1 :
日本@名無史さん:
武田信玄(晴信)について語りましょう
2 :
信長:2006/09/18(月) 13:49:51
桔梗信玄餅
5 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 12:03:10
信玄堤
8 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 19:22:26
武田家の家督を継ぐ前の勝頼の名前って、諏訪四郎勝頼なのか?それとも伊那四郎勝頼なのか?
9 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 19:32:37
騎馬軍団の表現は正しくないが
騎兵率は高い。
10 :
OPS:2006/10/25(水) 19:38:30
武田家の騎馬軍団は騎馬隊で突撃するのではなく騎馬に乗った武将が歩兵を指揮する。
しかし長篠の戦では鉄砲で騎馬大将が早く撃たれたため潰走した。
11 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 21:30:01
馬の数は騎兵の三倍連れてたそうな。
騎兵率
北条>武田>毛利
13 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 15:46:29
なんか馬場信春150騎前後とか、高坂昌信700騎前後とか
こんな数字があって、それを考えて他家より騎兵の比率が高い=武田騎馬軍団
とかの文献考証辿ってる学説なんだろうけど、本当に馬に乗ってた
のかは疑問。純粋な直属の武者の数なのかもしれないし。
だいたい、甲信より南九州のほうが馬は多いと思うし。(杯ドーゾ)
戦国時代
関東>信濃>甲斐>南九州
江戸時代
下総>薩摩>信濃>関東、甲斐
15 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 12:25:41
信玄のAA置いときますね。
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ⌒ ⌒ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、( ●) (●) ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ::::⌒(__人__)⌒l~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |r┬-| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l ト、__ `ー' /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴
16 :
日本@名無史さん :2006/12/02(土) 12:28:29
芝辻氏大河関連本で商売繁盛
信玄と言えば、長野業正。
圧倒的有利な立場と軍事力で上回ってはずなんだが、
業正の存命中、生涯に渡って信玄軍を全戦全勝で退けたんだから圧巻だな
戦の神様 もっといろいろ話を聞きたかった武将の一人
18 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:07:40
実のこと言うと、俺のご先祖様は武田家の方に使えてた。 足軽の身分だけど・・・
そのせいか知らんが、武田家の家紋に俺ん家の家紋が似ている。
19 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 17:25:39
20 :
日本@名無史さん:2006/12/06(水) 21:00:59
上杉謙信と早めに手打ちして、今川を滅ぼしてればねえ。残念。
風林火山、たのしみですねー。
昔、三船敏郎がやってたよね〜。
21 :
日本@名無史さん:2006/12/07(木) 00:35:52
親を追放し、長男を自害させた男。戦国時代でもめずらしい。
22 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:19:52
風林火山ってどこの火山?
23 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:22:47
孫子の名句である疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵し掠めること火の如く、動かざること山の如しの事だな。
24 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 15:23:21
すばやきこと風の如し
静かなること林の如し
動かざること山の如し
火はなんだっけ
25 :
24:2006/12/30(土) 15:25:10
聞く前に答えが・・・。
26 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 16:01:24
侵掠(シンリャク)すること、火の如しだ
風は、はやきこと風の如しだ
いいかおまいら
風林火山が始まる前にせめて甲陽軍鑑くらいは読んでおけよ
28 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:29:46
>>8武田の屋形(家督)を嗣ぐのは信勝。勝頼は後見人に過ぎない。
29 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:32:03
>>28 それこそ講談の話で勝頼はちゃんと家督を継いでる
>>29 ちゃんとは継いでいない
もしきっちりとした継承が行われていたなら、何故主たる勝頼が家臣に『蔑ろに扱わない』等の起請文をださなければならなかったのか
これは勝頼の家督継承があくまで形式上のみの非常に不安定なものであった事を物語っている
31 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 18:02:36
謙信があと10年生きていても大して歴史は変らなかったろうが、
信玄はあと1年生きていたら、と誰もが思ってしまう。
まあ実際に信長と戦ってたらどうなったかは、誰にもわからんが。
32 :
29:2006/12/30(土) 18:07:34
>>30 悪い、「ちゃんと」ってのは特に意味はないつもりなんだが、誤解されたみたいだな。
28が講談そのままのことをいってるから勝頼が家督を継いだと言うことだけを指摘したつもりだったんだが。
33 :
30:2006/12/30(土) 18:18:56
>>31 いや、大いに変わってただろ。
織田軍が上杉軍に歯が立たない事は手取川合戦で証明されている。
その上、信玄が築いた『信長包囲網』をも継承している。
10年あれば織田を畿内から追い落とすには十分。
また上杉と徳川が親密な同盟関係にあった事も考慮すべき。
>>34 その手取川合戦があったことを証明しないと。
その上、包囲網が効果的に機能する条件とそれが可能かどうか考察しないと。
包囲網なんか結局、負け犬たちが寄り集まった烏合の衆だし連携も統率も取れるもんじゃない。
36 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:54:09
謙信が死ぬ直前、上杉の版図は越後、越中、加賀、能登、北飛騨、東越前、南出羽、北信州、上野に及んでおり、動員可能人数は十一万五千であった。
信長を蹴散らすなど、朝飯前
37 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:59:30
はい、それは妄想捏造の世界な!資料の信憑性がかなり低いの^^そんなばっかよ、実際
38 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 02:34:36
武田信玄…メロンWWWW
39 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 03:08:12
信玄があと10年生きていたら恐らく天下を取っていたかも知れんが、
その場合政治の中心はどこに置くのか?という話になる。
遠江を制圧するとすぐに浜松城に移った家康とは違い、
信玄は信濃を取っても、駿河を取っても甲府から動かなかった。
恐らくそこには「甲斐源氏の嫡流」という意識もあっただろう。
現に信玄は臨済宗の寺院を整備し、京都五山・鎌倉五山に習って、
「甲府五山」というのを定めている。
従ってもし信玄が天下を取っていたら甲府が江戸の、ひいては現在の東京の代りに
なっていた可能性が高いのだが・・・・
それはその後の日本の経済の発展にとっては良くないことなんではないか、
という気がする。
そう考えると最終的に天下を取ったのが徳川氏だったことは、良いことだったのかも知れん。
40 :
:日本@名無史さん :2007/01/07(日) 06:33:42
謙信も信玄も織田方に暗殺された臭いな。毒か毒矢とかで。
そのくらい信長にタイミングよく死んでる。
41 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 09:27:25
信玄は伝統を重んずる人っぽいから、その居所は甲府かせいぜいが京都しかありえない。
鎌倉もあまり地の利が良いとは言えない場所だが
甲府は最悪。山の中で海にも面していない。
仮に信玄が天下取ったとしても、
家康みたいに体制を整備する間はなかっただろうから、
足利幕府と大差ない不安定政権になっていただろう。
血統的にも、臨済禅の修行者であり仏教を積極的に保護した点でも、
やはり旧体制(というと言葉は悪いが)に近い。
そういう意味では信玄の西上作戦の失敗が、中世と近世とを分ける、と言えなくもない。
42 :
OPS:2007/01/07(日) 19:48:59
謙信が在世が手取り川の戦いから十年近く長かったら武田家との連携を深めて
武田家の滅亡を防げたのでは。
てす
44 :
日本@名無史さん:2007/01/13(土) 19:31:06
信玄は狙撃って話が本当にあるよ。
謙信は卒中なので普通に酒が原因だろう・・・馬上でも飲酒していたという。
全然仏教徒らしくないな
45 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 01:10:53
飲酒することなんて、
兵を率いて何千もの人を殺戮することに比べたら
全然大したことじゃないだろうw
47 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 02:09:05
早死にするって
48 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 16:40:02
謙信殿は、上野石倉城を攻め落とし、我が子晴信と、利根川を夾んで対陣したのでございます
「最後の別れに参った…」
「都に上るか?」
「……」
「都は遠いぞ……」
49 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 04:41:18
信玄時代の武田家臣に与える一字拝領の文字って晴信の「信」だったの?
「虎」じゃなかったっけ
「虎」は信虎じゃね?
信玄は「信」だと思われ。ひょっとしたら「昌」もそうかもしれんが、
多分違うだろう。
52 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 09:35:57
晴信の晴は、将軍義晴からのもらい字だな
53 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 09:52:33
足利氏親族の今川と、甲斐源氏嫡流の武田はどっちが家格は上かな?
幕府内では今川や斯波や細川にも及ばないだろうが、
内心では「俺の方が由緒ある家柄だよ」って思ってたかも
54 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 10:00:35
徳川幕府の滅亡後、親族筆頭の尾張大納言が政権をとった。
尾張家が驚異的な生殖力で親族を増やし、一族が繁栄した。
そこに従属していた水戸家は、
「ふん、おまいら威張っていても所詮は尾張の分家だろ。
俺の方が格上ですが何か?」
↑こんな感じかな?
55 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 11:12:56
訳わからん
落第!
56 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 11:26:42
信虎時代の重臣は「虎○」が多いけど、晴信時代は「信○」は一門くらいだ。
穴山信君とかは晴信の偏キというより、武田一門としての通字だろ。
「昌○」がやたらと多いところを見ると、「昌」が偏キの代用だったのか?
>>54 いや、水戸家というより大給松平くらいじゃね?
58 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 13:43:39
大給松平とかに比べられるのはむしろ今川とか細川のような、
尊氏以前の足利一族だろ。
その場合尾張に相当するのが鎌倉公方家。
まあそうは言っても足利時代の斯波や今川と、徳川時代の松平とでは
実際には重要度が全く違うが。
家康以前の松平と尊氏以前の清和源氏とが全く異なるのは、
尊氏の前の時代に実際に源氏が政権を持ったということ。
少なくとも実朝までの時代は、もちろん足利の方がレベルは上だろうが、
将軍家の分家という意味では足利と新田と武田は同格。
そういう意味で、恐らく武田自身は内心、
足利の分家よりは自分の方が本来は格上だと思っていたはずだ。
・・って何こんなこと熱心に話してるんだ俺はw
59 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 19:14:35
>>58 同意
一方で、今川氏の方は義家流(源家嫡流)+将軍家分家で、武田氏は義光流だから
自分達の方が格上だ思っていただろうな。
足利は源家断絶後の源氏嫡流。
今川は足利家の連枝。
武田は傍流の陰謀家、義光の子孫の内の一家。
格が違いすぎるだろう。
61 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 22:54:37
武田家は、頼朝に滅ぼされて、頼朝の言いなりになるドラ息子だけ
お情けで残された。
晴信の父、信虎までの武田は、甲斐の山猿並の弱小土豪
武田より小笠原の方が上じゃね?
63 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 01:56:41
小笠原は甲斐源氏の分家だろうが
64 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 02:27:47
65 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 03:03:24
センゴクを鵜呑みにする連中が多くて困る。
騎馬とは決定的な戦機に投入して戦果を拡大させる最強の兵科。
武田は足軽の壁でガードして外側から騎馬で弱いところを潰してくる。
対謙信戦ではそれ以上に上杉の騎馬隊が動いてくるので始末に負えなかったが
徳川辺りになるとあっさり包囲して潰してきた。
開票終了
そのまんま東 266,807 44.4% 淫行スキャンダル
川村秀三郎 195,124 32.5% ノーパンしゃぶしゃぶ接待名簿に登載
持永 哲志 120,825 20.1% 薬害エイズで有名なあの人の息子
上位3人がこれだぞ。ひどい選択肢の選挙だったよ。持永は昔から出て
3敗目、川村もこんなスキャンダル抱えてなんで勝てると思ったんだか。
推薦した議連の考えに理解に苦しむよ。
山梨でも占拠があったことを思い出してください。
民主党が推薦した現職(70過ぎ)を倒しましたぞよ。
67 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 03:20:13
68 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 03:29:01
甲斐って山梨だっけ?
69 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 03:44:51
武田は名門だが
今川と比較したら地侍もいいとこ。
両者にはそれぐらい差がある。
70 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 03:53:13
山梨だが、知事選の結果があんまり報道されないくらい地味だぞ。
田中康夫みたいなのでも困るがもっと知名度のあるやつが来て貰いたい。
71 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 09:09:13
甲府に首都機能をしいて、江戸が経済都市になるとかになれば、アメリカみたいで良いかも。
72 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 14:25:09
ワシントンDCみたいに甲府DC?
73 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:22:52
甲府DCマンセー !
ヤマナチヤマナチ !
74 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 21:26:26
書き込みのはやきこと風の如く
他人と会話せざること林の如く
ネットで煽ること火の如く
部屋から動かざること山の如し
75 :
リサリサ:2007/01/28(日) 02:21:52
なんか、おかしなスレあるっつうんで来てみたが、
何?このMM大会ww。(´〇`)
妄想?作話症?…自虐的自慰行為??
76 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 19:37:51
山路弾正よいしょのしょ!
甲斐に旅行に行った。風林火山ののれんを買ってきた。
家の中が陣内な気分。
79 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 14:30:05
てばさき
80 :
日本@名無史さん:2007/02/03(土) 22:00:28
山梨県と言ったらレミオロメン
81 :
日本@名無史さん:2007/02/12(月) 22:50:13
信玄は甲斐に ほうとうを広めた
それにしても、あの不味いほうとうを名物料理だとか言ってる甲斐人は痛い
武田大膳太夫兼信濃守源朝臣晴信徳栄軒信玄大僧正のスレはここですか
83 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 17:13:08
ほうとうって、米がない時の非常軍事食だろ
こしがない うどんのできそこない
ほうとうが旨いとか言ってるのは 味覚障害者
84 :
日本@名無史さん:2007/02/13(火) 18:09:15
◆上杉の輝かしい戦歴
・信玄に敗北し信濃を失う
・アホのように関東に侵攻し、味方は裏切り三昧。しかも土地取れず
・10万の兵でも小田原城を落とせず、憂さ晴らしに強姦略奪三昧
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度たりとも落とせず
・気に入らない家臣の嫁を馬に紐でくくりつけ引きずり殺す。
・間違って味方の城を攻め、そのまま落とす。しかも城主を惨殺
・敵の支配地域に踊りこみ城攻め。結局抜けなくてトボトボ帰る
・無用にも味方の頭を殴って、離反される。
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・政治を顧みず、一向一揆を起こされまくり。鎮圧と虐殺にモタついてる間に他大名に勢力を伸ばされる
・渡河退却中の織田を汚く追撃し、戦果を捏造
・関東豪族を裏切って北条と同盟し嫌われる。その後北条にも同盟破棄される
・御館の乱で衰退自滅、48にもなるのに跡取りを指名せず、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・便所で糞尿にまみれながら昇天
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世で寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
>>70 康夫ならいいじゃんか。財政黒字でやってくれるぞ。
黒字でやれる知事は日本で康夫と石原だけだよ。
他は借金(つまり未来に必ず増税)しやがるから・・・。
87 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:53:58
ムカデ衆っ!
88 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 18:22:55
>>82 そういえば信玄は中世の日本男性の名前の種類はほぼコンプリートしてるな。
死んでからは戒として法性院殿機山が加わる。
しかも、流行の自称とかではなく全部本当に貰ったもの。
89 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 18:28:28
しかし、妻も愛妾もいる俗物がなんで大僧正になれたんだ?
91 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 21:16:47
92 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 21:35:33
>>89 かなり臨済宗に傾倒していたようだから、
禅の修行はかなり真面目にやってたんだろう。
仏教僧の妻帯をどう思うかはまあ考え方の問題だが
妻帯の可否なんぞよりも、修行をちゃんとやるかどうかの方が重要だ、
という考えは当然あり得るし、そう考えるのが日本仏教の常だ。
93 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 05:32:30
政治家がもらう名誉博士号みたいなもの?
94 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 08:54:59
>>93 それは政治家っつよりは○田○作みたいなものだろ。(吉田栄作じゃないよ)
あれこそ似非仏教者だ
95 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 07:08:04
96 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 11:17:45
僧の妻帯って何で禁止なんだ?
97 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:30:49
/::::::::::::::::::::::::::彡:ヽ
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| -=・=- ( -=・=- lヘ 出家とは世俗と縁を切ること
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98 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 21:35:35
99 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 22:20:10
でも、信玄は天台宗から大僧正にしてもらってるんだろ?
妻帯も女犯も不可だろw
100 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 22:22:23
信玄=晴信時代の重臣に「昌○」がやたらと多いところを見ると、
「昌」が偏キの代用だったのか?
晴信の「信」は偏キに使えなかったのか?
101 :
日本@名無史さん:2007/02/26(月) 22:46:32
信は清和源氏の通字じゃからのう。
清和源氏のというよりかは甲斐源氏の、か。
103 :
日本@名無史さん:2007/02/27(火) 09:33:11
>>99 信玄は税金払うかわりに僧侶の妻帯を認めている
だから無問題
信玄の正体は甲斐山賊軍団のボス
略奪しすぎだろ
諏訪氏を滅ぼしたらその娘を無理矢理側室にしてるし、小山田や秋山も略奪婚を堂々とやってる
国内では重税かけてまわってるし
佐竹に言わせると、義光流の嫡流は佐竹。
佐竹から武田への手紙で、佐竹がその点について主張している箇所について、
義光流の家系図とにらめっこして、読んだことがあるが、話が複雑で、
途中で面倒くさくなって、止めた事があった。
>>62 >武田より小笠原の方が上じゃね?
はあ? お前、リアル厨房だろ。
107 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 21:56:50
天台だの禅宗だの言ってるけど、一つの宗旨一本槍ということは無いぞ。
戦国大名は広く神仏(寺社)を護るのも政治的業務のうちだからな。
信玄の好きな不動明王信仰は真言宗。
諏訪社(武神の性格も持つ)を篤く信仰することは信虎の代から、
信玄は諏訪社の祭礼を復興し、諏訪神号旗を大事にしている。
110 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 00:05:12
>>108いや、ウィキもどきって一人の椰子が作ったんかな?
>>109諏訪社を信仰してるわりには、神家(諏訪家)に酷い事を…
まぁ領民を懐柔する為の手段だろうけど。
111 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 00:28:45
>>109 もともと中世までの日本人にとっては、
仏教はあくまでも仏教であって、
宗派によって異なる別々の教え、という意識は薄かったと思われ。
うちの家は何宗、だとか言い出したのは江戸時代からだよな
112 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 01:11:01
よく思うんだが
「引用先」という日本語はおかしくないか?
「引用元」あるいは「リンク先」だと思われる。
>>111 日蓮宗なんかは他の宗派とかなり摩擦があったが、
別意識もってたんじゃね?
日蓮宗は別。
あいつらキティですから。
今のS価がそのキティぶりの悪い面を、もろに受け継いでる
115 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 22:39:36
116 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:17:32
>>114 ごく一部の人が学会を悪くいうことがあるけど、騙されちゃいけないよ。
一度池田大作先生の教えにふれてみるといい。人生変わるから。
一番悪いのは食わず嫌いだよ。
>>116 ○田○作先生の教えに触れてみた結果、
この人はただのDQNだと判断したのですが・・・
大体何だよ桂冠詩人ってwww
近代フランス文学をやっていた人間としては、
あの程度のものを「詩」などと称するのは許せないのですが。
>>114 日蓮宗とS価を同一視する君がキティちゃん
>>118 いや日蓮系は全部とは言わんが、基地外みたいな奴おおいと思うよw
過激派みたいな異端は昔から絶えなかったしね。
そもそも釈尊よりも日蓮の方を敬ってるんじゃないか?とさえ思われる位だし。
(真言宗だって弘法大師を敬ってるが、それ比べてさえ、かなりレベルが違う。)
日蓮宗は他宗への排斥がずーっと激しいところだからな
法華の乱みたいに洒落にならない武力闘争にまで突入してるし
その悪い意味でも系譜は現代まで続いている。分裂→近親憎悪というおまけ付きで
121 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 12:50:47
日蓮宗は仏教界の共産党ですよ。
創価みたいな新左翼が生まれても何もおかしくない。
おかしいのは、そんな政党が与党として機能する国会のパワーバランス。
122 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 13:27:30
123 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 09:54:17
武田信玄は日本の諸葛孔明のように美化されすぎているので
私は嫌いです。戦も謂われている様に強かったのではありません。
武田家臣団も信長の甲州攻略における崩壊過程を観てもたいしたこと
はなかったと思っています。
騎馬隊もなかったのではないかと思います。第一甲州駒なんてポニーに
毛が生えた程度!こんな馬で機動性が獲得できたとは到底思えません。
親追放に嫡男に切腹・娘婿の今川攻略・攻略した諏訪氏の娘を側室にする
など人間性もたいしたことはありません。いくら戦国時代といえども
、またマキャベリストでなければ生き残れない時代にあってもこのような
行状は褒められません。まして甲斐源氏のプライドを前面に出してくる
ご都合主義もいただけません。松永弾正久秀のような肝がすわっていない
のに何故あのように礼賛されるのか理解できません!
124 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 10:44:31
ユリウス・カエサル
『人間は見たいと欲する現実しか見ていない』
125 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 11:24:07
諸葛孔明は三国時代の武田信玄のように美化されすぎているので
私は嫌いです。戦も謂われている様に強かったのではありません。
蜀漢の家臣団も魏の蜀攻略における崩壊過程を観てもたいしたこと
はなかったと思っています。
騎馬隊もなかったのではないかと思います。第一蜀駒なんてポニーに
毛が生えた程度!こんな馬で機動性が獲得できたとは到底思えません。
兄弟敵対に嫡男は戦死・一族は離散・嫁はデブス
など人間性もたいしたことはありません。いくら三国時代といえども
、またマキャベリストでなければ生き残れない時代にあってもこのような
行状は褒められません。ましてたかが小国の丞相のプライドを前面に出してくる
ご都合主義もいただけません。周瑜公瑾 のような肝がすわっていない
のに何故あのように礼賛されるのか理解できません!
126 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 15:25:37
甲陽軍鑑・三国志演義どちらもDQN本。↑君の言っていることは正しいよ。
蜀駒ワロスwww
128 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 11:21:15
まぁ、後年の蜀地域の馬は「四川矮馬」といわれるほどだったのは確かだがw
129 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 12:26:34
浮気の釈明書(しかも男色相手)が残ってるのは戦国ヲタには有名な話だが
最近何回も全国ネットで晒されるようになったなw
130 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 13:38:54
全文うpしてくれ
131 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:02:28
武田旧家臣の諏訪因幡守、小笠原大膳大夫など大名に、依田和泉守、初鹿野美濃守、曲渕下野守、横田備中守は高級旗本寄合席に起用され大目付、町奉行、勘定奉行に起用された者も多いに!
133 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:52:56
甲陽軍鑑については、逆に近年、史料として評価すべき部分があるのでは、という
スタンスの研究が出てきてるね。太平記と同じ流れかね。黒田日出男の論考に注意。
134 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:59:11
ねー、検診も震源も、最大動員兵力はせいぜい3万だろう。石高にして120〜150万石
くらいじゃない? 検診が小田原攻めに十万動員したっていっても、あいつら家臣じゃない、
鶴岡八幡宮での関東管領就任式典に参加した連中じゃろ。
>>133 平明な学者たちは昔から甲陽軍艦の玉石混交を論じてるはずだが。
実の中に虚があり、虚の中に実がある、
引用には注意を要するってね。
晴信公の水洗トイレ効率悪いね.
137 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:41:42
軍鑑の書式(跡部、長坂への文句)からして眉唾だから怪しいと思われるのは仕方無い
この二人は信玄時代から当主側近(竜朱印状奉者)や郡代を務める重臣で譜代
奸臣どころか、勝頼を最後まで裏切らず討死したことは信長公記のような敵方史料にも明記されている忠臣
むしろ香坂とともに武田の凋落を食い止めようと支えてきた層なわけで
138 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 01:36:45
欲張らないで 甲斐・信濃で堅実経営していれば武田は
滅亡しなかったのに
春の部の欲望の為に武田は滅亡した
139 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 02:31:16
千葉ちゃんに射殺された人でしょ?
140 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 04:52:47
家紋が花菱し、俺の家
141 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 04:36:26
暇だー
142 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 15:15:21
信玄は勝率十割近い、とかいう話がテレビにまで放映されたんだけど
具体的にどんな基準で誰が言い出した話なわけ?
城攻め失敗は引き分け扱いとかなの、この史実をかけ離れた率は?
実父を追放
義弟(諏訪頼重)を攻めて切腹
妹は自殺
長男を幽閉して切腹
悪逆非道で息子の代で滅亡www
>妹は自殺
そういう説の根拠となる文献は無し。
145 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 22:46:50
甥@(諏訪寅王丸) 毒殺
甥A(今川氏真) 領土略奪
追加しておいて
>>142 >信玄は勝率十割近い????
村上氏に負けた戸石崩れは有名だし
上野の箕輪城なんて5回くらい攻めてやっと勝った
川中島も勝ちというより引き分けだろ?
引き分けを含んだ勝率としたら 5割くらいでは?
147 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:48:02
さすがにそれは無いだろう。
引き分けも多いが勝ち数はやっぱり多い。
6割から7割くらいはあるだろう。
一般的には、引き分けって勝率に影響与えないよ。
149 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 07:27:21
一般的にどうかは知らんが、まあ引き分けを含まずに
(勝ち数)÷(勝ち数+負け数) で計算してるんだろうな。
しかも「城を落とせずに撤退」の場合は負けではなく引き分けと見なし、カウントしない。
そうすると確かに勝率は高くなるとおもう。
150 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 08:07:58
でも戸石崩れは負けに含んでるわけだよね?>2敗
しかし箕輪攻めで五百余の討死出して逃げ帰った時は未算入
贔屓計算というより、ゲームレベルでしか信玄知らない馬鹿が作ったお花畑算定が流布しただけじゃ?
151 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 09:08:21
↑素人
お馬鹿計算をマンセーしなければ素人扱い。
これが信玄厨というものか!
153 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 10:29:03
やっぱり煽りへの耐性もできてない厨か
からかうの楽しいな
154 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 10:54:02
信玄の率いていた武田騎馬軍団って、信玄のオリジナルなの?
信虎の時代はまだ騎馬隊はなかったの?
実際には地方制覇すらできなかったローカル大名
弱小時代の家康に勝ったから後世過大評価の代表になっただけ
信玄堤も棒道も信玄が発明したものじゃない
カピバラ
157 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 18:23:34
同じ様な計算で他の有力大名も計算してみたら、強かったかどうか、客観的にわかるかもね。
まぁ、データが極端に少ない人なんかわ、除外か考慮の必要あるけどね
あと、戦術的に戦争に強い事は統一の有力条件ではあるが、政治力や地の利などトータル的には信長に及ばなかった事は歴史が証明している
159 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:40:18
そこまで強かったとしたら、逆に戦以外で欠陥があったとしか思えないよな>厨計算
信濃の大部分制圧するだけで20年近くかけているわけで
160 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 13:11:54
161 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:12:40
>>160 それは「風林火山」の昔のドラマでの話だろ。
史料はあるのか?
162 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 20:48:59
風林火山を見て最後に地元の史跡を紹介するコーナーで
気付いたのだが「南アルプス市」とかいう恥知らずな
市は元の何市ですか?
163 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:00:16 BE:153060833-2BP(1)
側室云々の話をそこまで面白く見れないのは、そもそも助平だとしか思えないからなのか。
性欲をもてあます。
164 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:21:05
「箕輪に業正おる限り、碓氷川を越えて馬に草飼わせる事叶わぬ」
上泉信綱をもっと高禄でつなぎとめて
クローン軍団を作れば天下に号令できた
167 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 20:28:17
武田信玄という人について、考えてみましょう。
非常に保守的な人で、父親を尊敬していたようです。
父親が今川方に追放された時も、ほとんど、家臣団の合議制によって、決められたもので、
当主になったばかりの武田信玄は、ちょうど、斎藤道三に担ぎ上げられた土岐頼芸の状況に非常に似ていて、ただの象徴にすぎないお神輿守護大名であったようです。
父親が追放された夜は、一人、布団をかぶって泣いたようです。
武田信虎は、信玄を大変可愛がっており、仁義にも厚く、勇敢で寛大な名君であったようです。
しかし、経済観念に疎く、治水工事を疎かにしたため、稚拙な河川堤防の決壊により、田畑が荒れ、飢饉が起こり、
その家内での不満を外敵にそらすために、合戦を起そうとして、家臣の怒りをかって追放されたようです。
信玄自体は父親を尊敬していたようです。
信玄にとって、幸か不幸か、村上義清との戦いにおいて、主要な重臣が死亡したことにより、信玄が実権をもてたようですね。
そして、本願寺との親戚関係が彼に経済的主導権を与えていたという幸運もあって、次第に、武田家内での地位を固めていったようです。
それでも、常に譜代の家来には不信感を持ち、積極的に新しい家臣を登用することにより、自分の身辺を固めようとしたようです。
父の失敗を見て、経済運営と河川改修には力を入れましたが、価値観自体は、昔からの戦国大名の意識から抜け出せなかったようです。
168 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 20:29:33
もっと極端に古典的思考をもっていたのが、上杉謙信であり、関東に関東管領の上杉家の権威をもって攻め寄せた時も、
家来が遠征した先々で略奪をしたので、信を失い、越後に退却せざるおえなくなったようです。
武田の軍も上杉の軍も平気で敵地から略奪していたようですね。
特に、上杉軍は飢饉で冬が越せそうにもないときは、家来が餓死しないように、信濃に侵攻し、略奪してたみたいです。
信濃への侵攻は、略奪目的なので、武田と戦う気はサラサラ無かったようです。
一度、川中島で対峙していたとき、霧にまぎれて撤退しようとしたとき、偶然、武田軍と遭遇して大乱戦になったときがあったそうです。
武田信玄としては、重臣たちの脅威が怖かったので、上杉が食い詰めて信濃に攻め込んでくると、
新規に登用した家臣を前面に押し出し、手柄と称して位と兵を与え、自分の子飼いの武将を育成するための格好の利用場だったようなので、
全然上杉と戦争する気はなく、お互い、ある程度、馴れ合いの部分があったそうです。
それだけに、川中島の霧の中で敵軍に遭遇したとき、
「やる気が無いように見せかけて、実はそれは罠で、本当は本気で、こちらを殲滅する気だったんだ!」
とお互いの将兵が思い込み、死に物狂いの乱戦になり、互いに多数の死者を出したようです。
幾つもの板やスレでコピペ必死にする奴って本当に馬鹿っぽいね
170 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 10:09:46
三条ヲタにも困ったもんやね
171 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:40:09
信玄は風林火山を旗にするくらいだから孫子にどっぷり傾倒していたと思ったら、なかなかそうでもないようで中国式の軍法はそのままでは使えないと言っていたりする。
では信玄に限らず、当時の戦国大名は一体何をもって兵法を学んでいたのですかね?
172 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 17:22:47
173 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:17:02
やはり諏訪姫より三条姫のが気品あるのお
174 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 03:12:52
ほんまもんですから
諏訪姫じゃないだろ、『風林火山」では由布姫じゃん。
と、マジレス。
176 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:55:55
とりあえず「センゴク」は嘘
177 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 02:37:27
諏訪御料人だろ
名前が伝わってないんだから何だって良いだろ
179 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 12:43:16
そうそう。どうせ捏造名なんだから、
日本史板的には何だって大して変らん。
せっかくだからこの際、「おまんこ姫」とかにしてしまえば良かったのにな。
お前は後世の人に粗チン早漏王子と呼ばれたいのか?
181 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 23:09:40
うん
秀吉
183 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:08:01
勝頼の母は 春の部のせいで精神を病み
諏訪湖で投身自殺してしまった
今年の大河ドラマでは 勝頼の母の最後を どう描くつもりなのだろうか?
184 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 15:42:42
鼻の穴に詰め物して自殺します
どうせなら 上から映して 諏訪の姫様
くまぇりに代表されるように諏訪の女は基地外が多い
武田信玄残酷すぎ
情は味方、仇は敵なりジャネーヨ!
むしろ恨みを買うようなことしまくりじゃん
この姫様がらみの話が、やっと終わったか
かれこれ1ヶ月くらい掛かったな
俺は戦が見たいんだよ、戦が
>>187 城攻めて捕まえた人を奴隷として甲府に連れて帰って売り飛ばしてたくらいだから
190 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 16:43:54
俺は鼻の穴が見たいんだよ鼻の穴が!
>>183 何それwww
なんて小説のあらすじ?
>>188 由布姫はこれから勝頼を産むし、
とうぶんの間登場しますけど・・・・
>>189 佐久・志賀城の女子供は奴隷として競売にかけられました。
城主夫人の笠原夫人(実名等詳細不明)は小山田に買われ、
妾として囲われました。
その笠原夫人が、成長した美瑠姫だったという設定なんでそ?
