877 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 10:59:44
日本も儀式は唐服、年号も中国漢文から、4文字年号にした事もあった、
天平文化も唐風。
同じでねぇの?
878 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:01:35
遣唐使が中国名にしたのはなぜ?
だから〜、昨日のチャングムでも自国の皇太子決めるのに
明国のお使いのご機嫌を取るのが冊封というんだよ。
日本ではありえないだろ。
韓国民の総意のTVドラマでしょ
この手のスレは嫌韓厨ばっかり沸くな
お前らはハン板に引き篭もってりゃ良いんだよ
881 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:42:22
>>879 君の頭の中では冊封を受けていた国は朝鮮だけか。
琉球では王朝が交替しても何のおとがめもなかったし、
立太子の許可も当然必要なかった。
日本史が成りすましに汚されて逝くからね。
883 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 12:18:12
民度が低いからね。中国は
>>870始めから強大勢力の一例としてあげただけなんだけどw
あそこまで上毛のみに食いつかれるとは思わなかったよ。五王としてあげたつもりなかったし
それに俺が書いてたのは初期の大和は寄せ集め勢力の長っていう考え方から。
古代中国の周王朝の位置づけってのがわかりやすいかな。
そこから完全統一して秦が倒されずに続いたという感じ。
>>879朝廷{政府}の力が弱い場合は皇太子の後ろ盾を強大国に依頼するというのがあるよ。
中国圏内では結構行われてる。
後ろ盾が必要ないのは朝廷がしっかりと支配できている所だけ{逆の言い方すると一部に怒られそうだw}
885 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 17:56:34
馬鹿晒しage
>中国圏内では結構行われてる。
は「朝鮮では代々そうだった。」に訂正するよ。
887 :
884:2006/03/05(日) 15:29:41
>>886 別人が勝手に私の振りして歪めないで欲しいんだけどw
しかも、わざわざ人が言葉を濁してる所を閉鎖的に取れるように歪めるとは・・・
学問板で恥ずかしいとは思わないのか?
歪められたからちゃんとしてのを書いておくけど
中国圏内の意味は、古代中国の国々の衛や召をはじめ、鬼方や土方の北方民族、
果ては勢力の衰えた周など統一前の国々は有力国の後ろ盾を背景に立太子、王についたりしている。
もちろん、朝鮮の国々も例外じゃない。だが、高句麗など勢力がある国の場合は除かれる。
李氏朝鮮の初期以降、勢力を衰えてからは正当性を主張する意味で中国の後ろ盾を立てているが、
決して代々ではない。
朝鮮の捏造史や反日史、偏った反韓史を思い込む前にちゃんと科学的に考えよう。
新羅が唐を引き入れて三国統一をしたんだろ。
大同江以南を勢力範囲として、高句麗の広大な領土を
唐に献上したんだよ。まさに冊封じゃん
889 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 15:49:57
?
朝鮮の国は敵対している時期を除いてほぼ全て冊封受けてるよ。
冊封を受けることと、立太子に中国承認を必要とすることは別物。
冊封は対外的なこと、皇太子に中国の後ろ盾が必要になるのは対内的なことだよ
890 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 20:19:18
ウヨチョン乙!
>>890 無知は悲しいね。これらのがウヨとチョンの意見に見えるとは・・・
892 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 01:22:41
古代足利義満の証拠マダー?チンチン(AA略
893 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 04:21:16
馬鹿晒しあげ
高麗も
聖節使・モンゴル皇帝にお誕生日おめでとう使節とか
元明使・モンゴル皇帝に明けましておめでとう使節
陳奏使・モンゴル皇帝に秀吉に負けてご免なさい使節、
送ってるのが冊封。 あっ属国かな
↑
意味が分からん…
896 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 09:59:37
五王が天皇家の先祖なら正体不明になる訳が無い。
それから奴国王でさえ金印ランクであった倭では五王が名を残す程強大であったと見なす根拠が無い。
五王は朝鮮半島では強大だったようだが、
日本では無名の存在に過ぎなかったのだよ。
つまり天皇では有り得ない。
897 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 10:26:27
騎兵>歩兵と絶対的に考える馬鹿がいて
馬がない天皇は勝てるわけがない と書いているが
日本で馬があっても絶対的な優勢とはいえないだろ
898 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 10:28:59
封冊記録なんかは
蘇我討伐の時に燃えた可能性もないか?
