つーget
3 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:05:56
村役人でも苗字帯刀は少ないよ
age
4 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 00:19:19
ナエアザタテワキさんについてマタ〜〜リはなすスレはここでつか?
5 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 01:08:33
名主の家なんか昔は平気で日本刀がうじゃうじゃしてたそうだが・・・
6 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 01:22:55
名主じゃなくても錆びた刀
は大戦中の鉄不足に戦艦か
何かに鉄の一何にかなっています。
7 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 01:52:35
>>5-6 刀が家にあることと「帯刀」とは違う。
藤木久志の『刀狩り』(岩波新書)を読むべし。
8 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 02:37:51
家にあるのが刀だけなのは屁の突っ張りにもならん。
せめて鎧兜ぐらいないと。室町時代ぐらいの。
この条件で偽名家は一掃されるw
9 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 10:38:32
前スレ墓写真アップのものですが・・・話の流れだと墓と戒名は後で作ったという感じですか?そういったことって結構あるの?
10 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 19:56:58
天領の本陣は許されてたのだろうか?
11 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 23:04:50
>>9 あると思うよ。
江戸期の墓石にも流行があるから、それで判断も出来る。
慶安だっけ?
その頃は、村の富裕層でも二字戒名が一般的だろうし。
>>9 正面に名前(俗名)はありえないが
横に名前(もしくは世襲名)はありえる
なので墓と戒名は後で作ったとは断定できない
が、江戸前期にショボかったが江戸中期以降に隆盛したような家なら
2文字戒名を4文字、4文字を院号へ変更、
その流れでショボい墓を立派な墓に建て直すこともある
話を聞く限り貴方の家はもともと地侍のような家っぽいので違うだろうけど
>>11 >村の富裕層でも二字戒名が一般的だろうし。
>>9の家は話を聞く限り(墓も見て)2文字戒名はない
13 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 02:42:01
>>11あの写真の形態だといつごろのと思われますか?
>>12地侍でしょうね。戦国期に小さな城の城主だったようですが・・・ただ、郡下にいくつかの同姓の名主家があり
どの家が直系の家かは分からないようですが一応子孫という事になってるようです。
戦前までは郡下1,2の名門といわれてたそうですが没落、上記の名主家も一軒を除いてほぼ没落。
調べた限りでは元禄期の検地において200石の年貢を納めたという事と検地以前に大規模新田開発を
願い出て許されたという記述。
戦国期には戦役感状がいくつか・・・この程度しか分からないんですが。
14 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 05:05:00
ただ、郡下1,2の名門と言われるわりには門は薬医門でわりと質素だった様です。まあ、近くに長屋門の家は現存してませんが
15 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 15:58:43
>>13 先祖自慢スレなどによくいるなんちゃって子孫なんかと違い
貴方の家は名家の部類だと思う
ちょっと聞きたいというか調べると面白いと思うのは、
・先祖はいつから土着したのか?
・菩提寺の開山は何年か?
・菩提寺の開基は誰なのか?
・慶長検地での田畑と屋敷の大きさはどれくらいだったか?
・幕末黒船のときにお上から徴収されたのは何両か?
・江戸時代の戒名で院号ありの数と院号なしの数の比較はどれくらいか?
>>13 笠付角柱型の墓石だったね。
笠付角柱型というのは、武家や有力町人、有力農民の墓石。
本陣だった家の墓石を見た事あるけど、江戸後期以降は笠付角柱型が並んでた。
『笠付角柱型』は造立年代として江戸初期には見られない形態。
江戸初期の富裕層の墓石を挙げれば、宝篋印塔が代表的。
>>16 慶長頃の検地帳があればかなりラッキーだなぁ
18 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 03:42:24
>>16なるほど・・・土着については定かには分かりませんが城が築かれたのが1500から1520年頃
といわれており戦役感状が1540年頃なので現在地に土着したのは1530年頃と思われます。。。
菩提寺については以前図書館で調べた事がありますが室町末期で何とか和尚とか書いてありました。
慶長検地や幕末徴収についてはどうやって調べたらよいのでしょうか?
戒名については前スレでも書きましたが江戸期中期はOOOO居士、後期になるとOO軒OOOO居士
幕末になると分家に時折OO院OOOO居士が見当たりますが、本家は幕末期に死人は出てないようで
明治になりOO院OOOO居士となっています。
19 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 03:46:33
>>17墓の形態についてですが江戸期の墓ですが傷みが激しいのがあって笠が無いのもありますが
おそらく形式的に同じなので割れたりして撤去したと思われます。
ただ、明治期になると形式が変わり笠は無くなり長方形で結構一般的なお墓に比べると横幅がある
ものになります。
20 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 03:49:22
郷士 って 土佐藩だけだろ
他所の藩に郷士つー分けかた馬鹿にされてなんじゃ?
って言われていたからな
21 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 04:08:22
薩摩もいるよ・・・基本的に兵農分離が上手くいかなかった地域に多い。だから、徳川家系の藩にはほぼいない。
22 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 04:09:22
追記:水戸なんかは幕末にそれなりに召抱えて行ったそうだが・・・
>>18 >慶長検地や幕末徴収についてはどうやって調べたらよいのでしょうか?
幕末徴収はごく限られた裕福層を対象に徴収したので郷土史に載っていると思う
慶長検地も郷土史に載っているケースが多いけど
数が多いので載らないケースが多いかもしれない
>江戸期中期はOOOO居士、後期になるとOO軒OOOO居士
>幕末になると分家に時折OO院OOOO居士が見当たります
居士になる人と院(軒)号の人の割り合いはどうなの?
>>19 笠付きの墓石は江戸中期にも造られてる形態だけど、写真のは後期造立だろうね。
中期頃(1700年頃)の苗字入り墓石でよくあるのが舟形。
墓石中央右に没年月、中に戒名、左端に施主名など。施主佐藤氏とか佐藤傳右衛門とか入る。
石の厚みがないのでサイドには彫れない。
墓地に舟形墓石はある?
>18
菩提寺の開基って誰だかわかる?
あなたの先祖が開いた可能性もあるかも。
>>18 曹洞宗に軒なんて号あるのか
初めて聞いたぞ
26 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 14:28:22
あるというよりあったというべきか最近はみんな院号だが昔は軒号や庵号など最近はみない
27 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 19:20:24
>>23江戸後期まで本家と主要分家は全てOOOO居士。末期、嘉永、文久ごろから本家に近い家はOO軒OOOO居士
因みにこの時期本家は死人が出てない。この時期のOOOO居士とOO軒OOOO居士の割合は8対2ぐらい。
明治以降はだいぶ差が付けられ始めて本家と本家に近い家はOO院OOOO居士、江戸期の主要分家はOO軒OOOO居士
以降分家はOOOO居士。昭和三十年以降は本家、主要分家ともどもOO院OOOO居士。分家はOOOO居士です。
>>24舟形墓石はないです。
開基は分かりませんが開山は調べてみた所、室町の地頭の次男が坊さんになって云々という話です。
>>27 舟形墓石は地域によって差があるけど、自然石墓碑で古そうなのある?
自然石が多い場所は舟形が少なかったりする。
個人(一族)持ちの寺が、寺檀制度の浸透で一般村人の葬式寺にもなっていく。
その典型なんだろうな。
29 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 01:37:48
>>28自然石墓碑については分からないですね。手元の写真ではそれらしきものは写ってはいないのですが
一番上にある祠のような墓の周辺には確かに石がたくさんありましたが墓を形成してたかどうかは分かりません。
今年は夏に墓参りに行く予定ですので写真を撮ってきますが自然石墓碑とはどのような形態でしょうか?
>>29 自然石墓碑=大きい石をほとんど加工せずに立てたタイプの墓。
先祖は何藩なの?
31 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 16:44:41
前スレで天領とあったぞ
なえあざ たてわき
33 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 22:48:27
>>30それは無いと思います・・・墓場は石垣状に3段でなっており一番上が一番古い墓群ですが大きな石は存在しません。
天領です。
>>29 自然石墓碑は
>>30の言うような大型のものから、小さいものまで。
明治期以降には、凝った造りの自然石墓碑が増えてる印象。
江戸期だと、有力者の自然石墓はやっぱり大きめ。
それと、墓地整理の影響で元来の墓石が失われていたりなどは、よくあるケース。
27の話に戻るけど、その地頭ってのはあなたの先祖関係の人?
35 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 01:04:18
>>34先祖の元主君の先祖の弟らしいです。その地頭の苗字の人は郡内にあまりいない、かつ嫡流は滅んだようです。
>>35 その戦国期の地頭はどこかに仕官したのかな?
38 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 23:25:50
>>36それはちょっと・・・黙秘させていただきます。
>>37結構有名な家ですよ室町期は守護に任命されず守護と年中戦ってたようですが、そのころうちの先祖が何してたかは
不明。家来だったかどうかも不明。
>>38 絶対見つけてやるという意気込みでやれば、
判明する可能性が無きにしも非ず。
俺の先祖は500町歩地主だったけど普通なの?
祖先は足利義満からの分家
41 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 21:22:57
>>40地域によるし大地主の大多数は明治以後に集積したもの、それ以前は普通の地主の可能性が高い。
>>41 江戸時代に500町歩で明治〜終戦まで400町歩だった
>>40 幕府を開かれましたら、臣下としてお力になりたく思います。
未来を見越し理想の支配体系を作り上げましょう。
44 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 18:39:11
本題の苗字帯刀はどうなった??新撰組関係で多摩の豪農は治安維持の為に幕末に苗字帯刀を許されたとあった
が詳細ギボン
45 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 18:41:47
46 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 18:43:07
〃〃∩ _, ,_
⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!
`ヽ_つ ⊂ノ
地主じゃなきゃヤダ
_, ,_
(`Д´ ∩ < ヤダヤダ
⊂ (
ヽ∩ つ 100石以上じゃなきゃヤダ
〃〃
〃〃∩ _, ,_
⊂⌒( つД´) < ヤダヤダ
`ヽ_ ノ ⊂ノ
苗字帯刀で官位がなきゃヤダ
47 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 19:21:31
当家は500石クラスの地主でしたが何か?
48 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 19:25:22
49 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 19:39:06
うん。
だからこそありえる話だと思ってね。
そんなに立派すぎず、手ごろな地主が祖先だね。
一応〜地方のお殿様
って言われていたよ。
50 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:07:57
徳川って262万石だっけ?
すげー地主
52 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 03:53:31
1000石の小作人とかなw
>>48 てきとうーほざくなw
500石の殿様なんてどこだよwww
>>51 500石はだいたい何町歩必要か計算したことあるのか?
>>48に釣られるぐらいだからよく分かってないだろ?w
まぁ、バカにも分かるように教えてやるよ
あとは自分で計算してみれ
1石≒150kg、1反≒600kg
1町歩=10反、1町歩≒40石
江戸期に1000町歩地主は10家もないが、100町歩地主はわんさかいた。
10町歩地主なら吐いて捨てるほどいる。
簡単にいうとな、
「500石の農民てありえるのか?」という質問自体がアホ質問ということだ。
>>53 500石取りともなると、堂々たる武家。旗本であれば
禄高200石以上は「殿様」と呼称される。
ま、
>>48はそういうことを言いたかったのではないか。
55 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 05:11:06
前スレの「勢いだけで主張は支離滅裂なDQN」はいまだ健在か。
56 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 05:51:14
1町って10石分だよね?
57 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 07:41:11
そうだな。
>>56 耕地整理で生産高が進歩する前なら1町はおよそ10石
なので500石取りなら50町歩
こんなもんで殿様なんて聞いた事がない
59 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 13:43:46
上で書いた〜のお殿様と呼ばれていたご先祖を持つものです。
地主としては確かに500石と大した事はないですが
村が不作だった時や、河が氾濫した時などは我が家が財産を切り捨てて
村を救ったりしていたみたいです。
また、副郡長みたいなのもやっていてその地主としての規模よりも
政治力として周囲に認められていたみたい。
当時は貧乏な家ばかりで、当家は500石といえども庭に滝が流れているような
県の重要文化財に指定されるのされないのという、伝統のある屋敷だったみたいで
そういう意味でも「〜〜のお殿様」と呼ばれていた訳で実際に殿様であった訳ではありません。
48
>>54あなたのおっしゃるとおりです。
>>53てめぇ!むかつくんだよ!その口の利き方よ!
素直な意見を申し述べました。
61 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:01:29
思うに、全スレからチョーシこいてる馬鹿は、精神科か心療内科に通院して
抗鬱薬を処方されてるんじゃないかという気もする。
>>59 石高で村の豊かさは決められないけど
500石・・・むちゃくちゃ大したことあるよw
土地集積して、肥大化した大地主なのかは知らないけど。
屋号で『おだいじん』とか『なぬしさま』とか呼ばれてる旧豪農はあるよね。
旗本で500石なら中級クラス
殿様、奥様、若殿様
63 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 00:13:35
>>62 宇喜田秀家に仕えていて500石だった。
土地集積したのではなく、河が氾濫する度に財産を村人の為に使って
どんどん貧しくなりました。
>>63 500石の所領を宇喜田家より与えられて、
その領地を戦国〜江戸を通して所有していたということ?
65 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 00:40:29
戦後の農地改革まで所有していた。
実際はもっと減っていたらしいけれど、結局村の為に土地を切り売りした
という過去の歴史は語り継がれていた。
「昔はこのあたりの土地は全部〜〜さんちの土地だから」
「〜さんの家は県議会議員だけれど、結局このあたりの土地は全部〜さんの家の土地
だったからねー」
とかそういう感じで。
実家は江戸時代に田畑のみで300町歩、山林も合わせると600町歩地主でしたがなにか?
遡れば新羅三郎に仕えていた板垣氏までいけますがなにか?
主導する役が必要だね
66さんやってってよ
68 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 01:28:43
ほえー。
当家は苗字帯刀を許されてたけれどたかが500石の無名武士かと
思っていました。(一応清和源氏らしいけれど)
清和源氏の名門の板垣氏の子孫ですら6000石なんですね。
大体どのような基準なのかっていうのが理解できていいですね。
でも500石ですら県議員なんだから、6000石というと国会議員クラスですよね。
それがあの板垣退助だったり・・・
69 :
66:2006/04/23(日) 01:54:52
>>66 板垣氏の祖は武田信義の子、兼信ですよね?
新羅三郎に仕えていたというのは誤伝ではありますまいか?
71 :
66:2006/04/23(日) 03:10:26
>>70 史実(?)では曾々孫が板垣氏の始祖となっているが
家伝では、板垣某氏は義光に仕え、
その後兼信が板垣氏の養子となり継いだのが兼信扱いにしている
72 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 05:49:36
>>69 関が原の戦いだから1600年くらい。
宇喜田秀家に仕えてたので武士になるのかな?
その後は帰農して庄屋、大庄屋をやっていた。
>>70 簡単に地域に溶け込む為には有力土豪の養子となるのが最善ですし、
義光の孫の清光辺りから国中に一族を散らしていますからね。
レスサンクスですm(_ _)m
74 :
70:2006/04/23(日) 08:39:20
うほ!朝からレス間違いでъ( ゚ー^) 誤爆スマソ
>>73は
>>71へのレスです
75 :
三光作戦:2006/04/23(日) 11:21:35
日中戦争時、抗日ゲリラに手を焼いた日本軍は、強圧的に拡大して
満州と中国との国境とした万里の長城線一帯を無人化する作戦を実施した。
指定地域内の住人を総て強制収容所に移住させ、ゲリラと住人との接触を断ち
ゲリラ出没地域での耕作を一切禁止するというものである。
その過程において、首を切り落とすなどして殺害した農民は8万1千人、
拷問のため施設送りの後処刑した者4万6千人。合計127000人を殺害した。
集落によっては村民が殆ど皆殺しになった所もある。
人囲いと言われる強制収容所は粗末なもので、宿舎は無く、移住させられた住民は露地に藁を敷き、露天で寝るしかなかった。
宿舎としてのバラックや要壁などは住民の手で作らされた。
農期には収容所近くの耕地で農作業を強制された。
収容所の環境は劣悪で、満足な食料、薬もなく、病気や飢えで何万もの人が命を落とした。
表題の三光とは、殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くすと言う意味である。
幾つか例を挙げると
豊潤県潘家峪では一度に1230人が虐殺された。
密雲西白連峪では、全村落を破壊し、最後に破壊から偶然逃れていた一軒を発見し、そこに居た70歳重体老人を家ごと焼殺、幼児2名を銃殺。
王廠溝、南大門一帯では、580人を逮捕し、380人を虐殺し、残り200人を強制労働の為、東北へ送り、内80%が死亡。
石柱子村では、村民700人中300人を虐殺。
興隆県秋木林、大莫峪では、全130戸から180人の青年壮年男を逮捕し、虐殺。寡婦の村とする。
興隆県ではその一帯に多数の寡婦の村が出来た。
更に寡婦の村を襲撃し、逮捕した者で使えそうな者を日本兵の慰め者にし、残りは処刑した。
興隆県では、人口16万人が戦後、10万人に減少していた。
大帽峪の村人など120人を後手に縛り、虐殺。
引っ立てて来た魯家峪住人を一人ずつ目隠しをして井戸の前に座らせ、
日本刀で首を跳ね飛ばしては井戸の中に放り込んだ。
>>75 で、その「三光作戦」なるものの名称は、どこの国が考えたの?
日本でないことは歴史的に証明されている。
中国が命名者なら、そんな名称の作戦は日本には無く、中国の妄想になるが。
77 :
66:2006/04/23(日) 12:57:32
79 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 15:34:26
>>77 わからない。
ただ隣町まで他人の土地を通らずに行けたらしい。
>>66 お勤めご苦労さまです。
思うに雑魚は資料提示しろで黙らせるに限るかと。
始祖載ってないのは無効って言えば簡単です。
82 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 18:14:35
>>81 ガセじゃないって。
鳥取県のすげー奥深い田舎なのに東大行ったりしてる。
俺も早稲田だし。
あんな田舎から当家だけ学力的に優秀なのもオカシイだろ?
もう一軒、日下部さんっていう家が同じぐらい優秀。
あとは全部農民。
83 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 18:21:41
>>81 そもそも、県や、市、村の議員や助役、学校の校長とか教員、医者等
その地域の名士は我が家と、日下部家と、中村家で独占しているようなもの。
それは何百年も前からそうう状態であって、庄屋、大庄屋時代にどれくらいの
石高っていうのは意味がない。
84 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 19:35:16
そんな我が家の家訓は「押して駄目なら引いてみな」
>>82 うちも青森の田舎で、農家ばっかりだけど、別に東大とかそんなの普通に勉強出切る子
は行くし。家柄いいから勉強できるってか?
86 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 19:50:30
いや最初は家柄が良いなんて知らなかった。
ただ、我が家はなぜか東大とか総計とか旧帝大とか卒業した人が居た。
こんな農家になんでだろう・・・・
と幼少期に思っていたが、後で知ったらそこそこ家柄も良い事がわかった。
現代ならば別に農家が東大行ってもおかしくないけれど
東大ができたころは下宿させるだけでもお金が掛かるし、そもそもそれだけの
教育を受けさせるのが不便である。
当家は農民だけど、地主で裕福だったから市内の塾や予科?やなんかで浪人させて
東大やできたばかりの早稲田に通わせたりしたらしい。
本当に優秀ならば国立の医学部に行かせるのが王道らしいんだけれどね。
>>85 ありえん話でもないと思う。
庄屋・名主層ならば戦前までならそこそこ金は持っていただろう。
維新後、士分ならば軍・警察・市町村長になることが多かったなら、
豪農なら農地解放まで、
>>83にある職業に就くハードルはそれほど高くなかったのでは?
500石の人に質問します。
検証するということが何たるかを知らず、
家柄についても理解していないのは、
まあどうでもいいことなのですが、
いやそのような姿は見苦しいので何か言いたいのですが、
やっぱり私から見るとどうでもいいことなので黙ります。
で聞きたいのですが、
あなたは農民つまり下の者を見下しているのでしょうか?
89 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 21:01:33
概して士籍外の者の苗字帯刀は、終身、永々、その身一代等が基本だが、
被差別部落民の頭や小頭クラスの苗字帯刀について、詳しい人いたら教えて!
90 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 21:48:38
>>88 検証とは?
ただ、我が家が庄屋や大庄屋を勤める地主(小規模)で
たまたま学力と金銭的余裕があったので、大学に進学できたとそれだけですが?
家柄と言ったって中の下程度だろうし、大したことはありません。
検証するほどの名門でもないわけですし・・・
農民は見下していません。戦後の農地改革で我が家の土地を二束三文で没収され
それによって我が家の何倍もお金持ちになった農民や、商売で大成功した小作人も居ましたし。
91 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:21:45
庄屋?百姓ではないか。
92 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:34:21
500石を所領する武士(地頭所)と
500石の高持ち百姓である庄屋では全くの身分違い。
93 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 22:42:39
名家だとか言うのは勝手だが、
単なる寄生地主にすぎないのでは?
>>90 書き込みを見て、説明する必要はないと判断しました。
でもあなたが知識を得れば、推測することができるようになるのかな。
たとえば一連の流れで、ここで92さんが何を言いたいのか考えてみて下さい。
知るということは色々なことが見えるようになることでもありますので、議論する際には勉強することが必要です。
ただ由緒や家柄をどう見るかについては、一度細かく示してくれる人が現れないことには、
なかなか判断できないことなのかも知れません。大雑把に語れるものではないですので。
質問に関してですが、なかなか心が広いようで見直しました。
それだけで無知の害はチャラですw
95 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:28:08
96 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:38:14
>>95 人権板に行きましたがあの板はレベルが低すぎて誰も知らないようです。
関八州の各地に散在するエタ小頭クラスによくある苗字帯刀とは、
その領主から与えられたのか、
それとも弾左衛門に与えられた私的な格式にすぎないのかを知りたいと思いまして。
尚、
>>92は私です。
うちも苗字帯刀を許されてたらしくて、高祖父が明治10年ごろから30年程
村長をしてたんだけど、それって結構いい家だったと思ってもいいのかな?
親や祖父母から何も聞いたことないんだけど
うそっぽい話なんで信じてなかったけど、先祖が源頼朝の家臣をしてて、
頼朝の重臣のある人物について、今住んでる地方に住み着いたという話は聞いたんだが
99 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 01:09:56
>>98 単なる村のボスです。
先祖が頼朝の重臣だとかは、どうでもよい話。
ちなみに聞きますが、その苗字帯刀の格式は、誰から与えられたのですか?
また、その格式は、あなたの先祖にあたる「家」に与えられた格式ですか?
それとも、あなたの先祖が「個人」の資格で与えられたのですか?
>>98 >源頼朝の家臣
ならば鎌倉御家人だから、歴史上に名前が残る
察するに幕末動乱期に高祖父様個人に与えられていたかと。
帝国憲法下では知事は内務大臣の指名、市町村長は知事の指名だったはず。
家に与えられていたならば、村長も世襲が続いていたのでは?
(ウチがそうだったから、他の地方はわかりませんが。)
102 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 01:37:02
与えられていた苗字帯刀の格式と、
村長の職とは直接関係ないと思うが?
また、同一村内に、苗字帯刀の格式を与えられた人が複数いる例はよくあるが?
