ちなみに昔、手賀沼の近くに住んでて、何でこんな狭い所に
大量に城跡があるんだろうと思って調べてみたら、手賀沼だけでなく
利根川や荒川、その他大小河川の湊と街道が近い場所には、通行の監視・
湊の保護・監視のために城が置かれたってことがわかった。
戦国時代は大量消費・大量生産が始まって経済的に好況だったから、
土豪や大名の領地ごとに湊や関所を作ったりしてたんだろうな。
ちうか、日本城郭大系の関東地方の見てたら、本当、川や湖沼沿いに多いな。
防御上も経済活動上も有利な立地だったんだな。
以前、戦国期関東の再現地図をどっかでみた(日本城郭体系だったか?)が、
霞ヶ浦を初めとする湖沼の広さや、利根川の支流群に驚いた記憶がある。
あれを見れば、関東における河川交通の重要性を理解して貰えると思う。
204 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 17:41:12
氏直は籠城派?野戦派?和平派?
>>193見て理解しないのは単に認めたくないと言うだけの輩でしょう
>>203 順番が逆
江戸という大量消費の場が誕生したことで関東一円から物資食料を運搬する必要が生まれた。
その中継地点として関宿の重要性が高まった、故に物資運搬の任にあたった家忠がそう評した。
それ以前の河川流域で大規模な市井は見られない。自然物流が発展する道理もない。
また城の近辺に船着場があるから物流の監視ポイントだったというのは推理の飛躍。
なんか一人だけ必死でつねw
順番が逆という理屈は家忠日記の日付と運河工事の時系列からいってそれこそありえないよ
そんなに後北条以前の水運を軽視したいのか
戦国期が経済的に大発展の時期だってことを無視してんな。
それとも、関東人ではないから認めたくないのか?w
確かに京・大阪なんかの上方ほど大規模ではなかったが、
それなりの規模の市はあったし、網目のように張り巡らされた
水上交通網と街道でかなりの経済活動が行われてたんだぞ。
>>207-208 何をどの程度の規模で運搬していたのかだけでも挙げてみてくれ。
それが出ないから信用できんのだよw
それなりの規模の市があったというのなら地名と規模よろしく。
淀川や琵琶湖の水運もなかった事になるのか?
利根川地域はなくて淀や琵琶湖はあると?????????
当たり前とする根拠ながないから話にならんな。
>>215 何が言いたい?
畿内周辺に大規模な物流が在った事は事実だろ?
利根流域でも在ったのなら早く出せよ
>>218 なんだ
お前が知ってるわけじゃないのかw
馬鹿の相手して損した
どっちが馬鹿はスレ見れば一目瞭然
一人が電波飛ばしてるだけ
憶測で違う違う言ってもなw
相手してあげただけでも感謝して欲しいもんだw
>>220 悔しさ満点の馬鹿だなw
他人の褌で相撲取ろうとした馬鹿は早く死んでくださ〜いw
さぁて、馬鹿が死んだところで飯にでもするか
楽しかったよお馬鹿さんプッ
水運が無ければ街道があるわけでもない流域の人間はどうやって物資を行き来させてたんだ?w
>>224 街道だってw
ゲームのやりすぎなんじゃね〜のプッ
水運の存在を否定するのなら、当然なぜ江戸に本拠地を移転したか?とかがわけわからなくなるし
江戸期以前の町宿の存在すらまず否定しなければならないわけだが
>>226 江戸以前の利根流域の宿場町を挙げてみろ
どうせ大した規模の物はないんだろ
以前からこのスレに利根川関係のレスがつくと決まって江戸時代からの話だからと語る人がいる
そして自説に固執し偏った主張を展開するからそのうちみんなは放置する
一生懸命頑張って水運の存在を語っている人には悪いがそいつに何を言っても無駄だから止めておきな
水運否定者
昔から必死だよな
またやってしまったよ
俺も進歩が無いよな
情けがあるならスルーよろ
>>229 俺も後悔してるよ
お前みたいな腰抜け相手にしちゃって
あんまり気にすんなよ
傍証からによる検証もなく、ひたすら否定するだけだからね。
徳川マンセー史観の害毒が未だに・・・
姫ちゃんは仔犬で、ねーちゃんがうんこ食ってるわけじゃないんだな。
235 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 01:27:12
本能寺の変がなかったら、信長が天下に王手をかけたら、北条はどうなっていたか。
236 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 07:26:37
喪前らマターリしる。楽しく楽しく♪ご大途様が
悲しむよー^^
話題変えていいですか?
明応七年八月二十五日(西暦1498年9月11日)に発生した、
静岡県南方海中を震源とするマグニチュード7.2の地震についてです。
房総半島から紀伊半島まで大津波が発生したとのことですが、
静岡県以外の地域の被害状況を教えてほしいです。
数日前の産経新聞に、その記事なかったか?
