1 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :
魏志倭人伝からはどうやっても邪馬台国が機内だとは
読めないのに、機内が邪馬台国だと力説するへんな人たちは
相手にしても仕方ないので、九州説の人たち限定で
議論するスレをたてました。
2 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/22(水) 23:50:32
誰も無視ですか?
そもそも《九州》ってなに?
《中国》ってなに?
ただし、
・江戸時代の頃、九国あったからなんて答えはいりません。
・中華人民共和国の事
何て答えもいりません。
2GET
>>1 16歳無職ヒッキーバーカ説に食いつかないだけ!
今なら、やり直しがきく高校だけは卒業しな!
全然レスついてなくてワロタ
5 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/23(木) 11:06:35
もっと盛り上がってくださいw
ヒッキーさん、自分のスレがまだ何個も残っているうちに新スレ立てない方がいいですよ。
7 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/26(日) 09:25:43
九州説といっても本命の北部九州説に対抗して南九州説があります。
南九州説は、宮崎の古墳の発掘結果の発表に期待しているようです。
私は北部九州説ですが、なにが出てくるか楽しみにしております。
8 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/27(月) 10:44:19
東九州はほぼ邪馬台国だとしてもいいかもしれませんねw
9 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/01(水) 15:40:56
ではここを終止符を打つスレの次スレに使いますか
10 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 01:33:37
勃起2級オメ!!
11 :
修使封:2006/03/02(木) 01:47:20
邪馬台国の斉宮(都)は時代によって移動していたらしい。斉宮があった場所は各地の「横島」と地名として残ってる。地理的には阿蘇山を中心に東西南北とされてる。
12 :
修使封:2006/03/02(木) 02:38:16
卑弥呼派→肥の国、豊の国、筑の国と3つの権力に分かれた。卑弥呼派の民は、呉、吉備、土佐、紀伊、奈良、越、尾張、美濃北陸、東北へと移民した。縄文人、蝦夷族と深く血縁した。
13 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 03:00:47
>11-12 修使封さん
非常に興味深いです。
さわりでも良いので、ソースを願います。
14 :
修使封:2006/03/02(木) 03:14:03
>>13 …卑弥呼は鬼道を用いてたみたいです…。チョットした占いサイトに封印されてました。
15 :
平民バカ:2006/03/02(木) 05:31:22
東夷伝倭人章なんか、劉備を正統とも書けない纂奪者の御用歴史学者が魏の威勢を誇張した捏造記事です。
確たるソースも無しにテキトー書いてるだけ。
邪馬台国なんて、又聞きで、当て字もイイトコだ。
夜郎国、女人国なみのファンタジーゾーン。
真面目な論争に値しない事に気付かなければならん。
16 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 06:29:10
さすがヒッキーのたてたスレだ
頭が悪そうだ
17 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 06:32:10
当時人口の激減に悩む三国の角逐にあって、東方の無視できない人口を
有する大国についての記事をテキトーとする根拠は?
実際中国世界の地理的拡大は前漢と三国時代なんだが。
18 :
平民バカ:2006/03/02(木) 10:45:34
>17
当時の中国人の外界に対する好奇心を否定するつもりはない。
ただ、東夷伝は信用できるのは朝鮮までで、そこから先は空想力が逞しく働いている気がする。
根拠の最大はみちのりの記述の不手際。。
史書を信じてあとに続く者があれば、確実に遭難できる誤記述。
大航海時代の船乗りが語った話の全てを事実とできないのと同じで、誇張含みの自慢話があったはず。
史家がテキトーをやったとは思えないので、やはり、情報のソースが誇張含みのテキトーであったとは思えないか?
ヤマタイに近い発音の国があったらしい…ぐらいしか信用ならん。
19 :
太国:2006/03/02(木) 19:45:07
畿内説の連中に、「いい加減に眼を覚ませ。」と言いたいね。w
宝玉類の産地は畿内であろうと九州であろうと、決め手にならんと。
大陸に搬送するには畿内でも北九州を経由するのが当たり前。
それとも何かい?畿内の秘境から宇宙ロケットを飛ばして中原に運ぶのか?w
20 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:48:49
21 :
太国:2006/03/02(木) 21:19:07
しょうがないねぇ。アラビアンナイトか〜?w
ロク鳥は宝石集めが好きなんだそうだ。5千個くらい大巣に集めりゃぁ、
神道抜刀にでも頼めば、前人未到の畿内の奥地から畿内の宝玉類をロクに掴まさ
りゃぁ、一発だろうな?w 大陸行きは九州を通らずにすむ。
22 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/02(木) 23:20:36
太国さん
近くに関空あるよ!
23 :
太国:2006/03/02(木) 23:21:42
WWW ! お休み〜ZZZ
25 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 16:28:37
九州説限定でしょ。べつにいいんじゃない?
卑弥呼は台湾、琉球、長崎の天草諸島などに影響力があった「海人族」の一人で鬼道を用いた女王(老婆)だった。やがて卑弥呼派と壱与派と句奴国(男王)と邪馬台国は内戦が起きた。
卑弥呼派の民は東に移民していくわけだが、海人族だから東北(蝦夷地域)まで移民できたと考えられる。「もののけ姫」でアシタカの村で世を占う老婆がいたが、あの老婆が当時の卑弥呼に近い存在だったかも。また蝦夷族と深く血縁したと考えられる。
さて、「ある緯度」で一致する横島がある。長崎、熊本、阿蘇山山頂、四国…、八丈島が並んでいる。このことから当時の中国では地球は平面じゃなく球体として知っていたのだ…また傾いてる球体を輪切りにした緯度を明確にしている。
29 :
修使封:2006/03/04(土) 01:03:07
「古事紀」に残されてる出来事、また人物は「九州が中心」がになっていることだ。ある日本史の教科書に表紙の裏(一番最初)にさりげなく大宰府の写真があった。この謎が解けた。ここで終止符をうちますw
30 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:15:57
太宰府といったら天満宮、一生懸命勉強しろということじゃないでしょうか。
32 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 01:02:06
邪馬台国は沖縄にあるという説は言われてるの?
33 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/05(日) 11:42:17
誉田真若と宇佐女王との間に生まれた子が応神。
34 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/05(日) 11:44:59
沖縄説など基地外じみてますよw
どうやって沖縄から九州をコントロールできるんですか?
当時の造船技術じゃ無理です
35 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 12:29:33
UFO
36 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 18:32:44
>>1 機内・・・爆笑
たしかに邪馬台国は飛行機の中には無かっただろうなw
37 :
太国:2006/03/05(日) 19:21:28
関空から飛んでもか〜?ww
38 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 21:02:38
魏志倭人伝の記述
実際にやってみればいいーじゃん。
水行○○日、陸行○○日。。。それでどこに辿り着くんだよ!
まるまる倭人伝信じてもどうにもならんだろうが。
どこを起点にするかで場所が変わる??
そんなあやふやな記述なんだよ。
その後の歴史、現在の発掘状況で想像するしかないが、
邪馬台国九州説ー東遷ー大和朝廷になるのが自然じゃないの
個人的には邪馬台国は今の大分県宇佐周辺の国だったと思う。
39 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/05(日) 22:49:02
邪馬台国畿内説ni議論を深めように書き込もうとおもったのですが、スレ違い
といわれたので、こちらにかきます。
上スレの499さんも「3世紀前半までは地域(北部九州?)の中心でよいし」と仰っておられます。
40 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 22:51:48
佐賀平野中部の中心だよ。
北部九州の中心ならやはり三雲や須玖だ。
41 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/05(日) 22:56:37
38さんのいうとおりですよ。
こんなん素人の僕でもわかることです。
42 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 22:59:40
弥生時代のあとの時代名称は古墳時代それとも大和時代?
43 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/05(日) 23:03:33
三雲や須玖が北部九州の中心だったのは倭面土国の時代です。
44 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 23:11:38
考古学資料は?。
三雲は4世紀まで、須玖は3世紀までは九州最大級の集落遺跡。他に那珂遺跡も4世紀まで最大級。
>>38と
>>41は同一?自演ですか?
地理志編纂上、起点から終点までを書き記す場合、起点となる場所は、北史の「計從……」という表記になるのではないでしょうか。ご一考のほどを
46 :
またまた発見 写真をどうぞ、ごらんください。:2006/03/06(月) 13:52:11
福岡県前原市の三雲八龍遺跡から出土の伊都の大溝の写真を発表
長さ126m深さ1mが二本もでました。王都の内隔と外隔か?
この写真は今のところ3月2日から7日間しか見られません。今のうちにご覧ください。
(糸島新聞 今週のニュース写真)
このHPには常時、伊都国情報 糸島新聞がリンクしてあります。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html 日本一の巨大な銅鏡、弥生の3種の神器 数千の宝石、宝剣など絢爛豪華な王の遺品出土を見れば、僅か千戸の前原だけの王のはずは有りません。
倭国の王であることは十分考えられます。すなわち伊都は千戸を有する都市で、倭国の首都だったのでしょう
47 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 18:56:18
だから弥生後期の都だろ。卑弥呼時代はまた別かと。
墓地
49 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 01:07:57
倭人の条に「其南有狗奴国」「女王国東渡千余里復有国皆倭種」とあるところからすれば
旧肥前国の領域かな。
ただ何らかの理由、おそらくは狗奴国の侵攻によって女王国自体が卑弥呼死後宇佐あたりに移動した可能性も
あると思うんだけど。鬼道というのかあのシャーマニズムに中国江南地方の匂いを感じるよ
江南から今の長崎あたりに移住してきた集団が邪馬台国をつくったんじゃないのかなあ
50 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/11(土) 23:09:24
僕のスレがだいぶ消え去ってるように思いますがw
51 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 23:10:51
自業自得w
52 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 03:27:04
大分県に耶馬渓と言う地名があるけど関係ないのかな?
近くに宇佐神宮(全国八幡宮の総本山)もあるし、、、、。
53 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 05:20:49
宇佐郡の安心院とか院内とかいった地名も気になるね
宇佐神宮にはヤマタノオロチに似た話が伝えられてなかったっけ
54 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 07:13:05
耶馬渓はかなり新しい地名
55 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 11:52:26
京に朝廷が、江戸に幕府があったように
当時も二つの政府があったと考えることは
できないものでしょうか?実際は畿内マキムクが
日本をリードしてたんだけど、九州は卑弥呼に
統治を任せていたと。
56 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 12:09:32
違うね。
57 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 12:55:24
ヒッキーは妄想だけじゃなく根拠を示せ
58 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 13:01:10
俺は九州説だけど
当然ほかの地域にも小国家群があったと思う。畿内、吉備、出雲・・・
そのなかで九州北部(筑紫と肥の国)にあったのが邪馬台
九州南部(薩摩大隅日向)にあったのが狗奴じゃないのか?
同じ九州でも豊の国から周防長門にかけてはまた別の文化圏だったような気がする
のちに半島から侵攻してきたタラシ系の集団が宇佐に移動していた女王国の末裔と姻戚関係を結び
そうやって産まれた応神天皇=イザサワケを王にたて、東進をはじめた・・・という仮説をたててみたのだが
59 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 13:23:29
その証拠は?
60 :
太国:2006/03/12(日) 13:41:29
>>55 だいたいはそのとおりだよ。だから以前関連スレで余が解説しておいたろう。w
61 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 13:43:42
DQN太国が賛同者とはヒッキー哀れw
62 :
太国:2006/03/12(日) 13:59:53
QQ車応召の畿内病者だな?w
63 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 14:17:30
神武も日の御子なので邪馬台国出身ですね
卑弥呼と同じ一族です一世紀に畿内に移っております。結局卑弥呼の邪馬台国も神武の畿内王朝も同族経営の国だったのですね。応神のときに完全に融合しましたね、太国さんのいうように神武は実在だという考えに転じましたw
64 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 14:30:47
太国とヒッキーしかいないのがは九州説の現状かよw
あっサガミハラとプラムもいたかw
65 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 14:32:37
66 :
太国:2006/03/12(日) 18:07:37
>>65 どうしようもない奴だな。ま〜だ畿内説に固執してるのか?
あきらめるんだな。畿内には女王国は無いんだよ。
記紀には卑弥呼らの記述は零下239°の世界で、大さむの素寒貧、困ったろう?w
67 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 18:43:45
邪馬台国の研究をするために
考古学を学びたいのですが
どこの大学がいいですか?
でもやはり考古学では就職できませんかね?
68 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/12(日) 18:43:45
【末盧の港は唐津じゃないよ! その1】
唐津市が末盧の港と比定されるその原因の一つにその遺跡群にあるが、その遺跡が末盧を自称する訳ではない
もっとも大きな原因とし、その西側一帯に広がり、壱岐に一番近い松浦半島の『音』の類似性にある。
《旧事本紀》にも
【末羅国造 志賀高穴穂朝の御世に、穂積臣の同祖、大水口足尼の孫、矢田稲吉を国造に定め賜う。
僕は畿内説だよ
理由はヤマタイとヤマトが似ているから
つまり邪馬台朝廷が大和朝廷になった
九州みたいな田舎に邪馬台国があったとは思えないね
70 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 18:57:25
唐津もマツラの一部だが。半島だけがマツラじゃないんだが
71 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 18:58:30
素人で高卒リーマンのプラムさんが
今日も言語学者きどりですかw
72 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/12(日) 19:09:34
【末盧の港は唐津じゃないよ! その2】
そのような古文書等の後押しもあり唐津市の末盧の港説は不動の地を得た。
そして駄目押し的に、唐津市の中央を流れ唐津湾に注ぐ《松浦川》だ
松浦川は、一帯に広がる旧国名『マツラ』の由来元と言われ(川や山、地形等は古地名の元になりやすい)る
★しかし、その松浦川の由来は“川上”にあり
『幾つもの支流が合流し(纏わり付く)』
が川の由来らしい。
>>71 >素人で高卒リーマンのプラムさんが
>今日も言語学者きどりですかw
高卒だろうが何だろうが、
少なくともオミャーよりは勉強してきたと思うぞw
違うかね?ニートの目糞クンよ。
75 :
太国:2006/03/12(日) 19:39:19
>>69 そうじゃぁないんだよ。西の「京都」は東の「東京都」ではないんだよ。
方法地名が似てるが別なんだよ。
ヤマタイとヤマトが似ていてるから女王国が畿内にあったとはならんのだ。
西の邪馬壹国は東の大和朝廷とはならんのだ。別なんだよ。
女王国を考える上で、これ(名前の読みの相似)は最初に陥りやすい墓穴の判断
なのだ。
76 :
太国:2006/03/12(日) 19:43:19
墓穴を掘った者−−−−→畿内説者
77 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:06:55
太国って間抜けな煽り以外に何かまとなことって言ったことあるのだろうか?
78 :
太国:2006/03/12(日) 20:14:00
どこが間抜けなんだ。君の云う女王国論は「邪・台国」じゃぁないんかな?ww
79 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 20:15:10
それは違いますね。邪馬台国の神武が東征して
建てた国だからヤマト朝廷なのでしょうに。
卑弥呼の邪馬台国=女王国は九州でしょうけど、
神武の子孫を中心とした邪馬台国は畿内です。
のちに畿内を中心に一つになります。
なので九州邪馬台国は忽然と姿を消したのです。
80 :
太国:2006/03/12(日) 20:17:25
うあっはっは!ww
81 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 20:26:28
なにがおかしいのですかw
犬国さん、邪馬台はヤマトですよ。
大国(大きな地域)⇒大和に
邪馬臺は漢語だから
邪馬臺から大和にはならない。
それに、東征なんて一代や二代で達成出来るものではなく、数百年(200年八代)の長い年月が必要かと
せいぜい神武は最後の詰めの段階だろう。
中卒ニートが、真面目な宗教家の太国さんに楯突くなんて!
84 :
太国:2006/03/12(日) 20:32:14
宗教家じゃぁないよん。
85 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 20:33:08
宗教家などオウムの麻原じゃあるまいしうさんくさい。
今は卑弥呼の時代と違い鬼道などで騙される人は
基地外くらいですよw
>>84 じゃ、真面目な政治団体構成員の太国さん。
87 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 20:38:09
あれですか?共産党みたいな人ですか?
気持ち悪いなあ・・
88 :
太国:2006/03/12(日) 20:38:38
皇道派は右翼政治団体がよく使いますが、それとは無関係です。
だから政治の話などこういうところでしたことは全然無いです。
似て非なるもの。
90 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:39:32
91 :
太国:2006/03/12(日) 20:40:32
92 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/12(日) 20:42:13
>>72 いくつもの支流が合流(纏わりつく)って、何処の川でもそうですよ。
マツロのロは半島のシロ(のちの新羅)のロと同じ意味だと思います。
名無しに化けて真面目な宗教家でも政治団体構成員でもない太国さんに刃向うとは!
94 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:44:22
太国もムダなこと書かずに純粋に自説を書いたら?
95 :
太国:2006/03/12(日) 20:45:03
もう沢山書いてるでしょうが。
96 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 20:45:14
宗教にはまってる人だの、
高卒リーマンで言語学者きどりだの
邪馬台国探して何十年もさまよってる人など
おかしな人だらけだなここw
中でも一番の変人は自称中卒ヒッキーなんだが。
98 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:49:23
オマエモナー
99 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 20:50:29
>>94 残念ながら人に理解できるように書いていない
100 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 20:50:56
やはり、従来の研究方法では
らちがあかない気がしますね。
推論部分が多くなりすぎです。
古史古伝の分野からアプローチしてみる
方法はいかがでしょうか?
101 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 20:56:50
九州の風土記等に邪馬台国に関係することが
書かれていないんですか?僕は田舎在住なので
図書館に蔵書少なすぎてもう読みたい本もなくなりました。
都会に住みたい
102 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/12(日) 20:57:06
だったら消えろよ!未成年だろう。
自己責任も取れないのに
言いたい放題
>『犬国』さん
★お前は最大の侮辱を彼に与えているのだよ 洒落じゃあ済まないぜ
103 :
太国:2006/03/12(日) 20:59:47
>>99 どういうところが理解できないんだろう。
自分の懐中の金の数量をほぼ知らんで、隣のあんさんがあんたの財布の中身
を詳細に知っているということをだ・・・この厳粛なる事実をだ。
つまり、あちらの倭人伝にはこちら本国の詳細が熟知されていて大記載があるが、
かたや自分のふところの記紀には零下390度のようなお寒い、素寒貧の如く
記述がまるでと言いたいくらい無いんだよぅ。
これが理解できないのかねえ?皮肉なことだろうが?通常だったらこちらの
記紀に詳細に女王国の記述があり、あちらの書には無記述かそれに近い状態
でなければおかしいだろうが? え〜?どうだい?
104 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/12(日) 21:02:06
44歳にもなって毎日邪馬台国三昧で
仕事そっちのけでこんなとこカキコしてる人に
言われたくはないですねw家族も呆れてるでしょうに・・
105 :
太国:2006/03/12(日) 21:05:23
何だか今宵、このスレはおかしく軌道が揺れ動いて進んでいるみたいだね。
いったん、僕はストップしよう。
とか言って、都合が悪くなると逃亡するんかw
107 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/12(日) 21:11:02
>>105太国さん
私も退散します。
彼のオッパイの面倒までは見られませんから!
お休みなさい。
108 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 21:11:39
>>103 皆さんこの中身理解できるか?
わからないよなふつう
九州説の人達は仲間割れを起こして自滅w
構ってくれる人がいなくなったら消えたな
淋しいのか?
>>103 これ日本語か?
全く理解不能なんですけど。意味不明すぎ。
悪いけど何が言いたくてなんでそうなると主張されるのか本当に理解できません。
上代語に一度翻訳したらよめるのかも(w
113 :
112:2006/03/13(月) 04:22:25
どういうところが理解できないんだろう。
自分は財布の(中の)お金の数量をほぼ知らないのに、
隣の兄さんがあんたの財布の中身を詳細に知っている
ということを(何故理解出来ないの)だ...
この厳粛なる事実をだ。
つまり、あちら(中国)の(魏志)倭人伝には
こちら(日)本国の詳細が熟知されていて
たくさんの記載もあるというのに、
一方、(いうなれば)自分の財布ともいうべき記紀には
零下390度[温度は-273.15度が限界ですから...]のようなお寒い、
無一文のように(日本国の)記述がまるでと言いたいくらい無いんだよぅ。
これが理解できないのかねえ?
皮肉なことだろうが?通常だったら
こちらの記紀に詳細に女王国(卑弥呼や邪馬台国)の記述があり、
あちらの書には無記述かそれに近い状態でなければおかしいだろうが?
え〜?どうだい?
すなわち(w
どこが理解できなんだろう。
本人が把握していない財布の中身を
隣のお兄さんが詳しく知っているということを。
つまり、隣人である中国の魏志倭人伝には、
日本国(倭国)の詳細が載っているのに、
本人である日本の記紀には無一文のようにそれが無い。
皮肉かもしれないが通常なら、
本国の記紀に卑弥呼や邪馬台国の記述があり、
あちら中国には記述が無いかそれに近い状態なのではないか?
いかがでしょう?
114 :
112:2006/03/13(月) 04:25:22
読み下し文作るのにすげえ時間かかった。orz
115 :
太国:2006/03/13(月) 08:21:27
未明にご苦労さん。
116 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/13(月) 11:31:53
壱与の子孫の蘇我大王家による東遷
117 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:04:12
>>113 そこまでわかりやすく翻訳しないとわからねーということだなW
まあやっと分かってもだからそれが正しいかは全く別だが。
まともな議論成立してないよね、このスレ。ここも削除依頼出した方がいいんじゃない?
119 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 15:57:50
末盧国・末羅
(マツラはマツロアの転訛)
字意は
『末』⇒最終
『盧』⇒たどり着く
解釈⇒(最終目的地にたどり着く)
の、ようです。
すると、松浦川の名前の由来で有る⇒ 「纏わり付く」
とは
字意が、重なりませんので松浦川沿いの「マツラ」語源は違うのでは。
では、「マツラ」の語源地は?
松浦半島から西に位置する「マツラ」が、倭人伝に記載されている末盧国の港ではないでしょうか?
取り敢えず『唐津』比定は消えました。
【取り敢えず、末盧国の港は唐津じゃないよ その3】
>>119 訂正
盧⇒集まる……◎
(最終的に集まる)でした。
121 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/13(月) 18:52:57
松浦にあるから松浦川なのです。松浦はその前はマツラ、その前はマツロです。マツラのラはクダラ、カラ、シンラ(新羅)のラと同じ意味だと思います。
あなたの松浦川の語源は間違っています。よって、『唐津』比定はきえません。
サガミさん
どのように間違っているのでしょうか?
旧事本紀に記載される頃はその一帯は(マツラ)と言われていたので、古来マツラの『音』発祥の起因が有ったのでしょう。
そして、おそくとも三世紀にはその音を元に華人は『『末羅』ではなく『末盧』の字を当て嵌めた
これは、(マツロア)の音に対して華人が文字だけでその地の情報を得やすくした当て字と考える。
末盧、伊都、奴、一大…etc…これらは
文字の字意でその地の事情を読み取る事の出来る当て字では
唐津は、太古にはマツロアと言われていたのでしょうか?
123 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 19:26:45
魏志倭人伝には末盧の様子を
【草木茂盛行不見前人】と、
唐津市付近には太古からの遺跡がゴロゴロしており「王クラス」の墓も存在し
結構開けた様子です。
しかし、倭人伝の内容はまるで逆の記事内容かと
王どころか官さえ書かれていません。
唐津を末盧の港と比定することは倭人伝の内容を否定することです。
124 :
日本史@名無し:2006/03/13(月) 19:34:23
>>123 マツロ国のあったとされる唐津付近に邪馬台国の時代に栄えた遺跡があまりないの知ってる?
125 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:37:51
中原遺跡や天園遺跡と久里双水古墳があるが。
126 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:41:51
この件はサガミが正しい
松浦川の語源が後からこじつけられた
唐津も含め、一帯が松浦=マツラ。元の語源は同じだろう
>>124 はい 知っています。
唐津の周辺の遺跡が栄えたのは漢時までではないでしょうか
しかし、以前その様に栄えていたことを漢人達は知っていただろうし 末盧の港を利用したのも魏時からではないでしょう。
魏志倭人伝の元ネタ(地理志等は)も漢時の記録が多いと思います。
128 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:47:06
だから3世紀の遺跡結構あるが
末盧には繁栄した遺跡は逆に不必要なのです。
末盧は倭(三十国体制)が指定した外来港と考えています。
伊都に続く一本道とちょっとした関所と港が有れば十分
何処でも出入り自由なら、伊都や博多湾直通の方が断然便利ですから
倭人伝の冒頭に
【漢時有朝見者今使譯所通三十國】
後漢書倭伝の冒頭に
【使驛通於漢者三十許國】と、
漢時も魏時もその地理、体制は変わらずと
131 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:21:35
港町遺跡はあるはずだろうが
132 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:36:19
>>129 同意。現唐津市街や虹の松原は当時ほとんど海の中
一大国からわざわざ唐津までまわるなら糸島半島の北岸か西岸に上陸するだろう
上陸点は呼子か名護屋。風向きから後者の可能性が高いと思うが
133 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:03:36
ラグーンが入りこんだ奥に弥生終末から古墳前期の有力集落や初期古墳がありますが
前に書いてある久里双水古墳や天園遺跡、中原遺跡などですが
外来土器も出ているみたいです
>>132 >呼子か名護屋
★確かに呼子は古くから壱岐に渡る最短地として利用されていましたので否定は致しません。
私は、呼子から末盧に繋がるものをみいだせない為、現在
壱岐の南に当たる現松浦市を(ある仮説を元に)考えています。
・松浦市自体は1955年3月31日に合併により誕生しますが その地には古くから松浦、御厨などの地名が残り 志佐川沿いに東南に延びる道が伊万里市に抜けてます。
135 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:10:20
考古学は無視するのが九州説だな
136 :
太国:2006/03/13(月) 21:11:47
物理学を無視するのが畿内説だよ。
137 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:13:18
意味不明太国登場
138 :
太国:2006/03/13(月) 21:14:37
139 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:15:01
太国のおかげで九州説の質が問われるな
140 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:17:10
私は九州説ですが、太国さんの書き込みは支離滅裂なので、来ないでほしいです
141 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 21:17:24
>>135 では、末盧に繋がる考古学の研究成果を御披露下さい私もまだまだ曖昧な為
参考にしたいと思います。
(それでは質問)
末盧の港の特長的な遺物は?
末盧に考古学的必要絶対条件とは
では どうぞ!
142 :
太国:2006/03/13(月) 21:18:06
143 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:20:24
ちょっと古いが桜馬場は重要な遺跡
弥生後期では準王墓級
144 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:20:57
普通に考えて出雲だが。
145 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:21:09
邪馬台国は吉野ヶ里と思いますが何か
147 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:27:05
中原遺跡や久里天園遺跡という弥生終末から古墳前期の有力集落があります
調べてみて下さい
148 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:28:26
久里双水古墳はかなり古い古墳みたいですが100m近いです
149 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:41:25
九州説でも考古学的根拠なくちゃ
だから吉野ヶ里しかない
>>134 >確かに呼子は古くから壱岐に渡る最短地として利用されていました
断言していますが、どうやって検証しましたか?
>御厨などの地名が残り
意味不明のコピペ。何の目的で、どこから持って来ましたか。
そしてその前に、呼子も唐津も松浦市も旧松浦郡域であることに何故ふれないのですか?
>呼子から末盧に繋がるものをみいだせない為
>現松浦市を(ある仮説を元に)考えています。
貴方のレスの内容じゃ、呼子がダメで松浦市が有力だと思ってしまえる根拠はないですよね。
他人の文章は、ちゃんと自分なりに理解したうえでコピりましょうね。
151 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 21:43:42
152 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:44:37
まあどっちにしろ邪馬台国は地方の小国だが。
>>150彼に「根拠」と聞いても、明確な答えは返ってきません。それが現実です。
154 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 21:58:47
>>150 荒らしですか?
>コピペ?
★そのような原文があるのなら提示願いたい
★唐津否定については先ほどカキコしましたし、呼子については否定していません。
貴方は知らないようですが私の(末盧)松浦市付近はかれこれ一年前からです。過去関連レスの何処かにカキコして有ります。
お探し下さい
いい加減スレを荒らすのは止めて下さい。
お願いします。
155 :
150:2006/03/13(月) 22:02:11
156 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:07:05
唐津否定の根拠が曖昧
港町集落は、とのレスがあったが外来系土器が多い中原や久里の遺跡群がまさにそれか
現松浦市にはそのような遺跡がない
また伊都方面に動くにも遠くなり不便だ
まずありえないな
158 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:10:02
>>134 おもしろい仮説だと思う
大宰府からでてきた「翰苑」に「広志」からの引用がある
「倭国の東南に陸行すること五百里、伊都国に至る。
「・・・次に巴百支国、次に伊邪国。安ずるに、倭の西南に海行すること一日、伊邪分国あり。布帛なく、革をもって衣となす
伊邪分国とはおそらく鷹島。このことから北松浦半島一帯は伊邪国の領域と推定する
ただし季節や風向きなどで北松浦半島に上陸する場合もあったと考える
159 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:17:16
伊邪国の話じゃなく末ラ国の話では?
160 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 22:31:32
>>155>>150 質問への答申
@>確かに呼子(名護屋が抜けていた)〜
★壱岐に一番近い場所じゃないの? 太閤も利用
A>御厨・松浦等の地名が残り
★現在も調査中 (御/ミ)の字に注目 荒れる元になるので…×
B>旧松浦郡域であることに触れない
★
>>119のレスに「(東)松浦半島から西に位置する(マツラ)が〜」と、松浦域全体を対象にカキコしている
C>呼子から末盧に繋がる★この回答も荒れの原因を作りそうだから回避
D>現松浦市を(ある仮説を元に)
★行程記事解釈によるもの【又渡一海千餘里至末盧國】より
161 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 22:35:47
>>158 その「伊邪国」
私は「伊都国」ではないかと考えていますが
今の所、決めてがないので未だに私の頭の中だけです
「荒れる元になるので」
ということは自説が電波だということを自覚しているのか。
163 :
プラム ◆2KpP2Y.a4E :2006/03/13(月) 22:46:07
>>156 >伊都方面に動くにも遠くなり不便だ
★何故遠くて不便はいけないのですか?
伊都や奴(博多湾)に行けない事時点で、意図的な誘導を意味しますから、
逆に
遠くて不便は願ったりではないでしょうか
165 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:49:53
これ、例によって相手にしない方がよさそうだww
166 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:53:45
古代人は利便性がどうこうでなく
いかに安全に航海するか、を優先しただろう
一大国から九州本土への最短かつ安全な航路から探ってみるべき
167 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 22:54:45
168 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/13(月) 23:05:24
>>166 三十国体制国内防衛戦略の意図と仮定したらどうだろう。
【郡使往來常所註】
これだって 何故そうなのか?という疑問が付き纏うよ!
結局、何時もチャチ入れるだけで消えてしまう名無しさん。
揚げ足取りの名人だ!
170 :
150:2006/03/13(月) 23:30:02
>>160 結局答えられないのねw
やっぱスルーしかないわなw
171 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:34:55
>>169 他の奴は知らんが、少なくとも俺はきちんとした議論をしたいと思ってる
がんばれ。あんたの意見面白いよ
肩をもつわけじゃないが平戸に近い田平町に里田原遺跡があったな
弥生中期。規模も大きい
>>170 スルーで結構。大歓迎!
自分の考えも提示しないでの揚げ足取りなら レスいらないよ!
>>171 あの辺りは今まで殆ど無印状態 だから資料らしき資料が揃わないのが現状
だから
深く食い込みたくもお手上げ状態
末盧の戸数四千餘戸も
かなり密度も疎らでは無いだろうか?
広い範囲に疎らに点在、何せ
【草木茂盛行不見前人】な環境ですから
174 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/13(月) 23:51:31
一応聞いておきますが神湊上陸説はありえないのですか?
千里にぴったりあうし、1番安全な航路が神湊航路だったらしいのですが
皆さん全く無視ですか・・
175 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:56:15
>>173 同意。まばらだろうね
九州北西部が考古学界であまり取り上げられないのには違和感がある
中国、朝鮮からの文物流入を考えると無視できない地域のはず
とくに佐世保のあたりは古代人が見逃しそうにない良地
>>174 >神湊
★神湊を末盧とした場合
博多湾周辺をどう扱う?
177 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:02:16
>>174 あるかもね。さまざまな可能性から探っていかないと
ただ古代人が浪高い宗像沖を好んで航海したとは思えない
神湊に上陸するならよほどの必然性が要るように思う
>>174 もう一つ
>神湊
★神湊=末盧とした場合の【始度一海千餘里至…】
【又南渡一海千餘里…】
【又渡一海千餘里至…】
の、解釈は?
179 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:11:14
>>178 「始度一海・・・「又南渡一海・・・「又渡一海・・・
こうしてあらためて見ると古代人がひとつひとつの航海にかけた覚悟のような」ものが感じられるな
180 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 00:13:08
逆に壱岐から松浦半島まででは1000里にはとても
届かないのをどう説明します?せいぜい500里程度なんですが。
181 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 00:14:03
>>175 仮に伊万里湾辺りを仮定した場合伊都は?
182 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 00:16:44
松浦半島から前原までは東北ですし
倭人伝に書いてある東南とは矛盾が生じるでしょうに。
これをどう処理するんですか?
183 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:22:16
>>180 千余里というのは距離でなく旅程をさしているのだと思う
風や潮を待つのにかかる日数こみで十日ほどかかるという意味ではないかと考えているのだが
184 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:29:12
>>181 やはり旧イト県かと思う
当時は糸島半島がまだ島だったようなので現前原市街もほとんど海の中
中心地は福岡市西区の今宿から周船寺あたりではなかったかと
185 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 00:31:12
>>179 誰もこうして比べないの無いのが不思議な位
二番目の「又南渡」の「又」と言うことは、最初の「始度一海も「南渡」の行為を行った事を表す「又」では!
そして末盧国への「又渡」の「又」は、二番目の行為を繰り返す。「又」だろう
詰まり、二番目に「又南渡」とカキコするだけで
一番目と三番目は「南」のカキコをしなくとも 全て「南渡」行為を「又」の一文字だけで解決している
「始度」とは(始めて渡る)ではなく(始めて繰り返す〈三度南渡るを〉)と翻訳できる
だから神湊は、方角が全然ダメなの!
わかったかな
186 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 00:34:21
>>184 私も 定説伊都国でだいたいいいと思う。
伊都の範囲はかなり広いと思うよ!
187 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:36:07
>>182 「東南至・・・「東行至・・・と違って
「東南陸行」とあるところに注意すべきだと思う
伊都国が東南の方角にあるのではなく
東南の方角へのびる道を行くと伊都国に到るのだ解釈しているが
188 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 00:44:14
>>187 末盧の環境を考慮すると
東南の方角に延びる一本道では?
そして五百里行くと伊都国域になる
しかし、そこはあくまで伊都国であるが 中心地ではない 詰まり、
伊都の都口である
どうだろう。
189 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:46:23
>>185 これも同意。
漢文の素養のない人たちが多すぎるのが邪馬台国論争の悲劇のひとつだろうな
190 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 00:48:52
松浦半島だって距離がぜんぜんだめだし
伊都国への方角もぜんぜん違うじゃないですかw
191 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:54:31
>>188 末ラから伊都への道を解明するのは大切なことだろうな
上陸した魏使たちは東南へ延びる道を行き、おそらくは日向峠をこえて伊都の領域に入ったのだろうと思う
192 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 00:56:54
>>189 漢文苦手です。
>>190 伊万里湾なら大丈夫
「北東の方角」に伊都国
ヒント!
【東南至奴国百里】
これが判れば簡単だよ!
