■弥生人中国説にダマされる前に読むスレ■

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866日本@名無史さん:2007/06/02(土) 18:55:50
鵜飼は満州や朝鮮半島にも見られる。


満州の京都ともいわれた古都吉林の松花江の鵜飼は6月から9月までの日中に
行われる。鵜縄をつけずに川に放った鵜が魚をくわえると網で船にすくい
あげて吐かせるという満州式の鵜飼であった。
http://www.jiyuu-shikan.org/store/video/206.html

日本の鵜飼いは、鳥居氏に便乗すれば、江南よりも朝鮮や満州の
北方民族から伝わったのかもしれません。鴨緑江や松花江などでも
鵜飼いは見られます(注9)。
http://www.han.org/a/half-moon/hm080.html
867日本@名無史さん:2007/06/03(日) 18:51:25
丸木弓は弓矢が普及する中石器時代の北欧の遺跡から出土している。


弓矢が普及するのは、中石器時代(→石器時代の「中石器時代」)以降と考えられている。
矢は、旧石器時代の槍(やり)や投げ槍にくらべて携帯に便利であり、動物相の変化に
より小型獣を狩猟対象とするようになった当時においては格段に効率的な狩猟具であった。
なお中石器時代に属するマグレモーゼ文化期(前8000〜前5600年)の弓として、
ホルメゴール遺跡(デンマーク)からイチイガシ(→ カシ)製丸木弓が全形で出土しており、
当時の代表的な遺品とされている。

http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1421501287/content.html
868日本@名無史さん:2007/06/04(月) 16:45:13
日本刀が完成するのは平安時代後期頃で、それまでは鉄剣や鉄刀であった。


古墳時代には武器の鉄製化も進んだ。刀剣では、それまでの銅剣に代わって
鉄剣が作られた。一般的に、両刃を剣とし、片刃の刀と区別している。
なお、古墳時代の刀剣は、のちの日本刀に見られるような反りはない。
刀に反りができるのは、平安後期以後である。

http://www.yurihama.jp/town_history/2hen/1syo/04040400.htm
869日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:41:26
貫頭衣は単に人類最初の服装の形で、古代から現代まで世界中に見られる。


●貫頭衣 (かんとうい)
一枚の布を2つに折り、その折り目の中央に穴をあけ、そこから頭を貫いて
(通して)衣服としたもの。エジプト時代から見られる原始的な衣服の
形式である。ポンチョやガラビアなどもこの一種。
http://style.beauty.yahoo.co.jp/fashion/dictionary/232_4.html

人類最初の服装の形は一枚布であったり、一枚布の真ん中に穴を開けて
被るという貫頭衣というシンプルな形であった。
http://homepage1.nifty.com/mottoi/kokusai8.htm

人類の衣服の工夫の中で最も単純な基本形として、貫頭衣の分布は広いが、
南米アンデス諸国に見られるポンチョがその代表的なものとされている。
http://www.h6.dion.ne.jp/~fu35/minzokuHP/ajia/indonesia.htm
870日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:44:19
西洋(エジプト文明、ギリシア文明、ローマ)では、もともとの
衣服は男女とも布を体に巻き付ける形式か、貫頭衣(大きな布に穴を
開け、そこから頭を出して着る)の形式でした。スカートみたいに
下が空いている服が、先にあったわけです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=884804&rev=1

古代ローマ時代の貫頭衣のような、一枚の布の頭の部分をくりぬいた
だけの服を着ていた。
http://home.att.ne.jp/red/senseofwondr/mou2.htm

古代中国もローマもギリシャも布を纏うか貫頭衣であった。
http://www.lcv.ne.jp/~yokota/contents/mumble/ykt/970410.htm

