている一次史料もないんだよね。
武功の元史料になったとされる謎の古文書にはあるらしいが。
信長の子供たちで生母が確定しているのは、坂氏と信孝、生駒と信雄、
お鍋と信高&信吉だけじゃないか?
姫達は生母のことが明確なものは誰もいないと思っていたから
永姫の生母が生駒だったというのはかなりのトリビアだよ。
信雄の母親が「久庵桂昌」であることは確定なの?
お鍋は信吉だけ確定。
信高は一次史料では確認出来なかったと思う。
>>713 生駒家とのつながりが信雄系統はずっと続いていくから、
生母の実家であることは間違いないと思うよ。幼少期から側近に生駒の親族が
配置されているし。
永姫生母のことは加賀藩の「本藩歴譜」に「生母は生駒氏」と記載されて
いるんだよな。「久庵桂昌」と同一人物の生駒氏じゃなければ、
久昌寺を金沢に建てたりはしないと思うんだが。
信忠に関しては生駒とのつながりはまったくない。
信孝も側近に坂仙斎がつけられているように、生母の実家の親族は
側近に取り立てられるようだから、信忠の側近の誰かが生母の
実家なんじゃないかな?と思う。
>>714 信高の幼名が小洞だから、兄の大洞と同腹なんじゃないか?
それでもどっちみち生母不詳だけど。
>>716 そうすると、信秀と同腹って事になるのか。
信吉は天正元年生まれで八男なのに、
信高は天正4年生まれなのに七男だから
不思議に思ってたんだよな。
確か尾張の久昌寺って元々は違う名前の寺だったんだよね。
ということは、金沢の久昌寺の方が先に出来たのかな。
永禄9年に生駒氏がなくなった時に、
久庵桂昌という法名から龍徳寺が久昌寺に変わったと、
久昌寺には伝わっている。
久庵桂昌が信雄の生母の法名なのはまず間違いないと思う。
そして寺名を変更した理由もそこからなんだろう。
胡散臭い久昌寺縁起とは違う文献に永禄9年と残っている。
その文献には信雄を通じて久昌寺に660石加増された事が載ってる。
しかし、その文献にも信忠、徳姫の生母であるという記述はない。
金沢久昌寺の開山は慶長15年と伝わっていたと思う。
金沢久昌寺は慶長15年に、織田家の血を引く明岩和尚を開祖に迎えて
永姫が開山したそうだ。明岩和尚は尾張久昌寺で剃髪したと言われている。
前田に仕官した津田氏の菩提寺にもなっている。
永姫は信雄の姫を二人も養女にしてるし、そのうちの一人は信長の落胤といわれる
生駒直義の室にしている。信雄と永姫が同腹というのはそれなりに納得。
ところで生駒って信長正室でもないし、亡くなった時はただの側室の一人で
恐らく現役の側室ではなく出家して織田家から離れていた存在。
武功以前は捨て置かれて、誰も気にもとめていなかった。
亡くなった当時だって信長次男生母で信長の元側室、というだけの存在。
それなのに菩提寺がわざわざ生駒のために改名まですっかな?
大名の次男なんて家にとってはどうでもいい存在で、現に信雄も養子にだされて
いるわけで、その生母がさほど重要視されていたはずはないんだけど。
>>715 信雄系の柏原藩織田家の有名なお家騒動「宇陀崩れ」は家老を世襲していた
生駒家と加賀衆の側近との藩内抗争が元だからね。
信雄死後も生駒家と信雄系織田家の関わりは強い。
>>720 永禄9年頃って、信長だって大した地位でもないよね。
まだ美濃だって手に入れてないし。
その信長の側室にちなんで菩提寺の名前まで変えちゃうのは不思議な感じ。
>>714 史料の裏付けもないのに信高や於振がお鍋の子供というのは
どっからでてきた話なんだろう?
信長直系では信雄系統以外は信高系統、信吉系統の二家は幕末まで残ったから
公にはでてないけど、家伝の類で両者が同腹であることを示すそれなりの
史料が残っていたのではないか?
信高は秀吉からお鍋の実家の旧所領を拝領されたというあたりから
そう考えられただけかもしれないな。
私は名前の類似性からは異腹だと思ったけどな。 >>大洞、小洞
二人の側室がほぼ同時期に懐妊したので、セットの名前を用意したのでは。
>>725 同じ側室が次も産むとは限らないんだから、わざわざ前もって同母セットの名前を考えたというより
同じ時期に産まれそうな子が二人だから、先の子は大洞、次は子洞でいいかと考えたって方が
まだ納得できる気もするな。
とはいえ、大洞である信秀は元亀2年生まれ、小洞の信高は天正4年
その間に、酌の信吉が天正元年生まれで割り込んでいるし
同時期と考えるのは無理があると思われ。
はじめから同母セットの名前じゃなくて、
弟が生まれたから兄とセットの名前にしたとかね。
それが解釈としては、無理がないかな。
もし兄の名前が小洞だったら弟の名前はどうなってたんだろう
信秀(大洞)信吉(酌)信高(小洞)の生まれ順が確かなら
大洞の後に酌と名付けられてる信吉は信秀とは異母で
セットの名前から信秀と信高が同母と考えられるなら、信吉と信高も異母
信吉の母がお鍋なら、信高の母もお鍋というのは?ってことか。
>>731 あと、信吉、信高が同母ならば、何故生年が修正されないまま
兄信高(天正4年生まれ)、弟信吉(天正元年生まれ)を
当然の事として史学者は論じるのかというのもある。
過去帳などから、生年が判明しているからなのだとしたら、
兄信吉、弟信高にすればよいのだが、そうはしない。
お鍋は信吉と共に暮らした記録は残っているが、
信高と直接接触した記録は残っていない。
『織田家雑録』に「鍋には杓子がつきもの」ということで信吉は「酌」と
なったというけど、その理由なら同じお鍋の子の信高に「小洞」と名付けるの
矛盾している。もっとも『織田家雑録』に「(信忠・信雄・五徳)3人が鼎の足
となって織田家を支えるという願いから五徳と名付けた」という胡散臭い
ことも書いているからソースとしては眉唾だけど。
ところで『織田家雑録』て史料としての価値はどうなの?
けっこうあっちこっちで参考資料に引用されているのをみるんだけど。
お鍋の本名は「なべ」なの?
史料には「なへ」とあるけど。
濁点は省略されてしまうのでどっちかわからないんだけど、
「酌」の話からすると「なべ」だったのかな?
>>734 秀吉が「小椋鍋」と書いた書簡がの残っているから、「なべ」だったんじゃないかな?
少し前白熱していた、崇福寺のお鍋の手紙の件だけど、あの署名は「奈遍」で
「なへ」という人の署名に思う。
そしてお鍋は本名が「なべ」、濃姫は「なへ」だったんじゃないかと思ってる。
昔の人が崩し字を読み違えるはずないから、署名はやっぱり「奈遍」かそれらしい
漢字なんだと思う。
でも濃姫の本名が不詳のままで、お鍋の本名は「なへ」or「なべ」というのは
明らかだったから、お鍋の方の手紙と盲目的に信じられていたんじゃないかな?
内容を検証するとやはりあの当時のお鍋の方にそこまで織田家内で権威があるとは
思えないし、正室が書いたものとしか思えないないんだよね。
「なへ」の場合、読み方として「なえ」という音になる場合もある。
>>736 確かに。
でも崇福寺の手紙の署名は二字で、下のほうは間違いなく「遍」なんだよ。
上の部分は「奈」を究極にくずした文字に似てるので恐らく「奈遍」で
間違いないと思う。
お鍋の方が「なべ」であれば、「奈遍」と署名するのはおかしいので
「なへ」が手紙を書いた人物で、恐らく信長正室(濃姫?)じゃないかと思ってる。
お鍋の方に関する史料はけっこう残っているので、手紙など彼女自身の署名などが
見つかればこのことははっきりすると思うんだけど。
秀吉が「小椋鍋」と書いていたり、「織田家雑録」に「鍋」と「酌」のことが
載っていたので、漢字は定かではないけど当時の人は「なべ」と発音していたのだと思うんだ。
738 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 15:14:00
まず、自分の凝り固まった認識を消して
好きな人物だからといって偏らず、
平明に物事をみることを、このスレの一部の人々に薦める。
毎度毎度、同じようなループ会話をご苦労さん。
濃姫=なへ=奈遍
お鍋の方=なべ=鍋
ってことじゃない?
本能寺の変がなければ信忠嫡流で織田家宗家が繁栄し、信雄以下弟たちは
他家に養子にだされたまま終わったろうから、生母のことなんてまったく
問題にされなかったろうに。
秀吉の書状や、言経卿記では「なへ」というひらがなの名前も出てくるので、
一概に「鍋」と「なへ」が別人とは言えないのではないかな?
秀吉の書状には、確かに「小椋鍋」という書き方も出てくる。
だから、お鍋の方が「なへ」という名を「なべ」と読まれていたのは確かなんだろう。
「なへ」と書いて「なえ」や「なへ」とは読まれていなかった事は分かるな。
ただし、自分は出版され活字化されたものしか知らないので、
秀吉書状や言経卿記の原文の「なへ」が、どの字を当てているのかは知らない。
崩し文字のひらがなの場合、書き手の癖によって、選択する字も変わるからな。
あと、分かるのは、当時の女性は生家の名字で呼ばれるので、
鍋は小倉の娘というのが真実だろうという事くらいか。
742 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 16:45:44
あのね、濁点の発音は表記されないんだよ。
ちょっとは勉強品。
濁点が表記されないのは、みんな知っているだろ?
濁点がつかない名前の「なえ」も「なへ」と書く場合もある。
例えば「苗」などだ、
「なへ」だけで、「鍋」と言い切れないという話じゃないのか?
>>735-737 つまり史料に「なへ」とあっても「なへ」「なべ」「なえ」の名前の可能性がある。
そして秀吉の手紙に「小椋鍋」とあるので、信長側室のお鍋の方は「なべ」
が有力。
崇福寺の手紙の署名は「奈遍」なので「なべ」という可能性はなく、
「なへ」ということになる。
したがって崇福寺の手紙はお鍋の方ではなく、「なへ」という女性で
手紙の内容から、信長の正室で、恐らく濃姫では?
ということでいいの?
もう一度あの署名をよくみたけど、「奈」はわからないけど「遍」は同意だな。
くずし辞典を見たけど、しんにょうもあるし間違いないと思う。
少なくとも「遍」とある以上は「べ」という音にはならないよね。
>>744 >>少なくとも「遍」とある以上は「べ」という音にはならないよね
それは違う。
「遍」は「へ」というひらがなの変体崩し文字。
つまり、ひらがな扱い。
そして、当時の文章に濁点は出て来ない。
だから、「へ」が「へ」なのか「べ」なのかは不明。
また「え」と読む場合でも「へ」と書く事がある。
そのため、「なへ」「なべ」「なえ」の3種類の名前が考えられる。
>>鍋は小倉の娘というのが真実だろうという事くらいか。
女性が嫁いだ後も実家の姓を名乗るというのは常識なのに、
どういうわけかお鍋の方はこのことが無視され、高畠氏息女で小倉氏後家という
説がまかり通っている。
地誌の類だけどお鍋の方は小倉良親の女、という記録がきちんと残っているのに
なんでなんだ?本能寺の変後は実家の小倉に帰り親の保護を受けていたということも
史料に残っているし、そう考えたら織田家でのお鍋の方の権威などたかがしれた
程度だとわかるし、正室格だったなんていう説がまかり通っているのがこれまた不思議だよ。
正室格という先入観もあったので、崇福寺の署名がお鍋の方だ、と信じられているけど
そういう存在でなかったら、もっときちんと手紙が検証されたと思うよ。
>>745 古文字のことはよくわからないんだけど、
女性の署名はいつも変体仮名なのかな?