103 :
98:2006/04/24(月) 01:51:56
家に与えられたのか、個人だったのかわかりませんが
高祖父の次の村長も親族から出てはいます。
あと高祖父は村長以外に郡長というのをしていたそうです
頼朝の家臣というのは多分事実ではないだろうと思うんですけど
うちはあまりない苗字なんですが、頼朝の家臣に自分と同じ苗字の人物はいます。
そしてうちの先祖が付いてきた人物というのが頼朝の重臣だったのは
事実のようです。
自分自身があんまり詳しくなくて、ゴールデンウィークに祖父の家に行くんで
その時に詳しく聞いてこようかと思います。
104 :
68:2006/04/24(月) 07:28:11
>>90 おまえさ、ネタ臭くてたまらんぞ
だいたいね、「家柄」っていうのは
田舎であればあるほどいろいろんなことで近所から”そう”見られるから
調べなくても分かるもの、実感するもの
子供ながらになぜかうちだけ○兵衛や×衛門などの”屋号”でよばれることなく
”○○様”だったのか不思議だった
近所の爺さんや婆さんは俺にだけ○○ちゃんと呼びほかは呼び捨てだったりした
そうやって家柄なんてのは親から口伝されなくても不思議と分かるんだぞ
105 :
68:2006/04/24(月) 07:34:55
続き
それからさ、このスレは苗字帯刀のスレだろ
ということは江戸期の話をすべきところだというのに
なぜか関ヶ原前の話、なぜか帝大やらの明治期以降の話、
「江戸期は庄屋、大庄屋でした」でスルー
なんか違うだろ?
しかも主であったという宇喜多と宇喜田の区別もつかない自称早稲田出身って・・・
106 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 11:22:01
そうだな。
本題である「苗字帯刀」についての記述が少なすぎる。
苗字のみ御免や、帯刀にしても脇差のみか大小両刀か、
他にも苗字帯刀に付随する麻裃や背割羽織等の御免についても、
まだまだ語る余地がありそうだ。
107 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 11:44:31
「漏れの先祖は庄屋さま」と統合したから庄屋ネタが多いんだぞ。新規さんが多いのかな?
108 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 11:49:29
109 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 18:54:57
>>105 そんな小さなネタはつかない。
つくならもっと大地主だの凄い家柄だのいうでしょ。
江戸時代は庄屋、大庄屋を拝命して、里正やなんかもしてたみたい。
里正ってのに任命されると帯刀も許され地域の治安なんかも任されるみたい。
里正と庄屋・名主は同じだよ
呼び方が違うだけ
111 :
109:2006/04/24(月) 19:04:57
里正、大里正、郷佐役、大保正 とかいう役職についてたらしい。
多分、大里正と大保正は同じ意味なんだろうけど(大庄屋)
郷佐役ってなに?
113 :
109:2006/04/24(月) 19:21:55
100戸で1里、5里で1郷
郷長、郷佐、とかいう役職があって司法とか行政を担当したらしいです。
>>113 d
考えてみると名称としての里正も、郷里制なんかの名残なのかな
>>103 何かを断定しようするのなら、まず最低限、実家に帰って話を聞いてからにするべきです。
ですが、口伝ほど疑って損はないものはありませんので、注意した方がいいです。
で、誰の子孫であるかとかは、余程特別だと思われない限りどうでもよいことです。
有史以前より血なんてものは混ざり合うものでしかありませんし、
中央の血も源平時代あたりからいっきに分散していきますからね。
人類皆兄弟は極端かもしれませんが、知ってみる限りそれに近いことを実感します。
ですので、この場合も、頼朝の家臣、つまり一族の子孫という話も否定することではないと思います。
実際系図研究してる人なんかにはそれで通用するんだと思います。
ただ800年続く家ということに関しては、明確にすることができない限り、
主張するのはいいのですが、強調することはやめた方がいいです。見苦しいだろうからです。
仮に800年家が続いているとすれば、あなたの家は、初代が国誌あたりに著姓として記され紹介ぐらいはされているはずです。
そして、確かにこの人物が初代にあたると、あなたは示すことができると思われます。
ただ、これまで私がネット上でそう確信できた家は、自家の歴史を日々発信しているある一つのところだけです。
蛇足ですが、貴家が立派な家であるのは間違いありません。もちろん前の方も同様でしょう。
しかし、ここは先祖や家柄自慢スレではないです。68さんも言っておられますね。
ここはあなたにとっては苗字帯刀を理解するです。
理解した上での自慢であるなら、参考になることもあると思います。
実例を説明して下さるわけですからね。
>>109 あなたの家は1000家に一つとか、そういうレベルだと思います。
116 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 23:31:40
>>115 完全同意。
我が家の祖の一流は、
豊前小倉藩小笠原領の某手永庄屋の陪流ですが、
苗字帯刀・馬一匹・小者一人・槍一筋御免であり、
なお且つその手永庄屋「職」に対して(家や個人ではなくあくまでも職)扶持米を給された、
家中の士分にも準ずる格式ではありますが、
その許された苗字は、手永名をそのまま姓とするのが原則であり、
幕末の例外的措置(対長州征伐における小倉口の戦い以後)を除いては、
藩より軍役をいっさい課せられず、
あくまでも年貢を収める立場であり、その点では明らかに百姓身分と言えます。
>>114 >里正も、郷里制なんかの名残なのかな
里正は漢語だよ。古代の遺称というより、中国風がカッコイイとされていたから。
大名を諸侯というようなもの
中納言を黄門って言ったりとか
うちは近隣8村の大庄屋だった。
近隣8村の石高は慶長時代で約2,500石、天明時代で6,000石。
菩提寺の開基で、永代総代、代々の当主と妻には院号が付いてる。
屋敷は現在でも3000坪で家紋付きの土蔵も2つ現存。
家紋は大中黒で家伝では新田氏流。
>>120 このスレは苗字帯刀について語るスレだよ?
せめて、苗字の話くらい入れたら?
122 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 10:35:38
スレタイを一瞬「なしろたてわき」と思った漏れは疲れてるのか・・・
125 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 19:39:11
コギャルにでも憑かれてるんじゃないか。
庄屋だからって所領とカン違いしてるヤツがいるような気がする
ん?書きかたヘンか?眠い
127 :
西川史子:2006/04/27(木) 10:25:58
>>126 同意。
高持ちの百姓なすぎないのにな。
うちの場合は、元は地侍だったらしいけど証拠はない。
江戸初期に肝煎やってた時、藩の土木工事の現場監督として、名乗り帯刀乗馬を
認められ、工事完工のご褒美に甲冑と杯もらい、その後は村役人になった時だけ
公文書に苗字あり、苗字ある時は全部名前一緒、ない時名前ばらばら。
129 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 12:43:36
上の人みたいに書いてくれる人がいいのにね。
120なんかネタ臭い上に何が言いたいのか全く分からん。
本当だとしてもだから何?って感じだし。
所詮はクソスレに期待するだけ無駄か。
120の内容からどういう家なのか理解できない人間が紛れてますねww
武家でないことくらい理解できるわ
武家は武家でも老中でさえ貧乏な時代だからな
133 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 10:19:05
私事ですみませんが、
うちの母方の家が埼玉の豪農の一族なんだが、
次男で江戸初期にさる譜代藩に仕官し家老を勤めた人物が出たが、
その実家、あるいは本家は父祖伝来の地において百姓(名主)としてあり続けたが、地頭旗本から苗字帯刀と幕末に用人“格”(世襲ではない)を与えられたにすぎない。
また別の親戚の家だが、
下級の地役人のような事を兼帯していた百姓であるが、
藩公の遠国への転封に際し随行を願い出て、次男を連れて武家として分家した。
長男が百姓である本家を継ぎ今に至っている。
こちらは苗字帯刀に関しては確かなことは伝わっていない。
こういうケースは多いと思う。
>>133 あなたには文章力が少し欠けているようです。
もう少し読んだ人が理解できる文章を書くよう努力ましょう。
先生より
>>133 チョンが日本語変換をしたような文章だなwww
136 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:56:42
兵農分離によって、「武士」の直営地が無くなった?
江戸時代藩主自身の所有地というものが殆ど無いのはそのため?
138 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 23:05:49
139 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 01:27:42
10 日本@名無史さん 2006/03/23(木) 19:56:58
天領の本陣は許されてたのだろうか?
140 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 02:00:37
許された場合が多いと思います。ただし苗字帯刀が世襲・相続されたかどうかは不明です。
141 :
日本@名無史さん:2006/05/13(土) 04:23:30
天領の場合純粋の本陣は少ない気が・・・本陣格の旅籠など。。。
142 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 23:58:34
age
143 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 12:27:45
地方史を見てると公式の郷士ではなく武士が帰農して郷士と名乗っている事がしばしばあるようですがこの場合苗字帯刀は
どうなんでしょうか?また、明治に入ってから士族編入願いを出していてほとんどは拒否されてるようですが認められた場合も
あるのかな?この辺の異常なこだわりと言うか執着みたいなのは何で消化?
144 :
日本@名無史さん:2006/06/03(土) 12:40:25
郷士って土佐藩独特
146 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 03:22:58
>144
薩摩とか有名だよ
桐野利秋も郷士
147 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 03:40:00
壬生郷士、十津川郷士、上州郷士etc
148 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 14:35:00
>>143 半農半士の足軽同心等は苗字帯刀で士族編入
それ以外の郷士は各々場合による
執着を持つのは農民侍の性
149 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 15:53:20
藩的には庄屋や自作農でも本人たちが郷士と名乗っているケースは時々見るんだよね。
当初は牢人と名乗ってるけどね江戸後期になると郷士と称するようになる。中期以降浪人はならず者のイメージが付いたため
といわれてるが、まあ郷士と名乗るのは先祖が武士だった、つまり浪人と言ってるだけだけだと思うけど。
151 :
日本@名無史さん:2006/06/08(木) 19:44:34
それは領地を持たず放浪していた名残じゃないのか
郷士なんて郷士身分株を取得したものが大半
とくに土佐郷士なんてのはその典型だ
「土佐では関ヶ原が260年続いた」なんてのはアホの考え
153 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:14:52
新撰組の局長となる近藤勇は1834(天保5)年、武州多摩郡上石原(調布市)の豪農・宮川久次郎の三男として生まれた。
また、副長となる土方歳三も翌35年、武州多摩郡石田村(日野市)の豪農・土方隼人の四男として生まれている。
この限りで、二人は多摩の農民出身であることにまちがいはない。
しかし、いずれも豪農(土方家は洪水で移築され、苦境にあったが、村では「お大尽」と呼ばれていた)であり、地域をまとめる重要な地位にあった。
宮川家は立地から考えて幕府のお鷹場となんらかの関係があったはずだし、土方家は三沢十旗衆の一旗を構成する武門の家。
剣をたしなむことになるのは運命のようなもの(宮川家には道場があった)だといえる。
沖田総司は1842年、江戸白川藩屋敷で藩士の子として生まれたようだが、家を継いだ姉・ミツの婿は日野の井上林太郎(井上源三郎の縁者)で、多摩の人。
また、日野・井上家は八王子千人同心家なので、源三郎は「郷士」だといっていい。
154 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:15:44
多摩の地域性
多摩は全域が天領で、藩、すなわち藩士が存在しない。だれもが武士であり農民である郡(面積は日本最大)なのだ。
この地はもともと武ばった所で、その在地勢力が鎌倉幕府を押し立てる。家の子・郎党の「いざ鎌倉」精神は、甲斐・武田や後北条にもうけつがれ、
関東入りした徳川家康も、この在地勢力の上に幕府を築く。
幕府の天領支配は武田の家臣・大久保長安、北条の家臣・江川太郎左衛門に委ねられるが、
在地勢力を信頼する彼らは、多摩の兵農分離をやらなかった(秀吉の「刀狩り」も甲州では行われたが、多摩にはない。
秀吉の多摩支配は八王子城下で数ヶ月だけ。実績が挙がらぬまま家康に託された。つまり、秀吉の全国統一はまやかしなのだ)。
農家の刀
刀狩りのなかった多摩では、豪農が武具を所持するのは当然のこと。
新撰組のスポンサーで知られる日野・佐藤家には常時手入れの行き届いた刀剣が長持に2棹(50〜60振り?)、
小野路(町田市)の小島家には約30振りが備えられていた。
また、日野宿の御用と多摩川の渡船場を預かっていた佐藤家には十手・取り縄のほか、御用ちょうちん、さす股、袖がらみといった捕縛用具も揃っていた。
155 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:16:55
千人同心
大久保長安が八王子(八王子市千人町)に設けた武田家遺臣による幕府防衛隊で、
唯一の公的な半農半士組織(同心身分でありながら、禄が低く、かわりに農業が許された)。
当初は500家で出発。関が原の合戦直前に二倍に増強され、千人同心(→八王子千人隊)となった。
その際、農業に専念していた多くの北条家臣が参加したため、多摩の人々にとって、士→農、農→士の垣根は低く、上下意識も希薄だった。
北条家の滝山城(移転して八王子城に)大手防衛隊「三沢十騎衆」のひとつだった土方家からも千人同心家が生まれていて
(三沢の土方家・新井の土方家―ともに日野市)、歳三の生家を「百姓」とするのは、明らかに誤りなのだ。
千人同心は日光東照宮の防衛、江戸の火の番などに当たり、幕末には北辺防備(ロシア南下への備え)のため、多くが屯田兵となって移住・開拓を行う。
そのため文武の備えを怠らず、幕末には唯一の実戦可能な武士団として第一次長州征伐などに活躍する。
天領の場合は結構刀を保有してたみたいね。秩父事件時豪農を襲った暴徒は佐久の各地で大量の日本刀を奪った記述がある。
上州や多摩は農民でも剣道をやる土地柄だからってのもあるかもね。
157 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 01:41:49
673 :日本@名無史さん :2006/06/09(金) 23:36:19
武家社会において、それぞれの武士は武士団を構成し、軍事行動においては、通常、一門・一家と呼ばれる一族全体としてこれに当たっていた。
したがって土地・財産を分割されても、庶子家はまたく独立したわけではなく、一門の嫡家(本宗家)の長である惣領を中心とした強い団結を保持していた。
いわゆる惣領制である。
幕府は、御家人を掌握するためにこの惣領制を利用し、御家人役の納入・勤仕の際にも一族の分を惣領に一括して納めさせることが多かった。
惣領は数いる兄弟のなかから嫡出の長子が指名された。これは、先祖の祭祀という責を負うことと、勢力を保持する意味でもより正統のものが選ばれたのであろう。
そして、惣領は代々の苗字を名乗り、分家した庶子らはそれぞれ分割してもらった土地の名を新たに名乗り、多くの苗字が生れた。
それは、家紋の場合も同様で、惣領家の紋に丸を付けたり、四角を付けたりして惣領家のものと区別していた。
時代が下ると、庶子に分割する土地も少なくなり、「惣領制」は御家人らが窮迫する一因ともなった。
さらに、時代が変化していくと、強力な統率力と指導力をもった惣領が求められ、
たとえば、南北朝期における肥後の菊地氏にみられるような庶子家から惣領になる者もでてきた。
鎌倉期から室町期をみた場合、多くはさきに出た「惣領制」にならっている例が多い。惣領制が崩れるのは、やはり戦国時代に至ってであろう。
江戸時代にいたって、百姓らが苗字を名乗ることを禁止されたのは、惣領制と関係があった。つまり、分家して新たに苗字を名乗ることを禁止されたわけだ。
ここに、苗字がある意味で土地と不可分な関係であったことが分かるのである。
158 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:31:59
159 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 19:34:08
そうだね
160 :
日本@名無史さん:2006/07/05(水) 01:39:02
hoshu
161 :
日本@名無史さん:2006/07/06(木) 20:54:06
上記に天領は苗字帯刀はまず無いとの記述と>>153〜のを考え合わせると地侍そのままですねw
162 :
日本@名無史さん:2006/07/07(金) 00:44:59
八王子千人同心はいわゆる武家だけれども、
それ以外は地侍ということかな?
郷士と言われている桐野利秋だが、実は城下士身分が本当らしいね。
城下士と言っても、西郷とかと一緒で最底辺の層だけど。
桐野は鹿児島城下の外れに住んでおり、尚且つ貧困であり、「唐芋」の逸話も
残っていることから郷士として後世に伝わっているんでしょう。
164 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 16:59:39
へえええ
165 :
日本@名無史さん:2006/07/15(土) 21:27:55
尾張の織田家は誰でも彼でも織田を名乗っているな
166 :
治郎右衛門:2006/08/02(水) 09:21:59
凄く小さいが、伊賀国の下阿波村で「阿波」と苗字が名乗れたた家があった。今もその家は「阿波」と名乗り
近くに住んでる人は「ほり」と呼んでいるが、伊賀国の終りのほう?からあるらしい土で盛ってあって、そこに
木が立っている。
167 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 11:53:23
>154全域が天領?
嘘書くな!
168 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 13:48:28
漏れの母方の先祖は庶民だが帯刀を許されていたらしい。江戸時代頃撮られた写真に写っている先祖の腰にも刀が写っている。帯刀を許された理由が知りたい。スレ違いすまん
169 :
日本@名無史さん:2006/08/02(水) 14:09:53
っか土佐ぐらい厳しい郷士聞いてびっくらこいだ!
長州・薩摩 土佐みたい郷士って身分の隔たりないから 阿呆の容童 ありが決めだした身分だよ
>>168 写真用に誰かから借りたんだろ
それか江戸末期は苗字帯刀乱発したので価値はない
171 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 14:10:16
借りたというのは無いだろう。
そんな写真の所持がバレたら問題になるんじゃないか?
172 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 15:01:29
江戸時代は庶民でも道中差で脇差一本差すのはOKだった。
>>171 いまでもウェディングドレスは借りるだろw
175 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 22:47:42
このスレの存在、すっかり忘れてた。
agehoshu
うちも苗字帯刀だったよ。 ちゃんと一族の墓に元禄くらいまでの
墓は確認できたし。 ただ、今は一族全体的に落ちぶれているし、ウチもとても家格を
誇れるような家じゃないし、村全体に渡る言い伝えとか、あそこの家の婆さんは
実はな・・・なんて衝撃事実聞かされても、誰に語る事ももう出来ず
自分の胸にしまっておくだけだ・・・
単にしがらみだけが残ってちっとも良い事なんてないよ・・・
>>176 どういう理由で苗字帯刀の許しを得たのか述べてみよ
土地の支配を任されていたからじゃないのかね? 江戸時代に赴任してきた領主よりも
はるか昔から土地に根付いていたから。自治権があったのでは? 郎党もいるしね。
でも、今はその郎党の家系の方が土建屋やったり不動産屋やったり腹黒く出世して
ウチも含め本家は没落しちゃって全然ダメじゃw
・・・まあ、貧乏したのが早かったおかげで、土地の狭い共同体から抜けられて
普通の近所の住人と仲良くなれたからいいけどね。
>>178 >土地の支配を任されていたからじゃないのかね?
(゚Д゚)ハァ?
>江戸時代に赴任してきた領主よりも
>はるか昔から土地に根付いていたから。自治権があったのでは?
(゚Д゚)ハァ?
自治権?(゚Д゚)ハァ?
面白いことをいうなwww
180 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 12:29:11
自治権(?)って有り得ね〜 …クスクス(笑)
全然あり得るよ。 新しい統治者が赴任してもその家来が全部その地域を直接的に統治支配する
訳じゃないっしょ。 監督監査はあっても元々いた地元有力者に実質的な支配は任せてしまうのは
ごく普通にあるだろ。 イラクと一緒だよ。
182 :
山野野衾:2006/09/18(月) 22:44:03
>>181 >新しい統治者が赴任してもその家来が全部その地域を直接的に統治支配する
>訳じゃないっしょ。
(゚Д゚)ポカーン
>監督監査はあっても元々いた地元有力者に実質的な支配は任せてしまうのは
>ごく普通にあるだろ。
(゚Д゚)ポカーン
>イラクと一緒だよ。
(゚Д゚)ポカーン
ネタだよな?
183 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 22:57:41
一部の民衆には自治権を与えられていた。
彼らの中で犯罪が起こった場合、町奉行所ではなく、
彼らの長が、彼らの白州で裁きを与えた。
彼ら専用の牢に収容され、処刑された。
刺青刑も彼ら一族と判るように決められ、独自の刑(鼻削ぎ・耳削ぎ)
が執行された。
しかし一般民の行刑も又、彼らの仕事であった。
184 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:12:41
幕末、日野の年貢は千人同心の禄米とされ、江戸には送られず、直接八王子で換金(市が立ち、独立の米相場があった)された。
八王子・日野は経済圏としても自立していた。
185 :
日本@名無史さん:2006/09/18(月) 23:15:43
天明の大飢饉は多くの失業者(無頼の徒)を生み、治安が悪化する。
1805(文政10)年、幕府は関東の治安維持のため、代官の手付、手代からなる「関東取締出役(しゅつやく)」を編成。関東の巡回(八州廻り、八州さま)に当たらせるとともに、
天領の村々を寄場(よせば)と呼ぶ広域行政地区(現在の中核都市並か)に組織。寄場名主の下に地域の治安防犯体制を確立する。
日野寄場(日野市)は佐藤彦五郎俊正、小野路寄場(町田市)は小島鹿之助為政、砂川寄場(立川市)は砂川源五右衛門泰忠などが寄場名主を拝命している。
彼らが自衛のため、剣術に注目するのは当然のことである。佐藤邸には天然理心流の、小島邸の近所の橋本邸(橋本本家は名主、道場があったのは橋本分家)にも天然理心流の、砂川邸には神道無念流の道場ができ、領民に手ほどきをしている。
186 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 00:31:31
>>154釣りかな? ツッコミ所満載だが…
>全域が天領 → 天領・譜代大名領・旗本領が混在
>面積は最大 → 多摩(多磨)より大きな郡=津軽,糠部(→北(のち上北・下北)・二戸・三戸・九戸),秋田,会津(→会津・耶麻・大沼・河沼),那須(→那須・塩谷),葛飾,伊那,新川,吉野,牟婁,宇和(→宇和・喜多),松浦,臼杵
>鎌倉幕府を → 横山党・西党が有力御家人か?
>甲斐・武田や → 武田家に支配されたか?
大久保・江川に> → 関東郡代は直ぐに伊奈家に
兵農分離もやらなかった> → 不完全だがやりました
藻前の知識はどこから???
187 :
山野野衾:2006/09/19(火) 00:54:40
>>181の池沼はどうしたんでしょう?wwww
自治権があって苗字帯刀(プププププ
面白いですねwwww
188 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 00:58:56
189 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 00:59:54
190 :
山野野衾:2006/09/19(火) 01:25:03
191 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 01:34:32
192 :
山野野衾:2006/09/19(火) 02:17:32
>>181の池沼はまだですか?www
自治権とか痛い話の続きを聞きたいんですけどwww
193 :
日本@名無史さん:2006/09/19(火) 21:51:22
194 :
山野野衾:2006/09/20(水) 00:41:02
自治権!自治権!
このスレで最強のフレーズですね
なにこの意味不明なキチガイ
196 :
日本@名無史さん:2006/09/20(水) 02:11:55
181 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/09/18(月) 15:46:12
全然あり得るよ。 新しい統治者が赴任してもその家来が全部その地域を直接的に統治支配する
訳じゃないっしょ。 監督監査はあっても元々いた地元有力者に実質的な支配は任せてしまうのは
ごく普通にあるだろ。 イラクと一緒だよ。
182 名前:山野野衾[] 投稿日:2006/09/18(月) 22:44:03
>>181 >新しい統治者が赴任してもその家来が全部その地域を直接的に統治支配する
>訳じゃないっしょ。
(゚Д゚)ポカーン
>監督監査はあっても元々いた地元有力者に実質的な支配は任せてしまうのは
>ごく普通にあるだろ。
(゚Д゚)ポカーン
>イラクと一緒だよ。
(゚Д゚)ポカーン
ネタだよな?
テラワロスwwwww
>>181は逃げたのか?wwww
197 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 16:04:57
本陣や庄屋って髪型は農民カット?侍カット?
198 :
山野野衾:2006/11/10(金) 03:08:34
>>197 侍カットってなんですか?
