【関東説】邪馬台国は利根川流域にあった

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1日本@名無史さん

九州? 畿内? ちがいます! 関東にありました。
倭人伝の経路をたどれば、利根川流域になります。
九州から水行20日→大阪 さらに10日→愛知 上陸して1月→千葉
九州はまず無い。畿内付近から1ヶ月も歩いている。畿内も無い。
これは中国の戦略的な資料になる地図にあたるものだから、できる限り
正確でないといけないので信憑性は高いと考えられる。

大国の条件は人口が必要。人口増加には豊富な水と平野(稲作)が必要。
全国の貝塚の半数は、利根川流域と東京湾周辺で見つかっている。

邪馬台国は関東周辺の国々を支配下に治めていたが、全国を統一するため
に列島中央に位置する畿内に都を移し、大和朝廷となっていった。
邪馬台国 関東説スレです。反対意見、同意見考えてください。

(チナミニワタシハキュウシュウノコウコガクケンキュウシャデス)
2日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:46:04
ぬるぽ
3日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:48:39
3
4日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:55:02

  ( ・∀・)   | | ガッ
 と    )    | |
   Y /ノ    人
    / )    <  >__∧∩
  _/し' //. V`Д´)/
 (_フ彡        /  ←>>2


5日本@名無史さん:2006/04/23(日) 14:30:06
ぬるぽんぬ
6日本@名無史さん:2006/04/23(日) 14:55:27
ヌルヌルスポスポズボズボブチュブチュクチュクチュッ
7日本@名無史さん:2006/04/23(日) 15:11:00
実在した大王と捉える見方が多い崇神天皇が
卑弥呼だと思われます。318年没
8日本@名無史さん
248年に卑弥呼が死亡し、台与が13歳で即位。265年には晋に朝貢している。
崇神天皇の没年は、古事記の干支を信用して318年。

卑弥呼、台与の時代と、崇神の時代が近すぎる。
神武〜開化までの9代は架空天皇の疑いが強い。

卑弥呼=天照大神説、神武=崇神説を採用してみる。
東征説を支持するなら、邪馬台国は九州になる。

が、卑弥呼=天照大神と、神武=崇神の間に血縁関係がなかったとしたら、別の解釈が可能になる。

邪馬台国は大和盆地にあり、3世紀は卑弥呼〜台与が支配した。
4世紀初期に、九州勢力の天皇家が邪馬台国を攻略し、新王朝を立てた。

卑弥呼はこの時代の人としては長寿だったので、かなりの長期間、女王として君臨してた。
王朝交代後も、卑弥呼の伝説は各地に残ってたはず。
記紀を編纂する際に、天皇系の正当性を高めるために、卑弥呼の伝説を天皇家の系図に取り入れた。

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台与がいつ死んだのか分かりませんが、晋に朝貢したときは既に30歳前後であったと思われるので、270〜300年の間だと思います。
神武=崇神の東征を300年前後と考えると、台与の死後、政治空白が生まれた可能性が考えられます。
これをチャンスと見て神武=崇神が大和へ攻め入ったと考えられないでしょうか。

天皇家の前に統一国家があったのではマズイということと
天皇家と卑弥呼、台与の間に血縁関係がないので、神話の上の人物、という形で挿入したのではないでしょうか?