1 :
16歳中卒ヒッキー◇HCmIhYMlyc:
2 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 12:58:53
Aゲット
3 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 14:57:05
三打
4 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 15:10:36
4様
5 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 17:17:40
ヨン4ね
6 :
平四郎:2006/04/18(火) 18:19:11
卑彌呼は二人で姉妹だって?
7 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 22:58:25
アンチや安本は、なぜ以下の問いに答えられないのか?
>そういえば樋口の古臭い畿内説も槍玉に挙げられてましたっけ。
>あんなの批判されても、畿内説に何一つダメージにはなりませんよ。
>それこそ伊都国氏の挙げた岡村、福永、松木ですら畿内説の本流ではない。
よく分からないが教えて欲しい。
岡村氏や福永氏が主流でないというというのはどういうことなのか理由は。
いずれも三角縁神獣鏡の研究で著名な学者であり、書店の考古学のコーナ
ーに必ず著書が並んでいる。
それにポスト争いが激しい学者の世界において、京都大学や大阪大学とい
う超一流大学の教授であるということは彼らに対するアカデミズムでの評
価を表すものではないのか。
あなたが評価している寺沢氏などは奈良県の埋蔵文化担当者であるにす
ぎないし、それほど優秀な人間ならどうして大学に残れなかったのか。
研究者コースであれば、少なくとも理系の世界では優秀な人間は大学に
残っているし、文科系でもそれは同じはずだ。
それとも考古学会自体が正当な人事評価もできない因習に満ちた世界
であるということなのか。
また、あなたが岡村氏や福永氏、松木氏、樋口氏のような有名な
考古学者をだめとする理由を教えて欲しい。
さらに寺沢氏以外のあなたの評価する考古学者を埋文行政者も含めて、
教えて欲しいな。
8 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:15:09
>>974 都合が悪いことには、中傷攻めでソースも醤油もへったくれもない。
畿内での分布に偏りがあることは、
>>964での石野の文章から分かるよね。
だから、「奇妙な分布をする土器です。」という表現を石野もしている。
それを引用すると曲解ですか。確かに、会話が成立しないですね。
9 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:15:50
この安本信者はどうやらわざとやってるみたいだよ
庄内が近畿一円に均等に分布しているわけないじゃん
奇妙な分布ってのは近隣に行き渡る前に吉備や出雲をすっ飛ばして
北部九州、南西部九州、南四国に輸出されている事を指している
あんた、嘘が下手だねw
10 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:16:33
大体なんで庄内が九州発だなんて思うのかよくわからん
土佐や日向で大量に出土した庄内は、どこの土を使っていたのか知ってるか
しかも北部九州や畿内より、土佐での出土例が多いというのも知ってるかな
ならばなぜ土佐発祥説を唱えずに北部九州だとか、ありえないことをいうのだ?
基礎がまったくできていない、0点。
11 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:32:38
>>984 私は安本信者ではないですよ。
ここで紹介されていた石野の本を読んで疑問に思ったことを、書いているだけ。
畿内説の弱点が土器編年にあるのは、確かだし。
土器編年については、石野も畿内説のなかでは、古く見すぎる点で異端であると自認している。
まあ、自分だけが正しいと言う自信を込めたニュアンスだが。
逆に言うと、石野くらいに庄内式を古く見ないと、畿内説は成り立たないと思う。
鉄器の北九州優位からの「東遷」がほぼ明白となった現状では、昔みたいに庄内式が250年からか
300年からかの対立図式では、どちらも「東遷」より前に卑弥呼の時代が来たことになって、
畿内説として成立しないから、200年からとしなければ立ち行かないというのが現状だし。
けど、200年からとしても、卑弥呼の即位を190年頃とするとまだ問題があるから、これも210年以降に
遅らせないといけないとか、先端を走る畿内説には制約が多い。
石野のような考えが畿内説で一定の支持があるのは事実みたいだけど、依然として畿内説にも
庄内式をそこまで古く見ない人もいる。その人達は、「東遷」を認めないことでバランスを取っている。
さらには、邪馬台国論争から距離を取っているような感じの人もいる。
要は、結論からの逆算に見えるのだが、そんな中で石野説が絶対とは、言えないと思う。
12 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:34:16
>>984 私は安本信者ではないですよ。
ここで紹介されていた石野の本を読んで疑問に思ったことを、書いているだけ。
畿内説の弱点が土器編年にあるのは、確かだし。
土器編年については、石野も畿内説のなかでは、古く見すぎる点で異端であると自認している。
まあ、自分だけが正しいと言う自信を込めたニュアンスだが。
逆に言うと、石野くらいに庄内式を古く見ないと、畿内説は成り立たないと思う。
鉄器の北九州優位からの「東遷」がほぼ明白となった現状では、昔みたいに庄内式が250年からか
300年からかの対立図式では、どちらも「東遷」より前に卑弥呼の時代が来たことになって、
畿内説として成立しないから、200年からとしなければ立ち行かないというのが現状だし。
けど、200年からとしても、卑弥呼の即位を190年頃とするとまだ問題があるから、これも210年以降に
遅らせないといけないとか、先端を走る畿内説には制約が多い。
石野のような考えが畿内説で一定の支持があるのは事実みたいだけど、依然として畿内説にも
庄内式をそこまで古く見ない人もいる。その人達は、「東遷」を認めないことでバランスを取っている。
さらには、邪馬台国論争から距離を取っているような感じの人もいる。
要は、結論からの逆算に見えるのだが、そんな中で石野説が絶対とは、言えないと思う。
13 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:42:08
安本を出したらよく釣れるからって、ここまでやると引いちゃいますよww
とりあえず、九州説スレの立場から、前スレの捕獲品である石野博信か寺沢薫の批判的検討で始めよう。
あと、柳田康雄って、畿内説なの?
