【BC2】邪馬台国の根本【AD3】

このエントリーをはてなブックマークに追加
101プラム ◆RvhHf7kqyY
【計其】
※その端
この記事は“倭人伝”だから⇒〈列島(倭)の端〉
と、解釈しても無理はないかと
詰まり
⇒西南諸島・沖縄

【道里當在】
『道里』⇒ 距離
『當』 ⇒ 相当する
『在』 ⇒ 位置

【計其道里當在會稽東冶之東】
※翻訳すると
(列島域〈倭域〉の端は、距離にすると位置的には會稽東冶の東に当たる)

『會稽東冶之東』の記事によって、列島の“最端の方位と位置”が最“南”端でアルる事を意味している


無理がある解釈でしょうか?
102プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/27(木) 21:05:06
ついでがてら
付け加えれば

【會稽海外有東分為二十餘國以歳時來獻見云】
…漢書…

この文章は、『倭域』ではなく“台湾”と
認識しています。
103日本@名無史さん:2006/04/28(金) 07:33:28
どの漢字を名詞に解釈し、どの漢字を動詞に解釈するかの点でも
すぐには納得できない部分があるので【計…】の解釈については
結論を保留……

但し、台湾という認識についてはなるほどあり得るかと……
104プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/28(金) 12:37:40
>>103さん
しかし、古代漢文に関しては余り文法に気遣いする必要はないかと。
紙の普及がままならない時代は、竹簡や木簡といったスペースに制限され中に記載され 倭人伝の基史料も、この類かと
その頃の文は、主語でも客語でも前置詞でも 省略出来そうなものはなんでも省き、構成されていた。
だから“一文字”の意味解釈も、現代と違い
数倍重要かつ幅広い内容となる。
105プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/28(金) 12:50:16
そのように構成された文を、スラスラと読み下せる事じたい可笑しな現象なのです。だから、
その結果数多くの矛盾を抱え込み、最終的には編纂者や写本時、時代の経過による“ミス”と
責任転換してしまう有様です。

特に学識を多く積んだ方にその傾向が如実に現れるようです。
自分のミスは認めたくないのでしょう。
106圭角:2006/04/29(土) 09:44:10
東治は東冶の誤とする解釈が自然でありましょう。
 計其道里、当存会稽東治之東 東冶は県の名であり会稽は郡の名ですから。
魏略にも
 昔夏后小康之子、封於会稽、断髪文身 とありますから、会稽の地名の後の東治の
治は冶の誤写誤記とするのが自然です。治めるでは文意が成り立ちませんから。
なんとなれば、誤写があるということは転写の書き落としつまり脱字も在ると当然に
推定されて然るべきと考えられる次第です。
 三国志は膨大な字数です。なにせ、倭人伝のみではないのですから。書き落としが
無いとする方が不自然です。
107圭角:2006/04/29(土) 09:55:11
プラムさん、主語でも省略できそうなものはなんでも省く姿勢構成だった、と
致しますと、高句麗伝及び扶余伝においては、いずれも王の共立の主語が、
諸何及び国人と陳寿は明記していますが、
倭人伝のみ、共立も更立も復立も、その主語が省かれている理由は何か、
いや、何故だろうかと不思議です。
108プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/29(土) 10:32:16
圭角さんオハヨウございます
レス 有難うございます。

>倭人伝のみ『共立・更立・復立』に主語がない

※詰まり、書く必要がない!書かなくとも解るので
と、ここでは述べておきましょう。

>誤字・誤写

※私も『自女三国』…紹興本…(他は 自女王国)の解釈が出来ない時には 誤字・誤写の可能性を認めていましたが
『自女三国』が誤りでないことを理解できてからは、その考え方を排除しました。


気持ち良いですよ 解釈出来た瞬間は!
109圭角:2006/04/29(土) 10:58:29
プラムさんのご返事は私のまさに予想通りでした。
 つまり、書く必要がない、なぜなら、当時の読書人であるなら書かずとも解る。
そうであれば、当該主語はひとつしかないことになりますね。
書かなくとも解る主語、それは、魏、魏帝室。はたまた司馬宣王。
110プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/29(土) 11:14:23
圭角さん
それはオイオイ解る事かと!

