卑弥呼は朝鮮から渡来した

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96日本@名無史さん:2006/09/18(月) 00:06:49
>>93

>現在の研究では(卑弥呼は)韓国から渡っていった巫女、首露王の娘ミョギョンゴングスという説が有力だ。

「首露王の娘ミョギョンゴングス」って誰だ?
最近の研究ってどこの国の研究?
朝鮮人は馬鹿なことばっかり言ってんじゃねーぞ!!コノヤロー!!!
本当に腹が立つ!
97日本@名無史さん:2006/09/18(月) 00:29:47
むしろ俺はあまりのAFOさ加減に笑いの方が先に来るけどなw
98日本@名無史さん:2006/09/18(月) 01:08:03
>>1
卑弥呼は倭人
百済とは倭国の属国
高句麗も百済も新羅も朝鮮民族の国じゃない
朝鮮の歴史は李氏朝鮮から始まり
日本人様に独立させてもらうまでは属国だった
99日本@名無史さん:2006/09/18(月) 01:42:02
どうして韓国人は自分達が全世界から嘲笑されるような歴史教育を続けてるんだろう?
100日本@名無史さん:2006/09/18(月) 01:53:15
首露王でググッたら韓国人の書いた文章が出てきた。
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=70242

サマテ(邪馬台, 日本語発音は ‘野馬タイ’) 非Miho, または非ミック (卑彌呼, 日本語発音は ‘卑ケフ呼’) おこるよ(壱与, 日本語発音は ‘載せてください’) 任那(任那)(日本語ではないことは ‘未まな(彌摩那)’ ) など.
韓国の伽揶(伽〓)や日本の司馬タイ(邪馬台国)など韓日(韓日) 古代史に登場する主要人名と地名が日本語発音はもちろん国語発音とまったく同じく現われる国がある.
すぐB.C. 6世紀インドで海を渡って来たビザなの(Vijaya, 在任B.C. 543‾504 )によってシーイングするわけ王国を樹立したスリランカだ.

ビザヤはサンスクリット語で勝利(victory) または征服(conquest)の意味で征服者(Conquerer)で発展したビザは王の話はアジア圏征服開国説話の中で一番古いことで指折り数えられる.
韓半島で数万里遠く離れたスリランカの歴史と地理でもほとんどまったく同じな内容がある.
B.C. 6世紀スリランカ最初超ビザは説話と数百年後金冠伽揶詩調キム・スロ(金首露, 42‾199)超説話を比べるとその謎が解ける.
ビザは王の説話は次のようだ.
以下略http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=70242


韓国人ってバカだね。
101日本@名無史さん:2006/09/18(月) 10:25:03
102日本@名無史さん:2006/09/18(月) 17:09:06
韓国の伽揶(伽〓)や日本の司馬タイ(邪馬台国)など韓日(韓日) 古代史に登場する
主要人名と地名が日本語発音はもちろん国語発音とまったく同じく現われる国がある.

・・・加耶が倭人の国(任那日本府)だったのだから当たり前のことでそれらは
日本語だ。

103日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:25:39
百済や新羅などの歴史は日本の歴史だw
104日本@名無史さん:2006/09/18(月) 18:57:12
新羅は微妙だと思う。
それはさておき、卑弥呼が朝鮮から渡来したってちゃんと勉強してそれなりに説得力を持たせた法螺なの、耶馬台国は日本でもハッキリしていないのだから法螺と言うより仮説か・・・
その学者達、捏造証拠じゃない仮設を思わせる証拠を提示している?
105日本@名無史さん:2006/09/19(火) 07:04:26
ちゅかね。宮内庁が総ての真実を明かす時が来ても
これだけチョセン嫌われてるニダぁ?事実でも捩曲げるでしょ。
よって有り得ません!!
卑弥呼は朝鮮半島出兵の歳に幾度か大陸に援軍要請をしております。
106日本@名無史さん:2006/09/19(火) 07:04:51
縄文時代の日本列島には、”エミシ(EMISHI)”と呼ばれた先住民が住んでいました。学校では縄文人と習う人種です。
このエミシはロシアのアムール河から樺太を通って南下して、北海道、日本列島、沖縄まで住んでいたと言います。
今でも沖縄の日本人はエミシのDNAを色濃く受け継いでいて、顔が濃いです。
しかし、弥生時代の終わりになると、エミシは、『九州からの勢力』によって、東へ東へと追いやられ、東北に居住しました。
この『九州からの勢力』が倭人です。

