1 :
下大園:
信長が勢力拡張できたのは単に生まれた時代と場所に恵まれただけですよねぇ?
ま、少なくとも1より有能なのは間違いない。
3 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 12:32:19
あなたも知ってる You Know
>>1 だな、同じ時代に尾張に生まれたやつらは全員天下人になってるもんな。
5 :
下大園:2006/02/15(水) 13:17:35
2
それは分かってるって。
4
信玄や謙信、元就もタイミングよく死んでしまううしな…。
6 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 13:19:39
じゃあ運がよかったっう事で終了
単発スレ立て過ぎ
概存の関連スレで聞けよ
8 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 13:30:16
ただのDQNなんじゃないか?
運も実力のうち
10 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 14:17:17
運も実力って…それ言っちゃあおしまいだろ。。
11 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 14:19:39
家康が反信長包囲網に加わらなかったのが、信長有能の証拠だ。
12 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 14:32:06
家康も有能だったな
凡庸な大名なら武田に着くよ
余程よく信長を観察していたのだろう
俺が岡崎城主だったら、何の疑いもなく武田に臣従してたよ。
2chがあったら、「尾張のうつけ オワタ」なんて書き込んでたよ。
徳川家の中で「信長を見限って武田に付こう」って声は相当あったようだけどな
普通なら武田の方が圧倒的に有利に思えるしな
しかも家康は織田に見限られないように必死に武田に喰らい付いてる
つまり織田が負けるとは全く考えて無かったのだろう
>>15 義理で織田についたのなら、わざわざ三方ヶ原まで出張って決死の戦を仕掛ける必要ないもんな。
17 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:31:13
家康にとっては、信長よりも信玄のほうがいい思い出に残っただろうな
信長にはいろんな面で忍苦を強いられたが、信玄とは武将として戦ったから
18 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 21:50:09
信玄を悪くいう武将はあまり聞かないね。
生まれた環境は恵まれていたね
叔父と父も有能な人だったし
20 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 08:23:56
信長と家康は表面上は同盟関係やけど、家康の内心としては信長にびびってたらしい
21 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 08:32:55
信長は運がいいだけで無能だった……と、考える要素が無いけど?
地(地理的)にも天(時期的)にも恵まれたけど、だからといって誰でも出来た事じゃない。
戦国最強では無いだろうけど(失策・敗戦もたくさんあったし)有能であることに、
疑いの余地はない。
22 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 08:35:32
心を許せる真の同盟関係なんてない。
企業間だって資本・業務提携しても、相手を100%信頼しないだろ。
23 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 08:41:05
24 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 08:41:41
それでも、織田×徳川の同盟関係は戦国時代限定なら最強だろ?
家康は信長を信じるに足るだけの何か≠見ちまったんだろうな……
歴史の向こう側≠チてヤツをな。
25 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 08:48:06
>>22 子会社でも信用できないからな。ライブドア事件でよく分かった。
家臣を信用できない主君ってとこか。
26 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 09:02:32
>>20 信長と家康の関係は表向きは同盟だが、実質は主従関係になる。
27 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 21:54:19
単純に、岡崎が尾張に近かったから家康は信長と同盟を結んだ気がするな。
甲斐に近かったらわからんぞ。
信長を裏切らなかったのは、家康の律儀さが大きいと思う。
簡単に寝返るようじゃ武将としての信頼なくすし。
28 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 22:02:04
>>1 でっ、君は歴史上の人物で誰が有能だと思うのかな。
オレたちが評価してやるよ w
29 :
1:2006/02/16(木) 22:55:27
足利義教です><
30 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 23:27:31
@鉄砲の活用
A楽市楽座・関所撤廃
B兵農分離
C官僚制・中央集権制
D居城(本拠地)の移動
などが信長の特徴と言われてきましたよね。
最近の研究などで覆ったものもありますが、これらについて
上杉や武田などと比較しつつ議論してくれませんか?
信長って、戦術的には手堅いんだよね。
戦略的にはホリエモンよろしくかなりの綱渡りだけど。
朝倉にやる気があれば信長もどうなっていたやらw
33 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 02:01:04
戦術的には島津義弘
戦略的には北条氏康
34 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 14:56:34
>>32 『やる気』を出せないのが、無能の無能たる所以。
35 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 15:18:09
信長ほど
約束をやぶりまくった武将も珍しい
36 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 16:29:15
37 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 18:40:34
最大の脅威である、信玄と謙信、この二人ともいなくなったのだから、
相当な強運だったな、本能寺さえなければ。
38 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 19:31:57
まあほとんどの凡将でも防げる本能寺を防げなかった信長は、とてもじゃないが有能な武将とは言えないと思う
戦国時代を舐めてるよ
39 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 19:49:26
実際、あんなとこで襲われるのは予想してなかったろ。たぶん
こんなとこでゲームの話題出すのもなんだが、
信長の野望の本能寺イベントだと…
「がっはっはっは!この信長の天下を阻むのは光秀以外おらん
と思ってたわ!」とか言うんだよな。
光秀そんな離れてないのに油断しすぎw
己を頼むところが大きかったからな。
42 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:59:35
>>41 お前、信長の知り合いかよwwwwwwwww
秀吉や家康を見出した点は有能だとしか言いようがない。
でも天下をとってたら〜なんてのは無理だな。
実際にとれなかったんだから。
秀吉・家康>決して超えられない壁>信長
信長の性格じゃ長期政権は作れん
そのうちみんな逃げ出す
あの人は統一までの人
45 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 09:56:47
そうだなこういうパターンは統一後、誰ぞが力をつけまたどこがで反旗を翻す。
そんなものだな、そのかわり日本の技術は西洋以上に進んだかもしれん。
現にスペインの宣教師も、国王宛に日本の植民地化は無理といったぐらいだ。
そこで信忠の出番ですよ
親父の不満の受け皿として次代が担当するのは古今東西よくあること
47 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 20:24:56
受け皿まで殺されたのに説得力もへったくれも(r
受け皿殺されたのは信長のせいじゃねーw
49 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 21:08:03
いずれにせよ信長に対する不満が溜まりまくっていたから本能寺の変が起きた。
こんな人間に天下盗りは無理だよ。
歴史は結果が全て、妄想ヲタの出る幕はないの。
結果が全てなら歴史を研究すること自体が無意味
51 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 13:24:41
イフを論じるのは歴史の研究じゃないですよ。
53 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:53:54
54 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 20:57:44
結果に対して「どうしてそうなったのか」を考えるのが歴史学の任務だろ。
55 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:00:33
信長 40万石から550万石
信玄 15万石から100万石
あんまりたいしたことないな
56 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:01:50
毛利元就 1万石から110万石
毛利の方がすごい
57 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:38:48
秀吉 足軽から天下人
は別格としても、北条早雲の方が信長よりもすごいよな。
58 :
日本@名無史さん :2006/02/21(火) 21:42:40
>>55 当時の尾張国は40万石もあったか?
桶狭間時の信長軍の全兵力は、5千余だ。
(桶狭間の合戦に参加したのは2〜3千)
せいぜい20万石余りと思われ。
59 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:51:05
信長は四面を敵に回してこれらをすべて下してきたんだよな。
母、兄弟、家老衆、妻の実家、大今川、一向宗、北畠、機内の有象無象、比叡山、将軍家、妹の嫁ぎ先、朝倉氏、武田、上杉、毛利…
これだけ敵として内からも離反者が頻発してそれで勝ち上がっていくというのがすごい。
もちろん敵が多いのも本人の負の資質といえるけど、見た目壮絶ではある。
60 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 21:52:30
>>59 同意。包囲網を突破した所に、信長の魅力がある。
61 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 22:00:45
漏れもよく知らないが静岡大の小和田が織田信秀の所領40万石って言ってるよ
62 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:00:02
静岡大じゃだめだろ。東大じゃないとな
63 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:40:03
駄目かな 駄目かもしんね
静岡大って結構凄いと思うのだが、
織田信秀の所領40万石じゃ駄目だな・・・
65 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 01:49:51
そうか 駄目なのか
66 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 06:29:05
包囲網突破できたのは義景のアホのおかげだけどな
67 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 08:15:59
>56毛利じゃ天下は取れないがなw
>61知多郡は今川の勢力が強く(他は吉良、一色)、斯波(=織田)が実効支配してたとは…?
40万石なんてドコからw
桶狭間の織田動員数は1万ほどじゃなかった?
本隊で3000ほど
尾張兵が弱いって風評は意図的に流したって話をどっかで見た
70 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 12:55:48
結果からいえば一番すごいのは家康だろ。嫌いだけど。
安土城って総工費現代のお金でいくらぐらいなんだろうか?
どうやって現代のお金に換算するの?
73 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 14:47:43
>>72 基本的なお金の価値は、人間の賃金から当時のお金の価値を考えれば良いと思う。
今の大工の仕事の一日の日当=当時の大工の仕事の一日の日当
あとは、安土城の総工費の見積もり書(?)が残ってれば可能かと思う。
>>74 >今の大工の仕事の一日の日当=当時の大工の仕事の一日の日当
ん〜。それはどうかな?
職業自体の価値も随分違ってきているからな。
昔の大工と、現在の大工では社会的な地位も違うしな。
それに、日本の国際的な国力もデくなってるから、
単純には比較できないでしょ?
単純に大工の日当何日分とか、米何俵分だとかで計算すると、
現在に置き換えるかなり小さな数字になることが多いよ。
昔NHKの歴史番組で大阪城構築に掛かったコストを現在の
通貨に置き換えていたけど、確か3百数十億円だった。
今ならそこらにありふれている超高層ビルを建てるだけで
数百億円だが、当時の大阪城に費やした財政規模は、
当時の人にしてみれば今の数兆円プロジェクトに匹敵する
桁外れのプロジェクトじゃなかっただろうか?
>>75 仮に数兆円規模の大事業だとすると、その資金をひっぱってきた信長って有能なんじゃないの?
>>76 大きな建築事業を行なっただけで有能無能を決めるなら、
巨大宮殿を造ったチャウセスクも、三峡ダムを作った江沢民も
有能だってことになるな。
>>77 尾張の一部の領地から始めて、安土城を作るまでに至った経緯で見て欲しい。
安土城に何故信長があれほどの城を作ったのか?
むしろ、あれほどの城を作り天下布武を謳った大名って信長以外に居たかな?
>>77 あれだけ搾取できれば有能だろ。
有能と常識人であることとはイコールじゃないw
無能じゃ、元首が世襲制でない国家の頂点に立って横暴できないよ。
悪知恵が働くのも有能のうち。
>>79 んじゃ、このご時世に世襲制を維持している
豚キムも有能だな。
>>80 同じ時代の大名達と信長を比べて、有能か無能か話した方が良いよ?
時代も国も違うから比較対象として難しい。
信長には圧政のイメージはないな
部下や一向宗に超キビシイってだけで
>>82 民への圧政はない印象があるな。
でも、能力主義って印象があるから、
古参の老臣には冷酷な圧政者にうつったかも。
84 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 16:42:26
ヒトラーもドイツ国民には支持されてたって話だしな
敵とか、逆らう配下は容赦なく殺すが、従順な自国民には寛容ってパターン
85 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 16:49:56
楽市楽座って、商人にはありがたいが、税収入という点では信長には
メリットがなかったんじゃないの?茶道具や安土城や鉄甲船を建造した
原資ってどこからでているんだろう・・・
86 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 16:51:19
堺。
87 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 16:52:03
規制緩和を進めれば、より多くの商人が自国に集まり商業が発展する
その代わり貧富の差も進むが
>>87 楽市楽座だって、既得権益を持っていた商人には商秩序の破壊行為だったろうしな。
確かに、信長の経済政策は他の大名達より上を行ってる。堺を押さえたりしてるし。
鉄砲だって火薬や弾など消費するし、メンテナンスしなきゃならないしで金がかかった事だろうね。
それらをある程度クリアしてるから、あそこまでの勢力を作れたと思う。
90 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 17:04:15
勝ち負けがはっきりつく社会になれば、
自分の才覚で成り上がりたいという野望を持ってる人間からすれば
ありがたいし、なあなあの世界で守られてきた人間にとっては面白くはないわな
どっちが正しいともどっちが間違ってるとも言いきれない気はするが
「叡山焼き討ち」かはどうなんだろう?
信長以外からしたら『そこまでやるのアリかよ!』ってくらいな
秩序破壊なんじゃないの?
他の大名などからすれば『いかに乱世とはいえ一定のルールがある!』
『やっていいことと悪いことがある!』って意見なんじゃないかな?
秩序破壊を経験した後の人からすれば、ひとつのパラダイムシフトに
過ぎないのかもしれないが、その時代の人にとっては、
『そこまでして天下を取るべきでない!』みたいなグチが出るんじゃないかな?
今で言うなら国益や自国産業を保護するために、目障りな国にミサイルを
撃ち込んで破壊するような行為。
日本人からすれば道徳にもとるが、アメリカからすれば
『自国の繁栄なくして、なんの道徳か!』ってな感じ。
言い掛かりをつけて他国にミサイルをぶち込んでまで米国の石油権益をり、
情報統制や政治圧力でBSE牛を売りつけるブッシュを有能と表現していいか
否かと同じ疑問。
92 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 21:16:22
つか、有能か無能かと言ったらそりゃ有能だよ。
おまえら信長と同じことできるか?やれるもんならやってみ。
>>71 前田建設 ファンタジー営業部に、
見積り依頼してみれば?
>>92 お前よく他の人に馬鹿だなって言われるだろ?
95 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 01:07:46
信長は改革者というイメージがあるが、怪しいもんだw
仮に改革者だとして、改革って良いことなのか?
あの戦国時代のナニを改革したんだ?
そしてその改革は日本社会を良くしたのか?
日本の、あの時代の、優れた部分を破壊したんじゃないのか?
96 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 01:43:52
堺を押さえたというけど、押さえるとはどういうことなのかな?
矢銭を取るといっても恒常的に租税という形で徴収していたわけでもないし。
堺からどのように何を得ていたか教えてくれ。しつこくてスマン
97 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 01:50:02
>>95 封建制度が一部変更された。
城下町に家臣団が住むようになった。
軍改革によって、戦乱を収める基盤を作った。
後の貨幣経済の礎を作った。
少なくても織田信長の改革で、問題となるような弊害はない。
もともと弊害を是正する改革だった。
98 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 02:22:16
織田信雄が馬鹿殿だからあーと四人の家老
99 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 08:44:38
なにその昭和の小学生の歴史観・・・
信雄は馬鹿じゃないぞ・・・
かなり頑張ってるほうだ。
地方にあったなら、そこそこの大名として生きていけただろうね。
「信長の息子」で「一族の主導者的立場」で、
相手しなきゃいけなかったのが秀吉・家康という常人離れした怪物だったという不幸なだけ。
あんな怪物たちに勝てるわけがないwww
織田家残したんだから充分有能だよ
>>96 まず、織田家の「堺奉行」を置くことを認めさせた。
堺奉行は、会合衆の寄り合いに出席することができ、
堺に入港停泊する船舶を臨検する権限を認めさせた。
これにより、堺が誰に何を売ったかを信長が把握できる
ようになった。
堺奉行は会合衆の任免などにも干渉することができ、
それまで会合衆を牛耳っていた反信長色の強いベニ屋や
能登屋などの有力商人を廃し、信長寄りの今井などを
会合衆の中心に据えることができるようになった。
副将軍より堺奉行を置くことを選んだ信長はバカだと思うが?
副将軍の方ができることが多いのになw
>>102 副将軍はおろか、将軍や管領でもできることは少なかったように思うが?
104 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 12:18:37
>>102 信長自身が堺奉行に封じられたのなら話は別だが、
副将軍になることと、堺奉行を置くことはどちらか一方を選択する
ような類の問題ではなかろうに。
副将軍になっていたら、具体的にどんなことができたの?
105 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 12:56:03
>>97 後継の秀吉や家康が結果を残したからだろ。
信長個人だけでは残念ながらそこまで言い切れないの。
そら俺も有能であることは認めてるよ。
副将軍だと義昭の家臣扱いになるのが一番の不都合だろ。
副将軍だったら、諸国を漫遊してときに屈強な悪党に出合っても、
木瓜の紋所をかざせば、誰もがひれ伏してくれる!
その当時の将軍や副将軍の権威なんて、有って無いごとしだったんじゃないの?
それよか、堺を押さえて経済を掌握し、鉄砲や南蛮の文化を取り入れた方が実があると見たんじゃないのかと思う。
それが、長篠の合戦に繋がる。
信長の中では、政治・経済・戦・文化が一つの流れで繋がってたんじゃないかな?
110 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 14:22:25
>>105 反論するなら具体的に書けよな。例えば、
>>30さんが書いてるけど、
以下の項目について君はどう考えるのか?とかね。
@鉄砲の活用
A楽市楽座・関所撤廃
B兵農分離
C官僚制・中央集権制
D居城(本拠地)の移動
有能には有能だろ
秀吉・家康ほどじゃないにしても
112 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:25:14
何が有能なところで何が家康・秀吉に及ばないところかを書かないとね。
113 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:37:16
秀吉も家康も従がわせてた
つまり天下人をも操ってたのが何よりもの証拠じゃないか
114 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:38:31
信長あっての猿、狸これがすべてだろ?
115 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 19:39:48
才能で言えば
信長>>>秀吉>家康
ただ人格面に異常があったので結局ああなったんだろ
116 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 20:33:13
>>114 違う違う。秀吉や家康がいたから信長があそこまで戦えたんだよ。
秀吉がいなかったら美濃すら無理。
117 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 20:40:27
猿←信長が召し抱えなければ百姓。 狸←桶狭間が無ければ、人質のまま。 信長がいなければコイツらは、歴史に名はの残らん。
信長・秀吉・家康この3人って持ちつ持たれつなとこあったんじゃないの?
つか秀吉、家康が天下をとったから今の信長の評価がある
彼らがいなきゃ三好長慶と大して変わらん
逆に家康はともかく
信長がいなければ秀吉は天下などとれなかったわけで。
「彼らがいなきゃ三好長慶と大して変わらん」
この言い草は
「もし信長が三好長慶並みならと三好長慶と大して変わらん」
といってるようなもん。意味が無い。
121 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 23:58:09
>>110 楽市楽座は信長が元祖じゃないし、
兵農分離は否定されていなかったっけ?
124 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 08:14:12
横綱朝青龍だって師匠の元大関朝潮あってだろ。
朝潮がいなければ朝青龍はただのモンゴルのあんちゃん。
だからといって朝青龍より朝潮が偉い、あるいは強いという論法はない。
信長厨もえーかげんに負け惜しみは止めろよ。信長が逆にかわいそうだ。
自分のいたらなさを潔く信長の方がカッコええぞ。
>自分のいたらなさを潔く信長の方がカッコええぞ。
自分のいたらなさを潔く 認める 信長の方がカッコええぞ。
信長が秀吉を家臣に取り立てたのは事実、
ただそれは家臣が有能だったからだし、そもそも秀吉から信長に取り入ったから。
単なるそこら辺のしょうもない百姓が大名以上に成り上がるなんて到底不可能だし、
斉藤道三だってただの坊主から美濃城主にまで成り上がったじゃん。
>>117 その言い方だと道三がいなけりゃ信長は大物になれなかったと言えるよ。
訂正:orz
×家臣が有能→○秀吉が有能
逆に信長の出自が秀吉並みだったら秀吉のような出世は無理だね。
秀吉が信長レベルの出自ならもっと早くに天下統一していただろう。
>>128 そんな簡単なものじゃないだろう。
立場と才能がマッチして初めて成功するんだよ。
つまり信長は立場と才能がマッチしなかったと言うことで
なら秀吉もマッチしなかったな。
死ぬほど可愛がった秀頼は殺されちゃうし、
豊臣家は断絶しちゃうし。
織田家は今でも脈々を続いているのに。
信長=項羽
秀吉=劉邦
家康=呂氏、ただし成功バージョン
133 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 16:29:12
>>126 >斉藤道三だってただの坊主から美濃城主にまで成り上がったじゃん。
?
135 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 17:25:54
曹操=信長
劉備=秀吉
司馬イ=家康
136 :
名無し大名:2006/02/24(金) 17:36:43
天下の主だ
138 :
日本@名無史さん132:2006/02/24(金) 21:12:24
俺より >134 の方がピッタリだね。
>董卓=信長
曲がりなりにも天下の主になりながらも家臣に殺されたあたりはそっくりだな。
でも一番しっくりくるのは
柴栄=信長
趙匡胤=秀吉
趙匡義=家康
董卓=信長
王允=光秀
141 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:18:57
どうも「明智光秀に裏切られた」という結果論から織田信長を無能扱いしている論調が見受けられるように思う
142 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:28:14
明智は言葉の暴力に負けた
>>141 あれは信長が無能というより光秀が天才だと俺は思う
144 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:43:06
>>143 それにしては信長を殺したあとの手際が悪すぎる
145 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 01:44:49
>>144 普通に考えて他の信長家臣にボコされそうなのは想像に難しくないよな
秀吉以外ボコるなんて出来なかった訳ですが?
丹羽は瓦解(ってか信澄殺すバカ信孝)
柴田は釘付け
滝川は北条に惨敗
甲信はグダグダ
筒井は味方しそうな気配だし、上杉・長曾我部にとっちゃ助かったと言わんばかりの展開
ただ秀吉のみが光秀の予想を裏切った
それは光秀が無能というよりは秀吉が神懸かっていた
織田の総領と後継者がマトモな兵力を持たず(ついでに同盟者の家康も)、近場に自分の兵力がたんまり
その僅かな軍事的空白を付いて瞬く間に仕留めた光秀を評価しないで誰を評価せよと?
147 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:50:55
だから言ってんじゃん、事後の手際が悪すぎたって。しかも当時の領土拡張って、軍事力で一度その地の対立勢力を
倒せたら即領国ってわけにもいかん。それは山陰攻略戦で光秀がよく学んでいる。よって新地で安定した支配構造が
確立するまで数年単位の時間がかかる。とすれば諸大名もいろいろ情報得て対応かえるし、当然旧織田大名にも光秀
攻めのチャンスがくる。予想される支配領域からすれば元亀年間の信長包囲網以上の戦略的窮地だ。
つまりこの機を逃さなかった点は評価できるが、長期的な戦略眼は精彩を欠いたとしか言いようがない。
148 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 03:15:22
>1無能ならあそこ迄逝かんだろ
>4全員…って天下人は猿のみだが?
具体的にどう手際が悪いのか述べよ
150 :
147:2006/02/25(土) 05:36:44
軍資金を湯水のように朝廷、公家相手に浪費していること
筒井細川ら幕下や、家臣格ではない中小勢力の協力、降誘に失敗してること(秀吉が有利になる前の段階から)
諸大名との交渉らしい交渉ができていないこと
スクローバー、マスターピースを撤退させてしまったこと
索道会社の対立を調停できていないこと
日本オープンの開催地権を失ったこと
151 :
日本@名無史さん :2006/02/25(土) 05:42:07
>>146 伊勢の信雄がしっかりしていればな。
伊勢・志摩・尾張・美濃の兵を率いて蒲生・池田と合流すれば・・。
結局、秀吉に勝ちさえすれば光秀も天下をとれた訳か
秀吉相手にそれはない罠
筒井細川らの与力大名に関して言えば、出方を窺ってたら秀吉が来たんで
これは明智に勝ちはないと、しめたとばかりに「いやいや最初から明智になんか付くつもりは……」と言い出したと見る方が妥当だよな
即領国ってっても、元から丹後のあたりは明智の領地だし
諸大名との交渉だってこれからじゃん(以前からずっとクーデターを狙っていたら兎も角、突発的に「イケル!」と思って動いたクーデターだろうし
始皇帝=織田信長
項羽=豊臣秀吉
劉邦=徳川家康
155 :
lo:2006/02/25(土) 16:46:10
ちん
156 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 18:27:55
光秀をそこまで馬鹿にするなら、その馬鹿に殺されたお方は相当の馬鹿だな。
信長ヲタの連中、逆に信長を貶めていないか?
なんか信長がかわいそうになってきた。
光秀も秀吉も抜群に有能だったから取り立てられたのにね
厨はなんでも信長の功績だな・・・ノブヤボのやり杉?
光秀に関して言えば、美濃の名族で文化人っていう(真偽はあるにしろ)ステータスのせいで
素浪人から腕を買われて信長に取り立てられ、金ヶ崎の殿に始まり近畿の彼方此方で奮戦し
いの一番に城をもらった鉄砲の名人(かどうかは判らんが)っていう猛将の面を見てもらえてない気がする
己が才覚のみって点じゃ、秀吉とどっこいどっこいなんだがなぁ
159 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 19:55:25
信長の遺産を秀吉成功の理由にするのも変だな。
その後継者になるまでにライバルを蹴落とさなければならなかったことも知らないようだ。
ノブ厨は秀吉がそのまま信長の領土と軍を引き継いだと勘違いしているんだな。
そこが秀吉の凄いとこでもある
やってることは光秀と同じようなもんなのになw
「重臣に裏切られ、宿所の寺を囲まれ、
手勢の忠義な近臣たちが徹底抗戦する中で、自害して果てた。」
これ、信長人生最大最強のライバル・朝倉義景の最期。
そして数年後、(本家の状態、微細な部分の差異はあれど)
全く似たような舞台で自害して果てたのが織田信長。
それを演出したのは一時期”朝倉に寄寓していた”、明智光秀。
秀吉以上に光秀って出世早いよね
楽市楽座は、信長以前に斉藤や六角もやっていたらしいけど、
信長のやったのと違いはあるの?
規模
165 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:31:21
>織田信長って本当に有能だった??
有能じゃなかったらあそこまでの大勢力は築けない。
166 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 17:47:43
少なくとも、
島津、毛利、武田、上杉、北条、伊達・・より信長の方が優秀だろうよ w
167 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:15:07
>信長人生最大最強のライバル・朝倉義景
テラワロス
168 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:23:05
織田家の永遠のライバル朝倉家ならしっくりくる
169 :
日本@名無史さん :2006/02/26(日) 18:26:40
信長の場合は、明智光秀一人に裏切られただけ。
朝倉は、ほぼ全員から裏切られ居場所もない。
でも義景は天国に行った
信長は地獄逝き
171 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:31:43
↑
馬鹿
172 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 18:44:52
信長って当時の有名人に若い頃から注目されてたよね
朝倉のじいさんとか風林火山の人とかに
>>169 朝倉は一回だけだが信長は何度も何度も裏切られている。
最後だってみんな内心では信長死んでくれないかな?とか思ってた。
175 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:22:57
>>174 大した裏切りもないのに越前一国から出られなかった
朝倉義景は無能だな。
176 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 19:27:14
朝倉義景の場合、逃げ場所がない。信長はある。
177 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 21:34:23
だったら本能寺の変のときも逃げればよかったのに
179 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:55:40
しかしだれも注目しなかった秀吉や家康が天下人になった件について
180 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:59:53
181 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:01:24
過去形で言わんと、たまには天下人になってみてくれ。
182 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:04:51
>>177 領地の存在という意味だよ。
自刃直前の朝倉義景に残された領地は皆無。
信長には日本の半分弱があるw。(明智領の丹波・近江坂本は除いても)
183 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:47:22
でも周りが皆敵になり味方がいなければ領土があっても(r
184 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 23:52:09
オレは福井県民だから朝倉を担いでくれるのは悪い気はしないが、
正直言って5代目が義景というのが朝倉の運の悪さだな・・・
>>184 なにその昭和の歴史感覚wwwwwwwwwwwww
このスレ、子供が多いな。
勉強しろよ。
186 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 15:28:13
信長は朝倉に因縁つけて戦をふっかけるもコテンパンにされている。
姉川の戦いでも、織田勢は壊滅寸前まで追い込まれた。
後の天下人である徳川家康が信長を助けなければ危ないところだった。
よって、朝倉義景>織田信長
もうゆるぎないでしょ。これは。
187 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 15:34:30
義景は家臣の明智を織田家に入りこませた。
将軍を動かし信長包囲網を敷いた。
家康の活躍と信玄の病死で包囲網は頓挫したが、最終的には明智が信長の首を取った。
朝倉VS織田の戦いは朝倉の勝利に終わったのである。
188 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 16:42:50
>>186 >>信長は朝倉に因縁つけて戦をふっかけるもコテンパンにされている。
追撃に失敗して信長に逃げられる
>>姉川の戦いでも、織田勢は壊滅寸前まで追い込まれた。
織田勢を壊滅寸前に追い込んだのは浅井
>>後の天下人である徳川家康が信長を助けなければ危ないところだった。
兵力の少ない徳川にぼこられたのが朝倉。敗走の原因を作る
>>187 r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ
l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、 ここはお前らの日記帳じゃねえんだ
レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト
ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ 妄想はチラシの裏にでも書いてろ
:ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ
::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ , な!
