川中島の戦いを戦術的視点で語る

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1日本@名無史さん
妻女山に陣取る上杉勢に対し包囲殲滅を企図するものの
上杉はその企図を見破り、一部を拘束部隊として残して
残りを霧に紛れて隠密機動から手薄になった武田本陣を
中央突破するという戦術を極めつくした両将の戦いこそ
まさに戦国最高の戦いといえまいか
2日本@名無史さん:2006/09/17(日) 18:26:05
      \∧_ヘ     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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3日本@名無史さん:2006/09/17(日) 18:42:27
4日本@名無史さん:2006/10/07(土) 12:55:28
謙信は甘かったな。睨みあいの中、越後に大軍いたんだから呼んでくれば兵力的な劣勢をはねのけられたのに
5日本@名無史さん:2006/10/07(土) 13:18:36
ただ現地に住む者としては、濃霧の妻女山を気づかれずに登るというのは不可能だと思う。
大体、馬を率いてなんて不可能。あの勾配の獣道を登ろうと思えば、槍も置いていかなき
ゃだめだ。甲冑なんか着ていけば、上につくまでにバテるぞ。
濃霧を利して妻女山から降りて撤退する上杉勢と武田本隊の偶発的な遭遇戦だったんだと
思うな。
6日本@名無史さん:2006/10/07(土) 20:31:15
>>5
うーん…だとしたら城に篭る武田方はあの日、あんな早い時間になぜ八幡原に陣取っていたんだろうか

7日本@名無史さん:2006/10/07(土) 20:53:34
ていうか、川中島ってそう広くないし。あそこで2万や4万の大勢で
集まれば、霧が立っててもまったくお互い知られずに通り過ぎれると
思う方が無理がある。城のすぐ前の川原に多勢の気配に気付けば、嫌
が上でも普通、対抗準備するでしょ。普通。
8日本@名無史さん:2006/10/07(土) 23:01:47
城の直ぐ近くといっても渡河地点は才女山を隔て直線でも四キロは離れてるし濃霧も重なり足音などでは確認できないと思います
9日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:06:29
城に篭る武田方はあの日、あんな早い時間になぜ八幡原に陣取っていた >

啄木鳥の戦法こそが後代の創作では? 妻女山に登らず、山麓下で遭遇戦、
そのまま茶臼山を下山中の武田本隊に援軍を求めたのが本当だと思うな。
10日本@名無史さん:2006/10/08(日) 00:52:53
信玄らは茶臼山から海津に移動したんじゃなかったけ?

妻女山の山麓にて戦っていた武田方はいわゆる高坂、馬場の別働隊てやつか?
だとしてもだ、茶臼山下山中で、あとから来た新手である本隊にいる奴らの被害がひどすぎないか?
普通はしばらく先に戦っている上杉は疲弊しててあとから来た武田本隊の奴らはまだ無傷だし脇からの攻撃になるから被害はもっとも浅くなるはずだよ。

11日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:58:28
そのとき歴史が動いた、でやってたよ。
啄木鳥戦法は創作で、撤退時の偶発的な遭遇戦とか。
信濃の武将の戦死者が少ないことからそんな激戦ではなかったのでは、とも言ってたような。

では、武田側の重臣の戦死者の多さはどうなるんだとも思うんだけど。
12日本@名無史さん:2006/10/08(日) 03:37:16
キツツキがあったとは思っていないがテレビといえどイマイチ納得できん。
どんなかたちをとって戦ったかは知らないが、武田が2方向からきたら上杉方に対し包囲が完成するんじゃないかとおもう。
その上で上杉方は遭遇戦なんだから、武田本隊に対する抑え部隊をいきなりは出せないし、武田本隊がきたらすぐさま退却しないと
ただでさえ兵数の差で圧倒的不利な上杉方は上記の通り包囲殲滅をくらう。
なのにだ、副将格の信繁や初鹿野、諸角や管介、名だたる者たちが打ち死に義信も信玄も本隊連中が負傷しまくっているくらいだぞ、
これはおかしい。と思うよ

『その時…』を見てなかったから見れば納得できるかもしれないんだが。誰かうpしてくれー

まあ、俺個人の見方からいくと死傷率80%てのはオーバーな気もするがそれなりに大きな戦いであったのは間違いないと思う。
血染めの感状まで現存してあるんだし。

13日本@名無史さん :2006/10/08(日) 18:11:09
上杉の「車懸かり」って、てめえの兵が移動するたびに疲労し、
待ち構える武田勢に個別撃破されるだけの愚策に思えてしょうがない。
14愛戦士:2006/10/08(日) 21:50:58
最近、流行の食玩の一つで「戦国合戦絵巻」という川中島の合戦を模した
フィギュアがあるのですがそれらを大量に購入して「川中島の合戦」の
ジオラマを造りました。
15日本@名無史さん:2006/10/08(日) 21:54:48
「車懸かり」信じてるめでたい馬鹿まだいるんだな
16日本@名無史さん :2006/10/09(月) 06:04:32
ガキの頃に買った武田上杉の本にも車懸かりは書いてた。
新手を次々に繰り出す戦法、なんて紹介してたけど、
兵力が同数か劣勢の時には意味ないだろってガキでもわかった。
17日本@名無史さん:2006/10/09(月) 10:48:53
疲労するのは武田であると思うよ。攻め手が休み無しに仕掛けるんだからね。
逆に上杉方は交代したら小休止できるわけだしね。13000いた上杉に100人一部隊として、車掛りは100隊は作れるんだから休めるだけ間隔作れるろ。と思う

