1 :
日本@名無史さん:
治承・寿永の乱は一般的には「源平合戦などの呼称が用いられることがある。
平安時代末期の1180年から1185年にかけての6年間にわたる大規模な内乱である。
後白河天皇の皇子である以仁王による挙兵を契機に各地で平清盛を中心とする六波羅政権ともよばれる平家政権に対する反乱が起こる。
最終的には、反乱勢力同士の対立がありつつも平清盛一族の伊勢平氏政権の崩壊により
源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権(鎌倉幕府)の樹立という結果に至る。
平氏の隆盛
鹿ケ谷の陰謀
以仁王の挙兵
関東武士団の挙兵
富士川の戦い
地方武士団・源義仲の挙兵
清盛の死
源義仲の上洛
寿永二年十月宣旨
義仲の滅亡
一ノ谷の戦い
屋島の戦い
壇ノ浦の戦い
平家政権の排除
源頼朝に従った平氏
源頼朝に従わなかった源氏
などを語っていこう。
2 :
富士川の戦い:2006/05/14(日) 04:06:31
富士川の戦いは富士川を挟み河口付近で行われ、平家方の足並みは揃わず、
富士沼の水鳥の羽音を敵襲と誤認して戦闘を交えることなく敗走したと伝えられる。
しかし、現実に武田信義の率いる源氏方の武田党が抜け駆けして接近していたため、
水鳥の羽音を敵襲と誤認したのではなく、水鳥の羽音で敵の夜襲を察知し、
迎撃の準備ができていなかったので撤退したと見るのが妥当であろう。
3 :
一ノ谷の戦いの真実:2006/05/14(日) 04:10:26
2月4日、搦手義経軍は、播州・三草山の平資盛、平有盛らの陣に夜襲を仕掛けて敗走させ、東播磨を制圧しつつ、一ノ谷口の西隣・塩屋へ集結した。
東播磨一帯は平家の地盤であり、兵・兵糧の挑発徴収を行っていた。
また、大軍の通行できる幹線道路もあり、重要な上洛ルートでもあった。
三草山が破られたと知った平宗盛は、義経軍へ備えて猛将平教経を鵯越の防衛へ加えた。
『玉葉』によると、2月7日早朝、矢合せの時刻通り、範頼は生田口を、義経は一ノ谷口を、多田行綱は鵯越口を攻め始めた。
まず、行綱が鵯越口を落とした。鵯越は平家本陣である福原・大輪田の泊に最も近かったため、宗盛は安徳天皇を奉じて海上へ逃れ、一ノ谷・生田も相次いで陥落した。
多くの武将が討ち取られたことについては、大輪田の泊に最も近い鵯越口が最初に陥落したために生田・一ノ谷にいた将兵が逃げ遅れたことが原因ではないかと推測している。
4 :
一ノ谷の戦いの真実2:2006/05/14(日) 04:11:53
実際の合戦は、福原を中心に生田口・一ノ谷口で行われており、一ノ谷だけが戦場だったわけではない。
菱沼一憲によると、義経側から多くの情報が外部に流れたため、この名称で呼ばれるようになったのだという。
義経は合戦後1年間、頼朝の在京代官として政務に従事しており人脈も多かったが、範頼は鎌倉へ帰還したため、生田口での合戦の情報が不足したというのである。
鈴木章によると、その結果『平家物語』は、平氏の本陣は福原であるはずが一ノ谷であるかのように記述し、鵯越は一ノ谷の遥か東方に位置するのに平氏本陣を見下ろせる場所と描写するなどの工夫を施しているという。
しかしながら、「一ノ谷」については、多くの歴史的文献を鑑みて元々、湊川、会下山南部にあった湖を呼称していたのが須磨の地名を呼称するように変わったとする説がある。
『平家物語』『源平盛衰記』での平忠度が討ち取られるまでの記述においてもそのことが伺い知れる。
生田・一ノ谷での戦いの呼び方も文献では「東城戸の戦い」「西城戸の戦い」とそれぞれ呼称されている。
5 :
屋島の戦い真実:2006/05/14(日) 04:15:14
頼朝は義経へ屋島攻撃の命令を出した。
義経は畿内の海運関係者である淀江内忠俊と、摂津源氏と関係の深い水軍・渡辺党を取り込み、文治元年(1185年)1月、渡辺党の本拠地・渡邊津へと赴き、1ヶ月間、兵糧の集積と兵船の準備を進めた。
義経渡海以前、紀伊水道を取り囲む紀伊・淡路・讃岐・阿波では反平家分子が生じており、源為義の末子という加茂冠者義嗣・淡路冠者義久なる二名の人物を担いで挙兵している。
結局、平教経ら平家方に鎮圧されたが(六ヶ度の戦い)、反平家勢力の糾合のためには、源氏の棟梁格の人物が必要とされていたことを示している。
そこで義経は、阿波の反平家勢力と連絡を取り、自らは少数で阿波へ渡り兵を集めつつ迂回して陸上から攻め、梶原景時は大規模な水軍を擁して海上から攻撃するという作戦を立てた。
6 :
屋島の戦い真実2:2006/05/14(日) 04:16:07
2月、義経は阿波へ渡海し、近藤親家の案内によって桜間を攻めた。
桜間は平家最大与党・阿波民部大夫の近親者である桜庭能遠の城で、阿波国衙に隣接する平家方の重要拠点であった。
この攻撃により、平家は海に孤立する島以外の拠点を失った。
その後、義経軍は屋島も攻め落とした。
景時率いる主力の水軍は、風雨によって到着が遅れた。
2月19日、平氏軍は志度浦から上陸を試みるが鎌倉方に撃退される。
3月16日、屋島の西の島、讃岐国塩飽庄にいた平家軍を、海上から景時軍が、陸上から義経軍が攻撃し、平家は100艘余りで安芸国厳島に退いた
>>1-6 文章が全てwikiからの丸写しではありませんか。誘導だけで済むでしょう。
コピペsage
wikiかあ・・・もうだめだこのスレ
11 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 22:58:12
>富士川の合戦
『山槐記』によれば、夜討を受けたのではなく、水鳥の動きを見て襲撃を警戒
して、夜中になってから後退した様です。
逃げ過ぎて浄海の叱責を蒙りましたが、水鳥の動きを見る事自体は『後三年合
戦記』に、更には『孫子』にも見えており、不適切な行動でもない。
『方丈記』にも記された飢饉を挟んで戦っていた為に大軍の動員に見合った兵
糧調達もままならず、苦労していた様です。
『玉葉』によれば、都を立った時には約四千という人数でした。
その後、国衙に登録された有力武士や小規模な駆武者への呼びかけも行われ
ており、『平家物語』は結果は芳しくなかったとしていますが、それでもか
なりの数になっていた筈。
なお、東国武者の強さを語ったという斎藤実盛は、実際にはこの場にはいな
かったらしく、平家滅亡を必然とする『平家物語』作者の創作らしい。
13 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:35:08
>>12 富士川の戦いでは平維盛軍5万が水鳥の羽音に驚き一戦も交えないで京都へ退散してしまったというけど怪しい。
疑う価値ある。
後世に作られた創作っぽいよね。
水鳥の動きを見て、敵の動きを予測する話は納得できるけど、水鳥の羽音に驚いて逃げ出すのはウソっぽい。
実際はどうだったんだろうね?
14 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:52:33
<<13
戦わずに逃げたというけれど平家方で殿軍を勤めて戦死ししている人だっているのだからやっぱり戦闘はあったんじゃないかと思う。
総大将の経験の少ない維盛がパニックを起して戦場での指揮を放棄したとかね。可能性はあるよね。
総大将が陣地を逃げ出したら、当時の合戦は終わりだからね。
それよりも、藤原忠清ほどの武将が鎧用の長持ちを置き忘れる程の慌てぶりとは一体何だったのか?
とても気になりますね。
私にはとても水鳥に驚いたからとは信じられません。
当時の人にもやっぱり疑問だったらしく「藤原忠清はそんなコシヌケじゃない」と書かれています。
忠清には自分の口から事実を言えない事情があったのじゃないか?
結論としては、私は水鳥より総大将の維盛の経験の少なさに問題があったのではないかと思います。
15 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 00:04:56
源範頼ってなかなかの武将じゃない?
