大友 義鎮(おおとも よししげ、享禄3年1月3日(1530年1月31日) - 天正15年5月6日
(1587年6月11日)は、九州の戦国大名、キリシタン大名である。
大友氏の21代。
正式な名のりは藤原義鎮(ふじわら・の・よししげ。)当初は禅宗に帰依していたが、後に
キリスト教の洗礼を受けた。
父は大友義鑑、母は後妻(公家の娘、大内氏の娘とも)。
異母弟に大内義長。正室は奈多八幡宮の奈多鑑基の娘で田原親賢の妹の奈多夫人。
子に大友義統、大友親家、大友親盛。官位は正四位下左衛門督。幼名は塩法師丸。
法名は宗麟(そうりん)、洗礼名はドン・フランシスコ(普蘭師司怙)。
さぁ、いってみよ〜^^
家督継承
豊後国府内に生まれる。
父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策。
義鎮の廃嫡を試み、1550年(天文19年)には義鎮は強制的に湯治に
行かされているその間に義鎮派を粛清しようと目論んだところ、逆に
義鎮派重臣が謀反し、塩市丸とその母を殺害し、義鑑も負傷して後日
死去する『二階崩れの変』が起こる。
そのため21歳で大友家の家督を相続し、豊後国・肥後国の守護となった。
勢力拡大・6カ国の大大名へ
家督相続後は菊池義武(大友義鑑の実弟で義鎮には叔父)から肥後の
守護職を奪い、1554(天文23)年には菊池氏を滅亡させる。
主君・大内義隆を討った陶隆房の要請により、弟の大友晴英に
大内氏の家督を継がせる。1557年(弘治3)に大内義長が自刃し、大内氏が
毛利元就によって滅亡する。
毛利元就は大内氏の後継として、旧大内氏所領である北九州へ勢力を
拡大させるべく侵攻を開始した。 義鎮は尼子氏と結んでこれを退け
筑前国・筑後国・豊前国にも勢力を拡大した。
1559(永禄2)年には幕府に運動して九州探題に補任される。
翌年、左衛門督に任官。1570年(元亀元年)には北部九州6カ国を支配する
大名となり、大友氏を戦国大名として成長させた。
勢力衰退と島津氏との争い
1570年(元亀元年)、今山の戦いで龍造寺隆信に弟の大友親貞を討たれるという
大敗を喫し、1576年には家督を長男の義統に譲り、丹生島城へ隠居する。
1577年に南九州の島津氏が日向侵攻を開始すると義鎮も出陣し、1578年(天正
6年)に耳川の戦いで島津氏に大敗し、多くの重臣を失った。また、家督を譲った
大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、大友氏は衰退した。
中央で統一政策を進める豊臣秀吉は島津・大友両氏の和睦を促すと、義鎮は
86年に大坂へ赴き、大坂城で秀吉に謁見して支援を乞う。
島津氏はその後も大友領へ侵攻し、1586年12月には島津家久軍が本拠地である
豊後国府内を占領してしまう。
丹生島城に籠城していた大友宗麟は大砲「国崩し」を使い、丹生島城を
死守し、戦国大名としての意地を見せた。
1587年、豊臣秀吉は自ら兵を率い九州征伐に出陣し、各地で激戦を
繰り広げ、ついに島津氏は降伏。
大友義統には豊後国一国を安堵された。
秀吉は大友宗麟に日向の地を与えようとしていたが、統治意欲を失っていた
宗麟はこれを辞退したとされる。
豊後国津久見で病死、享年58歳。
法名:瑞峯院殿羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士
墓所:大分県津久見市津久見 また、京都市北区の龍寶山大徳寺の
塔頭寺院である瑞峯院 さらに、津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌
肖像画は瑞峯院所蔵
人物
キリシタン大名としても知られ、1551(天文20)年には豊後へ布教のために渡来した
キリスト教宣教師のフランシスコ・サビエルを招き、1578年(天正6年)にキリスト教の
洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。
領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また、博多商人の島井宗室と
交友し、日明貿易や日朝貿易も行う。その他、文化的活動も幅広く行う。
ただ、他人の気持ちを考えない性格であり、家臣の妻を略奪したり、キリスト教を
めぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、
それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。
政務を拒否し遊び惚けた宗麟を立花道雪が戒めたという逸話も残っている。
1582年に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、
伊東マンショを名代として派遣する。
家系
* 父:大友義鑑
* 兄弟
o 女(一条房冬室)
o 女(河野通宣室)
o 義鎮
o 晴英(大内義長)
o 親貞
o 塩市丸
* 子
o 義統(吉統)
o 女(一条兼定室、清田鎮忠室)
o 女(久我三休室)
o 親家
o 女(臼杵統尚室)
o 女(小早川秀包室)
o 親盛
宗麟スレまだなかったの?
知れば知るほど面白い大名だよな。
のちに長崎に取って代わられたけど、
大分が日本最初の西洋に開かれた地だったのは間違いないな
8 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 21:16:10
マゲッツ!
コイツは俺が好きになれない大名の1人。
基督教に傾倒してからの彼の辛辣ぶりを極めていた。
神社仏閣を破壊・焼き討ちは当たり前。九州を基督教の国にしようとし、
最終的にはイエズス会に九州を献上しようとした。
ま、滅亡は自業自得だわな。
瓜生島が地震で沈まなければ、
九州の貿易拠点は大分の府内のままだったのになぁ。運命か
11 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 11:30:06
菊屋のお菓子、うます
12 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 12:31:57
悪人だわな。
13 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:37:08
>>11 ザビエルって県外人には評判いいよな
俺はボンディア派!
14 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 20:58:24
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/ ヽ
. , ' .i
/ ニニ _|
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|ェュ、 ., 、ェェ;ァ‐ 、7ノ|
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;;| |;;;;;| ',.ヽ / / |;;;;;;;
15 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 03:51:55
馬鹿なのか賢いのかイマイチつかめないところに
この人間の複雑さがある
16 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:53:31
この家って家臣も含めて名前に「鑑」とか「統」とか「鎮」とか多いね。
そりゃ、当主ががおのれの偏諱をばら撒いたからね。
18 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 07:20:36
なんか、評価分かれる微妙な人物ですかねー?
19 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 03:39:30
>>18 決して無能な人物ではないが人格にかなり難あり。
有能な一条兼定ってとこかなあw?
家臣の奥さん奪って反乱招いたりした。
でも能力は高い。
21 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 15:49:48
大内が潰れ、小弐が滅びてなし崩し的に北九州が手に入ったから強大化しただけじゃね?
相手が背後に敵を抱える出来星大名の毛利だった頃はまだなんとかなったが、島津に負けたあとはもうボロボロ。
たいした男じゃないだろ。
22 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 15:56:22
宗麟の時代の大友氏を調べようと思った場合、
基本史料ってどこに一番まとまっていますか?大分県史?
つ 大友氏文書録
但し県立の中央図書館クラスでも所蔵していないところが多い。
私の住む県はその一つ。・゚・(つд∩) ・゚・ 。
基礎知識は大分県史でokかと思われ。
>>22 先哲叢書『大友宗麟資料集第1〜5巻』がいいらしい。
ただしすでに絶版。
うちの県立図書館には置いてないので未見。
25 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 18:01:51
どういう史料が収められているのかね?
26 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 22:37:35
キリシタン大名といわれるが、実際にはザビエルと会ってから20年以上
経ってから洗礼を受けたんでしょう。大村純忠や高山右近と違って
キリスト教を真から信仰したのか疑問があるのですが。
27 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 23:49:07
大村純忠も多分に貿易の利権目当てで信仰したんじゃないの?
28 :
日本@名無史さん:2006/05/22(月) 11:28:39
>>27 「戦国武将」101人がわかるという本の中では、正真正銘の
キリシタン大名である。しかも、日本で最初のキリシタン大名であることは
特筆しなければならないだろう。とあります。
小西行長は両親が共にキリシタン、蒲生氏郷も高山右近と親しくしていた
関係でキリシタンになっています。
有馬晴信あたりは貿易の利権のような気がしますが。
島津貴久は一旦ザビエルに鹿児島での布教を一旦は許可するものの
期待していた南蛮船がこなかった為、布教の許可を取り消してます。
大内義隆も山口で布教を許可しているものの、この2将はキリスト教
自体には興味は持たなかったようです。
29 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 18:42:37
30 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 21:03:19
大友宗麟の軍って十字軍みたいな格好だったの?
31 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 01:06:28
32 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 01:38:24
三好長慶の布教許可はどうなの?
35 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:00:46
まあ、大友もアホだったわけで
一条兼定を洗脳したんだよね
37 :
日本@名無史さん:2006/07/02(日) 00:18:27
家臣団で誰か詳しく語れないですか?
知りたいです!
38 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 12:34:56
大友宗麟に白人の側室がいたと、とあるスレに書いてあったんだが
本当?
39 :
日本@名無史さん:2006/07/16(日) 06:55:22
宗麟って、むちゃくちゃで面白いから好きだなぁ
遊興に狂ったときは、政治そっちのけで遊びまくり、
女に狂ったときは、平気で家臣の女に手を出しまくり、
禅宗に狂ったときは、家臣に禅問答をしかけまくり、
耶蘇に狂ったときは、日向全土を切支丹王国にしようとする
よくも悪くも熱しやすい所が俺と似ていて共感できる
まぁ、家臣にはなりたくないが
41 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 13:46:27
42 :
日本@名無史さん:2006/08/06(日) 00:28:14
冴えてる時とダメな時の差が禿しい!
スケール小さいヒトラーみたいなおっさん!
