1 :
日本@名無史さん:
2 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 17:52:13
詐欺事件がどう落ち着いたのか気になる、2ゲト
3 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 19:26:10
名前がイイ
いかにも高貴そうで
しかしアニヲタや腐女子がペンネームで使いそうだ
4 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:33:18
熾仁親王は新政府の総裁になったり元老院議長になったり日清戦争では陸海軍参謀総長になったり地味にすごい
5 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:55:24
有栖川有栖
6 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:40:30
幟子女王と利子女王は美人だが姉妹なのに会ったことがない
7 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 00:54:03
8 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:30:50
9 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 20:09:03
幟仁親王は五箇条の御誓文の正本の揮毫をしているってことは
そうとう書道がうまいんだろうね
10 :
日本@名無史さん:2006/05/12(金) 17:42:23
まあまあね
11 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:11:17
熾仁親王は水戸藩の貞子と結婚してるけど
これは水戸藩が有栖川と縁続きということもあろうが
やはりまだ王政復古してからまもなくて、政情が不安定で
天皇一族と慶喜の一族をくっつけることによって旧徳川幕臣旗本達を
おとなしくさせる意味もあったんだろうか
12 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 18:32:33
慶喜は自分が皇族の血(生母が有栖川宮家出身)をひいていることを誇りに思っていたらしい
13 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 01:05:04
慶喜生母の吉子はかなりの能書家だったらしい
14 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 12:17:42
裁判5月15日(月)被告人:有栖川識仁こと北野康行 有栖川晴美こと坂本晴美
起訴事実:詐欺
15 :
日本@名無史さん:2006/05/15(月) 20:26:17
>>11 旧幕政に未練を残していた江戸市民達は天皇様は徳川を見捨ててはいないと
この結婚を喜んだろうね
16 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 18:08:24
>>8 小松宮妃はブ○だね
小松宮妃の父の正室は有栖川宮の出身らしいけどその人には子供はいたの?
17 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:38:51
有栖川宮職仁の生母は誰?
18 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 17:45:11
松室敦子
>>11 そうそう、何かあれば周りに「祖父は有栖川だぞ」って御触れまくったらしい
「徳川家」でも十分なのにね
20 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 00:36:28
高松宮2代である後西天皇の著作、水日集って何?
21 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 16:55:46
徳川慶喜は天皇家の血を引いたただ一人の将軍
両親から武家と天皇家のトップを総見する血を受け継いだ
22 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 23:02:55
だから、討幕の血祭りとして会津藩が選ばれた!
23 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 17:33:37
司馬遼太郎曰く熾仁親王は無能で人がいいだけ
24 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 21:22:04
容保も後陽成天皇の血を引くはずだが・・・関係ある?
25 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 01:22:34
烈公こと徳川斉昭は世子である慶篤の正室幟子(幟仁親王の娘)を
手篭めにしてしまいそれを苦にして幟子は自殺したという話がある
26 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 09:13:16
職織識熾幟
27 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 09:27:36
もう傍系でも有栖川宮の男系は残ってないの?
28 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 09:58:58
>27
女系しかいない
29 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 10:32:42
旧皇族が再興してほしい
鷹司家だって二条家が再興したんだし
30 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 18:31:05
韶子女王は長生きだけど子供はいたのか?
それと幟子女王のことを詳しく
31 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:38:40
2ちゃんねらってなんで貴族マニアとか系図マニアが多いの?
適当に旧華族の名前でググったら必ず2chのスレに行き当たるんだけど?