大学の研究者や司馬遼太郎によると、「もともとは奈良は倭人の土地ではなかった。」と中国の歴史書に書いてあります。
奈良は“エミシ”の土地だったと司馬は言います。
九州の倭人は勢力を拡大していきます。
九州南部には隼人が住んでいて、平安時代になっても隼人は大和朝廷に反抗します。これは誰もが認める通説ですね。
宮崎出身の神武天皇の母親はこの隼人だと言われています。つまり神武は隼人と倭人の混血です。
司馬は神武の東征はあったと言います。私も神武の東征はあったと思います。
倭人と隼人の混血の神武は先住民のエミシの土地だった奈良に入ります。
107日本@名無史さん:2006/09/19(火) 07:07:31
『魏略逸文』や『梁書東夷伝』などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う」とあります。
魏の使者が卑弥呼に「どこから来たのか?」と質問します。卑弥呼は「私たち(倭人)の祖先は呉から来た。私たちの祖先は太伯だ。」と答えます。
太伯とは呉を建国した人です。
倭人の風俗は刺青をして、抜歯をして、お歯黒をして、稲作をして、水に潜って魚を取ります。
これは「楚」や「呉」に見られる長江周辺の民族に見られる風俗です。
高句麗などの遊牧民民族にこんな風俗はありません。

中国大陸の長江から海を渡ってきた倭人は九州や朝鮮半島南部に住み着きました。
朝鮮半島南部に倭人が住んでいたというのは、司馬も大学の教授も認める通説です。
東方に勢力を拡大して、奈良まで領土にした倭人ですが、朝鮮半島では苦戦します。
高句麗という強大な遊牧民の国があったからです。
百済という国は中国歴史書によると「百済は支配層と民衆の言語が違う。」「住民の多くが中国人や倭人。」「倭人が頗る多い。」と記しています。
百済は多様な人種が住んでいる国だったと推測できます。
百済の場所には楽浪郡があったので、中国人が多かったのでしょう。
当時の朝鮮半島では、北から南下する遊牧民族と南から北上する倭人との争いの場でした。
結果、倭人は敗れ倭人の土地だった任那(伽耶)や百済も遊牧民族の土地になってしまいます。
欽明天皇が「百済は兄弟の国だ。」と言って、百済の再興にこだわったのも、百済は同じ倭人が建てた国だったからでしょうね。
108日本@名無史さん:2006/09/19(火) 07:28:45
倭、自後漢通焉。
在帶方東南大海中、依山嶋爲居。凡百餘国。
光武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。
使人自稱大夫。
倭國之極南界也。  
安帝永初元年、倭面土國王師升等獻生口。
桓・靈間、倭國大亂、更相攻伐、歴年無主。
有一女子、名曰卑彌呼、年長不嫁、事鬼道、能以妖惑衆、於是共立爲王。
侍婢千人、少有見者。
唯有男子一人、給飲食、傳辭出入語。
居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞。  
魏明帝景初二年、司馬宣王之平公孫氏也、倭女王始遣大夫詣京都貢獻。
魏以爲親魏倭王、假金印紫綬。  
齊王正始中、卑彌呼死、立其宗女臺輿爲王。
《魏畧云、倭人自謂太伯之後。》
其後復立男王、並受中國爵命。  
晉武帝太始初、遣使重譯入貢。  
宋武帝永初二年、倭王讃脩貢職。
109日本@名無史さん:2006/09/20(水) 13:22:14
卑弥呼の祭壇を思わせる大規な遺構や大量の青銅器が朝鮮で発掘されていれば説得力が出てくる。
卑弥呼が朝鮮から渡来した場合、男尊女卑の現朝鮮と卑弥呼の時代の古朝鮮との民族の断絶を示す史料にしかならない気がする。
110日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:14:34
百済本記による半島情勢年表
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/kudara.html

