1 :
日本@名無史さん:
豊臣への忠誠心よりも治部少への私怨を優先させて家康に踊らされた
清正と正則w
2 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 15:35:51
家康、清正、正則は忠臣。
謀反人治部、毛利から豊臣を守った。
3 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 15:39:20
特定のおうちを潰すとかより、世の中全体の影響を考えた方がいい鴨。
秀頼盛り立て体制では、却って世の中乱れたのとちゃうか?
4 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 15:41:45
>>3 そう考えてたのか?清正と正則。
どう考えてもただたんに三成が嫌いなだけだったとしか思えん。
俺が大河に影響されたっていうのもあるかもしれないけど。
大河の影響といえば
世紀の裏切り者”おね”の美化も甚だしい
豊臣家獅子心中の虫
6 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:25:51
豊臣を潰した犯人は秀吉自身
7 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:32:02
犯人は家康
8 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:32:42
家と康
9 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:40:12
豊臣家を潰したのは淀殿だな
女に政治をやらすとろくなことにならない
もっとも、淀に漬け込まれたおねにも大きな責任がある
おねが嫡子を生んでいれば良かっただけの事だ
そして子のできぬおねを嫁にした秀吉も元凶だろう
そもそも秀吉を武家にした織田信長にその責任がある
織田家が戦国大名にならなければすべての問題は無かった
そういった意味で室町幕府の失態となった応仁の大乱、
時の室町幕府将軍家に最大の罪があると思われるが、
そもそも室町幕府など南北朝のドサクサで足利尊氏が、
天皇を裏切って作った似非幕府だ。
この足利を押さえられなかった前北条に原因があり、
その北条に鎌倉幕府をのっとられた源氏が悪い。
そもそも、源氏が勢力を増した原因は平家の温情にあった為であり、
平清盛が頼朝など助けねばこうなはらなかった。
平家は元々はただの武家であり公家の下にいるべき者たちだ。
武家の増徴を押さえられなかった原因は、平安時代に安穏の暮らした
公家たちにあり、その頂点たる天皇家の責任は逃れられない。
結論
天皇が一番悪い
と、おもったが。そもそも天皇は天津神の系譜に連なり、
その天津神が日本を作り、天孫降臨して天皇家になる。
ということは、一番悪い奴は「神」様である。
しかし、その神を生んだものは・・・と考えていくと・・・・
責任押し付け論でどこまでも逝けますが、どこらへんで終わらせたい?www
10 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:43:03
----------------- 終 了 -----------------
11 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:47:52
>>5 少なくとも今やってる大河って、ねね様はブラックだと思うが。
今までの大河ってこと?
13 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:55:34
滅びるべくして滅んだ。
室町幕府や武田や北条と同じ。
運命論者キター
秀吉死んだ時点で滅びてるからおねは裏切りじゃなくね
結果論者キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━!!!!
18 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:20:16
田中義剛
19 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:43:54
清正、正則は好き嫌いでどちらに付くか決めた訳ではないだろう。
ただ勝てそうなほうに付いただけ。
20 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:49:42
秀次一族を殺した時点でもう…。
秀次に隠居させて秀長的なポジションを与え、さっさと秀頼を関白にして、
秀次の男子を秀吉の養子にして、それぞれ各地に50万石クラスの大名として配置し、
信雄・信孝みたいな争いにならないように、秀吉のお膝元(つまり秀頼とも一緒に)でしっかり育てれば良かったと思う。
秀次の娘たちは、(家康でいうところの久松松平の娘みたいな扱いで、)秀吉にとって便利な駒として役に立ったと思う。
それにしても不思議なんだけど、秀吉は、加藤・福島・小出といったの親戚筋の娘を「養女にして縁組」させたりってしてないよね。
家康なんか、久松系だけじゃなく、信康の娘やその娘まで使いまくったっていうのに。
21 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:31:28
23 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:14:12
結果からすべてを考える結果論に終始してる。
こういう手合いは
秀次を殺さなかったら、殺さなかったのが原因と結論を出す。
秀頼を生まなければ良かった。
25 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:55:49
宇喜多秀家を後継者にしておけばよかった
マジレスすると、豊臣を作ったのが秀長と利休で滅ぼしたのは茶々と秀吉。
清正やら正則やらがどちらにつこうが一代の帝王たる秀吉政権は続く道理はなかった。
秀長亡き後、豊臣にとって良いニュースは一つもなかった。
ねねは、豊臣に未練が無いから家康に対する好意的中立で浅野家・木下家を守ったが
二大馬鹿は、馬鹿ゆえに、お家の存続を果たせなかったw
豊臣より優先して守る家を持った以上、家康に平身低頭しなければならなかったが、恩
を売ったつもりで居たから、正則は当代で、清正は孫の代で改易になったw
平身低頭するのを敢然と拒んだのが、宇喜田秀家。
所領は失ったが、家は前田・浅野・島津などの助力で存続して維新後に爵位を受けた。
宇喜田も馬鹿といえば馬鹿だが、「勝ったところで、徳川家に気を使う毎日では窮屈で
仕方ない」って発想はあっても構わないわけで、勝った場合に得られるものを徳川に付
かなかったほうで検討するのは悪いことではない。
武士だし、大名家の出だから意地を張るのも至極当然。
不器用にも見えるが、一本筋が通っている。
代替わりしても助力が途絶えなかったのは、武士として筋が通っていたからだろう。
二大馬鹿が得たのは、一時的な大領と馬鹿の称号。
まあ、清正のほうは築城の天才って評価は残ってるけどな。(その才能が徳川に嫌われた)
↑
必死すぎてきもい
子宝に恵まれなかったのが最大の原因ですだ
元を正せば、小牧・長久手で家康を殺せなかった秀吉のせいだな・・・
全国を統一したと言っても、家康という不安要素が残っちゃったんだから。
32 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 09:32:01
二大馬鹿は結果的に家潰しちゃってるんだから二大馬鹿であってるでしょ。
家を存続させる事に成功していればまぁお家の事だし仕方ないってなってたけど。
秀吉の子飼い大名は能力以上の地位にコネでつけてもらっただけだから。
34 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 13:58:04
豊臣を潰したのは秀吉のせいだ
秀頼可愛さで、秀次とその子供まで皆殺し
死ぬ直前には家康に、秀頼を頼むとか、耄碌じじい丸出し
秀次一家が残っていれば、簡単には豊臣は滅びなかっただろうに
35 :
日本@名無史さん:2006/10/28(土) 17:03:19
>>34 姉貴の子孫が存続しても意味がないんだよ。
俺の子が継がなきゃ意味がないんだよ。
と自分の子孫を残せる可能性0の
>>36が申しております。
皆さん、笑わないであげてください。
38 :
35:2006/10/28(土) 17:14:13
俺も母方がしょぼい地方財閥で伯父の後継者とみなされて、田舎に帰るたびに若殿扱い
だったけど、高校時代に伯父の愛人に子供が出来て運命が変わって今はリーマン。
伯父の気分で書いて見た。
俺は秀次よりちょっと賢かったので誘われたけど伯父の会社に入らず一般就職。
祖父の財産分与も母がほぼ放棄したので殺されてはいない。W
これが歴史の教訓に学ぶってやつだな。
色ボケ伯父は今でも40くらいになった愛人と小学生の息子の住む別宅に入り浸り、
>>1 加藤清正・福島正則 他多数の武将が寝返った。
40 :
OPS:2006/10/28(土) 21:07:27
石田三成と仲の悪い奴が家康に味方した。
それと尾張衆の〔議題の加藤清正、福島正則〕扇動。
秀吉は、側室を沢山もっていたのに、子供ができたのは夜吐だけ
しかも二人も!
今だったらDNA鑑定で親子かどうか検証できるだろうけど、秀頼の遺体は、行方知れずで
鑑定不能
秀頼が側室に産ませた娘の墓がわかっているらしいから、その遺体から
DNA鑑定をしてみたいものだ
42 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 00:11:43
まあ東部方面司令官にもかかわらず城も膨大な物資も全部献上して
家康をお迎えした市松の馬鹿っぷりは日本史上に燦然と輝いている
のは否定しがたい。その半分でも残しておけば西軍の楽勝だったの
に。家康は関東経営だけで手一杯で、物資も金も乏しかったんだよ。
戦費にも事欠いて中山道を必死に西上したのにお目玉食らった秀忠
はカワイソス
43 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 00:23:14
淀のアホアホアホ 清正、関ヶ原に来いや!!大坂の陣の正則は一人では何も出来ない滝川一益みたいな意気地無し。
44 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 01:22:49
>>9殿様
タマラナイハァハァ( ´艸`)
タマラナイ過ぎハァハァ
45 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 02:03:43
清正は後に一応フォローしてるけどな
みなの者、秀頼をたのみます ハァハァ
47 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 02:29:08
北政所「妾の淀と秀頼w氏ね。本来ウチは木下と浅野じゃ、われ!?」
48 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 02:42:17
豊臣を滅ぼしたのは秀頼
千姫を孕ませて男の子が生まれれば
豊臣の徳川の一族として生き延びられたのに
側室の成田氏を孕ませて、男の子と女の子を作るという
アホをしてしまった
男の子は家康によって処刑、女の子は鎌倉東慶寺の住職にした
しかし家康は三成の子は僧侶にする事で済ませたのに
秀頼の子は処刑だからなぁ
そして千姫は再婚した本多忠刻(信長と家康の曾孫)との間では
女の子と男の子(夭折)を産んでるから、子供を産む能力はあっただけに
秀頼の迂闊さは笑える
49 :
金吾秀秋:2006/10/29(日) 07:28:16
>>秀頼の迂闊さは笑える
あははははははは(´・ω・`)
50 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 10:13:07
>>39 でも少なくとも7本槍は守らなくちゃいけなかったよな。
その後の7本槍はほとんどが取り潰しの憂き目にあってるんだから。
51 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 10:16:23
だからよ 秀頼を秀吉の子だと思ってなかったんだろ…。
三成かなんかの子だと思ってたと。そうすりゃ理解できる。
52 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 10:18:27
>>51 そうか?でも中途半端に秀頼を守ろうとしてたからね、清正。
53 :
Luckman:2006/10/29(日) 10:48:44
>>48 でもその生まれた男子は大阪の陣当時、幼児ながらかなりの英邁剛毅
な人物だったのは惜しい話だった・・・
むしろ大阪方の神輿がその幼児だったら、豊臣が勝利を収めた可能性が
あった。
名は確か・・・国松。
54 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 15:22:08
>>9殿様
ハァハァはぁはぁハァハァ
タマラナイ過ぎハァハァ
タマラナイ過ぎるハァハァ
タマラナイ過ぎるよハァハァ
((○(>_<)○))
今、大河ドラマでも関ヶ原をやるところです。
そこで以前より9月14日ということはしってますが
これって旧暦でしょうか?であれば11月初旬くらいに
なりますが・・・・教えてください。^^;
ero
57 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 00:56:47
石田三成と大野治長だろ
常識的に考えて・・・
「国家安康」「君臣豊楽」の二語
59 :
OPS:2006/10/30(月) 17:30:34
豊臣家をあの世へ葬ったのは大坂の陣での淀殿と大野治長の行動だろう。
もし大坂の陣で秀頼が瓢箪の旗印を出して出馬したら少なくとも秀頼以外の兵を犠牲にすることで
家康を討つ事ができたであろう。
60 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 18:12:14
主家は裏切るわ家は潰すわホント馬鹿だなw
61 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 22:52:38
>>24 家康が色男を淀君に近付かせて、孕ませたんじゃないか?
秀次その他、天下獲りに向けて、家康にとって都合の悪い人物が
次々と死んでいったりしたのは偶然とは思えないし。
妄想で語るな
豊臣を滅ぼした?
それって家康と淀で決まりじゃあないっすか?
64 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 00:55:33
いやいや豊臣を滅ぼしたのは秀吉自身でしょ。
朝鮮出兵なんかしなければ天下はすんなり決まってたように思う。
どうしても戦をする必要があるならそれこそ難癖つけて家康を潰しとくべきだった。
65 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 01:18:12
>>64 わけもわからず朝鮮へ出兵させられた
加藤清正 福島正則 小西行長
スゴテの名高い武将怒りをかったことだ。
加藤清正と小西行長はやる気満々で朝鮮出兵したらしい。
66 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 02:07:01
>>64殿様
「いちゃもん」で家康潰しまさに『的』を射た意見!!それに尽きる…
が
>>9殿様
の足の裏にも及ばない°・(ノД`)・°・ハァハァ
67 :
63:2006/10/31(火) 03:11:32
>>64 でもやっぱいくら家康が天下狙ってたとしても
ごたごたが起こり始めたのは秀吉や利家が死んだあとだし
豊臣を潰したのが秀吉自身ってのはなあ
そこらへんみんなの意見聞きたい
68 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 03:26:19
秀吉が敵対勢力に対してあまり弱体化させられなかったのが、
原因だろうなぁとは思う。
なるほど確かにそうだ。
豊臣はかなりの金を保有してたのに淀が寺や神社に使いまくったし
差があんまりなくなったんだな。
三成や治長の手腕じゃあ対抗できなかった!と。
70 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 04:10:44
梅入り毒饅頭
71 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 05:56:08
理屈で動かぬのが世の中じゃ
皆の衆、人の世を動かすのは色と欲
72 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 18:17:35
ねぇねぇ、秀忠に45万石召し上げられたけど
今どんな気持ち?