お前ら貧乏人の憧れ?w
32 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 19:54:48
と貧乏人が申しております
33 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 22:02:39
烈公は超スケベだからなあ
34 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 11:15:49
幸仁親王が江戸幕府の将軍職についていたとしたら
鎌倉以来の宮家将軍だったのに
35 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 23:27:02
三十代で子を産んだ吉子女王は美人だったに違いない
宜子女王と利子女王は同母姉妹だけど顔は似ていたのだろうか
36 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 00:24:12
37 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 00:31:02
高松宮と喜久子妃に子供ができてればそのうち有栖川宮家を復活させたと
思うがね(高松宮としたのはその布石だったろうし)。
その夢も絶えた今、有栖川宮家を復活させようと思ったらどうするのが
いいだろうね。
38 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 00:32:25
復活させる理由がわからん
39 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 18:45:11
>>12 慶喜が一橋家を相続してまもない頃、将軍に挨拶に伺った時
奥女中から「御母君は誰であるるか」とからかわられ
慶喜は「祖父は有栖川なるぞ」と答えたらしい
40 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 20:51:18
吉子女王と宜子女王は子孫が確実にいる
音仁親王や織子女王もたぶん子孫がいる
あとはたぶん子孫はいない
41 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 22:38:35
42 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 08:26:35
美醜が判断できないほど年とっている
43 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 11:40:46
>>39 週刊日本の100人の徳川慶喜に載ってたな、それ
44 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:54:55
宣仁親王妃喜久子-Wikipedia
>また、喜久子妃は徳川家の出身だが、自らが徳川の血筋というよりも母方の有栖川宮家の血筋に誇りを感じていた言動が多々見受けられる。
>これは、祖父である徳川慶喜が有栖川宮の血をひいていることを、誇りに思っていたことと相通じるわけである。
45 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:09:59
46 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 11:24:11
47 :
天鏡閣:2006/06/09(金) 12:33:28
猪苗代湖畔にある有栖川宮別邸の天鏡閣は素晴らしい。
和宮との婚約解消させられたタルヒト親王。
48 :
日本@名無史さん:2006/06/09(金) 19:04:27
「有栖川宮」を名乗る“有栖川宮識仁(さとひと)殿下”と“晴美妃殿下”なる人物が、
今年の4月に「有栖川宮記念奉祝晩餐会」と銘打った結婚披露宴を開き、
祝儀をだまし取っていたというものでした。
当時、私も週刊新潮4/17号に載ったその披露宴の写真と記事を見て、
「何、これ」と、不思議な気持ちになっていました。
“妃殿下”晴美さんが語るには、
「有栖川宮の祭祀は85年に継承しました。
殿下はお母様が有栖川家の外戚で、高松宮のご落胤です。」
と、上品な口調で、淀みなくお答えになっていたと、ありました。
確かに、今回のTV報道により、言葉のはっきりした声のきれいな方で、
なかなかのキャラクターとは思いましたが・・・。
しかし、昭和62年に亡くなられた高松宮宣仁殿下といえば、
兄・昭和天皇をもっと濃くした感じのお顔立ち。
この“識仁殿下”とは、似ても似つかん・・・。
立て板に水のごとく話す晴美さんの傍らで、その時、発した唯一の“お言葉”が、
「ご落胤は、ちょっと・・・・・・」
・・・怪しすぎる。
49 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 00:10:33
故井伊直愛市長も有栖川の血を引いている
>>21 そういった女系の子孫はふつう、天皇家の血を引くとは言わないんじゃないの?
天皇家から男系が養子に入って将軍家を嗣いだのならすごいと思うけど。
51 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 19:26:58
まぁ確かにそうだけど
妾腹が多い徳川将軍の中で
慶喜は稀有ということで
52 :
日本@名無史さん:2006/06/25(日) 20:47:47
大本教の誰か、有栖川宮の落胤ていわれてなかった。
53 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 00:37:18
江戸時代の有栖川宮家について語る書き込みはひとつもないのかよw
54 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 17:11:30
この当時にしたら吉子女王は超高齢出産だったとおもう
大名家は30過ぎたら正室側室問わずお褥さがりだから
秋篠宮妃殿下のご懐妊がたいへんめでたい慶事であるのは、もちろんのことです。
しかし、生まれてくる子供が男子であろうと女子であろうと、
皇室の危機が消えてなくなるわけではありません。
仮に男子ご誕生となったとしても、平成生まれの皇子がたったお一人では、
皇室の末永い安泰はおぼつかないでしょう。
ということですから、やはりどうしても、ここは六十年前までは宮様であらせられました家柄の方々に
皇室に帰ってきていただくよりほかに仕方がないと思います。
でも、実際のところ国民の誰も彼もがこの旧宮家のことはきれいに忘れてしまっているのが現実です。
そこでどうするべきか?やっぱり日本は国民主権の国なのですから、
国民のみなさんに旧宮家の方々のことをもっともっと知ってもらうのが一番でしょう。
そんなわけでわたくしの同志の一人が2ちゃんねるの極東板にそういう趣旨のスレを立てました。
みなさん、よろしくお願いいたします。
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/asia/1151109637/
56 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 22:00:49
旧宮家を皇室に戻すくらいなら共和制のほうがまだましだ。
竹田恒泰の下卑た顔と愚かしい言動を見ろ。あれが旧宮家というものだ。
>>54 禁中&公家や武家の高齢出産最高記録は誰の何歳なんだろうね?