192 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 11:32:41
志賀の城主夫人は、買われたんじゃなくて
直接、恩賞として信玄から信有に与えられた
確か地元じゃこの人を偲ぶ歌とかがあったはずだ
信玄自身が諏訪の娘を側室にしたり、美濃遠山氏を攻めた秋山信友が城主未亡人をやっぱり自分のものにしたり
武田の流儀なんだろ、略奪婚は
193 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:46:13
49勝3敗20分け!!!勝率9割6分は凄い!まさしく最強の証である
しかもその戦には篭城戦や領内に攻め込まれた場合の戦(城郭や地の利を生かした戦術)
などは一切無く、全て敵地への戦=城攻めがほとんど=戦で一番困難
上州攻め?長野業正との戦いなんてデタラメの創作だよ、江戸時代に勝手に
作られた軍記物しか書いてないしね、信玄が上州に攻めたのは業正が死んでから。
194 :
日本@名無史さん:2007/06/12(火) 17:19:10
>>192 競売の話は○法○寺記にあるんだよ。
>地元
岩殿山かがり火祭りをするような地元だし
領主にまつわる話として美化して伝えるものだろうな。
武田狩りは信長が武田残党の反乱を恐れたために行われた
粛清ですが一体何人殺されたのですか?
>>195 勘違いじゃないの?妙法寺記には↓
志賀殿御上をば、小山田羽州給いて、駒橋へ御同心(同伴)申し候
でしょ。給いて、は競売の意とは読めんはず
198 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 13:22:20
徳川の敵というとところから明治以降評価された気が・・・・
>>198 寧ろ神君家康公を破った人として江戸時代から甲州流兵法みたいのは
素晴らしい素晴らしい言われてたらしいよ
200 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 13:47:04
足利将軍家の再建に利用されただけ、信長の力を削ぐために。家康は、江戸幕府設立時に清和源氏武田の足利将軍補佐的な権威を借りるため、甲斐のほとんど全ての寺院の屋根瓦にまで、武田菱紋とならんで三葉葵紋を着けさせた。
神君との同盟を、不意打ちという最悪の形で破ったおっさんなのになぁw
世の中の毀誉褒貶なんてあてにならんべ
>>167 >>168 まあ正しいんだがそれを言っちゃおしまいなんで。
なおかつ両者に魅力を感じるがね。
信玄、謙信というのは天下統一というより飢饉との戦いに明け暮れたような
気がする。厳しい人生だったろうなあ・・
203 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:45:34
>>201 その同盟を破られた神君が、その後信玄に惚れまくってしまったからな。
信玄がこれだけ有名になったのはやはり家康の力も大きいとおもう。
204 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 03:25:07
>>203 某S本氏が言うには
柳沢吉保なんかも結構信玄伝説作りまくってるらしいな
もちろん自分の出目の武川衆を高めるためにだが
他にも浄瑠璃とかの影響もあるとか。
まぁ結局家康が一番でかいってのはあるがな
ところで神君を破った信玄が偉大なら信玄を破った村上は(ry
惚れたっていうのはポーズだろうな
武田旧領を支配したため、旧主を持ち上げる古典的な手法
加藤清正の名声の元は、後の支配者細川氏の宣伝の産物であるのと一緒
だいたい家康は「三河以来の祖法は変えるな」と遺言しているぐらいで
大名の旧領は数多くあるだろうに
名声が残っていくのは一握りだな
207 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 20:21:00
逆に北条のように、まったく名声が潰された例もある
家康自身の言行として
「信玄は良将だったが悪行の報いが子供にきて滅んでしまった、しかし北条は義を重んじたから滅亡するといえど裏切りは少なく未だに当主に随身する忠臣が多い、見習うべき」
とベタ誉めなのに、信玄と比べて全くその手の虚名が無い
家康から見たら、
自分を戦で負かした世界唯一の相手が、信玄だろ。
持ち上げないわけにはいかないよ。
むしろ武田遺臣が再就職先での出世のための宣伝に使ったフシがあるな
甲陽軍鑑と甲州流軍学なんてその最たるもの
どれだけ影響力があったかというと、北条とか上杉とかの立場寄りの軍記物にすら軍鑑の内容の丸写しがあるぐらい
実際のところ、信玄はしばしば寡兵の敵に負け、自身が討たれかけたことも数度
徳川に勝ったのだって兵力が二倍以上の時だったんだから、負けるほうがむしろ不思議
本当に信玄は幸運な武将だな
本人が虚名をあの世とやらで喜んでいるかは知らないがw
210 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 01:58:41
信玄が最強なのを再確認した
全裸で
211 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 06:15:20
男色ってどんなことしてたんだろ ケツ?
212 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 06:47:31
武田晴信が高坂弾正の乳首をペロペロ舐めながら竿をシゴいたりシゴかれたり…
素肌に甲冑を着せたまま高坂の肛門に怒張した極太黒マラをブチ込んで差したり抜いたりしてザーメンを兜首にかけたり‥
213 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 00:03:43
学研M文庫「川中島の戦い」(平山優)が労作でなかなかおもしろかった。
>>168的見解も正しいかもしれないが、また別の視点から川中島の戦いを
分析している。オススメ
>>197 自分が読んだものでは、
大枚の金子を張り込んで譲り受けた・・・と
書いてあるけどね。
べつに買い取った云々でも構わないじゃん。
>>204 武田家が高家になるにあたって、尽力したのも柳沢だと云うぞ。
妙法寺記では違う、という話なんだから
自分が読んだものって、そんなに異本があったかぁ?
しつこい
217 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 10:04:55
うるさい
偽本・妙法寺記来た?w
しつこいと思う。
220 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 01:46:29
偽本キタコレ
間違いを指摘されたのに、おかしなこと言った上しつこいとか変に拗ねるからだろ
222 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 15:39:16
>>100 上泉信綱は元々秀綱だったが
信玄から『信』ともらったと言われている。
223 :
日本@名無史さん:2007/06/27(水) 19:37:13
剣聖
224 :
日本@名無史さん:2007/06/29(金) 18:00:09
あげ
225 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 12:23:24
ageますよ。
史学素人の俺の長年の疑問、
「川中島ごとき猫額地を巡って、戦国の両雄とまで言われる晴信と謙信が何故、五回も対峙したのか?」
>>168的見解では、「略奪目的なら長対陣は無用、奪うもん奪ってさっさと引き上げれば?」という疑問が残る。
地政学的な解釈も、結果的に両雄がお互いの本拠地まで攻める意志があったとは思えず、やはり疑問が残る。
今のところ、山室恭子氏の見解(群雄創世記)がもっとも納得いくんだけど、これに対する史学界での評価を
ご存じの方がいれば、ご教示いただきたい。
226 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 19:34:41
義を大事にする謙信が隣国を侵略しまくる信玄を許せなかったが
最後には友情が・・・・・
では無いの?
>>226 さんは俺に言ってる?
群雄創世記は一般向けの概説書としてもおふざけが過ぎる表現も散見されるし、
史学生の人で読んだことある人っていないんですかね orz
手法はこの人お得意の、手垢のついた史料を従来とは違う角度で見てみよう、
ってやつです。
まずは妙法寺記を中心に、戦を重ねることによって、甲斐一国中に信玄を核に
した愛国心みたいなものが育っていったんではないか、と読み解く。
次に永禄年間のそれも対上杉戦に限って、神に奉ずる願文の内容が明らかに
人に対してのものであると指摘、なぜ対上杉戦に限るのかと謎を振り川中島へ。
天文二十二年の両雄初対戦は川中島ではないけれど、領国内外への自陣営の
優位性、正当性の宣伝合戦が開始された、と成就院文書や大日方文書を例証
に論を展開。弘治三年頃には、両者にとって川中島という地名が象徴的存在に
なったのではとする(歴代古案、上杉年譜)
(以下、五回目の対戦まで縷々論が展開されますが、私なりの表現で論を要約)
要は、挙国一致の世論を喚起しないとやばいことになるっつーくらい、お互いに
とって初めての強敵、しかもお隣さん。逆に言えば、内の不満を外にぶつける
という為政者の常套手段ですね。これに使われたのが川中島。と言うお話です。
「なぁんだ、そんなことかよ。」と、がっかりされたかもしれませんが・・・
長文失礼
228 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 01:16:07
胸毛とかすごそうだよね。山梨はけっこう多い。
一晩でいいから抱かれてみたかった・・・
史学会の評価って行っても人によって違うが
とりあえず笹本氏の本でも読んでみればいいんじゃないかな?
どっちかというと学会でもマイノリティーだが
230 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 01:48:53
内には貧しい国土と実利優先の国人層を抱え、外には北条・今川・信濃諸豪族の脅威があった中で父親を追放した21歳の若者が何を思って判断し行動していたのでしょうか?中々想像できません。
鬼美濃にペシペシされたかった
どうでもいいけど学「界」な。
史学会だと意味が違ってくる。
>>229 笹本正治氏なら、「戦国大名の日常生活(講談社選書メチエ)」と
「戦国大名武田氏の研究(思文閣史学業書)」が手元にあります。
どちらも川中島の疑問解決には参考にならなかったけど、戦国
武田氏を知る、という意味ではとても勉強になりました。
>>230 常日頃を共に暮らす人間同士でも「何を思って」はなかなか理解
できるもんじゃないけど、上記「戦国大名の日常生活」は「想像」の
一助にはなるんじゃないかと、思います。
>>225 私もしろうとでわからんのですが。
○甲斐で飢饉が相次ぎ部下を食わすのに出かけるしかなかった。
○三国同盟がネックになってて信濃に手を伸ばすしかなかった。
それがいつの間にかライフワークになってしまった。
○謙信が関東に手を伸ばしていたので(北条のためにも)牽制する必
要があった。
・・くらいです。今思えるのは。
信玄が謙信と結んで早くから今川を攻めたらどうだったろうかな、などと
ifを妄想したりします。
>>234 川中島に関しては、全戦、謙信側が仕掛けた戦です。
五回目なんか、もう主戦場は西上野に移っているのに、
何を今更な感じで大群率いて攻め込んできてます。
川中島一回戦は弘治元年七月。この頃の信玄は既に
村上を追い出し、完全ではないが北信濃はほぼ制圧。
信玄にとって見れば防衛戦ですので、二つめの理由は
当て嵌まらないと、考えます。
同様に略奪目的であるはずが無く、飢饉続きなら無駄
な戦は避けたいところで、ひとつめも当て嵌まらない。
関東管領の名跡を継ぎ、北条を名乗る(=鎌倉執権の
名跡)相模の一族打倒を第一目標とすべき謙信側から
仕掛けた戦ですので、牽制策というのも成立しない。
信玄にしてみれば、「また来やがったよ、あの毘沙門天
かぶれ。面倒だから三国同盟破って、打倒北条を餌に
謙信と組むか。」と、思ってもおかしくない状況ですが。
ほんと、川中島って不思議な場所です。
236 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 11:43:28
>>235 いや第二回川中島で、今川義元の仲介で和睦が成立している
それを信玄が破って奇襲しかけたから第三回が発生し以後泥沼になったわけ
そもそも信玄が北信濃を侵略したんで、破れた国人衆が謙信を頼ったのが発端だし
(幕府から信玄討伐令が国人衆に出されたように、大義名分という面では完全に信玄が駄目)
237 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 15:38:46
>>236 まあ、和睦の条件を簡単に反故にされたら、頭にくるのはしょうがない。
北信や、越後に目を向けずに、美濃方向へ向かっていたら、信長より早く美濃を制圧し、
天下とりに近かったかもしれん。
(村上ちゃんの悪いやつ(晴信)を懲らしめてくれという要請がなければ、
謙信も動かんだろう)
完全にゲーム的な発想だな
謙信も上田衆を屈服させたばかりだし
川中島出発は政治的な目論見が有っての事じゃないかねぇ
坂戸城周辺を道といい、城下といい改造しまくってるから
魚沼一帯への影響力を強めたいって意志を感じる
んで川中島終わったら政景暗殺
魚沼をモノにしてしまうと・・・謙信も結構食えない
241 :
240:2007/07/16(月) 14:30:03
あ、ごめんなさい
「川中島に関しては」でしたね。
勉強してきます
242 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 21:25:49
小笠原長時ですけど、この地盤はどこなんでしょうか。
村上とか、諏訪とかにいろいろ押さえられてさえないですが。
それから長野市ですが、ここに中御所という地名がありますね。これって、
征夷大将軍が来たことに関係があるんでしょうか。
243 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 19:50:26
高野山に大名の墓が並んでいるが、その中に武田信玄公の小じんまりとした
墓がある 前田公の墓など馬鹿でかいが武田の墓は小じんまりと上品だ
その中の説明文の中に「性 直情怪行」と刻んであったので、アレっと
思ったことがある 案外「性 直情怪行」のほうが真実かもしれないね
あまりな名君話はかえっってウソっぽい
>>243 人格者と呼ばれるタイプではないと思います。
おそらくは、武将臭い人だったかと。
245 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 22:07:11
腋臭も臭かったかと。
246 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:13:19
直情怪行?
直情径行の間違いじゃないの??
>>243 そもそも、高野山にある墓はたいてい供養墓なのであってw
248 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 02:13:24
大河ドラマ「風林火山」では、信玄は越後を制圧し海をとることを目指したということになってるね。
>>242 小笠原の本拠地は松本
中御所は知らないけど、南北朝時代に南朝の征夷大将軍(宗良親王)が約30年間信濃に駐屯していた。
249 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:32:36
坊主が金儲けの為に武田家子孫の断りもなしに勝手建てちゃった墓地や供養塔が全国にわんさかある
250 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:37:09
>直情径行の間違いじゃないの??
どうだったかな 細かい点までは見ていない
他の大名の墓は馬鹿でかいのばかりで、これみよがしに大きいのばかりだが
武田の墓は「墓たるものは、こういうものだ」というように普通の墓だ
戦国期の宗教は一種の情報センターだろうから、案外、武将の正確な
情報をつかんでいたのかもしれない 意外に奇人変人的なところが
あったのかもしれない それが奇異に見えたのだろう
高句麗騎馬民族の末裔 武田騎馬軍団
252 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 22:00:13
細かいところなんか見ようと見まいと、
「怪行」なんて日本語はないだろww
253 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 22:10:57
そもそも武田騎馬軍団というものはアラビア種でなく木曽馬タイプの馬種で構成されていたわけではないでしょうか?
信玄の乗ってた馬ってのもすごく小さいらしいね
当時の日本人が今より小さいとしても武田騎馬軍団ってのは
一般的にイメージされるようなものじゃないような気がする
255 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 20:31:10
信玄厨ってキモい
256 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 22:11:32
騎馬軍団なんて編成されてない
257 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 04:29:33
小説の世界をそのまま信じる武田厨
甲斐駒は中型馬
>>258 その「中型」ってのはどういう基準?
現代ではサラブレッドやアラブのような400〜500kgの馬で「軽種」、
ペルシュロンのような1000kgクラスで「重種」とされてるけど。
260 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:07:01
山梨県人の集うスレ
261 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 14:14:08
若いころの信玄の画像を見ると男もすなる様な美男に見えると思うのですが
本当だったのでしょうか?
262 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 15:39:34
影武者を何人も用意するほど臆病だった信玄。
村上義清に惨敗した砥石崩れでは、
晴信自身が影武者を身代わりにしてようやく窮地を脱するという有様であったとまで言われている。
ださっw
最悪の事態に備えるのは大将として褒められこそすれ、けなされるようなことじゃなかったい
264 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:11:44
>>262 信玄ファンには触れられたくない史実だね
上田原、砥石、葛尾城奪還、小岩岳城と、村上義清方に都合4回も負けてる
正攻法の実践では勝てないから、
真田のスパイ諜報作戦で村上軍を分裂させておいてやっと勝てたんだから
265 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 20:20:21
親父の信虎は長身痩躯の体格だっただろう 信玄もおそらくああいう体格だろう
絵で残っている信玄は武将らしくゴツイ体だがたぶん違うだろう
>>259 サラブレッドやペルシュロンと比較してどうするよ。
東アジアの草原馬サイズでの標準型。
267 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 23:24:15
諜報なしで戰する馬鹿ではない
268 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 01:47:06
>>267 戦術能力では村上に劣るが、総合力では上なのね。
269 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 08:21:04
村上義清って相当強かったみたいだね
信繁を仕留めたのも義清自信というし、信玄に傷を負わせたりしたらしいよ
家臣では楽巌寺雅方っていうのがめちゃ強かったらしい
いろいろ調べてみると信玄の最大のライバルは上杉じゃなくて村上のような気がしてきた
270 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:02:49
初鹿野源五郎も義清に討たれてるよな
若い頃から村上氏にシゴかれてたから信玄はあれほどの技能を身につけた
とも考えられるな。
アムロに対するランバ・ラルのようなものか。
いや、性的な意味じゃなくてだな。
272 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:41:38
> アムロに対するランバ・ラルのようなものか。
何言ってるのか素でわからぬ。
アムロに対するSAMではないのか?
273 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:58:16
じゃあ板垣はブライトさん?
274 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 02:41:09
川中島が霧の中の遭遇戦だったというのはプロレスが
八百長だったということほど俺には
275 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 20:43:18
276 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 22:31:18
>>269 楽巌寺雅方、文献で調べたら、
「武田典厩の備えに疾風の如く飛び込んで、
得ての長刀追延べ風車五輪碎き雁連飛燕の秘術をつくし
敵二十八騎切って落とした」
だって。
「風車五輪碎き雁連飛燕の秘術」
なんかかっこいい。
信玄の死因
家康軍団の鉄砲のかすり傷による感染症で死んだ
278 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 23:20:20
いやエイズだろう
279 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 23:56:58
川中島懐かしいな―!小学校の体育祭で必ずやった。
謙信「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラァーッ!!!!!!」
信玄「ムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダムダァーッ!!!!!」
281 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 00:39:32
迂闊にもwarota
毒を仕込んだアナル持ちの美童間者に尻を使って逝かされたに決まってるだろう
283 :
世界@名無史さん:2007/08/16(木) 19:22:51
284 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 09:15:15
でも「武田」って甲斐の地名じゃないしな・・・・・
春、たまたま仕事の研修が「武田」のそばであった。
地図ももたずに探し、住宅街に館跡をみつけた。
平地を見下ろすやや高台。
転々としてよくぞ一族が支配階級に定着できたものと感心した。
286 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 03:26:38
大河ドラマ見てるけど、信玄のいくさのほとんどって長野県を攻略するための局地戦だったのね…
長野県に攻め込むたんびにひるがえる風林火山の旗って、なんかこじんまりしてるな
あとそれに伴って調べてみたのだけど、
じつはどっしりとしたカリスマじゃなくて、細面の利益調整型人間だったんですね
そんな十人並みの人物が運命に翻弄されて父親を追放し、息子を自害に追い込み、天下を簒奪しようと
明確な意思を持ったのはどのくらいの時期なんですか?
>天下を簒奪しようと明確な意思を持った
パラレルワールドの信玄の話なら、そっちの人間に聞いてねw
武田信玄には天下を取る意図はなかった。
ちょっと戦が好きだっただけ。
289 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 21:52:25
信玄は天下取ろうとしたけど早死にしちゃったね。
それだけの器だったということだね。
生きてても息子の勝頼と同じく自害する運命だったろうね。
でも、嫡男である太郎を自害させたのは駿河に侵攻したかったからですよね?
そこまでの不退転の覚悟の背景には、毒を食らわば皿までで、やっぱり天下に号令をかけたいっていう大望が
うごめいてたと思うんですよ
>289
運命のカラクリはまっこと旨く出来てますよね
292 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 00:05:43
>>287 それがパラレルワールドだと言い切る根拠も何もないな。
293 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 10:28:22
.. ,、r‐''''''''''''''''ー 、 , -────- 、
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l∪ノ / , / l∪ノ / , /
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294 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 17:18:55
誇大妄想癖武田信玄厨
>>290 塩が欲しかっただけ
当時山国の人間にとっては塩は相当高価な貴重品
自国で取れるか取れないかで財政が相当変わるぐらいのモノ
なるほど
じゃあ最後の「西上作戦」というのはどういう意味合いの軍事作戦だったのでしょうか?
信長は明確に天下布武を旗印に領土拡張をしていたので、武田も自らが滅亡しないためには
結局天下採りという同じ土俵で勝負せざるを得ない状況になっていたのではないでしょうか?
>>296 多分信長本隊が浅井朝倉三好その他もろもろに向いている間に、徳川を攻めておこうといった感じ。
正直、上洛する気などなかったと思う。平野部で潤沢な遠江三河が欲しかったんだろう。
秋山隊の件
>>297 「旌旗を帝都にあげえなかったことがなによりの妄執である」
の信憑性はともかく、元亀四正月十一日付上野中務太夫秀政宛
書状(京都御所東山御文庫記録 所収)にはっきりと「信長と
家康を誅して、天下静謐の世を招来せしめん」と、あるね。
天下「簒奪」はともかく、義昭の下、「孫子の旗を都に揚げる」
意志はあったと思っても良いような気がするんだけど。
>>299 それはおだててただけじゃないのか?
徳川をうまく攻めたいから西で織田をうまく釘付けしてもらうための方便にも思える
徳川攻め時点で信玄周囲の勢力の中で一番御しやすいのは徳川だったからうまく攻めたかったんだろう
徳川滅ぼすだけなら城攻めしてんだろ
信玄が家康をヌっ殺す、というのが、一番歴史に与える影響がでかいだろう。
>>301 非常に的確な指摘を
>>302さんがしてますが、書状の中身からも
「おだて」とかは成立しないんですよ。
この書状は、義昭が信長と和睦せよと言う御教書を発したことに
反駁する内容になってます。「甲陽軍鑑 巻十三 御公方義秋様
より御使者御書之事」と、細かい文言はともかく、同じ内容です。
もっとも、こっちは天正元年正月七日付と、史上存在しない日付
なんで軍鑑作者の創作文であること、ほぼ確実ですがw
義昭の自由意志にせよ、三方ヶ原の敗戦で焦る信長の圧力にせよ、
将軍家の和議斡旋を蹴って、信長討滅の教書を賜りたいと言って
るんです。上方で時間稼ぎしてね、とお願いしてるわけじゃない。
305 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 21:46:52
御旗盾無御照覧あれ
306 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 03:13:34
信玄は何もできずに滅亡した雑魚武将だよね?
なるほど
信玄がどういう思惑だったかは今となっては推し量るしかない、という結論のようですが
最後の数ヶ月、信玄は間違いなく日本の行く末を左右するキャスティングボードを握ってたと思うんですよ
惜しむらくはそれ以降、また武田は局地戦へと回帰してしまったことですよね
長篠の戦にしても織田は武田との決戦という明確なビジョンがあったのに、武田はあくまでも
寸土を巡る局地戦の延長ですよね
土豪が土から乖離して、天下国家の理念を獲得するのが当時どれだけ難しいことだったかの証左ですよね
308 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 07:30:36
>>192 甲州の男は美男が多かったらしいね
イケメンインテリ武闘派ヤクザみたいな武田軍に
他国の女はメロメロだったんじゃない?
309 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 10:54:21
>>303 そんな馬鹿な。当時は徳川は雑魚武将。消えても歴史の大勢に影響はない。
>>309 いや303が言っているのは徳川三百年が
消えるって事だろう
>>307 元亀四年四月 信玄没。
以後、
同年(天正元年)九月 徳川領 諏訪原城攻略
同年十一月 織田領 飯羽間城攻略
天正二年四月 徳川領 大沼城攻略
同年六月 徳川領 高天神城攻略
同年八月 徳川本拠 浜松城をうかがうも撤退
天正三年四月 法性院機山信玄 三回忌大法要
同年五月 徳川領 長篠城包囲→設楽が原の戦
政権基盤脆弱な勝頼ですが、一貫して織田・徳川同盟打倒、
すなわち天下布武路線へ対抗してますよ。信玄西上作戦を
「明確な天下簒奪の意志」などと過剰評価気味のあんたが
勝頼の事績は「寸土を巡る局地戦」と酷評するのはなぜ?
312 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 13:15:25
信長\(^o^)/オワタ
313 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 15:22:09
314 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 16:01:40
たらの話だが信玄公がなくならなかったら、信長も秀吉も家康も
歴史に名が残らなかったことだろう
315 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 16:53:07
>>314 信長や家康は信玄存命中にすでに有力大名として存在してるだろ
316 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 17:01:50
信玄公は完璧を期すために準備に時間をかけすぎた
信長は暴走経営だがスピーディーだった
>311
あ、勝頼すきですよ
でも彼のいくさは信玄が最後にはなった「西上作戦」にくらべると、かつての長野を攻略していたときのような
こじんまり感がいなめないんですよね
やっぱり大いくさっていうのも、いろんなお膳立ての上にやっと華を咲かせる花火みたいなものだとしたら、
勝頼はそのお膳立てがうまくなかったんだろうなぁ、と。
しかし信玄でさえそんなきらびやかな花火をみせるのは駿河侵攻からだと自分は思うので、一概に勝頼を責めるものではありません。
最後の一行、諏訪や北信濃や西上野で、何年も何十年も
飽きずに「こじんまり感の否めない戦」繰り返したのは
信玄だってのはお認めのようで。
幕府は瓦解、浅井・朝倉は滅亡、伊勢長島の一揆は皆殺し
と包囲網が個別撃破され続けている状況で、いきなり西上
とかできるわけ無いでしょ。じっくりとお膳立てできない
状況になったのも、信玄が最後に織徳同盟に決定的に対立
したせいでしょ。領内を取り纏めるまもなく、半年以上の
遠征から帰ったばかりの軍を休めるまもなく、孤軍奮闘、
最大勢力の織徳同盟の領地を削っただけでもたいしたもの。
「一概に勝頼を責めるものではありません」って、厳し杉w
当時信長は四郎を誉めそやす余裕さえありますからね
結局信長から見てさえも、四郎は天下統一を競うライバルというよりは、手強い土豪の英雄くらいの
認識しかなかったのでは?
戦略的に信長の天下統一の野心を脅かしたのは信玄の「西上作戦」と晩年の上杉くらいしかないとおもうんですよ
320 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 21:56:04
親子揃って雑魚武将ですか
321 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 22:04:19
尾張の雑魚武将がなんかほざいてますよ
>>319 あんた流に言えば、「手強い土豪」くらいの勝頼が、不利な状況下で
最大勢力に挑み続けたのに、「辺土を巡る局地戦」は酷評に過ぎる。
と、言ってるんですが? 信長にとって真の驚異だったかどうかとは
別な話してるんですけど。まぁ、この件は表現上の問題で片付く話の
ような気もするし、これ以上議論するかは、あんたにお任せします。
それよりも・・・
謙信宛の書状で「油断ならぬ相手」と評価したのが、余裕なのか真情
なのか私には解りませんが、あんたがそう断言する根拠を示してね。
あとさ、天下簒奪と言うからには、足利将軍家に取って代わる意志が
あったんでしょ、信玄には。これも、そう解釈できる論拠を示してね。
両方とも、できないなら別に良いですよ。あんたが「俺はそう思う」
レベルの人なら、疲れるだけで得るモノはないので退散するだけです。
「明確な天下簒奪の意志」かどうかは別として、
もし織田徳川を滅したら結局は、将軍家に取って代ってたのではないかな。
元々武田は足利の分家ではなく、
足利と「同格」の源氏の分家 (だと本人たちは思っていたに違いない)わけで。
まあ別に明確な論拠があって言ってるわけでもないのであくまでも推測だが。
>322
あー、スンマセン
自分はこの一週間くらいで資料集めてかじってるだけなので浅学ですよ
別に信玄シンパ、勝頼シンパってワケではないので、かるい一言で思いいれの深い方を刺激してしまったことは
謝罪いたします
自分の場合そういうものに思いを馳せるのはロマンだなーっと、そんな程度です
中にはアマチュア研究家とか、郷土史家の方で、この問題に一生をささげてる方なんかもいらっしゃると思うので、
以後軽率な発言は慎みたいと思います
325 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 06:04:36
武田信玄じゃ織田と徳川にはとても歯が立たない
役不足ですな
326 :
日本@名無史さん :2007/08/23(木) 06:21:05
ばかだな。織田も徳川も仮想敵は常に武田だったよ。
織田は上杉とも武田とも親密外交と切り崩しを上手く
やったから、一番手ごわい時期の武田と当らずに済んだんだよ。
信玄も謙信も毒殺されたと思わずにはいられないよ。
327 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 06:33:39
武田信玄は、
近隣国に残虐な事しただけの馬鹿武将。
結局何をやりたかったんだか分からず犬死にした。
義心を持った上杉謙信の爪の垢でも煎じて飲ませてやるべきだったな。
それこそ何の論拠もなしに
>>325とか
>>327みたいないい加減なことを言う人達
の方が、ずっと問題だと思うがな
329 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 09:30:35
織田厨は本当にどうしようもないな
330 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 10:53:47
>>325 当時の石高だけ見ればそうだが、内部に長島、本願寺・雑賀と反織田勢力をかかえ
大軍を貼り付ける必要があり、浅井、朝倉が健在で、将軍家が暗躍している状況では、
信玄の西上時点では織田とは5分5分だろう。
>>324 そういうことなら、私もロマンを書かせてもらいたいw
こっちだって素人だし、信玄上洛の意志について
>>299 以外の根拠は逆さに降ってもでないんだけど。
定説通り、死因が肺結核なら元亀四年の正月には、もう
死期を悟っていただろう五十三歳の老将。陣中ながらも
正月の祝い酒で顔を赤くする功臣達を眺めながら、その
胸中を「ワシのわがままにつきあわせてすまない。この
一挙で家の滅びを招くこともあろう。それでもワシは、
師父快川紹喜のお手になる風林火山の旗を都に揚げたい。
許せよ、皆の者。」という思いが満たした、なんてねw
役不足にだれも突っ込まない件
またまた長文、ごめんなさいね。
>>323 信玄が、義国の系統の足利と新羅三郎の裔である自分を
血統的には同格と、思っていたということですか?
あり得るとは思いますけど、桓武平氏の末裔たる長尾や
在原業平の裔を称する長野も、さらには小笠原も村上も
もちろん信玄自身も、血統云々を名分に統治の正当性を
訴えた史料は残ってません。戦国大名は幕府職制上の職、
位階体系上の官位には執心で、猟官活動は盛んだけど。
下克上が当たり前の「下りはてたる世の中」にあって、
血統なんて天下簒奪の心理的障壁にもならなかった、と
考えます。秀吉や家康がやったように。信玄が足利家を
追い落とすならどんな名分を考えたか、秀吉や家康より、
守護大名上がりだけにかえって難しいかも知れません。
御旗楯無をみるたびに新羅三郎の血統である事に誇りをもっただろうな
お言葉の通りです。
支配階級に生まれた中世の人間が、自己の血統を誇りに思わない
などはありえず、
>>333がそのように捉えられかねない、暴論に
近いことを認めて、
>>323さんにも謝罪します。
>>319 そんな事はない
信長の最大級の危機は尾張統一までと志賀の陣
岐阜移転からを天下統一の戦略構想の始まりとするなら志賀の陣が最大の危機
>331
いいなー
そういえば今回の大河ドラマ快川和尚が全然でてこないですね
>336
ちょっとググってみたけど志賀の陣は半端なくヤバイですね
信長の天下布武を一番打ち砕くところまでいってるのに朝倉もったいない
>>337 快川紹喜はもともと美濃崇福寺の住職で、最初は
弘治元年から一年だけ恵林寺の住持になってます。
大河は、天文二十年の夏になったところ。孫子の
旗も勘助の進言に依るみたいな設定でしたから、
未登場でもおかしくないでしょう。
ちなみに快川が恵林寺に再入山するのは永禄七年。
340 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 03:54:27
単なる田舎大名である武田を、
徳川、織田、豊臣と同じ土俵で語るのはおかしい。
何を錯覚してるのだろう?
>>302 ひたすら城攻めていると思うが
浜松など主要な城を攻めていないのはまだ攻めれるような
攻めても落とせるような状況ではなかっただけじゃないか
三方が原後は北遠江刑部一帯を制圧しているし、それから野田城と
山間部からじわじわと攻める気だったんだと思うが
>>304 何でそれで「おだて」とかは成立しないになるんだ?