:::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::///
:::::::::::::::::::::::::::::l ヽ;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ /
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義景は天と地の理があったのにそのチャンスを逃し
越前朝倉氏5代続いた家名を潰した無能
しかも先祖代々因縁の間柄である織田氏に滅ぼされたから
ご先祖様も草葉の陰でないてるよたぶん
平和な時代に生まれた人なら後世の評価が違ってたかもね
姉川の戦いって徳川から見た呼び名で
実際は織田方は苦戦もせず普通に勝ったらしいね
家康隊奮戦は徳川史観による捏造らしいお
平和を愛し、血で血を洗う戦国の世で唯一越前国に極楽浄土を体現した義景。
だが信長の傲慢な上洛強要には決然と拒絶し金ヶ崎の戦いで散々に信長勢を打ちのめす。
そして本願寺教如と同盟。足利将軍をして武田・毛利に動員をかけさしめた。
万全の戦略で信長を攻囲した義景は、浅井久政の義に義で応え、姉川に出陣する。
13段がまえの織田勢の陣を11段まで破り、信長勢を壊滅寸前まで追い込むが、
後の天下人、神君徳川家康公の鬼神のごとき采配の前に腹背を突かれ、あえなく敗退。
しかし、その人徳、その仁義は家臣の明智光秀に受け継がれ、信長は最後には敗北した。
192 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:22:43
信長の最大のライバルはやはり朝倉義景をおいてない。
戦国の巨獣と呼ばれた武田信玄は徳川家康に破れ死亡。結局信長の主力部隊が信玄と戦うことは無かった。
勝頼は信長が出張るや長篠で粉砕されるなど、一方的に敗れ去ったのみである。
本願寺は領民を扇動して戦う宗教勢力であり、ライバルの呼称を与えるのははばかられる。
足利将軍も権威のみでこれもライバルとは言いがたい。
六角禎定や松永、三好あたりでは終始信長に一蹴されており、いかにも小粒である。
毛利は強大だが元就と信長は直接戦っていないし、輝元の代には部下である秀吉の方面軍が相対しており、どうにも格下に感じられる。
上杉も同様で、謙信と戦ったのは信長の北陸方面軍でしかない。
やはり、上洛直後の信長にやや石高では劣るものの、権威・文化力で勝り、先鋭的に信長と対立し、
一度は信長を敗走せしめたどころか、自刃寸前まで追い込んだ朝倉義景が信長細大最強のライバルであることは余論をまたないであろう。
193 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 19:55:46
194 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 20:27:01
なかなか説得力がある。
文化的には義景が当時の信長を圧倒してたのは確かだしね。
「あさくら〜」
「せんぱ〜い」
196 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 22:29:46
信長は西洋コンプレックスのわりに自ら文化を創造するセンスに欠けている。
所詮尾張のイナカ者よw
197 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 22:40:55
天皇と2人で手をつないで夜空を眺めるのを夢見てたロマンチストだよ。
>>185 何その言語感覚w
日本語勉強しろよ寝ションベン野郎wwwwww
199 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 07:28:29
>>196 信長は文化を創造するのはたけてる気がするが。
だってその時代の文化を否定して自分の価値で文化を創ろうとしたんだから。
金ヶ崎で小便ちびりどうすることもできず秀吉がいなければ自刃していた。
姉川では脱糞し、腰を抜かしてはいずってるところを家康に助けられた。
信長は朝倉義景の足元にも及ばない。
201 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 11:13:41
202 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 11:17:06
たかだか尾張の小名でしかなかった信長。
信長が地ならしした後に独立した秀吉・家康。
どっちがしんどいかいうたら信長。
秀吉・家康のやったことは信長のまね。
信長が出るまで群雄割拠だったんだよ?
誰もできなかったんだよ?100年近く。
誰がすごいかいうたら信長でしょうw
信長だって全ての政策が独創ではないけどね。
203 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 12:45:10
家康なんて秀吉が天下治めた後だから
関ヶ原と大坂の陣の二回の戦だけで天下取れたんだから楽だよな
204 :
チャーチル:2006/02/28(火) 12:57:27
比叡山の焼き討ちに対して、当時の坊さん達は堕落しきっていたと言う話があるけど、本当なの?
205 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 13:50:22
当時の坊さんがストイックなわけないじゃん
>>202 信長が秀吉のような出自だったらそこまでできやしない。
その前に親分に殺されるだけ。
209 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:07:58
210 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 16:23:49 BE:350162674-
まあまあ、信長の野望でもやれ....
>>209 本能寺の変がなかったらなんていう仮定はいいのかな?
212 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 20:22:57
議論の方向性が見えてこないのですが・・・
普通に考えると
大名→覇者より
足軽→天下人のほうがしんどいし凄いと思ふ
214 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 22:18:38
ま、信長は参加資格あったからね。
足軽→武家としての天下人
より、
足軽→関白
ってのが当時としてはありえん、って感じだな。
秀吉を足軽とかいってる奴はマンガの見すぎ。
彼は花果山の霊石から生まれ神通力を駆使して縦横無尽に暴れまわったが
ついに捕らえられ五行山に封じられていたところを信長に助けられむにゃむにゃ。
そして天竺へいったんですね!
人間じゃねーww
218 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 23:15:47
だから!猿だって言ってるだろ!
219 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 23:21:41
斉天大聖ときんか頭を従える第六天魔王。
犬と猿を従える第六天魔王
221 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 23:49:02
ksk
222 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 23:55:43
子孫に聞け!
223 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 00:24:11
当時の常識からすると宇宙人だっただろうと思う。あまりにも合理的だった為
血も涙もないと言われた。DNAとしては農耕民族のものでなく狩猟民族系な
ものを感じる。
224 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 01:07:08
南蛮から送り込まれたアンドロイドだろう。顔も端整すぎる。
225 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 08:53:21
足軽→関白 は確かに常識を大きく逸脱してる。
そして 足軽→大名 までも当人の才覚のなせたこと。
しかしこの部分は信長あっての成長だからなぁ。
226 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 12:02:58
信長じゃなかったら
猿なんて使わないでしょ
そこが信長の偉いところ
でもやっぱり秀吉の方がすごいと思ふ
秀吉もいろいろ就活がんばってたみたいだから
天下人は無理でも出世はかなりいいとこまでいくと思うよ
229 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 14:27:19
>228織田家以外なら、侍大将は難しいべ。
230 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 14:31:59
んだんだ
231 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 14:37:47
>>228 美男子なら武田信玄に召し抱えてもらえたかも知れないが、猿顔では無理。
徳川は譜代の家臣団が強くて新参者はあまり受け入れないし、
今川も秀吉の才能を見抜かなかったみたいだし、
信長に仕えなかったら斎藤か浅井あたりに仕えていたかな?
信長の一番すごいところは坊主を躊躇なく殺しまくったところ。
日本人が原理主義的な、絶対的な価値観を持たないのは信長のおかげかも。
イスラムや中国は言うに及ばず、ヨーロッパでさえ宗教革命までは教会の権力が強く
無知と盲信が支配してた。
233 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:02:11
神道は絶対的な価値観だと思うのだが
234 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:04:05
日本には神道があるから
一神教であるキリスト教は、民衆に中々理解されなかったらしいね
235 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 20:37:31
でも一神教の真宗は大流行だったが。
236 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 21:07:17
キリスト教は世界中の多神教の土地で広まったわけだが。
広まったっつーか、広めたんだけどな。
改宗しなきゃ火あぶりとか、改宗しなきゃ奴隷とか。
神道が絶対的な教えになったのは、国家神道からじゃないの?
>>232 そういう信長絶対の思想は原理主義に近い件についてw
信長原理主義ってどんなだよ
いわゆる信長が暗殺されなったら天下がとれたとか、朝鮮責めずに東南アジアに植民地帝国を築いたとか云うアレ
241 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:20:20
>240原理主義と厨を一緒にすんなよ。って藻毎が猿厨か?ww
>>232 真宗は一神教なのか?
民衆の意識としては諸仏のなかで一番利益のありそうな阿弥陀如来を拝むというだけだし
広まったのは、坊主になって小難しい勉強をしなくても、命を殺めようが女とセックルしていようが
南無阿弥陀仏と唱えれば極楽逝きというわかりやすさゆえだろう。
一向宗はほかの宗派は攻撃の対象にしても、阿弥陀如来以外の仏そのものを攻撃してはいないしね。
ついでに言えば、別に坊主なんてどうでもいい、殺してもいいなんていう人間は信長以前にも吐いて捨てるほどいたし
信長は坊主だからという理由で殺したわけでもない。
宗教が政治に口を出すなという常識的な考えを無差別に適用しただけ。
243 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:48:46
デアルカ
244 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 00:03:03
小説やドラマでイメージ固められてる人物ナンバー1が、織田信長だな。
ドラマは馬鹿くらいしか信じないが、小説は一般人でもそのまま史実として信じ込みやすい。
あんまり酔うと伝統破壊と合理主義が、正しい道だと思い込むようになる。
悪しき伝統の破壊はいいこと
いい伝統まで壊そうとするのがいるのが困りもの。
246 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 00:48:01
具体的にどんないい伝統を壊したのですか?
なあなあですましてしまうところ
248 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 06:50:51
天皇制破壊しようとして反撃食らってアボソ
既成権威の破壊をするなら最後のラスボスまでやらなければ意味がない。
日本の国の政治疎外の元凶であり、今日まで悪影響を及ぼしている弥生の農業祭司
などさっさと葬るべきだったのだが。
その時点で世界史上の有能な人間には入れない。部下に寝首かかれたら
どこの国の英雄も相当格が下がってるよw
まだ昭和の歴史観で語る奴がいるんだな・・・
信長は、寺社を手厚く保護してますよ。
自分に協力的なとこは、ね。
自分に反抗的な奴らは徹底的に潰す。
寺社であろうと潰す。
それは戦国武士なら結構やってたことで、
その相手が”でかかった(叡山、本願寺)”だったことが
世間の注目を集めただけ。
>天皇制破壊しようとして反撃食らってアボソ
珍説は押入れの中で
部下にって、他に歴史上の人物とかって、カエサルとかもそうじゃん。
確か、カエサルも元老院といろんな軋轢があって、それでってのが有るけど、彼を無能とは言えないと思う。>>信長と同じく
252 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 08:56:57
信長は破壊者に思えるけど、伝統文化はものすごく大事にした人だよ
>>251 カエサルも殺されることなく野望を達成できたら評価はさらに高かっただろうな
カエサル=曹操=信長
何故か支持される=の記号
厨房御用達の三人衆
>>232 そうか?
ヨーロッパだって、ローマ教皇を殴り殺したり、
ローマに攻め入って教会や僧院に対して略奪虐殺の限りを尽くした事件もあるけどな。
叡山焼き討ちも、十字軍によるコンスタンティノープル攻略も似たようなものだよ。
曹操>信長>カエサル
て感じか
>>257 信長は確かに日本史上の英雄だけど、
世界史に影響を及ぼしていないから論外だよ。
>>258 日本は当時世界有数の鉄砲保有国。
確か信長が世界で最初に鉄砲を組織的に戦争に運用した。
宣教師の当時の記録に信長について書かれてる。
関係してると思うが?
>258
日本は世界におおいに影響を与えた国。
日本の歴史を作った信長は間違いなく影響を与えてるよ。
影響度で言えば
カエサル>信長>曹操
だろう。
中国なんて毎度毎度革命とか言っても、皇帝が変わるだけで他はたいして変わらん。
曹操>カエサル>信長だろ
曹豹>>>>>曹操>カエサル>信長
井の中の蛙 大海を知らず
唯 空の蒼さを知る
と申しまして、時には褒め文句的に使うこともあるのです。
>>263 小学生 乙
正直、西洋人達が言うほどカエサルが凄いと思えない訳だが
それって曹操にも言えるよな
ただ、曹操を凄いと言ってるのは中国人じゃなくて日本人だが
267 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:42:00
カエサルなんて単なる戦巧者だろ?
偉大な統治者ではないわな。
268 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:47:24
日本人は日本を小さな井戸だと思い過ぎてる。
日本列島をヨーロッパに置いてみるとかなりデカいよ。
人口の規模を考慮すれば、西ローマ帝国くらいの規模はあるよ。
269 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:49:13
そう思うのは勝手だが、西洋近代文明に到達するのは当時も今も無理
270 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 18:54:09
西洋文明なんて十七世紀以降の新参者。
もう既に凌駕している。
271 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:18:53
すれ違い乙
しかし異民族との果てしなき戦いを繰り広げている欧州と、
ほとんど同民族同士の小競り合いしか経験しない日本とでは、
戦闘に対する意識が違っていたのも事実。
信長は異民族との戦いどころか国内でも結局中途半端に終わってるからねえ。
そもそも有能か無能かって、信長の実績と誰かの実績を比べるくらいしか判別できないんじゃないかな?
当時のローマ軍団率いたらガリアぐらい平均以上の指揮官なら平定できそうだが・・・
韓国人って自分達を西洋だと思ってるんだってね。
276 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 21:28:37
君はカエサルのガリア戦記読んでないですね。ガリア平定は至難の事業だった。
もっともカエサルに与えられた軍団数が少なかったからだがカエサルは3万〜
4万で20万以上のガリア人と戦って勝利したのだ。詳しくは塩野七生著
ローマの歴史で確認されたい。
司馬と塩野の名前は日本史板ではタブーですよ。
ガリア戦記て自作自演の戦勝報告じゃん
280 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:54:57
>>276 つってもガロ・ローマ世界として曲がりなりにも帝国の益になりだしたのは
カエサルがガリアを荒らしまわって数百年たってから、だな。
ただ、ガイウス・ユリウス・カエサルという男が世界史に名を残せたのは
本人が共和政国家における王権を部分的にも創造したことというよりは、
彼の血統、衣鉢を継ぐと称する王統がその後千数百年にわたって存続し、
一定の権威を持ちえたからだろう。
282 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 23:29:40
de aruka
283 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 23:40:16
それじゃ僕の例出が不適当だった。ギボンのローマ帝国興亡記を参照されたい。
モンタネッリのローマの歴史も併せて参照されたい。
284 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 23:43:31
訂正 興亡記→興亡史に訂正。
少なくとも影響は与えてるだろ。
ガリアやブリテンをローマ圏にして、帝政の礎を築いたんだから。
曹操がいなくても中国や世界はそう変わらなかったと思う。
人物のスケールで言ったら信長やカエサルに勝るとも劣らないかもしれんが、
中国でいなきゃ変わってたってのは孔子とか始皇帝とかそのへんじゃね?
なにせ百年一日のような国だから。
あとはジンギスカンとかワンヤンアグダとか異民族の英雄か。
ならアウグストゥスのほうが凄くね?
カエサルが作り上げようとした(かもしれない)強い国家として
ローマを完全に復活させたという意味ではオクタヴィアヌスのほうがすごいな。
彼がいなければ、あるいはその後の皇帝たちのようにアホなら
ローマはあっという間に消えたか、分裂したか。
うむ。
カエサルが信長なら、アウグストゥスは家康かな。
旧制をぶっ壊すのと、新しい時代を築くのは表裏一体みたいなものだから。
秀吉はアレクサンドロス大王みたいなもんか
あれは夭折の天才って感じでまた違うような…
死んだあと分裂したし。
身一つで天下人だから劉邦とか朱元璋とかか。
ヨーロッパでそういう成り上がりは例があるんかね?
ナポレオンは革命後だしな。
291 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 08:22:17
カエサルの土木技術を駆使した戦法は秀吉にも通じるものがありそうだ
>>259 信長が最初ではなく、雑賀党が一番最初に
用いたんですよ。
けど(大名同士の)戦争に初めて用いたのは信長だが。
九州勢の方が先じゃなねーの
294 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 12:59:23
>>259 世界で最初はゴンサロ・デ・コルドバ
1503年のチェリニョーラの戦いで、
火器と塹壕を組み合わせた集団戦をやっている
日本で最初は紀州の雑賀衆
295 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 13:25:40
信長の頃ってあんまり鉄砲使ってないだろ
関が原の戦いとか大阪冬夏の陣の頃が普及率最大じゃね?
296 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 13:28:00
http://video.google.com/videoplay?docid=-4960427717414049428 ↑
南京大虐殺はないという動画←有名人がたくさん集まって論争してます
↑
短いですので 是非 観てください
お願い致します。
★マスコミ特にテレビは中国共産党の邪悪さを報道してくれい。
このままでは日本=悪 中国=善になってしまう。
そんなことあってはならない。絶対あってはならない。★
↑
そんなこと許されていいと思うか?
悔しいとお前らは思わないのか?そう思う方は少しでいいから
コピペしてくれ。頼む。このままでは日本は一方的に悪者にされてしまう。
悔しいよ とても悔しいよ みんなコピペ協力してくれ 頼む。
日本で鉄砲が流行ったのは、西洋のような騎兵隊と呼べるものが無かったのと、
白兵戦を嫌い投石を多用するスタイルと鉄砲がマッチしたからだと某HPに書いてあった
塹壕戦は
>>294のチェリニョーラの戦いが最初だけど
斉射戦術はマウリッツ式横陣かグスタフの三兵戦術だと思う
長篠は神話だとしてだが
>>295 大阪夏の陣での伊達で鉄砲装備率が40%ぐらい
島津とかはもっと高いかもしれん1人1銃主義だし
信長軍は装備率悪かったね
298 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 15:50:01
島津って鉄砲装備がかなり遅れたって聞いたことあるんだけどガセなのかな?
朝鮮出兵したころの日本(秀吉軍)は世界一の鉄砲保有国だったらしいね。
各国あわせて十万丁くらいだったとどっかで見たような。
もちろん、スペインからトランシルバニアまで合わせた数。
思うんだが、当時でこと銃の保有数で日本と比べるべきは、むしろトルコあたりじゃないかねえ。
302 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 23:11:14
朝鮮出兵時に鉄砲の三段撃ちやればよかったのにってのは
ただのゲーム脳のたわごとだろうか
当時のチョンなんかへぼい弓矢が精一杯だった気がするんだが
>>302 ゲリラ戦に鉄砲は無力っすよ・・・。
第一、凍傷で足の指を切り落とす足軽が続出したような
極寒の朝鮮半島で、鉄砲や火薬の輸送がマトモに行えたかどうか。
カエサルは龍造寺隆信レベル
305 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 00:08:41
デアルカ、かんぴゃうゑ
306 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:09:27
三段撃ちが有効なはずない。
307 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:11:51
308 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:23:40
>>306 長篠の合戦も姉川の合戦も金ヶ崎の撤退も
徳川家康お代いたからこそでしょ???
何とか川の3日城もサルがいたからでしょ???
信長なにもやっていないじゃん
309 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:28:43
>>308 墨俣の築城をやってのけたのは、たくさんの人足たちだよ。
猿はなにもやってないじゃん。
310 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:42:25
猿は木に登って人足たちを指図していた。
ライブドアの例で言えば、
堀江門は悪くない、野口や熊谷が全部やりましたっていう感じだね。
墨俣の築城は蜂須賀のアイデアじゃん
サルはなんもしてないよ
313 :
蜂須賀:2006/03/04(土) 19:03:25
むむむ。オレにも天下人の目ありってこと!?
314 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:13:18
あんたは地元勢力なんだからいい仕事できてあたりまえでしょ。
指揮官がきちんとした方策を設定し、適切な物資と人材と権力を配分しないと
地方勢力はいい仕事ができないのは当たり前。
「一夜城もどんな建造物も、作ったのは権力者じゃなくて無名の労働者」ってのは
ガキ好みの浅知恵だが、指揮官がいなけりゃ凡愚の人足が千人いようが一億人いようが何もできやしない。
>>308-309や
>>312のような間抜けはそこらがわかってないな。
なんだろうなこの”戦国時代が大好き!な小学生”の集うスレッドは・・・
318 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 08:23:29
しかたないよ信長をマンセーしている連中ってその程度の頭なんだから
319 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 08:38:16
親父が有能な人物で、遺産も結構あったんだろ?
>>319 信長の父信秀もすごい人だったけど、それ以上に祖父信定がすごい人だった
石高より経済の重要性を認識していて、当時の常識では考えられなかった
武家と商家の政略結婚によって、織田家の経済的基盤を作った人
信定が津島湊を得てからは大和守を圧倒する力を持つようになった
早いうちに家督を信秀に譲ったけど、この人が織田家発展の基礎を作った人だよ
信長の合理的な思想や斬新な発想、経済重視の姿勢は、祖父の影響を強く受けてるなと思う
321 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 10:34:00
>>319 受け継いだ遺産は尾張下四郡のうち2郡のみ
全体の4分の1くらいで石高にすると15万石ぐらい
なんだけど、その中に熱田神宮と市と港が含まれてるから
神社の賽銭やら商取引でかなりお金を儲けていたと思われる
結局受け継いだ遺産は、石高に換算すると35〜45万石に相当する
323 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 10:56:47
324 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 12:53:14
信長は現アメリカ民主党と似ている
本質が武士ではなく商人という事
>>320 ああ〜、親父に反発するガキがおじいちゃんには素直なのと似てるな。
要するに信長はボンなんでしょ
無茶な拡大方針でせっかくの遺産を食い潰した
>>320 信貞も最初は武力で津島を支配しようとしたらしいが、
町が燃える事の理が無いことを悟り妥協して和睦した。そのときに自分の娘を嫁がせてる。
当時、国人クラスの武士がいわゆる武士では無い地下人(商人、○○衆など)と協力する事は例が殆ど無く、
織田家の伝統的アウトロー的要素はこの時から始まってると思う。
美濃攻めの時に川並衆を起用したのも、氏素性がわからない秀吉や滝川を起用したのも、
上洛した時に真っ先に堺を押さえたのも、
織田家の信貞以来の伝統であって、信長が信貞の教えを忠実に守っていたと言える
>>324 あー、その例え良くわかる。武家なら副将軍の地位を
喜んで受けただろうけど、商人の血が流れてたから
真っ先に境を押さえたんだろうね
時々いるよな、
「実は英雄はぜんぜんすごい人物じゃなかった!!」と断定したがる馬鹿は。
信長が尾張の国人で他を抜く存在だったのは親の遺産もあるだろうが
その後の功績はすべて本人のものなのに、それを見ようとしないw
>本質が武士ではなく商人という事
↑は分かるが↓は・・・アメリカ民主党をかなり誤解している
>信長は現アメリカ民主党と似ている
>>316-318 おいおい、自演でないとすれば、大丈夫か?
「リーダーが正しい支持を出さなければ、労働者は何もできない」
というのは一般則だぞ。
何のためにこの現代まで、組織には管理職が必要なのかね。
333 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 10:16:43
>>330 そうそう、おまいさんに禿同。
秀吉の手柄も全部信長のおかげだとしたがる馬鹿も多すぎ。
そらぁ秀吉が世に出たのは信長のおかげだというのは間違いないけど、
その後の実績は秀吉自身の実力なのにな。
信長も秀吉も家康も、だれのおかげだとかいうのではなくて、
その人物が与えられた条件のもとでどれだけの実績を残したかが大事なんだよね。
つまり信長は、天下人としての能力は、秀吉の足元にも及ばない。
でも英雄には違いない。
>>315 墨俣築城は伝説の話なのか実際あった話かはおいておいて、
信長は新しいことをやるときは常に地下人と呼ばれる武家じゃ
ない人の協力を得てやってきたんだよ。鉄鋼船や墨俣などね
そう言うのをすべて信長独自のアイデアで功績というのは無理があるだろ
そういう人たちを使ったのは信長のすごいことだけどね
それと、君の言う指揮官ってのは川並衆の蜂須賀だったり
鉄鋼船のときでは九鬼をさすんではないかね?
>>なんだけど、その中に熱田神宮と市と港が含まれてるから
>>神社の賽銭やら商取引でかなりお金を儲けていたと思われる
エロイ人に聞くけど当時の神社って儲かってたの?
江戸時代は庶民の一生の悲願が伊勢神宮参拝で
参拝客が落とす金でかなり潤ったのは聞いたことがあるけど
戦国時代では金・銀山、市、湊を押さえるのと同じくらい神社を押さえる事は税収的に大事なことだったんだろうか?
そりゃ今より信心深い時代だったろうし
神社があれば人が集まって儲かったと思うよ
>>335 >江戸時代は庶民の一生の悲願が伊勢神宮参拝で
俺はそれほどエロくないが、
伊勢参りの本当の理由は、京見物だったらしいよ。
京見物という理由だと通行手形がなかなか下りなかったが、
伊勢参りという理由だと意外と簡単に通行手形が出たらしい。
政府に無断で地方税を取ってたしね。
>>337 伊勢講は伊勢神宮の御師が全国を廻って参拝者を募集し、
積立金を集めて代表者を伊勢まで送り届ける制度です。
京都まで足を伸ばしたのかどうかは分かりませんが、
少なくとも神宮近辺の歓楽施設でかなりのお金を落としていったのは確か。
御師の館でご馳走を食べ、神宮に参拝して、遊女を抱き酒を飲む、
なかなかダイナミックな団体ツアーだったようですね。
341 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 20:55:20
信長って本当に You know?
>>340 桑名などはそれで発展したようなものだしね。
船津屋の蛤を一度食べてみたいよ。今でもやってるのかな。
>>334 ふと思ってしまうんだが、蜂須賀や九鬼、それに羽柴や徳川を含めて
それぞれを適材適所に配分し、必要なだけの資材や金を集めて配分し、
資材を適切にまとめるシステムを作って現場指揮官にゴーサインを出す、という
もしかしたら実際に現地で物を作る以上に困難なことを信長はやっているわけだから
やっぱり信長は有能なんじゃないのかな。
現代の企業でも、取締役がいなければ、どれだけ部課長が有能でもたいしたことはできないわけだし。
343 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 22:24:36
>>335 神社は聖域・平和領域で市場を開催する権利を持っていたから、
放っておいても参拝客が訪れるブランド価値のある神社ならば
潤うわけじゃないか?
>>342 信長が有能か無能かといわれたら有能には違いない。
天下人の器か否かと問われたら、彼が道半ばで倒れた以上推測しかできないな。
ただ、秀吉や家康と比べてどうかというのは、環境や前提が違う以上ナンセンスだし
信長が彼らのような有能な才を見出して用いたことは事実だな。
それに、彼の元で近畿は昔日の繁栄を取り戻したわけだし
彼の作ったシステムも破綻を見せずに秀吉に継承されたところを見ると、為政者としても有能だったんだろう。
有能か無能かは行動と結果を見て類推するしかないからな。
信長は間違いなく有能だろう。
無能者があそこまで勢力を伸ばせるほど当時の日本は甘くない。
なんか歴史の素人は「信長は天下統一を目前にして倒れた」なんてイメージ持ってるけど
全然違うよねw
だって織田の最大勢力範囲は、今でいうと東海北陸と近畿だけだもんねw
日本列島の真ん中あたりのごく一部しか収められてないもんねw 極端な話、尾張とその周辺だけだもんねw
中四国や九州、関東や東北は手つかずだもんねw これらを征服したのはすべて秀吉の功だもんね。
信長を秀吉や家康と同列に論じるのは間違ってるよね。秀吉や家康は全国を支配下におさめた天下人だけど
信長は所詮ただの地方豪族で終わったもんね。贔屓目に見ても伊達や北条、毛利と同レベルだよwwwwww
信長が日本を変えたと妄想してる連中は変な信仰を捨てたほうがいいよ。日本を変えたのは秀吉と家康。
信長程度で日本を変えたのなら、今川義元も日本を変えたということになるよw
>>346 よしよしよしよ〜し
よ〜しよしよし
∧ ∧
( ・∀・)
O ⌒ヘ⌒Oフ ))
( < `ω´>
しー し─ J
348 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 11:37:56
当時は京、堺が中心であり兵の動員数は圧倒的に信長軍がまさっていた。本能寺の変の頃の支配地だけでも十分天下人。
1582年の時点では島津伊達長曽我部などの地方勢力は地方を統一できてなかったしね
天下人三好長慶も有能だろ
あの時代の近畿を抑える重要性を理解できてないアホ降臨?
