松前藩を語る
2 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 02:31:53
2
田名部に居た蠣崎氏でつね、根城南部氏に討たれて敗走した生き残りが松前氏。
4 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 02:47:29
松前漬が好きでつ
5 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 03:33:43
信広の若狭武田一族はウソだろ???
6 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 09:44:24
ハシタイン最強説
7 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 15:06:28
一時、北辺防備とかいう理由で蝦夷地を召し上げられて梁川に移ってたんだっけ?
8 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 19:04:43
松前藩がしっかりしていれば、樺太・千島列島はおろか、カムチャッカ半島南部まで日本の支配下だったろうに。
9 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 09:23:22
松前藩の北方探検について教えてください。
10 :
松前伊豆守崇廣:2006/04/09(日) 18:55:52
御老中格
松前伊豆守崇廣
柳間 蝦夷福山参万石 城主
確か戊辰戦争で家老の(名字失念)超順が戦死は良いとして右手に太刀、左手にまな板ってのはどういうこと!?
12 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 16:26:01
このスレ盛り上がらないな。
なにげに、和人地、東蝦夷地、西蝦夷地(現北海道)、千島列島、北蝦夷地(樺太)を領域とする松前藩は日本最大の支配領域を持つ藩だと思うのだけど。
幕府より支配面積広いんじゃないだろうか。
1万石格と石高のない大名だってのも珍しいし、家臣にあたえる知行が交易権(商場知行制)って面も面白い。
蝦夷地に対する松前藩の支配がどの程度及んでいたかは近世日本史の一つのおおきなテーマになりうると思うんだけどな。
13 :
勘定奉行松本伊豆守:2006/05/28(日) 02:39:33
田沼政治のときの経済官僚たち(川井久敬、松本秀持)は、蝦夷地はイメージとは裏腹に沃野であり、最大1200万石、
少なくとも500万石の米産が期待できる答申を出している。幕府がやるか松前藩にできるかという問題はあるが、
開拓と入植が進めばロシアの南下も抑えられ歴史も変わっていたといろいろな主張がされております
14 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 02:52:47
>>13 蝦夷地の気候も知らずの建策、まさに机上の空論というやつだな。
15 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 04:52:36
>5
えっ 嘘なのか!
16 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 18:49:41
若狭武田氏側の資料に信広の名前はない。
17 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 19:14:35
蠣崎季繁は南部の家臣。
18 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 19:22:22
下国勘解由
19 :
日本@名無史さん:2006/05/28(日) 23:07:50
>>13>>14 平成16年度の都道府県別収穫量では、北海道は新潟県を上回っています。北海道は「623,900t」の収穫があり、新潟県は「594,700t」です。 作付面積も10アール当たりの収量も北海道の方が上回っています。
農林水産省 農林水産統計データ 面積・収量(米・麦・豆等)
http://www.maff.go.jp/www/info/bun01.html 田沼政権時代の経済官僚は卓見だと思うがどうよ。
この米の生産に加えて、小麦や大麦などの生産量が加わる。
技術的に当時寒冷地での水田耕作は難しかったが、早くから技術革新を進めていれば歴史はかわったと思う。
>>14 別に、最初から蝦夷地で米を耕作する必要はない。最終的にはつくりたいだろうが、日本でも、うどんなどがあるから麦だって十分需要があるよ。
田沼期ならオランダ人の農業指導を仰ぐ手もあるだろう。机上の空論と否定するなら、言いっぱなしでなく論理的な反論を頼む。
20 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 00:05:00
農業技術や作物品質が発達した今だからの話で、
江戸時代に蝦夷開拓をしてもあまり成果はなかったと思う
21 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:06:05
>>20 アイルランドなどは樺太と同緯度だし、北海道はベルネスク三国やドイツやフランスより暖かいぞ。
水田稲作にはある程度の技術革新が必要だけど、陸稲や麦作、馬鈴薯(じゃがいも)の生産と言った面で日本に十分貢献しうると思う。
繊維を取るための大麻の栽培でもいいし。
22 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:11:22
>16
松前城(復元)には若狭武田の話の説明文あったのに… 本土に近いのに船のアクセスないから時間かかったぜ あそこは。
23 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:35:56
田沼政権時代の経済官僚たちの考えは、
単に漁業のショバ権を家臣団の俸禄代わりにしているこれまでの
松前領の統治のあり方を根本から変革する可能性があることは確かだ。
24 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 01:49:36
品種改良が急加速した現代の収穫量では大して参考にならないよ。
本来は熱帯原産のイネよりもムギの方が北海道の気候には適してる。
25 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 03:17:56
こんにちの収穫量から当時の収穫見込み高を計算した結果、
やはり田沼経済官僚たちの見込みは相当明瞭である事ははっきりした。
26 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 03:33:17
北海道での稲作史を知っての暴言か?