初めて目にしましたwwww
199 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 11:50:50
推して量るべし
200 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 14:52:20
苗字について。
百姓でも苗字は普通に持っていた。
ただ一般には「公式に名乗ることが許されていなかった」。
天領ではそのあたりのしめつけが緩かったので、残っている古文書にはいくらでも苗字が載っている。
諸藩では締めつけが厳しく、はるかに苗字の記載が少ない。
この点を知らない人がいるようなので記しておく。
201 :
山野野衾:2006/11/11(土) 17:44:37
>>200 >百姓でも苗字は普通に持っていた。
大間違い
>ただ一般には「公式に名乗ることが許されていなかった」。
これは正解
>天領ではそのあたりのしめつけが緩かったので、残っている古文書にはいくらでも苗字が載っている。
【いくらでも】載ってないから
うちのとこも天領だけど、庚申塔とか金石には普通に苗字彫ってある
203 :
日本@名無史さん:2006/11/11(土) 17:49:00
大まかに言って農民でも地主は苗字もち、小作人は苗字なし…でO.K?
将軍直轄領の百姓は、大名や旗本の領民より
格式が高いとか??
205 :
山野野衾:2006/11/12(日) 01:30:48
>>203 >大まかに言って農民でも地主は苗字もち、小作人は苗字なし…でO.K?
天領は基本的に大庄屋は存在しない。
なので天領の農民で苗字帯刀は基本的にありえないが、年貢が軽いので金持ちが多くなる傾向。
例外として○○藩預などのさいに取り立てられ士分格になり苗字帯刀というケース。
500町歩以上を領した豪農と呼ばれる家々のほとんどは、
天領で財を成して土地集積をはかり、その後に○○藩に取り立てられたのがほとんど。
大庄屋じゃなくて普通の庄屋でも苗字は持ってた気がするけど・・・
207 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 09:40:54
江戸時代で500町歩以上の豪農って・・・ほとんど無いような気が。
基本に戻ろう>>1に庶民で苗字帯刀を許されていた人々
とあり1に郷士があるのだが突っ込まないのか?
>>205土豪がそのまま帰農した場合はどうなの?門はあるし黙認?
210 :
山野野衾:2006/11/12(日) 23:00:19
>>206 >大庄屋じゃなくて普通の庄屋でも苗字は持ってた気がするけど・・・
釣りか?
とりあえずソースよろ。
>>207 >江戸時代で500町歩以上の豪農って・・・ほとんど無いような気が。
釣りか?w
1000町歩以上なら10件もないが500町歩以上ならそれなりにいる。
>>209 >土豪がそのまま帰農した場合はどうなの?門はあるし黙認?
どこの話だ?天領での話しか?
門とは長屋門のことか?
そもそも土豪が帰農しようが江戸期は士族>農民に変わりはなく、
有力な農民が取り立てられ士分となればそれなりの家格になるだけの話。
211 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:01:50
↑こいつこそ先祖に苗字が無さそうだ
恥ずかしいからもう来るな!!
212 :
山野野衾:2006/11/12(日) 23:15:02
新平民乙
213 :
日本@名無史さん:2006/11/12(日) 23:19:18
↑バーカ
214 :
安藤某:2006/11/13(月) 16:10:50
皆さん
ひい爺さんね時代のことも朧気なんですかね…ホントに意外です
お墓参りとかしないんですか
ボクは、昔の人を思い起こしてあげるのが供養だと思うんだけど
仏壇やお墓を立派にするより意味があるよ
>>210 このスレは庄屋と大庄屋の区別が付かない連中が多いんだよ
大庄屋ってのは庄屋の庄屋みたいなもんじゃね
寄場名主ってのがある。日野って天領じゃないの?
219 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 01:15:45
>>217 まず名主=庄屋、名主≠大庄屋とは限らん。
その藩や地域で名主≠庄屋、名主=大庄屋ともなる。
それから安政4年に苗字帯刀の許可になっているけど、
何度もこのスレ(前スレでも)で出ているように、黒船以降は苗字帯刀を乱発した。
だから「天領で苗字帯刀は基本的にない」や、
「庄屋で苗字帯刀は基本的にない」というような基本法則は
黒船以降には当てはまらないケースが多い。
それを分かっているのかね?分かっていれば、
>>206 >大庄屋じゃなくて普通の庄屋でも苗字は持ってた気がするけど
なんてアホなことは言えないはずだろ
220 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 01:28:54
庄屋なんだ自治会長さんかW?屋だから商売人でしょ
221 :
安藤某:2006/11/16(木) 01:45:01
ボクの先祖は、京都の丹波地方に領地があった官人でしたが朝廷に出仕している時は武官として遇され名字を名乗りますが、隠居すれば庄屋で名字は名乗りません
武官とは言え、北面武士は士分ではありませんたら二本差しではないですね
他に、百姓でも素養があり容姿に優れた者を徴募教育し、北面武士として雇用しました
一般隊員は若年退役しますが、下士官クラスに昇進した者は村役人の手代や物書きとして再雇用したそうです
いずれも現役時代は名字ありでも退役後は百姓です
但し、有事には地域の民兵組織は近隣の藩に編入されるため、名字帯刀を許されました
徒侍とは言え、下士官クラスの官位は六位ですからね
222 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 02:48:40
あぼーん
224 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:08:00
age
225 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:40:36
享保の頃、ウチの先祖が私財をなげうって用水路を引いたら殿様からご褒美として下馬御免の特権を与えられたんだよ。
ウチは殿様より出自がよろしい鎌倉御家人の子孫だから、名字帯刀は当たり前。
親戚は「先祖が颯爽と馬に跨り登城する姿は格好良かった」と言っているけど、身分が農民だったからそのようなことはまず無かったとオレは思う。
>>225 >ウチは殿様より出自がよろしい鎌倉御家人の子孫だから、名字帯刀は当たり前。
誰?
227 :
日本@名無史さん:2006/12/23(土) 08:27:17
下馬御免ってのは、馬から下りることを許されたわけ?
229 :
日本@名無史さん:2006/12/24(日) 11:45:10
>>225 >親戚は「先祖が颯爽と馬に跨り登城する姿は格好良かった」と言っている
その親戚は何歳だ?w
>>229 明治維新から約160年経ってて、なおかつ鮮明に覚えているってことは
10歳以上だろうな。
ということは現在最低でも170歳以上かwww
で、下馬御免ってなによ?
232 :
225:2006/12/24(日) 22:02:20
>>226 それを言ったら身元がばれるんで・・・
ただ、何処の馬もの骨かわからない、元藩主の家より古い家だと言うことです。
>>227,231
城の下馬札を超えて乗馬したまま登城しても良いということ。でも、ウチは身分上百姓だったんでそういうことは現実にはなかったと思うんですよ。
>>230 誰も見ていないよ。下馬御免の家だと言うことで、親戚が妄想膨らませているだけです
うちは伊達家に仕えていた下級武士だったらしいんだが
奥州仕置のせいかなんかで移住させられた上に帰農したらしい
当初はそれなの田畑があったそうだけど
用水路を引いてからは没落の一途(なんかこのパターンの家多い?)
そして戦後の農地改革であぼ〜ん
苗字はあったようだけど帯刀は許されていたかどうか…
それに家系図も寺が燃えて残っていないという胡散臭さがw
ただ祖父の母方(士族)の祖母が3000石ほどの武士の元側室だったり
祖父が出兵する時には備前長船を軍刀に拵えて渡してくれる叔父がいたりと
それなりではあったみたい
ちなみに家紋は数が多いことで有名な三ツ星一文字のあれね
下馬御免じゃなくて下馬札御免だろ
235 :
225:2006/12/26(火) 05:11:33
>>233 >うちは伊達家に仕えていた下級武士だった
( ´,_ゝ`)プッ
大方30石くらいのビンボー侍だろwww
>大方30石くらいのビンボー侍だろwww
四国の伊達だと、カナーリ裕福。
十俵とかが平気でいる。
そりゃまたすげえなw
238 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 18:19:36
当然だろ
今の県より大きくって、独占的な特産品がある藩もあれば
町村クラスまであるんだから
東北の小藩なら30石でも中堅だよ
239 :
225:2006/12/26(火) 21:06:18
>>233 なんかうちと似てる境遇だな。
叔父から「うちは伊達の家臣で1000石取り、維新後帰農したがいまは何も残ってない」という話を聞かされた。
さらに「オヤジ(祖父)は平民だが、長兄の叔父と養子に出た末っ子の叔父は士族だ」というんだが、なにぶん証拠がない・・・
母方のほうは土豪が帰農し、名主職になったというありがちなパターン。
こちらのほうはそれなりに刀槍や具足なんかは残ってる。
>>240 士族なら藩士録とかその辺に記録残ってるよ。図書館行って司書に聞いて調べてみ
あと学校の卒業証書や昭和40年以前の戸籍謄本にも士族と載ってたそうだ
>>大方30石くらいのビンボー侍だろwww
そもそも武士でやっていけなくて帰農しているんだから貧乏なのは当然だろう?
その辺の武士より庄屋や豪農のが裕福だしなあ
244 :
225:2006/12/28(木) 04:04:31
>>241 >あと学校の卒業証書や昭和40年以前の戸籍謄本にも士族と載ってたそうだ
尋常小学校時代は学年ごとに『学年卒業証書』を出してる
そこに『平民』『士族』と出てるぞ
ちなみにうちは新田源氏の傍流で関ヶ原以前から松平家に仕えた旗本の宗家だ
世が世なら殿様のオレ様とおまえら新平民とは格が違う
>>244 そうだね、格が違うね。
貧乏旗本の自称宗家を世が世なら殿様なんて言っちゃう池沼はこのスレには君くらいだよwww
松平家臣の新田源氏って時点で何か気付かないのかな?www
世が世なら殿様などと言う人間ほど品性下劣な人間はいないと思うが。
ご先祖様も君程度の器の小さな人間だったんだろうと思われるだけだよ
247 :
本物の225:2006/12/28(木) 07:46:00
>>244 ニセ者退散!
ウチはさほど有名じゃない鎌倉御家人の子孫だよ。県史なんかには載っている。
小御家人だから世が世でも同じ境遇だよ。曾爺さんまでは地元では「殿様」と呼ばれていたそうだけど。
ウチの近所で同姓は分家、別姓は奉公人の子孫。
なんだ成りすましか。失礼した
249 :
本物の225:2007/01/02(火) 00:11:29
>>248 失礼した?
新平民のくせになまいきな口を利くんだな
くだらねぇ
252 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 01:09:24
今、現在の瞬間が充実してなきゃ、古代に天皇だろうが意味ないんだよ
正月を2ちゃんで過ごす瞬間が一番充実しています☆
正月早々2ちゃんねるやってる
>>252は相当充実してるようだ
自分を棚に上げて他人様に説教するようなのに
ろくな人間はいないってばっちゃが言ってた
そして俺モナー
もう俺らみんな新平民でいいよ。
タダの農民や町民が朝臣姓をもらうのはどういうとき?
タダの農民や町民が朝臣姓をもらうのはどういうとき?
あそん姓を頂くことはほとんどないろうね
秀吉位じゃないのかな
IME・・・あそん位デフォで変換してくれ
260 :
本物の225:2007/01/06(土) 05:09:41
261 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 07:00:09
>>257 ただの農民や町民だと朝臣どころか姓を賜った奴すらいないだろ。
秀吉だって賜った時点では武将だし。
それに姓自体、秀吉の後だと皇族が下る際にしか出されてないはず。
それも源朝臣が標準だし養子も多かったから、純粋な賜姓って事で言うとやはり秀吉が最後。
農民が賜わる事があったとしても、武内宿禰とかの時代でしょ。
262 :
本当の本物225:2007/01/08(月) 00:02:02
>>249,260
また偽者かw
ウチは近世の身分は農民。近代以降は当然平民だよ。
鎌倉末期に零落して歴史の闇に消えただけ
263 :
本当の本物225:2007/01/08(月) 01:26:38
>>262の続き
そして江戸時代は水呑み百姓
「穢多」と差別されたときもあった。
また偽か。もういいよ
槍御免ってのもあった?
なんかそういう風にばあちゃんから教わったんだけど。
名字帯刀槍一筋御免だとか。
266 :
本当の本物225:2007/01/15(月) 00:13:13
>>265 そんなものねーよボケ。
ばあちゃんから聞いたとかいうけど
お前のばあちゃんは尋常小学校中退とかだろ?w
俺のばあちゃんは師範学校出だ文句あっか!
ばあちゃんといっても今は40代のばあちゃんもいるわけで
ばあちゃんの年も書かないと
268 :
本当の本物225:2007/01/16(火) 02:06:02
269 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 12:22:03
高等女学校しか出ていないうちのばあちゃんが言ってたけど
「うちは名字帯刀正座御免だ」そうだがこんなのあんの?
苗字帯刀胡坐御免もあるかもな
ウチは名字帯刀和式便所御免だ
272 :
本当の本物225:2007/02/21(水) 16:54:17
ツマンネ
273 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:05:11
age
274 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 12:02:28
275 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 19:52:36
こないだ御蔵を整理してたら所領安堵の証文が出てきた。
発行元は伊達政宗。
まー、読めるわきゃないので教育委員会経由で
某大学の研究室に解読してもらったんだけど。
その他いくつかもそこの研究室で調べてもらってるのだが、
まだ報告はない。
276 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:08:26
私的に苗字を名乗ったり帯刀したりするのと苗字帯刀御免は違うんだけど
277 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:09:31
278 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:55:05
>>275 アチャ〜!やっちゃったな〜!残念ながらお前さんの目が黒いうちには
帰ってこないよ
279 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 21:59:24
>>275 そんな程度で、なんで発給が伊達政宗公だとわかったの?
280 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 22:35:10
そんな単純な文書が研究機関をたらい回しにされるなんてあるのかよ?
281 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 07:33:27
単純な文書だからこそセンセの書棚の奥に埋もれてしまうんだよ
預けたらもう帰ってこないと思った方が良いぞ
ウチの本家も戦後すぐくらいに某先生に文書を貸したけどいまだに返ってこないといっている。もちろん某先生はとっくにお亡くなりになってるけど。
うちなんて国に蔵ごと文書を持ってかれて、かれこれ100年近くになるが音沙汰なしだ
もう寄贈したことになってるのか・・・
283 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 09:43:28
苗字帯刀=百姓町人
槍一筋なら完全な武家だろ?
284 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 10:52:25
豊前時代の細川領、そのあとの小笠原領の手永庄屋は、苗字帯刀はもちろん、扶持もあり、外出の際に中間・若党や槍持ちを従わせることを正式に許可されている。
実際に島原の乱に従軍した者も多いので武家的な扱いをされていたようだ。
285 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 21:47:23
実際のとこ、名字帯刀ってのはどこまでの装束が許されたの?
おれんちの先祖は殿様の代替わりの時に肩衣・袴の半裃姿に二本差し&槍一筋で
お出迎えしてたらしいんだ。
その場合、髷とかも結い直してたんだろか?
286 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:11:08
287 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:58:35
漏れがガキの頃に読んだ豊臣秀吉の伝記に「日吉はえいっ!と元気よく槍を突き出しました。」とあったのが頭をよぎるな。w
288 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 17:31:40
先祖の家の蔵に刀と裃があったときいたが、裃ってなに?
289 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 18:37:10
290 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 19:32:33
毛利の殿様の息子で、1650年頃干拓工事を指揮して新たな土地を得て、
百姓になったものがいるのだが、明治になって毛利以外の名を名乗った。
殿様の息子でも百姓になったら苗字は名乗れなくなると思っていた。
いろいろあるんだな。
許可権限は領主にあるから全国一律の正答なんてない。
同じような存在でも同じ待遇を受けたとは限らない。
292 :
日本@名無史さん:2007/06/04(月) 22:53:30
苗字帯刀は公的な資格ではあるが、私的にそれをしても黙認された。
百姓町人の仇討ちが許され、定寸の両刀を用いて斬り殺しても構い無しにされている事例でもそれを垣間見ることができる。
293 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 00:52:19
弾左衛門やその手下の帯刀に関して、
国定忠治の処刑に際して江戸から上州大戸村までの忠治の護送に弾左衛門手代以下約百名の杖突、帯刀者が警護したというし、
処刑場に入る行列も帯刀した大戸村小頭惣右衛門と三ノ倉村小頭源助を先頭にしたという。
また処刑の様子を楡木宿惣左衛門が書いたものにも
「右御役人様方之前ニ、団左衛門手代壱人是刀持ヲ連、しょうぎ掛り下知有之」
とあるように弾左衛門の手代が検使役の八州御取締出役らとともに刀持ちを従えて床机に座り下知をした事がわかる。
294 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 09:49:14
>>275やっちゃったね。うちも返ってこない。。。
ちなみに新聞社や出版社が写真を貸して欲しいと言ってきてもコピーを
渡すように。うちの先祖の帯刀した写真や騎馬(明治時代だけど)等は
返ってこなかった。
295 :
日本@名無史さん:2007/06/05(火) 10:25:25
スゲー
騎馬を貸したんだ?しかも明治の
296 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 00:21:13
騎馬している写真(明治期の・・・)。まあ、写真なんてほとんど明治以降
だと思うけど。
うちの家のご先祖さんは、関ヶ原で改易された某大名家の一族。
大阪の陣で更に負け、当のご先祖さんは幽閉(流罪)され、そのまま土着。
土着の後、その土地に新たな大名が移封された時に、名族とか何とかという理由で、
名字帯刀を得たと本家の墓所の石碑に刻まれている。
落ち武者が先祖っのも、「負け組が先祖です」って感じだよ。
ま、分家の者だからあんまり関係ないけど。
298 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 06:21:14
299 :
522:2007/06/07(木) 07:25:59
有名なところでは長宗我部
300 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 10:18:36
流罪ってあるから宇喜田じゃね?
301 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 10:39:25
うちの祖先は完全な農民だがお墓には苗字が刻んである
室町幕府にとっては由緒ある名前らしい
浪人が帰農した場合は苗字があったのだろう
303 :
297:2007/06/07(木) 14:49:50
>>298 名字帯刀を得たのちに町名主をしてたと、墓所の石碑・地元の郷土史と記刻・
書いてありました。
百姓ではないけど、商人(町人)です。
大名といっても、関ヶ原以前で4万石の小名だったので、いたってマイナーな
ところですよ。
304 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:25:58
>>303 4万石の大名でマイナーってナメてる?
で、その苗字帯刀は町割などの功績で領主から与えられたの?
305 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 15:37:14
四万石で関ヶ原で西軍について敗れ、
大阪の陣では右大臣家に応じて大阪に入城し、幽閉された大名ってだれだろ?
306 :
297:2007/06/07(木) 16:11:42
>>304 名字帯刀の理由が没落した大名家の一族という「名」だけで、与えられたって
事です。
>>305 ご先祖さん本人は大名じゃないんですよ。大名の一族(兄弟)です。
当の大名の方は、大阪の陣で内通したのか、疑われのかで切腹になった方。
>>301 いつのお墓のどこに名字が彫ってあるの?
308 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 11:09:22
>>301 文政時代のお墓の側面に○×善衛門と刻んである
それ以前のものは読めない、自作農クラスで庄屋や大地主ではない
浪人が百姓の婿になり農業を手伝っているという建前かもしれない
お前ら知らんようだが江戸時代は百姓にも苗字があったぞ
江戸時代から続く神社などではちゃんと百姓の苗字が記されてる
江戸時代は百姓でもちゃんと苗字があった。
これは苗字研究の第一人者故丹羽基二先生も自分の目で確認されたそうだ
310 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 14:37:51
311 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 15:02:56
苗字でなく屋号では?
>>309 公文書で名乗れなかっただけ
普通は屋号で呼ぶけどね
313 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 16:53:59
帯刀は禁止されるが刀やヤリ持っていた
苗字もあるが公的書類には書けない
だから明治になって苗字が名乗れた、無かったら作るのが大変
314 :
日本@名無史さん:2007/06/08(金) 17:35:29
まあ、それも極論な訳だが・・・文盲に苗字があるとは思えない
やはり自作農以上の一部だと思われ
315 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 02:12:09
自作農ってのもよく解らないんだよねえ
>>308 >○×善衛門
水呑みは百官名由来の名乗りをしづらい風潮だったらしいから
まあ本百姓だったんだろうね。
うちの先祖は某藩の家老の分家筋に当たるんだけど
やっぱり江戸中期に帰農してさ、それまでの○○二郎右衛門を
○○仁右ヱ門に名乗りを変えたよ。
ただ、名字帯刀の格式はそのままだったのと、
村役に就かなくても代官直支配の地位を与えられたので
代官所での席次は大庄屋の上座にあったって聞く。
317 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:00:17
士農工商の士は足軽ではない本当の武士
農は田畑所有の本百姓、工は工場を持った親方職人、商は店を構えた主人のこと
>>316 うちは大庄屋もやってたんだけど右ヱ門じゃなくて右衛門だ
藩によるのかな
藩主よりずっと古い家ってこともあるのかもしれないけど・・・よくワカンネ
319 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:44:15
農民や町人で「○右衛門」を名乗るのは別に珍しいことじゃないと思うが。少なくとも畿内近辺では
天領、諸藩領、旗本領その他を問わず、ごく普通にみられる。
320 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 18:49:30
石川五右衛門
321 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 19:39:30
O兵衛ってもある
322 :
318:2007/06/09(土) 19:40:54
323 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 20:20:54
いまでも名字がない人がいてるのですが、下の名前だけでかわいそうですか
出さないだけ
「姫」って苗字だよ
>>324 「姫」じゃなくて「宮」とか「女王」とかがつく皆さんのことだと思うが。
だから苗字は姫だってば
古代中国の周かいな
平安時代に天皇自らが言ってる
329 :
日本@名無史さん:2007/06/13(水) 19:28:52
なんで遠慮名のスレになってるんだ?
330 :
日本@名無史さん:2007/06/19(火) 00:13:26
大小の拵を持ってる百姓は珍しくない
名字を持っていない百姓の方が珍しい
百姓でも通称の他に実名を持っている家は何らかの由緒がある家柄
拵が読めない学のないおいら
しかもIMEで変換も効かない
判明した。大小の刀ってことね
それは藩によるよ。幕末なんかはもうゆるゆるだったしね
334 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 07:39:11
天皇家の姓は朴
335 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 08:17:00
>328
史料は何?
どの天皇がいってんの?
ただ、単純に知りたいので。
336 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 09:42:13
>>334 天皇家の成立は統一新羅人が唐風の姓に改める前と違いますか?
338 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 12:53:58
皇室は呉の大伯の子孫というストーリーがむかしあったのだ。
だから姫氏。
大伯は周王のお兄さんの家系だから偉いという話
>>336 そもそも豊臣秀吉の刀狩令自体ゆるゆるだもんな。
だから中世以来の武器を所有していた百姓はかなりいたようだ。
でも蔵の奥に仕舞われてて外に出すことは憚られた。
>>335 弘仁私記かな。
平安時代に日本書紀の勉強会で天皇が名字は姫と答えたらしい。
名字帯刀から離れつつあるな・・
342 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 21:06:35
町人姿の黄門一行や、膝栗毛の弥次喜多が脇差(道中差)を差しているが、
ああいうのは許可がいったのか?
343 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 21:21:00
道中差しの脇差しだから許可無し
344 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:30:22
ヤクザの長脇差は、道中差という解釈でおk?
345 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 00:41:31
二本刺しじゃなきゃOK?
