1 :
日本@名無史さん:
他の四職家のスレがあるのに、赤松家のスレがないのは解せない。
そんなわけで、スレ立てました。
2 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:30:06
三管四職スレッド立てればいいんでないの
3 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:41:31
赤松円心はすき
4 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 14:11:16
幕臣だった赤松則良は明治になって男爵になってるけど、則良はどの系統なんすか?
赤松で残れたのは有馬系ぐらいだったかな
6 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 03:08:40
赤松政則は加西の長円寺で暗殺されたのだと思います。
7 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 03:23:40
赤松⇒浦上⇒宇喜多のトリプルコンボ
赤松⇒小寺⇒黒田のトリプルコンボ
この2つは熱すぎ
赤松万歳!
赤松則房って、それなりにしたたかだったらしいね
10 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 01:44:10
みんなシンポには行くの?
11 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 03:18:22
分家の別所氏の三木城の発掘調査が実施されているそうですね。
本丸跡の調査は既に3年前に行われたとのこと。
全然知らなかったので、今ごろ質問ですみませんが、
三木城本丸跡の長治公の辞世の句碑がある土壇(伝「天守台跡」)は、
本当に天守(あるいは天守に近い建築物)の土台だったのでしょうか?
ネット検索すると少しだけ情報が出てきましたが、
(1)本丸跡が溝で区画されていたこと。
(2)石垣の基礎部が出土したこと。
の2点がわかっただけです。
12 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 09:56:01
義教に殺られそうだったから先に殺っちまうという発想が素敵
13 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:06:32
赤松の英雄は円心と満祐
14 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:07:16
義教に掘られそうだったから先に殺っちまうという発想が素敵
小寺氏って赤松一族だっけ?
16 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 05:10:17
小寺は赤松一族ではないですが、円心以来の重臣として姫路平野を治めてい
ましたし、代を重ねるうちに、おそらく赤松家から小寺家へ嫁いだ姫もいた
かもしれませんし、小寺家から赤松家に嫁いだ(この場合は側室としかも?)
姫もいたかもしれません。
赤松一族並みの待遇だったことは確かですよね。
17 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 04:23:33
18 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 04:26:41
19 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 07:14:47
一度、瞬間的に播磨守護になっていたが正式な論功行賞でははずされた
または当然守護になるとみんなが思っていたのになれなかった
そのあたりなのかな?
20 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 15:08:47
確か御家人ではなく、楠木等と同じ悪党
21 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:36:26
漏れの祖父の墓の周りは赤松だらけ。
漏れも別所の…
滅んだと思われてるからこれ以上は言えない。
22 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 23:13:13
民俗学者の赤松啓介も赤松の末裔なの?
私の姓はマジで赤松だけど実家(姫路)は赤貧だし
おとんが「わしは士族の末裔じゃ」と言ってるのも聞いた事がないし
徳川家とか財閥の娘とかの方がずっと格上の気がする。
26 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 15:10:21
>1 無いのには、それなりの理由があった
27 :
23:2006/05/09(火) 20:08:00
>>25合併?松浦亜也ちゃんの卒業したT小学校の有る町です。
29 :
27:2006/05/10(水) 21:24:02
>>28場所、分かりましたか?
とは言え、私のおとんは愛媛県北宇和郡吉田町出身で偶々、姫路に住んだだけなんだけどね。
吉田町は、赤松姓が多い。播磨赤松とは無関係なのかも知れない。
30 :
28:2006/05/10(水) 21:59:18
>>29 詳しくは知らないけど、播磨赤松との関わりを伝えてたんじゃなかったかな?
吉田町の国府寺氏なんかも系図では播磨出身をうたってるはず。
31 :
29:2006/05/10(水) 22:41:18
32 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 02:31:43
33 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 06:29:27
>>22 >民俗学者の赤松啓介も赤松の末裔なの?
当人はそう書き残している。本名は別の苗字らしい。
元は赤松の支族として名家扱いされていたが、啓介が共産主義者として捕まってしまったために
「主義者を出した家系」として差別されるようになったんだとさ。戦中の数年のことらしいが。
34 :
28:2006/05/11(木) 22:36:02
>>31 置塩赤松氏は置塩城を退去して阿波に移るんだけど、その後のことはよく分からないんじゃないかな?
吉田町の赤松氏は吉田藩陣屋のある立間尻村の庄屋だったはず。
陣屋跡にある資料館で赤松氏関連の史料集が売ってるよ。
4年程前に行ったからもう売り切れてるかもしれんけど。
国府寺氏関連の史料集も売ってた。
私はその時お金がなかったから買ってないんだけどね。
35 :
29:2006/05/13(土) 22:34:38
>>32実年齢ですよ。お母さんはアヤヤにそっくり。次女の琴ちゃんはちょっと地黒かな。
>>34吉田町に立間って有るよね。違うのかな?庄屋か、自分のルーツって不思議ですね。
36 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 22:47:10
37 :
28:2006/05/13(土) 23:23:42
>>35 立間は立間尻からすこし谷に入ったところですね。
>庄屋か、自分のルーツって不思議ですね。
近世に庄屋をしてた赤松氏の直系かどうかはわかりませんけどね。
でも、なんで吉田から姫路に移住したんでしょうか?
38 :
35:2006/05/13(土) 23:29:06
>>37田舎だから働き場所も無かったののではないかと思います。
建治年間以後の播磨守護は北条一門がついていたはず
赤松の入る隙はないよ
40 :
日本@名無史さん:2006/05/14(日) 23:14:21
41 :
28:2006/05/14(日) 23:55:48
>>38 あ、失礼。
そーゆー意味じゃなくて、なんでまたあえて播磨に戻って?きたのかなぁ、と思ったわけです。
もっと都会に出てもよかったはずなのに、やっぱり播磨に縁があったのかなぁ?
>>29 そのT小学校のあたりの城は黒田如水の弟が
一時期収めてました 開いたのは赤松分家 赤松則村だっけ
小寺の城の北の押さえですね
なので実家の赤松家がその辺にあってもおかしくはないかもです
43 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 05:45:11
>>15 >>16 >>17 ◆御一家衆・・・本家に次ぐ地位で、足利将軍の直臣になっていたのもいる
七条家、伊豆守家、播磨守家、有馬家、上野守家、在田家、本郷家、
広岡家、永良家
◆御一族衆・・・前者よりはワンランク下扱いの赤松一族
別所家は16世紀後半に台頭したことは周知のとおり。
下野守家、遠江守家、能登守家、宇野家、間島家、上月家、別所家、
佐用家、豊福家、得平家
◆年寄衆・・・赤松一族以外の重臣
御一家衆、御一族衆の分家もある
浦上家、喜多野家、富田家、小寺家、中村家、上原家、堀家、櫛橋家、
依藤家、明石家、薬師寺家、城所家、後藤家、衣笠家
上記は33家ですが、他の3家を加えて「赤松三十六家」と表現している
資料もあります。
44 :
日本@名無史さん:2006/05/16(火) 06:06:47
赤松一族八十八家なるものもあるらしいね。
後南朝の皇族を殺して御家再興する執念が素敵。
46 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 19:48:01
赤松の遺臣たちが吉野の後南朝に召使いとして入り込んで、
長年勤めて信用させて、それなりに昇進して、
偉い人たちと会える身分になったところで謀反を起こして後南朝の皇族を
皆殺しにして、首と神器を京都の北朝に持っていったんだよね。
47 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 02:16:38
>>45 赤松って南北朝分裂後も北畠とは親しいのにね。
48 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 02:18:02
>>43 >◆御一家衆・・・本家に次ぐ地位で、足利将軍の直臣になっていたのもいる
>七条家、伊豆守家、播磨守家、有馬家、上野守家、在田家、本郷家、
>広岡家、永良家
というか、こいつらはほとんど室町幕府の奉公衆のような気が・・・。
姫路に別所町てあるけど
赤松の一族の別所氏と関係はあるの?
三木にも別所ていう地区はあるけどさ
>>49 同族 三木別所の分家筋が姫路別所でそこの家老家が小寺
小寺が台頭してきて姫路別所城主
小寺の家老で姫路城築いたのが黒田官兵衛と官兵衛の父親
51 :
49:2006/05/23(火) 00:10:26
54 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 14:29:38
御着
55 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 18:30:52
しっかし、将軍暗殺の汚名を着てしまった、満祐は悲惨だね。
義持の男色相手に惣領家を挿げ替えられそうになったんだっけ?
