1 :
日本@名無史さん:
犬将軍
2 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:34:42
谷原章介
3 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:35:31
津川雅彦
4 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 12:35:55
2げt
5 :
日本@名無史さん :2006/05/13(土) 12:42:57
名君という話もある。
1.生類憐れみの令 → 未だに人を殺せば褒められる戦国時代の価値観、気風を
人を殺せば処罰されるという価値観に変えた。
2.側用人 → 何でも合議した決定していた老中に対し「NOと言える」将軍になれた。
将軍の意向を反映した斬新な改革が出来る体制になったらしい。
6 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 13:16:41
>>1 糞スレ乱立させんなハゲ
徳川光圀って実際はどういう人物?
1 :日本@名無史さん :2006/05/13(土) 11:14:26
予について語るがよい。
森村誠一が、生類憐れみの令を「世紀の悪法」と位置づけた小説書いてたな
昔に比べて、見直されてる将軍だとは思う
8 :
1:2006/05/13(土) 20:17:47
9 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:21:59
つーか
日本史上でもトップクラスの評価を受けている吉宗が
こいつを賞賛しているという事実があるだけで只者じゃないと思うんだが
10 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:26:06
鎌倉時代から江戸初期まで武士の嗜みとして犬追物が盛んだった
犬追物とは柵の中に犬を閉じ込めて弓で射殺し、食うというもの
これを野蛮として生類憐れみの令で禁止したのが綱吉
綱吉がいなければ犬追物は現代まで存続していて犬食が日本料理の一つとして残っていたかもね
11 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 20:26:52
滅茶苦茶な日本語には見えないがどこが変かね
13 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 11:41:33
むちゃくちゃだな
14 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 13:54:07
いぬ
15 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:47:33
キチガイだったんだよ
16 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:05:37
>日本史上でもトップクラスの評価を受けている吉宗が
>こいつを賞賛しているという事実があるだけで只者じゃないと思うんだが
吉宗さんは綱吉さんがいなかったら多分将軍になれてないから
その辺は差っぴいて考えないとにんともかんとも
17 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 21:15:02
>>9 綱吉が紀伊上屋敷に来た時、本来なら将軍に会える身分ではない
部屋住みだった吉宗に、綱吉が会ってくれて形だけかもしれないが
部屋住みで終わるのは哀れだと領地をくれた恩があっただけだろ?
18 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 08:50:25
綱吉のせいで、無実の人間が何人死んだ事やら
19 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 09:35:50
まず山室恭子「黄門さまと犬公方」を読んでからカキコしようね、リアル厨房の諸君。
20 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 09:37:48
リアルキチガイだよ、爺さん諸君。
21 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 11:21:31
徳川綱吉って、家光の息子だよ。
糞スレ乱立させんなハゲ
23 :
日本@名無史さん:2006/07/13(木) 19:06:54
大樹寺の位牌から測定した、推定身長130cm強の「低身長症」という説はどうなんだろう?
事実とすれば、治世になんらかの影響があったのかな
24 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 15:56:41
綱吉は、華やかなりし元禄バブル時代の象徴的な暴君。
めちゃくちゃだけど、カリスマ性はある。
その分、反権力の対象になりやすい。
だって、お犬様騒動もそうだけど、大名家の取り潰しとか、
めちゃくちゃなやりかたで、恨んでた人多いよね。
そういう人々の胸をスカッとさせたのが、四十七士たち。
綱吉というめちゃくちゃで強大な権力に対して、命がけで
一矢報いてやったわけ。
「仮名手本忠臣蔵」っていうでしょ。
あの歌舞伎自体、反権力というか風刺だよね。反幕府なわけ。
「仮名手本」っていうのは、「いろはにほへとちりぬるを・・・」
を7文字ごとに区切って書いて、一番下のの文字を拾っていくと
「とかなくてしす」となる。つまり、「咎なくて死す」だよ。
罪もなく死んでいったという意味。
綱吉に切腹を命じられた四十七士のことだね。
26 :
日本@名無史さん:2006/08/10(木) 17:39:50
>>24 素朴な疑問ですが、
仮名手本忠臣蔵が世に出た時期と、
討ち入りがあった時では、
時代背景が随分と違うと思うんですが?
そのあたりの整合性は如何に?
27 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 20:59:41
24は26の質問に早く答えろよ!
28 :
忠臣蔵物:2006/08/11(金) 21:30:48
事件の翌元禄16年(1703年)には事件を曾我兄弟の仇討ちに設定した
『曙曽我夜討』が上演されたが、三日目に上演禁止とされている。
事件の4年後の宝永3年(1706年)には、この事件に題材をとった
近松門左衛門作の人形浄瑠璃『碁盤太平記』が竹本座にて上演され、
以降、浄瑠璃・歌舞伎の人気題材となり、数作品が作られた。
その集大成が寛延元年(1748年)8月に上演された竹田出雲・三好
松洛・並木千柳の合作の人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』である。
同じ年に歌舞伎の演目として取り入れられ大当たりした。
歌舞伎、浄瑠璃、講談で数多くの作品がつくられ、「忠臣蔵物」
と呼ばれるジャンルを形成する。
29 :
仮名手本忠臣蔵:2006/08/11(金) 21:32:04
江戸時代は江戸幕府から同時代の武家社会の事件を上演すること
は禁じられていたために、「忠臣蔵物」は近松以来、幕府を憚って、
舞台を別時代とし、登場人物を他の歴史上の人物に仮託したもの
が多い。近松作品では太平記の時代を舞台とし、登場人物の名として、
浅野内匠頭を塩冶判官(塩冶高貞)、吉良上野介を高師直に擬し、
高師直が塩冶高貞の妻に横恋慕したことを発端としており、
『仮名手本忠臣蔵』でもこれに倣っている。しかし事件がわかる
ように塩冶の「塩」は赤穂の特産品である「赤穂塩」、高師直の
「高」は吉良上野介の役職「高家」と掛けられている。
太平記に登場しない人物の名も変えられ(大石内蔵助→大星由良
之助など)、「仮名手本」はかな47文字すなわち四十七士、
「忠臣蔵」は、蔵一杯の忠臣という意味である。
30 :
徳川綱吉の弱点:2006/08/12(土) 20:25:03
徳川綱吉といえば、徳川幕府五代将軍。それよりもまず、あの史上名高い悪法
「生類憐れみの令」をたてた将軍としてあまりにも有名です。この悪法の主な
対象は犬でしたが、犬に限らず、蚊を手でたたいて殺したために死罪になった
人も出るなど、この悪法のために事は笑って済まされず、のちの将軍吉宗にも
悪法と言われるほどでした。
この悪法の理由は綱吉の干支が犬だったこと、というのが有名ですが、そもそ
もの理由は当時の江戸城にタヌキやキツネが出没し、女中たちが気味悪がって
いたので、それらの退治のために城内に犬を飼うというものでした。
さて、その綱吉にも大嫌いな動物というのがいました。「カラス」です。綱吉
が外出したときに、カラスが頭に糞をかけたからですが、それ以来カラスを目
の仇にし、捕まえて島流しにしたほどです。これが、もし犬におしっこをかけ
られたら、と考えると何とも複雑です。
31 :
「生類憐みの令」は法令の総称:2006/08/12(土) 20:30:03
「生類憐みの令」は、1つの法令ではなく、1687年から1709年の22年間にわたって出された法
令の総称です。極端な「動物愛護令」と言われていますが、捨て子の禁止や牢獄の改善など
人間に関することもあります。
さて、この法令を出したのは、5代将軍の徳川綱吉です。歴代将軍の中でも学問好きで知ら
れ、学問の奨励や福祉政策を行って名君と言われました。しかし、長男を亡くした後、後継ぎ
にめぐまれなかった彼は、僧侶の隆光(りゅうこう)の進言で「生類憐みの令」を出します。この
法令の内容は、金魚や犬の戸籍を作らせたり、鳥を撃った役人は切腹、蚊をたたきころした小
姓がクビになるなど極端なものが数多く見られ、庶民は22年間も苦しめられるのでした。
32 :
生類憐れみの令は複数のお触れ:2006/08/13(日) 17:26:13
貞享4年2月27日:魚鳥類食料禁止(鶏と亀と貝類も含む)
貞享4年4月9日:病気の馬遺棄者が遠流に処される(武蔵国村民10人)
貞享4年4月30日:持筒頭下役人が鳩に投石したため遠慮処分
貞享4年6月26日:旗本の秋田采女季品(中奥小姓秋田淡路守季久の嫡男)が吹矢で燕を撃ったため、代理として同家家臣多々越甚大夫が死罪。
元禄元年2月1日:屋号の鶴屋および鶴の紋は禁止される。
元禄元年5月29日:旗本大類久高が法令違反を理由に処罰される
元禄元年10月3日:鳥が巣を作った木を切り、武蔵国新羽村の村民が処罰される
元禄2年2月27日:病馬を捨てたとして陪臣14名・農民25名が神津島へ流罪
元禄2年10月4日:評定所の前で犬が争い、死んだため旗本坂井政直が閉門。
元禄4年10月24日:犬・猫・鼠に芸を覚えさせて見世物にすることを禁止
元禄8年5月23日:大久保・四谷に犬小屋がつくられる。住民は強制的に立ち退かされた。
元禄8年10月16日:法令違反として大阪与力はじめ11人が切腹。子は流罪。
元禄8年10月29日:中野の犬小屋が完成。16万坪。犬の食費は年間9万8千両。当然住民は強制的に立ち退き。
元禄9年8月6日:犬殺しを密告したものに賞金30両のお触れ
元禄13年7月24日:活魚の売買禁止。
33 :
類似する文化:2006/08/13(日) 17:31:08
歴史的に類似する文化がある
5世紀頃の中国の大乗仏教の偽経 『梵綱経』の第3に食肉戒があり、動物の命を絶つことを理由に、肉食を完全に禁止している。
また、殺傷を禁ずる法令も仏教の影響から7世紀後半以降見られる。
日本書紀(675年, 691年)
続日本紀(732年から794年の計11回)
日本だけでなく、同じく大乗仏教の影響が強かった朝鮮半島においても、同様の法令が発布されている
新羅: 動物殺傷禁止令(529年、711年)
百済: 殺傷禁止令(狩猟や鷹の飼育も禁止、漁民には、魚網を焼き捨てさせている)(599年)
高麗: 屠殺禁止令(968年、998年)
34 :
貨幣改鋳:2006/08/13(日) 17:39:02
新井白石が著書に中で、荻原重秀をボロクソに書いているから、
重秀の印象は概して良くない。このあたりは「文章に書いて残した者勝ち」
のような観さえある。
貨幣改鋳にあたり、重秀はこう言っている。
「金の量が問題なのではない。幕府に信用さえあれば、瓦だって貨幣と
して通用する。」
これは決して誤った認識ではない。日本の一万円札なんか、だだの紙切
れに過ぎない。
しかし、重秀の誤算が一点あった。
「幕府に信用がなかった」ことである。
35 :
綱吉の浪費:2006/08/13(日) 17:41:06
綱吉の浪費は、例えば綱吉晩年では幕府収入80万両に対し
支出は140万両という恐ろしい数字が残っています。
36 :
元禄改鋳:2006/08/13(日) 17:45:53
従来金8割銀2割だったものを金6割にして、従来の2両分を
3両としたのです。
つまり、1.5倍幕府の収入を増やしたというわけです
37 :
元禄バブル:2006/08/13(日) 17:46:59
元禄改鋳はある程度成功しました。
これは幕府権力などだけではなく、実際貨幣ニーズがあったために、
元禄改鋳の当初はスムーズに市場に受け入れられたというわけです。
一方で出目収入などにより幕府財政の破綻も防ぐことができました。
また、副産物として経済成長が(一時期)うまくいったために
「元禄バブル」とも言うべき華やかな元禄文化が花開いたわけです。
38 :
過度のインフレ:2006/08/13(日) 17:54:22
しかし、天災や綱吉の浪費を原因とする収入減のため、
その後度重なる貨幣改鋳をせざるを得なくなりました。
そのため結果として貨幣流通量が必要以上に増加したた
め貨幣価値が下がり、過度のインフレとなり、物価が高騰し、
庶民の生活を苦しめます。
犬公方という渾名は生類哀れみの令を出したからでなく
ミゼット体格の綱吉を幕閣が影で犬呼ばわりしてた。
って井沢元彦が言ってたけど信用していいの?
40 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 18:17:30
>>39 そういうことを幕閣のメンバーが言っていた、という客観的な証拠や有力な傍証があれば別だけど、
無い以上、井沢の推測ってことでいいんじゃねえの?
ただ、wiki にも書いてあったし、
>>23 にも書いてあるけど、
低身長が事実だとすれば、綱吉の治世を見つめ直すもう一つの視点ということになるわな。
41 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 18:37:03
歴代将軍で本当に頭良いやつなんていないんじゃね?
42 :
徳川将軍家十五代のカルテ:2006/08/15(火) 21:30:58
>>41 家康は頭が良い将軍ではないか
というかバカでは戦に勝って幕府を開くこと自体が不可能だし
44 :
生母が朝鮮系:2006/08/21(月) 20:23:33
四代将軍家綱が亡くなったとき、跡目がなかった。そこで実弟にあたる上州館林の
綱吉をという声もあったが、ときの大老酒井雅楽頭が綱吉を毛嫌いして、強硬に突っぱね、
「有栖川宮親王をお迎えして」とまで、これに反対した。だから延宝八年[1680]
八月二十三日付で、綱吉が五代将軍になると、
「憎っくきやつめ‥‥」と早速、大老の酒井をくびにしたが。が、それでも腹がいえ
ぬとみえ、翌年正月十五日には、今の大手町にあった酒井の屋敷すらとりあげ、これ
を綱吉は気に入りの堀田正俊に与えた。この結果、
「下馬将軍」とまであだ名され権勢をほしいままにしていた酒井も、ここに反体制と
されてしまったのである。さて‥‥
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせい
45 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 04:02:11
この人の干支って何かわかる?
