1 :
日本@名無史さん:
無いようなので立てました。このスレでは、源平合戦全般や、
奥州征伐などについてまったりと語っていきましょう。
2 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 17:29:39
とりあえず2get
驚異の過疎っぷりワロスwwww
4 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 11:55:32
4gets(フォ〜)
5 :
日本@名無史さん :2006/10/09(月) 12:54:46
ちまたでは人気ある話題なのにねぇ。
ところで一般的になっている源氏の系図、
義朝十人兄弟とか頼朝八人兄弟のソースを教えてくれませんか?
あと平家物語にはその系図にない義朝の弟が出てきた気がする。
6 :
河野通清:2006/10/09(月) 16:48:08
源さん、俺協力しますよ!!!
いや、ふつうにないだろ源平合戦。素材はいいのになあ。
判官人気も年寄りしかねえよ。
8 :
日本@名無史さん :2006/10/11(水) 13:17:25
義経が舟の漕ぎ手を殺すよう命じた話は捏造ですか?
2!
平清盛の「南都焼き討ち」は、織田信長の「比叡山焼き討ち」を先取りした快挙!
攻撃を仕掛けた際、うっかり延焼して大仏殿まで燃えてしまった様ですが。
園城寺もほとんど焼かれていますが、こちらは浄海と懇意にしていた延暦寺
が度々焼いており、鬼門の延暦寺や大仏の東大寺とは異なり、鎮護国家と関
わるものとされていなかった分、精神的な負担も少なかったのでしょう。
信長は延暦寺焼き討ちの後、吉田兼見に「南都も焼け、叡山も焼けた。鎮護
国家の大道場が両方とも焼けてしまった訳だが、京都は大丈夫か」と相談し
ています。
信長の焼き討ちも何が何でもと行われた訳ではなく、何度か好条件を提示し
て妥協(せめて中立でいてくれる様)求め、蹴られた後の行動でした。
本人達には、快挙という認識は無かったでしょう。
寧ろ「やっちまった」が本音であったかと。
寺社はアジールとされながらもしばしばその権利を侵害されており、頼朝の
弟の義経も勝尾寺を避難民の荷物ごと全焼させています。
12 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 02:25:38
平教経って結局一の谷と壇ノ浦どっちで死んだの?
吾妻鏡では、一の谷で安田に討たれたとあり、醍醐雑事記には
壇ノ浦で自害したとある。玉葉は一応首をとられたという記事があるが、
なんだか情報が錯綜している。もし、一の谷で死んだなら、一の谷死亡の
逸話や史跡が全く無いのが気になるが・・・・。
13 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 14:08:40
>>5 図書館にでも行って『尊卑分脈』でも見てこい
>>5 尊卑分脈もあやしいんだよな。実在したかどうかわからん奴がいたり。
ってなわけでまともな歴史の本で補完するのを忘れずに。
保元の乱で源義朝がもうちょっと謙虚やったら、その後の日本の歴史はどうなっていたのだろうか・・・・・・。
そのときの源氏は反主流派が勝っただけに。
義朝ごときじゃかわらん。
>>16 義朝は論功行賞に大きな不満を持っていた。その理由は、君主たる父為義と対立していたから。
その戦で負けた方は夜討ちをしなかった、関が原の戦いの直前の石田三成みたいに。
当時の清盛と義朝の官位の差をみれば、当然の結果だと思うけど。
それに清盛は崇徳方と見られて当然の環境にいたのに後白河方についた功績は大きいと思うが。
数年前まで、無位無官の義朝だ。保元の乱で出世のチャンスを掴んでも。
中央政治の魑魅魍魎な世界を渡っていく才能が武人肌の義朝には荷が重いのではないか?
それでも頑張ったと思うが、うまくいかないジレンマが平治に繋がっていくじゃないかな。
19 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 02:54:56
平泉
義経って『悲劇の英雄』とされてるが、考えると方によれば、ただの卑怯者にすぎない。
背後からの奇襲や舟の漕ぎ手を射たり…
だが、俺としては義経が好きだから卑怯者ではなく英雄だったと思いたいが。。。
皆はどう思う???
>20
英雄と思っているんならそれでいいじゃん。
考え方は人それぞれなんだから。
俺にはそうは思えない。
すごい過疎っぷりだなw
俺は源平合戦は史上では1番好きなところなのに、結構人気無いのね1( ̄□ ̄;)!!
源平合戦について、あーでもないこーでもないって語り合いたかったのだが。。。
あえてのage
>>5 >あと平家物語にはその系図にない義朝の弟が出てきた気がする。
賀茂冠者義嗣と淡路冠者義久だっけ?
「尊卑」は義朝兄弟の半分も網羅できてないからな。
24 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 01:18:08
源範頼って凡将じゃないって聞いたけど、本当なの?教えてくれ。
このスレの問題は、
興味ある参加者や質問者がいても
回答する知識人が来ない事だな
>>22 源平時代ってじーさんばーさんにしか人気ないからなw
あと局部的な源平スレは乱立してるしね。
27 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 13:37:29
>>20 舟の漕ぎ手を射るなんて、ガセネタなんですけど。
28 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 14:04:08
>>24 範頼が凡将という証拠はない。
この人は合戦に負けたことはないし、
中国・九州遠征で補給に苦しんだけど、ちゃんと任務は果たしてる。
補給で苦しんで無能ならナポレオンもロンメルも無能になる。
義経が物語化され民衆のヒーロー化される過程で範頼は引き立て役にされてしまった。
近代になって小説家たちが義経を引き立てるために範頼を完全に無能者にしてしまった。
司馬も海音寺も吉川も範頼を無能として描いてる。その他の作家や評論家は言うまでもない。
歴史雑誌の義経の伝記の記事なんかで簡単に範頼を「凡庸」で斬り捨ててた。
その方が話が分りやすいし、昔の人は天才と無能の二元論でものを考えたがった。
テレビドラマでも無名の役者が演じて、出番も少なく無能かせいぜいお人好しと描かれていた。
さすがにおかしいんじゃないかと思う歴史愛好家は少なくなかったらしく
昔から地道に擁護論がちらほら歴史雑誌で言及されてた。
そのうち、世の中の風潮がだんだん変わって、いまでは範頼の扱いはだいぶよくなってる。
去年の大河ドラマでは、都知事の息子が演じて出番も多くひとかどの武将として描かれてた。
歴史関係本でも大軍を率いる将才のある人として書かれることが多い。
ただ、年寄りの作家なんかは、イメージの切り替えが出来ないのか、
やはり「凡庸」と言及することが今でもある。
29 :
日本@名無史さん:2006/12/09(土) 14:33:20
範頼については平家物語での言及が少ないことが問題だった。
平家物語では義経の記述に集中した結果、範頼についての記述は少なく武勇談もない。
平家物語を膨らませた源平盛衰記で、範頼を貶める記述が2、3あり、
これが近代の小説家たちに動かぬ証拠にされ、義経の引き立て役にされた。
もちろん、平家物語も源平盛衰記も創作である。
その後、範頼は「凡庸」「目立たない人」で斬り捨てられる時代がずっと続いた。
最近になって扱いが変ったのは既に述べたとおり。
範頼は悪いことは特にしてないのも幸いだった。
99年に堀和久という作家が「蒲桜爛漫」という範頼が主人公の小説を出してる。
おそらく、唯一の範頼主人公の小説。
内容は、範頼を誠実で真面目な人として描いており、そのため話が単調で実は
あまり面白くは思わなかった。この作者も従来の「目立たない人」のイメージ
を引きずっているなと思う。
『吾妻鏡』によると、鎌倉武士と乱闘騒ぎを起こしたり、戦好きで、過激なことを言うなど乱暴な人だったらしい。
>>27 あれって、ガセネタなん?どこまでがホントの話なのか分からないことが多い…。
31 :
日本@名無史さん :2006/12/09(土) 19:02:27
>>30 元ネタは平家物語にある、鎌倉軍が平家側の漕ぎ手たちを殺したという一節。
しかし戦術上のやり方で義経がやったとはどこにもない。
矢合戦にはじまり船をぶつけ合い斬りこんでの乱戦の中、
漕ぎ手たちが平家の兵もろとも皆殺しにされたという解釈のほうが普通。
鎌倉幕府で偉い地位になった人らって
辿ったら親戚とかばっかりなんだね和田と三浦とか
代表的な一族って
北条、比企、三浦、和田、安達、畠山、梶原、千葉
あたりを覚えておけば基礎知識としておkですか?
>>31 そりゃぁ、その考え方の方がしっくりきますね。
まだまだ、誤解していることが多そうだな・・・。
34 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 12:56:34
範頼ってやっぱ強かったんだな。おかしいと思ってたよ。頼朝が、範頼を自分
の弟という理由だけで関東御家人の総大将にするわけないだろうし。
>>34 結局幽閉されて殺されちゃうのも危険視されたからってことかね。
36 :
日本@名無史さん :2006/12/10(日) 20:54:24
頼朝を中心に北条の閥が強くなるに従って、
旗挙げ以前には北条より強かった連中が退けられ始めた頃かな。
彼らには範頼を擁立して自分達の政権を狙う野心あったかもしれない。
37 :
武陽陰士:2006/12/10(日) 21:57:23
範頼、義経が平家攻めの将となったのは優秀だからでない
(まあ実際、義経は頼朝も認める戦上手なのだが)。
頼朝在世の当時鎌倉府において、御家人の勢力の大小に関わらず原則(建前)
、鎌倉殿(頼朝)の前では平等という「不文律」がある。
御家人の中から総大将を選ぶと御家人間の間の統制が取れなくなる訳だ。
戦上手ということで言えば、和田義盛、畠山重忠だって相当のものだ。
しかし彼らがなる訳にはいかない。他の御家人たちが「同輩」に膝を
屈する訳にはいかないのである。
よって鎌倉殿の御身内である範頼、義経の同胞(きょうだい)が選ばれた
のである。この二人ならば御家人たちも納得するのである。
38 :
日本@名無史さん:2006/12/10(日) 22:54:44
でも範頼は十分に戦上手だよなあ
39 :
武陽陰士:2006/12/10(日) 23:10:18
範頼が戦上手かどうかはいってないし、ここでは
重要ではない。
余談だが範頼も義経も最後の最後でしくじりをやっている。
鎌倉殿の疑心を買ってしまったというしくじりである。
義経の同母兄阿野全成は頼朝の目を上手くやり過すことに成功している。
この男の方が上手と思うが如何。まあ戦がどうとうかこうとか
大衆文学上のトピックスに興味が行く人たちには関心外のことだろう。
これは老婆心だが小説、ドラマ、口承文芸のイメージで範頼
がどうしたこうしたはすっぱり止めるべきだろう。
範頼が戦上手かどうかどうだっていいが、義経が頼朝に任官問題
で怒りを買って平家攻めを外されたのに、範頼の平家攻めが
上手く進捗しないので、義経平家攻め再抜擢の次第、これはどう
せつめいするのだろうか?
40 :
日本@名無史さん :2006/12/11(月) 06:04:07
阿野全成は範頼と違って北条氏と縁を結んでいるから疑われなかった。
しかし頼朝の死後に見事に疑いかけられて殺されていますがな。
範頼の平家攻略が上手くいかないといっても、
遠征して全くの敵地での戦いだから持ちこたえたことは評価できる。
義経が再抜擢されたのは東西から挟撃するためでは?
屋島での奇襲が成功したのも平家が西の範頼しか頭になかったから。
平将門に関する小説でオススメない?
俺も皆さんのように、語りたいのだが…
知識がそのレベルまで到達していないm(__)m
皆さんはどうやって知識を得たのですか!?
愛読書なんかがあれば教えとほしいデツ。。。
43 :
日本@名無史さん:2006/12/12(火) 18:34:05
>>39 自由任官問題が実際にあったかどうかは疑問。そもそも、義経が勝手に検非違使に
任官したため、頼朝が激怒して平家追討使から外したと説明するのは、「吾妻鏡」
元暦元(1184)年8月17日条だけで、同時代の記録には見られない。
他に義経が自由任官をしたと書いているのは、「平家物語」(盛衰記)。ところが、
他の「平家物語」(延慶本・長門本・四部本)では、単に義経・範頼の任官記事を
一括記載するのみで自由任官・頼朝の激怒などという記述はない。「盛衰記」の自由
任官の記述は、著者による後補の可能性が高い。
義経の任官が頼朝の承諾のないまま行われたのであれば、頼朝の激怒も当然だが
頼朝の叱責を受けたとされる後も、義経は内裏・院御所への昇殿を行っており、
叱責による素行の変化は見られない。また、平信兼(山木兼隆の父)追討のため
平家の本領・伊勢に出陣するなど、代官としての職務にも変化は見られない。
義経への厳しい処罰がないということは、義経の叙位・任官は頼朝にとって
規制・処罰の対象ではなかったことを意味する。「吾妻鏡」8月17日条の記述は
当時の状況からすると、不自然なものといえる。後に、頼朝と義経が対立したので、
その理由づけのために「吾妻鏡」の編者が捏造した可能性も否定できない。
吉川弘文館から源平合戦辞典?だか百科だかが出るって広告を見たんだが。
高いんだろうなあ・・・
47 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 19:03:52
48 :
日本@名無史さん :2006/12/20(水) 13:35:10
一の谷の戦いの主力戦は福原である件について
49 :
武陽陰士:2006/12/20(水) 20:26:46
>>45 初耳の説だ。誰が言っているの?あなたの創見?
まあどうでもいいけど「吾妻鏡」って北条(時頼)サイドからの
記述が多いんだよね。なんで義経の「任官問題」周辺について捏造
しなくちゃいけないの?これについては信頼できる記述でいんじゃない?
もし捏造の理由(証拠はいいからさ。とりあえず
の仮論拠をね)があるなら教えてよ。45はあんまり理由になんない。
義経が軍人として有能だったからでしょう、それは。
>>40北条との婚姻が担保になるかね。全成は自分を抑えているよ。
頼朝の懐刀になったのも理由はそれでしょう。あなた、北条過大視
しすぎ。それこそ「吾妻鏡」の記述に踊らされすぎ。それに全成は
頼家が殺したんでしょ。北条にスケープゴート(まあ全成に野心も
ないことはなかったんだしょうけど)にされたんじゃない?
まあ範頼をそこまでヨイショする熱情はすごいけどね。義理でも
あるの?私は義経にも範頼にも思い入れなんてまったくないんでね。
あと範頼は恐れられていたから頼朝に誅戮されたとかいっている
レスがあったけど、そうかねー。同じころ、遠江守の安田父子、曽我兄弟
の異父兄弟も殺されているんだけど。彼らも頼朝に恐れられて殺されたの?
まあ学者によっては、範頼、安田父子、曽我兄弟につながりがあったって
いう見解もあるんだよね。
50 :
武陽陰士:2006/12/20(水) 20:54:40
静御前の義経恋しの舞を頼朝が激怒して、それを政子が
諌めたって逸話あったでしょう。あれも吾妻鏡しか記載がない
ものなんだよね。横上手先生が、あの逸話は北条サイドによる
捏造かもしれないという推測を述べておられたんだけど。これなら
分かる。頼朝を偏狭な人間にして、政子を温情豊かな人間にしたのは、
いかにも北条サイドがやりそうなことだからね。
でも義経任官問題はどうなの?北条サイドがそういう捏造を加えた
ってのに意味があるの?他の御家人の任官問題も捏造なの?
それに盛衰記も平家物語も史料としてキツイよ。
まあ「吾妻鏡」もテキスト批判が必要なんだけどさ。
51 :
武陽陰士:2006/12/20(水) 20:59:02
理屈はどうだっていいんで、吾妻鏡を読まなきゃね。
学者の書いたもの読むのは、それからでも遅くない。
平家物語なんかは後回し。
舞に怒るのって偏狭かなあ
他に観客もいたのだし、義経一派に同情的な空気が流れないよう
頼朝的にはあそこで怒っといて正解なのではと思ったのだが。
政子がフォローするのも折込済だったんじゃないかと
頼朝贔屓の自分は推測しまする
思い返せば昭和40年代、50年代の本では「範頼は遊女の子(だから無能)」
と言わんばかりの紹介のしかたがあった。
あの頃に歴史本を書いていた作家は、戦前の明治、大正生まれだから
「売春婦の子は糞」みたいな偏見が根強くあったんだろうな。
また、「どこどこの親父が売春婦を孕ませた」の手の話がゴロゴロあって
その手の子どもへの偏見が身近だったんだろうなと思う。
政子が静チャソをかばった時、「貞女二夫にまみえず」なんてホントに言ったんかね?
舞の一件はホントかもしれないが、台詞とかはなんか脚色っぽいなあ。
あの時代は貞操の観念が薄いよ
貞操観念がうるさくなったのは儒教の影響
天皇と上皇二代と犯りあってた中宮がいい例
特に御所は乱交だらけだよ
56 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 17:51:44
45の意見は「源義経の合戦と戦略」という本の内容から抜粋したと思う。平家
に苦戦してたといわれる範頼だが、不思議なのは屋島以後、山陽道や北九州では
目立った陸戦が行われてないんだよなあ。屋島を失ったとはいえ、本当に範頼が
大苦戦してたなら、山陽道や北九州を拠点に平家が巻き返しを図る動きがあっても
おかしくないのに彦島まで退却してる。これを見ると、攻略に手間取ったとはいえ
範頼はちゃんと仕事は果たしてるといえるし、むしろ慣れない西国の気候と飢饉に
よる食料不足の中で東国武士団の大軍を崩壊させずに、戦果を挙げた範頼の武将とし
ての資質はかなり高いと思う。
57 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:14:48
>>56 義経は独断専行の武将でしょ。軍目付の梶原景時の「告げ口」にも
あるようにさ。
ほら、あの逸話、景時の逆艪の進言を義経が撥ね付けたってやつ。
あれが事実かどうかは分からないけど、ああいう逸話からも義経が軍師とか
の進言を容れないで、己の判断で軍略を進めているのがわかるでしょう?
範頼のほうは、私は思うに、慎重だったし軍才というのは乏しかったと
思うんだ。だから守成しかできなかったんだと思う。采配というのが上手く
武将って結構いるんだよ。足利直義もそうだし。守が上手いというのはむしろ
軍目付(軍師OR軍監)とか下僚のおかげでしょう。範頼の軍目付は和田義盛
だったかな?
58 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:26:37
>>56 ところで誤解されちゃ困るんだけど、範頼を貶めて義経を顕彰
しようなんて気はさらさらないから。戦争における武将としては
義経が優れているという傍証が多く、範頼には戦が上手いという
はっきりした証拠がない(むしろ下手)んであまり優秀とはいえないと
いってるだけなんだよ。
こういうと多分あなたは気を悪くされるだろうけど。私は戦争中心
史観とか武士中心史観というのがよく分からないんだよね。
政治史的にははっきりいって範頼のほうが義経よりずっと面白い。謎
も多いし。高倉範季の養い子というのも興味をそそられるし曽我兄弟
とのつながりなんてのが少し垣間見れられるのも楽しい。
足利直義も学者に人気があるのも、別に戦争が強いからじゃないよ。
まあ、恐らくあなたは新撰組とか武士道とか好きな人なんでしょう。
ご自分のお好きな範頼が戦争に長けてないと気がすまないみたいね。
59 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:33:39
>>56 まあ周囲の意見を取り入れる調整型の武将というのもいるから、
もしかすると範頼もそうだったのかもしれない。
でもこれだと機動性がないよね。壇ノ浦の戦なんかで勝利をおさめる
のは範頼には無理だったでしょう。義経のような頼朝派遣の軍目付
の意見も斥けるくらい果断じゃなけりゃね。範頼に果断とか決断の早さ
ってあんまり見られないよ。そういうのって軍才の大事な部分と思うけどさ。
信長の今川との決戦のように素早くないと。
60 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:36:19
57
〔訂正〕采配というのが上手く武将って→采配というのが上手くない
武将って
61 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 13:40:20
一の谷では範頼が東部戦線で平家の本隊を引き受けていたからこそ、
義経の奇襲が成立したという説もありますね。
確かに範頼は義経や、のちの信長のような機動性はないけど、
家康のようなじっくりタイプだったと考えたらどうかな。
見た目はスピーディのほうがいいけど、
結果はどっちがどっちとはいえないよ。
62 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:52:45
>>52 よく読んでよ私の文章。あの政子のくだり自体が虚構かもしれない
ということだよ。あそこにかかわらず政子にはスポットライトが
ちょくちょく当たる(泰時もね。頼朝の峻厳さに比べたら泰時はまるで聖人善人様だよ)。
それが後世の北条サイドの創作じゃないかということなんだよ。
頼朝の酷薄さ、梶原景時の陰険さ、畠山重忠の武人らしさ、義経のあわれさ、
静のけなげさ、こういった今もパンピーが持っているイメージを吾妻鏡の記述
が供給してしまっている。北条サイドによって作られたイメージを今一度
疑って見る必要があるんでは?と上横手先生はおっしゃるんだよ。
きわめて妥当な意見だと思うけどね。
ちなみに頼朝、私好きだよ。大体、政治史かじってりゃあ頼朝贔屓だよ。
あなたのいうあおの場の空気って、吾妻鏡の描写じゃない。それが北条サイドに
よって政子ヨイショの可能性ってものを考慮しないのかね。
63 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:54:15
なるほど。確かにそういえばそういえるね。
64 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:54:50
>>61 なるほど。確かにそういえばそういえるね。
65 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 13:59:45
>>61 ただ、戦争が上手い下手はどうでもいいと私は思っている。
押し付ける気はないけど。
仮に軍師的な下僚及び軍監の意見を取り入れていただけでも、
範頼の器が受け入れたという次第だから、
それも範頼の武将として才ありとは言えるよね。
あなたのいうとおり義経とは違った軍才の持ち主といえるかもしれない。
66 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 14:10:02
まあどうでもいいけど、2ちゃんねるの日本史板って学者の創見
を流用して(パクッて)書き込んでいる人多いよね。ちゃんと出典明記して
欲しいよ。自分の意見のように得々と書いているのには参っちゃうし
恥ずかしいことだよ。
あと気になるのは武士中心史観が多いこと。私も武士は好きだしシンパシー
はある。ただそれを史学的議論で振り回すのは通俗と思うんだよね。
近年、学会の動向として武士像が見直されてきていて、それが堪らなく
刺激的なんだけど、そのへんの研究を恐らく参照してない人って結構
2ちゃんねるの住民には多いんじゃないかな。
まあかなりディープな御仁もいるから、2ちゃんも侮れないんだけど。
67 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 14:23:14
>>61 これで終わりにするから。最後に訊きたいんだけど。
範頼にそこまでいれあげるのは何故?