とは言っても車懸り自体はキツツキ戦法というファンタジーの上にできたもう一つのファンタジー戦法なわけだと思われるし、存在はイマイチ信じがたいがな。
なにせ状況からしてキツツキと車掛りはセットなわけだし
キツツキ戦法があったからこそ車掛りが出来るし
キツツキ戦法がなかったら車掛りなんてできてない。

だから俺は車掛りは無いと思われる
18日本@名無史さん :2006/10/09(月) 21:26:42
>>17
たがいに10人ずついるとしてさ、一方が車懸をしたらどうなると思う?
敵10人が待ち構えるところに5回交代で2人ずつ全力で走っていき、
優勢な戦いできる?
まず走っていく時点で息切らして、さらに少数で多勢と戦わなきゃならない。
個別に叩きのめされるだけだよ。
19日本@名無史さん:2006/10/10(火) 02:16:00
車掛かりは菊池寛もあり得ないと書いてた。
(1万の軍勢がぐるぐる回りながら代わる代わる攻めるのは不可能らしい)
啄木鳥作戦も地理的にあり得ないとすると
この戦いは何だったのか分からなくなる。
20日本@名無史さん:2006/10/11(水) 10:30:50
てか武田兵て弱いのかな?20000対13000で4000くらいの死傷だすんだからなあ
21日本@名無史さん:2006/10/11(水) 19:25:04
俺の見た資料だと

   死者 負傷者
武田 2500 7000
上杉 1500 4500

だった。正確な数字じゃないだろうけど、甲陽軍艦や北越軍記等、武田、上杉の戦いを考察している
教授の書いた本に載っていた。
22日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:40:15
上杉さんの方がつおい
23信長:2006/10/12(木) 20:41:04
ロプロス
ポセイドン
ロデム
24日本@名無史さん:2006/10/12(木) 20:53:32
>>21
負傷者のうちどれくらいが戦闘員として
再生できたかも重要だな。
25日本@名無史さん:2006/10/12(木) 21:23:29
>>5
じゃ上杉軍はどうやって登ったんだ? と聞いてみる
26日本@名無史さん:2006/10/15(日) 09:08:37
>>24
武田の矢は毒が塗られ鏃を引き抜く時に体内に残るように仕掛けられていて、武田戦後に死亡する人間が多い。
上杉も戦後に死んだ人多かったんじゃないかな?
ちなみに信玄を尊敬していた家康は「武士にあるまじき非道な行為」として使用を禁止している。
27日本@名無史さん:2006/11/06(月) 08:02:11
そのとき歴史が動いた
28日本@名無史さん:2006/12/19(火) 00:04:53
武田はカクヨクを布いてたんだろ?
そんなところに車がかりなんかしたら……。
29日本@名無史さん:2006/12/19(火) 02:27:55
30日本@名無史さん:2007/01/24(水) 06:52:01
軍鑑記述の一番の弱点はともかく妻女山自体が1万人も収容できるほど大きく無い点だな。
状況的には妻女山城に籠もる敵を攻撃するという一種の城攻めなんだが、それなら包囲するのにわざわざ軍を
分ける必要があるのか?普通に山裾沿いに展開すればいいんでないの?そもそも強襲されたからと言って防御地形に籠もる敵が
わざわざ出てくる保証がどこにある?というような疑問点がある。
で、前に何かで読んだ説で興味深いのは妻女山に陣取ってたのは上杉方主力ではなかったという説だな。
上杉主力は篠ノ井にとどまっていて妻女山を占拠したのは海津城監視の為に進出した前衛部隊にすぎなかったと。
そうなると武田方の構想は一手で妻女山の駐留部隊を強襲、後詰めに駆けつけた上杉方主力が妻女山攻城部隊に
食らいついて拘束されたところを八幡原方面に待機していた信玄直率部隊で横撃するという形で解釈できる。
これなら戦国期に一般的戦術だった後詰吊り出しの範囲内で無理が無い。
しかし、上杉方主力のルートが想定通りで無かったことと濃霧のせいで上杉方が攻城部隊に辿り着く前に
信玄直率の横撃部隊に遭遇してしまったと。
そして、本来挟撃するはずが単独で上杉方主力を引き受ける形になったせいで大量の主将級戦死者を出す羽目になったと。
31日本@名無史さん:2007/01/24(水) 06:53:11
>上の続き
しかし、よく考えたらこれは前年の桶狭間と似たパターンなんだよな。
あれも軍配置から見て今川方は丸根鷲津砦の攻城部隊に食いついた織田方後詰を義元直率部隊が横撃する
構想だったと思われる。
実際、信長公記の信長発言から見ても信長の攻撃目標が攻城部隊だったのは間違いないしな。
しかし、信長が迂回ルートを取った結果、攻城部隊ではなく待機してた義元直率部隊と遭遇してしまったと。
で、攻城部隊と挟撃できれば有利だったはずが単独で織田方全主力を相手にしなくなってしまった結果、
敗北してしまった。信玄の場合は攻城部隊が駆けつけて敵の背後を衝いてくれたが義元の場合は気が付かなかったのか
やる気がなかったのか、攻城部隊は駆けつけてこなかったわけだ。
まあ、あくまで仮説だが、地理的に近い二つの大名家がほぼ同じ時期にほぼ同じ戦術を取ってほぼ同じ理由で
失敗しているとするなら興味深いな。当時の東国で流行してた共通の軍学体系に基づく戦術かも知れない。
この場合は失敗してるが、実績のあるわりとポピュラーな戦術だったんだろうな。
信玄が別働隊が気付いて駆けつけることで命を拾えたのも、あるいは桶狭間の義元敗因を分析して万が一のシナリオが事前に
できてたからかも知れないな。
なんにしろ、同じような失敗をしていながら世上の義元と信玄の戦術家としての評価が天と地なのはいささか
納得できないところではあるが。
32日本@名無史さん:2007/01/24(水) 09:02:04
>>30.31の考えが正解だと俺も思う。義元は死に信玄は生きた。それが評価に差が出た一番の要因だと思うよ
33日本@名無史さん:2007/01/24(水) 20:37:46
うーん、本当に鞭声粛々なんてあったんかいな・・・。