1582年以降全国統一までより
1582年までのほうが遥かに困難だろ
>>316 多分戦国時代のシミュレーションゲームで得た知識でカキコしてるヤシが多いんだろね。
信長の凄みは戦争に強いとかじゃなくて組織改革・新コンセプトの創出とかなのにねぇ・・・
355 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 16:28:25
>>353 だからそういうこと言うと”戦国時代が大好き!な小学生”って言われるんだよ
>>346 中国は備中まで押さえ、秀吉に加えて光秀を向かわせ、
四国は丹羽が侵攻準備を進めており、
北国は柴田が上杉を押し、
関東は滝川が乱入していた状態でしたが?w
信長は頭はなかなかキレたが、人格的に問題があるっていう感じと、怖さは伝わるがいまいち強さが伝わってこないという感じがする。
360 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 21:04:48
キムチっ臭えスレ
361 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 21:45:24
>>358 さて、そのアホウの下で実質的な指揮を取っていたのは誰でしょう。
もう少し良質な揚げ足取りをしたまえw
362 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 22:07:57
↑アホ
363 :
堀田道空:2006/03/07(火) 22:08:12
信長の支配圏でいえば「たかが」で終わるかもしれない。
けど実際に東北の伊達、安東、最上は貢ぎ物を送ってる事実がある。
影響圏でいえばかなりなもんでしょ。
信長のアホが本能寺で死ななかったら今ごろ欧州列強の植民地になっていただろうよ。
あのアホはキリスト教を受け入れて浄土真宗はじめ仏教諸派を潰そうとしていた。
秀吉、家康のおかげで軌道修正出来てよかったがキリスト教を受け入れて売国行為に
走った手法はアメリカンスタンダードを無条件に受け入れ売国行為を今なお行う小泉
手法とまったく同じ。
>>361 丹羽は遊撃軍を率いて各地を転戦したことはあるが総司令官になったことが無い。
四国討伐軍での位置付けも「丹羽家譜」によれば長秀・頼隆・信澄を副将として並記している。
恩賞も讃岐一国を信孝に与えると信長朱印状にはあるが、丹羽には無い。
一方信孝はお前に阿呆扱いされるほど評価は低くない。
家中からの人望を集めていたし、当時の宣教師も有能な人物と評している。
366 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 23:35:45
丹羽長秀 は鬼五郎左(米五郎左とも呼ばれていたけど)と呼ばれていただけあって
勇猛だったけど猪武者みたいなもんで、大軍は任せられないと信長は考えていたんじゃないかな?
367 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 23:53:34
信長は競争原理主義、実力主義を徹底させてしまった。
譜代の重臣でも使えないのは放逐し、有能な者は草履取りや浪人でも大名に取り立て大権を与えた。
これは一見合理的で好ましい事のように思えるが
結果、家臣団には射幸心のみが異常に煽られ、一家団結という意識が希薄になったのでは?
だから、信長のかずかずの厚恩に額を打ちつけて嗚咽した秀吉も
信長の死後は織田家を護り立てようとせず、あっさりと覇権を簒奪してしまった。
乱世を終結に導いたという第三者的な視点においては、信長は大いに評価されるだろうが、
光秀、秀吉という信長が発掘した人材によってお家が滅ぼされてしまった(厳密には織田家は滅亡してないけど)
というのは少し哀れというか間抜けな気がする。
368 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:06:09
1580年の佐久間林安藤丹羽4人の追放はさすがにやりすぎだなと思う
>>368 佐久間の場合は、信長が名誉挽回に命を懸けるか隠遁しろ
武門の意地を見せなさいと折檻上送ったのに、
信盛は真に受けてビビッたのかそのまま死んじゃったんだよ
残りの3人はリストラかもな。
370 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:30:07
>>368 佐久間への書簡(信長自筆)
・信長の推薦した者をクビにした。その後新しい人材を補充もしない。
・他の武将に比べ人材を採用しないでケチケチ金をためている。
・他の武将に比べ手柄が無いのに発奮する様子がない。
・敵を攻めるいい考えが浮かばないなら軍師を雇うか信長に相談すべきである。
・以上のような状態が5年も続いている。この上は死ぬ覚悟で手柄をたてるか
出家するかどちらかを選べ。
・・・結局佐久間は出家を選んだ。(信長公記より)
・
371 :
370:2006/03/08(水) 00:36:43
今俺信長公記読んでるけど信長って意外とやさしいよ。
佐久間が死んだら佐久間の子に領地を与えてるし。
372 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 00:39:51
織田信行の息子・信澄を助命したばかりか、厚遇して所領を与えている。
おもしろい処置だと思う。
信長は基本的に命令違反や謀反されても一度は許す
それと下位の人間には基本的に優しかった人だね
その代わりに責任ある立場の人が仕事で怠慢が見られると処分が厳しかった
佐久間親子や桑実寺事件の女達ね
374 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 01:08:42
信長公記を読んでいると、テレビや小説などで描かれる信長像とは
真逆の人物像を想像してしまう。
合理的という部分を除いては。
爆発的な行動力は自信に裏づけされているのではなく、
恐怖で心のバランスが崩れたときに発動されているように感じてしまう。
冷酷さも臆病の裏返しではないだろうか。
375 :
370:2006/03/08(水) 01:27:55
信長の推薦した者をクビにするなんて佐久間が恐いもの知らずというより、
普段は信長もそんなに恐くは無かったのかも。
大げさに言うと佐久間は信長を甘く見ていたのかも。
冷酷で家臣の失敗を許さない、という性格ならそもそも柴田は生きてはいない。
現代までに作られた信長像は、多く徳川時代や戦前のバイアスがかかってるだけに
注意して見ないとな。
>>365 かといってソコまで優れてる奴でも無いんだよ>信孝
まぁ、兄貴の信忠が非常に優秀で輝いてるから、割食ってる部分はあるんだけど
宣教師には乗せられてる感じがしなくもないし、所詮宣教師の言葉なんだよねぇ
副将が丹羽・信澄って時点で手堅く固めてる時点で、頼りなく見えてしょうがない
四国政略の当初から、明智光秀は長宗我部氏との間に立って
その調略を進めてきたので、当然、四国征討の総司令官には
自分が任命されるものと思っていたようだが、
自分の思いとは違い、信長より任命された総司令官は3男信孝だった。
総司令官の座を信孝に奪われた事が、本能寺の変での、
叛意が起きた理由の一つという説もあるね。
>>365 信孝の場合、本能寺直後の行動も能力を疑うには致命的。
他人の評価より、実質を見れば彼がどういう人間かわかる。
粗忽にして思慮足らず>信雄
将来に期待>勝長
毒にも薬にもならない程度>信孝
手堅い、使い勝手の良い男>信澄
織田の名を受け継ぐに相応しい>信忠
あ、居たの?>信包
信長厨って痛いよな。www
出家した信盛は真の勝ち組
アンチもなwwwww
長益>ちょwwっw おまwwっw
385 :
中川:2006/03/08(水) 17:00:41
いやあ!俺の名前は、中川 拓也だよ!みんな愛してるぜ!
386 :
暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/03/08(水) 20:45:48
>>1 お前は戦国無双に影響された厨だろ!?
戦国無双の信長は曹操みたいな感じだった。
でも使いやすいキャラだったな
387 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 21:40:49
>>387 長益は、甲州征伐で木曽口から遠山友忠と共に進攻。
武田信豊勢を鳥居峠で大敗させ、深志城(長野松本)の馬場信忠を降伏させた。
小牧・長久手では信雄に属して戦う。
榊原康政・山口重政とともに下市場城を攻略する。
関ヶ原では小西行長と交戦。自ら石田三成の勇将・蒲生真令を討ち取る(一騎打ちだったが郎党が助けた)
武将としては並の戦功をあげてますが、
逃げ癖は本能寺の変、大阪の役で発揮されてます(´・ω・`)
いずれも劣勢で討ち死に必死の大舞台
たぶん武門の意地など糞くらえな武将だったのではないかと(茶人だったし)
>>388 本能寺の時は家臣を欺いて脱出してるし
大阪夏の陣では敵前逃亡
いくら一騎打ちで武功をあげようが武士としては失格
本能寺の局面を突破して生き残っているのだから超優秀。
大坂の陣で仕事果たして脱出成功してるのだから超優秀。
>>389 なにそのファッション武士道wwwwwwwwwww
391 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 18:02:15
本能寺の局面すら逃げきれない信長は無能
392 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 18:03:11
まあほとんどの凡将でも防げる本能寺を防げなかった信長は、とてもじゃないが有能な武将とは言えないと思う
戦国時代を舐めてるよ
393 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 18:17:27
もっともだ
死に繋がるミスを犯した武将は決して有能ではない
何故なら死んでしまえば今までの功名も水の泡になってしまうからだ
現実に信長は秀吉や家康のアシスト役になってしまったからだ
394 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 19:21:35
信長は比叡山焼き討ちとかして、胸が痛まなかったのだろうか。
395 :
信長:2006/03/09(木) 19:24:18
何かこうスカッとしたぜ
396 :
ノブナガ:2006/03/09(木) 19:55:29
焼いたのは猿やキンカ頭だもん。僕は何も言ってないし。
397 :
陽貴妃:2006/03/09(木) 20:04:50
秀忠の乳母には野際陽子を指名しましょう。熟女キラ-だから秀忠は妻・浅野ゆう子にうんざりしてますので
398 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 21:20:33
意味ワカラン
>>389 金ヶ崎なんかで信長は部下を見捨てて敗逃してますが?
400 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 23:11:40
>>394 あくまでも人倫の面で、少しは良心の呵責はあったかもしれんが
いわゆる神罰仏罰に関しては全く恐れてなかったかもね。
信長は当時としては非常に稀な、尖鋭化した無神論者、徹底化した合理主義者だったらしいし。
401 :
吉野大夫:2006/03/09(木) 23:27:21
野際陽子がダメなら小川知子に決定
402 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 23:27:22
無神論者かな。堕落比叡山が気に入らなかっただけでは?
403 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 23:51:49
>>400 日本の神仏とは全く異なるものを崇拝し、
南洋の諸国を蹂躙し、その地の信仰対象を破壊している南蛮の国々が
国勢を増しているのなら、叡山如きを蹂躙したところで
祟りなどあろうはずもないことは充分に想像できただろう。
404 :
順性院お夏:2006/03/09(木) 23:54:49
比叡山を五十嵐淳子に与え
東山を浅野ゆう子に
北山を浅野温子に与えれば見事解決
405 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 00:07:40
信長に凡人の弱さや苦しみなど分かるハズがない。
信長に常人の持っている恐怖心やい畏怖心などがあるハズがない。
だからあそこまで上り詰めることができたのだろうし、だからあのような死に方をしたのだろう。
406 :
大奥御年寄・朝比奈:2006/03/10(金) 00:09:24
信長に浅野ゆう子を紹介すれば解決する。
なんかこう、荒らす奴は文体が分かってきたな。
それ以前に結論がアホくさいけど。
408 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 05:51:59
松平長親(まつだいら ながちか) 1473〜1544
親忠の子で三河松平氏第五代当主。通称次郎三郎、左京亮・蔵人・出雲守、初め長忠を名乗る。
駿河の今川氏親の侵攻に苦慮、永正三年には侵攻してきた氏親の将・
伊勢新九郎(北条早雲)の一万の大軍に対し、わずか五百の兵を
巧みに操って互角に戦った。比較的早い時期から道閲と号し、
連歌にも堪能であったと伝えられる。
>>>>>>>>
桶狭間以前に今川の大軍しかも北条早雲が大将を撃破した人物がいるんだけどな。
信厨論破されて必死だなww
410 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 11:41:17
>>393 畳の上で死んでも後世に影響与えなかった戦国武将なんていくらでもおるぞ・・・
むしろ合戦で死んでも歴史に名を刻み込んだヤシの方がよっぽど後世に
名を残してる訳で。島左近とか政治的には大した役割はして無いが
関が原の活躍で東軍の兵にトラウマ残したぐらいだ。
>>394 信長は信仰自体はどうでも良いけど叡山が政治的勢力を持ってる時点で
あれを宗教組織とは思ってなかったんじゃないかと。単なる敵対勢力という
とこでは?
>>405 信長って大胆なイメージが強いけど実は結構慎重な面見せてるので
恐怖心とかはきちんとあったと思う。
>>409 一行レスつけて他人見下した気になってる低能ハケーンwwww
羞恥心の無い人間って屑ですね
412 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 13:41:59
今川義元 .織田信長
駿河 150,000石 尾張 571,737石
遠江 255,160石
三河 290,715石
計695,876石 計571,737石
ほぼ互角の兵力で戦ったと思われる>桶狭間
413 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 13:54:36
織田の場合美濃の備えがあるから兵力は半減してたけどね
実際は8000対1万5千くらいの戦力比およそ1対2の戦いだったと思われ
んで、本体同士が偶然衝突してしまう遭遇戦
野戦では珍しい総大将が討ち取られたのはそのため
414 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 13:58:39
>402
信長は焼き討ち後に、吉田兼和に祟りがないかどうか聞いたという。
無神論者ならこういうことはしない。
信長は神主系の家系だから日本の神は信じていたと思うよ
自分の神社も作ったし
仏教切支丹などの外来のものは信じてないと思うけど
>>415 安土に御神体置いて拝ませただけで神社は作ってない。
仏教も信じていたと思う、ただ真宗のような新興カルトが嫌いだっただけ。
キリスト教もキリスト教の本性を知ればやっぱり弾圧されていたと思う。
信長公記によるとよく参拝しているみたいだが
419 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:14:11
信長の政教分離は本当ですか?
また本当だとしたら政教分離でどんなメリットがありますか?
420 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 18:27:44
>>419 自らを信仰対象にさせた信長が、
政教分離もないものだ。
>自らを信仰対象にさせた信長が、
これだけどさぁ、今でたとえると、
サッカーのWC予選で活躍した大黒のために大黒神社を作ったり。
ジーコのことを神様といってみたり。
バースのことry
当時も今もだけど絶大な功績を残した人が≒神というのは、
神道が身近に根付いてる日本人にしては不思議なことではないはず。
>>421 大黒神社だけではなくハマの大魔神社やバレンタイン神社もあります
日本人は何でも信仰対象にするんですねー
423 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 19:10:09
道路に生えた大根ですら拝んでいたからな
424 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 19:16:03
425 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 19:40:30
大黒神社もハマの大魔神社も御神体本人が建てたものじゃないし。
>>425 本人が建立したかどうかより、生きてる間に信仰対象にされていることが重要だと思うのだが
それだけ民衆に神というものが根付いているということで
427 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 20:33:56
>>412 >>413 信長公記の記述をまったく否定するわけですな。
それでは、その根拠を示してみなさい。
429 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 21:15:39
>>427 信長公記は数字に関してはでたらめだらけだよ。
桶狭間がいつ起きたかですら間違えてるし。
>428
信長公記に奇襲なんて書いてない
>>418 だね。
北畠氏を攻めたときも、遠方にある朝熊山の金剛証寺まで参拝してる。
ちなみに、このお寺、なぜか最近まで石原裕次郎の卒塔婆が存在していた。
地元民の話によく出てくるが、これもなぜか美空ひばりの卒塔婆が存在していたことは触れられていない・・・。
432 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 22:31:16
大名でも、いつも石高そのままの兵力を自由に展開できるわけじゃないよ。
今川は上洛のための準備を整えてから兵を起こした。信長はあくまでそれに受けて立っただけ。
さらに、当時は大名が自分の恣意で動く直轄軍を持っていたわけじゃなくて
大名の下に小名がおり、土豪がいて兵を集めたわけで。
たとえば今川に利ありと見て動かなかった土豪もいたかもしれない。
後に信長は傭兵を使って、ほぼ自分の意のままになる軍を作り上げるわけだが。
まして武田・北条と仲が良く、後ろをあまり気にせず戦えた今川に対して
織田は在地土豪への防御、美濃、伊勢方面への守備兵も残している。
>>今川は上洛のための準備を整えてから兵を起こした。
上洛のために兵は起こしてません。
435 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 23:59:33
歴史がすべてを物語る。
狸>猿>>>キンカン>信長
そうなの?
上洛のためってのはよく聞くけど違うと言うのは初耳だなあ。
>>433 元亀・天正年間で常備直轄軍を保有していたのは信長と家康だけだっけ?
438 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 00:13:37
信長厨は、今川は4万5千の大軍で上洛を目指し兵を起こして、
その大軍を寡兵で打ち破ったと本気で信じていそうだな。
439 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 00:28:46
今川は、安倍金山の収入とか、船舶の交易とか商業関係で動員力が大きかった。
武田も上杉も伊達も金山だし。尼子は銀と鉄だ。
米の生産量以外に動員能力としては、金銀の収入とかもあった。
今川軍の実数は、2万くらいだろ、多く見積もっても。
あと、北条の援軍もいたはず。
>>439 尾張の実数は多く見積もって1万5千
2万と1万5千ならいい勝負じゃん
>>436 今川軍は大高、鳴海、沓掛この寝返った城三つのために後詰に動いただけです。
442 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 01:31:31
江戸時代の軍記物って、捏造が多いんだよな。
兵力とかメチャクチャだよな。
443 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 02:03:08
>>428 >>430 信長公記には、正面攻撃したとは、どこにも書いてありません。
「奇襲」とは書いてないけど、義元本陣襲撃の描写はあります。
その描写の有様は、迂回奇襲と解釈する以外ありません。
>>432 >>440 尾張の石高は57.2万石。最大動員数は、14300人くらい。
しかし、この時期、犬山城の織田信清と川並衆はまだ服属していないし、
尾張領の一部を今川に侵蝕されているので、信長の最大動員数は約1万程度。
このうち
桶狭間方面の5砦に、各500人配置したとして、2500人
清洲城、および主要な支城に警備の兵は必要なので、3000人
敵対している美濃斉藤家から、隙を突いて侵攻があるかもしれないから防備の兵を配置したはず、2500人
以上のように兵力配置したとすると、信長直率軍は、せいぜい2000人しかいない。
2000という数字は、公記の記述どおりです。
また、公記は、今川軍4万5千と書いているけど、これは今川側の宣伝していた数字をそのまま記述しているのだと思われる。
敵を恐れさせるために、実数の2倍くらいサバ読んでる。
だから、実数は半分と見て、2万2千くらいと考えてよいでしょう。
>>441 そうですね。
それを考えると信秀の代から抗争しているとはいえ、織田家相手に4万人は過大な戦力ですね。
戦略上2倍以上の兵力を揃える目的なら
>>443を見る限り2万人もいらないわけですし。
やはり他の合戦などで使われた兵力を基準にして再考した方が確実でしょう。
まぁせいぜい今川の兵力は1万5千だよ
決戦のためではなく後詰に動いたんだから、国内をカラにしてまで攻めてこないはず。
各砦と松平、朝比奈らに兵力を分散させていたから、本体が5千ほど
信長自身の発言だと、疲れた部隊を自軍の新手で叩くといってるけど、
これは先行の松平、朝比奈らを打ち破る意図があって2,3千の兵力で出陣したんだと思う。
それが偶然にも今川軍本体と衝突したと俺は思うけど。
だから意図した奇襲ではないと思う。結果的には奇襲だけど。
446 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 10:02:27
この人ってなんで信長親衛隊みたいな直属の近衛兵を作らなかったんだろうか?
光秀みたいな外様に兵力与えて身近においてさ
追放した佐久間にでも、1万くらい預けて、
近衛兵として常に信長の側に置いておけば本能寺の変はなかったのに
佐久間なら信勝謀反の時からずっと信長に付き添った忠臣だから絶対裏切らないよ
俄かに雨が降り出して・・・という記述もあるから、確かに遭遇戦っぽいね。
>>446 信忠が手勢を率いてすぐ近くの妙覚寺にいたよ。
刺客を警戒するなら近習だけで周りを固めた方が無難じゃない?
449 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 11:17:36
>>448 446の書き方が悪かったけど近衛兵じゃなくて近衛師団ね
あくまでも刺客の警護ではなく大規模な裏切りに対する警護
信忠の領土は尾張美濃で、わずかな軍勢を率いて妙覚寺に居ただけ
光秀なり秀吉が裏切ったことを考えて常に佐久間のような譜代の家臣を身近において、大軍与えて近畿を守らせれば良かったんだよ
核の抑止力みたいに常に1万ぐらいの大軍が信長とともに行動していたら、よほどのバカじゃない限り裏切りは起こさなかったはず
>>443 >この時期、犬山城の織田信清と川並衆はまだ服属していないし
信清はともかく川並衆は信長に協力的だっんでは
蜂須賀正勝が義元にお酒と食事を差し出して油断させたんだよ
451 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 11:27:05
>>443 最近の傾向として“正面突破”説が多いように思えます。むしろ、正面突破が
「まさか」とみられていただけに、逆に“奇襲”的な効果を発揮したのではな
いでしょうか。
>>449 そこら辺はまさしく信長の油断でしょう
これまで荒木や松永といった外様の裏切りはあっても、譜代や出頭人
の裏切りは此れまでなかったですから
>>449 本能寺の変の光秀の位置に近衛師団が常にいることになるだけ。
指揮系統を複数にして相互監視にしてとやっていくと規模も大きくなるし。。。
信長は無限の軍事力を持っているわけではないから。
>>452 尾張統一期なんか譜代の謀反が連続じゃん。
454 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 12:34:25
>>453 信長直属の兵隊が殆ど0っておかしいと思わない?
信長の中では近衛師団的存在が光秀だったかもしれないけど、それに裏切られたらバカだよ
光秀は朝倉氏、将軍家と何度も鞍替えしてるから用心するのが普通だし
やっぱり近衛師団として譜代の佐久間を常に側においって置くべきだったな
佐久間は尾張統一期からずっと信長派だし、追放された時も他家に仕えた後が無い
信長が佐久間の屋敷に寝泊りするほど信用できる人物だった
456 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 12:48:28
この時代、信長が初めて統一をしようとして行動してたので、そこが有能だったと思う。
全ての行動がそれに基づいてたようです。
志なかばで死んだ後をよりいい形にしていったのが家康と秀吉のようです。
比叡山焼き打ちは最終警告を無視したからのようです。
その当時の寺社勢力はたいそうなもので家康も秀吉も武装解除の政策をしてます。
宣教師についてもその当時は問題がなく得る物が大きかったから見守ってたみたいです。
信長は神になろうとしてたみたいです。
というのも安土城に神殿のような物を作ってたみたいです。
裏切りに対しては苦い経験があるので厳しかったんじゃないかと思います。
だから浅井に対してあそこまで残虐なことをしたんだと思います。
457 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 12:49:34
本能寺の時は信長直轄の領地ってあったのか?
尾張と美濃は息子にやったし。自前の軍勢はなかっただろうね。
一応家督譲った立場だからそれでいいのかもしれないけど。
>>450 信長は商家の生駒屋敷によく出入りをしていて、
その時に秀吉や、商人の護衛を担当していた川並衆の蜂須賀、前野などと知り合ったらしい。
桶狭間の時もたぶん川並衆は協力したでしょうね。
460 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 13:22:51
>>449 それはムダだ、と信長は考えたのでしょう。その1万の兵力は侵攻に用いた
ほうがいい、というのが信長の合理主義でしょう?
信長はだれも信じていなかったようにみえますが、案外、光秀などの部下を
信じていたのかもしれません。もしくは、部下を完全に舐めきっていたか、
どちらかでしょう。
いずれにしろ愚かだな
462 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 13:54:25
安土見てもわかるように守りは全く考えてない
463 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 13:58:20
信長は常に身辺無用心だよ
わずかな旗本率いて一揆勢に陣頭指揮で突撃したこともあるし(その時は太腿を負傷した)
なんか自殺願望でもあったのかなと思ってしまう
それぐらい大将なのに危険なことを平気にやってる
信忠も城攻めで似たようなことしてたけど
464 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 15:02:56
>>463 自分の安全に無頓着なほど、天下布武に集中していたんでしょう。
>>450 >>459 川並衆は総勢2000人、蜂須賀・前野の手下は合計で250人くらいといわれています。
まあ、その他の川並衆も協力したかもしれないけど、一本化されていたわけではないので。
>>445 >>疲れた部隊を自軍の新手で叩くといってる
確かに、信長公記では、中島砦を出た後、兵への訓示(?)で、そんなことを言っているけど、
その後の戦闘の描写では、その言葉通りの戦い方をしていません。
また、
義元本陣に偶然にも遭遇したのだとしたら・・・・
1)義元軍5000対信長軍2000で、義元軍が高地にいる
2)そこにたどり着くまでの戦いで信長軍は疲れきっている
3)高い位置から、信長軍の接近を見ていたから、義元軍は準備ができている
ということで、圧倒的に義元本陣が有利。
不用意に、2kmも敵陣深く攻め込むなんて無茶というよりはっきり馬鹿です。
もちろん、信長公記には偶然遭遇したなどとは書いていません。
>>447 俄かに雨が降り出したってことと、遭遇戦とどういう関係があるというのでしょうか?(笑)
公記の記述から明らかなことは、
移動中は雨は降っていない。
山際で待機中、夕立が降っていて、それが止んだ時に突撃の号令を発した。ということです。
465 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 15:17:01
大将はハッタリが必要なのだよ。
やっぱバカだよコイツ。
人間を管理した経験が無いんだな。
>>464 桶狭間の功名第一にされた梁田党の梁田弥右衛門政綱は、川並衆の一員ではなかったのですか?
468 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 16:00:35
迂回奇襲説は鉄砲3段撃ちや墨俣築城とともに伝説の話
議論するまでも無い
2倍の兵力相手に正面突撃をしたんだよ信長は
469 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 19:29:19
良策が浮かばず正面攻撃しただけだろ
とはいえ、偶然が無かった。
正面突撃で相手も準備はあった。
布陣は今川方が有利だった。
と言っていくと今川方が敗れた説明がつかなくなる。
471 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 20:02:04
勝ったんだから結果オーライだよな。
同様に本能寺では負けたんだから弁明の余地なし。
本能寺で勝って天下統一してたらマジでネ申だったのにな
473 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 23:27:25
>>467 簗田弥次右衛門と同一人物なのかな?
簗田は、沓掛あたりの土豪で、尾張守護・斯波氏の家臣で、
天文20年頃、信長に臣従するようになった。
だから、川並衆とは違うんとちゃう?
>>454 それを言うなら筆頭家老の柴田修理だって逆臣あがりだよw
彼が具体的に家臣の忠誠心をどう考えていたのかは不明だが
少なくとも、才能はあるがコネはないといった光秀・秀吉タイプの家臣にとって
他の大名家に仕えたり謀反してわざわざ一家を立てるよりは
自分の下に所属したほうが実績に応じた地位や富を保証できる。よって、
利を求める聡明な家臣ならばわざわざ謀反を起こすという非合理的な行動を起こすはずが無い、
くらいに思っていたんじゃないかね。
信長を殺して天下を取れれば地位も富も独り占めと家臣が考えるとは思わなかったのかしらね。
信忠さえ生きてれば信長が死んだぐらいでは問題が無いのに
普通は殺しても天下は取れないと考えるし、実際取れなかった。
味方する武将がほとんどいなかったのは、うまくいかないと考えたからだろう。
光秀が狂ったとしか思えない。
478 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 02:54:28
>>468 2倍の兵力差なら勝てるかもしれないと思っているようですが、甘いですな。
正面攻撃→義元本陣と偶然遭遇したとする場合。
今川軍
義元本陣:5000人(無傷)
中央突破された今川軍前衛部隊が追撃してくる:推定だが、3000〜5000人(?)
