九州征伐時の対応と関ヶ原ぐらいか問題は
時期はずれになるけど、経済・財政は?
農耕に適さない土地が多いにもかかわらず、
籾殻でかさageして77万石としたから関が原以降は・・・。
毛利、長曾我部、島津は小早川秀秋以下
戦国大名として天下を狙い徳川と一戦交える気概は皆無
保身を図るにしても西軍に属し徳川に敵対し関が原で小早川のような英断もない
毛利、長曾我部、島津、失策というより無能だな
島津って血筋は古い割に戦国でのブレイクが遅いよな
一族の内訌で手間とったからな
もともとは島津家の一氏族とだからな
織田信定や信秀と似たような位置からだが
それと比べると時間かかっているか
島津って、責任が個人に帰すべき判断ミスってそんなにないよな。
強いてあげれば秀吉への対応だが。
でも秀吉に屈服した後の島津家はグチャグチャだけどね。
当主としての義久の責任はもちろんだが、決してそれだけではない。
秀吉への対応は戦前戦後、豊臣政権下での秀吉への対応と
あまりいいものはないな
島津の場合、戦相手の大友も竜造寺も仙石も無能だったから救われただけに過ぎないよなw
龍造寺も大友も無能ではないだろ
スレ伸びねぇな
島津は長曾我部以上に人気が無いのだろう
長期戦だな
宇喜多や五奉行あたりものび悩みそうだな。
島津家十五代当主 島津 勝久
島津忠良の嫡男、貴久を養子にするが
実久にそそのかされ、勝久、貴久を攻撃し
守護に復帰。実久と手切れし谷山で実久と
戦うが破れたため、国政を譲る。
国人衆に見放された勝久は大友氏を頼って
豊後へ逃げ、二度と鹿児島に戻ってくることなく
豊後で死去。
島津宗家守護大名の権威低下
国人衆、豪族、一門・分家をまとめきれず
薩州家、伊作家の対立が激しくなると
薩摩大隅の混乱を招いた。
薩州家 島津実久
伊作家 島津忠良・貴久
216 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 06:16:03
本当に、しまつが悪い
山田君、216のざぶとん2枚持ってって
島津も伊達もこんな調子だろうなw
早く宇喜多にならないかな
219 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 03:47:34
島津は伸びないけど伊達と宇喜多は失策が多そうだから伸びるかもね
特に伊達は失策の宝庫だ
>>219 伊達は親子同士の騒乱や積極策の裏目による失敗など
100で足りるかってぐらい豊富だろ
あと本音言えば南部家も欲しかったんだよなぁ
失策3スレでは南部家希望したいけどな
南部家なんて伊達以上の失策って言うか
失策しかない武家だし
221 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 12:19:23
日向・薩摩・大隅統一が1576年なのに、九州統一が秀吉がやってくるまでに終わらなかったところがダメだろ
>>221 まあそうだけど、1576年の時点ではまだ大友や竜造寺の方が勢力大きいからなあ。
そのあとの耳川や沖田畷の戦いで勝てたから島津の台頭があるわけで。
島津の拡大は軍事的冒険というか
かなり僥倖に恵まれてる気がする
大友はともかく竜造寺は大した勢力じゃないだろ1576年の時点じゃ
耳川の後だろ急成長するのは
島津の視野は九州だけだよな
本州に攻め込もうなんて全く考えていないよな
さあ攻め込もうというところで本州の大半を支配した羽柴が来てウギャーなんじゃないの
それどころじゃなかったような
228 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 06:32:29
なぁ、もう島津の話終わらない?