満祐は怒って、京の屋敷を焼き払い、自領へ・・・
そして、義教にも・・・弟の領地を取り上げて庶流の貞村に与えたんだよな・・・そして惣領家の地位も・・・
56 :
53:2006/05/24(水) 22:14:35
57 :
50:2006/05/24(水) 22:15:33
>>55 もともと赤松が播磨一帯で勢力を広げられたのは
婚姻もありますが「親戚の親戚はみな親戚だ」作戦で全て同祖同族として取り込んだことが
一番大きいですから
悪党(正規の守護認可されていない意味)として親楠木の太平記で悪人にされているのは悔しいことですね
そして応仁の乱
衰退しても盛り返して戦国、江戸期を生き延びた赤松一党はえらい
小寺なんて池田姫路藩でちゃっかり仕官してますし姫路市長もだしましたし
58 :
50:2006/05/24(水) 22:46:24
>>56 御着城は茶臼山城とも天川城ともいわれています
本丸跡地に天川神社小寺大明神が祭ってありますけれど 「天川城主小寺〜」みたいに書いてあります
西には黒田家廟所がありますね
『播磨鑑』に入り江に皇后の舟が接岸して荷を運んだため御着と言うようになったとあります
夢前も市川も氾濫するために姫路城周辺の支配地はわりと取れ高が安定しないわけで
旧飾東郡(飾東から見野のあたりまでのこと昔の海岸線)を流れる天川は小さい分氾濫しにくいため
永承十六年(1519)小寺政隆が隠居のために築いたのですが
赤松宗家が衰えたので一族の別所が三木城メインになり中播磨は御着城の小寺勢力が大きくなり
三木一族は英賀城(英賀保)を基盤としました
播磨の戦国期三大国人城といわれていますね
・・・・名前混じりすぎですがw
天川城は長さ110間、横80間。古城は本丸・二の丸ともに60間4方なりと『播磨鑑』にありますので
縦190m幅130mの三の丸 本丸二の丸ともに100m×100mくらいですね
天川と引き込んで北・東は四重 西・南は二重+天川という堀の構造だったようですね
携帯から失礼します。くわしい方教えてください。赤松政則の頃はかなり広い版図築いてたのに義村の代でなぜ没落したのでしょうか?
60 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 23:42:29
>>57 >悪党(正規の守護認可されていない意味)として
鎌倉期の赤松は確かに得体の知れない悪党だけど、
建武3年以降は、室町幕府が任命した正式な守護なのでは?
>>59 政則の代の末期の段階ですでに下克上の兆しはあったよ
62 :
50:2006/05/25(木) 20:38:06
>>60 太平記での話ですよ
後醍醐天皇が播磨をお気に入りの新田義貞に与えようとしたので武力で追放し
後醍醐帝と反目していた足利尊氏に播磨守護認可のみかえりとして後醍醐帝の後背を脅かす
と密約を結んだとされてて
楠木正成候が帝の命令なのに裏切行為だと非難する
なんてシーンがありますから
まあ、今では赤松の子孫だなんて人間がいても、地元の播州ではふうんで
済まされるだろうな。黒田の子孫のほうが一目おかれる。
65 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 20:57:59
山名の子孫で、播州に住んでいますが何か?
66 :
53:2006/05/28(日) 22:32:27
67 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:13:44
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i ./ i , /l / l.l ! 、 ト、゙i ,ヘへ、l ヽ.ト、|、 /
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! l l | ! |、`' ,,,,,_ ヽ、l\l-i' ,,==、"~! i"ヽ
. ヽ! ヽ|,/l゙、! l / `i l──|. { ●l. | )|
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ヽ ヽ、._l_`=='",.ノ '~ ヽ、`ー" _.l_//
ヽ、.__,l  ̄ 人 ノヽ  ̄ /、‐'´
T`'''i, `ー" \__,/'´‐-ヽ
_ .}, `ー--ー'''" /
_,,.. -‐'ヽ `x, _,,.x=" |`‐- 、.._ くこか?
/ i / /_ 7`ー'" _.\. | i ヽ、
/ l / | /||\ / ̄ ! | !
68 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 00:18:33
んだ
というか 赤松にしても黒田にしても山名にしても
本当の子孫は少ない。
殆どが明治の新姓。
播磨に住んでるから「赤松」にしようとか、
昔 黒田の殿様の領地だったから「黒田」にしようとか
そんなノリ。
だから、殆どの人は子孫でも何でもないよ。
特に赤松氏は嫡流が関が原で途絶えたから。
置塩城の総領家は、子供なしで切腹して断絶。
血筋的には嫡流と言える龍野赤松家は、
子供はいたが女子のみで切腹して断絶。
哀れに思った赤松一族である有馬豊氏が、龍野赤松家の
女児を自分が懇意にしている但馬の庄屋に嫁に貰ってもらうよう
依頼して、生活苦にならないように配慮したらしいが。
その家系もはっきりとは残っていないから、正当な子孫は途絶えたまま。
71 :
日本@名無史さん:2006/06/26(月) 03:43:50
置塩城跡に立派な白亜の五層天守閣を建てて、
山麓から山頂までドライブウェイを開設すればいいと思いますけどね。
暗君赤松のなんてかえって迷惑
実は俺の息子が赤松だよ
74 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:22:35
>>62 >楠木正成候
「侯」でも「公」でもなくて「候」って何よ?
75 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 03:52:16
楠木正成は早漏
76 :
日本@名無史さん:2006/07/11(火) 00:20:45
まじ
w
赤松のようなゲロウを差し置いてw
楠公のほうが1000倍まし
必死だな
オソ松のほうが必死だろw
ほらね
82 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 19:25:07
あげ
83 :
日本@名無史さん:2006/08/28(月) 20:44:34
|;;;;;;;;;;;;:;;;;;;;;;;;;; | )
〔i_二八二二二i〕 ) 誰ぞ、ネタを投入してくれぬか!!!
{ r' ⌒-、ノ ,r‐l| ) (※満祐・教康親子も登場!義教を討てるか?!)
,-l l ‐=・=´;;l;;;;;;ト, ノ_
ヽl l ', ,_ ! ,'ノノ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
ハ. l r'"__゙,,` l|
. / lヽ ノ ´'ー'´,ハ___ , -‐ 'フ ̄ヽ
_,<´ l ヽ,,,,二,,,/ トへ / / | 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレB
, --,.─ヶ┴‐,‐‐--‐'´ / /_ノ |
ttp://p2.chbox.jp/read.php?host=academy4.2ch.net&bbs=history&key=1154227935&ls=all / フ´ /彡'´ /
/ / \ 、 /
// \ー--=―┬‐' ビシッ!
| 丶 \/ ,| |
6代将軍・足利 義教
糞足利将軍よりも
南朝の皇子弑逆の大罪の方が大きい
この家滅んだのも道理
永遠の朝敵
俺は後南朝スレの住人で玉川宮の末裔だ。
糞赤松は永遠に呪われろや!
・・・もしかして、本能寺の秀吉陰謀説みたいに。
赤松を討った、山名宗全が満祐を精神的に追い込んで義教を弑逆させて
逆賊の名の下で赤松を討ち果たし、そして遺領を丸々ゲット。
領地を増やして、幕府での発言力を増した所をみると・・・実は・・・なんてw
満祐が解任された侍所別当の後任は宗全だしw
嘉吉の乱では義教と共に参列して、脱出・・・義教の信頼に厚いが逃げて赤松を討ち果たす所があやしいな〜
同属の山名熙貴(因幡守護家、義教近侍)は、残って奮戦したのに・・・
惣領として犬死を避けたかったのかも知れないが。
87 :
日本@名無史さん:2006/09/15(金) 12:52:28
88 :
日本@名無史さん:2006/09/26(火) 02:11:38
赤松
>>85 ご愁傷様です
まあ現在の天皇家のかたでも族子のひとなら特権ありませんしね
タクシー会社の部長と結婚された人もおられますし
末裔の末裔のかたでしたら結局ただの人ですな
90 :
赤松俊弘:2006/09/27(水) 17:24:28
赤松
91 :
日本@名無史さん:2006/10/03(火) 14:30:56
燃える赤松播磨を守れ
92 :
日本@名無史さん:2006/10/17(火) 03:20:54
>>91 塩屋崎山の陣で死んだので、もう守れません。
別所家を守るために周辺の土豪が一斉に荷担したのに対して
赤松を守ろうとしたものなどほとんどいない件について
置塩城の赤松総領家は力を無くしていたからな。
龍野赤松家は戦わずに降伏したし・・・・・・
佐用赤松家には多くの土豪が味方したぞ。
95 :
日本@名無史さん:2006/10/29(日) 18:38:28
小寺家から出た市長って、神戸市長じゃなかったっけ?↓
第11代神戸市長・小寺謙吉氏(昭和22〜24年在職・初代公選市長)
姫路市長も出たの?後小寺本家は現在天川姓を名乗っておられるようですが。
96 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 06:25:15
97 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 03:25:16
あげ
>>96 意味不明。
別所のケースは、信長の進出が土豪たちの播磨ナショナリズムを刺激したとでも主張する気か?
99 :
日本@名無史さん:2006/12/08(金) 10:16:40
別所の場合は、秀吉の無礼な態度に憤慨。
柴田との喧嘩とか、秀吉が天狗になっていた時代。
>>99 で国人が三木城になだれこんだのには龍野〜加西〜明石の諸城下町を焼き払っていったこともある
秀吉は農民には容赦するなとして田畑や村領民を巻き込んで焼き払ったため土豪が三木になだれ込んだ
毛利方で親戚筋の別所と京を支配する織田の両方にいい顔をするために
秀吉に馬を送り三木城には兵糧を送るっていうのは生き残るためには普通のことでしたが秀吉がとがめたんですな
・・・城郭研究センターや村の古老などに逸話や資料が多少のこってありました
>>100 日本語が下手すぎて文意を汲み取りにくい。
足利将軍・義教を暗殺しなかったら
男色相手の貞村に惣領の地位は奪われたのかなぁ〜?
それとも播磨守護職を貞村に挿げ替えられだけだったのか・・・?