16 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 00:10:28
富士川の少し上流の静岡県富士郡芝川町という所に維盛伝説がある。
頼朝挙兵の報を福原で聞いた平清盛は、平維盛を総大将、忠度を副大将に命じ、頼朝討伐の為、東国へと出発させた。
頼朝は源氏出身の武田軍と合流し、富士川をはさんで源平の対陣がはじまった。
この地に詳しい武田軍が平氏の背後に廻って攻撃をしかけようとひそかに浅瀬に入り渡りかけた。
川の水に体を浮かべて休んでいた水鳥はこの軍勢の物音に驚き、いっせいに飛び立った。
平氏はこの水鳥の音で源氏の夜襲を察知した。
しかし、遠く京からの道のりで疲れも重なり、精神的衝撃を受け、敵襲と勘違いして逃走しはじめた。
陣容を立て直すのは不可能で、総退却せざるを得なかった。
この時に、投降者は続出し、士気は著しく低下し、これが以後の戦に大きく尾を引く事となった。
この時、芝川町の稲子の里に多くの兵が落ちのびた。
平家窪、じがい沢、矢沢等などの平家に関係する地名が残っている。
稲子に伝わる伝説の続きとして、源平合戦後は維盛は入水せずに、
富士川の合戦で多くの家来が逃れひそかに住んでいた稲子に戻ってきて、
自らも上稲子の地に逃れ住んだという。
西ケ谷戸に維盛を祭る墓が建てられ位牌もこの地に残されている。
17 :
賊軍源頼朝:2006/05/15(月) 00:23:25
賊軍源頼朝
賊軍源頼朝の挙兵の報告が京と福原の平家一門のもとに届いたのは9月の初めです。
「伊豆国流人源頼朝」が凶徒を語らい、伊豆や近隣を掠めようとしているというのです。
伊豆の目代山木兼隆が討たれた報も入りましたが、その人数が約二百人と聞いて、
「その内、近くの者どもが討果たすであろう」と思っていました。
とにかく賊軍を放ってもおけないということで、追討の軍を送ることになりました。
平維盛、忠度、知度が追討使に任命され、東海、東山道で軍を徴発して東征することが決まったのが9月5日です。
その後、「賊軍頼朝は大庭景親に石橋山で惨敗した」という続報がきて、皆は「それ見たことか」とあざ笑いました。
ところが当然届けられるはずの頼朝の首が一向に福原に着きません。
そうしているうちに「頼朝が海路、安房に渡って、再起をはかっている。
その下に板東武士たちが次々と集まっている」という続報が入りました。
ここでようやく、平家一門は頼朝の挙兵を問題視したのです。
しかしその反応も「このままでは東国からの租税が入らなくなる」という心配だけだったのです。
18 :
賊軍源頼朝:2006/05/15(月) 00:26:23
平維盛、忠度、知度が「頼朝追討」の宣旨を受け福原を出発したのは9月22日。
頼朝追討が決まってから、20日近く経っています。
ところが、京に入って集結した軍勢がそこから進まず、さらに日時を浪費して、京を出発したのが29日でした。
この年、治承4年(1180)は近畿と山陽道はひどい飢饉でした。
軍を集めて遠征するにも兵糧が不足したことと、士気が揚がらないこともあり、また出陣の日時は吉日でなければならないとか、吉凶占いにこだわったりして、平家軍の出陣には迅速性が欠けていました。
「兵は拙速を尊ぶ」と言いますが、やはり飢饉の下での遠征は無理だったのでしょうか。
以仁王の令旨により挙兵したのは頼朝と木曾義仲の他に、甲斐源氏の武田信義がいます。
武田信義は北条時政と連絡を取りながら駿河に入り、駿河国の目代橘遠茂の軍を破って南下しました。
木曾義仲や武田信義の挙兵は頼朝と連携したのではなく、それぞれが独自の挙兵です。
頼朝、義仲、武田信義はそれぞれが対等の立場だったのです。
平家追討軍は、この甲斐源氏の武田信義が頼朝と衝突することを期待していたそうです。
しかし、当てがはずれて、信義は頼朝と同盟し、駿河の富士川(現在の静岡県)で共同戦線を張りました。
頼朝と武田氏の同盟成立は頼朝の舅北条時政の功績のようです。
甲斐源氏は新羅三郎義光の後裔で、頼朝の好敵手になる可能性がありました。
19 :
賊軍源頼朝3:2006/05/15(月) 00:28:13
10月20日。平維盛を大将とする頼朝追討軍は、富士川をはさんで、武田信義軍を主力とする東軍と対峙しました。
しかし、富士川の合戦は、平家軍は一戦もすることなく敗走することになるのです。
夜半に東軍方の武田信義が背後を襲うため渡河しようとしたところ、水鳥が驚いて一斉に飛び立った羽音に驚いたためといわれています。
頼朝たち東軍にとっては存亡を賭けた防衛の戦いで、士気が揚がっていたでしょう
(後の上洛戦や一の谷では積極的でなかった東国武士ですが)。
一方の平家方は飢饉の中の出陣で、対峙中にも、軍勢の目の前で川を渡って東軍に投降する者が続出したそうです。
戦うことなく帰還した維盛、忠度、知度に、平清盛は大激怒しました。
「追討使たる者が負けておめおめと帰ってくるとは」「不覚の恥」「尾籠の名」を平家に残した屈辱を知らんのか、この大たわけども!」ってなぐあいで。
20 :
賊軍源頼朝4:2006/05/15(月) 00:31:03
挙兵当初は源頼朝は朝廷に反逆した逆賊・朝敵だったのです。
「伊豆国流人源頼朝が凶徒を語らって謀反」ということで、追討の宣旨が出されました。
つまり平維盛を総大将とする追討軍は官軍です。
その官軍を逆賊である頼朝が打ち破りました。
そして頼朝は朝廷(後白河法皇)に接近し、東国行政権(十月宣旨)を得ることで東国支配を公認され、
剥奪されていた右兵衛佐、正四位下の官位と職を復されます。
さらに後には、平家追討の院宣を得るのです。
朝廷とはいかにいい加減なものか。まさに「勝てば官軍」です。
余談ですが、明治維新の時の最後の将軍徳川慶喜は、この頼朝の前例を知っていたのかな?と思います。
平家一門は安徳天皇と高倉上皇を擁していましたが、別に後白河法皇という大きな存在がありました。
この院政という朝廷の二重構造も、徳川慶喜の時代とは異なっているという事情もあるのでしょうけど。
コピペスレw
>>14 なかったとは断定できない。
都視点に偏れば『なかった』になるがな。
22 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 00:38:59
義経は一度関係を持った女性を捨てることができず、二十数人の女性がいたそうだ。
気が弱いというか、優しいのか、都を落ちるときも、何人もの女性を連れていたらしい。
死んでからも女性に人気だけど(タッキーが演じたからか?)、生きているからもモテモテなんですね!!
夜陰に乗じて撤退し、追撃を受けて死者が出たのでしょう。
>平家方で殿軍を勤めて戦死ししている人
>藤原忠清
というのは、念の為お訊ねしておくとどちらから。
>15
『徒然草』にも、『平家物語』での評価が義経>範頼だとありますが、裏を
返せば範頼に注目した説も当時流布していたという事でしょうか。
>22
『義経記』でしょうか。
24 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 01:08:25
>>22ですが、参考文献は 丸谷才一『恋と女の日本文学』です。
25 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 05:55:44
>>1 「治承・寿永の乱」って凄く違和感がある。「治承・寿永の内乱」って言わないか?
26 :
美濃もんだ:2006/05/15(月) 06:14:15
富士川の戦いでは西軍が最初からびびってた。
2日前に駿河に到着した時、甲斐源氏に討ち取られた橘遠茂はじめ80人の首が掲げられていたのを見て既に戦意喪失。
これはその後も武田がよくやる脅しの手口。
>>24 ありがとうございます。ただ、どうも俗書の臭いが。
『吾妻鏡』で多田行綱に追い討ちをかけられて返り討ちにしていた時点では
そう何人も抱えてはいなかった様ですし。
>富士川の合戦。
追討使は四千騎としていましたが、『玉葉』治承四年十一月一日条を読み直
してみると、五千騎であったものが、山門の妨害を恐れて伊勢へ迂回して戻
った時点では十分の一弱となっていたという話でした。訂正致します。
『吉記』によれば、一旦引いた後駿河国手腰宿で放火され、混乱したらしい。
そのまま追撃を受け、逃れて来たそうで、東国勢の強大さが不安を呼んでい
ます。高倉宮がまだ生存しているという噂も根強く存在していました。
夜討と水鳥の件ですが、『吾妻鏡』でも水鳥自体に驚いて逃げたのではなく、
水鳥が騒いでいたので夜明け前に逃れようとしたところ、追撃を受けたとあ
りました。時代は下りますが『保暦間記』は『平家物語』とほぼ同じです。
『平家物語』に対しては兼好や了俊がいくらか不審な点があると述べていま
すが、どこがどうおかしいと感じたのが分からないのは残念な事ですね。
>26
十月十八日の事ですが、何に書かれているのか、お教え頂けませんか。
「よくやる」というのも気になったので。
28 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 20:24:27
あら、そうですか?
