1 :
藤原:
歴史上に登場する藤原氏、及びその祖先。
歴史に登場しない藤原氏一族。
日本を陰で操るこの一族についておまえ等語りやがれ。
2 :
五郎左禪閤近衛雁麻羅殿下:2006/02/17(金) 22:21:31
まずは麻羅じゃな
誰か麻羅の院号と法名を考えよ
3 :
藤原:2006/02/17(金) 22:25:16
藤原氏は自分の娘を天皇家に嫁がせ外戚として力を振るった・・・・
では、藤原氏ってどこの誰と結婚したの?
4 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:28:15
>2
浣腸院肛門入道と名乗られてはいかがか。
5 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:58:41
藤原は藤原同士で結婚してた
6 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 22:59:48
最初の頃は秦氏と通婚してたんだっけな?
道長室は源氏、実資室は女王。行成も妻は忘れましたが、母は源氏でしょう。
平氏ほか、非藤原氏との通婚もずいぶんある。
8 :
藤原:2006/02/17(金) 23:15:15
女王って誰?
源氏、平氏に比べて藤原氏の人気がないのはやはり陰で暗躍してる感じ
が嫌なのかね・・・
9 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:15:25
藤原氏には天皇の血は流れてないってこと?
天皇には藤原の血が流れてるけど
10 :
藤原:2006/02/17(金) 23:17:43
藤原氏にも天皇の血は流れてるでしょ。
母が源氏なんだから・・・・
>女王
婉子女王です。『小右記』に追善を中心にいくつか記事が見えていますね。
12 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:20:46
>>10 源氏なんて当時は「皇族」扱いじゃねーだろ
穢れた武士じゃねーか
13 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:23:59
(・O・)(・@・)(><)(mm)(・_・)
14 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 23:24:43
>>12 源氏の祖先は天皇=遡れば源氏の血は天皇の血=源氏を母に持つ藤原氏も天皇の血が流れる
チミは馬○か?
>穢れた武士じゃねーか
「当時」がいつかよく分かりませんが。
源氏とか平氏とか言っても、○○源氏・平氏で異なれば、何系かで道は異なっ
ており、堂上で成功した家もあります。寧ろそちらが目立つ。
有名どころでは、道元の父はどうなります。後深草院二条も近い係累でしたが。
平氏で言えば、清盛の妻時子は、同じ桓武平氏でも堂上で成功した高棟流。
これは藤原氏も同じ。秀郷や利仁の子孫は武士化している。
源氏という時点で「皇族」でないのは当たり前ですが。「当時」に限らない。
16 :
12:2006/02/18(土) 00:17:30
>>14 馬鹿はお前だ
俺の言葉のニュアンスが分からないの?
もしかし池沼か?それとも釣り?
わざわざカッコ付けてまで「武士は皇族扱いじゃない」っつってんのによw
「源氏は天皇の血が流れてる」なんてマジレスしてやがんのw
日本語すら理解できないのか?w
>>15のヤツはちゃんと理解してるな
まともな反応が返ってきてる
17 :
14:2006/02/18(土) 00:51:28
あーなるほど。
藤原氏・・・当時の天皇家と婚姻関係=天皇家に藤原氏の血
天皇の血・・・一応源氏と結婚しているが当時の天皇の血は入っていない
って意味か。
理解した。すまぬ。
18 :
12:2006/02/18(土) 01:01:47
19 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:07:56
天皇の娘に自分の遺伝子注入したのって源氏でも居なかったような。
平氏は成功したが。
20 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:30:11
明正天皇が徳川家康の曾孫だよ
21 :
12:2006/02/18(土) 01:38:54
そうじゃなくてさ
藤原氏にその時代時代の天皇の血が流れたことはあるのかって
天皇の娘に精子ぶち込もうが構わんがさ
22 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:50:29
皇族を妻にした藤原氏の人間ならたくさんいるよ。
良房、基経、時平、忠平、師輔、兼通、兼家、道長、頼通、教通・・・
鎌倉・室町にはいないけど、江戸時代にも何人かいるな
23 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:51:53
現職の天皇の娘を嫁に取ったとか?
24 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 01:52:35
そうそう、それと現在の近衛家の当主は三笠宮の娘婿だよ
25 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 02:14:35
たとえば藤原良房の妻は嵯峨天皇の娘の源潔姫だね。
探せばもっといると思うよ。
26 :
藤原:2006/02/18(土) 09:00:13
天皇家と自分の娘が婚姻関係・・・・
天皇の娘と自分が婚姻関係・・・・・
天皇家と藤原家って思いっきり親戚なんじゃ・・・
日本第一位の苗字 佐藤(佐衛門ノ丈の藤原氏)伊藤(伊豆の藤原氏)
加藤(加賀の藤原氏)
日本第五位くらいの苗字 渡邊(嵯峨天皇の子孫)
日本第8位くらいの苗字 佐々木(宇多源氏)
日本第20位くらいの苗字 金子(桓武平氏)
清和源氏の子孫である多くの苗字 武田、轡田、長瀬、宇野、大森・・・
この国って天皇家の子孫と藤原家の子孫で大半を占めているのでは・・・
27 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 09:16:56
てゆうか近世初期に、第107代・後陽成天皇の皇子が、五摂家の近衛家や
一條家に養子に入っている。彼らは第108代・後水尾天皇とは兄弟の関係。
28 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 09:30:01
南家、式家、京家、大中臣はこのスレでいいですか?
29 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 09:42:33
平安時代以降、宮廷では藤原氏が最高位の貴族(公家)。公家の最高位の
家格である摂家は、全て藤原氏によって占められている。
源氏にも、村上源氏の久我家などのように、堂上つまり公家(貴族)として
存続した家もあるが、最大勢力の藤原氏には及ばず、家格も、摂家に次ぐ
清華が上限だった。宇多源氏の一部や村上源氏の一部のように、貴族として
続いた源氏は、いずれも藤原氏の主流と濃密な血縁関係を結んでいる。
朝廷の支配者は藤原氏だったので、そうしないと源氏も生残れなかった。
30 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 11:14:34
豊臣家が公家として存続したらおもしろかつたのに
摂関家だけでなく、たすうの受領層を排出したのも藤原氏
31 :
藤原:2006/02/18(土) 18:23:09
源氏がよく兄弟同士で殺し合いしてるっていいかたされるけど
藤原氏も兄弟同士、親戚同士、親子で権力争いしてるよね。
33 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 21:43:18
華族でも、最も多いのは藤原氏でわ?
公家の大半が藤原氏だし、地方の武家でも藤原氏の末裔を自称する者は
多いから。
34 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:19:28
日本のかつての上流階級・支配階級にはほぼ例外なく入り込んで
いた藤原氏の血。田舎武家の間でだけ威光があったにすぎない
清和源氏などとは格が違う。源頼朝につながる清和源氏の主流も、
藤原摂関家に走狗として使われる家来に過ぎなかった。その頼朝
の生母は藤原南家流の熱田大宮司の娘。白拍子が産んだ義経とは立場
が最初から違う。
足利将軍家は正室を、藤原氏の公家・日野家からたびたび
迎え入れている。のちの徳川将軍家や諸侯の間でも、藤原氏を中心
とする公家から正室を迎えるのを一種のステイタスとしていた。
上流社会に関する限り、藤原氏は日本史の主役と言ってよい。
35 :
藤原:2006/02/18(土) 22:29:06
しかしあくまで主役は天皇であり皇室。その子孫が清和源氏
藤原氏はあくまでNo2
貴族であり、限りなく上流階級だがNo1にはなれない。
そこが藤原氏のジレンマだと思う。
まるで学問一筋に生きて東大教授→東大学長→文化人
となるも、決して満足感を得られずに死んでいくような・・・
その点天皇の子孫達はお気楽なもんだよな〜。
>地方の武家で藤原氏を自称
利仁流、秀郷流が有名ですが、菊池氏は隆家の後裔を称していた筈。
前者は将門や百足退治の記憶が無く、せいぜい「芋粥」の人なのが悲しい。
37 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:41:45
>>34 だよな
日本史の教科書といい、歴史の本といい
なんですぐ武士や幕府の視点で歴史を展開してんだろうなって思うよ
38 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:51:43
あくまで形式上ではあるが、天皇が頂点というのは分かる。
だが、源氏である時点ですでに臣下の諸源氏は、もはやたいして
尊重されてないよ。特に朝廷ではそう。藤原氏と源氏では源氏が格下。
源氏である限り絶対に摂政・関白にはなれない。
まあ、堂上として続いた源氏と藤原氏との血縁関係は濃密すぎて、
生物学的には殆んど同族なんだが。
39 :
藤原:2006/02/18(土) 23:07:35
生物学的にっていうなら、ますます哺乳類ヒト科として考えた場合
天皇家のミトコンドリア(DNAって表現した方がいいのかw)はN01を取った。
源氏といえども、かつては天下を取った事のあるDNAだ。
しかし、藤原氏は一族としてはN限りなくo1に近いが、DNA的にいって一度も
No1にはなっていない事になる。
これは生物学的に言ったらちょっと寂しい。
あの坂本竜馬は高知の郷土士の息子だ。田舎の一介の貧乏侍だった竜馬が日本を
動かすような大人物に大出世したように見える。
しかし、家系図を遡ると清和源氏系の明智光秀の子孫であるのだ。
織田信長を裏切って例え3日間で秀吉に滅ぼされようと3日間だけでも
天下の覇者になった。一度は天下を取った男の子孫と考えれば田舎者が天下国家を
案じて、日本の将来を担う人物に成長した事はDNA的に言ったらもっともな話である。
竜馬が藤原氏の一族だったらこんな大物にならずに、上手く世渡りするだけの
要領のいい男になったように思う。
40 :
日本@名無史さん:2006/02/18(土) 23:47:32
寂しいと言えば、平安初期まではいろいろ居た、古代以来の名族が、
藤原氏の1人勝ちによって没落・消滅していったのも寂しい。
大伴氏、石上(物部)氏、石川(蘇我)氏、紀氏、小野氏、
在原氏、良峰氏・・・どれも公卿(高級貴族)を輩出していたのに、
藤原氏によって朝廷から締め出されてしまった。
ちなみに、蘇我氏は石川氏、さらに後には宗岡氏と称し、
朝廷の地下官人として続いているね。もっとも系譜には怪しい点も
あるが。
41 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:00:25
源氏の将軍だって身分的には天皇より下じゃん。
徳川将軍もそう。つねに天皇が頂点。形式上は。
徳川将軍家は摂関家よりは下の清華の家格だったという。
清華の家格の公家とは、藤原氏の三條、西園寺、徳大寺などや
村上源氏の久我など。
42 :
藤原氏:2006/02/19(日) 00:13:19
家格の話じゃない。
藤原氏はいくら頑張ってもNo1の子孫でもなければ、今後No1にはなれない。
No2を頂点として定められたヒトって意味。
いくら馬鹿にされても、身分が低くても、事実としてNo1を極めた日本人のボスの
子であるのが源氏であり、平氏。
No1の子孫ではない悲哀が、No2の座を極めて栄華を極めた藤原氏系には漂ってる。
なにか寂しい哀愁のようなものを藤原氏からは感じるのだ。
例えば秋元康がどんなに成功してお金持ちになっても、どこか寂しそうにみえるのと同様。
(ちなみに秋元って苗字は藤原氏北家流)
43 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:31:07
違う、皇別氏族でない藤原氏が栄華を極めたことこそが重要
天児屋根命が祖神ということは、天皇家にのちに服属すると別の国家の王だったのだから
44 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:45:34
いや、だから藤原氏には天皇の血も入りまくってるって。
源頼朝よりも、同時代の関白・藤原基通のほうが天皇の血が濃い。
天皇がNo1というのなら、藤原氏の主流もそのNo1の子孫という
ことになるよ。
45 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:53:47
ほんと藤原家があくまでもNO2に拘った理由ってなんなんだろうね・・
不思議でしょうがない
色んな歴史家が色んな意見述べてるけどどれも釈然としないよ
大義名分がなかったみたいなこと言われてるけどさ
どうなの?
46 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 00:54:25
つうか源氏の将軍はたったの三代で潰れ、あとは摂家将軍に
なってるよな。
清和源氏の主流はこれで断絶。いまいち冴えないな清和源氏。
47 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:01:55
>>44 男系男子に限った話。
Y染色体はあくまで藤原氏祖(中臣鎌足)のものでしょ。
天皇家も、源氏も清和源氏にしろY染色体に注目すれば
同一の天皇に遡るよ。
48 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:05:41
生物学的には同族と化したとは言え、藤原が
皇位を簒奪しなかったのは事実。足利義満はそれを狙ったようだが。
徳川も身分は臣下であり続けた。そのほうが責任を負わず自由に
動けるからだろうか。
49 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:09:58
>>48 おい!
何度いったらわかるんだ。藤原氏の男子の染色体XYのうちYは中臣鎌足と同じ
Y染色体、Xが天皇家のもの。
一方、天皇家、源氏、平氏の男子のXY染色体のうちYは天武天皇、神武天皇と同じY
染色体。
この違いは大きすぎるぞ。女系はXXで、どのX染色体かわからないから
天皇家の女子XXと、藤原氏の女子XXが生物学的に同化っていうのは可能性あるが
男系男子に限ったら全く違う。XYのうちYが違ったらもう50%は別人ってことだ。
50 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 02:54:42
Y染色体だけで1000年以上前のことを解明できるというのは
眉唾のトンデモ科学だと思う。そんな論文Nature誌に載ったことあるか?
ミトコンドリアで分析するっていう手法はあるが。
51 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 03:07:09
>>50 禿同。
国際的に権威ある科学誌に掲載された論文でさえ捏造論文が
紛れ込む。ましてや単なる国内の一著作で披露されてるだけの説
なんて電波と同じ。文系人間は単純だな。
>>49 50代から別れたのも(桓武平氏)、62代から別れたのも(村上源氏)
初代から別れたのも(多氏)、男系子孫という点では差はないわけだね。
だったら初代以前に別れたものも当然同じYを持ってるわけだ。
神武のおじいさんとか、ひいおじいさんとか、10代前の先祖とか、20代前の
先祖とか。要するにみんな同じYを持っているわけだ。
何十(百?)代も遡って最初の人間(アダム?)にたどり着くと。つまり
人類みんなアダムと同じYを持っているわけ?
53 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 07:08:51
>44,>48五摂家のうち2つは皇族が嗣いでますが何か。
その片方も、細川元首相(源氏)の弟が相続です。他人に説教する前に自分が勉強汁
54 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 08:58:23
つまり江戸期〜近現代の藤原氏の嫡流は、天皇家の男系子孫でもある
わけだよね。別に藤原氏にとっては大した意味は持たないだろうけど。
既に貴族としては頂点なんだから。
55 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:03:51
>>50 何を言ってるんだ。Y染色体だけで1000年前の事がわかるんじゃない。
ある染色体XYを持つ山田君と、椎名君
X染色体を見る限り、同じ場合もあるがY染色体は「完全に」異なるってこと。
親戚、血縁者、同じ祖先じゃない限りね。
今谷明説の義満簒奪は眉唾。
藤原氏の場合、天照大神の子孫ではなく、あくまでも天児屋根命の子孫とい
う事で権威があった訳で、補佐役でしかありませんでしたからね。
二神約諾説などは、その最たるもので。
それに、摂関政治全盛期でも、最終的には天皇の決裁が必要でしたから。
天皇に代って政治の全権を掌握出来ていた訳ではない。
皇位簒奪が無かった理由というのは、やはり天照大神(大日如来)の国土に
君臨するにあたって、それに代る神話を用意出来なかった事でしょう。
『日本書紀』以下の神話やそれを補完した仏教的世界観によって構成された
中世神話は、天皇家の国土支配を是として展開している。
中世人が目に見えない「冥」の世界からの視線を感じていた以上、それに代
る世界観が無い事には、目に見える世界の掌握もならなかった。
(近代人には、「仏神に認められる正当性の必要性」は分かり難いか)
キリスト教が多数派となっていれば、また違ったかもしれませんが。
57 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:18:47
>>55 それが科学的に正しいというソースを出してくれ
その手法で1000年前まで検証可能なのか?つまり、
1000年、2000年前でも男系祖先が同じならY染色体
が一致するのか?そんな論文あるのか?
58 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:33:50
一致はしないが、確実に中臣鎌足の子孫である藤原氏と
天武天皇の子孫の天皇家、及び源氏はY染色体が違うって事は確かだろ。
つーか、同じだったらキモイだろ?
父XY−母XX→男なら父からYを貰い母からXを貰いXY
女なら父からXを貰い母からXを貰いXX
このパターンは何千、何万回繰り返そうが変わらない。
いきなり関係ない「藤原氏」っていう家系に「ぴょこん」って感じで
隣の天皇家の遺伝の系図からY染色体が飛び移ってたらキモイだろ??
あくまで天皇家の祖先を頂点とする系図の中の男系にしかY染色体は遺伝しない。
59 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:34:22
うろ覚えだが、すでに平安時代に、皇族でありながら、藤原氏のほうが
有利という事で藤原氏のどれかの家系の猶子になって家を継いだ人とか
いたような気がする。
あと、これは噂のレベルだが、大正帝の隠し子が堂上の山本家(藤原氏・
閑院流。子爵)の当主になったなんて話もあるね。
60 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:34:50
>>53 近衛信尋と一条昭良は後陽成天皇の子、鷹司輔平は直仁親王の子。
皇族から当主を迎えたことがあるのは五摂家のうち3つだ。
どう数えたらこれが2つになるんだ?
他人に説教する前に(ry
61 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:41:16
>>58 お前の能書きはいいからソースきぼん
どうせお前が発表した説でもない訳だしなw
62 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:45:48
http://www.rocus.co.jp/dnatesting/ychromosomal/haplotype.htm Y染色体ハプロタイプは、その家系の系譜で共通の男性(父系)
系統の鑑定のために利用されます。例えば、ある男性のグループ
には厳密な家系ライン(全員が”徳川”などの同じ姓を持つ)があって、
共通の祖先を持つと考えられるなら、
個々個人のY染色体を調べる事は、彼らの憶測を指示し、主張する
材料としてかなり有効です。
同じ父系の出身者(鈴木性すべての男性)全員からY染色体マーカー
を見ることによって、我々は、彼らが全員、(関係があると思われる
2名の人物同士の関係で、少ない数ながら
10世代から20世代未満の世代間に発生する突然変異率を計算し、
考慮を行いながら)同じY染色体マーカーを共有しているかを評価できます。
以下に注意してください。この検査は、ある人物にとっては答えたくない
質問かもしれませんが、
その家系で父系であるかないかを区別する事にも使用できます。
そして、Y染色体氏名研究をするとき、警告が鳴らされます。
63 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:47:39
Y染色体が男系男子ってここは生物学の知識あるヤシは皆無か?
64 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 09:47:47
>59
大正帝は4人もの男子をなした近世以降稀に見る偉大な名君だが、
当時の宮中関係者は「これ以上皇子が増えたら皇室財政を圧迫して困る!」
と側室を認めなかったという話はあるな。
これは現在の皇室後継者不足の遠因のひとつになっている。
65 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:10:34
>>59 本来源氏の家系なのに、朝廷で最大勢力の藤原氏の一員
になっておくほうが有利と考えて本姓を藤原氏に変更してる例がある。
例えば、朝廷の地下官人の堀川家は『地下家伝』によると村上源氏
の源師房(具平親王の長男)の末裔というが、途中で藤原朝臣に改姓
している。
源師房は、道長の娘を正室にしたうえ、頼道の猶子にまで
なっていて、「堂上の村上源氏は御堂の末葉」と言われるぐらい
なので、子孫が藤原朝臣に改姓しても不自然ではないんだが。
66 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:17:31
奈良時代の757年に石津王(系譜不明、かなり傍系?)は藤原氏を賜姓され、藤原仲
麻呂の養子になったとのこと。
藤原仲麻呂の与党として、764年に処刑された仲真人石供と同一人物かとの指摘もある。
まあ皇位に関係ない傍系なら藤原氏の中心人物の養子の方が良いかも。
その少し後に長屋王の子で藤原不比等の外孫山背王は、橘奈良麻呂の乱の密告の恩典と
して藤原朝臣を賜姓された。
二世王より藤原朝臣の方が実質的には上だったらしい。
>>67訂正、山背王は二世王じゃなくて三世王でした。
69 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 10:34:47
廟堂第一位は藤原摂関家
具平親王流村上源氏は廟堂第二位。
藤原氏に押されつつも村上源氏はなかなか奮闘してる。
そういや久我美子は村上源氏の末裔だね。摂関家から養子が入ってる
から藤原氏の末裔でもあるけど。
70 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:02:06
三世王あたりだと頗る待遇悪いね。
公卿に列するなんて希で、運が良ければ受領になってる程度。
桓武平氏でも三世王あたりで無位無官の人っていたよね。
三十六歌仙のひとり源重之(清和帝の曾孫)も従五位下が極位で、
官も受領に留まっているし。
はっきり言って傍流の皇族の末裔って早期の段階からパッとしないん
だよね。皇胤というだけで凄い!と思ってるのは地方豪族や庶民だけ。
71 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 11:22:32
具平親王が寵愛されたという雑仕女大顔の描かれた牛車が現存していれば・・・惜しい。
享徳元年(1452)の土御門有通卒去の前後に失われたらしい。
しかし、妻倫子が宇多源氏、明子女王が醍醐源氏であったのに、道長は具平
親王を贔屓していた様で。「後中書王」の才気故でしょうか。
72 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:25:54
傍流がパッとしなくなるのは皇族だけでなく多くの氏族でも同じこと。
藤原氏の傍流が一家興して公卿に列するケースは他氏族に比べれば圧倒的に多いけど
それでも嫡流から3世代くらい離れれば受領になれれば幸運、ていうのは普通。
73 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:28:51
どっちにしろ君達は1億2000万人に埋もれている庶民からみたら
源氏も藤原氏も雲の上の存在だって事を忘れずに。
一体何を持って「源氏なんて受領どまりだから大した事無い」なんて大口叩けるのか?
君達はせいぜい6000万番目の庶民だよ。
74 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:36:21
道長の時代の右大臣・藤原実資の『小右記』などでも、
中央における源氏・平氏らの地位の低さが分かる。
鬼女退治の伝説で有名な余五将軍こと、鎮守府将軍・平維茂のこと
を、この右大臣は「山猿」のような奴と言って差別発言してる。
平維茂は公卿ではないので低く見るのは当然ともいえるが、
藤原氏の主流筋の身分意識がよく表れていると思う。
他国でもそうだが、貴族内部でも身分差別がある。伯爵家出身の
トルストイも帝都ペテルブルクでは、皇族や名門貴族との差別を
肌で感じ、トラウマになってたらしい。
75 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:45:13
>>73 いや、俺の祖先には正二位・大納言まで昇進した人物は
けっこういるよ。家格は羽林に過ぎないけどね。
76 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 11:53:45
>>71 その牛車は南北朝の頃までは残ってたという話だね。
77 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:18:52
おまえら、清和源氏は摂関家の家人だったこと知っているのか?
78 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:31:48
清和源氏ってその主流からして摂関家の番犬
尻尾フリフリが伝統の家系。
それが名門とはなw
田舎者の発想だな
79 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:44:19
北家の権力確立のとどめは安和の変での源満仲の活躍だし
80 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 13:07:00
>>74 >この右大臣は「山猿」のような奴と言って差別発言してる。
すみませんが、何年何月何日条になりますでしょうか。
>>76 その様で。
81 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:25:24
>>80 申し訳ない。孫引きなのでその点は定かではないです。
あと、明子女王って臣籍降下してたのでしょうか?
82 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 13:31:44
>81
『小右記』の索引を見ましたが、出ていないのですよ。>維茂云々
>明子
父で後中書王こと具平親王と文才を比較された中書王こと兼明親王は臣籍に
降下しておいででしたからね。
余談ながら、二人とも慶滋保胤とは懇意にしていました。三大文人と言える。
83 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:32:04
81です。道長との婚姻時にという意味です。
84 :
山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/02/19(日) 13:46:05
>83
ずいぶん前に降下されていた筈ですが。
85 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 13:48:25
>>82 いや〜私も全文読んだわけじゃないので分かんないんですよね。
全文読まれましたか?『中右記』だと時代が合わないし、
この時期だと『小右記』以外で一般に膾炙してる日記っていうと
あまり無いですよね。どうなんでしょうね?時間があるときに調べて
みます。
あと、醍醐帝の皇子のひとり兼明親王は親王世代で臣籍降下して
ましたっけ?源高明ら4人は確かに親王世代で降下してるんですが。
記憶違いならスマソ
藤原氏、鎌足を第一世代として第二世代は実質不比等のみ(兄は若年で出家の上早死)、
第3世代の四兄弟は、正一位相当の鎌足の孫として正六位上または正六位下でスタート、
全員が従三位以上かつ参議以上、内一人は正一位左大臣、とこの世代では落ちこぼれなし。
第4世代は20人以上となったが、京家と、早死したらしい者以外はほとんどが従三位
以上となっている。
贈正一位不比等の孫として正六位下か従六位上あたりでスタートしているので、早死しなければすぐに従五位下に到達し、まだあまりライバルがいないからだろう。
南家は4人とも従三位以上、一人を除いて参議以上。内一人は正一位大師(=太政大臣)、
もう一人は従一位右大臣。
北家7人は、早死したらしい長男鳥養を除き全員が従三位以上で、かつ参議以上、内二
人は左大臣(一人は正一位)、一人は大納言(これが摂関家の先祖八束→真楯)。
式家は、9人中4人が従三位以上で、かつ参議以上。内一人は左大臣、一人は内大臣。
残る5人については、長男広嗣は従五位下で謀反、残り四人は早死したらしい。二人は
名前すらよくわからない。
京家は人数すらはっきりとはわからない、一人だけが従三位で参議。
他に幼い内に死んだりして名前の残っていない第4世代がいるかも知れないけど、別に
研究者じゃないのでそこまでは考慮しない。
87 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:03:57
そういや応和元年(961)、清和源氏の源満仲の屋敷に押し入った
盗賊の1人で、矢に当たってタイーホされちゃった人が
式明親王の子どもの親繁王。つまり醍醐帝の孫。
何やってんだか。近い皇胤でも困窮する程に、藤原氏が権力と富を
独占してたんだろうね。
第5世代になると、百人前後はいるわけで、謀反人の南家仲麻呂の子孫はこの世代で脱
落(三人は参議になったが謀反関係で非業の死)とか、そろそろ格差が激しくなってくる。
南家・北家はこの世代までは、祖父の贈正一位が効いてるので、父の地位に関わらずス
タートはさほど差がない。しかし、庇護者がいないと後の出世には響くわけで、結果には相当差がついてくるのは当然。
さて第5世代では、真楯の三男内麻呂は右大臣だが政府首班、とはいえまださほど目立
つ存在ではない。
第6世代が冬嗣で内麻呂の次男、さらにその子良房、孫基経(良房の兄中納言長良の子
で良房の養子)と続くうちに最高の家格として確立したようだ。
基経と同じ第8世代で冬嗣の孫高藤は、基経が中納言になった年頃でようやく従五位下、
このままだと四位どまりだったろうが、天皇の外祖父となるという好運に恵まれ、正三位
内大臣、しかも贈太政大臣。
冬嗣の孫でさえこれだから傍系は苦しい。まあ純友だって冬嗣の子孫だけど。
定家だって道長の子孫だしね。
>>85 『小右記』もやたら長いので、興味のある所ぐらいしか憶えていない
のですが。『左経記』か『権記』か。道長の方では無い筈。
維衡かと思ってざっと見てみたのですが、見当たりませんでした。
藤原スレですので、この二人についてはこの位にしておきますが、し
かし行動が目立ちますね。
>後段
そういわれると、私も確認してみようという気になります。では。
90 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:22:15
俺は清和源氏の子孫だ。
大和源氏始祖の源頼親の叔父は藤原道隆
つまりは清和源氏も立派な藤原氏の流れを汲む
もっと勉強しようね。
京家は第5世代に非参議従三位が一人、第6世代に正三位大納言が一人、公卿はここで
打ち止めらしい。
南家は確か鎌倉初期くらい続き、式家は南北朝時代くらいまでは公卿がいたはず。
92 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:36:07
>>90 最初の嵯峨源氏からして藤原氏の血は入ってるでしょ。
嵯峨帝の生母は藤原乙牟漏(式家)だから。
ところで、源氏と平家はなんで真人じゃなくて朝臣なんですか?