新羅本記による半島情勢年表
http://www.tcn-catv.ne.jp/~woodsorrel/kodai/g01.files/06/shiragi.html

不思議だ。
『高句麗本記による半島情勢年表』が、ネット上にはない。
『百済本記による半島情勢年表』や『新羅本気による半島情勢年表』はあるのに、
高句麗だけがない。
なぜ、ないのだろうか。
111日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:25:28
>>110
たしか日帝が燃やしたんだと思う。
広開土王碑を改竄した連中だからそれくらいはやったに決まってる。
112日本@名無史さん:2006/09/20(水) 22:12:36
神武の后はイソタケル(五十猛)の
子孫五十金令

つまり出雲韓国人
113日本@名無史さん:2006/09/21(木) 01:14:24
>>110
朝鮮の感覚ではそうなるか。書いてあった内容をどう解釈したかはともかく好太王碑
古碑は改竄無しで日本はむしろ風化しないように保存していた。
日本の感覚だと、都合の悪い事が書いてあっても「昔の事だろ」で気に止めないか、
公表するのは先送りにして焼くのも気が引けるから保管。リサイクル社会の江戸から
発展した明治以降の感覚だと捨てる焼くは有り得ない。日本にお持ち帰りして米軍の
空襲で焼けたは有り得るかもしれない。
それ以前に高句麗は朝鮮じゃなくて満州(現中国東北部)だから朝鮮に元から無い、朝
鮮が本紀を焼いた、マイナー過ぎてネットに載っていない、のどれかの可能性の方が
高い。
114日本@名無史さん:2006/09/21(木) 09:45:46
倭人の領域⇒台湾・東南アジア・インドネシア・満州・朝鮮。
でOK?
魏誌倭人伝〜世界大戦みると古代からの民族地図は現代も変わりわ無いね!
115日本@名無史さん:2006/09/21(木) 12:35:00
欠地日王裕仁
116日本@名無史さん:2006/09/23(土) 05:30:22
卑弥呼は朝鮮半島から来ました。
韓国では世界の常識です。
117日本@名無史さん:2006/09/23(土) 06:47:29
>>110
その年表作成者が作ってないだけでしょ。
高句麗本紀には「倭」に関する記事が出てこないから。
マジレスは要らなかった?
118日本@名無史さん:2006/09/24(日) 00:49:47
>>114
いっぺん死んどけよ
119日本@名無史さん:2006/09/24(日) 08:39:12
朝鮮半島は用がないから素通りしただけなんですが。あたかもルーツかのような言い方をする韓民が痛い。
120日本@名無史さん:2006/09/24(日) 11:45:30
結局、百済って大帯郡といって漢魏の領土の一部だろ。奴らにしてみたら我が国固有の領土
だから倭王武に宋が百済だけは支配権を認めなかったのだ。とっくに文明は消滅してたのにね。
ローマが滅んだ後のアルジェリアみたいなもんだ。
121日本@名無史さん:2006/09/30(土) 14:00:20
>>119
いやぁまずルールを会得出来てないから……
122日本@名無史さん:2006/09/30(土) 14:46:02
広開土王碑には韓国にとって都合の悪い内容が記述されていて、
一時期それは日帝時代に日本軍が改ざんしたからだと韓国の学者たちが主張していたんだよね。