346 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 02:54:01
>>344 博徒の長脇差しは時と場所によってはOKではない。
国定一家を見ればわかるだろ。
347 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:17:29
苗字帯刀って、俗に言いますが、「苗字を名乗る」のと、「刀を持つ」のは、
いつもセットだったんでしょうか。
ほかに、あえて言わないけれど付随する特権ってあったんですか。
348 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:21:55
○○兵衛、■■衛門、てのは、百官名に由来すると書いている人居ました。そういうことなんでしょうか。
初めて知りました。庄屋でないけど、そういう代々なまえの人居ますね。
◎◎太夫というのはどうなんですか。
また、△△丞とか。
中世で、先祖が領主から官渡状でもらったことがあるということでしょうか。
349 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 20:32:04
>苗字帯刀とひとことでいうが、
>個人がもらう場合。
>代々個人がもらっている場合。
>その家でずっとずっともらっている場合(いちいち、代代わりでもらうことなく)
あるはず。
さて、明治になって、士族になるケースってあったのか。ありうるのか。
(たとえば、「庄屋だったのですが、士族になっておりまするという話ってありますか)
350 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 21:15:10
>>349 単に庄屋というだけでは士族編入はない。
個人的な勲功があれば別だか
351 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 21:24:22
>>347 刀を持つ?刀を差すだろ!
刀(刃長二尺以上)の所持と帯刀はまったくちがう。
353 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 22:03:37
通称?○○右衛門とかはそれ自体が正式な名前だろ
失礼。名前だった
355 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 10:04:33
熊本の傘御免
356 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 11:09:02
ドドドドドドドドドドドド!! |風| _ |風|
|林| _ .|風| |林|
|火| |風| .|林| |火| コッペパ〜ン
|山| |鈴| |火| |山| ジャム塗ったらジャ〜ムパ〜ン♪
_∧ ∧(oノヘ| ̄ .|火| |山|(oノヘ| ̄
(_・ |/(゚∀゚ )|\. |山| ._∧ ∧(oノヘ|/(∀゚ )|\
_∧ .∧(oノヘ |\Ю__∧ ∧(oノヘ| ̄(_・ |/(゚∀゚ )|\ ⊂)_|√ヽ
(_・ |/(゚∀゚ )\ ( (_・ |/(゚∀゚)|\ |\Ю ⊂)_|√ヽ~∪ )^)ノ (´⌒(´⌒;;
|\Ю ⊂)_ √ヽ| || |\ Ю ⊂) |√ヽ(  ̄ ~∪ )^)ノ( | ( |(´⌒(´⌒;;
(  ̄ ~∪ )^)ノ '~ ~ (  ̄ ~∪ )^)ノ .|| || ~( | (´⌒(´⌒'~ (´´
||` || ( | ( |(´⌒(´ ||` || ( | ( | (´⌒(´⌒;; (´⌒ '~ (´⌒(´⌒;;
357 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 01:31:20
>>309 庄屋クラスだと名字御免が普通だけどな。
358 :
日本@名無史さん:2007/07/20(金) 15:24:29
庄屋だと脇差差してるイメージだが
>>353 百姓でも実名を持っている家は結構あったから
右衛門や左衛門名が通称であった場合も多い
360 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 09:55:39
>庄屋だと脇差差してるイメージ
長州藩かな(?)の大名を出迎える絵では庄屋はことごとく二本差だったらしいが・・。
絵の資料的価値ってのは低いらしいけど(想像で書いてる場合があるから)
庄屋でも帯刀は珍しいっていうのは本当なのかな??
361 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 10:29:36
地元百姓の頂点にあった庄屋の子孫である爺様は
刀を軍刀に仕込んで戦争にいき、刀を持ち帰ってきた。
武装解除はなかったのか、今では聞けない。
362 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 10:45:25
うちの祖父は徴兵時家宝の刀を軍刀にしたが・・・戦後もって行かれてしまったOrz
蔵の奥にしまって置けよ
なぜか拳銃まで持ち帰ってきた。
ばあちゃんが警察署で処分してもらったそうだが
どうして保管しておかなかったのか今では聞けない。
使いたくなるからだろw
オレのジイちゃんも具足に身を固めて出征したよ。
そんなオレも今年で御年79歳・・
366 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 21:05:04
>>357 庄屋就任のたびに、改めて苗字帯刀が多くないか。どう?
さて、
うちでは、歩くときは、槍持ちをいつも従えていたらしいんだが、
自分の家の家人だったのか、村で雇っていたのかは不明。
なお、馬には乗っていなかった模様。
367 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 23:06:38
馬に乗ってたとか乗ってないとかって証拠とかあるの??
口伝だよね?
うちの先祖も馬乗ってたって聞いたんだが、それ明治時代の話だし
庶民は金さえあればみんな馬に乗れる時代じゃん。
ましてや江戸時代のことなんてわかるわけないw
368 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 01:20:05
農耕馬に乗ってたんじゃないの?
あれ?江戸時代なら牛だけだっけ?
369 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 08:45:38
幕府御料の場合、名主・庄屋層で幕府に直接苗字帯刀を許されるのはそれほど多くない。
幕府御料内の本陣や鳥見役の苗字帯刀はそれを使用する藩から、私領旗本領なら地頭から与えられている場合が多い。
じっさい、旧地侍の系統が庄屋・名主として残った例てのは多いの?
371 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 15:45:28
当然、当初は懐柔策としての名誉職。時代を経るに従い栄枯盛衰盛者必衰で
幕末頃は入れ替わってるとこも結構あるけどね。
江戸初期になった、もしくは初期での新田開発の功績系は地侍系統。
中期以降は関係ないと思う、ただ水呑百姓から成功ってのも稀だと思うから
結局はそれなりの家では?
372 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:04:28
村の窮乏は、やっぱり庄屋様が代表でお上に訴えたのかな?
それとも庄屋様は「あっ、そお、大変だったね〜!ふ〜ん。」だったのかな?
373 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 03:29:13
>>372それは難しい。時代と村によるとしかいえない
当初は農民と一体であった庄屋も苗字帯刀などで支配層と言う意識が
芽生えてお上側についていったというのが教科書的意見だが。
現実問題としては上記の地侍系の家であれば小作人自体も親戚である可能性は
高いわけだし(はるか昔の分家)・・・まあ、何とも言えないとしか言えない
村の窮乏とはちと違うがトラブルの時の村役人の対応の具体例は
『江戸の訴訟 御宿村一件顛末』に詳しいな。
あくまで一例だが。
376 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 21:03:36
>>359[幕府御料内の本陣や鳥見役の苗字帯刀はそれを使用する藩から]
これは、天領内の上層一般人の話ですね。
いくつかの藩から苗字帯刀の権限をもらっているということもありですか。
場合によっては、いくつかの藩から士分扱いをいただく事もありかなぁ。
377 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 21:09:21
>>367 するどい突っ込みだ。
馬に乗っていなかったという話は聞いていない。
槍持ちの話が伝わっているのに、馬の話が伝わっていないので、そう思ったんだ。
それと、明治になってからの当主が馬に乗って遊んでいたという話があるので、
たぶん、明治前は乗っていなかっただろうかな、と。
(・・・庶民は乗馬禁止だったんではないかと推測してるんだが)
378 :
376:2007/07/26(木) 21:12:48
376は間違いでした。(
>>369)です。
ところで、[私領旗本領なら地頭から与えられている場合が多い。]
の私領は、藩領ですよね。あと、公家領や寺領なんかも指すんでしょうか。
そして、その場合の「地頭」ですが、これはどういうものでしょう。
379 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 07:23:58
>>377 江戸時代、武士以外の乗馬は建前では禁止されてはいたが、実質黙認。鞍を着けておおっぴらに走り回らなければ取り締まられることは無かった。
380 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 11:56:14
381 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 12:08:28
苗字帯刀自体も黙認ってのあったんじゃないの?
バカが混じってるようです
383 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 12:46:43
庶民の苗字の私称や士装に対して緩い地域もある。
百姓でも剣術稽古中は士装して苗字も名乗るのが普通。よく知られている天然理心流の奉納額のように百姓町人が苗字を記したものが多く見られる。
天然理心流の奉納学にもある井上源三郎は八王子千人同心の次男ではあるが、同心当人でさえ公務外での苗字の名乗りや帯刀は認められていないのでこれも私称である。
そもそも剣術の師匠などは百姓の出が非常に多い。
384 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 13:43:17
剣術か勉学は武士になる手っ取り早い方法だものな
旗本領の豪農層の中にも名誉的な格式ではなく、領主の正式な家士として主従関係を結んでいる場合があるが、
この場合は「旗本某の家来」という身分であり苗字を公然と名乗り帯刀しても差し支えないと思う。
386 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 16:11:45
それって初期の頃でしょ。後期になりゃ遠い領地で何があるかなんて???
387 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 18:33:17
旗本が采地の中〜大百姓を正式な士分に取り立てて軍役上の侍に、貧農から小者や足軽に取り立てた例はけっこうある。
清水一学もそれかも。
388 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 23:46:29
地行地百姓出身の旗本の用人とか
>>380 領主って大名のことだろ?
378のいう「地頭」は、この場合「知行取りたる旗本・御家人」なんジャマイカ。
知行取りの御家人って少なかったかもだけどさ。
390 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 03:02:18
知行取りの旗本御家人も立派な領主じゃないのか?
391 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 08:56:11
知行取りの旗本もれっきとした領主。
ただ、その領地は大名は「領分」、旗本は「知行所」と呼ばれ区別された。
御家人にも知行取りがいたと聞いたことはあるが、その実例は知らない。
392 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 09:03:04
で、旗本領の「地頭」だが、これは領主たる旗本のこと。
近世の法令用語と現代の教科書・歴史の本での歴史用語は乖離していることが多く、
天領(幕領)は史料には「御料」「御料所」と記され、藩領と旗本領は「私領」である。
さらに藩領は「領分」、旗本領は「知行所」で、旗本は「地頭」と記された。
だからといって江戸幕府が地頭制度を残していたわけではなく、単なる呼び名である。
武家だとさ、正装時や勤務時の着衣で家格を表してたよね。
羽織・着流しよりも羽織・袴、さらに羽織袴よりも裃のほうが偉い、とか。
これは名字帯刀を許された層の場合はどうなの?
うちにある地元江戸期の資料だと領主(大名)お出迎えの際は
本陣当主と名主は二本差しに肩衣・袴で街道端で立ち待ち、
その他免許衆は羽織・袴で土下座してお迎えとなってるんだけど
この場合も服装が格式を表してるといっていいの?
394 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 17:22:27
>>本陣当主と名主は二本差しに肩衣・袴で街道端で立ち待ち
これが結構資料にあるんだよね・・・一応庄屋は正式の場では二本差しなのかな?
395 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 20:22:02
>>394 >一応庄屋は正式の場では二本差しなのかな?
それ故の「名字帯刀御免」なのではないか?
本陣の亭主なんかだと身分的にも「お目見え」に準じた扱いを受けなけりゃ
本陣として機能しないだろうしなあ。
で、このとき両者の髷は結い直してたのか??
>>394 > 一応庄屋は正式の場では二本差しなのかな?
“正式の場”による。例えば城や陣屋に呼ばれる時は、大刀は駄目だ。
庄屋の名字帯刀は、あくまで“お目こぼし”であって、正式な藩士ではない。
藩士が隠居しその嫡男が城に上がる時でも、正式な藩士になるまでには、
気の遠くなるような挨拶や作法を経なければいけない。
だから庄屋は、お城や陣屋では「身をわきまえる」ことが必要。
脇差はどこでもいいんだけどね。
うちも庄屋だから脇差は沢山あるけど、大刀は1本しかない。
大刀使う機会はほとんどなくて、一本あれば十分だったんだろう。
本陣は、大名を迎えるときは、受け入れる側が高い身分である方が
むしろ望ましいのだから、主は二本差しに立礼となる。
397 :
日本@名無史さん:2007/07/28(土) 22:05:37
>>393 >その他免許衆は羽織・袴で土下座してお迎え
ググってみたけど、やっぱ羽織袴よりは裃のほうが上みたいね。
礼装としての格は。
オレんちのほうなんかだと庄屋は両刀に槍持って立礼だったみたい。
これだともはや半武士扱いだよね…。
398 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 01:38:18
馬鹿な質問で恐縮だが、帯刀を許された庄屋が武士と喧嘩して斬り殺したら
やっぱしマズい?
399 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 08:56:21
>>398 まずその武士がどこの家中の侍なのかによって違いがある。
その武士が領する、または帰属する主家の領内の庄屋が相手であり、殺害するな足る正当な理由があれば問題にはならないだろうが、
単なる酒の上での喧嘩では取り潰しにもなりかねない。
斬られた庄屋が他家の領民であればただでは済まないと思う。
400 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 09:00:53
401 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 09:04:46
>>397 庄屋が槍を持って立令するとは珍しいですよね。どこの地方ですか?
402 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 23:51:24 O
庄屋が大小を帯びて槍を持って殿様に立礼して帰国を迎える地方なんてあるのか?
403 :
日本@名無史さん:2007/07/29(日) 23:58:34 O
>>391 上州世良田村他五百石 正田氏は目見得以下の御家人
404 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 23:49:23
庄屋が槍を公然と持つことはないだろ
405 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 17:50:22
新撰組の近藤勇、土方歳三などは、百姓とも言われるが、
両人とも百姓は百姓でも豪農の生まれで近藤の生家は宮川という姓をもつ。おなじく土方も姓をもつ。
彼等はお城に登城する徳川家臣団の武士でないことは事実であるが、
近藤・土方の実家は共に刀をもつことを許された、苗字帯刀の豪農(郷士)である。
土方家には家業があり、土方歳三は若いころ、この石田散薬という家伝の薬を売り歩く薬屋の行商もやっており、
刀は茣蓙(ござ)に入れて背中に担いでいたらしい。薬屋が両刀差していたのではさすがに様にならないからだろう。
あと、武州三多摩は天領(徳川家の直轄領)であり、代官はいるが大名はいない土地であり、
将軍様の百姓は大名の百姓とは身分が違うという自覚があったのではなかろうか?
だから、近藤も土方も農業をやる百姓でありながら、苗字帯刀を許された郷士である。
郷士とは地侍ともいい、米だけ作るのではなく、武芸も漢学も治めた、誇りも高い大名も一目おく、村の実力者であった。
このあたりを調布市の郷土博物館の金井氏にお伺いすると、近藤と土方は郷士ですというお答えをいただいた。
ともかく百姓でありながら武士であるという郷士と言うのはわかりにくい存在なのだ。
身分的には城下侍の下、百姓の上ということだ。
何で一行開けるの
407 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 18:44:09
近藤や土方が苗字帯刀を許された郷士?
彼らは旗本にはなったけど
408 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:11:53
そそ、近藤は若年寄格、土方は寄合席格だよ。
409 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:15:09
>>405は武士に成れなかったヒガミで
>>407に対して誤爆したさま。
戸籍云々問題で論破された恥かしいやつ
410 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 19:17:59
>>405ごんべごんべ、名前貰っても名前負けしないように頑張っていけや
411 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 21:49:55
どう時代が揺れ動こうと、
我々の正義は、何一つ変わる事はない。
悪は即ちに斬つ、
すなわち、
「悪・即・斬」、
それが俺たち新選組だ。
死んだジイちゃんが言ってた。
ジイちゃんのジイちゃんが島田魁ということは
戦前は公言するのが半ばタブーだったと・・。
413 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 23:02:02
いやさ、そもそも幕府には郷士なんていう身分呼称はないし。
宮川も土方も百姓だよ
414 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 00:09:27
近藤や土方の公的な苗字帯刀は浪士組取り立時に発生(苗字帯刀の格式のみを与えられたわけでわなく浪士取り立時に自然に付随した)したものであり、それ以前に苗字帯刀を許された事実はないし郷士などという身分でもない。
415 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 01:09:43
横レス、公式の場合は分かりやすいのだが上記にあった大名の庄屋の出向かい等
名字帯刀を正式に許されているわけではなさそうな庄屋等が二本差ししているわけを知りたい
416 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 01:20:47
>>414あの辺の豪農は幕末期の治安の悪化を受けて名字帯刀を許されてるはず
ただ、それが郷士と言う身分ではないと思うが郷土史的には身分的周縁は郷士扱いじゃね?
417 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 03:02:14
郷士【ごうし】
江戸時代,郷村に在住した侍身分の総称。相馬藩,平藩,越後高田藩など全国的に分布したが,
四国・九州の外様諸藩の郷士を典型とする。なかでも薩摩藩の外城衆や土佐藩の一領具足,
延岡藩の小侍・郷足軽などが著名。通常は農業経営を営む一方,軍役をも負担するという
兵農両様の性格を持ったが,郷民に対しては身分的優越意識を持ち,また領主の村落支配の
要としても機能した。このほか,中後期には多額の献金や新田開発などの功績により町人や
農民のなかから郷士に取り立てられるものも多数生じている。
1872(明治5)の太政官布告により多くは士族身分を与えられた。
419 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 04:48:23
>>418もう少し調べた方がいい、軍役負担は無いのもあるし大部分は士族になっていない
武田浪人ってのも調べてみると面白いよ。
420 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 13:40:52
421 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 17:59:48
八王子千人同心があるが、それ以外に多摩に郷士なんていない
>>415 >公式の場合は分かりやすいのだが上記にあった大名の庄屋の出向かい等
>名字帯刀を正式に許されているわけではなさそうな庄屋等
公式ってなに?
423 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 10:02:30
>>422 苗字帯刀のお墨付きを貰っている場合
>>1>3.町年寄・庄屋・名主・御用商人・本陣などの役柄によるもの
の役柄に付随してるのかな????
424 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 01:17:23
回船問屋は苗字帯刀を嫌がったって司馬の本で読んだ。
425 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 03:22:33
商売系は貰ってもしないでしょ
426 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 05:04:33
>>421 あれ?その株は金で買えたはずだよね!?
かなり胡散臭い。
427 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 07:57:24
んなこといいだしたら御家人、はたまた旗本まで・・・
苗字帯刀も金で変えたらしいが相場はいくらぐらい?
428 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 08:11:23
苗字帯刀は買うのではなく献金に対する褒美だよ
429 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 08:49:10
>>425 酒田の本間家は江戸時代は御用商人だったけど、苗字帯刀許されてる。
430 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 09:09:45
広瀬淡窓の肖像画を見ると紋付羽織袴姿に脇差を指し、右側の手元には大刀が置かれているのが見える。
日田の商人の伜(家督は継いでいない)である彼の場合、西国郡代塩谷大四郎を通じて幕府(水野越前守の決裁)から苗字帯刀を許されている。
正式には
日田豆田町 広瀬久兵衛兄 広瀬求馬
帯刀苗字永々御免
淡窓の肩書きでもわかるように商人である兄の久兵衛もすでに苗字帯刀を許されていた。
淡窓の弟の旭窓は大名に仕えて武士身分になっている。
431 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 13:47:47
豪農や献金商人とか学者はよくあるけど、神社の神主の苗字帯刀事情はどうなんだ
432 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:06:51
名字帯刀、羽織袴着用を許されているということは、
与力と庄屋は同格ということ?
433 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:07:21
>>429 本間家は元々武家だ。商人に身をやつしていただけ(出向みたいなもん)。特殊な事情なんよ。
庄屋以外を肯定してどうするの。
434 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:12:33
思うんだけど、学校で習った士農工商エタヒニンの印象でガチガチの上下関係で固めた、
身分制度が日本の江戸時代だったというイメージだけど、このスレ見てると力なり才覚があれば、
ある程度、例外も認められるし、かなり融通のきくような階級間もあったみたいですね。
435 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 19:15:05
正月とかは大店の主人は、帯刀・袴ないで立ちで挨拶回りじゃなかったけ?
436 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:20:57
>>434士農工商と言う考え方は明治後の新政府が旧幕は酷かったのよと宣伝の為と言うのが
最近の説だが・・・ただ、封建制っていうのは身分をガチガチに固めたものだからな。
どうも最近の学会系は古代ユートピア思想ぽい
>>436 >封建制っていうのは身分をガチガチに固めたものだからな。
>
>どうも最近の学会系は古代ユートピア思想ぽい
そもそも中世以降の日本に「封建制」という言葉が適切だったのかどうか、ってことだよね。
神道文化が染み付いてる日本人には、身分制にも鷹揚だったのかも。
それによって、儒教伝来以降に身分制度がガチガチになりかけたのを食い止めたとでもいうべきなんだろか。
438 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:24:41
>>432 同格?まったくの別ものですよ
幕府諸組与力は苗字帯刀をわざわざ許されたりする階層じゃないから
439 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:27:35
>>433 >出向みたいなもん
そんなもんじゃいですよ
440 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:39:48
草薙燕石や伊藤常足などの肖像画は、盛装に威義を正しているが、あえて大小を指さずに床に置かれている状態で描いている例があるが
やはり分をわきまえたのだろうか?
吉田松陰の肖像も着流しに無腰(脇差は前方に置かれている)だが、これは松陰の衣装でわかるとおりわざわざ苗字帯刀という格式を残す意識の無い姿だ。
441 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 23:54:45
苗字帯刀=武士じゃないしな
443 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 04:26:07
>>437封建制って言葉は中国のもんだからね、今言われている概念はヨーロッパ
ヨーロッパのように異民族支配が多いと上層下層で身体的特徴、言語まで
違ってしまって固定化されてる歴史が長いからね。
日本人と言うよりモンゴル系民族は社会構造が柔軟で身分固定ってのは
あんまり無いらしいね
444 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 09:07:59
スラブ人は奴隷や農奴だったということか
445 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 09:52:30
関東の旗本領なんて苗字帯刀を許された百姓がごろごろいるよ
447 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 01:50:08
帯刀を許された百姓や商人などは、その刀は与えられるの?自分で用意するの?
448 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 02:29:02
>>445 もともと武家だった百姓が多かったからねぇ。
449 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 02:42:47
借金まみれの旗本が領地の商人百姓らに苗字帯刀を乱発したからだよ。
450 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 08:04:38
>>447 自分で買うんだよ。もともと家にあるやつでもいいし。
451 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 15:36:34
苗字帯刀が許されただけなら別に士装しようがしまいが構わんと思うのだが
本陣や庄屋の場合、代官や殿様の出迎えのときはしなけりゃ不味い気がするが・・・
452 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 19:44:07
旗本知行地の名主がその領主の中小姓席で采地の代官を兼帯していることは多い。
当然ながら家中においては士分の扱い。
>>452 あー、そういうのあるね。
本家筋が代官職にある間は分家が庄屋職に就き、
本家が代官を辞した場合は遅滞なく庄屋職を本家に戻す念書が残ってたり。
そう考えると武家なんて体制次第の脆弱な地位にあったんだなあ。
その点、地に根ざした百姓のほうがよほど強いわ。
庄屋クラスに限らず、兵農分離以前は農民と武士の境界ってあいまいだったんだろうけど。
村落内での百姓の力関係は流動的
455 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 13:04:50
うち農家なのに昔の刀たくさんあるけどなんでだろ?
むかし名主さんだった家は今も近所にあるけど親戚でもないし。
落武者狩りが趣味だったのかもよ。
457 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 14:48:17
帯刀が許されてなくても刀を買ったり所持したりすることはできる。
458 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 17:10:50
庄屋・名主って兵農分離以前なら足軽?それとも士分の侍?
459 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 17:11:08
地方によるが
1、地侍だった、かつ刀狩が行われていない五大老の領地
2、質屋をやっていた
3、戦国時代落ち武者狩りをした(?)鉄は貴重だから鋤鍬になってる可能性大だが
4、割と富裕で骨董を趣味にしてた先祖がいる
まあ、こんなもんだが基本的に地侍だった可能性が大きんじゃないかな?
461 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 17:17:33
>>458一応士分じゃね?小作人を足軽として数人連れて行き自分は騎乗してってパターンでしょ。
ちなみにうちは庄屋の家系だが戦国時代、足軽大将から貰った感状がある。
私の先祖はきっと足軽ではない・・・きっと違う。
463 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:09:13
戦国時代の名主が武士?