頭文字だけを省略して署名する場合はそうかもしれないけど、
「奈遍」みたいな個人の名前は固有名詞だから決まった漢字を署名するもんでない?
>>747 寧々や、ガラシャも「ね」だけや「た」だけを
署名に使う場合もあり、その時々によって違う事もある。
そのため印や花押が用いられる。
「奈遍」に関しては、自分は二文字か一文字かまだ疑っている。
パッと見は「奈編」よりも「簾」の方が可能性が高く見える。
署名に添えられた黒印の分析もしてみたいものだ。
女性の頭文字署名は手紙の相手が目上の相手の時はそうするんじゃなかったっけ?
親とか兄姉にもそうだったらしいよ。相手にへりくだるという意味みたいだけど。
秀忠室の江与は「五」という署名があるそうだから、名前は諸説あるけど
「江(ごう)」さんだったみたいだね。
崇福寺への位牌所設置依頼の書状なら、御住職はどんな立場なんだ?
鍋の立場なら、御住職は目上だよな?
丹羽長秀への書状でも「なへ」と解釈されている署名だが、
この場合はどうなるんだ?
信長も寧々への書状などに「のふ」と略して書いている。
しかし正式な文書、男性への書状、寺社への禁制などには「信長」と
書いているのだが、女性の場合はそのような形式は当てはまらず
かな文字(変体仮名含)や、略した名前でもいいのか?
>>750>>崇福寺への位牌所設置依頼の書状なら
この手紙は要約すると「この崇福寺はうへ(信長)の位牌所だから、誰からの
放火や略奪を禁止する。そのために一筆申し候、かしこ。奈遍刻印」
住職宛ての位牌所の依頼書ではなく、寺に狼藉者が来た場合の印籠みたいなもの
かな。戦国時代は縁の寺などの近辺で戦がある場合は、その寺に制札を立てたりして
戦の被害から守ってあげていたから、その類のものの書状形式のもの。
丹羽長秀への書状は、信孝攻めのために崇福寺のある長良に陣を取る長秀に対し
崇福寺の制札を遵守する命令書&崇福寺に親子の弔いに寄ってほしいという
内容だから、丹羽を明らかに目下扱いで書いている書状だな。
署名は親しい相手やプライベートの手紙などでは、略した名前や相手が呼ぶ呼称
などを署名したのかもね。しかし「のふ」っていいな。
花印がなければどこの信さんからの手紙かわからないな。
今度はこっちで自演か…。
うん、書いてることは変わり映えしないよね。
みーんな、前に読んだな・・・のことばっかり。
自分自身で滑稽に思わないのかな。
だったらわざわざ見なきゃいいのに
>>754 いつも長文、ご苦労さまです。
何か新鮮な書き込みは無いか?と期待してるんですが、
いつも同様なネタばかりなのでつまりません。
なら、何か話題をふれよと言われても、
何がなんでも「実は濃姫」派ではないので、
書き込むのにも躊躇してしまうんですよね。
>>755 つまらないなら見るなよ。
期待するような書き込みはどうせないから。
書き込む気もないならなおさら。
濃姫派でないならとっとと退散して二度と来るな。
>>753とか
>>755みたいなのもお約束のループ書きこみ。
自分達だってループしている自覚がないところが間抜け。
文句言いながら全部内容をチェックしているのに素直じゃないね。
本当に嫌ならいいかげんここのスレになんかこないだろうに。
信長からねねへの手紙は漢字が極力少なく、感情豊かにわかりやすい文体で
書かれているそうだ。ねねがあまり漢字が得意でなかったので配慮したのか、
当時の女性全般が漢字が不得手ということで、男性が手紙を書く時は
配慮していたのかはわからない。
女が漢字を書くのは小賢しいという認識がまだまだあったのかもしれないな。
女性も読み書きできてもあえて仮名や変体仮名にとどめておいたのかもしれない。
>>755 これからも自作自演のループだよ。
君の満足するレスはこれからもないだろうから、スレをチェックする必要はないと思うよ。
今までお疲れ様でした。
760 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 01:20:25
冷静な目を持とうねーwww
IDが出ないのが自作自演の巣窟になるんだね。
ちゃちゃいれるほうもIDが出ないから複数を装った単独犯だろうな
いつも同じような口調で擁護するやつがすぐに追随してる
お鍋書状の謎の件は
帰蝶本スレで同じような展開もあったのだっけ?
だから既視感アリアリで・・・
濃スレでもさんざん出尽くした話題だったけど、
そこでは結局「な」までしか解読できず、下の文字でちょうど話が
こんがらがってきてたところで人大杉になった
>>764 違うよ。
一文字の変体仮名のようだがなんの字だかわからず、
いろいろ候補の字があがったけど結局わからずじまい、で人大杉。
でもここのスレでは仮に「奈遍」と署名してあっても、それがお鍋の方のこととは
限らないのではないか、という展開になっている。
濃スレでその時、崇福寺文書繋がりで出てきた
久庵慶珠の検証の方が興味ある。
久庵慶珠が信忠生母ってことじゃないの?
信雄が喪主を務め、信忠が位牌所を設置するのは変。
同腹なら喪主も位牌所の設置も長男の信忠がやるはず。
わざわざ奇妙の頃に信長の判形で判物を出したのは、奇妙の生母がらみの
こと以外考えられないけど。
たまたま久庵桂昌と似たような法名になったのかな。
そういう偶然はあるにせよ、何か出来すぎのような気もするし。
穴山梅雪の正室も山内一豊の正室も同じ「見性院」という戒名。
五大将軍綱吉生母は「桂昌院」(久庵桂昌と似てる)
臨済宗も曹洞宗も禅宗だから、法名がかぶってもおかしくはないよな。
出家したあとにいた庵が、同じ所で、そこの名前が久庵だったりして。
そりゃ似たような法名は世間では結構あるだろうけど
長男信忠の母と次男信雄の母だったら、普通は違うような法名にしないか。
まぁ、たまたま似てたから信忠と信雄の母は同じだと思われるようになったのかも。
崇福寺は臨済宗、久昌寺は曹洞宗だから、戒名をお願いするところが違う。
寺側も同一人物だったら、むしろ全然違う戒名にすると思うんだ。
同じ禅宗だから、根本的な戒名の決め方は似ていると思う。
年恰好、年齢、境遇、出家の有無、身分、などが似ていたら
似たような漢字をあてがわれるのは当然かもな。
で、久庵ってどういう意味?
久庵は道号。
庵がつくけど庵号じゃないっていうのが紛らわしいな。
道号は、今は性格や趣味からつけられる事が多いが、
当時は、住んでいたり修行していた地名や寺の名前から
つけられる、本来のつけられ方の道号も多かったから、
同じような所にすんでいたという推測もできるんだ。
それこそ、一つの久庵という庵にいたという事もあり得る。
徳川家では、将軍が代替わりすると、先代の側室は
同じ寺に移されたというが、信長がそんな事をしたとは思えないけど。
道号には主に生前のその人の性格や功績、
趣味や特技などを讃える意味の文字を組み入れたり、
季節観、地名や家名を入れたりする。
久庵は意味するところはやはり出家して仏教に帰依していたという
意味合いが強そう。在家ではなく、二人とも尼寺なり庵で最期を迎えてのではないか?
身分は信長の元側室にすぎず、子供たちもまだ一人前ではない、ということで
元々の身分に相当する戒名をつけられたから、シンプルな戒名なんじゃないかい?
>>身分は信長の元側室にすぎず、子供たちもまだ一人前ではない、
信長自身もようやく戦国大名として成り上がれるかどうかの
発展期の段階だし、その信長の次男の生母というだけで寺が
わざわざ改名すっか?というのはずっと疑問ではあった。
たまたま信長が超有名人に出世したから寺伝もなんとなく納得できるが、
そうでなければ、寺の由来にある久庵桂昌って誰?ってことになりかねない。
>>769 梅雪夫人と千代は比較的著名だから気づいたのだろうが
「見性」ってひとつの仏教用語なんだよね。
禅についての本を読むと、頻繁に出てくる用語だよ。
永姫は母親の久庵桂昌のために久昌寺を作ったらしいけど、
確か利常が作った寺にも前田利家、利長、織田信長、信忠とともに
永姫の母らしき女性の廟もあるんだよね。
久庵桂昌、寺の名前は変えさせるわ、前田父子、織田父子と並んでるわ
何かすごすぎw
>>778 瑞龍寺の永姫生母の石廟ってのは疑問だがな。
寺伝では長年濃姫の石廟と伝えられてきていたが
研究者が、永姫生母のものだと言い出した。
それも文献などがあった訳じゃなく、
前田家建立の石廟だから、信長夫人の石廟なら
永姫生母の方がしっくりくるって憶測から。
一側室が信忠よりも上座に来ると憶測する方がおかしい。
近年の測量結果から、石廟建立は慶長18年前後と推測されている。
前田家に伝わる永姫生母没年は、元和4年。
>>779 石廟のある瑞龍寺は慶長18年利長が利家と信長夫妻、信忠の供養のために建てた
法円寺に始まるので、慶長18年建立で間違いない。
この石廟の意味は単に供養のためというのではなく、
当時の前田家の情勢によるものが大きい。豊臣、徳川の間に挟まって
前主君である織田信長を盾にした。ようするに豊臣離脱の意思表示であるわけだ。
その後永姫の墓を利家夫妻よりも上段にもうけるなど、前田家は織田家への
忠誠を見せることで、豊臣との訣別を示し、徳川への恭順の態度を示した。
そう考えると、石廟は織田家の象徴である信長夫妻(正室)でなければ意味をなさず、
また慶長17年に亡くなった濃姫の供養も兼ねることで、石廟を建てたのでは
ないかと思われる。この石廟には政治的な背景が強いので、永姫生母個人の
供養などとは意味合いが異なるので、永姫生母ということはありえない。
信雄と永姫が同腹、という設定でこの時代背景の大河があたれば、
世間ではそう認識していくのでは?
金沢にそれを裏付ける足跡がある以上は説得力がある。
信長の子供たちでとりあえず幸せに往生できたのは永姫だけ。
永姫主役でも脇が有名人ばかりだから面白いかも。
元和4年没の永姫生母と思われる墓のことだけど、生母ではなく輿入れで一緒に付き従って
ずっと永姫に仕えた侍女頭とか、乳母とかじゃないか?
信雄と同腹の生母なら信雄に庇護を求めるか、信雄没落後は実家の生駒家で
庇護を受けるもんだと思うけど。
同じ久庵桂昌という法名なのに、永禄9年没と元和4年没じゃ違いすぎるな。
信雄と永姫の年齢も同腹にしては離れすぎだし。
永姫の年齢がもっと上だったとしても、なぜ同腹は信忠、信雄、五徳で伝わり
永姫は入らなかったのか。
>>783 >>なぜ同腹は信忠、信雄、五徳で伝わり永姫は入らなかったのか
「武功夜話」を創作した終身人物がその事実を知らなかったからじゃないか?
あの名士さんは江南市近辺の歴史のみ中途半端に詳しかったんだよね。
金沢の観光本の金沢久昌寺のところによくみれば永姫のことや寺の由来が書いてあった。
金沢の久昌寺付近の人にとっては永姫が生駒腹だっていうことは常識だったりして。
>>なぜ同腹は信忠、信雄、五徳で伝わり
史料では信雄は生駒腹、信忠が信雄と同腹、という記載があるけど
五徳に関しては「武功夜話」にしかのってないんじゃなかったかな?