その謎をとく一つの方法に“雛飾り”をアゲときます。 圭角さんもご存知の様にそのモデルは“天皇家”
殿様はあくまでカモフラージュ
。姫が中央上段に座った形が正式な雛飾り!


あと、ついでに
現在でも神に使える人は、『巫女』と『氏子』だけ


※古代史は楽しいです。
西日本の氏神祠は全て北向きだそうで?
一度確認してみたいでーす!
情報募集しまーす。
111圭角:2006/04/29(土) 11:17:13
一大率を置き諸国を検察せしめた主語
大倭をして国々の市を監せしめた主語、も書かずとも解る当然の主語となる
ことになりますね。
 詔書して倭の女王に報して曰く、並びに
 その六年、詔して倭の難升米に黄憧を賜い郡に付して仮綬せしむ
の主語は当然に陳寿があえて書かずとも解る魏帝ですね。
前者は明帝で、後者が斉王であることくらい、私でも判ります。
 ところが、この斉王は正始六年にはまだ論語もよく読めないほどの子供
なんですよね。そうすると、正確には魏帝室ということになりますね。
マダマダ、ホントは司馬懿と言うのは早いのですけれども・・・。
112圭角:2006/04/29(土) 11:25:22
神武天皇の孫を祀る阿蘇神社は東向きです。
西向もありますし、熊本はいろいろですね。
白山神社は全国にありますね、熊本にもありますが、西向です。
113プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/29(土) 11:40:25
圭角さん
早速の情報有難うございます。 各家等にある氏神様はどうでしょうか?


>一大率

ですが、圭角さんとは文節の切り方が違いますので応えようがありません。
私の場合

【大倭監之………】
で 『之』は、接続詞で、後の文章が大事になってきます。
114プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/29(土) 12:41:49
【其(正始)四年倭王復遣使大夫伊声耆掖邪拘等八人上獻……掖邪拘等壹拜率善中郎将印綬】
…魏志倭人伝…


【(正始四年)冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻】
…三少帝紀…



ワクワク ワクワク ((o(^-^)o))外交史はチョウームズイです。
115圭角:2006/04/29(土) 13:53:45
プラムさんから拒否反応を示されると困るのですが、プラムさんの114の
文例は要するに使役文ですね。つまり誰が誰にナニさせるという文ですね。
上の文では、倭王が主語で伊声扆らをして上献せしめた、ということですね。
したがって、使が用いてあります。
下の文も同じですね、卑弥呼が奉献せしめています。プラムさんのお嫌いな
読み下し文ならば、さしずめ、使いを遣わし奉献せしむ、と読むのでしょう。
このような使役文には、いや使を用いた文には普通一般に主語客語が明記
される場合が通常だと存じます。
つまり、プラムさんの掲示されたいわゆる使役文においても、主語明記が通例
通常と申し上げたい次第です。使は使役の助動詞の〜をしてーせしむですが
ご存知のとおりで使訳は通訳という名詞でありまして、倭人伝の他にも東夷伝評
の記事においてもその用例が見えます。
 文法的な話はつまらんので止しますか。
116プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/29(土) 14:47:08
圭角さん
文法の説明はべつな所で役にたちますから構いませんよ。


詰まり、
ここで重要な事は、帝紀には日付が入り『倭国女王』
倭人伝には日付無しの『倭王』

他に『壹拜』『復遣使』……etc…
この正始四年記事は、話題豊富です。
117圭角:2006/04/29(土) 15:13:04
プラムさん、そのような点に関して申しますならば
景初二年の倭人伝記事の卑弥呼朝貢の記事が、なにゆえに帝紀に記述が無いのか
ということは、大いなる疑問となりますね。
 この点、如何思われますか。また、明日に。
118プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/29(土) 15:48:56
>景初二年の記事を何故帝紀に記さなかったか

※この回答には推論が入りますが 御容赦
“陳壽のセンス”この一言につきます。
魏時の朝見記事の中で
正始四年の事件に変化を持たせる事に因り、あとは倭人伝の外交記事だけで事足りるからです。
要するに、それだけ正始四年の出来事が得意性を持った記事と
読み手は考える次第です。この手法は、後に“范曄”が“後漢書倭伝”の外交記事をカキコしたときにも応用使用した書き方では。
ただ、
現在の様に紙の豊富な時代では真似しませんね!
119プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/29(土) 18:59:16
詰まり