そもそも大軍の甲冑の音は相当遠くからでも聞こえるから霧なんて関係なく
すぐにわかってしまうらしいけど。
よく三国志で埋伏とか出てくるけど、甲冑や装備が違う時代の話であって。
34日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:10:51
とりあえず武田別働隊が八幡原での衝突に気付いたのは合戦音が聞こえたから
じゃないかと。
川中島は平坦地形だから良く音が通りそうだしな。
桶狭間のケースは間に大高高地を挟むから鷲津丸根周辺に展開してた部隊は
義元隊と織田勢の衝突に気付けなかったと思われる。
35日本@名無史さん:2007/01/27(土) 13:35:26
>>30
軍事に詳しそうだから、教えてくれ、いや、教えて下さい。
藤本正行さんが「桶狭間は奇襲戦じゃない」っていうだろ?
信長軍は今川軍に正面からぶつかっていって、勝ったんだ、と。
だけど、2万とも3万ともいわれている今川軍に2千とか3千の
織田軍がガチンコかますとは思えないのだが。
もしあなたの言うように織田は今川攻城軍をたたくつもりが、
今川本隊に行き逢ったとしても、軍勢の規模からして、
余裕で今川勝てるんじゃないか?川中島の場合は
武田勢の方が兵力が大きいといっても、まあ、何とかなる
範囲だっただろうから、よく分かる話なのだが。

36日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:09:13
>>35
桶狭間の場合は地形的制約があるから、史実に照らして大体解明されてるよね。
まあ奇襲+偶発的・部分的戦闘で、たまたま義元の所に出てたまたま首をとっちゃった。

でも、そこまで持っていくにはやっぱり信長サイドの読みも必要だし、全く偶然
ではないだろうね。地元の地理に明るい分、山あいに分散布陣した相手に兵数の
不利をはねかえせた信長の勝利というわけで、勝率1%ということでは全くなか
った。