ぱっと思いつくところだと、
後深草院の中宮西園寺公子(東二条院)の39歳、徳川家宣の御台所近衛熙子(天英院)の39歳
40歳過ぎもいそうだけどフォローよろ。
58 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 13:03:14
>>57 鷹司信房の正室佐々輝子はどう?
1581年に最初の夫との間に佐々四郎五郎が生まれている。
それから21年後に生まれたのが鷹司孝子。
孝子は信房輝子夫妻の五番目の子で下に弟か妹が二人いる。
59 :
日本@名無史さん:2006/06/27(火) 13:22:37
江戸時代以前なら、
40代の出産はけっこう多いよ
60 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 19:28:56
利子女王の夫貞愛親王は鷹司景子妃が数え46歳のときの子
景子妃は貞愛親王を産む2、6、8年前にも王女を産んでいる
61 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 21:21:22
偉いね
紀子妃殿下があやかられると良いのですが・
63 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 15:56:05
雅子妃殿下
45歳で皇太男孫御出産
64 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 13:49:10
65 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 18:17:27
現在の皇后陛下が戦後を代表する貴婦人であるとしたら、高松宮妃殿下は、古き佳き時代を代表する貴婦人のお一人であったと思います。有栖川宮家と徳川家の血を引く妃殿下は、
高貴な方が生まれついてもっておられるオーラのようなものをお持ちでした。実際に話しておられるお姿はかぞえるほどした拝見していませんが、「生まれながらの貴族とはこういう方をいうのか」と感動に近い気持ちを覚えました。
誤解がないように申し上げておきますが、皇后陛下のように、深い知性の上に誰にも真似のできない努力と重ねてこられた方も素晴らしいと思います。
(それを、秋篠宮妃殿下が懸命に見習っておられる姿に好感を持っています)また、高松宮妃殿下のように、生まれもった血筋と、ご本人の学ばれたことが結びついての貴婦人ぶりも素晴らしいと思っています。どちらがどうといわけではありません。
66 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 14:36:56
万里小路家
67 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 21:19:23
有栖川宮家の子孫がどうしているのかなんてどうでもいいよ。
それよりなぜ有栖川宮家が創設されたのか、その理由を知りたい。
68 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 22:20:37
カメラマンの徳川慶朝さんは慶喜公の子孫だから、有栖川宮家の血筋でしょ。
69 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 18:12:38
平沼赳夫の真佐子夫人も徳川慶光公爵の娘
70 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 08:06:04
高松宮妃殿下のお雛様を拝見したが、あんな豪華なものは二度と作れないなと感動したよ!
あとね、本来の高貴な女性って男言葉に近いんだよね。
だから、現皇后陛下は、旧皇族妃から嫌われたのだと思う。
平民から嫁入りした連中は、無理やり上品ぶってる感じが鼻につく。
生まれながらの人は自然体でイヤミがないが、外から入った人やそういう人に
育てられた世代は男もナヨナヨしてて気色悪い。
72 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 16:59:00
有栖川宮、高松宮の祭祀って結局どうなったの?
書道は秋篠宮が継承したけど祭祀は継承しなかったの?
継承してたら将来悠仁親王のお子様が有栖川宮を再興するかも?
73 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 17:08:37
第11代識仁親王最強
74 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 17:09:13
俺の親戚の親戚が親戚が昭和天皇 顔も似てる。
75 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 18:51:49
有栖川といえばエスパー伊東
76 :
日本@名無史さん:2006/09/13(水) 11:27:13
公園の名前でしか認識されてないような気がする。
77 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 21:57:45
>>72 有栖川宮の祭祀は高松宮が継承し、高松宮の祭祀は高円宮が継承した。
つまり高円宮が両方やってる。
もしかしたら違ってるかも。
ってか高松宮妃ってまだ生きてなかったっけ?