Aという事件の起因を説明するのに、数多くの事例をあげ説明するのでは無く
最小限(二つ)の対的な要因をカキコし表す


※57年、107年の朝見事例をカキコすることにより
倭国大乱の起因を説明する技法です。
57年勢力 と 107年勢力のぶつかり合い
120日本@名無史さん:2006/04/30(日) 03:27:12
そうは読めないだろ。
121プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/30(日) 06:43:49
>>120

出来る限り一行レスは止めて、理由ぐらい書いて欲しいな!
否定すなら
ソレナリの理由はあるだろうから そうゆう理由を添えて欲しいんだ

以後(^-^)/
122日本@名無史さん:2006/04/30(日) 13:14:08
そういうオマエは10行書こうが20行書こうがまともなことは書いていないな。
AはBだと思う「理由」が、「BはCだと思うからでは単なる連想に過ぎない。
意味の無いことに関しては一行レスと何ら変わりは無い。
123プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/30(日) 16:19:02
そう思うなら
よそのスレへどうぞ!
124日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:44:31
>>122
ここは隔離スレなんで)ry
125プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/30(日) 19:55:19
>>124
いい事言うジャン!
そうね
周りのトンデモスレからは 掛け離れてる事は確かだ
126プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/30(日) 20:09:19
>>122

>まともな事書いてないな
※何処がどう マトモでないかを書いてくれと 要求しているんだが

無理だろ!
無理ならチャチ入れないで欲しい。
127日本@名無史さん:2006/05/01(月) 18:22:00
>>125
あんた「隔離」の意味わからないのにここで偉そうなことほざいてたのか?
128プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/01(月) 20:02:37
あんた
そんな事自慢してどうするの!
自慢したかったら
正しい使い方を覚えなさい。

だから“ドングリ”君は困るんだよ。
『隔離』とは、自ら自己意思で行うのではなく、第三者から受ける状態。

※このスレは自己意思のもとに立てたスレだよ!


それより
“ドングリ”ってどうして“ドングリ”って名前なのか知ってるかい?
そういう辞書に載って無い事を自慢しろよ!
12926歳大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/05/01(月) 20:04:45
誰か職紹介してください
130プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/01(月) 20:19:52
君の年齢で職種さえ選ばなければ、有る筈だよ
131日本@名無史さん:2006/05/01(月) 21:47:50
若くても根性なしで性格悪い奴はだめです。
132プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/01(月) 21:57:20
いっその事自営だな!

※商品は“銭”
在庫の心配しなくて良い
在庫を沢山抱えれば、勝手に税務署が在庫処分してくれる。
133プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/01(月) 23:02:39
『参問倭地』

漢人は少なくとも“後漢時”には倭地(列島)の南から北まで実測している
134日本@名無史さん:2006/05/02(火) 08:39:19
【周旋可五千餘里】って言っているから列島南北までは実測していないかも
135プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/02(火) 10:04:43
>>134

>周旋可五千餘里

それって北海道の事だよ!原文見ると解ると思う
(本州島の上)と、カキコしてあるから

『倭地参問』⇒列島の探索
136日本@名無史さん:2006/05/02(火) 10:51:48
それは北海道と言われても……

【参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千餘里】

どれを列島と解釈し、どれを北海道と解釈し、何を倭地としているのかが
分かりづらいです。

一般的な訳からはそういうことは導きだせない……
137プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/02(火) 11:16:31
>>136

『倭地』⇒列島
『中洲島』⇒本州(列島の中心的な洲島)
『上』⇒北
『参問』⇒探検・探索

以上の事から『北海道』を推察することは可能でしょう。
138日本@名無史さん:2006/05/02(火) 17:39:02
この文の主語を北海道だと考えた時、倭人伝に登場しない地名を
果たして省略するだろうかといった点で大いに疑問あり……

書かずとも解る地名ならば省略可能だと思うけど、
そうでもない地名を省略された日にゃ、誰にも理解できないはず

もっともそういった文章を書く人間は大勢いますが……

因みに僕はこの文章の主語は倭地だと思っていました……
139プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/02(火) 18:56:14
単に、わかりやすく北海道という地名で言ったまで
北海道だって倭地
沖縄だって倭地

