徳川三百年の天下泰平の基礎を築いた家康
日本史上比類なき偉業を成し遂げた割には、一般的な評価はあまり高くない
徳川家康についてもう一度考えてみよう
2 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 13:31:09
まぁ、目新しいことなにもしてないしなぁ。
基本政策は秀吉時代を引き継いでるし。
信長・秀吉の後にスリップストリームで最終ラップで優勝したような
3 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 13:32:53
1だが、やっぱり人気ないw
わかる人にだけわかればいいってことか
そういう偉人がいてもいい
5 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 01:33:29
俺は子供のころ戦国三大天下人の中で家康が一番好きだったんだが。
おれみたいなのは稀なのかな
6 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 06:45:57
安心しろ、俺も家康が好きだ(静岡市民)
7 :
日本@名無史さん:2006/05/20(土) 06:51:14
安心しろ、俺も家康が好きだ(かんとう○○○○市民)
徳川家康 (松平元康)
本拠地はともかく、自身の本名の苗字も名前も変えた事がある革新的な戦国大名。
後世、成功者であるが故に保守的な儒教的名君として様々に神格化されている。
史実では若い頃は三河一向一揆で約束破って平気で寺々を破壊したり、年老いては
豊臣との約束破って平気で城の堀を埋めたり、どうにも行動が老若とも同一人物に
しか思えないけれども不思議と影武者説などもある。織田との同盟関係は良好で、
関が原の合戦の後、信長の直孫(三法師だっけか?)の所領を没収、穴山梅雪、河尻秀隆
よろしく例によってターゲットは都合よく死去。まあ家康がやったという証拠は無いんだが。
なお、関が原の合戦では西洋の南蛮鎧でそれなりにカブいていたが注目されなかった。
9 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:22:12
大阪だが家康は割と好きだ。俺こそ稀だな
10 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 00:43:47
士気旺盛な武田軍に懸かっていったお馬鹿さん。将兵の命より面子とプライドですか。そんでアボンして食い逃げして糞漏らすんですか。イプソスの戦いのダレイオス三世以下ですな。
11 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 10:39:52
>>10 そのお馬鹿さんとの対決で部下の暴走を押さえきれずに惨敗し、妹夫婦を離別させ
奥さんにしてくれと妹を差し出した上に実の母親を人質に差し出したエテ公。
そのうえ自分の子供でもないガキを認知して、実の甥とその妻子を虐殺し、自分の
政権を終わらせるきっかけを作ったエテ公
そのあげく「ガキを頼む。頼みます」と糞、小便、よだれ、鼻水、涙を垂れ流してダレイ
オス三世と比較するもおこがましい”糞漏らし”に哀願しながら死んでいったエテ公
そのエテ公の下でえばりくさってて同期の武闘派から総スカン食らった自称超エリートくんが
相手だったから、たまたま天下が取れた”糞漏らし”
とこれぐらい罵倒する気概を持って欲しい。
いやマジで!
12 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 13:46:31
初代将軍 徳川秀吉
13 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 02:17:18
家康って三方ヶ原の戦いの時にうんこを漏らしたらしい
14 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 10:45:35
飯の味噌が雨でながれて鞍についたらしい。負け戦の暗い雰囲気を吹き飛ばす為に部下が殿、糞が漏れておりまする。と言ったらしい
15 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 10:49:44
雨の中、馬上で飯を喰ってたの?
16 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 11:41:36
鞍にぶら下げた飯の入った袋からだそうです。
17 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 11:52:08
なるほろ
18 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 21:43:51
家康を再認識というか再評価してみると、
「信長」はもともと大名の子として生まれ、
「秀吉」は出世して主家をのっとる形で大名となり、
「家康」は主家に謀反をおこして独立した大名となり名を変えた
一番下克上の戦国の世を感じさせるのが、実は家康の経歴。
まあ何だかんだで250年に渡る平和を作り上げた開祖なんだからスゴイわな。
当時としては長寿で元気だったのも良かったのかね
晩年の鷹狩で長鉄砲使って鶴打ち落としたりと、死去直前まで矍鑠としてたそうだから
21 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:18:26
>>18 いやアンシャンレジュームだった。
「信長」は将軍・天皇・寺社組織等の旧体制権力の破壊者だった。
「秀吉」は更に一介の農民から豊臣姓を得る程の出世をし、身分制自体への挑戦者だった。
「家康」は旧来の将軍を頂点とした幕府体制に戻し、身分の再固定化を行う事で、旧権力に擦り寄ったのである。
秀吉は検地と刀狩・石高確定を通して曖昧だった身分制度を固定化した張本人じゃんか…
23 :
日本@名無史さん:2006/05/25(木) 22:40:02
つまり、誰でもトップに立ちたいし、自分をトップとして身分を固定化したい
よく言われるように、順序としては信長→秀吉→家康で正解だった
>旧体制権力の破壊者
旧体制とか宗教勢力とかいった区分けではなく、単に敵対する勢力を破壊し
ただけでは。無神論者説も疑わしく、思想は中世のそれ。
信長は近代人であったかの様に言われていますが、寧ろ中世の最末期に位置
づけられる人物だろうと思います。秀吉・家康は近世。
勿論、三者揃ってでないと論じられませんが。
晩年の信長は自分を神格化したけど
別に他の宗教ぶっ潰せとはやってないし
あれだけしつこく敵対した本願寺に対してすら宗派撲滅を考えた素振りもない
神格化なら謙信や信玄も仏法の神に自分を仮託してやってるし
徳川家康の「徳川」という姓の人は家康の先祖にいたの
かもしれんが、やっぱり「今川」に対抗する意味で
つけた苗字かなあ・・・。
こう考えると今川氏真は偉人なのだ。(ていうか今川家が)
>神格化なら謙信や信玄も仏法の神に自分を仮託してやってるし
毘沙門天と不動明王ですね。毛利や島津でも氏神に「なぞらえて」います。
信長が自身を「神の如く」崇めさせたという記録は宣教師のものにしかなく、
彼らの宗教に対する偏見によって生じた誤解であるとして否定する意見が
大勢でしたが、近年になって他の戦国大名も類似した行動をとっていた事
や神の「如く」振舞ったのであって自らを神としていた訳ではなさそうだと
いう事から、肯定する意見も出ています。
いずれの主張も、信長の独創としてはいないという点では共通している。
この後結実したのが本当に神とした豊国大明神であり、東照大権現だった。
なお、信長が「第六天魔王と自称した」、「無神論者であった」、「明を攻
める予定だと語った」、「自らが内裏であり国王であると称した」という
のも、宣教師の記録にしか出て来ない様です。
実際には、八幡神を信仰していたらしい。神はただ一つであるという世界観
からは、神の如く振舞う事=無神論者としか見えなかったのでしょう。
>「徳川」という姓の人は家康の先祖にいた
上野国新田郡徳川の地名ですね。独立して新たに由緒を主張する必要があっ
たからでしょうが、今川(だけ)を意識したかどうかは。
宣教師の記録ってキリスト教徒に対応が辛くなると、以前は布教に協力してくれてベタ誉めした人物でも平然とおかしく言うから
素直っちゃ素直だけどw
宗教対策については三河時代の家康が強烈でしょ
「元もままに戻す」と寺社側と講和したくせに寺ぶっ壊し
「元も野原に戻したんだ」とうそぶいた
一方で信教を理由に反逆した家臣らは咎めず
若いときから老獪の片鱗はあったんだな
>>28 秀吉に関する記述は酷いですね。禁教前後から明らかに悪意が入っている。
容貌から性格までメタメタに書いており、碌に火薬も装備していなかった
朝鮮の軍も、秀吉と戦う相手というので軍備が充分な精鋭扱い。
>29
>「元も野原に戻したんだ」とうそぶいた
たまに聞きますが、どの史料に出て来る話なのでしょうか。
>>38 「参州一向宗一揆宗乱記」
もっとも無条件で破壊したわけじゃなくて、改宗した寺僧は許している
…と、いっても僧侶にとってそれは死刑に等しいかもしれんけど
ありがとうございます。後日確認してみます。
33 :
日本@名無史さん:2006/05/26(金) 21:23:23
>>26 とぅわしか新田源氏につならる「得川」姓を
松平家にこじつけられるっつーことで勝手に経歴詐称し
朝廷の去る筋に賄賂を送って恥とも思わず
そのうえエガワと読むのを
漢字の得ではもんだいありっつー事で極悪非道にも徳の字に改め
強引に読み方もトクガワにしてしまったくせに
それでもあつかましくこれは新田源氏の出の徳川です
と厚顔無恥にも僭称し
自分の立場に物を言わせ極悪非道にごり押ししたと聞いたことがある。
『雑談集』に既に「徳川」と書かれていますよ。
もっとも、私が持っているのは寛永21年版を底本としていますが。
35 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 09:08:51
天下を取ること自体極悪非道を重ねないと取れない
経歴詐称くらいまだましなほう
>>33 家康が徳川を名乗るようになった時はまだまだ小大名で
新田源氏とか征夷大将軍とかなんて夢でも考えられる時期ではないんだが?
源氏がどうこう言い出したのは関ヶ原後だろ
>>35 経歴詐称なら留学経験があると主張していた国会議員やAV出演歴があった某通信会社系子会社の女性社長だって
やっている。家康の詐称くらいたいしたことではない。
38 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 21:52:33
>>33 経歴詐称なら秀吉もやってるんだけどね、
近衛家の養子になることのは恥ではないの?
義昭の養子になろうとして断られたという
説もある。(?だが)
39 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:28:54
なんで養子(猶子)縁組まで詐称になるねん
藤原秀吉、平秀吉、天皇の落胤、日輪の子
秀吉厨は自分のことを棚に上げるから困る
41 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:14:26
堂々たる経歴詐称 藤原信長→平信長
壮大な経歴詐称 天皇の落胤、藤原秀吉 平秀吉 日輪の子
ささやかな経歴詐称 松平→得川→新田→吉良(系図買いました)→徳川
42 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:20:43
>源氏がどうこう言い出したのは関ヶ原後だろ
もっと前から。
秀吉も太閤秀吉・将軍家康政権構想を抱いていた。
43 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 00:02:13
>>41 家康は頼朝を崇敬していたので、源氏以外興味なかった
氏姓がないと官位が貰えないから、種類はともかくやりたくなくても詐称せざるをえなかったんじゃないかね
45 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 00:46:04
松平から徳川に改めたときは
藤原姓を名乗っていた。
源氏への改姓は天正末、
関東入りの頃。
46 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 00:56:25
木下はねねの実家の苗字のはずだか。
47 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 11:21:24
あれ?ねねの実家”も”偶然 木下じゃなかった?
48 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 13:09:37
偶然ではないでしょう、
婿養子に入ったか、苗字がないから
木下を名乗っていたのではないか。
でなければ羽柴にかえる意味もないと思う。
秀吉の父が木下弥衛門。だから木下姓
と、いってもこの説は後世秀吉が木下姓を名乗ったことからの後付けともいわれる
一方で秀吉の妻の実家・杉原氏の本姓が木下氏といったから結婚を機に士分となり木下姓を名乗ったとも
はっきりいえば確定はないんじゃないかね、秀吉の名が正確な史料に出てくる少し前の話だし
明治3年に平民に苗字が許されるまでは国民全員が苗字があったわけではなく、秀吉も苗字は無かったと思う。
それと日吉丸って言われてるのも捏造なわけで、日吉だったのが有力な説だね。
そこそこ有力な百姓なら、当時は苗字を持っててもおかしくない
ただ、その場合は地縁を大事にして出身地名を苗字とした場合が多い
どっちにしろあまりいい出でなかったのは確かだろうね
秀吉は一説には奴婢にまで落ちたこともあったそうだし
農民でも名主クラスだったら苗字は持ってそうだが、本農民以下は持ってないだろう。
53 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 19:28:56
家康「やっぱり、謀反独立とか権力乗っ取りって良くないよね。」
今川・豊臣「お前が言うな!お前が!」
※なぜ今川家や豊臣家が怒ってるのかはナゾ
54 :
日本@名無史さん:2006/05/30(火) 20:46:55
利根川は
家康が江戸に入る前は江戸湾に流れ込んでいた。水量が増すと江戸は洪水に呑まれていた。
そこで、利根川を現在の位置に移動させ、運河として使った。つまり東北からの物資を利根川を遡り、隅田川を下って江戸に入るようにしたのだ。
これにより、千島海流と黒潮をぶつかる、海の難所、房総沖を船が経由しなくて良くなったのだ。
55 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 08:11:49
大体さ。
松平(徳川)が今川に背いたのが「独立」で、
松永久秀とか荒木村重とかの場合は「謀反」なんだろ?
もうこんな客観性のない恣意的な言葉の使い分けなんか
学問とは呼べないよね。旧ソ連軍大尉の伝記と同じだよね。
松永久秀 将軍暗殺 信長を2回裏切る
荒木村重 本願寺に米を横流しする
これのどこが独立?
松平元康 氏真に反旗を翻しその領地に侵攻する
じゃあさ〜、これは謀反じゃないの?
59 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 15:53:40
>>57 もともと人質だったから独立と呼んでいるだけだろ
今川領地への侵攻はまた別
謀反と呼びたい人は呼べばいいだけの話
60 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 16:04:20
>57もともと三河の領主だから独立なんじゃね??
それをいったら荒木や松永も元々自立性を持った領主…
元々自立性を持った領主だから独立じゃなくて謀反になるのでは?
>>50-52 私的な名乗りなら、寄り合いなどの記録で見る事が出来ます。
公に名乗れないだけ。
>地縁を大事にして出身地名を
そもそも、「名字」とはそういうものでしょう。近世には土地から離れて
血脈の方に注目した「苗字」表記が広まりますが。
>日吉「丸」
丸自体、元々省略される事が多かった気が。>牛若(丸)、乱(丸)など
愛称として相手の名に「丸」をつけて呼びかける場合もある。
厳密な違いがあったのでしょうか。
64 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 10:23:28
身分制が確立したのは江戸時代からで、それまでは百姓から武士になど自由になれた!ただ武士にとって姓は自分を正当させるため重要、官位を授けてもらう事で力ある百姓から武士として認めてもらう必要アイテム松平はその土地の有力名主であったはず!
65 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 20:35:29
家康は人間のクズです
66 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 22:11:30
ですね
67 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 22:31:30
>>65のいう「人間のクズ」と俺の考えている「人間のクズ」はどうやら違うようだ
って俺家康嫌いなんだけどね。上杉景勝、直江兼継が好き
68 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 22:42:20
あくまで個人的な意見だけど
家康を正しく評価できない事が現在 日本人が持ち合わせてしまった相対主義に陥ってしまう問題点だと思う
北陸民だが天下取った時点ですごいと思ってあげちゃいかんのかい
70 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 00:50:52
織田が突き・羽柴が捏ねし天下餅・座りしままに喰らう徳川
これが日本人のだいだいの認識だから
71 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 00:58:11
徳川はなんで新田の家紋を使わず、京都賀茂社の神紋である葵を使ったのか?
72 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 01:28:08
徳川家は将軍家になった時点で信長さまに喧嘩売ったも同然。
尾張者は三河者を血祭りに上げるべし。
荒っぽいな
74 :
日本@名無史さん:2006/08/11(金) 19:00:28
上げたりして
>>70 信長が突いていた時には家康も一緒に突いている
秀吉の時には小田原ぐらいしか協力していないが途中まで敵対していたので仕方がない
その後も関ヶ原や大阪で戦っていたわけで座りながら食うような楽をしていたのではない
76 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 08:28:53
>>70 それはむしろ誉め言葉だろう、少なくとも家康はそう取っていたはず
「為さずして成る」、これが理想の境地
本当は一番苦労したけどね
77 :
匿名希望:2006/08/29(火) 03:32:36
天ぷらくってしんだらしい
60才にもなって3人も男子を得たことがすごいな。
しかも3人とも成人し、御三家の初代当主となる。
これで支配体制が磐石。
79 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 17:32:11
80 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 18:25:16
家康は棚ボタで天下取ったイメージで、捉えてる人がいるけど、それは間違いだろう。
幼少期から他国での人質としての生活、松平家に復帰してからも織田、武田の大国に挟まれるという
これ以上ない悪条件の土地でのギリギリの松平家存続を賭けた闘争。
さすがに関が原では官僚エリートの石田光成が天下人に成るのは、叩き上げの戦国武将の意地が許さなかったのではと思う。
81 :
日本@名無史さん:2006/09/02(土) 14:26:09
思うって言われても・・・
>>80 普通にその通りだよ。
あの関ヶ原でさえ負ける可能性もあったし、政権樹立後も死ぬまで
気を抜いてない。天下取る過程でも別にボーっとしてたわけじゃないし
むしろ生れ落ちて死ぬまで戦い続けた男だよ。
棚ボタって言うか運がよかった面もあるけど、彼自身の努力こそが天下を取った最大の理由なのは間違いない
83 :
80:2006/09/04(月) 11:11:37
俺は歴史学者じゃないし、見てないことを断定する必要もないから、「思う」でいいと思うw
84 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 11:19:53
なにげに戦場往来歴が最長だった件について。
もっと長い武将がいたら教えてエロい人。
85 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 11:21:07
まあ、家康が凄いってより
未だに実質的な首都の座にあり日本を実質的に統治している
三河が偉大だってことなんじゃないかな
特に岡崎や挙母あたりね
いや三河人は尾張人に搾取され、
その尾張人をうまくたぶらかして商売するのが伊勢人。
88 :
日本@名無史さん:2006/09/04(月) 13:31:46
で、それをさらに裏から金でしばるのが近江人
>>84 えーと、家康の初陣が寺部城合戦(1558)で、最後の戦が大阪夏の陣(1615)で57年。
初代福山藩主水野勝成が初陣が高天神城攻め(1574)で、最後が島原の乱(1638)で64年です。
90 :
89:2006/09/04(月) 18:05:58
間違えた。徳川の高天神城攻めは1581年3月でした。
島原の乱は1638年2月末に終わっているから、ほぼ57年弱ですな。
寺部城合戦は1558年2月から始まっていて、大阪夏の陣の終局は1615年6月4日ですから、ほんの数ヶ月ですが、家康の方が長いですな。
失礼しました。
田舎者だけに朝廷の怖さも十分にわかっていたんだろう。その点取り込まれまくった
インテリ・光秀とは違う。
その家康が範としたのが源氏というのも意味は明白。天皇制の権威と相当距離のあっ
た鎌倉幕府に習ったわけで。改めて畿内に首都を置くことも出来たのに、そんなこと
はしなかった。
いわば、天皇制存続下での封建的支配を極限まで押し進めたのが家康。しかしながら、
いかに精緻に仕上げても、結局は天皇の一配下という建前を残している限りは、外様を
一掃して自分の配下を配置することは出来なかった。鎌倉幕府が独自に守護・地頭を送
り込んだより後退しているとも言える。
で、結局はあれだけ押さえつけて貧窮の極にたたき込んだ筈の天皇勢力に敗北してしま
った。信長のように、自ら国王にならなかったことで、幕府の滅亡も必然であった。
>>87 伊勢人?イセエビ?何処それ?
ちなみに尾張名古屋人は岡崎城に五体倒置して毎年巡礼していますよ
世界の首都・岡崎にね
94 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 02:34:10
世界の首都・岡崎
三方ヶ原は
スカトロ→ハメ盗り
すげーな
負け戦だけど、変態人間的には究極の勝利の方程式だ
色んな意味で黄金リレー
96 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 05:02:46
また名古屋人か
97 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 11:08:27
>>95 極限状態の戦場では、珍しいことじゃない
ヤクザの出入りでも洩らす人間は結構いるらしい
98 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 12:34:10
くそ漏らしは一流じゃねえな
敗走した大将は数多いるが
ウンコ垂れ流しながら逃げた奴はまずいまい
100 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 12:53:48
ウンコじゃないだろ、腰弁当の味噌だ。
101 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 13:04:30
尾張も三河も見栄っぱりの田舎者だからな。
名古屋の豪華結婚式のメンタリティ=家柄マンセーの坂東武士
102 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 13:23:21
幼少時、今川の人質だった頃に馬鹿にされてしまい突然、縁側に出て立ちションしたって聞いたことが…
小さい頃からすでに黄金伝説は始まってたのだ!
103 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 13:24:38
尾張人は三河者ほど田舎者ではありませんが何か?
104 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 13:28:21
家康よりも、秀吉の方が名古屋色。
だぎゃ〜、とか言う、下品チックな名古屋人の精神は実は秀吉メンタリティ。
105 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 13:33:23
三河者が血統とか笑えるw
106 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 13:35:25
酒屋の血統
107 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 13:57:57
>>99 歴史に残ってないだけで、初陣で洩らした武将は結構いると思うよ
家康はオノレの恥を隠さずに今後の戒めとしたことで、
後の小牧、長久手の戦いでは、そのときの信玄の作戦で見事に数で勝る秀吉軍を蹴散らしたんだから
そういう姿勢は見習えれるけどな。
実際、どんな立場の人でも一度も恥かかない人生なんて、ありえないだろ?
108 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 14:00:08
別にウンコが評価に影響はしないから心配するなw
109 :
107:2006/09/05(火) 14:02:25
あれは携帯食の味噌
それを大久保が士気を持ち直させるため糞といって笑い話に仕立てたという説もある
111 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 16:06:55
大嘘を言うなw
脱糞失神して遁走した家康は日本の恥。
評価に影響しないどころか、三河者の劣等ぶりを端的にあらわしているw
112 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 17:41:43
113 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 17:55:22
また名古屋か
114 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 19:05:14
天下人にまでなった人が自分の恥になるような逸話を後世に語られるような事はしないと思うけどな…
『実は味噌』に1票〜!
115 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 19:11:00
>天下人にまでなった人が自分の恥になるような逸話を後世に語られるような事はしないと思うけどな…
阻止するのは無理
116 :
日本@名無史さん:2006/09/05(火) 21:16:00
家康の本質を馬鹿な庶民から遠ざけておくためあえてこの話を残したというところだろうな
ウンコだとか脱糞だとかせいぜい騒げばいいw
>>110 とりあえずその「説」を誰が唱えているのか教えてくれ
家康の脱糞は笑い話でもあんまり気持ちのいい笑いじゃないだろw
118 :
日本@名無史さん:2006/09/07(木) 20:46:47
三方が原アッー!の由来】
武田家当主に扮した信玄らが上洛を開始
↓
「武田が攻めてきております!」 「三万もの大軍です!」などの
会話を経て軍儀。
↓
支城を次々と落とされ、「強い軍だなぁ」などと恐れる
↓
浜松城を素通りされ、「アッー アッー!」と悶える
↓
佐久間と協議をしながら2人の家来に三河武士の意地を見せる。「突撃じゃー!」と悶えながら
浜松城を出陣。このあと、武田軍がひきかえし、三方が原で徳川軍と激突
「死にたくねえなら前に出い!」と家康は勃起させながら声をあげる。
↓
忠勝らも加わり合戦が始まる。ヤラれるばかりだった家康が反転、浜松城へと向かい、
糞を漏らしながら逃げ始める。小刻みに腰を振りながら、「アッー、アッー、出る!」
と叫んで、家康も鞍に勢い良く脱糞。
あと酒井忠次に、「漏らしましたね?」と言われて、「これは焼き味噌じゃ!」と言い訳したらしい。
119 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 05:14:23
でも実際のところ、合戦の真っ最中に便意をもよおしてしまった場合は
どうするのが正しいんだろう?
「ちょっとその木陰で‥‥」「あそこの草むらで‥‥」となるんだろうか?
しかし、踏ん張っている後ろから敵兵に突き殺されるのは、
垂れ流しながら敗走するよりも数倍恥ずかしい気もするが‥‥
やっぱり戦場では、いざとなったら垂れ流しながら戦うしかないんではないの?
アレは味噌ですよ、そもそも世界の英雄はウンコをしません
あと岡崎は神の国ですから日に5回は岡崎に向かって礼拝をするのが日本人の義務ですよ
ちなみに名古屋や挙母の人間は他府県では図々しくも岡崎出身を騙るので注意しましょう
121 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 10:55:45
武田を死ぬほど恐れ、設楽原までは防戦一方だった腰ぎんちゃく大名だったのに、
運がいいとしかいえないわな。
家康のチョンマゲ欲しぃポ
一般的な評価は高いだろ(笑
凄すぎて粗を探したくなる存在
信長が鉄砲を使いこなす→天才
家康が大砲を使いこなす→卑怯
信長が桶狭間で逆転勝ち→天才
家康がメッケルが西軍勝利と断言した関ヶ原で逆転勝ち→卑怯
世間の偏見というものは身勝手なものだよな
125 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 16:36:33
>>121 わかってねーな
信長だって信玄のことは相当に恐れてただろ。ともに生まれた時点で、国力、環境ともに条件は信玄に負けていたし・・
ただ信長や家康の凄いところは、普通の人なら一度、ビビッた相手には逃げるか服従が相場だが
この2人はついに信玄越えを果たしたところが、天下人たる凄みだとおもうけどな。
126 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:42:12
ぶっちゃけ、家康が人気ないのは、今の日本の体制が江戸幕府を倒して出来た体制だからだろ
戦前戦後を別の体制と考える事もできるけど、実際、黒船以降は米国が親なのかも・・・話ずれた
127 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 17:49:57
現実に自分が家臣や領民として生きることを考えたら、家康が一番いい。
信長や秀吉は勘弁してほしい。
128 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 20:02:02
信長みたいな主君だったら、いつもピリピリビクビクしてないといけないし、
秀吉も天下人になってからはボケてたからな。
129 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 20:04:53
まるで3人に会ってきたような口ぶりやね
130 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 10:58:19
>>127 家康は自分の子供には大領を与えているが、家臣にたいしてはシブイね。
信長、家康とは大違い。
>>130 主だった譜代の家臣達は、関ヶ原の時は秀忠軍にいて、会戦に間に合わず、
当然ながら補佐不十分の責任を取らされた。3万8千の主力軍を肝心な時に
遊ばせたんだから仕方ないさ。秀忠だって廃嫡されそうになったぐらいだ。
徳川四天皇の中では、井伊直政だけが家康と行動を共にしており、
関ヶ原の主力決戦に参加し、大功を上げたから、彦根32万石。
132 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 13:32:06
>>130 領土がシブい代わりに、幕政参加権を与えてる。
それに、与えられた封領はほとんどが多くても10万石だが、その場所は畿内や東海や江戸の近く、
遠方に飛ばした外様大名を押さえ込むための要衝の地ばかりで、当然幕府も譜代大名達に
必要な役目を期待するから、石高以外でそれなりに援助を与えてた。
城も頑丈だし、普請のための金も貸した。
>>131 直政の代は近江佐和山18万石で、彦根(佐和山城を廃して彦根に築城)35万石に加増されたのは
その次の直孝の代だ。
幕政に大きく貢献して5万石加増三回に、天領2万石分の城付米預かりで、合計35万石。
134 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 22:42:06
家康公の遺訓と遺言碑
東照公遺訓
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。
いそぐべからず、不自由を常と思えば不足なし、こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ、勝つ事ばかり知りて、
まくること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。
慶長(けいちょう)8年1月15日 家康
(人の一生というものは、重い荷を背負って遠い道を行くようなものだ。
急いではいけない。いつも不自由していると考えれば、
不満が生じるはずがなく、欲心が起きたときには、自分の過去にあった苦しい時代を思い出すことだ。
「堪忍」こそが無事に長く安泰できる基礎で、「怒り」は敵と思いなさい。
また、人生では勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。
自分の行動を反省し、人の責任ばかりを追求するな。
何かをやるとき、なかなか到達できないほうが、やり過ぎてしまっているときよりは良い)
135 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 22:46:32
家康公遺言碑
わが命旦夕(たんせき)に迫るといへども、将軍斯(か)くおはしませば、天下のこと心安し、
されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、
艱難(かんなん)することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、
天下は一人の天下に非(あら)ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも
四海安穏(しかいあんのん)にして万人その仁恵を蒙らばもとより、
家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし
元和2年(1616)
(もはや自分《家康》の命が終わりに近づいたが、
将軍《秀忠》が政治を立派に行っているので、天下のことは心配ない。
しかし、将軍の政道が道をはずれ、多くの人々が苦しむことになれば、誰でもその座にかわるがよい。
天下というものは、一人のための天下ではない。
天下はすべての人のものであり、そのすべての人のために天から任されたものであった。
たとえ、誰かが天下を治めようとも、四海安穏で平安に万人の幸せに通じるのなら、これは家康の望むところである)
136 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 22:49:00
個人的な意見だけど、信長と家康は不幸な幼少期を送っていて、けしてお坊ちゃん育ちじゃないという共通点があるんだけれど、
信長は今川義元に実力以上の奇跡の勝利を収め、家康は当時の実力どうり信玄にボロカスに負けたってのが後の両者の運命を決めた気がする。
信長の桶狭間みたいな華々しい合戦のエピソードは無いもんな>家康
スター性というか、向日葵と月見草というか、そういう星の下に生まれちゃったとしか言いようがない
138 :
日本@名無史さん:2006/09/13(水) 11:25:18
信長の桶狭間に対抗できるのは義経の鵯越くらいなものだろう。
うんこ漏らせば十分だ。
139 :
日本@名無史さん:2006/09/13(水) 11:40:55
小牧・長久手と関ヶ原
信長厨は、あまり歴史を知らないんじゃないか?