43 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 02:31:39
今、子孫は九州の熊本と福岡にw
うちの家系宗鱗の子孫
44 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 07:03:44
kwsk
45 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 06:17:04
大友氏の子孫は
一万田、柳沢、立花、高橋、早良、戸次、小柳、久瀬、早野、柳原に変えてるとか
姓を変えずに大友のままは幕府の旗本で繋いでる
今の高橋はほぼ詐称
46 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 20:15:50
>>45 何を以て詐称というのかよく分からんが、わざわざ大友一族のマイナーな一派を詐称したりせんだろう。
高橋はもともと日本でもかなり多い姓。99%は大友と無関係で詐称すらしていないだろう。
47 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 23:41:07
司、初キャップ記念カキコ
大友宗鱗ってたんなるエロ親爺じゃん。
49 :
日本@名無史さん:2006/09/08(金) 16:20:42
家臣の奥方を奪うなんて最低ですね 信長の次に嫌いな大名です
元主君の娘を側室にしたり
敵から人質を取るときには息子より娘の方が手が着けられるので喜んでいたという
豊 臣 秀 吉 は無視ですかああそうですか
51 :
日本@名無史さん:2006/09/09(土) 06:45:01
52 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 22:30:16
いいんじゃない
多少のスレ違いは
同時代だし
過疎だし
盛り上がって混雑してるんならスレちもうざいんだけど
盛り上げてくれ
>>51
53 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 00:11:23
家臣の奥方を奪うために攻め滅ぼすような
大将として最低な奴は嫌いなので盛り上げる気にはなりません
54 :
日本@名無史さん:2006/09/13(水) 22:59:14
55 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 07:01:35
まったく宗麟は最低だね
56 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 18:43:55
57 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:08:01
58 :
日本@名無史さん:2006/10/05(木) 22:51:16
1
59 :
日本@名無史さん:2006/10/06(金) 17:58:07
キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、
その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき
日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視でき
ない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明で
ありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、
インドやアフリカまで売っている』と。
http://www.asyura2.com/0510/bd42/msg/812.html#top
60 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:56:11
リンク先。
>>ザビエルはポルトガル系の改宗ユダヤ人(マラーノ)
まずダウト。ザビエルはバスク人の貴族。
この文、戦時中の徳富蘇峰のプロパガンダと
ユダヤ人陰謀説=外資=小泉内閣批判がゴチャマゼになってます。
61 :
日本@名無史さん:2006/10/08(日) 01:59:19
人買いはあったし、それにイエズス会も関わってたらしいけど、
事実誤認や針小棒大な記述も多いな。
核になる部分を膨らし粉で膨らませた感じ。
まあ、知ってる人は知ってるサイトだしなあ。
62 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 21:54:10
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63 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 21:59:18
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64 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 18:59:21
いつだよ?
あぼーん
66 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:33:22
67 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 22:34:10
68 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 19:21:05
典型的な守護大名ってかんじじゃない?
緩やかな統治しかできずに戦国大名の機動性に敵わなかった
69 :
日本@名無史さん:2007/01/01(月) 21:08:05
穏やかな統治などしていないし、機動性は十分あった。
70 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 14:50:20
まさか、緩やかと穏やかの区別がつかない人間がいるなんて・・・
71 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 15:15:34
おまえ、あたまいいな
72 :
日本@名無史さん:2007/01/03(水) 19:51:33
緩やかな統治 →大名の権力が末端まで浸透してない、国人・地侍などの小領主たちの意向を無視できない。
穏やかな統治 →善政ってことか?何言ってんのか分からん
>緩やかな統治 →大名の権力が末端まで浸透してない、国人・地侍などの小領主たちの意向を無視できない。
戦国時代にこれを克服できた大名は稀。
74 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 13:43:35
度合いの問題だろ。
100か0かでしか物事を理解できないのか?
75 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 16:59:43
>>74 ↑
じゃあ主な戦国大名の緩やかな統治の度合いを100点満点で採点してみろよw
76 :
日本@名無史さん:2007/01/04(木) 17:25:59
まずは緩やかな統治の定義を決めないと
77 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 01:24:44
>>75 数値で知りたいなら光栄にでも頼めよ、ゲーム厨www
78 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 04:52:33
あっ!鬼畜大友のスレじゃん!
立花や高橋が可哀想で可哀想で…
79 :
日本@名無史さん:2007/01/05(金) 09:40:47
>>77 逃げるのか三戦厨ww
度合いの問題じゃなかったのかwww
80 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 16:27:59
>>75 度合いって程度のことだろ?
それって数値化できんのか?どこそこはこういう傾向があるとか、そのくらいしか分からんだろ。
82 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 20:08:16
度合いならば数値化できるだろう。
83 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 22:38:54
度合いや数値はどうでもいいから宗麟について語ろう。
緩やか厨が話題を変えようと必死です。
85 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 16:37:53
宗麟の功績は、南蛮文化を取り入れたこと、国際都市を築いたことだな。
そのおかげで最近では評価されてるし。いいんじゃない?
86 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 01:21:59
大友の子孫は何してますか?
87 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 18:32:46
落ち度のない正妻を離縁してキリシタンの女を娶り、
宣教師アルメイダを伴い神社仏閣を破壊しながら
進軍したら耳川の合戦で大敗北した。
ほとんどが仏教徒だった兵士が
戦を前にしてモチベーション(やる気)を喪失していたとか。
89 :
日本@名無史さん:2007/02/23(金) 01:37:24
戸次の読み方がよく分からん…
地名の場合は『へつぎ』と読むの?
姓の場合は『べっき』と読むことが多いけど、『へつぎ』と読んでもおkってこと?
簗田広正が賜ったのって『別喜』だけど、
大友氏の庶流の苗字なんかもらってもありがたいのか?
>>89 地名は「へつぎのしょう」。
治承4年(1180)「皇嘉門院仮名譲状」(「 九条家文書 」)にある「ふこうすきへつき」が初見とか。
一方の戸次氏は「べっきし」で、「へつぎし」とは読まないらしい。
>大友氏の庶流の苗字なんかもらってもありがたいのか?
大友氏が来る前は大神氏系だった旧族で、大友氏が来てからも鎌倉時代には引付衆、
室町時代には奉公衆。かつては大友家中、いや豊後のナンバーツーといっていい地位
にあったんだが…
>>90 サンクス
大神系戸次氏のことは調べて知ってたんだが
そんなに大きな勢力を持っていたとは知らなかった…
惟任や惟住も九州では大きな豪族だったの?
惟任氏や惟住氏の後裔なんて聞いたことないんだが…
>>91 たしか、筑後の守護にもなっていたと思う。
他にも臼杵も大神系だよ。改易されたけど。
大友氏の一族から養子に入って再興されたん
だけどね。
>>91 ともあれ、これを読んでくれ。
戸次荘 ( へつぎのしょう)
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n654.htm 今の大分市戸次だけじゃなくて、東植田から戸次、判田、竹中、松岡にいたる荘園。
これに「臼杵荘」も加えて支配していたと聞いたら、大分市の住人なら唇を硬くして
しまうんじゃないかな…つまり、大友氏が住していた大分市の南の押さえのような
荘園であり、同時に大分県中心部の主だった田圃を牛耳っていたってことじゃないか…
という認識に立ってしまうだろうから。
94 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 03:07:03
佐伯氏よりも戸次氏のほうが格上?
大友氏の支配体制では、大友一門の同紋衆、
一緒に相模からついて下ってきた御下り衆、
その他の他姓衆という色分けがなされていて、
事実上の身分制度となっていた。
佐伯氏は豊後大神氏の筆頭・嫡流といってもいい家柄で、
戸次氏・臼杵氏よりは格上だった。しかし、大友氏から
養子が入っているので、戸次氏・臼杵氏は同紋衆で、加判衆にも
なれる家柄、他方佐伯氏は、軍事拠点となる城の城督になる
程度で、権力の面から言えば格下。
96 :
日本@名無史さん:2007/03/08(木) 20:32:01
姉と仲いいのか、宗麟は?
一条氏の亡命を受け入れているぐらいだから、悪くはなかったと思うけど。
98 :
日本@名無史さん:2007/03/18(日) 10:56:52
宗麟は心労で死んだのかも。死因わかってないけど。
>>98 流行病。
イエズス会の史料にも書いてあるので確実
100 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 08:59:37
宗麟の若いころってわんぱくお坊ちゃまだったんだよな。
武術は出来ても、勉強は出来なかったと思うが。
そんな息子をみて両親がどう思ったのか、わからん。
逆だろ。
現実は、病弱だったらしいから。
102 :
日本@名無史さん:2007/03/27(火) 16:33:34
part1とかスレタイに書くのやめれ
落ちそうw
103 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 11:14:21
志賀親次のせいで大友家が改易された・・・あの馬鹿
104 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 07:48:23
岩屋城にいってきた・・
お墓にもいってきた・・
感無量
105 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 09:13:47
宗麟はなぜ知名度が低い?
106 :
日本@名無史さん:2007/06/18(月) 11:37:24
知名度は高い方だろ。
ただ一般的な知名度はキリシタン大名と言う事に限られるだろうが。
有名な大名の名前を挙げ連ねさせると中々出てこないかもしれんが
名前を言えば「あぁ、知ってる」と言う人が多い程度には知名度は有る。
大友走鱗
108 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 21:44:41
字が違うがな
母親について、阿蘇氏の娘説と言うのもあったんだな。
他にも河野氏の娘説というのもある。
旧守護出身の名族の当主でありながら
母親がワカランというのも珍しいような?
確かに珍しい。
公家の娘、(実は天皇の御落胤)説と言うのもある。
嫡子としての待遇を考えたら、それなりの身分で
あることは間違いないと思うけどね。
112 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 21:32:20
勝つage
113 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 19:42:09
ドキュンからバックアップうけている反日本記事捏造のアサヒる新聞。
恥ずかしくて公共の場では読めない新聞。
秀吉は義統のこと嫌ってたみただし
大友はどのみちどっかでつぶされてたとは思う
115 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 05:49:54
>>109 知らなかった、昔、小説で大内義隆の妹が母親ってのを読んでたから
その通りに記憶してた。
116 :
龍造寺:2007/11/03(土) 07:27:13
大友義鎮はエロ親爺だったらしいね。
117 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 08:22:39
俺の地元は大分県の西部地方だが、大友氏がキリスト教
を推奨するために神社仏閣を滅却したのは、事実では無い
らしい。
大友氏に滅却された、とされてきた寺の記録が見つかり、
島津氏侵攻戦の際焼失した事が判明。この辺は高橋鎮種の
寄進を受けた神社仏閣が多く、島津氏に反抗した者が多か
ったのも一因だろう。
その寺跡は観光名所になってるが、その経緯がちゃんと案
内看板に書かれてある。
118 :
日本@名無史さん:2007/11/03(土) 16:01:57
滅んじゃった大名だから好き勝手言われた部分もあんだろうな
さらにキリシタンが禁止された影響も大きい。
それで必要以上に悪くいわれてしまう。
大分市には大友の旧臣が、隠れキリシタンになって
いたと言う話も伝わっているよ。
大友って古い大名だし、家臣の古くからの領地にまで統制が及んでなかったんじゃないの?