はいはい証拠を出してねー
900 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 11:30:26
正体不明な事は天皇の先祖などでは有り得ない証
901 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 11:33:19
天皇の先祖は正体不明。
一体いつからが実在やら・・・
902 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 11:39:49
日本が誕生して以来、天皇はちゃんとどこの馬の骨かは判明している。
倭の五王みたいな正体不明の連中が入り込む余地などは皆無。
903 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 12:00:25
日本の誕生は天武期だから、
天皇は天武天皇からってことですか?
904 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 12:10:49
905 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 12:53:09
日本の君主を天皇と呼ぶようになったのは天武天皇以降だが、
それ以後は神武天皇まで遡って天皇として扱うようになった。
つまり神武天皇からが天皇
が正しい。
ウヨチョン乙
天皇ほど何所の馬の骨かわからん存在はない
何故平安時代まで天皇は韓神を祭っているのか?
神皇正統紀の「三韓と同種也、、、、桓武の御世に焼き捨てられし也」は何を意味するか
908 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:31:32
ウヨを装ってはいるが、奴が言ってることをまとめると
・天皇と大王に連続性はない
・倭の五王は朝鮮半島の有力者
てことだよな。
>>908 朝鮮半島だけじゃないけどな
倭王を名乗ってる限り、倭にも本拠地はあった
つまるところ九州なんじゃろ
今の天皇と繋がりがあるかどうかは正直色々な説があるが、定説では天皇であるとされている
実際には九州王朝説など、古代の日本には王朝が二つあり、倭と日本に別れていた・・・・と
旧唐書において、明確に倭と日本が別々の国として描かれているからである そして新唐書において初めて日本伝のみになる
また聖徳太子が送った「日出所・・・・云々」は倭国である ところが畿内の日本は皇帝に対して恭順の意を示している
とまぁこの説は色々批判が多いのも事実 トンデモ説とも言えるかもしれぬが
910 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:43:58
>>905 天武以前は大王。
きちんとした区別が必要。
神聖さが備わるのは天武から昭和前期まで。
歴史的使命としての神聖天皇制はもう終わっている。
マックの一突き。
911 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 21:10:18
日本の王に廟号を与えよう
神武王=太祖
綏靖王=定宗
安寧王=太宗
912 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 21:21:41
神武天皇にまで遡って天皇として扱うのが日本の正しい伝統であり、
日本が歩んだ歴史なんだよ。
それを無視して大王と改称するのは伝統の否定、歴史の歪曲に過ぎない。
913 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 21:28:17
倭というのは民族集団の総称であって、
必ずしも日本列島在住の政権とは限らない。
倭に統一政権が成立していなければ、朝鮮半島独自の倭人政権というのも存在しうる。
白村江の戦い以前の古代においては朝鮮半島も倭人の支配圏だが、
朝鮮半島に存在した倭人政権が日本列島に存在した政権とどんな関係にあるかは分からない。
914 :
日中冊封関係史1@名無史さん:2006/03/09(木) 22:04:29
おひさしぶりです。
>>571 ご指摘感謝。
平清盛は冊封されてなかったのですか。彼は日本国王を名乗っていたような
話をどこかで読んだものですから・・・。
白村江直後は日本には相当のプレッシャーがかかったはずですが、天智、
天武あたりは唐への宥和政策は全く取らなかったのでしょうか。
唐使と天智天皇、天武天皇の会見内容が気になります。
>>579 こちらも感謝。
中国の礼法では光仁天皇はどういう礼を取ったか、は分からないですよね。
天皇が玉座から降りたとして、上座を空けて唐の使いと対面したか(対等)、
上座を譲ったかで意味が違いますからね。
光仁天皇の場合、天皇としての地位を固める前だったので唐の権威も使い
たい、という理由でもあったのでしょうか?
>>591 金閣寺の鳳凰がそんな意味があるとか知りませんでした。
義満はサイノフィリア(sinophilia、中国心酔者)だったのですかね?