お休み。
193 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 05:32:04
194 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 05:33:50
196 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 08:39:49
畿内説スレに書き込みはやはりプラムか
三雲も平原も湿地帯ではない。詳しい地図をみろ
だいたい湿地帯なら三雲のような大遺跡があるかよ。
いい加減デタラメ言うな
糸島の間に深く入った入江はそこまでま入ってない
197 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 08:45:38
三雲は王墓だけでなく集落も凄いよね。
楽浪土器たくさんある地区って漢人が住んだみたいだし、倭人伝の記事そのものだよ
怡台とは
(凸凹した不安定な土地)と、言う意味なんだろう。事実あの近辺は
江戸期に干拓が行われた地だからね
その隙間を縫った遺跡っぽい
199 :
圭角:2006/03/14(火) 09:41:46
196さんのおっしゃる通り、私も平原・三雲に行ったことがありますが
古代が湿地帯とは思われぬ次第でした。
当該遺跡の地理感想というものにおいては、まず稲作好適地と感じました。
南面の山地り幾筋もの小さい細い川が流れており、治水灌漑の好条件を
有している地形です。平原・三雲はその中にあって小高い丘だったという
印象と記憶があります。
唐津も何回か訪れましたが、唐津を末盧、前原を伊都とするならば
稲作その他の経済力は平原・三雲の前原の方が上であったろうと思った次第
でありました。
しかし、その伊都国に何故に一大卒が常に治し、郡使の往来が常駐したか
について、皆様のご意見を伺いたく存じるものです。
200 :
圭角:2006/03/14(火) 09:58:33
プラムさん、おはようございます。
楽浪郡と伊都国の交流につきましては、おいおい書き込みしようと存じますが
その前に、前漢書の王莽伝の次の記事は注目してよいかと存じます。
東夷の王、大海を渡りて、国珍を奉ず
大海渡とあるからには倭としてよろしいかと。
201 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 10:02:56
僕は九州の人間ではないので九州の地理など
よくわかりませんが、伊都国はおそらく師升の
いた国だったと思うのでかつての倭の都だったと
は考えられないでしょうか?倭国大乱の後に、
邪馬台国に都は移りますが、魏の使者が常駐したり
一大卒のような警察組織があったりといったものは
そのまま伊都国に残ったんだと考えます。
202 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 10:14:06
>>199 邪馬台の軍事基地だからではないだろうか
不彌のむこうの宗像、嘉麻にはまた違う小国家連合があり、ここから睨みをきかせていたのでは
また御笠川から南の鳥栖へ延びる水路、つまり邪馬台への経路の入り口をおさえる役割があったと思う
地元民として言わせてもらうと三雲は旧くは湿地帯。
おそらく伊都人は進駐してきた邪馬台軍によって良い土地を追われ、ここに住まざるをえなかったのだと推測する
他国に比べて少ない「有千余戸」というのもそのあたりを物語っているのだと思う。
それでも伊都人はあきらめることなくあの大集落をうみだしたのではないか
203 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 10:21:54
>>201 そのとおりだろう
「倭国大乱」はこの伊都国連合と南の邪馬台連合との争いではなかっただろうか
「世々有王」の記事からもこの国の旧さが推測される
新参者の邪馬台に由緒ある伊都が敗れた戦いではなかったか
204 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 10:31:32
高地集落性が九州だけでなく
日本全国に見られることから
倭国大乱はおそらく全国規模のものだったでしょう。
そもそも伊都連合と邪馬台連合といった
九州同士の争いだったとしたら、畿内や出雲が
傍観してみているはずがないです。九州の国力の低下を
見計らって、九州に軍事介入しようとするのが自然でしょう。
205 :
圭角:2006/03/14(火) 10:32:27
ヒッキーさんのご意見はなかなかのものと思います。
たしかに、師升を伊都国の王とする意見もあります。が、安帝の永初元年の
107年頃には、奴国などの一地域ではなく、北部九州の国々を纏める
地域連合国家的なものが成立していた、という説もありますね。
私は、この時の、生口160人が本当ならば、比較的大型の準構造船も
この頃には用いられていたことになり、後者を支持するものです。
206 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 10:39:07
>>202 三雲は弥生前期に集落があり、中期にはすでに大集落だ。
邪馬台国以前からだ
三雲あたりが広く水田になったのは近世の開発から。その時の水路掘りで井原ヤリ溝が見つかった。
あなた地元民じゃないな。ウソバレバレw伊都歴史博物館も行ったことないだろう。
また近世に干拓が行われたのは中世までの入海で、三雲とはかなり離れたJRの北側の低地一帯だが。全然違う場所だ。
地理認識が大幅に誤りですが、プラム君w勘違いを今のうち認めたら。
207 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 10:41:36
だいたい三雲以外にも集落遺跡たくさんあるし。
みなさんおはようです
所で、伊都国の中心地(主要部)を探るのに最も簡単な方法は?
【東南至奴國 百里】
この起点が そうでは?
帥升が伊都に住む倭王?
そうかなぁ?
皆さんは生口に注目をよくされますが『願請見』には触れないのですか?
209 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 10:47:01
前前からきになっていたのですが
租税を徴収するとか倭人伝に書いてありますが
文字もなかったようですし、どうやって
管理していたのやら・・w
210 :
圭角:2006/03/14(火) 10:49:07
107年頃には地域連合国家が成立していたればこそ、その後の
倭国乱れ、相攻伐歴年という記事も得心できるのだと考えます。
その当時、伊都国に都した王並びに地域連合的国家の王が師升で
あったとも考えられますね。
したがって、世々王あるも、みな女王国に統属す、という定説化した訳文より
世々王ありて、みな女王国を統属す、という少数派の訳文が正しいと思われる
所以です。
211 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 10:52:45
212 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 11:03:57
そうです、数年間九州の国同士で覇権争いをしていて
国力が低下したため、本州勢力の介入を招いたので
卑弥呼を共立してまとまったと考えるのが自然ではないでしょうか?
幕末に他国の軍事介入がありそうだったので、幕府も薩長も
小競り合いをしてる場合ではないと早々に明治維新を行ったのと
似てますね。
後漢時と魏時では間に倭国大乱があろうが相攻伐しようが、体制に余り変化がないと史書には書いてあります。
敢えて変わった所は
@大倭が倭に変化した
A女王国の東に変化を生じた
その位なのです。
214 :
圭角:2006/03/14(火) 11:15:46
ヒッキーさん、プラムさんじゃありませんが、やはり私もついつい拘りたく
なりますヒッキーさんのご意見の部分があります。212の始めの二行には
賛意できません。
215 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 11:27:03
九州の国力が低下したのは、長引く極東戦争に疲弊したため。
216 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 11:27:40
そうですか・・
僕は若輩素人なのであまり年配博学の方に
意見するのも失敬なので、もう少し勉強してきますw
217 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 11:31:14
>>212 面白いな
臆することなくどしどし意見を出すべきぞ、お若いの
218 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 11:37:38
>>206 今宿駅近くの本屋から帰ってきたところだが
こんなことは誰でも知っておろう?
博物館程度の知識でどうこう言われてもな
おまえは自分の目でものを見ているか?自分の足で歩いて考えているか?
おまえみたいな者は権威やエライ先生の御説を鵜呑みにするだけで進歩がないのだろうな
倭国大乱はともかく
『相攻伐』とは
諸国の争いではなく、一族間(トップ)の権力争いでは?
220 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 11:58:12
しかし、景行天皇のときにすでにクマソ征伐の話があるのですが・・このときすでに邪馬台国は大和朝廷に吸収された後だったのかな
221 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 12:06:41
個人的には当時は母系社会で畿内王朝に邪馬台国の応神が婿入りして融合したと考えていたのですが整合性に欠くような気がしてきました
222 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:11:57
223 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:13:45
>>220 狗奴によって宇佐あたりに追いやられていたのでは?
景行天皇は朝鮮半島からやってきて九州を侵略した王のように思われる
三雲や平原が水田耕作に適した土地なら、尚更王公の住む可き環境では無い
収税制度がある以上、生産地近くに 居住する理由は無くなる。
詰まり、
最も環境のよい利便性に適した土地に館を築くのが自然だ
生産従事者の多くの居住跡を中心地とされても
困惑するだけ
収税体制は、全ての生活パターンを変える体制だ
225 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:24:10
後漢書だけに大倭王とあるが、一方帝紀は単に倭国王。
大倭王とあるのは、三十国に皆王があるという独自の記載の流れで、諸国の上の王として辻褄合わせただけ。
後漢書は倭国乱を倭国大乱としたり、事大主義的だからやや信用に欠ける。
226 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:24:16
>>221 この説を支持する
応神は半島から来襲したタラシ系の王族と邪馬台の末裔との子なのではないか
227 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:30:55
>>221 勝手な論理。弥生時代は「都市」的様相が大遺跡にあるが農耕集落から完全分離していない。
また三雲遺跡そのものの立地は扇状地段丘で、当時の水田適地ではない。
>>218 あの地理認識が地元民とはとても思えないですが。
228 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 12:35:59
しかし証明できなければ妄想の域を出ません、どこかに物証となる文献でもないものか。
229 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:40:04
>>210 圭角さん、
卑弥呼が倭王で邪馬台国にいるのにその読みは無理かと。
漢文的にもおかしいとも言われますよ。
もしそうなら伊都国に倭王の都する所と書くでしょう。
邪馬台国が畿内か九州か別にして、無理な読みでしょう。
伊都の王が特記されたのは、卑弥呼の前に続いた倭王の系譜だからでは?
230 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:42:05
>>227 ということは三雲は農耕集落ではなかったということになるか?
俺はあのあたりこそ王の居たところだと思っているのだが
>>229 伊都の王が特記された事例等何処にもカキコないけど
232 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:44:27
233 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:44:38
234 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:51:54
>>231 三国志倭人条には
倭女王卑弥呼、邪馬台国に都する
それに敵対し倭国連合に入ってない狗奴国王、
の他に、
倭国連合にありながらなぜか自前の王が伊都国に記される。特記されているとして良い。しかも今だけでなく世世王アリとわざわざ言う。
さらに一大率が特に置かれている。
235 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 12:52:21
少なくとも九州内では
『自武帝滅朝鮮』から『於是共立為王』迄『歴年無主』です。
特記される様な王など存在しなかった。
詰まり
三十国の自称王は、横一列の合議体制。
史実ですよ!
236 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 12:56:29
安帝紀に倭国王とあるが。三十国の王の記述は後漢書編者の独自の解釈とする見方が通説。
237 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 13:00:25
歴年主無しは倭国乱(後漢書はなぜか大乱)の間のこと。
倭国乱の前は其の国(倭女王卑弥呼共立の文脈から倭国)に男王がいたことが書いてあるが。
後漢書に107年の倭国王がいることに対応する。
238 :
圭角:2006/03/14(火) 13:10:02
プラムさん、プラムさんの224には、少し誤解があるかと存じますので
よければ読んでください。
平原遺跡は丘陵地帯でなのです。
糸島地域は二つの大きな地域からなります。
可也山365m・柑子岳255mなどの低山塊が多い旧志摩郡にあたる半島部と
南に井原山983m・雷山955mなどの背振山系、東に高祖山系を擁する内地部
とに分かれています。内陸部では背振山系が北に丘陵を伸ばしているため
平野は広くありません。河川はいずれも総延長が10kmに満たない川です。
この地域で最も広い怡土平野は川原・瑞岩寺・雷山川により形成された東西3km
に及ぶ扇状地です。平原遺跡以外はこの扇状地にあるといってよいと思います。
239 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 13:11:54
>>236 その通説って完璧なの?
帝紀は起きた出来事をカキコするだけ 倭国内の事情まで考慮しないだろう。
代表で朝見したヤシが名目だけの『倭国王』
だから相攻伐しても『共立』等出来たのでは!
240 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 13:20:05
後漢書倭国伝にも倭国王とあるが
何か勘違いしたまま強弁ですね
241 :
圭角:2006/03/14(火) 13:22:02
怡土という地域を格別な所とは思わない、とする学者説者も居られるようですが
楽浪式土器が密集して出土している状況現実は重要なことと存じます。
さらに
世々王ありて、みな女王国を統属す、と読むのが正当ならば、やはり
伊都国は格別に重要な国であることは大切なことでしょう。
圭角さん
志登神社と志登島に伊都国のキーワードがありそうです。
244 :
圭角:2006/03/14(火) 14:29:41
プラムさん、以前にプラムさんから後漢書について強い関心があるとの私への
ご返事をいただきながら、そのままにしていて恐縮でした。
わたしは一言で申し上げますと、後漢書の史料的価値は低いと存じます。唯一
例外は、健武中元二年と永初元年の記事すなわち金印と師升の記事です。無論
これのみにても史料価値は高いとは申せます。なにしろ魏志には無いのですから。
しかしながら、この記事を除いては史料価値としては疑問符が付きます。
理由は、後漢書の成立年代が魏志より遅れること百五十年、したがって
魏志の郡は、後漢時代の記述としては不都合なので、韓とあらため、また魏志が
前漢書地理誌によって、旧百余国漢のとき朝見する者あり、とあるのを
前漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてから、使駅漢に通ずる者三十許国と改柵しています。
つまり、後漢書倭伝が主として魏志倭人伝に拠ったものであることの証左です。
史記朝鮮列伝によると漢の武帝が朝鮮を討ったのは元封三年紀元前108年です。
たしかにこの頃、倭の朝貢通交があったことは否めません。しかしながら、
後漢書倭伝が魏志倭人伝を後世に書き改めたものであることは疑いないことです。
プラムさんのお膝元の石原道博先生がこの点については、詳説されていますので
ご参考にされてください。
そのうえで、さらに疑義ありとおっしゃれば謹んで拝聴致します。
245 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 14:41:35
計画さんは東洋史がご専門なのですね。
246 :
太国:2006/03/14(火) 14:44:39
ヒッキーさん 相手の名を正確に。
247 :
圭角:2006/03/14(火) 14:59:48
ヒッキーさん 、私は自由業ですがその職種におきましても専門家とは言えぬ
程の者です。職業は差障りがあり明かせませんが。ところで、先ほどより
伊都国歴史博物館の出版物を見ておりました。
糸島半島の付け根に今山遺跡というのがあります。
弥生時代前期末から、この遺跡では玄武岩を利用して大量の石斧が生産されて
その供給範囲は北部九州一円、佐賀県福岡県の全域及び熊本県北部に及んだと
のことです。当博物館は石斧生産の専業集団とその統率者が存在したことが
うかがわれ、三雲井原遺跡の首長は広い交易圏を確立し富を蓄え権力を高めた
と思われるとしています。
世々王ありて、女王国を統属す、と益々読みたくなります次第です。
248 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 15:01:25
>>242 後漢書倭国伝にも同じことが書いてあるからその言い訳は無用。
残念でした。
それと圭角さん、
伊都国が女王を統属するというのはあべこべだよ。
伊都国に代々王がいるけど今は女王に統属されているとしないと辻褄が合わない。
伊都国が重視されてるのは変わらないですが。
249 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 15:03:43
後漢書の評価は圭角さんに全面的に賛同します。
圭角さん
後漢書の信憑性や史料的価値を私が論じた所で是非もないこと
後漢書は未来である魏時の前の事件をカキコしたもの
魏書は、未来である晋時の前の事件をカキコした史料と、受け止め
取り扱っています。
そこに書かれた記事の真偽等 私には関係ありませんし、判断致しかねます。
後漢書に、三十許国
魏志に 三十国と、書かれて有れば 即ち
後漢時も魏時も、体制に変わり無しととらえる次第です。
251 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 15:23:51
>>247 今山は武器製造所と見張り所を兼ねた砦だったのかもな
「邪屈、伊都傍、連斯馬」 翰苑
252 :
圭角:2006/03/14(火) 15:24:59
プラムさん、重ねての返信ですが。
後漢時・魏時という所において私と行き違いがあるような気がします。
中国正史のうちわが国の伝を取り扱いの時代の古いものから並べると
後漢書、三国志、晋書の順番になりますね。しかし、実際に書かれた時期の
古いものから並べると
三国志、後漢書、宋書の順番になりますね。そこを申し上げたいのです。
253 :
圭角:2006/03/14(火) 15:33:24
248さんへ。
私の書き方が悪かったのかもしれませんが誤解を解いて欲しいです。
伊都国が女王を統属す、というのではモチロンありません。
世々、伊都国には王ありて、陳寿が記した時点の女王国を統属していた
という意なのです。
だから、その国、もとまた男子を以って王となし、云々、名付けて卑弥呼
という記事とも矛盾しない訳です。
254 :
圭角:2006/03/14(火) 15:44:21
252を整理したものを掲示しますれば
三国志の陳寿の生年は233−297年
後漢書の范曄の生年は398−445年 蛇足ですが。
255 :
圭角:2006/03/14(火) 15:48:57
253の訂正です。スミマセン
世々、伊都国には王ありて、陳寿が記した以前の今の女王国の領域を
統属していた
です。失礼致しました。
256 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 15:51:09
圭角さん
相違があって当然です。
人それぞれ、解釈に相違は付き物ですから!
★『世有王』は、単に代々と解釈するのだけではなく「三十国の王」に掛かる意味も含まれると、考えてますし、
★卑弥呼共立と親魏倭王卑弥呼は別
★卑弥呼と卑弥弓呼は「不属女王」ではなく「不属女王」はべつな人(倭人伝に書いてある)
その他沢山食い違いの意見があります。
別に気になさらず
夕べはその一つとして
「始度一海」「又南渡」「又渡」の解釈をしましたが、これも他の翻訳とは相違するものでしょう。
257 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 15:58:56
史書の書かれた順番がズレても書かれた内容を元に考察するだけです。
…圭角氏へ…
258 :
圭角:2006/03/14(火) 16:06:39
プラムさん、ご返信有難うございました。三国志は帝紀においてすらも
読む人において多様な解釈がありますし、人物の列伝に至っては様々な
不整合の記事は多いと思います。
かくなる三国志においてをや、まして倭人伝においてをや、です。
ですが、だからこそ、多様な解釈は有意義と存じます。
これからも宜しくお願いします。
驚かれるかもしれませんが、熊本の山は積雪しています。
ブルブル
そうですかぁ!
今日の茨城は、日光おろしの冷たい風が一日中吹き真冬に逆戻りです。
先日は筑波の頂きにも白い帽子が!
これからもよろしくです
260 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 17:13:37
三月の静岡に雪が降るとは・・・バイトいくの寒いな
261 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 17:25:31
《原文》
【其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不属女王】しかし、
一般の解釈は
【其南有狗奴國不属女王…】あるいは【其南有狗奴國男子為王不属女王…】
です。
そう言う事です。
262 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:15:19
狗奴国が女王に属さずなんだから、王も属さないのが当然だろ。別のところに書いてあるからってそんな読み方はありえない。
しかも不和なわけだし、女王に属さずを別の言い方で言ってるようなもの。
また世有王は伊都国のことで、文脈から世は世世の略であること、
三十とは読めないという漢文学からの指摘が別スレであり、プラムも取り下げたはずだが。
263 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:20:38
圭角さん、
やはり女王国を伊都国が統属させていると読むなら賛同できません。
無理ですよ倭国王が女王なんだから。
また倭人伝の文脈における現在とは基本的に3世紀中頃の外交をしてた頃でしょう。そうでないと狗奴国との戦争記事とか理解不能です。
陳寿の書いた頃のことではないはずですよ。
264 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 18:27:02
>>262 『世有王』も『臺と壹』も取下げてはいない。
参考意見として
しっかりメモってあるだけ
それに、たまには視点を変えてみたら如何ですか?
無駄な回り道にはならない筈。
>>262 >有り得ない
★だったら有り得ない理由を文中からピックアップして説明して下さいよぉ
266 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:39:03
ていうかありえないだろ。
狗奴国が女王に属さないんだからその王が属さないという普通の読み。
プラムのは無駄な回り道ばかりで議論を混乱させているだけだ。
>>262 狗奴国も狗奴国王も女王とは不和じゃなさそう。
そんな事書いてなかった!
俺も読み違えていたな
反省!
268 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:43:39
正始八年のところに倭女王卑弥呼と狗奴国王が素より不和と書いてある。
269 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:44:55
女王に属さず=素より不和、ほぼ同じことの表現だろうが
270 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:45:55
プラムの相手は疲れるので圭角さんよろしく頼みます
そうかなぁ?
俺の見ている紹興本には
【其八年太守王(斤頁)到官倭女王卑弥呼与狗奴国卑弥弓素不和遣倭載斯鳥越等……】
と、書かれていて
全然不和じゃなさそうなんだよ!
272 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 19:10:43
>>271 『男王』が抜けてた
…与狗奴国男王卑弥弓呼素… でした。
失礼しました。
273 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:26:03
素より不和って書いてあるじゃん
274 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:27:35
素より不和って書いてあるじゃん
275 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 19:38:18
【男王卑弥弓呼素不和】ですね!
276 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/14(火) 19:48:35
プラムさんの病気が日に日に悪化してますねそもそも仕事してよくここに毎日書き込めるな、邪馬台国にはまって仕事怠けててリストラされたのかな?w
277 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:58:13
倭女王卑弥呼と(与)狗奴国男王が素より不和
あのな、世有王が三十有王なら、何ゆえに伊都国のところに書いてあるのか意味不明だよ。
伊都国のところに書いてある限り、ふつうに伊都国の王のことだよ。それ以外の読みは難しいでしょ。
278 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 20:13:49
>>277 伊都国に三十国の王が集合し(女王共立までは合議制)、三十国体制の政務をとり行うから
だから相攻伐した時にも共立など可能だし、
多くの国に『官・副官』等の共通する(付家老)役職が存在する
官のいない諸国には
一大率がその任務を兼用する
279 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:16:58
伊都国に三十国が集合しなどと読むことはできないし、完全なこじつけだろ。
280 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:20:12
だいたい王のうち卑弥呼は邪馬台国にいる。伊都国に集合してない。
諸王が伊都国に集まったという言葉は一つもない。
いい加減、くだらない言葉遊びやめたら。
281 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 20:20:31
>>279 こじつけでも構わない
ここまでコジツケられれば芸術だよ!
もう少し完璧にコジツケられるように努力するから。
282 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:31:50
三十[国]有王とでもあれば別だが、
世有王は漢文板からの意見もあったように世世有王と同じ。ギ略逸文には伊都国のところで、単に「其の国王皆(女王に)属す」とある。(「女王」は欠落するが)
283 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:33:14
開き直ったようだが、偽りがバレバレだから芸術にもならない。
284 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 20:36:25
確か
政務と彌女は別と言うのが通説ですよね
『丗有王(皆)統属女王國』
『(皆)臨津捜露』
の『皆』とはなんぞや?
代々の王ではないだろう!『皆』は生きている人間に使う文字だろう
この世にいない者まで普通は対象にはしないぞ
それなら
『丗丗有王統属女王國』で十分通じるの
285 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:37:53
また、
其の南に狗奴国あり男子をもって王となす、
で、官の名を間に挟むが、
女王に属さず、
と書かれる。
一続きだから男子を王となす狗奴国が女王に属さず、で何の問題もない。
286 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 20:39:36
しかし、
クレーム出してくるのは、何時も同じヤシの様なキガス
気のせいか?
287 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 20:43:28
>>285 >官を間に挟む
やっと判ってくれたのかな?
288 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:45:02
そう断言できる漢文上の根拠はないだろ
また後の津に臨むは別に王自体ではなく、王の使いや郡の使いのことだが。
289 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:46:45
文の流れから官だけが属さずではなく、狗奴国が、属さず、だが
290 :
288:2006/03/14(火) 20:49:41
最初の文は「皆」が現在だけのことというプラムの説に対して。
代々王がいたら複数だから、それに対しての皆
291 :
288:2006/03/14(火) 20:52:39
王の使い、の王は、正式な外交のやり取りをここでは述べるので、倭王のことに他ならない。
>>290 代々と訳した段階で『皆』は要らないよ!
女王が存在しての出来事だから『皆』を付ける程の事は無い その解釈はおかしい。
女王体制が二百や三百年続いて要るなら
話は変わるが!
君達考えでは女王は一代だろう 変だと思わないかな?
それに、こんな所で“逸文”を引き合いに出してはまずいよ! 完全な都合使用だ。
293 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/14(火) 21:29:48
翻訳本ばかり見ていないで、句読点のない原文と一月ほど毎日睨めっこしてみなよ 少しは変わるから!
君達は漢文読めるんだから原文で十分だよ。
294 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:05:53
漢文とずっとにらめっこしてますが解釈変わりませんが何か?
また女王卑弥呼は2世紀末からの長期在位の可能性が高く、ふつうは数代分でしょう。
安本氏の一代10年説を鵜呑みにはしませんが、そういうこともあり得るのは言えるので、あるいは5代前後王が変わったとしてもおかしくないし、20年一代でも3代はいた可能性があるし、
あるいは卑弥呼の後も台与が女王になるので、女王国期間は長く、代々皆、と言っておかしくないですね。
反論はここまでかな?
結局!また後日に持ち越しかぁ
…じゃあ勉強でもしようっと…。
296 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/15(水) 00:02:03
言葉のあやを探っての解釈論はもう飽きましたよw
それより古史古伝にはなにか邪馬台国に関する情報はないんですか?
297 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 00:06:10
>>294 卑弥呼共立時
【事鬼道能惑衆年巳長大無夫婿】 少なくとも三十路でしょう。
すると推定百歳死亡……?これを正常な判断と言えるでしょうか?
>代々王が居て皆女王に統属していた
★これって
『謹賀新年 明けましておめでとうございます』
と、同じだよ
★『皆』など使わないで
・(伊都王は代々女王国に統属していた)
・(代々王は女王国に統属していた)
この方が“くどく”成らずスッキリするのでは?
『代々』も複数、『皆』も複数 『丗』=『皆』なんでしょう?
くどすぎ!
298 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 00:14:07
>>296 桃太郎 かぐや姫 浦島太郎 猿蟹合戦
かごめかごめ
なんかいかがでしょう。
七夕相撲の起因(書紀)
節分の起因
ひな祭りの起因にお雛様
299 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:33:01
くどいも何もかいてあるんだから仕方ない。意味は通じるが。プラムのこじつけ読みが無理なのに比べて別に矛盾はない。
卑弥呼の年だが、即位時の年齢わからないだろ。また倭国乱の年代からは2世紀末即位にせざるをえないが。
年すでに長大は何時の時点かはっきりしない。
300 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:35:05
あの文脈で世=三十国は無理だろ。こじつけすぎ。
301 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 00:39:43
>>299 >何時の時代かはっきりしない
★共立時の記事!
302 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 00:46:51
三十⇒(全て重なる)
303 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:48:53
横レスですが、長大とは漢文で成人になっているくらいの意味ですよ。
仮に20歳で190年即位でも、248年頃没なら80歳ぐらいなのでありえないとは言えないですが。
2世紀末即位説は倭国大乱の年代を考えると妥当ですが。
304 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:50:45
プラムさん、いい加減な妄説はそろそろやめたらいいと思いますよ。
305 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 00:53:54
>>303横レスさん
>二十歳の即位
★彼女一人の問題で済むことではありませんが
306 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:56:46
というかプラムが憶測する根拠なし。
307 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 01:01:46
>>304 単なる妄説で ここまで複数のレスに答えられますか?
数々妄説とか勝手読みと言われ続けても
それなりの回答は提示しています。
貴方たちの考えが全て正しいので有れば 邪馬台国なんて話題にもなりませんよ
308 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 01:05:56
彼女の存在と同時期に男弟の存在を忘れていませんか?
彼は彼女の補佐であり国政を担当する役目です。
309 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 01:15:21
>>306 たまには妄説で構わないから仮説たててみてください。
私がとことん付き合ってあげますから!
310 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 01:17:29
男弟が即位時からは補佐したか不明。郡使が行った頃の体制に過ぎないかもしれない。
もともとは共立だったのに身内で固めるとは王権が安定してからとも考えられる。
また世有王の世が三十なら伊都国のところに書く理由がわからない。
三十国の王が伊都に集合などという書いてもないし、ただの辻褄合わせの想像をするが全く根拠がない妄説だ。
いやあよくできた妄説ですねw
311 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/15(水) 01:23:09
男王=崇神
312 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 01:23:47
>>310 そうカキコしている貴方のレスも相当妄説してますよ!
313 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 01:30:48
>>311 男王とカキコして違和感ありませんか?
あと
同じ様に『男弟』があります。
だぁーれも指摘しないのかなぁ?
なぁーんに疑問を感じない人達なの?
明日も仕事だから
お休み!
314 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/15(水) 07:10:43
男弟は義理の弟という可能性があります。
315 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 07:20:34
>>310 >伊都国に書く理由が判らない
★伊都国で政務をとっていたので
【郡使往来常所註】
【皆臨津捜露】
【常治伊都國】
316 :
圭角:2006/03/15(水) 09:41:50
263氏へ返信。これは松本清張氏や奥野正雄氏の少数意見であることを前提に書きます。
おっしゃる通り、世々あるも、みな女王国に統属す、という訳文が定説化しています。
石原道博氏、山尾幸久氏、水野祐氏、平野邦夫氏、佐伯有清氏も同じ訳をしています。
わたしも最近までは、別段疑問を抱かずにおりました。
しかし最近、筑紫古代文化研究会の森善和氏の研究論文を読んで変節しました。
その理由は次の通りです。
まず、統属の意を白川先生の字通で引くと、所管を治める、とあります。また
大漢和辞典は自分の手許にないのですが、所属の官司をすべ治める、意とのことです。
さらに、森氏に拠れば、定説化した訳文つまり女王国に統属す、と読ませるためには
於女王国または千女王国となるべきであって、司馬遷の史記などにおいても
ooにと、読ませるところには、必ず、於か千が入っている、との由です。もちろん
司馬遷の史記を私が全部読んで検証したということではありません。あしからず。
317 :
圭角:2006/03/15(水) 10:02:54
蛇足ですが、私が申し上げたいことは
伊都国もしくは糸島半島の諸遺跡において楽浪式の土器などが集中して出土し
前百八年に郡が設置されて以来の九州の首長国の中では一番上位にいたと推定されるも
後百六年の師升の生口百六十人という数からして、準構造船の建造をも推定されるから
伊都国を中心とした地域連合的国が成立していた可能性が高いことを想うから
それならば、いわゆる倭国大乱の前つまり卑弥呼が共立される以前においては
卑弥呼が統属している領域を、代代の伊都国の王が統属していた。と解される。
この場合において、統属の読み方は316の通り読むべきであり、史記の読み方を
検証した森氏の研究論文もあり、この方を支持する見解を私は持つ、
ということであります。
318 :
圭角:2006/03/15(水) 10:11:49
プラムさんの313について私も同じ疑問を持ってりました。
付け加えさせてもらうと、ただひとりの男子が居て卑弥呼の辞を伝える
のでありますから、この男子と男王の関係さらには
卑弥呼とこの男子の関係はなどと、も、思うのでありますが
学者先生はあまりこの件には、お触れになりたがらないご様子ですね。
319 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/15(水) 10:21:01
そのくらいなら僕も気づいてましたが
そんなこと考えたってわかりゃしないでしょw
全部妄想でしかないですしね。男子は隠し夫だったのかも
しれませんし、そんなこと言い出したらきりがなし。
320 :
圭角:2006/03/15(水) 10:36:48
そんなことも考えられるからこそ、面白いではありませんか、ヒッキーさん。
真実は意外なところに潜んでいるかもしれませんよ。
321 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/15(水) 10:39:56
ところで歴史学、しかも古代史の分野の
研究職に就くとなるとやはり東京大学くらいいかないと
無理なのでしょうか?スレ違いですいませんが。
学校もいってないし半引きこもり状態の世間知らずなので
ネットでしか情報がないのです(泣
322 :
太国:2006/03/15(水) 11:06:04
ヒッキーさん大検でも狙っているじゃないんですか?
論説では結構急所をつくような点があり、いい線行っているところもありますな。
323 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/15(水) 11:13:23
大検をとり、大学へ行こうと考えてます。
歴史の勉強をしたいのですが研究者になるのは
相当難しいらしいんですよね。なので今思案中です。
やはり安全に工学部にでも進んで、歴史は趣味に
しておこうかとも考えています。
324 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 11:20:06
>>323 がんばれよ!一度きりの人生。本気で自分のしたいことしないとな
325 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 11:24:45
>>317 以前からそう読むものとばかり思っていたので
むしろ「皆女王国に統属す」と読む人が多いことに驚く
326 :
太国:2006/03/15(水) 11:26:37
ヒッキーさん、がんばって下さい。
1日5時間以上勉強しないとうまくないですよ。w
とりあえず妄想でもいいから「邪馬台国」時代の全体像を描くべき。じゃなき
ゃいつまでたっても議論は深まらない
328 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 12:01:30
>>327同意
各々の行程記事をカキコしたら如何ですか?
文句つけるだけでカキコできるような説は持っておりません。そこら辺
は常連コテ諸氏にお願いしたい。また他の多くの名無しの皆さんに。
330 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 12:33:56
>>329判りました。
では、私から簡単に
★帯方郡港⇒(韓西岸沖南下→半島南端から乍南乍東し)⇒韓と倭の境界海域迄〔七千餘里〕(狗邪韓国南二千里沖)
★境界海域起点⇒(始度一海・対馬海流にのり北東へ千餘里)⇒対馬国
★対馬国⇒(又南渡+海流影響 瀚海域千餘里)⇒一大国
★一大国⇒(又〔南〕渡千餘里)⇒末盧国
【現在の松浦市付近】
郡からここまで10000餘里
続きは後ほど!
331 :
圭角:2006/03/15(水) 12:53:20
早速に横槍を入れて恐縮ですが、末盧国は現在の唐津市付近とした方が
よいのではないかと思いますが。
呼子という説もありますが、松浦市も呼子と同様にクニもしくは国が
稲作を背景に成立するかという点においては、稲作遺跡も出土している
唐津市付近が適当かと思います。
呼子と松浦に行ってみますと、ほんとに急峻な地形と実感したからです。
332 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 13:01:36
圭角さん
そうゆう環境なら
尚更ベストですよ!
軍事防衛上意図的に作られた港と考えていますので
唐津市は、私の頭の中では伊都国域西外れです。
333 :
圭角:2006/03/15(水) 13:10:11
あくまでご参考程度に申し上げるものですが、
伊都国が今の前原市付近、末盧国は今の唐津市付近ということは
地元ではコンセンサスを得たものとされておる次第なのですが。
遺跡にしましても、唐津の松浦市に対する圧倒的優位性は明らかなのです。
334 :
圭角:2006/03/15(水) 13:14:30
壱岐と唐津の間において詳しい地図を見るといくつかの小島が点在しています。
このことも島伝いに航行する方が自然で容易ということに思われる次第です。
335 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 13:15:24
「浜山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚腹、水無深浅、皆沈没取之」
倭人の条の記事から考えると末ラは農耕よりむしろ漁業が中心だったように思える
336 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 13:27:01
末ラは官のいない国。伊都には副官が二人いることから見て
あるいは末ラは伊都に従属した直轄地のようなものではなかったか
当時の現唐津市街地は後世松浦潟と呼ばれる干潟でどうも末ラのイメージにあわぬ気がする
337 :
圭角:2006/03/15(水) 13:43:01
邪魔しました。スルー願います。
338 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/15(水) 17:11:38
勉強不足を痛感しました、あと100冊は本読んでから出直して来ます。
339 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 17:54:15
ヒッキー君 クレグレも翻訳本は見ないほうかいいよ!
【私見トンデモ行程表】
一歩⇒25a強
一里⇒300歩⇒80b弱
『周』⇒グルリ
『可』⇒四辺の二辺
『方』⇒四辺の一辺
『方可と方』は意味が違う『徑』⇒最短距離
道徑・方徑・周徑の徑
『周旋可』⇒折り返し点
『至』⇒着点を定めない目的の範囲
『到』⇒着点で目的とする場所の接界点
『始度』⇒始めて繰り返す『乍南乍東』⇒ジグザグに起点から見て着点が東南方向
の、認識から行程を考察
340 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 18:13:56
【トンデモ行程】
>>330続き
【東南陸行五百里到伊都国】
・古代の道は地形を考え歩き易い場所に出来る
★末盧の港(松浦)より、最初東南の方向に延びる一本道を徒歩にて五百里(約40q)行と、末盧と目的地伊都の境界点に着く(到)〈唐津市付近〉
でも、ここは伊都国の都口です。
(郡から伊都国10500餘里)
ここまでが郡使の歩んだ行程表の全てです。
【郡使往来常所註】
女王の都迄の文章地図案内は、後ほど……。
>>340訂正
ここまでが郡使が歩んだ行程表の全てです。……×
ここまでが倭人伝にカキコされてる伊都国迄の行程表です。……〇
342 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 18:42:52
今の唐津市街地ではなく当時の潟の奥にあたる久里地区が末羅国の中心地。
プラム説は自分でトンデモの認識あるから皆でスルー
343 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/15(水) 18:49:35
邪馬台国時代のマツロ国の都は鏡山の東のほうです。
邪馬台国への行路から離れております。ですから、官名をしるさなかった。
同様のことはクヤ韓国でもあり。都に寄らないので官名を記さなかったのです.
344 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:25:25
プラム説を叩いてやって下さい、サガミハラさん!
345 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:26:59
>>343 とすると魏使は奴、不彌を通って邪馬台へ向かったとお考えか?
俺は魏使が伊都から直接、南の邪馬台へ向かったと考える者だが
346 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/15(水) 19:41:53
皆さんドンドン叩いてやって下さい。
しかしその前に、自分の説を公表してからに
自分の信じる説も公表しないで、他人の悪口言う人は………。
私は細かな解釈もカキコしましたよ!それ以上の解釈をお持ちの様ですから
楽しみにしています。
スルー等と言って逃げない事ね
皆で公表してから
皆でツッコミましょう。
347 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:44:59
348 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 19:53:05
>>342 確かにそのあたりが中心地だった可能性は高いな
ただ上陸地点は他の場所であった気がするのだが
【トンデモなく真実に近い行程】
>>340続き
★『東南至奴国百里』
・方角+至国名+里数値の場合⇒ 方角は位置(経緯度)
・方角+行+里数値の場合⇒方角は進路
※伊都国の中心的な地から奴国(博多)区画地域に行くには、最初の方向が東南である。
※伊都国から東南に奴国があるのではなく、奴国に通じる道は最初東南に延びる道だとカキコされている
詰まり、東南という表示は逆に発点となる伊都国の中心的な地を示す(経緯度)書き方。
…続く…
>>349 続き
《詰まり》
末盧国と伊都国の【境界接点】……『東南陸行五百里到伊都國』……
から
伊都国⇔奴国の伊都国【起点】……『東南至奴國百里』…
境界接点(都口)から起点(中心的な地)迄の伊都国内の北東移動行程は、倭人伝には記載されていない
郡使往来の記録は、伊都国の入口までの行程記事で十分満たして要る。
★郡から伊都国入口迄10500餘里
★郡から奴国(博多)迄の行程里数は……不明……
351 :
圭角:2006/03/16(木) 08:50:14
プラムさん、おはようございます。お尋ねいたしたいことがあります。
韓の広さは4,000里四方もしくは縦横4,000里という韓伝の里程記事と
明帝紀の洛陽から遼東までの距離が同じく4,000里という明帝紀の里程記事の
不整合は如何に解すべきでありましょうや。
352 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 10:00:54
すいません。勉強し直してくるとは
いいましたが暇なんで再度舞い戻りますw
水行陸行という表現こそ総日程を表しているのでは?