そもそも領国すべての神社仏閣を破却したわけでもあるまい。
121 :
日本@名無史さん:2007/11/04(日) 09:58:36
極論すれば、大友宗麟による神社仏閣の破却は無かった…
(もちろん、キリスト教振興のためのって事。合戦時はまた
別問題。)
て気がする。
フロイス「日本史」に寺社仏閣破却の記事が出てなかったっけ
キリスト教側視点の史料だからその辺を勘案して読む必要があるけど
>>122 家臣にやる土地の捻出のためじゃなかったか。
寺の跡地を屋敷にもらったのは、柴田礼農。
124 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:37:32
まあ、九州の大名で、時勢を読めてた数少ない武将だったと思う。
立花氏の引き立て役として聡明な所、愚鈍な所が際立って伝えられ
てるのかな?
信長、信玄、謙信だって失策があるのに英雄扱いだし。
125 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:46:02
>>124 一部のヲタや地元民を除けば立花道雪なんかドマイナー武将。
はるかに知名度の高いそうりんがそんなやつの引き立て役になどなるわけないだろ。
126 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 20:48:31
128 :
124:2007/11/11(日) 21:24:28
>>125 確かにその通りだけど、今現在の扱いの事を言いたっかった。
宗麟=暗君
道雪、宗茂=忠臣
ってイメージ。まあ間違いではないと思うが。
なんとなく今川義元が、織田信長の引き立て役になってる感じ
とダブって見えるんだよね。義元みたいに、再評価されて良い
武将だと思う。
129 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 06:36:24
志賀親次って、なんで秀吉軍が上陸した時にわざわざ肥後路を渡って島津を追撃したんだろ?
竹田市内ならともかく・・
日本三大堅城の一番手・岡城の補正があったから島津軍相手に出来たのに・・
でも、この人に興味がある俺はツンデレか?何か南部衆と島津の一連の流れを纏めた資料があったら誰か教えて。城とか詳しく載ってるやつで出来たらまだ買える本。
130 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 06:48:30
あと、切株城ってのがどこだか判らない・・
131 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 06:49:21
どうか情報よろしくお願い致します。
132 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:30:26
>>130 切株城は現在、大分県玖珠郡玖珠町にある
切株山山頂にあったとされる、興樟寺城の
別名かと。映画「天と地と」に出で来た、
茶臼山のロケ地。
133 :
132:2007/11/17(土) 09:47:32
興樟寺=高勝寺または高正寺(こうしょうじ)
とも書かれるみたいです。
134 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 09:50:56
ここで論じてる人たちって、やっぱり九州の人が多いの?
>>134 残念だが、宗麟は地域ネタのレベルでしかないから。
136 :
日本@名無史さん:2007/11/17(土) 14:53:13
>>132、
>>133 おお、有難うございます。
全然、検索に引っ掛からなかったから助かりました。
>>134 俺はここ数日で大友ファンになって勉強しているにわかだよ。
戦国オタ的には有名だしかんけいなくないか・・・
138 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 00:13:56
すみません、城の住所を誰か教えてください。全て岡城の周りです。出来れば、島津乱入時の城主も。
白丹城 ここは志賀の親父さんの方だと判りました。
管迫城
朽網城
神原城 です。
地名で地図にのっている所は多いですが、場所までは特定出来ません。
阿蘇の坂梨城も二つあるし・・
菅迫城
竹田市大字川床。岡城の支城という。
当時の城代は朝倉一玄。戸上にあった駄原城代も兼務していた。
島津軍の逆瀬豊前守が迫った際、菅迫城に移り
駄原城には火薬を設置して火を放ち、逆瀬勢が動揺したところを
包囲し殲滅したという。
>>139 >島津氏の侵攻の際は城を支えきれず父鑑康ともども和睦・退去、のち薩摩に逃れたとも自刃したともいう。
まず朽綱鑑康は支城の三船城を固めるも、兵が降伏しようとしたことに激怒、出陣しようとしたが陣没。
嫡男鎮則は三船城で戦うも支えきれず山野城に撤退。和議を結び河内山に移る。
鑑康の骸は岳麓寺に葬られた。
これに大友義統が怒り朽網郷は闕所。鎮則は佐賀関まで逃れるが、乙津で徳丸筑前守に討たれる。
生き残った弟の鑑房は玖珠で浪人となり(以下略)
神原城
別名 小松尾城。
竹田市の南、神原(こうばる)にあった。
津賀牟礼(栂牟礼)城の支城という。
津賀牟礼城ともども入田氏の城で、当時の城主は入田宗和。
新納忠元から密書を受け島津に下る。
以上。
遺構が残るのは、山野城と南山城のみ。
>>129 この辺の研究は渡辺澄夫氏がやっています。
氏の著「豊後大友氏の研究」第一法規出版 らにあったかと。
ただし絶版です。
145 :
日本@名無史さん:2007/11/21(水) 19:33:26
>>139から
>>144さんまで
有難うございます。本は図書館とかで探してみます。
画像まで付けていただいて感謝です。
146 :
145:2007/11/21(水) 20:41:47
最後に宗麟の小説って、お薦めの奴ありますか?
やっぱ遠藤周作の本でしょうか?
>>146 読んだことがないので、お薦め…とはいいませんが
遠藤以外では
赤瀬川隼 「王国燃ゆ 小説大友宗麟」 学陽書房
風早恵介 「大友宗麟 道を求め続けた男」 PHP研究所(文庫あり)
白石一郎 「火炎城」 講談社(文庫あり)
このくらいのようです。
148 :
145:2007/11/22(木) 15:03:07
>>147さん、有難うございます。
文庫版は通販にもありました。
>>136から御指南のほど本当に勉強になりました。
個人的に竹田市史などを調べても岡城での戦いは、当時の資料に乏しく戦記物にその詳細を頼らなければならないという事には驚きました。
志賀鑑隆もすぐに内応説、奮闘して討ち死に説とあって、この戦いの混沌ぶりが判りましたw
地元大分の歴史なのに今まで知らなかった自分には刺激的です。
149 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 10:47:18
150 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 07:25:36
大分は何気に、偉人、偉大なスポーツ選手など出してるよな。
すごいと思う。
151 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 11:25:55
競輪選手とかね
152 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 17:15:29
総理大臣とかね
あの総理大臣は日本の黒歴史ニダよ
154 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 12:24:31
一万田親実を無実の罪で殺し美貌の妻を奪ったという説があるけど、本当かどうか誰か
調べた人いる?
155 :
日本@名無史さん:2008/01/16(水) 14:43:58
日銀総裁や陸軍大臣、参謀総長を多くも輩出してる大分県
山口組六代目も
>>154 この話はちょっと疑問なんだよなあ。
没落した君主を貶める一番ポピュラーな話が「家臣の妻を取った」と「妊婦
の腹を裂いて胎児を取り出した」だから、この手の話はまともには信じられ
ない。
一万田親実(鑑相)は鑑実の父親だが、鑑実は義鎮と同年代で、一万田親実(鑑相)は
義鎮にとっては父親世代ということになる。ということはその妻が美貌といっても、
母親ぐらいの年上でだったわけだ。もっとも、後妻でずっと若かったという可能性も
捨てきれないが。
でも一番可能性があるのは、一万田親実(鑑相)が義鎮の家督相続から数年で謀反を起こ
していることから、そういう話が出てきたというのが、真相ではないかと思う。
この一万田親実(鑑相)は、義鎮の家督相続時の義鑑の遺言状で宿老五人の筆頭
だったが、義鎮の家督相続直後から名前が関係文書から消えてしまっている。
おそらく失脚したかそれに近い地位や影響力の低下があったことが伺える。
このことから不満を募らせて謀反を起こしたと考える方が、妥当だと思う。
>>156 レスありがとう
確か毛利輝元も同じような逸話がありますね。それはともかく
一万田鑑実といえば、叔父鑑種が親実謀殺の件で宗麟をうらみ、毛利と組んで乱を
起こしたといわれてるけど、鑑実の方は宗麟に忠義だてして討伐軍に加わってる。
父親を無実の罪で殺されたうえ母まで奪った話が本当なら、叔父に味方せず宗麟に
味方する事はアリエネーと思えるんですよね。
↑154です
159 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:41:08
|┃三 ガラッ! ┌───┐ミ
|┃ | あげ |
|┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____.|┃ ( ___)│ サッ
|┃= (_》 ^ω^)E)
|┃ ≡⊂ ノ
160 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:39:02
161 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 21:32:44
朽網氏は最高だよ
162 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 17:22:58
耳川の戦い 高城の戦い ←この2つは同じ戦いじゃないよな?