14 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 23:59:01
>>876 >>822がとっくの昔にソース出してますよ。
「畿内説を撃破する」読みましたか?そこには様々な形で寺沢、石野、柳田各氏の論文が引用されています。
引用元も当然載っています。
さあ、そこで元の論文と趣旨がどれほで歪められて引用されているか
ご自分の目で確かめればよろしい。
ちなみに安本はこの恣意的な引用によって、特に寺沢、柳田両氏より激しく詰問されている。
文章としてのソースはない。だが埋文に携わる者なら先刻ご承知の事件だ。
部長があれほど激しく怒りをあらわにしたことなどなかったからね。
その後、大手出版社から安本の本が出ていないのは、さすがにこの件で各社とも尻込みしたから。
ちなみに圧力なんてまったくないよ。
まさに研究者としての、そして執筆者としての品位を問われたのだ。
これが誹謗中傷かどうかは、それこそ自分自身で調べればよい。
ただそれだけのことだ。
15 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 01:16:55
東大、京大、早稲田、阪大とかの教授陣は、邪馬台国時代の本は出していないの?
昔の説で本を書いている長老は別として、中堅・若手がこの時代の著作を出しているのを
ほとんど見かけない気がするけど。
16 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 13:21:30
四国だって。
17 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/19(水) 17:22:58
だって今や中堅・若手は古田説の根幹を認めているもの。
18 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 17:25:25
19 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 20:55:27
逆算で考える九州説。・・・森公章『「白村江」以後』など参照
1、神功皇后のころの新羅征伐について、最近の韓国の発掘成果が広開土王碑文、三国史記と
整合する事が明らかになった。記紀にある新羅からの人質記事などの事実性も高くなった。
2、記紀の人質記事は新羅の王子を独自に和風で表記しているから、記紀のこの部分は日本側の
資料が元になっている可能性が高い。
3、以上から神宮皇后の実在性も高くなった。記事も詳しく、現に巨大な前方後円墳もある。
4、ほぼ定説の記紀の干支120年繰上説によると神宮皇后は360〜410年あたりに実在したといえる。
新羅侵攻や人質事件は370〜400年頃の出来事である。
5、神宮皇后の時代の4代前の崇神天皇(10代)の実在性も今の通説は認めている。
6、記紀の史実性がこの時代まで高いものと考えると、崇神天皇のころに存在したと記紀の伝える
箸墓古墳の被葬者(モモソヒメ)の実在性も高くなる。ある程度の記事もあり、現に巨大な墳墓も存在する。
7、モモソヒメの実在性を前提とすると、その死亡時期は300〜350年あたりとなり、箸墓古墳はこの頃に
作られたことになる。
8、記紀は古代において出雲が有力であったことなど、これ以前の時期の記事にも事実との符合が見られ、
崇神時代の記事の史実性を認めても何ら不都合はない。むしろ、崇神天皇の実在性を認めるなら、
同時代のモモソヒメの実在性も認めるべき。
9、然るに、モモソヒメの実在性は、遺物を古く見る最近の畿内説の土器編年や古墳編年と整合しない。
20 :
19:2006/04/19(水) 21:32:26
森公章『「白村江」以後』は、1、2の部分のソース。念のため。
森は、倭の五王の問題とか、神功皇后の実在性とかには、触れていない。
中堅、若手は、記紀の史実性や邪馬台国に絡みそうな問題を避ける傾向は確かにあると思う。
21 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:28:48
休み
22 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/22(土) 19:12:47
「中堅、若手は、記紀の史実性や邪馬台国に絡みそうな問題を避けている。」ではないかな。
昔、同志社大学の森浩一(考古学)は古田説に絡みそうな問題を避けていた。
古田説を否定せず、間接的に支持しているような発言と見受けた。
23 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 23:42:07
古田?古田武彦ですか?
『東日流外三郡誌』の論争は、今どうなっているのでしょうか?
,. 、 / /
,.〃´ヾ.、 / /
/ |l ', / /
,、 ,r'´ ||--‐r、 ', ぬ る ほ° ー ー ー ! !
l.l. ,..ィ'´ l', '.j '.