46 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 09:01:34
戌
47 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 13:04:22
綱吉は、愛犬家だった。
48 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 13:09:34
おいどこまで嘘を垂れ流すんだ・・・>名前欄がタイトルのお前
綱吉は学歴が高くて、自分以外はみんなバカと思ってて、
自分に意義を唱える奴はとことんまでねじ伏せないと気が済まないような粘着質で、
社会性がなくて、ちょうど2チャンネラーのような性格だったと思う。
生母が朝鮮系ってあるけど生母って京都の八百屋の娘じゃなかったっけ?
若い頃に人相見が顔を覗き込んで「この女は天下を盗る」と言ったとか。
で晴れて息子が五代将軍になったら学のない土民の本性曝け出して
隆光みたいな胡散臭い妖僧に垂らし込まれたんだよね。
51 :
生母が済州島の出身:2006/10/03(火) 18:57:42
家光の末子上州十万石綱吉は、生母が京都の八百屋の娘の於玉とされてい
るが、当時京坂には多く住まっていた済州島の出身だというので、大老酒井忠清と水
戸光圀が反対して、京の有栖川幸仁親王を五代将軍に立てようとした。
52 :
桂昌院・綱吉=朝鮮説:2006/10/05(木) 23:30:31
桂昌院・綱吉=朝鮮説、後西院幽閉説・・・いずれも三田村鳶魚も書いている。
但し、柳沢吉里=御落胤説は、「護国女太平記」などの俗書・稗説と
片付けられない、傍証がある。
大散財で幕府を傾けた。
傍系なんだからおとなしくしてろって。
学問好きで、日本最高学府(東大の前身)を創った。
動物愛護がそのまま人命尊重に繋がる事にこの当時既に気付いていた時代の先覚者。
付いて行けずにアンチ化してレッテル貼りして誹謗中傷並べ立てる輩がわんさか出て来たのも先覚的だったのかもw
56 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 14:28:24
かもね
57 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:30:22
徳川綱吉は火病体質だった?
難波の儒学者で医者の黒川道祐の随筆『遠碧軒記』に徳川綱吉の母、桂昌院は京の酒屋の主人と使用人の高麗人(朝鮮人)との間の娘だとある。
幕府の公式記録の『徳川実記』では京の八百屋の娘で母も日本人ということになっているが・・・
もし『遠碧軒記』の記述が事実だとすると徳川5代将軍、綱吉は朝鮮系クォーターということになる。
58 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 16:51:22
前世で犬を食べたため子宝に恵まれなかった
「上様が子宝に恵まれないのは前世で動物を虐待したんでその報い、特に犬。」
という隆光の進言には綱吉が朝鮮人の血を引いてる事への偏見があったんだろうか?
60 :
音羽の護国寺を建立:2006/11/12(日) 21:31:01
酒井が綱吉に反対したのはその生母が朝鮮系だったせいだが、邪魔者がいなくなる
と将軍はまず音羽の護国寺を建立している。
私は”天朝教”
さて酒井一家の[ような]原住系は、ビニールや擬革のなかった時代には、他に代
用品とてない皮の専売をする部族を持っていて、これからの収入は莫大なものだった。
このため大老の権力の座から酒井忠清を追い払っても、彼らの潜在勢力はすこしも衰
えなかった。そこで、
(皮はぎの仕事を奪ってしまう)ということになったが、まさかそのものずばりに、
「動物の皮をはぐことの禁止」との、ふれも出せないので、1678年正月に、
「生類憐れみの令」というのを発布した。
つまり皮をとるには殺さなくてはならぬ。
それをしてはいけないというのでは、酒井一族にくっついている革屋も倒産の他は
ない。
このため、これら原住系はみな落ちぶれ、人い侮られるような極貧階級に転落した。
61 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 21:34:01
コヤツの金遣いが荒かったので幕府が傾いた。
62 :
済州島からよんだ伯父隆光:2006/11/14(火) 21:18:01
綱吉の生母は済州島からよんだ伯父隆光に大きな寺を持たせた。
そして仏経をもって国教を統一するため、邪魔になる神信心や拝
火宗の祇信心の者らを転向させようとした。
63 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 23:50:12
朝鮮人て江戸時代の頃から嫌われてたの?
日本は戦後まで犬食ってた… となりのアホを犬で批判するとろくなことにならん。
綱吉…あたまわりぃ
66 :
江戸城を朝廷と呼ばせ :2006/11/19(日) 21:33:30
元禄時代の徳川綱吉将軍の生母は、朝鮮国済州島出身の「於玉」である。
昔から日本では、大陸系出身者は昔から貴種とされていたから、
「於玉の方の子であるゆえ、よって、わしは貴の生まれである」と言い出した。
そして江戸城を朝廷と呼ばせ、己は新皇と号していた。
(これは赤穂義人纂書に書かれている)このため東下りの公卿は遠慮して、
京を出る前にひとまず「前中納言」とか
「前侍従」となって、江戸の伝奏屋敷に入ったものである。
そして使いを終えて京へ戻ると、すぐさま又前の官位に復位している。
68 :
日本@名無史さん:2006/11/30(木) 02:00:23
徳川綱吉って実際はどういう人物?
CG
69 :
誤解を招く:2006/12/02(土) 18:17:23
子供の頃江戸時代を鎖国時代と習ったが、あれは額面でどうも誤解を招く。
限定的ではあるが西洋・中国に対しては出島を通して、そして朝鮮につ
いては対馬を通して国を開いてた。朝鮮は日本より鎖国状態で、それが
近代化に遅れた理由と言う。朝鮮は事大で中国とは宗主国としての交流
はあったが、確かに出島はなかったようだ。しかし日本、徳川幕府とは
釜山を窓口としたしっかりし た交流があった。釜山には日本の領事館
と言うか韓国の迎賓館と言うか、「倭館」 が置かれていた。
はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、寝るよ。
71 :
比較的良好な関係:2006/12/02(土) 18:42:28
李氏朝鮮にとって徳川家は憎き秀吉を打倒した政権であり、
秀吉の朝鮮出兵にも家康は兵を送らなかった事もあり、
比較的良好な関係でした。
72 :
朝鮮通信使:2006/12/02(土) 21:37:54
徳川幕府は、鎖国令をしき外国文化に接する機会が乏しい状況であり、
わが国の人々は、「朝鮮通信使」の往来を通じて、海外の文化に接する
ことができました。朝鮮通信使の来訪は、まさに「文明の使者」と呼ぶ
にふさわしいもの<画像>でありました。当時の資料によりますと、
赤間関に着いた一行は、赤間神宮の前面の海岸から上陸し、 阿弥陀寺
と引接寺の両使館に別れ滞在、使節団は、往復とも赤間関に立ち寄り、
使館に入館し、長州藩の藩士・藩民から歓待を受けたとあります。
通信使の中には、優れた学者や詩人・画家などの文化人が数多くいた
ため防長の諸文士が押し寄せ、回を重ねるごとに誠真の交わりが深ま
ったと記されています。
73 :
絶対的平和主義者:2006/12/19(火) 22:22:12
徳川綱吉は、いわば絶対的平和主義者であった。彼は儒学に傾倒し、
理想的な君主の道とは何かということを追究し続けた男である。
言うまでもなく、儒学においては天下に真の泰平をもたらした君主こ
そ偉大であるとし、こういう君主は「封禅」という儀式を執り行うこ
とができることになっている。綱吉は、天下に真の泰平をもたらしたかった。
それで、その頃横行していた「傾奇者」なる無頼の輩を厳しく取り締まったが、
あまり効果がない。
──まず、世の中から殺伐の気風をなくすことだ。それでこそ千年の泰
平が得られる。
綱吉はそう考え、殺傷事件については刑をきわめて厳しくすると共に、
人間相手だけではなく、鳥獣に対する殺傷も禁じようとした。
これも儒学では、偉大な君主の恩徳は鳥獣にも及ぶということになっていて、
それを文字通り実践しようとしたらしい。こうして生まれたのがあの
「生類憐れみの令」である。これは天下の悪法として名高いが、
綱吉に悪意があったわけではない。ただ、殺伐の気風をなくすためであれば、
それに伴う庶民の多少の痛みは致し方ないとは思っていただろう。
74 :
日本@名無史さん:2006/12/21(木) 01:41:55
そうかぁ。徳川綱吉は韓国と日本の混血だったんだねぇ。
この国の歴史は朝鮮半島を抜きには考えられないんだね。
75 :
日本史君:2006/12/21(木) 18:05:28
>>42 wikiには吉宗180a位あってごつかったって書いてた気が…
>>66達に聞きたいが、徳川研究家たちは、桂昌院が韓国はガチで確定なのかな?
ドラマの大奥は相当改悪してると聞いたけど、お玉とお万の方に繋がりはなかったんかな?ドラマだとお万にくっついて来たみたくなってたが…
77 :
日本史君:2006/12/21(木) 18:25:28
史実が知りたい。 草薙のではいい人みたく描かれて、谷原はカミナリ怖い、桂昌院絶対−女&舞好きとなってるけど、共通してるのは将軍になるのが嫌だった又は消極的だったとなってるけではたして…
78 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 16:19:08
お玉が大奥で冷遇されたのは 八百屋の娘で身分が低いからだろ(そのくせに上様の寵愛をうけて)
源氏物語の桐壺と同じ
79 :
母は朝鮮の人:2006/12/24(日) 20:15:20
お玉の方は、もともと京都の八百屋にうまれ、その母は朝鮮の人という説がある。
のちに母が公家につかえる本庄家の後妻となり、六条家の姫(お万の方)
が家光の側室になるのに付いて江戸城に入ったという。
80 :
桂昌院:2006/12/24(日) 20:24:55
桂昌院というのは明が滅んで日本に流れてきた亡命中国人の子供
(ハーフだったかも)です。明が滅んだときに日本に逃げてきた人
たちは読書人階級が主。ですから、生活に困って八百屋の養女に
出されたかもしれないけれど、桂昌院というのは親から中国の教
養を授けられた才女だったのではないかと思うのです。正式には
母親が中国人で、八百屋さんの嫁に入って桂昌院を産んで、
その八百屋と親交のあった公家と母親が再婚して、その公家の家
から将軍家へ輿入れしたということになっていますが、これは桂
昌院が中国人ですぐに大奥へいれるにははばかりがあるから作ら
れた話だと思います。桂昌院はたぶん美人で頭もよかったのでし
ょう。それと中国への憧れもあって、家光も所望したのでしょう。
81 :
綱吉はクォーター:2006/12/24(日) 20:47:57
井沢元彦氏「逆説の日本史」によると、第五代将軍綱吉が、
いわゆる竹島=鬱陵島を朝鮮領と認めたことは事実です。
しかし、この場合、現在の「竹島」まで含んでいるのかどう
かが問題です。
綱吉将軍は決して暗愚ではなかったと。「生類あわれみの令」
など誤解されているということです。しかし、竹島=鬱陵島を
長く日本が単独で管理していたにもかかわらず、竹島一件で
なぜ朝鮮に譲歩したかというと、綱吉公の母・桂昌院は「日朝」
のハーフでした。綱吉はクォーターということになりますが、
朝鮮に大変親近感をもっていたことが原因ではないかと。
綱吉が儒教の信奉者であったことも相まって、朝鮮を「先進国」
と評価していたと思います。6代将軍家宣に仕え「正徳の治」
を進めたのは新井白石ですが、徳川幕府は儒学者を重用しました。
82 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 20:48:01
昭和33年の遺骨調査ではどうだったの?
83 :
目を奪われる程の美人 桂昌院:2006/12/24(日) 21:33:39
京都の[紫野・大徳寺]付近で産まれる。若い頃は町人たち誰もが、
目を奪われる程の美人だったらしい。後に母が関白二条光平の家司
である本庄資俊と再婚したため資俊の養女となる。
1639年(寛永16)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、
その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。
1646年(正保3)に綱吉を産み、1651年(慶安4)に家光が死ぬと落飾して
大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍徳川家綱の死後、
1680年(延宝8)に綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入り、権勢を振るう。
男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され、
生類憐みの令発令に関わったとされる。ちなみに綱吉の正室の鷹司信子
とは仲が悪かったらしい。 応仁の乱で一部が消失した京都の善峯寺の
再興に尽力している。
1702年には女性最高位の従一位の官位を賜り、藤原宗子という名前も賜った。
1705年に79歳で没する。
84 :
日本史君:2006/12/26(火) 13:49:52
85 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 02:35:15
綱吉好き
水戸老公が犬の皮を献上
87 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 14:49:00
桂昌院や綱吉が朝鮮の血統?・・・八切止夫の俗説。
いろんなスレに貼り付けているようだが、いい加減飽きた。
88 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 16:36:37
>>44 酒井忠清が宮将軍擁立を考えたのは、当時家綱の子を側妾おまるが身ごもっていたため。
忠清が大老を罷免されたのは、綱吉継統の延宝8年8月ではなく、10月におまるが流産し、
11月に綱吉の嫡男徳松が西の丸入りした後の12月のこと。
史実に従って論評しようね。
>>57 『遠碧軒記』の中で黒川道祐は、
桂昌院の母が朝鮮人だと断定していないでしょう。
89 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 16:54:09
新井白石って偽善者?
あんまり「折りたく柴の記」をそのまま信じない方がいいよ。
90 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 01:03:01
15年ぐらい前に「江戸城大乱」って、五代将軍の座をめぐる暗闘を描いた映画があったけど、
圧巻は、酒井忠清が綱吉を葬ろうとした理由は、綱吉が忠清自身と桂昌院の間の不倫の子で、
徳川の血統が絶えるから将軍にはさせられぬ・・・ってもの。
荒唐無稽だけど、綱重の八王子宿での怪死、家綱の遺児の流産、尾張光貞と酒井忠清の関係、
忠清と堀田正俊の板ばさみになる稲葉正則等々・・・結構下地になる考証はしっかりされていて
見ごたえあったな。
>>90 光貞は紀州だろ吉宗の親父だし
尾張藩主は光友じゃ
92 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 14:16:09
綱吉といえば、なんたって柳沢吉保。
ネコかタチかは知らないけど寵童上がりといわれるこの人、主君が一番困ったお世継ぎ問題で
どういう態度を取ったんだろう?あんまりはっきりしないような?