簡略化して水路と陸路あわせてこれだけ
邪馬台国へ着くことを言ってるふうに感じます。
投馬国・邪馬台国への記述に関しては詳細な行程が
書いてないのもやはり総日程の可能性が高いと
思わせる要因です。
353 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 10:46:24
>>351圭角さん
おはようございます。
★私は別物と考えます。
理由は、
倭人伝の中には、伝中に最小単位である『歩』が有りますので
それを基準に考える次第です。
354 :
圭角:2006/03/16(木) 11:29:04
プラムさんにお尋ねします。
烏丸鮮卑東夷伝の高句麗伝において、高句麗は遼東郡の東一千里と記されて
いますね。
この一千里と、洛陽遼東間の四千里は整合性を有していると思われます。
この点については、いかが思われますか。
355 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 11:47:50
高句麗は大陸の一部ですし、細かく分析したことも有りませんので……?
それに、
私は余り細かく数字を追い掛けないことにしており
書かれた事に対し、取り敢えず正面から向き合う次第です。
圭角さん
私の基本的な考えは、次のレスにて簡単にカキコしておきます。
倭人伝は倭人伝の中で殆どまにあいますよ!
356 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/16(木) 12:00:20
>>349のことについて、最初にいく方向を書いた、というような考えのようですが、それでは、南投馬国に至る.はどうなりますか。
357 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 12:08:41
倭人伝地理志は、大きく二つに分けることが出来ると考えます。
@漢時から続く郡や韓使達の往来に関する行程記事
A列島内(特に属国地域)の文章で表す地図
@に関しては【郡使往来常所註】とカキコされている通り、その役目は
帯方郡港から伊都国の入口迄の10500餘里で十分その役目を果たしています。
では、次の奴国からはと言うと、この部分は対馬国から続く行程とは別に
文書による地図の要素を色濃く表した内容になります。
次回にその例を一部紹介します。
358 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 12:17:59
サガミさん
それをこれから(奴国・不彌国)と投馬国を使って説明します。
これは行程表では有りません。文章による地図です。行程表の役目は伊都で終わっています。
では、昼食後に!
359 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 12:44:26
まず最初に、奴(博多)不彌(宇美)投馬(熊本県)という設定のもとで話します。
【南至投馬國水行二十日】※(奴や不彌)の南に投馬国の領域がある……行程記事では有りませんから…
【水行二十日】
実際は歩いても一週間程の距離、それも
南に海が無いのに水行二十日…?変ですね!
実は これが文章で地図を表す編纂者のテクニックなのです。
博多湾から南に直線百`弱の所を船で海岸沿いを西に大きく迂回し(水行二十日)投馬国に辿り着ける事をカキコし、九州の西の出っ張りぶぶんを(長崎)
矛盾水行二十日で地図を表しています。
360 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 12:48:15
プラムがトンデモ説をくどくどと述べるのは今に始まったことじゃないから
やめろとは言わないが、今すぐやめてほしいのは見え見えの自作自演。
特に
>>143から
>>192あたりは見るに耐えない。
コテと名無しを交互に繰り返して「同意」だとか、44歳にもなって本当に恥ずかしくないのか?
そういうつまらん小細工をするから
>>163のようにトリップを打ち間違えてぼろを出すのだ。
クッキーをオフにしているはずも無いので、このような間違いは自然には決して起こらない。
証拠は挙がってるんですよ。
他人に対して荒らしだとか難癖をつけるくせに、自分はルール違反し放題ではないか。
これに関しては自治厨めいた真似はしたくなかったが、さすがに見過ごせない。
正直な告白と反省を要求する。
ごまかすようなら、削除人にアク禁依頼を出す。
ヒッキーの糞スレ削除があっさり通ったことからも、削除人が正常化に向けて動き出していることは明白なので、このアク禁依頼も通る可能性が高い。
ちなみにヒッキーと削除されたスレのモモソが同一人物であったことも明白である。
コテで削除判断したのではなく接続IPで検索するのが2ch削除人のやり方だからだ。
361 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 12:50:26
ここでは未だ触れませんが、(奴国・不彌国)と投馬国の位置関係が南北であることを【南至投馬国】
以外で書き表しているのですが、ここでは触れない事にしておきます。
362 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 12:55:46
>>360 そう言う事はIDをきちんと取ってから言うように、
一発で判る
もうひとつの方法は、削除依頼を出すことかな?
363 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 13:04:38
もうひとつこれは太国さんに忠告しておく。
あなたに対して暴言(これは完全な荒らしだろう)を吐いた人物を
あなたは畿内説論者の誰かだと考えているようだが、おそらく違う。
罵詈雑言を繰り返し読むのは嫌だろうが、よく読み返してほしい。
「どこですか」の423で「犬」と書いた人物は当スレ
>>81で
油断したのだろうが同じ表現を使っている。
ちなみに彼には「16歳」と「16さい」との2つの異なるハンドルを使いながら
同じトリップになっているという2chの構造上ありえない現象も確認されている。
これはトリップ部をコピペして使用しているためで、通常なら複数のいわゆる偽者説が考えられるが
この場合単に荒らし目的のために手間を惜しんだ推測される。
邪馬台国と関係ない内容を連続投稿して他のまじめな参加者には悪いと思うが
もう笑って見過ごせる段階ではないので、あえて書いた。
この2人については明確な回答と反省、そして今後このような行為を一切しないとの確約を宣言しない限り
アク禁依頼を近日中に出す。
364 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 13:05:04
>>360 あのねぇー
なら
今すぐアク禁と削除依頼を出すことを要請するよ
携帯からのトリップに対するミスタイプはしょっちゅう起こりうる!
365 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 13:07:17
ヴィーナス で検索してみて・・・元アイドルがいる?
366 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 13:09:36
>>362がプラムの答えか?
削除依頼を出せというわけだな。
IDなんぞ専プラで見れば一発で判明することも知らんのか?
日本史板はIDが無いのではなく、ふつうのプラウザでは隠れて見えないというだけなのだ。
もう一度だけ聞く、反省と謝罪の気は無いのだな?
367 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 13:14:01
>>363 近日中等と悠長な事言ってないで 今すぐにでも依頼を希望する。
身に覚え無し!
368 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 13:14:43
>>364 嘘の上塗りをするな!
携帯からの投稿かPCからかも末尾数字によって簡単に判明するのだ。
君は携帯とPCを交互に使って自作自演したこともあるだろうが。
それとも君の携帯は発信者の名前さえ記憶してくれないなのか?
そんなおんぼろ携帯など、この世に無い!
369 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 13:21:50
それともうひとつだけ言っておく。
君は複数のアドレス(もしかすると回線も複数か?)と
これまた複数の携帯を使用しているようだが、それもバレバレだ。
一見自信があるような書き込みは「だからばれない」とでもたかをくくってるのだろうが
管理者でもなんでもない俺にも明白に分かるくらい、手法が幼稚なのだ。
お望みらしいので、今からアク禁依頼を出してくる。
君の使用した全てのアドレスと回線に対してだ。
370 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 13:32:08
あと、
私は何時も携帯(FOMA)から それも一回線だけ
PCでの投稿は一度もなし
371 :
圭角:2006/03/16(木) 13:32:42
私は、倭人伝もしくは倭人条というものは、あくまでも魏書第三十の烏丸鮮卑東夷伝
の一部として読むべきが正当かつ適切ではないか、と思っている次第なのです。
このことは、松本清張氏も提唱されて久しいのですが、未だに不十分と見受けれます。
ちなみに、魏書第二十九巻は方枝伝という人物列伝です。
倭人伝倭人伝とは申すものの、倭人伝のみが独立している訳でないことは周知の通り
です。なんとなれば、まずは、魏書第三十巻の位置付けや意義を思料すべきでしょう。
倭人伝の一字一句にはなんらの誤謬も無いと断言してはばからなかった学者先生が
いらっしゃいましたが、私はその人は東夷伝もよく読んではいないと思います。
372 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 13:37:06
あ〜あ、みんな知っていながら面白いから黙ってたのに・・・
これでプラムやヒッキーともサヨナラかw
373 :
圭角:2006/03/16(木) 14:04:16
みなさん、冷静に議論しましょう。
ところで、魏書三十巻の構成をあらためて、一見したく存じまして書くと
第一が武帝紀、第二が文帝紀、第三が明帝紀、第四が三少帝紀ですね。
卑弥呼が俾弥呼という字体ですが、卑弥呼の初見は第四の三少帝紀です。
ご承知のとおり曹操が武帝、曹丕が文帝、曹叡が明帝です。
三少帝紀という意味は、3人の幼いもしくは若い帝という意味であり
斉王、高貴郷候、陳留王です。陳留王が魏の最後の皇帝で帝位は晋に簒奪されます。
さて、第五巻は后妃伝です。
第六巻から第二十九巻は、いわゆる人物列伝です。
そして第参十巻が烏丸・鮮卑・東夷伝ですね。倭人伝はその最末ですね。
西域伝もありませんし司馬イやその子の師や昭及び孫の炎の伝はありません。
洛陽遼東間の里程は四千里と明帝紀に記してあります。
高句麗は遼東郡の東千里と東夷伝の高句麗伝に記してあります。
つまり実際の地理と整合しています。
しかるに帯方郡から朝鮮半島の狗奴韓国までが七千里と陳寿はあえて記した
のです。誇張であることは、ここにおいて明白だといえるものなのです。
374 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 14:11:33
あのー?
削除依頼未だ出されていないんですが?
早くお願いします。
それとも 嫌がらせですか?
だったらかなりの悪質犯
こっちから要請かけますよ
375 :
圭角:2006/03/16(木) 14:18:07
多少のノイズは仕方ないでしょう。我慢しましょうよ。
議論において論戦が、もしくは舌戦が過熱することは
かくなるスレにおいてはある程度やむを得ぬことだと
存じます。
古代史論争は、まさしく争いという本質の下において
行われて来たという歴史さへもあることですから。
たまには面白い面もあり、いいではないですか。
376 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:39:16
プラムさん、出てますよ、削除依頼。
それと要請かけるのもいいと思います。
377 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 14:45:58
あれ?
出てましたか?
みのがしたかな?
出来ればリンクできませんか?
依頼が出ているならそのうち有無の判断が出るでしょう
378 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:49:58
削除つーかアク禁依頼ですな
プラムさんは携帯からのアクセスらしいから専用プラウザを使えないかもしれませんが
今2ちゃんは原則としてIEやDOKOMOなどからでは依頼の全貌が見えなくなってるはずです。
ホットゾヌあたりで見てはどうでしょうか。
379 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:53:05
ついでにいうとヒッキー君のアク禁依頼もでています。
380 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:56:22
>>375 同意だな。冷静に、真摯に議論するべきだろう
ある考えに同意できぬのならば、自説を展開したうえで反論すればよい
突拍子もないところに真実が隠されておることもあろう
このスレの方々も今よりもっと真摯に議論を深めてゆかれるだろうと信ずる
360氏もまさか悪意からあのようなことをおっしゃったわけではあるまい
年齢や職業などにとらわれず、おおいに論じあおうではないか
381 :
圭角:2006/03/16(木) 15:07:18
倭人伝を読む場合に案外忘れられていることは、三国志が現代史であった
という点です。陳寿が生まれた翌年が諸葛孔明が陣没しています。
司馬仲達がクーデターで魏の政権を完全掌握したのが陳寿の十八歳の頃です。
そして呉が滅んだ年が陳寿は四十八歳でした。
つまり、三国志が他の正史と異なる最大の特徴は、晋が中国を統一して
間もない頃に、現代史として晋書ではなく三国志を書いた点です。
いうまでもなく、晋は漢や魏のように武力により国を建てたものではなく
司馬氏に対抗する政敵を、わが国でいうと北条氏のように駆逐排除しながら
国を起こしたというより、魏から国を簒奪した暗い陰険悪辣な手法でした。
倭人伝に限らず帝紀においてはまさに腐心というよりイノチガケで
書いたものでしょう。ところが、現代史の正史ですから、当時の読書人は
その事情も承知していたはずです。
万弐千余里も、もとはと言えば、ここにこそ有るのです。司馬氏顕彰です。
倭人伝のみの里程での計算では徒労です。顕彰と誇張なのですから。
>>378感謝です。
そういうことならいずれなにかしかの結果が出るでしょう。
383 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 15:22:49
なぜ僕がアク禁なんですか?何も悪いことしてないのにひどすぎます(>_<)
384 :
圭角:2006/03/16(木) 15:24:17
たまには、言い過ぎてもいいじゃありませんか。日本古代史論争は所詮は
クチ喧嘩という面は大いにありますよ。
それは、碩学の学者先生の間においても多々あることを皆さんご存知でしょう。
アク禁とは、アクセス禁止のことですか。ナンセンスですね。
名前やコテハンを変えることもできるでしょうし、携帯も容易に変えれるでしょう。
当該チャンネルの担当者の方へ謹んで申し上げますが、
プラム氏の投稿は異常なものではないですよ。
誰にしたって、この日本古代史の世界は自説に固執したくなる傾向には、普遍性が
存すると言っても、けして過言ではありません。
民主党議員の偽メール問題ではないのです。
さまざまな説や意見が噴出して来るのは、そもそも致し方ないスレと言えます。
385 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 15:34:40
>圭角さん
360氏は論の内容を問題視しているのではなく、おそらく投稿者のモラルについて憤りを感じているのでしょう。
もし彼のいうように自作自演や名無しでの荒らしが事実であるならば、これは正当な要求でしょう。
ただ個人的には自作自演も2ちゃんの華である部分も無きにしも非ずとも思いますがw
そんな自分でも、
>>383のヒッキー君の居直りとおとぼけは限度を超えているとは思いますけどね。
彼は言い訳より先にまず太国さんに謝るべきでしょう。
386 :
圭角:2006/03/16(木) 15:35:09
当該スレッドのアク禁担当者殿へ上申
プラム氏とヒッキー氏のレスはアク禁処分に該当するものではありません。
御両名の投稿の内容を読み返していただければ明白であります。
誹謗中傷はありません。自説の強調は当該スレの性格上やむを得ぬものが
存することも確かであります。
公序良俗を犯すものでないことをお2人の投稿文にてご確認ください。
387 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 15:43:10
プラムのアク禁はちとかわいそうかも知れんが
ヒッキーは糞スレ乱立と罵倒の前科があるのでしょうがないんじゃねーの?
本人ぜんぜん反省して無いようだし、十分奴は公序良俗を犯しまくってると思うが。
388 :
圭角:2006/03/16(木) 15:44:05
当該スレッドのアク禁担当者殿へ上申
当該スレッドが特別格別なものとは当然に認識致してりませぬが
学者間の論争におきましても、著名碩学の先生方が捨て台詞めいた
言葉を口になされることも、ままあります次第です。
当該スレを楽しませていただいている者として、担当者殿の
ご高配を賜りますようお願い申し上げます。
拝 不一
389 :
太国:2006/03/16(木) 15:47:05
傍聴済。
390 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 15:48:39
圭角さんならびにスレ住人諸氏
迷惑をおかけしております。
391 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 15:50:52
まあアク禁でも別にいいんですがね。やはり素人がああだこうだと言ってもしょうがないので専門家になれるようまず大学受験を頑張りますかな
392 :
圭角:2006/03/16(木) 15:51:49
ヒッキーさんは、未成年者ということも斟酌して然るべきと存じます。
大学検定を受けながら、当該学問版に投稿しているという点を勘案して
いただきたく存じます。
かくなるスレでありますから、酌量の幅を賜りたく思う次第です。
393 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 15:56:05
>圭角さん
上申はここに書いてもダメですよ。
2chの削除に関してのルールは定型フォームのみしか受け付けないというものです。
あの日本生命の執拗な要求もすべて突っぱねてたでしょう。
同じ削除依頼フォームから、形式にのっとった形で出さないと。
それが2chの恐ろしいところでもあり、またある意味頼もしいところですから。
394 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 15:58:35
諸氏に要請。
もし、過去のデーターを調べられる方がありましたら私の最近のレスをお調べ下さい。
私のホスト局は水戸
機種は以前から
SH900iです。
機種を変更してもホスト局は変わらないはずです。
395 :
圭角:2006/03/16(木) 15:59:41
上申書
当該スレアク禁担当者殿
圭角
なにとぞ、ご高見をもちましてご高配の段、重ねてお願い申し上げます。
396 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 16:01:08
古文書を読んだり発掘の最前線にいなくては意味なし。そこらに売ってる本読んでああだこうだと言っても素人レベルだし趣味の領域でしかない
397 :
圭角:2006/03/16(木) 16:06:53
393氏へ。お願いします。
当方パソコン初心者にてご支援賜りますようお願いいたしたく存じます。
これを前例として、アク禁止依頼の乱発を危惧するからであります。
398 :
393:2006/03/16(木) 16:13:37
>圭角さん
申し訳ないがその支援要請には答えられません。
これはプラムさんやヒッキーさんの投稿内容とは一切関係なく
2chがそういうやり方&考え方で運営されており、我々が口出しできるものではないからです。
たとえ初心者であっても本気であなたがそうお考えならば、簡単に出来ます。
なにしろここは未成年の犯罪者の顔写真や本名、住所でさえ
きちんとした依頼フォームでないと削除しない場所なのですから。
利用者はそれを分かった上で投稿する覚悟が必要なのです。
399 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 16:13:40
自宅パソコン、携帯、図書館、漫画喫茶と4か所からいつも書き込んでるのですがどのサーバをアク禁にするつもりですかね?w全部だったらすごいな
400 :
393:2006/03/16(木) 16:17:50
>ヒッキーさん
甘く考えてはいけません。
自宅PCと携帯にはプロバイダに、図書館と漫喫には直接通知が行きます。
また削除人が本気になればアドレスどころか名前も晒します。
過去にもそういった例は山ほどありますよ。
401 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 16:22:58
では僕の名前が天下に知れ渡るわけですか、サガミさんのようにw
(´-`).。oO(NGワードで弾けばいいのに・・・・・)
>>385さん
>モラル
★成る程
見に覚えの無い濡れ衣着せられて 叩いた方はいい子気取り
たまりませんね!
そういう世界だから仕方有りませんが これじゃコテ付けて、スレ引っ張るヤシは皆無になりますよ!
…圭角さん…
いろいろありがとうございます。アク禁にはなりませんので
今後ともよろしくです。
反省等しませんよ!
身に覚えのない事ですので
なんか最近棲み分けがはじまって本スレが閑散としていますね。
406 :
”倭の女王墓”公園開園のお知らせ:2006/03/16(木) 18:51:24
407 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/16(木) 18:56:25
この騒動をみていると、言論の自由とか、学問の自由とか、その表現の自由とかどう考えておられるのでしょうか。
この2chに公共性を期待はしないが、どんどんおいだしていくのは、上記の自由の圧殺につながるのではないだろうか。
確かに目に余るレスもあるが、自重を願うしかないであろう。
ひどくなってくれば、やーーの掲示板から私がにげだしたように、淘汰されていくのではないでしょうか。
408 :
圭角:2006/03/16(木) 19:03:17
プラムさん、こんばんわ。
皆がときどきプラム説をとんでも説と言いますね。
私も、ときどきそう思いますよ。でも、自説の主張は大切なことなんです。
そして、その自説が批判を浴びたとき、また、考えればいいんです。
しかるに、そのとんでも説にすら、論理的反論をできぬまま、名前無しにて
単なる誹謗中傷をするのみでは卑怯なことです。
私もこれからプラムさんのご見解において異論あるときは、できうる限り
根拠理由を明示して反論し、かつまた論争させていただきますので、よろしく。
畿内説論者ですが一言。
もしプラム氏やヒッキーさんが自演していたとしても、わざわざアク禁にする
ほどのことではないでしょう。別に自演で支持しても基盤が弱ければ撃破され
るわけですし。
それにプラム氏がいなければ本スレが盛り上がらなかったと思います。そこ
ら辺も考えて「アク禁」とかの発言をして欲しいです。
410 :
圭角:2006/03/16(木) 19:13:05
安曇さん、プラムさん、この騒動のさなかに私は相当の本論の書き込みを
致しました。もし、よろしければ見ていただいてご批評ご批判なりを、
賜りたく存じ上げます。それこそが、スレ正常化もしくは清浄化と存じます。
>>410 レス読みましたが、文献の解釈に関しては圭角さんのおっしゃっていることに
禿胴です。(邪馬台国の所在地は別として)またプラム氏のマツラは唐津じゃ
ないというレスも、従来の九州説にない論で新鮮でした。
以上感想。
413 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:35:53
邪馬台や狗奴が呉と修好していた可能性はないだろうか
呉誌倭人伝とでも呼ぶべき書物が出てくれば研究も進むのだろうが
従来の資料のなかに見逃されている文献や引用などはないのだろうか
414 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 19:42:15
呉までいける航海技術はなかったように思いますがw
朝鮮までいくのにも持衰とかいうのを連れて行くほど
ハイリスクだったのにましてや呉までは無理でしょうw
415 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 19:45:16
むしろ朝鮮の資料の中に見逃されている
文献がないだろうかと考えています。
416 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 19:48:50
圭角さん安曇さん
ご迷惑をおかけ申し訳有りません。
圭角さんの言わんとしていることは、以前の私も同じ様に考えていましたので
十分理解出来ます。
しかし、それなら
女王国迄萬二千餘里、これだけで十分な筈であり、
細かな里数表示など必要性のないことと考える次第です
417 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:49:34
【百済の歴史】
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
418 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:53:29
また根拠の全くない妄説をコピペしてる。
こいつこそアクセス禁止だよ。
419 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 20:10:19
420 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:13:52
>>414 浪高い玄海灘よりは安全かもしれぬ
長崎や熊本からは揚子江河口まで陽の沈む方向へ一直線
>>415 さすがに目のつけどころがいいな
421 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:14:52
【百済の歴史】
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
422 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:30:53
こいつこそアク禁依頼しよう
423 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:34:58
>>420 >さすがに目のつけどころがいいな
これですか?
【百済の歴史】
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
古代史関連全部貼り付けかよw
>>420 海流逆だが。
遣唐使船の時代でさえ難航してますが。
江南→日本ならわからんでもないが
426 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 21:05:44
>>425 たしかに海流は逆だな
玄海灘の航路は伊都がおさえていただろうから邪馬台が伊都を支配下におくまでは
有明海沿岸の国々がこの航路を使っていたのでは、と考えたのだが。ありえぬのかもな
卑弥呼の朝貢のタイミングの絶妙さから、邪馬台は大陸の情報を割合正確にとらえていた気がするな
公孫氏とは通じてたぽいから、公孫が滅びすぐ乗り換えた
428 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 21:24:52
一つの可能性にきづきました。邪馬台国は畿内であり、女王国は女王国であり九州にあったということです。都が邪馬台国だったと書かれてるだけで、それを女王国だと錯覚してるのではないかと。トンデモ説っぽくてすいませんがm(_ _)m
429 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 21:31:06
女王の都が邪馬台国、よって邪馬台国が女王国
ただし、倭人伝では女王国は女王を倭王とする倭国全体の意味でも使っている。女王国以北云々と女王国まで万二千里は女王国=邪馬台国だが、他の女王国または単に女王(女王の境界尽きる所)は倭国を指す。
430 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 21:41:35
女王のいるところが女王国であり九州であり邪馬台国は女王が統治している倭国の都である、それは畿内であるとは考えられないものかと、やっぱトンデモ説でした、忘れてくださいm(_ _)m
431 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 21:44:51
邪馬台国とは三十国体制の地であり、女王国とは女王の直轄地
邪馬台国は、一固有の名詞ではありません
だから各史書によっては、邪馬壹・邪馬臺・邪摩惟・邪摩堆と当て字が変化する。しかし
「ヤマタイとヤマイ」の二種類のカキコしたない。
432 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 21:48:10
>>431削除
>当て字が変化
この部分を削除します。
433 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:05:22
>>428 まつりごとと政治の実務が分離していた可能性は高いと思う
実際の政務を執っていたのは
邪馬台では伊支馬であり、狗奴では狗古智卑狗だったかと思われる
434 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 22:42:28
もう一つ倭人伝を読んできづきました。京都という地名がでてきますがこれは韓国ではなく九州にある京都のことではないかと。ここが卑弥呼のいたとこじゃないんですかね?
435 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 22:51:34
単に都の意味
しかも文脈から中国の都ね
436 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 22:55:28
どうも僕も毎日こんなとこきてるせいで、プラムさんの病気が移ってしまいトンデモ解釈しているようですね
こんなことではいかんいかん(-.-;)
437 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/16(木) 23:00:49
>435
よく読んだら貴方がおっしゃるとおりでしたさっき言ったことも忘れてくださいm(_ _)m若げのいたりとはいえ恥ずかしい(-.-;)
思いつきの誤読を強弁しないようになっただけプラムよりマシ
研究者になりたいようだが、2chに入り浸りするヒマがあるなら勉強しなさい。
また考古学や古代史のまともな概説書を読みあさりなさい。
藻前が言うなといわれそうだが。
その前に大検受かって大学行くのが先決だが。
440 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/16(木) 23:49:56
>>436 >プラムさんの病気が移ってしまい
★その辺に数多く出回っている翻訳本を忠実に実行すると
結果的に この有様(未だに何にも進展していない)
どちらを選択しようが君の自由! 『電車男は一人で十分、二匹目の泥鰌はいませんよ』
そしてプラムの思いつき誤読がこの有り様をさらに混乱させるわけだw
ヒッキー君、プラムを反面教師として頑張ってくれ
ス 当 ス
ル 分 レ
| の 沈
を 間 静
お プ 化
願 ラ の
い ム 為
し レ
ま ス
す の
443 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 00:01:11
なぁーるほど
段々読めて来ました フムフム
阿保らし! 寝よう。
444 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 00:07:38
>>442 では、明日からナンデモ有りにカキコさせてもらうよ!
コテ叩きって
一発無条件で………!
阿保ラシ
ん 私 ま 実
| が 私 は
つ み で プ
め ん い ラ
ん な い ム
ど や ん 畿
く り じ 内
せ ま や ス
| し な レ
た い で
! で 犯
す 行
か を
自
白
済
446 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 00:37:30
ここまで来ると異常だね!
ここ最近のスレの状態変?
『太国』さんに対する暴言も、今まで見たこと無い誹謗だったし
私に対する叩きも 新しいパターンだ
きっと古くから居る住人さんは感じてる筈
いや、ちょっとは反省しろと言いたい。ちなみに私は上と別人だが。
448 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 00:47:32
449 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 00:52:01
そうです
反省すべきですよプラムさん。
トンデモ解釈で毎日スレをかき回してどうするんですか?
無知無学の僕がいうのもなんですがねw
450 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 00:55:32
お休み!
毎日毎日、公開オナニーのような駄文のオンパレード。
スレに則した議論は全く噛合わない、煽りとしてしか反応していない。
彼とまともなコミュニケーションを構築できる術は無いと思う。
これだけ嫌われても意に介さないちゅーか、
意固地になって暴れまくるような奴はスルーしかない。
452 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 01:05:34
あ!寝る前に
ヒッキー君 今日一日“乙”です。
確かこのスレのスレ主は君だったよね!後は君の自由に使えばいいよ!
午後からタイミング良すぎとにかく 乙です。
早く寝ろよw
つ NGワード
455 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 06:29:33
鹿児島はタバコの産地→タバコを吸う弥生時代に風習があった→黒歯国は鹿児島
タバコは中世末南蛮伝来だが。しかも新大陸原産w
457 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 08:45:17
黒歯国は伝聞で聞いただけなんじゃないかなw
たぶん東南アジアとかそのへん
458 :
圭角:2006/03/17(金) 08:45:53
おはようございます、みなさん。
浅学浅識の私が申し上げるのも恐縮でございますが、烏丸・鮮卑・東夷伝を
一度はお読みになってみませんか。
いろいろありますが、ちくま学芸文庫の4がもっとも入手容易と存じます。
さすれば、東夷伝なかでも倭人条は、とりわけ誇張が多いと、かならずや
お気づきになり、倭人伝観にもそれなりの影響をお受けになることは必至です。
口語訳ですから、半日足らずで楽に読めますよ。
459 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 08:50:07
僕は静岡在住の田舎なのでそのような本は
本屋でみたことがないですwかろうじて
安本氏の邪馬台国東遷とかいう本はありましたw
460 :
圭角:2006/03/17(金) 09:01:48
プラムさんの416へ返信。
私は、魏書を通読して思うことは、東夷伝は司馬イ顕彰伝にほかならぬという
結論に至りました。司馬イの武功により、韓は平定され倭は属国になった次第
ですから、司馬宣王様の威光は万二千里に及んで輝いたと、陳寿ならずとも
記すのは至極当然なことです。
水行二十日陸行一月もの行程を要する絶遠の倭国の朝貢は、司馬宣王さまの
勲功活躍の賜物と記すのは、至極当然です。
ともかくも、烏丸・鮮卑・東夷伝に目を通していただければ、と願うものです。
461 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 09:03:14
では呉への牽制のため邪馬台国への記述のところを
南を東に書き換え改竄した可能性はないのでしょうか?
462 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 09:54:48
あれっ?奈良に海あったっけ?海に潜って魚を獲る?畿内説の初歩的ミス!しかも畿内説はそこに触れたがらない!人間都合の悪いとこは触れたがないもんよ!
463 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 09:59:14
畿内説論者は邪馬台国人は「池に潜って魚を獲ったんだよと」暴論甚だしい。
464 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 10:09:24
圭角さんおはようございます。
遠絶の地を表すのなら
水行一月、陸行一月で十分ではないかと
二十日等と中途半端な!
465 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 10:12:37
466 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 10:16:14
平原の王墓が卑弥呼の墓の可能性もあるのでは?
邪馬台国に卑弥呼の墓があるとはかかれてませんし
伊都国に墓を作っても不自然ではないでしょう。
467 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 11:28:03
>>458 おっしゃるとおりだ。
邪馬台国研究においては当時の東アジア情勢からの視点を忘れてはなるまいな
>>466 邪馬台に卑弥呼の墓がない可能性はあると俺も思う
俺は宇佐神宮に卑弥呼、もしくは卑弥呼の御魂の象徴が眠っているのではと考えている
468 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/17(金) 12:36:48
>>458圭角さんへ
萬二千餘里を観念的な数値と とらえた場合
現実的・観念的の線引きを何処で行うのでしょうや!その選択の段階で既に“都合”に合わせた選択の始まりに
なるのではないでしょうか?
つじつまの合わない部分を観念的な考えで流しても
よろしいのでしょうか?
取り敢えず
私は書かれた物に対し、正面から攻めるつもりです。
では!
470 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 12:40:05
ヤマタイは、耶馬渓とゆうことで。
その地名は新しいがw
圭角はともかく、他のヤシは知能レベル丸出しで話にならんな。
475 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 13:36:41
僕は自演などしたことはありませんよ、冤罪です(>_<)
476 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 13:41:34
>474
まあ中卒ですしご勘弁を。他の方も高卒とかですしw本出してるサガミさんは神奈川の教師だから横国卒かな?それでも本売れないみたいですが(-.-)zzZ
>>475 誰も信じないよそれw。
名無しでよく相づちしたり、自画自賛してるじゃん。トンデモ宇佐説とか。
478 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 21:58:37
479 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/17(金) 23:55:47
サガミさんってこんなにすごい本だせる
勉強家だったとは・・トンデモ説ふりまいてるだけの
頭のおかしなおじいさんだとばかり思ってましたがw
見直しましたよ。いやはや立派な作家・先生じゃありませんか
480 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/18(土) 00:01:40
>>477 勘弁してくださいよw
僕は自演なんてしておりません。
IDがあればわかるのに・・
IP抜いてくれれば別人だとわかるはずです
サガミは本出しただけで、内容はここの書き込みに同じただのトンデモ
482 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/18(土) 00:21:32
サガミさんは神奈川出身じゃなくて
北のまほろば、カーリングで盛り上がってる青森出身だったんですか。
いいとこですねえ。たしかなんか有名な縄文時代の遺跡が
あったような気がしました。なぜ弘前大学から相模原の教師に
なるのかいまいちわかりませんがw
483 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:15:05
畿内説の工作員さんはもう出てこないの?
このスレ荒らしてまともな議論を妨害しようとしてるとしか思えない奴がいるんだけど
揚げ足とったりチャチャ入れるだけでさっさと逃げる奴
こういう奴こそアク禁にすべきなんじゃないの?
邪馬台国が畿内にあろうが九州にあろうが知ったこっちゃないけど
見苦しいったらありゃしない
484 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 10:34:39
>>483 たしかに「バレバレ」な者が一匹まぎれこんでおる感じはするな
485 :
圭角:2006/03/18(土) 11:03:13
プラムさんに返信。ご参考までに。
罽賓国 長安を去る万二千二百里に在る カシミール
烏弋山離国 長安を去る万二千二百里に在る アレキサンドリア
安息国 長安を去る万一千六百里に在る パルチア
大月氏国 長安を去る万一千六百里に在る バクトリア・アフガニスタン
康居国 長安を去る万二千三百里に在る キルギス
大宛国 長安を去る万二千五百五十里に在るフエルガナ・タシケント
以上は、漢書の西域伝の記事です。
これら西域の国々は四捨五入すれば、いずれも万二千余里になりますね。
つまり、万二千余里とは遠絶であるということの観念的里程ですよ。
その証拠に、あらためて上の里程を見てください。
これらの国々の位置と地域は異なるにもかかわらず、すべて万二千余里なのです。
それから、ご存知のとおり、三国志には西域伝はありません。
したがって、倭人伝に万二千余里と記さざるを得なかった訳です。
486 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 11:14:03
487 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/18(土) 11:16:07
では計画さん、方角は呉を意識して東を南と改竄したとすればやはり邪馬台国は畿内になってしまいませんか?
488 :
圭角:2006/03/18(土) 11:17:04
明帝紀に、大月氏国王の波調を親魏大月氏王としたと記してあることは
ご存知と思います。
さて、その大月氏を魏に朝貢させたのは、司馬イの政敵好敵手の曹真です
司馬イが粛清排除した曹爽の父親です。
魏の時代の読書人はその大月氏国が長安から万一千六百里と記してある
ことは、皆知っています。
まして三国志は東夷伝を立て西域伝は立てていません。理由は簡単です。
文帝が勢力を拡大し司馬イの好敵手の曹真が活躍した地域が西域であり
その曹真の活躍勲功により大月氏の魏への朝貢が実現していたからです。
489 :
圭角:2006/03/18(土) 11:26:16
ヒッキーさんへ。
呉の牽制云々は年表をご自分でご確認されれば簡明に理解できますよ。
陳寿の生年と呉が滅んだ年次です。
魏書の帝紀は、いつまで記してあるかをご自身で確認なさればご疑問は
すぐに氷解します。
と書くのは少し意地悪ですかな。
三少帝紀は265年まで書かれています。
後はご自分で確認なされる方が得心できますよ。
490 :
圭角:2006/03/18(土) 11:42:45
ヒッキーさん。
明帝紀だけでもお読みください。
呉が頻繁に魏の領土に停泊しては遼東や高句麗らと接触通交したという記事を
お読みになり、ご自身で得心されることが一番ですよ。
492 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/18(土) 11:50:56
田舎に住んでるので蔵書は乏しいのですよ、とりあえず呉への牽制は白ですか、では計画さんはどこに邪馬台国があったとお思いでしょうか?
493 :
圭角:2006/03/18(土) 12:35:17
お応えせずばなりますまいな。
私は狗奴国の位置をまず比定すべきと考えます。倭人伝からは始終
邪馬台国と抗争していたと伺えますので、まず平地つまり筑後平野に
連続して存したとは考えにくい。血の争いもあったのかもしれないが
争いの原因は狗奴国が邪馬台国の経済果実を欲しての戦いだと思う。
しかも素よりとあるから、この抗争はなかなか決着が着かなかったと
判る。なんとなれば、この二つの国の間には常時、軍事境界線の役目を果たす
地形地理が存在したものと推測される。
つまり、常に戦いをおこなえて、かつ、停戦退却休戦の可能な地形地域。
それを、九州の地形から探すとなると、何処か、という思考回路になる。
しかも、その地域から倭人伝も記している弓矢の鉄の鏃が多く出土する
地域であれば、なおさらよい。さらに、この二つの国は南北に在ると
倭人伝は記す。
もうお分かりでしょう、ヒッキーさん。九州の地図帳見てください。
494 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/18(土) 12:53:03
>>493 圭角さん
横レス失礼。
“素不倭”は狗奴国でも狗奴国王でもないよ!
圭角さんも“毒されて”いますよ!
漢文は難しい。
失礼しました 。
495 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/18(土) 12:55:11
分かりませんw
く奴国は熊本で邪馬台国は甘木あたりといったところでしょうか?