織田軍
信長直率軍:2000、、、といいたいところだが、
2kmの登り坂を、戦いつつ駆け上って来たわけだから、当然消耗している。
尾張兵がどれほど強くても、半数が生き残っていれば上出来でしょう。したがって、1000人(?)
1000vs8000〜10000!
8倍から10倍の今川軍に包囲攻撃されて、信長隊は全滅・・・・
まあ、もちろん、信長公記には、
正面攻撃も偶然遭遇も、どこにも書いてないわけですが(笑)
ありえないことなのよねぇ。
>>469 鳴海城の山口左馬助が今川に寝返ってから7年、
今川軍が本格侵攻の準備を始めてから1年、
これだけ時間があるのだから、信長でなくても、対応策を考えたでしょう。
何の対応策もなしに、今川軍の侵攻を迎えるわけがないでしょう。
その対応策の中身は、信長公記から読み解くのは難しいですが。
479 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 03:09:36
どうしても奇襲説が正しいと思いたい人が居るようですね
迂回機種右折は江戸時代の創作だと聞いたけど・・・
>>475 家督を継承した信忠がいて、
隙あらば上を蹴り倒そうと手薬煉引いてる海千山千の部将がいて、
中には信長恩顧の大名もいて、一応織田一丸で抑えてるとはいえ
周囲には強敵がうようよいるのに?
まして主殺しの汚名が(一応)あり、
出頭人のような連中の場合股肱の家臣も少ないのに?
それでもわざわざ過酷な謀反の道を選んだ光秀は、頭が逝っちゃったんでなければ
よほど自分に自信があったとしか思えんな。
信長は、土地を持たない流民を大量に使ったんじゃなかったっけか。
土地持ち農民は、年貢の収穫期には使えんけど、土地なし農民は何度でも使用可。
そういうのを大量に銭で雇って、普段から訓練させ、相手の収穫期を狙って攻めた。
ただ、配下の武将(土地持ちの豪族)の農民を使わないわけだから、武将の反発をかなり受けてたとか。
あと当時は関所や座があって、商品が流通するときは、公家や豪族が
税をかけてたけど、信長はそれをすべて廃止(楽市楽座)した。
それで尾張内の物価を下げて、その上で大量に鉄砲、武器、兵を大量に銭で購入。
だから強かったんじゃないかと。ただ、これも公家や寺社の反発を受けたとか。
おもいっきたことをやった反面、豪族、公家、寺社の色んなところから反発食らってたんだよな
おまえ等は税金かけんな。関も作るな。金とっていいのは俺だけ。
と言うのが楽市楽座ですよ。
当時はひとつの土地に公家やら寺社の色んな税がかかってたけど
それをやめ、低価格で流通させ経済を発展、その上で商人たちから場銭を取り、
その銭で武器、鉄砲、兵を銭で購入。そんな感じでないかと。
>>478 単純な質問ですけど、その兵数はどこから持ってきたの?
んで、当時はそんな実際の数を正確に知ることが出来たの?
>>478 天王寺では3000率いて5倍の相手に信長自ら
足軽に混じって一緒に切り込んだんだから、
桶狭間でも同じように、2000率いて2・5倍の相手に、
正面から無策で切り込んだんじゃないの?
信長公記にも突撃の描写はあるし。
綿密に作戦を練って、臆病なまでに慎重な武将だけど、
土壇場ではいつも大胆な事をやってるよ。
普段は小心者なんだけど追い詰められるとキレちゃうんだな。
部下を怒鳴り散らすのはその反動。若い頃かぶいてたのも周りに舐められまいとして引っ込みがつかなくなっただけ。
そんな信長はどうだろう?
488 :
485:2006/03/12(日) 10:59:53
>>486 ひとつだけいえるのはさ、大将が自らが陣頭に立たないと、離反者が続出したかもしれないってことかな。
そういう意味で、若干無謀な作戦も考慮にいれるべきなのかも知れない。
京で三好の残党が蜂起した時も単騎で岐阜から駆けつけたしな
無謀で気狂いじみた行動は良くやってる
上が率先してやってるんだから、ってのはいつの時代でも殺し文句だな。
反感を抱いても逆らうわけにはいかない。
家康もよく陣頭指揮をして
大将こそが陣頭指揮をするべきだという言葉を残してる
そのかわりに危ない目にはよくあったけど
492 :
491:2006/03/12(日) 11:31:59
あごめん
言葉は残してないかもしれない
でも、陣頭指揮はよくやってた>家康
信長や家康が陣頭指揮とってるなら秀秋が
陣頭指揮をとっても別にいいじゃないかとふと思った。
そんなことより、信長が楽市楽座をやったように
光秀は税を抑えるために国人(豪族?うろ覚えスマソ)を
征伐したとどこかに書いてあったけど、本当なのだろうか。
495 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 15:16:29
>>485 石高から最大動員数を算出したものを、某スレから参照して、
信長軍については、城や砦に配置した兵数を引いて2000
これは信長公記の記述と一致するから、そのまま採用。
今川軍については、各説ある中から一番少ない1万5千として、
義元本陣に5千は必要だろう。丸根・鷲津の砦を攻めた4千を除き、
残り5・6千が、中島砦の包囲と義元の防衛をかねて、
中島砦と本陣の間にいただろう、という、、、、、推測です。すいません
>>486 天王寺では、2kmも敵陣深く攻め込んだりしていないだろう?
少数でそんなことをしたら、蹴散らした敵兵が今度は追撃してきて、押し包まれて切り刻まれるんだが。
実数はわからないけど、たぶん2〜3倍くらいの今川前衛部隊を正面攻撃で蹴散らして、
2km突き進んだら、偶然にも、義元本陣(これも2・5倍)と遭遇しますた。
後ろからは、蹴散らした今川前衛部隊が追撃してきます。
自軍は、約半数に消耗しています。・・・さあ、どうしますか?(w
信長公記の突撃の描写は、明らかに、義元本陣を直接攻撃しているよ。
義元軍の混乱の様子を、水をまくようにバッと崩れ、義元の輿を捨てて逃げた、と書いてある。
正面攻撃ならば、山上から戦場を見ているのだから、防衛の体制を立て、義元は早めに逃げるだろう。
また、義元本陣の兵だけが抗戦している。
明らかに、正面攻撃説と合致しない。
497 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 15:31:44
信長は未来からタイムマシーンで戦国時代に言ったとしかいえないぐらい異端児?!
(本物と入れ代わったのはオヤジ葬式時)
>>496
正面攻撃説が違うならどんな方法だと思うんですか?
499 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 15:47:28
本能寺の変の時の信長直轄領だが、山城・摂津・近江などに
40万石の領地を持っていた。
>>496 天王寺合戦
1万5千の敵兵に包囲されてる砦に、
信長公は3千の兵を三段に配備し住吉方面から攻めかかる。
織田勢への数千挺の鉄砲を放つさまは、降りしきる雨のごとくであった
信長公は薄手を負い、また足に鉄砲傷を受けるが大事なく、
敵陣に突っ込んで切り崩し天王寺の味方と合流。
時を惜しんで二段に軍勢をたてなおし敵へと向かい、大
坂城の木戸口まで追跡して2700余りの首を討ち取る。
とあります。
わずかな兵で血路を開き砦に救援に駆けつけてから、さらにもう一度砦からうって出て、
5倍の兵力差の敵を敗走させ、追撃戦で散々に打ち破った様子が伺えます。
これは正面から突撃し、敵陣深く切り込んだと解釈できないでしょうか?
残念ながら私は地理に詳しくないので、どれくらいの距離を切り込んだかはわかりませんが・・・
>少数でそんなことをしたら、蹴散らした敵兵が今度は追撃してきて、押し包まれて切り刻まれるんだが。
貴方の言うこういう状態にはなってなく、逆に、大軍の方は敗走し追撃されています。
>>501 それは砦の救援なんだから当然の作戦でしょう。
敵の包囲を解かないといけないのですから、合流して士気を上げた後、機先を制して突撃したのでしょう。
>>502 それで、
これについてはどう思うの?
>少数でそんなことをしたら、蹴散らした敵兵が今度は追撃してきて、押し包まれて切り刻まれるんだが。
貴方の言うこういう状態にはなってなく、逆に、大軍の方は敗走し追撃されています。
普通一度蹴散らされて混乱すると、立て直すのに精一杯で追撃なんてできないと思うが
しまいには本陣まで崩されて、全体が敗走すると思う
>>501 すごい。
信長って姉川など、大軍率いると弱いイメージがあったけど
局地戦では勇猛だね。
>>503 それは知らんよ。
自分のレスじゃないし。
506 :
505:2006/03/12(日) 22:45:52
>>504 勇猛なのは欠点でもある。
>>503 秩序を保って退却した&敵の兵数が分かった、なら、反撃は可能ですよ。
遠征軍は複数の部隊に分かれているわけですから、他の部隊が退却&再編支援のため後方に詰める可能性もあるでしょう。
いずれにしても推測です。
507 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 22:56:14
なに議論してるの?
迂回奇襲説は江戸時代の創作
無策で正面攻撃してみたら勝っちゃっただけ
508 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:05:33
>>504 勇猛じゃなくて基地外です><
どこの世界に鉄砲玉が降る中、足軽と一緒に突撃する大将が居るんだよw
↑バカ
510 :
505:2006/03/12(日) 23:11:13
なんか、こういう展開って飽きちゃうよね。
>>510 うむ。
桶狭間はすでに何度も語られてるし、肝心なところは結局想像なので
明確な結論は絶対で無いしね。
512 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:22:03
正面攻撃だよー
あくまで勘なんだけど、
桶狭間は奇襲じゃなかった説になった方が逆に信長の評価上げられるんじゃね?
と思ってこの展開にわくわくしている信長好きの俺。
514 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:10:42
桶狭間の戦いは幸運が多かったわけだが、
・義元の首を取ることだけが勝ち目があると見て行動した事。
・義元の所在情報から直ちに決断した事。
・義元の首をとったら直ちに引き上げた事
などから信長は有能と見るね。奇襲か正面攻撃かを論じるのは
詳細が分からん以上、意味無いと思うね。
515 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:52:23
押し寄せる敵兵を、引き寄せてワンパターン攻撃を繰り返し、
確実に相手を弱らせつつ、じっとUFO(大将)の出現を待つ戦法。
これを「名古屋撃ち」と言う。
516 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 01:02:57
>>501 >>503 一揆勢というのは、土地を離れて、本願寺の下に集まった農民たち、
装備、訓練度、指揮系統も、戦闘のプロ集団である織田軍とはダンチです。
また、中核である雑賀鉄砲衆も5のグループに分かれ抗争していたといわれています。
そういう集団が、城から出て戦っていたら心細く、はやく城に戻りたい、
いわば、逆背水の陣の心理状態であっただろうことは容易に推測できます。
信長の攻撃は、その心理を突いたものだったのかもしれません。
しかし、天王寺合戦については、よく知りません。
これ以上、天王寺合戦については論じることはありません。
今川軍は、一揆勢とは違います。
前衛部隊も、劣勢の信長軍に蹴散らされるわけはないが、
もし中央突破されたとしたら、必死に追いすがり追撃していくでしょう。
むざむざ信長軍に通行を許し、本陣に迫られれば、戦後に義元から責任を問われることが恐ろしいです。
それと、中島砦から義元本陣までは、約2kmの登り坂であることを、忘れないでください。
山頂にも見張り隊がいたはずだし、信長軍の動きは丸見えです。
前衛部隊を突き崩し、斬り伏せ、駆け登って行った先に、無傷の5千が待ち受けていることになります。
信長軍は、この時点で何割が生き残っているのでしょうか?
「正面攻撃して突き進んだら、偶然、義元本陣に遭遇した」という。
これは、信長軍の視点で、「偶然」、意外にも「遭遇」したと言ってることで、
しかし義元軍から見れば、中島砦から接近して来るのを見ていましたよ、ということになる。
遭遇戦ですらない。
相手の接近を待ち受けていて、数に勝っていて、休養十分で、高地に陣取ってる側が、
相手の存在を知らずに近づいて来て、数に劣っていて、突かれきっていて、低地から攻める側に、負けるわけはないです。
装備等が同等ならね。
そもそも、信長公記には、正面攻撃も偶然遭遇も書いてないのだが、
偶然遭遇論者は、
偶然、義元本陣に遭遇しなかったら、信長軍はどうするつもりで、2kmを駆け登って来たというのでしょうか?
>>508 同時代のスペイン軍のような組織的な指揮システムがなかったので
部隊の戦闘力は率いる大将の個人的な武勇による部分も多かったんだよ。
それに当時の鉄砲足軽は、ごく一部の例外を除いてあまり訓練が十分でなく(当たり前だが)
あまり気にしなくて良かった。
むしろ大将自ら陣頭に立つ武勇が勝敗を分けるほどの場合も多かった、というわけ。
もちろん若い頃はまだしも、年をとってくると体力的にもきつい。
それでも時に敢えて無謀な振る舞いを示すことがあったのは
彼の戦国武将としての経験が作った兵への演技と見ることも可能。
天下統一後、秀吉が
「信長と(蒲生)氏郷が同じ兵力で戦ったとしてどちらが勝つと思うか。
答えは信長で、何故なら信長は後方で指揮して生き残るだろうが、
氏郷はすぐ陣頭に出たがるので、そのために流れ弾にあたって死んでしまうだろうから」
って言った、という話を聞いたんだけど、俺の記憶違いかなぁ。
519 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 08:41:44
戦闘では陣頭にたたないかもしれないが、
少なくとも領土拡大では最前線に本拠地を置いて京都を目指していたのは評価したい。
ただ畿内をおさえた後自らが王国の中心、つまり安全地帯に座り込んだのは失敗だったね。
やっぱり信長は戦い続ける方が似合う。
似合うけどさ
「殿」のすることじゃない
521 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 09:45:22
>>518 秀吉はよほど陣頭指揮が嫌いだったんだろな
嘘を教えてまで戒めているところを見ると
522 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 09:47:55
>>516 だからなんで正面攻撃も偶然遭遇も書いてなかったら奇襲説しかないと断言するわけ?
なにも書いてなかった正面から攻めたんだと思えよヴァカ
あのさ、偶然誰も織田軍のほう見てなくて近づいてきたのにきずかなかったとかそういうことは考えないわけ?
ってそういうのはないだろうけど旗印とか持ってなかったとかで織田軍ときずかなかったとか。
篭城するだろうと思い込んでてこんなところに織田が出張ってるわけねーじゃんと思い込んでたりとかで。
>521
兵力の優劣によって状況は変わるだろう。
蒲生は優勢な場合でも常に先陣切ってたんじゃないか?
蒲生あたりだと秀吉の統一戦中心で劣勢な戦いはあまりてないだろうし。
>>516 結局詳細のわからないところを全部自分の都合のいいように解釈しているだけでしょう?
どうしても奇襲説が正しいと思い込みたいようだが。
>>524 そうだね。
信長の慎重に行動したかと思えば突然大胆なことをやるのは。
これって全部計算ずくなのかもしれない案外。
たぶん蒲生に慎重なところを見習えといいたかったと思う。
>>523 尾張は1万以上の大軍を動員できる国だから、野戦を仕掛けてくるなら少数ではありえないと思い込んでいたかも。
要するに実際は2千だったが、正面から仕掛け
られたときに大軍が攻めてきたと勘違いし、
前衛部隊は敗走し、実際の織田勢は少数だと
認識できた本陣だけはなんとかとどまる
しかし、前衛の敗走で次第に本陣にも混乱は広がり、
そのさなか義元は討ち取られた。とも考えられる。
今川勢の心理状況を考慮して想像してみますタ。
こんなことを書いても
>>516は自分の説のために
今川勢はそういう心理状態にはならないと決め付けて言いそうだがw
>>524 ×きずく
○きづく
書き込みは、小学生はやめとき。
中学出るまでROM、
その後、実況板で一行レスのみ許可する。
↑つまらん揚げ足dなよばーか
531 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:04:39
>>527 少し前にも述べましたが、今川勢は織田勢を舐めつつ、どこかで奇襲を警戒
していたはずである。正面攻撃は「もっとも確率が低い」とみていたのでは
あるまいか。織田勢の正面突破は、その「まさか」の出来であり、“正”が
究極の“奇”の効果を発揮した稀なケースではないでしょうか。
532 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:25:27
斎藤道三という素晴らしい教科書を徹底的に読んで学んだからな。
家康は信玄という教科書を学び実践し最後は天下を盗るが。
>>521 サルも天王寺合戦に参加していたから陣頭指揮してる所は見ただろう。
信長「村重よ。先陣はお前に任せる。」
村重「我が軍の木津方面の守備は見たところ手薄。」
「私はそちらの守備を引き受けたく思います。(こんな無茶な戦、先陣なんてやってられるかyo)」
信長「・・・・・・・・・・。」
村重「・・・・・・・・・・。」
信長「あ、そ。じゃ俺先陣やるyo」
「村重には、木津方面の守備を命じる。」
村重「我が願い、お聞き頂きありがとうございます。(これで犬死せずにすんだぜ…)」
こういった荒木村重とのやり取りも見てるはず。
真相は
>>524だろうな
534 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:40:50
535 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:54:32
>>533 荒木ですらびびる事を大将がやるとは・・・
やっぱり無能だな信長は
というか尾張兵は弱いからいつも陣頭指揮せざるを得なかったとも言える
陣頭に立つといっても
槍はたらきするかどうかでかなり違いがあるとおもうけれども
>>535 思考回路おかしいぞお前
>>536 それ捏造
信長が先陣きったのこの3つだけ
桶狭間の戦い
刀根坂の戦い
天王寺砦の戦い
尾張統一期は除いての話だが
540 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 15:45:49
信長自ら戦闘に参加したのはなんといっても本能寺
>>537 いや、最前線に大将がいる、というだけで効果は十分。
兵にとっては、自分たちと同じリスクをかぶってくれている、と思えるわけだから。
あんまり武勇に過ぎて、部下の立てるべき戦功まで奪うのはよくない。
それぞれの大将の、さらに上の殿の方針もあるだろうが
水野日向守のように50を過ぎて敵陣に真っ先に乗り込んで怒られた、なんて人もいるからね。
542 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 16:45:16
本能寺では信長がいるために自分たちもリスクを背負ったと思っている小姓がどれだけいたことか。
っていうか
だれも俺の
タイムマシーン説支持しないのか(~ヘ~;)
544 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 18:28:57
天王寺砦で包囲された光秀を死ぬ思いで助けに逝ってやったのに最後に裏切るとは…
見殺しにして置けばよかったbyのぶなが
545 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 18:57:17
何言ってやがる
誰のおかげで足利義昭将軍を奉じて京都にのぼれたと思ってるんだbyみつひで
546 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:24:33
有能ならもっと早く天下統一してただろ
>>544 光秀はストレスからノイローゼになってて、絶好の好機が訪れてしまったので、発作的に謀反した、という説もあるね。
確かかなり前にNHKで見た記憶がある。
548 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:11:01
無意識に電車に飛び込む自殺者のようなもんか
549 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 20:17:31
>>547 説というより単純に信長の非を認めたがらない馬鹿のこじつけだろ。
根拠が全然語られてないんだから。そんな妄想は相手にしないほうがいい。
>>538 刀根坂の戦いってなんだろうと思ってぐぐってみたんだが、
wikiの一乗谷城の戦いのくだり書いてるやつだれだ。
簡潔で、でも表現力があってむちゃくちゃ読みやすいぞ。
>>550 浅井朝倉スレッドの「朝倉再評価・復興運動」の奴ら。
景鏡、景高あたりを改訂して、
義景の項目に出てくる信長厨を駆逐してた。
義景の親父の孝景の記事なんかがかなり秀逸。
552 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:37:50
>>523 > 偶然誰も織田軍のほう見てなくて近づいてきたのにきずかなかったとか、、旗印とか持ってなかったとか
>>526 > 野戦を仕掛けてくるなら少数ではありえないと思い込んでいたかも。
>>527 > 正面から仕掛けられたときに大軍が攻めてきたと勘違いし、
>>531 > 正面攻撃は「もっとも確率が低い」とみていたのではあるまいか。
上記のように、正面攻撃論者のほうこそ、
> 自分の都合のいいように解釈しているだけ(
>>525)
ではないでしょうか?(笑
まして、
正面攻撃で今川前衛を撃破し2kmにわたって突き進んだら、偶然、義元本隊と遭遇した。
そして、それを撃滅した・・・・・こんな都合のいい解釈はほかでは見たことがありません。
俺は、信長公記には正面攻撃したとは書いてないことを指摘し、
地形、兵数、配置の関係からも、正面攻撃はありえないことを論証しようとしているだけです。
信長公記は、おかしな記述もあるけど、素直に解釈すれば、迂回奇襲だったと思っています。
反論したいなら、もっとまともな反論をぶつけてほしいものです。
553 :
550:2006/03/13(月) 21:41:15
>>551 2ちゃんねらーの文章?
すげえな、下手なプロの小説より全然読ませる。
554 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 21:51:05
>>552 あんたの「迂回奇襲して攻撃した」は都合のいい解釈じゃないの?
俺も信長公記読んだがとてもそんな深読みはできませんね
555 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 22:02:56
まだ議論してたのかよ?w
正面攻撃説も奇襲説も、詳細がわからない以上、両方ともイデオロギー対決だから絶対決着はつかないよとだけ言っとく
あと、どっちの主張も宗教ぽくてキモイよとも言っとく
556 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:26:30
迂回奇襲説は最近の傾向通り少数派のようだが、どっ
557 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 23:28:47
どっちの説も大事な部分は想像で語っているのは一緒だね。
それぞれ自分の説を信じとけばいいでないの
相手にそれを押し付けあうのは見苦しいからやめとけ
仮に相手を論破したところであくまで「仮説」の域をでないのに
何をむきになってんだおまえら
560 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:23:38
論破ールーム
561 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 00:47:29
>>550 その戦いで佐久間が口答えした。まぁ部下が半信半疑だったのはわからんでもないが
562 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 01:00:06
詳細をまったく知らない厨からの質問なんだけど
今川軍って当時弱かったの?尾張の兵は強くなかったって聞いたことはあるけど
563 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 01:27:14
兵の強さは指揮官しだいだと思う。
564 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 01:29:48
武田・北条と比べると、今川軍はちょっと弱いイメージがある。
独力で、武田・北条軍と戦えない。
(北条が攻めたら、武田と手を結んで戦う。武田が攻めたら、北条と手を結んで戦う)
それは外交上手と言うべきでは?
独力で戦うより損害が少なくなるだろうし片方と戦ってる間に他方から殴られる心配が無いし。
566 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 02:18:19
今川軍は、何度も甲斐を攻めては失敗。
駿河国駿東郡は、北条に獲られました。
>>549 元々は結構有力な説だったはず>光秀ノイローゼ説
今は朝廷黒幕説が有力なんだっけ?
もちろん光秀をそこまで追い込んだ信長の非も含めての話。仮に、だが。
でないと秀吉以上の速度で累進した出頭人の光秀が、敢えて裏切る要素が薄いんだよなあ。
そういうことです。
だからさあ、なんで本能寺の変の原因を一つに絞ろうとするのさ?
信長に対して鬱屈を深めてたところで朝廷やら足利やらがけしかけたからやっちゃったとかさあ。
570 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 09:51:21
四国征伐総司令官の椅子を信孝に奪われた事は?
織田家中一番の出世頭だったのにどんどん脇役になって行くのが我慢できなかったとか。
>>567 信長は虫歯持ちでいつでもイライラしていた説
572 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 16:12:27
>>554 俺も、信長公記読んでみたけど、
正面攻撃とはどこにも書いてなかったし、それらしい描写も無かった。
迂回奇襲は、都合のいい解釈だろうか?
山際から、信長の「かかれ!」の号令の直後、
直接、義元の本陣を攻撃しているし、
義元の輿を捨てて逃げるなど、
不意を突かれた、今川軍のあわてる様子が描写されている。
特に、「水をまくようにガッと崩れた・・・」という表現は、
牛一の視点は高い場所から見ているなと感じた。
つまり、牛一は山を駆け下りながら、今川軍の混乱する様子を見た。
下から攻め登って来た兵士の視点では、今川軍の様子はそうは見えないと思う。
また、下から攻め登って来たのなら、
今川軍はそれを見て待ち受けているので、あわてることはないはずだ。
山際からの攻撃は、相手の不意を突いたので、明らかに奇襲だった。
そして、その山際に達するためには、
今川軍の前衛部隊を避けて移動した。これを迂回という。
したがって、迂回奇襲説は都合のいい解釈だとは思わない。
信長公記・原文
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/kouki.html
573 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 16:52:37
>>1 律令体制の変質・崩壊以来何百年もかかって形成された、特権の錯綜した支配関係を
一掃して一本化された支配関係を確立しようというのですから、良し悪しはともかく、
これは基地外にしかできません。常識のある人はそんなことはしません。
574 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 17:01:30
迂回奇襲説は甫庵信長記を根拠にしてるからだよ。
つか信長公記根拠に迂回奇襲説唱えるなら
時間の整合性とルート説明を明確にしてくれ。
576 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:16:03
桶狭間と天王寺の共通点
1:小軍vs大軍(2000〜3000vs15000〜45000)
2:小軍の総指揮官が織田信長(武勇は呂布レベル)
3:大軍は砦攻め中で包囲をしていた(天王寺砦・中島砦)
4:小軍が砦から出陣し、突然正面から討ってでてきた(ある意味正攻法奇襲?)
結果
桶狭間:大将戦死
天王寺:追激戦で2700余り討ちとる
俺からの一言
「いや〜、信長の局地戦での強さは天才的だね」
577 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:30:36
578 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 18:33:37
お前こそ誰だ?
天王寺合戦って信長が馬廻衆の二千率いて京を出たんであって、
合戦の時に織田勢が二千だった訳じゃないよ。
一ヵ月前から石山周辺に色々指示出してるし、
合戦の時には明智や丹羽、佐久間なんか出陣してるから、
原田直政の戦死で出陣時期が早まったけど、
いずれ近い時期に出陣があった、予定の範疇内での合戦で、
出陣してる部将から2〜3千はありえない。
580 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:49:14
581 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 19:52:05
だれか明智光秀を主役にして「美濃義士伝」書いてくんないかなー
この人ほど過小評価されてる武将はいないんじゃないだろうか?
いきなり「今日」と言われて
「はい、そうですか」と揃えられるか
>>580 はい、信長公記だけで判断しません。
信長発給文書や公家の日記など検証出来る史料豊富なんで。
特に明智なんかわざわざ呼ばれてるし、
同じく出兵命令受けた荒木村重は命令拒否してたりしてるけど。
信長公記は信憑性の高い記述の多い一級史料だけど、
だからと言って全て正しい訳じゃないしね。
584 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:12:08
>>583 信長公記だと明智は篭城していたことになってるよ。
籠城ってのは細川藤孝と呼び出されて、砦の構築と
守備任されて襲われたって話なだけですが…。
先手一段
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆
二段
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就
・これらの部将はいきなり石山に来られない
・織田家の重臣ほぼフル出陣
・一ヵ月前から石山周辺に軍事的指示を出してる
・公家の日記(史料名失念、思い出し次第
書かれてる内容も挙げたい)に京を出る際に馬廻衆二千とある
以上、信長公記の兵数はありえないから
若江城だっけ?で各地に散ってた諸将が現地集合して
天王寺合戦に挑んだと考えるのが妥当。
587 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 20:45:33
>>586 信長公記は嘘とし、実際はどれくらいの兵数で攻めたと思うの?
あとあなたの新説でも天王寺合戦とは、砦への救援戦なんでしょうか?それとも最初から野戦?