93 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 15:50:16
身長124センチ
マザコン
けど生類憐れみの令で当時頻繁だった
生き物を殺す事、が激減したのは事実
ただのうつけか天才か、どっちだろう
94 :
間部越前守詮房:2007/01/03(水) 15:58:58
ではご説明しよう。吉保は綱吉が自身の子をあきらめた頃から、紀州中納言綱教と鶴姫に子が産まれることを第一に考え、紀州から六代を迎えようとしたが、綱教、鶴姫が相次いで死去すると、
甲府宰相綱豊を六代にし、元々不仲だった綱吉と甲府宰相綱豊の周旋に尽力し、やがて綱豊西城入を果たす。
吉保としては綱豊擁立の功績をもって、新政権でも何らかの形で閣内に留まろうとしたわけだが……
すでに家宣と名を改め、大納言になっていた綱豊から
「現職の側用人、老中格が、髷を絶ったためしはない。先代様御葬儀が済み次第、隠居を願い出、剃髪するがよかろう」
といわれ、吉保の目論見は完全に封殺されることになった
95 :
柳沢吉保:2007/01/03(水) 16:11:18
ではご説明しよう
綱吉ってハッキリ言って頭がイタイんだよね
よく俺が切れ者っていうけどただの凡庸なんだよんね
ハイハイ言ってただけで幕末まで大和郡山十五万石なんだよね
笑っちゃうね 君もそこにいるべきだった
96 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 20:14:54
綱吉が子供並のチビだったっていうのは嘘くさい。
大樹寺の歴代将軍の等身大の位牌が根拠っていうけど、実際に他の将軍の位牌と
増上寺の墓地から出土した将軍たちの遺体を比較しても、そんなに一致してない。
大方、綱吉を貶めるための俗説だと思う。
それより徳川宗家に伝わる歴代の肖像画に綱吉だけないのが不思議だ。
なぜか宗家になくて、尾張の徳川美術館にあるってのも不思議。
97 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 20:38:21
吉保は川越7万石から甲斐・駿河23万石、のち駿河の所領を返上して甲府33万石を領したが、吉宗時代になって郡山に左遷
98 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 21:22:26
あのムラッ気のある綱吉に、その死まで仕えきっただけでもスゴイ。
綱吉に登用された側用人は何人もいるけど、長年勤め上げたのは、
吉保とその娘婿の松平輝貞のみ。
99 :
犬料理:2007/01/03(水) 22:08:42
悪名高い生類憐れみの令は、今日もなお、我々の生活をはっきりと
拘束しているのです。それが一番よく判るのが犬料理です。
ご存じの方も多いと思いますが、お隣の韓国では犬料理を珍重します。
実は、我が国でも江戸初期までは犬料理はごく普通のものでした。
日本人が犬を食べなくなるのは、生類憐れみの令によって新たに生ま
れた習慣なのです。江戸時代も、少し後になると、食い物がなければ
犬を食え、と言われたと怒って、農民が一揆を起こしたりします。
今日でも、日本人で、犬を食べたいと思う人はまずいないでしょうし、
韓国に行って犬を食べろと言われれば、かなりの度胸を必要とすること
と思います。
100 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 22:20:57
南部直政、喜多見重政、山内豊明…綱吉に放逐された側衆は少なくない
101 :
綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名:2007/01/03(水) 22:23:02
綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名は、実に46家で、関ヶ原の合戦の後の大量処分を別格とすれば、一代での処分件数としては、家康や秀忠を抜いて、歴代第1位の記録です。
当時の大名家は全部で二百数十家ですから、5〜6家に1家の割で、綱吉に処分された計算です。
ちなみに、吉宗は、かなり強力な将軍であった、と一般に思われています。
しかし、その吉宗でさえも、綱吉とほぼ同じ将軍在位期間中における処分件数は、わずか12家に過ぎません。
102 :
綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名:2007/01/03(水) 22:25:11
しかも、綱吉による処分の内訳を見ますと、秀忠や家光の時代で改易理由のエースだった後継者の不存在は、わずか5件に過ぎません。
その外に、当主が刃傷事件を起こしたための改易が赤穂藩主浅野長矩など3家あります。
おそらくこの8家は、外の時代でも改易等の処分は免れないでしょう。
しかし、残り38家は、将軍が綱吉でなかったら、まず処罰されるには至らなかったような、軽微な理由から処分されているのです。
代表的なものをあげると、お家騒動が起きたりしたために、藩政不良といわれて処分されたり、その宗家に連座して処分されたのが、徳川一門の越後松平家を筆頭に13家もあって、一番多い処罰理由です。
特に越後松平家を改易にした越後騒動は、綱吉が、直々に裁判を行ったということで、非常に有名になったものです。
103 :
綱吉時代に改易・減封の処分を受けた大名:2007/01/03(水) 22:26:21
先に代官粛正のトップに関東郡代に対する処罰を行ったことを紹介しましたが、越後松平家に対する処罰も、大名処罰に聖域なし、という象徴として、一連の処罰の冒頭に実施されたのです。
次に多い処罰理由が、当主が幕府の役職に就いていて、あるいは就くのを拒んで、綱吉の不興を被ったという、文字どおり綱吉の気分によって処分されたというもので、10家あります。
その中には老中板倉重種や側用人喜多見重政までが含まれています。
これも、彼の将軍集権という政治姿勢を端的に示すものでしょう。
104 :
当主の発狂:2007/01/03(水) 22:27:36
驚いたことに、当主の発狂という理由が何と9家もあります。
精神医学が発達していなかった当時において、発狂というのがどのような状態を意味しているのかは判りません。
仮に当主が今日的な意味でのれっきとした精神病者であったとしても、正常な後継者がいる限り、代替わりをさせれば済むことであって、処分理由になるとは、とても思われません。
やはり単なる難癖程度のものも多かったのではないかと思われます。
105 :
譜代に厳しいものになっている:2007/01/03(水) 22:28:46
秀忠、家光時代の大名処分が、外様大名を中心に行われたものであるのに対して、綱吉時代の処分は、譜代29家、外様17家となっていて、圧倒的に譜代に厳しいものになっている点にも、大きな特徴があります。
「狡兎死して走狗煮らる」ということわざがありますが、幕府も安定期を迎えたことにより、外様の危険よりも、体制内部にあって直接将軍の権威と競合する門閥勢力の方が問題となる時代となっていたのです。
そして、その問題に真っ向から取り組んだのが綱吉だったといえます。
106 :
中興の祖:2007/01/03(水) 22:35:54
財政分野に関する限り、綱吉は不退転の決意で、幕府財政基盤強化のために、将軍在位期間を通じて努力したといえます。
その結果、綱吉という人は、大名にとって、あるいは旗本・御家人にとって、さらに一般庶民にとって、疫病神以外の何者でもなかった、といえるでしょう。
しかし、徳川家にとっては、まさに中興の祖というべき存在です。
もし、この時期に綱吉が登場して、一手に憎まれ役を引き受けてくれなかったならば、徳川家は、財政基盤を整備することもできず、人材を登用するすべも知らないままに、ずるずると衰弱していったと思われます。
107 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:41:42
あのさ、甲斐先生の随筆をコピペすんのやめてくんない?
108 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:47:12
大名の無嗣断絶が4代家綱以降減ったのは、
由比正雪の乱を教訓にして末期養子が解禁されたから。
越後騒動の処分は、酒井忠清へのあてつけっぽいし、
板倉重種は忠清の腰巾着だったから老中を罷免されただけで、別に断絶になってないし。
むしろ譜代の門閥は比較的大事にした。
老中の多くは家綱時代の老中の息子(大久保、土屋、阿部、稲葉ら)
酒井忠清の息子さえ、のちに幕閣に登用している。
あと水戸家が将軍家を継げない、というのは根拠無しの俗説です。
109 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 23:53:02
>>107 この人は八切止夫のコピペでも有名ですよ。
110 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:37:35
>>100 側衆と側用人とは全然違います。
あなたの挙げた人物は、すべて側用人。
111 :
日本@名無史さん:2007/01/08(月) 00:31:36
綱吉 「私は本当は犬なのではないかと思うのです。」
桂昌院 「いつからそんな馬鹿なことを考えるようになったのです?」
綱吉 「子犬の頃からです。」
112 :
長子相続:2007/01/16(火) 20:31:38
館林に居た綱吉は紀伊家、尾張家を差し置いて将軍家を継ぐ事が出来たのですか?
“将軍の弟”では家康公の意に反するのでは?
113 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:44:41
将軍のマタイトコよりは、はるかに血が濃いと思うが。
114 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:01:25
>“将軍の弟”では家康公の意に反するのでは?
その論でいけば次代の綱豊は”現将軍の兄の子 前将軍の弟の子”
でしかない
115 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 21:08:08
>>112 なし崩し?有能な人物が必要だった...
116 :
大久保相模守忠増:2007/01/16(火) 22:08:15
綱吉時代は外様よりも譜代旗本に対する処罰が多かった
綱吉ははじめて傍系から将軍を継いだ人物。既成の権威に胡座をかく譜代旗本はいろいろな意味で鉄槌を加えたい存在だったろう
117 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 22:08:42
118 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 16:45:07
徳松が無事に成長したら生類憐れみの令も出なかったと思う
119 :
松平紀伊守信庸:2007/01/18(木) 17:09:42
いや、どの道桂昌院に吹き込まれて犬以外の保護をやっただろうな
120 :
戸田山城守忠真:2007/01/18(木) 20:49:06
生類憐みの令は廃止が妥当
121 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 16:07:49
>>116 幕府の権威も安定し、外様潰しが喫緊の課題でなくなったからな。
幕政に参加する機会の多い譜代の方が、政治責任を問われたり、
政争や事件に巻き込まれたりして、結果的に処分が増えただけ。
「既成の権威に胡座をかく譜代」に「鉄槌を加えたい」と綱吉が
思っていたのなら、それこそ譜代の名門や重鎮を相手にしただろう。
だが、前にも出ていたが、老中のほとんどは先代からの世襲に任せ、
アンチ柳沢といわれた井伊直該を大老にしたり、家綱後継問題の際、
綱吉を忌避した酒井忠清の息子忠挙や稲葉正則の息子正往を幕閣に登用したりして、
あきらかに譜代の門閥を重んじている。
122 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:07:46
綱吉と言うと「将軍独裁」とか言われているけど、
やはり肝心な部分は老中を中心にした集団合議体制と幕閣に名を
連ねている譜代緒家の意見を尊重していた訳ね。
123 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:12:49
終生男好きだった
124 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 21:43:47
彼はバイだ。
125 :
日本@名無史さん:2007/01/19(金) 23:10:03
>>122 綱吉の頃は朝廷の太政官にも劣らない、官僚組織ができていて
それで幕政が動いていたからな。将軍もその組織の一機関にすぎなく
なってしまったってことだろう。
宇多天皇の時の藤原基経みたいに老中たちが出仕を拒んだら、将軍
1人では何もできなくなるぐらい、組織が大きくなってしまった。
126 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:38:21
譜代の門閥を重視したといっても、
「遇して、敬わず」みたいなところはあったかもな。
将軍の諮問機関でもあった井伊、酒井、会津松平、讃岐松平など譜代重鎮の溜間詰衆や
老中・若年寄は、通常、柳沢吉保ら側用人を介してしか綱吉に献策できなかった。
それに、綱吉が信賞必罰主義だったことから、幕閣や諸侯に恐れられていたのも確か。
127 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:42:29
実際、井伊直該はお飾りの大老職に不満で、2年9ヶ月で辞任している。
128 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 21:44:59
「大奥」なんかでは、たいそうな女好きに描かれているが、
綱吉は長じてからも、衆道にお盛んだったようだよ。
「桐の間御殿」というお稚児さん専用の屋敷まで作って・・・って南條範夫の創作と
思っていたら、ちゃんと桐間番衆って役職まであって、実際大名旗本や公家の子弟の
カッコ可愛いのを抱え込んでいたらしい。
129 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 18:48:09
>>118 そして徳松は将軍になって「家武」と名乗った(これは妄想)場合
綱豊 甲府藩主のまま
清武の子清方が若死にしてなかったら甲府徳川は5代までは
@綱重ーA綱豊ーB綱武(家継)
@綱重ーC清武ーD清方
と推移してたと思う
そういえば家宣が将軍になった時点で甲府徳川は潰れたけど
清武に藩主を譲ればいいと思うのは漏れだけか
130 :
日本@名無史さん:2007/01/24(水) 18:57:44
甲府は家宣と入れ替わりに柳沢吉保が入封したから、しょうがない。
それでも、他に将軍の実弟にふさわしい処遇の方法があったと思うのに、
一介の譜代大名並みの扱いで館林に入封というのは冷遇だよな。
隠し子で、いったん家臣の養子に出されたのは、会津の保科正之も同様だが、
こちらは山形→会津と大封を得ている。
名君とか君子といわれるわりに、家宣は肉親への情が薄かったのかもな。
131 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:29:37
冷遇というより当然の扱いだね。
将軍の弟づらしてシャシャリ出られたら、自分の嫡流が脅かされる。
まして自身は病弱。家継は幼少で、とても成長は見届けられないしさ。
もともと甲府時代からの因縁からすれば、仲が悪かったとしても不思議はないし。
132 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:52:04
病弱というわりには、けっこう子供作ってるけどな。
まあ、みんな夭折したけど。
133 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:53:12
>>130 家宣は家光と違い生まれながらの将軍ではないし、徳川光圀の
後押しによって将軍継嗣になれたのだから、御三家や譜代のてまえ
将軍宣下と共に肉親を優遇することは難しいだろう。
家宣がこの先5年10年と将軍でいたのなら清武を保科同様に
大封したかもしれない。
将軍在位3年間では無理だよ。
自分が死ぬと悟った時も子である鍋松より尾張を後見にしよと
したし。家宣は情より理を優先した名君だと思うよ。
134 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 00:55:59
綱吉のイメージといったら
「犬、ドチビ、マザコン、津川雅彦」俺はこれしかない。
135 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:02:11
>>130 むしろ家宣が将軍に就任して3年以内に譜代扱いで館林に入れたこと自体、
かなりの温情だと思うが?