>>162 同じ戦いといっていいと思う。
高城とその近くの川原(高城川=耳川)での戦いだから。
一つの戦いの、本戦と撤退戦ですよ。
大友軍は日向国新納院高城を包囲し、救援に駆けつけた島津軍に敗北し、
北側にあった耳川を渡れずに戦死或いは溺死したのです。
165 :
日本@名無史さん:2008/04/10(木) 18:47:03
>>162 レスサンクス。
うちの先祖が大友氏に仕えていたのだが…
家系図に「高城ニテ軍功アリ 之ニヨリ大友義鎮ヨリ鎮ノ一字ヲ賜フ」という旨
が書いてあるのだが…大友軍は負けているのだから、この鎮の字をもらった
という記述はウソっぽいな。
それとも先祖は高城を包囲する時に活躍したのかねえ。
166 :
162=165:2008/04/10(木) 18:51:43
>>163 ウソつくな。高城川(=小丸川)と耳川は全然別の川じゃ。距離も10キロ20キロ離れとるわ。
高城川の河原で合戦がおこなわれ、勝った島津軍が敗走する大友軍を、北の耳川まで延々掃討しまくった。
高城攻防戦→高城川の戦い→掃討戦(高城川から耳川まで)
でも一般に高城川の戦いのことを耳川の戦いという。なぜか知らんけど。
>>165 その当時の大友家の当主は、息子の義統だから、「統」の字を貰った
とした方が自然ではなかろうか。
高城って地名は結構ある。
>>165の先祖が功を上げたのは日向以外の高城なのでは。
170 :
162=165:2008/04/10(木) 21:47:10
>>168 そうですよな、あの時期は義鎮は隠居のはずなんだが。
系図では名前が「鎮○」になっているのですわ。なんのこっちゃ。
数代前の先祖は大友貞宗に仕えている。
171 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 12:16:05
ハ,,ハ
('(゚∀゚∩_ おいらをどこかのスレに送って!
/ヽ 〈/\ お別れの時にはお土産を持たせてね!
/| ̄ ̄ ̄|.\/
| .モツ煮..|/
 ̄ ̄ ̄
現在の所持品:たばこ・ライター・コーヒー・ブラックブラック・枕・ケータイ電話・睡眠薬・聖教新聞・ダッチワイフ
外付けSCSI340MHDD・ネットランナー4月号・TYG02・小嶋進社長・ゲルトモ・ディプスファンタジア・抵抗1kΩ(黄紫橙金)
(途中10行略)
イーゼルボンバー・山田オルタ・麻枝・DDO・C鯖・ナカノ5+ニゼルsh→シャワフリ・胸パッド・日本酒・眉毛・包皮
オーストリー・北村ひとみ・辻野・幹事・デイジーコラージュ・草なぎ剛・バリカン・YAMAHAシネマステーション
GEOBIT・孫策・NIKON羊羹・風子・あっぴ・SD-W2002・0.6mmのほうのWiiストラップ・炊飯器・ハロプロ・高橋萌木子
モジャ公・耳・すりゅよ・D端子・Aカップ・臭作・征西府・松平容保・クシャトリヤ・ドアラ・ドアラ・ドアラ・段ボールまん
マケイン・ヒラリーいいえ、ケフィアです・カピ様・欝袋・おっぱっぴー ・新成人・ファ板・HARE・コシナツァイス
DT18-70 F3.5-5.6・悟リ・第一段階・ゴジラ・高岡蒼甫・おっぱっぴー・蒙古襲来絵詞・ピザ
ああなんで宗麟スレが閑古に
173 :
日本@名無史さん:2008/06/08(日) 01:49:04
かなり憑いてた系の素行を感じるもんな
家臣の嫁を奪うのは日常茶飯事なんて
狂ってるよ。。
奈多の嫁さんが何度か御祓いをと願ったみたいだしな…
そんな殿様なら、一般民衆を面白半分に辻斬りとかしてそうものだが、
史実にそんな記述は無い。
造反した家臣が『自分達の非を正当化する為』作り上げたのだと思う。
>>174 あんな主君だったから家臣が造反したんだと思う
>>173 いい加減にその手のネタは止めてくれ。
家臣の反乱は、義長・義鑑の代にもおきているし、宗麟の代の反乱も
その背景を調べたら明らかじゃないか。
大体没落したり失脚した権力者にあることないこというは世の常だ。
>>176 暴君だったから没落したんだろ。没落したから暴君にされたわけではない。
>大体没落したり失脚した権力者にあることないこというは世の常だ。
・・・暴君を擁護しようとするやつはいつもこう主張するわけだ。
が、ほとんどの没落した権力者は暴君にされていない現実を直視しよう。
さらに言えば、宗林は大友が没落したときはすでに隠居。
むしろあることないことなら、
宗麟=大友の全盛期をつくった英主
義統=すべてを失った暗主
って事になりそうなもんだが
同時代の資料だと名君だけど病弱だったみたいな記録が中心で
暴君的な説話は江戸時代以降に流布したもののような
同時代といってもバテレンの偏見たっぷりの記録が多いけど
全盛期というのは見直すべきと思う。1100年代から400年あるわけだし
柞原八幡宮の日本三大市の経緯をみても、寧ろ庶民を衰退させた見方も出来る。
181 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 15:25:12
津久見の墓を拝んできたよ
さて、鳥天を食べに行くか
182 :
日本@名無史さん:2008/06/24(火) 16:59:30
日向のチキン南蛮VS豊後の鳥天+豊前の唐揚げ
津久見はぎょろっけw
184 :
日本@名無史さん:2008/06/25(水) 02:05:05
そういえば中津とか旧豊前はとり天より唐揚げが多い
宮崎のチキン南蛮は甘すぎて気持悪い
185 :
日本@名無史さん:2008/08/31(日) 23:51:55
ほー
186 :
日本@名無史さん:2008/09/03(水) 20:18:57
中津と云えばダイハツ自動車「大阪発動機」だろ。
187 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 16:49:26
仏敵age
188 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 18:05:07
大友の子孫って俺以外に誰かいる?
189 :
日本@名無史さん:2008/11/18(火) 10:12:05
いいれす
フランシスコ公の信仰を批判する輩がいるが
見当違いもいいところだ
フランシスコ公在世中は、封建制で宗教もばらばら
家臣団はすぐに裏切るし、王と家臣、民衆の関係も一体感がないものだった
そんな宗教、思想混乱の時代に、
フランシスコ公は、キリスト教理念によって思想統一された
堅固な宗教国家を築こうとしたんだよ
フランシスコ公の身の回りだけみても、宗教分裂は根深いものがある
数多くの仏教勢力、奈多や阿蘇、宇佐、宗像
家臣団や民衆は、自分に都合のよい神仏を頂き領主に楯突く
これでは、フランシスコ公でなくてもやってられないよ
唯一神の下で、王から民草まで一糸乱れず統一された平和な王国
フランシスコ公の不幸は、妻子や家臣の誰も公の理想を理解しなかったことだ
大友宗麟的には
キリスト教版タリバン政権をやってみたかったと言うことか
194 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 02:54:59
共産主義国家の説明に見えなくも無い
195 :
日本@名無史さん:2008/12/04(木) 08:59:43
上杉謙信に似てるな 宗麟
宗教にはまる 出奔する そして変人
彼自身、耳川の時の自社破壊以外は他宗教の迫害はやっていないと思うが。
大友家支配下当時の博多でも、キリスト教さっぱり増えなかった。
197 :
日本@名無史さん:2008/12/07(日) 11:57:25
豊後侍従大友義統
>>196 寺社破壊といわれているけど、そもそも具体的な話を聞いたことがないんだよなぁ…
「ここは宗麟公に破壊されました」なんていわれてる史跡を知らないし。
199 :
日本@名無史さん:2008/12/14(日) 00:57:45
>>198 日向に行けば記録が山のようにありますよ。
日向では、耳川に進撃の際、宗麟の部隊が寺社を破壊しながら
進撃したことは有名。どうせ自領になるかどうかわからない土地だし
一種の焦土作戦でもあったろう。
が、自分の領土ではカトリックは少数者だから、カトリック・タリバン政権は
政治的にもまずいだろう。
201 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 00:44:54
>>196 現北九州市の寺社も焼き払っている
アホだよ、宗麟
202 :
日本@名無史さん:2008/12/15(月) 22:59:48
大友宗麟は、私兵を放って宇佐八幡も二回焼いたし。
203 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 00:03:58
>>202 宇佐八幡焼き討ちはキリシタンと関係ないよ。
耳川の戦い関係以外では宗麟のキリシタン絡みの
寺社の破壊って聞かないね。
島津のほうがよっぽど破壊してるようなw
それを言ったら秀吉が九sh(ry
205 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 13:14:36
耳川の戦い以外に寺社を焼き打ちしたというのを認めたがらないのが
一匹住み着いているな
206 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 18:05:35
大友の宇佐焼き討ちって奈多焼き討ちと関係あるの?
つうか奈多氏って結局滅ぼされたの?
207 :
日本@名無史さん:2008/12/16(火) 21:46:16
大友宗麟なら、修験道の彦山を5回以上焼き討ちしていたと思うが。
英彦山や宇佐神宮との抗争は、宗教と関係のない勢力争いからからじゃなかったかな。
荘園や権益を取り上げたかったからでしょう。他の大名といっしょでしょう。
宗麟は宗像大社の宗像氏とも戦争したり、宗像氏が臣従したこともあるけど。
一方では、久留米の高良神社座主とは友好関係だったみたい。
本当にがちんこ、焼き打ちやってたのは
有馬晴信、大村純忠、天草氏、それに小西行長の領地もだったかな。
天草の乱に影響したでしょう。
209 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 01:56:55
宗麟の焼き討ちがあまりに甚だしいので、
焼き討ちなんてやってない→キリスト教関連は耳川の戦いだけ→権力争いだから焼き討ちは全て正当
と論理を変えて擁護に走っております。
210 :
日本@名無史さん:2008/12/17(水) 10:01:34
そうだな、一匹だけ焼き打ちを認めたくないヤツが必死に擁護しているな。
俺の住んでいたところの神社も焼き打ちにあっているしな。神社縁起に書いてある。
漏れは別に大友宗麟ファンでもないし、むしろ嫌いなキャラだが。
ただし、彼がカトリックとして日本古来の宗教を、宗教的確信でもって
邪教として弾圧していったのなら、その詳細がもっと知られていても
よいのではなかろうか。
有馬晴信、大村純忠、天草諸氏は確信をもって弾圧した点で有名だし、
高山右近も言い訳、諸説いろいろだが、その仲間に入るだろう。
黒田孝行も入信当初、やったのでは。
彼も正式には最後まで棄教しなかったはず。
大友宗麟が面白いのは、日本に訪れた西洋文化、特に宗教をどう積極的に
吸収しようとし、どのように失敗していったかを
知るすべになる点で、極めて今日的だからと思う。
キリシタン=寺社焼き討ちって、どんだけ単純なんだよ。
そういうやつもいたってだけの話だろ。
寺社は軍事的勢力なんだから。
信長の比叡山焼き討ち、松永久秀の東大寺焼き討ち、
加藤清正の仏国寺焼き討ちはキリシタンの陰謀なのか?