信長公記が嘘とは書いてないよ。
少なくとも信長の軍勢は過少であり、天王寺合戦を過大に
言う為か、太田牛一が誇張された話を鵜呑みにしたか、
どちらにしろ信長や諸将の前後の動きから二千はない。
合戦に参加した諸将や周辺に準備展開した状況から
少なくとも一万以上はあると考えてる。
それと天王寺合戦の目的は、原田戦死によって活気ずいた石山勢に
一撃加え、石山包囲の本格化と、周辺での石山勢の
活動範囲の限定が狙いだと思われる。
これは合戦後に出された海上封鎖や港の封鎖、砦の増築等から。
>天王寺合戦とは、砦への救援戦なんでしょうか?
>それとも最初から野戦?
石山勢を押さえ込むのが目的なんで、最初から野戦です。
>>586 一ヶ月前から出ていたとされる石山周辺への軍事指示は、原田直正を司令官として
編成された包囲軍のこと。
しかしその原田が三津寺攻撃に失敗して戦死したために包囲線が機能する前に崩壊。
さらに本願寺が逆攻勢をかけて天王寺に襲来。
天王寺合戦はあくまで緊急、予定外に起こってしまった合戦。だからこそ京を出陣
した信長が途中で軍を集めようとしても集まらなかった。重臣たちも同様。元々は
大坂方面に出陣の予定なんてなかったから、将はいても兵が揃っていないという状況
になった。別におかしくないよ。
>・公家の日記(史料名失念、思い出し次第書かれてる内容も挙げたい)に京を出る際に馬廻衆二千とある
信長公記にははっきりと「百騎で出陣」とある。また合戦時の兵力も二千か三千とある。
そちらの史料名を挙げてくれない限りは無根拠の想像とみなすしかない。
さらにいえば、仮に京を出陣したときの信長が二千の軍勢だったとしても、そちら
が主張するように合戦時は一万の軍勢になったのだとしたらやはりそのソースを
上げてもらわないと、やはりそちらも想像の範疇としか扱えない。
591 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:13:34
救援戦じゃないとしたら最初からの設定が違うな
信長公記だと、総大将として出陣した塙直政が戦死したのが5月3日で、
その日に信栄・光秀が守る天王寺砦が包囲される
さらにその日に信長が京で敗報を聞き陣触れする
↑ここまではあなたの新説でも正しいでいいですよね?
その2日後に100騎ばかりで京を出陣
さらにその2日後に兵は中々集らないが、「かの者を見殺しにはできない」と言い3000で救援に出陣
無事砦の見方と合流し、
「合戦は御遠慮なされるが最上」との周りの反対を押し切りもう一度野戦を仕掛ける
↑これらの記述は全部嘘って事ですよね?
まぁ実は俺も参加した武将の顔ぶれを見ると3000は少なすぎないかと思っていたけど。
でもそれは陣触れしてから4日間しか猶予がない急な出陣だからだと思っていました。
592 :
591:2006/03/14(火) 22:15:03
>>588 史料の名も記述内容もわからなければ
一万以上という根拠も示していない。
周辺に準備展開した状況とは具体的に何か。
いつ誰がどこにどれだけの兵力で存在していて
それがどの段階でどのように集まったのか。
最低限それをきちんと説明できなければ
あなたの脳内の出来事でしかない。
594 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 03:02:53
>>572 信長公記で、信長は、引きとめようとする家老らに次のように語っています。
「あの武者、…鷲津・丸根にて手を砕き、辛労して疲れたる武者なり。こなたは新手なり。
その上、小軍なりとも大敵をおそるるなかれ。運は天にあり。この語は知らざるや。」
「あの武者」とは、中島砦から見えている今川軍のこと。
それは鷲津・丸根の砦を苦労して落としてきた疲れた兵であり、
我々は新手(だから負けない)。
小軍であっても大敵を恐れるな、と励ましているのです。
このセリフの後に、兵を迂回路へ連れて行くとは、どうも考えにくいのです。
また、中島砦を出た後、非常にあっさりと「山際」に到着しているように読めます。
この「山際」が、どこの山を指しているのかはわかりませんが、この書き方から、
中島砦から非常に近い場所にあった山際であろうと想像できます。
山際からの突撃は、
今川軍の前衛部隊への正面攻撃ではなく、側面からの攻撃だったのではないかという印象を受けています。
595 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 10:05:33
信長公記から迂回したと読み取るのはさすがに斜め読みしすぎだよなぁ
まぁ迂回奇襲説派の人は正面攻撃説を否定する要因に挙げている
前衛部隊は蹴散らされることは無いor戦後の責任追及が怖いから絶対追撃してくる
義元本陣からは織田勢の動きは丸見え・山に布陣して絶対有利な状況だから負けない
っていうのは忘れて考えた方がいいよ
>>590 まず天正四年の信長の行動や石山関連の状況変化を大雑把に述べると
一月中旬に安土築城開始し、同年二月二十三日に信長は移住。
二月に紀伊由良の興国寺に寓居していた足利義昭は、備後・鞆の津に着船し
同地の小松寺に移住。(これにより毛利と織田の交渉が決裂)
四月三日、明智光秀・長岡藤孝の両名に石山近辺の青田刈り、石山本願寺に
篭城している人間の生命保証を条件に退場勧告の制札、抵抗しそうな坊官の
処罰を命じている。
四月十三日夜、今宮口で小規模な合戦。
翌十四日、荒木村重・長岡藤孝・明智光秀・塙直政の四将に石山城の包囲出兵を命ずる。
これにより、村重は尼崎から海路を使い石山北方の野田に進撃し、三ヶ所に砦を構えて
木津川からの補給通路を遮断。光秀・藤孝は石山東南の森口・森河内の二ヶ所に、
直政は天王寺にそれぞれ砦を構築し、石山を包囲する。
「兼見卿記」によれば、織田方が構築した砦は「大坂表に相城七つ出来すと・・・」とある。
対する石山方は楼岸・木津口を抑えて、難波口からの海上通路を確保。
織田は木津口を占領し石山を完全包囲しようと、天王寺に佐久間信栄・明智光秀を配し
検視役に近習の猪子兵介・大津伝十郎を派遣。
597 :
続き:2006/03/15(水) 14:18:54
ついでに包囲軍に対して信長がかなり厳しく注意を与えている。
それは四月二十八日に包囲軍の(軍監と思われる)塩川国満・安東平右衛門の両名に
懈怠者・油断者は注進し、昼夜の区別無く守備に励み、敵の出撃に際しては必ず迎撃し、
当方の命令無き進撃は慎み、不要な行動は一切無用などと書いた朱印状を送っている。
五月三日、三好笑岩(根来・和泉衆)・塙直政(山城・大和衆)の部隊が木津口の石山方に
攻撃を開始、石山方は石山城から一万余の軍勢で迎え撃ち、織田勢は敗走。
塙直政率いる軍勢は敗走を食い止めようとし逆に包囲され、塙直政・喜三郎・小七郎、
蓑浦無右衛門、丹羽小四郎が討ち死。石山方は余勢を駆って、天王寺砦を包囲攻撃した。
ここで本題の「信長が三日で3000の兵で出兵」になるのだが、「兼見卿記」によれば
五月五日、天王寺砦包囲を聞き、馬廻衆二千を率いて京を出立とある。
(出立後の事は当然ながら記載されてない。)
「信長公記」では百騎ばかりの伴衆を従え若江入城。翌七日に召集した三千余で
天王寺に出撃とある。
598 :
続き:2006/03/15(水) 14:19:56
さらに信長公記での天王寺合戦での陣立をみれば
先陣:佐久間信盛・松永久秀・長岡藤孝(荒木村重は木津口防衛を理由に出兵拒否)
二段:滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・伊賀定治
三段目:馬廻衆とある。
これを見て疑問点をいくつか挙げると
1.馬廻衆が三段目に来ているが、「信長公記」には彼等の出陣の記載が無い
(信長は百騎程度で入城したとある)にも関わらず三段目を構えるぐらいの規模の
人数になっている。
「兼見卿記」通りだとすると、馬廻衆だけで全軍の3分の2を占めるようになる。
2.当時、北伊勢五郡長島城主・滝川一益、北近江三郡長浜城主・羽柴秀吉、
若狭一国・近江佐和山城主・丹羽長秀、東尾張・西三河の一部・南近江の一部
・和田原城主・佐久間信盛、これら三人は実質的には石山攻めに本格的に参加しておらず
臨時で召集された将である可能性が高い。
石山攻めは予め信長は出陣する予定であった可能性が高く、彼等もそれに合わせて
出兵したと考える。何故なら五月三日夜半〜五月七日早朝という流れの中で
天王寺包囲→信長に伝達→出兵→その間に諸将に出兵要請→若江入城→諸将到着
→合戦となるには理論的に諸将の参加自体が疑問視される。
予定されている(又は参加していたと仮定する)ならば、他の砦などの常駐兵、
信長自らの出陣、石山に篭る敵勢数、天王寺を囲む敵勢(一万五千余)、諸将が率いる兵数
から考えても三千という数字は考えられない。
実際に丹羽・羽柴・滝川の三名が天正五年に加賀に派遣された時、彼等だけで二万余も
動員している。
この天王寺合戦の詳細は除いて、その後の信長の行動を述べる。
合戦後、信長は十ヶ所に付城を構築し、本拠である天王寺砦には
佐久間信盛・信栄、進藤賢盛、松永久秀、水野直盛、池田秀雄を定番として置き、
真鍋・七五三兵衛・沼野伝内らに海上警護を命じている。
五月二十三日、淡路の安宅信康に対し毛利から石山に海路からの兵糧輸送の噂が
あるので、事実なら追い出し、出来れば粉砕せよと三好康長の添状を付けて送っている。
六月四日、尼崎城の荒木村重に対して石山に繋がる水・陸路の遮断を厳重にするように
命じている(謎なのが、前の合戦での命令拒否は不問になっている事)。
翌五日、若江帰城し、六日には真木島に立ち寄った後、入京し妙覚寺に入った。
そして八日に安土に帰城している。
以上から出兵した事実はあるものの、「信長公記」に記載されてるような事は考え難く、
「三日で3000の兵の召集」は「信長公記」の創作(又は誇張)が強い。
付け加えるならば、書かれてる軍勢の数は鵜呑みに出来ないのは当たり前の事で、
信長公記による桶狭間の今川4万5千など、例え信憑性高い史料でも検証は当然な事かと。
600 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 14:37:36
>>599 俺も信長公記に出てくる数字は基本的にすべてでたらめだと疑ってる
でも、信長公記には砦への救援の描写があるし、また砦入場後に周りの家臣から反対されながらの出陣の描写がある
これらをすべて創作とし、最初から野戦を仕掛けたとするのは少し乱暴すぎませんか?
信長公記だけ読んで、そう信じればいいんじゃないのかな?
別に説得する気もないから。
ただ信長発給文書や石山や天王寺合戦に参加した諸将の動向調べれば、
石山周辺への軍事行動が三月辺りから活発化してるし、
三月五日の信長から信忠宛の書状には、近々石山周辺への出陣とあり、
信長の上洛も合戦の為としてる公家の日記(史料名失念)もあるから
単なる救援でなく、予定されてた石山勢に対する軍事行動の
早期化に過ぎないと判断しただけだから。
それと
>一ヶ月前から出ていたとされる石山周辺への軍事指示は、
>原田直正を司令官として編成された包囲軍のこと
これは信長公記のどこを読んでそう判断したのかな?
公記には、原田直政がこの時期の石山包囲の司令官的描写はないけど。
それと天王寺合戦前に、信長が天王寺砦に入ってないよ。
若江城に入城し、諸将と軍議後、石山勢と野戦したんたよ。
現実に三日や四日の準備期間で1万以上の軍勢が集まるものなのか?
説得力が無いんだよなー
3〜4日で出来たと書いてないけど…。
事前準備があって原田直政戦死で出陣が早まったとは書いたが。
石山包囲攻撃の開始の為の出陣していて、原田戦死、天王寺砦包囲によって
早まっただけって事だね。
つか信長公記を絶対視するなら、浅井朝倉が叡山に籠もった時は、
信長はしょうがなく和睦し、義昭が槇嶋から若江に落ち延びたのが、
秀吉に護衛され送られたとなるのかな?
>>605 兵力に関しては出陣している部将からの推測だけど?
以前から出兵準備していた、出陣予定だったの説明したし、
明確な軍勢の人数を書いてないでしょ。
つか、こちらの疑問には答えてくれないのかな?
信長公記には原田直政が石山包囲の司令官で、一ヵ月前から
指示されてたと窺えうる記述見当たらないけど。
607 :
605:2006/03/15(水) 18:33:54
>>606 ちなみに俺は591です
俺が総大将と書いたのは3日に出陣した時に先陣を勤めた三好康長は大和衆率いる直政軍に付けられていたはずなのでそう判断しますた。
確かに総司令官と言う記述は無いようですね
三好笑岩は河内衆率いてたが、笑岩が先陣という記述はないけど…。
それに原田直政に付けられてたはずとは、一緒に出陣した記述からかな?
原田が上位の立場かどうかの判断材料もわからないなぁ。
信長公記の記述に拘るから、それっぽいのがあるかと探したけど
自分には見当たりませんでした。
どうか御教授願います。
信長公記には直接にはない。ただし、それ以前の史料をみると
山城の守護(年代記)。ただし山城には他に村井や細川、明智の支配もあるので
地域限定されていたと思われる。
大和守護(多聞院日記)。天正四年の興福寺の薪能では松永久通と筒井順慶を
従えていた。
そして問題の天王寺合戦直前では、原田直政は大和衆、山城衆に加えて三好笑岩
と河内衆、和泉衆、根来寺衆を従えていた。実際河内にたいする行政文書も残さ
れている。
このとき本願寺包囲に動員されていたメンバーは摂津の荒木、まだ近江と山城の
一部ずつしか持っていない明智、やはり山城の一部所有の細川であり、動員軍数
でいえば間違いなく原田がトップ。おそらく、この時期の織田政権下の畿内に
おいてはナンバー1の存在。
>>609 多聞院日記の天正四年二月十日の薪能鑑賞はわかります、
前年に大和守護に任じられてますので。
山城に関しては、洛中は村井貞勝、桂川以西の西岡は長岡藤孝が
一職支配権があり、愛宕郡は明智光秀、直政の権限は宇治川以南に限られてます。
河内への行政権があると言っても、それは天正三年の一時期ですよね?
笑岩に河内の一職支配権与えられた天正三年十一月以降でありますか?
そして山城・大和において知行宛行権を行使しているでしょうか?
山城の南・大和においての軍事指揮権を与えられたのは確かですが
柴田や佐久間、滝川、丹羽と違い知行地として大和など与えられた訳でないので、
それだけで織田家No.1とするのは谷口氏の受け売り過ぎかと。
大和・南山城以外での発給文書は見受けられないのに、
他の地域にも軍事指揮権があったとはどういう事なんでしょうか?
直政の活動は石山出陣命令前まで南山城と大和に限られて、
事実大和でしか軍事行動していませんが。
611 :
605:2006/03/15(水) 21:12:06
申し訳ないが
>そして問題の天王寺合戦直前では、原田直政は大和衆、
>山城衆に加えて三好笑岩と河内衆、和泉衆、根来寺衆を従えていた。
これが窺えうる史料名教えて貰えますか?
>>611 先は三好笑岩、河内衆、和泉衆、根来衆
二段は原田備中、山城衆、大和衆…ですよね?
ですから、この記述で原田直政が総大将となるのですか?と伺ったのですが。
では、三好笑岩が大将だったと思いますか?
本願寺包囲の総司令官とはいえなくても、この時の三津寺を攻撃した軍勢の
大将ではあったでしょうよ。
それとも、三好と原田が同格でお互いの軍勢が一つの指揮権の下になくめい
めいで攻撃をしたと考えますか?
615 :
605:2006/03/15(水) 22:51:45
>>613 「先は」と書いて「先陣」と呼ぶものだと思っていましたがあなたの中では違っていましたか?
あと、信長公記のその記述で、三津寺攻めの総大将が塙直政と判断するのはおかしいか?
塙直政と三好康長なら大和守護である塙直政の方が明らかに上位だし、率いる軍勢も多いだろう
616 :
605:2006/03/15(水) 22:54:41
617 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 23:03:24
>>615-616 まず「どちらかが大将」と言う考えが違います。
それは前にも書きましたが、原田直政が笑岩に対して
上位権限を有していなかったからです。
だから、天正三年十一月以降で原田直政が河内等に発給文書を出してるのですか?
と尋ねてますが、お答えありません。
三好笑岩は信長に従ってますが、形式上同盟に近い従属している外様として
信長に直属しており、それは河内で出されてる笑岩の発給文書でも明らかです。
これは康長の立場が旧三好勢力の中でも大きく、立場上、織田家の家臣の下に
おけないから考えてます。
これは後の四国への出兵まで保たれ利用され、本能寺以後の秀吉による四国征伐まで継承されます。
実際に石山包囲した佐久間信盛の直接指揮下にはなかった。
天王寺合戦における先と二段は指揮権の上下を現わしてるのでなく、
合戦経験の差による陣の構えかと考えますが。
それでなくとも原田直政が軍を率いての合戦経験がないのですから。
もし、原田がそちらが言うような立場であれば、石山攻めの最重要拠点たる天王寺砦を
築いたのに明智・佐久間にその守備を替えられた事はかなりおかしいと言わざるを得ない。
>>618 例えば、宇喜多などは形式的には信長に従属した大名ではあるが、軍事上では
明らかに羽柴の下につけられている。
形式を云々するのなら、細川藤孝なども同様の立場。また信長との関係で言えば
前田や佐々などの与力だって、本来は信長の直臣だがやはり軍事的に柴田の配下
扱いになっている。
それから、天王寺砦を築いたというのは?本願寺勢が逆襲してきたとき、全く
準備がなされておらず、明智らは牛の死体を盾にしたなんて記述もある。
そんな最重要拠点を建築したというにしては、随分とお粗末ですね。
>細川藤孝なども同様の立場。
そうですね、だから藤孝は信長の右大将就任までは、
他の織田家直属の重臣の直接指揮下にいませんでしたが。
宇喜多も秀吉の指揮下に入ったのは、天正九年以後の直家死後ですね。
それも上位と言う立場でなく、要請という形でしたが。
信長の直臣同士の話は問題外なんで。
>天王寺砦を築いたというのは?本願寺勢が逆襲してきたとき、
>全く 準備がなされておらず、明智らは牛の死体を盾にしたなんて記述もある。
>そんな最重要拠点を建築したというにしては、随分とお粗末ですね。
御粗末ですね、でも築いたのは事実ですし、天王寺合戦以後に
定番おいたことから、石山包囲の最重要拠点には変わりありませんが。
ああ、信長公記に「原田は天王寺に砦を築いて〜」とありますね。
しかしそれでも襲撃を受けたときに天王寺の無防備っぷりはいただけない。
緊急のこしらえでしかなく、かつ原田の軍があっさり崩壊すると思って
いなかったのか…それでも油断ではあるが。
それから、やはり信長公記に「原田、荒木、細川、明智に本願寺攻撃を命ずる」
とある。三好笑岩が原田からも独立した立場であるのなら、この時他の四人
と同じように信長からの出陣命令を受けたのでは?
いえいえ、三好笑岩は本能寺との交渉を松井友閑(だっけ?)と共に担当しており、
本願寺との和睦が破れた後は対本願寺を担当しているので
それ以前から石山周辺で活動していたと考えます。
名前が挙がった四名は本願寺担当でなく、信長を含む大規模な出陣の為、
出陣命令が出たと考えます。
話を戻しますが、そちらの主張は天王寺に参加した武将達はもともと最初から
本願寺攻撃に参加するために畿内に出陣してきた、ですよね?
先手一段
佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆
二段
滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就
しかし一段はともかく二段は美濃を本貫として近江や伊勢にも所領があるという
者達。もしそのつもりで上京してきたのなら、当然将も軍勢も信長と一緒に京
周辺、ないしはすでに出陣していたのだとしたら大坂周辺に駐屯していたはず
(こちらは一段か?)。しかし京に軍勢がいたのなら、信長と一緒に出陣すれば
いい。信長はたしかに時に兵をおいて単独で飛び出すことがあるが、それは軍勢
を召集している余裕もない緊急事態が発生したとき。普段はきちんと軍を率いて
出撃する。もし第二段の諸将が軍勢とともにいたのなら、共に京を出撃すればいい。
そう考えると、兼見卿記の二千でも少ないといえる。
さらにいえば、そちらの主張では二千で京を出撃して途中で八千の兵を集めて
天王寺に到着したことになるが、その兵はどこから集めたのですか?二段の諸将
の所領は遠く離れている。二段の軍だって、それなりの兵数を持って展開していた
のならそのまま援軍にかけつけてもいいだろうに。そもそも、出撃準備完了な
軍勢がそんなに待機していたのなら、信長は自ら出陣しなくても、まずそいつら
に救援に向かわせて自分はさらなる軍の招集を行ってもいい。
追加
>>622 >名前が挙がった四名は本願寺担当でなく、信長を含む大規模な出陣の為、
>出陣命令が出たと考えます。
信長公記によれば、四名に出陣命令が出たのは四月十四日。三津寺で原田直政が
戦死したのが五月三日。京を出陣したのが五日。
信長は半月もの間何をしていたの?四名が大坂周辺で戦っている間、大規模な軍勢
を催して京に駐屯させていただけ?さらにいえば、大軍で出撃を計画していながら、
京を出陣するときは兼見卿記でも二千だけ?
まず、信長がこの時大軍で本願寺を攻撃するつもりだったという根拠を挙げて下さい。
あなたの主張を拝見していると
天王寺に参加した武将からすれば、三千は少ない。もっといたはずだ→ならば事前に
出撃の準備していたはずだ→つまり当時信長の下には大軍があったことになる→だから
信長はこの時、本願寺を大軍で攻撃するつもりだったのだ。
と、逆になっているように見受けられるのですが?
とにかく、「天王寺の軍勢は一万以上」「信長は本願寺を自ら大軍で攻撃するために、京で
軍勢を編成していた、ないしはもともと大軍を率いて上洛してきた」のどちらかを史料付の
根拠をもって証明してくれませんか。
>>623 集結地点は若江城なのは説明いりませんね。
そして信長が上洛したのは石山攻撃の目的もあるのは説明しました。
で美濃や近江の諸将が何故緊急に参戦出来たのか?
前にも説明したんですが、大規模な石山包囲・攻撃は予定されており、
諸将にも出陣命令が出ており、信長の上洛からその時期は近かったと考え、
だとするならその他の将は参陣途中であったと考えております。
何故なら、五月三日に原田直政戦死→五月五日に若江入城→
五月七日に天王寺合戦という流れでは、近江からでも兵を率いてどころか、
普通に来着する事さえ困難であるからです。
青田刈りや退去勧告などから始まる石山周辺への軍事行動や、
信長の上洛、通常は参加さえ不可能な諸将の異常な早さの到着ゆえに、
こう結論づけた訳で。
もう一つ追加。
信長公記によれば、天正四年最初の信長は安土城にかまっていたらしい。
正月中旬に開始してから、二月二十三日には安土動座。その後も続いて四月一日には
天主の建設開始。濃尾や畿内から人夫、諸侍を動員。さらに京都にも座所を作ろうと
安土を信忠に任せて自身は四月晦日に入京。実際に村井に普請計画を告げている。
明智や原田ら四名出撃させた時点ですら、自分は安土で建設にかまっている。
>「信長は本願寺を自ら大軍で攻撃するために、京で軍勢を編成していた、
>ないしはもともと大軍を率いて上洛してきた」
あの〜、誰も他の将が信長と共に上洛したなんて主張してませんが…。
信長は他に出陣する際、大軍を率いて上洛するのは稀でしたし、
少数で上洛し軍勢は途中合流や現地集合が殆どでは?
というか、兼見卿記の二千で出陣という記述の時点で、
信長公記の記述の信憑性が疑問視されるべきなのに、
信長公記を絶対視する理由がわかりませんが。
わざわざこんな説明しなくてはならないのか疑問ですが
>四名に出陣命令が出たのは四月十四日。
>三津寺で原田直政が 戦死したのが五月三日。
>京を出陣したのが五日。
> 信長は半月もの間何をしていたの?
四名は先鋒でしょう?
その先鋒に砦築かせ包囲網を構築させ、その後に自身が出陣で間違いないかと。
似たような手法を浅井の小谷攻めでも行なってますが。
先の四名に出陣命令下したら即信長も出陣しなければならない、
信長は大軍で行動してる等、固定観念で決め付けて問うのは勘弁願います。
それと
>>596-599を読んでくださいね。
それと以前にも書いてますが信長が三月五日の信忠宛の書状の中で、
近いうちの大坂出陣を書いてます。
630 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 11:19:58
俺の信長[タイムマシーン説]どうよ(-。-)
自分の星に帰れよ
>>629 それは初耳です。史料名と内容をあげてもらえませんか?
633 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 14:12:53
>>632 629じゃないけど
>>605の3月5日を見てみな。
3月 5日 織田信長(「信長」)、見舞を送ってきた織田信忠(「城介殿」)へ謝意を表し、近江国安土城の普請は進行中であること、
尾張国・美濃国の「弥静謐」を堅守すべきこと、「此辺」(大坂方面か)を制圧して状況を報告する予定であることを通知。
〔『武家手鑑』〕
5月5日兼見卿記に2000余の軍勢を率いて出陣
5月7日信長公記に3千ばかりの軍勢を率い「三段に御備」て石山本願寺一揆勢1万5千に攻撃を仕掛ける。
このどちらかの兵数を信じればいいと思うが。
信長公記は百騎で京を出陣して三千で攻撃だな
636 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 17:19:11
信長が命の危険晒して無理する理由ない
いつのまにか秀吉とかもいる
前から色々と布石してる
本能寺攻撃するニュアンスの資料がある
普通に考えれば3000のが嘘臭いわな
三千でいいと思うが。
安土普請には濃尾のほかに若狭や越前、畿内から諸侍を集めて〜とある。
推測だが、若江城で兵を集めようとしたが集まらなかったというのは、
畿内の人手が安土普請と、もう一つ原田や明智たちの軍勢に取られていた
からではなかろうか?
638 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 17:39:17
安土普請は人夫だろ
塙直政や光秀に兵隊とられたって、そりゃないわー
滝川一益や丹羽長秀とかの所領から取っていったっていうわけ?
639 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 17:59:00
【百済の歴史】
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
>>638 「諸侍、人夫を」とある。
滝川や丹羽の所領からは安土普請に取られたのでは?
そして畿内に所領や支配権をもつ明智や原田の動員に、畿内の人手が
さらに取られた。だから、信長が畿内で軍を編成しようとしたが難航
した。
ごっちゃにするな。
5月 5日 筒井順慶(「筒」)、飯田出羽入道・松田某を大和国興福寺へ派遣し明日の織田信長(「信長」)出陣のための人員供出を
通達するも不調に終わる。〔『多聞院日記』二〕
>>605のリンクからだけど
これは若江での兵集めに苦労していたと考えていいのかな?
642 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 19:29:47
>>640 ごっちゃにしてるのはそっちじゃん
塙直政や明智光秀が軍勢編成するのに、滝川一益や
丹羽長秀の所領から出せる訳ないじゃん
>>641も塙直政の管轄内だろ?