∩___∩ ∩___∩
♪ | ノ ⌒ ⌒ヽハッ __ _,, -ー ,, ハッ / ⌒ ⌒ 丶|
/ (●) (●) ハッ (/ "つ`..,: ハッ (●) (●) 丶 今、どんな気持ち?
| ( _●_) ミ :/ :::::i:. ミ (_●_ ) | ねぇ、どんな気持ち?
___ 彡 |∪| ミ :i ─::!,, ミ、 |∪| 、彡____
ヽ___ ヽノ、`\ ヽ.....::::::::: ::::ij(_::● / ヽノ ___/
/ /ヽ < r " .r ミノ~. 〉 /\ 丶
/ /  ̄ :|::| ::::| :::i ゚。  ̄♪ \ 丶
/ / ♪ :|::| ::::| :::|: \ 丶
(_ ⌒丶... :` | ::::| :::|_: /⌒_)
| /ヽ }. :.,' ::( :::} } ヘ /
し )). ::i `.-‐" J´((
ソ トントン ソ トントン
73 :
OPS:2006/10/31(火) 19:05:40
>>67 秀吉が自分で豊臣家を潰した・・・
朝鮮出兵とキリシタンの追放。
まあ朝鮮出兵は第一子の鶴松の死最大の家臣であった弟大和大納言秀長の死。
これが朝鮮出兵の原因の一つ。
福島正則、加藤清正はすぐに本国に帰って戦支度をしたという。
74 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 19:13:14
『太閤記』始まった。
75 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 19:23:00
ねねってなにがしたかったの?
豊臣そんなに潰したかったの?
76 :
OPS:2006/10/31(火) 19:43:17
淀殿が憎かっただけじゃないの
77 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 20:25:09
>>69 いやいや金の保有はなおも徳川をあっとうする量だったというのが
夏の陣後金蔵を開けた感想だよ。
たかだか65石であれほどの大いくさを組織できたのもそのお陰。
家康は、関ヶ原の時に福島が開城して放出した物資や金などをみて
驚愕したんだよ。それがなかったら関ヶ原どころか尾張三河への進出
すら不可能だったわけで。だからあの手この手で放出させたのにま
だ膨大な資産を保有していたので (;゚Д゚) ガクブルしたわけで。
78 :
OPS:2006/10/31(火) 20:29:54
>>77 65万石では?
それと関ヶ原で敗北しても毛利輝元が大坂城に籠もっていたのに家康の策謀にはめられ開城したら一気に減俸された。
あともう一戦すればよかったのに。
豊臣全盛期、堺や長崎の貿易港、佐渡金山を牛耳っていたからね。
米の禄などしれてた。
80 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 22:55:23
>>78 流石に籠城戦は無理かと。準備がなかったし、総大将が討ち取られたわけだから。
むしろ秀頼出陣の方が遙かに裏切り福島らにとって動揺が大きかったと思うよ。
>>77 そもそも中山道の秀忠の方が主力で先に尾張に出る筈だったらしい。しかし真田の
足止めによってもう戦費が底をつき、江戸に無心したが「無理」って突き放された
って話もあるね。その内に家康の方がさっさと対家康の要塞網を福島自身の手引き
であっさり突破したので驚愕したとか。
奇妙に名目にこだわる日本的発想が根底にある。
総大将が毛利であって豊臣でないので、高台院は徳川方に好意的中立
をとり、高台院に近しい連中はこぞって、高台院の意を汲みつつ「豊臣家と一
戦交えるわけではない」と理由付けして徳川に組した。
高台院は、淀殿と疎遠だから「豊臣家が中立的立場だから、自分も中立」と
意地悪く名目にこだわり、高台院に近しい連中は、三成と険悪なので私怨を優
先して名目を悪用した。
豊臣家が中立的な立場を取ったために、戦に加わる名目として豊臣恩顧である
ことは重要でなくなってしまった。
変な保身が、豊臣家に不利な名目を生んだ。
名目上、豊臣家は中立なのだが、三成方が大阪城を自由に出入りしていた
事実は、如何ともしがたいから、西軍の敗北によって豊臣家は自動的に徳川
の臣下になってしまった。
名目は、大きな動きの原動力にはなるが、動いた結果までは責任を持たない。
結果が出てしまうと、もともとの名目などどうでも良くなってしまう。
名目上はA級戦犯であるはずの、上杉・毛利は減封されながらも存続している。
豊臣家が徳川の臣下になってしまうと、豊臣恩顧の大名と同格なので、豊臣
恩顧が名目としての価値を完全に持たなくなった。
大阪の陣では、大阪方につく名目がないから、諸大名で大阪方に回るものが
居なくなってしまった。
関が原は実質的には豊臣対徳川なのだが、名目上は三成対徳川であったために、
豊臣家の意図しない方向に名目が一人歩きしてしまった。
82 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/01(水) 00:54:37
↑
なるほど!素晴らしい!されど…
>>9殿様
の足の裏にも及ばない(≧∀≦)ハァハァ
83 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 06:26:33
84 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 09:21:45
北政所が親徳川・反三成なんて誰にも相手にされない話をここまで熱く語る奴が未だにいるんだな。
熱意だけで高校での単位は認めるが、大学の論文としては不合格だろう。
>>73 キリシタンの追放は英断だろ
キリシタン大名がのさばって見ろ、大友や高山みたいに
日本の寺社ぶっ壊しまくって、変なモン建てまくってんだぞ
女は奴隷で持ってくわ、碌なもんじゃねーぞ、あいつら
最初は豊臣vs徳川ではなく、石田三成vs徳川家康の対立構造にして味方を集め、
その後徐々に豊臣主流派を追い詰めてゆく戦略をとった家康の作戦勝ち
加藤や福島は馬鹿かもしれんが、豊臣政権はもともと馬鹿の連合の上に成り立っていたということ
家康は秀吉に倣ってその馬鹿を利用しただけ
後半はある程度正しいが前半は書き直して来い
88 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/01(水) 21:58:05
89 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:05:16
豊臣を潰した糞馬鹿者であるのは、石田ってのは解るんだが、あと1人は誰だ?
90 :
日本@名無史さん:2006/11/01(水) 23:08:19
赤い彗星真田
91 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 06:22:28
>>89 政権を守ろうとした主役を糞馬鹿よばわりかよ
潰したのは福島と淀だ。
92 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 12:19:24
秀頼を淀に育てさせた、晩年の秀吉自身がアホやった!
93 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 12:31:16
秀頼の九州逃亡説は本当?
>>91 当時の日の本の統治には家康以外に適任な人材がいるかよ?
三成も佐和山で大人しくしていれば豊臣は救われたんだよ。
豊臣への忠節はあったろうが、
己の政権復帰の為に欲を出して挙兵したから、豊臣の没落はより早まったんだろうが。
それと福島・加藤等猛獣供を飼い熟すか処分も出来ない奴に諸侯の統治が出来るか?
95 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 16:34:22
>>94 さわやまで三成が大人しくしてても上杉を潰した事でまた家康がでかい顔する
ようになるに決まってるよ。
でどんどん反家康をいちゃもんつけて潰していく。
家康に意見いえる奴がいなくなったところで江戸幕府を開いたと思うよ。
96 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/02(木) 17:07:42
>>91殿様
俺でさえあの釣り馬鹿89に引っかかなかったのに(ノ_・。)お主ときたらハァハァ
>>95 それだけ時間かかるから、豊臣を潰す前に
家康自身がタイムオーバーになる可能性大
98 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 17:53:21
99 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:11:47
>>97 秀吉が死んでからわずかな間に前田が屈服させられ、上杉が討伐され、
浅野石田も逼塞した。
横暴に振る舞う家康を積極的に押さえ込もうとする大名などほんの一握り。
・・・こんな状態でいつになるかわからないタイムオーバーとやらを待つとw
あほかw
100 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:14:50
>>99 その状態で挑んだ三成はまさに「義の人」だね。
本当なら清正や正則が積極的に自分の利益を捨てて豊臣をもりたてなきゃいけない
のに。
101 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:16:33
結果論から言えば
豊臣がつぶれ徳川の世になったのは
日本人にとって幸福だったけどね。
102 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:39:39
わからんよ。
閉鎖的な日本を作ったともいえるし。
差別主義者にした可能性だってある。
>>101 ふざけるな。大東亜共栄圏構想が台無しだ。
日本文明圏が成立し、同文明圏の公用語は日本語になっていた。
それをあのタヌキとその子孫どもがヒッキー政策やったばっかりに近代日本は西欧なんぞにでかいツラをされる屈辱を味わった。
あんな石器時代の軍隊いびってるのが関の山だった田吾作どもに!!!
104 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:47:21
日本の文化を守ったのが家康かもしれないし日本を閉鎖的にしたのも家康といえる
かもしれない。こればっかりはもしも議論になるからどうしようもない。
105 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 18:58:56
自害したと伝え薩摩に逃げ落ちた秀頼。
106 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 21:12:34
そもそも尾張者の忠義などたかが知れてる。
信長死亡後の織田家中見てりゃわかるだろ。
107 :
OPS:2006/11/02(木) 21:20:52
>>106 確かに小牧長久手の戦いがいい証拠だ。
織田信雄と徳川家康は手を結んだが池田入道や森武蔵守秀吉につきましたから。
108 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 21:47:27
池田は近江者
森は美濃者
109 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 22:46:16
一番の責任は問答無用で家康を殺しておかなかった秀吉自身にある。
家康が豊臣原理主義者を駆逐してくれたおかげで日本は安定することができた
豊臣が残っていたらイラクやアフガニスタンのような末路をたどっているところだった
日本はいくら家康に感謝しても足りないくらいだな
111 :
日本@名無史さん:2006/11/02(木) 23:42:40
秀吉が自分の一族を皆殺しにしたんだから、何ら同情の余地は無い。
豊 臣 を 潰 し た の は 秀 吉 だ
112 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 09:48:01
>皆殺しにしたんだから
してねーよ
家康は若い頃に信康を自害させて以来一門衆の大事さに気づいていた
秀吉は気づくのが遅すぎた
114 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 08:37:32
気付いていたが如何せん少なすぎたんだよ。それぞれが豪族ってわけでもないし、
市松のようなごろつきばっかりw
115 :
金吾秀秋:2006/11/04(土) 09:29:32
この、ごろつきどもが(´・ω・`)
秀頼じゃなきゃヤダ
秀次なんて他人だし
秀頼が、本当にあなたの子だとお思いか?
118 :
OPS:2006/11/04(土) 10:45:57
秀頼は淀殿に公家教育をされたと聞いたことがあるのですが
秀頼を武将に育てるためには誰を教育係にしたらよかったと思いますか。
家康かな
120 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 13:41:36
121 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 14:02:37
豊臣を創ったのは秀吉、潰したのも秀吉
122 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 18:10:45
素直に秀次に渡しておけばよかったのだよ。
関ヶ原で、福島・加藤が西軍に加勢するかもしれない姿勢を見せた時、
懸命に家康を支持した山内一豊は、元々秀次の近習だった。
関ヶ原で家康側を支持した豊臣恩顧の武将の影には、秀次切腹がある。
123 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 18:21:38
秀頼 島津らにより薩摩逃がした説も遺る。
>>122 秀次は所詮他人の子。自分が取った天下を
なにゆえ他人にくれてやらねばならんのか。
福島・加藤が西軍への加担を匂わせたかどうか知らんが、
懸命に家康支持したのは黒田や藤堂だろう。
山内なんか小山でちょっと発言しただけで何の工作にも参加していない。
しかも山内は秀吉恩顧であって、秀次から受けた恩などほとんど皆無であろう。
つか、山内クラスって近習というかね?