>>492 牽制云々の是非は置いておくとして、
倭人伝の地理的記述、倭の位置認識が何時出来たかも考えてごらんなさい。
別に陳壽の創案でなければ、生年とか呉滅亡とかは関係ないよ。
圭角氏の主張を良く読むと「魏志東夷伝が司馬懿顕彰のためにある」と言うだけで、
別に「対呉牽制策」説を否定しているわけではない。
魏は238年、初めて朝貢してきた一見さんにいきなり「親魏倭王」を与えています。
これは倭の勢力を甚だしく「過大評価」したものだと思われる。
しかし、この「評価」は238年の時点で行われたわけ。
呉は未だ健在で、陳壽は6歳の幼児ですな。
「過大評価」が如何なる事由で為されたかは不詳。
倭の朝貢を取り付けた太守劉夏が自己の功績を売り込むため虚偽の報告したか、
或は京都側の重臣が対呉戦略上の情報操作として帯方からの報告を改竄したか、
或は倭人自身が虚言を為したか、またはそれらの複合なのか・・・・
ともかく「親魏倭王」を与えるに相応しい「倭国」像はこの時に成立している。
梯儁、張政等の郡遣使の往来よりは先の話。
陳壽や魚豢はこれらの報告も参考文献として魏志、魏略を書いているので、
「・・・・自郡至女王國萬二千餘里」の路程図が出来たのは魏志編纂の時とは
限らないわけですよ。
>>494 狗奴国が女王に属さずなんだから、王も属さないのが当然だろ。別のところに書いてあるからってそんな読み方はありえない。
しかも不和なわけだし、女王に属さずを別の言い方で言ってるようなもの。
狗奴国が女王に属さないんだからその王が属さないという普通の読み。
《原文》
其南有狗奴國男子為王其官有狗古智卑狗不属女王
文の流れから官だけが属さずではなく、狗奴国が、属さず、だが
一続きだから男子を王となす狗奴国が女王に属さず、で何の問題もない。
其八年太守王(斤頁)到官倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯鳥越等
素より不和って書いてあるじゃん
倭女王卑弥呼と(与)狗奴国男王が素より不和
>>497 狗奴國は(与)であり
素不和は男王卑弥弓呼だろう
トンデモプラムの発言だから、気にしないで!
意味不明
500 :
圭角:2006/03/18(土) 13:35:03
プラムさん、よろしければ具体的にご指摘ください。まず
狗奴国男子為王、其官有狗古智卑狗、不属女王 とありますね、そして
卑弥呼興狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 ですね。
素の意には、字通に拠ると、もとより、まえから、つねに、があります。また
素懐とは日ごろの思い、素願とはいつもの願い、素旧とはふるなじみ、と
唐の王維の詩、晋書、後漢書にそれぞれに用例がありますから
素不和をして、もとから不和と訳して可と考えます。
むろん、卑弥弓呼素までを人名とする説も知っておりますが、
邪馬台国に都する女王卑弥呼と狗奴國もしくは狗奴國王が不和であったことは
明白だと存じる次第です。
錯誤混同がありますならば、ご教示ください。お願いします。
501 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 13:58:34
502 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/18(土) 14:11:05
圭角さん
狗奴国は与です。
卑弥呼の与組です。
『与』を辞書にて調べれば判ります。
私が言うと 信憑性にかけますので 『与党?』…〇明党みたいなものかな……?
『男王』って
何か判りますか?教えて下さいださーい。
503 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/18(土) 14:24:22
こんなことばかりしていてはサガミさん、プラムさんのように病気になりそうです。たまに本読む程度がちょうどいいかな
504 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/18(土) 16:33:13
>>500 圭角さん
一つ忘れていました。
★『不属女王』ですが
後漢書倭伝にそのヒントがカキコされていますので参照下さい。
最後の方です。
そして、時間がありましたらその部分の 『自女王国』『自朱儒』の『自』とは何か等を探るのも面白いかも!
505 :
日本@名無史さん:2006/03/18(土) 16:35:37
【百済の歴史】
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
506 :
圭角:2006/03/18(土) 17:14:12
プラムさん、私も興と与の意は存じております。
なれども、相攻撃する状、との文言は如何解されるのでしょう。
後漢書の史料的価値を否定するものではない、と先般申し上げました。
が、後漢書に対するプラムさんのご見解を、まずお聞き致すのが、ここは
順序かと思いますので、宜しくお願いします。
507 :
圭角:2006/03/18(土) 17:28:16
プラムさん、ご案内のとおり後漢書は笵曄、生年398−445年つまり
南朝宋の時代に書かれたものですよね。
陳寿の三国志は三世紀、笵曄の後漢書は五世紀、という歴史的時空が有る
それでも、確かに三国志に陳寿が書かなかった、いや、書けなかった事は
きちんと書いてあるということは、わたしも認めます。
プラムさん、謎をかけずに、是非お示しください。
>>506圭角さん
これは 半分受け売りなんですが私は正しいと信じてます。
その前に、後漢書倭伝に対する一切の不信感を捨ててください。
そしてじっくり読んで『魏志倭人伝』に対する補足記事(二カ所)を感じて下さい
後漢書倭伝は、魏志倭人伝の後に書かれたから尚更意味があるのです。
二つの朝見記事を理解しない限り
圭角さんにも判って貰えない事を十分承知していますので!
どうして范曄は、
数有る朝見記録の中で、この二つの記事だけカキコし後世に遺したか!
『北史』等も参考になりますよ!
『李先生』は後漢書を理解した
圭角さん
『相』攻伐 『相』攻撃 ★御家騒動と解釈しています。
其八年太守王(斤頁)到官【倭女王卑弥呼与狗奴国】其八年太守王(斤頁)到官【男王卑弥弓呼素不和】
※私もマダマダ不完全で
(男王)の解釈に苦慮しています。
あ!圭角さん
ごめんなさい。
二つの補足記事は、二つの朝見記事の事では有りませんから。
(一つは)行程記事前半
(二つ目は)【自女王国東度海〜】
です。
511 :
祝!倭女王銅鏡国宝指定:2006/03/18(土) 18:17:10
また横から失礼します。
倭の女王の墓、祭地ともいわれ謎に満ちた平原王墓遺跡の歴史公園18日オープンの今日、ここから出土した日本一の銅鏡40面が国宝に指定と新聞発表されました。(全国紙報道)
この世界一でもある弥生の巨大銅鏡 王剣 首飾りの宝石類数千個出土の豪華絢爛さは、まさしく倭国の都、邪馬台国の女王の都の王墓出土品にふさわしいでしょう。(出土品展示は福岡県前原市の伊都博物館で)
国宝指定はあまりにもおそい決定ですが、なにはともあれ開園日と重なり、お祝いしたいと思います。取り急ぎお知らせまで。
平原王墓遺跡歴史公園開園ニュース速報
http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/ito-news.html (国宝指定の現地記事は月末アップの予定です)
原文をカキコするの忘れてました。
遅れましたが
【原文】
…其八年太守王斤頁到官倭女王卑彌呼与狗奴國男王卑彌弓呼素不和…
失礼しました。
515 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 07:20:49
>>483 いや、まともな議論されるとまずいから
ふつうに九州になっちゃうから
畿内説は論証してくと脆いから、やっこさん達も必死なわけよ。わかる?
516 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 10:31:15
邪馬壱国が正しく、邪馬臺国は間違いなのではないでしょうか?
邪馬壱国のほうが誤記だというのが有力のようですが、倭人伝の最後に
<臺(魏都洛陽の中央官庁)に詣でて、男女生口三十人を献上し>
という文章があり臺の字が用いられてますし誤記だとは思えないのですがいかがでしょう?
517 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 12:25:09
★ 百済は日本人が建国した ★
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、乾馬国(コマ)と呼ばれていた。
これは、帯方郡が、古代日本人から駒国(コマのクニ)と呼ばれていたためである。
百済を建国したのは日本人であり、そこに住んでいた民族も日本人=倭人であった。
朝鮮人は、半島北部に住んでいたワイ人であり、百済人ではないのだ。
朝鮮人=ワイ人と、百済人を混同してはならない。
518 :
太国:2006/03/19(日) 14:30:41
>>516 クリーン・ヒットだな。国名は『壹』のほうが正解。
519 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 16:58:01
わかりましたよ
45度くらいづらして伊都国が松浦半島の東南にくるようにみればそれが当時の中国人の日本に対する地理感なのです
520 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 17:50:17
>>519 だが郡使が少なくとも伊都国までは来ているということはここまでの距離、方角があるていど正確であるとは言えぬか?
古代人は方角に関してはかなり敏感だったと思うぞ。「東」にあるものを「南」ととり違えるなど考えがたい
奴、不彌への里程が書かれてあるということは郡使がこれらの国に来たことがあることを示し
邪馬台や投馬へは日数しか書かれておらぬということは郡使が直接これらの国へは来てないということではないのかと考える
ついでに投馬へは水行だけで陸行の日数が書かれておらぬということはこの国が島であった可能性も考えられる
521 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 18:10:38
菊池氏と狗奴国の関係に思いをはせてみる
522 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 18:53:11
>奴、不彌への里程が書かれてあるということは郡使がこれらの国に来たことがあることを示し
邪馬台や投馬へは日数しか書かれておらぬということは郡使が直接これらの国へは来てないということではないのかと考える
それは僕もそう思ったこともあります。しかしおそらく魏の使者は
卑弥呼に会ってますよ。なのでおそらく魏の使者は邪馬台国まで
到達してることになります。もしくは女王国と邪馬台国は別物で
邪馬台国は畿内でありそれを伝聞で聞いただけで、女王国は
九州にある可能性です。とんでも説っぽいですが、プラムさんが
前に言っていた言葉を借りれば、水行陸行の日数で距離が表示されているのに
改めて里数で12000余里と記述するのは不自然なふしがあります。
>>522ヒッキー君
12000余里に関してはそれでOK ただし、魏時の記録じゃないけどね
524 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 19:12:48
方向感覚は正確ではないですよ。
根拠は倭は会稽の東治にあると書いてあることです。
これはどうみてもおかしい。会稽の東では
沖縄くらいでしょうwつまりやはり右斜め60度程度
地図を回転させて地図を見ることです。それが
当時の中国人の認識でしょう。
525 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 19:16:49
江戸幕府と朝廷の関係と一緒では?
政教分離ですね。日本独特の体制です。
つまり当時の日本は政治は畿内邪馬台国が主導していましたが
実質的な日本の王は九州の女王国にいたということです。
526 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 19:18:00
>>524 会稽から東に向かっても対馬海流によって鹿児島、熊本、長崎のあたりにたどりつくのではないかと思うが
527 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 21:14:25
>>521 狗古智卑狗は菊池彦ではないかという説をよく見かけるが
この人物はむしろ河野氏の祖との伝承のある河野越智彦(コウノコチヒコ)との関連を考えるべきではなかろうか
「後漢書」には「女王国の東に海を千里わたると狗奴国がある」との記述が見え
五世紀頃には狗奴国自体がたとえば四国へ移動していた可能性が示唆されている
528 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 21:30:40
越智はオチだよ
529 :
伊都発掘ニュース速報の続報:2006/03/19(日) 21:32:10
530 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 21:51:53
クナ国は日向では?
四国も領土だったらしいし
531 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/19(日) 22:04:25
532 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 22:27:50
邪馬台国は女王の都という表現に皆、邪馬台国=女王国だと錯覚してるのではないかと。
533 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/19(日) 22:30:09
534 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 23:15:01
>>533 まず女王国の北〜という文章から
宇佐では方角が合わないのでずっとひっかかってたんです。
神湊上陸説をとればなんとか説明ができますが
やはり松浦半島に上陸したと思い直しました。
伊都国は明らかに前原ですしね。
すると伊都国への方角が合いません。なので
魏の使者の方向感覚はずれていることに気づきました。
会稽の東〜という文章からもそうに違いないと思い至ったのです。
次に、水行陸行の箇所です。郡からの総日程だと今までは
考えてましたが、それはつじつまあわせの苦肉の策にすぎず
放射説も同様で、やはり順次式に読むのが自然だと思い直しました。
すると方向感覚のずれから邪馬台国は畿内にあると魏の使者は
認知してたんだと思いました。日数しか書かれていないので
これはおそらく伝聞で聞いたのを書いたんだと思いました。
つづく
535 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 23:23:31
しかし邪馬台国を畿内としては女王国の東の海や
12000余里の説明がつきません。
圭角さんのいう12000余里は観念的数値だというのも
失敬ながら今ひとつ説得力を欠くような気がしました。
やはりこれも文面どおりとらえるのが自然だと思います。
そして女王国の東の海に関しても畿内では成立しません。
この矛盾点をどうするかと考えて倭人伝を読んでいたところ、
邪馬台国は女王の都とだけしか書いておらず、あとは全部
女王国と書かれてることに気づきました。女王の都だから
女王国だとはかならずしも言えないのでは?という疑問に
ぶちあたり、江戸時代のように実質的な都は江戸でも
日本の王である天皇は京都にいました。それと一緒だと考えれば
女王国と邪馬台国は別物であり女王国は九州の宇佐、邪馬台国は
畿内マキムクにあるのでは?と考えました。こう考えると
矛盾点が消去できるのです。
536 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/19(日) 23:27:48
知識に乏しい素人なのでこのくらいでやめときます
明日は出かける用事があるのでそろそろ寝ますね。
修正箇所があるなら指摘しておいてください。ではでは
537 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 08:52:37
>>534ヒッキー君へ
@>女王国から北〜
※緯度なら問題ない
A>やはり松浦半島に上陸したと思い直しました。伊都国は明らかに前原ですしね。すると方角が合わない
B※文献学と考古学をゴチャマゼで考えるから
C>魏の使者の方向感覚はずれていることに気付きました
※ABで間違えるから全て誤読してしまう。
D>会稽東冶の東
※これも誤読の典型と考える
538 :
圭角:2006/03/20(月) 09:41:25
プラムさん、おはようございます。
わたしは後漢書倭伝は書かれた年次とその記述内容において、三国志倭人伝を
おそうていることは、その記事の改柵において明らかだと申し上げているに
過ぎません。
無論、陳寿は晋帝室の史官でありますから、金印賜与も師升の朝貢のことも
当然に知っていたことは明白です。
しかしながら、そのことを書くのは陳寿の立場からして無理不可能であることもまた
明らかです。それでは司馬イや司馬氏や晋の顕彰とは相反します。したがって、
陳寿は、正史を書くに際しては、あえて省略割愛して書かなかった訳です。
このことの傍証を例示しますと、魏志が魏略に負うていることは定説になってますが
魏略にある、聞其旧語、自謂太伯之後、という記事を無視し記さなかったことです。
これを書けば、倭人の出自は呉の祖先だと書くも同じことになり、表向きは
魏から禅譲を受けた晋帝室を貶めることになります。
陳寿が書かなかった或いは書けなかった事は多と解すべきは当然なことでしょう。
539 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/20(月) 09:50:50
誤読王のプラムさんに誤読呼ばわりされてるようじゃ
僕もおしまいですねw新しいバイトの面接にいってこよ
540 :
圭角:2006/03/20(月) 09:54:32
魏略でも、自帯方至女王国万二千余里とありますが、単にかく記すのみにて
魏志のように行程日数記事はありませんね。
その辻褄合わせを微妙におこなったのが陳寿の倭人伝と、私は思います。
541 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/20(月) 10:18:13
圭角さん、失敬ながらそうなんでも辻褄合わせだと
勘ぐって読んでいても仕方がないと考えますが。
それでは妄想の域をでません。できるだけ修正せずに
合理的解釈をするべきだと思いますが。
542 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 10:34:46
>>540圭角さんおはようです。
>>541ヒッキー君の意見に同意ですな!
郡から女王国萬二千余里は、范曄も使用している所を見ると 後漢時には認識された距離と、とらえて不思議ないものと考えます。
543 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 10:45:45
>ヒッキー君
>>537のBをはっきり区別しないと何時まで経っても雲の中
文中に「前原」なんて何処にも書いてありません。
これって
基本中の基本!
544 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 11:33:23
圭角さんごめんなさい。
>>504 間違っていたので書き直します。
【『其八年太守王(斤頁)到官倭』『女王卑弥呼与狗奴国』『男王卑弥弓呼素不和』…】
でした。
スマソでーす。
545 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 11:36:35
>>539 >誤読王のプラムさん
★誤読でここまでレス延ばせたら 或意味天才だよ!
試しに やってみたら!
547 :
圭角:2006/03/20(月) 14:43:43
私が勘ぐって読んでばかりいるとのヒッキーさんのご批評は謹んでお受け致してきます。
もう一度、端的に言いますが
東夷伝は倭人伝を包含しての東夷伝でありますよね。しからば、誇張が無いとの説に立ち
読むならば、高句麗伝の高句麗は遼東郡の東一千里は一千里と読むは当然です。
しかし、韓は方、一辺が四千里と記してある。
明帝紀には洛陽と遼東間が四千里と記してある。
つまり、韓の一辺の距離と洛陽遼東間が同じく四千里と記してあるのです。
倭人条は東夷伝の一部です。倭人伝倭人伝とは言いますが、すでに、韓伝におき
倭人も倭國も記してある。
したがって、倭人条のみの中においての里程は倭人伝のみの里程とすることには
明白な不整合、不合理が存する、と言っておる次第なのです。
548 :
圭角:2006/03/20(月) 14:51:32
重ねて申しますが、三国志の魏書参十巻において里程数はそれぞれ異なる
はずはないでしょう。
倭人伝を東夷伝の一部として読むべきは当然で三国志の一部として読むべきは
至極当然でしょう。
さすれば、高句麗を東夷伝において遼東郡の東一千里にあるという記事を
無視しては、女王国のみの里程を議論しても、不合理のはずです。
549 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 14:53:59
圭角さん
韓伝の四千里は
『方』四千里ではなく
『方可』四千里ですよ!
それに、
魏志倭人伝の里数に司馬氏に対する云々が色濃く入っていたのならば、後世の史書編纂者は
里程の部分を簡略或は消去して倭についての書を編纂するでしょう。
でも現実は『梁書や北史』の通です。
ここが噂の九州スレかw
551 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 17:08:57
百済のような小国が、なぜ300年以上に渡って、
高句麗帝国との戦争を続けることが可能だったのか?
この疑問に、朝鮮人工作員が答えることは絶対にないであろう。
答えてみよ!
★ 百済は日本領土 ★
百済軍の実態は、大和軍。
百済の国家財政は、ほぼ100%、大和のODAに依存していた。
そもそも、百済という国は、日本の四国と同じくらいの面積しかない小国。
そんな小国が、300年以上に渡って高句麗のような大帝国と戦争し、互角に戦うことなど、
普通は不可能であろう。
しかし、実際に百済は、315年に建国された第一次百済の時代から300年以上も高句麗と
戦争し、時には高句麗を追い詰めてもいる。
それが可能だったのは、百済の背後に、もう一つの帝国=大和がいたからである。
百済=高句麗戦争の実態は、日本=高句麗戦争だったのだ。
552 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 19:43:36
>>550 そんなに噂になってますか?
どうせ
『プラムは誤読のトンデモだ』でしょ!
>>552 いや、あっちで大国さんのことを九州スレでどうたら言ってたからさw
>どうせ
>『プラムは誤読のトンデモだ』でしょ!
別に見下げてなんかないよ。
某氏よりは思考が良い方向だからね、トンデモはw
ちなみに「邪馬台国」は”知らない”からね言及しないよw
俺は嘘は言わない、知らないものは知らないと言えるよw
554 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 20:06:47
>>553 >思考が良い方
★初めて言われた。
貴方のレスはあちらで拝見しました。
でも、反感必死ですな!
私以外の人には
555 :
安曇連浜子:2006/03/20(月) 20:11:04
直感という点では2chのコテハン諸氏の人達は凄いと思われ
あっ! 555取られた。
どうせ誰も来ないと思って油断した。 アーァ
557 :
太国:2006/03/20(月) 20:30:08
>>553 あんたはあっちのスレで、俺は何でも知っている というような話っぷり
ではなかったのかね?w
558 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 20:45:58
ところで
何を全部知っての?
559 :
太国:2006/03/20(月) 20:49:17
彼は豪語だけで、説明をほとんどしないんですよ。
560 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/20(月) 21:01:52
で、僕の女王国と邪馬台国は別物で女王国は九州、邪馬台国は畿内にあったという考えはやはり白ですかね?
561 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 21:17:27
>>559 太国さん
ヤッパリそうですか!
いくら探しても彼のコメントが無いもので
でも、聞きたいですねぇー
>>560 真っ黒 何処まで行っても真っ黒です。
562 :
太国:2006/03/20(月) 21:27:58
あれっ、プラムさんは
九州が「邪馬壹国」で、畿内が「邪馬臺国」でなかったの?w
563 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/20(月) 21:36:14
以前そのような過ちを侵していました。
臺(タ)の地に壹(イ/ヒ)の国です。
三世紀当時は九州です。
564 :
太国:2006/03/20(月) 21:39:30
ははぁ、そうですか〜。 イ+ヒ= 化 の字になるな〜?
トンデモですが
肥後・筑前・筑後・豊前・豊後
これが倭の五王の正体です。
そして豊後が『倭王武=神武天皇』です。
スルーヨロシク!
太国さん
旭化成ですよ!
567 :
太国:2006/03/20(月) 21:55:54
旭化成??わからんです。w
神武と五王の関係はあることはあります。
太国さん
これは
もう少し後で、アチラのスレにてヨロシクです。
イヒ!
569 :
日本@名無史さん:2006/03/20(月) 23:48:42
570 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/21(火) 00:17:53
プラムさんはもう正気とは思えないw
毎日邪馬台国三昧で頭おかしくなってしまったんじゃないの?
>>569 あ!ごめん
肥前・肥後・(筑後・筑後)・豊前・豊後
でした。
572 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/21(火) 00:28:01
ヒッキー君
>正気とは思えない
何処が?
573 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/21(火) 00:49:24
プラムさん
狗奴国と邪馬台国は不和ではないとか
いったいどうしたらそんなふうに思うのですか?
ちゃんと倭人伝を読んでいるのですか?
正気とは思えないような発言です。
574 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/21(火) 01:07:50
君こそ読んだの?
『不属女王は』
【其官有狗古智卑狗不属女王】
【女王卑弥呼與狗奴国】
575 :
圭角:2006/03/21(火) 09:16:19
プラムさん、おはようございます。ご返信読ませていただきました。
ところで、あらためて申しますが、倭人伝が記してある東夷伝の記事は
顔が二つ有る人の話や、両腕が異常に長い人の話や、女ばかりが住む国の話が
記してありますよねえ。
しかるところ、里程においてのみは様々な解釈をして不整合個所を整合する
とされるのは、やはり不自然ではないでしょうか。
ちなみに、明帝紀の明帝崩御の際に司馬イが間一髪で間に合ったなどという
きわめて不自然な記事なども、信じられているのでしょうか。三国志全体にも
多大の作為があるものとは思われませんか。
倭人伝の里程のみは正確だという裏付けがありましょうか。
倭人伝を後世の史書がおそうていることを以って、倭人伝記事が誇張の無いものと
することは、その理由とならぬとはお考えになりませんでしょうか。
世の中、殆どは仮説とは巷間言われるところですがね。私には
少なくとも、御伽噺すら記してある東夷伝倭人伝を、いかに文献重視とはいえ
丸ごとは信用できない次第ですね。
576 :
圭角:2006/03/21(火) 09:26:32
それに加えて、書き写され書き写されて、宋の時代だったでしょうか
木版印刷の時代になったのは。
さすれば、誤記や脱字はゴマンとあるはずですよね。
むろん、倭人伝のみ切り取って、その一字一句を検証することも大切では
ありましょうが、複眼的思考と申しますか、その類のものは不可欠でしょうね。
特筆しておきたいのですが、たとえば、帝紀にかく記してあるから
かくあるのだ、などとの主張はまったくナンセンスでありますことを
付け加えさせていただきましょう。
圭角さんおはようございます。
>丸ごと信じられない
★確かに信じられないような内容が書かれていることも事実ですが
先ずは受け入れる可きでしょう。
圭角さんは
それらの内容をどのように選択すのでしょうか?
選択をした瞬間が都合主義の始まりです。
お伽話のような話が後世の史書にも採用されているのなら
それは素直に受け入れるべきでしょう。
それが文献学と自分は考えます。
>>577 圭角さんは文献批判ということを述べているのであって、別にご都合主義に走
っているわけではないと思います。
>お伽話のような話が後世の史書にも採用されているのなら
>それは素直に受け入れるべきでしょう。
ならよく使われる「龍が出現した」とか「麒麟を獲た」とか、そういう
与太話も信じろとおっしゃられるのですか?
580 :
圭角:2006/03/21(火) 09:55:45
安曇さん、フオローいただき有難うございました。
ちなみに、青龍や赤龍の出現は三国志にございまして、魏の青龍年間も
年号はそのことが基ですね。
581 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/21(火) 10:03:00
はい
後世の史書に何度もカキコされているのなら
583 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/21(火) 10:11:47
後世の史書に繰り返し使用されると言うことは、それなりに重要だからでしょう。
ストレートな意味合いでなくとも、必ずその内容に含みがあるからと考えます。
>お伽話のような話が後世の史書にも採用されているのなら
>それは素直に受け入れるべきでしょう。
少し妥協したのですか?上は
>>577の一部です。
圭角氏は「ストレートに信じるな」と云っているのであって
>>583の二
行目はしっかり存じているものと思われますが。
586 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/21(火) 10:20:28
今、来客!続きは後ほど
587 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/21(火) 11:16:17
WBC見ます
588 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/21(火) 12:04:47
中断スマソです。
★いえいえ
魏志倭人伝にカキコされている文章は、まず全て受け入れる可きです。
そこに書かれているものが例え『自女王國』が『自女三國』であっても
もし、不都合なら
『自女王國』のパターン
『自女三國』のパターン
両方やればいいのです。
『臺』『壹』でも
誤字ではなく、両パターン考えればいいのでは?
違いますか?
いや里程にしても、魏の尺度だと日本に当てはまらないから文献批判をするん
です。すべて受け入れるべき奈良、まず邪馬台国は日本じゃないという考えの
元研究をしてください。
590 :
太国:2006/03/21(火) 16:46:31
考古学も当然物理学に制御される。それを無視して、考古学などど大それたこと
を言って古文献をないがしろにする論には注意する必要がある。
無視すると、当時畿内から秘密の女王国の詳細が強力なデムパ発信の携帯電話で
畿内の秘境の秘密基地から大陸へ速達したような論理となる。ww
デムパは、これはどうしようもない。ww とにかく
デムパとは、一瞬のうちにも〜う大陸へ畿内の住民が知らぬうちに速達できる。
だからふざけた書き込みは控えてください。
592 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/21(火) 17:04:07
安曇さん
>文献批判する前に『考古学板』がありますよ
魏の里程と合わないのは、臨機応変に対応できていないからでしょう。
文献解読の基礎が出来ていない状態での考古学は
尚更危険ですから。
かと言って
全く考古学を無視している訳では有りませんし
伊達に一年以上常駐していませんよ。
2ちゃんでは滅多に使用しませんが、それなりの事はしています。
593 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 18:25:12
中国に『山海経』という古文書がある。
山海経は、中国でもっとも古いとされる地理・博物書であるが、この書物の中に
義和国という国が登場する。
【山海経・義和国の話】
東海の外側に義和国という国がある。その国には女が住んでおり、名を義和(ぎか)という。
義和は今、太陽に水浴びをさせているところである。
古代日本の呼称である「倭国」が「和国」に改号される時、山海経に登場する義和国から、
『和』の字を借りて、和国にしたのかもしれない。
義和国を支配する義和という女神は、日本神話の天照大神にそっくりである。
義和も、天照大神と同じように太陽の女神なのだ。
山海経によると、義和国には扶桑という巨大な神木があり、扶桑の枝には十個の太陽がとまって
いるという。
そして、義和が十個の太陽を支配しているとされているのだ。
日本神話の天照大神の原型は、この義和なのかもしれない。
■『山海経』について■
http://www.hmt.toyama-u.ac.jp/chubun/ohno/sengai.htm
594 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/22(水) 00:41:36
卑弥呼の子孫たちが世界一になりましたよw
別スレにて、「弥生終末が3C後半」なんて云う人がいたので、ちょっと解と
来ますね。
従来は確かに古墳時代の始まりが四世紀だと考えられていました。しかし周知
の通り池上曽根遺跡において巨大な井戸の伐採年が前52年だとされました。
ここで一気にいわゆる邪馬台国があった時代が古墳時代になったのです。さら
に巻向石塚古墳においても遺物の木材伐採年代が三世紀初期前後とされました
。さらに「伊都国を掘る」において、一貴山銚子塚古墳出土の金メッキTLV
鏡(文様面において金メッキ)などから古墳時代の始まりが後漢末前後まで遡
るとされています。この説が正しいかどうかは知りませんが、現在のところ古
墳時代の始まりは三世紀初期とする方が良さそうです。
596 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/22(水) 11:36:20
倭迹迹日百襲姫が卑弥呼では違和感がある
597 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/22(水) 11:48:45
今アクセスしようとしたら“串に繋がらない”と
おかげで
遠回りしたよ!
598 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/23(木) 10:34:37
安本の本、3200円もしたんだけど、それでも買っちゃった(泣
599 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/23(木) 10:37:04
>>598 マジレスさせてもらうと、買うべきではなかったです。
無駄を承知で(参考史料)
※【讃死弟珍立】
…宋書倭国伝…
※【賛死立弟彌】
…梁書倭伝…
判る人はいませんか?
601 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 20:27:43
梁書の「賛から弥死立子済」の子までは、倭国ではなくほかの国の系譜を誤って挿入して
いると見たらいかがでしょうか。
603 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/24(金) 22:02:40
たしかにその国がみつかるかどうかです。
ところで、倭の五王は半島の王達との説があるとききましたけど、どんな
説なのでしょうね。
604 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/24(金) 22:50:02
倭の五王は『倭』の王だから『倭の五王』なんでしょう
605 :
太国:2006/03/24(金) 22:52:50
倭の五王はアマテラスの裏系統なんです。表は畿内朝廷側ですよ。
ですから、半島系ではありません。
606 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 23:15:57
プラムの言ってることが正しそうだな
607 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/25(土) 08:41:23
帯方郡についてちと思うことが出てきたので。
魏志倭人伝の行路距離については、半島の周文化の影響(箕子朝鮮)を受けた人が測量し記録したと考えています。
箕子朝鮮の都はピョンヤン(王険城)付近であろうとみられている。漢の時代には楽浪郡がおかれていた。
倭人伝の郡からがピョンヤン付近からだとすれば、総距離は万二千里以上になってしまう。
これは帯方郡が後漢末公孫氏により新設され、ソウル出発とされたからである。
しかし行路距離はそれよりずっと以前にかかれたものであるから、邪馬台国へのみちのり距離はピョンヤンから
測られていたはずである。
となると、陳寿は倭人伝を書く時ソウルから書いたのであるから、ピョンヤン・ソウル間の距離は差し引いたものとおもわれる。
となると、ピョンヤンからソウルまでの距離が原文に記されているということは、当時のソウルは結構大きな国(都市)か、
その地域の中心地であったということであろう。
公孫氏は楽浪郡の南を割いて帯方郡を新設したのであるが、その地はもともと、朝鮮時代には一つの郡のようなっものであった
とかんがえられる。
それをもとにして分割したのであろう。
608 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/25(土) 09:00:49
サガミさんおはようです。
倭への基点となる港は、楽浪の時代も帯方の時代も変わらない(同じ)と
書いてありますよ!
609 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/25(土) 10:03:09
安本の本、つまらなすぎ。金返せ
>>609 ドンマイ。買うなら学生社の本にしましょう。
611 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 01:02:25
今日古本屋でムーっていう怪しい雑誌の2004年1月号を
100円で買ってきたけど、
この本の物部神道の記事の中で元伊勢の籠神社の宮司さんが
邪馬台国機内説をあっさり認めていたのが驚いた。
612 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/26(日) 08:11:39
太平御覧という書物には、倭人伝と異なる表現がつかわれている。
又東南至奴国百里。又東行百里至不弥国。又南水行二十日至投馬国。また南水行十日陸行一月至邪馬台国.
梁書にも同様の表現がある。
ところで倭人伝の路程の記事は中国人には理解できないという。事実中国人に読んでもらても、邪馬台国の
位置がわからないことは良く知られている。
太平及び梁書の編纂者も倭人伝の表記には同様疑問におもったようである。そこで彼等は、同時代の中国人にわかるように、医薬し、かきなおしたのである。
つまり、両書の編者も日本の榎一雄氏以前の中国人のように、一直線に読んだということである。
しかし、両書の編者の解釈が正しいとすれば、何故陳寿は(中国人である)そのように記さなかったのであろうか。
そこに倭人伝を解く鍵があう。
613 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/26(日) 08:14:31
上記の訂正ーー医薬を意訳に、読んでもらてもを読んでもらってもに訂正致します.
614 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/26(日) 08:18:02
もう1ヶ所訂正ーー榎一雄氏以前の中国人を榎一雄氏以前の日本人に訂正致します。
615 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 08:41:38
サガミさんおはようございます。
サガミさんは(梁書倭伝・北史倭伝・太平御覧)等の史書と 魏志倭人伝の違いを何だと思いますか?
616 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/26(日) 09:19:37
これからをお楽しみに。
617 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 09:23:36
はぁ???????
618 :
圭角:2006/03/26(日) 09:35:16
サガミさんおはようございます。
サガミさんの言われる倭人伝を解く鍵とは、端的に申し上げて恐縮ですが
結局は陳寿の記述の基本姿勢ということになるものだと存じますが
如何でございましょう、か。
619 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/26(日) 09:45:52
というか梁書などの里程から何らかの答えが導き出せるわけがない。圭
角氏の言うとおり結局は陳寿の記述の基本姿勢に鍵があるはず。
620 :
圭角:2006/03/26(日) 09:59:01
小生が正史三国志の訳文を最初に読み始めて唖然としたことを申します。
みなさんにおかれては既にご案内のことかと恐縮しますが。
有名な赤壁の戦いというのがありますね。魏書の帝紀では、かく記してあります。
公は赤壁に到着し劉備と戦ったが負け戦となった。
そのとき疫病が流行した。そこで軍を引き上げ帰還した。
と、たったのこれだけです。
陳寿は魏を正統として記したから、当然といえば当然でしょうが
倭人伝や東夷伝の饒舌が、異様に異常に、目立ちすぎる次第といえますね。
621 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/26(日) 10:18:30
これから出かけますので、お答えは帰ってからにします。
622 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 10:33:28
倭人伝を読むと、松浦半島から前原まで東北のところを
東南だとしていることから魏の使者の方向感覚は若干ずれています。
なので南へ水行10日陸行1月というのも東でよいわけです。
なので邪馬台国は畿内マキムクです。最近の考古学上の成果とも一致します。
あとは問題の女王国の東に海がある件と、女王国まで12000余里の2つです。
この2つはどうやっても畿内では成立しません。
これは宇佐周辺の東九州を畿内王朝が飛び地で領土をもっていたと
解釈するしかないと思うのです。なぜこのような飛び地を領有してたかに
関してですが、おそらく神武の故郷だからだと考えられます。
これ以外の解釈はないと思われますがいかがでしょうか?
まだ素人なので知識を深めこの説の信憑性を高めていきたいです
623 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 11:07:54
>>622 あのね!
何度も言いますが
行程表に書かれている伊都国は、ピンポイントで書かれているのではなく
面(ワイド)で書かれている訳
例えば
君の静岡県も 東は伊豆から西は浜松迄“全〜部”静岡県でしょ 静岡市だけが静岡県ではない筈
624 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 11:14:48
東南の方向も、
行程に要す“五百里”の内半分以上の距離を地形的な要因で、東南方向へ伸びていれば“東南陸行五百里”と書くでしょう。
625 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 11:38:05
伊都国は千戸あまりです。ワイドに大きいとは思えませんがいかが?
626 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 11:40:48
そもそも前に僕の国内消費を否定したのに今度は逆でワイド説ですか、呆れますね
627 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 11:41:38
魏志倭人伝と(梁書・北史の倭伝)の最大の違いは
地理志(行程?)に於いて“倭人伝”は
@『郡使往来常所駐』に集約される“郡使行程”であり
A『南北市糴』に集約される倭国(九州島)の文章地図
郡使行程+文章地図の複合体で書かれている
一方後者は
単一的に、文章地図ノミで構成されている(『又』+『方向』+『移動』)の統一した流れ
因みに列島の規模は
(東西五月・南北三月)
>>624 >東南の方向も行程に要す“五百里”の内半分以上の距離を東南方向へ伸びていれば
行程の半分以上が「東南」で全体では「東北」になる移動!
理論的には、こんな感じの移動かあw
(東北)
伊都
末盧 |
\ |
\ |
東南\ | ↑
\ |真北
\|
中間点
629 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 11:45:33
君とは全く内容が違うの
消費等と言う
“こそくな”手段等使わないので心配なく
630 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 11:52:30
東北と東南ではほとんど方位は逆なんですがw
631 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 11:55:32
>>628 貴方の描いた地図で“伊都”と書いた場所が
伊都と末盧の国境と言う事
でも、貴方は自然と九州北西部の地形を描いたね
それが文章地図だよ
632 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 11:59:47
>>630 『東北』にこだわるようだが それはいったいなんなの?
