【九州説】邪馬台国畿内説ni議論を深めよう【厳禁】

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201プラム ◆RvhHf7kqyY
>>198

>萬二千餘里は、船頭から情報を得た。

★根拠は?
202俺等05772:2006/02/17(金) 20:37:49
>>201
>萬二千餘里は、船頭から情報を得た。 >★根拠は?

表現が良く無かったですね。 船頭から情報を得たのは狗邪韓国〜女王國の港間、
五千餘里です。海路の情報は、そこで活動する船頭でなければ分らないはずです。
203プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 21:16:15
>>202 俺等さん

>そこで活動する船頭でなければわからないはず

★逆ですよ!
船頭だから解らないのです。(船頭は、海の事を知っていれば十分!)

大陸王朝と倭の属国関係は、漢書地理志までさかのぼれますし
数えきれないほどの
使者の往来があった事が推測できます。【以歳時来献見云】
宗主国が属国の地理情報を把握するのは、軍事的に考えても当然の事。
(知らない)と
考える事の方が、不自然です。
王朝が替われば
その都度、属国に対する調査は当たり前の行為です。陳壽や魚豢が見た“地理”資料は、→→→→続く
204プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 21:25:12
>>203 の続き

→→国家存亡にかかわる“軍事資料”と
考えるほうが妥当でしょう。
それ以外に、属国しかも蛮夷の地理情報等、利用価値がありませんから

軍事的な地理情報なら尚更実測であります。

どうでしょう!
矛盾点がありましたら
指摘下さい。
205俺等05772:2006/02/17(金) 22:03:40
>>199
元の質問、>>171 をもう一度見て下さい。一番知りたかったのは、それぞれの
里程情報が誰によってもたらされたかです。プラムさんはその回答を回避した。
また、定性的説明も大事なのですが、定量的説明がなければ、科学とはいえない。
それは「お遊び」です。『文献史学は文献から』でも結構ですが、それは定量化
と矛盾するものではないでしょう。
206プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 22:28:25
>>205 俺等さん

>里程情報が誰によってもたらされたか

★軍事的地理情報
これだけでは不十分ですか?
>誰?

★そんな事解る人 いるんですか? こちらが聞きたいくらいです。
「魏志倭人伝や魏略」のモトネタすらはっきりしないのに


>科学的?

★古代史なんて割り切れ無い事ばかりです。
特に『和漢籍』なんて
207プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/17(金) 22:44:49
俺等さん

★あまりにもハイレベルな議論に、私の限界を感じました。
もう少し知識を積み重ね
適切な回答が出来る様になりましたら
このスレにまた お邪魔します。

頑張って下さい。
長い時間のスレ汚し 失礼しました。

やはり 畿内説は凄すぎるw
208日本@名無史さん:2006/02/18(土) 00:57:41
通りすがりの素人ですが、17・18の比定の根拠は語感が似ているからでしょうか?
旧国名は何度も改廃されているので、歴史家・各地の郷土史家などでも語源・由来がわからなかったり、
意見が割れていたりします。
これこそ研究者のさじ加減一つで、どうにでもなる「お遊び」ですよ。

・・・・って誰に言えばいいのだろう。
209:2006/02/18(土) 02:46:14
「俺等05772」に家
210俺等05772:2006/02/18(土) 08:49:15
>>208
 通りすがりの素人? 本当かな?
字数の制限があって省略したのですが、傍国比定にあたって、以下のやり方で比定しました。
これだけでは、不満と思いますので、後ほど詳しく述べます。

畿内説より見た傍国比定
傍国比定に際しては、各国をちりばめるのではなく、隙間が全て無くなるよう、各傍国で埋
めるよう心がけた。しかしそれでも、空白域になってしまった領域がある。それが出雲を除
く山陰・北陸諸国【 石見、伯耆、因幡、但馬、(丹波+丹後)、若狭?、越 】で、この領域
は 邪馬台国の直接の統括下ではなく、出雲を通して間接的に統治されていたと思われる。

現代人が県名を数え挙げる時には、幾つかのブロックに分け、ブロック内では連続性を持た
せて列挙し、そのブロックが終ると不連続的に他のブロックに飛んで、また連続性を持たせ
て列挙して行き、全域を埋めていく。古代人も同様な方法で国名を数え挙げたと仮定した。
211どしろうと:2006/02/18(土) 09:14:03
プラム ◆RvhHf7kqyY さん、軍事資料という視点は私にとって新しい発見ですた!