でも、『恋と女の日本文学』は面白い本でしたよ。
光源氏の項は特にオススメです。
日本文学は外国の文学に比べて、女性が活躍してると思いませんか?
「竹取物語」は言うまでもなく、実は『吾妻鏡』もそうなんですよ。
>女性が活躍
>『吾妻鏡』
文学というか。ちょうど『吾妻鏡』が成立した頃までは、女性にも相続権が
あるなどの理由で権力がありましたから。中世後期になってもまだ強い。
脇田晴子先生ほかが書いておいでです。新書でも日野富子がよく出て来る。
大河ドラマネタで山内一豊夫妻を対象にした新書が最近出ましたね。
著者の服藤早苗先生は一寸というかかなりフェミの入った方で、推測による
記述もずいぶんありましたが(フェミ系なのは脇田先生もそうです)。
>『竹取物語』
女性が活躍・・・していると言ってよいものかどうか。
より原話に近いと思われる『今昔物語集』所収話と比べて風刺的要素が強い
とは思われますが、女性の強さを表現したがったものとは違うと思います。
30 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 20:53:27
去年の大河ドラマで範頼がまともに描かれていたけど、あれは最近の範頼再評価の
影響なのかなあ?
31 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:20:27
『竹取物語』については、みんなそう思っているんでけど、ある視点で見ることによって、全然違ってくるんですよ。
『恋と女の日本文学』は本当に目からウロコですから、一度読んで下さい!!
オススメです☆
北条昌子も強い女性ですよね。
32 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 15:13:33
壇ノ浦で義経が舟の漕ぎ手を狙った話は創作ですよね?
>>27 文学の力って凄いね。
800年以上も経つのに、いまだにその時代の人物評価は
「平家物語」をベースとして行なわれていたりする。「平家物語」おそるべし。
>31
北条昌子って‥‥。
こんなタイプミスして平気な人のオススメ本なんて、別に読みたくないなぁ。
>>33 仰る通りです。『太平記』も凄い。史書や祖師伝も大概ですしね。
コーエーのゲームに出て来る様な戦国武将の逸話というのも、大抵は江戸期
に入って成立した俗書に出て来るものでしょう。
あれを見て一次史料と区別をつけないと、評価を誤るのも当然の事。
『信長公記』の内容も、出来過ぎているというか一種の文学として見た方がい
いと思います。どこで聞いたのか分からない道三の信長評やら、四十九歳で
死んだ人間が「敦盛」が好きだったという話やら、葬儀の場で才能を見抜いた
筑紫の僧侶やら、後になったから構成を組んで書けたものだろうというのが
多い(蛇足ですが)。
>丸谷才一
いずれ拝見したいと思いますが、作家は面白く書くのが仕事ですからね。
頼朝の正妻、童名は万寿か朝日だという(どちらも嘘の可能性も)。
少なくとも、頼朝が生前に知っていたのは「政子」ではなかった筈です。
>>35 朝日はともかく万寿は嘘っぽいですね。だってこれ息子頼家の幼名だし。
そう言えば脇田先生の著書「中世に生きる女たち」の政子の記述で、
頼朝には清盛や義朝並みに子がいるとか平気で書いてあって
少なくともこの先生の平安末期〜鎌倉期の記述はどうなんだろう?信用できるの?と思ってしまいました。
ご専門は室町のようですし・・・
全ての時代に詳しい学者なんていないんだろうなあ。
われわれ一般人は何を基準にして本をえらべばよいのやらorz・・・
37 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 07:34:44
源平の合戦は人気がないのか?
義経は人気があるのにな。
>>37 若者に義経人気はいまいち。
大河もコケ(これが一番打撃。源平物はつまらないと思ったやつが必然的に増えるから)
ゲームも某腐女子ゲー以外はコケ、
漫画も今やってるのって一つしかない。しかも主役は義経と入れ替わってる青年。
小説なんて未だに昔の、しかも同じもんばっかすすめられる。
価値観が多様化してるからか、歴史なんてどうでもいいやつが多いのか・・・
この状態はどうにかなりませんかねえ。とりあえずその義経漫画に期待するわw
価値観というか、昔は娯楽といえば、『太平記』や『平家物語』や忠臣蔵あ
あたりぐらいしかありませんでしたからね。今は多い。
ただ、創作で知った「源平合戦」や「義経人気」で語られるよりは、『吾妻
鏡』や『玉葉』が好きな人の書き込みの方が、学問板としては望む所かと。
ただでさえ、娯楽系のネタスレが目立つ板ですから・・・。
40 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 14:38:37
日本には騎馬の集団戦法はないが、
日本で初めて騎馬の集団戦法を取ったのは義経って本当ですか?
質問は悪い事ではありませんが、スレへの貢献を考え、まず自分なりに史料
をあたった上で、問題提起と私見の披露ぐらいはして頂きたかったですね。
それはさておき、
>日本で初めて騎馬の集団戦法を取ったのは義経
確か、旧日本軍が言っていた事だと思いますが、一の谷と屋島の戦いには、常
識的に考えて歩兵も随伴していただろうと思います。
騎兵だけでは、歩兵による馬の足の薙ぎ払いや馬上からの引きずり落しといっ
た攻撃に対応しきれませんし、馬が暴れた時の為の口取も必要です。
それまでに無い戦闘法を行うのであれば、それ相応のノウハウが必要とされる
のであり、ひらめきだけあっても実行には移せません。
そもそも、戦闘に必要だからこそ随伴している訳で。それを取り除いてもどう
にか出来るという様にする為には、普段から随伴なしでも戦闘出来る態勢を整
えておかねばならない筈です。
『吾妻鏡』には、百五十余騎を率いて上陸したとありますが、その前に「士卒」
とある様に、少なくとも編者は歩兵込みで考えていた筈。
延慶本『平家物語』では、馬五十匹に兵五十余人と齟齬があり、余った兵の方
が気になりますが、内訳(歩兵は別か否か)がよく分かりません。
名前が出て来る様な兵(つわもの)に注目した物語的説明と見るべきか。
『義経記』には、義経主従が騎馬だけで移動している場面が二箇所存在します
が、そのまま戦闘に突入している訳ではありません。
同時期に成立した『太平記』にも、同じ様に騎馬だけで移動する話が記録され
ており、14世紀には騎馬だけでの「移動」は見られた様です。
源範頼って凡庸な武将なんですか?なんか平家物語などでは、義経を引き立てる
ために凡庸扱いされてますが、実際は山陽道や九州の平家勢を撃破してるようで
すし、一の谷や壇ノ浦でも義経をサポートしているようですし。私はかなりの名将
だと思うのですが。
43 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:26:18
つチラシの裏
44 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 00:36:29
義経をサポートじゃないよ
総大将は範頼なんだから義経がサポートしただよ
45 :
日本@名無史さん:2006/06/02(金) 10:04:08
義経は卑怯だ。一騎打ちをせず背後からせめたとか、船の船頭を殺したとか。まあ後者の場合平氏もなんか禁忌に触れたらしいが何をしたかはしらない。
46 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:14:15
>>45 「一騎討ち」の概念は、なかなか難しいですね。個人対個人の戦闘は勿論あった
と思いますが、整然と互いに名乗りを上げて戦う、と言う形態はこの頃には既に
廃れていたと推察します。せいぜいイメージとしては「今昔物語集」にある平良文
と源宛の戦いくらいでしょうか。「一騎討ち」のイメージの背景には「武士道」の
精神を重ね合わせて語られてきた事があったからと思いますが、武士道精神的な
概念は、新渡戸稲造の著作で書かれたものに近いと思います。つまり、そのような
精神構造は江戸時代以降の思想であり、平安時代の「武士道」(と言う言い方が適切
かどうかは分かりませんが)は、もっと殺伐としたものであったと推察します。既出
ながら、「平家物語」や「源平盛衰記」のような文学作品から受けるイメージと、
実際の事象との間には大きな隔たりがあるように思います。
47 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 02:51:54
そろそろ山野の嫌みったらしいうんちくがくる予感
>>46 あんたって、あちこちで珍説披露してる人?