理由はないの?なんだか貴方から、鹿児島における西郷隆盛、
山口における高杉晋作、吉良における吉良上野介、といった
身贔屓(気悪くしたらごめんなさい)を感じるんだけど。
もしかすると後子孫の方?最近、梶原景時の子孫という人が景時の
伝記を出して景時をヨイショしたけど。それとは違うの?
何故そんなに範頼に入れあげるのか私には物凄く不可思議なんだよね。
つまらない例でいえば、範頼の軍目付は和田義盛(たぶん)なんだけど、
和田義盛の子孫の人が、
範頼の守の武将としての功は、和田義盛によるものだといったらどうする?
あなたのように義理のある(?)人物論だとそういう立論も成り立っちゃうけど
如何?まあ実際、和田義盛は相当の実戦を経た戦巧者だからね。
思い入れが勝ち過ぎる人物論から入った日本史って、気をつけないと
大衆文学、口承文芸、通俗歴史読み物の世界になっちゃうのよね。
68 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 14:33:24
>>52 〔訂正〕あなたのいうあおの場の空気って、吾妻鏡の描写じゃない。
→あなたのいうあの場の空気って、吾妻鏡の描写からの印象じゃない?
69 :
武陽陰士:2006/12/24(日) 14:35:36
>>18 明らかに元木先生の本の記述から引用(流用)したものだね。
,ゞ=,.= ‐' / .:i
し¬_r=彳、 .:::i
}c`'ー--- ───---:::'{
,. ¬、_O ___O__...::::::_2!、
/ .. ̄.. ....::::: ̄:: .:::::ヽ
/ ,.-t_r‐テ=:.‐ャrテ‐x`.::::::::ヽ
/ ,. イ `こニ ´゙ Fニ´「[`ヽ、:::::ヽ、
, '" ,.r‐'i"「:..._゙ゝ‐-ー- 、r レ;z亠ッ`'ー゙=ミ- '
,f=‐:-,,-<. i::. l:. l:_,≦-` ` -'" ´_=ミー"_,.:ヽ
/.:. `:. ゙ヾ. l:..ヽ、彡,´ 、ミミ゙ー"⌒:ヽ やがて、このスレも消える・・・
_/.:._ :. `'ー-、〃;" ,, ,、 、ヾツ ...;;ヘ
71 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 17:39:36
和田義盛にえらくこだわってるけど、和田義盛は戦目付けのくせに東国に帰らせろと
範頼に進言したような奴だが、こんなやつが戦上手と言えるのか?それに一御家人に
すぎない和田に範頼を助けて遠征軍を指揮するだけの力量があるとは思えん。
また苦境の中で半年以上時間がかかったことを範頼の武将としての
能力のせいにしてるようだが、範頼が西国に行く時点の西国が飢饉の余波で
ひどい食料不足に悩まされて、そのなかでの遠征だったことを忘れちゃいけないよ。
完全に敵地で、食糧不足のなかでおまけに部下は東国の武士ばかりで構成された大軍
を率い成果をあげなきゃならないハンデを考えたら、とても範頼の武将としての能力が低い
なんて思えないんだよね。
そりゃ確かに義経のような果断さはないかもしれないよ。
でも大軍を崩壊させずに、戦線を維持し、山陽道や北九州を制圧してる働きを
見れば、将才に乏しいなんて評価はおよそ的外れとしかいいようがないし、
義経の快進撃を支えたという事実から考えても、範頼だって義経に劣らぬ名将であったという
評価を与えても何ら不都合はないと思うけどな。
72 :
日本@名無史さん :2006/12/24(日) 17:57:07
>>67 どうも誤解されているようですが、俺は61のほかに範頼について書いたのは40だけ。
好きなのはむしろ義経ですよ。
このふたつで言いたかったことは、範頼と義経の役割分担のことですね。
範頼が源氏の本隊を率いて平家軍と正面から対峙し、
後方から遊撃軍を率いる義経が奇襲戦法で壊乱させる、
これが一の谷や屋島での源氏のやり方だったと考えています。
ちまたでは全てを義経の功績にする傾向にありますが、
これは本隊があってこその奇襲だということを述べただけであって、
とくに思い入れがあってよいしょするのではありません。
73 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 18:25:46
池沼・樹影の乱
将才といえば頼朝の将才はどうだったのだろう。
この人は平家討伐戦では富士川の合戦以降はほとんど自分で軍勢を率いて戦っていないはず。
実戦は範頼と義経に任せて関東を固めてて、結果的にはそれ良かったことになるけど、
武将としてはかなり異質だな。
親父の義朝、ひいひい爺さんの義家はもちろん自分で軍勢を率いていたし、後の時代も足利尊氏
は自分で軍勢を率いて戦っていたし、信長、秀吉、家康はもちろん主力決戦は自分でやってた。
武将としての本筋で言えば大手軍を率いるのは範頼ではなく頼朝であるのが中世の常識で
本来は大将とはそうあるべきものであったはず。実際に主力決戦を義経にやらせて、
後で面倒くさいことになってたし。これで、義経に足利直義ぐらいの政治力があったら、
信望が本格的に義経に集まってかなりヤバイことになってたぞ。
もしも、親父の義朝や死んだ兄貴の義平が頼朝と同じ立場なら確実に自分で主力を率いて
平家と戦っていた筈。
関東から動かない方がいい事情があったにせよ、頼朝は創業覇者として異質だな。
頼朝は自分で戦場に立つ将才がないと分っていたのかも。
小説にするとすると頼朝は少年時代の平治の乱の敗戦の心的トラウマで合戦上に立つと
錯乱状態もしくは心神耗弱に陥るとできるな。
75 :
日本@名無史さん :2006/12/25(月) 09:14:35
なかなか面白いが、引っかかるところがあったので。
石橋山では少数といえども自身戦場に出てるし、
富士川も合戦にならなかったが率いている。佐竹との戦いでも頼朝が大将。
また天下をとった後の清盛は軍事を弟や子に任せてるし、
つねに先頭きって戦っているイメージの木曽義仲も、
直属の武将に軍を割いて戦わせてるぞ。
ただ頼朝が鎌倉を固めて範頼義経に完全に軍事を預けたのは、
上の例から見ると大規模すぎてあなたのいうように常識から外れてる。
自分が軍事家ではなく政治家であることを、頼朝はしっかりと見極めていたのかもしれない。
76 :
武陽陰士:2006/12/27(水) 06:59:49
>>71 いや和田の名前出したのは、頭に浮かんだだけだよ。とりあえず誰だって
いいんだよ。それなりの戦績さえあればね。
>>74 頼朝、将才ないよね。将才なんか政権とるのに何の関係もないよ。
清盛だって義朝に較べたら、将才なんか全然ないしね。
清盛の勝因は多数派工作が上手かったからだね。
>>75 前にも書いたけど、義経、範頼の平家攻めの大将軍に任ぜられた
のは、鎌倉殿の前では原則(タテマエ?)御家人平等だからだ。優秀だから
じゃない。結果として義経は優秀だったが。
ところで範頼のことだが、やっぱり範頼はそれほどでないとも思う。
義経の例で言えば、梶原景時のことを想起して欲しい。景時がヤタラと
義経に戦のやり方について口を出している。それに対して義経は無視し独断専行
ともいえるやり方をとっているのは、みなさんも知っているよね。
つまり頼朝の軍目付というのはそれだけ頼朝威光を担っていたし軍才もあったんだろう。
そういうことでいえば、鎌倉殿の派遣員の顔色ばかりうかがっていたとしか
範頼は思えないんだよ。ようは範頼は、鎌倉殿の配下の指図に従っていただけということ。
まあ義経ほど自分勝手な振る舞いがないからこそ、義経より長生きできたというわけだ。
あとどうだっていいが、通俗小説に関することはなしにしよう。
しようもない憶測の生まれるもとだ。
77 :
武陽陰士:2006/12/27(水) 07:09:16
いい足らなかったので。御家人平等だと、上に立つものは鎌倉殿
の後連枝とかの貴種じゃなけりゃならない。これは歴史学でもだいたいの
学者がいっていること。俺の意見じゃない(無論賛成ではあるが)。
この板の幾人かの、「範頼は軍才があったから、頼朝によって
平家攻めの将に任ぜられた」と本気で信じている人たちに訊きたい。
平維盛が頼朝征伐の大将になったのは優秀だからか?
この中世の初期(院政期よりを中世の始まりとする説に従う)
ともいえる時代は、軽いカースト制(by大山先生)なのだ。誰それが優秀
だから抜擢などという考えはない。中世史の約束事は踏まえないと、
しょうもない歴史小説や大河ドラマの歴史認識になってしまう。貴種だった
義経が軍事的に優秀だったのは稀有のことだ。
だからこそ、鬼一法眼に兵法を教わったなどの伝説も生まれたのだろう。
78 :
武陽陰士:2006/12/27(水) 07:11:30
ついでに言えば、その後の北条覇権の礎を築いたもいえる
北条義時にも目立った戦績はない。
79 :
武陽陰士:2006/12/27(水) 07:15:38
どうだっていいが俺は人物に思い入れがあんまりない。
でないと歴史を客観的(無論これも無理がある。人間は主観からは逃れ
られない)に見ることができない。まあ強いていいえば頼朝が好きか。
もちろんそれは政治史的にみて面白いというだけの話だ。
80 :
武陽陰士:2006/12/27(水) 07:54:47
77だが
[訂正]後連枝→御連枝
>>76 >あとどうだっていいが、通俗小説に関することはなしにしよう。
イヤだね。なんでオマエの言うこと聞かなきゃならねぇんだよ。
海音寺や司馬、吉川、テレビドラマが描いた範頼の歴史についてたっぷり書いてやろうか。
82 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 19:53:18
83 :
日本@名無史さん :2006/12/27(水) 21:14:44
>>76 >そういうことでいえば、鎌倉殿の派遣員の顔色ばかりうかがっていたとしか
>範頼は思えないんだよ。
「範頼は大して有能ではないと思う、なぜなら俺は上のように思うから」
俺がこう思うからという、しょうもない憶測の典型的な例。
だったら「範頼は有能だと思う、なぜなら有能だから」で範頼は有能ということに。
84 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 22:31:56
86 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:03:43
範頼の件だが、俺は範頼が軍才があるから総大将になれたなんて一言も言ってない。
範頼が有能だといいたいのは平家討伐で西国にいった時の状況を述べて
そのなかで範頼が戦果を立てた事実に基づいて評価してるのに誤解されてるようだ。
あと戦目付だから軍才があるなんてどこに根拠があるんだろうか?
確かに範頼は頼朝にしきりに苦しい様子を報告してるが
任務としては正しいことをしてると思うぞ。見栄をはらずに
事実を述べて、その中で最善の方法を模索するのも総大将の仕事だろうよ。
>>31 古墳時代の海戦図でも船端に楯が描かれており、船端の楯は『万葉集』にも
登場します。水夫が意図的にせよ、事故にせよ被害に遭うことは、以前から
常識的なことであったようですね。
『徒然草』で兼好が『平家物語』を評して述べている通り、同物語で義経の
行動ばかりが注目されて、範頼の行動が顧みられなくなったということは確
かにありますから、軍才があったとまでは言えないにせよ、不当な評価を受
けているとは言えると思いますね。
>>29や
>>86氏に概ね同意致します。
>義経が軍事的に優秀だったのは稀有のことだ。
>だからこそ、鬼一法眼に兵法を教わったなどの伝説も生まれたのだろう。
寧ろ、義経の方ばかり注目された結果、義経=軍事的天才というイメージが
固まり、その理由として鬼一法眼などの登場する伝説が生じたように思いま
す。『吾妻鏡』を呼んでみても、富士川畔の出会い、一ノ谷や屋島の辺りは
他と比べて分量と描写が凝っている。
この時点で既に軍記の影響があったろうと思うのですが(腰越状も)、一ノ
谷は義経単独ではなく(大手は範頼)なのに範頼がこの時どうしていたかは
伝えられておらず、屋島の時に山陽で戦っていた範頼や、壇ノ浦でもそれま
で九州で戦っていた範頼はほとんど無視されている。
軍記物も、材料に軍記物を取り入れたといわれている『吾妻鏡』も、分量で
は義経>範頼な訳で、早くに物語化したせいで扱いに不当な差が生じたよう
に思います。やはり、屋島と壇ノ浦で直接平家と戦ったことに加え、遠く陸
奥まで逃れて同地で死んだ絵になる経歴のせいか。
義経の天才像は、範頼など他の要因を無視して出来た気がするのですが。
勝ったのは事実としても、搦手の大将でしかなかった一ノ谷を除けば、確実
なのは屋島と壇ノ浦の二戦ですからね。
>>62 >あそこにかかわらず政子にはスポットライトが
>ちょくちょく当たる(泰時もね。頼朝の峻厳さに比べたら泰時はまるで聖人善人様だよ)。
>それが後世の北条サイドの創作じゃないかということなんだよ。
話が変わりますが、こちらも同意。例の政子の演説も出来すぎている気がします。
「山岳よりも深く〜」云々は、中古の文学にも見られる表現で、確か『源平盛衰
記』にも出て来たと思いますが、そうした文学に出て来るような「名文」を彼女
が宣言出来たかは疑問です。学と文才がありすぎる。
影に今でいうゴーストライターがいたのかもしれませんが、そもそも、御家人一
同に言葉を伝えることがあったかも分からないと思います。
子供時代に鞍馬を抜け出たとされる義経が『平家物語』に出て来る「腰越状」を
書いたかどうかも疑問。
あれは『世俗諺文』レベルの知識は無いと書けないでしょう。
>なのは屋島と壇ノ浦の二戦ですからね。
当然ですが、対義仲戦も入れておきますか。
あれにも範頼が参戦していますが(やはり著名なのは義経の行動)。
正直、『吾妻鏡』の記述も北条関係以外に軍記も日記(明月記や玉葉など)
も参照していて玉石混交なので、今ひとつ信用し難い。
「テキスト批判が必要」という声も出ているので、今更でしょうが。
90 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:16:01
吾妻鏡に範頼が九州の平家勢力を破っている記事があるし、平家物語にも
対範頼戦で平家軍が勝利した記事を全く載せていないのを見ると、やはり
範頼の西国遠征も言われるほどひどい戦いじゃないように思えるな。
屋島戦の前後に山陽道方面で目立った動きがあるのは児島の戦いだが
これは源氏が勝利してるし、吾妻鏡にも範頼が安芸の国で論功行賞をして
る記事もある。これは何らかの形で範頼が勝ち進んでる証拠だと思う。
周防で確かに停滞したけど、芦屋浦で原田種直を破ってるんだし
討伐軍として十分仕事を果たしたとは思うし、範頼の武将としての能力も
かなりあると思う。ただ少し弱音を吐きやすい性格なのかもしれんな。
いざやってればできるくせに、すぐ愚痴を言う奴ってよくいるよな。
なんかそれ聞くと親近感がわいた
92 :
日本@名無史さん :2006/12/28(木) 15:07:14
平家が壇ノ浦で戦いを挑まなければならなかったのも、
九州が範頼によって制圧され上陸できなかったからだろ。
兵糧や武具の補給も不可能になった平家が枯れるのは当然のこと。
平家の行き場を奪った範頼の功績は決して小さいものではなかったはずだ。
>>82 言いっぱなしではなんですので、書ける程度でまずテレビドラマの範頼を記憶
をたどって紹介しましょう。
まず大河ドラマ『草燃える』なにぶんにも小学生の時に見た30年近く前なの
で、記憶違いはご勘弁。なんで、範頼のことをよく憶えているかと言うと、
わたしは子供向けの「平家物語」を読んで以来、義経や頼朝よりも範頼が気に
なる変な子どもだったのです。仮面ライダーではライダーマン。ウルトラ兄弟
ではアストラ。ゴレンジャーではミドレンジャーが好きでした。
『草燃える』で範頼を演じたのは山本寛。調べたところ俳協所属で現在でも現
役の模様。頼朝の石坂浩二、義経の国広富之(当時は超人気俳優)、全成の伊
藤孝雄と比べると失礼ながら無名に近い方と言ってよいかと。
源氏兄弟のストーリーは頼朝、義経、全成を軸に進み、範頼はほとんどいや全
く登場せずに話は進みます。子供心に今日は範頼は出るか、次回は出るかと待
っていました。一の谷の戦いの後で、義経が任官されないエピソード。国広富
之演じる義経は酒を飲んで荒れて、「なんの働きもない範頼が三河守で、なぜ
俺は任官されないのだ!」という意味のことを言い放つシーンを覚えています。
一の谷の戦いでなんの働きもなかったようです。
義経が平家追討から外され、中国・九州遠征の鎌倉軍が出発するシーン。準主
役の北条義時(松平健)が従軍するのでロケの進軍シーンがあります。ここで
初めて馬上の範頼が登場。台詞はなし。
範頼の平家追討軍は兵糧不足で苦戦して、義時以下の鎌倉武士が疲労しながら
進軍するシーン。範頼登場、馬に乗って疲れている様子。やはり台詞はなかっ
たと思う。
そして、義経再起用、屋島で勝って、壇ノ浦の戦いへ。壇ノ浦の戦いの前に、
義時たちが船に乗って義経に合流します。これは松坂慶子演じる平家の女官が
義時の恋人だったから、演出上、義時が壇ノ浦の戦いに参戦する必要があった
のです。ここで和田義盛(伊吹吾郎)または畠山重忠(森次晃嗣)が「九郎殿
の軍に加われて良かった。範頼殿はとろくていかん」と言い合うシーンがあり
ます。要するに範頼は凡将ということです。
壇ノ浦の戦いが終わり、義経没落と話は進みますが、範頼は登場しません。
やがて不満を持つもの達が頼朝暗殺を計画します。画策するのは頼朝に恨みを
持つ伊東祐之(滝田栄)。祐之の甥の曾我兄弟を使って仇討ちにかこつけて富
士の巻狩りの機会に頼朝の暗殺を図ります。計画に加わった大庭景義(花沢徳
衛)と岡崎義実(小栗一也)が「鎌倉殿を殺して、その後は?」と問うと祐之
は「範頼がいるじゃねぇか」と不敵に笑う。範頼再登場。
暗殺決行の夜、鎌倉で政子(岩下志麻)と会う、祐之と範頼。不敵な祐之に比
べ、範頼は怯えた様子。暗殺を知らされ卒倒する政子。「あ、姉上!」と介抱
する範頼。
結局、暗殺は失敗。真相を知った頼朝は範頼を伊豆へ流す。うなだれた様子で
馬に乗り、伊豆へ流される範頼。その後、殺されることを示唆して、出番終了。
要するに『草燃える』の範頼は無名に近い役者が演じて、出番も少なく、台詞
もほとんどない。目立たず、凡庸で、度胸が据わらず、最後は滝田栄が怪演す
る伊東祐之に利用されて失脚という情けない武将でした。
草燃える面白そうだな
ビデオとか出てるなら見てみたい
次にテレビ画面に範頼が登場したのは。12年後の1991年。
NTV年末時代劇スペシャル第7弾「源義経」
主演の義経は野村宏伸(当時はかなりの人気)。頼朝は榎木孝明(「天と地」に
主演するなど格上昇中)。そして、範頼は竜川真…誰?
ググってみました。映画出演作「福沢諭吉」(1991)、「新極道の妻たち 惚れ
たら地獄」(1994)。テレビでは大岡越前や暴れん坊将軍、土曜サスペンスに出
演歴がある模様。失礼ながら野村や榎木に比べると無名に近い方かと。
「草燃える」は30年近く前なのに良く憶えいているのに比べて、NTV年末時代劇
スペシャル第7弾「源義経」は実はほとんど記憶が定かでない。はっきり言って
面白くなかった。全然、印象に残っていない。前年に東山紀之主演の「源義経」
があったけど、配役宝典によると範頼は登場自体していない模様。東山のって
梶原景時が衣川まで追ってきて、最後に義経に討たれるトンデモじゃなかった
っけ?
野村版「源義経」は結末すら覚えていないほど、全然印象がないんだけど、そ
れでも、範頼ヲタなので、範頼の登場シーンは辛うじて覚えている。黄瀬川の
対面。野村義経と榎木頼朝が涙ながらに対面。そこにもう一人の兄として滝川
範頼登場。「ともに平家を倒そうぞ」と肩を抱き合う。印象の希薄な「草燃え
る」の範頼に比べれば、いい兄という感じ。
でも、出番らしい出番はそこまで。一の谷の戦いで義経が逆落とし。範頼の陣
の場面に変わり、悪役景時が「九郎殿が勝手に攻撃をしかけました!」みたい
な台詞だったと。これに範頼は「なにぃ!」みたいな感じ。以上、わたしの記憶
はここまで。たぶん、もう出番はなかったのではないかと。
「草燃える」に続いて無名の俳優が演じて、出番も台詞も少ない。
この「源義経」。名作「忠臣蔵」「白虎隊」「田原坂」「五稜郭」を生み出し
たNTV年末時代劇スペシャルだが、もう末期でつくりがかなり粗雑になり出来が
悪かったと思う。ほとんど憶えていないことから俺もまともに見てなかったかも。
一旦さかのぼります。
時代劇のデータがかなり豊富な配役宝典によると範頼が映像に出たのはたったの7回。
これに対して義経は47回ですから差は歴然としています。頼朝は26回。
範頼を演じた俳優は以下。
小林十九二 ・ 37 ・ 静御前 ・ 1938 ・ 映画 ・
船越英二 33 新・平家物語 静と義経 1956 映画
太刀川寛 35 源義経 1966 NHK
山本 寛 草燃える 1979 NHK
竜川 真 源義経 1991 NTV
石原良純 43 義経 2005 NHK
戦前の小林十九二は日本映画データベースによると多数の映画に出演しています。
ただ、役どころはモダンボーイ、道化芸人、事務員、秘書。察するに山本寛、竜川
真クラスの脇役俳優だったのではないかと。
56年の「新・平家物語 静と義経」の船越英二はかなり有名な俳優で、船越英一郎
の父です。ウィキペディアによると船越英二は47年の大映第2期ニューフェイスとし
てデビュー以来美男俳優としてかなりキャリアを積んでおり、「大映の看板俳優」
と呼ばれていたらしく、33歳の脂の乗った時期でひょっとするとこの映画での範頼
は重要な役だったかもしれません。義経を陰ながらサポートする役とか。
1966年の大河ドラマ「源義経」では太刀川寛が演じています。ググったところ映画
「妖星ゴラス」や「マタンゴ」に出演されています。観たことがないので、役どこ
ろはちょっと分らない。仮面ライダーV3の第37話に「原子力科学研究所・井沢所長」
として出演しています。おそらくは山本寛、竜川真とあまり変わらないランクの俳
優だったのでは。大河ドラマ「源義経」は映像が現存しておらず、範頼がどのよう
な役だったのかは分らないが、おそらくは。
「新・平家物語 静と義経」(1956) goo映画を見ると船越英二の範頼は四番手で、
勝新太郎 (那須の与一) 上原謙 (源頼朝)の上にクレジットされてる。当時の
格は船越英二が勝新太郎や上原謙の上だったのだろうか?