やめるくらいなら幕末まで含めてもおkの方がいくらか建設的な希ガス
あげようと思えばいくらかあると思うが
対秀吉外交征伐前に降伏しておけば肥後半国貰えた
戦後の歳久の行動とか
他には伊東氏に負けたこととか貴久が清水城から撤退することになったこととか
ただ当時の島津の体制で、下からの決戦要求を退けての降服はできないでしょう。
これは島津に限った話ではないけど。
島津の規模、勢いからすれば
一度も戦わずに降伏はあり得ない。
それよりも、秀吉がその後の朝鮮出兵を予定してなかったら
島津は取り潰されてたのだろうか。
秀吉は勿論だが豊臣政権下の家臣たちの中でも薩摩なんかに興味は無いだろうから別に取り潰されたりはしないだろう
長曾我部の土佐一国安堵と同じでしょうな
あと島津や長曾我部を取り潰すと大規模な一揆とか起きそうだしな
長曾我部に大隈与える予定もあったはずだが
長曾我部元親が辞退したんだよね。
佐々は哀れだよな
238 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 20:24:42
スレ違いだけど、尼子は元就排除で敵に回るよりは婚姻で取り込んだ
ほうがよかったね。
忠将の死が痛かった
>>239 ほぼ最上級の指揮官の戦死だからね、それもあまり意味無い戦闘での死。
日向からの撤退にも繋がるし、
伊東氏の薩摩大隈介入にもある程度影響を与えたかも。
>>240 あれで大隈の制圧が遅れたな
他に蒲生に負けたのも失策だな
貴久の守護就任が早すぎたのも失策かな
勝久を敵にまわす羽目に
>>242 勝久が地位を譲ったという話しだが、
その後の展開を見ると強引に譲らせた説の方が説得力ある
貴久が守護に返り咲いてか3州統一まで時間がかかりすぎたことかな
20年ぐらいだっけ
関が原で西軍についたことと
薩摩大隈60万石なんて大法螺吹いたこと
おかげで岐阜くんだりで土木工事させられて直接間接何人死んだやら
確かに領土が半減されたとかよりも更にキツイ気がする
それも250年もだし
島津で300までいくのかよ
いろいろ話題振っても一人ぐらいしか食いついてこないんだよな
239・241・242・244が自分だが
あんまり戦国初期に詳しい人がいないのでは・・・
つまり、忠良やら貴久なんてようわからん、
義久や義弘の話をしろってことかも。
しかし、2ヶ月近く島津で停滞ってのは大変だな・・・
義久は島津家全体の統制を執っていたのはわかる。
でも引きこもらずにもっと全面に出るべきだと思うんだよ、現場指揮は任せるとしても。
>>249 >240>243は俺w
やはり相手は一人だったか。
>>250 というより、伊東氏を滅ぼすまではあまり知られていないみたいですね。
自分もあまり詳しくはないですが。
>>251 確かに。
書いといて気づいたけど、
忠良は天禄末期、貴久は元亀年間に死去だから
むしろ戦国中後期の人と言ってもいいんだよな。
これはあれか、島津に失策などないという
島津ファンの無言の抗議か?
ってのは冗談だけど、俺も詳しくないが
何とか盛り上げたいなあ。
分家の未亡人がほしいばっかりに
実子(かな?)をないがしろにして、その未亡人の
子どもを迎えたという話で実子と正妻を火あぶりにしたという
部分は本当でしょうか?
久しぶりに来てみたら島津がまだ続いている・・・。
なんか島津のしぶとさをそのまま表しているみたいだ。
蒲生氏、肝付氏、菱刈氏との合戦は島津の不手際が目立つよね。
島津の場合、失策をいくら繰り返しても薩摩に攻め込む強敵がいなかったから、
何となく生き残ってしまったのが本音でしょうね。
>>255 >島津の場合、失策をいくら繰り返しても薩摩に攻め込む強敵がいなかったから
確かに多少は関係しそうだ
義久の秀吉家康への対応はどっちもまずいと思う、
義弘や忠恒が頑張ったおかげで表面化しなかったが。
>>256 それに九州の強敵が島津氏に敵対したとしてもだ
大友氏はデウス様にのめり込んで日向に楽園を求めたり
竜造寺氏はぬかるみにはまってさー大変な最期だし・・・
大友氏も竜造寺氏も島津氏以上の失策をしている
島津氏は運が良かったとしか言えないわな
259 :
228:2006/05/25(木) 02:50:18
1ヶ月ぶりに来てみたら、まだ島津かよw
だから>228でもう島津やめない?って言ったのに。
島津有理子が「おはよう日本」をあっという間に降板したのが、島津の失策。
これは
>>1の失敗だな
もう伊達に切り替えた方が良いんでない
つうか伊達だったらば100じゃ足りないくらい
失政だらけの大名だしさ
まぁここに挙がってないけど南部だったら
500でも足りないだろうな
>>255 不手際目立つね
それに時間が随分かかっている
背後に伊東や相良が付いていたせいもあるが。
>>260 ゆっくり進んでいるからいいと思うが。
失策は結構多いし。
島津は国力を補う為の政策はなにかやっていたっけ?
いつも寡兵で奇襲の貧しい軍隊というイメージがある。
263 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 13:19:15
>>262 >国力を補う為の政策
密貿易、奄美の植民地化、琉球の属国化、
DQNじゃん。
>>262 貿易していたし、貴久によるキリスト教の許可も早かった
指揮官クラスまで鉄砲装備という重火力
島津は何で3州統一後はあんなに強くなったんだ?
>>265 島津が強くなったというより大友や龍造寺が不甲斐なかっただけのような気が
岩屋城攻防戦・立花城攻防戦の長期化
伏見での伊集院誅殺・日向都城の反乱
このへんはどうよ?