なるほど、考えてみれば倭人が脅威になるかどうかは、魏からみて
非常に重要ですね。中国の古典から「遠攻近交」という思想がある
ように、倭は「交わるべきか攻めるべきか?」という着眼で考えると
「夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害
を避く(刺青の正当化)」と「その風俗は淫らならず」などから「文
化もある」という、見解に行き着くように書いてある気がします。
そもそも、中華の文明は台湾を一度も領土に組み入れたことがないよ
うに海に対してあまり関心がないようですから、「海中洲島の上に絶
在」という表現から海の中の島国という時点で「領土としない」のが
規定路線だったとも考えられます。
そして、「遠いので脅威にもなりません。文化もあるので通交するの
が望ましい」という結論にいたるような答申だったのかなと。
「万里の長城」に使われている「万里」は中華から認識できる範囲の
限界を意味する言葉だったりしたら、「萬二千餘里」は認識範囲の外
という、常套句だったりする可能性はないのでしょうか?
かりにそうだとすると、距離問題で(卑弥呼の)邪馬台国の位置を求め
るのは「無理」という結論にいたるのですが。
私が「魏志倭人伝」の時代の倭の中心地が畿内と思っているかは、そ
の後の九州からの東征で畿内に侵入する話の流れからすると畿内に倭
の政治の中心地があった方が、「なぜそうなったか?」が説明しやすい
からです。経済の中心は九州とするとそこで力をつけた勢力が東上し
ていき大和朝廷を立ち上げたというストーリーが自然な流れかな?? と、

212プラム ◆RvhHf7kqyY :2006/02/18(土) 10:25:02
>>211 どしろうとさん

そのレスに対する私見は、「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか21)
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1140100181/
こちらのレスにて後日カキコしておきます
暇がありましたら除いて下さい。

このスレにてのレスは、
これにて では!
21316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/18(土) 12:26:46
皆さん、お仕事はちゃんとされてるのですか?w
214安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/18(土) 13:12:28
>>213
自分は学生ですけど何か?受験終わったからカキコ多めにしてるんですけど何
か?
>>211
「万里の長城」なんて言い方は後世のものでしょう。昔は「長城」としか云っ
てないと思うのですが・・・。
215安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/18(土) 13:34:52
思うに、このスレって「邪馬台国は畿内にあった」ことを前提にしているわ
けだから「水行」の時、どこに上陸したのかとか、そういう、「所在地論争」
ばっかりしているスレとは違う形で議論するべき場なんじゃないんですか?
216日本@名無史さん:2006/02/18(土) 13:57:19
>>210

「奴國 弥奴國 姐奴國 蘇奴國 華奴蘇奴國 鬼奴國 烏奴國 狗奴國」

倭人伝に登場する地名には末尾に「奴」がつくものが多い。
これは、後世の「○○野」とかに対応するようにも見えるが、
和名抄で郡名を漁ってみると、「の」で終わるものは意外とすくない。
特に、九州では稀、筑後の「竹野」、豊後の「大野」、薩摩の「頴娃」だけ。
畿内・東海になると、もう少し増えるが、倭人伝での比率には程遠い。
「な」の末尾を持つものは、「玉名」ぐらい。
となると、当時既に「紀の国」の「の」ような用法が存在していて、
それが固有地名の一部として中国側に認識されてしまったのかもしれない。

ちなみに、馬韓伝では、卑離國系の「離」を除くと
莫廬國、狗廬國、駟廬國、萬廬國、捷廬國、莫廬國の「廬」が目立つ。
217安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/18(土) 14:01:44
>>216
そしたら「奴国」はどういう風に読めとおっしゃるんですか?
218216:2006/02/18(土) 14:30:51
>>217
地名に使われる「奴」字の全部が全部、接続助詞の「の」だと言いませんよ。
「奴」の文字が多いのは、そう言う事例もあるのだろうと推定しているだけです。
ただし、助詞「の」は上代の母音分類では乙類オ段ですので、
その音は、「奴」の中国上古音「nug」とは一致しないところが「痛い」ところです。
219サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/18(土) 14:43:30
だから「奴」は、トまたはドと発音するのが正解なのです。
狗奴国は熊本県北部の宇土半島にその名残を残しております。
220安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/18(土) 14:45:59
「奴」は「ぬ」と発音した方がよろしいのでは?
221日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:47:11
その通り