領主と主従関係を結んでいなければ基本的に士分とはいえないね。
464 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:10:44
戦国時代の名主が武士?
領主と主従関係を結んでいて所領を安堵されていなければ基本的に士分とはいえないね。
465 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:14:46
近世の名主クラスの上層農民=地侍でも、戦場に出るときは足軽なのね。
決め付けはどうかと
467 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:42:11
足軽の他にも凡下、侍、牢人などあるよ。
468 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:46:01
有名な土佐長曽我部氏の一領具足は名主的な上層農民を士分の騎士にしたところが画期的だったわけだが一般的ではないよ。
469 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:50:21
足軽と言っても戦国時代の足軽は江戸時代の足軽(雑用係)とは違う訳で・・・
470 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 22:56:00
足軽は雑用係じゃないよ
471 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:05:06
戦国時代の農村は複雑だよ。
村々に地侍はいたけど、それが=名主ではないからね。
472 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:14:28
473 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 23:34:39
小なりといえども主家から所領を与えられた領主でないかぎり、上層百姓であっても戦場に徴発されたら自村から狩り出された足軽などを指揮する立場ではないよ。
指揮するのは領主とその家臣・被官の侍。
いつの時代の場合なのか書いてくれないとわかりにくい
戦国後期でしょうな
476 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 08:19:25
要するに
地侍でも地域の領主と主従関係がなければ、「足軽」=二等兵
領主と主従関係があれば、「士分」=士官
ということか。
477 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 09:52:13
戦国大名による大規模な合戦に備えた兵の徴発では侍・地下・凡下を問わない場合が多い。
また個人的に出戰する余裕がある領主と主従関係を有していない上層農民が武士として働きたいなら、村に賦せられた人数とは別に個人的につてを頼り戦陣の端に加えてもらえばよいし武具や従者等供廻は自弁。功名すれば所領も与えられ正規家臣になることもあり得る。
478 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 10:06:00
>>476 士官=大名家臣、小領主、またそれら家臣の被官で私的従者を率いているもの。
下士官兵=村々から集められた雑兵、臨時雇の歩卒、家臣等の私的従者。
479 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 11:53:08
地侍でも大名家臣につてがなく、徴発されれば雑兵・足軽ということか。
480 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 13:23:58
庄屋(西日本)名主(東日本)共に農村を統治する村長みたいな存在だが、元々帰農した武家の家柄が多い。故に士分、苗字帯刀は当たりまえ。
481 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 14:28:11
>>480士分ってことは少ないでしょ・・・大庄屋は準じてるらしい
苗字帯刀は言われてるよりは多い気がする庄屋ともなれば正式の場では
それなりの格式を必要とされるでしょ
482 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 15:59:05
大庄屋で半士分程度ならいるが、純然たる士分(士分の定義が問題になるが、主従関係を有し禄を給されていること)はあまりいないように思う。
483 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 16:08:22
酒田の本間家は確か殿様の子供(正式には認知されてない)
を養子に貰ったんじゃないかと。その子がきちんと育ったかは知らないが。
押し付けられたのか里親(いざとなったら、認知をして返して貰うか)にされたか。
484 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 16:52:53
確か中岡慎太郎は土佐藩の郷士だが、実家は大庄屋だったと思う。郷士は藩から禄を貰えるのかなぁ?
485 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 17:49:06
>>484 土佐の庄屋は帯刀者だが郷士ではない。
留守居組(上士)→白札→郷士→軽輩足軽→庄屋じゃなかったか?
486 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 19:33:53
ちゃうちゃう。土佐は郷士が庄屋をやるの・・・郷士は身分。庄屋は村長みたいなもん
487 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 22:37:37
>>486 土佐山内家の郷士を知らないんだね。
土佐山内家においては御目見得以下の最上位が白札で次が郷士。庄屋は帯刀できるけど軍役も担わないし山内家臣団の外だよ。
土佐の郷士はわりと有名なんだけどな。
488 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 23:01:21
土佐藩士の上士以下はすべて郷士だと勘違いしていると思われ
489 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 00:51:19
おまいら幕府や諸藩の農兵を忘れてないか?苗字帯刀だぞ
490 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 01:58:25
武市半平太は白札郷士。岡田以蔵は足軽郷士。
491 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 02:19:28
土佐藩に足軽郷士なんてないよ
岡田以蔵はただの足軽
492 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 02:46:14
龍馬の始祖は明智左馬介と言われてるが、明智滅亡後、土佐に渡り長曽我部の家臣となり、関ヶ原で敗戦後、山内家統治下で郷士になったとか言われてるが、どうなんでしょう?坂本姓は明智の坂本城からとり、家紋は明智の桔梗だが…
493 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 03:46:25
龍馬と坂本家の祖先は関係ないんじゃないの?
豪商の才谷家が坂本家の郷士株を買ったんでしょ
494 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 08:49:02
何故土佐の庄屋は苗字帯刀が許されてるの?
495 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 11:06:49
土佐だけじゃないと思う。元々、庄屋、名主の出自は武士が帰農したケースが多いから。
>>495 >武士が帰農したケースが多いから。
それもあるけど武家社会では
身分が違うもの同士が席を同じくするというのは
原則的にあってはならない状況なわけで。
庶民代表にも武家に準じた身分を与えることによって
武士と対面できるようになり、農村支配の意思疎通が
図りやすくなったり、上層農民のモチベーションをあげるための
ニンジンだったりという側面も強い。
497 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 12:21:34
地域や藩によっては旧来の残存勢力への懐柔策だった面も。
転勤がある庄屋などは藩機構の末端吏員としての待遇でもあったのかも
498 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 19:48:15
>>485 郷士でなくて、土佐では「郷士」という格があったというわけか。
499 :
初歩の質問:2007/08/11(土) 19:51:14
武士は、苗字がある。正式な苗字ですから、旅の手形にも、苗字を記載する。?
で、苗字帯刀の庄屋さんなどは、苗字はその藩領だけで認めたんでは?
藩領の外では、苗字を名乗るのは正式にはだめだったんでは?
500 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 19:59:55
幕府から苗字帯刀を許された名主や庄屋なら全国で公式に苗字名乗ってもOK?
501 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:05:10
現存する国重要文化財の庄屋屋敷がある
503 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 21:05:51
>西俣さんはこう語る。
>「生野周辺も、古代から農耕や機織、土木建築、漢字、仏教など先進技術や文化を
>伝えた渡来人によって築かれた土地です。ところが、約1500年後の1910年から
>日本の朝鮮半島支配が始まり、多くの朝鮮人が出稼ぎに来て、過酷な労働に携わる。
>その後も創氏改名や強制連行、戦後もひどい差別が続きます。
>お世話になった民族にこの仕打ち。ヨン様もいいですが、歴史と現状を広く知ってもらい、
>大阪から本当の国際化を目指していきたいですな」
日本人が古代・中世に、朝鮮人のお世話になったことは一度も無いんだよね。
誤解してる人が多いんだけど、古代日本に移住した渡来人は、朝鮮人じゃあないんだよね。
ぜんぜん無関係な別種の民族なんだよ。
半島南部の韓人(からびと)と呼ばれた倭人系民族と、楽浪郡が滅びた後、難民として日本に来た
漢人たち、それが渡来人なんだよ。
いわゆる「百済系渡来人」とか、「コマ系渡来人」と呼ばれている帰化人は、
そのほとんどが楽浪郡系の漢人なんだよ。朝鮮人は一人もいないんだ。
楽浪郡の漢人や半島南部の倭人系民族、日本列島の倭人と対立していたワイ族こそが
朝鮮人の先祖なのであり、とうぜん、ワイ族は古代日本には移住していない。
「朝鮮人にお世話になった」という主張は、歴史認識の誤りから生まれる意見だ。
504 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 21:15:26
>>502 幕府領なら、全国どこでもOK?
農地だけでなく、江戸や大阪も。
505 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 21:54:03
>>504目的によるんじゃないのかな?江戸に村役人が陳情等で来たとき泊まる宿
があったそうだが刀掛け等用意されてたって話だが
506 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 21:58:58
かつて大藩だったところが領地縮小とかの憂き目にあって
宗家を残して帰農したっていうケースもあるよね。
かくなるわが家もその系譜。
いわゆる上士階級ではあったんだけど、
その末席あたりの家柄だったようで
それでも執政(家老)にまで昇進した者もいた。
江戸中期に帰農した際に名前もお百姓風に変えたけど、
苗字帯刀はそのまんま。
代官直支配ていう位置付けで、
代官所での席次は名主の上座に置かれたとか。
507 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 22:11:04
長州は関が原後家臣の帰農があったそうだが名字帯刀等はどうなったんだろうね
508 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 22:17:10
504 幕府領(農地)って、郡代・代官の支配地のこと?
町つまり大阪京都江戸はもちろん幕府領だしね(蝦夷地もだが)。
507 帰農?
安芸で、帰農したのもいると思う。長州藩の地域とは限らないと思う。
509 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 22:27:23
長州藩の場合、家臣団が減封後も付いてきてしまい処置に困ったと言う話を聞いたことがある
511 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 03:32:14
百姓と胡麻の油は搾れば絞る程出る。
512 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 09:27:28
まるでヤクザ
513 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 09:40:35
磐城平藩(譜代内藤氏)の郷士的な存在としては上から順に「郷士」「与力」「新切取」「刀御免」等に区分された。
のちに日向延岡に移封になり平には井上氏が入部するが、引き継ぎに際して
「村方に郷侍又は刀御免の百姓これ有るや」
と井上家の家臣の質問に対して内藤氏側の回答は
「村方町方共に郷士に取立て刀御免の者大勢御座候」と答えている。
当然これらの郷士的な存在は内藤氏の延岡移封にあたり行動を共にせず郷村に残った。
このことは彼等が本質的には江戸期幕藩体制下の武士とは言えなかった事を示している。
ただし若干名が延岡への随従を願い出て許されたが、その者達は百姓としての屋敷田畑等はすべて伜に相続させた上で、単身延岡に赴いたようだ。
514 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 17:09:20
武士たる士卒とそれ以外の苗字帯刀をわけろよ
515 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 19:30:38
>>513 お前の主張だと日本国内全体で姓を名乗れた者は8割に上るだろ。
自分の先祖が下層部類なのを無理に讃美して勲章をあげたいだけなんだろうけど、嘘はいけないな。
516 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 20:12:42
517 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 20:15:59
513に続いてきた投稿内容を嫁
518 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 20:21:49
意味不明
519 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 23:44:05
名字帯刀許可者が総て武士身分として扱われていたわけじゃないってことでしょ。
520 :
日本@名無史さん:2007/08/13(月) 23:54:00
武士にわざわざ苗字帯刀なんて格式を与えないよ。
ただまあ、軽輩の武士階級や足軽なんかあたりと比べて
名字帯刀の農民・町民階級のほうがはるかにゆとりのある生活をしてたわけで。
522 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 08:23:31
ゆとりがないと新田開発も献金もできんからね
523 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 23:18:39
俺は士族出身だ。
エリートの士族出身だから、このスレで俺らと対立する百姓出身者や、被差別部○出身者や、
ほかのカスとは生まれもった才能が違う。
俺みたいな「本物」だけが軍装を許される。大多数の一般人がするのはコスプレだ。
524 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 23:32:15
>>523 なんかの工作か?
日本の武士像に反感を持たせようとするレスにしか見えない。
525 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 04:24:02
武装許可も武士だけ?
526 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 08:30:31
軍装?武装?
武士の武装といったら具足に身を固め馬上で槍をしごく姿しか思い浮かばない。
徒士以下なら具足に槍か弓か鉄砲。
帯刀許されたからって庶民はそんな姿になる必要がないでしょ。
大庄屋とかで槍を許されていたという話も聞くけど、おそらく出陣の栄誉が与えられていた準武士的なあつかいだったんだろう。
江戸期の終りには幕府や諸藩は農兵に苗字帯刀を許して武装させたけどさ。
527 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 09:38:02
藩によるだろうが、昔何の資料かは失念したが
緊急時のために庄屋+小作人数人(これを一組として)を戦闘の頭数に入れてた
おそらく貧乏な藩が辻褄合わせの苦肉の策だと思うけど
528 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 10:52:55
帯刀≠武装(鉄砲含む)?
529 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 13:59:52
530 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 19:20:45
そそ、農兵を全面にして戦わなければ意味がない。でも農兵は武士じゃないよ。
531 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 19:22:23
うちの市史に興味深い事例が出てた。
名字帯刀を許された◎◎家(≠名主・庄屋)なんだが、
領主が他領の領主との小競り合いから戦争に突入した際、
被官十騎、足軽50人を引き連れ出陣。
関ヶ原以後、領主転封の後も馬上身分を許され、
戊辰戦争時には同じく騎馬で出陣、と書いてある。
ここまでくるとほぼ武士だよなあ。
農民でありながら騎馬侍10騎って、
仕官してる侍に置き換えればかなりの大身じゃないか?
532 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 19:36:52
それは特例だろ。滅多にある例ではない。
533 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 19:46:02
庄屋たってエタの一個上だよ
職人の方が毎度の10時と15時の休憩に部下たちにおごってやってるからまだ徳性がある。そんな簡単で安っぽい心づくしが他の者を魅了し良得なDNAに蓄積されていくんだろうよ。
534 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 20:44:38
騎士が十騎で足軽五十人が軍役なら五千石以上だけどそれってどこの領内の話です?
535 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 20:54:49
>>534 五千石?あほか。その程度の人員なら五十石相当の兵力だろ。
536 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 21:03:16
世禄五十石の分限で10騎歩卒50人を率いるかな?
537 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 21:13:36
五十石の家禄なら自家に6*人の兵力なんて養えないし騎馬の侍を10騎も率いる軍役を課せられるなんてありえない。せいぜい従者一名を連れる程度。
538 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 21:19:31
自領のエタひにんを含んだ人数だから人件費は殆どタダ。普段から領主(五十石)に食わしてもらってんだから、無料奉仕が当たり前だ。
539 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 21:25:18
全面に武士(正社員)ばかりだったら武士の死傷者が多くて大変なことになる。戦に際する構成としては武士が100%ということはないのだ。
540 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 21:44:42
五十石でそんなに人出せるわけないじゃん!
541 :
日本@名無史さん:2007/08/16(木) 22:41:18
幕府の御軍役だと単純に60人だと3000石以上。
外様藩は規定以上の人数をそろえることもあるけど、江戸中期以降旗本の軍役は規定の半分の人数だけでよいから60人だと5000石以上の旗本の率いる人数かな。
兵賦は500石に一人だし直接指揮できる自分の兵力じゃないしね。
542 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 03:47:33
俺は子供の頃、先祖の残した刀のつばの部分の手裏剣のような短刀で鉛筆を削ってた。
543 :
アセトアルデヒド ◆Kd5aTkfUC. :2007/08/17(金) 04:32:59
具体的に水戸藩みたいな見栄で石高を実際より高く申告した藩とかが
財政難や労役に軍役に割く人数が集められないので、
百姓に苗字帯刀許して武士の何分の一かの俸禄で雇いあげていたのではないのか。
軍役に送れば、武士か農民かなんて問われる心配はまずないからな。
544 :
531:2007/08/17(金) 09:22:28
そこんちは両番所付きの長屋門で
家の周囲を幅2〜5mほどの堀(水堀、空堀)で囲んであるから
ぱっと見は「昔の陣屋ってこんな感じなのかなあ」と思わないでもない。
建物はともかく、市史によると16世紀〜17世紀ころからの
ものらしいので、それなりの在地武将だったんかも。
戊辰戦争うんぬんは騎乗にて出陣と書いてあるだけで
人数その他は出てないけど、まあ馬の口取りと槍持ち
その他もう2〜3人は連れてったんじゃないかな。
545 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 11:09:29
>>544 苗字帯刀の百姓町人が藩の分限帳や侍帳に名を列ねることは無い。
546 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 11:56:33
547 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 12:51:22
藩によってはある。
548 :
日本@名無史さん:2007/08/17(金) 13:03:35
どこの藩?
549 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 17:13:13
藩の御家人帳や分限帳に名前が記載されたら百姓町人ではないな。
550 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 20:16:58
>>539 仕官している武士は全て公務員ダロ。
上級武士=高級将校・将校=20%
御家人・足軽などの下級武士=下士官・兵=80%
郷士=私兵
ダロ。
551 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 20:48:25
特攻で戦死した少佐以上の士官は、神雷部隊「桜花」隊の野中五郎少佐1名のみで、
かれは人間爆弾「桜花」を運ぶ一式陸上攻撃機に搭乗していた。
つまり、結果として,志願によるか、上級指揮官からの命令によるかは問わず,
航空特攻隊員は、若い最下級将校および下士官・兵からのみ編成されたのであり、未熟練な搭乗員であった。
事実上、少佐以上の士官で、特攻隊に自ら志願した将校は、日本陸海軍には誰一人としていない。
「俺も最後の一機で特攻する」といっていた高級将校,将軍も多数いたのであるが、それを実行したのは、宇垣纏と大西瀧治郎だけである。
彼ら高級将校は、特攻とは、その他に愛国の情を示す方法がない未熟練な末端の勇士が行うべきことと考えていた。
軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。
生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよりも生きることのほうがぬ難しい。
----このように合理的に考えて、司令官や高級将校の多くは、自ら特攻出撃するのを回避しつつ、
要領よく若い未熟練搭乗員を特攻に送り出した。
この無責任な特攻作戦にこそ、軍国主義教育を施し,促進してきたエリート軍人たちの「愛国心」の本性・本音が現れているのではないか。
552 :
日本@名無史さん:2007/08/18(土) 20:49:04
特攻隊員
殆どの特攻隊員は下士官・兵と学徒動員の士官である。
海軍を例にすると下士官・兵は予科練出身であり、部隊編成上、特攻の主軸となった。
そして学徒動員の士官とは飛行予備学生出身で、
海軍兵学校出身の士官の温存=海軍の組織の保身を目的としていた。
全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。
その内飛行予備学生が653名と全体の85%を占めていることがそれを証明している。
また「募集・召集令状の紙切れ代で幾らでも予備は国民から召集出来る」と言う軍上層部の驕りがあった。
確認されている軍人の特攻(航空特攻以外も含む)戦死者数は陸海軍合わせて6,000名を超えるとされる。
特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)の栄誉を受けることが原則であった。
この様な進級制度の為、上層部には「どうせ通常攻撃でも戦死するなら、
特攻で確実に戦果をあげさせ特進の栄誉を与える」の様な考えもあった。
自分の部隊を特攻隊にしようと源田が画策した際、
「だったらアンタをはじめとする兵学校出の者が先に行け!」と部下から叱責された。
特攻は源田が考え、大西瀧治郎が実行した(戦後の慰霊祭で源田は特攻隊員の遺族に詰め寄られた)。
しかし、大西は終戦時に割腹自殺を遂げ、源田も特攻に関して語らないまま死亡した。
源田は良くも悪くも海軍航空の中心人物であった。
553 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 10:27:09
>>551 >彼ら高級将校は、特攻とは、その他に愛国の情を示す方法がない未熟練な末端の勇士が行うべきことと考えていた。
>軍事技術/戦術・戦略に通じた一級の軍人は、体当たり自爆という1回の任務で命を軽軽しく無駄にすべきではない。
>生き続けて、経験をつみ、よりよい作戦を計画、準備、実行する義務がある。死ぬよりも生きることのほうがぬ難しい。
感情的には物凄く抵抗があるけど、実はそれって緊急時の対応としては大正解。
自分も危機管理関係の仕事をしてるけど、緊急対策本部なんていうのは安全な場所に置いてあって、危険に晒されることはまず無い。
第一線での勤務に当たる人間が命を危険に晒している間でもね。
対策本部までやられてしまったら、第一線は烏合の衆と化す。結果、防げる災害まで防げなくなる。
554 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 13:47:11
関係ないはなしですな
555 :
日本@名無史さん:2007/08/19(日) 14:56:45
苗字帯刀裏付き菱紋裃御免ってあるのですが裏付きってなんですか?
556 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 16:49:50
557 :
日本@名無史さん:2007/08/25(土) 22:18:53
庄屋クラスが許された麻裃は代官などの役人と会う時にそれを許されたって事だよね?
福島あたりの小手六十三騎とか呼ばれた土豪集団も騎馬身分の農民。
>>557 公儀の役人に会うときや案内する時に着用した
裃の着用はそのつど公儀からの達しがあったみたいだよ
560 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 18:06:08
認証官のモーニングみたいなもんか
561 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 22:06:31
江戸に庄屋が泊まる宿が会ったそうな調べてみると面白いよ
562 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 14:21:50
本当の士族の末裔は明治維新後、藩職を失業し禄(給料)が無く土地を切り売りして生計を立てていました。
商売を始めても士族の商法といわれ、偉そうにとか何が士族だふざけるなと言われ商人に奉公しても平民より少ない給料しか貰えなかったり便所掃除など雑用しか与えられなかったと聞きます。
逆差別の始まりです。上級武士中級武士下級武士に出世した者はまずいません。足軽のなかにわ出世した者が少しいるようです。
金のない武士達は屋台等でトウモロコシなどを売り、娘を売り売春などをして何とか生きてこられました。
悲惨極まりないです。
563 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 16:39:11
軍人・警察・教師は士族の家が多い
564 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 16:51:39
現在の自衛隊員、警察官、教師はむしろ、
権力に憧れる農民層が多い
565 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:36:08
自衛官は何故か九州、特に鹿児島出身者が多い。。。何故?
566 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:36:41
562教育テレビでやってた。
567 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 19:50:58
農民層は畑や田んぼ等の多額の収益があった為、子孫に高等教育(士官学校)を受けさせる事が出来た為士族没落後急激に出世していきました。
しかし実際に国のトップになったのは財閥等、商人が多いです。
金が全ての世の中ですから。
戦後マッカーサーの政策により財閥解体や地主の権力を衰えさせるため小作地を全部国が没収する事により、農民も没落していきました。
今、政治経済を支配しているのは権力に憧れる小作人や町人等です。
旧財閥の生き残りが頂点にいるのですが・・・
568 :
日本@名無史さん:2007/09/14(金) 04:45:05
>>565 川路大警視の影響か?文官では森有礼初代文部大臣、吉原重俊初代日銀総裁
569 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 12:43:24
陸軍のころから佐賀熊本大分鹿児島は多い
鹿児島にほぼ全員に防大受けさせる私立高校あるしな。たぶん試験が早いので模試代わりだと思うが
570 :
日本@名無史さん:2007/09/27(木) 14:19:30
多い割りに優秀ではないそうだが・・・いざという時の胆力があるからいいのかな?
571 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 08:25:47
農家の次三男自衛官ドル箱地帯
572 :
日本@名無史さん:2007/10/08(月) 02:19:00
当家の先祖伝来の刀返して!戦争で国に寄贈しました。
寄贈したんなら国のものだろ。あさましいまねするなよ。
むしろ戦後GHQがやった刀狩りのほうが悲惨。
575 :
日本@名無史さん:2007/10/09(火) 21:31:07
うちの幕末の先祖は、磐城平藩(安藤対馬守領分)で「給人格」になりました。
苗字、帯刀、扶持米を受け、重要な式日に登城し
酒・吸物などを頂いていました。
家伝では
初代が
>>513で内藤氏の移封に伴い村に残った元「在与力」
二代目が寛政二年に「許称氏」
三代目が文化三年「里正」、文化五年「許称氏、帯刀」
文化八年「徒士格」、二人扶持、章服を賜る。
文化九年、その「命息(子息)、支家(分家)」に「称氏帯刀」
ただ、あくまでも本業は百姓としての農業や、酒造業等でした。
この先祖(四代目)の場合、天明4年に名主になって以来、
割頭・郷目付から 苗字、帯刀、裃を許され、
徒士格となり、勘定人を経て天保8年にようやく給人格となりました。
扶持は都合八人扶持、(内、永代二人扶持)でした。
この間、度々藩に献金をしたようです。
576 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 19:06:58
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
577 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 10:07:28
>1-576正式の場での苗字帯刀には許可がいるってので一致してるが・・・
正式でない場(?)での
>>1の役についてるものは苗字帯刀黙認なの?