'r '´ ',.r '´ !| \
l! ....:.:.:.:.:.:ヽ、 ,l \
ゝ、.,_ ---‐‐‐----ゝ、ノ
| |
.| |
| |
| |
25 :
↑ガッ:2006/04/23(日) 13:23:14
26 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/23(日) 13:32:01
>>23 古田武彦氏です。
『東日流外三郡誌』については、資料の扱い方に疑問あり、
僕は最初から眉唾でしたから、
古田武彦氏が現時点でどう対処されているのかは知りません。
東北王朝(大王)については、
早くとも8世紀初頭迄、遅ければ9世紀初頭迄
仙台平野から北上川流域に存在したと思っています。
又、9世紀以降も青森県には、天皇朝廷下にない残存勢力が残ったと思います。
27 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 17:50:09
古田は、全てのことに断定し過ぎる点に難点があると思う。
色々なことに言及して資料(遺物)などが不足していても、「絶対に間違いない」とかの口調が続いて、
断定口調のなかでのニュアンスが読み取りにくい。この点は、古代史の分野では多くの学者に見られる
ことではあるが。
その点を除けば、100のうち、20くらいは「ナルホド」と思うようなことは言っていると思う。
古田は、最初に公理をおいてそこから論理を追うことで結論を出して行くという
演繹的な手法をとっているので、最初の1が間違っていたら、
たとえあとの99が正しくてもすべてお釈迦。
>>28 お釈迦になった時点で素直に訂正すればよいものを、それができないという欠陥がある。
ま、似たようなのは、昔からありふれているだけどね(笑い)
>>28 >演繹的な手法
そのような手法なら、最初の 1 が間違った段階で残り99も全て間違い。
その正しいは、“論理として”正しいの意味だよ。
>>27 講義をノートに丸写しにして来たのをそのまま続けている者とは明らかに違う、ということはある。
ただし、そういう人はとかく奇妙な行きすぎがありがちで。
33 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 01:03:03
古代史の分野では、学会の非主流派を抜きにしては、研究史が成り立たないのも事実。
古田はかなり特異な説も多いが、三角縁神獣鏡の全部国産説をまともな根拠を述べて、
主張した初期の学説としての意義はある。
・・・・・『三角縁神獣鏡・その謎を解明する』藤田友治著、ミネルヴァ書房、参考
この本は、三角縁神獣鏡の学説の流れを丁寧に書いている。但し、藤田は古田学派。
主流派の本を読んでいると、その説の最初の提唱者とかを無視しているものが多過ぎ。
在野の研究者や非主流派であっても、参考文献に掲げなければ人間性を疑われる。
その点で原田大六説に言及した『伊都国を掘る』(柳田康雄)は評価できる。
逆に、山片蟠桃を無視した津田左右吉は最悪。津田説の骨格は山片が述べている。
34 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 04:37:15
白石太一郎大先生wの『倭国誕生』をちと読んだ。
凄いね、の一言しか言えない。もはや畿内「教」ですな。
石野の年代観も遺物を古く見過ぎだと思ったけど、その上を逝ってる。
あと、鉄器の九州優位を認めつつ、畿内が九州を制圧したという考えは無理杉。
九州が畿内の10倍以上の鉄の武器を有していたのに制圧されたんですか???
畿内説でも普通はそこまでは言わない。いや、言えない。
35 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 02:20:14
白石大先生wの『倭国誕生』は、自分の説が他の人より極端に土器や古墳の年代を
古く見る考えであるということを書いていない。正直、読んでいて頭が混乱する。
庄内式が160年頃から、布留式が250年頃からと言うのは勝手だけど、昔は庄内式が
270年頃から、布留式が340年頃からという考えも強かったことにも触れて欲しい。
36 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 10:45:41
かな
37 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 11:52:57
1、北部九州の遺跡は征服された痕跡がなく古墳前期まで続いている(柳田康雄)。
2、畿内の纏向は他の土地から来た集団が人工的に作った都市であり、周辺地域との断絶ないし
独立が存在する(石野博信)。
3、「ヤマト」とは古代では大和古墳群のあたりの地名で、それが広域化した(直木孝次郎)。
普通に考えて、鉄器で優位にあった北部九州「ヤマト国」が畿内を征服し、大和古墳群のあたりに
拠点を築き、その地が「ヤマト」と呼ばれるようになったように見える。
「神武東征」を認めないのは、天皇制を敵視するマルクス主義のイデオロギーであるように思われる。
38 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:17:14
>>37 同意、神武東征が史実か考古学的に検証することは出来なくても
鉄器など筑紫優位であったことや、おそらくそこからヤマトに
