1 :
日本@名無史さん:
織田信長に嫁いだ斎藤道三の娘、帰蝶はあの戦国時代には
欠かせないほどの存在感ある女性であるにもかかわらず、
謎の多い人物である。
濃姫と信長に呼ばれていたことから、美濃の象徴であり、
信長からも正室として大切に扱われていたことは推測
できるが、実子の有無、その生死すら確かな文献が
残っていない。
嫡男を産めないこと、斎藤家断絶にともなって政略結婚の
意味がなくなったことから、実家に帰されたという説もあるが、
戦国時代においても正妻を子がないからという理由で離縁するのは
不思議であり(側室制度があるので)、さらに実家のなくなった帰蝶に
は帰る家もないことから、そのような理不尽な仕打ちを信長が
するということは考えられない。
また帰蝶が亡くなったため、その後側室であった生駒氏の娘吉乃を
正室に迎えたという説もあるが、織田家とのつりあいを考えても正室と
して迎えるには違和感のある組み合わせで、いくら嫡男を産んだから
とはいえ当時側室から正室になるということは考えられない。
信長御台所の墓はあるが、それば帰蝶の墓と証明されてはおらず、
謎の多い戦国美女の一人である。
まむしの娘に生まれ、信長とともに激動の戦国の時代を生き抜いた
帰蝶について自由に意見の交換をいたしましょう。
参考までに
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B0%E8%9D%B6 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7
2夏油
3 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 17:43:51
生駒氏が正室に迎えられた文献は残ってないけどな。
吉乃マンセーの武功夜話でも側室として披露されたと出てくる。
一瞬戦国時代板かと思ったら
日本史板見てたんだね
5 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 18:06:16
帰蝶=お鍋説というのをどこかで読んだことがある。
帰蝶の幼少名が鍋だっとらしいんだけど、誰か聞いたことない?
ただそうなると、お鍋の産んだ子は帰蝶の子ということになるけど、
嫡男は生駒の子だから、そのへんが矛盾していて違うだろうと思った。
あの時代後から生まれても正妻の子の方が家督相続の権利は強かったはずだから。
信長も次男だけど、正妻の子ということで嫡男になっている。
6 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 19:22:39
>>5 592 :日本@名無史さん :2006/04/21(金) 15:23:44
お鍋の方こと小倉の本名も不明であくまで高畠氏女でしかないのに
お鍋の方だから本名もお鍋という見方自体が短絡的すぎだったわけで
一度リセットして考える必要があるのは確か
【しかし、歴史学者や研究者はそういうのをなぜか嫌がる傾向に
あるから研究があまり進まないのもまた現実
そんなはずはない、あり得ない、誤って伝わっているだけでしょと
そこで終わらせてしまったら、史学の発展もそこで終わる】
ちなみに信長はお鍋のことを鍋ではなく「小倉」と呼んでいたらしい。
この時代の慣例どおり、縁のあるにちなんでだと思われる。
>>5 それって
悲劇の☆お姫様伝説☆
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1055001525/ >574 名前: 日本@名無史さん Mail: sage 投稿日: 2006/04/20(木) 01:03:10
>お鍋といえば、他板のスレに書いてあったことですが
>信長元服時におとなを務め、徳川時代は酒井家の家老を
>務めた家では「濃姫の本名はお鍋」という話が頑なに信じられ
>語り継がれているって末裔さんのブログに書いてあるそうですよ。
>元服時におとなを務めたような家なら、もちろん濃姫の顔を
>知っているでしょうから、側室のお鍋と混合するなんてことは
>まずないと思うので、興味深い話な反面謎は深まるばかりです。
の事でしょ?
該当スレの574以降読んでくれば?
8 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 09:26:02
もし子があったら信長の正妻の子孫が残っているって事になるんだが
しかも道三と信長の子孫とはw
9 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 09:40:15
明智光秀が帰蝶の縁者というので信長に取り入ったという話は、
小説家がよく書いているのだが、信長が京都に上洛するまでは
生きていたのではないか?
信長は三男だろ
11 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 10:11:54
>>10 信長は次男。兄に織田信広がいたが、側室腹だったので、正室の産んだ長男
である信長が家督を相続した。ただ幼少名が三郎だったので、もう一人夭折した
兄がいた可能性はある。
12 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 12:07:06
>>11 信秀も長男でありながら名乗ってるし、三郎は織田嫡男の名乗りみたいだな。
通説では次男だが、信長三男説の場合次兄は安房守で実名は伝わっていないようだ。
ところで勘九郎信忠、三郎秀信となぜか信忠は三郎の名乗りをしていないんだが、
信長は信忠元服のころまだ濃姫が男子を産んでくれることを期待していたということなのかな?
13 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 12:36:01
>>12 4男(5男説もあるけど)の織田勝長の別称が織田源三郎信房で、三郎の字が
入っていることから、勝長が帰蝶の実子であるという説があるよね。
14 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 13:24:30
伊達政宗の正室も側室の産んだ男子がずいぶん大きくなってから嫡男を産んだけど
やはり正室の子が伊達家の家督を継いだから、もし勝長を帰蝶が産んだとしたら
信忠は廃嫡になったと思う。
伊達家の場合は嫡庶の問題ではなく、秀宗が豊臣家に近い
存在だったから廃された面が強いので、あまり参考にならないな。
16 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 13:54:16
出生の次期が微妙なら後から生まれた正妻の子が嫡男になるということも
わかるんだけど、ずっと嫡男同様に育てた側室の子がいて、その後正妻に
男子が産まれたら優先順位はどうなんだろう?
信忠は嫡男として正妻の帰蝶が自分の手元で引き取って育てていたというから、
仮に帰蝶が勝長を産んだとしても嫡男にはできなかったとか。
当時の慣習として、正式に養子となってると、正室腹と同等の扱いになるしな。
生母が亡くなったので正室が引き取って面倒を見るという事と、
正室の養子になるというのは別だし。
例えば、勝長は岩村城陥落時に武田に人質にされて信玄の養子にはなっているが
信玄正室の養子ではないという区別みたいなもんだし。
18 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:17:24
信忠は帰蝶が養子にしたということだから実子同然なわけか。
そうなるとますます離縁されたという説は消えるな。
正妻で嫡男の生母の立場になった帰蝶が簡単に離縁されるわけないし。
19 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:48:40
そうなるとなんで信忠の通称が三郎じゃなくて勘九郎なんだろう。
信雄や信孝は信忠元服前には養子に出てるんだっけ?
20 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:59:31
じゃあやっぱり帰蝶に男子が産まれたらその子に三郎をつけようと
していたのかも。美濃の斎藤道三の血を引く子が織田家の跡取りなら
美濃を治める正当性もでてくるしな。
>>13 地誌にある信長御台の出産記事を考えると、
丁度勝長の年齢に当てはまるらしいね。
地誌だから、伝承逸話の類いともいえるが
意外と意外なんじゃね?
22 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 16:22:54
勝手な想像だけど、信忠の幼名が「奇妙」
帰蝶は「奇蝶」と書いていたそうだから、信長が帰蝶に気を使って
赤ん坊に似た名前をつけたのかも。
「今日からそちの子じゃ、そなたの名前が帰蝶だから名は奇妙がいい」なんていいながら。
23 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 16:38:36
>>19 信雄は伊勢北畠家、信孝は神戸家へと養子に出されていて
二人が織田姓に戻したのは信長死後
信長生存時に織田もしくは織田に順ずる津田姓だった息子は信忠と信房のみ
北条氏政も二番目だよな
武田晴信は第四子??
信長公記に、勝長は「津田源三郎」「織田源三郎」「犬山の御坊」としか
出て来ないし、信房なんて出て来ないから、織田家では冷遇されていたと
Yahooのトピで書いてる人がいたが、もしかしたら”源「三郎」”という
織田家での嫡男の通称を見せる事で、秀吉の時代を経て、家康の時代になって
おおっぴらに言えなくなっていたかもしれない事を牛一は言いたかったのかもと、
ちょっと妄想してしまった。
26 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 18:35:53
>>24 氏政は次男だけど兄が早世したから幼時から長男扱いされてる。
信玄は太郎晴信で長男じゃね?
27 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 18:50:29
>>25 ヤフトピに書き込みした人ってまともに信公を読んでいるのかな…。
どこをどう読んだらあれだけいろんな物を与えられて城まで貰っている
勝長が冷遇されているとなるのだ?
28 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 19:09:07
勝長は武田から人質生活を終えて帰ってきてすぐに信長から尾張国犬山城を与えられ
城主になった。17才ぐらいだったはず。信長の子供の中で長男以外では
かなり優遇されているのは確かだけど、もし帰蝶の子なら人質になんか
出さないだろうとも思われるけど。
そう、正室の子を人質に出すかな
30 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 19:30:01
>>27 該当トピ読んできたけど安土での親子対面の話は知らないみたい
自論に都合が良い解釈しかしてない感じ
31 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 19:33:15
元々信勝は岩村城主に嫁いだ信長野伯母の養子にだされた。その伯母に子供が
いなかったため養子にして岩村城主を継がせるためだった。
その後岩村城が武田方に攻め落とされ、結果的に武田に人質のような形で
渡されてしまう。
普通に考えてやっとできた正妻との間の子供を養子にだしたりはしないよね。
でも織田家にはすでにお濃の養子となった事実上の嫡男信忠がいたから、
必用とあればそうしたのかな?
でも他にもたくさん男子はいたのだからもし信勝がお濃の子なら、
あえてお濃の子を養子にだす必用はないとも思ってみたり。
32 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 19:47:47
信長の息子に信勝なんていたかな?
信雄とかいてノブカツとよぶ若かりし時は愚息だった倅ならいたがw
33 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 19:49:45
>>31 他に男子はお次がいただけかな?
お次は秀吉の養子になってるね。
信忠は、事実上の嫡男というよりも、勝長生まれた時点では
嫡男として広く知られてた筈だしな。
叔母の元へ、養子というよりは、親戚へのお預けって色彩が強そうな気も。
信長自身が経験した跡目争いに発展しないよう配慮したとしても
不思議はないと思う。
跡目争いで、織田家の戦力が減った苦い経験がある訳だから。
信勝は勝頼の息子
36 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:34:49
勝長を養子にほしいという叔母の申し出を信長は何度も断ったのに、
承諾したのは御家安泰のためもあったということか?
もし勝長がお濃の子なら織田家の後継ぎにできなくても
いずれ美濃を与えるつもりだったかもな。
ここではどうして勘九郎って名前になったか疑問説出まくりなんだが
個人的にこの名に何の疑問もない。道三の名と一緒だから。
元服した時、信雄や信孝と一緒だったと逸話が残っているけれど
ホントは一足先に美濃平定を祝って名をつけたんじゃないかと
疑いたくなる名前だと思わない?
濃姫の養子で信雄より一つ年上の嫡子が信雄と一緒に元服するのは相当不自然だし
信長が元服時点で信忠の器量疑ってて、この元服で見極め云々なんて俗説は
あいた口が塞がらないし
つか、個人的に一番疑ってんのは、信雄と信忠が同腹って説かな
徳姫が10月生まれって伝わってるところを見ると、ホントは記録残せたのに
故意に誕生日についての記録を消している可能性も捨てきれない
信雄3月生まれ説が濃厚なんで、よっぽど頑張らないと前年に信忠生まれないし
生まれ月がばれると同腹じゃないと解ってしまうのかもww
そう穿って見ると、誕生日は伝わってないのに3月7日生まれの信孝より後に生まれました
って逸話がやたら有名なのが、自分の誕生日を実際より遅く見せたい小細工に思えてくる
まー信忠と同腹ってことにしたら何が得なのか解らんのでいい加減な話なんだが
妄想で申し訳ないんだが、もしも信忠が生駒吉乃の子でないとすれば
一番可能性が高いのが帰蝶の実子だったって説じゃないかと思う
ここまで側室なしで推移してきたのに、信忠の後ぽこぽこと二人も庶子が
登場していることからも、個人的に割と良く出来た妄想じゃないかと思うんだが
嫁さんが孕むと浮気する旦那は多いんで
信忠と信房が同腹なら信房を養子に出す気持ちも
信房を信忠の与力にする気持ちも解らんでもないし
信忠の与力にしたのは、近くに置いて家臣団の対立に巻き込まれないように
する為だけだったかも知れないし、まーもー今となったら何もかも解らんのだけど
39 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:42:08
ふむ、なるほど。
確かに信忠がお濃の養子だったことを裏付けると言われている史料勢州軍記でも
「彼ノ信長公ノ之御台斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也、
嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也、弘治三年丁巳誕生、是御台ノ之御養子也、
次男信雄生駒ノ息女之腹也、永禄元年戊午誕生云々」だから
信忠も生駒腹だったとは断定できないかもね。
ってことは信忠の実母は誰?妾とは書いてあるけどもしかして濃姫とか?
40 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 23:47:52
凄まじい不細工だったんでそ
性豪が勃たないくらいだし
41 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 00:14:18
>>37 最近の研究では西村勘九郎は道三の父で長井新九郎規秀以降を斎藤道三ではないかという話になってるようだが。
道三二代説が正しいかわからないが、この説の通りだとすると戦国大名斎藤氏の実質的な祖は西村勘九郎になる。
また信忠は濃姫の養子になっているわけなので、系譜上西村勘九郎は外曽祖父になる。
後に美濃を任せていることから見ても、信長の意図は信忠を織田の後継者であるとともに
斎藤家の後継者的な立場に据えようとしたのかもしれない。
42 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 01:12:46
>斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也、
これを見る限りでは濃姫=信忠母は無いな
信雄が3月生まれだとしたら、旧暦だから一ヶ月28日として
前年の5月の終わりから6月の中旬くらいの妊娠だね。
孕みやすい女性だと、産後1か月くらいで身籠る事もあるから、
信長の誕生日が4月までならあり得るかとは思う。
ところで、信忠の元服って、最近は元亀3年の6〜8月くらいって
言われているんじゃなかったか?
むしろ、信雄や信孝よりも遅い元服だったんじゃ?
44 :
43:2006/10/03(火) 01:29:08
うわ〜、何で一ヶ月28日だよ、一ヶ月30日じゃないか。
28日は妊娠月数だよ。
そうすると、信雄の妊娠は、6月一杯辺りか。
45 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 01:42:35
長男を差し置いて次男三男を先に元服ってあり得るの?
46 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:04:25
信雄は次男だけど、三男の信孝より遅く生まれたことになってるんだよな。
でもいくら報告が遅れても、普通なら先に生まれた方が次男なんじゃ。
47 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:15:30
通説だと信雄は信忠と同腹だから信孝より格上扱いされた。
48 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:21:05
>>47 それも不自然に感じちゃうんだよな。
母親の格で次男、三男が変わるものなのか。
49 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:46:33
生母の家格や側室になった経緯などはかなり異なるが
武田家でいう勝頼みたいな扱いだったんじゃなのか>>信雄
で、
>>46 信雄が二男扱いなのは母親の格ではなく信孝は先に生まれたけど
その報告が信雄より遅かったため信孝は三男扱いになって
信雄は二男になったと言うのが最近の見解。
格上扱いの話も、最終的に残った織田家が信雄の系統だから
信雄が有利になる贔屓話があるのは仕方ないかもと思う。
信忠が「三郎」と名乗ったとする資料が無いわけではない。
例えば群書類従本織田系図では信忠は永禄十一年に元服し「三郎」と称した
とある。
ただし、元亀二年付けの信忠の書状(崇福寺文書)の署名は未だ「奇妙」で
あるし、天正元年の書状(小川文書)では既に「管九郎信重」であり、どう
好意的にとっても元亀三年前後の一年程度に「三郎」と名乗った可能性があ
るかもしれないというレベル。
51 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 08:51:50
>>37 嫡男に舅の名を付けたというならよほど舅に気を使っていたということか。
お濃の実家というだけではなく、美濃の物質的な援助なども受けていたことから
そのように舅殿をたてていたのかもしれないな。
実際の信長に美濃の一部を譲るという遺言書もあったというし、
つまり夫婦仲は円満で信長がお濃を大切に扱っていたという証拠かもしれない。
うつけとまむしのからみは歴史的にとても興味をひかれるところだけど、
逸話どおりにまむしが信長の才知を見抜いていたのかもしれん。
でも娘かわいさから信長を生かしておいたことから斉藤家は滅亡した
わけだが、そこもまたおもしろいところだ。
>>46 幕府の公的な記録では、信忠も信雄も清洲城で生まれてる。
つまり生駒御前は清洲城で側室になっていたと考えるのが妥当で、
清洲城の産屋で出産だったと思われる。
つまり、生まれた瞬間から、家中には広く知られた事になる。
反して、信孝は熱田で生まれた事になっている。
熱田から清洲まで報告が遅れた経緯はよく分からないが、
後日に熱田の神司の岡本という人物が報告に行っている。
生まれたのも岡本という人の宿所に関係あったらしい。
熱田は、津島と並んで、父信秀の時代から織田家の収入源だから
信長も重視していたと思われ、熱田神宮の関係のところで
信孝が生まれたとしたら、信長的にはそう大きく扱いに差があったとも
思いにくいのだがな。
結局後世残った織田の家系が信雄の家系って言うのが大きい気がする。
>>51 気を使うも何も、信忠生まれたの道三死後だし。
元服の時もまたしかり。
岐阜に本拠を移してから結構経ってからの元服だし
気を使ってというのはないんじゃないかな?
美濃の支配という意味で言えば、のちのち美濃と尾張を
信忠に与えている事を見れば、念頭にあったかもしれないが……。
54 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 09:22:41
>>53 そうか、死後だったのか。
そうなると、信長は最初から美濃支配を視野にいれてその名前をつけたかも
しれないな。
あえて信忠に三郎という名を与えなかったところをみると
お濃の子に男子が生まれたらその子を織田家の嫡男にするつもりは
あったのかもしれない。信忠には美濃を、お濃に男子が生まれたらその子が
織田家の家督を、もしお濃に子に男子が生まれなければ信忠に織田家の家督を、とか。
55 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 09:29:30
三郎、勘九郎みたいな通称っていつ決まるの?
誕生時?それとも元服の時?
57 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 10:06:04
58 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 10:11:12
ところで信長は自分の幼名、吉法師を信忠の子に与えているけど
自分の子にはなんでつけなかったんだろう?
徳川家みたいに竹千代=将軍当確、というような
慣習はなかったのかな?
59 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 10:15:26
濃姫に男子が生まれる事を視野に入れていたとしたら
少なくとも濃姫に妊娠か女子の出産の実績が必要じゃないかな?
全く何の音沙汰もなく、不妊でいた女性に男子出産を期待するとは
思えないけど。
信忠が元服したのは、元亀3年としたら、濃姫は38歳なんだけど。
今でこそ38歳の出産も珍しくはないけど、当時はその年齢で初産は
なかなか考えられないだろ?
たとえば、別スレで出ていたように、流産を何度かしてたとかでも、
流産よりも、より胎児が成長した段階の、早産とか、死産まで
妊娠が継続していないと、期待できないと思うのだが。
あと、勢州軍記には
「信長公ノ之御台斎藤山城入道ノ之息女ノ腹ニ無若君也」
となっている事から考えて、女子がいたとも考えられる。
もし、全く子供がいなければわざわざ「若君」と書かず
腹ニ無子也と書けばいい筈だからな。
61 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 10:24:28
>>60 勝長がお濃の実子だとしたら?信忠が元服した頃には生まれていたはず。
62 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 12:22:58
>>36 岩村のように国境周辺地域は双方の国と通じることが特例として
許されていたらしいから、織田側の所領として岩村をがっちりと
引き止めておくには、そこに嫁いでいた叔母の頼みを引き受けざる
おえなかったという見方もできるかも?
叔母にしても遠山家に仕えていた家臣も家を断絶させたくはなかっただろうし
ぬかりない信玄のことだからそこをついて養子をやるから武田側に付けと
裏でつなぎをとっていたかもしれないし。
もし、そんなことを叔母が信長にチラつかせたとしたら、
信玄との直接対決は避けまくっていた信長はやらざる負えないだろうよ。
たとえそれが正妻腹の息子であっても持ち駒がそれしかないなら、
断腸の思いで決断するだろ。
信長が信玄に命や東濃を差し出す覚悟ができていたなら話は別だけどな。
63 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 13:29:00
そういや武田には信勝がいたからね。
信勝の母は信長の養女だけど苗木遠山家の娘でもあったから
岩村を引き継ぐ大義名分は十分成り立つわけで、信玄ならいい機会と
ばかりにねじこませるぐらいは考えても不思議ではないね。
ただこれは信玄が義信亡き後の跡目についてどう思っていたかによるが。
64 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 13:51:56
>>62 やはり政治的な駆け引きがあっての養子というわけだな。
あの当時の養子や縁談では当然だけど。
養子になったからには正式に岩村にいた信長の伯母の子として相続人になった
と思うんだけど、その後武田から奪還されて戻ってきて、立場はどうなったんだろう?
伯母夫婦は信長に処刑されたけど養子縁組を簡単に解消できるもんなのかね。
65 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 14:22:51
信長って男と女どっちが好きだったんだろ・・・
なんか女は子供をつくるためだけ、って感じがするんだが。
>>64 処刑されたのは叔母夫婦だけじゃないしな。
叔母が秋山と結婚する為の交渉役だった織田掃部助も粛正されてる。
信長はかなり怒ってたんだろ。
で、戻ってきたあと、すぐ犬山城主、信忠与力、安土での対面
その時の豪勢なお祝い品と続く訳だ。
名前も織田源三郎信房、または津田源三郎信房に改めてる。
まぁ、岩村城自体も、既に奪還して森乱丸が城主になってるし。
相続だとかって問題以前の状態だからな。
>>65 どっちも好きだったのかもな。
ただ、確実に衆道の相手と言われているのは利家だけだから
乱丸のように、荒小姓だったらしいのに、衆道の相手なんて
江戸期に創作されちゃったから、そのイメージが大きいよね。
側室は後家も多いし、子供作る為の道具って感じはするけど。
後家だったら、既に子供を生んでて産めるの証明されてるし
そういうところにも信長の合理性が出ているのかもしれない。
68 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 14:46:05
男にも女にも執着しない、という性癖だったのかな。
実母からも疎まれていたというし、心許せる女性は濃姫だけだったかもな。
濃姫だけだったというのはどうかと思うが?
実母に疎まれたというのも、本当はどうかは分からん。
弟信勝の暗殺時に、信勝を清洲に来させる為に手引きしたのは
実母の土田御前と言われているし。
それに、養徳院には心を許していただろうしな。
70 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 15:55:46
養徳院は夫が亡くなった後に信長の父親の側室になって信長の腹違いの
妹を産んでいる。こんなのありだったんだね。
土田御前も手元で育てた次男への愛情が強くなって、
世継ぎにしたかったということかな。
嫡男ゆえに親元から離され育った信長への愛情より強くなってもおかしくない。
政宗や家光も実母の愛情が次男に偏ったための愛憎劇。
71 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:12:14
長男より次男を可愛がるというのは
いかにも作り話っぽいけどなぁ。
次男だって、実際には家臣や乳母が養育するわけだし。
>>69 そうだね。
実母に疎まれたってのも要検討だよな。
71が言うように、伊達家の騒動や春日局と家光等々の類話もあり、
「母の愛に恵まれなかった幼少期」のお約束的な創作臭もする。
ところで、ここって戦国時代(仮)板内のレスと中身がかぶってない?
73 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:44:32
でも嫡男とそれ以外では教育内容も親とのかかわりもまったく違ったらしいよ。
嫡男は早々に両親から離され、乳母とお守役とで育てて、親兄弟への情を
わざと薄くするねらいもあったらしい。
次男以下は親との接触も自由だし、実母が
教育方針に口出しするのも自由だったようだ。
次男以下は長男の家来だし、さほど重要視されなかったのは事実だろう。
でも家光の場合は春日野局への江与の個人的感情から関係がこじれた説もあるし、
政宗母も当時政宗が秀吉からにらまれていたので、伊達家のために
政宗暗殺をはかったという説もあって、一概に次男かわいくて、
なんていう単純な理由だけではないかもな。
>>70 信長も信忠の乳母に子供を産まさせてる。
それが、秀吉の養子になったお次だったかな?
75 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:03:37
三の丸殿じゃなかったか
76 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:03:49
>>74 お次の母っは別だったと思う。
信忠の乳母が産んだのは確か姫だったような。
77 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:16:48
たむしの父さんの娘
78 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:17:47
>>74 その子は秀吉の側室になった三の丸殿と言われている。
醍醐の花見では4番目の輿で花見に参加したというから、側室の中では
ねね、淀、松の丸の次ということは信長の娘ということで
扱いはかなりよかったみたいだね。
もし三の丸殿の実母が家柄の良い出自だったり、それこそ正室のお濃であったら
秀吉の側室同士の力関係が違ったかもね。茶々や松の丸より格が高い姫だから
茶々に子ができなかったら、三の丸が側室では筆頭になっていたかもしれないな。
79 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:26:08
スレチだけど、淀殿と松の丸もその茶会で杯の順番を巡って大喧嘩をしたという
話だよな。淀殿は当然正ねねの次は自分であるという認識だし、松の丸は
従妹の淀より京極家の出である自分は浅井家の主筋であると
思っているかなんかで、仲が悪かったみたいだな。
80 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:37:41
>>79 あれは作り話でなかった?
松の丸殿ほどの育ちの人が実家の家柄が上という理由だけで
跡継ぎの生母よりでしゃばるとは思えない。身分を弁えていたと思う。
それに、実家の家柄だけなら足利嶋姫や山名家の姫のほうが上だし。
81 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:42:30
浅井なんて京極の家来だしな 茶々ごときが名門ぶってんじゃねーよって
はなからバカにしてたろうよ
82 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:46:13
秀吉にとっての格付けって織田家が頂点だったんじゃないか?
足利将軍家の姫や公家の姫君にはさほど御執心はなかったようだし。
俺も醍醐の喧嘩の話はフィクションぽいと思ったんだよね。
まつが二人を諌めて取り成したというオチだけど、それもなんだかね。
83 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 19:48:08
信長って百姓の出だっけ
84 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 20:49:47
>>78 三の丸に限らずお濃の子だったら秀吉なんぞの側室にはならんだろ
お濃が絶対に出さないだろうし氏直許婚同様にどこぞに落ちのびて
出家するか最悪自害するか。
85 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 21:26:09
>>84 それをいうならお茶茶だって最初はその勢いだったよ。
でも世継ぎのいない天下様の寵愛を受けて世継ぎを産めば…と
いう野心から、三の丸殿もお茶茶も側室になった可能性は高い。
どうしても嫌だと拒否したらそれはそれで通ったと思う。
でもお茶茶の場合は妹達の行く末も秀吉の意向一つだったから
すがるしかなかったかな。
86 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 21:33:09
濃姫が産んだ姫と茶々や三の丸を同等扱いするあたりがスゴイ
87 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 21:45:15
茶々→浅井長政とお市の方(信長の腹違いの妹)の姫
三の丸→信長と側室(長男信忠の乳母)との間に産まれた姫
これにもし織田信長と濃姫の実子の姫を比べたら格付けは
濃姫娘>茶々≧三の丸 ?
でもお市の方大好きだった秀吉的には
茶々>濃姫娘≧三の丸 ってかんじ?
>>87 個人的な好き嫌いはあまり関係ないような気が。
政治や仕事上の関係による立場の違いでしょう。
89 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 22:24:19
というか濃姫の実子姫なら年齢的にみても
他家に嫁いでいる可能性が大きいだろ。
戦国板では氏直の許婚がそうじゃないかと推測されていたが。
で、尊重されるべき正室が産んだ子がなぜ記録に残っていないのか?
と、素朴な疑問を再び。
公にできない理由があったから、都合が悪くて消されたから、
みたいな説明は止しておくれね。
為政者の都合が悪くて消されたか
記録どおり居なかったかどちらかしかないのでしゃーない気がするんですが
風土記くらいにしか存在の跡が見えない娘が、
墓所さえ廃絶されてて不明なのに
確実に居ることになって且つ詳細まではっきりしてしまう。
恐るべし2ちゃん
93 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 23:19:17
信長が氏直の嫁を早く輿入れさせてくれますように他…
成就したら新しいお宮を建てますから、三嶋大明神様お願い!
以上について祈祷ヨロシコ宮司様 by氏政(花押)
という願文が三嶋大社に奉納されている件について
氏直の相手が信長実子か養女かだな。
氏直の血統に釣りあわすなら
実子⇒側室腹でも生母がそこそこ家格がある人
養女⇒それなりの家からの娘
みたいな感じだろうけど、この頃って通説で言われている信長の娘の
中で適齢はいなかったような?
95 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 23:52:00
なぜか誰も書いて無いけど、土田御前の土田氏と吉乃の生駒氏は同じ一族であり、名門佐々木氏の系統を称していたような。
右大臣とかになった後の信長ならともかく、若い頃の信長だった別に正室にしても不思議で無い相手では無いかと。
まあ、当時なら斉藤氏の方が格・実力ともに上だろうけど。
>>93 北条家の当主がゆかりある三嶋社への祈願状書いてるなら、
織田家との婚姻を望んでいたことはあるのだろうな。
でも、織田家の姫が実際に落ちてきたかどうかになると謎だな。
つーか、相手国は姫の顔なんか知らないわけで
そしたら、替え玉がいても全然おかしくないがね
まあ、人形劇だか、「真田十勇士」で千姫の替え玉を嫁がせようとした事があったが
それに近い事はあったんじゃないの?
>>96 確か北條から織田に仲良くしたいような書状を送ったら
信長がよーし娘を嫁がせようという返事をしてたらしいから
北條から望んでというより信長が自主的に嫁がせることを
決めたんじゃないかな。敵の敵は味方って感じで。
99 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 00:36:36
>>95 方や大名家、方や商家
名門の血を引いていたところで差は付いている上に
濃の生母小見の方は土岐源氏の血筋
美濃を手に入れることを視野に入れていたとすれば
どっちを正妻にすえておくべきか火を見るより明らか
そして家康息女が氏直の嫁になる・・と。
北条五代祭りの督姫はミス小田原なんだよね。
ソース厨では無いけれど、史料の明示や具体的な判例なしに
自分の憶測の範囲で「〜〜じゃないのかな」「〜〜かも」ってのは
どーも物語じみて聞える。
話が(戦国期の政略婚とはいえ)男女関係絡みだから余計にだな。
>>94 養女だと伊勢氏あたりからを考えていたんじゃないか?
後北條の祖である早雲は最近の研究では伊勢氏だったとする
見方が主流になっているし、伊勢氏ならお濃の義妹?姪?が
嫁いでいるから、お濃通じて貰えそうかなと。
正妻血筋つながりの伊勢氏の娘なら養女格でも氏直と釣り合いが
取れると思われ。
といっても氏直は北條家・武田家・三條家の血を引いている
正妻腹の嫡子だから北条家サイドは不満たらたらだろうけど。
103 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 02:24:21
伊勢氏といえば…
多聞院日記に出てくる義昭に嫁いだ
信長の秘蔵っ子は伊勢氏の姫じゃないかって
歴読に投稿している研究者さんがいましたね。
>>95 土田御前の血筋は2系統説があって、美濃可児郡土田と、清洲土田とある。
美濃土田氏の親重が生駒加賀守豊政の養子になった事で生駒になったとされる。
その生駒親重が土田政久という土田御前の父親という説もあるが資料では確認できない。
生駒御前と土田御前が繋がっている家系図は、偽書である武功夜話などに
見られるが、吉乃の元夫とされる土田弥平次は良質な資料には出て来ない。
地元に伝わる逸話の中には名前が出てくるが、その妻が吉乃であったとか
後家になった妻が信長の側室になったという逸話はない。
ちなみに、土田御前が美濃土田氏であるとするならば、明智家は主君筋にあたる。
濃姫と吉乃を比べた場合、土田御前と血筋的に近いのは吉乃かもしれないが
明智家は濃姫生母の小見の方が明智出身である事から、どちらが格が上かは推して知るべし。
105 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 08:45:40
同じ主君の子でも母親の出自によって格に差があったろうしね。
お市の方の母親は信長と同腹という説があるけど、どうなんだろう?
106 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 09:22:40
お市と信長が近親相姦だったという説を聞いたが?
>>104 美濃が「どた」で、清州だと「つちだ」、
土田の読みが違うのだったっけ?
>>106 またそういう与太話を持ち出す・・・・
108 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 10:31:52
>>107 一概に与太話ともいえないかも。
母親違いの妹なら一緒に育ってはいないし、感覚的には他人。
戦国一の美女と言われたお市に対して妹以上の感情が沸いても
不思議じゃないな。当時にしてはお市が嫁いだ時の年齢が高いし
出し惜しみしていたともとれる。
武功夜話って、地元の逸話や伝承や系図に詳しくて、大久地古事記って偽書の
制作も疑われている津田応助が作って、所有者である吉田龍雲が清書したって
話をよく聞くよね。
元の原書自体は、朝鮮戦役の辺りくらいだけで、その他の信長と関わるような
辺りの話は、津田応助が地元に伝わる逸話とかを取り入れて作ったって。
土田弥平次なんかも、江南市に伝わってる逸話を利用したと考えると
結構納得いくんだけど。
でも、津田応助って江南市では地元に貢献した立派な人物って評価だけど、
生きてた当時って、古物の転売してたんでしょ?
特に、吉田家に売ってたらしいね。
自分の家にあった古物を津田応助に売ったら、いつの間にか吉田家に
代々伝わるものとして吉田家で見せられたなんて話も聞くし。
津田応助は死んじゃってるけど、吉田龍雲は生きてるんだし、その辺弁明はないのかね?
どだごぜん
>>108 信長とお市はいとこ同士だという一説もあるしね。(以貴小伝)
いとこの子、という考証をしてる人もあるらしい。
でも、108みたいに関係を理解して言うのと、
ただのネタ感覚で近親相姦を言い出すのは少し違う。
古代史には近親相姦の間柄を匂わす伝承や事件も多いけど
時代が進んで畜生道としてそれを禁忌する風潮ができているし、
当時の常識やぶりの信長とはいえ、男女間の肉体関係で
そこまで外すかな?という感じはある。私感だけどね。
>出し惜しみしていたとも考えられる
歴史上の人物といっても生身の人だから、
その感情について想像することも大切だけど、
愛憎思慕は憶測に偏るので、過剰の想像しないようにしてる。
女の器量や度量性格、政略上のタイミング、相手側との折衝など
嫁ぐ時期の遅い早いの事情は色々と見つかると思うけど。
>>109 武功夜話については、中身はともかくw
その発見から発表の経路、出版戦略とかに興味が沸く。
面白そうな話なので色々聞かせて下さい。
>>109 >自分の家にあった古物を津田応助に売ったら、いつの間にか吉田家に
>代々伝わるものとして吉田家で見せられたなんて話も聞くし。
この話が本当だとすると、武功夜話が世に出て来た意図も分かる気がする。
自分の祖先を自分の理想に近い形に彩りたかったのかもな。
単に、自分の家でこっそり楽しむ顕彰小説としてで留めておけばよかったのに。
113 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 16:15:19
>>112 「武功夜話」は信憑性が薄いってこと?
ほとんどフィクション小説の類だったりして。
>>39 自分もそれはずっと謎に思っていた。
生駒が信忠の母親なら「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也」と書かずに、
信雄同様に「駒ノ息女之腹也」と書いてあるはず。
お濃が信忠を養子にしたのは23歳の時だから、彼女の子であっても不思議はないけど
「妾ノ腹」と書かれるのはもっと不自然だな。
嫡男になるほどの実母なら、生駒よりも身分が高いと推測されるんだけど、
それなら生母についてきちんとした資料が残っていてもよさそうなものだ。
考えれば考えるほど謎。
114 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 16:39:29
なるほど、信忠と信雄が同腹なら「次男信雄モ生駒ノ息女之腹也、」ってなりそうだよな。
ところで勢州軍記っていつ頃成立で著者は誰なんだっけ?
「勢州軍記」は神戸良政が書いたもので、基本は伊勢の戦国史だね。
寛永15年(1638)に「勢州軍記」の抄録の「兵乱之記」を書いてるから
「勢州軍記」そのものの成立はそれ以前。
17〜18歳くらいから、蒲生氏郷に仕えた父親の政房の記録をまとめる形で
「勢州軍記」を書き始めたと言われているから、1609年生まれだから
1626〜1627年にかけて書き始め、その後伊勢に戻ってから更に
伊勢の人に聞き取りながら加筆したと言われている。
まぁ、神戸氏なので、信孝の事がよく出てくる文献ではあるけど、
だからと言って、信忠や信雄を貶めたりしているような記述は
特にはないと思うけど、これは私見なので信雄贔屓の人から見たら
どのように見えるかはちょっと不明。
信長死後40年位してから書き始めたものではあるけど、信長公記の
成立直後くらいだから、信長公記にあまり影響されてないように
自分には思えるかな。
>>113 武功夜話に関しては、実際に読んでみたら分かる事だけど、
信長と生駒屋敷が絡んで出てくる辺りは本当にめちゃくちゃ。
吉乃の夫が弘治2年に亡くなったと書いてあるのに、
同じ人間が、吉乃は濃姫が嫁ぐ前の天文20年頃には信忠を身籠っていたとか
弘治元年の正月に信忠が生まれたので祝いに踊り興行を生駒屋敷でやったとか
証言していたりする。
信忠の生年は弘治3年というのはほぼ間違いないので、まずそこからして違う。
もちろん、濃姫の輿入れは弘治以降って事にしたいらしい記述。
墨俣の一夜城に関する記述がおかしいというのはよく言われるけど、それは説明
しやすい箇所だからピックアップされているだけで、そこだけじゃなく
桶狭間の戦いの記述とかもおかしい。
最近じゃ、桶狭間は正面衝突のガチンコで、上洛戦じゃなく鳴海城などの
救援に今川が出てきたと分かってきているから分かる事だけど、
小六が村人に化けて画策してたり、まぁ、所謂昔から講談なんかで書かれている
奇襲戦を更に色付けしてある感じ。
あと、信長は、財力的には最近では熱田湊や津島湊をおさえていて豊かだったと
考えられているけれど、お金がなくて生駒に援助してもらってる事になってる。
ちなみに、昭和以降の市町村合併による合成地名が出てきたり、戦国期に実際に
生きていた人間だったら知っている筈の、当時の河の流れが、後世変わってしまった後の
河の流れで記述されていたりもする。
他には、閏月のあった年の記述など、閏月があったのを知らない状態で書いたのか
閏月が無視されていたりする。
戦国期、特に織田を専門にしている史学者などは、はなから相手にもしてないし
偽文書と言われている。
発表された頃、本当だとお墨付きを与えたのは、織田を専門にしていなかった
小和田氏とかだね。
あと、遠藤周作などの小説家とマスコミ。
結局、ある程度信憑性を有していると考えられているのは、織田とは関係のない
朝鮮戦役の記述の辺りだけというのが最近の見解。
117 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 18:55:33
年代、人物相関の矛盾なく、かなり信憑性の高い信長に関する資料は
どれですか?
118 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:39:29
鑑定をお願いします(`・ω・´)
9月19日、朝日放送の「ムーブ!」で勝谷誠彦氏は「信長は家臣団を解体して、みんな足軽にしちゃった」と発言。
新説?珍説?偽説?
この真偽はいかに・・・
119 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 20:54:40
菊地桃子
「国盗り物語」の松坂慶子、綺麗だったな〜
121 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 21:09:08
やはりイメージ的には帰蝶=菊地桃子だな。
今じゃ、よりどりみどり五月みどりの息子の嫁だもんな…Orz
普通、偽文書を歴史捏造目的ではなく、各家の記念的顕彰作品として作る場合
作者は専門家が見ればすぐに偽文書だと分かるようにしておくものという。
武功夜話などは、専門家からすると、このパターンに当てはまるらしい。
「門外不出」
「当本貸出しの儀平に断るべし」
などの一文は、常套句である(武功夜話にもしっかりこの一文がある)。
だが、
>>109 >自分の家にあった古物を津田応助に売ったら、いつの間にか吉田家に
>代々伝わるものとして吉田家で見せられたなんて話も聞くし。
というのが、本当の事だとすると、吉田龍雲という人は
自己顕示欲と名誉欲が強いと思われる。
しかしながら、元の持ち主に誇ったりする程度に粗忽者とも言える。
武功夜話の中身がそういうパターンに当てはまると気がつかないまま、
津田応助死後に本物だというふれこみで出版してしまったと考えられるのではないか?