どうも名主は本来苗字帯刀許可は少ないはずだが(幕末以外)資料等では
苗字帯刀してるのが多い気が(役人の出向かい等)どうなの?
帯刀と苗字帯刀をごっちゃにしてるのか
579 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 13:43:42
580 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 21:03:37
>>575です。
肝心なところで間違いがありました。
初代は、元「在与力」ではなく、元「在与力」の次男でした
普通の小前百姓でした。
大変失礼致しました。
なお、各代の生没年は
初代、元禄13〜天明74,20
二代、寛保2〜文化11,5,7
三代、宝暦13〜文化11,8,4
四代、天明4,8,11〜慶応4,2,24
(平藩の儒学者、神林複所撰文の「肖像記」(慶応4〜明治2)より)です。
581 :
日本@名無史さん:2007/11/02(金) 20:44:46
苗字帯刀許可の記録って藩なり代官所なりに残ってるの?調べたいのだが・
自分の家にあるんじゃね
名主の脇差帯刀はその都度公儀からお達しがある事が多かったみたいだね
584 :
日本@名無史さん:2007/11/06(火) 14:06:18
苗字帯刀の百姓なんてゴロゴロいるしな
誰もそんな話しはしてないが
586 :
日本@名無史さん:2007/11/07(水) 22:32:20
>>581 幕府や藩の記録にあるよ
旗本知行地の場合も地頭の家の記録にあるんじゃないか
587 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 03:00:41
僕のうちは昔から苗字があったよ。
集落はみんな同じ苗字だからうちの真似したんだろうな。
ほとんどの百姓に昔から苗字があったから
多分みんな親戚だよ
マキとか地類っていわれるやつだ
589 :
日本@名無史さん:2007/11/10(土) 12:16:27
当家には慶長年間に作成された家系図があって
そこには、苗字(○○家系図)と書かれている
しかし、江戸時代は農家だったので家には系図以外何も残っていなくて
自分の推測では当時の職業系図屋に作ってもらったんじゃないかと思う。
ちなみに鎌足が始祖の秀郷流です。
>>589 自分の家が苗字帯刀であったかどうかは江戸期の公文書を見るといいよ
苗字持ちは苗字つきで、公称できない人は名前だけ書いてあるからすぐわかる
自分の家の過去帳とかを見て照らし合わせるといい。
苗字帯刀の家ならその町の公文書には大抵何度も出てくるよ
591 :
日本@名無史さん:2007/11/11(日) 12:00:36
592 :
日本@名無史さん:2007/11/14(水) 09:58:13
天皇家に名字がないのは付けるのを忘れたからだよ
593 :
日本@名無史さん:2007/11/18(日) 02:16:06
苗字帯刀を許されたら刀を差して出歩いたりするの?
594 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 04:53:17
三人までは斬ってもいいんだお
595 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 08:47:55
理由もなしに人を斬ったら
いかに武士でもただの辻斬り
家康の実子ですら改易になった
下っ端の武士なら切腹だろう
マジレスすんなよ
597 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 20:57:11
体育館の裏に呼び出してこっそり斬ればわかんないよ
598 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 21:12:41
そして597が、逆に斬り殺されるんだろ?
商人や百姓が帯刀を許されたからって武士になったわけじゃないんだから人なんか斬らないですよ
600 :
日本@名無史さん:2007/11/20(火) 21:42:55
切腹なら未だマシだね
武士って人斬ってたってことは人殺しの子孫ってことだな
大丈夫。祖先が単なる土民でも、村の掟を破った者をリンチで殺した奴らの子孫だから。
603 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 21:57:56
604 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:05:48
やっぱり 百姓(庄屋、造酒屋も含む)が苗字帯刀を許されるのは 献金や新田開発の褒章見たいですね それでも許された時、一族で大喜びしたと言い伝えが 我が家には伝わっています。
605 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:06:22
やっぱり 百姓(庄屋、造酒屋も含む)が苗字帯刀を許されるのは 献金や新田開発の褒章見たいですね それでも許された時、一族で大喜びしたと言い伝えが 我が家には伝わっています。
606 :
日本@名無史さん:2007/11/23(金) 22:07:14
うちは別に献金や開発したわけじゃないけどなあ
608 :
日本@名無史さん:2007/11/24(土) 06:00:24
庄屋、名主の出自は武家が帰農したケースが多いから、苗字帯刀、及び先祖の着用した甲冑も保存してたでしょうね。
厳密に言えば帰農ではない。
江戸時代の庄屋名主など有力農民は戦国時代には武装し、領主に軍役を科せられた地侍と呼ばれる階層だった。
地侍は厳密には武士ではない。もともと農民だっただけ。
たしかに帰農とはおかしい。
江戸期の庄屋や名主の多くが戦国期の加地子名主的地侍、小代官クラスの系譜で、
江戸期になって大名の軍団編成から外されただけで、村内の親方という事ではずっと同じ。
領主が転封したり改易されても所詮は仕官の声もかからないし武辺をあらわすよりもその土地を離れては食えない事情の階層。
また主家滅亡などでの浪人を系譜に持つ庄屋や名主の場合は、その多くが新たに新田開発している
612 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 01:35:21
ただし江戸初期までに改易徐封された大名領の新任領主が、
残存勢力に対して懐柔策の一環で比較的影響力の強い土豪を大庄屋などに任じる場合もあるが、大庄屋を置く大名領はそれほど多くはない。
613 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 05:05:31
元与党や野党の元国会議員が選挙に破れて、地方議員になったり、
議員時代のコネを生かして有力者に納まるみたいな感じ?
614 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 07:42:35
>>609江戸期の武士のほとんどが地侍を出自としてるが・・・
これも怪しい気がするけどね。だいたいは農家の次男三男等食いぱぐれ組みだろう
地侍は確かに農民ではあるが、現在の感覚で言う農家とは全く違う。
広い農地を所有し、隷属的小作農を多数抱えて耕作させる大農園主。自ら畑仕事をすることは希。だいたいが自分が所有する土地の名前を苗字とする。
領主からその土地所有権を認められる代わりに、軍役についた。
自らは騎乗し、隷下の農民を従者として出陣。
兵農分離で武士身分となるには、自らの所有地を放棄し、城下に集住する必要があった。もちろん大名側も全ての地侍に扶持米を与えて養うほどの余裕はない。
そのため多くの地侍は、農民身分として生きていく道を選ぶ。
一部、次男三男系などの庶流が大名家に仕えることもあった。彼らは武士身分を得て下級武士となる。
616 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:01:06
おおまかなイメージとしては、
せっかく在地土豪として土着しても、
寛永、元禄検地の段階では、それまで「○○分」だった者が、
本百姓として記載され、それまでの土豪的経営が解体、
小農自立を建前とした村請制の下、しだいに影響力の低下を招き、
新たに分家した者の中には農間余業などにより新たに台頭する者も現れ、
さらに、村方騒動などを通して、新たに名主になる家が登場するなど
近世初期の名主家が、そのまま世襲し続けるのはかなり困難な気がします。
617 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 17:19:30
>>616 軍役を勤める地侍には歩行、徒士衆もけっこういるわけだが
618 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 21:49:34
>>617不勉強ですみません616です。
その辺りの江戸時代を通しての動向は、
どのようだったのですか?
とりあえず、村方でも「家」を維持し続けるのがなかなか難しい
ということで、書いたのですが…
近世中後期の例ですが、うちにある元治元年に先祖が書写した
宝暦七年の「名寄帳村役人並小前覚」によれば、
(元治元年当時の家号が脇に朱書きされています。)
宝暦七年では家数53軒であったものの内、108年の間に
28軒が退転潰れ、
25軒が相続、
6軒が新屋分家となり、
元治元年では家数31軒となっています。
宝暦年間の村役人5軒のうち、3軒が退転、
相続は2軒でした。(宝暦時点で名主だった家は続いていますが、
幕末では名主役では無いようです。)
ご参考までに。
619 :
日本@名無史さん:2007/11/25(日) 22:31:36
質問です。
ウチは江戸時代は農民だったんですが
遺品として系図、ヤリ、鉄砲が残ってるんですが
江戸以前は武士だったんでしょうか?
槍と鉄砲か。最前線で戦ったわけだな。かなり下っぱ。たぶん半農。
622 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 12:49:42
>>620 鉄砲や槍の形状や年代でかなりわかるよ。たぶん農家か猟師かもね。
系図があるならわかるんじゃないの?
623 :
日本@名無史さん:2007/11/26(月) 13:01:35
>>620場所にも寄るけど落ち武者狩りで盗んできたとか・・・
ちなみに豊臣期の五大老の領地なら刀狩があまり行われていないらしい
落武者狩りで拾った槍なら売ってるんじゃないの?
刀狩りなんてどこも徹底してないし。
甲冑や刀槍があるだけじゃ判断つかないなあ。
625 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 00:18:28
刀槍は大部分は鍬鋤に変わったそうだ
槍も鉄砲も博物館にでも寄付ちらつかせて見せりゃ
一発でいい物かどこにでも転がってるものか判別してくれるよ
刀があるからって苗字帯刀だなんで思わない方がいいよ。
刀なんて普通の農家にもあるからね
628 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 20:47:37
荻生徂徠の政談によれば、当時の徂徠の理想としては
武家知行所ニ居住スル時ハ…中略
大小・衣服ヲ免ス時ハ、分限アル百姓皆家来トナル。
人返シヲスル時ハ、奉公人ヘスム事モナラヌ故ニ、皆地頭ノ家来トナリ、譜代トナル。
629 :
日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:53:28
徂徠学派アゲ
630 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 15:16:31
門が許されると苗字帯刀ってのがよく聞かれるが。
苗字帯刀を許されずに門を立てることは出来ないの?
631 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 17:35:53
名字帯刀が許されてても門を許されないこともある。
そのへんはいろいろじゃね?
632 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 18:41:59
しかし、偶に江戸時代の農家の長屋門があるが、あれはどうやったら許されるものか???
633 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:24:47
お代官様に山吹色の折詰を進呈する。
634 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:51:48
関東近郊の農家とかに正式な長屋門ではない様式の長屋門モドキの門をよく見るね
635 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 19:58:22
長屋門は幕府直轄領より武家知行所に多いな
冠木や薬医門はどうなの?
636 :
日本@名無史さん:2007/12/02(日) 20:36:52
>>634たしか、「通り馬屋」とか言うのがあって、役人から
見咎められたとき、これは「門」ではなく、「厩です」
と言い訳が出来るようにしたとか。
せこいなw
そこまでして見栄を張りたい門かね
638 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 03:57:09
門は許されるが苗字帯刀は許されないパターンが多いの?
639 :
日本@名無史さん:2007/12/03(月) 21:00:49
たしかに寺社や武家以外の長屋門は関東の旗本領に多いな。
西日本は関東に比べると少ないよね。
殆どが明治以降に建てられたんじゃない?
明治以降に成り上がった家や金はあっても江戸時代は建てることができなかった家が憧れだった長屋門をこぞって建てたのが多いと思うよ。
641 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 00:59:44
見分け方としては出格子の有無ですな。武家屋敷にしか基本的に認められていない
例外はあるけど。。。農家で出格子長屋門は明治以降と考えていいと思う。
642 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 08:35:43
近畿で長屋門は、寂れた町でも農村部でも結構見かける。関東の状況が分からないために数の比較は出来ないが。
先日見かけた長屋門はいい雰囲気だった。山裾の高低差には石垣を組み、曲がった路地に合わせるように設計されて
あり、内側にはなかなかいい雰囲気の小庭園があった。後で調べたら、江戸期に地元では有名だった風流人の
郷士の屋敷だった。
郷士は農村に居住して庄屋を務めたり代官を務めたりしたわけだが、苗字帯刀を許されて代官を務めたりすれば、
出格子は許されたんだろうか。
普通の農家の長屋門には武者窓ないね。
領主に給人格を与えられていた名主屋敷の長屋門に出格子がついてるは見たことある。
644 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 17:08:04
>>642郷士で苗字帯刀を許されていないことってあるの?
郷士ってなんだろうね?
思うに土佐藩の郷士のイメージがあまりに一般に浸透しすぎて、苗字帯刀=郷士と勘違いしてる人が多いように思われ
646 :
642:2007/12/04(火) 17:48:31
あまり意識せずに郷士という単語を使ったけど、もしかしたら「地侍の末裔」と表現すべきだったかも。
それと、気になるのは、明治期以降に城や陣屋の長屋門が寺や民家に移築されているケースは少なくない。
武家屋敷からの移築を含めたら、かなりの数になると思うが、元から建っていたかは判別困難じゃないだろうか。
647 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 18:48:42
いや、うちなんかがそうだけど、大名から旗本に落ちたうえ、庶流だったから、
だれそれの子孫らしい、という話は伝わってるものの、詳しいことがわからなかった。
武鑑がきっかけで一族に大名だった人がいたことがわかって、そこから寛政譜
を経ていろんな情報につながったよ。
それがなぜ郷士www
堀と土塁に囲まれ堂々たる長屋門がある豪農のお屋敷はまさに土豪って感じだよな
当世、長屋門つきの豪邸に住み、
苗字帯刀を許されたと伝わる地主のご先祖の豪農村役人も
往時の公文書には苗字がなく名前しか書いて無い場合が多いんだよなw
651 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 01:25:38
天領だと苗字帯刀許されてなくても公文書に苗字見えるよ。江戸後期
江戸後期はもう何でもありだからなあ
653 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 14:13:48
江戸初期で苗字帯刀はほとんどないでしょ。新田開発等の褒美だからせめて
元禄以降ではないか?天領じゃ新田開発しても屋敷地の年貢免除ぐらいで
苗字帯刀は無いと思うけど
褒美だけじゃないってことも知ってください
豪農と郷士はどう違うんですか?
656 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 23:50:59
門の大きさだけでは家の格式は計れない。成金のほうが土塀をめぐらせ巨大な門を
作りたがるもんで。山吹色の菓子の渡し方も心得たもの。。。
本当の名家は細々と目立たずにあるもの。。。襲われる恐れが無ければ
大層な塀はいらん
657 :
日本@名無史さん:2007/12/07(金) 23:53:55
地侍が正式に苗字帯刀を禁止されたのっていつ頃?
前、江戸後期頃の苗字帯刀禁止のお触書が出てたが・・・
江戸後期から近代にかけて成り上がった家も多い
660 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 12:13:04
明治の秩父事件だと高利貸しは襲ったらしいが富農は手を付けてないらしいが・・・
地域の評判等あるんじゃね?
昔読んだなんかの本に田代栄助の家も苗字帯刀だったって書いてあったな
662 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:54:28
うちのご先祖は天正年間から記録がある。
信州松代藩領内だがね、ちなみに庄屋さんの分家。
なんでも大正期に、食いつぶして没落したらしい。
それで東京に出てきたんだと。
誰もお前の家のことなんて聞いてないが
664 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 22:48:26
田舎では、どういう理由であろうと部落の有力者が家を引き払って都市部に移った場合、
土地の人間は「夜逃げ同然に出て行った」と陰口を叩くらしい。よほど後ろめたいことが
ない限りは土地を離れることはありえないというのが彼らの価値観らしいが。
町に出て出世して、故郷に錦を飾るなら成功者、帰らずに都市に住み着いてしまえば
裏切り者というなんとも複雑な心理が見え隠れする。フィールドワークをしていると。
名字帯刀とは関係ない話をされても
666 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 23:13:04
じゃあ関係ある話。
寺などの墓碑からその部落の有力者だった家を判断する場合、江戸期死没者の墓碑に俗名で苗字が
ある場合は苗字が許されていたと判断してよいものだろうか。
墓碑を数多く見ていると、江戸期(慶應などの最末期を除く)で戒名が○○院○○○○居士というように
院号がついていれば苗字ありという印象を強く持つが、実際のところはどうか、知ってる人はいる?
667 :
日本@名無史さん:2007/12/09(日) 23:18:08
>>666 お前の家が名字帯刀だったかどうか調べたいのなら
公文書に先祖の名前が名字と氏入りで書いてりゃそうだよ
名前しかなかったら違うってことだ
いずれにしてもスレチだな。先祖探しのスレでも池
>>666 院号は寺社への献金や貢献の大きさなどでもらえたから、苗字帯刀じゃない豪農豪商などでも付けてもらえた
それから、苗字持ちと苗字帯刀は違う
なんか根本的に勘違いしてそうだから一応
669 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 00:40:31
江戸期で苗字無い墓石ってあるの?
670 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 01:01:44
いい加減スレチって事に気づけ
671 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 06:41:52
>>667 漏れ自身の家のことであれば、過去帳その他の記載によって確認済みだから今回の話題とは関係ない。
>>668 格式のうるさい江戸時代で、単なる寺院への貢献では支配者への配慮を失して大変なことになりかねないん
じゃないか? 色々見て回った限りでは、大名から大旗本までは院殿大居士、中小旗本は院殿居士、旗本の
代官クラスの武士や苗字帯刀が許された豪農・商人なら院居士の戒名になっているようだ。畿内近国のケース。
院号は明治期以降に後付けで江戸期以前の先祖に付けてゆくケースもあるようだ。しかし、墓碑に院号を
彫り加えるわけにはいかないからね。
当時のある種の公文書に関する背景情報を調べて回ってるんだけど、それらの公文書に苗字ありで記載
されてある家の旦那寺の墓を見て回ると、豪農・豪商クラス以下だと苗字がある家の代々の当主夫婦くらいしか
院号が付いていない。
明治期以降は猫も杓子も院号が付いてるけど。
>>669 江戸期の墓石で誰も彼も苗字が付いてるって、どこの地域? 当時の歴史的背景はどんな感じ?
>>670 本当にスレチか?
672 :
日本@名無史さん:2007/12/10(月) 14:33:39
>>671信州ですけど。苗字の無い墓は見たことが無い・・・あるとしたら黙秘ぐらいのやばい墓ぐらい
>>671 江戸時代とひとことで言っても藩や年代によって緩さが全然違う
江戸初期・中期は割と厳しいけど後期になると緩々でしたい放題
天領以外は緩いとこが多い
江戸初期だと院号より道号を見る
>>666の質問の苗字ありってのが何を指してるのか知らんが、苗字持ちと名字帯刀は違うぞ
身分と戒名が云々ってことなら質問スレで聞くか別にスレ立ててくれ
スレ違いだよ
ああ、苗字帯刀と隠し苗字持ちを明確に区別しないで書いてたかな。失礼。
畿内近国は幕府領や旗本領ですらまともに支配者側の目が行き届いていないのは明らかなのに、寛政〜天保
あたりの墓石でも、公文書における苗字持ちと戒名の院号の有無が非常に明確な形で一致しているという印象
なんだが。畿内近国だから、領地は極端にモザイク状だしね。調査自体は、旗本領などを中心にある種の公文書
関係の村の墓地ばかり見ているから、偏りがある可能性はあるけど。
知りたかったことの一つは「江戸期の墓石で院号がついている場合、苗字帯刀以上の身分と判断してよいか」
だったんだけど、「藩や年代によって緩さが全然違う」わけだね。出来れば、戒名に関して緩々の地域を具体的に
聞きたかったけど、まあ自力で当たってみます。
外様は大抵緩い
院号つきだからといって苗字帯刀以上なんてことはない
>>674は苗字帯刀ってのが何なのか、宗派戒名の歴史と合わせて勉強しなおした方がいい
隠し苗字持ち?何言ってんだ
俺の言ってるのは名字帯刀と苗字持ちは違うってことで
隠し苗字のことは言ってない
やっぱ根本的にわかってなかったんだな
677 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 15:33:35
678 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 19:28:48
少し古い家なら刀持ってるよ昔はねえ
うちの刀は爺さんが軍刀代わりに戦地に持っていって
戦争終了の時武装解除で没収された
刀なんて誰でも持てるよ
長さに制限があったけどね
680 :
日本@名無史さん:2007/12/12(水) 03:58:44
裃も当家にはあった。
裃は普通の家にはないような気がする
>>680のご先祖様は城に出入りする身分だったのかな
うちのかーちゃんのいなか(現在では京都市内)では少なくとも30年前までは
お葬式に喪主が裃を着ける習慣があった(その習慣は今ではなくなっている)。
その家は普通の農家。
ということで普通の家に裃があってもおかしくはないと思う。
庶民も冠婚葬祭のときに着用してたようだね
>藩によっては着用の可否によって村役人の格として使われることもあった。
とあるから、藩にもよるのかな
684 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 01:37:15
ちなみに島津藩です。
どちらさまでしょう
お前のおっかさんだよ
687 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:01:10
>>649うちの地方は古い写真見るとみな家々が掘りに囲まれてた。湧き水の多い地方だかららしい
今はコンクリートの蓋をして道路になってる。
どういう工事だったのか?蓋をしてるだけなら石垣等残ってるのだが
689 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 08:31:46
オレんちは堀(空堀)と土塁とで囲まれてたけどなあ。
一番外側の堀は川から水を引き込んで水堀風になってる。
戦後の農地解放や宅地化で、もう堀と土塁は15mくらいしか残ってないが・・
690 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 09:22:43
堀と土塁に囲まれた豪農屋敷ウラヤマシスギ
確かに、人さえ集めれば籠城戦か可能だからな。ちゃんと矢竹は植えてあるんだろうな。
692 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 02:16:52
自然の要塞のほうが多くない?
山岳ゲリラ戦などで武士の名が売れるものか。
694 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 13:18:14
時代劇だと次郎長とかもけっこう長い刀を差してるけどあれは不法行為?
695 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 12:33:26
時代劇は全てデフォルト。
696 :
日本@名無史さん:2007/12/19(水) 23:09:16
黙認ってのもあったんじゃないの?
国定一家の残党が2尺3寸の兼定を幕府に押収されてる
無宿人の長脇差しは度々禁令が出ててたみたいだ
698 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 05:26:38
禁令に従ったらアウトローじゃねえよw
所詮はヤクザ者だからな
土方歳三義兄の幕府直轄領日野宿名主佐藤彦五郎の息子も刀を押収されたことがあったはず
気の毒に思った土方が刀を贈ったって
素朴な疑問だが
武士の時代、刀はどこで売っているんだろう?
贈答用などの刀はやっぱり、藩の刀工→その藩の担当者→相手なの?
702 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 21:27:12
黒澤映画で出てくるような浪人たち、彼らも苗字は持っているわけですがね、
また、改易大名の家臣も、苗字がある。
でも、これらは、幕府からみると、私称になっちゃうのかな。
いわゆる普通の百姓さんとおんなじだね。
幕末の志士は百姓出身もいるけどみんな苗字あるね。近藤勇、清川八郎、など。
703 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 22:05:39
>>702 清川は斉藤じゃないか?
清川は完全な私称
しかし刀屋なんて滅多に時代劇でも見ないし、聞いたことも無い。
鍛冶屋から刀商人に納めていたんだろうか?
刀屋○○衛門なんて屋号聞いたことが無い。
706 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:51:49
>>705 >刀屋なんて滅多に時代劇でも見ないし、聞いたことも無い
そりゃ変だ。
時代劇でも鬼平なんかじゃけっこう刀屋が出てくるぞ。
刀を質に金借りたりしてな。
「うちは質屋じゃありませんが長谷川さまのおんためなら・・」みたいな行がある。
勉強不足でスマソ
では当時の刀屋の身分は何ぞや?
