関ヶ原んときは二股保険掛けてた奴が殆どだし
大坂の陣にいたっては、お金持ってないけど賭けていいっすか、な
奴しか集まってこんかったし
秀吉と秀長
秀吉が本当に好色だったら子供沢山産まれてたはず
晩年焦ったんだろうな
子供産めなかったねねが悪いってこと
子供を生めない母体を「悪い」ってのはひどい言いようだな。
いや、単に秀吉は好色じゃないって言いたかっただけ
むしろねね一筋だったのではないかと
ふと後継ぎのことを考えた時には余命がほとんどない現実に焦った挙句そうなっただけかと
あるいはねねの嫉妬深さがそれを許さなかったのかもしれない
で、許した時にはもう秀吉は余命あとわずかだった・・・
本当にねねの優柔不断さと嫉妬深さが豊臣を滅ぼしたのかもしれない
豊臣政権が存続していたと仮定して、ここからは理想論だけど
先ず、16世紀後半に全国統一するまでは史実通りで、朝鮮出兵なんかせずに
国内の豊臣政権の統治基盤をしっかりと固める。
秀吉は親族殺しなんかせず、徳川家のように豊臣御三家などで豊臣家を絶やさないようにする。
秀次が豊臣二代将軍になり秀頼は御三家の一員として一国の大名になればよい。家が滅びないだけでもマシでしょう。
それから豊臣政権が鎖国政策、キリスト教の禁止、などをして天下太平の世をつくったとなれば完璧でしょう。
江戸の方もそれなりに都市が造られて発展していくでしょう。
関ヶ原や大坂の陣などの国内戦で徳川、豊臣の滅ぼすか滅ぼされるかという全国の大名を巻き込んだ争いをするよりは
断然よいに決まってる。
538 :
OPS:2007/01/04(木) 21:45:25
豊臣家は将軍になれる可能性があったのですか?
あった
豊臣政権は戦を永遠に続けていなければ崩壊した
太平の世を維持していくような政権ではなかった
541 :
OPS:2007/01/06(土) 21:25:43
やはり徳川
542 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:32:21
>>534 スケベなら子供が産まれるってバカですか?
種無しのスケベじゃどうしようもないだろ
正室のねね以外に何人の側室いたと思ってんだよ
543 :
OPS:2007/01/07(日) 10:38:58
秀吉は晩年が糞。
544 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 12:16:16
>>534は子供のでき方がわからないβακα..._φ(゚Д゚ )
真田の話で申し訳ないが、
長男信幸
・忠勝の娘で家康の養女である小松姫を妻にしてた。
・次男信繁(幸村)
・大谷吉継の娘を妻にしてた。
ここらへんの話はやっぱり東西別れるのに影響してたの?
で、何故父さん(昌幸)は西軍に付いたの?
東西に一家で別れて加担すればどちらが勝とうが家は残る
と、これだけだと身も蓋もないから昌幸の簡単な事跡を書いておくので後は自分で判断してくれ
もともと真田昌幸というのは真田幸隆の三男で幼少より信玄に近侍し、
長じて才をあらわしてくると真田本家の部屋住みのままを惜しんだ信玄が甲斐の名族だが
跡継ぎの絶えていた武藤姓を与えて、真田家とは別家を立てることを許されて一人立ち
武藤喜兵衛昌幸と名乗る
信玄末期は曽根と共に武田の両目と呼ばれるほどの信頼を得ていた
長篠で兄2人を織田徳川連合軍に討ち取られた結果、真田本家を継ぐことになる
勝頼の代を通じて、その信玄以来の信頼は変わらず、武田家の本城の縄張りを任せられる
城の縄張りを担当する=城の秘密を全て握ることであって当主からの信頼が無ければ無理
ちなみに安土城の縄張り担当は丹羽長秀だったりする
武田崩れの時には自分の居城である信州岩櫃に勝頼信勝を招いて徹底抗戦をはかっていた
武田家滅亡後は、上杉北条徳川のパワーバランスの狭間で独立を保つが、唯一真田が騙されて
領土を奪われそうになったのが徳川
結果開戦して徳川軍を打ち負かした
停戦後、真田懐柔の意味で長男信幸に嫁いだのが本多の娘
豊臣の北条征伐のきっかけとなったのは名胡桃城事件で省略するが豊臣に恩を受け
次男信繁は秀吉の小姓となり可愛がられ、大谷の娘を娶る
547 :
OPS:2007/01/09(火) 13:46:01
真田から話しが変わってしまいますが
真田昌幸は武田崩れの際に武田勝頼を信州岩櫃に招き徹底抗戦をしようとしたが
勝頼は真田を頼らず小山田信茂を頼った。
なぜだと思いますか。
・知らない土地には行きたくなかった
・山越え谷越えはめんどい
・甲府奪回に未練があった
549 :
OPS:2007/01/09(火) 22:14:23
正解は真田が外様だから。
550 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 21:33:41
>>549 外様とは?結構前から使えてるのに?
どっかのスレで秀吉は公家の前で平氏を名乗ったから将軍になれなかったと聞きましたがどうなんですか?
sage忘れました、すみません
552 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 22:18:27
北条を討伐した後、徳川家康は関東ではなく陸奥に移封するべきだった
そして関東は伊達家と蒲生家で分割統治
そうすれば、家康は大阪までは攻め込めない
西国に本拠を置いてる政権が東国の要関東にライバルを配置したんだから滑稽だよな
554 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 12:13:44
>>553 のぶおみたいに断るの待ってたんじゃないの?