いい加減なレスでごめんよ。
どちらにせよ、唯一の男子である悠仁親王がこれら全部を継承することには違いないね。
高松宮家って有栖川宮各当主の行実を作ったりと編纂事業を盛んにやっていたよね。
そういうのをぜひほかの宮家もやっていただきたい。
ところで桂宮(四親王家のほう)の祭祀はどこの家がやっているんだろう
80 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 02:53:43
81 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 00:34:41
和の宮も有栖川宮家に書道を習いに来てましたね
親王に淡い恋心を抱きながら……
許婚であったはずなのに
運命はお二人にとってあまりにも
残酷でした
二人ってリアルでは一度も会った事ないんじゃなかったっけ
84 :
日本@名無史さん:2006/11/03(金) 17:55:47
有栖川宮の初代、幸仁親王は後西天皇の皇子。5代将軍の候補にあげられたこともあったが立ち消え
リアルではあったことがない
淡い恋心とやらは完全な妄想
有栖川宮家に行ったことなんてないんじゃないのかい?
当時の高貴な人の婚約なんて結婚までお互いの顔も知らないよ。
よくて絵姿を見れる程度。まして有栖川宮と和宮とは一面識もなかったしね
引き裂かれただの悲恋だのってのは、後世のドラマや小説で勝手に書いた後付だ
87 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 08:30:04
有栖川の祭祀は高松宮が継承してたけど、そっちも断絶してどうなったんだろう?
88 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 14:10:09
断絶した宮家の祭祀は、継承者がいないと宮中三殿に合祀されるらしい。
89 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 14:21:54
悠仁親王が二人以上男子をもうければ有栖川宮の祭祀を受け継ぐのでは
そのときの宮号は花町宮がいいな 二代目の良仁親王の宮号だったし
90 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 15:26:42
元皇族とその男系子孫を復帰させ、内親王女王との男子を王とする。そして宮家間(東宮家は不可)の養子を解禁する。
旧宮家が復活し、現状では全滅する現宮家が存続、更に既に絶家した宮家も天皇の勅命で再興させる。
個人的には再興は、近親順に秩父宮→高松宮→有栖川宮→桂宮(現桂宮と区別する為、八条宮で)→山階宮→小松宮→華頂宮→閑院宮→東伏見宮がいいと思う。
>>90 今の皇統って閑院宮系だから俺としては閑院宮家を創設してそこから宮家を分けるのも乙だと思う。。
93 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 19:57:04
「閑院」は現天皇家の隠し姓だから(ry
皇室の姓は閑院氏。その前は伏見氏。その前は持明院氏。
95 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 00:14:15
>>94 宮号は姓とはちがう。
宮号は皇族個人に与えられた称号
たとえば崇仁親王は三笠宮だけど その長男の寛仁親王にはその称号はつかない
崇仁親王が薨去して はじめて寛仁親王が三笠宮の称号を継ぐことになる姓とはまったくちがう。
96 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 01:55:21
97 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 05:51:58
悠仁親王に複数の男子が出来て新たに宮号が出来るとどういうになるのかな?
親王任国の常陸の常陸宮に続いて上野宮(こうずけのみや)とか?
98 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 11:37:44
徳川が支配していた地域を宮号にして皇統をより示すべき。
駿河宮、尾張宮、紀伊宮なんてナウいじゃまいか。
99 :
日本@名無史さん:2006/11/06(月) 15:43:32
勧修寺宮とか復活キボンヌ
100 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 00:30:55
100
101 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 17:54:43
このスレを伏見宮意外の〜〜〜の後継スレにしよう
102 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:18:19
有栖川を語るスレであって伏見を語るスレじゃない。
103 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 18:56:52
有栖川家が存続してたら、伏見一門の出る幕はなかった。
孝明帝は睦仁が虚弱だったので、幕末に幕府に腹を立て譲位を思い立ったときも、
有栖川宮に譲位するつもりだった。
104 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 00:13:01
105 :
安藤某:2006/11/09(木) 00:31:08
>>104さんったら、意地悪なんだからぁ(>_<)
その手の名誉職を連ねちゃうと怪しさ爆発じゃない