某スレの120とか。
何か似てるよ。
なんか42の範頼の評価についての議論がスルーされてるな。俺は範頼は
義経ほどではないけど、十分役に立つ名将だと思うけどな。
この板では(というより近年は)普通に評価されている(義経への偏りが修正
されつつある)という認識であったので、>44氏のレスが出た後は>42氏
もご自分の目でご確認になられれば充分だろうと思い、敢えて何も申し上げま
せんでした。
範頼は弱将のイメージが強いですが、義経召喚→屋島辺の流れが不味かったか。
壇ノ浦前後の活躍は無視されていますね。
一番罪作りなのは、『平家物語』か、それともその影響を受けた面々か。
(『徒然草』でも、義経は書いているが範頼は出していないと言われている)
51 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 22:35:26
>>48 46ですが、日本史板のスレで120番以前にカキコミした事は無いので
別人ですね。珍説と言う御意見は傾聴に値するとは思いますが、少なくとも
「平家物語」を始めとした文学作品と、史実が一致していると無条件に受け取る
のは「純粋」な心根で恐れ入ります。文学作品の「平家物語」が日本文学の傑作
である事は申すまでもありません。それと某スレの120というのががよく分か
りませんが、平安時代に関連したスレを見ると「平安時代には軍隊は無かった云々」
というモノがありましたが、なかなかユニークな見解ではあります。そう言う考察
があっても「なかなかオモシロイ事を言う人がいるな〜」ではないか、と。
事実誤認をあれこれ指摘するのも余計なお世話という気がします。様々な学説は
あって当然の事で、例え自分と正反対の説であろうが、その説の論拠を考えるのが
「知的」な姿勢であろうと思います。
>>51 あんたさん、某板某スレの早大野球部OBみたいな(ry
無知な小説家たちが義経や頼朝を持ち上げるために範頼を未だに無能扱いして
るとはいえ、日本史学者の間ではそれなりに再評価されてきてるよな。範頼自身
もここまで再評価されるとは思ってなかっただろうな。
54 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 04:53:27
唯物史観なんだよな
源平時代の小説ってごく一部を除いてぱっとしないね・・・
56 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 02:45:44
>>41 武田騎馬軍団というのは存在していないというのは聞いたことがあるが
騎兵は存在しているだろw
つまり、騎馬軍団=騎兵だけで組織された大規模な軍団
騎兵=騎馬武者
騎馬武者が日本の歴史上存在しなかったか?
だから、武田騎馬隊は存在したんだよ
よく考えて書き込めよ、知ったかぶりは恥ずかしいぞw
57 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 03:20:37
>>56 誤爆?
>>41は「武田騎馬隊は存在しなかった」とも「騎馬武者は存在しなかった」とも言っていないぞ‥‥
59 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:52:38
嫌韓ネタなら違う板でやってよ。
61 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:21:57
一ノ谷合戦であるが、最近では、「義経の逆落としは現実として考えられない」とする説まで登場するなど、
否定的な見方をする研究者も現れている。
そもそも、一ノ谷合戦において、当初から大きな誤解が生じていたと推測される。
この戦さでみせた義経の奇策が、源氏方に決定的な勝利をもたらしたと言われるが、
この奇策の名の「鵯越の逆落とし」という言葉が、誤解の源泉ではなかったか。
「鵯越」とは、ある特定の場所を指す言葉ではなく、三草山を経て一ノ谷に至る街道そのもので広域を指していたと思われる。
しかも街道とは言ってもこの道には、獣道のような部分もあり、案内役がなければ、戦闘行為もスムーズには進行しなかったのであろう。
したがって、そこに道案内として、地元の猟師というよりも、地元の豪族である鷲尾氏が、地理になれた息子を義経軍に付けたというべきではないだろうか。
そして「鵯越の逆落し」というと、イメージ的に鵯越から、真っ逆さまに、平家軍に攻撃を掛けたように聞こえるが、そうではない。
厳密に言えば、「鵯越の街道から一ノ谷の平家の搦め手の柵に逆落としの奇襲を掛けた」ということになるのではないだろうか。
その事情を知らぬ読者は、どうしても「鵯越とはどこだ?」ということになり、
逆落としを掛けた現場から、かなりかけ離れた場所に、その名を残す場所があることから、
大きな誤解が生じたままに来てしまったというのが正直なところではないだろうか。
言葉の発するイメージとは、怖ろしいものである。
62 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:31:29
義経にとっては初陣(宇治川の戦い)である。
歴史的にみれば、義仲が没落して、歴史の表舞台に義経が登場するという象徴的な場面である。
義経という人物は、義経記の六韜三略を習得したというエピソードが示すように、古今の軍略書に造詣の深い人物であった。
義経は、性格的にある種の偏執狂(現代風に言えば軍事オタクか?)であり、当時で考えられ得る軍略書を何とか手に入れ、
あるいは所有者に頼み込んで書写したりしていたと想像される。
その伝承が、転じて、義経記における「鬼一法眼伝説」になった可能性が高い。
63 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:32:53
義経は、奥州に下ってからも、平家を打倒する方法を取得するために、兵法の修行に人生のすべてを費やしていたと思われる。
その奥州で、義経は、都ではめったにお目にかかれない多くの駿馬に遭遇したはずだ。
都では、せいぜい一頭や二頭のところ、眼前に100頭や千頭の駿馬が奥州の山河を疾風のように駈けまわっているのである。
奥州平泉の栗駒山周辺や佐藤氏の拠点信夫庄周辺(福島飯坂)には、義経が軍事訓練を行ったという伝承や地名などが残っている。
64 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:38:15
> 事実誤認をあれこれ指摘するのも余計なお世話という気がします。様々な学説は
> あって当然の事で、例え自分と正反対の説であろうが、その説の論拠を考えるのが
> 「知的」な姿勢であろうと思います。
論拠を考えれば事実誤認をあれこれ指摘するのは当然なんだが。
そもそも事実誤認に基づいた説が叩かれるのは、知的な姿勢をとるなら当然のことだろ。
それを余計なお世話とはw
なんか、勘違いしてない?