94 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:46:04
>>93 真人を賜姓された家系ってどうも冴えないのが多くて、
むしろ朝臣の藤原とかのほうが強大だったので、平安初期あるいは
その少し前から、皇別系もたいてい朝臣になってるね。
つまり、当初とは違い、朝臣>真人という状況になったみたい。
橘は宿禰→朝臣、これは母親の姓を継いだためだけど。
傍系王族より宿禰の方がましなのか。
ついでに官務家はなぜか朝臣→宿禰、変わり者?
96 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:34:20
小槻氏ってもともとかなりマイナーだよね。
壬生家と大宮家が嫡流を争ったのは比較的有名だけど、
それ以外にどんな家があったのか俺は知らない。
地方豪族が家系詐称するにも、さすがに小槻氏ってあまり聞かない。
だが王朝マニアなら好奇心を刺激されるだろうな。
ところで山背王改め藤原弟貞の子孫ってどうなったのかな?
弟貞の地位従三位参議から言って、子供の世代までは五位程度にはなれそうなんだけど。
五位以上なら一応正史に叙位記事くらいは載るはず。
平安時代初期くらいの系譜不明の藤原朝臣の中に子孫がいるかも。
源平藤橘とあと菅原ともう一つどこだかくらいは主典にしないという習慣があったそうだ。
すると没落するときかえってきついよね。
98 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 20:33:18
今の世の中に沢山いる藤原姓の方々は子孫なのか?
今のは藤原の様な姓ではなく、一条や近衛といった名字ですからね。
今は藤原姓や源姓は名乗れないわ、仮名・実名の区別はつけられないわ、
何よりほとんどの人間が混同しているわ、日本史上から見れば異例な時
代と言っていいかもしれません。
101 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 20:57:25
九条ではなく近衛が嫡流とされるのはなぜですか?
102 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 21:01:16
九条は痔なんですよ
103 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 21:01:55
マチガタ
三男の家系だからですよ
104 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 00:01:07
佐藤、伊藤、加藤 さんは藤原氏の子孫ですか?
105 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 00:38:38
>>104 苗字の由来は藤原氏なんですが、殆どが明治の造作苗字や真似。
佐藤氏=佐渡守藤原氏
伊藤氏=伊勢藤原氏
近藤氏=近江藤原氏
↑こんな由来で藤原氏の末裔が名乗ったのが始まり。
しかし、大多数の方は明治に、たまたま仮に佐藤氏の領民だったからあやかったり、適当につけたのが大多数。
106 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 01:31:35
>>104 なんで藤原氏が藤原と名乗らずに近衛とか違う苗字を名乗るのか?
本来、今で言う姓=苗字ではない。藤原は姓であり近衛なんかは苗字=家名になります。
そして当時は藤原、橘、源、平と四姓がありました。
しかし、一族が沢山いて皆藤原では分かりずらい、召使いも藤原を名乗る時代だった。
そこで、増えすぎた一族を見分ける為に家名=近衛なんかを名乗った罠。
それが時代とともに家名=姓ととらえられて現代にいたる。
しかし、明治以前のエロい人は普段は家名を名乗りますが、正式には姓を名乗っていました。
近衛さんも藤原朝臣〇〇とかを正式には名乗り、徳川将軍さんなんかは源氏の長者〇〇と姓を名乗るのが正式です。
だから家名=住んでいる場所か役職なんがが多いですね、庶民的には屋号みたいなもんだ罠。
つーか適当すぎ?
107 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 04:11:46
江戸初期中期の近衛家と天皇家ってすごい事になってるね
>>58 だからね、鎌足と天智(でも誰でもいいけど、とにかく皇族)、何十代あるいは
何百代か(何千代か‥‥)さかのぼれば、共通の祖先に行き着くわけでしょ。
だったら同じYを持ってるのかい? てことをききたいわけ。清和から別れようが
桓武から別れようが、神武から別れようが、神武のおじいちゃんから別れようが
神武の10代前から別れようが、100代前から別れようが、みんな同じYを持ってる
のかい? てことをきいてるの。だったら現日本人のかなりの部分はみんな
同じY持つことになっちゃうよ。
109 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:12:33
110 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:49:07
ある男系類人猿と共通祖先なので同じY染色体持ってまつ
何百年か前のアフリカの一女性にたどり着くんだよね。
てことは、そいつとまぐわったのが我々の男系祖先だね。一人か複数か知らんけど。
いや、その女性の子供が別の種類の猿とまぐわってしまうこともあるだろう。
せっかく人間になれたのになりそこないの猿にヤラレテできた子供の子孫は猿顔。
113 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 09:41:26
つーか、アフリカの一人の女に行き着く説は正しいのか?
一人の女が生涯を通して何人産める?その内成人まで生きられる確立は?
俺は常識的には複数居たと推測しますがね。
自分もたった一人ってのは前からどうも納得できなかった。
関係の本とかドキュメンタリーとか見てもなぜ一人になるのかはスルー。
そうなるって言う証明は出切る(と思っているけど)なぜなったのかの説明は出来ない?
その辺をわかりやすく解説している人っているの?
まあ、あれだ、歴史のなぜ?を説明するのは簡単じゃないってことだな
しかし、それが偶然だとしても、偶然は必然の産物なので説明できない偶然はありえない
仮説も立たない話はやはり怪しい?
116 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 15:47:43
藤原氏の男系の嫡流はどこの家?
五摂家筆頭の近衛家は既に男系断絶してるけど。
本来は豊成の子孫でしょうね。今どこでどうしていらっしゃるのか知りませんが。
その質問をしたあなたが藤原氏嫡流だったりして。確率は酷く低いですが。
119 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 09:10:10
豊成って誰だ?
120 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 11:50:42
古代日本の御三家は
天皇家、中臣家、忌部家であったが、
中臣から藤原氏がでて繁栄したが、
忌部氏は全く衰えてしまったな。
なんだか神秘的な一族だな
121 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 13:09:49
122 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 21:43:36
五摂家の中でまだ藤原氏の血筋を維持している家はまだ存在しますか?
近衛は江戸時代に脱落しましたが。
123 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:27:32
>>122 九条、二条、一条。
一条は一度皇統になったが、のちに花山院家忠系の男系になっている。
124 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:11:47
そういやなんで近衛家は細川から養子とったんだろ。
九条あたりからとればよかったのに。
女系でつながっているから
そんなこともしらんのか
126 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:31:00
近衛は親子相続が続いてて他家とのかかわりが少ないからね。
九条じゃかなり遠い縁戚になる。
遠い男系より近い女系を選んだってことでしょ。
127 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 23:53:35
>>119豊成は、藤原南家の祖・武智麻呂の長子。
武智麻呂は不比等の長子だから、近世的な見方をすると、南家が
藤原氏の嫡流ってことになるのか。
平安時代、醍醐帝の延長八年(930)に起きた清涼殿落雷事故で死亡
した大納言・藤原清貫はこの豊成の子孫。この家系は以降あまり栄えて
ないね。
>>118 >>127のとおり豊成は南家武智麻呂の長男で最終的に従一位右大臣。
四兄弟死後は弟仲麻呂の台頭まで藤原氏の総帥だった。
右大臣となり、橘諸兄(正一位左大臣)引退後は政権トップ。
しかし実権は弟仲麻呂に握られていた。
橘奈良麻呂事件で三男が奈良麻呂と親しかったため連座して大宰帥に左遷。
仲麻呂の失脚敗死後右大臣に復帰し従一位にもなったが、
道鏡全盛時代であり実権はなくまもなく死亡。
なお豊成の長男は早死したらしく、次男右大臣継縄が嫡子か?
その曾孫に参議保則がいて、摂政基経とほぼ同時代人。
保則が嫡曾孫かどうかはしらないが、
次男(房前)の三男(真楯)の三男(内麻呂)の、
そのまた孫の基経よりは、よほど嫡流に近い。
129 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 10:06:59
そのあと、というか現在では豊成の家系はどうなっているのでしょうね。
南家でも巨勢麻呂の系統なら長く続いている系図があるけど。
鎌足ー不比等ー武智麻呂ー豊成が嫡流であったことは間違いないが、
以後しばらく嫡流といえる家は消滅したというのが正解でしょう。
内麻呂は右大臣で政府首班だったが、その子の真夏・冬嗣兄弟が跡を継げると決まったのでもなかった。
結果的には次男冬嗣、その子良房(確か三男)、養子基経(兄長良の三男)と続いてし
まったので、ここが嫡流となった。
その後嫡流内部で概ね弟の系統が勝利をおさめつづけ道長にいたる。
まあ大概は兄系が自滅(時平系・道隆系等)するんですが。
ちなみに内麻呂の父真楯(元は八束)もかなり面白い。
時の権力者仲麻呂と仲が悪かったように「続日本紀」に書かれている割に、仲麻呂政権
下でちゃっかり中納言。それでいて仲麻呂妥当の際にはさりげなく参加して大納言。
もっともその後まもなく死亡しますが。
これ本当に仲麻呂と仲が悪かったんだろうか?内麻呂あたりが父は逆心仲麻呂と仲が悪
かったんですと言いたかっただけでは?
大体この系統は南家や式家、同じ北家でも永手系や魚名系とちがって派手に動かないけ
どなんとなく知らない間に出世している感じだ。
目立つことによる消耗を避けているというか。
131 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 10:13:14
九条は養子など全く貰わずに現在まで続いてきたのかな?
132 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:12:46
鎌足は中臣氏の嫡男だったのかな?
だとしたら、藤原氏の嫡男が中臣氏の嫡男と言う事になるのかな。
それとも、鎌足が藤原の姓を貰ったときに、中臣氏の当主の座はどこかに移ったのだろうか?
133 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:16:14
古代日本御三家
天皇家、中臣家、忌部氏
忌部氏は何処にありや
135 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:35:31
>>134は日本語もろくに読めない馬鹿
分家や藤原氏の別の家から養子をもらうことがあるだろ
136 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:50:57
塚、養子ももらわず完全に親子相続だけで現代まできた家なんかねーだろ
いやあるだろ
特にお前ん家みたいな所は養子を貰ってまで残す必要ないからな。
もっと頭使えよ
138 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 14:46:23
藤原氏の名字と天皇の名前(?)
に共通するものが多いのは何故?
冷泉とか○条とか。
139 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:02:36
京都の地名や邸宅名だから。
140 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:04:34
143 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:01:59
で鎌足は中臣氏の嫡男・当主だったかという質問に誰か答えてくださいよ。
144 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:04:49
ここ軽く荒れてるみたいですけど、よろしくお願いします
>>140 具体例も何も薄汚いお前がそうだろwww
146 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:57:18
ワロスwwwwww
147 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:34:15
現在の五摂家の当主のお名前は?
>>134はおれで、それ以来初レスなんだけど、なんか必死なのが一匹
いますね。
>>140に回答できない恥晒し。
鎌足の時代に嫡男・当主なんてないよ。
だいたい中臣氏は卜占で大王家に仕えた職能集団で、系譜関係すら定かでない。
鎌足が摂津三島の出身か常陸鹿島かさえわからない
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
152 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 11:03:05
153 :
○○#:2006/02/27(月) 11:20:00
>>145の日本語は意味が通じないんだが、誰か翻訳してくれ。
養子をもらってまで存続させる必要が無い家があることはわかる。
それと藤原氏となんの関係があるんだ?
155 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 12:26:18
>>116 藤原氏の男系の嫡流はどこの家?
五摂家筆頭の近衛家は既に男系断絶してるけど。
正確に言うと、近衛公爵家(嫡流)は細川家から養子が入り
男系は途絶えました。しかし分家の近衛子爵家は男系が続いて
います。(作曲家・指揮者の近衛秀麿はこの子爵家出身)
156 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 12:34:24
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
このレスをみたあなたは・・・3日から7日に
ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり
成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに
5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて
ほしくないことが起きてしまうでしょう。
コピペするかしないかはあなた次第...
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
158 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:19:13
>>154 お前必死な奴だな
粘着は自分の低脳スレ見直してこい
って事は作曲家だした近衛子爵家も藤原氏の男系の血筋じゃないって事?
160 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:37:54
道長まではほとんど長男の血統が嫡流になっていない。
頼通以降は素直に長男が嫡系を継いだが、そうした途端に振るわなくなった。
要するに兄弟間の抗争で氏族全体としての活力を得てきたということなのだろうか。
161 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:58:14
>>158 お前の気に入らないレスが全て同一人物によるものだと思うなよ。
低脳スレってどこで見直せるんだ?
163 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 01:12:05
>>119 奈良時代きっての緊縛マニア
息子の名前が継縄・乙縄・縄麻呂、このこだわり
まあ縄にはただすの意味もあるけどね。
>緊縛マニア
珈琲を吹いたじゃないか
謝罪と賠(ry
166 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:08:53
自分の娘が自分の孫に嫁ぐんだから、現代人には理解不能
藤原豊成(武智麿の長男、704〜765)、極位従一位右大臣
藤原継縄(豊成の次男?、長男早逝で嫡子?、〜796)、極位正二位右大臣
藤原仲麻呂(武智麿の次男、706〜764)、極位正一位大師
藤原乙麻呂(南家、武智麿の四男、?〜760)
藤原黒麻呂→是公(南家、乙麻呂の長男、〜789、63歳) 極位正二位右大臣
藤原永手(北家、房前次男、長兄鳥養早逝で北家嫡子?、714〜771、58歳)、極位正一位左大臣
藤原家依(北家、永手の子、743〜785)、極位従三位参議、
藤原八束→真楯(北家、房前三男、715〜766)、極位正三位大納言
藤原内麻呂(真楯の三男、冬嗣の父、〜812、57歳)、極位従二位右大臣
藤原冬嗣(内麻呂の次男、775〜826)、極官左大臣
藤原魚名(北家、房前五男、721〜783)、極位正二位左大臣
藤原楓麿(北家、房前七男、?〜776)、極位従三位参議、
藤原園人(楓麿の子、〜818、63歳、良二千石をうたわれた)、極位従二位右大臣
藤原宿奈麻呂→良嗣(式家宇合の次男、716〜777)、極位従二位内大臣
藤原田麻呂(式家宇合の子、722〜783)、極位従二位左大臣
藤原百川(式家宇合の八男、732〜779)、極位正三位参議
藤原緒嗣(百川の長子、774〜843、70歳)、極官左大臣
第4世代で大臣になったのは南家の豊成・仲麻呂、北家の永手・魚名、式家の良嗣・田麻呂の6人。
ところがそのうち子供(第5世代)が大臣になったのは、豊成の子継縄だけ。
逆に第4世代が参議にすらなれなかった(従三位にはなったが)らしい南家乙麻呂の子是公が大臣。
北家では、真楯(大納言)の子内麻呂、楓麻呂(参議)の子園人が大臣。
式家も参議どまりの百川(もっとも後10年も生きていれば大臣か?)の子緒嗣が大臣。
第5世代までは嫡流が存在しない?
緒嗣は第6世代の冬嗣と同世代だったりする。
北家で最終的に嫡流になった真楯流、真楯は牟漏女王(五世王)の子。
南家で比較的長持ちした是公流、是公の妻が山背女王(四世王)。
式家で最後まで頑張った蔵下麻呂流、蔵下麻呂の妻が乙訓女王。
皇統主流とは関係ないけど初期に皇室と縁組をした稀な例がなぜか長持ちしている。
真楯の同母兄弟の永手・御楯の子孫は振るわないから偶然だろうけど。
三世王と結婚した南家(恵美家)の久須麻呂なんかあの体たらくだしね。
169 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 20:33:55
中臣氏だって堂上家だしてるんだな
近衛前久は現職の関白でありながら在京せずに諸国に漫遊してますが、
朝廷を仕切ったのは誰ですか? そのひとの官職はなんですか?
171 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:53:30
>>169 堂上の藤波家(家格は半家。明治に子爵)は、大中臣氏だよ。
古くは中臣氏だけど。
172 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 22:57:37
173 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 03:04:14
174 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:23:43
>>160 鎌足(字が仲郎、次男か)→不比等(次男)→房前(次男)→真楯(三男)
→内麻呂(三男)→冬嗣(次男もしくは三男)→良房(次男)
→基経(養子、冬嗣長男長良の三男)→忠平(四男)→師輔(次男)
→兼家(三男)→道長(四男)
鎌足から道長までは長男がひとりも間を繋いでいないんだよね。
偶然かもしれないけど、前から不思議に思ってた。
175 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:59:23
>>174 この時代、嫡男が長男というのが逆に少なかったのでは?
でもたしかに一人もいないのは偶然にしては不思議だ
母親の身分が低いと家督を継げなかったり、病気で早死にとかも多かったからじゃないか
後ろ盾の力関係とか
当時は財産は基本的に女系継承だから、母親が誰かは大きいと
思う。母親に財力ある方が当然力もあることになるからね。
もちろん
>>176の言うように病気は大きな要素だよね。
定恵、武智麻呂、鳥養、真永、真夏、長良、国経、時平、実頼、伊尹、道隆
こうやって並べてみると何となく「いい人」キャラが多いような。
>>174 ちょっと待て
>不比等→房前→眞楯
この辺の流れは結果から見たらそういう風に見えるだけで
不比等の跡は武智麻呂が継いだと考えられるし(房前が武智麻呂の官位を越したことはついに無し)
房前の後継者は永手と考えられる(途中で眞楯は永手に官位を抜かされ、その後死ぬまで抜き返すこと無し)
摂関家は頼通以降、長男が継ぐことが確定してから、政治力をどんどん失っていくのであった
皮肉にも。
>>180 160にレスした形だから誤解されやすかったな、スマソ。
174の連中が常に嫡流だったかとか在世時主力だったかとかを言いたいんじゃなくて、
単純に鎌足から道長までの繋がりに長男がゼロってことを言いたかった。
母の身分や母方の財力・病気による夭折等もちろんあるけど
12代もいたら2〜3人くらいは長男が混じっていてもいいのになあ、と。
ただそんだけw
永手はまあ興味深い人物ではある。
182 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 09:55:23
一条教房は土佐に下ったのに、どうして一条家は摂家として存続できた
のですか?
183 :
日本@名無史さん:2006/04/02(日) 12:15:46
>>166 亀レスだが、皇室・藤原氏にはそんなの多いね。
個人的に理解不能というか意味不明なのが、摂関期の一条帝をとりまく
血縁関係。一条帝の女御の一人に藤原尊子という女性がいる。
彼女の父は道兼(道隆の弟、道長の兄)、生母は師輔の娘・繁子、
とある本には書いてある。が、これホントなのかな?
もしホントなら、道兼は自分の祖父が儲けた子、つまり叔母に子を産ませた
ことになるが。しかも関係者全員に師輔の血が入っており、尋常ではない。
師輔ー兼家ー詮子ー一条帝
師輔ー繁子
師輔ー兼家ー道兼ー尊子
単なる近親相姦という次元じゃなくて、何故そこまでしなきゃならんのか
意味不明。こういう面だけ見ると藤原氏って凄く淫蕩というか退廃的という
か。外国でこんな例あるかな?
>>182 弟冬良が摂関家の後を継いだので。
ちなみに冬良の後は教房の孫が継いで、その後
一時後陽成天皇の系統が一条を継ぎますな。
しかし、さらにその後鷹司から養子を迎えた
ので、幕末の五摂家のうち藤原の男系は一条家
だけだったりしますw
>>184 ごめんなさい。
幕末の九条と二条も藤原男系でしたw
>>183 それだけ自分に近い者と結婚させなければ
身内、兄弟にでも権力が奪われかねなかったんだから仕方ない。
と割り切れない?
187 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 08:44:58
近親婚は藤原氏に限ったことじゃないわけで。当時の生活では異母兄弟は別々に育つの
で、兄弟という感覚はないらしい。なお父母とも同じでも別々に育つと、近親相姦への心
理的ブレーキが弱くなるらしい。
桓武の妃の一人酒人内親王は桓武の異母妹で、二人の間の娘朝原内親王は、異母兄平城
天皇と結婚。二人の間に子はできなかったが、皇子誕生の場合即位の可能性もあった。
ちなみに酒人内親王の母は井上内親王(聖武天皇皇女)で、母子三代内親王というのは珍
しいのでは?エジプト同様に妃が王権の血統的正当性を保証している感がある。
天武天皇は持統天皇のはじめとする姪(天智の娘)多数と婚姻。天武と持統の長子が草壁
皇子、その妃が持統の異母妹、つまり文武天皇は相当な近親婚の産物。
なお草壁の異母兄高市親王の妻も持統の異母妹で、その間の長子が長屋王、長屋王の正
妻吉備内親王は文武の同母姉妹なので、この間に生まれた膳夫王も相当な近親婚の産物。
万葉集で有名な大伴坂上郎女(大伴家持の叔母)は異母兄宿奈麻呂と結婚。娘達は従兄弟
に当たる家持や駿河麻呂と婚姻。この辺は財産保全の為?
道長に至る先祖達は房前以後全員が大将経験者。
内麻呂以後は当然な気もするが、短期間とは言え真楯も大将。
房前、中衛大将 真楯、授刀大将 内麻呂、近衛大将→左大将(左近衛大将)
冬嗣、左大将 良房、右大将→左大将 基経、左大将
忠平、右大将→左大将 師輔、右大将 兼家、右大将 道長、左大将
189 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 14:23:17
熱田神宮の宮司、千秋家が
尾張国造から藤原南家に変わった経緯知ってる人います?
191 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:43:20
>>190 尾張氏最後の宮司が夢のお告げに従って外孫の藤原季範に後を譲った。
192 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:50:05
193 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:36:26
>>174 知っているとは思うのだが、知らない読者もいると思うので。
確かに『一苦しき二』と言われたが、言葉通り、一の上は実頼で氏長者。
後に師輔の子息達が権勢を奮うに及び、自ら『楊名の関白』と自嘲した。
実頼没後は師輔の長男伊尹が氏長者。
194 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 02:25:15
ちょっと質問なんですが
五摂家の中でも上下関係とかあるんですか?
なんかイメージ的に近衛家がエラそうなんですが
195 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 18:25:14
藤原隆家という人物がでてくる歴史小説ありませんでしょうか
検索してみたんですが、見つからなかったもんで
道長の甥の隆家(伊周の弟)のことですよね。
主役でなくてもよければ、
永井路子著「この世をば 上下」新潮文庫にでています。
主役はあくまで道長ですが、割と重要な脇役としてちょこちょこ出てきます。
>>194 少なくとも幕末時期の公家社会では近衛嫡流・九条は庶流とはっきり意識されたいたよ
うだ。ただ家格の上下というほどのものではないようだ。
逆に清家や大臣家といった家格の内部には、はっきりと家格の差(例:閑院流が上位と
か)があったらしい。
新年の天皇へのご機嫌伺いの時に近衛家の当主と嫡子が特別扱いされたのは事実。
ただいつ頃からの慣習なのか不明で、せいぜい享保(吉宗時代)のころからかも?
鎌足は兄弟順はともかく嫡男ではあったようだ。多少疑念はあるが。
不比等は次男だが、長男は出家しており嫡男と考えて問題ないだろう。
房前は明らかに嫡男ではなく、嫡男は同母兄武智麻呂で問題ないだろう。もっとも実権
がどちらにあったかはやや微妙だが。
房前の嫡男が長男鳥養か、真楯の同母兄永手かは微妙だが、真楯が嫡男でないのは当然。そして早死にしたらしい鳥養の死後は永手が惣領で問題ないだろう。
ただ、永手にはついては従五位下での長期間滞留が気になり、もしかしてかなり長期間
病気だったのではないだろうか?(それも回復の見込みが薄いと思われるような)
その間真楯が事実上の惣領扱いを受けていた可能性はあると思う。そして永手は回復後
に一挙に従四位下に昇進したのでは?
この時期での兄弟の正規議政官同時在任は珍しい(藤原氏の場合兄弟で参議は既に常識)
のに、永手が中納言であるときに真楯が中納言になれたのはそう言う経緯もあるのかもし
れない?無論豊成、仲麻呂と大納言以上を占めている南家とのバランスもあるだろうが。
また永手は官位昇進が特異、長期滞留の後、特別昇進と言うのが2回もある。
なお、永手の子孫は早死にしたり事件に巻き込まれたりしてさっぱり振るわない。曾孫
あたりは五位止まりとかの情け無い有様。(この時期そんな藤原氏は多いけど)
なぜか鳥養の子孫の方が出世している。難しい時期を若年で切り抜けたせいかも?
内麻呂は三男でもあり真楯の嫡子ではないだろう。どのみち出仕の時点では父は故人で
あり、蔭位の恩恵(それも贈正一位の祖父の蔭の方が正三位の父の蔭より有効)以外は自力
で昇進したようだ。式家や南家と異なり天皇との外戚関係もなく、唯一有利なのは妻の一
人が桓武天皇の愛人の一人だったことくらいか?正確には嵯峨の後宮に娘緒夏(日本史上
最後の夫人)が入っているが出世してからだし、むしろ冬嗣にとっては多少有利か?