でも、中国の方に残されていた拓本によって日本は改ざんなんかしていないという事実が証明された。

韓国人は学者までもが証拠が挙がらない限り都合の悪い事を全部日本のせいにする。

だから今では誰も韓国を信用しなくなった。
123日本@名無史さん:2006/09/30(土) 19:28:16
騒ぎ立てる事・ぐらいしか産業がないからな。
124日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:30:05
>>106
エミシはヤマト朝廷が成立してからの服属しない異民族をさした語。
しかも縄文人は旧石器人を土台に様々な人種が混ざったもの
ja.wikipedia.org/wiki/縄文人
しかも渡来人が日本を征服したんなら彼らだけの集落が
見受けられるがそんなものは存在しない
奈良が倭人の地じゃなかった?
ソース希望
言っとくけど邪馬台国の時代には列島内に複数の勢力があって
倭人というのは邪馬台国の勢力圏の人々をさしていたんだ
125日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:36:49
>>107
そりゃ渡来人の中心は中国人なんだからそういう風俗もあるだろう
そんで太伯が祖先だと言った?
当時は中国が憧れの土地だったんだからそう思いたかったんだろ?
で、その言が歴史的に正しいとするならどうして中国みたいに男を
王にしないで女を王にしたんだ?
中国人を祖先とするなら。
百済は多民族国家だってのは正しいが
何故に朝鮮人が日本を作ったといえるんだ?
百済王室と皇室のつながりは深かったからそういう関係を鑑みて
「兄弟の国」といったんじゃないのか?
126日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:43:00
漢字を使えるのが渡来人だけだったので奈良という地名が付いたが
倭人も地名を着けたかったが先をこされてしまった
127日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:33:54
>>126
単に楢が群生していたから奈良と言う地名になったのでは?
128日本@名無史さん:2006/10/01(日) 03:44:30
漢字を使える=書き言葉を使える=書ける
ただ読み(訓)には最後までこだわり続けた日本人。
朝鮮の人もそうで、完全に口語まで中国語にはならなかった
129日本@名無史さん:2006/10/01(日) 09:59:21
>>127
ちがうよ。「ナラ」は韓国語で「国」を意味する。あの辺りは韓国系の渡来人が開発した土地なんだよ。
130日本@名無史さん:2006/10/02(月) 08:09:02
>>129
それはもう古いネタなんですけど・・・。
131日本@名無史さん:2006/10/02(月) 21:06:52
その後、藤村由加説は「新・朝鮮語で万葉集は解読できない」(安本美典、JICC
出版局)、「古代朝鮮語で日本の古典は読めるか」(西端幸雄、大和書房)などの
多くの専門家からの反論本で、いわゆる「とんでも」本として完膚なきまで否定
され、その学術的価値は全く否定された。ただ、その反論は専門家以外に簡単に
理解できるものではなかった。一方、藤村説(というより創作した作品というのが
正しいと思うが)は、論理的には支離滅裂ではあっても素人にロマンを感じさせる
というインパクトがあったから、李寧煕氏の類書「もう一つの万葉集」(文芸春秋)
とともに、好奇心だけ旺盛な一般人に厚く支持された。李寧煕氏に対しては、週刊
誌上で、大野晋、菅野裕臣、中西進の各氏らが反論しているが、判官びいきの伝統
が根強い日本ではいじめと解釈され、これ以後、李氏は一般人の厚い同情を得る
ことになった。万葉集が古代朝鮮語で読めるということは、日本語と朝鮮語の間
には強い類縁関係があることを意味する。和語では説明できないものが本当に朝鮮
語で説明つくものであれば、それは妥当な説ということができる。

上記の説は専門家筋から否定されてしまったのであるから意味をもたないのは明らか
である。
132日本@名無史さん:2006/10/03(火) 00:04:59
古代朝鮮語が17首の短歌しか残っていないから解読不明。
しかも、その古代朝鮮語の短歌の17首か発掘して解読したのは京都大学の日本人の教授。
朝鮮人は認めたくないらしいね。
133日本@名無史さん:2006/10/03(火) 10:30:29

★どのように朝鮮人が日本に密航してきたか★

1950年当時の新聞を読めば良く分かる・・

「密航4ルートの動態 日韓結ぶ海の裏街道 潜入はお茶のこ 捕わる者僅か2割」
ttp://www.sankei.co.jp/databox/50ys_ago/html/5006/28.html