65 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:40:08
一の谷の合戦での両軍の兵力数ははっきりしないが、戦前の予想では、平家が優勢とみられていたようだ。
簡単に両軍の位置関係を説明しておく。(異説もあるが、とりあえず通説を示そう。)
平家の陣地は、現在の地名でいうと、東は生田川から、三宮、元町、神戸、兵庫、さらに西へと広がっている。
平家陣の東側は生田川を境とし、川をはさんで源氏軍本隊と対峙していた。
平家側は、平知盛が守り、源氏の大手軍は源範頼が大将であった。
平家陣の北側は険しい山々が連なる天然の要害である。
この山中を抜け、海に向かって降りてくる途中の道が、有名な鵯越である。
鵯越は藍那から南東に連なる七キロの尾根道の総称で、鵯越の南端は兵庫北山手の夢野に出る。
ここは平教経が守っていた。
平家陣の南側は海である。
ここは、現在の神戸港・兵庫港から和田岬に至るあたりだ。
平家の水軍は強力で、源氏の水軍を圧倒していた。
平家の水軍が停泊していたのは、現在の兵庫をやや南東に行ったあたり(現在の神戸市兵庫区)で、当時は大輪田泊と呼ばれていた。
この港は、古来より天然の良港として知られている。
清盛はこの港に目をつけ、外国貿易を行った。
清盛は港の改良工事をするために、大輪田泊近くの塩槌山を半分削り取り、その土砂を利用したという。
その結果、このあたりの地形や、川(昔の湊川)の流れは、その後大きく変わっている。
西の境は、須磨の一の谷よりさらに西に行った所にある西ヶ鼻と呼ばれる所だ。
通説では、ここに西木戸があったとされる。
通説の一の谷城には、平行盛が詰めていた。
平家の本陣がどこにあったのか、はっきりした記録はない。
通説では、西須磨から西方の台地にかけてとされているが、戦略的に考えれば、福原から大輪田泊近くのどこかの方が、私には妥当に思える。
通説は、大手軍から離れ過ぎているように思われる。
もっとも、一門統率の重責を担う総大将平宗盛は、二月四日に亡父清盛の仏事のために船から下りずに、大輪田の海辺を廻っていたというから、船中にあったままで一の谷の合戦を迎えたらしい。
66 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:43:29
『吾妻鏡』では、義経が鵯越から攻め下ったと書かれている。
しかし、この位置に関して問題があるのだ。
通説では、義経の逆落としは鵯越の本道ではなく、須磨一の谷に近い鉄拐山の東南の崖で行われたとされている。
須磨一の谷と鵯越は、直線距離で八キロ、道をたどれば十キロの道程にある。
通説にしたがえば、義経は平家の中央真裏にあたる鵯越から迂回して、八キロ離れた平家陣の西側面をついたことになる。
夢野には猛将平教経が待ち受けていたため、義経はそれを避け、西部戦線に迂回したというのである。
この通説に対して、もう一つの代表的異説は、逆落としは鵯越で行われたと主張する。
この説では、鵯越で逆落としをかけた義経は、そのまま、まっすぐ、敵の本拠目がけて中央突破していくわけである。
義経の行動を予測するといっても、それはすでに歴史上で起きたことである。
ただ、戦闘の歴史というのは案外あいまいである。
67 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:47:05
義経の軍事的特徴は、「電撃的な奇襲騎馬攻撃」という言葉で言い尽くされる。
日本戦史において、義経ほど奇襲による騎馬戦法を得意とした武人はいなかっただろう。
しかし、義経はただの騎馬武者ではなかった。
彼は海戦においても革新的な手段を見つけている。
義経には革新を行うだけの強い動機があったのである。
まずは戦闘における義経の過激さを、屋島の合戦から見ていくことにしよう。
1185年、2月。義経は屋島の背後から、平家陣に奇襲攻撃を敢行した。
手勢はわずか150騎。
一方、屋島の平家陣の総勢力は、4、5千騎はあったらしい。
義経騎馬隊の機動力は、目を見張るものがあった。
義経は、摂津の渡部津(現在の大阪市内)から深夜(17日の午前2時ころと推定される)、恐れを知らぬ様に暴風雨をついて出航し、阿波国勝浦浜に18日午前6時頃上陸した。
当時、3日はかかるとされた行程――現在の定期航路でもあ5時間かかるところ――を、30時間で強行突破したのである。
それでも、ここから屋島まではまだ60キロもある。
勝浦に着くやいないや、義経は平家陣営に味方する桜庭氏を簡単に撃退し、後顧の憂いを絶った。
これが18日の午後のことである。
その後、義経軍は夜間をついて大阪越という難路を通り、讃岐に入った。
翌日の午前4時には引田に到着し、休息した後、午前8時頃に屋島内裏の対岸に到着した。
四国上陸から、この間約26時間であった。
当時としては、たいへんな機動力であろう。
屋島に到着すると、義経は背後の牟礼と高松の民家に火を放った。
大軍を装い、寡兵であることを悟られないようにしたのである。
そして、猛火の海を背に、浅瀬を渡り、屋島に突進していった。
平氏の居城は、もっぱら海上からの攻撃を予想して構築されていた。
平氏はおそらく、屋島の沿海に船をつらねて、防備を固めていたのだろう。
ところが、ふいに背後から襲われたうえ、高松・牟礼に火の手があがるのを見た平家軍は、源氏の大軍がやってきたと慌て、屋島の陣地を捨て、海上に浮かぶ船に乗り移ってしまったのである。
68 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:50:04
>>64 >論拠を考えれば事実誤認をあれこれ指摘するのは当然なんだが。
>それを余計なお世話とはw
>なんか、勘違いしてない?
何をどう勘違いしていると思ってるの?
あなたの意図を詳しく知りたいから、具体的に説明して。
69 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:52:37
通常、騎馬隊は敗走する敵兵を追討するときに使われる。
これは速度が効果を発揮するからだ。
また、混乱した敵陣に突入して敵をけ散らし、敵陣を分断するために用いられることもある。
これは、甲斐の武田騎馬軍団が得意とする戦法だった。
しかし、それ以外の局面では、騎兵というのはあまり用いられない。
というのも、騎兵には大きな弱点があるからだ。
馬というのはたいへん臆病な生き物で、柵や溝があると止まってしまい、先に進まないのである。
また大きな音にも弱い。
したがって、事前に敵に攻撃意図が漏れ、対策が準備されていると脆いところがある。
そこで、義経は敵が前もって準備できないように、いくつも仕掛けを用意していた。
これらは義経が常にとる戦術であった。
一つは、隠密行動である。
そして、義経は自分のダミーを作って、自分の存在と攻撃意図を敵に悟られないようにした。
また、敵が気づく前に、驚異的な速度で戦場に到達するのも特徴であった。
義経の機動力は、当時としては群を抜いていたようだ。
さらに、寡兵を悟られぬよう火をかけ、敵の目をあざむくのも義経の常道であった。
敵の予想しない所に突然出現し、敵に反撃の余裕を与えずに、一気に敵陣の中枢を目指して敵を攪乱させる。
さらに、そのために偽騙を用いる――これが義経の騎馬戦法の特色といえるだろう。
屋島での義経騎馬隊は、平家側兵士の数の三十分の一にも満たなかったようだが、
偽騙が効果を発揮し、平家陣の背後から急所を奇襲することができた。
この作戦は心理的効果抜群であった。
平家軍は恐怖で混乱し、壊滅的打撃を受けた。
義経の奇襲戦法は、現代の我々からすれば、奇襲のセオリーどおりであり、とりたてて変わったところがあるように見えないが、
当時としては画期的な戦法であった。
すずきまさや?