多分官僚として有能だったのだろう。まあ有力他家が自滅(政争・早死等)したせいもあ
るのだろうが。
冬嗣は次男であり、同母兄真夏が内麻呂の嫡男だったのは間違いない。真夏がついた平
城天皇が自滅しなければ、冬嗣は一生真夏の後塵を拝した可能性もある。
ちなみに真夏の子孫が日野流諸家。
良房も大して出世しないうちに冬嗣が死んでおり自力で昇進した模様。嫡男はやはり兄
長良だったのだろう。どうも才能に大差があったようだが。
長良は同母弟良房にあっさり逆転され、更にあれだけ大差を付けられたということはよ
ほど無能だったのか?良房の突然のスピード出世は異常だが。
基経は長良の三男だが、男子のない叔父良房の養子で有り、間違いなく嫡子。基経は最
初からエリートコース。
忠平は同母兄、時平・仲平が居たわけで当然嫡子ではないが、長兄時平やその子達の早
死で権力者になれただけ。ただなぜか仲平よりは出世が早い。どういう訳か次男と三男の
逆転はよくあるようだ。
師輔の場合、嫡男はあくまで兄実頼だが、時代の天皇の外祖父になれたことで実力は兄
を上回った感がある。ただし外孫の即位前に死亡、兄が長命だったこともあり、結局最後
までトップにはなれなかった。
兼家の場合も、嫡男はあくまで長兄伊尹。長兄の早死後に次兄兼通に逆転を許したが、
これまた将来の天皇の外祖父になり、兄より長生きしたことでトップに。まあ自分の外孫
を皇位に付けるために時の天皇を騙すという荒技を使っているが。
道長は同母兄弟の中でも三番目で当然嫡子ではない、兄の早死と甥の自滅で権力者に。
同時期にライバルになりそうな人は全滅状態、その意味では希代の幸運児。
真楯は経歴的にかなり興味深い人物である。
橘奈良麻呂の変(757年)以前では、藤原氏で唯一五衛府の督(741年右衛士督就任、左衛
士督とも)となっており、また同様の時期に藤原氏で唯一弁官経験者(左少弁に就任、時期
は743年か?。752年右大弁就任)でもある。
更に八世紀の参議到達年齢が最年少(748年就任らしく、そうだとすれば34歳で従兄弟
の南家嫡男豊成と並び最年少タイ記録、もしかすると仲麻呂(豊成の同母弟)の子達の方が
早いかもしれないが年齢不詳)の部類でもある。30歳での四位到達というのも、皇族を除
けば八世紀前半としては記録的スピード出世のはず。
豊成の参議就任は疫病で父や叔父(つまり藤原氏の参議以上全員)が短期間に全滅してし
まい、藤原氏を代表する形での特別昇進であり、通常の昇進とは言い難い。
それを考えると真楯の昇進は考えられないほど早いことになる。まあ真楯の場合も北家
代表としての意味もあったかもしれない。かなり年長だったらしい長兄鳥養は早死にした
ようだし、同母で一つ上の永手はこの時期は従五位下で長期停滞中(病気?)で、実質的に
真楯が北家の総帥だったのだろう。
つまり政治家としては能力は不明ながら、どうやら官僚としては同時期の藤原氏の中で
傑出して有能な人物だったことは疑いないようだ。
>>199 良房は夫人が嵯峨天皇の娘だわね
臣籍降下して皇女じゃないという形を取ってはいるけれど
8世紀前半生まれの藤原氏(第4世代全員と第5世代の一部、第6世代のごく一部も
か?)は、ほぼ全員が三位以上の祖父を持っており、必然的に正七位上以上(最高で正六
位上)の蔭位を与えられる権利を持っている。
基本的に五位到達までは勤務評定どおりに機械的に昇進できたようで、またこの時期の
藤原氏等上級貴族はほぼ例外なく勤務評定は良好とされ、3階昇進が標準だった。
つまり悪くとも2度勤務評定を受ければ従五位下(正七位上より5階上)に到達するこ
とになる。
従ってほぼ確実に30台で従五位下までは到達可能(特に事情があるものを除く)で、
年齢がわかる場合の実例もほとんどそうなっている。
一番出世の遅いであろうケース。
21歳で内舎人となり、25歳で蔭位正七位上(三位の庶孫)を叙位、2度の勤務評定
後(8年後)に従五位下(33歳)、病気や喪中で2、3年遅れても30台の内には従五
位下到達。
逆に早いであろうケース(特綬を除く)
21歳で蔭位正六位上(一位の嫡孫又は庶子)を叙位、最初の勤務評定(4年後)で従
五位下(25歳)到達。
しかしこれ以後の昇進は時の権力者との関係次第であり、突然急速に昇進したり、長期
停滞したりとモデルケースが難しい。
式家五男の田麻呂は40歳で従五位下だが、兄広嗣の謀反連座で流罪、さらに許された
後に自ら隠遁と言うブランクがあるからだろう。
北家四男とされる清河(遣唐使)は公卿補任の享年から逆算すると40代前半での従五
位下到達ということになるが、これでは次男永手や三男真楯よりはるかに年長に成ってし
まい、実際は20歳くらい若かった可能性がある。
京家2代目(第4世代)の浜成の場合、義兄豊成(姉の夫で従兄弟=南家当主=藤原氏
嫡流)が要職にあるうちは順調に昇進。豊成左遷後は停滞、豊成復帰で一挙に昇進、豊成
死後はまた停滞、弘仁即位でまた昇進、桓武即位で左遷。と非常にわかりやすい官僚生活
を送っている。
藤原氏のマイナー人物について検討してみよう(その1)=藤原朝臣鳥養
房前長子であるらしい。若年で死亡したらしい。
729年、正六位上から従五位下に昇進。
父房前は681年生まれ。
房前15歳の時の子とすると695年生まれとなり、34歳で従五位下ということになる。
(従兄弟や兄弟に比べて昇進が遅すぎるようだし、あり得ないとまでは言わないが父が若すぎるだろう)
房前20歳の時の子とすると700年生まれとなり、29歳で従五位下ということになる。
房前25歳の時の子とすると705年生まれとなり、24歳で従五位下ということになる。
房前30歳の時の子とすると710年生まれとなり、19歳で従五位下ということになる。
(不比等の嫡孫豊成に比べても昇進が異常に早すぎてちょっとあり得ない)
ちなみに、従兄弟豊成(武智麻呂嫡子で不比等の嫡孫)は704年生まれで、724年(21歳で)従五位下。
従兄弟仲麻呂(武智麻呂次男)は、706年生まれで734年(29歳)で従五位下。
弟永手(房前次男)は、714年生まれで、737年(24歳)で従五位下。
弟真楯(房前三男)は、715年生まれで、740年(26歳で)で従五位下。
やはり729年で従五位下の鳥養の生年は、700〜705頃が妥当と思われる。
没年は次男とされる小黒麻呂が733年生まれなので、少なくとも732年までは生きていたことになる。
また737年まで生存していた場合、同年の藤原四子死亡後に北家の最年長者として昇進するのが自然だろうが、ま
ったく姿を見せない(続日本紀に昇進の記事等は見えない)のは不審であり、それ以前に死亡の可能性が高い。
また従五位下昇進後の動向が不明であり、元々病気がちだったのかもしれない。
従五位上以上に昇進した形跡が見えないの次の勤務評定より前(733年以前)に死亡の可能性もある。
結論:鳥養は北家初代房前の長男として700〜705年頃に生まれ、729年に20代半ばから30前くらいの年齢で従
五位下に昇進、その後の動向は不明だがおそらく五位のまま730年代中頃(732?〜737?の間くらいか?)に死亡、
遺児として小黒麻呂が残されたと言ったあたりではないだろうか?
ついでに北家七兄弟の兄弟順及び生年
鳥養(おそらく長男)、700〜705年頃か?。従五位下(729、25〜30歳?)
永手(次男とされる)、714年。従五位下(737、24歳)
八束→真楯(三男とされる)、715年。従五位下(740、26歳)
清河(四男とされる)、日本紀略では698年、尊卑分脈707年。715〜720年頃か?。従五位下(740、21〜26歳?)
清河の母は房前の異母妹とされており、すると永手・真楯の母とそう劣るものでもなく、従五位下到達年齢が真
楯よりひどく遅れることは考えがたい。また母の年齢から考えても698年生まれと言うのは信じがたい。
魚名(五男とされる)、721年。従五位下(748、28歳)
千尋→御楯(六男とされる)、公卿補任によると715年。722年頃か?。従五位下(749、28歳?)
同母兄とされる永手と一年違いで、しかもやはり同母兄の真楯と同年生まれと言うのはちょっと不自然。
楓麻呂(七男とされる)、723年(724年説有り)。従五位下(758年、35か36歳)
兄弟・従兄弟に比べ五位昇進が遅いのは母の身分のせいか?
藤原氏のマイナー人物について検討してみよう(その2)=藤原朝臣清成
宇合の子(三男または四男?)で、種継(737生まれ)の父。
無位のまま終わっており、かなり若年(20歳程度)で死亡した模様。
おそらく720年頃に生まれ740年頃までに死亡。737年の疫病で死亡か?
ついでに式家の兄弟順及び生年
広嗣(長男)、同母弟良継の年齢から714年頃か?。従五位下(737、24歳?)
宿奈麻呂→良継(次男)、716年。従五位下(746、33歳)。兄の謀叛に連座で五位昇進が遅れたようだ。
清成(三男または四男)、720年前後?。無位
田麻呂(五男)、722年。従五位下(761、40歳)。兄の謀叛に連座の上自主的に隠遁した為、五位昇進がとくに遅い。
綱手(六男または七男。六男か?)。無位のまま740年処刑、当時18歳程度か?すると生年は723前後?
雄田麻呂→百川(八男)、732年。従五位下(759。28歳)
蔵下麻呂(九男)、734年(763。30歳)
残り二名は不明、若年で死亡した模様。
おまけ南家四兄弟の兄弟順及び生年
豊成(長男)、704年(724年、21歳)
仲麻呂(次男)、706年。従五位下(734、29歳)
巨勢麻呂(三男?)。乙麻呂の兄らしいが生母の身分に大差があった為か、従五位下は740年と遅い。
707か708年頃の生まれか?すると従五位下は33歳か34歳。
乙麻呂(四男?)。長男是公が727年生まれであることを考えると、710年以前の生まれか?
従五位下(737年、28〜30歳程度?)
206 :
日本@名無史さん:2006/04/29(土) 21:51:22
鎌足には不比等と定恵しか男子はいなかったのか?
すべての藤原氏は不比等の子孫で桶?
>>206 『日本書紀』『続日本紀』に出てくる定恵、不比等に関する記述
『尊卑分脈』などの系図
を正しいとすれば
鎌足の息子はこの2名のみ。
定恵は僧侶となり妻帯しなかったので
藤原氏のすべての先祖は不比等に集約される。
鎌足の子とされるのは不比等と定恵だけで間違いないが、
不比等の子孫以外の藤原氏も、少なくとも一時的には存在する。
まず鎌足の従兄弟くらいまでは藤原姓を名乗ったことがある。後に中臣に戻ったが。
また藤原仲麻呂(不比等)の孫の養子になって藤原朝臣を賜姓された、石津王なる人物がいる。
また、橘奈良麻呂の謀反を密告した山背王(長屋王の子)は、恩典として藤原朝臣を賜姓された。
ただしこの人物は不比等の外孫ですが。
その後子孫(孫くらい?)は、平安時代初期に藤原から別姓に改姓している。
ただし全ての子孫が改姓したのか不明?藤原氏のままだった子孫もいるかも?
五摂家分裂の経緯について書かれた本などご存知でしたら教えてください。
鎌倉幕府の工作だとは聞いたことがありますが、よく知らないもので。
九条家の親子喧嘩がきっかけでしょう。
で九条流が三つに分かれちゃったから、対抗上近衛も二家に分かれた。
南家最後の大臣は三守、式家最後の大臣は緒嗣ってことでいいのですか?
212 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 19:52:24
摂政・関白という位は、親が摂政・関白に就いたことがないと、候補になれない。
(一代抜けると先祖が有資格者でもだめ。
だから一旦親がコケると子孫に大迷惑が掛かる。豊臣秀吉は例外中の例外。)
最初 近衛だけが摂関家だった。そして平清盛と近かった。
それを嫌った源頼朝が近衛の弟の九条を摂政・関白につけた。
こうして摂関家が2つになった。
214 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:45:09
>>213 そのへんを描いた小説とかあったら面白そうだけど知らない?
>親が摂政・関白に就いたことがないと、候補になれない。
それっていつごろの話ですか。
少なくとも伊尹・兼通・兼家兄弟には当てはまりませんよね。
摂関が世襲のものとされたのは、鳥羽の摂政に忠実と公実が候補となった際、
白河院が忠実に裁定したとき。これ以降、外戚関係の有無や政治状況によらず
彼の子孫が摂関を継承していくことになった。これにより摂関家という家格が
確立したが、摂関の地位は治天の把握するところとなり、摂関家の勢力が衰える
一因となった。次代には氏長者まで宣旨で補任されることとなり、摂関家の凋落は
決定的となる。
217 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 22:01:28
閑院流なんか摂関家より勢いがよかったのに、
摂関にはなれなかったのね。
218 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:19:34
道長が関白になったならないで友達と喧嘩してしまったんですけど実際には関白にはなってないですよね。因みに大学受験生ですが。
>>218 ええ関白にはなってませんよ、摂政にはなってますが
御堂関白ってのは俗称ですね
内覧という地位はガッコでは習わないからな
質問(・∀・)ノ藤原内麻呂の父親と種継の父親って誰でつか??
内麻呂のパパは藤原眞楯(八束)
種継のパパは藤原清成
藤原清成なる人物は無位無冠(『尊卑分脈』)で『続日本紀』には全く出てこない謎の人物。
藤原朝臣魚名(生没年721〜783年。北家房前五男)
748年従五位下(28歳)→761年従四位下(41歳)→766年従三位(46歳)→768年参議(48歳)→770年正三位(50歳)
771年大納言(51歳、中納言を経ず)→777年従二位(57歳)→778年内臣(58歳)→同年忠臣→779年内大臣(59歳)
→781年正二位(61歳)→同年左大臣(右大臣を経ず)→782年左大臣解任。783年64歳で死亡。
ライバルとなるべき兄や年長の従兄弟が次々と消えていったため、結果的に出世した感が強い。
棚ぼたの幸運は長続きしないのか理由不明のまま解任される。
仲麻呂政権末期の時点では、藤原氏内序列九位くらいか。当時の権力者仲麻呂とその弟巨勢麻呂(二人とも従兄弟
でかなり年長)や異母兄三人(五歳以上年長らしい)が上にいるのはともかく、異母弟御楯に超えられたのは不愉快だ
っただろう。おそらくは10年程度は年少だったであろう仲麻呂の息子三人に越されたのはもっと不快かも。
長兄鳥養(北家房前長男。700〜705頃の生まれ?で、かなり年長だったことは間違いない)
729年に従五位下になった後の動向が不明で、730年代半ばから後半に死亡したようだ。
従兄弟広嗣(式家宇合長男。714年頃の生まれで7歳程度年長か?)
737年従五位下となるも、740年謀叛を起し敗死。
従兄弟綱手(式家宇合三男または四男。723年頃の生まれでやや年少か?)
兄広嗣の謀叛に従ったらしく、無位のまま740年処刑。
従兄弟清成(式家宇合六男または七男。720年頃の生まれで同年かやや年長)
740年以前に死亡しているようだ。なお他の二人の兄弟も時期不明ながら早死にしているようだ。
このあたりまでは魚名が官人として活動を始める以前かせいぜいその直後に死亡しておりライバルとは言い難い。
直ぐ上の兄清河(北家房前四男。715かその1、2年後の生まれか?)
740年従五位下→746年従四位下→749年参議と順調に昇進したものの、752年遣唐使となり以後帰国できず。
ちなみに正三位は764年(正四位下から特進)で、770年に死亡したらしい。
従兄弟乙麻呂(南家武智麻呂四男。710年か1、2年前の生まれで、10歳以上年長らしい)
737年従五位下→750年正五位上から一挙に従三位。おそらく参議にならないまま760年死亡。
直ぐ下の弟御楯(元千尋。北家房前六男。722±1年程度の生まれで1歳くらい年少か?)
749年従五位下→758年従四位下→759年参議→761年従三位。仲麻呂の婿になったせいか兄魚名を超えて昇進。
764年仲麻呂失脚の直前に死亡。
従兄弟仲麻呂=藤原恵美朝臣押勝(南家武智麻呂次男。706年生まれで15歳年長)
734年従五位下(29歳)→741年従四位下(36歳)→743年参議(38歳)→746年従三位(41歳)→748年正三位(43歳)
→749年大納言(44歳、中納言を経ず)→同年紫微令→750年従二位(45歳)→757年紫微内相(大臣同格、52歳)→
758年太保(右大臣、53歳)→760年従一位太師(太政大臣、55歳太傅=左大臣を経ず)→762年正一位(57歳)と、
順調に昇進し位人臣を極める。しかし764年謀叛を起し敗死、59歳。
従兄弟巨勢麻呂(南家武智麻呂三男。707または708年頃生まれで、十数歳年長)
740年従五位下→754年従四位下→760年従三位→参議(761年以前)と、同時期に藤原一族としてはやや出世が遅
いが、特に不遇と言うほどでもない。764年兄仲麻呂の謀叛に連座し処刑。
従兄弟豊成(南家武智麻呂長男。704年生まれで17歳年長)
724年従五位下(21歳)→737年従四位下(34歳)→同年参議→743年従三位中納言(40歳)→748年従二位大納言
(45歳)→749年右大臣(46歳)→757年正二位(54歳)と順調に昇進するものの、弟仲麻呂との確執に破れ757年太
宰員外帥に左遷。その後764年の仲麻呂の失脚後に右大臣復帰、同年従一位となるも、翌765年62歳で死亡。
三兄真楯(元八束。北家房前三男。715年生まれで6歳年長)
740年従五位下(26歳)→744年従四位下(30歳)→748年?参議(34歳)→760年従三位(46歳)→762年中納言
(48歳)→764年正三位(50歳)→766年大納言(52歳)と比較的順調に昇進するも766年52歳で死亡。
魚名がまださほど目立たない中堅官人のころに死亡。ある意味この人達が消えてくれたことが出世の要因。
次兄永手(北家房前次男。714年生まれで7歳年長)
737年従五位下(24歳)→749年従四位下(36歳、従五位下からの一挙昇進)→754年従三位(41歳)→758年中納言
(45歳、参議を経ず)→764年正三位(51歳)→764年?大納言→765年従二位(52歳)→766年右大臣(53歳)→同年
正二位→同年左大臣→769年従一位(56歳)→770年正一位(57歳、生前正一位の最後の例)。771年58歳で死亡。
出だしは順調だったが病気でもしたのか12年間の停滞有り、その後の昇進は順調で位人臣を極める。
従兄弟蔵下麻呂(式家宇合九男。734年生まれで13歳年少)
763年従五位下(30歳)→764年従三位(従五位下から特進、31歳)→774年参議(41歳)
兄広嗣の謀叛の影響もあり昇進は遅かったが、仲麻呂の乱の活躍で特進。若すぎるためかその後はあまり昇進しな
かったが、10年後に参議。しかし翌775年42歳の若さで死亡。
末弟楓麻呂(北家房前七男。723か724年生まれで2,3歳年少)
758年従五位下→764年従四位下(従五位下から一挙昇進)→772年参議→774年従三位。776年死亡。
母の身分も低く末子のためか出世はあまり早くない、仲麻呂の乱の後、兄達の死亡もあってようやく日が当たるよ
うになったようだが、常に魚名の後塵を拝しており、もとより兄魚名のライバルではなかったようだ。
従兄弟良継(元宿奈麻呂。式家宇合次男。716年生まれで5歳年長)
746年従五位下(31歳)→764年従四位下(従五位上から一挙昇進)→同年中に正四位上に特進→766年従三位(51歳)
→770年正三位(55歳)→同年参議→771年?中納言(56歳)→771年内臣→774年従二位(59歳)→777年内大臣
(62歳)。777年62歳で死亡。
兄広嗣の謀叛で流罪のため同年輩の永手・真楯・清河兄弟より出世は相当に遅い。更に仲麻呂政権下ではまったく
うだつが上がらなかった。仲麻呂打倒後は官位こそ上がっ たものの参議にさへ任用されず、どうも称徳天皇や道
鏡とは良くなかったようだ。光仁天皇擁立の功臣として光仁朝では実権を握るもののトップにはなれなかった。
従兄弟百川(元雄田麻呂。732年生まれで11歳年少)
759年従五位下(28歳)→768年従四位下(37歳)→771年参議(40歳)→774年従三位(43歳)→779年正三位(48歳)
権力者が誰であれ上手く立ち回り、まずまず順調に昇進するも、779年48歳の若さで死亡。
従兄弟浜成(元浜足。京家麻呂の子。724年生まれで3歳年少)
751年従五位下(28歳)→764年従四位下(41歳)→772年参議(49歳)→776年従三位(53歳)→782年参議解任
(59歳)。790年67歳で死亡。
四家中京家は最初から勢力が弱かったようで、出世は思うに任せなかったようだ。
義兄(姉の夫)豊成が高位にあるときときは昇進失脚すると停滞、光仁天皇にはまあまあ重用されたが、桓武天皇に
は不要だと思われたようで失脚。以後京家はまったくパッとしない。子供に非参議1名・孫に大納言1名のみ。
なお他に系図上では兄弟二人が居たようことになっているが、他の資料で確認できず、実際に居たとしても若年で
死亡したのだろう。
こういう感じでライバル達は消えていき、後は式家の田麻呂だけ。
従兄弟田麻呂(式家宇合五男。722年生まれなので1歳年少)
従五位下(40歳)→従四位下→766年参議(45歳)→771年従三位(50歳)→780年中納言(59歳)→同年正三位→
781年大納言(60歳)→782年右大臣(61歳)→783年?従二位(62歳)。783年63歳で死亡。
兄広嗣の謀叛に連座して流罪になった上に、許された後も自主的に隠遁していたため五位到達が同世代の藤原氏の
中で飛び抜けて遅い。しかしその後仲麻呂政権下でも兄良継とは異なりそれなりには昇進していた。
その為か仲麻呂打倒後の位階昇進は兄弟で一番遅いが、なぜか兄弟中最初に参議に登用された。
桓武天皇即位の直前当たりから急速に昇進している。桓武の信任が厚かったのか、あるいは単に藤原旧世代の生き
残りとして厚く遇されたのか?
ともかく田麻呂の死で藤原第四世代は全て政界から消え、完全に第五世代の時代となった。
第五世代、つまり魚名の甥や従兄弟の子の内の年長者(730年代までの生まれと思われる人物)。
武良自(系図で豊成長男とされる良因らしい。同母弟が727年生まれなので、725年頃の生まれで4歳程度年少か?)
754年従五位下、その後いくつかの官に就き、759年に丹後守になっているのでその頃までは生きていたようだ。
764年の仲麻呂打倒後当時まで生きていれば位階昇進が有ると思われるので、760年代始めに従五位下のまま死亡
したのだろう。おそらく第五世代最年長グループの一人。
継縄(豊成次男。727年生まれで6歳年少)
763年従五位下(37歳)→765年従四位下(39歳)→766年参議(40歳)→771年従三位(45歳)→780年中納言(54歳)
→782年正三位(56歳)→783年大納言(57歳)→786年従二位(60歳)→790年右大臣(64歳)→794年正二位
(68歳)、796年70歳で死亡。
最初はパッとしなかったが、仲麻呂失脚後は順調に昇進。ただ桓武天皇にはあまり信任されなかったようで、それ
まで先行していた同年の従兄弟是公に逆転された。是公死後ようやく大臣。
乙縄(豊成三男、728年(または729年)生まれか?、7、8歳年少)
764年従五位下→769年従四位下→779年参議、781年没
橘奈良麻呂の乱に連座して左遷されたため、仲麻呂政権中はまったく不遇で五位昇進も遅れた。
その後の昇進も、不遇とは言わないが今一パッとしない感がある。
縄麻呂(豊成四男。729年生まれで8歳年少)
749年従五位下(21歳)→764年従四位下(36歳)→同年参議→768年従三位(40歳)→771年中納言(43歳)
四男ではあるが母親の身分が高く嫡子だったようだ。その為スタートは最高に恵まれており、その後もまずまず順
調に昇進したが、晩年は昇進が止まり、779年51歳で死亡。
真従(仲麻呂の子、長男か?720年代後半の生まれだろう、数歳の年少)
749年従五位下だがこれ以後見えず、その後まもなく死亡したようだ。武良自と同年代の第五世代最年長者組か?
真先(仲麻呂の子、次男か?730年代前半の生まれか?)
757年従五位下→759年従四位下→762年参議、764年謀叛誅殺。
久須麻呂(仲麻呂の子、三男か?730年代前半の生まれか?)
758年従五位下→759年従四位下→762年参議、764年謀叛誅殺。
朝狩(仲麻呂の子、四男か?730年代前半の生まれか?)
757年従五位下→760年従四位下→762年参議、764年謀叛誅殺。
小湯麻呂(仲麻呂の子、五男か?730年代半ばの生れか?)
759年従五位下→764年従五位上
刷雄(仲麻呂の子、六男か?730年代半ばの生れか?)
752年従五位下(直叙)→764年流罪→772年復従五位下〜以後791年まで諸官を歴任。
薩雄(仲麻呂の子、七男か?730年代後半の生れか?)
759年従五位下
是公(元黒麻呂。乙麻呂の子。長男か?、727年生まれで6歳年少)
761年従五位下(35歳)→766年従四位下(40歳)→774年参議(48歳)→779年従三位(53歳)→781年正三位(55歳)
→同年中納言→782年大納言(56歳)→783年右大臣(57歳)→784年従二位(58歳)、789年63歳で死亡。
最初はパッとしなかったが、仲麻呂失脚後は順調に昇進。五位昇進は同年の従兄弟継縄に先行したが、四位昇進の
時点でで逆転された。しかし桓武天皇に親任されたようで再逆転を果している。
小黒麻呂(鳥養の子で次男か?。733年生まれらしく12歳年少か?)
764年従五位下(32歳)→773年従四位下(41歳)→779年参議(47歳)→781年正三位
(49歳、征討の功による正四位下からの特進)→784年中納言(52歳)→790年大納言(58歳)、794年62歳で死亡。
父鳥養を早くなくしたためか五位昇進は早くもなく遅くもなくと言った感じだが、以後は順調に昇進。
種継(清成の子。737年生まれで16歳年少)
766年従五位下(30歳)→781年従四位下(45歳)→782年参議(46歳)→783年従三位(47歳)→784年中納言(48歳)
→785年正三位(49歳)
叔父達の死で式家総帥となりその前後からの昇進は目覚ましいが、785年49歳で暗殺された。
仲麻呂の子の内三人(真先・久須麻呂・朝狩、10歳程度は年少だろう)には明らかに先行されていたし、数年年少の
縄麻呂、是公、継縄あたりにはかなり追い上げられていた感がある。
こうしてみると、魚名の前半生のライバルはやや年少らしい異母弟御楯、後半生では従兄弟良継と田麻呂か?
仲麻呂政権末期(764年初頭)における藤原氏官人(五位以上)の序列(推定)
一位、仲麻呂(正一位大師)
二位、永手(従三位中納言:仲麻呂との続柄=従兄弟)&三位、真楯(従三位中納言:従兄弟)
この二人は仲麻呂にとって煙たい存在では有っただろうが、排除の口実もなく妻の兄弟でもあるので少なくとも
表面上は提携していたのだろう。娘婿御楯の同母兄でもあるし。また一応兄であり先任である永手が上位だろう。
四・五位、巨勢麻呂(従三位参議:弟)&御楯(従三位参議:従兄弟で娘婿)
この二人は完全な仲麻呂党だろう。どちらが上位かは微妙だが、一応は年長である巨勢麻呂か?
六位、真先(正四位上参議:息子、次男か?、長男は早逝したらしい)
後継者候補ナンバーワンと推定される。
七・八位、朝狩(従四位下参議:息子、四男か?)&久須麻呂(従四位下参議:息子、三男か?)
公卿補任では久須麻呂の方が年長とされているようだが、なぜか概ね朝狩の方が出世が先行している。ただし参
議就任は同時なので、この時点ではほぼ同格か?
参議以上は以上八名(南家は仲麻呂親子の四名を中心に五名・北家は在唐中清河を除き三名)。
魚名(従四位下(761年):従兄弟)
一応位階的にはそう不遇ではないが、既に北家には清河を含めて参議が四名居るため割を食っているらしい。
縄麻呂(正五位下(この年正月昇進):甥)、豊成家の当主としての昇進か?
田麻呂(正五位下(この年正月昇進):従兄弟)、式家の総帥としての昇進か?
小湯麻呂(従五位上(この年正月昇進):息子、五男か?)
浜成(従五位上(この年正月か?):従兄弟)、京家の代表であろう。と言っても事実上浜成だけだが。
刷雄(従五位下(752年):息子、六男か?)、唐留学のため若年で五位に成ったためか以後一切昇進せず。
楓麻呂(従五位下(758年):従兄弟)、北家末子で母の身分が低かったこともあり昇進が遅いようだ。
薩雄(従五位下(759年:息子、七男か?)
雄田麻呂(従五位下(759年:従兄弟))、後百川に改名。
辛加知(従五位下(761年):息子、八男か?)
黒麻呂(従五位下(761年):甥)、後是公に改名、乙麻呂家の当主だろう。
執棹(従五位下(763年):息子、九男か?)