侵入したであろうこと、後にヒムカ国から皇軍がヤマトに入ったこと
など記紀を読めば大凡の想像は出来る、西から東へと何らかの権力の
移行があったことは間違いないでしょう。
39 :
本田:2006/05/02(火) 21:17:46
ヤマトの語源は九州の山門。
40 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:37:48
鉄器の北部九州優位を認める今の畿内説の最後の頼りは、年輪年代に基づく土器編年だけど、
年輪年代を採用して、土器を古く見る畿内説の考えには、以下の問題がある。
1、伐採年と建築年に数十年〜100年以上の隔たりがあるというのが、建築年が文献上明らかになっている
6世紀以降の古代建築物での実情である。
2、伐採から年数を経ていない木材には、予測不能な反りやゆがみが発生するというのは、常識であり、
クギなどが存在しない古代においては、伐採から数十年以上経た木材を建築に使用していたと思われる。
3、「紫外線による劣化がない」とか、「建築現場で加工された」という理由で、伐採年と建築年を同一とする
調査結果は、素人目にも常識の埒外の検討であるように思われる。
例えば伐採から50年後に建築に使用する場合、野ざらしで保存する訳がなく、貯木池等で長期間保存するが
紫外線は浴びない。現地で加工したため伐採年と建築年とが同一になるという理由については、根拠自体が
意味不明である。50年物の丸太を現地に持ち込んだと考えれば足りる。
4、古代の年輪年代法の適用事例のほとんど全てが畿内に偏っているため、九州との比較が出来ない。
5、布留式の終わりは400年ころでほぼ争いがないため、庄内式、布留式を古く見すぎると、これらのみが
異常に長い期間流通したことになる。かつては土器1形式10年〜30年と言われたが、庄内式を古く見ると
1形式50年を超え、前後の時代とのバランスを大きく失する。
41 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 15:55:42
昔は古墳時代は300年頃からとされていたのに、今の畿内説はどうなっているのやら。
寺沢薫・・・・・250年頃から ・・Σ( ̄□ ̄;) ・・・アリエナイワケデモナイネ
石野博信・・・・200年頃から (´゚д゚`)うわー うおおおおおっっ!!
白石太一郎・・・・180年頃から? ( ゜д゜)・・・(つд⊂)ゴシゴシ・・・(;´Д`)?
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm
43 :
ゴジンム:2006/05/03(水) 17:00:33
皇統ノ一系無窮ハ明白デアル 神州ハ不滅ナリ
>>41 畿内説だけじゃなくて、考古学界全体の潮流だよ。残念だったね。
それに、その古墳時代開始の繰り上がりは実年代が遡っているだけじゃなくて、
弥生・古墳という時代区分の変更もともなってることもよろしく。
ついでに、
>寺沢薫・・・・・250年頃から ・・Σ( ̄□ ̄;) ・・・アリエナイワケデモナイネ
これは嘘でしょ。寺沢も三世紀初頭だよ。
45 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:24:49
上記の考古学者たちは庄内・布留を弥生と古墳のどちらに考えて
その年代を唱えているのだろう……
もし、上記の年代以前に庄内・布留があると考えていたら恐ろしい……
46 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 20:09:32
>>44 そうだったっけ。
寺沢は、『王権誕生』でホケノ山を250〜260年頃、箸墓古墳を270頃(以降)としていたはずだが・・・
石野も大昔は280年頃としていたのを、一挙に古くしたから、改説した可能性はあるか・・・
どっちにせよ、そこまで古く見る根拠は乏しいと思う。
あと、「魏志倭人伝」で「甕棺墓(棺)はあっても木郭(郭)はない」としていることと整合しないし。
47 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 23:21:35
甕棺墓はちょっと古過ぎるような……
>>46 ヒント:古墳時代は庄内から。庄内初期にはまだ古墳はない。
古墳そのものをメルクマールに時代を区分するやり方から、
古墳時代の社会構造の成立によって古墳時代と弥生を区分しようという潮流にかわりつつあるのだな。
49 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:37:24
>>48 昔は、庄内式と古墳時代の始まりはほぼ同時期と考えていたと思う。
庄内式=古墳時代という図式は、かなり広まっているように感じる。
人によっては、大きな墳丘は古墳と見ているようだから、古墳の定義も良く分からない。
あと、庄内式は畿内一円に広がっている訳じゃなくて、神武東征伝説地とか神武に追従した
物部根拠地とかに偏っていて、庄内式だけだと、畿内全体の時代観もつかみにくいと思う。
50 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 20:33:05
> 昔は、庄内式と古墳時代の始まりはほぼ同時期と考えていたと思う。
> 神武に追従した物部根拠地
ホントか?