でも、川中島の方は、当時の地形もわからないし、兵数も実際の所不明、信玄や
謙信の意図も不明。実際はわからないことだらけ。
でも、才女山奇襲攻撃は無いと思うし、霧に紛れての逆奇襲もむずかしい。騒音
もだし、才女山の狭さ、そこに見張りもおかず奇襲もあり得ないし、もしかした
ら全然違う形の戦いだったという可能性もあるわけで。
37日本@名無史さん:2007/01/28(日) 10:55:51
基本的に後世解釈しにくくなる合戦は双方が敵情を正しく認識していたという前提で
考えるから不思議に見える。
実際は基本的に上層部に内通者でも居ない限り前線からのどんぶり勘定報告を元に
おおまかに敵の数を推測するしかないわけで。
しかし記録作者は戦後に判明した情報や誇張伝聞までを元にして書くから後から見ると
わけがわからなくなる。信憑性が高いと言われる信長公記でさえ今川方を4万5千などと
記述してるが今川領70万石でこの数字は当時の標準軍役の倍の動員をかけない限り有り得ない。
つか、もし今川にこの数字の動員をかけられるようなら織田方にも2万以上の動員が可能。
現在じゃ今川方の兵力は徳川時代の標準軍役から換算して2万〜2万5千と見るのが
定説だが。それでも今川方にとって数年に一度行えるかどうかという負担の大きい動員。
とりあえず後の太閤検地で判明した石高から見て織田方は少なくとも今川方の半数以上の
動員が可能だったのは間違いない。
では、織田方は敵情をどう判断してたか?
今川方は全体では2万を超えてるものの後方に織田方の刈谷城、側面に知多半島の織田方
国人を抱えて周辺警戒にも兵を割かなければならなかった。
また、攻撃部隊も義元直率の駿河衆は後方に配置された為、結局織田方が認識できたのは
丸根、鷲津に攻めかかった1万足らずの部隊だけだったと思われる。
これらから考えるに織田方は今川方の意図を総動員兵力での決戦態勢ではなく1万程度の
通常動員兵力による一撃離脱の大高城解囲作戦と判断してた可能性が高い。
となれば織田方としては同等、もしくは若干劣る程度の兵力で攻城で消耗している
敵を叩くという認識になる。
また、合戦が行われた地域は今川方の沓掛城、鳴海城、大高城に囲まれ実質今川領だった。
つまり、織田方は有利な自領に引き込まずに不利な敵領での決戦を選んだことになる。
敵に敗北する可能性より消耗した敵に離脱されて打撃を与えられる機会を逃す方を恐れたとすれば
わざわざ敵地での会戦を選んだ判断も充分合理的となる。
結局、>>35の疑問に合理的な回答があるなら「当時入手できた情報の範囲では
織田方は自軍優位と認識していたから」となる。
38日本@名無史さん:2007/01/28(日) 17:57:20
上杉軍の下山進撃に信玄が気がつかなかったってのはどうにも信じられん
挙句は本陣直撃されたなんて後で大問題になったとおもうけど、

武田の情報収集がザルだったのか
上杉の行動管理がすごかったのか
どっちだろう?
39日本@名無史さん:2007/01/28(日) 19:11:02
>>38
史実の上杉の行動の実際がどうだったかはともかく、もし行軍中かつ視界が悪い中での遭遇なら
事前察知は難しかっただろうな。
なにせ行軍中は自分達自身が騒音源だから音では察知しにくいし、物見は先行させるだろうが
全方位に出せるわけじゃ無いしな。
40日本@名無史さん:2007/01/28(日) 21:06:20
と言っても敵のいる対岸に小舟で渡らせるぐらい普通にやる索敵だと思う
んだけどな。
41日本@名無史さん:2007/01/28(日) 23:05:38
o
42日本@名無史さん:2007/01/29(月) 14:52:31
この戦について、信玄の書状が残ってるよ
一日で決戦になったなんて事実はなくて、少しずつ北に移動しながら断続的な戦いが続いた地味な流れが史実
だいたい、妻女山(西条山)に越後軍が在陣した証拠がそもそも一個も無い(後に北条軍が入ったことがあるだけ)
43日本@名無史さん:2007/01/29(月) 17:21:16
>>42
1次から3次までと同じく長期対陣に終始して物見隊の小競り合いに終始した説か。
しかしそうすると侍大将級の戦死者が多く出てることの説明が付かないな。
4435:2007/01/29(月) 20:38:22
>>37
すごく感謝。うむ。なるほど。よくわかったぞ。
45日本@名無史さん:2007/01/29(月) 21:25:07
>>1