さすが世田谷一家殺害事件の協力をこばむ国だな


134日本@名無史さん:2006/10/03(火) 11:52:58
■□■□■ 「奈良」の語源について(オロモルフ) ■□■□■

 日本の反日的な政治家が「奈良の語源はハンナラ」といった意味の不思議な話をして韓国にゴマをすったとか・・・話題になっておりました。
 そこで、奈良の語源について私の知っていることを、簡単に記してみます。

     *

<奈良の語源=均(なら)す/平(なら)すの「なら」=平(なら)な土地という意味>
 ――は古典にありますし、有名な歴史事典や国語辞典の類ではすべてそうなっています。
 一方、韓国の反日家やそれに連動する日本人の「韓国語源説」には、文献史学の裏付けも考古学の裏付けも無いと感じております。
 朝鮮最古の文献とされる『三国史記』の刊行は『日本書紀』とは比較にならないほど新しいのですが、それにすらも、「日本の奈良の語源はナラである」とは書かれていない筈です。
 おそらく、もっと新しい江戸時代の文献にも書かれていないでしょう。
 また、考古学からの知見も聞いたことがありません。
(もしそういう史料があれば、韓国の反日家が大声で言っている筈です!)

     *

 奈良の語源の話が『日本書紀』の崇神紀にあります。
 卑弥呼の有力候補とされる倭迹迹日百襲姫命が朝廷の危機を第十代崇神天皇に予言したのちの戦いの場面です。
 現奈良市の低い丘陵地帯の戦いだったらしい。
 
135日本@名無史さん:2006/10/03(火) 11:56:28
以下に引用してみます。
(小学館『新編日本古典文学全集版』より)

「爰以忌瓮、鎮坐於和珥武◎坂上、則率精兵、進登那羅山而軍之。
時官軍屯聚、而△▽草木。因以号其山曰那羅山。△▽、此云布瀰那羅須。」

 書き下ろし文にします。
「爰(ここ)に忌瓮(いはひべ1)を以(も)ちて、和珥(わに)
の武◎坂(たけすきのさか2)の上に鎮坐(す)ゑ、則ち精兵(ときいくさ)
を率(ゐ)て、進みて那羅山(ならやま3)に登りて軍(いくさだち)す。
時に官軍屯聚(みいくさいは4)みて、草木を△▽(ふみなら5)す。
因(よ)りて其の山を号(なづ)けて那羅山(ならやま6)と因(い)ふ。
△▽、此(ここ)には布瀰那羅須(ふみならす)と云ふ。」

 訳文。
(忌瓮を和珥の武◎坂の上に据え、精兵を率いて、進んで那羅山に登って
陣営を張った。その時、官軍は群れ集って、草木を踏みならした。それで
その山を那羅山という。△▽はここではふみならすという。)

 前掲書の脚注(を少し変更)
1:神聖な瓶。神酒を入れて下部を地中に埋めて神祭りをする。
2:和珥坂ともいう。現天理市の北端(現奈良市のすぐそば)にある坂。
ここで神祭りをして出陣の門出を祝った。和珥はこのあたりを根城にして
古代の豪族。
3:現奈良市北方に東西に横たわる低い丘陵地帯らしい。
4:多く集まるの意。
5:足踏みする。布瀰那羅須は踏平。
6:那羅山は地名であるが、山を踏み平(な)らしたのでそういうとは、
付会的地名説話。

136日本@名無史さん:2006/10/03(火) 12:01:51
『時代別国語大辞典・上代編』では、△▽について、足をとどめる/たた
ずむ/進まぬ様子などで、一箇所にじっとしていることから、「ならす」に
あてたもの――としています。
 また同辞典の「ならす」の漢字は「平らす」で、意味は平にする――と
あります。

注◎――操を金ヘンにした漢字。
注△――摘を足ヘンにした漢字。
注▽――祖を足ヘンにした漢字。

 戦争の場面での語源説話は、古代史によくある付会的地名説話ですから、
そのまま史実にはできませんが、奈良という地名が「均(なら)された/平
(なら)な土地」から来たことが、当時の日本人学者の常識だったことを
示しております。