239 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 12:07:47
>>237 鎌倉大仏の大仏殿が津波で流されたのはその地震じゃ
なかったっけ?(以後露座)
240 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 13:05:01
信玄の頃より勝頼の時に領土が増えてるとか、氏康よりも氏政の頃が増えてるとか言うけど、
信玄が120万石まで増やして、勝頼の頃に10万石追加した程度だろ。
勝頼擁護はスレ違いだからしないが、
氏康→氏政なら確実に増えている、家督を継いだあとか、氏康死後と見るかで差はでるだろうけどね。
242 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 16:57:33
>>241 信長が死んだ後に上野取ったんだよね。
実力者がどんどん死んでやりやすいよね。
織田と隣接していた武田より謙信死んで北の脅威がなくなり武田と切って織田&徳川と結んだ北條のほうが遥かに有利
佐竹を降せなかったのは氏政の力不足か?
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と比べたら力不足といえる
毛利輝元・長曾我部元親・上杉景勝・武田勝頼と比べたらいい勝負だろう
佐竹義重一人だけなら何とでもなるだろうが宇都宮・結城・真田なんかが組むと厄介
伊達と北条に挟まれてあそこまで戦った佐竹義重が凄すぎる。
でも佐竹の活躍は北関東の諸大名の協力あってこそ。
北条はもうすこし他大名に寛容にしていれば・・
関東小勢力の取りこぼしも問題
結城の離脱は意外に痛い
由良や足利長尾の反抗も時間のロス
由良と足利長尾は仕方ないだろ
248 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 01:48:02
>>237>>239 浜名湖が太平洋に繋がったのもその地震。
現在の浜名湖は汽水湖だが、古代には「遠つ淡海(とほつあはうみ)」と
呼ばれたように、かつての浜名湖は淡水湖だった。
「遠江(とほたふみ)」の語源も
「とほつあはうみ」→「とほつあふみ」→「とほつあはうみ」。
ちなみに「近つ淡海(ちかつあはうみ)」は「近江(あふみ)」、つまり琵琶湖。
249 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 01:49:43
訂正
× 「とほつあはうみ」→「とほつあふみ」→「とほつあはうみ」。
○ 「とほつあはうみ」→「とほつあふみ」→「とほたふみ」。
250 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 02:31:52
信玄に、駿河を切り取られたのは痛いよね>氏康
251 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 03:01:13
甲州軍率いる信玄に連戦連敗だったんだもん。そりゃ氏政に遺言して死んで逃げるわなw
252 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 12:05:52
まあ、北条フリークの俺としては、信縄・信虎時代に
武田領を自由に荒らし回っていた時代も有ったと溜飲を下げてみる。
信虎時代は、今川北条>>武田ぐらいの感じだったのに
信玄が出てきたとたんに立場が逆転したからな
信玄の駿河侵攻の成功の三要素
信長と同盟して西の安全を確保
謙信が積極的に信濃侵攻をしなかったため北も安定
反北条派の佐竹や里見の存在
家康との連携も成功の一つだったが後で決裂してしまったので除く
逆にこれをきっかけに氏康・氏政は家康と同盟し謙信とも和平を結び巻き返しを図っている
信玄は窮地に追い込まれ駿河侵攻は泥沼化し貴重な時間を費やす
信玄と氏康の両方とも名将だよ
255 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 15:13:07
しかし信玄の駿河侵攻は、この時期の全日本的な政治環境から見れば、
後北条・今川・上杉の信長・家康への接近を招き、将軍義昭が模索していた
信長包囲網が、東国ではあまり機能しなくなってしまった一因という側面もある。
そこらへんは信長の方が一枚上手だった
北条・上杉・武田さらに徳川まで巻き込ませて互いを牽制させあったんだから
信長の一人勝ちだよな
信長も勝ってはない
まあ天下餅のいいこね役としての役割は果たしたな
258 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 16:04:15
基本的に信玄は氏康との決戦を避けているからな。
戦略で大敗してるよ。主軍同士の戦いは氏康がかなりかっている。
259 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 16:49:49
しかしこの時期の後北条は親信長なのか反信長なのか、いまいち分かりにくい。
武田は、三方が原以降は勝頼の滅亡まで一貫して反信長。
上杉は、御館の乱で景勝が勝利したことで、反北条&親武田という感じが
強くなった気がする。
その後上杉は、信長とも対立関係になるが、本能寺の変後は親秀吉に転じ、
その結果、後北条は反秀吉になったって感じかな?
まだ三方ヶ原の頃は中央をそこまで意識していなかっただけなのかも知れない。
特に因縁とかもないしね。
261 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 18:44:56
>>259 信長が武田討伐の旗を揚げた時点で明確に親信長に
宗旨変えしたよね?