71 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 01:05:38
義経の騎馬作戦のいったいどこが革新なのかは、もう少し後で説明するとして、屋島の合戦のあとの壇ノ浦の海戦について簡単に触れておこう。
ここでも、義経は当時としては革新的な戦法を採用している。
この海戦では、伊予の河野氏がおおいに活躍した。
日本の水軍、特に瀬戸内海の水軍は古来より有名であったが、伊予の豪族、河野氏はその一つである。
ちなみに、元寇のおりには、河野通有が率いる伊予水軍がおおいに活躍している。
また、日露戦争で日本海海戦の作戦を立案し、日本を勝利に導いた連合艦隊参謀の秋山真之は、河野氏の出である。
源平のころになると、河野氏らの伊予の水軍は、すでに瀬戸内海に制海権をもっていたから、源平ともに彼らを引き入れようと腐心した。
当初、伊予水軍は平家方に属していたが、のちに源氏に寝返った。
そのため、壇ノ浦では制海権が源氏に移り、源氏勝利を導いたと言われている。
壇ノ浦の海戦はこんなふうであった。
源氏軍は潮流が変わるまで平家軍の攻撃にじっと耐え、流れが変わると一気に潮にのり、平家を攻めた。
このとき、義経は、平家方の無防備な水手、梶取りを狙って射殺した。
ついで、義経は平家の御座船を集中して攻めた。
梶取りを失って漂う平家方の船は、混乱する陣形の中で御座船を守って戦わねばならなかった。
勝負は明らかであった。
水手や梶取りは楯や鎧のない非戦闘員、技能職人であるから、それまでの海戦では、彼らを攻撃することはなかった。
しかし、義経は当時の常識を打ち破ったのである。
義経の工夫は、河野通信の言葉がヒントになったらしい。
通信は義経に「水手、梶取りのない舟は木くずにすぎない」と言ったのである。
義経の戦い方は、“真っ当”な武士からは、「掟破りだ」と苦情が出そうだ。
しかし、あえてそういう常識を破って戦うところに、義経の何かを期する心がうかがえる。
戦争はしょせん奇麗事ではない。
これからのち、水軍の戦いでは、真っ先に梶取りが狙われるようになった。
72 :
4:2006/06/26(月) 01:07:47
義経の騎馬戦法は当時としては画期的であった。
しかし、いったいどこがそんなに画期的なのか、現代の我々にとって、当時の戦闘作法から考えなければわからないだろう。
当時は、基本的に一対一の戦いだったのである。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ、我こそは……」と、
家代々の経歴から本人の履歴まで読み上げ、お互い名乗りをあげ、そのあと「いざ、尋常に勝負勝負」となるわけだ。
随分、悠長に思えるが、おそらく、こうすることで、誰が誰の首をとったかがはっきりするのだろう。
つまり、それによって論功が決定されうるのである。
この作法は報酬システムと、固く結びついていたわけだ。
ところが、義経の騎馬戦法は集団戦法なのである。
少数の騎馬で敵陣の中枢を背後から衝く。
そんな戦いの最中に個人の手柄争いをされたら、義経作戦は成り立たなくなってしまうのである。
義経の戦いぶりは、当時の東国武士の常識を超えていた。
また、義経についていく家来は、そういう戦闘規範を超越した武士集団だったのである。
義経は頼朝をかつぐ東国武士団にとって、最後まで異質な存在であった。
義経の戦法は圧倒的な勝利をもたらし、戦闘を革新した。
しかし、義経のあと、この戦法を採用する者はいなかった。
この時代では、まだ、従来の報酬システム以外に、公平に報償を与える仕組みが発明されなかったのではなかろうか。
そのため、蒙古が襲来したとき、日本の武士たちは蒙古の集団戦法に手ひどく痛めつけられる。
では、そのような常識破りの戦法を義経はどうして思いつくことができたのだろうか。
それを理解するには、義経の生い立ち(環境)と、義経の行動原理(個性)を考えなければなるまい。
73 :
5:2006/06/26(月) 01:10:57
義経は妾の子で、源氏一族の中では格が低い。
子供時代は浮浪者のような生活だったらしい。
したがって、武士としてのまともな教養も家庭教育も受けていない。
しかも、頼朝の挙兵にかけつけてきた義経には、家来がほとんどいなかったため、頼朝に軽く扱われた。
頼朝に認められるために、義経はどうしても戦闘で結果を出したかったのであろう。
しかし、従来の武士の闘い方では画期的な成果は出せない。
その結論が騎馬戦法であった。
そこから、私が抱く義経のイメージは、言っては悪いが、豪快な将軍というより、俊敏なゲリラ隊長といったものになる。
義経の革新性について、司馬遼太郎は次のように語っている。
「古来、多くの独創家はたいてい正規のコースを出ていない人が多い。
エジソンだってそうでしょ。エジソンがちゃんとコロンビア大学を出ていれば後年のエジソンが生まれたかどうかわかりませんよ。
そういうことが義経にも言えるんで、義経は武士学校というものは出ていないわけです。
鎌倉のエリートである梶原景時なんかと意見が合わなかったのも当然でしょうね。」
奇襲は楽な戦法ではない。
奇襲は、発見されれば、手勢が少ないから、即一貫の終わりである。
しかも、相手が無警戒で漫然としているところはめったに存在しない。
その結果、成功した奇襲というのは、相手の強い部分からほんの少し外れたところに存在するわずかなスキや盲点を、巧みについて勝ち取るものが多いのである。
そこで、奇襲を成功させるためには、周到な準備が必要になる。
しかし、それ以上に重要なのは、敵の中でも最強の部隊や最強の防御拠点のほんの少し隣にあるスキを、ひるまずに攻め込んでいく勇気である。
これには、肉を切らせて骨を断つという、尋常ならざる激しい覚悟が必要である。
奇襲を敢行する者は、死の恐怖を上回る勇気、というよりも過激さがなければならないのである。
そのような精神を保持し得る人間は、もはや後にはひけぬ、ひけばすべてを失うという、強烈な動機を抱く者以外にはないだろう。
「矢合わせ」「名乗り」、「良き敵」は敵との礼節、ルールみたいよ。
武器だめし、言葉だめしとか読んだことがある。
75 :
6:2006/06/26(月) 01:26:24
義経の過激な戦闘動機について、もう少し考えてみよう。
当時の義経の心境を慮ると、亡父の復讐のために、また、兄頼朝にその存在を重く認めさせたいために、身を捨てて果敢な作戦を立てざるを得なかったようだ。
義経の戦闘意欲は、一の谷の合戦、屋島の合戦、さらには壇ノ浦の戦ぶりでも一貫している。
とにかく、義経はなりふり構わず、平家を滅ぼそうとしているように見える。
こんな逸話がある。
義経が一の谷から京都に凱旋したときに、十六歳の美少年・敦盛や、忠度などの首を、赤い札に名を書いて槍の先に置き、京都中を引き回し、獄門にかけた。
これにはさすがの後白河法皇も平家に対して気の毒がり、長らく朝廷に仕えた平家に対してそれは遠慮してほしいと言ったという。
公家たちも、今まで高位高官にあった貴族に対して、獄門にかけたりする例はないと義経に配慮を求めた。
しかし、義経はそうしなければ父義朝の恨みは晴らせないと言って譲らず、実行してしまったのである。
義経はさわやかな人物というイメージがあるが、このあたりは、我々が抱く義経のイメージと少し違う。
義経は愛憎の感情に支配されていたと、私は思う。
画期的な騎馬による奇襲戦法誕生の背景には、義経の個人的な怨念があったとみて、まず間違いない。
義経は、平家を倒すことのみを考えていた。
しかし、その戦法は、東国武士団にとっては受けいれ難いものであった。
熊谷次郎直実のように、これを理解できない者や不満を持つ者を生んだのは想像に難くない。
東国武士団の戦闘動機は義経とは異なっていた。
彼らは義経よりずっと利益志向であった。
彼らの目的は基本的には恩賞目当てであり、しかも本音では、本領安堵、すなわち幕府に自分の領地を所有する権利を承認させることであった。
彼らは「それぞれの所領が確保できる保証がほしいのである。はるか遠方の都の近くまで遠征して、平軍と対決するような冒険は好ましくない。
西日本に多い平氏の所領を恩賞として得ても、さほどの魅力が感じられなかった」のだ。
東国武士団の規範を超えた騎馬戦法の誕生こそ、義経の過激さを最もよく表しているといえるだろう。
76 :
7:2006/06/26(月) 01:27:57
東国武士団の期待する恩賞は、いかにすれば得られたのであろうか。
もちろん、戦闘において武勲をたてることである
前にも言ったように、当時の騎馬戦は一騎打ちが常識であった。
そこで、高名な武将の首を取るほど高い恩賞が得られたのである。
ところが、奇襲攻撃中にこんな個人的な恩賞あさりをされては、義経騎馬隊の作戦は成り立たない。
義経の戦法は、従来の恩賞システム、すなわち当時の武士的規範から明らかにはみだしていたのだ。
義経の戦闘動機は東国武士団とは違っていた。
それは、第一に亡父の復讐なのである。
第二に兄に認められることなのである。
恩賞目当てではけっしてない。
恩賞目当てなら、もっと楽に“稼げる“戦闘があったはずだ。
その義経についていく者は、義経のために働くことを本懐にしている者ばかりであり、東国武士団の恩賞システムから超越した者たちだった。
その意味で、義経は初めから東国武士団や、その上に乗る頼朝とは遊離した存在であったといえるだろう。
義経の武勲は、東国武士団の規範を超越した結果得られた。
だが、義経の政治的敗北も、また同じところから発生したのである。