確実な資料に戦いの内容は書いてない

終了
46日本@名無史さん:2007/01/29(月) 21:27:55
山本勘介は本当に啄木鳥戦法とか献策したの?
47日本@名無史さん:2007/01/29(月) 21:45:29
そもそも通説の妻女山も、実際は武田勢の砦が多数配置されている中にあり、
そんな所に上杉が本陣置ける訳無いんだよな。
要するに現場の地形も知らない人間の作った、単なるフィクションにしか過ぎない。
48日本@名無史さん:2007/01/29(月) 22:16:22
越後の上杉よく知っている人に質問。川中島って、甲府からはもちろん遠く離れているけど、
春日山城のすぐそばじゃない。上杉は何であんな近くまで敵対勢力の接近を許したの?
それに、どうして本拠を中越とか下越に移すことを考えなかったの?
49日本@名無史さん:2007/01/30(火) 00:50:17
>>47
中じゃないよ。
鞍骨山系全体を巨大な城郭とすると妻女山はその先端、ほとんど出丸状態で他の郭からの
支援を受けられず極めて脆弱と言える。
防御拠点とするには脆弱であるものの、海津城を監視するには最適な観測点なわけで
本陣とするかどうかはともかく一部の部隊で占拠を意図する動機までは否定できない。
海津城攻防戦を意図するなら是非押さえておきたい地点なわけで、後の旧武田領争奪戦で
上杉軍の一部がここに展開したのもその為。
そういうわけで完全に荒唐無稽とも言い切れないんだな。
ただし、1万人もここに展開するのはほぼ無理。
50日本@名無史さん:2007/01/30(火) 07:01:57
>>48上杉は中世的大名。支配体制は強力では無く、直接的に支配してるのは上越と中越の一部。本拠を移すメリットも少ない
51日本@名無史さん:2007/01/30(火) 08:19:22
もし講談どおりとするのなら、信玄も謙信も愚将
謙信は敵の懐に飛び込んだために後方遮断を恐れて五千もの兵を後置
信玄は数的優越を捨てて兵力を二分したために危機を招いた
挙句に泥仕合になって双方被害だけだしてメリットは無し
(やはり信頼できない史料の中でだが)秀吉が「こいつら馬鹿な戦してるなぁ」と笑ったのも当然
52日本@名無史さん:2007/01/30(火) 08:28:30
謙信は残した5千がなければ信玄を討てただろう
信玄は部隊をわけなければそもそも危険に陥らず順当勝ちできただろう
兵力分散という愚挙を双方が行った稀有(に間抜けな)戦
創作でこの筋書き考えた奴、かなり馬鹿だろw小幡とか小幡とか小幡とか
53日本@名無史さん:2007/01/31(水) 12:34:55
謙信は八千の兵力で戦う事が多いと思う。兵農未分離の状態では自在に操れたのは、それが限界だったんじゃないかな
54日本@名無史さん:2007/01/31(水) 12:47:18
特殊事情もあるんだろうが
実際には領土拡張というより出稼ぎ感覚で略奪旅行に出かけているみたいなので
その辺にも兵数は関係があるんではないかねえ
55日本@名無史さん:2007/01/31(水) 17:38:05
>>51>>52
包囲戦を企図した部隊の分割は別に希有じゃないよ。
それこそ紀元前から現代まで頻繁に行われる基礎戦術。
もちろん一時的に各個撃破のリスクは負うが、そもそも成功率とそのメリットが高いから
継続して使用される。そもそも敵が分散を察知したとしても機動中の敵を捕捉するというのが
圧倒的に難しいわけだ。とくに無線もないこの時代は例え物見隊が敵に触接できたとしても
主力部隊との連絡にかなりのタイムラグがあるからリアルタイムでトレースすること自体が無理。
仮に敵の一部が迂回してくるらしいという情報があったとしてもわざわざ主力率いて
探しに行ったりしない。創作の世界だと簡単に迂回部隊を捕捉して撃破できるような
馬鹿な設定がよくあるけどな。迂回部隊が拘束部隊より先に接触するようなケースはほとんど
偶発的な遭遇戦。めったにあることじゃない。
まともな指揮官が運良く敵の包囲意図を察知できた場合に取りうる選択肢は基本的に次のどれか。
1.地形その他の要素を勘案して態勢の不利を克服できると確信できるならあえて包囲を受ける。
2.迂回部隊到着前に拘束部隊を撃破を試みる。(かなりハイリスク)
3.離脱して決戦回避
よって敵の迂回部隊と遭遇してしまうような場合は、そもそも敵の包囲意図を察知して
なくてまったく別の行動をとる(たとえば拘束部隊を敵の全主力と見なして拘束部隊に対し
自分から迂回攻撃を行おうとする)か3.の離脱行動の途中のどれか。
言うまでも無いが敵迂回部隊に会敵してしまうとそこで一定時間拘束される。
そこで本来の拘束部隊の方に察知されて遭遇した迂回部隊を撃破する前に参戦されると
結局、本来の拘束部隊と迂回部隊の役回りが逆転されるだけで危機に陥るのは同様。
まあ、基本的に包囲戦を企図するときは拘束部隊>迂回部隊の戦力配分にするので
役割が逆転した場合は2.の手段が達成しやすくなるのは確かだが。
なんにせよ敵が分散してるとわかったなら余計迂闊に動いたらいかんのだよ。本来は。
無駄なリスクを負うだけだから。
56日本@名無史さん:2007/01/31(水) 17:46:23
とりあえず甲陽軍艦に書かれてる第四次川中島戦経過は概要については
そう珍しいパターンじゃないんだよな。世界の戦史上よく見られる包囲戦失敗の
一例にすぎない。
ただ、ほぼ同数の兵力で防御地形に立て籠もる敵を敗走させられるという無茶苦茶な前提で
作戦立てたことになってる点を除けば。
57日本史@名無しさん:2007/01/31(水) 20:27:46
>機動中の敵を捕捉するというのが圧倒的に難しいわけだ