武田に織田家を倒すという意思があるように見えない限り
反織田諸勢力も時間稼ぎなんてしないから
武田は口では信長を倒したいと言ってるだけじゃ
この時期武田は似たような手口で飛騨や越中の勢力にも
上杉滅ぼしたいから協力してと言っているが
342 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 11:10:39
くだらん
>>341 釈迦に説法でしょうが、時系列に見れば・・・
遠州刑部で陣を張り年越し、この間、十二月三日に朝倉が江北から撤退。
「此の節信長滅亡の時刻到来候処 唯今寛宥の御備 労して功なく候か」
と、例の激越な非難の書状は十二月二十八日付。年明け後、三河に入り
野田城攻略。信長包囲網が既に崩れいているのを承知しながら、浜松を
ほったらかしてさらに西進。朝倉撤兵は、信長が岐阜に兵を引いたから
可能となった。つまり当初の状況より、信長と戦端を開く時期が早まる
可能性がより強くなったのを承知の上での西進です。
これらを考慮し、さらには義昭の和議斡旋に対し、せめて三河切り取りを
願い出ることすらせず、「どうか信長、家康を誅戮するよう御下知を賜り」
たいという書状の内容から、上洛意志はあったと見る蓋然性は高いと判断
しました。「おだてなどは成立しない」は断定的すぎる表現だったことは
認めて、撤回します。
>>343 それは徳川ひきつけておくというアピールにも見える
今は徳川に集中して後ほど織田にも戦闘ふっかけるから後方で織田と合戦して釘付けにしておけばもっと
早く織田戦に参加できますよ、と言ってるようにも取れるな
345 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 13:41:39
今でも疑問なのが、三方が原で徳川家康を打ち破って、なぜそのとき
家康にトドメを刺さなかったのか?酒井が太鼓を打ち鳴らしたとか
いろいろ云われてるようだが、逃げ込んだ城に攻め込んでトドメを
刺しておくべきだっただろう 信玄、一生の不覚だな
>>344 2chでは長文が嫌われる傾向があるのは認めますが、
何を言っておられるのか、全く理解できません。
私の頭が悪いのは認めますから、もう少し丁寧に論理
的に説明してください。
>>346 他人馬鹿にする前にもうちょっと考えたら?
>>347 は?
解らないから解らないと、素直に聞いてるんですけど?
なんなら、あんたにお答えいただいても結構ですが?
>>343 それ反論になっているのか?
浜松ほったらかしはいきなり攻めても落とすことは難しいという判断からでしょ
西進したといっても攻めたのは野田城、普通に長篠から南に勢力圏を伸ばしたようにみえる
1571年に三河攻めた時とさほど変わらない
>義昭の和議斡旋に対し、せめて三河切り取りを願い出ることすらせず
信長と和睦して徳川を討とうというのは虫が良すぎるんじゃ
信玄自身家康を信長先手と称したことがあるが、織田徳川を切り離すことは難しいのでは
いずれは上洛する意思があったかもしれないが
>>344の言うようにこの時点では織田を畿内に釘付けするため
現時点での上洛意思があるように見せているだけだと思う
もし本当に信長と戦う気があるなら信玄自身が書状で言っているように
野田城よりも東美濃に主力をまわせばいいのでは
なるほど。
>>343で三河切り取りを持ち出したのは、上洛否定論の論旨が
「西進作戦は徳川領奪取が主目的」という論調が主であったと
認識していたもので、おっしゃるとおり、論理的には矛盾点が
ありますね。ここは撤回、謝罪します。
ようは野田城攻略後、懸如に義景再出陣を依頼したことも含め、
この時期の信玄の外交文書は全て、信長を畿内に釘付けするの
が目的、と言うことですか? 朝倉勢が再度近北に出張れば、
信長が岐阜からまた近江に戻ったと? 首尾良く信長が動いた
ら三・遠州、をいただくんですね?
で、三方原直後の家康でさえ「攻めても落とすことは難しい」
と判断したのなら、どういう状況になったら落とせるんです?
新たな援軍がどっかから湧いてくるとか? そのためになんか
信玄が動いていた、というような史料はあります?
あと、お時間有ったら
>>344をどう読んだら、「この時点では
織田を畿内に釘付けするため現時点での上洛意思があるように
見せているだけだ」と、解釈できるのか、解説してください。
>>350\.:.\: : : : : : : : :\:\ l:l: : : : : l l.:.:.:.:.:.:.l
\.:.\: : : : : : : : :\:\ l: l: : : : : :l l.:.:.:.:.:.:.l
\.:\ : : : : : : : : \:\ l: l : : : : : l l.:.:.:.:.:.:.l
\:.\ : : : : : : : : >‐┴―┴l: : : : : : ' ',.:.:.:.:.:.:l
ヽ.:.ヽ: : : :,. ',. ‐:'  ̄ ̄ `l: : : : : : :ヽヽ: : : : ',
ヽ.:.`,//: : : : : : : : : : :', : : : : : :ヽヽ: : : :ヽ
∨./: : : : : : : : : : : : : : ヘ : : : : : : ヽヽ : : : \
iレ: : /: : : : : : : : : : / ',\: : : : : :\ヽ: : : : ヽ
l:l: : f : /: / : : :/_,. -―t :`'┬t、∠_ノ: : : :.:.ノ
,.-‐,.l:l : :l: //: : / V : :|i:! ,- 、  ̄ ̄
. /.:/.:)l: : レ'___∠_ ___ ヽ: _j:(.:\.:\
/.:/.:, イf:l : lイ .ハvハ' ハvハ`l .l:/ i\.:\.:\ そういうこと。わかった?
,. -'´.:./.:/ l `l : l` 弋zノ ヒ;zノ. ' レ:) / \.:\.:`'‐ 、
-‐ ' 「.:.:.:.:.:.:.:.:,/ ヽ_l : l ム ノ \.:.:.:.:.::.:.:`T' ‐--
l.:.:.:.:.:.:.:.:`: ー――---、 ' /r---―――‐'.:..:.:.:.:.:.:.:.l
. l.:.:.:r‐、.:.:.:.:――――f\ 、__,. ,イ: l`r――――:.:./.:).:.:.:.:.l
l.:.:.:〉.:`ァ--‐― '¨Τ: :l.:.:>、 ,.ィ.:.:.:l: :l `¨ ' ――--f.:.:.l.:.:.:.:.:.l
-―-、.L___ノ Vl: レ-イ,_> - <_,!`<;l :ト、 ヽ____レ' '‐-
___r―----―――く ̄l: l. fl:: : : : : : : ::l! l: lー‐ァ――-----―、___
ノ ). V f`ー‐-―‐'.l V .f´
352 :
349:2007/08/24(金) 21:38:24
>>350 全てとは言わないな
何らかの変があれば上洛に変わることも十分考えていたと思う
でも当面は徳川への対処が優先じゃないかと
>朝倉勢が再度近北に出張れば、信長が岐阜からまた近江に戻ったと? (ry
武田側の理想はそうだろうな、そして徳川を滅ぼすなり降伏させるなりして
次の段階へと進む、現実に出来るかは別問題だが
>どういう状況になったら落とせるんです?(ry
もっと孤立させないと無理でしょ、もっと周りの支城落として三河との連結を絶ったりして
>信玄が動いていた
三方ヶ原後刑部井伊谷周辺などを征圧して、浜松浜名湖北方も支配
その後野田城を落として、三河遠江間の交通路は海路と東海道以外武田影響下としている
十分動いているように見えるが
>あと、お時間有ったら
>>344をどう読んだら(ry
日本語の説明なんてどうすればいいんだあ、そんな読めば分かるだろと思うが
この時点では=今は徳川に集中して
織田を畿内に釘付けするため=織田と合戦して釘付けにしておけば
現時点での上洛意思があるように見せているだけだ=徳川ひきつけておくというアピール
こんな風に説明すればいいのか?
344にはもっといろんな意味が含まれているかもしれないが
まず信玄にとって一番避けたいのは織田主力との合戦。
これは兵力差から考えると当然であると思う。
例えば浜松攻めなかったのは自身の健康と江北戦線の状態から浜松攻めてる間に織田の援軍が来たらたまらないからと推測される
しかしここで退却したらやる気が無いと思われても仕方がない
ここでどうすれば西方諸国にやる気を見せて主力が来る前に退却出来るか考えると西進した方がいいという結果になった
もしもここで西方の大名が再び織田軍主力を釘付けにしてくれれば戦闘続行、来なければ信濃から退却し、何事も無かったように逃げ切る
信玄としては自分が生きている間にできるだけ領土を増やしておきたかった面もあるだろうし、西方には頑張って欲しかった
と自分が信玄の立場だった状況で孫子を元に考えてみた
自分自身信玄でないし、実際は違うかもしれない
漏れにはその周辺の史料からこう推測できたが、実際はどうなんだろうな
>>352 いろいろとご教授感謝します。
>>344も、なるほど
そういうことかと納得できました。
>全てとは言わないな
>何らかの変があれば上洛に変わることも十分考えていたと思う
この一言で、長々頑張ったカイもあったと感じてます。多謝。
355 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 04:10:29
また信玄厨の創作劇場が始まったな
356 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 11:16:32
357 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 00:27:42
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
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/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....|
l:,;'"`'、, . ,;ィェ、.. ,rェ;〈
. ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン .., .:::'''"゙,
l;゙、',.::l;;;i r ヽ. l, あぁ^〜夏は下痢糞しか出ないからたまらねえぜ
l;;;;`‐;;;;;ヽ . './'ー'''ー‐' ', l;;;,,
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:'
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"  ̄二´ `ノ;;;;;`-、
:.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l `
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:.:.:.:.| ヽヽ `'---‐'" .// ! |
358 :
日本@名無史さん:2007/08/28(火) 00:35:25
畠山義続じゃない?
本を当ったところによると駿河を征服した後に東進論と西進論とあったみたいですね
織田と同盟を継続した状態で武田が東進した場合どうなっていたでしょうか?
361 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 00:14:04
多分北条と泥試合になっているうちに、結局手打ちになって
西へ進むしかなくなる気がする
362 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 00:25:48
>>360 武田の駿河侵攻で頭にきた氏康がすぐに武田軍を攻撃しているので、
東進論も西進論もないだろう。
363 :
日本@名無史さん:2007/09/08(土) 19:56:51
364 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 18:20:42
あの傲岸不遜な信長が、武田に対しては異常な恐れを持っていた
だから信玄生存時には多額の贈り物をしていた
家康も一度は武田に手痛い目に合わされている 武田を軽く見るのは間違い
はいはいわろすわろす
366 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 19:37:31
武田なんて雑魚じゃん
信玄は若死にしてその馬鹿息子は逃げたあげく自害、
そして滅亡・・・
織田、徳川と同列で語るなんて500年早いぞ
367 :
日本@名無史さん:2007/09/10(月) 20:47:21
追放された信虎は駿河から京に移って後も 天下の情勢を息子に
書き送っている。
親バカといえばそれまでだが、信虎・晴信父子には不思議な絆が感じられる。
368 :
日本@名無史さん:2007/09/11(火) 12:48:22
ランク
A 徳川 織田 豊臣
B 北条 今川 毛利
C 上杉 村上 長野
D 真田 武田 小笠原
369 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 14:08:17
ださいよ、信玄、ださいよ
繧ャ繝√?帙Δ縺」縺ヲ蝎ゅ′縺ゅk縺梧悽蠖薙°?シ?
371 :
日本@名無史さん:2007/09/15(土) 15:14:10
ランク
A 今川 武田
B 小笠原 毛利 村上 諏訪
C 上杉(長尾)織田 真田
D 徳川 北条
猿 豊臣
373 :
日本@名無史さん:2007/09/16(日) 01:09:51
A 徳川 織田 豊臣
B 上杉 村上 真田
C 北条 今川 毛利
D 小笠原 諏訪
・
・
・
Z 狸 武田
374 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 12:30:13
>367
源氏はどういうわけか?一族同士で内ゲバをやる
頼朝 VS 義経
信虎 VS 信玄
内ゲバが活力の源になっている点もあるが、他氏族より内ゲバが激しい
現代では家庭内暴力は源氏の家系に多い?つうこともないか?
ドイツなどでは内ゲバはないというが、日本的つうか源氏的つうか・・・
別に源氏だから仲間ということはないし。
同じ一門なら利権争いのネタは絶えないし。
暴れ者同士なら尚更のことで。
古くは義朝 VS為義や頼賢や為朝など
義賢 VS 義平
義綱VS為義 なんかもそうだね。
あと、
源義親
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E8%A6%AA によると
源氏を継いだ、源為義と他の兄弟とは不仲であったようで、
他の兄弟は保元の乱、平治の乱をはじめ、
その後の、源氏の挙兵にも一切参加せずに、都にあって官僚の道を歩んだ
。地方の長官になっても源為義与党としての行動をとらなかった。
また、源為義が低い地位で地方の長官にもなれなかった時期にも、他の兄弟は高位につき、
長男、源義信は従四位下まで登っている。となってるね。
377 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 21:43:11
いや、源氏の内輪もめは異常
378 :
日本@名無史さん:2007/09/19(水) 22:07:33
一族で仲良く昇進し、仲良く滅亡した
伊勢平氏に比べたら、
河内源氏〜鎌倉将軍家の殺しあいぶりは異常だな。
379 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 13:50:38
「骨肉、相食む」「一族の血を血で洗う抗争」
なんだか、兄弟間がライバル関係つうのを感じるね
我が身を、振り返ってそう思うよ まあ清和源氏だから仕方がないか・・・
決して平和的な氏族ではないが、内ゲバを続けることで戦闘力を保持できた
氏族ということは言えるかもしれない 他氏族から見たら異常だろうな
380 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 15:42:41
仲が良すぎる平家一門が武門と家としては異常
381 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 15:57:12
・織田信長=同母弟織田信行を殺害
・豊臣秀吉=甥豊臣秀次を切腹させる
・徳川家康=息子松平信康を切腹させる
・武田信玄=息子武田義信を切腹させる
・伊達政宗=同母弟伊達小次郎を殺害
戦国大名にとって、一族殺し合いは、お家芸。
義龍も親父と戦ったな
織田信雄信孝も兄弟同士だし
今川義元もそうか
383 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 18:02:14
源氏は異常
おい、みのもんたがなんかスゲエこと言ってるぞ。
385 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 22:04:24
武田信玄と家康が親子…
ありえない
よね?
386 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 22:07:35
だっぷんは?
親子で死に物狂いの戦いかい?
ムチャクチャだ。
387 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 22:13:48
あまり有名ではなく地元浜松のひとでも
あまり知らないが、例の家康ウンコが市内の
神社に納められている
388 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 22:29:15
>>387 DNA鑑定すれば
本物かどうか確かめられそうだな
389 :
日本@名無史さん:2007/09/21(金) 22:35:36
>385
見てたけど無理ありずきな展開だったな
お大=ネヅ夫人?花菱は信玄特化の家紋という段階で
もう笑うしかなかったよ。無理ありすぎなせいか
後半かなり強引にまとめててだったら最初から無理に
放送することもなかっただろうにと思ったよ。
さすがにネヅ夫人に関しては米沢武田家から
クレーム出るんじゃね?
390 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 02:45:29
さすがは何もかも誇大妄想の武田信玄厨
391 :
日本@名無史さん:2007/09/22(土) 19:00:11
武田の特長は構想力の大きさ
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| まず、駿河を手に入れて港を確保し、琉球と結んで広く
| 交易を行って富を蓄える。さらに謙信を倒して、
| 越後の港を手に入れ、そこから支那へ渡り、
| 女真と結んで、大明国を滅ぼし、韃靼を経て天竺を制し、
| 天竺から波斯を制して、西班牙、葡萄牙までを版図に納める。
| しかるのちに産業と貿易を大いに振興して財力を兵力を蓄え、
| 朝鮮を制圧し、そこを足がかりに九州を、中国を制圧する。
| そうすれば、駿河と中国から信長を挟み撃ちにできる。
\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
O
o
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、 。
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/ ヽ
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:.:.:.:.| ヽヽ `'---‐'" .// ! |
393 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 14:32:20
明治維新は、
徳川の家臣になった武田残党 VS 諸藩に散った武田残党 の一騎打ち
今度は
官についた武田残党 VS 野に下った武田残党 の一騎打ちになりそうだな
面白くなりそうだ
信玄公にも、お楽しみあれ
394 :
日本@名無史さん:2007/09/23(日) 23:47:32
>392
ワロスw
396 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 02:51:13
392は全然面白いとも思わなかったが、
394で不覚にもワロタ
397 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 07:57:53
大河ドラマて、、
ドラマなんだよなWW
良く考えたら
398 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 08:06:06
春日源五郎 虎綱 (高坂昌信) 1527−1578
始め春日源助、源五郎。元服して春日虎綱。
武田家四名臣の一人。春日弾正忠虎綱。高坂弾正忠昌信。
本名の春日姓で出仕し、改名して一時(香坂)高坂姓、後日また春日の姓も名乗っているため春日と高坂名が混在しています。
甲斐、石和の農家春日家に生まれ16歳で武田信玄の奥近習となり、使い番、侍大将を経て川中島の合戦時には信濃海津城の城代。
地下人(農民)出身でありながら譜代の家臣を抜いて一代で9千貫を領する重臣にまで取り立てられた武田家家臣中一の出世頭です。
春日源五郎は初め信玄の近習として仕え、格別に寵愛されました。 信玄が近習の弥七郎に手を付けたとして源五郎が腹を立てたのに対し、
「弥七郎には言い寄ったが腹痛持ちなので断られた。今までも弥七郎を伽に寝させたことは無い。これからも無い。そのように疑わないでくれ」
となだめたり言い訳している信玄の誓詞が現存しています。
永禄4年の川中島合戦では、海津城の城代として上杉謙信の出陣を甲府の信玄へ知らせ、城の守りを固めて攻撃に備え、戦闘時には本隊
から離れ妻女山を迂回する別動隊として働きました。
一時敗戦の色が見えた信玄を危機一髪で助け、合戦後は戦場に倒れている屍を敵味方の区別無く手厚く葬り、
上杉方の遺品も回収して越後へ届けたといいます。
上洛途中で信玄が亡くなり、その後家督を継いだ武田勝頼を重臣として支えましたが、勝頼主従とはそりが合わず疎まれることもありました。
長篠、設楽原の対信長、家康戦には参戦しませんでしたが、大敗を喫し逃げ戻った勝頼を迎え出て、用意した武具や服に着替えさせて
敗戦の惨めさを領民へ見せないように配慮しています。 川中島の戦後処理といい温厚で気配りの良い人柄が偲ばれるエピソードです。
399 :
日本@名無史さん:2007/09/24(月) 20:12:09
花菱紋の紋様がインドの城の城壁にレリーフで残ってるよ
場所はインドの北部、釈迦が最初に説法をした土地の近くの城だ
ある神主に「うちは隅切角に花菱が家紋だ」と言ったら「それは神紋だ」と
言われたことがある 武田も遠祖はインドあたりから渡ってきたのかな
400 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 12:00:16
花菱アチャコ
401 :
日本@名無史さん:2007/09/26(水) 20:14:15
猛将勝頼のスレが無いんだが・・・
>>401 武田家が滅んだ時の当主だからなあ
それに何かと晴信が有名だし
もう、しょうがないだろ、人気が無いのは
404 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 10:32:24
武田信昌 義父を殺して実権掌握
武田信縄 実父と弟をクーデターで排して実権掌握
武田信虎 叔父二人を族滅し義父を隠居させて実権掌握
武田晴信 実父を追放し傅役を抹殺して実権掌握
武田義信 実父を排除しようとして失敗、自殺
上に従わない国人の利益を調整していないといけない
甲斐という土地のお国柄なんだろうけど国守は大変だ。
405 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 02:37:48
>>402 もしタイムスリップして勝頼の脳内に憑依してしまったら、
勝頼を動かして謙信と和を結び、甲、相、越の新三国同盟を締結、
同盟軍の一員として織田を攻め、織田・徳川を滅亡させる。
406 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 22:42:01
北条。上杉どちらにもつけない三国にはじじょうがあった。
>勝頼を動かして謙信と和を結び、甲、相、越の新三国同盟を締結
あの時代の武士は物理的なパワーバランスのほかに「面目」というきわめて重要な
バロメーターもあるからなぁ
謙信の場合はそれがより強いなあ。
まあ逆に、面目や大義名分で吊れば、さしたる実利を与えなくても、
利用にできるという面もある。
謙信はあれで利害に聡いよ
北条と同盟を組んだ時も共倒れを見越してか
北条が幾ら頼んでも武田の牽制をしなかった
なかなか戦国大名としてしたたかな面も持ってる
>>402 おおっ!あったのか。サンクス。
若干違うジャンルの人間が・・・w
411 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 17:05:42
ドキュンからバックアップうけている反日本記事捏造のアサヒる新聞。
恥ずかしくて公共の場では読めない新聞。
412 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 15:25:02
猛々しい武田がボツボツ登場すべきではないか?と思われ
有名な大盗賊、武田猛もボツボツ登場すべきではないか?と思われ。
414 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 21:16:28
信玄ダサすぎ
武田二十四将ショボすぎ
415 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 13:49:55
日本の成功者てのはよくよく調べるとみんな盗人名人だからな
盗賊だといって、別に恥じる必要はない
盗人名人は成功者、下手なのが監獄へ、ということよ
416 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 23:41:40
信玄のやり方は汚いとはいえない。
憲法とかのない時代だからな。
あの時代の武将としてはもちろん有能な部類に入る。
417 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 06:33:37
姑息な武将というのがピッタリ
418 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 14:46:46
だがそれがいい
織田信長がリスペクトしてる人物が斎藤道三と武田信玄じゃなかったか
420 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 17:35:52
信玄厨必死だな
421 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:22:22
信長は信玄を恐れに恐れていたという感じだな。
とにかく戦うのは避けようとしていた。
信長は、戦うものとは戦う、勝てないものとは戦いを避ける。
信玄に足りなかったのは、時代の先を見る能力だな。
422 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:41:33
423 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 09:36:26
424 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 19:53:56
テレビに武田信玄公から17代目の若様がでてた
425 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 20:22:30
竹田震源
>>421 信玄は自分の軍が絶対優勢じゃないと戦わない人ですよ。
そういったギャンブルに走らない点は流石といったところ。
上洛軍を起こしても、朝倉の援軍が絶望的になると進行速度を落として
早々甲州に引き上げてるし
>>421 ×信玄を恐れた
○多方面作戦になるのを恐れた
428 :
日本@名無史さん:2007/11/01(木) 02:07:35
信長が一枚上の次元にいるな
信玄は後世の歴史評論家から過大評価されてるね。
戦下手で政略・外交も下手で、もし評価されるとしたら
@甲州法度之次第 制定
A信玄堤
くらいかな?
武田騎馬軍は無かったとされてるし、駿河手中後に編成された水軍も大して生かせなかったし
信玄の場合、同盟→一方的な破棄というパターンが多過ぎる感はある。
そのため確かに領土は増えるけど、いらん戦いも増えていってる気が。
>>426 ×優勢じゃないと戦わない
○優勢ですら勝てないこともある
晴信が凄いと思うのは、甲斐国の3倍の面積の信濃国を制圧した事かな
越後に長尾景虎がいなければ上洛して天下に号令をかけてたな
謙信居ようが居よまいが越後の他の大名に阻まれて終わりだろ
謙信だってそんな軍神と呼ばれるほどの化け物じみた采配なんぞ見せてないわけだし
434 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 09:42:26
信玄は明らかに過大評価だね
戦い方がかっこ悪いし
武田二十四将も大したことないしw
435 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 10:00:32
上杉も武田も北条も東国の英雄
436 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 11:49:51
同意。
割拠した英雄かな。
いずれ大打ち込みを受けて滅亡は必至。
信長は少し異常だな。信長が出現しなくても信長じみたヤツが出現して機内制圧に成功。圧倒的な経済力で
周辺を切り取ってゆくだろうな。
僻地だよ。甲斐は
437 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 20:48:39
武田信玄が幾ら名将でも、あの甲州の山の中では、
どうにもなら無いだろう。
ドライブが好きで実際、長野、甲府に行ったが、ホンと山の中
あの山の中では、大兵力を養う生産力なんて期待できない。
軍にしても、武田が有力国人の寄せ集め+農民の徴兵。
圧倒的なカリスマを持った信玄だったからこそ、まとめられた
ようなもんで、それが無い武田勝頼には、戦略を立てても、
実務上はコマのように配下武将を動かす事もままならなかっただろう。
それに対し、信長は、圧倒的な経済力を背景にした傭兵集団。
それに、軍団長である武将の指揮権が圧倒的に強い。
たとえ、軍が壊滅しても、圧倒的な経済力を背景に再軍備。
地の利は如何ともしがたいと思う。
晴信が天下取れなかった理由に、駿河に今川、相模に北條、越後に長尾と東国が強豪ばかりだったから
おまけに信濃を侵略したら、小笠原・村上・笠原・諏訪などと戦い、服従と裏切りを繰り返す小豪族との戦い・・・
国内は、兵力が消耗しきり商人や農民には重税を課せていたりと順風満帆ではない。
そこが京に近い信長のいた尾張との大きな違いであると思う
439 :
日本@名無史さん:2007/11/05(月) 21:37:26
信長は疲弊した機内でなく尾張という豊かな準先進国で生まれたから台頭できた。
飛躍できたのは地に恵まれていたから。
信玄は古典的名将。
農業生産力が高い濃尾平野があって、津島での水運業による税徴収によって莫大な財力を蓄えた事が、織田信長が天下を取れた事と関係してるんじゃないか?
441 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 00:55:28
442 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 13:31:18
甲斐という山国が信玄の代に駿河や信濃を攻略した。信長みたいに経済基盤があるわけじゃないのにすごいよ
勝頼は侍大将として良いね
445 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 11:29:55
>>443 そんなにはスゴクない。駿河に関しては、信玄は当時は織田と同盟し、
織田を通じて徳川とも盟約し、共同作戦で今川を攻撃している。それでも駿河制圧に2年かかった。
同盟してたのに急に反信長の盟主的な存在になり、徳川を攻撃したり美濃の岩村城を攻略されたりして、
信長は大激怒、謙信宛の書状で「信玄の行いは前代未聞のひどいもので、侍の義理を知らず、日本中の
嘲笑を顧みないものだ。遺恨は幾重にも重なり、尽きることが無い」と感情をぶちまけている。
信濃に関しては小大名が分立し、強大な勢力が無かったので侵略できて当然。
(それでも兵力が少ない村上に敗退したりしてるけどね)
446 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 12:34:07
武田信玄、金山
毛利元就、銀山
447 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 12:44:41
人口も少ないし
そのほとんどは
農民だろ。
信長とは基盤が違いすぎる。
優れた人物だが
いずれ大打ち込みをうけて滅亡は必至。
実際に滅亡したし。信長と感覚が違う。
もしもを語るなら
信玄があの時点で死ななくて進出したとしても一度の会戦では勝利したかもしれないが
やがてじり貧になり撤収を余儀なくされただろう。
そして大打ち込み。
448 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 23:15:42
信玄はやり方が古すぎる。
農民中心とした軍事力では上洛などできるわけがない。
信玄が天下を取れた可能性はゼロ。
信長は兵農分離を不完全ながら実現した。
そして商業政策を盛んに行った。
これでは大きな差が出て当然。
信玄の周りが敵ばかりだから上洛できなかったというのは歴史の素人の言うこと。
信長の周りも敵ばかりだった。
449 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 01:56:34
と、ど素人が語っておりま。
450 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 02:49:50
>>448 それは極端だな。勿論信玄が天下を取れた可能性はある。
当時信長は約400万石とはいえ、伊勢長島、本願寺と国内に敵対勢力をかかえて
兵を貼り付けざるをえず、浅井、朝倉は健在、三好も敵対していて、信玄に対して兵力を集中できない。
いくら優れた経済力や先進思想を持っていようが、軍事で決定的な敗北をすればその時点で信長はアウト。
また、兵農未分離と言っても五十歩百歩、信玄、謙信などでも兵をひきいて出陣し、4〜10月の農繁期の間、
ずっと帰国しないこともある。だいたい、村から根こそぎ動員してしまったら
信玄単独でも20万以上の軍勢が動員可能だw。
451 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 02:55:16
20万は言い過ぎだろ。秀吉くらいからだろ。
>>445 その2年の月日のほとんどは強力な北条相手の戦いで
今川自体は一ヶ月であっさり武田にやられて駿河から追い出されてるのを
なんで隠すのかね、この人は。
さらに書いておくと、信濃の大名だって小大名が多かったがそれでも武田だって
そこまで大きくは無かった。信濃の連中だって随分連合して武田に向かってる。
信長だって滅ぼした相手はほとんどが自分の勢力の半分以下がほとんど。
比率で言えば武田と大差ない。
453 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 04:18:16
信長は徹底的な理系頭脳。
信玄とは比較しようがない。
いずれ大打ち込みは必至
さっきから必死に信長と信玄に差をつけようとしているのはなんなんだ?
信長と信玄もどっちも優秀な大名で環境からその取った政策や勢力の伸張が
違っただけだろ。なんで無理に差をつけようとするんだか。
455 :
日本@名無史さん:2007/11/08(木) 05:16:21
信長と信玄の違いがわからない?
とりあえず環境による政策や戦略の違いくらいしかわかんないな。
信長のやってることなんて大抵先例がある事ばっかりだし。
>>454に同意というしかないな
最近は信玄を必要以上に過大過大と殊更に貶めつつ信長を持ち上げて
いっぱしの通をきどる奴も多いし
信長厨の愉快な主張
信玄が国力2分の一以下の村上に苦戦した場合
ぷっw信玄弱すぎw
信長が国力2分の一以下の朝倉浅井に苦戦した場合
朝倉強すぎ!朝倉義景は過小評価されすぎだよ!名将だよ!
ちなみに村上が小笠原その他と連合していたけどそれらを加えないのはサービスです。
信玄厨が故意に一向宗とか三好三人衆とか六角ゲリラを加えないのはサービスです。
>>459 まあそういった連中を信長側に加算させるなら
信玄側にも他の信濃豪族連中を加える事になって
結局「苦戦しても仕方ない比率」とやらになるんじゃないか?
信長厨が信玄を叩くのは確かにダブスタな気がするわな。
>>460 いや、信玄厨が叩く時には信濃の豪族は出すのに
>>459は出さないねって意味で書いたんだけど
信玄は隙を伺って攻めて大敗、信長は裏切りに合って危機とかの問題点もあるがな
そういえば、最近読んだ本に武田の騎馬隊は嘘だったと書いてあった。
当時の馬の大きさは、ロバほどしかなくそれに、騎馬隊の割合も
諸大名に比べて高いわけではなかったと。
あの本は信頼できるもんだろうか?
>>461 問題点っつーか朝倉に普通に志賀の陣とかで痛い目に合わされてるだろ。
裏切りにあった事だった免罪符にはならないだろ。
そんな事いったら武田だって板垣が油断して戦場のど真ん中で首実検するなんて
非常識な事しなけりゃ負けなかった可能性は高いぞ。
村上に押し込まれた後も反撃して村上方の将を結構討ち取ってるしな。
志賀の陣では文字通り信長は八方ふさがりだったからな。
志賀の陣は言い訳できんわな。信長の完敗だ。ありゃ。
>>462 騎馬兵の使用自体はあるよ。
当時の馬の大きさは現代のサラブレッドとかにくらべりゃそりゃ低いけど
モンゴル帝国の馬だってそれくらいだった。
戦闘用にちゃんと訓練されてればそれくらいの馬だって十分に戦場を駆け抜けられる。
そもそもサラブレッドなんか戦闘用には使えない馬だし。
ただ武田の騎馬武者の比率が他家より大きいわけではなかったのは事実。
でも武田の領土は名馬の産地を多く保有していたのも事実。
騎馬率は
北条が11%で武田が8%だったと思う
今「由布姫 ゆかりの地」で検索したら諏訪家の最後が紹介されてた武田2万が来たとウソばかり。おまけに「8騎を討ち取った」と大アピールだ
信玄自身の指揮の責任が問われるのは砥石だけだと思う。2敗のうち1敗は板垣のせいで奇襲くらった
469 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 17:31:04
騎馬隊(騎馬のみ)の例は戦国時代で一例のみあるね。
騎馬隊を単独で編成し小笠原長時を急襲した塩尻・勝弦峠の戦いくらいだろう。
騎馬の集中運用はそれくらいか
騎馬隊の集中運用することは各家の惣領を集めて部隊を編成することになるが・・・
実際はそんな危ない真似は出来ない。
戦術ユニットである「備」には普通に騎馬隊があるんじゃ?