当日 その島に名前があったかどうかなど知りませーん。

とにかく史実は『倭地参問』
140圭角:2006/05/02(火) 19:00:09
参問という文言は辞典にも無いようですね。ともかく質問してみる尋ねてみるという
意味ではあるでしょうけれど。ついでですが、探索探検という重い意味には採らぬが
自然で無難かとは存じます。
 さてプラムさん、こんばんわ。当該スレッドは邪馬台国の根本ですよ、ね。
だから申し上げるわけでもないのでありますが、陳寿の記述姿勢の根本というものを
あらためて考えて欲しいと思う次第であります。
 中国の正史を書いた人物において、自分の生きたもしくは生きている時代を現代史
として記した正史が、唯一、陳寿の三国志と私は認識しているからこそ、その記事に
当然の作為や真実や虚偽を想い、第一級の貴重な史料と位置付けている次第なのです。
141圭角:2006/05/02(火) 19:13:46
魏にとっての倭国、漢にとっての倭国の意義重要度を議論すべきは有意義と
思います。が、私は魏にとっても漢にとっても朝貢国以外の何者にも如かず
であったと思います。
理由は簡単明瞭です。中国の歴代王朝にとって元のような特殊な事例を除き
そもそも、海を隔てた倭国を統治支配する理由がありません。
帝紀を読んでみましても、費用出費支出のことは多々の記述がありますね。
つまり、呉の橋頭堡になる危険性を回避するくらいの存在理由しか、倭国には
無かったとして自然でしょう。まして、漢にとりましては、
まして、おいてや、いわんをや、であります。
142プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/02(火) 20:07:55
圭角さんこんばんは!


『参問』→尋ねる
そうとらえてしまうのは、『問』と言う文字のイメージが強すぎる時に
起きてしまう現象では?

実は、ここで大事な文字は『参』の方です。

参詣・参観・参勤・参拝…etc…
全て共通するもが
『参する者がその場に直接出向く』
これが『参』の字意です。
この場合の『問』は
訪問の『問』が、字意として相応しいかと!
詰まり (おとずれる)と同じ用法

すなわち
『参問』
(未解の倭地を直接訪ねる)です。


まちがいがある時には指摘下さい。
143プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/02(火) 20:17:30
圭角さん

陳壽の環境・背景云々の事について沢山議論したいのですが 今は止めておきます。 今にも喉から出そうなんですが………
その話をしだしたら
結果の無い “推論談議”間違いなしになりますから
144プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/03(水) 18:58:31
『上』⇒北
『計』⇒南端
145日本@名無史さん:2006/05/03(水) 19:01:03
日本の起源は何県?
146プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/03(水) 19:21:46
知らん!
147日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:33:14
> 結果の無い “推論談議”間違いなしになりますから
思いつきだけでなく、ある程度、論理的なら聞きたい気もする……

陳壽の環境・背景云々は魏志倭人伝の信憑性にも関わる話なので……
148プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/04(木) 00:41:57
倭人伝の信憑性なんて探ってたらキリがない。
そんな時間があったら
『阿毎多利思北孤』→(天人之日子)→〈天皇〉
でも探っていた方が面白い
帝国が自称天皇を馬鹿にして付けた名前だからね

オット これはスレ違いだ!
149圭角:2006/05/04(木) 09:31:19
147さんに関連して書きたくて、次のことをあらためて確認したく思います。
プラムさんも読んでいただきたく存じます。
 前漢書は後漢の時代に斑固が著し、八二年頃の成立とされています。
 後漢書は南朝宋の時代に范曄が著し、四四0年頃の成立とされています。
 史記 は前漢の時代に古の黄帝から前漢の武帝までを記した史書で紀元前九一年頃の
    成立とされています。
これにてお解りのとおり、陳寿の三国志のみが、正史の著者の中で唯一、同時代に
同時代の正史を記したということであります。
つまりは、晋帝室政権の下で晋帝室の史官として、いわば陳寿の生きた或いは現に
生きている時代の、現代史を陳寿は書いたものであります。
 換言するならば、太平洋戦争当時において戦時中の日本の今を国定教科書として
書いたものが、陳寿の正史三国志ともいえる次第なのです。いわゆる大本営発表的
記事も多であるとする見方視点は当然ではないでしょうか。
150圭角:2006/05/04(木) 09:44:51
私は、正史三国志は倭人伝も含めて信憑性の議論をする趣旨で上の事を
書いたものではありません。しかし、
倭人伝に関する皆様のご高見を拝見しておりまして、一番強く抱く感想は
上記の事柄であります。
 戦時中のわが国の国定教科書や今の北朝鮮の歴史教科書の如きものが
正史三国志でありかつまた魏志倭人伝である、などとまで申すものでは
ありません。しかしながら、上記のような陳寿の置かれた環境や制約を
無視してはいけませんよ、と申し上げている次第なのです。
 