家康秀忠家光の幕府創成期と違いこの時代は将軍と言えども弟を簡単に
取り立てたり、大名にしたりするのは容易ではない。
特に外からやってきた家宣は御三家や幕臣にある程度の遠慮もある
だろうし。
136 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 01:43:46
そういえば大名や幕臣にも反甲府派は少なくなかった
137 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 02:16:48
越智松平家は清武のあと、時期によって譜代扱いになったり親藩扱いになったり、
家格が不安定なのはどういうことなんだろう?
武元が老中になったり、武厚が寺社奉行になってるのは、譜代扱いだったからだが、
武厚が家斉の息子を養子にもらうと親藩扱いに昇格している。
大河ドラマの八代将軍吉宗では天英院(家宣正室)が
八代将軍の候補に清武を推していたが水戸綱條は
「論外だ!」みたいなこと言ってたな。
139 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 17:34:15
>>133 尾張は吉通
もし吉通が後見になってたら
8代は吉宗でも継友でもなく当然のごとくみたく吉通だろうな
140 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:00:57
つーか吉通は家宣の後を追うように死んでいるから将軍にはならない
子の五郎太も家継より先に死ぬので結局叔父の継友が尾張になり
ここで吉宗と争い敗れて尾張からは将軍出ず
141 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 18:08:03
継友が将軍になり
さらに反倹約の宗春(将軍になって「家友」*妄想)が9代になったら
吉宗は「家友」から冷遇されてたと思う
142 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 21:34:47
綱吉を「秦皇(始皇帝)・漢武(漢の武帝)のごとし」と評したのって誰だっけ?
賛否は別にして、生類憐みの令だって「社会の殺伐とした気風を変える」というビジョンに基づいてた訳だし、
小判の改鋳だって「通貨流通量を増やす」という経済政策として行ったわけでしょう?
政治が厳しかったand極端に走った面があっても、暗君とは言えないんじゃないかな。
143 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 18:47:35
甲府綱豊が綱吉の後継者に選ばれたことに、水戸光圀は関係していない。
推した事は事実だが、すでに元禄13年に他界しているうえ、
その頃、綱豊は病気がちで、むしろ紀伊綱教の方が有力だった。
綱豊は唐突に将軍を継いだのではなく、宝永元年に綱吉の養子として西の丸に
入って以来、5年間の助走期間があり、この間に綱吉→家宣の微妙な勢力の移動もあって、
将軍就任時には、周囲に遠慮する立場にはなかった。
何より、養子と決まった当時、綱吉・吉宗のように、御三家を含め他にライバルがいなかったし、
誰かのお陰で選ばれたという状況にもなかった。
やはり外から入った綱吉が施政の冒頭、有力親藩の越後松平光長を改易処分にしたように、
やる気さえあれば、清武を厚遇するのは可能。
144 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:50:50
清武って家宣に比べて日陰の人生だよな。
側室から生まれた同母兄弟で、家臣の養子に出されたという点では同じ境遇なのに、
そのあとで明暗がクッキリ。
兄は認知されて親藩の甲府藩主→将軍の養子として西の丸入り→6代将軍
弟は家臣の子のまま、甲府藩の一家臣→寄合旗本→譜代の小藩主→将軍候補にもなれず
吉宣→清宣→清武というイミナの変遷も、その微妙な立場をよく表してるな。
甲府家の一家臣として吉宣と名乗るも、5代綱吉の即位で吉の字を遠慮して清宣と改名、
さらに兄が西の丸入りして家宣と名乗ると宣の字を遠慮して清武と改名・・・
145 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 20:59:30
>>143 関係あるだろ。
光圀が推さなかったらとっくの昔に綱教が養子になっていた可能性大。
光圀死後も影響があった。
それに吉宗でさえ、将軍就任時は天英院はもちろん、老中たちに気を
つかっていたのに。
家斉も最初はほとんど何もできなかった。
146 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:03:33
>>143 改易と肉親取立ては全然違うだろ?
やる気があれば厚遇できるのなら、徳川家斉は何で実父を
大御所にできなかったんだ?
147 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:06:38
御三卿の当主にすぎない人物を大御所にして西の丸に迎えるのと、
実弟をそれなりの親藩に取り立てるのは、別の次元の問題だと思うが・・・
148 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:09:55
まあ、清武に対する処遇は冷遇の嫌いはある。実質、譜代大名だもんな。
御三家なみの大封が無理でも、しかるべき親藩に養子に入れるなり、
のちの御三卿なみの官位や家格を与えるくらいのことはできたろうに。
149 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:20:21
>>148 家宣があと5年生きていたらやっていたと思うよ。
外から来た将軍がまずやるのは自分の地盤つくり。
>>147 取立てと改易を一緒にするよりはましだと思うが。
と言うか肉親を厚遇する将軍より庶民の意をくむ将軍の方が
よっぽど名君だと思うけどな。
150 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:27:02
家宣は綱吉の反面教師的なことがあるから、思いつきや好き嫌いで
人事権を行使した綱吉みたいなことをしないとでも思っていた
のでは?
それに上にあるように将軍在位が短すぎるよ。
将軍がある程度、自由にできるようになるには周りが自分が
任命した幕臣になるまで待たねばならないと思う。
151 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 21:48:30
人呼んで 哀れん坊将軍
152 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:04:12
幕閣、大奥、御三家、そして何より綱吉自身に対して、光圀の影響力は
ほとんどなかった。
足元の水戸藩自体が綱條以下、将軍家に露骨に反発してみせる光圀をもてあましていたし、
その後長く続く水戸藩党争の芽は、光圀時代に芽生えたといわれるぐらい。
水戸光圀在世中に将軍継嗣が決められなかったのは、甲府綱豊、紀伊綱教以外にも、
家光の娘千代姫の実子、尾張綱誠がまだ存命中だったうえ、当時五十代前半でなお房事
盛んな綱吉自身が男子の誕生を諦めていなかったから。
153 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:06:34
将軍宣下後、1年も経ずに前将軍時代の裁決を覆してまで、
親藩の大藩を取り潰すほどの権力を持っていた者が、
身内を取り立てられないはずはなかろう。両者が「全然違う」という論拠が知りたいな。
まあ、あえていえば堀田正俊の存在があろうが、綱吉、吉宗と違って、
家宣が養子と決まった宝永元年12月当時、彼以外に後継者は見当たらなかったので、
綱吉にとっての堀田正俊、吉宗にとっての天英院だか月光院
(実際、どっちが吉宗を推したのか真相は不明)や水戸綱條、門閥派の老中たちなど、
遠慮しなけりゃならない功労者はいない。
そして5年間の西の丸時代に次期将軍としての政治勢力をすでに培っていた点でも、
家宣は昨日今日将軍になった者とは前提が違う。
154 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:08:46
155 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:13:31
綱吉は桂昌院がいたから暗愚になったみたいなものだね。
桂昌院は綱吉が将軍になる前に死んでいたら、もっと人格が
ある人物になりえたかもしれない。
歴代将軍でマザコン度No1だな。
156 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:14:46
>>154 なにも必死になっていないよ。
長レスになると、「必死」って・・・
2ちゃんのお約束の反応。
わざわざ、ありがと。
157 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:27:13
堀田正俊暗殺事件の黒幕は牧野備後守と隆光
158 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:27:54
>>156 傍から見てもあんた、必死に見えるよ。
他の人は仮説で話しているのにあんたは自分の説以外
絶対ありえないって感じでいちいち反応しているし。
159 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 22:31:19
結局のところ、家宣は身内に冷たいオッサンだったてことでいいな。
念
161 :
日本@名無史さん:2007/01/26(金) 23:35:57
>>158 仮説だとか、断言だとか、2ちゃんで何ほざいてんだ?
どのスレにも、こういうイチャモンつける奴、必ず湧いてくる。
必ず使うのが「必死」って、お決まりのセリフ。
内容について語れないなら、消えれば。
162 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:33:58
>>161 最後の「消えれば」でお前も同類だよ。
お前及び家宣について言っている連中が消えれば良いんだよ。
ここは綱吉のスレなんだから。
163 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:36:41
>>161 だから、反応するなって。
お前が反応せず消えれば良いことだから。
164 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 00:54:28
いつから家宣スレになったんだ?
166 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 14:30:52
>>129あたりから。
でも、綱吉だけを抽出して・・・って言ってもなあ。
父家光、家綱、家宣あたりまでなら、綱吉と関連づける内容だったら
許してあげたら。
167 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 04:20:05
保守
168 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 19:16:46
綱吉はかわいそすぎる
169 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 10:07:31
綱吉は男色で受け手となって犯されるのを何よりも好んだ
綱教の方がかわいそう
171 :
よしき:2007/05/23(水) 16:15:29
彼には男子の徳松がいたが、5歳で夭折してしまう。
その後、子供が生まれることもなく綱吉は亡くなる。
徳松が長生きできたら彼が6代将軍になっていた。
172 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 23:17:47
>>1
在日二世
御輿に乗った島犬を虎で退治した人。
だから島犬の評価が悪い。
174 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 14:40:09
将軍になってなかったらあんな評価はされなかった。
175 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 10:05:36
牧野備後守成貞…館林家老より召し連れ。のち三河吉田7万石。典型的イエスマンぶりと献妻、献娘(異説あり)による立身出世だったが、
さすがに綱吉の偏狭質ぶりについて行けず、隠居。家督や石高はつつがなく相続できた
柳沢美濃守保明…館林より召し連れ。小姓より側用人。老中格、大老格。綱吉より松平の名と、名を賜り、吉保と改名。武州川越7万石→甲斐・駿河33万石。甲府綱豊擁立に功績あり、国主に上り詰める。
やはりイエスマンであり、老中決済は柳沢を通さないと決済得られず。家宣就任後、大老免官、側用人辞任。
松平右京大夫輝貞…武州高崎7万2千石。側衆→側用人。綱吉死後、高崎から村上にさせてされたが間部詮房失脚後、高崎に復帰。雁間席から溜間詰に栄転し、のち老中格。
松平伊賀守忠周…但馬出石→信濃上田6万石。側用人。綱吉死後、側用人解任されたが、吉宗時代になると京都所司代をふて老中に
荻原重
176 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 12:29:46
荻原重秀…勘定吟味役、勘定兼佐渡奉行。3700石。家宣政権下でも残留するが、金座の不正、貨幣乱造の責任を追求され、3000石没収の上、小普請組に転落。家督相続は子・乗秀に許されたが、自害。
177 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 19:58:01
綱吉は犬くぼうとか生類憐れみ令いいわれて昔は嫌いだったけど、最近、欠点だらけの人が逆に好きだって思える
178 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 21:22:32
とりあえず、やる気と言うか、エネルギーはあるよね。
方向はムラ気で無茶苦茶だけど。
ところで、柳沢吉里・御落胤説をどう思う?
最近では有力な研究者でも「あり得る」と言うのがいるけど…
だったら、後継者問題であんなに苦しんで嫌々家宣に譲らず、
吉里を認知すればいいだけの話だろ。
御落胤ではないよな、やっぱり。
179 :
日本@名無史さん:2007/06/06(水) 22:43:38
さすがに家臣に下げ渡した後に出産した子を継嗣にはできないだろ。
また、その子が将軍の子だとする証人がいないだろうし。
180 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:12:39
将軍継嗣にはできんけど。
認知してしかるべき家を継がせるか万石を与えるのは可能だろうね。
181 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 13:57:56
やはり松平吉保を、徳川一門にしか与えらんない甲斐國主にしたのは御落胤説を裏書きするのでしょかね?
182 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 14:06:43
動物愛護団体は綱吉を称えるべきでないか
183 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 04:10:27
将軍家の御落胤は挙げればきりがないし、将軍のお手付きになった女性というのも疑わしいものが多い。
特に柳沢吉里の生母・お染は公家出身だとかいわれてたり、寝所でおねだりをしたなどという根拠のない話ばかり。
実際は柳沢家臣の娘にすぎないし、綱吉の女性観からしてもお手付きにはならなかっただろうよ。
184 :
よしき:2007/06/09(土) 21:25:50
位牌の綱吉の高さは1番低い。
遺体が発見されてないので124センチは信じがたいが、
位牌の高さはほぼ正確。
185 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 17:04:14
186 :
日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:49:49
124センチなら、たぶん将軍職は継げなかった。
竹千代でもない限りは。
187 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 17:07:15
いや、江戸幕府には日常生活にすら支障がある変な将軍も多かったから、
仮に、身長124センチであっても将軍になれただろうよ。
家臣に笑われる屈辱はあったかもしれんが。
もっとも、位牌の話は信じてないがな。
188 :
徳川将軍家十五代のカルテ (新書) 篠田 達明 (著:2007/06/16(土) 21:20:51
徳川15代将軍の持病や病歴、そしてその死因に至るまで、医学の知識のないものでも面白く読める。特に、
5代将軍綱吉が130センチも身長がなかったというのに興味を引かれた。低身長のコンプレックスなどが偏執な性格を生んだのでしょう。
病気や持病は性格を決定付ける。ましてやそれが最高権力者だと、時代を動かす。この一冊を読んで、そのことを強く感じた。
189 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 01:34:42
↑
いい本だよね。
俗説ではないと思う。
確かに位牌の高さはバラバラで、身長に合わせて製作したという理由以外に
幕府が公的にそんな「不敬を犯す」はずがない。
家重の章も感銘深かった。現役の医師で障害者施設の園長でもある著者の面目躍如たるものだよ。
190 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 09:06:11
綱吉に姉はいたのか?
191 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 09:29:10
いや、位牌の高さ=身長ってのは俗説だろ。
将軍の位牌は現在のように業者が量産する規格品だったわけじゃなくて、
その都度のオーダーメイドで何十年ぶりかで新調するんだから、
大きさにバラつきがあるのは当然。
それに位牌と将軍の身長が完全にピッタリ一致してるわけではなく、
憶測で面白おかしいことを言うべきではない。
192 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 09:31:31
綱吉=キティ、変質者ということにしておきたい連中に限って、
その位牌の低身長説を振り回す傾向がある。
193 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 09:56:06
194 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 10:01:19
柳沢の子孫と徳川の子孫のDNA鑑定で分からんものかな?