473 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 00:20:52
>>
騎馬のみを集中運用するのを騎馬隊とすれば、それは騎馬隊とは言わないだろう。
>>473 でも実際に騎馬をそろえて備で使われてるわけで。
各家の惣領を集めた運用っていうわけじゃないのでは。
なんで武田信玄=最強騎馬隊
勝頼=長篠で馬でパカパカ突進して鉄砲にやられた=時代遅れのバカ
というようなイメージになったんだろ
>466-476
あの本も一研究者が書いた本だから、100%信用できないけど、
少なくても、あの本を見る前は武田騎馬隊=中世無敵の騎士軍団みたいなイメージが
有ったんです。NHKでも、サラブレットを使って火縄銃の有効射程距離を何秒で駆け抜けるか
やっていたぐらいだから。
火縄銃にしたって、ヨーロッパではクレシーの戦いで、無理な突撃をしたフルンス騎士団が
壊滅的な打撃を受けているし、別に3段式でなくてもいいんですけどね。
モンゴルが使っていた馬もロバ程度だったとは、今はじめて知りました。
本当に何でもかんでも、疑って掛からないと駄目ですね。
479 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 09:46:18
クレシーの戦いの時にはまだ火縄銃はありませんよ。イングランド軍の長弓です。
480 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 11:08:15
>>476 最近は武田信玄自体そんなに強くなかったというのが定説
小説で作られた虚像ということになっている
騎馬隊もでっちあげ
>>480 >>最近は武田信玄自体そんなに強くなかったというのが定説
どこの誰による定説なのか詳しく。
甲斐一国から百万石を超える領国を作り上げた人物を強くないとかなにそれ。
>>476 武田は山岳地帯に慣れた馬を数多く保有し、それに多くの荷物を運ばせて
小荷駄をつくり、山岳地帯における高い機動力を確保したという説がある。
武田の領国内に名馬の産地は多いしその効果もあったのかも。
んでそれらによって出来た武田の騎馬は強いというイメージや風評が江戸時代に
なって講談によって拡大した。
史実として長篠では勝頼は兵力圧倒的劣勢にも関わらず織田・徳川の厳重な陣地に
一日中突撃を繰り返すという事をやって壊滅している。
これを端的に説明するのにも「武田には突撃力において強力な騎馬隊があり、それに
自信を持って突撃したけど信長の鉄砲戦術に敗れた」という説明はわかりやすく、
そういったイメージが定着していった。
>>480 私の尊敬する武田晴信になんてことを。山国の甲斐が駿河侵攻し領土化・小田原攻めをしたり途上の峠の戦いの山岳戦で勝利を収めた。素晴らしいことじゃないか。
駿河攻略に2年もかかた→それは北条が予想外(想定内だったかもしれんが)に今川に援軍を出し家康と連合になるのを恐れたからだ。損害が予想される連合軍と戦わず一人ずつ敵を倒していくのが素晴らしい。
信長厨へ…あなたの尊敬する人は高天神城が武田に攻められたとき、恐怖のあまり兵を出さなかったしようやく出陣しても牛のような進軍速さでしたね
武田信玄も上杉謙信も言われるほどは強くなかった
だけど貶されるほど弱くもなかったのは事実
こんな所じゃね?
流石に弱かったらあそこまで勢力は拡大できないのも事実だしな
失策っぽいものはかなり多いが
失策っぽいものってどんなん?
史実の武田って随分手堅い戦略で着実に領土を広げてる感じだけどな。
その分爆発的な拡大が無かったのは事実だけどそれって失策か?
戦国時代において国力にあわない領土拡大をしたからって失策にはならないと思う
489 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 18:05:21
>>484 それは高天神城救援と見せかけて、実は長島一向一揆
征伐に向かうためだったんじゃまいか
490 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:46:13
>>490 なんだこの記事?中学生がいたずらで書いたのか?
義信事件と今川攻めは最大の失策に入るんじゃまいか?
もし今川攻めを失策としないなら、今川攻めてる最中の徳川への攻撃は失策以外の何者でもない
今川攻めはそもそも今川自身が武田と織田の同盟を見て不信感を抱き、
上杉とかとも組んでいたからいづれやらなきゃいけなかった。塩止めもされてたし。
徳川への攻撃は確かに失策。でもちゃんと取り返したけど。
基本的に晴信は「同盟=破るもの」みたいな感じの施策が多い気がする。
騎馬隊については、何とも言えないらしい。「千人のうち数騎」みたい
な記事もあれば、「小幡勢は馬の功者なり」「つづいて乗り入れ」という
記述も「甲陽軍鑑」にはあるというし
戦国時代だしねえ。陰謀裏切り当たり前の時代。
氏真は最初の頃は武田との同盟を強くし西に目を向けたかったらしいが信玄は三国同盟破棄したからな
失策といえば北条との戦いは100%無駄だったね。両者とも利益なし
氏真は義元が討たれた後、織田に弔い合戦をしようかとか考えなかったんだよね
結局、氏真を見限った松平などの小豪族が織田についてしまったし
>>498 その為に大幅に時間を取られたのも事実
その時の箕輪城代も討ち死にしてるし
まあ豊かな駿河を取るのに2年くらいですんだのは早いペースといえんでもない。
北条が出てくるのはある程度必然でもあるし。
駿河は取れたものの結局西方作戦直前に再度同盟
武田は北条が駿河攻略に一定の理解をするではと少し希望があった。武田は北条を度々救っているし。
2年かかたのは家康と北条が一体となり武田と戦うのが危険すぎるから。とりあえず抑えをおいて一旦下がってまずは北条を潰す、そしたら家康なんてちょろいものだ。
被害が予想される連合軍と戦わず一匹ずつ叩くのが勝頼と信玄の違いだな。
信玄は1571年1月にに北条の駿河においての重要拠点である深沢城を攻略した後
2月から上杉と組んだ徳川に対して侵攻作戦をやってるんだよな。
山家三方衆を服属させ、足助城、大沼城、田代城、野田城を攻略し二連木で
徳川軍を撃破したりと文字通り鎧袖一触だったんだよな。
高天神を攻略できなかった事がよく言われるけど先に進むことを優先した結果であって
高天神を放って進軍して上の戦果をちゃんと挙げてるし。
1571年の徳川領土侵攻は吉田城にも放火してるな。
家康が間一髪で吉田に先に入って守りを固めたから武田軍は攻撃をやめたけど
下手すればここで吉田が攻略されて徳川領分断の危機だったな。
大河ドラマ
義元死んだ〜
505 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 00:13:46
駿河侵攻で貴重な時間を浪費したことは確かだな。
氏康は越相同盟を維持するつもりであり、氏康の再同盟遺言説は最近では否定されているので、
もし氏康が死んでいなかったら、まだ信玄は駿河あたりでうろうろしてるだろう。
しかも、駿河侵攻は嫡男武田義信と義信派の飯富虎昌らを粛清する事態になってしまい、
家中に亀裂(信玄在世中は表面化しなかった)を生じさせたことが大きく、
その亀裂は後年の長篠の戦いでの御親類衆の勝手な戦線離脱や、
武田征伐時の武田信廉の大島城放棄、穴山氏の裏切りなどに現れる。
なにも駿河に侵攻しなくても、後年岩村城を攻略した路線で美濃制圧、
ひいては上洛を目指せばよかった。
海が欲しかったんだろうな
氏康は武田が攻めてくるたびに上杉に支援を要請するが無視されるし、関東での争いでは互いが敵だから上杉自体を良く思っていないだろう。対武田に対ししか使えない同盟。
一方中央(関西)では着々と時代が動いている。田舎(関東周辺)での小競り合いなんてせず進出を目指せば良かったのにというのが私の結果論です
つか氏康が死んだらさっさと同盟が結ばれてることからして
北条内部じゃ全然動いてくれない上杉に対する不満は大きかったんじゃないかね。
信玄と組んだ反北条勢力との争いも厄介だし、それに集中する為にも北条は
武田との再同盟を選択した。氏康もいづれはその結論に行き着いたように思えて仕方がない。
氏康でもすでに家督を継承している氏政や家臣団の意思をいつまでも無視できないだろ。
508 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 13:29:26
うむ。氏康の再同盟遺言が無かったとしても、上杉が全然あてにならない以上、頼めば共同出兵してくれて頼りになる武田との再同盟論は北条側にもあったと思う
509 :
日本@名無史さん:2007/11/13(火) 14:08:05
越相同盟は上杉の力をたよりにしてきた北関東の中小大名にとっては大衝撃だったが、
謙信にとっては北条を攻撃しないだけ有難く思えということだろう。
ただ、このおかげで謙信は越中の平定に集中でき、同盟の翌年に富山城を攻略している。
武田は北条が小田原攻めにあったときに越後国境で大暴れして上杉を驚かせたり上野を一緒に攻めたり氏康を何度も救っているよ
大げさかもしれんが河越夜戦も武田が今川との仲介をしてくれたらこそ勝てた。
再同盟後すぐの信玄の西方作戦にも援軍を出しているし北条にも武田に恩みたいなのがあったんだろうね。氏康が駿河攻略時に今川に援軍を出したことを考えると氏康が死んだからこそ再同盟ができたとも考えられるな
後の天下人・徳川家康にも戦の何たるかを教えたし、偉大な武将だな
>>510 越後国境だっけ
碓氷峠だったと思うけど
この頃はまだ箕輪城は健在だったし(業正死後も武田を追い払ってるし)
上杉が慌てたというのは本当なんだろうか
小田原城の解囲後(鎌倉で就任式〜古河城の始末〜病気の療養)の動きを見ると
それほど慌ててるようには見えない
513 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 20:50:57
, -───-= 、
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」;;;;;,′ -≧y__j _,._ 、',、__ ; ;、__,_ `` | 武田信玄は高坂弾正を愛しています。
ハ;;;′ { ゞ 、 ', _| /
いリ ` |,, ', / 世界中の誰よりも
(_ノ ´ y、ュ .! / | ヽ、///// /
i ,T三ゝ| .! └- /
l .:;;;' ニニ´';:;, ! i_,i /、
, イ', .:;:.:;:.:; '゙゙゙゙゙''. :;:;.:;.. ,′ ∨ /ノ.:.\
''"´ ヽ .:.:;:;:;:;;;;;;;;.:.:;:;:;;;;' /'ヘ ,//.:.:.:.:.:.:.\
ゝ、、 .:;:;:;:;:;;;;;;;;:;::'′, ':.:| `ー-= - /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.\
``ー-----‐'''゙゙´.:.:.::| `ヽ /.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.::ヽ
514 :
日本@名無史さん:2007/11/19(月) 14:26:53
昨日の大河ドラマの最後の事件って事実?
鎌倉での関東管領就任式は三月
その後、古河城に居た近衛前久が政虎へ宛てた六月の書状で
成田長泰は人質を出したが箕輪は出さない(上杉文書)と報じている
よって打擲事件で成田が北条方へ寝返ったというのは嘘
成田長泰打擲事件って歴史の捏造
上杉政虎が長泰の烏帽子を打ち落としただけだから
十分に無礼
519 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 20:53:57
武田信玄は天下統一を目指したの?
それを示唆する一次資料はある?
>>519 天下統一かは知らんけど義昭助けて信長倒して上洛して天下静謐の馳走をするとは
書状で述べてる。
大河ドラマ1561年で終わるなんて悲しいな
522 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 15:22:11
だがそれがいい
確かに
駿河奪ったあとから見ると川中島で失われた4000の命は?ってことになる
川中島の戦いの意味がない
524 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 16:42:54
勝頼は信勝の後見人、という話は甲陽軍艦だけの話と思っていたら、
長篠城史跡に行ったら、遺言状が残っていた。
あれって、後の時代に作られたもの?
525 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 19:05:14
秀吉も、北信濃四郡のために五回も川中島の戦いしたは無益な戦だったと酷評している
今 大河にいる 香坂って奴さ、長篠で負けた勝頼に着替えを用意した人?
527 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 01:26:36
信玄の恋人
信玄って同性愛者なんですか?
戦国時代はバイセクシャルが多い
530 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 22:05:10
531 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 23:28:16
>>525 越後や駿河に進出して上杉や北条と無駄に戦うよりは、
美濃に向かうのが正解。
532 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 19:15:18
歴史全然分かんなくて申し訳ないんだが誰か教えてくれ。
武田家滅亡って全滅なの?
信玄の子孫で
533 :
日本@名無史さん:2007/12/05(水) 19:16:19
歴史全然分かんなくて申し訳ないんだが誰か教えてくれ。
武田家滅亡って全滅なの?
信玄の子孫で千葉方面に逃れた人達って居ない?
上総武田氏とは別で。
>>533 答えるから落ち着けw
全滅ではない。信玄の次男信親の子孫は幕府の高家。途中養子が
入っているが、信玄の祭祀を行っている。現当主がオセロ対決した方。
信玄の7男、信清は高野山へ逃れた後姉の夫・上杉景勝に仕える。
あと、5男盛信や信玄の弟の子孫も旗本。
上総方面では、盛信の子が上総武田氏を頼って落ち延びたという
伝承があり、盛信の武具や肖像を伝えている。また、当時の上総武田の
当主にも、信玄の三男の後身であるという伝承がある。
535 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 04:01:25
>>534 ありがとう!
>盛信の武具や肖像を伝えてる
って事は今のその家系の人ははっきりしてるのかな?
実は自分ちがどう関係してるのか知りたいんだが
どこまで話していいかわからん…
536 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 12:15:15
537 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:44:13
538 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 13:56:36
>>536 マジありがとう
っても多分特定されないしそんな大事じゃないと思うんだけど。知らなければならない事情も無いし。
うちの名字は武田だし家紋武田菱なんだけど大きな家でもないしあんまり気にしてなかったのね。
でも何年か前から親が調べしたんだけど家系図残ってなくて全然分かんないんだ。
で、地方は上総で、周りに上総武田氏だって人は居ない。
漠然と上総武田氏の流れかと思ってたが古い書物に信玄の名前があったらしいから信玄より下の流れらしい。
「御武」というのがキーワードらしく家の裏に小さい祠みたいなのがある(筍により破損)
昔は墓守をしてたらしい。
刀も残ってたらしいが錆びてぼろぼろだった上にトーチャンがちゃんばらで…
情報少なくてスマン何か分かる事あったら教えて欲しい。
539 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 15:56:40
540 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 17:51:36
>>539 ありがとう。聞いといてなんだが可能性を肯定する要素がないから
家系図が見つからない限り途方もない話なんだよな。
仁科盛信が可能性として残ってはいるけど
信玄とか上総武田氏とか関係ない、もしくはあっても離れ過ぎてるって事もあるってとこかな?
あと須田って名前が墓石にあったらしいんだけどヒントになるかな?
541 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 18:08:38
>>540 須田っていってもありふれた名字だから...
戦国時代だと信濃の豪族にもいるし、千葉の一宮城主にも須田というのがいたらしい。
情報が少なすぎるので肯定も否定もできない。
上総武田氏も、里見と武田信玄の同盟の仲介をしたわけだから関係ないとも言えないし。
逆に極端な話、ただ単に墓守をしていただけって可能性だってありえる。
古文書とか今はいっさい残っていないの?
祠や墓石とか専門家に見てもらえないのかな?
しかし見てもらえたとしてもはっきりはわからないかな
上総武田氏自体の文献が少ないし。
第一、武田信玄すらわかってないことが多い。
調べてみたら面白そうだけど
542 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 19:13:14
>>541 そうかぁ…やっぱ情報少ないよね…
私自身も今実家から離れてるからあんまり詳しくないし。
書物はもう無いんだけど親が系図探したりしてるから
正月に帰った時何か分かるかもしれない。
正月明けに聞きたい事あったら情報まとめてまた来ます。いろいろありがとう。
543 :
唐松山:2007/12/07(金) 23:27:49
武田の直系でなく 長野県に住んでいたとしたら。
秀吉による 関東移封も 視野に入れてください。
私の家系も 小笠原が 関東に移封され戻ってくるまでが判りません。
多分 一緒に付いて行った口だと思います。
関東で分家他の大名に仕える。 かも
544 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 01:34:33
>>543 そんな可能性もあるんですか!!なんか甘く見てました。
今ちょっとググってたらもしかしたら
家紋は武田菱じゃなくて丸に武田菱だったような気がしてきた…。
正月に確認してきますorz
545 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 18:27:23
>>544 各地の武田家が、武田菱とともに、丸に武田菱も使っているので
その辺は矛盾しないけど。
ただ
>>539 でも書いたけど、今家紋が武田菱だから先祖が武田家とは限らない。
正月待ってます。
546 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 18:33:16
先祖の名前からどの系統か類推することができる 名前をつけるときに
うちなんかは家系図から名前を拾ってたようだ 松太郎とか竹五郎なんてのもある
名前に武田の系統の名前が無かったら、まず違うだろうな
547 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 19:41:39
>>554 家の家紋って一つじゃないよ?
3個くらいあってあたりまえ。
548 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 13:01:27
普通は表紋と裏紋の2種類だろう 不都合なことが起こったときに名前と紋を
裏に変えてたようだな ほとぼりが冷めてからまた表に戻すなんてこともあったようだ
家の配置も表陣屋、裏陣屋なんて名前をつけていたようなケースもある
549 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 13:22:55
ホゥ〜
550 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:16:03
こんなにレスつくとは思わなくて嬉しいです(ノω・、)
先祖の名前調べてみます。
家系図無いので父に聞ける範囲と神社に残ってる名前までですが。
ひいおじいさんもおじいさんも早くに亡くなったからかなぁ、
あんまり家柄についての事が伝えられてないのが残念になってきました。
有名どころじゃなくても分かってる方が良かったなぁ。
御武(みたけ)については何か分かりませんか?
>>538に書いた祠みたいな物の事です。
分家の屋号も御武になってるし、気になるんですが。
551 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:38:21
住んでる場所について補足です。
周りに上総武田氏だって人が居ないって書いたんですが
地域が微妙にズレてるっぽいです。
真理谷がかなり近いんですが
その辺には行かないので情報が無いだけかな。
って地図見てたら御嶽神社って近くにあるジャマイカ!!
我が家の「みたけ」について調べた時長野の御嶽神社と関係が!?
って思ってたんですがこっちの神社が関係あるらしいです。
552 :
唐松山:2007/12/09(日) 20:06:46
甲州で御岳といえば 金桜神社?
百姓、などの 調停に 撞くのが 此方の鐘
信玄が調停 の時撞くのは,諏訪の鐘
格が 全然違います。
鐘を撞く=神明に誓う。
12000程度で妻女山を攻めると上杉が山を降りると確信できる理由が昔からわからん
554 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 20:27:26
女紋などもあるから家紋はたくさんある。
父方の紋に裏表。母方の紋に裏表
今当主になっている家の紋はもとより、絶家になった自分の家よりも
家格が上の家の紋も用意される。
あとは氏族特有の紋、二両引きとかがこれにあたるかな。
家紋もいろいろある。
>>553 海津に入るまでに信玄が補給路を止めたから上杉は山を降りる機会を伺っていると予想した。
上杉も多少、山に軍を残してたから別部隊、戸惑ったようだな
車係りの陣、絶対ウソだわ。
というか山を1万単位の軍勢が一晩で動けるのもおかしいな
午前10時から武田が勝よ
>>555 山を降りるとすれば攻められて降りるのは愚の骨頂。
実際は予想したから山を降りたが、そうでないときは山で守るほうが上策では?
>>555 山を降りるとすれば攻められて降りるのは愚の骨頂。
実際は予想したから山を降りたが、そうでないときは山で守るほうが上策では?
山だから補給に限りがあるってことを考えたのでは?
信繁の死が美化されてて良い。信繁が突撃した間に陣を整え12000が来るのを待った。感動だね
風林火山の人たちは死にながら喋るのが良い。
啄木鳥戦法はウソだと思うよ。隊を2つに分けたとしたら善光寺の兵を討つためだろう
車掛りなんて陣形もうそ臭いし
車係りはウソだろ
敵陣がクルクル周りながら攻めてくるんだぜ。日本海軍マニア風に言うと対空警戒体型で空母(大将)の周りを何隻もの駆逐艦がクルクル空母の周りを回っているような感じ
恐ろしいけどありえない。
12000が下山して車係りなんて…
幅が10mもない山道を12000が移動できるかい?しかも馬もいる。最初は松代藩の武士が疑いはじめた。
ちなみに善光寺には5000か8000の上杉がいたからそれを攻めようとした武田と阻止しようとした上杉が衝突したともいわれてる
562 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 02:04:36
>>561 10mもあればラクだろう。1人が行軍に1m四方必要として10×100mで千人。12000だと
1.2kmの隊列になり時速4kで進むと1時間ちょっとで八幡原に着くだろう。
通りすぎるのに1時間ちょっとかかるのでは?
564 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 12:24:30
お互いにすっぱやららっぱをばらまいているから互いの行動はほどなく伝わっていただろう。
武田の方が陣立てに戸惑って上杉の強襲を許したのでは
>>560 数百から千人規模の部隊が隊列を組んでグルグル回るだけでも、北朝鮮の
マスゲーム並の難易度な気がする。
それを敵と戦いながらやるのはやっぱり無理だよね。
566 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 18:23:36
確か、みたけ衆、御岳衆と書くのかな みたけ衆というのは国境守備隊だな
>>565 越後はそれをやってのけたわけだ。軍神だから仕方がないな。
車がかりと鶴翼ではどちらが有利なんですか?
>>568 車懸り 3-4-3
鶴翼 4-3-3
今は鶴翼がトレンドかなぁ
車は縦転がりを表現する言葉で横回転には使わない
実際使ってるしw
>>568 鶴翼の中央は死地といわれる場所で兵の数と能力が同じなら中に入ってしまうと一般的に勝ち目なしと言われてる
ちなみに旧日本軍の車掛かり戦術は戦車などで遠巻きに方位、そして飛距離のある武器で攻撃し相手の陣形を乱す
相手が混乱したところで四方から一斉突撃
これは相手の陣形を乱す為の方法として海陸空問わず使われていたようだが、遠巻きに方位するのが車掛かりなのか
混乱した敵に一斉突撃する事が車がかりなのか不明。言葉の使い方は人それぞれ違う
鶴翼は防戦体型の陣じゃなかった?三方が原でも使っていたような…信繁は本陣の近くに配置しておくべきだったな。信繁は信玄並の才能があるといわれている。農民のことを重視し良い奴だ
信玄の死後、信繁がいたら…
>>573 まず穴山信君も離反しなかったろ
長篠まで生きていたら信豊撤退>総崩れなんて起きない
甲斐、信濃の武将に慕われていたから家中もよく纏まったろうな
老臣と勝頼
甲斐と信濃
このパイプ役、周旋役として無くてはならない存在になっていた筈
575 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 11:56:28
信長も信繁が生きていたら手出しは控え目だったろう。
惜しい武将だよな。
武田が包囲しようと動きだしたことを上杉方が察知し山を降りて
武田がスタンバイ完了するより早く仕掛けたんだろう。
動きの迅速さで上杉方は先手をとれた。
情報の伝達速度が互いに同じとして。
軍神と言われるだけあるな。
手取川の戦いでも
迅速な行動で織田勢を一蹴してる。
これ以後、両者の全力対決はなくなる。
互いにこりたんだろう。
信玄は南進に路線変更するしね。
高坂っていうのもすごいね。
本多忠勝や立花宗茂級やね。
出陣
退陣 しんがりは↑
鶴翼じゃあ防衛は無理
581 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 22:44:53
風林火山は勝頼を主人公に続編をやってほしいな。
巷で言われている無能説の勝頼ではなく
ご親類衆との人間関係や派閥争い、信長の躍進に苦しむリアルな路線で。
582 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 12:39:08
三代目のボンボン社長が会社を潰すのと同じ現象だろう 勝頼は
部長クラスでは優秀だったのだろうが、社長の器では無かったということだな
>>582 勝頼は上野の初陣以来、北条との戦いや三方が原で戦果をあげている 武将としては信玄並や信玄以上といえるな。
父が偉大過ぎたからダメになったんだろう
父を超えようとする野望が勝頼にはあったのだろ
父の遺言を守らず高天神攻撃。←父が落とせなかったから
長篠だって父が倒せなかった信長を倒そうという野心から正面突撃という戦法を選んだんだろう
武田勝頼 後見 武田信繁 という構想が生まれるのだろ
585 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 22:23:52
>>582 勝頼でなくても誰がやっても武田家は滅んだと思うけどね。
>>583 信玄の遺言を守っていたら
織田信長との国力の差はますます広がって
結局は滅んだと思う。
せめて長篠の戦をする前に上杉と同盟して
全戦力を信長にぶつければ、滅ぶのは先送りにできたと思うけど。
>>585 どうだろうな。
遺言守って3年間体制固めをやった上で戦うとするなら
それはちょうど上杉謙信が信長と敵対する時期に重なる。
いわゆる毛利・上杉・本願寺を主体とする第二次信長包囲網だな。
これに国力戦力を温存し、むしろ3年間滋養していた武田が加われば
中々面白い事になった気もする。
>>581 新田次郎の「武田勝頼」ベースなら、それなりにいい話になるかも。
>>586 上杉は北陸で軽く柴田らを追撃した程度じゃん
その後すぐに死んでるし
延命にはなれども、あるいは機能している間に従えば別だが、武田はどの道ホロン部
信長 鉄砲隊の一斉射撃
勝頼 諏訪太鼓先頭で突撃
590 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 18:41:07
勝頼は先代を超えようと戦争をやりすぎた いわば背伸びだな
黒川銀山が枯れてきたのに新府城を作るし、戦争で軍費を使いすぎた
現代で言えば放漫経営の末の倒産だろう 算数に弱かったのだろう
591 :
sage:2007/12/20(木) 18:54:03
590 名前:日本@名無史さん :2007/12/20(木) 18:41:07
勝頼は先代を超えようと戦争をやりすぎた いわば背伸びだな
黒川銀山が枯れてきたのに新府城を作るし、戦争で軍費を使いすぎた
現代で言えば放漫経営の末の倒産だろう 算数に弱かったのだろう
592 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 19:47:16
593 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 21:52:42
>>590 勝頼は信玄と同じように、国人達の連合体。
他国と戦争して、領土を奪い報償を分け合うことで
成り立っていた。
それは戦争をしないと生き延びれない集団だった。
しかも発言権の強いご親類衆達がワンサカいる。。。
ある意味、仕方ないと思うな。
勝頼の場合、もともと支持基盤も脆弱だったしな。
国人領主の連合体で、しかも元々嫡子でなく、兄貴3人が
脱落した結果お鉢が回ってきた立場。そして、信玄も晩年に
権限を徐々に持たせて行ったが、その間は2年と少しで不十分な
まま信玄は死去・・・
スタートラインからして実は結構厳しい
595 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 11:42:23
>>588 安国寺にいずれは「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずる」と予想されるほど
織田家中は案外ボロボロ(謀反も頻発)、長篠で無理をして重臣(戦艦、巡洋艦レベル)
を多数失わなければ生き残ったかも。
596 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 12:26:04
穴山梅雪が裏切ってから、他の武将もなだれをうって裏切った
勝頼が社長で梅雪がオーナーみたいな感じじゃなかったのかな
その後の梅雪の動きを見ると、家康とはかなり以前から親しかったのか?
勝頼は雇われマダム、財務面は梅雪が握っていたのだろう 黒川銀山の
枯渇から、ひょっとして家康から資金提供でも受けていたのか?
597 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 14:09:30
梅雪は信玄が家康と同盟して今川を攻撃した時から徳川との外を担当、
甲斐の河内、郡内、駿河の安倍郡、庵原郡を支配し江尻城に天守閣を築くなど
いっぱしの戦国大名。梅雪が裏切ったらどうしようもない。
子会社の社長(勝頼)が、いつのまにか本社の社長になり、
本社の元プリンス(義信)と親しかった梅雪としてはおもしろくない。
>>595 そらまた安国寺も秀吉に都合のいい発言をしたもんだなw
>>595 謀反頻発って詳しく
戦は重臣の数じゃなくて兵隊の数でするもんだぞ
>>596 黒川金山は穴山家の支配するところでも何でもないんだが。
>>596 黒川金山は穴山家の支配するところでも何でもないんだが。
602 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:28:44
>>599 はあ、主なものでも松永、荒木、別所氏、小寺氏、波多野氏、古くは浅井や柴田権六など。
信長の方が家臣なので言い方は変だが足利義昭などもそうだろう。
本能寺の変では信忠の謀反かと勘違いした信長w。
603 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:29:23
穴山という姓からして、鉱山関係の家筋ではないかと思うのだが
604 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:35:10
>>598 井上春忠(毛利家家臣)宛書状にある言葉で、安国寺の情勢判断は毛利家重臣しか知らないだろう。
>>602 三好はちがうのか
浅井は大名だし、柴田は信勝の家臣だし、荒木以外は国人じゃね?
あ、松永も大名か
家臣ならともかく国人やら従属大名の寝返りは日常茶判事じゃないか?
北条上杉の上野下野とか、関東府と幕府の戦いでも寝返ったり戻ったりは日常的なもの
重要なのは寝返ったりは向かった「原因」じゃね?
たとえば織田の路線転換で敵対した長宗我部とか、例えば利害衝突するようになった将軍とか、毛利とか上杉とか
そのあたりを明確にしないでただ「歯向かった」だけで一緒くたに語ると、それだけ織田は急激に勢力拡大してる分どうしても多くなるだろう
ということで、そいつらの歯向かった原因について詳しく
拠った研究書もつけて
606 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 17:48:31
国は法によって栄え 法は民によって貴とす
国滅び 民滅せば
誰が仏を崇める事ができるのか
誰が法を信ずる事ができるのか
607 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 18:11:34
金山の収益で人を買っていたのが武田と上杉。
銀山でなら毛利。
特徴は人命を軽く扱った事。
傭兵や奴隷、人買いが跋扈。
普通の大名は死者が出ないように心がける。
大量の死者が出れば合戦で勝っても国は滅びるからだ。
武田は違う。人命軽視。
城を築くより人間の盾。
石垣なんかより死体の山。
608 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 19:44:26
>>605 長宗我部はともかく、本能寺の時点では毛利や上杉は織田家に臣従してないが?
609 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 19:46:56
兵庫県の猪名川銀山を調べたことがあるが、豊臣秀吉の資金源になった
銀山だが、農村部の体の小さいのを坑道に入れて、砒素を飲ませながら
採掘させていた 人権もヘッタクレも無い世界だな 当時はそんなものだろう
610 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 21:34:13
信玄の存命中は領土が広がる一方
ヤリ弓で少々負けても結局城取った奴が勝ち
そう言う意味で謙信は迫力満点だが成果は中途半端
政治では信長以外は皆同レベル
611 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:09:10
うるせー馬鹿
612 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 22:13:58
最大領土が広がったのは勝頼の代 すぐ負けたけど 哀れ
613 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 23:16:38
勝頼系統はダメだったけど、
僧侶になった次男竜芳の系統と
(嫁いだ姉のツテで)信長の追っ手から上杉領に逃げ延びた(信玄の)六男の系統が今でも健在なんだよね。
一時本家争いがあったようだが・・・
616 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 00:04:07
贔屓目に見ても勝頼は領主として有能とは言えないな
高天神城落としたって・・・
まぁ2代目はいろいろ難しいから・・・
617 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 03:37:13
618 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 16:20:04
>>615 武田信玄や上杉謙信と奴隷商人について調べるなら
検索・武田信玄 奴隷商人
これで大量に出てきました。
他人に根拠を提出してもらっても難癖つけたくなりますよね。
それより御自分で調べられた方が余計なストレスを抱えなくて済みますよ。
ストレス社会は他人に八つ当たりや危害を加える人が増えてしまい嫌ですよね。
>>602 いつまで三河物語の捏造を信じ込んでんの?www
>>613 仁科盛信の家系も直系のみで続いているぞ。
>>612 高天神〜長篠の間が最大領土かね。長篠のあともちょくちょく支城を攻撃してるからなんともいえんが
謙信恐るべしというNHKでナレーターが「しかし謙信は火縄の弱みを知っていました…夜に弱い」とかかなり大げさに言っていた。そんなの誰だってわかってたと思うが。そういえば勝頼も火縄嫌いだったな。
621 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 22:34:08
織田信長と同盟するチャンスを生かせなかったのが勝頼の大きな失策。誠心誠意
信長に協力すれば信長も武田家存続を認めてくれていたかもしれんw
本能寺が直後にある。あと1年あれば真田や上杉のように残れたかもしれん。
>>618 なんというか大丈夫ですか?