しかし、あらすじを見るといつもの話、義経が退けられ範頼が大将に、しかし、
範頼は負けて義経が再起用。あとは出てこない。別段、義経を陰ながら助ける
とかではない。映画を彩るためにスターの船越をあまり重要な役ではないが、
とりあえず出しただけか?
どうにもさえない映像の範頼。いちばん良かったのが映画を彩るスターの顔見世
出演程度。凡将であることは変わらない。
ところが、2005年の大河ドラマ「義経」では扱いがかなり良くなる。
この辺の背景は90年代頃からの歴史関係書籍での範頼の評価の向上が絡んでいる
と思われる。それまで、作家連中に「凡庸」で切り捨てられていたのが、この頃
から「大軍を率いる将才」ぐらいに言われることが多くなった。なんとなくそん
な扱いになり、歴史ライターの人たちもいつまでも範頼を「凡庸」にしていては
時代遅れの頑迷扱いされると思ったのかも。この当たりは今川義元の再評価と似
ている。今どき義元をお歯黒のバカ殿に書いていたら時代遅れ扱いされて仕事が
来なくなる。
この頃に範頼ゆかりの寺から範頼の肖像が出るようになった影響もあると思う。
それまで、範頼の肖像はなかった。肖像画の範頼は美男で端正な貴公子といった
感じて好印象。もちろん、よくて江戸時代の作だろうけど。なんかあの絵は鎌倉
時代のものにしては綺麗過ぎる気がする。
大河ドラマ「義経」では都知事の息子の石原良純が範頼にキャスティング。船越
英二以来実に49年ぶりの有名俳優のキャスティングとなった。
スタジオパークに石原良純がゲストに招かれ、番組で役どころの範頼について紹
介される。もちろん、凡将なんて言われない。
範頼は第21話に登場。義経に兄として引き合わされ威厳たっぷり。その夜に自分
から義経の館を訪ねて共に酒を酌み交わし、気さくで、やさしく頼りがいのある
兄といった感じ。存在感のなかった「草燃える」の範頼とは全然違う。
義仲追討に際して、大軍を率いて近江へ出陣。やはり威厳を持って鎌倉殿の命令
を伝える。勢多・宇治川の戦いでは史実どおりに義仲を討ち取る。あやうく義経
が討ち取るかと冷や冷やした。
一の谷の戦いでも知盛(阿部寛)と互角に戦い、逆落としをした義経の労をねぎ
らう。
中国遠征では苦戦する。そうしないと義経の出番がない。壇ノ浦の戦いでは陸に
布陣して、義経をバックアップ。この描写はいままでなかった。陸から矢を射掛
けて、自らも矢を射掛け総理の息子の小泉孝太郎(資盛)を都知事の息子が討ち
取る働きをする。
これで出番終了。唐突に消える。平家物語で頼朝から義経討伐を命じられて範頼
が「そればかりは」と固持して「そなたも九郎の真似し給うなよ」と言われるシ
ーンがないのが惜しかった。「義経」は壇ノ浦以降は無駄なシーンが多く、なぜ
このシーンを入れて準レギュラーだった石原良純の終わりとしなかったのか不思
議。
「義経」では範頼は有名俳優が演じて、情のあるひとかどの武将として扱われて
おり、無名俳優が演じて義経の引き立て役に過ぎなかった「草燃える」の頃とは
隔世の感がある。
最後にドラマとしての評価だが、
これは「草燃える」が断然にいいとだけ断っておきます。
ヌルヌルの「義経」あたりとはストーリーの出来が断然に違う。
これは範頼の扱い以前の問題です。
草燃えるは萌える
まで読んだwww
103 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:16:17
源平期の武将で範頼ほど評価が変わった武将はいないだろうな。
>榎木孝明
テレ東でレオタード虐めてる人ね
105 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:00:20
最近ここで範頼がやたら話題になってるが、最近壇ノ浦で範頼も陸上から
参戦してたという記事もかなり見かけるがこれは事実なの?
106 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 12:20:44
あっそ
せっかく源平合戦について語ってたのに、最悪な流れだな
108 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:14:40
>>86 まあ分かった。そういうことであれば
範頼のことは貴方のいうことに賛同する。
ちょっとこれまでは範頼の評価多少低くかったかも。
これまでの他の諸氏の書き込みがあまりに感情的に
範頼ヨイショ(あなたじゃないらしいね)だったからさ。
事実関係をしっかりと見つめてほしかったのね。貴方の言い方は賛成だよ。
この言い方偉そうに聞こえたらすまない。
ただ軍目付についてだが、連中に軍才があるなんて正直思ってないよ。
鎌倉殿の目付だから発言権があるということさ。
連中に憎まれると「讒言」が頼朝に届くことになるからね。
軍監の景時より義経は(独断専行だが)将才ありだからね。
109 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:24:03
しかし近世(秀吉とかね)に比べて、ほんとうこのあたりの時代の
戦いは史料ないね。範頼が優れているかどうかも結局ヤブの中だよ。
おそらく86氏の言うとおりだとは思うんだが。そうではないことも
ありうる。
島原の乱において、幕府側の第二次総大将は松平伊豆守で、
手際よく(まあそうとうの苦戦もあり)勝利をもたらしたよね。
あの攻略の実務レベルは立花宗茂だったんだよね。確か。
これと同じことが範頼にもあるんじゃないかねって思ってね。
もちろんこれは単なる推測。実証不可能だ。まあ軍隊の
実務レベルを上手く使うのも将才だけどね。
110 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:35:09
実戦が弱いと魅力がないような感じで描くのは通俗作家です。
そんなのは読まなくていいのでは。私は読みませんが。
戦いに長けてなくても政治的に優れていれば面白いと思います。
戦争は政治の一手段として現れるのだから面白い(不謹慎に思われたら
ごめんなさい)のでは?
私の個人的な見解としては義経<範頼<全成<頼朝の順で
興味を持ちます。
111 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:37:10
>>86 そういった意味(範頼優秀総大将抜擢説)の他の人の書き込みにあったよ。
まあ貴方ではないということだけど。
112 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:40:59
>>81 まあ書いてよ。
間違いいっぱい指摘するかさ。
そんなのより吾妻鏡でも読みなされ。
吉川なんてデタラメだらけだよ。司馬もキツイ。
史料読めないんなら仕方ないけどね。
まあせいぜい書いて頂戴。恥ずかしくないのならね。
113 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:41:53
[訂正]指摘するかさ→指摘するからさ
114 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:50:31
>>83 まあそうかもね。ただ私がこれまで範頼有能説に反駁したのは
貴方と同じスタンスなんだよ。さしたる根拠もなしに、実戦において
範頼が有能と判断とこの板の住民の幾人かが書いていたからさ。
はっきりいって史料が不足しているのに、範頼の将才を、
推測という留保なしに断定的に言い過ぎているんじゃないか?って
思ったのさ。義経の将才はまだ史料的に伝わってくるんだよね。
別に判官ひいきじゃなくてさ。史料的に根拠がないことはっきり断定するのは
やめましょ、いうときは前置きに「推測云々」とつけときましょ、ってことね。
115 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:56:19
>>87 それは考えるよ。よくね。
ただ義経の同時代における人気ぶりを見るとね。
これを傍証とするのはだめかな。京でも義経の
オーラというのは皆感じてたでしょ。
これは後代の脚色とは別にね。
まあ確かに義経の人物像は口承文芸なんかが入り込んでいるのがキツイな。
曽我兄弟もそうだけど、実証的に見る際の障害というものだね。
116 :
武陽陰士:2007/01/01(月) 20:57:43
>>81 テレビ関連はけっこう新知見ありだ。
まあもっとやってくれ。
しかし、こういうのってどこで調べるの?
117 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 23:38:39
程度はわからんが範頼はある程度の名将ということで落ち着いたみたいだから、
そろそろ別の話題にしないか?さすがに範頼ばっかじゃつまらんだろw
範頼軍だけで平家を滅ぼすことは無理だったのかな
119 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 23:38:49
話題が戻っちゃったか・・・。たぶん厳しいんじゃないかな?山陽道と北九州
を制圧したけど、すでに食料は乏しいし、配下の御家人の士気も低かったしね。
もともと範頼に平家の背後を制圧させて、追い込む作戦だったみたいから、
頼朝は範頼単独では平家を倒させようとは思ってないと思うなあ。
どこかの掲示板で平家にとって九州は全然重要じゃないから、そこを範頼が
押さえても大したことないといって範頼を評価しない人がいたが、勉強不足
としか思えない珍発言だよな・・・。
120 :
日本@名無史さん :2007/01/03(水) 21:17:24
頼朝の死と落馬の関係について、質問です。
A.落馬が原因で死んだ>原因は怪我か何か。
B.病身の頼朝が具合悪くて落馬し、間もなく死んだ>死因はむしろ病気
C.心臓発作か何かで落馬し、間もなく死んだ>突然死
D.死ぬ前に落馬したことがあった>因果関係なし
ファイナル・アンサー!
121 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 18:31:23
範頼は無敗だったと聞いたのですが、
とあるサイトの年表を見ると、
1184年9月26日知盛に遮られて長門に進めずとあり、
10月13日の玉葉にも、長門の国で源氏軍が平家に追い落とされたとあります。
大きな戦では無敗だった範頼も、知盛には勝てなかったと見ていいのでしょうか。
122 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 21:00:08
>>53 亀レスですが、範頼が遊女の子だったから無能だろうという指摘は、
あながち荒唐無稽な推測とは言い切れないと思います。
私は、範頼が無能だったとは思いませんが。
当時の遊女が現代の売春婦の如き卑賤の職だったとは必ずしも思いませんが、
範頼は母方の家で養育されてます。
養育機関としての母方の存在は大きいです。養育機関というのは、
養育時代を通じての武将としての訓練と同時に、
手駒となる軍団中枢部の人材供給機関としての役割も大きいです。
これは、木曽義仲の養育機関がそのまま木曽義仲の軍団中枢部の人材供給機関として機能してることを想像してもらえればわかりやすいと思います。
遊女の家の子として、源の家に引き取られずに育った範頼を無能であろうと推定することは、それほど間違った解釈ではないと思います。
しかし、実際の範頼は無能じゃないですよね。
補給では苦しみましたが、大包囲網形成の一翼をちゃんとこなしてますしね。
124 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 01:10:23
吾妻鏡じゃ範頼軍が10月12日に安芸で論功行賞をやってる記事があり
一日で安芸から長門に到達するのは不可能だろうから、玉葉の記事の
源氏軍って山陽道の反平氏勢力を指してると思う。また仮に敗れたのが範頼
軍だとしても、本当に知盛相手に手も足も出なかったなら、当然周防・長門
に平氏の拠点が残ってるはずだから屋島敗戦後に彦島に平氏軍が篭る必要性が生じない。
よって上記の玉葉の記事が仮に本当だとしても結局のところ知盛は長門を放棄
したと見るのが妥当だろう。
125 :
日本@名無史さん :2007/01/05(金) 01:29:32
それにしても、頼朝が平家討伐で西国へ出陣しないのが不思議。
鎌倉幕府の行政確立や奥州藤原氏に備えていたとはいうけど、木曾義仲も越後国で奥州藤原氏と隣接していたが別に木曾に残らなかった。
126 :
日本@名無史さん :2007/01/05(金) 01:36:08
>>124 >彦島に平氏軍が篭る必要性が生じない。
生じる
陸の兵力では大差があるから、得意の海戦に持ち込むために彦島に篭ったと考えられる。
蒙古に攻められて江華島に逃げ込んだ高麗政府のようなものだ。
範頼の合戦について書かれたいい本ってありますか?
贔屓目とかじゃなく、なるべく公平で最新の研究結果が書かれているのがいいのですが
128 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 10:46:37
海戦に持ち込む以前に彦島は何も無い島だから立て篭もる戦略的意義がないと思う。
もし周防・長門を知盛が押さえていたなら、陸上の兵力で大差があるということは
ありえないだろ。普通に屋島以前に、範頼に周防・長門を押さえられて、もう
彦島しか残ってなかったから立て篭もったとしか思えん。彦島は元々知盛の拠点だ
から多少の物資はあったとは思うけどね。
129 :
日本@名無史さん :2007/01/05(金) 12:14:52
>>128 高麗王朝も、陸に拠点は残っていたのに江華島に逃げ込んだ。
蒙古軍は結局、江華島に上陸できなかった。
海の戦では平家のほうが鎌倉軍相手に有利と戦えると思ったから、長門を放棄したと思う。
陸上の兵力差は大分あるだろう。平家の勢力圏であった山陽道・四国・北九州・伊勢は殆ど崩されている。
130 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 15:04:16
>>122 さんざん前に書き込んだよ。そういった意味のことね。
現代作家の妄想よりかいいよ、アヅマは。
小説って史料によった他人の妄想だよ。
史料読んで妄想したほうずっとましだね。
131 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 15:05:49
>>129 蒙古との対比はちょっといらないんじゃない?
鎌倉方は水軍のノウハウけっこうあるよ。
三浦党なんかがそうだ。
132 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 15:08:14
でも彦島に篭って海戦に持ち込むにしても長門や豊前といった勢力が平家の支配下
にあってこそ物資を調達できるんでありそれがなきゃ海戦の準備もできないんじゃ
ないかな?そんなに海戦に自信があるなら範頼軍が周防から豊後に渡る時に彦島から
水軍を出して撃滅するか打撃を与えてもおかしくないのに、そういった事跡が見られ
ない。彦島にいる平家にとって北九州は重要な拠点でここを取られれば彦島は孤立す
る。しかも陸上で大きな戦力差があるなら、どうして渡海する範頼を水軍で攻撃しなかった
のかが疑問なんだよな。得意の海戦に持ち込むという見方はもちろん
考えられるけど、範頼渡海の時の平家の無策を見る限り、やはり範頼軍に
長門を武力制圧されて彦島に追い詰められ、孤立させられて範頼軍の動
向もよく分からない状況になったと思うんだけどなあ。
133 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 15:19:59
>>127 ないよ。
自費出版本にもあるかも(こういうのは
贔屓の引き倒しなんだな。たいていね)。
紀要なんかにある論文にはあるかも。
奇特な院生なんかが書いてるかもね。
一般向けの鎌倉本に、一章立てられているのもあるでしょ。
実際読んだことがあるし、ここの住人もそういうの参照しているんじゃない?
どうでもいいけど、政治史(中世史の「主流」だ)においては範頼は脇役。
義経の場合は頼朝政権の樹立に大きく貢献しているんだな。
これは義経が戦争強かったとかいうゲームレベルのことじゃなくて、
義経追捕にかこつけて、守護地頭設置、奥州攻略などが成功したことね。
しかし範頼で一冊だったら、その前に、義朝だしてくんないかな。
人物叢書とかでさ。頼政は出てるけどね。それだけ重要ってことかな。
まあ歴史上の人物で一冊出るってのは、よっぽどのことだ。
あと狭義の戦争史をアカデミックに研究しているって人って少ない。
いることはいるけど。大体在野だね。
134 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 15:22:12
135 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 15:25:01
機動力。これがないと劇的な勝利はのぞめない。
136 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 15:26:59
しかしこのスレって範頼のことばっかだよね。
ある意味すごいよ。まあ絶対子孫の人、書き込んでるよね。
けっこう子孫と称する人たちいるらしいから。
景時もそうだ。
137 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 15:44:19
てか誰かそろそろ話題変えろよ・・・
138 :
日本@名無史さん :2007/01/05(金) 16:33:05
>>131と
>>132は同一人物かな。
じゃあ、範頼が三浦水軍に命じて彦島を攻略すればよかった。なぜしないのか?
周防に範頼が進駐した記事はあるが、長門を制圧した記事はあるのか?
139 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 16:37:31
140 :
武陽陰士:2007/01/05(金) 16:40:22
蒙古云々(水に対する弱さ。あれは極端だよ)は蛇足じゃない?
ということ。気悪くしたらすまない。
141 :
日本@名無史さん :2007/01/05(金) 16:41:28
すまん。ただトリップではないので。
補給なら、江華島に1232年から1270年まで居続けたという高麗政府の実績がある。
142 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 17:45:25
吾妻鏡の二月の記事に範頼が長門から退いた記事がある以上、少なくとも
長門を制圧していたと考えることも可能ではあると思う。一月二十六
日に周防を出航してるから長門から退却したのは、渡海中の平家水軍の襲撃を
警戒したからだと思う。あと三浦義澄は軍にいたけど、水軍は持ってきな
いと思う。まあ、彦島を落とすための水軍力が範頼軍にはなかったから
彦島を直接攻撃できなかったんだろうね。長門が平家領なら長門から周防に退く範頼
勢を追撃することも可能だし、豊後への渡海も十分防げたはずだし。
>>137 禿同。
コテと信者の間だけで無限ループ繰り返すだけだろうしな
つか当事者いい加減に気付けばいいのにw
>>143 そんなら誰か新しい話題振れよw
俺が決めてやる。
次のお題は「源行家」だ。
策謀家とも、単なるお荷物のおっさんとも言われる人物だ。
一昨年の「義経」の印象では、大きな口を叩いて事業を立ち上げては失敗し
その都度、甥たちから借金をたかる、なにをやってもダメな叔父さんだったな。
145 :
日本@名無史さん :2007/01/06(土) 14:00:30
120 :日本@名無史さん :2007/01/03(水) 21:17:24
頼朝の死と落馬の関係について、質問です。
A.落馬が原因で死んだ>原因は怪我か何か。
B.病身の頼朝が具合悪くて落馬し、間もなく死んだ>死因はむしろ病気
C.心臓発作か何かで落馬し、間もなく死んだ>突然死
D.死ぬ前に落馬したことがあった>因果関係なし
146 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 19:21:44
147 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 19:42:07
>145
B.病身の頼朝が具合悪くて落馬し、間もなく死んだ>死因はむしろ病気
だと思います。
糖尿病の悪化で目がかすむとか手足が震えるとかで落馬し、その時に負った些細な傷が糖尿病により思いがけなく悪化して(よく足を切断する方とかいらっしゃいますね)亡くなったのではないかと私は考えておりますが。皆様はいかがですか?
148 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:35:21
行家の功績って以仁王の令旨を届けたくらいだよなあ。なかなか武術に長けた
人物のようだが。
149 :
武陽陰士:2007/01/06(土) 22:49:35
行家!
これまた渋いな。
しかし面白い。書き込みが楽しみだ。
頼朝は糖尿じゃないだろう
151 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 01:58:28
事故死、病死なら
葬儀の様子とか普通に吾妻鏡に書かかれててもいいのにね
所でよく歴史本とかで、頼朝は娘を天皇に嫁がせようとして
御家人の信頼を失ったと書いてあるけど、
御家人が反発したって記述はどの史料にあるの?
152 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 14:53:12
壇ノ浦は、決戦というより、九州四国を奪われ
包囲された平家の捨て鉢的な攻撃だったみたいだな。
似たようなのだと、長篠の合戦。
>>145 落馬のの治療に見せかけ、毒殺。
153 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 15:01:53
行家は重衡に負けすぎ
154 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 17:36:51
>150さま
「猪熊関白記」に「飲水病」って書いてありますよ。
>151さま
武家の棟梁が馬から落ちたら恥ずかしいでしょう。
その上そのときのちょっとした怪我が元で死んじゃったら情けないような。
155 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 18:43:32
>武家の棟梁が馬から落ちたら恥ずかしいでしょう
だったら病死とでも書けばいいのに
行家かぁ…。嫌いな歴史上の人物ベスト10にはいる人だわ(ーー;)
と言っても、行家は一昨年の大河のイメージしかなくて。。。
大河の知識だけで話をしていると、みんなに怒られるな(笑
大河や小説、歴史上悪者逆賊と語られる人を
資料をあさって多角的に見定めるのって面白いよ
製作者のライトの当て方、描き方次第で善にも悪にも見えるしね
勝てば官軍って言葉はよくできてるね
みなさんは吾妻鏡をどうやって読んでるんですか?
購入しているんでしょうか???
>>158 原文も現代語訳もネットにあるよ。
ちょっとググってご覧。
160 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 00:13:50
当時の武士の人数が30万人以上もいたかな、藤原氏の17万騎もいたのかな。
>>159 なにぃ?!
金はたいて買っちまった…orz
162 :
日本@名無史さん:2007/01/10(水) 16:14:12
平家の直系子孫
昨年10月頃、フジテレビに見ました。
平→仟の名前に変わたという。
仟家25代目当主の本物がいた。
長野県内、古廷料理店にいます。
>>159 ちなみにどのサイトが読みやすいですか???
お気に入りのところなどがあれば是非教えてください!
現代語訳がついていれば嬉しいのですが…(笑
仟
読めないんです><;
166 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 03:14:48
玉葉に「山手から攻めた」とあるから
逆落としをしたのは多田行綱なのかなと思うのですが、
でも吾妻鏡には手柄を上げた人物として、多田行綱の名前はありませんよね?