125 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 21:56:20
>>111 >>122 確かに、豊臣家を潰したのは晩年の秀吉の失政。
たとえ、秀頼がいても一応秀次に後事を託したままにすれば良かった
(3代目は秀頼に継がせるという約束を諸大名に前で誓わせるなどの
配慮をするとか・・)
しかし、秀吉は他人が信じられなかったのだろう(自分が、三法師を
踏み台にして、天下を取ったから)。その気持ちもわからないでは
ないが・・。
126 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 22:23:53
とはいえ流石の秀吉も市松があそこまで脳味噌空っぽとは思ってなかっただろう。
家康ですらあの馬鹿の超人的用兵能力と狂人そのものの性格と敵対しては到底天下は
希み得なかったわけで、市や虎を飼い慣らすだけの官僚組織を作りきれなかった秀吉
の責任に最終的には帰すとはいえ、徳川でもやはり秀頼を潰し更に家光の誕生までか
かったわけで、秀吉としてもそこまで自分のせいにされても困るだろうねw
迷わずに三成に九州百万石か、或いはそっちを市にやって三成を尾張に置いておけば
あそこまでドミノ倒しに全部家康に持って行かれることも無かったし、淀を教育して
しっかりと自分の政治センスを植え付ける事をしなかったのも後の悲劇を招いたわけ
だし、そもそも朝鮮の役などしなければ虎や市があそこまで逆切れすることも無かっ
た。
秀吉自身のこういった重大なミスの積み重ねも色々あるけど、それにしても福島某と
いう名の狂人が日本の歴史を左右するとは・・・。幼少時から知ってる尾張の皆さん
にすれば、(´・ω・`)だろうね。信長がついて秀吉がこねた天下餅を市松が肥だめに投
げ捨てたんだからw
思ったより家康の人望があったということだろ
いろいろと諸将のために尽くしてやったようだし
ドミノは秀吉もそれで天下を手に入れたようなものだし
どうしようもない
自分が織田家に対してやったことを、みんなみてるわけだから。
豊臣家がつぶれるのは、ある程度わかっていただろうな秀吉も。
129 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 02:04:12
>>128 だからこそ臨終間際に鼻水垂らして泣きじゃくりながら秀頼を頼みまする
頼みまする、ってことになったんだろうね。(小説などの記述を信ずるなら)
実際ガクブル状態で死んでったと思うよ。まあ秀頼が秀吉の子だとも思えないわけだが
1代で成し遂げた成り上がりだから譜代の家来がいなかったことが痛かった
家康でいえば、鳥居元忠、大久保忠世にあたるであろう、
山内、堀尾、中村がいずれも家康に寝返ったのも悲惨
石田や宇喜多のような律儀者は戦国には少ないってこった
131 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 11:18:14
黒田は冷遇されたからやむを得ないし、如水の作戦もあった。
許せんのは細川。光秀をそそのかしておいて動かず、秀吉が死ぬとさっさと
裏切り。流石は仁義なき室町将軍家w その後もぬくぬくと清正の熊本城に
おさまり、この期に及んで非自民政権を崩壊させたり。
132 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:07:57
>>130 山内とかは、主君と家来ではなく、主君は信長で上司部下の関係だったからね。
ある意味 上司の教訓を生かして強いほうについたってだけで
>>131 細川は実兄を裏切ったところからずっとそういう家なんだよ。
133 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:21:49
島津義行 小西行長 律義三成
134 :
:日本@名無史さん :2006/11/05(日) 16:23:15
細川はえげつないな。
>131
細川に対して何か私怨でもあるのか?
>光秀をそそのかしておいて動かず
なんて根拠も何も無いし、
>秀吉が死ぬとさっさと裏切り
それで責められるなら、対象武将は山ほどいるし、
ついでに秀吉のせいで危うく家潰されそうになるし、
>その後もぬくぬくと清正の熊本城におさまり
なんていうのは江戸幕府に文句言えよ(笑
136 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:25:24
薄っぺらいレスですね。厨房ですか?
137 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 21:28:40
今日の放送見てますます清正と正則のばかっぷりが憎い。
138 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 07:10:04
戦後にああだこうだいって裏切り者の家を取り潰してくれている家康に妙な
善意を感じてしまった。
139 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 12:31:23
豊臣は
秀吉が創り
潰したぞ
あり得ないほどの
馬鹿ではないか
140 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/06(月) 19:12:18
>>138殿様
ハァハァ(・∀・)
今度自分を裏切るから
先手撃って『ツブシタ』
141 :
今日の教訓:2006/11/06(月) 23:28:13
裏切者は、また裏切る。
142 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:34:41
143 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 23:42:43
半端な悪者は、ホンモノの悪者に負ける
144 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 00:33:30
淀と秀頼に決まっとるがな
馬鹿なのは福島と加藤
家康に利用されてるとも知らず、
改易されたり、毒殺されたりw
信長の野望の加藤の智謀値は30台で良いと思う
なら福島は3ぐらいだなw
147 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 08:50:48
自分らが何をやってたか(要するに豊臣を裏切った)、
ちゃんと理解してたと思うけどね。
正則は生きてる間にああなっちゃからね
清正とか、池田輝政とか浅野親子は亡くなっちゃから
まあ家康が亡くなった後に従三位参議だから悪くはなかったんだけど
加藤嘉明なんかは良かったね
>>147 武士としてのプライドから、
東軍に就いたのは三成を倒すためだったと自分に言い続けただろう。
秀頼への忠誠を示すことはやってるし。
家康も、限度を超えない限り見逃していた。
150 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:00:26
裏切ったとわかってたくせに大阪城攻めの時に中途半端に味方しようとして警戒さ
れたりするから馬鹿だっていわれるんでしょ。
まー単純にこの二大馬鹿は騙されてたと思うけどね。
豊臣のおんために、三成を打ち倒したい!
ww
151 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 19:58:05
152 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:04:49
裏切り者の病討ちカス吐夜(0.5人分)も仲間にいれて
2.5大馬鹿とタイトル変更してください
153 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:11:39
山内なんかどっちにつこうと関係なかったでしょ。
福島と加藤が家康についたっていうのがでかかったんだから。
154 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:24:39
朝鮮出兵の時も正則は朝鮮にいかずにほとんど国内にいたらしいじゃん。
それどころか逆に三成が朝鮮の激戦区真っ只中にいたらしいし。
それなのに正則は本当に馬鹿だなw
155 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 20:34:27
朝鮮征伐におおいに活躍した
武将が加藤清正 小西行長 この二人!
小西行長の軍団がお馬鹿やらかして壊滅しなければ、家康もおいそれとは
手を出せなかったのにね。まあいくさキチガイはどうしようもないってことだ
けど。
157 :
:日本@名無史さん :2006/11/07(火) 21:28:30
朝鮮征伐におおいに虐殺した
武将が加藤清正 小西行長 この二人!
158 :
OPS:2006/11/07(火) 23:32:46
まあ豊臣家の滅亡は秀吉の無謀な朝鮮出兵から始まった。
159 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/08(水) 00:02:14
160 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 00:07:56
>この人何がしたかったんだ?
どっちが勝っても良いように保身を図っただけだろう。
>>151 >さらに浅野幸長に対しても家康に味方するように説得する書状が残されている。
wikiに突っ込んでも仕方が無いがそんな書状あったか?
163 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:29:27
その書状は有名じゃないか。
ただ、ねねが本気で家康の勝利を願っていたのかどうかについては、俺も
疑問がある。ただ淀の権力を牽制しようとしただけ、って感じじゃないか。
それが、よもやの太閤政権自体の崩壊になってしまい、慌てたが後の祭り
ってことで。
164 :
OPS:2006/11/08(水) 21:44:21
秀吉死去の後家康は豊臣家の譜代の家臣たちに接近しました。
しかし僕としては当時の細川幽斎の行動こそ時代を見ていたと思う。
>>163 >その書状は有名じゃないか
一次史料では一切見たこと無いんだが・・・
166 :
今日の教訓:2006/11/08(水) 21:56:53
雌鳥歌えば家滅ぶ
>>165 浅野文書大日本野史
大日本野史は江戸時代の後期だからおいとくとして
浅野文書には浅野幸長が政所から指示を受けて
家康に付いた(だからお前等も東軍に付け)と証言している書状はあるけど
北政所が直接指示した書状は無いはずだったと思う。
誰か修正よろしく
168 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 23:51:52
人は城。人は石垣。
強固な大坂城を築いた秀吉だが、人心を掴めず崩壊した。
武田からよく学んでいた家康の方が上手だったということだろう。
169 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/09(木) 02:35:25
↑
って言うか武田滅亡後に武田「残党」を採用したのは汚い(`★´)
>>164殿様
細川はなにしたか簡略にのべなさい
>>169 人を捨てず物を捨てず、倹約家なんだろ
武田の兵法も採り入れたりして、柔軟な精神構造でないとできない
172 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 19:42:46
いやいや武田軍団は垂涎の的でしたから。
立場上吸収しやすかったとはいえ、相当に嫉妬の対象でした。
173 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 19:59:42
でもさ、旧態依然とした武田騎馬軍団なんて、吸収してなにか得になるのかね?
むしろ、信長滅亡後の織田鉄砲隊の方が魅力的じゃね?
信雄とか、大名としてはあれだけど、鉄砲足軽率いさせて、
お家芸の鉄砲三段撃ちとかやらしてみたら、結構いけてたんじゃないかな。
今川氏真の蹴鞠みたいな感じでさ。
174 :
OPS:2006/11/09(木) 21:21:51
関ヶ原の戦いでは丹波田辺城に籠もり東軍勝利に大きく貢献。
>>173 おまえの時間軸が相当狂ってるのだけはわかった。
武田騎馬軍団なんて無かったんですけど・・・・
織田の鉄砲三段撃ちも後世の捏造と言われてるんですけど・・・・
177 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 03:25:26
>旧態依然とした武田騎馬軍団なんて
なら何で易々と家康を葬れたんですか?武田の戦場での展開技術が
その粋であって。その時肌を合わせてその水際だった鮮やかさと恐
怖を生涯忘れなかったんだよ、狸親父は。
178 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/10(金) 05:28:08
>>171殿様
〜捨てず、柔軟さとかわかってはいるが、でもイエヤス汚い(--;)
>>174殿様
フムフム!!もっと前は(秀吉死後限定)
>>1 忠誠心なんか一部の人を除いて、江戸幕府期太平時代の幻じゃないかね。
普通に淀殿はじめトップが妥協すりゃよかった。名家好きの家康なら、
潰されることはなかったろう。幕末頃には1万石くらいになってたかしん
ないけどw 加藤福島だけじゃ豊臣は潰せないよん。
180 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 06:10:05
でも関ヶ原で戦ったのって実質福島だけじゃんw
日本最大の決戦をひたすら私怨でやった馬鹿。もしかしたら
本邦最高の馬鹿かも。
182 :
OPS:2006/11/10(金) 19:04:24
まあ細川幽斎は風流人
183 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/11(土) 02:24:38
>>182殿様
って言うか(元)内閣総理大臣細川の先祖だったのがビビったΣ(゚□゚;)
>>174殿様
まだ?!
184 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:24:29
捕らえられた三成を罵倒し、三成に反論喰らって何も言い返せないバカ則
福島と三成は2ch並みの罵り合いだな
186 :
Luckman:2006/11/11(土) 14:25:06
>>180 その将器を家康に警戒された前田利常から「軽率」と評されたほどだからな・・・
三成がいなかったとしても、離間策にかかって豊臣勢相手に戦うハメとなっただろう。
187 :
OPS:2006/11/11(土) 17:24:11
>>183 ほお子孫がいたんですか。
細川幽斎
室町幕府に忠誠を尽くした者。
将軍家再興に明智光秀と共に奔走した一人足利義輝暗殺の際は生き延びる。
その後義輝の弟である義昭を将軍職につけるべく明智光秀と協力
後足利義昭の挙兵の際は織田信長にこの事を密告する。
本能寺の変の際は親友の明智光秀には味方せず出家した。
ねねを「ないがしろ」にした秀吉自身じゃないかな。
189 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/11(土) 18:20:34
>>187殿様
その細川(元・内閣総理大臣)は忠興(ガラシャ)つながりだから0.01%の明智光秀の血がある!!!?
って言うか信長への密告とかはいいから(/_・、)秀吉死後限定で頼むタテマツル…
190 :
OPS:2006/11/11(土) 18:47:28
家督を忠興に譲った後も秀吉に重用され九州征伐や小田原征伐にも従軍した。
関ヶ原の戦いの事は以前に書いた通り。
武将としての能力よりもむしろ文化人。
191 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 20:39:22
三成が近江の出だったから合わなかったんかの
192 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 21:12:15
天下の裏切者・藤堂高虎も近江人ですが・・・
193 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 21:25:38
関ヶ原西軍=豊臣方って、薩摩や長州の連中が自分達の都合の良いように、明治維新後に唱えだした史観だろ?
結局、ただの権力闘争に過ぎない。
西軍が勝ってどうなったかはわからないが、東軍が勝って豊臣家が生き残るチャンスはあった。
秀吉の織田秀信に対する待遇より、家康の秀頼に対する待遇の方がはるかに良かったのに、
思い上がった秀頼の周りの人間が馬鹿すぎる。
豊臣家を潰した元凶はこいつら。
194 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 21:30:57
>>193 (西軍)律義 vs (東軍)裏切り者集団
195 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 21:56:50
>>189 細川元総理はガラシャの血筋じゃないよ。評論家の細川なんとかとかが
ガラシャの血筋のはず。
196 :
OPS:2006/11/11(土) 22:27:47
確かに徳川家康は最後まで平和主義を唱え。
豊臣家へ大坂退去を要求し他に領地を与えると言っているのに大坂の陣を始めた。
何で秀頼は謀反を企んだの?
大坂のひきこもり坊秀頼公
一番は家康
内的要因は秀吉が筆頭か、奥州後にでも家康始末出来なかったのが大きい
つーか家康がいなかったら誰が豊臣ぶっつぶしたのか
とか考えちまうな
200 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/12(日) 04:03:28
201 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 05:06:43
202 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 08:32:34
>>200 元首相=妾っ子の子孫 途中で藩主家に養子に
評論家=廃嫡された長男の子孫
203 :
OPS:2006/11/12(日) 10:56:04
思えば伊達政宗は天下への野心をまだ諦めていなかった。
家康死去の天下は政宗が継ぐと言われた。
204 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:04:48
うーん、ますます二人が憎らしいな。とくに福島正則。
205 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:11:50
小早川秀秋 福島正則 そのほうら関ヶ原では活躍したそうな・・・・・・・・・・・・
206 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:15:23
>>193 そりゃ家康を良く書いた小説かなんかに影響されすぎなんじゃねえの?