 
137日本@名無史さん:2006/10/03(火) 12:03:14
奈良の都を《平城京》といいますが、この「平」は「奈良」に通じている
わけです。どちらも、均(なら)すとか平にするとかいった上品な意味です。

 また、『万葉集』で「平にする意味を万葉仮名の奈良で表している」歌を
記しておきます。

於保吉宇美能 美奈曽己布可久 於毛比都都 毛婢伎奈良之思 須我波良能佐刀
(大き海の水底深く思いつつ 裳引き「なら」しし菅原の里)

安乎楊木能 波良路可波刀尓 奈乎麻都等 西美度波久末受 多知度奈良須母
(青柳の張らろ川門に汝を待つと 清水は汲まず立処「なら」すも)

 つまり、「均(なら)す」の「なら」を「奈良」と書いております。

     *

 これらの古典から、地名の「奈良」が「均(なら)す」「平(なら)す」「平(なら)な土地」から来た蓋然性はきわめて高いと思われます。
 平坦な住みやすい場所という意味でつけられたのでしょう。
 一方、ハンナラのナラから奈良が出来たという説を論証する古代の文献が無いことは、朝鮮問題に詳しい解法者さんが言及しておられます。
 古文献もなく、考古学的証拠もなくて、どうして奈良の語源が朝鮮語などと断言できるのでしょうか。
 もしそれが言えるのだとしたら、「朝鮮語のナラの語源は日本の都の奈良である」――とも言えることになるでしょう。

138日本@名無史さん:2006/10/03(火) 12:04:01
補足1:
「奈良」は古典では、那羅、乃楽、平城、寧楽、諾楽、楢、奈良などいろいろな漢字で書かれておりますが、みな当て字(仮名)であり、漢字そのものには意味がありません。
 前記の『万葉集』に「ならす」を「奈良須」と書いてありますように、「奈良」は万葉仮名でもあります。
 歴史辞書によると、この表記が定着したのは、平安京になってからだそうです。
《平城京》ができたときは、「平城」と書いて「なら」と読んでもいたようです。
 平安時代の人たちが、「均す」の万葉仮名の一種である「奈良須」の奈良を使ったのは、やはり語源が「均す」「平らす」から来ていると考えていたからでしょう。

補足2:
 もう一つの説として、楢(なら)の木が生えていたから――というのがあるようですが、支持する人は少ないようです。



139日本@名無史さん:2006/10/03(火) 15:11:57
奈良はウリナラ(我が国)の“ナラ”だ!!
とか、民族の古典を焼き捨てて中国に事大した国が何を言うのか?
自分たちの手で焼いたから、古代朝鮮語が17個の短歌しか残ってないんだろう。
それを豊臣秀吉が焼いたとか、日帝が焼いたとかいい加減なことばかり言ってるんじゃねーぞ。
すべてを日本の責任にしている限り、発展はないね。
140日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:40:55

【韓国】ネットユーザー67.8%「再び韓国人として生まれたくない!」[09/05

ソース:中央日報
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=79566&servcode=400
141日本@名無史さん:2006/10/04(水) 18:46:23
地図(今の物だが)で確認すると、
楢の群生より、なだらかな地形だから奈良(平)の方が説得力が有る。

奈良はウリナラ(我が国)の“ナラ”だ!!
だと半島に近い山陰、九州になるのでは。その地域の地名に名残はあるの?
142日本@名無史さん:2006/10/22(日) 09:26:03
卑弥呼は神功皇后
143日本@名無史さん:2006/10/23(月) 02:34:00
と言う説も有るよ。
144日本@名無史さん:2006/10/25(水) 02:02:24
海の上を歩いて来た。


・・・・あの当時に玄界灘を越えるのは苦労するよ。
145日本@名無史さん
今の楽浪がヤマトの一部だった頃ね。
古代はヤマトの一部
中近世は中華の一部
近代は日本の保護領
楽浪が独自の文化を育てる時間って近代除いて無いじゃん。