随分ストレスを溜めておいでのようですが。
武田は確かに人身売買とかやってもいますがそれは
当時の大名ではよくありますよ。
あとググるのをソースとは普通言いません。
>>普通の大名は死者が出ないように心がける。
>>大量の死者が出れば合戦で勝っても国は滅びるからだ。
>>武田は違う。人命軽視。
>>城を築くより人間の盾。
>>石垣なんかより死体の山。
問題はここです。武田は別に奴隷兵士を作って戦わせていたわけではありませんよ。
その軍を構成したのは甲斐や領国の人々です。ですから武田が人命軽視の戦いをしたわけが
ありません。武田だって軍を損耗すれば他所の大名のように大変なのですから。
624 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:22:52
長年の宿敵を倒して天下統一に目途をつけた信長の一世一代の不覚が
本能寺の変。武田が滅んでいなかったら信長もやすやすと裏切り者に討た
れる様な無様な隙は見せていなかった事が考えられる。どっちにしろ国人
層の意向を軽視した領土再編を行いつつあった陣代の勝頼では武田は滅亡
必至。
625 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 00:28:02
勝頼陣代説
>>624 信虎が81まで生きてるんだから信玄だってもっと生きてほしかったな。信玄はよくまとめるよな。義信の一件で家中は2つに分裂したのにまとめている。
聞きたいんだが甲斐が諏訪を攻めたときは20000弱の兵力だったよなぁ。あの時は国主としての初陣パレードみたいなもんでやたらと兵が多かったが
1573年も25000だから少ししか変わってない 信濃や駿河の人々からは徴兵とかしないの?
>>618 ちょwww謙信ヲタの俺が言うのもなんだが謙信の人身売買は小田攻めの時の一度限り、しかも内容は人身売買というより保釈金もらったようなもん
値段をみるとかなり格安だし
スレ汚しかと思うけど信玄スレの方々申し訳ない
628 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 06:17:08
周りが敵ばかりなんだから領土の要所に駐留兵を配置しておく必要があるw
諏訪に武田軍が攻め入った時はまがりなりにも今川と同盟していたことを忘れ
るべきではない。
>>626 さすがにそりゃ誇張だよw
あの時の武田は諏訪と戦う以前に相手の内部崩壊及び屈服を狙ってたから
兵力を多数に装ったり宣伝したりしたんだろ。
あの当時では武田は石高的には5000だせれば御の字。
上意の足衆を考えたとしても精々1万もいけたかどうか。
>>628 確かに。謙信を多忙にさせたからといって防衛を手薄にはできないしなぁ。72年も北条と同盟だったから守るとしたら美濃信濃の国境とかだろうか。
>>629 諏訪の某自治体の諏訪攻めのアニメーションには20000とかいてあった。ちなみに諏訪が武田5騎を討ち取ったと自慢していた。よく考えると上田原より諏訪の方が多いっておかしいもんな
どうもありがとう
武田30000
武田31000
武田
強
634 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 10:36:42
長男はちっとも言うこと聞かないので早々にアボン
次男は盲目で跡取りは無理
(惜しいことに、この次男竜芳がいちばん頭が良さそうだった
もし彼が跡を継いでたら、
ちっとは流れが変わってたかもな)
三男は幼くしてアボン
四男で跡継ぎの勝頼があのザマ
(さらに下に、最終的に上杉領に落ち延びた六男がいたが)
信玄はほんとに跡取りに恵まれなかったな。嗚呼
まあ、次男と六男の子孫が現在まで続いているのが
せめてもの救い
635 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 18:03:24
つーか、嫡男として養育され、家臣も信玄の跡取りとして
重んじてきた長男をあぼんした時点で武田は終わってたんだよ。
一代前にさかのぼってごらん。
父子の不和で、駿河に追放されたのが親父の信虎ではなく
武田家嫡男の晴信(信玄)であったならば、
親父が急遽弟を後継者に立てて死んでしまって武田がもったかどうか。
嫡男を簡単に殺めたのは信玄の過ちだった。
息子と不和なら息子に甲斐を譲り、親父の信玄のほうが甲斐を出て行くべきだった。
信虎も脚色の多い人物らしいから
信玄を持ち上げる為にデタラメでコーティングされてるかもしれない
武田の支配を強めようとした矢先、板垣達から追い出された信虎
義信も晴信同様、飯富や穴山に担がれた面の方が大きいのかも
信玄を信虎のように追放して自分達が若い当主を操り、
甲斐信濃を牛耳ろうとした動きだったのかもしれない
637 :
日本@名無史さん:2008/01/03(木) 18:31:12
内ゲバは源氏の宿命、反面それが活力源になっている
それで活動範囲が広がるという側面もある 因果な血筋だよな
638 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 08:24:07
信玄って戦い方がせこい
嘘で固められたような野郎だな
盤石の戦い方だね
>>634 誰が継いでも信長に滅ぼされたと思うよ。
全面降伏で信濃、駿河を謙譲して甲斐1国の領主として
生き延びる道があるかどうか。
641 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 10:39:31
信玄最強か・・・・
642 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 17:32:20
みなさん質問です
甲州名物信玄餅は
美味しいんでしょうか?
今度、お世話になった恩師に贈り物にしたいと思いますので
よろしくお願いします
まじ旨い!
日本三代菓子だ。
644 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 22:29:12
下らん蘊蓄を垂れさせもらうが、
日本三銘菓は越後大和屋の越乃雪、金沢森八の長生殿、松江風流堂の山川の3つだ。
越乃雪はおいしい。特に和菓子マニアの間での評判は高い。
信玄餅はまずくはないが、
そうものすごくおいしいというほどではないような・・
まあ普通のみやげ物だよね。
個人的には、同じみやげ物でも
北海道のマルセイバターサンドとか、
長崎福砂屋のカステラとかの方がずっとおいしいと思う。
信玄餅は山梨旅行の定番みたいなもんで
気のおけない知人へ近況報告に気楽に持参くらいならともかく
正直、>恩師 への贈り物に向く品とは思えない。
自分だったら、恩師への進物には絶対しない。
最寄のデパ地下などで有名和菓子店の逸品や
普通に地元の老舗菓の銘菓でも用意したほうがいいと思うぞ。
646 :
日本@名無史さん:2008/01/04(金) 23:06:54
というか、日本史板での話題かこれ?
むかし鈍行電車で山行してた頃の事
勝頼公終焉の地の近く、笹子峠を越えるあたりで売りに来た「峠の力餅」が好きだった
松姫もなかは定番だけど、美味しいってほどでは無いよな。
650 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 02:56:40
やりがいは槍甲斐からきたんだって
>>648 笹子餅だね。
鈍行列車の車内販売は珍しかった。
いまでも特急の車販で売ってるみたい。
スレ違いスマソ
652 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 17:12:29
勝頼餅発売マダー?
654 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 12:46:31
勝頼は、尻餅くらいだろう
誰がうまいことを言えと
656 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 14:11:44
甲府市が毎年開いている「信玄公祭り」、
祭りに華を添えるパレードで諏訪御寮人役を毎年一般公募、
従来、大河の武田信玄にちなみ「湖衣姫」として募集をかけてきた。
ところが去年から大河風林火山にちなみ「由布姫(湖衣姫)」と
呼称を一転した。
甲州市は開いている「勝頼公祭り」でも、「由布姫(湖衣姫)」と
して一般公募される。
657 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 15:47:18
作家が勝手に作った名前をつけるよりも
ふつうに諏訪御寮人にすればいいのに。
658 :
愛知三河住民:2008/01/06(日) 16:25:22
かなり前だが、設楽が原の古戦場のイベントで、
「織田と武田の子孫が握手する」というのをやるはずだった。
織田の子孫の方(本人曰く、信長の次男信雄の系統)はいらっしゃった。
しかし、こともあろうに、武田の子孫の方(信玄の次男竜芳系統?)は急用があるとか言ってドタキャンしたんだ。
(見に行った御仁、おられるかな?)
やっぱり、世代を越えて今でもひきずってるのかな
659 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 18:07:55
信玄、信長、秀吉(秀頼は次男)、家康の共通点
皆、長男が親父より先に死んでいる。
(信虎もそうだな)
660 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 19:17:28
家康も
,,,,,,∧,;;;;;;;;;;;;;;,,,____,,,;;;;;;;;;∧,,,,,,
ミ~: : / . | : : : : : : : : : : : : :| ヽ :~ミ
. ミ : : : :| |: : : : : :.,-,.: : : : : :| |: : : :ミ
ミ: : : : : : | \_n./◇\.n_/ | : : : :ミ
ミ r─-、_ \/ /,~\◇/~,ヾ / _,-─n ミ
ミ / Θ`-トニ__ヽl- O .,ll,. O -ノ__ニ;!-.'Θヽミ ●
ミ / ̄`─{ ( \ \ ・ ・ // ) }─' ̄ヽミ //〜〜〜
ミ l____ \___ _ ̄. . ̄____/,, -─''": ミ // 掠 疾 /
ミ : : : : / \__| ´ .._`ー ‐''"....|__/:\: : :ミ // 如 如 /
ミ : : : : : | : : : : : :| . ,;ィェ、.. ,rェ;〈: : : : : | : : :ミ . // 火 風 /
ミ : : : : : :| : : : : : :|::' "......::'''ン .., .:::'''"゙|: : : : :|: : : ミ // 不 徐 /
ミ : : : : : : :| : : : : : : | r ヽ. l : : : : :|: : : :ミ // 動 如 /
ミ : : : : : : |: : : : : : : | . './'ー'''ー‐' ', l: : : : : :|: : : :ミ // 如 林 /
ミ : : : : : |: : : : : : : :|;ゝ ,r";;二二二,ヽ, ! : : : : : | : : ミ .// 山 侵 /
ミ : : : : |: : : : : : : :|;' ,rニン"  ̄二´ `ノ : : : : : :| : :ミ //〜〜〜
ミ : : : : |: : : : : : : :|==========O===イ : : : : : : :| : ミ //
__,,, -'' ̄ ̄ ̄~ミ : : : : : : : :|''' , ‐---,ェr'" |: : : : : : : : :ミ //
信玄スレ住人的には、「天と地と」はどうでしたか?
渡部さんキャスチングに一般信玄イメージをわざと真っ向否定した狙いを感
じる。斬新でよかったかも。
赤マフラー思い出してダメ
武田信玄様協力感謝いたします。
山梨県繁栄 武田神社感謝
666 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 04:34:26
信玄の絵がよくでるけど見るからに恐ろしい 戦国最強もうなずける
667 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 15:44:39
>>659 信長の長男信忠は親父の信長が本能寺で討たれた後
二条邸で自害じゃなかったか
669 :
日本@名無史さん:2008/01/09(水) 14:48:27
>>532〜で書いていた者です。
読み返したら口調悪いので直しますが本人ですww
家系図なんかは途中までしか見つかっていなくて、
先祖の名前についても手がかりになりそうな物はありませんでした。
刀は実は父の兄が持って行って売ってしまったらしいです。
良い値がついたとか…。
祠についてですが、それが御嶽神社でした。
出来たのは嘉永6年。
昔は瓦屋根の建物があったらしいのですが
今は墓石のような物と鏡、瓦屋根の一部だけ残されています。瓦には武田菱が入っていました。
家紋はやはり武田菱だったみたいです。
武田菱が使い難かった時代に丸に武田菱にしたり名字を変えたりした時もあったそうです。
私の住んでいる地域は人があまり居ないのですが、
人が住み始めた時はうちと他二件しかなかったそうで、墓石等から1700年代に移住して来たのだと思います。
神社なんかは御嶽神社含め3つくらいあるのですが、
どれも移住前に参拝していた神社の名前を貰って建てたみたいです。
それと神社の脇に江戸中期くらいの行者さんのお墓がありました。
全然ヒントになるような事は分からなかったのですが一応報告です。
670 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 04:15:54
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、 左差しのはやきこと風の如く
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ ( 稽古しないこと林の如く
/o O / l´ ;;;;;;;; ;;;;;; lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 -=・= =・ ハ ∧ `⌒/7へ‐´ 気の短いこと火の如く
/ ,イ レ_ ( _oo_) ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 3 ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、 攻めのおそき事山の如し
彡:::::::::::l ト、___ /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴
671 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 13:51:32
渡部は信玄のイメージじゃないかな
映画の茶々で秀吉役してたのを見たからだろうか
茶々では勿論女たらしの役
天と地とでも登場シーンは側室諏訪御寮人からみ
どうも好爺とイメージが。。。
672 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 03:33:14
あと半月早めに死んでいたら
家康はうんこ漏らさずに済んだのに
673 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 14:06:22
合戦なんか何時間にも及ぶんだから
その辺の兵隊なんか普通に漏らしてたと思うぞ
家康は絵なんか描かせるから
後世にまでうんこ漏らしが伝わってしまっただけだ
信玄は6畳間でふんばっていた
675 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 15:00:22
日常のウンコとビビッテ
漏らすうんこはウンれいの差がある
l / .r―――┐l
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、 l / / | |
,r' `' 、 ,ゝ、',,,,,,,,_/ | |
/ ヽ, ' / ゙゙゙゙̄'''''''''''''''''ヽ
. / , ヽ / zェ:、、,_ _,,、」,
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 /. |
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| / ヾニ・= .i=・ コ
l:,;'"`'、, .ニ=ミ.. ヾ= 〈 / l | お前らもよく見とけよ
. ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン .., .:::'''"゙, ./ ィ ,l .!
l;゙、',.::l;;;i ///// r ヽ./// l,/,.. r'`ニニヽ, .l'、
l;;;;`‐;;;;;ヽ . './'ー'''ー‐' ', l;;;,,,ヽ ,イ;;f'゙---ヾゝ;/‐t、
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:'.;;;`‐、';:;:;:;`;;;;';;;';";;/ ヽ、_
' ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"i、_,-、/ `ノ;;;;;`-、:、;;:;:;:;:;;;;;;;;;;;;;;;ン \
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ヽ ヽ |
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丶 ◎ _,,.. -─ ‐- .、.._. ◎ / / /
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677 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 23:30:25
甲斐武田の力侮られるな!甲斐に戻り我が軍勢動かさば眠れる虎は必ず目覚めこの東海に真の姿を現すけとになり申そう!その時こそ我が軍勢如何なるものかお分かり頂けよう!
678 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 00:39:54
瀬田に旗を立てろよ
679 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 10:56:18
オレが町民か百姓だったら武田の領国には住みたくない
北条か織田のところに住む
680 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 18:17:05
武田=日産
織田+徳川=トヨタ
経済力で雲泥の差があったので、長篠の戦はやはり負けるべくして負けたな
681 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 23:13:38
信玄が出ている映画では影武者が一番面白い
風林火山の由来を元にした脚本構成が見事
>>679 武田の統治網を抜けて逃げられるもんならねえ
イーヒッヒッヒ!
>>682 信玄法度見る限りはそんなイメージになるな武田って
684 :
日本@名無史さん:2008/02/11(月) 21:27:53
>>285 . ,、r‐''''''''''''''''ー 、 ,,ノ' ´ ` ' /=ミ
,r' `' 、 / 彡ll'''´
/ ヽ } 彡lll
. / , ヽ |L_ ! ___ {彡lノ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、 }f'tr'i ''^'tォー` }j/i',|
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| l.| ´ |  ̄ vijソ.!
l:,;'"`'、, . ,;ィェ、.. ,rェ;〈. 丶 └、 Fイ l′
. ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン .., .:::'''"゙, / ',''゙ ,,、二''‐ ,イ ケ|
l;゙、',.::l;;;i r ヽ. l,. , ,/. ヽ `''"´,/ ! ^|ー、
l;;;;`‐;;;;;ヽ . './'ー'''ー‐' ', l;;;, / / _,,」、'....ィ' '|. \、__
. ,、rイ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ゝ ,r";;二二二,ヽ, !;;;;:' . /./ ,. ‐'''"´ ! / , _」__ヾ',
'.:.:.l ll ;;;;;;;;;;;;;;;;;' ,rニン"  ̄二´ `ノ;;;;;`-、. .,'.,' /´ └ 、_ ノi ノ (、_ ``ヾ!
:.:.:.| l.l '';;;;;;;;;;;;;;' ,イ l''' l ` ,'/ / ヽ、 ` ''ー 、ィ-─'' r`'^ `
:.:.:.:| ','、 ''''''''' , ‐---,ェr'".l.| | | l| ! リ `ぅ ー=、_
:.:.:.:| ゙、゙、 `''''''''"",ノ l l .| |. | | サ 〉
:.:.:.:.| ヽヽ `'---‐'" .// ! | ト ′ ./''ー- 、,.._
685 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 21:47:57
858 :名無し曰く、:2008/02/12(火) 10:34:00 ID:e1rbxwZ5
>>834 武田が強いのは当たり前。
信長が合戦で用いた武器は鉄砲。信玄は騎馬。
普通に考えて鉄砲と騎馬とでは各拠点を制圧するスピードが遥かに違ったと思う。
つまり騎馬のみで甲斐、信濃、駿河、上野の100万石大名になったのが評価されてるわけ。
上杉は領土を広げることなくこれに対抗。自ずと能力が高いのはわかる。
そう考えると毛利は一代で西国平定したんだから相当な武将だったと思う。
860 :名無し曰く、:2008/02/12(火) 11:33:36 ID:C2aKDPH3
>>858 概ね同意。
武田が織田に敗れたのは技術革新で地理的優位がひっくり返ったからだよなあ。
686 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 12:59:44
武田=騎馬って当たり前のように言われてるけど、俺にはどう考えてもありえない
としか思えない。日本の「騎馬軍団」って。
馬乗る人ならわかると思うけど、元々馬っていうのは草原みたいな地盤のしっかりした
比較的平坦な場所を走るのに適した動物で、田や畑みたいに人為的に表面を柔らかくした
ところなんて走れたもんじゃない。しかも人乗せてなんて合戦云々の前に落馬事故続出で
部隊壊滅でしょ?
で、そのころ田や畑以外で騎馬武者がしかも部隊単位で疾駆できるような土地が
果たしてあったのか?日本には所謂草原と言われるような土地は山間部のごく一部にしかない。
全国の大名が甲子園よろしくそこにチームを連れてきて戦うわけじゃなし。
ほとんど合戦の主戦場になったのは平地にある土地でそれはつまり、田畑に容易にできる
土地なわけだ。もし騎馬軍団なるものがその「機動力」を十二分に発揮できるような土地条件=
すぐに田畑に転用できるが、誰も耕さずに踏み固められた広い土地が、それこそ全国に無数にあるなら
何故に土地争いとその発展型である戦国乱世にならんといかんのだ?
人を殺すより耕した方が早いだろう。
つまり、土地争いが顕在化してきた12世紀辺りから日本の平野部のほとんどが都市化もしくは
耕作地化してしまっていたと考えるのが自然。
騎馬武者は田のあぜ道のような部分を選んで進み、指揮をしていただけで、
実際の先頭は足元の軟弱さをものともしない足軽が担っていた、と論理の帰結上当然なる。
騎馬軍団神話を信じてる人って絶対実際馬に乗ったことや合戦場となった土地に実際行って
当時の地理条件なんかを勘案したことのない頭でっかちな人たちと思う。学者含めて。
山岳地帯での機動力に馬は一役買ったとか?
688 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 09:32:43
>>687 そんな限定条件付じゃよけい役に立たんでしょ。
例えば他国に攻め入ったとして、攻められた側は戦場となる場所について
比較的に限定できる立場にある。騎馬隊が活動できない場所を限定すれば
手も足も出ないじゃない。
それに、だ。経済的に考えても不可能。戦前の農家でも馬がいる、というのは
ある程度富裕な農家に限られていた。ましてや16世紀の話だ。
当時の記録でも武士階級がいかに馬を大切にしたかを裏付ける話は山ほどある。
有名な本田作佐の手紙とか。つまり、昭和3〜40年代の自家用車と同じくらいの
価値観をもたれてたんじゃないか、と。
自家用車=馬を持てる身分、すなわち比較的富裕な士分階級、軍隊で言えば大尉以上の
将校だけを集めて軍団を組織し、突撃させるなんて可能なわけない。
兵農未分離の状態では家臣団はそれぞれ自弁の兵力を持ち寄りそれをあわせて軍団を
形成するわけだが、その全てに馬を与えるなんて不可能(可能にしたら動員兵力が10分の一
とかになってしまう)だし、指揮官だけを引き抜いちまったら誰が指揮するんだ?
もうひとつ。もし本当に武田騎馬軍なるものが存在(その戦力を発揮できる形で)したら
信長の前にとっくに天下統一してる。騎馬軍団が充分展開できる地理条件が揃っていたら
歩兵に対する優位性は圧倒的だよ。隣の大陸の歴史をちょっと詳しく調べればわかること。
でも歩兵長ヤリ中心の北条や上杉といい勝負しちゃってるじゃん。
地理条件、経済側面、戦術論、どの側面から考えても騎馬軍団は虚構。
689 :
みかど:2008/02/14(木) 09:38:30
かわいそうだけど.武田晴信.は、貧弱です
690 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 09:56:11
>>679 俺も武田んとこには住みたくないな
あいつ政治下手くそ
仮にあいつが天下とったとしても天下の政なんてムリだろうな
691 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 21:34:38
フロイストの本国への手紙には
「日本では馬から下りて戦う」
と書いてある。
今の日本人が「馬」と聞いて連想するほど
戦国時代の日本の馬は大きくなく、馬に乗って戦えるほど
馬は体力的にも機動性にも欠けていた
(当時の日本人は今よりも小さいが、それを差し引いても無理)。
騎馬軍団は無かったと断言しても良いだろう。
精神分析学のフロイトと、宣教師のフロイスを合成した新たな人物、フロイスト
>>688 武田は山岳地になれた馬に荷物を運ばせて荷駄をつくり
山岳地の移動を楽にしてたそうだ。
>>690 戦国大名の中じゃかなり政治力のあるほうだぞ。
公共事業とかで恩恵もあるし。
694 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 09:50:53
今ではあまり知られていないが、昔は牛を食べる習慣が無かった。
西洋系の学問をしている人は、すっかり忘れていて高価な馬を戦闘以外の目的に使ったと考えている。
…てどっかで、読んだんですけど、それには当たらないんですか?
695 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 10:22:35
ゲームでは信玄の政治力は高いほうだが、名前先行の評価だろうな
実際には中の上程度だろう
政治力だけなら信長秀吉光秀のほうがずっと上だろう
なんでそこで光秀が入るのだろうか。
ただの織田家の官僚で終わった光秀と大名の信玄比べてもしょうがないだろうに。
甲斐の条件から考えれば信玄のやった政策は評価されてしかるものだろう。
697 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 10:12:56
>>695 「政治力」とか言っちゃってる時点でゲーム脳になってるよ。
大体政治力ってどうやって測るのよ?じゃあ今の小泉さんやら小沢さんでは
どっちの「政治力」が高いの?w
政治家としての評価なら事績によるしかないでしょ。
そういう意味では地方行政を任されていたとはいえ、自由裁量の少ない官僚(?)
の光秀と独立大名の信玄を比較するのは無理がある。
同じように全国規模の政権運営をした信長・秀吉と県知事レベルの信玄を事跡から
評価するのも難しい。
事跡行跡=能力ではないが、能力あってこその結果、と言うのは事実。
698 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 12:18:33
>>697 信玄の領地と福知山は同じ山国でも光秀のほうが上手に治めてたでしょ?
信長の影響があったとしてもそれは信玄も同じ
東には北条 西を見れば道三
ヒントはいくらでもあった
外交も戦略も、政治のうち
信玄はどうだった?
強いのは戦だけだろ
トータルで二流だよ
>>698 明智の領国は富裕な畿内だろ。
北条の領地も斉藤の領地も明智の領地も武田の領国とはまるで条件が異なるんだが。
武田の領国甲斐は毎年のように飢饉や水害に悩まされ、山国だから商人の流通も
不十分な状態。立脚した条件がまるで違えば対策もまるで異なる。
例えば信玄の領内で楽市楽座なんかやったって無意味どころか有害ですらある。
そもそも商人の流動自体が少ないんだから。
信玄はこの状況の中で新村開発・堤防構築・法度制定・商人の保護育成・金山開発など
やれるだけの事をやって国力を高め他国を攻めて大領土を作り上げた。
高い政治力の持ち主だといっていいと思うが。
700 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 13:02:40
攻める場所が間違ってるでしょ
雪ふったら使えない信濃にこだわって
仮に上洛できたとしても京にはとどまれない
本国が危ういからな
攻めるなら今川→徳川→織田でしょう
同盟結んじゃってるし…
自分の歳と天下取りという事業の難しさを考える戦略性があるとは思えないが?
701 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 13:09:35
しょせんは山で生まれ
山で育ち
山で暴れて
死ぬ前にちょっと海が見れて良かったねってだけ
>>700 なんというか大丈夫だろうか。
今川との同盟は父信虎の代からのもの。
飢饉や水害に悩まされる山国甲斐一国20万石でどうしろと。
まずこの状況では国力を高める為に近場を攻略するのが上策だろう。
つか当時の今川は三河の松平(徳川)も支配下におき、
駿河・遠江・三河で70万石以上あり、豊かな東海道を押さえた強豪で
20万石で土地も苦しい甲斐の国力で相手して攻略するのは大きすぎる相手なんだが。
信長だって攻めてきた今川義元を桶狭間で撃破したけど今川領内に侵攻して領土を奪ったわけじゃない。
武田だって攻めてきた今川を撃破したことならあるしな。
信濃を取れば20万石プラス40万石で60万石になり戦略の幅も広がる。
信長だってまず尾張を攻略し、その次に当主が若くて経験不足な美濃を狙い地力を養う事から
始めている。勢力の小さい始めのうちはまず地力を養わないと何もできんよ。
703 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 13:16:44
遊女を崖から落とすのが地力を養う政治なのか?
>>701 当時の戦国大名の中でトップクラスに属する百万石を超える大領土を作ったんだけどな。
それでその言い方なら他の大名達が不憫すぎるな。
>>696 明智光秀は織田の家臣であると同時に領国を持つ大名でもあるのだが。
>>703 何の話だ?出典何?
政治力と関係がある話とも思えないが。
実際信玄の政治は今なお地元山梨で感謝され数多の伝承でたたえられている。
十分だろう。
>>705 あくまでも織田の家臣としてその領域の統括を担う分国大名だけどな。
一勢力の主とはまた違う。
708 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 13:25:39
それしか栄光の歴史がないからだろ?
自由経済で人と物流を回転させ乞食にタンモノをめぐむ信長
自国の治水にも力を入れ 払えない年貢は免除し恩と信頼と忠誠を得る光秀
縛り付けて厳しく年貢を取り立てて、アホな宗教に寄附する信玄
>>708 なんか妙な本か何か読んで先入観持ってないか?
治水事業は信玄の政策が非常に有名だろう。
宗教の保護が悪いのか?領民達の心の安定には役立つのだが。
度量衡の統一などは住民の生活や経済発展にも役立ったはずだが。
つかその光秀や信長の逸話はぶっちゃけあんまり政治力とは関係ないと思うが。
710 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 13:46:39
>>709 よーするに天下とったらどーゆー天下の政をするかって事
領民が貧しいのに酒飲んで女抱いてる生ぐさ坊主に寄附するような奴が天下なんかとってみー?
恐ろしいわ
711 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 13:50:47
>>706 信玄というより勝頼時代の話だな。
現在、信玄が開発したという黒山金山には「おいらん淵」と呼ばれる
谷が存在する。
信玄は生前、征服した土地の人民を捕虜として集め、
男は金山の炭鉱夫として奴隷のように働かせた。
女は遊女とし、つらい肉体労働を強いる炭鉱夫の意気を高めるため、
熱心に仕事をしたグループには女を与えるとし、やる気を起こさせていた。
信玄死後、戦に敗れた武田勝頼は織田信長・徳川家康に金山を渡すまいとして、閉山を決める。
その際、炭鉱に集められていた遊女が今度は信長・家康の軍勢に春を売って
金山のありかを話してしまうことを恐れた。
そのため、淵の両岸から吊るした宴台に遊女たちを集め、
閉山の慰労と称して遊女たちに酒を与えたのち、宴台をつるしていた藤吊るを切って
遊女たちをすべて淵の底へ沈めてしまった。
そのために「おいらん淵」と呼ばれるようになったという伝承がある。
http://www2g.biglobe.ne.jp/~lilimaru/nikki/01/ri_011215_kurokawakinzan.htm
>>710 それまでは領内の政治の事をいってたのにいきなり天下取った後の話か。
「酒飲んで女抱いてる生臭坊主」って畿内の堕落した僧だろ?
当時にはちゃんとした名僧もいるぞ。信玄は美濃から名僧として聞こえた
快川を招き武田の菩提寺である恵林寺の差配を任せている。
さらに書いておくと信長も比叡山を焼き討ちしたのは比叡山が自分に敵対して
朝倉浅井に味方して、それに対して「味方すれば領土を与えてやる。味方しないなら中立になれ、
敵対したら皆殺しにするぞ」といって叡山が拒否したので焼き討ちしただけ。
信長も別に寺を目の敵にしたわけじゃないんだが。
>>711 勝頼時代かよ。
つーかそれ滅茶苦茶。黒川金山は勝頼が滅び家康が甲斐を収めるようになってからも
採掘は続いているはずだが。
長篠後にも勝頼は金山にいろいろ通達を出していたはずだが。甲斐も最後の滅亡まで
踏み込まれてないしな。
山梨は勝頼の事をなんか過度に叩く傾向もあるからな。
714 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:00:20
大人しく経でもあげてるだけの坊主なら信長も保護したけどな
朝廷の鬼門を守護してるとかで付け上がって酒飲んで肉をくらい女呼んで馬鹿騒ぎして、あまつさえ武装までする坊主に遊ぶ金を払って、領民には質素な生活を強いる信玄とは…?
715 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:01:55
716 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:03:44
>>714 なんかあれだな。信長の保護した僧は大人しくて
信玄が保護した僧は堕落してるとする根拠はなんなんだ?
信玄はちゃんと名僧を招いたりしてるとかいてるだろうに。
甲斐の僧侶達が武装とかして信玄を困らせた事例なんか聞いたこともないんだが。
それから当時において宗教の保護をして領民部下の心の統一を図った大名は多い。
信長も誤解されることが多いが宗教を目の敵にしたわけじゃない。信玄もそうだっただけ。
>>715 いきなり寺がどうだとかいいだしたのはお前さんだろう。
信玄の宗教政策は別にお前さんが思ってるようなもんじゃないってことだよ。
719 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:19:56
信玄の最大の失政は嫡男を殺したことだよ
殺さなければ子の代でいきなりあんなことにはならなかっただろう
家康も嫡男を切腹させたがまだ赤子だった秀忠を
後継者として養育することで難を逃れた
諏訪を継がせる予定だった勝頼を後継者に持ってきた時点で
武田は終わっていた
勝頼は武田の後継者教育をなにも受けず
甲府に集められていた武田の旧臣たちとも疎遠だった
>>719 いきなりあんなことってどんなことだろう。
一応勝頼は信玄死後死ぬまで9年家を保ってるし。
それから勝頼は1571年の段階で出陣中の信玄に代わって甲斐で越中一向一揆との
連絡を取ったり指令を出したりしてるぞ。一応そういった後継者教育はされてたみたいだ。
721 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:28:05
>>718 自国の条件が違うって言うから共通の係わりがあった叡山を例にあげたんだが?
>>721 だからその叡山に対しても信長は「味方するなら領土あげる」といってて
味方しなかったから焼き討ちしただけだといってるだろうが。
叡山焼き討ちは別に信長の高尚な価値観とやらの発露ではなく単なる戦略の問題。
723 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:34:10
>>720 信玄が拡張した領土を9年で失うのが問題。
出陣中の信玄の代わりに政務の一部をやったって、
信玄の後継者なら当たり前だろ。
むしろ、信玄が成人した後継者を持ちながら
いつまでも第一線ですべての指示を出していたことのほうが
普通はありえない。
家臣との対立はどう捉える?
やはり家臣には急に諏訪から連れてこられた四男坊に対する
不満や力量不足を憂える面があったのでは?
724 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:36:55
>>722 信玄は黙ってありがたく金払ってたけどな
>>723 最初にそっちが
>>勝頼は武田の後継者教育をなにも受けず といった事に対する返し。
それから勝頼は後継者として認知されたようだが
信玄から家督を譲られたわけじゃない。それから家督を譲った後も大名が
後継者を後見しながら政務をとるのも戦国大名では良くあった事。
なんだかんだいって年とっても第一線で指示を出していた大名はこの時代に多いよ。
家臣との対立っていうほどの対立があったかな。
代替わりの時はなんだかんだ言って苦労する若殿は多い。
長篠後は信望もかなり落ちただろうがそれでも上野とか遠江とかで北条や徳川と結構戦って
戦果も出しているんだが。
>>724 敵対する理由もなかったしむしろ利用したほうがお得だからな。
信長だってもともと取り込もうとしてたけど拒否られただけだしな。
727 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:53:17
>>725 信玄の嫡男義信が家督を継いでいた場合と、
四男勝頼が継いだ場合のことを比較して言っている。
武田家が滅亡するとき、勝頼と最後までともに残った家臣が
何人いた?