77 :
一の谷の合戦を推理する:2006/06/26(月) 01:29:55
一の谷の合戦は、1184年、現在の神戸を舞台に行われた。
実は、このとき、義経がどのルートを取ったかは、諸説がある。
もちろん鵯越は特定されているが、その先の義経の経路がよくわからないのである。
古来より、多くの戦争で「ストーリー」と「ヒストリー」とが混同されているが、一の谷の合戦もそのようなものらしい。
この合戦については、『平家物語』や『源平盛衰記』に様子が描写されているが、これら戦記には、史料としての確実性に難がある。
また、合戦に参加した者による記録も残っているが、これにも思い違いがよくあり、あまり当てにはできない。
この戦いがどこで行われ、どのようにして始まり、終わったかについては、はっきりわからないのが実情なのである。
義経の性格や状況に関しては、義経の屋島での戦いぶりや、壇ノ浦の海戦を取り上げ、彼の奇襲戦法の特徴について検討してきた。
そこで、この知識を踏まえて、義経の性格や彼のおかれた状況を考慮しながら、「一の谷の合戦」で義経ならどの道を通ったかを推理したいと思う。
私としては、これは、人間分析に基づく推理力の訓練のつもりである。
78 :
一の谷の合戦を推理する その2:2006/06/26(月) 01:31:07
一ノ谷合戦であるが、最近では、「義経の逆落としは現実として考えられない」とする説まで登場するなど、
否定的な見方をする研究者も現れている。
そもそも、一ノ谷合戦において、当初から大きな誤解が生じていたと推測される。
この戦さでみせた義経の奇策が、源氏方に決定的な勝利をもたらしたと言われるが、
この奇策の名の「鵯越の逆落とし」という言葉が、誤解の源泉ではなかったか。
「鵯越」とは、ある特定の場所を指す言葉ではなく、三草山を経て一ノ谷に至る街道そのもので広域を指していたと思われる。
しかも街道とは言ってもこの道には、獣道のような部分もあり、案内役がなければ、戦闘行為もスムーズには進行しなかったのであろう。
したがって、そこに道案内として、地元の猟師というよりも、地元の豪族である鷲尾氏が、地理になれた息子を義経軍に付けたというべきではないだろうか。
そして「鵯越の逆落し」というと、イメージ的に鵯越から、真っ逆さまに、平家軍に攻撃を掛けたように聞こえるが、そうではない。
厳密に言えば、「鵯越の街道から一ノ谷の平家の搦め手の柵に逆落としの奇襲を掛けた」ということになるのではないだろうか。
その事情を知らぬ読者は、どうしても「鵯越とはどこだ?」ということになり、
逆落としを掛けた現場から、かなりかけ離れた場所に、その名を残す場所があることから、
大きな誤解が生じたままに来てしまったというのが正直なところではないだろうか。
言葉の発するイメージとは、怖ろしいものである。
79 :
一の谷の合戦を推理する その3:2006/06/26(月) 01:32:56
『吾妻鏡』からから合戦の様子を引用する。
なお、現代語訳は渡辺保著『源義経』より引用した。
「早朝四時ごろ、九郎義経は、すぐれた勇士七十余騎を分け連れて、一の谷の後峯の鵯越に着いて一息いれていた。
ところが、その途中から武蔵の国の住人熊谷次郎直美・平山武者所季重らは、ひそかに抜け駆けをねらって六時ごろに一の谷の前路に廻り、海道から平家の軍を急襲した。
そして『源氏の先陣なり』と高声で名乗りを揚げた。
平家方は、それを聞いて飛騨三郎景綱・越中次郎盛次(中略)ら二十三騎が木戸口を開いて走り出で、はげしく戦った。
この戦いで直美の息子の小次郎直家は疵を受け、季重の郎従が討たれた。
そのころ大手に向かった範頼の軍勢の足利・秩父・三浦・鎌倉の面々も到着して攻めかかった。
またたく間に、源平両軍入り乱れての大激戦が始まった。
源氏の白旗と平氏の赤旗とが入り交じり、山を響かせ地を動かす大乱闘である。
それに加えて、この要害の地は、背後に岩石が高くそびえ立って馬も通れず、その間の谷は深くて人跡もない。
そのような険路を義経は三浦十郎義連以下の勇士を引き連れて、鵯越から攻め下った。(中略)
この思わざる奇襲にあって平軍は度を失って敗走した」
宗盛は作戦の指揮をとることもなく、安徳天皇や側近の安全と護衛に懸命となり、いち早く船で戦場を離脱してしまった。
残されて逃げ惑う平家の兵は、船着き場を目指して殺到した。
「あまりに多くの者が一艘の船に乗り込んだりしため、あっというまに大きな船が三艘も沈んだ。
また、身分の高い者は乗せても、雑兵どもは乗せるなとの命令があったため、
ふなべりに取りついた者は太刀や長刀で斬り払われ、海も真っ赤に染まる凄惨な状況となった」
平家側は東西の木戸口の戦いにのみ力を注ぎ、背後から攻撃されるなど思いもかけなかったため、
恐怖のどん底に突き落とされて大混乱となり、最後は壊滅状態に陥った。
戦いは午前六時に始まり、午前十時にはほぼ終わり、平家軍は壊滅した。
80 :
一の谷の合戦を推理する その4:2006/06/26(月) 01:34:41
山岳からの騎馬の出現という、意表をついた義経の奇襲作戦は絶大な効果をあげた。
敵が予想も抵抗もしないような所を超高速で攻撃し、恐怖の伝播によって敵を浮き足立たせ、
一気に殲滅してしまう義経の騎馬戦法は、日本戦史の中で特筆すべきものである。
日本戦史の中から、奇襲戦法として最も輝かしい成功を納めた合戦の一つとして一の谷の合戦をあげたとしても、反対する者はいないだろう。
この奇襲作戦を実行するために、義経はいくつもの厳しい条件を克服しなければならなかった。
最大の難関は、強力な布陣で待機している敵軍の目をくらませながら攻撃を仕掛けることだった。
そこで、義経は自分の位置を悟られないようにダミー部隊を編成して、敵を攪乱させる工夫をした。
義経は逆落としを敢行する前に、鵯越で軍を二手に分けている。
一つは、勇士七〇騎の軍で、他の一つはダミーの三千騎で、この兵は播磨路に向かわせている。
さらに、多田行綱の隊も偽装に使った形跡がある。
また、義経は敵に見つからないように、短時間のうちに崖を駈け降りることを決意した。
そのために、馬もろともに崖を下りられる馬術に練達した騎士を集めた。
さらに、この作戦には地理に詳しい案内人がどうしても必要だったが、それにも抜かりはなかった。
ところで、『吾妻鏡』では、義経が鵯越から攻め下ったと書かれているのだが、この位置に関して問題があるのだ。
実はこれについては諸説ある。
81 :
一の谷の合戦を推理する その5:2006/06/26(月) 01:56:34
義経はどこから降りてきたのか?
『吾妻鏡』では、義経が鵯越から攻め下ったと書かれている。
しかし、この位置に関して問題があるのだ。
通説では、義経の逆落としは鵯越の本道ではなく、須磨一の谷に近い鉄拐山の東南の崖で行われたとされている。
須磨一の谷と鵯越は、直線距離で八キロ、道をたどれば十キロの道程にある。
通説にしたがえば、義経は平家の中央真裏にあたる鵯越から迂回して、八キロ離れた平家陣の西側面をついたことになる。
夢野には猛将平教経が待ち受けていたため、義経はそれを避け、西部戦線に迂回したというのである。
この通説に対して、もう一つの代表的異説は、逆落としは鵯越で行われたと主張する。
この説では、鵯越で逆落としをかけた義経は、そのまま、まっすぐ、敵の本拠目がけて中央突破していくわけである。
義経の行動を予測するといっても、それはすでに歴史上で起きたことである。
ただ、戦闘の歴史というのは案外あいまいである。
82 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 02:08:48
せっかく奥州を平定した頼朝が、むかし藤原氏の産出していた黄金を手に入れることができなかったというというのは、どこに原因があるのでしょうか?
83 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 02:14:18
源義経は鵯越に約三千騎の騎馬を引き連れていったという。
ただし、最近の研究では、実際のところ三十騎程度であっただろうという説が有力になっている。
84 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 07:18:27
出展の明記されていないものは無視するのが基本
86 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:32:09
義経の戦い方は卑怯だと言われます。
ルール無視をすれば勝つのが当然だとも言われます。
正々堂々と戦うのが武士道?
義経の戦法はルール違反?
戦争はスポーツではありません。
生きるか死ぬかの戦争にフェアプレイ精神だとか、悠長なことを言ってられるでしょうか?
87 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:39:01
>>86 「この当時の合戦は一騎討ちが主流だった。両軍が対峙して大将が挨拶する。互いに矢を交わし、剛勇の武者が進み出て一騎討ちをおこなう」
・・・・このような説は信じることができるのでしょうか?
「武士道は正々堂々、フェアプレイ精神である」「合戦は一騎討ちが主流」という、俗説(迷信)が疑うことなく信じられているのではないかと思います。
合戦が一騎討ちだとしたら、一騎打ちの勝者が多い方が合戦で勝ったことになるのでしょうか?
一騎討ちの相手を求めて、武将たちは戦場を右往左往するのでしょうか?