195 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 13:04:35
増上寺の将軍たちは学術調査されたが、寛永寺は未調査なんだよね。
常憲院(綱吉)霊廟勅額門は上野戦争、第二次大戦をくぐりぬけて現存している。俺も実際に見た。
徳川宗家の現在の当主の同意があれば、発掘調査できるんじゃないかな?
遺骨を調査すれば論争に終止符が打てるのに…。
徳川宗家第18代当主の徳川恒孝(とくがわ・つねなり)氏の知り合いの方が見てたら、一度提案してみてください。
弟さんは早稲田大学の客員教授らしいから早大生の方もお願いします。
196 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 14:11:52
>徳川将軍家十五代のカルテ (新書) 篠田 達明
これは、いわゆる「トンデモ本」のたぐい。
197 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:31:12
>>195 あの調査が何のためだったか知ってんの?
めったなことでは掘り返せない。
198 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 01:24:26
>>197 たしかに、徳川さんの許可が出てもなぁ。
もはやあれは国のものと言っても過言ではないわけだし。
199 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 09:59:35
>194
柳沢吉保は綱吉の子じゃないだろ・・・
実子として確実な鶴松は夭折、
鶴姫は子を生む前に流産が原因で死んだから、
綱吉の血は絶えていると思われ。
たしか、綱吉の生母桂昌院の遺骨は確認されたが、
当時としては低身長でもなかったはずだが・・・
200 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 11:01:22
>>197 あれは、遺骨を改葬するために取り出すというので、
調査させてもらったんだよね?
調査目的で取り出したのではないし、
興味本位で見たいなんていわれても・・・
201 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 11:08:53
>195
いくら宗家の当主といえど、
歴代将軍は自分の先祖というわけでもないので
おいそれとは同意できないと思う。
御三家あたりからクレームつくだろうし。
202 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 11:19:28
>>199 それは柳沢吉保の息子が綱吉の実子という説のこと。
柳沢吉里を産んだのは綱吉の妾で柳沢吉保が妻として拝領した。
実際のところどっちの息子かわからんけどね。
小姓上がりの権力者なのに、引退後も子孫が大和郡山藩15万石で減封転封もなく幕末まで続いたのは
その辺が関係してると思われる。
203 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 12:18:35
204 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 14:24:49
綱吉の兄に当たる家綱は、子供が0だったがなぜだろう?
205 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 16:08:54
淡白だったんじゃない?
吉屋信子の影響か、虚弱というより性格に難があったと思えてしまう。
というか、綱吉自身、女色が取り沙汰される割には側室や子女の数が少ない。
206 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 16:19:06
207 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 16:29:54
>>206 染子は、昔、大奥務めをしたことがあったようだけど、
吉里を妊娠したときは、すでに柳沢邸にあった。
綱吉が柳沢邸を訪れては、染子と交わっていた・・・
というのが「元禄繚乱」の話だけど、実際のところはわからない。
綱吉には側室もそこそこいたが、お伝一人しか懐妊しなかったのに、
その綱吉は、たま〜に訪れる柳沢邸で、
吉保の側室に果たして手を出し、懐妊させたかは、疑問。
208 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:09:31
>>207 というか、吉里が綱吉の実子であるかどうかはあまり重要でなくて確認のしようもないが、
当時の幕閣の人達はその話を半分信じたのだと思う。
柳沢家が成り上がりで、しかも15万石の譜代としてはかなりの大封なのに手がつかなかったのは
それ以外に説明がつかない。
209 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:17:00
>>208 もしかすると、その噂ばらまいたのは柳沢吉保自身かもしれんね。
「将軍家御落胤」が公然の秘密になってれば御家安泰だし。
多分、柳沢吉保はそれくらい知恵がまわる男だよ。
210 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:27:03
>>208 側用人やその子孫が大名に取り立てられるのは、珍しいことじゃないぞ?
例えば、有名な側用人間部詮房。
徳川吉宗によって失脚させられたにもかかわらず、村上藩5万石の大名として
幕末まで残った。
その出自や、驚くことなかれ、猿楽師。
甲府藩主だった徳川家宣に、美貌のために見出されて19歳で取り立てられ、
家宣が将軍になると江戸城についていったという。
幼主家継の代に活躍したのはしられるところだが。
間部家の身分の低さなど、柳沢家の比ではない。
士農工商の江戸時代に、庶民から側用人、5万石の大名にまでなったのだから、
身分制度も無視した破格の待遇。
さらに、詮房の弟詮言までが、鯖江藩5万石を拝領して幕末まで続いている。
譜代大名の柳沢家15万石より、庶民上がりの間部家のほうが破格。
側用人が大名家に取り立てられるのは、柳沢家でなくとも、普通。
211 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 17:44:01
みんなが言うほど悪いやつじゃないよ。
俺が中坊のころ、彼女を妊ませちゃった時も自分のことのように心配してくれてカンパに応じてくれたし
212 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 18:49:39
>>207 染子は大奥に奉公に上がったことなどない。
よって、下げ渡したという前提からしておかしい。
大奥上臈だったのは吉保側室・正親町町子。これもお手付きではない。
綱吉の柳沢邸お立寄りの回数は異例ではあるものの、大名家お立寄りや通り抜けはよくあったこと。
>>210が言うように側用人などの側近が力を持つと、本人の能力は別として、世間は悪し様に言うわけよ。
213 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 10:30:10
老中たちは吉保には感謝してたんじゃないか?
綱吉は土佐中村藩の例でも分かるように寵臣を昇進話断っただけでいきなり改易。
可愛さ余って憎さ百倍。とても感情の振幅が激しい。
直接に仕えるよりも、吉保に側用人として間に入ってもらい緩衝役になって
うまく綱吉の機嫌を損ねないように言上してもらえる。
綱吉死ねば御用済みだけど、それまでの功績で大和郡山という、かなりいい領地に国替えしてもらえた。
214 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 01:34:59
>>208-209 大概、そんなところじゃないかと俺も思う。
>>210 間部詮房はたしかに能楽師に弟子入りしたが、庶民ではない。
甲府藩士西田喜兵衛清貞の子だ。
それと弟詮言は詮房の養子となって継いだだけ。しかも上州高崎城主から越後村上に転封、
さらに詮言になって、すぐ陣屋も家臣の家屋敷もない一介の漁村に国替えされると言う悲惨な左遷。
対する吉保は将軍の偏諱を与えられ、松平の称号まで賜っている(やはり大名に取り立てられた
四男、五男までも松平姓)第一、将軍家一門だけが封じられてきた甲斐を与えたこと自体が、すでに
徳川の家門扱い。しかも甲斐は表高15万石だが、実高22万とも30万ともいわれる領地。
それを綱吉死後、吉保失脚後も誰も手をつけられなかった。
吉里の代で大和郡山へ移封されたのは、家宣の血縁が絶え(松平清武、清方父子の死)
家重の西の丸入り(後継者決定)がなった同じ享保9年のことだから、
周囲は御落胤説を信じて、吉里に遠慮していたと見るべきだと思う。
譜代の筆頭井伊家と同じ従四位左近衛少将に昇りつめ、大老格にまでなったのは、
空前絶後のことで、それだけ吉里の出自について、周囲にも「もしかすると・・・」
という思いがあったからではと考えるけどな。
>>207 確かに染子は大奥の経験はない。だが正親町町子も大奥に上がった経験などありません。
215 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 16:18:51
>>214 >陣屋も家臣の家屋敷もない一介の漁村に国替えされると言う悲惨な左遷
鯖江藩のことを言ってるのかい?
地理感覚の全くない人のようだが、
鯖江藩は、福井平野の中央部にある稲作地帯で、漁村などではない。
松平容保を出した福井藩の隣りで、土地は開けている。
石高は村上藩も転封された鯖江藩も同じ5万石。
城や庭は建築途上、明治維新によってならなかったが。
現在の西山公園は間部の殿様の庭の遺構跡。
216 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 16:58:44
>>214 江戸時代、松平氏の血を引かないが「松平」姓を賜った家は複数ある。
柳沢家一家ではない。
そもそも、吉里落胤説による取立てならば、吉里一人による栄華であるべきなのに、
柳沢松平家の場合、側用人たる吉保もまた同時に松平姓を受け、偏諱を与えられている。
吉里の栄華は、父吉保の栄華の余波と見るべきで、吉保に松平姓を許されたことの説明がつかない。
家康の血を引く息子ですら身の処し方を間違えば改易も免れないのに、
御三家、御三卿らがある中で、将軍落胤説が幕末まで尊重されるはずなどなく、
柳沢家が幕末まで改易を免れたのは、歴代当主が改易にならない処し方をしていたため。
落胤説など、当時から有力ではなかった。
「元禄太平記」の物語の世界。
217 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:25:29
外様の大大名に与えた松平姓とは、多少、性格がちがうだろう。
外様以外の松平の血をひかない「松平」って、江戸初期の戸田とか松井とか、
家康の異父弟の久松系や養子の奥平系(女系では血がつながってるが)とか、
家光夫人の実家の鷹司系とか、かなり特殊なケースに限られてるが。
218 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 18:50:00
保科正之にすら与えなかった松平姓、
柳沢家に賜ったのは、むしろ初期の例をならったためだと思うよ。
染子と綱吉に、接点もない。
落胤説を唱える人は、なぜもっと信憑性のある史料を出さないの?
当時、公家でも武家でも日記をつけていた、
もっと確かな史料を出すべきなのに。
219 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 00:28:43
保科正之は松平姓を与えられなかったのではなく、辞退したのです。
それと、綱吉は桂昌院の養元本庄家にも松平姓を与えています。
ただ外様雄藩を除いて、徳川家と血縁なくして松平姓を与えられたのは、
鷹司信平と本庄宗俊、資俊、そして柳沢一族。
鷹司・本庄両氏の例は確かに戸田氏や奥平氏の例にならったと言えなくもないが、
柳沢氏の場合は類例がない。
何も吉里御落胤説が幕末まで影響力を持っていたとは思わない。
だが、家宣〜吉宗の時代には肯定する確実な根拠もない代わりに、
否定する確たる根拠もないから、関係者が疑心暗鬼になっていたとは考えられるのでは。
史料がないから事実じゃない・・・って論法は、2chでは説得力ないね。
「三王外記」ほか俗書にあまたある記述を一笑に付すことができるのは、
歴史学者だけで、彼らも実証できないから決めつけないだけで、可能性を否定してるわけじゃない。
「染子と綱吉に接点がない」ってこと自体、事実じゃないし。
吉里にこそ下賜されるべき・・・云々は、当主が吉保だから吉里にのみ与えるのは無理。
むしろ、吉里に与えたいために吉保に賜ったと見るべきでは・・・
220 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 08:49:24
学問板なんだから史料・資料を重視するのは当然。
自分的に三王外記は、現在のスポーツ新聞と変わらない位置付け。
ということは、庶民レベルで柳沢吉里の出自が怪しまれていたってことですが。
しかしながら、それは染子が綱吉の御手付きとなったという事には結び付きませんね。
家臣の妻子であろうと、将軍の寵愛を受けた以上奥住まいは当然のこと。
どんな理由があろうとも、それが破られてしまっては大奥の存在意義がなくなります。
綱吉家族と柳沢家・牧野家とはいわば家族ぐるみの付き合いをしていました。
それが綱吉・吉保・成貞のそれぞれの世評の悪さと結び付けられ、こうした俗説が生まれたのだと私は解釈しています。
吉里御落胤説が幕末まで「噂された」のは開かずの間のせいじゃないの?
開かずの間は文字通り倒幕まで開けられることがなく、何故そうなったのか
誰もわからず憶測の一つに綱吉が吉里を自分の子として六代将軍にしようと
したため綱吉の正室にこの部屋で綱吉が刺し殺されたという噂があったから。
222 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 10:31:01
綱吉が正室に殺されたは、全くの俗説。
それが事実ならば、公家や武家の日記に残っただろうね。
実際には、当時の記録で、染子と綱吉の接点は確認されない。
都生まれの賢女、柳沢吉保の側室正親町町子は、
夫吉保の依頼で、吉保の栄華を日記にしたためたが、それにも書いてない。
大奥にあがったことのない染子のことを大奥の人間が知っていたとも思えず、
220氏がいうような俗説だと思われる。
223 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 14:39:28
柳沢吉保の妻子に手を出した云々の記事は、将軍綱吉・側用人批判のひとつ。
それを鵜呑みにして、吉里の父親は綱吉だ!なんてのはどうかしてる。
吉保の出世の理由を、「綱吉の男色の相手だったから」とする説のがよっぽど信憑性があるだろ。
吉保が御手付きだったんだよ。
224 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 14:41:31
>>216 忠輝や忠直が改易になった時代とは時代が違うよ。
綱吉御落胤伝説があるが将軍家の家督相続の権利はなくて、
あまり出しゃばってこない大名家だったら大事にされるよ。
伝説は多分嘘だけど、当時の幕閣の人は今以上に歴史的な噂の信憑性を検証しないわけで
(特に将軍家御落胤伝説なんてタブー中のタブー)、柳沢家に対する処し方に影響は与えたと思うよ。
225 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 15:39:57
どれだけ柳沢マンセーすれば気がすむんだろう・・・
226 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:00:20
>>220 戯作と言っても書き手は旗本とか諸藩の江戸留守居役とか定府の侍とかで、
柳営ネタだと仕入れ処は茶坊主あたり。まるっきりの庶民ではこのテの文章は書けません。
ネタの真偽は別として「庶民レベル」で片付けるのはどうかと思うけどねえ。
多分江戸城内で大名や茶坊主で噂になってたんじゃないの?
227 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 16:18:31
三王外記は庶民の読み物。
護国女太平記とか偽紫田舎源氏と同レベルだろ。
噂は噂に過ぎず、大名がそれについて論議したり話題に出したりした証拠があるのか?
書状のひとつも残ってないのに。
228 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 18:50:43
>>226 近松門左衛門や、曲亭馬琴は、旗本や留守居役か?
町人文化を馬鹿にしてはいけない。
当時の庶民の文学(あくまでも架空だが)水準は
非常に高いのだよ。
今と同じように、幕府のやることなすこと皮肉って、
物語や戯曲を作るのさ。
歌舞伎に歴史に取材したものが多いのを知らないのかい?