刀売っても苗字帯刀では無さそうだし・・
708 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 00:02:56
>>707 刀の購入や所持と帯刀は別物
伊豆の江川代官が新任地の内情を偵察するために刀屋に扮したくらいだからよくある職業だったのだろう。
庶民による刀の購入はわりと自由だったし。
>幕末の志士は百姓出身もいるけどみんな苗字あるね。近藤勇、清川八郎、など。
近藤は理心流の道場主の養子になってるからその苗字。
清川八郎は本名ではない、本来は斉藤で庄屋の出身。
あと百姓でも隠し姓とでもいうものをもっている家は多かった。
明治の創姓ではそういうものが出てきた。
>では当時の刀屋の身分は何ぞや?
士農工商の商。
刀鍛冶の場合、工人だが〜守とか大そうな官名がついているのもいる。
刀鍛冶や神主の〜守や〜掾などは一応正式な受領な。
清川は終生公の苗字はなかったけど
近藤勇の場合は幕府の公文書に苗字が記載された(浪士組参加)時点から苗字の名乗りが公式に許されそのまま幕臣になった。
711 :
日本@名無史さん:2007/12/23(日) 15:05:17
大石良雄(赤穂浪士)も、赤穂藩取り潰し時点で、その苗字は私称扱いなのか。
由比正雪の由比ももちろん私称ということになるのだろうし。
緒方洪庵の緒方も、彼が故郷から出た時点(かれの生家は武士)で、苗字として私称つことか。
>>710 >正式な受領
正式っちゃあ正式だけど、受領名そのものが非公式っちゃあ非公式だよな。
江戸時代には形骸化してるからね
うちにある系図なんだけど、○○右衛門××と書かれている。
当時農民だったので苗字は名乗れなかったので、例えば、親も祖父も○○右衛門
だったらしく、それとは別に名前を持っていたということ?
姓は藤原氏、名は▲▲ 通称名 名前なので
藤原▲▲○○右衛門××という感じでOK?
江戸時代農民は通称名の後の名前を各々持っていたんでしょうか?
715 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 21:53:41
うちの幕末の先祖の場合、諱を最初「維徳」だったのが
後に「福房」と改めています。
通称も初名「○助」から「○兵衛」さらに「○左衛門」と改称していました。
なので、近年解体した天保年間建造の蔵の柱には
「××(苗字)○左衛門 藤原維徳、後改福房」
とご大層な署名がしてありましたw。
>>714 苗字名乗れなかったのに姓持ち?
知ってるとこの姓持ちはみんな公的に名乗れる苗字持ちだけどなあ
その系図は買い取ったものか偽造の可能性もあるかも
系図の名前と過去帳の名前はあってるの?
>>716 まだ過去帳の調査は行ってません(お寺に聞くのがちょっと・・)
系図によくあるパターンで、鎌足から始まって幕末の○○右衛門
××で終わっています。その名前の横には官名・官職が付いている人も。
自分では、当時系図屋に作ってもらったと考えています。
でもそのようなことをしてまで系図を作るという意味においては
例えば、仕官とか具体的な動機があってのことではないかと思うのですが
単にステータス目的で作ったとは思えません。
その当時(慶長15年)の農民?で所持する意味は?
偽造かどうかは鑑定してみたいです。
718 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 03:28:17
慶長なら職探しじゃね?
>>717 先祖探しのスレが別にあるので、まずそちらのテンプレで調査してください
除籍謄本を取って過去帳を見て本家で聞くのが一番確かです
720 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 06:15:56
先祖に播州織の創始者、飛田安兵衛て人がいるんだが。大工て名字あるの?
721 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 17:02:58
>>720 宮大工ならあるんじゃないの?
士分格の場合士族編入されたのかな?
大工っても、城や大寺など巨大建築の設計施工までを仕切るわけだからな。
これほどの存在は西洋ではマスターだろう。
明治に工部大学校(東大工学部)が出来たとき、「大工の学問なり」とかいわれたらしいけど。
723 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 19:16:40
大工頭の中井家も知らないの?
それ京都大工頭だな
なにかの本で刀を指した幕末の大工頭中井家当主の写真を見たことあるよ
つーか、大工頭は職人の大工じゃないだろw
もともと士分で行政官のひとつだろ。
726 :
720:2008/01/02(水) 23:03:52
安兵衛は宮大工でした。京都大工頭の下で働きながら織物の技術を身に付けたらしいです。
現代での大工というよりも建築士といった感じなんですね。
727 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 22:58:25
親戚の家に残っている江戸時代の札には、自称だろうけど棟梁の名字と実名まで記されていたよ。
728 :
日本@名無史さん:2008/01/05(土) 23:29:39
建築家ってのは弁護士と同じで明治に西洋から導入された概念・職業だよ。
日本の最初の建築家は士族出身者。
>>728 >建築家ってのは弁護士と同じで明治に西洋から導入された概念・職業
それでも大工の棟梁は庶民だけでなく、武士階級からも一目置かれる存在だったんだな。
そういう部分が中国や韓国あたりとはだいぶ違う。
大工と大工頭と設計士を同じにしてる人がいるようだが別モノだぞ
設計士じゃねえ。建築家だw
732 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 01:05:25
設計士ってw
建築士ならわかる
733 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 01:21:50
>>709 違う。
鍛冶屋が鍛冶師を複数雇って鍛冶屋を経営してる場合は商人だが、
個人でやってるなら職人。
ていうか、工商はこういうふうに分けるのが難しいから
江戸時代には一度も分けられたことなんてないんだけど。
明治に勝手に学者が士農工商○○ってつけたんだっけ
江戸期にそんなのはないらしい
735 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 02:11:23
エジプトでは建築家の肖像が残ってるほど尊敬されてたし。
インドでは建築家はバラモンの職業。聖職者が兼任?することが古今東西おおかったな。
日本でも建築家にあたるようなのは坊さんが最初だったし。小堀遠州は大名だが、建築家といっていいのか?
韓国はどうかしらんが、中国でもそれなりの地位をもっていたんじゃないだろうか。
寺院とか社つくるにはそれなりの宗教的な知識(中国なら風水も入るだろう)が必要だからな。
勿論、城など戦略的な施設をつくるには物理的な知識は勿論、軍事的な知識も必要だし。
日本の宮大工がどういう位置づけで落ち着くべきなのかは正直わからん。
宮大工は聖徳太子の時代に、お寺を建てる為に異国からたくさん連れてきたってNHKでやってたよ
737 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 02:41:41
>>734 士農工商の序列なんて誰も書いてないけど?
>>733 おまえの頭のなかには、刀屋(刀剣商)と刀鍛冶の違いもないらしいなw
刀を作るのは工、刀を売るのは商。
米を作るのは農、米を売るのは商。
740 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 14:44:09
刀鍛冶はどうやって生計を立てるの?
刀鍛冶屋に刀を売るの?
741 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 15:28:19
刀鍛冶屋(工)→刀屋(商)→消費者
742 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 16:38:16
名のある鍛冶なら直接注文打ち
743 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 17:40:09
うどん屋とか蕎麦屋とか茶屋も職人だけど、直接注文で出すわけよ
744 :
日本@名無史さん:2008/01/08(火) 22:13:14
鋳物師とかも藩へ仲間の届出するときは個人営業の職人だよ。
その中で苗字を許された人物の史料とかみると
「職人を何人も雇って商いし、藩への貢献(献上金)が大きい」
みたいなことが書いてある。
職人たちも全員が一生雇われたままではなくて
別のところで商いをはじめてたりする。
こういう場合は商工は不可分でしょう。
徒弟制度
脇差し一本で帯刀とは笑わせる
帯刀とは大小二本差しのことだよな
749 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 10:44:33
旗本知行所の勝手賄役などを請負った豪農が、
郷代官(地代官)として給人格で帯刀の身分になってる場合は陪臣ってことになるよね。
旗本の給人格とはどれほどの格式なのでしょうか?
750 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 17:32:55
うちの場合、なにがなんだかさっぱりわからない
本家、分家、全部が刀大小を持っていた(上野戦争時)
本家の一番古い墓(四角いやつに三角屋根がついた形)は、戒名と俗名のセットになっていて、苗字が付いている
ちなみに、年代は享保年間
墓の戒名は大禅定門〜信士まで(古くなればなるほどしょぼくなっていく)
(ただし、昭和以降のぶっ飛んだ戒名は除く)
で、東叡山寛永寺の寺領で、在郷
名主ではない
上野戦争に巻き込まれている
凄い人は、軍資金1000両拾ってきた
戦争後、没落しかかって、分家の土地を全部巻き上げた
751 :
日本@名無史さん:2008/01/22(火) 18:02:21
752 :
750:2008/01/22(火) 18:26:10
続き
戒名だけど、2文字のは全世代を通してなし
全部4文字以上
家康入府と一緒に土地を捨てて、今の所に移住したから、土着はその頃
菩提寺は真言宗(だから寺侍はありえない)
ただ、過去帳を見たことがないから解らないけど、土着期の戒名は相当ぶっとんだものらしいよ
神社仏閣いたとかで聞いたほうがいいんじゃないのか
>>749 あくまでも「格」だから職にあるうちは給人同等の家来だが代替わりでは世襲ではなく新規に召し出されたんだろうな
困窮した旗本の家政改革はこの手の在地富豪が担った
>>744 独礼は一人で殿様と謁見すること
それ以下は広間などで一同が一斉に殿様の立礼を受ける
これは覚え書かな?
綺麗な字で書かれててイイ!
正午に登城して午後5時には下ってるから
儀礼には半日かかったんだな〜
756 :
750:2008/01/22(火) 20:29:15
寺領で、苗字帯刀ってあった?
>>750 百姓だろうな。
でも大小を所有してるってことはある程度財力はあったと思う。
戒名は宗派によって様々だから一口では言えないけど
大禅定門や信士は百姓身分でも普通に付けられるレベルだしね。
758 :
750:2008/01/22(火) 20:41:46
>>757 ありがと
うちのばあちゃんが武家だっていってたのに、おっかしいなあと思ってたんだ
>>758 名主役じゃなかったって言ってたけどそこはよく調べた方が良い。
財政的には豊かだった見たいだし
戒名の感じから言っても村役人筋である可能性は充分有る。
俺の家も代々百姓の身分だ!
公家や武家、江戸の町民を食わせてきた先祖に胸をはろうぜ!
760 :
750:2008/01/22(火) 21:13:50
一応、調べてみたけど、
村の地方三役を誰がやっていたのかさっぱりわからない状況(名主4名と年寄1名がわかっているだけ)
(区の教育委員会が調べても)
ただ、確実なのは檀家総代を代々していたという事だけ
最近、お寺さんに顔を出していないから、今度のお彼岸にいってみるわ
761 :
750:2008/01/22(火) 22:01:45
あ、戒名の記述間違えていたわ
年代が古いのが大禅定門クラス、新しいのが信士クラスだった
ただ・・・、最近親父の墓にいっていないから、もしかしたら信士が居士かも
というのは、親父も含めて2代前までが院号居士で、その前が何代か居士が続いていたハズなんだ
いきなりジャンプアップしすぎてる記憶はないから
ごめんね変な事ぐちぐち書いて
762 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 13:58:06
戒名とか先祖探しはスレ違うよ
763 :
750:2008/01/23(水) 14:15:47
解った。ありがと。
764 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 20:44:10
農兵だって苗字帯刀御免だよ
765 :
日本@名無史さん:2008/01/23(水) 22:05:52
俺んち代々百姓で裕福でもないけど刀は五六振りはあるし錆び身だけど槍もあるよ
767 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 02:20:49
その昔、名主等地侍についていったんじゃないのかな?
刀なんてどこにでもあるでしょ?
刀は庶民でも旅に出るときに帯刀してたから、どこの家にあっても不思議じゃない
槍はどうだろうな。400年前に帰農した時のとかだったら錆でボロボロで
見る影もないはずだけど
NHKの番組で上田の農家に伝来した槍が紹介されてた。
真田昌幸が徳川勢を迎え撃った時に籠城した百姓が使ったとのことで完全な錆身だった。
771 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 09:09:59
>>768どこにでもあるはず無いだろうが今と違って鉄は貴重です。鋤鍬に打ち直すのが常道
金にこまりゃ売りにも出すし金のある家じゃなきゃら持ってられないよ。今の油絵みたいなもんかな?
772 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 10:41:34
文政九(1826)年十一月、幕府代官伊奈半左衛門の支配所であった武蔵国粕壁宿で刀改めが行われ、
宿役人が刀剣類の種類や寸法などを届け出ている総計槍二〇筋・長刀六振・刀二四腰・
長脇差一七七腰である。一つの宿にこれだけの刀剣類があったことにも驚かされるが、
これらの刀剣類は没収されたわけではなく、帯びて外出しないこと、紛失したら届け出ることを
誓っただけであった。文政一二(1829)年には武蔵国古大滝村大達原組でも
「刀脇差御尋」が行われて、槍二本・刀二腰・長脇差二八腰が確認されているから、
決して粕壁宿の事例は孤立したものではない
773 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 11:27:33
我が家にも槍はあるがやはり穂先が錆びてんな。刀もサビサビだ。
それよりも驚いたのが、最近鎧櫃が見当たらねえと思ってたら、
具足のヒモがボロボロになってしまって始末に困り、
祖父が一升瓶2本で交換してしまったとのこと。
一升瓶4本付けますので、お心当たりの方、お返しください。
774 :
日本@名無史さん:2008/01/26(土) 12:50:17
鎧櫃から春画w
あまりにボロい鎧だと春画の方が高く売れるかもな
775 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 00:06:10
百姓や町人は鎧櫃に春画など入れないよ。
776 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 06:24:08
>>772宿場町はヤクザ本陣豪商刀売り屋etc一般農村とは違いそう。
777 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 08:47:52
>>776 大滝村は農村だろ。
春日部だって無宿人は当然数に含まれない対象外
778 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 09:40:52
うちの先祖は庄屋だったのだが蔵が4つあって
1食器布団 2本 3農作物 4武器蔵
箱に入った日本刀が数十振り槍甲冑、提灯、刺股等あったそうな。
庄屋が二軒ほどあれば50振りぐらいはいくんでない?
779 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 09:54:41
うちの村は三人も名主がいたみたいだけど、
そのうちの一軒の親戚の叔父さんが今は五振りしか残ってないこど昔は借金の質草にとった脇差がたくさんあったらしいて言ってた。
鎧や槍はないみたい。
苗字帯刀と刀や槍の所有は別の話だよ。
781 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:59:48
>>780 >苗字帯刀と刀や槍の所有は別の話だよ。
確かにその通り。
名字帯刀と刀槍所有の有無は別だが、
だからといって無関係ではない。
782 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 19:20:22
苗字帯刀を許された町人とか百姓は普段から袴をつけて二本差してたわけじゃないよな?
783 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 21:54:12
町人はしてないみたいね。百姓はしてると思う。
784 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 22:01:09
半農半士 庄屋という苗字の部落民
普段から帯刀してたのは大名の家来格や旗本の家来格の豪農くらいだろうな。
単に苗字帯刀ゆるされただけでは普段は帯刀しないようだ。
重いしね
787 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 00:20:21
小松帯刀スレッド
かと思いきやちがいましたスレチガイ
江戸初期の検地帳だと庄屋や名主とは別に牢人として扱われているのをよく見るが、
勘解とか図書だとか掃部だとかそんな名前で名請けしていてこれこそ帰農した元武士なのかなぁと思う。
789 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 07:01:18
だろうね。名主だってもうちょっとさかのぼればおんなじ様なもんだろう
>>788 >勘解とか図書だとか掃部だとかそんな名前で名請けしていて
そういやうちのご先祖も右馬亮や掃部とか名乗ってたな。
791 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 09:01:02
玄蕃とか多くね?
右近とか修理も多いが不思議と美濃とか能登なんていう国名は見ないね
わりと軽い身分だったんだろうな
793 :
日本@名無史さん:2008/01/31(木) 18:03:52
慶長辺りの検地帳だと名請人の多くにも「〜衛門尉」とか付いてて、
なんか偉そうだな。
ついでに、うちの本家は「織部」から次の代には「折右衛門」になった。
ある時期から牢人の肩書きや苗字を記載されていたりしている者や勘解由とか掃部などの名前もなくなるんだよな
795 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 10:54:00
足軽も普段は帯刀してないって話もあるし・・・
普段、苗字帯刀を許されていない庄屋も藩主出迎えのときは帯刀するって話もあるし・・・
沸け分からん。
796 :
日本@名無史さん:2008/02/01(金) 11:54:25
基本的に帯刀って大小二本を差すことだから脇差しか許されてない場合は帯刀とは言えないんじゃないか?
797 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 12:19:24
武士が太刀を佩く形式から打刀の二本差しになったのはいつごろ?
798 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 14:50:58
子供たくさん作ったら苗字帯刀という藩があったそうだが・・・
子孫の方おる?
799 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 15:47:23
800 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:24:29
「苗字帯刀」や、「士分扱い」とか聞いたことありますが、
この二つは同じ意味でしょうか。微妙に違いますか。
藩、旗本領、大身藩士領(知行取)や天領、寺領で違うかも知れず、質問が乱暴かもしれませんが。
801 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:31:13
>1のコメントに「領主」とありますが、、、、、、、、、、、、、
@ふくすうの領主から、苗字帯刀とされること、考えられますか。
Aふくすうの領主から、士分とされることありますか。
たとえば、大商人が、御用金を複数の大名に献上し、
その結果として、複数の大名から苗字を認められるなどです。
802 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:40:09
803 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:42:16
苗字帯刀の人は、明治維新で士族になったでしょうか。
苗字帯刀の家でも、
A:代々苗字帯刀の家もあれば、
B:代が替わるたびに、改めて、(しばらくおいてから)苗字帯刀になるが、父の死後、
間がなく、俺はまだ苗字帯刀でない。
というのもあるのではと思います。
C:代が替わるたびに、しばらくおいてから苗字帯刀になる家で、俺も苗字帯刀になった。
もあると思います。
家としては、そういう位置ではなく、
父は功績があり、苗字帯刀であったが、祖父は苗字帯刀でない。でも、父はすでに死亡し自分は苗字帯刀でない。
父も祖父も曽祖父も、それぞれ功績があって苗字帯刀だ。でも父はすでに死亡し、自分は苗字帯刀でない。
それから、
自分は功績があり、苗字帯刀だ
自分も、父も苗字帯刀だ。
もあると思います。
これらの人は、明治の族の制定時に、平民になったんでしょうか。士族でしょうか。
804 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 22:59:08
>>803 それだけではABCどれも士族にはなりません。
Aの代々苗字帯刀という例は滅多に無いと思います。自分は知りません。
武士は一々帯刀を許されたりしませんので公儀や大名旗本から苗字帯刀をゆるされたという事は
正式な武士ではないということです。
805 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:00:53
806 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:11:48
>>805 大村益次郎がそれだったような気がする。
一時期、宇和島と長州藩の一代限りの士分格(士雇)だったはず。
苗字帯刀ってお金か密告かな
あんまり自慢にならんような・・・
事実を捏造してまで自慢したいの
さすが密告者の血筋だねw
日本史を勉強してから来て下さい
811 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 01:14:59
>>802 ありがとうございます。
「酒田の本間様」は、上杉氏から苗字帯刀か何かを許されたような気がします。
うろ覚えですみません。
他領の領民に苗字帯刀など他所の領主がするなんて、すこし不穏当な気がします。
が、当時はどうだったんでしょうね。
812 :
812:2008/02/08(金) 01:27:24
>武士は一々帯刀を許されたりしませんので
>公儀や大名旗本から苗字帯刀をゆるされたという事は
>正式な武士ではないということです
わかりやすい説明でありがたいです。
だとすると、@時代劇でよく見る浪人、また、A幕末ドラマでみる脱藩者は、帯刀していますが、
これは無許可ということになるでしょうか。B武士出身でないが、侍の格好をしているような清川八郎氏はどうでしょう。
C赤穂「浪士」などは、明らかに無許可の苗字帯刀でしょうか。
813 :
812:2008/02/08(金) 01:33:36
>公儀や大名旗本から苗字帯刀をゆるされたという事は
旗本は、領地農民に苗字帯刀を許可したりなどするということですが、
武士には、誰かに苗字帯刀を許可する権限があるような感覚でしょうか。
(A)旗本でなく、(B)御家人レベルや、(C)各藩の藩士レベルでも
誰かに苗字帯刀を許可することができるのでしょうか。
@「大旗本の家臣(たとえば、高家の家臣)」や、
A各藩の大身の又家来(加賀藩家老本多様のご家来)なども、
誰かに苗字帯刀を許可するでしょうか。
814 :
日本@名無史さん:2008/02/08(金) 01:40:06
陪臣や叉家来であっても領主であれば格を与えたりするよ。
だけども苗字帯刀の格式を与えるのと家来に取りたてるのとは違うからね
>>812,813
どれの引用かアンカーを付けてくれると、答えてる人以外の人にもわかりやすいんだが
816 :
744:2008/02/08(金) 22:08:21
>>755さま
レス大変遅くなり、失礼いたしました。
有難うございます。
定期的に登城するのは元日とこの11日の具足祝の二日のみのようです。
このほか、以下は別の年の記述ですが、
藩主の逝去につき、
「御本丸江罷出、大目付部屋御帳附御法号拝見、尤可致脱剣」
家督相続につき、
「御年寄中御列座にて漆原市郎右衛門殿被 仰渡」
同じく、
「為 御祝儀御酒被下置候間、明七日八ッ時麻上下着用
御本丸江可被罷出候」
などと、その都度触れが回され、臨時に登城していたようです。
817 :
:2008/02/10(日) 21:19:45
苗字帯刀となった場合ですが、
その領主の領地でのみ、帯刀できるということですか。
他人の領地へ行っても、帯刀できるんですか。
苗字帯刀となったら、
どういう場面で、苗字を名乗るんですか、
その領主と領地でのみ名乗ることがOKですか、
他の領地でもOKですか。
自分の領主に文書を提出する書面に、苗字を書いてもよいと思いますが、
別の領主などに文書を提出する場合は、苗字書いてはだめでしょうか、どうでしょう。
818 :
日本@名無史さん:2008/02/12(火) 11:23:46
>>817 苗字帯刀の格式だけを与えられても他領での帯刀はだめだし苗字も正式には名乗れない。
家臣の格式を与えられていれば可能。
819 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 20:31:33
今日は苗字の日。
820 :
:2008/02/13(水) 23:20:52
818 そうなんですね。
また質問で申し訳ないですが、
@神社や寺への寄進は、苗字は別にオーケーでしょうか。特に、苗字帯刀でなくても。
A手形(関所)ですが、これは、苗字帯刀でも、苗字はだめということでね。
(関所は、自分のすんでいるところではなく、幕府などに管理された場所ですから)
B過去帳(お寺)のところも、苗字は書いてあってもオーケーですか。
アンカーは>>を数字の前につける
答えてもらったらお礼を言う
最低限の礼儀な
822 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 11:21:52
>>820 苗字帯刀を与えた領主に対しての名乗りを許されただけであって主権の及ばない所ではだめなんじゃないの?
寺社では庶民が苗字を記してる例が多いようだけど黙認されてただけだろう。
手形は○○国○領何々村○○と名前だけだろうね。
823 :
:2008/02/14(木) 22:43:19
>>822さま どうもありがとうございました。
それぞれにご回答いただき、感謝してます。
820より
>>821さま ご指摘ありがとうございます。
820より
824 :
日本@名無史さん:2008/02/14(木) 23:28:32
苗字帯刀より裃着用の方が上。
単に士分じゃなく旗本以上の格だから
825 :
日本@名無史さん:2008/02/15(金) 17:11:31
ここ、名字帯刀のスレだから
826 :
日本@名無史さん:2008/02/18(月) 23:12:43
苗字帯刀ってなんかメリットあるのか?