何をもって勝頼は信玄の優秀な後継者だったと言っているのかがわからない。
>>727 完璧に優秀な後継者だったとまでは言わない。
実際長篠や北条との外交失敗など失点もある。
ただそれも信玄に及ばずといえども勝頼なりに行動して行った事の結果。
勝頼は信玄には及ばずといえども能力的には結構優秀なほう。
長篠後でも必死に体制の立て直しとかをやってる。
史実に見る義信の能力で勝頼以上の結果を出せたか正直わからない。
武田家が滅亡する時に内部崩壊したのはそれまでの戦いで武田が疲弊していたから。
例え義信であってもそのような状況にあれば自壊は避けられないと思うが。
729 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 14:59:29
>>725 何はともあれ勝頼が武田をつぶしてしまったことは事実で、
覆しようがない。
「甲陽軍鑑」は勝頼を持ちあげすぎ、
武田の旧臣を不当に評価を低く書いているから
すべてを丸のみするのもどうか。
730 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 15:02:41
>>728 武田の疲弊=勝頼の度重なる無理な出陣が原因
だったのでは?
側室腹の四男だった勝頼には武田の後継者として
周囲を見返すべく、更なる領土拡張の多大な夢があり、
信玄が没した直後、不必要に出陣を繰り返した。
信玄存命中に武田が疲弊していたとは思わない。
義信が当主であってもやはり不必要に出陣を繰り返し、
兵を疲弊させていただろうというのは憶測でしかないが?
>>729 まあその結果は覆しようがない。ただ義信ならそれを変えられたかは微妙。
逆じゃないか?
むしろ勝頼を低くして武田旧臣(山県とか馬場とか内藤とか)を高く評価してる
ように思えるが。長篠でも馬場たちは決戦を止めたけど勝頼とその近臣に
押し切られたように書いてある。
>>730 確かにその通り。勝頼の打ち続く出兵は武田を疲弊させた。
だがそれも周囲の環境を見ないと。時は戦国時代。
敵は待ってくれない時代だ。
勝頼がまずかったのは長篠で無理に押し切った事と北条との同盟をしくじって
三方向を敵に回してしまったこと。これで戦がさらに多くなってしまった。
この二つを義信でもしくじらなかっただろうか?正直わからない。
偉大な先君がいる若殿はなんだかんだいって苦労する。
なんだかんだいって百戦錬磨の宿老に比べられるのだから。
勝頼が宿老を見返さんとしたなら義信もその情熱に取り付かれなかったとは思えないが。
733 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 16:33:31
何だかんだで信玄は結構負けてるけどな(笑)
武田の場合、勝頼の能力的な問題と言うよりむしろ、信玄の後継者問題に対する
失策、いや無策だな。
秀吉も似たようなもんだが、信長、家康の後継者の育成、次代への布石、周到さとは
比べるべくもない無能ぶりだね。
そう考えると義信処罰あたりからもう信玄は老害政治家と課していたとしか
考えられない。無論秀吉も同じ。老害政治家は己の権力に固執するあまり、
組織を継続的に維持発展させることと、自分の生涯を切り離して考えられないのは
現在の永田町でも同じこと。
735 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 23:01:05
勝頼でなくても武田家は滅んだと思うね。
唯一生き残れる道は信長に全面降伏して
信濃、駿河を没収されて甲斐一国の大名に納まること。
それと義信、義信というが義信が信玄に離反したのが事の始まりでは???
>だがそれも周囲の環境を見ないと。時は戦国時代。
敵は待ってくれない時代だ。
その通りだと思うね。もしも遺言通り(史実か分からないが)
3年間、外征に出なかったら、信長との力の差はドンドン広がり
結局は四方から攻められて滅んだと思うね。
長篠の戦では、武田側としては勝てるかどうかは
微妙な立場でも戦わざるを得なかった状況だったのだ。
しかし腑に落ちないのは何故、雨がジャンジャン降っており
馬防柵を造っている時に、突撃をしなかったのだろうか?
こればかりは謎。
だれかフォローを。
>>733 対村上戦の2回以外で負けたのがあるならあげてみな。
第一それをいったら信長も多くの負けがあるけどな。
>>734 なんというか文章が信玄に対する罵倒ばかりで具体的な内容がないのは
首肯しかねる。
できればどこらへんが無能なのか具体的に書いてもらいたいものだ。
義信の離反を見ずにそれに対処した信玄を叩くのは本末転倒。
第一信長は結局後継者ともども殺されて軍団長の秀吉に家を乗っ取られて終わっただろうに。
>>736 >馬防柵を造っている時に、突撃をしなかったのだろうか?
>こればかりは謎。
相手は倍の連合軍だよ。
しかも泥濘に足を取られるのは九割以上が歩兵の武田軍もお互い様。
戦況が悪化すれば後ろの長篠城からの攻撃も考えられます。
>>736 信玄に対する罵倒と捉えてしまうあたり信玄厨のかほりがするが。
まず結果が全て。義信離反というが、部下、それも後継者に背かれている
時点で首長の迂闊さは責められてしかるべき。(そういう意味では本能寺も同断)
細かく見れば今川との同盟破棄に対し女婿である義信の反対は当然予想されるべき。
しかし、説得工作や根回しをした形跡は全くない。「俺の言うこと聞け」だけ。
ここで、リスク管理能力が疑われるし、後継者に対する権威付けという後継者育成に
最も重要な部分の軽視が伺われる。信玄自身もそれで苦労したはずなのに学習能力が
ないとしか言いようがない。
そして廃嫡、処断という決断をしたなら次の後継者育成に早急に手を打たねばならない
ところを、「後継者に対する権威づけの軽視」はさらに酷くなる。
一度臣籍降下した勝頼しか後継者はいないのだから、よほど手厚く権威付け
しなければ家臣団は納得させられない。なのに官途の獲得にも動かず「四郎勝頼」のまま。
総領として扱い、一軍を率いさせねばならないところを一部将として先鋒をやらせる始末。
これでは、家臣団が勝頼を後継者として認めないのは当然。
一体信玄はあと何十年生きるつもりだったのか?この迂闊さを「老害」と言わずして
なんと言う??
自分が十二分に動けるうちに家督を譲り、軍団長として政権内のトップに後継者をすえ、
自らが後見することによって権威付けに心を砕いた信長・家康に比べれば、信玄のやり様は
稚拙極まると判断せざるを得ない。
739 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 11:08:31
>>738 まず結果がすべてなら信長が自らの不覚で後継者ともども殺されて
それをきっかけに家をのっとられた事は十分すぎるほどの汚点だな。
いっとくが義信離反は戦略問題の相違だ。衰退した今川にこだわり
信玄暗殺を試みた義信の戦略はあの当時の武田にとって有益な選択とはとてもいえん。
そしてそれを拒否された事で信玄暗殺をたくらんだ義信の行動もな。
いきなり暗殺なんて事をしようとしなければ信玄とて義信に手出ししようとはしなかったろうさ。
第一その信玄暗殺を目論んだ義信を3年にわたって生かし何度も説得や仲介を試みているのは無視か?
リスク管理能力も義信にはほとんどの家臣が同調しなかったし、
さらには密偵網は義信達の動向をつかんだし義信の守役の弟も密告してきた。
乱を未然に防ぎうる体制が出来ていた事で義信事件は大乱にはならずにすんだ。
後継者に対する権威付けは信玄だって考えていた。
足利義昭に対して官位受領と一字拝領を交渉していたが
当時は織田家に京都を抑えられていたから叶わなかった。動かなかったとか勝手な決めつけは良くない。
(続く)
(続き)
1571年には出陣中の信玄の代行として甲斐で外交も担当させている。
信玄晩年の状況は信玄が総指揮を取らねばならない戦いだったし、普通の大名なら頭領が指揮をとるもの。
信長とて信忠に形式上家督を譲っても主要な戦はほとんど自分で指揮を執った。
信忠に任せられたのは圧倒的大軍で優位な状況での戦い。
こんな贅沢な事ができる家なんて限られている。第一、一軍を率いてというがどこの一軍を任せるつもりなんだ?
武田にも方面軍制度がある。それぞれの地域を統括し担当地域に詳しい軍団長がその方面の軍を率いるのは
至極当然。これに基づいて秋山の美濃侵攻がある。
事情を汲まずに他者の他者による理由によって成立した成功例を元にして武田を叩き老害と断じるのは
主観にすぎよう。信長は先に挙げたとおり。織田には信忠に圧倒的な大軍をつけて弱い敵をつぶさせる仕事ばかりを
任せるという国力も余裕もあった。
家康にいたっては後見の形になったのは61歳だぞ。しかも関ヶ原において勝利し将軍職も得て3年立ったあと。
正念場になるであろう西上戦の前に家督を譲って後見しろとかいうのは
家康に例えるなら関ヶ原の前に秀忠に家督を譲って後見しながら戦えというようなものだ。
741 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 11:31:08
関東攻めた時 なんとかってじーさんに追い返されなかった?
「そのじーさん居る内は盗れん」って信玄言わなかったっけ?
確か関東のほう
あと小田原城も取れなかったし
信濃も約束やぶってかすめ盗ったようなもんじゃない?
あとで謙信にボコボコにされたけどpupu
孫子を参考にしてる割には勝てない戦するよね
ん〜(`〜´)
バカ!
742 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 11:56:11
多額の費用と人員使って何の土産もなきゃ負け戦だわな
孫子も戦争は国の大事だから絶対勝てる戦しかしちゃダメだよって言ってるのに
ちゃんといいつけ守りなさい
744 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 15:11:48
>>739 まずお前は小説と史実の区別がついとらん。
俺は客観的に異論のない事実に基づいてしか話をしてない。
義信の信玄暗殺の企てなんぞ異論ありまくりで、確定された史実とは程遠い。
しかも、そもそもの三国同盟に基づく義信の婚姻は信玄自らの判断によって
なされたもの。何のことはない。政策の転換に伴い自分の過去の政策のケリを
付け損なっただけでしょ。
>足利義昭に対して官位受領と一字拝領を交渉していたが
これも小説の類。小説以外でこのことを裏付けるソースがあればさらせ。
当時信長敵性大名家の全てとは言わないまでも複数の大名家で同様な官途妨害が
あったなら客観性、蓋然性もあるが、ない。
義昭にあてた信長の意見書の中にも「諸大名の官位の仲介について」の項目はない。
武田氏に対して信長が本当にそのようなことをしてたならば、ここに入ってないのは
全く解せない。しかも、名目上義昭が仲介をすることになっているが、官位任命権は
あくまで朝廷にある。当時の公家の重要な収入源でもあるそれを絶つことは
朝廷勢力を敵に回すことになり、1570年代前半〜中盤の織田家の政治姿勢とは
全く合致しない。
それらは本能寺の動機なんかと同じ、後世の付会に過ぎない。
「偉大な信玄公」が「そんな迂闊なわけがない」と信じ込むお前のような人間が
いつの時代も学者や小説家の中にいたってことだよw
746 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 19:03:38
747 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 20:24:02
>>741 長野業正のことだね
「業正存命のうちは上州に手を出せぬ」と信玄が嘆いたと伝わる
>>745 ちょっと待て。小説も何もちゃんとした資料にもとづいて話をしてるんだが?
事情も関係も読まずにただ自分の都合のいい事だけを持ち込んで叩こうとするなら
それは都合のいい妄想だろう。
その異論や異説をちゃんと述べてもらおうか。
義信事件の背景を知るには甲陽軍鑑以外に資料がないこと、そして甲陽軍鑑の価値が最近は
戦国時代当時の語が使われていることから見直されていることも考慮してもらおうか。
自分に都合のいいことだけをいうのはやめてもらおうか。
勝頼への一字拝領と官職叙任が小説だと?奇妙な事をいうんだな。
それの資料は戦国遺文武田氏1536号1570年四月10日書状。
この中で信玄は義昭に駿河で一万疋のご領所を与える約束、
さらには勝頼に一字拝領、京都での武田家出頭人への協力要請を行っている。
よってお前さんのそれ以後の文書はすべて無意味となる。
第一お前さんが事実に基づくというなら、お前さんがスルーしてる事柄もことごとく事実に
基づいているのだが?それは無視か?
>>746 ただ人の尻馬に乗って煽ってるだけなら楽なご身分だな。
どうせ具体的な反論もなくとりあえずWつけて言ってるだけだろうが。
>>741 >>742 まさに低レベル。
長野に対して信玄が負けたというのは江戸時代の講談。
実際の同時代資料においては武田の西上野攻略戦がはじまるのは
第4回川中島が終了した1561年11月以後。
長野業政は1561年6月に死亡してます。
小田原は謙信が11万の兵を率いても攻略できなかった城です。
信玄もこの時の小田原攻めは北条と上杉同盟に対する牽制なので3日包囲して
さっさと引いてます。
謙信に第4回川中島で打撃も受けたけどその分打撃も与え川中島もちゃんと制圧してる。
生涯の戦歴で戦術的に負けたのは村上戦の2回だけです。
後は大抵領土を獲得して百万石を超える領国を作り上げました。
>>747 上記を参照の事。
750 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 21:39:53
>>749 おまい山梨人やろ?
必死に信玄守ったりや〜
751 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 22:00:18
どうせ戦馬鹿なら、上杉謙信みたいな真っ直ぐな戦馬鹿のほうが好きだなー
武田信玄はちょっと小ざかしいと思う
752 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 23:42:46
>>737 >相手は倍の連合軍だよ。
>しかも泥濘に足を取られるのは九割以上が歩兵の武田軍もお互い様。
>戦況が悪化すれば後ろの長篠城からの攻撃も考えられます。
本当にそれを懸念しているなら設楽原での決戦を回避したはず。
決戦を挑むなら、何故、馬防柵を作製中に攻撃を掛けなかったのか?
ということ。
753 :
日本@名無史さん:2008/02/19(火) 23:48:00
>>751 >どうせ戦馬鹿なら、上杉謙信みたいな真っ直ぐな戦馬鹿のほうが好きだなー
>武田信玄はちょっと小ざかしいと思う
お前さんは時代劇の見すぎ(w
754 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:05:40
>>753 なんか武田信玄じゃなきゃダメ
武田信玄が一番
武田信玄をさしおいて他の武将褒めたら、絶対時代劇だの小説だの言うよね
山梨は過去現代、そしてたぶん未来においても栄光は武田信玄一人だけだからしょうがないけどね
755 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:07:52
>>754 君は自分と違う意見の相手が全部山梨県人だと思うのはやめたほうがいい。
756 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:10:34
>>754 オレは武田信玄が一番だとは思っていないよ(w
ただ戦国時代の漫画や時代劇のテレビを見て
それを史実だと信じているお前さんが
オメデタイと思っているだけ(w
757 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:15:06
758 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:25:42
759 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:33:32
>>758 よーするにじーさん死んでから攻略に向かったんだろ?
小田原にあっては何も得る事のない戦に民は駆り出され、それでも追撃してきた北条をやぶったはいいけど何も得てない戦から手柄払ってやらなきゃならんし余計な出費だわな
国力疲弊させたのは倅じゃなくて信玄じゃね?
川中島は将や兵の損失は武田のほうが多いだろ
信濃は盗ったけどな
760 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:38:01
>>759 お前が賞賛する大名は誰よ?
そしてその大名が信玄よりもどこが優れたか教えてくれや。
あら捜しなら、いくらでもできるけどね(w
761 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:42:38
>>760 完璧な武将なんていないよ
ただ君みたいに信玄マンセー
信玄にアラなんてないーっ みたいには思わんし
俺は道三が好きだけどね
762 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:52:43
>>761 あのな、オレは信玄マンセーなんて一度も書いていないわ(w
信玄は甲斐という地理的に非常ひ不利な状況下では上手くやった大名
であると思うね。
別にこれはマンセーでもなんでもないわな(w
763 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:58:21
>>762 もっと不利な状況でも、もっとうまくやった奴はいるけどな
寝るわ
おやすみ
764 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 01:00:03
>>763 >もっと不利な状況でも、もっとうまくやった奴はいるけどな
何処の誰よ?
さぞかし小ざかしくなく堂々と戦ったんだろうね(w
誰だか知らないけど。
765 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 01:01:18
>>759 そのじーさんが生きている間は特に戦ってないし
それまでも上杉とかの戦いで忙しかったんで
別にじーさんの存在があったから攻めなかったというわけでもないんだけど。
その小田原攻めがあったからこそ北条と上杉同盟のかく乱があり、
その結果として駿河攻略があるんだが。駿河とれたんだから余計な出費じゃないだろ。
川中島ではちゃんと謙信を追い払って信濃を確保に成功。盗んだわけじゃなくて実力で獲得。
767 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 09:40:37
>>748 「甲陽軍艦」こそ小説の類だが何か?ww
見直されてきている、というからこそそれまで資料的に価値の無いものと
されてきた証左だよ。まさか日本書紀が「事実の反映もある」と見直されて
きたから書いてることを信用しろというわけでもあるまい?
>義信事件の背景を知るには甲陽軍鑑以外に資料がないこと
つまり、これが俺の言う異論異説ですが?
江戸初期に軍学の宣伝の為に書かれたとはっきりした書物にしかそのことは
書いてないわけだ。お前は資料の読み方全くわかってないよw
義信事件を「不可抗力」「信玄に責任はない」とする「動機」を十二分に
持つ書物に「しか」そんなこと書いてないわけだから、「とても信用するには
足りない」とするのが正しい読み方だろw
長野に信玄が負けたというのが講談の話で義信事件が甲陽軍艦しか背景しるものが
ないなんて都合よすぎる解釈だね。普通に考えてどっちもどっちの与太話だろ。
いや、むしろ業正存命中は西上野戦線は保たれていたのは「事実」なんだから
そっちのほうがまだ信憑性があるってもんだ。
ご自慢の書状にもどこに勝頼「任官」のことが書いてあんの〜?
都合のいい解釈しすぎwww
768 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 10:24:03
いーのいーの
たった一つの栄光にすがるためにはいくらでも都合のいい解釈してもいーの
なんせ信玄君は中国の軍事書に影響されてるんだから
信玄マンセー!!
>>767 わざわざアゲてごくろうさん。
都合の悪い部分はことごとく無視か。
随分都合がいいんだな。
小説の類じゃないぞ。甲陽軍鑑は。むしろ武田の組織構成や内部事情に
やたらと詳しい事、戦国時代の古語が使われていること、などから
当時を生きた武田重臣の覚書などを元にしたのは間違いないといわれているんだがな。
事件の前後とか年代間違いがよく指摘されるが、それも本文の中で
「過去の事を思い出しながら書いているから細かい年代とか前後とか間違ってるかもよ」
と注意書きがされているくらい。それを考慮して読んでいけば十分武田研究に役立つ資料なんだがな。
異論異説の意味くらいちゃんと把握してね?異論異説というなら義信事件について
甲陽軍鑑に乗せられている話以外の解釈や顛末をちゃんとした資料や考察にもとづいて出してもらわねばな。
君がいったのは「異論異説」なんだから。どうやら君は資料の読み方だけでなく言葉の使い方も不十分なようだな。
甲陽軍鑑が一次資料と照らせば結構内容的に照合する部分も多いこととか知らないだろ。
もはやWをつけてあおり口調でごまかすしか出来なくなってきたみたいで哀れだがね。
その長野攻めで負けたなんて同時代の資料でも確認できないし、第一1561年11月以降に信玄が
西上野を攻めたのも業正がどうの、じゃなくてそれまでは川中島で謙信と争っていて
西上野に構ってる暇がなかったからなんだが。それで第4回川中島が終わって信濃制圧がひと段落した後で
西上野に侵攻しただけ。事情もよまずにろくに戦ってない長野によって信玄が負けたとか
もう都合のいい解釈しまくりだね。
ああ、
>>748では打ち忘れてた。
>>748の資料ではちゃんと勝頼任官の事もお願いされてるよ。
多分そこにすがってくるだろうと思っていたが予想どおりだったな。
>>768 あいかわらず具体的な反論もなく他人の尻馬に乗って煽るだけで芸がないな。
771 :
日本@名無史さん:2008/02/20(水) 23:00:16
>>768は↓の事はお忘れ?
------------------------------------------------
763 :日本@名無史さん:2008/02/20(水) 00:58:21
>>762 もっと不利な状況でも、もっとうまくやった奴はいるけどな
ひとつ教えてくれ
信玄が裁きをくだした家臣の喧嘩なんだが
刀を抜かずにAがBを殴った
Cがこれを止めに入り喧嘩は収まった
裁きの結果は侍が刀も抜かずに決闘した故AB共に磔、Cはそれを邪魔した故追放
どの辺りが優秀な裁きなの?まったく理解できないお
A・後世の創作
創作にしても江戸初期の価値観が・・
これが正しい基準なら忠臣蔵のそれも結構まともな殿様って事になるな
775 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 23:17:31
武田信玄の過大評価は昭和の時代で終わったんですね
776 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 17:15:10
センゴクの武田家は面白いが、あれだと勝頼が引き立てた武将と古参の対立がうまく描けないのではないかと思う。
777 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 18:08:17
ο卑怯
οデブ
οぶさいく
ο短足
ο変態
・・・いや ホリエモンの事よ
779 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 04:29:36
武田=馬鹿・残忍
真田=卑劣
武田二十四将=弱い
>>769 {ヽ ,,,,,, __,ノ} ∧ /i, /|
ヽ. Vノ巛( ,ノ . ヽ Y ∧ ,. | ,'//
レ彡ノ川 | ヽミミ 、 'i | i ! / | i ' /
/ く 〉リリ | 川ヾヽ i i ∧/ / / i / /
. {=、 `' ィ=、|リリ川ヾヽ. . 'i ',ヽ ' / 〈 i / /
ゝ' `ィ 川川川リヾー- | ' j | ヽ. V /
| } 川川川リヾヾ. ヽ、 i ! 〉 ./
| } : ノ| 川川リリリヾ ヽ,,; | //
‖ | / // リリリリリリリ. i:〉 ´''''''''゙'r ´`>
|l. ; : ,'.,' . i´ : :,.,.,. :. ヘ/
|ゝ-ー-、ノノ !: : :,'r‐ァ : : ヽ
@1⌒ヽ.ゝ . /: : ,',. `´: : : : : ゝ、
`ト、 :;;;イ}t'| ;;;;;;; : : : : : ,.;;; : : : : `‐ .,
ヽ.}::_ソ | .. ヽ,_ : :_, 1:;:;'' : : : : : : : :ヽ.、
| i': : : : : : : : : : : : : ;`‐- .,
.,,,,,, ,,,,'´,'l│ /'''i
.| ! !、.゙゙'"゙'" ,, ........! .,'..........、
,! . | .ヽ ヽ .`'''''ーッ .iー''''i .',
! . l .! . ! .| ! | !
./ ./ l . l ./ ./ .,! .,!
./ / .! ! / ノ゛ / l
' / ',-".ヽ/ |,゙_,./
781 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 08:56:18
信玄に対する認識度を見てると、頭の良い奴と悪い奴との差が良く分かるね。
戦略戦術の内容や全体の戦況に対して全く無知なのに信玄を過小評価する
馬鹿は、アンチ思考がひたすら強いだけの証拠だな。
・上杉謙信は信玄と信濃争奪戦に敗れたばかりか、その後、上州飛騨越中
にまで侵攻した信玄に、越後を生涯脅かされ続けました。
・北条氏康は信玄と駿河争奪戦に敗れたばかりか、本領の相模国内で武田軍
の攻撃から4000人もの死傷者を出してしまいました。
782 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:00:47
信玄の評価が下がるなんてことは未来永劫無いと思うよ、何せ大勢力を築いた
大名のほとんどは東国に集中していた戦国末期、一番大名として優勢に戦略
を進めていたのは信玄なわけだし。
不利な山岳地帯の内政、誰よりも上手をゆく壮大な外交戦略からの軍略、家臣
の統率の仕方など総合的に秀でていたのは信玄の他に誰もいないのですよ。
783 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:17:28
しかし信玄が生前勢力下に納めていた地域は
大した広さではない。
長宗我部や毛利のほうがよほどすごいよね?
上杉謙信と何度も戦をやって双方領土を拡張するわけでなし、
無駄の多い人生。
784 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:30:51
戦略戦術が均衡していれば双方領土が広がらないという単純な理屈も
理解出来ないからゆとり脳ww
そんなゆとり脳は、毛利元就が自身と同レベルの大名がいないおかげで
領土を広げられたという事実(大国を維持出来ない大内尼子)すら理解
出来ないのですねww周囲が若輩ばかりならアホでも楽に領土広げられる
でしょうね。
チョウソカベ???何それ
785 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:32:47
実力者同士がぶつかり合う戦略戦術の方が余程魅力あるし評価も高くなる。
それに勝って来た信玄>>>>>>>元就は永遠に変わらない。
786 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:33:04
結局、武田信玄に上杉謙信を抜く力がなかったことの
照明にしかならないが?ゆとり脳クン。
もし毛利や長宗我部の隣に上杉謙信がいたら、
武田信玄同様領土が広げられなかったというのも
ゆとり脳クンの妄想でしかないね。
787 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:35:28
冷静な政治家ならば、力が均衡している相手には
政略結婚などを持ちかけて無駄な争いはしない。
武田信玄は打ち破れない相手に何年もかけて
無駄な労力を使い、若い織田信長に上洛の先陣を切られた。
天下人どころか、ほかの戦国大名と比べても
大した領土拡張の能力すらなかった証拠。
788 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:40:31
可哀想にwwゆとりはよほど病んでるんだねえww歴史家作家誰でも
認識してることだよ、西国弱小と東国強豪っていうのは(笑
元就の領土拡大なんて、統治がたがたの大内にクーデターが起きて
さらにがたがたになった大内家(後に陶)を掠め取っただけだよ。
元就は自身同様勢力拡大中の強豪と一度も渡り合ったことがありません。
それと川中島だが、逆もしかりという言葉も知らない?謙信だって
信玄の北上を止められなかったんだし、越後近くまで迫られるわ領内に
一揆を起こされるわ状態ww
789 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:49:06
そんな信玄に生涯恐れ続けていたのが信長ですね、家康との挟撃に失敗し
内部調略をいれられるわ、外交で封じ込まれ、ままならない状態にまで追い詰められるわ。
川中島が長く続いたからどうしたの?信玄が最初から天下を取ろうとしていたという
証拠なんてないんだよ、越後を攻め取ろうとしていたとも考えられるしね。
それでなくても逆に北信濃を上杉に取られれば(または村上に返還すれば)、それだけで
他の戦略に移れなくなるwwwっていうか当時の武田には信濃方面しかなかったということも
知らなかった???ゆとり脳君wwwww
790 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 09:59:22
初期の信玄のスタートは3国同盟からの信濃戦線しか
ありませんから謙信との戦いが長引くのは誰しも納得が
いきますよ
逆に駿河から東海道にかけては順調に版図を広げていけた
わけです、領土拡大能力が無いというアンチさんなどは
相手にしない方が良いと思います
信玄の戦略のおかげで拡大出来なかったのはむしろ北条や
上杉や織田徳川です、信玄死後信長は飛躍的に勢力を伸ばす
ことができましたね
791 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 10:32:04
信玄と比較したがる信長厨は、信長包囲網や信玄西上のおかげで
領国拡大出来なかったという事実を無視しています、叡山焼き討ち
などという行為をするから信玄に火をつけてしまった信長。
信玄と比較したがる毛利厨は、大内家がどれだけ無防備で調略を入れやすい
かと問われれば何も言い返せないへタレw
792 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 10:46:29
若僧の信長におだてられて、どこの馬の骨とも分からない娘を勝頼の嫁にもらって西への侵攻を足止めされて、その間に信長は京を取ってしまいましたとさ
793 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 11:05:11
戦略という面においては信長のほうが上だろうね
上というかスケールが違う
だいたい信長と信玄では土俵が違うし
信長=時代を取る事に生きた時代の流れ、歴史の流れの中の人物
信玄=領地を拡げる事に生きた戦国時代の中人物
なんで厨だのゆとりだのを連呼しつつ煽り罵りを交えないと意見が言えないんだか
こういう奴らは信長も信玄も語らないでけっこう
795 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 12:59:52
ジワジワと行く信玄、ストレートに行く信長
戦略の違いでどちらがいいとも言えないが、時代が信長に味方した
796 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 13:30:54
なんで信長?
信長って天か取ったわけじゃないしすごくないじゃん
797 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 14:08:48
上洛すらできなかった信玄は信長の足元にも及ばないのだが?
798 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 14:46:31
799 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 15:16:49
韓国は日本にとっては兄の国。
だから日本は韓国に謝罪しよう。
800 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 16:05:44
>叡山焼き討ちなどという行為
信長の比叡山焼き討ちの歴史的意義すら解さない
戦前脳の阿呆になにを言っても無駄w
>>783 四国は全部あわせても百万石いかないから
単純な石高の大きさなら武田の方が上だよ。
>>800 叡山焼き討ち自体は信長以前に足利義教や細川もやってる。
信長も抱き込もうとして拒否されたからやっただけだし。
803 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:09:08
各家臣が豪族気分の強い武田家で信玄は家臣の統率に生涯苦労し続けたわけだ。もう少し信玄の権力が強ければ武田家はもっと大きくなったかもしれない。
804 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:16:32
武田公
805 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:26:50
>>802 それこそ恣意的な歴史歪曲だなw小火と火災一緒にするな。
信長の叡山焼き討ちがエポックメイキングなのは、宗教的権威に「攻撃」を
しかけたことではない。んなもん拡大解釈すれば平清盛もやっとる。
「圧倒的武力」を持って実際に宗教勢力を「殲滅」する姿勢とその「実力」を
示したから歴史的意義が大きいのだ。
実際問題、仏教と言うもの全体がそれ以前と今に続く以後では全く別物に変質してしまったことは
疑いの無い事実であるし、その原因を求めるとすれば信長の政治姿勢であることも
誰も否定できない。
無論学会でもお前みたいな阿呆な珍説=義教もやったじゃん。を本気で主張する奴などおらん。
信玄晩年は子飼いや親族に有力国人の家を継がせて統率に成功してるな。
勝頼の代で灰塵に帰すが。
甲信は難治すぐる。
807 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 22:58:04
今もなお信玄の武将としての名は不朽
それがすべてだろ
808 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 23:07:16
>>805 んな事はないぞ。
というかあんたは学会を知っているのかと。
義教の火災が小火だなんていう人間のほうが少ないって。
義教ははむかう比叡山に対して数度の弾圧を行い、焼き討ちも行い、
比叡山600年の伝統を誇る根元中堂は灰燼に帰した。
逆らえば高僧も容赦なく殺され、噂することさえ禁止され比叡山は義教に屈した。
信長のやった事がこれより優越してるなんてとても思えないのだけど。
圧倒的武力を持って宗教勢力を弾圧したというのを快挙というならそれは義教に
帰されるべき。
細川政元も1499年に敵対した比叡山に攻め込んで焼き討ちしてる。
松永久秀も信長より前に大仏焼いてる。
平氏の南都焼き討ちとか見ても結構お武家は敵対した宗教に容赦がない。
811 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 03:22:30
>>810 宗教を攻撃することを特別視する歴史観こそ、信長〜家康の功績な訳だけど。
信長以前の宗教の実際は、領地持っていて兵力を有した武装勢力が実体。
武装勢力に容赦何かする訳が無いよ。
812 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 08:36:24
>>792 ばーーか、西への侵攻が遅れた理由は今川家の弱体具合を見極める
為でもあったんだよ、3国同盟を崩壊させるわけだから慎重に戦略
を進めなければならなかったわけだ。
813 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 08:51:33
なぜ三国同盟結んだ状態で三河に侵攻しなかったのか
814 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 09:54:59
>>812 単に戦国時代を領地取りとしか考えてなかったから信長と同盟したんだろ?