「庄内式土器の偏り」と言うのは製作拠点が限られていると言う意味だよ。
旧来の畿内様式よりは高度な技術を要する。
おそらく、特定の職能集団が存在したのだと思う。
別に使用地域が限定されていたわけでは無い。
濃淡はあるが、畿内や東海、北陸に普遍的に行き渡っている。
52 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:53:40
本当か?と言ったのは【神武に追従した物部】の部分。
日本の神話伝説を若干勘違いしていると思う。
因みに【使用地域が普遍的】という点については僕もそう理解しています。
製作拠点。確かに物部と関係深い八尾はその候補に挙げられそうだけど、
神話伝説と考古学の結びつけが焦点がぼやけてつかみづらいかった……
庄内式の偏りというのは、文字どおり出土数に疎密があるということ。
大阪府内、奈良県内でも著しい差がある。
奈良県内なら桜井から天理あたりに濃密に分布するものの、
そこから離れるに従って出土数は減る。
近くても、大福遺跡のように庄内がほとんどない集落もある。
大阪はどちらかというと大阪南部(河内潟の南)が中心。
田中琢が、庄内式を設定したのは大阪北部の豊中にある庄内遺跡の資料だが、
現在この庄内遺跡は、いわゆる“庄内式分布圏”からは外れてしまった。
54 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 21:36:17
ところで、このスレは【畿内説厳禁】なのはわかってるね?みんな。
そうだなあー。
見渡せば九州説っぽい人っておらんねえ。
57 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 22:23:22
> 見渡せば九州説っぽい人っておらんねえ。
どこみてんだか
58 :
狗奴 ◆5dMQZo6/zY :2006/05/05(金) 22:36:21
邪馬台国は筑後川一帯
59 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 01:00:56
筑後川一帯は倭五王の時代から倭国の中心地。
60 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 01:25:40
>20
>中堅、若手は、記紀の史実性や邪馬台国に絡みそうな問題を避ける傾向は確かにあると思う。
文献はともかく考古学者は、そんなことはない。
>34、35
>白石太一郎大先生wの『倭国誕生』をちと読んだ。
>凄いね、の一言しか言えない。もはや畿内「教」ですな。
>石野の年代観も遺物を古く見過ぎだと思ったけど、その上を逝ってる。
>あと、鉄器の九州優位を認めつつ、畿内が九州を制圧したという考えは無理杉。
>九州が畿内の10倍以上の鉄の武器を有していたのに制圧されたんですか???
>畿内説でも普通はそこまでは言わない。いや、言えない。
「畿内勢力による鉄器ルート奪取」などの白石の学説が学問史の遺物にすぎ
ないことは確かですが、その年代観に限れば考古学会では普通の見解。
>白石大先生wの『倭国誕生』は、自分の説が他の人より極端に土器や古墳の年代を
>古く見る考えであるということを書いていない。正直、読んでいて頭が混乱する。
>庄内式が160年頃から、布留式が250年頃からと言うのは勝手だけど、昔は庄内式が
>270年頃から、布留式が340年頃からという考えも強かったことにも触れて欲しい。
今時そんな年代観の学者は皆無。庄内の始まり=二世紀末〜三世紀初頭というのは
もはや一般化している。これを「古墳時代の開始」とするかどうかは見解が分かれ
ているが。
61 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 01:50:35
>寺沢は、『王権誕生』でホケノ山を250〜260年頃、箸墓古墳を270頃(以降)としていたはずだが・・・
>石野も大昔は280年頃としていたのを、一挙に古くしたから、改説した可能性はあるか・・・
>どっちにせよ、そこまで古く見る根拠は乏しいと思う。
寺沢は庄内=三世紀初頭、布留=三世紀後半だが。
これ自体は普通というか、むしろ遅く見る方と言っても良い。
ちなみに九州の学者でもこれが普通の見解(というより九州側の見解に
あわせて、近畿側が前倒ししたわけだが。)。
前倒し論者の最先端だった森岡なんかはもっと前倒しを検討すべきと言っているし、
可能性としてはさらに古墳時代の開始が前倒しされることもありうる。
それに箸墓はもちろんのこと、ホケノ山(これは古墳と呼ばない学者も一部
いるが)も最初の古墳ではない。
石塚、勝山など前にいくつかある。
62 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 01:57:19
>49
>庄内式=古墳時代という図式は、かなり広まっているように感じる。
>人によっては、大きな墳丘は古墳と見ているようだから、古墳の定義も良く分からない。
前段はそのとおりだが、後段は間違い。主に
@古墳開始=マキムク型前方後円墳
A古墳開始=箸墓
という2つの説があるということ。一般的に大学の連中は@、kkkなど埋文の連中
はAが多い。若手は圧倒的に@だと思うが。
>あと、庄内式は畿内一円に広がっている訳じゃなくて、神武東征伝説地とか神武に追従した
>物部根拠地とかに偏っていて、庄内式だけだと、畿内全体の時代観もつかみにくいと思う。
物部根拠というのは意味不明。
庄内は、大和盆地、河内平野の一部、それ以外だと九州の奴国地域、伊都国地域に集中
しているだけだが。
その年代観で九州のどの古墳を卑弥呼の墓だと?