>>138 桶狭間クラスの戦いなら戦国には結構あるよ
>>139 確かに小牧長久手の手並みは見事すぎる
あと関ヶ原の内応工作とかとても信長にはできない芸当
家康の凄いのは本人だけじゃなくて多くの男子を産み、しかも皆ひとかどの人材ばかりだったことだな。
文(秀忠、義直、頼房)・武(信康、秀康、忠吉、信吉、頼宣)それぞれにバランスもいい。これ、武家の
棟梁としては当人の能力以上に重要なことで、信長や秀吉は個人的な能力こそ家康を凌駕していたかも
知れないが、その子供たちはいずれも父の業を継承するには質も量も余りにも貧困であったと言わざるを
得ず、結局は信長・秀吉の個人プレーで終わってしまった観がある。そこへいくと家康は優秀な子供たち、
それから強固な家臣団も含めた総合力で最終的に天下人となり、さらに覇業を子孫へ継承できた。
これ、古代中国で言えば項羽と劉邦の構図にけっこう当てはまるんじゃないかな。項羽が信長・秀吉で、
劉邦が家康。劉邦も文帝のような優れた子供がいたし、優秀な家臣団によって天下をとった。
さらに家康と劉邦の共通点で言えば、その後の子孫もそれなりに優秀な人材を輩出し続けたこと。
徳川家では保科正之、水戸光圀、6代家宣、8代吉宗など。マイナーどころでも極端に暗愚な人物というのは
あまり見られない。漢帝国の劉氏では昭帝、武帝、宣帝ときてどかんとでかいのが光武帝劉秀。
世襲制政権においては、一個人の能力だけでなく一族全体の能力の平均値がどれだけ高いかに、その
政権の寿命がかかってくると思うが、その意味では徳川・松平一族というのはかなり平均値が高い武家
だったといえるんじゃないだろうか。その祖であり、家臣団も含めて一族を見事に統率した家康は。武家の
棟梁としてはかなり完成された存在だと思える。
なんかまとまりがない長文でスマソ
143 :
142:2006/09/13(水) 23:03:55
>>142の11行目は ×昭帝 ○景帝 でしたorz 細かいですが。父の文帝と合わせて「文景の治」と称されたそうな。
要は、世襲政権を長持ちさせる優秀な人材を子孫に輩出させたという意味で、その祖である家康は「やっぱりすごいかも」
ってことです。あんま学問的な話題じゃなくてすんませんが。
>>142 光圀はあまり評価できないと思うぞ。大日本史編纂は確かに偉業だが、おかげで水戸藩火の車…。
武帝も「文景の治」のころに蓄えられた資産とか使いつぶして出征とか贅沢しすぎて、前漢衰退の遠因とも言えなくも無いわけで。
>>137 信長も秀吉も関ヶ原のような戦を経験したことはない
家康の関ヶ原に対抗できるのは日本史上でも皆無と言っていい
146 :
日本@名無史さん:2006/09/16(土) 18:06:54
天下分け目が何度もあるはずもない
147 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 11:13:41
三成だから対抗できないんじゃにゃいか。
兵力だけでいえば、小田原北条攻め、朝鮮の役あたりで
秀吉はその規模にいたっているな。
149 :
日本@名無史さん:2006/09/17(日) 16:32:21
役立たずなへたれですが西軍総大将は毛利輝元です。
150 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 12:52:06
毛利輝元って頭悪いよな。
一族の吉川広家が大反対してたのに関わらず、大軍を引き連れ大坂城に入って、西軍の総大将となり、戦わずして家康から領地を大減封されたし。
祖父の元就の苦労が水の泡に消えてしまった。
151 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 13:44:17
>>146 動員兵力では秀吉の九州征伐や小田原征伐など関が原を上回る。
「天下分け目」...結果的にそうなっただけ、小早川の動向や
その後の西軍の動き(たとえば毛利が大阪城で持久)によっては
そうならなかったかもしれない。
>>144 光圀を挙げたのは、江戸初期の武断政治から文治政治へという時代の流れを象徴する人物の一人だから。
確かに無償の文化事業に惑溺して藩財政を傾かせるなど、為政者としてはバランスを欠いた人物だったのは
間違いないと思うけど、江戸期の文化的側面における重要な一人であることも確かで、そうした意味で家康の
子孫の厚みを示す存在でもあると思う。まあ結果的に江戸幕府の寿命を縮める一因にもなったけど。
武帝は個人的資質のいい悪いを超越して、その後の中国歴代王朝絶頂期の皇帝像のスタンダード(前代までの
国力の充実→外征により中華帝国の版図拡大→内政の疲弊招く)を確立したという意味で歴史的存在だからねー。
時代の流れに合わせるかのようにそういうカリスマ的存在を産み出したという点で帝王の家系としての劉氏の凄み
があると思う。一応昭帝や宣帝のようなそれなりにフォローする存在もその後いたし、そういうバランス感覚が
働いていたことが、王莽による簒奪のあと漢の復興を望む声に繋がって光武帝の出現を後押ししたとも言える。
>>150 輝元はホントにお人好しだよなー。毛利家がその後徳川家に対して恨みをもったとか言うのはむしろお門違いで、
輝元の無能さで墓穴を掘っただけとも言える。前田家のようにうまく立ち回って中立を保つなりすれば、家康とて
手出しできず、結果関ヶ原は起こらず豊臣体制下において徳川・毛利の2大巨頭制になってたかも知れない。
それはそれで政情が安定しなかっただろうけど(関ヶ原で毛利が積極的に動けばよかったという論もあるだろうけど、
家康が関ヶ原まで駒を進めたのは吉川広家の消極的裏切りを知ってたからで、広家も含めて毛利が一枚岩なら
家康はそこまで踏み込めなかったと思う)。毛利は徳川を恨むよりも、あの重要な政治的劃期に輝元程度の
人材しかいなかったことを恨むべきで、そもそも完全に取り潰されてもおかしくなかったんだから。
>>152 別にお門違いでもないだろ、家康が一方的に盟約を破って毛利を取り潰そうとした事や
減封した事実なんだし、結果的に騙された毛利が恨みに思うのは当たり前。
154 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 14:33:32
ま、他人を騙さずに、他人から恨まれずに天下人になれというほうが無理だわな
>>153 でもその盟約って輝元自身が関与してたわけじゃないし、広家が勝手にことを進めてたんだからなぁ。
臣下のそういう勝手な動きを統制することもできなかったってのは、当主としてどうかと思う。広家も
広家で、当主の意向も無視して家の方針の統一を乱すようなことをやらかしてるんだから、忠に似て
忠にあらず。百戦錬磨の家康相手に両者ともあまりに人が好すぎたとしか思えない。
156 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 16:23:27
>>151 九州征伐や小田原征伐は両軍の戦力が拮抗してないから比較の対象
にならないよ。
157 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 19:07:53
>>155 大坂城退去の際に所領安堵の盟約を交わしてるし、
人の良さ(っていうのも変だが)を利用して騙してるんなら
尚の事恨まれるだろう。
158 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 19:20:48
頼朝研究と薬の研究がすごい
159 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 00:01:07
>>152 >あの重要な政治的劃期に輝元程度の 人材しかいなかったことを恨むべきで、
>そもそも完全に取り潰されてもおかしくなかったんだから。
長州藩士が関ヶ原の敗戦は、藩祖・輝元が無能だったからだなんて言おうものなら
良くて切腹悪くて磔刑になると思う。
160 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 07:32:01
毛利輝元って人が良いというか愚かな人物って感じがするね。
将軍・義昭を備後に匿ったり本願寺に兵糧を入れたりしたために、信長から敵視されて攻められる羽目に陥るし
もっと思慮深い人間だったら、絶対に強い者と同盟を結んだり臣従したりして、他の小さな敵を滅ぼし自分の力を伸ばすんだけどな
祖父の元就は、尼子が強い時は尼子についてたし、大内が強い時は大内についてたりと時流に乗ってたわけで
それと、輝元は祖父の遺言である「天下を目指してはいけない」というのを破ったために、10ヶ国だったのが、たったの防長2カ国に減封され、祖父にどうして申し訳が立つのかな
吉川広家がいなかったら毛利は廃絶
162 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 14:04:38
>>162 脳内をまとめてから万人に理解できるように書いてもらえますか?
164 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 17:51:56
吉川広家の南宮山での長弁当がなければってことだろう。
165 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 21:19:52
毛利が豊臣を差し置いてなにができるんだってーの。
戦場に赴かない総大将に付いてく武将なんていない。
長州オタって妄想が激しすぎ。
幕府は無理でも奥州藤原氏系の地域自治国家くらいにはなれたんでね>毛利
家康が死ぬまで持ちこたえないといけないが。
それは豊臣家に対する謀反だな。
二大支柱である吉川、小早川当主の器量があの程度だから仕方ない。
(すでに小早川は支柱ですらないが)
小早川は言うも愚か。吉川広家にしても極々小粒な家康類似の謀略家。
手玉に取られて当然であり、こういった状況も把握できず三成に言われるが
まま総大将なんぞになって、子守りを理由に戦場にも出てこないんでは
荒大名たちの心を獲ることなど土台無理。
せめて隆景、元春のどちらかが存命していたらこんなことにはならなかった
かも知れないがね。
つくづく人材って重要なんだねぇ。
169 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 07:21:30
家康からも三成からも舐められてた毛利輝元と小早川秀秋ってカッコ悪い
俺が吉川広家だったら、輝元なんぞに長門・周防なんて渡さないんだけどな
元就が輝元に対して「天下を狙えば毛利家は滅ぶ」と遺言する理由が輝元の暗愚さにあるんだな
曲がりなりにも西軍総大将として公文書に署名までしてたわけだしなぁ、輝元。
西軍の諸将が軒並み斬首や領地没収・削減されたというのに、名目上とはいえトップの位置に
あった毛利をそのままにできるわけがない。そんな政治的判断もつかず本領安堵の誓約を信じて
ノコノコ大坂城立ち退いてんだから人の良さも極まれり。というか虫がよすぎるって。吉川広家の
見込みも甘過ぎで、前田や島津のように地政学的に僻地ならまだしも、中国地方の大半を占める
毛利領をそのままにしてたら戦後の大名配置のバランスから言っても危険なことになるのは自明
だったんだから。輝元も広家も、結局それぞれ一人踊りをした挙げ句に家康にいいように利用された
だけということ。かなりの部分は自業自得だよ。
171 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 17:15:05
周防と長門だったっけ?
輝元にはまさにそれがお似合いだったな
>>151 関ヶ原と一口に言っても実際には本拠地の江戸から東北上杉討伐へと向かい
東海道、中山道の反乱分子を鎮圧しつつ西国連合体勢を崩壊させたんだから
事実上の国際大戦。
これは信玄、今川の上洛以上の出来だと思うぞ。
関ヶ原と一口に言っても実際には本拠地の江戸から東北上杉討伐へと向かい
東海道、中山道の反乱分子を鎮圧しつつ西国連合体勢を崩壊させたんだから
事実上の国際大戦。
これは信玄、今川の上洛以上の出来だと思うぞ。
毛利輝元は西軍総大将なのだからもっと削ればよかった。
蝦夷へ転封でいい。表高は30万石でどうだ?
いや、毛利は長門、黒田は福岡でいいんだよ、九州、四国への押さえになるから。
本能寺以降毛利は旧敵秀吉の先兵として戦い大老の地位にまで昇った訳だし
徳川時代の毛利も、いざ九州、四国討伐のさいには手柄を立ててやろうと
考えていただろうな。
家康なら当然見透かしていたと思う。
毛利は島原の乱で役に立ってませんが。
つか島原の乱鎮圧はほとんど九州勢で、しかも統制取れてなかったとか。毛利は出さないだろう。
まあ、毛利の居る周防は切支丹の本拠地だったから本人はそれどころではなかったかも?
>>174 だから、毛利家の生地の安芸広島をとりあげ、山がちの二国に押し込め、
立地の悪い萩城を築城させて、監視の意味で西国の押さえに水野勝成を
福山に置いたんだろうな。
まあ、その監視のために置かれた備後福山藩は水野氏断絶で阿部氏に
藩主が変わり、大政奉還の後、長州に攻め込まれて恭順して、対旧幕府軍
の尖兵になるんだから皮肉なもんだ。
178 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 10:31:24
福山藩ってイメージ悪いな。戊辰の時に薩長連合軍に寝返った藤堂と同じ
でも親分の慶喜自体水戸の尊皇攘夷だったためどっちつかずで恭順してたからな。
単に軍事バランスで語って良いものかどうか。
180 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 23:55:30
藤堂は糞だ!!
181 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 23:57:16
だなw 藤堂のような風見鶏には反吐が出る
182 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 00:14:41
よく生き残ったから有能だったとかアホな負け惜しみいう奴がいるけど
お前らが生き残っても俺らにはなんの関係もないってw
命を惜しんで名を穢す そんな俗物になんの魅力もない
183 :
関東人:2006/09/29(金) 07:38:55
愛知県県庁所在地名古屋
なんで三河国岡崎じゃないんだ??天下泰平徳川生誕の地だよ♪
朝敵徳川発祥の地でもあるけど(-o-;)
尾張徳川は御三家筆頭にもかかわらず最後は子が親に弓矢を弾いたではないか!!
道徳の終焉と思う。名古屋空襲で金鯱名古屋城が焼けたの天罰かな??
ここで偉そうに言ってる人間のうち、実際にいざとなったら命や財産より筋を重んじる人間はいないだろうw
185 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 12:42:36
だから?
186 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 15:11:51
187 :
武田信玄:2006/09/29(金) 15:12:41
今川殿の人質だった時の小僧か。
お屋敷の縁側で、わしらの方をじっと見ていたので
何か用かと言うと、あの小僧小便をして笑いよった。
>>184 西暦2006年だってわかってる?
バカじゃねえの。
命や財産より義理を重んじる人間のほうが偉いのか? どちらも普通に大事だろう。
金や命を粗末に扱うヤツが通したスジなんて自己満足と裏表だよ。
だからオイラは家康を評価する。
190 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 17:29:48
家康が凄いんじゃないよ尾張名古屋人の思想が偉大なんだよ
大名古屋人は選ばれた最良の人間なんです
幕末に勝手に自爆していた土民とはエラい違いですよね
191 :
日本@名無史さん:2006/09/29(金) 21:01:06
>>191 命なんか大事じゃないって。
一遍を莫迦にした絵巻物とか見てみろって。
当時の命の価値がよくわかる。
だから、時宗なんてふざけた新興宗教が流行った。
193 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 07:10:59
なら藤堂や伊達や真田はアホということで
そもそも命を懸けて忠義を尽くす美徳と言う思想自体徳川が戦国武士に再教育したものじゃね?
>190
名古屋人と三河人では、どえりゃー違うんでにゃい?
イスラムの自爆テロも美しいのか?
テロリスト本人は満足してるんだろうけどな、蛮行だ。
兵士が戦争で死ぬのはあたりまえ。
戦で死ぬのが武士の仕事。国土と国民を守るのが領主の仕事。
裏切りや恭順で領民が戦禍からまぬがれたのならそれはそれで良し。
197 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:20:46
一度裏切ったものは何度でも裏切る つまり信用を無くし潰される
198 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 20:25:06
199 :
日本@名無史さん:2006/09/30(土) 21:12:28
>>197 このスレ的には家康は潰されなかったからおけー?
まず少年竹千代は家臣の裏切りで織田の人質になった。父広忠も家臣に殺された。
やがて家康は主家豊臣を裏切り。関ヶ原では多数の大名を寝返らせ豊臣に忠義を尽くした三成を潰す。
裏切りの恐ろしさを本当に知っているからこそできた離れ業だな。
豊臣家には刑事ドラマでいうところの潜入捜査とかおとり捜査みたいなもんで
潰すことは裏切るもなにも予定調和として当たり前の行動だね
それは逆の見方をすれば秀吉が家康を監視下に置いたとも言える。
曹操が劉備を手元に置いたように。
204 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 01:40:00
家康は織田のおこぼればかり。
三河はずっと今川の植民地でしょぼい歴史しかない。
織田が今川に勝ったから駿府から脱出できた。
たんなる凡人だよ。
205 :
辻小姐:2006/10/01(日) 01:47:49
織田信長は織田信友を裏切っているし、豊臣秀吉は織田信孝を裏切っ
ている。徳川家康が豊臣秀頼を裏切ったことは事実だが、主家を裏切
ることが、武将の評価を下げるとは、わたしは思わない。
206 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 02:04:41
だからどうでもいいって家康なんて。
戦国の一番困難なところで何もしてないからさ。
できあがっ餅食っただけw
207 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 02:22:06
>>205 秀吉が主筋としているのは信忠直系の三法師であって信孝ではない。
>>207 秀信の扱いを見ても忠義だとは言えないわけだが。
>>206 一番困難なのは安定した政権を樹立することだぜ。
信長にも秀吉にもそれはできなかったんだから。
210 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 06:44:30
裏切って生き延びて天下を取るならまだわかるが
ただ生き延びるだけってのは糞だね
>>208 大名として遇してるし、秀信自身が西軍に付いたりしてるから
豊臣家を悪くは思って無かったであろう事は推測できる。
忠義と言えるほどではないが、不忠と言われるほどでもないと思う。
212 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 06:56:21
信長のバカ息子達より孫の三法師のほうが余程聡明だとは思うよw
213 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 07:10:41
真田信之とか本当どうでもいいよな
よくコイツを持ち上げ昌幸・信繁をけなすアホがいるけど
真田家が幕末まで生き延びようとそんなことは俺たちにとってはどうでもいい
昌幸の篭城戦での活躍や信繁の大阪の陣での奮闘 そして死こそが真田の
名を上げたのであって信之が生き延びたことなどはどうでもいい
214 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 07:28:44
なさけなくも無様に生き延びました 偉いでしょ?エヘッw
ってばーか 潔くねーんだよお前はw 尊敬なんてされねーよ
ただの恥知らずだけだろ
215 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 07:40:13
藤堂の穢れた裏切りの血は幕末で発揮されたな
あれだけ家康に重用されたのにw これでこいつ(藤堂家)の真価は決まった
>>211 秀信が分をわきまえてただけだろ。
あれで安土に入って豊臣家に従わなかったら秀頼と同じような目に遇わされてたよ。
逆に言えば秀頼だって分をわきまえていれば滅びずに大名として生きて行けただろ。
もっと石高は減らされるだろうが。
217 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 08:34:42
織田の下僕なら織田を食いつぶしてのし上がるのが忠義ってもんだw
218 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 08:38:11
織田家がバブルしたのもすべて外様のおかげだもんな
信長も織田家なんてどうなろうと知ったことではなかったろうよ
秀吉&家康に乗っ取ってもらって感謝してるだろう 地獄で
219 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 08:56:24
>>213 むしろ本人も自分より弟のほうが優れていたと認めてるしな
無様に長生きしたことを恥じ入ってるくらいだし
220 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 09:29:43
無責任で厨なこと言ってる連中がいるけど、
真田の家臣団の立場なら、信之の存在は十分に意義がある。
昌幸はともかく、大坂城に籠城した信繁こそどーでもいい。
221 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 09:33:53
と真田の家臣が申しております
真田の家臣じゃないオレからすれば信之なんていてもいなくてもどうでもいい
その家臣もな
222 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 09:39:25
真田の家臣団の立場<<<<<<<<<<<<<<<<<<<、越えられない人格生き様の壁<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<他の忠義の家臣団
同じやつが連投してるのがよくわかるスレだなw
真田なんてどうでもいいスレなんだよ。
家康が長生きしたのも、うまく順番がまわってきたのも、幸運といえ
ばそれまでだが、運も実力のうちだ。でも運だけで天下は取れない。
224 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 09:44:57
家康は運がついてたよな(糞もらし)
225 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 10:20:45
で、家康の子孫の松平定信の息子が真田の養子になって老中になってるんだよな。
世の中、わからんもんだ。
家康が江戸時代に儒教を奨励したのは正解
>>226 たしかに。
家康は少年時代から近隣大名による圧迫。家臣の裏切り。一向宗の反乱と、
足元の根底からこづき回されて来た。
宗教や思想教育について非情なまでの理想と現実を混在して持っているのが家康。
>>215 藤堂高虎が裏切りだらけの人生と思い込んでいる馬鹿がまだいたかw
229 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 19:48:41
>>228 現代の転職だもんな。
自分を高く評価してくれる主君に仕えた合理的な武士だ。
儒教を取り入れて確立させたことにより徳川は落ち目になっても長々と続いて政策的には正解だったけど
いざ落ちると過去をほじくられて「裏切り最低、不忠は武士に非ず」
と儒教思想の人達に叩かれてたいへんだな
231 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 06:48:39
>>229 幕末に裏切ったのは一体どういうわけだろうね?高く評価されたのかね
官軍にw
幕末に関ヶ原依頼の復讐を果たした
薩長 島津&毛利のほうがよほどかっこいいな
藤堂は結局また主君を裏切る ただの変節野郎だ
233 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 07:28:41
>>195 お前は本当におめでたい奴だな
正義なんてものはひとそれぞれ持ってるものなんだよ
この世の戦争は正義と正義のぶつかり合いだ
正義は一つと思ってるお前は平和ボケの糞野郎だ
234 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 07:35:07
家康が凄いってより三河の人間が神ってだけだと思う
実際に三河の人間って現代でも優秀でカッコイいいから憧れるよね
俺は名古屋出身で東京に在住してるけど
三河って永遠の憧れだしさ
235 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 07:37:23
尾張人は妙な釣りは止めてください
>>231 幕末の話なんかしてないスレの主旨も流れもわからんのか?
藤堂高虎は幕末の人物だったのか?
オマエの脳細胞は生きているか?
238 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 12:50:02
>>237 家康を騙るのに幕府を語ってなにか不都合でもあるのか?
239 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 13:03:24
脳内が、家康≒幕府
250年も思考が停止したままw
240 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 13:08:25
家康の失策 島津と毛利に恨みをかって藤堂は優遇
241 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 13:17:48
242 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:02:39
幕末の藤堂の裏切りと家康の評価になんの関係があるだね?
243 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:06:22
>>242 裏切り者を生かしておいたから幕末で潰される 徳川
244 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:11:11
245 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:48:56
228 :日本@名無史さん :2006/10/01(日) 18:46:42
>>215 藤堂高虎が裏切りだらけの人生と思い込んでいる馬鹿がまだいたかw
ここで原点に戻ってみる
家康ってすごいのか???w
どう考えてもすごいだろw
人事や根回しだけとっても近代の総理で言ったら田中角栄以上の政治力だよ
我々の想像を遥かに超える政治家だ。
藤堂なんてどっちつかずの土豪が裏切るのも家康には想定の範囲内だよ。
将棋で言えば「と金」を敵陣の手前に打って置いたようなものだ。
捨て駒が敵の手駒に取られるのは想定内。
逆に徳川御三家という飛車角まで錦の御旗に取られてしまったが・・・
248 :
日本@名無史さん:2006/10/02(月) 20:25:31
>>247 戦略眼に優れてなけりゃ退却せずに関ヶ原に布陣なんぞしない罠
戦術眼も優れてるから自らの不利を演出出来るし
人間性は置いといて
軍人兼政治家としては非の打ちどころは無い罠
信長は軍人としては家康なんぞ太刀打ち出来んかったが平時の政治家としての安定思考の資質が欠けてるし
秀吉は貧乏臭いってか権威主義の軍人で政治家としては家康以上だけど軍人としちゃ疑問だし
長生きすればいいなら天海僧正の天下だわなw
信長秀吉は人を発掘することに関しては家康より上だと思うよ、ベンチャーからのし上がって
大企業に成っちゃったホリエモンな感じ。
家康は潰れかけた町工場のあととりからプロジェクトXで復活した
信長は敵将道三をライバルとして研究しマネして成功した、若いから道三より長生きできるからな
家康はたぶん信玄や今川だろう。
家康って武芸者としてはどうだったんだろう。
>>251 鉄砲から剣術まで真面目に師匠について習ってたらしいな。
信長は鉄砲、秀吉は個人的な武芸の心得は無さそうだが。
253 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 08:33:39
個人的な武功としては、家康が自ら戦ったのって三方ヶ原の敗戦の時弓で敵を射倒して逃げたくらいじゃないかな?
信長の場合は、斎藤氏に雇われた刺客達を威圧してビビらせて追い払ったり、自ら戦場で林美作守を討ち取ったりとかしてるけど
254 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 08:57:06
人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、 ����������������������������
勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。
己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。�
�
>>253 三河の一向一揆相手には家康は陣頭指揮してる。
それで逃げた旧家臣や家康の危機に一揆から寝返った元家臣がいたはず。
256 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 09:02:13
ウィキによると・・・
家康公遺訓
「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし・・・」で有名な家康公の「御遺訓」は、
明治時代に元500石取りの幕臣、池田松之介が徳川光圀の遺訓とされる「人のいましめ」
を元に家康63歳の自筆花押文書との体裁にしたものを高橋泥舟らが日光東照宮など各地
の東照宮に収めたものであることを尾張徳川家の徳川義宣が考証した。
また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、
『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)
が元和の初め、二代将軍徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間の滞在した際に
家康から聞いた話を収録したものという。江戸時代は禁書であった。一説には偽書と
されている。
↑これだと御遺訓は2種類あることになるが、同じものじゃないの?
>>255 ああ、家康に背いたくせに戦場では戦えないんだ、と逃げた武将がいたとかの話か
でもこれって冷静に考えるとコントだよなぁw
まあ甘いと言えば甘いが、
ようやく独立できた自分たちの殿さんを
自分の手にかけるというのが嫌だという気持ちもわからんでも無い。
そういう甘さがあったからこそその後の講和が成立したんだろうし。
もっとも、家康本人は家臣と宗教の統制の必要性を痛感してそれが
その後の政策に繋がってるんだが。
259 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:22:44
いくら家臣でも心の問題に介入してはいけないとか?
260 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:45:05
政教分離だろってことだろ
詭弁弄してまで一向衆の拠り所である寺を三河から一掃しとるし
261 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 16:49:54
政教分離なんてできるかね?キチガイじゃないとできないだろ
じゃあその政教分離をやった信長・秀吉・家康はキチガイか…
263 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 17:53:51
三キチガイだな
264 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 18:08:47
信教の自由を認めないんだから
キチガイだね 信長秀吉家康の三馬鹿
いや、三人とも世俗に介入する教団などは規制したが、宗派や信仰そのものを排撃したことはないぞ
安土宗論でさえ「他宗派を攻撃するな」程度の罰則で終わったし
>>251 家康は技術的には達人クラスだよ。
まず上泉伊勢守秀綱が門人「奥山急加斎(休賀斎)」に神蔭流剣法(奥山流)を七カ年学んだ
奥山神影流とは現在の直心影流や鹿島神流の系統だな。
さらに弓は竹林派の石堂藤右衛門の免許。馬術は大坪流、八条流共に印可皆伝。鉄砲は稲富流免許
剣、薙刀は新当流(有馬流)の奥義皆伝、ちなみに有馬流は家康が宗家代理だった。
それらのものは実力なのか?
主であるとか身分の高い人だから、の「義理許し」じゃないの?
実戦経験がないから、畳の上の水練という可能性も
>>267 実戦の経験は山のようにあるだろw
つか、馬術は見りゃわかるし鉄砲は狩りの時の記録が残ってるが
ちゃんと獲物を仕留めてるぞ。
つか、ガチで実戦で剣術使った経験のある剣豪なんて足利義輝くらいだろうに
江戸期の剣豪なんて実戦経験なんてないしな
この場合は実際に武芸を生かした場面が実戦であったか、では?
普通に戦場に出た、ということなら他の大名だって殿様芸ではありえないことになるし
大将が武芸を活かすような場面がごろごろあったらマズいんじゃないか?
そんな大将は戦国時代じゃあまり長生きできまいよ。
この場合は、武芸の腕が本物かどうか?というネタで雑談してるわけで
大将が個人的武勇に頼るもんじゃない、という意見とはまた別でしょ(実戦でも個人武勇を何度も見せた信長すら、一騎打ちした氏郷をたしなめてそれは大将のやることじゃないと言ってるし)
>>273 だからそのレベルで本物認定できるのは上で出てる足利義輝だけなんじゃないの。
275 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 09:30:46
自ら敵七騎を倒した佐竹義重なんてどう?
>>275 具体的な武芸の腕かどうかわからんしょ。
戦場では勇敢さが物を言う場合も多いし。
もちろん、個人的武勇に優れてないとは言わないけどね。
それと武芸の腕というのはまた別じゃないかと。
上に立つ者はひとを使うのがうまければいいんだよ。
超ワンマン体制の豊臣政権は呆気なく滅んだ。
>>276 てめぇは屁理屈ばかりでつまらん人間だな
280 :
日本@名無史さん:2006/10/04(水) 10:53:13
実際、柳生新陰流の伝書を最初に但馬守から得たのは大名で
それ以前は一門継承でしょ
実力的に優れていたから貰えた、というのは疑問
と、いうか本当に実力があれば自分で一流立てるか、そもそも道場剣法に興味ないんじゃね?w
>>280 実力があった義輝は将軍の癖に剣法オタクでしたがなにか?
逆に言えば義輝一人ぐらいだろ
そういうのを普通は「例外」とするのでは?
北畠具教も最期についての異説(織田に通じた家臣に謀殺されかかったが、返り討ちにしまくってラストは自害)を信じるのなら、かなりの腕だったことになるが
剣術習ってた大名の中でも印可まで貰えた大名は少ないんじゃないか?
全部が実力とは言わんけどさ
少しは家康の話もしてやってください。
たしかに武芸の世界には「義理許し」の免許はある。
だが大名豪族の殿様がすべて義理免許という考えは早計だろう。
上泉伊勢守、塚原ト伝、柳生石舟斎、小笠原源信、長野無楽斎、松本備前守、中条兵庫・・・
いずれも小豪族や大身の武家、若き日の家康と同じ弱小大名だ。
>本当に実力があれば自分で一流立てる
そのとおり。有馬流は実質上家康が宗家代理となって立てた流派と言っていい。
家康は武田の遺臣を多くかかえたと言うけど詳しい人いる?
抱えたといっても多くが陪臣以下だからなー
甲斐同心なんて半農レベルだし
井伊の赤備えは武田の旧臣
NHKの日本史で水戸藩に入れたとか言ってたなかったかなー?
大久保長安ぐらいじゃね?有力な徳川家の直臣になれたのって
>>288 だからそれは井伊の家臣だから、家臣の家臣=陪臣
291 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 20:59:12
井伊が勝手に抱えたんじゃなくて家康が付けてやった。
確かに陪臣だが家康の意向なら家康の功績に違いない。
292 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 21:24:11
>>287 武田の一門とか家臣とかで旗本になってる家はけっこうあるけどな。
293 :
日本@名無史さん:2006/10/07(土) 22:32:17
武田家を継いだのが家康の実子信吉なんだよな。
八王子千人同心も身分は旗本ではあったようだが、百姓でもあったようだし。
譜代・親類衆重用主義を貫いたから家康政権は安定した
だから武田家の遺臣を重用するには限度があったのは当然
長安だって没後は怪しい不正をとがめだてられ、遺骸を暴かれ晒された上男子の遺児は皆殺しという目にあってる
296 :
日本@名無史さん:2006/10/09(月) 21:16:46
北条の遺臣の中山信吉は水戸頼房の付家老だもんな。
陪臣ながら大出世。
陪臣だから出世できたのでは。直参だとどうだろ?
よく家康は、豊臣家を裏切ったとか言われるが、実は家康こそが豊臣家の正統後継者
である事を誰も指摘しない。
家康は秀吉の数少ない肉親の妹を正室にしていて、秀吉の義弟であった。
一方の秀頼は当時から、秀吉の子では無いと噂され、事実秀吉の正妻である、ねねも
秀頼に味方せず、家康に付いた。
秀頼が秀吉の子でない以上、義弟である家康にこそ、豊臣を継ぐ資格がある。
大坂冬の陣は、豊臣家を乗っ取らんとする側室淀殿陣営とそれを阻止すべく戦った、
正室ねね・義弟家康連合の戦いであった。
こうして見ると、家康陣営が勝利したのも当然で、家康こそが正義であったことが分かる。
299 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 08:09:49
家康って我慢強いようにいわれるけど、結構執念深くて残忍な面があるんだな
長安の不正については幕府の政争絡みの冤罪っぽいし
今川の人質時代に鷹狩で迷惑かけたために嫌味いった相手(今で言えばボールを他人の敷地内に蹴り込んで叱られたようなもの)をずーっと後になって切腹させてるし
戦場でイラついてたからって傍にいた自分の旗本を斬り付けたこともある
対外的に忍従していた反動かね?
300 :
日本@名無史さん:2006/10/10(火) 10:53:58
戦国の世とはいえ、幼少時に叔父に売り飛ばされて人質生活を送り、
父親もさっさと殺されちゃえば普通に育たないだろう。
家康が売り飛ばされた金額って、当時一般的だった人買いの相場と比べてもかなり安かったんだっけか
三河人の気質というのは関係有るか?
303 :
日本@名無史さん:2006/10/12(木) 02:49:13
徳川家康は素晴らしい!
小心者であるからこそ、天下を取れたのだ!
毛利元就、武田信玄は小心者だったからね!
運と決断力が無いと天下は取れまい。
305 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 18:23:26
>>298 そうならやっぱり源氏でなく、豊臣朝臣を名乗ってほしかった
あるいは秀康を豊臣姓に復して、存続させてほしかった
306 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 20:52:03
307 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 21:21:47
>>303 家康は小心者というより優柔不断だったらしい
わが殿はにえきらなくて・・・と家臣がぼやいたという話をどこかで読んだ
308 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 21:33:07
三方が原の軽挙で失敗したから、考えが慎重になったのだろう。
どう批判しようとも子孫が260年も政権トップにいられる基盤を
築いたのから、すごいに決まっておる。
309 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 01:04:02
>>308 たまたま運がよかっただけだろ。
運良く株で連勝し、80億稼いで子孫が安泰になったとしても、
ダレもえらいとは思わん。
政策には見るべきものがない。
政策は優秀な官僚、大臣にやらせればいいんだよ。
大事なのは組織の人事権を掌握する事、でないと勝手に暴走されちゃう。
天下取っても家来に暴走されたら意味がない。
312 :
日本@名無史さん:2006/10/14(土) 15:56:25
>>309 頭の悪い陳腐な例えだなw
スレタイは「えらい」じゃなくて「すごい」だよ。
80億稼げばすごいだろ。
>>312 そもそも桁が違うしw
80億程度だとゴロゴロしてるし・・・・・
314 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 01:16:48
80億儲けるレベルの実力ってことだろう、
確かに生き延びる力は相当あるかもしれないが、
刀狩や信長の諸政策のようなアイデアがない男ではある。
楽市楽座とかは斎藤道三のマネでしょ、信長のアイデアでは無いし。
刀狩なんて派手な名目つけなくても徳川幕府は安定期になってから正雪や無宿人、
生類憐れみ令などにかこつけて武器取り締まりを行っている。
また、切支丹禁教にかこつけて檀家制度を一般百姓のすみずみまで組み込み完成させる。
さらに息子に対してすら将軍職は世襲させつつ源氏長者は譲らない念の入れよう。
このようにじわじわと多角的に締め付けてくる政策こそ徳川の恐ろしさだよ、
教科書に書かれて無いから無策だったとは言えない。
316 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 16:44:26
>>314 部下の謀反で殺されたら無能そのもの。
人心掌握も危機管理も全くなってない。
317 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 18:42:07
信長なんかは人心無視してやるのがとりえだけどね
光秀が謀反起こしたと聞いて、「是非もなし」
そのくらい徹底していれば気持ちいい
80億以上儲けたら人生の勝ち組だろう
319 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 20:01:35
流れをぶった切って漏れの家康像。
乱世にあって、戦災や権力闘争から逃げ回ってただけだが、
最後の最後で奮闘、秀吉の座をすべて引き継ぐ。清朝以後の支那のごとき武将。
こんな感じがする。最初から最後のお家乗っ取りまで戦略を考えてたのなら
まさに天才だけど、実際そうなのかな?運が良かっただけなような・・
三河一向一揆で一向宗の寺を徹底的に破壊し
今川から遠江を切り取り
本能寺後は甲斐・信濃を切り取り
秀吉の大軍と小牧長久手で戦い
秀吉から母と妹が送られるまで頑として臣従しない家康が
戦災や権力闘争から逃げ回ってただけ?君は歴史を勉強しなおした方がいい
321 :
日本@名無史さん:2006/10/15(日) 22:29:51
信長から秀吉そして家康で完成したようなもんだからこの三人のうち一人でも欠けていたら、天下泰平の世はなかったと思う、 楽市楽座は六角氏もやっていたんだね。信長
信長が最後まで同盟を結んでいたのが家康。
秀吉が徹底的に恐れていたのが家康。
伊賀甲賀根来の忍びを丸抱えしていたのも三河松平家。
そんなに簡単に運良く天下を取ったわけでは無い。取れるべくして取ったのだ。
323 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 01:08:04
運だけで棚ボタ式に天下が転がり込んできたとすれば、そのほうがすごいかも
324 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 01:41:55
>>322 信長が最後まで同盟を結んでいたのが家康。→同盟という名の主従
秀吉が徹底的に恐れていたのが家康。→四国、九州征伐後はいつでもつぶせた
伊賀甲賀根来の忍びを丸抱えしていたのも三河松平家。→そんなバカな
325 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 12:44:38
家康って群馬県出身?と聞いたけど?