山名惣領・持豊に対する因幡家・山名熙貴、細川京兆家持之に対する阿波家・細川持常
一色惣領・義貫に対する一色持信(義貫の弟)など
一色義貫は成敗されて持信の子に継承されたしね。。。同様の成敗劇で細川持常も三河守護を拝領したし
惣領家に対する弱体化を狙うのは将軍家の権威拡大には当然の人事ではあると思うけど・・・
勢力が大きく、京からも近い位置にあったから、いつかは
他の守護大名と同じ末路を辿ったかもね。
104 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 02:52:05
義教は武家諸法度もないくせに大名を滅ぼしすぎ。
105 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 19:49:18
まさに嘉吉の乱後の赤松討伐戦で、
則村系・幕府方(赤松貞村、満政、有馬持家、持彦)VS範資系・反幕府方(赤松満祐、教康、義雅、祐尚、孝橋則繁)
の対立構図になっているのだね。。。
ちなみに、幕府方として赤松満政が論功行賞で播磨東三郡(加東、美嚢、印南)を宛がわれたが、後に幕府に領地召し上げを喰らい、
加東市・三草山で挙兵したそうだけども。結局播磨守護・山名宗全に宛がわれる。
召し上げの原因が、播磨守護・山名宗全の播磨全領を狙っての讒言・・・?
一方では、満政が播磨全領回復を野望して・・・?
どうなの?詳しい人教えて!
108 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 19:53:42
俺は姫路の御立って所に子供の頃住んでいたが、当時友達で書写山の麓の横関
って所にいた友達がその上級生と二人で、俺の家に泥棒に入った事が有る。
当時はのどかな田舎町で近所の人も出かけるときも鍵を掛けない家が多く、
俺の家もそうだった。
だから自業自得なんだけど、その友達の上級生と言うのが赤松って名字で代々
横関では地主の家柄らしく、その子供が泥棒をしたと言うので結構騒がれて、
その両親が誤りに来たのを覚えてる。近所にはこれまた地主で置塩って名字の友達も
住んでいたし、あの辺りは結構そういう家が多いのかもしれない。
109 :
日本@名無史さん:2007/02/02(金) 18:07:28
赤松持貞
\ ||ー――-、,,__,,,,――|l/ 足利 義教 .;.;::;:;;:;;:,;,,;:;:;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,;,
/:/l::|:::::::‐=・=ヾ' ;;''=・=‐.ll . _,,;-‐''"~ .:..::..,....::.,.;:;..,:.:;;:,,.;.;::;:;;:;;:,;,,;:;:;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,
⌒‐-,,,,_ /:/ヽl|:::::::::::'´ | ::::::::::llリ/ヽ __ \_ `‐\___/::::::/ // ̄^.;;;;;;
ヽ/ ヽ. l|:::::::, ' ! :::,'l||:::::::::::::ヽ ./ ○ ヽ、 / `-_______________,,,______// ○ \
く:::::::::` |:::''´ _,,, 'ー、r' ::::,'||::::::::::::::::::ヽ / \,,,--―''''''''''''''''''''''-―-ー / ヽ
ヽ:::::::::|::::::::l´ャ―-―ァ'l::,l,___/.. ⌒‐-,,,,_ /:/ヽ-\-,,,,__,, -/ーー-|| _,, ;-‐''"⌒~~~
ト、::l ` ̄ ̄ .l,l. /\ . ヽ/::::|| (●) (●) ::::;:|| /:::::::ヽ.;:;..,:.:
,,| ヽ|:::::::::::: ̄:::::|/,,,,__ /,、 ./\ /:::::::||. \___/ ::::::::;;:||::::::::::::::::::::: ヽ;;:;;
 ̄ ̄天 ̄天 ̄| ,、ニttttttttttttt'::::::ヽ、 /.、 .ゝ,/::::::::::: く:::::::::::ヽ. .\/ :::::::::::::;;:ソ :::::::::::::::::.:..::;;;;;;;;
zzz,、-ヾヽ┴(~ヾ, ''''' , ></ ゝ,ノ/::::::::::::::/ ,;,,;:;:;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;
,,」 ヾヽ |l:l:|::ヽ、__,,,、r'" //( ) /::::::::::::::::/:::::: .:..::..,....::.,.;:; 足利 持氏 ;;;;;;;;;;;,;,;;;;;;;;;;;;;;;;;;,;,;;;
室町幕府(足利義教) VS 鎌倉公方(足利持氏)決戦!! いよいよ終幕へ・・・
赤松満祐も登場!!
「足利義教と共に苦難を乗り越えるスレ(ディレクターズカット版)」
http://asikagayosinori.web.fc2.com/index.html お暇なら見てください・・・
111 :
◆choco.get. :2007/02/14(水) 12:37:20
テスト
112 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 14:49:12
お首のせ岩で拝謁したが我等の誇り。尊義、忠義、今の世にあり哉
113 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 03:13:10
>>107 その3郡は、明石・三木・印南じゃなかった?
114 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 07:18:48
明石・三木・稲美
それが郡かよ?
116 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 03:56:28
三木郡=美嚢郡の別称
稲美郡=印南郡の別称
117 :
日本@名無史さん:2007/03/24(土) 18:06:48
明石郡には別称あるん?
118 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 19:16:12
>>117ないな。
美嚢(ミナギ)→三木(ミナギ)→三木(ミキ)
稲美町は加古郡だから、印南郡とは関係ないような???
119 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 19:24:15
そもそも後醍醐に対抗して持妙院統を担ぎ出すように尊氏に進言したのは円心だよな
120 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 21:40:20
印南郡自体が近代には加古郡に統合されたんじゃない?
121 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 22:02:39
>>119まぁ、村上源氏の異端だよなぁ
>>120印南郡は加古川右岸だから、稲美町は関係ないのでは?
122 :
日本@名無史さん:2007/03/26(月) 04:24:43
多可郡(・∀・)!! 多可郡(・∀・)!!
未来都市、多可郡(・∀・)!!
希望都市、多可郡(・∀・)!!
123 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 15:50:59
加東郡は加古郡が東西に分かれたものの東側?
124 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 16:15:49
125 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 17:01:49
>>124 どうして加茂郡じゃなくて賀茂郡なの?
加茂郡が東西に分かれると加東郡&加西郡、
賀茂郡が東西に分かれると賀東郡&賀西郡、
って気がするけど。
赤松範資って、赤松則村の長男ではなくて、
従兄弟だという説があるんだけど
どうよ?
127 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 21:07:15
佐々木道誉って
どうよ?
128 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 21:48:07
>>125過去レス見て気付け。美嚢が三木とも書かれるようになったのと同じで、賀茂郡も加茂郡と書かれるんだよ。
漢字地名は大和詞の当字。佳字二字化により特に元<漢字一字の地名>にそれは顕著(この地は元<鴨>)。つまりどっちでもいい。三河国加茂郡と被らないように賀茂にしたんだが、画数の少ない加茂が多用され、東西に分割された頃は加茂が主流だった。
これくらい学校の先生に聞けや!
129 :
日本@名無史さん:2007/04/01(日) 21:56:53
>>128 >三河国加茂郡と被らないように賀茂にしたんだが、画数の少ない加茂が多用され、
>東西に分割された頃は加茂が主流だった。
ねえねえ。じゃあどうして三河の加茂郡と被らないことだけ考えたの?
伊豆や美濃や佐渡や安芸の賀茂郡(加茂郡)と被ることについては考えなかったの?
どうして?
130 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 00:37:47
>>129確かその4つの賀茂郡て、和名抄の頃は無くて、後から出来たんだべ。つまり後世では気にしないかったんかも。
近江愛知郡と尾張愛智郡のように漢字を変えるのが普通では?
131 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 03:49:23
>>130 近江の愛知(えち)郡も、尾張の愛知(あいち)郡も、
前近代の史料ではともに「愛智郡」と書かれることが普通にありますが、何か?
132 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 05:23:44
>>126 そのことは、わかるように書いてある系図もあります。
範資は、則村の兄だったか弟だったかの子で、則村の養子になったという説が
有力です。
範資の没後に、則村の実子(三男)・則祐が赤松家総領になって、範資の子・
光範が北摂の守護代になったのは、そのためと思われます。
しかし、範資の次男・朝範は則祐の楢子(ゆうし=養子に次ぐ地位)になって
朝則とも名乗っていますので、則祐はそれなりに範資の子たちに気を配ってい
たのではないかと思います。
133 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 10:27:31
範資と則祐って、読みはどちらも「のりすけ」ですか?
134 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 02:40:18
>>133 どちらも「のりすけ」です。
しかし、則祐は「そくゆう」と読むこともあるようです。
135 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 09:31:51
やだわぁ、のりすけさんったら
136 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 20:57:51
>>134 則祐は法名ではないのですよね?
確か法名は別にあったと思うし。
137 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 01:31:56
>>134 則祐は本名です。法名ではありません。
父の則村の場合は、本名よりも法名の「円心」の方が有名ですね。
則祐も僧姿の坐像が残っていて、出家してからも活躍していたようです
から、当然、法名があるでしょう。
138 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 23:46:22
おのれ、赤松の残党!
我等が護りし二皇子をよくも、あやめたな。首だけは取り変えしてもらうぞ
139 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 16:43:53
則祐の法名は妙善。
140 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 23:52:39
141 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 01:51:39
母方の実家が赤松家の流れを組むと昔から聞いてたんだけど
母方の姓は「牛尾」
赤松と牛尾の関係に詳しい方おられます?