>>202 小西行長が部下のために寺に寄進した、みたいな記録はあったはず。
天草一揆や肥後国人一揆の際には焼き討ちしたようだけど、
キリシタンとの関係は疑問。
信長が安土城を築くとき、自分に逆らったあらゆる寺社の
門や床板をどんどん持ち去り、新築特有のピカピカ感よりも
ほんのりとした風格を目指した。
本願寺を下し顕如らが退去したのち、一晩で伽藍が焼失したが、
激怒した。
財宝だけでなく、建築物を自分ごのみに再利用するつもりだった。
小西行長の国元家老にバリバリのカトリック武将内藤如安がいたから
天草周辺は、そうとうホットなキリスト教国だったと。
215 :
日本@名無史さん:2008/12/18(木) 18:30:49
>キリシタン=寺社焼き討ちって、どんだけ単純なんだよ。
誰もそんなこと言ってないが。
いままでのレス読んでそれくらい理解しろ。
単純なのはお前の理解力の方だろ。
何かつまらんスレになった、てか、人がいな杉。
217 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:23:08
ここは過疎スレですぞ
僻地、限界集落ですな。
今日の宗麟の本拠地と同じ。
219 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:52:26
そんなー
キヤノンが1000人以上派遣の首を切っていきなり九州一失業率が高くなっても、
大分は……田舎だな、やっぱり。
220 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 22:59:16
観音>>>>>>>>>>>>>>>>キヤノン
ご利益ないって解っただろう
221 :
日本@名無史さん:2008/12/20(土) 23:51:42
>>10 沈まなくても、拠点は平戸か長崎だろ?
1596年ならすでに平戸はもちろんのこと、長崎が勃興していたし。
222 :
日本@名無史さん:2008/12/21(日) 06:01:39
大分は豊の国、いつか豊かな国になるぞ。(なってほしい)
大分ってどこにあるの?
高知のあたり?
大航海して流れ着くのは、潮の流れで豊後国東半島か、平戸だった。
225 :
日本@名無史さん:2008/12/22(月) 01:51:19
八丈島、小笠原ってのもあるけどな。
226 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 09:34:04
国東って文化的に何か特殊な感じがするな
国東は、飛行機から見ると、放射線状、蜘蛛の巣のように
道路や集落が点在しているが、森林の荒廃がひどいみたい。
>>200 普通に直轄領(蔵入り地)にしようとしていたんじゃないか。
寺社領も当の寺社がなければ無主の地になるわけだし、土持氏を
滅ぼしているんだから、必然的にそこは、自分のものになるわな。
>>202 宇佐八幡の社領を横領していたのは,主に奈多氏。
田原親賢も奈多氏には(一応)苦言を呈している。
>>210 そういうのは、島津の豊後侵攻のときに焼かれたのとごっちゃになっている。
229 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 11:19:45
>>228 >>そうだな、一匹だけ焼き打ちを認めたくないヤツが必死に擁護しているな。
>>俺の住んでいたところの神社も焼き打ちにあっているしな。神社縁起に書いてある。
>そういうのは、島津の豊後侵攻のときに焼かれたのとごっちゃになっている。
ごっちゃになってねーよ、アホ。
第一、俺の住んでいた土地に島津は侵攻していないのだから。
お前はどうしても大友が寺社を焼き打ちしたのを認めたくないのだな。
>>228 純粋な興味から聞くが、その神社ってどこ?
何の理由で焼き討ちにあったってその神社縁起では説明してるの?
小国の神社じゃなかったかな。
原田氏との抗争の巻き添えじゃなかったかな。
232 :
日本@名無史さん:2009/01/10(土) 20:41:40
島津は博多と別府を結ぶ線より東には侵攻できなかったから、
その線より東にある英彦山や宇佐八幡への焼き討ちは、大友の犯行だろうよ。
英彦山は、宗麟、秀吉の九州攻めの際もやられてるね。
ついでに幕末時にも、小倉小笠原に粛清された。
座主の世俗的権力大きかったみたい。
生臭坊主なんか皆殺しにすればいいのに。
235 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 11:23:42
ちょっとググってみたら大名の寺社焼き討ち事例は
全国各地で死ぬほど出てきた。大抵は地方勢力間の争いでの
「敵方」とみなされて焼かれてる。
宗麟の場合は、宗麟がキリシタンだから焼き討ちしたみたいな
寺社側の記述が多いっぽいけど、実態はすごい疑問だね。
とりあえずキリシタンに迫害されたと言っておけば、
キリシタン側への攻撃材料になるし。
236 :
日本@名無史さん:2009/01/11(日) 13:39:29
寺社といっても当時は武装勢力の一角で、広大な領地を武装して支配して
たりもするわけで
九州の社家でいえば宗像氏や阿蘇氏、宇佐氏、みな古き土豪の勢力で
永い歴史をまたいで領地を保持できる政治的影響力を持っていたわけです
比叡山や高野山も強力な武装勢力ですし
戦になったからといって宗教的倫理観を持ち出すのはナンセンスですね
信長もはむかう寺社勢力には苛烈でしたね。
伊勢、越前、一向宗徒は子供まで皆殺し。
逆に従順なら、近江の一向宗には何らおとがめなし。
宗像大宮司は、一時は大勢力となり三千の兵を動かしていた。
大友、秋月、毛利の狭間であっちつきこっちつき
右往左往していた。
最後は九州にやってきた秀吉に参陣するも相手にされず、
まんまと領地取り上げられた。
中世勢力は、新たな支配者にとっては邪魔だった。
238 :
日本@名無史さん:2009/01/12(月) 05:15:58
元々大和守護って興福寺だっけ
羽柴秀長が領有してたときも随分うるさかったらしいね
鎖国間近! 最期の切り支丹大名 有馬晴信すれ 誰かおながい
>>60 この時代 表はキリシタン 裏はユダヤ的な 伴天連は多いはず 欧州は宗教改革ばとるの真っ只中 偽善的立ち回りのうまいのも多かとよ 今の在日欧米もそうだけど
>>230 大分市大在の横田八幡。
特に説明は無い。
よくある宗麟がキリシタンだからと云う理由。
その辺にも島津が攻め込んできたというのは間違いない。
散発的な小競り合いは続いていたんだろう。
近くの鶴崎城も丹生島城も攻められているし、地元の郷土史では、
臼杵、大分市東部で500名の女子供が誘拐され、地元の武士が
討ち死にしたという話もある。
>誘拐され
奴隷として売られたんだよね?
九州では、博多長浜で盛大な奴隷市がたっていた。
長崎から、シャム、インドシナ、フィリピン方面に
おくられることも多かった。
ポルトガル人、中国、カンボジア人、が商っていたとか。
>>244 アフリカ、ヨーロッパまで送られていたぐらいだから。
英彦山(小石原)への出兵は、完全に政治的な理由。
そこの座主に親家だか親盛を押し込もうとしたら断られたという理由から。
そこを支配できなければ、筑前に対してやりにくくなる。
実際に小石原村を通ってみると分かるけど、大分の日田から福岡博多に出る
ルートなんだよ。
ちなみに平安末期には、緒方三郎が宇佐八幡を焼き討ちにしている。
そのとき奪った宝剣を家宝にしていたのが同じ豊後大神氏の佐伯氏。
もちろん原因は宗教的なものじゃなく、所領と年貢のトラブルとか
大宮司を宇佐氏に独占された積年の恨みといった政治・経済的理由。
豊後、筑前、筑後の境目に小石原峠、嘉麻峠がある。
前者には英彦山神宮、後者にはしぶとい秋月氏が拠点を
構えていた、てわけね。
もめるはずだ。
7 名前:名無す 投稿日:2008/12/31(水) 03:00:04 ID:UIMjpNVb
愛媛から来た運ちゃんによると風早・大三島地方の言葉が多々有るらしい。
大三島系の河野(かわの)ですよ。
その頃、先祖等戦災難民に大友宗麟公は良くして下さり、国東に住まわせてくれた。
佐伯に進入し破壊と略奪を行った島津に対し、自分より5代前のじさまは九州で行商してて
地の利を知ってる事を新政府軍に重用され、会津抜刀隊達を田原坂そして城山へと水先案内し
薩賊を会津っぽが(っぽの意味不明)斬り殺しまくってる所を多々見たそうな。
秀吉、家康による豊後の小藩細分化は、どういう狙いだったのだろうか?
>>250 ・恩賞として豊後が選ばれた。
・キリシタン勢力の分断。
豊後は弱小大名の集う地。
キリシタン率50%の由布院は、町の真ん中を走る小川の南北で
天領、遠い他藩の飛び地に分断されたらしいね。
賑やかな観光地だけど、この地の歴史は抹殺されている。
253 :
日本@名無史さん:2009/01/24(土) 16:23:47
何か今に至るまで昔年の栄光から暗澹たる衰退へと、
今に至るキャノンの覇権切りまで、てか、無関係かいな。
なるれす
小藩部分割されたことが、大分の発展にマイナスだったのは明らか。
明治になったときに、九州の県庁所在地で人口10万を超えてなかったのは、
大分と宮崎だけ。
しかもその二つは市ですらなかった。
ちなみに当時、大分県で一番人口が多かったのは、豊後高田。
それで、周辺町村を必死で合併して、市にしたわけだ。
256 :
日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:05:21
豊臣秀吉が裂き
徳川代々が分割統治し、
薩長が大分を復興させたわけですな
ある意味、その分割されたお蔭で
一村一品運動が出来たのかもと思うと
歴史は上手く出来ているなと思った
>>256 豊臣の前に、薩摩がボロボロにしたってのも追加。
260 :
日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:03:10
>>259 毛利も大友と抗争を続けた末に、
関ヶ原では大友を西軍側で挙兵させて、大友の豊後復帰の芽を絶っていますが。
やっぱり島津が大きいかな。
大量に捕虜を奴隷として売り飛ばしてしまったせいで、確か大分の人間かなりいなくなったんじゃなかったっけ?