>>325 そりゃまたトンデモな話を聞かされたなw
327 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 16:33:03
信長・・曹操
司馬懿・・秀吉
司馬炎・・家康
>四国、九州征伐後はいつでもつぶせた
↑無理。小牧長久手の戦いを見れば野戦能力の格の違いは一目瞭然。
変幻自在に陣を敷き、諜報攪乱に優れた家康に秀吉の戦術は通用しない。
それに、もし戦えば全国の反豊臣を寝返らせることは家康には可能だったろう。
時期を見、財力を蓄えていただけ。
329 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:06:33
関ケ原の西軍の総大将は石田三成ですよね?それと、家康が討死し影武者が指揮をとったと説がありますが、この説はどこからでてきたの?書物から?
330 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 19:46:01
331 :
又:2006/10/16(月) 20:16:08
家康は大阪夏の陣の時、後藤基次に大阪の和泉の地にて棺おけに隠れている途中
槍で刺され死んだと噂をききました。その後家康のあと天海の坊さんが
影武者となり最後まで指揮をとったと言われております。
333 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 23:31:02
>>328 小牧・長久手でも、もしあのまま続けていれば家康は潰れていた。
伊勢方面では同盟していた信雄方の城が物量の差で落とされ続けて
信雄は単独講和を考えていた。
緒戦のパールハーバーで戦果をあげても圧倒的に物量に差がある秀吉
には勝てるわけがない。
秀吉は両面作戦を避け、紀州の反秀吉勢力(雑賀・根来)、四国の長宗我部、
九州の島津と西国の平定を優先し東国は後回しにしただけ。
毛利とも最初は戦って苦境に陥ったこともあったが、
臣従した後は特に潰そうとはしていない。
家康も同じで最高顧問となって配下になった国粋会を潰す必要はない。
334 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 23:40:31
家康の凄い所は天下統一をあえてしなかった所。
子孫にも天下統一せよと遺言しなかった。
だから江戸時代は発展し、子孫も生き残れた。
対して一党独裁のシナ、チョンの人民の悲惨さ
>>315 ぶっちゃけ家康が「アイデアがない」とか「古い」とか言われてるのは
内容云々以前に、実際に家康の統治方針が「江戸時代」という形で
最終的に一時の日本全体の統治形態のスタンダードと化して、かつそれが
「過ぎた時代のお話」になってしまったことに起因すると思う。
信長や秀吉を踏み台にしたやり方が、神君マンセーが通じない時代ではウケないんだと思う
あと、やっぱり英雄だと人々が認める条件のうちいくつかを満たしていないとか(悲劇的な最期を遂げてない、とか劇的な劣勢を逆転する手腕を見せたわけじゃないとか)
松平家当主でありながら人質という状況は立派な逆境。
338 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 20:12:33
なんで義元は広忠なきあと三河の直接支配に乗り出さなかったのだろう。
当主もいないのに、人質なんてとってる意味ないじゃん
>小牧・長久手でも、もしあのまま続けていれば家康は潰れていた。
だったら講和に乗らず戦闘を続けた方が秀吉にとって得策だったはずでは?
>>339 潰せればね・・・
戦術レベルでは秀吉の完敗だからこその講和なんだけどねw
秀吉ですら家康と結ばない事には東国に手をつけられないのは確かだろうな。
342 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 02:12:34
>>339 長宗我部と雑賀が大阪城を攻撃する勢いだったので2正面作戦を避け、
家康をつぶすのを後回しにしただけ。
結果的には長宗我部一味の動きはたいしたことはなかったので、
家康を潰しておくべきだった、秀吉の判断ミス。
>>341 そんな馬鹿な、当初北条との周旋に熱心でなかった徳川に怒り、
徳川に対して陣ぶれを発しようとしたほど。
徳川・北条が連合したとしても秀吉には簡単にひねられること
を知っていた家康は、あわてふためいた徳川は急遽、
北条にたいして圧力をかけ氏規を上洛させることに成功、
しかし結局北条征伐となり先鋒をかってでた。
こんなスレ立てて再認識お願い、とかやってること自体、
雑魚だと言ってるようなもの。
344 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 06:13:55
秀吉って晩年の痴呆での明征伐の失敗以外、一度も戦に負けたことないよね?
345 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 08:36:35
秀吉が家康を潰すつもりなら朝鮮出兵に参加させたことだろう。
しかし家康は名護屋までしか行ってない。秀吉には家康を渡海させ
るだけの力は無かったのだろう。
>>344 秀吉が家康の前でそれ自慢したら、小牧長久手の敗戦をお忘れかと言われたんだろ。
>雑賀が大阪城を攻撃する勢いだったので2正面作戦を避け、
>家康をつぶすのを後回しにしただけ。
・・・それって完全に家康の策にハマッてる事だよ。
それに小田原合戦はどういう理由で始まり、最後に誰が一番得をしたか考えてみれば
真の黒幕の恐ろしさがわかるはずだ。
348 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 18:28:57
>>346 小牧・長久手では伊勢方面では秀吉の勝ちで、尾張・三河方面では引き分け。
家康は秀吉軍の攻勢をしのぐだけで手一杯で、秀吉方の中入りが失敗(池田勝入斉)
したあとも基本の構図には変化はなかった。
家康は、雑賀+根来+長宗我部+佐々+信雄+家康の連合で秀吉に対抗していた
わけだが、家康はうまく危地を脱したと言えるだろう。
雑賀衆・根来衆の大坂攻撃は明石元次郎のロシアでのかく乱工作と同じような成果
を上げた。
しかし、かつて同盟していた諸侯が征伐されて九州も平定されしまっては、
対抗するどころではなく臣従(ペコペコ)するしかなかった。
諸侯征伐こそ家康にとってチャンスだよ。
秀吉が敵を一つ一つ潰していってくれるのだから黙って内側から見ていればいい。
秀吉も信長が敵を潰しておいてくれたから織田を乗っ取るだけで天下を取る事ができた。
家康は臣下の礼を取りながら豊臣を乗っ取れば良いだけだもの。
350 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 20:09:00
そんなに最初から戦略を持ってたのかなあ。なんだかあれよあれよと言う間に列島を統一したような感じがするんだが。
351 :
日本@名無史さん:2006/10/18(水) 21:51:39
で、最後に全部かっさらった家康はすごい。
ということで。
>>348 あの時点で家康に対抗しぬくつもりはなかったろうな。
「抵抗するぞ」という覚悟と「容易には潰せない」という意識を
植えつけて、安易な扱いを受けないようにするのが眼目だった
と思われる。小牧長久手後も交渉レベルで粘りまくってるし。
逆を言えば常に秀吉から睨まれる立場に自分を置いたわけで、
むしろここでナンバー2の地位を守りつづけたってことが
家康の凄さのような希ガス。
>>352 兵法三十六計反客為主だな。
客として居たヤツが重役職になり、いつの間にか主人に取って代わる。
高祖劉邦も項羽に頭が上がらず辺境の地へ飛ばされたが、結果として辺境で力を蓄える
事となり、反項羽陣営の拠点となる。
豊臣秀長、小早川隆景、前田利家あたりが長生きしてたら家康の天下はなかった。
そうなの?
357 :
日本@名無史さん:2006/10/21(土) 08:17:20
家康は「待つ」ところがすごい
他がバタバタこけて、もう家康しかなくなるまで待つ
時期が至れば一気呵成
ため込んだパワーを放出しまくる
運がいいといわれるのはそういうこと
豊臣家の内紛を軍事面で実現させた関が原。豊臣家の弱体化に成功。
秀忠軍は遅れて安泰、結果論とはいえ上手すぎる。
>>355 秀長はともかく
隆景は三成に加担する義理も無いから内通して御家安泰を企む可能性が高い
中国大返しの隆景と関ヶ原の広家は末路が違うだけでやってることは同じ
利家は牽制役には使えるが家康を打倒できるほどではないし
現に利家在命中にもためらいなく天下取りの下準備をしていた
さっさと病死したから見苦しいところを見せずに評価を落とさなかっただけだろう
>>357 実際その「待つ」過程も決して楽なもんじゃなかったしな。
織田との同盟時は主従の関係に近い犬馬の労を厭わず、
睨まれたときは息子の首すら差し出してるし。
秀吉に臣従した際も、実力で手に入れた遠駿三の領地から
江戸の田舎への国替えを受け入れてる。
結果生き延びたものの、実際その時その時まさに「死地」
だったろうな。
うーむ、すごい人生だ。
ある意味信長より身内の血で血塗られた天下人ではあるな。
362 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 03:48:25
>>359 しかし、利家のほうが家康より長命なら天下は取れなかった。
秀吉亡き後、何回か家康を抹殺する機会がありながら出来なかったのは
病で気力が衰えていたからだろう(秀頼の後見役なので立場は家康より優位)。
もし隆景が存命なら関ヶ原のような事態さえ発生せず、
いわゆる集団指導体制が続き徳川の天下はなかっただろう。
輝元+吉川広家では家康の専横を抑えられないが、隆景なら重みが違う。
それでも関ヶ原のような事態が発生したら、大阪城で秀頼を手中にし、
しかも、家康に対抗できる声望があるので西軍につく武将も多く、
天下が狙えたかもしれない。(もちろん金吾の裏切りもない)
363 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 09:14:36
まあ、そのじいさん達が死んだら近い内に豊臣は分裂を始めたろうね。
バブルはいつまでも続かないもんさ。見た目は強大でも構成はボロボロ。
毛利だってもともと豊臣の家臣では無いが家康に対抗するために担ぎ出されただけ
だろうし、命をかける義理はないからあんな感じだったんだよ。
秀吉に頼れる一門衆や譜代がしっかりと居ればまた話は別だったろうけどねえ…
365 :
日本@名無史さん:2006/10/24(火) 22:21:28
家康がすごくないとしたら、同時代の誰がすごいんだ?
今川氏真の蹴鞠がすごい
367 :
日本@名無史さん:2006/10/26(木) 15:51:45
当代記という史料によると、三方ヶ原戦では実は家康は信玄を見逃して持久戦することを決意してたらしい
ところが信玄軍を監視させていた物見が敵に石を投げて挑発しているうちになし崩しに戦闘になり、慌てて出て行ったら大負けしたと……
負けを承知で飛び出していった、という「武士らしい」話は家康を英雄に仕立てるための作り話?
武士らしいかもしれんが、大将としては最悪だな。
「あの」信玄に立ち向かったと言うんで武将としての評価は高まったようだが
まあ、最初から勝ち目のある戦ではないからな。
あの今川ですら信玄には情報が筒抜けだったらしいし、織田を潰せば家康は
屈すると考えたんだろ。
371 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 01:10:18
>>365 秀吉しかいないよな。
徒手空拳で天下人になったというのは空前絶後だ。
明智(11日間天下人)や家康は当時は落ちぶれていたとはいえ
領主層に属していたが、秀吉はまったく違う。
50才頃に14才を側室にしたロリ変態親父なんでしょ
>>372 ねね様だって結婚当時それくらいの歳じゃなかったっけ?
うらやま(゚η゚)
374 :
日本@名無史さん:2006/10/27(金) 10:19:32
秀吉って肖像画を見ると白人みたいな顔してるよな。ロシアのプーチン大統領を日本に閉じ込めて30年くらいしたらあんな顔になるのでわ?
逆にぶくぶく太りそうだぞw
権力者に側室を上げるのは名誉って時代だからなんとも…
秀次事件みたいに酷いとばっちりの原因になることがあるからなぁ
そう言う意味では権門からの側室迎えるのをほとんどしなかった家康は変わってるかも
信長の側室は三人だけだっけ?
信長にもっとも愛されていたとされ、嫡子を産んだこともあり正室並の扱いを受けていた生駒氏
近江土豪の娘の鍋氏
あと坂氏(身分の低い女性だったとされる)
秀吉はもとより、家康にも負けて(?)るな
>>371 つーか家康の場合むしろなまじ属していただけにヤバかった
ともいえる。
なんも持ってないやつの命をあえて取ろうとする奴はいないって
意味では、あの時代の弱小領主ほどやりにくいものはない。
特に家康の場合、今川の人質→織田との同盟→秀吉への従属と
人生の大部分を「自分以外の人間の胸先三寸で首が飛ぶ」
ところで生きてるわけで。
確かに家康が秀吉の立場では上手く行かなかっただろうが、
逆もまた然りだろうな。
実際自分の息子の首が飛んだわけだしな
家臣とかもつまらん理由で殺されているし何時裏切られるかもわからない。
戦場に出さる時は最前線。 ・・・いやいや大変だ。
腐った正室、築山御前。
382 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 11:26:42
ずっとNo.2だった家康が、秀吉が死んでNo.1になれそうだった時、
あえて秀吉の遺命に背いて諸将の反応を試した時期がある。
No.2時代の経験をNo.1になってからも活かせるのはすごいと思う。
秀吉はNo.1になってから判断ミスだらけ。
三河武士ってどうよ?
385 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 14:25:42
譜代の三河武士は忠誠心が厚い。つか厚すぎる
宗教絡み以外では家康を裏切ったのって石川数正ぐらいでしょ
天下を取っても家康の子などは何十万石の大封なのに、自分達は最功臣でもせいぜい10万石程度
そんな冷遇でも満足するんだから
思い込みとは妄想の世界
>>385 三河武士が忠誠心篤いという説は、家康家臣からきている部分大だろう
家康自身のキャラが妙に説得力あったということ
普通に言えば人格者だった
三河武士は犬、と揶揄されるような連中だからな
でも結果的に家康を守り立てたのは正解だったわけで
三河武士の家族的団結が強すぎて、天下人になってから
身分の違いが認識できない彦左衛門みたいなのに手を焼いた
391 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 00:24:27
>>388 家康の専横に対して追従する奴、黙認する奴、拒絶する奴
それで関ヶ原のような事態になったとき、どう行動するかが見当つく
織田→エンジントラブルでリタイア
豊臣→ピットでミス
徳川→後続押さえとけば優勝
>>389-390 たまに狂犬(水野勝成)とか牛(井伊直政・直孝)も混ざってたけどな。
でも、忠犬とか呼ばれる奴等よりも、はるかにそいつらのほうがその後の三百年を上手く世渡りしてるけどな。
酒井・本多・榊原は転封されまくったというのに…。
394 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 10:03:22
井伊は三河武士ではありませんが。
姻戚の水野勝成を同列に入れるのはいかがなものか
396 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 20:43:59
良く家康はケチ、といわれるが本当にそうだろうか。秀吉の譜代格大名の
筆頭は蜂須賀氏だが、阿波一国。その他の子飼いも多くて10から20万石の
間で落ち着いている。家康の家臣団も大体10万石前後。
秀吉の場合、家康に関東を与えたり、有力大名の家老に大封を与えたり
しているから気前が良く見えるのかもしれないが、これらは外様の弱体化
や政権運営のための手であり、別に本人の好悪によるものではない。
397 :
OPS:2006/11/10(金) 21:39:21
三河武士というのがわからない方は岡崎城に行ってみたほうがいいと思います。
398 :
日本@名無史さん:2006/11/10(金) 21:59:02
>>396 加藤清正や福島正則とか浅野は蜂須賀より多いだろう
彼らは譜代というより親藩かもしれないが
399 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 22:41:51
服部半蔵正成は三河武士に入れていいんだよね?
400 :
OPS:2006/11/11(土) 22:56:56
>>399 出身が三河もしくわ伊賀ということになっています。
401 :
日本@名無史さん:2006/11/24(金) 23:20:04
>>393 四天王の酒井は庄内藩から動きませんでしたが。
遅レスで保守だ。
402 :
日本@名無史さん:2006/11/26(日) 23:10:55
>>401 四天王とは別格の雅樂頭系酒井家も本家が前橋→姫路、分家(忠利系)が川越→小浜と結構引越しとは縁が薄いみ
たいですね。
404 :
日本@名無史さん:2006/11/28(火) 23:57:45
405 :
↑:2006/11/29(水) 12:49:28
禿バカ
406 :
日本@名無史さん:2006/12/11(月) 13:27:13
60才過ぎて4人の子女に恵まれ、早世したのは女の子1人。
残りの男子3人はそれぞれ御三家の祖となったのだからすげえよ。
信長や秀吉とはこういう面でも違っている。
一番最初に死んだ義直ですら52才だもんな。
407 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 00:09:32
秀吉はともかく、信長は割りと一門に恵まれてたし、御家争い対策も
してたと思うけど。本人と跡継ぎが同時に死亡とかいう不測の事態が
起こったから混乱しただけで。
408 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 09:41:50
こんなスレあったんすか。
勝海舟が、「家康は万一徳川が潰れる時には一気に潰れるように、
わざと天領を全国に分散させておいたのだ。
もし内戦状態が何十年も続き、幕府が外国から借金まみれになって潰れたら
日本は西洋人の植民地になっていただろう。
明治の日本があるのは家康のおかげだ」
って言っていたな。
まあホラ吹きじじいの言うことだからあまりあてにはならんが、
確かに幕府が簡単に潰れてくれたおかげで、(清国とかとは違い)
飛躍的な近代化をなし遂げた、というのは事実。
409 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 10:56:04
>>408 >家康は万一徳川が潰れる時には一気に潰れるように、
>わざと天領を全国に分散させておいたのだ。
分散してたら一気に潰せないだろ。本当に海舟が言っていたのか?
どう考えても分散は各地で反乱があった時のための押さえだろ。
意味不明な分析だな。
天領を分散させたのは徳川の威光を全国津々浦々に浸透させるためだったんだろうが
確かに一箇所にまとまっているよりは潰れやすそうだな
411 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:35:38
>>409 天領自体は多いのだが、分散させることによって、
反乱時に地方から江戸へのの交通が遮断されると
一気に手足をもぎとられる。
まあこの見方に賛成するか否かは自由だが、
いずれにせよ確か氷川清話の中で、勝海舟はそう言っている。
412 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 15:14:06
天領は江戸や大坂の周辺にまとめれば便利だったろうにな。
農作物の不作を分散させる意味もあったかもしれない。
413 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 15:38:21
家康で見逃してはならない点は、戦国時代の武将にしては
意外に学があったということ、あるいは学問好き、古典などから
学ぶ力があったということ、これは今川の人質時代に基礎学問を
習っていたせいだろう 無学な武将も多かった時代に知識人としての
側面も持ち合わせていたのだろう だから天海などの話を理解する
能力があった ある面、学びの天才といえるかもしれない
>>412 後年になってそれやろうとした水野忠邦は失敗して失脚したしな
確かに明治維新が長引いて、
太平天国みたいな泥沼状態になっていたら
日本は清と同様(というかそれ以上に)
列強に侵略されまくっていただろうな・・・
>>413 >戦国時代の武将にしては 意外に学があった
>無学な武将も多かった時代
何か戦国時代に対する大きな誤解を抱いているようだな。
417 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:29:31
武田信玄みたいな名門の出にはインテリもいただろうが
まあ確かに、無学な武将も多かったことだろう。
しかし無学DQNの代表であるT臣H吉でさえ、
茶道を愛好する風流な面を持つ(と自称していた)ところをみると
やはり基本的には、
戦国武将は高い教養を持つべきものと考えられていたはず。
418 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 00:38:53
戦国武将中の一番のインテリはやはり細川幽齋だろうね。
これは武将という域ではなく、この時代きっての知識人。
それに次いで信玄とか安国寺恵瓊とか荒木村重とか、
インテリはたくさんいる。
419 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 01:00:01
新正口號(武田信玄)
淑氣未融春尚遲
霜辛雪苦豈言詩
此情愧被東風咲
吟斷江南梅一枝
淑気未だ融せず春尚遅し
霜辛雪苦豈詩を言わんや
此の情愧ず東風に咲われんことを
吟断す江南の梅一枝
九月十三夜陣中作(上杉謙信)
霜滿軍營秋氣清
數行過雁月三更
越山併得能州景
遮莫家郷憶遠征
霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁月三更
越山併せ得たり能州の景
遮莫家郷遠征を憶ふ
太原雪斎がセンセイなら、当時としたらかなりの教育水準だろ。
岡崎にずっといたら、それだけの教育をいけられていたかどうか
寄らば大樹の陰と言うが、やはり織田、今川はすごいよ。
後の家康に必要な修行がほとんど行えたはずだ。
もっとも父祖が残した人材もすごかったが。
422 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:34:05
戦に強く有能な政治家でもある。しかも長命。
まさに最強。
423 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 08:48:59
そうそう。
長く安定する政権を作り出したという点では、
日本史上、天智・天武両帝と並ぶ。
信長だの秀吉だのといった一発屋とは比較できない。
火事場泥棒が達者だったから良かった
信長の遺産をちょっとだけ、秀吉の遺産をほぼ丸ごと横取りした手腕は素晴らしい
425 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 20:13:04
戦の強さ(勝った・負けた)で言えば
徳川家康≧豊臣秀吉>明智光秀>織田信長
となるな。
426 :
日本@名無史さん:2006/12/27(水) 23:53:07
山岡荘八の家康読んで再認識した。
もし家康がいなかったら泥沼の戦国時代が
長く続いていただろう。
427 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 00:24:32
武田信玄>徳川家康≧豊臣秀吉>明智光秀>織田信長
His judgement cometh and that right soon
男性諸君、結婚すると不幸になる。女の外面は綺麗で清潔で良い人、内面はずるくて汚いため、口も悪い+嘘つき+女同士も上辺仲良し裏では悪口三昧
女の成分はA(性悪陰湿残忍+損得自己中感情)+B(良い女演技+体形+整形化粧+ファッション)
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★捨てた女は優しい真面目男が結婚(残飯処理)してくれるさw★
それでも結婚する君へ究極護身法→[夫婦財産契約登記]
夫婦財産契約により、自分の稼いだ財産はすべて自分の物
離婚時に財産の半分を配偶者に取られない
弱い者いじめは最低と言いつつ、赤ちゃんを殺す母親(そして無罪判決(笑
狙撃は女子のほうが強い。男は、ノイローゼになってやめてしまうが
女は何人殺してもノイローゼにならない。そして、骨盤が安定しているため
ナチスの拷問で、女の拷問の残虐非道さを見て、拷問をしていた男達もひいたという
拷問しながら楽しそうに笑みをうかべていたそうだ。罪悪感や引け目が無い
・有史以前が女尊男卑の時代だったことを指摘したのは、スイスの学者バッハオーフィン
アマゾン女族の女王は、法律を定め、男達には卑しい奴隷の仕事を課した
男児が生まれたら、生き埋めにするか、脚と腕を不自由にして、戦えなくし奴隷とした
・王位継承権が女性にだけあった古代エジプトでは女性権力が非常に大きかった
・日本でも卑弥呼が女王
http://kr.img.dc.yahoo.com/b1/data/dci_etc/76.wmv ←女集団が、女一人をリンチしている動画(執拗に蹴り続けながら皆楽しんでる
女は虐げられてきた?父系社会など人類の歴史から見ればほんのわずかな期間に過ぎない。むしろ・・
医学に造詣が深かったが、その知識を自分にだけ使った吝嗇家。
また運動の重要性を認識しており、馬、鉄砲撃ち、水泳、鷹狩で
健康を保ち、75歳まで生きて、豊家を滅ぼした。
でも家康って何か凄い戦術で勝ったことあった?
信長の桶狭間や稲生原合戦みたいな逆転劇ってないでしょ
小牧長久手で秀吉軍別働隊を奇襲したぐらいでは
まともに合戦したら信長に及ぶとは戦歴を見ると思えないが
小牧長久手は負けなければいい戦だったわけだし、関が原は書状攻め
で寝返らせる戦術を使った。派手である必要なんかない。
結果が全てよ。
信長の火縄銃三段攻めを信じてるわけではないんだろ?
だから戦術なら、という話ではないの?
433 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 18:21:27
だから戦術として、
戦の前に既に勝敗を決して、万全の体制で臨んだ、ということだろう。
忍者とか使いまくってたみたいだし。
見えないところでかなり暗躍しないと、ああ着実に天下を取り
それを何百年も持続させることはできないとオモ
ってかその割には、武田信玄と真田昌幸にはボロ負けしてるがwww
会津に向かうと見せ三成を挙兵させ、大垣に籠もろうとするのを関ヶ原におびき出し
豊臣子飼いの将を懐柔し、敵の総大将の親族を裏切らせ結果自分は無罪放免。
終戦協定で堀を埋め敵の城を無力化してしまう。
いったいどう計算すればこんな戦略が思いつくんだ!?
武田信玄に負けたのは仕方ないんちゃう? 格が違いすぎたでしょ。
対真田昌幸戦には家康は出陣してないし。
>>434 その前に三成を自分の屋敷にかくまったこともすごい計算だよ。
437 :
日本@名無史さん:2006/12/28(木) 23:52:50
掛川城攻防戦
>>434 あまり凄いと思わせず淡々とこなしてる風なのが凄いかも
439 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 02:12:05
うつむいて、家康は爪を噛んでいる。
「意見を述べろ。ただし手短に言え。長談義に時を移しては、佐竹に怪しまれる」
「殺すべきです」
と井伊直政がいう
待たれい、井伊どの、待たれい、本多正信は
「それがしは治部少輔を失うこと不承知でござる」
「わけを言え」
440 :
日本@名無史さん :2006/12/29(金) 02:48:03
家康の弟・内藤信成に興味がある。
三方ヶ原でもしんがりを務めたぐらいなのに、最後の所領が近江長浜4万石。
国1つ与えても良かったのに。。
441 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 11:55:59
家康嫌いな厨って大抵
「信長は武田に代表される旧体制を打破し、
新たな世界の幕を開いた。秀吉がそれを継いだ」
とか思ってるよね。
実際には信玄を師とし、仏教に深く帰依し、
日本の過去の歴史を丹念に読んでそこから教訓を得、
足利氏や吉良氏等過去の名族を積極的に保護した家康が
新しい時代を築いたわけだが。
仏教に深く帰衣していた?
そこだけは違うだろ
443 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 14:58:08
>>442 山岡の家康を読むと、仏教にはまっていたようらしい。
444 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 15:34:37
信玄を師って小説家の創作でしょ
三方ヶ原の負け姿を絵に書かせたことから膨らませて
本人は遺言で「三河以来の法は変えるな」と遺言するほど父祖伝来を大事にしていた
中世豪族体制を代表した信玄を師としていたのなら、近世化の流れを受け継いだりしない
第一、高家として保護した家にはそれこそ新興だった織田家も含まれてるし……
三河一国と遠江分国程度の時代の家康に2倍以上の兵力で勝ったお陰で後世過大評価される信玄は幸運な武将だが
そのお零れで過大評価のおすそ分けに与る謙信はもっと幸運
家康は戦の前日には仏寺に参拝し、住職と問答したりしたらしいが、
信仰のためというよりは戦の覚悟を決めるためだったらしい
信玄を尊敬していたのは本当だろう
後に信長・秀吉のことはあまり言わなかったが、
信玄のことはよく例に出した
447 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:37:40
家康は毎日日課として念仏だか写経だか熱心にしてたはずだよ。
ただ、禅の修行には熱心でなかったようなのが、
代々の足利将軍や信玄との違い。(そのせいで、以後白隠が出るまで臨済禅は停滞期に入った)
あと信玄を恐ろしく尊敬していた、という話は方々に出てくる気がする。
まあ旧武田家臣を取り入れるための方便、というのも一部はあるだろうが、
全くそれだけではないだろう。
そういう流れは部下にも伝わっていたらしく
井伊の赤備えは旧武田配下のを引き継いでいるわけだし。
448 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 20:55:49
徳川は浄土宗だから、禅はやらんな。ナム阿弥陀仏だな
449 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 22:38:37
天台宗じゃないの?
>家康は毎日日課として念仏だか写経だか熱心にしてたはずだよ。
それは晩年に贖罪のため
451 :
日本@名無史さん:2006/12/29(金) 22:47:05
家康は鎖国論者じゃなかったってほんと?
もともと松平家の菩提寺は浄土宗じゃね?
桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られてしまい19才の青年家康は何時敵に攻め殺されるかと絶望し
自決するべく祖先の眠る大樹寺へ籠もった。
大樹寺の登誉上人はそんな家康青年に仏道を語り『南無阿弥陀仏』を唱え書かせ
心を落ちつかさせたと言う。
家康が今川から独立し岡崎城に入城するのはその三日後の事。
以来家康の陣には『厭離穢土・欣求浄土』の旗が掲げられる。
>>451 家康自身は海外貿易に積極的だったが、
家康の政策理念を究極的に推し進めると「鎖国」になると思う
454 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 13:45:39
徳川家の菩提寺の寛永寺は天台宗。
増上寺は浄土宗。
わけわかめ。
455 :
日本@名無史さん :2006/12/30(土) 13:51:07
>>454 家康が晩年に重用した天海が、比叡山の天台座主で天台宗だから。
家康時代の寛永寺は菩提寺ではなく祈祷所だろ。
つーか寛永寺が建ったのは家光の代だし。
家康自身の墓所は東照宮だったか?
457 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 17:49:34
宗派ごとに門徒を固定したのは江戸幕府の政策だから、
家康の時にはそれほど宗派で固定はしてなかったとオモ
快川和尚を招いて臨済禅に打ち込んでいた信玄も、比叡山から僧位を受けたりしている。
家康自身は念仏者だが、崇伝や沢庵は臨済僧だったわけで、
他宗派にも一定の理解はあったはずだ。
っていうか、むやみに他宗を否定したがるのは、
それこそ形骸化した教団の盲信的信者だけだよ。
日蓮宗みたいにもともと排他的な宗派もあるが、それはむしろ例外的だと思う。
458 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 21:09:40
複数の菩提寺があって、かつ宗派が違うってアリか?
蛇足ながら我が家は代々真宗本願寺派なんだが。
459 :
日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:10:28
そうヘンでもない。同じ宗派で婚姻ってわけでもなかったので家と個人が違うことも。
名目上は家の宗派だが。
家康も源氏の長者的に天台にしてるが、じつは浄土系がホント。
大名なんかは領国と江戸に複数の菩提寺が有ったらしいな。
将軍家では他に浄土宗伝通院が菩提寺だな。於大の方や千姫とか奥方や子供が主か。
伝通院も家康による開基だったな。
461 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 00:18:12
諸宗派に八方美人的に処遇をしたのは、宗教統制のあらわれ。
本願寺には兄弟双方に寺領を与えて、結果的に分断統治に成功した。
浄土真宗には若い頃さんざんやられたからね
462 :
日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:18:49
タフネスいえやす
60にんの子供、ヤるね!