ローマ時代のイタリアでは男性はトーガという貫頭衣
http://www.psats.or.jp/psats.or.jp/column/nakamura027column.html
871日本@名無史さん:2007/06/05(火) 15:47:51
モロッコ;マラケシュ以来久々に見つけたインターネット屋に入ると、
国民服とでも言うべき水色のゆったりとした貫頭衣と黒いターバンを
目だけ出して口元まで巻いたサハラ地方独特のスタイル
http://world-reader.ne.jp/travel/e-yamada-000414.html
<マッキノウズ>
元来は北米原住民が着ていた貫頭衣式のブランケット式の外着。
http://www.geocities.jp/fashionarekore/aparrelma.htm
マヤ文明が栄えたグアテマラ周辺の女性が着用するウィピルと
呼ばれる貫頭衣をイメージ。
http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20060703/dol.htm?ref=rss
アラブの男性の衣服と言えば、寸胴の貫頭衣に袖をつけた程度の簡単な作り
のワンピースである。サナアでは一般的にはザンナと呼ばれている。
ソウブ・衣服ともいう。エジプトではガラベーヤ、サウジアラビアでは
ディッシュダーシャと言われている。
http://forum.nifty.com/fworld/pictures/yemen0212/05.htm
872日本@名無史さん:2007/06/06(水) 04:27:07
神武天皇=徐福でしょ。
江南辺りから数千人規模の大船団を率いて日本列島を目指し、
日本列島の南岸に沿って熊野まで来た辺りで上陸し大和に入って
原住民ナガスネヒコや土蜘蛛を征服して大和に国を建てた。
大和の新王国は新技術の水稲耕作による経済力をバックにして
次第に支配範囲を拡げていった。
873日本@名無史さん:2007/06/06(水) 06:03:10
かんべんしろや、ひげ自慢の古代中国人も今じゃ、髭も生えない新モンゴロイド
中国も糞もない。
874日本@名無史さん:2007/06/06(水) 12:01:45
考古学をかじったばかりの中学生が書き込んだみたいですねw

徐福が神武なら、弥生中期末頃の弥生遺物からは秦のシンボルだった
青銅鼎が出現しただろう。篆書の金文が刻まれて。

弥生土器には炊飯器の鬲などの三足土器が登場し、蓋付きの鉢や尊などの
ラッパ型の酒器や盃なんかも登場しただろう。

龍信仰が伝わり、色んな遺物から龍や篆書の刻印などが散見できただろう。

簫や磬や編鐘などの様々な楽器も登場していた事だろう。

中学生は二度と書き込んじゃダメだよw
875日本@名無史さん:2007/06/06(水) 12:32:41
徐福渡来伝説は古くから日本各地にあるし、
それを神武天皇に結びつける説も、
自分のオリジナルってわけでもないんだけどね。
876日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:00:34
歌垣は8C頃に筑波あたりで始まる。


日本の古代の歌垣の場として知られている場所には,摂津の国「歌垣山」,
大和の石榴(つば)市・軽市,肥前杵島岳,などがあるが,筑波山は,
その歌垣の場の最も古く,最も著名な場のひとつであった。

その起源は,『常陸国風土記』によれば,神祖の尊が新嘗祭の夜に子供
である富士山を訪ね一夜の宿を請うたが断られ,別の子である筑波山に
宿を請うたところ,心良く招き入れられ,歓待を受けた。神祖の尊は,これを
いたく喜ばれ,「愛しき子の坐す宮は,高くそびえ,日々とともに,人々が集まり
ことほぎ,飲食(みけ)豊かに,代々絶えること無く,日に日に弥栄え,
千代万歳に,遊楽は尽きることがないであろう」と詠われた。これより後,
富士山は常に雪に覆われて登れず,筑波山には人々が行き集い,歌や舞が供され,
宴が繰り広げられるようになった・・・とされている。
http://tamagaki.hp.infoseek.co.jp/kume1.htm
877日本@名無史さん:2007/06/06(水) 17:09:29
常陸国風土記(ひたちのくにふどき)は、奈良時代初期の713年
(和銅6年)に編纂された、常陸国(現在の茨城県の大部分)の
地誌である。

元明天皇の詔によって編纂が命じられた。編纂者は詳しくは不明だが、
藤原宇合や高橋虫麻呂らが関与してると言われている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98