塙直政は大和衆連れて行ったのに、さらに人数集めろって
集まる訳ないじゃん
それが丹羽や滝川なんかの、近江や伊勢や美濃なら
根拠になるけど
>>637-638、
>>640-642 まず、安土普請で織田領内から人夫集めてます。
それにともない、丹羽長秀が総奉行となり、羽柴秀吉・滝川一益なども
普請に関わっており、監視の為の督促の軍勢も出してます。
これは安土普請と共に石山出陣に備えてと考えております。
原田と光秀が畿内に影響云々と主張されてますが、以前説明した通り、
原田の権限は南山城・大和の軍事統帥権であり、光秀は山城愛宕郡・近江二郡の
一職支配権で、他の地域への権限は見受けられません。
よって、安土普請と原田・明智等により召集困難とは考えがたく、
また、参戦している丹羽等が安土普請で活動していることから、安土から呼び寄せるのも
十分可能であり、やはり三千で合戦を行なったとは考えられないかと。
また松永久秀や佐久間信盛は、それぞれ大和衆や佐久間信栄の存在から、
やはり相応の兵力を保持していたと考えられます。
644 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:00:48
今週のモーニングのへうげものはまじですごかった
あんな最期を遂げる信長初めてだ
645 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:10:47
【百済の歴史】
『百済の歴史』は、前期と後期に分かれる。前期の国を「第一次百済」、後期の国を「第二次百済」と
呼んで区別して考えるべきである。第一次百済は、西暦315年に、帯方郡の漢人・倭人が大和朝廷の
支援を受けて、日本領=任那の北部地域に建てた国である。前年の314年に、高句麗の侵攻によって
帯方郡を滅ぼされた、帯方郡出身の漢人・倭人たちによる「亡命政権」が第一次百済である。
これに対して、第二次百済は、西暦345年に第一次百済が高句麗に滅ぼされた後、倭人の近肖古王が
大和朝廷の支援の下で西暦346年に建国した国であり、完全な倭人国家である。
また、第一次百済が、大和朝廷の支援を受けているとはいえ、役人の中核が旧帯方郡出身の漢人・倭人たち
であったのに対し、第二次百済は、役人も武将も全て倭人であり、本国=大和から派遣された役人・武将も
多かった。
第二次百済は、大和国家の一部と呼んでも間違いではない。
第一次百済は、最初は乾馬国(コマ)と呼ばれたようだ。
>>643 ちと聞きたいが
本願寺攻めはいつごろやる気だったと考えてんの?
んで攻撃理由も聞きたい
>>646 詳細な攻撃時期はわかりませんが、信長が上洛している事、先発部隊が本格的攻勢を始めた事から
五月半ばまでには他の諸将の参加と共にかなり大掛かりな攻撃をかける予定だったと考えてます。
また攻撃理由は、石山方との和睦決裂と足利義昭の鞆への逃亡に伴う毛利との交渉決裂により
瀬戸内を支配する毛利からの支援による石山勢の行動の活発化の阻止が理由かと思われます。
しかし石山御坊の堅固さと手強さ、原田直政戦死による人事刷新により、
短期的な決着を回避し、中長期的な包囲戦に切り替えたのは言うまでもないですが。
信長が最初から大軍で攻撃する予定で上洛してきた。
原田の戦死で予定は早まったが、参加メンバーからいって三千は少ない。
というのなら、むしろ、そちらの主張する天王寺で織田軍一万の方が少ない
のではないかと思うが。
そのメンバーが軍勢を集めたのなら、二万以上あっておかしくないだろう。
所領に比べて軍勢の数が多すぎるというのならともかく、少ないのなら、そして
その理由も明記されているのなら史料の記述を疑う必要はないと思われるが。
「京を出陣したときの軍勢」についてはともかく、その後の天王寺合戦時点での
軍勢についてはそちらの一万説は史料的根拠はないのだから。
一万しかいなかったと断言してませんけど…。
参加した諸将、事前準備等から「少なくとも一万以上はいると考えてます」
と述べたはずですが…。
それに信長公記に限らず軍記などの合戦の軍勢や経緯の詳細等は
信憑性に欠けるのは今更指摘するまでもありません。
例えば以前にも指摘した桶狭間も、今川勢四万五千や水野氏の動向、織田勢二千、
今川上洛等、公記の鵜呑みはされておりません。
当たり前ながら、他の史料などで状況検証されたからで、
ただ記述あるからだけでは話にならないのです。
もう一度述べますが、信長公記は信憑性の高い記述の多い第一級史料です。
が、それは他の複数の史料からも確認取れるからで、公記だけで肯定されてるのではないのです。
織田家の中の情報はともかく、
他家の事に関しては当時の推測や噂を基にして書くことになるのだから、
当然間違っている場合もあるだろう。
しかし、織田家の数値はある程度信用してもいいのではないか?
相手側についても「織田家の家臣の認識」がどうだったかの情報としては信用できる。
上層部と家臣の情報差はあるだろうが。
織田家の軍勢の数についても信憑性が疑われるのは、
京から出た時の違いから疑わしい事を証明してますよ。
他にも上洛戦の軍勢などどうですか?
京を信長と共に出立したのが100。
そのあとを追って出陣した兵が「2000より多いくらい」。
最終的に「だいたい3000」で突撃。
って話だろ?矛盾はないな。
「信長が一騎駆けに近い状態で出発して、他があわてて追いかけた」か、
端から見て「計画的に出陣したように見えた」の違いだな。
しかしだからといって、織田軍三千説の否定の根拠はない。そして、一万以上の
根拠もね。
信長公記には、ちゃんとどうしてそのときの軍勢が少なかったのかの説明もある。
桶狭間にしても、当時尾張の大部分を支配していた信長が二千は少ないという指摘
はある。しかし信長は全戦力を今川に向けられたわけではない。多方面への備え、
さらにはもともと鳴海城を封鎖するために築かれた付け城の兵力。そういった点を
考えれば、織田家の最大動員兵力はもっとあっただろうが、合戦時に信長が動かせた
兵力はそんなものだろうと考えられる。
>京を信長と共に出立したのが100。
>そのあとを追って出陣した兵が「2000より多いくらい」。
>最終的に「だいたい3000」で突撃。 って話だろ?
?兼見卿記では信長が馬廻衆二千を率いて出陣ですよ?
信長公記では百騎の伴衆で出陣で、明らかに違ってますが?
>しかしだからといって、織田軍三千説の否定の根拠はない。
信長公記だけでは肯定出来ないのも既出。
>一万以上の根拠もね。
事前準備や参戦した諸将から説明済み。
>654
端から見て「計画的に出陣したように見えた」の違い
って書いたろ。
兼見が織田家の内情に詳しくなくて当然。
普通は信長が率いていると考える。
馬廻衆放って先にいくのは信長くらいだ。
内情に詳しいとかのレベルでなく、信長が京から出陣したのを
見たから「馬廻衆二千を率いて出陣」で、安土にいたであろう
太田牛一の伝聞による記述が「百騎の伴衆率いて出陣」なんですが。
それと「計画的に見えた」の意味がわかりません。
兼見卿記には見た事象だけ記述してあり、計画的云々など全く触れてませんよ。
原田直政戦死によって早まった信長の出陣は、信長の書状や
それまでの指示等の状況検証からによる結論です。
周囲からみて信長のあとを追っかけている(走ってはいないだろうが)兵を
信長が率いていると感じて書いたのが日記
「信長公がまた急に少数の兵だけ連れて先に行って、
あわてて準備して追いかけるハメになって大変だった〜」と愚痴られて書いたのが公記
だと思っているのですが?
信長のあとを少し離れてついて行く兵が
どちらの状況か見分ける方法があるとでも思いますか?
>>657 なんで太田牛一が「安土にいた」になる?
>>659 兼見卿記の記述を信長が先に行ったのを馬廻衆が追ったとする根拠はありますか?
ちなみに信長公記には残された馬廻衆が後から追って行ったとする記述ありませんよ。
信長公記が正確に記されてるならば、追って行ったのもあって然るべきですが。
太田牛一は丹羽長秀の右筆ですが…。
>兼見卿記の記述を信長が先に行ったのを馬廻衆が追ったとする根拠
そこは推測するところだろ。 つじつまはあっていると思うが。
>正確
仮に正確だとしても全部書いているわけじゃない。
最後3000になるためにはどこからか集めるん必要があるんだから
「京から2000ついてきた」で問題ないだろ。
それとも降って湧くか?
3000というのも突撃した数だから、守備兵がそのへんにいるかもな。
それも書いてないけど。
全然辻褄が合いませんよ。
兼見卿記では信長が馬廻衆率いてであり、貴方のいう信長が先行してではないからです。
また信長公記では伴衆率いてであり、他を置いてとも後から追ってともありません。
どちらにも、京に残された馬廻衆が後を追った記述ありませんよ。
どちらにも記述なく、そう見受けられる根拠ないから、
そう考える貴方の根拠を問うたのです。
そして若江衆や原田などに率いられた大和衆の一人と思われる松永久秀の参戦など、
明らかに三千が少ないと考えられる根拠ありますが。
そして三千という数字は布陣した人数とあり、馬廻衆は三段目で、
彼らだけで二千にもなり、ならば一段目と二段目は千になりますよ?
最終的には天王寺砦の軍勢も加わるので、石山勢を打ち破った軍勢の総数は、
かなりの数になると思われますけどね。
666 :
日本@名無史さん:2006/03/16(木) 23:45:46
>>665 明智と佐久間はどれくらいで篭っていたの?
信長+伴衆 <100m〜数百m> 馬廻衆
こういう状況だと
見ている人間には信長が率いて出陣しているようにみえるだろ?
でも信長が出陣前に馬廻衆に出陣命令をかけていなかったら、
馬廻衆からは「伴衆率いて出陣(自分たちはおいてけぼり)」になる。
>こういう状況だと見ている人間には
>信長が率いて出陣しているようにみえるだろ?
そういう状況だと推測する根拠が不明です。
>でも信長が出陣前に馬廻衆に出陣命令をかけていなかったら、
>馬廻衆からは「伴衆率いて出陣(自分たちはおいてけぼり)」になる。
タラレバては聞いておりません。
馬廻衆と伴衆は表記の違いだけで、同じですが。
この場合
伴衆−指揮する連中
馬廻衆−伴衆配下の足軽衆含む
くらい
ところで、信長公記を否定してたんじゃないのか?
信長公記が正しい!てな感じにみえてきた
オレ相手間違えてる?
>この場合 伴衆−指揮する連中
>馬廻衆−伴衆配下の足軽衆含むくらい
そんな分け方はありません。
信長公記の数字や記述を全て肯定するのを前提にすれば、
兼見卿記や信長発給文書の否定になり、兼見卿記や信長発給文書を取れば、
信長公記の数字や記述が疑われるのですよ。
>そんな分け方はありません。
100のほうとか日記のほうって書くと分かりにくいから使い分けただけだろ。
正直そこに突っ込まれても困る。
各種資料の整合性が取れる可能性を模索するのも楽しいと思うが、
最初から諦めるものでは無いだろう。
追加
馬廻りにも信長に近い立場のヤツもあまり近くないヤツもいるだろうから
その辺ですぐに気づくか遅れるか差がでても不思議じゃないだろう。
>100のほうとか日記のほうって書くと
>分かりにくいから使い分けただけだろ。
分かれてた根拠もなく、信長が従えてきた馬廻衆に
出陣伝えなかったとする根拠なく、伴衆と馬廻衆の
表記の違いも自身の勝手な解釈で、そういう解釈の事例もありません。
肯定を前提として無理に整合性をとろうとするから矛盾し、
辻褄あわせる為に何の根拠もない仮定を前提にするようになってるんですよ。
674 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 01:05:19
ここはいっぱい人がROMだけでなく見守っているよw
漏れは652を支持するよ。
だって、上洛直後の義昭への援軍とかで先行してるじゃん。
雪の中少数で駆けつけるのが信長の真骨頂のように感じてしまうのは漏れだけかな。
両方ともあってるんじゃないの?
包囲勢が一万弱?くらいで、それとは別に信長馬廻とかき集めの兵三千余でぶっこみかけたんじゃねぇの?
大嶽からの朝倉追撃戦のように。。。
まぁしかし、敗戦後の塙さんの家の処遇がかわいそうってのは漏れだけ?
義昭への来援要請は撃退後に送られ、信長は
撃退知ってて来たとなってますけどね。
それを天王寺合戦と同列視して扱うのは自由ですが。
676 :
日本@名無史さん:2006/03/17(金) 02:09:18
・・・人間五十年
qΛ Λ 下天の内ヲ
(´`ω´) くらぶれば
⊂||y||つ<) 夢幻之如くなり
ノ_/'ノゞヽ
一度生ヲ受け
qΛ Λ 滅せぬ者之
(´`ω´) 有るべきか…
く/jつつ<)
ノ_/'ノゞヽ
A.伴衆は指揮するひと、馬廻衆は足軽含む
B.先行したのは伴衆、後追いしたのは馬廻衆
Aが成り立たなければBが成り立たない
Bが成り立たなければAが成り立たない
証左のスパイラルに陥ってるぽ
其の折節 信長 京都に御座の事にて候 則ち 国貼へ御触れなさる
御後巻再三御合戦之事
五月五日 後詰として 御馬出だされ 明衣の仕立纔か百騎ばかりにて
若江に至りて御参陣 次之日 御逗留あつて 先手の様子ヲもきかせられ
御人数ヲも揃へられ候と雖も 我懸の事に候問 相調はず 下貼之者 人足以下
中貼之者 相続かず 首首ばかり着陣に候・・・
陣触れして五日に京を出て若江に入城してる模様
天正元年に作った琵琶湖から淀川を3〜5000の兵乗せて行き来する大船もあるから
書いてるように軍勢が間に合わない事ないよな
足利義昭の真木島城での蜂起のときに、船で短期間に大軍率いてきたと書いてるからな
つか安土普請にいた軍勢を天王寺合戦に廻したんじゃね?
信長公記にも「七月朔日より 重ねて 安土御普請仰せ付けられ・・・」ってなってるからさ
琵琶湖の大船なら佐和山−坂本直行用で淀川は通れないから
天王寺行きには使えない。
若江に到着(100騎)した後、後続部隊(これが日記の2000か?)を待ったけど
(指揮官レベルは集まったが)下っ端の集まりが悪かったって書いてるんだから、
間に合わない兵が多かったんだろう。
で、時間がないので到着している兵だけ連れて天王寺へ移動。
若江からつれて来た兵+天王寺の兵(+周辺いた兵)のうちから
3000の兵を三段にわけて攻撃。
こんな流れ?
信長公記とも全然違う、せめて嫁
>>679の流れと言ってるのは一人だけだろ
天王寺合戦で信長がどれだけ動員したかはわからんが、
>>679の流れと推測できるようなの、信長公記にもないしな
自分の思い込みに、後から後から話を繋ぎ合わせてるから
話がむちゃくちゃになってる
じゃ、書き出してみよう。
5/5 後詰として出馬。百騎で若江に着陣。
5/6 情報収集。兵集め。
‘俄懸の事に候間相調はず。下々の者・人足以下なかなか相続かず、首ばかり着陣’
「何日も持たない」との注進に「見殺しに出来ない」
5/7 15000の敵に3000で住吉口から攻撃
で、問題の兵集め
根来・和泉衆は三好配下、大和・山城衆は原田配下として3日に戦っているので
すでに天王寺方面に居ると思われる。
摂津衆は荒木配下だと推測。
少数ならともかく、
兵力として集めるには近江方面から京を通ってくるくらいしか集めようがない。
1〜2日で若江に移動できる距離を考えて、
京にある程度集結していたと考えるのはそんなに変か?
具体的に問題点を指摘してくれ。
琵琶湖の大船は高島郡にも行ってるから佐和山から坂本限定ではありませんね。
水上交通を応用した高速移動手段で、淀川を下れるとは思えませんが、
かなりの数の軍勢を運べたものと思われます。
また馬廻衆は信長と共に京を発したとするのが妥当なのは、
兼見卿記や信長公記の記述からでも明らかで、合戦のに参加した総数は、
当初から参戦していであろう松永久秀や、安土普請に関わっていた
丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉の参陣、嫡子信栄が参戦していた佐久間信盛から、
馬廻衆も含め一万以上いたと考えて、公記の三千という数字は
あまりにも少ないと思われます。
また最終的には天王寺砦の明智光秀や佐久間信栄と合流している事から、
包囲した石山勢に近い人数はいたと考えられます。
五月三日に領内に出陣命令を発してますね。
安土には丹羽以下がいたのは確実であり、大船使った移動では、
半日もかからないのは槇嶋出陣でも確かです。
稲葉などの美濃衆の参陣は、彼らが美濃にいたならば不可能であり、
参陣している事実と信長の石山への出陣予定と、それに伴う上洛からも、
信長自身の石山への出陣が近日内にあったと推測でき、美濃衆はそれに合わせて
参陣途中であったと考えられます。
京で二日待ち、五日に京を出て若江入城、また二日待ち天王寺へ出陣。
若江衆や近江衆、安土普請に従事していた他国衆、松永など残存の大和衆から、
三千という数字はあまりにも少ない、不自然と考えるのは当然ではなかろうか?
685 :
その1:2006/03/18(土) 21:35:37
>最終的には天王寺砦の明智光秀や佐久間信栄と合流
包囲を突破してから合流なのでこれは3000の話とは無関係ということででいいな?
>丹羽長秀・滝川一益・羽柴秀吉の参陣
「人足以下なかなか相続かず、首ばかり着陣」となっているのだから
〜がいたからと言うのは兵が居る根拠にはならない
当時合戦は朝からが基本なので、6日中に天王寺(10km先)に移動が必要。
京−若江間が40〜50km
この距離だと5日朝に京を出発→6日夕刻着
5日に出発するためには4日中に京到着が必要
3日朝〜昼の敗戦後、出陣命令は昼過ぎ〜夕刻、命令到着夕刻〜夜だとして、
出発は4日朝
京−安土(約45km)を考えると、安土兵はかなり強行軍でないと間に合わない。
若江までだとまぁ無理。
そもそも7日攻撃が予定外なので「強行軍で来い」とは言われていない。
686 :
その2:2006/03/18(土) 21:37:42
結局、時間までに間に合うのは
京に居た兵(2000?)
安土より近い近江の兵(瀬田坂本守山) *安土城に人手をだしている可能性もある
大船が使えたとして、佐和山兵(最大でも5000) *安土城に人手をだしている可能性もある
残存の大和衆?
どう見積もっても15000は超えない。
攻撃拠点の防御に数千の兵が必要なので総数1万なら3000でも不思議じゃない。
さらに大船は、槇嶋攻めの時は追い風で6日出発、その夜坂本宿泊、7日入京なので
「なかなか相続かず」の分に入る可能性のほうが高い。
大船つかったらそれこそ記録に残っているだろうから
使ってない可能性もある。
七日に若江城出て合戦とあるのはあえて無視して
六日中とはこれ如何に
688 :
685:2006/03/18(土) 22:09:37
>七日に若江城出て合戦
どこ?たぶん間違い
>六日中とはこれ如何に
7日朝から合戦だから、6日夜中に移動するだろ。
朝から移動→合戦だと疲労で不利になる。
若江から天王寺まで3時間として、6日の夕刻に若江を出発したい。
>七日に若江城出て合戦
分かりにくかったかと今思った。
若江から出撃ではなく、
6日中に天王寺・住吉近辺に移動
7日住吉から攻撃。
五日に若江に到着して六日は留まって七日に三千でと
信長公記にあるのは漏れの目の錯覚だろうか?
三千は検証の余地なくて行動は否定すんのかぁ
「若江に御参陣。次日逗留あって」
その後に6日の出来事の記述
5日から6日にかけての「逗留」だと解釈したが?
あれ?それでいいの?
それってどれだ?
まぁ、6日夜も若江に宿泊としても
2〜3時間若江到着の猶予が延びるだけで大勢は変わらないと思うが。
そもそも「将軍御謀反」の時に使った大船は後に解体され小船に組みなおされた
と聞いたことがあるが、天王寺の時点でまだ大船は残っていたの?
それと、上にもあったが大船を使って軍勢を移動させたのなら、さすがに記録に
残るものじゃあないか?
そんな仮定を持ち出さなくても、安土につめていた連中は信長からの緊急招集
に対して数よりも速度を重視して少数の兵で急行した、で問題ないと思うが。
俺の『信長タイムマシーン説』どうよφ(.. )メモメモ?!
>>689 せめて信長公記読んでから推測なり憶測なりしろよ
五月七日 御馬ヲ寄せられ 一万五千ばかりの御敵に 僅か三千ばかりにて打ち向はせられ
御人数三段に御備へなされ 住吉口より懸けらせられ候
これはどう解釈しても七日に若江でてるんだが
んで合戦は朝が基本って、別に朝限定でもなし
大船の移動は信長が大船使えば、御渡海と書かれてるので、謀反以降も存在して使われてたよ
蘭著待切り捕りでも書かれてるから
秀吉とかの移動手段は書かれてないし、存在し安土にいたなら使われたとして考えるべきじゃね?
697 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 19:41:55
結論から言えば織田信長はまちがいなく無能
天下統一目前まで行ったという結果も所詮「地理的な要因」、「有能な家臣団」による必然と運によるであり信長を有能とする材料になりえない
まず内政
・楽市・楽座や検地、関所の廃止などは信長が先進的に行ったものではない
むしろ、地方が先駆けて行ったものを、中央の信長が重い腰を上げて、猿真似した内容である。
・しかも、それらの実践は信長自身によるものでなく多くは村井を中心とした家臣の構想と進言によるもの
ただ信長はハンコ押しただけ。
戦闘
・信長の関与し、勝利した戦いは数多くあるが全て、元々の兵力的、装備な優位に基づいた当然の帰結であり
信長自身はそれほど戦争は得意ではなかった。坂本や長島など証拠に兵力的に不利な戦いは悉く敗退している
・桶狭間の戦いについても誤解が多いようだが、桶狭間の織田軍は実は今川軍の二倍ほどであり兵力的には織田の方が遙かに上回っていたことが明らかにされている
しかも、相手は大名というよりむしろ公家に近い指揮官であり誰が桶狭間を指揮して多も勝利は必然である
・なお、長篠は織田軍は画期的に三段打ちで武田を下したとされるがそれ自体創作であって、元々長篠での織田軍は武田軍の兵力を遙かに上回りべつに指揮官が犬であろうと勝てた戦いであり信長の実績とはいえない
家臣
・信長自身は無能であったが、運がよかったのか家臣には恵まれた。羽柴秀吉や徳川家康、前田利家など後の天下人や大大名にまで出世する有能な人物がせ数多く居る
・逆を言えば信長の実績は有能な家臣団に支えられたものであって、信長自身が有能でないことを指している
・その証拠に、信長に古くから付き従い織田家の筆頭家老であった人物から「織田家家臣こそ日本一有能な家臣団である。これらに支えられている信長は全く持って果報者である」と嘲笑されていねる記録も残る
筆頭家老でさえ、この意識なのだから末端までこういう意識があったものと見てよかろう
698 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 19:43:35
人身掌握
・信長の人心掌握は例えるとジャイアンの如く暴力にまかせた「小学生じみた」ものである
・その証拠に多くの家臣や同盟者に裏切られている。弟の信勝、柴田、林、荒木、松永、義昭、長政、本願寺、明智などはっきり言って枚挙に暇が無い
・特に明智に関しては誤解を招くので言っておくが、明智の謀反はむしろ氷山の一角であり、本能寺なくともどこかで信長は暗殺されていた可能性は濃厚である
信長死後の織田家の末路
・信長死後全く織田家の存在は省みられないまま秀吉の天下となる。これは織田家内部や諸勢力、朝廷などから信長がウザがられた証拠であり、信長に並の魅力を兼ね備えていれば
子子孫がこのような末路になることはなかったはずである。
・なおこの点において、秀吉の主家乗っ取りを非難する人がいるが適切ではない。仮に柴田が秀吉に勝ったとしても
信雄が信孝になるだけで織田家の末路は変わらない。織田家はそもそも日本中から内心キモがられた存在であったから、現実主義の柴田が織田家を担ごうとはないだろう
素行
・若い頃は、「うつけ者」といわれ領民からひどくウザがられた。博役の平手はついにあきれて割腹自殺を遂げるも素行は改まず。もはや情が無いというよりは知恵遅れなのだろうか。
・青年期になっても素行のひどさは変わらずで。多くの家臣がたいしたこと無い理由で手討にされている。鷹狩でだらだらやっていたお供がそれだけの理由で手討にされるなどがあったから、家臣は遊びに付き合うだけでも胃をいためていただろう。
もし織田家の当主が無能な信長でなく、秀吉や家康であったらどうだったか
・この二名は必ずしも英雄とは言いがたいがそれでも幾分か信長より人心掌握が出来なかった信長よりはマシであった。
もし、このような仮想をたてるなら。まず弟の謀反はなかったであろうし、浅井は裏切らず、朝倉は即滅亡
本願寺は敵対せず、松永や荒木の謀反は無い。義昭との対立は避けられなかったとは思うが、呼応する大名は無く、より早く天下統一事業を進めていたと思う
・当然、本能寺は考えられず、天寿を全うし、1582年にはすでに織田政権による幕府が成立したと考えられる
まず書き込む前に文をよく推敲すること。内容以前の問題です。
よくまあここまで間違いだらけをつらつらと
701 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 21:00:37
つれたつれた
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
703 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 21:56:56
内容の間違いはないだろ
すべて信長公記からの出典だし
むしろ内容が違うという奴は勉強が足りねえ
704 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:05:49
まあ座れ、ハゲ
705 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:07:35
本能寺がなくてもそのうち信長は味方に殺されていたってのは同意
そういや荒木の謀反の理由ってなんだったんだ?
誰かが明智光秀が荒木さん謀反してまっせ。
って讒言(もしくは勘違い)したって言っていたが。
松永の場合謀反が趣味みたいだからなんともいえねぇ。
ただ松永は毛嫌いしていたかもね。2度も謀反起こすし。
707 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:16:09
最近の研究では
織田と今川の兵力差は僅差だったともいうしね
尾張の石高=駿遠三ともいうし。
しかも今川は各砦に兵力を分散していたため
桶狭間の戦いは信長の方が数的優位だったのも事実らしい
そして奇襲ではなく、正面からぶつかった。そして運良く総大将の首が取れただけらしい。
708 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:17:52
織田と今川の勢力が僅差?
その割にやけに織田方は城を落とされてるが
709 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:21:01
信長は、日本一の家臣団を持ち果報者って言ったのは刀根坂の佐久間だったか
一般的には佐久間の妄言とされがちだが、言っていることは事実に反してないし、案外家臣全員が思っていたことかもね
710 :
匿名希望:2006/03/21(火) 23:28:47
織田と今川の勢力が僅差はにわかには信じられないが、兵力差が何倍もあれば
尾張の豪族が織田を寝返っていただろうしどうなんだろう。
尾張の平野には100あまりの城があったいうから、規模は小さかったはずだが、
落とされた砦はもしかしたらすごく小さく簡単に攻め落とされたとか。
711 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:30:17
>>708 信長は無能で人望が無かったため、砦の連中を信じていなかった。
わかりやすくいえば、裏切ると思って後詰に入らなかったらしい。(勿論、後詰に入れば普通に勝ててたわけだが‥信長は‥)
しかし、予想に反して丸根、鷲津の砦は奮闘し、両大将は玉砕
結果的に今川勢を分散させることができた。
712 :
日本@名無史さん:2006/03/21(火) 23:36:18
桶狭間がどうであれ
あの勝利は、運と偶然の産物で信長が有能であることとは関係ない
>>707 まず、信長は桶狭間当時でも尾張全土は支配していない。
まあそれでも当時の信長と今川で絶望的な差があったとは思えないが、ただし
状況で言えば戦力が僅差だったかは断定できない。
今川は遠征軍として連れてこられるだけの軍勢をもってきたのに対して信長は
今川以外にも他方面に敵ないし戦力の配置を必要とした。そういった点を考える
とやはり実際の戦力差は大きかったとみてもいいのではないかと。
特に桶狭間で信長が率いた軍勢は、公記に従えば事前から用意して出陣したのでは
ないのだから。
714 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 08:43:56
>>712 いやそれを把握したうえで行動に移ったのだから有能なのは間違いないよ。
信長は、
戦闘行為において有能。
秀吉・光秀・家康を見出した人材発掘の才能があり、やはり有能。
行政面は他者の業績を取り入れることが出来たからそこそこ有能。
でも天下人としては無能。
715 :
ゆうき:2006/03/22(水) 10:11:37
嫌。奴わ
天才だよ。
家康の場合見出したっていうの?