123 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 22:04:28
濃姫が歴史から消えたから死亡説、離縁説がでてきたんだろうけど、
濃姫そのものが中心となるような事件などがまったくなく、
信長の正妻として平穏な日常を過ごしていただけなのかもな。
本能寺の変後も政局にまきこまれることなく寿命をまっとう
したんだろう。濃姫の墓と信長の墓は同じ寺?
>>123 濃姫が中心とは言えないまでも、当事者になった事件は
永禄12年の壷事件だろうな。
濃姫の墓は信長と同じ大徳寺総見院にある。
信長の子供達の墓と同じ並び、同じ体裁。
もっとも、信長の墓は全国にたくさんあるけどな。
125 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 23:47:56
在日さんじゃん
>>123 去年の秋、総見院の秋季特別公開のとき織田家墓所も見学できた。
信長の五輪塔を正面真ん中に、信忠等の子息や孫の墓が並び
その正面に向かって左列のほぼ中央の五輪塔が「養華」だと云う。
(総見院の図面による)
磨耗が激しくて読み取れるような字は見当たらない。
「養華」の向かって左隣りは「興雲」、お鍋の墓らしい模様。
この字はかすーかに読み取れる。
128 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 10:40:38
濃姫の肖像画や容貌を記したものは残っていませんか?
道三は肖像画を見る限り美男子とは程遠いけど、実母の小見の方は
美形の多い明智の血筋のためか、大変な美人だということだし、
実際美人なので道三にも愛されたという。
濃姫はどうだったんだろう?
お市は肖像画を見る限り確かに美人だったけど淀殿は似てないよね。
父親似だったのかな?
129 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 12:14:59
一般的なイメージ
信長:ワイルドだが、顔は細面で鼻の高い美男子
市:天下無敵の戦国一のクールビューティ
美女で有名なガラシャは濃とは血縁関係があるのでもしかしたら濃姫と
似たような感じの美女だったかも。
そうなると濃姫もかなりの美人だった可能性はある。
>>128 道三は寺にいた頃や油屋だった頃は美男子として知られていたらしいけどね。
まあ道三親子説を採れば、息子のほうの顔は分からんのだが。
131 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 15:26:04
>>124壷事件を丸く治めたのは濃姫の説得もあったろうから、あの信長に
対等に意見できるのは正妻の濃姫だけだったということか。
結局言うこと聞いて壷はあきらめたし。
132 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 16:27:01
>>128 長政、秀頼ともに肥満の巨漢だったみたいだし、
淀も大柄だったらしいから母には似なかったみたいだな。
>>129 それは無双オタのイメージだろ。
市は一般的には薄幸美人てイメージだな。
133 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 16:53:22
>>132 秀頼は暗殺と病気や怪我を恐れて淀君が外遊びをさせることを嫌がったから
食べすぎと運動不足もあったろうね。馬に乗れないほど太ってたらしい。
それと背も当時にしてはかなり高いほうだったらしいから、基本的には
浅井の血が濃かったのだろう。
濃姫の当時の肖像画は判明しているものはないと思う。
岐阜城に飾られていて、Wikiの濃姫のところに載ってる肖像画は
近年の日本画家の作だと聞くしな。
135 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 20:03:43
>>134 Wikiの肖像画は山田五十鈴にそっくり。古典的な美人だとは思うけど。
>>134 わりとあるんだよね、
近代の日本画家が「歴史画」として創を得て描いた日本画を
歴史人物の生存中に書かれた寿像や、同時代に書かれた追善絵と同様に
掲載してしまうのは、勘違いの元だな。
遊楽図屏風の中の人物を取拡大して「千姫」とキャプションつけたり
醍醐の花見を模して描かれた江戸時代の浮世絵から
淀を拡大して「淀殿」と文中図解に出したり。
そんなのはしょっちゅうあるよな。
よく見かけるガラシャが百合の花を抱いた絵だって
「堂本印象筆」と、きちんと付け足さないとイケナイと思う。
>>135 どんな美人かということより、近世の創作画なのだから
あくまでもイメージ画にすぎないのさ。
137 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 23:24:23
当時の女性は白塗り、おちょぼ口紅、おはぐろ、眉そり、公家眉、同じ髪型、
どこで美人だと判断したんだろう?
鼻が高いとか、面長とか、しかわからん。
138 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 00:10:27
美人の絶対条件=肌の白さとあばたがあるかないか
豊かさの絶対条件=艶やかで豊かな髪
普段から髪型は垂れ髪であること。
139 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 00:31:07
本能寺で死んだ兄弟いなっかたっけ
>>139 斎藤新五郎
本能寺じゃなく二条城な。
信忠、勝長と一緒に討死。
濃姫の同腹の弟と言われていて、道三の遺言状を妙覚寺に持っていった
二人の息子のうちの一人と言われている。
やはりこうしてみると、信忠は養子に入っていただけあって、
濃姫に近しい人物がすぐそばにいた訳だよなぁ。
単に美濃衆がついていたというだけじゃなく。
勝長にしても、もしも濃姫の実子説が本当なら、
織田家の当主は(この時点では信忠は家督を譲られていた)、
濃姫関係者で占められていた訳で、やはり濃姫は本能寺の時点で
生きていたと考えるのが妥当な気がするなぁ。
高野山の「お市の方」像、上野の国博で実物も見たけれど
いわゆる美人画の典型的な手法という感じで
無個性、様式的な印象をぬぐえない。
かえって「伝淀殿」像の、不細工とも云われる大まかな造作が
その人となりを描きだしているような気がする。
142 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 01:25:31
新五郎は次期天下人の義理の叔父で、側近中の側近だものな。
信忠の時代になれば斉藤家は政権中枢に参画して国持ち位にはなれたんだろうに。
つくづく本能寺で死んだことが悔やまれるな。
143 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 08:25:42
144 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 09:11:40
>>143 ブスだったら側室にはなれん。
美人で評判だった松の丸の肖像画もブスにしか見えないし
伝淀殿像って複数あるし、どれが本当かも分からん
145 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 09:17:04
美人ていっても今とは感覚が違うからな、
市の肖像だって今の感覚で見ると美人て感じはしない。
だいたいこの時代の肖像画って本人を見て書いてるものなの?
146 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 09:24:46
>>144 側室にも種類があって、容姿などが気に入って性的な好みから側室にする場合、
敗北した敵将の妻子などをいわば戦利品として側室にする場合、
娘を敵意のない証拠として差し出す人質代わりの場合…
淀君は秀吉が天下をとった証であって、主君の姪を側室において
大事に奉ることで主君であった織田家へのご恩をアピールすることもできるし、
存在そのものが秀吉にとって必用だったんだろ思うから、ブスだろうと
あばただろうと、側室にしただろう。
実際は10人並ぐらいの器量だったと思うけどね。
147 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 14:15:04
色白とか髪が豊かというのは、美の基準というよりステータスだったんだろう
148 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 14:39:34
当時の女性の美人の条件に、腰まわりなどに肉付きが良い
ということもあったと聞いた。
肉付きが良いとは豊かな食生活を送っているということで、
富と安産の象徴みたいなことだったのだろう。
149 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 14:43:51
お江与は小柄だったとか…
浅井、お市は背高いのに…
信長さんのお墓はあったんですか・・・御台所に?
勿論遺体は入っていないですよね?それともきちんと葬られていたのかしら。
子孫はちゃんといますから、お墓はあるでしょうが信長自身のお墓って・・・?
151 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 17:04:19
秀吉が信長の木像を作らせ、それを火葬にしてその灰を墓に埋めた。
信長の葬式を執り仕切るということは、自分が後継者である
という諸国への牽制の意味もあったそうだ。
実際の信長の遺骸は結局見つからなかったということだが、
それらしい遺体はあったが、焼け焦げていて信長と断定できなかったのか
あるいはそれらしい遺体すらなかったのかも不明。
152 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 17:16:51
信長の首をとり、信長死亡をはっきりと誇示できなかったことが
諸大名の明智勢への味方を躊躇させ士気が鈍らせ、
結果的に孤立無援の形で3日天下となった。
「信長が生きていたら?」という疑念を払拭できなかったことが敗因。
信長の遺体は、変時にこっそり忍び込んだ信長と親しかった
阿弥陀寺の清玉上人が持ち帰って埋葬したと伝えられている。
おそらく首だけだろうが。
これは、秀吉が法要を行う際に、阿弥陀寺に最初に頼んでいる事、
遺骨の差し出しを命じている事からも信憑性が高いと言われている。
ただ、清玉上人が秀吉の織田家乗っ取りをもくろんでいるような行動に
不審を抱き断った為、秀吉は致し方なく総見院を建て木造を火葬にした。
そして、その後秀吉は、阿弥陀寺の財産など没収して不遇な扱いをしたり、
阿弥陀寺を無理矢理移転させてもいる。
そのとき、遺骨も掘り返して移転したのか、そのままに移転したのかは不明。
だが、おそらく、現在の阿弥陀寺に遺骨はないと思われる。
ちなみに、信長の墓や霊廟は、もちろん遺骨の埋葬されていない墓だが、
確認できるだけでも各地に10箇所くらいある。
一番有名なのが、秀吉の建てた総見院。
154 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:01:25
光秀軍に包囲され、第清玉上人が火のかけられた本能寺に忍び込んで、
信長の遺体をみつけ、首だけでも持ち去るのは現実問題として不可能だと思う。
本能寺の変を聞いて駆けつけたというけど、その前に光秀がくまなく
探させているわけだしね。
味方の放った火が遺体を炭の様に燃えさせ、誰が誰だか識別不可能になったと
考えるのが妥当だろう。
清玉上人が信長の遺体を火葬して持ち去った説もあるけど、生の人間を
骨になるまで焼くには相当な時間がかかって、その間に光秀に
見つかってるはずで、この説も信憑性がない。
>>154 残念ながら、当時の本能寺で人が炭化するまでの火力があったとは考えにくい。
現代の火葬場で火葬にする時の火力でさえ数時間かかる。
また、本能寺は本堂で攻防があったと言われているが、本堂の裏手に
信長が宿泊する用の御殿があったらしい事が分かってきている。
御殿は最終的に燃え、本堂は類焼していなかったという説もあり
棟続きの建物が類焼しない程度の火力であったらしい。
火葬して持ち帰ったという説が一般的だが、首だけ落として
人相が分からない程度に焼いただけで
持ち帰ったとすれば特に時間がかかる訳でもない。
また、本能寺後、まだ信長の墓をどこにするとか法要をどうするとか
喪主は誰にするなどという一連の事務手続きが済んでいない時期に、
既に山科言継は阿弥陀寺の信長の墓に参っている事は言継卿記に書かれている。
157 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:59:57
>>156「言継卿記」は大永7年(1527年)から天正4年(1576年)にかけての山科言継の
日記で、本能寺の変は1582年だから、そんな記述があるはずがない。
しかも山科言継は1579年没。
158 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 21:03:22
>>156 それが本当ならその資料そのものの信憑性がないと言わざるを得ないな。
159 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 21:25:46
ふむり
>>156 言継卿記じゃないよ、山科言継の息子の言経の言経卿記の7月11日の記述だよ。
勘違いしてるんじゃない?
161 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 12:27:50
>> 清玉上人が秀吉の織田家乗っ取りをもくろんでいるような行動に
不審を抱き断った為、秀吉は致し方なく総見院を建て木造を火葬にした。
ここがちょっと疑問だな。
秀吉は織田家嫡男の三法師の後見人として、葬式を取り仕切ったわけだから、
秀吉云々のために葬式に遺骨を渡さないのは織田家に対しても失礼な話。
遺骨などなく、生前の形見の品などを埋めて個人的に弔っているという
だけだったような気がする。
西山本門寺にも信長の首塚があって、それらしい由来もあるけど、
どれもこれも、今ひとつ納得がいかないな。
162 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 20:53:44
事実上天下の実権を握った秀吉に逆らうとは思えん。
そんなものは最初からなかったので「ないものはありません」としか
言いようがなかったのでは?
163 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:15:43
骨が織田家に渡されてたら、市や勝家は秀吉より立派な法要が出来て…
でも三法師はつらいのぉ
164 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:46:10
織田家に失礼ってその織田家が分裂してんだから
上人が反秀吉方と懇意だったなら渡すことはまずないだろ
たとえ遺骨があったとしてもね。
165 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:04:09
清洲会議で三法師が正式な織田家の当主に決まったわけだから、信長や
信忠の葬儀の喪主は三法師。その三法師の代理人として秀吉が葬式の実行委員長を
したわけだから、秀吉のことはおいておいて、まずは骨があったら渡すのは
織田家当主に対して当然の行為だと思う。
その正式な葬儀に濃姫もお市も出ず、秀吉の養子だった秀勝、
生母の土田御前、側室ではお鍋が出席して正式なものとようやく
認めさせたんだけどね。
1周年の法要も、どうやら濃姫らしき信長夫人は、秀吉とは別に
妙心寺で執り行っている。
167 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:49:39
残念でした大徳寺での喪主は羽柴秀勝
168 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:53:46
なにこの太閤史観マンセー君
169 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:32:10
でもその後大徳寺に秀吉が寄進した総見院が建てられ、そこに織田信長と妻子の
菩提があるよ。濃姫といわれる墓もある。結局秀吉の思惑通りになるんだから、
素直に遺骨を渡しておけばと思う。
ちなみに細川ガラシャの墓も大徳寺にある。
なんだかなぁ。
170 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:55:25
だから?
171 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:33:33
濃姫っていうか養華院の葬儀の喪主って誰なんだろう?
慶長17年ならまだ信雄が生きてるから信雄か
おそらく出家していただろうから、庵でも結んでたら
その関係で行ったかというところでは?
どっちにしろ、秀吉も死んじゃった後だし
総見院でも気持ち的にしこりはなかろうさ。
173 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 06:14:22
>>170 細川ガラシャの実父は明智光秀だからじゃない?
>>169は(謀反の張本人の娘と同じ寺に埋葬されているのは)なんだかなぁ
という意味だと思う。ガラシャも光秀が逆賊となったために、細川家から
正室なのに冷遇され、幽閉されるわ、知らない間に側室をがんがん作られるわ、
最後は見殺し同然で自害するわで、被害者といえば被害者なんだけどな。
174 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 06:33:12
>>172 本能寺の変後は信雄の元に身を寄せていたらしい。
ただ信雄もその後波乱万丈のすごい人生になっちゃったので、
濃姫の喪主をしたかどうかは定かではないな。
その頃改易されてどっかに流されていたはず。(その後復活できたけど)
でも濃姫って自分の知行地も持っていたので、食うに困ることは
なかったと思うよ。
175 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 11:00:15
>>173 そんなことを言ってたら妙心寺や高野山はどうなるのやら。
妙心寺なんて滅亡させられた武田家と滅亡させた織田家の墓は
同じ寺というだけでなく、目と鼻の先ぐらいの近さだぞw
妙心寺にある勝頼・信勝の墓は晒し首後に住職が貰い受けて
埋葬したという話があるから、これが本当なら二人のしゃれこうべが
あるんだよな。バチあたりなことをいうけど掘り起こしてみて
もしできるようなら複元して欲しいよなぁ。政宗みたく。
177 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 11:24:29
妙心寺に武田家の墓なんてあったっけ?
武田家は信玄をはじめ山梨県内の寺にばらばらに墓があった気がしたが?
妙心寺派の寺ではあったかもしれいが。
178 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 13:24:06
武田や織田の墓は玉鳳院にある。ちなみに勝頼・信勝・信豊の位牌もある。
織田⇒信長と信忠(供養塔らしい)
武田⇒信玄・勝頼・信勝・信豊
信玄はここに分骨されたという話もあるらしいけど真偽不明。
他3名は晒し首になったのを貰い受けて埋葬したと言われている。
この時に法泉寺の住職がそこに居合わせた関係で遺髪と遺歯を貰い受けて
山梨に持ち帰り埋葬したのが、法泉寺の勝頼達の墓と言われているよ。
ちょっと計算してみた。
吉乃の夫の土田弥平次が戦死したのが弘治二年九月と言われている。
その後生駒家に帰って来ていた吉乃は信長に見初められて身籠ったとされるから
早くて九月の終わりから十月の頭くらい。
実家に戻るという事を考えれば、もう少し遅くてもいいくらいだが
最短で考えるとする。
そうすると、信忠誕生は翌年弘治三年六月の終わりから七月の中旬にかけてとなる。
さらに、次の妊娠が可能になるまで最低でも1ヶ月かかるから
弘治三年七月の終わりから八月の中旬に妊娠したとしたら、信雄は
大体、永禄元年の五月頭から中旬にかけて誕生となる。
信雄の三月誕生説は一体どうなるのかな?
三月説の根拠って、信孝が三七丸で三月七日生まれらしいというところから
きているんだよね?
ちなみに徳姫の永禄二年十一月誕生は、三月であっても五月であっても問題ない。
↑補足:ちゃんと旧暦で計算してます。
信豊もあるとは以外だな。
じゃまずは彼の頭蓋骨から復元して信玄の顔推測でもいいな。
信豊は甥だろ。信玄なら典厩の首を掘り起こして復元した方が早いって。
183 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 14:46:35
>>179 >>113にあるように、信忠の実母に関しての記述は
「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也」とあるだけで、吉乃とは断定されていない。
時期的に当時寵愛を受けていた吉乃とされたけど、別の側室なりが産んだ可能性も
ある。濃姫が養子にするぐらいだから、吉乃よりも身分の高い側室が産んだ
のかもしれないな。
184 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 15:13:49
吉乃が信忠の母とされた根拠って位牌か
もし信忠が養子だとしたら、母親はさほど身分の高くない人だろう
濃姫の養子って実績が大切なんだから
生母と余計な確執が置きやすい身分の高い女性は避けるんじゃないかな
そういう意味でも吉乃はないと思う
>>184 寛永諸家系図伝や寛政重修諸家譜の記載かな。
信忠の生きていた時代の文献に生駒の腹と書かれたものは
自分は見た事はない。
信長や信忠を直接見知っている人間の後世書いたものでも同様。
織田家から出された史料を元に編纂している筈なので、
そう間違った事は書かれていないかもしれないが、
母親が書かれているのは信忠、信雄、信孝、信秀、信高、信貞
基本的に信雄の家系が提出した資料だから、信雄の記述が多い。
信忠も享年を考えたら多い方か。
生きていた時代の資料にはないが、後世ではあるというのも
不思議な気はするけど、それほど疑う事もないかという気もする。
信忠にとって重要なのは、「正室の正式な養子」という事実であって
どの側室の腹かは重要ではなかったという事だろう。
ただし、信雄の家系の人間からすると、嫡男と同じ腹は重要だった。
それだけの事じゃないだろうか?
187 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 18:23:17
側室はどんなに身分が高くても側室。
正室にはかなわない。(例:ねねと茶々)
側室でもランクがあって、出自の低いものは子供の扱いに差がでた。
(例:信長の庶兄と言われた信宏、長男どころか子ども扱いすらしてもらえない)
もし、信忠の母親が吉乃でなかったろしたら、信忠の実母は吉乃よりも
出自がよかったので、さっくり嫡男と認め、帰蝶の養子になったと考えている。
織田家の嫡男を当時馬借であった生駒家出身の側室の母親であるとするのは
ちょっと考えられないな。
188 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 18:47:26
わかった。
信忠を産んだのは濃姫の親族だよ。
嫡男の母という立場になれば濃姫もその親族も安泰だし
信忠の側近が美濃衆ばかりなのも納得。
他の側室腹の場合と違って、生母の実家がしゃしゃり出てくるのも防げる。
でも大っぴらに母親だと披露できない人だと考えれば
ずばり濃姫の母小見の方だ。
年増だけど美人だったろうから大丈夫だろう。
小見の方が早死にしたというのはそれを誤魔化すためだな。
189 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 18:55:26
ふーん、毒蝮三太夫の娘か。
>>188 わはは、それおもしれ〜なぁ
言継卿記だと、姑は永禄12年7月まで生きてる事になってるからな。
だがここで一つ問題が!!
信忠生まれたとき、まだ信長は美濃をおさえてないんだよな〜。
こっそり引き取っていたとするのも難しい情勢のようにも思う。
だが、濃姫の親族や縁者って言うのはいい線かもしれないなと思った今日この頃。
191 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 19:31:13
俺も商家の娘が織田家の嫡男の生母はまずいと思ってたんだけどね。
でも正妻の濃姫が養子にすればそのへんは不問なのかな。
まぁ、商家と言っても純粋に平民の商人という訳ではなく
元々武士で土豪であった家が商人的色彩を帯びてきたと考える事が出来るな。
陸運の護衛の派遣などから発展したと考えればいいんじゃないか?
193 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:29:36
>>192 生駒家の野心を感じるな。下級武士あがりでそこそこ財産持ちになった
馬借のコンプレックスから吉乃マンセーの「武功夜話」を捏造したと考えられる。
織田信長に一番愛され、嫡流を出したのは、我が祖先の吉乃だぞ!という
自画自賛に満ち溢れてるもんな。
その後なんとか武士の仲間入りしたのは秀吉の時代になってからで、
それまではやはり商人という位置付けだな。
>>193 生駒家というより、更にその家臣の前野家の子孫の吉田家でしょ。
結局顕彰小説と考えるのが一番妥当だと思うよ、武功夜話って。
195 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 22:05:11
>>178 武田信玄の墓も謎のままじゃなかったか?遺体をどこに埋葬したかは
意図的に隠していると聞いた。呪詛的な目的のためという噂も。
>呪詛的な目的のためという噂も。
それって信玄の遺言どおり埋葬しなかったから呪詛が失敗して
武田家は滅んだなんていうあほ霊能者の与太話のことじゃ
ないだろうな?
そもそも生駒家が馬借という話自体、信憑性はあるの?
「武功夜話」でのお話でしょ?
生駒親正の親父って信長の母・土田氏の縁戚だよね。
生駒氏が信長の側室になったのも、そこらへんの関係じゃないの?
>>197 信長が永禄3年に生駒家に対して
馬借としての国中往還状を出している書状が残っている
>>198 生駒文書の「諸荷物馬壱疋」っていう判物の事ですか。
この文書だけで馬借扱いなのか・・・。よくある文面なんだけどな・・・。
勉強になりました。さんくす。
200 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 17:17:02
>>197 武功夜話そのものの信憑性が0に近い。
当時の生駒家は馬借以外にもいろんな商いをして、財産をなした家だったようだ。
信長実母の実家の詳細も定かではなく
土田氏が美濃可児郡の土田氏(どだ)、
尾張清洲の土田氏(つちだ)のどちらかかも不確定。
なので生駒親正と信長実母の親族云々の話も武功夜話にありがちな
生駒家をもちあげるための捏造とも考えられる。
結局、吉田家の先祖は前野家だし、前野家がすごい文献を作っちゃおう
前野家の主筋は生駒家だし遠縁だし生駒家もすごい事にしちゃわないと、
前野家もすごい事にならないよね♪
そういえば生駒って信長の側室がいたよね。
信雄を生んでるのは確実だよね。
信忠も一応生駒娘が生んだ事になってるよね。
すっげぇ信長に愛されちゃった事にしちゃおう。
あ、そうしたら、そこへ信長が入り浸ってたら生駒屋敷いっぱい出せるじゃん。
生駒屋敷の中心で天下統一を叫べるじゃん。
みたいな感じででっち上げたんじゃね?
武功夜話の最初の辺りを「生駒屋敷の中心で天下統一を叫ぶ」的小説と
書いてた人がいたのでうまいなぁと思った。
>>200 生駒親正の親父が土田氏出身というのは江戸時代の家譜はおろか、寛政譜に
すら載っている事で信憑性は別としても、「武功夜話」の捏造ではない。
>>201 信忠が生駒氏の子という事も江戸中期の生駒家書簡に載っている。
なんでもかんでも「武功夜話」の捏造とするのはどうかと。
203 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:08:57
生駒家の血をひく信雄が生き残ったってのが大きいのかもね。
204 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:14:22
>>202 だからどこの土田氏かってことが問題。
信長の実母の土田氏かどうかは、信長実母の詳細(美濃可児郡の土田氏(どだ)or
尾張清洲の土田氏(つちだ))が明らかでない以上確定できない。
いまだかつて織田家関連の資料で信忠が吉乃女腹と明記されたものは
みたことがない。生駒家書簡の類なら武功夜話同レベルだな。
江戸中期の書簡というのがそもそも不思議な話。
205 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:19:34
>>203 生駒家の血をひいたために信長の子なのにまったくつかえない愚鈍の
殿様だったってわけだな。
何度も改易されて、流刑され、最後は哀れだった。
嫡男としての教育を受けてないから仕方ないか。
幼い頃和睦と引き換えに養子にだされてるし、織田姓も後から継いだものだしね。
206 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 18:31:59
吉乃マンセーって女に多いと思ったら意外と男にも多いんだよな。
自分が信長の子孫だったり、遠い遠い子孫(織田無道なみの
うそ臭さ)と信じているやつら。
織田家を継いだ信雄の子孫となると、生駒家の子孫にもなるわけで
吉乃が何が何でも正妻の濃姫より愛され、大事にされ、正室であったと
いうことにして、信雄の嫡流を正当化したいみたいだ。
生駒家は商家などではなく、由緒正しい武家でなくては困るらしい。
>>204 生駒がどのこ土田氏の出身とかはさほど興味は無いのですよ。
なんでも「武功夜話」のせいにするのはどうだろうという話です。
生駒家がいい迷惑ですよ(笑)
信忠が生駒氏の出生というのは織田家の家譜に普通に書いてありますよ。
「家譜」だから信憑性が低いとかは別問題で織田家が「公認」していると
いう事です。
また十六世紀初頭の尾張・富士塚碑文には林羅山の孫鳳岡が
「(生駒)家宗の女を娶り二男一女を生む。其の長は則ち秋田城介信忠」
と明記してますよ。
書簡というのは分家である阿波生駒家が自家の家譜を作成するために、本家
にあたる尾張藩士生駒家に由緒の詳細を訪ねた往復書簡の事です。
>また十六世紀初頭の
あ、十八世紀の間違いです。ゴメンなさいね。
別に信忠が誰の子供でもいいと思うよ。
生駒の子供でまずい理由もないしね。
このスレ的に重要なのは、「信忠は濃姫の養子だった」ってことだけでしょ?
武功夜話の吉乃の描写は捏造としても、
それ以外の資料まで否定しなくてもいいと思う。
俺は生駒氏が商人の娘でも別に信長と釣り合わないとは思わないんだけどね。
釣り合わないと思うのは、結局、結果論であって、信忠の生まれた弘治三年、
尾張統一も終わらず、まして桶狭間の戦いで今川義元に敗れてあっさり討ち
死にした凡将だったら、釣り合わないとは思わないんでしょ?
211 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:06:14
嫡男生母の実家のわりには織田家臣内で出世していないことについて
勢州軍記他当時の記録に生駒腹という記録がないことについて
勢州軍記は当時のリアルタイムの記録というよりは
信長公記でいやぁ、牛一の息子が牛一のメモを元に書いたみたいな
文献だからなぁ。
まぁ、当時生きてた人間の話も聞いているらしいけど。
213 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:14:13
勢州軍記はなんで信忠だけ誰の腹か書かなかったんだろう。
ホントに知らなかった?噂はいろいろあって誰だか確定してなかった?
知ってたけどわざわざ書くほどの事でないと思った?
結局のところ、生駒が釣り合うかどうかという問題も、
濃姫を押しのけて正室扱いになった可能性があるかどうかに
繋がるから、ここのスレの住人は気にしているんだと思うけど、
そんな事あり得ないから、気にしなくていいと思うよ。
武功夜話は完全な偽書じゃなくても、吉乃の辺りの記述は
どう読んでも信憑性ないからね。
それ以外の資料で吉乃の事が確認されれば別だけど、
吉乃が正室扱いされたなんてことは他の資料にはないんだからね。
215 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:15:58
でも信用できる史料なんでしょ?武功や冨士塚碑文よりは。
216 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:17:06
215は212へのレス
>>215 >>115に書いてあるように武功などよりは信用できる資料だよ。
個人的には、正室の養子になった以上、誰の腹かなんて関係なかったと思っている。
218 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:48:12
>>217 >>正室の養子になった以上、誰の腹かなんて関係なかったと思っている
吉乃マンセーたちは↑では納得しないんだよね。
信長の寵愛を独り占めした吉乃が産んだ子が織田家嫡男になれた、
というところに価値をおいているようだから。
>>信忠が生駒氏の出生というのは織田家の家譜に普通に書いてありますよ
織田家の家譜?織田信雄の嫡流てこと?それ自体信憑性が…
>>阿波生駒家が自家の家譜を作成するために、本家
にあたる尾張藩士生駒家に由緒の詳細を訪ねた往復書簡の事です
ますます信用できないと思うけど…
生駒家同士でマンセーごっこ
まず側室が正室の召し抱える女だという事を理解していない吉乃厨に
何を言っても無駄だと思うけどね。
吉乃厨に対して何か言うよりも、吉乃厨が誤った情報を流してたら
冷静に真実を書いていけばいいだけの事だと思うよ。
220 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 19:56:01
>>214 武功夜話は完全な偽書じゃなくても、吉乃の辺りの記述は
どう読んでも信憑性ないからね。
一箇所でも明らかな偽書、捏造が証明されれば、その資料全体の信憑性が
なくなるから、武功夜話のここは絶対本当だ!と力説されても
説得力がないな。
>>211嫡男生母であっても正室の養子となったことで完全に生駒家と切り離され
たから。ついでに吉乃とも。なので仮に信忠が信長亡き後嫡男として権力を持ったとしても
生駒家は生母の生家として権力を持つことはなかっただろう。
>>218 私は信忠の生駒氏出生は「武功夜話の捏造」ではいと言ってるだけで、その
信憑性なんてどうでもいいんですよ。
218さんは「生駒氏の出生」では何か都合が悪い事でもあるのですかな?
222 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:01:59
>>219 そうそう、自称お犬の子孫だと言い張った織田無道なみの思い込み
が強いからな。お犬の子孫なのに「織田姓?」ということすらわからない
馬鹿坊主と、側室がなんたるかの定義も知らずに正室になったと言い張る
無知な吉乃マンセーは同類。
223 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:03:03
激しく脚色されてるだろうけど、武功夜話も元になった史料はあっただろうし
信憑性の高い部分もあるんだろう。
でもきちんと検証されないまま世に広まっちゃったから
逆に信憑性が薄れて、生駒氏関係全般が疑われやすくなったって感じだ。
224 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:03:48
>>218 信憑性のない資料を持ち出して信用しろと迫られても無理だと
言いたいだけですが?
225 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:04:34
226 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:06:22
>>223 それはない。資料にしたのは現代に入ってから、小説の類でだよ。
>>224 あなた、何かものすごく勘違いしていないですか?
「武功夜話」は「昭和」につくられた偽書だとされているのですよ。
どうやって「昭和」につくられたもの元にして江戸時代の家譜や書簡を捏造
できるの?
228 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:17:03
>>227 あなたこそものすごい勘違いをしてますね。
私はあなたの仰る「江戸時代の家譜や書簡」の信憑性のことを言っているのです。
戦国期のものを江戸時代に記した資料など、「昭和」につくられたと言われる
「武功夜話」と同レベルで信用できませんね。
229 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:18:54
武功夜話って、ひとくくりにされているけど、何種類かの文献の寄せ集めな訳よ
そのなかで、どうやら朝鮮の役の辺りは、信憑性があると言われている。
どうも、いわゆる江戸期に作られたという原本はその辺だけだったんじゃないかと
推測される訳だ。
だから、それ以外の信憑性のない辺りは、それこそ昭和年間に捏造されたものと
考えられる。
実際、普通は、昭和以降の地名だとか、後世の自然現象で変わってしまった
地形を元にした記述だとか、吉乃がらみで言えば、弘治2年に夫が亡くなった
なんて書いているにも関わらず、天文20年や弘治元年正月に信忠生んでたり
濃姫の輿入れが弘治2年だったりするような、他の資料と付き合わせて
明らかにおかしな記述がある時点で、アウトな訳。
で、武功に信憑性を見いだしたい人間は、その寄せ集めの文献の中でも
朝鮮の役を持ちだしてきて、信憑性があるから、武功夜話全体も
信憑性があるのだという論調。
反対に、武功夜話全てを否定する人間は、アウトな記述があるから
寄せ集め文献の中でも、アウトな記述がないものも含めて偽書という
そういう状況な訳よ。
で、専門家の検証を受けていない時点では、専門家としては何も言えませんよ
というのが、学者達の意見という感じかな。
231 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:19:59
天草四郎の生まれ変わりと言っている美輪明宏については?
>>228 「武功夜話の捏造」を批判するのに家譜の信憑性を論じる必要は全く無いけど?
物理的に不可能でしょ。
煽りみたいだな。
233 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:24:28
>>232 後からいくらでも都合の良いように編集できるでしょ?
江戸期に作ったのだから。
234 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:31:10
そういえば秀吉は「天皇の落胤だ!」と言い張っていたようだな。
具体的な天皇の名前をあげていたというが?
それに足利義昭の養子になりたがっていたんだよな。
養子になれれば農民出身の秀吉が、足利将軍家の家系に
家系図に堂々と記載されたわけだな。
生駒家が本来織田家にとって不問である信忠の生母に
こだわったのも、名家の証としてどうしても無視できない
事実だと思ったからだろう。
235 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:35:10
家光以降の将軍は生母が卑しい身分のものもけっこういるけど、
正式な将軍家の資料にはなんと記載されているのだろう?
236 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:41:14
秀忠なんてお江与が側室を認めてくれなかったから、正式な側室はいなくて、
目を盗んで手をつけてできた男子はこっそり他家に養子にだしちゃった。
しかも公に将軍の子としてではないんだよね。
その妾は側室にもなれず、子供は生まれてすぐに引き離されてかわいそうに。
ご落胤を押し付けられた方は迷惑だったのかな?
それとも名誉なこと?
237 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:50:46
>>235「大奥では将軍のお胤を宿せば出自は不問じゃ。わらわも八百屋の娘じゃった、
ほ〜っほっほっほっ」と笑ってた5代将軍の母親がいたな。
238 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 20:53:53
「信長様のお胤を宿せば出自は不問じゃ。わらわも馬借の娘じゃった、
ほ〜っほっほっほっ」と吉乃が笑っていたと武功夜話の戦国期あたりの
文献に書いてあった。
239 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 21:45:12
吉乃は濃姫が公認して、城に部屋を与え、信長以外の男性との接触がないような
管理下においてから妊娠し、子供を産んだんだろう。
でなきゃ、誰の胤だかわからん。
生駒屋敷に囲っておいた女の子供をある日「嫡男だ」と言って連れてきても
濃姫はじめ、家臣一同納得いかないぞ、普通。
240 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:00:39
>>207が言っている織田家の家譜って織田信雄を主流としたものってこと?
織田家にしてみれば傍系になるわけだな。
織田家は信忠、三法師で嫡流は途絶えている。
信雄系なら生駒が実母だから、真偽はともかく「信忠の生母は吉乃である」という
ふうにしたかったのは事実じゃない?
嫡流と同じ腹の子であるっていうことが傍系でも格を高く見せる効果はあるから。
だからあえて信忠の生母は吉乃だというような記述を残した資料があったのかも。
真偽はともかくな。
>>236 見性院や信松尼が、お静(志津)の産んだ秀忠の子を預かって
迷惑な気持ちでいたとは思えない。
また、目を盗んで手をつけたという下司な感覚ではなく、
秀忠乳母の大姥局・の意向もあったと思われる。
お静は大姥局の侍女ともいい、神尾氏の娘。
雲光院・阿茶局は神尾一位殿と呼ばれ元は神尾氏の妻。
関連性が無いとはいえない。
保科家からも丁重に迎えられている。
242 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:20:17
>>239 信忠が嫡男になったのはお濃が養子にしてから。
戦国板の信勝スレや濃姫スレの内容とかぶりまくりだなぁ・・・
やっぱり、こっての板のほうが書きやすいのかね。
244 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:23:06
信長、生駒家と近づきになり初めて生駒の屋敷を訪れる。
生駒家の後家娘から夜伽の接待を受ける。
また信長が生駒家を訪問した際、後家娘が夜伽の・・・
またまた生駒家を訪れたら・・・
こんな経緯で妊娠したんだったら、信長自身も自分の子かどうか
納得できないだろうなw
245 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:25:56
「美濃との御縁組みは、この一件秘事となされ候次第に候なり」(『武功夜話』)。
とあり、吉乃とのことは濃姫婚姻前からの関係だったと書いているが…
1557年に吉乃に信忠が産まれるまで、8年以上信長が夜な夜な屋敷に通うほどの
寵愛ぶりだったというのに子供が生まれず、1557年から立て続けに
年子で3人も産んだことの摩訶不思議。
濃姫に子供が生まれないとあきらめる前に吉乃を側室にするのをあきらめるよ。
246 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:29:18
>>242 俺が濃姫ならそんな子を養子にしないだろうな。
まさにどこの馬の骨雄だ。
247 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:36:02
>>245 だいたい濃姫と結婚した頃は吉乃の旦那は生きてたよ。
戦死したのは1556年。本当に武功夜話はでたらめ放題だな。
でも1557年に生まれた信忠の胤って戦死した旦那の可能性もないか?
そんな怪しい子供を養子にして織田家の嫡男にするかね?
>>245 あのさ、それちがうから。
その箇所では、吉乃はなんと天文20年頃に信忠を生んでた事になってるんだな。
あ、天文20年て言うと1551年ね
ちなみに、吉乃の夫である土田弥平次は、江南市の逸話に出てくる人物
けれど、信用おける資料に名前は出てきた事はない人物
武功夜話にしか出て来ないから、吉乃ではなく、類の方の生駒御前が
本当に土田弥平次の妻だったか、本当に後家だったかどうかは不明な。
ただし、位牌は武功夜話とは何の関係もない生駒家で伝わっているので
その裏書きの没年月日と年齢からすると、後家である事が妥当だけど。
武功夜話で一番迷惑しているのは、当の生駒家かもなぁ。
家来である筈の前野家の末裔が訳の分からんもん出してきた事でさw
251 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:43:39
>>248 ばりばりに旦那が生きてて、信長と不義密通をし、
どっちの子だかわからない子を産んで、それを濃姫の養子にして
嫡男としたってこと?
252 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:50:46
>>250 吉乃と類は同一人物じゃないの?
生駒家に吉乃の名は伝わっていなくて、伝わっているのは「類」だよ。
後世勝手に吉乃という名前に変えたんだよ。
なんでも「吉法師乃室」を略したそうだ。
253 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 22:58:39
わかった!
信忠らを産んだ吉乃は生駒家とはまったく関係のない吉乃という名の女性。
それを強引に生駒家の子孫が「その吉乃は生駒家の祖先にあたる女性」と
主張して、それを裏付けるだめのでたらめの資料を捏造した。
その結果生まれたのが「武功夜話」なわけだ。
254 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:00:14
じゃあ、吉乃亡き後はお鍋の方をことのほか寵愛したっていうのも嘘なのかな。
255 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:02:51
>>252 そんなの分かってるよ、捏造の人物じゃなく
実在の人物っていう意味な
>>251 いや、だから、違うって。
武功夜話では、吉乃は天文20年に輿入れした濃姫より(実際は18年な)
先に寵愛を受けていたといっているわけ。
ちなみに、同じ武功夜話の別の箇所では、弘治元年に信忠誕生と書かれてもいる。
その箇所では、濃姫は弘治2年に輿入れしたことになっている。
まぁ、そのくらい同じ武功夜話の記述でも矛盾だらけってことさ
256 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:10:30
>>254 お鍋が側室になったのは天正年間になってからだから
あと吉乃厨がよく言うのは、徳姫誕生後信長は忙しくなったから
吉乃の許に通えなかったって論調な。
その間に生まれてる冬姫なんかはどうするんだよって話だよな。
おまけに、小牧城は清洲より生駒屋敷に近いですよっと。
これだけ矛盾だらけなんだからなぁ。
寛政重修諸家譜の清洲誕生を見ても類は清洲で正室の許側室になってたんだろ。
捏造の吉乃は生駒家で秀吉と猥談してたりしてたみたいだけどなぁ~(武功夜話記載)
257 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:11:05
>>255 そんなに矛盾だらけなのに武功夜話を正史の資料としていた時代が
あったなんてお粗末なもんだ。
それを信じているやつって大河ドラマをそのまま正史だと信じるのと
同じだな。
結局のところ信忠を産んだのが類=吉乃かどうかも怪しいな。
生駒吉乃も存在しない名前ならWikiも訂正しにゃならん。
258 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:12:41
>>256 男の忙しいは別れのサインだとわかってくれなきゃな。
259 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:12:48
まぁ、wikiは吉乃は創作だろうって書いてあるからいいんじゃね?