事実だけみれば方向寺の再建とかさせて財を消耗させて、君臣豊楽、国家安康
なんて言い掛かりをつけて、幼い国松まで殺して豊臣を絶った。
とにかく家康は自分の眼が黒い内に豊臣を潰したくてしょうがなかったんだろうよ。
アメリカは戦争を避けたかったけど日本が真珠湾攻撃したのが悪いとか
言ってるのと同じだと思うよ。
207 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:59:03
>>206 織田秀信を見習って大人しくしておけばよかったんだよ。
自分達が主家を乗っ取ったくせに、自分達の番になったら権力にしがみつこうと言うのは都合良過ぎ。
秀吉が何をやったのかよく考えたほうがいい。
208 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:11:49
>>207 >>206はただ
>>193が関ヶ原は豊臣政権での権力闘争にすぎないって言ってたのを
否定しただけじゃん。
秀吉を肯定してるわけじゃないよ。秀吉に関してはみんな自業自得だと思ってるし。
209 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:23:03
>>208 権力闘争に過ぎないだろ?
賤ヶ岳と一緒。
210 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 22:24:41
>>209 権力闘争だったって事は石田三成が勝ったら石田三成が天下とったって事か。
そうは思えないけど。
211 :
206:2006/11/13(月) 00:21:41
>>207 いやおとなしくしてただろ。淀が傲慢で云々っていうのは全部徳川時代の脚色の
可能性もある。勝てば官軍だからな。なんでも言える。
大坂城を出てたら云々っていうのも出たら殺されると感じてたから出られなかったん
だとも思う。事実めちゃくちゃな言い掛かりつけて国松まで殺してるからな。
家康も豊家の存続を望んでいたとかいう説はなに言ってんだかと思うよ。
212 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 02:56:42
関ヶ原は豊臣政権下での制裁合戦だ
213 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/13(月) 04:01:08
>>206殿様
鬼畜アメリカとは18000里(西遊記の孫悟空を借りてのシャレ←(~o~))も離れてるのに真珠湾奇襲しことを構えて、(小日本)が死期を早めた馬鹿ハァハァ
って言うかクソ狸イエヤスだけは誰もかなわぬジャン、力量、カリスマ、トカトカトカ…
それにしても家康も必死になって豊臣潰したな
別に怖がる存在でもないのに
結果論になっちまうが、小田原征伐のあと、東海道にヘタレ小大名置いち
まったのが秀吉の最初の失敗。江戸に家康飛ばしたとき、思い切って上杉
景勝、前田利家あたりの剛腹大名置くべきだった。家康もだいぶ動きにくく
なったろうに。そのあと、朝鮮出兵とか無意味なことやっちゃうから
無理かなw それやらずに豊臣支配体制固めるべきだったんだよね。
216 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 11:03:08
加藤清正は忘恩不忠のバカ。
三成を悪人に仕立てるために脚色された忠臣だろう
217 :
日本@名無史さん:2006/11/13(月) 11:23:38
このスレ、戦国版でも伸びてるが
内容にあまり違いが無い
218 :
OPS:2006/11/13(月) 20:50:49
福島とか加藤とか戦国の世なのに恩とか考えすぎだよ。
219 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 05:01:57
三成は忠臣で義の人だから野心なんか無いよ
そうに決まってる
西軍が勝ったら全部うまくいったよ
そうに違いない
220 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 06:46:53
諸悪の根源はちゃちゃ。
女が権力を握ると、ろくなことはない。
221 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 07:10:04
真っ当な女が権力握れるようには社会が出来てないからな
茶々が余計なチャチャを入れる
223 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 10:33:16
スレタイ見ると、たかが20万石の大名二人の動向で潰れた豊臣がアホと言いたくなるなw
まぁ大馬鹿なのはあえて否定せんが、もう少しスレタイを考えて欲しかった気はする
224 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/14(火) 17:58:40
>>222殿様
ゾロ目&シャレ…
ダブルノドンで来られるとは(≧ω≦)ハァハァ
225 :
OPS:2006/11/14(火) 18:54:44
大坂の陣での敗因は淀殿と大野治長
226 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 20:37:03
「関ヶ原」だと正則はただ三成憎しのために家康についたって言って
茂助の息子にも内心呆れられてるな
本当にしろそうでないにしろ忘恩ではないだろうが大馬鹿だな
227 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:01:04
>>223 二人は、数少ない秀吉自身の親族だからな。
浅野は北政所の親族で北政所の指示で動いたようだし、家が安泰になったのは
長晟がおばあちゃんになってた家康の娘をはらまし家康の孫 光晟が後継者となったわけだし
だったら正則、清正じゃなくて
秀則とか秀正にすればいいのに
北政所の方の木下はあまり待遇が良くないな
230 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 00:35:45
>>229 たしかに
まぁ子を生せない正室の親族って結構そんなもんな気もするけど
231 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 02:49:40
三成が決起した時、他の奉行は「三成謀反」を家康に伝令しようとしてるよ。
三成に言いくるめられて結局三成派になったけどね。
だいたい関が原は豊臣対徳川ではない。
同じ豊臣家臣である石田派対徳川派の争い。
少なくとも建前はそうだったんだよ。
まぁ家康の最終目標は豊臣氏の滅亡だったけどな。
何度も言うが決して関が原の対立構図は豊臣対徳川ではない。
あの年寄衆三人は保身と職務と周囲が西軍しかいない状態で
悩んだんだろうな。
石田治部は秀吉の失政を一身に引き受けたようなもんだ。
忠義心はあるし、政策企画実行力は言うまでもないし、
それでも家康も焦るぐらい追い詰めたのだから最大限うまくいったと言える。
ただ、政略、謀略は相手が悪かった。
233 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/15(水) 04:27:23
>>231殿様
>だいだい関ヶ原は豊臣対徳川…ではない
だからクソ馬鹿“武辺派”らは関ヶ原の“真意”を読みとれずに狸イエヤスに味方した(´・ω・`)ハァハァ
234 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 10:09:05
>>233 馬鹿二人以外は豊臣vs徳川ってことは理解した上で徳川についた
関ケ原で家康が負けてたら
236 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 11:00:56
>>235 福島加藤は改易になって、やっぱり馬鹿扱いだと思う
>>236 じゃあさらし首になった石田は?
池沼かね?
238 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 17:47:16
豊臣を潰した二大馬鹿とは
秀吉と茶々だな
239 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 17:48:24
「じゃあ」の意味がわからん。
なぜ比べる相手が石田なのかな。
池沼なのか?
240 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:37:58
茶々は念願かなって豊臣を潰せたんだろ。
一大名として存続できたのに...。
242 :
OPS:2006/11/15(水) 19:35:40
淀殿のわがままで豊臣家は滅んだ。
潰れたのは大野の子供が自称しているだけの偽豊臣家だろ
本物の豊臣家は無子断絶しているから潰してなどいない
244 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 22:29:42
結局、秀頼ってホントは誰の子だったんだろ?
245 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:19:45
>>239 日本語能力が不足してるんだね。
気の毒。
246 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:28:42
オマエが?
247 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:32:20
>>244 骨を捜して、DNA検査しないと解らない。
248 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 23:37:40
249 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 01:07:31
もちつけおまいら、それは幕府の策略じゃ!
251 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 06:57:38
加藤清正が死んでから大阪の陣が起きたわけだけど、加藤清正は徳川家康に
毒殺されたという説もあるらしい。
また、日本三大名城といわれる熊本城は、いざというとき、秀頼を迎えるつもり
で築いたらしい。
252 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 07:36:04
それ小説とかでよく見るけど、どうなん?
二条城で秀頼に出された毒饅頭を身代わりで食ったとか、
家康が秀頼に将来的な脅威を感じて味方になるであろう清正を殺したとか
小説的には面白いが事実かといわれると首を傾げてしまう
このあたりの事って、なにか資料あるのか?
253 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 07:44:32
>>251 秀頼は薩摩に行った説が有力視されている。
254 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 08:31:30
秀家は大阪城まで泳いだ説が有力視されている。
255 :
日本@名無史さん :2006/11/16(木) 13:26:47
毒は毒でも、梅毒。
会見の後、長い期間潜伏してるんだから、これしかない。
256 :
OPS:2006/11/16(木) 20:02:27
257 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 21:18:44
>>255 2chは何人の戦国武将を梅毒にする気だ
258 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 23:00:08
秀頼って190越す大男だったんだろ?いくら母方が大柄な家系で
生まれた時からいいもんばっかり食べてたとしても150位の男の子供が
190ってありえないというか疑われて当然だろ。だから秀吉恩顧の多くの
大名も秀頼につかなかったんだと思う。
ついたって自家も家康にぶっつぶされると思ってつかなかったんだろ、本音はつきたいと思っても
260 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 02:18:36
淀を心底嫌ってた人間のなかには秀頼を内心疑ってたやつも居るかもな
261 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 02:36:27
家康が秀頼と面会し、そのカリスマ性を感じ豊臣を潰す事を決意した
とかあるが、違うと思う。秀吉の子じゃないと確信したからこそ
潰そうと決意したのではないだろうか。偽者が秀吉の子孫を名乗って
いくことが許せなかったと。だから国松まで殺し豊臣(偽者)を絶ったと。
そうでなければ偽者の子孫が豊臣ヅラしてのうのうと威張っていた
ことになる。それが許せなかったのではないだろうか。
262 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/17(金) 03:12:08
↑
あなた様はイエヤスの『自民党のクソ詭弁山本議員』ですか?!
ツブシトイテ自分に良いように詭弁するんですか?!そうですか?!ハァハァ(つд`)
263 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 03:39:41
ねね派の人間は裏では秀頼を偽者扱いしたかもね
264 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 07:43:39
ドイツの軍事専門家が、関が原の西軍と東軍の配置図を見て、即座に西軍の
勝ちと言ったそうだ。つまり、小早川秀秋の裏切りがなかったら、西軍が
勝っていたと考えられる。
徳川家康は、一か八かのかなり危ない橋を渡っていたんだなと思う。
秀頼が西軍支持の意思表示をしたら、家康の勝ちは万が一にもなかっただろうな。
裏切らずに戦って長引いたら
次の戦闘は
秀忠軍が到着してからだろうな
>>264 軍事専門家でなくても、配置図だけ見れば西軍の勝ち。
関ヶ原が一日で決着ついたのは双方とも勝てると見込んだからで、
最初から西軍に勝ち目がないことが分かっていれば、
三成は積極的に打って出なかっただろうから抗争は長期化していた。
267 :
日本@名無史さん :2006/11/17(金) 16:27:37
>>264 小早川秀秋の監視役で吉川広家が陣取っており、それは無理です。
家康の方が、戦術面にも長けていた。
>>267 小早川の陣はずいぶん長大だったんだね。
269 :
日本@名無史さん:2006/11/17(金) 17:43:40
豊臣秀長は兄秀吉の朝鮮出兵に反対した。ところが秀吉より先に死んでしまった。すると秀吉は養子秀次や千利休を自害させ、朝鮮出兵という自滅行為をやってのけた。
秀長が父清盛をいさめて法皇幽閉をやめさせたものの清盛より先に死んだ平重盛に似ていると思うのは俺だけか
民国の皇帝は?
関ヶ原前に、島津の奇襲案実行させてりゃ…
いちいちメッケルの話なんぞださんでも、西軍必勝だろ、配置図見たらw
小早川以前に毛利勢が本気になって吉川を踏みつぶしてでも下っていれば、安国寺や長束
長、曽我部も雪崩を打って家康直属の部隊を襲って家康の退路を簡単に断つことが出来た。
吉川が臭い事なんてわかりきった話なのに前面への布陣を許した毛利秀元の失策だよ。
そもそも輝元からして大阪城でのんびりしてその裏で領土保全工作してたんだから、一番
馬鹿はこいつだろう。西軍の総大将がそんなこと許される分けないつうのwww
>>273 松風のことか?
そのころ最上領の南部じゃね?
275 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/18(土) 01:56:33
>>272殿様
一か八かの
>>264殿様の発言は甚だしい(-_-#)
>>272の言うようにクソ狸イエヤスは南宮山(毛利秀元?!)から挟撃がないことを前提の前進であり!
ドイツの何とかは表しかみえないから、裏は…
276 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 03:31:55
吉川広家がくさいなんてわからなかったと思いますよ。
だって当時毛利秀元は若干21、小早川隆景亡き後、毛利家の軍事作戦は、広家がとっていたし、
広家に従うように、輝元から言われていたと思う。
272はわかっていない。現在の感覚では駄目だ。
輝元も本領安堵だと思って減封された時唖然としたろうな
つうか戦後も広家がぶち殺されなかったところ見れば、毛利の家中がそもそも
超ぬるい家風だったんじゃね?だって120万石が30万石だよ?
>>275 おまいの文章はよくわからんが、少なくとも西軍主力は上り斜面から
下る陣取りで、いわゆる絶地に家康と東軍主力の豊臣謀反派はいたわ
けで、それだけでも西軍必勝!
279 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 09:21:27
そうだよ、君の言うそのぬるい毛利家が幕末には死にものくるいで幕府を倒すのでは?