142 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 09:11:22
直原
牛尾・・・牛尾・・・
加西方面かな だったら
則祐(則村だったかな)の墓とされるのが法華山近くにあったりする(異説有り)
のでその関係かもしらん
145 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 12:27:18
のりすけage
146 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 18:09:09
上月城
147 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 02:12:59
名古屋城
148 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 20:03:54
赤松家の居城は今でいう広島県だろ?姫路にも別邸があったとか?
149 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 21:32:30
白旗城じゃねえの?
150 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 06:26:11
赤松氏は播磨が根拠地で、備後安芸は支配したことすらないだろ。
151 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:45:08
播磨と摂津は隣りどうし?姫路は摂津だろ?
姫路は播磨
夏だなぁ
153 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:27:19
都道府県名も昔のように蝦夷地や摂津、播磨とかに戻せばいいのに。良く考えると宮崎とか長野、新潟って変だよ
154 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:28:34
明治からだから仕方ないのか
155 :
sage:2007/08/13(月) 22:17:00
実家が小寺姓で近所にも小寺がいくつか
あってみんな親戚、その親戚で持ってる土地の面積が半端ない
近くには200年からなる黒田の姓とかがあるんだけど
何か繋がりあるのかな?
場所は姫路市の南西です、詳しい人何か教えて頂ければ幸いです
156 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 22:21:28
sageれてなかっt・・・_(._.)_
小寺氏の子孫じゃないの?200年からなる黒田さんとやらが
如水会に入っていたら如水の子孫だろう。
158 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 18:00:38
有栖川皇尊(船橋市議会議員)は有栖川宮の子孫
159 :
日本@名無史さん:2007/10/01(月) 23:24:24
俺の先祖は赤松氏だと祖父に聞いたことがある
実家は鹿児島県の志布志というとこで姓は中村
成人して父親に「昔、祖父さんから祖先は播磨の赤松氏だと聞いた」と言ったら完全否定された
姓氏辞典に嘉吉の乱で九州に逃れた赤松氏の重臣で中村某がいたというのは読んだことがある
それと同じ町に赤松さんという人がいてかつては実家となにかしら繋がりがあったようだ
そこに当時礼子さんという美しい人がいた俺の1つ上だったけど
と下らないことを書いてしまった
自分でも信じてはいないんだけどね
でも自分の中で赤松一族であるということが小さい頃からのなんていうか誇りみたいなもんだった
赤松の子孫名乗ってる家なんて姫路にいくつあるやらw
播州門徒の子孫のオイラが言ってみる
播州に残ってる赤松の末裔のほうが宗家からは遠いかもな。
まず姓が違ったり、代々の家紋がない時点で疑わしいね。
162 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 05:04:26
俺も赤松家の末裔ということになっている家の者です。
姓は赤松ではありません。ちょっと珍しい性で、兵庫県内陸部の一部に見ら
れる性です。交通機関が発達した現代では、あちこちに引っ越した人やその
子孫がいたりして、性と土地の結びつきは薄らいでいますが、珍しい性に変
わりありません。
その珍しい性の本家(赤松家から分家したといわれる家)は、
一族の菩提寺にある石碑によると、
赤松義村の弟だか子供が分家したことになっています。
しかし、赤松氏関係のいろいろな本や資料を見ても、私と同姓の人物はもちろ
ん、最初に分家したとされる人物の名前すら出てきません。
同じような人はけっこう多いのでしょうか?
赤松氏のように、山間の土豪から成り上がって、途中で没落したり、復興した
あとで衰退したり、阿波住吉へ移った後の総本家(置塩城主)の様子が詳らか
でなかったり、更に、江戸時代をはさんで事実がますますわからなくなってと、
このような一族は、明治に誰もが苗字を名乗れるようになると、誰が「子孫だ」
と言っても嘘だとわからないと思います。
新田氏の支流・得川氏の子孫とかな。
(松平氏が徳川と名乗った経緯のことだが)
>>162 鎌倉時代の赤松一族も含めての子孫の数を推定するととんでもない数で、
記録に残ってない女子も山ほどいるし、嫁いだり、土着したりで姓が変わる
こともあるし、中には庄屋など武士でなくなった人もいるので、資料に見えな
くても可能性がないわけではないよね。
一般的には女系は余程名のある家に嫁がない限り記録に残ることはほとんど
ないしね。これは別に赤松一族に限ったことではなく、繁栄した家系ほど
子孫の数も半端じゃないしね。
義村の名前が見えるってことは七条赤松家の女系かもしれないね。
というか 赤松にしても黒田にしても山名にしても
本当の子孫は少ない。
殆どが明治の新姓。
播磨に住んでるから「赤松」にしようとか、
昔 黒田の殿様の領地だったから「黒田」にしようとか
そんなノリ。
だから、殆どの人は子孫でも何でもないよ。
特に赤松氏は嫡流が関が原で途絶えたから。
置塩城の総領家は、子供なしで切腹して断絶。
血筋的には嫡流と言える龍野赤松家は、
子供はいたが女子のみで切腹して断絶。
哀れに思った赤松一族である有馬豊氏が、龍野赤松家の
女児を自分が懇意にしている但馬の庄屋に嫁に貰ってもらうよう
依頼して、生活苦にならないように配慮したらしいが。
その家系もはっきりとは残っていないから、正当な子孫は途絶えたまま。
「本当の子孫」って何?
置塩屋形の系統だけで赤松を論じるのは視野が狭すぎる。
赤松一族の播磨一帯での繁栄は想像を絶すると思ったほうがいい。
もちろん派生した姓も腐るほどある。
そもそも赤松系図そのものがかなり大雑把なんだから、何をもって
正統かとする定義すらない。嫡流が途絶えてるんだから当然の話。
そもそも置塩にしても七条から養子をもらって存続したくらい。
その七条は正統な子孫が残っているよ。
言葉尻になるが「本当」と「正統」の意味は全く違うよ。
付け加えるなら、久留米有馬家も途絶えていて、石野家(七条赤松の末裔)
から養子をもらうことで男系として存続できた。
これは豊氏の父の有馬則頼の娘と赤松氏満(石野祖)が姻戚関係にあったからで、
言うなれば一滴だけ則頼の血が入ってるだけで、完全に七条赤松の血統と言っ
ても支障はない。
中山靖王劉勝の末裔(劉備が称した時に数万人もいた)に価値がないのと同じで、
円心からの血のつながりだけでも腐るほどいる。
少なくとも先祖伝来で伝わってる伝承話があれば、どこかしらで繋がってる
可能性があると思ったほうがいい。
ちなみに明治期になって「播磨に住んでるから赤松にしよう」
ってのはあまりなかったと思っていい。それくらい赤松姓は少ない。
それでも播磨が他の地域に比べて多いのは、一族が繁栄していたからで、
明治期にはそもそも逆賊としてタブーだったんだから、末裔でもない
者が好んで名乗ろうということはほとんどなかった。
播磨以外の地域なら尚更名乗る理由はないしね。
石野のように土着して別姓を名乗りながら復したり、元から姓が赤松
のままか、女系から改姓したという可能性があるが、一族の繁栄ぶり
から考えるとそれでも少なすぎる。
赤松研究は特に資料面でまだまだだし、考証の余地が十分にあるから、
>>162のように単なる自称でなく、糸口がある人の意見は貴重だよ。
是非研究して、子供達にも伝えていって欲しい。
2ちゃんとは思えないほどのまともな意見にワロタ。
これが2ちゃんの本来あるべき姿だよw
>>166 必死なのはいいんだけどさ、思い込み激しくない?
子孫であるかどうかは客観的な証拠が揃ってるかどうかだよ。
系図であったり、菩提寺の過去帳であったり、先祖伝来の家宝であったり
しかも、それらが本物であるとされて初めて、子孫と名乗れるし
周りからも認知される。
墓がある程度では、周囲も含めて納得させる客観性はない。
「途中で捏造したんじゃね?」って言われるだけだ。
あと、明治新姓云々のくだりだが、これも思い込みが激しい。
赤松が逆賊だから名乗ったのは少ない?