260 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:18:18
つまり、
生駒家には吉乃という女性はいなくて、類という娘がいて
その類が城にあがり、正式に信長の側室になって男子を産み、
その後濃姫がその子を養子として嫡男信忠となった。
類はその後二人の子供を産んだ。
ということは間違いないのかな?
261 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:19:15
>武功夜話を正史の資料としていた時代があったなんてお粗末なもんだ。
あの図書館長がお墨付きを与えちまったのだから仕方ない。
262 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:23:24
間違いがあるかどうか分からん
今となっては残っている資料からしか推測できん
だが、吉乃が出てくる生駒屋敷で天下統一を叫ぶ小説の
エピソードよりは、かな〜り信憑性のある説なのが
>>260の解釈ってことさ。
それこそ、土田家絡みで側室に上がったのかもしれん
土田は明智の家臣だった家柄と言われているから
濃姫との上下関係もハッキリしているし、
土田御前と縁戚関係があるのだとしたら
まぁ妥当な側室選びだったと考えれるな。
263 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:25:08
「信忠の母は吉乃」と記してある西山家文書は偽書ということでOK?
264 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:27:13
>>254 吉乃に相当する女性を特別寵愛した記録はないし、たぶんその事実はない。
お鍋も同様だな。
265 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:32:06
>>262 だったら、当時の習慣から正室の濃姫が側室に適した女性を選び、
それを夫の信長に紹介し、信長が気に入って側室にした、
という流れだったかもしれないですね。
それなら男子が産まれたら自分も納得した上での側室だから
なんの躊躇なく養子にすることもできるでしょう。
>>土田は明智の家臣だった家柄と言われているから
このソースあったら教えてください。
初めて知りました。
266 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:32:38
西山家文書って秀信の母親を松姫とか書いてる
あの胡散臭さ大爆発の西山家文言覚書秘伝録のこと?
まぁ、すっごく好意的に考えるとするならば
それに吉乃の名前が出てくるから武功夜話では
採用したと考えれるかもね。
267 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:36:17
268 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:36:33
やっぱり濃姫には実子はいなかったのかな?
269 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:39:11
自分は勝長実子説が本当だったらいいと思っている
271 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:50:38
272 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:50:43
>>267 ありがとうございます。今度調べてみます。
>>269 可能性はありますね。
「近江國輿地志略」によると
「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。
時に護摩堂より失火。しかるに深砂王の書像及慈恵大師の書像飛來つて、
庫前の柿樹にかかる。ここにおいて火鎮る。爾来諸民此書像に安産をいのり、
且柿木を裁断してかへる。」
という記述があって、この御台が濃姫であったなら出産したという
ことですから。ただ事実ならなぜどの子供も濃姫を生母とする記録がないのか?
この時の子は夭折したのかもしれないけど、勝長の生母は不明というのも
ひっかかるところです。
273 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 23:54:23
>>272 自分もその記事と信長の子供のうち生母がわからなくて
永禄11年前後の生まれでおかしくない人物と考えて
勝長だったら良いのになぁと思っている
274 :
271:2006/10/09(月) 23:58:13
275 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:02:45
勝長が濃姫の子であることに不自然さはないんだけど、なぜ濃姫の子で
あるという記録がないのでしょう?
濃姫の実子であっては不都合な理由があったとしたらそれはなんなのか?
で悩みます。
側室腹の嫡男信忠と正室腹の勝長とで家督争いがおこることを避けたかったため?
ぐらいしか理由が思い浮かばないのです。
276 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:12:57
>>275 今目に見える形の信憑性のある文献からは
それくらいしか思いつかないよなぁ
これは完全に推理で妄想だから、読み飛ばしてくれればいいのだが
勝長が永禄11年に生まれたんだとしたら、信忠はかぞえで13歳くらいか?
12年わが子同然に育てた子供がいたら、実子が生まれても
相続争いを考えれば理性的に行動できるともいえる。
信長自身が信勝と相続争いで骨肉の争いをしているのを濃姫は
目の当たりにしているわけだ。
そして、その二人の生母である土田御前の苦悩だって
同じ女として濃姫は見ているに違いない。
信忠と勝長に二人にさせたいとは思わないだろう。
まして、こういう場合これほど歳が離れていれば
粛清されるのは弟のほうである可能性が高い。
だから、親戚にお預けという形で離したとしても不思議ではない。
277 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:23:28
>>276 やはり家督がらみのことでしょうかね。
同腹でも諍いがおきたわけですからね。
278 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:27:15
結局正妻の濃姫が信長に一番愛され大切にされたということかな。
279 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:31:23
>>277 勝長がもっと生きていれば、もしかしたら今とは違う歴史が
あったのかもしれないが、今となってはもうわからないからな
ただ、通称のことを考えると、勘九郎と源三郎だから
尾張美濃を信忠に、織田の天下を勝長ならぬ信房にと
信長が考えていたのかもと、妄想したりすることはできる
280 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:31:54
>>278 戦友みたいなもんだろう。敵同士だったのに不思議なカップルだな。
281 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:34:33
>>280 戦友かぁ
もしかしたら一番いい表現かもな
282 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:37:13
283 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:42:59
スケートの信成くんってお鍋の子の子孫だよね。
お鍋の子孫って何か織田家でも微妙な感じだけど、一応信長晩年の最愛の女性で
安土城の奥を仕切ってたって事になってるからいいのかw
勝長がもしも膿姫の実子なのに記載されて居ないんだとしたら
信忠も濃姫の実子だと思うけども
(正史で史実の捏造が一つあるなら他も、という意味で)
濃姫の実子勝長が居るのに、美濃勢が信忠の側近集として動くものか
日本語でおk
286 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:50:19
>>284 でもさすがに正室が長男を産んだら堂々と記録に残すと思うのですけど…
それでも濃姫が産んだ事をどうしても伏せたい理由があるとしたら、
・・・
なんだろ?
287 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:53:41
信忠の母方が生駒氏だとするとその割には冷遇に近い扱いをされている気がする。
織田家時代の生駒氏って秀吉の与力扱いしかされてないけど、
濃姫の養子になってるとは言え、嫡子の生母の家にしてはずいぶんな扱いだ。
あと勝長が濃姫の実子って話が出てるけど、だからといって嫡子の
競争相手をわざわざ作るような真似をするかな?
それこそ信忠と信雄、信孝を明確に差をつけてきた信長の考えと
真っ向から矛盾すると思うんだが。
288 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:53:42
>>283 安土城の奥を仕切ってた?ありえねぇ。それは正室のお仕事。
信成君も御妙だよな。スケートの実力も血筋も。
もしも濃姫の実子なら、ということになるけども
勝長の子が生きてたからじゃないかと
だから信雄方としては正側よりも跡目指定が重要としないと苦しい
勝長の子、信雄が引き取ってるし、その子を主家に指定しないといけなくなる
290 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 00:59:21
>>287 生駒家とは完全に切り離されて、濃姫の子という扱いだからだよ。
信忠だって生きてる時に自分が側室腹だなんて知らされていなかったかもよ。
それと、濃姫に子供ができちゃったんならしょうがないんじゃないか?
戦国時代はまだ正室の30才でのお褥辞退なんて慣習化されてなかったようだから。
実子であっても勝長は養子に出されてるし、織田家に戻っても嫡男の与力になって
家来扱いには違いないから、嫡男とは明確に待遇の差はつけられていると思う。
>>284 だって、勝長は思いもかけず武田に人質にされちゃってるからな
戻って来たの、死ぬ7ヶ月前だし
人質にされちまった時点で、織田家側はその生存はある程度諦めてるだろ
まぁ、結局勝長戻ってくるまで武田攻略が長篠があったにもかかわらず
なかなか進まなかった訳だが。
戻ってきた途端滅亡させてるんだから、信長もはっきりしてるよな。
ただ、勝長を信忠与力にして斉藤家美濃衆の中においている事を考えると
斉藤家美濃衆の分裂を防ぐ為と考えれなくもないと思う
292 :
287:2006/10/10(火) 01:08:45
>>290 違う違う、勝長に関するところは上のほうに信忠と並立させるような意見があったからそれに対して。
293 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 01:10:17
>>信忠だって生きてる時に自分が側室腹だなんて知らされていなかったかもよ。
その可能性は大だね。明治天皇だったと思うが、自分が側室の子だと知ったのが
かなり大きくなってからでそれを知ったときはかなりショックを覚えたそうだ。
そういや、信忠が天正元年だかに「御方」という人宛に
書状を送っているらしいが、信長夫人にあてたものと
解釈できるらしいんだが、その内容はどういうものなのか
知ってる人はいないのかな?
自分も文献読むのは好きなので探しているんだが、
見つからないんだよな。
どこに載ってるとか分かれば、国会図書館で複写を
取り寄せたりできるんだが……。
>>293 大正天皇じゃなかったっけ 昔はそういうの結構有ったみたいだね
だから逆に、嫡子に限っては、関係者が口裏を合わせると割と簡単に後づけで養子とできた
でも、個人的には寛政重修諸家譜がでっち上げとは思って居ない
その可能性もあるかなといった程度
あくまで勝長が濃姫の実子だったとしたら
信長が信忠>>勝長という態度で挑んだのは、両者とも実子だからじゃないかと思う程度
296 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 01:19:50
自分も寛政重修諸家譜の信忠の生母の記載はでっち上げだとは思わないな
ただ、勝長の生母に関しては、巧妙に削除したんじゃないかとは思う
秀勝の生母なんかは、不明だが、その足跡はある程度分かっている
書状なども残っていた筈。
冬姫の生母と同母らしいというのも分かってきている。
しかし、勝長みたいに信長生存時に元服した人間の生母が、
全く分からないというのもおかしい。
ただし、寛政重修諸家譜が編纂され始めた19世紀に削除されたんじゃなく
信雄が生きていた時代に削除されたんじゃないかと……。
だから後年子孫が、寛政重修諸家譜の為の資料を出す時には不明に
なっていたんじゃないかと思う。
それこそ、勝長の子供が生きていたから、仮に生母が濃姫なら
隠さなくちゃいけないと、信雄が思ってもおかしくはない。
>>296 あの信憑性のかな〜り薄い三河物語には
本能寺の変の時、信長は最初、信忠の謀叛と思ったって
記述があるでしょ?
面白くないと信忠が思っていたのを信長も知ってたりしてw
勘九郎については、その時期が第一次信長包囲網の真っ只中で
頼みは美濃だった時期だし、信忠
ごめん途中投稿した。信忠も、美濃の結束の為に名より実を取るといわれたら素直に納得しそうだけどな
>>294 確か岐阜県史だったとオモ(巻数までは覚えてないスマソ)
内容は朝倉攻めの動向あれこれ(誰々を討ったとか戦況はこんな感じとか)
それとその書状にある御方まいるの御方については
お濃あてという解釈と入手経緯は不明だが武田家臣だった真田家が
この書簡を保管していたことから許婚だった松姫あてだったのではという
解釈もあるらしい。その頃の武田と織田の仲を見ればお濃宛と考えるのが
妥当なんだけどね。
302 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 01:52:16
>>301 岐阜県史は実は調べたんだ。
他にもいろいろ信長や信忠の文献が載ってるんで。
けど、見つからなかったんだよ。
ん〜、もうちょっと調べてみることにするよ、ありがとう
303 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 02:01:26
>>297 でも濃姫がなくなったのが1612年。信雄に面倒をみてもらっていたようだし
勝長の子も信雄に仕えていたから、もし濃姫が勝信の実母なら黙っちゃいないと
思うけど。「正当な織田家後継者はこの子です!」と主張しそうだな。
でも濃姫が亡くなってしまったら後見人もいなくなるし、信雄の息子から
家督を奪い取ることは無理だろうな。
ところで、大名家で側室腹の子を正室が養子にして嫡男として育てていたけど、
ひょっこり正室に実子ができてそれが男子だった場合、どちらが立場が上なの?
養子となったからには長男優先?それともやっぱり実子の正室腹が優先?
かつてこういう関係になった義兄弟が家督争いをしたケースとかってあるのかな?
勝長の息子勝良は前田家に仕官しているから
ずっと信雄の元にいた訳じゃないよ。
305 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 02:14:51
>>303 豊臣秀次と秀頼。秀頼>>>>>>>>>>>>>秀次だったな。
秀次は秀吉の養子になったそうだからちょっとケースは違うな。
でも本質的には一緒のような気がする。
つまり、養子にちょっとした粗相があったら最後あっという間に廃嫡、徹底的に
潰して、実子を嫡男に交替、という流れになると思う。
>>305 信忠は信長の子なんで秀吉の場合は参考にならないかと
近いのは伊達家かな
政宗の側室の生んだ第一子は、分家になってる
でも秀宗は正室の養子にはなってないから単純に比較は出来ないよね
というか、正室がまだ23才なのに養子をとっているのが異例な気がする
養子にするまでも無く、側室にしか子供が出来なかったら
側室の子を側室の子のまま世継ぎにすることが多いし
側室の子が継いだら、濃姫が尊重されないかもしれないこと気にして養子という流れなら
もう数年、濃姫が30超えてもう子作りは無理と諦めがつくまで待つんじゃないかと
美濃が欲しいだけで濃姫についてはどうでも良いっつんなら別だけど……
後は濃姫本人が諦めていて養子でも良いから早く子供が欲しいと思っていたとか
信房について、もし濃姫の実子で、だから養子の信忠は美濃支配に留めて
織田を継ぐのは源三郎信房というプランがあったとしたら
信忠は即効で信房を殺したと思うんだよね
与力だから、戦でちょっと危険な所を任せて、うっかり指揮を取り間違えたように見せかければ
簡単に殺せる
殺したところで誰も信忠を罰することが出来ない
信房が居なくなってしまったら、信忠しか織田を継ぐ人が居ないからね
「源三郎」が、いずれ織田の跡取りにいう意味なら、戦国の常識に従うと同母の兄弟でも殺すし
信長も伊達に弟に謀反起こされた訳じゃないから
信忠が嫡男というのが揺るがないことが内外に明白なのでなければ
信房を信忠の与力にはしないと思う
源三郎については、後で周囲に誤解招くかと反省したんじゃないかと思うけど
だから半年後、信忠に「天下の儀も御与奪」とわざわざ言ったのかも
つーことで、信房が濃姫の子なら、信忠も濃姫の子と、セットで考えてる
逆に言うと、信忠が濃姫の実子でないなら、信房も違うと思う
>>270 西山家文書について書いただけで<ヒステリー女とか、
自演とか書かれるのは何の理由があってのことなのか?
あの文書は2ちゃん内である時期急激に書き込まれたものの、
結局何の検証も語られぬまま消えていった不思議な文書なんだよね。
308 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 10:09:33
信忠に関してはやはり側室腹と考えるのが自然だと思う。
それも
>>265のような流れであればなんら不思議はない。
濃姫の認めた人柄の女性を側室に差し出し、自分の代わりに
子供を産んでもらったというだけの側室。
立て続けに子供を3人も産んだから寵愛が深かったという
誤解を与えたけど、逆に年子3人ということは、褥の数は最小3回でも可能。
妊娠中は褥をすることもなかったろうから、信長との関係は
側室と当主のそれを超えるものはなかったと思う。
第3子出産後はぱったり子供が産まれてないのが寵愛がその程度であった
証拠。
勝長は実子である可能性は大いにあるけど、信長が目の黒いうちは
嫡男を退けてまで勝長をという考えはなかったと思う。
その気持ちがあれば養子にだしたりはしないはず。
嫡男として育てておきながら当主の怒りをかい、廃嫡されるというケースは
あるので(細川家、ガラシャの長男は廃嫡)、家督争いのためというのではなく、
信忠に嫡男としてあるまじき粗相があったら廃嫡して、勝信が嫡男に
ということはありえるだろう。
いろいろ考察すると、濃姫は世間が思うほど影の薄い正室ではなく、織田家に根を
はって、正室として実権を握っていたというのが本当のところではないかと思う。
それには信長の理解あってのことだから、夫婦関係は良好だったんだろうとも
思える。信長が道三のかたきをとってくれた、濃姫のおかげで念願の美濃を手に入れた、
というお互いの利害関係も一致していたしね。
309 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 10:31:54
「源三郎」と名づけたあたりが信長の親心がでてるな。
信長にしてみたら全員自分の子なわけだから、勝長だけを贔屓にしたのは
濃姫への心配りというところか。
310 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 10:35:51
江戸時代に編集された織田家の家譜や生駒家書簡は信用できるかどうかについては?
ストレートに「三郎」にしていない辺りが、心憎いw
武功夜話を脇に他の資料を見てみると、やはり濃姫は正室なんだよなと思う
昔は今程文献がネット上などで気楽に見れる時代じゃなくて、
学閥などに左右される史学界でしか検討できなかった事が
そういうしがらみがない人間でも検討出来るようになっていろんな意見が
出てくるようになったんだなぁと思うよ
武功夜話作った人間は、将来こんな風に誰でも閲覧できて矛盾点指摘されるような
事態は全く想定していなかったんだろうなぁ
それ以前に、吉田家が出版するとは思っていなかった気もするが
一度、みんな平明な思考で検証をしなおしたほうが良いと思う。
ここの人たちは自分の好きな人物に肩入れしすぎの感がある。
また、憶測が多いのも難点・・・妄想と紙一重の危険性があるぞ。
313 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:03:25
>>306 伊達家の場合は秀宗を豊臣家に人質に出したものの、
徳川の時代になるから徳川に人質として送っていた忠宗に跡を継がせるという
政治的な意味もあるから濃姫の事例とは微妙に違うな。
そもそも勝長は本当に濃姫の子だったのか?
濃姫が若いうち信忠を養子にしたということはもしかすると夫婦間が不仲で
早くから関係がなかった=子供は望めないということだったのかもしれない。
また渋々とはいえ、正室腹の長子を外様の最前線に送るってのも考えにくい。
また織田(津田)姓のままだったといっても帰国してからまだ半年、
いずれは他家に養子に行く予定、もしくは信長としてはその腹づもりだったが
養子に行く前に本能寺の変が起きてしまっただけというのも考えられる。
何より源三郎≒三郎説は根拠としては弱いし、勝長が濃姫の子というのも何の根拠も無い話。
仮に勝長が濃姫の子として、信忠という壮年で器量も優れた長男がいるのに末子を無理に
立てるようなまねをすれば信長の目が黒いうちならともかく、死後に内紛が起きる危険もある。
次男以下を他家に送り出した信長がわざわざそんな愚を犯すかな。
また濃姫、ひいては美濃衆に対する配慮という話も出てるが信忠は濃姫の養子だし、
美濃衆の多くは信忠配下になっているわけだから彼らからしてみれば順当に信忠が
後継になったほうが政権中枢参画できるんだから、信忠後継のほうが望ましい話だろう。
314 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:06:48
>>312 でも歴史検証にとって一番大事なのは当時の信憑性の高い資料の検証。
それに即して当時の風習、慣習、時代背景を視野に入れた憶測で肉付け
していくわけです。根拠のない妄想は危険だけど、資料を根拠に憶測をして、いろんな角度から
意見を言い合うことは大切な事だと思う。
吉乃マンセーが叩かれるのは、武功夜話や早わかり信長辞典みたいな、
ものしか目を通さず、他の資料と照らし合わせればいろんな矛盾が
すぐにわかるのに(年表と比べただけだって矛盾だらけ)、
それもせずに鵜呑みにしてるから。
濃姫に関しては、信長御台という記述の残る資料を集めてもたいした量は
ないけど、そこからみえてくる濃姫像はけして信長に冷遇されていた
という事実はないということ。
ということは夫婦の営みもあってもおかしくはないので、
濃姫に子供が生まれても不思議ではなく、
「近江國輿地志略」の「曾織田信長と御台所倶に当院に止宿す。不図平産あり。」
の記述を根拠に、勝長が濃姫の実子では?とたどりつくわけです。
好きな人物だからと肩入れをしてそう結論づけるようなことはしません。
少なくとも私はそうです。
315 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:17:42
信忠にとって勝信は濃姫の産んだ子でなくてもプレッシャーには違いなかったと思う。
他の子に比べてかなりの高待遇で、信長のお気に入りだったのは確か。
シビアな信長がかわいがるには勝信の才知が優れていたからというのが
一番の理由だったろうから、信忠にとっては煙たい弟だったろう。
316 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:42:39
戦国時代の特色として嫡男であっても当主である父親の意向で
廃嫡の可能性がいくらでもあったということ。
斉藤家だってそのことを恐れた嫡男が先手を打って道三を亡きものにした。
伊達家や織田家のごたごたも次男であっても嫡男になれる可能性は当然あった
ということの証明。
家光の時のごたごたまでは戦国感覚でその可能性もあったので、家臣も真っ二つに
わかれたけど、家康の鶴の一声で長男優先が定着した。
でも正室の子ということが前提。
正室に男子がいない時に限り側室の産んだ男子を養子にして嫡男としていった。
濃姫が早々に側室腹の子を養子にしたのは不思議なことだが、戦国時代は当主は
明日の命もわからない時代だったので、嫡男問題は先延ばしできない事態になって
いたのかもしれない。嫁いでから7年たっていたし、道三も亡くなっていたし、
家臣からの圧力もあって濃姫としても仕方がなかったのだろうと思う。
317 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:43:59
>>313 最前線に送る訳ないと言っても当時の信長に持ち駒が無ければ
それも仕方がないことじゃないのかな?
どっかにも書いてあったけど、仮にご坊が岩村に行くことになった裏に
信玄の揺さぶりが絡んでいたとすれば、信長は例え嫡子だとしても
岩村に送っただろうて。岩村という場所はそれだけ重要な場所。
言い方を変えれば嫡子を送り込んででも守り抜かねばいけないような
要所だったともいえる。
318 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:46:38
後継ぎ問題が決着したら、なぜかひょっこり嫁に子供が!て
あるよ。親戚の家がそうだった。兄弟から養子をとることが
決まったとたん、結婚15年たって念願の子供が生まれた。
嫁はさんは40才過ぎてたけど、男の子が生まれたよw。
親戚一同びっくりした。
精神的な問題も大きいのかもね。
どこぞの国のやんごとなき皇太子妃もその可能性があるなと
最近思っています。
なので濃姫に想定外に子供ができても全然OK。
319 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:50:22
>>317 それにそこの女当主は信長の伯母だし、いずれ織田家が乗っ取ってしまえばいい、
みたいな目論みがあったかもね。けっこう楽観的に。
だからよりにもよって武田に人質に取られたときは怒り狂っても不思議じゃない。
騙しうちにあったようなものだもの。
逆さ磔にされても仕方ないな。
ところで逆さ磔というのは、頭を下に磔をするのかと思ったら違うらしい。
手を通常とは逆さまにするので逆さ磔というらしいのだが、
詳しい人教えてください。
320 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 11:51:02
>>317 嫡子つっても五歳。一族の誰か、弟あたりを送っておけばいい話じゃないか?
だいたい勝長が嫡子というのもこのスレでは確定扱いだが、実際のところわからない話だぞ
321 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:03:02
>>320 それがその伯母がどうしても信長の実子にこだわったためらしい。
信長は何度も断ったが、子供がいなく、夫に先立たれた伯母は家の断絶を
怖れて、信長の後ろ盾も欲しかったので信長の子供を養子に迎えたいと
懇願したわけだ。そうなると当時の持ち駒は勝長しかいなく勝長を
養子にあげるしかなかった。
岩村が武田方につくことを恐れたというのは事実であろう。
実際武田に落とされたし、武田、織田双方にとって
重要な場所であったんだろうな。
322 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:05:54
>>320 信勝=濃姫実子を勝手に確定扱いしてもらっては困る。
あくまで憶測。そうあっても不思議はないという展開の話をしているだけ。
矛盾があるのはわかっているし、確定するだけの資料も残されていないので、
誰も確定はできないよ。
勝長は信長の野望だとどのくらいの評価されてる?
324 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:08:11
>>322 信勝は信長の弟なわけだが・・・・勝長ですな。
325 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:09:43
>>308 >>立て続けに子供を3人も産んだから寵愛が深かったという
誤解を与えたけど、逆に年子3人ということは、褥の数は最小3回でも可能。
言われてみればそうだな。
妊娠しやすい女性ならそれもありだろう。
そして産後の肥立ちが悪く、身体を壊して信長からも遠ざけられ…か。
嫡男を産んでも側室はしょせん側室、正室の家来だな。
326 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:14:38
武田には遠山(苗木だが)の血を引く信勝がいたからな。
で、信勝は信長の孫にもあたるわけだから
大義名分で捻じ込まれる可能性も無くはなかった訳だし
そのあたりからの切り崩しで折衝したとすれば岩村にいた家臣達も
武田へ心が揺らぐ人間が出ていたとしても不思議ではないだろ。
国境沿いの小さい領国主は保険も兼ねて接する国々とつなぎを
持っても処罰されることはないのだから、織田・武田どちらとも
つながる人間がいればそれこそおいしいわけだ罠。
>>326 そう考えると信玄が信勝を跡目に指定した理由も
なんとなくわかるなような?
スレチですまん
328 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 12:45:28
戦国時代の婚姻・養子縁組は政治的な駆け引きそのものだからね。
その子供代のことまで視野に入れてのことだと思う。
信長の失策は若い頃からせっせと持ち駒になる子供を作っておかなかった
ところ。少なくとも嫡男誕生の7年間の空白は痛いな。その間ぼろぼろ
子供がいたらあっちこっち養子だ正室だと送り出し、基礎固めが
もっとがっちりとでき、天下統一が早まり、本能寺の変もおこらなかったかもしれん。
329 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 13:18:50
330 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 14:02:29
>>328 家光同様若い頃の信長は男色専門だったからじゃないか?
その後女性に目を向けるために送り込まれたのが生駒の娘。
後家のテクであの手この手で開眼させたとか?
濃姫もずっと長い間手付かずで放置されていたのかもしれんな。
>>330 一体どこの家光ですかw
男色専門と言ってもなぁ、確定してるのは利家だけだからなぁ
あの蘭丸でさえ、本来は乱丸で荒小姓だったらしい
信長は戦国男性のたしなみ程度かと思われ
成人男性ともヤリまくっていた家光こそガチ
>>329 言って納得するなら、誰も吉乃マンセーを厨などと呼ばない訳でw
吉乃好きにも閉口だけど
濃姫の出産等について、真面目な疑問・質問を書き込むと
「どうしても濃姫の子を生ませたくない奴がいるんだな」
と、かかってくる人々も不可解。
>>334 それは同意だ。
「近江國輿地志」はあくまで地誌。
逸話伝承の類いも多くまぎれている。
もちろん、真実も多く書かれているけどね。
成菩提院の箇所はどうやら寺に残る記録らしいから
それを直接調べれたら、本当はいいんだろうけどね。
可能性の一つとして勝長実子説を唱えてる分にはいいと思うし、
そこから色々推測するのもいいと思う。
疑問質問に真面目に答えている人もいるけど、
食って掛かる人もいるのも事実で、
その辺はやっぱり人の振り見てわが振りなおせだよなと思う
>>335 >あくまで地誌
それは言える。
伝説を拾遺する役目ももっているのが地誌だし、
伝説・伝承をそのまま記すのも眼目なので、
検証や裏づけが欠けていることが多いもの。
「伝説や伝承も何かあったから成立したもので軽視できない」
という意見も歴史をかたるうえで見逃がせないこともあるけど、
文献の性格を理解したうえでの考証していくのは大切なことだ。
337 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 17:54:25
>>335-336 その火事のことは別の資料にも残っているので寺で火災があったことは
本当の事らしい。
信長と御台が宿泊していたかどうかは真実かどうかわからんが、
その寺は身分の高いものが常宿にしていたことも確かなので
宿泊しても不思議じゃない。
338 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 18:07:01
濃姫には子供はいないってのは定説だけど
いろいろ推測してみた方が楽しいよ。
ホントはどうだったかなんて今となってはわからないんだから。
>>337 宿泊してても不思議じゃないって、信長公記にも名前出てくる寺だからな
そこに泊まった事があるとは思えないなんて言ってる人はいない訳で
御台の消息が京都にある時点で、その濃姫かもしれない御台が泊まった事ある
可能性は高い訳だな。
その寺で出産したかどうかって言うのが、真実なのか真実でないのかという意味で
みんな色々考えている訳。
妊娠中の女性を連れて行くかなぁ?とか。
まぁ、秀吉も家康も妊娠中の女性を連れていた事はあるので、可能性としてはある
という程度にはあるのだろうって感じ。
安産柿が現存していた事を考えると、何らか信仰の対象になったきっかけの
事象も起きたのだろう
それを近江國輿地志では信長御台の平産記事という形で残している訳だが
真実かどうかは分からない訳で、後考えられるとしたら、
それが真実だった場合どの子供と推定されるのかという話になる。
そうすると勝長である可能性が高いという事だよね。
だったら後は勝長の側から検証していくしかないんじゃないのか?
そういえば、某所で、勝長の幼名が御坊なのは
「寺で生まれたから坊でよかろう」なんて
信長が言って決まった名前だったりしてと
書いている人がいたな。
信澄も幼名が坊だったけど、面白い考え方だとは思った
341 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 18:29:48
「奇妙」ってのも変な名前だよな。
>>22の説もありか
342 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 18:30:01
1568年京へ行く途中に御台出産→1589年2月には京都に滞在(御台の寝所には近寄るな
という信長の指令、赤ん坊がいたので?)→御台が御料地をもらう(男子を産んだ褒美?)
とつながるのは、深読みしすぎ?
343 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 18:46:55
>>341 帰蝶、奇蝶ともに信頼できる史料では出てこないからそれは無いだろうな。
濃姫も美濃からきた姫って意味だし。
信忠が生駒氏の腹でないとすると信雄が厚遇されたのは何で?
信孝の生母の身分が低いのと、信雄が信忠と同腹だかろという理由だと聞いたが
信忠、信雄が異母兄弟だとすると信雄20万石、信孝5万石と大差をつけられた理由がよくわからん。
信孝の母は身分が低いっていっても、豪族の家で生駒氏とそんな格が違うとも思えないんだが。
345 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 19:02:45
信雄が厚遇というより、信孝が冷遇されてたのかも
>>344 ん〜、でも、信孝は坂氏の家で生まれたんじゃなく、岡本太郎右衛門良勝の
家で生まれている事を見ても、かなり身分は低かったんじゃないかな?
坂氏そのものの娘というよりは、その縁者って感じじゃないか?
岡本は熱田の神司だったはずだから、そこで働いていた侍女とかね。
熱田は、信長が元服してすぐの頃最初に制札を発給したところだから
結構縁があった訳で、出入りしているうちに手がついて……とかね。
三男とされたのは、坂氏よりも熱田との関係からだとも思えるしね。
そう考えると、信孝がそれだけ取り立てられている事自体が
信長が信孝の武将としての能力を買っていた表れと考えている
史学者もいるくらい。
347 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 19:17:35
>>344信雄は北畠家の乗っ取りに一役かってるからね。
そのへんの功績もあったのでは?
最初からそれが目的で北畠家に養子にだしたんだろうけど。
嫡男と同腹だから厚遇されるというのはないと思う。
嫡男が濃姫の養子となったことで、実母が誰だろうと不問と
されるわけで、それなのに同腹の次男を厚遇するというのは
矛盾が生じる。
成菩提院じたいは歴史のある寺院だし、
地位ある人々の宿泊が多かったことも理解してるけどさ、
どこのスレか記憶には薄いけど、
「濃姫が出産した事実を示す文献が最近新たに発見された」
という風なレスがあって、さすがにひいたな。
349 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:08:18
臨月の御台を伴うというのは、ちょっと???だけど、
どうしても京都まで御台を連れていかなければならない理由があったのだろうか?
ただの京都見学というわけではないと思う。
新たに発見されたというよりは、これまで無視されてきた記述を
無視しないで取り上げるようになったって事なんだよな。
無視されてきた理由は、濃姫は子供がいなかったが通説だったから。
臨月かどうかは、今みたいにエコーがある訳じゃないからはっきりと
分かる訳じゃないからなぁ
お腹がそれほど大きくならない女性だったら、
大きくなる女性の7ヶ月くらいのお腹で
実は出産間近なんて事も普通にある訳で、
今で言う安定期だと思って連れて行ったら、実は臨月だったとか、
火事見て早産になったとか。
出産がもしあったのなら、「不図平産あり」だから、誰にとっても
想定外だったんだろ
「永禄年中織田信長当寺に止宿の節俄に舞馬の変に遭ぬ」
と言う一文もある訳で(舞馬の変=火事)、永禄年中とはいえ、
信長が初めて成菩提院に泊まったのが、上洛戦のときと言われているから、
泊まった可能性自体が永禄11年〜12年の2年間な訳だけど。
そうすると、12年2月に御台が今日にいる事を考えると、
11年9月〜12年2月の間の話と絞り込める訳だな。
反対に、12年7月に岐阜に濃姫がいる事は分かっているんだから、
京都から帰る時の話かもしれないが。
>>349 当時の都の名医は、各地の大名家に呼ばれていたりする。
大事な正室なので臨月でも連れ歩いた・・・とは考えにくい。
>>350 そういうモノのわかった書きようではなく、
あの地誌自体がどこから新規に発掘されたような書きぶりなら
確かに見かけた。
ごめん、上洛戦の時が最初じゃないや
7月28日の浅井長政との面会の時が初めてと言われてるな
>>352 きっと、新しく発掘されたと思った人もいるんだろうね。
「近江國輿地志」自体がマイナーな文献だし、濃姫出産と
想像できる官製の文献なんてそれまでなかった訳だからね。
でも、きっとそういう人って、本文読んで書いてた訳じゃないんだろうね
おそらく、自分もそんな書きぶりは見た事があるけど、
これまで武功厨に、濃姫なんてとっとと帰されたんだと
いいように言われていた不満が爆発したというのもあるのかもとは思った。
あと、実は自分、話題になる前から「近江國輿地志」は読んでた
成菩提院の箇所も何度も読んだ事あるんだけどね
濃姫出産か!?って話題が出るまで、あの御台の出産記事、
読んでる筈なのに濃姫の事と思わなかったよ。
濃姫は子供がいない筈なんだから、御台の出産=伝説と
素直に流し読みしていた。
でも、いない筈って言うのも単なる通説の一つではあるんだよな
今はいたかもしれないし、いなかったかもしれないくらいに思っている。
355 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:34:55
成菩提院そのものには、信長の御台が出産した、というようなことは
伝わってないの?事実なら歴史上有名な信長に関することだし、
しかも通説を覆す歴史的事実じゃないか。
出産が本当なら例えば信長子息産湯の井戸とかあってもよさそうなもんだが。
成菩提院史って言うのがあるらしいんだけど、門外不出らしいんだよね
357 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:37:12
「御台」というのは絶対正室にのみしか使われないものなの?
側室などを称して「御台」と表記したという可能性はないのかなと思って。
358 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:40:27
>>356 門外不出か・・・ますます興味をそそられる。
>>356 でも、そういうのがあるとしたら、結局地誌はそれを元に書いたんだろ?
成菩提院の箇所って、かなりの量だぞ。
信長の事だけじゃなく嘉歴や応永や慶長の頃の事も書いてあるんだから。
>>354 あんまり「武功厨」とか使わん方がいい。荒れるもとだ。
それこそ「武功厨」とやってる事が一緒。同類だ。
>>357 側室の家臣とか身内が内々で「御台」と読んだ例はあるらしいけど
公的な記録での御台は正室の事だね
362 :
354:2006/10/10(火) 20:42:58
363 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 20:47:03
どこか遠い所で秘密裏に出産しないと、その子は早世すると占い師に言われたんだよ。
濃姫は若い頃にも流産や死産を経験してて、そういう事には敏感になってた。
で、信長上洛の時に一緒に付いて行くことになったんだよと激しく妄想してみる。
364 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:07:43
でも濃姫が出産したことは事実だとしても、
早死にして家系図に残ることもなかったかもしれん。
>>359 そうなんだよね、成菩提院の箇所って言うのはどう考えても寺側から
資料とか情報を提供してもらっていないと書けない内容なんだよね
周辺の庶民に聞き取りしただけじゃ、無理な話だし、
家康の法度の写しも載ってる
そう考えると、享保の頃に寺側が官製地誌に載せてほしいと思って出した
情報と考えられるね
占い師はともかく、流産や死産を繰り返してたら記録には残らないかも、しばらく側室を持たなかったのも次に期待してたのかも、と同じく妄想してみる
367 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:12:17
>>361 サンクス。
では『近衛前久第門外町人中宛日乗朝山等連署奉書』にある
「公方様御台様御座所近辺寄宿停止之旨、」の御台様は信長の御台、つまり
濃姫という解釈でかまわないのかな?公方(義昭)は正室がいなかったはず。
本来なら公方とその御台と解釈するのが自然だけど、仮に側室を伴っていた
としてもその側室を御台様と称することはしないよね?
368 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:15:51
>>342 なかなか鋭いかも。濃姫に御料地をあげる理由が今ひとつわからんかった。
別に私有財産を与えなくても濃姫は自分の正室だし、嫡男の母親だし、生涯
織田家から優遇される立場だしね。
男子を産んだ褒美だったのかもな。
>>367 側室を御台と呼ぶとしたら、その奉書の中に限定して言えば、
その奉書を書いた人物が相当尊称を付けねばならない相手と
考える程の女性という事になる。
その当時、義昭にそんな側室がいたという記録はない。
むしろ、側室なんてまだいなかったんじゃないかという時期だろ?
その奉書の内容的には、確か信長の警固関係の事がメインで書いて
あったような覚えがあるが、うろ覚えなので間違えているかもしれない
しかしながら、そこに出てくる御台は、信長の御台の事でいいんじゃないかと
思われる内容だった気がする。
370 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 21:44:37
>>369 サンクス!
あとは御台=濃姫ということが確定できればな。
十中八九間違いないと思っているけどね。
「近衛前久第門外町人中宛日乗朝山等連署奉書」を書いたのは
村井貞勝で、明智光秀と朝山日乗が連署している
村井貞勝は、信長の奉行衆な訳で、
その奉行衆や光秀が、信長の側室に御台と言う訳はない。
だから、信長の側室を御台と呼んだなどという事はまずないから
信長の御台という意味なら、濃姫の事に間違いない。
あとは義昭の御台がいたかいなかったかにかかってくると思う。
だが、義昭に生涯御台がいなかったのはよく知られている事だし、
そう考えると、濃姫の事と考えるのが一番妥当
あと、近衛前久邸門外町人に対して出している事を考えると、
この宿舎って妙覚寺の事だと思われる。
妙覚寺と言えば、道三の遺言書が残っていたり、濃姫の弟が
妙覚寺で修行していたりする訳で、濃姫の事と考える方が
何かと辻褄が合う気がするのだが、どうだろう?
信長が公方様?
>>373 公方様(義昭)と信長公御台の宿所のそばに誰も近づかないように
って、宿所の傍の住民に信長がおふれを出させたんだよ
なんで、信長が公方様なんて解釈になるんだよ
375 :
344:2006/10/10(火) 22:16:16
>>347 神戸家乗っ取りという点では信孝も同じでは?
信雄が一役買ったとはいえ自分の才覚でやったことではないし。
まあ結局のところは本人の母親の家柄+養子先の家格の問題なのかな。
376 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 22:35:45
今井宗久の手紙みたいに公方様ならびに信長御台って書いててくれたらわかりやすいのに。
でもその時の状況では書くまでもない事だったんだろうな。
文献や書状に御台に関しての記事が散見されてるのに、
その周知されている正妻の出産を記した同時代の文章が無いのは何故だろう。
書き記すまでのことも無いこと・・・では無いだろうに。
>>377 結局ないからこれまで子供はなかったという事になっていた訳でしょう
ただ、勢州軍記にしても「若君」がいなかったとしていたりと、
「若君」はいなかった? じゃぁ、「姫君」はいたの?