家康は何かの決まりきった特許モデルのあるビジネスを核にして
中小企業から始まり大企業の下のほうまで一代で作り上げて
その過程では他の人の技術や特許盗んだり乗っ取りもした
それを跡取りの2代目に相続させる
みたいなモデルケースで最高に優秀な人なんだと思う
言わばオーナー創業者が跡取りがどう会社潰さずに残すかの見本になる人
国家レベルでそれやっちゃうと問題あるかな
みたいな感じ
それは家康だけでなく他の天下人もやってるとオモ
>>464 自分の一族をずっと「天下人」にしとくための体制つくりの意味じゃないかと
自分の「領地」をずっと一族に継がせるでなく
「領地」(企業)でやること「天下」(国家)でやるのは弊害が多い
鈴木眞哉なるこの板でも有名な歴史研究家の御大の説
・家康が天下を取れたのなんて運がよかっただけ。
・人間的スケールは三成のほうが大きい。
・小牧長久手は家康の負け。
・その後も秀吉はいつでも家康を潰そうと思えば潰せたけど、
西国、そして中国攻めに関心があったからほっておいただけ。
・秀吉が家康に人質を差し出したのは考え方が色々あるだろう。
けれど秀吉が家康を恐れたなんて徳川御用史観に冒されただけ。
個人的に小牧長久手の戦いだけに限定すれば、
講和に持ち込めた秀吉の勝利と思うが、
家康を降伏させられなかった事、そしてその後の家康への外交策を見る限り、
やっぱ秀吉は家康に対しては気兼ねをしていた、と観るのが正しいと思うのだが。
少なくとも家康を潰せなかった事は、結果論ではあるが秀吉の最大の失策。
あと家康は運だけ、というが、
その運が巡ってきた時に、運を生かすだけの資格を有していたのと、
努力を払った事は大きいのではないか、と。
運を生かすだけの資格、と言うと、
三河統一時以降旗本衆を強化して、
その当時の戦国大名にありがちだった「領主連合」から、
一歩専制体制に近い組織を作り、自身の権力の基盤を固めていた事。
運を生かすだけの努力と言うと、
関ヶ原の戦い以降に見られるような用心深い行動の数々。
全てがいいように傾いたからそれは運だ、といえばそれまでのことだが、
そうなるように努力したことは評価されるべきだと思う。
あと家康で評価するべきことは「天下を取った」ことよりも、
その後その体制を維持させた事だと思うんだけど。
江戸幕府の機構は家康一代ではなく、三代家光の辺りで完成するわけだけど、
家康は秀吉やそのほか先人達の例を参考にして、その基盤作りには成功してる。
それは武家諸法度の発布による大名の統制であり、
禁中並公家諸法度で朝廷、ひいては天皇までも法度で縛り、
事実上幕府の監視下に置くことに成功したことなど。
こういう基盤作りをしっかりさせたことは評価があっていいと思う。
少なくともこういう基盤作りがあったために、
鈴木眞哉がいう「天下人史観」も生まれることになるのだから。
そうじゃなかったら、今日まで「天下人史観」は残るはずがない。
確かに家康以上に才能があった人なのに、
運がなく散っていってしまった人もいるだろう。
しかしそれだからと言って、
「家康は家臣団の意見や先人達の例を参考にするばかりで、
独創性は全くない、運だけの無能人」
というのは極論過ぎる気がする。
先に書いたように、
「領主連合」の色合いが強かった大名家の家臣団の統率に苦労をした当時にあって、
家康は専制体制に近い組織を作っているわけだし、
また「他の人を模倣し応用する」ことこそが家康の才能だったといえなくもない。
鈴木達が「家康は無能」と評価する部分こそが実は、
家康の才能の最たる部分だったのでは?
と思うのだけど…
これって家康を過大評価しすぎてますか?
469 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 18:40:24
過大評価でもない、むしろ陳腐すぎてレスもつかない
三方ヶ原のウンコで運がついたんだろ、家康
470 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 18:44:21
アンチが幼稚園児レベルだなw
471 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 19:25:09
陳腐というが鈴木のような考え方が極論すぎるだけだろ
まあ彼は通説批判の名のもと自説をごり押ししたいのだろうが
けど最近は「天下人史観」について語らなくなったね。専門の合戦分析に戻った感じ
>>471 > 専門の合戦分析に戻った感じ
武光誠さんにもそうしていただきたいものだが。
473 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 21:36:07
鈴木の場合、合戦分析については冷静に資料集めて持論を展開してるからまだ説得力があるが、
家康論は嫌悪感むき出しの論理を展開して、冷静さにかけるから説得力がない。
自分でもそのことを薄々自覚してるから、
なんとか正当性を主張しようと、
自説に対立する意見には異様に攻撃的になるんだろう。 つか上にあるとおり家康が磐石の体制を築いたからこそ、
鈴木の言う天下人史観が生まれたのであって、
彼がこれに噛み付けば噛み付くほど、
個人的にはいまなお歴史に影響を与えるほどの権力を手にした家康すげーと思っちゃうのな。
陳腐な考えかもしれんがw
合戦において信長・秀吉のように苦境ながらも独力で実力の拮抗した相手を
年数かけて打ち破ったというのある?三河一向一揆、負けはしたが三方ヶ原、
これも援軍あるけど、家康は共同戦線多いよな。秀吉も信長配下の時は
各地で独力で戦線支えてるけど。まぁ家康にあれだけ信長から救援ようせいされて
さらに武田北条相手にどこまでやれというのか、という感じか。
475 :
日本@名無史さん:2007/01/15(月) 21:55:48
豊臣つぶし
秀吉が死んでから15年以上かけて、天下人の家を滅ぼした
今川とか豊臣とか
今川はともかく豊臣が拮抗してたのは金銀の脅威じゃないか
>>477 金銀も何も豊臣は時の天下人じゃん
家康は秀吉からの懇願もあって最初はこれに臣従してたけども、
秀吉死後、諸勢力をまとめながら天下の実権を奪い、
江戸幕府を築き、最終的に脅威の芽となるであろう豊臣を強引に滅ぼした。
秀吉逝去から幕府開府のあたりまでの家康が行っていた政治的駆け引きは、
運とかいうような言葉で簡単に説明のつくようなものじゃないよ。
下手すりゃ自らの身を滅ぼしかねない危険な勝負だった。
そうだな、関ヶ原から15年と限定したのかと勝手に勘違いしてた
別に石田三成を極度に過小評価したわけじゃなかったすまない。
考えてみりゃ、
信長死後、家康と秀吉とは微妙な政治駆け引きの連続だよな
時には合戦を行い、
またある時には互いに人質を送り、
そして主従関係を結ぶけれども、互いに何処か遠慮があって
秀吉死後一気に情勢が流動化するけれども、
豊臣家家臣の石田三成は毛利輝元を旗頭に対抗勢力を総結集させて、
家康を潰そうとしてくるし、
関ヶ原勝利後も豊臣家、全国諸大名、そして朝廷との微妙な関係は続いたわけで
このスレでは叩かれるかも知れんが、
「家康は取るべくして天下をとった」
という事に異論を唱える鈴木真哉には同意。
実際はそんなに生易しい状況ではなく、
いつ破滅してもおかしくない状況だった。
そんな修羅場を権某術数を駆使して勝ち抜き、
260年の天下を築いたところに家康の魅力があるのだろう。
481 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 02:49:44
>>471 >けど最近は「天下人史観」について語らなくなったね。専門の合戦分析に戻った感じ
それらについて書いた本は既に絶版だし、
鈴木に批判的な意見も少なくなかったからな
だから方向性をチェンジしたんじゃないの?
482 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 03:05:37
源氏でもない家康はよく将軍になれたな。
武士のとりわけ旗本とかの2男3男は
ニートといっても差し支えないよな
484 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 14:36:35
家康のことを色々知りたいと思うのですが、
皆さんはどういう書籍を通じて家康のことを知られましたか?
485 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 20:17:28
抽象的すぎてどう答えたらいいかわからん
入門程度なら歴史群像のムックとかでいいだろうが、
専門性を求めるなら北島正元や藤野保、煎本増夫らの専門書、
あと「徳川家康文書の研究」は外せないだろうな
486 :
日本@名無史さん:2007/01/16(火) 23:19:48
>>484 きっかけは小学館だったかが出していた「マンガ日本の歴史」
あおむら純?とかいう人が作家のやつ
あのマンガ内でのド狸ぶりの家康を見て、
「ああ、天下をとるってのはこういうものなのか」と思ったな
487 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 00:44:34
俺は25年ぐらい前に日本TVでやってた
アニメの歴史物で家康に興味もった。
488 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 02:20:48
んでもさ、やっぱ鈴木はスゲーよ。あれが通説になれば世の中変わるぜ?大河ドラマ見れなくなる
489 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 03:26:10
合戦分析は評価すべきと思うけど、
鈴木の言う「天下人史観批判」についてはねえ…
こんなこと言っちゃ元も子もないけど、
歴史なんてのは所詮史料をもとに独自の推論を立てるしかないわけで、
鈴木の見解もその推論の一つに過ぎないわけじゃない?
で、鈴木の「天下人史観批判」についていえば、
鈴木の好き嫌いが激しすぎて極論ぶちまけすぎの嫌いが否めないな
まあ鈴木にすれば家康なんかは「歴史を歪めた悪の権化」だから手厳しくなるのだろうけどw
鈴木の欠点だと思うけど、自説に凝り固まりすぎて、
通説や他説を必要以上に貶めすぎるんだよな
で、その悪い部分が「天下人史観批判」では露骨過ぎるかな
というか「天下人云々」は鈴木の専門外だと思うから、
合戦分析に比べて魅力がないのは仕方がないのかもしれないけど
そういう批判があったのかどうか知らないけど、
最近はこの方面についての活動はやめちゃったようだけどね
「天下人史観批判」の2冊ほど出してた本もいずれも絶版になってて、
本来の合戦分析の方向に戻ってる
鈴木は専門の合戦分析で頑張ればそれでいいと思うよ
490 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 18:08:00
>>489 鈴木自身が「天下人史観」の本のあとがきで、
「精一杯やったが自信がない」ようなこと書いてるしな
鈴木の家康論の場合欠点を上げれば、
・幸運に恵まれただけと強調するが、
幸運に恵まれた際家康が具体的にどう動いたかその検証もなく、
またその行動についての評価もない
・小牧長久手の合戦のあと、家康に対し有利であったはずの秀吉が、
なぜ自分の身内を家康に人質に差し出したのか、
「唐攻めしたかったから」というだけで、
秀吉が家康をどう認識していたかについての説明がない
(ただし秀吉は家康が自分の後釜を狙えるほどの実力を持っていたであろう、
と認識していた事は認めている)
・甫庵信長記を、
「甫庵は江戸時代の人間で、脚色も多く信憑性がない」
とあれほど批判しているにもかかわらず、
家康のエピソードを描く際には同じ作者の甫庵太閤記を参考史料にしている
といったところか
けど手厳しく家康批判をする割には、
「江戸時代は暗黒時代ではなく、またその時代が築かれたのは家康の存在を無視できない」
と評価をしていたりもするんだよなw
491 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:34:06
しかしまあある意味日本史上唯一のシナ型の英雄。
シナとは人文地理環境が違うからあんな風になったが、
シナ型英雄にありがちなある種の人間としての品のなさ、陰湿さ、
人が寄ってくる鷹揚さ、田舎っぽさ、質素さなどを兼ね備えた人物。
こういうアンビバレンスを一人格で統一してるケースは日本人には少ない。
曹操は中国人離れした人物だが、逆にこの手の型は後の日本でしばしば出ている。
492 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 20:52:41
中国の英雄って、漢の高祖のように実務的能力は果てしなくゼロに近いが
カリスマ性だけは恐ろしく高い人間だろ?
家康は全然違うと思うが。
信長のほうが(ry
日本は朝廷という大義が揺るがない点、中国や欧州のように権力者が
全部塗り替えるということがないから、時代が変化するときは民意みたいな
世の流れみたいなものが外国の関与等と関係しつつ後押しして世の中が変わる
そういう意味で家康って日本っぽいと思うけど。
頼朝、尊氏も一度は敗者になっても世の中が作った権力者として復活。
誰か権力者が一から組みたてるというより、朝廷を守りつつ現状を考えつつ臨機応変という形。
ただ西欧列強が進出を受けた戦国と明治維新は例外に変革されたけど、大航海時代をうけても
もう一回幕府を開く家康は日本らしさを保全したと思う。
たぶんシナ型英雄の概念が司馬ライズされてるんじゃない?
ヒキ算で毛沢東からイデオロギー性を控除すると、
資料の数で最も多いシナ型英雄が顔をのぞかせる。
周恩来のように都会っ子でもないし、公共的でもない。
案外家康みたいな人物だよ。
496 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:17:24
497 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:49:39
まあ「シナ」なんて言ってるレイシストの言うことなど、何の説得力もないがw
普通に中国って書けよ、ウヨ坊。
498 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:10:51
家康の凄さは寿命だ。
これに尽きる。
499 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:35:28
>>498 都合の良い時に都合の良い人が死ぬ、という運もある
500 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 12:37:07
>>491は確かに、家康よりも秀吉の方がずっとあてはまるな
(500ゲトかな?)
501 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 20:53:23
ヒストリーチャンネルの「徳川家康と徳川幕府」はしょぼい(特に画像がw)。
あれこっそり黄門様が映ってたぞ
503 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 19:27:38
凄いのはあの時代にあの家に生まれたことだ。
>>1 徳川三百年といっても家康一人の功績は最初の50年程度分だろ
後は後継の徳川家臣団代々の功績
まあ泰平といっても儒教で縛って進歩的なものを悉く弾圧し、
ひたすら忠君のみに徹し骨抜きした武士道によって飼い慣らし、
公務員化した武士リーマンの上に安住した、シナ朝鮮と似たような政治体制だったから別に功績とはいえない。
もうちょっとで危うくシナ同様列強に食い荒らされるところだった。
505 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 20:58:03
前田家はなんで外様なの?
利長は関が原で家康側についてたのに。
利政が三成側についたからかな?
507 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 12:27:51
東軍の主力はほとんど豊臣系なんだが。
地方の有力大名は、徳川への貢献度を問わずみんな外様扱いだよ
大領を与える代わりに、一切幕府中枢の政治にタッチさせなかった
その代わり、後に、松平姓を与えたり、婚を通じたりして懐柔もしているが
509 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:15:07
>>504 その代わり別の「文明」築いたからね
幕末の西洋人の観察記見てると、こちらが恐縮するくらい
植民地にならなかったのは意外に、そんな影響も大きかったのかも
日本の行政中枢機構である江戸幕府は軍事政権であり、
政権トップは、連邦軍総司令官で、政権を構成する公務員たちは軍人だったわけだ。
江戸への参勤は、各地方領主たちが、総司令官への忠誠を示すための軍事的賦役。
幕末には、欧米の最新技術から取り残されたり、官僚主義が行き過ぎて、やや形骸化していたとはいえ、
常に自国(藩)の防衛が念頭にある軍人官僚たちが、政治権力を握っていたことも、
日本が独立維持出来たことに関連していると思う。文治主義の多い東アジアの中でも異色。
軍人といっても幕末時の旗本八万騎の体たらくをみれば、張りぼてにも程がある
農民徴兵の奇兵隊に手もなくやられる程度の弱体ぶりでは列強の侵略を防げるものではない
武士とはいえ、その内実は今の文官と何ら変わらない
軍事訓練を行うわけでもなく、単に二本差してるだけであれを軍人とはとてもいえない
戦国時代には日本の軍事力はヨーロッパにさほど劣らなかった
仮に織田、或いは豊臣の天下が続いていれば、或いは泰平ではなかったかもしれないが、
鎖国などという政策を取ったはずもなく、世界から取り残され植民地化の危機に晒されることもなかったかもしれない。
江戸文化というものは鎖国が作り上げた一個の興味深い文化ではあるかもしれないが、
それは密閉された温室で不自然に培養され作り上げられた、壊れやすい人工的な変種に過ぎない
その証拠に開国後、周りの環境に適応出来ず瞬く間に滅んでしまった。
この政策の滑稽なところは、出島からちゃっかりと外の世界の情報を十分得ていながら、
それでも鎖国を維持し続けていたという茶番性にある。いきなり黒船が来て、開国してみてはじめて西洋文明の凄さにびっくりした、
というのではなく、もともとわかっててやってたという確信犯だから呆れる。
家康が鎖国したわけじゃないと何度言ったら・・・
家康が鎖国したとは一言も書いていないが
ここ家康スレじゃないのか?
スレの流れを読め
世界的にみても類をみない平和な時間を謳歌し
文化・環境も非常に成熟した。という良い点は完全無視?
518 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:31:33
>軍人といっても幕末時の旗本八万騎の体たらくをみれば、張りぼてにも程がある
んー でも徳川の防衛システムは幕末まで意外と機能しているよ。
甲州鎮撫隊1つ取っても八王子千人同心の近藤や、長吏浅草弾右衛門のような存在が
幕府草創期の計算通りに動いている事の方が驚きだ。
計算違いだったのは、まさか朝廷の権威があれほど高くなってしまうとは思わなかった
のだろう。
519 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 20:33:21
三河人って偉大だよな〜
日本に三河がなければ朝鮮みたいなもんだし
三河人は日本の神だよ
甲州鎮撫隊や新撰組だって成員は旗本ではなく郷士とか農民でしょ
長年録食んできた旗本なのにいざという時本当使えない
意地見せたのは彰義隊くらいでしょ
それもたった半日で壊滅
会津藩一藩の方が百倍活躍した
521 :
↑:2007/02/25(日) 21:16:01
バカですか?
バカだろうな
三皮人は日本人を骨抜きにして朝鮮化寸前にまでした極悪。
徳川250年の停滞で日本は亡国寸前のところまでいった。
忠君忠孝を説く似非武士道で洗脳しようとしたが、殆ど会津以外全てに裏切られ、
全く効果なしだった。250年タダ飯食らっていざというときに何の役にも立たなかった
旗本八万騎w
所詮いつになっても三皮の田舎もんだったということだ
524 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 19:37:11
大御所時代に駿府に現われた肉人ってなんだったんだろ? 家康を見にきた未来人か?
525 :
日本@名無史さん:2007/03/09(金) 00:43:22
いつだったかヒストリーchかディスカバリーで徳川家康やってた。
権力者の帝国ってシリーズだったかな?
めちゃくちゃ手抜きなつまらん番組だった。
どうも、歴史を知らん奴ほど秀吉マンセーで家康をけなすな。
まず金ケ崎、秀吉ばかりが脚光を浴びるが、実はあれは
家康が助けにいかなかったらやばかった。
後々まで秀吉はそのことで家康に恩があり、義理堅く信頼に
値する男として遇した。
つぎ、姉川。
数の多い朝倉を左翼で家康が対峙し、
少ない浅井に織田勢が対峙したが、
開戦後織田は一方的に浅井に押されまくって
かなりやばかった。その頃朝倉の軍勢を
破って右翼に回り込み織田を救った。
次、長篠。布陣をみると、家康は敵陣主力から
数百メートルのもっとも激しい攻撃のところで
戦っている。信長は遥か後方。
まぁ家康の援軍という形でもっとも働かないと
いけないということで、この位置を自ら志願した
ということだが、ほとんど捨て駒の扱いだ。
しかし、敵を壊滅させたといっても、織田徳川も
6000のかなりの損害率だ。おそらく家康の
損害がもっとも大きかったに違いないが、
ここでも最大の働きをしている。
小牧・長久手はいうまでもなく、
もっとも、スゴイのは、関が原。
東軍が勝ったため、東軍が有利に推移したとおもわれているが、
実は戦略・戦術的にかなりの綱渡りをしている。
戦略的に長期戦はのぞめない状況と、怨恨を残す泥沼の
長期戦を避けるため、あるいは、鮮やかな勝利で覇者として
印象付けるためかわからないが、わざと戦術的に不利な状況に
追い込み決戦を誘った。
これは、武田の三方が原を応用したみたいなところがある。
推移を細かく調べればわかるが、戦術的な展開とタイミングが、
針の穴を通すような、大胆かつ精緻なもの。
秀忠の主力3万がおらず、兵力及び配置及び時間的余裕ともに、
すべて不利であったにもかかわらず、会戦に踏み切った判断は
さすがだ。
織田の主要な歴史的な合戦のすべてで決定的な仕事をし、
更に東国の最強の上杉・北条・武田・今川を織田の防波堤として
防ぎ続けた。そして最終的に240年の太平の世に導いた。
戦国時代の本当の主人公はやはり家康だよ。
少し褒めすぎの気もするがw 家康の戦上手については同意。
古今最高位の戦略家だったとは思う。
>526
家康もすごいが秀吉もすごいよ。
戦略面だけ見ればこの二人は甲乙つけ難い。
・質実剛健、職業軍人肌の家康
・合理性、効率重視の天才肌の秀吉
こんな感じ?
秀吉の本質は軍略家。政治と軍事の境界部分で本領を発揮。
つまり戦争する前にだいたい勝負を決めるタイプ。
戦略面をいうと、秀吉がやっぱり圧倒すると思う。
そこは家康もわかっていたようだ。
そもそも秀吉のした戦争で、やばかったのは
金ヶ崎ぐらいで、あとは秀吉自身が危ない状況におち
いったことすらないんじゃね?
小牧・長久手も局地的に負けても全体として勝つし。
こういう人は、諸将をまとめる総大将にもっともむいているな。
アイゼンハワー、マッカーサーあるいは、ニミッツみたいな。
家康はっていうと、そこまでの頭がないのか、
彼らのスタイルなのか、どうしてかいつも最後は戦場にいるんだな。
多分ね東国武士の自負というか意識があるんだとおもうよ。
三河武士とトヨタには愚直なひたむきさで通じるものがあるね。
家康にとって小牧・長久手は最終決戦では無かった希ガス。 長い戦略の一段階。
家康に頭が無かったら城の内堀は埋められないだろう。
いくらんんでも、そこまで先を見通せる人間は
この世に存在しないだろうよ。
家康という男は、戦争ではあれだけ果断なのに、
政治的に強い相手に対しては異常なほど慎重で
相手が強い場合には石橋を叩いても渡らない。
(ところが、相手より強いときは卑怯なぐらい強くでる。)
戦略でなくて単に強い相手には様子をみるという
習性だと思う。しかも、相手が強い限りにおい
ては虚心なく本心から従うので相手も信用してしまう。
これは彼の生い立ちや、それまでの経緯で染み
込んだスタイルで、運良く彼はこの方法でステップ
アップしてきた。
秀吉の誤算は、朝鮮戦争で家康以外の豊臣
恩顧の大名が軒並み疲弊し相対的に家康が
強くなる事を見逃した事。
おそらく秀吉が死ぬのを待っていたという事
ではなく、死んでしばらくして、皆が自分を
頼るようになってから野心が芽生え、同時に
豊臣政権のやり方では、再び内乱になることを
予感するに及び、決心したのではなかろうか。
家康とはそういう男のような気がする。
とんでもない。 やはり先は読んでたと思うよ。
でなければ関ヶ原であれだけの根回しはできない。
秀吉子飼いの武将を味方にして邪魔者は全て排除してしまう。
これが計算でなくて何だというのだ。
もし、先をよんで何10年も前から工作していたとするなら、
前田利家は暗殺ということになるな。
言葉足らずだったが、いまでこそ家康が天下をとったので
関が原前も家康有利にかんじているかもしれないが、
利家存命のとき、家康はそこまで有利であったという
とむしろ逆。
もしあのタイミングで殺せなかったらかなり不利な関が原を
強いられただろう。
ていうか、現実の関が原でも戦略状況的には、
負けていたので利家が諸家をまとめていたら多分
勝ち目はない。
それとも、秀吉の遺言を破る前にすでに利家渦中に
暗殺要因を忍ばせていたというなら話は別だが。
あと秀次もいたから、そんなに前から計算てのはできない。
計算と言うより時期を見計らっていたと言うべきか。
大坂城は落とせると踏んでの出兵だろう。
大坂方の不安材料の多さを見れば攻略はたやすいと読んで関ヶ原に踏み切ったと言える。
じっさい吉川、小早川のような超重要ポストが裏切る事を見越せる段階で勝負はついた。
んー、そう楽観できるほど、戦略状況も戦術的な状況もよくないんだがな。
政治的状況はよかったといえるが、家康の関が原の前の数日間は、
かなりの綱渡りだった。この辺がわかれるようになるには
結構背景をいろいろ調べてイメージしないといけないが、
正直自分も、若い頃はわからなかった。
そうでもない。ほとんど素通りで関ヶ原まで直行している。
これは各大名、土豪、豊臣家への根回しと情報収集のレベルが高かった証拠。
家康は若い頃から今川義元、武田信玄が街道中途で挫折するのを見てきている、なのに軍行を
強行できたのは自信が有ったからと見るべき。
ちょっかいを出さない限り素通りできるほど圧倒的存在だったとも言える。
豊臣政権内での争いだからな
547 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:31:42
>>545 その頃には家康派とアンチ家康派にはっきり分かれていたということだろ
アンチを叩けば家康が天下を取れる下地はできていたということ
548 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 13:37:43
家康は 戦だけでは ない!内政がほかの大名に比べてよかった。下る者にひ 下る。
その巣通りこそが綱渡りでしょ。
脆弱な補給線をさらさんといけない。
長期戦で旗色が悪くなったら、東海道で野心が
芽生える大名がいないともかぎらん。
また、昌幸とか、勘兵衛みたいなのがでない
とも限らん。
絶対に避けねばならない。
その圧倒的存在であったのではなく、
そうみせる必要があった。そんなことしてみろよと。
だから、西軍をあわてさせるぐらい、どんどん
進出して”会戦”を誘発したんだよ。
素通りなんかしてないぜ。
美濃の小大名の砦は結構落としてるぞ。
要所要所の重要大名や土豪への根回しは済んでたと言う事だね。
上杉も佐竹も追いかけてこれなかったし来る気も無かった。
秀吉亡き豊臣に各大名は期待はしていなかったというのが実情だろう。
メッケルスではないが関ヶ原の布陣を見て「徳川が勝つ」と言う軍人は居ないだろう。一見無謀な綱渡りに見える。
だがこの段階で大和の旧筒井家臣は家康を出迎えているし西軍の大将、幹部クラスにすら内通している。
ある意味デキレース。この段階で石田に勝ち目は無い。
内応をあてにするほど、家康はおろかではないよ。
そもそも内応ってのは状況を補強する役にしかたたないし。
そう簡単ではなかったよ。
でも内応をある程度見込んでいなければ関ヶ原であの布陣はできないんじゃないの?
とはいえ約束はあくまで約束であって戦況によってどう転ぶかわからなかったのも事実
で、慎重居士の家康がよくあんな賭けに出たものだと思うよ。
実際小早川が日和見してたわけだし、家康の最大の凄みはあの時点で秀秋の性格、
与える効果、諸々を瞬時に判断して威嚇射撃を命じた決断力だな。
ただ小早川の威嚇射撃による裏切りって、どうもできすぎた話のようにも思えるんだけどな。
複数の史料にある話なら事実なんだろうけど。
>>554 威嚇射撃より、送り込んでいた軍監の働きが大きかったんじゃないか?
西軍はこれをしていないから
指揮下にない軍隊に軍監の意味があるのかねぇ。
それとも小早川に監視役でも送っていたというのなら
話は別だが、それならはじめから東軍という事になる。
それとも小早川秀秋という意味でなくて、西軍全体を監視する役が
いなかったからという意味でならナットク。
でも、西軍方にそれに適切な人はちと思いつかない。
>>556 伏見攻めの後このことを家康に詫びるし、
黒田と人質交換するわ、家康と黒田の軍監を受け入れるわ、
あげく松尾山の西軍の将を追い出して居座るなど、
関ヶ原前から小早川は明らかに東軍という行動をとってる
軍監が送り込まれているということは、
秀秋への監視役の意味もあったろうし、
仮に彼が去就に迷った時は東軍に加担するよう改めて、
説得を行う事ができるわな
伏見攻め自体家康は最初から想定して仕掛けた事だからな。お互いわかりきっての旗揚げだし。
当時の武将達は「あーあやっちまった」ていどの感覚だったんじゃなかろうか。
小早川に吉川は毛利両川だったか。
ホントは毛利も腹の底では家康の天下もやむなしと思ってたんじゃないかと思う。
秀吉亡き後、生え抜きの軍人達が女子供を頭にして、家康相手に本気で一戦交えるつもりが
有ったかどうかすら疑わしい。
そもそも関ヶ原って政権内抗争という体裁だからな
結局小牧・長久手で秀吉が完全に家康を屈服させられなかったのが後々関ヶ原まで
響いたということかなあ。
もしあそこで家康が敗北していたらどうだったろう? 長曽我部や島津の例から考えると
三河一国、よくて駿・遠・三の三国に領土は削減、関東250万石への転封も無かったろう
から後年の家康の声望・威望も無かった。転封はあってももっと僻地だったかも知れない。
小牧・長久手で家康は秀吉に自分の力をちょこっと見せつければ良いだけだから
ポイントを押さえて行くだけで大敗するほど突っ込んだ総力戦をする気も無かったのでは?
まあ、織田家が投げ出しちゃったら退くしかないね。
>>561 長曽我部や島津の例は秀吉の決断じゃないよ。
それに西国の外様と東国武士の代表たらんと
する家康とでは比較できないと思う。
あと、秀吉臣下の礼を取るやつには面倒見がいいし、
ほとんど戦闘をせずに相手を調略するのがうまいが、
戦闘でまけた相手には、キッチリケジメをつけるだろう。
そうであって、調略は初めて効果を発揮する。
>>562 大敗するほど突っ込んだ総力戦しないっていうけど、
結果論じゃない?秀吉の兵力をみても本気なんだから、
家康が手加減して勝てる相手じゃないでそ。
つまり戦闘にまけたら、家康も終わってたって事。
あの時代はそういうもんでないかな。
だから、裏切りもするし、調略も効果がある。
ありゃー織田家vs秀吉の戦争だろ。
それに要所要所は家康に先手をうたれてるから秀吉もあれ以上攻められない。
野戦では格が違う。
浜松城についてお訊きします。
城の西に行くに従って標高が高くなるというのは、電網で調べました。
ところで城全体は、三方原台地の南端にあると考えて良いのでしょうか?
それとも三方原台地の下の平野面に存在するのでしょうか?
浜松に詳しいかた御教授いただけたら幸いです。
よろしくお願いいたします。
上田合戦は痛いぞ 家康
秀忠軍は、いなくても無問題ですよ。
そのおかげで外様にいっぱい領地をあげなくちゃならなくなったわけだが
そんなこたぁない
いっぱい領地を削られた外様もいるからな・・・
571 :
前田家:2007/06/01(金) 00:02:21
前田家119万5000石の内訳を教えてください。
太閤検地では越中38、能登21、加賀36で計95。
加賀の一部は金吾中納言領等とすれば、90くらい?
太閤時代は82?これが加賀2郡?加えてなぜ38増えた?
新田開発くらいはやっただろうし、海に面しているんだから、貿易もしたんじゃないの?
504同意、別に徳川家康が3百年幕府を統治したわけじゃないんだが
あと豊臣が天下とったけど日本を平和に導く力がなかったから徳川が「こいつじゃ駄目だ」って思ったと思う
豊臣の晩年の暗君化を見ても明らかだし豊臣には到底徳川さんの真似事なんてできるわけない
秀吉自体小田原征伐
を終えた時点で国内統治に徹しておけばよかったんだけど
徳川さんに天下の豊臣家譲ったほうがいい国できたと思うよ
まああくまで天下取ったのは秀吉だけどね
何故徳川さん秀吉のこと嫌ってたんだろうね?
大体秀吉には支配者としての資質が不十分だったと思うんだ
徳川は一応一国一城の主の息子だし親が統治者だから
どう言う政策で国を治めればいいか十分見てきたと思うんだ
大体天下統一した時点で朝鮮侵略する事自体馬鹿だろ!
元々足軽の息子なんかが日本を支配するなんて無理だよ
もちろん小田原征伐までは評価するけど 秀吉
574 :
ぴーす ◆u0zbHIV8zs :2007/06/21(木) 18:46:14
575 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 19:06:33
大名の石高は恣意的な部分もあるんじゃないか。
石川数正の松本城に是の字の瓦があったぞ。是ってのは、清康が夢の中で不思議な老人から掌に書いてもらったもので占い師に占わせると松平家から天下人が現れる、と占われてそれ以来、松平家の縁起物になったらしい。それと墓も岡崎の大宗寺の側に見つかってる。
だから数正と家康はぐるらしい。発見者は中島次太郎。山岡荘八の「日本人の味」にあったんだがだれかくわしいひといない? てか山岡荘八の資料ってどうなったんだろうか。
「水戸宰相頼房を副将軍と免許賜うべく候そのいわれは、将軍国政上よこしまなるときは、将軍老中諸役人評定せられ、水戸より指図を以って、尾州,紀州両家を見立て、相続を奉文すべく、万一両家にその任に応ぜざるときは、
なんれの諸侯の内、天下を治鎮いたすべき品量を奉聞候は、水戸家に限るべし」(公家法度第十四目)
これって家康の朝廷に対する態度、「天下は天下〜」の言葉、大日本史編纂とかの説明になる気がする。
けっこう家康の経済政策なんかは信長(厳密には六角)の影響を受けている所が
あるんだよなぁ
578 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 08:03:33
>>574 『SHOGUN』か…フジヤマ、ゲイシャ、サムライ、ハラキリから一歩も出てない前作の焼き直しになるんじゃないか。BBCは、さりげなく巧妙な反日だし。
葵徳川三代の前半を放映すればいいのに
台湾でも放送してたぞ、葵。
>>576 公家諸法度ってそんなことまで書いてあるんだ?