菱沼一憲氏は多田行綱が鵯越から最初に輪田泊を攻撃したから、平氏は逃げることが出来なくて
多くの犠牲者を出したと書いていましたし、
それでなくても先駆けはもっとも名誉なことのはずで、
なぜ、行綱の手柄が吾妻鏡に書かれていないのか不思議です。
167 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 06:56:52
菱沼さん想像妊娠です
168 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 17:07:41
>>166 摂津の多田行綱が一番活躍しただの、まして逆落としをしただのは
神戸の郷土史家が言ってるトンデモの類だよ。
そんな史料ない。
郷土史家は地元武将をひいきの引き倒しをするから真に受けない方がいい。
吾妻鏡を重視すれば、山の手または義経と別れた武将は義経軍に属していた安田義定。
戦果報告にも範頼、義経に並んで記述されている。
甲斐源氏の有力武将で遠江守に任官してるから格的にはある意味で範頼、義経以上の人物。
吾妻鏡が平家物語の影響を受けているとして却下して、玉葉を重視すれば
範頼、義経に並んで山の手を攻めたのは多田行綱。
しかし、玉葉には逆落としだの、多田行綱が一番活躍しただのどこにも書いてない。
少し調べると面白いよ。兵庫の郷土史家は多田行綱が活躍したと言ってるし、
山梨の郷土史家は安田義定が活躍したと言ってる。
前に郷土史家が書いた安田義定の地方誌かなんかの評伝記事を読んだけど、
こっちはこっちで安田義定を贔屓しまくって、故意か天然か寺伝の類を真に受けてる。
頼朝なんか流人のつまらない人物で、本当は安田義定と甲斐源氏が平家を倒したみたいに書いてた。
玉葉には、行綱が最初に山の手を攻撃したとあるから、
先駆けは行綱だった可能性が高い。
けれど吾妻鏡には名のある武将を討った人物として、行綱の名前はない。
このことから単純に考えれば、行綱は先駆けをしたもののたいして活躍は出来なかったってことじゃないかな。
問題は玉葉にある「山の手」がどこかってことだけど、
山の手とは鵯越の麓なりとあるのは、平家物語でも覚一本だけなんだよね。
その覚一本で山の手に配置されていた盛俊は、義経が討ったと吾妻鏡にはあるし。
逆落としが事実あったのかは不明だけど、多田行綱が逆落としをしたとする根拠が、
覚一本だけというのは、史実とするには無理があると思う。
170 :
日本@名無史さん:2007/01/11(木) 18:31:51
>>158 学生時代にゼミで使うためにコピーしたやつ
>>165 いや、千秋社とか書いてある。
実はそこまで激高ではなかったw
自分が金無いから辛いだけで…
文庫で出てくれたら、読む時も手軽に読めて助かるねえ
関西だと吾妻鏡なんてそこらへんの図書館にはまず置いてないんだが、
まさか関東でもそうなの?
>>168 たしか「吾妻鏡」によると平教経ほか数人を討ち取ったのは安田義定の軍勢だった
らしいからな。でも後に粛正されてしまう(´・ω・`)
一条次郎なども粛正されちゃうし、甲斐源氏は家督相続のいさかいで衰退しちゃうんだよな。
そういえば平教経の最期にもいろいろ当時から風聞があったそうですが。
>>172 都内ではうちの区(新宿区)でも中央図書館と一部の図書館しか置いてないみたい。
読みたい場合は、中央図書館へ行くかネットで事前に区内図書館の貸し出し協力の取り寄せをお願いする。
早ければ翌日には来る。
関西でもシステムは同じだろ。
175 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 07:31:24
>>172 市町村レベルの図書館だと厳しいね。
都道府県立図書館だと間違いなくある。
>>172 大阪市内だったら中央図書館、もしくはどこかの区の図書館にあれば
取り寄せしてもらって近くの図書館で借りられるよ
なかったら府立図書館か市立図書館へGOだ
177 :
日本@名無史さん:2007/01/12(金) 19:17:25
>>172 歴史系の博物館の図書コーナーにあることが多い。
借りられるかは知らないが
178 :
172:2007/01/12(金) 19:45:58
図書館関連の話、レスありがとう。
関西の某政令指定都市に住んでるんだが
吾妻鏡も盛衰記も市立の中央図書館にしかなくて、
よその地域、とくに関東もそんなものなのかなとふと疑問に思ったもので・・・
しかし翌日に来るなんて凄いな。うちなんて早くても3日かかるわ。
>>178 もしかして俺と取り合いしてる人だったりwww
雑談スマソ
2chはこれからどうなってしまうのかな…。
好きな事について好きなもの同士が集まって話が出来る場所が無くなってしまうのは淋しい事だ。
閉鎖はネタですから
何年も2ちゃんにいるとひろゆきの集客手段が読めてくるのが困る
182 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 14:31:38
「源平合戦の虚像を剥ぐ」ってどうですか?
評判いいようなら読んでみようと思うのですが。
日本馬とサラブレットを体格だけで比較してる電波本
184 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 21:14:38
関西には政令都市は4つしかないので
当時の馬がポニーサイズだったのは事実でしょう。
そうなると進軍のときも戦の最中も、歩きか早足が主流で走ることはあんまり無かったってこと?
大きさが同じでも能力は別物。
東洋の馬はポニーサイズだからダメという事になっちゃう。
日本馬は人を乗せてそれなりに走れたっってこと???
モンゴルみたいに平原を何百`も突っ走るワケじゃないからね
189 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:35:10
>>182 面白いと思うよ。源平合戦に興味があるなら読んで損はない。
モンゴルはそのポニーサイズでユーラシア制覇したんだよな。
義経は実際、一ノ谷で逆落としせずに普通の陸路から平家の陣に攻め入った、ということを聞いたことがあるのですが、本当のところはどうだったと思いますか?
日本馬の体型や能力を考えると、急な崖を下れなかったんではないかと思ってしまうのですが…
ピザってたら転がれるからだいじょうぶい
>>191 日本馬はスタミナ劣るが、勾配には強いよ。
鈴木真哉を更に熟成させた感じの川合康(笑)
今年のセンター、治承寿永はぜんぜん出なかったね
何かさびしい…
東国原って何者?11世帯しかないけど
このスレとは関係ないんじゃね
197 :
武陽陰士:2007/01/24(水) 21:01:49
>>166 そうだね。
まあ京武者だからと私は思うけど。
私は(これは完全に私の自説)、吾妻鏡というのは東国の「王国」
ともいえる鎌倉幕府のサーガだと思ってる。
サーガだからこそ、景時、義盛ほかの敵である北条に誅伐された東国御家人も記
述されているんだと思う。京武者じゃサーガには載せられないんじゃないかな。
まあ、確証はないんだが。
198 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 22:01:02
>>197 え? 鎌倉幕府って神奈川県にあるんだよね。
佐賀県じゃないよ。何を言ってるのこの人。
199 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 12:40:12
馬鹿コテ武陽陰士は無視、それがこのスレのルールだよ
200 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 20:19:54
物語と言わずにサーガと言っただけなんだし
スルー出来る範囲だろw
201 :
武陽陰士:2007/01/25(木) 21:25:47
吾妻鏡がサーガだとマズイのか?
まあいいや。相当恨まれているようだな俺も。
また立論してくれ。
批判点があったら啓蒙してやるから。
202 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:34:16
サーガ菱沼
203 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 01:11:15
ヘタレ行綱て、たしか鹿ケ谷の一件で、一時は法皇より直々に平家打倒の武力を期待されたほどのヤシだよな
対して、その他大勢の源氏同様、世捨て人みたいな宮さまの令旨(あやしい紙切れ)を受けただけで鎌倉王国を築いちゃった人たちの立場からすれば、そのことも目障りだったんじゃね?
204 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 01:25:53
菱沼物語じゃね?
205 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 20:34:45
多田行綱ってその後どうなったんだったっけ?
206 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 01:11:48
元木は多田行綱の戦功が吾妻鏡に書かれていないのは、
行綱が頼朝の怒りを買ったからだって言ってるみたいだけど、
安田義定だって謀反の疑いで自害してるじゃん。
もっと言えば、義経なんて謀反人の見本みたいなもんだし、
範頼も謀反の疑いをかけられたっぽい。
行綱の戦功を隠さなきゃならない理由にはならないと思うけど?
元木氏も高望王の下向に幻想を抱いてるようだがw
208 :
武陽陰士:2007/02/05(月) 23:05:22
>>198>>199 在野史学の傑作、山路愛山の『源頼朝』に、『吾妻鏡』を「信頼出来る伝説」っていう
くだりがあるんだよね。
それのある意味モジリなんだけど。
まあ、いずれにせよ君らは読んでないんだね。
いいけどさ。
誰かのフォローあるかなって、待ってたんだけど。なかったね。
>>206 元木氏どこでそれ(吾妻鏡に行綱の戦功が載っていない理由)
書いてた?
行綱ら京武者の大きな役割が吾妻に載ってない
理由は、元木氏の「頼朝軍の上洛」って論文には書いてなかったからさ。
教えて欲しい。そんなに簡単に言い切っていたの?元木氏が?
吾妻鏡って読むのに時間がかかるね。
暇があれば携帯で読むようにしているんだけど、数が多すぎる…。
義経が好きだから、とりあえず義経が死ぬまでか、奥州征伐まで読もうとおもうのだが、30年分の日記を読むのは大変だ〜(´・ω・`)
a
211 :
武陽陰士:2007/02/12(月) 22:20:28
>>209 30年分ってどういう意味?
吾妻鏡って80年分あるじゃない記述が。
あと国史大系本じゃないと駄目じゃない?
岩波文庫のは途絶してるんだよ。校訂がね。以下未刊。校訂者が死んじゃって
るか永久未刊行。
新人物往来社のは読みやすくていいけどさ。
ネットで流布してるのは校訂どうしてるの?
テクストクリティークいいかげんじゃない?
>>211 ごめん、間違えてた。
義経殺害、奥州藤原氏滅亡までだから・・・
えっ!?たったの9年???
思ってたより年数は短かった。
俺はネットで和訳を中心に読んでるよ
漢文は苦手で・・・(´・ω・`)
あぼーんしてるのに糞にレスするなよ
>武陽陰士
某スレの影響で敵が多いなw
そいつは糞コテで有名
読む価値ないよ
216 :
武陽陰士:2007/02/22(木) 22:04:09
217 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 22:06:54
質問なんですが源平闘魔伝に出てくる平影清って歌舞伎モノみたいな武者は実在したんですか?
218 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 00:04:50
>>217 平景清 か、悪七兵衛景清 でググってみ。
実在したかと言われると、たぶん、としか言えないけど軍記物では有名人だよ。
それにしても、ここ過疎ってるなぁ。。。
源平好きって実は少ないのかな?
219 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 04:25:00
千葉氏や秩父氏などの坂東平氏には仮冒の疑いがある
北条氏や岩城氏なども相当怪しい
ほぼ確実に平氏と言える武家はどれなんだい?
ヒント みんなお婿さん
>>208 元木説については一ノ谷合戦のウィキに載ってただけだから
出典はシラネ
ウィキだからテキトー書いてるのかもしれん
元木の義経本が出たからそれ読んでみようと思う
なんか書いてあるかも
>>221 その元木説が書かれてるのはミネルヴァの評伝「源満仲・頼光」。
摂津源氏の章で行綱についてもある程度書いてる。
一の谷の功績が吾妻鏡から抹消された云々は191ページ。
これは単にそう書いてるだけで詳しくは論考なんかしてない。
223 :
武陽陰士:2007/03/04(日) 21:02:39
>>221 >>222 ありがとう。
ミネルヴァのは既読だったが、おそらく読み飛ばしてたんだろう。
何にせよチェックしてみる。
>>214 某スレなんていわずに「江戸時代の庶民と天皇」って書けよ。
ウゼエよ(これ言ってみたかった)。
224 :
武陽陰士:2007/03/04(日) 21:06:13
>>218 実在してる。景清の入ってた土牢が現存してる(ホントカ分からないが)。
鎌倉(町のほうね)が好きな人なら皆知ってるよ。
一度、行かれることお勧めします。
バカコテにレスしない方がいいよ
227 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 23:23:17
>191
> 義経は実際、一ノ谷で逆落としせずに普通の陸路から平家の陣に攻め入った、ということを聞いたことがあるのですが、本当のところはどうだったと思いますか?
> 日本馬の体型や能力を考えると、急な崖を下れなかったんではないかと思ってしまうのですが…
物凄い遅レスだがw
よくこのような話をいう人がいるが、確実に「可能」であることは間違いない。
まぁ、よく知られているように、逆落としには2説あって、ひよどり超説では崖をくだらないから良いとしてもねw
何故なら、俺はある衝撃のVTRをみたことがある。
NHKで深夜に再放送していた古い番組で、パキスタンかなんかの山岳民族を特集していたんだが、
そのVTRの中で、その山岳民族の人達が思い荷物を載せた馬に乗りながら、まさに一の谷と同じような勾配の山崖をテクテク降りていたんだわ。(なんかショートカットしているようだったw)
しかも、その山は日本の谷と違い、サラッサラのもっと滑りやすいような地質だったし、
日本の古馬よりももっと脚高な現代馬だった。
これ見たら、義経たちの方が有利な条件もってるのは明らか。
少なくとも馬というのは、あの程度の崖をちゃんと下れる能力は持ってるといえる。
テクテクってことは、あまり速度は無かったのかな?
229 :
日本@名無史さん:2007/03/10(土) 21:06:42
さすがに物凄いスピードで駆け下りるのは無理だろw
元々は、斜めに蛇行しながら、ゆっくりとおりていけば、可能だったのではないか?くらいなものだったんだし。
個人的には、誰かが主張しているような義経別人説なんかが興味あるな。
ゲリラ戦に長けていた義経のイメージは実は、別人の山本義経とかいう人の行動が
まじったもの、っていうヤツね。
歴史上有名な人が実は、二人の人物がごちゃまぜになっていたっていうケースはあるらしいし。
230 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 03:12:07
ジェットストリ-ムアタックみたいなもんだ
義経が一人って思わしといて 実は2人!
>>230 それだとガイアとマッシュだけでオルテガがいねえじゃねえか
232 :
武陽陰士:2007/03/11(日) 21:16:42
>>225 景清は実在する。書きっぷりが誤解を与えたかな。すまないね。
ま、それをいうのなら、実在する人物の遺跡というわれるものには
後世の創作が多い、だね。伊豆山権現に今も政子が座った石があるけど、
これもどうだか。
まあ貴方の指摘は確かに首肯できる。金王丸なんかそうだ。
子孫がウヨウヨいる。本当にいるのか怪しいのだが(ちゃんとした史料
に出てこない)。
>>226 ストーカーだね。書き込みする出てくる。
私は貴方の親の敵じゃないよ。しつこいのはいいけど
ケツの穴の小さい男だね(たぶん男だと思うのでね)。
ちゃんと反駁してきてちょうだい。
まあ器が小さいのを自覚してるのなら、スートーカーしてよ。
憫笑するだけだからさ。
>>232 不覚にもスートーカーで笑ってしまった!
>>225>>232 俺の地元にも『景清錣(しころ)引きの跡』ってのがあるよ。
説明看板が立ってるだけで、ただの伝説かもだけど。。。
234 :
武陽陰士:2007/03/14(水) 22:57:20
235 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 21:58:08
>>219 大掾氏。
千葉氏が仮冒と断言してる意地悪(?)なサイトでも大掾氏については平氏で間違いないとされている。
某学者も大掾氏が平氏本宗といってるしね。
ここからは個人的意見だが、千葉氏と大掾氏の細かな姻戚関係を考えると千葉氏が仮冒とはおもえないんだけどね。
236 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 10:08:12
で、逆落としはどこで起こったの? 一の谷? ひよどり越え?
>>232 226じゃないが、お前の性格が悪いから嫌われている事に全然気付いていないのか?
いい年こいていい加減恥ずかしい事に気付きなさい。
あと、鎌倉時代のつもりで他の時代のスレを荒らすのはよして欲しいよ。
さも知ったような事を書いて罵声ばかり浴びせているが間違いだらけや見当違いな意見ばかりでなんだよな。
ま、このスレでもウザイんだがな。少しは反省しろよ。いい親父がみっともねえ。
武陽陰士叩きは向こうで
バカコテはあぼーん入れとけよ
俺はとっくに入れてたのにアンカー付けるから見えちまったじゃねえか
ここは過疎ってるうえに荒れてるね(´・ω・`)
このスレのテーマは好きなんだが……
武陽陰士も結構面白いこと言ったりはするんだが、
結局「俺様はおまえらよりも博識なんだぜ」ってことを
言いたいだけかよ、というような応対が多過ぎるんだよな。
まぁそうは言っても、無知なくせに知ったかして
えらそうなこと書いてる厨房よりはマシだとは思うが。
なんとか陰士とかいうのは基地外だから無視か放置でいいよ
243 :
武陽陰士:2007/03/22(木) 23:45:01
>>237 ふふふ。笑った。
>>241 気悪くしたらゴメン。
性分なんでね。
>>242 そうだね。
ほっといてもらいましょうか。
これからも書かせて頂きますが。
244 :
武陽陰士:2007/03/22(木) 23:47:22
>>237 どこが間違ってるのか指摘欲しい。
マジでね。
一応基本はおさえてるんだけどな。
自分の知識の不備を訂したいんでね。
ま、いいけどさ。
245 :
武陽陰士:2007/03/22(木) 23:50:43
>>241 博識じゃない。
だから本を読んでいるし、いろんな先生にも教示を受けている。
自分が博識と思っている時点で負けだ。
自分が無知だから読書なり教えを請うのさ。
精進あるのみ。
246 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 00:19:25
247 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 10:11:23
>246
この手のインパクトだけの糞仮説を垂れ流すTVにはウンザリだよ…
248 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 23:33:39
「テレビが言っていたから」ということで、自分で調べもせず信じ込む爺婆って意外に多いからなあ
250 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 00:32:47
251 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 08:06:07
そりゃあ、日本ははるか古代からシルクロードを伝ってローマ等からの影響だってあったんだしな。
実際、世界各国からの影響、つながりなんて探せばいくらでも見つかるだろうて。
つーか、見つからないほうが不自然。
そういうものをアホみたいに最大限誇張してものを考えるから、トンデモ説ってのが日々現れてくるわけで…
252 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 10:52:41
>>246 見逃した orz
つべか捨て6かp2pに頼みます
253 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 12:04:45
平家には平の姓以外の家来がいなかったってどうゆう事?
その番組見てないんだけど、どーせ八切何とかのパクリじゃなかったの?
255 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 01:40:49
>>254 久慈力 氏がコメントしてたな。
奈良(だったと記憶)で海外貿易をしていた外国人はことごとく「平」姓を名乗っているという
古文献も紹介していた。当時、シナには大勢のペルシャ人が住んでいたとか。
そういや、平氏は政権を取るとすぐに海外貿易に乗り出すなど、シナとの交易に異常な
執着を見せていたよな。
あと、絵巻物に描かれた平家の刀の形は、どれもペルシャの刀と瓜二つ。
平家ら武士が「我こそは〜」と名乗りを上げて一騎打ちをしたものだが、それは、アラブとか
中東方面の風習なんだって。
だいぶ前、「朝まで生テレビ」で騎馬民族説が話題になったとき、
出演者の一人が、「源氏や平氏は中国系だという説があって・・・」って話をして
「なんじゃ、そりゃ?」と思ったけど、
下記の本を読むと、源氏の中国からの渡来説はあながち否定できない。
もっとも「遼東半島の倭人が鮮卑に捕らえられて・・・」というような内容だったと思うけど。
魏王朝の皇帝が禿髪氏に源氏姓と将軍職を与えたという史実がある。禿髪=ちょんまげ。
↓
『遊牧騎馬民族と東国武士』 保坂俊三/著(丸ノ内出版)
蒸れると禿るよ 松平健
源氏平家以前の豪族の時点で大陸から渡ってきたのが多いんだし
まあ当たり前っちゃ当たり前なんだわな
ヤタの鏡なんかはヘブライ語が彫ってあるらしいしね
258 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 08:17:47
ペルシャ人が平家? DNAで鑑定すれば一発でわかるだろ。
当然、今の日本人に痕跡がのこってないとおかしい。
どうせ、そういった致命的なところはスルーしてんだろ。
仮説ありきで都合のいい資料だけ継ぎ合わせたんだろうな
260 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 15:50:08
現代人のDNAで何百年も前のがわかるもんなのか?
DNA鑑定って数代前でだめって聞いたけど
261 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 13:46:03
平家であらずんば人であらずとまで言われて栄華を極め、源氏と違って
お家そのものはずっーと滅亡せずにのこってたんだぞ。
分家の家系ともなればもっとだ。
ペルシャ人みたいに明らかに差異のある人種がめちゃくちゃ日本人と交配した事になるな。
当然、今の日本人とペルシャ系の人達とのつながりがDNAから見て取れないとオカシイ。
平井堅は、三重県出身じゃなかったっけ?
あの濃い顔は、ペルシャ人のDNAが伊勢に
残っていた証拠だな。
263 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 18:28:36
関西では結構売れている若手のお笑い芸人「シャンプーハット」の人は
あきらかにソッチ系の顔だよなw アラブ人に間違えられるネタをよくやってるが。
もしかしたら、もしかするのかもしれんw
単に顔が濃いというか濃ゆいだけじゃないかと
そういえばJリーグが出来た頃にもそんな選手がいたな、大阪だったかな
265 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 07:41:02
>>262 イラン人にイラン人と間違われたと本人も言ってた
ゴリというかウータン顔な気もする
267 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 17:41:43
なんかネタないの?
268 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 22:49:34
7日のフジの番組で
源平合戦の頃の戦では年老いた武士は殺してはいけないという
暗黙のルールがあったって言ってたけど本当?
卯の花に 兼房みゆる 白毛かな
270 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 10:05:34
>>268 平家物語に、70過ぎて、白髪を黒く染めて戦場に出た斎藤実盛の話があるね
理由は
・その年でどれほどの栄誉に与ろうと思って戦にでるのか、と人に思われるのが恥ずかしい
・老武者だからと、敵に侮られるのが口惜しい
・味方の若武者と、先駆け争いをするのも大人気ない
ここからは老武者を殺してはいけない、という暗黙のルールは見出せないけど、
老武者が戦場でバカにされがちだ、っていうことは分かる
271 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 11:52:47
那須与一は扇を射抜いたあと、じじい射殺してるじゃん。
>>271 だから反則だ、って話じゃなかった?
爺だからという理由では無いが。
>>270 その三つは別に平安末期に限った考え方じゃない気がするが
274 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:18:37
義経はルール破りしたから勝った
しかしそのためか、他の武士からは総スカン
源氏の大将が義経だったら勝つには勝ったが武家政権なんて成立しそうにないな
>>273 そう言われりゃ確かにそうだ
実盛が若者に馬鹿にされたくなかった、と言ってただけで
老武者を殺すのがルール違反だ、って話はここからは出てこない
たとえ老武者を憐れんで殺すのはやめましょう、っていうルールがあったとしても
儒教的な敬老精神とは全然違うね
他の時代はどうだったんだろ?