委奴国=伊都国
222日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:49:06
奴=ト

223日本@名無史さん:2006/02/18(土) 14:53:42
倭人にとっての奴は何を意味するのか?
村? 国?
224サガミハラハラ ◆SZOL/4WL.. :2006/02/18(土) 15:06:09
国を意味しますが、現代のような西洋風の国をイメージしてはいけません。
江戸時代でいうならば、陸奥国伊達藩の藩にあたります。
225日本@名無史さん:2006/02/18(土) 15:08:00
朝鮮の「ラ」とゆうのもそうなのかな?
226どしろうと:2006/02/18(土) 15:32:49
>>214 安曇連浜子 ◆M2clACoxQA わかりにくい文章ですみません。

「万里の長城」ではなく「万里」といういいかたがそもそも
「とても遠い」という意味をもっていて、それ以上の距離に
なると、「もうわからない」という意味だったのかな?と、
「万里の長城」は魏志倭人伝以降の命名と思いますが、「万
里」という言いかたは、遅くとも漢代には出てきています。
もちろん「はるか彼方」という意味で。
227日本@名無史さん:2006/02/18(土) 15:46:46
司馬懿の兄で戦没した司馬朗の辞世の言葉の中で、
確か、敵国呉での陣中を指して「万里の彼方」と詠んだのありましたな。
228日本@名無史さん:2006/02/18(土) 16:07:24
>>225
韓伝に多出する「○廬國」と言うのが、後世の「○羅」に当るのかもしれませんね。
魏志でも鮮卑伝では「羅」の文字も使われるのですが、東夷伝では使われなかったようです。
229日本@名無史さん:2006/02/18(土) 16:09:49
228さん、ありがとう。
230日本@名無史さん:2006/02/18(土) 16:27:57
>>223
古代の日本語で「ナ」と言ったら「食い物」に関係する言葉だよな。
「真菜(マナ)」と言えば、魚や鳥獣類の動物性蛋白源。
喰える野草は「菜っ葉」と言うし、「肴(さかな=酒菜)」と言うのもある。
「イネ(稲)」の古形「イナ」の「ナ」も関係があろう。
博多の街は、今も昔も食い物には不自由しない処だったのかなw
231安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/18(土) 21:42:14
>>226
「万里」がとても遠いという意味とするあなたの考えには確かに賛成なんです
が、根拠が後世の表現だったのでレス付知舞いました・・・orz
どうせなら「漢書」に大月氏まで万千六百里とあるのを使って欲しかったです。
232208 ◆GmgU93SCyE :2006/02/19(日) 00:55:08
>>210
わざわざ有難うございます。

例えば、和銅6年に隣国に統合・廃止された「熊野国」「穂国」には合致する傍国がなく、
後年、郡から国に格上げされた「播磨」「伊賀」「志摩」には傍国を比定している事。
「近江」(←近淡海国←淡海国)は、大化の改新以前、複数の豪族が分有していたが、
「鬼奴国」一国に比定している事。
この2つは、どのように考えていらっしゃるのでしょう?
233俺等05772:2006/02/19(日) 02:22:30
>>208
0. 邪馬台=大和、奴=筑紫、狗邪韓=金海、対海(馬)=対馬、一大=壱岐、末盧=松浦は前提。
1. まず、>>119 の図のように邪馬台國の全体像を描き、領域の範囲を規定する。
  以後、その範囲の中で考え、その範囲を全て埋め尽くし、網羅するよう努める。

2. 次に、地図上の三角点とも云える基準になる国を、音が似ている国名からいくつか拾い出す。
 ( 斯馬(しま)國、鬼(き)國、為吾(いが)國、巴利(はり)國、支惟(きい)國など )
3. 更に、音がやや似ている国をいくつか拾い出し、各国に対比させる。
 ( 彌奴(みな)國、対蘇(つさ)國、蘇奴(さな)國、邪馬(やま)國など )
 ( 後で破棄した国:姐奴(つな)國≠敦賀、躬臣(こじ)國≠越など )

4. 旧国名の由来・変遷等を文献で調べ、参考にする。
 ( 伊勢=(伊勢+志摩+伊賀), 美濃国=(美濃+飛騨), 長門=穴門,
   汎河内国=(河内+摂津+和泉) などが参考となる。)
5. 補間(内挿)法を使って、間の国々を埋めていく。この際、>>210 のやり方を採用した。
 ( たとえば、支惟國→烏奴國→奴國から「烏奴国」は吉備と筑紫の間の国と分る。)
 ( たとえば、対蘇國→蘇奴國→呼邑國→華奴蘇奴國 は四国の国々と分る。)
6. 補間法も2つ以上国が分らないと難しい。かなり苦労した。
 ( 斯馬→己百支→伊邪→都支→彌奴の内、既存は斯馬, 彌奴の2国、ここから伊邪は伊那
  の誤りとするまで、大分かかった。そこから、己百支は尾張、都支は土岐と推定できる。)