よく朝廷を抑圧し、バカにしまくったものだってことを
右も左も言うけれど、そんな単純なもんじゃないな。
>578
イギリス人は嫌いだから、弁護というわけではないが、
反日というか、奴らは自分らも含めてなんでも
コケにするのが好きな国民性だからな
>>580 「三種の神器(皇位)は、世界萬民撫育のためにあり」
「淳和奨学院別当職、関東将軍へ任ぜられし上は、上は三親王揺家をはじめ、公家並びに諸侯と雖も、
悉く支配致し候。国益一切知らせべく、政道奏聞に及ぼす候。四海の鎮め致し難きときはその罪将軍にあるべし」
みたいなのもある。
一々指図しなければならなかったのは、戦国時代都落ちした公卿どものみだれぶりにある。
土地だって戦国時代の朝廷の意味のなさや、織田信長の三千石からは増えている。
そもそも土地が足りない。それは秀吉時代から変わらない。
>>582 なるほど。山岡荘八の造形した家康像には、
こういったしっかりした根拠があるわけだ。
少なくとも司馬遼太郎以降の小説家が描くような、
「腹黒くて冷酷で陰気な権謀家」という
矮小な家康像とはほど遠いな。
>>583 でも、「徳川の天下に邪魔になるものを掃除するために、そいつらを率いて挙兵する石田三成」ってのはありえないなぁ。
>>584 まあ本人も随想で、我々は歴史と小説という矛盾を組み合わせたものを書いている、みたいなことや、一巻あとがきにこれは理想小説である、みたいなことかいているからな。
研究書ってわけじゃないし。
>>584 結構根拠はあるよ。あの人は調べまくる人だから。知りたかったら山岡荘八の随想徳川家康を読んでみるのもいいと思う。司馬は論外に近い、かな。
家康は大坂夏の陣で陰険的なイメージがあるが、人生五十年の時代に関が原後十五年間、なにも画策しなかったのは結構慈悲深いと思う。
戦国武将だから確かに冷徹さはあっただろうが、信長や秀吉ほどではない。
>>584 > 結構根拠はあるよ。あの人は調べまくる人だから。
三成が、豊臣家を差し置いてそんなに家康に献身的だったの?
そんな描写してる人って歴史家はもちろん小説家まで捜索範囲を広げても他に見たことがないんだけど。
587 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 20:57:43
>>586 その根拠はないと思う。そもそも家康に献身的なら、わざわざ秀頼利用していちいち歯向かうはずがない。
そこら辺は小説的な演出だと俺は思う。本当のところはわからんが、山岡荘八は三成の成長を表したかったんじゃないだろうか。
三成の心境を「戦はもちろん勝つつもりでやる、が、万が一負けたとしても、太平の礎になってやろう」、的なニュアンスで俺は読んでたと思う。最後に読んだのが二、三年前で曖昧だが。
>>586 スマン、ミスった。
584×
583〇
堺から帰国途中に京都近郊の城に昼飯食いにきたって説話が残ってる
んだけど遠回してまで明智のうようよ居る山城に立ち寄った真意はなんだろ。
>>589 何か打ち合わせに来たんでしょう。
光秀は後年の天海だからw
家康って天下統一過程であまり重要な仕事してないよね
信長の死後秀吉が破竹の勢いでテリトリー伸ばしている最中
北条残党だの甲府平定だのあまりに地味な活動しかしていない
あのときに勢力伸ばしたからこその政権ナンバー2だけどな。
織田家の財産ほとんど相続した秀吉と、中小大名の自力の差だろう。
まあ、考えようによっては北条や甲州こそ関東防衛の要だからな。
幕末にも江川伊豆代官や甲府を押さえられたら関東は西からの進軍には無防備。
だから小栗は箱根で分断を注進し、近藤は甲府へ向かった。
近藤の八王子同心も武田残党か?ある意味幕末まで機能していた事が脅威ですらある。
朝鮮引き上げは評価していいんじゃないか?
信雄が講和してなかったら畿内進行してたかなぁ〜と思う。
さすがにそれは無理っぽい。
だが濃尾以東は徳川配下となり天下統一は遅れたか?
家康は地味
人任せなやり方がww
利用できるものは利用して天下取るみたいなやり方じゃんね
家康 信長 秀吉よりそう言うところは卑怯だ
秀吉ととことんやってたら、天下統一できたかは微妙だな。すくなくともかなり遅れたはず。
豊臣政権の補佐や尻拭いは結構してたんだがな。なんで律儀な内府なんて言われてたんだか。
家康って謙虚だよな
603 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 13:44:44
司馬が家康を才がない模倣者みたいに書いていたが、勤勉家とはとれなかったのだろうか。
てか、秀吉もそんなに独特な政策を出してるようには思えないんだが。あの人は素晴らしい実行者な気がする。
604 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 14:16:33
>>603 勤勉家だね。しかも同じ失敗を二度としない。
勉強する習慣が人質時代に身についたんだろう。雪斎がいたから。
信長も信玄も秀吉もみんな家康の師匠だろう。
天下餅を食えたのは、それだけ学んだからだと思うが。
605 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:31:36
>>604 たしかにそうだ。あと家康は健康であった。
606 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:39:05
家康って、山ほど失敗しているが、それを後にちゃんと生かしているところが凄いね。
三方ヶ原の戦いの信玄と家康の陣形、関ヶ原の戦いの家康と三成の陣形、酷似していないか?
しかも浜松城から誘い出される形になった家康と大垣城から誘い出される形になった三成。
失敗を二度としないだけではなく、自己の失敗を逆に利用する辺りなんぞ凄すぎる。
607 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 19:42:06
おねは家康に好意的で三成を嫌っていた、淀殿は家康を嫌っていて三成に好意的だった
物語だとだいたいこういう捉え方が多いんだけど、どうも違うみたいだね。
>>607 前者は知ってるけど、
>淀殿は家康を嫌っていて三成に好意的だった
が
>どうも違うみたいだね。
の理由またはソースを教えてくれないか。
負け戦の直後に絵師を呼んでウン漏らしの画を描かせるだけでも
常人じゃなあないね。
俺も山岡荘八の随想徳川家康買ったぞ。なかなかおもしろいな、これ。
これに書いてあったが武士に厳しく農民に篤い点が謙虚だよな。直訴の許可に百姓の切り捨て禁止。内大臣でありながら百姓の年貢を自分の手でしたためている(開墾地の保証的な意味で)。祐筆もいただろうに。
無論農民が豊かに暮らせていたかとなると簡単に頷けないが、時代の段階的なものもあったし、当時の士農工商も秩序を築くものだったからな。
611 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 22:41:25
>>610 天野三郎兵衛康景とかは、ある意味犠牲者だね。ただ、天野も三河武士でなかったら謀反でも起こしたかもしれない。
天野も「どちへんなし」と言われた公平無私の人間。
>>610 すると「百姓は生かさず殺さず」って言ったのは誰なんだろう?
取るにたらん俗説かな?
>>603 > 司馬が家康を才がない模倣者みたいに書いていたが、勤勉家とはとれなかったのだろうか。
司馬は頭の切れる才子&破壊者タイプが大好きだからしょうがない。
実際には、謙虚さが無く自分をいっぱしの才人だとうぬぼれた奴のほうがよっぽど道を誤りやすいんだが。
>>612 「百姓は生きぬよう死なぬように」と言ったのなら、本多正信だと思う。
615 :
大えええええ氏 ◆rfC8aZVkRQ :2007/08/06(月) 00:38:02
>>562 お前らさ、よく考えてみろよ。
長久手の戦いでは、弱冠23歳の「井伊の赤鬼」こと井伊直政に
森長可が討ち取られ、家康勢に池田恒興・池田元助を討ち取られて
唯一生き残った池田輝政は小便ちびりながら逃げ帰って、
猛撃に恐れをなして関ヶ原の戦いの際には父の仇に与してるんだぞ。
織田信雄隊はゴミクズだから何もしてないので実質兵差は3000人であり
本多忠勝・榊原康政・酒井忠次も参戦していない。
しかも「井伊の赤備え」には武田の無敵騎馬隊の遺臣が多数配属されており
石川数正が寝返った為、兵制も武田家仕様にしてある。
もし秀吉が苦戦の末、三河平定に成功したとして
家康が大幅減封を受けたとしても秀吉軍にも多数の犠牲者が出る上
同盟国の北条とも敵対することになるので、北条討伐に東北兵や九州兵を当てることが出来ず
すぐさま戦闘になり、残存勢力の上杉・毛利・北条・長宗我部と対抗するのにさえ苦難する。
それに東北では伊達政宗が頭角を現すので関東平定後も強大化した
伊達政宗に真っ向から当たらねばならず、秀吉生前中に天下が平定できるかさえ危ぶまれてくるよ。
>>612 落穂集か本佐録じゃないか。
山岡荘八は、徳川家康の駿府領での年貢が三公七民、四公六民と為政者として上々、直訴の許可(時に藩主は我が家も首も吹き飛ぶ)や百姓の切り捨て禁止、
荒地を開墾したものには七年無税、八年目からは自分の手で受け取りを書く、口を開けば「百姓は何を食べていると思うぞ」と側近の奢りをいましめ、
自分の子供たちにも「百姓に慕われる領主でなければならんぞ」と口癖のように訓戒している、などから百姓を大事にした点で並ぶものなど珍しく、百姓をいじめたなどと決め付けるのはで軽率である。
当時は色々なものが不足で、義務負担の平等が必要であり、規則で一番武士を縛り、商人も奢侈禁止令で抑制すると、厳しかったのは農民にだけでない。
もしかしたら、一部の大名や領主から非難の声があったのかもしれず、「百姓も生かさず殺さず」といったのが誤られたのではないだろうか。
と、書いているな。
617 :
616:2007/08/06(月) 01:11:13
訂正:一行目、本佐録、のあとに挿入
、昇平夜話あたりで「百姓は生かさぬ様殺さぬ様」と家康が本多正信に言ったことば。
追記:本佐録は確か「財の余らぬ様……」の方
618 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 02:28:33
健康オタクで野戦の上手い武将
>>616 家康は為政者の鏡だね。覇道ではなく王道政治。
なのに司馬の家康主人公の小説の題は「覇王の家」‥‥
620 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 07:47:18
>>615 確かにね。
秀吉は「位攻め」の典型例だが、秀吉の天下統一レベルの位攻めは、優先度を良く考えたものだと思う。
>>616 あれは百姓を外様大名並みに油断のならん相手だという風に捉えていると思うのだが。
この手の話では大抵は「弱者の大衆」という具合にとられるが、実際は何か不満があると
直ぐに他国への逃散や一揆を起こす存在という風に権力者は捉えている。
つまり、反乱起こされぬ様に、然りながら租税も取れる様に直接、目をかけなければならない
ということかと
今の民主主義をみれば、いかさず殺さずが
どういうことかすぐわかるだろうに。
生かすばかりやってると、
要求はどんどん高くなる。
正確には覚えてないが、
百姓から年貢を取ることは鷹に肉を与えるようなもの。
多すぎてもいけないし、少なすぎてもいけない。
多すぎれば困窮するし、少なすぎればわがままの元。
百姓どもは生かさぬように殺さぬように。
という話だったと思う。
搾り取れるだけ搾り取れという発想でないだけまだましだと思うし、
実際は他の大名より年貢は軽めだったようだ。
>>621 まあ言いたいことはわかる。そんな面もある。
更に言えば戦国時代の百姓なんか武装していて、戦の後には略奪、強盗などして治安撹乱するほどだからな。秀吉が刀狩をしたのはそんな背景がなくもない。
だけど、支配者は権力を握っているわけである程度の横暴が通ってしまうこともあるわけだ。その支配者に公許として直訴の轡をかませたのは立派だろ。
繰り返しになるが、家康の年貢も二公一民(確か秀吉時代)があった時代に三公七民は百姓寄り。逆に武士には儒学でがんがらじめにしようと厳しい。
そこら辺は相互関係なんじゃないか。たとえば、家康が自分やお家のためを全く考えなかった、もしくは、平和のため、日本のためを全く考えなかったって二元論いったら嘘になるだろう。
それに時代には段階があるわけであった戦国上がりの当時、四民平等なんて理想いっても下剋上推奨するようなものだ。
家康は傲慢でもない代わりに甘ちゃんでもないってことじゃないだろうか。
<儒教というか朱子学(武士道も含む)の利点>
中世では、弟は兄に無条件に従うものだとか、上の者には絶対服従、下の
者には無条件な命令とか「軍隊統制法まるだし」で、インドのカースト制の
「徳」の思想とかも混ざってたが、社会の秩序維持にそれなりに役立った。
<儒教というか朱子学(武士道も含む)の欠点>
しかし、近代日本にぺリーが来た時、立場関係が上か下かだけで絶対服従か
拒否しかなくて、例え自分の立場が弱くても、どこどこまでの範囲の契約だと
か、外交の条件を柔軟に部分交渉を行なうとかいう発想がないという欠点も
露呈した。これら欠点は、その後に続く昭和期の日本人の外交下手の原因と
して、また現在も労働者のサービス残業の遠因として根強く残ってしまった。
結論---明治でちょんまげ捨てた時に、儒教(武士道)も捨ててれば良かった
>>625 無法な戦国時代に生きた奴ら対策だから、時代が進めばあわない部分もでるわな。だけど武士道を捨てるってよりは昇華してほしいかな。
上にたつものに権力と金をもって好きかって暴れ回られるよりは、清廉潔癖であってほしい。一般民として。
>>625 で、きみは武士道捨てて、その代わりに何をバックボーンに持つべきだと言うのかな?
>>627 飛び道具は卑怯なり、とかいう軍事的にアレな江戸時代の武士道よりも
騎士道のがよかった・・・。
事実として、明治維新で自らちょんまげや刀、武士階級も捨てちゃった
けれども、洋服やサーベルに身をつつんだ元サムライ達は、日清日露
戦争などに勝利した。だから本当は騎士道というかヨーロッパ軍制の
輸入だけで充分だったように思う。
そこまでやる気なら仏教、神道もやめてキリスト教にしないと
でもバテレンの背後には侵略軍が控えてますからな。
儒教、朱子学も陽明学を生んでるし。まあ、それほど悪いものでもない。
>>628 その日露の例はそんなよくないだろ。明治がよかったのはトップに武士の士風が残っていたからで、昭和の乱れは洋化の堕落にもとがあるとか言われたらどう答えんのさ。
まず、そういう類のものは簡単にとってかえられるものではない。慣れるのに時が必要になる。簡単に捨てるのは、しがみ付くのと同じくらいの危うさをはらむ。時にはただの破壊になりかねない。
武士は清貧に甘んずべきもの。江戸時代、武士が借金を返済できなかった場合には「お笑いくだされ」というのがあったらしい。武士には金を返さなくてすむより、笑われる方が嫌だったのだ。
また、上の立場に立てば、下のものより、学問も武芸も励まなければならなかった。これは騎士道とは違った味だろ。無論一部にはそうでない武士もいたが、それを取り上げて評するのは悪貨は良貨を駆逐するの例になりかねない。
明治に和魂洋才って考えがあった。ここら辺応用きかせてんじゃないか? あの新戸渡稲造が日本が世界に誇りうるのは武士道って言ってたりするし。
あと、江戸初期の観点からいうと、下剋上あがりの荒武者どもに、身分をはっきり統制させて、責任を負わせたのはかなり有効な策だろ。今では馬鹿らしい長幼の序も、当時それが明らかでなければ、家中二分ってなりかねないからな。
序列が引っ繰り返るごとに一々騒動が起きる。そこらは自由と秩序の調和の問題だな。
てか、飛び道具は卑怯ってまた別じゃないか。
>>631 > 飛び道具は卑怯ってまた別じゃないか。
そうそう。外様大名が鉄砲を多数保有することを抑制するためのへりくつ。
幕府は大量の鉄砲を持っていた。
>>632 でも、見方によっては平和思考ともとれるぞ。徳川家の御家流は活人剣の新陰流。家康は無刀どりの達人柳生石舟斎に師事してる。息子の宗矩は滅多に刀を抜かなかったし、大坂の役で八人切り捨て秀忠を危急から救ってるが大した恩賞も受けず、自慢もしてない。
実力はあっても抜くをよしとしない。
試合にも作法があってただ勝てばよいというわけではない、ということなんじないだろうか。
まあ、土俵が違えばあれなんだがな。
ところで、ここまでいっといて聞くのもなんだが、実際飛び道具は卑怯ってどれくらい浸透してたんだ?
家康自体は鉄砲、なかなかの腕なわけだし。幕末の兵備の近代化で、飛び道具は卑怯だ、とかいう反対ってあったの?
>>633 >飛び道具は卑怯だ、とかいう反対ってあったの?
無いでしょ、そんな馬鹿な意見。
そういえば時代劇かなんかで、1対1での尋常の果たし合いのはずなのに、悪者側が木の陰から鉄砲なんかで狙い撃ちにして、
「うわっ!!‥‥飛び道具とは、ひ、卑怯なりっ!ううう‥‥」
って場面あるじゃん。
多分、誰かさんはこういう台詞を真に受けてるんでしょ。
飛び道具は卑怯とは、まあ負けたやつのはらいせのことばだろう。
弓馬は最高の武芸だし、鉄砲は大名もよく稽古していた。慶喜は手裏剣が得意だな。
逆に投石、印字は最下層の芸だな。
柳生親子は関ヶ原の旧筒井家家臣の取りまとめで活躍しているな。
もともと家康は奥山神影流(後の直心影流)だし柳生には親近感も有ったのかもしれない。
もし武士の反乱とか内乱が起きても、相手が飛び道具を使わずに刀だけ
にこだわってくれれば、幕府は鎮圧するには刀 vs 刀の方が数の力で抑え
やすいからそういう方向で教えていた・・・とか本当かどうかは知らん。
でも、実際の官軍は洋式軍隊なので飛び道具を容赦なく使った・・・、と。
638 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 08:00:26
>>634 いや、あなたの書き方が、既にデフォでそうなっているんですよ。
「尋常の果たし合い」という表現が、既に尋常でないものとの対比で書かれている。
それは飛び道具の使用を「尋常でないもの」という前提になっている。
飛び道具が卑怯だ、という考えがないのなら、尋常も尋常でないもない。
>>637も書いているが、「卑怯」というのは、発想的に朱子学が武士の教養として入ってきたから次第にそうなっていった、ということだろう。
これは「平和」だからそうなる。「剣術」や「軍学・兵学」が泰平の世だから流行ったのと同様。
戦いが通常の社会では、戦い方に卑怯も何もない。基本は勝てば良い。
戦いが礼式化した社会だと、礼に反する戦闘方法が卑怯になる。
・・・家康と関係なくなってきた・・・
639 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 08:03:59
戦いの礼式化が悪いと言っている訳ではないので念の為。
その究極が「スポーツ」でしょう。
>>638 横からすまんが、
>>634が「尋常の果たし合い」と書いてるのは
「そういう表現が時代劇なんかには見られる」ということであって
>>634さん自身が、そういう言語的枠組の中で話をしている、ということではないと思うよ。
641 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 09:16:01
>>639 もし「剣術」や「軍学・兵学」が本当に「礼式化した戦い」に過ないのなら、
それは悪いに決ってるだろう。それは既に何の武術でもない、のだから。
実際、江戸時代には既に
「近頃の剣術は生死をかけたものではなく、ただの試合になってしまっている」
と嘆く声が出始めるわけで。
それを嘆くということは、逆に
当時目指された「剣術」とはそのようなものではない、
真に生死をかけたものであった、ということになる。
その意味で、現代の「スポーツ」としての剣道とは異なるね。
(現代の人が、「剣道は生死をかけたものではない」ことを嘆く、
ということはあり得ない。)
まあこういう議論以前に、あなたは
現代のスポーツなんて下らん、とは思ってない人のようだから、
そもそも歴史というものに対する見方自体が違うんだろうが。
俺も635みたいだと思ってた。
>>641 うーん、時代によるんじゃないか。戦国時代は切り取り強盗が武士の習いなわけで、秀吉にしたって土地が足りないなら朝鮮から切り取れ、って考えをもっている。
武人があまってしかたなかった豊臣時代から江戸時代初期、そいつらを官僚にしたてなきゃいけなかったし、下剋上の考えも改めさせて太平のルール遵守という概念をたたき込まなければならなかった。剣道もその一端。
剣道には、剣禅一致という考えがあるわけで、道場は精神を鍛える場所という意味もある。ただ武芸をならうのは稽古場。
そんな転換期だから、いろんな声もあるだろうよ。たしか、柳生流は棒振り剣法なんてよばれてたな。それでも強かったみたいだが。
ということで俺も439同様平和的と考える。
そして、権現様は太平を希求した偉大な御方と無理に締めを結んでみる。
643 :
642:2007/08/08(水) 09:57:05
439×
639〇
なんというミス……
>>638 > 「尋常の果たし合い」という表現が、既に尋常でないものとの対比で書かれている。
ちょっと待った。武器は何を使ってもいい、人数も好きなだけ伏せてもいい、じゃそれはもう「果たし合い」じゃなくて戦争でしょ。
しかも、それは武士道がどうのという問題か?
西洋にも果たし合い(まあ決闘といっているが)というものはあるし、
それにもちゃんとルールはある。ルール違反が卑怯だという感覚もあるよ。
645 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 07:56:51
ゴルゴ13は卑怯だ
646 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:00:32
明治前までは 家康は神君といわれ崇められていた
明治に入ってからは 狸や裏切りとか叩かれた
まあ薩長 シネだな
647 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:04:11
東照大権現様ですから
>>644 現在進行形で互いにルールについてあれこれ言えるのが決闘で、終わった後に勝者が敗者のルール違反をあげつらうのが
戦争ってことなんだろう。
戦争で勝者の側がルール破りについて謝罪するなんてことはあり得ない。
福沢諭吉は古今東西比類無し、みたいな最大級の賛辞送ってたな。
まあ、幕府を倒した薩長にしたら、幕府の創始者が勤王家で偉大な王者ってのは、かなりやりにくかったんだろう。あいつら、逆賊とまで言い切ってたからな。
それとも、関ケ原の負け側として、実際に狸家康を信じてたのかもな。
じっさい水戸も尾張も勤皇だったわな。慶喜も錦旗には絶対に逆らわなかった。
南北朝時代から勤皇の志厚かった井伊家に、京都のすぐ近くで徳川譜代としては破格の近江三十万石を与えたってのも水戸と同じく家康の勤皇の一つのあらわれな気がするな。
まあ、直弼は水戸が京都の志士たちを操ってる、と憎みすぎて脱線しちまったがな。
山岡荘八の「伊達政宗」に家康が政宗に政治には慈悲が必要、若いときにはそれを見落としがちである、って語る場面があるんだが、最近では案外家康にはそんな面がある気がしてきた。
例えばとり潰した大久保も水野をつかって再興の機会を与えてるし、大坂の役でも豊臣氏存続の可能性を残している。
大名の妻子にしたって扱いが悪かったわけじゃないし(少なくとも戦国の人質とは違う)、才能がない君主でも家臣がしっかりしてればよいという考えは安心を生み、なかなかに味わい深い。
さらには盗人なども古着売りとして体制下に組み入れる。
現実を見つめる人だが、どこかに生かす道を作っている。
といっても、実際俺にはあんま知識がないんで贔屓のひき倒しっぽいが、家康が完璧な聖人でないとは言え、そんな片鱗はあった気がする。
孔子とか老子の語る聖人のイメージに近いものがあるかもね
聖人や孔子、老子にまだ意味があるとしてだが
「己を修めて民衆を安らかにすることは、堯や舜でさえ苦しんだ」
「民衆はその徳を称揚することさえできない」(孔子)
「民衆がその存在を知るだけの君主」(老子)
>>652 「完璧な聖人」にはそもそも政治なんか出来ないと思うが‥‥
仏教と儒教の聖人はちょっと違うよ。
仏教は出家者の法だから家も社会も捨ててなんぼの聖人。
それに対して道家は徳をもって社会を治めてなんぼの聖人。
つまり徳治政治だな。
聖人恒無心、以百姓之心為心
(聖人はいつも私心を持つことがなく、国民全体の心を心として、衆知を集めて政治の決断を下す)
(老子・乙本第四十九章)
656 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 15:40:39
_| ̄|(、ン、)
657 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 00:50:35
>>565 三方ヶ原のどの辺りで戦いがあったかは分かってなかったと思いますが、
三方ヶ原の南端に浜松城があるであってますよ。
あと、犀ヶ崖の位置は現在でもしっかり分かっていて、
そこに、犀ヶ崖資料館がありますよ。
家康の学問好きは並みではないから、実際聖人めざしてたかもな。
六万遍の日課念仏も普通じゃないが、実際に天を恐れていたんじゃないだろうか。
659 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 01:32:37
259 :人間七七四年:2007/03/02(金) 21:22:22 ID:7SuLxbl3
戦後の日本という国、マスコミやら教育者からすれば、
戦前、戦後を区別しなければ現体制の前の体制である徳川家康を評価できない。
戦後の敗戦からの平和志向からは朝鮮出兵した豊臣秀吉も評価しにくいだろう。
戦後は新しいものが求められ今までの権威を打破するという価値観の中で織田信長は高評価を得たんじゃないかな。
あとは司馬遼太郎という昭和を代表するような大衆作家が信長好きの家康嫌いだったのも大きいかと思う。
楠木正成の例でもその時代によって人気が出たり、下がったりがあるし、
マスメディアがそうゆう操作をすることもあるんじゃないかな。
660 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 07:02:05
企業経営者の中では家康は評価高いが。
661 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 07:12:07
天智、頼朝、家康
賢いしすごいんだろうけど詰まらん三英傑
662 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 11:06:34
詰まらんとしか感じないようではまだまだ社会勉強が足りないと思う
おれも社会勉強なんぞまったくできてないけどな
なんせ、山岡荘八で知った程度だから
>>660 山岡荘八の徳川家康がサラリーマンのバイブルと呼ばれてたっけ。あの時はすごいブームを巻き起こしたらしいな。
ただ、資料根拠をはっきりさせてない小説だからなあ。そこが残念だ。
せっかく長い年月かけて、多くの資料にあたってるのに。随想によれば確か岡崎に取材に行くたびに有志が三十人、五十人集まってくれるぐらいらしい。
そういえば、徳川家康の資料って今どうなってんだろ。
>>664 他と違って兄弟間抗争で泥沼になったからでは?
天智天皇は死んだ後の話だし、
頼朝は討伐しちまったし、
家康にはいない。
666 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 07:14:50
>>661 まあ、玄人ウケするタイプ。老若男女が憧れるヒーローではないね。
昭和50年代、強いけど人気がなかったのが横綱北の海(現日本相撲協会理事長)と阪急ブレーブス(現オリックス)
667 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 07:20:01
>>663 どちらかといえば、経営者層にまずウケて、それからサラリーマン層へと。
しかも、どちらかというと、経営者から薦められてという形で、新橋や新宿で飲んだくれるサラリーマンではなく、日経新聞を好んで読む層に浸透した。
「成功者」としての鑑だったんだろうね。
80年代、保守本流の時代。
668 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 07:33:55
あちゃ、まとめて書けばよいのに連投スマソ。
>>663 山岡荘八は筋金入りの歴史小説家だね。史料にキチンと当たりながらも、それをこれ見よがしに作中に出したりしない。
司馬遼太郎とは大違い。
作風としては、ロシアの小説家、トルストイとかドストエフスキーみたいな感じを受けた。
読んだりして影響を受けているのかな。彼らは劇作の影響を受けているが、山岡は劇作家ではないからね。
余計な作者自身の解説を最小限にして、あくまで登場人物の所作と台詞でストーリーを進行させて行くやり方。
これは、まず自分で対象を完全に把握した上で、気力と丁寧さ、根気が必要な執筆になるはず。
どうしても大作になるしね。
>>668 経営者から一番受けた質問は、部下に薄いのに部下はなんでそれに満足してついていったか、だって。
当時はストライキとかあったからなあ。
そういえば、ある社長の信長や秀吉はいいが家康は独創性がなくて参考にならんという新聞の投稿に、
信長は破産覚悟の革命家、秀吉は放漫政治の失敗者、そんなもん学んでどうするんだみたいなことをもらしてた。
まあでもよく調べているとはいえ小説家ということは念頭に入れておく必要はやっぱあるかな。資料の断片を繋げるのには空想が必要になっちゃうし、話を盛り上げたりもしなきゃいけないから。本人もそれは自覚しているみたいだし。
家康はかなり調べたが少し誇張気味かもしれず公に苦笑されるかもしれない、信長はエンターテイメントに撤したと書いてたかな。
670 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 18:15:21
絶対的な勝利と、成長路線が支えていたと思う。
なんだかんだと言っても、松平→徳川家は、三河一国から、遠江、駿河、甲斐、信濃。そして関八州と領土は常に拡張しているから。
いくら吝嗇でも、絶対量が増えている。家康配下の者共、当初から考えれば待遇は向上しているはず。
例えば、室町から戦国時代は兄弟争いが社会的に絶えないが、毛利はうまく行っている。
それも版図の絶対量が増えているから。毛利本家の家督でなくても、もともと安芸国吉田荘しかなかった一家が中国地方の大半を手に入れた訳だから、満足だろう。
不平不満は言い出せばキリがない。徳川家でも「三河物語」なんてあるし。
>>668 > 山岡荘八は筋金入りの歴史小説家だね。史料にキチンと当たりながらも、それをこれ見よがしに作中に出したりしない。
山岡が描こうとしたのは歴史的な史実ではなく
(もちろんそれは踏まえているが)歴史上の人物の「心」だろうな。
極力その人物の立場になって考えようとしている。
だから、メチャクチャくだらない悪人とかあんまり出て来ない。
> 史料にキチンと当たりながらも、それをこれ見よがしに作中に出したりしない。 司馬遼太郎とは大違い。
そうだね。まぁ司馬が描きたかったのは結局は劇画チックな冒険活劇。
歴史上の人物のキャラを借りながら現代人を描いたわけで。
だから人気が出たとも言える。
くだらない人間とかしょうもない悪人とかいっぱい出て来るしね。
まぁそれでも小説中に延々と史料を丸々と引用する津本陽よりは
マシかな。似たようなもんだけど。
646
家康だって薩長の母体である毛利島津をかなり虐めてるけど
なにか
?文句ある?
673 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 03:11:44
>>671 うーむ、俺はそういう評価は良く分かるし、それはそうだと思うんだが、反面、登場人物がみんな「慧眼」になってしまうという部分がどうかなと思ってしまう。
ここは家康のスレだから、山岡論を延々とぶってもどうかと思うが、それでも書くなら、家康や信長、秀吉辺りは、相応の慧眼があったかも知れないが、他はどうかな?
後の時代から見て書くから、あそこまで将来を見通せる訳で。
明日の世など、誰も確固たるものがない中で、時に思惑が外れたり、逆に結果オーライになったりするのが人間の常なんじゃないかな。
余りにも、慧眼ぞろいになってしまうのが、不満といえば不満ですね。
まあ、良く書けているし、あれだけの大作にドタバタの要素まで取り入れたら、読者が話についていけなくなりそうな感じはするけれどね。
674 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 23:56:11
スレ枯らし
675 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 23:36:39
座りしままに、食うは徳川。
立って食わんだろ、普通w
676 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 00:27:16
「座して・・・」は楽してとか何もせずにという意味だが、
一番苦労してるな、家康。
優雅に水の上を漂っているように見える白鳥が、
水面下で必死に水を掻いているというたとえ。
イメージ的には白鳥とは言い難いがw
677 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 02:03:54
縁の下の力持ちが、建物が炎上し、住人もどこかに行ってしまって仕方なしに自分で家を建てて主人になった、って感じかな。
678 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 10:44:35
長生きしなきゃ天下は取れない。
取ったとしても子孫が天下人であり続ける体制を構築することはできない。
まあ、幼時から人質生活を転々とし自分の家族を泣く泣く手にかけ
老臣達に死を命じ、戦では何度も死にかけ・・・
なんと壮絶な人生か。
信玄と今川領折半したときも、取り決めた境界を越えてどんどん占領されて、
それに文句を言うと、
「あれは部下が勝手にやった事、サーセンw返すねwww」とごまかされ、
その下の根も乾かないうちにまた領内を荒らされる。
…アレ?どこかで見たような話だな。
「信長は本当に天才だったのか」を主題とする本が出てたが、
また信長が信康を殺させたなどと書かれてた。
一体いつまで御用学者のついた嘘に騙され続けるのか。
通説論者がいたら、信長が命令したということで
この事件を詳述してみてくれ。
それをやろうとすると疑問・矛盾だらけでさっぱり
首尾一貫しないものになること間違いなしだが。
例えば徳川家史料でいう信長は築山殿を殺せとは
一言も言っていない。なのに家康は信康に先立って
築山殿を殺害している。
この一事だけを見ても2人を殺したのは家康の意思
であることは明らかだ。
朝青龍の処分にしても、理事長は当初そこまで大事にするつもりはなかったが、こけにされた巡業部の突き上げに
よって、2場所連続出場停止という厳しい処分にした。
これを巡業部の命令ととるか、理事長自らの意思ととるか。
683 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:09:07
681どんな親だって子供を殺したい親がいるか?