二重三重
島津の豊後侵攻で領民が人狩りにあう
↓
豊臣秀吉の九州御動座でやってきた秀吉配下の武将が人狩りをして(ry
↓
大友氏改易
後からやってきた豊臣系大名の収奪に耐えきれずに多数の領民が逃散
この時には頼によって薩摩や大隅に逃げた人も多かったらしく
「豊後からそっちに逃げた領民が居たら捕まえて元の場所に返してね」
という内容の文書が島津家文書に残っていたような記憶。
信長・秀吉って、他の大名みたいに捕虜を奴隷にしないのが革新的だったんじゃなかったっけ?
リンク張るときは、何か一言添えてよ。
全文読んで初めて納得かい?
このくらいの文章すぐ読めるやん。
そういう甘やかしがよくない。
269 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 06:17:28
無言でリンク張るのは、ブラクラっぽくて気持ち悪いし、リンク切れしたらなんのことやら
後からなんのことやら全く分からなくなるんで、何か一言書いて欲しい。
つーか、言葉がないと、どういう意図でリンク張ったかも全く分からんし。
>>265は一応読んだけど、
>彼はこうした残虐行為が、大友氏を救援し、島津軍を討つべく送り込まれた秀吉軍や、また吉統改易後に入部した豊後接収の秀吉軍によっても行われたことを記している
の部分が意図ってことでいいんだよね?
>>264は一瞬開いたが読む気しなかったので閉じた。
何がポイントかいちいち探す気になれんし。
kobe-uをブラクラってあんた(ry
一行レスうざ
272 :
日本@名無史さん:2009/01/28(水) 10:44:45
中途半端なかばい方するからもめることになる。
>>267 >>264ざっと読んだが、何にも頭に残らんかった。
自分の言葉で書くのがめんどくさいなら、ポイント箇所だけでもリンクにそえてコピペしといてくれれば、
読みやすくなるのに。
何かagesageして自演している人がいるような。
このスレ、実をいうと二人だけ。
俺は下げたり下げたりの自作自演だがなw
277 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 19:39:17
過疎スレといえば、大分を思い出す。
秀吉のところ、聚楽第に行く時、商人に身をやつしたんだっけ。
その時から衰運を背負っていたような気がする。
278 :
日本@名無史さん:2009/01/30(金) 22:22:03
大友宗麟は大分の誇りなのだが、はっきり言って欠陥が多い。
島津に片手間で勝負をかけ、領国を失う寸前まで至ったと恨み言を語るが、
それなら何故全力で挑まなかったのか。島津に粘着する大友厨は情けない。
今初めてこのスレみたが、
俺も
>>264みたいな、何も書かずにリンクだけ貼ってるのって読む気起きないな。
つーか初めから、読んでもらおうとしてないんでしょ?としか思わん。
自演とかそういう問題じゃないだろ。
280 :
日本@名無史さん:2009/01/31(土) 19:44:37
漏れも、遠藤周作の「王の晩歌」読んで興味もった程度。
でも覗いてるよ、ここ。
>>278 片手間と言うのも言いすぎじゃないか。
島津と改選に踏み切ったのは、戦略的に見れば正解だと思う。
南回りの貿易ルート確保したかった訳だし。
現代人が、日向遠征を無謀だったと言えるのは、色々な資料を分析できるからだし。
正確な統計のない当時、それを期待するのは無理があったんじゃないか。
実際には、耳川の合戦で別働隊の到着を待てなかったり、じっくり高城を
囲めなかったというのも、兵糧の現地調達が上手く行かなかったという
事情あったという説がある。
補足すると
・当時の日向は北部の延岡近辺と南部の都城近辺の生産力は高かったが、中部地帯は低かった。
ちなみに薩摩・大隈・日向は中国、九州のその他は上国。
・大友氏は肥後・筑後・筑前・豊前・肥前の生産力の高く現地調達の容易な地方への遠征経験は多かったが
日向への出兵経験は、乏しかった。
・土持氏(延岡)攻略は短期で終了し、現地調達も上手く行ったので兵糧の調達を楽観していた。
・大軍を動員していた。
以上から、兵糧の不足が深刻化していた。
・耳側の合戦のとき、宗麟の本陣は現在の延岡、義統の本陣は野津(現在の大分県臼杵市)にあった。
義統は何をしていたかと云うと、兵糧の調達の陣頭指揮を執っていた。
可能性としては、宗麟が延岡で寺社の打ち壊しをしていたというのも、自身の蔵入り地にしていた、
または、兵糧の調達をしていたと考えられるんじゃないだろうか。
しかも後方で神に祈っているだけで、
指揮も何もしてないんじゃ、そりゃ味方の士気がある訳が無い
それに、道雪がいなかったのも大きいんだろうな
284 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 08:29:46
道雪って雷にびびって刀振り回したら見事その刀に落雷して半身不随になったアホだろ?
秋月にボコられて一族皆殺しになる程度の奴が生きてたって、味方の足を引っ張るだけでは?
285 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 10:00:05
日向の土地は痩せとりましたか。
あまり石高高くなかったんだろうね。
伊東氏も大した戦力なかったし。
今でも河川の氾濫多いしね、開墾ができてなかったのかな。
286 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:04:07
太閤検地による石高を見ても低さは歴然だね。
筑前 325,695
筑後 265,998
豊前 140,000
豊後 418,313
肥前 309,935
肥後 341,220
日向 120,087
薩摩 283,488
大隅 175,057
287 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 12:15:33
日向では伊東氏が労動力を根こそぎ軍事に使い、島津を圧倒していたからね。
おかげで日向での農地整備の記録は、都城周辺を除くと足利尊氏から江戸時代まで中断している。
>>284 宗麟に唯一、進言できる人物だから。
道雪が耳川の戦いに参加していたら、
ここまで瓦解にはならなかったと思う。
そもそも、この戦いに反対しているんだよな。
足悪いから戦死しただろうね。
290 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 21:18:48
どげんかせんといかん!
291 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 22:05:36
たいぎぃー
292 :
日本@名無史さん:2009/02/03(火) 19:43:34
豊後は石高高かったんだね(過去形)
今は、ほんとパッとしないけど。
幕府の弾圧、すごし。
幕府の威光で大きくなったのに、信長にすりよったせいで(毛利と敵対してるからしょうがないが)
幕府に敵認定されて一門に反乱の、島津に侵略の口実あたえちまったしね
294 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 00:06:21
来週「日本史サスペンス劇場」で吉岡妙林尼やるってさ
個人的に好きな人物だから嬉しいけど、あの番組だと不安だ
295 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 00:12:19
鶴崎踊りいいよね!!!
296 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 02:58:22
誰かと思ったら、島津群に降伏した後酔いつぶれさせて襲った卑怯者のことですか。
297 :
日本@名無史さん:2009/02/05(木) 12:35:30
鶴崎だと加藤清正人気が高いんだよな
>>297 加藤清正が一時期領有して、豊後街道の終点として整備したからね。
299 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 17:55:38
鶴崎は幕末まで肥後領だもんね
清正のトレードマーク烏帽子型兜の絵があちこちにあるもんね
300 :
日本@名無史さん:2009/02/08(日) 21:33:04
絵というか、鶴崎商店会の真ん中に天狗の鼻のようなオブジェが立ってるし。
加藤清正の兜をモチーフにしたっぽいが。
鶴崎商店会のイメージキャラは、長刀を持った尼僧(前述の卑怯者)だし。
>>292 弾圧と云うより、小藩分立で開発が、進まなかったというのが大きい。
庄内か野津原あたりで井路を引こうとした庄屋の話がある。
複数の藩と折衝しなきゃならないし、測量もこっそりやらなきゃならない。
それで、かなり余分の時間と手間がかかったそうだ。
豊前は、江戸時代に石高を大きく伸ばしている。
なるほど、今の行政、役所と似たところがあり、というよりも
昔の伝統を今も引き継いでいるわけね。
でも旅行に行って思うことは、豊後って
自分のところの歴史をもっと大事するべき市町村
が多いのでは。
もちろん熱心なところもあちこちあるだろうけど。
303 :
日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:58:10
>>301 豊前も小藩分立と思われるのですが、
江戸時代に何が違ったのでしょう?
305 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 02:38:54
では北九州市民は中津奥平家が領主?
>>305 小倉藩10万石
http://sito.ehoh.net/zinko.html 国名
慶長3年(1598)
正保2年(1645)
元禄10年(1697)
天保5年(1834)
明治6年(1873)
豊前
140,000
231,680
273,801
368,913
366,948
豊後
418,313
378,592
369,546
417,514
459,184
日向
120,088
288,589
309,954
340,128
418,142
薩摩
283,482
315,251
315,005
315,005
323,483
大隅
175,057
170,828
170,833
170,833
261,793
筑前
335,695
522,512
606,981
651,782
633,434
筑後
265,998
302,089
331,497
375,588
536,841
肥前
309,935
561,437
572,284
706,470
691,444
肥後
341,220
572,980
563,857
611,920
851,237
309 :
日本@名無史さん:2009/02/12(木) 09:56:41
中津も小倉も小藩ではないし
小倉は小笠原流家元さんでしょ。
北九州市民、ガラがたいそうよろしいのは・・・
311 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 00:46:30
竹田と比べれば、小倉も中津も小藩だと思う。
奈多夫人を大河でなんて言ってる奴はお馬鹿さん。
315 :
日本@名無史さん:2009/04/21(火) 22:02:18
316 :
日本@名無史さん:2009/05/10(日) 11:20:32
>>307 薩摩って意外に人口伸びなかったんだな。
薩摩の場合は、大幅な人口増加があり、
人口過剰につき大隅へ移住政策が取られた(強制移住の事例すらある)。
318 :
日本@名無史さん:2009/08/05(水) 12:30:10
319 :
日本@名無史さん:2009/08/06(木) 19:53:31
道雪や紹運のような名将がいたのに勿体無いよね。
宗麟が浅井長政レベルの普通の大名だったら九州統一も夢じゃなかったかもしれない。
宗茂なんて単騎なら戦国時代TOP3に入るし。
>>319 単騎ならトップ3どころかトップ1000にも入らんと思われ。
>>319 北に毛利、南に島津。西に竜造寺(鍋島)。
こんな連中に囲まれつつも、
あれだけ領土を広げられたんだから、良しとしないと。
しかし、九州統一できていたら、
秀吉と戦っていたんだろうな〜
>>321 毛利島津竜造寺
こいつらすべて大友より後発
なり上がりであったり内紛やってたりと、
大友より圧倒的に不利な立場から追い上げ、
あるいは逆転した連中だろ
大友がこいつらに囲まれながらも勢力拡大したんじゃない
こいつらが頭を大友に抑えられながらも勢力を拡大したんだよ
話があべこべだ
323 :
日本@名無史さん:2009/08/07(金) 13:45:37
関東の者ですが最近、大分旅行で、岡城、大分府内城、臼杵城、杵築城、中津城を見て回り、大友氏に興味が出てきました。
でもこちらには大友関係の本がなく、疑問ばかりが浮かびます。
なんとか筑前立花城攻防史と言う本を見つけて買ってきましたが。
毛利支援の伊予河野氏と大友支援の土佐一条氏らと宗麟の関係を教えてください。
一条氏に伊予宇都宮氏も味方した?