倭人伝に『伊都国』は何処に有ると書いてあるのかな?
633 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 12:07:20
なぜです?定説どおりでしょうに。僕の考えは披露しましたがプラムさんはどう思うのか聞きたいですね
634 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 12:16:15
今 運転中 後ほど
>>631 >>628は「理論」図だろ。
どこが自然な地形なんだか・・・・
九州北西部のどの辺りに見えるんだよぉwwww
636 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 12:49:49
ヒッキー君
【東南陸行五百里到伊都國】
この文章の何処に“北東”や“定説”があるの?
魏や晋時の人に“定説”を説明するの?
現在の私達は、
古地名や口伝承或は考古遺跡等により、三世紀当時『伊都』と言われた場所《伊都全地域ではなく中心的と思われる地域》を知ることが出来た。
しかし、
当時倭人伝で、その位置を確認する手掛かりは『末盧の起点』から【東南陸行五百里到伊都国】だけである
637 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 13:00:24
【末盧の起点から東南に伸びる道を五百里歩くと
伊都国領に着く】
【伊都国領に着く】と言う地点から 私達の知る『定説地』までの行程等何処にも書いていないし、編纂者も書いた覚えもない筈
その『書いていない』部分について私達は
“あーじゃないこーじゃない”と、妄想論議に華を咲かせた訳だよ。
まさに!
『いい加減 目覚めなさい』だよね。
>魏や晋時の人に“定説”を説明するの?
説明してやるから、魏や晋時の人をここに連れて来てくれw
とんち合戦じゃないんだから、屁理屈は要らんの。
あなたがそう考える根拠を、もっと具体的かつ簡潔に述べよ。
それで他者を誰一人納得させられないのなら
あなたに説明能力が欠けているか、完全に間違えているのかのどちらか。
少なくともそうでもない限り、何人かの賛同者は現れるはず。
639 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 13:12:56
千戸あまりの人口なのにそれだけ広い領土だったとは想像できませんね。当時は密集して居住していたような気がしますが。
640 :
圭角:2006/03/26(日) 13:14:09
そうなんですよね、プラムさん。
だからこそ、わたしが以前に、末盧國もしくは末盧の津の位置に拘った理由
も、そこにあるのです。
ところで、例の、一大卒が津に臨みて、という記事がありますね。
この津とは、陳寿の記事では、何処の國の津だとお考えでしょうか。
このことについては、あまり学界でも議論されていないと思うのです。
無論、文脈からすると当然に伊都国の津となりますよね。とすると
郡の使節が、無理やり獣道の如き悪路を陸行したというのは不自然となります。
ですから、陳寿は地理と実際の郡使の経路を織り交ぜて記した結果だろう
と、以前に申し上げた訳なのです。
みなさんのご異論ご反論を賜りたく期待しております。
641 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 13:17:04
>>638 あのね
選挙の票取りしている訳じゃないの
それに、『違う』と反論するなら それなりの手順を踏みなよ!
642 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 13:20:25
普通に考えれば末路国のある唐津に中国の使者を迎えにいったと考えますが。
643 :
圭角:2006/03/26(日) 13:24:55
ヒッキーさん、伊都國の千戸というのは、誤記誤写はともかくとして
誤りであることは明白です。
その根拠理由のひとつは、魏略逸文に有ります。
到伊都国、戸万余
644 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 13:27:24
アタック25みます
僕も予選通過したのですがフリーターなためテレビにでれませんでした。無念
645 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 13:36:37
圭角さん
『津』=志登神社
今は、これだけでお許しを
>獣道
伊都に抜ける道らしい道は一本だけ と言う表現方法
>一大率
『最小で最大の効力』
>末盧の港
東南方向に長い距離を取れる場所
でも、どうして
『マツロ・マツラ』って名前なんでしょうか?
646 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 13:37:49
>>641 『違う』というより、あなたの書いていることは
それぞれに矛盾が多すぎて、何が言いたいのかよくわからないとうのが当方の主張。
まだ圭角氏などは、自分なりに纏めて書いているので、議論や質問ができるが
プラム氏は、まさに思い付きを書き飛ばしているだけなので、何が言いたいのかすら誰もわからんのだ。
だから何レスか使って、自説をまとめろといいたい。
そうじゃないと、分裂症患者の文章に突っ込みを入れるような具合となり、議論そのものが成立しない。
647 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 13:40:48
>>643 圭角さん
『魏略逸文』を引き合いに出すのは止しましょう。
『万余戸』はOKで
『七十里』は×なんですか
それは都合読みですよ!
648 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 13:45:42
何処が思い付きなのか?
649 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 13:48:29
判らない部分を、一つ一つ提示して下さい。
出来る限り応えますから!
650 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/26(日) 13:55:15
プラム氏は、「伊都国の中心は三雲遺跡かもしれないが、倭人伝で使者が伊都
国の領域に着いたところは違う」と言われておるのですか?
>>650安曇さん
魏使達の最終目的場所と
地理志という性質の『到着地点』は、イコールではないと 言うこと
652 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 14:06:24
今までの『北東』議論は
庭の門から玄関までの無駄な議論な訳
地理志は庭の門迄を書いたが、家の玄関までは書かなかった。
653 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 14:07:26
では皆さん、其の旁国とやらはどこになるとお思いですか?
僕はこれらが皆九州にあるとは思えないのですが。。
畿内マキムクから九州へ至る経路に点在している国だと思いますが。
そもそも女王国より北は道理や戸数が記載できるので
記載できないこれらの国は女王国の北にはないと考えられますが
いかがでしょう?
654 :
圭角:2006/03/26(日) 14:16:02
ヒッキーさんに宛てたとはいえ、たしかに魏略逸文の都合読みとされても
致し方ないかもしれませんね。ただ、魏志が魏略におそうていることは
明らかでしょうが、舌足らずの点はプラムさんご指摘のとおりです。さて今
伊都国歴史博物館の図録を手にしています。
弥生時代の全国の大規模集落の比較図説を見ますと、三雲井原遺跡の規模は
東西650m、南北1200mで、2004年時点での吉野ケ里遺跡の約二倍
の広ろさと紹介されております。つまり弥生時代後期では最も広大かと。
しかも王墓の初現と呼称されるに足るものが弥生中期後半より二百年間に
及んで築かれたとあります。弥生時代の大規模集落は古墳時代に入る直前に
衰退消滅する場合が多いとありますが、この遺跡は古墳時代後期まで存続と
あります。
万余戸などは陳寿の誇張の可能性を想うのでありますが、魏志の伊都國は
相対的に少ない戸数と思われる次第です。
ところで、志登神社について教えていただければ幸甚です。
じゃあ反論しときますね。
プラム氏はマツロから「東南に延びる道の延長と伊都国の境が交わる所
」が魏書の行程に見られる着点だと言われていますね。そこで疑問点。
マツロは唐津だと言われておりますが、そこから東南に進むと小城市の
あたりに着きます。前原は小城市とは背振山地で分断されております。
小城市ははたして「伊都国」の版図に入っていたのでしょうか。
>>648 >何処が思い付きなのか?
それが判らんあなたじゃないでしょうが。
>一つ一つ提示して下さい。
却下、理由は2つ。
1、議論が拡散する。ここは「プラムに質問するスレ」ではない。
提唱者が自説をある程度纏めて提示し、反論や意見を求めるのが議論の基本ルール。
分散して書き散らしたものに対して、質問者がわざわざ纏める義務はない。
その義務は提唱者であるプラム氏にある。
2、これはネット掲示板、特に2chでは今でも懸念されることだが
いちいち個別質問していたら、また転送量が増大して閉鎖騒ぎになるやもしれない。
2001年7月を知るものなら「この程度なら大丈夫」とか「知らんがな」とは決して言わない。
だからどの板でも「立てるまでもない質問はここで」やら「先に纏めろ、話はそれからだ」などで自治を図っている。
ほとんどのの住民が、スパムや書き散らしを嫌い「チラシの裏ry」というのは、あの閉鎖騒ぎを知っているから。
657 :
圭角:2006/03/26(日) 14:22:09
プラムさん、志登支石墓群の位置ならば、わたしにもわかります。
昔の推定地形では、糸島半島に海が入り込んだ付け根の所と理解して
よろしいですか。
658 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 14:24:29
安曇さん
ごめんなさい。
末盧の港を唐津と考えていないので 応えられません。
私は、壱岐の南に位置する松浦市付近です。
659 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 14:29:49
東北・東南はとりあえず別角度からアプローチすれば
どちらが正しいのかわかりますよ。では邪馬台国は九州だとしたら
どこで水行陸行の解釈はどうするのか?まずそこらへんから
皆さんの意見が聞きたいですね
>>658 現松浦市の東南は伊万里、武雄(?)
どう考えても伊都国の領域ではありませんね。可能性としてはマツロか他の勢
力の領域でしょう。それとも伊都国が支配していたという確固たる証拠でもあ
るんですか?それならば是非お聞かせください。
661 :
圭角:2006/03/26(日) 14:31:02
656さん、今もしくは最近或いはこの一両日が貴殿の指摘されるような
形質になっているかもしれませぬが、貴殿もプラム氏に対して議論に及び
具体的に非難批評なさればよいことです。
今が、プラム氏に質問するスレになっていても、いいじゃありませんか。
すくなくとも、わたしは、じゅうぶんに面白く拝見し参加させていただいて
おりますよ。
662 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 14:38:19
圭角さん
そうです。
その志登神社のある辺りに“渡し”を利用した 関が有ったと考えております。『郡使を封じ込め』それより先にある奴国や都へは
許可が無ければ 渡し舟に乗れないシステムです。
…未だ妄想段階ですが…
663 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 14:48:44
安曇さん
領域支配範囲云々を答えられる人は誰もいません。
ただ一つ言える事は
以前にレスしましたように、『到と至』の解釈で判断するより方法がないと、言う事です。
東南方向に伊都の国境があるのではなく、東南に長く伸びる道(一本道)を五百里歩いた所に伊都の国境(関)があるのです。
この関連スレにて
国の範囲(一部)を示したのは、私だけだと思いますよ!
664 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 14:49:11
プラムさん、あなたおっしゃってたでしょ。
水行陸行は放射説も総日程説もそのような読み方はないと。
だとしたら邪馬台国は九州内にはどうやっても収まりませんよ。
いったいどう説明するつもりです?
665 :
圭角:2006/03/26(日) 14:52:29
さて、本論に戻りますが、唐津には菜畑遺跡という稲作栽培のもっとも古い
遺跡があります。末盧なんとか歴史館という地です。赤い背丈の高い古代米
がその近傍に栽培してありましたので記憶にあります。國指定史跡でした。
プラムさんに参考までにお伝えしたいのですが
現在の市町村合併ではありませんが、マツラ、マツウラ、マツロという差異は
あまり意味がないかもしれませんよ。
という訳は、私もこの唐津の史跡を見るまでは、末盧は松浦市となんとなく
思っていたのです。意味不明で恐縮ながら、昔の肥前松浦郡と松浦市とは
違うと思うのです。松浦水軍の本拠地とはよく聞きますが、海賊の隠れ港に
適した所は、今の松浦市の地域には多いですが、当時においてクニという
ものが成立する場所地域ではないと、3回ばかり松浦市付近を車で通って
自分は思った次第でした。あくまでご参考まで。
666 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 14:54:36
計画さん、其の旁国について貴方様の持論が聞きたいです。
667 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 14:57:32
>>664 私は何度もレスしてますよ。また 一からやるんですか?
奴国より書かれている記事は、郡使の行程記事ではなく 文章による属国概況地図であると
郡使の行程記事は【郡使往来常所駐】で締めています。だから【駐】なんでしょう。
668 :
656:2006/03/26(日) 14:58:46
>>661 圭角氏
>今が、プラム氏に質問するスレになっていても、いいじゃありませんか
これは見解の相違であって、今はそこには突っ込まない。
ただ言葉尻を取るわけではないが、あなたが面白ければいいというものではないでしょう。
日本史板創設時近くからあるスレを、私物化するのは好ましくない。
ただ、
>>1にしてもスレ立ての基本も義務も全うしていない(過去・関連スレ列記など)
いわばルール外のスレでもあるので、あえて言わないことにする。
しかしね、最も重要なことは2で挙げたことなんだよ。
もう生活の一部になってるくらい2chに書き込んでるプラム氏や圭角氏ならば
ちょっとは運営に協力してあげてはどうかとおもうのだが。
せめてタダで使わずに●くらい入ってあげなよ、商業的にはまだ軌道に乗ったとは言い難いのだからと
主張したいのですが、このあたりも含めてレスと主張を纏めろと言ってるのです。
669 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 15:00:06
魏の使者が伊都国どまりということは僕も存じておりますが
その後の水行陸行はいくら伝聞でも聞いた情報でも
日程的に九州では長すぎやしませんか?
>>663 反論されてる気がしません。もっと地図みてから書いてください。
>東南方向に伊都の国境があるのではなく、東南に長く伸びる道(一本道)を
>五百里歩いた所に伊都の国境(関)があるのです。
これって距離以外の部分は同じだと思いますが。
671 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 15:06:11
プラムさん、もしかして貴方、YAHOOのほうにも
出没していませんか?w
672 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 15:07:34
>>668 その上納金は何処に幾らぐらい納めればいいのかな?
委細希望
673 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 15:10:11
>>671 たまに覗いているよ
罵倒合戦している事も知っている
「到」・・・遠方から来る いきつく とどく 達する 極限に達する ゆき
とどく さかさま
「至」・・・来る 到着する とどく 及ぶ 行き着く 極まる 十分な点に
まで達する およぶ・・・まで
出典・旺文社刊「漢和辞典」(1981年の重版の物)
プラム氏は点やら面やら言われておりますが、上記の漢和辞典を見る限りその
ような解釈は存在しがたいと思われます。
675 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 15:15:51
YAHOOのほうにいる人は何を言ってるのかよくわかりませんw
676 :
圭角:2006/03/26(日) 15:17:51
ともかくも。
畿内説の諸氏さへも対馬國・壱岐國・末盧國・奴國までは同じなんですな。
それからもうひとつ、不弥國も香椎線の宇美が半分くらいの支持を得ている
としてもいいですかな。
ところで、不弥國の記事は細かいこと言うようですが、東行至不弥國百里は
なんとなく他の國とニュアンス違うと思いませんか、みなさん。
行という字には距離つまり、みちのり、という意があることを皆さんも
ご確認願いたく存じます。行く、という行動ではなく、つまりつまりです。
実際に経由行程せずとも、不弥國へは東百里のみちのり、と記している。
つまり、先ほどより重ねて申し上げているとおり、郡の使節の経由路と
実際地理を混ぜこぜにして、陳寿が記したというのが私の説及び見解です。
677 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 15:17:54
語彙の解釈論ではなく、あくまでも
自然に読んでその上で合理的な結論を
導き出すべきでしょうに。皆さんは一字一句の
文字の意味がどうだこうだというのにこだわりすぎです
678 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 15:18:38
安曇さん
それじゃあ まるで型に嵌まった教科書ですよ!
前にもカキコしましたが
『至』の解釈は
※『鳥が飛び下りて地に着くく』最高の例えではないですか
679 :
圭角:2006/03/26(日) 15:27:13
656氏へ。御説ごもっとも。以後、できるだけ論点を纏めます。
680 :
656:2006/03/26(日) 15:35:48
681 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 15:49:40
>>680 スイマセンネ物分かりが悪くて!
無駄なレスを控えろと!
>>676圭角さん
私の『不彌国』への解釈は【東行】の『行』は袋小路と解釈します。
※学校へ行く・会社へ行くの『行く』です。
百里は、奴国と同じ意味解釈で 距離ではなく区画です『里』の字意は、辞書にありますから省略します。
不彌国は圭角氏が言われるように 特別な国だと考えます。
だから奴国同様『百里/区画』であり 一大国と同じ戸ではなく『家』なのでしょう。
私は
※太陽の沈む国
と、解釈しています。
683 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 16:21:27
よく飽きもせず毎日くだらん屁理屈ばかり言えますね。さすがに僕もつまらなくなってきましたよ
>>680 運営についてお聞きしたい。
2ちゃんねるの運営と朝鮮総連の関係は?
余りにもタイミング良すぎ
他のスレでも話題になっているので是非!
ヒッキー君
つまらないなら、黙ってシャットダウンしなよ!
>馬鹿ぷ
だから、関係ないレスでスレを汚すなよ。
686 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 18:24:32
>>670 安曇さんへの返信
>もっと地図を見てから書いて下さい。
※もっと文章地図を把握してからレス下さい。
【東南陸行五百里到伊都国】
〈東南〉⇒港に上陸後、最初の方角は東南
〈陸行〉⇒歩行
〈五百里〉⇒約40q
〈到伊都国〉⇒末盧と伊都の国境(関)
漏れがもとめているのは
>>660に関する反論です。
>以前にレスしましたように、『到と至』の解釈で判断する
これは反論なんですか?漏れは「点」だろうが「面」だろうが末等の東南の地
に伊都国の勢力が存在しないと言ったのですが。
>領域支配範囲云々を答えられる人は誰もいません。
倭人伝がしっかり「国」で分けているのだから当然このことにも触れなければ
ならないと思うんですが。さらにあなたの解釈は国境を問題にしているんです
よね?じゃあなおさら「領域支配範囲」について書かなきゃいけないじゃない
ですか。
文章地図・・・里程の記述からその国の地形についてはっきり想像できる人な
んているんですかね?
688 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 19:15:27
>>687 へ
【伊都の範囲】
東・西・北の範囲はおおよそ判りますが、南の範囲はカキコしてありませんので判りません
【西】
>>686参照
【東】⇒『東南至奴百里』※『奴』は博多を設定しています(古地名・古伝承から)
伊都の起点から博多の間に東の国境があります。
西の国境から伊都の中心的位置までのカキコは、倭人伝にはありません。
その他の国の詳しい国域はカキコしてありませが、位置はカキコしてありますので
倭人伝を穴のアク程眺めて下さい。
『奴と投馬』の位置関係は先日サガミさんに説明しましたので、そちらを参照
(南北市糴)記事も重要
689 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/26(日) 19:21:33
>>688 良くわかりません。末盧の起点から東南の方向に伊都国の国境の着点が
あるんじゃないんですか?
690 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 19:22:06
安曇さん
>>359を参照下されば判ります。
それより
貴方も立派な畿内説なら
横槍だけでなく
自説を持って畿内に導いて下さい。
シッカリ 槍を磨いておきますから
691 :
安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/03/26(日) 19:25:47
>>690 ここだとスレ違いなんで。後日三十巻の検討が終わり次第書きます。
692 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 19:34:11
プラムさん、その某国についての意見を聞かせてくださいよ
693 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 19:41:17
遠いので詳しいことはわからないのに九州内にあるのはおかしくないですか?
694 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 19:54:02
ヒッキー君
【自女王國以北其戸数道里可得略載】
※女王国の北側に位置する諸国の規模や戸数の記載は省略する
【其餘旁國遠絶不可得詳】※更に北側には傍らに国があるが国交がない為に判らない
旁國⇒敵対する大倭国
695 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 20:05:23
相変わらずメチャクチャですね。女王の権力が及ぶ範囲だと書いてあるのに敵国ですか?
696 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 20:14:59
ヒッキー君
めちゃくちゃの理由を述べてくれないか?
697 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/26(日) 20:22:00
陳寿が倭人伝を書くために資料を集めたのであるが、その資料の一つに朝鮮時代の倭の記録があったとおもいます。
時代により変化しているのでその点は魏使の報告書で補ったとおもいます。
魏使は事実上、倭国までの距離は計測していないか、かなり大雑把な数字をあげていたのではないかと考えます。
698 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 20:22:22
自女王国の「自」は(〜より)ではなく
次有斯馬国の「次」掛かる指示語であり
略載⇒省略
遠絶⇒国交がない
其⇒諸国(自)に掛かる指示語
>>696 ”めちゃくちゃの理由を述べてくれないか?”
695(メチャクチャですね。女王の権力が及ぶ範囲だと書いてあるのに敵国ですか)
どう考えても行の後半が「理由」だと思うのは俺だけか?
700 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 20:40:30
>>699 >女王の権力が及ぶ範囲
その原文はどの部分ですか?
【此女王境界所盡】
でしょうか?
此⇒諸国二十国
盡⇒大地の途切れる海沿岸※諸国の沿岸が女王の支配領域の境界
701 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 20:43:54
プラムさんはその語彙解釈をいい加減やめにしたほうがいいですねw
>女王国より北の方角についてはその戸数・道里は記載できるが、
その他の周辺の國は遠くて交渉が無く、詳細は不明である。
次に〜(略 これが女王の(権力の)尽きる所である。
その南に狗奴国があり
倭人伝にはこう書かれているのでこれに沿って整合性の高い
説を導き出さねばなりません。まず旁国は女王国から遠いので
交渉はないのですよ。邪馬台国が九州、例えば山門郡や甘木に
あったとしたらどこにこれらがあるというのです?本州ですか?
またその旁国の南に狗奴国があると書かれています。狗奴国が
熊本だとしたら倭人伝との整合性が成立しませんよ。
>>700 >女王の権力が及ぶ範囲
原文?
馬鹿か?
>>695に書いてあるのが原文だろ。
オマエ、自分で書いてることの意味理解してねーだろwwwwww
703 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 20:57:03
つまり注釈をつけると女王国(宇佐)より北(方角のずれを考慮)
は戸数・道里を記載できる(伊都。末櫨など)がその旁国は遠いので
詳細不明(畿内邪馬台国〜九州奴国にかけて点在)、其の南に
狗奴国あり(熊本) だと解釈するのがもっとも整合性が高いと
思われますが。魏の使者の方向感覚のずれと宇佐が飛び地で
畿内邪馬台国領であったことを前提にすればこうなります。
704 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 20:57:48
>>702 これは失礼。
御指摘感謝
>馬鹿か?
※喧嘩うっとのんのか!
おどリャァ!失礼しました。
>>701 ヒッキー君 まともに解釈してくれよ!
「自」は(〜より)ではない
「略載」は(省略する)
705 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 21:00:24
まともな解釈をしてないのは貴方のほうでしょw
まず言語学を学べる大学で正規の教育を受けたほうが
よろしいと考えますが。
706 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 21:12:06
高地性集落が全国規模だったことは考古学的にみても
明らかですし、倭国大乱は九州限定と考えるべきではないと
思いますがいかが?
707 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 21:15:11
708 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 21:31:17
>>705 何時もそうだが
何処がどう違うのかを説明すべきでしょう。
相手を見下したまま退却とは、「いやはや」 誰にもミスはあります。
そのミスを指摘した以上その穴埋めぐらいはしていくのが礼儀では?
私は
「自、女王国以北」と考えてる でも君は「自女王国以北」と考えてるようだがその理由を述べる可きだ
ヒッキー君
709 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 21:35:47
プラムさん、語彙解釈くらい定説に従いましょうよw
その道のイニシアチブをとる専門家集団が下した訳を
素人が自分勝手にねじまげるべきではないと思いますが。
710 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 21:54:04
>>709 じゃ 何故貴方はここにいるのかな?
全て先人達の轍の跡だよ!※考古学には素人の入り込む余地等ないけどね……
先人達の結果が「畿内VS九州」だよ 答えは一つの筈だが
大勢から言えば畿内説が「定説」 九州説を唱えた瞬間から既に「定説破り」ではないのかな?
今更「定説」なんて言葉使えないよ。
君は「畿内説」だったね!
711 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 22:01:34
いえ、少なくとも邪馬台国の位置は特定されていないので
素人がああだこうだというのはいいと思うのですが、
専門家集団が下した倭人伝の訳文をちょっと本読んだだけの
素人がいちゃもんつけるのはどうかと思いますが。
馬鹿か?
『自A以B』・・・・『AよりBまで』
漢文で普通に使う構文だよな。
5000円くらいの漢和辞典でも出てる用法だ。
逆に
『自女王国の「自」は(〜より)ではなく
次有斯馬国の「次」掛かる指示語で』
こんな用法は見たことも無いし、倭人伝の該当箇所をどう訓読するのか
それを披露して欲しいくらいだw
713 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 22:06:55
僕もそう思うのですが
プラムさんはいっこうにやめようとしないのですw
自分勝手な語彙解釈を毎日振りまいてるだけなんですが
本人は自分が正しいと信じて疑わないようです。
やはり一度、言語学を学びに夜学の大学にでも通ったほうが
よいと思います。
>>712 >馬鹿か?
※だから 喧嘩売っとんかぁ と、聞いてんだよ
>自⇒(〜より)と読み下しする所あるのか?
『…大倭監之(自)女王国以北…』
自⇒一大率が監視する諸国を指す
『(自)古以来…』⇒倭種『(自)為王以来』⇒卑弥呼
…etc…
>>713 言語学ちゅーか、普通の日本語だな。
プラムは、ここででかい口叩く前に、まずは中学レベルの日本語を学べ。
浜子ちゃん(現役)、ヒッキー君(OB)と身近な手本が居るんだから
だれか「プラムさんと学ぶ中学国語」とか言うスレを立ててやれよ。
716 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 22:30:46
そのとおりですね。
やはり正規の学校の教育を真っ当に
受けてない人の思考回路はおかしいことを
再確認しました。僕も人のことは言えませんがw
717 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 22:31:08
>>711 それは違うだろう。
多くの専門学者や出版物の大多数が今や『マキムク』の連呼じゃないか?
これは立派な『定説』化だよ
九州説=定説破り
それが現実と言うもんだよ。定説を辿った結果が畿内説なんだろう。
718 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 22:37:09
>>717 専門家がマキムクだと言ってるんだから
マキムクが濃厚なんですよ。もしそれを
否定するならばよほど有力な物証や
説得力のある説をもってこなければ
なりませんよ。そもそも専門家など
一流の大学で歴史学をみっちり学び、
院に数年通い研究をし、その中でも
優秀な一握りしかなれないわけですし、
そして歴史を職業とし一日中、何十年も
研究をしている人たちですよ、そういう人たちの
くだした主張をたかだか1年程度本読んだだけの
素人が軽軽しく否定すべきではないと考えます。
日本の美徳である一芸に秀でたものを
敬う精神とでもいいましょうか、そうしたものを
もっともつべきでしょう
719 :
太国:2006/03/26(日) 22:41:27
女王国はマキムクのあたりにはない。女王国は九州なり。
720 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 22:43:42
そうです。飛び地で九州にあったんですw
721 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/26(日) 22:51:57
>>720 君の美徳とするその専門家諸氏は、飛び地等と言ってないだろう。
もっと『マキムク』大事にしなよ
俺は『鬼が島の墓場』なんて指示しないけど
722 :
太国:2006/03/26(日) 22:55:47
日代宮の後釜が女王国ではない。
723 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 22:57:31
ベースは専門家のおっしゃるとおりマキムクなんでしょうが
倭人伝の記述との整合性において若干の矛盾点があるので
致し方ないじゃありませんか。畿内の東に海などないですし
12000余里でもないです。神武の東遷出発地点の
東九州一体が古邪馬台国とでも申しましょうかw
そして東遷後の新邪馬台国がマキムクなんでしょう。
両方邪馬台国だということです。これは僕の妄想ですがねww
んじゃ何か!
根本的な妄想に“コケ”にされ“罵られ”“否定”されてた訳か?
阿保ラシ
725 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/26(日) 23:31:12
プラムさん、ほんとに貴方44歳ですか?どうもほんとは僕に近い年齢のような気がしてならないのですが。なんか大人っぽくないんですよね
第一回
テーマ 【a自女王國以北b其戸数道里c1可得c2略載】
プラム訳 女王国の北側に位置する諸国の規模や戸数の記載は省略する
同上分析 女王国の北側に位置する諸国(a自女王國以北)の規模や戸数(b其戸数道里)の
記載は省略する(c略載)
詳解@ a自女王國以北・・・女王國より北の意であり、プラム訳もほぼ同義である。
詳解A b其戸数道里・・・・・その戸数道里(道程)の意であるが、規模や戸数と解される。
詳解B c1可得c2略載・・・・略載し得る(略して載せることはできる)の意である。
しかし、プラム訳では「記載は省略する」とされる。
プラム訳で使われる「省」とは「省く」の意である。
また、「略」とは「あらまし、簡単」の意であるが、
プラム訳は「略」を「省く」の意と解釈している(そんな用法は無いが)
さらに「可得」は「可能」を表すが、プラム訳では無視され表現されていない。
以下、第二回に続く・・・・
>>727 寝る前に
『…可…』⇒規模
可=四辺のうち二辺
勝手に“無視”とした扱いするな!
裁判官の資格なし。
これでは 一方的な魔女裁判
そのように“他の住人”をマインドコントロールするんだ
729 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 01:27:24
『得』は無視してるんだね。
730 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/27(月) 07:21:32
>>727 『得』〜す・〜することが出来る
『…得略載』…省略す。
『自女王国以北』
『自』を(〜より)と解釈してしまうと 女王国以北が何処であるか判らない
だから
『自』は(〜より)ではないので
『自、女王国…』と分離す
完全に、邪馬台国三十国体制の配置図が把握出来ないから起きてしまう、『自』(〜より)と解釈してしまう悲しい構図
女王国より北に位置し 一大率が代理する国は、諸国だ!
『可』・・・二辺のこと
これもお笑い。
倭人伝で多用される『方可〇〇里』と言う表現からの思いつきのようだが、
『二辺』を表すなら『方』だけで十分だとは考えないのだろうか。
そして『略』の場合もそうだが、ここでデムパを飛ばす前に、
辞書を引くことができないのだろうか。
そうすれば、『可』には『推量』の意味も有り、
『なるべし』などと訓読されることも知れように。
732 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 07:42:28
>>730 『得略載』・・・省略することができるの意!
それって、載せるに値しない事項だってことか?
『自』は、該当箇所をちゃんと訓じてくれないと
何が言いたいのか全くわからない。
734 :
サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/03/27(月) 07:59:07
私の論ですが、等スレが込み合っていますので、「邪馬台国はヤマト朝廷となったのか?」
に移動しました。そちらでご覧ください。
736 :
圭角:2006/03/27(月) 11:06:04
其の余の旁国についてヒッキーさんから尋ねられておりましたのでお応えします。
その前に、そもそも東夷伝特に倭人伝は司馬イ顕彰が陳寿の基本姿勢ですから、
そこには、当然に誇張と矛盾があることに意を払うべきでありましょう。そこで
まず、そのことを倭人伝記事において検証しますと、その冒頭において
今、使訳通ずる所三十国、と記してあります。ご存知の通り、使訳とは使者と
通訳の意であります。なんとなれば、陳寿が倭人伝を記している時点において
使訳通ずる三十国の使者と通訳から、夫々の国々の地理里程などが帯方郡庁に
報告され、かつ、洛陽の晋帝室の史官の許に届いていて当然自然となります。
また、倭人伝に記してある三十の国と冒頭記事の三十国の数は合致しています。
しかるところ、陳寿は、その余の旁国は遠絶にして詳らかにすべからず、と
記しています。これは明白な矛盾です。さらに陳寿は矛盾作為した記述をします。
それは、遠絶にしてかつ女王の境界が尽きた先の狗奴國の記事においては
狗奴國の官と王の名を記していることであります。
したがって、かくなる記事からその余の旁国の位置比定は全くナンセンスだと
いう次第であると云わざるを得ないのであります。 以上です。
737 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/27(月) 11:14:28
なるほど、圭角さん。よくわかりました。
たしかにこの点に関しては僕も考慮せぬことにいたしましょう。
738 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/27(月) 11:46:37
では圭角さん、女王国の東に海がある件についてはどう思われます?
サガミさんのいう小城とかじゃどう考えても厳しい気がしますがいかが?
圭角さん・ヒッキー君おはようございます。
【…今使譯所通三十國従】『今』=前文の(漢時有朝見者)から続く「今」
『使譯所通』=朝見返礼行為(朝見交易)
『三十国従』=属国邪馬台国(三十国体制)
※今も邪馬台国と朝見交易をしている
『三十国とは』⇒対馬国・壱岐国・末盧国・伊都国・奴国・不彌国・投馬国・狗奴国・女王国・(斯馬国〜烏奴国の二十国)・朱儒国(淡路島)
です。
>>731 へ
『方』⇒四辺の一辺
四つあるから四方
八つあるから八方
『可』⇒四辺のうち二辺
可⇒口+ 」(かねおり) 口(範囲)の(かねおり辺)
『方可』⇒「 と 」 の合算
(追加)
『可』⇒規模範囲
戸数表示の場合に用いられる「可」は人口密度と(都の範囲)を表す。
741 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 13:02:00
>>733 のプラム
方三百里だけで一辺三百里の方形を表すんだから駄々を捏ねるんじゃない!
742 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/27(月) 13:44:36
743 :
圭角:2006/03/27(月) 13:51:29
ヒッキーさんへ。わたしがヒッキーさんへ返答するという形式が続けば
また、お叱りを受けることにもなるかと存じますがお応え致します。
女王国東渡海千余里、復在国、皆倭種
邪馬台国九州説においては解釈に無理はありません。
反面、近畿・奈良県におきましては、東にすぐ海はありませんから
無理が在ることは明らかであります。
あえて、ヒッキーさんともあろうお人があえてお尋ねになる程のことではない
と存じますが。
744 :
16さい中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/27(月) 14:11:01
それは僕も存じておりますが僕が聞きたいのは女王国のすぐ東に海があるのか、もしくは女王国の東の方角に海があるというだけのことなのかです。僕は自然に読むなら前者だと思いますが。
746 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/27(月) 22:20:05
>>727さんへの単純な疑問
>女王国より北側にある諸国の戸数や道里は略して載せる事は出来る。
★どの翻訳本にもあるごく普通の解釈ですね
女王国の北側って(対馬…伊都や奴や投馬国等)ですよね?
でも、これって変じゃありませんか?
前の文でそれらの国の戸数や道里を散々カキコして於いて、また改めて後の文でその国々の戸数や道里を“略して載せる事が出来る”なんてカキコする そんなにレベルの低い史書なんでしょうかね? この翻訳が平然とまかり通り、誰も疑問に感じない世界なんですかねぇー
変だと思っても 言い出せないのかな?
第二回
テーマ) a)自女王國以北、其戸數道里可得略載、b)其餘旁國遠絶、不可得詳。
訓 a)女王國より北は其の戸數道里はあらましを載せ得るも
b)其の餘の旁國は遠絶にして詳らかを得ず
プラム訳 a)女王国の北側に位置する諸国の規模や戸数の記載は省略する
b)更に北側には傍らに国があるが国交がない為に判らない
>>746 a)は「可得」であるが、b)は「不可得」、つまり、a)はb)の叙述に対する前振りで一連の文章。
↓こんな恥ずかしいこと書く前にとにかくを辞書を引け。
プラム辞書 「自」⇒次有斯馬国の「次」に掛かる指示語
「其」⇒自(諸国)に掛かる『二重』指示語
「略載」⇒省略
「遠絶」⇒国交がない
「旁國」⇒敵対する大倭国(とプラム辞書にはあるが訓読では異なる)
「得」⇒〜す・〜することが出来る
「可」⇒四辺のうち二辺、規模範囲(戸数の場合は人口密度と都の範囲)
「方」⇒二辺のうちの一辺または四辺の一辺
参考 「四つあるから四方」「八つあるから八方」から推定するプラム語
「四方」⇒四角形 「八方」⇒八角形
>>747 毎日乙です。
でも、
結局のところ教科書どうりに読み下しただけじゃぁないでしょうか?
意味解釈は、していただけないのでしょうか。
魏志倭人伝は
単に読み下して、全て片付いてしまうような単純な内容では無いことは、後に“ハイショウシ”が註譯文を加筆した事でも伺えます。
『漢文のテストならいざ知らず、こと
魏志倭人伝の内容解析には使用できないでしょう』
肝心な『遠絶』の解釈もありませんし、
見るに耐えないので一言。
「方寸」・・・一寸四方。わずかの広さ。出典「方寸之地」蜀志・諸葛亮伝
>>749 テスト100点
倭人伝 0点
いい加減
読み下し馬鹿を卒業しようね。
少しづつだけど 流れは変化しているよ!
未だ学校に通っているうちは
>>747さんの読み下しが正解だ 間違いない。
しかし、
魏志倭人伝やその他の倭人伝にはつかえない。
>見てられない
※一般的に翻訳されている内容ぐらいは 把握しているつもり
余り 蔑んだ見方をするのもほどほどに!
>>750 何で倭人伝だけ普通の漢文の読みが通用しないんですかね?倭人伝だけが漢文
の中でも特別なんですか?
>単に読み下して、全て片付いてしまうような単純な内容では無いことは、後
>に“ハイショウシ”が註譯文を加筆した事でも伺えます。
あのね、ハイセイキ殿が注釈してるのは王沈とかギョカン、孫盛などの本に三
国志に書いてないような内容が含まれていたから。実際顔師古が「漢書」に注
釈しているのは唐の音訓では漢の書物が非常に読みづらかったため、訓詁の注
を多く付けている訳。ハイセイキ殿にとっては三国志はまだ近世の物だから、
訓詁の注は非常に少ないわけ。当時の人にとっては中国人も読めないような代
物では無かった、という訳なんです。
>可⇒口+ 」(かねおり) 口(範囲)の(かねおり辺)
こういういい加減な解釈もやめにしましょう。
可・・・口と音を表す「巧」のヘンがない方とで、口で良いと言って許す意味
を表す。良いという意味は音が通じる「嘉」より
たしかに「口」にはくにがまえなどの意味もありますが、もっと小さいものの
意味もあることを忘れないでください。
>>751 『用例の使い方』
倭人伝で起きた問題は出来る限り倭人伝の中で解決しなければ意味無いよ!