そんなバカな戦争があるとは信じられません。
「合戦は一騎討ちが主流」という説はどこから出たのでしょう?
*「今昔物語集巻二十五 源充と平良文と合戦せる語 第三」が出所だとされています。
『今昔(いまはむかし)、東国に源充(みなもとのみつる)、平良文(たいらのよしふみ)と云二人の兵(つわもの)有けり・・・』で始まります。
源充と平良文は、二人の間でお互いを悪く告げ口する者があって、合戦におよぶことになります。
二人は口で争っていても仕方がない、と言って一騎討ちをすることになり、互いに騎馬で弓を射合うのですが、勝負がつかず、引き分けになります。
お互いの力量を認め合った二人は、その後仲良くなったという、さわやかな話です。
この話は数多くの歴史書籍に引用されています。
そのために、武士の戦いは一騎討ち、と言われ、すべての武士は二人のように正々堂々とフェアに戦ったのだと思われるようになったのでしょう。
しかし、文中に『各五六百人許の軍有り。一町計を隔て、楯を突き渡したり』とあって、
楯突戦(たてつくいくさ)であり、楯を並べて弓を射合う弓射戦で、その中で一騎討ちがおこなわれたことになっています。
当時の合戦は馬上で弓を射る武者と、それを補佐する薙刀や弓を持った徒歩の従者たちを最小単位とした戦力構成でした。
楯突戦と騎射戦という弓射戦が主流であり、一騎討ちは成り行きでおこなわれたにすぎないのです。
88 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:42:49
>>86 >>87 合戦はスポーツではありません。
どちらが生き残るか生死を賭けたものです。
夜討ち、放火、奇襲は一般的におこなわれた行為です。
ルールがどうとか言う悠長なものではないでしょう。
「我れ弓箭の道に足れり。今の世には討勝を以て君とす。何を憚らむや」(将門記)と、平将門が豪語しているように、
「力で打ち勝つ者が君主なのだ。何をはばかることがあるか」というのが本当だと思います。
「勝って生きるか、負けて死ぬか」であり、「武士の情」や「名を惜しむ」のは武士としては当然の倫理であり、
「ルール」や「フェアプレイ」とは関係がありません。
89 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 23:48:45
>>87 >>88 義経の戦いで「ルール違反」「汚いやり方」と非難されるのが、「一の谷の鵯越」の奇襲と、壇ノ浦海戦で義経が平家軍の舟の水手・梶取(かんどり・船頭)を射させたことだ。
つまり正々堂々と戦うべきなのに背後を奇襲するのがフェアではない、そして舟の水夫・梶取は非戦闘員であり、それを射るのは違反行為で、汚いと言われている。
「武士の世界では馬を射てはいけない。馬は非戦闘員であるという意識があった。だから非戦闘員である水手・梶取りを射るのは卑怯である」
合戦には紳士協定があって、義経がそれを一方的に破ったということだ。
フェアプレイの合戦ルールを当時の武士たち全員が厳守していて、義経だけがそれを破ったのなら、非難されても仕方ない。
しかし、そのようなことは絶対にあり得ない。
馬が非戦闘員だというのは馬鹿げているし、非戦闘員を殺害するのが汚いと言われるなら、軍勢が侵攻先で非戦闘員に対しておこなう乱暴狼藉、掠奪暴行はどうなのか?
騎駆けがあたりまえで、仲間はライバル。手柄のために抜け駆けし、他人の手柄を横取りする。
そのような武士たちに、義経を非難する資格があるか?
義経が水手・梶取りを射れば、平家側も同様に射返せばいいのです。
90 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 00:02:02
>>89 文献(「平家物語」「源平盛衰記」など軍記物語や天台宗座主慈円が著した「愚管抄」、鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」など)には義経の戦いが汚いと非難した形跡が見られないのです。
(私もできうる範囲で確認しました)
当時の人たちには、義経の戦い方が違反だという意識はなかったと思われます。
義経を非難するのは当時の武士たちではなく、現代人です。
特に歴史学者や研究家からの評価は低いようです。
ある日本史の書籍には「名乗りを上げて、一騎打ちをするのが合戦のルールである。それを平然と破るような、恥を知らぬ奴がなぜ人気者なのか」などと酷評されています。
武士道はフェアプレイ精神、武士の戦いは正々堂々の一騎討ちである、という誤解・俗説が疑うことなく信じられています。
「将門記」「「陸奥話記」には凄惨な戦闘が描かれています。
敗軍側の女性たちは捕らえられ、戦利品として兵士に分配されます。
時代がさかのぼって「古事記」では、倭建命の戦い方は現代人から見れば卑怯以外の何でもないですが、勇者と讃えられています。
敗れば殺されるか奴隷にされ、これまで築いた努力の成果がすべて無に帰すのです。
だまし討ちもりっぱな戦術でしょう。
戦争に美を求め、武士を美化し、ロマンを要求するのは平和ボケした現代人の甘い考えで、間違っています。
源平合戦は、常識で戦った平家と、常識にとらわれない戦いをした義経との違いが勝敗を決したということでしょう。
91 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 00:05:02
>>89 >武士の世界では馬を射てはいけない。馬は非戦闘員であるという意識があった。
>馬が非戦闘員だというのは馬鹿げているし、非戦闘員を殺害するのが汚いと言われる
「昔様ニハ馬ヲ射事ハセザリケレドモ、中比ヨリハ、先シヤ馬ノ太腹ヲ射ツレバ、ハネオトサレテカチ立ニナリ候、近代ハ、ヤウモナク押並テ組テ、中ニ落ヌレバ、太刀、腰刀ニテ勝負ハ候也」
という和田義盛の郎党藤平真光の言葉があります。
「昔は馬をわざと射ることはなかったが、最近は馬を射て、跳ね落とされて徒歩立ちになったところを太刀や腰刀で討取るようになった」
と言うのです。
また、わざと馬ごと体当たりさせて、相手の騎馬を転倒させるという技もあるそうです。
馬を射ないのは非戦闘員だからでなく、馬が貴重で大切だったからでしょう。
わざと射ないでも、狙いがそれて馬に当たることも多かったはずです。
92 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 00:10:04
普通よく言われる「義経は背が小さく、歯が出ている醜男である」というのは、大した根拠がありません。
私は、義経の両親(父は源義朝。母は美女の常盤)から考えて、
背は小さいでしょうが、色の白い美男だったと思っています。
色が白いと言っても日焼けしているでしょうけど(笑)
93 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 00:21:32
なぜ義経は衣川で死ななかったと考えられたのか?
疑問1 義経の首
第一の疑問は義経の首にある。
義経は吾妻鏡によれば旧暦四月三十日に衣川で自刃し、首は酒に浸けられて死後四十三日かかって鎌倉腰越浦に運ばれている。
当時平泉から鎌倉までは二週間あれば着くことが出来た。
泰衡も頼朝の命に従って義経を討ったのなら、一刻も早く首を送り届けたい筈なのに、遅すぎるのである。
旧暦の五、六月といえば真夏。いくら酒に浸けられたとはいえ、腐敗はかなり進む。
さらに焼き首である。恐らく義経の顔と見分けられないと考えられる。
実際に首実検した梶原景時は「これは予州(義経)の首ではない!」と不審を明らかにしたのに対し、
和田義盛が「この首は焼け首であり、生前と異なって見えるのは当然。
しかもこの首には眼中に光があり、むざむざと鎌倉に入れたら祟りが起こるだろう」と景時を制したと言われている。
結局、その首は頼朝が確かめることもなく、すぐに海に捨てられた。
このことも疑いを増大させる。
馬を射る事は、『平家物語』諸本や鎌倉時代の絵巻には普通に出て来ますね。
(『源平闘諍録』に多い気もしますが、比較した訳ではありません)
内甲や首の骨、鎧の隙間を射る前に、効率よく倒せます。
それに対して替え馬とそれに乗った郎党がいた訳ですが・・・
平重衡などは、それに逃げられている。逃げた方も非難されていますが。
95 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 02:36:45
義経は衣川で死ななかったの?
96 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:55:13
義経の首
97 :
日本@名無史さん :2006/07/02(日) 13:32:36
98 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 00:45:29
かわいそう
99 :
日本@名無史さん:
昨日の人今日は無し
今日見る人に明日はあらじ
何とも知れぬ我なれど
そうと思えば悲しけれ