713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
713年(和銅6年)に編纂された
878日本@名無史さん:2007/06/07(木) 04:08:54
徐福=神武天皇に率いられて日本に上陸した江南の倭人は、
海兵隊+屯田兵のような連中で文字の読み書きができる者はほとんどいなかった。
江南の倭人は漢民族とは風習が違うので、漢民族のような祭器は用いなかった。
日本に土着化する過程でもともと異文化である漢民族の文化を継承しようと
する必要もなくなった。
879日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:26:06
また子供が何やら妄想を書き込んでますね。

徐福が神武なら、秦王朝のシンボルである青銅鼎が伝わり、そこに徐福自身の
原始漢字(篆書)の金文がにしっかり刻まれ、そのコピーが周辺に出回る。

BC3C頃の江南の文物は基本的に中原とほとんど同じ。

ただし、江南は鬲よりも鼎が圧倒的に多く、印文陶や原始青磁が多い。
炊飯には三足器以外に釜も使っている。

とにかく何も当時の華北や江南の特徴的な文物は伝わっていない。

大人のスレに子供は書き込まないように。
880日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:47:29
弥生時代の日本人を弥生人という
人種など関係ない
881日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:30:24
すり変えてんだよな「人」にwあんま内向きなごまかしに
終始してると、超大国連中にトドメ刺されるぞ学者先生方。
882日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:09:16
魏志倭人伝には倭人が断髪をしていたなんて書かれていない。
倭人の男子は皆、髪を結って露わにし、木綿を頭に巻いていたと書かれている。




男子皆露紒 以木緜招頭

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html
http://boat.zero.ad.jp/~zaw10107/1/yayoi_2.htm
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/wa/wa.pdf



883日本@名無史さん:2007/06/07(木) 17:13:09
日本列島内で旧石器人→縄文人→弥生人と進化したわけではないのだから、
縄文人も弥生人もどこかから来たのは間違いない。
縄文人は措くとして、弥生人がどこから来れば満足だというのかね?
884日本@名無史さん:2007/06/07(木) 20:05:58
そもそも弥生時代に中国南部の沿岸に住んでいた民族は漢民族じゃないんだが・・・w
中国古代史やったのか?
何でもかんでも半島経由にしたがる朝鮮人よ、中国にいって中国古代史を
勉強して来い
885日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:07:06
糸引き納豆の登場は室町時代頃で、なれずしは3C頃。


平安時代の文献にも塩辛納豆の名は残っているが、一般に広まったのは
室町時代以降でこの頃から糸引き納豆も登場しており区別するために
塩辛納豆を久喜と呼び糸引き納豆を単に納豆と呼ぶようになった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%8D%E8%B1%86

なれずしの歴史は古くて、紀元前には中国で食べられていたらしいんだ。
それが三世紀頃に日本にも伝わって、奈良時代には文献にも登場する。
http://www.kouryu.or.jp/asobi/2003syoku/d/3.htm
886日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:47:45
約6500年前には既に灰陶時代に入り、約4200年前には既に施釉陶時代に入る。



黄河中・上流域ではB.C.4500年に老官台文化(陝西省)が誕生し、
北首嶺遺跡などからは灰陶が出土している。

http://www.tcn.zaq.ne.jp/akanh101/kottou/matomari.1/tosyokann.htm



中国最古の原始青磁は、今から約4200年前に山西省夏県の竜山文化遺跡で
発見されたものである。

http://jp.chinabroadcast.cn/chinaabc/chapter20/chapter200313.htm
887日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:52:59
●灰陶(かいとう)

中国、殷代以前に始まる陶質土器。焼成の最終段階で、空気をあまり送らず
窯の中を還元状態にするため灰青色を呈する。殷・周代を中心に漢・唐の
頃まで日常の容器として広く使われた。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/195.html

かい‐とう【灰陶】
中国、新石器時代から殷(いん)代に盛行した灰青色の土器。多くは表面に
櫛目文(くしめもん)や縄蓆文(じょうせきもん)をもつ。日常の容器として
唐・宋のころまで使用された。
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?stype=2&dtype=2&p=%B3%A5%C6%AB
888日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:57:39
●原始磁器 げんしじき アジア 中華人民共和国 AD

中国古代の釉(うわぐすり)をかけた硬陶。
http://mobile.goo.ne.jp/search.jsp?MT=%BC%A7%B4%EF&FM=keyword