151日本@名無史さん:2006/05/04(木) 10:27:11
三国志がほぼ同時代史という点は僕も興味深いと思う。

同時代史だから原資料に近い記述となっているのか、
或いは、同時代史だからはばかるところがあったのか

そのあたりの解釈については想像の域を越えませんが、
比較的近い時代に裴松之が注釈をつけていることだし、
三国志には当然のことながら倭人伝以外の記述もあるので
考える材料は皆無ではないと考えます。
152圭角:2006/05/04(木) 13:44:45
151さんへ。同意いただき有難うございます。三国志の帝紀を読まれると、その辺の
事情の理解は容易と存じますれば、ご参考までに。
プラムさんへ。
このスレの本題から離れたことばかりを書きまして恐縮でした。本題に戻りましょう。
昼食後に司馬遷の史記をパラパラめくりまして、匈奴列伝を読み直してみました。
ご承知の通り、対匈奴におきましては漢は大変苦労し腐心しておりますが、前漢の
時代にも匈奴の勢力は朝鮮半島に迫り、穢貌・朝鮮に接していたとありました。
 史記の匈奴列伝を読み直してみると、その風習文化は、陳寿の東夷伝の扶余並びに
高句麗伝の記事と見まがうくらい似ています。そこで、倭人が漢の時代に歳時を以て
来り献見すというのであれば、楽浪郡などにおいて匈奴の騎馬文化に接触し、しかも
その文化等を吸収する機会はいくらでも有ったとして、無理はないと思います。
 陳寿は、扶余・高句麗を烏丸・鮮卑伝ではなく東夷伝において記していますね。
同じ遊牧騎馬民族ですから、普通なら本来は烏丸・鮮卑・高句麗伝及び東夷伝という
構成の方が自然だと思うのです。不思議と思ったのですが、自分なりのその答えを
見つけました。それは
 鮮卑・烏丸を討ったのは曹操なんですね。ところが、高句麗を魏に服させて
公孫淵討伐に助力させたのは司馬懿です。そして司馬懿の部下がその後叛いた高句麗を
討ち、朝鮮半島北部まで追尾したから、東夷のことが詳しく解り、そのおかげで
東夷伝を記すことができる、と陳寿がその序文で書いていることはご存知の通りです。
 司馬懿顕彰という陳寿の記述姿勢のひとつの証左と存じますが、如何でしょう。

 
153プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/04(木) 16:48:24
圭角さん

司馬懿顕彰は、その序文だけで十分かと!
154プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/04(木) 23:39:00
圭角さん