大和説のスレッドかと思うほど…大和説厳禁とはあるものの…
>63
それをいうなら、まず金印と阿蘇山を畿内で見つけて来い。
話はそれからだ。
66 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 02:44:11
>40
>かつては土器1形式10年〜30年と言われたが、庄内式を古く見ると
>1形式50年を超え、前後の時代とのバランスを大きく失する。
そりゃ、かつて手がかりがない場合にそういう割り方をしてたというだけで
あって根拠があれば長くしてもおかしくはない。
50年と言うが、庄内については、もっと長くすることを検討すべきという
話もあるくらいだ。
67 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 03:07:04
>37
東遷説自体は増えているというより、若手のほとんどはそうだろうが
今のところ「対等」な連合政権だという説が多い(北條、寺沢)。
相変わらずいろんな面でたいしたことがない東瀬戸勢力を過大視す
る傾向も強いしね。いきなり北九州勢力による征服と言う風にはな
っていない(柳田などは昔から東征説で変わらないが)。
実際のところ、倭王権の王権祭祀やイデオロギーは圧倒的に北九州の
ものだし、鉄器生産や政治的成熟度の圧倒的な東西格差から考えて
「対等」なんてことはありえんわけで、前期古墳には各地の供献土器が
あるのになんで特殊器台だけ過大視されてんのか、いい加減な民俗学
者の珍説をパクった首長霊継承とやらが無批判に流布していいのかと
いうようなことは誰しも思っているところだが、なかなかそう言えな
いとこはあんたの言うように学会の雰囲気的に言いにくいというとこ
があるわな。
後、近畿の学者は編年の問題を始めいろんな問題でここ数十年、九州
側にほとんど合わせる形で修正してきたわけで、国家形成論まで合わ
せるというのは抵抗あるのかもしれないね。
68 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 08:46:58
>庄内の始まり=二世紀末〜三世紀初頭というのはもはや一般化
学者がこんな状態だから安本美典や素人が口をはさむ気がする……
現状、自然科学的な年代測定の結果がそれらを裏付けているので
学者なら立場上とりあえずその結果を受け入れるのが無難とは思うけど、
内心ではしっかりとこれらの編年については疑問を持って欲しい……
『年輪年代法こけたら皆こけた』ってことになったら……
あの事件の二の舞
>>62 >@古墳開始=マキムク型前方後円墳
>A古墳開始=箸墓
このほかに、0.庄内の開始=古墳時代開始があるだろ。
>kkkなど埋文の連中はAが多い。若手は圧倒的に@だと思うが。
KKKは0で突っ走ってる。
それに、新聞発表から勘案するに、埋文・教委のほとんども0。
見た感じ、大学の一部に2を固守する連中がいるという状況にみえる。
もうじき団塊の世代の教授がいっせいに退官するから、
数年後には状況は一変するんじゃまいか。
70 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 14:51:45
>>68 >『年輪年代法こけたら皆こけた』ってことになったら……
年輪年代の問題点は
>>40にあるけど、あと、検査自体が検証されていないという点もある。
年輪年代のデーターは一般に公開されていないから、検証も不可能。
年代を古く見る最重要の根拠は年輪年代であるだけに、これがこけたら、皆こけるね。
あと、古く見る人達は、鉛の同位対比データーは完全に無視している。
こっちのほうは、誰でも検証できるのに、何故無視するのだろうか?
都合の悪いデータを無視するのは良くないね。
たしかに「あの事件」と同じような経過を巡っているという感じも受ける。
>>64 畿内説スレから逃亡して、来てるみたいだな、伊都国東遷とかが。
>>70
>年代を古く見る最重要の根拠は年輪年代であるだけに、これがこけたら、皆こけるね。
C14はどうなの?
73 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 16:17:55
>>72 C14の信頼度は現状ではかなり低い。
たしか愛知県の古墳出土の土器が起源90年頃と判定されたこともある。
さすがに、これは誰も認めていないが・・・・要は、その程度のもの。
誤差が大きすぎて参考にもならん。
C14の大気中の濃度は時代によって一定しておらず、遺物での濃度変化も一定ではない。
現状では、データーの誤差補正についての見解もまとまっていない。
要するに、現時点ではC14を根拠にすること自体が、危険な泥舟に乗ることを意味している。
遺物を古く見る最近の畿内説は、年輪年代にせよC14にせよ、根拠が弱いことは確か。
74 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 16:57:07
>>73 諸外国の年代測定がC14で足並み揃えてるのに
日本だけ違くしたらバランス取れないのでは?
75 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 17:53:42
>>74 諸外国がどうとか言う前に……
C14で出来ることと出来ないことをしっかり押さえるべきでは?
諸外国が何か言ったらイイナリなの?