このときの家康は弱虫だったんだよ。信長と戦って死ぬ勇気が
なかったんだよ。
684 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 02:58:36
>>681 中公新書の徳川家康には
築山殿を殺せとは言ったが
「女の事だからやりようもあったはずだ
それも考えず打ってかっかたのか」
みたいな記述が確かあったよ
685 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 11:07:37
信長が信康の殺害を命じたという話は今では否定されている。
最近では浜松派と岡崎派が対立し、家康自身も岡崎衆を制御できなくなったため、
岡崎衆の粛清を行ったというのが定説。
また、家康が武田信虎のように追放される可能性もあったようだ。
686 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 12:24:29
浜松派が信長に讒言して信康と築山を殺す命令を出させるようにしむけた。
殺してもいいですね?
仕方あるまい、よきように。
実際、こういう会話だったのが、
家康の耳には信長からの粛清命令として届いた。
687 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 13:15:21
じゃあ、晩年酒井忠次が息子の処遇について文句を言ったとき、
家康がお前でも倅がかわいいのか?と小言を言った、
というのは創作なのかい?
688 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 13:33:18
まあ創作だわな
690 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 14:48:05
>>683 家康は30代後半で、まだまだ若い側室との間に
子供を作る予定だったろうし、子供の夭折も多かった昔は、
それほど一人の子供に執着していたとは思えんがな。
子供が死んでも、また作ればいいか、みたいな。
戦国大名が多くの子供を作るのも、
息子は戦へ行って死ぬために、娘は同盟国へ嫁という名の人質に出すために、
子供は親が権力を握るための人身御供みたいなもんだったし。
>>690 > 子供が死んでも、また作ればいいか、みたいな。
バカかおまえは
692 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 16:53:47
もう生まれているよ、信康の死の時には秀康(5歳)や秀忠は既に生を受けている。
信玄も跡継ぎが武田義信だけだったら、殺さなかっただろう。
693 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 17:03:58
秀康は、家康が出生を疑って、認知しなかった。
長男信康のとりなしでやっと対面したのが3歳のとき。
すぐに秀吉の養子にやってしまい、将軍にもしなかった。
3男秀忠は、長兄信康切腹時、まだ生後半年の赤ん坊で、
夭折せずに育つか、育っても馬鹿かもしれんし、徳川家は安泰だったわけではない。
家康は永らく長男信康以外に男子がいなかったから、
仮に、信康を切腹させて家康もまた、幼児であった2人の息子を残して40ぐらいで死んでいたならば、
徳川家も終わっていたがな。
築山殿が家康を呪ってます
いつか祟りが襲い掛かります
695 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 00:54:03
家康の我が子への冷たさは異常。
次男秀康は出生を疑ってなかなか認知しなかったばかりか、
養子に出してしまうし、6男忠輝は追放。
これらから見れば信康も岡崎派が彼を担いでクーデターを
起こそうとしたのが事実なら、殺そうと思ってもおかしくない。
子を殺すはずがないというなら上にもあるように武田信玄も
長男を殺してるし。
蛇足だが、信長は信玄と敵対した時に、その父を追放したことと
子を殺したことを非難している。
そんな信長が他人に嫡男を殺せなどと言うだろうか?
ある本に、
「徳川家康の経歴や事績についてはウソが多い。本人がついたウソ
もあるだろうが、徳川様の天下になってから、御用学者などが
デタラメなことを言っている場合も少なくないようだ」
とあるのだが、これに異議のある人はいる?
信康切腹が信長のせいなんてのはその「御用学者がデタラメなことを
言っている」典型例だと思っている。
698 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 09:40:06
>>697 そう思ってる根拠は書けないんだな。
御用学者の手による創作もあるだろうが真実もあるのにどう区別してんの。
自分がそう思い込みたいだけでしょ。
>>698 権現様を持ち上げる為にデタラメを言う御用学者が存在したとする「ある本」が根拠だろ?
子殺しは言うまでもなく汚点、それを取り繕うために織田からの命令で殺したとしておこうと
こんな読解力も無いのか?
子殺しが汚点じゃないというなら、思うならもう何も言わんが
武田と戦ってウンコもらした云々も自省のためとか理由つけて取り繕ってるだろ?
「ある本」で根拠になるのなら
ムー大陸も存在したってことになるな
阿呆か?
「根拠がかけない」に対して「ある本」を根拠として「異議は無いか」と
>>697は聞いてると指摘してるんだろ
異議があるなら
>「徳川家康の〜少ないようだ」
に異見を言えばいいだろう、根拠がおかしいというなら「根拠がかけない」じゃなくて「根拠が怪しい」と指摘すれば良いだけの話
本当に読解力無いな
702 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 13:36:30
信長は嫁(徳姫)の父親で、信康は信長の義理の息子なので一応許可は
貰いに行ったらしく、信長は家康の申し出に許可を与えただけと
「安土日記」や「当代記」では書かれている。もちろん殺害などは命じてはいない。
徳姫からの除名嘆願はあったが、建前上は同盟関係で家康は家臣
ではないので、やむなく許可を出したのだろう。
「松平家忠日記」には信康事件の時の家康と信康の対立が書かれているが、
武田との内通など「国家安康」ばりのデッチアゲで自分を脅かす存在になった
信康を殺すろは、さすがは家康といえる。
じゃあ、「ある本」は最強ってことでw
>>698 >どう区別してんの
それを究明するのが歴史学。
徳川幕府が権現様を持ち上げたり、その支配を正当化するために
作らせた史料でも、全部がウソでも全部が本当でもない。
それを見極めるのが歴史学だよ。その方法は他の史料と突き合わせた
り、当時の状況を考えたり。
信康の事件にしても、徳川家の史料にあることを信じて
信長の命令があったとされてきたが、近年疑問が呈され、
他の史料なども提示されて、家康の意思だったという説が
有力になりつつある。
分かりやすい例を挙げると源義経。「平家物語」や「義経記」に
書いてあることの内、どれが本当でどれが間違いかを学者は
研究している。
>>686 これまでの通説でも誤解が多いのだが、
信長の命令で信康を殺したとする徳川家史料でも、
信長は「築山殿も殺せ」とはまったく言っていない。
それが通説に疑問が生じる一つの理由になっている。
>>703 まだ分かってないのか?
「家康の経歴にはウソが多い」に対して「ウソなどない」、
「御用学者がデタラメを言っている」に対して「そんな
御用学者などいなかった」と言えばいいこと。
それが「異議がある?」への答。
>>706 > 「家康の経歴にはウソが多い」に対して「ウソなどない」、
> 「御用学者がデタラメを言っている」に対して「そんな
> 御用学者などいなかった」と言えばいいこと。
> それが「異議がある?」への答。
「多い」とか「デタラメ」とか、恣意的に決めつけるような言葉を多用する人は、学問とはおよそ無縁な大衆だな。
学問とはもっと精緻で具体的でないと駄目だよ。
>>708 そんな迂遠な言い方しないで「わたしは家康信者です」
と正直に言った方がいい。
第一、
>>697で引用されてる文章は○木○哉のもの。
著書を何冊も出してる人だぞ。
素人にそんなこと言われる筋合いはなかろう。
710 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 19:11:44
全部フィクションなら御用学者というより戯作者の域だなw
http://www.ikedakai.com/jikki1-h3.html 岡崎殿御事を信長より申さるゝ旨ありしとき。酒井忠次。大久保忠世両人も。御ふるまひのあら/\
しき事ども。条件にしるして御覧に入ければ。三郎がかゝる所行あらば。定て汝等二度も三度も諌を
納し上にて。尚聞入ねばこそ我に直訴するならん。聖賢の上にも過誤なしとはいひがたし。まして年
若きものゝ事をや。いかにと問せ給へば。両人さ候。若殿にはおゝしき御本性におはしませば。若諌
良など進めて御心にかなはざらんには。忽に一命をめさるべければ。今まで忠言進め奉るもの候はず
と申せば。君今の世に比千。伍子胥が如き忠臣なければ。諌を進めざるも理なれとて。又何と仰らる
ゝ旨もなし。其後三郎君御生害あり。はるか年経て後。忠次老かゞまりて御前にいで己が子のことね
ぎ奉りしに。三郎今にあらばかく天下の事に心を労すまじきに。汝も子のいとほしき事はしりたるや
と仰ければ。忠次何ともいひ得ず。ひれふして在しとか。又幸若の舞御覧ありし時。両人にも見せし
められしに。満仲の曲に。をのが子美女丸をもて。主にかへて首切て進らせしさまを御覧じて。両人
に向はせ給ひ。其事となく御落涙し給ひ。両人あの舞はと仰られしかば両人大に恐怖せり。又或時三
郎殿のかしづき渡邊久左衛門茂に向はせ給ひ。汝等は満仲が舞見ることはかなふまじと仰られし事も
あり。また関原の役にあさとく御旗を勝山に進めれし時も。さて/\年老て骨の折るゝ事かな。倅が
居たらば是程にはあるまじと独言の様に仰られしとか。(中略)たゞ少年勇邁の気すゝどくおはしま
せしを。信長の恐れ忌しより事起れるにて。御手荒き御挙動の在しも。軍国の習にてあながち深く咎
め奉る事にあらず。さるをかの両人織田家の奸計に陥り。かしこきまうけの君をあらぬ事になし奉り
しは。不忠とやいはむ愚昧とやいはん。百歳の後までも此等の御詞につきて。御父子の御情愛をくみ
はかり奉るに。袖の露置所なくおぼえ侍るにぞ。(武辺雑談、東武談叢、寛元聞書)
(国史大系第38巻『徳川実紀 第一編』を底本としました。)
鈴○眞○?!
それを聞くとちょっと・・・
712 :
日本@名無史さん:2007/09/05(水) 23:01:09
>>710 『徳川実紀』は、19世紀前半に編纂された江戸幕府の公式記録。
そんなものに息子殺しの真相を載せるわけにはいきません。
>>709 >
>>708 > そんな迂遠な言い方しないで「わたしは家康信者です」
> と正直に言った方がいい。
おまえこそ何の信者だか知れたもんじゃないな。
ほんとにアホらしい。
714 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 05:43:52
家康を論じるに当たって取り合えず
1.家康個人、あるいは徳川家当主としての家康
2.政治家の側面(民生からの観点、歴史上はたした役割)
に分けたい
1は皆の言う通り色々な意見があって然るべき
2は私見では源頼朝と並ぶ史上有数の政治家だと思う
ご批判を請う
715 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 09:38:00
岡崎派だった平岩親吉に実子仙千代をくれてやったことはどう説明する?
同母弟の義直が御三家なんだから、もし仙千代が成人していたら、平岩家
はとてつもなく繁栄したことだろう。
716 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 13:27:23
浜松派のスパイだったのかもしれないな。
そもそも、岡崎派って誰?
もう「ある本」に書いてあることが真実でいいよ
みんな「ある本」を読め
なんせ鈴木氏は本を何冊も書いてる人だからな
本物だ信用できる
逆に史料なんて時の支配者に逆らうようなことは書けないんだから信用できないよな
一冊も本を書いてないくせに史料なんかを信じて徳川史観に毒された家康信者と
たくさん本を書いて通説を次々に打破してる人じゃ勝負にならないな
>>719 そうそう!!史料なんてみんな時の権力者の捏造だよね。
もしかしたら「徳川家康」なんて人間そのものが
存在しなかったかもしれないし。
722 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 08:54:22
>>704 >徳川幕府が権現様を持ち上げたり、その支配を正当化するために
>作らせた史料でも、全部がウソでも全部が本当でもない。
信長の命令があったことを示す史料が全部嘘でない限り家康主導説は成立しない。
単純な論理。
>>711 名前でどうこういうなら、名前すらだしてないおまえらニチャンネラーが何言ったところで説得力皆無だぞ
重要なのは論の中身だろ
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―――考古学板・オーパーツスレより―――
728 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 23:35:43
>>722 家康の猜疑心の強さが信康を殺したわけだよ。
似たようなものとして武田信玄→義信、豊臣秀吉→秀次(甥であるが)、
大久保派粛清がある(国家安康の大阪の陣も入るかも)。
神君家康になってしまってからの記録では「信長の命令で」という
ことにしないと、都合が悪いんです。
『信長公記』の原本である『安土日記』と家康の家臣松平忠家の『忠家日記』
信康が幽閉される直前、信康が謀反を企てているとの噂が流れていたという記述があって、『安土日記』には「家康が信康切腹の許可を信長に取り切腹させた」とありますよ。
信長側なので信長公記を除くとしても、忠家日記の記述は根拠になるな
手元にないので記憶だけど、家康と信康の仲が悪いようなこと書いていなかったっけ?
>>728 > 家康の家臣松平忠家の『忠家日記』
家忠日記なら知ってるが‥‥
忠家日記なんてのもあるのか?
>>729 二人して忠家日記と言ってるとは、
もしかして最近の学説では家忠が忠家になってるのか?!
>>728 > 神君家康になってしまってからの記録では「信長の命令で」という
> ことにしないと、都合が悪いんです。
よりによって実の子を、
立場上同盟関係であるに過ぎない人間の「命令」ごときで
殺してしまうほうがよっぽど体裁が悪い気がするけどな。
それならば、謀叛の動きが実際にあったとしてしまうほうが、
よっぽど家康には都合がいいように思うぞ。
もし謀叛の噂云々が事実なのに、徳川実紀(俺は読んでないけど)には信長の命令でって書いているんだとすれば、
それは家康を庇うというよりも信康を庇うためなんじゃないの?
学者以外は大半が受け売りだ
>>733 同じ受け売りでも、何冊も学者の本を読んだり、原典にちゃんと当たってみたりする奴と、
個人ブログ(言い方は悪いが、つまりは素人の自説)を無批判に丸ごと受け売りしてる奴とではまったく違うだろ。
しかもこのブログ主は、こんな断わりまで入れているぞ。
↓
このブログは専門知識のない織田創が本やテレビ等から得た情報を元に書いています。
故に誤った記述等もあると思います。
もし気付かれた方はコメントにてお知らせいただけるとありがたく思います。
よろしくお願いします。
また、紹介している内容もひとつの説に過ぎません。ご了承ください。
>>732 信康殺害は家康の意思と言うと、なんですぐに
信長厨ということになるのかねえ?
そういう言い方こそ厨の発想だろうが。
>>734 前者の受け売りのやつも「誰かの受け売り」だし、後者の受け売りも「誰かの受け売り」
「受け売りだから」という批判じゃなくてどこがどうおかしいか指摘せねば意味あるまい
批判してる
>>732、
>>730は「忠家日記」「家忠日記」と間違えてるから、それだけしか
>>728の問題を指摘できてない
批判というより揚げ足取りだ、これじゃ
そもそも受け売りの何が問題だ?
その受け売りの内容に「忠家日記」みたいな本論と関係ないミス程度しか見受けられないなら問題なかろう
重要なのは誰かの受け売りかどうか、些細なミスがあるかどうかではなく、その論じてる内容に問題があるのかどうかだろ?
>立場上同盟関係であるに過ぎない人間の「命令」ごときで
実質は上下関係があった。
三方が原に言い訳程度の援軍しか送らず自力でなんとかしろなんて
対等な同盟はない。
>>728 「安土日記」には信康が謀反を企てたので
岡崎城から追い出した、という記述だけ。
家康が信康の処置を信長に相談したのに対し、
「家康存分次第」と信長が答えたと述べているのが
「当代記」。
「当代記」はかなり信頼性の高い史料と研究者の間で
されているので、これが信長無関係説の根拠に
なっている。
なお、なぜ家康が信長に相談したのかと言えば
信康が信長の娘婿だから。舅の信長に断りなしに、
信康を処分するわけにはいかなかったろう。
酒井忠次はそのために安土を訪れた。決して
五徳の12ヶ条の書状などを持っていたわけではない。
御用学者は「信長公記」を見て、天正7年7月に
酒井が安土を訪れてるのに気付き、「これだ!」とばかりに
飛びついたのであろう。酒井はここで、信康切腹を信長に
命じられたことにされてしまった。
>>732 通説派こそ、江戸時代以来語られてる筋書きを繰り返すばかりで、
何ら新たな根拠など示してないだろ?
元々通説には数々の疑問・矛盾点があり、それに対して
新たな史料の解釈などを加えて出てきたのが「家康の意思で
殺した」説。
他にも書いたことがあるが疑問を二つばかり。
嫡男を殺せと命じられた家康が、信長は離反するとは思わなかった
のか。また、離反した場合への、東への備えなどはあったのか。
この時期、現実の信長はこの頃上洛して蹴鞠を見物したりして、
そういった緊張はまるで感じられない。
次は信康を庇わず、死に追いやった酒井忠次が何故その後も
重臣として用いられているのか。通説の通りなら冷遇されても
おかしくない。
通説にはこのように説明できない疑問が多すぎる。
もう一つ明確にしておきたいのは、信長が命令したという話は
徳川の天下になって作られた史料にしか出てこないということ。
同時代にそういったことを言っているものがあるのなら
肯定できるが。
これも他に書いたことがあるが、
信長は無関係で、家康は自らの意思で妻子を抹殺したと
(著者なりに)論証した本が、
典厩五郎著「家康、封印された過去」(PHP研究所刊)。
著者は、高校生の頃から信長犯人説が不思議でならなかった
そうで、その疑問は大人になっても解決せず、この本の執筆に
至ったそうだ。
家康犯人説に納得できない人は是非読んでみてほしい。品切れなので
図書館などで探さねばならないが。
>>739 信長と家康のキャラを考えればそれほど疑問でもない。
信長は家臣に寝首を掻かれるような鈍感力の持ち主。
敵に回すことを一々恐れていたら天下統一に先鞭をつけるようなことができるわけない。
忠次はむしろ冷遇されたという見方のほうが妥当だろう。
第一、
>>738の言うように信長の許可を得る使命を帯びて安土を訪れたなら
忠次には何の落ち度もないことになるからもっと厚遇されてしかるべき。
怒りに任せて殺したり追放したりはしていないが、
人を使うには欠点は仕方ないと思ってあきらめ、長所を取り立ててやれというのが家康の信条。
>>740 典厩五郎の本をちょっと読んだことあるが、
家康を「何考えているかわからない」とか、偏見が酷かったのを覚えている。
>>736 > 批判というより揚げ足取りだ、これじゃ
揚げ足取りじゃなくて、依拠している史料の名前を間違えるか普通?
ってだけの話でしょうに。
知らなかったのならこれを機に知ればいいし、
ミスの指摘ありがとくらい言ったっていいくらい。
人前で言えば恥をかくのはあんたなんだしね。
>>740 > 著者は、高校生の頃から信長犯人説が不思議でならなかった
> 家康犯人説に納得できない人は是非読んでみてほしい。
この辺がよくわからないんだよなぁ。
「犯人」って、まるで悪人か罪人扱いじゃないか。
「妻子を殺した!」って、まるで現代の、それも一般庶民の倫理感覚でとらえ過ぎてないか?
そもそも良い悪いを言い出すなら、真偽のほどはともかくとしても、
謀叛の疑惑をかけられるような隙を見せてしまった信康
(と築山御前)が一番悪いんじゃないの?
今風にいえば内乱罪が適用されてもおかしくないわけでしょ?
>>744 「犯人」というのは著者(典厩五郎)の表現を借りたまで。
他の言葉に置き換えても本質は変わらない。
>>741 では他の疑問を2つほど。
・それほど信長が怖いなら、すぐに殺さずに2ヶ月もの間
信康の身柄をあちこち移したのは何故か。しかも最後は
武田方の最前線である二俣城に送りこんでいる。これでは
信長の疑惑を煽っているようなものではないか。
・家康は何故、信長が一言も触れていない築山殿まで殺した
のか(一般に信長は2人を殺せと命じたとされているが
これは誤り。史料では信康にしか触れていない)。
酒井の件は谷口克広など研究者も疑問としている。
ここであんたの自己流解釈を聞かされてもねえ。
おれは谷口氏の方を信じる。
連投だが、疑問はまだまだ挙げようと思えば
挙げられる。
要するにこの事件は徳川家製史料を下敷きにしている限り、
さっぱり筋が通らず、支離滅裂になる。
それより信長が家康の思う通りにせよと言ったという
「当代記」の方がよほど信頼できる。
>>741 家康は家族に関してなら十分「何を考えているか分からない」と
言えると思うが?
上の方にもあるように次男秀康は出生を疑った上、対面するのを
嫌がるし、忠輝は追放。
秀康と対面するのを嫌だと言って逃げ回っていた家康を、信康が
秀康と対面させたという話が残ってるが、異常というほかない。
我が子と対面するのから逃げ回る家康など、御用学者が創作する
はずがないから、話は本物であろう。
偏見などとは言えまい。
良い証拠は偽者
悪い証拠は本物
魔女裁判みたいだw
>>743 論点がずれてる
些細なミスを鬼の首でもとったかのように騒ぎ立てて本論すらも信憑性がないとしてることが問題なんだが?
些細なミスなのか本気で間違えてるのかわかんねえよ。
忠家なんて間違えようがない。
>>748 そりゃそうだろ。
御用学者が神君家康を美化するためには、悪い話はなかったこと
にするか他人のせいにする。
悪い話でないことはいじる必要はない。そのまま。
秀康と対面するのを嫌がった話が創作でないと判断する理由は、
この家康が神君家康ではなく人間だから。つまり作為性がない。
ただし人間と言っても薄気味悪い人間の部類だが。
>>747 > 上の方にもあるように次男秀康は出生を疑った上、対面するのを
> 嫌がるし、忠輝は追放。
だから何?としか言い様が無いなぁ。
領国や家中を治めるには、息子だからって無条件に愛するわけには
いかないのは当たり前のこと。
その辺のマイホームパパじゃないんだから。
> 秀康と対面するのを嫌だと言って逃げ回っていた家康を、信康が
> 秀康と対面させたという話が残ってるが、異常というほかない。
異常というほどのもんでもなかろう。
足利尊氏も直冬をなかなか認知しなかったし、
徳川秀忠も公然とは保科正之をわが子と認めなかった。
身分や地位があり、更に権力もあって、
大勢の一族家臣を束ねるような立場の人間は、そう簡単に認知なんか出来るもんじゃない。
ましてや100%わが子であると言いきれない子供の場合、
身分地位が無くたって、なかなか認知なんて出来るもんじゃない。
そのくらい想像してやれよ。
>>747 ところできみは、前に徳川家内部で家康vs信康みたいな勢力争いが起きていた、というようなことを書いていた人?
それなら「信康が秀康を家康に対面させてやった」と言う逸話は、
その辺のホームドラマみたいな話を連想して異常とか決めつけるよりも、
政治とか権力のパワーバランスから読み解いてみたらどうだろう?
例えば家康がなかなか秀康と対面しなかったのは、家康が信康一派に見せた政治的配慮ではないか、と仮定してみる。
家康の後継者であると自他ともに認める信康とその一派の了解を得ることで、
初めて家康は秀康と父子の対面に至った、という話になった、という具合に。
>>728 > 家康の猜疑心の強さが信康を殺したわけだよ。
> 似たようなものとして武田信玄→義信、豊臣秀吉→秀次(甥であるが)、
> 大久保派粛清がある(国家安康の大阪の陣も入るかも)。
う〜ん‥‥そんなに似ているかなぁ?
武田義信には飯富兵部、豊臣秀次には木村常陸介、
それぞれ有力な重臣が連座して切腹させられているけど、
信康の場合は家老の平岩親吉に何のお咎めも無かったでしょ。
だいたい猜疑心から殺すんであれば、
信康一人を殺すのではなく、その背後にある敵対勢力も
大量かつ一斉に粛清しないとあまり意味は無いんじゃない?
だから、俺は上に書いたような「家康派vs信康派」のような内部対立があったというのはちょっと考え難いと思っている。
武田に内通した一部家臣がいた、というだけの話じゃないの?
しかし、信康本人までが内通していたかといえば、それはわからない。
わからないが、黒ではなくても灰色なのは確かだろう。
家康が父親の情として命だけは助けたいと思ったとしても、
それでは同盟国(織田)や家臣にも示しがつかない。
已むを得ず責任を取らせて自刃、ということになった、と。
>>745 ・身柄をあちこち移したのはどう見ても家康苦悶の痕跡なのに何が疑問なのか?
信康に切腹の覚悟ができていないため移したという家康の手紙が発見されたらしいが、
覚悟ができていないのはむしろ家康のほうだっただろう。
・築山殿を殺す理由は家康にはもっとない。
家康主導説では捏造というしかないだろうが、
>>684のようなエピソードも残っている。
史料でことさら築山殿に触れていないのは、信長が本当に抹殺したいのは信康だと
誰もがわかっていた証拠。
思えば築山殿は武田内通という名目のために犠牲になったあわれな女性。
その後、徳川方からも悪く言われ二重にあわれ。
大体、このあたりの史料は家康主導説ではまったくの捏造だろうに。
ご都合主義もはなはだしい。
こりゃ駄目だww
あちこちに移したのって、信康派の家臣から引き離すためじゃないのかな
>>756 お前みたいな一行煽りレスが最低だって気付けよ。
具体的に反論できねえでやんの。
しかもいまどきw使ってる。
>>752 尊氏と直冬の場合はちゃんとした理由がある。
自らが滅亡に手を貸した北条の一族である正室と
その嫡子に遠慮してのこと。
家康とは一緒に出来ない。
通説論者がまだいるようだが、これは現在そのままでは
成立しなくなっていることを認識すべきだ。
通説では家康と信康の間は何の問題もなかったところへ、
信長が半ばいちゃもんのような嫌疑をかけて殺させたと
なっている。
だが「家忠日記」には事件の1年前から、家康が岡崎在住の
家臣を信康から切り離そうとしていたことが分かり、両者の間が
険悪になっていることが窺える。
それに「当代記」の記事はどう説明するのか。
家康を美化するのが目的の徳川家製史料と、
研究者の間でも信頼性が高いとされる当代記。
どちらに信が置けるか言うまでもあるまい。
仮に岡崎と浜松の争いと言う可能性があったとしても、この件で
死亡したのが家康の妻子だけというのが謎
岡崎の重臣が一人も死ななかったというのは変である
そうなると対立していたのは家康と信康の個人間という事になるの
であろうが、この二人がそこまで対立する要因が見えてこない
それこそ俗説が築山殿が武田と内通をし云々を挙げるのも理解は
できる
それよか築山殿も含んだ個人間での権力抗争だったから家臣の粛清がなかったと
考えればいいと思うが。武田との内通とかいうほうがよっぽど荒唐無稽だわ。
765 :
日本@名無史さん:2007/09/12(水) 22:21:27
>>764 その個人間の権力抗争に重臣が全くタッチしていないのはありえない。
信康はその程度の根回しもできないような奴という事になる
逆にその程度の事もできない無能だから粛清したのかな?
信康の死後、その近臣たちのほとんどが蓄電、隠遁、不自然死、
もしくは左遷されている。
と述べている本もある。ただ具体的に人名を挙げろと言われると
細かく記した本が手元にないので出来ないが。
同著者によると、徳川幕府が各家に提出させた系図には、
途中が抜けていて、この人はどうやって生まれてきたのだろうと
いうケースが少なくないという。
著者はこれを、信康に仕えた後牢人、切腹などと書かれていた
ところを、幕府側が改ざんしたと見ているのだが・・・
従って岡崎派の誰も処分されてないということは出来ないと
思う。一見そのように見えるのは幕府による隠蔽ということになる。
どちらにせよ、信康母子を葬ったのは家康みずからの意思だと
いうことはもはや動かないと思う。
動機は徳川幕府が史料を抹殺したため推測するしかないが、
やみくもにやったのではなく、そうせざるを得ない理由はあった
のであろう。つまり殺したくて殺したのではないということ。
上の方にある、信康をあちこちの城に移したことは家康逡巡の
表われという見方は別に、これが信長の命令でなく家康の意思だ
としても成り立つことだ。さらに岡崎城から出した時にはまだ
殺すつもりはなかったという推測もある。むろん推測だが。
>>766 そういや石川数正の親父が三河一向一揆の総大将という説もあったな
正味、そこの所は信康の近臣の特定とその後の動向を調べない限り、
安易な結論は出してはいけないと思う。
>>761に補足すると、「家忠日記」によると家康は信康を岡崎城
から追い出した後、岡崎衆に誓書まで取って信康と通信することを
禁じている。
これは、岡崎衆が信康を担いでクーデターを起こそうとしていたのを
家康が察知して事前に手を打ったということの傍証にはなるだろう。
信長の命令で信康を殺そうというのなら、ここまでする必要はない。
通説論者には不利な材料をもう一つ。
「信長公記」には種々の伝本があり、内容が少しずつ異なっている。
その内最も古いと言われる「安土日記」には、
信康に「逆心(謀反)の雑説」があったとある。
これは徳川家中の分裂を暗示している。
だが次の段階では信康が「不慮に狂乱」したに変わり、信康個人の
問題に希釈される。
さらに次には信康事件そのものの記述が消えてしまう。
これは筆者が徳川幕府に遠慮して筆を曲げたと考えられているが、
徳川幕府にとって信康事件がタブー化されたことを示している。
信康殺害が信長の命令なら、そんなことする必要はないのではないか。
むしろ筆者に求めて、「公記」に信康殺害は信長の命令と明記させた
はずだ。
771 :
日本@名無史さん:2007/09/13(木) 07:51:31
では、築山殿と徳川信康は、家康の命令で殺されたとして、どのような
流れでそうなったのかを書いて欲しい。
批判だけでは、全体が見えてこないね。
それはむしろ研究者の書いたものを読んだ方がいいだろう。
取り合えず谷口克広著「信長と消えた家臣たち」(中公新書)
を勧める。
>>770 別に通説支持でも新説支持でもないが‥‥
> 徳川幕府にとって信康事件がタブー化されたことを示している。
でも徳川実紀には書いてあるんでしょ?
それなら幕府にとってタブーになったというよりも、
幕府を憚る側で勝手に自主規制して触れなくなったと考えるほうが妥当じゃないのかな。
>>772 重臣クラスが処罰されていないのは解せない
石川数正・平岩親吉が何のお咎めなしと言うのは謀反が仮にあったとしても、
信康周辺の極僅かな近臣のみによるあまり大した事が無いものではなかろうか
但し、これを家中に対する綱紀粛正として家康が切腹を命じたと言うのは普通であろう
この点、家康は自分の子だからと言う事で、寛大な処遇をするような男ではない
だからこそ天下が取れたのであろうが
ただ、自分としてはこの個人的な諍いの原因が良く解らない
そうではなく、この頃はまだ家康は生きていた。
家康を美化するために信康の死は信長のせいという
筋書きが作られたのは家康が神君とされたその死後の
ことと考えられる。
つまりこの頃には、信康事件には触れないでおこうという
気運だったと考える。
「徳川実記」はその筋書きがすっかり定着した19世紀の
編纂。「三河物語」などと同じく信長に責任を転嫁する
内容なので、この際(16世紀の初め頃)関係ない。
後は、本当に大した事が無くて内々に処理しようとしたのだが、酒井忠次が信長の前でばらしてしまい、
このまま処罰無しでは諸方への示しがつかなくなるので仕方なく、切腹を命じたとか
>>774 今川氏真が飯尾の反乱を一度は赦免して、後に暗殺(朝比奈の暴走ともいわれるが)
上杉輝虎が揚北衆やら北条(キタジョウ)を赦免
大名と領主の力関係で処分は多分に変わる
>>775 「三河物語」を書いた大久保彦左衛門は家康を神格化なんぞしてないよ(敬愛はしているけど)。
しかもあれは公刊されたものではなく、
あくまで大久保家の子孫に読ませる目的で書いたもの。
だから遠慮のない幕政批判も書かれている。
その点、徳川実記とはまるで違うよ。
あと、その大久保が「信康事件は信長のせいだ」と書いているのなら、
少なくとも彼のような立場の三河武士の間では
そのように考えられていたということの1つの傍証にならないか?
(もっとも俺はもう随分前に読んだきりで、信康事件についてどう書かれていたかなんて全く覚えてないけど)
信長と家康の関係だけ、ただの資料にどうとか、いったってタダの泥仕合になるだけだろ。
そもそもの動機はなんだ?岡崎衆と対立したとするならその原因はなんだ?
信長が殺したとすればその動機は?たかが女一人の築山殿が殺されたのは?
信康が切腹したのは、長篠の合戦の4年後だ。家督は長篠の直後に信忠にゆずり、あとは部下を動かすだけで天下が取れるメドがついたといた頃だ。
ちなみに、長篠の合戦までの家康と信長は扱いは、よいとはいえなかったとはいえ、一応同盟者としてぐうしている。
信長は、家康が政治的には家康は非常に臆病なのをしっていた。しかし有能で戦争が上手だ。格下の同盟者としてこれいじょうはない。それが武田への備えとして有用だった。
しかし長篠の合戦以降の家康への扱いはだんだん、ぞんざいななってくる。それはそうだろう。合戦の後家康は、武田の旧領への拡大と、武田家臣の
取り込みに熱心だった。信長が、利用価値が半減した同盟者が、自分のものになるはずのものに手をだしてくるのを快く思うかね?