安土に使者は送るわ、兵糧を贈るは駿河に攻め込むは・・・。
火事場泥棒的に露骨だけど。
なんか「関東のことは北条にお任せを!」みたいなこと言ってた気がする。
>>261 御館の乱終結後に、徳川と結び、その徳川を通じて織田に接近している。
少なくとも、天正八年には氏直と信長の娘との婚姻を約束している。
武田領に進行してから急に織田に靡いたわけではない。
>>262 「御縁辺相調え、関八州御分国に参る」だっけ、上の婚姻に際してだな。
264 :
日本@名無史さん:2006/06/15(木) 23:12:35
浜名湖→遠つ淡海(とほつあはうみ)→とほつあふみ→遠江(とほたふみ)
琵琶湖→近つ淡海(ちかつあはうみ)→ちかつあふみ→近江(あふみ)
ぶっちゃけ臣従しようとしてた訳だよね。
266 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 02:01:59
どうせなら信長に対した時の態度のように、秀吉にも
うまく対処して、なんとか滅亡は避けて欲しかった・・・・。
江戸期を20万石程度の大名でもいいから生き延びて欲しかったな。
267 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 04:15:55
狭山じゃ規模が小さすぎて
>>266 豊臣との交渉はほぼ終わっていた。
名胡桃事件で全てがパーになったけど。
このスレでも出てたが、あの件は上杉派の巻き返しという疑惑を持ってしまうな、
出来過ぎてるよ。
270 :
日本@名無史さん:2006/06/16(金) 12:19:51
>>269 同感。
しかし氏政の命で有ったと言う文書が発見されたとかも聞いたな。
上杉氏の工作とかそんなのはあくまで二次的なものに過ぎない
決定的だったのは氏政の傲慢さだよ
家康と組んで秀吉を小田原表で討ち取ろうとしてたもんな
それは中央の情勢に疎すぎるな
結果は北条の惨敗だけど秀吉も内心穏やかではなかっただろう
信長の速攻戦略の六角攻めの箕作城や北畠攻めの阿坂城、朝倉攻めの手筒山城・金ヶ崎城と同様に秀吉も山中城を即日攻略している
一夜城の築城も八王子城攻略の指示も悠長に開城を待つ姿勢ではない
家康や信雄は北条に内応しているという噂も正直不安要素だろうし秀吉自身もかなり苛々している
実弟秀長も病気で倒れて支えになる人もいないしな
そもそも、由良とかは北条寄りじゃねぇし。
むしろ出遅れたから。
>>275 名胡桃城攻略直後の猪俣邦憲にだしたと思われる手紙に、
贈り物もらったお礼と「そこ元の仕置き油断無く致すこと専一に候」
と書かれていて、それが氏政の命令があったのではという
推測につながっているらしい。
ちなみに猪俣邦憲は上野の地にあって、氏政の直臣だったようだ。
つまり邦憲に命令をだせるのは氏政ということ。
鉢形衆なら氏邦だ、と一応突っ込んでおく。
すまん、ボケきってたorz
まあ、うじうじうじうじなので、そう云うこともあらぁな。
中世関東の水運の件、kittyがウザかったんでとりあえず図書館で調べてみた。
「利根川・荒川辞典」の利根川・荒川流域河岸一覧
「近世利根川水運史の研究」
などなど。
あと、「江戸・東京の川と水辺の辞典」
この本の第三章 中世の江戸水系と湊によれば、〜戸とか〜谷、〜方と付く地名の所は
古くから水運に関する地点だったらしい。
ほかにも「第六章 利根川東遷物語 - 戦国末期の河関」によれば、北条氏照が栗橋や
関宿城主だった頃に出した書状の事や、天正15年頃に布施美作守宛てで「通行する船が
えらく増えたから、誰の船が通るにしても検査して俺の許可を受けろよ」って感じの内容
の書状を出してたりするんで、かなりの物流お通航量があったみたい。
ぶっちゃけ、合戦とかの書状は多いけど経済関係の書状って重要なわりに目立たないから、
結構大変っつーか、どっかの大学の教授にでも成れそうなくらい大変そうだ(w
>>282 あれ〜スルーするんじゃなかったの〜nencyaku君w
それとも悔しくなって蒸し返しちゃった?w
忘れた頃に話を蒸し返し、稚拙な推論とソースのこじ付けで勝利宣言ってのはお前の常套手段だよな。
必死に調べてもそれしか出なかったって、恥の上塗りして本物の馬鹿なのかお前はw
>〜戸とか〜谷、〜方と付く地名の所は古くから水運に関する地点だったらしい。
らしいかよw断定はしないってわけだな。それだと説明不十分だろ。
そりゃ河川周辺には漁師も居れば渡し守も居るだろうさw水運に依存した物流経済が確立されていたソースになってないぞ。
>通行する船がえらく増えたから、誰の船が通るにしても検査して俺の許可を受けろよ