真偽はともかく信忠、信雄が生駒腹となったのはそれなりに根拠もあったんだろうけど、
五徳に関しては武功だけが根拠かな。元徳川家嫡男正室という五徳も
生駒腹にしたかっただけなんじゃないか?
このスレキモイわ。戦国板でやれば?
戦国板はIDが出るので自作自演できないから
ここでやってるんだよ、ごめんね。
久しぶりに覗いたら、また過疎ってるんだね・・・
>>786-788 どうみても同一人物。
そんなにここのスレが気になるなんてよっぽあれね。
永姫生母の戒名は「春誉妙澄大姉」、没年が元和4年。
元和4年頃の、亡くなったとはいえ信長の社会的地位の高さや
前田家の家格に対して前田家の正室の実母の戒名がお粗末じゃないか?
お鍋の方も院殿号をつけてもらっている。
永姫の乳母説に一票かな。
一般的に大名とはいえ正室の実母とはいえ、正室腹ではなく側室腹なら
嫁ぎ先での生母のあつかいはそんなに高くないよ。
側室であっても娘の嫁ぎ先に面倒をみてもらうようなことはせずに
生涯生活の保障はされるし、奥を下がっても実家の世話になる。
生駒は信長生前に亡くなっていて、生駒家の菩提寺できちんと弔ってもらって
いるのに永姫が生駒の菩提を弔うために金沢久昌寺を建立したというのは
不自然な話だけどな。
寺の寺伝も武家の家系図同様眉唾だ。
権威ある寺にみせかけようと後から建立の成り立ちをつくっちまったりする。
793 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 11:18:30
信長の息子達の幼名のことだけど、普通嫡男には代々当主と同じか似たような
幼名を与えると思うんだ。
正室の実子を望んだから嫡男確定の幼名を側室腹の信忠につけることを
はばかったのかもしれないけど、結婚後5年以上たったのに嫡男どころか
子供の一人もいない状態はある意味信長流織田家の存続の危機。
側室に男子が産まれたらとりあえず嫡男と認定して家の安泰を誇示する必要が
あったのではないかと思うんだ。(弟や叔父たちには特に)
でもようやく生まれた男子につけた名前が「奇妙」。
それ以下の弟たちの名前も適当だけど、もしかしたら信忠よりも先に濃姫が
男子を産んでいて、「吉法師」という嫡男を示す名前をつけていた可能性はないか?
もしかなりの幼少期に亡くなったのであれば家系図にも残らず、墓も位牌もないのは
珍しくない、というか当時は基本的にそういう慣習だった。
「吉法師」が亡くなったこと、濃姫がまた男子を産む可能性、などを考慮して
「吉法師」をつけずに「奇妙」という適当な名前をとりあえず信忠に与えたの
ではないか、とふと思った。
長くてすまん。
信長は吉法師だが信秀も吉法師だった話は残ってないから
代々同じ名前という事はなかったのでは?
元服後だが通称の「三郎」の方が、嫡男の証だったと思うが。
795 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 10:50:52
>>794 信秀は吉法師ではないにしても○法師という幼名だったかもな。
秀信は三法師だし。
幼名は縁起の良い名前をつけてなんとか(乳児の死亡率がむちゃ高いので)
5才あたりまで生きてもらうことが当面の目標だったらしいよ。
「法師」は「丸」と同じように付加される物だから
「吉法師」と一般的になっているが
「吉丸」と当時の別の人間が呼んでいた可能性もある程度の区別。
信長の幼名の基本は「吉」。
797 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 11:46:57
そうなると三法師の名前が「三」というのはちょっと変かも?
798 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 12:29:05
信長の息子たちの幼名を見てたら、そう変とも思えない。
「人」っつう名前もあったな。
下の子ほどどうでもよくなっていたのがよくわかる。
奇妙丸は署名は奇妙だけ。
茶筅丸も、茶筅だけだったり、於茶筅だったり。
三七も、三七だったり、三七郎だったり、三七丸はなかったか?
秀勝は於次だが、於次丸の時もある。
勝長は坊丸で、於坊とも呼ばれるし、坊だけの事もある。
意外と適当。
呼びやすいように、その場のノリでつけてるだけかも知れないな。
父親や母親が「吉法師」と呼んでいたので、「吉」が
「吉法師」で定着したのかも知れん。
信秀と信高は大洞と小洞だから、後年生まれた子供の中ではましな方。
二人の間に生まれている信吉は杓で信貞は人か。
前にも話題に出てたが、信高が、信吉と信貞よりも
席次が上に来ている理由が知りたい。
生母の違いだったりするんだろうか?
信高がお鍋の子供だとすると、考えにくい名前と席次だな。
長次がお鍋の二人目の男子という説もあるしな。
大洞、小洞はどう考えても同腹の対の名前のような気がするな。
異腹でも数日違いで産まれたとか、何かしら対にする要因があったんだと思う。
20人も子供がいたら誰が誰の腹の子で誰の次ぎが誰で、なんて覚えられないな。
濃姫に男子がいてある時期まで生存していたという可能性はあるかも。
輿入れして奇妙が生まれるまで7年近くもあるのって変。
3年まって子供が生まれなければとりあえず正式に側室おいて子供を作るだろうに。
輿入れ後けっこうすぐに男子なりが授かって、3才ぐらいで亡くなり、その後
生まれたのは姫かなんかで(亡くなったか、あるいはこの姫が徳姫だったりして)、
さすがに立場も立場だったので側室をおき子作りに専念した、
ということだったのかもとここのスレをロムって思った。
余談だけど、低体重で生まれた新生児の生存率は圧倒的に女子。
統計的に男子のほうが多く産まれるけど生命力が女子よりないので
1才までに亡くなるケースが女子より多いのは現代でも同じ。
私は信忠濃姫の子派なんで(しょうもない逸話を信じて。迷妄と叩かないで・・・・・・)
中だししてなかった派だな。
尾張中を一旦敵に回した信長の生命線は道三で、そこを繋いでんのは濃姫だからなぁ。
道三が死んだ途端弟が謀反起こすぐらい、しかも主だった武将のほとんどが弟につくぐらい
あからさまに生命線だから、道三が生きている間は濃姫に中出ししていなかった可能性も充分ありうると思う。
子供だけでも生き残ってくれればともかく、万一濃姫が子供と共に死んだら、信長の命自体が危なかった訳だし。
子供を作って家を安定させるも何も、自分が死んだら意味無い。
今でも妊娠出産で生命の危険にさらされる女性は250人に1人いることを考えると、その状況で中出しは難しいかと。
(死ぬ人自体は少ないけど、集中治療室に入る人は結構多い・・・・・・)
例えば、冬姫は、信長が生きている間は氏郷との子供に恵まれなかったけど側室はなく
信長が死んだ途端に子供に恵まれた。
信長が生きている間は、冬姫の生命を少しの危険にさらすことすら避けていたが
信長が死んだ事実により、子を成して家を安定させることを選んだと考えても差し障り無さそうな現象といえる。
我ながら下世話な発想で情けないけど、こういう見方も有りうるかなと思ってる。
戦国時代に外出しで避妊という知識はあったんだろうか?
ねぇよw(笑)
子供は7才まで神様のお使いで、神様が授けると信じられていた時代だし。
信長は濃姫には夫としての御勤めを果たし、濃姫も何度か妊娠なり出産をしたので
世継ぎはそっちに期待をし、それ以外の性欲は男で満たしていたんだよ。
そうこうしているうちに尾張平定しちゃって、たなぼたで美濃の後継者指名を
受けちゃったので、さすがに世継ぎがいないとまずいということで、今度は
せっせと子作りのためのみに側室をもうけ、夜な夜な励むようになり、いっきに
子沢山に。でも本命は男♪バイにありがちなことさ。
>>803 おいおいw
なんで道三が生命線なので中出ししないという展開になるんだよ!
道三が生命線なら死に物狂いの中出しして、是が非でも道三の孫を
作ることに専念するんじゃないか?
道三も外戚としてその子を後見するという大義名分もできるし。
もっとも濃姫に男子が授かったとたん信長が道三の命で一服盛られて
織田家を乗っ取られる可能性もあるから中出し厳禁だったのかもしれんが…
美濃に乗っ取られるのを恐れて、濃姫が出産するのを快く思わなかった勢力はいるだろうな。
信孝の「三七」は3月7日に生まれたからそうつけた、というが本当だろうか?
もし信雄のほうが後から生まれたという話が事実なら、そんな後々災いを生むような
名前をつけるとも思えない。誕生日のことは極秘にするだろうに。
信孝は3月7日に生まれたのかもしれないが、信雄はそれより早く生まれたのではないか?
>>808 信雄の母生駒の方は、その前年にも長男信忠を産んでいて、
不可能ではないが、翌年の早生まれで次の子を産むのはかなり厳しいと思う。
信雄がそれより早く生まれたというよりも、信孝3月7日説が懐疑的。
生駒の方は、最近じゃ信忠の母親ではないという話しもあるから。
信忠の母親ではなかったら、早生まれだろうが1月1日だろうが産める。
信雄と信孝の誕生日は信孝の名前の由来から類推されたわけだから、
「三七」が「3月7日に生まれたのでつけた」という説が違うとすれば
二人の誕生日も違ってくることになるわな。
812 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 00:31:49
信雄と信孝の誕生については、信雄より信孝の方が先に生まれたが、信孝の母親が
岡本氏の屋敷にいたため、報告が遅れたので信雄が二男になったと複数の
文献に書かれている。でも3月生まれだとは書かれていない。
信孝が3月生まれというのは、名前からきたのだろうか?確かに他の兄弟には
そんな生まれた日にちにちなんでつけられているわけでもないのに、
信孝だけ誕生日を連想するような名前にするのもちょっと?って感じ。
だど、「三七」というのは何を連想してつけられたのかな?
813 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 04:00:50
生駒吉乃@森口瑶子
>>810 信長の長男信忠は、信長正室(濃姫か)の養子にされた関係から、
生母の名(生駒氏)がかかれなかっただけでは?
生駒氏が生母でなかったというが、別の生母の名がかかれた史料があるわけでもない。
信忠を養子にした濃姫の子でないことも確実。
正室の実子とされた場合、生母の名が消されることがある。
>>814 元亀2年になくなったと思われる久庵慶珠が生母じゃないかと予測がたてられている。
816 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 11:21:57
信忠生母が生駒だと矛盾が出てくる点が多い。
信忠が位牌所を設置したとされる久庵慶珠が生母だと辻褄は合うし。
しかも織田家の息のかかった寺に久庵慶珠は埋葬されていることを
考えると嫡男生母として気をつかわれていると考えられる。
もし生駒が信忠の生母だったなら、織田家の菩提樹に埋葬されている筈。
そのことから考えると、生駒が信忠生母とはちょっと考えにくい。
結局、久庵桂昌の法名から久昌寺にしたとか全部嘘なんじゃないかと思うよ。
生駒氏が側室にあがったとしても何ら不思議はないし、
信雄を生んでても別にかまわないんだが、
まだ尾張一国を支配できた程度の、それもいつひっくり返されるか分からないようなときの
信長の側室になったくらいで、中興の祖久庵桂昌にちなみ、寺の名前を変えましたなんていうのは
最終的に信長が天下統一の一歩手前まで言ったのを知っている後年の人間の発想で、
当時生きてた人間からしたら、いくら桶狭間で勝って勢いに乗ってるとはいえ、
美濃の攻略もできてないような信長の側室を、そこまで持ち上げる理由がないのさ。
家伝書ブームの時に、嫡流信忠と、徳川幕府に縁の深い徳姫を
信雄と同腹にする必要があったのは、信雄の血筋側だけの理由なんじゃないかな?