その他の用例を引っ張り出されても、その設定内容がまるで違うので自ずと意味解釈がズレてくる事必死
せめて、後世の倭伝内で問題解決出来ないのかな?
>余り 蔑んだ見方をするのもほどほどに!
あのね、邪馬台国に興味を持ってね、倭人伝読んでね、漢文少しやったリア厨
でもね、明らかにおかしいと思う訳をあなたがしているから
>>749みたいなこと
も書くわけ。
>>753 はあ?陳寿が倭人伝だけ特別扱いしたと?それとも条ごとに漢文の読み方を変
えろとおっしゃっているんですか?ならジュンイク伝、トウタク伝、本紀で漢
文の用例が違うとでも?そんならそれを証明してください。本当なら日本人の
漢文の読み方を全部変えなきゃいけませんからねw
一般的な読み下しが正しいとおっしゃるのなら
取り敢えず
倭国内の57年〜共立位までの時代の流れでも 説明してもらあましょうか?
>>756 いや朝貢記事はあってもね、57年から107年の間までは全く記事が無いか
らわからない訳。さらに倭国乱にしてももとの「三国志」にいつからいつまで
とかいう話はないから、全部「推定」になるわけ。それでもいいなら仮説でス
レ汚しましょうか?
はい
まず57年、奴国の王が朝貢して金印をもらいます。金印はおそらく志賀島か
ら出土した「漢委奴国王」印のことだと思われます。その五十年後の107年
に「倭の国王」帥升等が生口百六十人を献上します。この朝貢時には、おそら
く北九州の国々の間で同盟のような物があり、国々から生口をあつめて百六十
人という膨大な人数になったのでしょう。おそらく一世紀の半ばあたりは奴国
が北九州の国々を代表する立場だったのが、二世紀初頭には北九州の国々はほ
ぼ均等な力をもつようになり、それが帥升「等」という何人かの国王が一緒に
使者を派遣したという記事に顕れています。
続き
卑弥呼の共立を三世紀初頭として話を進めます。
おそらく107年の朝貢の二世代ぐらいあとから北九州の諸国は同盟したり離
反したりで、纏める者がいなかったものと思われます。そして本州内でも小競
り合いが続いていました。要は列島ほぼ全域で睨み合いが続いた、ということ
です。そんな中、近畿では邪馬台国、中国地方では投馬国が有力な国となりま
す。台頭してきたその二国を、北九州は看過できず、同盟を結んでシンボルを
創り、小競り合いの終息を目指します。それが卑弥呼の共立です。
安曇さん
気が付いた事を一つだけ カキコしておきます。
>金印
※原文には【光武賜以印綬】と書かれてあり
『印綬』って金印紫綬の事ですか?
原文に即していなかったですね。>奴国の王が朝貢して金印をもらいます と
>金印はおそらく の「金印」を「印綬」に読み替えてもらえればうれしいで
す。以上。スレ汚し須磨楚。
これは
安曇さんだけじゃなく
多くの方が間違えて認識した
私の(誤読王)も
ここから始まりました。
『印綬』⇒皇帝から貰う皇帝印の押された詔書
でも、稀に
印鑑の受理を簡略して「印綬」と表記することもありますが
印鑑には、假綬される相手の位に応じての印鑑が渡される。
だから
この場合、絶対に「金印假綬」等有り得ない訳!
ぼんくら学者は
どーこをどー読んでる事やら
>『印綬』⇒皇帝から貰う皇帝印の押された詔書
辞書ちゃんと読んでください。間違えて認識しているのはあなたです。
>印鑑の受理を簡略して「印綬」と表記することもありますが
用例はいずこに?
>>753に沿ってお答えくださいw
あのね
そんな揚げ足取りしないの!
そういう内容のものが辞書にのっていた と言うお話で 私はそれを“どうこう”使用していない訳
印綬は金印紫綬ではないの彼の身分は「自称大夫」
そんな奴に「金印」など
あげませーん。
あのね、「金印」というのは王侯や高官に与える金印なわけですよ。確かに使
者ごときに託せる物ではないことは誰でも知っているはず。だから自分は楽浪
郡を通じて勅使が派遣されたと思います。相手はかりにも「王」を称している
訳ですからそれに応じた物を与えるのは当然かと。それより
>>763が間違って
いることはわかりましたか?普通の辞書なら出てるはずですよ。
須磨楚。訂正
「金印」というのは王侯や高官に与える印なわけですよ
『大夫の金印紫綬』
そんな馬鹿な!
ここまで毒虫に侵されているとは
これじゃぁ
『假綬と假授』の違いなど一度も考えた事有りませんね。
『絶遠と遠絶』の違いなども
絶遠は《梁書倭伝》
遠絶は《魏志倭人伝》
暇な時にでも 考えてみると私の解釈が誤読では無いことが判ります。
言ってることが良くわかりません(前半)
安曇さん
辞書、辞書って
では
貴方の辞書に假金印綬のシステムはのっていましたか? 金印を下賜され『金印紫綬』と記録される理由を調べて見てから
反論して下さい。
何故『景初の朝見』記事に『金印紫綬』とカキコされているのに、五十七年の朝見記事には『印綬』なのか?
その辺をよーく理解出来れば『読み下し馬鹿』からの脱出です。
「金印紫綬」というのはともに高位の人が用いたもので、転じて高位高官とい
う意味にもなってるそうです。
>何故『景初の朝見』記事に『金印紫綬』とカキコされているのに、五十七年の
>朝見記事には『印綬』なのか?
あなたはどういう説なんですか?それを書いてもらわないと意味不明のままな
んですけど。漏れは資料の欠だと思いますね。後漢末の混乱で資料が散逸した
かもしれません。しかし「物」が出ているのでね。あなたは「綬」意味わかっ
てますか?
>>772 >『綬』意味わかってますか?
★わかってるから
『假綬』と『假授』の違いを聞いているんでしょ!
>『後漢書』史料の消滅
★勝手になくさないで下さいよ。
史料が不充分なら、倭伝なんて敢えて書かないでしょう
いや資料が不足していたから「魏書」を踏襲したのでしょう。敢えて「倭伝」
を書いたのは、一つには奴国王と107年の二回の朝貢があったこと、さら
に南朝宋においていわゆる「倭の五王」の遣使があったことで、倭への関心
が当時あったからでは?
それと『假綬』なんてどこに出てますか?
安曇さんは辞書に記載されている『綬』(紐)の文字に縛られているか?
正始元年にカキコしてある『詔書・印綬』の事でイッパイ状態かな?
残念ですが
正始元年の『印綬』は『假金印紫綬』ではなーい。
『金印紫綬』は既に景初三年に済んでしまった
金印紫綬とワザワザ記録に残すのは
前回の金印効力を消滅させ新に下賜された金印の正当化をする為の記録記載なわけ!
だーから
五十七年の『印綬』は
『假金印紫綬』ではない。
もうマジレスするの疲れました・・・最後に。
>>775は何ですか?印が二つ下賜されたと言いたいのですか?
>金印紫綬とワザワザ記録に残すのは
>前回の金印効力を消滅させ新に下賜された金印の正当化をする為の記録記載
>なわけ!
ここから57年の印は金印じゃないと?理由になってるんでしょうか?
>>776 >二つの金印
★卑弥呼のもらった金印は、景初三年にもらった一つだけ
>五十七年の金印
★はい
778 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/03/28(火) 21:07:28
《(^O^)/中国人研究家レス見ているかぁー》
あんたの『…三十国』『從郡至倭…』の文節切り
あんた本当の中国人か?
“中国地方”人の略語か?
中国に帰る前に、文節の切り方教えて上げるから メモしなよ!
『…三十国從』『郡至倭循海岸…』 が、正解だ
いいかい、
ここに出てくる『從』も『循』どちらも(シタガウ)なんだが、活用方法が違うんだ …メモしろよ…
@從⇒人や動物の行為を表す時に使用し
A循⇒それ以外の行為を表す時にしようする
…続く…⇒
>>778続き ((^O^)/中国人研究家レス見ているかぁー)
【……三十國從郡至倭循海岸水行…】という行程記事には『從』の文字は必要無く『循』という文字が、似合うんだよ!
『(從)郡至倭(循)海岸水行…』なんて 漢文は????
活用方が違う訳!
『郡至倭(循)海岸水行…』で十分通用するの
ついでに、
『從』の文字は 前文の『三十国從』として、使用するから、後文の『郡至倭…』に貸してあげられないの 解ったかな!
※これが古代漢文文節切りの一例
『従者』『従軍』『従属』全て対象は『人』だよ
『郡至倭』は、人や動物か?
780 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 11:18:42
もう末期症状だな>プラム
彼のスタンスは、他人の意見はそれが正しかろうとも絶対にに認めないというもの。
口では参考にしたいとか聞かせてほしいとか言ってるけど、真っ赤なうそ。
たまに自説を述べよとか参加しろとか口走っているが、みんな君にあきれてつきあわないだけ。
安曇連浜子にも見捨てられたようだし、これで圭角に愛想つかされたら
あとはおちょくり目的のヒッキーに付きまとわれるだけだろうな。
一度半年くらい2chを離れてみ、俺の言うことがわかるだろうから。
>>780 半年前にも同じようなレスがあった
俺の評論なんかしている暇があるのなら、レス内容を吟味する方が賢いよ
決して 逸れた内容じゃない筈だし、流れは少しずつ変わりつつある
誤った内容の長時間議論はこちらから遠慮しますよ
何時か必ず同調者が現れる筈だから
微妙だが ヒッキー君なんかは変わりつつある一人だよ!
782 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 13:21:46
>半年前にも同じようなレスがあった
それだけみんな迷惑してるってことじゃない?
>流れは少しずつ変わりつつある
>何時か必ず同調者が現れる筈だから
未来永劫、変わらないし現れないよwww
>ヒッキー君なんかは変わりつつある一人だよ
たぶんヒッキーはあんたのレスを読んで、腹抱えて笑ってると思われ。
>>782はいはい
そうだよね 貴方の言ってる事はゼーンブ正しい
貴方の言葉は神の言葉だ!
だから今度はスレに合った意見宜しく頼むよ。
今度も遊んでね!
784 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 13:46:58
↑
いや、もう放っとけ
俺が一番懸念しているのは、かくも香ばしいプラムという本物の基地外の存在を
春厨やVIPPERどもが嗅ぎつけてスレどころか板が荒れまくることだ
あいつらピラニアの如く獲物を骨まで食い尽くすからな
最良の方法は、全員で無視
NGワード指定で存在そのものを消すこと
板の崩壊を避けたいのなら、安曇連浜子も圭角も協力しろよ
どんなにスレの趣旨に合った意見を書き込んでも
すべてお前が台無しにするじゃないか>プラム
最近は畿内説スレどころか日本書紀スレにも出没して
住民に迷惑&板汚ししてるしな。
朝鮮総連コピペと金払ってやれよ意見に関連性を見出すところなんざ
と学会の本に出てきそうな典型的トンデモさんだわw
787 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 14:12:22
だからもう放っとけって
おまいらそんなに荒らしを呼び込みたいのかと小1時間(ry)
荒らされるのが嫌ならageるな、ヴォケ!
よーしパパ、VIPや魚地にプラムを紹介しちゃうぞwww
>荒れてるの
>案外少数意見が正しかったりしてry
>邪馬台国論争は馬鹿が大勢居るから何時までも論争してるってw
どうやら畿内説の漏れが無駄レス入れたせいでスレが荒れたみたいですね。スマソ
791 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 18:56:02
近畿だろうねぇ
792 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 19:05:58
崇神天皇は、任那を建国したから
「初国知らす清めら御子人」なんだろう。
793 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/30(木) 22:08:31
僕はもう邪馬台国からは足を洗いましたよ。
これはネットゲームと一緒で答えのない時間の浪費です。
プラムさんの意見にも笑ってるというかもう呆れて
開いた口がふさがりませんよ。毎日邪馬台国三昧で
さらに誤読を延々こんなとこに書き込んで満足してるなんて、
家族の方がかわいそうでなりません
794 :
16歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/03/30(木) 22:14:03
邪馬台国を中心とした古代史を学びたいなら
それなりの大学の文学部へいき専攻するのがいいでしょう。
独学で本読んでかじっただけではプラムさんのように
めちゃくちゃな解釈に陥りますよ。ちゃんとしたところで
教わったほうがいいです。
>>794 あんま批判するとまたスレ荒れるんでスルーしてあげてください。
16才中卒も安曇連浜子も、提灯つけて常連小手を追い出した以上、責任を持て
次のターゲットは
>>793 答えをあげようw
ちょっと思い出したので書く
詳細は思い出せないが、畿内では無いことは確か。100%断言できる。
場所はあそこで合ってると思うが、まあ言わないでおこうw
なにしろちょっと記憶の欠片がさまよってる感じだからw
あと、卑弥呼は男。「魏志倭人伝」を書いた背景を考えろ、中華思想を甘くみてはいけない。
あいつらは自分らが世界の中心という思想だったんだからw
誰か整合性をつけられるかなw
まあ1行目だけ読んでください。
一応書き記しておこう・・・
798 :
太国:2006/03/32(土) 07:37:23
卑弥呼は女性ですよ。w
799 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:35:47
九州説の提示する出土物の圧倒的な差を理由に、私は、九州説に賛成しているのですが、
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/datadetail.htm これに対する畿内説側の反論を見たことはありません。反論はおろか一切言及もせずに
無視しておりますが、このような畿内説の対応に何か正当な理由があるのでしょうか?
特に、『絹』のデーター
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/kinu.htm では、九州と奈良とでは100対1以上の圧倒的大差であるのに、畿内説はこれも無視しています。
最近もこのようなデーターに一切言及せずに白石さんは畿内説の本を出しておりますが、
このようなことが許されるのがこの分野の学会の実体なのでしょうか?
直木さんは、90年頃に「私は文献史学者であり考古学者ではない」と述べて、邪馬台国論争から
身を引いておりますが、このような対応でさえ、学者としての誠実さを疑います。
最近は、マキムクの出土品を古く見る手法で畿内説は復権を目論んでいるようですが、相変わらず
上記のデーターには一切言及しません。学者としての誠実さを疑う行動だと思います。
なんていうかな、弥生時代に九州の出土品が他を圧倒していることは万人が認めていることで、
それに反対とか無視している人はどこにもいない。
問題となっているのは、2世紀後半あたりから3世紀にかけて少なくとも東海以西、
ひろければ関東あたりまでを巻き込んだ列島広域に及ぶ大変革期以降なのであって、
邪馬台国を論じるときにはAD150〜250年ぐらいという極めて限定された年代幅で抽出しないと意味がない。
しかも、この時期の変革は極めて急なので、この100年の中でもその移り変わりがどうなのかを見ていく必要がある。
この意味で、そのサイトのデータは全く役に立たない。
801 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 00:17:32
絹を語ったら、畿内説は全滅だから、
絶対見てはいけない約束になっている。
802 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 00:37:03
>>800 弥生時代とは、『古墳時代の直前期』までを言うので、無視するのは無理で
その論法は、論理のすり替えだと思います。
あと、魏志倭人伝で出てくる各種の鉄器の統計が>>799のデーターでもあるので、
『関係ない』という言い訳は見苦しいと思います。
同じ遺物の地域による単純比較であり、データーとしての価値は極めて高いと思います。
少なくとも九州説が根拠としている以上、正面から主張の存在を認めて反論する必要が
あると思います。
また、時期はともあれ、九州に政治・文化の中心があってそれが畿内に移るという前提
についても畿内説は認めようとはしていないように思います。
>>798 ”俺”が言うんだから間違いないw
”史料”から導くからそういうことを言うwwwww
804 :
太国:2006/04/02(日) 11:13:56
>>803 こちらは「卜事」で把握している。卑弥呼は女性です。貴方の間違い。
直接会って話したら撤回すると思うけどな。
まあ、いいけどねw
>>802 奈良盆地南部や大阪南部に古墳が沢山あり、
そこから膨大な数の威信財が出土していることを理由に
平安時代の首都がその奈良盆地南部か大阪南部にあった、
と主張する人がいたら、それがバカだというのはあなたにもわかるでしょう?
問題となっている時代とはかけ離れた年代のものをもってきてあれこれ言ってもしょうがないのですよ。
その上、問題となっている邪馬台国の時代は急速な変革期でもあるゆえ、
弥生時代の出土品を通算して数えても何の意味もないのです。
もっと細かく時分割して、何がいつどこで出土しているのかを見ていく必要があるのです。
>また、時期はともあれ、九州に政治・文化の中心があってそれが畿内に移るという前提
>についても畿内説は認めようとはしていないように思います。
いったいどこでこんな知識をしこんできたのです?
“政治・文化の中心”という言葉の意味は少し慎重に扱う必要がありますが、
弥生後期前半ぐらいまで、九州北部がもっとも繁栄した地域であることを否定する人はまずいませんが。
808 :
太国:2006/04/02(日) 13:29:46
>>806 あんたじゃま〜わからんだろうなぁ? 卑弥呼は邪馬壹国の女性なんだよ。
神代文字のスレを見ていたのかね。それは結構ですなぁ。
神功皇后の摂政の世の前後の時代に、特殊神道を行う卑弥呼という邪馬壹国の女王
が九州に、畿内大和朝廷の天皇皇后とは別にいたんだよ。
卑弥呼は額に日像鏡がくる頭頂部に針形のアンテナ様がついた冠をかぶる姫で、
その姿で特殊神道の鬼道を国事的にやっていたんだ。
断じて男にはあらず。
>>808 神代文字であれなんであれ文字は嘘をつく
以上
810 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 17:12:40
三角縁神獣鏡の扱いも畿内説の弱点だと思う。
90年頃までは、畿内説は卑弥呼の時代に魏からもらった鏡は三角縁神獣鏡であるとして、根拠に
していた。また、外来のものを模倣した国産の三角縁神獣鏡と外来物を区別していた。
外来と国産の区別は『博識ある教授達』が『神の目』で選別していた。
けど、彼らが外来としていたものと国産としていたものは、鉛の同位体比など成分が同一であり、
全て日本製ということが今やほぼ定説。
畿内説の本を読んでいると、この点を無視しているけど、学者として不誠実極まりない。
何の為に歴史の真実を探求する職業を選択したのか疑問。人間性も疑う。
最近では、中国産の銅を使用していたとする発表を畿内説側はしているけど、この時代の銅は全て
中国産であることを隠蔽して、くだらぬ発表をする人間性には本当に腹が立つ。
「乞食を馬鹿にしても自分の財布の金は増えない。」と分かってはいるが、腹が立つ。
>>810 書いてることが支離滅裂ですよ。
>最近では、中国産の銅を使用していたとする発表を畿内説側はしているけど、
>この時代の銅は全て中国産であることを隠蔽して、くだらぬ発表をする人間性には本当に腹が立つ。
何に怒っているのかさっぱり分かりませんが、
『銅は全て中国産』であるのは鉛の同位対比からの結論であることは承知しているのですよね?
つまり鉛の同位対比からは銅の産地が中国であることがわかるだけであって、
鏡そのものが日本製か中国製かを判断することは無理でしょ。
だから、
>鉛の同位体比など成分が同一であり、 全て日本製ということが今やほぼ定説。
はおかしいですね。日本製か中国製かに鉛は無関係です。
で、そろそろスレ違いであることを悟ってもらえませんかね。
ここは九州説を語るスレですよ。
812 :
太国:2006/04/02(日) 17:32:55
>>809 君は>809等をその文字とやらで書いている。じゃぁ>809は嘘になるわけだな?w
813 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 02:35:48
>>811 一応、反論しておきます。
三角縁神獣鏡は、あまりにも大量の出土があるので、邪馬台国が魏から貰った量としては
多すぎる故に、出土した鏡のうちの大半が日本製であることは、昔から言われてきたことです。
この点に異論の述べる学者は昔から居りません。
そこで、畿内説側は、昔、三角縁神獣鏡を外来と日本製と区別して、教科書にも『邦製』と
銘打った三角縁神獣鏡が載っていた時代がありました。
しかし、ほぼ全ての三角縁神獣鏡の成分が同一ということとなると、同一地域の銅を原料に
狭い時期に大量生産したことになります。
三角縁神獣鏡のほぼ全てが中国製と主張する学者は現在では皆無ですから、科学的に
ほぼ全てが日本製であることが証明されたというのが現在の状況です。
ちなみに三角縁神獣鏡は中国では1枚も出土しておりません。
畿内説は、三角縁神獣鏡が『卑弥呼の鏡』であるとして、その根拠としてきましたが、この
科学的証明を無視するのは、ご都合主義で学者としての誠実性が疑われるというのは当然
だと思います。
この論理は、分かりやすいものだと思います。
あと、銅のなかの鉛の成分が均一過ぎることから、単なる日本製というだけではなく、大量の
銅製品(鏡、銅鐸等)を溶かして、ブレンドして日本で製造したという説も有力です。
814 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 11:13:12
>>799 絹、鉄器に関しては無視どころかなぜ九州に出土が多いのかの理由すら、とっくに判明している。
つい最近もそれに関する書き込みがあったはずなのでここでは繰り返さない。
ちなみにこれは相当に有名な(初心者向けの本でも載っている)話なので
聞いたことが無いというのはおかしい。
本当に理由を知らないのなら、単なる勉強不足だね。
九州説を唱える論者も、今では鉄がどうとか絹がこうとかは、まともな人なら決していわない。
そういうことを論拠としている本があるなら、それはトンデモ本ですよ。
815 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 12:45:21
>>814 >>書込みがあったはずなのでここでは繰り返さない。
繰り返していただいて、結構ですよ。
理由は知っているけど、書けないと言うのは、最低の弁解ですね。
是非、ソースとなる著作を出してください。君の言い方だと3冊くらいはスラスラ出そうですね。
「トンデモ本」というレッテル張りもみっともないですよ。ソース主義で行きましょうや。
816 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 13:04:06
>>815 と言うことは、マジで知らない訳ですか・・・
ではとりあえず入手しやすいものを3冊
寺沢薫「王権誕生」
柳田康雄「伊都国を掘る」
石野博信「邪馬台国の考古学」
ちなみに絹は「きわめて保存性の高い」甕棺からの出土が基本。
九州でもその後の時代の石棺からは出土しない。
畿内では、これはもう奇跡的に4世紀の絹が出土したのが最古。
鉄は確かに弥生終末期までは北部九州が圧倒的。
ところがどうしたことか古墳初期あたりから一挙に逆転する。
この転換をどう見るかだが、それをして九州説の根拠には全くならない。
無論畿内説の根拠にも当然ならない。要するに鉄の出土量などは位置問題とは無関係に捉えるべきもの。
例えば奥野の「鉄の考古学」などは、データに歯抜けがあまりに多いため、使い物にならない。
ここは村上恭通・北條芳隆他「古墳時代像を見直す」や同じ村上の一連の論文を参考にすればよい。
皆の衆、あまりにガイシュツな繰り返しですまんが、ホントに知らんそうだから書いとくわ。
817 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 13:25:00
>>816 そうですか、君の言い分だと、絹の出土の偏りは、保存状態の問題だから、無視すべき。
ということですか。とすると、
>>799の引用先
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/kinu.htm にある、森浩一さんのコメントもトンデモということですね。
あと、上の引用先に出ている絹は「保存性の高い甕棺だけ」から出土したんですね。
それは、ちょっと無理があると思います。
あと、鉄の中心が九州北部から畿内に移ったのは、政治の中心が畿内に移ったという
邪馬台国の東遷に有利な事情と考えるのが普通だと思います。
鉄は保存状態が悪くても存在すれば、出土しますよね。
「九州説の根拠には全くならない。」も無理筋だと思います。
とにかく、ソースを出してくれて、有難う。
818 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 13:52:54
>>817 これは今まさに畿内説スレでも論じられていることだが
東遷(正確には伊都国などの玄界灘地域主導)による纏向建設は可能性はあれども
そっくりそのまま移動したとする論者は、正直いない。
それが何故かは、一度畿内説スレを除いてみるといい。
それと森氏のそのコメントは、僕の知る限りでは80年代のもので
氏そのものが、いまはそういう考え方をしていない。
森氏は基本的に、決め付けによる議論停滞を懸念している立場にあり
それでも「旧態依然の九州説や東遷説など今更持ち出されても、発展に寄与しない」とも発言している。
そういう昔のコメントを恣意的に引用するそのサイトに問題がある。
また3世紀以前に絹が甕棺以外から出土した例などあるのですか?
聞いたことありませんよ。
ついでに鉄器の西高東低はもちろん定説だが
>鉄は保存状態が悪くても存在すれば、出土しますよね
これは大きな間違い。鉄は青銅器よりはるかに腐食しやすい。
保存状態が悪ければ、時には痕跡も残らずに溶ける。
鉄が全く失われて周りの漆だけが残っていた出土例もある。
これはマジな助言。鉄や絹から九州説や東遷説を構築するような本やサイトは
「これらを知っていながらあえて無視したもの」なので
君のためにはならない。
九州説本でも、もっとまともなものもあるのでそちらをお勧めする。
手始めに先の森氏や柳田氏を読むといい。
個人的に賛同できない部分もあるが、いい加減な嘘を撒き散らす本やサイトなどとは
比べ物にならないほどまともなことが書いてあるから。
819 :
818:2006/04/03(月) 14:24:40
念の為
「旧態依然の九州説や東遷説など今更持ち出されても、発展に寄与しない」
これは決して九州説や東遷説に対する揶揄ではない。
当の昔に論破され、また最新発掘成果からも否定された、古いタイプの論と言う意味。
もちろん畿内説にもこういった古くて使い物にならないかつての論がある。
畿内説スレにて論じられている東遷(さっき書いたように主導説と言ったほうが良い)は
いわば現代において再構築された説なので、十分議論の対象になる。
畿内説もかつての説とは内容が大きく異なる。
今のところ、新しいタイプの九州説はあまりまともなものが無いのが正直なところだが
きちんと文献、考古両面から再構築することは可能だと思う。
ついでに(喧嘩売るつもりは無いが)書いておく。
安本美典の本や彼の説を支持するサイトなどが何故ダメなのかというと
もうすでに誰も主張していないタイプの畿内説をやり玉に挙げて攻撃したり
各氏のコメントを恣意的に引用することがあまりにも多いからだ。
寺沢、柳田、石野などの論文も、都合のよいところしか引っ張ってこない。
先の森氏のコメント引用など、その最たるもの。
これは論争でも議論でもなく、単なるディベート・テクニック・・・しかも相当に卑怯な手法に過ぎない。
これを疑うのなら、引用したとされる各人の著書や論文と読み比べればいい。
一見もっともらしい書き方をしているから、一読して騙されるのは仕方ないかも知れないが
冷静に読むと、随所に煽りや断定を駆使したテクが使われているのが判るはずだから。
820 :
818:2006/04/03(月) 14:36:47
しかし甘木や夜須に果たして3世紀の有力集落があったのかどうかは
これはまともに論じるべきだろうし、十分研究の対象になる。
だからこそ地名の一致(30年以上前に論破されている)とか
最新発掘成果の恣意的なつまみ食いによる強弁とか
もう存在しない説に対する攻撃による自己正当化とか
そういうことを平気でする連中の書いたものなど信用できないということ。
甘木、夜須は正直まだまだ可能性がある。
だからこそ、つまみ食いではなくそれこそ何十年でもかけて学ぶべきではないか。
安本も最初の「卑弥呼考」は当時は高く評価されたのだが
自説に拘泥するあまり、あさっての方向に行って帰って来れなくなったんだよね。
三郡誌偽書を正面から取り上げて論破したのは立派な功績だと思うから、よけいに惜しい。
821 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 15:35:40
>>818−
>>820 長文お疲れ様。
私は、安本信者ではありませんよ。但し、彼の本は結構読んでいます。彼の説には、
説得力のある部分が多いけど、畿内説側からはスルーされているような感じもします。
「季刊邪馬台国」には、評価の高い学者も寄稿しているように思いますが、この人達も
「トンデモ」なんでしょうか?
私は、畿内説側の文献も読んでいますが、イマイチなものしか読んでいないようなので
畿内説の良い文献が上記以外にあればですが、ご教授願います。
822 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:14:26
>>821 「季刊邪馬台国」は読んでいないので、どのような人達が寄稿しているのかは知りません。
ただ、依頼があれば書くとのポリシーを持つ方も居られるので
それは書かれた内容によるのではないかと思います。
まず順番として、寺沢薫の「王権誕生」、次に「伊都国を掘る」最後に
「邪馬台国の考古学」の順で読まれるといいでしょう。
他には「シンポジウム三角縁神獣鏡」(必読)
「三国志がみた倭人たち 魏志倭人伝の考古学」(畿内説の概要がつかめる)
佐原真「魏志倭人伝の考古学」(これは参考程度でよい)
などが比較的図書館などでも手に入りやすいですね。
ちなみに畿内説もまだ完全に論理構築されているとは決して言い難く
各研究者によって微妙に主張の違いがあります。
しかしそれは解明中の学問における宿命ですので、逆に「ここだ!」とばかりに
快刀乱麻の論調で書かれたものほど信用できないと思ってもいいです。
これらを読んだあとに石野博信の「 大和・纒向遺跡」「初期古墳と大和の考古学」「 古代近畿と物流の考古学」
などを読まれると、少なくとも現在どのような考え方で畿内説が構築されているかか掴めるはずです。
九州論者とはいえ、敵の手の内を正確に知ることは重要だと思いますよ。
823 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:34:58
ついでに「季刊 考古学」という雑誌があります。
考古の最新論文が掲載されますので、これもまた図書館でバックナンバーを借りてみてください。
>説得力
「邪馬台国畿内説を撃破する」などを読むと、僕などはorzになってしまうのですが・・・
地名にしても、長くなるのでここではひとつだけ。
なぜ安本氏は「池田」をわざわざ江戸期以降の可能性が高い奈良に求めるのでしょうか?
大阪にはさらに古地名だと判明している「池田(例の小学校殺傷事件のあったところ)」があるのに。
これでは都合のよいところだけピックアップしたと取られても仕方ないでしょう。
住吉(墨江)、笠置、田中などもそう。
結局はまったく一致していないのです。
これは本来安本氏のオリジナル説ではなく(本来の提唱者は忘れました、ごめん)
それを再構築したものですが、提唱者本人もこの説を捨てています。
もともと、七福神がらみの地名(大国、恵比寿、弁天など)が江戸、大坂、京にあるのが
どこが発祥で、ひいては七福神信仰がどこから広まったのかを論ずるための考察でした。
そのついでと言ってはなんですが、甘木と三輪の類似に気付き、調査してみたところ
ほとんどが江戸期以降の地名だと判明したと言うものです。
そのため提唱者は、これに関しては主張を取り下げています。
本来の七福神研究は、どうやら江戸発祥らしいと言うことで落ち着いたようですね。
長文失礼しました。頑張って下さいね。
824 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:44:19
>>822 ソースを有難う。ただ、全部読むのはちょっと無理かも知れんw
ただ、これまでの経験だと畿内説論者は、左翼的な風潮が強くて、抽象論によるごまかしでうんざり
させられることが多かった。王朝交代論とか、河内王朝とかは左翼イデオロギーなしには、理解し難い
部分が少なくないように思う。
825 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 17:17:16
>>824 >左翼的な風潮が強くて、抽象論によるごまかしでうんざり
それは不幸な経験を・・・
基本的にイデオロギー抜きです。天皇家が万世一系であろうが無かろうが
記紀が恣意的な編纂をされていようがいまいが、それを元に思想を語るのは学問とは別の世界の話でしょう。
スレ違いかもしれませんが、かの原爆の生みの親であるエンリコ・フェミニもオッペンハイマーも
少なくともどこかに投下されることは知ってましたし、ナチス降伏後への日本投下にも同意しています。
オッペンハイマーなどは、天候のため広島に変更したと聞くや否や
「盆地じゃないと正確なデータが出ない!」と怒ったそうです。
実を言えばこれが学者の本質です。
知に勝る愉悦は無いというのが、この人種の特徴です。
そこには思想どころかヒューマニズムすらありません。
逆に言えば、何らかの思想に絡めて書かれたものは、もう学問とは呼べないのかもしれませんね。
ちなみに王朝交代論とか、河内王朝とかを唱える畿内説の学者はいません。
そんな劇的な変節はその時代に起こってはいないと見る向きがほとんどです。
それこそトンデモ畿内説ですねw
ゆっくりでいいですから、生活に支障が無い程度で読み進めてみてはいかがでしょうか?
826 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 17:30:59
あ、最後に蛇足・・・
九州説や東遷説の方を畿内説に転向させようとか
啓蒙しようなんて意図はこれっぽっちもありませんので。
ただ先に書いたように「敵(畿内説)」がどのようなものかを正しく知ることは重要かと思います。
そうでないと的確な反論すらできないでしょうから。
ただそれだけのことです。
しかしそれだけでも資料は相当な量にはなります。
ゆっくりゆっくりと読み進めてくださいませ。
827 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 18:44:29
◆◆ 和漢共栄時代から三民戦争時代へ。カラ半島の古代史 ◆◆
3世紀以前のカラ半島は、半島北部地方は、漢民族が楽浪郡を置いて支配し、半島南部地方は、
倭人(日本民族)が、志良岐と任那を建国して支配していた。この時代が、『和漢共栄時代』である。
しかし、313年から314年にかけて、満州地方のフヨ人(高句麗人)が、漢人が支配する楽浪郡を
攻撃して滅ぼしたため、これ以降、『三民戦争時代』に突入する。
三民戦争時代とは、カラ半島北部の高句麗を支配するフヨ人、任那・百済を支配する倭人、そして、旧帯方郡の
東部地方に住んでいたが、356年に倭人国家=志良岐(シラキ)を乗っ取り、新羅を建てたワイ人(穢人。朝鮮民族の先祖)
が、カラ半島の支配権をめぐって戦争を繰り返した時代である。
当初、ワイ人国家=新羅は高句麗に朝貢し、倭人勢力と戦争していたが、433年に高句麗に対して反乱を起こした。
そして、倭人国家=百済・任那と同盟を結び、今度は高句麗と戦争した。
だが、550年代になると、ふたたび倭人勢力とワイ人勢力の関係が悪化し、新羅と百済の間で戦争が再開された。
643年には、敵対関係にあった倭人とフヨ人が反新羅で同盟を結び、ワイ人国家=新羅を攻撃した。
倭人とフヨ人は協力してワイ人国家=新羅と戦ったが、660年、唐と手を組んだワイ人勢力=新羅によって、
百済は滅ぼされた。
668年には、フヨ人国家=高句麗も、ワイ人勢力=新羅と唐の連合軍の攻撃により都を落とされ滅びた。
最終的に、カラ半島はワイ人によって統一された。このワイ人が、後の朝鮮民族である。
倭人=日本人勢力は、663年の白村江戦争で敗北した後、カラ半島の領土を手放した。
しかし、白村江戦争以降も、ワイ人=朝鮮人勢力は、海賊活動を中心に何度も日本侵略を繰り返した。
これが、古代カラ半島の真実の歴史である。7世紀以前のカラ半島は、三つの民族が領土戦争を展開して
いた地域だったのである。
828 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 23:07:25
>>823 安本の地名の引用は、基本的に全部が延喜式などの文献の根拠を示しているから、
江戸時代以降の可能性が高いというのは、中傷のような感じがします。
どうで良いけど、ソース希望。
829 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 23:44:27
まあ、金印と阿蘇山が畿内から見つかる日を
楽しみにしておこう。
830 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 07:08:12
思ったんだけど、「天の安河」って甘木あたりにある夜須川のことか?
じゃあ、アマテラス(邪馬台国)とスサノオ(狗奴国)は戦争時この川はさんで対峙したってことか?