信長の頭には、織田政権を、より永続的なものにするため、早々に家督を信忠にゆずり、武将として普通の信忠にも経験をつませ、信長が完全に手を
引いたあとも、信忠に違和感なく、家臣と従属大名を掌握させることがこのときの最優先事項であったはずだ。
信長は、すべての利用価値を両面から捉えられるすぐれた、政治家だ。家康は同盟者としては邪魔。家臣としては有能で得がたい人材。そう捉えていたのは間違いない。
信長は家康を家臣的な態度をとるようにしむけるが、信康の妻徳姫は同盟としての人質だよな?家臣に人質を与えるか?面子の問題を考えてもおかしいだろ。
家臣になったとしても、この段階での家康の織田政権内での力は突出している。その上さらに、武田旧領への拡大、武田の有能な旧臣を取り込み、陣営の強化をはかる。
それらを牽制し、織田政権内で、家康に思い切った行動をとらせず、人質をとりかえし、かつ、内外に信長の、力を知らしめる、一石数鳥が、秀康切腹だ。
秀忠が元服するまでの約15年間、跡継ぎのない家康は、あまりリスクの高い行動はとれない。自分が死んだら、徳川家は織田家に吸収されるのが確実だからだ。
言い忘れたが、家臣になった後、もし信康が、家康から家督を引き継げば、
信忠にとっては、徳姫つながりの義理兄弟。
織田政権の後継の大義名分を信康の子が持つことになるので、織田政権内で、領地最大、
人材も豊富な、信康の子が政権内で一定の力を伸ばすことが予想される。
どう考えても邪魔だろ。
結論を頭にもってこないからわかりにくい
しかも長文だからなおのこと
そして自分の思い込みを元に話を展開
見事な電波系ですね
>>780 徳川実紀も附録の部分はそれまでの書物の寄せ集めだから
御用学者の捏造・創作の入り込む余地はあまりない。
新説論者の論拠は、
1)家忠日記と安土日記に家康と信康、あるいは浜松派と岡崎派の関係が
悪化していたことをうかがわせる記事がある。
2)当代記に信康の処分は家康の好きにしろと述べたという記事がある。
ということのようだ。
直接の論拠は当代記だけ。
あとは信長が命令したという話は捏造だという前提で論を進め、
御用学者もびっくりのストーリー創作のようだ。
客観的に見て信長が命令したという説を覆すには不十分だろう。
ちなみに謙信女性説の論拠も当代記らしい。
事の真相はともかく、珍説・奇説好きな著者(編者)のようだ。
ここまでスレ見てきて思うことだが一つだけ。
信康事件についての検証は結構なことだが、
鈴木眞哉流の煽りの議論のやりあいだけは勘弁してくれよ。
(「通説論者は能天気」「新説論者は妄想好き」といった風なレッテル張りなど)
議論が本題から外れて行ってしまう危険があるよ。
>>785 同意。俺には新説も通説も同様に興味深い。
まあ別に結論を急いで出す必要も無いし、もっと色々な角度からの意見をきいてみたいもんだ。
俺がこれまでの流れを読んでいて思うのは、実際に世の中の表に出た経緯というのは、「家忠日記」なんかにある通りなんだと思う。
ただ、事件の真相なんてのは当事者以外にはなかなかわからないものだし、「安土日記」や「家忠日記」にしても、あくまで伝聞とか風聞でとどめているところが気にかかる。
あと誰かも書いてるように、織田と徳川は対等の同盟関係ではなく、実際には上下関係があったわけだ。
だとすれば今の日米関係みたいに、
織田側としては「命令」なんてはっきりした形で出す必要なんてさらさら無くて、この辺はもうにおわすだけで十分というのか、
あとは家康の方で、空気を読んで「善処」してくれる、ということも言えるんじゃないかな?
それと、もし信康の謀叛というのが本当にあったとすれば、
「家康と信長の利害は一致している」というのも重要なポイント。
となれば、最終的に誰が命令を下したのが家康であっても、
これは信長と家康、双方の思惑が一致した、すなわち二人の「共謀」である、という見方も可能になる。
或いは今の日本の一部の政治家がやっているみたいに、
「俺が命令したことにすると聞かない奴多いから、ひとつ外圧ってことで、ビシッとやってくんない?」なんて内々で依頼していたり、
という可能性もあるか?
>>784 >信長が命令したという説
これは説というより事件よりはるかに後の徳川系史料を
鵜呑みにして出てきたもの。
十分批判・疑う余地があるが?
まして死後「神様」になった家康が妻殺し・子殺しなどとは
口が裂けても言えまい。
通説論者もこの点だけは認めるべきではないか。
「当代記」については多くの学者が信頼性の高い史料だと
言っている。おれはあんたより学者の言を信じるがね。
>>787 俺は個人的には信康事件というのは、
家康の家中統制策の一環だった、というほうが説得力はあると思うのね。
「幕府の御用史観」云々以前に、死後の信康への扱いを見ても思うのだけど、
もし信康の死が信長からの要求による無茶なものだったとするならば、
江戸幕府成立後、幕府の手によって、
彼の墓はもう少し立派なものになっていてもいいものだろうに、
実際は粗末極まりない扱いなんだよね。
こういう点からみても、はたして信康の死というのは、
「信長のせいでやむにやまれず家康が切腹させた」
というのは疑問だったりする。
ただ、親としてわが子をそういう形で始末してしまったことを悔いて、
「信康が生きていれば」と家康がこぼしたことはあったかもしれないと思うけどね。
(
>>788つづき)
あと少し気になったのだけど、
「多くの学者が言っているから信用できる」
と言うのでは、
「通説ではこう言われているから信用できる」
というのと本質的に同じじゃないかな?
「他の史料と比べてみてもこの史料のこの記述は整合性が取れている。
だからこの史料のこの記述は信用できる」
という風にならないといけないんじゃない?
「幕府御用史観否定」の急先鋒とでもいうべき鈴木眞哉とかは、
「家康の事績は幕府によってすべて創作された。通説は否定されなければならない」
と頑張っていて、その志自体は否定をしないけど、ただ、
「○○さんは最近の研究でこう言っているから、通説は間違い。通説信者はバカだ」
「○○という資料がある。だから通説は間違い。通説信者はおめでたい」
という風にして自説に都合のいい部分だけを無批判にかいつまんで、
対立陣営を煽りながら通説を否定したがる傾向があって、
せっかくの通説批判もかなり質が悪いものになってしまっている欠点がある。
通説を批判して歴史の真実に迫ろうとするのは大事な作業だと思う。
それだけに通説を否定する史料を提示して、
それのみを根拠に自説と対立する人間を「それは間違っている」と煽るんじゃなくて、
じっくりと各史料と向き合ったうえで、それぞれが答えを出す必要があるんじゃないのかな?
あなたの通説への批判的な視線自体はすごく大事なことだと思うだけに、
生意気な長文を書かせていただきました。
>>789 確かにおっしゃる通り。
ただ「当代記」への評価は、謙信女性説なんてのは
八切止夫の電波説にほかならないのに、そんなものを
持ち出して史料としての評価を貶めようとしてるのは
おかしいと思い、ああいう表現になってしまった。
>>787には書かなかったが、「信長命令説」というのは
徳川系史料から出てきたもので、その徳川系史料って
そんなに信用できるのか?と問いたい。
通説論者はまるでこれを金科玉条かのように言うが、
幕府の作ったものが徳川将軍家に都合の悪いことを書く
はずがない、とは思わないのか。
死後「東照神君」とされた家康については尚更。
家康に罪や過ちなどあってはならない。ではどうするかと
言えば、早い話その罪を誰かになすり付けること。
>>790 おっしゃるように江戸幕府によって創作された神君家康像というのは再検証する価値はありなんだよ。
ただ、家康の評価というのは実は両極端で、
江戸時代は「神様」として評価することすら許されない存在だったのが、
明治時代に入ると逆に「天皇陛下に不当に貶めた救いのない奸臣」、
として徹底的に糾弾されていて、なかなかその実像というのが見えてこない欠点があるんだよね。
で、ここでじゃあ何が問題になってくるか、というと、
鈴木眞哉流に「江戸時代の家康像はすべて創作」だとして、
ではいったいどこからどこまでが幕府の手によって、
「神君家康」として創作されたのか、
その業績すべてが誇大に作り上げられた嘘だったのか、
それとも一部事績をことさら大げさに美化しているのか、
要は「徳川御用史観」なるものがいったいどこまでが信用出来て、
どこからが虚飾であるのか、
さらに言えば虚飾が施されたとして、
ではその御用史観というのはいつごろいかにして作りあげられていったのか、
こういう方面の検証が実はあいまいなんだよね。
鈴木眞哉風に、
「家康は江戸時代神だった。だから家康にとって不利なことはすべて抹消された」
というだけでは、「御用史観」否定というのは難しいと思うんだよ。
結局安易に通説を鵜呑みにするのでもなく、
逆に安易に「御用史観だから嘘だ」と否定するのでもなく、
先に書いたように「各資料との整合性」を地味に研究しながら、
御用史観の各記述を検証するしかないんじゃないのかな。
ちなみに最近自分が知る限りの、
最近の研究での家康の「事績」への疑問はいろいろあるので列記してみると…
1:家康は今川家に人質となり苦労をした
→反論
「実際は今川家の一門衆としての扱いを受け、厚遇されていた可能性があるのでは?」
(新行紀一ら)
2:三河一向一揆は家康の家臣が一向宗寺院から穀物を奪い、
また一向宗寺院への「不入の特権」を侵害されたため、これに一向宗が反発し一揆が起こった
→反論
「家康は三河の家臣団が松平家と同時に一向宗寺院とも深く関係をもつものが多かったことから、
家臣団を一向宗寺院から離脱させ、完全に自分の家臣として従えるために、
意図的に一向宗に一揆を蜂起させ、これを鎮圧、その後解体しようとしたのではないか?」
(煎本増夫ら)
3:三方が原の合戦は「信玄の西上をただ黙って見過ごすわけにはいかない」
と、家康は無理を承知で勇ましく出陣し、敗北したものである。
→反論
「家康は籠城していたかったが、一部の家臣が物見気分で武田軍と合戦を起こし、
これを収拾しようとして家康がやむなく出陣し、敗北したものである」
(鈴木眞哉)
「信玄が家康に出陣させるよう巧みに仕向け、結果家康はこれにつられて大敗北してしまった」
(その他研究者)
4:信康切腹は信長の命令で家康はやむなく行った
→反論
「家康ら浜松衆と信康率いる岡崎衆が対立したため、
家康は信長の許可を得たうえで、信康を粛清した」
(谷口克弘ら)
(792つづき)
5:小牧長久手の合戦は家康が緒戦に勝利することで秀吉を恐れさせた
→反論
「家康が各合戦で勝利したのは確かだが、
戦争全体としてみれば、秀吉のほうが有利だったのであり、
実際は家康は秀吉に降伏し、その後二度とさからおうとしなかった」
(鈴木眞哉)
注意:
小牧長久手については逆に、
「外交上手の秀吉が巧みに家康に勝利した」
ことを通説としてみる考え方もあり、笠谷和比古らは、
「小牧長久手後家康は容易に臣従しようとはしておらず、
結果家康は豊臣政権内でも特殊な位置に存在することとなり、
このことが豊臣政権に大きな影を残すこととなった。単純に秀吉勝利とは言えない」
とこの考え方に懐疑を示している。
(793つづき)
6:朝鮮出兵に家康は反対した
→反論
「実際は「それはよろしきことです」と勧めていたとされる」
(鈴木眞哉)
7:関ヶ原の合戦は家康が勝利するべくして勝利した
→反論
「三成は家康以上に大規模なスケールで関ヶ原の合戦を想定し家康に臨んだが、
合戦当日吉川ら毛利勢が動かず、小早川が裏切るなど悲運が重なって破れた。
家康が西軍諸侯にいろいろと手を打ったのは確かだが、これが成功する保証などどこにもなく、
最初から家康の勝利が保障されて進んでいった戦いではない」
(鈴木眞哉・藤本正行その他大勢)
大体こんなところかな。
個人的には「神君史観」には懐疑的だけど、
だからと言って鈴木眞哉が唱えるような、
「家康の事績はすべて嘘だらけ。実際の家康は運がいいだけ」
というような極論にも違和感あり、ってところかな。
通説派も反論派も話が大きくなりすぎてる気がする
実際はもっとグダグダな理由で切腹させられたと思う
というか、史料を一個一個検証するなんて事実上不可能w
>>796 史料を検証できないと言い出したら歴史学が成立せんわなw
798 :
781:2007/09/15(土) 05:08:15
なんか電波あつかいされたけどさ、
なんか全般的に、資料の体裁がどうとか、どの学者がどうこういった、
徳川の創作だとか後生の事情ばっかりで議論してねーか?
資料の信憑性を資料を書いた奴の動機、学者の事情ばかり。
そんなのは、姉歯建築の構造計算プログラムを交わす方法はどうだ
こうだという議論となんら違いはない。家がどのように建っているかとは
関係がない。
肝心の切腹した人させた人が当時の政治環境の中で、なにを考え
家の将来をどのように考えて行動したのかという想像がまったく
かけているように思うんだが。当時の武家の家への思いというのは
個人の命より重いんだぞ。
切腹を命じ切腹させられたのは事実で、彼らは考え抜いてそれを
決断したことは間違いない。別に資料が切腹させるわけじゃない。
最近人気の岡崎クーデター説だが、
・クーデター説をたてた人間のイメージは、武田の子殺しだと思うが、ここには明確な対立点があり、家康家中にはそれに相当する理由はみあたらない。
・特に無能でもない、家康に大した動機もなくたてつく必要があるか?
・21才の信康を担いで、実力も、組織も盤石でいくさ上手の家康に、対抗するリスクは誰の目にも高く、あまり成功しそうもない。
クーデター派は相当強く結束しなければ成功は望めないが、そのリスクを犯してでも、結束・行動する動機はあったのか?
その後をみてもそういう形跡はない。
・信長との同盟が大事であれば、徳姫と離縁につながる信康の切腹は、信長の了承が絶対に必要である。
逆にいうと信長が家康との関係を大事にしているのであれば、クーデター側に一言おまえらが三河をとっても、オレは認めないの一言ですむ。
クーデターというのは、それを行った後、対外的認知というのが重要なのは常識。クーデター側が圧倒的に優勢である場合をのぞいて、対外工作が事前に必要だがそういう形跡は全くない。
・この時点では、徳川家は十数年来にきた、領土拡張の好機。割れて得する理由があるだろうか?
危険を冒すより、弱体化した武田戦で手柄を立てた方が得であろう。
後ろ盾(たとえば織田にクーデター派のリーダーが調略されたとか)がなければ、あまりにも、無謀かつ無意味。
いずれにせよ、織田の強い関与が認められる。
クーデター説が成立しないことは同意だが、
よけいなこと言わずに簡潔に述べてくれ
信康がクーデターを目論んでたなんて誰も書いてないのに
クーデター説とはどういうことなんだろうか?
福田は泣くまで待とうホトトギスで総理の座をゲットしそうだ
>>801 それぐらい文章としての体裁がなってないってことじゃないか
起承転結とまではいかなくても、話の筋は通して話しないとわかりにくいもんだ
戦国時代板の家康スレでも信康ネタばっかりなんだが。
秋田。
>803
起承転結?どっかの筋書き通りのドラマじゃあるまい。
政治ってのは、恐ろしくいろんなファクター
が同時並行で、行動と思惑が、相互作用した結果
最終的に決断されるもんだ。関わる立場によって見え方は全部違う。
ときには誰の、利益にもならないことさえある。安部氏のようにな。
だれかの立場だけで述べれば、わかりやすくもなるだろうが、
君のいう筋ってのはそういうことだろう。
長文でレスしてる人の文章構成についていってるとしか思えんけど
>>806 起承転結に気をつけて作文を書きましょうなんて小学校中学校で教えられるレベルだと思ってたが
それがないからどれが本論か分かりにくい
それだけならまだしも、話がアッチこっちに飛ぶからなおさら趣旨を掴み難い
だから主張しても無いらしい「クーデター云々」とレスされる
挙句根拠も無い自論を展開して、それを文章に混ぜ込むから電波呼ばわりされる
まとめると、カキコする前に書いた文章を推敲しろってことだ
鈴木眞哉が槍玉に挙げられてるが、確かに鈴木は
「家康の天下取りはツキの産物。徳川御用史観に騙されては
いけない」というようなことを以前から言っている。
だが「家康の事績は幕府の御用学者が全て捏造したもの」だ
なんてある意味極論は、近著でも言ってないよ。
信康ネタはもういいと言われそうだが、信康は
英邁か暴虐か、どっちだったのか?
前者は信長が嫡男信忠と比較して信康の方が優秀なため
葬った。
後者は五徳が12ヶ条の書状で信康の不行状を信長に訴え、
信康は切腹させられた。
この2つはどう考えても両立しないはず。ところが
徳川家製史料ではこれが同居している。
このことは信康について作為が加わってることの
証拠ではないか。無論信康の死についての経緯にも
作為が加わってることになる。
英邁と暴虐は表裏一体だろ、信長のようにねw
信長を信仰するあまり影の部分は見えていないようだ
>>792 家康に関する通説の見直しにはこんなのもある。
・桶狭間の戦いの後、家康は今川氏真に弔い合戦を勧めると
ともに、自らも織田氏と各地で戦っていた。だが氏真は尾張へ
攻めこむ様子を見せなかった。そこで家康は織田と和睦する
ことにした。これは律義者の家康が今川氏を裏切るようなことを
せず、氏真が暗愚だったので家康は止むなく織田と同盟すること
にしたと彼の行動を評価したものである。
ー実は家康が戦っていたのは織田氏ではなく今川氏。
家康は今川から独立した直後からもうすでに今川氏と
戦っていたのである。
(平野明夫)
>>812 信長が英邁?
そんな声は聞いたことがないが。
暴虐なら江戸時代以来散々言われてるが。
もう一つ言いたいが、信康切腹が信長の命令でないというと
なぜ信長信者ということになるのか。
じゃあお前は家康信者ということでもいいのか?
信長死後の天正壬午の乱で家康ってスゲーなーって思った。
>>793の5
鈴木流に言うと家康は一つの戦闘(長久手)には勝ったが
戦争全体には負けた。家康が勝ったという見方はwarと
battleのすりかえをやっているのである
ということになる。
>816
いや、あれは織田家を表看板に立てた戦争だからアレでいいんジャマイカ
義理を立てつつ縁を切る口実になる。
戦争は最小限の被害にとどめつつ豊臣の重鎮として君臨する。
政治的にもまあまあ成功だと思うが?
>>810 いや、鈴木の「家康の天下取りはツキの産物」という評価自体が極論だと思うよ。
確かに鈴木の言うように「ツキ」という要素を無視して歴史を見ることはおかしいけれど、
けれど逆にそれにばかりとらわれるのも変なわけで。
それに「ツキがあるから勝てる」と言っても実際はそう簡単ではなくて、
鈴木自身が信長の評価をする際に語るように、
「ツキを味方にする才能」そして「ツキを味方にするべく努力すること」が必要なわけよ。
例えば秀吉が死んだあと、家康が五大老筆頭の地位に甘んじて油断して
「目の上のたんこぶの秀吉は死んだ。だからこれで天下は取れる」
なんて思っていたらただのバカだけど、実際の家康はそうではなかったし、
(だからと言ってすべてが家康の思い通りに進んだ、という意味ではない)
関ヶ原の際における数々の裏切りも確かに「ツイていたから」かもしれないけれど、
けれどそのツキが味方するべく家康は数々の内応策をとってきていたわけだ。
それでもなお「いやツイているだけだ」と強弁するならそれはそれでかまわないけれど、
けれどだったら例えば鈴木が「戦国の竜虎のような存在」と高く評価する武田信玄など多くの戦国大名も、
「ツイていただけ」と切って捨てないといけないけれど、鈴木はこれをしていない。
「徳川御用史観」を否定しようとするあまり、
かなり偏りのある家康評になっている、というのは否めないと思う。
家康のことになると鈴木はかなり感情的に筆が荒れる傾向にあるよ。
スレ違いかもしれないけれど、
鈴木の家康評についての問題についてもう少し触れると、
史料の選び方、研究の仕方がかなり偏っているのも問題だね。
鈴木の家康評の著書、
(天下人の条件・天下人史観を疑う・戦国15大合戦の真相・戦国時代の大誤解など)
を読む限り、「御用史観を否定する」都合のいい部分だけを切っている印象がある。
例えば小牧長久手について言うと、
鈴木は不破文書を根拠として、
「家康は味方に援軍を出すといいながら、援軍を差し出せないほど追いつめられていた。
だから家康は秀吉に負けていた」というのだけど、
実際はこの不破文書が描かれた後に徳川方は秀吉方の蟹江城攻めを行って、
これを奪還しているわけだけど、この点には全く触れようともしていないし、
小牧長久手講和後、「家康は秀吉に二度と逆らおうとしなかった」として片付けるけど、
実際に家康が秀吉に臣従するにはこの後二年の時間を要しているわけ。
この間に秀吉は家康に妹を嫁に出すなどかなりの気配りを見せていて、
なにも「小牧長久手のbattleに勝ったから家康の虚像が膨れ上がった」わけじゃなく、
合戦後の外交戦でも、家康は一筋縄では従おうとしなかった姿勢が、
むしろ豊臣政権内における家康の地位を大きく高めることに大きく影響しているんだよね。
こういう点を全く吹っ飛ばして、
「家康は秀吉が西向きだったおかげで助かった」と結論を下すのには違和感を感じずにはいられない。
「通説を疑う」という姿勢はともかく、そのやり方はかなり雑だよ。
ちなみにbattleとwarの比喩は鈴木が考え出したものではなく、
南條範夫の小牧長久手評のパクリだよ。
291 名前:日本@名無史さん 投稿日:2007/03/15(木) 01:30:05
鈴木流の分析の仕方で三方が原の合戦を分析すると……
・信玄が家康をおびき出す為に色々と策を用いたのは事実だろうが、
それが成功する保証はどこにもない。そのことは信玄が一番わかっていただろう。
徳川方の一部が興味本位で城を抜け出し、
それを引き返させようと家康まで出てきてくれたのは運がよかっただけである。
・三方が原で信玄が勝利したのは事実だが、これはbattleの話である。
総大将の家康をはじめ徳川方の主だった重臣をうちとることも出来ず、
徳川家に壊滅的なダメージを与えることは出来なかった。
三方が原の戦いで信玄はbattleには勝利したが、warでは勝利したとはいえない。
大体battleにおいても一時は山県隊が押されるなど、決して快勝したとはいい難い。
・結果だけを見れば、
「勝利を得るために色々と策を用いた信玄は偉大だ。対する家康は愚かな武将に過ぎない」
と<信玄信者>は信玄を褒め称えるが、現実には信玄はツイていただけであった。
しかも何ら大きな戦果を上げていないのだから、信玄信者はおめでたい事この上ない。
とこうなるかと思うのだが、実際の眞哉タソの三方が原の分析については…w
個人的な見解だが関ヶ原については
街道の難所をにぎる旧筒井家臣の大和衆と全国最大数と言われる徳川の忍者衆。
豊臣子飼いの武将を従え西進。そして伏見のトラップ。
吉川、小早川ときたら当然毛利ともなんらかの接触が有ったと考えられる。
関ヶ原は運やツキだけでなく勝算が有ったから行けたと俺には見えるね。
>>821 どうしてああいう形の決戦になったのか、これは今のところ不明だからねえ。
通説では「家康に三成は誘い出された」とされているけれど…。
吉川や小早川については、鈴木なんかが、
「たまたま裏切ってくれたから家康は勝てた」みたいなこと言うけど、
吉川ら毛利勢が陣取った南宮山は関ヶ原の平野が見えないかなりの奥地で、
容易に家康の本陣に攻めかかることはできなかったし、
小早川なんかは「関ヶ原でたまたま裏切った」というよりも、
その前から事実上東軍寄りとして動いていた形跡が見られるし、
何より稲葉ら家老が親家康派で、しかも東軍黒田とそして家康からも、
お目付け役の軍監が送り込まれている状態。
容易に西軍に味方できる状況ではなかった。
>通説では「家康に三成は誘い出された」とされているけれど…。
ああ、伏見城攻めだな。徳川家臣と甲賀の地侍を伏見城へ残し家康は上杉攻めへ向かうが
これは完全な囮部隊。三成が先に手を出してしまった。
大和の旧筒井家臣をとりまとめ家康を出迎えたのが柳生。
そのさい柳生は縁者である島左近(旧筒井家臣)へ相談を持ちかけたと言われるしな。
じっさい家康の手は西軍奥まで伸びていたと思うよ。
西軍奥まで延びていたも何も総大将の毛利家が、
事実上東軍に懐柔されてましたがな
そうそう、毛利一族は最悪だな。
吉川との約束がどうだろうが家康は改易するべきだった。
いや腐っても名門毛利だよ。やはり実力が違う。
九州の牽制には一番良い位置に配置換えされているしそれは幕末まで機能している。
九州勢が攻め上ってきたら最前線になるのは毛利だしな
すぐに腰が抜ける毛利が役に立つとは思えない
九州勢と一緒になって攻めてくるのがオチ
いずれにせよあの位置は幕府にも九州勢にも攻められる位置だわな。
たぶん強い方に付くのだろうけど・・・
829 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 08:24:15
300年のベールを読んだ。
なんだろうこの妙な説得力。
まさかね。それだけ南條範夫の筆力がすごいってことなんだよな。
家康の出自がそんなわけ、ない、のか?
あれは面白いけど、子供の頃売られた、という事実を混同してるのが出発点になってるね。
大須の万松寺にいたのは史実なのかな。
ウィキ見たら尾張にいた頃信長と知り合った、なんてあるけど今は信長ー家康はガキンチョの頃から
知り合いだったことになってるのか・・・?
大体6〜8歳だから知り合うも何もないと思うのだが。
832 :
日本@名無史さん:2007/10/10(水) 03:56:30
万松寺にいた説、熱田にずっといた説、諸説あるらしいね。
万松寺に竹千代がいたのは史実なんだろうけど、
その竹千代は後の家康公ではなかった、と。
あと、仮に信長と顔を合わせた事があったとしても、
「幼少期を共に過ごし」は言い過ぎじゃないのかな?印象だけど。
そういう記録が残ってるのかな?
>832
後に家康が、自分は売られた、と言ったことこそ竹千代ー後の家康説でいいことになると思うけどね。
「幼少期を共に〜」なんてのは創作でしょう。
ただその時に見に行ったぐらいは相当可能性高いし、藤吉郎が信長の元に来るのはもう少し後だけど
ギリギリで3英傑がかなりの接近遭遇をしていたかもしれない。
そう考えるとあのあたりは関が原以上の歴史の舞台なんだよね。
よく歩くけど大高とか桶狭間の音や煙は見えたのかな、なんていつも考える。
>>833 「幼少期を共に〜」はウィキの信長に載ってたので、何かソースがあるのかなと疑問に思ったんですよ。
まあ、創作ですよね。でも想像すると楽しいですよ。接近遭遇。
いい所にお住まいで羨ましいす。史跡に乏しい列島の端に住む者としては。
>>834 なるほど。
ひどいと「手に手をとり共に天下を目指そうぞ」なんて本もあったりして。
ただ万松寺から古渡は歩いて数分、好奇心いっぱいのうつけ信長が他国の人質に興味を
いだくのはごく普通。
接近遭遇どころか声かけたりしたぐらいならかなりの確度であるだろうな。
列島の端ってどっちかな、宮古島とほっかいろまでなら行った事あるなも。
>>835 そんな本があるんですか!面白いな〜!
宮古島ほど南下しませんが、キリシタンが籠城したあたりです。
徳川幕府の最初の禁教令、「徳川禁令考」が発見された地らしいですが。
くだんの城跡は地元では怪奇スポット扱い…
徳川禁令考の中の「邪宗門吟味の事」に関する文書が発見された地、
の間違いでした。端折りすぎた〜!すみません!
そか、シロ〜たんの怨霊が出るところか。
スレチだがあの乱も史実は全然違うってとこなのかな。
本質は「乱」ではなく、「百姓一揆」という見解が妥当だと。
一揆を起こした農民がキリシタンであったため、その後のキリシタン弾圧、鎖国政策を正当化するのに
キリシタンの反乱という宗教色を押し出した。
秀吉も禁教令を出してますが、徳川幕府ほど徹底してはいなかった。
鎖国令は家康の死後発布されてますが、往時の家康にどこまで絵が描けていたのだろう。
諸大名の力を削ぐためにどうにかして自由外交を禁じたい、位は思ったでしょうが。
しかし国を丸ごと閉ざす、鎖国という着想は家康にあったんでしょうかね。
>>839 あったと思う。
これは徳川家存続のために家康がとった作戦見るとそう思う。
信長と違って海外事情をどこまで理解把握してたかはわからないけど、幕府としての
徳川家のためには鎖国という発想、国内状況だけにしてそこを守り続ける、そういうのは根本に
あったと思う。
鎖国もだけど大奥システムも死後完成してる。
これはもちろん世継ぎを作る、という意味なんだろうけど、それ以外に、性病を防ぐ、
そういう意味合いもあった、と井沢が言ってた。
これなんかも海外からの輸入・・?だろうし、家康の頃からそういう発想の
基本が見られるのじゃないかな。
>>840 確かに家康は、まず自分の足下をがっちり固める、っていうイメージですね。
秀吉の朝鮮出兵なんかも呆れてたんじゃないかな。李氏朝鮮を降したところで背後には明国が控えているわけだし。
俺なら絶対やらないよ、何考えてんの?って思ったでしょう。多分。それよりやること一杯あるんじゃないの?って。
鎖国というと非常に突飛な発想に思えますが、家康本人と照らし合わせて見ればそう違和感ないですね…
東南アジアの植民地には、宣教師や商人とともに性病などの伝染病も入り込んだそうですね。
大奥といえば、後宮、ハレムとステレオタイプの連想をしてしまいます。
為政者の考えは似通ってくるのかな、と思っていたんですが、血統を保つ以外に防疫の目的もあったんですね!
これも言われてみるまで気付きませんでした。
家康の中にここまで詳細な国家のモデルは多分なかったとは思いますが、
家康の思想に基づいたものだったんですね。なるほど。
しかし、合理的なシステムですよね。徳川家にとって。
結局300年近く国を治めきったわけですから。
すごいな。
>>841 井沢が文庫で出してるから読んでみると面白いと思うよ。
家康のすごさってのは300年間お家の存続の基礎を作った、ってことで
それがいかに稀なることかは世界史中でも語れるのじゃないかな。
我々は結果を知ってるから解釈できるけど1600年ぐらいに自分で考えて実行して
それが機能しただなんて謎レベルに近い。
さらに不思議なのは、自分がいくつまで生きるか長生きできるか、なんてのは誰にも
わからないでしょう。
もしかしたら秀吉より自分が先に死んでたかもしれない。
そういうリアルタイムの中で関が原から豊家殲滅までよくじっとしてたな、とか思う。
最後に御三家作ったのまでちゃんと機能してるのだからね。
大したもんだ。
843 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 17:30:54
「大徳川展」に、いってきた。
あれ見りゃあ徳川最強は、だれしも納得
まさか、旗印があれほど大きなものだとは。関が原に、ひるがえった旗印を
この目でみることができるとは
上野に行って、家康公の偉大さを実感してくるのら
844 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 21:43:57
きょうBS2でやってた「家康が愛した静岡」見たひといる?
家康の死因はてんぷらじゃなくて落馬だったんだね
845 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 22:43:11
846 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/16(火) 23:51:06
>>845 どこが偉大かといわれても急には言えない。
まあ、そのくらい偉大だということでw
848 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 00:09:19
武陽さんは最近まるくなられたようですね
>>842 遅レスすみません!
「逆説の日本史」(で合ってますか?)読んでみます。
>謎レベル…
ほんとそうですね。いかに閉じた島国とはいえ300年近く政権を保ち続けた、というのが。
戦乱のカオスな世相と、その後の秀吉のある種躁病質(言葉は悪いですが)な治世を
全部見て知って、その上で作りあげた基礎が破綻することなく脈々と300年…。
例えば時代を同じくした他の大名が国のトップに立ったとして、300年国と家名を
維持できたでしょうか。
もっといろいろと勉強して、自分なりの家康像を考えてみたいと思います。
その時は是非またご意見伺いたいです!では図書館行って来ま〜す!
850 :
武陽陰士 ◆ATDF4vFZys :2007/10/19(金) 23:27:00
851 :
平山貴士:2007/10/31(水) 01:22:25
843番様へ
自分は3年前の7月23日から9月5日に福岡市美術館で行われていた
「将軍徳川家十五代展」を見た者ですが
その時に馬印を見ました。
ホントにでかかった!