27 :
日本@名無史さん:2006/05/29(月) 08:55:23
>>26 いきなり稲作をしようっては誰も言ってないよ。
>>24の言うようにとりあえず麦作からだろ。
ただ、稲作の北限も日本に入って来てからだいぶ北上している。
近世の品種改良の技術じゃあすぐには無理だけど、不可能と決めつけるのはどうかと思うよ。
まず麦作→しかる後に稲作の研究→陸稲の栽培→水田稲作の研究→水田稲作
って流れは極自然。
28 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:03:44
29 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:43:14
>21北海道が独仏より暖かい???
同緯度なら同じ程度の気温と思ってる喪毎は、消防並の知能ですか?ww
30 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:24:39
31 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 00:42:52
>>30 気温と降水量だけでは稲作に適しているかどうかは判断できません。
32 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 01:38:12
>>31 だから江戸時代の農業技術でいきなり稲作をしようなんて
>>27でも書いてないでしょ。
他の作物からじっくり生産すれば十分。
33 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 01:40:59
34 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 10:17:08
>>33 >>14で蝦夷地の気候について懸念がレスされているから(農業が難しいということでしょ)、欧州の気候と比較したわけだけど。
江戸時代の平均気温が現代より1〜2度低くても、今の気象データから当時の気温も大体推測できるでしょ。
水田稲作はちょっと技術革新を待たないといけないけど、麦作、馬鈴薯なんかは当時の農業技術で全く問題ないでしょ。
当時の技術米が作れないから(水田稲作ができない)入植は歴史的に無意味ってのは言い過ぎでしょ。まして米は水田だけでなく陸稲もあるわけだし。
35 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 10:43:50
>>21 おいおい、何でこんなイタイ奴がいるりにみんな、つっこっまないんだよ。
気温とか気候は緯度だけで決まるもんじゃない。
そんなこと言ってたらスペインやイタリアの気温が
北海道と同じじゃないとおかしいぞ。
樺太なんてフランスと同じくらいの緯度じゃん。
ヨーロッパは高緯度の割に温暖だって小学生のチリで習った事だと思うが?
36 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 10:45:52
冬の寒さに和人が堪えきれず
バタバタ死ぬだろうな。
北海道の冬はマイナス40度になることもあるしね。
和人の暖房技術では難しいぞ。
なんせ、ウルップ島に移住したロシア人ですら、
生き残れず壊滅したと言うし。
38 :
日本@名無史さん:2006/06/07(水) 17:14:47
>>35 >>30の気象グラフ見ろ。
ヨーロッパは緯度の割に温暖なのは知ってるが、北海道も言うほど夏期の気温が低いわけではない。
当時の技術でも麦の栽培は可能だろ。
>>36>>37のいう冬の寒さではなく夏の気温を見て農業の可否は判断するべきだ。
39 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 22:20:11
>>37 和人の暖房技術では当初は苦しむのは明らかだけど、より北の樺太にも幕末には入植しているし、
必要に迫られれば、断熱の良い住宅を考えるだろうよ。
>>39 樺太に入植(つーか、北方警備)についた和人は青色吐息状態だったのですが…。
ギリヤークやニブヒ・樺太アイヌの真似をしなければ、全滅していたと自ら認めて
いたような…。
41 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 00:05:51
内藤光子
42 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:46:31
>>40 真似をする、大いに結構。
必要に迫られればどんな工夫だってするし、いずれ断熱にすぐれた住居を建設するよ。
44 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 19:56:10
>>43 松前藩の北方経営が上手くいったらどうなるかってのは面白いテーマだと思うけど。
無論、史実での松前藩士の北方探検等も重要。
45 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 11:06:19
寺社の事を教えて
46 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 17:19:03
寺社奉行
松前伊豆守崇廣
は、老中首座大老格酒井雅楽頭忠績から帰国を待つように言われ、酒井からは奏者番兼寺社奉行に就くようにいわれましたが、何か
47 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 15:33:43
アイヌを弾圧したとか言われているのは事実?