貴方の言おうとしていることは解りますが
陳壽の置かれた立場、環境、制約等を考慮に加えたひには 都合の悪くなった時に必ず“陳壽の環境云々”を理由に使われます。
155日本@名無史さん:2006/05/05(金) 11:58:39
>>154
あんただって紙のない時代だから云々といってるじゃないか。
156圭角:2006/05/05(金) 17:39:44
プラムさん、連休は如何お過ごしでしょうか。
九州熊本はもう蒸し暑くなりました。初夏を通り越して亦復、猛暑の季節の接近を
懸念し嫌悪しております。私は、仕事・庭の草取り・家内の買い物の付合・雑用で
たまに読書・そして家族の・・・という具合にて連休の時間が過ぎ去っています。
阿蘇や天草の渋滞情報を見ながら冷たいビールを飲むのもおつなものです。
 ところで、島原天草の乱以後の一時期は天草は唐津藩が領し治めていました。
なにゆえに唐津藩ということになった詳細は存じませんが、当時はモータリーゼイション
の時代ではなく、いわゆる海の道の時代が江戸時代までも続いていたんだと思います。
現に、以前私が雇用したスタッフで天草の南端の出身の女の子がいたのですが、
高校は地元でも短大は長崎市内に行くのが、一般的であるという由でありました。
 現代でもかくなる次第でありますからして、海の道というものをわたしたちは
ひょっとすると軽視している嫌いがあるのかもしれません。白川静先生の説である
山東半島を出自とした殷が周の征服を逃れてわが国に来訪したのが、現皇室の祖先
であり、文身の習俗も殷を起源として倭に継承され、それを陳寿が中国では絶えた
習俗が未だ倭に残っていることを記した、ということに説得力を感じる次第です。
157圭角:2006/05/05(金) 17:53:45
白川先生の説を支持されている人は他のスレでもたまにお見受け致しますが、もし
仮にそうだとすれば、その後世に越から逃れて来た人々、秦の勢力拡張から朝鮮に
逃避した人々、さらには漢の武帝の領土拡大で押圧されて倭に移住した人々、また
当時の中国を常に北から圧迫し朝鮮半島をも覆っていた匈奴の騎馬民族勢力の影響
その他を広角複眼的に考えてみる必要がありそうですね。
 少しのヒントは全てを解らなくする、という言葉もありますが。
158圭角:2006/05/05(金) 18:13:03
陳寿の正史三国志の最大の特徴をあらためて是非とも書きた、く存じます。
ご承知の通り、三国志は魏を正統として記してあります。が、しかししかし、
司馬懿を陳寿を記す場合は、殆ど例外少なくして司馬宣王と記してあります。
司馬懿の子を記すときも、同じく司馬ー王なのです。実名字は用いてありません。
しかも、明帝の後を継いだ斉王はその出自さえも不明で、崩御した明帝に対しては
陳寿は酷評悪評記事を書いていますよ。
 これが魏志倭人伝約二千文字を含む正史三国志の本質であり正体であります。
しからば、通称魏志倭人伝が正確無比金科玉条とまで断言し言い切った古田何某は
まったくの失当、かつ不勉強だと私は断じます。
 邪馬台国の根本本質はかくなることを前提にすべきが誤りを回避する切所では
ないでしょうか。
159プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/05(金) 18:33:04
圭角さんコンチハ!

今、家族でナイトパスを利用しディズニーランドでーす。風が出て来て少し肌寒くなってきました。
今日の高速は
比較的空いていました。
160日本@名無史さん:2006/05/05(金) 21:14:28
2chじゃ、DQN丸出しの最悪厨房だけど、
家庭じゃ、ちゃーんとパパさんしてるんだね。
161プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/06(土) 22:03:21
>>160

ひとの事DQN扱いしている暇があったら、倭人伝の外交志でも読み返した方がいいかも。
“ア〜ット 驚く〜 為五郎〜♪” ナヌ!
162日本@名無史さん:2006/05/07(日) 00:52:00
知らないのかもしれんので一応知識として伝えておく。
2chでは特定ユーザ同士の時候のあいさつや
スレに関係の無い私信の類のやりとりは
「馴れ合い」と呼ばれて嫌われる行為だ。
そういうことは当事者同士、メールで済ませなさいってこと。
ちなみにこのレスも「粘着」といわれるNG行為だけどw
163プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/07(日) 16:38:31
>>162

何故今更 その様なレスを? 今までにも同じ様なケースは有った筈 そのレスを“今”入れなければならないか説明されたし。


※『今使譯所通三十國從』の、『今』とは何時の事か? そして何故“陳壽”は“今”と入れたのか?
164日本@名無史さん:2006/05/07(日) 17:15:36
> ※『今使譯所通三十國從』の、『今』とは何時の事か?
フツーに考えれば陳寿の時代…
でも、陳寿が元資料を丸写ししてたら原資料が作られた時代かな…
165プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/07(日) 17:27:35
>>164

>陳壽の時代

※魏書なら『魏時』
晋書なら『晋時』
そうとらえる可きかと!