つまり、その頃には、信忠はもちろんだけど、徳姫と同腹の血筋もいなくなってたんじゃないのかな?
818 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:19:37
なるほど、それで信雄の生母である生駒も信長最愛の人としたかった
わけだ。生駒が信長最愛の人でも別にかまわんけど、
でも濃姫を離縁して(もしくは死へ追いやって)生駒が正室になった
なんて事実とちがう話を捏造するのはちょっとやりすぎじゃない。
信長は天下統一さえしていないのだし、当時の人間からしたら、家康の時代に
なった頃には、織田家は政治の表舞台に出てこなくなったのだから、すっかり
忘れ去られてたと思うよ。それなのに生駒のために寺がわざわざ改名までする
のはやはり後者の人間の発想だと自分も思う。
819 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:41:54
ちなみに、徳姫の母の候補となる人はいる?
織田宗家となった信雄の生母を信忠生母に当てた説はいいとして、
徳川家康の嫡男でありながら切腹させられた松平信康の室であった徳姫は、
それほどまでに織田家で重んじられた人だったのだろうか?
徳姫には、丹羽家、前田家、公家の関白二条家などへ嫁入った妹たちがあり、
こちらはいずれもそれぞれの正室として生涯を終えている。
当時の岡崎城主の妻でしかなく、
徳川家の菩提寺に埋葬されることもなかった徳姫は、
江戸時代の織田家にとってそれほど価値があったのだろうか?
>>819 徳姫は子を残して織田家に戻った娘だから
徳川家によって埋葬されるわけないだろう。
実家に戻った娘が織田の墓所に入る、当然なことだが。
821 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 14:50:02
>>820 徳姫が徳川家の菩提寺に埋葬されなかったことを問題にしてるわけじゃないが?
織田家に出戻りした徳姫が、なぜ、江戸時代の織田家で重視されたかということ。
徳姫の母が生駒氏でないならば、
なぜ生駒を生母として語られなければならないのか、ということ。
ちゃんと文章、読んでる?
>>819,820
だが、後々まで、残してきた娘、そして孫などから相談を受けていたのは
書状などから分かっている事であるし、徳川家から知行ももらっている。
織田家の中では、一番、徳川に近い人物の一人には間違いない。
個人的には、身柄を秀吉が押さえていた事から、信孝辺りと同腹な気がしなくもない。
信孝の生母や娘が人質にされたが、徳姫もその関連でと考えられるような。
さすがに、信長の実の娘を張付けにはできなかったとかな。
そして、信孝と同母であったなら、その記録は改竄抹消されて当たり前だろう。
もっとも、信長の子供の生母など、全く身元不明のものの方が多いんだし、
生駒と坂だけのはずはなく、同時期に冬姫の生母もいる訳だし、
知られていない、政治的背景に乏しい女性が生母の可能性もあるがな。
823 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 15:06:13
秀吉の側室に三の丸殿を差し出したのは、信雄?
三の丸殿の生母も信雄、信孝いずれとも違うと思われるが、
秀吉が所望したのか、信雄の同盟の一貫なのか。
三の丸殿は、信長の娘でありながら、
関白秀吉の側室としての序列はあまり高くなかったようだが。
三の丸殿は秀吉死後、関白二条昭実室になっているようだが。
824 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 15:14:29
徳姫は徳川家から織田家にもどった際、なぜか父の信長の元へ行かずに
兄(弟という説もあるが)の信忠の元へ身を寄せている。
そう考えると徳姫と信忠が同腹かもと考えられるし。
また本能寺後、なぜか秀吉の人質に徳姫がなってることからして、
信孝と同腹かもという意見もなんとなく納得。
信雄ともし同腹なら、徳姫は信雄の元へ身を寄せるのではないか。
それがないことを考えると、信雄と徳姫は異腹なのでは。
三の丸殿
母・・・慈徳院殿(信忠乳母・滝川一益縁者?)
養父・・・蒲生氏郷
らしい。信憑性は知りません。
>>824 >徳姫は徳川家から織田家にもどった際、なぜか父の信長の元へ行かずに
>兄(弟という説もあるが)の信忠の元へ身を寄せている。
その時期、身を寄せれる兄は信忠しかいなかった。
だが、岐阜ではなく清洲にいたという説もあれば、犬山にいたという説も聞いた事がある。
信雄も信孝も他家に養子に出ていて、伊勢にいるのだから、たとえどちらかと同腹だとしても
身を寄せる訳はないと思われる。
安土みたいに全く知らない土地よりも、まだ知っている土地にいたかっただけじゃないか?
827 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 15:59:01
徳姫は、本能寺の変後、徳川家との絡みで秀吉が預かっていたのでは?
信孝の生母や娘が人質に出されたからといって、姉妹を要求するのはあまり例がないような気がする。
(政略結婚をのぞいて)。
徳川の縁者である徳姫の身柄を秀吉が預かったのは、別の含みがあるような気がする。
徳姫は結局信雄からもらっていた知行ではなく、
最終的に徳川家から知行をもらって京都で暮らしていたことは確定しているので、
徳川側からすると、大切にする必要のある立場の女性という認識だったという事。
徳川幕府が絶対になっていた寛政期に、織田の本家にあたる信雄の血筋が
徳川との繋がりをより喧伝するために、同血筋とするのは当然の事。
実際に信雄と同腹か、異腹かは関係なく、武家の処世としてそうするのが正しい。
自分は、信忠は生駒腹というのは疑問に思っているが、徳姫は生駒腹でも疑問は感じないけどな。
829 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:47:50
とにかく徳姫が生駒の娘であるというこれといった証拠もないんだよね。
といっても他の誰の娘だったかという記録も全く残ってないわけで。
なので、今の段階では生母は不明とするのが妥当なところだろうね。
あと、信長生母が土田御前というのは間違ってると判明したし。
830 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 01:11:28
>>825 養父が蒲生氏郷とすると三の丸殿は冬姫と同腹である可能性もあるわけで
831 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 11:37:59
>>830 秀吉が寡婦となった冬姫に求婚したという嘘話も、
姉の冬姫夫婦のもとにいた妹三の丸殿に求婚したと考えれば、
自然なのかな?
>>830 三の丸殿と同腹だと、冬姫は信忠乳母の子供という事になるが、
信忠と冬姫は、年齢とすると、1歳、ないしは4歳はなれているだけなので、
乳母の役割をしていた女性を、それほど早期に母乳の出ない状態にするだろうか?
833 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 17:32:19
>>832 信長が、思わず手をつけてしまった可能性もある。
乳母とはいっても、母乳を与える時期は長く見積もっても2年だし、
母乳が足りなければ、また別の人を呼んでくることも可能だったのでは?
もっとも、冬姫生母も、三の丸殿生母も、どのような人物だったか、
はっきりした事は分からない。
滝川氏が甲賀出身なら、冬姫抜きにしても蒲生氏と縁がある可能性もあると思うよ。
妊娠期間中の授乳は、流産の恐れがあるので、乳母をつける事のできる身分の女性は
授乳をやめていたといわれているから、信忠の乳母になる事のできる身分の女性は、
自らの子供に、自分より身分の低い乳母をつけるていどの身分はあるから、
信長の子供を妊娠したのであれば、その時点で授乳はやめる。
そうすると、冬姫が永禄1年生まれであれば、妊娠は永禄1年の早い時期、または、
信忠の誕生と同じ、弘治3年中には授乳をやめる事になる。
永禄4年生まれでも、永禄3年中には乳母の役割からおりる事になる。
信忠には守役がついていなかったといわれている事から、幼少時の養育は、
早期に濃姫の養子になっていれば、濃姫と乳母の家にて行われていた可能性が高い。
また、養子に入ったのがかなり後であったなら、乳母の家にてのみ行われる事から、
乳母の変更があれば、養育もそちらに移ってしまう事になる。
天正年間に生まれたと思われている三の丸殿の誕生にあたり、
そのような早期に乳母を辞したと考えられる女性について、
信忠乳母を強調する必要は考えにくい。
また、冬姫生母が信忠乳母と伝わっており、三の丸殿が伝わっていないのであれば、
>>833の予測は妥当といえるが、そうではない事を考えると、同腹は考えにくい気がする。
ただ、冬姫生母と近しい人物が、信忠乳母であった可能性はあるようには思う。
>>828 五徳は信康とは離縁したのではなく、あくまで死別。
信康切腹後数ヵ月後に姫を残して岡崎をあとに織田家に戻ってきているのだから
実家同士の同盟解消に伴う離縁というのとは明らかに違う。
姫を残してきたということは、同盟関係は維持しているという証。
五徳は再婚していないし徳川の嫁の立場のままで亡くなっているから
徳川から優遇されるのは当然だと思う。
その立場ゆえに秀吉や信雄からも利用しがいのある姫だったんだろう。
それから信雄系は織田本家ではなく、あくまで庶流。
織田本家は秀信で断絶。
837 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 00:34:19
長文書くのは自由なのだが、
もう少し要約するとか、
段落を儲けるとか、先に主題を述べるとか
少しは工夫して欲しい。
真面目な希望
だいたい信康の自害・正室殺害はあくまで徳川家の騒動であって、
信長は直接的にはからんでない。信長がそうさせるように仕向けたというのは
五徳を嫁に出して同盟関係にある以上ありえない話。
息子と嫁を亡き者にしてまで信長に対し身の潔白を証明したのに五徳を実家に返す、
あるいは実家に呼び戻すということも矛盾してくる。
斉藤家、武田家でも似たような当主と嫡男間の諍い(家臣団の対立)があったのだから、
当時の家康と信康にも同様の対立があったのだと思うな。
五徳と信康の不仲を示す史料は残っているようだから、そのことから
信康告発の手紙の話しや嫁姑との不仲説なんかが創作されていったのだと思う。
839 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 11:10:55
信長の、信康・築山殿の処分命令説は昔からあったけど、これについては
疑問だった。いくらこの二人が武田に内通していたとしても、信長が家康の
妻子の処分について命令できるとは思えない。しかも事実かどうか確かめた
際に酒井忠次が何の弁解もしなかったことも引っかかるし。
最近は家康主導説が有力らしいね。自分も家康主導説が正しいと思うな。
その方が自然。徳川家の家康派と信康派の家臣団の争いが原因の発端だと思う。
840 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:02:26
しかし、信長から見ると、複雑だろうな・・・
せっかく嫁にやったのに徳川家から一方的に返された五徳、不憫だったんじゃないかな。
信長って、お市にしろ、五徳にしろ、夫と死別した身内の女性をそのまま庇護しているんだね。
お江与が夫と別れるたびにすぐに嫁に出されたり、
家康の孫千姫が大阪城落城からそれほど年を置かずに他家へと嫁ぎ、再婚したのとは対照的。
信長は自らの駒として送り出した妹や娘に再婚を持ちかけてないんだよね。
お市や五徳は夫と死別したときまだ二十代、それでなくとも、
信長の妹や娘であれば、政略的にも再嫁先はいくらでもあったであろうに。
信長なりの美学だったんだろうか。
>>839 そうだよね。信康が本当に武田と内通していたとしたら信長の命令がなくても
父親を裏切った信康は切腹ものだよ。築山殿が殺害されたのは事実だろうか?