中国の実情を知らない中国かぶれに日本はしばしば混乱させられるわけ
ですが・・・。
>>倭の五王について
倭王武は雄略天皇とほぼ認定されていますね。
倭王武の上表文は自身の武力による勢力拡大を誇示して中国側に承認を
求めるというものですね。中国側も分裂しているので、対立する王朝を
牽制するためにも周辺諸国との友好は必要だったでしょう。日本側が
中国の軍事的介入は全く想定していなかったでしょう。
915 :
日中冊封関係史1@名無史さん:2006/03/09(木) 22:07:30
>>中国豚小屋論について
中国を「豚小屋」と貶めることは日本人の民度という観点からは疑問です。
周囲の人を罵倒する人物が尊敬されないのと同じことです。
たとえ貧乏な人がいても「貧乏人!」と罵る人を素敵だと思いますか?
中国社会が停滞したのは清末、民国戦乱期の支配者の無能と腐敗、共産中国
の破壊と混乱が大きいでしょうが、漢隋唐明清は堂々たる大国であったと
いうのが正当な評価でしょう。
これに関連して、
>>843 中国が日本から学ぶべきものは当時少なかったし、それが中国史を変えられる
とは思えませんが、技術の視点は面白いですね。
>>埋蔵品の話も面白い
>>609 日中の朝貢貿易の品目リストなど作ると面白そうですね。
宋の時代には欧陽脩あたりが日本刀を称える詩を書いているので、このころ
には日本の産業技術もかなりなものになったと推察されます。
経済史の観点からは日本の一人当たり経済水準が中国を上回るのは平安時代
かと思いましたが詳しい方おられますか?日本の都市が世界の大都市の列に
加わるのは京都が最初ですよね。
いずれにせよ日本が先進地域中国から多くを学んだのは間違いないでしょう。
916 :
日中冊封関係史1@名無史さん:2006/03/09(木) 22:09:04
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
唐玄宗による「日本国王主明楽美御徳」聖武天皇への勅についてもう少し
周辺を(ネットで)調べました。
多分唐の宰相・張九齢が起草した「勅日本国王書」(全唐文巻287)所収
ですが
「卑弥呼」、「阿毎多利思北孤」、「主明楽美御徳」など
ヤンキーみたいなw当て字(表音文字表記)の「日本」国王の名は中国側
からは「蛮夷」と見られたでしょうが、同時に自文化圏外の存在だという
印象の強めたのではないでしょうか。今のブッシュ、パウエルの中国語表記
のよう?
というのも中国王朝の冊封対象者にとって姓名は重要な意味があるから
です。
姓を持たない臣下はありえないはずです。朝鮮のように中国風の姓(金朴李
など)を持たないことだけでも日本の異質性ははっきりしてますが、さらに
姓を持たない日本の支配者が便宜的に姓をでっちあげて、あるいは中国側が
姓を解釈して国交を成り立たせている、という事実が日本が通常の冊封国
ではなかったことを示唆しているのではないでしょうか?