>丸写し
※同じカキコ史料がありませんので、それを考える必要はないでしょう。

しかし、もっと大事な事が『今』とカキコした理由では?
166日本@名無史さん:2006/05/08(月) 01:43:53
248年に卑弥呼が死亡し、台与が13歳で即位。265年には晋に朝貢している。
崇神天皇の没年は、古事記の干支を信用して318年。

卑弥呼、台与の時代と、崇神の時代が近すぎる。
神武〜開化までの9代は架空天皇の疑いが強い。

卑弥呼=天照大神説、神武=崇神説を採用してみる。
東征説を支持するなら、邪馬台国は九州になる。

が、卑弥呼=天照大神と、神武=崇神の間に血縁関係がなかったとしたら、別の解釈が可能になる。

邪馬台国は大和盆地にあり、3世紀は卑弥呼〜台与が支配した。
4世紀初期に、九州勢力の天皇家が邪馬台国を攻略し、新王朝を立てた。

卑弥呼はこの時代の人としては長寿だったので、かなりの長期間、女王として君臨してた。
王朝交代後も、卑弥呼の伝説は各地に残ってたはず。
記紀を編纂する際に、天皇系の正当性を高めるために、卑弥呼の伝説を天皇家の系図に取り入れた。

----------

台与がいつ死んだのか分かりませんが、晋に朝貢したときは既に30歳前後であったと思われるので、270〜300年の間だと思います。
神武=崇神の東征を300年前後と考えると、台与の死後、政治空白が生まれた可能性が考えられます。
これをチャンスと見て神武=崇神が大和へ攻め入ったと考えられないでしょうか。

天皇家の前に統一国家があったのではマズイということと
天皇家と卑弥呼、台与の間に血縁関係がないので、神話の上の人物、という形で挿入したのではないでしょうか?
167プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/09(火) 00:15:55
コピペやマルチするなら、もっとマトモな事カキコすればいいのに!
168プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/09(火) 23:34:58
【都於邪摩堆則魏志所謂邪馬臺者也】
魏徴先生は拡大した領域を・同音同意の『堆』の文字を使用し(臺⇒堆)の変化で表すとは

“お見事!”
169プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/12(金) 19:22:58
『後漢書光武帝紀』
【二年春正月…東夷倭奴國王遣使奉獻】


『後漢書倭傳』
【建武中元二年倭奴國奉朝賀使人自称大夫倭國之極南界也光武賜以印綬】


なぁーるほど! クスッ
170日本@名無史さん:2006/05/12(金) 21:17:30
プラムさんが数回使われてる

>チャチを入れる

この表現。どっかの方言ですか?物凄く違和感あるんですが。
171プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/12(金) 21:34:49
別に方言ではないと思う。
※安っぽい とか つまらない
そういう意味で使っています。

http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E3%81%A1%E3%82%83%E3%81%A1&match=beginswith&itemid=13092500
172日本@名無史さん:2006/05/12(金) 22:10:15
『ちゃっちぃ』+『茶々を入れる』
173日本@名無史さん:2006/05/12(金) 22:14:15
ちゃちという単語の意味は知ってます。
辞書のリンクまで張られて,馬鹿にされちゃったなあ。

方言じゃないということはプラムさんの造語ですね。
>>172のような意味なんですね。
174プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/12(金) 22:55:06
>>172

>馬鹿に

※全然馬鹿になんかしていないし リンクは“方言”で無い事を伝える為
175日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:18:52
何度も言いますが,
ち ゃ ち が 標 準 語 で あ る こ と は 知 っ て る ん で す。

突っ込んでるのは『チャチを入れる』という一連の言葉。
チャチを入れるという表現が普通でないということを認めたくないんですね?
176日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:22:53
プラムは電波だし態度も高飛車だから嫌われるのにな。

>>175
もうヤメトケ。ムカつくだけで終わるから。
いいじゃん、電波が一人、間違った日本語で恥かいて生きてくだけなんだから。
177プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/12(金) 23:44:14
何しに来たのかな?


※ムカつくのなら覗かんこった!
>嫌われている
※日常変わった事は無いけど、貴方の思い過ごしでは?
178プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/12(金) 23:50:04
>>175

>認めたくないんですね

※貴方のコダワリの意味がわからん!
179日本@名無史さん:2006/05/12(金) 23:54:56
あはははははははははは。

みんな今まで言わないで来てあげたのにw
>>175に初めて間違いを指摘されたらその態度?

日本語はちゃんと使おうよ。恥ずかしいよ。
180日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:04:07
175です。

別にムカつきません。
ニヤニヤしながら見てるだけですw
181プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/13(土) 00:18:28
>>179

>恥ずかしいよ

※意味わからん!
誰に対しての“羞恥”?