半分正しい。山間での移動は音をある程度は消してくれる。日本は風、雨、嵐、
霧など自然的条件によって戦闘や行軍が左右されることも多い。
ただし、それも軽装備の場合で、当時の謙信・信玄双方の装備はその例には
当てはまらない。ならば味方ではない轟音は当然敵であり、のろし、ホラ貝など
無線より早く伝わすことさえ可能な伝達手段はあった。
58日本@名無史さん:2007/02/01(木) 15:23:46
別働隊のほうの兵力が多いっていうのがなー
成功した戦国期の包囲殲滅戦の代表である長篠合戦でさえ、信長家康軍が後方奇襲に割いた部隊は四千程度
敵を首尾よく追い出した場合、その突破をもろに受け止める待ち受け側が少数というのはちょっと…
59日本@名無史さん:2007/02/03(土) 10:37:00
軍鑑の創作を真に受けて、そこに無理矢理理屈つけても時間の無駄でしょ
60日本@名無史さん:2007/02/03(土) 13:48:39
そりゃ軍鑑は瑕疵の多い書だが全く当時の甲信情勢に関わりの無い人間に書ける書で無いことも
また証明済み。永禄4年の戦闘による損害が武田方にとって印象的だったことは他史料から見ても
間違いなく、戦闘に関する伝承が一世代で完全に消滅して無から創作したと仮定する方が無理がある。
では、おかしな部分はどういう過程で発生したか?。戦史編纂の基本は両軍の史料を引き合わせること。
たとえば従来惨敗のように語られたノモンハン戦がそうでも無かったというのが
わかったのはソ連崩壊後にソ連側の史料が出てきてからだ。
現代戦じゃ戦闘終了後にちゃんと報告書が作成されるし、歴史学的にはこういう文書は
一次史料になるわけだがそれでもそこに書かれてることで正確なのはあくまで自軍側の
行動と損害のみ。敵の行動、規模、損害等は全部不完全な偵察情報と推測に基づかざるを得ず
戦後に敵側史料と照らし合わせると全然違うというのは良くある話。
つまり例え永禄4年に書かれた信玄真筆史料などがあっても、こと上杉方について書かれた部分は
ほとんど信用できないと言うこと。あくまでその時点での推測にすぎない。
61日本@名無史さん:2007/02/03(土) 13:49:59
で、戦史史料を見る場合そこに含まれる情報をとりあえず3つに分けてみる。
1.敵軍の行動、意図、規模
2.自軍の規模、意図
3.自軍の行動、戦場
この場合、1.は総大将すら正確に知り得ない情報、2.は軍議参加資格のある上級将校のみ知りうる情報、
3.は戦闘に参加した者なら足軽まで知り得る情報となりる。
言うまでもなく、一番伝承されやすいのは3.。
軍鑑の成立過程を考えた場合、おそらく米沢まで行って上杉側の取材などは行っていないし、当時の
上級司令部も壊滅してる状況で武田側伝承の3.情報のみを元に肉付けして完結した一つのストーリーを
構築したと思われる。基本的におかしいとされる部分は1.2.のみに集中してるからな。
つまり軍鑑の通説川中島自体が一つの仮説な訳だ。
とりあえず通説川中島から3.の要素のみを抜き出すと
A.武田方は部隊を2つに分け一つは千曲川南方を西進、信玄と馬廻衆を含む部隊は渡河して川北方を西進。
B.北方部隊は優勢な敵部隊と遭遇し大損害を出すも南方部隊の合流により壊滅を免れる。
この辺はほぼ事実の正確な伝承だと思われる。どうしてこうなったか、の解釈部分が
諸説の分かれ道。
62日本@名無史さん:2007/02/04(日) 17:15:52
そもそも妻女山には永禄年間の遺構はないんみたいなんだけど…。
みんな知ってるよね?
63日本@名無史さん:2007/02/04(日) 21:21:35
永禄年間もなにもよっぽど出土物に恵まれない限り山城遺構で
そんな精密な年代測定を行うのは不可能だが。
とりあえず妻女山に1万の軍勢が長期滞在したなら当然大規模な陣城化(関ヶ原の松尾山のように)が
行われるはずなのにそれほどの痕跡が無いという話。
ただ、山頂の削平地がいつからあるのかわからないし、上杉滞陣の事実があろうが無かろうが
鞍骨山系全体の要塞化を行った武田方がここに何の処置も施さなかったとしたら
そっちの方がミステリーだな。
きっちり学術調査されたことあったっけ?
64日本@名無史さん:2007/02/05(月) 13:49:25
自分の軍学を売り出すための小幡昌憲の創作のために後世こんなに紛糾するとはねw
65日本@名無史さん:2007/02/06(火) 00:18:50
>>64
小幡景憲なら知ってるが小幡昌憲って誰だ?お前の創作か?
66日本@名無史さん:2007/02/06(火) 23:52:24
戦術的視点というより、史実的視点、だな

どM
67日本@名無史さん:2007/02/10(土) 02:17:57
妻女山のは景勝のではないかな?完全な調査はともかく遺構は残ってるって話だよね?
景勝のは唐津の名護屋にも遺構は残ってるし、そこには伝承もある。
やはり永禄年間の謙信のはないんじゃないの?