一条氏には大友兵が多数参加して毛利に破られた?
双方とも宗麟の姉妹と婚姻関係があったんですか?
一条氏再興(母が宗麟の姉妹?)を目指して宇和島に上陸した時に大友兵もかなり投入されて、長宗我部氏と四万十川で戦い大敗したんですか?
四国戦役に参加していたとしたら臼杵や佐伯や戸次ら有力どころが四国派兵軍の主力ですか?
南蛮貿易や海に沈んだ商業都市だった島、豊予海峡や豊後水道を中心とした歴史っていろいろありそうですね。
ちなみに廃嫡されそうだった宗麟が湯治に行かされそうになったのは別府温泉ですか?
324 :
日本@名無史さん:2009/08/08(土) 17:48:14
西国一の最強大友!
ぜひコレクションしたい綺羅星の武将達。
325 :
日本@名無史さん:2009/08/21(金) 15:16:15
大友スナックを買って
さっそくコレクションカードを見たら
すでに35枚持ってるNo.47島津義弘(シルバー)だったからショボーンだった。
だが俺は負けない。大友スナックをさらに二つ購入。
天運を祈り破いて中を見たら
No.32秋月種実(ゴールド)
すでに15枚ダブりのNo.78毛利元就(プラチナ)
の2枚だった。
マジキチだよ大友スナックの野郎(怒)
なぜ大友関係のまったく出ねぇんだよ。
326 :
日本@名無史さん:2009/08/24(月) 13:32:09
まさかここで大友スナックの話題が出るとはw
あまりに地域限定すぐる。
327 :
日本@名無史さん:2009/08/28(金) 09:12:39
>>323 大分府内城、杵築城、中津城 大友氏とまったく無関係。
伊予河野氏と土佐一条氏、宗麟の姉妹と婚姻関係があり。
一条氏帰還に向けて、援兵を送ったのは事実みたいだが、
そんなに大規模じゃない。
ちなみに宗麟の長女は、清田鎮忠(大友の一族)と再婚している。
328 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 08:10:40
木次城は関係あるだろ。
島津軍を撃退してるし。
戸次、吉弘、臼杵のうち臼杵って、道雪や紹雲の活躍のせいでマイナーだよね。
臼杵氏のエピソードってなんかない?
330 :
日本@名無史さん:2009/09/06(日) 10:55:18
新大阪駅の少し大きめの書店で、全国的にはマイナーなはずの高橋紹運と立花宗茂の
小説コーナーには、わざわざ、少し遠くからもその小説が目立つように小説の真上に
のぼりの旗のように、名前を書いておいてある。(そののぼりは、あまり立ってないのだが)
高橋紹運〜戦国挽歌(学陽書房)と立花宗茂(学研M文庫)という本だが、
すごく面白い。 立花道雪とあわせた3武将は、本当にすばらしい人物
だったんだね。 大友の家臣の方が、大友宗麟よりも数十倍すごいと思うのが
実感。 西軍に属して改易された後に、元の柳川城に戻された唯一の人である
立花宗茂凄過ぎ。
西軍に属したのに改易されなかった武将や、
徳川に尻尾振らず大坂城に入った武将の方がよっぽどすごいと思うが。
>>328 田原と佐伯が、謀反を企てたときに佐伯への討伐軍を指揮していたのが、臼杵長影。
長景は、佐伯に「お館様の怒りがとけるまで、日向に逃げたらどう?」と勧めた。
わずかな供を連れて佐伯は日向へと落ちていった。
しかし、それは罠で、途中の道には伏兵が待ち構えていて……。
結局、大きな戦闘もなく、この反乱は収束。
佐伯の与党は分割。
大友氏の権力は、更に強固になりましたとさ。
ちなみに娘が道雪の継母。
つまり、臼杵鑑続、鑑速兄弟は、道雪の義理の叔父になるな。
●大友氏の重臣として活躍
戦国期の当主臼杵長景は民部少輔を称し、海部郡臼杵庄水ケ谷城主であった。
永正十三年(1516)十二月から享禄元年(1528)十二月まで大友義鑑の加判衆をつとめる。
大友政親の代に整備された支配機構の一つに、年寄・宿老・老中などと呼ばれるものがあった。
大友氏の支配機構の最高機関で、主君の命を執行するに当たって複数で署名加判することから
「加判衆」と呼ばれるようになったものである。
大友氏の重臣の代名詞であり、臼杵氏から加判衆に登用されたのは長景が最初であった。
長景は永正十三年の朽網親満の乱に活躍して、加判衆に抜擢されたようだ。
そして、永正十七年頃には筑後方分、享禄元年頃速見郡山香郷の代官をつとめている。
大永七年(1527)十月に起こった佐伯惟治の乱には、討伐軍の大将として出陣した。
しかし、佐伯勢の防御の前に攻めあぐみ、結果謀略をもって惟治を殺し、乱の終息をはかった。
このため、長景はのちに狂死したという。
長景には、鑑続・鑑速・鎮次・鎮順の男子があったとされる。
跡を継いだのは長男の鑑続で、天文五年(1536)から弘治二年(1556)まで、二十年間にわたって加判衆をつとめた。
また、大友家の外交事務を管掌し、享禄三年(1530)以降、幕府・他大名との交渉の責任者となっている。
そして、天文四〜七年の大内義隆との和睦、天文十六〜十八年ころの一色義晴の娘と義鎮との婚礼、
天文二十一年の大友八郎の大内家督相続などに尽くしている。
一方、志摩郡代・好士岳城督を勤め、周辺の在地領主層との間に与力被官契約を結び、筑前西部地域において大友氏の安定勢力構築に
尽力した。鑑続には男子がなかったため、弟の鑑速が家督を継いで、弘治三年から元亀三年(1572)まで加判衆をつとめた。
鑑続・鑑速兄弟はともに傑出した人物であったようで、天文十九年に起こった「二階崩れの変」を生き抜き、鑑速は義鑑が遺した条々に
大友家の重要書類や日記箱を管理する奉行に指名されている。
ゲーム厨にはわからんだろうが、臼杵氏は道雪よりもずっと政権の中枢にいて、影響力を持っていたわけだ。
●「豊後三老」の一に数えられる
鑑速は大友義鎮(宗麟)に仕えて、吉岡長増・吉弘鑑理と並んで「豊後三老」と称された。
永禄初年から元亀にかけては、豊筑肥に出陣して毛利氏とその与党秋月・原田・高橋・立花氏らと戦っている。
この一連の戦闘において、鑑速は戸次鑑連・吉弘鑑理とともに現地軍総司令官を勤めた。
また、交事務を担当し、永禄二年には義鎮の肥前・豊前・筑前守護職につき幕府に修礼している。
さらに臼杵氏は長景のころより、大友氏の対外貿易を管掌していたようだ。
天正元年八月、大友宗麟が派遣した南蛮貿易船が帰国途中、島津氏の港に繋留されるという事件が発生したが、
このとき、鑑速が返還交渉に臨み、伊集院忠棟に鎧一領を贈っている。
これも、鑑速が対外貿易の管掌者として事態の解決を図ったものであろう。
ところで、鑑速の弟新介鎮続は長兄の鑑続の跡をうけて、志摩郡代・好士岳城督となり、大友義鎮に仕えて活躍している。
鎮続は好士岳城を拠点として志摩郡衆との間に主従関係を結び、「新介与力被官」と呼ばれる一定の勢力を養った。
主として、大友氏の筑前西部経営に尽くした。永禄末年から元亀年間に博多合戦・志摩郡防衛に活躍し宗麟から感状を受けている。
一方、元亀三年正月には原田了栄・親栄と争い、新介短慮との譴責をうけるといこともあった。
臼杵氏の系図は諸本伝わり、それぞれ異同が多く、鑑速のあと鎮理なる人物が加判衆にあったとうが、系図上の関係は不明である。
また、鑑続と鑑速とは兄弟といわれるが、系図によって兄弟の人数、名乗りも混乱をみせている。
天正二年頃より息子統景が父鑑速の代理として、肥後に書状を送っていることが確認される。
臼杵家の最後の惣領となった統景は、年ながら文武の道に通じ、田原親虎とともに宗麟からその才を愛されたという。
とくに能は金春八郎の指導を受け、鼓をよくしたと伝わる。
338 :
日本@名無史さん:2009/10/04(日) 09:43:53
門司城の帰属タイムテーブルがよくわからない
339 :
日本@名無史さん:2009/10/18(日) 12:58:51
元就の九州完全撤退のあと門司城って毛利と大友どちらに属したんだろうな
某大友サイトだと大友側って書いてあったが。
340 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 17:24:05
筑前や豊前、豊後の戦国期の街道がよくわからん
肥前から入って岡城を攻めてた島津軍がなぜ玖珠郡や別府近くの城を攻められるんだ…
日向から入った島津軍は佐伯が落ちないのに臼杵攻めしたら補給を考えたら危険じゃないのか…
つか各地の城が落ちず不安定なのに木次までどうやって島津は侵攻してんだ…
わからない。わからなすぎる。
木次や龍王や鶴崎へ進出したのは義弘騎下?