継縄(従五位下(763年):甥)
蔵下麻呂(従五位下(763年):従兄弟)
番外(失脚中他)
豊成(本位は正二位:兄)
清河(正三位参議(正三位昇進はこの年正月)だが在唐中:従兄弟)
宿奈麻呂(本位は従五位上(757年):従兄弟)後良継に改名。
乙縄(本位は正六位上:甥)
この時期、藤原氏第四世代(仲麻呂の兄弟従兄弟)の生存者と、第五世代の一部(南家のみ)が、五位以上。
最も北家や式家の第五世代も40前くらいには五位になれるだろうと思われる。
仲麻呂の子の生年の推定
真従(長男か?)、749年従五位下だがこれ以後見えず、その後まもなく死亡したようだ。
従兄弟縄麻呂と同時期に五位昇進でこの時の年齢は21(縄麻呂と同年)〜25歳くらいと思われる。すると725〜729
年の生れとなり、706年生れの仲麻呂(当時20〜24歳)の長男として自然な生年だろう。
五位昇進が後述の真先の8年前であり、真先より5歳は年長か?すると725、726年くらいかもしれない?
真先(次男か?)、757年従五位下→759年従四位下→762年参議→同年正四位上
五位昇進を21歳とすると参議昇進が26歳となり、先例に比べてあまりに早すぎる。五位昇進が24、25歳とする
と、参議昇進が29、30歳となりこれでも非常に早いがまあ有り得る年齢ではないだろうか?従って734年以前の
生れなのはほぼ間違いないだろう。730〜734年くらいの生れか?
久須麻呂(三男か?)、758年従五位下→759年従四位下→762年参議
真先と同母とされており、昇進状況から弟思われる。真先と同様の推定より、730〜734年頃の生れか?
すると真先が730〜732年頃、久須麻呂が732〜734年頃の生れか?
朝狩(四男か?)、757年従五位下→760年従四位下→762年参議
真先・久須麻呂とほぼ同様の昇進をしており、やはり730〜734年頃の生れか?
小湯麻呂(五男か?)、759年従五位下→764年従五位上
五位昇進を21〜25歳とすると、735〜739年の生れと言うことになるが、735年の方に近いか?
刷雄(六男か?)、752年従五位下(直叙)→764年流罪→772年復従五位下〜以後791年まで諸官を歴任。
五位昇進は非常に早いがこれは留学生と成ったためで兄弟順とは関係ないようだ。
この時の年齢は17〜21歳程度か?すると、732〜736年頃の生れとなる。735、736年程度か?
薩雄(七男か?)、759年従五位下
五位昇進を21〜25歳とすると、735〜739年の生れと言うことになるが、その後の位階昇進がないことから比較
的若年での昇進か?すると739年の方に近いか?
仲麻呂は既に757年兄豊成を失脚させ臣下トップ、翌758年に太保(右大臣)となっており、息子達をかなり無茶な
昇進をさせられるようになっていたと思われる。
辛加知(八男か?)、761年従五位下
五位昇進を21〜25歳とすると、737〜741年の生れと言うことになるが、740年前後といったあたりか?
執棹(九男か?)、763年従五位下
五位昇進を21〜25歳とすると、739〜743年の生れと言うことになるが、740年代に入ってからの生れか?
『これ以前で出世の早い例』
房前(不比等次男、681年生まれ)、705年従五位下(25歳)→715年従四位下(35歳)→717年参議(37歳)
宇合(不比等三男。694年生まれ)
716年従五位下(23歳)→721年正四位上(28歳、正五位上から特進)→731年参議(38歳)
麻呂(不比等四男、695年生まれ)、717年従五位下(23歳)→721年従四位下(27歳)→731年参議(37歳)
豊成(南家武智麻呂長男。704年生まれ)、724年従五位下(21歳)→737年従四位下(34歳)→同年参議(34歳)
永手(北家房前次男。714年生まれ)、737年従五位下(24歳)→749年従四位下(36歳)
真楯(元八束。北家房前三男。715年生まれ)、740年従五位下(26歳)→744年従四位下(30歳)→748年?参議(34歳)
縄麻呂(豊成四男。729年生まれ)、749年従五位下(21歳)→764年従四位下(36歳)→同年参議(36歳)
橘奈良麻呂(諸兄の嫡子)、740年従五位下(20歳?、直叙)→747年従四位下(27歳?)→749年参議(29歳?)
やや疑念のある橘奈良麻呂を除くと、従五位下の最年少は21歳、従四位下は27歳、参議は34歳。
『参考にその後の例』
家依(北家次男永手の長男?。743年生まれ)、765年従五位下(23歳)→769年従四位下(27歳)→777年参議(35歳)
園人(北家七男楓麻呂の長男?。756年生れ)
779年従五位下(24歳、直叙)→799年?従四位下(44歳)→806年権参議(51歳)→同年参議
緒嗣(式家八男百川の嫡子、774年生まれ)、791年従五位下(18歳)→797年従四位下(24歳)→802年参議(29歳)
236 :
日本@名無史さん:2006/06/01(木) 23:01:03
保守
237 :
日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:11:00
安和以降に南家が天皇の外戚になるチャンスを
ものにできたのはなぜ?
そんなチャンスあったの?
239 :
日本@名無史さん:2006/06/14(水) 20:29:44
順徳天皇の生母が藤原南家出身
240 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 19:59:30
内麻呂って子供は多いけど、兄弟とか甥とかの係累の蔭がありませんね。
お父さんの眞楯が余り子づくりに励んでませんからねw
内麻呂の母は阿部帯麻呂の娘なのだが
この帯麻呂っつーのは因幡国司時代に連続殺人を犯して以後消息不明という
怪しげな人物なんだよな。
その先妻と思われる佐味氏も何やってたのかよく分からない謎の一族出身である。
242 :
日本@名無史さん:2006/06/19(月) 22:10:38
不比等が天智の息子って本当?
なら女系問題は余裕で解決だよね
243 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 09:53:56
閑院流を中心に
名前が交互に
公○ー実○ー公○ー実○
と繰り返す家系が多いけど、これはなぜ?
公季か誰か遺言とかあったの?
公季―実成―公成―実季までの四代で大勢は決しているよな。
公季が孫の公成を猫かわいがりしたのは有名。
実成が孫に実の字をつけたのはそれに対抗してのことだったのかも。
245 :
日本@名無史さん:2006/06/20(火) 21:03:01
内麻呂って三男のはずだけど、兄二人はどうしたんだろう?
真楯(男子3人?)に限らず北家の第二世代7兄弟って男子少ないな。
鳥養の子は小黒麻呂(次男?)以外は良くわからないし、
永手の子も目立つのは二人だけ、清河は女子一人だけらしい、
御楯は子供存在自体不明?、楓麻呂もあまり子供いなかったみたい。
子供が多いのは魚名だけ?
247 :
素人さん:2006/06/20(火) 21:36:05
唐 = 藤
>>246 御楯は子供がいたとしても
仲麻呂の乱で全員あぼーんだと思われ
御楯の妻は仲麻呂の娘だし
内麻呂の兄二人って結局どうなったの?
種継と百川の子って、スタートだけは優遇されていて、
大概20プラスマイナス3歳程度で五位になってるけど、
緒嗣以外は結構従五位で塩漬けってケースが多い。
緒嗣と仲成以外はよっぽど無能だったのか?
あと良嗣の男系子孫ってどうなったの?
>>249 大した出世をすることなくシェードアウト
どちらか一人は『続日本紀』に全く記載が出てこなかったと記憶
(つまり従五位下以上に任官されなかった?)
>>250 『尊卑分脈』によると良継には男子で成人に達したものはいなかった模様
真楯の子として系図に出ている真永と永継ってのが内麻呂の兄かな?
永継は「続日本紀」に出てくる長継のことだろうか?
従五位上備前守藤原託美っていうのが良継の子らしいけど、根拠はなんだろう?
お、久々にこのスレ見たら奈良時代の藤原氏についてのレスが
たくさん。マイナーどころまで。すごいな。
>>203 鳥養の母親は春日倉首老とされる。
これは701年3月に還俗させられた弁基と同一人物。
とはいえ、鳥養の昇進具合を見るとその母は老の還俗以降に
生まれた娘ではありえなく、おそらく老の養女なのであろう。
不比等の次男と結びつけたのは、老が不比等に近づこうとしたからか
不比等が老を見込んで懐に入れようとしたのか。
ともあれ、鳥養の生年をは02年〜705年頃に絞ってもいいかも。
あんまり変わらないかw
254 :
253:2006/06/22(木) 22:04:25
スマソ、鳥養の母親は春日倉首老の女とされる、に訂正。
鳥養の生年も702〜705年に訂正。書き損じた。
>>204 真楯と御楯は面白いね。元の名は八束と千尋。
房前の子で改名したのはこのふたりだけ。
『公卿補任』の記載から年を逆算するとふたりは同年生まれになり、
双子説も成り立たないわけではない。ちょっと考えられないけど。
(ただ単に補任は御楯と真楯を混同していると思われる)
君が代じゃないけど、千代に八千代にって和歌がある(平安時代だが)ので
もし万が一双子なら、先に体外へ出た子(弟)を「千」尋、
次に出てきた子(兄)を「八」束と名付けたのかも…考えすぎかw
永手・八束・千尋の同母兄弟はみな手に関する名前だとも聞いたことがある。
手、束(長さの単位、親指を除いた握り拳の長さ)、尋(長さの単位、両手を広げた長さ)。
清河の生年も気になるね。母親も謎すぎる。
楓麻呂の生年723年・724年説は初耳。出典教えてほしいな。
>>248 御楯は仲麻呂の乱の直前に病死してるから、
その子は、もし仲麻呂の乱に加わってないなら
細々と生きてた可能性もなくはない。
ひょっとして乱時には成人してなかったかも。
話はちょっと変わるが、乱で斬殺された巨勢麻呂の子は
たくさん生き延びてる。
ただ、巨勢麻呂は乱の前年に没していたという説もあるのね。
>>250-251 良継の息子には宅美がいます
宝亀4年に右兵衛督に任ぜられ、5年に丹波守、7年に越前守を兼任してます
だがこれ以降の動向は知られてません
木本好信氏によると何らかの理由で不遇だったのでは、という事です
その後、従四位下の時に長岡宮で賊に殺害されたそうです
それで男系は断絶したのでしょう
>>252 根拠は続日本紀ではないかと
ただ、今手元にはないので確認はできませんが
>>254 清河に関しては鹿児島大の先生が論考を2編書かれていたかと
あと角田文衛氏も清河の母親について小論を書かれていた
今のところ「清河と魚名は同母兄弟」というのが通説かと
永手・八束・千尋は同母兄弟で、他の兄弟とは隔絶した?妙な名前なので
ネーミングは母親の牟漏女王の趣味なのかな?
「永手」「八束」「千尋」もひたすら長い物を意味する、という解釈もあるそうで
(「万葉集」の解釈で読んだような記憶)
類推するに子供の長命を願ってつけたと言うところではないでしょうか。
>>256 d楠
「宅美」なんてのがいたのか
大国越前国の国守もしていたのだから途中まではそれなりに優遇されていたとも見えるが
弟の百川の遺児・緒嗣のねこかわいがられぶりからするとえらい違いがありますね
公卿補任によると良継の男子はもう一人いたようだ。
但し日陰の子で、9世紀に入ってから能原宿禰を賜姓され、その後にようやく従七位上。
藤原氏も690〜710年代に生まれた連中はかなり昇進が早い。
ところが720年代以降になると希少価値がなくなったせいか、
中年までの出世が遅くなる傾向がある。
例外は仲麻呂の子や家依(永手嫡子、743生)と緒嗣(774年生)くらい。
この連中が嫡流を形成できれば、その子孫だけ昇進が早くなるのだろが、
実際にはみんな何らかの理由で挫折。
その後嫡流が成立すると嫡流やそれに准ずる連中だけ出世が早くなってきて、
それが周囲にも拡散しということを繰り返し、
ついには12歳の摂政という言語道断な事態に……。
>>257 うん、清河と魚名が同母兄弟ってのは異論はないよ。
ネーミングセンスも水に関するって点で共通するし。
ただ、清河の母が「異母妹」片野朝臣ってのはなんだろね。
房前の異母妹とする説もあるけど、それは何だかなあって気が。
清河享年73ってのは阿倍仲麻呂の享年と混同してるって説もあったっけ?
角田文衛氏は
「葛野女王」
の間違いじゃないか、って言う説ですね
これが正解とは言えないですがw
「藤原清河の母」という小論が「角田文衛著作集」の3巻あたりにはいってたと思うので
興味があれば読んでみて下さい
清河の没年に関しては阿倍仲麻呂のそれと混同しているという話で正解
鹿児島大教授の増村宏氏の論文で詳述されていたかと(これは記憶が曖昧)
>>260 おお、thx。著作集の3巻ね。機会を見つけて読んでみるよ。
なるほど、『続日本紀』723年正月の項に名前があるある葛野女王ね。
父親は判明してるのかな。
年齢を考えるとあり得ない話でもなさそうだけど…。
あと、
>>254で房前の子で改名したのは八束と千尋だけだと書いたけど、
増村氏の論文を見るに魚名も魚麿から改名してた(どの史料だろ?)のね。
この論文、ちょっと分かりづらいけど、結論として清河の生年は715〜722年という
常識的な線で落ち着いてるみたい。
遂竈っていうのは実際にいたんですかね。
どこにも名前が出てこないんですが。
>>262 遂竈(読み方が分からない)は尊卑分脈にのみ
名前があるんだっけ? 位置は御楯と楓麻呂の間。
聖武夫人の名であるかもという説もあるらしい。
女子は基本的に全ての男子の後に書かれているから
どんなものかなという気もするけど…。
男子である場合、やっぱり早死にしたと考えるのがよいかな。
264 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:57:11
そうだな
265 :
日本@名無史さん:2006/07/09(日) 15:08:23
でもないよ
藤原定国があと10年生きていたら。
高藤流が摂関家になったりして。
267 :
日本@名無史さん:2006/07/18(火) 00:41:54
うんうん
269 :
日本@名無史さん:2006/08/16(水) 22:56:59
保守
270 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 02:28:11
五摂家に分裂した詳しい経緯おしえてください。
271 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 14:40:58
急求!!
大化改新についてレポート用紙1枚弱くらいの文量でまとめてください(><)歴史マニアにしかたのめないんです!!
15時ぐらいまでに頼む!!!まじ頼む!!!!
272 :
日本@名無史さん:2006/09/22(金) 15:01:29
もうダメポorz
まとまらないから逝ってくる
大家の回診だな
274 :
日本@名無史さん:2006/10/16(月) 18:27:47
620 名前:名無しさん@七周年 投稿日:2006/10/16(月) 11:00:58 ID:dyWKk8fu0
近衛氏の家系について
『日本書紀』に隠された真実の声
このページに掲げた血なまぐさい事件は日本史上、“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。
現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)は人に語っています。
「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」
つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、い
ろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。
実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、
次のページを用意しました。ぜひ読んでください。
(根拠)
一、『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』
http://barclay.e-city.tv/oldhist/nakatomi.html ニ、 藤原氏の閨閥 Y
>藤原氏の事実上の祖は中臣鎌足である。中臣氏の始祖は天児屋根命といわれている。
>大鏡によれば、鎌足の出身は鹿島とも言われている。奈良にある春日大社は藤原氏の氏神である
>それにもかかわらず、始祖天児屋根命を第三殿を祀り、鹿島神を第一殿、第二殿を祀っている。
>藤原氏がもともと中臣氏ならば、第一殿に天児屋根命を祀ったにちがいない。このことは、
>鎌足が天児屋根命直系の中臣氏出身でなく、傍系もしくは自称中臣一族として養子に入った
>ものと思われる。
>よって、春日大社は鎌足の本当の先祖と中臣氏の始祖を合祀したものと思われる。
http://www.page.sannet.ne.jp/tsuzuki/fujiwara.htm
275 :
日本@名無史さん:2006/10/21(土) 01:45:13
天皇家は男系の血筋を大切にすべきだという議論になるのに
藤原氏においては血筋が尊重されていない
源氏に飲み込まれた五摂家筆頭近衛家より
藤原氏の血筋を守っている九条家こそ嫡流
276 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 00:33:28
近衛、一条は天皇家の子孫だっけ。
鷹司もかな?
277 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 00:46:42
関さんみたいだっぴょん。
278 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 09:59:27
九条こそ嫡流
279 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 15:44:29
>>276 頼通の外祖父は宇多天皇の孫、源雅信。だから頼通の子孫の近衛、九条、鷹司、一条、二条はみんな天皇の子孫。
280 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 22:11:11
281 :
日本@名無史さん:2006/10/31(火) 18:16:44
日本を不幸にした藤原一族の謎
藤原紀香
摂関家、花山院流(師通の弟・家忠の子孫)、大炊御門流(師通の弟・経実の子孫)
中御門流(頼通の弟・頼宗の子孫)、御子左家流(頼通の弟・長家の子孫)、
水無瀬流(道長の兄・道隆の子孫)、閑院流(兼家の弟・公季の子孫)、
勧修寺流(良房の弟・良門の子孫)、日野流(冬嗣の兄・真夏の子孫)
四条流(房前の弟・魚名の子孫)。
明治まで生き延びて華族になったのは、こんなところか。
284 :
283:2006/11/05(日) 07:43:33
魚名は房前の子でした、すみません。なんで、こんな単純ミスを・・・。
四条流は、源平争乱期に隆季(たかすえ)が親平家公卿として活躍してます。平家寄りの
延暦寺に肩入れして興福寺の怒りを買い藤原氏の放氏第一号となり、「以仁王の乱」で
興福寺即時追討を主張して九条兼実から非難されたり、「治承三年クーデター」では
平家の重要基盤である大宰府の帥に任命されてますが、大宰府の長官は権帥か大弐が
通常で、正帥になるのは親王だけなので、これまた兼実からボロクソに言われてます。
それでも「当世の有識」として実務に優れ、権大納言まで昇進するあたりがしたたか。
南北朝期の隆資(たかすけ)は、南朝に仕えて活躍。幕末期の隆謌(たかうた)は
尊攘急進派として「七卿落ち」に参加するなど、公家にしては血の気の多い人間が多いです。
285 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:14:19
信西や順徳天皇をだしたあの家系が抜けている
286 :
日本@名無史さん:2006/11/14(火) 21:19:35
藤氏長者の証で天皇の三種の神器にあたる朱器台盤を現在保有
しているのは誰?
>>284 血の気が多いと言えば隆季の異母弟の成親もいますね。
最期は無残でした。
>>285 高倉は絶家かと。
>>287 南家では藪とかは明治まで残りましたね
式家、京家は消えちゃいましたが
成親の子・公佐は、閑院流・滋野井実国の養子になっていましたが、
阿野全成(頼朝の弟)の娘を妻にして、子孫が阿野家になってますね。
バリバリの南朝派であったにもかかわらず、明治まで生き延びました。
成親の血統はそっちで続いていましたか。
成親のさらに弟の実教は後世に続く山科家の創始者ですが、
こちらは二代目の教成が桓武平氏からの養子だから、
血統としては逆に一代で終わってますね。
分からんもんです。
291 :
携帯から…:2006/12/17(日) 21:31:48
先ほど、田舎の伯父から電話があって、藤原義勝と書かれた家系図みたいな物や鏡が見つかったので調べて欲しいと電話がありました。
他に陸奥守なんとか、尾張守なんとか、那須与一?とか永録とか年代がバラバラの様なキーワードを言われました。
どなたか詳しい方はいませんか?
ちなみに母方の名字は藤原です。宜しくお願いします。
まず現物をみて、キーワードをぐぐって、アウトラインつかんでからレスしろ
話はそれからだ!
293 :
日本@名無史さん:2007/01/17(水) 19:41:13
保守
294 :
日本@名無史さん:2007/02/04(日) 05:09:37
>>291 母方の名字が藤原なのか、だったら百パーセント間違いなく藤原氏じゃないよ、インターネットで藤原氏で検索したら一発で藤原氏じゃない事がすぐわかるよ、調べてみたら
295 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 11:33:34
wiki見てたらさ
「九条家は九条流の嫡流ではない」
「一条家は天皇家から養子をもらっており、そういう例は近衛家と二つしかない」
「よって一条家が嫡流だ」
って書かれてたんだけど・・・
wikiってそんな根拠のない理由で書いてもOKなの?
例えば近衛家が断絶したとき女系の細川家が継いだだろ?
なんで天皇家や宮家から養子をもらわなかったんだ?
上記の理屈だと「近衛家は家格が落ちた。なぜなら細川家から養子が入ったからだ」
って書かれてもおかしくないよね?
ちゃんと取材して書いて欲しいよ。
wikiは根拠なくても自論を好きなように大いに書ける場で
先に書いたもんがちな感じも否めないからw
それにしてもそんな書き方された摂家はいい迷惑だろうね。
>>1 >日本を陰で操るこの一族についておまえ等語りやがれ。
コンビニ歴史作家の関裕二もこのことに変に固執しているね。「今でも藤原家の天下」だと。
スレ主さん的にもそう感じるとこがあんのかい?
コンビニ関はやけに蘇我氏(石川氏)の肩もってたなぁ。
ま、藤なんて俺ぁ別にどーでも良いが。
そこら中の田舎で犬っころが交尾して出てきた子犬がすなわち藤の字さ。
俺の苗字など絶滅寸前だからな・・・・
>>297 wikiも関も藤原コンプレックスでしょう
私は加藤清正も藤原氏だったのだろうと思っています。(ただし家系図は偽)
東海地方では「加藤、近藤、馬の糞」って言われるくらい居ますからね
ま、がんばって子供を作りまくって下さいよw
299 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:02:27
age
一条天皇から後三条天皇までの3世代6代の天皇が全員1/4兼家の血を受け継いでいる
ってのはすごいな。こんな例って他にあるんだろうか?
一条天皇・三条天皇、共に兼家の外孫
後一条天皇、後朱雀天皇、共に父は一条天皇、母は兼家の内孫彰子
後冷泉天皇、父は後朱雀天皇、母は兼家の内孫キ(女+喜)子
後三条天皇、父は後朱雀天皇、母は三条天皇と兼家の内孫ケン子との娘テイ(ネ+貞)子
301 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 20:11:02
仁明天皇の後宮にいた藤原小童子という女性の父親
藤原道長って何者?
時代が違うから御堂殿とは別人だってことは分かるけど。
「衛門府補任」か「検非違使補任」の系図で見たような気がする。
確か南家だったような。
「系図纂要」第2冊上藤原氏(1)P305より
藤原道長(参議真友の子・右大臣是公の孫・従三位乙麻呂の曾孫、母は参議蔵下麻呂の娘)
従五位下越中守、従五位上但馬守諸氏の父、同母兄弟に従五位下伯耆介朝嗣有り。
「衛門府補任」より
藤原諸氏、従五位下→右衛門権佐(838)→但馬守(841)、この後従五位上か?
こんな感じでそれなりの名門の生まではあるけど、
本人の世代以降は取るに足りない下級貴族ですね。
ちなみに子の諸氏の方も10世紀前半に同名の公卿がいますね。
あと佐利は年代が近いのややこしい。
薬子も同名さん(おそらくかなり年上の女官)がいる。
有名な方の薬子はこの薬子の登場時はまだ幼女のはずで、位階が高すぎる。
蔵下麻呂(734〜775、42歳式家宇合の九男)従三位参議
真友(742〜797、53歳)従四位上参議
仁明天皇(810〜850、41歳、在位833〜850)
蔵下麻呂の娘は750年以降の生まれだろう、
するとその娘と真友の子の道長が770年代後半くらいの生まれとして、
娘が810〜820年代の生まれということは十分あり得るな。
やはりこの道長?
305 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 22:36:44
age
306 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 22:31:25
そみつ3ch
307 :
日本@名無史さん:2007/06/07(木) 23:49:03
藤原秀郷のもっとも確実と思われる子孫はどこですか?
奥州藤原一族又は関係者で、
正月に敵の奇襲を喰らったという史実は有りますか?
309 :
308:2007/06/09(土) 21:13:44
ちょっとアゲます。
ご存知の方はおりませんか?
藤原一族以外でも畠山重忠関連でもいいです。
310 :
日本@名無史さん:2007/07/03(火) 21:13:57
伊勢大宮司、鷹司尚武氏就任
311 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 03:21:09
最初の人臣摂政良房は娘一人
それで甥の基経を養子にした
基経は結構子沢山だが長子時平は36歳の時の出生。良房の死の前年
これって養父に遠慮してたのだろうか
豊臣秀吉の事例を考えると興味しんしん
いやいつまでも基経に嗣子がないままでは良房も心配だったろう。
嫡男の誕生を見て安心して逝ったという見方もあるかも。
313 :
日本@名無史さん:2007/07/15(日) 22:19:05
>>295 wikiなんてあてにしないように。
出鱈目ばっかり
314 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 00:53:03
藤原の男系を維持している九条家こそ五摂家の嫡流だろう
315 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 02:02:23
英語版Wikiでは藤原隆忠が"Fujiwara no Tadataka"になっているね。
"Fujiwara no Takatada"への改名を提案したいが、やり方が分からなかった
orz
317 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:00:17
近衛も鷹司も九条家から養子とれよ
近衛と九條の発祥の経緯から考えたらそれは無理っぽ
かつては養子のやりとりあったのか?>この2家
鷹司は近衛の分家だっけな
319 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 04:19:18
藤原忠通以降政治力を発揮出来たのは
九条兼実、道家ぐらい
それも鎌倉の後ろ盾があってのこと
それでも江戸時代末まで(ある意味戦前まで)
最高の家格を維持できたっていうのが凄い
320 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 05:10:36
>319
鳥羽天皇が即位したとき、その外舅藤原公実(閑院流)は
摂関の地位を求めたが、これが認められず、
以後、天皇との血縁関係がなくても摂関は世襲となり、摂関家が誕生した。
慈円も、権大納言に過ぎない公実が摂関を求めるとは何事、
と憤慨しているから、道長ー頼通辺りでその子孫は
他貴族とは一線を画したと思われ。
321 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 09:47:09
天皇家は男系を死守してんのに、藤原氏は九条と一条くらいか・・・
322 :
偽朝:2007/07/24(火) 10:40:16
基経ファンなんだけど、あまり女性関係の噂を聞かない。
そう調べていないといえなくも大ありだけど。
彼の子供たちは同腹なのですか?
323 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 17:53:42
藤原氏は平安時代に一族専用の学校を作ったってのが凄いよな
人材を輩出しまくりだった。
324 :
日本@名無史さん:2007/07/24(火) 18:18:17
>322
基経の妻としては
人康親王(仁明皇子)女操子女王(時平、忠平、仲平、宇多天皇中宮温子らの母)
忠良親王(嵯峨皇子)女(兼平母)
藤原盛子(醍醐天皇中宮穏子の母)
が知られているよ。
もっとも、基経の子供には母親のわからない人物もあり、
(この3人のいずれかが母の可能性もあるが)
記録に残らない女性もいたと思われるので、ほかにも女性がいた可能性はあるが。
325 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 07:37:35
穏子の母も操子女王じゃなかった?
326 :
偽朝:2007/07/25(水) 08:49:53
>324
どうもありがとう!