〉274
最近の風潮はそうでもないよ
奇襲=東国では義経以前から行われていた
水夫射殺し=史実ではない
って考えが史学者の間では一般化しつつある
277 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 16:17:01
生きるか死ぬかの戦いなんて人類ははるか古代からやり続けてるんだよ。
「老人は殺さない」とか「基本は一対一」とか「戦う前に名乗りをあげて、正々堂々と」なんて実際に守られてるわけ無い。
ただの物語の妄想。
奇襲という戦法なんてそんなんは常識中の常識だろ。
水夫射殺の話だけど、
源平合戦当時の小型の舟で水夫を狙い撃ちできたのかどうか疑問だが。
279 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 22:07:51
狙うくらいなら敵の大将狙ったほうが早いわな。
源氏側は義経率いる水軍だけではなく関門海峡の両側に陸上部隊がいて、
つまり平家は四方から矢の雨を受けていたんだから将兵ばかりか漕ぎ手もやられた。
義経が漕ぎ手を狙ったのは奇襲と言うのは小説しか読んでいない人だよ。
280 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 00:02:40
そろそろブヒが出てきたりしてな。
ブ→武
ヒ→陽
仮に漕ぎ手がやられたとしても、ただ徴用された中立の一般民だったのか
ずっと平家と行動をともにしてた、準戦闘員だと思うんだがどうだろう?
私戦と公戦が明確に区別されて認識されてる時代だよ。
個人の権利のために行われる自力救済の私戦じゃなく、
れっきとした公戦で水夫射殺なんて当時の常識では非難されて当然。
公戦だと、戦闘員しか攻撃してはいけない。
つまり、甲冑を身にまとい武具を携帯してる相手以外は攻撃してはダメ。
で、甲冑を着込んでる相手に矢を射っても殺傷するのは困難。
じゃ、甲冑着てない水夫狙えばいいじゃんwww俺って天才wwwって義経は思ったんだけどな。
まぁ、当時も戦争となればルール違反をした方が勝つってのはよくあること。
保元の乱では上皇側が夜討ちの意見具申を、これは私戦ではないって言って却下して、
夜討ちの意見具申を受け入れた天皇側に負けたしな。
けど、義経の甲冑を着てない者を射るってのはやりすぎ。
>>282 ソースは平家物語じゃん
「非難されて当然」の戦術をとったんなら
なんで物語にしか残ってないの?
物語にしかって言うけど、平家物語以外でっていうと、
玉葉に吾妻鑑に愚管抄ぐらいしか資料ないぞ。
単一の資料にしか記述がないから信用できないなんて態度を取るには、
資料が少なすぎる時代だと思うが?
玉葉や愚管抄なんか戦場での描写なんかないし、
玉葉なんか見てると、当時の京の貴族がまったく、東国や西国での合戦状況を把握できずにいることが一目瞭然。
資料にならん。
吾妻鑑は、これまた鎌倉幕府の準公式記録みたいなもんで、
これに載ってないからなかったねって言えるか?
285 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 12:00:07
資料が少なすぎっていったって常識でものをかんがえることも重要。
いくら古代だっつったって、事、殺らなきゃ殺られる「戦闘」というなかで、「公戦」だから、
水夫をこらしたら非難されるのが常識、とかあるわけない。
自分達が勝つ=生き残る、ためには奇麗事をいっていたはずない。
物語では何とでも脚色できようがね。
>>285 実際に、義経配下で壇ノ浦で海戦をした連中はそう思うかも知れない。
けどね、鎌倉方の主力は、平家の後方遮断のために九州・中国に展開した源範頼軍の連中はどう思うかな?
実際問題として、戦局は源範頼が九州で平家軍を打ち破ったとこで大きく鎌倉方に優位になった。
主戦力を率いて戦の帰趨を決定した後に、
別働隊が不名誉なことしやがって、アフォが!って思うのは不自然じゃないよね?
負けた平家側の史料がないのは分かるけど、
景時の義経批判文にもおきて破りの戦術だって批判はないじゃん
当時、非難されて当然の戦い方を義経がやったんなら
景時は絶対書いてると思うけど
源氏に不利なことでも
他の源氏兵は命令されて仕方なくやったとか
義経だけがやったとか
いくらでも書きようがある
288 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 12:48:37
平家物語読み直してみろよ
どこにも義経が舟の漕ぎ手を狙えと命じたなんて書いてない
289 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 13:41:47
>286
> 別働隊が不名誉なことしやがって、アフォが!って思うのは不自然じゃないよね?
だから、現実に命を掛けて戦ってる当時の人達が、そんなことを「不名誉なこと」とか思わけないって。
思うほうがはるかに不自然だろ。 勝たなきゃ、死ぬかもしれんことをやってるのに。
名誉を守って死ぬ云々とか言うのは、現場をしらない人たち(物語をつむいだ人達)だからだろ。
だから平家物語とかでのそういう描写としてのこっただけ。
勝てば官軍。義経の奇襲戦法だって失敗していれば後世で嘲弄の対象だっただろう
しかし義経に人望が無かったのも事実(追討令貰っても賛同した武将ゼロ)
類推としては成立するだろうな>卑怯な手
>>288 そうなんだよな
でも義経が独断でやった事実にされてる罠
つっても、最近じゃあんまり史実扱いしてる史学者いないっぽいけど
>>290 奇襲やったから水夫射殺もやってるだろうって
どんな理屈?
それに恩賞として与える土地を持ってなかったんだから
賛同する人間が少なくても当然だろ
人望云々の問題じゃないよ
292 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 18:24:52
どうして義経の舟漕ぎ手殺しをここまで語るんだろうな。
もう何人も「史実じゃない」ってここまで書きつづけているのに。
小説ソースで史料文献を否定するなら本末転倒って奴だぞ。
そもそも、義経の水夫射殺しが史実じゃないとして、なぜ物語りにそんなことが書かれるの?
判官贔屓とか悲劇の英雄とかって昔から人に愛されてた?人なんじゃなかったっけ???
それなのに『卑怯』な奇襲戦、『残酷』な掟破りなんて言われ方されるの?
どんな人がどんな意図で義経のイメージが悪くなるような事書いたのかな・・・・・・
って、この話題になる度に思ってるんだけど。。。
294 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 03:29:34
>>293 現代人の感覚で見ると卑怯に思えるけど
当時は卑怯って感覚はなかったんじゃないのかと
よく覚えてないが、平家物語って義経の戦い方を否定的には書いていなかったような
だから平家物語としては別に義経のイメージダウンを狙ったわけではなく
単に合戦の様子の一描写にすぎなかったとか
295 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 07:05:33
>>293 >当時は卑怯って感覚はなかったんじゃないのかと
はあ?
296 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 09:10:50
卑怯なわけないじゃん。 戦争なのに。
それに「平家」物語なんだから。
義経のイメージをさげる描写は何で?、と思うほうが理解不能
はあ??
どうやら、はぁはぁ しか言えない池沼が混じっているようですな。
歴史版ではめずらしい。
299 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 14:46:28
義経は東国流を体現しただけだ
義経は東国人に馬を習ったわけだから
卑怯だと思うなら
実際に当時の人間が義経の戦術を非難してる史料を出してね
うんこしたという史料が無ければ当時の人はうんこしなかったんだよ!
303 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 20:22:22
つまり義経はうんこってことか。
あのな、井沢みたいなこというなよ。
もしある史料に「うんこした」ことが書いていないなら、
・うんこしたが書かなかった
・うんこしなかった
のどちらかの可能性を考えるのが史料批判というもの。
後者なら便秘とか、食べる量が少なくてうんこしなかったとか、
原因を史料の中から捜していかなければならんのだ。
>>294 たぶんキミが読んだのは源平盛衰記のほうだろう。タイトルは平家物語かもしれないが。
その本は義経の戦術家としての才能を引き立てるために書いているところがあり、
この漕ぎ手殺しもあたかも義経が発明した新戦術扱いのはず。
既に何度も書かれているが、義経は漕ぎ手射殺を命じた記述はない。
義経が命じたわけでも
漕ぎ手射殺が実際にあったか定かなわけでもないのに
フジテレビでは卑怯者義経扱いで事実として紹介してたな
生きるか、死ぬかをガチでやってるのに、卑怯も糞もあるかよ。
306 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:11:33
卑怯か否かを語る以前の問題。
架空の出来事を真に受けて熱くなるなっちゅうの。
307 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 21:48:28
アホの溜まり場だな。
当時の合戦と現在の戦争を同一視しとんのか?
当時の合戦は、恩賞目当てに勇気のあるとこ見せなきゃならん。
だから、真っ先に突っこむことの評価が高いんで先陣争いが起きる。
武者たちにとって合戦に勝っても手柄が立てられなけりゃなんにもならん。
秋山と桜庭が闘って、油塗った秋山が勝っても卑怯者と思われるのと
同じなんだよ。元寇のときなんで御家人が苦戦したか知らんのか!
八百長=亀打=茶番=平忠盛
309 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:29:25
>>307 話の次元が違います。 アホはひっこんでいてください。
310 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:23:45
義経自身は一騎打ちとかの武勇伝が無いからねぇ。弁慶との五条大橋のは眉唾物だし
自分の弓の弱さを敵に見せたくないから流された弓矢をわざわざ拾いに行った話もある
そうなると戦術で何らかの工夫をしたと推定はされるが
だからって卑怯一辺倒だったというのも飛びすぎのような
311 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 14:07:35
まぁ
戦争のルール守らないと、自分や自分の後継者が敗けた時、ヒドイ目にあうけど
312 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 18:28:52
>310
眉唾もの以外の一騎打ちの武勇伝がある武士のほうがめずらしいだろw
義経は時代も古いしな。
宮本武蔵のような「武芸者」でもないんだし。
313 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 20:07:51
314 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:50:31
義経は漕ぎ手射殺を命じていない
よって卑怯論争は終了
315 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:45:42
源氏の兵站はどうしてたん?
関東から九州までは結構遠い。当時の輸送手段は馬だけだが。
>>312 百姓の石ころに負けたっていう多趣味なおっさんね
義経は『孫子』とか『六韜』『三略』なんかの兵法書を読んでた人だから、
個人同士の戦いよりも、集団戦というか、戦争のやり方に長けていた。
もちろん個人的にも後世の忍者に匹敵する程度の武術は身につけていたが、
彼の本領はむしろ個人戦よりも戦略・戦術。苦手なのは政治w
318 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 13:17:54
実は大将である頼範の手柄だったのを、義経が横取りしたんだよ
だから手柄が恩賞貰うための命である武士達から嫌われたんだ
上皇に取り込まれた、とされるけど実は自分からアピールしたのかもよ
319 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:18:29
>>317 室町時代に作られた荒唐無稽な話を根拠にされてもw
>>315 現地調達がメインだったんでしょう。
しかし西国は平家寄りだからこれがままならず、
範頼の遠征は苦戦の連続だった。
でも九州には過去の源氏家臣もいたから満身創痍ながら助けられたことも事実。
俺は義経が好きなんだが、ずっと昔の人だから資料もあいまいで
史実なんだか、物語なんだか区別が付かない。
このスレでも討論されてるがどの意見を信じればいいのか・・・。
最近『義経』は実は伝説上の人物なのでは???なんて思ってしまう。
弁慶に至っては。。。人間じゃないよ(´・ω・`)
321 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 21:24:37
とりあえず中公新書の「義経伝説」あたりから読んでみてよ。
どこが作り話でどこが史実か、わかりやすいと思う。
322 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 18:50:58
義経関係の史跡ではどこがオススメですかねぇ?
ちょっとした旅行にいこうかと思ってるんでさ。 源平の史跡をみてまわろうという目的をたててみたんだわ。
どっか行ってよかった〜なんてところある?
323 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:15:48
まずは平泉でしょ。中尊寺と義経の館跡。
鎌倉なら満福寺。腰越状の写し200円くらいで売ってるよ。
どうせなら平泉の藤原まつりに行ってきたら?
たしか5月3日に義経公東下り行列がある
俺は香川出身なんかだが、今年、やっと念願だった源平史蹟巡りをした。
ずっとしたいなぁ、と思っていたんだがなかなかキッカケがなくてさ。
香川での史蹟巡りは、よっぽど源平(義経)好きでないと今イチかもしれない…
交通手段もレンタサイクルしかないし、『スゲー』なんて思えるような史蹟は無い。
でも、一日かけて、自転車こいで、史蹟では当時に思いをはせ、うまいうどん食って…
俺はイイ気分転換になってよかったよ。
>>322への答えにはなっていないが香川の史蹟巡りは、なかなか機会がないとは思うが、何かの『ついで』で実施した方が良いと思われ。
326 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 22:24:06
>323-325
アリ!
やっぱり平泉ははずせないかな。 神戸あたりもいいかなぁって考えてたけど、
平泉にいくとすると今回は無理かなw 香川も、また次の機会にしよ。
レンタサイクルが近くにあるところはいいよねぇ。 見知らぬ土地で広く回るにはかかせないわ。
327 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 02:41:45
吉野も外せないぜ
みんな、京都を忘れてるよ〜\(^o^)/
329 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 17:04:23
最終点はモンゴルで
331 :
武陽陰士:2007/04/22(日) 00:39:29
>>322 鎌倉。由比ガ浜には義経の子供も埋められている‥。
義経の怨念を鎮めるために建てられた寺(跡だけ)。
鶴岡八幡宮は、あの有名な馬引きの舞台だ。
>>323 満福寺の腰越状って200円だったけ?
去年行ったんだが、もっとずっと高かったと思うが‥。
義経の手柄は範頼がいたからとも言えるかもな。苦戦したとはいえ、平家の軍を
瀬戸内、九州から孤立させたのは範頼だし。苦戦したことばかりが取り上げられて
無能だの凡庸だの言われてきたが、範頼もなかなかの武将だと思う。最近は
研究が進んで範頼もかなり再評価されてきてるから、小説や大河ドラマでも
凡庸な範頼はあまり見れなくなりそうだな。
でも実際のところ範頼が有能だったどうかまではわからん。
少なくとも水際立った指揮を見せたことは無いわけで、
そうかといってボロボロの負け戦をしたわけでもない。
苦戦したのは兵糧不足のためだし。
義経が過大評価されてた影響で相対的に過小評価されてたってところか>範頼
でも完全な敵地である瀬戸内でしかも東国の御家人たちを率いて大軍を半年維持
した能力は俺は特筆に値すると思うけどな。
しかも兵糧不足で水軍もない状況下で平家軍に戦略的脅威を与え続けたわけ
だし、結局瀬戸内と北九州という平家の陸の基盤を攻略してるからなあ。
水際立った指揮は見せてないと言われてるが一の谷では数で圧倒的に勝る
平家軍を破ってるし、どの戦でも当時の戦法を考えたら範頼は壁役として敵を引き付け
膠着させる大手の役割をきちんと果たしている。義経とはタイプが違う名将
かなと思うなあ。
>>335 なるほど。
きわめて困難な局面を破綻せず乗り切った上に、
きちんと結果も出したわけだから、凡将とはとても言えないやね。
まあ義経のような華々しい功績(1つ間違えばスタンドプレー)が
無かっただけに、どうしても相対的に低く見られてしまうんだな。
総大将が僅かな手勢とともに敵地の一番奥まで突撃していって本陣ほったらかし、は無理だろう
>>337 確かに大将がそれやったら馬鹿以外の何者でもないな
339 :
義経:2007/04/25(水) 21:29:23
わしを馬鹿というな
340 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 23:19:14
いや義経は「源平盛衰記」だと、自分は馬でも鹿でも牛でも猪でもいい、
と言っていた様な気がする。男らしいっちゃ男らしい。
範頼の初陣について誰か詳しく
たしか芦田義広との野木宮の戦いで初陣してたはず。掃討戦に参加してた
だけだけどね。
範頼の養父、高倉範季もなかなか侮れない。九条兼実の家司から後白河院庁別当になり、
平清盛のクーデター(1179年)・義経の謀叛への同意(1185年)で解官されるも、
兄の子である範子(土御門通親の室)・兼子(後鳥羽乳母・卿二位)・範光(権中納言)を
引き取り、娘の重子(修明門院)は後鳥羽上皇の第三皇子・守成(もりひら、順徳天皇)を
産んだ。陸奥守に在任中に奥州藤原氏とも交流を深めていたようで、秀衡の四男・高衡を
保護していた。
範頼って意外に単なる温厚な奴じゃないようなんだよな。先陣争いで乱闘
してるしね。
>344
そりゃ代々武勇で鳴らした清和源氏のDNA受け継いでいるわけで。
政治的立場では温厚のように振る舞うしかないけど、
それと性格は別だろう。
>>342 志太義広では?為義の息子の中で、生き残った数少ない男。「保元の乱」
「平治の乱」では参戦せず、平氏政権下では八条院領志太荘の荘官として
大きな勢力を有していた。
ああ、そうだった、志太だったな。奴も最後は哀れだったよな。
349 :
日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:59:50
で、義経は二人いたっていう説は結局の所どうなのよ?
いたよ
源九郎判官義経と山本義経
それがとうかしたか
351 :
日本@名無史さん:2007/05/31(木) 17:18:33
>350
いや、
言いたいのは、いわゆる源 義経の武勇伝として伝わっているものの中に
山本義経の行動がまじってるって説のほう。
有名な逆落とししたのは実は山本義経だったのでは? とかいうやつのほうよ。
実際のところそういった説はどれだけ支持があるのかな?って。
山本義経は、木曽義仲が後白河法皇を襲撃した「法住寺合戦」の後、若狭守に
任じられているが、その後の動向は不明。おそらく、義仲と運命を共にしたのでは?
353 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 20:39:20
大陸に渡ってジンギスカンになったのが山本義経というのは定説
354 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 22:14:18
山本山の社長がモンゴル人なのは定説
な、なんだってーーー!
356 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 22:40:04
┐('〜`;)┌ ヤレヤレ…
野木宮(志太)合戦について、基本的なことを整理すると、
寿永2(1183)年2月20日、平家軍が来襲したという情報で多くの御家人が
遠江に出撃して鎌倉が手薄になった間隙をつき、常陸で志太義広が挙兵した。
(吾妻鏡は養和元(1181)年とするが、これは編纂時のミス)
義広は八条院領志太荘の荘官であり、義仲が八条院の猶子・以仁王の遺児である
北陸宮を擁立していたことから、提携関係にあったと推測される。義広は、末代
無双の勇士(吾妻鏡)と称された足利忠綱を味方に引き入れ、大勢力となった。
頼朝は、付近にいた小山朝政と下河辺行平に迎撃を命じる。
小山氏は下野国権大介職・御厩別当職を世襲する有力在庁で、下野国の警察権・
軍事統制権を掌握していたが、朝政の父・政光が在京していて郎党の数も少なく
不利な状況だった。朝政は義広に味方するように見せかけ、野木宮で待ち構えた。
23日、義広は喜んで朝政のもとへ軍を進めるが野木宮で待ち伏せに遭い、策謀に
かけられたことを知る。義広の放った矢により朝政が落馬して重傷を負うなど、
激しい戦闘が展開される中、朝政の弟・宗政が救援に駆けつけて義広軍に攻勢に出る。
やがて、下河辺行平・八田知家・源範頼などの援軍が到着すると、義広は支えきれず敗退、
義仲のもとへ逃亡した。足利忠綱も潜伏後、西海へ落ち延びることになる。
この合戦の主将は、小山朝政だった。援軍の下河辺行平は、八条院領下河辺荘の
荘官で源頼政の郎党でもあるが、もとをたどれば小山一族。八田知家は宇都宮
朝綱の弟で、在京中の兄の代理として行動したと思われる。朝綱・知家の姉妹である
寒河尼は朝政の母であり、下野国国衙を支配する小山氏と、下野国一宮を管理する
宇都宮氏は極めて親密な関係だった。
範頼が援軍の一人となった理由として、範頼の養父・高倉範季が常陸介・上野介、
範季の養子(甥)・範光が下野守となっている事実が考えられる。国司は遙任が
一般的であるとはいっても在庁クラスの豪族との接触はあったはずで、範頼と
小山氏も範季を通して交流があったと推測される。また、小山政光の猶子に
吉見頼綱という者がいて、範頼の子孫が吉見氏を称していることから小山〜吉見〜
範頼の間に何らかのラインが存在した可能性もある。
範頼が、木曽義仲・平家討伐に西国に出陣した際は、常に小山氏が付き従った。
ただ、建久4(1193)年の範頼失脚には、小山朝政が連座した形跡がないため
両者の関係も、それほど深いものではなかったかもしれない。
希義は土佐でいきなり挙兵するんじゃなくて、なんとか
東国まで配所を脱してこれなかったのかな。
希義って「挙兵」したことになるのかな?
ものの本にはそう書いてあるけど、
実際は未然に発覚して殺害されたわけで。
希義が死んだのって、頼朝挙兵から2年近くしてじゃないか?
>>363 吾妻鏡ではそうみたいだけど、「疑わしい」という意見がある(頼朝挙兵から
2年間も無事なのは変)
「尊卑分脈」「延慶本平家物語」らの記述の方が整合性があるらしいとの事
>>362 非業の死を遂げた者の祟りがないように
せめて「挙兵した」ことにしておいたとか。
366 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 00:03:51
殺されそうなのを悟って逃亡して殺されたんだろ
367 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 19:56:06
平家って都落ちのあと、九州の拠点を失ったはずなのに、屋島の戦いでは
原田種直とかの大勢力が平家を支援して、範頼と戦っている。実は都落ちの
ときに九州の平家の拠点が失われてはいなかったってことかな?
368 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 21:38:06
福原〜屋島〜関門を抑えて制海権を確保していたから、
都の一つや二つとられても西国では強かったのかもしれないね。
369 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 00:42:50
頼朝にとってのターニングポイントは上総介広常の暗殺
370 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/06/24(日) 08:18:53
肥前の親平氏勢力は、壇ノ浦合戦後もしばらくは抵抗していますね。
371 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 21:30:57
結局肥前の親平家勢力は、誰に討伐されたんだ?
372 :
日本@名無史さん:2007/06/24(日) 22:30:38
壇ノ浦の戦後も九州に残っていた範頼ではないか
373 :
日本@名無史さん:2007/06/26(火) 14:28:06
>>359 寒川尼の実子は朝光で朝政は先妻の子というのが有力だよ
義経さん!俺味方するよ!
>>373 朝政・宗政・朝光は同母兄弟じゃなかったのか・・・。朝光が実は、頼朝と
寒河尼の間に生まれた子でした、という話は聞いたことがあるけど。
あの御仁かw
てか、希義が討たれたのが何時だったのかは別にして、
土佐出兵の方は単に屋島合戦の頃だったってことじゃない?