831 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 17:53:54
>>825 >>王朝交代論とか、河内王朝とかを唱える畿内説の学者はいません。
水野祐(王朝交代論)、直木孝次郎(河内王朝)・・・いずれも畿内説
まあ、ご高齢だから説が無いといっても良いか。ただ、この系列に属する学者はまだ多数居る。
学会で集まるたびに、古代天皇制を民衆を抑圧する絶対王政だとかの定義付けをしていた古き
良き時代の大人物だとは思う。
832 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 18:01:08
>>822 ここで引用されている学者の論文も安本が主催する『季刊邪馬台国』に
掲載されている。佐原真とは、公開の座談会もしている。
安本批判も良いが、根拠のない中傷と思われないためには、ソースが必要。
安本批判の最大の根拠は彼が古代史学会の生え抜きではなく、左翼思想が支配していた
学会を批判した急先鋒であったことと無関係ではない。
833 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 02:34:34
>>822 寺沢薫の『王権誕生』ちと読んだ。疑問続出。
1、鉄器で北九州が圧倒的優位に立っていたことを認める点は、それまでの畿内説よりは現実的。
畿内の鉄だけ腐食して無くなるとかいうのは、やっぱり無理だし。
ただ、そうすると、鉄器で優位に立っていた北九州が畿内を征服したという『東征』が自然だと思う。
畿内の巻き返し的な見方をするには、根拠が弱いように思う。
2、瀬戸内海から畿内辺りまでの高地性集落が防御的とすることは、遺物重視で良いと思う。
しかし、そうすると、畿内が成長して北九州を圧迫して併呑したという流れにはつながりにくい。
攻める側にのみ防御的施設がなぜ存在するのかという根本的疑問を感じる。
むしろ、武器で優位に立った北九州に対して、畿内が防御的になっていたというのは、東遷の根拠に
なると思う。
3、銅鐸の埋納を呪術的な意味を持った積極的な行為とみるのも、疑問。むしろ、精神活動の中核を
占める神器を敵対者から隠すためとするほうが、自然だと思う。
4、銅鐸文化を自発的に捨てたという見解には、大いに疑問。普通に考えれば別の文化を持つ集団に
征服されたから、途絶えたと見る方が良いのでは?銅鐸が巨大化して最も栄えた瞬間に途絶えたこと
の説明としては、無理がある。銅鐸を埋めた理由も、その方が分かりやすい。
5、記紀の神話(出雲に拠点があったこと、邪馬台国の東遷等)に符合する形での遺物評価も視野に
入れた方が良いのでは。
6、遺物それ自体の評価は、それまでの畿内説よりはかなり前進したけど、その分畿内説としての
立場が苦しくなっているように思う。無理にでも遺物について別の評価をする他の畿内説との対比で
見てみると、この点は明白。
まだ、途中読みなのだけど、読む先から疑問が出続けている。
>>822は釣りかも、と疑っている。
>>831 いくらご両人がヴァカだからって、古代天皇制を絶対王政(市民革命後の
世界に出現する政体)だなんて言ってねえよw
835 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 04:07:58
>>834 ご両人のご発言ではなく、戦後の歴史学の趨勢という意味だと思う。
『正論』2005年4月号および5月号に、高森明勅が執筆した「戦後歴史学の失われた60年」
では、歴史学の趨勢が「絶対主義的天皇制」を金科玉条としていたことが書かれている。
>>835 ソースが『正論』ですか。
かなり偏った思想が薫ってきましたなw
837 :
圭角:2006/04/05(水) 11:20:25
鉄器東漸に関する仮説
寺沢氏の王権誕生で、氏は卑弥呼の死後の混乱はたいしたものでなかった、との
文献史料無視の根拠の無い見解を披露されておりますが、やはり、国中服さずして
千人以上殺されたという魏志倭人伝の記事を無視すべきではありますまい。
さて、鉄器の考古学においては、いずれの学者いずれの研究所の統計資料がより
正確であるかは置くとしても、三世紀末から四世紀初頭にかけて、鉄器がいわゆる
東漸して、北部九州から畿内に遷移したことを前提に申しますと
モノの移動はヒトの移動を伴うものであることから、鉄器が空中を飛翔して移動
したのではなく、北部九州の鉄器を携えた人々が、卑弥呼の死後の戦乱を忌避して
瀬戸内を東に向かったことに因るものと、理解することは自然で無理は無いものと
思料する次第。
さすれば、鉄器は武器となるばかりでなく農地の開削はもとより農耕その他の
劇的飛躍的な発展に貢献することは明白で、卑弥呼死後の戦争難民という人的資源
の東漸と相まって、畿内の農耕生産力が急上昇したと解すは、自然とする次第。
まして、千人が死んだと倭人伝に記してあるも、近世や現代ではないのだから
万人と記さず、千人ゆえに多くの人々が殺されたのではないと解すべきに非ず。
千には、もともと多くのという意も在り。
838 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/05(水) 11:56:25
@鉄の広がり=邪馬台国勢力の拡大
A九州勢力による海峡交易の独占
B東に対する物流規制
C倭種に対する倭人の抑圧(鬼に金棒)
以上が、舶来品の「西高東低」要因
839 :
圭角:2006/04/05(水) 13:28:52
ところで、ウドンお好きですか。
実は、ウドンもいわゆる東漸をしているのです。当然、瀬戸内を経由して。
大阪は蕎麦より勿論ウドンですね。無論、大阪の人はウドンとは言わずに
ウロンと発音なさいますが、これは博多でもいっしょなんです。
例えば、門屋のウドンはカドヤノウドンではなく、カロヤノウロンと発音
するのは、博多も大阪もほぼ同じです。
ちなみに、博多はうどん蕎麦発祥の地とされその史蹟も存しています。
四国讃岐がうどんでは有名ですが、その発祥地は博多の地、つまりは
北部九州です。
考古学の森浩一氏によると、三世紀末から四世紀初頭にかけて、鉄器とともに
当時の北部九州の文物風習が東に遷移したことは考古学上明白とされますが、
自分の場合は、ウドンを例にとると実感できる次第なんです。
ウドンは勿論、中世の流行伝播ですが、私が言いたいのは今も昔も瀬戸内が
文化や人の流通大動脈であることを思い、卑弥呼死後の戦乱を契機として
いわばウドンと同じく、鉄器も東漸したとして自然と考える次第なのです。
おそらく、鉄器が卑弥呼の時代に畿内において僅少な理由は、倭人伝に
使大倭監之、との記事が有り鉄が中国の漢代に専売制限品目であったこと
からすれば、卑弥呼の時代は鉄器が市において交易される折の監理品目の
主たるものであったと推察されます。
しかし、卑弥呼の死後の戦乱でそれが無くなり鉄器東漸の契機となった
と考えております。
840 :
圭角:2006/04/05(水) 13:46:14
さらに、森浩一氏も寺沢薫氏も、三世紀末から四世紀初頭にかけて急激に
北部九州の遺跡は衰退をはじめた、とされております。
このことを、森氏は東遷説、寺沢氏は畿内説から説明なされていることは
ご案内の通りですが、自分は卑弥呼の死後の戦乱による北部九州から東への
人の移動が、畿内の勢力勃興と拡張させた主因との仮説を持っています。
そして、四世紀初頭の二郡の滅亡を前に、壱与の北部九州邪馬台国も
滅んだと考えます。
神武東征とは、つまりはウドン文化の東遷のようなことである、という訳です。
841 :
圭角:2006/04/05(水) 14:13:14
畿内説の諸氏は、三世紀末から四世紀初頭の北部九州の遺跡群の衰退、及び
それと平行して北部九州における前方後円墳の築造拡大をもって、畿内説の
根拠とする傾向にあります。
そこで、これに反論する論拠として昔から持ち出されるのが、東遷説です。
そして、記紀の神武東征説がこれを後押しして支持を求めます。がしかし、
騎馬民族説は置いても、軍事的に考えて現実味が感じられません。
記紀の辻褄の合わぬ点に論及してみても詮無いことですが、そうであるのなら
景行天皇の九州平定などにおいて、いかなる整合性を見出せばよいのかと
苦慮する次第ともなってしまう次第です。
842 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/05(水) 14:17:10
圭角さん
余談ですが
※空は『赤』い
当然『青』に決まっていますが、的確な反論が出来るでしょうか?
私が『赤』と発言すれば、(プラムは馬鹿・シキモウ)だけの反レスで済ませて終わりか、定説・通説として片付けてしまうのが普通です。
『青は何故青なのか?』
今、そのような勉強をしています。
邪馬台国研究に最も欠けている所だと考えますがいかがでしょう?
圭角さん
何故『青』なのか判りますか? 古代の人は『アオ』と名付けたのです、『アカ』ではなく
邪馬台国研究の基本の基本だと思います。
843 :
圭角:2006/04/05(水) 15:03:31
プラムさんのご意見は若干抽象的で判りづらい点もありますが、
通説を疑う、並びに、定説を疑う、という姿勢は古代史においてはとりわけ
大切なことです。そしてまた、というより、だからこそ面白いことですよ。
自分は九州説者としては幸いなことに九州に住んでおります。したがって、
熊本と福岡の県境を車や列車で行き来する折などは、車窓に目を凝らします。
自分が実際に目にする風景を基にいろいろいわば妄説を想ったりするのも
楽しいことですが、実際の地理地形を目にできる喜びを思います。
たとえば、著名碩学の学者が八女地方は当時は湿地帯であったろうから
倭人伝に記してあるような人口は無理ゆえに、邪馬台国の比定地たりえぬ、
とのご見解でしたが、その方は実際には当地を来訪されていないという確信を
持った次第でした。というのは、近傍に磐井の乱の磐井の古墳があるのです。
ということは、少なくとも当地が磐井をして大和朝廷に叛き戦い得た農業、
食料生産力、つまりは経済力を育んだ土地であり地域であるのです。
だから、八女などと申しているものではありません。いわゆるプロフアイリング
というものかもしれませんね。サガミさんはいずれか存じませんが。
ところで、プラムさんの御地は平将門の本拠地のお近くでしょうか。私には
将門をイメージするには、やはり地理地形を知ることは大切と思います。
そのせいか、海音寺潮五郎氏の小説にいまひとつ地理地形の私の知識不足を
感じた次第です。余談になって恐縮ですが、翔ぶが如く、のように地元の
地理知識を持って読むと臨床感さえ感じるから不思議です。
要は、地理地形を眺めながら通説定説を疑い自らの仮説を立てたい、なと
思っておりますし、それが楽しいなと思っているということでございます。
余談で消費致しまして恐縮ですが、コペルニクス的新見解を披露して諸氏の
ご批判ご批評を賜ることも当該スレのひとつの意義かと存じて居ます。
844 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/05(水) 15:38:05
圭角さんへ
“平 将門”に由来する史跡は車でほんの少し行けば沢山あります。
『大国玉神社』で検索されれば、私の家の近所の風景を伺い知ることが可能です。 関東平野にそびえる筑波連山も、美しいです。
『男体山と女体山』
まるで雛人形のようで、何故か女体山の方が僅かに高く、いにしえより万葉に歌われた神山で
実は、古代帝家のシステムを解明する重要な山だそうです。
女体山のほうが大きい?
845 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/05(水) 16:04:57
対馬、壱岐書かれている『南北市糴』の文字は、食糧自給の困難を補う為の文字その解決の為に行動する
『南北』とは?
これを
何時までも、北は半島・南は九州等と考えてたら
何時まで経っても先に進みませんよ!
半島が食糧豊富な穀倉地帯なら別ですが。
846 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 18:59:56
どうも、中国社会科学院の高句麗研究では
新羅の建国者が倭人だったことを
認定しだしているみたいですね。
任那日本府だけではなくて新羅も倭人系・・。
847 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/06(木) 01:26:13
>>843 同感
現地の地形地勢気候動植物相それに人(僕の場合は女性)。
現地に行くと、
仮説が裏付けられ修正され時には破壊され、
又新たな仮説が生まれます。
>>812 そういうのを屁理屈というんですよw
映像も音声もない時代の記録に真偽を求められますか?と言ってるの。
だから”絶対尺度”は俺の知ってる”世界”で唯一の方法だけといってるのw
849 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 11:11:13
>>833 釣りじゃないですよw
途中まででも寺沢を読まれて、そういった反論が出ること自体が喜ばしいことです。
最後まで読めば、氏が吉備の影響を重視していることがお分かりになるかと思います。
次に柳田氏の「伊都国を掘る」をお読みください。
さすればあなたの考える東遷の考えを補強する材料になるかもしれません。
ただし、単純な武力制圧があったとの図式では説明がつかないことも同時にお分かりいただけるはずです。
そこで石野氏の「邪馬台国の考古学」です。
氏は遺跡発掘の第1人者であり、同時に畿内説の中核の一人でもありますが
この本では「弥生終末期に存在した全国の遺跡をまずすべて網羅して、それから考えてみよう」とのスタンスで書かれています。
筆者の結論は纏向説ですが、結論はさておき読後に3世紀前半の列島の姿がかなり把握できるようになっています。
またデータデースとしても活用できます。
もうこのあたりになると「それでは奈良盆地東南部に発生した纏向とはいったい何なのか?」との疑問が湧くはずです。
そこで石野氏の3冊が役立ちます(これは1冊1万円近くするので、図書館などで借りたほうがよいです)
さらに三角縁の論争史と現状を知るために「シンポジウム〜」
考古、文献両面から3世紀の政治状況を推察したオムニバスの「三国志が見た〜」を読まれれば
だいたいの概要は掴めるはずです。
さらに鉄器に関しての詳細を掴むには「古墳時代像を見直す」は必読です。
繰り返しますが、疑問を感じたのは非常に良いことです。
時間をかけてゆっくりと楽しんでください。
850 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 11:37:02
>>828 その延喜式にある「池田」とは今の北大阪にある池田ですよ。
ソースとしては、何でもいいから延喜式の訳文や解説のある本を読んでみてください。
>>841 景行天皇の九州平定(筑紫入り)に関しては面白い仮設があります。
記紀がその実年代を奴国の金印受領(57年)に比定する為の物ではないかというものです。
景行紀のなかでも、その後のヤマトタケル征伐とも整合性が合わなくなるにも拘らず
なぜそのような唐突なエピソードを持ってきたのかに対しての、ひとつの仮説でもあります。
これはスレ違いかも知れませんが、記紀の参考文献には梁書はあれども、宋書はなかったのではないかとする
木村氏の非常に秀逸な論文があります。
倭の五王の記述があやふやなのも、口伝と中国史書との板ばさみにあったと見るものです。
こちらも合わせてご一考ください。
>奴国の金印受領
そんな物貰ってない
852 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:16:07
>
>あと、鉄の中心が九州北部から畿内に移ったのは、政治の中心が畿内に移ったという
>?邪馬台国の東遷に有利な事情と考えるのが普通だと思います。
>鉄は保存状態が悪くても存在すれば、出土しますよね。
>「九州説の根拠には全くならない。」も無理筋だと思います。
東遷の根拠にはなるが、九州説の根拠にはならんよ。
考古学的には君のいうような鉄器や絹、鏡などの威信財の分布の中心が
突如畿内に移ったのは「2世紀末頃」とされる(鉄器「生産」は九州優位が
やや続くが)。
なので、「3世紀中ごろ」の邪馬台国の時代には畿内が中心だ。
ということで考古学者に「東遷説」はいても「九州説」はほぼいない。
853 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:19:09
>831
>水野祐(王朝交代論)、直木孝次郎(河内王朝)・・・いずれも畿内説
>まあ、ご高齢だから説が無いといっても良いか。ただ、この系列に属する学者はまだ多数居る。
>学会で集まるたびに、古代天皇制を民衆を抑圧する絶対王政だとかの定義付けをしていた古き
>良き時代の大人物だとは思う。
そいつらはいいかげんな文献屋。今時の考古学者で河内王朝説なんているのかよ。
854 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:27:43
>819
>ついでに(喧嘩売るつもりは無いが)書いておく。
>安本美典の本や彼の説を支持するサイトなどが何故ダメなのかというと
>もうすでに誰も主張していないタイプの畿内説をやり玉に挙げて攻撃したり
なことはないじゃないの。
岡村、福永、松木(これは古いと言うより電波か)と順調に出世街道を
歩んでいる方々は、安本がやり玉にあげているような説をいまだに唱え
てるんじゃないの。
そういう意味で安本も啓蒙には役に立ってるね。
855 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:45:34
ここでは一次資料に基づいた実証を欠いた空想的な推論が
跋扈していますね。みなさんに弥生時代の集落研究からこ
れまでに判明している考古学的事実を説明しましょう。
まず、古墳時代前期の首長は弥生時代の農業共同体の領有圏
の一単位を基礎としていること、かつ当該領有権の範囲が古
墳時代にも継続していることがこれまでの弥生集落の詳細か
つ膨大な発掘調査及びそれに基づく厳密な考証により判明し
ています。
加えて農業共同体を超える政治的結合体である首長自身も
このような特定の農業共同体の長であるとされていること
からも、東遷論のような全く実証を欠く結論ありきの空想
は否定されるでしょう。
学問は、机上で作られるものではありません。
威信財や鉄器の見せかけの豪華さに目を奪われ、弥生集落の一
次資料に基づく血のにじむような地道な調査や厳密な考証に基
づき、畿内経済社会=下部構造のあり方や変動を解明してきた
先学達の研究成果を無視することはおろかなことです。
856 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 23:55:11
>>854 同意。 安本批判には、根拠のない中傷が多い。
実際に読んでみると、独善的な表現や、断定的表現が少なく、反対説の根拠も丁寧に挙げて
分かりやすく解説している。
安本は他分野からの参入組で、マルクス主義史観否定を明確に述べていることが、学会本流のなかに
異常な敵視をしている人がいる原因だと思う。けど、『季刊邪馬台国』には、かなりの数の学者が
寄稿しているし、特に考古学の分野の寄稿が多い。
考古学重視で遺物の統計を説に反映させている安本説は、考古学者からの支持は強いと思う。逆に
マルクス主義的風潮が未だに強く残る文献史学者の一部から異常に敵視されているように見える。
857 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 00:00:44
>856
>考古学重視で遺物の統計を説に反映させている安本説は、考古学者からの支持は強いと思う。
安本を評価している考古学者なんていないけど。
誰のことを言っているわけ?
いいかげんで九州説を語ってくれよ。
このスレでは畿内説なんかどうでもいいんだよ。
《行程道里》
@郡⇒女王国(都)12000余里
A郡⇒伊都国(到、着点)10500余里
B伊都国(着点)⇒女王国(都) 推定1500余里
《規模》
@奴国 100里
A不彌国 100里
B対馬国 方400里
C一大国 方300里
D九州島 ( 水行三十日 陸行一月)+1500余里
※女王の都
豊前国周防灘沿岸地
860 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/07(金) 11:38:35
@奴国⇒規模:二万戸
(現:博多を中心とする地域)
A不彌国⇒規模:千家
(現:宇美)
B投馬国⇒規模:五万戸
(現:玉名市を中心とする熊本県一帯)
C狗奴国⇒規模:?
(現:鹿児島県一帯)
D女王本国⇒規模:七万戸(現:宮崎・大分・福岡県東部一帯)
※奴国(博多湾)を起点に、反時計周りで水行二十日にて、奴国の南に位置する投馬国(現玉名市)に、
※投馬国から水行十日にて、投馬と狗奴の国境(現:県境付近)に、
861 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/07(金) 11:53:41
県境付近から、陸行し、薩摩半島⇒大隅半島を経由し、宮崎海岸を北上⇒大分を通過し、
女王の都の有る (一月)
豊前国周防灘沿岸A地点に、
※女王の都(王宮)から⇒隣の斯馬国へ……諸国を経由し……⇒烏奴国⇒そして起点の奴国(博多)に、
これで九州島の規模の概略がつかめる
【水行三十日+陸行三十日+1500里弱】
※これは、女王の王宮への行程ではなく、あくまで九州島の規模の紹介文章です。
いい加減ちゃんと把握しよう。
最低限の常識です。
862 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 14:04:00
>>852 昔の畿内説は、遅くとも1世紀以後は畿内が日本の中心だったはずであるとして、鉄器の出土量に
おいて北九州が畿内を圧倒している事実を、長らく受け容れていなかった。
その後、北九州の絶対優位が確定すると、今度は、卑弥呼の時代より前に畿内優位に変わったこと
にしようとして、今度は、遺跡・遺物の年代繰り下げに躍起になっている。
けど、2世紀末に畿内に分布の中心が移ったというのは、畿内説のなかでも最先端過ぎると思う。
寺沢でさえ、マキムクは3世紀以降として、それ以前の畿内勢力とは断絶していることを認めている。
その上で、北九州も含めた連合政権の首都としてのマキムクという考えを述べて、畿内説を維持している。
けど普通に見れば、高地性集落に見られる争いの時代は、200年前後に武器に勝る北九州が勝利して終了し、
畿内を統治するための拠点として、マキムクが作られ、その後、40〜60年位後に遷都がなされたと見るほうが
自然だと思う。それ故に、マキムクと近隣地域の断絶があると見るのが合理的。
畿内統治を始めて、すぐに遷都したという考えはかなり無理があると思う。
記紀でも神武の東征に先立って天下っていた集団があることを述べているから、文献上の根拠もある。
863 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/07(金) 16:58:32
>>861の続き
【女王國東渡海千餘里復有國皆倭種又有侏儒國……】
※女王国の東、渡海すること千餘里に(四国)て
復有国(女王国の分国がある
四国の規模は
人長(手を広げ)三四尺を基準に測量すると四千餘里ほどだ
そして、邪馬壹国三十国体制の一員侏儒国(淡路島)がある
※四国・淡路島は、皆倭種である
『渡海千餘里』
九州と四国の最短距離地点(佐賀関⇔八幡浜)
当時佐多岬には道が存在していないので。
864 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/07(金) 17:22:41
范曄は、陳壽の記事を見て、後漢時の四国を
【(自)女王國東(度)海千餘里至(拘奴國)雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺…】と、
『自』⇒女王の王宮が有る地点
『拘(狗)奴国』⇒一固有の国名ではなく倭種の営む社会と言う意味
後漢時の四国は、侏儒國と言っていた。皆倭種であり女王国に拘束支配されていたので、范曄は
狗奴國と書かずに、(拘)奴国とカキコし当時の状況を説明した。
865 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 00:15:24
>856
>安本は他分野からの参入組で、マルクス主義史観否定を明確に述べていることが、学会本流のなかに
>異常な敵視をしている人がいる原因だと思う。
学会本流に左翼が多いのは確かだが、別に安本を敵視なんてしとらんが。
相手にされていないだけ。地名の東遷なんかはちゃんと研究すべきだと
は思うが、彼の天皇の在位年数論とか古墳編年とかは完全な電波だと思う。
>862
>昔の畿内説は、遅くとも1世紀以後は畿内が日本の中心だったはずであるとして、鉄器の出土量に
>おいて北九州が畿内を圧倒している事実を、長らく受け容れていなかった。
「畿内説」(であろう)川越、下條、柳田は、はるか数十年前から同じ事を言っているが。
>けどその後、北九州の絶対優位が確定すると、今度は、卑弥呼の時代より前に畿内優位に変わったこと
>にしようとして、今度は、遺跡・遺物の年代繰り下げに躍起になっている。
>けど、2世紀末に畿内に分布の中心が移ったというのは、畿内説のなかでも最先端過ぎると思う。
これも数十年前に柳田をはじめ九州の考古学者(ほぼ全員畿内説)は「古墳時代は3世紀初頭」
と言っていましたが何か?
866 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 00:32:37
>865
>けど普通に見れば、高地性集落に見られる争いの時代は、200年前後に武器に勝る北九州が勝利して終了し、
>畿内を統治するための拠点として、マキムクが作られ、その後、40〜60年位後に遷都がなされたと見るほうが
>自然だと思う。
倭国の新首都であるマキムクは二世紀末から建設が開始されている。
つまり、弥生後期後半の高地性集落のピーク及び北九州倭国の最後の
王墓級の墳墓であるとされる平原墳丘墓(二世紀末)のまさに直後
(同時期かもしれない)に建設が開始されている。
で、マキムクには石塚という庄内初期(二世紀末から3世紀初め)くらいの古墳がある。
規模的に大王墓と考えざるおえないので、あんたの言うような考え方は成り立
たない能性が高い。北九州の繁栄が続くのは確かだが。
>畿内統治を始めて、すぐに遷都したという考えはかなり無理があると思う。
>記紀でも神武の東征に先立って天下っていた集団があることを述べているから、文献上の根拠もある。
それは考古学的に難しいと思う。
マキムクの前の弥生時代の畿内にはニギハヤヒのような広域の権力者の存在を示す考古学的な
物証が出てこない。
867 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 03:25:05
>>865 >> 相手にされていないだけ
相手にされていない人が主催する『季刊邪馬台国』に多数の学者が寄稿したり、座談会や
討論会をしているんですか?
まあ、「電波」認定している人には、伝わらない事情でしょうけど。
安本批判の著作のソースを出してください。
批判できないから中傷しているようにしか見えません。
868 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 03:28:07
たとえばどんな人が寄稿・座談・討論してるんですか
869 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 03:33:53
>>865 >>古墳時代は3世紀初頭
今でも少数説のままですね。
土器の編年が主たる理由ですが、フル式土器の流通時期だけは、凄く長いんですね。
まさにフル活用。
870 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 03:43:05
高卒→DQN。人生の敗北者。折り紙つきのクズ。犯罪者予備軍。自分は一番苦労して不幸だと思い込んでる。ゆとり教育の被害者。
若い頃何も考えていなかったアホ。何を成し遂げても評価されることはない。人類の恥。 一生高卒という名の十字架を背負って生きる。
人から愛されることはまずない。カスゴミ。朝鮮人に馬鹿にされる。生きてる価値なし。親も馬鹿。すぐ家庭の事情を持ち出す。
世界中どこへ行っても、人として扱われない。死んでも誰も悲しまない。サルより知能が低い。嘘つき。
すべて他人のせい。成人式で暴れる。大卒のワーストレアケースと高卒のベストレアケースを比べる。
一生苦しみながら死ぬことになる可能性大。世界中の人たちから白い目で見られる。臭い。幸せはない。 専門卒→ウンコ
________________人間の境界線______________________________________________________________
中卒→「本当に頭の良い人間は人から教えを請う必要はないんだよ。」と言える。アウトローカコイイ。ダークホース。
Fランク大→学歴を聞かれると「大卒です。」としか言えない。 生きてて恥ずかしい。怠けていた結果。高卒しか馬鹿にできない。
________________学歴を聞かれることに怯えなければならない境界線_________________________________
日東駒専、田舎地方の駅弁→やはり恥ずかしい。不完全な人間。まともな人間まであと一歩。
________________2chで煽られることに常に怯えていなければならない境界線______________________________
マーチ駅弁卒→普通。ここまでくればまぁ良い方。2chじゃ馬鹿にされることがある。
________________エリートの境界線_______________________________________________________________
駅弁上位(神戸、筑波、千葉、東京都立、大阪市立、金沢)、北大、中央法、早稲田社学人科、慶応SFC、同志社→かなり良い方。 合コンで少し自慢できる
早慶地帝→勝ち組。就職、女受け良し。派閥多し。高卒をカス扱いできる。高卒を理由なく殴っても許される。
________________神の境界線____________________________________________________________
東大京大卒→真の勝者。将来は全く明るい。女金すべてが自由。理由なく高卒、Fランク大、中卒を殴っても許される。超エリート。べジータ。
871 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 03:47:06
872 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 03:49:07
うわ!電波先生が書いてる!!
874 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 09:53:23
>相手にされていない人が主催する『季刊邪馬台国』に多数の学者が寄稿したり、座談会や
>討論会をしているんですか?
>まあ、「電波」認定している人には、伝わらない事情でしょうけど。
ああいうのは学者じゃない。単なるアマチュア。
875 :
日本@名無史さん:2006/04/08(土) 23:23:09
876 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 00:17:18
>867
>安本批判の著作のソースを出してください。
>批判できないから中傷しているようにしか見えません。
電波ってのは批判してもいけないことになっている。
梅原とか。
877 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 16:13:15
>>865 「古墳時代は3世紀初頭」
これは、やっぱり無理があると思う。畿内説の寺沢の『王権誕生』でさえも250年以降を想定している。
この本では、マキムクのホノケ山古墳でさえ260年頃としているし、箸墓古墳も270年「以降」としている。
これでさえも昔の趨勢よりは50年以上遡っている。
箸墓古墳なんかは、昔は330〜370年頃が有力だったけど、最近では、畿内説による年代繰り下げが
進行して「最先端」の畿内説では240年頃まで遡るという歴史観になっているけど、その分土器編年に
無理が出ているように感じる。
畿内説の方向性の裏には、年代を古く見ないと、畿内への東遷が卑弥呼の時代よりも後になってしまうから、
無理をしているという感じがする。ともかく、学者によって100年以上の違いが出るというのは、異常だし、
畿内説は、この点についてちょっと理解し難い説明をしているように思う。
箸墓の周濠から馬具が出たときに、普通なら、「やっぱり箸墓は350年以前に遡るのは難しい。」と見るべき
と思うけど、畿内説は<最古の馬具発見>との理解で、突出して古い馬具の発見を説明している
この点の安本の説明は、もっともだと思う。
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/hasihaka.htm 畿内説の根底には、昔からの「記紀は後世に天皇の権威を高めるために創作されたもの」との左翼史観が
あり、それ故に、「東遷」を認めるまでにかなりの時間がかかったし、「東遷」は認めても「東征」はあり得ない
という理論に後退したのが、現状のように見える。
この点は、朝日新聞の慰安婦報道の経過と重なって見える。
中身がないな。
ただの左翼アレルギーとみた。
879 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 17:35:19
論者によって左翼になったり右翼にさせられたり
畿内説の中の人も大変だなw
880 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 17:41:15
>>877 馬具の出土状況や、なぜ論者によって100年(これはちょっと大げさ、50年位か)
の開きが出ているのか、安本のサイト以外で自分の目で見て調べてごらん。
決して以上でもいい加減でもないことが理解できるだろうから。
ほんとに安本(というよりその取り巻きども)がダメダメなのは
上にもあったように、知っていながら嘘をつくからだね。
きちんと自分自身であちこちの論文を当たってみて、そこで自分で判断してごらん。
881 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 17:52:51
>>876 >>822がとっくの昔にソース出してますよ。
「畿内説を撃破する」読みましたか?そこには様々な形で寺沢、石野、柳田各氏の論文が引用されています。
引用元も当然載っています。
さあ、そこで元の論文と趣旨がどれほで歪められて引用されているか
ご自分の目で確かめればよろしい。
ちなみに安本はこの恣意的な引用によって、特に寺沢、柳田両氏より激しく詰問されている。
文章としてのソースはない。だが埋文に携わる者なら先刻ご承知の事件だ。
部長があれほど激しく怒りをあらわにしたことなどなかったからね。
その後、大手出版社から安本の本が出ていないのは、さすがにこの件で各社とも尻込みしたから。
ちなみに圧力なんてまったくないよ。
まさに研究者としての、そして執筆者としての品位を問われたのだ。
これが誹謗中傷かどうかは、それこそ自分自身で調べればよい。
ただそれだけのことだ。
部長って誰?
それと、寺沢って最近の季刊山大国に文章載せてなかったっけ?
寄稿か転載か知らないが。
883 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 18:11:38
そういえば樋口の古臭い畿内説も槍玉に挙げられてましたっけ。
あんなの批判されても、畿内説に何一つダメージにはなりませんよ。
それこそ伊都国氏の挙げた岡村、福永、松木ですら畿内説の本流ではない。
彼らを批判するのはやぶさかではないが、たまに近藤に対してお門違いな批判をしているのはおかしいね。
近藤は白石大先生wの言うところの、峻別派の代表みたいなものだから
彼が「邪馬台国」や「3世紀」などの言葉を使って自説展開するなどありえない。
近藤の古墳編年にはもちろん疑問はあるが、濡れ衣を着せての批判はいかんよね。
邪馬台国ファンのみなさま。
最新のテクノロジーで、邪馬台国を解析しました。
邪馬台国の解析結果
邪馬台国の77%はハッタリで出来ています
邪馬台国の12%は気の迷いで出来ています
邪馬台国の7%は言葉で出来ています
邪馬台国の2%は成功の鍵で出来ています
邪馬台国の2%は濃硫酸で出来ています
885 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 18:20:27
>>882 ごめん、部長はもちろん寺澤氏。
ただ寄稿かどうかは読んでいないから知らないが
故佐原御大がそうであったように
「考古学ひいては古代史そのものが他の分野と違い、その発展が企業や自治体に利益をもたらすものではない。
むしろ開発の妨げとなる運命を背負っている。だからこそ一般の興味を失うことが最も恐れる事態である」
との認識は、誰もが持っているよ。
だから頼まれたら書くという人も、当然多いわけですよ。
発掘にも維持にも莫大な費用がかかるくせに、企業や国にそれを補えるだけの利益をもたらさないというのが
歴史学の宿命なんだよね。
もし寺澤氏が寄稿していたのなら、それなりに何か話し合いでもあったのかもしれないね。
>発掘にも維持にも莫大な費用がかかるくせに、企業や国にそれを補えるだけの
>利益をもたらさないというのが歴史学の宿命なんだよね。
まあ、中国みたいに政治利用されるよりはいいかもね。
>>879 九州説=右翼
畿内説=左翼
この原則は、江戸時代から基本的に変わっていないよ。
あんたの頭の中ではね
889 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 00:42:01
鉄器の分布からは遅くとも200年までは北九州の絶対優位が証明されているから、争点は、
@畿内の優位に移った時点とA古墳時代の始まりがいつなのか、という点。
@、Aの時期の確定を決める要素が、遺物としての土器の編年であるけど、学者によって違いが大きい。
土器編年は、
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/doki/doki.html が分かりやすかった。
布留式を古く見る見解に対しては、@布留式の末期は400年頃でほぼ一致しているから、250年頃から
とすると、布留式だけが異常に長期間となってしまうこと、A昔の通説からは50年以上始期が遡ること、
などで、疑問を感じる。
これに対して、勝山古墳の木片の年輪年代
http://www2.begin.or.jp/sakura/maka02.htm は、布留式を古く見る根拠になっているけど、古代の木材は伐採から数十年から100年以上経て使用される
という批判もある。この木片は、「紫外線による劣化がなかった」ことから伐採後すぐに使用されたとするけど、
では、伐採後50年以上を経て使用された木材は、野ざらしで保管されていた訳がない疑問も当然にある。
木材を50年保管するとしたら、屋根のある風通しの良いところで樹皮をむかずに保管したり、水に浸して
保管して、取り出して長期間かけて乾かして使用する方法もあるけど、紫外線はほとんど浴びない。
あと、年輪年代の適用例は畿内に極端に偏っているので、九州との比較が出来ないという問題もある。
890 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 00:51:08
>>880 >>881 結局もったいぶっているだけで、ソースが出ないね。
自分の考えの根拠は自分で出せ、自分で調べろでは「ごまかし」にしか見えない。
ココはそいういうルールだったよね。
891 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:05:03
>>890 どこをどう立て読みしても、ソースは明記されているが・・・
892 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:25:35
今、恐ろしいことが頭に浮かんだ。
もしかしてここの住人には
寺沢も柳田も読まずして東遷とか九州とか言ってる奴がいるのか?
いや・・・そんな「馬鹿」は一人もいないよね・・・ねえ、そうだと言ってくれw
寺沢って誰?
894 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:29:55
>>893 ボケがもうひとつだね・・・
こういう時は「それ何てエロゲ?」とボケると、立派な2ちゃんねらーだw
申し訳ない。マジ質問。俺ここ初めてだから。このスレがトップに
あったから視界に入ったんで。
柳田国男は知ってるが。寺沢って誰?
896 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 01:42:53
>>895 あらら、それなら
>>822を読んでみそ。
それと民俗学の祖である国男さんじゃなくて、柳田康雄さんのことですわ。
897 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 02:47:53
>>891 誹謗・中傷の部分のソースが一向に出て来ないですよ。
あと、
>>881で「部長」ってあるけど、いきなり部内者になりすまされても・・という感じがする。
畿内説は鈴木を読め、話はそれからだ
まさか鈴木を知らずに畿内説を語っている馬鹿がいるのか?
これらの本は必読
「遺跡年代自由自在、テクニック集」定価1200円
「マキムクを歩く」定価2500円
「天皇誕生」 定価1800円
「九州は田舎」 定価1560円
899 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 03:27:31
>>822 の引用する寺沢薫の「王権誕生」には、納得いかない部分が多かった。
基本的には、
>>833に書いたとおりだけど、それ以前になによりもまず、論理が稚拙だと思う。
前提なしの決め付けが多すぎるし、自説内部の整合性も取れていないと思う。
論理では直木孝次郎の方が数段上。但し、直木の遺物評価は今の畿内説とかなり違う。
直木は、鉄器の北九州優位を認めずに筆を折った形になっている。昔の畿内説は、鉄器の
北九州優位を認めるかどうかが、勝敗ラインだったけど、今は布留式の始期年代に移っている。
安本の本は、論理の筋に関しては無理がないけど、中傷が多いみたいだね。安本に対する
ちゃんとした批判は是非とも見てみたいと思っている。安本に対しては私も、細かな疑問があるけど、
概ねの筋は通っている。
その他で古代史の分野でかなり納得できたのは、森公章『「白村江」以降』(講談社選書メチエ)くらい。
但し、時代がちょっと違う。
900 :
圭角:2006/04/10(月) 10:53:32
他人の書いた本を読んでみて、ここは自分と同じ見解だけど、この部分は絶対に容認
できないなと思いながら、この関係の本を私は読んでおりますが、皆さんも同様かと
存じます。ところで、以前プラムさんに対して
王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣り、および郡の倭国に使するや、
皆津に臨みて、という文における津とは何処の港津でしょうかという質問をしました。
そのときのお答えは糸島半島の付け根の所、つまりは伊都国である、でございました。
私もかく考えて自然だと思いますし、平野氏の著の訳文などにも、伊都国の港津と
明記されている次第です。
しかるに、かくなりますと、邪馬台国は何処かという問題において行程里程を基に
思考する場合には、重大な問題が提起されることになります。それは
末盧国に至った後の、東南陸行五百里にして伊都国に至る、という一文であります。
という理由は、伊都国に治す一大卒は、郡や倭の使いの文書・賜物を伊都の港津にて
検閲したということですから、倭における発着地点は伊都の港津であったとなっても
自然で無理の無い解釈かと存じます。なんとなれば、つまり
郡の使節も倭の使いも末盧国を陸路経由通過することはなかった、ということになり
渡海千里至末盧国、の後に、東南陸行到伊都国、と記すことは不整合となります。
すると結局は、末盧国は経由せず、伊都国の港津が使いの発着地点であったことを
否定し辛くなってしまいます。となれば、東南陸行五百里到伊都国という一文は
いかに理解すべきか、ということになるのであります。
したがって、里程記事や陸行という文言をそのまま行程記事として読む方法にては
邪馬台国を探すに不適当と思料する次第なのです。つまり、陳寿は
地理と行程を混同しつつ筆をすすめた、というのが私の仮説であります。
皆様のご反論とご異論を切に期待しております。どうぞ、よろしく。
901 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/10(月) 12:44:30
圭角さんお久しぶりです。
※私の申した“津”ですが末盧に上陸した“使”は、徒歩にて500里歩き、伊都領内に入ります。
それから前原付近の当時深い入江になっている、糸島半島の対岸迄徒歩、そこから糸島半島へと“渡し”似て対岸の糸島半島へ渡ります。 その渡しの港が“津”です。
何故そのような?