ちなみに僕自身は日本刀が印象に残っています。
鏡のように美しかったです。
852 :
日本@名無さん:2007/11/02(金) 19:26:38
851番様へ
徳川展は、最近見た展覧会系では最高のもんだった。やはり、大政奉還をした
慶喜公はえらかった。徹底抗戦していたら、あのお宝も灰になってただろう。
刀もよかった。外人がかぶりついていた。鎌倉や足利のお宝もみたかったよ。
853 :
平山貴士:2007/11/03(土) 00:12:24
852番様へ
ご返礼ありがとうございます。
徳川を超えるものとなると皇族や摂関家等のものということになるでしょう。
近衛家や細川家あたりの名家が頑張ってくれればとも思いますが。
854 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 00:57:25
近衛家の陽明文庫展も近いうちやるよね、たしか
855 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 19:11:55
,. -‐'""¨¨¨ヽ
(.___,,,... -ァァフ| あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
|i i| }! }} //|
|l、{ j} /,,ィ//| 『方広寺の鐘に・・・「国家安康君臣豊楽」と書いたら家康がキレた・・・!』
i|:!ヾ、_ノ/ u {:}//ヘ
|リ u' } ,ノ _,!V,ハ | な… 何を言ってるのか わからねーと思うが
/´fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人 おれも 何が起こったのか わからなかった…
/' ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ 頭がどうにかなりそうだった…
,゙ / )ヽ iLレ u' | | ヾlトハ〉 屁理屈だとか豊臣家攻撃の口実だとか
|/_/ ハ !ニ⊇ '/:} V:::::ヽ そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
// 二二二7'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ もっと恐ろしい狸の 片鱗を味わったぜ…
/'´r -―一ァ‐゙T´ '"´ /::::/-‐ \
隣国じゃあ「光」って書いただけで処刑されるというのに・・・
857 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 20:26:12
多羅尾三郎兵衛光俊が赤飯を献じた所、疲れ飢えた家康は、これを手づかみで食べたという。
859 :
日本@名無史さん:2007/12/29(土) 17:12:00
大徳川展 関西でやってくれよ
860 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 12:14:17
世界史の英雄と対等に渡り合える、日本史の英雄は徳川家康だけだと思うね!俺は!
カエサル対信長だと厨臭いけど、カエサル対家康だと何かありそうじゃない?
ねえよ
歴史難民板へ逝け
日本人の閉鎖性や外交下手は、江戸時代の鎖国政策が原因だとかよく言われるけど、
精々2、300年統治されただけで民族の気質なんて固まるもんかなあ
863 :
日本@名無史さん:2008/01/01(火) 11:29:37
>>862 島国&鎖国のおかげで、日本人の純潔性は高まっただろうね。
海外は他民族国家がほとんどだからね。
日本国内に日本人がこれほど多いのは、そのせいだろう。
外国人をじろじろ見たりする閉鎖性はそのせいだとおもうが、
外交下手はどうだろうね。
マスコミが叩きすぎなのであって、
戦後、日本は国民を死なせるような外交の失敗はしてこなかったから、
他国に比べればまだましなほうじゃないの。
俺も鎖国が日本の外交下手の要因だとは思わない。
確かに日本は外交に関しては首を傾げる事多いけど、
無知による失敗ではなく下手と考えれば戦後が要因じゃないかな。
それも高度経済成長期以降だと思う。
家康は関係ないし
>>865 中1〜中2社会の定期テストの「先生の引っかけポイント」だってね。
あ、中学入試でも出る鴨ね。
日本の閉鎖性と外交下手なんて、江戸期以前からずっとそうだったんだけどな。
平安期にも遣唐使を廃止して内に閉じこもってたんだし。
歴史的に概観すると、むしろ日本は内に閉じこもってるときが比較的平穏で、
白村江から秀吉の朝鮮出兵、明治以降など対外的に打って出ようとするとろくな
目に遭ってない。戦後もある意味内に閉じこもってたともいえるし。
江戸時代の鎖国政策のためなんてよりも、そもそもの国家としての成り立ちが
そうだったんだと思うが。
868 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 10:25:27 BE:1896879997-2BP(10)
ひたすら主君のために尽くし、三河武士の鑑と褒めたたえられた作左衛門。
組織をまとめ、家康を天下人にした補佐役の生き様に学ぶ。
作左衛門が生きた末期は、武士が戦国精神の牙を抜かれ、「ききわけのいい武士」に意識を変えられた時代であった。
口のうまい、ソロバン勘定の達者な新しい武士が肩で風切って歩く。
それが作左衛門には我慢できない。作左衛門の考える忠誠心とは、
「主人が悪いときは命がけで諌める」というものだ。
「主人が悪くてもだまって従え」などという規範には抵抗する。
そのため次第に主人の徳川家康に冷遇され、不遇に死ぬ。
良スレ
爪噛んだりするのは賤民ぽいな
871 :
日本@名無史さん:2008/05/01(木) 06:46:44
世界最大級の都市、「東京」基礎である江戸を開拓した
歌詠み大田道灌の築いた小城を「江戸城」に変えた
873 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 12:22:38
英国のBBCでも、世界の英雄の1人として家康が取り上げられた。
250年間、ほぼ内戦のない政治体制の基礎をつくったのだから
評価されないほうがおかしい。大坂の陣以降は島原の乱くらいな
ものだ。
875 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 15:09:06
>>874 戦後のサヨク的価値観で徹底的に低評価された側面がある。
876 :
日本@名無史さん:2008/05/11(日) 18:06:32
明治維新の時もそうだね。まあ当時を考えてみれば前の時代は全否定されて然るべきだったのかもしれないが。
今でも政権代わるとあれだに
鎖国史観、皇国史観、マルクス史観、司馬史観と明治維新以来
散々に言われっぱなしだからな。
まあ家康の思想は何百年てスケールで評価されると思ってるので別にいいけど
879 :
日本@名無史さん:2008/05/12(月) 23:47:07
戦の上手さ、策略・根回し、統治能力、人心の掌握、運、子作り能力
どれをとっても超一流だろ。
どれか一つか二つだけ優れていたに過ぎない信長だの秀吉だのとは
はっきり言って格が違う。
いいすれ
881 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 21:00:29
・戦闘指揮能力
家康>秀吉>信長 (直接対決で秀吉を撃破)
・戦略・謀略
家康>>>秀吉=信長 (関ヶ原までの神業的な謀略など)
・領国統治
家康>秀吉>信長 (よく知らんがたぶん)
・出した結果
家康>>秀吉>>>>信長 (日本史上稀にみる泰平の世を作る)
・運
家康=秀吉=信長 (みんな運はいい)
・子作り能力
家康>信長>>>>>>>秀吉 (言うまでもない)
882 :
日本@名無史さん:2008/05/13(火) 22:43:35
後世に残る家康の最大の功績は「東京」を創出したことであろう。
18世紀以降 世界最大の消費経済都市 成熟した町人文化都市に発展した江戸の成立は
それまで経済的・文化的に関西一極集中だった日本列島を二極構造に転換させた。20世紀の後半には
これが関東一極に逆転していく。今や東京は音楽・サブカルの国際ブランドともなっている。
もうひとつは武士以外の日本人 すなわち農民と商工民であるがーに武士と同じような風土を広めたこともあげてよい。
これは長い泰平がなさしめたものだが、上下関係・家制度に武家と同種の道徳観念が浸透していったことをさす。
三井などの大店の奉公人 地主と小作人の関係においてそれが垣間見える。武家の高い倫理性が全国民に及んだことは
日本人全体の国民性を規定することになる。
東京と日本人の国民性を作った家康はもう少し評価されて良いと思う。
883 :
日本@名無史さん:2008/05/15(木) 22:25:09
大阪を造った秀吉のほうがえらい
関東の湿地帯にある小城と
元本願寺本拠地・京にも堺にも近いとじゃあ
立地条件が全然違うんだけどね
885 :
日本@名無史さん:2008/05/16(金) 08:09:09
>>883ってどういう釣りかわからん。
まあ大阪人が何も考えずに書き込んでるんだろうけど。
大阪は秀吉以前に既に古代の都だし、四天王寺もあって栄えてた。
現在の発展度は東京と大阪じゃ比べ物にならん。
世界中のある程度の知識レベルの人なら、みんな東京は知ってるが、
大阪?それどこ?って感じでしょ
886 :
日本@名無史さん:2008/05/17(土) 17:49:42
名古屋を作ったのも家康でいいのかな?
宗春
888 :
日本@名無史さん:2008/05/23(金) 17:06:59
宗春こそ再認識すべき。
889 :
日本@名無史さん:2008/07/06(日) 22:42:01
学研のまんが日本史に描かれている家康は本当にタヌキだな。
秀吉のことを心ではまったくバカにしている。
8巻のラスト、秀吉臨終のあと、「秀吉め、とうとう死におった」って
ものすごく意地の悪い含み笑いで描かれているのには吹いてしまった。
890 :
日本@名無史さん:2008/08/04(月) 20:41:29
age
891 :
日本@名無史さん:2008/08/05(火) 11:58:54
>>881 ・戦闘指揮能力
秀吉>家康 (直接対決は無い。鳥居や大久保は真田に負けたが、それで昌幸>家康にはならない)
戦闘は長久手だけで発生したわけではなく、信雄・家康連合は、伊賀と伊勢を蹂躙され、
小牧(家康が在陣)と目と鼻の先の竹ヶ鼻城なども秀吉の水攻めで、家康は手も足も出ず落城。
結局は秀康を人質に差し出して和議。
(パールハーバー[長久手]で勝ったからと言って太平洋戦争で勝ったとは言わない)
・戦略・謀略
秀吉>信長 (関ヶ原では既に秀吉や信長はこの世にない)
家康は、生前は秀吉のパシリだったのだから当然
・領国統治
秀吉>家康 (よく知らんがたぶん)
・出した結果
秀吉>家康 (家康は日本史上稀にみる北朝鮮のような停滞(暗黒)時代を作る)
・運
家康=秀吉=信長 (みんな運はいい)
・業績
秀吉>>>信長>家康 (天下統一、検地、刀狩などをなした秀吉には遠く及ばない)
・性格
秀吉>家康 (かつての旧主[秀頼]を殺した主殺しの家康、三法師は岐阜宰相)
兎に角すべての面でバランス良く能力が高いよ、家康は。
部下や同盟相手にも恵まれてたので運は最高にいいかな?
いつも比較対照が信長と秀吉といった化け物2人だから地味になってしまうのかな。
この3人は日本人の中でも十傑に入るメンバーだと思うので
巴戦限定で論争するのは、かなり不毛のような気が。
今日も暑いしな
家康が幕末の将軍だったらどうなってたと思う?
896 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 11:28:53
薩長をフルボッコにして現在も江戸幕府が続いてる
897 :
日本@名無史さん:2008/09/04(木) 12:50:55
両藩の家老に脅しをかけて藩内の勤皇派を粛清させる。
898 :
日本@名無史さん:2008/09/05(金) 17:43:46
家康なら鳥羽伏見の戦いで板垣を裏切りさせて、薩摩フルボッコ。
長州は歴史が繰り返されてまた兵士を動かせないまま敗退w
899 :
日本@名無史さん:2008/09/07(日) 01:11:09
秀吉に臣従したように、ムダな抵抗をやめれば80万石どころか、200万石くらいで存続。、
徹底抗戦なら断絶か、尊王の尾張藩内に分家を作って存続かもね。
5千の長州兵に10万の兵で負けるくらいなので、家康でも無理。
900 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 02:07:55
>899
アホ。
家康なら楽勝だろ。
むしろ逆の家康5000で長州10万でも勝てる
901 :
日本@名無史さん:2008/09/08(月) 02:50:19
ゲームの話ですか?
903 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 13:55:00
>902
輝元なら
毛利=10万
幕府=新選組
でも勝てるんじゃね?w
904 :
日本@名無史さん:2008/09/11(木) 22:45:02
こんな感じかな
・戦闘指揮能力
家康>>秀吉>信長 (直接対決で秀吉を撃破)
・戦略・謀略
秀吉>家康=信長 (実は家康の謀略は大したことない)
・領国統治
家康>信長>>秀吉 (信長は経済発展などを促しており、治安も良かった)
・出した結果
家康>信長>>>>秀吉 (日本史上稀にみる泰平の世を作る)
・運
信長>家康≧秀吉 (秀吉はどん底からのスタート、家康は運がいいというより日頃の行いがよかった)
・子作り能力
家康=信長>>>>(越えられない壁)>>>秀吉 (後継者の育成となるとまた違ってくる)
家康厨pgrwwwww
906 :
日本@名無史さん:2008/10/05(日) 16:13:09
904>
運は秀吉が一番だろ
908 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:13:34
良知家とは何者?
909 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:16:18
家康を鉄砲で撃った子孫がいる?
しかも出演NG。
910 :
日本@名無史さん:2008/10/14(火) 20:18:10
>>908 家康側近であり地頭 良知家 子孫邸宅大きいな
911 :
日本@名無史さん:2008/10/15(水) 07:01:04
江戸の260年の太平がなんでもかんでも家康の功績ってのは賛成できない。
キリシタン禁止は秀吉が始めたことで
鎖国制度は家光がはじめたこと。
家康は信長がいたから天下を取れたのと
秀吉を反面教師にした面もある。
当たり前のことを力説してるのはなぜ?
913 :
日本@名無史さん:2008/10/16(木) 19:11:56
>>911 法隆寺を建てたのは聖徳太子ではなく、大工だぞと言ってるようなもんだな。
歴史というのは過去の事蹟を簡潔に表して象徴的に扱うものだからある程度仕方ない。
江戸幕府の象徴は良くも悪くも家康。
豊臣を滅ぼした汚名も全部背負わされることが多いので得なことばかりでもない。
足利義昭は浅井朝倉武田上杉毛利本願寺にやったのと同様に家康に織田を裏切るように
書状送ったりはしなかったのかな?
当時は小物扱い?
送られてきたがシカトした・・・だったはず。
実際、幕府の骨格造ったのは秀忠・家光の代だろ
家康は戦国大名の域を出てない
そこで家康を除外する理由がわからない。
江戸幕府のグランドデザインを提示し、ついでに豊臣なんかの掃除を済ませたのは家康だろうに。
建物で言うと、設計図の提示と建築予定地の地質調査くらいはやっている。
919 :
日本@名無史さん:2008/11/17(月) 03:35:14
今川のおかげとか捏造している今川厨房のガイキチって、
徳川の歴史書、読んだことないんだな。
今川は、三河を横領した悪党になってるけど?
920 :
日本@名無史さん:2008/11/24(月) 21:33:08
家康は人の心をつかむのも上手だったからね。
信長は果物の皮を掃き忘れた下女を斬り捨てるくらいだから。
>>1 明治新政府を立ち上げた薩長の馬鹿どものせいで家康のイメージが悪くなったという側面があることは否めないね。
っていうか前政府を悪く言わない新政府は世界中探してもないよ
そうじゃなきゃ倒幕の大義名分すらないでしょう
現在もその政府が続いてるんであって
今の政府がなくならない限り家康が適切に評価される事はないよ
家康の評価もだけど、近世史自体が散々に歪められてきたからな。
最近は幾分マシになってきたけど
924 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 01:51:31
英BBCが21世紀に入るとき、世紀の変わり目の記念番組として
「人類史に影響を与えた人物」という特番をつくったのだが
たった6人のなかに徳川家康を採りあげたときは笑ったなw
長い人類の歴史のなかでイギリス人が採用したのはたった6人、
しかもアジア4000年の歴史で選出されたのが家康ひとり。
ジンギスカンよりも上かよ!
つまりイギリスはすべてを近代化への貢献で測った模様。
たしかに近代の前提に封建制を据えるヨーロッパ人らしい見解。
欧州以外で本格的封建制が成立したのは日本のみで
彼らは日本のみが近代化の模倣に成功した理由を封建制に帰している。
アジア発展の源流となっている日本、その近代化の基礎をつくったのが
家康、だからアジアのなかで一番偉い、こういう図式だ。
925 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 03:06:26
>>921 明治維新が無かったらと思うと、ぞっとする。
アジア史は激変だろうな、満州も含めた中国北部、朝鮮はロシア領になってたかも?
自家のことしか考えない(大船を作らせない、橋を作らせない...etc)徳川では、近代家は不能。
維新もやっと間に合ったというレベルで、徳川暗黒時代が長すぎた。
926 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 06:06:24
徳川暗黒時代?
何と比べての話? どこかの大名? 民主制を謳っている今の世の中?
まさか自由・平等・平和が常にその辺にころがってるもので、
それを選択しない施政者は悪者、なんて思ってるんじゃwww
トップを安定させなければ、国も安定しない世の中だったんだよ。
また戦国の世に戻ってしまわないように努めたんでしょ。
大名達に、
好きなだけ大船をお造り下さい、
どんどん御城を堅固にしてください、
貴方方もどうぞご自由に政略結婚でお仲間を募ってください、
なんて言ってごらん。大変だから。
927 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 06:28:43
>>925 徳川氏の政治をもう少しよく見てごらんよ。
そりゃ確かに
農民から搾取をしたし(平安時代の小作農なんてもっと悲惨だったんじゃ?)、
ハイクラスな生活をしていたし、
将軍の出来不出来のバラつきはあったかもしれない。
しかし私利私欲よりも
世の中を安定させようと彼らなりに一生懸命だったのが見えると思う。
大名や人夫には迷惑だったにしろ、必要に応じて公共工事にも力を入れた。
立派な橋を架けなかったのも、
通行の障害を設けるというだけではなく、技術が不充分だったため
造ってもすぐ流されてしまうから諦めた可能性も大きいって話だ。
928 :
もひとつ。:2008/11/29(土) 06:47:10
>>925 >明治維新が無かったらと思うと、ぞっとする。
旧態依然の徳川体制が鎖国的体制を敷き続けていたら、っていう意味?
だとしたら、そんなことできるわけない。ペリーが来るんだから。
考えるとしたら、明治維新の有無でなく、
どういう経過でどのように維新(社会変革)が起り得たのかってことじゃないの。
忘れたの?当初世間知らずに攘夷を主張していたのは朝廷側で、
幕府の方が現実に即した対応を模索していたんだよ。
(と、一括りに言い切るのはさすがに抵抗があるが。)
後半かなり権威が頼りなくなってきていたとはいえ、
もし徳川幕府の治世がもっと短命で不安定だったら、維新どころか、
日本は植民地として欧米諸国に分割されていた可能性も高いように思える。
いや悪いが江戸時代には褒められない部分がいっぱいあったと思うぞ。
日本の歴史というのは国とか武士階級とかいう視点ばかりで見られガチだが、
実際は江戸時代以前の日本人の90%以上は農民だったわけだし、
その農民たちが搾取ばかりで酷い生活をしていたのなら「暗黒時代」と
言っても過言ではないと思うが。
まあ天領の農民に関してはマシだったらしいが。
外様の農民はツラかったのは事実だぞ。
有名な毎年のように餓死者が出る南部藩をはじめ、
各藩では一揆がたくさん起きてたしな。
あと、俺は加賀百万石の石川県だが、結構、農民の悲惨な暮らしを伝える話しが多いよ。
まあ加賀藩は搾取が酷かったほうらしいが。
外様大名に関しては反抗する余力を持たせないように
参勤交代や土木工事の押し付けなどで経済難に陥るように画策してたしな。
その結果、外様大名の農民が苦しもう知ったことではない。
931 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 08:53:50
932 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 09:40:14
>>929-930 もちろん江戸時代が聖人君子の治世だったとは思ってないよ。
>>926-927は、
>>925に対してのものだということを念頭においてもらいたい。
現代の価値観で非難しても始まらないって言いたかったんだ。
ただ、
>その農民たちが搾取ばかりで酷い生活をしていたのなら「暗黒時代」と
>言っても過言ではないと思うが。
この論理でいけば、飛鳥時代このかた日本はずっと暗黒時代だったんじゃない。
庚午年籍を作ったのも徴税や作業負担が目的でしょ。
万葉集にある憶良の貧窮問答歌ばかりでなく、古代・中世説話や古文書などでも窺える。
農民層自体の知識が上がっているからだろうけど、江戸時代の農民のほうが平安時代の下層庶民より人間的に扱われているように思える。
933 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 10:03:11
>>929-930 たとえば有名な「四公六民」にしても、搾取するためでなく
地主が欲張り過ぎないように決めたんだよね。
他にも当然ながら農民などの生活向上のための法などもいろいろ定めていた。
社会が円滑に運ぶためには農民を無視するわけにはいかない。
加賀や毛利などの領地の農民が苦しんだのは、
はたして江戸から要求される負担のせいで台所が悪化したせいだけだろうか。
それ以上に大名や取巻きの方針や行政能力のほうが大きいんじゃないかな。
(琉球で儲けてた島津の農民は生活水準が高く楽しく暮したって話ある?)
江戸幕府は中央に納めるものさえ納めれば、
藩内部の行政はかなり自由にさせていたらしいからね。
934 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 10:10:41
>外様大名に関しては反抗する余力を持たせないように
>参勤交代や土木工事の押し付けなどで経済難に陥るように画策してたしな。
初めは確かに蓄財させないためだったにしても、
後からは単に、幕府もお金に困ってきたせいじゃないの。
土木工事は必要だったから権威を嵩にきてちゃっかり命令。
命令される方とってみれば同じだけど。
木曽三川治水の例なんか聞くと
さすがに杓子定規で非人間的な官僚主義が鼻につくし、
他にも無数の例があるだろう。それはわかるよ。
935 :
日本@名無史さん:2008/11/29(土) 10:35:49
もちろん多くの人命と資産を無駄に失った生類憐みの令や、
個人的には建武の新政に匹敵すると思っている天保の改革
などといった典型的な悪政もある。
でもやはり250年以上戦争のない世の中を治め、インフラ整備にも力を入れて、
その間、教育水準その他も徐々に高まっていったわけで、
そういう時代の礎を築いたのはすごいと思う。
圧政にしても、主だった制度は、
状況が他の選択を許さない必要悪、というのが多かったと思うんだ。
江戸時代をひとまとめにするのも無理があるけど、
社会を乱さずに、農民をしあわせにするにはどうすれば良かったのかな?
そして徳川幕府が早々に潰れていた場合、この人の治下なら
天下が長く平和に治まって、農民が仕合せに暮せていただろうっていう人間いる?
あまり善人では家臣や他の大名に足を救われる。
権威を笠に着るというのも効果的な手段だよ。
>>934 権威を嵩にきて → 権威を笠に着て
ただね。
江戸時代以前に限定すれば徳川幕府ほど民の事を考えた
政権も無かったと思うよ。
特に上層階級に質素倹約を強要したのが、
下層階級との暮らしぶりの差を少なくし、
下層階級の不満が他の封建国家ほどは
増大させなかった面もあるかもしれない。
実際幕末の頃に日本の下層階級を見た外国人は
貧しいながらも生活にはそれなりには満足し
観葉植物を育てたりする心の余裕さえあり、
さらに支配階級の文句さえ自由に言えるその姿に
これが支配階級に人権を蹂躙されているはずの
封建国家の下層階級とは思えないと皆驚いている。
>>928 仮にペリーが日本に来なくても同じ時期に、
ロシアのプチャーチンが日本を目指していたから
どのみち開国は免れなかったと歴史家も言っているね。
外様が厳しいのは仕様として
家康は圧制と呼べるほどじゃなかったんでない?
税制は今とほとんど変わらないじゃん
101 :人間七七四年:2008/11/26(水) 10:54:42 ID:+5kc3CGm
まぁ税金が違ったからな。
豊臣は、公2民1
徳川は、公4民6
106 :人間七七四年:2008/11/27(木) 08:38:00 ID:GtyGun5N
>>103 将軍家の領民であることを鼻に掛け、天領の農民は威張っていたからね。
代官の首を飛ばすことくらい平気でやっていた。
代官なんて所詮、禄高150俵の下級旗本ばかりだしね。
どこでどう間違うと「お代官さま〜」になるのかよく分からない。
107 :人間七七四年:2008/11/27(木) 12:30:29 ID:gPVzEzhY
>>106 天領の百姓だからといって代官に強く出られるもんなの?
相手だって同じく天領の代官なわけだから。
108 :人間七七四年:2008/11/27(木) 13:08:49 ID:m5i56J+a
賄賂もらい放題だから「おぬしもワルよのう〜」の方だろ。
109 :人間七七四年:2008/11/27(木) 14:15:15 ID:GtyGun5N
>>107 天領の農民がサボタージュすれば幕府の減収になり、代官の不行跡となるからね。
中には悪政をやった代官もいるようだが、農民の直訴により罷免されている。
一般的に思われているほど代官の立場は強くなかったし、
それだけ天領の農民がデカい面できたということでもある。
939 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 05:27:16
元亀元年6月28日;織田信長感状、徳川殿。是より、家康の武名
いよいよ高く、今や世に海道一の弓取と、歌わる。姉川合戦での
大勝における徳川家康の抜群の武功を賞賛する。
高祖(劉邦)、張良、武門之棟梁など賞賛の言葉が並ぶ。
新井白石の『藩翰譜』に「海道第一と聞えさせ玉ひし弓取の、
御母にてましませば」と記述されている。
成島司直の『改正三河後風土記』に、「海道一の徳川殿」、
と記載されている。小牧・長久手戦役の項目で。
幕府編纂の東照宮御実紀(徳川実紀)巻三天正十二年の項で
「徳川を海道一の弓取とはいひしぞ」と記述されている、
豊臣秀吉との小牧・長久手戦役でのことである。秀吉の三河先入れ軍
が家康に大敗した報告を受けて、豊臣秀吉が「家康を名大将、
軍略妙謀まろの及ぶところにあらず」と言ったことになってる。
940 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 07:58:22
>>936 江戸時代は寒冷期で米の不作が続き、日本全体が貧しかったんだよ。
それなのに非生産階級である武士は家康一人から御三家、御三卿が分かれたのでもわかるとおり
増えつづけ、質素倹約をしなければ増えすぎた非生産階級を養うことができなかったんだ。
幕末、幕府が力をなくしてくると農村はすき放題やるようになり、
農作業をほっぽりだして伊勢参りに行っちゃうくらい武士には統率できなくなっていたからね。
だけど農村の自立は武士の質素倹約のためではけしてないよ。
それだけは違うだろ。
941 :
日本@名無史さん:2009/01/02(金) 21:20:25
新田開発と 無視してますかね?かなり やっとりますがな
江戸初期までは慢性的な飢饉状態だったけど(死亡者がどの季節に多いかで判別できる)
中期以降は安定傾向になるぞ
943 :
尽忠報國:2009/01/27(火) 13:31:27
おもしろい情報を得た。
小説「徳川家康」が中国で200万部のヒットらしい。
944 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 13:39:23
>>936 それは江戸幕府というより
日本の国柄でしょう。
945 :
日本@名無史さん:2009/01/27(火) 17:34:36
>>940 >それなのに非生産階級である武士は家康一人から御三家、御三卿が分かれたのでもわかるとおり
増えつづけ
馬鹿ですかwww御三家や御三卿が例えば既にある30万石の藩の上に更に
非生産階級として乗っかったなら話は分かるが、改易、取り潰しの後釜に
座っただけだろ?徳川一族の非生産階級が増えただけだわw
そんなもんが「〜わかるように」とか全体の非生産階級が増えた傍証になるかたわけ。
江戸幕府が当時の政府として評価に値するか否かでいえば、満点とはいわずとも
90点はあると思う。
内需拡大がピークに達した低成長時代の政策としては質素倹約も
身分固定制度も時代背景からして評価できる。今の価値観を持って身分制=悪なんていっても始まらない。
歴史の流れから見れば平安中期以降、中央政府が機能しなくなり戦の無い時代が100年続いたことの
無い国で、260年の長きにわたり内戦を一度も許さなかっただけでも、その価値がわかろうというもの。
徳川政権が倒れたのは全く外圧によるもので、日本一国に限定した平和維持能力は完璧に近かった。
江戸の庶民が圧政にあえいだなんてのも全くの誤解で、近代国家での民衆が享受した権利と比較するなんて
不公平もいいとこだ。同時代の世界のどの国でも、国民の大多数が「伊勢参り」などという
大きな娯楽が可能なほどの豊かさを享受できた国は無い。
江戸と当時の各国の首都の人口を比べてごらん。如実にわかるから。
946 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 19:28:37
やはり豊臣を無理矢理滅ぼしたのは
暗君秀忠なのか?
947 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 20:11:54
>>945 家康ー秀忠時代の藩の数と、幕末の藩の数を数えてごらん。
改易された後の後釜以外に藩を作ることが認められなかったのならば、
江戸初期より江戸末期の藩の数は同じか逆に減っているはず。
まずは史料で事実かどうか確認してから書き込もう。
948 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 20:30:11
秀吉から、あれだけ秀頼の
ことを頼まれ、
千姫まで嫁がせていたのに、
途中で気が変わったのか?
949 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 21:48:32
気が変わったというよりは、相手の出方に応じて態度を変えたと言うべきだろうな。
秀吉の場合、織田の子孫は潰さずに一大名として家来にした。
家康も同様に、豊臣がおとなしくしていれば、一大名として家来にしてやるつもりはあっただろう。
ところが淀殿が家康が期待したよりは暗愚で、無駄な抵抗をしたから、家康も仕方なしに豊臣を潰しにかかるしかなくなった。
大坂城も関ヶ原のドサクサで焼け落ちてたら
秀頼も生き残ったかもしれんな。
951 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 22:11:15
>>947 藩の数が増えたからって非生産階級が増えたとは限らんだろう?
分家して家来も別れたら藩の数は増えるが、非生産階級の人数は増えない。
単純に藩の数で考えても意味ない。
> 史料で事実かどうか確認して
っていうのなら、全人口に占める武士階級の人数の比率を調べて、
それが増加していることを示さないと、「非生産階級である武士が増えつづけた」と主張することはできない。
あと
> 農作業をほっぽりだして伊勢参りに行っちゃうくらい武士には統率できなくなっていたからね。
これを主張するためにも、
「武士階級が農民の伊勢参りを禁じていた」にもかかわらず農民がそれに反して行っていた、ということを史料で証明しないといけないね。
本当に禁じていたのか??
952 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 11:42:19
>農作業をほっぽりだして伊勢参りに行っちゃう
農閑期の冬に参詣旅行に行っていたはずだが
>>944 むしろ江戸幕府の存続が日本人の性格を決定付けたというべきだろう
955 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 18:05:54
>>954 いや日本という土壌が
江戸幕府を生んだのです。
956 :
日本@名無史さん:2009/01/29(木) 19:21:53
>>947は本当の馬鹿だなw百歩譲ってそれを言うなら藩の数じゃなくて
合計石高だろwそれにしたって生産力向上や検地の仕方によっては誤差がある。
何で馬鹿に限って〜ごらん、とか上から目線なんだろう?
普段よっぽど馬鹿にされてんだな。
958 :
日本@名無史さん:2009/02/14(土) 21:48:42
あげ
959 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 16:46:36
960 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 05:20:37
>>948 豊臣が千姫を粗末に扱ったのが悪い。
本当に徳川と仲良くしたいなら、千姫に嫡子を生ませるべきだろ。
そうすれば豊臣は安泰だった。
961 :
日本@名無史さん:2009/03/06(金) 05:23:28
豊臣秀頼は無礼千万。
義理の父の徳川秀忠の将軍宣下にも参加せず
千姫にも子供を生ませず、徳川の官位を邪魔するため朝廷工作まで
した。
豊臣が滅亡したのは自業自得。
962 :
日本@名無史さん:2009/03/24(火) 21:58:54
子供のころに読んだカムイの終盤で
家康出生の秘密が暴かれるあたりはドキドキしたな
どういうわけか、小学校の図書館にカムの漫画があったんだよな
まー同和関連なんだろうけど
歴史と物語を混同しないようにな。
964 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 15:08:59
徳川家康は、遺産を600万両も遺したそうだが、
幕府を開いてから死ぬまでの短期間?に
よくそんなに莫大な金銀を溜め込んだな…。
秀吉や信長が長く日本の首長をやっていれば、欧米列強に割り込んで植民地の獲り合い
に参入して自滅しただろうよ。
966 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 12:32:36
>>964 金山銀山もあったけど、秀吉の遺した金を没収というか強奪したらしい
967 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 01:17:53
>>964 政権を担当するってのは、それだけ大きな利権があるんだよ。
それと、秀吉が遺した金は豊臣家の私物財産じゃない。
たとえていえば当時の日本国の公的財産。
だからそれを江戸幕府が引き継ぐのは当然とも言える。
>>964 でも三代目の家康大好きな家光が東照宮造営の為殆ど使っちゃいました。
直轄金山・銀山がこれからも利益を上げ続けると甘い見通しだったのも裏目に出ちゃって。
倹約大好きな家康はさぞかし怒り心頭だったでしょうなぁ。
971 :
日本@名無史さん:2009/09/02(水) 20:40:15
age
いくらでも移行先はあるなw
うめ
梅
981 :
日本@名無史さん:2009/09/09(水) 00:06:08
↑どうぞ