ガリア戦記のカエサル包囲陣調査みたいに人工衛星使ったほうが良いかも。
68日本@名無史さん:2007/02/15(木) 15:41:34
とりあえず妻女山と旭山城が、
長野盆地において圧倒的に重要な戦略拠点なのは間違いない。
これは絶対的真理だ。なんで信玄は旭山城を放棄したままだったんだろ。
兵站線確保はムリポだろうし海津城と兵力が分散するけど、とても要地。
信玄は統制線なんて考えて無かったんじゃねーかな。
69日本@名無史さん:2007/02/15(木) 15:49:49
>>68
自己レス。旭山城確保は暴論なのでともかく、
謙信の本拠地のご近所で火遊びしてるわりに、信玄ってザルなのね、なんか。
謙信つー人は信玄に輪をかけてアレだけど(笑
70日本@名無史さん:2007/02/15(木) 22:24:58
  ↓大河ドラマ板よりコピペ。どうなのこれって。

>川中島第四回合戦の史実といわれているのは、こんな感じらしい。(改訂版)

新たに関東管領となってブイブイ言わせたい上杉政虎、ここらで信濃の所領を
武田から分捕って旧領主たちにばらまき、大いに名を上げたい。かつて第2回
川中島合戦、通称「二百日の対陣」のにらめっこで粘り勝ちし、和平合意の際に
武田から土地を奪うことに成功した経験に味をしめていたので夢よもう一度と
武田の領地の奥深く深〜く入り込んで、妻女山にたてこもる。これで信玄が
真ん中あたりの境界線で手を打ちましょうと申し出てくれれば万々歳。
軽い気持ちで和議の使者を待っていた。

しかし管領になった政虎を警戒し、義元亡きいま南に矛先を向けるためにも
川中島の小競り合いに決着をつけておきたい信玄はいつもの慎重居士とは
違っていた!「土地なんか一カケラもやらんずぉおおお」と気合いをほとばしらせ、
逆に越後国境戦近くの茶臼山に入り込んで越後勢の退路を断つ意地の張り合い。
和議を申し込んでくる気配なんててんで無いことに気づいた政虎はさあ大慌て。
功成り名を遂げたいま、生きるか死ぬかの大決戦なんてする気はこの新人
管領にはサラサラない。とはいえいまや事実上包囲された銀行強盗状態で
逃げるに逃げられない。
71日本@名無史さん:2007/02/15(木) 22:25:29
信玄は「寝起きに不便で困る」と海津城に移動してくれたものの、まだ上杉軍は
糞尿処理もままならない山の上で立ち往生。下から丸見えなのでうかつに下山
しようとすると袋叩きに遭う。困っていたところへありがたいことにこの季節特有の
猛烈な濃霧が発生!帰国命令にやれうれしやと上杉軍はいっせいに帰り支度。
まっすぐ北の越後を目指し、山を降りたら一気に川越えを狙ってやる気満々。

ところが妻女山と海津城は目と鼻の先。大きな声なら会話も出来たという至近距離。
鎧兜や鍋釜をガチャガチャやっていればすぐばれる。武田軍はたちまち臨戦態勢。
まっすぐ北を目指すであろう上杉軍の前に立ちふさがるべく、横一列の鶴翼の陣を
敷けとの命令に海津城から兵が繰り出される。しかし30センチ先も見えない霧で
上杉軍はウロウロ下山の道を誤り、武田軍もどこを守っていいものかわからず、
お互い川の水音だけを頼りに手探りの暗闇布陣劇になった。
72日本@名無史さん:2007/02/15(木) 22:26:04
かくして夜が明けてみると、両軍は犀川沿いにおいて、陣構えもろくに出来ていない
状態でまともに顔を合わせてしまった。かくして上杉勢は川を越えて越後を目指す
ために渡し場に殺到し、うっかりその近くに移動してしまっていた諸角虎定、山本勘助、
典厩信繁といった、本来なら下っ端兵など寄せ付けないはずの重臣の陣地がいきなり
バーゲンコーナーのように人が殺到する場になってしまい、気の毒に彼らはその気も
なかった越後の「復員軍団」にひき逃げ同然に押し潰され殺されてしまう。