●灰釉陶 (原始磁器、原始青磁)

紀元前1600年に印文硬陶の流れの中で、1200度以上の高音焼成と上薬を
使用した陶器が発生する。その上薬(釉)が、灰・カオリナイト
(カオリナイトを含む白色化粧粘土)・石灰などを調合した灰釉である。
表面は灰色から灰緑色を呈する焼物である。日本ではまだ縄文文化の
解体も始まってはいない。
http://www4.ocn.ne.jp/~napland/yakimono/chire.html
889日本@名無史さん:2007/06/09(土) 21:28:00
890日本@名無史さん:2007/06/10(日) 10:48:16
で、結局弥生人はどこから来たの?
モンゴル?でもモンゴルじゃ水稲耕作はしないよね。
モンゴルから南下してきた弥生人の祖先の民族が朝鮮半島南部にしばらく滞留して、
しかし先住民とは血が交わることなく稲作技術だけを習得した後、
日本に渡って弥生人となった、ってことかいな?
891日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:31:17
長江流域では約6000年前に既に印文土器(印文陶)が登場している。


◎大渓文化( B.C.3990±260年〜B.C.3380±145年)

主要な文様には印文・水平周回文・篦描き文・貼付文・透し彫・彩絵があり、
縄文は見あたりません。このうち、印文は大渓文化の最も特徴的な文様で、
円形・半円形・三日月形・三角形・長方形・方形・工字形などの各種様式の
「小型スタンプ」を器表に深々と押印しています。
http://kohkosai.web.infoseek.co.jp/kaisetu/14-1taikei.htm

●印文土器

中国南東部で新石器時代から漢代に使われた土器。
幾何学文様のあるスタンプを打った灰色の壺などで、軟陶と硬陶の別がある。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/75.html
892日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:36:15
雷文・方格文・条痕文・S字文など、印文土器にスタンプされた
幾何学文様(印文)が全く伝わっていない。


「印文硬陶」は一般的には、約1100 oCという高火度で焼成され、焼き締まった灰白色
で砂質の土器である。灰陶の一種で、新石器時代晩期にはじまり広東・福建・江西の
各地を中心に生産され、漢代まで生産が行われ、灰釉陶の母胎となった技法である。
胎土は4パ−セント程度の鉄分を含みその鉄の分量は、夾砂陶(きょうさとう=粗製土器)
や泥質灰陶より低くなっている。土器の表面には成形のための叩き文が残っているが、
その叩き文の文様は、雷文・方格文・条痕文・S字文として表れ、時として櫛の歯による
波状文の形をとる場合もある。高温焼成のため、器体に降りかかった灰が熔け、器中の
硅酸と化合し灰釉を生じる。色調は暗緑色を呈し、薄くて斑になったものと意識的に掛けた
のではないかとおもわれる。初期の硬陶は、青銅器のフォルムを写した倣銅陶器であったが、
殷時代後期には独自の器形が生まれはじめる。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kannabi/touki-rekisi2.htm
893日本@名無史さん:2007/06/10(日) 17:42:53
894日本@名無史さん:2007/06/11(月) 00:23:44
ああむかつく、他人の説を否定するなら代替説のひとつで出しやがれよ腰抜けが!
895日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:06:28
●三足土器(さんそくどき)

三本の足をもつ土器。各地の先史・原史時代の遺跡から出土。
特に、中国の竜山文化時代に盛行した鬲(れき)・鼎(てい)など。
後に青銅器製となる。
http://makurada.com/modules/pukiwiki/341.html

古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
896日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:12:23
1. 華南地域では農業の発達が遅かったため、土器の種類は多くありません。
2. 長江流域は約1万年前からすでに米が栽培され、約8000年前には稲作が発達しました。
土器は丸底が主流で、約6000年前には三足の鼎(かなえ)が登場します。
3. 黄河流域では、約1万年前から粟やひえの栽培が始まり、約7000年前以降には平底、
丸底、三足の土器が出現。 約5000年前から土器が一変し、中流域では灰色土器、
下流域では黒色土器が現れます。
4. 北方地域西北地方では、約6000年前以前の土器は発見されませんが、彩文土器が
発達したことが大きな特色です。
5. 北方地域東北地方では、約6000年〜5000年前に窯を使用し、彩文土器が出現しました。