717 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 10:26:59
しらんよ。
718 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 16:37:13
俺は信長より秀吉の方が格が上だと思うよ
信長は生まれがよかったからこそ戦国の世で暴れる事ができた訳で、
やっぱり信長には運がよかったと言う点もあるのではないか
それと戦の上手い下手を根拠に人を評価するのは疑問だ
戦に負けるような奴が評価できないのならば、
ナポレオンやハンニバル、ロンメルはどのように評価すべきなのだろうか
719 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 16:38:54
この人って戦は上手いかも知れんが、
処世術に関して言えば秀吉・家康以下だろ
臣下に裏切られた時点で、余り有能だとは言い難い
>>706 本願寺への利敵行為を噂され、信長が査問。
部将の中川・高山らが唆して、むざむざ殺されるよりはと謀反に走ったらしい。
元々は幕臣だったので、その関係もあったろう、という話。
明智の讒言云々の真偽は不明。ただ、村重は
明智に累を及ぼさないように、自分の息子に嫁いで来ていた明智の娘を離縁させている。
721 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 16:42:02
俺的には信長と比較して秀吉・家康の評価が低いのが気になる
信長って義経のように最後は悲劇的なものだったから、
悲劇の英雄に対して多少、同情的になっている部分もあるのではないか
いや、義経はいかん。無能ではないがアホだ。
と話をそらす。
723 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 18:07:03
本能寺の変がなかったら、なんていうノブヲタの泣き言は、
WBC韓国の負け惜しみそっくりだよな。
信長の評価が上がったのは近年の話じゃんよ
それに義経に関してはアホで無いって説もあるしぃ
>>719 家康だって家臣の裏切りはあったし
見限りは何人もいる
ただ、織田ほどの人材がいなかったから大事にならなかっただけで
726 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:14:12
致命傷になるような裏切りされたら終わりの世の中なんだよ。
韓国はたった一度の負けが命取り。日本は三回負けても優勝。
つまり信長厨は韓国人だ。わかりやすいたとえだろ?
727 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:18:48
信長は良い意味でも悪い意味でも破壊者だった
728 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 19:45:15
>>724 確かに義経は戦術眼はあったが、兄・頼朝のような戦略眼がなかった。
頼朝が朝廷から人事権を奪う(に近しいこと)ために官位を幕府の許可制にしたのに、
義経はまったくその意味を理解せずに、無許可で検非違使の位をもらったくらいだからな。
戦はうまいが、政治はまったくダメ。まるで足利尊氏みt(ry
729 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:08:07
>>725 たしかに家康も三河一向一揆の時は結構裏切られたが
裏切りの数やその深刻さは信長と比較してはるかに少ない
石川は唯一の例外だが、石川は、家内の派閥争いと秀吉との開戦阻止の為に出奔せざる得なかったわけで
家康の魅力云々とは別次元の問題。
730 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:09:55
秀吉にいたっては裏切られるケースなんて殆どなかったしね
信長の裏切られ方は異常。
本能寺の変は氷山の一角
731 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 20:26:02
★ 倭寇の正体は朝鮮人だ!! ★
韓国朝鮮人は、
「日本の海賊=倭寇が、過去に何度も韓国を侵略し、我々韓国人に多大な被害を与えた!」と、
主張して、日本人をよく非難する。
しかし、韓国人のこういった主張は大ウソなのである。倭寇の正体は韓国人=朝鮮人なのだ。
韓国朝鮮人は、金氏新羅の時代から活発に海賊活動を行っていた。
そして、朝鮮海賊にとって、第一のターゲットは、常に日本人であった。
我々日本人こそが真の被害者であり、韓国朝鮮人は加害者なのである。韓国朝鮮人は侵略者なのだ。
新羅時代、朝鮮海賊が対馬海峡や九州西岸海域に出没し、日本人を襲って殺傷する事件が多発した。
大和朝廷は、大宰府の水軍に対し、海上警備の強化を命じた。大宰府の取り締まりが厳しくなった結果、
朝鮮海賊は「商売アガッタリ」状態になった。そのため、しかたなく、朝鮮海賊は自分たちの国の人間を
襲うようになった。
この時、彼らは朝鮮人らしく悪ヂエを発揮して、新羅王府の取り締まりから身を守るため、
自分たちが朝鮮人である事を隠し、日本人に偽装した。
「オレたちは倭人だぞォ!」と、アピールしながら海賊活動を展開したのだ。
これが倭寇の正体なのである。倭寇とは朝鮮海賊のことなのだ。
★きままに歴史 『元寇と高麗』★
http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/genko/genko.htm
>>716 今川の人質時代に交友関係を築いているのだから、立派に人脈作りといえるんじゃね?
>>724 義経は親京都派の首魁なんて説が
ってか尊氏が政治駄目って、アンタ・・・
734 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:10:40
人質時代の家康が、信長と鷹狩に出かけたとか云々の話は後世の創作
当時から信長は支城の城主を任されることが多く名古屋には殆どいなかった
実際のところ、幼少の家康と信長は交流が全く交流が可能性が高い
秀吉を見出したのは信長というのも少し疑問符
織田家と木下家の従属関係は親父の頃からだし
信長が有能無能関係なく、秀吉は織田家に採用されていた
信長は秀吉をはげ鼠と馬鹿にしていたが、秀吉がメキメキ実績を出してきたから
見出すつもりはなかったが結果的に重役を任せざる得なかったのだと思う
735 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 23:13:29
と、バカがほざいております
木下家が従属していようとも、明らかに下層な家から取り立てるのは君主の
人物眼だろう。まず、仕事を任せてみようと思わせなければ功績の立てよう
がないのだから。
なんでこう、信長の業績を全て否定して運任せの無能者に仕立て上げたいのかね?
誰それに比べて〜だから無能、とか。
〜が出来なかったから無能、とか。
それでいて同じことをしでかした人物を挙げても
誰それの場合は〜で違う、と後だしで新条件を持ち出して却下する。
737 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 01:31:36
俺の『信長タイムマシーン説』はどうよ・゚・(>_<)・゚・
>>736 なんで無能にしたがるかと言うとたぶん信長は天才とかまるで戦国時代から浮いてたようなことを言いたがる奴がいるからだよきっと。
実際、信長の実績なんて後世の創作が多いわけだし
ゲームでしか知らないような三戦厨みたいなのが、「信長は天才だった」なんか言おうものなら
修正主義者じゃなくても否定してみたくなる
「信長天才説」の否定ならまあいいのだけれど。
実際、信長を完全無欠の英雄だったとか時代を超越した革命家だったなんて
持ち上げる評価は気持ち悪い。
ただ、それがなんだって一気に百八十度反転して「運がいいだけの無能者」に
なるのかが不思議。
「鉄砲三段撃ち」が否定されても長篠で武田を無力化させるほどの大勝利を挙げた
ことは変りない。「鉄張軍船」が疑問視されても第二次木津川口海戦で勝利して大坂
包囲を完成させた事は否定できない。「敵より数を揃えただけ」なんてのにいたって
は、そもそも敵より大軍を用意するのは兵法の常道。さらに言えば、尾張で敵より
劣る兵力で戦っていたころからどうやって万を超える大軍を用意できるほどに成長
できたのか。
「無能な人間が運だけでそこまでいった」と本気で考えているのかね。
741 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 05:41:36
有能な人物であったことは間違いないと思う
だがパラメーターが100だったり0だったり非常にいびつだったから、
ああいう活躍をし、ああいう死にかたをした
数字で喩えるな、光栄厨。
>>740 微妙に突っ込みを入れさせてもらえば長篠後もまだまだ武田家は無力ではありませんでしたよ。
あんだけの敗北を喫しながらも徳川は武田の侵攻に何度も悩まされてましたから。
まあ何度も軍事行動をとった結果国力が疲弊して人心が離反していったわけですが。
744 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 10:14:38
信長は天下人には向いてない
秀吉・家康が皇帝なら、信長は大王(王ではない)と言ったところ
信長は韓信
劉邦が秀吉・家康
比べようにも長所が異なるから、比べるのは無意味
745 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 10:16:47
信長は有能だった
ただこの人は有能と言うより大王としての立場なら有能だった
大王と言う立場では有能でも、この人は皇帝を目指せる器ではなかった
「事実」だから「信じる」のではなく「信じる」からこそ「事実」になる
747 :
日本@名無史さん:2006/03/23(木) 14:19:50
俺の『信長タイムマシーン説』
どうよ?!
何が”どうよ”なんだ。
どういった点を評価して欲しいんだ?
無視されても諦めない根性をじゃね?
751 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 06:38:05
信長はタイムマシーンという意味か?
織田信長って本当はUFOだった??
面白くないからもうやめとけって。
>>729 信長の場合、急速に拡大したわけだからどうしても外の人間で
人材を梃入れせんことにはどうしようもなかったわけで。
尾張半国分の譜代で、日本の半分を支配はできないよ。
秀吉も同様だが、まだしも彼には信長の下で培った実績と、
寄騎として苦楽を共にした部下を育てることが出来た。
それでもやっぱり、秀吉個人の忠誠にとどまり、豊臣家への忠誠には至らなかった。
家康の場合、もちろん三河的な気質や、本人の魅力もあるけど
裏切りが少なかったのは、比較的狭い領土をきっちり統治し、元からいる譜代や
今川旧臣をがっちりまとめる時間があったことが大きいんじゃないかね。
もともと今川の一門衆扱いだったわけだし。
755 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 17:23:02
>>749殿様
信長をソウカツしたら当時の人と掛け離れるから
未来からタイムマシーンで安土時代に来たかと
756 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 17:38:16
元々大名「家」に対する忠誠なんかはなかったんだよ。
そういう感覚が生まれてくるのは家綱や綱吉のあたりから。
江戸時代までの(というか江戸初期も)主従関係っていうのはあくまでも個人対個人のもの。
徳川氏の覇権が続いたのは,大御所が将軍をサポートする形をとったから。
徐々に世代交代させていくことで上手く覇権をつなげることができた。
裏切りについては,成長のスピードの差が大きいと思う。
信長は急成長したため,まったくの他人でも用いるしかないほど人材が不足していた。
だから主従関係が確立する手前で裏切りが出やすいのは当然。
秀吉の成長ぶりは確かに速いのだが,素地として織田家という枠組みがあったことや,
地方も比較的統一が進んで相手が少なかったことが影響している。
当然本人のカリスマ性やリーダーシップがあったからこそ上手くいったわけだが。
家康は三河から徐々に版図を広げたために譜代層が多く作れたのと,
上記のように上手く立ち回ることで権力の委譲ができたことが大きい。
758 :
日本@名無史さん:2006/03/24(金) 20:00:31
>>757 たしかに家康も三河一向一揆の時は結構裏切られたが
裏切りの数やその深刻さは信長と比較してはるかに少ない
>>758 結局、本多正信に至っては、帰参までしてるしな。
>>757 織田のように宿老が裏切り者もしくはその経験者ぞろいというような
とんでもない状況ではないよ。
まあ、織田家は特殊な例の最たるものだが。
徳川家の場合、清康・広忠二代続けて家臣に襲われちゃいるが
家康の代になってからは、一向一揆の時を除いて離反者はそれこそ石川くらいしかいない。
家康個人が統率者として優れていたこともあるだろうが
やはり地縁血縁と苦難の生活でしっかり固まってたのが大きいんじゃないかな。
後はもちろん、信長の地位は当時魅力的だが
家康の地位は(信長存命時は少なくとも)それほど魅力的ではなかった。
また、信長の存在も離反のストッパーにはなっていただろう。
武田家に寝返ったのとかいるでしょうが。
まず長篠までは三河遠江の豪族から結構離反者を出している。
それから、たしか今川と縁切り、清洲同盟を結ぶときに反対した家臣がいて、
彼らは出奔して今川家に奔っている。酒井なんとかだったから、それなりな
重臣じゃないのかな。
とにかくさ、二重基準や新しい条件を後だしで持ち出して反論するのはやめ
ないか。それでいいのなら、どんな事も全て反論否定できてします。
>>761 でもさ。徳川対武田の場合さ
むしろ裏切られる印象は武田の方が強いんだよね。
長篠前も
奥平の裏切りなんて長篠の戦いに直結したわけでしょ
764 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 03:08:15
186 :日本@名無史さん :2006/02/27(月) 15:28:13
信長は朝倉に因縁つけて戦をふっかけるもコテンパンにされている。
姉川の戦いでも、織田勢は壊滅寸前まで追い込まれた。
後の天下人である徳川家康が信長を助けなければ危ないところだった。
よって、朝倉義景>織田信長
もうゆるぎないでしょ。これは。
765 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 03:31:51
>764は徳川マンセ-の文献を信じてるのかwww
>>763 それは武田徳川間のバランスが変わったからじゃん。
767 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 04:11:52
奥平が裏切った長篠直前までは武田はまだ徳川に攻勢を仕掛けていた時期だよ
バランスが崩れ始めるのは、高天神までじゃないのかな
少なくとも長篠前までは、武田>>>>>>>>>>>>>>>>徳川なのは確実
全然バランスは変わってない
背中に織田がいるからそこまでは言えん。でも地域的なバランスなら
変わりつつあったかもしれん。まあ当時は裏切りなんてしょっちゅうの
戦国乱世、裏切っても非難される事自体が少ない。
悪銭を流通させてでもインフレ防止したり土木工事をすることで経済を安定させる
手腕は有能だが信秀時代の尾張での施政が参考になっているだろうな。
信玄は戦闘のみで過大評価しすぎなんだよね、経済基盤は貧弱そのもので棟別銭で
みると北条の四倍、伊達の二倍を徴収しているように重税方針だったんだよね。
経済力では信長は周囲を圧倒していたから負けても立て直しが早かったと思う。
悪銭流通したらインフレになるだろうが、まあ安定した通貨に統一
したくても戦国乱世の時代じゃ不可能だっただろうけど。江戸時代で
すら不可能だったんだから。
771 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 10:07:51
ふかわりょう並みに有能だ
>>763 つーか当時の奥平みたいな小豪族は明確にどっちかの家臣だったわけじゃない。
それこそ家康以前の松平と水野のように、状況しだいでどちらかについた。
裏切りというよりも、自分とこの領地を守るのが一番大事で
そのために大勢力は利用する、というスタンスだ。
773 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 10:49:37
俺の『信長タイムマシーン説』ってとうよ?
俺のケッタマシーン壊れちまった。
>>772 その種のドングリ豪族や宗教勢力を片端から潰して中央集権的知行制による官僚・戦闘
集団を作っただけでも偉大だな。そこから戦争しながら大航海時代に突入して
行くヨーロッパとそこから天下泰平の江戸に向かって行く日本でヨーロッパと
日本が決定的に別れてく。
信長が潰した宗教勢力って?
比叡山
比叡山を滅ぼすことがなぜ偉大であるのかを説明していただけないか
779 :
日本@名無史さん:2006/03/26(日) 19:58:22
強運の持ち主であったことと奇抜な戦略が比較的成功したということ
それと情に流されないところが成功の秘訣だった。
>>778 偉大かどうかは分からんけど、戦略上はスマートな決断だよね。
ただ単に追い込まれて発狂しただけかも知れんけど。
一向宗の方が先にこないか?
>>778 イスラム原理主義を叩き潰したようなものだろ
一向宗よりも比叡山焼き討ちのほうが歴史的にはインパクトがつよいのよ。
一向宗は当時どこでも一揆してて、家康はもちろんのこと仏教好きっぽい謙信ですら手を焼いている。
なのでコレを敵としている大名は多かったわけだけれども
比叡山つーのは天台宗だから、新興宗教の一向宗ではなくて由緒有る(とされている)仏教。
ただこの時期は僧兵の狼藉やら風紀の乱れで京までもしばしば略奪しにいったとか。
だが、天台宗だから手を出せない。というのが一般常識だったわけだが
信長にはまったく関係なかった。まさに神も仏もおそれないっていう感じ。
そうでもないだろ
東大寺の大仏を焼かれた前例があるし
あれは「東大寺だから」焼かれたわけではない。
それでもインパクトはすごかった。
信長の場合、最初から比叡山を焼き払って、平安時代以来、武力を持ってきた宗教勢力を
完全に叩き潰したことが革新的だったわけだ。
平重衡の真似か、なんてオリジナリティーのない奴なんだ。
独創性より効果が一番。
実際のところ
比叡山焼き討ちは大した規模のものではなかったと遺跡研究で明らかになっている
信長の比叡山焼き討ちは結局中途半端なものに終り、後々明智の謀反を誘発するだけの無様な行為である
特筆すべき点は何も無い
明智はきっちり殺したけど秀吉は女子供は逃してやってるんだよな。
大河で再現されてたのでちょっと感心してしまった。
無駄に重要文化財を焼いただけだね
本当に無能だね
朝倉五代の一乗谷も放火魔信長のせいで焼けちゃったの‥
義影公が苦労して築いた戦乱の地における別天地、一乗谷
おそらく残っていれば、世界遺産に登録されていたのは間違いないと思うのに残念だ
信長が作った文化遺産って、あの虚栄心にみちた安土城くらいじゃないのか
まあ、それも信長の血をもっとも強く受けついた信雄が焼き討ちしちゃうけどね
そりゃま、当時の武士を文化財保護だの歴史的価値だのを理由に叩いてもしょうがない。
そんな概念なかったんだから。
比叡山は以後武装勢力としてはついに再建されなかったし
一乗谷は北の庄、金沢に重点としての価値が移っただけ。まさしく建造物などどうでもいい。
>>791がとてもズレている件について
若いっぽい義憤は素晴らしいがw
正直、信長厨のほうが痛々しいだろww
795 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 11:56:43
一乗谷城と安土城が両方とも現代に残っていたとしても、
先に世界遺産認定されるのは、おそらく安土城の方だろうな。
甲府の躑躅ヶ崎の館や北条時代の小田原城が残っていたとしても、
安土城の方が歴史的価値は高いだろうな。
796 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 11:59:48
>>788 義昭に味方して、浅井・朝倉軍を二度とかくまうなという意味で、
焼き討ちしたんだろう。
>比叡山焼き討ちは大した規模のものではなかったと遺跡研究で明らかになっている
叡山で発掘が行なわれたって話は聞かないが?
いつそんな研究結果が発表されたのかな?
798 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 12:16:31
そういえば信長は石山本願寺と堺には矢銭を要求したが、比叡山には要求しなかったな。
799 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 12:27:23
>>769 悪銭流通は結局失敗でしょ。
経済の悪銭追放の動きは変えられなかった。
>>769 経済力が信長の政策によるものなにか、尾張という地の利によるものなのかは、微妙なところだな。
武田領のような山岳地帯と、尾張、関東などの広大な平野の領主と経済力だけを比較しても
領主の能力比較にはならんよ。
そもそも当時の価値観からすれば、「戦が強い」というのは経済力が強いという以上の
価値があったんだから。
801 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 13:06:08
比叡山とイスラム原理主義を同じに思っている時点で信長厨は短絡的な考え方の持ち主と断定
802 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 13:19:13
>そもそも当時の価値観からすれば、「戦が強い」というのは経済力が強いという以上の
価値があったんだから
何を持って基準にした価値?
804 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 15:49:50
ごめん、知ったかぶりだった。
805 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 15:57:47
比叡山って悪いことはしていただろうが政治そのものに関与したんだろうか
806 :
日本@名無史さん :2006/03/27(月) 16:00:13
807 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 16:04:56
それは信長の側から見た言い分であって比叡山が悪いとはいえないだろ。
比叡山から見れば義昭将軍の命令に従うことが義であると考えるかもしれん。
大義名分論的にはそうかもしれないけど、無政府状態の実力主義・
下克上の戦国乱世でそんな話に乗っかる馬鹿がいたとは思えないけど
な。比叡山的には浅井・朝倉領やそれ以外の信徒から上る収入が減ら
される可能性があったからそれを心配したんだろうな。
809 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 16:35:15
>下克上の戦国乱世でそんな話に乗っかる馬鹿がいたとは思えないけど
実際に将軍足利義昭を奉じて上京し天下を動かそうとしていた馬鹿もいたんだが
>比叡山的には
以下の話だと比叡山から見たら信長は自分たちの権益を侵す悪党ってことになる
810 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 16:43:26
だから、比叡山は宗教の殻を被った大名だよ。
しかも権威があり、都にも近い。
足利義昭を将軍にしたのは朝廷の綸旨を得る為って説があるな、将軍
の命令は聞かなくても朝廷の綸旨や官位は通じる。それが日本史の面白
いところだな。義昭が将軍位を追われてもそれを理由に反乱や他の大名
が信長を攻撃したって事も無い。信長が死んだ後義昭が復権したなんて
事もない。
義昭が京から落ち延びても将軍職は罷免されてないよ
813 :
投票所:2006/03/27(月) 17:48:07
814 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 19:06:00
本願寺相手に泥沼の戦争を長々やってた信長の先見のなさは否定できまい。
俺の『信長タイムマシーン説』どうよ(>_<)
>>812 将軍職を罷免されていない義昭ではなく、朝廷を抱え込んだ信長が天下人と
認定された。
よく、将軍位がまだ義昭にあるから足利幕府は滅んでいないといわれる。その
とおりではあるが、しかし天下人、中央政権としての足利幕府はこの時点で
滅んだ。
>811
>義昭が将軍位を追われてもそれを理由に反乱や他の大名
が信長を攻撃したって事も無い
いや、明智謀反の理由に義昭追放の件があったはず
まあ、私怨じゃみっともないから後でつけた理由なんだろうけど
>>817 義昭が信長と敵対したときに明確に義昭を切って信長についた光秀が
そんなこと言ってもねー。
義昭は追放されたわけではないぞ
むしろ、信長は義昭に京にとどまるように再三説得されている
義昭は説得に応じず尼崎に移った。これが真相
信長がいくら馬鹿でも
、一文の利益にもならず、あとで謀反の火種になる将軍追放をやるわけないっつーの
820 :
訂正:2006/03/27(月) 22:26:51
説得されている >説得している
信長は意外と甘いんだよな
三好や松永みたいな格下すら、将軍殺して、代わりを立てるくらい平気でやっているのに
信長の場合、明らかに楯突いた義昭を殺さず、坊主にもせず、ついには逃げられた
まーたしかに。信長からすれば、一番いいのは義昭が正式に降服して土下座でも
させて臣従させる。あとは岐阜のどこかで位は高く実権のない地位において幽閉
でもさせれば最高。
それこそ秀吉が旧主家の織田一族に対し遇したようにね。
>>805 往古の「鴨川の流れ、賽の目、荒法師」というほどの勢力ではないにしても
武装し、その武力を背景に独自の行動を取る政治勢力というのは非常に鬱陶しい。
ところでちょっと質問。
義昭は死ぬまで将軍だった。では三職推任のとき、もし信長が「征夷大将軍くれ」
って言ったらどうなったの?義昭から位剥奪?
殺されるか譲位って形で捨て禄貰って放置かは別にして政治的にはなんの
障害にもならなかったでしょね。
826 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 21:27:09
こんなに似ている!信長厨と朝鮮人
(1)歴史を都合のいいように捏造する
(2)秀吉をとことん嫌う
(3)独裁者が大好き
(4)その独裁者のもとでのみ理想的な国家が誕生すると考えている
(5)侵略戦争マンセー
(6)現在の日本は悪い国だと主張する
最近のガキって、どうしてこうも恥を知らないのかね。
828 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 09:54:20
こんなに似ている!信長厨と朝鮮人
(7)恥知らず
829 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 18:03:54
俺の『信長は未来からタイムマシーンで安土に来た説』って
どうよ(# ̄3 ̄)
830 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 18:09:22
韓国人はWBCでの負けを認めたがらない。
「本能寺の変がなければ」って騒ぎ立てる信長厨とそっくりだなw
義景は家臣の明智を織田家に入りこませた。
将軍を動かし信長包囲網を敷いた。
家康の活躍と信玄の病死で包囲網は頓挫したが、最終的には明智が信長の首を取った。
朝倉VS織田の戦いは朝倉の勝利に終わったのである。
832 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 21:30:24
上総介は勝手に名乗ってたの?
833 :
日本@名無史さん :2006/03/29(水) 21:48:48
834 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 22:36:38
信長と料理人の話があります。
信長がある城を攻め落とした時、城内に料理人がいました。
信長はその料理人の腕次第で雇い入れようと食事を作るように命じます。
やがて、料理人の作った料理が信長の前に運ばれてきました。
一口食べた信長は
「まずい。殺せ。」
と料理人の処刑を命じます。
料理人は
「もう1度だけチャンスを下さい。必ず満足させて見せます。」
と懇願します。
信長はそれを許します。
翌日、再び料理人の料理が信長の元に運ばれます。
信長は料理を口にします。
「うまーい!」
料理人は信長に雇い入れられる事になりました。
周りのものは何故急に料理人の料理の腕が上がったのか
不思議でなりません。
料理人はその理由を
「最初に作ったのは京風の高貴な料理。2度目に作ったのは
塩味の濃い田舎者が好きな料理。信長様は田舎料理が好きなようだ。」
と遠慮なく言いました。
信長を田舎者呼ばわりした事で料理人は再び処刑されるのでは?
と織田家内では噂となります。
そして、この噂は信長の耳に入ります。
しかし、噂を聞いた信長は意に介さず
「それがどうした?俺の料理人だ。俺の口に合えば田舎だろうが
京だろうが関係ないのだ。俺の口に合えばよいのだ。」
と言うのです。
再び処刑されるのでは?にワロタ
836 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 01:06:47
>>「それがどうした?俺の料理人だ。俺の口に合えば田舎だろうが
>>京だろうが関係ないのだ。俺の口に合えばよいのだ。」
>>
ここはネタ?
信長の成分の80%は後世の創作
義景の成分の90%は実話
よって
義景>>>>>>>>>>>信長
これは明白
839 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 02:55:21
>>833殿様
ありがとう!やっと(返答)もらえた(^^)v
未来から来た信長はそこからしたすべてがリアルだから(本能寺の変は防げない)
元々の信長は親父死んでからソッコー斉藤道三に滅ぼされたジャン!
840 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 10:05:08
朝倉 義景の成分解析結果 : 織田 信長の成分解析結果 :
朝倉 義景の73%はミスリルで出来ています。 織田 信長の84%は黒インクで出来ています。
朝倉 義景の11%は厳しさで出来ています。 織田 信長の13%は言葉で出来ています。
朝倉 義景の9%は知恵で出来ています。,. 織田 信長の2%はツンデレで出来ています。
朝倉 義景の5%はツンデレで出来ています。. 織田 信長の1%は果物で出来ています。
朝倉 義景の2%は希望で出来ています。
ttp://tekipaki.jp/~clock/software/index.html
そうか信長の料理人はチャンスって言葉を使ったのか。
>>841 徳川光圀のお供のハチベエさんは「サービス」って言葉を使ってたしな
アレは実は八兵衛が一番学があるんだよ。権力も持ってるしよ。
御老公の首が挿げ替えられることはあっても八兵衛はそのまま。
将軍家の上にうっかり家というのがあって詳しくは江戸紫特急と言う漫画をどうぞ。
844 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 02:00:57
平和を愛し、血で血を洗う戦国の世で唯一越前国に極楽浄土を体現した義景。
だが信長の傲慢な上洛強要には決然と拒絶し金ヶ崎の戦いで散々に信長勢を打ちのめす。
そして本願寺教如と同盟。足利将軍をして武田・毛利に動員をかけさしめた。
万全の戦略で信長を攻囲した義景は、浅井久政の義に義で応え、姉川に出陣する。
13段がまえの織田勢の陣を11段まで破り、信長勢を壊滅寸前まで追い込むが、
後の天下人、神君徳川家康公の鬼神のごとき采配の前に腹背を突かれ、あえなく敗退。
しかし、その人徳、その仁義は家臣の明智光秀に受け継がれ、信長は最後には敗北した。
はたして明智光秀は義景や越前時代に何か影響をうけたのかってのは面白いテーマだよね。コピペ相手になんだけど。
846 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 05:50:01
ああはならないようにしようって反面教師ぐらいだろ
あ、でも光秀は礼儀作法に通じていたとあるが、
義景の貴族ごっこにつきあってるうちに鍛えられた部分はあるかもな
足利義昭って朝鮮出兵のために
名護屋城まで参陣してるんだね
一応ほら、足利家は元武門の棟梁であるからして
名誉のためにも参陣してたんだろう。
849 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 23:03:30
秀吉とは馬が合ったらしいな。義昭は
養子に申し込まれたが断ったてのも後世の創作らしいし
850 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 23:20:59
>>824 義昭は1588年に将軍を辞めているよ。
851 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 13:46:03
俺の『信長タイムスリップ説』どうよ!?