広家を殺すわけないだろ。知らなかったのは輝元、秀元、安国寺だけだったんだから。
あとの重臣達は知っていた。いわゆる広家は一族であり家臣筆頭だ。
それを切ったら、もうなりたたない。
すでに小早川、吉川と連絡とれていたからこそ家康は関が原に布陣した。
家康は情報収集や
調略に長けてたな
武将の中でもピカイチだろうな
でもあの時点で吉川、小早川が内応しなかったら、面白い結果になってたろうな
281 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 09:54:24
西軍がその日のうちに決着つけられればね
秀忠の本隊もいつまでもグズグズしてないだろうし
282 :
OPS:2006/11/18(土) 10:01:08
秀忠が来ても烏合の衆。
「東軍形勢不利」と秀忠軍に伝わって外様が行動を共にするかどうか
真田信之は突然病気になり沼田に籠もって動かなくなるかも知れないw
一人でも明確に態度を変えれば追従する者は出てくる。
関ヶ原出そうだったようにね。
徳川譜代だってカリスマ家康討ち死と伝われば、保身に走る者だって出てくる。
特に秀忠を嫌うものは、離反の可能性を秘めてる。
徳川家は存続するかも知れないが、秀忠以外の系統が濃厚だろう。
秀忠軍が一致団結して関ヶ原に急行して参陣出来るようには思えない。
そのような能力があれば、真田相手に無駄な日を過ごしはしない。
284 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 10:36:16
秀忠遅参にせいで家康死亡だったら徳川は揉めるな
285 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 12:32:22
秀長=重盛
286 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 18:19:39
>>283 秀忠軍って譜代勢中心で家康軍の外様が頑張ったのは、
譜代に手柄を与えられないように秀忠軍が来る前に西軍ぶっ殺すってのと
徳川家としても秀忠軍温存で外様同士でぶっ殺しあいさせるって意味があったかと
一応、本多正信もついてたんだから何も考えず真田と遊んでいたとは思わないけど
細川も藤堂も黒田長政も身替りはやいよなーw
288 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 18:35:38
>>286 東軍の大名たちは家康の家来ではない。
よって、譜代、外様という表現は不適当。
関ヶ原の決戦は西軍の突然の移動という突発的な出来事から発生したもので、
戦いがいつ起こるのか、またそれが短期決戦になるのか、持久戦になるのかは
誰もわかっていなかった。
もし秀忠軍を温存させようとしていたとするならば、秀忠は木曽の山奥で
右往左往して時間を潰さなければいけなくなる。
本多正信は特筆するほど軍事に明るくない。
■この国粋嫌韓スレは今から佐倉広夢くんの監視下に入りました♪■
≪嫌韓ファシストに人の道というものを説くハングル板の座敷童子華麗に登場♪≫
/././,,-,,_
/// .,,,-'-,,,,__
'''---,,i.|/ ''--,, .'--, ヽ
_,--'',.イ .\ .--,, .ヽ
./,,ィ / .i , \ ` -,,_ `ヽ_
.///.'/ ,ィ ハ \ \ \ ` - .、-__
.ノ//./ | ! .\-,,,,_____\ i'.ヽ /~`,
./ノ|.|(.ノ ,---,,,_ \i .|).`./ ./ 頭に皇国史観を叩き込まれて
.ノ .!| | .,- '~~~ _ .| |`./ /ヽ 人種差別に染まった嫌韓さん。
.! \ .' ,ノ ( .ヽ| V /,,-''~ ̄_) いっしょにイマジン歌おうよ
.>.\) ヽ ` , < ~ 僕が来たからもう大丈夫ね
,,--┴ ┳.ニ二フハ ヽ _ .` - .、 ここ嫌韓ファシストを再教育
// y- ,ヽ)).ノ イ .i.>、 ノ .~ '''''''' して真人間にするよ〜♪
/.「 ' --((./.( .i ヽ`-- '\\
/ |\ '~'.、 ハ ! .` --- , _.).)
./ ,,/|, .` -、 //( .! ヽ ./
./ r'' .! \ ~ ./ ヽ ヽ, _ ノ
././ \ ,, - .ヽ - >~
ノ/ /ノ .ノ ,,--''
【佐倉広夢 ◆IENTwyoWGs】
ハングル板に住み着くまだあどけない美少年。レスに「〜♪」をつけることが多い。
国粋軍国主義者や嫌中・嫌韓ファシストに真実を知ってもらい、日本人特有の島国根性
からくる民族的優越妄想からの解放を願っている優しい少年である。
右翼三流雑誌の影響で皇国史観に染まってしまった若者の啓蒙治療を生きがいにしている。
また本人は「美少年、美青年が好きだ」と言っているが、 実際には素朴な少年も好みらしい。
また彼のレスは文学的で知性に溢れている ためその才を高く賞賛する者が絶えない。
現在の暗黒ハングル板を救えるのはもはや佐倉広夢しかいないのだ!
しかし家康本人が戦場に出てきてる以上「まさか」はあり得るわけで
仮に裏で連絡取れてるにしても、短期決戦はあまり渡りたくない危険な橋だったとは思うぞ
いやいや家康にすれば長期化して秀吉子飼いの連中がいつ背くかわからん
から、短期決着は願ってもない最高の結果だったと思うぞ。いくら福島の
手引きで膨大な軍費や備蓄食料などを手に入れたとはいえ、なお豊臣の富
力とは比較にならなかったわけだから。秀忠だって好きで遅れたわけじゃ
なくて全軍移動の軍費が足りなくなったんだよ。一方の西軍は支配領域を
着々と広げて行ってたから、あのように短期決戦する必要なんてなかった。
真田や上杉との挟撃が当初のねらいだったわけだし。
292 :
OPS:2006/11/19(日) 10:58:08
真田昌幸の上田城籠城は秀忠の足止めで役立った。
293 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 15:39:47
福島正則は何を思って死んでいったんだろうな。三成憎しで家康に味方したものの
清正が死に(毒殺か?)豊家が滅び、自家は潰され、いいように利用されただけ。
やっぱり後悔してたのかな
正則は姉の子の亡霊だろな
徳川との婚姻だって姉の子だろ
しかし福島も、他の選択していたらもっと早くにつぶされていた可能性もあり、いずれにせよ家康にはむかって歴史を変えられる
ほどの男じゃなかったわけだから、分相応な最後だったのかと。
296 :
日本@名無史さん:2006/11/19(日) 20:14:41
豊氏長者ってあったの?
297 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/19(日) 20:21:05
>>293殿様
馬鹿だから…
ボケながら死んだかと………
(・∀・)
いやいやそれ事実だから。荒淫の果てにほとんどボケ老人になっていた。
こんな奴に日本の歴史が左右されたのかと。
299 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 00:42:18
秀次ってそんなに秀頼の将来を脅かすようなことを言ったりやったりしてたんだろうか?
世代が違うんだから普通に2代目秀次、3代目秀頼でうまくいかなかったもんかな。
秀吉がもうボケてただけかも知れんけど。
300 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/21(火) 01:06:50
近年の大河マズいよ(T^T)
先週、先々週は成三田石関連でみたけど気持ち悪いぐらいの演出(-_-#)ハァハァ
気持ち悪いウェーーーーーーー
俺も関が原かなんかで一回見たけど、なんか昼ドラみたいな軽さで
やんなちゃったw
302 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/21(火) 04:03:20
↑
ってでしょうーーーーーーー!!!!!!!(-_-#)
特に一豊と千代は気持ち悪い過ぎーハァハァ気持ち悪い過ぎー何なんだ何なんだ何なんだでめえらの涙(●`ε´●)何なんだ何なんだーーーーーーー気持ち悪い過ぎハァハァ
今年の大河に期待する方が間違いかと
304 :
OPS:2006/11/21(火) 18:51:04
やっぱり資金不足。
305 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 20:40:01
今年の大河は面白い部類だと思うんだが
306 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 21:08:28
小和田教授に聞いてみましょう。
まあ秀吉への忠義であって、秀頼への忠義は無かったという事だな
野村監督を慕ってる奴に対してカツノリも慕えというのは到底無理
早々に隠居して形として表舞台から降りて秀忠という環境に部下を慣れさせた家康は上手いね
308 :
日本@名無史さん:2006/11/21(火) 22:39:10
最近の大河では新撰組の次ぐらいに面白い。武蔵を全話見た俺には
面白すぎるぐらい。
309 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 00:42:06
利家とまつのときはメジャーな戦いに参加してない場合もありそういう場合でも
華麗にスルーしていて、いつの間にかすんごい偉くなってたけど、
一豊さまは秀吉の配下だから参加しまくりで要所要所に無理やり絡んでくるから
ある意味面白い。あんだけ活躍してたらもっと出世していいんだが、そこは要所
要所で秀吉に駄目だしされていまいち出世できないんだよな。
>>309 画面には出てこないけど、それ以上に活躍した人の方が多かったんだろう
活躍っていうか使い役が多いな、あれは万石は貰えないよ
だから北ノ庄で市じゃなくて、茶々を連れて帰ったのが決定的だな
あの三姉妹を秀吉の届かないところに置いておけば、、、豊臣は崩壊しなかったかも知れない
あの三姉妹がいなくても天下は取れた筈だから
313 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 01:31:53
秀長と利家が生きてたらなぁ・・・
関ケ原なしで家康がどうやって豊臣を乗っ取るかだな
>>307 家康の隠居二重体制(駿府に家康、江戸に秀忠)というのは
実は秀次後継と思っていた時代の秀吉の方法とよく似ているからね。
秀次に聚楽第で関白をさせて主として日常の政治を任せ、
秀吉は大坂を中心にあちこち動いて戦国武将としての仕事を行う。
隠居自体はありふれたことだったから、その使い方の問題ではある。
316 :
日本@名無史さん:2006/11/22(水) 01:53:53
つーかなんで聚楽第って壊されたの?
秀吉が建てたんだから、壊す必要はなかったんじゃないかなぁ・・・
織田を豊臣が乗っ取って、豊臣を徳川が乗っ取ったわけだ。
強いものが勝つんだ。あえて、豊臣の問題点をあげるなら茶々だろ。
318 :
日本@名無史さん :2006/11/22(水) 12:23:13
>>314 上杉宇喜多毛利を個別撃破すればすむ話だ
全部が前田みたいな手とってきたら
>>316 秀吉が立てたものを秀次に譲り渡した、という時点で「秀次の政権継承の象徴」になっていたのではないかと
その流れを破棄してやり直しますよ、というアピールのために破壊される必要があったのではなかろうか
321 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 01:27:07
>>307 江戸以前の主従関係って個人対個人だからね。
家対家の概念になったのは江戸時代から。
主従関係が形式的になって、殉死の禁止とかの政策も相まっての結果。
>>318 その間、他の大名たちが大人しくしているとでも思うか?
>>323 タイムアウトで家康あぼーんって可能性も
秀吉死後の家康にとって、天下を獲るには
・豊臣の天下を潰す
・元の群雄割拠に戻してはいけない(家康にそれほど時間が残されてないから)
この二つが至上命題だからな。
いかに混乱なく、スムーズに豊臣から天下を譲り受けるか、を果たすために既成事実としての関ヶ原が必要だった。
326 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/24(金) 08:26:39
だから
狸イエヤス=トウ小平(*_*;
327 :
日本@名無史さん :2006/11/24(金) 13:04:20
328 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 15:50:38
徳川家が執権として天下を取るプランもできたんじゃない?
九条家と完子の子孫を豊臣関白にして、
完子の異父弟の家光が天下を取るっていう形を確立できれば。
あとは、他の大老の勢力を地道に潰すということで。
家康は
主家の領地を勝手に与えたりやりたい放題だったな
>>328 そうしてくれてれば俺も家康嫌いにはならなかった。
まぁ、非情に徹したからこそあれだけ安定した政権を作れたんだろうけど。
秀頼の事を頼む
で報酬は?
伏見城と160万石では如何かな
333 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 18:10:55
>>328 それほど尊崇しなければならないほどの高貴な血統じゃないからなぁ豊臣家は。
むしろ逆だし。
実際に、織田の天下を奪った政権だし、徳川が同じことをしただけかと。
334 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 18:27:33
織田も徳川も似たようなもんだろ
徳川は豊臣をほぼ根絶やしにしたからなぁ…
336 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 20:00:21
足利将軍を追放した信長や、織田の天下を奪った秀吉が悪く言われないのに、
同じことをした家康が狸親父呼ばわりされるのは不公平だな。
秀吉一代で土民から成り上がった豊臣家なんて、守るべき価値はないのに。
338 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:14:31
徳川時代が全体的に悔やまれる時代だからじゃね?
織豊の安土桃山時代が華やかで格好いいから織田や豊臣の天下が続いていたらなぁ
と思ってしまうんだよね。
同じこととしても同じことやっても許される人間と許されない人間っているな
>>335 根絶やしもなにも豊臣は秀頼しかいないのだから
秀頼が反抗すれば自動的に根絶やしになるのだが・・・
国松きったろ
あれをいかして1万石くらいにしてやれば
後世で言われる事も少なかったのに
家康が我慢して旭を孕ませておいて大阪の陣後にその子供を豊臣家当主に据えて
どっかの田舎にでも置いておけばよかった
せっかく強力な精子を持っているんだから有効に活用すればいいのに
343 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:09:30
ほかならぬ信長おじさんが、茶々の兄弟の万福丸を串刺しにしてるんじゃ・・・
国松なんか市中引き回しの上打ち首だろ?
それを信長や秀吉と同じとするのはどうかと思う。
>>342 そのころあさひは子供を生める歳だったのかな?