いくら今川氏も関口氏も没落したとはいえ、正室を殺害するということは
例のないこと。問題ありなら離縁するなり、一生寺に閉じ込めとくなりするはず
なんだが。
>>840 婚姻を無理強いして同盟を結ばなきゃならんほどの切羽詰った状況ではなくなっていたしね。
適齢期の親族を養女にして嫁に出しても効果は一緒だし。
秀吉は身内が少なく、手駒が少なかったことが強引な縁談の理由だろう。
お江よは最終的には女性最高の栄誉と母親としての幸せを手にしたから
まだ救われるが旭は気の毒だな。旭の肖像画を見る限りでは兄には似てない
楚々たる美人だったけど。
>>840 千姫が本多家に、すぐ嫁したというのだけど、
別に肉親の情が薄い云々ではなく、
巷説に従うわけでもないが本人の意思もあったろうけど
本多忠刻の母・熊姫(五徳の娘)の強い希望があったというぞ。
>>840 >兄には似ていない
秀吉と南明院は父親が違う
よく考えたら本多忠刻は信長のひ孫になると同時に家康のひ孫でもあるわけだな。
千姫は家康の孫であり、信長の姪の子にもなる。
その二人が結婚したんだから相当血の濃い縁組だったわけだ。
千姫が一目惚れしたというが、忠刻の顔立ちなどは千姫によくいていた可能性もあるわな。
当時の大名家ではこれだけ濃い縁組は珍しかったのではないか?
濃っちゃ濃いけど、遺伝子の相同性で言ったら 5/64になるかと。
普通に前の旦那の秀頼の1/8(従兄弟)の方が血は濃いんだよね。
2度に渡って交雑しているので、奇形の発生率は後の旦那との方が高そうかな?
でもやっぱり、秀頼とは子が出来ず、忠刻とは子が出来たのは
単純に忠刻の方がまだしも血が薄かったからだと思う。
伊達成実なんて両親は叔父と姪の関係です。
近親婚の場合一代のみとかなら実はさほど問題はないらしいよ。
皇室のように代々濃い近親婚を繰り返すと肉体や精神に異常を
きたすそうだけど。
秀頼とは従兄妹同士だけど、現代の日本でも従兄妹同士の結婚は認められている
ぐらいだから近親婚という意識は薄かったろう。
>>812 信雄の幼名は「三介」というのもあるのかな?信長公記では「三介殿」と
記されているけど。「三七」は三月7日生まれだからというわけではないような
気がする。
信雄の幼名は「茶筅」
「三介」は元服後の通称。
信長なら三郎、信忠なら勘九郎、信孝なら三七郎
>>848 それなら信孝の「三七郎」は元服後の通称ということになる。
信孝の幼名はなんだったんだ?
幼名なら生年月日にちなんで適当につけられたということも奇妙、茶筅をみても
ありえるだろうけど、通称名となるとそこまで適当とは思えない。
>>849 幼名は「三七」
通称とほぼ一緒だからといって、別におかしな事ではないよ。
戦国板ならともかく、史板の濃姫と松姫のスレで、
信孝の幼名や信雄の通称の事を知らない人間がいるというのが・・・。
ぐぐっただけでも、すぐ分かる事を。
852 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 11:04:01
>>842 千姫が本多家にすぐ嫁したことについて、
別に肉親の情が薄いなどと書いた覚えはないが?
それは君の妄想。
逆に、辛い未亡人生活を忘れる為に、
別の男に嫁がせるという考えの大名だっているわけだ。
ただ、信長はそういう考えの持ち主ではなかったというだけで、
再婚が悪いといっているわけじゃない。
信長死後、お市は再婚しているし、
信長の考え次第では、お市や五徳を再婚させることだって可能だったってこと。
それをしなかったのは信長の美徳だったのかな、といっているだけで、
再婚させないことが正解だったとか、そういう話ではない。
下段のレスは、その次のレスを書いた人への間違いだと思うが・・・
幼名と通称名が一緒って珍しいことではないの?
ちなみに有名どころで誰がいるか教えて。
信孝の幼名については岡田氏は「勘八とも伝わるが不詳」と文献に書いているし
「三七」とはっきり記載されている史料って何かあったっけ?
>>853 ないと思う。いわれてみれば三七が幼名でない可能性が高いな。
あるよ、勢州軍紀に幼名が三七丸で元服後が神戸三七信孝とある。
「君達元服事 元亀三年壬申春頃 信長卿之君達於岐阜城有元服
嫡男奇妙丸号秋田城介信忠生年十六歳也、次男茶筅丸号北畠三助信雄生年十五歳也、
三男三七丸号神戸三七信孝生年十五歳也 」
書き忘れたけど、幼名の「〜丸」は「〜法師」や「於〜」など入れ替えも可能な
子供を呼ぶ時の決まり文句みたいな物だから、「奇妙」「茶筅」「三七」が基本の幼名。
信孝ってもしかしたら信長の認知が遅かったんじゃない?
坂氏が岡本家で生んだというし、御落胤扱いのまま岡本家で養育され
伊勢攻略の時に神戸家に養子にだすのに適任だと、その時になってようやく
認知したとか?
幼名と一緒の通称名なんて信忠・信雄と比べるとなんだか扱いが・・・
他の箇所にも勢州軍紀では、信孝の幼名「三七丸」が何カ所か出てくる。
信忠と信雄の幼名が、当時の常識にかからない変な幼名だから
幼名と通称が違うって言うのは、あまり参考にはならないんだよなぁ。
むしろ、三七なんてまともな幼名を与えられているだけ、
信孝生母の坂氏への寵愛があったと読み取れなくもない訳だ。
まともか?>37
自分が気になっている信長の子供の幼名は秀勝の「次」
一体何に対しての「次」なのかっていうのが気になっている。
「一」とか「初」に該当する者がいるから「次」なんじゃないかと思うんだが。
ここか他の濃姫スレかで、「坊」の信房と、秀勝の双子説を書いていた人がいたが、
信房かはともかくとして、「次」は双子で、一人目の次に生まれたんじゃないかと
考える事もできるんじゃないか?
>>861 深読みすぎじゃないか?単にお次の生母がお次の兄貴か姉を
産んでいるだけだよ。
三七の名前が幼名と通称名が一緒なのは、織田家に縁のある「三」の字がそのまま
使えるからだと思うな。親父が徹底して横着している感じがする。
信長の妹のお市が嫁いだ浅井さんとこの次女だって名前が「初」だから、
上に兄or姉がいるから「次」ってことにはならないんでないの?
三男じゃなくても三郎とつけたり、長男なのに勘九郎だったりするから
次ぎとあっても誰かの次ぎとは限らないと思うな。
865 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 16:32:23
子供たちの名前に関しては、信長の場合ひらめきなどで
決めてることがほとんどだから参考にはならないかも。
でも三郎は織田家の代々嫡男につける名前らしいのと、
勘九郎は斉藤家の?だったっけ?
このあたりはそれなりの意味合いがあるのだけれど、
幼名に関してはそれほどこだわりがあるとは思えない。
信長に限らずどこの武家も幼名は適当だったようだ。
太郎、次郎あたりが主流で、側室腹だと小太郎、小次郎としたりと
代々それで通している大名家もある。
867 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 19:56:27
幼児死亡率が高いから、幼少時に死なれると、あんまり思い入れたっぷりに名前をつけると、がっくりくるからじゃないかな?
子供は七歳頃までは神様の預かり物として育てていた。
3才までは70%といわれた死亡率、その後5才のヤマ場を超え、7才まで
無事に成長できると晴れて一族の仲間入りをすることができたそうだ。
このように死亡率が高かったため縁起のいい字を選び名前をつけるために
似たような名前が多くなったそうだ。
それと元服名は社会生活においての公の名前に対して、
幼名とは親族の中でだけ使われる呼び名。
親族間でわかればいいだけのことだ、当時は側室もいて子沢山。
したがって嫡庶長幼の序列がわかりやすい名前をつけることが多かった。
太郎、次郎、三郎〜が多かったのはそのため。
そんな中で奇妙や茶筅や大洞・小洞、人というのはやはり稀有。
信長のエキセントリックな性格を示しているといえるな。
大洞は最初にみた時はどんだけ変な名前なんだと思ったんだけど
岐阜市にある地名なんだね。
母が大洞出身なのかなと思ったりする。
>>869 へぇ〜と思って小洞も調べたら岐阜県に地名があった。
この二人は同腹なような気がするな。
871 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:43:10
>>870 だとすると、大洞(信秀)の生母が稲葉氏といわれているから、
小洞(信高)の生母も稲葉氏ということかな?
確かに稲葉氏は岐阜の美濃出身だから。
だとすると、信高がお鍋腹という説は覆されることになるな。
信高は信吉と違って、鍋との接点ないからな。
873 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 13:00:43
信長の子供たちの生母を整理してみると
信忠 → 久庵慶珠
信雄 → 生駒氏
信孝 → 坂氏
永姫 → 生駒氏
信秀 → 稲葉氏
信高 → 稲葉氏
信吉 → 小倉氏
信貞 → 土方氏もしくは青山氏
長次 → 小倉氏?という説あり
三の丸殿 → 慈徳院
お振 → 小倉氏
は 決定ってことでおK?
だいぶわかってきたよね。
でもいぜん勝長の生母は不明だけど。あと姫はやはり不明な人が多いね。
あとこれも
秀勝→養観院
冬姫→養観院? という説あり
徳姫→生駒氏?
も一応ありじゃない?
信雄改易後に生駒家所領に移り住んでいるし、
化粧料管理を生駒利豊が務めている。
無関係とは言い切れないと思う。
876 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 21:58:10
>>875 だけど確定ではない。
徳姫が生駒家所領に住んだのは秀吉の命によるもので、徳姫の意思ではない。
その後、また秀吉の命で京都に移り住み、徳姫は京都で亡くなっている。
最後には生駒との縁は切れているので、生駒腹と断定はできない。
?をつけてる分にはいいんじゃないかな?
信忠 → 久庵慶珠?
信雄 → 生駒氏
信孝 → 坂氏
徳姫 → 生駒氏?
冬姫 → 養観院? という説あり
秀勝 → 養観院
永姫 → 生駒氏 信雄と同腹かは不明
信秀 → 稲葉氏
信高 → 稲葉氏? 小倉氏という説あり
信吉 → 小倉氏
信貞 → 土方氏もしくは青山氏
長次 → 小倉氏?という説あり
三の丸殿 → 慈徳院
お振 → 小倉氏
養観院や慈徳院が○○氏の誰かと同一という可能性もあるけどな。
878 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 04:50:52
?をつけるのは他の人より限りなく近い場合。
それ以外は他の人が生母である可能性も同じくらいあるので、
徳姫 → 生駒?
とはならない。
>>875 生駒利豊って怪しいのよ。
吉乃のことなどはこの人が語ったとされたことが
あたかも武功で事実のように書かれているんだけど、
類同様にいたのかもしれないけど、ただのモデルとして名前を利用された
だけだと思う。化粧料の管理云々も利豊の談話筆録に書いてあったそうなんだけど
五徳の墓は妙心寺にあったなんて嘘書いてある。
五徳の墓のありかもわからないなんてよほど疎遠な関係ってことじゃない?
>>879 >化粧料の管理云々も利豊の談話筆録に書いてあった
それって、分限帳みたいな一次史料から確認されていないってこと?