手持ちの本の一つには、基経の娘で清和天皇の后(位は明記していない)が頼子となっていて、別の本だと佳珠子。
今朝フとした疑問がわいたのだけど。
偶然だけどちょっと関連しているかな。
いま時間がないから改めて質問します。
327 :
偽朝:2007/07/25(水) 09:10:07
やっぱり書くことした。
たとえば源氏物語で、頭の中将が夕顔との娘なでしこを探すでしょう。
そこで戸籍についての疑問が湧いたわけ。
ド素人のド素人な疑問を述べるのも気がひけるけれど、
昔の戸籍は、一度調べたらそれで終わりの国勢調査タイプに終始していたのかな、ということなのね。
それぞれの氏が自分のとこの家系をしっかり把握しているかっていうと、それも何やら恣意的のようだし。
かといってでたらめな自己申告出自が簡単に通ったわけでもなさそう。
氏の内に記録係がいて、氏長者か誰かが時々内記に通知した、みたいなこと程度はしてたのかな?
328 :
偽朝:2007/07/25(水) 09:17:29
なにを今さらでボカスカされそうだけど、上達部の家族でさえ重職につかないと存在が後世に伝わらないというのは、現代の感覚とかけ離れているとつくづく実感させられる。
江戸時代でも同じか。藩士録は作ってもまたその下の足軽なんかは管轄外だし、藩に提出する家系も藩士以外は省略されていたりするようだし。
貴族や武士はお米を作らないから、役につかない以上はどうでもいい存在だったのかな?
それとも単に記録が散佚してしまっただけで、現代の概念に近い継続した戸籍が平安時代にもあったのかな?
あ、よけいアタマがぐしゃぐしゃしてきた。
こういうことは【初心者歓迎】スレでつぶやくべきだったかなあ。
財閥!財閥!
330 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 19:29:17
>>326 清和天皇の女御だった藤原頼子と藤原佳珠子は
基経の娘だといわれているけれども、母親はわからない。
(頼子と佳珠子は別の人)。
331 :
偽朝:2007/07/26(木) 05:28:34
重ね重ねありがとう。頼子と佳珠子と二人いたわけか。
佳珠子は貞辰親王のお母さんだから、頼子はもっと前に早世してしまったお姉さんなのかな?
大鏡見直したら、
三平の母が『四品弾正尹人康親王の御女』で
兼平の母が『忠良の式部卿の親王の御女』だ
ということだけ書いてあった(=しか書いてなかった)。
三代実録とかも見てみたい。でもネット上のデジタルテキストはないだろうね。
まあ、あっても漢文読めないから同じだけど。
332 :
日本@名無史さん:2007/07/27(金) 22:57:13
大化前代の有力豪族の合議体が太政官の原型だと思うんだけども
房前が不比等の生前に兄に先んじて公卿に成っているのは
その後不比等の死後武智麻呂が参議を飛び越して中納言に任じられた所を見ると
本家と別家という扱い(便宜上だが)なのかな
>>332 ズバリそうだ!・・・と書いた史料はないようだが
そういう学説はあるようだね。それを言い出した学者の名前を失念したが。
今のところまだ通説にはなってないようだが、
武智麻呂が藤原本家当主、房前は分家(そのため先に参議就任)という見方は自然だし
その可能性は高いと思う。
334 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 01:48:37
頼通は恐妻家か?
正妻の隆姫の弟の師房を猶子にしたり師実の兄達を仏門に入れるなど
よく分からん
頼通恐妻家説は有名だ罠
両親に側室かかえることを奨められても逃げ腰だったし
愛妻家の裏返しとも見られるが。
ただその結果、外戚となるための女子は勿論、跡継ぎにさえなかなか恵まれず
摂関家の衰亡を招いた罪は大きいかも。
何となく徳川秀忠っぽいな>頼通
摂関家の衰亡は喜ばしい事
>336は後三条天皇
338 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 06:50:07
道長って男前だったの?光源氏のモデルとも言われてる。肖像画残ってないからわからんか。
339 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 12:59:05
当時の史料では、道長を美男だとはしていないんじゃないかな。
道長といえば、紫式部の局をこんこんやったことで有名だが、
光源氏を美男だと創作した紫式部自身、道長が美男だとはいってない。
ちなみに、道長のライバルだった藤原伊周は美男だったらしい。
こちらは清少納言が褒め称えている。
もっとも、平安美男であったことはいうまでもなく、「大鏡」には、
「帥殿(伊周)はあのとおり、よく太っていらっしゃるから・・・」
という文章が出てくる。
340 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 20:44:51
>>335 子だしのいい妻を持つこと
師輔、兼家、道長は相当の幸運児
341 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 21:28:47
現代に残る日本四大名家
天皇家
九条家
徳川家
足利家
342 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 21:30:28
>>355 別に頼通に子供がいないことが衰退の直接原因とはいえない。
弟の教通だっていた訳だし。
343 :
日本@名無史さん:2007/08/02(木) 22:30:11
いくらなんでもこんな近親婚が続くとは思えない
頼通の娘寛子、教通の娘歓子に子が生まれないのは当然
おそらく出来ても流産だったのでは
>>342 道長以前の藤原摂関家であれば
子づくり頑張って娘の入内にも熱心な教通を優遇してもおかしくないんだよね。
その手で弟が兄に取って代わった例は多数ある。
(師輔とか兼通とか)
でも道長夫妻は頼通の子供に期待(というか執着)したわけだ。
なんでだろ。
345 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 00:04:49
頼通は50年も摂政、関白の地位にいたのに逸話が少ない
古事談なんかには政治力を発揮した話が有るけど
346 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 12:09:29
道長の父、兼家も美男子じゃなくて四角い顔だったと
かげろう日記に書いてある。
347 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:00:41
>345
「小右記」などの史料が少ないせいかもしれないね。
頼通自身、荘園整理令を出すなど、政治家としての手腕がなかったわけではない
五男坊からのし上がった父道長と違い、育ちのよさから強引さがなかっただけ。
姉上東門院には頭が上がらなかったようだが、道長が姉東三条院に頭が上がらないのと同じ
348 :
日本@名無史さん:2007/08/03(金) 20:12:20
刀伊が丹後、若狭あたりに攻めてきたらどんな手腕を発揮しただろう
349 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 03:04:03
この時代の政治力とは権力闘争を勝つこと
平安時代を通じて半島がグダグダになったおかげで
外交、国防はそれほど優先課題でなくなった
このこと自体は日本全体からするといいことなのだが
内政でも税の取りっぱぐれは見過ごししてるし、現代の視点でみれば施政者が馬鹿に見えるのも無理はない
しかし物事はそんな単純なものだろうか?
350 :
日本@名無史さん:2007/08/04(土) 09:05:50
>349
刀伊入寇の頃は父親の道長が存命で権力握っていた
藤原氏内部の政権争いにしか興味がなかった摂関期に国策が退化したことは確か
荘園整理令といえば後三条天皇のものが有名だが、
実はこれ以前に関白藤原頼通の主導で荘園整理令は2度出されており
危機感を持っていたのは事実
後三条以降の摂関の無力化、院近臣の台頭から見れば
流れのない時代であったことは確かだが
351 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 09:06:47
師通の早逝が白河院との権力のバランスを崩し一気に衰退に向かった
という見方もあるけど(人事権の喪失)その後の忠実の政治力のなさはあきれるばかり
鳥羽院政になってしゃしゃり出てきて息子の忠通と対立するとは何を考えていたんだろう
352 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 10:28:08
忠通がDQNだという説もある。
忠通は40過ぎるまで男子が一人もなく、異母弟頼長を養子にして正式な後継者に指名していた。
しかし、晩年、実の男子が誕生したことから弟の頼長が邪魔になった。
よくある兄弟間の権力闘争ですね。
父の忠実は、頼長後継で納得していたから、忠通の態度に激怒。
頼長に家督を譲るように迫った。
現在の忠通直系正統説は、彼の息子慈円の書いた「愚管抄」によるところが大きい。
>>343 >いくらなんでもこんな近親婚が続くとは思えない
同意
円融から後三条までの天皇の寿命って著しく短い
50以上生きた人はいないんじゃない?
そりゃ昔の医学水準は低かったかも知れんが、頼通・教通みたいな上級貴族は結構長生きしてるわけで
しかも、閑院流の血が入った白河院になると途端に長生きするし
どう考えても度重なる近親結婚のせいとしか思えない
354 :
日本@名無史さん:2007/08/09(木) 19:39:36
>>353 寿命のことだけを言うなら、
円融天皇とまったく同父同母の兄冷泉天皇は長命だった。
冷泉天皇はたとえが悪いというなら、
後三条天皇と同父同母の姉娟子内親王は71歳と長命。
三条天皇、後朱雀天皇の皇子女たちの中にも近親婚なのに長命な人が居て、
必ずしも当てはまらない。
355 :
日本@名無史さん:2007/08/10(金) 17:44:06
円融天皇 父母がいとこ半
一条天皇 父母がいとこ
後朱雀天皇 父母がいとこ
後冷泉天皇 父母が甥と叔母
この結果後冷泉には両親から受け継いだ藤原基経、師輔、兼家、道長の血が
集積しており頼通、教通の娘との組み合わせは不具合があってもおかしくない
356 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 04:08:24
百川
357 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 04:35:45
358 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 17:32:40
逆に言えば母親の出身が曖昧な頼通娘寛子が長生きしたのも納得できる
359 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 19:43:21
彰子も長生きしたよね。
紫 式部→大弐三位
和泉式部→小式部内侍
など当時としては二世代分生きた。
360 :
日本@名無史さん:2007/08/11(土) 20:24:41
醍醐皇后の藤原穏子の子女出産年齢だけども
保明親王 18
康子内親王 35
朱雀天皇 39
村上天皇 42
どこかの宮様もビックリ
361 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 17:19:39
穏子の17年間の空白俺も気になる
362 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 19:33:09
保明親王は二歳で皇太子に冊立されたが夭折し子の慶頼王(母は時平女)を
擁立したが三年後に病死(菅原道真の祟りとされたことは有名)
藤原腹の皇子でないと皇太子に成るのは容易でない情勢だったので
醍醐天皇はうば桜(失礼)の皇后と房事を再開?されたのではないか
その康子内親王も高齢出産だよね。
藤原公季を生んだ時もう40手前だったっけ。
364 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 21:49:25
穏子は時平の14歳下の同母妹だから穏子の母も高齢出産かもしれないね
365 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 22:18:05
穏子は三平の同母妹ということでFA?
366 :
日本@名無史さん:2007/08/12(日) 22:23:16
連投スマン
その可能性が高いと思うけど
穏子の前に、藤原氏出身の皇后は藤原安宿媛(あすかべひめ・光明皇后)と
藤原乙牟漏(おとむろ)の二人だけというのが少し意外。
元々聖武より前は規定上皇族以外皇后になれなかったし、
聖武の後は、孝謙=称徳はむろん皇后関係ないし。
淳仁は在位が長くなれば仲麻呂の娘が皇后になったんじゃないの。
光仁は老齢になるまで皇位に縁がなかったし、藤原氏もまだ人数自体が少なく、
当然手駒も少ないからそこまで手が回らなかったんだろうな。
平城は本来なら薬子の娘が皇后候補だったんだろうな。
嵯峨は本来なら皇位についても中継ぎだっただろうし、淳和は史実としても中継ぎ、
あまり食指が動かなかったんだろう。
そんなこんなで色々あったんだろうな。
369 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 21:28:17
藤原高子は皇太后にはなったけど
不行跡?のゆえ剥奪
仁明から宇多まで皇后が置かれず、天皇生母となった女御が皇太夫人になり
皇太后→太皇太后というルートをたどったことも要因。冬嗣の女・順子(仁明女御、
文徳生母)、良房の女・明子(文徳女御・清和生母)、長良の女・高子
(清和女御・陽成生母)などが該当する。醍醐天皇が穏子を女御から皇后に
したことで、淳和以来100年振りに皇后が復活。
371 :
日本@名無史さん:2007/08/14(火) 22:21:41
基経、時平がもしかしてこだわった律令制の維持(人頭税の確保)の試みを
最終的に放棄したのが忠平だと思うんだけど
受領に対して一定額の上納をすればあとは自由裁量
その代わり人事権は確保して実質的に自由裁量の余地を制約
という税収確保政策をとった現実主義政治家というのはほめすぎかな
任官した人間から必ずワイロを取ったという話もあるし
372 :
日本@名無史さん:2007/08/26(日) 15:29:54
>>367 むしろ、穏子より前の藤原氏出身の皇后が例外的だったんじゃないかな。
光明皇后は、夫の聖武天皇が姉宮子の子であるという縁で
皇后は皇族からという先例を破って皇后になったけれども、
光明皇后のあとが女帝であったこともあり、絶えてしまった。
桓武天皇の皇后藤原乙牟漏は、卑母の桓武天皇登位の恩賞だったのだろうが、
乙牟漏の実家藤原式家は兄弟早世、薬子の変で失脚、こちらも権力が継続しなかった。
平安初期は、正子内親王など皇族出身の皇后のほか、
橘氏出身の壇林皇后(橘嘉智子)などが出て、藤原氏は必ずしも皇后を出す家ではなかった。
藤原氏が他氏から頭一つ抜きんでるのは、平安時代中期まで待たないといけない。
373 :
日本@名無史さん:2007/09/01(土) 22:56:58
天皇家は125代続いているらしいが
藤原氏は何代目まで続いているのですか?
374 :
日本@名無史さん:2007/09/06(木) 04:15:50
>>373 氏長者制が成立後は数えられると思うけど
特に摂家分立後は交代で務めるようになったから
あまり数える意味はないんじゃないか
375 :
日本@名無史さん:2007/09/07(金) 20:52:09
>>374 そうですか。
藤原氏一門の長を中心に今も一族の結束を大切にしていてほしいですね。
近衛文麿は藤原鎌足から数えて49世代目だな
今上天皇は神武天皇から数えて72世代目
377 :
日本@名無史さん:2007/09/28(金) 21:58:43
師輔は内親王を三人も妻にしてる
藤原氏の歴史の上でもこんな例はない
九暦なんかには廷臣の心得(悪くいえば処世術)が書かれているけど
何かいまひとつ人物像がはっきりしない
378 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 14:37:52
師輔が内親王を3人も妻にしたのは、全部密通だよ。
村上天皇の母穏子は師輔の叔母だったし、
師輔の娘安子は村上天皇の中宮だったので、
村上天皇も姉たちが舅に食われても文句が言えず、
こっそり妻にするのを黙認したらしい。
天皇に見込まれて内親王をもらったとか、そういう話ではない。
379 :
日本@名無史さん:2007/09/29(土) 21:17:31
師輔の子は5人までが太政大臣、うち摂関が3人。
兄弟で摂関3人その後も何度か例があるけど、太政大臣5人は空前絶後じゃないの?
380 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 03:56:17
兄実頼に比べて
その権勢の大きさが窺えるな
381 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 07:39:11
それだけ、権力争いが熾烈だったんだね。
師輔の兄弟が出世できたのは姉妹の村上天皇中宮安子の影響。
摂関になった伊尹、兼通、兼家はすべて娘を天皇の後宮に送り込んでいる。
太政大臣になった為光、公季は内親王を母とする貴種で、
摂関になった兄三人よりも血筋は格段によい。
もっと早くに生まれていれば、嫡子の扱いを受けてしかるべきだった。
女好きで知られた師輔の男子は上から下までかなり年齢差があったために、
下のほうの弟たちでも出世する機会があったのかもしれない。
382 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 08:25:53
>381
>師輔の兄弟が出世できたのは
→師輔の息子たちが出世できたのは
383 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 14:18:51
結局のところ藤原鎌足の血と天智天皇の血が入り乱れて現在に至るとゆうことだよね?
384 :
日本@名無史さん:2007/09/30(日) 21:56:45
天智天皇と藤原鎌足には、その昔も萌えな関係があった。
この二人の仲を永遠にするために、
千三百年もの間、互いの子孫が配合し合ったということでよろしい?
腐った女は隔離板へ
387 :
日本@名無史さん:2007/10/02(火) 10:41:22
388 :
日本@名無史さん:2007/10/03(水) 05:08:54
不思議なのは
鎌足以前は諸太夫の家柄(律令の四位、五位)にすぎない中臣氏が
鎌足の死に際して大織冠(律令の一位)を与えられ
甥の金は右大臣に任じられてる
不比等が実力を持った時以降は最高の家格を持つ家として明治に至る
他の有力豪族を圧倒するほどの力を持ったのはいつなのか?
『宇宙皇子』を読み給へ
藤原氏勃興の軌跡が逐一其処に記されて居る!
年明け早々から東京国立博物館で
近衛家1000年の名宝 をやるってさ。
衛って本当は難しい字なんだね。
マルチ死ねや
392 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 01:21:49
age
393 :
日本@名無史さん:2007/10/17(水) 03:08:16
age
魚名の息子達について知りたいんだけど。
UONA、私は美しい。
ウオナズン
397 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 11:05:48
>>388 ねんぴょう その1
872年 基經(良房の兄長良の三男、なぜか養子) 初の非皇族摂政に成る
891 菅原道真(天神)が天皇秘書室・蔵人所長官に成る
897 醍醐天皇(桐壺の御門)御歳十三にて御即位。
899 時平左大臣(上席)に道真右大臣。 宇多太上天皇御出家(歴代初、太上法皇)
901 菅原右大臣、突如、九州福岡、太宰府(対韓中外交通商部)副長官に転身。
903 道真公、京を想い没す
904 宇多の法皇、仁和寺御室ニンナジオムロに御移住になる。
907 法皇は、紀伊熊野に御参りされる
914 醍醐の帝、第?皇子、高明生誕される。
920 高明親王賜姓源氏源高明と成る
923 菅公天神(故人)、右大臣復官となる。
930 醍醐・桐壺のみかど御譲位、同年崩御さる 朱雀の帝、御歳17で御即位。源高明は同年16歳。 忠平摂政。
936 忠平 太政大臣
941 忠平 関白
946 朱雀天皇23歳にて譲位、朱雀上皇に。 村上の帝20歳にて御即位。 高明公22歳です。
947 実頼左大臣 道真公(天神)京都北野に祭られる
952 朱雀上皇御歳29歳にて崩御さる
960 右大臣師輔没する53歳
961 経基王、源氏に(初代清和源氏)
966 高明公 右大臣に成る。御歳52
967 村上帝在位中にて崩御42歳。 17歳の冷泉天皇御即位。67歳の小野宮実頼、関白兼太政大臣に。高明公は左大臣(上席)に。師尹は右大臣。
969 左大臣の高明公は、菅原公(天神)に続き、異例の太宰府行きが決まる。 冷泉帝は19歳にて御譲位され、御歳10歳の円融天皇が御即位になる。 小野宮実頼が、関白から摂政に移行する。
970 摂政の実頼、70歳にて突如没する。急遽、77歳の伊尹 が摂政を引き継ぐ。
972 79歳の摂政伊尹が没する。兼道が関白に(円融天皇13歳成人式のため)
977 兼道は小野宮家頼忠を関白に推挙。前関白兼道は没す53歳。
984 円融天皇は25歳にて御譲位され、16歳の花山天皇は御即位になる。
http://same.u.la/test/r.so/academy6.2ch.net/kobun/1188257444/より
398 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 11:08:05
>>397 ねんぴょう その2
986 花山のみかどは18歳にて突如出家させられ、御歳七歳の少年一條天皇は即位をされる。 兼家(道長公の父)が摂政に就く。
989 兼家は関白と太政大臣に成る、60歳。
990 兼家は出家したので、長男道隆が摂政となり、 兼家は没する。摂政道隆の娘定子が11歳の一條帝の中宮に。
993 道隆は関白に。
995 道隆は43歳にて没する。弟道兼は関白に成るが、突如没す、35歳。 その弟道長「内覧宣旨」を受ける(天皇第一秘書)。 高明公三男の俊賢公、参議(政策参加)に。
996 兼家長男道隆の子、伊周と隆家は左遷となる。翌年恩赦。
1000 道隆の娘定子は皇后になるが、御歳25にて突如崩御。道長の娘(?)彰子は中宮に。
1011 一條天皇32歳で崩御、冷泉上皇も61歳で崩御、三條天皇は即位35歳。
1012 道長の娘(?)妍子ケンシは三條天皇の中宮に。
1016 三條天皇は眼疾にて譲位され40歳、御歳九歳の後一條天皇は即位。 道長、摂政になり、突如、長男頼道に摂政の地位を渡す。道長自身は太政大臣に成る。
1018 皇太后の彰子は太皇太后に成る。妍子は皇太后に成る。道長のさらに別の娘(?)威子は、中宮となる。後一條天皇陛下は11歳の少年。
1019 頼道は関白に。
1020 道長は出家。
1021 兼家の弟、公季が太政大臣、 道長の長男頼道は左大臣、小野宮実頼の孫で、なぜか頼道の養子の実資は、右大臣に成った。
1027 道長は没する、62歳。
http://same.u.la/test/r.so/academy6.2ch.net/kobun/1188257444/より。
399 :
日本@名無史さん:2007/10/20(土) 14:33:35
近衛経忠は東国に独立国家を建設してその王になろうとしていた、とすら思ってしまった。
少なくとも摂家将軍くらいは目指していたかも。
400 :
日本@名無史さん:2007/10/21(日) 15:47:51
401 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 11:10:21
>>380 師輔は娘の安子を村上天皇の中宮に立て皇太子の誕生を見るという
栄華を掴みながら、生涯右大臣どまりだった。
左大臣氏長者として朝政をしきっていたのは、あくまでも異母兄の実頼。
師輔は実頼よりも早く没した為、ついに生涯兄の官位を超えることはできなかった。
師輔が次々と内親王ばかりに夜這いをかけたのは、鬱憤晴らしだったといわれている。
政治的な不遇をかこち、せめて兄より高貴な女を手に入れようと。
ちなみに実頼の母は宇多天皇の皇女源順子で、生まれも弟師輔より尊貴だった。
402 :
日本@名無史さん:2007/10/22(月) 12:42:21
>>401 『栄華物語』か『大鏡』で師輔は「一苦しき二」といわれ、
官位は下でも政治的実力は兄・実頼より上と見られていたのではなかったっけ
内親王に次々夜這いをかけたのは実頼に対するコンプからだったというのは禿同意だけど
同時資料ではないので、羽振りの良くなった子孫(摂関家他)の祖先顕彰が入ってる可能
性は否定できない
405 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:23:39
406 :
日本@名無史さん:2007/10/23(火) 14:36:37
407 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 18:41:25
>>401 村上朝の頃の太政官符の記録をみると
右大臣師輔が責任者となってるものが圧倒的に多く
政務を取り仕切っていたのは師輔だったというのが通説じゃなかったか?
408 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 19:27:20
一の上の実頼は公卿たちを取りまとめる重責を担っていたから、
諸々のことは分担させていただろう。
村上天皇のときは関白不在で、事実上左大臣である実頼がトップだったのだから。
摂関常置のときには関白と左大臣で分けていた仕事も、
左大臣である実頼一人の肩にかかってくるわけだ
409 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:00:26
実頼は参議(?)時代先例、形式に拘って征東将軍藤原忠文への恩賞に反対して
恨みをかったり、康子内親王の件でも儀礼に欠席してせいぜい皮肉をとばすぐらい
しか出来てないのであまり政治力に富んだ人物とは思えないが
410 :
日本@名無史さん:2007/10/24(水) 20:19:33
411 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 01:46:16
藤原氏は最高だよ
>>409 >康子内親王の件でも儀礼に欠席してせいぜい皮肉をとばすぐらい
康子内親王が弟の師輔と密通していることを皮肉って、
「お前の汚きに(内親王は密通で穢れている」
と言ったとかあのことか?
儀礼に欠席したというのが分からん、
村上天皇が雷がなって恐ろしがっているだろうから、
皆姉宮の康子内親王のもとへ参じろ、といったときに
実頼が皮肉を言った、という流れだったと思うが
姉宮が奪われても毅然とした態度をとらない村上天皇への抗議だったのか
413 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 09:34:56
414 :
日本@名無史さん:2007/10/25(木) 09:46:02
最終的に師輔の子孫が摂関家になったから師輔を資料が悪く言うはずがない
実頼は娘の慶子を朱雀天皇に、述子を村上天皇に入内させたが、
慶子も述子も早逝してしまった。
慶子や述子の皇子が即位していれば、嫡流である実頼の小野宮流の
権勢は並ぶものなかっただろうが
415 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 02:03:47
416 :
日本@名無史さん:2007/10/26(金) 22:58:28
基経が良房の養子になった経緯ついて後存知の方いませんか?
つ 山中裕「藤原良房の猶子・基経」
418 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 02:33:09
419 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 10:32:46
420 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 10:43:28
>>419 伊勢の物語中に,良房・長良・高子などと皇胤の業平との複雑な結び付きといいより,ライバル関係が秘匿されている。青年基基らは従ったまで。
421 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 10:44:36
422 :
417:2007/10/27(土) 13:50:59
簡単にまとめると
良房は嵯峨天皇皇女・源潔姫を妻として迎えていたが、娘・明子一人しか子供に恵まれなかった。
妻の出身上遠慮もあって別の妻を迎えるわけにもいかず
近親の甥から跡継ぎを選ぶことにした
しかしその跡継ぎ候補は最初から一人だったわけではなく
・同母兄藤原長良の息子の基経
・同母弟藤原良相の息子(名前失念)
だった。
基経は叔父・良房に気に入られるため応天門の変を初めとして数々の政争で暗躍し、
最終的には良房の跡継ぎと認められたという・・・
ちなみに基経はあくまで「猶子」であって「養子」と書かれている史料はない点には注意が必要らしい。
copyを持っていたはずなのだが、1時間ぐらいがさ入れしたが見つからなかった。
うろ覚えなので多少の間違いはご容赦。
423 :
日本@名無史さん:2007/10/27(土) 18:34:56
424 :
信長:2007/10/27(土) 21:25:12
一条信能は実は承久の乱で殺されず逃げています。
>基経は叔父・良房に気に入られるため応天門の変を初めとして
あ、そんな後になってからなんだ。
もっと早くから決まってたのかと思ってた。
426 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 04:09:28
となると第一子(時平)が36歳の時の誕生というのも納得
427 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 08:28:17
>第一子(時平)
藤原基経の娘で、清和天皇の女御となった
藤原頼子
藤原妹子
はいずれも時平より年上(時平の姉)。
基経の第一子は時平ではないよ。
428 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 10:14:43
429 :
日本@名無史さん:2007/10/28(日) 16:37:44
430 :
日本@名無史さん:2007/10/29(月) 20:23:19
>>427 この二人にに関しては年齢不詳、母不詳じゃなかった?
おまけに同一人説も有るんじゃなかった?