んな事はないだろう。
俺のひいばあちゃん(赤松家の一門の子孫と自称)に聞いたが
お寺の坊さんとかが結構適当に姓を付けたようだ。
で、「赤松」を詐称したのも多かったんだとさ。
ひいばあちゃんは、赤松の本拠地の苔縄出身でな、赤松一族の
考橋家の血を引いていると言ってた。
戦国時代に没落して、帰農して明治までずーっと百姓さんだったとさ。
何も証明するものは残ってないから、自称だけどな(笑)
>>166 言葉遊びが好きみたいだな。
家を継ぐという考え方は確かに色々ある。
血筋とか言い出したら、あんたの言うようにきりが無い。
歴史学的に考えると、時の幕府に承認されたのが、正統で本物さ。
だから、置塩城の赤松総領家の直系の男子系子孫が「本当の子孫」だろう。
いないけどな。
お家断絶だからよ。
赤松家の場合は、円心が家を興すまでは正直どこの馬の骨かわからんような存在。
円心が3男の則祐に家督を譲り、この家が総領家になった。
嘉吉の乱で滅んだが、政則によって再興された。
時の幕府に承認されたんだから正統で本物。
だから、赤松総領家を継いだ子孫が正統であり、本物なのさ。
七条家も有馬家も分家だが、義村みたいにちゃんと養子に入って家督相続してれば
問題は無い。
有馬と石野がうんぬんは赤松家の話じゃないからスルーする。
赤松一門の有馬家の話だからな。
>>170 それじゃお前の言う本当の子孫は少ないのでなく、
赤松にしても別所にしても小寺にしても浦上にしても
一人もいないことになる。
旗本として存続した家は十分に認められたと思っていい
と思うけどな。野武士では旗本にはなれないし、大名に
なれなかった家の中で功績残した家への救済みたいな
もんだったんだから。
それに「俺もしかして子孫かも」って言ってる奴の口を封じて
何が楽しいんだかわからん。
暗に「お前は馬の骨だよ」って言ってるようにしか見えない。
どうも話がズレてきているな。
「ほとんどが明治の新姓で、元々姓がなかった層」
という部分については実際そうだし、誰も否定はしない。
武士は人口の3割程度しかいなかったんだから。
(ただし、商人や農民のみんなが姓がなかったわけではない)
だが、
「“幕府”から正式に認められていないから子孫でない」
というのはおかしい。なんで置塩と龍野にこだわるのかがわかったけどね。
そもそも戦国末期に入ると幕府そのものが瓦解してるし、守護すら任命していないんだから、幕府もクソもないでしょ。
龍野赤松家にしてもどこの血統か説がいくつもある。(政則の庶子の血統というのは確定しているわけではない)
龍野も独立勢力で、最後の斎村政広がようやく正式に知行を得たに過ぎないし、別に置塩の後として認められたわけではないし、
赤松総領家を継いだわけでもない。則房がいたし、そんな意識すらなかっただろうね。
浪人ならいざ知らず、“旗本”ならば由緒ある氏を名乗るなら、馬の骨では認められない。
赤松氏の場合は石野姓から復した七条家がそれに当たり、別所氏の場合は改易後の血統がそれに当たる。
いずれも旗本だから江戸期に認められている。
これが今では赤松氏や別所氏の正統と言えるのではないだろうか?
まして
>>162のような話を論外扱いしている意味を感じられない。
正統云々以前の話で単に自分のルーツ探しのレベルではあるが、義村の名前が出ている所など十分に面白い話だと思うがな。
大名としての赤松家が滅んでることは誰だって知ってるし、信憑性がないことは百も承知だろう。
>>169の曾祖母の話だって面白いじゃないの。どうして赤松の末裔を名乗るに至ったのかとか。
>>165>>170のような考え方だったり、ひたすら証拠のみにこだわり、子孫などいないって否定だけしていたら、
研究は一歩も進まないよ。
それが君に対して一番言いたいことなんだけどね。
>>162に対しての否定文にしか見えなかったからね。
たしか有馬と龍野赤松の女系話は他でも書いてたでしょ?
男系で旗本である赤松家とは姻戚関係を持つくらい交流していたんだから、当時いかに男系による血統を大事にしていたか
想像に難くないね。
>>169 タブーについては極論が過ぎたかもしれないが、存在したのは確か。
逆に後醍醐帝を救出しただけの名和家が、いきなり華族に列せられたような世の中だよ?
赤松氏に関する研究も戦後になってからようやく始まり、太平記でさえ大河ドラマとしてやれたのは、
ずっと企画として挙がっていながら昭和天皇が崩御してからようやくだった。
新姓については実際寺でつけたケースが多いから、同じ姓が多くなってるようだし、僧侶が適当に領主
や旧領主の姓をつけてあげたケースだって多いだろうけどね。
それにしては赤松姓が数において少なすぎるのが疑問になってしまう。
播磨に住んでいても見たことがない人だっていくらでもいるからね。
>>169 あと、君も思い込みが激しいから付け加えておくと、誰も
>>162や君を子孫として正式に認めろなんて一言も言っていない。
それに
>>165の言い分だと置塩の後継のみが正統になってしまうからね。
子孫かもしれないって逸話付きで語っている人達を封殺するのを度々見かけるから釘を刺しただけだよ。
どこからどこまで把握しているかわからないから端から端まで書かないといけなくなり、結果長文になるのは仕方ない。
雑多になってしまって読みにくいことに関しては申し訳ない。
176 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 00:47:06
著名な赤松研究家が何人か早世して、研究が遅れたらしいね。
若い連中で頑張らないと。
姫路城の昭和大改修のときに酒井候によばれた
元姫路藩士の子孫たちの中にも
赤松氏族末を称するひともいるわけで
そういう人たちの家系にのこる逸話なんかも研究しないと
わからないかもねえ
姫路城の昭和大改修のときに酒井候によばれた
元姫路藩士の子孫たちの中にも
赤松氏族末を称するひともいるわけで
そういう人たちの家系にのこる逸話なんかも研究しないと
わからないかもねえ
捏造自称子孫の言葉遊びには呆れるな。
お前らの言い分が正しければ、今の千種川流域の住民は殆どが赤松の子孫になるわ(笑)
あの辺は「先祖は赤松だ」という奴ばっかでさ、赤松姓を名乗る奴も多い。
赤松家はお家断絶で子孫なし。
赤松一族の有馬家のみが大名家として明治維新まで存続。
有馬家の子孫が「赤松」と名乗るのはまだ良いと思うが、捏造レベルが名乗るのは許しがたいな。
自称子孫を認めると何でもありになってしまう。収拾が付かなくなる。
181 :
日本@名無史さん:2008/01/14(月) 08:31:49
石野家はあれだろ、有馬か別所の分家だよね。
まあ、赤松一族には違いないから名乗るのは良いだろ。
正統な石野家の子孫ならな(笑)
自称・捏造は駄目だぞ。
千種川流域の人間だが、そんなに赤松って多い気がしないな。
183 :
日本@名無史さん:2008/01/21(月) 02:13:55
DNA鑑定して決めろ。
それが全てだ。
まぁ、「うち源氏」「うち平氏」って言うのも昔流行ってたし、
そんなのに比べればなw
DNA鑑定とか、何かの遺産争いじゃあるまいしw
石野家は円心の長男範資の末だから、義村以降の赤松家に近い血筋だな。
18世紀に赤松家として幕府に認められ、復しているね。
赤松姓で正統だとしたら、この家系ということになるし、兵庫県ではないね。
石野系赤松は東京と千葉だからね。
185 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 15:21:09
今赤松姓の有名人は漫画家と野球選手しか知らん。
186 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 16:08:42
187 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 12:48:46
つまんね
188 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 20:31:37
旧赤松領地は今は山口組の支配地
燃える赤松播磨を守れ
私も先祖が赤松氏←村上天皇と聞いていて気になったので書き込んでみます。
162と似ているんですが、兵庫内陸部に住んでいて、
その町内にしかないとても珍しい名字です。
家系図には村上天皇の末裔、赤松満祐か分家したと書いてありました。
今の名字になったのは関ヶ原の戦いに参加した先祖からです。
その先祖が関ヶ原で亡くなって、その母と孫(亡くなった先祖の息子)が今の土地に来たのが始まりとなっています。
なのでその代からお墓が残っています。
関ヶ原の時から今の土地で武士だったことは確定っぽいんですが、
それ以前の血筋がどうも怪しいです。
古そうな巻物に赤松氏の末裔だと書いてあるだけで、
赤松の姓だったときの家系図は存在しません。
あと、20年くらい前に専門家に検証もしてもらったらしい・・・。
どうも奥歯に物が引っかかったような感じです。
大名赤松と旗本赤松では格が違う。
血筋も違うし、旗本赤松は、なんちゃって赤松に近い
大名赤松家
秀吉没後の慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで則房の子・則英は西軍に与したため、自害を余儀なくされた。
同じく赤松一族で但馬竹田城城主・斎村政広も西軍から東軍に寝返ったものの、西軍に与した宮部長房の
居城・鳥取城を攻めるときにあまりに手ひどく城下町を焼き払ったために、徳川家康から戦後、これを理由に
自害(この件に関しては寝返りを促した亀井茲矩に責任転嫁された冤罪説が強い)を命じられてしまい、
これにより大名としての赤松氏は滅亡したのである。
旗本赤松家
赤松円心の長男範資の後裔氏満は石野城を与えられたことで表向きは石野氏を称し、別所長治の部将として
羽柴秀吉麾下の猛将古田重則(古田織部の兄)を三木城攻防戦で討ち取るなど活躍。
落城後銃撃の腕を評価されて秀吉、前田利家に召しだされて3千石余を与えられる。
氏満の子の氏置は徳川家の旗本となり上総に2千石余を得て、宝永年間の遠国奉行・範恭の代に赤松姓に
復して5千石余の旗本として幕末まで存続。
氏満から数えて10代目に当たる幕末の範忠は書院番頭・講武所奉行・御側御用取次・外国奉行等を歴任した。
一時交代寄合だったとする説もある。
有馬家
赤松則祐の5男有馬義祐の後裔で摂津有馬氏当主・有馬豊氏は関ヶ原の戦いで東軍に属し、大坂の陣に
おいても徳川方で功を挙げたことにより筑後国久留米に21万石を与えられ、宗家と明暗を分けている。
この家系は久留米藩のほかに、享保年間には伊勢西条藩の大名に昇格するなど繁栄した。
また、旗本赤松家の分家の旗本だった石野則員の子・則維は嗣子のなかった久留米有馬家に養子に入り、
家督を相続した。赤松家と有馬家の縁の強さを象徴している一幕といえよう。
>>190 満祐〜関ヶ原当時の御先祖までの御先祖代々が不明ってことでおk?