その時点で並の戦国大名だよ
>>811 いやいや。
それ以前に足利義教が比叡山を弾圧したり
細川政元が攻め込んで焼き討ちしたりしてる。
比叡山の力はこの時点で大きくそがれている。
信長の比叡山焼き討ちに関しては大津市教育委員会と滋賀県教育委員会が
共同で10数回にわたる発掘調査を何度も行っているが
大規模な焼き討ちが行われたなら大量に発生する焼けた土がほとんど発見されない事から
その焼き討ちの規模は広いものではなかったのではといわれている。
家康はむしろ仏教を保護した。比叡山も復興させたし、江戸時代の戸籍制度は
仏教を利用したもので事実上の国教。
この結びつきがあったからこそ明治に廃仏毀釈がおきた。
>>814 信長だって普通に領地取りの感覚で武田と同盟したんだけどな。
美濃攻略前で武田が入ってこられると困るから。
武田も西上野攻略で忙しかったからこれを呑んだ。
816 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 11:01:28
817 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 13:34:11
>>815 ん〜規模の問題じゃないような・・・・
義教の焼き討ちは単に自分をリスペクトするあまりの病的行動に近い気がするけど
信長のそれは前後の政治姿勢からも首尾一貫した「政教分離」の原則を貫いたことが
意義あるんじゃないの?
大体、もし義教もやった、細川も・・・って程度ならそれこそ信玄様が
そのことについて激怒したなんてのも意味わからんし。
思うに義教のときはその後の宗教情勢に変化は見られんから、賛同者(大衆含め)が
得られなかった。信長の時は少なからずそれがいたから以後の変化が起きた、って考えるのが
自然じゃないのかな?
それと大きな勘違いをひとつ。檀家制度は宗教の保護なんかじゃない。
むしろ制約。布教の自由も、移動の自由も認めない宗教保護政策なんてありえない。
818 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 14:05:27
>>817 信長に「政教分離」なんてないよ。敵対したから攻撃しただけで、
叡山や本願寺とも敵対する以前には特に問題はなかった。
まさか本願に攻撃されるとは思わなかったので、奇襲になってしまったほど。
信長以前では義教の叡山焼き討ちの他、細川 晴元が山科本願寺(当時の本山)
を焼き討ちしたり、石山に移ったあとの本願寺をも攻撃している。
また、法華衆を壊滅したりしている。
自分の意のままにならない勢力は宗教勢力であろうと、誰でも攻撃するわな。
>>817 んー、なんというか
義教のは病気的な行動で信長のは合理的というのはねえ・・・。
もともと信長は比叡山に「味方すれば領土を与えてやる」とまで
言ってたわけだし。
義教は何気にかなりの人物だよ。彼の行動で比叡山が屈した事は大きな意義を持つ。
>>815にも書いたけど信長の焼き討ちによる焼土があんまり見つからない事は
それまでの義教や細川の行動で比叡山はかなりの力を失っていた事を示しているように思える。
それから信玄が怒ったというのは簡単な理由で
叡山、というか天台宗は甲斐武田源氏の祖である新羅三郎の代から武田と縁が深いから。
信玄自身もこの叡山とのつながりで僧正位とかいろいろもらったり送ったりしてる。
それは違うと思う。義教の時は比叡山はかなり力をそがれている。それで義教の暗殺で息をやや吹き返したが
細川にまた焼き討ちされた。これらによって大分力を失っていた叡山は
信長の焼き討ち(焼け土の事からいっても叡山自体がかなり小規模になっていたと思われる。)で
やられてしまったというのが実情だろう。
家康のブレーンである天海は延暦寺の復興を許されて復活させ、
さらには関東においても喜多院をもち、寛永寺を立てて天台の本山とし
徳川の菩提寺ともして威勢を大いに振るった。
崇伝も金地院を持って臨済宗の僧録になり威勢を振るった。
寛永寺にいたっては徳川将軍だけでなく諸大名からも敬われた。
一度は衰退した天台宗をここまで持ち上げたりしてる所から仏教を保護してると
いえると思ったんだけど違うかな。
>>818 こらまた古臭い信長観ですなw単に好き嫌いで歴史上の人物を矮小化するのは
感心せんな。
敵対したからってアンタw何で敵対したかまで掘り下げなきゃ意味ないでしょうが。
信長が何となく気にくわなかったとか?(爆)もう定説だが既得権益である関所を
撤廃されたから。
信長の政策は叡山にとって認めるわけにはいかないものだったから。
ただ公平に見てそんな政策をやりながら叡山が武威をおそれて味方するとでも
思っていたのなら信長の迂闊さも相当なもんと言っていいが。
税の徴収、正に「政」の部分に「教」は関わるべからず。これを政教分離と言わずして
何というの?政教分離なんか無いってあんた、どっからそんな発想になるんだかw
>>819 つまり新旧の叡山焼き討ちの意義はその目的、政策との関連としてみるべきで
ダメージの大小を論じても真価は見えてこないと思うよ。
あと仏教の捉え方については真っ向から反対。
例えば今の日本にある宗教全てに「今いる信者とその子孫しか信者増やしちゃだめ。
勝手に宗教拠点作っちゃだめ。そのかわり、お寺ひとつずつ国費で立ててあげる」
なんて言ったら「宗教弾圧」と捉えないところなんてひとつもないよ。
>>820 んー?
>>819だけどさっきからあんたが言いたい事がわからないよ。
なんで義教のは政策的じゃなくて信長のは政策的なん?
義教の行動も室町幕府に対して影響力を行使しようとする
比叡山に対する対処から始まっているんだけど。
信長の場合はただ単に比叡山が朝倉浅井に場所を貸して拠点にさせてたから
「味方すれば領土を与える、できないなら中立を、敵対するなら皆殺しにするぞ」
ということを言って拒否されたから焼き討ちしただけ。
そこには信長の政教分離なんていう政策意識は見えてこず
ただの戦略的状況の対処があるだけ。
政策との関連でいうなら義教のほうが政教分離になるよ。
現代の価値観ではかっちゃいかんよ。
中世で宗教をあちこち野放しにしておいたら宗教紛争が起きてしまう。
同時代の西洋ではカトリックとプロテスタントの住み分けがなされたように
日本でも宗教の住み分けは必要だっただけの話だろう。
それまでに中世で起きた数々の宗教紛争を見れば自明に見えるけど。
本願寺・日蓮宗・比叡山・興福寺・東寺といった各宗派が一斉に激突した
天文法華の乱とかは応仁の乱に劣らないほどの被害を生み出したし。
延暦寺が敵対したのは信長が六角氏を駆逐した後に、六角氏に認められていた山門領を
差し押さえたのが原因。梶井門跡を通じて内裏にも訴え出ている。
そして、焼き討ちしたとき、信長は「将軍権力の代行者」であることを背景にこの仕置に及んだわけだから、
焼き討ちに至った性格は違うとはいえ、信長の行為が革新的、義教の行為は病気の世界という分類はできんだろう。
さらに言えば、この段階では山門の門徒(山徒)も信長の与党も構成員は地侍の類なので、延暦寺の焼き
討ち=中世権力の終焉、政教分離とは言いがたいとは思う。
823 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 17:00:36
>>820 ほぉう。信長が政教分離したのか。初めて聞いた。勉強になった。
権益が侵害されたので、叡山焼き討ちや石山合戦に至ったと思っていたが
誤りだったんだな。政教分離が徴税権への宗教勢力の介入の排除
だったのか。
いや、勉強になった。
824 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 17:11:00
>>823 無教養をさらす煽りは恥ずかしい。
信長の政策に政教分離の原則の萌芽が見られるのは、定説とは言わないまでも
かなり有力な説だ。
>>821-822はそれを踏まえた上で、異論を唱えているわけで、それなりに説得力もある。
初めて聞いたなんてのは、ただのお前の勉強不足。恥を知れ恥を。
825 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 20:53:46
信長は政教分離なんか考えてないけどな。一向宗は歯向かうから殲滅したんだし、キリスト教は貿易に利用できるから許しただけ。
つまり、自分にとってプラスかマイナスかでその宗教に協力するか力を削ぐかをしていただけ。
826 :
日本@名無史さん:2008/03/13(木) 23:22:46
政教分離と言うのは、本来外来概念であって、当然後世の評価だろう。
只、政教分離の概念はその国の時代・状況により多様であるので、
>>820が
どの様な定義で用いているかやや不明であると思う。
>>823はその点を言っているのではないか?あまり乱暴な煽りは如何かと。
827 :
白馬青牛:2008/03/14(金) 00:17:43
>>788 甲冑武具歴史研究会の笠間良彦氏は、「西のほうと東国では戦術に
大きな差がついてしまっている。信玄が、西上軍を進めたとしても
駄目だったでしょうね。」とされる。
川角三郎左衛門は、秀吉が小田原攻撃の際、武田の軍法を田舎者の
合戦の仕方と云うたと記しておるが、東国の弱小と西国の強豪よのう。
信玄自体、毛利や尼子の強豪と一回も戦闘しとらんじゃないか。
せいぜい東国ローカルで奴隷狩り、人身売買に熱心な掠奪王に過ぎん。
しかし実際問題として武田の軍法を取り入れた家康にその秀吉は敗れてるし
最終的に天下の権を握ったのも東国勢。
そこまでの差があるもんかね、実際のところ。
中国の毛利や尼子と戦ってないといわれても。
逆に毛利や尼子も武田や上杉や北条と戦ってないともいえるし。
829 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 11:45:46
>>828 秀吉が家康に敗れるw。
小牧・長久手では秀吉が勝ってるんだが。
家康が勝利したのは一局面に過ぎず(真珠湾での戦果のようなもの)、
伊勢では松ヶ島城(信雄のかつての居城)など重要拠点をほとんど失い、
美濃では加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城が落城。
竹ヶ鼻城は秀吉得意の水攻めで総延長5キロの築堤を行い落城させた。
秀吉の圧倒的な物量に、結局は信雄・家康連合は伊賀と伊勢の半分を秀吉に割譲し、
家康は人質として秀康まで差し出して講和している。
関が原では豊臣恩顧の大名同士が戦っただけで、家康本隊と秀忠隊は戦闘してないし。
>>829 全般の局面ではそうだろうけど
小牧長久手では少なくとも徳川の勝ちだよ。
小牧長久手っていうのは家康と秀吉本隊が対峙した小牧山周辺と
池田隊を壊乱させた長久手での戦いをいうんだから。
>>828で問題にしてるのは戦術において東と西にそこまでの差があるのか、という事で
圧倒的な物量での話しはあんまり関係ないのでは。
831 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 11:56:27
そもそも家康が勝ってるなら臣従する必要がないから。
>>831 全般で見れば秀吉の戦略勝ちだろうけど
小牧周辺の戦いと長久手での戦闘での勝利は家康だよ。
森も池田も討ち取られて敗退してるし。
本隊での決戦で敗れなかったからこそ減封とかされず妹を嫁にもらって
秀吉のお母さんまで人質に送ってもらった上での上洛となったわけだし。
秀吉と戦った大名でここまでいい条件で傘下に入れた大名は家康だけ。
家康が武田の軍法を取り入れて勝利したというのも
過大評価なんだよな。
武田の残党をとりこまなかったら、
家康は秀吉没後征夷大将軍になれなかったとでもいうような書き方。
家康はさまざまな軍法研究の一環として武田のそれを取り入れたかも知れんが、
家康の中枢にあったのは今も昔と変わらず三河の人間で、
武田の者がとってかわったわけじゃない。
信玄は生前甲斐や信濃の中小豪族を滅ぼしたが、
とても天下に大号令できるほどの戦国大名を従えることもなかった。
(上杉にすら勝てず)
過大評価。
834 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:18:36
家康は昔から野戦が上手い
>>833 まあそりゃそうだわな。
天下取りの要因はなんといっても家康に帰されるべきだわな。
でも実際の所武田の軍法が徳川に取り入れられ
旧武田武士が井伊の赤備えを構成したり、江戸時代には軍学のお手本になったし
それが他ならぬ豊臣の西国勢との戦いで一定の成果を挙げた以上
>>827さんのいうように東と西に極端な差があったわけではないんでない?
というのが言いたかった。
上杉にすら勝てずというが謙信自体が一代で百万石以上を従えた英傑であり
上杉家が戦国の強豪であるのも評価してほしい所。
上杉は滅ぼせはしなかったけど信濃はほぼ取れた。
836 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:33:14
小牧長久手の戦いを単純に勝ち負けで語るのはナンセンス。秀吉も家康も引くに引けなくなって開戦したんであって、どちらも相手を滅ぼそうとは思ってないし、下手に長引かせて求心力も失いたくないので落としどころを探しただけ。
その割には秀吉方は池田やら森やらという信長時代からの名だたる将を失い
兵も損耗し、家康・信雄方も秀吉別働軍に美濃や伊勢の拠点をいくつも
攻略されてるけど。
秀吉にしても勝てるなら勝っとくつもりだったろ。
秀吉が先に和議を申し出たのは、
大阪周辺で根来衆らの一向宗が
秀吉の留守をついて攻撃してたからでしょ?
本拠地の三河をほとんど出なかった家康に比べ、
遠征しに来ている秀吉は家康一人にかまっておられず
さっさと本拠地の大阪や京に引き返して
天下人の威厳を示さなければならなかった。
家康が秀吉の本拠地大阪まで攻め込んで
秀吉を降服させることができたかといえば別問題。
それは無理だったからこそ家康は
自分に有利な条件を出してくれているうちに秀吉との和議に応じ、
秀吉に従った。
でもここで秀吉が勝っておけば家康に優位な条件で
屈服させる事ができたわけで。
その意味で家康にとっても秀吉にとっても小牧長久手の戦いは
一定の意味を持つよ。
840 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 12:53:27
>>837 川中島と同じようなもの
武田に言わせれば武田の勝ち
上杉に言わせれば上杉の勝ち
ハタから見れば引き分け
武田は信濃を得て多くの将兵を失い他国からの信を失った
上杉は将兵の犠牲は武田ほどではないが武田を信濃から追い出せず、しかし代わりに他国からの信を得た
川中島で他国からの信を失ったのかな?よくわからないけど。
まあ小牧長久手は全般でみるとそんな感じか。
842 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 13:15:41
>>837 上杉は天正三年御軍役帳から見ると、かなりお寒い状況だよ。
員数外の物もあるだろうが、鉄炮など他大名に比べて比率が
多いと言えるか。例えば若干年代差はあるだろうが、
鑓:鉄炮の比率で言うと、凡そ上杉氏10:1、後北条氏59:13、毛利氏
15:15と言った所。
天正3年というと1575年。
この年に織田は武田と長篠で戦うがその鉄砲の数は千。
酒井に貸したのは5百。合計すると1500.
織田勢の数は公記では3万。
地形から現実的な数として推測されるのが1万8千余り。
公記の数で言うなら20:1、推測される実数でも12:1
織田ってお寒かったのだろうか。
844 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 14:50:35
>>843 おいおい、
>>842は軍役帳から出した鑓と鉄炮の比率だろう。
全体の総数が鑓と鉄炮のみで構成されていたのでは無い事を
をお忘れ無く。
>>844 天正3年における上杉家軍役帳、
これは上野や越中の軍役集は含まれず越後のを主としているが
これに示されるのは槍・手明き・鉄砲・大小旗・馬上で総計約5500。
鉄砲は約320ほど。比率でいうと約17:1か。
織田の12:1と比べても圧倒的に悪くは無いような。
上にあげられている北条や毛利のはいつの年代の軍役帳を元にしてるのかが
知りたいな。
戦国時代後半になるにしたがって鉄砲比率は急速に上がっていくし。
1615年の大阪の陣では伊達は槍と鉄砲の比率1:2に達したというし。
天正三年の軍役帳の合計数は5192だったよ。鉄砲は320そのまま。
>>844にも書かれているが、合計数:鉄砲じゃないだろ。
鑓:鉄砲の比率だろ。読み違えだよ。
>>846 あーいやいや。
1575年当時で畿内を押さえる勢力トップ大名である織田が
長篠では合計数:鉄砲で12:1(18000:1500)なので
上杉の約16:1(5192:320)もそんなに悪くないんじゃ
ないのー、といいたいのよ。
そんでその槍:鉄砲の比率はどの大名も戦国後半になればなるほど
上昇していき、大阪の陣では伊達は槍:鉄砲で1:2になるくらいだから
北条や毛利の比率も戦国時代後半の軍役であるなら
1575年当時の上杉の鉄砲保有率と比べるのはいかがなものかという事なのよ。
軍役帳の人数と凡その推定想像の人数(軍役帳以外の構成要素が
入ると考えられる為)は比較出来ないと思うよ。
849 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 17:59:49
>>839 >でもここで秀吉が勝っておけば家康に優位な条件で
秀吉が勝てば家康に優位? 意味がよく分からんが、
秀吉は有利な条件(伊賀・伊勢半国の割譲、信雄は臣従、徳川からは人質)で講和している。
家康が勝っていれば人質(秀康)を出す必要はない。
このとき家康には秀康と秀忠しか男子がおらず、当時の秀忠は幼児。
当時の幼児の死亡率の高さから考えると、秀康をよく出したものだ。
小牧と目と鼻の先の竹ヶ鼻城も秀吉に水攻めで落とされ、後詰めもできず涙目の家康w。
>>849 でも結局家康の領土を削ることはできず家康は5カ国の大大名として
豊臣政権に温存された。
さらに言うと秀吉は家康を上洛させる為に妹を嫁がせ、母親を人質に出した。
当時の年齢から考えれば今生の別れになってもおかしくないのにもかかわらず。
小牧で勝ってれば家康の領土を削れて妹も母親も出さずに屈服させられたのに。
>>850 戦国の世では今生の別れになるかもしれないのに
姉妹や娘を戦国大名は政略の道具にしたよ。
母親もときには仕方がない。
啓嗣となるべき男子をだした家康の負けだろう。
姉妹や娘を政略結婚させるのは勝ち負けに限らず
珍しくもなんともない。
>>851 勝ってるほうが妹と母親を差し出すのは普通ないぞ。
領土も削れてないし。
秀吉と相対した相手でここまでしてもらったのは家康だけ。
結城秀康はもともと家康に嫌われていた子供だよ。
途中まで家康は秀康の存在を認めず、信康の配慮でやっと対面したほど。
築山殿の女中だったお万に手をつけて生まれた子供だし。
生涯にわたって徳川宗家からは冷遇された人で本人も豊臣びいきだった。
それから当時には松平忠吉、武田信吉がうまれてるから
秀忠含めて代わりになる子は数人いた。
あと言っておくと秀忠の母親は西郷局。
三河の名門豪族西郷氏の養女として家康の側室となった人で
家康の愛情を深く受けた人。
あのまま残っていても女中あがりのお万の子供である秀康と
どっちが家督継承に選ばれたかな?
織田家の信広と信長の例とか見ても秀忠が選ばれたと思われるけど。
854 :
白馬青牛:2008/03/14(金) 22:42:41
>>828 秀吉と家康は膠着状態で勝ち負けはついとらんよ。ほいで、小牧・長久手で
最前線で戦闘したんは、大垣城主の池田恒興や美濃金山城主の森長可の
美濃勢じゃろう。中国方面で連戦した将兵はあんましおるまい。
東方面の予備隊程度が、前線にしゃしゃり出た程度よ。
まあ、織田軍団の北国方面の柴田や東国方面の滝川ら田舎のドサ廻りは、
上杉や東国の連中ばっかし相手にしとるけえ、田舎者の合戦レベルじゃ
ろうのう。十字軍とイスラム軍の戦闘みたいに、戦争が永う続くと
敵方の戦闘形態と似て来るわい。秀吉が家康の徳川勢を傘下に入れたいんも
信長のやり方の継続で地位を上げてやることで東国の押さえになれ云うこと
じゃろう。秀吉は経済交易路に旨みがある西国の方へ目を向けよる。
ほいで北条を滅ぼしたら関東をくれてやるくらいじゃし、
東の後進地帯にゃあ関心もさほどあるまい。
855 :
白馬青牛:2008/03/14(金) 23:06:00
>>835 机上の空論の江戸期の軍学のお手本じゃあのう。
秀吉の中国攻めはえらい長期になって、しかも中国東部の地元豪族を味方に
付けることで、信長が死ぬ前、進軍出来たんが備中東部までじゃ。
戦闘形態も西が先進的で、南北朝期の悪党の時代から差があるよ。
関東へ奴隷狩りに遠征した謙信が英傑かのう?奴隷売買をする人身売買
業者の親方よ。
856 :
日本@名無史さん:2008/03/14(金) 23:50:44
>>854 この軍勢の大将は三好秀次で、木下祐久も討ち死にしたはずだぜ?
>>854 じゃがのう。
どっからを東国西国とわけるんかは知らんがのう。
池田は丹波丹後とかを平定し本願寺とも戦った明智と山崎で戦って奮闘しとるでよ。
池田自身も荒木攻めに参加したり、兵庫花隈の働きは信長に佐久間の折檻状でほめられてる
くらいだでよ。本能寺までは摂津の大将やっとるし。西国の戦闘経験者じゃないかのう。
それに秀次の率いた兵は毛利との戦闘をしてきた兵じゃなかったかのう。
というか毛利の戦いは信長公記見る限り秀吉がほとんど一手でやってるように思えるんじゃがのう。
そして結局家康に東国の巨大な石高を与えた結果天下を取られたことを考えると
皮肉なもんじゃのう。
>>855 ふぉふぉふぉ。
いまだに藤木説の虜かのう。小田原で謙信が行った人身売買の値段が
えらく安いことは知らんのかのう。捕虜釈放みたいなもんじゃろ。
本願寺とかと連携しながらもほぼ秀吉一手に押し包まれて本能寺直前には
内部崩壊寸前だった毛利が余裕こいていられるかのう。
宇喜田には寝返られ、南条には謀反され、大友には迫られ、親族である上原にも裏切られ、
村上水軍まで内部動揺してる状態じゃ。
秀吉軍一手から高松城を救うことが困難だったというのに。
あのまま織田の援軍が到着すればおしまいだったじゃろう。
そもそも人身売買は西国のほうが凄まじい件
860 :
白馬青牛:2008/03/15(土) 01:41:35
>>857-858 池田は中国攻めに歴戦しとらん後方助っ人に過ぎんよ。
しかも畿内は、悪党や傭兵が集まる地域で乱雑しとる。
池田勢の動員外が増えるけんのう。村落自体が掠奪商売に参加してくる
地域じゃし、東国の縦型農奴集団たあ違う。
秀吉は鎌倉末期の北条氏と同様、西国の海上交通路の利益を独り占め
しよったもんは滅ぶけえ自業自得よのう。
藤木説に限らず、日本だけじゃのうて、西洋でも人身売買は近代以前
盛んじゃったど。まあ西洋でも地域差はあろう。ほいで、その苦境に
あった毛利勢を殲滅出来ん秀吉も膠着状態を打破出来んで信長に出て来て
くれえ云うて頼んだんか。まあ信長も西国のカスリを取り上げる野心だけ
じゃけえ、滅ぶべくして滅んだわけじゃ。信長が到着したら毛利が
倒せるなんぞ、あんたの後付け解釈に過ぎんよ。
>>859 藤木氏の引用じゃが、秀吉は、真田昌幸への書状で人身売買を
「東国の習い」としとらんか。人身売買は、西国でも九州は盛んじゃった
が、毛利氏は国人領主との盟約で禁止しとるよ。禁止した云うことは、
当時ゼロじゃあないが、横社会傾向の強い中国地方は少なかったとも
云えよう。
861 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 02:20:55
乱取りや人買いの話に夢中になってる馬鹿はニートですか?
>>860 確かに西洋でも人身売買は盛んじゃったのう。
西国の人身売買には宣教師が絡んでおって日本人を外国に売り飛ばしておったからのう。
さすがにあの状況で信長がきても毛利が滅ばんちゅうのは
苦しかろうて。
毛利家臣でこの高松攻防にも参加した玉木が記した「身自鏡」には
秀吉勢と毛利一門勢は兵力が伯仲しており、全力を出して戦えば羽柴を切り崩せるだろうが
味方の表裏の輩どもが羽柴へ密通している風聞があり、この一戦で勝利をしなければ
陣は破れて残党も残らなくなってしまうのでにらみ合いに終始した、
という意味の記述があるんじゃわ。
他ならぬ毛利家の武将自体がこんな記録を残してる状況じゃけえ。
秀吉一手にさえ勝てなければ崩壊するといわれる状況で信長達がくりゃ勝機は
なくなると思うんじゃがのう。
ここって何のスレ?
864 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 14:55:09
865 :
白馬青牛:2008/03/15(土) 22:55:35
>>861 乱取りや人買いの話は、東国人にゃあ都合が悪りいんじゃろうのう。
弘治三年(1577)12月2日、安芸国衆12名の傘連判城に、
軍勢狼藉禁止の盟約から、狼藉に厳しく臨んだが、東国は領主自ら、
奴隷商人の親方じゃったけんのう。
>>862 後の時代でも、英国は植民地アメリカの叛乱軍を鎮圧する為、ドイツの
諸領主から買うた兵隊の値段は、計、約2万9千の兵が700ポンドで
売買されたが、カール・アレクサンダー伯なんか女優や人妻ら女狂い国庫を
空にして自分の軍隊を英国に売ったわけじゃ。領民、兵は自己財産で、
売り買いして何が悪いか、封建領主として当然の権利なり。と云うことで
領主と農奴色の強いドイツは、日本の東国と程度は違わんのう。
封建制度の強い土地じゃあ、兵隊も農業生産物や貨幣と同じで商品
じゃけんのう。近代でも、好鉄不打釘、好人不当兵の、大陸の
お隣りさんは、戦前まで壮丁徴発に生きとった言葉じゃ。
人身売買は、日本でも九州なんか戦前まで「唐ゆきさん」、「娘子軍」の
産地で自国民を売買しとったよ。日本人慰安婦も九州女性がほとんどじゃ。
>>865 多分お主も
>>861がいう「夢中になってる馬鹿」に入ると思うぞいw
乱捕り人買いについて話したレスはお主のほうが多い。
東国でも上杉や武田は軍勢狼藉禁止の制札を各地に出しとるんよ。
東国には東国の情誼というものがありんすよ。
あんたも言うとおり東も西もこの時代は人身売買や乱捕りは多かったんよ。
867 :
白馬青牛:2008/03/16(日) 00:02:47
>>862 続き。日華事変のおり、独混桐旅団(北関東兵団)の桑島節郎氏が
書かれておるように、山東省の農民を捕えて満州へ強制連行し、
工事に使うた五千人の中国人を工事完了と同時に殺し、食物も与えず、
病死したり、暴行されて死んだものなど日本人も酷いことしとるよ。
日本人もソ連による強制連行のシベリア抑留じゃあ同様な目に遭うて、
苦労をされた人も大勢おられる。
藤木氏の云われるよう、西洋人の宣教師も含め日本人を
売り飛ばしとるが、朝鮮の役で捕えた連中を、日本人も売り飛ばしとる。
まあ、酷いもんよ。
話がそれて仕舞うたが、ほいで信長が来たら、毛利勢を壊滅出来る奇策でも
あったんか?中国勢の中に毛利勢離反を促したんは、「人たらし」の秀吉の
功績じゃが、信長に何が出来るんか。お互いにクリンチの膠着状態を
打破する秘策でもあったんか?
秀吉は、信長を呼ぶほど苦戦で、攻略が長引くけえ、大将信長自身が
指揮を執って毛利を攻略出来るか云う、信長へのあてつけか、
ほんまに信長を殺す為の呼び寄せかは解らん。玉木見解の備中決戦で
のうても、毛利勢は備後の線でもええし、より慣れた地勢を生かせるわい。
信長が来たところで簡単に戦局が動くまい。秀吉よりも戦さが上手な
訳でもあるまい。本能寺に討たれるあたり、戦闘から離れてボケとるよ。
戦場でも喧嘩でも隙を見せたら負けが鉄則じゃ。信長は、はあ権威の象徴で
使いもんにならん。
868 :
白馬青牛:2008/03/16(日) 00:29:25
>>866 東西日本が同一社会云う前提の、空虚な先入観から云うとるんじゃろう。
じゃが東西日本は、社会組織や文化もちがう。西日本でも九州は別として。
軍勢狼藉禁止の制令を各地に出したんを具体的に云ええや。
また藤木氏の引用じゃが、甲斐武田は、人沙汰でも被官が他に仕えた
場合は問答無用で処刑じゃないか。安芸毛利の場合は戒めとして書いて
あるに過ぎん。過酷な東国縦社会と契約を重視し温情も含める西国横社会
たあ違う。大内義長攻めの乃美宗勝宛の元就、隆元、隆景の書状にも
軍勢狼藉は、敵対者であり、防戦するよう下知しとる。
その伝統は、近代軍隊でも最強広島兵団は軍紀厳正がカラーじゃし、
他地域の軍紀弛緩兵団や軟弱兵団たあ違うたわい。
>>867 続きかいのう。
んで毛利についての事じゃが
別に信長が一人いるだけで戦局が変わるなんていうわけじゃないんよ。
信長はまず明智勢1万3千、を第一軍とし
津田源十郎をはじめとする直臣達に安土で出陣準備を整えさせとるから
すべてが結集すれば明智も含めて3万近い軍勢が出来上がったはずじゃけえ。
同数の羽柴と膠着状態になっとる状態でこんな大軍の加勢が来て
どないしよういうんじゃ。
信長は毛利一門が集まってるのを聞いて「一気に打ち破って九州まで進もう」いうとるんよ。
積極攻勢で戦う気満々じゃ。
毛利家武将の玉木にさえ、同数の羽柴相手にもし勝てなければ崩壊すると
いわれとる状況で倍以上に膨れ上がった相手にどないすんじゃ。
高松見捨てて引いたら高天神見捨てた勝頼状態になりそうじゃけえ。
毛利一門が総出で向かって織田相手に高松を救援できなかったとなれば
ただでさえ動揺しとる毛利内部は崩壊しそうじゃけえ。
毛利はこの時点で謀反した南条、迫る大友、裏切った上原の対処にこまっとる状況じゃ。
これで内部動揺を抱えたまま信長勢・明智勢加えて倍以上に膨れあがった織田勢の相手は
厳しいでよお。
>>868 東西日本が別もんじゃちいうのはわかっとる。
文化の違いは昔から今に至るまで違うのう。
ただ軍の強さが圧倒的に違うとは思えねんで。
まず武田じゃが元亀4年正月7日に三河大恩寺に乱暴狼藉を禁ずる制札を
だしとるでよう。永禄7年6月にも飛騨での乱暴狼藉を禁じる制札をだしとるでよう。
弘治3年にも信濃で乱暴狼藉を禁じる高札だしとるでよう。
上杉じゃが、まず永禄3年12月に小田原攻めたときは相模妙本寺に乱暴狼藉禁止制札を出し
永禄3年三月には越中における寺、門前、道場において乱暴狼藉を禁じた制札をだし
天正5年12月には能登各地の城において乱暴狼藉その他13か条を禁じた制札を
だしておるでよう。
東国には東国の人情がありんすよ。暖かいのは西だけじゃないで。
広島兵団は強かったろうが東北の師団も強さをうたわれとったけえ。
東国東国いうんなら印判についてもよろしくな
872 :
白馬青牛:2008/03/16(日) 02:18:59
>>869-870 膠着状態に加勢が来ても、打開出来る要素は少ない。兵員の動員による
人海戦術よりも、奇策か奇襲で意表を突くしか打開策はあるまい。
信長の九州まで進もう云う希望的観測じゃないか。
玉木が何で兵力が同数云う解釈になるんか?攻略要員は、掠奪する旨みの
ある攻める側に枯れ木も山のにぎわいになるけえ、兵員の数など解るはず
あるまい。戦国期に兵力動員数なんぞ解るわけあるまあ。
勝頼状態は、敗北の後手を引きずることじゃし、それを毛利征伐に結び
付ける自体、可笑しげなわいのう。
東西日本は、文化から戦闘まで異文化と解釈する方が解り易い。
武田氏は実際東国でも軍勢狼藉しとるじゃないか。
東国の制令たあ建前論か?東国の人情たあ何なら?僧侶、旅行者の殺害し、
首を晒すことか?
九州や東北が世評人気で謳われた云うて、実績、実力と違うし、
広島兵団を鈍重東北兵団と比較されてものう。仙台13Dの越後の
高田聯隊が負けて陣地を奪われた地である中島高地を、広島聯隊は、
高田聯隊の3分の1の兵力で守り抜いたよ。実績から東北兵団たあ
較べもんにならん程じゃ。その東北・越後兵より弱いんは、
関東兵団じゃろうに。
ガキ臭い展開
874 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 02:52:04
何故信玄のスレで人身売買云々が話題になるのか理解できない。そういうスレ作れば?