じゃぁ、単なる言ったもん勝ちじゃないか。
おまけに、吉乃の事を語っているなんて。
談話筆録って武功夜話とは別だとしたら、武功夜話の元ネタかもなぁ。
881 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 12:45:21
武功も近々原本が公開されるようなので、どこまでが本当の話か
捏造かわかるんじゃないか。
原本公開っていったって、元本そのものを展示するだけ。
中身を専門家に検証させるというのではないから
ほとんど意味のないことじゃないかと。
>>880武功の吉乃遍の元ネタは久昌寺縁起ともう一つの久昌寺の史料、織田家雑録、
利豊談話筆録あたりだな。金沢久昌寺記を見逃してしまったので
今頃さらに叩かれることとなったわけだ。
>>881 原本そのものじゃなく、原本を写真に写して、それを公開するんだろ?
紙質だって分からないし、どうだろうだかな。
江戸後期の紙なんか、今でも古書店へ行けば普通に手に入るし
小和田がちらっと見ても、中まで見てなければ江戸期と思っても仕方がないよな。
むしろ、極彩色だと言う絵図の顔料鑑定をお願いしたいものだ。
なんでそんなまわりくどいことをするんだ?
大学の研究機関に委託して元本の信憑性を証明すれば武功偽書説
に反論できるだろうに。
やることなすこと怪しいことばかりしてっからますます怪しまれるんだよ。
886 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 11:56:29
>>885 あまり検証されると困ることがあるからじゃないか。
大体原本を検証しなくても偽書説が出るくらい
いいかげんな記述が多いからじゃないか。
原本を写真で公開したからって、武功偽書説を払拭できるわけでも
ないのに。
あまりあちこちで偽書だと言われるから、とりあえず原本の写真
だけでもとなったんだろうけど。
武功夜話も秀吉の時代から生駒家が台頭していく様子をメインにしたくて、
信長と吉乃編は前座程度のものだったのかもよ。
生駒屋敷から秀吉もでたということを書きたくて
創作したんじゃないか?
吉乃のあたりは全体からするとちょっとしかないし。
吉乃のことばかり注目されてしまって墓穴を掘ってしまったとか。
その公開した映像を見たいのだが、どうしたら見れるから?
全国版のニュースになるとも思えないけど。
秀吉出世物語の最初の山場の墨俣城も否定されちゃったしな。
前野長康そのものが、関係先の生駒家や江南市の有力武将であった武馬家の史料に出てこないし。
創作した時代には、多くの文献の内容が、ごく一部の研究者しか知る事ができなかったから
世間に流布している逸話と、ごく少数の誰でも手に入る「信長公記」「信長記」などを
想像力豊かに膨らまして書いたって所なんだろうな。
ところが、これだけネットが発達して、一般人でもアクセスできるようになって、
簡単に検証できちゃうからなぁ。
研究者からはそれほど研究されていなかった、信長の奥関係も、
ちょっと歴史好きの濃姫ファンとか、在野史家とか、
収入には繋がらないから公には研究しないけど
興味があって調べている史学関連の講師や学生に、
細かく検証されてぼろぼろになったという事なんだろう。
調子にのって出版しちゃったのが間違いの元だよな。
創作したってされる人物の死後20年も経ってからの出版だしな。
その人物は、大久地古事記って偽書も制作してたらしいしな、
表面的な地元の歴史や逸話には詳しかったんじゃね?
吉田家には、創作した人間ほどの知識すらなかったって話しじゃないかな?
初めから出世話の軍記読み物とかにしといたら良かったのに。
伊勢湾台風が無かったら、どうやって世に出していたんだろw
890 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 00:17:19
どうせ公開するなら、ついでにきちんと原本検証してもらった方が
いいのではないか。
そうしたらどこからどこまでが本当のことを書いてるか、捏造か
はっきりするのに。中途半端な写真公開しても全く意味ないと思うが。
そうできない理由があるから、しないんだろうな。
歴史民俗学の15号でも読んでみると、その理由も想像できるかもよ。
892 :
日本@名無史さん :2007/05/27(日) 18:33:44
>>892 勝長の生母の情報はないので、書いていないんだろ?
御台平産記事から、一気にお坊を御台腹と結びつけるわけにはいかないだろ?
そうだったら面白いと思うが……御台が生んでたとしても、女子だっただろうなぁ。
894 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:45:26
でもなぜ勝長の生母は判明しないのだろう?
他の男子はほとんど生母らしい人の候補が上がっているのに。
勝長に繋がる生母の情報が全くないのが不思議。
誰かによってなんらかの意図で、記録が消されたのかと思ってしまう。
本能寺の時に勝長は信忠と一緒に討ち死にするわけだけど、
もし勝長の生母が生きていたならどうしただろう?
勝長には勝良という息子がいたから、引き取って育てるとかなかったのだろうか。
確か勝良は信雄が引き取ってめんどうを見たんだったっけ?
だとすると勝長の生母もその時すでに亡くなっていたのだろうか。
そうなると信忠と同腹とかってことはないのだろうか。
自分も濃姫の子供だと思いたいけど・・・御台平産の記事はホントだとしても
それが即、勝長だといえないところがなんとも・・・
濃姫と勝長の接点というか、繋がりなどの証拠が何かあればいいのだけど、
今のところそういった繋がりを示すものが何もないし。
信長の勝長に対する処遇とか、現時点では状況証拠しかないからなあ。
せめて平産の記事にでも、生まれたのが男か女かぐらい書いてあったら良かった
のにね。
ただ、勝長の子孫が信雄の世話になったその後、前田家に仕官しているらしい
ので、もしかしたら前田家関係の誰かじゃないかとは思うのだけど。
勝長の生母が前田家関係の人か、あるいは勝良の生母が前田家の縁者
とも考えられるし。
前田家関連の資料で、家臣のこととか詳しく書かれている資料がないかな?
武功の原本公開 誰か観にいった人いる?
原本って言ってもカラーコピーだぞ。
似たようなタイトルのスレが700くらいから荒らされて埋まってしまった
カラーコピーか〜そんなもん、公開する意味あるんかな。
ホント、ものすごいコピペ〜
何これ?
アク規制目的らしいな。
やはり荒らしは生駒厨か〜
美濃国諸旧記に載っている信長生母の佐々木六角高頼息女は間違ってる気がするんだが。
佐々木六角高頼は1462〜1520年の人物で、応仁の乱頃の活躍だからさ。
でも、最晩年に生まれていたら、ギリギリ間に合うのかな?
津島大橋記の小嶋信房息女の方が繋がりが分かりやすいんだけどな。
確かにね。当時は大橋家も織田家も密接な関係にあったからね。
あと規制された濃姫スレの続きなんだけど、
>>705 ということは信雄生母である生駒に関しては、一般的に言われている
土田弥平次の後家の生駒家の娘かどうかわからないし、「津島大橋記」
に出ている生駒半左衛門の妹と同一人かどうかも謎。
また、久昌寺に葬られている久庵桂昌が信雄生母かどうかもはっきり
していないってことだね。
でも永姫の件を考えると、金沢久昌寺を建てたのは、尾張の久昌寺に
ちなんでなんだよね。前田家の文書で捏造があるとは思えないから、
そう考えると信雄と永姫はやはり同腹で、久昌寺に信雄生母は葬られて
いるのは間違いないのかな?でもそれが本当に久庵桂昌だったのかって
のは疑問。
>>902 武功夜話出典の生駒吉乃に関してと、
それをベースにしたと思われる
久昌寺の怪しげな記録と墓と位牌は、
信用できるものではないという事になるね。
でも、金沢久昌寺があるってことは、
江南市にある久昌寺が慶長15年の金沢久昌寺建立時点で
改称している事になる。
そうすると江南市の久昌寺が永禄9年〜慶長15年の間に
改称しているのは確かなんだろうな。
もしも、信雄の生母である生駒氏が、
久庵慶珠だったとしたら、永姫は、同腹異腹に関わらず
崇福寺の方に何らかのアプローチをしていてしかるべき。
していない事を見ても、久庵慶珠は生駒とは関係なさそう。
そうすると、信忠と信雄は異腹ってことになりそうだね。
前田家の記録で、永姫生母といわれる人物は
金沢の鶴林寺に葬られているが、鶴林寺は曹洞宗。
金沢久昌寺も曹洞宗なので、元和4年に亡くなったのなら
金沢久昌寺に葬ればいいのにそうしていない事を見ると、
元和4年没の女性が生駒とは思いにくい。
現状分かるのはこの程度じゃないの?
規制?500kbだぞ
埋められたって書いただろうが
だから何?
こっちを再利用?
それとも新スレたてるのか?
907 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 16:53:19
>>894 個人的には濃姫が母親だったから判明しないんだと思うな。
既にその時は信忠が濃姫の養子となり、信長がねねによく出来た女房像を
語っていることからも察すると、濃姫はよく出来た妻だったんだろう。
つまり、自分の子供を無理やり跡目にしようっていうような器量のない人間ではなかったという事。
だからこそ信長も彼女を長年愛したんだろうし。
でも家臣の中に、万が一信長の死後勝長を擁立してお家騒動巻き起こそうとする
奴が出てこないとも限らないし。信忠が濃姫の養子となっているとは言ってもあくまでも
「正室腹扱い」なわけで、実際の正室腹なわけではないし。
それを恐れて濃姫の出産を隠したんだろうな。
つか生駒厨いい加減うざいね〜。
そもそも生駒御前なんて人物はいなかったんじゃないかな?
信忠、五徳の母親が生駒ではないというのは既に定説となったし、
信雄の母親というのも実際問題怪しいところだしね。
今言われている「生駒」という女性はいなかったと思われる。
>>907 信雄生母の生駒氏息女はいただろうから、
武功夜話に出てくる「生駒吉乃」はいなかった。
過激に煽るのはやめた方がいいと思うんだな、うん。
信雄生母も「津島大橋記」だと生駒半左衛門の妹と書かれているけど、
よく言われているような土田弥平次の後家の生駒と同一人物かは
わからないんだよね。江南市に伝わる逸話では土田弥平次の後家の生駒が、
信長の側室になったという話はなかったらしいし。
他の生駒家の娘だということも考えられる。
信忠の生母は資料にはっきりと名前が記されていないことからも、政治的な
意味合いの側室ではなかったことが考えられるけど、信雄生母ははっきりと
名前が記されていることからも、政治的な意味合いで側室に上がったと考え
られる。やはり信清がらみの人質としてではなかったのかな。
信秀正室、信長生母が、小嶋信房か佐々木六角高頼の息女なら、
政治的な意味合いはどちらでも納得できるな。
土田政久の息女の場合は、さっぱり分からん。
しかし、そうなると生母の土田氏の関係で生駒屋敷に出入りしていて
生駒屋敷で吉乃を見初めて、一生懸命通っていたという
武功夜話の話しを心の拠り所にしている者には、
絶対否定しなくてはならない文献が出てきてしまったという事になるな。
大体、生駒屋敷なんてなかったんだし、それに信長が見初めて通うなんて、
そんな暇あるわけないよ。
当時は尾張統一さえしてないし、周りは敵だらけ。織田家の当主として
やることはたくさんある。そんな色恋に走っていたら付いていく家臣なんて
誰もいなかったろうし、とっくに隣の今川にやられていたよ。
>>907 勝長を信長の叔母のところへ養子へやるって話も、濃姫と相談してのことなの
だろうか。
いくら年が離れているといっても、信忠のそばに置いておくのは跡目争いの
種になるかもということで、わざと離したのだろうか。
でもその結果、武田家へ人質に出されることになってしまうし、濃姫としては
いたたまれなかったろうね。信長の怒り方も尋常じゃなかったらしいし。
最近の「歴史読本」に、信康の切腹命令は信長主導〜という説が載っていた
そうだ。信康の処分に関しては家康主導説が有力なのに。知らないのだろうか。
こんな大昔の説を載せている「歴史読本」って一体・・・
914 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 18:46:40
今度はこっちでかw
なんでそこまでして戦国板では
やろうとしないんだ?