と、疑問を持つ人がいてもおかしくない書き方ですね。
もしかしたら、意外と、そんなところに(近江國輿地志)に残っていたとは
思わなかった〜っとあの世で思ってる御人がいたら笑えますけどね
でも、これは妄想という事で。
379 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:03:31
実際には出産していない
出産したけど、生後まもなく死亡し周囲には披露されなかった
出産した事はなぜか公然の秘密だった
とかかな
380 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:18:43
>>375 信雄は北畠一門を抹殺して乗っ取った。義理の父親殺しの汚名を
背負ったからね。信孝は養子にいったけど義理父殺しまではしなかった。
その差は大きいよ。
381 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:24:06
>>377 出産どころか、濃姫の存在そのものも道三死後は死んだか
離縁されたということが通説なんだから。
門外不出の資料にしか記載がないというならわかるけど、
我々で知っている一般的な資料にも信長御台の記載が見られるのに不思議な話だ。
>>381 その通説が一般的になったのは武功夜話以降で
それ以前は、多くある説のうちの一つだったよ
383 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 23:28:22
>>379 普通に考えたら「出産したけど夭折した」かな。
成菩提院の御台の出産が事実であればだけど。
あの時代の乳幼児の死亡率はかなり高かったから。
384 :
372:2006/10/10(火) 23:47:26
>>372で書き忘れたんだけど、当時義昭は六条にあった
本國寺を宿所にしていたのは、言継卿記にあるので、
二条の近衛前久邸のそばの町人にそういう振れを出したのは
公方様よりも御台主体のお振れではないかと思うのだが。
二条城建設中の奉書でもあるのだが、信長は建設現場で
陣頭指揮を執っていたので、妙覚寺に泊まっていたと思われる
その当時は信長は本能寺か妙覚寺を宿所にしていたからな
そうすると、御台は妙覚寺に一緒に泊まっていたと
推測できると思うのだが?
で、義昭は六条の本國寺で一人寂しく泊まっていたと……。
学者や研究者が取り合わないのはなんで?
別に研究者みんながみんな濃姫の早世を主張していたわけでは無いのだから
こういう文献があって御台として尊重されてたようです、と
発表する学者がいても良いように思うのだけれど。
やはり妻妾のことなどでは著作のメインにならないとか、
戦国女性史分野が軽いものと見られているとか?
岡田氏もあれから進んだ著作を出して無いよね。
近江國輿地志はともかくとして、
言継卿記や近衛前久第門外町人中宛日乗朝山等連署奉書や
今井宗久の書状などは、別に無視されていた訳じゃないよ
ただ、元々戦国期の妻妾の事を突っ込んで研究している人は
在野の人に多かった訳だから、武功夜話信奉者に多くが流れた後
武功夜話に都合の悪い記述は、それをいかに濃姫ではない事に見せるかに
そういう人達は腐心してきたと言っても過言ではないと思う。
一番呆れたのは、言継卿記の信長本妻は、吉乃死後斎藤家からもう一度
正室を娶ったのだと主張した人がいたこと。
もしそういう事実があれば、それこそ文献に残る筈だというのに
そういう事は無視だからね。
さすがに、吉乃の辺りの矛盾点を、多くの人が認識しだした昨今では
声だかに主張する人はいなくなったけど、歴史読本など読んでみると
いまだに吉乃正妻説を、常識の事のように書いている在野史家が多い
安土殿にしても、養華院殿要津妙玄大姉にしても、濃姫と確定できないと
主張する程度で、じゃぁ、安土殿、養華院殿要津妙玄大姉、そして種々の文献に出てくる
御台や北の方や本妻という記述の女性に、誰が当てはまるのかという事には
そういう人達は誰も答えられない訳だ。
養華院と、興雲院の墓が総見院に建っていて、体裁が違うというのに、
どっちもお鍋の墓だと主張する人とか、氏郷記に出てくる御台もお鍋だと
主張する人とかいる訳で、織田信雄分限帳の安土殿だって、お鍋に違いないと
言う人達を何人見た事か。
その頃には、高台院の侍女になって知行を与えられてた事は無視ですかと
思ったものだ。
とにかく、吉乃の正妻説を真実にしたい人達にしてみれば、濃姫が生きてて
信長と普通に夫婦であった事は認められない事で、それを声高に主張する
論調だけが世に広まっていってたって感じなんだよね、ここ20年近く
387 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 00:21:23
「信長最愛の妻は濃姫」より「信長最愛の女性は吉乃」「信長晩年最愛の女性は
お鍋」の方に流れていくというわけだな。
なぜだ?
どういう日本人心理なんだろう?
俺は信長像を正確に知るためにも真実の正史から読み解きたいのだが。
>>387 結局そう思っている人達が、何となくこういうところに集ってきて
色々書くようになっちゃうんじゃないのかなぁ?
自分なんか、濃姫は信長とずっと夫婦で死んだの慶長17年らしいよと
歴史好きの人達の前で言っただけで、どれだけ吉乃がすばらしい正妻だったか
2時間くらいマシンガントークされた事あったよ。
臈長けた美女で慎み深くて頭も良くて……ってな。
それで後家にしか愛情を持てなくなって、吉乃のかわりにお鍋を愛したんだって
主張された日には、頭痛が痛い状態だったよ。
秀吉と猥談してた武功夜話の吉乃は無視ですか、そうですか。
なるほど、吉乃の代用品としての後家のお鍋は許容できるけど
吉乃の地位を脅かす正室濃姫は抹消してしまえってことか
390 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 00:44:39
しかし不思議なのは信長は日本史でも屈指の有名人で史料は腐るほど残されてるのに、
その正室である濃姫に関するものは、いつ死んだかも諸説あるほど残されていないこと。
意図的に濃姫に関することを残すまいとしたのではないかとさえ思える。
しょうがないよ。
濃姫だけじゃなく、あの時代の女性が大抵そうだったんだから。
史実に残ってるのは数奇な運命だったお市みたいなタイプか
歴史の表舞台で身体を張らないといけなかった高台院みたいなタイプか
為政者にとって都合のいいお鍋みたいなタイプだった訳だから。
吉乃だって、残ってる残ってるって言っても、あの偽書の武功夜話だけだぞ
それに、織田家は女性についての記録を信秀以前から残さない慣習があったと
織田家では言っているくらいだし、土田御前だって、本当に生駒と縁戚なのか
それとも全然違うのかすら、本当のところよく分かっていない。
>>385 やっぱり調べ辛いのは確かだよ。
「近江國輿地志」にしても「養華院」にしてもどちらとも解釈できるから。
可能性は十分あっても、これといった決めてがないから。
「書いてないからそうかもしれない」は史学では通じないから
>>386 せっかくの良スレなのに、なんで執拗に「武功派」を叩きたがるの?
はっきり言って、斎藤氏を調べたいのか、叩きがしたいのか真意が見えない。
そんな「斎藤氏叩き」の主張は見たこと無い。
論文等があるなら教えて欲しい。郷土研究史の類も見るようにしているが、
出会った事が無い。もちろん「武功推進派」の江南郷土史研究会のヤツもね。
393 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 00:52:25
意図的に隠すというか本人の積極性にも原因がありそう。書状の一枚も出てこないってのはな…
394 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 01:02:17
書状で思い出したけど、まつ関係の書状の中に信長の御台が出てくるのがあるとかいうのを
どこかで見たような気がするんだけど
もう一回斎藤家から娶ったって話は楠戸義昭が著書で書いてたように思う
どの本だったかは忘れたけど。
あと、養華院と興雲院の墓はどっちも鍋の墓というのは
没年月日がかなり近い事から、別々の親戚が別々に総見院に建てたと
主張していたのを見たが、それはどこの本に書いてあったかは忘れた。
信長の後年の正妻替わりはお鍋で、安土から逃げた御台はお鍋だろうと
書かれていたのは、武功夜話が出版されて数年後の歴史読本か歴史群像だった
安土殿=お鍋説は、もう何年も前から歴史雑誌や、歴史好きの人が読む
豆知識本などではよく出てくるが?
信長=後家好き=母親の愛情が薄くマザコンって説とセットでよく出てくるのを見たぞ
396 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 01:19:04
近衛前久も同じ頃に死んでるんだが、当時伝染病でも流行したんだろうか。
結局、「忘れた」とか「だったと思う」ばっかりで「よく出てくる」という
わりには一つも名前が出てこないじゃないですか・・・。
研究者は何とも言えないが学者が取り合わないのは
学閥もしくは教授間の相関関係が影響しているから。
戦国といえばあの人という彼が武功にお墨付きを与えてしまい
それについて撤回をしてなければむやみなことはできない。
学会で偽書という見解が出ているにも関わらず、信長妻妾に関しては
未だ武功よりな見解なのはそのため。
399 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 01:55:40
武家の嫡男なんてみんな生後間もなく実母から離され乳母とお守役に
育てられちまうから、母親の愛情が薄いのは信長だけじゃないよ。
徹底して母親と離されて育ったらマザコンになんてならないんじゃないかな?
後家好きといっても吉乃はなんだか怪しいし、鍋ぐらいでしょ?
秀吉だって後家の側室たくさんいたのに、マザコンとは言われてない。
もちろん、彼だけが悪いという訳ではない。
学者さんとかは生活(権威ってやつ)がかかってる迂闊な事が言えないんだ
ろうな。
「養華院」問題も(岡田氏だったよね?)「早計」だと袋だたきだったもんな。
院殿号つきで信長の妻妾なら、斎藤氏でも十分説得力あると思うんだけどな。
あと何か、一級でなくともいいから傍証資料があればね。
402 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 02:08:13
>>392 斎藤氏を叩いているような文章には思えないけど?
403 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 02:16:17
O和田さん、もう引っ込みが付かなくなってるんじゃ。
それこそ権威ってのがあるだけにね。
前から言われてる事だけど、大徳寺総見院の墓石群は大きく2グループに
分けられる。信雄のグループと興雲院(鍋)のグループ。
信雄のグループが
信雄、秀雄(信雄の長男)、信雄の娘とその夫(佐々長朝)。
広くとれば、同腹の兄・信忠と姉・見星院(徳)もこのグループ。
興雲院(鍋)のグループは
興雲院(鍋)、子の信高、信吉、娘の江声院。信高の子・高重と信吉の子・
良甫とその妹と娘。
その他として、信長、その両親と妹一人に秀勝とその侍女。
あとは名古屋山三郎とよくわからん井上さん。そして養華院。
こうなると信雄の母があってもいいけど、生駒氏とすると、慶長まで生きて
いないはずだし。
なら、何故「信長公御寵妾」としたか。斎藤氏そ存在をもみ消したいなら、
墓石を造らなければいいだけ。ここが難しくところ。
本当は墓石の位置関係を考慮したかったがコピー記事が見あたらん。
小和田さんは、ある会報で読者に論説の誤りを指摘されて平謝りだったよ(笑
そういうところがメディアで使い易いところなんだろうけど、妬まれるところ
でもある。
論文って形じゃなければ、
>>386が書いているような説は
文庫本みたいな500円くらいで買えるHowto本にはよく出てるよね
ちょっと歴史が好きって言う人なら、そういう本を読んで、
難しい論文を読む訳じゃないから、そういう説ばかりが広がるのは
仕方がないと思うよ
そしてそういう思い込みで読む人達に受けがいいように
更にそういう論調のHowto本が蔓延するんでしょ?
>>392は「論文」って形で問うているんだろうけど
>>386は
一般的な事を言っているんだと思うよ。
私だって
>>386の様な説はここ20年くらい嫌って程見てきたもの
でも、それは
>>392が期待するような論文じゃないよ
NHKの番組だったり、やっすい本だったりだもの
別に学術論文じゃなくても全くかまいませんよ。
私も月刊雑誌の類や文庫本、新書やよく読みますが、殊更、「吉乃」がどう
だ、「鍋」がどうだなんて書いた記事は見たことありません。
なんで粘着的な書き込みをしたがるのか理解できません。
>>407 粘着的って見えるかどうかはその人の受け取り次第じゃないの?
私は
>>386が書いてる事を粘着的とは思わなかったよ
あぁ、見た事ある〜って思ったくらいかな?
歴史群像のオレンジの本とかで信長の本とかあるでしょ?
岡田さんが書いた後にすぐ永岡さんが書いてて
岡田さんは濃姫長生き説書いてて、
永岡さんは正室の座は吉乃に与えられてるって書いてて
きっと、これ贔屓の女性によってどっちか片方を偏って
信じちゃうんだろうなぁって思ったのはつい5年程前
学研のバランス感覚で両方載せたのかなと思ったりしたよ
>>408 全くそのとおりです。
なら、なんで「武功厨」という言葉を使いたがるのか?
354の
「これまで武功厨に、濃姫なんてとっとと帰されたんだといいように言われ
ていた不満が爆発したというのもあるのかもとは思った。」
という書き込みが本質にあると思えたからです。
はっきり言って「憂さ晴らし」でしょ。
せっかくの良スレがもったいない。
個人的には、Howto本とか書く人は戦国専門の執筆者じゃないって言うのが
問題じゃないかなって思っているんだけど、
結局、受けが良さそうな論を孫引き状態で検証もしないで
体裁よく組み合わせているだけだと思うのね
そして、帯なんかに出版社が「史料を徹底検証」なんて入れちゃったら
文献なんかは読まないけど、軽めの歴史物は好きなんて人には
そのまま信じられちゃう事って多いと思うのよ
そして、ネットがこれだけ発達しちゃったら、そんな間違った事を
信じちゃった人がネットでそのまま書いちゃったりなんて
多いと思うのね
そりゃ、こういうところを見ればそれだけじゃないって分かるかもしれないけど
どの辺の意見をピックアップするかによって、
見え方って変わってくるんじゃないかな?
>>409 >>354=
>>386なのかな?
でも、憂さ晴らしか、言い得て妙かもね
だって、ここって2chだし、濃姫専門のスレだし
言いたくもなるって気持ちは分かるもの
それくらい濃姫の扱いが、世間的に武功以前と武功後でころっと変わったの
やっぱり私とかも見てるし
特にNHKの歴史関係の番組や、大河ドラマ以降は酷かったもの
ちょっと真面目に武功夜話を読んでみれば、その矛盾点なんて
分かるものだと思ったら、大きな間違いで、
年代を一つ一つ書き出しながら読んでみたりしないと
読み流してるだけだと、へ〜、そうなんだ、すごいなぁ〜って
終わっちゃうのね
まして、武功夜話って実際に読んでみた人って少なくて、
Howto本とかで表面的な情報だけ知ってるって人の方が
大半だと思うのね
だから、孫引きかどうかも検証できないまま信じちゃう人続出なのかなぁって
412 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 05:38:37
横レスです。
総見院の件ですが、お鍋の墓は死後十数年後に良甫が建てたものです。
養華院の御寵妾というのは総見院の記録にあったものを江戸時代に柳本藩士
が書き写したものです。
近衛門外ですが妙覺寺の近くとしたかたがいましたが、前秀吉邸だった
二条の屋敷とそれとは場所が違います。
で、その御台は正室という意味ではないです。
御台は正室じゃなかったらどういう意味ですか?
公方様は義昭の事
じゃぁ、御台様は?
様付きという事は人物に対しての代名詞ですから
御台地などという意味ではないのは明らかですね
では、この御台様の意味は?
414 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 08:05:41
『近衛前久第門外町人中宛日乗朝山等連署奉書』
公方様御台様御座所近辺寄宿停止之旨 被仰出候
万一兎角之族申仁在之者、記校名急度可有注進候
為其如此候也 二月廿九日
この書き方だと正妻だと思うが…。
415 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 08:29:09
>>409 てかなんで厨という言葉にこだわるのかがわからない。
確かにあまり言い意味では使わないけどね。
それをいうなら憂さ晴らしと書くほうもどうかと思うよ。
二条城そばの近衛前久邸は天正に入って造営されたものだから
妙覚寺のそばかどうかは、はっきりしないと思う。
確か、永禄の頃どこに住んでいたか判明していない筈。
近衛前久、信長が上洛する直前まで京都からいなくなってたし。
そのかわり、その時期に義昭が本国寺を宿所にしていたのは
はっきりしているので、その近辺かもしれないと思う
>>415 このスレが荒れるのを恐れてるとか?w
確かあの厨という字を付けて語られる一部の人たちに関しては
それが自発的に史板や三戦板で使われるようになった時期に
結構岡田氏の説を罵倒したり関係ないスレで吉乃の事を
語り続けたりしていた事もあったし
あれは、厨と言われても仕方がないと思ってたなぁw
でも、基本は確かヤフトピの人に対して使ってたように思うけど
418 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 09:22:15
大名の正室の役割、位置付けって、やはり特殊なもの。
特に戦国期までは完全に政治の道具で、家と家との和睦の道具だった。
敵同士だけど、婚姻関係を結ぶ事で和睦し、親族関係になることで
味方同士になったわけ。
両家にとって家の存続のメリットが発生するメリットがある縁組であったはず。
例えば織田家にとっても、当時の斉藤家にとっても、濃姫が信長に嫁ぐことで
緊張関係から一変して和睦し、斉藤家は織田家に援軍を送る間柄になれた。
仮に濃姫が何らかの事情でいなくなり、正室のポストが空いたからといって、
吉乃の正室にするメリットは織田家にとってまるでない。
正室がポストが空いたなら、和平を結びたい家から子女を正室として
新たに迎えられる絶好の機会だから当然そうしたはずなんだよね。
いくら嫡男を産んだからといって正室にするということは当時の慣習から
考えられない。織田家との釣合いからいっても家来筋なら
やはり側室どまりというのが妥当だと思う。
家康はそういう意味で旭没後は正室をもらう必用がなくなったから晩年は
正室不在のままだったのだと思う。
どんなに当主の愛情があっても、それとこれとは別問題なんだよ。
正室に子供がいなくても、側室が産んだ子供を養子にすれば
生後すぐに側室から離され正室が実子として育てるし、それが武家の慣わしだったから
子供がいるいないも関係ないんだよね。
こういった当時の武家社会の常識を考えても、濃姫亡き後は正室吉乃が正室に
なったとか、正室なみの扱いだったとか、ましてや濃姫がいるのに
事実上の正室のような立場だったなどということは絶対あり得ない。
419 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 09:36:24
>>418 そう考えると将軍家に嫁いだ正室たちもそんなに寂しいもんでも
なかったのかな。将軍御台所は大奥でトップだし、将軍の横に座れるのは
正室だけだし、子供が生まれなければ側室が産んでくれるし、
側室の管理は大奥でしっかりやって、将軍の寵愛が偏らないように
バランスよく采配してくれるし、将軍も表面上は大事にしてくれたしな。
なんでも側室と褥をする時は周囲に何人も見張りが寝ずの番をして、
将軍との睦言なんて言わせない状況だったらしいけど、
正室の時はそれがなかったそうだ。
正室に対してはやはり扱いが全然違ったということだろう。
>>419 将軍家の正室なんて、公家のお姫様辺りだから
それほど多くの欲望なども持たないように育てられてるし
意外とのほほんと暮らしていたのかもね。
側室達は権力闘争はすごかっただろうけど。
ただ、戦国時代の正室と、江戸時代の将軍家の正室じゃ
負ってる責任が全然違うけどね。
戦国時代は共同経営者みたいなもの
江戸時代はお飾りみたいなもの
>>412 絵図面から養華院と推察される墓は五輪塔だけど、
お鍋(興雲院)の墓は横長の自然石だよね。
五輪塔が並ぶ墓域に、ごろんと横たわってる印象なので
かえって目をひく。
ただ京都観光で訪れる人にはただの石に見えるかも。
422 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 10:24:02
>>420 将軍の正室で子供を産んだのは江与だけかと思ったら
それ以外の正室も産んでんだよね。将軍の正室は同衾すらしないのかと思ってた。
>>421 そうそう、その辺の石をのっけたみたい。
近付けば近付くほどミステリアスな女性だな濃姫。
信長の女性関係や子供の真実はどうだか知らんが、
前のレスにあったオタクが好きキャラ論争吹っかける感じで噛み付いて来る奴は止めてほしいよな。
そりゃ歴史を調べるものの態度じゃない。ただの萌えヲタだ。
424 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 12:47:57
実は信忠は戦争孤児で、とある戦の折に信長に拾われて、
当時なかなか子宝に恵まれなかったお濃に、面倒を見させた、
織田家とも斉藤家とも縁のない、童子だったのではなかろうか。
信長もお濃も、この童子・奇妙丸を実の子供のように慈しみ大切に育てた。
そして、時機を見て、お濃の養子として信忠を織田家に迎い入れ、
信長はこの一切血の繋がりのない子に、惜しげもなく家督を譲り、美濃尾張を与えた。
生みの親より育ての親というではないか。ロマンがあるじゃないか。
この少々安っぽい妄想ドラマ(?)が、仮に、仮に、事実だとすると、
本能寺の変における明智光秀の戦略と織田信忠の最期について、
ワシはある程度、納得のいく答えが出る。
425 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 12:57:20
そういえば孫である三法師を可愛がったという話もないし
嫡男の嫁取りにやっきになっていた節もないな
(松姫とのことがあったからかもしれんが)
信玄が松姫をなかなか輿入れさせなかった理由の一つに
そういう事情があったとしたらこっちも納得できるな
426 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 15:02:05
>>420 将軍御台所はお飾りといえばそうだけど、やっぱり大切な役目を
おってたよ。公家を代表して将軍家にくるわけだから。
将軍夫妻は公家と武家の融和の象徴。
427 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 15:25:22
墓の件だけど、戒名には位があるというじゃない?殿様しかつけられない
戒名や高僧しか許されないものもあるらしい。そのあたりから
身分がわからないかな?信長の御台所なら他の側室よりも戒名の
格が上になるとか。
>>427 信長は総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀で、「院殿号」だし「尊儀」という
皇族並みの霊位だからかなり格が高い。
養華院殿要津妙玄大姉は「院殿号」がついているし位号が「大姉」なので
法名の格は女性としてはかなり高い格に位置づけられるね
信長の霊位と違って「叔儀」などがついていないのは
死亡した時期の問題かもしれない
道号は「要津」戒名が「妙玄」になる
道号は生前の人柄、趣味、仕事などで付けられる
お鍋は興雲院殿月隣宗心大姉だから、養華院殿要津妙玄大姉と
格としては同じ。
道号が「月隣」、戒名が「宗心」だね
生駒御前は久庵桂昌なので、「院殿号」「院号」の次の格の「庵号」に位置する
ただ、「大姉」はついていないので、そういう意味では格は低い
しかし、寺に貢献していると、「大姉」を貰えたりもする
後、院号は後世親族が寺に貢献したりするとおくられる事もある
生駒御前にはおくられていないようだから、そのままの格だったんだろう
429 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 16:23:26
>>428 吉乃は嫡男の実母なのにランクの下の戒名だったというわけだね?
そのへんがひっかかるな。
お鍋は濃姫と同格の戒名なのに墓がお粗末なのもひっかかる。
ところで墓の配列ってどうなってるんだろう?
信長に一番近いところにある女性の墓が正室になると思うんだけど。
信長の墓に一番近い女性の墓は岡崎殿、つまり徳姫だね
431 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 17:45:15
信雄がお鍋を嫌ってて、総見院にお鍋の墓をたてるのを許さなかったんじゃないの。
で、信雄が死んだ後に待ってましたとばかりにお鍋の子孫が墓を作ったけど
流石に立派な墓をたてるのは遠慮したとかは。
>>396 遅レスだけど、確かにあの時期近衛前久も鍋も養華院殿も
亡くなっているね。
ただ、日本疫病史によると、慶長17年には特に何もないんだよね
19年の9、10月に流行性感冒(インフルエンザ)が示されているけど
その前だと12年の麻疹
433 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 18:29:37
吉乃って最愛の女性といわれていたわりに、しょぼい戒名しかもらえなかったのね。
吉乃の墓の方を眺めて夜な夜な泣いていたという信長の話っていったい・・・
と、つつけばつつくほどボロがでてくる「武功夜話」
しょせんTBSの「水戸黄門」なみのレベルなのね
>>429 自然石の墓は粗末・・・という見方もできるけど、
あの風趣を好んで建立した、という風にも考えられるな。
ただ晩年のお鍋は淀殿からのわずかな扶持で暮らしていたし
手元不如意であの墓石?とも思ったけど
>>412の書き込みだと死後十数年たった建立というので
そうなるとまた違った意があるのかな?宗旨は何なのだろう。
織田家墓域なんだけど、一般檀家の墓所の拡大によって
なんだか肩身が狭そうになってるよね。
また特別公開があるだろうから、是非拝観をお薦めします。
>>431 突っかかるわけじゃないけど、
信雄がお鍋を嫌ってたという何か逸話が残っているのかな?
並び順は養華院の隣りなんだよね。
そして同じ基壇にお鍋の子等の墓石が並んでいるんだ。
墓の建立の反対をする、信雄にそんな権限あっただろううか。
>>434 特別拝観は今年は10/7〜12/2だよ
11/5〜11/9、11/19.22.28がおやすみ
もう拝観始まってるからGoGo
436 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 18:56:12
>>431 実はそんな逸話は知らないwただの妄想です。
でも養華院の隣に墓をつくったのは、お鍋の子孫だろうし
お鍋の子孫達にとっては、お鍋が正室と思われる養華院と同格の戒名
隣の墓位置ってのは、子孫である自分達の格も上げる効果があったんじゃない。
437 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 20:56:33
最初から読んだ。非常に面白いね。
信長と濃姫は意外や意外、穏やかな夫婦だったのかもな。
普通に子供もいて、側室にやきもちやいたり、信長がなだめたりしたのか?
なんて想像できる雰囲気を感じる。
なんかそう考えたらお市と浅井長政はどこか冷めた夫婦だったのかも。
夫を裏切って兄に窮地を教えちゃったし、落城した時も旦那の元に
残らなかったもんな。典型的な政略結婚で、しっかり実家のために
仕事をしてきて帰ってきましたよ、という感じさえする。
>>437 信長が寧々にあてて書いた手紙に
正室としてどっしり構えてなさいって内容を書いてたよね
自分にも当てはまるから書けたのかも
439 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:30:49
>>438 そうそう、あの手紙って信長の性格を知る貴重な資料だよね。
ねねにお礼を言ったり、お世辞を言ったり、なかなか女心を掴むの上手。
なんか、信長っていい人じゃん、と思える手紙だった。
ねねの人柄も信長は気に入っていたのかもしれないけど。
ねねの信長への愚痴り方がきっとかわいかったんだろうな。
浅井長政親子の髑髏金箔事件も江戸時代の創作らしいし、
残忍というイメージはかなり脚色してあるものかもしれない。
比叡山の焼き討ちや、対一向一揆の戦のイメージを
現代的にとらえてるから残忍になるんだろうね。
普通の戦と、非戦闘員という概念のない、
僧兵や一揆衆への対応のが変わるのはある意味当然なんだよね。
441 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:04:31
このスレの住人の方はレベル高いですね。変な方もいませんし。
では、総見院の墓所ですが初めからああいう位置にあったかどうか疑問がある。
それは雍州府誌に信長母つまり花屋寿永尼の墓があったとあるのですが現在
見当たらないからである。信吉他同じ基壇上にある子女の墓石は後から建立した
ものと考えられるからである。つまりお鍋の方の墓石の下には遺骨があるかどうか
疑問である。反対に養華院の墓には遺骨は入ってると思われます。
442 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:05:05
443 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:08:11
>>428 吉乃って出家してたみたい。
戒名は「久庵桂昌大禅定尼」だよ。
庵号だから院号よりは格下。
位号が大禅定尼だから、最下位というほどではないけど
特別高くはない。
吉乃が出家したのはなぜ?
444 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:13:32
そんなことどうでもいいじゃん。
お前の明日の飯の献立でも心配しろ、禿
朝倉と浅井親子の薄濃髑髏って実際に作られたんだろうけど
当時の文献では折敷の上に置いた状態で披露されたと書かれてる
盃なんて事一言も書かれていないんだよね。
大体、討取った首を前に酒盛りした武将なんて、別に信長に限らず
あの時代には他にもいたみたいだし、首に化粧する事と
それほど大差あるのかなぁ?
むしろ、漆まで塗ってさ、金で彩色している訳で、
生々しさがない分装飾品感覚でしょ?
首を取ってなんぼの時代に、首飾ったからって
おかしいと思う感性もないと思うけど。
信長は下戸だし、髑髏盃で酒盛りしたって言う説得力もないよね
446 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:19:10
>>443 後家だったからかな?
前夫が死んだ後に髪を下ろしていたのに、還俗して側室になったのかもね。
年齢考えてみると、信忠生んだとき30だし、29で側室になったとしても
後家であったと考えるのが妥当な年齢。
当時の感覚で言えば大年増なんだから、再婚よりも出家が妥当な年齢だね。
もしくは、徳姫出産後何らかの理由があって出家したとかかもね。
体調崩して出家する事も別に珍しくない時代だったし
あと、失意が高じて出家みたいなのとか、色々責任を取る為に出家とか
割と簡単に出家する事はある訳だから。
近衛前久だって、二条城攻撃する明智軍が、近衛邸の屋根に登ってたことを
理由にして出家してるしね。
ん〜、責任とらなくちゃいけないような事があったとしたら、
永禄2〜3年以降、つまり徳姫誕生以降、生駒家が遠ざけられたのと
何か関係があるのかな?
448 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:33:16
何も関係ねーよ、バーカ、氏ね、低能め!
449 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:39:36
>>445 薄濃髑髏って大陸文化から伝わったもので、死者に対する敬意をあらわす
と聞いた気がする。少なくとも死者への侮蔑の意味はない。
資料からするとただ首を並べてみなで宴会をしたというだけみたいだよ。
確かに当時は討ち取った首がおいてあってもなんの違和感なく
いられただろうね。おあむ絵巻を見る限り女性も笑いながら首の処理してたからな。
あと、「大禅定尼」や「大禅尼」って言うのは、基本的に院号、院殿号と
セットで使われる事が普通なんだよね。
確か、信長の生母も「報春院花屋寿永大禅尼」だから
その法則通りなんだよね。
もしその法名が真実なら、ちょっと変な気がするんだよなぁ。
お鍋は確か、ずっと高台院や淀殿に仕えてたから
出家してなかった筈なんで、「興雲院殿月隣宗心大姉」は
おかしくはないけどね。
451 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:42:08
452 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:45:58
453 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:46:30
夜近所で変な歌が聴こえてきませんか?行進曲とも唱歌とも言えない歌です。変だなぁと思った事はありませんか?それは「緑の党、極左集団(天皇一族を皇居前広場で絞首刑にすると断言している!)緑フォーラム、やこうえみ、野呂けいこ)です。
もし同じマンションなら直ちに警察に通報してください!第二の「オウム事件」を是非とも起こさない為です!!
454 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:50:23
院号、院殿号とセットの「大禅定尼」や「大禅尼」の戒名は
大名夫人クラスだけじゃない?
院号はかなり位が高いから。
455 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:52:30
だから、吉乃なんてしょせんその程度の扱いしか受けてなかったという
何よりの証拠じゃないか?
しかも織田信長存命中に亡くなったんだぞ?
信忠の生母と言われてるんだぞ?
つうか、吉乃って信忠の生母でもなんでもなかったりして。
456 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:56:12
>>441 >>養華院の墓には遺骨
遺骨はある程度形として残っているかな?
斉藤道三の血縁者の骨ととDNA鑑定すれば濃姫かどうかがわかるけど。
斉藤家の濃姫血縁者で遺骨が残っているような墓があるかな?
457 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:57:13
>>455 そんな気がする。やはり濃姫の実子で・・・とまたループ
>>452 寺でこう書いているという事は、別におかしくないと思って付けてる事か
庵号で大禅定尼ってちぐはぐだねぇ。
でもたしか、そのお寺って、久昌寺縁起って武功夜話を元にして
なんかバレバレの偽書作ってた寺だよね。
位牌の法名もこれなんだっけ?
まさか、位牌の法名が「久庵桂昌」で立て札だけ「久庵桂昌大禅定尼」って
ことはないよねぇ?
位牌の写真は見た事ないので、何とも言えないのだけど。
大禅定尼って大禅尼よりも格が上なんだよね。
信長の生母でさえ大禅尼なのになぁ?
生駒家の菩提寺だからすっごく寄進とかして
あとから大禅定尼を付けてもらったとかなのかなぁ?
でも、そういう場合は普通、院号を付けてもらう筈なんだけどな?
>>454 庵号とセットになるのは「大」が抜けた「禅尼」クラスが
普通だと思われるのよ。
だからちょっとちぐはぐだなぁと……。
461 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:06:00
墓石の裏にも久庵桂昌大禅定尼と彫ってあるらしいよ。
本当に吉乃って何から何までうそ臭いな。
ふむ、そうなのか。
ん〜、じゃぁ、こういう法名の付け方もあるってことだね。
463 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:17:41
>>462 いやぁ〜、後から坊主が勝手に付け足したという可能性も
あるんじゃないの?寺にとっては大事な観光名所だし。
でも、墓の裏に彫ってある法名まで勝手に手を加えるかなぁ?
それはないような気がするんだけどなぁ。
465 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:24:03
>>462 戒名に関する記述で
「戒名における庵号は、院号に次ぐ尊号として付けられることが多い」
とあったから、当時院号に次ぐ尊号は院殿号だから、院殿号と同レベルの
位と考えてもいいと思う。そう考えたら大禅定尼クラスの位号でも
つりあいはとれていると思うんだけど。
気になるのは、吉乃が出家していたという事実。
信長が生きている間に幼い子供を残してなんでだろう?
院殿号は、院号より格上よ
467 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:27:02
>>464 400年以上も前のことだから、途中で墓石を取り替えたのかもしれない。
その時に法名を立派にして、手を加えたとか?
元々は、院号>院殿号だったんだけど、足利尊氏以降は
院殿号>院号>庵号=軒号=斎号
469 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:30:28
>>466 院号とは天皇が退位隠居された御所を〇〇院と称したことからはじまっている。
京都には門跡(もんぜき)寺院、すなわち天皇あるいは皇族が住持された寺院
として妙法院(三十三間堂)、三千院、曼殊院、青蓮院などがあり、
これから考えれば一寺を建立するほどの仏教の外護者に対して
院号は授けられるべきものであり、
かつては一国の大名や家老以上でなくては与えられなかった。
院殿号は足利尊氏が「等持院殿」と称したところから始まるとされる。
本来は院号に次ぐ称号であったが、現在では字数が多くより豪華な印象を
与えるために院号より上位にされることが多い。
院号と同じく、本来は安易に贈られるべきものでなく、
仏教の外護者としての相当な寄進、あるいは尽力をした人、
さらに高徳の人に対して与えられるべき尊称であろう。
戦国時代では院号のほうが格上。
違うよ、室町以降は、院殿号の方が上になってたよ
472 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:39:34
>>470 でも織田家の法名一覧を見る限り男性は圧倒的に院号で女性が院殿号が
多いから、戦国期はまだ院号>院殿号だったのでは?
次数が多く豪華に見えるという理由で近年院殿号>院号になったそうだから。
473 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:42:54
474 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:46:03
戒名の細かい事はいいから、吉乃が出家していたことについて
475 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:49:37
戦国期の大名でも院殿もいれば院もいるから、そんなに気にするほどでも
ないのだろうけど、戒名は長いほうが立派に見えるから院殿の方が
人気があったのかも。でも女性は院殿が目立つから、基本的に当時は
寺では院>院殿という認識だったのだろう。
476 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:52:21
>>474 後家になった時、形式上出家した形になったのでは
477 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 01:55:16
>>476出家して、還俗して側室になったということか。
ちなみに一度出家すると、還俗したまま亡くなっても
自動的に戒名は出家用になってしまうということ?
478 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 02:14:05
>>475 足利将軍家の将軍戒名一覧をみたけど、院号、院殿号は半々だったな。
479 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 02:16:07
由之なら十分すぎるサンプルになりそうだな。
それと新五の息子の墓は残っていないのか?
池田家召抱えで藩主の目通りが許されていたともいわれているから
きちんとした墓が残っていそうなもんなんだが。
>>477 時と場合によると思う。
子供3人も生んでいて出家時のままというのも違和感だがな。
また、付けられる法名はその人の立場ももちろん大きいが
その付けた寺にどれほど寄与したかが一番大きい。
吉乃の為にわざわざ寺の名前を変えたとまで言われているのだから
最大限寺側が配慮していてもおかしくはない。
吉乃と濃姫、また、信長などが全員同じ寺で法名を付けられたのであれば
その序列ははっきりするのであるが、そうではないので比べても仕方がない。
院号と院殿号はどっちが上かというのは難しい問題だが
院殿号>院号になったという説は、室町時代説と江戸時代説とあるから
吉乃が死んだ頃は武家では院殿号=院号だったかもしれない。
宗派によっても違っていただろう。
最上級の霊号を持っていて勅命で付けられた信長の法名が院殿号だし
武家と公家では多少違うだろう。
霊号ではなく霊位だな、間違えた、失礼
自分は信長妻妾の、誰かに思い入れもない者だけど
長く病床にふしたり、死病の床についた病人が
療養中や死出の旅を覚悟したさいに
導師を招いて髪をそいだり、仏弟子になるための儀式をして
法名を授かること・・・
老若問わず、末期出家は別に珍しいことでは無い。
生駒氏がそうだというのではなく、そういう例もあるということで。
きちんとした論拠あり、事例も踏まえて書き込んでいる人も多いのに、
(濃姫スレとはいい)
単純に生駒氏の存在否定に傾きがちな人がいるのが残念だな。
484 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 10:29:16
素朴な疑問なんだけど、織田家の嫡男を産んだのに吉乃は
信長生前の織田家の菩提寺には入れなかったの?
徳川将軍家の側室の何人かは将軍家菩提寺に墓があったけど。
485 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 10:39:42
>>483「武功夜話」には吉乃が病後出家したということは書いてないから
違うのでは?もしそうなら生駒家が寺に莫大な寄進をしたとか、
信長の反対を押し切って仏門に入ったとか、それらしい記述があってもよいかと。
武功夜話だと久庵様と割と早い時期から呼んでいるね
やっぱり、前夫死亡後出家してたからと考える方がしっくりくる
>>485 出家についてはそういう例もあるということで・・・と。
生駒氏がそうだとは言っていないので、
誤解を産んだのならスマン。
>>486 死んだ家族の菩提を弔う・供養するのは武家夫人の役割であるので
剃髪・入寺まではしなくとも
毎日の仏事にいそしみ、読経三昧で過ごすこともあるね。
例ばかりですまないけど、
豪華な打ち掛けの上に、墨染めの衣をつけただけだったり、
髪も肩までの有髪であったり。
出家の仕様も様々な形態が見られるから。
488 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 11:23:13
仏門に入ったら側室のおつとめができないから(子供を産むなんて!)
3人を産んだあとに何か思うことがあって、信長の元を離れ
ひっそり仏門に入ったと思う。
>>486 武功夜話は後年(昭和という説まである)編集されたものだから、
生前の生駒を法命で書き記していてもおかしくないかも。
>>487 おそらく、誰も吉乃が剃髪までしていたとか寺に入ってたとか
僧形になっていたとは思っていないと思うよ。
>>447の辺りでも出ているが、そんなに出家が珍しくなかった時代の話だし
大体、夫の亡くなった大名家の正室などは、肩くらいまで髪を切って
常に数珠を持っていればそれらしく見えていた時代だからね。
ただ、法名が出家していた女性のものである事を考えると
どのタイミングで出家したのか?という事になる。
信長が先に亡くなっていれば、疑問を生じたりはしなかっただろうが、
吉乃の方が先に亡くなっているので、おそらく前夫関連か、病気快癒の為か
その辺りだろうと考えているという意見が大半なんだろう。
ただ、責任を取って出家し反省しているのを見せるという出家動機も
普通にあった時代だから、それも考慮に入れてもいいかもしれないと
考えるのは、生駒家の、信長時代の存在感の薄さ故なんだろう
490 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 11:34:50
>>480 まだ行ったことはないから実際に目にしたわけじゃないが
岡山市国清寺に葬られ墓もきちんと残っていると聞いているよ。
ここには輝政の墓もあって墓同士も近いらしい。
やはり信長御台の甥であり道三の内孫、そして信忠側近中の側近の
息子ということで密かながらも池田は彼を立てていたのかもな。
「院号」と「院殿号」では「院殿号」が上とされるのであるが、現実問題と
して、江戸初期の過去帳等を調べてもらえばわかるが、室町後期ともなると
現実問題として「院号」は使用されていない。
生駒氏の法名「久庵桂昌」はセオリーから言えば、紛らわしいが「久庵」は
法名「桂昌」を装飾する道号の部分でしょう。庵号とするなら普通、二字+
庵殿だろうし、道号がなく法名「桂昌」のみなら大禅定尼という位階は若干
つりあわない。
久庵は庵号ではなく道号ではないかということですね
たしかに、久庵が庵号にしては一文字+庵というのが
気になっていたので、そう考えるとすっきりする気がします。
しかし、道号だとしたら、珍しい道号とも言えますね
493 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:07:31
494 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:16:19
>>493 信長の子供たちは院号だね。
でも院号殿の方が格が上というなら、正室の濃姫はともかく
側室のお鍋より嫡男信忠の戒名が格下になるというのはおかしい。
室町時代の将軍も院号もいるし、江戸期になるまでは
そのへんの価値観が定まっていなかったんじゃないか?