>岩屋城攻防戦・立花城攻防戦の長期化
これは相手を誉めるべきだと思う
通常なら包囲して一部の兵で拘束してる間に他地域を占領して孤立させることも
できたかもしれないが、豊臣との決戦時に後方に敵対勢力残すのは危険だし、
力攻めしか無いのでは。
>伏見での伊集院誅殺・日向都城の反乱
誅殺反乱自体は島津兄弟の関係とか、中央政権での徳川と奉行衆の対立なども
絡んで島津家だけの責任とはいえないと思う。
伊集院は豊臣家とその奉行衆と仲良くて、いろいろ便宜を諮られ半独立の立場
竜造寺の鍋島や大友の立花、上杉の直江みたいな、外様大名の分断政策の一種
で半独立し、島津家中にとっては目障りな存在
誅殺は軽率だったかもしれないが
その結果、豊臣家から独立しようとして味方を必要として大名に恩を売りたがっていた
家康とコネを持つ結果となり、伊集院を降伏させ島津宗家の権限を高める結果になったのだから、
まあ良かったのでは。
家康とコネを持っても結局西軍についたが。
義久に男児がいればまた違う結果になったのかな?
269 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 03:33:48
お前ら、島津とつけばなんでもいいから、あと31レスつけろよ。
とりあえず、島津有理子結婚おめ。これが失策とならないように願う。
>>268 関ヶ原合戦の際、島津義久は伊集院に怯え中央に派兵できない結果に。
伊集院は8万石とも言われたから目障りな存在だな
義弘の大口攻めで失敗して
義弘の代わりに川上が死んだこともあったな
274 :
日本@名無史さん:2006/06/06(火) 18:17:33
なんだかんだいって結構失策多いんだな
そりゃそうだ、失策の無い家など無いだろ
島津は失策も多いがそれが滅亡に繋がっていないからそれで十分だろ
277 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 02:20:10
>>276 島津の失策が滅亡につながらなかったのは誰もが薩摩に興味を持たなかったから。
278 :
日本@名無史さん:2006/06/10(土) 13:47:06
たしかに 機内や東海道に領地持ってたら潰されたろうね
義久に義弘の独断で西軍に加勢しただけって言われれば
わざわざ薩摩まで討伐軍だすメリットが無い
279 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 00:23:00
島津の失策は、一族の名前が覚えられないってこと。
信長の野望するとき面倒くさいから、全部切っちゃう。どうせ
九州攻めるときには、もう勝負見えてるし。
ついにフィナーレがみえてきたな
長かった。
282 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:12:19
ノ西南戦争
283 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 20:22:29
政府が西郷との争いを避けて妥協してたら…
その後の日本を想像するとゾッとするな。
大久保さん、ありがとう。
284 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 02:30:05
俺、鹿児島の奴が苦手なんだよなぁ。なんか苦手。
それじゃあどうすれば島津が天下取れたか
自分としては豊臣との和睦に応じて肥後半国貰っておけば
関ヶ原で九州を奪うくらいできたんじゃないかと思うが
関ヶ原で島津が動けなかったのは庄内の乱のせいだろ。
たとえ和睦してても戦時下でなくなったら領内再編は不可避だと思うから、
やっぱり伊集院が台頭→忠恒が手打ちで
庄内の乱は発生しそうな気がする。
島津で何ヶ月停滞しとるんだ…
二ヵ月半ですが何か?
長宗我部ですらほぼ一月で終わったのに。
289 :
日本@名無史さん:2006/06/17(土) 23:55:03
あと少しだよ
歳久を庇いきれなかったことは失策にならないのかな?
歳久の家臣の暴走が原因と言われているが・・・
家中の統率がイマイチなままつっぱしたつけがそこで出たといったところか
後に義久義弘別々に安堵されたりとか、後々まで微妙だな
291 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 06:34:33
島津最強
まあ後年3州統一後は確かに強そうに見えるな
相手が大きな誤謬を犯してくれたおかげでもあるが
歳久だけでなく家久も若死にしたな
義久義弘はかなり長生きだが
秀吉による家久暗殺説は否定されているんだっけ?
肯定するに足る根拠がまず無いからな〜
秀吉から体調崩してるらしいから無理スンナと書状貰ってるほどだしな
歳久も家久も生きていても大勢に影響は無いだろ
むしろ島津領を更に細分化されるだけなんじゃ
>>297 細分化は難しいんじゃ
話し変わるが義久の娘婿と忠恒との間にお家騒動が起きそうになったことも・・・
伊集院の反乱の一因とも言われたりするらしいが。
細分化されたのが事実だし
義久・義弘・歳久と3人に安堵されてるから
豊久だって家久の所領を継いで、これも秀吉から安堵されてる
豊臣政権下での義久と義弘の主導権争いもあったから
生きていたら混乱の種だったかもね