満祐から分家した家はすぐに思いつかないけど…
関ヶ原で亡くなられた御先祖の頃までに、赤松末裔の伝承ができていたなら(血云々は抜きにして)赤松一門じゃない?
近世でも相当下って作られた家系図や伝承なら、怪しむべきだとおもうけど。
中世の古文書は残ってる?あと、自治体史に記述はあった?
>>191 有馬も結局旗本赤松からの養子が後継いでるし、ごちゃまぜな感じがするな。
大名赤松もいったん断絶して政則が何とか継いだはいいが、
結局七条赤松の義村を養子にとってるから、旗本赤松と血筋は近い。
もう大名赤松も旗本赤松も有馬も全部一緒でいいんじゃない?w
血筋という意味では正則の実子から始まる龍野赤松家が正しい血筋と思う。
まあ、それも狸親父のお陰で断絶に・・・・・
政則の間違い スマン
龍野赤松家の播磨龍野城主・赤松政広=但馬竹田城城主・斎村政広 なのでよろしくね。
秀吉の播磨攻めで降伏し、龍野城を明け渡したが、のちに臣下となり但馬の竹田城を与えられた。
関が原後、切腹・自害し、男子が無く断絶となったが、女子がおり哀れに思った同族の有馬豊氏の
斡旋で残された女子は、但馬の裕福な庄屋の嫁となったという。
赤松家って円心の長男範資(七条)の後を三男の則祐が継いだわけだけど、
これ以降七条系と則祐系が交互に家督を相続したって話もあるな。
満祐の満ってのは七条系によくある名前だしな。
龍野は政則の庶子系って説はあるけど確定ではないんだよな。
斎村は亀井に陥れられて気の毒。
あれだけの才覚があれば生き残っていれば10万石クラスにはなれただろうに。
歴史上庶流が本流になることは珍しいことではないね。
天皇家でさえそう。
旗本の赤松は交代寄合(大名に準ずる)までやったというから、
今も続く赤松氏としての本流といえばこの系統と言えるだろうね。
有馬も含めれば有馬のほうだろうけど。
あげて質問です。
播磨赤松氏の隆盛、特に赤松円心について描かれている本はどんなものがありますか?
できれば文庫サイズの歴史小説として発行されてるものを教えて頂ければ幸いです。
あと欲張りですが赤松政秀について描かれているものもできればお願いします。
円心で小説なら北方謙三の「悪党の裔」がいいね。
北方の小説は厨房の書いたようなもんだから勧められない。
執筆前の歴史調査や現地取材もしてないみたいだし。
202 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 01:47:47
村上源氏VS清和源氏(足利)
203 :
日本@名無史さん:2008/03/23(日) 18:21:16
なぜ赤松則祐って、そくゆうと読むのだろう。
赤松円心則村は、のりむらなのに。
204 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 02:43:02
渡瀬繁詮が可哀相・・・
>>200 悪党のスエ買ってきました。
ありがとうございました
206 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 03:46:39
我が家の本家も赤松氏の流れらしい。
うちの本家の初代は慶長年間の赤松何某までさかのぼる。
資料を調べても一致する名前がないので、どうせ支流の支流でしょう。
土着して江戸時代は庄屋・大庄屋を何度か勤めてる。
ところが、いまの姓は赤松にあらず。理由不明だが正徳年間
(1711-1715)に赤松から今の姓に変えてる。
まあ反逆者の汚名があるから、一般的にいろいろあったことは
本を読んで知ってるが、なぜこの時期にと、江戸時代の辞典を
ちょっと見てると、こんな記述が。
【雪女五枚羽子板】
浄瑠璃。時代物。三段。近松門左衛門作。宝永二年大坂竹本座初演と推定される。
嘉吉元年赤松満祐が将軍足利義教を自宅に招いて暗殺した事件を脚色。
藤内(とうない)太郎以下五人兄弟の働きで、逆臣赤沼入道父子を滅ぼす。
宝永年間は(1704-1710)だから、この浄瑠璃が大坂竹本座初演の1705年から
6年後の1711年に我が家の先祖が姓を赤松から変えたことになる。
これだけの情報ではなんとも言えないが、娯楽の少なかった江戸時代。
大坂竹本座で何かがかかると播磨周辺にまで大いに聞こえてきて影響が
あったのではないか?、と当時に思いをめぐらしている。
207 :
日本@名無史さん:2008/04/03(木) 18:33:49
で、赤松家は女系子孫も残ってないの?
>>206 悪いけど、ぶっちゃけニセ子孫でしょう。
改姓したのは、何かの理由でニセがばれて都合が悪くなったからで
もちろんそういう理由だから、子孫には改姓理由が残せない。
210 :
206:2008/04/05(土) 13:44:51
>>209 まあその可能性も否定はできませんね、正直言って。
三木合戦直後に三木からそこに移ってきて土着してるようです。
ただ、私が改姓理由他をよく知らないのは、本家とは事実上かなり
疎遠でこの件でまともに話を聞いたこともないからですよ。
地理的にも現在は離れていますし、系図も幕末に当主がまとめた
ものの写ししか見ていません。
本家も江戸時代の大庄屋のころの文書は大体何がどこにあるか
判ってるようですが、それ以前になるとまだまだ蔵の奥で整理
もされてないらしい。一度機会があれば郷土史家に見てもらう
つもりらしいですが。
偽を名乗るほど当時の赤松姓にメリットがあったかどうかという
問題もありますし、武士でもない庄屋が改姓するのも確かに不可解、
改姓した名前が当時の藩主の名前に近いこと、系図によれば
赤松氏系統の他家から嫁をもらったり逆に養子に出したり、盛んに
それをやってる形跡があること、あたりが気になります。
まあ機会があれば調べてみます。
宝永年間(1704〜1710)に旗本赤松氏が石野から赤松に復しているのが
影響しているかもしれないね。
結構元の姓に戻すケースは多いしね。(例・喜連川→足利)
これだけ歴史のある姓だから幕府も気づかった可能性はあるね。
小物だったら相手にされなかったかもしれないけど、大庄屋なら話は別
かもしれないしね。
旗本赤松氏に、「赤松を名乗るとはけしからん。このニセモノめ!」といわれたのかもね。
213 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 09:44:07
詐称で姓を戻させたのなら、さらに後年、江戸末期に到るまで庄屋・大庄屋
にいくらなんでも繰りかえしなってないでしょう。大庄屋といえば、重要な藩の
役だから、直接藩主からいろいろ刀剣他を拝領したりしてるぐらの付き合い。
藩内にすむ一族は分家をあわせると相当いたはず。姓を変えさせるような
簡単なことですむはずがない。
それに江戸時代なんて、嫡流はとだえて支流もほどんど自分のことで精一杯。
赤松関係の寺社も荒廃して再建するものは誰もいない。 赤松という姓に
拘る人がいて赤松に戻してもそれほど問題視されないほど過去のことと
なっていたと同時に、太平の世に赤松という姓に対する拘る末裔も現実には
少なくなっていたのでは。
武士でないとはいえ、大庄屋が姓を変えるにはそれなりの大変な手続きが必要
だろうし、そんないいかげんな話はないでしょう。
214 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 10:01:44
天皇と将軍を殺した家を崇めるスレはここですか?
215 :
日本@名無史さん:2008/04/13(日) 11:47:52
赤松満祐がやらなきゃ誰かがやっていたはず
まぁ、武家公家以外の姓ってのは明治になって急につけたものでなく、
元々それらしい物があった人が多かったというしね。
そのほとんど土地や職にちなんだものがルーツだけど。
改姓の理由は気になるね。
義教は横暴が過ぎたからな。
満祐がやらなくても持豊あたりが動いていたと思うよ。
室町時代の将軍と江戸時代の将軍は権威が天と地ほど違うしね。
天皇は殺されちゃいないよ。
南朝の皇子を弑逆した大罪の家系
足利糞将軍の方はどうでもいい
218 :
赤松末裔?-***:2008/05/30(金) 13:48:13
皆さん結構勉強していらっしゃる。でも、どれが誰の意見かが判らない。各々が独自のサイトネームを名乗ろうぞ。又、知識を衒いながらニヒルを気取る奴は気に喰わぬ。
219 :
赤松末裔?-***:2008/05/30(金) 14:28:58
って思ったけどやっぱいいやw
俺のひいばあちゃん(赤松家の一門の子孫と自称)に聞いたが
明治の新姓はいい加減だったそうだ。
ひいばあちゃんの住んでた辺りでは、お寺の坊さんとかが適当に姓を付けたんだって。
で、「赤松」を詐称したのも多かったんだとさ。
ひいばあちゃんは、赤松の本拠地の苔縄出身でな、赤松一族の
考橋家の血を引いていると言ってた。
戦国時代に没落して、帰農して明治までずーっと百姓さんだったとさ。
何も証明するものは残ってないから、自称だけどな(笑)
ひいばあちゃんの旧姓は、赤松ではないよ(笑)
自称子孫だけど、そこまであつまかしく無いので名乗れなかったんだとさ。
周りには自称子孫で、赤松姓を名乗ったのが一杯出たそうだが(笑)
そんなのでも3代もすると、系図屋に頼んで系図をでっちあげて、いっぱしに正統な子孫と名乗りだすのが多い。
221 :
日本@名無史さん:2008/06/21(土) 08:17:57
燃える赤松播磨を守れ
赤松姓は全国で7100世帯もあるらしい。
223 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 09:07:59
赤松の末裔は、多くは戦国時代に開発名主として土着し、江戸時代はずっと
その地方の名士として庄屋等をつとめ、藩主からも名字帯刀を許されて
その名前を代々伝えてる家が多いでしょ。基本的にその村の名士として
通ってるから、地元の人なら明治になってどさくさまぎれに名乗った家と
代々の庄屋とその分家筋とは区別がついてるよ。明治や幕末なんて
ちょっと前のことだから記録をさがせば藩の公式記録も残ってるし。
「帰農して明治までずーっと百姓」とご本人は言っても、調べればちゃんと
赤松氏につながる家にさかのぼれると思うよ。
都会に出て行って系図片手に末裔を名乗るやからはいるだろうが、
地元の田舎に帰ればすぐばれる。
>>223 だからよ、自称:孝橋家の末裔だよ。
親戚も、福原とか八木とか自称:赤松一門の子孫だらけだ。
兵庫県南西部の人間なら解るだろう。
>>223 全国の7100世帯みんなが赤松家の子孫の訳が無い。
捏造が相当数いるのは間違いない。
名家の末裔に偽装するのは、あまり書きたくは無いが
半島系の人に多い。
日本人になめられないように、箔を付けるために。
それをいいだせば、そもそも赤松の起こりは渡来人から…という
説も強いでしょ。 唐突にでてきた村上源氏説の方がはるかに弱い。
>>226 お前はいつの時代の話をしているんだ?