>>492 珍しいとは思いますが、無いわけではありません。
例えば、
奥平貞能「寿昌院殿牧庵道渓」
織田長益「正伝院殿如庵有楽」
仙石忠政「法光院殿天庵宗知」
蜂須賀家政「瑞雲院殿蓬庵常仙」
六角義治「鴎庵玄雄」
>>493 ごくうさんのところのリストは「寛政譜」を多用しているからでしょう。
「寛政譜」は殿の字は全て省略しています。
例えば総見院の過去帳を確認して頂ければわかる事です。
496 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:34:25
浅井長政の法名は「養源院天英宗清」とあるけど、これも殿が省略されてるの?
なんでかってに省略されている場合と、ついている場合があるんだろう?
>>493のリストは「殿」が省略されているとするなら、信長などは
なんで省略されてないんだ?こっちは誰が省略されているのかされていないのか
わからん。
>>490 新五の息子斎藤新五郎(後に義興に改名)は1100石取り
その後、子孫の代になり俸禄が下がることがあったが
それでも400石取り。これを厚遇といわず何というで
密かにどころか堂々と立てているな。
やはり斎藤家ということで家禄部分で優遇したのだろう。
逆説な見方をすれば織田家中を良く知る池田家が徳川時代に入り
かつての主家よりも上になっても、家臣扱いであったとはいえ
お濃血縁者を優遇したということはそれだけ織田家中でのお濃の
立場というのはゆるぎないものだったんだろう。
>>494 信忠の法名は
正式には「大雲院殿三品羽林仙岩大禅定門」
院殿号だよ
他に、「光勝院殿贈三品羽林郎悦厳大禅定門」って言うのもある
信雄は「実岩貞公徳源院殿」「徳源院実厳常真」
「徳源院殿正二位内大臣實厳真公大居士」などがある
信孝は「昭雲院殿高岩徳公」「龍巌徳公大禅定門」
などなど
>>496 おそらく、信長の法名は簡単にどこにでも出てくる程有名な法名だから
寛政譜を参照しなくても分かったんだろ?
浅井長政の法名は元々殿のない「養源院天英宗清」で合っている。
500 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:46:11
源氏物語で源氏が出家するという妻を泣いて止めて、それでも出家されてしまって
悲嘆にくれた・・・なんていう記述があったけど、本来出家って現世での永遠の
別れというぐらい意味のあることだよね。二度と男女の契りもかわせないわけだし。
吉乃が前夫のために出家したというのは考えられない。
そんなに殊勝な気持ちがあれば夫の死後何年のたたないうちに、
あっさり信長の側室にならないはず。
産後の肥立ちが悪くて寝込んでいて、早死にしたというのは
信憑性がありそうだから、本格的に尼寺にこもっていたというのも考えられない。
病気になって、側室稼業を引退し、治る見込みもないことを悟って
ひっそり病床から出家をしたんじゃないかな?
仏にすがるほど孤独だったのかとも思うけど。
なんにせよ、生駒家の女性が信長の側室になっていたというのは
事実なわけだから、正しい足跡は知りたいものです。
501 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:48:35
吉乃の墓ですが、久昌寺の墓は江戸時代になって尾張藩士生駒家が自分の
家の先祖顕彰はと考えた時に信長の子を生んだことから繁栄したと考え
何回忌か忘れましたが、織田家や讃岐の生駒家等に声をかけその折に建立
したものです。ご存知だと思いますが埋葬されてるのは久昌寺の西方に
あります。
院号ですが吉乃の亡くなった時代なら別に院号が失くても不思議ではないと
感じます。織田家の墓に入ってませんが父信秀の菩提寺万松寺の系統(曹洞宗)
の僧を呼んで住職とし寺の名を変えてますから織田系ではこの地点ではあった
と思います。
また信雄は十七回忌を高野山で行っております。
出家はないでしょうね。
502 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:49:19
>>499 ありがとう。つまり大名の殿様クラスでも院号を用いていたことは
はっきりしているから、厳格に院殿号>引号という図式は定まっていなかった
ということでは?強いて言えば、院殿号≧院号ぐらいに移行しつつある
時期だったとか。
>>493 そこのサイトって信長の法名載ってたっけ?
ちなみに信長の法名は、
「総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」
「総見院殿正一位一品大相国泰安大居士」
「天徳院殿龍巌雲公大居士」
「天徳院殿一品前有相府泰岩淨安大禅定門」
などがある
504 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:57:07
>>501 なんか吉乃って生駒家にいいように利用されてるな。
ご先祖様の一番の出世頭があの信長の側室で、しかも嫡男ご生母、という
事実を利用しない手はないけどさ。
505 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:58:26
>>503 ごめん、ちょっと教えて。
なんで法名が4つもあるの?
地位の高い武将にはよくあること?
506 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:59:43
>>504 その嫡男ご生母のことも生駒家サイドの怪しげな資料にしか
書いてないんだよね。だから眉唾。
>>502 普通に考えれば、ある日突然「院号」>「院殿号」が
「院殿号」>「院号」に変わる訳はないのであって、
足利尊氏以降徐々に変わってきたのであれば、
移行期間という部分に戦国時代はあったと考えるのが普通。
ただし、院号や院殿号に関して言えば、公家と武家では多少考え方は異なる。
また、天皇の勅命で決まった信長の法名が「院殿号」であった事
霊位は皇族と同等の「尊儀」であった事などを考慮に入れるなら、
「院殿号」>「院号」に傾いていた時期なのだろう。
ちなみに「寛政重修諸家譜」に於いては信長の法名さえ
「殿」を省略して書いてある
>>505 信長に関して言えば、最初に付けられた法名は
阿弥陀寺で付けられた
「天徳院殿」だと言われている。
天徳院殿以下はおそらく変わったと伝わっていないので
「天徳院殿正一位一品大相国泰安大居士」のままだったと予想できる。
また、妙心寺で付けられた
「天徳院殿龍巌雲公大居士」
と言うものも有る。
また、三河の長興寺では
「天徳院殿一品前有相府泰岩淨安大禅定門」が
伝わっている。
その後、秀吉が盛大な信長の葬儀を行った時に、
秀吉主催の葬儀に権威付けをする為に、天皇から勅命を出してもらい
「総見院殿贈大相国一品泰巌尊儀」という法名を決めた
「総見院殿正一位一品大相国泰安大居士」は
確か、それに倣って阿弥陀寺で院殿号を変えたものだったと思う
509 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:15:42
>>506 『勢州軍記』には「嫡子信忠卿モ亦妾人ノ腹也、」て書いてあるだけ
だよね。吉乃の子と明記されているのは武功夜話や江戸期に作られた
生駒家の書簡だけ。それと江戸期に建立された吉乃の墓石の裏。
510 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:18:23
>>508 ありがとう。つまり信長のケースは特殊だということですね?
普通に亡くなって墓も一箇所というような場合なら法名は一つだと
いうことなのかな。
>>510 >>498を見てくれれば分かるが、信忠も信雄も信孝も
複数法名を持っている。
確かに多いケースではないが、別に信長が特殊という程でも
ないと思うよ
512 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:29:38
濃姫の骨でDNA鑑定して墓の主が濃姫かどうかを特定するという
プランは実行不可能?
誰の許可がおりれな出来るんだろう。
大変興味がある。
513 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:40:08
506さんその生駒の事は尾張藩何とかの本の孫引きなのですがコピー
が見当たらないので見つけ次第典拠を示します。
信長の法名総見院ですが正しくは
総見院殿泰巖宗安大居士 で泰巖宗安は生前に与えられたと言われてます。
で、それに太政大臣を追贈された贈大相国や明治になっての正一位とかを
入れている位牌も見受けられます。
514 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:40:35
濃姫と断定出来る骨を見つけられとでも?また、誰のDNAと比較するのかな?
総見院の養華の墓を掘り起こす事を寺側が承知するとは思えないな
516 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 13:44:50
>>497 新五の息子に1100石って…
輝政も人が悪いな〜、信長の息子に変わりはないんだから
信雄や信高の石高面で少し口利きをしてやってもいいじゃねーかよw
方や高家ではあるものの2万石
方や外様家臣でも天童や柏原藩財政5%分の石取り
何か泣けてくるな
新五の息子が信長の息子?
518 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 14:05:09
>>516 側室腹だからという見方もあったんではないの?>>輝政
彼は本能寺勃発時には18歳ぐらいだから分別が完全にわかる年齢で
その後のゴタゴタも見ているだろうから何かおもうことがあったのかも
しれないし、相関図で考えても信雄や信高は信長の息子ではあっても
そこまでのことで別に取り立ててどうにかしてあげたいと思うほどの
思い入れもなかったんだろ。
嫡流筋の秀信助命に関してはかなり動いたっぽいけどな。
519 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 14:57:26
信長は命の恩人や自分の人生を切り開いてくれた恩人には、
とことん厚く報いた男だと思うのよ。(人として当然のことなんだけどね)
その信長が斉藤道三の愛娘である、濃姫を疎略に扱ったとは、
どうしても思えないわけですよ。
520 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 15:04:43
>>516 信雄が天童や柏原をもらった時は輝政は既に死んでいるから
口利きのしようは無いわけだが…。
信高についても本人が関が原後にさっさか死んでしまったから
同じことが言えるのだが…。
まぁそれはいいとしても、たしかに関が原後は何かしらの口利きを
して欲しかったなとは俺も思う。そうすればもう少し早く大名に
返り咲いたかもしれない。(結果オーライだけど)
だが、もしかしたら関が原での態度をみてまた天然が始まったかと
見捨てた可能性もあるかもね。
父兄が死んだ小牧の時は信雄は徳川方にいて
ある意味輝政にとっては仇でもあったからじゃないかなと。
父兄が死んだ後に秀吉と和議を結んでしまうわけだから
輝政にしてみれば
「おのれ〜結局おまいは何がしたいんじゃーボケー!
親父と兄貴は結局無駄死にってことなのかよ!信長様の息子だろうが
信忠様の弟だろうが、このことは忘れんぞ。いつか覚えてろよ。
こ の バ カ 息 子 め が ー !」
という心情だったとしても不思議ではあるまい。
よって正妻・側室云々はあんまり関係ないとオモ。
522 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 16:51:49
>>519 そりゃそうだよ。「道三の遺言」「舅の敵討ち」を旗印に
濃姫を盾に、堂々と美濃攻略ができたんだから。
信長にしてみれば嫡男を産んでくれた吉乃よりも、美濃を合法的に手にいれる
ことに貢献した濃姫の方がはるかに価値があっただろうさ。
>>514 >>441の書き込みから、
>>479-480の書き込みを参照にしての意見だと思う。
自分も興味津々。ぜひやってもらいたいものだ。
というか、池田の輝くんは秀信が出家・蟄居して嫡流での
織田家存続が絶望的になった時点で織田家なんてどうでも
よくなったんだよ。夢は終わったじゃないけどさ。
524 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 16:57:33
吉乃の戒名の件だけど、「久庵桂昌」が本当で、「大禅定尼」は
江戸時代に墓を作り直したときに付け加えたのでは?
「久庵桂昌」を院殿号などに変えることはできないけど、
後ろに格を高めるために大禅定尼を付け加えたような気がする。
不釣合いに「大」をいれているところが怪しい。
525 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 17:00:58
DNA鑑定で養華院が濃姫だと断定されたら、とりあえず吉乃正室説は
なくなるわけだな。それを避けたいから、生駒家や吉乃が埋葬されている
寺ではどんなことをしても妨害するだろうな。
526 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 17:08:14
濃姫>>>>>越えられない壁>>>お鍋≧吉乃>>その他
527 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 17:17:24
>>524 信長も死後別の戒名をもらったりしているようだから、寺の意向一つで
簡単にできることかもな。
戒名といえば、B民の戒名には「皮」「蓄」などの文字を入れていたという。
いろんなメッセージがこめられている可能性もあるよ。
>>525 下2行はさすがに言いすぎだろ。類としか伝わっていない生駒家だって
実は迷惑しているという話もあるわけだから。
第一、生駒家は武功に直接関与しているわけじゃない。
関与しているのは前野家。
>>523 だな。実際彼がそのあたりについてどう思っていたかは全くの
不明だが、秀吉にいいように利用され乗っ取られたも同然の
織田家が立て直ることを願うぐらいは考えていたかもしれない。
多分お濃もそれを望んでいただろうし、輝政もそれとなく聞いていたかも
しれないから、秀信が高野山に追放された時はかなり落ち込んだんじゃ
ないのかなと思うよ。
>>524 別に死後院号をおくられる事は不思議でもない事だよ。
森乱丸などは、最初院号なしだったけど、のちのち地元の寺で
院号を貰っていた筈だ。
>>520 そういえば、信雄って柏原貰ってたんだっけ。
柏原といえば成菩提院のあるとこだね。
柏原違い
532 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:02:19
吉乃の高野山での戒名は
慶庵久性大禅尼 施主常真様御袋様文禄三年五月十三日
であります。
斉藤新五郎と濃姫との血縁関係は不明でしょう。阿弥陀寺には新五郎の立派な
五輪塔がありますが子孫が建てたのですかね。
533 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:08:29
534 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:25:48
535 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 19:37:41
吉乃は城を退き、実家で療養している時にでも出家したのかな?
それか尼寺に身をおいたのか?
当主が生きているのに城にとどまって出家するというのは
どうしても考えられない。
しかし、吉乃が信雄の母だという証拠は生駒家や信雄からは
第三者の部分で確認できるのに、どうして信忠と吉乃の母子関係は
第三者のもので確認できるものがないんだろう?
織田家の当主にまでなった人物のものだというのに。
537 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:02:28
>>536 ・正室が養子にしたことであえて嫡男の生母が吉乃であってもそれを不問としたかった
・吉乃ではない濃姫が直に信長にすすめた側室(濃姫の侍女など)がいて、
その側室が産んだが、侍女だったので濃姫に遠慮してその後織田家から
身を引いた→濃姫がすんなり養子にした理由もうなずける
のどちらかじゃないかな?
538 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:04:20
吉乃の出家理由。
五徳のあとにも子供を授かったが何かの理由で夭折してしまい、その後
ショックのあまり出家。
>>538 子供の死亡率のあんなに高い時代に
一応3人も信長の子供を産んでいる事になってるのに
1人死んだくらいで出家なんてあり得ないだろ、時代的に
後家だとしたら、前夫との間に生まれた子供はいなかったのかな?
子供を産んでる実績がないのに、わざわざ後家を側室にするのは
ちょっと微妙だと思うのだが?
何年も子供がいないからこそ、側室には確実に子供を産める女を望む筈だしな
正室がポコポコ生んでれば、好みの愛玩用の女でもいいのだろうが。
540 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:11:59
吉乃出家の理由。
子供を3人も産んで、「自分こそ信長様の寵愛を独り占めしているし、
嫡男も産んだ、事実上の正室ぞ」としゃかりきになっていたら、
あっさり信長の足が遠のき、世をはかなんで出家。
541 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:20:36
豊臣家ではお拾いを産んだ淀殿の威光は正室を事実上しのいだよね。
織田家では嫡男を産んだ吉乃の立場はさほど優遇されなかったということ?
542 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:32:06
>>512 解析したところで比較する対象がないんじゃないか。
道三の遺骨って現存してるのかな?
側室の子供のまま側室が育て続けていて
結果的に嫡男となった&側室への寵愛も深かった
ならば、正室を凌ぐ事は有る。
しかしながら、基本的に側室は正室が奥で召し抱える家臣の一人
通常、その区別をきちんとする当主であれば、側室が
正室を凌ぐような事はまずない。
信長のように、規則を守る事に厳密な当主なら、もしも側室が増長すれば
奥を乱す不忠者と捉えてしまうかもしれないくらいの事。
それに、正室の役割は側室のように閨の相手や子を産む事に限定されず、
その家の責務を当主とともにこなし、当主が戦などで留守の場合は、
当主のかわりに差配を振るうものだ。
病気などで正室にそのような能力がなく、側室にそのような能力が有る場合でも、
建前上は正室が差配を振るっているように見せかける程。
つまり、正室と側室の間には、かなりの職務的な差がある。
また、濃姫の場合は、信忠を養子としている。
養子としたから嫡男になったと考えられ、
嫡男だから養子になったという訳ではないようだ。
天正元年の書状が、濃姫宛であるならば、
通常の母子のように消息をこまめに書きおくるような
関係があったと見える為、濃姫の近くで育ったと考えるのが
妥当でもある。
544 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:42:16
>>541 よくいる側室の一人。子供を産む道具だよ。
当時ではそれが当たり前だから冷遇されているというのでは
ないよ。
545 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:48:50
ここには本当に馬鹿しかおらんのだな
吉乃なんかおらんかったし
但し生駒家息女の「類」と言う名の信長側室ならいたがね
546 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 22:53:24
類も、生駒家に伝わっているというだけで、
文献的に証明された訳ではないのだから
吉乃と呼ぼうが生駒御前と呼ぼうが類と呼ぼうが
それほど目くじら立てる事はないさ。
>>545みたいなのが出てくるくらいだから
吉乃とか類とかじゃなく
生駒の方とか生駒御前とか信雄の生母とかって
呼ぶ方が荒れなくていいのかな?
549 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:06:36
だいたい当時の女性の本名なんてまったく意味をなさないのにね。
嫁げば呼び名はどんどん変わるし、家系図にも本名なんて残ってない。
「女」だけ。
話をする場合は、吉乃とか濃姫とか一般的に知られてる名前の方がわかりやすくていいよ。
>>549 禿同
女の本名は親族か夫くらいしか呼ばないものだから
濃姫だって、鷺山殿と呼ばれてたというじゃないか。
清洲に移れば普通は清洲殿だし、小牧なら小牧殿。
岐阜なら岐阜殿だっただろうし安土においては安土殿。
織田信雄分限帳にだって、そういう載り方で載ってるだろ。
岡崎殿、犬山殿……。
それぞれみんなその城の正室だった女性だ。
552 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:15:53
>>551 信長は濃姫をなんて呼んでいたのかな?
「お濃」という説は本当でしょうか?
553 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:19:16
嘘に決まってるよ、バーカ
554 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:20:09
このクソスレに固まってるクソバカどもは、本当に低能で役立たず。氏ね
>>552 普通に考えれば本名で呼ぶか、「奥」とか「御方」と呼ぶよね
ただ、人前で本名を呼ぶ事はまずない筈だから
その代わりの便宜上の呼び方で「お濃」はあったのかもしれない。
でも、信憑性は薄いと思う。
>>554 じゃぁ、どんな話をすれば役に立つ訳?
(・∀・)ニヤニヤ
557 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:47:31
帰蝶は本名でいいのかな?
なんかの本(小説だけど)で濃姫がまだ美濃にいた時、
家臣から「明智の姫」と呼ばれていた。
母親が明智の出だったからだと思うんだけど、
そんな呼び名もありなのかな?
558 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:47:36
534さん富士塚もそうですが、江戸時代の尾張の地誌類には概ね同じようなこと
が書かれてます。
天正元年の御方は濃姫ではなく信雄宛の書状である。根拠はかな文字でないことと、
小川文書自体信雄の書状を多くあることから類推できるからである。
妙覺寺の道三遺言状なるものは、道三の子が持ち込んだと思われてるみたいですが
江戸時代になって大坂の織田氏が寄進したものです。
また妙覺寺には天正の末ぐらいからしか資料が残っていないので道三の子のこと
も信長の時代も良く分からないというのが実情であるようです。
吉乃という方が分かりやすいと思って書き込んだのですが545さんのような
意見があるようであれば生駒家宗息女としたほうがいいみたいですね。
559 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 23:53:42
生駒家宗息女で行こう
低俗の極悪書に書かれてある名前を使う自体馬鹿らしい
それにしても歴史小説家には節操と言う物がないのかね
小説家にそんなの求めてどうする。
小説はフィクションという前提の元に読むものだ。
伝記ではないのだから。
小説家や小説よりも、専門家と言われる史学者や、
信用おけると世間的にまだ思われていた時代のNHKなどの方が
よほど節操がないと言える。
561 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:37:12
>>543 信忠は嫡男だから濃姫が養子にしたところで、濃姫とは離され
乳母とお守役に育てられている。武家の嫡男の慣習で、両親とは
そうそうに寝食を別にし、兄弟姉妹とも兄弟らしい接触はさせてもらえないで
養育される。次男以下、女子に関しては、乳母等はいても実母の管理下で
養育する事ができたから、側室でも嫡男でなければ自分の手元におけた。
実母であっても、信長の生母のように嫡男に対しては情愛を持てなかったのだから、
濃姫も親子の情愛を通わすような関係ではなかったと思う。
むしろ、実母を早くに亡くし幼かった信雄や五徳を母親代わりに
面倒を見ていた可能性もあって、まだこの二人のほうが接触はあった
ように思う。
信長の生母が信長に情愛を持っていなかったという
資料的裏付けはない。
昨今では信勝暗殺は信長と生母の共同歩調によって
行われたと見る向きもある。
また、信忠には守役がいなかったという説がある。
信長自らが側に置いて教育したという説だ。
乳母は当然いた。
後に信長の側室になっている。
信忠に幼少時の守役が決まっていなかった為、
美濃攻略後に斉藤家美濃衆をすんなり側につける事が
出来たと考えれる。
信忠のそれ以前からそばについていた家臣というのは
守役になる程の身分の者がいなかった。
濃姫にとっても念願の嫡男だっただろうから
信忠に対する思い入れは強かったんじゃなかろうか。
>>562 信忠誕生の時点では、信長は名目上は織田氏の筆頭ですらなかったし
当時は尾張守護の斯波氏もまだ生きてて、形だけとはいえその家臣だったし
他の大名家のような堅苦しい掟がなくても不思議じゃないんだよな
>>563 一時期だが池田恒興が守役についたという話も。
恒興の生母は信長の乳母にして信秀の側室、恒興の嫁は信勝の後家
間にできた元助嫁にはお濃の妹を嫁がせてもいるから、信長やお濃の
信頼度でみれば守役についていたとしてもおかしくはないとオモ。
ところでヤフトピでお次についてこういう書きこみを見つけた。
お次の養子縁組時期考察なんだけど、これを参照にすると
勝長が岩村に行った時は駒が彼しかいなかったわけじゃないと
いうことになるし、少なからず秀吉との連署で秀勝と書いている
天正8年前までは信長が織田姓を認めていたのは信忠だけではなく
お次もということになる。だからといってお次がお濃の子供と
言いたいわけじゃないんだけど、ちょっと気になった。
>>566 お次の生母に関しては、氏名は分からないもの、
書状や足跡が残っていて、とても信長の正室が
行うような事ではないらしい。
お次は冬姫と同腹と思える事も多いようだ
於次は、生まれつき身体が弱かったと言われているから
最前線にはさすがに送れないだろう。
570 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 02:35:33
>>565 信長は平手に手取り足取り教育されて親元から離されていたというのに
なぜ?
>>570 むしろ、信長のそのような処遇の方が当時の織田家としては異例だったと
考えられるからではないかな?
そして、守役についた人間が簡単に裏切ってしまったという思いも
信長にはあっただろうと思う。
平手だって、諌死ではなく信長との関係がダメになって切腹したのでは
ないかと言われだしてから久しいしね。
もしも嫡男を離すというのが伝統的であったとしても、それにとらわれたかどうかは
不明ではあるな。
元服後にこの武将を付けたとか、あの武将が補佐したというような事は、
信忠の場合分かるのだけど、幼少時は、だったらどうだったのか?と言うと
わからない。
池田恒興の説はある意味有力な説の一つだけど、確定でもない。
信長のように早くに城を貰っていた事実もない。
信長であってさえ、自分の生い立ちを振り返って考えるだろう。
その最たるものが養子政策で嫡男1人残して他は外に出すという形と思う。
確かに外交上必要だったというのも言えるが、実弟と争った事が
それらの事に影響を及ぼしていないと考える方が困難でもある。
>その最たるものが養子政策で嫡男1人残して他は外に出すという形と思う。
>>566のソースを元にすると、天正8年前までは信長の頭の中では
お次を養子に出したという感じではなかったように思うが?
じゃなければ自ら同姓お次とは書かないだろ。
この史料がどこまで信用できるかにもよるが…。
>>572 それはそんなにおかしな事かな?
天正8年には養子に出ていたというが、その時期は不明で
4〜8年の間と考えると、4年ならばお次は8歳くらい
8年で12歳くらいか。
信雄が北畠に行ったのが13歳、信孝が神戸に行ったのが11歳だったと思う
別にお次だけ取り立てて遅くまで残されていた訳ではないと思うが。
信雄や信孝も養子へ行ったと言っても
元服後に北畠や神戸に名前変わったんじゃなかったか?
575 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 10:37:24
10代の頃は織田家内でまだ家督を狙うやからがいなかってっけ?
このころの信長って内にも外にも敵がいたんだよな。
576 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 10:54:12
>>571 でも平手のために信長が死後神社をたててやってなかったか?
>>574 元服後じゃなく、元服時に名前を北畠と神戸にしている
元服前の名前は、やはり織田茶筅と織田三七だったのだろうか?
だったら、お次が元服前織田於次でも普通なのかな?
じゃぁ、勝長は遠山御坊じゃなく、織田御坊だったのだろうか?
疑問ばかりでスマソ
>>568 養華院殿と養観院が実は同じ人の法名ってことは
あり得ないのかなぁ?
たしかに、秀吉に秀勝の事頼みに出向いたりしてるし
亀山城に移り住んだりしているけど、
それは信長死後の事だから、正室としてあり得ないと
いう程ではないと思うのだけど。
信長生前のお次の生母については、足取りは掴めてないよね?
永禄12年生まれと言われているし、近江國輿地志にもあてはまる。
あと、これは想像というか妄想だけど、
双子だったら生まれつき身体が弱いというのはありじゃないの?
お次とお坊が双子の可能性はないの?
寺で生まれたからお坊、続いて生まれたからお次とか、言いそうじゃない?
次男でもないのに、なんでお次なのか不思議だし。
580 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 15:00:18
信長は長男ではなかったけど、正室の産んだ最初の男子だったので
父親から2歳で那古屋城主になるなど、明らかに嫡男として扱われている。
でも信忠は19才の時に岐阜城主になって、ようやく名目上嫡男として扱われた。
嫡男として育てられるのではなく、当主になってはじめて
嫡男という表現をされるのではないか?
信忠は濃姫の養子になったので嫡男になれる資格を与えられたけど、
養育過程ではまだ信長のように嫡男に相応しい待遇をされたわけではなく、
結果的に19才の頃になって嫡男として家督を相続することになったから、
お守役などもいなかったのではと思う。
その理由は信忠誕生の時濃姫がまだ21才ごろでまだまだ懐妊する可能性は
高かったからというのが最大の理由ではないだろうか?
三男であったという信長が早々に嫡男として認められたのは
正室の子であったというのが最大の理由だろうから、
信長はやはり濃姫の子を家督を相続させたかったように思う。
それは濃姫への愛情ではなく、鎌倉以来からの武家の慣習であるし、
当主として当然の感覚だったのではと想像している。
581 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 16:30:59
家康がいなかったら、家光廃嫡ということになったのかな。
同じ腹から産まれて兄弟が争うっていうのが不思議だよ。
母親が煽っているとした思えないな。
582 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 17:20:11
同じ腹から生まれるからこそ兄弟争いが起こるんじゃないか?
当時は母親の身分が兄弟間の順位に大きく影響したから、
正室の子と側室の子じゃ初めから同じ土俵には立てないから争いなんて普通は起こらない。
その点、正室の子同士は年齢以外は条件は同じ。
年が離れてれば問題ないけど、2歳程度の差なら比較されやすいし
弟のほうを持ち上げる家臣も出てきて争いが起こるのでないかな。
>>581 家光兄弟の場合は、本人や親ではなく周囲の側近達の問題じゃないか?
584 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 21:48:02
家光=家康&春日局というのがお江与が嫌悪感を抱き、必然的に
次男を嫡男にしたいという気持ちに傾いた。
次男への愛情からというより、突き詰めると家康への反発かな。
585 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:06:10
586 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 22:52:15
お家騒動や兄弟間の家督争いを、
母親のせいにするのは現代人の感覚
587 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 23:01:41
母親という感覚が現代とずれてると思うんだよね。
正室は御台所として城ではbQの存在。
その後ろ盾があるか、ないかってけっこう影響があったと思う。
母親の愛情ではなく、正室の後ろ盾を得られないと
実子であっても立場が弱くなる可能性は大いにあるとは思う。
ただそれだけで廃嫡問題がおきるということはないだろうけど。
>>584 まさか家光は家康と春日局の子供だったという説のこと言ってるのかな?
それなら素直に家光を自分の子供としたと思うよ。
588 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 23:08:09
伊達家の同じような騒動あったよね。
でも最上の義姫は気性が激しかったかもしれないけど
愚かではなかったと思うので、片目になって醜いという理由で
我が子を嫌うかな?とは疑問に思う。
むしろ不憫に思ってかわいがると思うんだけど。
豊臣家の場合はとにかく産んだもの勝ちという当時では特殊な条件だったんだな
590 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 01:13:04
信長の場合は、母親との関係が疎遠。
弟は、母親と同じ城に住んでいて密着してるし、
しかも、父の居城をそのまま相続したから、実質、弟が嫡男のように見えたというな
591 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 01:49:52
同母兄弟でも嫡男だけは母親から離して別に育てるんじゃなかったっけ?
どっかで見た話なんで真偽はわからないんだが、そうなら次男を可愛がるのもわかるな。
身近にいるのといないのとじゃ、どうしたって親としての情の濃淡も変わってくるよな。
592 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 11:21:47
>>591 今上帝もそうやって育った。生後3才ぐらいで離されたと聞く。
昭和天皇は生後六ヶ月ほどだったそうだ。
その境遇が非常に寂しく辛かったと今上帝が
美智子妃に言ったので、美智子妃は3人の子供たちに乳母もおかず、
夫婦の手元において育てた。
皇太子だけは慣習に従って日常的に専属の教育係をつけさせたけどね。
昭和天皇の時代までは皇后様も嫡男は両親から離して教育するのが
当たり前という認識だったようだから、戦国期における
嫡男と両親の関係は主従関係に近いものだったのではと思われる。
593 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 11:31:43
>>592 意図的に親子間にも情を通わせないためかな。
その割には、なんで信忠は離されて養育されたと
明らかに分かる史料がないんだろう?
守役の一人でも分かれば、ある程度想像つくのになぁ。
やはり、家督相続の時点で嫡男「だった」事になったのかな?
それまでは、とりあえず嫡男候補筆頭というだけで?
595 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 12:01:29
>>594 その説が一番しっくりくる。
今度濃姫に男子が生まれるかもしれない→そうなると弟が嫡男→
信忠を嫡男あつかいで育てるとその時騒動がおきかねない→
あからさまに嫡男あつかいすることができない
ということなら納得がいく。
その辺は家や事情によって、
ケースバイケースでしょう
597 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 12:20:37
伊達家なんて正妻が男子を二人も産んで、その他は側室すらいなかったのに
あの騒動がおきたからね。戦国時代は自分の親兄弟すら信用できん。
598 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 12:28:45
政宗自身も先に側室が男子を産んで、10年近くたってから正室が男子を産んだ。
長男は宇和島藩主になっているので、10年近く嫡男扱いではあったろうけど、
あっさり正妻の産んだ弟に嫡男の座を譲るわけだから、基本的には
弟であっても正室の子が一番優先順位が高いはず。
そう考えると勝信が濃姫の実子であるとはやはり考えにくいかな。
599 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 14:18:58
>>598 前のほうでも同じ話が出てたけど、正嫡のほかに秀宗は豊臣に人質にでて秀頼の側小姓をしていたのが
徳川に従っていく上で、伊達家当主に好ましくないってのがあるだろうね。
豊臣家の天下が続く、また政宗がそう踏んだなら秀宗が後継者になっただろう。
あと勝信じゃなくて勝長。
正宗の側室の子供は正室の正式な養子にはなってないべ
>>595 納得行くのか?
信長がまだまだ元気なのに家督を譲ってるのって結構珍しい気がするけど
信忠以外の子がある程度の年齢になったら全員養子に出しているし
余程相続時のゴタゴタを回避したかったんだろうがそれにしても変わってる
信長は道三が60で家督を譲ってその2年後にあっさり殺されてるのを見てるし
実権は手放していないとはいえ、生半可な覚悟では家督を譲らないと思うんだが
幼少時の守役がいない事についての考察だから
納得いくんじゃないの?
さすがに家督譲った頃には、正室の子供は
諦めざるを得ない年齢だし。
信長の子供で、信長の構想通りに養子に行っているのは
信雄、信孝は確定としても、勝長と秀勝はどうなんだろうなぁ?
勝長は武田に予定外に人質で持っていかれた訳で、
そうじゃなかったらどうするつもりだったんだろう?
信雄や信孝みたいにだまし討ちで北畠や神戸を乗っ取るような意図は
遠山に対して持っていなかった、というか、そんな必要はなかった筈だし。
秀勝を秀吉に請われて養子に出したのは、なんでなんだろうなぁ?
寧々への書状からしてみても、意外と子供のいない正室への気遣いも
感じられるが……。
側室の秀吉の実子じゃないかもしれない子供よりも(秀吉種無し説もある事だし)、
当主からの養子の方が実は正室にはよかったりするのかもしれない。
結果論から見るのは簡単だけど、養子に出した経緯から見ると
これまで言われているのと、違う意図がある気もするんだよな。
>>600 お隣の最上も正室の生んだ長男を廃してるし、嫡庶だけではなくて外交的な要素も絡んだ問題だよ。
豊臣家の天下が続けば正室の養子にするかはともかく、秀宗が後継になっただろうよ。
604 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 16:56:28
>>601 若干早い気はするが43才で長男に家督を譲るのはそう特別か?
信忠が側室腹なので早目に当主として周知させる意図があったかもしれないが、
隠居後も実権を持っていた他の例を見ても、特別に信長が早いという気はしないな。
(大友宗麟46、北条氏康45、氏政43、六角義賢39、毛利元就48、佐竹義昭32、義重42)
あと道三の例は親子の不仲もあったから悲惨な最期になったが、
普通に家督を譲る分には別に覚悟なんていらないと思うが。
>>602 養子に限定すると見えるものも見えなくなりまする。
養子に限定するとって言われても、実際養子に出してるでしょ?
出してないの信忠だけだし。
607 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:06:49
安定していた時代ならともかく、戦国時代は第三者である支配者との力関係で
嫡男問題が左右されたというのは事実だと思う。
最たる例が徳川信康。
家康の正室の子で竹千代という名まで与えられた正真正銘の嫡男だったのに、
あっさり切腹。
>>信長がまだまだ元気なのに家督を譲ってるのって結構珍しい気がするけど
当時は亡くなる前に家督を譲ることがけっこうあったよ。
家康も元気いっぱいの頃に名目上秀忠に譲ってる。
信長も亡くなるまで実質織田家の実権を握ったままだったしね。
ところで清洲会議で勝家は信孝派と三法師派に分かれたことも
疑問なんだよね。信忠が事実上嫡男と見なされていたなら、幼いとはいえ
信忠の嫡男三法師が正当な新当主ということで、もめることではないはず。
立派な嫡流じゃない。それが意見が真っ二つに分かれたのは、それぞれの
利害関係もあったろうけど、信忠が織田家の嫡男であったという認識が
確定されていなかったからでは?と思ったんだけど。
608 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:10:44
そういえば、濃姫が信忠を養子にした時期というのは信忠が産まれてすぐなの?
もしある程度生長し、自分に子供が生まれる可能性もないとあきらめた時に
養子にしたとしたら、状況がまた変わってくる。
引き取ったのは信忠が産まれてすぐだろうけど
正式に養子にしたのはいつなんだろうな
>>607 それまで三法師が信忠の嫡男という認識がなかったのでは。
単なる側室が産んだ長男というだけで。
611 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:20:57
勢州軍記に濃姫が信忠を養子にしたという記載があるけど、
生まれてすぐなのかどうかは明らかではないな。
612 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:26:26
>>610 嫡流というには説得力がない出自だったわけか。
これが正室の産んだ長男だったら誰も文句がつけようがなかったのかな?
でも信孝も出自に関しては側室腹だし微妙だな。
>>612 いや、信忠に正室がいなくて、三法師は側室の子供で
信長嫡孫としても、信忠嫡男としても、認定されていなかったから。
あの偽書武功夜話には、吉乃が小牧に移る時点では
既に奇妙丸は吉乃の手元にいなかったとなっているな。
615 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:37:54
信忠は松姫との破談後正室を迎えることがなかったのはなぜだろう?
織田家嫡男ともあれば、早々に正室をもらって然るべきなのに。
信長だって15歳で濃姫と結婚している。
信忠に敵対する大名の子女を正室としてもらうというのも
戦略としては大事なことのなずだが。
信忠の嫡男としての立場が微妙だったため?
616 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:40:03
武功夜話は信じてはいけない。
徳川吉宗が旗本次男坊の徳田新之助と名乗り暴れていたと
信じさせようというレベルの信憑性だから。
側室を持ったのも結構いい年になってからなんじゃないの?
三法師の信忠死亡時の年齢からすれば、側室持ったの遅過ぎだろ?
信忠が松姫にこだわったなんて妄想が蔓延しても仕方がないよな。
618 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:47:27
話が変わっちゃうけで、信忠が26で正室がいないってのも変な話だよな。
松姫と婚約してるといっても家同士が敵対してる以上、事実上破棄されたも同然だし、後に迎えるつもりだったっていう話はあるけど滅亡した家から正室を迎えた所でメリットがない。
本能寺の時点では既に正室を迎えるだけの意味のある大名はいないから、いずれは皇族あたりから迎えるつもりだったのかな?
619 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:49:47
ところで、清洲会議で後継者として信孝が信雄より優先されたのはどうして?
生まれたときは母親の身分違いのせいで次男と三男の順番が変わったと言われているのに。
620 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:53:52
>>617 それより生涯顔も知らない信忠を思い続けていたという松姫伝説もすごい。
今なら完全にストーカー。
>>618 たしかに飛ぶ鳥落とす勢いの織田家の嫡男なのに不思議だ。
621 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 17:57:54
信忠を正式な嫡男として内外に示し、後ろ盾になれるだけの家柄から正室を
信忠に娶らせなかった信長の失策。
本能寺の変後織田家ががたがたになるのは仕方がない。
>>619 そりゃ、生まれた時は武将としての能力が分からないからな。
あの当時の武将としての実力を見れば、信孝>信雄なのは仕方がない。
あと、顔が一番信長に似てたって言うよね、信孝って。
さすがに松姫との婚約が決まった頃には、信忠が嫡男って認識になってたんだろう。
624 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:03:31
>>619武将として気骨のある信孝を当主にすると、自分の天下取りの邪魔になると
考えた秀吉。
つかえないお馬鹿な信雄を三法師に後見人にあてがって、完全な傀儡にしようと
した秀吉。
いずれ両者とも葬り去ろうともくろんだ秀吉。
ってことでは?