四十代半ば近い記憶が
現代でも高齢出産の部類に入ると思うけど
違ってたらすまそ
>>341 首謀者の直系男子はさすがに生かしてはおけんよ
しかし他に一人でも豊臣氏の人間が生きてれば
「誰か一人徳川方につくことで一族壊滅を免れる」という手はあったと思うが
秀次の一族根絶やしにしたのは他ならぬ秀吉だし
もし大和豊臣氏が続いていたら、もっと大きなところから話が違ってくるわけで
首謀者も何も
言いがかりつけられて嵌められただけじゃん
しかも元主家、信長や秀吉はさすがに全滅まではさせてない
348 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 01:45:59
>>345 浅野長晟は御家存続のためにがんばったんだぞ。
高齢出産で母親死ぬけど、それが「光晟、かあちゃんいなくてかわいそう。」
ってなもんでさらに安泰な体制に
349 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 02:24:53
信長の兄弟や子供が沢山いた織田家と、秀頼しかいない豊臣家じゃ、比較にならないけどな。
信長の遺族はヘタレなりに、上手く立ち回ったわけだし。
>>336 それは徳川が「最終的な覇者」だったから
(勿論完全な永遠は無いわけで2世紀半だったわけだが、それでも十分)
恨みと嫉妬も一身に浴びることになるということだよ。
もし、あくまで妄想レベルであるが
徳川家康の死後すぐに、伊達政宗あたりが反旗を翻して
首尾よく江戸幕府を崩壊させ「伊達の天下」にでもなったとしたら、
徳川の「豊臣処分」もそんなに悪く言われなかっただろうよw
尚、今は「薩長明治政府」の系譜をくむ政府の時代であるが、
江戸は東京として首都機能を担うことになり、
江戸幕府の「敗者性」は奥羽越特に会津が身代わりになったということもあって
今の東京人には反薩長意識は強くない。まあそんなものであって、
徳川幕府の政策のおかげで成長したことをよく認識している
江戸時代の大坂の人は、今の大阪人ほど家康嫌いではなかったそうな。
351 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/25(土) 09:38:38
>>336殿様
>不公平だ
ぉまぇはセクシドールか(;゜O゜)?!
352 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 09:55:39
本当に秀吉の子、孫だったらいくらなんでも豊臣恩顧の誰かが
命だけはと嘆願し家康も認めてた気がする。
それがなかったという事は、
「どう見ても別人の種だろ?こんな偽者終わらせてしまえ」って空気が
当時の人たちの暗黙の了解であったような気がする。
353 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:36:07
>>352 そんな理由で助かるんだったら、もっと多くの大名や武将が生き延びてるよ
354 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 11:41:57
>>352 「どう見ても別人の種だろ?こんな偽者終わらせてしまえ」って空気が
当時の人たちの暗黙の了解であったような気がする。
それなら家康も滅ぼそうとはしなかったろうよw
それにしても家康はチキンだな
公家みたいな秀頼を怖がってるなんて
お得意の浅野加藤方式でやっつけられたのにw
357 :
OPS:2006/11/25(土) 17:28:40
自分が生きているうちに豊臣家を潰すのが家康の最後仕事。
358 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:43:32
>>354 いやいや偽有栖川とか許せないだろ?それと似たようなものかと。
家康が滅ぼしたかったのは、秀頼個人ではなく、豊臣家だったわけで…
まだ江戸じゃなくて京都だから、豊臣系の人たちも結構大坂に顔を出してたのかね
そうだったら厄介だね
361 :
日本@名無史さん :2006/11/25(土) 20:34:23
上杉や前田は徳川よりも豊臣に年始の挨拶などに行ってたらしいよ
豊臣大名じゃなくても大坂は農産物にしても取引の重要拠点だから
これは何としても押さえたいよね
363 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 21:05:18
秀頼と三法師
秀吉と家康
乗っ取りがうまかったのはどっち?
>>363 それはもちろん秀頼だろ血の繋がりも無いくせに他の養子を粛清させて豊臣を乗っ取ったんだから
乗っ取りっているけど、実力が無きゃ押さえられないよ
366 :
OPS:2006/11/25(土) 21:53:46
秀頼の武将能力が試されなかったのが残念です。
367 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 22:04:45
はあ?大坂の陣のとき22歳だぞ。それで淀の言いなりって時点で単なる
マザコンの盆暗だろ。信長は桶狭間の4年前、政宗は秀吉と渡り合って
切り抜けてたころだぞ。
そのボンクラにガクブルったのが家康さんデスヨ
自分が死ぬ前に豊臣家を臣従させるか滅亡させるかをしなければならず
74歳でそろそろ寿命の限界を感じ取ったから戦をしたのであって
秀頼個人にガクブルなんて冗談もいいところだろ
ヒント 会見
371 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/26(日) 15:21:55
>>369殿様
異論なし!
特に冗談も休み休みにしろのドコが
もっとも導管( ´艸`)
いつもながら日本語で宜し(ry
鼻欠けの秀康に大名としての豊臣家を譲っちゃえば?
で、秀頼は500石くらいで公卿としての豊臣家を残すということで。
いくら家康でも、嫌いだからと言う極めて非政治的な理由で息子が継いでる豊臣家を潰さないだろ。
それに、わずか500石の公卿をよってたかって潰すのも大人気なさ過ぎる話だし。
もっとも、それなら秀康が悲観してご乱行の余り鼻が欠けたり息子が馬鹿やったりしないので菊池寛が困るだろうがw
つーか、そんな理由では幾ら何でも家康が「豊臣家征伐だ!」と叫んでも諸大名がまじめに従うとは思えん。
374 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/11/27(月) 10:16:32
↑
何を言っているかわからん(ノ_・。)
375 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 11:14:33
片桐兄弟だろ
家出しちゃいかんよ
家康が豊臣家をどう扱うかも大切だが、秀頼がどう出るかも気になるんだが…
377 :
金吾秀秋:2006/11/30(木) 03:19:04
まったく、片桐のA級戦犯めが(´・ω・`)
378 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 06:07:24
>>371 >特に冗談も休み休みにしろのドコが
>もっとも同感( ´艸`)
そこまでいってへんがな!
これでいいか?
片桐且元の評価には二つに分かれるな
380 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:42:55
俺はスパイシーだったと思う
382 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:21:05
豊臣家を乗っ取った茶々と、父親不明の子供を、家康が成敗した。
終了。
383 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:28:31
秀頼は死んだが、板垣死すとも自由は死せず
384 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 23:40:04
豊臣幕府を開いていて、秀頼を二代将軍にしておれば
もうちょっと何とかなったんだけどね
その屋台骨支える人材が喧嘩別れの末いなくなったんじゃどうにもならん
秀吉が死んだ途端にあれでは終わってるだべ
もしも黒田如水が野心が無く対抗できる戦力を持ってれば
野心のない如水など頭脳明晰な金吾ちゃんより考えられん
九州を統一した如水と家康の直接対決見たかったな
>豊臣幕府を開いていて
バカ丸出しだなw
390 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 23:26:49
あえて誰もふれなかったのに・・・
391 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 00:56:50
秀吉の自業自得
>>391 そう思う。
ただ、朝鮮出兵は秀吉個人の野心と言うより戦国時代から続く武士層全体の要請という面もあるから、止めるわけにも行かなかったのかも。
393 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/12/05(火) 19:13:22
イエヤスとか
ダテとか
整理整頓しきれない『秀吉』が主犯
394 :
日本@名無史さん:2006/12/05(火) 19:27:16
テレ朝【太閤記】本能寺きききたー
395 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 17:08:34
派手に営業して稼いだホステスが、自分の店を持って失敗したようなイメージ
396 :
OPS:2006/12/06(水) 21:54:16
>>338 同意
学校の先生がもし関ヶ原の戦いが長く続いていたら黒田如水という第三勢力が存在したといってました。
よく先生と大阪の陣のことで議論しますが先生の話では大阪冬の陣の時もし現場指揮の総大将を後藤又兵衛にし軍師を真田幸村にすれば勝利できたと。
正直真田昌幸にあと五年は長生きしてほしかった。
勝利といっても、家康の首をとらない限り局地戦の勝利にすぎないでしょ。
戦略的にすでにジリ貧だったわけで。
豊臣贔屓の人はよく大坂の陣で勝っていれば…
と言うが、関ヶ原があった時点で既にアウトだったと思う
399 :
日本@名無史さん :2006/12/07(木) 13:32:03
>>396 先生に言ってあげなさい。
「司馬遼太郎の本に影響される奴に教育者の資格なんてない」
400 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:17:37
>>397 秀忠の首も取らないとダメ。
家康と秀忠の首を両方取っても忠直卿が頑張りそうな予感。
忠直vs家光vs忠輝なんかで戦国逆戻りかも知らんが
401 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 20:27:19
淀君と、何を隠そう秀吉自身。
402 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 21:39:45
403 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 01:46:29
>>400 秀忠では誰もついてこないな。
まぁ念には念をって意味ならそれでもいいけど。
しかし大阪の陣の時点ですでに徳川幕藩体制はほぼ固まりつつあったから、征夷大将軍である秀忠が健在であれば
なんとかやれたかもしれん。
尊氏も平定途上で死んでいるし。
405 :
日本@名無史さん :2006/12/08(金) 10:57:25
>>404 秀忠じゃ、大軍を掻き集めても大坂城を攻め落とせないと思う。
鎌倉幕府末期の千早城のようになる気がする。
どーせまた遅参すんだろ。
407 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 00:51:32
秀忠は頼朝に学んで、自分は江戸から動かずに一族を総大将として送ったんじゃないかな?
忠直か忠輝か場合によっては下の三兄弟とか。
前田と北の政所
散々甘い汁吸って裏切るなんて人間として最低だね
前田はしょうがないな、家康に言いがかりつけられたとき豊臣は何もしなかったからな。
大バカは北の政所、嫉妬と嫉みで家を滅ぼした。
だから女って…
金沢市役所職員必死だなw
411 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 23:05:53
加藤と福島は最低の裏切り者
>>411 でもこいつらは、豊臣軍と戦ってる自覚がなかったのでは
例えば、関が原に秀頼が出陣しておれば、間違いなく西軍につくだろう
そうさせないように、家康があれだけ苦労したんじゃないか。
その仮定はちょっとありえない。
414 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 02:13:04
秀吉が生きてるうちに、徳川を取り潰しに出来なかった事でしょうな。
415 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/12/10(日) 08:43:30
↑
んだ!んだ!んだねぇ!!!
だからクソイエヤス息あるうちに「豊臣」 をつぶした
だからオマエは日本語を勉強してから書き込め!
417 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 11:06:22
>>413 あり得なくはないけどな。
秀吉が淀を可愛がって権力を与えすぎたんだよ。
淀ってそんなに権力持ってたんかね?
419 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/12/11(月) 07:15:45
>>416殿様
ハァハァ(/_・、)
想定内なことばっか言われても…
420 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 12:56:19
北の政所の嫉妬だろ
おまいら浮気はするなよ
>>417 家康はいきなり豊臣vs徳川の構図にはせず、あくまで豊臣恩顧の大名同士の私戦(君側の奸を撃つという、秀頼のためという名目)
にして、豊臣家そのものが口出ししてくるのを徹底的に避けていた。
淀にも脅しをかけるように、関知せずとの言質をとっていたし、いろんな保険もかけていた。
あの時点で秀頼が西軍に肩入れして戦場に出ることなどまず不可能。大阪の陣の時とは状況が違う。
422 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 01:19:55
関が原が長引いていたら、応仁の乱みたいになってたのかな?
家康と輝元は、宗全と勝元の再来的に扱われてたりして。
423 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 06:16:11
長引けば寝返り豊臣組よりその他西軍の支配領域が増大して、上杉等からの
圧力も現実の脅威となるし、寝返りの大義名分も縮んでいくから東軍不利。
そのうちにそれこそ秀頼出馬の可能性も出てくるし。
424 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 11:08:49
>>20確に‥ 農耕系と商人系の違いか? 初心者なんで知見が浅くて悪いけどさー
海上輸送については西軍が圧倒的有利だから関ヶ原が1日決戦で終わらず痛み分けのように
なっていれば、補給で東軍はかなりやばくなっていたと思う
東軍最大進出線が尾張美濃で米物資を関東から前線まで移送するとして
東海道は九鬼水軍だけでも叩けるのに毛利水軍まで回せる
中山道はもともと補給路に不適だし真田もいる
もっとも長期戦になれば九州の黒田加藤がどう動いたかわかったもんじゃないけど
もし、大坂の陣で豊臣家が逃げ延びれたとして、そのまま時が流れたする。
そして江戸時代の平和なときになって豊臣家のありかを幕府が突き止めた場合
どうなるの?
将軍にもよる
>>425 旗本木下家の養子にでも押し込むか出家でもさせて穏便に済ますんじゃね?