(^o^;)
世間知らずなご家庭で、お育ちになったお父さん達だしぃ
エリート街道のビジネスマンや役人だから…箔がつくより、傷つき易いって判らないんだろね
106 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 00:37:11
107 :
安藤某:2006/11/09(木) 01:06:25
>>106さん
今も昔もないよ
宮家自体はスペアとしての存在感をだすには
その時代の天皇と対抗できる能力がないとね…
だから、能力が無ければなくなるし
能力が有れば、クーデターの噂とか、謀反の企てなんかの目で見られたんです
伏見宮家は安泰どころか、紙一重で存続し続けたと言ってもいいかもね
でも、北面武士の徴募や訓練、再就職の斡旋を通じて、今で云う特殊作戦部隊を政治目的に使える立場にはあったのは無視できないよ
じゃあ
>>104のサイトに出てる人たちは一応本物の子孫なのか(;゚д゚ )
とてつもなくあやしい詐欺集団にしか見えないんだが・・・
109 :
日本@名無史さん:2006/11/25(土) 18:10:09
被害者が資産家の相続人の場合、2次相続人(朝鮮宗教員)と結婚させられる。
例・・・雅子妃は大鳳会(おおとり)=外務省創価のメンバー
この場合の財産は「皇位継承権」もし、愛子様が男で皇位継承権者になられたら
皇太子様の中抜き(病死)が行われた。高円宮(47急死)で実験済み
母方のみで鮮人化皇族教育された「朝鮮オタク」の天皇が誕生する。
110 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 06:27:10
>>95 個人に与えられるのは幼称であるご称号。
宮号については宮家を創設されたという表現がしばしば使われる。
寛仁さまは三笠宮寛仁さまとも呼ばれ、
秋篠宮家でも学習院での表記は秋篠宮〜内親王、
悠仁さまは秋篠宮悠仁さま。
紀子妃はご自身が公務で『秋篠宮紀子』と仰られていた。
宮さまが〜宮と宮号をそのまま呼ばれるのは当主だからで、
それは華族制度時代に宮家継承者の王(親王宣下以前)が
〜宮若宮と呼ばれていた事にも表れている。
111 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 08:28:52
この際、ナルくんは民間に去って浩家を創設し、浩徳仁氏になってほしい。
112 :
日本@名無史さん:2007/01/14(日) 08:55:32
福島県猪苗代にある天鏡閣は美しい。
明治の洋風のたたずまいを今に伝えます。
113 :
日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:32:57
慶喜の兄に嫁いだ王女は何で死んだの?子供はいたの?
114 :
衣笠宮:2007/01/20(土) 02:09:29
職仁親王の第一男子である音仁親王は、法親王や入道親王に
なっていないので、父親王の後継者であったと思うのですが
不幸にも父に先立って亡くなられている。
そして、その時に9歳の息子がいたのに、すでにその2年前に
出家させており、音仁親王が亡くなった時、父職仁親王は、
孫を跡取りとしないで、その年に生まれた自分の息子織仁親王に
跡を伝えておられる。当時は、幼児の生存率が低かったのに、
どうしてこのような無謀な選択をされたのでしょうか?
また何故、音仁系が嫡流とならなかったのでしょうか?
系図を眺めていて何故か違和感を感じます。
115 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 09:44:32
お母さんが正妻だった。
116 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 11:15:56
あぼーん
118 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:02:40
>>114 音仁親王の王子は出家させてしまった以上有栖川宮を継ぐにはふさわしくないので
ちょうど産まれてきた織仁親王を跡継ぎにした。織仁親王が跡を継ぐ前に何かがあったとしても
職仁親王にはこれからも子供を作る自信があったのでしょう。
音仁親王の子供が出家させられていたのは母親が家女房だったからと推測
音仁親王自体にはたしか縁談があったはずだから、今後正嫡の子供が生まれる可能性がある
のにわざわざ庶子を跡継ぎにする必要は考えられないので、寺に出した。
いろいろだよ。
宮家だと平堂上の娘や地下官人の娘もいるし、庶民の娘もいる。
平堂上だと寺家官人の娘や庶民。
121 :
日本@名無史さん:2007/01/20(土) 13:53:26
100年前の…ずいぶん詳しいな〜オタクかな?
>>120 なるほど。いろいろいるんですね。
参考になりました。
123 :
116:2007/01/20(土) 23:03:25
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124 :
123:2007/01/20(土) 23:13:25
なにこれ!?気持ち悪〜。
もう一度書きなおすね、ごめんなさいm(__)m
116で常信院は織仁親王の生母とかいたけど織仁親王の家女房で韶仁親王の生母。織仁親王の生母は家女房の後藤温子。ホントニスマソ
125 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 23:54:40
>宮家だと平堂上の娘や地下官人の娘もいるし、庶民の娘もいる。
後藤温子の家は、どういう身分の家なんですか?
父の名などご存知の方はいますか?