自演がバレるからか?
どこでやろうといいじゃん。
かまわないでくれる。
懲りていないというかわかっていないというか…
917 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 19:02:08
>>912 自分はそうだと思ってる。
当時の当主と正室の関係はあくまで対等。
御坊が何歳の時におつやの方の養子になったかは正確にはわからないけど、
死亡時の年齢を16、7歳とすると恐らく5歳になるかならないかで養子に出されたのだろう。
元服するまでは奥向きで母親や乳母、その他の幼い兄弟とともに暮らしていたのだろうし
(信長が幼くして親から離され育てられたという事がちょっと特殊)
御坊の育児管轄(?)は恐らく母親であり、奥殿の主人であった濃姫が握っていたはず。
多分おつやの方から打診があり、一度は信長の独断で断り、その後再三にわたっておつやの方から
是非にという希望があり、濃姫と相談したんじゃないだろうか。
(まぁそれ以前に「困った伯母上だよ、全く」というような雑談としては話していた可能性があるし、
奥殿をまとめる織田家の女主人ならおつやの方が養子を欲しがっているという情報はもう耳に入れていたかも)
5歳くらいならまだ家臣にも誰の子なのか黙っておける年齢だろうし
(7歳までは神の子としての扱いなので、いつ死んでもおかしくない当時としては
信長の子供が男何人女何人なんて家臣は意識していなかったんだろうな)
信長自身、同腹の弟と家督争いをしたという苦い過去があるから、既に濃姫の実子として
嫡男認定した信忠と無駄な争いをさせたくはなかったんだろうな。
あー、信長と信勝(信行)は同腹ではなかったという真実が暴かれたんだっけ?w
918 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 19:02:34
生駒厨としか考えられないきみが哀れだ
>>917 えっそうなの。
信秀死後に家督争いを繰り広げたということで、やはり信長と信勝(信行)は
同腹ではないかと言われていたけど・・・
ちがう可能性もあるのかな?
921 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 19:27:58
>>920 確か濃姫スレの方でそんな事実が出てきた気がする。
その時ちょっと忙しくて斜め読み状態だったんだよねorz
まだ異腹とは決まってないよ。
ただ、信秀正室で信長生母が小嶋信房の息女だと書かれた文献がある。
それも、当時織田家と密接に結びついていた尾張大橋家の記録に。
信勝の生母には言及されていないので、同腹の可能性もある。
今度は戦国板の濃姫スレにコピペの荒しですよ。
そんなに土田御前まで違うらしいって情報を隠したいかな?
924 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 20:20:15
はいはい真実真実www
>>924 簡単に釣られるなよ。
っていうか、自分で書いて自分で釣られてる?
926 :
日本@名無史さん:2007/06/10(日) 20:52:17
>>924 はいはい真実真実って・・・w
真実ってそんなに認めたくないの?
往生際悪すぎ、生駒厨w
そんなに認めたくないなら、そうじゃないって証拠持ってくればいいじゃん?
こっちはいつでも挑戦受ける覚悟あるし、もし真実が違うのなら教えて欲しいくらいw
甲陽軍鑑てまず山本勘助が架空の人物だということが明らかになってしまった
ので、信憑性が問われている。同姓同名の人はいたらしいんだけど
あんな天才軍師ではなかったらしい。名前だけ拝借した架空の人物なんだ。
だから甲陽軍鑑を持ち出すならその箇所に偽りがないか他の資料と
照らし合わせてからじゃないと信用できない。横暴でもなんでもないよ。
歴史考証では複数の資料を照らし合わせて、矛盾があるかないかを
調べ上げるのも仕事。一つの資料、それも後年編集されたような
甲陽軍鑑のようなものに固執すれば当然認識も偏り、誤った知識を
持つようになる。
松姫に関しても当時の武田と織田の関係をみても、婚約破棄後に
やり取りするわけがないだろう。同盟も破棄になり敵対国になったのに、
織田家の嫡男(に一番近い男)と敵国の姫が交渉を持つはずがない。
それぞれの家への裏切り行為だ。
愛だの恋だのと戦国時代に生きた二人のことを今の感覚で語るのは
愚かだと言っているんだよ。
一人の上級武士がつれて来た下級武士や侍を、装備・兵科毎に「備」(“そなえ”、軍団の事)
に編成する方式と(戦国時代後期から?)と、上級武士がその郎党達と1ユニットに
なって戦闘する方式(平安〜戦国時代中期まで?)の2つ戦闘形態が考えられますよね。
このことで前から疑問になってることがあります。
それは、平安〜鎌倉期は武士とその郎党が最小戦闘単位であり、それの集合体同士が
戦うわけですが、すでに平安時代に、上級武士の私闘で双方数百人規模で歩卒などを
動員している描写が説話にあるのです。
説話なので誇張されている可能性はありますが、これは既に直属の郎党達、という規模の
数じゃないですよね。
オレは、平安期に既に備というほどでなくても、武装ごとの軍団運用がなされ(武士とは
別に、軍団を率いる武将や上級武士が臨時で雇ったりする兵隊達の存在したようです)、
そのほかに騎馬武者とその従兵というユニットが別枠で軍団の中にあった、と考えています。
時代が下るにつれ、兵科毎の軍団編成がきちんとなされていったのでしょうが、それでも
武士とその従兵を最小戦闘単位として戦争に使う用法も残り、戦国後期にも
二つの形式が併用されたのでは、と思うのですが皆さんはどう思いますか?
騎兵が歩兵に負ける条件
1 敵の陣形を崩すことが出来ず、かえって敵に誘い出され、戦車や騎馬で追撃される(敗地)
2 敗走する敵を長く追った挙句に敵の敵兵に退路を経たれたとき(囲地)
3 侵攻したものの引きかえすことも出来ず、進入したものの這い出ることが出来ない(死地)
4 入り口が狭くて出口が遠く 少数の弱い敵にも破られてしまう所(没地)
5 大きい渓谷や深い谷間、草の沢山生えているところや森林地帯(竭地)
6 左右が河で前に大きな岡、後ろに高い山で、前後から敵軍に攻められたとき(艱地)
7 糧道を断たれて引き返せなくなった時(困地)
8 湿地帯に脚をとられて、進退がままならなくなった時(患地)
9 左に深い谷、右には窪地や岡があるのにもかかわらず、平地であると勘違いして敵を誘い込んだ時(陥地)
講談社α文庫 城と女たち(上)にも書いてあるよ。
こっちはお竹の方のことやお都摩が秋山家の娘であると
いうことも書いてあるよ。
家康に松姫と偽って最初に差し出したのがお竹なんだけど
偽者とバレてしまい穴山はすごまれるんだけど、武田家の姫を
家康ごときに差し出すのは不憫と思って?お都摩を松姫として
差し出したって感じの話。
真相は謎だけど武田遺臣を懐中に留めておくためや火事場泥棒同然で
手にした甲信を治める大義名分、さらに信玄さまloveのプライドを
満たすという意味も相まって松姫は欲しかったんじゃないのかな。
何だかんだ言って結局信玄は織田に松姫を嫁がすことはなかったけど、
仮に本当に松姫が信忠に対して一途な想いを貫き信忠もそれに応じて
正妻を持たなかったのだと仮定してみると
頭が上がらなかった織田ですら貰えなかった姫を手にすることで
織田に対してのちょっとした優越感や一途な想いの姫を自分の女にできると
いう男としてのプライドもくすぐられて、松姫を欲しかったかも?
これは小説ネタすぎる解釈だけどw
長宗我部について語るのはいささか板違いだが、あえて続けてみよう。
そもそも長宗我部のお家騒動は、単なる跡目争いとは言い切れない側面もある。
守護/戦国大名が、中央集権化の流れで生き残るためには、
近世大名として、領国の集権化を進めることは、必須であった。
その際に、大きな障壁となったのは、
戦国期には頼もしい存在であった、「自ら所領を持つほどに有力な」家臣団・一門衆であった。
中央集権化を進める上では、それらの力をそぎ落とさなければならない。
家臣が当主の意向を堂々と批判できてはいけなかったのだ。
それが、きわめて近しく、頼もしい血族であったとしても。
その批判が的をいていようがいまいが、その批判を許せば、
家中の秩序が危うくなり、近世大名としてはやっていけない。
たとえば、欧州の伊達氏でも、一門きっての猛将たる伊達成実が出奔している。
(余談だが、この出奔期間、家康から扶持を受けるが政宗の訴えで取りやめになったり、
上杉景勝が政宗に対抗するべく出奔中のしげざねを召抱えようとする(成実は固辞したが)など、おもろいことになっていたらしい。)
軍功随一の一門衆でも、主命に反することを許さない/許してはいけないのが、近世大名なのだから、
長宗我部のお家騒動は、跡目争いがなかったとしても、必然であり、
土佐の中心部に所領を持ち発言力の強すぎた吉良氏の粛清は避けられなかったのではないか。
だけど、生駒厨って一体何がしたいわけ?
人の検証のじゃまばっかりして、何?
コピペばかりして、荒らしまくって・・・
よくわからないけど、そんなに生駒関係の新事実がわかるのが
くやしいの?
またコピペ?
よっぽど濃姫関連スレをつぶしたいのかな?
そんなことやって一体何になるの?
生駒に関しての検証はここだけじゃないしね。
こんなひどい荒らし行為は通報できないの?
ところで、まとめサイトはやはり作った方がいいのかな・・・
このスレの住人はわがまますぎ
>わがまますぎ
確かに。
ローカルルールすら理解できない椰子が
いくら検証とわめいてみたところで
説得力は茄子だもんな。
戦国板の濃姫スレ住民すら冷笑
いやいや、コピペ妨害などに負けずしつこくここでやるべきだな。
>>938 それもそうだね。ここのスレももう900こえてるわけだし。
いっそこっちと統合するのかと思ってた。
>>917 そうだと思う。
もし、勝長が濃姫実子なら信忠同腹だとかそうでないにかかわらず、
家督争いなどは起こる可能性があるよね。
他家ではそれが原因で嫡男や長男を切腹させるような事件が起きてるわけだし。
でも織田家の場合は、跡継ぎを信忠一人に絞ったことが本能寺後に裏目に出てしまうんだよね。
信雄と信孝が三法師の後見人をめぐって争いが起こるわけだし・・・
やはり兄弟のこういった争いって避けられないものなのかな。
>>930 妙真院や良雲院が、松姫の身代わりなんて与太話を、
嬉しがって書き込む時点で痛いよ。
濃姫スレって、
「Aという資料にこう書いてあった。
これを否定するような資料はないのでAの内容は正しい」
こういう感じだよね、、、、('A`)
他の資料がないからと言って、別にそれが正しいという事にはならないと思うのだけれど。
>>944 誰も正しいーなんて決め付けていないと思うが。
現段階では他に否定するような史料がないので、可能性が高い。というだけ
だと思うけど。
そんな事いっていたら、歴史の検証なんて今ある資料が最重要されるのだし、
全く新しい史料が発見されれば当然、今まである資料なども見直されてくる
訳だし。永遠にずーと同じ説が有力視され続ける訳ではないよ。
>>945 可能性が高い、にしちゃやたらと決め付けているような書き込みが多いよ。
もしAという説の「可能性が高い」にしても、それを踏まえた上で
別のBという件に関しての考察はすべきじゃないと思うし。
あそこはAという可能性がそこそこ考えられる説があがると、それを元に
Bの検証もはじめ、さらにAからBと繋がった説をCに繋げたりする。
AはA,BはBで別々に検証しなきゃ、本質からどんどん離れていくような気がする。
>>946 何を言ってるのかわからんな。
ここでの検証が気に入らないってことか?