問題なのは、明治新姓の時に詐称した奴が多いという事。
先祖が渡来人うんぬんというのは話が違う。
それを言い出したら、天皇だって・・・・
なんで荒れてるの?
こんな話、もっと他の有力な氏ですべきでは?
229 :
日本@名無史さん:2008/07/23(水) 01:34:55
俺の性は赤松なんだが
家に左三巴の家紋の家系図がある
これは末裔と見ていいんだろうか??
230 :
日本@名無史さん:2008/07/27(日) 20:04:25
私の無くなった祖父(明治生まれ)は、兵庫出身でした。
小さい頃から「先祖は赤松円心」と教えられていました。
ただ、国に逆らったので、わざと何も記録残されていない。
でも、言葉でつがれてきているので、お前も覚えておけと。
祖父は、「赤松」ではなく、「播磨」という苗字でした。
231 :
日本@名無史さん:2008/07/28(月) 13:06:03
アアソウデスカ
私の実家は嘉吉の乱で焼かれたそうです
ホウホウナルホド
U
赤松の子孫だけは自慢にならんだろw
237 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 03:06:05
私の祖先の家は、初めて火をおこした人に焼かれたそうです。
238 :
日本@名無史さん:2008/08/07(木) 21:11:25
天皇と征夷大将軍を惨殺した家系なんて、他にはないよ。
特筆すべき家系だ。
239 :
日本@名無史さん:2008/08/08(金) 15:34:15
なんちゃって村上源氏アゲ
南朝に大逆をなしたので
天照大御神が武運を与えなかったんだよ
末裔を称する人がいると真っ先に否定したがる奴がいるんだなw
この一族は古くから繁栄したおかげで、現実には数万人は軽くいるからいきなり否定するのも考えもんだね。
ここに書くだけだといつもこの有様だから、お寺で調べてもらうといいよ。
あと、ヒントになりそうなのは名前ね。赤松家は「ノリ(則、範など)」というのがよく使われてるから。
わかる範囲の一族にそういう人が多いなら、可能性あるからお寺まで行く価値もある。
>>229 三つ巴に二引き両は赤松家の家紋なんだけど、明治まで続いた旗本赤松家の場合は
五七の桐のほうをメインにしているはず。今、赤松家といえばこの家系だからね。
ちなみに赤松氏は他にも松紋など5、6種類は所有していた。
あと天皇を暗殺したとか不定期に書いてる奴は何者かね。
このご時世に事実に反する事を書き続けて、貶めようとしているなんて私怨かな?
禁闕の変、長禄の変、2人の王子とされる人が何者なのか、もっと調べたほうがいいよ。
243 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 02:37:02
ぼくのおうちはキタハチ王子(´・ω・`)
244 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 02:43:26
>>241 逆に言えば、余程本家本筋に近い子孫以外はゴミ。
245 :
日本@名無史さん:2008/08/20(水) 04:21:55
つうか2ちゃんで先祖自慢とかされてもなあ
>>244 思えば赤松氏って有馬といい、大身旗本の赤松といい、傍系が繁栄したよな。
この2家系以外はたしかに例え武家であっても下級武士だから特筆するものではないけどね。
ただ、自らの出自を調べ、先祖に思いを寄せるという意味ではいいんじゃないかな。
おれの一族は戦争中に焼けだされちまって、親戚のいる田舎へ逃げ込んだんだが、
いろいろ苦労があるなかで、赤松の子孫であるという誇りをもって、みんなで団結して生き延びてきた。
赤松の子孫とは聞かされてきたが、確証もないんで、みんなで播磨に行って調査したこともある。
赤松じゃなくて、御一族衆の流れだとわかったんだけど、それでも、なんとも言えない誇らしさを感じたものさ。
ああ、おれたちはただの流れ者なんかじゃないぞ!って。
先祖自慢は確かにくだらねーと思うが、ささやかな「かすがい」を持つぐらい、いいじゃないか。
248 :
日本@名無史さん:2008/08/27(水) 23:23:39
「播磨は赤松の血筋」といわれるぐらいだからな。
播磨も逆賊の血で穢されたのでは立つ瀬がないな
250 :
日本@名無史さん:2008/08/28(木) 19:27:54
播磨なんてどうでもいいよ
日本史上最も重要なのは美濃国だから
美濃なんて新幹線の駅岐阜羽島しかないクセに何をいっとる
いまさら南朝なんて流行らない。時代は北朝、コレ。
>>247 悪いけど、第三者的に見るとニセ子孫そのものだよね。
このスレはおかしな奴がいるね。
子孫と証明されるものがない限りはニセ子孫だよ。
本人たちが子孫だと自称するのはかまわないよ 別に。
ただ、それを第三者に言い出したらおかしな事になる。
証明するものがあるのかという話になるのは当然。
・系図
・菩提寺の過去帳
・歴史的遺物(鎧兜・刀・書状など先祖の遺品)
があり、それが捏造品でないと証明された場合のみ子孫と認められるよ。
公的にはね。
赤松の子孫だと思いたいという気持ちは解るが、自分たちの心の中に留めておくべきだね。
254 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 13:01:28
燃える赤松播磨を守れ
255 :
日本@名無史さん:2008/09/26(金) 13:23:28
信長の野望の天翔期をやる時はいつも赤松家から始めるお。
信長の野望はちょっと古いけど天翔期に限るね。他のは乱雑な作りで面白くない。
コーエーも適当にソフトを作らないでまじめに作れお。ジンギスカンのあのへんな
作り方は何だ!ソフトにも朝鮮企業特有の適当さが出ているじゃないか。
あとは、PS2用の元気株式会社の幕末伝が面白いお。お勧めする(2000円ぐらいで帰るよ)。
赤松家のあの前途多難さ加減がいいな
悪逆赤松の場合、因果応報という
258 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 19:17:57
この時代はちょっと門外漢だし、昔聞いた話で正確な記憶じゃないけど
嘉吉の乱のあとに、赤松一族の何人かは阿波のどこかに逃げたというか、移住したとからしいよ
そのあとそこで定住して、明治になって北海道に村ごとまとめて移住したとか
そういう話を昔聞いたことがあるが
赤松則良
260 :
日本@名無史さん:2008/11/13(木) 20:02:23
>>258 徳島県海部郡のどこかに赤松って地名のところがあって、それが由来とも言われてる
本当かどうかは知らないけどね。
おそらくその関係者の人は、この辺の出身の人では?
明治期に北海道開拓団で移住した連中なんて、全国にたくさんいたから
その辺にいた赤松の子孫とかいう人たちも行ったっていう感じだと思う。
>>258 嘉吉の乱で細川持春は片腕をなくし、宗家の持之は臆病ぶりを笑われるなどしてるから、
自分の領内に赤松の残党がいたら怒り狂って皆殺しにするんじゃね?
細川が赤松残党を匿ったとすると、勝元の代だろうか。
赤松氏は関東ほかにも分家が存在したから、阿波にも元々いたのかもしれないしな。
赤松残党皆殺しなんて暴挙に出たのは山名宗全だけだろ
阿波は赤松にはけっこうなじみ深い土地
赤松再興の後押ししたのは阿波細川だし、のちに蜂須賀の手先に成り下がった赤松則房が移ったのも阿波
俺は年寄衆の子孫だからいいべな。
265 :
日本@名無史さん:2009/01/09(金) 00:45:28
あげ
266 :
taka:2009/01/17(土) 16:36:41
皆様始めまして、赤松氏 について質問しようと思いここに来ました。
質問の内容は、実は以前 赤松氏 について友人と議論している中で「赤松氏 は唯の山賊だよ。
いくら功績があると言っても、体裁的な名家の明しが必要。だからこそ、大楠公 は従五位下
で左衛門尉河内国司になっているが、赤松氏 は僅か佐用荘しか安堵されなかった」と言って
いました。
しかし良く考えてみると、『太平記』は軍記物だから資料としては二級だという人も居ます
が、『太平記』には 赤松則村公 の事を 赤松律師 と書かれています。この記述を何故信用す
るかと言いますと南朝縁の天野山金剛寺の文書に、赤松律師 と署名がある文書があるからで
す。で、律師というのは僧正・僧都とならんで三剛と呼ばれ、鎌倉末期でも朝廷から贈られる
位ですよね? という事は、赤松氏 というのは本来は名家の部類に入ると思いますが、皆様は
どう思われます?