625 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:07:00
>>623 ところがいざ結婚となったら濃姫に勝長が生まれてしまって、
嫡男に嫁がせたかった信玄が二の足踏んで、そうこうしているうちに
三方が原の戦いがおこってしまい、武田・織田両家は手切れとなって
完全に破談に…という流れだったりして。
永禄11年誕生の子供が本当にいたら、直前に婚約した信忠は
何だったんだよ〜って話にはなるが、嫡男かどうかはあまり関係ないかも
同盟を結ぶって言うのが重要な訳だし、乳幼児の死亡率の高い時代に
生まれたばかりの子供云々はあまり言わない気がする。
それよりも、
>>579が気になる。
養観院は高野山での法名だったよなぁ。
総見院と違っててもおかしくない訳で、もし双子なら
あの当時の慣習として、離して育てるのは普通だしな。
五男か四男か不明って言うのは、似た時期に生まれている事になる訳だし
627 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:31:09
細川藤孝の子に信忠の一字を与えて忠興と名乗らせたり、家督を譲ってるし信長としては1576年時点では信忠後継の路線で腹を固めてたんだと思う。
それなのに然るべき家から正室を迎えなかったというのはおかしな話。
正室を迎えるのは20才前が当たり前だが、26で正室がいない戦国武将って他にいるのか?
628 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 18:58:34
>>626 「近江國輿地志」の御台が濃姫で出産したのがお坊とお次の双子だったと
したら、こうなる。
京に行く途中信長と身重の濃姫は成菩提院に宿泊した。
思いがけず濃姫が産気づき、無事出産したらなんと双子だった。
しかも出産直後に境内が出火して〜
とてんやわんやの大騒ぎだったわけだ。
双子だと10月10日よりも早い出産になるからね。
まだ産み月より早いし大丈夫だろうと思って京へ同行したら、
思わぬ出産、というのはありえるかも。
でも双子は忌み嫌われて後から生まれたほうは即寺に預けられたときくが?
629 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 19:06:08
Wikiの濃姫の説明のところに
>>二人の間に娘のいる家系図が残っていたり
とあるけど、どこに伝わる家系図だろう?
630 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 20:51:20
あのう、濃姫が勝長を生んだ資料を全部紹介して欲しいのですが・・・
631 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 20:53:17
『言継卿記』四
永禄12年8月1日
山科言継、早旦に織田信長(「弾正忠」)へ祗候。門前に於いて面会。
織田信長は「しうとめ」を訪問するというのでその門前まで同行し、
岐阜城(「山上城」)の見物を所望したところ、晩頭なら
ばよいとの返答であった。
この「しうとめ」って姑のことだよね?
濃姫が正室だったら姑にあたるのは小見の方だけど、
小見の方は一応1551(天文20)に亡くなっていることに
なっている。
「しうとめ」は誰なのか?
その当時の正室は濃姫ではなかったのか?
>>618 こういう考察もある。
305 :無名武将@お腹せっぷく :2006/05/30(火) 20:10:42
信忠の嫁取りに関しては、松姫が信忠の元に行こうとしていた裏事情に
信長の意向も絡んでいたのか、全くの信忠独断だったのかがキーかと。
あと、相手が内親王だろうと公家の娘だろうと信忠が嫁取りを断固拒否
すれば元も子もない。力でねじ伏せて強引にとも考えられなくはないが
ならとっくの昔に正妻を置いているはずだがそういう節は全くない。
どうもそのあたりについては信忠の意思に任せている感じも否めない
ついでだけど、メリットというと武田遺臣の取り込みと甲信を治める
名分がある。武田が滅び織田が制圧したとはいえ甲信はまだまだ
不安定な状態だったから、愛情どうの以前にそれらをうまく
治めていくにはどうしても武田の血は必要だったと思われ。
かといって、松の実家は滅んでいるからうるさく言ってくる人間も
いなかっただろうから、そういう意味では濃姫と立場が似ているかもしれん。
小見の方が濃姫の母であるってのはどんな史料に載ってるの?
言継卿記は史料としてそこそこ信用できるとしても
あまり事件性のない記述は軽く流さないと泥沼にはまりますよ。
今も昔も来客に対して当たり障りのないことを言う生物ですから、人は。
635 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:23:21
>>631 小見の方が生存していたとしたら、なんの不思議もない。
その頃信長と濃姫は美濃岐阜城に居城していたから、濃姫の実母に
会いに行ったのだろう。当然小見の方は美濃に住んでいただろうから。
この資料からその頃の正室が濃姫であったという根拠にもなるな。
濃姫の実母が小見の方でなかったとしても、実母にあたる人物は
美濃に住んでいたのだろう。
もう一つわかることは、信長が嫁の実母を訪問するほど
嫁に気を遣っていたこと。つまり正室である濃姫のことを
大切に扱っていたのだろうな。意外な信長の側面を見たよ。
636 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:25:46
>>634 >>あまり事件性のない記述は軽く流さないと泥沼にはまりますよ。
これは逆だと思う。事件性のない事柄こそ事実のような気がする。
当り障りのないことは本当で(元々本人の日記だし、嘘をかいても意味がない)、
事件性のある事柄こそ眉唾ものでは(本人の妄想が入っている可能性大)?
637 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:30:30
>>634 都合が悪ければストレートに言うよ、信長なら。こんなまわりくどい
こと言わんて。
638 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:45:57
小見の方が死んでいるというのは
美濃国諸旧記の記述のみだからね。
あの文献は明智がらみは信用性が今一つといわれている。
小見の方が生きている可能性は当然あるし、
実際に見聞きした言継卿記の方が
後年編纂された美濃国諸旧記よりも
信憑性があると考える方がいい。
639 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 21:57:02
「言継卿記」にはその前月におきた「壷事件」のことも
「織田信長本妻及びその一類は悉く自殺する」
と信長とやりあったら信長が壷をあきらめたとも書いてあった。
斉藤一族であった濃姫が義龍後家をかばったので、信長も
あきらめざるを得なかったということだろう。
斉藤一族だった濃姫が「本妻」でないと
筋が通らないから、濃姫がこの時はばりばり元気に正室だったのは
間違いない。
濃姫と死別や離縁した後で、また別の道三の娘を正室にしたとも思えないからな。
641 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:17:54
>>640 濃姫を離縁してまた道三の娘を正室に迎えるくらいなら、はじめから
離縁などしないと思う。道三が亡くなった時濃姫は22歳だったから、亡くなる
年ではないし、普通に考えて濃姫がずっと正室だったということだろうね。
もし濃姫が亡くなってしまったとしても、もはや道三の娘を娶る必用はなかったと思う。
642 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:19:08
いいねぇ〜
姑のご機嫌伺いに行く信長。
姑の前でちょっと緊張したりしたのかな?
こんにちは私は
転化の禿頭馬鹿将軍ニートと申します。
他でもバカレスってますが、
1人で雅子スレ自作しています。
それで新曲作りました。
必死に握っている所をよく聞いてください。
「雅子スレで、シコシコ」
シコシコシコシコ・・・・・♪
俺は本当は雅子がスキなんだ〜♪
皇太子にもったいない〜♪
太い眉毛にパッチリお目目〜♪
そんな雅子の笑顔に今日も握り快調〜♪
644 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 22:56:19
>>639 壷事件の義龍後家って誰だろう?龍興の母親の近江の方なら
浅井長政の妹だし、当時織田と浅井とは同盟関係にあったから
信長がそんな無理難題を言ったとは思えないんだけど。
多分一色家の女
記憶違いでなければ義龍の正室は確か
浅井氏⇒一條氏⇒一色氏の順だったと思う。
違ったらスマソ
そういや龍興の生年を見ると1548年なんだが、そうだとすると祖父浅井久政と22歳しか離れてないんだよな。
妹を養女として嫁がせた可能性もあるが、龍興が後に一色義輔と改名してるのからすると、
龍興の生母は一色氏だったのかも。
ただ義龍母が一色家出身だったから説もあるから、そちらの縁で一色姓を名乗った可能性もあるな。
647 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 23:53:31
ふと思ったんだが、信忠ってもしかして道三の子という
可能性はないのかなと。
648 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 23:58:17
649 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 00:12:33
>>648 ふと思ったことだから根拠はないんだけど…。
道三が死んだ翌年に信忠が生まれたのが
タイミングよすぎというか何というか…。
末子といわれる利興(新五)も信忠とはさして年が離れて
いなかったようだから、もうひとりぐらい下にいてもおかしく
ないかなと。
650 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 00:19:29
うーん、妄想もたくましすぎると
その発想の跳び具合にかえって感心するw
どんな「歴史の隠された闇」でも解消できるんだろうな。
小説家のでもなればいいのに。
652 :
通りすがり:2006/10/15(日) 01:08:49
このスレの住民は自分達の嗜好にあった
考察や妄想以外には手厳しいんだな。
653 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 01:12:09
>>652 何の根拠もない妄想には手厳しいのは当たり前。
根拠があっても「武功夜話」レベルだとかなり手厳しい。
小説とかマンガの設定なら、なかなか面白いと思うな。
655 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 01:15:57
>>652 史実と抵触する部分がまったくないから。
一応ここ学問板だし。
656 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 01:22:51
手厳しいというよりただのなれ合い。言わばミクみたいな空気。
最初の頃は良かったのだけどね…
657 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 01:44:28
というかこのスレの勢いは史板にしては少し異常
ぶっちゃけキモイよ。
658 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 01:48:57
いや、そうでもないよ
日本史上最も有名な男の正妻であるにも関わらず
ほとんど史料がない異常性が関心を呼び起こすんだよ
>>656 そうかな?
自分は学が無いんでアホなことを言ってはツッコミ入れられてるけど
結構楽しんでるよ
早い所それなりの資料を読まないと、とは思ってるけど
あんまりアホなことばかり書いてるとツッコミ入れるほうも大変だろうから
このスレに馴れ合いになるような主流があるようには思えないけどな
濃姫のスレだから、武功が好きな人には厳しいけども
656も何か自説があるんなら書き込んでみればいいのに
確かにスレの進み具合はすごいですよ。
同じような事ばっかり書いているのかと思ったら
次から次に考察出てきて面白い。
読んだ事ないような史料の名前も分かって嬉しい。
一人の人に法名がいくつもある事があるなんて思いもしなかったし。
法名の号についてあんなに法則があるとか、知らなかったよ。
正室と側室の役割の違いも知らなかったし。
正室がいなくなったら、単純に寵愛の深い側室が正室扱いで
なんでおかしいのさって思ってた。
ここ読んでなかったら、武功にあんなに矛盾があるなんて知らなかったと思う。
一次資料とそうでない資料なんて区別はまだよく分からないけど
色々文献読んでみたいです。
661 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 02:06:08
>ここ読んでなかったら、武功にあんなに矛盾があるなんて知らなかったと思う。
なんだお前、かなり遅れてるな
史家の間では、あんな物、史実無視の偽書と烙印を押されて、一顧だにすらしないぜ
そんな事も知らんかったのか?
もうあんな低俗の極悪書の事は触れるな
662 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 02:06:39
>>659 自分が言われたわけじゃないとはいえ、
小説家にでもなればなんて人を小馬鹿にしたような嫌みを言う奴が
いるから書く気はないよ。
だったら書かなきゃいいな。
本人の自由だし。
例え妄想ネタも予想外のはなかなか面白いけど。
>>661 いや、武功が偽書だって言われてたのは知ってたんですよ。
ただ、具体的に、濃姫の輿入れの年とか、信忠の生まれた年とか
そういう、普通に誰でも知っている事を捏造してるなんて
思ってもなかったから。
665 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 02:38:28
>>662 まあまあ。確かにあれは言いすぎだと思うし
嫌な気分になるのはわかるけど気軽に書き込んでみるがよろし。
史板どうのといっても、岩村城の重要性を含めその時の状況や
背景、閨閥からの考察や他家を絡めての考察になると、
なぜか勢いが弱まるようなレベルの集まりだからw
>>662 小説家になれって嫌味かな?
発想豊かなのを褒めている意味もあるのかと思ってた
だって面白くない? 女信長とか突飛な話。
とにかく、道三の死後立て続けに子供が生まれているのは確かなんだよな
信忠が万が一濃姫の実子なら
道三が亡くなって悲しんでる濃姫を慰めたんだな!って感じで盛り上がれるんだけど
養子なら「遠慮する相手が居なくなったので側室と子作りに励みました」って感じかな
信長がそこまで道三に遠慮する必要があったかどうかは知らん
下2行こそもろ小説じゃんかw
小説家になれば?
そうか、信長が女だとすれば道三の子もありだなw
669 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 05:20:24
みなさん信忠の正室は塩川氏です。
ひろいもの。この版のご先祖自慢スレ
605 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/09/09(土) 14:30:09
>>591 うちのご先祖様は晴信さん率いる武田さんご一行様が何度か
攻め込んできても、敵の敵は味方である北條さんとつるんで
その度に門前払いにしました。
でも、晴信さんに影でヤキを入れられた模様の蹴鞠坊ちゃんの命令で
渋々と武田さんご一行様に降ることになり、一時は北條さんの元にも
いたのですが、北條さんと武田さんが仲直りをしたこともあって、
結局最後は武田さんご一行様の仲間となりました。
そのため、穴山さんの与力だったこともありますが、そのうち武より
神様が大事になり、神主道をひたすら突っ走っていたそうです。
偶然にも、ご先祖様と信長さんの息子さんの名前が一緒だったこともあり
信長さんが家へきた時は、名前についてとか息子自慢他、いろいろな
話で盛り上がりすごく機嫌が良く、彼は大変気さくな人間だったと
うちでは伝わっています。
そしてあるものをくれと凄くねだられご先祖様は困惑もしたらしいです。
以上、これにて自慢話は尾張ます。
簡単にググッた感じだとどうも富士信忠の子孫さんの書込っぽい(違ってたらスミマセン)
息子自慢信長テラモエス
少し飛躍の過ぎた憶測のあとに
必ず
>いや、いちがいに間違いともいえんぞ
・・・風のレスがつくのも、信長姫関連のお約束だな。
多彩な人間関係を想像して、自説に沿った思考をさせ行動させれば
どんなとんでも説にも一応の理由ができてしまう。
資料が少ないことも、かえって憶測風潮に貢献しているのだろう。
>>669 塩川氏は側室だよ。
身分的にも釣り合うわけないし。
673 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 09:59:08
歴史検証というのが妄想と紙一重なんだよ。
資料には断片的なことしか書いてないので、いろんな資料と当時の世相、
慣習、社会情勢かどから推測していくしかない。
その一番の根拠となる資料が偽書となったら全てが妄想になってしまうし、
信憑性のある資料でも憶測でしか肉付け出来ない部分がある。
明らかな歴史ファンタジー系の妄想は勘弁ねがいたいが、
ある程度資料に基づき、当時の社会情勢から極端に逸脱していない
説であれば、興味深いものだ思うので自分は素直にその説を拝聴したい。
鵜呑みにするかどうかは別で、そこが歴史検証の面白いところだし、
大切なところでもあると思っている。
歴史検証で一番やってはいけないことは、有名な歴史家やその道の大家の
説を鵜呑みにしてしまうこと。その道の大家の説は自分の主張する説のためには
むちゃな史実の歪曲も平気でやってしまうからね。
いろんな角度から検証していくには、素人の歴史マニアからの
素朴な疑問や矛盾の指摘を検証していくことが大切だと思っているよ。
明らかなあらしやただの冷やかしなどでなければ、初級レベルの素朴な疑問や
矛盾や自分なりの考察を書いてくれるのはむしろ歓迎だけどね。
674 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:15:25
信長がわざわざ自分から濃姫の母親のところに挨拶に出向くっていうのが
なんとも微笑ましいと思ってしまいました。小見の方なら美濃国主夫人だった
わけだし、そのへんから相手の立場を重んじたのかな?
大河ドラマの信長像はもう古いね。
濃姫像もちょっと極端すぎるかな。
本当は自己主張のあまりない、大人しい、そういう意味ではねねやまつのような
存在感のない正妻だったのかなと思ってる。
675 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:16:08
>>646の龍興生母の話がちょっと気になる。
wiki見たら久政の項では娘が龍興生母ってなってるけど、龍興の項をみると庶子になってる。
家臣筋からならともかく、他家から迎えた女を側室にすることってあるの?
年齢的にも無理があるみたいだし。
676 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:31:33
紛いなりにも学問板なんだから信忠は道三の子みたいな全く根拠のない妄想をされても困る。
ある程度史料に基づいて話をしてるんだから、ただの妄想なら戦国か三戦に行ってくれ。
677 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:42:09
光秀=天海和尚説というのも最初は「はぁ?」と思っていたけど、
その説を検証する本を読んだら「なるほどなぁ」と思ったな。
けっこう説得力があった。
こういうミステリーが生まれるのもも歴史の面白いところ。
678 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 10:48:30
>>677日光東照宮のあらゆる所に桔梗が彫られている、旗印も桔梗、
桔梗は明智家の家紋…
東照宮建築に大きく関与していたのは天海和尚…
679 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 11:13:17
>>675 >>他家から迎えた女を側室にすることってあるの?
両者にとってメリットが生じ、要となる国から子女を迎えるのであれば
対等な同盟を成立させるために正室として迎える。
明らかに目下の立場で、従順の意を現せという意味で迎えるときは側室。
または人質目的、敗将の子女等も側室として迎える。
信長も義昭に側室として養女を差し出してるけど、どちらかというと
信長の方が立場が上なので、言う事を聞いてくれたご褒美という感じかも。
義龍の正妻だった近江の方はその後実家に戻ったような?
同盟が破棄されれば、正室であってもお市同様実家が引き戻される。
生まれた子が男子なら嫁ぎ先に残し、女子なら実家が引き取るというのも
武家の慣習だったからそうしたのではないかな。
680 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 12:33:11
「総見記」
大臣家ノ御台所ハ、斉藤山城入道道三ノ息女ナレドモ、御子ナキニ依テ、
故三位中将殿 ノ妾腹ニ生レ玉ヒケルヲ、長子タルニ依テ、
是ヲ御台ノ養子トシ、故大臣の嫡男トス 実母ハ尾州生駒氏ニテ、
弘治三年ノ出生ナリ
「武功夜話」以外で信忠が生駒氏の子供であるとはっきりと明記されているのは
この資料ぐらいだけど、「総見記」の編集は江戸時代だし、
脚色も多いということなので信憑性は低いものと判断して
よいのでしょうか?
681 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 12:40:21
682 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 12:51:44
>>680 小瀬甫庵の「信長記」をうけて、これを補訂するという形で
「増補信長記」を記したのが最初。その後「総見記」と改め、
さらに信長の諸孫にあたる貞置に校閲を依頼し完成したのが
織田軍記 遠山信春 1702年(元禄15)。
甫庵の「信長記」をもとにしているため、史実に潤色がされている。
何回か段階を経て後から編集されているので、詳細においては信憑性は
どうかな。基本的に信忠の生母が誰であろうと、歴史上は
大した意味を持たないので(生駒氏自体が大勢にからんでこないし)、
仮にこの記述が間違っていても、即信憑性を問う問題ではない
と思うが。
小馬鹿にされるより妄想をスルーされる方が嫌だ
684 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 13:16:34
濃姫に男子なく、信長の側室の産んだ男子を養子にし、嫡男の資格を与えて
養育した、ということがわかればいいだけのこと。
信忠が濃姫の実子であっても、生駒氏の子であっても、生駒氏以外の
女性が産んだ子であっても、史実に影響なし。
685 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 13:18:46
>小瀬甫庵の「信長記」をうけて、これを補訂するという形で
元の史料となった小瀬甫庵の「信長記」自体にウソが多いので
「総見記」など史料価値なし
686 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 13:29:41
>>680 つまり、武功夜話程度の信憑性ということで…
>>678 つい先日それを検証しに東照宮まで行ってきた。
桔梗紋といわれていた家紋はすべて木瓜紋だったよ。
光秀=天海というより、木瓜紋(しかも織田紋ぽい)が
あんなにたくさんあったのかが気になる。
ひたすらスレチごめんなさい
天海像と言われている像の服についている紋は
桔梗紋なんだけどねぇ。
689 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 14:56:04
天海=光秀の方がまだ信憑性があるよね
691 :
690:2006/10/15(日) 15:01:17
ぎゃ、ごめんなさい、
天海=光秀よりも天海=秀満の方がまだ信憑性あるよね
です
692 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 17:12:38
光秀=天海の根拠
・光秀の木像と位牌のある慈眼寺の寺号と、天海の諡名が同じ「慈眼」
である。
・比叡山・松禅寺には、光秀寄進の石灯籠があるが、
寄進日は慶長20年(1615年)つまり光秀はすでに死んでしまってるはずの年代。
これは光秀が慶長20年(1615年)まで生きていたことの明らかな物証。
・日光東照宮の近くに明知平とい地名があり、天海が命名している。
・日光東照宮の陽明門の入り口の脇にある二対の大礼服の随身の座像は二対
とも着物に明智家の桔梗紋
・・・偶然か?
693 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 17:57:10
濃姫が本能寺の変の本当の黒幕だったという説があるよね。
自分の父親を見殺しにして国を奪って、自分を飼い殺しに
して無視している「夫」信長を亡き者にするために、光秀
を使ったと。
それで、戦後、三男の信雄が安土城に火を放ったのは、安
土城に残って居座っていた濃姫を、下手人として捕まえる
わけにもいかず、そのままにしてわけにもいかなかったた
め、城ごと焼き殺したのだと。
説ってか、妄想ね。
小説家の八切止夫が言ってた説だっけか?
安土殿の事も言継卿記の壷事件も知られてなかった時代のね。
「事実は小説より奇なり」とも言うが
さすがに
>>693の説は苦しいよな。
696 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:08:08
>>694 え、ダメ?
八切止夫が言ってたっていうのはそのとおりなんだけど。
どういう点がダメですか?安土殿の事と、壺事件って何?
>>694 要するに、全く濃姫の消息が一般に知られてなかった頃の説ってこと。
今は安土殿として、一応織田家の当主格になってた信雄から知行を貰ってた
らしい事も分かってるし、総見院に埋葬されているらしい事も分かっている。
それ以前に、壷事件では信長とそれなりに親密でなくては出来ないような事を
しているのが分かっているし、その後に信長が濃姫の姑に色々と気を使って
訪問しているのも分かっている。
八切止夫は濃姫の墓がないのは、黒幕でどこの寺も遺体の引き取り拒否したんだ
って論調だからダメな訳。
698 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:13:31
>>693 いろいろ、考えさせられる点が多いんだよ。
信長「政権」下では、なぜか、「同盟国出身」であるはずの美濃出身者が
冷遇されていたとか、本能寺の変後、時を同じくするように素早く美濃三
人衆の一人稲葉が、岐阜城を乗っ取っていたとか。甲斐でも武田家残党の
決起があまりに早すぎるとか。故八止氏の本を読むと、「有り得る!」って
感じさせる点が多いんだよ。
699 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:17:18
>>699 壷事件については、このスレに何度も出てきているから
最初から読んでくれば?
701 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:27:28
>>698 >>信長「政権」下では、なぜか、「同盟国出身」であるはずの
美濃出身者が冷遇されていたとか
これはむしろ逆では?
敵国だった美濃を捨て、信長に従った美濃3人衆は信長の信頼を得て
嫡男信忠のサポートにつけたらていたし、光秀だって美濃出身者の
中では出世頭。
美濃と内通しているかもしれない、という可能性もあるのに
破格の待遇の良さだよ。
クーデターで残党が決起するのが早いのは信長への不満分子たちはいつでも
決起OKの勢いで待機してるから。
斉藤道三が義龍に負けたのも、土岐配下だった反道三のものたちが
いっきに義龍側についたしね。
「本門寺の変」黒幕濃姫説はありえない。
濃姫なら信長を暗殺する気があれば、もっと簡単にできるでしょう。
濃姫にとっては義兄は実父の敵。
結果的に斉藤家は滅んだけど、濃姫にしてみれば信長は敵をとってくれた
頼もしい夫でもあるわけで、自分も岐阜に凱旋したという気持ちで
付き従ったていたと思う。
義理でも自分の息子が美濃国守になったのだから不満はなかっただろう。
702 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:36:00
>>699 7月27日 山科言継、織田信長(「信長」)が斎藤義龍(「一色義龍」)
後家所持の壺を所望していたが紛失してしまい、更なる探査に
及べば斎藤義龍後家は自害するといい、斎藤義龍後家が自害するならば
織田信長本妻及びその一類は悉く自殺するというので
事態は収拾したことを知る。〔『言継卿記』四〕
つまり、信長が義龍の後家に義龍が生前持っていたという壷を
よこせと言ったが、後家は紛失してないと答えたのに、ひつように
よこせと要求したので、後家はこれ以上詮索される
なら自害すると言い出し、それを擁護するように、後家が自害するなら
私たちも自害すると信長の本妻とその一族がみな自殺すると
信長に詰め寄って、信長があきらめ事態が収拾したという話。
この信長本妻が斉藤家の縁のものでないと話の筋が通らず、
濃姫であることがほぼ間違いないと推測できる。
また脅し半分でも信長を取り成すだけの関係がなりたっていたことから、
濃姫と信長の関係は、冷めていたとは考えられず、その後すぐに
濃姫の実母のところを信長が訪問する記述も残っていることから、
夫婦仲は円満であったということも推測できるわけ。
703 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:40:06
最近の大河ドラマだと、濃姫と光秀の淡い恋愛、そのことへの信長の嫉妬、
光秀いじめ、みたいな陳腐なストーリーが目に付く。
そこに光秀妻の濃姫への嫉妬や娘たちの濃姫への逆恨みも加わったりして
どうしようもない。
関係が冷めてた以前にさ、濃姫の姉妹16人とその夫と国人が
30人くらい抗議している訳で、16人も抗議すかさず出来るくらい
すぐそばで暮らしてたって事じゃん。
>>703 大河は武功を史実認定してから見ないに越した事はない。
706 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:45:02
>>704 だってその頃信長の居城は美濃の岐阜城だから当然だよ。
その後「しうとめ」を訪問したというのは、その事件のことを
詫びにいったのかもな。小見の方は道三の正室だったわけだし、
一族の長でもあったろうから。
707 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:46:11
>>705 某局の「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」は面白いぞ。
あきらかに嘘だけど。
>>706 いや、岐阜城だから当たり前ってこともないだろ?
もし、冷遇されてたんだったら、そんなにすぐ集結できる
処に住んでる訳がないんだから。
709 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:50:11
セックス おまんこ 膣 ヴァギナ
みんなは、どれが好き?
710 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 19:02:13
>>708 別に近くに住んでいなくても大丈夫じゃないか?
壷事件のことを聞いて、一族を代表した誰かが
「一族みな自害いたします」と言ったので
濃姫も味方して「これ以上斉藤家を侮辱する
ようなことを言うなら私も一族なのだから自害しますよ!」と
信長に直談判して決着がついたとも考えられる。
まぁ濃姫が間に入って取り成したらけっこうあっさり
収拾したのかもしれないがね。
あぁ、なるほど、実際には岐阜まで来ていないという事も有りか
姉妹16人なんてリアルな人数を山科言継が書いてるから
実際に岐阜に訪れているのかと解釈してたよ。
15人余くらいだったら、思わなかったんだけどね。
713 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 19:19:15
>>712 不思議なんだけど、濃姫の兄弟姉妹で生存しているのが当時16人もいたのかな?
男兄弟の配偶者も入っているんだろうけど、その子供たちも入ってるとか?
714 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 19:21:17
672さん側室っていいますが、群書類従の織田系図にあることなのに否定されるのは
自分自身の見解ですか?
715 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 19:46:16
>>714 http://members.at.infoseek.co.jp/mituhide_akechi/siokawa.html ここに塩川家のことが詳細に乗っているけど、家柄的には織田家よりいいかも。
当時の力関係は全然差があったけど、家柄そのものはひけをとっていないと思う。
ここにも正室として嫁いでいるでは?(憶測だけど)とあるので、塩川の息女が
信忠正室で三法師の生母であったとは充分考えられる。
でも織田家嫡男なのにはっきりと正室が明記されている資料が残っていない
のがちょっと不思議だけど。嫁がせる側の家にもなんらかの資料が残っていても
よさそうなもんだけど。例えば信長と濃姫は双方の家に関する資料から
二人の婚姻は間違いないと判断できるわけだし。
716 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 19:54:13
>>715 でも当時の世情だと、こういう関係から正室はもらわんよな。
松姫のような関係が一番一般的。
なんでそういう家から正室をもらっておかなかったのか不思議だ。
家康の娘でももらっておけば、信忠の嫡男の祖父として
家康が事実上の織田家の後見役になったろうから、
歴史ががらりとかわっただろうに。
最終的には徳川幕府におさまったろうけど。
>>714 私の見解じゃないですよ?
「寛政重修諸家譜」など幕府と織田家の公認の家系図では
信忠の正室は松姫になっているんですよ。
三法師の方の生母は載っていません。
また、武田滅亡後松姫が終わりに向かった記録は
随行した人間の記録に残っていますので、
松姫を側室にする事はないので、やはり正室として
迎える予定だったのでしょう。
すご〜く信憑性の薄い文献には三法師の生母は松姫であると
記述されているモノもありますが、それはあり得ないでしょう。
718 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:05:04
>>716 家格はどうあれ両家の力関係からいって正室としての輿入れはありえないな。
かといって正室を迎えるに相応しいほどの勢力をもった大名の多くは当時軒並み敵対してるし。
松姫にしても武田家が敵対、滅亡してるんじゃ正室に迎える意味はない。
ここからは想像だけど、信長としては信忠の正室は皇族か摂関家から迎えるつもりだったのかも。
信忠の正室ともなったら、複数の記録にきっちりと残るだろう。
信忠死後、子が嫡男という立場になったから
塩川氏の立場も正室扱いっぽくなったのかもしれないけど。
720 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:08:23
>>717その話だけで「寛政重修諸家譜」の信憑性がまるでないものだとわかる。
信忠と松姫の婚姻の事実はない。
婚約後同盟解消に伴い婚約解消して終わった。
織田家の家系図に赤の他人の姫の名が入っているなんてひどすぎる。
しかも松姫は20才過ぎてすぐに出家してるし。
721 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:09:49
>>719 親子二代続く正室もどきがのさばる織田家の謎だな。
>>720 そうでもないですよ。
武田家では、松姫の事を織田の姫として新しく館を建てて住まわせています。
つまり、嫁いだ事になっていたと考えるのが妥当とも言えます。
松姫は輿入れはしてないけど、結婚はしてるという認識だったって説もあるよね。
724 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:12:20
>>722 だって肝心の二人が一度も会うことなかったわけでしょ?
織田家が松姫を正室として迎えた何かしらの資料等はあるのですか?
725 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:15:37
>>722-723 「甲陽軍鑑」がネタ元じゃないでしょうね?
「甲陽軍鑑」は「武田板武功夜話」と言われてますけど。
名目上と継いだ事になっており、若年の為同居はしていなかったという
見解は確かに昔からある。
明らかな離縁もない以上、正室扱いのままであっても問題ない。
武田家が滅亡したあと松姫が尾張に向かっているのも
そう考えれば辻褄が合う。
何しろ、父親の信長も倒した斎藤家の濃姫を旗印に斉藤家美濃衆を
掌握したのだから、武田の姫を旗印に武田残党を掌握するのも
念頭にあったと思われるからな。
>>721 それもこれも、女性の事を文献に残さない織田家の慣習故だな
728 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:22:45
素朴な疑問。
祝言を挙げないで正室として内外に認めさせることは可能?
729 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:25:08
あぁだから松姫伝説ってしぶとく残っているのか。
それなりに根拠らしきものもあるわけね。
Wikiに
>>武田氏は滅亡した(天目山の戦い)。
同年6月、信忠から迎えの使者が訪れ会いに行こうとした最中に、
本能寺の変が勃発し織田信長・信忠父子が自刃して果てる。
とあるけど、信忠に会いに行くのは正妻としてだったってこと?
730 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:27:53
毒々しく、あくの強い父親達に比べて純粋な二人だったんだね・・・(涙)
正妻としてとは分かんないけど、松姫を尾張まで連れて行ったところで
本能寺の変を聞いて、泣く泣く引き返したと、随行した家臣が
書き残している文書があって、それが根拠になっているからね。
あと、公的な資料では、松姫正室になっているものが多いからね。
また、一切会った事もないというのも分かっていない訳だな。
塩川家の娘が実は三法師の母親というのも、よく分かっていなくて、
側室として入っていたし、多分そうだろうって言うだけなんだよね。
732 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:37:26
松姫の話が「甲陽軍鑑」からのものだったらかなり眉唾だぞ。
「甲陽軍鑑」に登場する天才軍師山本 勘助の話も
同姓同名の伝令将校をモデルに話を思いっきり膨らました
創作ものだ。
733 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:39:15
>>725 それは「織田板甲陽軍鑑」というのが正しいのでは?
734 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:41:40
吉乃マンセー&勘助マンセー
松姫を連れて行こうとしたのは下嶋政茂だね
不思議なんだが、幕府の公的な記録に松姫正室と載っている以上
そういう認識が織田家にはあったと言える。
そして、塩川女の記述がない事を見ても、織田家ではその認識がなかった訳で、
塩川正室説を推すならその辺の見解について証明するのは、
塩川正室説を推す側だと思うのだが?
一時期どこかの大学だかの学長が塩川の末裔で、正室だと言い張っていたのは
知っているのだが、それ以外で正室だと論じられているものを
見た事がないので、説明願いたい。
737 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:47:33
武功夜話を忠実に再現したのが「大河ドラマ」
甲陽軍鑑を忠実に再現したのが「おんな風林火山」
738 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:52:57
肝心の武田家側の資料に松姫が正室として嫁いだうんぬんの記録はあるの?
ものすごい豪華な引き出物などのある、立派な婚約の儀をしたことは
載っていたと思うが。
739 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:57:11
信憑性は知らんが甲陽軍鑑には婚約後、三方が原の戦いでの織田の裏切り行為
のために同盟が破棄になり、同時に婚約も破棄になったとある。
武田家では嫁にやったつもりはさらさらないだろう。
何のメリットもないし。
松姫が正室の方が、何かと格が上がるという事もあって
公的記録にそう書き残したのかもしれないけど、
だからといって三法師の生母を削除する必要もないと思うんだけど?
じゃぁ、なんで松姫は武田滅亡後信忠の元へ?
まさか織田家と下嶋家が示し合わせて、
松姫が信忠のところへ行こうとした話を
でっち上げるというのも変じゃないだろうか?
742 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:08:57
>>727 それなのに婚姻の実体のない松姫のことは正式に書き残すというのは不自然。
織田家のみに伝わる正室なんて無効だと思うがね。
それとも信長の意向で武田滅亡後に松姫を信忠の正室として迎えようと
する意志はあったとか?甲斐の統治をしやすくするというだけの理由だろうけど、
そのこともあって、織田家では婚約無効とせずに、そのまま曖昧にしていたので
織田家の家系図に松姫正室と残ってしまったなんてあり得る?
743 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:10:37
>>741 でっちあげたとも考えられる。実際行って会っているわけではない。
信忠が亡くなってしまったから、悲劇の二人を演出するために
後年作られた物語かもよ。
>>742 そりゃ、あるんじゃないの?
自分の嫁さんで成功しているんだから
息子の嫁さんで武田家をまとめようと思っても
不思議じゃないしな。
武田の残党を残らず殺せなんて触れを出しても
そんなの無理なのは信長だって分かってるだろうし
だったら、象徴を織田家に取り込む事で
叛旗を翻さないようにと考えるのは戦略として悪くない。
>>743 でも、後年作られたにしては、幕府の公的な記録に、
方や、松姫正室記載
方や、松姫を尾張に連れて行ってどうのこうのなんて
別々に提出した史料で、そんな事あるのかな?
746 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:17:52
>>方や、松姫正室記載
>>方や、松姫を尾張に連れて行ってどうのこうのなんて
この二つはリンクしないんだよ。
織田家にはなぜか正室として記載され続けていた(武田家の意向は無視)。
尾張に云々は松姫を思いやった忠義ものの家臣が独断で配慮しただけ。
とも考えられる。
それよりも根本的な質問だが、織田系図では塩川女が正室になってたっけ?
塩川女が側室だったというのは確か
秀信の母の法名が徳寿院で
近江坂本にある墓に織田秀信の生母の墓に鈴と記されていて、
塩川家に寿々って娘が信忠に嫁いだという記録があって
鈴=寿々って事で秀信の生母が塩川女ってことに推測されると
書かれている文献は読んだ事があるのだが。
748 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:20:35
結局三法師の実母は塩川氏息女でよいのだろうか?
そして対外的には側室腹の子で長男だったけど、嫡男という認識でなかった子
ということでいいのかな?
ゆえに清洲会議で正当性が信孝と比較されてしまったと?
749 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:21:04
>>744 ありえない話じゃないがそれもどうだろうか?
信長が美濃を制したころと違って、織田家は圧倒的な力をもってるし
それに靡こうとする者も多いだろうから美濃制圧と比較すればさほど難しくはない。
それに濃姫にとって義龍以降の斎藤家は実父の仇で、信長はあだ討ちをしてくれた存在でもあるが、
松姫からすれば織田家は一族の仇で信忠はその実行犯。
松姫を下手に信忠に近づければ暗殺される危険もあるしいまさら正室にするだろうか?
誰でも選び放題だったであろう信忠が正室を娶った気配がないのは
同居はしてないけど正室は松姫という認識があったからと考えると
不自然でもないけどメロドラマっぽくなっちゃうなw
751 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:28:42
>>749 そうだな。信玄が元気な頃と武田家滅亡してからでは松姫の価値が
雲泥の差。武田家滅亡後は敗戦国の姫だから、正室に迎える必要性は
まったくない。
752 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:30:46
>>750 選び放題でも嫡男の結婚相手を決めるのは当主である信長だから
もし信長がどこそこの姫と結婚しろ、と言ったらそれに従ったはず。
信長がどうゆうわけか正室を決めてくれなかったということだろう。
信忠、地位の割には側室も少なくないか
754 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:49:52
子が秀信、秀則、女の三人で秀信と秀則が異腹だから最低で二人だな。
でもこの時代の女性、まして側室なんて記録上の扱いは軽いから
子を産まなかった側室は記録に残らなかっただけかもね。
結局、信長が信忠の正室を決めていなかったって事かな?
嫡孫でも嫡男でもなかったから、信孝とどっちだ?って話になったと
考えれば一番納得がいくか。
信長が「嫡孫である」とか信忠が「嫡男である」と示していれば
信孝との関係もあっさり決まった気もする。
756 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 21:55:23
信長も日本一の権力者にしては側室の数も質もかなり控えめ。
閨房に淡白だったという短絡的な見方もできる。
信忠も事実上嫡男扱いになったのは、美濃をもらってからだから、
それまでは側室を持つ身分ではなく、とりあえず男子が授かれば
それで良しとしたのでは?
信長は姓名の分かってる側室が少ないだけで、
数そのものはそれなりにいたんじゃないかなぁ?
子供の数はかなり多いし。
758 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:00:53
>>755 正室の養子ではやっぱり弱いわけだ。実子だったら文句なく
信忠が嫡流ということにみなが納得したのだろう。
そこで勝信登場だけど、秀吉が勝信の存在を疎んじて、死後も
なにかと工作して存在を消そうとしていたというのは本当?
勝信が濃姫の実子だとしたら、信勝には男子がいたので、
そっちが「正当な織田家の嫡流」ということになる。
そうさせないように封じ込めたということにつながる?
いや、だから、勝信じゃなくて勝長だってば
君ずっと間違えてるよ
760 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:04:01
>>758 755は三法師が側室の子で嫡男じゃなかったから
信孝より優位になれなかったと言いたいんじゃ
存在を消そうとしていたかどうかは分からないが
秀吉関連で言えば、総見院殿追善記のような
秀吉のお声掛かりで編纂された記録に勝長が載っていなかったり
することかな?
信長の子供の中では1人院号ではないし。
大徳寺系の法名で、阿弥陀寺の浄土宗系の法名でない事もあって
清玉上人が付けた法名と言われているけれど、本当は総見院で
付けられたんじゃないのか?と言われていたりするのかな?