諸外国がどう言ったとしても、あの誤差とバラツキは消えないと思う。
何か勘違いしているみたいだが、古代の実年代を特定する物差しは非常に少ない。
貨泉とか紀年鏡くらいか。
年輪・C14も絶対じゃない。それは当たり前。それに替わる方法が無いだけ。
少なくとも、倭人伝の記述から「庄内開始を2世紀末〜3世紀初頭」と思い込む
従来の仮説よりかは大分マシだろ。
>>76 確かに、C14や年輪年代の信頼性を論じるのは大事だが、
従来の実年代仮説に、そこまでの信頼性があるのかは甚だ疑問。
かなりムキになって年輪・C14を否定している輩は、まず先に、
従来仮説を論証をすべきじゃないだろうか?
「庄内開始が3世紀初頭」というのは、どうやって証明するのだろうか?
78 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 20:30:31
年代を決める方法論としては、年輪やC14のほかにも以下のものがある。
1、土器編年のバランス論(1形式10〜30年)・・・1形式を長く見過ぎない。
年代を古く見る説は、庄内式、布留式が長くなりすぎる点で難点がある。
2、円筒埴輪の型式の区分・・・同じ型式を同じ時代とする(当たり前)。
埴輪の変化は期間が短いなど、庄内式、布留式を長く見る編年と整合しにくい。
故に、畿内説はこれを無視することが多いように思う。
3、銅含有の鉛の同位体比による分類・・・同じ原料であれば同時期の可能性が極めて高い。
三角縁神獣鏡はほぼ全て同じ原料(日本製)と判明したり、畿内説に不利な結論が多いためか、
畿内説はこれを無視することが多い。しかし、馬渕の研究は信頼度が高い。
4、前方後円墳の形による分類・・・同型の古墳は同時期の可能性が高い。
型式による分類は、古墳の絶対年代とは直接は関係しないが、基準となる天皇陵がある4C後半以降は
絶対年代がある程度分かる。
5、その他、副葬品(鏡等)による分類、墓式による分類(竪穴→横穴)などがある。
これらは、絶対年代の手がかりにはなりにくいが、箸墓古墳の壕から出土した馬具(鐙)は、箸墓を
古く見る説には、かなり不利。馬具は350年以降というのがそれまでの通説。
>>78 いやはや、感服しました。
九州説にも論客がいるんですね
80 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 20:37:02
年輪・C14を鵜呑みにしない人は
何もそれまでの仮説を鵜呑みにしているわけではないと思う。
年輪・C14の結果に基づくものを通説としている最近の風潮に
警鐘を鳴らしただけだと思ってた……
もし、年輪・C14の信頼性に疑問を持っていても、従来仮説を
鵜呑みにしているようなら、それはそれで問題があると思う。
とにかく、どちらをまず先に論証とかいった話ではなく、
70が言っているような【鉛の同位体比】なども含めて
まだまだこれらの論議は続けられるべきかと……
三角縁神獣鏡にしたって
呉鏡の流れをくんでいるように見えなくもないから、
そこから三角縁神獣鏡を後代のものとする仮説が生まれても
不思議ではないと思う。
それなのに庄内が古くなることが定説化しつつある流れに埋没して、
これらの問題が片付いてもいないのに、まるで片付いたように
勘違いしてしまうことの方が恐い。
>三角縁神獣鏡はほぼ全て同じ原料(日本製)と判明したり
逆の結論。中国製と日本製がやや異なることが指摘されてたんじゃないか?
SPring8でも、三角縁は中国製と日本製にわかれる結果だしな。
日本古代史は厳密な議論をし過ぎている印象。実年代なんて、なかなか
分からないものだし。
邪馬台国論争、畿内vs九州の悪影響であろうが。
最初、筑紫に王権があって、それが大和に移ったという事までは、
みんな納得していると思う。
で、その権力の移動が、庄内開始を契機に緩やかに始まっていることも。
83 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 21:10:22
安本かよ
>>78 5の周濠の馬具について
周濠って後の時代になってからでも色んな物が投棄されるから却下。
年輪年代・C14ともに有力な検証方法ですけどね。
どちらも資料の取り扱いが難しいので精密な実効年代を求めるのは難しいですよ。
だから、かなり幅の大きな数値しかとれないでしょう。
それを理解してか知らずか恣意的な発言が見受けられますねw
87 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 22:31:47
>>85 この馬具は、畿内説でも扱いが分かれているみたいだね。
発掘を担当した人には、土器と一緒に出土したと述べて乗馬の風習が3世紀に遡る
証拠と言う人もいる(確か『オオヤマト古墳群と古代王権』か『三輪山の考古学』の
どっちか。だから上つ道とかは馬を走らせるために直線だったとか書いてた。)
けど、乗馬の風習を3世紀からというのは、無理筋。
一方では、出土物を分類する途中で異物が紛れ込んだと言う人もいるみたいだね。
周濠を掘って出土した布留式土器は採用しても、馬具は認めないと言うのも難しいけど、
まあ、1点のみの出土だから異物の「可能性」もあるとは思う。
88 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 23:11:57
>>86 いや、C14や年輪にブレ幅があるのは当然。
っていうか、ブレ幅のない実年代考証は今現在ないだろ。
一部の「庄内初=3世紀初頭」という思い込みの方が問題。
>>87 どこかの古墳の周濠にミニバイクが沈んでたりする。
この周濠がそのうち埋まってしまう事もあり得るだろう。
埋まった周濠がずっと未来に発掘されてミニバイクが出てくる事もあるだろう。
その時、「このミニバイクは21世紀初頭の物だから、この古墳は21世紀初頭に築かれたに違いない!」
というのは馬鹿げてる。
周濠が作られてから埋まるまでの間に色んな物が投棄される。
その中の最も古い遺物が、周濠が作られた時期に最も近いと考えるべき。
90 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 23:54:42
>その中の最も古い遺物が、周濠が作られた時期に最も近いと考えるべき
それだって結構雑だよ
その古墳に付属しているかどうかも分からない遺物はみな怪しいよ。
昔、会社の庭で弥生式土器を拾ったけど(知る限り会社の庭で最古の遺物)、
それでも、うちの会社は弥生時代創業じゃないもん
>>87が言うように1点のみの出土は『異物の可能性』を疑うべきだと思う
91 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 23:56:32
いや、鐙に関しては実物が出てないだけで、西晋より前から使用されていたんでは?