現代で言うと駐車禁止指定区域内での駐車OKとか
進入禁止区域への車両乗り入れ許可とかそんな感じ。
もちろん、所轄警察署以外での効力はないのも同じ。
828 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 01:15:05
でも江戸にある村役人が泊まる宿には刀掛けがあったそうだが。
江戸以外から来るそうだが・・・
同藩外では意味をなさないのソースくれないか
830 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 01:49:53
法令てのと同じで暗黙の了解や慣例は現代からは分かりにくい
苗字帯刀事態も暗黙の了解や慣例も結構ありそうな気がするがな・・・
理由は
>>1のような触書が出されてることと苗字帯刀と伝承されている
家でも資料が無い場合があるけど、あながち尾ひれが付いてだけとは言えない気がする。
田舎の方だと嘘はすぐに分かるからね。そんな馬鹿らしい伝承がおおぴっらに残るとは
思えない。
戦国時代からの地侍ならいろいろ暗黙の了解はありそうだな
苗字帯刀御免って切り捨て御免と同じで
他所じゃ許されないんだよね
834 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 03:44:42
先祖の残した刀のツバに付いてる手裏剣のような小刀で鉛筆削ったよ。
小柄ですね、時代劇なんかでは手裏剣のような使われ方をしていますが
本来は武器では無く首札の穴あけとか楊枝を削ったりとか便利ツールなんで
鉛筆削りは正しい使用法といえるでしょう。
笄という同じ場所に収められるツールもありこっちは耳掻きとか髷を結って整えた
頭を乱さないよう掻いたりするのに使われました。
髷と言えば身分によって結ぶ紐が違うと聞いたんですが
百姓の苗字帯刀だと何で結んでたんだろう
なんか藁で結んでた身分もあるとか
837 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 08:31:54
百姓なら他の百姓と同じだろ
百姓でも水百姓・本百姓・庄屋などいろいろあるわけですが
840 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 19:24:11
苗字帯刀御免の百姓町人は日常的には士装しない。
武士の格を与えられた百姓町人は士装する。
>>840 苗字帯刀御免=武士じゃないからそうなんだろうな
大庄屋・本陣なんて完全に士装だろ?
844 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 20:51:08
百姓でも名主、庄屋は出自は元々武士が帰農したケースの家も多いよ。
845 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 21:01:24
>>843 本陣は特定大名家から地士格等が与えられてるから。でも普段から袴着けて刀差してたわけじゃなさそうだけど。
846 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 21:27:34
でも難しいのは本陣とかは大名から武士の格も与えられ禄も給せられてても武士身分ではなくて格もかなり限定的なんだよな。
本陣って儲かったのかな?
大名家なんて宿泊費付け払いだったろうし、踏み倒されたところも結構あったろうね
848 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 23:01:06
田地などを持っててそっちが収入源
849 :
日本@名無史さん:2008/02/21(木) 23:31:47
>>825 苗字帯刀なら裃着用許可、長屋門許可とか普通だから。
いかにも自称、苗字帯刀くせ〜って事。
超レアなのは人別帳を自前で作成許可だな。
850 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 00:15:46
許可じゃなくて麻裃御免だろ。でも苗字帯刀御免と裃御免は必ずしもセットじゃないよ。
裃着用の場合はどういった場面で許されているかが重要。
851 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 10:48:58
土浦藩土屋氏の和泉国の飛地には大庄屋の下に帯刀庄屋という村役人がいて、さらにその下に肝煎庄屋、平庄屋があった。
帯刀庄屋までが役所に出入りする際に武士に準ずる席を与えられたようだが、
その格式は家や個人に与えられたのではなく職に付随した格式だったようだ。
同地の陣屋役人から村方への農兵に関する通達に「苗字帯刀之者ニ同一刀之者」とあるので、
苗字帯刀を許された百姓の下に苗字御免で刀を一本だけ差すことを許された者もいたと思われる。
852 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 17:27:37
ややこしいな
853 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 17:28:19
なんだかややこしいな
そなたがわたしで
わたしがそなた
855 :
日本@名無史さん:2008/02/22(金) 22:11:09
うちの先祖が苗字帯刀だったとかの確証の無い話より
やはりどこの地域の誰がどういった経緯で苗字帯刀だったという具体例の方がいいな。
藩によって違うっぽいからね
857 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 00:02:33
幕府直轄領の場合は苗字帯刀御免は老中が決裁してるからその点きっちりしてるよ。
幕府直轄領と天領って同じだっけ、違ったっけ
859 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 01:39:30
幕府直轄領は幕府御料、俗に天領と云う
トンクス
861 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 03:00:13
僕の地域は苗字帯刀を許された十数人と統括する社家による自治区だったそうです。
うちのご先祖様は苗字帯刀を許された中の一人でした。身分はよくわかりません。
武装農民として社家を守っていたと考えればいいんですかね?
862 :
日本@名無史さん:2008/02/23(土) 19:27:22
スレ違いかと思いますが、苗字を「許された」と言うことは、当然こんな事例も…
(嘉永4年7月)
苗字御取上ヶ 若△利兵衛
利三郎
忠三郎
卯右衛門
伊兵衛
右五人、青竹戸〆被 仰付
但し、旧冬より当春、名主柳右衛門勘定間違有之趣申立、
大目付様江直訴など致候御咎之由
(なお、戸〆処分は30日目に解除されたようですが、
苗字の復活は、確認できませんでした。)
863 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 16:40:49
土方歳三の義兄として有名な甲州街道日野宿脇本陣、問屋兼名主の佐藤彦五郎は、
改革組合村寄せ場名主として武州一揆の鎮圧に功があり幕府から倅代迄苗字御免になったけど、
一揆鎮圧ってことは刀や鉄砲で武装した農兵を率いて一揆勢を多数殺害してるんだから
今更って感じだよな。しかも帯刀は御免になってないし。
864 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 19:33:05
>>863 佐藤彦五郎が農兵率いて一揆鎮圧したときって二本差しの士装だったのかな?
指揮したのは関東取締出役だよね。
866 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:06:01
武術の流祖や剣豪は帰農した上層農民出身者が結構多いけれど、道場を構える程にならば浪人扱いされて苗字帯刀できたのかな。
既出かもしれないけど、相撲取りは力士でいる間は浪人扱いされて、苗字帯刀を許されたそうだ。苗字といっても○○風などの四股名だけど。
行司の木村庄之助、式守伊之助も。
867 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:29:02
日野の佐藤彦五郎の下佐藤家はどちらかと言うと新興の名主
でも現役の名主が浪人扱いはされないだろうな
苗字ご免以前の公式文書では 日野宿名主 彦五郎 だし
868 :
日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:31:36
>>866 大名家お抱えの力士は浪人どころか一時的でも士籍を得ているらしい
869 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 00:12:31
土方歳三って苗字帯刀だったの?
870 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 01:33:07
具体的な家名は出せないけど、人別帳上は苗字なしの名主で、本業として各藩の武術指南役で知られている家があった。
大名の前でも演武もしている。武道辞典には身分は郷士と書いてある。
実力と上級武士の知遇があれば、浪人扱いされたのかも知れない。
武道史上でも凄惨な事件とし知られる、群馬県の「園原騒動」の主役は法神流二代の須田房之助という天才だが、
結果的になぶり殺しにされ、事件の調書では百姓房吉呼ばわり。
彼には馬庭念流の樋口氏も一目置いていた。
月山を所持していたことから考えて、士装していたと思われる。
武士側に認知されているかどうかが分かれ目か。
>>867 古武術の免許状の類は献金の過多による場合がある。
最高位の免許は後継者か名士にしか出していない流派もある。
>>869 多摩時代は違うでしょう?
871 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 02:38:47
つまり百姓だったってこどですね
872 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 03:12:11
星野房吉は百姓のせがれ
近藤勇は百姓のせがれ
幕末期の苗字帯刀事情をもっと知りたいよ。
875 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:43:42
千葉県の名主の日記を読んだことがあるけれど、幕末以降は偽浪人による金の無心が頻繁にあったらしい。
試衛館に入り浸ってからの土方は偽浪人の範疇に入るのかな。
原田左之助は一本差しの元中間だし、
井上源三郎は相続人ではないから、本来名字帯刀の権利は持っていない百姓。
清河八郎正明は25歳で文武の塾を開いて独立した時点から、公的に郷士格の大庄屋の倅から名字帯刀を許された存在になったのだろうか。
町人の無礼打ちとか武士の発想だよね。その町人が幕府の手先でも。
876 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 23:58:33
私塾を開いても苗字帯刀は許されないよ
でも人別長の職業欄にはなんたら師範と書けてちょっぴりステイタスUPできてうれしい
878 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 00:04:38
では清河はどういった位置付けになるのですか。
要人とも面会していますし。
879 :
日本@名無史さん:2008/02/29(金) 01:58:09
浪人、出羽庄内領清川村百姓倅
前科者
881 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 10:23:29
町名主、町年寄は皆名字帯刀許されてたのかな?
>>878-879 百姓っていったてただの百姓じゃないよ。
今でも清河八郎の実家が残ってるが、すさまじい大豪邸。
883 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 23:21:46
以前、旧清川村の記念館を訪ねてみたが、鉄道の普及で関所の役割がなくなり、
宿場町としての清川村は寂れて、斎藤家も消滅したと説明を受けたけど・・・
明治時代の豪邸の写真は残っていた。
管理人さんは清河八郎は武士ではないとハッキリ言っていた。
でも、本人は武士並の権利は持っていたようだし謎。
八郎の妹婿が斎藤家の跡をとって、その子孫筋に当たる娘さんが有名作家の柴田錬三郎の妻になったと聞いた。
884 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 01:31:05
清川八郎の主君はだれ?
清川×
清河○
886 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 06:04:34
そういや思い出したが幕末に庄屋の次男三男が郷士や浪人と称して士装して京や江戸に
集まってきたそうだが・・・何か事あれば武士としてって意識があるのではないのかな?
帰農した家にはそういう意識が強かっただろうね。
現代に生きる俺もそうだが。
888 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 07:07:05
889 :
日本@名無史さん:2008/03/02(日) 08:46:04
>>884 清河は武士じゃないから主君なんていないよ
891 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 12:34:17
酒井家の武士じゃない
892 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 13:51:30
>>886た
百姓の次男三男らが江戸での徒士奉公をやめて村に戻ってきても某々家浪人と称し
帯刀を続け徒党を組んだり治安を脅かすようになったのでたびたび禁令がでている。
893 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 14:07:31
苗字系の本読んでると庄屋は苗字持ってるって前提で書いてあるが・・・
公式ではなくという意味なのかな?
>>1の役柄によるものってあるけど、ここまで読んでると役柄じゃなくて
個別案件に思えるがどういうことだろうか?
894 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 14:58:12
上にも土浦藩の帯刀庄屋が出てたけど役職で百姓の苗字帯刀が許された藩はいろいろあるよ。
当たり前だが、苗字帯刀と言っても相当な地域差があると思う。
自分の地方は旗本領主体だが、地域有数の富豪が高額の献金で、
やっと一代限りの苗字帯刀を許される始末。
896 :
日本@名無史さん:2008/03/04(火) 16:50:35
旗本領でもいろいろあるのか
帰農だとか言って自分の先祖を武士に結びつけたがってるやつ痛いな
898 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 05:12:00
大百姓以上はなんかあるでしょ大抵は・・・僻地は除くが
むしろ僻地の方が旧家は多いか
900 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:13:23
江戸時代(前近代)・・・従属農民(農業従事者)
明治以降(近代)・・・産業労働者
戦後(現代)・・・リーマン(サラリーマン増税)
永遠に搾取される階層の『夢』が苗字帯刀と実質的に武士。
901 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 00:48:49
苗字帯刀は実質的に武士じゃない
帯刀っていう名前は昔は多かったの?苗字じゃなくて下の名前ね。
木曽義仲の父は帯刀先生義賢だが
904 :
:2008/03/07(金) 02:47:47
>>846 その本陣というのは、複数の殿様から士分にしてもらっている
てことですか。
禄は貰っていないんでしょうけど。
そもそも何を持って武士と言うのか
時代、藩によって違ってくるしな
906 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:20:33
>>904 扶持を給せられてたり修復費用を藩庫から出してもらったりもする。
しかし参勤途中の殿様が宿に来る時だけに限定された格式で平時は幕末や領主に年貢を収める百姓にすぎない。
907 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:22:43
×幕末
○幕府や領主に年貢を納める百姓にすぎない
908 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:29:19
>>905 それは地域差なくどこでもはっきりしてるよ。
領主と主従の関係を結び軍役を課せられた者が正規の武士
909 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 03:32:26
主家の名簿(みょうぶ)に名があれば武士
910 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 05:52:20
正規の武士はね・・・周辺論の郷士等は微妙だろ。藩によって武士であったり
百姓であったり。十津川郷士等
郷士?
土佐山内家の郷士は平時の役目もあり軍役も勤めるから武士。
在方で農耕に従事していても主従関係を結び軍役を勤めるなら武士だと言える。
しかし軍役を勤める八王子千人同心は公務中は武士だが平時の扱いは百姓。他藩でいう足軽の扱い。
どこの藩でも藩主と主従関係を有せず軍役の数にも入らない者はたとえ大層な格を与えられていても武士ではないね。
浪人は?
913 :
日本@名無史さん:2008/03/07(金) 16:02:32
>>911ずばり十津川郷士がそれでしょ。伝承では郷士だが幕府的には免租地
の百姓にしか過ぎないわけで・・・免租地であることが郷士としての由緒では
あるらしいけれども。
少し前の郷士は浪人や苗字帯刀の周辺論の総論だったわけで2ch的には
はっきりと区分けで出来るがいわゆる周辺論
面白い話を聞いてきた
江戸時代の万歳師(漫才師)は大紋の着用が許可されてたんだってさ
相撲取りも偉かったらしいね
士が付くのはそうなのかな
力士、棋士、聖闘士・・・
>>904 >複数の殿様から士分にしてもらっている
> てことですか。
ていうかお目見えできる格式を与えとかないと、
実務上めんどくさいからってことなんじゃね?
917 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 20:37:22
本陣の亭主なんて便宜上格式はあるけど武士じゃないから
918 :
日本@名無史さん:2008/03/08(土) 21:22:21
919 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 11:15:22
豪農とかの帯刀は文官の儀仗用の長剣みたいなもんだろ。
920 :
日本@名無史さん:2008/03/10(月) 16:19:28
武官でも憲兵隊あたりは兵卒でも帯刀本分の者。
921 :
日本@名無史さん:2008/03/11(火) 07:34:12
豪農の方が金があるから名刀じゃねいの?ほんまもんの侍はタケミツだったりして
922 :
日本@名無史さん:2008/03/12(水) 13:16:54
町人が茶室で指しすための脇指しは焼き刃がついてないのがあるな
うちは苗字帯刀を許された家だったなんてよく聞くけどさ
こういうのってほとんど口伝で確たる証拠ないんだろ?
藩の記録にあるんじゃね
証文あるんじゃね?
うちのは教育委員会に寄贈した。
寺からもらった証文は手許に残してある。
926 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:46:42
苗字帯刀の証文とはどんもの?
927 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 22:48:34
ごめん
どんなもの?
928 :
日本@名無史さん:2008/03/16(日) 23:26:10
>>923その辺が議論になってるとこ
黙認や慣例等あるのでは?
>>924その類のものは残ってないことが多いみたい。
調べてみたら、藩によって御免の基準が違うみたいだね。御免にも色々あるようだし
年代が古いのは
>>1の1,3で、藩の情勢が怪しくなってきた頃のは
2のお金で買うってパターンが多いようだ
所詮は御免なわけであって、城に出仕し合戦に際しては出陣する武士とは全く違う存在だな。
調べてたら、それがそうでもないみたいだった
戦の時には兵を率いて出陣するってのもあったらしい
鎧御免とかそのあたり
932 :
日本@名無史さん:2008/03/17(月) 08:21:51
鎧御免ってなんだ?初耳
gugure
934 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 00:01:03
鎧着用の誤りだった。スマソ
他にも裃御免、袴御免とかいろいろあるね
936 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 09:27:05
傘御免もあるよ
937 :
日本@名無史さん:2008/03/18(火) 19:36:13
なにそれと聞く前にググるなり自力で調べるなりしろよ
無知にも程がある
939 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 14:12:59
富農の人たちって刀(本来なら違法品のロングサイズ)ってどうやって買っていたんだろう?
940 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 14:35:10
長い刀を買って所持していても違法じゃないし
941 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 16:11:34
>>938 調べてもわからないので教えてください。
942 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 16:13:03
943 :
日本@名無史さん:2008/03/19(水) 18:02:47
武士ではないけど鎧を着用してもいいですよって許されたってこと?
苗字帯刀鎧着用ってことで鎧着用御免じゃないよ
945 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 02:14:19
鎧着用って・・・?
と言う許可書みたいのがあったという話
ていうか苗字帯刀を許された家って
普通に由緒ある家であれば
具足くらい持ってるだろ。
948 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 09:11:54
ていうか百姓が具足つけてなにするんだ?祭りの時に着るのか?
949 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 10:47:26
どこの村か忘れたけど村にある甲冑物具は神社の倉に保管して祭礼の時にだけ持ち出して着用するようにと秀吉がそんな禁令を出していたはず。
鎧着用でググればすぐ出てくる。それ読んだのを引用しただけ
たいして意味ナス
苗字帯刀 鎧着用な
952 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 12:58:36
戦争の度に武器の材料になったよ。
953 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 13:59:07
954 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 21:33:44
百姓に鎧兜の着用を許すって?
>>953 工工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
わかりやすいじゃん
956 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 02:30:30
なぜに鎧兜を着用する機会はない百姓に鎧兜着用を許したのだろうか?理由がわからん。
具体的な実例はないのだろうか?
958 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 02:47:42
実例はないだろ
あるんじゃね
960 :
日本@名無史さん:2008/03/21(金) 09:56:43
幕末に富農を農兵や郷筒に取り立てた時に武具や弾薬も自弁で用意してみすぼらしくないようにしろとなってる藩もある
961 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 13:46:52
5両渡すから、刀を買って着いて来い、
こなかったら殺すぞ!
と言われた人もいる
962 :
日本@名無史さん:2008/03/22(土) 23:25:18
神官って帯刀許されてたの?
963 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 01:02:34
うちの家系図には○○右衛門▲▲と書かれている。
▲の部分は通称名ではなく何というのでしょうか?
農民にも、苗字は無くても、その部分はそれぞれあったのでしょうか?
ちなみに代々農民で、いわれによると10町歩?ぐらいあったらしいです。
江戸初期作成の系図の最初には「■■氏系譜」と書かれています。
964 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 04:46:16
地元の古くからの旧家は系図残ってないとこが多い
成り上がりほど虚飾に奔るからな。でも成功者の証でもあるわけ
本当の旧家には戦国期からの墓群がある
武家は流離うもので、農民は土地にしがみつくものだそうだ
966 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 00:30:38
調べればすぐ出るようなことにいちいち答える気にならねえ
春厨はまず自力で調べてから聞け
968 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 11:53:02
969 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 12:12:39
春厨死ねよ
970 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 17:46:27
>>963 _______ __
// ̄~`i ゝ `l |
/ / ,______ ,_____ ________ | | ____ TM
| | ___ // ̄ヽヽ // ̄ヽヽ (( ̄)) | | // ̄_>>
\ヽ、 |l | | | | | | | | ``( (. .| | | | ~~
`、二===-' ` ===' ' ` ===' ' // ̄ヽヽ |__ゝ ヽ二=''
ヽヽ___// 日本
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971 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:09:32
>>963 系図あり、土地あり、知識なし
妬み僻みばっかだよ ここは
972 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:28:47
>知識無し
たしかにw
973 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:34:03
バカに教えてもしょうがないしな
974 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:38:00
>>971-972 つかお前らも吠えるだけで教えてやらないってことは
本人の自演か、バカに教えてもしょうがないと俺と同じに思ってるか
自分がその知識なし妬み僻み人間そのものってことじゃねーの
975 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:42:50
帯刀御免!!
976 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 21:53:37
アドバイスどおり調べてきた
しかし「諱」は武士にはあるが、農民にはあるのか無いのか?よくわからない。
農民の名前について詳しい人、
>>969 >>970以外で希望します。
977 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 22:20:51
リア厨か工だろ
学校の先生にでも聞けば?
>>976 いい加減スレチって事に気づけ。
ここ学問板なんだよ。ゆとりはゆとり板に帰れ
979 :
日本@名無史さん:2008/03/25(火) 22:58:16
>>976 _,,....,,_ _人人人人人人人人人人人人人人人_
-''":::::::::::::`''> ゆっくりしね!!! <
ヽ::::::::::::::::::::: ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
|::::::;ノ´ ̄\:::::::::::\_,. -‐ァ __ _____ ______
|::::ノ ヽ、ヽr-r'"´ (.__ ,´ _,, '-´ ̄ ̄`-ゝ 、_ イ、
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::::::rー''7コ-‐'"´ ; ', `ヽ/`7 ,'==─- -─==', i
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( ,ハ ヽ _ン 人! | ||ヽ、 ,イ| ||イ| /
,.ヘ,)、 )>,、 _____, ,.イ ハ レ ル` ー--─ ´ルレ レ´
>>976 何で誰も教えないかと言うと完全にスレ違いなのと、調べたというだけで調べてないのがバレバレだから。
ちなみに君の知りたいことを簡単にググると47000件出てくる。最初の2,3ページ読めばすぐわかるようなこと。
981 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 00:17:06
>>980 ググって検索結果数の発表するなんて、よっぽどの暇人だなw
他に話題提起できそうにもないやつばかりだ。
982 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 00:23:20
<わからない五大理由+教えてもらえない理由>
1. 読まない ・・・説明書やヘルプなどを読まない。読む気などさらさらない。
2. 調べない ・・・過去スレ、検索するなど最低限の内容も自分で調べようとしない。
3. 試さない ・・・めんどくさいなどの理由で実行しない。する気もない。
4. 理解力が足りない ・・・理解力以前の問題で理解しようとしない。
5. 人を利用することしか頭にない ・・・甘え根性でその場を乗り切ろうとする。
6.感謝しない・・・教えてもらって当たり前。事がすんだらさようなら。
7.逆切れする・・・自分の思うようにならないと逆切れする。
8.自分にしか分からない質問をする・・・説明不十分、URLや製品名を書かない、自分が分っている事は相手も分かっていると思っている。
9.日本語が話せない・・・ギャル文字を使ったり、一般的でない省略語を使う。
10.失敗した理由を他人のせいにする・・・「弟が・・」「間違えて・・」とか
11.無理を言う・・・「親にバレずに・・」「至急・・」など
12.違法なことを質問する・・・回答者が罪に問われる場合があります。多額の賠償など責任を負うのは親です。
13.知ってて質問する・・・明らかに知ってる事を、改めて聞かれてもスルーされるだけです。
14.他人の振りして本人が文句レスをする・・・
>>981 専門板を携帯厨だらけのゆとり板と同じに思ってるのか
調べないならスルーか馬鹿にされて叩かれるのは当たり前
983 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 00:33:17
>>982 だったら即答してみろ!
農民に諱がありえるものなのか?
ありえる場合はどういう事例があるのか?
いまから1時間やるから47000件調べて来い。
知らないくせにコピペばかりするんじゃない。
984 :
日本@名無史さん:2008/03/26(水) 00:50:47
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