下手に騒がれてもそれはそれで厄介だし
>>425 清洲城に30万石の備蓄米がある
他の東海道筋の大名もそれなりに米を備蓄していただろう
九鬼水軍は織田の傘下に入って有名になったが、
所詮は志摩の沿岸警備隊程度
朝鮮出兵で思いっきり失敗したな、秀吉得意の調略なしやいきなり地場を固めず明を攻めに行ったのや
家康を渡海させなかったのも大きかろうて
>>425 渋々担ぎ出された毛利が、そこまで徳川に徹底抗戦するとも思えないが。
>>429 すまん。清洲侍従が溜め込んでいた備蓄米の存在を忘れていた。
つーか、元々その米は豊臣の東部方面備蓄なのに徳川に使われるって・・・どうしようもないねw
30万石は確かに大きい。大きすぎますがそれをものすごい勢いで秀忠軍も加われば消費していく
わけです。
そこで、志摩の沿岸警備に毛が生えた程度とはいえ志摩湾→三河遠江あたりの東海道を
別に占領していくわけではなく補給線にちょっかいだす程度ならいけるんじゃないかなと思って。
徳川水軍>九鬼水軍だけど、志摩の本拠地を押さえつけるほどの力はないので。
少なくとも徳川が大軍の兵站維持に不安を覚えるレベル程度は荒らせるかなっと。
その点西軍は当時の物流大拠点大坂を基点として陸路でも海路でも近江美濃伊勢の前線まで
遅滞無く移送可能ですよね。
おまけに朝鮮渡海の大兵站をやり遂げた石田治部+もともとそっちの才能で取り立てられた小西
+瀬戸内の海運を抑える毛利がいた。
長期戦になればなるほど最前線から本拠地までの距離とその補給路の安全性がボディブローのように
東軍を侵食していくかなっと想像してみました。
徳川もいつまでも本拠地を北関東に残した結城部隊と江戸に置いた留守部隊だけにしておくのは
不安を覚えるでしょうし。
>>431 勝ち目が見えてくれば毛利は動くかなっと思ってるわけです。
433 :
OPS:2006/12/14(木) 13:58:49
大坂城って包囲戦にされたらどれくらい籠城できたんですか?
そういえば九鬼って親子で割れてたよね?
435 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:48:57
436 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 20:32:46
>>435 前田兄弟は?
利長は越中と加賀半国81万石、弟の利政は能登21万石。
437 :
OPS:2006/12/14(木) 20:51:46
>>436 関ヶ原の戦い当時すでに利家はいない。
それに利家が豊臣家の未来を託した前田兄弟に加賀百万石をかけて関八州を領する家康に戦いを挑む勇気はないだろう。
438 :
日本@名無史さん:2006/12/15(金) 21:08:48
やっぱそうだよなあ。
利松では最後きれい事で終わったけど。
利家や一豊のような狡猾な小心者ほど生き残れるのが戦国時代
義に尽くした小西行長や石田三成、宇喜多秀家は光り輝く
利家や一豊はそもそも織田家の武将で、豊臣恩顧じゃないし。
秀吉自身が大恩ある織田一族に対して何をしたか、それを間近で見てきただけにね。
>>440 前田スレでアンチが来ると必死に擁護カキコする工作員乙
まあ一豊は利家より酷いわな
堀尾や中村にしても
子飼いの武将だっただけに徳川家への鞍替えは弁解のしようがない
功名の話破綻したしな、律義者という設定wにしただけに
443 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:17:57
あれらは途中から秀次の将だからな。主人があんな目にあったら豊臣政権下で
今後出世できるとも思えないし徳川に鞍替えするのもしょうがない。
結局秀次を殺した秀吉の自業自得だよ。
主家を簡単に鞍替えするから裏切り者なんでしょw
>>442 秀吉じゃなくて秀長だったらしいぞ
その流れで秀次に付けられたと
忠義とは何かっておもっちまうな
忠義な、一豊は忠義って言うのは知らないだよ
一豊が存命中は康豊を名乗ってたんだよね忠義
家康…逆臣じゃん
449 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/12/16(土) 07:41:35
>>442殿様
関ヶ原が為に大河の「関ヶ原決戦と三成斬首」の二回だけみた!
吐き気がした(-_-メ)何なんだその涙ちょうだいクソ演出(-_-メ)
※それがしは「大地の子」から川上好きである
450 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 08:44:41
秀吉の子飼いというか…、ただの与力衆じゃん。
信長が生きてる頃は名目上一豊は信長の家来だったんだぜ?
子飼いと言うなら七本槍とか三成とか浅野とかだろ。
452 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 12:21:33
浅野も元は織田の足軽大将だったのが、後に太閤はんの与力に附されたのでは?
453 :
OPS:2006/12/16(土) 13:03:16
しかし秀吉の与力衆は秀吉古参の家臣であるけど結局は信長の直参ということ。
しかし信長が秀吉に近江半国を秀吉に与えた時に初めて与力衆は秀吉直参ということになった。
ちなみに豊臣政権の譜代大名といえばこの時に秀吉に小姓として働いたものたちであると思う。
大河洗脳厨必死過ぎ
一豊、中村、堀尾の裏切りは人として最低なのは変わりなし
前田もそうだ
一豊、中村、堀尾は限りなく子飼いに近いし、貢献度も低い
そんな甘い汁にたかったくせに裏切るなんてなw
前野長康とは実力や忠義にかなりの差があるわな
前野は秀次謀反で切腹、一豊ら3人は何も責任と取らなかった
まあこれで人が知れるわな(藁
>>454 前田といえば利長は利家の子だから秀吉に優遇されていたのに、真っ先に豊臣と縁切ったよなw
山内、中村、堀尾みたいな小大名は流れに身を任せるのも仕方ないとは思うが、
あの時点で宇喜多以上の大藩であった前田はへタレ過ぎ。ただただ盲従だもんな。
ま、そのおかげで加賀百万石の礎が出来たんだけどさ。
その能登は長連龍が自力で奪還したのを強奪したようなもん
どこまで糞なんだ?
おっとスレ違い
460 :
OPS:2006/12/18(月) 19:59:31
前田利家が生きていて関ヶ原の戦いが起こったら利家は本当に豊臣家のために戦うかが疑問だな。
461 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:20:25
そもそも利家が生きてたら関ヶ原は起こらない。
家康は利家が生きてる間は目立った動きはしない
問題は利家と家康の長生きレースで家康のほうが先に体調悪くなった場合にどうなるかという話だが
その場合やっぱ博打打つより、自分の代での天下を諦めて後に任せるんじゃなかろうか
江戸時代的な主従関係で考えるやつ多すぎ。
素人だらけだなw
464 :
成三田石 ◆F6hvPmDr7I :2006/12/19(火) 07:59:55
>>461>>462殿様
アリエナイ!!!
利家が息あるうちから「大名同士」婚籍とか勝手気ままにやったではないか〜クソイエヤス
利家のへたれは役立たずかと………
利家は家康に毒殺された可能性が濃厚
466 :
OPS:2006/12/19(火) 19:06:25
しかしもし利家在世で家康が挙兵したら関ヶ原で決戦じゃなくて北陸であったと思う。
第二次賤ヶ岳の合戦?誰が裏切り撤退するのか
468 :
OPS:2006/12/22(金) 22:05:07
それなら福島正則は懐かしがって戦っただろう。
469 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:29:18
加藤清正最高!
470 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 08:39:07
名君で築城天才の加藤はともかく、動物そのものの福島が日本史を左右
したのは笑える。日本の項羽かはたまた張飛かw
471 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 08:44:25
飛劉の活躍は滅亡前ににも短絡な作戦等してないよな
勇み足過ぎると六人程度の馬鹿が騒ぐ場面が結構あるよ
一族を皆殺しにした秀吉自信の責任
バカは秀吉
473 :
OPS:2006/12/26(火) 19:06:36
秀吉は晩年に淀と秀頼に心酔しすぎた。
難攻不落の大阪城を縄張りした秀吉
秀吉も家臣への領地の大盤振る舞いし過ぎだな
476 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 22:59:39
>>457 関ヶ原の後に、前田は豊臣家を見捨てた。
関ヶ原の合戦では、前田軍2万は関ヶ原に間に合わなかった。(家康からは関ヶ原参陣の催促が2度も来たのに)
大谷吉継が海から金沢を強襲するという噂に騙されたといわれているが、真相は?
477 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 23:01:58
>>457 「前田家はまつを人質として江戸へ出してから、徳川に盲従した」という説は、他ならぬ前田家自身が江戸時代に流した噂だと思う。
478 :
日本@名無史さん :2006/12/27(水) 14:14:38
徳川が将軍家になってからも、
前田や上杉など警戒されている大名達は豊臣への挨拶が先、
徳川は後回しにされていたという事実がある。
清正と正則なんて小物だろ・・・
>>477 確かにそうかも。
なんだかんだ言いながら関ヶ原の前田家は利長東軍、利政西軍に分かれてるし、この時点では盲従とはいえない。
>>479 実際に小物なんじゃない?
この二人が豊臣家をあくまで守ろうとしたとしても、たいして歴史は変わらなかったかと。
本当に力があれば、秀吉ももっとこの二人を頼りにし、秀頼を託す形にしただろう。
豊臣側にしてみれば、あてにできるほどの実力はないのに、
敵になられると他の大名への心理的影響が大きい
という、おいしくない連中だった ということかな。
自分の領地よりも高い石高を家臣の家康に与えるなんてバカに近い、適当な理屈つけて北条みたいにやっつけてればよかったんだよ
北条征伐後の家康の関東移封は失敗だったな。
485 :
OPS:2006/12/28(木) 20:49:23
>>484 に同意。
しかし秀吉の考えは家康を上方からなるべく遠ざけるのが願いだったはず。
486 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 21:28:19
会津に蒲生氏郷をおいて背後から牽制させた。
でも氏郷の早死には想定外の大誤算だったね。
かわりに会津を任せる大物は上杉景勝しかいないというわけだが、
急な国替えで戦力にならなかったし。
487 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 21:58:22
上杉を越後に残し、直江を独立させて会津を与えればよかったな。
上杉+直江200万、これに佐竹60万石が加われば、徳川に匹敵する。
これだけの敵対する大勢力が背後にいては、さすがの家康もまったく
身動きとれんだろ。
488 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 22:02:34
上杉が家康の死後天下取り開始ですね
直江vs上杉居残り家臣団になる悪寒
490 :
OPS:2006/12/28(木) 22:28:29
蒲生氏郷が生きてたら伊達、最上勢にどうやって戦っただろうか。
兵力的に仮定すれば西軍には上杉、佐竹、蒲生が残る。
>>490 氏郷が生きていて、勢力バランスが崩れていると策士伊達が東軍にいるかは不明でしょw
上杉と組んで最上を二分しようとしたり、南部・津軽を攻めたりするかもしれない。
結城の動静も注意が必要。
結城は家康の血縁とはいえ、出自や秀吉の養子であることが秀忠擁立の一因だから、
勢力バランスが崩れて家康の優勢がなくなると、結城として存続を賭け、西軍に回る
可能性も出てくる。
結城如何によっては、徳川一門の内紛がらみで伊達包囲網なんかが形成されるかもw
かなり混沌としそうだよ。
492 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 05:24:42
493 :
辻小姐:2006/12/29(金) 06:11:37
誰が生きていても、死んでいても、石田三成が西軍の首魁になった時点で、
大谷吉継と小西行長以外は誰も本気になって味方しない。宇喜多秀家、真田
昌幸は一族が東西に分かれたうちの一方に過ぎない。その証拠に二人とも死
罪を免れている。
494 :
日本@名無史さん :2006/12/29(金) 07:15:44
ではだれが西軍の首魁になればいいのか教えてくれないか。
三成以外に家康の対抗馬は生き残っていないわけだったが。
495 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:00:43
秀吉は(徳川)秀康をもっと大切にして、結城なんぞに行かせず、
秀頼の後見人として育てるべきだった。
秀康は家康に二束三文に扱われて育った子だから、秀吉一流の
情の掛け方をすれば、きっと味方になってくれたろうに。
自分が弱小大名でありながら、家康とサシで戦えた石田三成の人望は相当なもんといえる
497 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 10:41:48
>>495 大坂陣の時まで秀康が生きていれば、越前80万石をかけて秀頼と共に戦う
事はなくても、豊臣家存続のために懸命のとりなしはしていただろうし、
そうなれば家康もうかつに大坂に手出しは出来なかっただろうと言われて
いるからね。
498 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:10:07
>>495 秀吉にそんな気づかいできるなら、
秀次だって残しただろうし、1人でも味方を増やす努力はしただろうよ。
499 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 16:25:37
>>498 そういや秀頼生まれたあと金吾も要らん子よばわりされてたよな。
500 :
OPS:2006/12/29(金) 18:58:28
ここのメール欄に本当にメールアドレスを書かないように
502 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:19:56
豊臣家は例え徳川がいなくても、
勝手に自滅しそうだ
>>493 坂崎は他の重臣たちと同じく、内紛で宇喜多家を退出したんだが。
宇喜多が死を免れたのも前田と島津のお蔭。
504 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 00:03:38
ていうか秀頼って秀吉の子じゃなかったんだろ
505 :
日本@名無史さん :2006/12/30(土) 01:00:39
>>504 東秀尼(秀頼の娘)と秀吉の血判のDNAで調べてほしい
豊臣が薩摩に逃げてた話が本当なら面白いな
背が小さく、歯が抜けて小太りの柔和な老人を
「鬼の様なる」って言ってるからねぇ。
508 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 01:29:42
朝鮮出兵を徳川弱体化に利用できなかったの?