ハッキリ言ってそのまま放って置けばよかったのに、ここで政虎に恥をかかせて
新管領にミソをつけておきたい信玄は無駄にやる気満々。様子を見てきた斥候が
「越後勢は戦う気がありません。わが軍の陣地をよけるように走り抜けていきます」
と報告しても、ここで兵達が傍観しちゃたまらんと「バカモノ、それは相手が大きな
車輪のようにグルングルン回りながらわれらを皆殺しにしようとする車懸かりの陣と
いう必殺技だっ。殺られる前にやらないとおめーら死ぬぞ。行けぇーッ」と、その場
しのぎの口からデマカセで兵を鼓舞して無理やり迎撃させる。
73日本@名無史さん:2007/02/15(木) 22:26:46
しかし天罰テキメン、そう言っていた信玄もバーゲンセール軍団の通過コースに
乗ってしまい、通り過ぎたいだけの乱入軍団に行きがけの駄賃と切りつけられる
ブザマな醜態。一方の政虎も敵中突破、いつの間にやら護衛とも離れてしまい
管領ともあろう者が自分で武器を振り回さなければならない惨めな逃避行。
かくしてこの全然関係ない二つの場面が合体して「三太刀七太刀」の名場面が
デッチ上げられる事になった。ついでに言うと霧の中で救援に駆けつけられずに
いた遠方待機の小山田郡内勢が昼過ぎにもなってようやく現場に駆けつけ、
半日近くもカバディのように通すの通さないのとせめぎあい疲れきっていた
上杉勢に襲いかかり、オヤジ狩りのように大活躍。これが何をどうしたのか
「啄木鳥戦法」と語り継がれることになる。
74日本@名無史さん:2007/02/15(木) 22:29:44
かくして越後勢は指揮官クラスはまんまと渡河に成功して全員脱出。しかし
兵はかなり無駄死に。ほとんどインパール作戦のごときアホらしい顛末。
いっぽうの武田軍は当時の戦争の常識では考えられないほど指揮官クラスが
バタバタ無駄死に。だもので「はぁーとてつもない激戦だったんだねえ」と
誤解が誤解を呼んで伝説の闘いになってしまった。

政虎は結局タダ働き。だもので頑張った部下にも「よくやった。あげられる
土地は全くないが、俺の気持ちを受け取れ」と感状だけ押し付け、信玄は
「まったく高い買い物になったわいトホホ」と言いつつちゃんと土地を分配。
以後上杉勢は川中島に近寄らなくなったので実質的に武田の完勝。

文献やらを照合するとこういうことになるらしい。「甲陽軍鑑」の信玄の言葉が
あまりに状況とぴたりと一致したので調べていた時は驚いたものだw
ま、現実なんてこんなものでしょ。
75日本@名無史さん:2007/02/16(金) 09:04:17
歴史的に全く意味がない戦いだから、大規模に調べる必要性が無い
戦国ヲタの謙信信玄ファン以外には創作で脚色された局地戦の代表、ぐらいにしか取られてない
秀吉に「あいつら無駄な戦したなw」と嘲笑われるような非効率的な戦い
76日本@名無史さん:2007/02/16(金) 13:25:03
>>74
>いっぽうの武田軍は当時の戦争の常識では考えられないほど指揮官クラスが
>バタバタ無駄死に。

そう、指揮官の戦死が武田軍の伝統なんだよな。インカの生贄みたいにw
三方が原合戦で徳川方は大惨敗だと言われているけど、2万5千対1万で双方の戦死者3桁だから、
キルレシオで言えばそれほどでもない。徳川方は中隊長クラスが大半で、大隊長が数名。
私は武田軍団といえば、独ソ戦の赤軍をいつも連想します(笑

>>75
>大規模に調べる必要がない

国人・守護代から下克上で成り上がった戦国大名の典型的で、最も大規模な戦闘と考えます。
信長・秀吉の組織は突然変異で特異だから、普遍的な組織とは言い難いものがあります。
というか、織豊の軍事思想のルーツはなんなのかと思います。
77日本史@名無しさん:2007/02/16(金) 23:26:16
軍事思想なんてもんじゃなくて、経済力だよ。
誰だって常備軍は持ちたいが、甲斐や越後なんて全く無理。
78日本@名無史さん:2007/02/16(金) 23:57:00
1 あの時代の合戦の参加総数は大概三倍程に誇張されている。
2 死者数はもっと。
3 劇的な合戦ほどおっかなびっくりな偶発性が高い。4 殆どの有力武将は上洛などする気無し。
5 ノブナガだけが突出して近代的だった。つまり中世と近代の転換期と。
因みに中華三国志の時代は兵数など十倍の誇張があると。そんなとこ
79日本@名無史さん:2007/02/17(土) 03:16:55
怎麽發個言這麽麻煩?
80日本@名無史さん
甲信越戦録、というあまり信用の置けない史料にだが、面白い話がある
事前の軍議で謙信は「春日山城はしっかり守ってるから大丈夫、兵糧が10日分でもすぐ補給できるから問題無い」と余裕こいていて
逆に信玄側は、謙信を出し抜いての越後攻撃案を「後方の防御が不安だからできない」と却下している
通説のイメージでは野営する謙信側のほうが長期戦に不利なようだが、実は信玄側のほうが困っていたことを示している
啄木鳥戦法はともかく、長期戦を避けたい上に(少なくとも現場での)兵力で優越する武田方が無茶な野戦を仕掛けた可能性はあるかもしれない