379 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 12:54:52
>>378 寿永元年(1182年)とするものもあるようで(ま、Wikipe なんだがw)
壇ノ浦の戦って、
一の谷で負け東瀬戸内海喪失。
屋島で負け四国喪失。
範頼の九州侵攻で九州の沿岸の喪失。
で包囲されたた平家の捨て鉢の反撃だったんだね。
>>335 あれを放置したのが、結局命とりになったね。
九州の範頼に止めをさし、九州を維持していたら
壇ノ浦で最後の決戦をしなくても済んだろうね。
滅びるのも、最後は陸上の決戦だったに違いない。
381 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 07:55:04
あげ
382 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/09/28(金) 00:06:59
「史料など読みたくないよ」、「本など買いたくないググればよい」、
などと申されし怠け者の日本史板2ちゃんねらー諸君!
10月に、吉川弘文館から『吾妻鏡』の現代語(誤!)訳が出るぞ!
これで貴様等は原文とは永久に絶縁だがな(笑)刊行に際しての推薦文には上横手先生も寄稿してるが皮肉が効いた「名文」だ!
とても推薦してるようには見えない。さすが上横手先生!イエイ!
おまえら買えよ!
俺は買わん。国史大系ほかでたくさん。
383 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 22:41:07
ぶっちゃけ 吾妻鏡って史書ですか? 軍記物? 何割りほど脚色されてるんでしょうかね。
>>383 軍記物だって史書じゃねえかよ。
良質かそうでないかの違いはあるがな。
385 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 17:30:15
とりあえず、俺は買ってみるよ。情報サントス。
386 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 18:44:37
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
387 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 09:12:43
あげ
壇ノ浦までずっと平氏に付いていって負けちゃった河内源氏の子孫が通りますよorz
389 :
日本@名無史さん:2007/11/28(水) 09:49:58
390 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 22:41:12
>320
ロングパスでもうここ見ていないだろうが、義経に関して
史実のみに絞った資料なら渡辺保氏の人物藝書『源義経』が基本かと。
物語と史実をきちんと分けつつ、伝承の解説も交えた安田元久氏の『源義経』もよい。
伝説無しの本人の性格がだいたいつかめる。『吾妻鏡』も基本ですね。
吾妻鏡の現代語訳の一巻が売ってたけど、いつ完結するか分からんし、
訳者の感性が入るのでネットや図書館で読み下し文も読んだ方がいいかと。
>>322 またロングパスだが、源平合戦最後の地・壇ノ浦のみもすそ川公園と赤間宮は行く価値あり。
壇ノ浦なので公園でやってる紙芝居では義経は悪役だが、
公園の銅像は出来がいいし、何より関門海峡の真下で、
当時と変わらないであろう急流の迫力を肌で感じられる。
で、マジで冷気が漂ってるのが赤間宮の平家一門の墓。建物の片隅の日陰で、
しかも耳なし芳一の像が異様にリアルで生々しくて怖すぎです。
下関駅のすぐ近くには義経の白旗なびかせた大歳神社もあります。
バスの一日フリー券で回れます。
関門ゆめタワーに上り損ねたのが惜しい・・。
393 :
320:2007/12/04(火) 05:49:54
>>391 うおぉ。すごいロングパスだw
時々ここをチェックしてて良かった。
吾妻鏡はネットに載ってあるのを辞書を使いながら少しずつ読み進めています。
もう少しすると沢山趣味に費やせる時間が出来ると思うので
お勧めの2冊を購入してみます。
もっと、様々な観点から考察したいと思いたので。
アドバイスありがとうございました。
また何かありましたら、よろしくお願いしますね。
394 :
391:2007/12/05(水) 21:42:43
>393
反応があるとは思わなかったw
ちょっと修正、渡辺氏の本は人物 叢書(そうしょ)シリーズで吉川弘文館です。
安田氏は新人物往来社。他にも色々出てるけど、義経記を史実扱いで
書いてる本はまず論外ですね。ありゃお話だし。
あとおすすめなのが新人物往来社「新定源平盛衰記」。
平家物語と比べて入手しにくい盛衰記が網羅されてるのと、
入手困難な「玉葉」の義経の発言が掲載されてて貴重です。
伝説抜きでも義経は充分面白いですね。戦に関しては
都落ちで足手まといの公家や妾を引き連れて、四面楚歌状態なのに
群がる敵を返り討ちにしてるし、ほんとに強い。負けた事がない。
戦でも堀川夜討ちでもつねに先頭切って飛び出してくる。
でも、政治世界においては明らかに周囲に引きずられて利用されてる。
頼朝に殺されそうになっても、何が原因かわかってないし、
法皇にも興福寺の僧にも、あんなに手柄を立てたのに何で頼朝が
褒めてくれないのかって事ばかり愚痴ってる。
あの権謀術策渦巻く世界で、この無垢さ(ウマシカとも言うが)は心洗われます。
のちの鎌倉幕府の陰惨な展開を思うと、死すべき時に死んだんだなと。
史跡もたくさんあるし、お互い義経で楽しみましょうノ
追記、古語辞典が入ってるペン入力の電子辞書も便利ですよ。
396 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 10:43:15
>>395 吾妻鏡を読むのに市販の古語辞典使う奴なんて…おまえ吾妻まともに読んじゃいないなw
そこで「壇ノ浦夜合戦記」ですよw
義仲、後白河をぶっ殺してれば英雄だったのになー。
399 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 01:39:02
400 :
日本@名無史さん:2008/01/20(日) 13:01:55
>>398 法住寺合戦で後白河が死んでた場合
後鳥羽退位→北陸宮即位
義経範頼京都進撃で北陸宮伴って都落ち?
その後どうなるんだ…
京都に帝が居なくなったら摂関家の連中も義仲と行動を共にせざるを得ないし
法住寺合戦って日本史の中でも天皇制存続が一番やばかったときだと思うww
後鳥羽も後醍醐も武家とまともに合戦はやってない
それに平家が安徳帝と神器伴って京都に帰ってくることは想定しにくいしな
402 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 13:33:16
|┃三 ガラッ! ┌───┐ミ
|┃ | あげ |
|┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____.|┃ ( ___)│ サッ
|┃= (_》 ^ω^)E)
|┃ ≡⊂ ノ
403 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 20:47:28
>>401 >後鳥羽も後醍醐も武家とまともに合戦はやってない
そりゃあ、天皇からすれば武家は自分に忠実な部下だもの。
天皇は武家を自分の私兵だと考えていたから、
自分で軍隊を持たなかっただけのこと。
404 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 13:37:25
>>403 自らが戦に巻き込まれて死亡する可能性があるほど
前線に近くに居たかどうかってことじゃないの?
405 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 16:29:02
>>404 戦は部下にやらせておけばいいんです。
天皇は血に触れると汚れるので、戦場へは行きません。
平氏によって戦場へ連行された安徳天皇はもはや天皇とは呼べませんので、
都で弟の後鳥羽天皇をたてさせていただきました。
部下‥‥
>>401 誰か代わりの皇族を立てたでしょう。
「神器と共にある天皇」がいないと、当時の日本人の世界像が崩壊します。
>>403 >自分で軍隊を持たなかっただけのこと。
公領から動員できる軍事力は自前の軍ではなかったのですか。
法住寺合戦で用意された院の(天皇の、ではないところに注目)が印地打ち
中心であったというのは有名ですが、事実の一端を反映しているとしても大
袈裟に語られたもので、正規の武士も控えていただろうと思います。
軍記物は最初から後白河が敗北するものであり、それが道理にかなっている
という感覚で語られるから、負けが必然に見えてしまいますが。
408 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/22(土) 23:55:19
409 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 04:14:31
義仲の家来の家来の末裔を自称する代々農家だった上司がいました。
数年前に退職したのですが、未だに上司面して宴会に乱入してきます。
撃退してやりたくて義仲について調べているところです。
あれこれ調べましたが、義仲関係者の中に彼の苗字は今のところ存在しません。
義仲の家来の家来だった時代から名乗り続けている苗字だと言っています。
「俺は武士の末裔」と酔う度に同じ話を聞かされます。かなり偉いそうです。
戦から逃げてきて農村に住み着いただけで、本当は高貴な血筋らしいです。
「代々畑を耕してきても気品は消えなかった」と自負しちゃってます。
義仲の家来について詳しく調べるベストな手段はなんでしょうか?
まずは木曽へ行け
411 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 18:13:21
>>409 家来の家来って時点で高貴でも何でもないがねw
とりあえず「当時の領主の文書とか、書状の類はありますか?系図見せてください」と言え。
または、なんという資料にご先祖の名字が出てるんですか?かな
で、もし文書がなかったりとかしたら「普通帰農したりした子孫とかの場合でも、文書とかが伝わってるのが
普通ですけどね、ないとしたらそいつは仮冒ですよ」といえばおk。
系図だけ出てきたりしたら「江戸時代って、系図の売買とか偽造が流行っていたんですって」と言ってやれ。
412 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/05(土) 02:05:09
>>409 調べる時点で、与太話を真に受けてるよ。
井上日召という人は、
「催眠術を疑って実際にかかりにくる人間はすでに催眠にかかってる。
本当に催眠術を疑ってる人間は催眠術を無視するし、はなから術者の側には近づいてこない」
と著書『一人一殺』で得々と書いてる。
団タクマと井上前蔵相を暗殺した若者二人の師匠(シソウした訳だな)が日召だ。
>>407 > 「神器と共にある天皇」がいないと、当時の日本人の世界像が崩壊します。
こういう言説はよく聞くけど、これ本当なのかなあ?
限られた日本人の世界像でしかないんじゃないかと思うんだけどなあ。
大部分の日本人は天皇を中心とする世界像をそれほど強固に持ってたとは思えないけど、それは素人の考え方なのかなあ……
上の論理が力づくで変わってしまえば大部分の日本人はそれに従うんじゃないか?
414 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 18:23:04
いーちーのーたーにの
いーくーさやーぶーれー
415 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 20:45:55
>>413 江戸時代の日本人は公方と天皇の違いを知らなかったものも多いというし。
大多数の農民漁民は天皇なんてどうでもよかったんではないかね。
416 :
日本@名無史さん:2008/04/09(水) 22:27:04
朱子学の説く中央集権統一国家という夢想に、天皇は神聖であるという平田神道が結合して
天皇中心の統一国家、という構想が生まれ、開国後の政情不安の中で
薩長がこれを掲げることで徳川幕府は打倒された。
農民や漁民の中には天皇なんて知らない人間もいたが、政治の場では日本の統合に天皇の存在が意識されていた。
って源平の話じゃないじゃないか。
源平合戦の頃は、院や貴族から開拓した農地を守るのが課題だったわけで。
じゃ安徳天皇を擁する平家に従うのが筋だよな
後鳥羽帝は神器が即位に必要とされて以来初の神器なし天皇だし
418 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 21:16:09
源平合戦の頃に朱子学が日本にあるわけないじゃん。
江戸時代にようやく伝わったような学問だぜ。
419 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/11(金) 00:22:53
>>418 違うでしょ。
>>416はちゃんと断り入れてるじゃない?
もう一度レス読むこと。
私もだがレスあんまり読まずに反論したりしてるよね君
420 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 00:26:25
むしろ、
>>418は、源平合戦の人々に朱子学を考えた行動をせよ、と求めている
>>417への反論と思う。
>>419はレスあんまり読まずに反論したりしてるので仕方ない
422 :
たれぱんだ ◆UCfK2Lx59s :2008/04/11(金) 22:22:11
423 :
日本@名無史さん:2008/04/11(金) 22:26:09
深読みも何も、普通に読んでれば
最初に思い浮かぶのが
>>420だと思うぞ
朱子学?何の話だ?と思ったら
>>416が入ってたのか
俺は
>>417だけど
>> 「神器と共にある天皇」がいないと、当時の日本人の世界像が崩壊します。
これを受けての書き込みね
426 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/12(土) 22:21:16
誰が誰だか分からん!
みんなうるせー\(゜□゜)/
427 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 22:59:13
428 :
日本@名無史さん:2008/04/12(土) 23:07:48
>>426 物事を論理的に思考できないバカは帰れよ。
429 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/12(土) 23:52:17
うるせー
てめえのどこが論理テキって言うんだ
おまえ一生ここにいろ
帰るな
430 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 14:17:11
431 :
日本@名無史さん:2008/04/26(土) 21:11:20
age
432 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 06:23:32
義仲軍は寄せ集めということですが、どの様な人々が集まっていたのですか?
433 :
日本@名無史さん:2008/05/02(金) 07:08:55
君と僕
武士少々、農民と山賊を沢山。
436 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/03(土) 01:10:33
で、義経は本当に馬で崖を下ったの?
重忠は馬を担いで下りた
担げるよ、重忠なら
442 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 19:56:05
日本の歴史はおもしろい
443 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 21:52:09
重忠なら余裕でしょ?
444 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 03:59:37
愛馬を背負ったって・・・
畠山重忠ってそんなにマッチョでたくましい武者だったの?
江原さんに訊きなさい
446 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 08:28:18
科挙の試験で合格し、宮廷職や武官に就くのが奈良時代の官位制。
いつからか、家柄の良い貴族(藤原氏)しか官位がもらえなくなった。
その概念を壊したのが武家の平清盛で、その後をついてきたのが源頼朝。
また武家政権から平民政権に変えたのが豊臣秀吉や石田三成で、家康が平民政権を恐れ士族政権に戻した。
だが士族封建政治に限界が来たので、坂本龍馬や伊藤博文が近代財閥政治を作った。
だが財閥政治にも限界がきたので軍人が台頭したというのが大まかな流れである。
447 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 13:33:16
坂東武者の鏡とうたわれた畠山庄司重忠は胸の筋肉を自在に動かせるド級のマッチョ。
鶴丘八幡宮での静御前の舞に合わせて全身の筋肉を動かし居並ぶ御家人たちも思わず涙した逸話は有名。
448 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 15:12:00
秩父の筋肉、工藤の鼓
449 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 19:45:04
河内源氏本流の為義の息子や孫以外に 新田・足利・佐竹・甲斐源氏・摂津源氏
美濃源氏とうじゃうじゃ居るが、伊勢平氏(平家)はどうして親戚が少ないの?
450 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:06:25
公達の一門だから
武士から権門になったから
451 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 20:40:27
鎌倉殿の御家人衆はそういった平氏だろ。
452 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 21:56:49
村岡五郎の末裔w
453 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 22:10:34
生涯検非違使判官止まりだった源為義の野望は全国六十余州に己の種を
ばら撒くことだった!?
おまいらもせくーすに励めw
454 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 00:25:59
>>451 平氏系の武士と相国入道の平家一門を一緒にするなよ
455 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 00:29:36
入りに人の
あとぞ恋いしき
456 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 03:16:01
源家平氏を滅するの最前の一箭なり
457 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 04:22:58
平氏を滅ぼしちゃダメだよ。
鎌倉殿御家人が超弱体化してしまうw
458 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 04:38:15
吾妻鏡の治承四年の一節だろ
459 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 04:41:46
伊豆の堤権守や山木判官代を襲う時の佐々木兄弟の働きを讚えるやつだよ
460 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 06:17:23
>>457 伊勢平氏の公達と東国の武士の間に同族一門意識はない
平家一門から見たら家僕同然、
東武士から見た雲の上の人たち
461 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 06:48:30
京、鎌倉、平泉
日本三大都市
462 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 07:38:21
>>460 その家僕に立場が逆転どころか滅ぼされているんだから皮肉なものだね。
平氏内でも貴族化した者と武士化した者との一つの明暗といったところか。
463 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 18:07:26
義仲スレってないんですか?
464 :
日本@名無史さん:2008/06/07(土) 18:37:04
俺、この間、義経が逆落とししたとされる山の崖を無理やり下ったよ。
まぁ、あれだ。 ジグザグに下れば馬に乗ってても大丈夫とみた。
466 :
日本@名無史さん:2008/06/10(火) 22:43:28
>>465 方向転換するため真下を向くときが最高に危険。ぜんぜん大丈夫じゃない。
>>466 >
>>465 > 方向転換するため真下を向くときが最高に危険。ぜんぜん大丈夫じゃない。
大丈夫だよ。
つーか、馬ってあれくらいの崖なら別にジグザグ走行しなくても下れるよ。
昔のロシア?の軍隊訓練でそういう訓練しているところもあるし、今でもどこかの山岳民族で、
馬に乗りながらより急な崖を平気で下って生活しているところがある。
昔の足の短い日本馬なら、それこそもっと問題にならないくらい余裕で下れたはず。
馬を担いで降りることは可能でござろうか?w
>>468 それは…たぶん無理じゃね? 暴れるでしょw
471 :
日本@名無史さん:2008/06/11(水) 17:28:07
>>467 その民族は出来るだろうけど日本人には無理なんじゃね?
ちなみに俺はスキーのインストラクターしたことあるが、
そのジグザグ滑降でターンの時に転んで大怪我をした人を何人か見ている。
>>471 >
>>467 > その民族は出来るだろうけど日本人には無理なんじゃね?
やるのは馬じゃんw
それに昔の日本産馬の日本人の乗り手の実力をアンタは知ってるの?
壇ノ浦の海底って発掘調査とかされたことあるの?
海底だったかか知らんが、壇ノ浦からは中世の骨がわんさか出てきたと下関のHPで見たな。
他にこの時代の骨の発掘が多いのが鎌倉。まあ当然だな。どれも普通に反っ歯らしい。
>>474 ほぅ…
それなら骨以外も色々みつかりそうな気がするけどなぁ。
でも、日本人の気質としてあんまりそういう事がしないんだろうな。
タブーというかなんと言うか怨霊信仰みたいなものがあるんだろう。
>>475 単に壇ノ浦を徹底調査するメリットがないだけ。
平家埋蔵金が一緒に沈んでいて糸井重里が…という
展開でもない限りは。
もしかしたら草薙の剣が沈んでるかもしれないのにメリットないだと!?
>>474 鎌倉は凄いよね
一度見た事あるけど、人骨ゴロゴロ。そんな事知らずにネーチャン達が夜中にアヘアヘやってるんだよな
>>477 潮流が激しいから殆ど流されていると思った方がいいよ
落ち武者が鯨に飲み込まれて、その子孫が鯨の胃の中で今も繁栄している可能性は否定できない。
しかし何だって芭蕉はあんなに義仲が好きなんだろう。
てか、自称義仲関係者によく出会う。
483 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 01:31:17
大石も木曽自称してるし武家には人気あるんだよ
清水とかも
484 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 09:59:54
そんな手垢の付いた今更な俗説を得意げに披露されてもねえ。夏休みも近いからか。
486 :
日本@名無史さん:2008/07/10(木) 21:11:49
頼朝の人格のほうがおかしい
頼朝なんて現代に居れば犯罪者レベル
488 :
日本@名無史さん:2008/07/11(金) 14:13:27
義経の出っ歯は後世の作り話ではないのか?
平家物語でチビで出っ歯らしい、と平盛嗣が言ってるだけで
そいつも義経の顔知ってる訳じゃない。そもそも史料に義経の容姿に
関する記録はない。二年も貴族社会に接してるんだから、そんなに
目立つ特徴があれば貴族の誰かが書いてるだろう。
時政なんかは兼実に田舎モンだなと書かれたりしてる。
見た目に関しては特段書くこともない程度のそこら辺の兄ちゃんって感じじゃないの。
490 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 01:03:00
源平の合戦で平家が勝利してたら、
世の中まったく違ってたんだよねぇ
俺の人生も違うものだったのだろうか??
491 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 01:10:42
君なんて存在していないよ
鎌倉はここ掘れワンワンで骨が出てくる武の都
当時の日本人はみんな汚いガタガタの歯してただろうからな。
当然義経もそんな感じではあっただろう。
頼朝は虫歯に悩まされ、奥州藤原秀衡と基衡は激しく歯槽膿漏だったとか。
いいもん食ってる権力者だからかなー。
495 :
日本@名無史さん:2008/08/12(火) 18:27:23
奥富敬之氏が死んだらしいけど
奥富ってこのスレ的にはどうなの?
496 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/12(火) 23:51:41
>>495 どうなのってのが意味不明だよ
どうなの?
497 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 01:10:46
今年3月奥富が笑っていいとも出てたぞ
人の良さそうなじーさんだった。
498 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/13(水) 01:17:35
499 :
日本@名無史さん:2008/08/13(水) 23:43:33
偉人の好きな食べ物クイズで頼朝が扱われていたので。
爆問太田に「源氏パイ」とからかわれてた
500 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/13(水) 23:48:02
鳩サブレ
502 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 02:49:29
話は変わるが「壇の浦夜枕合戦記」をはじめてみた。
これがうわさの風間杜夫演じる義経かと驚嘆したよ。
能登殿の最期や維盛入水などもきっちり描かれていたが、この映画
平家方の連中はいろんな意味で泣いてばっかりだなw
503 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 17:47:52
ご先祖様が義仲軍から離脱して帰農したせいで農民になっちゃった・・
本当は武士だったはずなのにもったいない
504 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:53:31
義仲軍に留まっていたらご先祖様は生き長らえなかったぞ。
結果として貴殿と言う子孫も残らなかった可能性が高い。
ご先祖様の英断に感謝しようぜ。
505 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 00:23:48
てか義仲軍に参戦する前も農民。
もしくは山賊の類の可能性もあるぞ。
義仲に着いていった無名の雑兵なんて農民以下。
巴御前でさえ実在したかどうか怪しいのだ。
義仲関連の多くは架空の人物に過ぎない。
当時は「農民」などいません
「武士」といえるのも極一部でしたよ。
509 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 17:37:23
510 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 18:40:23
一応言っとくけど家の子朗党も武士ですから
511 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 19:41:12
当時は兵農未分離
平時は百姓をやって戦になると武具を身に付ける連中も多かった
だいたい平清盛や源頼朝だって武士か貴族か微妙なところだ
512 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 21:20:54
この時代に武装して戦ったからといっていわゆる武士とは別物でしょ。
勝ち組の百姓が「のちの武士である(笑)」なだけじゃね?
もちろん源平の皆さんは別格ということで。
514 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 00:30:36
義仲関連伝説と平家落人伝説の大半は作り話です。
村興しの一貫として捏造されたのかもしれません。
そらそうだろうな。源平期の人物の子孫ってのは
自称や伝承と割り切ってるならまだいいが、
那須与一とか実在かも不明な人物の子孫、
だと言ってWikiで暴れるような輩は基地外だよ。
自分は那須与一の直系子孫です、系図も伝わってます!