徳川に重き負担を負わしていれば・・・・
見てくれで秀頼と信繁を勘違いしてたらワロス
>>508 勝つ予定だったし、、、初手の見通しから間違ってる以上無理
まあ見事なまでに豊臣の味方となりそうな武将のみが死にまくったもんだよなとは思う
関ヶ原前 豊臣秀長、豊臣秀次、小早川隆景、蒲生氏郷、前田利家
大坂陣前 加藤清正、池田輝政、浅野幸長、真田昌幸
関ヶ原前はともかく、大坂陣勃発までにこの4将が生きていたらどうなったかには興味ある
摂津河内の豊臣+播磨姫路池田+紀州浅野+築城野戦の加藤+篭城戦の真田
加藤浅野あぼーんに家康が関わってたなら、豊臣もこれと同じ手でやったほうが手っ取り早いし犠牲者も少ないのにな。
我に策あり。
秀頼の性教育係に手を回し、偽ってセクスの代わりにアナルセクスを教え込ませるのだ。
そうすれば秀頼は子孫を残せず、豊臣家は絶える。
これならば一人の犠牲者も出ない。
514 :
OPS:2006/12/30(土) 09:25:33
加藤清正毒殺説。
前田も加藤も家康に毒殺されたのは間違い無い
池田輝政、浅野幸長は徳川派の大名で豊臣派の大名ではない
加藤清正は梅毒で死亡
真田昌幸は寒い九度山で貧乏生活を送ったために凍死
>>490 併せて秀次事件の時に伊達を始末しておけば後顧の憂いなし。
518 :
OPS:2006/12/31(日) 15:34:55
真田昌幸が生きていたらと大坂の陣の話になったら先生が言いますが
真田昌幸在世なら勝てたでしょうか?
519 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 15:38:07
無理だ。
520 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 19:57:56
真田昌幸は二度にわたる徳川の大軍を破ったと云う
戦績があるからね
知名度も抜群だから、大野辺りを説得して
城外に出て、瀬田辺りで食い止める戦いをやっておればなんとかなったかもね
なんともならんよ。
関ヶ原後は無差別テロで民意が反徳川になるように工作すべきだった。
523 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 20:10:57
>>520 よくても合戦の終結を多少伸ばしただけじゃないか?
あの状況では個人の力では覆せないだろう。
むしろ豊臣家延命を願う名参謀であれば合戦の回避に全力を挙げたはず。
合戦に突入した時点で信玄、謙信でも同じ結果では?
524 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 21:33:50
昌幸は田舎の小名上がりで小兵力によるゲリラ戦しかできない。
大軍を率いて瀬田まで出てきたところで、東軍の先鋒になすすべなく蹴散らされるのがオチだろう。
>>522 テロとの戦いなら幕府側には先制攻撃が許されるぞ
526 :
OPS:2007/01/01(月) 00:05:39
兵力に差が開きすぎている
527 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 03:02:32
援軍のない孤城が勝利した例は戦史にはない。
528 :
OPS:2007/01/01(月) 10:20:39
>>526 確かに言えてますがでは当時の諸大名の動員兵力
そして豊臣に恩ある大名が味方しても関東軍と対等に戦えるんですか?
529 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 12:38:44
お前たち
厳島の戦いを忘れていないか?
豊臣の恩とやらも朝鮮戦役で使い切っちゃったからなぁ
531 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 09:29:58
結局無謀な朝鮮侵略を企てて惨めに敗北したサル吉が豊臣を滅ぼしたんだね。
関ヶ原んときは二股保険掛けてた奴が殆どだし
大坂の陣にいたっては、お金持ってないけど賭けていいっすか、な
奴しか集まってこんかったし
秀吉と秀長
秀吉が本当に好色だったら子供沢山産まれてたはず
晩年焦ったんだろうな
子供産めなかったねねが悪いってこと
子供を生めない母体を「悪い」ってのはひどい言いようだな。
いや、単に秀吉は好色じゃないって言いたかっただけ
むしろねね一筋だったのではないかと
ふと後継ぎのことを考えた時には余命がほとんどない現実に焦った挙句そうなっただけかと
あるいはねねの嫉妬深さがそれを許さなかったのかもしれない
で、許した時にはもう秀吉は余命あとわずかだった・・・
本当にねねの優柔不断さと嫉妬深さが豊臣を滅ぼしたのかもしれない
豊臣政権が存続していたと仮定して、ここからは理想論だけど
先ず、16世紀後半に全国統一するまでは史実通りで、朝鮮出兵なんかせずに
国内の豊臣政権の統治基盤をしっかりと固める。
秀吉は親族殺しなんかせず、徳川家のように豊臣御三家などで豊臣家を絶やさないようにする。
秀次が豊臣二代将軍になり秀頼は御三家の一員として一国の大名になればよい。家が滅びないだけでもマシでしょう。
それから豊臣政権が鎖国政策、キリスト教の禁止、などをして天下太平の世をつくったとなれば完璧でしょう。
江戸の方もそれなりに都市が造られて発展していくでしょう。
関ヶ原や大坂の陣などの国内戦で徳川、豊臣の滅ぼすか滅ぼされるかという全国の大名を巻き込んだ争いをするよりは
断然よいに決まってる。
538 :
OPS:2007/01/04(木) 21:45:25
豊臣家は将軍になれる可能性があったのですか?
あった
豊臣政権は戦を永遠に続けていなければ崩壊した
太平の世を維持していくような政権ではなかった
541 :
OPS:2007/01/06(土) 21:25:43
やはり徳川
542 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 21:32:21
>>534 スケベなら子供が産まれるってバカですか?
種無しのスケベじゃどうしようもないだろ
正室のねね以外に何人の側室いたと思ってんだよ
543 :
OPS:2007/01/07(日) 10:38:58
秀吉は晩年が糞。
544 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 12:16:16
>>534は子供のでき方がわからないβακα..._φ(゚Д゚ )
真田の話で申し訳ないが、
長男信幸
・忠勝の娘で家康の養女である小松姫を妻にしてた。
・次男信繁(幸村)
・大谷吉継の娘を妻にしてた。
ここらへんの話はやっぱり東西別れるのに影響してたの?
で、何故父さん(昌幸)は西軍に付いたの?
東西に一家で別れて加担すればどちらが勝とうが家は残る
と、これだけだと身も蓋もないから昌幸の簡単な事跡を書いておくので後は自分で判断してくれ
もともと真田昌幸というのは真田幸隆の三男で幼少より信玄に近侍し、
長じて才をあらわしてくると真田本家の部屋住みのままを惜しんだ信玄が甲斐の名族だが
跡継ぎの絶えていた武藤姓を与えて、真田家とは別家を立てることを許されて一人立ち
武藤喜兵衛昌幸と名乗る
信玄末期は曽根と共に武田の両目と呼ばれるほどの信頼を得ていた
長篠で兄2人を織田徳川連合軍に討ち取られた結果、真田本家を継ぐことになる
勝頼の代を通じて、その信玄以来の信頼は変わらず、武田家の本城の縄張りを任せられる
城の縄張りを担当する=城の秘密を全て握ることであって当主からの信頼が無ければ無理
ちなみに安土城の縄張り担当は丹羽長秀だったりする
武田崩れの時には自分の居城である信州岩櫃に勝頼信勝を招いて徹底抗戦をはかっていた
武田家滅亡後は、上杉北条徳川のパワーバランスの狭間で独立を保つが、唯一真田が騙されて
領土を奪われそうになったのが徳川
結果開戦して徳川軍を打ち負かした
停戦後、真田懐柔の意味で長男信幸に嫁いだのが本多の娘
豊臣の北条征伐のきっかけとなったのは名胡桃城事件で省略するが豊臣に恩を受け
次男信繁は秀吉の小姓となり可愛がられ、大谷の娘を娶る
547 :
OPS:2007/01/09(火) 13:46:01
真田から話しが変わってしまいますが
真田昌幸は武田崩れの際に武田勝頼を信州岩櫃に招き徹底抗戦をしようとしたが
勝頼は真田を頼らず小山田信茂を頼った。
なぜだと思いますか。
・知らない土地には行きたくなかった
・山越え谷越えはめんどい
・甲府奪回に未練があった
549 :
OPS:2007/01/09(火) 22:14:23
正解は真田が外様だから。
550 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 21:33:41
>>549 外様とは?結構前から使えてるのに?
どっかのスレで秀吉は公家の前で平氏を名乗ったから将軍になれなかったと聞きましたがどうなんですか?
sage忘れました、すみません
552 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 22:18:27
北条を討伐した後、徳川家康は関東ではなく陸奥に移封するべきだった
そして関東は伊達家と蒲生家で分割統治
そうすれば、家康は大阪までは攻め込めない
西国に本拠を置いてる政権が東国の要関東にライバルを配置したんだから滑稽だよな
554 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 12:13:44
>>553 のぶおみたいに断るの待ってたんじゃないの?
556 :
OPS:2007/01/11(木) 18:40:38
>>550 小山田と真田を比べれば真田が外様ということです。
秀吉は当初は堀秀政に関東を任せようとしてた話もきいたことあるが、実際はどうだったんだろう。
まぁ当の秀政が小田原の役の最中に病没しちゃったから、どうしようもないけど。
558 :
OPS:2007/01/13(土) 16:41:29
秀政よくて東海道に百万石じゃないか。
>>558 堀秀政が長命して三遠駿3カ国の太守とかになっていたら面白かったかもね。
でも秀政がどれだけ豊臣家への忠誠心があるのかはわからないが…信長死後の織田家の衰退を嘆いてたくらいだし。
>>549 勝頼もいくら譜代とはいえ小山田を頼ってどうするつもりだったんだろ?
小山田の岩殿城なんて北条領に近く、同盟国の上杉からは遠すぎるし、
どう考えても織田徳川北条に殲滅されるのがオチなのにな。
地理的にも上杉領に近いとこにいる真田を頼った方が長期的な防戦ができただろうに。
560 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:51:19
蒲生や堀なんかは、秀吉からみれば仮想敵だろ。
561 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:54:46
>>559 勝頼スレで話したほうがいいと思うが、俺が思うところを書くと、
単純に北条のバックアップを期待したんだろう。嫁は北条の出だから。
長年敵だった上杉よか昔同盟者で縁戚の北条のほうが・・・と考えたのは自然。
562 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:37:46
>>560 秀吉の目には最も警戒すべき相手が、如水(これは本音を暴露しているから疑う者はいないだろう)
その次は蒲生だからね
やっぱ如水を豊臣家の中枢から追い出したのはまずかったような気が…。
父があれだけ冷遇されたら息子の長政だって親徳川に回るだろ。
蜂須賀も秀吉創業から家臣だった割にはそれほど厚遇されてない気がする。
前田だけでなく黒田や蜂須賀をもっと優遇して清正正則三成ら豊臣恩顧大名をまとめる立場にしておけば良かったのに。
中小勢力での競り合いならともかく巨大政権の運営能力が
どうなのかは疑問だし、それに
如水は片手でしか握手してくれないからな、
565 :
OPS:2007/01/17(水) 19:47:22
如水の能力を最も見抜いていたのは秀吉ということ。
566 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:09:01
で、如水が家康みたいに天下とってたらまた後年にあん時如水を追い出しておけば
よかったんだ、ってなるんだろうな。
家康みたいに
567 :
OPS:2007/01/18(木) 16:14:48
家康と秀吉といったらどっちが優れているんだ
568 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 16:48:24
豊臣(氏)は潰されてなんかいないんだけどな。
木下家がちゃんと存続している。
豊臣名乗れなきゃどうしようもないわな
その木下さんは豊臣氏じゃないのか?
571 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:45:16
>>569 名乗るの何も、木下家の人物の正式名は「豊臣○○」だから。
そもそも羽柴家の人物だけ本姓で呼ぶこと自体が妙なんだよな。
「豊臣秀頼」だって「羽柴秀頼」と呼ばないと一貫性がない。
逆に「豊臣秀頼」と呼ぶなら徳川秀忠も「源秀忠」と呼ばないとおかしい。
572 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 20:53:45
江戸時代の木下家は豊臣姓で間違いない。
幕府編纂の「寛政重修諸家譜」でも、木下家の大名・旗本は本姓が豊臣姓になってる。
だから彼らが朝廷から官位を受けた場合、従五位下豊臣朝臣○○が正式名。
地下官人にも豊臣姓の木下家があった。
かなり大昔、ある週刊誌で「大名の末裔の人は今」みたいな特集していたが、
豊臣家の末裔として木下某なる人が出ていて、当時俺は「豊臣?無理矢理こじつけるんじゃねえ!」と思ってた。
人に言わなくて良かったw
とは言ってもな〜
木下家はたとえば武田や北条のような家とは違い当主の血筋すらひいてないからな
当主の実姉とその夫が祖
575 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 13:50:07
>>572 その地下官人の豊臣姓の木下家は秀吉の姉の子孫ってことでok?
576 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 06:37:30
>>328 完子とその子孫は処刑も出家もさせられなかったんだね。
婚家の力か母親が秀忠と再婚してたからか。
577 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 23:45:06
.-┼- i -┼- //
,-┼/-、. | |
ヽ__レ ノ ` ノ
>>572 >地下官人にも豊臣姓の木下家があった。
これ!
これ詳しく教えて欲しい。
滝口あたりに、豊臣がいて「なんじゃこれ」と思ったけど
どこの由来なのかちっともわからなかった。
大名木下家の分家?
579 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 14:29:44
580 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 14:33:40
>>576 完子は公家に嫁いでいたからね。
完子の夫が武家で、豊臣に加担したとかなら問題だろうけど、
公家の正室やその子孫を処刑、出家って、
徳川家にとって有益ではなかったろうし、
そんなことをする必要もなかったろうね。
>>579 その時皆殺しにしてあげられなかった不徳を謝罪した方がいいなw