クダラン じつに クダラン

そんなカキコは イラン
他でやってくれ。
182日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:31:59
プラムって全部に反応してやってんのなw
183黒い人:2006/05/13(土) 00:36:01
クソスレの管理に必死のようですなア。
184日本@名無史さん:2006/05/13(土) 00:38:10
>誰に対しての“羞恥”?
え?ナニコレ?ゆとり教育?すげーよ普通の感覚じゃねーよ!
185プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/13(土) 07:39:57
自分で立てた店の管理するのは普通だろう。


ま、ユックリ ノ〜ンビリ 骨休めしていっチョ。
186日本@名無史さん:2006/05/14(日) 14:40:59
みんな、ここはぷが他スレで自分の妄想を撃破されるので我慢できず、ォ(ry
用に立てたスレです。しっかり放置してあげましょう。
187プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/14(日) 18:42:36
>>186

そんな戯言ホザイテイルのも“2ちゃん”だけだなぁ!

『至と到』の使い分けでもやるか?
188日本@名無史さん:2006/05/14(日) 19:37:12
yaranai
189プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/14(日) 22:24:41
>>188

ダロウネ

……家主からの連絡……

※つまらん カキコミはご遠慮下さい。
190プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/14(日) 22:48:49
《家主からのお願い》

※…今使譯所通三十國從。
※…國國有市交易有無。

※其八年太守王〔斤頁〕到官倭。

と、文節を切れる方

『至』⇒(範囲)
『到』⇒(点)
と、解釈出来る方の
カキコを気長〜にお待ちしております。
191186:2006/05/15(月) 18:48:28
放置レス出した身だが一つ。普通に諸橋の大漢和に「到、至也」という用例が出てたぞ。(詩経か索隠?だった)
あと広漢和にも出てたな・・・
192プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/15(月) 19:10:10
>>191 サンクス だす。

諸橋氏の大漢和は、よく利用させてもらっています。『至』 巻9 421P #30142
『到』 巻2 250P #1950

至⇒屋 至⇒室 こんな漢字が作れる
※共通する字意解釈は
限定された範囲

『至』の文字には、移動の意味は含まれない
193プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/15(月) 19:25:23
>>192大事な事カキコ忘れ

『至』⇒“到”も
(至+刀)⇒到
『到』の基本は『至』

至(範囲)に“リ”を入れるから到(点)の意味解釈が出来るわけだね
だから
至=到は チョット違うのであります。

※『至洛陽』
洛陽の範囲内
※『春正月』+『至洛陽』洛陽に着く(洛陽の範囲内に)
194プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/15(月) 19:32:59
『至』
※矢が地に到達する
…各漢和事典より

詰まり
矢は、決められたルートを辿り決められた地点に到達するわけではない!
限定された範囲内(土)に到達するのです。

※大漢和の“鳥”の例えも同じ解釈
195日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:04:49
ちゃんと諸橋大漢和とか使っていたんだ……
196日本@名無史さん:2006/05/15(月) 21:29:48
>>195
大漢和見たって日本語が読めなきゃ何が書いてあるか解らんだろうw

『至(範囲)に“リ”を入れるから到(点)の意味解釈が出来るわけだね』
とか言ってるけど、
何で『至+刀』になると『到(点)の意味』になるのか理由も無いのが
ぷ氏の面白いところです。
197プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/15(月) 22:51:19
>>196

そのくらい自分で考えたらいいじゃん。
気が向いたら『理由』はカキコするけど それまでは?????

※そんなにムズイ事じゃ無いし イタッテ理にカナッタ答えだよ!

どうして 『範囲』+『切る』=『点』になるか?
それが『到』の字意だよ!
198プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/15(月) 23:03:16
それに、辞書に
『至』⇒いたる
『到』⇒いたる
と、書いてあるから『至と到』の意味にタイシタ違いは無い
などとヌカシテる人達に
「日本語が読めない!」
なんて 言われたくないよ!

※漢字は「一字一意」
※カナは「一音一意」
199プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/15(月) 23:09:56
『追加』

『至』の意味
正確には⇒“限定された範囲の内側”
200プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/05/16(火) 12:37:25
※【自女王國以北…】
※【自女三國以北…】(紹興本)

これ、誤字や版ミスじゃあないんだよね!