清玉上人の書き残した過去帳に載っているので、そんな事はないという
説もあるが、その過去帳は総見院で信長や信忠が法名を変えられて以降に
書かれているものだった筈だから、実際のところ分からない。
織田家の男子なら「岩」の字が入るべきところ、入っていないのも気になる。
そういう感じで言われていたと思う。
763 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:18:18
>>762 秀吉のことは抜きにした場合、勝長の死後の偏った対応は
どういうことなんだろう?存在を消そうと思っても消せるわけもなく、
もし濃姫の実子としても実母の濃姫が生きているわけだから、
こんな小細工なんか意味があるのかな?
確かに死後の扱いがよく分からないんだよね。
安土でのあの対面の華やかさとか、
犬山城を貰っている事とか、
どうやら池田恒興の娘を側室にしている事とか、
名前も信房にあらためているらしい事とか、
そういう生前の扱いを考えると、死後の扱いの
落差がよく分からない。
濃姫の実子だったとしたらという前提で言えば
総見院の葬儀に濃姫が出席せず、一周忌も
妙心寺で勝手に主催して執り行った報復とか?
766 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:33:15
秀吉に勝長をあえて貶める動機もメリットもないと思うが、
勝長が信房と名乗りを変えたのに、子供の名前が勝良というのに違和感がある。
普通だったら信○って名前になっただろうに、なぜ父の旧名から一字を与えるのか。
なにか意図的に織田一族から外された名前のように感じる。
767 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:38:22
秀吉が濃姫に報復するというのもいまいち説得力がないな。
かつての君主夫人に露骨に意地悪はできないと思うんだよね。
生涯頭が上がらない存在だったはず。
信房の署名は実際に残ってた訳だから(今は写ししかないが)
信房に変わっているのは事実としても、
それを、源三郎って通称だったり、勝長だったりと
信房を出さないようにした理由が今一つなぁ。
勝良は信雄の元に最初いたから、そこで元服しているし
秀吉よりも信雄絡みの気がするけどねぇ。
>>744 河尻ちゃんへ
残党を雇う時は十分気をつけてねby信長という禁制は出したが
残党はみんなぶっ殺しといてねなんていう禁制は一切出していないぞ。
ついでにいうなら信長は躑躅ヶ崎館を元通りに再建してね。という
謎の厳命を出していたりもする。
>>749 あの時点での甲信は全くの動乱状態だから、甲信を完全に押さえ
領国経営をしていくにはたとえ滅んだとしても武田という名の力は
まだまだ必要だったと思うが。
松姫は武田の名を持つ姫だから彼女を正妻に据えることで大義名分は
成り立つし、パフォであれ武田家をいずれ復興させるという意味合いの
風聞をうまく流せば、武田を滅ぼしたことで同情や不満たらたらだったとも
言われる公家にもいちよの顔は立つし、武田遺臣達を誘い込むいい餌にも
なる。あとは関東制圧の戦略的に駒として使えなくはないかもしれんが
これについては、全くの未知数。
770 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:48:30
>>768 勝長濃姫の子と仮定した場合だが、
信雄にしてみれば自分より正嫡に近い甥は目障りだったのかもな。
秀吉からしてみれば宗家は秀信で確定してるんだし
配下の旧織田家臣にとってもどっちでもいい話だしな。
771 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:56:59
>>769 完全な敗戦国の姫だから、正室に迎えるということはしないと思うよ。
側室として迎えるのが当時の感覚なら妥当。諏訪御寮人同様に側室として迎え、
その子に奪った領地の統治を任せるいうことで大義名分は充分通せる。
でも信長の武田家への憎しみは半端ではなかったようだから、
武田の姫を織田家にもらうという発想はもうなかったとも思う。
>>769 むむむ、そうなのか。
信長が皆殺しにしろって言ったのを徳川がこっそりかくまったから
武田が続いたんだっていってる人がいて信じてたぜ。
憎しみが半端ではないというのは何故?
別段武田に対して、過剰に酷い制裁を加えていたような
覚えはないが?
仮に婚姻が成立していたという前提があったとしたら
正妻から側室に松姫を落とす事は可能だったのだろうか?
源氏物語みたいに、正妻葵の上が死んで、紫の上を正妻にしないまま
奥向きを仕切らせていたあとに、女三ノ宮が来て正妻におさまったって
言うような事なら分かるが。
婚姻が成立していなければ、松姫が信忠の元に来ようとする理由が
よく分からないのだが……。
>741
>じゃぁ、なんで松姫は武田滅亡後信忠の元へ?
上杉は織田に攻められて瀕死だし、北条は縁戚関係にあったくせに裏切ったし、
徳川は縁故も何も無いし、結果として信忠を頼るしかなかったとか。
775 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:07:46
>>771 信長が武田家へ相当な憎しみを抱いていたと言われる割には
その根拠になるような事は実は全くないんだよね。
強いて言うなら猛牛の逆さ磔ぐらいか…。
武田討伐時の処罰も正統方法ばかりで残虐性はゼロに近い。
信忠が指揮官だったせいもあるだろうけど。
776 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:11:49
>>773 だって少なくとも武田方では婚姻は成立してないよ。
婚約の儀が成立した段階で、婚姻がのびて、そのまま破談。
信忠の元に行くという話も、結婚生活をしに行くという具体的な話はなく、
ただ段取りをつけて会いに行くはずだった、というだけ。結局会ってないし。
三月十四日、信濃浪合において勝頼父子の首実検が行われたが、
その時の模様が『常山紀談』にこう記されている。
勝頼の首を、滝川が士 滝川荘左衛門といふ使番に持たせて、信長に
見せ思せば、さまざまに罵りて、杖にて二つつきて後、足にて蹴られけり。
真偽の程はともかく、信長は武田氏を非常に憎んでいたので
このような態度に出たと思われる。
『信長公記』は、勝頼の首を信長に見せた人物として関 可兵衛・桑原 介六
を挙げている。
翌日、飯田において大雨の降るなか勝頼父子の首が晒され、
見物人でひしめきあったという。
↑から信長の武田家への相当な憎しみを感じたんだよね。
敵の首をそこまで辱めをしないのが礼儀。
ましてや大将首や地位のあるものの首は丁重に扱って、敵国に返したりもしたから。
猛牛って秋山信友でしょ?
あれは勝長の人質がらみではないかなぁ?
叔母の遠山夫人も逆さ張り付けだし。
叔母にいたっては、なんで乗っ取られる前に落ち延びさせなかったんだ!!って
怒って逆さ磔にしたっぽいし。
織田掃部助が粛正されたのも、結局勝長の事もあると思うし。
>>776 常山紀談って湯浅常山が1700年代に書いた歴史物語でしょ?
779 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:29:39
ソース マンガ・信長の野望・大河糞ドラマ。卒業! ↓
新ソース 偽書。^^
780 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:30:37
でも敵の総大将の首を晒し首にしたって珍しくないか?
謀反人などとは違うのだから。
781 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:32:58
信長公記だと丁重に扱ったって記述されてたはず
782 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 23:47:28
信長公記だとこうある
「信長公は長谷川宗仁に命じ、武田勝頼・武田信勝・武田信豊・仁科盛信の
四人の首を京へ運んで獄門にかけるよう申し付けた。
これにより首は京へと上っていった。」
特別首に対して侮辱を与えたこともないようだけど、獄門にしろと命令しているから
丁重には扱ってないと思う。いくら敵国の当主たちとはいえ、大名クラスに
することじゃないよ。これではまるで罪人扱い。
甲斐の人たちの気持ちをかなり逆撫でしたと思うよ。
武田家をそこまで侮蔑したということは、信長が松姫と縁談をする気は
まったくなかったとういことでもあると思う。
松姫にしてみたって、信長も信忠も憎い敵以外の何ものでもないだろうに。
敵将の晒し首って普通だと思ってた。
あれって源平の頃までなのか?
「十四日、平谷を打ち越え、なみあひに御陣取り、爰にて、武田四郎父子の頸、
関与兵衛・桑原介六、もたせ参り、御目に懸けら候。
則ち、矢部善七郎に、仰せつけられ、飯田へ持たせ遣はさる。
十五日午の刻より雨つよく降り、其の日、飯田に御陣を懸けさせられ、
四郎父子の頸、飯田に懸けおかれ、上下見物候。」
「武田四郎、同太郎、武田典厩、仁科五郎四人の首、長谷川宗仁に仰せつけられ、
京都へ上せ、獄門に懸けらるべきの由候て、御上京候なり。」
首に関しての記述はこれだけかな?
獄門は晒し首の事だから、京都で晒し首にしなさいってことだね。
光秀が信長の遺体を探しまわったのは
その首を晒してその死を広く知らしめる為だった訳で、
それが出来なかったから、信長生存説が蔓延する事となる。
そういう意味では、首を晒して死を確定させるのは別におかしな事じゃない。
だから、晒し首=侮蔑とも言い切れないとも思う。
786 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:04:40
獄門に掛けるというのは憎いどうのというより力を示すためじゃないのかな。
鎌倉時代から続く武家の名門であり家を滅ぼし、その当主や血縁者の首を
罪人同様に晒し首にするということは力を示す最適なPR方法
勝頼は名門社家の血筋でもあるから宗教界へも力を示すことになる。
あと、本当に憎かったら妙心寺の僧になんて首は渡さずに朽ちるに
任せたと思うけどね。
787 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:06:13
領地争いの国取りの戦いは負けても敵将をさらし首にしないのが普通。
その後そこの領地を納めることを考えたら、当主や一族を丁重に
葬ったり、扱う方が統治もしやすいし、武家の礼儀作法として
敵の首は大変丁重に扱うということになっていた。
でも逆賊や謀反、君主への反逆行為などの場合は、罪人扱いだから
どんなに身分が高くてもさらし首にされただろうね。
ちなみに浅井親子の首を髑髏金箔にして酒の肴に宴をしたというのは
後年脚色されただけ。実際は浅井親子の首を前に勝利の宴をしただけらしい。
信長にしてみたら裏切り者だけど、↑の定義とは違うからそこまで浅井親子を
侮辱することはしなかっただろうし、実際やってないし。
獄門というと、酷いイメージあるけど、江戸以降の獄門刑と
それ以前の獄門は意味が違うからなぁ
789 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:13:49
>>785 >>死を確定させるのは
これは首実検で構わない。有力者に確かめさせ確定させる方法が主流だったし、
さらし首にしたところで、変貌していく首を「信長だ」と人々が確定できる
わけもないし。首実検をする首を取れなかったことが光秀の失態だったな。
首があれば信長死亡確定=下克上容認で天下人へ
首がない(信長がもし生きていたら?)=たんなる謀反人、主君への反逆は天下の大罪
790 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:14:21
確か信長は武田討伐の時に朝廷に攻めていいかの伺いを立てて
なかったっけ?その時にもうそれってこじつけだろと思うような
ことまで並べまくって説得というか恫喝というかをしてたような。
791 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:22:01
>>785 仮に信長の首をとっても光秀はそれをさらすような真似はしなかったと思う。
それこそ信長の家臣を敵に回すようなことになるから。
792 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:27:48
>>790 他国を攻めるにはそれなりの大義名分が必用だからね。
武田の時は一番の大義名分はなんだったんだろう?
美濃の時は「遺言書」と「舅の仇うち」と立派な大義名分があったけど。
793 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 00:48:14
>>792 同盟国の家康の領土を蹂躙しただけでも
十分攻める口実になる
そんな事も分からんのか?
795 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 01:34:19
質問なんですが、
1546年に道三の娘が土岐頼純に嫁いでますよね?
この娘は濃姫なんでしょうか?
どこかで濃姫は後家だという説を目にしたのですが…
1546年だと濃姫は数えで12歳だし、普通に考えると10〜11歳か。
まだ初潮が始まっていなかったとすると、輿入れは考えにくいかな?
相手がまだ幼少で、信康と徳姫みたいな感じならあるだろうけど
土岐頼純はその当時23歳かな?
言継卿記を見ても、濃姫の姉妹は結構な人数いたみたいだし
濃姫とは思いにくいかな?
797 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 08:37:52
でも土岐頼純は斉藤道三の娘と結婚後1年足らずで謎の死を遂げている。
道三による毒殺説が有力で、輿入れいしていても不思議ではないかな。
その輿入れだって土岐氏を完全に追いやる総仕上げみたいなもんだったから、
最初から正式な婚姻関係を結ぶ気なんてなかったろうし、
もしかしたら濃姫が幼いので夫婦の契りもないままに婚家に戻ったという
可能性もあるかな。そうなると若いのに後家として嫁いだことになるな。
道三に娘が一杯いたみたいなのに、濃姫に限定されるのは
単純に濃姫が有名だってだけで、実は濃姫に結びつく文献は
ないのだよね。
799 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 09:35:54
しかし道三のえげつさなは半端じゃないな。
息子にあんな殺され方をしたのも天罰だったとしか言いようがない。
800 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 09:39:42
>>792 世を乱すいわば逆賊というのが一番の大義名分といわれる。
その根拠としてあげられたうちの大半は勝頼には
全く関係ないことでこじつけや内政干渉みたいなもんが
多かったらしい。
801 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 09:50:57
>>792 高天神城攻めは直接的には家康―武田勝頼間の攻防で、
信長は本来第3者。でも信長が家康にあてた直筆の書簡に
遠州高天神城の戦局について、
「一層油断なく手配をする、詳細は追って使者を通じて指示する」
と書いてある。つまり対武田攻略構想の一環として虎視眈々と
チャンスを狙っていたということがわかる。
美濃攻めのような織田家にとっての大義名分ほど正当性はないから
なんとか攻め込む口実をもうけようと必死だったようだ。
勝頼親子の首をさらしたのは、自分の威光を天下に知らしめるためたかった
だけだろう。甲斐はそれほど強敵で大国だったからな。
802 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 10:41:05
父は主君殺し、兄に殺される。
兄は弟たちと父親を殺した。
夫も弟を殺し、敵対する叔父たちを殺した。
夫と兄や甥は敵対し、何度か戦をし、
結果的に夫によって実家が滅ぼされた。
濃姫っていろんな意味ですごい…
ここまですごい身内に囲まれたお姫様って他にいるかな?
803 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 11:40:45
>>802 すごいのは夫だけ(w
でも、叔父は一人も殺してないけどね。
804 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 11:58:43
叔父は追放しただけだよね。
ところで信忠の正室の件に戻るけど、正室はいずれ皇女あたりからでも
もらうつもりだったのかもよ。
西国をおさえたら、天下統一の証として
今度は天皇家との姻戚関係を持とうとしたと思う。
いずれにしろ、敗戦国の姫を正室として迎えるということは
しなかっただろうな。
でも松姫も信忠が亡くなってから間もなく出家してるんだよね。
彼女の気持ちの上では信忠の妻であったということだったのだろうか?
805 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 12:06:43
松姫ってけなげでかわいそうだなぁ。。。
関係ないがお市、浅井3姉妹、濃姫、松姫はかなりの美女であって欲しいな。
山田花子みたいな顔してたらそれぞれがああいう展開にはならなかったとも思えるが。
806 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 12:12:32
そうそう、旭姫がピン子でお市は夏目雅子でなければいけない。
濃姫は今回の大河の和久井映見はけっこうよかったと思った。
寂しげで憂いのある表情がそそられた。
お市の大地真央の「おねぇ様」にはものすごい違和感があったが、
完璧な美形だったので許す。
807 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 12:28:08
そもそも結婚当初は濃姫と信長だと両家の力関係からすると
圧倒的に斉藤家の方が上だったはず。
濃姫も「この私がなんで織田家の主筋でもない家柄の嫡男で、しかも
うつけという評判の男と結婚しなければならないの?納得いかない!」と
いう思いで嫁に来たのかも。
でも不本意ながらすでに後家であったとしたら、その待遇も納得いくんだけど。
808 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 12:35:23
>>774 松姫の場合、自主的に行こうとしていたというより
呼ばれたから行こうとしていた感の方が強いんじゃないかな。
「信忠の許に送らんと尾張国に至る」だから。
上の方にも書いてあったけど、結局これが信長は全く関与していない
信忠の独断なのか、何か考えることがあって信長も一枚噛んでいたのかに
よって、こういう経緯に至ることになった裏事情や信長の武田に対する
見方が実際はどうだったのか等がかなり変わってくるよ。
敵を滅ぼしました。そこの統治を始めましたなんてすんなりいくのは
ゲーム上のことだけであって、実際はそんな簡単には運ばない。
まずは戦後処理の第一段階処罰、第二段階で禁制発布と一揆対策諸々のために
土豪等との折衝があって次に第三段階で残党達の雇用等が普通。
(織田の場合は、第二段階から第三段階あたりで本能寺が勃発してしまったから
どうしても残党狩りの部分ばかりが目立ってしまっているんだけどね。)
だが、本能寺後の森や毛利、河尻のやられっぷりを見れば他の人も言っていたけど
甲信の戦後処理はこれらがすんなり運んでいた訳ではないのはよくわかるから
やはりこれらをすんなり運ばすためには武田の血は必要だったと思われ。
領国経営というのは力でねじ伏せればいいというものでは決してないから。
これ以外だと上杉対策や北條絡みあたりも絡めることができるわけだし。
809 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 12:46:59
>>808 そこまで武田の血をひく姫との縁組にこだわるなら
勝頼の子女をもらったのでは?確か姫もいた。
それと松姫一人の威力では甲斐の統治は無理。
信玄の子であっても松姫は正当な後継者ではない。
夫であると仮定した場合信忠はしょせん織田家の嫡男にすぎない。
信長の場合は遺言書があったので濃姫の婿である
信長は道三によって後継者と認められていたから、
信長自身が正当な後継者だと言い張れたという最大の強みがあった。
信長が美濃の統治を成功に導いたのは、道三の家臣を上手く見方に
つけられたことが大きかった。つまり信長の力量のなせるわざ。
濃姫はあくまで美濃攻略のきっかけの盾になっただけ。
810 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 13:08:03
>>809 確かに信長の場合は斉藤家の姫なら誰でもよかったわけではなく、
濃姫でなければ意味がなかったわけだ。
美濃3人衆は龍龍を見限って信長に仕え、織田家内でも活躍してたし、
結果的に信長は内部から斉藤家を切り崩していったことにもなる。
811 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 13:15:44
>>809 上4行はとても史板レベルとは思えない発想…
戦国や三戦でももう少しまともなレスがつくだろうて
ここ何年か、織田家の姫スレや松姫スレを眺めてて
いつも思ってたんだけど、
天正十年に信忠に逢うために松姫が上洛・・・という逸話は
その使いの人物一名の、その子孫による記載なんだよね?
我が家の先祖はこんな事をしました・・という種類の。
なんだか物語じみた逸話だし
他にそれを匂わせるような文書も見当たらないので
あまり信用してないのだけれど、
自分と同じような考えの人っているかな?
・・・濃姫スレから逸脱してしまって申し訳ないけど。
>>812 自分としては、半分信じてて、半分信じていない感じかな?
信忠に会う為という逸話が中途半端なんだよね。
わざわざひねり出すにしては、華やかさに欠けるし
人物としても微妙。
信忠は確かに信長の息子なんだけど、それほど目立つという感じの
人物ではないし、松姫だってそうだしね。
だから、そのような事があったから残ったのかな?と考える方が
ある意味納得はいくんだけどね。
ただ、他に論証できるものがないからなぁ
814 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 14:27:41
>>811 そうか?そもそも女には一切の相続権はない
わけで、女系の血がどうのこうのという発想は当時はない。
でもどうしても信長が武田と縁戚になりたかったというなら、
武田家の姫を信長が養女にするという手の方が手っ取り早い。
わけありの松姫をその後に及んで信忠の正室になんていう方が
はるかに不自然だろうに。
それに嫡流に信玄の娘をもらったら、信玄マンセーの残党が
その子を甲斐の正当な後継者だと担ぎ出し、信長に反旗を翻す
可能性もでてくる。どの角度から考察してもありえない話だよ。
>>812 だってその通り後年の創作話。
武功夜話同様の類で、信憑性がまったくない。
松姫のことも主に「甲陽軍鑑」にかいてある事の多くが後年伝わっているけど
この「甲陽軍鑑」自体が怪しい。天才軍師の山本勘助は存在していないのは
歴史的に明らかな事実だから(モデルとなった人物はいたけど)、その山本勘助が
大活躍している「甲陽軍鑑」の信憑性なんて推して知るべし。
濃姫が死んだの、離縁されたのと後年伝わったのは主に武功夜話のせいだから
こういう子孫のお家自慢系の歴史書もどきは本当に迷惑な話だよ。
相続権なんてあまり関係ないんじゃないの?
相続するものが既にないんだから。
武田の親戚になりたいというのとも違うな。
武田をおさえる為に、戦の時はともかく、その後の領国支配や
国人支配に関しては武力だけでは無理というのがある訳で、
信忠と松姫だったら、元々そういう婚姻か婚約か知らんが
関係があるので、あからさますぎない訳だ。
そういう意味では、武田方の心情的に微妙な位置にいる人間からすれば
それは充分後押しになる訳さ。
叛旗を翻す恐れというが、それもどうしてそういう発想になるか
ちょっとわからないな。
支配地の中で、甲斐信濃地域をおさめるのに、その子をあてるというのは
別におかしくはないな。
織田家の支配地の中の、一地方の支配という意味になる訳だからな。
仮に松姫を正室に据える気がなかったとしても、
信長、信忠が生きていたら塩川女が正室になったなんて可能性は
全くないんだから、そんなに松姫を顔真っ赤にして否定するなよ。
たまたま三法師が、秀吉に利用されて嫡男扱いになったから
塩川女も光があたっただけなんだからさ。
そうじゃなかったら、いずれ皇女なり公家の姫なりが正室に来てた
可能性の方が高いさ。
仮に松姫だったとしても、塩川女と比べたら松姫が正室になってただろうし。
塩川女を正室にしたいみたいだけど、それこそ塩川の末裔ですか?wって
からかわれるだけになるぞ。
817 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 14:59:36
>>815 だから戦国期の正室の定義づけとして松姫と信忠との縁組はありえないと
言っているの。松姫を側室として迎え、その間に出来た男子を甲斐国主にするとか
なんとか口約束をして、甲斐国内を統治しやすくするというなら利用価値はあるけど、
正室にこだわっているから矛盾してくるんだよ。
それに織田家の所領は甲斐だけではないわけで、その他の奪い取った所領の
統治はどうやって解決していくの?松姫がいるからだからどうした?という
国はたくさんありますよ。
818 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:08:08
>>816 そんなことはじめから思ってませんよ。塩川氏が正室なら
三法師が信忠の嫡男として信孝なんかの出る幕もなく当主が決定しただろうからね。
もめたということは、三法師が側室腹であったため。
松姫マンセーの人たちも出張してまで自論を展開するなら、
もっと武田家、織田家の資料等にきちんと目を通しましょう。
「甲陽軍鑑」一本で松姫マンセーを繰り返すのは愚行というものです。
じゃ、濃姫がいるからどうしたの?も一緒だなw
>>813 松姫が信忠に逢うために八王子から出発した・・・
この話に疑問を呈すると、
「その事に関わった人物が実際いるのに、何故疑う?」
というレスが帰ってきて戸惑ったことがある。
戦国〜江戸期の武家の家譜には検証すべきことも多いだろうに。
821 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:14:21
縁起をかつぐ武家にとって、一度破談となった縁組を復活することは
ありえないと思うが?ましてや自分の義兄や甥をさらし首にした敵の
大将の元に幸せいっぱい会いにいけるか?つか、あわよくば結婚しようなんて
思うかな?
まぁ、疑うべき事が多いのは事実だよね。
信忠生母も本当は生駒女なのかどうかも含めて。
勢州軍記に「嫡子信忠卿生駒ノ息女之腹也」とか
「次男信雄モ亦生駒ノ息女之腹也」なんて記述があればよかったんだが
信雄の家系がらみじゃないところに残っている文献で
信忠が生駒女の腹だと証明できるものはなく、
信雄の家系がらみで飲み残っていると考えるとなぁ。
信房が勝長の名前のままなのも、結局信雄絡みな気もするし。
あと、松姫に関していうと、八王子から出発したという文献は
ないから。
家譜などに残っているのは、尾張にいったら本能寺があったから
大久保長安に預けましたってやつだけだ。
823 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:21:06
>>819 濃姫と松姫とではまったく状況が異なりますから。
婚姻関係は対等な同盟という形で結ばれ、正室としてきちんと輿入れしてるので
松姫とは立場が違う。
繰り返しますが、
>>信長の場合は遺言書があったので濃姫の婿であり
>>信長は道三によって後継者と認められていたから、
>>信長自身が正当な後継者だと言い張れたという最大の強みがあった。
>>信長が美濃の統治を成功に導いたのは、道三の家臣を上手く見方に
>>つけられたことが大きかった。つまり信長の力量のなせるわざ。
>>濃姫はあくまで美濃攻略のきっかけの盾になっただけ。
濃姫のおかげで美濃の統治がすんなりいったとでも言いたいのですか?
824 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:24:33
は?
甲斐以外の支配地があるんだから松姫じゃなくてもいいっていうのは
美濃以外の支配地もあるんだから正室が濃姫じゃなくてもいいじゃんって
ことになるだろって意味じゃないか。
826 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:30:02
>>820 >>「その事に関わった人物が実際いるのに、何故疑う?」
というレスが帰ってきて戸惑ったことがある。
戸惑うな。
そんなこと言われたら、「その人物が実際かかわったとと証明できるのか?」
と言っておけ。元ネタは下嶋政茂の子孫に伝わる怪しげな家伝書なんだろう
から信憑性0の自画自賛物語だよ。
無理矢理濃姫スレに話題をもどす。
濃姫が後家だった説は、どうして土岐頼純の婚姻を濃姫限定にする向きがあるんだろうなぁ?
いまだに、道三の娘って濃姫しかいなかったんだから濃姫限定でいいんだって
いう人もいるんだが、言継卿記以外で、明らかに濃姫に姉妹がいるって
分かる文献ってないんだっけ?
言継卿記に出てくる姉妹の数教えたら、大抵驚かれるんだよね。
よく歴史系の読み物みたいな豆知識本っぽいのには、道三一人娘の濃姫って
記述が出てきたりするんだけど、それでそういう認識が広がってるのかな?
>>826 いい加減にしろよ。
感情的になり過ぎだ。
829 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:34:36
>>825 >>823をよく読んでね。
濃姫がいなくても信長は立派にどこの所領も統治したでしょうよ。
「美濃攻めの大義名分」のために濃姫の存在は必要不可欠だっただけ。
統治は濃姫の存在はほとんど関係なく行われたでしょうね。
>>819と
>>825は根本的な戦国時代の常識をもっと勉強した方がいいね。
元当主の姫が国の統治にかかわれるほど甘い時代じゃないよ。
830 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:38:15
正妻の役目を征服した国の統治のためだけだと思い込む大馬鹿多し。
>>829 だから、こっちはそれを分かってて君を揶揄しているの。
832 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:41:55
>>831 ここは濃姫スレで松姫スレはスレチだよ。
833 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:42:56
>>831 何がかわっているのか教えて欲しい。まったく理解していないようだけど?
834 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 15:45:34
だから〜、濃姫スレの話題にせっかく戻したのに
感情的になってる
>>833も煽ってる
>>831も消えろよ
で、土岐頼純に嫁いだ道三の娘について
濃姫だと推定できる史料とか、
誰か別の娘と推定できる史料はないのかな?
単純に濃姫だけ有名で、道三に娘が他にもいるという事が
知られていないから濃姫だといわれているという事でいいのかな?
斎藤家と織田家の格の違いで、後家が嫁いだという解釈をしている人も
いるようだけど、当時の道三の状況からすると、
尾張において一番武力的に突出していた信秀と結びつく事は
道三から見ても有益だった筈なので、それはどうかと自分は思うのだが?
838 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 16:14:50
濃姫と縁談した頃の織田家は織田大和守家当主の織田信友がいて、その下に
信長信秀らがいて、三奉行の信秀はそのひとりに過ぎなかったわけで、
支配権は拡大している時だったけど、織田家の総当主というのでもなかった。
信秀と道三は戦いを繰り返していたので、その和睦と同盟の条件で二人の婚姻が
決まったから、道三的には信秀を敵にまわしたくない人物であったことには
間違いないだろう。もっともこの二人の縁談を助言し、まとめたのは
信長の守役の平手で、織田家からの申し出だったそうだから、道三としては
渡りに舟で承諾したと思う。
839 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 16:20:36
>>837 確か道三の娘との婚姻後、土岐頼純をどっかの城に招いたら
頼純が急死したんだよな。もちろん毒殺説が有力。
主筋にあたる頼純に正室の子だった濃姫を嫁に差し出してもおかしくはないな。
濃姫の年齢が数えで12歳だった事から考えて
微妙だなとは思う。
>>796にも書かれているが、幼い子供同士の婚約と
それに付随する同居という形でない場合、
女性が嫁ぐのは初潮を迎えてからが当時は一般的。
その際年齢はあまり関係ない。
濃姫が初潮を迎えていれば可能性はあるが、
迎えていなければ可能性として低いと思える。
濃姫が土岐頼純に嫁いだという説は横山住雄が言ってたと思う。
だが、濃姫が嫁いだという事が分かる文献はなく推測の域を出ない。
しかし、余談だが「一人娘 濃姫」でググったら、まぁ、出るわ出るわ。
世の中では道三の娘は濃姫だけと思っている人間が意外と多いらしい。
何か盛り上がっているから来てみた通りすがりだが
ざっと読んだ感じ、松姫話で少し気になったのがあったから書いておく。
松姫が信忠の元に行こうとしていたという話の出所は『寛政重修諸家譜』
第十八巻の下嶋の政茂のところ
「武田信玄及び勝頼に仕へ、勝頼没落の後政茂信玄の女を携て織田信忠が
許に送らんと尾張國に至る。 信忠害にあふてのち東照宮かの女をもつて
大久保長安にあづけらる。政茂これに属して長安が許にいたり彼家に
ありて死す。法名蓮心。」
そして正室に関しては第八巻の織田家家譜内の「信忠」の所にある
室は武田大膳大夫晴信入道信玄女という記述
他にも武田関連含めてあるけどそれは完全にスレチだから
もし続きをやりたいなら戦国板の信忠⇔松姫vs家康スレか
勝長スレあたりにでも行くといいよ。
以上、スレチ話で失礼した。
なんで勝長スレなんだよw
戦国板の勝長、濃姫スレにいた人たちがここに来てるんだよね。
845 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:07:22
「寛政重修諸家譜」が18世紀末から19世紀初頭にかけて編集されたものだから
書いてあることを史実とするには難しいところがある。
行くあてのない松姫を信玄遺児として織田家が面倒をみるつもりで
信長が信忠に松姫の処遇を任せたのかも。
甲斐の象徴である信玄の姫を織田家が大切に扱かえば、
甲斐をはじめ諸国へ織田家の好印象をアピールできる。
846 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:09:31
続群書類従所収『余吾庄合戦覚書』より
爰ニ濃州岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ、故信長公ノ次男ニテ渡ラセ給ヒシカ
トモ、故有テ三男ニソ立給ケル。其所以如何ト尋ヌルニ、故三位信忠卿ハ、
信長公ノ妾腹ニ生レサセ給ヘト、御台所ノ御腹ニ御子ナカリシ故ニ、御養子
ト成給ヒ、御世嗣ニ定リ給ヘリ。御実母ハ生駒氏ノ女ナリ。其後、永禄元年
同月二十余日隔テヽ、若宮二人誕生シ給ヘリ。是三七信孝。次ハ中将信雄卿
也。然レハ、信雄卿ハ三男タルヘキヲ、信忠卿ノ同母タル故ヲ以テ、人皆是
ヲ尊敬シテ、早速信長公ヘ披露ニ及ケル。故ニ次男ニ定リ給ヒ、人(ママ。
又カ)信孝之母ハ、人々サノミ賞翫セス。遅ク申上ケルニ依テ、三男トコソ
ハ定マリ給ヒケル。信孝ノ母ハ、坂氏ノ女ニシテ、熱田ノ神司岡本カ家ニテ
ソ生レ給ヒケル。此故ニ、信孝ト信雄ノ御中、常々不快ノ色見ヱケレハ、
(下略)
内容からして別に信雄家や生駒家関係の文献ではない。
お決まりの「信憑性は?」というヤツが必ずいるだろうから先に言ってお
が、信憑性は自分でその資料に当たって判断するものですヨ。
戦国板って、三戦板?
>>847 それを元にすると、信雄が生まれた時には既に信忠は濃姫の養子になって
嫡男に決められていたという事になるな。
「余吾庄合戦覚書」って「余吾物語」ってヤツだよな
850 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:35:40
信忠は産まれてすぐ正室の養子になって嫡男に決まったと
>>847 持ってきたやつが信憑性を示せよ。
あと
○言っておくが
×言っておが
○史料
×資料
要するに、生駒女にまた生まれた〜信長公にご報告じゃ〜
ってなもんですぐに披露された、坂氏は身分が低いから
後回しにされて報告が遅くなっちゃったよ〜んって
話しな訳ね。
「人皆是ヲ尊敬シテ」の人がどんな人かによるけどね。
生駒女の御取り巻きだったら、嫡男の生母ぞ!!ってことで
大いに持ち上げていただろうし、そりゃお家の一大事だわな。
坂氏の方はやっぱり神司の家で生まれているという
勢州軍記の記述と一致するし、やっぱりかなり身分の低い
岡本家の侍女みたいな立場だったんじゃね?
坂氏が熱田に縁があって、家があってそこで生まれているなら
通い婚があった時代、そこそこの身分とも思えるけど、
家もなく、岡本家に世話になっているって感じじゃね?
となると、よくもまぁ、信孝はあそこまで出世できたもんだ。
武将としてすぐれてたんだなぁ。
いや、信雄がぼんくらだっただけか。
>>845 織田と武田を名流武門の血筋から見た場合、
誰が考えても武田家のほうが由緒もあり伝統もある。
江戸時代は信玄が脚光を浴びた時代でもあるし
甲州流軍学の隆盛などもあるから、
実婚がなくても一時の婚約は事実だし、それを踏まえて
過去の当主の正妻に武田の姫の名を配するのは箔付けになる。
そういう作為が系図提出時にあっても不思議は無いと思う。
・・・って、スレ違いでしたね、842、ごめん。
855 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:49:51
信孝は同時代人の評価も高いから実際有能なんだろうな。
最期がちょっとアレだけど、逆に有能だからこそ
秀吉に殺されたともいえるわけで。
856 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:51:59
覚え書といっても言継卿記みたいなリアルタイムでの出来事を書きとめているわけではない
じゃん。信孝が岐阜の城主になったのは本能寺の変後、信忠の死後なんだから、
それ以降に作られたというのは明らか。
それに信忠のことも後年事実上嫡男扱いになったから、覚え書の中で
そう書かれているだけともとれる。
>>851のように即断できるだけの内容ではないな。
どっちみち、
信孝と信雄が仲が悪かった理由は結局そういうこと?
858 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:56:59
次男、三男がそんなに重要視する問題かどうかがそもそも疑問。
長男以外は長男の家来、長男の後継ぎはその子供、という嫡流の
伝統があったわけだから、どうでもいいような問題だと思うが?
現に清洲会議で三男とされている信孝が次男を退けて当主候補に
あげられてるし、長男以外の順番はどうでもいいような気がする。
859 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:57:57
>>857 清洲会議で次男の自分を差し置いて信孝が当主に推薦されたから。
860 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:00:24
>>847 武功夜話同じ偽書のにおいがぷんぷんする。
内容もほぼ一緒のことが書いてあるし、こっちがオリジナルかな。
847の文は次男であることに意義を見出してる気配があるけど
862 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:08:47
長男以外は扱いは年功序列だから次男、三男でもこだわりたかったのかも。
でも信長は次男も三男も区別なしのようだったが。
でも嫡男が生駒氏の息子だと明記されていながら、生駒氏の死後の
扱いはちょっと冷淡じゃないか?織田家の菩提寺にも入ってないし
側室の中でも特別いい待遇であったという記述はない。
武功夜話は除外するけど。
863 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:11:23
徳川家なんて将軍ご生母になると商人の娘でも冠位までもらえるのに。
もちろん代替わりしてからだけど。
864 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:16:31
>>854 明らかな織田家の偽造だ。武田家にばれないと思って
やってしまったのだろうか?
865 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:22:58
信忠が吉乃の子で濃姫が養子にして嫡男扱いで育てたということには不自然さは
ないしまったく構わないな。子供のいない正室ならいくらでも例のあること。
ただ養子にした時期が問題だな。
産まれてすぐということが証明されるような資料はない。
後年子作りをあきらめて信忠を養子にしたのであれば、
勝長濃姫実子説はやはり深読みしすぎという結論になると思う。
個人的には信忠の養子の時期は松姫との婚約の時期あたりではないかと思ってる。
濃姫もさすがに年齢的に無理があるし、正式に織田家嫡男となった信忠でなければ
武田家に失礼にあたると思うから。(この婚約は織田家からの申し出なので)
866 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:24:16
>>859 それだと不仲になったのは清洲会議以降ってこと?
>>847を見る限りそれ以前からすでに不仲だったと取れるけど。
867 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:26:40
>>865 でも信忠の元服は弟二人と一緒なんだよな。
これだけで断定はできないが嫡男の元服にしては
なにか扱いが軽い感じがする。
>>865 かなり同意だが、養子になった=嫡男になったではない場合もあるから
とりあえず養子になって嫡男候補になったって感じでは?
そして武田との縁組みの辺りで正式に嫡男になったと。
で、その翌年に勝長が生まれてたら、洒落にならないタイミングだことw
ところで、
>>847の文献は信孝の事を書いているが
信孝に対しての記述がいささかぞんざいだね。
「岐阜ノ城主織田信孝ト申スハ」とか。
たてている文章だったら「岐阜ノ城主織田信孝ト申サレルハ」とかに
なる筈だよね。
>>867 元服が一緒っていうのはどうかな?
奇妙の署名が元亀2年くらいまであるし、
一緒っていうのが創作臭いよね。
通説のように清洲会議において三法師(秀信)の織田家継承が決まった後も、
旧織田家中(特に信雄・信孝兄弟)の反発が強くて、結局、秀吉も三法師が
成長するまでの名代として信雄の織田家督を認めていると思われる文書が存
在するんだよね。
天正10年11月1日付石川数正宛羽柴秀吉書状(真田文書)
「此上者惟五郎左衛門尉・池田勝三郎我等申談、三介殿を御代ニ相立、…」
天正10年12月21日付秀吉・丹羽長秀・池田恒興連署状(小里家譜所収文書)
「今度三介様御家督之儀、…」
その後の秀吉と信雄の対立以降、ここらへんがうやむやになった様な気は
するんだけど。
871 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:39:36
やはり信忠の嫡男は美濃国守になって初めて確定したのではないか?
それまでは嫡男に一番近い存在であって、長男としての厚遇だけであったとか。
信長は2才で古屋城主になるなど、明らかに嫡男としての待遇を受けてたけど
信忠は嫡男のアピールは非常に弱い気がするんだよね。
>>866 だって二人とも10才ぐらいで養子にだされてしまって、その後仲が悪く
なるほど接触もなく本能寺の変をむかえたんだから。
872 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:44:28
>>871 養子に入って以降も何度も同陣してるけど?
同い年だし競争意識を持ったとしてもなんら不思議はない。
それに
>>847の「此故ニ、信孝ト信雄ノ御中、常々不快ノ色見ヱケレハ、」
を素直に読めばこの史料においては本能寺以前から不仲だったと読める。
873 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:47:12
濃姫は信長亡き後は信雄の元に身を寄せてるから、秀吉も信雄をぞんざいにでき
なかったのかも。濃姫は「織田信雄分限帳」よると「安土殿」という名前で
600貫文の知行を与えられている。(今なら年収約6,000万円だって!)
信長生母と思われる女性の知行も与えていて、そんな理由からも
それなりに厚遇せざるを得なかったのでは?
874 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:50:07
>>872 しかし二人の不仲を伝えるのはこの資料だけで他にはない。
この資料も本能寺の変後に書かれているのは明らかで、
本能寺の変以前この資料に関する記述に信憑性があるとは言い切れない。
875 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:52:10
>>872 >>同い年だし競争意識を持ったとしてもなんら不思議はない。
これは自分の価値観だけの憶測でしょ?
仲がよくないという根拠は何?
同い年だって仲が悪いばかりとは限らないでしょうに。
確か信長が信忠と信雄、信孝の3人呼んで協力して頑張れみたいな事言ってなかったっけ?