レスd
431 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 10:20:01
北家嫡流、藤原鳥養(鳥飼ウカイ)母は大伴夫人、足利将軍家正室、日野家の祖先。北家本流真盾マタテの子孫・摂関家(九條流)にとってかわろうとしたが、結局応仁の乱、戦国時代を引き起こし、江戸期に五摂家は女系化(天皇家の御意思)。
432 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 17:17:04
日野家の祖は冬嗣の兄の真夏
>>430 時平に姉がいたことが確実な人物
基経の娘は諸本に名前の異動も見られるが、
「類従三代格」によれば、貞観17年10月2日に親王宣下を受けた
貞辰親王の母は、藤原基経女とある。
貞辰親王はこのとき2歳(数え)とあるので、生まれはこの前年の貞観16年。
母親の名前は書いてないが、あるいは
貞観15年11月26日に女御宣下を受けた藤原佳珠子かともいう。
(本朝皇胤運紹録ではこの説を採り、貞辰母を基経女佳珠子とする)
貞辰親王が生まれた貞観16年、藤原時平はわずか4歳。
貞辰親王の母である基経女は、どう考えても時平の姉。
ちなみに清和天皇は時平が6歳のときに没しているので、
清和天皇の妃は基本的に時平より年上である。
434 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 19:24:54
>>433 すまん、寝ぼけてた。史料の名前、
「類従三代格」ではなく、
正しくは「日本三代実録」に書かれてある内容です。
436 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 22:58:57
>>431 失礼しました。北家真盾流の嫡流、藤原真夏、足利将軍家正室、日野家の祖先。訂正します。
北家嫡流ただし母は大伴夫人、藤原鳥養(鳥飼ウカイ)・小黒麿オグロマロ・葛野麿カドノマロの子孫は、常嗣と氏宗に分かれてその後どうなったのだろう。
三代ほどで絶えました
438 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:24:00
>>429 大織冠は、中大兄(天智天皇)と外戚になる密約をしたことにより、独裁的権威を振るった(後の摂関家も)蘇我宗家を外戚からはずした。
蘇我と藤原摂関の違いは、暴力的か文化的(律令制の利用)かの違いと、蘇我は祖先が武内宿禰(第八代孝元天皇の曾孫)と言われ、外戚でありながら男系は皇室遺伝子。
藤原氏はアメノコヤネの男系を誇り、その女子を通じて外戚になった。つまり天皇位(三種の神器)を合法的に藤原氏に纂奪されるおそれは男系である限り無い。これが藤原体制が江戸初期まで安泰した最大理由。
平家は桓武天皇男系、足利義満も清和天皇男系、江戸以降の摂家も後陽成天皇の男系。これらは、結局蘇我体制への逆行(実力主義社会)。
439 :
日本@名無史さん:2007/10/30(火) 23:36:09
藤原氏の氏長者制なんですけど・・・
平安時代は藤原四家は独立した氏と扱われていて
年に一人だけ従五位下に推挙する権利を持ったという本を読んだ記憶があるけど
その辺の事を教えて下さい
その通りです、としか言いようがないんだが。
何を教えて欲しいのか、もうちょっと具体的に
442 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 00:37:37
443 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 15:15:59
AD720年・右のおとど不比等卿薨去(皇族最高位左大臣は,717年に石上イソノカミ卿が薨去されて空席)、天皇は天智天皇の孫の元正女帝。
南家武智麿卿(正室は貞媛、右大臣阿部御主人の外孫)41歳で 式部省の次官、4ヶ月後に内臣(大織冠の位)。
北家房前卿(正室は牟漏女王、義母の県犬養三千代と美怒王ミヌノオウの娘)は40歳で37歳より参議。
式家宇合卿27歳、正五位上(遣唐副使など歴任)
京家麻呂26歳、従五位下(美濃国の次官など歴任)
この時4人の共通のライバルは長屋王(天武天皇の孫、兄の天智天皇の外孫で、大納言で朝廷首座)です。
<神先生の著作を参考にしております。>
444 :
日本@名無史さん:2007/10/31(水) 17:56:04
五摂家筆頭近衛家がわが国の歴史に及ぼした影響は計り知れない
445 :
日本@名無史さん:2007/11/09(金) 15:22:53
>>439 なんか京家の場合で偽物がでたとか言う話を呼んだことがある、
著者も題名も忘れたけど吉川弘文館の白表紙のやつで。
447 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 06:33:09
藤原は安積親王、他戸親王、井上内親王を暗殺した。
448 :
日本@名無史さん:2007/11/15(木) 12:21:56
とりあえず、中臣鎌足はただの暗殺首謀者。
そして不比等が「日本書紀」捏造。
不定期に関か梅原の信者が戻ってくるな、このスレ
>>439 少なくとも12世紀初頭まではいたらしい京家長者。
【野球】西武に3巡目指名の藤原良平投手、球団のイメージは「投手のいいチーム」 ちなみに今年の西武は防御率リーグ5位
http://news21.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1195557483/l50 1 :( ^ω^)デーブおまコンφ ★ :2007/11/20(火) 20:18:03 ID:???0
「上でやるのが目標だったので、本当によかった」。
プロ野球大学生・社会人ドラフトが19日、東京都内で開かれ、西武に3巡目で指名された藤原良平投手(21)は声を弾ませた。
181センチ、80キロの大型右腕。最速148キロの速球とスライダー、フォークを武器に
三振の取れる本格派として西武やソフトバンクなどから注目されていた。
出身は兵庫県朝来市。高校時代は目立った実績がなく、甲子園出場経験はない。
3年夏の鳥取県大会はベスト4止まり。第一工大(鹿児島県)へ進学後に頭角を現した。
3年秋からエースとして活躍。公式戦15試合で10勝2敗、防御率0・99。106回を投げて奪三振は119、
与四死球13と好成績を残した。
14 :名無しさん@恐縮です :2007/11/20(火) 20:23:41 ID:Ra2RtUIxo
藤原基経の五男か
84 :名無しさん@恐縮です :2007/11/20(火) 23:53:03 ID:BQ+eSuLx0
>>14 時平、仲平、忠平の「三平」より目立たない地味な存在だったよな。
88 :名無しさん@恐縮です :2007/11/21(水) 00:12:29 ID:zF0zV0Cb0
>>14 菅原道真の頃の人だな
91 :名無しさん@恐縮です :2007/11/21(水) 10:07:41 ID:N+1C48GxO
読み方はふじわらのよしひらで良いのか?
ところで、藤原仲平ってどうして弟の忠平より官位昇進が遅れたのですか?
マヌケだったの?
石ノ森先生の漫画ではいかにもな馬鹿面で描かれてましたな。
454 :
日本@名無史さん:2007/12/04(火) 21:49:00
藤原長良は弟の栄華を見て悔しくなかったのかな。
その当時の史料(『文徳天皇実録』あたりだったかな)では
弟の出世もねたまず、人格者である
的な評価が為されていたと思う。
とは言っても、それは表面的な話であって心の中まではわかりませーん。
そりゃあその後の藤原氏嫡流のご先祖で、
あまつさえ編纂に基経が関わってるんだから悪く書くわけがない。
文徳実録かあ、続日本後記以前の薨卒記事が文徳実録並みに有ればな。
日本後記が全部残って入ればな。
左京の分だけでいいから三〇年ごとの戸籍が残っていればな。
貴族官僚の経歴や系譜がかなりわかるのにな。
ってよく思う。
458 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 16:06:34
権力に固執して死の間際まで弟と対立し続けた兼通と長良は対照的。
459 :
日本@名無史さん:2007/12/13(木) 17:58:33
藤原良房は秀麗で、父からも嵯峨天皇からも寵愛された。
良房とその兄長良に差がついたのは、まだ10代のとき。
嵯峨天皇は良房に自らの皇女源潔姫を降嫁させ、以後、
良房は天皇の娘婿としての昇進を10代にして約束された。
それに対して、藤原兼通が弟兼家に官位を超えられたのは、
40代後半になってから。
それも、兼家が、東宮最有力候補だった為平親王を娘婿にしていた源高明を
出し抜くために、まだ9歳だった弟の守平親王(のちの円融天皇)を強引に
連れ出して東宮に冊立、源氏の進出を抑えたことに対する恩賞だった。
兼通が、こんな理不尽なことはあるかと激怒しても仕方がない。
顕光は弟の朝光に追い抜かれたときも怒っていたのだろうか?
従兄弟で親子ほども年が違う道長にはライバル意識満々だったようだが。
顕光、朝光兄弟の父藤原兼通が、弟朝光を取り立てたということはありますね。
顕光の同母妹媓子は、当初父が愛情を注がず后候補ではなかったとあることから、
顕光、媓子兄妹の母昭子女王から朝光の母有明親王女へ寵愛が移ったせいかもしれませんが。
父兼通が関白に就任した2年後の天延3年、顕光が参議に昇進しますが、
異母弟の朝光はすでに権中納言に昇進しています。
強大な権力を持つ父関白兼通の前、顕光は文句すら言えなかったのかもしれません。
もっとも、朝光のほうが資質が優れていたと言う話もあります。
円融天皇の中宮に立てられた媓子は顕光の同母妹でありながら、
里帰りをする際、同母兄顕光の邸ではなく、異母弟朝光の邸へ退出したという記事があります。
父兼通が中宮媓子の後見者として弟の朝光を選び、媓子も信任していたのでしょうか。
「大鏡」などでも朝光は美男子で流行にめざといと褒め上げられているようです。
462 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 18:02:55
藤原兼通は忠義公なんて諡が送られるほど誠実な性格だったのかな。
無能な息子と腹黒い弟に悩まされたイメージしかないが。
463 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 10:05:30
434 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2007/09/29(土) 23:22:35
松重楊江「日本史のタブーに挑んだ男」よりおもしろかったので引用。
「捏造の日本史」を明らかにする広橋興光氏の八証言
鹿島が三〇年来親しくしていた広橋興光氏とは、筆者も一度面識がある。この広橋家は藤原
氏名家の一族で、幕末には武家伝奏、明治以後は伯爵家であった。父君はもと内務省のエリー
ト官僚で、東条内閣の秘書官。のちに千葉県最後の官選知事を勤めた広橋眞光氏である。母方
の祖父は中川宮の孫、もと梨本宮守正殿下(陸軍元帥・伊勢神宮祭主)であり、母君は李方子さんの
妹に当たるから、彼自身も昭和天皇の従弟に当たる。
鹿島は、広橋氏から伝来口伝の日本史をいろいろと教えてもらった。それを要約すると、以
下のようになる。
1、天皇家は北支(華北)から満州、朝鮮を経て日本にやって来た。
2、藤原氏は中国系と朝鮮系に分かれていて、中国系のほうが威張っていた。
3、南朝とか北朝といっても、われわれの祖先はどちらにも行ったから、いま明治天皇が南朝
といってもまごついたりしない。
4、日本が戦争によっておかれた惨状は、家康の鎖国がもたらしたものである。
5、孝明天皇は伊藤と岩倉が殺した(但しこのことは興光氏ではなく、その父君・眞光氏の言で
ある)。
6、鳥羽伏見の戦い以後の明治天皇は睦仁ではない。すり替えられた天皇である。
7、伊藤の爵位ばらまきは、天皇すり替えの口止め料という性格があった。
8、シンガポール陥落のとき、ルーズベルトが特使をもって講和を申し入れて来た。東条はこ
れを受けようとしたが、天皇ヒロヒトは二・二六事件の体験から、軍の叛乱を恐れて継戦
を命じた。このとき、天皇に継戦を迫った親独派の将校グループがあった。
464 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 10:10:52
465 :
日本@名無史さん:2007/12/15(土) 21:29:47
藤原時平の29歳で左大臣ってかなりのスピード出世だな。
道長の時代以前で30歳未満で大臣になれたのは源常くらいのもの。
時平は初叙五位と言うことを除けば概ね嵯峨源氏に準じるスピードで昇進。
それ以後の源氏はあそこまでのスピード昇進はないからかなり久しぶり、
嵯峨源氏の昇進がいかに無茶かと言うことでも有るけど。
結局幕末で堂上として生き延びた藤原氏は北家のそれも真盾流と魚名流だけ、
それ以外の北家や南家・式家・京家で地下として残った家はあるの?
468 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 10:18:50
藪家は堂上じゃなかったっけ?
真盾・魚名流以外の北家って…。
鳥養・永手・楓麻呂とかの子孫が堂上に生き残ったかってこと?
無茶を言いなさんなw
北家はずうずうしい。そもそも皇室が神武(以前)以来、長子相続でないことを根拠に、皇室に習い、実力ある二男三男がしのぎを削ってきた。内紛もいいところ。
大鏡は正義の家が勝ち残るみたいな言い方、思いやりに全く欠ける今の日本を作り上げたやつらだよ、いい面も多いけど。
471 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 23:39:23
age
472 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 19:17:52
>>470 大鏡は藤原道長の子孫にかなり近い人物
(明子系の能信に同情的)が書いたものだから仕方ないよ。
ご先祖を悪く言うはずが無い。
473 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 23:48:26
永手の子孫の振るわなさは異常。鳥養の子孫の方がマシなくらい。
永手は正一位左大臣だってのに…。
家依は早死に、雄依は種継暗殺事件に絡んで失脚。
光仁夫人になった曹子が皇子を生んでたら少しは巻き返せたかもね。
475 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 12:20:19
藤原永手のあとは、藤原北家は人材不足だった。
一転して、藤原式家が政界に踊り出、
桓武天皇の皇后は藤原式家の出身だった。
藤原北家が息を吹き返すのは嵯峨天皇のとき。
嵯峨天皇は北家の冬嗣ー良房父子を大々的に登用。
嵯峨天皇の皇后は橘嘉智子で、橘氏を重んじたなら分かるが、
なぜか後宮とは関係なしに藤原北家を重用している。
藤原麻呂ってすごい名前やねえ。
当時の一人称はなんだったのだろう?
>>475 嵯峨天皇の前に桓武天皇の時に冬嗣の父・内麻呂が取り立てられてますがな
内麻呂は妻を桓武の妾に差し出したり(?)、妻の一人が坂上田村麻呂の娘だから
その縁での取り立てかと思われ
478 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 13:57:38
>>477 内麻呂の妻で藤原真夏・冬嗣らの母百済永継は、
のちに桓武天皇の愛妾となって良岑安世を生んだが、
安世は親王にも宣下されず、のちに異父兄冬嗣の恩恵でやっと出世している。
内麻呂の妻の一人は坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)の娘。
こちらの子供たちも官位がぱっとしなかった。
479 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 16:37:33
内麻呂の場合、若い頃については、
年上の従兄弟小黒麻呂のひきが有ったんじゃないのかな。
京家は論外としても式家や南家に比べて威勢の上がらない北家の家長格として、
一族の有望な若者として目をかけていたのでは?
480 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 18:31:18
藤原小黒麻呂は大納言どまりだったね。
平安京遷都の年に没している。
内麻呂は、ちょうど一番勢いがあった式家に
年配者がいなくなった時期に右大臣に出世できたみたいだ。
平安初期までの三家で競合していたときまでだと、
南家、互いに競合関係、むしろ足の引っ張り合い。
北家、対立まではしないが協力もしない、美奈それぞれ我が道を行く。
式家、一門協力して他家・他氏に対抗。
と言う印象を受ける。無論例外もいるが。
京家?そう言えばそんなのも居たね。
482 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 21:22:56
浜成を最後に歴史から消えたの?
483 :
日本@名無史さん:2007/12/27(木) 21:52:36
浜成の孫が大納言になっている。京家の出世頭にして最後の公卿。
平安後期くらいに京家長者と共謀して京家になりすまして五位の位を氏爵で貰ったやつが居たらしく、
成りすまされた当人だったか親戚だったかが訴えたことがあったそうだ。
その後はどうなったのかな、まあいつの間にか消えたんだろう。
京家は再来年の大河ドラマ主役
ああ、直江家はひじょーに珍しい「藤原京家末裔」を自称してるんだっけ。
南魚沼郡かいわいにある古寺には「征東将軍 藤原麻呂御願」という寺伝を持っているところも多い。
487 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 01:30:50
北家は五摂家以外は色黒(浅黒)が多い。五摂家は江戸以降次々皇統男系になったから、もはや藤原の血筋ではない。南家は色白が多い。京家式家はどうなのだろう。
488 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 12:41:08
九州の菊池氏は藤原姓ではないのですか?僕は菊池氏族です。
489 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 12:57:53
九州の菊池氏は藤原姓だよ
490 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 15:30:02
藤原蔵規という人の子孫だっけ。
隆家流は僭称で。
491 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 15:41:40
刀伊の入寇で、太宰権帥藤原隆家(関白藤原道隆の子)の下で働いた
大宰府の官僚藤原蔵規の子孫だと言われているね。
ただ、藤原蔵規より前の系譜については謎。
492 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 17:52:23
493 :
日本@名無史さん:2007/12/28(金) 19:25:30
隆家といえば当時最大の国難を救ったヒーローなのに
ほとんど恩賞も栄典もなかった不遇の人だよな
生まれてくるのが100年早かったんだなw
494 :
日本@名無史さん:2007/12/30(日) 23:56:08
永手は百川に暗殺されたのだろうか。他戸親王を支持していたし、
北家は永手の死後、内麻呂が台頭するまで小黒麻呂しか出世していない。
藤原永手は58歳で死んだから、
当時としてはいい年だけどな。
百川は永手よりも18歳も若かったのだから、
別に暗殺などしなくても
待っていれば普通は永手のほうが先に死んだと思うが。
496 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 05:36:56
497 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:18:05
498 :
日本@名無史さん:2008/01/02(水) 20:21:03
499 :
日本@名無史さん:2008/01/06(日) 22:32:44
>>9 違いは「源氏物語」による「安和の変」の裏取りによる「小野宮家(皇室は藤の木の藤原北家の畑)」つぶしとして、皇室を重んじる立場(藤原が、松柏である皇族の畑や庭)を道長が明らかにできたこと。
500 :
日本@名無史さん:2008/01/07(月) 23:29:02
一番まともなの奥州藤原家ね
人が良すぎて下品で無礼なアズマにやられたが
501 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:44:27
奥州藤原
藤原秀郷の血族である可能性が高いんだっけ
大河ドラマの炎立つで平安末期の摂関家の血族で
あるような取り上げられ方してたけど
そんなに尊貴でもないよね
502 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 10:59:21
後北条みたいなものだと思っていた
地方豪族が受領層と姻戚関係結んで、藤原や源氏を名乗るのは結構あったと思うよ
504 :
日本@名無史さん:2008/01/12(土) 21:59:39
京家の子孫っていつ頃まで貴族社会にいたの?
>>501 藤原秀郷の出自に関しても下毛野国造家かその周辺って説もあるしな
京家の流れからは雅楽家の一流どころが輩出されたようだね。
楽所補任の時期には藤原姓はいないみたいだな。その後に参入?
ほとんどはマイナーな姓だな。
源姓は一人居たけど但し書きを見ると本来は別姓だったようだし。
509 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 12:53:56
藤原の姓(家名)は、北家基経流、もっと言えば摂関家ないし藤原うぢの長者以外名乗れず、別姓設定になった通達ないし根拠、時期に詳しい方はいますか?
510 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 13:06:57
中臣鎌足→天智天皇より藤原姓を受ける
その後、同族の中臣一族に藤原姓を名乗るものが増える
藤原不比等→696年、娘婿文武天皇に勅を出させ、
藤原姓を名乗ることが出来るのは不比等の子孫に限定させ
一族のものは中臣姓に戻すよう命じる。
藤原不比等の子孫=藤原姓
511 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 14:53:45
しかし実際、奈良、平安期に藤原四家内でも、分家が多くなって正式に名乗るのは限定されたのでしょうか(都では)。地方に下向したり、地方官人に嫁がせたりで、女系などで藤原を名乗る人はたくさんいると思いますが、北家流はみな別姓のはず。
藤原氏はずっと藤原氏のままでしょう。
多すぎるから区別する意味でいろいろと呼んでいたけれど、
あれは江戸期の「屋号」みたいなもので、
正式な名前はあくまで藤原朝臣だれそれ。
特に朝廷との関係ではかならず正式な氏姓を名乗るもの。
それも平安初期くらいまではよくわからず、
あったとしてもごくごく非公式なものはず。
ああ奈良時代に一時あったな藤原恵美朝臣が。
氏はあくまでも天皇に与えられたものだから、
嫡流でも勝手に名乗りを禁止とか出来ないと思うけど。
徳川とかの名字は本来私的なものだから、
当主の権限で制限OK。
513 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 15:19:01
何故現在(明治以降)藤原姓が戸籍上、多用で全国的に認められたのだろう、家系も調べずに。
514 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 16:53:01
>511
近衛、鷹司、一条、二条、九条の五摂家は勿論、
西園寺、徳大寺、三条、花山院、大炊御門家、今出川、
阿野、櫛笥、園、橋本、姉小路、水無瀬、冷泉などなど、
藤原不比等の男系に連なる家はすべて「藤原姓」。
正式な署名や尊卑分脈ではみな「藤原○○」と書いているよ。
増えすぎて屋号で呼んでいたようなものだからね。
515 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:12:50
>513
いちいち名字の正統性なんか審査したら国民皆姓なんかできやしない。
申請すりゃそのまま受け付ける。
516 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 19:30:21
五摂家の 男系子孫は残ってるのか?
近衛家は、途中で皇族を養子にして、さらに近衛文麿の長男がシベリアで死亡して
文麿の娘の子である細川元総理の弟を養子にしてるから断絶しまくりだが
他の家は どうなってる?
近衛家は明治維新まで
だったら他系を交えたのは後陽成天皇の皇子一回
だけだからたいしたもんだよ
さすが五摂家筆頭といいたい
518 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 20:23:09
しかしながら、すべて大織冠・内臣藤原鎌足公の男系子孫は安土桃山期まで。後陽成の男系が近衛を通じて江戸中期までにすべて他の四家に養子として入ったので、幕末以降の北家筆頭の五摂家は江戸期を通じ後陽成天皇の男系子孫に変貌(事実上の断絶)
519 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 20:49:03
ん?
他の摂家は一条とか藤原の男系にもどってるだろ。
520 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 21:57:37
平安中期以降の天皇は、女系で藤原氏の血筋ひいてるんだから
天皇家出身者が藤原家継承しても、藤原の血縁は続いている
521 :
日本@名無史さん:2008/01/27(日) 23:12:02
一條家はいつ男系に戻ったのでしょう。
平安期の皇室に入った血筋は、すべて藤原鎌足の女系であり(万世一系のため継体天皇ないし欽明天皇の男系しか養子になれない)、五摂家こそが、鎌足以降の男系藤原が皇室を支える慣例を江戸期に壊すのを黙認し、不比等以来の律令制を実質瓦解させたのです。
522 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 01:09:57
後陽成天皇の五摂家を天皇家に取り込む政策が
見事に成功したわけだな
523 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 04:57:05
そもそも御存知のように、下剋上(身分・階層なんて関係ないさ)から続く戦国時代のどさくさで、平民の木下秀吉を将軍には出来ずにやむを得ず、藤原(摂家)に養子に入れて関白にしてしまったとんでも時代(律令システム実質崩壊)。
524 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 05:06:26
さらに、御存知のように、正親町天皇は変わり種の近衛前久公(正当藤原男系・藤氏長者)をいいようにあしらわれ、実質天皇独裁を打ち立てようとされ(下剋上、藤原が上で天皇は飾りが逆転)、意志を継いだ子の後陽成天皇は、もののみごとに摂関家を潰し始め、
徳川に対しては、むしろ偽(非藤原)の摂関家をあたかも大化の改新以来の由緒ある男系藤原氏であるかのように見せかけ、実質皇室の蕃ぺい(つまり皇室に男系の危機が訪れたら五摂家から皇室の男系を補充できる)としたのです。
525 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 09:28:00
>518
後陽成の男系子孫が入ったのは近衛と一条だけ。
このうち一条は後陽成の男系子孫が3代で絶え、
鷹司→醍醐→大炊御門から次々と養子を迎え、
藤原の男系子孫に戻っている。
鷹司は江戸中期まで断絶することなく道長の男系子孫が継ぎ、
1700年代に一度閑院宮家から男系が養子に入ったが5代で絶え、
九条家から養子を迎えて藤原の血に戻っている。
二条も江戸時代初期まで断絶することなく道長の男系子孫、
その後、2度九条家から養子を迎えて藤原の血で明治維新。
九条は安土桃山時代に藤原の血を伝えていた二条家から養子を迎える。
江戸中期に断絶、当時閑院宮家の男系子孫が継いでいた
鷹司家から養子を迎えるが1代で絶え、
藤原時代の血を継ぐ九条家から養子を出していた
二条家から養子を迎えて藤原の血で明治維新を迎えている。
526 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:07:15
>>524 摂関家を潰すというより、皇子に嗣がせて身内に取り込んだ感じがする。
近衛家は前例のない天皇家から養子を迎えたことで
藤原摂関家であり天皇家の分家でもある特別な家になったのは確かだろう。
527 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 13:18:29
家柄は摂関家(房前道長頼道の男系)、家系(男系)は天皇家(後陽成以降)。幕末まで二条九条の鎌足公男系(嫡流)にもすでに女系化しといた一條などの非男系(天皇男系)が養子に入ったりしてすべて女系化したのでは?
528 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 16:11:58
>527
家系(男系)で天皇男系が残ったのは近衛家だけだよ。
あとの四家は藤原。
529 :
日本@名無史さん:2008/01/28(月) 17:40:34
近衛家は血筋がよく続く
一条も後陽成の息子が養子に入ったけどすぐ途切れてしまった
近衛家は文隆まで続いたんだから
松殿家カワイソス
まつどのは分家ですよね。 三摂家女系・ニ摂家男系なのか、四摂家女系・一摂家男系なのか、それともやはりすべて五摂関家女系なのか、 系図(養子と父方の各先祖)をチェクすべき。
532 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 09:25:43
江戸時代に再興された松殿家は松殿道基一代で途絶えてしまい、
松殿家の遺領は道基の父九条幸家が伝領した。
さらに九条尚家の子松殿忠孝が再興したがこちらも一代で絶えた。
なお、平安時代末期に摂関家より分かれた松殿家は戦国時代に断絶。
江戸時代に五摂家のひとつ九条家に松殿復興の権利が与えられたのは、
九条幸家の正室で道基の母である豊臣完子が将軍徳川秀忠正室お江与の娘であり、
義父である将軍秀忠の養女になっていた影響が大きいとされる。
533 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 11:41:37
>>531 現在の五摂家子孫直系に天皇男系子孫は残っておらず
近衛の嫡流は細川家の男系子孫
近衛の庶系に後陽成天皇の男系男子あり
現在の九条家、二条家、鷹司家は藤原道長の男系子孫
一条家も大炊御門の血筋ではあるが藤原道長の男系子孫
534 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 22:21:04
摂政まつどのモトフサ公って、だしょう大臣平清盛公やその子供らに、だいぶ痛めつけられたり、イジメられたね、かわいそう。
535 :
日本@名無史さん:2008/01/29(火) 23:39:56
鷹司は大給松平からの養子が当主なので、細川同様武家の子孫。
536 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 00:28:16
九条家、二条家が摂関家の血筋。
ここまでは良い。
一条家は中山家(大炊御門には中山家から養子が入る)の血筋。
近衛家、鷹司家に至っては細川、松平の血筋で藤原氏ですらない。
江戸期の松殿は家格は清華?
そうですね
539 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 02:57:56
細川は近衛から分家したときは、道長男系だったのが、どこから変転したんだろ。
>>532 豊臣秀勝は丹波亀山城主時代に淀殿妹達子と結婚し、豊臣完子(さだこ)を産んだ。
豊臣完子は後に淀殿の仲介により九条家へ嫁ぎ子孫を残した。
九条家は明治維新で功績があった。大正天皇の皇后は、九条節子(さだこ)である。
大正天皇の皇后節子姫は昭和天皇を生んでいる。そして平成天皇と続くのである。
↑ネットでこんな記述見つけたんだけど、
九条家は、江戸時代に養子は入ってないの?
入ってなかったら、完子の血、ひいては秀吉の親族の農民の血が皇室に入ってるってこと??