あのな〜、船の往来の増減なんか訊いてないんだよ、こっちが訊いてんのは畿内のような船に依る大規模物流が
利根流域でも確立されていたのかってことなんだぞ?お前はなんでも「あるある」の一点張りと船の往来があったとしか
言わないじゃないか。そりゃ大型河川があれば行商を乗せた船の往来ぐらいあるだろ、だからといってそれがそのまま
物流経済の確立とは呼べないだろうが。行商が担いで運べる程度の物品の往来なら戦国以前から全国的に見られるってのw
その程度で利根ウォーターフロントとかいわれたら何でもありじゃないかw
俺が否定してる根拠は
1、利根流域に大規模な市井(非食糧生産商業地帯)の存在が確認できないこと。
(無いものは証明できない)
2、江戸(非食糧生産商業地帯)の開発が始まったことで食糧確保の必要性から大規模物流が始まった事実。
(お前が挙げた家忠日記の記述についても2に該当する)
お前が提示しなければいけないのはソース付きで
1、利根流域の大規模な市井の存在。
2、どこにどれだけ何をどの程度の間隔で運搬したかなど利根の物流に関する詳細な記録。
簡単なことだろ?これが出たら俺の負けでいいよ。出なかったらお前みたいなnencyaku馬鹿は死ねってこったw
それとも
>合戦とかの書状は多いけど経済関係の書状って重要なわりに目立たないから、結構大変
と、泣き言ほざいてるところを見ると腰が引けちゃってるのかな〜?プッ
おにいちゃんかっこいい
河川での輸送は古来より重要なものであり、
関東でもその重要性は高かった。
しかし、関東で大規模な物流が必要になったのは江戸以降であり、
それまでは今までとかわらぬ河川輸送が重要視されていた。
これでこの一件は一件落着?
>>283 普通に否定すればいいのに何故そこまで必死になる?
↑
成長しない俺って・・・
でたー!マヌケな自演3連発wwwwwww
何故そこまで必死になるんだろうねぇ〜
明日は朝一で図書館行って顔真っ赤にしながら資料漁ってくるんだぞw
草が沢山生えてるから青臭い香りが漂ってきます
もう夏ですね。
ほんとだね。
馬鹿の頭の中は一年中春だもんね。
そりゃ草木も生えるよw
>>283 私も普通に否定すればいいのにと思いますよ。
もう少し冷静に書かれてはいかが?
小田原城内の市立図書館、
夏場にいくと蝉しぐれが聞えていい気分だよ!
>>283 俺は家忠日記で粘着してるヤツじゃねぇっつーの(w
>水運に依存した物流経済が確立されていたソースになってないぞ。
依存しているとは一言も言ってないぞ。鎌倉街道やその他の街道も使ったし、川と川の間を馬や牛で輸送も
してただろ。
>畿内のような船に依る大規模物流が利根流域でも確立されていたのかってことなんだぞ?
大型の高瀬舟は中瀬までしか登れないのに、機内のような大型船での大規模輸送ができると思ってんのか?
まさか、外洋航海するような船でしか大規模輸送はできないとか思ってんじゃないだろうな?(w
ちなみに、中瀬までは1000俵、中瀬から倉賀野までで500俵、倉賀野より上流では300俵以下しか積めなかった
んだよ。
とりあえず、喪前の要求する物を書き出したらスレがいくつあっても足りないんで、
>>196であげた本以外に
↓のも読め。
★関東河川水運史の研究、★新・利根川図志上・下、★中世関東の内海世界、
河岸に生きる人びと−利根川水運の社会史、群馬の水運史、上利根川水運史の問題、海の道、川の道、
近世利根川水運史の研究、中世東国の世界1北関東・2南関東、常陸風土記、新編常陸国誌、
関東地方の中世城館2 埼玉・千葉、新編埼玉県史、群馬県史
それと、些末な事やさらなる詳細な事は↓の会報に詳しく書いてある。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~tonebun/index.htm とりあえず、漏れが上げた資料を読みもしないで、関東や利根川には交易・交通・流通網が無かったと吼えるのは
やめていただきたい(w
283はおかしい奴だから気にするな
いやいや、283にはもっと頑張って貰いたい。
282や296の様に、知らなかったことを知る機会になったしね。
関東における河川水運の重要性は認知していたが、
具体例を目の当たりに出来たことは望外の喜び。
今、水上の銚子河岸から江戸の港や銚子の港までのルートや湊をリストアップしてる。
しかしまぁ、鬼怒川や渡良瀬川、荒川とか多摩川なんかが縦横無尽に走ってるから
大変だな・・・。
まぁ、物資輸送の書状とか許可状、保護をお願いする書状なんか探すよりは楽だけど(ww
中世水運史の研究、図書館にあったかな?