だからって、それは事実ではない。
客を楽しませるためのものだし。
史記にある始皇帝の出生の話を裏返すと吉里御落胤説になるんだよなぁ。
側用人風情があれほど寵愛されるのには何かある。それで遠く異朝をとぶらふたって感じ。
まるで関係ない話を持ち込む輩がいるな。
231 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 23:26:46
>>229 そういう下衆の勘繰りが俗説を生んだんだろうな。
232 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 00:17:09
染子については謎が多いんだよね。
それが吉里御落胤説を生む背景になっている。
家臣飯塚杢太夫正次の娘という素性自体確かではない。
大奥に上がったいう説は疑わしいし、
綱吉の柳沢邸御成りの始まりは元禄4年、吉里誕生が貞享4年。
公式記録を見る限り、御成りの際に身ごもった可能性はない。
だが、次の事実はなぜだろう?
@綱吉は、染子が宝永2年5月重態になった時には側用人松平輝貞を、死去の際には奏者番松平直広を
使者として遣わしている。これはまったく大大名自身が死んだ際の礼で、正室でもない一介の側妾に対するものではない。
A徳川実紀によれば、綱吉の命で吉保は染子の遺品を献上している。
B吉保が建てた染子の碑に、彼は臣下の礼を取った碑文を書いている。
吉里自身についても
@綱吉死後も、吉里の邸宅が焼けた時、正室が死んだ時、幕府は奏者番を見舞いに送っている。
まるで御三家並みの待遇だ。
A家宣の岳父にあたる近衛基熈と対立していた霊元上皇は、吉里をことのほか寵愛していた。
綱吉の柳沢邸御成りは元禄4年から宝永3年まで毎年2〜5回あるが、これは徳川実紀に記された公式なものだけ。
綱吉の男色は公然たる事実で、有名な桐之間御殿への来訪など非公式なものもある。
バイセクシャルの綱吉が、そんな折り、染子に手をつけたとしてもあり得ないとは言い切れないだろう。
つまり接点のない女性に上に掲げたような処遇をするとは、ふつう考えられない。
233 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 12:40:05
ありえない。
お前、バカだろ。
234 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 19:29:08
なんで綱吉(ツナキチ)って町人とまぎらわしい名前にしたんだろう?
江戸時代、ツナキチって町人もいただろうに。
235 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:14:06
実際、幕末に綱吉(ツナキチ)という髪結い職人がいた。
236 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:41:33
別に綱吉に限らないだろう。
家康の四男松平忠吉の例もあるしな。
237 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 22:58:11
五男も信吉
238 :
日本@名無史さん:2007/07/10(火) 23:30:37
その二人は「秀吉」の影響があるかも。
徳川宗英さんていう作家の方がいますが、
徳川家康の血は継いでいるの?
間に養子がいたりするけど、それも血縁なんかな?
著書で「我が徳川家としては〜」や、徳川家康のDNAを継いでいるような書き方があるけど、
DNAは確実に繋がっていないと思う。
241 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 19:32:30
著書で「我が徳川家としては〜」や、徳川家康のDNAを継いでいるような書き方があるけど、
DNAは確実に繋がっていないと思う。
あだ名は綱ちゃん
実はつなきち
244 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 23:19:49
犬吉
245 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 23:58:49
徳川宗英さんって、徳川家の歴史関係の本書いてる田安家の人だろ。
家康→紀伊家→吉宗→一橋家→田安斉匡→慶頼→達孝→達成→宗英
家康のDNAが確実につながってる男系子孫ですが、何か。
精神や身体に疾患のあった家重や家定、50年も将軍職にありながら何したの?って言いたくなる家斉等、吉宗以後の将軍に比べれば、一応政治に対して能動的な将軍様ではあったろうが、いわゆる元禄バブルのうかれた時代に
生きた、マザコンで偏執狂の将軍様というイメージが強い
247 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 08:16:15
Hydeと同じくらいの身長の128センチだ。
248 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 12:46:15
発掘調査も行われてないのに憶測や俗伝だけで低身長説を持ち出すのはどうかと。
>>246 スレ違いだが、家斉はあの時代において諸大名・公家に対してかなりの影響力を保持していたわけで
249 :
間部越前守詮房:2007/12/10(月) 20:21:24
五代様は貨幣を作りすぎたため、わたしと新井筑州が六代様を補佐して貨幣の質を改めました
香取神宮を再建した人
251 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 19:54:11
学問好きで例の法度を出すまでは
名将軍だったと聞いたけど?
あと歴代将軍の中では
間違いなくマザコンの類に入るんだろうな
富士山が噴火したのってこの頃だよな?
254 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 21:27:08
昨夜、「歴史サスペンス」とかいう船越がでてくる
番組みたんだけど、徳川綱吉って、
妻の鷹司信子に刺殺されたの?
これって事実なの?
255 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 22:54:30
デマです。綱吉と信子が死亡した部屋が幕末まで開かずの間になってることからくる作り話です
256 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 01:07:27
>綱吉と信子が死亡した部屋
これも信憑性のない話ですが。
>これって事実なの?
この口調でレスしてるのって、
みな同一人物?うざいんですけど。
258 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 08:37:30
>綱吉と信子が死亡した部屋が幕末まで開かずの間になってる
これも作り話。
「徳川実紀」では、綱吉は宝永6年1月10日、63歳で病死、
信子は2月7日に病死。
綱吉は大奥で死んでいない。
中の丸殿に住み、夫と完全別居していた将軍家光の正室鷹司孝子はともかく、
生涯大奥に正室として君臨し続けた鷹司信子と、将軍綱吉が
不和だったかどうかも、想像でしかない。
鷹司信子の妹は東山天皇の中宮で、身分の高い男性が側室を持つのは当たり前だったし、
綱吉も粗略には出来なかったと思うが。
259 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 00:37:33
綱吉(つなきち)
260 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 10:01:58
綱吉は京文化が大好きだった。
晩年に養子に迎えた甥の徳川家宣(のちの6代将軍)の正室もまた
摂家の出身であることを知ると、
綱吉は自分の御台所鷹司信子を連れ、
養子の徳川家宣、近衛熙子夫妻と一緒に4人で会食をしたらしい。
当時、将軍家では男女が同じ席で食事をすることなどありえなかったが、
2人の正室たちの里である公家社会では普通のことであったらしい。
顔も見たくない正室を連れて歩くことなど考えられず、
また、綱吉にも外部に摂家出身の御台所を見せびらかしたい意向が見え隠れすることから、
綱吉と信子の仲は実際には悪くはなかったのかも。
261 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 20:31:19
綱吉×吉保萌え〜
262 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 20:50:06
さっきTVでやってた
身長124くらいらしいよ
263 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:19:29
骨からわかってるからな。
264 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 22:39:34
側用人牧野備後守の妻を献妻させたエピソードはホントなのか
265 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 06:09:04
身長124て事は当時の成人男子の平均から見てもかなり低い。
結局、頭だけじゃなく全ての面において未発達だったって事か…
また、その与太話かw
綱吉は寛永寺に埋葬されており、その墓は発掘されてないから身長は不明。
大樹寺の位牌は、増上寺の歴代将軍の遺体から計測した身長と一致しておらず、
位牌の高さを根拠に生前の将軍の身長を云々するのはナンセンスだ。
どうしても綱吉をチビのキチガイにしておきたい、電波厨房が多いな。
267 :
日本@名無史さん:2008/02/17(日) 19:49:13
基地外かどうかはともかく、変わり者ではあるよな
>264
牧野の妻は綱吉母桂昌院に仕えた侍女で、
桂昌院の指示で牧野の妻になったあたり
もしかすると綱吉と面識くらいはあったかもしれんが
綱吉に妻を献じたというのは史実ではなかったはず。
269 :
日本@名無史さん:2008/03/05(水) 22:52:11
綱吉は四分の一<丶`∀´>。
火病するのも、ある意味当然。
ミンジョクの血が為せるワザといえようw
270 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 10:08:26
またよた話か。うんざりだな。
母方の出自は諸説紛々で、その中のひとつが半島由来なだけ。
信憑性も低い説だと思うが。
>>268 元禄繚乱だと、本当は娘を所望したのに、牧野の妻(渡辺えり子)が布団の中に
潜んでいて、綱吉(ショーケン)が逃げ出していたな。
272 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 17:48:51
綱吉が死んだ後、御台所鷹司信子も後を追うように死んでんだよね。偶然かな。
273 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 18:06:49
とくがわつなきち
274 :
日本@名無史さん:2008/04/04(金) 19:25:01
>>267 当時の有名な儒学者を一堂に集めて
綱吉 「が」 儒学者たち 「に」 講義したっていうからな
275 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 00:17:00
日本人に犬食が広まる前に阻止した偉大な将軍
もし彼がいなければ
徳川慶喜は犬一公と呼ばれ蔑まれ
現代に於ても捕鯨と犬食やめろとオーストラリアから非難を浴びていただろう
276 :
日本@名無史さん:2008/04/05(土) 00:21:00
完全に弱虫でそのくせ強がっている
暴君だと思う。
277 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 11:39:46
生母の桂昌院は実質最高位である従一位まで上りつめた
278 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:14:59
130センチってホント?
279 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 18:44:42
ウソ。
どっかの寺の位牌の高さが遺体の身長と一緒とかいうのが論拠らしいが、
綱吉の遺体は発掘されてないので実証のしようがない。
傍証として引かれている増上寺の将軍の遺体も、実際には位牌に対応してない。
明らかに大きさがちがうのに、誤差の範囲とか詭弁を弄している。
そもそも寛永寺でも増上寺でもない地方の寺の位牌を論拠にしてもな。
実際そんな小さかったら何らかの資料に残ってそうだが
281 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 16:05:51
数え年8歳(満6歳)で死んだ家継の位牌の高さが135cmもある
ことから身長が位牌に対応しているというのも疑わしい。
綱吉の位牌の高さが124cmしかないからといって低身長の証拠にはならない。
282 :
日本@名無史さん:2008/11/27(木) 16:11:12
大体、将軍の位牌は数十年に一度、将軍が死んだときにつくるわけで、
現在の庶民みたいに大量生産の規格品の位牌を使うわけじゃないからなあ。
位牌の大きさがその都度ちがってるのは当たり前だろ。
そんなことを身長の論拠にすること自体、まちがってる。
尾張吉通、紀伊吉宗、水戸吉学、前田吉具、島津吉貴、細川吉年、鍋島吉茂、黒田吉政、毛利吉就、浅野吉永、池田吉政、池田吉真、松平吉品、蜂須賀吉詔、上杉吉備
284 :
日本@名無史さん:2008/11/30(日) 13:14:42
>>246 >50年も将軍職にありながら何したの?って言いたくなる家斉
倹約政治を嫌い、松平定信の改革を挫折させる。
規制ゆるゆるで化政文化がいつの間にか生まれる。
蘭癖野放しで蘭学が発展、開国路線の下地がいつの間にかできる。
大奥の女に好き勝手やらせて、大奥のイメージがいつの間にか確立される。
倹約政治を嫌い、水野忠邦の改革をぎりぎりまで阻止する。
家斉の50年がなかったら
幕末は目も当てられないことになっていたよ。
285 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 23:38:44
おまいら綱吉公に感謝しろ
犬肉食を禁止した尊い方だぞ
綱吉は徳川15代で家康の次に名君
287 :
綱吉@1/4<丶`∀´>:2009/01/20(火) 22:03:22
>>285 チョパーリが生意気にもウリミンジョクの真似して犬肉食をするのは許せなかったニd・・ぞよ<丶`∀´>。
だから禁止したニd・・ぞよ<丶`∀´>。
288 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 13:42:15
綱吉が低身長だったことは、位牌からほぼ間違いないな。
289 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 18:58:05
本島かよ
綱吉の親父も女嫌いだの、辻斬りしただの噂があって
変わり者のイメージ強いもんな
武将の男色は別段珍しくも無いが、女嫌いとはね
春日局との間に何かあってトラウマになったんかな
291 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:38:40
つなきち殿、つなきち殿w
292 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 00:41:21
294 :
日本@名無史さん:2009/05/21(木) 15:54:02
>>293 いいや、否定する根拠など何もない。
現実に存在する病気。
296 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 20:57:13
アッー!
297 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:03:07
綱吉の遺骨が見つかるのを待つしかないじゃん
綱吉が低身長だという史料は残ってないんだし
母親の桂昌院は普通の身長だったらしいしね
(140センチ台、当時の女性はこれが普通)
298 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:05:01
綱吉の最大な存在意義は2つ。
誰でも知ってる生類憐れみの令と側用人制の2つ。
特に側用人制は、老中と将軍の間に側用人を配置したことで、将軍親政に近づけた。
善し悪しは別にして・・・・。
299 :
日本@名無史さん:2009/06/06(土) 21:43:36
江戸幕府では定員4〜5人の老中の寄り合いによって政治が進むように家康時代に決められ、
初代の家康はともかくそれ以降の将軍の場合将軍独裁がやりづらい状況に置かれていた。
それに対して側用人は、将軍が自分の意を汲むものを将軍自身が選ぶことができ、
将軍による政治を目指した綱吉によっておかれた。
老中たちに将軍の意志を伝えるのはすべて側用人の役目だったため、
将軍が無能だと政治は側用人の思うがままという事態もあとあとには起きた。
>294
肯定する根拠もないようなものだし。
>>294 大樹寺の位牌が正しいとするなら
吉宗は人並みの身長で
家継は大柄な子供だったことになるが、
誰もそんなこと主張してないだろ?
302 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 12:55:25
吉宗の身長は180cmだったか
303 :
日本@名無史さん:2009/08/23(日) 13:28:40
だから?
124cm ってことは
もう綱吉自身が犬だったとしか考えられん
305 :
日本@名無史さん:2009/08/26(水) 07:13:04
>>215 > 松平容保を出した福井藩の隣りで、土地は開けている。
松平容保は、幕末の会津藩主で京都守護職を務めた人ですよ。
もしかして、幕末の福井藩主・松平慶永(春嶽)と勘違いをしていませんか?