って言い切ってるのが怖い。そんな系図はいくらでも作れるっての。
516 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 14:39:22
那須与一の家来の子孫みたいな証拠が0.001gもないような与太話も絶えない。
農具片手に戦に参加しただけで自称武士の子孫だし。
>>503とか。
戦から逃げて帰農したなんて話は一番使い易い作り話なんだよ。
517 :
日本@名無史さん:2008/09/06(土) 18:05:56
お前らきびしーなぁ
駄目人間の唯一の心の拠が捏造ご先祖様なんだぞ!
吉備cぃぃぃぃぃ!!!
519 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 16:39:13
俺が霧隠才蔵の12代目ってのはガチ。
家系図あるしな。
足利の末裔を自称する細川や佐々木の末裔を自称する京極くらいしか、断言はできないんじゃ?
毛利が大江の末裔、小早川が土肥の末裔なのは、どのくらいの信憑性?
>>520 本姓が大江であると言うのと土肥の裔なので平氏である
と言うのと(おそらく後者は本姓を平氏にしたいから土肥の裔を名乗ってる)
若干ニュアンス違うくない?
大江姓の場合マイナーで(源平藤橘に比べて)あんまりメリットありそうじゃないから
信憑性があるっちゃあるんじゃないか?
少なくとも後者の信長が平氏や家康が源氏を名乗ったのと同じ物に比べたら
ちなみに小早川の祖の景平は土肥遠平の養子で実父は平賀義信。
平氏よりも新羅三郎義光流の清和源氏と名乗った方が実は有り難味あったかも知れんな。
>>522 瀬戸内海に面した三原で水軍稼業なら源姓より平氏を名乗った方が
何かと都合良かったのではないかと思う
524 :
日本@名無史さん:2008/10/23(木) 09:45:26
清盛の弟、頼盛の子孫はどこが嫡流なのか
光盛の系統は断絶したし
池氏についても顕盛以降はよく分からない
テレ東の番組で
比企一族は朝鮮からの渡来系って言っていたけど
それってどのくらい信憑性のある話なんですか?
比企は吾妻鏡も藤内って書かれてる藤原系ですが。
>>525 根拠はなんて言ってたの?
というか、このテの話は民放お得意の「家光の実母は春日局だった」
とか「家康と信玄は親子だった」とかと同類だと思っていいと思う。
まあ、最近は千葉氏やら関東の八平氏などを古代豪族の裔と
言いたがっている学者さんもいるようだが。
>>527 確か、比企氏の勢力圏に高麗の地名があったり
高麗神社があったりしたからだったような
まぁつまり根拠らしい根拠はないんだけどさ
>比企氏の勢力圏に高麗の地名があったり高麗神社があったりしたから
まともな歴史教育を受けた香具師なら、「古代に朝鮮系の渡来人が多く入植した地域をたまたま比企氏が領地にしていただけだろ」と突っ込みを入れるところだな
530 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:46:57
桓武平氏嫡流伊勢氏
531 :
日本@名無史さん:2008/11/05(水) 01:52:32
江戸時代に火はどうやって起こしてたかわかりますか?
>>528 というか比企郡と高麗郡て
近いけど被ってなくね?
新羅三郎の子孫である武田家が、半島からの渡来人とか言う説もあるんかね
2ちゃんではたまに見る説だな。
>>531 消さないように種火を常に残しておいたんだよ。
536 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 19:17:00
平頼盛の子孫である池顕盛についてだけど、子供はいなかったのかな?
537 :
日本@名無史さん:2008/12/02(火) 04:17:31
源平は80年代は人気があったように感じるが
落ちたよね
>>534 2chでなく、あの国のハプキド団体が主張している電波。
てか、他のなんちゃって朝鮮式武道の中でも、ハプキド団体の主張は、
コムドの団体と双璧と言っていいほどイカレている。
高句麗の壁画を根拠にこれがハプキドの起源と主張 >テコンドーの起源にも使われる万能壁画
→新羅の花郎の間で広まる >花郎は歌舞の団体を日本の武士の起源としても使われる
→渡来人、新羅のサムラン(新羅三郎義光)が大東流を創始 >これを主張した馬鹿は八幡太郎も賀茂次郎もしらなかったんだろうが馬鹿すぎ
→朝鮮では李氏朝鮮の文治主義で廃れるが、
文禄慶長の役ではハプキド使いの民衆が大活躍で日本を撃退 >日本史だけでなく自国の歴史に無知なのは、どうよ
→明治45年、日本人の菓子屋に拉致され日本に来た8歳の崔龍述が、
その誘拐した菓子屋の養子となれとの要求を拒絶して家出、 >誘拐されたとか、それを養子とか、人を悪し様に語って嫌うなと言う方が無理
寺に保護されて、武田惣角の内弟子となり、
大東流合気柔術を学んで武田の一番弟子となり、 >これも勿論嘘
日本の敗戦後に韓国に戻りハプキドを始める。
→植芝盛平の合気道より、ハプキドの方が正統
この最初っから最後まで嘘まみれの糞電波を「説」などと言っちゃあいかんだろ。
540 :
日本@名無史さん:2008/12/10(水) 04:58:42
義経が緒方三郎惟栄と合流していたらどうなってたかな?
九州だったら速攻殺されて首突き出されてたと思う。>義経
そもそも豊後武士は院や国司絡みで義経につきあった感じでやる気ないし
義経に義理もなければ得にもならん。少年期から縁故があって
勢力大だった奥州だから多少は持ったんだと思う。
542 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 01:37:31
富士川は平2000、源40000だったら包囲殲滅される前に撤退して大正解だろうに
水鳥で逃げるとかなんで馬鹿にされてるの?
勝ち目がない戦闘をプライドを捨てて避けた維盛は英断だろ
この頃は戦いのルールが厳格で
戦場に着いたら情勢不利だから、戦わないというのは
臆病者と認識されていたのでは
>>542 撤退ではなく、戦う前に潰走だからでは?
敵兵が凄い数だってわかったから
こりゃ無理だわって撤退したのを「トンズラ」と宣伝されたって説もある
鳥の羽音で「敵来る」って気付いて調べたらすごい数だったから
囲まれる前に引くべきとかなんとか
546 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 12:41:09
「富士川の戦い」について、同時代の貴族の日記を見ると
『玉葉』は戦略的撤退、『山槐記』『吉記』は潰走という描写。
『山槐記』は潰走の理由を水鳥の羽音とするが、『吉記』は
宿館の失火が原因とする。
また、敵軍の兵力を『玉葉』は「武田方四万余」とするが、
『山槐記』は「頼朝党数万騎」としている。
それぞれの内容が異なることから、京に入ってくる情報が
かなり錯綜していた模様。
富士川の戦いの真の勝者は甲斐源氏。
富士川の戦い以後の東国勢力の任官を見ると
源氏一族で占められている。その源氏一族というのは、
実はほとんどが甲斐源氏。
源三位頼政亡き今、われこそが源氏の嫡流よ棟梁よと
諸国源氏が立ち上がった。その主だった面々としては
近江の山本義経、木曽の義仲、新宮十郎行行家や伊豆の頼朝らがいたが、
彼らを差し置いて最大の政治的脚光を浴びたのが
甲斐源氏ということになる。
甲斐源氏の版図を見ると、甲斐・信濃・遠江・武蔵と
ほぼ東山道、東海道を遮断している。
武田信玄の最大版図をもしのぐ甲斐源氏最盛期を現出したとも言えるのではないか。
三方ヶ原の戦いよりも中央政界へ与えた政治的衝撃は強かったと思える。
院の覚えも高いし、朝廷としては
おそらく平氏にも頼朝にも蓋をしてくれる勢力として
甲斐源氏に相当期待していたのではないか。
549 :
日本@名無史さん:2008/12/13(土) 17:12:00
>>548 >>実はほとんどが甲斐源氏。
安田親子と加賀美以外誰?
>>甲斐源氏の版図を見ると、甲斐・信濃・遠江・武蔵
甲斐源氏が信濃と武蔵を抑えてたんだっけ?
>>547 部下ともども勝ち目がない戦いで
なすすべもなく囲まれて嬲り殺され全滅するよりまし
斎藤実盛も生きて帰れたし
平氏軍の撤退を決めさせたのは侍大将の藤原忠清、周りも
引き返そうと言ってんのに維盛はグズグズ渋っていた。
総大将がさっさと状況を見て早期に撤退を決断しておけば
いらん犠牲も出さず、後世に残る醜態も晒さなかった事だろう。
そもそも出発の時から総大将と侍大将で揉めてモタモタしてる
間に反乱の規模が広がりまくり。倶利伽羅峠も総大将維盛と
侍大将が揉めて壊滅的大敗。
平氏の平維盛、源氏の源行家は源平二大無能武将。
行家は兵隊集めるまでは凄く優秀。御曹司と一緒にしてはしけない。
集めた兵を生かせず全敗してりゃ意味ありませんがな。
しかし行家はいいキャラだよな・・。役割重要なんだけど疫病神w
物語より史料そのままの方がキャラ立ちしてるという。
行家の熊野時代の様子が分る史料はないのかな。
さぞ屈折した青年時代を送ってそうな。
大坂の陣ででてくる大坂方の新宮行朝って子孫なの?
千姫を弟だかが回収したので助命されてるんだが
新撰組はそもそも京都ではそんなに人気無いだろ
↑誤爆
559 :
日本@名無史さん:2009/02/04(水) 23:14:33
今日のその時歴史が動いたで義朝のことやってた
・義朝は為義の嫡流
・義朝が東国へ行かされたのは、腐敗した貴族から離れて自由に育って欲しいから
・平治の乱は義朝VS清盛の戦い
・当時、武士は貴族の犬扱いで義朝はそんな武士を解放しようとした
↑ここら辺、気になった
実際こういう解釈であってんの?
でたらめもいいところだ
561 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 02:35:39
やっぱ頭ノ殿はかっこいい
562 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:00:39
きのうの「その歴」は近年まれに見るトンデモだったな
いや、近年のNHKらしさにあふれていたと言うべきか・・・。
563 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:11:49
「その歴」
義朝は貴族たちに踊らされていたすぎないのに
まるで自分が政治の実権を握ったかのように思いあがり
上皇や天皇を幽閉して横暴の限りをつくして貴族たちに裏切られ
後白河上皇の義朝追討の命を受けた平清盛に滅ぼされた
というところはあっていたのかも。
564 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 21:37:52
>>563 まあ,ヤクザより質の悪い旦那衆に踊らされた田舎ヤクザか鉄砲玉って感じだったよね。
まあ「その時」はそんなもんかと。
義朝の心底は誰にもわからねえ
568 :
日本@名無史さん:2009/02/06(金) 01:30:40
さすが頭ノ殿
為義すら、源氏の嫡流だったか怪しいとか言われてるみたいなのかな。頼朝が武家の棟梁になったから、後付けで嫡流と言う事にされたとか
とりあえず為義の後継者候補は、義仲の父じゃなかったっけ?
「人を殺して叙位されるのなら、井戸を叙位してやれ(#゚Д゚)ゴルァ!! (by 藤原伊通)」
571 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 20:52:32
>>569 義仲の父(義賢)は、近衛天皇の元で帯刀先生の官位を得たもののわずか一年でそれを失い
東国への下向を余儀無くされている。(罪人を匿ったのが原因らしいが)
その後は父と共に藤原頼長に仕えていた四男の頼賢が後継者と目されたが、
こちらは義賢が甥の義平に殺された際に仇を取ろうとして(頼賢は兄義賢の養子になっていた)院の荘園を侵害したため、
逆に頼賢追討の院宣を受けた義朝によって討ち取られている。
これで義朝はやっと正式に家督を継いで棟梁になれたのだが、父為義との間には大きな溝が生じてしまう。
保元の乱で親子ながら敵同士になったのにはこのような事情も原因の一つとなっている。
572 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 11:36:32
平氏は奥州との同盟関係をもっと上手く使えなかったのかな?
秀平が平氏に見切りを付けていたのか?
573 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 13:35:58
義友を殺害した人物は頼朝に使えた時に、
「必死に働けば貴方にミノオワリを与える」
と言われて働いたら切腹をする運命になったとか…
美濃尾張=×
身の終わり=○
命で言葉遊びするとは、恐るべし頼朝!
574 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 17:53:42
>逆に頼賢追討の院宣を受けた義朝によって討ち取られている。
この時は合戦には至っていない。
現に頼賢は保元の乱に参加し、船岡山で為義と共に斬首されている。
(兵範記保元元年7月30日条)
575 :
571:2009/02/09(月) 21:00:55
ごめん、この時は討ち取られたんじゃなかったのか。ちょっと勘違いしてたな。
しかし保元の乱は、嫡流の義朝が勝った方に付いたから良かったようなものの
下手すりゃあの時点で源氏はお終いだったかもしれんのだよな。
為義も息子ほぼ全部引き連れて祟徳上皇側に付かなくてもいいだろうに。
万一敗れた時の事を考えなかったのか。
そんなことを考えられないほど、義朝とアンチ義朝に分かれていたのかな
577 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 21:41:09
つ「保元・平治の乱を読みなおす」元木泰雄(NHKブックス)
志田義広(為義三男)は中立だったから、全滅にはならないでしょう。
579 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:17:54
義広は中立というかモロに平家寄りでしょ。頼朝が富士川の戦で勝ってからも
しつこく敵対し続けて結局滅ぼされてるし。(常陸国の佐竹もだが)
もし義朝も保元の乱で死んでいたら、他に生き残ってるのは行家ぐらいのもんだな。
後は義朝の子達だが、長男の義平でさえまだ十代。他は子供ばかりで問題にもならない。
これじゃどう考えても平家には太刀打ち出来んだろう。
580 :
日本@名無史さん:2009/02/09(月) 23:56:13
奥州藤原氏は、どう立ち回っても滅亡は防げなかったのかな?
頼朝に完全に臣従、義経を中心にした先制攻撃、平氏に呼応して鎌倉挟撃等。
朝廷とのパイプは最後まで保っていたのにな…
>>580 頼朝が、義家の故事にこだわっていたという説が本当なら、必然だったね。
生き残るには、頼朝が弱小のうちに、佐竹との提携を強化し、義経を斬ってでも頼朝討伐軍を派遣すべきだった。
この時期の武田って頼朝とか義仲と同格の、しかも結構大勢力だったはずだけど
後世の目からは全く消えてしまってるのがカワイソス
後に信玄が現われなかったら、歴史に名を残すことなくほろんだんだろうな
>>579 義広は八条院領常陸国信太荘の荘官だから、親平氏派ではなく
八条院派なのでは?頼朝挙兵の時は形勢を観望しているし、
平氏と親密な関係とは思えません。義広が頼朝に敵対したのは
「富士川の戦い」から2年以上経過した、寿永2年(1183年)。
確か佐竹征伐の時は、常陸国府あたりで頼朝と会見していたはず。
義広は「反義朝」。
常陸に下向したのも関東での義朝の影響力拡大を阻止するため。
義朝の息子の頼朝より、仲が良かった亡兄頼堅の忘れ形見、義仲寄り。
585 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 11:33:55
>>584 これはどういう形で伝わっているんだろう?
>仲が良かった亡兄頼堅
ま、これは「義賢」のあやまりだろうけど・・・。
仲が良かったってのは、なにかの伝承?
同母じゃないの?>義広と義賢
まあ、反義朝=反頼朝で頼朝傘下の豪族と
領地で衝突する以上、義広の行き先は他にないだろうな。
行家は義仲と超険悪になったが、義広は為義の三男で
末子の行家よりかなり年上だろうに、行家のように
出しゃばった形跡はないし、義仲を支えてた感じ。
令旨を回した自負なんだろうけど、行家はどう見ても人間性に問題があるわなw
速攻叩き出した頼朝は正しかったわ。
587 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 01:13:05
諸国の源氏に令旨を届けるという役目を仰せ付かったのが余程嬉しかったのか、
それを道中不用意に口外してしまうようなバカだからな>行家
こういう事だからこそ秘密を要するなんてのは子供でも解るのに。
おかげで打倒平家の火付け役になった頼政の挙兵はあえなく失敗。
以仁王まで死ぬという最悪の結果を招くのだから救いようが無い。
ただ頼政の挙兵が成功していたら以仁王は晴れて天皇になり、頼政は清盛を蹴落として
太政大臣になっていただろうから、あるいは以後源氏の嫡流は頼光の子孫である頼政−仲綱(摂津源氏)の方に
移っていたかも?
(本来血筋としてはこちらが上だからな。頼光は満仲の長男だが、頼朝の先祖になる頼信は満仲の三男にすぎない)
588 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 22:27:18
>>587 >以仁王は晴れて天皇になり
以仁王は皇位継承権のない王。
兄弟に皇位継承権を持つ親王はいくらでもいたのに、
父の後白河法皇がそれを許すかな?
この時代の源氏も挙兵の動機がほしいために貴人に近づくが、
頼政が命に代えても必ず以仁王を帝位につけるという気概があったとは思えない。
結局政権が転がり込めば天皇は誰でもいいのが武家だから。
589 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/02/12(木) 23:59:32
頼政挙兵参加は義理だよ。
近現代(江戸時代も?)武家観でみちゃだめだ
590 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:42:25
>>587 ちょいと「軍記物」に影響受けすぎじゃね?
591 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 01:06:06
>>588 頼政が以仁王をどう思っていようと、もし頼政が平家を倒したら
行きがかり上、以仁王を立てる以外になかったのは明らかだと思うけど?
親王宣下を受けてないなんてのは、単に受ければ済むだけの話で。
清盛自身がそうしたように、武力と権力さえあれば大抵のことはできるよ。
頼政の軍事力で平家が倒せると思ってんの。
なんか、とんでも歴史の世界に入っちゃってるな。
593 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 11:25:52
>>592 頼朝だって挙兵したときの兵は北条氏を中心とする50人ばかりだよ。
頼政子飼いの軍事力だけではダメでも、例えば山本とかの近江源氏、
石川とかの河内源氏などとうまく連携できれば、もう少し
がんばれたと思うが。
594 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:49:10
頼政は源氏の中でも傍系
しかも70歳過ぎた爺さんだ
戦で死ななくても当時だと寿命で死んでそうな年齢
挙兵はいわば死ぬ前に一旗上げよう的な発想で死への餞
頼政自身勝てるとは思っていなかっただろうし
勝ったらどうしようなんて考えてなかったと思うよ
595 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 20:52:09
>>591 以仁王も令旨では、ただただ、平氏に幽閉された父宮
後白河法皇をお助けしたい、だから世の源氏よ、兵をあげよ、なんて言ってるけど、
本当は自分が天皇になりたいだけで父などどうでもよかった、と。
院政しかれるくらいなら、後白河には一生幽閉されてていただきたかったんじゃないの?
596 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 21:28:46
>>569 >>571 ほんとうに正統、嫡流なんてあんまり信じられないね。
一番ひどいのは鎌倉がすべて正しいと言わんばかりの吾妻鏡。
実は曲筆だらけではないかと吾妻鏡のどれもこれも疑わしくなってくる。
頼朝がすんでのところで野垂れ死にするところだった石橋山の敗戦。
窮地の頼朝を救ったのは、俣野らを打ち破って、怒涛の如く駿河に雪崩れ込んだ甲斐源氏。
そして遠江を勝ち取り、その後自身の判断で東海道を攻め上った安田義定。
この働きがあってこそ義仲政権が京に誕生したのに、
信義が駿河守護、義定がが遠江守護に鎌倉から任ぜられたというのは
あまりに程度がひどすぎる公史編纂ではないか?
597 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 09:58:53
>>559 院の近臣の娘を母にする義朝を廃嫡し東国に行かせたという説のほうが有力
598 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 10:02:28
599 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 11:01:09
>>596 むかし、「ひこよし」とかいう一派がいて、
甲斐源氏、甲斐源氏とわめいていたらしい。
結局定着しなかったのは、どうして?
甲斐源氏の一族「ひよこ氏」 に見えたw
>>595 二条の時は二条親政派みたいなのがいたけど、以仁王には
そんなのいたの。八条院の後押しはあったかもしれんが。
602 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 20:58:50
>>601 以仁王はもともと帝位から遠かったので誰も即位するとは思わず
接近するものもいなかった。
八条女院が以仁王を猶子にしていたというのも、
勝手に預けられていた寺から出て還俗した以仁王が
私に八条女院に仕える女房に通って子を産ませたために、
八条女院が同情して生まれた子の扶養を申し出たためらしい。
鳥羽上皇最愛の皇女で莫大な遺産をもつ八条女院のもとにあれば
帝位の望みもそのうち達せられるという思いだったのかもしれない。
八条女院が女房が産んだ以仁王の子を屋敷内に匿っていたのは事実だが
彼女が積極的に政治に介入した様子はなく、
一説に以仁王を使って平家滅亡を命じたのは八条女院であるという説もあるが
説は薄い。
>>602 八条院が積極的に政治に介入した様子はないと言っても、以仁王の挙兵に
八条院関係者がやたら多いのも事実(源頼政、仲家、下河辺行義、矢田義清)。
以仁王の令旨をばらまいた行家も八条院蔵人に任じられているし、完全に
無関係とも思えない。軍資金ぐらいは出したんじゃないかな?
