>>166 全然違う。存英は、そもそも存保の嫡子ではない。
十河民部大輔存保は、秀吉に従うことでそのほかの讃岐の諸大名が軒並み所領を失う中で
唯一存続を認められたが、与えられたのは山田郡の二万石だけだった。
仙石久秀に従って絶望的な戦いに突入する際に、家臣数名に「おまえたちは早々に国へ
帰って、千松丸を秀吉公に見参させて、私が言った事をよく伝えよ」と言い残し戦死した。
嫡子・仙千代は生駒親正が預かり、九州平定後に存保の遺言どおり秀吉に目どおりして、
同情されたり「父にも劣らない」と褒められたりした。
しかし、まだ幼いため生駒親正預かりのまま、三千石がとりあえず与えられることになった。
しかし、帰国後すぐに食物を口に入れて吐血して死亡し、家臣たちは毒殺犯を捜査したが
見つからなかった。
讃岐の人々は、十河氏の旧領と家臣団を奪いたい生駒氏の仕業だと噂したが証拠はなく、
また存英は赤子にすぎないので十河家は窮地に陥った。
十河家旧臣たちは、廃絶され帰農または他家に仕えている香川氏、羽床氏、安富氏などの
讃岐の名門の子供の中から人物を選んで十河家を継がせたいと申し出たが認められることなく
十河家は廃絶となった。
山田郡の領民・旧臣はこれを悲しんで「命捨つるも子ゆえに廃れ、けなげなれとよ千松丸」
と唄って涙を流した。
そして、存保、千松丸の位牌は、十河家の旧領である十河城の傍にある浄土寺に祭られた。
生駒雅楽(親正)は奸智に長けた人物で、十河家旧領を押領するために、甥の大塚釆女を
使って仙千代を毒殺したとされる。
また九州討伐の際に、宮部・南条の軍に撃破され遁走した島津義弘を追撃しようとした
豊臣秀長を、兵法に詳しい尾藤知宣が諌めてやめさせた事があった。
尾藤知宣の判断が正しかったかどうかは別として、島津氏は逃走するフリをして敵を
誘い込む戦法をよく使ったため、特に誤まった諫言というほどのことはなかった。
しかし、「知宣のせいで島津義弘の首をとる機会を逃すことになった」との噂が広まり、
秀吉はこれに怒って尾藤知宣の所領を取り上げ追放した。
十河存保が死亡し仙石久秀が去って、讃岐に残る唯一のライバル・尾藤知宣を秀吉に
誣告したのは、讃岐一国支配の地位を手に入れたかった生駒親正の仕業とも言われている。