308 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 10:52:51
309 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 06:18:08
こいつのせいで赤穂のお家騒動がおきた。
310 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 06:39:23
大樹寺の位牌は早世した鶴松の身長なのだよ。将軍にしてやりたかったと言う綱吉の遺志なのだ。綱吉が小人だったら絶対に記録があるだろ。鶴松の身長の写しなのです。
311 :
日本@名無史さん:2009/11/25(水) 10:25:41
綱吉が低身長でなかつたら、なぜ、綱吉の位牌だけ、飛びぬけて低いのか、どうやって説明する?
だからなぜ綱吉の位牌だけにこだわる?
家継の位牌が異様に大きいのはどうやって説明するんだ?
人より頭一つ高いと言われた吉宗の位牌がそうなっていないのは?
な? 異様なのは綱吉の位牌「だけ」じゃないんだよ。
ようするに出鱈目なものに根拠を求めるなってことか。
しかし出鱈目なりに綱吉、家継の位牌のアンバランスさを考えれば
やはり作為が感じられないだろうか。
あるいは情報伝達のお粗末さか。
314 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 09:58:01
位牌の大きさがバラバラなのは確か。
そして、それは身長だとの言い伝えが大樹寺にある。
そもそも、もしそうでないなら、なぜ、お寺にそんなデタラメの言い伝えがあるにもかかわらず
住職が否定しないの?
これで十分。
家継や吉宗も、そのままの身長であったと考えればいいだけのこと。
何の矛盾もない。
>>314 寺伝というのは玉石混合なのだよ。
病弱で満六歳で死んだ家継が現代(言うまでもなく江戸時代より体格がいい)の十歳児の身長くらいあるのが矛盾しないとは、どういうこと?
それを伝える史料は皆無なのに。
これ一つで出鱈目だとわかるでしょ。
一つの伝承にこだわらずに総合的に考えないといけないよ。
君の主張は
大樹寺の伝承が唯一正しく、実紀はじめ他の史料は全て間違ってる
て事。
じゃあその論拠は?
期待しないで待ってますよ。
>>310 鶴松じゃなくて徳松。
ちなみに徳松は満四歳で死んでるから、その思い付きも無理がある。
317 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 14:10:20
>>315 誤差ぐらいは認めるよ。
実際に改葬された将軍の数人では4、5センチ誤差があったんだからな。
135センチとしても、実際は130ぐらいだつたかもしれん。
家継は満6才といっても、ほとんど7歳に近いからね。
別に有り得ないことではないな。
じゃあ聞くが、綱吉の身長を記載した、そんな資料がどこかにあったかな?
そもそも、綱吉が死んだときの住職は、なぜ、わざわざ綱吉の位牌をそれまでの4人の将軍と比べて、
そんなに低く、作ったのかね?
何かの基準はあったことは認めるのか?
もし、身長ではないと言い張るなら、それは何なんだ?
また、もし、他に正しい位牌作りの基準があるなら、どうしてそれが大樹寺の言い伝えとして伝わっていない?
もし、大樹寺の言い伝えがデタラメだとしよう。
そうであれば、誰が何のために、そんなデタラメを吹聴する必要があったのかね?。
さあ、どうだね。
全部ちゃんと説明出来る?
明治33年の小1男子の平均身長は107cm。現小6相当で128cm。現中1相当で133cm。
江戸時代に130〜135cmの小1ね・・・別にいてもいいけど。
319 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 18:56:29
幼くして死んだ家継が不憫だったので、その時だけ住職が大きい位牌をこしらえたんだよ。
320 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:55:48
家継の遺骸は棺桶が腐食して雨水が入り溶けて無くなっていたために身長は不明。
>>318 サンクス! いい資料がなかったので現代の平均身長で答えてたから勘違い
されてて困ってたんすよ。
>>317 君は根本的な勘違いをしている。
だがそれ以前に君は話をまともに聞いてないね。
君の主張をまとめると
1 大樹寺の寺伝は正しい
2 その根拠は寺の人間が否定していないからだ
3 しかし誤差は認める
だよね。
コレ、ちっとも説明になってないでしょ?
わかりやすく極端に言えば
他の証言と明らかに矛盾した証人がいて、彼の証言の正しさを証明するのに
(
>>315で僕が求めたこと)
「彼がそういっているから正しい。他の皆が間違っている」
と君は繰り返してるだけ。何の証明にもなってないのがわかるでしょ。
なぜ綱吉、家継、吉宗の位牌の大きさ(つまり君の言う身長)が他の史料と
著しく異なっているか、それを説明しなきゃいけないのも君なんだけどね。
僕らは「寺伝がうそだから」の一言ですむけど。
で君の勘違いしてること大樹寺にある歴代将軍の位牌はお寺さんが作ったん
じゃないよ。少しは調べてから書き込んでね。
322 :
321:2009/11/26(木) 21:53:21
つづき
>誤差ぐらいは認めるよ
認めるのね。5センチの誤差って結構でかいよ。
124センチとか135センチの場合、誤差ですむ範囲じゃないと思うけど。
それに135が130でも他の人も言ってるようにでかすぎ。
間部詮房が抱っこできる大きさじゃない。
>じゃあ聞くが、綱吉の身長を記載した、そんな資料がどこかにあったかな?
それを探すのは
>>321でも指摘したけど君の方。
身長が正確にわからないからといって124センチの根拠にならないよね。
こちらは綱吉が小人だったという記述が、反綱吉の白石や『御当代記』ですら
ないと指摘すれば十分。肖像画もね。
>もし、身長ではないと言い張るなら、それは何なんだ?
>また、もし、他に正しい位牌作りの基準があるなら、どうしてそれが大樹寺の言い伝えとして伝わっていない?
これも君が立証することですよ。
君が
・位牌の高さは各将軍の身長である
を立証すればいいだけ。それをしないで何を言ってんだか。
僕たちは寺伝は御伽噺だ、と言ってるんだから、根拠を述べる必要はないでしょ。
ああ、ついでに大樹寺はどういってるのかといえば、寺が発行した『大樹寺の
歴史』には
「寺伝では、位牌の高さは将軍の身長にあわせてあるという」
とだけ。否定も肯定もしてない。何の根拠も無いことを認めてるんだ。
なぜなら歴史的事実はきちんと史料などを挙げて述べているからね。
君はここでも勘違いしているが、お寺さんは学者じゃないんだから(たまにそ
ういう人もいるが)、学問的に根拠が無いことでも別にかまわないんだよ。
宗教なんだから。
寺や神社、教会の伝承なんて殆どがそんなもん。
323 :
321:2009/11/26(木) 21:55:50
>>319 それを言ったらおしまいだろ。つまり位牌の高さは身長にあわせたものでない
といってるんだから。
つか位牌は大樹寺の住職が作ったんじゃないよ。
324 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 23:35:13
>>322 お前はホントに歴史と言う物を根本から勉強してこいよ。
要するに、オレの質問には、何にも合理的な説明出来ないから、
立証責任がどうとか、バカげたことを言ってる。
位牌が身長に比例すると考えれば、オレの考えは何の矛盾もなくすべて無理なく説明できる。
お前みたいに、認めないから説明できなくなるんだよ。
お前とは、議論しても何の益もないことがわかったので、これで終わりにするよ。
326 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 23:54:50
>>325 バーカ。(^◇^)
デタラメとか言ってる奴は、なぜ位牌の大きさがバラバラであるかは何にも説明できないんでしょ。
これを一番合理的に説明できるのは、身長!。
これしかない。
位牌がある寺伝にある以上、もう決まり!。
>>326 単に適当に作ったからというだけだろ。馬鹿馬鹿しい。
裏を取ってない寺伝なんて、信用できない資料の代表みたいな
もんだろうに。
328 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 00:05:14
>>322 「ああ、ついでに大樹寺はどういってるのかといえば、寺が発行した『大樹寺の
歴史』には
「寺伝では、位牌の高さは将軍の身長にあわせてあるという」・・。
そこまで知っているんだったら、もうちょっと掘り下げて考えろよ。
それはデタラメだ、で終わるんじゃなくて・・・。
じゃあ、とりあえず、真偽のほどは別に置いておこう。
つまり、そういう寺伝があるということは、誰か最初に言い出した奴がいたわけだろ。
じゃあ、なんでそんなことを言い出すのかってことなのよ。
そういうことも想像して歴史を勉強したら、もっと楽しくなるぞ。
これでホントに失敬するよ。
こんなことは、元々、別にどうでもいいことなんでね。
>>328 > じゃあ、なんでそんなことを言い出すのかってことなのよ。
権威付けのためとか、高さがばらばらになってしまったのを、後付で
身長にあわせたことにしたとか、いくらでも可能性は考えられるけど。
大体、伝えている当事者すら信じていない寺伝なんて、いくらでもあるぞ?
330 :
321:2009/11/27(金) 07:09:54
論理的に議論しようとしたら逆ギレされた(涙)
>お前はホントに歴史と言う物を根本から勉強してこいよ。
実記や御当代記、大樹寺歴史など史料をもとに話してるんだけどね
勉強してないのは明らかに君の方でしょ。
6歳〜8歳児の平均身長も調べないし、大樹寺の位牌を誰が作ったかも調べ
てない。寺伝というものがどういう性質のものかも知らない。
そして家継や吉宗のことも殆ど知らない。
ちゃんと調べなさいっての。
>要するに、オレの質問には、何にも合理的な説明出来ないから、
>立証責任がどうとか、バカげたことを言ってる。
単に憶測で語るのがいやなだけ。まず事実と想像のラインをはっきりさせない
と、お互い平行線になるでしょ。
君の言ってる論理的ってのは単に自己満足な屁理屈なんだって言っただけ。
大樹寺の寺伝をまともに受け止めるなら、それなりに証明しなさいって言ってる
だけなのに。できないならできないでいいんだけどね。
相手になすりつけないでよね。
現に君はこちらに突っ込むばかりで、自分が突っ込まれたことは一つも返してい
ないじゃないか。
331 :
321:2009/11/27(金) 07:20:34
>>329 僕もそう思うね。
そして綱吉の場合は製作者(幕閣=反綱吉派)の悪意がこもっているんじゃな
いかと。
>>319と言ってること同じになるんだけど。単なる推測。
それ以外に何か理由があったかもしれない。
大樹寺は安政年間に大部分が焼失してるので、もしかしたらそうした記録があ
ったかもしれないけど。
ちなみに「身長比例」論者は家康、秀忠と家光〜家茂+家基の位牌の製作者が
まったく異なることなど知らないんだろうな。現物はおろか写真も見てないん
だろう。
家康、秀忠は尾張義直が製作させ納めたもので、それ以降は崩御後幕府から納
められたもの。
この二者は政策様式も異なっている。家康のものは死後数年後に製作されたも
ので、これだけでも身長比例説が御伽噺の域を出ないことがわかる。
332 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 07:58:55
さょうせい様、小便公方と歴代将軍の陰口は史書に残されている。家重の小児マヒの後遺症も肖像画に表現されている。綱吉の肖像画は歴代随一立派である。もし綱吉が奇形児なら噂、悪口が伝承されているはずである。
身長を調べるなら、第一に遺骨、それが駄目なら
第二に衣服(将軍ならオーダーに決まってるし)
第三に目撃者の証言
第四に肖像
くらいだろう。位牌などは信仰の部類で論ずるに足りん
334 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 11:38:06
>>331 死後数年後ぐらいだったら、家康の生前の姿や身長を聞いて、制作することは可能でない?
まだ、生き証人はたくさんいるんだから。
結局、綱吉と家継だけが、なんで他の将軍と比べて低い位牌を制作されたのかは不明のままってことか。
335 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 11:42:19
>>332 言論の自由がなかった当時、将軍の悪口を言うのは命懸けだよ。
もし、そんなことが役人の耳に入ったら、自分や家族一族にどんな累が及ぶかしれたものではないからね。
その辺は、今の人間の感覚で考えちゃいかんよ。
ちなみに、伊達政宗の肖像画は、ちゃんと普通に両目が描かれている。
336 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 11:53:07
>>334 「不明」イコール「身長の可能性もある」っていうこと。
位牌の大きさが「一般成人男子の等身大」ってなら十分アリだ。
が、個々の将軍の身長に合わせたとはとても思えない。
各将軍の身長差が数センチなのに対し、位牌との差も数センチある。意味ね〜w
だから家慶の身長は家茂・家重より低いのに位牌の方は大きい。身長差なんてカンケイ無いじゃん!
よくネットで実際の身長と数センチの差しかない!なんて言われてるけど、
今の日本人だって165〜175cmの中に大抵のヤツは収まるだろ。何がオドロキなんだか・・・
あと何時から伝わったか不明の寺の伝承何かより、吉宗6尺(←同時代史料)の方が信憑性がある。
ホントに6尺あったかは知らんが背は高かったろう。
家継に関しては
>>319が結構当たってるかも知れん。
位牌が成人サイズではチトあれだが、子供サイズでは不憫。
せめて元服年齢サイズにしたって事はありそうだ。
そうだとすると仮に綱吉の背が極端に低くてもワザワザそれに合わせる必要も無いと言うことだ。
位牌が他に比べやたら小さいのには原因があるはずだが、その理由は「解らない」が今んとこ正解。
調べる方法ねーのかなー。
339 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 18:06:25
>>335 > 言論の自由がなかった当時、将軍の悪口を言うのは命懸けだよ。
> もし、そんなことが役人の耳に入ったら、自分や家族一族にどんな累が及ぶかしれたものではないからね。
> その辺は、今の人間の感覚で考えちゃいかんよ。
だからさ自分勝手に決めつけるなよ。
ちゃんと相手のレス読んでる?
>>330も
>>332も具体例を挙げてるでしょ。
俺達のは君らと違いきちんと史料を読んだ上での発言なの。
自分達が憶測で語っているからって、相手まで同レベルだと思うなよ。失礼な。
「だろう、はずだ、違いない」じゃなくて自分で調べろ。
御当代記とか三王外記とかさ。
それが無理ならせめてまともな歴史書を読め。
テレビや井沢やらじゃなくてさ。
頼むよ。
340 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 18:51:14
とびきりのチビってのは本当なの?