541 :
日本@名無史さん:2008/01/30(水) 09:34:00
>>536 中山家は藤原北家花山院流の庶流で、
そこからさかのぼると藤原道長に行き着く。
藤原道長の男系子孫。
近衛は現当主が女系相続、庶流には後陽成男系子孫がある。
鷹司も本家が松平からの養子。
分家に九条家の流れを汲む藤原道長の男系子孫が残っている。
藤原氏は天智天皇の男系子孫
543 :
日本@名無史さん:2008/02/02(土) 23:12:49
うえ出まかせ中
>>540 木下弥右衛門−瑞龍院(豊臣秀吉姉)−豊臣秀勝−豊臣完子(九条幸家室)−
九条道房−慈雲院(九条兼晴室)−九条輔実−九条幸教−二条宗基−二条治孝−
九条尚忠−九条道孝−九条節子(貞明皇后)−昭和天皇−今上天皇
545 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 19:28:43
>>534 近衛家の未亡人平盛子が没すると所領を没収するなど
後白河に協力して反平氏の立場をあらわにしていたからね
546 :
日本@名無史さん:2008/02/03(日) 23:59:57
まつどの基房公は、やり手貴族だったのか、個人として。それとも松殿家を五摂家筆頭の位置に押し上げたかったのか、あるいは彼自身は摂政の位に在りながら、背後で近衛家などが糸を引いていたのか。
547 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 17:14:08
基房はたまたま長兄が早死にで後継者が幼かったために
摂関になれただけ
基房にすれば当然、摂関の地位を兄の子である近衛家に返したくはなく、
兄の系統である近衛家と対立した
基房は平氏に庇護された近衛家と対立して木曽義仲に味方したため
義仲が討たれると冷遇され基房と息子の代以降摂関を出すことは無かった
548 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 17:50:13
松殿って名前だと殿とつけて呼ぶとき
松殿殿になって変になっちゃうな
549 :
日本@名無史さん:2008/02/05(火) 23:49:00
平家が近衛を庇護したとは初耳。後白河院はじめ摂関も皇室も、聖武天皇建立の東大寺を平氏一門が焼いてからは、完全に朝敵になってしまうのに。その前までかな。
550 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 10:17:08
早くに父を失った近衛基通を平盛子と清盛がバックアップしただろ。
近衛の遺産を独占しようという思惑もあったようだが、清盛が庇護しなければ
近衛家は没落していたかもしれない。
551 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 12:28:41
その結果まつどの家が五摂家筆頭に、というシナリオ書いてたのかな、近衛家の分家さん
552 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 13:25:00
太政大臣たいら清盛公に、足で踏み付けられ、縁側から突き落とされ、なおも踏み付けられた、藤原上級貴族はどなたでしたか?
>551
そのシナリオもも義仲と組んだのが運のつきかな
結局、頼朝と組んだ兼実が最後は摂家の一角に名を残したのだから
歴史というものはおもしろいね
554 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 14:55:46
>546−551
五摂家、五摂家、と書いている人がいるけど、
この時代まだ五摂家はないよね。
あったのは兄藤原基実(近衛家の祖)の家系と
弟藤原基房(松殿の祖)の家系。
基実や基房の弟藤原兼実(九条家の祖)が摂関になるのは
松殿親子が失脚した後。
近衛家から鷹司家が別れ、
九条家から二条家、一条家が別れて五摂家となるのは、
基房の兄弟である基実や兼実の曽孫の世代のとき。
555 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 16:36:21
>>554 ときの執権の北条頼時が権力を分散させるために五つに分けたと
なにかで読んだ気がするのですが、武家主導だったのですか?
557 :
日本@名無史さん:2008/02/06(水) 23:53:38
後白河法皇・六條天皇の時(平安末期)、藤原頼道より6世代目で近衛基実・松殿基房・九絛兼実の三兄弟の3摂家に始めて別れ、
北条泰時・後掘河天皇の時代に(鎌倉中期)、九絛家初代兼実より4世代目で九絛教実・二絛良実・一絛実経の三兄弟に分家し、
同じ頃、近衛基実より4世代目で近衛兼経・鷹司兼平の二兄弟に分立し、
5摂関家となったようです。松殿家は格下? 西園寺家や三条家、花山院家、久我家も大臣にはなってる?
558 :
日本@名無史さん:2008/02/13(水) 23:29:59
マツデンなんてフツーの人は誰も知らないからな。
藤原隆家さまこそ最高の方。藤原氏中興の祖である道長の子にして日本を糞チョン刀伊から守った英雄。北条時宗とともにもっとスポットを当てられても良い人物。
>>559 日本史板だから完全無視か全力スルーか
つっこんでいいかどうか迷っている・・・w
561 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 20:19:50
薬子の変での内麻呂の動向がまったくわからないのが気になる。
息子の真夏が失脚してるのに。
562 :
日本@名無史さん:2008/02/24(日) 21:06:26
藤原不比等は天智派だったのか、天武派だったのか、だれか教えておくれ。
>>562 んなこと言われても壬申の乱当時はまだ子供だしw
564 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 08:36:44
藤原不比等
11歳 父藤原鎌足死去
14歳 天智天皇死去、壬申の乱。
近江朝廷側で一族の中臣金は斬られたが、不比等は若年のため罪に問われず。
28歳 天武天皇没。天武皇后鸕野讚良皇女(持統天皇)による称制開始。
30歳 不比等、直広肆に出世。
鸕野讚良皇女に登用されたのは、不比等の妻が蘇我一族(おそらく鸕野讚良皇女の従姉妹)
だったためか。こののち、直広弐に出世。
39歳 長女宮子を文武天皇の夫人にする
43歳 この頃、元明天皇お気に入りの女官、県犬養橘三千代を後妻とする。
大納言に昇進。
44歳 外孫首皇子(聖武天皇)、三女安宿媛(光明皇后)誕生。
51歳 正二位。右大臣。
57歳 外孫首皇子、元正天皇の皇太子にたてられる。
59歳 三女の安宿媛と孫首皇子が結婚。
63歳 死去
565 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 15:05:51
五摂家の持ち回りが崩れなかったのはなぜですか?
鷹司家は当主不在の絶家状態にまでなったのに復活。
確かに不思議ですね。
官職として機能させるためには1家では無理だろうというのはわかりますが、
別に四摂家でも大して問題ないと思うのですが。
逆に言うと六摂家でも問題ないような。
さすがに10家超えたり、2家以下だときついでしょうけど。
567 :
日本@名無史さん:2008/02/28(木) 21:47:00
持ち回りは崩れなかったけれども
一人で長いこと摂関やったりしている人はいるね
江戸時代は摂関家同士で複雑に養子のやりあいをしていて
みんなが親戚関係にあって対立も生まれにくかったのかも
568 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 07:32:54
>>1家では無理だろうというのはわかりますが、
>>別に四摂家でも大して問題ないと思うのですが
いや、1家では困るでしょう。
もともと摂家が5つに分裂したのは、内紛によってです。
嫡流である近衛家は関白職が
分家である九条家に流れるのに最後まで反対していました。
あくまで関白叙任は北家嫡流の近衛家のみだ、という主張です。
それに対し九条家は、二条、一条と
次々に分家を関白職につけていったため、
それへの対抗上、近衛家もやむなく分家の
鷹司家から関白を出したのです。
ここで摂家は5つになったのですね。
もし鷹司家が断絶すれば、近衛家は孤立無援となります。
ただでさえ九条家は、源頼朝の姪の娘を娶り、
その子供を鎌倉幕府4代将軍に据えるなどして、
近衛家を圧迫していましたからね。
ですから近衛にとって鷹司家は必要だったのでしょう
569 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 07:36:07
そんなことより、どうして日本書紀は
藤原鎌足の両親が誰だったか明かしていないんだよ?
え?
鎌足には百済の義慈王の子供であるという
重大な嫌疑がかけらえているだろうに?
このことを本格的に論じもせず、
どうして摂家の話なんかするんだよ?
>>568 武家政権から見ても最高位の公家が適当に分裂してる方が御しやすかった
んでしょうね。
571 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 09:38:18
>>568 九条、二条、一条、三家の祖九条道家は四条天皇の外祖父として力があった人なんですよね。
摂家将軍の父としてというより、九条道家の力の源はなんといっても
天皇の外祖父としての摂関の地位であり、嫡流の近衛家にすら
自分の娘を送りこんでで黙らせ、長男教実に関白を父子相続しています。
教実が早世したためやむなくその弟二条良実を摂関に据えます。
ところが、四条天皇急死後即位した後嵯峨天皇には、
九条道家の舅でもあった西園寺公経が孫娘を入れてあっという間に立后させてしまいます。
怒った道家は公経の子実氏と妻同士が姉妹で親しかった二条良実を関白から追って義絶し、
四男一条実経を関白に据え、以後、自分の嫡流は実経とすると宣言します。
もっとも、実経も、父道家が子の先将軍頼経とともに鎌倉幕府転覆を謀ったとして蟄居を言い渡されると
これに連座して関白の座を追われ、九条道家の独断による関白移譲は終わりを告げ、
近衛系の摂関や道家が嫡流とした一条家の兄たち、九条、二条の摂関も復活してきます。
九条道家が子分を増やしたくて二条、一条を意図的に分家させたのではなく、
道家は一条家のみが嫡流であると言っていたわけで、それは違う。
九条道家が失脚したあと摂関が持ち回りのようになるのは
もちろん鎌倉幕府にとっても都合がよかったでしょうね。
>>568 鷹司家設立にはそう言う意図があったのかもしれませんが、
そんな後世まで同族意識が働いていたものでしょうか?
むしろ摂家全体としての同僚意識や、個別の家ごとの対抗意識の方が強かったのでは?
573 :
日本@名無史さん:2008/03/01(土) 10:03:23
近衛、鷹司がタッグを組んで
九条、二条、一条と対立するという図式は確かにない。
九条、二条、一条など成立当初から対立していたし。
574 :
573:2008/03/01(土) 11:55:34
568は論旨を、後世からみた結果論で割り切りすぎている。
近衛家が九条家と対抗したというが、
近衛のいったいどこにそんな力あった?
笑わせるぜ。
五摂家分立後もまだ完全に家格として確定はしていなかったらしい面もある。
当主が関白にならずに死ぬと最初期では脱落しかねなかった。
江戸時代の終わり頃は一条と鷹司の関白就任が多かったらしい。
これがもっと昔なら近衛や九条を抑えて比較的家格が低い家を登用とかの意図が有りそうだが、
江戸時代ではそんなこともなさそうだし?
単に当該時期の両家にたまたま有能な人物が多かっただけ?
577 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 13:27:27
>>570 GJ 逆に五摂関家側(特に摂家将軍を送り込んでいる家)は、執権北條家を分家させ、権力をたらい回しさせて結局鎌倉府を弱体化させてる。鎌倉側の奇策は五摂家分立の次は、京六波羅や将軍本家を通じての天皇家の分立(つまり南北朝)の開始でした。
578 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 14:16:05
>>576 江戸時代、摂関に上れる家柄は幕府が
「禁中並びに公家諸法度」で定めていて、
公家が好き勝手に登用するなどとんでもなかった。
幕末に一条と鷹司が多かったのは偶然(当主の年齢など)。
江戸時代は五摂家同士で複雑な養子のやりあいをしていて、
必ずしも対立が生まれづらかった。
579 :
日本@名無史さん:2008/03/15(土) 14:35:13
近衛忠大
九条道成
鷹司尚通
一条実昭
二条正基
結局九条流の嫡流は一条家なのか九条家なのかどっちなんだ?
581 :
623:2008/03/24(月) 07:16:08
藤原氏って、「百済倭良」の読みの音から創氏したってマジ?
「フジハラ」なんで、多分違う
583 :
日本@名無史さん:2008/03/24(月) 19:07:14
藤原は地名だよ。
大和国高市郡藤原。
鎌足はここで生まれたとされる。
持統天皇建設の藤原宮にも使われたとおり、
そういう地名があった。
平安京=藤原京
587 :
日本@名無史さん:2008/03/28(金) 22:21:45
道長の一番下の兄の藤原道義って何で公卿にもなれなかったの?
588 :
日本@名無史さん:2008/03/29(土) 07:53:01
>>587 大鏡は「世の痴れ者」なんてサラっと書き飛ばしてるけど、
要は何かの障害があったんではないかね。
589 :
日本@名無史さん:2008/04/07(月) 23:27:33
なぜ政商三井は藤氏を仮冒したのですか?
591 :
日本@名無史さん:2008/04/20(日) 23:30:02
北家スレになっちゃうよ
南家スレッドも作って下さい
594 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 09:19:07
>>588 落窪物語に出てくる面白の駒のモデルだっけ?
北家以外の3家の単独スレ立ったんだねぇ
いつまで持つことやら
大昔の女帝スレ騒動を思い出してしまったw
597 :
日本@名無史さん:2008/04/21(月) 23:37:19
そろそろ定恵でも語るべ
不比等の五人の娘=光明子、宮子、長娥子、多比能、大伴古慈悲室もな。
この古慈悲室だけ名前が伝わっていないのは何故だろうか。
一人だけ皇族や元皇族に嫁いでいないところを見ると、母親の身分が低かったのか。
>>598のあげたうち「長娥子」は角田文衛氏の考察によるもので
「不比等女長娥子」と明文化された史料があるわけではない・・・でも99.9%不比等次女の実名で確定だろうけどw
古慈悲室は
それらしい人物が宮仕えしてない=官位をもらってない=史料から推測できない
ということでしょうな
600 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 03:54:12
藤原富子なる人物を教えて下さい。絶世の美女だったのですか?
601 :
日本@名無史さん:2008/04/22(火) 18:28:17
>>598 藤原不比等は光明子20歳のときに没している
五女だけ夫の身分が低いのは嫁ぐ前に父不比等が没したためだと思われる
母親の身分だけ言えば文武夫人宮子の母だという賀茂比売も特別高くない
長娥子の生母も不詳だし
602 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 18:05:02
藤原永手って藤原北家?
鳥飼の弟で眞楯の兄。小黒麻呂や内麻呂の伯父
604 :
日本@名無史さん:2008/05/04(日) 19:22:56
藤原永手は生前に正一位になった数少ない人物。
生前正一位は他に橘諸兄、藤原仲麻呂、三条実美くらいのもの。
藤原武智麻呂は実質贈位みたいなものだけど、一応は生前ってことになっている。
武智麿は大化の改新の功労者中臣鎌足(大織冠)の直系卑属だから、天皇家も扱いは軽視は出来なかっただろう。
藤原家→→→→四家に分裂の結末......
608 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 12:42:25
藤原弟貞や藤原石津はここでいいですか?
まあ良いんじゃないですか
藤原は糞
611 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:43:14
内麻呂の息子の真夏、冬嗣、秋継、桜麻呂って名付け方はどうなの?
普通は冬嗣の息子の長良、良房、良相、良門、良世や
兼家の息子の道隆、道綱、道兼、道長みたいに兄弟で同じ字を付けるのが一般的だと思うけど。
612 :
日本@名無史さん:2008/05/10(土) 22:51:40
>>611 兄弟に同じ一字をとって付けるようになるのは、
平安時代の淳和天皇の皇子ぐらいから。
貴族も次第にこれを真似するようになったが、
内麻呂の頃にはまだこういう風習はなかったんじゃないだろうか。
冬嗣と同じ年頃の藤原一族は緒嗣等「嗣」がつくものが多い。
良房と同じ年頃は「良」がつくものが多い。
かなり遠い一族でも例がある。これはなんなんだろう?
中国式だと世代で共通の字を使うこともあるが、この場合は世代はバラバラ、
緒嗣は冬嗣の父内麻呂と同世代(どちらも不比等の曾孫)。
単なる流行なのか?
マロ
615 :
日本@名無史さん:2008/05/26(月) 19:32:03
九条さんって犬娘?
616 :
日本@名無史さん:2008/05/31(土) 12:30:43
藤原佳美子(光孝天皇女御)と藤原滋子(源能有室)の二名は、
本当に藤原基経の娘なのでしょうか。
617 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:05:39
618 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:07:56
「部落の源流 千二百年の悲愁 高本 力 著 彩流社」
「部落の源流 高本 力 著 三一書房」
「法律家のみた被差別部落の起こりと歴史 山中 順雅 著 国書刊行会」
「天皇制と部落差別 部落差別は今なぜあるのか 上杉 聡 著 三一書房」
これを読めば部落差別の起源がわかる。部落差別解放同盟のプロパガンダ、中世起源説にだまされるな
619 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:09:39
藤原性は、岡山、兵庫に多い、山口組の本拠地は兵庫県だ。
620 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:10:20
住友銀行は東京進出の足がかりに山口組を地上げ部隊として使ったのである。
621 :
日本@名無史さん:2008/06/04(水) 05:10:56
そんな住友銀行は信濃町に銀行会館がある
信濃町は創価学会の巣である。
ふひとの子孫
624 :
日本@名無史さん:2008/07/07(月) 23:28:20
子孫で藤原姓?
藤原の子孫は藤原姓を名乗らないと何度言ったら…
>>604 永手は嫡流で恵美押勝打倒と光仁天皇即位の最大級の功労者だから、行き着くところ正一位を与えるしかなかった。
子孫が不振だったから今の知名度は低いが、当時としては不比等クラスの重鎮だった。
627 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 21:05:44
橘諸兄、藤原仲麻呂、藤原永手と生前正一位を貰った者の子孫は繁栄しないジンクスがある。
従いちいはok?
629 :
日本@名無史さん:2008/07/12(土) 23:17:39
実質的に生前正一位は永手が最後。
三条実美は生前といっても死の直前。
630 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 19:54:00
>627
橘諸兄の子孫からは平安時代にも皇后や右大臣が出
女系で天皇家にもつながっている
藤原道長の母方の祖母は橘氏でそのために道長の同母兄道隆が自ら望んで
橘氏の氏寺である梅宮神社の祭祀を行っていたことは有名
女系で天皇家や藤原摂関家につながっているよ
男系は平安末期以降有名どころは出なくなったが
631 :
日本@名無史さん:2008/07/13(日) 22:26:40
永手系が没落していなかったら内麻呂の出る幕はない
>>612 更に親子間で一字を継ぐのが発生するのは11世紀以後
633 :
日本@名無史さん:2008/08/15(金) 21:29:16
親子間で一字を継ぐ名付け方は閑院流がよくやる
634 :
日本@名無史さん:2008/08/16(土) 10:09:07
閑院流の確立自体が11世紀だろう
636 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:49:25
清華以上の家格を保てたのは閑院流と師実系のみ
637 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 10:08:24
尋範と行玄は、師通の同母兄弟らしいけど生母の年齢的に明らかにおかしい。
638 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:16:12
>>637 ソースは何?
尋範と行玄は、師通とは異母。
師通は、関白藤原師実とその正室源麗子との唯一の子。
師実は父頼通とは異なり好色だったといわれ
そのために師通に異母兄弟は多かったが、すべて母親違い。
ちなみに師実にはいろんな女性に産ませた一説に16人いた子供の全員が男子で
后がねとするべき女子が一人も誕生しなかった。
摂関家に女子がないのは致命的、
そのために師通と麗子夫妻は麗子の兄源顕房の娘である賢子を養女にして褓繦のことから育て、
白河天皇に入内させている。
639 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 20:54:52
640 :
日本@名無史さん:2008/10/22(水) 21:23:31
>>639 尊卑分脈は室町時代の成立。
あてにならない。
どのくらいあてにならないかというと、
藤原道長の娘に源高明室がいたり、
(道長より52歳も年上で道長が18歳の時に死んだ源高明の室に
道長の娘がなったとは考えられず、
源高明の娘が道長の妻になったのをあやまったか)
当時の一次史料に出てこない天皇妃が記載されていたりする。
母親の名前を間違えるのは当たり前。
尊卑分脈が間違えたというより作者が参考にした膨大な資料の中に
誤りがあったかもしれずどこでどう間違えたのかは知らないが
「尊卑分脈」はそれなりに評価すべき史料ではあるが
何代も前の時代のものは信憑性がないということ。
同時代の一次史料に勝るものではけしてない。
641 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:14:22
師実の子供の兄弟順は分脈の通りで合っているのかな?
単に僧形の者が後ろに行っているだけのようにも見える。
642 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:18:19
師実の子供の兄弟順は分脈の通りで合っているのかな?
単に僧形の者が後ろに行っているだけのようにも見える。
643 :
日本@名無史さん:2008/10/24(金) 13:56:12
連投スマソ
644 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 00:32:00
前に忠実忠通父子の事を書き込んだ事があるが
忠通の不誠実さ(後継者の約束を違えた)こそ問題視するレスを頂いた
それももっともだが私見ではあえて忠実の政治力のなさを問題にしたい
白河法皇に対し一定の発言力を保持した師通の早逝後摂関家を背負って立つ立場なのに
生来の潔癖性(?)からか後の待賢門院と忠通との婚姻を拒否したり(露骨ではないが)娘の入内を拒むなど
もうちょっとうまく立ち回れなかったものか?
あげくは摂関を罷免され忠通と代わる
これが父子仲違いの遠因は言えないだろうか?
645 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 01:34:09
確か忠実は父の後を継ぐ時
氏長者の地位(当然摂関の地位と直結)を叔父たち(後の大炊御門や花山院の祖)に取られかねなかった
それは免れたが氏の中でも立場の弱化は避けられない
同情の余地は有りそう
646 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 05:00:49
俺思うに
兼家以降
兼家 父師輔とはタイプが違うが最終的に勝者になったのはもともと能力が認められていたのでは
道長 運も実力のうちという言葉が当てはまるぐらい強運の持ち主(とは言え政治能力ではこの前後で一番)
頼通 恐妻家(父亡き後は政治家として成長したのはさすが)
師実 晩年の子で有能でも叔父(教通)との関係は苦労しだろう
師通 摂関としての権力の源泉、実質的人事権を保持してた最後の人
647 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 05:12:50
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
天皇を殺せ
648 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 06:02:36
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
アメリカを殺せ
649 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 09:25:36
>>644 忠実に潔癖さがなければ結婚前に不貞を働いた璋子(待賢門院)
(璋子の密通相手の男性官僚の名が忠実の日記に上がっている)
と愛息忠通の結婚を許していた?
忠実がこの結婚に難色を示した最大の理由はほかにあると思う。
忠実自身、最初の正室とは相当若いころに別れ、
その後長年関白夫人として連れ添った源師子は白河天皇に手をつけられたことがある女性であって
忠実との結婚が初めてだったわけじゃないし、そういう意味での潔癖さはなかったと思うんだよね。
忠実は院政そのものを否定していた。
そのことは忠実の父師通の日記にも繰り返し出ていて、
師通は堀河天皇を補佐・代行するのは関白である自分をおいてほかになく、
隠居した天皇である堀河天皇の父白河上皇の政治介入を言語道断と批判、
たびたび白河上皇の命令を全く無視した行動をとっていた。
当然、父の残した日記を熟読したであろう忠実は(この時代の貴族の日記は子孫のために残すものでもある)
父師通の思想に従って院政無視、天皇を援ける関白が全権掌握の意向を強くもっていたであろうことが伺える。
つまり、忠実は、隠居したはずの上皇が主導で
鳥羽天皇の配偶者や自分の息子の配偶者までを選ぶことが我慢ならなかったのだ。
そのために、鳥羽天皇に自ら働きかけて、白河上皇抜きで娘の入内をはかろうとしたし、
白河上皇の息のかかった璋子が摂関家に入り込むことを阻止しようとした。
しかしながら、当時の天皇と姻戚関係を持たない忠実の頃の摂関家は軟弱。
天皇との強い姻戚関係で結ばれた道長時代ならばいざ知らず、
天皇の直系尊属である白河上皇の強い政治力に打ちのめされてしまった。
忠実と白河法皇の関係が悪化したのは、師子の存在も影響したのかな?
白河にすれば、かつての女が他の男と仲良くしているのが癇に障ったのかも。
651 :
日本@名無史さん:2008/10/26(日) 19:50:57
白河院は女関係での失態が多いからな。
崇徳院が鳥羽院に叔父子と呼ばれて、白河院の子だと疑われたり。
652 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 19:59:45
白河には妙に偏執狂と思われる逸話が多いな
でもそれを押し通しちゃうだからたいした能力の持ち主
回りは大変だ
653 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 20:38:35
>>650 忠実は師子が白河上皇に捨てられた(?)のを知っていて
妻にしたのだから、そこまで器の小さい男だとは思いたくないのだが。
当時の史料に従えば、師子は子を孕んだまま白河上皇に「捨てられた」らしい。
白河上皇の女だったのを忠実に奪われたとかいうことではない。
歴史物語「増鏡」などを加味しながら書いてみると、
師子は子を孕んだまま白河上皇に捨てられ、父にも知らぬ存ぜぬと困惑され、
(実際に、父の源顕房は結婚前の師子と白河上皇の密通を知らなかったのだが)
生まれた子も仁和寺に入れられ、傷心の師子は叔母の源麗子のもとに身を寄せていた。
源麗子は関白藤原師実の正室。
そこで麗子の孫で師通の長男である藤原忠実に見染められた。
忠実は9歳年上のかつての院の愛人への恋心を祖母麗子に打ち明けるにあたって
反対されると思っていたようだが、案外麗子はすんなり師子と忠実の仲を取り持ったらしい。
654 :
日本@名無史さん:2008/10/27(月) 21:03:09
>>651 ひとつ言っておくが忠実の日記に出ている
璋子の密通相手は白河上皇ではないよ
いつから璋子と白河上皇が密通している話になったのか知らないが
少なくとも忠実が婚姻を断った理由として挙がっている
璋子の密通の相手は別の男。
どっちにしろ
下半身のだらしない女だったんだな>璋子
今と貞操観念が違いすぎる平安女性を現代の観念で語るのが間違いなのは承知で書いてみた。
>>653 『増鏡』は読んでませんが、『今鏡』によると「富家の大臣(忠実)若くおわしける時、
(師子を)はつかにのぞきて見給えることありけるより、御病になりて悩み給いけるを
命も絶えぬべくおぼゆること侍れど、心にかなうべきならねば、世に永らえ侍らんことも
侍るまじ、また心のままに侍らばいかなる重き罪もこうむる身にもなりぬべし。いずれにか
良く侍らんと、京極の北の方(麗子)に申し給いけるにや。いかにも御命おわしまさんことに
勝ることはあるまじければとて、院に申させ給いたりけるとか」とあり、師子に一目惚れした
忠実がこのまま焦がれ死にするか、盗み出そうか迷ったあげく、祖母の麗子に泣きついた模様。
白河上皇が師子を捨てたとは記されていないようです。史料を具体的に挙げてもらえると
有難いんですが・・・。
>>655 こやつのせいで一生日陰の身に置かれた藤原季通は不憫過ぎ。
まあ現代で言う淫行教師みたいなもんだから仕方ない面もあるが。
658 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 05:26:07
>>656 最後まで女御だよ
生んだ子も親王宣下を受けてる
>>657 筝の師匠だっけ?
現代に置き換えているのはワロタ
659 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:34:51
660 :
日本@名無史さん:2008/10/28(火) 19:39:29
>>658 源師子が女御宣下を受けた事実はない。
師子が白河上皇との間に産んだ覚法法親王が法親王宣下を受けたのは
覚法が21歳の時。
覚法は仁和寺に入って異母兄覚行法親王を師として修業に励んでいたが、
1905年に異母兄覚行法親王が亡くなり、仁和寺は新たな御室として法親王を望み、
白河上皇もこれに同意して隠し子であった覚法に法親王宣下を与えたものらしい。
覚法法親王は異父弟妹である関白藤原忠実や泰子らとも交流があったようだ。
661 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 01:53:05
>>655 しかし結果とはいえ璋子の生んだ後白河が現代に続く皇統の祖になってるし
兄弟が徳大寺、三条、西園寺の祖になってるんだから
女として勝組?(晩年は寂寥の日々だったようだが)
話は変わるがこの閑院流三家の序列は?