48 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 20:58:03
>>47 「弾圧」とはちと違うが
ひどい扱いをしたのは事実だよ。
クナシリ・メナシの蜂起なんかは
ひどい扱いが原因で起こってる。
それでアイヌの反乱が起こると
決まって取る方法が和議を持ちかけて
アイヌの代表を城に呼んで謀殺する手段ね。
49 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:01:36
>>44 いくら松前藩の北方経営がうまく行ってても
最終的にはソビエトが全部かっさらっていくわけで歴史は変わらないだろう。
あと、北方経営がイマイチだったのを松前藩だけのせいにするのは意味がない。
そもそもアイヌの反乱に手を焼いてた程度なんだがな。
あんな小さな藩が範囲の広い千島や北海道と同じ広さの樺太や
ましてや日本と同じ広さのカムムチャッカを開発する余裕はない。
やるとすれば日本全体でやらないとね。
50 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:02:48
51 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 22:06:36
52 :
日本@名無史さん:2006/06/21(水) 14:48:02
53 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 18:28:42
54 :
日本@名無史さん:2006/06/22(木) 18:50:00
内藤寿子
55 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 02:21:44
松前藩の処刑場ってどこにあったんですか?
56 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 09:44:52
知らない。
58 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 00:58:56
買いz区
59 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 01:30:38
殿様写真が陣羽織はおったツッパリに見えた。
60 :
日本@名無史さん:2006/07/23(日) 23:35:33
松前藩の経済力は石高加算でどれくらいなのだろうか?
61 :
日本@名無史さん:2006/07/24(月) 01:19:51
10万石くらいだったか
かなり裕福らしいが
徳川家康の黒印状と家綱の朱印状の違いはなんでしょうか。
家康の黒印状はサイトを見つけたのですが、朱印状が見つかりませんorz
参考のサイトがあれば、教えてください
63 :
62:2006/08/06(日) 12:18:01
事故解決しました
64 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 22:32:58
65 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:07:52
>>61 10万石もないよ
確か、3万石だったキガス
66 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:20:14
確定的に石高が決まってなかったような。というか未開の地で辺境だったから確定できるはずがないと思う。
たしか10万石「格」だったと思う。この藩は特例で参勤も六年に一度でよかったらしい。
幕末期には超特例で外様から老中に抜擢されている。(この時期に至って有能者を採用する幕閣の意向があったとされている)
67 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:26:41
函館出身だけど、
郷土の歴史で習った。小学校で。
忘れたw
たしか幕府のあつかいが二万数千石じゃなかったかな。
で、アイヌ搾取して貿易して、実質10万石以上あったとか。
日教組の先生で、子供あいてに松前藩は悪い奴だと教えてたよ。
68 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:31:02
当時は米作が不可能だったから石高が決められなくて、松前藩の申告する銭での収入から石高を決めたとかと聞いた。
69 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 00:39:43
もともと公表されている石高はどの藩も曖昧だったらしい。
薩摩なんか沖縄から相当な重税を課せてたから実質100万石以上だったという説もある。
松前も決して貧窮はしてなかったらしい。参勤も優遇されてるし。
>>67 まあ、歴史を見ると…そう言い切られることも仕方ない部分もあるような。
71 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 12:33:42
松前藩の知行は場所と呼ばれた交易地。
これを商人に貸して運上金を納めさせた。
1800年頃の日本人人口が約7万という数字から考えると
10万石以上の大名に相当するというのは妥当な数字だね。
72 :
日本@名無史さん:2006/09/12(火) 08:49:30
73 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 01:19:55
とおじも
74 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 01:46:34
大阪で殺人事件起こして札幌に逃げた松前は子孫か?
75 :
日本@名無史さん:2006/09/28(木) 11:09:20
>>74 「松前」なら相当高い確率だと思う。
>>67 本当に歴史の教師なら簡単に「良い」「悪い」を決め付けて教えてんじゃねーよ
決めるのは個々の問題だろうが。
と言いたい
とは言うモノの言い訳できるケースとそうじゃないケースがあるわけで…
77 :
松前藩主の末裔:2006/10/03(火) 02:17:29
先祖代々から伝わる古文書には、これらの書き込みと照合できないことが多い
また、子孫の幾人かはウタリ協会と友好的な関係を持っている
78 :
日本@名無史さん:2006/10/20(金) 20:49:48
松前藩の樺太の大泊の陣屋の経営状況はどんなもんだったの?
79 :
日本@名無史さん:2006/10/30(月) 18:02:47
1679年(延宝7年)
松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊)に設けられ、以来約130年間日本の漁場として開拓が続く。
江戸期を通じてアイヌ民族は松前藩に搾取され、
明治の開拓時には労働力として期待できないまでに衰亡していた。
というような記述を北海道の博物館で見た覚えがある。
近代のタコ部屋といい、北海道の黒歴史は凄そうだ。