家久は臼杵より北には言ってない?
日田方面には秋月あたりが侵攻したのかな?それとも義弘が日田方面に派兵した軍は阿蘇から北上して日田→玖珠→別府→木次や大友館へ進軍?
国東半島の大友諸将は反乱しなかったの?宗像や城井や麻生らは暴れなかったん?中津や高田は安全圏だったん?
341 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 23:51:56
当時の交通路としては、こんな感じ。
キリシタン道路としてかなりにぎわっていたらしい。
府内→わさだ→野津原→竹田→小国(肥後北部)→大牟田→筑後→肥前・長崎
現在の国道10・197号は、街道として機能してなかったみたいね。
大野川以東の大在・坂ノ市・丹生・幸崎は、臼杵・野津なんかの経済圏に含まれていたから
坂ノ市→丹生→九六位山又は御所峠を超えて臼杵に至るのが、古代からの交通路。
津久見はもともと臼杵荘と佐伯荘に半分づつ属していた。
当時は陸の孤島だろうね。
大分→別府は、海沿いの別大国道じゃなく、高崎山の裏側を通るのが当時のルート。
大友館から、高崎山城の間にも城があったはず。
そしで現在の別府・城島高原から庄内→湯布院→玖珠は、当時の方がかなり
賑わっていたんじゃないかな。
後考えられるのは、こんな感じ。
延岡→北方→豊後南部の宇目(朝日嶽城)→緒方→三重→戸次
宇目→直川→弥生→野津→戸次→大野川→鶴崎
佐伯氏が立て篭もった城(栂牟礼城)も、現在の佐伯市弥生の城だから、この近辺が
当時の佐伯近辺の交通路だったんじゃないか。
342 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 16:21:14
日田って島津侵攻の時って、大友側は誰が守ってたの?
南郡衆(直入郡と大野郡?)が岡城の志賀が旗頭で、
玖珠衆(玖珠郡と日田郡?)の旗頭が日田の守将とか?
いまいち大友の軍管区がわからないので教えてください。
343 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 19:27:40
平時ならいざ知らず有事に際しては臨機応変だよ
344 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:09:43
w
345 :
日本@名無史さん:2009/11/11(水) 22:12:44
玖珠の拠点は、角牟礼城。
この城は、大友氏の直轄。
玖珠は、格別の有力者はないんじゃないか。
日田も同様じゃないかな。
346 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 01:48:54
そうりん>>>>>輝元
347 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 01:57:17
玖珠郡=国侍持ちきり
348 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 09:46:56
玖珠郡衆
小田、森、帆足、魚返、古後、恵良、中島
349 :
日本@名無史さん:2009/11/12(木) 13:01:09
じゃあ森が大友から派遣されてきて大友直轄城の角牟礼城の守将になってたのかな。
日田は島津に落城させられ奪われたんだっけ?
日田城はすでに廃城だったからロクに守らずに島津に降ったんじゃないか?
秋月あたりの働きかけで日田衆って岡城にいた義弘に内応したんでないかねぇ。
じゃなきゃ玖珠郡攻めに兵を分けたりしないだろうし。
351 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 11:17:28
南郡衆が島津に内応したのは耳川敗戦の責任を糾弾されたからと言われてますが、
南郡衆って大友の血はまったく入ってない国人衆なんですか?
352 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 13:58:34
角牟礼の森氏は土着だろ
>>351 いえ、基本的には大友氏族です。
離反は、二階崩れの変などでの遺恨や冷遇によるところが大きいようです。
354 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 16:05:56
二階崩れからずっと遺恨に思ってたのか。よく毛利に内応しなかったな
355 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 17:53:57
島津氏に暗君無しyo ドコぞと違って^^
DQN忠恒・重豪がいるではないか
357 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 19:10:04
戦国のレイプ王。鬼畜度、変態度MAX!ファンキーモンキーベイベー!
358 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 19:37:03
略奪しまくりした挙げ句に、日本人を肥後から島原へ連行して奴隷にして売りまくったりして九州亡国にした害虫島津に暗君なし…だと?
359 :
日本@名無史さん:2009/12/17(木) 21:41:27
大友の被官や家臣団に徳丸氏っている?
355が思う名君の定義は分からんが
薩摩藩は重税で民が苦しんでたとも聞くぞ
>>360 いつものオーバーな風説じゃね?
当時、金の卵の砂糖収穫なんかで、奄美は重税で大変だったらしいけど
362 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 07:11:18
島津藩主は新しい物好きの趣味で放蕩してるから常に重税だよ
その民衆をかえりみない悪政を…新しい物好きの浪費を明君の証拠だからと屁理屈を持ち出すのが薩摩芋
民はロクに飯喰えない。
篤姫ではそれを「働かないけど食える侍には万が一の時は命を盾にして守る義務があるから」とか美化しててワロタ
国滅ばした大友は論外だけどな
364 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 11:14:07
会津人に虐殺されまくった朝敵薩摩よりマシだけどな。
宗麟公の話が全くないのでツマンネ
島津厨が喧嘩売ってきたんだもん
367 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 11:19:32
志賀にフルボッコにされて泣いて逃げた。へタレ蛮族それが島津
368 :
日本@名無史さん:2009/12/19(土) 12:49:30
佐伯にフルボッコにされて泣いて鹿児島まで逃げた臆病者が島津
>>359 いたと思う。
それほど有力者って言うわけじゃないが。
>>354 一万田・田北・戸次とかもそうだし、佐伯もそう。
大野郡・海部郡・直入郡辺りは、鎌倉初期からの勢力圏。
もともとの大神氏系は、没落していたし。
大友親治の始めた加判衆も最初期は大友氏の被官とか規模の小さい一族(又庶流)が
選ばれていたけれど、だんだん有力な一族が選ばれるようになった。
実は、宗麟の祖父・父も自分の方針に従わないものを加判衆衆から外したりして
反乱を引き起こしたりしている。
宗麟は、さらに大胆な人事を行ったわけで、それに不満を感じた者も
いただろう。
370 :
日本@名無史さん:2009/12/21(月) 22:05:35
大友 ザ ヒーロー 太陽よ!
371 :
日本@名無史さん:2009/12/23(水) 12:06:08
好士岳って唐津あたり?
372 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 13:04:26
374 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 15:28:11
寡兵の高虎にフルボッコにされて泣いて鹿児島まで逃げた臆病者が義弘
375 :
日本@名無史さん:2010/01/12(火) 17:23:23
大友って
直前で秀吉に救われた奴か
恥も外聞もなく泣きついた奴だな。
377 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 03:04:52
大友家の祖先、相模の近藤って
近藤さんの本家筋?
近江から流れて行って相模といのは、
けっこう遠路はるばるという気がするのだが。
ちがうだろ。
大友は、波多野氏の流れ。
大友の初代は源頼朝の御落胤だよ。
宗家が滅びた段階で、大友が事実上源氏の嫡流だ。
380 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 12:28:06
381 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 12:30:22
頭丸めて土下座すっかw
382 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 17:53:55
大友宗麟って典型的なバカ殿だと思うんだけど、よくそんなバカ殿に武田信玄も
賞賛した立花道雪や、戦国最強の1人に挙げられる宗茂が仕えてたのかよく分からん。
竜造寺(鍋島)や島津に行けば、簡単に九州統一できただろうに。
383 :
日本@名無史さん:2010/01/16(土) 18:03:38
┌─────────┐
│ .|
こう根殺人実行犯また放火殺人! │
│ .|
└―――──――――┘
ヽ(´ー`)ノ
( へ)
く
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┌──────────┘- \
│ 猟奇殺人陵辱レイプ魔 \
│ /
└──────────┐- /
ヽ(´ー`).ノ |/
( へ)
く
- = ≡三 |\
- = ≡三 ┌──────────┘- \
_ = ≡三 │ \
 ̄ = ≡三 │阪大学院工学部1項ねとしゆき /
- = ≡三 └──────────┐- /
(´ー`) - = ≡三 |/
( ヽ ヽ)
/ >
>>382 毛利に島津に竜造寺、とライバルだらけの中で国を保ってたんだから、まるっと無能なわけではないだろ。
色々問題あったのは確かだが、見放すほどでもなかったんだろうな。
>>377 いや、それなりに本流筋じゃないかな>相模近藤氏
逆に苗字発祥の地である近江では、近藤氏って聞かないし。
それと大友氏は
>>388 氏の言う通り波多野氏流だよ。
能直の母が波多野(大友)氏で、能直は母方の家の方を嗣いだ。
386 :
日本@名無史さん:2010/03/07(日) 02:12:19
へえ。
387 :
日本@名無史さん:2010/03/09(火) 00:47:27
神奈川県愛甲郡辺りが本拠地
388 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 00:08:26
愛甲猛の愛甲か
毛利氏と本拠地が同じなんだな
390 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 10:29:23
大友氏の領国支配って連邦制みたい
直轄領ほとんどないし
中世武士なんてそんなもんだろ
392 :
日本@名無史さん:2010/04/30(金) 07:08:54
相模から下向した大名って他にもあるの?
>>341 こういう情報って、どうやって調べるの?
394 :
日本@名無史さん:2010/07/13(火) 10:57:56
大友宗家の家紋が算木って本当?
395 :
それがし入道して・・:2010/07/19(月) 12:21:34
抱杏葉じゃ?ここは岩屋城お膝元、紹運入道のファンです。本丸からの眺望は良いですよ。
もちろん島津と秋月は敵視しています。
惣領家は算木、同紋に許したのがギョウヨウ、って言ってる本があった。
大友八郎は惣領じゃないからギョウヨウだった、と。
ところで筑紫はどうです?
バテレン被れの十の字算木だろ
398 :
日本@名無史さん:
なるほど