662 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 02:36:06
鳥羽院は政治の面では白河院と同様だが
人となりは穏やかな性格だったようだ
白河院の死後も崇徳、待賢門院をそれなりに遇してるし
忠実を復活させたが父子の争いからは中立
一変したの近衛天皇の崩御以降
663 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 20:37:41
>>662 崇徳は待賢門院が密通してできた子だというのは
鳥羽院と崇徳が親子であるにもかかわらず不仲になったことから言われだした話。
崇徳が生まれたころ、また在位中にはそのよう内容を記した史料をあげることができない。
崇徳と鳥羽が実の親子ならば、鳥羽が崇徳や待賢門院をそれなり遇するのは当たり前だろ。
ちなみに鳥羽が呪詛の疑いをかけて待賢門院を出家に追い込んで遠ざけたのは
近衛天皇在世中、近衛天皇が即位して間もなく。
鳥羽天皇が変わったのは近衛天皇の崩御前。
664 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:13:04
>>663 そこまで断言するか
くだんの事件は得子や忠通の主導では?
665 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:19:35
連投すまん
>>662 >鳥羽院と崇徳が親子であるにもかかわらず不仲になったことから言われだした話。
ソースプリーズ
ないことを主張されたとしても否定しようがない
666 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:21:43
×662
○663
667 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:25:09
>>665 崇徳が白河の子であるという最古の伝承(古事談は一次史料ではなく噂話を集めたものだから)
にさかのぼっても崇徳の生まれたころや在位中までさかのぼれない
一次史料で確認できないということ
一次史料で確認できるかい?
668 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 22:36:19
>>667 そんな事は分かりきった事
通説では叔父子が多数派だが現在では確かめようも無い事
俺が聞いてるのは
663のレスの内容が余りにも断言口調なんで(脳内妄想に見える)
せめて質問ぐらいは答えたら
議論はそれから
669 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:17:08
「藤原氏」は7世紀頃、百済滅亡後その王族達が日本に渡来して来て当時の
天皇に仕えその後「藤原」の姓を授かった
中臣鎌足はその中の一人
670 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:23:30
脳内妄想氏がまた現れたかorz
671 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:24:01
>>656 忠実も物好きだな。上皇のお手つき済みで8歳も年上の女に惚れるとは。
672 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:28:00 BE:546678656-2BP(171)
朝鮮人詭弁乙
673 :
日本@名無史さん:2008/10/29(水) 23:30:11
藤房
>>659 ありがとうございます。『栄花物語』巻39(布引の滝)にありました。
源大納言(顕房)の娘が東北院(上東門院彰子)に仕えていたのを、
内(白河天皇)が聞いて、こっそり呼び寄せた。懐妊して皇子を産んだが
天皇からは何の便りもない。女院は不憫に思い、手を差し伸べた。
大納言殿は「もし自分の娘だったら主上のお召しがあっても参上することは
ない」と言った(以上要約)。
おかしな箇所があったので挙げてみます。
彰子が死去した時(1074年)、白河天皇は22歳、師子は5歳。
覚法が生まれた年(1092年)、白河は皇位になく、顕房は右大臣。
「内」「大納言」というのは変。
この記事、本当に信憑性があるんでしょうか・・・?
>>674 「栄花物語」は年代的におかしい箇所は多い。この箇所に限らず。
だた、初稿(赤染衛門の筆?)以降も宮中女房が書き継いでいったと思われるから、
天皇の妃や愛妾の記事については男性の書いた史料では簡単にしか触れられてない個所も
かなり詳細な記事を載せる記事も多い。
ただ、右大臣源顕房の娘で白河天皇中宮賢子を姉(異母姉の説も)とする師子が、
白河院との間に男子を産んでもなお、女御にもなれず、皇子も皇位継承候補として扱われていないこと、
それどころか所生の皇子は寺に入れられて20歳過ぎまで親王宣下を受けられなかったことなどから
師子に対し白河院は相応の処遇をなんら与えなかった(冷遇した)、
また父の顕房も白河院に対して師子に相応の待遇を求めなかった(密通のため?)ことは言えるのでしょう。
>>675 白河の正式な后は賢子(中宮)と道子(女御)だけ、親王宣下された皇子も
賢子の産んだ敦文親王(夭折)・善仁親王(堀河天皇)だけ(法親王は除外)
なので、白河が賢子以外の女性をそれほど大切にしていなかったというのは
同意です。ただ、師子を捨てたというのはどうかな?という気がします。
師子が白河と縁が切れてフリーの状態なら、忠実が「重い罪になるかも」と悩んだり
麗子が「院のお許しをいただかねば」という話にはならないと思うんですが。
っていうか、白河は皇位継承者の同母兄弟以外の皇子は母親の身分を問わずに全員強制的に出家させていた。
これは堀河や鳥羽の皇子にも強要している(近衛は崇徳の異母弟だが、出生時に白河が既に死んでいたために出家を免れた)
そもそも、法親王の制度は強制的に出家させて皇位継承権を剥奪した皇子達を懐柔するために作った制度だから、それ以前には出家した皇子(俗世の人間ではない)に俗世の称号である親王号が送られるのは原則的には無かった。
678 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 01:58:30
679 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 02:08:13
678です
ちょっと失礼な書き込みはご容赦を
いいたいのは現存のご存知の文字史料、文献だけで断言されてるから
師子が女御と記されてるものも確かある
680 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 20:58:04
>>679 師子が女御とされている史料
一次史料でそんなのあったっけ?
なかったと思うけど。
681 :
日本@名無史さん:2008/11/07(金) 21:03:22
>>676>>677 ここで問題になっているのは源師子が
右大臣源顕房の娘であり、中宮賢子の妹であるという点じゃないの?
師子が一介の受領の娘や一回限りお召しに預かった女官にすぎないならば、
白河が生涯に手をつけた実家に権力がないその他の女官たちと同様
皇子が仏門に入れられ成人後まで法親王宣下が受けられなくてもそんなもんだっただろう。
大臣の娘でありながらここまで粗略に扱われた例は類をみない。
それが問題になってるんでしょ。
682 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 02:39:31
>>680 一次資料というには同時代の貴族の日記しかない
それを見ると(全部読んだ事はないが、あしからず)賢子の死後の白河院は
手当たりしだい(?)女に手をつけて省みなかったと思わせる記述が複数ある
どうも師子に関してこれ以上やっても水掛け論になりそうだ
ソースを出してくれる人がいれば別だが・・・
覚法が生まれた年(1092年)から考えると、師子は白河譲位(1086年)後の
妃ですよね。上皇の妃が女御になるなんて、この時期にあったんでしょうか?
後年、美福門院・建春門院のような例も出てきますが、これは国母という
理由でなんとか説明できます。忠実の娘・泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃に
なって女御宣下・立后した時は、先例がないと大騒ぎになったはず。
684 :
日本@名無史さん:2008/11/08(土) 21:57:22
白河上皇が譲位後に手をつけた師子は女御ではなかっただろうね。
もっとも、先例を求めるならば、
宇多法皇が同様に退位後、左大臣藤原忠平の娘褒子に手をつけた例がある。
すでに治世は宇多法皇の息子である醍醐天皇の世。
褒子は「京極御息所」と呼ばれて歌会を主宰するなど上皇妃として優雅な生活を送り、
褒子の3人の男子も俗世のまま親王宣下を受けている。
宇多法皇の男子で親王宣下を受けたのは女御以上を母に持つ皇子だけで、
ほかは皆臣籍降下させられていることを見れば、
褒子が退位後の妃であっても女御と同様の扱いを受けていたことがわかる。
これを見ても大臣の娘でありながら師子が「御息所」として
白河法皇から生活の安定をもらうわけでもなく、
白河の女御以上の妃が生んだ皇子女は出家させられず親王、内親王宣下を受けているのに
師子の皇子が出家させられたのは大臣の娘に相応な待遇とは言えない。
師子が白河の存命中に他の男に嫁ぐことができたのも
師子が「妃」などではなく白河の一時的ななぐさみものにされたせいだったのだろう。
685 :
日本@名無史さん:2008/11/26(水) 04:58:59
いずれにしても白河院と忠実じゃ政治力だけでも雲泥の差
鳥羽院政になってから復活したとしてもその後の行動は摂関家の利益というよりも己の権力獲得を優先しているように見える
忠通に指摘される様な事が有ったとしても
686 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 17:57:31
「師子が女御と記されている一次資料」の話は、ガセだったのでしょうか?
北けあそたんがんばって!
690 :
日本@名無史さん:2009/02/13(金) 22:46:37
南家では仲麻呂の敗死、式家では広嗣と薬子の敗死で衰退したが、
北家ではそのような失態が無かったのが平安時代北家が繁栄できた秘訣
北家でも乙麻呂さんがいますがなw
しかし、北家の場合は他の親族はその連座をうまく逃れられたことが大きいかも。
あと南家の没落は仲麻呂の乱よりも平安初期の伊予親王の変の衝撃のほうが大きい
692 :
691:2009/02/13(金) 23:50:20
間違った
乙麻呂→魚名
北家でやらかしたのはあとは永手系の宗成とかかな。
愛発とかの傍流も節目では排除されてるか。
愛発辺りになると北家内部の闘争で排除されたっぽい
なるほど
696 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 14:00:57
>>693 永手系は伊予親王の変の頃にはすっかり落ちぶれてるから、
排除されたってわけでもない。
697 :
日本@名無史さん:2009/03/02(月) 16:26:29
史上初の切腹
藤原保なんとかだったよね
699 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 11:46:38
>>694 愛発といえば真夏の娘を妻に持ってるからなお怪しい
701 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 00:15:44
保輔の罪状は強盗。祖父の失脚で鬱憤がたまっていたのだろう。
702 :
日本@名無史さん:2009/05/03(日) 16:55:27
四国の愛媛の藤原氏について教えてほしいんだけど、
誰か詳しい人お願いします。
703 :
日本@名無史さん:2009/05/04(月) 22:11:53
藤原で優秀なランキングを付けるとベスト3は誰になりますか?
まつどの、前久、なかまろ
鎌足、不比等、良房かな
次点で基経、仲麻呂
藤原美都子、藤原彰子、藤原璋子
707 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 21:43:14
不比等、永手、百川
不比等、武智麻呂、房前
710 :
日本@名無史さん:2009/05/18(月) 16:35:51
内麻呂、良房、道長
是公、為憲、範季 (なんけ)
不比等、隆家、晴季
713 :
日本@名無史さん:2009/05/19(火) 23:32:16
兼実、公経、前久
藤原重房
藤原頼遠 清衛 秀衛 (奥州北家)
716 :
日本@名無史さん:2009/05/20(水) 21:19:12
良継、百川、種継(式家)
藤原山陰
道長、頼長、(近衛)前久
719 :
日本@名無史さん:2009/05/22(金) 00:28:48
仲麻呂、真楯、冬嗣
天小屋根尊 鎌子(大織冠) 不比等
地方藤原姓は、下向藤原貴族の何人もいる娘・婿スタートの地方有力者(大地主)の女系家系でつ。だから藤原を名乗れ(内々)、京都藤原男系貴族たちの地方にある保険の意味合いも当然ありやした。
723 :
日本@名無史さん:2009/06/21(日) 23:37:03
全然話を変えて悪いが
日本書紀に出てくる(敏達、用明朝)中臣鎌子、勝海と後の藤原氏の関係は?
大中臣系図には無い名前だが
724 :
日本@名無史さん:2009/06/22(月) 14:56:51
不明
無理に比定した系図もあるようだが、年代があってなくて疑問視されてる
725 :
日本@名無史さん:2009/08/09(日) 16:51:10
鎌足の父中臣御食子は推古天皇の見舞いにきた山背王を案内するなど
山背王よりの人物だった。
山背王とその父聖徳太子が偉人扱いをされるのは
そのためだろう
なんとなく思ったんだけど、740〜770年代って光明子の甥達の時代だな。
740年広嗣の大暴れに始まり、異母兄藤原四兄弟の息子達が良くも悪くも活躍。
異母兄諸兄以後、783年没の田麻呂までの政府首班はほとんど甥達の順送り。
770年あたりまでの藤氏公卿はほとんど甥、一部は甥の子。
藤原氏以外でも橘奈良麻呂は異父兄諸兄の息子。
奈良麻呂事件関係の諸王のうち三人は異母姉妹の息子。
藤原は糞
正一位〜位階システム日本導入一族
日本構築一族
730 :
日本@名無史さん:2009/08/18(火) 20:43:30
上杉、伊達、伊東、宇都宮、結城、織田、少弐、武藤
律令制下における藤原朝臣氏の偉業
大宝元年(701年)の大宝令制定後、明治維新にいたるまでの1100年以上の間、藤原朝臣氏
の五位以上官人がいなかった瞬間はない。
慶雲2年(705年)12月27日に武智麻呂・房前兄弟がそろって従五位下になって以来、藤原
朝臣氏の五位以上の官人が複数でなかったときはない。
天平9年(737年)8月5日の宇合の死後、同年8月28日永手等3人が従五位下になるまで
の一月足らずは、豊成・仲麻呂兄弟のみが五位以上だったが、以後は常時5人以上。
天平9年(737年)8月5日の宇合の死後、同年8月28日豊成が従四位下になるまでは、藤
原氏に四位以上官人がいないが、以後はいなかったときはない。
天平9年(737年)8月5日の宇合の死後、同年12月12日豊成が参議になるまでの約4カ月
は藤原氏に公卿がいないが、以後はいなかったときはない。
天平13年(741年)閏3月5日仲麻呂が従四位下に昇進して以後、四位以上官人は常時複数。
天平15年(743年)5月5日仲麻呂が参議になって以来、公卿は常時2人以上。
それ以前で複数の公卿がいなかったのは、養老元年(717年)10月21日に房前が参議になる
までと、天平9年(737年)7月23日に武智麻呂が死亡して以後、仲麻呂の参議就任まで。
ただし房前の参議はまだ職とは言い難いすれば、養老5年(721年)1月5日武智麻呂と房前が同時に従三位に昇進して以後武智麻呂の死まで。
村上源氏も成立後は似たようなことをやっているはずだが、成立がかなりずれるし。
こんなしぶとい貴族は世界史上稀有の存在だろうな。
なにげに土師宿禰氏(後菅原宿禰→菅原朝臣・秋篠宿禰→秋篠朝臣・大枝朝臣→大江朝臣等)
は、8世紀を見ると、数年おきに誰かが五位に昇進しており、おそらくほぼ常時誰かが五位
以上官人だったと思われる。これもかなりすごい。
732 :
日本@名無史さん:2009/09/08(火) 21:41:07
藤原氏の官位が?
734 :
日本@名無史さん:2009/09/16(水) 20:16:06
武家藤原氏が多いんだろ
武家になても位階はもらえる 領主・当主なら 藤原の力
736 :
日本@名無史さん:2009/09/22(火) 00:23:56
>>731 おつかれさま
そもそも律令草創期には大化前代の慣行が生きてて台閣には一氏一人
破られたのは房前が参議になった時(別家の北家創出という便法)
その後は藤原氏に限りそんな慣行は吹っ飛んだ
平安期に嵯峨源氏や村上源氏の盛期にかろうじて匹敵したことがあるのみ(この頃には慣行も消滅)
731さまと 学力低下世代のと どちが正しいのかな
738 :
日本@名無史さん:2009/09/26(土) 05:17:18
鎌足が鹿島生まれ説・・・あんなど田舎で、、。
741 :
日本@名無史さん:2009/10/01(木) 11:46:54
は?
鹿嶋かみ宮→韓半島で先 ぷ 知らない庶民さん
鹿島は朝鮮系?
744 :
日本@名無史さん:2009/10/05(月) 08:00:09
船るーと 出先だょ 青もり かエゾ 経由なんだぁ
天皇家も藤原もウリナラニダ
?オマエモナ? 遺伝子検査しましょうハプロぐるーぷ検査 (未来の人類統治法)
748 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:05:29
藤原という苗字は藤原氏と関係があるのかないのか。「ない」と言い切るのも無理だが、あったとしても「藤原」であることがステータスである社会に住んでいた、つまりあまり高い身分ではなかったのでは。
749 :
日本@名無史さん:2009/10/12(月) 12:18:46
亘理権守経清
亘理権守経清
亘理権守経清
リンク失敗
日本の名字7000傑というサイトのQ&Aを見ればいいと思うよ。
752 :
日本@名無史さん:2009/11/07(土) 22:38:34
伊東氏最高!
753 :
日本@名無史さん:2009/11/22(日) 00:27:51
南家流はレア
京家皆無? 式家もレア?
755 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 16:11:55
藤原氏の正体・関裕二
新潮文庫・552円
756 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:02:27
なぜか【名古屋はエ〜エ〜でー】スレになってる。
757 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:05:21
書き込みで指摘したら正常になった。
758 :
日本@名無史さん:2009/11/26(木) 20:20:50
日本書紀において蘇我氏は改革を妨害した大悪党になっている。
しかしその日本書紀は蘇我氏と対立する藤原氏によって書かれた。
【逆転の古代史】関裕二・600円
永手って、737年に五位になってから749年に一気に四位に昇進するまでの動向が不明。
これって、北家の総帥としては変だと思うけど、
@ただ記録がないだけ
A病気か何かで勤務してないから昇進もなかった
B理由はわからないが聖武天皇に睨まれてた
C従兄の仲麻呂にはぶられた
D実は従兄弟広嗣と仲良しで、連座は免れたけど謹慎してた
他になにか理由になりそうなこと有るかな?
すぐ下の弟の八束=真楯が聖武天皇のお気に入りだったってことも影響してる?
真楯やさらにその下の清河は、この間にかなり昇進してるんだよね。
さすがに年の離れてる魚名以下には抜かされてないけど。
しかし、藤原不比等も頭悪くないか?
日本書紀にいい加減なことを書いて、絶対ばれないとでも思っていたのだろうか?
こまけえことはいいんだよ
>>755 藤原家ではなく 関氏の笑怠とでも いうべき かなり杜撰な 素人読者向け 百済の史実史誌や いかに??? 日本紀の年代整合ももち
763 :
日本@名無史さん:2009/11/27(金) 23:16:06
>>759 良継の娘を妻にしてるし式家との仲が良かったんだろう。
>>759 永手の不遇時期が橘諸兄政権時とほぼ重なる点も
気になるが、どんなもんだろう。
仲麻呂とは適度というか微妙な距離を保っていたような感じ。
ああ諸兄政権、それもあるかも。
ただ諸兄自体はこのクラスの官人をさほど問題にしてたとも思えないし、
年齢が近い息子の奈良麻呂あたりと仲が悪かったのかも?
766 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 22:25:11
もろあに!もろあに!
超兄貴キタ━(゚∀゚)━!!
768 :
日本@名無史さん:2009/12/10(木) 22:28:15
永手の母は諸兄の妹だし、仲が悪かったとも思えない。
もろえぇですぅ?
>>768 妹の子だから仲が良かった、との決め付けは危険だと思うぞ。
そうでない例もたくさんあるし。あくまで可能性の問題ね。
>>765 奈良麻呂の変時に永手は奈良麻呂を尋問してるけど、
(仲麻呂の意を受けているにしても)その尋問具合からして
永手と奈良麻呂は仲が良かったとは言い難いしね。
そもそも仲良しだったら尋問に当てないだろうし。
771 :
日本@名無史さん:2009/12/11(金) 21:42:06
奈良麻呂の「東大寺なんか建立して人民を苦しめるな」って訴えに
永手が「東大寺を建てたのはお前の親父だろうが」と正論を述べてるな。
奈良麻呂の軽率さからして永手とは馬が合わなそうだ。
なんか奈良麻呂は鳩山首相的お坊ちゃんな雰囲気が、
永手もお坊ちゃまなんだけど、あんまりそう言うイメージがない。
石破政調会長みたいな謹厳なイメージがある。
豊成が麻生前首相で、仲麻呂が小沢幹事長みたいな。
って板違い的雑言かな。すいません。
? レベル低すぎ いまの政治屋サンて
774 :
日本@名無史さん:2009/12/12(土) 12:37:40
奈良麻呂のブーメランっぷりは酷い。
永手の意見にまったく反論できていないし、仲麻呂がいなくても
どのみち失脚は避けられなかったに違いない。
加藤じょうじ様すてきな藤原氏(^.^)がんばて
776 :
日本@名無史さん:2009/12/18(金) 00:03:08
永手は仲麻呂とは付かず離れずで、式家と婚姻関係を結んだり
保身に長けた強かな奴。
俵とうた・・って どうも藤原系じゃないような
778 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 16:24:48
藤原純友って本当に藤原氏なのか?
そうじゃないって説もあるな。
地元豪族が養子になったとかって説もあったような。
越智氏かなにかだったけ?
780 :
日本@名無史さん:2009/12/27(日) 18:30:35
11c初頭の刀伊の入冦では、
太宰権帥藤原隆家ばかりが有名だが、
壱岐守藤原理忠の奮戦ぶりは涙もの。
僅か百余名で三千の敵に対して敢然と立ち向かってる。
そして玉砕・・・(涙)
hahahah
藤原理忠って有名な割に系不詳なんだよな。
まあこの時代になると珍しくもないことだけど。
783 :
武陽隠士 ◆UCfK2Lx59s :2009/12/28(月) 00:49:15
>>778 れっきとした藤原氏だよ。
今じゃほとんど定説となった。
史料的にも確認されてるし
>>777 伊勢守藤成の系統というからまだ可能性ありますね。
それより、利仁が(『芋粥』とかじゃない)正規の記録や史料の類いにその名が出て来ないと野口実氏の本で読んでちょっとショックでした。
785 :
784:2009/12/28(月) 01:16:48
>利仁が(『芋粥』とかじゃない)正規の記録や史料の類いにその名が出て来ない
↑は尊卑分脈など後世の史料でなく、同時代史料ではその名が確認できない、
という意味です。
786 :
日本@名無史さん:2009/12/28(月) 23:45:29
というより、同時代資料そのものが無いんじゃなかったっけ
787 :
日本@名無史さん:2009/12/31(木) 14:12:44
このスレの生命長いな。
藤原スレというだけはあるな。
とキセル系図で藤原氏末裔の俺が言ってみる。
藤原氏は、天皇を利用して権力をほしいままにしたけれど、所詮、貴種ではないし、
源氏の子孫を名乗った松平家には各式で及ばない。
得河という清和と宮中を無礼武法で放逐された陽成系を 語るかという説まである 素姓不明のまつひらが 位階官位を授けるのではなく
大化の改新を成し遂げた中臣鎌足の子孫が 天皇の代理として 臣下に 授けるのが 日本の伝統 それを破った薩摩長州閥は、原爆敗戦によって 成敗された。
藤原は貴種だろ
791 :
日本@名無史さん:2010/01/13(水) 03:56:21
>>787 一代30年として
30年前の先祖は2人
60年前の先祖は4人
90年前の先祖は8人と
計算していくと1000年遡れば
先祖の数は1億人を超える。
鎌足の精子が一粒も入っていない
日本人を探す方が困難
ぁげ。
793 :
日本@名無史さん:2010/02/14(日) 22:26:48
ふじわら
795 :
日本@名無史さん:2010/03/22(月) 22:15:13
796 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 22:10:45
長寿スレおめ
797 :
日本@名無史さん:2010/04/11(日) 22:51:14
蘇我馬子の曾孫を正室に迎えながら、蘇我氏の悪口をさんざん書き残した
藤原不比等はなんなの?
蘇我氏への劣等感?後妻のコネでえらくなれたから機嫌取り?
798 :
日本@名無史さん:2010/04/12(月) 00:59:17
>>791 そんな計算をしても、先祖の圧倒的多数は無名の農民だって現実は変わらないのに。
藤原・中臣氏の祖神とされる武甕雷男神は、元々は大氏(和邇氏系)の祖神で、藤原氏の祖先神ではないらしい。
こうなると、もう1人の祖神である天児屋根命も、本当に藤原氏の祖先神なのかどうか怪しくなってくるな〜(大体、祖神が2人いるってどういうことよ!)。
そもそも古代の神道は民間信仰だったわけですし
中臣氏は顔からしても縄文系でしょう
顔知ってるの?
プリクラ見る?
藤原氏とは富士山の噴火で滅んだ富士王朝の子孫。
実は「富士」原氏だったのです。
ちょっと辛い目に遭うと故郷の青木ヶ原に逝きたがるのが特徴。
804 :
日本@名無史さん:2010/05/17(月) 13:25:30
あげええええええ
806 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 01:17:25
>>799 もともと中臣氏は卜部集団の中から、中央政権に取り立てられた人たちで
単一の系統ではなかったという説もあります。
807 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 08:16:49
きのう『さんまのからくりテレビ』で「歴史上の人物と同姓同名の人を探す」
という企画で、本当に藤原鎌足さんが見つかった。
親は思いつきで名付けたんだろう、とご本人が言っていたが
道長とかじゃなくて鎌足というところがマニアックと思う
(鎌足と言ったら普通中臣としてのほうが有名だろうかし)。
ちなみにその藤原鎌足さんは住所が間違っていても郵便物が届くとのこと。
中臣
変換できるがな
810 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 15:21:02
>>806 >単一の系統ではなかった
物部氏(物部連)なんかも同じことよく聞くよね。
もし良かったら、
(書籍でもネットでもよいので)中臣氏が複数の氏族の連合体であるという内容が載っている出典を教えて下さい。
811 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 20:32:13
大鏡には鎌足が鹿嶋神宮の出身とある。いったい中臣氏はどこが本貫なのか?
812 :
日本@名無史さん:2010/06/03(木) 21:59:11
名前に「彦」や「郎」をつける人は今もいますが、「麻呂」とか「丸」とか付ける人は少なくなりましたね。
その代わり、「丸」は船の名前をして今も受け継がれています。
不思議なものですね。
813 :
日本@名無史さん:2010/06/06(日) 22:32:42
>>797 不比等の妻は蘇我といっても雄正の系統、持統天皇の遠縁にあたる人だよね?
蘇我氏とはいっても持統天皇の外祖父蘇我山田石川麻呂は
死んだあとで無実だった、実は忠臣だったと強調されているし
雄正系の蘇我氏は正史に悪愚痴など書かれていないんだよ。
良くかかれてないのは蝦夷や入鹿だけでしょ。
後妻のコネっていうのもなあ。
もともと不比等が持統天皇に取り立てられたのは
妻が蘇我氏で同じく蘇我氏を外戚とする持統天皇の遠縁だったからと言われている。
幼くして父を失い、壬申の乱で壊滅状態にあった中臣氏一族の中であって、
持統天皇に拾いあげられ大臣にまで出世できたのは蘇我氏出身の妻のおかげ。
県犬養橘三千代と結婚したのはすでに長女の宮子を文武天皇の夫人にするくらいの
大出世を遂げた後のことでずいぶん後のことだよ。
光明皇后が三千代との間の娘であることは間違いないが、
そもそもこのときの正室(後妻)は異母妹の五百娘(もと天武天皇妃)だったという説もある。
814 :
日本@名無史さん:2010/06/13(日) 22:49:27
>>812 『とんでも戦士 ムテキング』で敵のクロダコブラザーズの三兄弟の名前が
タコキチ、タコマロ、タコサクで、子供心に吉と作は昔っぽい名前だとわかったが
マロとは何ぞや?と意味不明だったのを思い出した。
815 :
日本@名無史さん:2010/07/21(水) 00:35:38
現在の藤原氏当主は鎌足から数えて何代目に当たるのでしょうか?
816 :
日本@名無史さん:2010/08/03(火) 17:37:13
45代目
817 :
日本@名無史さん:2010/08/05(木) 21:48:12
818 :
日本@名無史さん:2010/08/06(金) 03:50:05
819 :
日本@名無史さん:
藤原氏氏長者は明治維新により廃止された。
最後の藤氏氏長者は幕末の左大臣、
九条道孝(大正天皇皇后九条節子の父)。
現在は藤原氏当主はいない。
近衞忠W(日本赤十字勤務・妻は三笠宮崇仁親王の第一皇女ィ子)氏は
は現在の近衛家当主。
この人の父方は細川家で(実兄は元内閣総理大臣細川護熙)、
母方の近衛家の養子に入った。