と思うが。少なくとも三国時代は使用してたんじゃないか?
92 :
黒羊 ◆N7qmqkEULs :2006/05/07(日) 18:43:38
記述の乏しい魏志倭人伝ばかりに頼っては想像の粋を出ないのではないでしょうか?
時代は下りますが、旧唐書には倭国と日本国は別枠で記載があり、日本の成り立ちが書かれています。
旧唐書によれば、倭国は新羅の南東にある島国となり、九州の位置に当ります。
さらに日本国は倭国の東方にあり、近畿の王権であったと考えられます。
そして、日本国は倭国を併合したとありますので、これが正しいとするのであれば、
大和王権=近畿=日本となり、邪馬台国=九州=倭と考えられます。
以下に旧唐書の倭国と日本についての記載を紹介します。
まずは倭国の記述から紹介します。
倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。
東西五月行、南北三月行。世與中国通。
其国居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘国、皆附属為。
(以下、略)
次いで日本国の記述です。
日本国者倭国之別種也。以其国在日辺、故以日本為名。
或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。
其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中国疑焉。
又云、其国界東西南北各数千里、西界南界咸至大海、東界北界有大山為限。山外即毛人之国。
(以下、略)
93 :
のむひょん:2006/05/07(日) 18:45:25
そういえば、八女に卑弥呼の墓らしいものがなかったけ?
94 :
黒羊 ◆N7qmqkEULs :2006/05/07(日) 18:50:18
>>91 鐙自体開発されたのは5世紀の中国なので三国時代に鐙はありません。
しかも最初期の鐙は片鐙で乗り降りの時だけに利用されました。
95 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 18:57:33
平原王墓は、副葬品に巨大な鏡数枚、中小の鏡多数あり、王墓の近くの掘立柱などと併せると、
太陽神信仰を強く感じさせる。あと、武具が少ないので、女性祭祀者と考えられている。
・・・時代が合えば卑弥呼の墓と言えるのだが、卑弥呼の存在は、北部九州での鏡を使った
女性祭祀者による太陽神信仰の伝統に通じる面があることは、否定できないと思う。
>>92 黒羊さん
旧唐書の前に“宋書”を
“倭国伝”の始まりは宋書からですので
いきなり旧唐書よりも
宋書⇒隋書⇒南史⇒旧唐書の順番を進めます。
倭人伝と倭国伝は少し傾向が違いますので
97 :
黒羊 ◆N7qmqkEULs :2006/05/07(日) 19:12:13
>>96 そうします。
史学部は史料史料で、その中でも良質史料探しが大変な学部ですね。
ネット検索では結局さわりしか解らず、書籍を手に取る時間と金がかかるばかりです。
98 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 13:34:42
>>90、
>>91 古墳の周濠は時代ごとに堆積物が上に積み上げられていくから、下のほうの堆積物から
土器と一緒に発見されたのであれば、その土器と同時期のものだと思う。
この馬具は、当初の新聞報道では、一緒に出た布留式土器から「最古の馬具」という
見出しで報道されていた。発掘担当者は、出土した当初は何か分からなかったが、後に
馬具と分かったという話をしていた。
しかし、「馬具がそんなに古いはずはない。やっぱり箸墓は350年頃だ」という意見が
出てから、異物の可能性が言われるようになった。そういう経過から見れば、「異物」では
なくて、土器と同じ堆積層から出土したと見たほうが良いような感じもする。
要するに、布留式は340年頃からと言う昔からの見方に有利な事実だと思う。
99 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 17:44:12
>>90の発言をした者です
僕自身、『異物』の可能性を考えつつも、その馬具に期待してます。
布留はやっぱり300年代以降ではなかろうかと……
>>99 そんな事主張しても、それでは都合の悪い連中が、寄ってたかって潰しにかかります。