875 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 02:54:49
ヒント
戦国の村を行く
飢餓の村を行く
>>872 せやからそのこう着状態を長く続けられる状態には毛利はあの時
なってなかったんやというとるんよ。
南条や上原が背き、大友が背後をついてこようとしてる状態じゃけえ。
このようにあちこちに火もついとるし
秀吉一手との決戦さえ内部動揺で危ぶまれとる状況じゃけえに。
倍以上に膨れ上がった織田相手に毛利はどないすんじゃ。
信長もやれると見たからいったんやろ。
確かに玉木も正確な数を記しとるとはとてもいえん。
身自鏡じゃ羽柴勢10万余り、毛利勢10万余りといっとるけえのう。
誇張入りまくりじゃ。
ただそういった誇張ありでも他ならぬ毛利の武将である玉木は敵を自分達と
ほぼ同数の兵団だといっているのが実情じゃ。
そして毛利の武将である玉木自身が内部崩壊を恐れてにらみあいに終始せざるをえない
と言っていることも実情じゃ。
本来なら南条や上原、大友への対処が必要な状況で倍数以上の織田勢を迎えて
同数相手の決戦させ危ぶまれる毛利はやっていけたちゅうのは難しいやろうが。
そうじゃ。武田は略奪とかしとった。他の東国勢もやるとこはやっとった。
でも制札を出すべきところにはちゃんと出しておったんや。建前だけでのうてのう。
武田は宗教を手厚く保護して、信長に焼かれた比叡山を甲斐で復興させようとまで
しとるんよ。悪い面だけ見りゃ西国だってカオスになるわい。
東北弘前師団の日露での活躍を見とき。文字通り日本軍の崩壊をすくっとるやろうが。
877 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 02:56:01
白馬青牛さんはキャラ作ってるからね
878 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 02:57:54
だkら人身売買なんて当時の常識であったことをわざわざ信玄スレに書くな。他所でやれ
わざわざ書き言葉で方言を使う意味が理解できんな
>>852 勝ってるほうが人質を出す例はあるぞ
講和して、敵軍が城から撤退するときに、その安全の保証として出す例がある
881 :
明日心剣(昔の武陽の別名義だ):2008/03/16(日) 18:27:17
みんか藤木氏の研究からパクった書き込みしてるけど
なんなのこれ?
ネットから拾ったとか
どっちにしろ馬鹿みたい
882 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 19:25:31
一人でやってんじゃね?
883 :
白馬青牛:2008/03/16(日) 23:42:02
>>872 >武田氏は実際東国で軍勢狼藉しとるじゃないか。に上杉が抜けとった。
建前だけの制礼じゃ。他の領主との盟約で相互規制せにゃあのう。
縦社会の東国にゃあ無理な話よのう。
>>876 膠着状態は、長期戦になるほど攻める側に厭戦感が出てくるよ。
信長が出てきた処で、戦局が変わると思うんは希望的観測よのう。
兵力動員数なんか解るわけあるまあ。決戦を演出するんは同数に見積もる
ほうが物語として面白いわけじゃし、奇襲の場合は奇襲兵員が少ないほど、
物語の構成として面白い演出に過ぎんよ。元来口伝なんか、そうゆう物語の
形で継続される訳じゃし、その口伝を文書を書ける層が残したんが史料に
なるわけじゃ。要は、その文書物語を個々人がどう解釈するかの問題に
なるけんのう。玉木氏自体、毛利側の弱点の要素の述べただけで、
自軍の反省面を書くんは、先の大東亜戦争や日華事変で旧国軍の
欠点を前線将兵が書くんと同様じゃ。まあ作戦室で作戦遊戯を楽しんだ
上層部の人らの解釈は、自己作戦の正当性を主張されよう。
そがあなもんじゃ。
884 :
白馬青牛:2008/03/16(日) 23:53:44
>>876 続き。東国の悪い面以前に、社会組織が東西日本じゃあ違う云うとる
んじゃ。東国の赤子殺しの間引きも、人口抑制の面から正当性があり、
西日本の人間主義は、人口増加による戦乱や自然、秩序を破壊する
厄病を齎す連中と東日本側から視れば云えるわけじゃ。
視点の違いの問題にもなるけんのう。
885 :
ピンチョ:2008/03/17(月) 00:11:25
>青馬鹿白嘘
東日本と西日本の対比は宮本常一もやってるし、網野も好きな立論の仕方だが
単純な割り切り方で
バカらしい議論になりがちだ。
君のはくだらない通俗日本文化論だよ。
そんな簡単な話で済むわけない
君の挙げる東日本西日本の事例には、
当たらない例外がたくさんありすぎる。
折口のゴロツキの話とかもそうだが、典拠が脆弱すぎる。
ネットで日本史勉強する馬鹿はこれだから嫌になる。
886 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 00:11:26
まだやってやがる。マジうぜえ
人買いなんて朝鮮出兵のときにも横行してるんだぜ?
西国と東国とたしかに違いはあるけど、「西と東」と単純化するのは
どうかと思う。
そもそも、ここは信玄を語るスレだろ
888 :
白馬青牛:2008/03/17(月) 01:05:36
>>876 >東北弘前師団の日露での活躍を見たとき。文字通リ日本軍の崩壊を
すくっとるやろうが。
はあ?日露戦争に、弘前師団が日本軍の崩壊を救った戦闘なんかあったか?
まあ広島師団は、黒構台の戦闘で、弘前師団の崩壊を救うたことはあるが。
http://www.rakuten.co.jp/ishii-fruit/owner.html http://www.warmovie.com/bbs_log/log_02/index32.html http://www.warbirds.jp/ansq/6/F2000690.html 上の果物屋さんのブログの、「熊本師団、広島師団と並び国内最強師団と
言われた、弘前第八師団」と、云いたいわけか。
真ん中のブログのNo177氏の「軍歴のある私の父親に部隊の強弱を
聞いたことがありますが、やはり精鋭部隊としては、仙台、福井、広島、
久留米、熊本、鹿児島あたりが挙がり、」と東北北部は出とらんが、
世評や軍中枢部から東北北部の弘前師団(青森・岩手・秋田・山形)の壮丁
も評価されとったわいのう。
下のブログでも、1に辺境部の兵が強いと云う評価はあったろう。
九州・東北・広島・高知・金沢・北海道・鳥取等。4、6の美濃や伊勢も
強力じゃったとあるが、特に伊勢の津聯隊は、南九州兵の熊本58Dが
強引な強攻でほぼ壊滅状態になった、衡陽攻略に苦闘を闘い武勲を立て
感状を授与された部隊じゃけんのう。伊勢部隊も強い。
12の丹波篠山聯隊も健脚じゃったし、丹波は悪党傭兵の産地で、
南北朝期から播磨において関東の新田軍を破り、幕末でも丹波山国隊は、
江戸幕府軍を撃退し、鳥取藩に所属して戊辰戦争に活躍したのう。
戦さ好きの伝統よ。まあ丹波篠山聯隊は、訓練も厳しかった。駆け足による
盃山登山で、山間の地元の丹波兵は馴れておったが、神戸あたりの
都会兵は、倒れる者が続出したそうじゃ。
まあ、平野部の多い軟弱関東地方の壮丁は耐えれまい。
889 :
白馬青牛:2008/03/17(月) 01:32:18
>>881 自分が読んだ書物やネットに出とるもんは引用せにゃあ。
あんたの参考資料を提示せんで自慰する見解と同一になったらいけまあ。
>>885 あんたが、宮本常一氏ほど全国の農村を歩かれフイールド・ワーク調査でも
したんか?あんたの抽象的な書き込みを視るに、旅行はおろか、
図書館や古本屋すら、自らの足を使うて、調べよる要素はないようじゃ。
もうちいと足を使うて調べることを覚える方がええど。
机上の空論は意味あるまあに。
>>887 じゃけえ、九州は西日本の中でも異質な地域じゃ云うとるんじゃ。
高麗おごじょ狩りは、薩摩の連中が好むことよ。
>>889 太田一吉と共に朝鮮へ渡った僧侶(慶念)の残した記録によると、
「日本からよろづの商人が来て、その中に人買いがいた。彼らは軍勢の
後についてきて、捕虜の老若男女買った」とあるが、こいつらが九州と
東国の連中だけとは言いがたいと思うが?
これは蔚山で書かれたのだが、このとき蔚山には加藤清正、
浅野幸長、宍戸元続(毛利氏の旗下)の軍勢(=中国・九州勢)がいて、朝鮮人も動員して
すさまじい状況で普請をしていた時期だ。
891 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 21:42:16
最近ローソンで「戦国最強は誰だ」っていう本があったけど
やはり総合力で信玄が一番上やったね。
最強の大名=最強の軍団を率いるっちゅうわけや。
白馬青牛は東国や関東人を非難しながら、自分は東国武士の子孫だそうです。
325 :白馬青牛:2008/01/24(木) 00:42:09
>>324 わしの顔を観たこともなかろうに。まあ、わしゃあ、さほど顔の掘りは
深うないねえ。わしゃあ、下層の生まれじゃないが、大名上級武士を
皮肉った、『柳多留拾遺』の、「拙者も逃げた人数なり」の輩の上層でも
ない。
上層部は近世の堕落武士から近代、上層将校に至るまで、一部の人たちを
除いて、概ね武士道に乏しい。武士の精神は千葉徳爾氏の云われるよう、
「家禄に依存し泰平の世に武を放棄して金銭を欲しながら生きる者が多く
なった彼等より、生きた野生生物と闘って生計を立てて来た漁夫や猟人
たちの間にこそ、むしろ強く受け継がれて来た。」と、わしの先祖は、
戦場から逃げ、堕落した伝統は持っとらんよ。
わしゃあ、残念じゃが、上品な渡来系、完璧な長州型じゃないけんのう。
東国武士の血は濃いんじゃが、蝦夷の血まで確認出来る訳あるまい。
じゃが、わしの指紋も、朝鮮や西日本に多い渦状紋じゃのうて、東日本で
増え、アイヌ人に多い蹄状紋じゃけえ、少なくとも、蝦夷の血が入っとる。
東国武士は渡来系が多かったけえ、混血したとしても、土着民の蝦夷たあ、
また別じゃろう。
白馬青牛はこんな事も言っています。
完全にいかれてるんでしょうか?
365 :白馬青牛:2008/03/17(月) 02:23:32
>>362 わしの言葉たあ、あんたの書き込みは品性や武士道もあるまあ。
>>363 結局反論出来ん関東もんは、わし個人を罵倒する毎度のパターンか。
軍事貴族も社会的地位とやららあるだけで「ごろつき」じゃ。
折口氏を批判された現在の研究者云うて誰なら?具体的に云うて
毎度云うとるんで。わしみたいなクズに具体的な反論も出来んわりゃあ
何なら。江戸時代に造られた系譜云うて寛永の系図のことか。
まあ出鱈目なんは、当然じゃ。近世諸大名に多い東海地方のゴロツキの
成り上がり言い訳系図じゃけんのう。常識以前の判断力の問題じゃ。
まあ、あんたら関東の奴隷民は、越後百姓に売買された奴隷らじゃけえ、
先祖は解らんのじゃろう。まあ、他地域から蹂躙された地域の家系は
信憑性に乏しいわい。安芸国人も鎌倉期東国からの移住が多いが、
その前の平安期は解らんわいのう。源平藤姓も勝手に名乗りゃあええ
わけじゃし。安芸国人末裔の旧家に、江戸期長州藩の本家と交流した
ことや、芸州浅野藩主が、例えば現在四国まで橋が架かった、島なみ街道の
島嶼、生口島の黒田家を東国の葛西氏の末として丁重にもてなしたこと等、
(近世成り上がりの浅野氏の歴史のない家系劣等感とも云えるが、)
総合的に視て、安芸は東国系じゃのう。なんぼ関東人が奴隷になり
売り飛ばされたにしても、板東武士系の末が多い広島県人に嫉妬して
どうすんない。関東人はっひねくれとるのう。
894 :
白馬青牛:2008/03/18(火) 00:46:56
>>890 文禄・慶長の役に東国人はほとんどおるまあ。人身売買業者は、
九州に多かったろう。平戸のような奴隷市場を抱えとるけえのう。
>>865にも云うとるよう、近代にあっても九州が人身売買の産地じゃった。
蔚山で現地民を徴発した云うことよ。宍戸氏は安芸じゃが、浅野氏は
当時中国勢じゃないよ。加藤は悪名高い九州の肥後勢を連れとるけんのう。
http://www.jyofukuji.com/11-tyosen/2002/02.htm 文中にある京都市にある耳塚は、「それは加藤、小西の戦果によるものだと
言われているが、」と、加藤・小西の肥後勢によるもんが多かったんじゃ
ないか。あとテルマ・カクセイ狩りの薩摩と来ると、近代に蛮行強姦部隊と
して名高い、南九州壮丁の熊本第六師団よのう。戦国期からの伝統じゃ。
895 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 00:48:27
東西文化論は古い。ナンセンス
896 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/18(火) 00:59:28
>>895 古くはない。
ただ厳密にやらないと安易な議論になりがちなのさ。
897 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:08:59
ナンセンス。しかも武田と全く関係ない
898 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 01:20:06
>>894 浅野氏は慶長の役の時には甲斐の領主だな。
ここであえて「東国」といったのは、甲斐の領主である浅野氏が蔚山での普請および
篭城に参加していたからであり(どっからを東国とするかにもよるけど)、九州を除く
西国=人身売買が無い、東国と九州では盛んみたいな極論を吹っかけてくるからだ。
実際問題として、西国勢が主戦力として渡海して戦った朝鮮出兵において、
九州の連中だけが人買いを盛んにし、他の地域の商人がしなかったということがあるの?
その証拠をご提示願いたい
899 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/03/18(火) 01:43:06
>>889 ネットなんかヤバくて使えないよ。
本気でいってるの?
本だってくだらないのばっかで、
鵜呑みにするのは君みたいな単純バカだけだ。
900 :
白馬青牛:2008/03/19(水) 01:14:03
>>898 浅野氏が甲斐におったけえ、東国人が乱取りした云いたいんか?
西国は人身売買がゼロたあ一言も云うとらんど。じゃが、西日本の人身売買
は九州に多かった云うとるんじゃ。近代でも人身売買の産地は九州じゃし、
「からゆきさん」「娘子軍」、九州の兵団の蛮行もあるけえ伝統よのう。
宇都宮114D等、関東兵団も蛮行は盛んじゃったようじゃし、
宇都宮兵団の桑島節郎氏も入営する前から、「中国戦線の「中国人を
斬り殺した」とか「女を強姦した」と云う自慢話を聞かされ「戦争という
のはおもしろそうだな」と思うようになっていた。」と。
九州と東国は島津、上杉、武田と人身売買業者の戦国三大掠奪王で、
近代郷土兵としても蛮行が多かったけんのう。仙台13Dの越後兵も、
現地市民を撲殺したり弱者に乱暴じゃったけえ、戦国期越後の上杉勢に
蹂躙された関東の民は悲惨じゃったろうのう。極論じゃのうて地域性の
問題じゃ。
901 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 08:04:49
902 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 04:00:16
一方広島の連隊は支那畜にフルボッコにされた
牛は頭悪いのにわざわざ色んなところにでしゃばりに来るのがかっこいい
904 :
白馬青牛:2008/03/20(木) 22:55:02
>>901 人様に死ねじゃの呪いの言を発する東日本人は行儀悪りいのう。
>>902 広島聯隊が支那軍に負けたことなんかないど。
広島師団でも他の聯隊は、忻口鎮でほぼ壊滅となった山口聯隊や南寧で
支那軍の完全包囲の猛攻で、21B(浜田聯隊・山口聯隊)一時撤退したが
苦闘の末、敵軍を撃退しとるよ。広島師団としては、負けたこともないど。
日本軍が支那軍に負け戦闘云うたら、昭和14年12月〜翌年1月の
支那軍の冬季反攻攻撃で名古屋3Dと仙台13Dは敗れ、広島39Dが
穴を塞いだわい。広島39Dは、長沙作戦でも壊滅危機の仙台13Dを
又も救うて、仙台13Dの半数以下の兵員で宜昌を防御し異例の連続感状
を授与された。
他に、昭和16年12月〜翌年1月の第二次長沙作戦も、名古屋3D、
熊本6D、善通寺40D、9MB各師団は支那軍に見事な敗北じゃった
のう。
>>903 わしゃあ確かに馬鹿じゃ。わしが、賢かったら色んな板で低脳君の妄言を
相手にせんじゃろう。
白馬鹿青筋、自分で馬鹿と分かってるなら、ここに来るな。
元の信玄公を語る場所に戻して欲しい。
馬鹿は消えてくれ。
906 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 23:07:59
牛よ、来週廣島へ出張いくんだけど、お奨めの
お好み焼き屋教えてくれんかな?
安価で量多めで味はそこそこ。。
907 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 23:08:00
,′ _
, -r/`ヽ十/`ヽ ヽ.
_/ l|/, ゛、
/:/ 爪! l| il| | ヽ
/:::/ | l l``` "´| ト、 l ゙、
. !::::l /|.lヽ! リ }ハ_ i 好きです、日本の兵隊さん!
l::::| l/l|二、 ,二., l i l
|::::l i l,/_j::、 _j::、ヽl i ! !
l::::| l l! _ヒ」 ヾ┘ j l | |
l::::i! i l l ; //l j i !
!::::lヽ!、ヽ'、 、__, ノ'// ///
. j::::::!::::::ヽ゛、 ///!'´
i::::::::i::::::::::i::`}' 、 _ _,. 'l::::/'::i::::|
!::::::::::!::::::::::!ノ !:::::::::::!::l
j::_,,-ヽ:::::::ヽ iヽ:::::::::ヽ!
908 :
捏造:2008/03/21(金) 19:16:26
武田信玄が定めた甲州法度の一条に
夫婦離別の際は離縁状の端にバツを印して政所に提出するように。
というものがあってそこから離婚者に対してバツイチと呼ぶようになったと聞きました。
>>908の名前は捏造、メル欄はキチガイ、さてその心は?
911 :
白馬青牛 ◆B3h9hvY9bA :2008/03/21(金) 23:09:58
>>906 安価じゃったら、材料費や手間をかけんことじゃけえ、キャベツも豚肉も
安いもんを使い、麺も生麺じゃのうてゆで麺になる云うことよ。
店で他人が喰うんを視て量が少ない思うたら、やめるか、そば入り、
うどん入りをダブル(二人前)にするか、トリプル(三人前)にすりゃあ、
腹は太るじゃろう。味はそこそこ云うても個人の好みがあるけんのう。
予算が少ないんじゃったら、「たこ焼き等」板で聞いた方がええど。
912 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 00:19:20
913 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 00:20:26
おお次郎
914 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 00:25:42
バカ卵とか焼きそばとか100円じゃんよー
豚だって200gかっても200縁じゃんよー
外食2人で3000円とか考えるとただみたいなもん プッ
915 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 00:27:49
もうね、、、自炊してる時点でね、、、手作りじゃけんね
スッゴぅ、、スッゴぅ、、安いんよ〜
あんさんわっかるぅ〜〜
916 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 01:01:39
であるか
917 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 01:16:56
¶
/⌒ヽ
(:.゚.:ж:.゚.:)
(つ旦 )
話戻すが
徳川が武田の軍法取りいれたのは小牧の後の石川出奔後のこと
小牧長久手と武田の軍法は関係ないんじゃ
武田の軍法取り入れた後の徳川の戦術能力は
関ヶ原大坂の陣と評価するには難しいと思う。
それと小牧の戦い徳川は援軍として尾張に来ているのだから
秀吉が完全勝利していたとしても、信雄に対してはいろいろ出来ても
徳川の領土をこの段階で削るのは難しいんじゃ
何を持って完全勝利と言うのかだな
920 :
日本@名無史さん:2008/04/15(火) 14:43:41
黒澤の影武者やNHKの武田信玄だと信玄なのに剃髪してないけど実際どうだったの?
921 :
武田信玄:2008/04/15(火) 16:16:42
(*´θ`)=3はぁはぁ…源助
早くワシの尻の穴にそちの肉棒を入れてくれ
922 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/19(土) 23:26:09
どうでもいいトリビアだけど、信玄は出家してからの法号だから武田がつくのは厳密には変なんだよね。
知ってました?
ま、慣用で大昔から通っちゃってきてるけどさ。
923 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/19(土) 23:46:03
>>320 いわゆる毛坊主?違うだろう(笑)
ならばこちらから質問だ。
江戸時代の医者はほとんど坊主頭なのに
黒沢映画も大河ドラマも、全然坊主頭の医者がいない。
何故なんだ?
まあ理由は簡単なんだけどw
キムタクが特攻隊員やった映画を想起すべし。
924 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/19(土) 23:57:37
功名が辻で出てきた医者は坊主だったお
926 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/04/20(日) 01:14:45
大河ドラマも黒沢も史学に益なし。
マジどうでもいいよ。
927 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 13:07:32
>>926 あくまでも「ドラマ」なんだから、細かいことは言いっこなし。
とはいえ一線のようなものがある。『日本歴史』の2003年だかの
正月号で座談会がもうけられている。
928 :
ヒールへ転向!:2008/04/23(水) 23:53:16
武田の頭が風林火山になっとるや
なぃかぁー!
929 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 20:06:33
合戦での略奪・奴隷狩り→異国に売り飛ばし
日本もモンゴル遠征や三十年戦争みたいな光景だったのか?
武田、上杉に限らんが。
930 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/13(火) 22:53:08
>>927 史学的にあげつらっても仕方ない
という意味だ。
私が誰に向けてレスしてるかちゃんと確認しろ(#`ε´#)
武田信玄は名将で、戦国最大の巨獣なのは間違いないだろ。
点数を10点満点で決めると。かなりゆるく見て10満点の名将。
それを「いや、信玄は100点だね」といきなり枠をはずした評価をする信玄信者いるから、ややこしくなるのだろ。
しかも桁外れでないとゆるされない。
932 :
日本@名無史さん:2008/05/18(日) 01:16:30
>>930 そうカリカリするなよ(#`ε´#)
掘ってほしいのか?ケツ出せよ
933 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/05/18(日) 01:17:57
ばあかw
ばかは自分だろ
自分を馬鹿と認識できるなら、馬鹿ではない
人は堀 人は石垣
937 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/06/04(水) 00:32:29
>>934 バカ野郎!
>>932のような気持ちワリいレスされたら
バカくらい言いたくなるだろうが!
それともオマエか?このキモい変質者は?
ま、オマエ
普段からキモいことやってっから自覚できんのだろうな
938 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 00:38:15
顔に布団被せてケツだけ捲くれやw
前に、秀吉の毛利攻めの議論があったが、流石に織田3万が
援軍にきても、毛利は持ちこたえ、拮抗状態は続いた説にはちょっと
無理があると思う。
信長も馬鹿ではないんで、自分が行っても拮抗状態が続くなら、
わざわざ行かないと思う。それなりの目論見があっての行動だと思う。
たとえ、もし秀吉の軍が壊滅しても、2の軍、3の軍を送り出せる
余力が織田の方にあったし、反対攻勢に出られる状況でもない毛利は
やっぱり、じりじりと後退させられていたと思う。
だからと言って毛利方がの兵が弱いとは思わない。
装備優越、練度、戦術・戦略、地の利、兵力数、運とか色々な要因が
勝敗を決するから。
スイス槍兵のみたいに圧倒的な強さを誇る集団もいるにはいるけど。
940 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 19:20:48
まず毛利の背後にいる豊後国の大友義鎮は信長に服従する意志を見せていたので、毛利は挟撃される立場にあったんだよ。
そして毛利の軍勢が5万というが、その中には戦闘経験が無い農民などが数多く含まれている。
なので織田の援軍がもし高松に着いてたら毛利は降伏してたと推測する。
勿論そうなった場合は信長は当主輝元の首を刎ねて、毛利の当主を小早川隆景に継がせて毛利は安芸国吉田庄のみを安堵されて小領主ながら存続することになったんじゃないかな。
941 :
日本@名無史さん:2008/06/16(月) 21:42:29
武田と関係ない
>>941
武田は優秀だが、地理条件が悪いからダメだったと言う話から
飛んだんです。
つまり毛利の例にとっても、拮抗勢力が周囲に居て、挟みうちにされるような
状態だと、非常に防衛するのが大変だと。
その点、信長は、初期は周りに拮抗勢力がいなくて、有利だったと
言えるんでしょうね。
943 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 18:15:32
信玄は巧みな外交戦術によって反武田連合軍なんて作られなかったから偉いよ。
北の上杉、南の今川(あるいは徳川)、東の北条達、西の斎藤(あるいは織田)が手を組んで武田を滅ぼそうという考えがなかった。
信長は室町幕府滅亡後は、畿内や北陸の一向宗門徒、武田、上杉、毛利、長宗我部と周り敵だらけにしてる外交戦術は下手な方だと思う。
944 :
日本@名無史さん:2008/06/18(水) 22:21:46
武田は戦さ超一流だが外交はいまいち
植え過ぎは外交一流だが戦はど素人
945 :
日本@名無史さん:2008/06/19(木) 09:31:52
晴信は過去に村上に惨敗してるという事実がある。
村上も相当の被害を出したけどな んで越後へとんずら
というか上田原の合戦の内容を伝えるものって、軍監の他には勝山記や
せいぜいが高白斎記くらいのもんじゃなかった?
武田を不当に貶す人って、バカにする軍監でもその辺は信用してたりしてる気が
だよなw
949 :
日本@名無史さん:2008/06/20(金) 18:48:34
信玄は村上義清の少数精鋭とまともにぶつかって2〜3回ボコボコにされたんだよな
その後卑劣な謀略戦に切り替えたスネ夫みたいな奴w
村上は謀略でやられるまでもなくボロボロだったがな
最後のとどめが謀略だったってだけで
軍鑑や高白斎日記で村上を持ち上げて、
武田信玄を蔑む理由があるなら知りたいんだが。
_-'" `;ミ、 /:::::::::::::::::::::::::\
_-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
>ミ/ 'γ、` ミ |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|
了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ
"7 `⌒` ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ー─◎─◎ )
'| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴)
+ i ( }ィ' |∪< ∵∵ 3 ∵ノ
` ー--- /|` + \ ⌒ ノ
ヽ  ̄ / |__ \_____/
`i、-- '´ |ソ:
多くの資料の中から事実をきちんと見極め 上杉家の数々の捏造に簡単に騙され
説得力のある意見で他者を論破する 反論できないとコピペ荒らしと自演を繰り返す
武田ファン 上杉信者
954 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 20:46:04
村上義清の息子は上杉謙信の養子に一時なったよね
その後どうなったのか…
高坂弾正とホモダチ(笑)このみっともなさが謙信に劣る理由w
_-'" `;ミ、 /:::::::::::::::::::::::::\
_-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
>ミ/ 'γ、` ミ |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|
了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ
"7 `=・= ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ・ ・ )
'| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴)
+ i ( }ィ' |∪< ∵∵ 3 ∵ノ
` ー-- /|` + \ ⌒ ノ
ヽ  ̄ / |__ \_____/
`i、-- '´ |ソ:
世知に長け、狡猾で、 純朴で、
多くの資料の中から事実をきちんと見極め 上杉家の数々の捏造に簡単に騙され
説得力のある意見で他者を論破する 反論できない
武田ファン 上杉信者
957 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 11:38:40
>>955 謙信は直江兼継と関係があったんじゃなかったっけ?
あと
信長は前田利家と
信玄は高坂昌信と
家康は本田忠勝と
って言われてたね。
秀吉は地主出身だからそういう衆道は無かったらしいが。
958 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:24:58
男色は武門の華
959 :
日本@名無史さん:2008/06/28(土) 12:32:05
家康は井伊直政だろう 遺言にも「万千代に手柄を立てさせてやってくれ」
とある 万千代は井伊直政のこと
960 :
日本@名無史さん:2008/07/03(木) 21:31:34
>>922 何で??
日本の大抵の仏教宗派では、出家者を苗字(または姓)+法号で呼ぶのは全く普通だよ。
「日本国王源道義」ってのも知らないんだろう。無知だから
>>957 謙信と兼続はねーよw
謙信の配下の家老の息子だからね、
身分が違いすぎて会ったことすらないだろ。
火坂の小説じゃそんな状況無視して側近だが。
景勝と加熱具だろ
秀吉は唯一まともだがロリコンw
964 :
日本@名無史さん:2008/07/14(月) 01:53:26
age
965 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:45:12
信玄って何宗の僧侶なんだろう?
天台か臨済か
966 :
日本@名無史さん:2008/07/19(土) 16:52:55
信玄がどこの寺で出家したかの一次史料はないが
信玄の母大井夫人が深く帰依し
信玄が甲斐五山を置いたときその筆頭である長禅寺の門主となった岐秀元伯は
信玄出家のときの戒師だとされ信玄は元伯から仏典を習っている
長禅寺並びに元伯は臨済宗妙心寺派であることから
信玄も同様であると思われる
謙信の相手って河田じゃないの?
968 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 02:53:01
書状などからそういう仲の可能性があったらしいのは
中条景泰あたり。有名な信玄と香坂については、件の書状の
「春日」は後に書きたされたものらしいので、あの「源助」が
ほんとに春日虎綱だったかは不明
景泰のは鉄砲から遠ざけた話だっけ。
あれは重臣吉江から預かった中条支配の貴重な手駒だからで、
男色を絡ませるのは強引かも。
晴信書状の春日は謎だね。
春日が事実で、それを判りやすくするため付け足したと論文を書いた人がいたが、
無茶すぎるw
970 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 17:32:51
信玄ダサ過ぎ
謀略大将
971 :
日本@名無史さん:2008/07/29(火) 18:49:14
かっこいいよ
去年の風林火山は燃えた。
猪武者の謙信も勝頼みたいで嫌いじゃないけど
やっぱり信玄公が人間的に一番魅力的だ
973 :
日本@名無史さん:2008/07/31(木) 18:02:30
最初の武田4名臣って板垣、甘利、飯富、小山田だけど
小山田って去年の風林火山の信有のほう?
974 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 19:25:58
クソスレ史ね
975 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 19:31:53
クソスレ死ね
976 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 19:38:23
信有のほうだと思う。
風林火山でも描かれたけど小山田は家臣って呼ばれたら嫌だろうな。
半独立勢力だろ。群内小山田
977 :
日本@名無史さん:2008/08/01(金) 20:39:26
978 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 09:16:54
妄想武田厨きもい
979 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 11:58:16
つーか、スレの最後になって、
部用タンが何気に赤っ恥さらしててワロタ
>>922 >>960 誰か次スレ頼ん
980 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/02(土) 15:23:36
>>960>>972 それがふつうというより慣用といったほうがいいのさ。
出家すると名字が外れるのが基本。
だから史料でも出家した名前は姓なし出てくる。
ていうかそれが尊い意味合いも持つわけね。
バカまるだしだなw
赤恥w
バーカ
もう復活したのか。
しかも普通に罵倒してるし。
やっぱり山本モナと同じで人間変れないもんだな。
982 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2008/08/02(土) 16:52:06
>>981 罵倒じゃなくて反論です。
一方的に言われて黙ってるわけにはいきませんからね。
972は無罪だろ。詫びておけ。
バーカは罵倒だろ。訂正しとけ。
慣用は普通と遠い意味ではない。
少なくとも980の主張は慣用ではないが普通でもない。
984 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 17:19:06
>>980 あの・・・
何か仏教のブの字も知らないやつが、勝手な妄想垂れてるな。
> 出家すると名字が外れるのが基本。
基本って何よw 何をもって仏教の「基本」とするの?
ちゃんと答えてくださいな。あんたには無理だろうが。
「基本」とか「慣用」とか言ってるけど、言葉の意味わかって言ってないだろ。
つーか仮に百歩譲ってそれが「慣用」だったとしても、
それは日本仏教全体の「慣用」なんだから、
信玄だけについてとやかく言う
>>922は、とんでもない的外れだろ。
その程度の基本的な論理性さえ持ち合わせてないのか、おまえは。
バーカw
・・・って武陽のマネしてみたが、どうも人を罵倒するのは
慣れてないんでうまくできんww
こんなことしてると、心が荒むねマジで。
まあアホは置いておいて、誰か次スレ頼みますな。
立てられなかたorz
↓信玄24将で梅
小畠虎盛
真田幸隆
甘利経済産業大臣の先祖・虎泰
小山田圭吾の先祖
ではない、信茂
山縣昌景
内藤昌豊
穴山信君
ジャイアント馬場の先祖かどうかわからない
馬場信房
オラオラ真田昌幸が挙がってねーぞ
山本勘助
武田信繁
1000 :
日本@名無史さん:2008/08/02(土) 18:08:36
高坂昌信が1000get!!!!!
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。