これらをまとめると、中国新石器時代の土器づくりは約1万2000年前に始まり、各地域で形や
種類、技法、文様などがかなり異なります。また、農業の発達によって土器づくりの技術も
発達し、約6000年前には三足土器が登場。中国の漢時代まで代表的な土器の一つとなりました。
土器はもちろん日常生活用品でしたが、一部は祭りに関連したものと推察されます。
http://www.kaen-kaido.com/doki/oh.html
897日本@名無史さん:2007/06/11(月) 20:37:45
898日本@名無史さん:2007/06/11(月) 22:20:08
そんな前のこと、どっちでもいいよ
899日本@名無史さん:2007/06/12(火) 07:50:31
こう言うのは、超大国連中の国家戦略に絡むんだよw今更手遅れな部分もあるがな
やっとこさ気づいてどうでもいい竹かご売りに出した国もあるがな、その意図
は買う。半島はあせる必要も無いと思うがな。
900日本@名無史さん:2007/06/12(火) 19:54:47
●中国青銅器について
-------------------------------------------------------------
古代中国では紀元前21世紀頃から青銅器文明は存在し、その後鉄器と
入れ替わる戦国までの数百年間に渡って、それぞれの時代背景を基に
形・文様・銘文に特色を残していきました。中国青銅器は他を圧倒する
ほど強くその存在を示し、祭器・礼器としての役割を十分に果たしていた
と容易に想像させられます。プリミティブな造形と繊細なまでの技巧が
うまく調和し、数千年もの歳月を経て、人間がつくった最高の美術品として
確立していきまいした。
http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
901日本@名無史さん:2007/06/12(火) 20:02:23
見よ!

中国の青銅器のさまざまな器形が全く伝わっていない。




◎中国青銅器のさまざまな器形

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-shape.html


902日本@名無史さん:2007/06/12(火) 20:08:24
●越式鼎


江南名物「越式鼎」(エツシキテイ)。中原の漢式鼎よりも足が長い。
陶製と青銅製がある。



越式鼎
http://www.npm.gov.tw/english/exhbition/han9909/handynisty/live/pictures/art16.gif


903日本@名無史さん:2007/06/13(水) 05:29:22
で、倭人は結局どこから来たの?
日本の大地から生えてきた?
904日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:51:36
●中国青銅器の文様

「饕餮文」といった造形的に非常に優れた固有の文様とともに、
「龍文」「鳳凰文」「雷文」など現在でも使われている文様の原型が
編み出されていました。古代の人々の想像力の豊かさとそれを表現する
技巧の確かさが伝わってきます。

http://www.kotoken.co.jp/china/bronze/bronze-index.html
905日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:59:03
906日本@名無史さん:2007/06/13(水) 20:00:31
>>903

アフリカかもなw
あ、朝鮮人は違うらしいね。
半島北部の熊から進化したってね。
907日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:20:17
●金文

金文(きんぶん)とは青銅器の表面に鋳込まれた、あるいは刻まれた文字の
こと(「金」はこの場合青銅の意味)。中国の殷・周のものが有名。年代的
には甲骨文字の後にあたる。殷は青銅器文化が非常に発達した時代であり、
この文字を器の表面に鋳込む技術は門外不出となっていた。

金文は『史記』のような後世になって書かれた資料とは違い、完全な同時代
資料であるためこの時代を研究する上で非常に貴重な資料となっている。
しかし殷代の青銅器は古美術としてもきわめて高い価値があるため収集家など
がこれを所持することで一貫した研究が出来ないと言うことも起きている。

なお石などに刻まれた文章は石文と呼ばれ、一緒にして金石文と呼ばれる。
またこれらの研究者は金石家と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%96%87
908日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:26:26
●鳥書

春秋時代の中期から後期にかけて、東方列国の金文には地方色が
強くあらわれてくる。特に注目すべきのは、南方の越、楚などの
地方の主として武器において、非常に装飾的な文字を扱ったものが
現れる。この地域で用いられた書体には、筆画が非常に複雑で、
曲線が多いもので、各文字のところどころに鳥の頭を図案化した
ような形があるから、このような書体は「鳥書」(ちょうしょ)、
あるいは「鳥篆」と呼ぶ。
http://yupeihsu.at.infoseek.co.jp/syouten/kinbun.html
909日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:28:14
倭人はシナ南部の少数民族だったのだろう。現在でもシナの少数民族は
シナ文化を身につけていないだろう。

 広西壮族とかロロ族、ナシ族などが印文陶や灰釉陶を含めた中国灰陶の
技術を使っているのかね?