中国側の日本国力、地理認識も日中冊封関係に影響したはずです。
中国側が日本列島のサイズを誤解していた可能性があるのではないで
しょうか。いまでこそ日本は中国の約25分の1ですが、当時は大和朝廷の
勢力が果ての分からない関東方面に東進していた時期であり、また、九州
から近畿までの距離も長い。
917 :
日中冊封関係史1@名無史さん:2006/03/09(木) 22:11:16
東アジアにおける新羅と渤海という緩衝国家の存在も大きい。
新羅と渤海からの遣使は日本側にも天皇は王ではないという意識を持たせ
たでしょうし、中国側も高句麗、新羅、渤海との関係における日本の比重を
認識していたのではないでしょうか。
渤海からの朝貢としては、建国者大祚栄の子大武芸(武王、在位719〜
737) が727年、日本・聖武天皇に使者を送って以来の国交があるよう
ですし、新羅との朝貢問題では新羅征討問題が朝廷で討議されました。
そうした状況での「主明楽美御徳」なわけですね。
主、明、楽、美、御、徳、どれをとっても美辞ですから。玄宗時代には
日本人の官僚も活躍していたり、玄宗も遣唐使に詩を贈ったり、良好な
関係が想像されます。
これに関連して
>>606 日本側の対中国認識、語学力は面白い観点ですね。
中国からすると変な当て字の名前の奴らが中国に使いを送ってきたわけ
ですが、中国側は大体受け入れてるわけです。まあ、よく分からん奴らだが
とりあえず修好を求めているからこっちのやり方で片付けとけ、という感じ
でしょうか。特に遣隋使はその文脈で見られたかもしれません。
遣随使までの日本側の対中認識は、よくは知らないが大きな国が海の
向こうにあっていろいろ持っているようだから国交を持ちたいが、頭下げ
ないということを聞いてくれないから頭下げとくか、と言う感じでしょう
かね。日本側は白村江の敗戦まで中国から軍事的脅威を感じることはなかったでしょうから。
遣隋使はそういう文脈では少しあちらのこともわかって中国側に臣従する
ことを潔しとしなくなった日本が最初は我流で国書を作ったら隋側は
「まるで中国の外交の形式がわかっていない野蛮人だ」と突き返す。
二度目は南北朝時代の並立王朝間の国書のような対等の国書だったので、
煬帝は無知な蛮夷の劣化コピーだと考えて怒る。遣隋使外交を日本側の
独立の気概の表れと論じる向きが多いので、ちょっとこの時代の外交を
合理主義な解釈を外して考えてみました。
918 :
日中冊封関係史1@名無史さん:2006/03/09(木) 22:12:40
>>729,879,887,889,894,903
冊封体制の境界は、中国王朝から与えられた官位と地位(国王など)の
受容、中国式礼法、制度の採用に表れると思います。
日本は独自の年号を使うので、中国のものをそのまま利用した新羅や
そのた朝鮮の王朝とは大きな違いがあります。現代日本で「平成」ではなく
「2ちゃん」という元号を使うようなものだというと想像できるでしょうか?
中国国内での独自の年号の使用は帝号の使用と並んで重大な反逆でしょう。
我々は中国王朝の支配の及ばない時空にいる、と主張することですから。
それやこれやを含めて、日本が自覚的に冊風体制から抜け出たのはいつか、
を私は考えているのです。
>>907 天皇の韓神祭祀、もっと詳しく
919 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 12:13:11
>園韓神祭 (そのからかみのまつり)
平安京宮内省内にまつられていた園神と韓神との祭り。園・韓神は平安京造営
以前よりこの地にあり,帝王を守らんとの神託により他所に移さずにまつられ
た。《延喜式》神名帳には〈宮内省に坐(いま)す神三座〉として,〈園神社
韓神社二座〉とあり,いずれも官幣の大社で名神,月次,新嘗などの祭りには
奉幣にあずかった。韓神は《古事記》上巻には,大年神(おおとしのかみ)の子
と見えているが,園神は大物主神(おおものぬしのかみ),韓神は大己貴神(おお
なむちのかみ)と少彦名神(すくなひこなのかみ)の2神で,これらの神は疫病から
守る神ともいわれる。この祭りは神梢官がまつる官祭で,祭日は,2月が春日祭
(上申)後の丑の日,11月が新嘗祭(中卯)前の丑の日で,神殿は園神が南,韓神
が北にまつられていた。祭儀は神梢官が供物を供え,山人を迎えて庭火をたき,
神馬の牽廻,祝詞奏上,歌舞,酒や膳がすすめられる直会(なおらい)などの行
事がある。供物については《延喜式》四時祭,祭儀については《儀式》《北山
抄》《江家次第》などにみえる。 沼部 春友
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>>913 倭の五王は半島南部(実際には存在しない国なども含まれているが)と倭の軍事支配権を認めて貰っている。また倭王を自称した。
即ち、倭に本拠地があったと判断するべきだろう。九州と半島南部に勢力を持つ一群だった可能性もある。
旧唐書には「倭国と日本国は別種なり」とも記されているが、倭国と日本国は違う国であった、という可能性もあるのかもしれん。
>>914 日本の歴史というのは、中国に迎合するか反発するか、の繰り替えしではないだろうか?