341 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:41:59
>>339 お前、ホント、バカだろ。
332は家重のことがそうだからって、綱吉もそうに違いないって、そんなことなんで決めつけられるんだよ。
自分に都合のいい理屈だけ言ってるんじゃねえよ。このアホ!!。
そういうお前も、なんで、俺が資料読んでないってなんで決めつけてるんだ?。
お前こそ、人のこと、憶測でエラそうにいってるじゃねえかよ。
資料読んでたら、みんなお前みたいな考えになるとでも、思い上がっているのか?
342 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:50:42
>>340 その通り。
否定している奴らは、違う違うとほざいているが、そのくせ、位牌の大きさがみんななぜ違うのか?
、なぜ、綱吉と家継だけ位牌が飛びぬけて小さいのか?、
その点はなんの説明も出来ないんだよ。
そのくせ、エラそうに知ったかぶりだけはするんだよ。
343 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:54:19
>>341 何言ってんの、この人。
吉宗が155、家継が130で矛盾を感じない
大樹寺の位牌を住職が作ったと思ってる。
史料読んでないの丸わかりじゃん
子供の平均身長も知らない。
資料読んでないのマルワカリジャン
御当代記や三王外記を挙げてもピンとこない
シリョウヨンデナイノマルワカリジャン
逆に聞くがお前が読んだ史料って何?
みんなさっきからそれを求めてんだけどさ、一つも挙げてないやん。
シリョウヨンデナイノマルワカリ(爆笑)
344 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 19:58:20
>>343 お前、オレのこと、誰かと勘違いしてねえか?
そんな書き込み、オレと違うぞ。
345 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:02:17
>>344 って事は史料名を挙げてくれるんだな、お前が読んだ。
もちろんお前の主張の根拠になる奴。
すげえ楽しみ!
346 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:09:23
347 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:13:10
>>345 御当代記、徳川実記、山王外記はすべて読んでるよ。
しかし、お前と同じ資料を読んだのに、なぜこうも結論が違うのか、それが不思議だな。
まあ、資料に対する想像力がオレの方が豊かなんだろうな。
348 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:21:41
>>347 > 御当代記、徳川実記、山王外記はすべて読んでるよ。
どうでもいいけど実紀、三王な
でそれのどこに綱吉が小人だという根拠が書いてある? 俺も読んだが想像力がないからわからん!
教えてくれ
お前はこれらの何を元にして位牌身長比例説を譲らないか
馬鹿な俺にはゼンゼンワカリマセン
349 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:22:57
>>346 お前こそ、こっちのレス読んでないぞ。
そのレスのどこに家継のことが書いてあるんだ?
それと、あんな程度を仮説なんてほざくなよ。
あんなのは思い付き、ただの当て推量だろ。
仮説と言うなら、もうちょっとマシな考えを述べろよ。
350 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:25:57
>>348 オレは賢い奴にしか説明しないのよ。
バカなお前には説明しても徒労に終わるからな。
自分で認めたんだから、それでいいんじゃないの。
>>349 疲れた
自分が書いた事くらい覚えとけよ
>そのくせ、位牌の大きさがみんななぜ違うのか?
> 、なぜ、綱吉と家継だけ位牌が飛びぬけて小さいのか?、
>その点はなんの説明も出来ないんだよ。
位牌の大きさがばらばらな事、綱吉の位牌の事を書いてるだろ、
書いてない家継だけピックアップして全否定ですか?
お前「その点はなんの説明も出来ない」の反論は
どれかを説明してるでいいんだよ
国語、数学を勉強しなおせ
352 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:31:49
354 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 20:37:19
>>351 ボケーーー。
お前がまるで全部説明出来たようなことを書いてたくせに、何言い訳してるんだよ。
で、家継のこと、説明しないのは、スルーか?。
当て推量に、スルー。
人には、根拠は、根拠はと、口やかましい癖に、自分のことだけは、ホント甘いよな。
あと、疲れてんなら、とっとと寝ろ。
お前は頭でっかちのひ弱そうだから、そうした方がいいぞ。
荒れてるな
学問板だから煽りはやめようよ
sage
綱吉がドチビなら、こんなに美味しい話を
書き落とすわけないがな〜www
358 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 23:58:57
綱吉は本当に麻疹で死んだの?
噂によれば、綱吉はお世継の事で揉めて信子に殺されたみたいだね。
んで、それ以来その部屋には黒紋付きの老女の霊が現れるとか・・。
その霊を見て家慶は死んだらしいよ(笑)たぶん嘘だと思うがな
359 :
日本@名無史さん:2009/11/28(土) 19:29:10
綱吉は麻疹が全快した後で嘔吐した食物で窒息死した。
水戸光圀とは本当に不仲だったのかな?
この前、読んだ評伝では全く触れてなかったけどね
361 :
日本@名無史さん:2009/12/01(火) 09:26:01
光國は綱吉が犬好きなのを知ってて20匹の犬の毛皮を贈りつけたんだろ?
嫌な奴(笑)犬可哀想
その医師の本だけど、一般人向け歴史書の愛読者(古文書は読まない)が書いた本
というのが感想。だから信を措くのもその辺。
綱吉は水戸だけでなく尾張とも折り合いが良くなかった。
『続岩淵』には元禄元年のこととして次のような話が載っている。
公儀よりきっと命ぜられたわけではないが、御老中の談話に、三家様大道具の
葵の紋は差しひかえられたがよい、とあった。
紀水両家が協議されたのだろう。鞍覆いやお茶弁当、そのほか七里札、お荷物
の差札など、紀州家は丸のなかに紀の字、水戸家は丸に水の印に変更された。
ところが、尾張家にはいっこうにその様子がみえない。
その理由として大納言光友卿の返答にいわく、
「この御紋はちかい時期に拝領されたのならば遠慮もしよう。ところが、もと
もと東照宮の御紋で、公方様にも御代代なら、こちらも歴代付けてきたものだ。
どこにも気がねするいわれがない」
>>363 尾張の場合、宗春謹慎前には将軍家と折り合いの良い当主を
探すほうが難しいんじゃないの?
またある時城中の休息所で(気安さもてつだい)水戸光圀が尾張光友にこう言った。
「将軍家が尾張殿は横柄な人、ともらされていましたよ」
光友は「ふふふ」と笑ったそうな。
ところがまた別のある時に光圀がまたもや光友に
「尾張殿は横柄ずくな人だ、と将軍家がおっしゃっていました」と告げ口。
すると
「いや、それはもう過ぎ去った昔のこととお考えいただかねば迷惑。
館林のときとは私とは官位が違う。だから横柄とおとりになられたのだろう。
公方様となられたいまは、こちらの頭があがるものか」
と吐き捨てた。
つまりいくら将軍公子といえども館林時代の綱吉は三家より官位が低かった。
御三家の権威というものを苦々しく思っていたに違いない。
加えて尾張光友の正室は家光の長女千代姫(家綱、綱吉の姉)であり、彼女は
尾張家三代の綱誠を産んでいる。それもまた警戒のタネだったと思われる。
綱吉が娘鶴姫を紀伊綱教に嫁がせたのは父に倣ったものだけれど、尾張、水戸との
折り合いの悪さも手伝ってのことかとも思う。
>>366 家宣自身の考えはともかく、尾張吉通が将軍家、幕府と折り合いが
良かったとは思えないんだが。
確かに「円覚院様御伝十五箇条」に見る限り円滑な関係とはいえないですね。
前言撤回します。ごめんなさい。
幕閣から好意的に見られていたんじゃないかと思われるのは綱誠じゃないかなあ。
あくまで幼少の頃の、それも『御当代記』での記述を信ずればだけど。
369 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 09:36:30
逆に紀伊家は非常に綱吉と仲が良かったみたいですね。
綱教は娘婿だったし、吉宗が若い頃ヤンチャして(村娘をレイプ)老中が綱吉に報告した時も
「若い者はそれぐらいの過ちはあろう」と庇ったそうですね。
なんか「レイプする元気がある方が良い」とか言ったアホな政治家と似てるけど(笑)
370 :
日本@名無史さん:2009/12/03(木) 10:06:42
光圀は儒教の兄弟の序で綱吉を推挙した。綱吉も当然に兄の遺児を跡目にするであろうと光圀は思った。しかし西丸に綱吉の実子が入り、怒った光圀は批判の急先鋒に転じた。
371 :
日本@名無史さん:2010/02/27(土) 11:17:50
そうなの?
372 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 00:01:36
そうよ
373 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 01:43:13
>>1 北朝鮮よりひどいこの世の地獄を生み出した暗君。
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_e.html ・・・年を越すと惨状は一段とひどくなった。路上では、飢えのために野たれ死ぬ人間が後を絶たなかった。
村では、死に絶えて空き家になっていく家が5軒6軒と日に日に増えていく。
肉親が死んでも、人々に埋葬する体力もなく、屍骸は草むらなどにそのまま放置されたままだった。
ある貧農の親子4人は、木の葉、草の根を食べていたが、10月になると積雪のためそれすらも出来なくなり、一週間水だけの生活になった。
苦しみ抜いた両親は、二人の子供を川に捨て、自分たちは、非人小屋に行くしかないという結論に達した。決断した両親は、
一人づつ飢えで衰弱した我が子を抱きかかえていき、氷のような川に沈めて殺した。しかし、ついに母親が耐えきれなくなり自分も
引き返して入水してしまった。父親もその後を追って死んだ。
また、ある農村では、10才ほどの女の子を川に突き落とす母親がいた。子供が泣きながら岸に這い上がってくると、
今度はもっと深い所に投げ込んだ。それでも上がってこようとする子供に、その母親は大きな石で打ち殺そうとした。
これを目撃した農民が、駆け寄ってきて子供を抱き上げ、母親に向かって、たとえ餓死するとも、
子と一緒に死のうというのが親の心情ではないのかといさめたところ、その母親は、親兄弟すべて死んでしまった。
我も今日明日中には死ぬであろう。幼子を残して憂き目に合わせるより、先に殺して回向してやる方がまだ幸せだと言って涙を流して語ったという。
こうして、多くの人々が飢えで苦しむ中、生類憐れみの令は、事態をさらに凄惨なものに引き上げることのみ役立った。
捨て犬禁止令が出され、あらゆる畜類の殺生と肉食の禁止、さらには犬を飢えさせてはならないという法令が全国に出されたのである。
もし、飢饉のために猪、シカでも殺して食べようものなら遠島か死罪になった。そのため、禽獣は人間を恐れなくなり、飢えてさまよう人々に
鳥が猛然と襲いかかり、倒れでもしようものなら、野犬が走って来て肉を引き裂かれ食い殺されてしまうのである。万事・万物が逆で道も法もないと嘆いた記録が残されているほどである。
374 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 17:01:06
>>373 翻訳してシー・シェパードに送ってやれw
375 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 19:18:22
「位牌の大きさ」の件はともかくとして、
「徳川吉宗が180cmの長身だった」という説は
ウソだという可能性が大きいのは事実。
綱吉の低身長以上に信じるに足りない説。
マゲの高さが30cmだった
377 :
日本@名無史さん:2010/04/08(木) 19:49:51
>>373 日本の歴史上まちがいなく最悪の君主だな。
378 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 23:50:32
エア将軍だった兄・家綱と異なり何かとネタの多い人
右衛門佐は本当にお清だったのでしょうか?
380 :
日本@名無史さん:2010/04/27(火) 23:41:14
「御当代記」や「武蔵野燭談」をご存知の方は周知のことでしょうが・・・
綱吉の排尾援紀は、彼の意志というより、治世の当初を仕切った堀田正俊の影響が大ですよね。
酒井下馬将軍の底意――つまり家光→家綱の嫡統を重視し、家綱遺児を身ごもっていたお丸の出産を見届ける
という大義のもとに、有栖川宮の担ぎ出しをはかったその裏で、
実は、尾張(綱誠ないし義行)を迎え入れようとする魂胆が、春日局の系統を汲む正俊には許せなかったのでしょう。
家光を脅かした家祖義直以来、春日局一統は尾張への脅威論に凝り固まっていましたから・・・
鶴姫の紀伊家降嫁も主導したのは正俊でしょう。
彼は紀伊との縁を深め、前田綱紀を御三家格に遇して、尾張包囲網を築き上げようとしていました。
381 :
日本@名無史さん:2010/05/14(金) 23:32:45
尾張は終わり…脅威に感じるほど君臣ともに切れる人材がいなかった(藁
382 :
日本@名無史さん:2010/05/15(土) 23:28:11
綱吉の後は吉里が継ぐべきだろ!暴君は暴君らしく最後まで我を通してほしかったな。
383 :
くりた:2010/07/25(日) 00:00:30
とりあえず『遠碧軒記』の記事を。同書の「人倫」部に「(二条康道の)乳主(乳母の夫)は北小路宮内なり。
《略・宮内が康道の乳母で酒屋太郎右衛門の妻だった女性と離別後》家に久しく使ふ高麗人の女あり。そ
れを女房にして子をうむ。姉は大宮蔵人入道宗雅が室、其妹が館林が母公慶(ママ)昌院殿なり。」と、こ
んなにはっきり書いています。道祐は幕府の儒者林羅山の弟子であり、元禄四年に死去していることから
わかるように桂昌院と同時代人です。しかも現存する『遠碧軒記』は公家の難波宗建の編集になることか
らわかるように、古くから評価が高かった。
384 :
くりた:2010/07/25(日) 00:07:37
もっとも、桂昌院の母が高麗人だったとはいえ、お万の侍女だったのだし、そのことより
公家色のほうが桂昌院の特色としては注目される。右衛門佐局の重用や、彼女の紹介による
公家系統の側室の取り立てなど。御台所と仲が悪かったのは、性格上の問題だろう。
385 :
日本@名無史さん:
水無瀬権中納言氏信の娘で、典侍だった右衛門佐が大奥に入る経緯は、
むしろ桂昌院と小谷の方(お伝の方)への対抗上、
中宮鷹司房子の妹である御台所鷹司信子とその側近である上臈万里小路が画策したもの。
京風になびく綱吉をつなぎとめるため、桂昌院一派が招き寄せたのは、
大典侍局、新典侍局・・・