852 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 10:44:05
信忠って何で元服が遅いんだろ?その後も一緒に行動する事が多いし、信長パパって心配性?
853 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 12:18:00
>>883 義景>>>>>>>>>>>信長
まさに無能度ではそうですね。
854 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 12:18:49
>>838 義景>>>>>>>>>>>信長
まさに無能度ではそうですね。
まあ実際に信長は朝倉義景に勝っているからな。
どっちが有能って言えば信長に軍配が上がる。
だから信長厨の>854、そんなに泣くなよ。
856 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:37:49
>>852 信長も人の子ってところだな。
確かに言われてみれば、17歳で元服だから割と遅めだよな。
まあ小さい頃から帝王学を身につけさせたりしてるし。
吉乃との間にできた子供でもあるわけだし、かわいがるのは当然かと。
そして、ついでにage
857 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 19:01:53
もっと場所に恵まれてた細川、三好、浅井は天下とれんかったよ
858 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 19:48:30
浅井は浅井久政のときに六角の軍門に下ろうとしたぐらいだからなあ。
家臣の反対にあって隠居、息子の長政が当主になるもそれからは鳴かず飛ばず・・・。
859 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 20:03:50
朝倉は勢力としては悪くないけど、チャンスを逃してるよね。
信長包囲状態からの撤退もそうだけど、足利義昭の旗下には後の丹波攻めのツートップ
明智光秀と細川藤孝の名将がそろっていたのにまったく気づかなかったからね。
信長なんかは目が肥えてるのか、足利はいらなくても細川や明智など優良な人材には
ぬけめなく勧誘を怠らずGETしているし、尼子家再興を掲げる尼子十勇士なんかもやはりGETしたりしている。
860 :
山中鹿介(尼子十勇士):2006/04/09(日) 21:06:31
最後の最後に見捨てられたがの・・・
>>857 近隣の当主が無能な代に重なっているから、信長は
>>861 隣の領主が今川義元と斉藤道三ですが?
細川・三次・浅井よりよっぽどハードな条件じゃないかと
その時代は大して勢力伸張してないがw
864 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 19:07:02
運をつかんだのだら決して信長は馬鹿じゃねぇだろ。
そういう意味でなら秀吉や家康のほうが強運と能力の持ち主ってこと。
信長厨のイタイところは、信長以外の人間の実績を絶対に認めようとしないことだな。
865 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 21:42:17
俺の『信長タムスリップ説』はどうよ?!
>>862 今川は公家だし
道三は盟友 竜興は馬鹿
867 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:21:40
信長軍団は鉄砲 秀吉は城攻めの天才 家康は合戦の天才 理由 信長は長篠の戦いで鉄砲3000丁使うし秀吉は高松城の水攻めや小田原攻め 家康は姉川の戦いや関ヶ原の戦い それに 小牧長久手の戦いで分かる
868 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:28:53
この人は情報戦に優れていたそうだ。 敵に嘘を吹き込み味方に引き込む様な事を何度も成功させてきたそうな
869 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 01:47:35
>>867 家康が合戦の天才?
家康は武田との戦いで、三方が原以外にもころころ負けているし、
関が原は合戦のうまさで勝ったわけではない、
戦術もなにもあったものでなく、ただ裏切りを待っていただけ。
(調略の才はあったかも)
小牧長久手でも戦術的には一部で勝ったが、せいぜい日本軍が
フィリピンを占領した程度、物量の差は圧倒的で、
伊勢方面ではどんどん城を落とされ、信雄におまかせくださいと言った
わりには、あてにもならない状態。
長宗我部と雑賀衆が大阪を攻撃してくれたおかげで、
秀吉の二正面作戦を避けたい意向からやっと講和できた。
家康は信長、秀吉の二人が、とりあえず東を安定させてから、
西を攻める(四国征伐、九州征伐)策をとってくれたおかげで、
おこぼれにあずかることができた。
まあ小牧長久手は元の兵力差が圧倒的だったからな。
それでなんとか滅ぼされずに講和できただけでも十分有能だ。
>>866 今川は公家ではない。代々れっきとした武家で、勢力もかなりのもの。
まして義元は海道一の弓取りの名を冠された武将だが。
肥のイメージにとらわれすぎ。
道三にしても、あの時代の盟友というのは隙を見せたらいつ襲われても文句は言えない。
孫は確かに有能ではないが。
秀吉は城攻めの天才ってか単に損害の少ない方法を選択しただけじゃね?
城一つ落とすのに時間かけすぎでとても城攻めの天才とはいえん。
味方の損害が少なくする戦術するだけでも部下としては立派だわな。
873 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 11:42:05
867 早く漫画日本史卒業しような。
874 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 12:50:28
信長の凄さは、統一の為のグランドデザインを持っていた事と、
それを実現する手前まで達成した事だと思ってる。
・今川義元を破った後で、家康と同盟を結び、東側への侵略へ勢力を振り向けなかった。
・堺に代官を置き、日本で産出不能だった硝石の流通を把握
・常設軍の整備
まだあるけど、同時代の大名が書けない絵を描き、それを実行するのは凄いよ。
>>871 時間と予算があるなら部下の損耗率を下げる秀吉の方法はベスト
>>874 同意。
信長は政治・経済などの社会全体のグランドデザインを構想しそれを実行できたのが
成功の理由だと思う。
>>874 近隣と同盟を結び戦力を主敵に絞る
莫大な利益を生む商業都市を支配下に置く
いつでも軍を動かせる体制を作る
こういうのは出来るならどの大名もやりたかったことではないの?
それにスウィング戦略と言えば聞こえはいいけどあまりに場当たり的で破綻寸前の戦線もいっぱい。
秀吉に比べると補給と言うものがすっぽりと頭から抜け落ちてるのではるまいか。
>>878 >こういうのは出来るならどの大名でもやりたかったことではないの?
「やりたかった事」と「出来た事」は全然違う訳ですよ。例えば
>いつでも軍を動かせる体制を作る
この当時武田でも上杉でも兵はみんな農民であり軍事行動は農閑期に
行われてました。故にいつでも軍を動かせる体制は作れなかった訳です。
織田軍は金で兵を雇い一年中戦える体制を作りました。故に本願寺戦でも
4年も本願寺包囲を続行して顕如に根を上げさせたわけです。
補給に関しては秀吉のそれは信長の踏襲でしかありません。信長が実戦部隊と
補給部隊を完全に分けて運用した例を秀吉はより大々的に行ったのです。
>4年も本願寺包囲を続行して顕如に根を上げさせたわけです。
四年も包囲しなければならないとは城攻めが本当に下手なんだな。
881 :
874:2006/04/11(火) 17:50:30
>878
>近隣と同盟を結び戦力を主敵に絞る
今川へ即時に侵略するけとも可能な段階で、まだひょっこの家康と同盟を結んでいるあたりは?
どう評価するのかな。
当時の常識だと、即時進行となるんだけどね。
>莫大な利益を生む商業都市を支配下に置く
これも、副将軍への登用を断って手にしたんだよね。当時の常識ならば、
副将軍に成った後に好き放題するんじゃない?
>いつでも軍を動かせる体制を作る
はて?当時の武士に常設軍を整備する発想があったのか疑問なんだが。
信長家臣以外は、一所懸命の本来の武士ではあるまいか?
>こういうのは出来るならどの大名もやりたかったことではないの?
それを行動・文章・言動にて示した同時代の武将を教えてほしい。
882 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 18:06:53
>>881 信長単独で、今川領を攻めるのはまずいだろう。
斉藤と今川の挟み撃ちになる。
織田軍の兵力は5千余。兵力分散は危険だ。
桶狭間後の武田は、北条と一緒に上野攻めに集中している。
883 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 18:26:30
>>879 毛利は三年間富田城を包囲してますが?
三年なら農兵でも可能で、四年から職業兵でなければならないんですか?
いわゆる兵農分離は、兵卒ではなく土豪・地侍層の専業化とみるが。
秀吉は鳥取を1年もかけずに落としていますな。
885 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 20:48:47
信秀の業績を家督相続でフイにし、斉藤竜興、六角義治、朝倉義景等の暗愚な当主や
三好長慶死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期光秀に謀反起こされて横死した信長は
他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言わないけど。
>>880 まあ、当時の石山の地図を見てくれ。こいつをどう思う?
>>882 当時の織田家の勢力じゃ、今川を食い荒らすことはできても食い尽くすことは不可能だからな。
ほっとけば美濃、伊勢、甲斐、駿河といった各地に袋叩きにされる可能性があるし
(可能性、だけど)
徳川が泥をかぶった一向一揆によってさらに削られていたかもしれん。
>>880 信長の怠慢というよりも佐久間の怠慢だろうね
あとで追放理由になるし
まあ、すべて佐久間のせいとはいわんが
信長の意図として石山は時間かけてもいいから包囲だけで無傷で落とそうという意図があったような気がする
大阪は今後の重要拠点になりうるからな。
最後は、朝廷を動かしてようやく講和を試みたものの。不始末による無残の炎上
そしてそのとばっちりをもっともうけたのが佐久間
891 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 04:26:05
鉄壁本願寺に籠る門徒勢1万に対して信盛には2万しか付けられてないしな。
信仰に凝り固まって誘降も内部攪乱も効かん相手にどうしろと。
補給も毛利水郡が潰されるまではどかどかあったのに。
むしろ織田の勢力内部に本願寺がある状態で更に西に戦線を伸ばす信長がどうかしてる。
本願寺の開城の時だって兵糧はまだ相当に蓄えられていたらしいし。
秀吉が総大将だったら本願寺にいい条件で講和に持ち込み、
懐柔して無駄な労力を使わず済ませてただろうね。
895 :
日本@名無史さん :2006/04/12(水) 12:21:23
>>893 本願寺を攻め落とす軍というよりも、本願寺軍が京都や堺へ進撃しないよう
抑えるための軍と思われ。
だから、本願寺の命令で勃発した各地の一向一揆(越前、近江、伊勢、紀伊)への
鎮圧を優先した。
本願寺攻めで失敗しなくても、佐久間は追放されていたと思う。
林・安藤も、急に追放されているわけだから。
>>893 天下に聞こえた織田の弱兵が、要塞にこもった相手にたかだか2倍強じゃ
攻め落とせないのも無理はない。
戦線の伸張に関しては、
>>895の言うとおり、どちらかといえば叩き潰すよりは押さえつけるようにして
その合間に連合してる勢力をつぶす、くらいだったのだと思われる。
実際、少なくとも大阪湾〜瀬戸内海〜紀伊半島周りを抑えないことには
そもそも兵糧や援軍を抑えることもできない。
897 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 21:36:23
世界史板じゃケッチョンケチョンに言われてるよ・・・・・・・・・・・wwwww
898 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 22:43:29
本願寺勢はそんな馬鹿じゃないと思う。ノブナガ包囲網が崩壊した後打つ手が無いのは明らかなんだから兵糧が残ってようが降伏するのは当然の判断。秀吉政権になったら逆にベッタリだったし。したたかよ!
他がどうなろうと宗教に狂ってるから末端の士気にはあまり関係なかったのではないかと思うけど
本願寺の最大の誤算は一向宗イコール顕如ってことを顕如自身もわかってなかったことだな。
顕如の石山退去で一挙に崩壊するとは思ってもみなかったろうな。
900 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:05:01
信長の凄さは目指す国家の構想を持っていた点だな。
楽市楽座にしたって他の大名もやってるわけだから、
言われているほど特に先見性があるわけでもなし。
合戦も正面切って戦う戦では勝率はそれ程でもないしな。
実務能力だけで見たら信忠と大差ないんじゃないか?
901 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:25:30
天才肌で成り上がる奴なんてのはだいたい最後まではうまく行かないし、
凡人からみても明らかに分る失態も多い。
ナポレオンだって奇行奇弁を言い出したらエピソードに事欠かない。
本能寺も家康の天下も偶然ではなく、必然的に妥当な落ち所だった。
もちろん天下取った人物よりインパクト強いのも天才肌だから。
902 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:29:53
50年かかっても日本列島一つ統一できなかた輩が天才とはwwwwwwwww
903 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 23:40:12
>>902 お前さ、当時の日本なめてんだろ?
中国の人口がまだ一億以下で、ヨーロッパの人口が4千万だった時代にさ、
人口2千万の経済軍事大国の王がどれぐらいの価値なのか理解できないだろ。
日本=小さな島国という低レベルな印象論しか言えない馬鹿
どれぐらいの価値?明どころか朝鮮にすら追い出された程度の価値だろ。
905 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:04:58
しってて言ってる w
906 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:07:33
>>904はベトナムは米軍を追い出したから
ベトコン>米軍とか言ってる奴と同じ知能
907 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:08:17
908 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:09:17
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i| /レ/l l l v'´ ̄ , ´ ̄`イ !| ll,ハ
ハ| ll∧ハヽ ト、 '''' r==┐ '''' /l jハ| ll ll
〃 ‖ レ'¨´ヽiへ. _ 、__,ノ ,.イ/|/ ノ ll l|
ll ll { ⌒ヽ_/ } ー‐<.__ ′ l| ‖
‖ ‖ ヽ, /、 〈 |:::::::| `ヽ ‖
‖ {. ハ ヽ Y`‐┴、::::v l ‖<信長ちゃんの負け〜
‖ |iヽ{ ヽ_ゾノ‐一’::::ヽ. | ‖
‖ |i:::::`¨´-- :::......:...:.:.::.}| ‖
‖ |i::::::ヽ._:::_:::::::::::::::::::_ノ | ‖
‖ |i::::::::::::i___:::::::::::/ |
jj::::::::r┴-- `ー‐ '⌒ |
〃:::::::マ二 _,ノ
//::::::::::::i ー 一 '´ ̄::.
,','::::::::::::::i::::::::::::::::::::::i::::::ヽ
909 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:37:03
>>903 それ以前に信長は王になんてなれてないしwwwwwwwwww
910 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:42:12
大陸は広いのよ。日本人は出て行く度にそれを痛感してるんだねー。
日本史では不滅の名前を残した信長でも、
そりゃまあユーラシア大陸の東端から東ヨーロッパまで制した
モンゴル帝国の偉業に比べたら。。
世界中で教えられる世界史が全てを物語ってる
912 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 00:48:13
>>909 なら徳川家康ならいいのか?
王じゃなくてもスペインやイギリスより保持兵力も鉄砲も多かったけどな。
913 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:05:36
当時、一国で30万の兵を有していたのは日本、明、オスマン=トルコの三国だけ。明と日本との会戦は当時世界最大レベルの大戦争。
914 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:05:58
明智を初め、有能な部下がいたことは確かだ。
915 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:06:14
>>911 そりゃ知名度でいったらそうだろうな。
じゃあ同時代の他国が信長と戦えたかって言ったら敵わないのも事実なのよ。
フェリペ2世だかが日本の征服を持ち出したら宣教師から無理って諭されてるし。
916 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:12:22
ま、安易に国内の歴史を軽視するのは浅墓って事だ。
917 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:15:35
信長の軽視=日本の軽視でもなければ
信長の重視=日本の重視でもないけどな。
918 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:36:44
信長がいなければ秀吉や家康が天下取れたとは思えない
史実からかけ離れている一番の問題は、
龍馬は言ってみれば、薩長や幕府の元で一浪人としてひきたてられ、
そこに従う有能な使用人の立場の域であるのに、
いつのまにか薩長や幕府の要人達と同列で語られるようになってるのが問題。
どうしてこうなったのか、よく言われる司馬の影響もあるのかな
高知の桂浜に聳える龍馬像、
各地にある明治の元勲達のそれよりより誰よりも大きなこの像が
大きくなり過ぎた龍馬の虚像をもっとも表してる
ごめん謝爆
竜馬関係ないし
922 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:49:37
信長さんは当時奴隷だった黒人をヤスケと名付け、かわいがったそうな。
戦国時代にも世界史レベルの人物がいた
その男は、宣教師から日本のカサエルとまで恐れられた
924 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:52:37
>>922 黒人の男を傍に置いておくのは帝王学では基本だ
925 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 01:53:49
どんな帝王学やねん。
928 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 02:07:42
しかし宣教師ってのは情報通やね
929 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 02:18:24
もう解ってるよ〜。ニガーどうたら聞き飽きたから!止めよーな。
>>917 こと16世紀後半の日本史に限って言えば、世界に伍して戦える勢力があったのは織田家のみ。
よって、その時代の日本を重視すれば、織田を重視するしかないな。
その程度のこともわからんのかね。
931 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 03:17:01
すごい電波だ。
カサエルの再来とまでいわれた隆信は日本では豚だったわけだが
つーことは当時の日本はカサエル以上の名将がゴロゴロいたってわけだ
そしてその中の頂点であった信長はチンギスハンに匹敵する英雄といっていい
信長がチンギスハンに匹敵するなら
元就は宇宙大王と匹敵してるかな?
宇宙大将軍?
>>883 その場合織田軍のように万単位の軍隊を動かしていた訳では無いと思いますが?
少数の兵を徐々に入れ替えての包囲戦なら毛利家の組織でも十分
可能だったのではないかと。
>>911 そりゃジンギス・カンほどの征服者は世界史的に見ても他にはいないでしょ・・・
>>935 無知すぎるなぁ・・・
大内は少弐や尼子攻撃に際して2年、3年と万単位の軍隊を動かしているし
富田月山城包囲も万単位の動員。
937 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 16:22:25
>>935 信長はせいぜい同国人の間でこそ戦えたのであって、
異国と戦って仮に成果を挙げても支配するのとは違うぞ。
ゲーム厨の信長オタは、戦いに勝てば領土を支配できると思っているみたいだが、
実際の戦争は囲碁でも将棋でもない。領土は陣地ではないし信長の将兵は駒じゃない。
>>936 亀レスでそれかよ
第一次富田城攻めでも一年四ヶ月、第二次富田攻めは三年。
当然だが、いきなり富田城を攻撃できるわけではなく、出城を無力化する必要がある。
第一次は富田城まで10ヶ月、第二次はおよそ一年かけており、包囲戦に入るのはこれ以降。
しかも大内が不意をつかれて敗れる様を体験している元就が、手を抜くとはそれこそ思えない。
>>933 じゃあその宇宙大王と互角に戦っていた
尼子経久・晴久祖父孫はいったい何者なんだろう・・・
宇宙大名かな
942 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 20:08:39
何で鹿之助?
944 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 02:54:43
強大化した後の毛利を月山籠城まで追い詰めてるからな
945 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 11:12:00
信秀の業績を家督相続でフイにし、斉藤竜興、六角義治、朝倉義景等の暗愚な当主や
三好長慶死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期光秀に謀反起こされて横死した信長は
他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言わないけど。
946 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 20:56:47
>>945 >信秀の業績を家督相続でフイにし、
所詮、信秀の業績なんて彼在ってのものであり、その地位をすんなりそのまま
引き継げられることのほうが余ほどの奇跡だろう。
むしろリセット状態から実力で親族、有力家臣を排し従わせたんだからなかなかのものさ。
947 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 22:41:08
さすがにそれは初歩だよな。うん。
自分の一番信頼していた部下に殺されるなんて無能の証拠だろ
949 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 06:05:18
晩年は欲呆けだったのさ。
950 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 08:06:35
>所詮、信秀の業績なんて彼在ってのものであり、その地位をすんなりそのまま
>引き継げられることのほうが余ほどの奇跡だろう。
>むしろリセット状態から実力で親族、有力家臣を排し従わせたんだからなかなかのものさ。
ここをちょっと変えれば信長厨が嫌う秀吉への誉め言葉だな。
所詮、信長の業績なんて彼在ってのものであり、その地位をすんなりそのまま
引き継げられることのほうが余ほどの奇跡だろう。
むしろリセット状態から実力で有力家臣を排し従わせたんだからなかなかのものさ。
951 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 08:29:08
>所詮、信長の業績なんて彼在ってのものであり、その地位をすんなりそのまま
>引き継げられることのほうが余ほどの奇跡だろう。
>むしろリセット状態から実力で有力家臣を排し従わせたんだからなかなかのものさ。
ここをちょっと変えれば秀吉厨が嫌う家康への誉め言葉だな。
所詮、秀吉の業績なんて彼在ってのものであり、その地位をすんなりそのまま
引き継げられることのほうが余ほどの奇跡だろう。
むしろリセット状態から実力で有力大名を排し従わせたんだからなかなかのものさ。
952 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 09:13:07
結論。信長厨の意見は常に自己中心。
信長の業績はなかなかのもの。
秀吉や家康の業績は信長のおかげ。
>>952 秀吉の場合「信長学校の優等生」とでも言うべき存在じゃん。
信長がいなかったら出世しようがなかったのは確実。
954 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 12:32:24
信長の目利きや戦略や発想は独創的で天才そのものなのは事実。
ナポレオンやアレキサンダーの業績が、家臣のものだなんて言うアホはいない。
よって秀吉厨の『秀吉のお陰説』はアホの戯言。
全ては信長があってこそ。
ただし秀吉も信長の後を引き継ぎ戦国を統一した。
秀吉も天才の1人。
モンゴル帝国に例えると
信長=チンギス・ハーン
秀吉フビライ・ハーン
信長厨に一言、落ち着けよ。
秀吉厨に一言、嫉妬すんなよ。
中大名→大大名
農民→関白
お前が信長秀吉の立場にたって、どちらの方が達成できそうか考えてみろ
>>954 マケドニア王国に例えると
信長=フィリッポス2世
秀吉=アレクサンドロス3世
家康=アンティパトロス&カッサンドロス
>>954 まずその信長が独創的という認識から改めた方が。
959 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 13:44:55
俺が疑問なのは、信長の直轄領認識だ。
秀吉・家康と比較すると、気前良く家来たちに領地を与えている。
しかも、まだ日本の半分を支配している段階にもかかわらずである。
本能寺の変の時の信長直轄領は、40万石だった。(近江・摂津・山城など)
960 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 13:46:41
>>958 >まずその信長が独創的という認識から改めた方が。
義務教育しか受けていない小説ヲタには望めないだろうね。
962 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 14:21:54
>>959 本能寺の変の頃には信長は隠居して譲って美濃と尾張と伊勢を息子に与えてる。
>>961 プトレマイオスかと思った。こちらを秀吉にあてる人もいるが(家康役不在で)。
964 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/16(日) 15:15:10
信長は桶狭間の勝利で、武家の名門と呼ばれている大名は、
名門の名に胡坐をかいた、無能者だと確信したんだとおもう。
これこそ戦国時代最大の必勝法となったのだ。
北畠・神戸は政略結婚で押さえつけられ。
朝倉・六角は電撃戦で撃破され。
武田・毛利は貢物で手なずけた。
逆に新興勢力に対しては友好的であったし、寛大であったし、
その実力も決して侮っていなかった。
徳川・斎藤・浅井・松永・荒木・高山・明智・羽柴・宇喜多などなど。
裏切った奴もいたが、彼等には過剰なほど寛大だった。
佐久間・林は織田家の譜代で重臣であるが、実力のある新参者を軽視するタイプで、
年功序列に胡坐をかく無能者であった。
昨今の政治家で言うと森とか中曽根みたいな奴らである。
信長の前では追放されて当然のクズどもだ。ざまあみろ。
と言うわけで、まとまりのない文章が出来上がったわけだが。
無視してくれっ。
(^ヮ^) はい!
>>964 >朝倉・六角は電撃戦で撃破され。
信長くん、朝倉には生涯何度も何度も、惨敗させられてますよ。
なので、朝倉相手にはとことん用意周到に謀略戦を行い、
周辺を攻略しておいて、調略姦計の限りを尽くしてから・・・
つまりとても慎重に攻めています。
武田は「織田どころじゃなかった」のが正解であり、
後顧の憂いがなくなったら当然のように、織田領に突っ込んできてますがな。
貢物?なにそれ?ぐらいの・・・
>徳川・斎藤・浅井・松永・荒木・高山・明智・羽柴・宇喜多などなど。
家来と独立勢力、一緒にしたらダメよ。
968 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 18:45:05
またまた朝倉厨登場か。
969 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 19:53:57
>>967 具体的にいつどこで何回負けてんの?
何の調略したの?
一般的に浅井が動かなかったら即滅亡してたと思われてるけど。
悲劇の名将朝倉義景の生涯
1533年 越前の戦国大名朝倉孝景の嫡男として生まれる
1548年 朝倉家5代当主となる
1552年 足利義輝将軍より一字拝領。義景と名乗る
1559年 従四位下に叙せられる
1565年 窮地の足利義昭将軍を保護
1567年 家臣の堀江景忠の謀反を平定。一向一揆軍を撃破
1568年 若狭へ派兵
1568年 足利義昭将軍を傀儡とした信長と対立
1570年04月 信長本隊を金ヶ崎で挟撃粉砕。敗走せしめる
1570年08月 浅井救援に軍勢を派遣。信長勢を潰乱せしめる
1570年09月 下坂本の戦いで信長旗下の森可成・織田信治を撃破
1570年09月 若狭国を平定
1570年10月 比叡山に布陣後、上坂本を占領
1570年11月 比叡山穴田口で織田勢を撃破
1571年11月 樫田の戦いで織田方の坂井政尚・遠藤胤俊を戦死せしめる
1571年12月 織田方の要望を受け入れて和睦
1572年 足利将軍をして本願寺・武田・毛利に援軍要請。信長包囲網の盟主となる。このころ明智光秀ら旧幕府衆への誘降活動を開始
1572年07月 北近江で信長本隊と対峙。持久戦となる
1572年12月 積雪のため補給網を維持できず撤退
1573年07月 浅井の援軍要請を受けて、ふたたび北近江に出陣するも刀禰坂の戦いで敗北
1573年09月 逃亡先の大野郡賢松寺で自刃。享年41歳
辞世の句「かねて身の かかるべしとも 思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ」
越前に文化の華を開かせた文人大名である朝倉義景は
織田の無法な挑戦を再三、力ではね退けた名将でもあった。
また彼は光秀をして本能寺の変を演出した黒幕であった。
毛利の安国璽から
「信長は全国からウザがられているので、あと一年くらいで滅びるでしょう(プ」
って本能寺をあっさり予見されているのは有名な話だね
こんな予見が立てられるほど
傍から見ても、信長はアホだったってことだね
>>955 信長のような上司がいなければ秀吉は生涯農民ですw
973 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 21:29:18
>>971 >毛利の安国璽から
「信長は全国からウザがられているので、あと一年くらいで滅びるでしょう(プ」
って本能寺をあっさり予見されているのは有名な話だね
ハイハイ夢から覚めましたか。
974 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 21:30:57
朝倉厨は夢見るユメ子ちゃんですね。
確かに信長厨に匹敵するかもしれぬな
976 :
日本@名無史さん:2006/04/16(日) 22:19:47
どちらも秀吉厨の痛さには及ばないけどな
そろそろ次スレの予感♪
信長も秀吉も家康も仲良しなのにどうしておまえらは仲良くできないんだ!
>>954 特にフロイスしか書いていない記述(無神論者・自称魔王・自称内裏であり
国王)などから「近代人」と判断している人が多いから。
実際には信仰もあったし権威を頼った中世人らしい点も目につく。
>>964 新旧で判断してはいないのでは?むしろ敵か味方かで判断している。
〜はと前提を設けて判断していたとすれば、それこそ致命的。
>>942 山中鹿介。第一、何故織田信長とか言っているスレで山中幸盛と言わない?
信長の野望の本能寺ちょっと前シナリオで
余裕っぷーで統一できるだろうと思ってのんびり進めてたら
有力家臣達がバタバタ寿命で死んでいくのをみて悲しくなりました
朝倉スレの善良な住人と、朝倉厨GAVVAを一緒にしないでくれ
>>970 >1571年12月 織田方の要望を受け入れて和睦
ここで信長は
「もう二度と天下を望むとかバカなこと言いません」
と約束させられた、という巷談が残ってます。
巷談って。