日本の世界観というのは、まず大中華があり、朝鮮、何処からかやってくる蛮夷、東南アジア、印度程度でまず外交というのは朝鮮、中国がメインだった。
琉球、アイヌに限っては実行支配していたから外交の要素では無かっただろう。そう考えると日本の政策というのは、中華から距離を取りつつ、
その対応を自らの都合都合に置いて変化させてきたとも思われる。外的要因としては海があり、内的要因としてはやはり天皇の存在か。
江戸期の朱子学者は皆一様に中華を信奉した。朱子学という学問そのものが、その傾向が強いのは明らかだが、朱子学に対抗する以前の荻生徂徠などは
「我は中華を成すために生まれし東夷なり」とまで述べている。ところが現実には中華は度々異民族の支配にあい、現在中華を支配しているのは異民族である満州族である
という事実を、知識層は受け入れられなかった。結果、朝鮮で行われた正当化と同じく日本においても「我々こそが実は中華であったのだ」という正当化が行われることになるが
日本においては天皇という存在と日本神話に関連付けられることになり太陽崇拝、尊皇主義を基本とする水戸学が発展することになる。
>>914 一人当たりGDPでは古代から大差ない。平安期からは寧ろ日本が上回るようになる。
が、実際には中国は人口が半端でないので国当たりGDPで考えると中国の経済を追い抜いたのは近現代に入ってからでしょうな。
>>916>>917 中国か近隣の異民族に得体の知れない名前をつけるのは古代からのいやがら(ry、習慣であって(笑
別段おかしなことではないでしょう。今でも天皇には姓が無いし。姓名が普及したのは外国から儒教的な氏族制がもたらされてからだろうか?
>>918 俺は天皇が「天皇」であった時からだと思っている。古代よりの「すめらのみこと」を「てんのう」と呼んだのが象徴的に
中華に対する独立であると、解釈すべきではないか。独立というのを何に定義するによってか変わるが、政治的に日本は中華圏と「違うよ」
ということを宣言したのが「天皇」であり、「帝」なのだと。
>韓神
広辞苑には「朝鮮からの渡来神か」と疑問系で紹介されているが、
実際どうなんだろうね。園神1座、韓神2座、半月城とか反日系のサイトでは天皇=朝鮮半島出身説の補強に使われている。
ちなみに牛頭天王=スサノオ説は電波説だったらしーが。
922 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 11:07:03
となると、天武期からが日本の自立となるのかな?
しかし、朝貢貿易体制は続いていた。
923 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:01:28
遣唐使は世界史の本では明確に「朝貢」と定義されている
924 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:24:50
遣唐使が朝貢なのは至極当然だろう。
新年の儀式にあわせるために、危ない時期の東シナ海を渡っている
925 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 19:35:39
フランス革命の時代では、ローマ教皇が作った暦を廃止して、一時革命暦が使用された。
ロシア革命のときには、革命前のロシアがシーザーのときの暦をそのまま使っていたので
グレゴリウス暦と何日かずれているというので、この際新しくフランス革命に倣って
革命暦を作成しようとする動きがあったが、結局グレゴリウス暦を採用した。
一部の左翼はこれでは社会主義といってもキリスト教国家と変わらんではないかと、
抗議したそうだ。お隣の国では、主体暦という暦が使われているそうだし、
中華民国は、皇帝がいなくなったので、西暦を公元として、そのまま使用し、
今の共産党政権に引き継がれている。権力者というのは時の運行までも
支配しようとするものらしい。
徳川時代の話だが、確か日本からの貿易船が、日本の元号を使用して、
追い返されたことがあったが、遣唐使の時代は干支の組み合わせの年号を
使用して、国書を提出したのだろうか?
あと卑弥呼の時代はやたらと、中華の年号が刻まれた鏡が出てくるのだが、
いつの間にやら中華の年号は廃れてしまっているようだが、
その辺の事情がわかる方、誰か説明してもらえませんでしょうか?
926 :
日本@名無史さん:
>>923 念のためだけど、「朝貢する」=「冊封されてる」ってわけじゃないよ。
制度的には一応別物だから