他の人の検証をケチつけてないで、自分で納得のいく検証を
して、それを書き込むなりすればいいだけだろ。
>>947 出たよw
検証が気に入らない、嘘だと思うならその資料を提出しろって・・・w
この資料に書かれていたことを否定するものが他の資料に見受けられないので
これは正しい可能性が高いです。そしてそれが正しいとなれば、こっちのこれも正しくなります。
これをおかしいと感じないなら、どっか脳みそ壊れてるよ。
ちなみに生駒厨じゃないから。
何度か検証にも参加した事ある濃姫オタの一人です。
なら具体的にどの検証が疑問なのか、意見を言ってみてくれないか。
>>949 >具体的にどの検証が疑問なのか
もの凄い分量と長文スレの海なので戻るのが大変w
スレの雰囲気として944や948の感想に多いに同感だ。
>>949 ものすごい量の長文なんで具体的に書き出せないけど、
生駒関連(それに伴う子息関係)と、「御台出産」に関連した勝長に結びつけるあたりかな。
あとは信長生母関係から生駒を離そうとする意志が垣間見れるところかなぁ。
個人的に本当に生駒には何の思い入れもないけど、濃姫好きが生駒<濃姫を確立しようと
必死すぎるところが居た堪れない気分になる。
長年生駒が正室格だったという説が主流になり、嫌だったんだろうけどちょっと必死すぎ。
同じような内容の長文書き込みも尋常じゃない量だし。
スレの進む速度、ちょっとおかしいってわかるよね?自演じゃなければ考えられないくらい早いよ。
信長生母関連は、単純に平成17年2月に発表された小嶋信房息女説を紹介した論文に基づくんだろ。
生駒と離すかどうかはともかく、土田御前が小折土田氏だと確定されたと思われたのが
武功夜話だから問題なんで、寛政譜だけの時点では、清洲土田氏説も有力だったからな。
武功夜話が信用に足る文献なら、そのままでもいいが、そうじゃないとなれば
再検討が必要なのは当然だから、いろいろ考えるんだろ。
佐々木六角氏生母説との関係で、信長庶子説が武功夜話以降あったのも事実だし。
勝長が濃姫の実子なんて、ここしばらく誰も言ってなかったと思うけど?
コピペ荒らしの中にはあったが、あれ、前々スレ辺りの話しだからな。
ここしばらくは、側室を迎えるまでの期間から考えて、妊娠はしてただろうが
流産早産夭逝、または記録に残らない姫という話しが主流だと思うんだがな。
コピペ荒らしを、通常の発言と間違えてないか?
>>951 勝長については、濃姫実子説を唱えている人もいるけど、一部だよ。
「御台出産」の記事に関しては、姫もしくは早世説が多いかな。
生駒関係の子供たちについても、信忠は自ら位牌を設置してる関係から
久庵慶珠の可能性が高いと見られてる。もし、信忠と信雄が同腹なら
久庵慶珠の供養も信忠死後に信雄がやっているはず。でも久庵慶珠は
信忠の嫡流が途絶えたので誰も供養していない。
永姫に関しては、尾張の久昌寺にちなんで、生母の供養のため金沢久昌寺
を建てていることからして、生駒腹だと考えられる。
そこまで、無理に生駒から子供の生母を離しているとは思えないのだが。
>>952 平成17年2月に発表された・・・論文
論文というけれど、まさか歴史読本の2月号に掲載の記事?
>>954 永姫の生母について、その歴読2月号の中に
いわゆる吉乃とは別人の生駒氏と書いてあるな。
その生駒氏の卒年は元和四年で法名は「春誉妙澄大姉」
信長生母に関しては「美濃国諸旧記」に佐々木六角高頼息女と記され、
「津島大橋記」や「干城録」には小嶋日向守信房息女と書かれている。
どちらにしても武功に出てくる土田氏ではないので、再検討が必要に
なったということだろう。
しかも考察していくと生駒縁者の土田氏よりも、他の佐々木氏や小嶋氏
の方が、当時の織田家の関係からして密接なつながりがあるので、そちら
が有力ではないかということ。
>>955 自分の母親でない人のために、わざわざ同じ名前にちなんで寺を建てる
とは考えられないんだよな。永姫の伝わっている年齢にしても諸説あるし。
生駒の没年にしても、生駒関係の文書や武功関係の文書の信憑性が問われて
いるわけで、諸説あるしね。
というかそもそも関係ないからなんたらと
いう考え自体が短絡的すぎなんだと思うよ
文献上には出てこないことだって
あったかもしれないわけだしさ
今となってはそのあたりは不明なわけで
一方的な見方で検証を進めるのはどうかなとね…
関係ないからというより、これまでのことから生駒文書や武功関係の書籍は、
信憑性に乏しいので、他の文献から再考察が必要となったわけ。
だから生駒関係以外の文書に書かれていることを検証しているわけで。
他の文書に書かれていることと、生駒文書と合致していればそれは信じれる
けど、全く違う情報が載っている事実があるのだから仕方ない。
>>958 文献上に出てこないからといって、なかったとは言えない。
あったかも。
と言われても、そんなの単なる妄想に過ぎないわけで、
今現時点で文献が残っている方を検証するしかないんじゃないか。
おそらく信長生母の件を言っているのだろうが、第三者から見ての
文献に武功とは違う人が母親として記録されている以上、武功の
言っている土田氏の文献がなかっただけ・・・と主張されてもな。
ちょっと納得いかないんだよな。
信長は正室の子、となっていたから土田殿=信長生母となっていただけではないか_
信秀の後室として土田殿が織田家に嫁いだら、土田殿も正室には違いないから
そうなってしまったのかもしれない。
土田殿の前に信長を産んだ正室がいて、その後亡くなったか離縁したかで
別の正室を娶ったので新しい正室腹に男子が産まれてお家騒動がおきる前に
家督をわずか2才の信長に譲ったとも考えられる。
ただその後妻が本当に土田殿だったかどうかが問題なんだろ?
「生駒家の親族」とあるだけに。
というか、信長生母が土田氏だったかどうかを問題にしている訳で、
信秀が継室を迎えたとしてもそれが、信長生母でなかったらまた違った
問題点も検証しなくてはいけなくなる。
信長と同腹といわれている弟の信勝なども異腹の可能性も出てくる事になる。
信長生母は本当に正室だったのか、など色々な可能性も新たに出てくる。
一度リセットして検証しなおすことは必要だと思う。
>>962 それもそうだし、信長生母が土田氏でないなら、生母の関係で生駒家へ出入り
していて吉乃を見初めたなどのエピもありえないことになる。
だれかもレスしていたが、自分の生母の関係の家でもないのに、女目当てに
通うなどということはありえない。他国の間者なども数多くたむろしていた
筈で、織田家の跡取りとしてまたは当主として、行動が敵に筒抜けになり、
命を狙われる危険もある。
土田氏が信長生母でないなら、信秀が誰を継室に娶ろうが、その時点でまた
武功の話の矛盾点がさらに増していくことになる。
964 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 15:50:15
信忠の子の、三法師の母は武田家の松姫・・・説が
西山家文書と一緒に2ちゃんを賑わせていた頃、
武田家の姫が甲斐を出て、信忠と契りを交わすなんて
そんなことあり得なさすぎるとの疑問が出ると、
「では、松姫が甲斐を出なかったことを裏付ける史料は?
三法師の妊娠期に、松姫が甲斐にいた事を証明する文献は?
松姫は子を産んでいない、と断言できる史料があるの?」
こういう具合の反論攻撃をしてたな。
そう言えば、あの人たちは元気にしているのだろうか。
現在信長生母候補として挙っているのは
小折土田氏息女、清洲土田氏息女、小嶋氏、佐々木六角氏
他に、織田達勝息女が信秀の正室だった説もあるが、
信長の生母と言う説はあるのかな?
天文元年に信秀と和睦した時に、信秀と娘が婚姻関係になっても
おかしくはないし、信長は天文3年生まれだから
可能性としてはあると思うが。
佐々木六角氏の娘が織田家あたりに嫁いでくるかな。
基本的に守護クラスと婚姻関係結んでそうだけど。
佐々木六角氏の息女と明記されているのは、美濃国諸旧記だよね。
美濃国諸旧記はは江戸期に編集された地誌で、俗説なども検証せずに
そのまま残したようなので史実と異なることや矛盾のある箇所もめだつ
ようですし。なので、それほど信憑性の高い書籍とはいえないともいえる。
>>968 ということは、江戸中期には信長の生母は佐々木六角氏という俗説があった訳か。
小折土田氏、または、清洲土田氏は寛政譜からだろうし、
小折土田氏は武功夜話からになるし、
小嶋氏は津島大橋記と干城録からということだし、
佐々木六角氏が美濃国諸旧記。
織田達勝はどこからだったかな?
あと、今川那古野氏と考えられる文献があると聞いたんだが、それは何?
970 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 23:51:00
>965
それって濃スレにいる厨連中とさして変わらんじゃん
濃や松絡みに限らず歴史なんぞ事実は
その時代の人間にしか わからないことだ罠
当たり前だが文献上に残っていることが
全てではなし今となってはわからない事こそ
実は重要なことだったなんてことが
あっても不思議ではないしね
まぁ十人十色だから人様がどう思っていようと
それはそれでいいんじゃね?
その時代を見てきた訳じゃないなら
絶対なんてことは言えないわけだしさ。
>>969 織田大和守氏は前スレで出ていたような・・・
確か、名古屋市史と言継卿記に
信秀は大和守(織田達勝)の女とは天文2年7月11日に離縁したようなことが
書かれているらしい。
信長は天文3年生まれだから、織田大和守氏息女は生母ではないかも。
今川那古野氏はよく知らないけど、今川義元の父(今川氏親)が築いた
城の城主だったらしい(今川氏豊)し、後に信秀が連歌で気を引き油断
させて、那古野城を奪ったらしいのが天文1年だから、追放された今川
氏からというのは、関係からして考えられないかな。
言継卿記に出てくるんだったら、織田達勝息女と離婚してるんだろうな。
その後婚姻した継室の子供が、信長という事になるのか。
土田御前に関しては、清洲土田氏、小折土田氏、佐々木六角氏家臣土田氏の説がある。
他に佐々木六角氏縁者の山内氏と言う説もある。
ただ、おそらく当時の記録として一番多角的に名前が挙っているのは
現状小嶋氏だと思われる。
当時の記録で一番書かれているなら小嶋氏が可能性高いのかな?
でもなぜ、当時の記録には小嶋氏が書かれているのに、それが
江戸期になると佐々木六角氏が書かれて、さらに寛政譜には、
小折、清洲土田氏が書かれ、さらに武功夜話では小折土田氏に
なるし・・
これほど生母の名前が数多くあがる人もそういないんじゃないかな。
信長生母が小嶋氏だったとしても、信秀の正室だったかどうかまでは
書かれてなかった気がするが・・・
うめ
たて
ちゅう
980
984
985
あと少しだね。
新スレ立てないのかな?
990 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 09:47:06
【第五巻】信長の正室濃姫・まむしの娘の謎
へ統合してくれ。
頼む。これ以上、濃姫スレ乱立させるな。
そういえば、【第四巻】信長の正室濃姫・まむしの娘の謎 、
書き込めなくなっているのに、まだ残っている。
新スレに移行しているのに、削除しない限りは、残るのか?
995
第5巻の濃姫スレ、なんか濃姫とは直接関係のない話にだんだん・・・
998 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 12:35:49
せん
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。