556 :
OPS:2007/01/11(木) 18:40:38
>>550 小山田と真田を比べれば真田が外様ということです。
秀吉は当初は堀秀政に関東を任せようとしてた話もきいたことあるが、実際はどうだったんだろう。
まぁ当の秀政が小田原の役の最中に病没しちゃったから、どうしようもないけど。
558 :
OPS:2007/01/13(土) 16:41:29
秀政よくて東海道に百万石じゃないか。
>>558 堀秀政が長命して三遠駿3カ国の太守とかになっていたら面白かったかもね。
でも秀政がどれだけ豊臣家への忠誠心があるのかはわからないが…信長死後の織田家の衰退を嘆いてたくらいだし。
>>549 勝頼もいくら譜代とはいえ小山田を頼ってどうするつもりだったんだろ?
小山田の岩殿城なんて北条領に近く、同盟国の上杉からは遠すぎるし、
どう考えても織田徳川北条に殲滅されるのがオチなのにな。
地理的にも上杉領に近いとこにいる真田を頼った方が長期的な防戦ができただろうに。
560 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:51:19
蒲生や堀なんかは、秀吉からみれば仮想敵だろ。
561 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:54:46
>>559 勝頼スレで話したほうがいいと思うが、俺が思うところを書くと、
単純に北条のバックアップを期待したんだろう。嫁は北条の出だから。
長年敵だった上杉よか昔同盟者で縁戚の北条のほうが・・・と考えたのは自然。
562 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:37:46
>>560 秀吉の目には最も警戒すべき相手が、如水(これは本音を暴露しているから疑う者はいないだろう)
その次は蒲生だからね
やっぱ如水を豊臣家の中枢から追い出したのはまずかったような気が…。
父があれだけ冷遇されたら息子の長政だって親徳川に回るだろ。
蜂須賀も秀吉創業から家臣だった割にはそれほど厚遇されてない気がする。
前田だけでなく黒田や蜂須賀をもっと優遇して清正正則三成ら豊臣恩顧大名をまとめる立場にしておけば良かったのに。
中小勢力での競り合いならともかく巨大政権の運営能力が
どうなのかは疑問だし、それに
如水は片手でしか握手してくれないからな、
565 :
OPS:2007/01/17(水) 19:47:22
如水の能力を最も見抜いていたのは秀吉ということ。
566 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:09:01
で、如水が家康みたいに天下とってたらまた後年にあん時如水を追い出しておけば
よかったんだ、ってなるんだろうな。
家康みたいに
567 :
OPS:2007/01/18(木) 16:14:48
家康と秀吉といったらどっちが優れているんだ
568 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 16:48:24
豊臣(氏)は潰されてなんかいないんだけどな。
木下家がちゃんと存続している。
豊臣名乗れなきゃどうしようもないわな
その木下さんは豊臣氏じゃないのか?
571 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:45:16
>>569 名乗るの何も、木下家の人物の正式名は「豊臣○○」だから。
そもそも羽柴家の人物だけ本姓で呼ぶこと自体が妙なんだよな。
「豊臣秀頼」だって「羽柴秀頼」と呼ばないと一貫性がない。
逆に「豊臣秀頼」と呼ぶなら徳川秀忠も「源秀忠」と呼ばないとおかしい。
572 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:53:45
江戸時代の木下家は豊臣姓で間違いない。
幕府編纂の「寛政重修諸家譜」でも、木下家の大名・旗本は本姓が豊臣姓になってる。
だから彼らが朝廷から官位を受けた場合、従五位下豊臣朝臣○○が正式名。
地下官人にも豊臣姓の木下家があった。
かなり大昔、ある週刊誌で「大名の末裔の人は今」みたいな特集していたが、
豊臣家の末裔として木下某なる人が出ていて、当時俺は「豊臣?無理矢理こじつけるんじゃねえ!」と思ってた。
人に言わなくて良かったw
とは言ってもな〜
木下家はたとえば武田や北条のような家とは違い当主の血筋すらひいてないからな
当主の実姉とその夫が祖
575 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 13:50:07
>>572 その地下官人の豊臣姓の木下家は秀吉の姉の子孫ってことでok?
576 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 06:37:30
>>328 完子とその子孫は処刑も出家もさせられなかったんだね。
婚家の力か母親が秀忠と再婚してたからか。
577 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:45:06
.-┼- i -┼- //
,-┼/-、. | |
ヽ__レ ノ ` ノ
>>572 >地下官人にも豊臣姓の木下家があった。
これ!
これ詳しく教えて欲しい。
滝口あたりに、豊臣がいて「なんじゃこれ」と思ったけど
どこの由来なのかちっともわからなかった。
大名木下家の分家?
579 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 14:29:44
580 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 14:33:40
>>576 完子は公家に嫁いでいたからね。
完子の夫が武家で、豊臣に加担したとかなら問題だろうけど、
公家の正室やその子孫を処刑、出家って、
徳川家にとって有益ではなかったろうし、
そんなことをする必要もなかったろうね。
>>579 その時皆殺しにしてあげられなかった不徳を謝罪した方がいいなw