 中国青銅器に見られる篆書などの原始漢字の金文が一字でも伝わっている
のかね?
910日本@名無史さん:2007/06/14(木) 20:31:10
911日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:01:57
●古代中国の楽器


秦の統一以前の頃の楽器は史料に記載されているものが約70種もある。
『詩経』だけでも29種にふれており、打楽器には太鼓、鐘、鉦(しょう、
古代銅製の打楽器で、行軍の際に打ち鳴らしたもの)、磬(けい、銅製の
椀形の仏具と楽器)、缶(ふ、甕のようなもの)、鈴など21種があり、
吹奏楽器には簫(しょう、タテにして吹く長い笛)、管(さまざまな管楽器の
こと)、?(けん、土笛)、笙(しょう、いろいろな長さの十数本の竹の管で
作った吹奏楽器)など6種があり、弦楽器には琴、瑟(しつ)など2種のものが
あった。楽器の品種が多く増えたため、周(約前11世紀−前256年)の
時期には楽器を作る素材によって、金属、石、土、皮革、弦、木、匏
(ほう、瓢たんの実)、竹という8種類に分けられ、「8音」分類法と称された。
http://www.china.org.cn/japanese/144930.htm
912日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:07:35
●骨哨

河姆渡住処から160個骨哨が出土されて,今まで7000年の歴史があります。こんな骨笛は鳥類の
骨で作られ,骨管に1−3個の孔を磨き突いたから,鳥が鳴るような曲調を吹く事ができます。
同時の原始人は木下に隠れて,網を設置してから骨笛を吹くと,鳥らはこの音響を聞いてここへ
飛んでくるんです。これは道具でもあるし,簡単な楽器でもありますから,今までも一部分の
中国少数民族の狩り道具になっています。こんな原始道具はやはり今の竹笛になりました。
http://www.topqd.com/wj/chinayqs.htm

●磬

磬(けい)とは、中国で最も古い楽器である。石製の打楽器である。サヌカイトを叩くと金属音が
する。この石の長さ・厚みを変えて音階を奏でることができる。これを楽器として仕立てたのが
「磬」である。これを単独で使用することは希で、通常は音階順に8個、あるいはそれを2段並べて
16個台に懸けた「編磬」として用いたようである。殷代から楽器として使用されている。
http://www.page.sannet.ne.jp/to-okamo/guwanmi/kosen/kosen.htm
913日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:12:30
見よ!

古代中国のさまざまな楽器がさっぱり伝わっていない。
7000年前の河姆渡遺跡からある簫(タテ笛)の原型である骨哨に注目。


上から順に、簫、磬(編磬)、鐘(編鐘)、鐃、ロ于、鉦
http://www.szzwch.com/IMAGES/xiao.JPG
http://storage.kanshin.com/free/img_28/284331/k741978051.jpg
http://japanese.cri.cn/chinaabc/chapter20/images/bianzhong.jpg
http://www.miho.or.jp/booth/html/imgbig/00001190.htm
http://big5.huaxia.com/wh/whgb/wwdg/images/1639_0.jpg
http://www.kepco.co.jp/ICSFiles/artimage/2004/06/08/c_kpc891/kane_1.jpg

7000年前の河姆渡遺跡の骨哨
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_24_15.jpg
914日本@名無史さん:2007/06/15(金) 13:20:31
日本人の先祖は中国の南部でベトナム人と隣接して暮らしていたんだよ
容貌がそっくりだし
915日本@名無史さん
日本人の先祖はモンゴルの東部でモンゴル人と隣接して暮らしていたんだよ
容貌がそっくりだし