604 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 12:38:07
八条院は「サロンの主催者でパトロン」ぐらいの立場だったんじゃないのかな。
それらを以仁王が利用したとかさ。
605 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 13:39:44
>>603 源頼政や仲家らの武士も、以仁王も、
みんな八条女院の財産を当てにして勝手に向こうからやってきたんだしさ。
頼政はおこぼれにあずかろうと最初は美福門院に接近、
その後鳥羽院と美福門院の財産の多くを引き継いだ八条女院のもとへも出入りしたが、
八条女院のほうから私の部下になれと主従関係を結んでいたわけではない。
八条女院のもとへ出入りするうちに以仁王が適当な武士はいないか物色したことはあるかも知れんが
勝手にやったことでしょう。
606 :
日本@名無史さん:2009/02/18(水) 00:44:34
義経は偽者らしいよ。
見てないが、どうせ杉目か山本だろw
以仁王の挙兵は早期に露見していなければ、興福寺・園城寺を巻き込み
全国の八条院領荘園の武士も動員する大規模な蜂起になっていたという
見方もある。行家が八条院蔵人に任じられたのも、闇雲に諸国の源氏に
令旨を届けたというより、主に八条院領荘園を対象にしていたとすれば
合点がいくので、八条院黒幕説も捨て難いと思うんですが。
609 :
日本@名無史さん:2009/02/19(木) 14:43:55
>>608 八条女院が平家追討に一役かっていたのならば
源氏はもっと八条女院のために尽くしてよいはず。
源頼朝なんかも以仁王の令旨を決起の根拠の一つにあげているのだから、
まず入京したら八条女院のもとへ挨拶に伺い、
戦に勝った暁には八条女院に所領を寄進するなり
八条女院に即位いただくか院政を請うなり、使い方はあったと思うんだよね。
ただ、源氏はあまりに冷淡で、八条女院には何ら恩恵を与えていない。
「たまきはる」を読むと八条女院はおおらかで本当にお姫様だったようで、
諸国の武士をしたがえて日本を我がものにすると言った感じではないんだよね。
八条女院に仕える下っ端が何をやったかは知らんが、八条女院自身はカヤの外だったと思う。
源氏の世になったところで八条女院に指示を仰ぎ、
八条女院のもとに源氏の兵が集ったとは書いてないから。
頼朝は上西門院とのつながりが深いようなので、八条院とは疎遠だったかも
しれません。ただ鎌倉時代に八条院領が増え続けたのも事実。八条院は
後白河・平氏・鎌倉幕府とも互角に渡り合える独立勢力だったように
思います。敵にすると面倒な存在といった感じで。『たまきはる』を読むと
八条院は鷹揚でルーズなおばさんのイメージですが。
最近司馬遼太郎の義経を読んで、彼が主人公のゲームをやってみたいと思い、近所の歴史ゲームのコーナーを見てみたんだが、結構いっぱいあるのねw
皆さんの中でオヌヌメの義経ゲーってある?
>>611 機動戦士ヨシツネ00(ダブルオー)
天空の壇ノ浦決戦!
「平家を駆逐するっ!」
以下ゲームの話は禁止
|:;:;:;;:;:;:;:;:i;:;::::;:;|
|;:;:_:_;:;_:;:l:;_:_;:_;|
|___|__|
/ ・ ・ \
/ (●) (●) \
| (__人__) |
\________/
/|├┤├┤|\
614 :
日本@名無史さん:2009/04/13(月) 20:12:48
w
615 :
日本@名無史さん:2009/06/03(水) 14:06:45
616 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 18:08:20
義経が最初平泉に行ったとき、
どうして本物とわかったんだろ?
知ってる人、教えて。
617 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:27:20
八条女院の書状
伝説では金売り吉次が連れてきた
618 :
日本@名無史さん:2009/06/04(木) 19:31:57
>>616 いきなり訪ねて行ったわけではないのでわかるだろ
__.. -―─ 、__
/` 三ミー ヘ、_
ゝ' ;; ,, , ,, ミミ , il ゙Z,
_〉,.. ////, ,彡ffッィ彡从j彡
〉,ィiiif , ,, 'ノ川jノ川; :.`フ公)了 逆に考えるんだ、ジョジョ
\.:.:.:i=珍/二''=く、 !ノ一ヾ゙;.;.;)
く:.:.:.:lムjイ rfモテ〉゙} ijィtケ 1イ'´ 藤原秀衡のほうが義経を招いたと
〕:.:.|,Y!:!、 ニ '、 ; |`ニ イj'
{:.:.:j {: :} ` 、_{__} /ノ 秀衡の岳父藤原基成の従兄弟は藤原長成
〉イ 、゙! ,ィ__三ー、 j′
,{ \ ミ \ ゝ' ェェ' `' / その妻は常盤御前、すなわち義経の生母だ
-‐' \ \ ヽ\ 彡 イ-、
\ \.ヽゝ‐‐‐升 ト、 ヽ、__ そのような人間関係も考慮に入れるべきだろうね
\ ヽ- 、.// j!:.} ` ー 、
ヽ\ 厶_r__ハ/!:.{
´ / ! ヽ
620 :
日本@名無史さん:2009/06/05(金) 20:18:42
>618
つまり619さんが書いてるようなこと?
>619
d
621 :
日本@名無史さん:2009/06/10(水) 19:48:38
622 :
日本@名無史さん:2009/09/22(火) 12:25:04
623 :
日本@名無史さん:2009/09/22(火) 22:29:50
>>616 養父の一条長成が親戚の藤原基成に頼んだからだろう
一条家といえば頼朝が、能成を殺さなかったのがよく分からないな。
義経の弟にして有力な公家なんて厄介極まりないのでは。
相手が武家でなければ過激なことはしないということか?
保元・平治の乱
↓
清盛覇権
↓
追討令、治承・寿永の乱
↓
頼朝覇権
↓
追討令、承久の変
と考えると承久の変に参加したのは平氏の生き残りなんでしょうか
生き残りってどの範囲を言うのか知らないけど、
一般的には北面・西面の武士と在京の御家人でしょ?
佐々木経高、三浦胤義、大江親広とかも京方に参加してるけど
627 :
日本@名無史さん:2009/11/23(月) 16:56:25
>>626 平家の残党といえる連中よりも、在京していて院近臣なんかと近い連中や、
西国の御家人といったところかな。
まあ強いて平家ゆかりの人物というと、高倉範茂室が平知盛の息女というところか。
頼盛の孫の保教は?
頼盛の系統は「平家の残党」と言えるんだろうか?
>>629 平家の一人として大納言にまでなった。
処世術を駆使して生き残ったとしてもその事実に影響するものではない。
631 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 10:39:00
平知章の墓は偽物
>>625みたいな人の頭では平氏は滅んだことになってるのか?
頼朝に協力した坂東平氏は平氏じゃないのか?
正直、源平合戦って名称自体に違和感がある。
源平合戦という名称自体、今では廃れつつある。
やはり「治承・寿永の乱」が適切。
伊豆、相模、房総まではある程度固めてたとして、敵地の武蔵がやっぱりカギだよね。
江戸重長を切り崩しの最大ターゲットにしてるような。
舘鼻誠が言う通り、江戸湾を水軍で封鎖して物資搬入を阻止して帰順に追い込んだのか。
でも江戸氏って水軍持ってなかったのか?
『延慶本平家物語』では、江戸重長が隅田川に浮橋を組んで頼朝軍を
武蔵国に迎え入れたとあるが、水軍と呼べるほど多くの船は保持して
いなかったんじゃないかな。水軍があれば、衣笠城陥落後に安房に
脱出した三浦残党を追撃できただろうし。
636 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 19:32:44
俺は浄海入道は絶対に白河院の子供だと思う。一般に壇ノ浦の合戦で「平家
滅亡」という事になってるが、厳密には滅亡はしていない。確かに討ち死に
(清盛の弟(?)・経盛・教盛等)や後に餓死・処刑(平盛国・平重衡)した者もいるが、
許されて生き残っているものも普通にいる(平頼盛やその子息ら、平徳子等)
637 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 19:45:46
連投すまん。重盛の孫にあたる源智なども生き残っている。そしてあまり知られて
いないが清盛の十一男・平能衡(長野氏?の祖)など普通に生き残っている。
もし清盛が白河院の落胤説が事実なら、清盛は白河法皇の子にあたり、重盛等
清盛の子らは孫にあたる事になる。この説が真実なら即ち清盛と平家は何の関係も
ないのである。(父は忠盛ではないし、母は藤原宗子(池禅尼)ではないからである。
そう考えるとれっきとした平家の嫡男・頼盛(ほんとは家盛だが早世した為)が生き残っているので。
普通に平家は生き残っていることになる。
紅白の戦い
639 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 09:37:07
ほほー
640 :
美人は氷高皇女:2010/04/23(金) 04:44:05
壇浦海上戦で平時子に抱かれ心中する安徳天皇だが
見事な死に様,時子の娘で安徳の母親の徳子に抱かったのは信頼出来なかったのだろう
現に,時子の娘の徳子と息子の宗盛(捕まり殺害)は死にきれなかった,その後2人は禁断の愛を結ぶが
徳子は捕まりは生恥を晒し都に連れていかれるんだが
何も感じて無く生き延びていったんだと
なぜならボンヤリお嬢様で,平一門と天皇の政略結婚後も清盛と後白可が強烈でただ生きてるだけの人生だったのだから
>>632 (平氏じゃなく)
平家は滅んだ
ということじゃね?
安徳天皇は壇ノ浦後も都で安穏な生活を保証されたはずなのに
時子の源氏や朝廷への怨念のためだけに、道連れにされただけ。
重衡が捕虜になると取り乱して、宗盛・知盛の足を引っ張るし
これで建春門院や時忠の姉なのか?平氏は割と好きなんだが
時子だけは好きになれない。
建礼門院(徳子)は寂光院に60没迄,霊閉なんて根性が無い,ただ親に「嫁に行きなさい」「死になさい」と従っただけの自主性の無い子たとえば
北条政子や後白河の丹後局,後鳥羽の乳母の卿二位だって天皇の側で政治を動かしてた
しっかりしてれば平家の道はあったかもしれない
吾妻鏡じゃ安徳を抱いて入水したのは別の女房になってるけど。
壇之浦も実際は平家物語が伝えるような状況じゃなかったという説もあるよね。
たまたま源氏軍と鉢合わせになって、平家は大パニック。
戦闘らしい戦闘もないまま、平家が集団自殺したのが実情じゃないかって。
安徳天皇には、なんの罪もないんだからねえ。
安徳天皇の帰還をただ切に願っていたという守覚親王の手記には泣かされたわ。
宗盛や徳子は、子を思う親の気持ちを持っているから共感できる。
建春門院や時忠は、芯の強さやふてぶてしさを持っているから憧れる。
しかし、時子はどうもね。皇子誕生を祈願してさっぱり効果がないとか、
徳子を後白河の後宮に入れるのに同意したとか、壇ノ浦で宗盛は
自分の子ではないとぶちまけるとか、ろくなエピソードがないんで・・・。
時子の良い話があったら教えてほしいよ。
646 :
美人は氷高皇女:2010/04/25(日) 06:30:47
徳子は旦那を助けられなく姑の言いなり千姫と同級
丹後局(高階栄子)は藤原氏サラブレットでは無いが受領階級(横領にならない徴税請負人と知事のセットメニュ-)の財産家
栄子の旦那・平業房は,当時天皇より格上の後白河法王に接待三昧で相模守に任命,元が取れたが法王の密命の打倒清盛の疑いで殺害
法王も鳥羽離宮に押し込まれ,事実上栄子の権力は奪われるが,法王の世話役は許される
しかし,栄子の算盤は黒字決算が続く事に,法王の愛人になり40で子を産む(覲子天皇)更に,法王は失地回復を狙い頼朝と密約で,平家を滅亡に向かう
次第に愛人栄子の発言力は上がる
例えば,宮落ち平家に安徳天皇を拉致時,木曽義仲の意見より栄子(丹後局)の推薦・後鳥羽天皇がついた
実力と女の魅力で手にした権力者
徳子にはこれが無かった
私も最初は、徳子は自分の意思を示さない大人しい女性かと思っていた。
でも最近になって、実は芯の強い女性だったのではないかと考えるように
なった。武士で初めて天皇の后となり貴族の反発は大きかっただろうし、
子が生まれないというのも相当なプレッシャーだったはず。そんな中で
后として一門の期待を一身に背負って責務を果たすというのは、生半可な
気持ちではできない。叔母の建春門院の薫陶も大きかったはず。
いずれにしても先入観や偏見で人の一生を推し量ろうなんて傲慢だよ。
かくいう私も、時子については少し言い過ぎたかもしれない。宗盛や
徳子をあまりにも悪く言うから、つい感情的になってしまった。
648 :
美人は氷高皇女:2010/04/25(日) 18:54:14
その法王と頼朝のハイラベルな「密約」は吾妻鏡によると「公(安徳天皇)を陣営に無事迎える事」条件に源の権力認可だ
しかし,安徳と三種の神器迄も無くした義経は全部台無しに
局部戦では強かったが政治ウンチだった
頼朝が後で朝廷に恩賞一括請求する予定も,先にナイトのタイトルを頂戴してしまった
その後,吾妻鏡では義経は「兄貴に不満持ってる奴は鎌倉にゴマンといるさ!さあ!俺について来い!」頼朝の覲玉袋は破裂,義経討伐
逆切れ義経も朝廷に院宣をねだる
でも各社の支持率は鎌倉新党,立あがれ新党の政治ウンチにつける薬は?
吾妻鏡では義経正室は浮気旦那の惨めな最期を,鎌倉のドバイ平泉迄付き合って子供と死ぬ
一番可哀想だ
永井路子史観の徳子像は少し偏見があるような。
最近、徳子の母后としての政治活動について少し触れた論考もあるみたいだし、
高倉院政が続いていれば、また違っていたと思う。
650 :
無双立花宗茂:2010/06/05(土) 08:01:14
ココで色々聞こうと思ったが
立花宗茂の祖,大友氏問題解決した
寵愛された頼朝の側近,相模国大友郷,初代能尚が鎮西奉行・中野親能の養子に
鎮西奉行で博多にも進出,南北期に博多息浜を得て,立花城に一族を配する筑後,肥後の守護職を確保.スッキリした
残るは,お市3子と宗茂の関わりだけ便秘だよ
奥羽・北上川の砂金売吉次が以外とキ-で
平泉と京の藤原・平氏の政治使命官(スパイ的)でもあり,次の天下人(頼朝)も予測していて,鞍馬山で牛若丸に出会い平泉に連れていかれ藤原にゲリラ戦叩き込れる
名前,氷高から変えた
>>643 徳子の姉妹たちは皆京で公家の妻になって
源氏の世が来ても平穏に暮らしていた。
平家滅亡後も清盛の娘たちは誰ひとり殺されることなく
主婦としての人生を全うしてたんだね。
壇の浦で死ななかっって、特に徳子が死ぬ必要もなかったように思う。
壇ノ浦は戦で一族の女までもが道連れになった特異な例。
親が言うままに嫁いだって、この時代の女性はみんなそうだよ。
むしろ勝手に私通するほうがとんでもない不良娘でしょ。
清盛や時子は我が娘に当時の日本で最高の地位にある男である天皇という婿を用意した。
それを断らなかったからって意志のない女性とはならないよね。
652 :
日本@名無史さん:2010/07/23(金) 10:37:10
ttp://www.nikkansports.com/entertainment/news/p-et-tp0-20100723-656950.html NHK大河「江」の次は平清盛40年ぶり
「龍馬伝」、来年の「江」に続く、2012年のNHK大河ドラマが、平家をテーマに描かれることが22日、分かった。
関係者によると、主人公は平清盛という。平家を主軸にした作品は、
72年に仲代達矢が平清盛を演じた「新・平家物語」以来で40年ぶりとなる。
源平の時代を扱うのは滝沢秀明が主演した05年「義経」以来で7年ぶりだ。
最近の大河ドラマは、山内一豊とその妻千代の出世物語を扱った06年の「功名が辻」以来、
「篤姫」「天地人」など戦国時代や江戸、幕末を描く作品が続いていた。
関係者によると、局内では、ほぼ同じような時代が続いたことで、
さらに時代をさかのぼった作品を描こうという声が上がっていたという。
平清盛については、数年前から「そろそろ源平の時代、清盛はどうだろう」と制作を望む声があったとされる。
昨年までにタイミングとして72年の「新・平家物語」からちょうど40年という節目の年に放送する方針が固まったようだ。
72年の「新・平家物語」は、吉川英治の小説「新・平家物語」を原作として、
平家一門の栄華とその滅亡を一大叙事詩的に描いた。
主役の仲代のほか、妻時子を中村玉緒、平忠盛を先代の中村勘三郎、建礼門院徳子を佐久間良子が演じた。
大河ドラマ10作目という記念作でもあり、豪華な出演者が話題を呼んだ。
1台1000万円の牛車を使用する力の入れようだった。
大河ドラマは63年の「花の生涯」からスタートした。
12年の清盛を描く作品は、大河ドラマ誕生からちょうど50年目でもある。
72年の作品に負けない豪華キャストの可能性もある。
[2010年7月23日8時54分 紙面から]
重盛誰がやるんだろ
大輪田の泊を作ってアジアに目を向けた開明的な人物として描かれ
日中韓の友好がうんうんかんぬんというテーマになる
に3000ペリカ
655 :
日本@名無史さん:2010/07/26(月) 14:27:12
六代御前供養
龍馬伝・岩崎は民政党三菱ロスチャイルド系
清盛は蘇我埋右衛門の南蛮吹きから太宰府から財を得た瀬戸巨大海軍(商社)平家の流れから徳大寺へと続く,政友会の三井住友ロックフェラ系
657 :
無双立花宗茂:2010/08/14(土) 15:46:14
武家マニフェストが一転,官僚主導藤原類似政治.今の民主党みたいだな
ただ違いは,忠盛の代で白河・鳥羽院領荘の有明海神埼荘を忠盛預りで太宰府御面で博多湾から宋船をひき入れた
清盛代には海賊熊野水軍と提携し瀬戸迄安全輸送の確保に成功
日本初独占大貿易商社になった事だな
住友は平家で
三井は藤原道長だから再来年のタイガか?
2商は強力な政商の為,ロスチャイルド系は新政商を作るグラバ-オ-ナ-で岩崎番頭の山内家紋の三紋からの三菱の三菱だ
菱を縦るとロスチャイルドの赤い盾になる訳
659 :
日本@名無史さん:2010/08/14(土) 18:28:03
大河は基本的に幕末と戦国が交互に題材で
4回に1回ぐらい別の時代が入る
平安時代の清盛のあと平安時代が続くことはあり得ない
平清盛(仮)(平安)
江〜姫たちの戦国(戦国)
龍馬伝(幕末)
天地人(戦国)
篤姫(幕末)
風林火山(戦国)
功名ヶ辻(戦国)
義経(平安)
660 :
月孔雀:2010/08/15(日) 07:00:25
平清盛と織田信長って似てると思いませんか?
661 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 13:30:22
清盛のほうがスケールでかいけどな
スケ-ルは出かいy
忠盛の非合法貿易を
都迄引っ張る大商社に躍進したんだから
当時は無警察状態(鳥羽院の領の荷物も無事の保証は無い)中,安全輸送確保
楊州の金,呉郡の綾など稼ぎ頭
院には珍輸入手土産を釣り熊野詣で三山グレ-ドアップを計る
しかし恩恵は上層部だけで平家の武士マニフェストに投票した下層部はガッカリだな
しかも直接対決の2戦目屋島で負けたのが痛かった
平家のダイナモの水軍が手を退いた時点で3戦目の必然だよ
663 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 19:18:52
そう言った意味で世界胃酸の厳島は平家商社の儲けの固まりなんだよな
当年は混むと思うが
先物買いで改めて見ておく勝ちもあろうか
摂津の大輪田泊を修復し,大型宗船の停泊可にした
百済戦大負けいらい外人トラウマを太宰府窓口から摂津迄入れた功績は天晴れだy
でもやはり高級輸送品扱いの平家商社が滅んでも一般人は痒くも無かった事
負け寸前では協力会社の水軍も手の平返し
九州の原田種家だけは安徳の行宮を造り,神埼郡の一部が鎌倉時代にも抵抗してるだけだけどね
今,商社が無くなると食糧に困るな
日本の商社は中東の王様に何時でも会ってくれる信頼で,政府は商社に任せぱなで,トップセ-ルを怠った面がある
665 :
日本@名無史さん:2010/08/15(日) 21:30:50
平家の御家人が一覧みたいに紹介されているサイトない?
後守貞能
飛騨守景家
松浦太郎重俊
安部資成
難波次郎経遠
瀬尾兼康
平六家長
平盛国
源大夫判官季貞
平高房
摂津判官盛澄
藤原行隆
出羽判官光長
一如房真海
法印禅智
上総介忠清
足利忠綱
武蔵三郎左衛門有国
越中次郎兵衛盛嗣
上総五郎兵衛忠光
鎌倉は三方を山に囲まれ...が教育定石だが、漏れにはチトツマラナイ
鎌倉の土地地割、建物建には大庭景義を先頭に立て
軍事力は三浦を頼りにしている
鎌倉は20年冷飯食った頼朝らしいバランスを取った場所
そして普通、都→上→下(例:都→上野→下野)だが、相模湾の場合、→下総→上総となる
都で頼政挙兵に揺れ動く平家様相を見てきた三浦義澄は胤頼(千葉常胤の子)と旗上げ前の頼朝の所に寄る
3者の結束が感じる場面で、伊豆(北条・土肥)、三浦、千葉
三浦半島から千葉海上交通で鎌倉がベストなんだろ
すれば、都→安房→上総→下総となる
しかも頼朝は大庭景親以下平家に敗走し三浦一族共に房総に逃げるし
667 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 06:48:53
要は南関東が頼朝の地盤だったということだろ。
それにしたって、遠浅で港に不向き、土地は狭小。おおよそ、都たる土地じゃない。
やはり天然の要害としての意味が大きかったのだろう。
669 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 16:55:29
本当に南関東が源氏の地盤だったらもっと痕跡があるはずなんだが。
鎌倉に初めて勢力を扶植したと言われる頼義いらい、頼朝まで6代120年にも渡っているというのに在地化した家が全然無いのがその証拠。
>>667 「新編相模国風土紀稿」の三浦群のペ-ジ冒頭に,古代主要官道東海道は,江戸時代以来の 相模→武蔵国では無く,相模→東京湾→房総とある
「日本書記」景行天皇28年是年条に尊は「東夷」平らげるべく大和を発ち伊勢→駿河→相模→上総へ渡海を試みる
「未だ武蔵国は山道に属し」
671 :
日本@名無史さん:2010/09/05(日) 08:24:40
平治の乱で義朝が負け,青墓の遊女の館に寄り,鎌田政清を連れ東国に逃げる
しかし,長田に討たれるのは尾張の野間(海先)東に下る人間が知多半島に行った
恐らく,安全圏房総に行く事であり,三浦一族は制海権を持っていた事だ
頼朝の親衛隊北条は村落を抑える小さな連中だから,三浦・千葉を頼りにしたんだ
頼朝自身,父を総大将に持ってるだけの金無し,縁故無しの流人だからね
伊豆・相模・房総を結ぶラインで荒地武蔵国の手前がいい地だよ
鎌倉権五郎の鎌倉は
672 :
無双立花宗茂:
>>669 小田急東海大の金目川の南は土屋・北は岡崎系
東国武士と言っても普段は開発領主で関東ロ-ムは収穫率が悪い
南向き斜面に少し高い所に領主の館があり低い所へ水が流れてる
水利権を持ってたちゅう事
合戦は戦国時代と違い,水やるから裕子と聞け!と言う統制ヤクザの親分の縄張り争いだと思う
丘陵地帯か平野に出る所が開発領主の中心