126 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 02:33:19
美人多い。
>>83 公式記録にはないらしい。
習い事は公式行事じゃないからね。
未婚の女宮が独身男と会ったなんて記録に残さないだろうし
失礼だけど公武合体の話が出るまでは宣下もない先帝の宮様だから。
128 :
日本@名無史さん:2007/02/21(水) 00:17:24
確かに和宮の話は必要以上に美化されている気がする。
>>125 後藤温子の出身、父の名前はしらないが、宮家の場合正妃の侍女が側室になるケースが多いみたい。
常信院も妃の嫁入りについて行ってかえって寵愛されたし。光格天皇生母も典仁親王妃について閑院宮家に入り天皇の御生母になった。
韶仁親王の家女房で幟仁親王の生母となった豊島勝子は島岡俊章の娘で豊島勝文の養女になったと「平家後抄」だったかな読んだ。
130 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 18:05:40
天鏡閣あげ
131 :
日本@名無史さん:2007/02/22(木) 18:14:16
132 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 16:09:07
有栖川という名前は何か人を惹きつけるものがあるようだな・・・・
133 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 16:18:36
ごく平凡な梨本氏を名乗り、実は梨本宮の系譜って方がかっこいいと思う。
134 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 18:30:09
135 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 23:19:18
質問です。
江戸幕府5代将軍の選出の際
大老酒井忠清が宮将軍として祭り上げたといわれる
有栖川宮幸仁親王は
徳川家康次男秀康の子忠直と
徳川家康三男で二代将軍秀忠の娘勝子の
間にできた子供だそうなのですが
・・なにゆえこの二人の子供が宮様になってるのか
わかりません。
詳しい人教えてください。
136 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 23:38:23
明らかに違うでしょ
忠直
├亀姫
勝姫 ├──明子女王
好仁親王 │
後西天皇─幸仁親王
勝姫は慶長6年(1601)生まれ寛文12年(1672年)死去で
幸仁親王は明暦2年(1656)うまれ。
55歳で子供を産むのはほとんど無理ではない?
幸仁親王の生母は清閑寺共子。ただ光長の妹亀姫(寧子)の娘明子女王が後西天皇の正妃のため幸仁親王の嫡母ともいえるから【坊主憎けりゃ】みたいに光長にまでとばっちりがかぶったとみえる。
138 :
137:2007/02/24(土) 02:38:56
↑書き忘れ。光長にあたったのは5代将軍となった綱吉。
光長は改易されたからねぇ、気の毒。
139 :
日本@名無史さん:2007/02/24(土) 08:50:08
>>132 公式に家が断絶していて子孫がいないというのも大きいだろうな
140 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 13:42:53
あと「有栖川」というなんともいえない響きだろうね。
例に出して申し訳ないが「竹田宮」だったらここまで出てこないと思うよ。
単純に活躍した人が居るからでないか。
華頂・北白川・朝香辺りは
美しい宮号だがさして取り上げられない。
142 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 13:23:49
143 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 14:25:01
144 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 15:50:04
>>141 だろうね。
でもメジャーすぎるから、俺なら賀陽宮や閑院宮を自称するが。
しかし梨本宮と高松宮も捨てがたいな。
よくある字面なのにダサくなくて程良い普通さに好感がもてる。
現行だと秋篠宮と常陸宮が良い味出してるわ。
上総宮や駿河宮、信濃宮、尾張宮なんかもあったらかっこいいんだろうな。
そう考えると戦艦の名前を考えた奴はセンス良いな。
>>144 > そう考えると戦艦の名前を考えた奴はセンス良いな。
旧国名を戦艦の名前として使うことに法的に決まったのは明治38年8月だそうなので、この命名法で最初に国名が付けられ
たのは日露戦争の戦利艦だという罠。国産に限ると「薩摩」「安芸」が最初。
それまで使われていたのは特に基準のないケースで、明治初年に摂津・武蔵・和泉・河内などが使われていた。
それはともかく、日本には60数隻の戦艦を同時に就役させる国力はないので全部の名前が勢ぞろいとはいかないのが惜しい。
146 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 00:37:26
ありすがわ 皇尊
147 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 00:52:25
梨元勝が梨本宮の直系
149 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 07:34:05
150 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 22:45:56
ありすがわ 皇尊
151 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 22:42:09
太田皇尊
152 :
日本@名無史さん:
有栖川皇尊