防衛システムに伴う自然地形を利用した関所でしょう。
だから港ではなく『津』なんです。
糸島半島内へ入った
異国の使は、出島に自然と隔離されてしまうのです。
末盧の港は無駄ではないのです。
902 :
圭角:2006/04/10(月) 14:02:34
さっそくのご返信有難うございます。
さて、私の記憶が正確であれば、プラムさんは一大卒は郡派遣説だったと存じます。
ならば、伊都国は郡派遣一大卒の治する所でありますから、プラムさんの関所説には
少しばかり違和感を感じるところなのですが・・・。
また、津には船着場、渡し場として中国文献には多く見受けられるところですが、
それはともかく、一度舟根が海に出てしまえば追跡は不可能でありましょう。つまり
海の関所というものは現実感が乏しいと思われるのですが・・・。
一大卒は畏憚されたとの記事を以って守備防衛が不要であったなどとは、もちろん
申しません。それなりの防御は必要不可欠な具備要件だったと推測されます。
しかしながら、宗像地方あたりの船ならば、壱岐対馬へ渡るには、伊都国からと
ほぼ同じ距離にありますし、少し後世の宗像三神からしてみても、宗像地方から
半島へ渡海するのは容易なことであったと思うのです。
むろん、宗像に限らず、たとえば狗奴國からでさえも・・・。
903 :
圭角:2006/04/10(月) 14:37:44
ただ、当時の倭の国々の船が、後世の朱印船のような書状とか、一大卒の
作成した特別の書付や割符のようなものを携帯しなければ、帯方郡庁には
出入りすることができなかったことも、おおいにに考えられるところです。
さすればなおのこと、伊都国の津が常にその発着地点であって末盧国は
経由しなかったのではと、ますます疑念が頭をもたげてくる次第なのです。
904 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/10(月) 14:45:19
圭角さん
※以前はそのよぅな!
無知さ故の過ち、何とぞお忘れの程を!
『一大率』
詰まり、邪馬台国側が国内の治安及び 『本州“大倭”』に対して設置した
『一』⇒最小
『大』⇒大きな威力
『率』⇒率いる(軍事部隊)
「意味解釈」
少ない兵力で最大の威力を発揮する軍事組織
所謂: アーノルドシュワルツネッカー演ずる“コマンドー”ですよ!
905 :
圭角:2006/04/10(月) 15:53:08
プラムさん、少し話しが逸れるかもしれませぬが、刺史というのは魏においては
いわゆる郡の太守の上に位する地方州の長官ですよね。陳寿はこの一大卒をして
魏の刺史の如しと形容している訳です。
ということは、この一大卒は軍事組織というよりは、やはり魏の州の長官だと
いうことになると思います。東夷伝で馴染みのある刺史と言えば、幽州刺史の
毌丘倹でありますが、明帝紀を読みますと、相当規模の軍勢は率いていたと
記してありますから、コマンドーはともかくとして軍事力を有していたことには
なるものと思われます。
一大卒の派遣主体が卑弥呼か郡かは置くとして、郡からの使節や倭からの使が
皆、伊都国の港津を発着点としいていたと考えて無理は無いと思うのです。
また、海に関所を造ることは非現実的ですから、百歩譲ってプラムさんの言う通り
としても、郡や倭の使者が末盧国を経由しなければならない必然性が無いと
思うのです。まして禽鹿の径のような悪路陸路を五百里も踏破しなければならぬ
というのは、やはり不自然の極みと思料するものです。
それから、津いわゆる船着場ですが、壱岐の原の辻の船着場は有名ですね。
ご案内のとおり、集落の近くの川に造られております。ですから、津というのは
この時代は、港というよりは単に船着場だと思われます。
といたしますれば、北部九州沿岸の川沿いには無数のかくなる船着場つまり
津が存在したでしょう。事実、吉野ヶ里においても船着場は川沿いですから。
又、逆も言えるでしょう。壱岐から伊都国もしくは末盧国に到る場合において
黒潮の対馬海流によって末盧国を目指したはずが宗像地方に流されて、
船が着岸したことも多くあったと想定するのも自然な解釈と思える次第です。
ですから、行程里程記事に地理位置記事を混入混同して、陳寿は記したと
思料する所以なのです。
906 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/10(月) 16:39:56
圭角さん
魏志倭人伝以外に、(行程表らしき?)記事が『梁書と北史』に、記載されています。 何故でしょう?
晋書にも宋書にも隋書にも旧唐書にも記事は見られません。 何故でしょう?
この答えが
圭角さんが申される“陳壽云々”の謎解きのキーと、成りうる筈です。
『末盧國』
当時の漢人は、何故『末盧』という文字を選択したのでしょう。
ランダムでしょうか?
絶対に違う筈です。
907 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 16:55:57
908 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/10(月) 17:25:50
>>907さん
『大林説』ですね!
私も支持者の一人として推奨する HP
残念な事に、携帯にて見る事が出来ないのが残念です。
しかし、近いうちに携帯からも見られる様になると“大林氏”よりメールを戴いておりますので
携帯ユーザーの方も、一度覗かれてはと!
今までの考え方の愚かさに気付く筈です。
909 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 22:24:45
>>905 圭角氏は如何なる理由にて『一大率』を常に『一大卒』と表記するのか?
その真意は如何に。
910 :
圭角:2006/04/11(火) 00:35:44
一橋大学卒業だからです。
>>910 そうですか、一橋出だからワザワザ「一大卒」と書くのですか。
いや、単に物を知らないだけなのか、
はたまた、珍壽の筆法とかの珍解釈でもあるのかと思いました。
それでは、以前、『卒』の辞儀を根拠に
『一大卒w』の性格について語られていましたが、
それは何か意味があるのですか?
投稿の事実をお忘れのようでしたら
ログを再掲いたしますので仰って下さい。
いや、一橋出身者って長野県知事をはじめ、
多彩な逸材を擁していますな。
912 :
圭角:2006/04/11(火) 08:43:19
910は、私ではなく別人です。
ちなみに、私は一ツ橋ではありません。
早稲田です。
率を卒と記すことには格別な意味はありません。率と書くべきがルールならば
今後改めることに致します。面倒だったので、ご容赦を。
913 :
圭角:2006/04/11(火) 10:53:06
プラムさん、906に関しましては、プラムさんのご教示を賜りたく
よろしくお願い申し上げる次第です。
914 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/11(火) 11:55:07
圭角さん こういう事です
本来“後漢書”に記事すべき郡使行程や倭の地理的配置を、先行史書が無いために“魏志倭人伝”に陳壽が纏め上げ記載した。
だから范曄は、後手になる“後漢書”には魏時とは異なる部分補足を書き記すだけに留めた。(ようするに、陳壽の記事に誤りが無かった訳だね)
※後漢書・梁書・北史に共通するものは?
《全て…倭傳…》
と、言うことです。
倭伝(後漢時)を書く上で、その時代に調査された記録を書く重要性を、歴代編纂者は理解していたわけです。
【だから、あの記事(行程)は後漢時の記録です。】
915 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/11(火) 12:36:02
陳壽が記録した【到其北岸狗邪韓國】という 七千里水行した着点を
※解り易い様に范曄は、後漢時の地名を使い
【樂浪郡徼去其國萬二千里去其北西界拘邪韓國七千餘里】 と、書き記し
より的確に着点を表した。詰まり
狗邪韓国には着点は無いと、范曄はダメ押ししたわけ。
だから
後の“姚思廉先生”も、“李先生”も、狗邪韓国の地名を書き記す事は無かったのです。
現代の日本人感覚読み下しは、古代漢文には通用しない部分が多々ある訳です。
《一字一意・一音一意》が基本の世界です。
916 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/11(火) 12:48:10
圭角さん
詰まり
魏志倭人伝の『道里や方位や移動手段』には
陳壽の司馬氏に対する『思惑云々』等は、一切含まれていない と、言うことです。
あれは元来“後漢書”にて書き記す可き記事だからです。
その証拠に、後の『晋書倭人伝』にはそのような記事が見受けられないでしょ!
『倭伝』の基礎史料は“後漢時”
『倭人伝』の基礎史料は“魏書”
だからです。
これが
『倭伝・倭人伝・倭國伝』の正体です。
917 :
圭角:2006/04/11(火) 13:15:37
プラムさん、有難うございました。
918 :
圭角:2006/04/11(火) 15:20:44
私は倭人伝記事は東夷伝各伝記事と比較検討して読むべきことを重視します。
特に、外交記事において、かく思料しておる次第です。ご案内のとおり、
倭人伝を含めて魏志の各東夷伝におきましては、各国の外交記事があります。
大別しますと、次の三つになります。
1 漢時代前の中国と各国との外交記事
2 漢時代 の中国と各国との外交記事
3 魏時代 の中国と各国との外交記事
陳寿は概ねこの区分にて各国の中国との外交記述の筆を運んでおります。
1について改めて書きますならば、簣氏朝鮮や古の辰国や古の粛慎国や
陳勝呉広の乱・秦の労役を忌避して民衆が移住した穢その他の記事です。
倭人伝にての1に関する記事はご案内のとおり夏后少康の子の記事です。
2についても書きたいところですが大量になりますので、各伝を見て
いただければ幸甚に存じますが、プラムさんに敬意を表して東沃沮のみ書きます。
漢の武帝は、元封二年に朝鮮を討ち、衛満の孫の右渠を殺すと、四つの郡を
設置した。・・・と、陳寿は記しています。
つまり、後漢書倭伝の例の光武帝の建武中元二年の印綬の記事のずっと昔の記事を
陳寿は記していることに留意することが大切なことです。というのは、つまり
陳寿は斑曄が後漢書に記した史実は、知っていながら、あえてあえて、陳寿はあえて
正史三国志魏書東夷伝倭人条に記すことを故意に止した、という証左です。
その理由は、従来から私が主張しているので重ねては申しません。
919 :
圭角:2006/04/11(火) 15:43:46
つまり、普通に倭人伝を陳寿が記すとするならば、後漢代の光武帝の印綬に
まつわる記事を記述して至極当然だと受け止めて自然でありましょう。
918で書きましたとおり、東沃沮伝には、前漢の武帝が四郡を置きその後
の事さえ記していますから、あえて当該記事を陳寿が倭人伝に記すことをせず
単に、漢の時朝見する者あり、とのみしか記しておりません。
光武帝から倭が印綬を賜ったというビッグな史実が存するにかかわらず、です。
まして、陳寿は晋帝室の史官です。それも優秀な史官です。
いみじくも、知らなかったとは、いみじくもかりそめにも、なかったはずです。
陳寿の作為は帝紀のみならず、倭人伝の冒頭総序においても明々白々なのです。
920 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/11(火) 17:31:02
圭角さん
五十七年の“印綬”がビックだなんて?
陳壽にすれば書く意味すらも無い記事だからですよ!どうも皆さんは、
あの朝見と、志賀の島の『金印』を結び付けたがる様ですが あの金印は、それから百年後に“ある人物が”漢朝より下賜された金印です。
范曄が敢えて記事にしたのは、『倭国大乱と相攻伐』の要因を説明する為ですよ!
読み下された翻訳本の内容を全て頭の中から消し去って下さい。
ここをクリアーしないかぎり『倭の八王』も、五瀬や神武の東征も、グチャグチャになってしまいます。
921 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 00:07:32
圭角さんへ 寝る前に
(明日の為のその一)
【其國本亦男子為王住七八十年倭國大亂相攻伐歴年】
さぁーて これを翻訳出来る人が何人居るかナァー?
予想……0 人
これが解らなければ、魏志倭人伝は一生霧中!
922 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 00:23:09
霧中なのは、プラムさんが副会長をやってる子ども会だけ。
923 :
圭角:2006/04/12(水) 08:41:58
プラムさん、おはようございます。さっそくの反論にて恐縮ですが
斑曄が後漢書倭人に記している、建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀、光武賜以印綬は
斑曄にとっても、倭伝を書くに当たって、格別に特筆すべき史実と判断した故に、
かく特筆したと思われる次第です。
このことは、ごく普通に自然に考えても、日中交渉史のビッグな史実と解す事は
無理のない妥当なことだと考えます。
仮に、プラムさんが920でおっしゃるように、陳寿にすれば書く意味すら無い記事
と致しますならば、頭や顔が二つ有る人や女ばかりが住み男が一人も居ない国の記事
を書かなければならなかった陳寿の必然を、お伺いしたいものです。
924 :
26歳大卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/04/12(水) 09:32:42
毎日邪馬台国談義に耽れる優雅な人たちはいいですねえw
こちとら切羽詰ってるので消防士の試験でも受けてこようって感じで
勉強してるってのーに。
925 :
太国:2006/04/12(水) 10:08:02
ヒッキーさん、がんばれよ。俺はそんなわるい人物じゃぁないだろ?
926 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 11:09:35
圭角さん おはようございます。
さて、日本にもお伽話が口伝と言う形 或は「紀」にも記載されていますから
別に…?
五十七年の記事記載に関してですが、陳壽に不必要であり范曄に必要としか今の所言えません。
何故かは、“陳壽は魏書”“范曄は後漢書”だから
范曄は、どうしても後漢時に起きた「倭国大乱」の要因を説明する為に、あの記事を利用し その対的関係にもう一つ 107年の記事を利用した。
927 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 11:22:13
五十七年の朝見に下賜されたのは
「印綬」であって
『假金印紫綬』ではなかった。
これは、下賜される側にとって「天と地」程の意味深い事である
928 :
圭角:2006/04/12(水) 13:54:00
プラムさんが、印綬であって金印紫綬ではなかった、と反論されることは想定して
おりました。印綬とは、印とその紐、の意味ですね。
また、五七年のこの印綬がいわゆる志賀島の漢委奴国王の金印ではない、という説が
あることも存じています。
しかしながら、この説においての有力な反証は無いと存じますが、在れば、ご教示
ください。また、私が東夷伝での御伽噺は東沃沮伝にありますので、確認願います。
重ねて申しますが、印綬とは印とその紐の意です。陳寿が光武帝の印綬賜与記事を、
正史三国志にあえて記していない理由を、お考えいただきたく思います。
929 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 14:26:15
『印綬』
詰まり
自称大夫等に『假金印紫綬』なんて“天地”がひっくりかえっても下賜される物では無いことは 圭角さんもご存じの筈
せめて、『皇帝印の押された紙切れが箱に納められ、色付き紐で結ばれていた』そんなもんですよ!
その証拠文が 夕べカキコした
【其國本亦……相攻伐歴年】記事です。
プラムは用例を示さない例が多すぎる。自分の解釈を押しつけて「自分は真実
を知っている」と粋がっても論者は当然納得しないだろう。だから何時までた
っても批判・スルーされている。そろそろ「用例」を示して欲しい。他の「史
記」「漢書」「東漢観記」「春秋三伝」など、身近な物でよいから「三国志」
以前・直後の文献から用例を引っ張ってくれ。是非頼む。
931 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 19:36:29
>>930 >用例
※悪いけどそれは遠慮するよ!
『史記』には『史記』のステージがあるし、『漢書』には『漢書』のステージがある
それに、大陸内と列島内では条件が違い過ぎる(特に里程等)
基本的には『倭人伝は同じ倭人伝内で処理したいし』『倭伝は倭伝内で処理をしたい』
範囲を広げても 、同じ列島内カキコの史書で片付けることをなるべく心がけている。
その範囲内での用例なら吝かではない!
それが最も正確な方法では!
932 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 19:47:50
>自分は真実を知っている
※トンデモない!
最低限の事を話しているだけで、 『記紀』の解明をしていない自分はまだ
古代史の玄関口でドアノブに手を掛けただけです。
※大陸内での測量は、“記里鼓車”を使用し測量出来るが、起伏・海岸線の入り組んだ狭い列島では
身体の一部や船の“ろ”を使用した測量が適していることは理解して戴ける筈
そのように、ステージの違う場所を紹介するには
それに適した文章になるのは当然かと!
933 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 20:04:14
>批判・スルー
別に気にしていないし スルーは逆に歓迎します。
これからは
「反論」又は「同調」 私に対する貴方の様な「要望」レス以外は私もスルーしますし、
スレが荒れない為にもその方が良いかと
934 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/12(水) 22:10:01
圭角さん
《明日のためのその二》
※以前から私は古代列島には、二つの大きな民族、【大国主系(古代朝鮮族)と天照系(古代韓民族)】にわかれていた。
と、カキコしましたが
その根拠となりうる一つを提示します。
★我が国には「イチニイサン…」と「ヒィフゥミィ…」と言う二種類の「数詞語」があります。ご存じのように古代天皇家では「イチニイサン…」を使用しません。
詰まり 「イチニイサン…」は
天皇家にとって敵対要因であったと、言うことです。
935 :
圭角:2006/04/13(木) 15:18:39
イチニサンの発音については、今手許に蔵書が無く不確かですが、たしか
岡田英弘氏の著作には、朝鮮よりはむしろ中国のある地域において、より
近い発音があると、読んだ記憶があります。が、自分に確信はありません。
936 :
圭角:2006/04/13(木) 15:56:48
細切れの書き込みにて恐縮です。
正史三国志東夷伝に古の辰国の記事がありますね。その存在については諸説
ありますね。簣子朝鮮についても同様ですね。
わたしは、どちらとも判らぬ次第です。プラムさんの言われる古代列島の時代
とは、いつごろの時代なのか不明ですが、稲作の拡がりを考えるならば
長江流域からの渡来が有力と思われますので、古代朝鮮族・韓民族の大区分には
飛躍と受け止めさせていただく次第です。
937 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/13(木) 17:24:01
圭角さん レス有難うございます。
古代漢民族(朝鮮族)や古代韓民族の話しは 機会が有りましたら後程と言う事で!
ところで圭角さん
倭人伝の中には『マタ』という漢字が三種類出てきます。【又・亦・復】
これらをどのように使い分けしているか
お聞かせ願いませんでしょうか?
938 :
圭角:2006/04/14(金) 08:50:11
プラムさん、まず昨日の書き込みを訂正させてください。中国語は大別して北京語
広東語そして客家語です。客家とは、北方の漢民族が歴代の中原一帯の戦乱を避け
集団で南下してきた人々のことです。北京語のイーアルサンスーご存知ですね。
これを客家語で一から十までなんと発音するかと申しますと、
イッ、ニー、サーム、シー、ウン、ロック、チット、パット、キィゥー、サップです。
非常に今の日本語発音にも近いと思えますね。
言語発音が似通っていることをもって云々とは申しませんが、ご参考までに。
それから、岡田英弘著は誤りで、客家、高木桂蔵著、講談社現代新書でした。
また、又、亦、復については私も以前関心を持ったことがあります。
仕事に行きます。まずはこれまで。
。
939 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/14(金) 09:57:14
圭角さん レスします。
※ここで大事な事は
詰まり、小さな島国の中に古代から『イチニイサン…』『ヒィフゥミィ…』という二つの数詞語が、現在尚も残り伝承されているという事実です。そしてもう一つ
古代天皇家では『イチニイサン…』を使用していなくて 民の間に『イチニイサン…』は伝承されたと言う事実です。
この極めて身近な伝承が、古代史の謎を解くカギであることも 付け加えさせて戴きます。
940 :
930:2006/04/15(土) 10:48:14
>プラム
要は他の漢籍から藻前の解釈が正しいことを証明する物を引っ張って欲しい訳
よ。確かに史記や漢書は時代背景は違うが、書いたのは同じ中国人だ。それは
ほかの書物も同じ。倭人伝とても例外ではない。
>大陸内での測量は、“記里鼓車”を使用し測量出来るが、起伏・海岸線の入
>り組んだ狭い列島では 身体の一部や船の“ろ”を使用した測量が適している
>ことは理解して戴ける筈
大陸は、場所によっては日本よりも急峻な地形があると思うが?
> そのように、ステージの違う場所を紹介するには それに適した文章になる
>のは当然かと!
実際には三国志など他の書物と大して変わりはないと思う。
941 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/15(土) 12:09:58
>>934 >>938 日本語と客家の言葉は数詞の発音だけではなく、
日本の漢字発音(漢音)は客家の発音と良く似ていますよ。
十何年前か忘れましたがどこかのテレビ局(NHK?)の番組で見ました。
黄河流域の漢時代の発音が日本と客家に残ったのですね。
日本語の漢字発音は以下の様になると思います。
漢音:〜4世紀迄の山東半島以北(黄河域)の発音
呉音:4〜5世紀の山東半島以南(長江域)の発音
仏教語音:唐の発音
942 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/15(土) 12:38:12
>>914 王朝さん
私は漢語と倭語の認識を
漢語と倭語は、違った言語ではなく「一音一意」で、同じ。
後世中国人が倭語を知らないのは、倭語を話す古代漢人が滅んでしまったから
「イチニイサン…」は、中国で生まれ列島に渡ったと…ry
943 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/15(土) 17:43:26
>>940 >用例
例えば『至と到』の解釈で、他の用例をあげれば理解出来るのかな?
倭人伝の中でも多数使用されているにもかかわらず
理解出来ていないのに、他書から引用文を掲載したら尚更 混迷が深まるだけ!それとも、現代の統計学的国語教育のもとでは、“引用文が安らぎ”を与えるのか?
944 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/15(土) 18:06:07
>>940 こういう事だよ!
※『到』⇒
範囲が同じ海域とか陸域内で「地点と地点」内の距離を表す場合、着点は『至』ではなく『到』
※『至』⇒
目的とする範囲で、特定の着点を設けない、そして
この文字自体に移動の意味は、含まれない。
これらのカキコに対して、否定的であるなら その様には、使用されない用例を提示し反論した方が
合理的だと思う。
俺が出す用例はその様に使用される「例」だから、理解出来ないだろう。
945 :
プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/04/15(土) 18:19:03
俺はかなり具体的に“解釈の違い”を説明しているつもり、
他氏の考えと比べて貰えば解る筈だ。 『到』は【二三日停泊するとか 、使われ方にたいした違いが無いとか】
結構いい加減な解釈だ
一度俺の解釈で検証すれば、その正否は自ずと解る
否定する前に『お試しあれ』
無智だと無知であることに無恥でいられるんだな。
947 :
九州王朝大好き ◆I.THkUKc4Y :2006/04/16(日) 00:50:11
>>942 「イチニイサン…」は、中国で生まれ列島に弥生期頃に人と共に渡って来たのです。
日本では現代同様、古代でも多言語が使われていたのです。
参考:「ヒフミヨイムナヤコト」は扶余系倭語。
又、縄文期から東シナ海の両岸に住んでいた人達(縄文人海洋民)の数詞が
「イチニイサン…」とも考えられなくもありません。
状況証拠
@日本固有の遺伝子が中国と日本だけにある。(朝鮮半島では皆無)
A江南と倭人の潜水文身の風習が同じ。
Bモンゴル以外で大きな濃い蒙古班があるのは日本と江南のみ。
(韓半島とその他中国では小さい薄い蒙古班)
948 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 01:04:56
>883
>そういえば樋口の古臭い畿内説も槍玉に挙げられてましたっけ。
>あんなの批判されても、畿内説に何一つダメージにはなりませんよ。
>それこそ伊都国氏の挙げた岡村、福永、松木ですら畿内説の本流ではない。
よく分からないが教えて欲しい。
岡村氏や福永氏が主流でないというというのはどういうことなのか理由は。
いずれも三角縁神獣鏡の研究で著名な学者であり、書店の考古学のコーナ
ーに必ず著書が並んでいる。
それにポスト争いが激しい学者の世界において、京都大学や大阪大学とい
う超一流大学の教授であるということは彼らに対するアカデミズムでの評
価を表すものではないのか。
あなたが評価している寺沢氏などは奈良県の埋蔵文化担当者であるにす
ぎないし、それほど優秀な人間ならどうして大学に残れなかったのか。
研究者コースであれば、少なくとも理系の世界では優秀な人間は大学に
残っているし、文科系でもそれは同じはずだ。
それとも考古学会自体が正当な人事評価もできない因習に満ちた世界
であるということなのか。
949 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 01:11:30
続き。
また、あなたが岡村氏や福永氏、松木氏、樋口氏のような有名な
考古学者をだめとする理由を教えて欲しい。
さらに寺沢氏以外のあなたの評価する考古学者を埋文行政者も含めて、
教えて欲しいな。
人の実力を語るときに、親切心でも有名だからとか言うたらあかんよ。
>>949 樋口氏や福永氏が考古学者として「ダメ」な訳ではないでしょう。
>>883氏もそこまでは言い切っていない。
三角縁神獣鏡の研究においては、皆さん、それぞれに著名な成果を揚げてらっしゃいますよ。
銘文や製法、成分分析を踏まえた三角縁の編年とかは特にすばらしい成果だと思います。
ただ、三角縁研究以外の考古研究の進展によって、岡村さん達の研究成果が、
現在の「畿内説」には影響の少ないものになってしまっているのです。
今でも樋口さんなどは古式の三角縁は卑弥呼の100枚だと言うかも知れませんが、
それが楽浪製であっても、または純国産であっても238年の下賜鏡では在り得ないと言うのが、
大方の意見であり、既に論争は終結したように見えます。
樋口さんよりも若い福永さん達は、現在も三角縁の研究に勤しみ更なる研究成果も揚げています。
それは4世紀以降の倭王権拡大期の貴重な研究につながるものだと思います。
しかし、「邪馬台国の所在地」と「三角縁」の関係については、既に積極的な主張はしていません。
未だに三角縁を邪馬台国論争に絡めて他説の否定の根拠にしているのは、
九州説の「Y」さんとそのシンパくらいでしょうw
952 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 12:24:22
や
953 :
930:2006/04/16(日) 14:24:27
>>945 結局、「自分の倭人伝の解釈が正しい」と決めつけ、他の文章からその根拠を
出すことが出来ないんだな。藻前の説は異端なんだから漢籍から用例を引っ張
らなきゃ誰も信用しないんだよ。
>俺が出す用例はその様に使用される「例」
藻前の脳内解釈以外のどこに用例が示されてるんだよ?
藻前に期待した俺が馬鹿だった。住人の皆さん、申し訳ない。これにて邪魔も
んは消えます。
>>953 喪前、凄いなあ。
ナンダカンダ言いつつもプラムの書込みに何が書かれているのか、
少しは読み取れるんだなあ。
955 :
プラム:2006/04/16(日) 16:30:56
>>953 >藻前の説は異端なんだから
※どっちが異端なんだか
>用例
※諸橋の大漢和で調べれば用例出てるだろう “ミソもクソ”も区別のつかない連中に提示した所で 間違った方に解釈されてもな!
例えばだ!
「始“度”一海…」の「度」の用例で 後漢書倭伝の「自女王國東“度”海…」を提示しても理解出来るのか?
隋書の「…使於倭國“度”百済…」
も、全て基本解釈は【繰り返す】だ
※その他【繰り返す】の意味を持つ文字は 【又、復、亦】 だ 理解出来たか?
956 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 18:09:58
>>951 古い畿内説
1、三角縁神獣鏡は、邪馬台国が魏から下賜されたもの。2、鉄器の九州優位を認めない。
3、庄内式は、250年頃から、布留式は310〜330年ころから始まる。
しかし、1、2が誤りであると明らかになった。そこで・・・・
新しい畿内説
1、三角縁神獣鏡は、日本製で4世紀以降だから、邪馬台国とは無関係。
2、鉄器の九州優位は200年頃まで(土器を古く見る結果)であり、邪馬台国とは無関係。
3、庄内式は200年頃から、布留式は260年頃からである(石野博信)。
新しい畿内説の弱点
1、三角縁神獣鏡が畿内を中心に分布していることが、畿内説の根拠の一つだったのは事実。
2、鉄器の九州優位を認めて、寺沢薫は「東遷」は認めた上で、「東征」はないという後退をした。
3、石野の年代観には、畿内説でも追随が少ない。石野自身も異端であると認めている。
しかし、石野のように土器を古く見ないと、鉄器の九州優位が250年以降まで続いたことになる。
4、庄内式の分布の中心が北九州にあることからは、庄内式の発生は北九州とするほうが自然で、
そうなると発生年代を250年頃にするのが自然である。
5、庄内式は、北九州の全域から出土するのに対して、畿内では一部特定の地域からしか出ない。
6、昔は、土器1形式の期間が、10年〜30年とされていたが、布留式を古く見ると1形式50年を
大幅に超えてしまう。また、布留式の流通時期だけが、異常に長くなる。
7、学会の有力学者は、邪馬台国問題から距離をとり始め、下位に位置する研究者達が「先端」の
畿内説を提唱して踏ん張っているだけのようにも見える。
957 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 18:22:35
959 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 21:15:13
>>958 こういう事か?
弱点4
>庄内式の分布の中心が北九州にあることから庄内式の発生は北九州とするほうが自然
イニシエのノーパン喫茶の遺物分布が、歌舞伎町中心に多数分布することから
ノーパン喫茶の発生は、歌舞伎町とするほうが自然
発生は大阪だろう。
>>958 チトおかしいというか、どこから拾ってきたんだ?こんなでたらめ。
961 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 22:33:44
>>959 庄内式は、例えば、吉野ヶ里での土器変遷のなかで、終末期に自然に変遷した事実が認められます。
しかし、畿内では、人工的に作られ、近隣とは断絶している都市とされる纏向や、大阪、奈良などのうちの
一部特定地域でしか、発掘されていません。
石野博信は、畿内で発生した土器が、北九州に広がったとしておりますが、無理があると思います。
>>960 批判・反論は、具体的にお願いします。
>>961 どこから拾ってきたのか、つまり出典はどこかとこちらが聞いている。
>庄内式は、例えば、吉野ヶ里での土器変遷のなかで、終末期に自然に変遷した事実が認められます。
これを含めて、まずは出典を答えてもらおうか。
964 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 23:22:03
>>962 石野博信『大和・纏向遺跡』26頁からの引用
「庄内式土器は、奇妙な分布をする土器です。近畿でも和歌山、兵庫、京都、滋賀の各府県ではあまり
出ません。分布の中心は、奈良・大阪ですが、その中でも奈良県の天理市南部と櫻井市北部と大阪府の
東大阪市と八尾市付近に集中します。」
「西日本で最も多く庄内式土器を出す地域は北部九州です。」
石野は、北九州の庄内式は、「一大率」が伊都国にあったことなどで、畿内起源としております。
庄内式が、北九州の広い地域から出土するのに対して、近畿では一部地域からしか出土していないことは、
石野博信でさえ認めている前提事実では。畿内説の側は、このことを意図的に軽視しているような感じがする。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku238.htm の下のほうも参照。
まあ、反安本は嫌がるだろうが、この人が、畿内説の疑問点に答えることを、多く述べているのは事実だし、
サイト検索でこの論点を書いていたのは、ここだけだったから。
>>964 >「西日本で最も多く庄内式土器を出す地域は北部九州です。」
この西日本には近畿は含んでないなw
それに、
>庄内式が、北九州の広い地域から出土するのに対して、
こんなことがどこに書いてあるのやら。
>>965 安本のところの「サイト」に書いてあるよw
庄内の製作地は畿内では河内、大和、播磨などの特定地域に限られるが、
それらからの搬出土器の分布は山城、近江、丹波、越、東海から遠くは武蔵まで広がる。
また、九州庄内の出土は豊での2〜3の例外を除けば、筑前地域に限られる。
このような状況なのに、安本のサイトが何を根拠に庄内は北九州では「広く」、
畿内では「限定的」に分布する(のように誤解させているだけで、実は何も断言していないが)
とか言い張ることは理解しがたい。
968 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 01:05:40
>>967 畿内での「限定分布」は、石野も認めている。
一方、北九州全域とは、言いにくく、筑前あたりに集中していることは、そのとおりだけど、
その分布域だけ見ても、かなり広い地域といえる。畿内のモザイク分布とは対照的。
あと、北九州の分布は、伊都国あたりの東遷に結びつきやすい状況ではあると思う。
「東遷」までは、最近の畿内説も認めているから、庄内式が「東遷」に伴って畿内に
きたという考えは、十分に成り立つと思う。
庄内式は、土器が従前よりも極端に薄くなるという技術革新だけど、それが鉄器などの
先端技術と一緒に畿内に大量に持ち込まれたとした方が、別々の時期とするよりは
自然な考えだと思う。
いずれにしても、鉄器と土器編年の問題は、畿内説のアキレス腱ではあると思う。
>>968 安本のサイトに出てくる北九州地区の分布図は庄内
(又は庄内らしきもの)が一片でも出土した「遺蹟」の分布図だが、
まさか、それを根拠に九州の方が広域に流通していた
とか言わんだろうなあ。
また、畿内における分布「濃度」の違いについて述べた石野の見解を
あたかも九州と畿内の違いに対する見解のように見せ掛ける手口は
まさしく安本流。
生粋の信者さんと見た。
>>962のサイトを見れば明らかなように庄内式のベースは畿内様式。
吉備からの技術移転はあっても九州からの影響はありえない。
>>966 君はね、それについて『石野博信でさえ認めている前提事実では』と書いているだろ。
どこで石野が書いているのかな?
971 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 10:28:41
>>969 あれ、
>>964での石野の見解は、「濃度」だからで解決ですか?
石野自身も、畿内でのモザイク分布は認めているようにしか読めない。
石野は、北部九州での分布の広まりを「一大率」が伊都国にあったとかいう見方をして説明して、畿内から
北部九州への影響を考えている。その一方で、九州からの影響はあり得ないとかいうのは、畿内への
信仰心が強すぎるんじゃないの?初めから畿内が先だとは言い切れないよ。
あと、「庄内らしきもの)が一片でも出土した『遺蹟』の分布図」と言い切る、ソースを出して欲しい。
勝手な決めつけじゃないの?不利なことは、中傷で解決と言うのは、このスレの上のほうでも繰り返されている
畿内説の論法だね。
972 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 10:54:29
>>971 すぐに「中傷されている」と言い張るのが安本シンパのデフォの手口だね。
>石野自身も、畿内でのモザイク分布は認めているようにしか読めない。
絶対にそのようには読めません。
あなたおそらく、安本のサイトか本しか読んでいないのではないだろうか?
ソースを出せと繰り返し言うのも、実は公正さを装った逃げ口上ですね。
なぜなら現場で何が出土したかの現物(少なくとも写真)をあなた、見たことないでしょう。
見たことないから教えて欲しいというのなら分かるが、ソースを出せと高圧的に言う前に
少しはご自分で勉強してみればいかがですか?
一切のごまかしはこちらはしていない。
ただあなたがあまりに基本的なことを知らないために、理解できないだけなのです。
とりあえず、福岡県および佐賀県の遺跡および出土一覧が解説つきで学生社(だったかな?)から出ているので
少なくともそれを読んでからレスしてくれないか。
973 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 11:07:44
>>972 やれやれ、ソースは出ないのですね。せめて著書名と頁数だけでも書いてよ。
庄内式の畿内での分布に偏りがあるのは、どうみても事実でしょ。これは信仰心では
打ち消せないですよ。
974 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 12:02:51
>>937 >>962はあなたなのかな?
ならば石野博信『大和・纏向遺跡』はすでにお読みでしょ?
これがあなたのお望みの第一のソース。
ところがあなたはこちらがせっかく参考図書を示しても
わざとかな?曲解して読むんですよね。
だから質問のレベルに達してからレスしてくださいと言ってる訳です。
あと、同じ石野の「古代近畿と物流の考古学」は読まれましたか?
こちらを既読なら、石野が認めているなどとの発言が出る筈はないのですが。
それより何より、庄内の畿内での分布に偏りがあるとの括り方がまずおかしいことに気づいてますか?
あなたはあなた自身の頭の中にある「幻の畿内説」に対して反論しているように思えますよ。
最後に、ソースを出せないのではなく、正直「そんなことも知らんのか!?」という相手に
いちいち引用する手間が面倒なんです。
まず先に挙げた本を「正しく」読み、内容を理解してからでしたらいくらでも答えます。
この程度の話にソースを求めるような低レベルの議論は、もうめんどくさいのです。
逃げてるのでもなんでもないですよ。
まず最低でも、考古について語っている住民の足元程度の知識は持っていてください。
そうじゃないと議論どころか会話にもならないですよ。
お前等本当に底無しの馬鹿だなぁ。 何処からかの本や雑誌で覚えた「受け売り」ネタでの会話に、ソースも醤油もあったもんじゃあねぇ。
お前等ソース出されると安心ホッ。するのかよ
一般公開されてるソースなんて提示されてもケツ拭く紙にもなりゃしたい。
受け売り自慢大会にはアキアキだぜ