また、赤松円心公 がどこの宗派か? また、挙兵以前に寺院に居たという資料があれば教えて
欲しいのですが。よろしくお願いします。
267 :
taka:2009/01/18(日) 18:16:55
age
268 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 06:34:18
燃える赤松播磨を守れage
269 :
日本@名無史さん:2009/01/19(月) 09:57:42
処罰を恐れた赤松満祐は、結城合戦の祝宴と称して義教や管領細川持之らを招き、
270 :
taka:2009/01/19(月) 14:04:57
age
272 :
taka:2009/01/19(月) 18:39:13
>>271 ご紹介ありがとうございます。良く読みましたが、wikiには異論があります。まず律師というのは
従五位下相当の僧官であり、尚且つ 赤松律師公 は南北朝の功績で任ぜられた訳でなく鎌倉末期に
既についていたと思われます。
とすると、楠公・名和公 等南北朝の功績で官位官職についていた人とは違って、むしろ 楠公・名
和公 よりもれっきとした血筋ではないか? と思うんです。つまりwikiで書かれていた様な功績で
村上源氏姓を赦された訳でなく、れっきとした村上源氏かそうでなくても源平藤のいずれかの士族
と思うんですがどうでしょう?
カラアゲを繰り返す迷惑な厨は死んだほうが良いよw
sage
275 :
日本@名無史さん:2009/02/15(日) 14:01:30
age
276 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:54:55
俺の祖父の家に曾祖父が
氏神ってのか?墓のある寺で模写?した家系図があるけど
近い内帰省するからうpしようか?
277 :
日本@名無史さん:2009/02/26(木) 17:56:36
ちなみに村上天皇の子孫で赤松経由らしい
場所は丹波篠山
ちなみに古い位牌と墓くらいしか残ってない
sage
徳川幕府が各大名家に家系図の提出を求めた事があった。
その時点でも捏造ばかり。
そもそも徳川家自体が系図捏造。
400年以上前でも捏造だらけで現代ではなおさら無茶苦茶状態。
系図屋から買った系図を後生大事にしている家が多い。
本当の旧家なら、先祖伝来の家宝みたいのがあるし
系図自体もそれなりに歴史のある古いもの。
また菩提寺があり過去帳がある。
それを見れば先祖がたどれる。
菩提寺が無いとかあやふやという時点でほぼアウト。
系図はあっても先祖はどこの馬の骨が解らんよ。
280 :
日本@名無史さん:2009/04/26(日) 11:44:15
229さん 高野山の赤松院に歴史的流れの全国の位牌あります。 有馬記念の赤松有馬男爵の有馬姓や三重県の別所や播磨小野さらにその九州の黒田殿様は有名末裔になります
パンデミックにより兵庫封鎖、嘉吉の乱再び。
282 :
日本@名無史さん:2009/07/08(水) 19:31:30
嘉吉の乱と本能寺の変は比較されることが多い
283 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 13:29:17
ほしゅ
保守
285 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 17:03:14
明智光秀と赤松満祐のイニシャルが同じって面白いね
直原(じきはら)がでてこないな。
287 :
日本@名無史さん:2010/02/06(土) 02:12:49
赤松家って、自分を蔑ろにした「南朝」を、
尊氏に「北朝」を擁立させる形で廃し
子孫が後南朝の皇族皆殺しにして止めまで刺してるんだな・・・エグ
小寺則職が近い時期に複数人いてわけわかめ
>>288 則職@は浦上村宗との戦いで討死。(『赤松記』)
則職Aは天文・永禄くらい(「芥田文書」等)・・・と俺は見てるけど、どうだろ?
則職一号は山名の播磨侵攻の際に浦上則宗と共謀して赤松政則を排斥しようとした奴だな。
入れ替わるように出てくるのでややこしいが俺も
>>289と同じ感じで2人居たんだと思う。
292 :
289:2010/02/12(金) 00:40:43
ふーむさん=とある研究者さんも二人いたとみているみたい。
ttp://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/rekishi/akamatu/aka_kasin2.htm ただ、通説化してるかどうかは知らない。
手元の『赤松記』(群書類従→『小野市史』所収)から、則職@死亡時の様子を引用。
翌年永正十七年美作の住人中村五郎左衛門、浦上(=村宗)一味のものにて
美作の岩屋と申城に盾籠候分、御成敗のために小寺加賀守則元(ママ)承りとして
同四月廿日各彼城へとり詰候、
(中略)
浦上後巻をいたし候へば、岩屋の陣取の御間の中に中務丞と申人、
これは下野守村秀(=龍野赤松)の弟にて候、城衆と心を合て十月六日寄手をうち破り、
小寺加賀守、同子ども三人不叶自害、
(後略)
則元=則職だとすると、永正17年(1519)10月6日死去ということになる。
293 :
289:2010/02/12(金) 00:53:47
294 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 19:10:12
浦上村国とは何者なんだ?
則宗晩年頃から台頭してきた人物みたいだが系図の位置づけとか宙ぶらりな感じでちょっとよく分からない。
たぶん、大物崩れまでには病気とかで死んでたと思うんだが・・・
浦上村国だが、浦上家の傍流。
浦上惣領家は、主家である赤松家に反抗的だが
傍流であった村国は赤松家に忠実だったらしい。
赤松惣領家(置塩城主)の赤松晴政に良く仕えたとも。
いつも優勢に事を進めてるのにいつもここ一番で宇喜多能家に負けてる村国
297 :
日本@名無史さん:2010/03/11(木) 02:47:17
age
298 :
日本@名無史さん:2010/03/13(土) 21:05:59
岡山に赤松酒本店って結構大きな酒屋があります。
名門の子孫が浪人してたのを、池田の殿様が憐れんで岡山に呼んだとか・・。
299 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:16:23
へえ
300 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 04:05:29
燃える赤松播磨を守れage
301 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 00:57:08
赤松本家に逆らって塩屋崎山の陣で敗死した赤松播磨守の息子の徳法師は、
漏れの実家のすぐ近くの領主だった在田氏と戦って敗死したらしい。
302 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 15:27:03
うわ、こんなスレあったのですね、知らなかった!
うちは代々神戸在住で衣笠といいます。
子供の頃、
「うちは尊氏側についた赤松の子孫だから
誰にも言うな、国賊といわれるから!」
と曾祖母に繰り返し言われてたのを思い出し
なんとなくネット検索してたどりつきました。
もう平成なので言ってもいいですよね…?
何のことかあまりわからないし…
今からスレ熟読します!!
303 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 19:13:13
304 :
日本@名無史さん:2010/04/17(土) 19:05:23
>>287 赤松氏って、南朝憎しというより、
懇意だった護良親王を失脚させた後醍醐天皇と阿野廉子とその子孫が憎かったのでは?
305 :
日本@名無史さん:2010/04/19(月) 08:52:19
その前にたまたま三種の神器が南朝遺臣に盗まれる事件があって
御家再興の為に(当時嘉吉の変で取り潰し状態)やっただけであって
南朝が憎くてたまらないということはまず無いと思う
幕府の上層部に神器を取り返したら御家再興を許すとお墨付きを貰ったのかも知れん
実際その功で赤松家は復活したし
306 :
日本@名無史さん:2010/04/20(火) 00:55:33
目的のためなら手段を選ばずを地で行った家だな
307 :
日本@名無史さん:2010/05/01(土) 20:36:07
幕府からしても山名の過度な勢力拡大はあまり面白くないしな
>>305 奈良の山奥にある南朝の行宮跡なんか、すんごくしょぼいんだ。
尾根のわずかな平地、小屋しか建てられないだろうってとこだったりする。
まさに潜伏。
中央アジアの山をうろつくテロリストとたいして変わらんなと思う。
そういうのを見ると、看板は反幕府勢力にとって利用価値があったとしても、
南朝そのものは、当時の人にとっても、どうってことなかったんじゃないかと思えてくる。
明治以降の人が南朝をありがたがってるだけでさ。
309 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 13:18:10
農水大臣の馬鹿松君もここの流れ?
310 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 05:41:54
藤原紀香が藤原氏の子孫と思ってしまうタイプですか?w
311 :
日本@名無史さん:2010/05/21(金) 06:03:17
日本人かすら怪しいだろ
312 :
日本@名無史さん:2010/05/24(月) 20:46:12
少なくとも中身はあっちの人間
313 :
日本@名無史さん:2010/06/21(月) 16:51:18
小寺の惣領って頼秀流の方なの?
戦国時代に有名なのは政職とかを出した景治流の方だけど。
314 :
日本@名無史さん:2010/08/18(水) 22:57:00
亀井茲矩がいなければ
上手く大名として残れたかも
315 :
日本@名無史さん:2010/08/19(木) 14:54:24
有馬頼則
赤松氏の関係者有馬式部法印則頼が筑後久留米21万石に加封されたことをもって、四職の明跡は無事継承されました