877 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:57:08
>>874 >>875 この史料を見た限りではそう読める、って何回も言ってるだろ。
俺の主観抜きにしてみても本能寺以前から不仲って書いてあるし、
信憑性云々にしても信雄と信孝が本能寺以前から不仲と捏造
する意味、動機を持つ人物がいるのか?
878 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:59:01
信孝が信雄に対抗心をもつことは考えられるけど、逆はないだろう?
だって公に次男の立場だし、信忠と同じ母の子ということで信孝は敵じゃないっしょ。
むしろ信雄は信忠に対抗心のベクトルがむくのでは?
超えられない壁だけど、同じ側室腹で一才違いの兄。
自分は他家に養子にだされたのに、兄は織田家の嫡男(確定)。
879 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:01:54
>>877 だからこの資料が作成されたのが本能寺の変の後だから
資料自体の信憑性がないと言っているの。
少なくとも本能寺以前から不仲であるという記述を信じるに値する
他の資料が見つかっていないので、私は鵜呑みにはしないと言っているの。
この資料のことだけの読解のことを言ってないよ。
>>876 むしろ仲が悪かったからそういうことを言ったのでは?
仲が良かったらわざわざ言わないでしょ。
881 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:04:46
>>879 なんで本能寺の変後だから信憑性がなくなるの?
確かに鵜呑みにするのは危険だが、本能寺以前から不仲とする
説を積極的に否定する理由もないと思うが。
882 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:05:59
>>881 本能寺の変後に都合のいいように編集している可能性があるから
883 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:09:03
>>881 もし信孝サイドの圧力があるような資料だったら、信孝の次男説を
正当化し、信雄は三男だ、信孝の方が兄である、と信孝織田家当主の正当性を
強調する資料になるから、安易に信じるのは危険、ということでは?
884 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:12:30
>>883 信孝を「織田信孝ト申スハ」、信雄を「信雄卿」と呼んでいることからして
信孝サイドから圧力があった史料には思えないが。
885 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:15:17
>>881 後年作成の資料は過去を作り変えている可能性が高いからな。
その最たる例が武功夜話だよ。
886 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:18:20
>>884 全体を見てないからわからないけど、信雄よりの資料なら
「信孝は作り事を言ってまで自分が次男であると言いふらし、いつも
信雄に喧嘩をふっか、敵意むきだしで・・・」というニュアンスを
伝えたかったとか?
信雄は全然相手にしてなかったのに。
>>886 そうじゃなくて、真実は分からないからともかく、
この文献においては
「信孝の生母は身分が低かったから後回しなんだ
信雄卿の生母は嫡男様の生母だから尊敬されてたんだ
後回しにされた事で信孝ときたら信雄に張り合おうとして
仲が悪かったんだ」
って事じゃないかな?
>>878 子供の頃は信孝は母親の身分も低いし、信雄からしたら見下せる存在だったろうけど
成長するうちに周りの評価が自分より信孝の方が上って事になってたら
信雄だって心穏やかではないんじゃないか。
889 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:51:50
>>888 それならやはり信忠死後に信雄と信孝の確執が始ったと考えられないか?
信長生前にそんな兄弟間の確執がおこることはあり得ないな。
信長の怒りをかいそうだし、あのまま織田家が安泰だったら次男でも三男でも
最終的な扱いはほとんど差がなかったはずだし。
890 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 20:55:33
次男、三男の問題は真実はともかく、信長がそれでいいと決めたことだろ?
信長が生きていた時にそのことで仲違いしていたら信長にたてつくことに
なる。もちろん、それまで心の中では葛藤があったかもしれんが、
信雄が三法師の後見人になったあたりから仲の悪さが表面化した
んじゃないか?
信忠が生きてたら二人はその下でバランスは取れたのかもしれないけどね。
892 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:10:20
二人が不仲になってもらわなければならなかったんだよ。
結果的に信孝は織田家の正統な当主に刃向かった逆賊。
秀吉よりの信雄に敵対する人物にしておき、秀吉が
信孝を自害においやったことへの後世の言い訳にしたんだな。
893 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:11:12
>>892 では実際は二人はそんなに仲が悪くなかったということ?
894 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:28:06
>>893 信長生前に二人の仲が悪かったという資料はいまだに見つかってないよ。
嫡男をもりたてるのがそれ以外の兄弟の仕事なのに、兄弟間で争うなんて
愚行が信長に知れたら領地召し上げぐらいの怒りをかうだろう。
そりゃ信長が生きてる頃に派手な大喧嘩はしてないだろうけど
仲があまり良くないのに付け込まれた部分もありそうじゃない。
896 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:45:24
>>895状況が変わればそれまで仲の良い兄弟だって敵味方になるもんさ。
淀殿とお江与なんていい例だ。
897 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 21:47:13
まぁ考え方が違うようだし、平行線にしかならないみたいだからいいか
899 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 22:00:49
濃姫後家説が気になる。
本当なら織田家も前夫が舅に毒殺されている姫をもらうか?
それも、後の話しとはいえ信長と道三の対面まであった訳だしな
901 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 22:12:38
伊達家の愛姫は12歳で輿入れしてるし、千姫は6歳!で輿入れ!!
状況次第で12歳の濃姫が嫁いでもあり得ない話ではないと思う。
濃姫の姉に姉小路頼綱正室になった娘がいたらしいけど、
他に誰かいたの?
信忠を城主にするのが遅かったって言ってる人居るけどさ
嫡男云々というより、単に一緒に暮らしたかっただけじゃないかと
守役も置かないで自分で英才教育してたんだし
人情的には、戦国大名といえども普通の親子と一緒っすよ
子供が高校生ぐらいの年までは一緒に暮らしたいって
信雄、信孝より元服遅かったとか
嫡男予定なのに何?って今の感覚からすると思うけど
例えが小姓になってしまうんだけど、元服すると大人としての仕事が入ってきて
一緒に居られなくなるから、お気に入りの小姓の元服遅らせるとか良くあったじゃん
最初から嫡男と決まってなかったとしても
信雄、信孝を養子に出した時点で、嫡男最右翼だったわけで
その信忠の元服を遅らす理由なんか、親ばか以外考えにくいね
信長は2歳の頃から名古屋城主っていうけど
城主になったら結構な頻度で城に行かないといけないわけで
信長本人は「小さい頃から自分だけ家族と一緒に居られなかった」程度にしか
思って無さそうな気がする
903 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 22:37:11
信忠の室は塩川氏を否定された方、あの織田系図は法華寺にあったもので、
寛政譜よりは古く疑問もあるかと思いますが否定されるのはどうかと思います。
秀信の母がイコール塩川氏であるかは安易すぎませんかね?
武家事記には近江で亡くなったとあります。そうすればあの坂本の墓は?
ってことになります。
秀信が嫡男かどうかということですが長谷川丹波守の画像賛に三法師を岐阜から
清須に移した功ありとあるので、ないがしろにされてた子ではないと感じますが。
>>903 武田家⇒塩川家とは…
信長は嫡男嫁の家格をえらく下げたもんだなw
とレスしといてなんだけど、信忠の室関係は戦国板か三戦板か
史板でやりたいなら新しいスレを立ててそっちでやった方がいいと思うぞ。
塩川氏が信忠の室っていうのは誰も否定してないだろ。
正室じゃなく側室だろうというだけで。
なんだか両サイドで意地張ってるようだけど、
塩川氏は信忠の寝所に侍る女性の中でも子を産んだので
名が伝わっているし、「信忠の子の母」ということで
奥向きでそれなりの扱われ方をした存在だったのではなかろうか。
こういう普通の理屈で済む事なのになー。
ログみたら
>>669から塩川氏の話が始まってるんだな。
で、
>>906は塩川氏が信忠の正室だったと思う?
908 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 23:39:03
違うな自称塩川氏の子孫がいるからだよ。
某大学の学長。
909 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 23:49:34
関係ないけど、東大史学教授の斎藤某さん(故人)は
濃姫の弟と言われる斎藤新五の子孫にあたるそうです。
某図書館長も母方が馬場の子孫と自ら言っております・・・。
910 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 00:07:01
塩爺も塩川氏の子孫らしい。
911 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 00:18:54
池田が家譜の中で一歩間違えば家の汚点になりかねない秀次室は
載せていても、汚点にならないはずの元助後室(塩川家女で三法師母の妹)は
載せてないあたりから、どうも塩川の扱いって結局その程度だった
ような気がするんだよな。子孫の方には申し訳ないんだけど。
池田家って信長や濃姫と近しい関係の家だけど
何か史料残ってないのかな。
手紙とか日記とか。
>>907 906だけど、変に絡むね。心外だな。
正室とは考えていないよ。
子を産んだ側室(というか侍妾)という意味合いで書いたんだけど
そうとれなかったのかな?
914 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 06:32:09
911さん秀次室はその頃別居していて今出川晴季女が正室のように収まって
たので堂々と家譜に書けるでしょう。
902さん2歳の頃から名古屋城主?
信長が那古野城主になるのは実際にはもっと後ですよ。
915 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 08:31:33
911が言いたいのはそういうことではないと思われ
916 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 08:43:55
>>902 信長が那古野城主になったのは5歳の時ときいた。名目上譲られたのは
2才の時かもしれないが、どっちにしても信長が嫡男だという内外への意思表示
ということだと思う。
それと親と一緒に暮らすのなんのというのは現代人の一般家庭の発想。
今上帝は3才で親と離され専属の養育係と乳母に育てられたということを
考えても、当時は地位の高い家柄の嫡男は親と離して教育するのが
当たり前だったから、親の方も手元に置いておきたいとか、
自分が教育したいとかという発想はなかったと思う。
武家のしきたりは厳しく守られていた時代だし。
ただこれは嫡男に限りのことなので、そのへんで信忠の対応が
一般的な武家の当主の嫡男としての対応と異なるので
嫡男と認定されたのは信長などのように幼少期ではなく
それこそ美濃をもらった19才あたりだったのでは?という
説がでてきた根拠。
当時の慣習を考えたらそう憶測されても仕方がないし、
いくら側室腹だとはいえ三法師がすんなり織田家嫡流の当主と
認められなかったのはそのへんのことがあるからでは?
とも推察されるんだ。
家系図は個人的見解だけど、けっこうその家に都合のいいように改ざんされて
いる可能性大。家に不名誉なことをしたものは削除されていたりするそうだし
幕府が編集した家系図は家々から提出された家系図をまとめただけだから
真偽を一々追求したり、詮索したりもしないし。
特に女性の場合は正式な家系図には「女」としか書かれておらず、その「女」を
誰かと特定するには、別の資料と照らし合わせて推定するだけ。
濃姫をはじめ戦国女性たちの名前すら特定できないのは仕方がないんだよ。
塩川女を信忠の室じゃないと思っている人はいないと思うのさ。
ただ、正室だと言っている人が1人いて、それ以外の人は
側室だろと言っているという状況で、それに松姫が絡んじゃった
ってだけで、松姫ヲタとかって話しよりも、格の違いの話しだけじゃないかなぁ?
昨日色々文献とか調べたんだけど、塩川女を「信忠公御台」とか
「信忠正室」とか書いてる文献は見つけれなかった。
「室」と書いているものはあったが、側室という意味の室と
とらえるべきだよなと思うものばかりだったな。
単純に正室が立ってなかったから、子供を産んでいる身分のはっきりした
室が塩川女ってだけっぽい感じだね。
918 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:08:30
結局信忠に正室がいなかったので、三法師の母親だった側室が正室
扱いされただけで、厳密には側室だったと思う。
武功夜話の吉乃みたいな感覚と思えばいいのでは?
三法師も長男にすぎなかったけど、信忠が早死にし
実質的な嫡男となったにすぎないだけ。
長男≠嫡男だし。
吉乃同様嫡男を産んで正室がいない場合でも、だからといって
嫡男生母の側室が正室に繰り上げられるようなことは絶対ない。
塩川氏が産んだとされるならそれでいいのでは?
たいした問題ではないよ。
正室扱いされたというのも微妙だけどね。
大奥でいうところの「お腹様」辺りの扱いじゃね?
920 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:23:25
信長は天下を手中におさめたら信忠の正室に皇女でも迎えるつもりだったのかな?
織田家嫡男に見合う相手はそれぐらいしかいなくなる。
921 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:25:12
>>919 そうだね。実際の吉乃もそんな扱いだったみたいだし。
>>920 信長が皇室を倒そうとしていたって説もあるけど
やっぱり信長は天皇に対して敬意を払ってるのは見て取れるしね。
まぁ、利用していた面ももちろんあるんだが、利用するのはその価値を
分かっているからする訳だしね。
そういう意味では、利用価値もある、そして敬意を持てる相手でもある
そんな感情が複雑に絡み合ってたとするなら、信忠の正室候補は
皇女だったかもしれないね。
ただ、天下をおさめるというのが信長にとってどのタイミングだったのかなぁとは思う。
あまり遅過ぎても、正室貰うタイミングがね。
26歳で正室がいないというのはあまりにも遅過ぎる。
いくら側室がいて庶子はいたにせよだ。
923 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:41:23
もしかしたら九州・四国平定をするにあたって、抵抗勢力になりそうで、
他の九州・四国の諸大名に影響のありそうな大名の姫を信忠にもらうことを
想定していたかも。
お市も当時の女性の平均結婚年齢よりかなり遅れて浅井に嫁がせてるし、
信忠の正室はさらに価値ある交渉手段になるので、最後まで出し惜しみしてたとも
考えられないか?
924 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:47:18
>>923四国の長宗我部とか、九州の島津あたりか?
あの時代の婚姻は政略目的が普通だから
年齢はあまり関係ないとはいえ、
嫡男の場合、更にその次の嫡孫というか跡取りの
問題が出てくるから、あまり出し惜しみするのも
どうかという気もするんだよね。
特に信忠の場合は、家督を譲ってから以降は
戦面で任せていたようなところもあって、
戦の最中に不慮の事故みたいな事が全くないとはいえない訳だ。
まぁ、そんな戦いになる事はまずないとはいえ、
今川義元の首を取ったのは、織田軍だっていう事から
信長だって皆無とはいえない事は分かってる筈だし。
信長自身、子供を作るのはあの時代にしては遅いけど、
だからと言って正室がいなかった訳じゃないしね。
もし信忠に何かあった場合、信長が生きていたとして、
じゃぁ、そのまま三法師に……ってことになるかと言えば疑問だろ?
でも、信雄は武将としては信長からはそう信頼されていなかったようだし
信孝は生母の身分の低さと信雄の自尊心との兼ね合いで
やはり無理ってことになる。
秀勝は身体弱いし、勝長は武田の人質だし(戻ってきたあとは考慮に
入ってたかもしれないが)。
926 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 09:58:11
三役ですらきちんと返事をしていない信長が、皇女を息子の嫁にとわざわざ
既存の権力機構にのこのこ自ら入り込もうという考えには違和感
織田家嫡男に見合う相手なら公家や皇室じゃなくても佐竹や毛利で十分。
それとここの人は西日本にばかり目が行く傾向があるけど
手づかずの東方方面には目は向かないのか?
個人的には、信長が長篠以降いくらでも武田を叩ける戦力があった時でも
徳川に任せてさほど積極的に武田潰しにいっていないのが気になるかな。
勝長の事を気にしていたのかどうかよく分からないけど、
勝長が帰って来たあとあっという間に平らげている。
もちろん、そういう状態だから勝頼の和睦の意図の為帰って来た訳だけど、
なんだか、信長が、待って待って、結局しびれを切らすまで勝頼の方が
折れる事が出来なかったって印象が拭えない。
もしも待っている時だったら、和睦の証としてかつての婚約復活みたいに
考えている側面があったのかもしれないと思ったりもする。
東方方面は、一応建前的に徳川に任せているというのがあったからねぇ
929 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:06:27
佐竹や毛利以外にも上杉、最上、南部がいるな…。
930 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:11:48
>>928 その割には関東に対して何にもしてないね。
武田討伐後も駿河しか与えられていないし。
931 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:17:37
>>927 まだそんな妄想してるの?いいかげんにしなよ、松姫信仰は。スレチだし。
>>931 何でも松姫に結びつけて噛み付くなよ、お前も。
その噛み付き具合がスレチなんだよ。
実際、長篠以降武田討伐に間が空いているのは事実だし
色々考えられるだろう。
自分も、長篠以降の武田への戦略は、少し不思議に思っていた。
933 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:26:21
>>925 でも浅井長政がお市を娶った時は22〜23才。お市との縁談がなければ
もっと遅くなった可能性もある。長政にはすでに側室に男子(万福丸?)がいたという
ことだし、信忠の年で正室がいなくてもそんなに異例のことではないのでは?
とりあえず男子をもうけたということもあったろうし。
足利義昭みたいに将軍になっても生涯正室をもたなかったものもいるしな。
934 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:27:18
>>932 ここは濃姫のスレ。あなたも立派なスレチ。
935 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:28:45
なんかまた武田軍がきてるけど、濃姫に関係ない書き込みなら相応しい
スレに行ってやってくれませんか?荒れるし迷惑なんだよね。
>>931 信長の戦略とそれに付随する信忠正室の話ししているだけで、
いきなり松姫信仰の話しに持っていかれるのは想定外wwww
個人的には長篠以降、戦力が整わなかったから武田討伐に
時間がかかったっていうだけにしてはちょっと手が緩い気がする。
勝長の事もあったかもしれないとは思う。
岩村を取り返したのは陥落後3年ですませているしなぁ。
要所だったからっていうのはもちろんあるだろうが、秋山信友と遠山夫人
織田掃部助のその後を考えると、怒りに任せてって感じもする。
ただ、信長は自分が先頭に立って戦をする事もあるけど、決して武一辺倒ではなく
情報戦だったり、外交だったりも重視する武将であったりもする訳ですよね。
長篠そのものも、武田の殲滅という感じではなく、高天神城をきっかけとした戦を
おさめる為に、うまい具合に兵を引いてくれたらと思っていた感じもする。
ところが勝頼は武田での立場もあって武に偏った戦法をとってきたため
あんな結果になったという気もします。
だから、その後も外交で武田を取り込めるならそれに越した事はないと思っていた
節も感じなくもありません。
やはり長篠以降7年は長いですからね。
937 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:40:17
>>936 だからこのスレのどこに濃姫関連の書き込みがあるの?
スレチだって認識ないような常識知らずが何をかいても説得力ないよ。
武田スレに書けばいいじゃん。
あなたみたいのがいるから松姫のこともどんどん誤解されていくんだよ。
938 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:42:31
>>936 むきになるなって、鋭いところをつかれたからってさ。
書いてあることも妄想や自分の感想ばかりだね。
>>933 お市が正室になる前に、長政には他の正室がいたからな。
万福丸はその正室の子供と考えられる。
お市は、たまたま長政が前の正室を離縁していたから
正室におさまった訳だ。
>>936 勝長が濃姫の実子だったら、そりゃ少しは手を緩めるかもな。
ただ、濃姫の実子じゃなくても、信長は身内に甘いからな。
実際問題、信長存命中に元服した男子でここまで生母が分からないというのは
何か不思議な感じがする。
前にも書いたが、信房ではなく勝長のままなのと、子供も勝良で「勝」を
付けられている事を見ると、信長存命中の思惑と、信長、勝長死後の
思惑が違う気がするので、その「思惑」が一体なんなのかという事を
想像した場合、信雄よりもより正嫡になり得る立場だったからか?という
想像が出てくるのはある意味当然かと思うんだ。
940 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:46:42
>>939 前正室を離縁したのは家督にからむ家臣団のごたごたから。お市の婚姻より
ずっと前でお市とは関係ないよ。
941 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:46:57
なんだかんだ言っても武田家は鎌倉時代から続く武家の名門だからね〜。
所詮成り上がりくんから見れば欲しかった血だろうね。
しかも嫁に出すのではなく貰えることになっていたのだから
武家として箔をつけるためにもそりゃ拘るだろうよ。
942 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:52:53
>>なんだかんだ言っても武田家は鎌倉時代から続く武家の名門だからね〜。
松姫マンセーの最大の根拠は↑
943 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 10:55:47
もういいかげん武田系の書き込みは遠慮してもらいたい。
荒れる一方だし、すごい迷惑。
信忠の話題になるとどこからともなく押し寄せてすき放題のことを
書いていくけど、専用のスレたてればいいじゃない?
>>937,938
ここに妄想や感想が全くない書き込みなんてないんだから
そう向きになって否定するなよ。
勝手に松姫信仰って勘違いしておいて、感情的になるから昨日も消えろっていわれたんだろ?
昨日からずっと食って掛かってるやついるけど、
そういう指摘じゃなく濃姫スレに誘導できるようなレス付けたらどうだ?
>>936 武田討伐は武田家そのものが源氏の血を引く名門という意味合いから
徹底的に潰すよりは、利用するという方向へ行くのが妥当という気はする。
勝長の事はどの程度関係あるかは分からないが、秋山夫妻や掃部助の事を
考えると、秋山夫妻はともかく、掃部助に関していうと、直接関係あるか
分からないからなぁ。
濃姫実子説は世間ではほとんど知られていない、ここくらいの話題だが、
近江國輿地志に限らず、「御台」「正室」「本妻」「北の方」と書かれる
信長の妻が、濃姫以外じゃぁいたのか?という話しになると、
誰も答えられない程度に濃姫しか文献的な裏付けもない。
地誌に載っている記事の信憑性というのもあるが、もし実子がいた場合、
夭折したと考えるのが妥当としても、年代的には勝長というのはあり得そうだしな。
勝長の生前と死後の扱いの差を見てもなんらかのしがらみみたいなものが
あったと感じるし、勝長が濃姫実子説があり得るとしたら、いくら人質に
されて生存絶望視みたいな事になっても、生きてるとなったら気にすると思う。
松姫関係なく名門だったというのは事実
あいにく名門であるが故に降るということができずに
滅びの道を歩むことになってしまった感もあるのは皮肉だが。
>>940 ん? 関係ない離婚で正室いなかったからお市が正室になったんだろ?
お市が正室になるから追い出した訳じゃないんだし。
長政がお市を正室にしたのも年齢的に遅いという話題だから、
正室そのものはそれ以前の年齢に持っていた実績があるという意味。
947 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 11:07:33
>>943 というか他のスレ住民だけど正直このスレ自体がウザイ。
戦国時代専用板があるのだからそっちでやれよ。
大体、信長の武田討伐の遅延理由が一つに限定される分けないだろ。
名門の血を利用したかったって理由もあるだろうし、
それは松姫に限らず、信長養女の子供である信勝経由っていうもくろみもあっただろうし、
武力を完璧に整えてからにしたいって理由もあるだろうし、
他にも戦を抱えてたって理由もあるだろうし、
勝長の事だってあるかもしれん。
濃姫の実子だったかもしれないとなると、本当の意味で嫡男だったかもしれない
ってことになるんだから、いきなり攻めて殺されたら困るって意識は働くだろう。
濃姫実子じゃなくても、多少の考慮はするだろう。
身内を殺した敵に対しての信長の苛烈さは、史実の通りだし。
色々理由があって、勝頼が降る事を期待して外交をしかけて駄目だったら
そりゃ潰す時は徹底的に!!ってことになるだろうし。
何でこうなる前に降らなかったんだっていう思いもあっただろうなって
思わせる程度には、時間がかかってるってことだな。
一向宗とみたいに、常に戦い合ってた訳じゃないんだからな。
しかし、濃姫実子だった場合と、そうじゃなかった場合、どの程度遅延の理由になるだろうな?
信忠がいる訳だから、嫡男は安泰としても、濃姫実子だった場合は
信忠以降の織田家っていうものの構想にも入ってくるだろうし。
もう少し信憑性のある文献に御台の出産でも載ってればよかったのにと思うな。
ただ、原典が成菩提院文書だったりしたら、かなり信憑性は高くなるんだろうが。
おそらく、近江國輿地志の御台出産に注目した人物は、
それほど過去にいたと思えないし、ここに最初に書き込んだ人間は
井上力の著書でみたと言っているが、実際はそれ以前もっと史学者として
トンデモ説を言っていない人物ではいなかったんじゃないか?
だったら、成菩提院文書そのものも、そこを調べている人間がいると思えないから
まだ研究の余地ありだな。
あの言継卿記の壷事件にしても、あれだけはっきり斎藤家の信長本妻とあっても、
ず〜っと濃姫の事と認識されていなかったくらいだしな。
949 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 11:44:08
だ・か・ら
このスレ自体ウザイから戦国か三戦に行けって言ってんの!
あっちはID制だから書きにくいのかもしれないけどさ。
951 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 12:07:11
>>949 だったらお前がこのスレに来なきゃ済む話だろ。
952 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 12:34:39
自分はage進行になっているのは気になるがウザクはない。
だが、史板どうのと言うのならせめて2万5千石スレぐらいの
視野と考察レベルは欲しいかな。
ってsage忘れた。すまん。
954 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 12:49:43
>>952 >2万5千石スレぐらいの視野と考察レベルは欲しいかな。
確かに。池田の召抱えや信玄は養子ねじ込み作戦ありか?の
視点はなかなかと思ってたけど、そういう第三者の部分や
広い視野がなぜかここにはあまりないのはちょっとね…。
955 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 14:33:20
>>947 うざいならスルーすれば?うざいと言いながら書き込みまでして馬鹿みたいw
956 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 14:43:54
>>944 >>感情的になるから昨日も消えろっていわれたんだろ?
こういう発言をするから妄想だと言われるんですよ。
>>937だけど(
>>938は私ではない)、昨日は書き込みなどしてませんから。
完全なあなたの妄想ですね?
957 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 14:45:21
958 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 14:47:20
そろそろ次のスレを誰かたててくれ。
荒れるしくどくどうざいから、武田マンセーや松姫マンセーは排除しとけ。
959 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 14:54:59
信玄が生きていた頃は武田と上杉が手を結ぶことを信長は一番心配していたから
信玄との姻戚関係を結びたがっていただろうけど、信玄亡き後はさほど脅威では
なくなっているし、ましてや事実上武田家を滅ぼし、甲斐を手中におさめたら
松姫との縁談なんてまったく意味ないじゃん。
京にさらし首になった大将の一族の娘なんて正室にもらうのは家の恥だね。
信忠との恋路のこともあんな資料を拡大解釈してもっともらしく信じてるけど
あの手の話は江戸時代の人形浄瑠璃あたりで歪曲されて伝わったもの。
アホくさく読んでらんね。
960 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 14:59:16
信忠と松姫
吉宗と竹姫
どこか共通するこのカップル
一族にとってやっかいものの姫と押し付けられそうになって逃げ切った男
961 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 15:09:29
>>960 竹姫は義理とはいえ大叔母にあたるので、正室を亡くした吉宗が後室に
と希望したけど反対されてだめだったというけど?その後縁吉宗が
ごりおしして、固辞する島津家になんとか承服させ、男子が生まれても
後継ぎにはしないという条件のもとに嫁いだが、同居の実態も
あまりない形ばかりの夫婦だったと、「トホホ」でやってた。
武田の統治のために松姫が必要だったって本気で信じてるやつがいて笑った。
そもそも勝頼は諏訪氏出身だったために信玄の時ほど
忠誠を誓う武将もなく、武田の譜代や一門衆の支持が得られなかった。
勝頼の代になってからは内部崩壊が著しく、家臣の掌握も下手だった
ために信長にあっさり落とされたんだよ。
すでに甲斐国内は反武田氏の雰囲気になっていて、信長をてこずらせるような抵抗もなく
統治されていったというのに。
その割にはでかい一揆が起きてますな
毛利なんて信長が死んだと知るや恐怖のあまりか
さっさか城から逃亡してますがな。普段から一揆の恐怖に怯えてたのでしょな。
勝頼が嫌われていたから離散したというのも眉唾話ですな
あの時代、強い方に着くのが習いですからな
高遠領民みたいな例もあるんで、本当に武田が嫌われつつあったと
いうのも怪しいでんな
>>963 勝頼は諏訪家を相続していたため、家督は勝頼の長男の武田信勝とし、
勝頼は信勝が16歳になるまでの後見人にすぎなかった。
正統な当主ではないから当主のようにも振舞えず、譜代の家臣からは
よそ者扱いされた。相次ぐ信長への寝返りもあって、
家臣掌握に失敗して、すでに家臣団は内部崩壊してた。
『国内の掌握は武田氏自体が甲斐の絶対君主などではなく、
国人領主の盟主という不安定な基盤に立っていた。事実、勝頼の父信玄も
国人領主の支持を集めることにより信虎を追放し、武田氏の家督を継いだ。
また、勝頼の長兄義信は国人領主の支持を集めることができずに廃嫡され、
自害に追い込まれている。
信玄は信濃を支配下に置く時も信濃の国人領主を極力味方に引き入れ、
武田氏と利益を共有する「利益集団」的な体制を組んでいる。
武田氏の勢いが良い時には固い結束があっても、いったん綻びが見え、
利益の共有が危うくなると雪崩をうって崩壊してしまった』
↑と、Wikiにもある通り、信玄の代から甲斐の基盤は不安定だったということ。
そこへ度重なる戦と、家臣団からも慕われない当主後見者にすぎない勝頼が
信玄の意向を無視するようなことばかり独断でしていったので、
国人領主達からの支持を得られず、信長への寝返りに加速がついていった。
そうなれば当然武田家崩壊は必然であり、国人領主たちには
武田家より安定した権力者をむしろ歓迎したものも少なくなかった。
一揆なんてどこの国でも戦国時代でなくてもおきてるよ。
つまり武田氏は甲斐国の絶対君主ではなかったということは、
なおさら信玄の血筋を引く松姫が甲斐の掌握には必用だったという
松姫マンセーの主張がたわごとだということだな。
濃姫の事話したい住人からしたら
松姫マニアもアンチ松姫もうざいの。
昨日からの流れで、アンチ松姫みたいなやつの
このスレをバカにしたような書き込みも
あまり気分のいいもんじゃない。
信忠の事や武田の事を信長や濃姫絡みの延長で書き込む分には
そういう流れに話しが行く事もあるからさ
まだ分かるんだけど、すぐに松姫オタだのなんだの言い出して
荒れたような書き込みするのは、本当に迷惑なんだよ。
本当に濃姫スレだと思ってるんだったら、
濃姫の話題を絡めて軌道修正すればいいんで、
それをしないで叩いている人間は単に松姫オタを
叩きたいだけなんじゃないかって思える訳。
>>948 成菩提院文書の研究しているものは
明治大学の福田栄次郎の「『成菩提院文書』の総合的研究」って
論文を読んだ事があるが、天台宗の談義所関係の話しばかりで
当然近江國輿地志の御台出産のところに関係ある事は出ていなかった。
それ以外の人物で調べているのはみた事がない。
成田山仏教図書館にもない文献だから、気になる。
一般人じゃ見せてもらえないだろうしなぁ。
967 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 16:03:27
>952>954
とりあえず、ここにそこと同じレベルを求めるのは
酷というものだからそのあたりは許してやれ。所詮は姫スレ、多くを求めちゃいかんよ。
斎藤と織田と生駒と浅井と羽柴と徳川だけで戦国時代が回っていれば
それでいいんだよ。ここはなw
>>967 つか、ここはスレ通り濃姫スレだから、それに見合った書き込みが
されていればいいわけ。それ以外の書き込みはどんなに高尚なことでも
スレチだから、書かないでね。
上げてるやつとMail欄に全角でsageって入れてるやつ
どっかへ消えてくれない?
近江國輿地志の成菩提院の記述って出典明記されていないけど
あのボリューム的には、周辺住民からの聞き取りだけじゃないな。
序文みたいなところに、各寺社があまり協力的ではなかったので
編纂に苦労したというような事が書かれていたが、
成菩提院は協力したのかな?
他の寺社の文章に比べれば、かなり量が多いから、協力したように
思えるのだが。
成菩提院そのものが最澄が開祖の談義所だから、伝統がある訳だし
公的な地誌に載せたい記事はもっとあったと思うんだが、
徳川幕府に関係が深い部分をピックアップしたにしても、
御台出産をピックアップした意図が分からないんだよな。
大体、談義所としては5本の指に入るといわれていた訳だし、
常宿だった事だけを誇るという事もおかしなもので、実際その箇所の
記述はそれだけを誇っている訳ではないのだが、それを考えると
不思議な気はするんだよな。
書像を誇る為にしても、御台出産と書いた理由がな。
やはり、成菩提院文書を調べてみたいな。
というかこのスレにあるレスの半分近くは
お濃とは関係ないことばかりだな。
吉乃の戒名や武功叩き、信雄や信孝、長政とお市、三法師のことなど
何でそんなことをここで論じるのかと思ったよ。
そんなだからこうやっていろいろ書き込まれてしまうんだろ。
それもこれもオナヌースレだから仕方ないべ
で、
>>971 間に合っているから他をあたってくれ
来ても相手にしないか50城バカ同様に弄ぶだけだから
いずれここに戻ってくると思うよ。
ところで次スレはどうする? 戦国板の濃姫スレ使う?
>>972 近江・・地誌の成立時期や編纂意図を理解せずに、
「濃姫は子を産んでいるんだよ、ちゃんとした文献に書いてある!」
という書き込みが減ってきたのは喜ばしいことだと思う。
このスレの誰かが成菩提院にいって何か聞ければいいのだけど
まず、あの地域の郷土史研究の方とか教育委員会の人と
知り合いになるのが先かも。
お寺の歴史を探れば、もっと色々興味深いことがでてくるのかもね。
近江はそんなところだ。
>>976 >「濃姫は子を産んでいるんだよ、ちゃんとした文献に書いてある!」
なんて書き込みあったか?
このスレでそんな書き込み見た覚えはないんだが?
まぁ、官製地誌だからちゃんとした文献には違いないがな。
近江國輿地志を実際に読めば分かる事だが、
その地方の文献を多数出典にして編纂してあるので、おもしろい。
安土城の記録なども安土日記が出典だから、自分は安土日記を
手にする機会がないため、かなりラッキーだった。
他にも色々な地誌系は読んだ事があるが、これはそれらに比べると、
伝説や逸話の類いが少なめでもあるな。
出典重視という感じだろうか?
だからこそ、出典先を直接あたってみたいという気にさせられる。
スレが伸びてると思ったら武田マンセーとアンチ武田の争いかよw
>>973 吉乃の戒名→戒名で生前の故人の身分や人柄がわかる
吉乃の戒名は濃姫などより格下扱いで出家していたことが判明したので
吉乃正室説がないという根拠の大切な情報だった。
武功叩き→あからさまな武功夜話たたきは論外だが、武功夜話の信憑性のなさの
証明は吉乃の記述を例にだすと非常にわかりやすい。
吉乃の箇所だけでも嘘だらけだから、当然それ以外の濃姫関連のことも
嘘だろうということになった。
あとの話題は関係ないことなのに炎上してしまったのは非常に迷惑だった。
冷静に書き込んでくれればためになる情報もあったのに残念。
>>976 別に減ってないと思うよ。信じるだけの根拠となる資料であると思う。
この話題は濃姫マニアの間ですでに出尽くして、今さらのことなんだよね。
>>977 確かに「近江國輿地志」は面白いと思う。御台出産の箇所は後半の
仏像と柿木のところが信仰心を煽ぐために伝説っぽく作られたような気がする。
むしろ、あっさりと「出産があった」と書いてある箇所の信憑性が
高いと思った。高貴な身分の女性の出産を、仏の信仰心を煽るために
利用したのでは?と思ってるんだよね。
出産があって、ちょっとしたボヤがあって、それだけ事実に
仏像や柿木の逸話を結びつけるように書き残したとは考えられないか?
この高貴な女性が本当に信長の御台所だったのかどうかはやはり疑心暗鬼であるが、
実際信長が濃姫を京に伴っているのは明らかで、信長の常宿にも
なっていたのだから、あり得ない話ではないと思っているけど。
>>979 濃には全く関係ないことに変わりはないだろ>>吉乃の戒名等
きついこというようだけどそういうことを書くから
三戦行けとかレベルが低いとかオナヌースレだと指摘されて
しまうんじゃないのかなと。史料と資料の違いとかもね。
濃姫スレでは
濃姫に関するわけわからん妄想>>>>>>>>>>>>濃姫に全く関係ない素晴らしく高尚な考察
982 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 18:40:03
濃姫といえば、真偽の程はともかくとして明智光秀との従兄妹関係が
あるという説がありますよね。
四国の長曾我部元親の後妻が美濃斎藤氏の出身、斎藤利三の妹だというのが
有力ですよね。
斎藤利三の母って濃姫生母の小見の方の妹でしたっけ?
そうすると、元親後妻とも従姉妹だったんでしょうかね?
>>980 関係はあるんじゃないか?
吉乃が正室扱いになって濃姫は帰されたか死んだかとされていた訳だから
吉乃の戒名と、濃姫かもしれない養華院殿の戒名を検証する事で
充分繋がっている。
>>980はこのスレ自体が気に入らないようだが、だったら覗かなければいいだけ。
つーかどこ行くかとっとと決めようよ
このまま使いきると多分次スレ乱立して板に迷惑かかるよ
史料って歴史の資料の事じゃないの?
新スレ立てにいったがホスト規制だった。
誰かスレ立てヨロ
今からスレたてにいくね。
ここの板にするから。
濃姫、生駒氏、
どちらにも偏らない検証ができる人の書き込みは
冷静だし理解しやすい。
自分は戦国女性全般が好きでここを覗いてるけど
時おり、生駒氏や塩川氏が挌落ちだのたいしたこと無いだの
(実家や奥向きの格があるのは充分承知)評価されてると、
時代を必死に生きた女であろうに気の毒と思う。
ちなみに、映像上、文章上で、信長の側から濃姫が消え
生駒氏が活躍するようになった頃、
なんでいっぺんにこうなったのだろう?と
濃姫がいないことに物足りない思いでいたことは自分にもある経験。
濃姫好きな人も気持ちも良くわかっている。
生駒女に対して、実在しなかったとか、側室でなかったというような意見はない訳で、
武功以降の吉乃が正室扱いになったとした事にこそ疑問を呈している訳だが、
そうなるとどうしても武功によって造られた吉乃像の破壊という方向になる。
吉乃像と生駒女像とは違う訳なのだが、混同されがち、また、きちんとレスの読めない人には
同じ事のように思われがちというのもあるかな?
リアルにおいては、学閥の問題もあって、武功以降吉乃像の破壊に繋がる史料などは
早計として無視されがちな現状もあるのも、かなり問題かとも思う。
>>988 それこそ武功夜話のせいなんだよね。物語として残虐非道な信長に
愛情細やかな面があって、生駒に癒され、母親のように信長を愛した・・・
というのが、一般人受けするので、小説やTVで濃姫の代わりに生駒氏が
信長の側にいる、という姿が主流となってしまったのだと思う。
濃姫は政略結婚だったし、子供がいなかったことから(これが一番の理由
だろうけど)情愛を通じ合った夫婦であったと考えなかったんだろうな。
自分も濃姫も生駒氏も松姫も淀君も好きだよ。
戦国の華だよね。
自分の産んだ子を正妻に取り上げられたり、五徳を産んで
すぐに亡くなったなんて、残して行った子供たち
にさぞかし心残りがあったろうな、なんて思うとかわいそう。
五徳を生んですぐに亡くなってはないぞ。
武功で五徳出産の産褥で病に臥せってた
それを信長が知らなかったとなっているから
かなり短期間の事と思われがちだが、
五徳出産から亡くなるまでは7年程の期間がある。
打差jy「
もういらねえよ
1000
ようするに後家であった生駒氏の娘は、信長の子供を産んだが
側室と主君という関係以上のものはなく、格別寵愛を受けた記録はない。
子供は推定3人(嫡男信忠を含む)ということだけは事実のようだ。
一方生駒氏の娘「吉乃」という存在自体が虚構であり、信長との
いろんなエピソードも全て創作。年代なども矛盾だらけで
吉乃という女性に完関する資料は全て虚偽であると言っていい。
武功夜話は生駒氏の信長側室の娘をモデルに後年その娘に吉乃という
名をつけ、創作エピソードを綴った歴史小説というレベルと思って
いればいいのでは?
山本勘助という人物をモデルに天才軍師山本勘助を登場さえ、
創作エピソードでしあげた「甲陽軍鑑」と同じ類のものだよ。
だれかスレたてて!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。