7.チェック: >>65のような図を日本地図上に描き、ブロック内の国々が連続しているか、
 並び方がスムースかを確認する。なお、魏志韓伝の国々には列挙した際の連続性はあまり
 無いので、国民性が反映している可能性がある。
234俺等05772:2006/02/19(日) 09:24:15
>>216 >>218
鋭い指摘。ただし、中国上古音「nug」と一致しなくとも構わないと思う。
「かなもの」→「金の物」、したがって、「な」=「の」。
「くだもの」→「木の物」、したがって、「だ」=「の」。

>>228 ソース求む
狗邪→南加羅、安邪→安羅、彌烏邪馬→大伽邪→(加羅)、古資彌凍→小伽邪→(小加羅)
235安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/19(日) 11:23:54
邪馬台国が、奈良県桜井市にあったことにして、地図帳でだいたいの距離を
測ってみました。

仁川→釜山 約560q 釜山→対馬(ツツ) 約110q
対馬→壱岐(郷ノ浦) 約60q 壱岐→佐賀(呼子) 約30q
壱岐→佐賀(唐津) 約42q 唐津→前原 約25q 呼子→前原 約37
q 前原→春日 約25q 春日→飯塚 約24q
(参考)唐津→小城 約28q

机上で測ったものなので誤測・あり得ない航路等あるかもしれません。その時
はレス付けてもらえたらうれしいです。
236216:2006/02/19(日) 14:59:28
>>234

>「かなもの」→「金の物」、したがって、「な」=「の」。
>「くだもの」→「木の物」、したがって、「だ」=「の」。

『かなもの』の「な」は「の」との交換ではありません。
「かな」は「(金)かね」の古形です。
「風車(かざぐるま)」の「かざ」→「かぜ」
「爪楊枝(つまようじ)」の「つま」→「つめ」
「眼(まなこ)」の「ま」→「め」
「白髪(しらか)」」の「か」→「け」
「手綱(たづな)」の「た」→「て」 等と同じ音変化でしょう。

『くだもの』の語源解釈についてはよく判らないのですが、
「だ」=「の」の例だと「奴」の音読には余り関係が無いように思います。
237日本@名無史さん:2006/02/19(日) 15:22:18
目(め)は 一つだと(まなこ)二つだと(め)

まなこ→→め(me)
むな →→むね(ne)
さか →→さけ(ke)
ふな →→ふね(ne)
238日本@名無史さん:2006/02/19(日) 16:46:28
>>234

>>228 ソース求む
”狗邪→南加羅、安邪→安羅、彌烏邪馬→大伽邪→(加羅)、古資彌凍→小伽邪→(小加羅)

魏志韓伝・斯「盧」國。後の新「羅」かな?
でも[ja]→[la]の変化もありますね。
239俺等05772:2006/02/20(月) 06:36:02
>>235 私の測った値
A の「渡一海」の距離は、皆バラバラ。したがって、正しい値を示していない。
なお、コンパスとはコンパスで図った距離です。>235とはかなり違いますね。
皆さんも、地図で確かめてください。

@ 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
 ・仁川〜半島南西間:S 400km, 半島南西〜金海間:ENE 300km, 計 700km。
    (コンパス)(S →S, E →ENE, 一里=100m)。

A 始度一海千餘里 至對馬國。又南 渡一海千餘里 至一大國。又渡一海千餘里 至末盧國。
 ・金海〜上対馬間:SE 75km,   (コンパス)(× →SE, 一里=75m)。
 ・上対馬〜芦辺(壱岐)間:S 90km, (コンパス)( S → S, 一里=90m)。
 ・芦辺〜唐津間:SSE 50km。   (コンパス)(× →SSE, 一里=50m)。
 ・金海〜唐津間:計 215km。 直線距離では 金海〜唐津間:200km。
240俺等05772:2006/02/20(月) 06:38:49
>>235 つづき
陸行の場合、コンパスで図ると、どうしても実際の距離より短くなります。伊都國には
博多の南を仮定しました。須玖岡本遺跡の北西に当ります。

B 東南 陸行 五百里 到伊都國。
 ・唐津〜博多の南:ENE 50km。 (コンパス) (SE →ENE, 一里=100m)。
C 東南 至奴國 百里。
 ・博多の南〜大宰府間:SE 10km。(コンパス) ( SE →SE, 一里=100m)。
D 東行 至不彌國 百里。
 ・博多の南〜宇美間: E 10km。(コンパス) ( E → E, 一里=100m)。
241俺等05772:2006/02/20(月) 06:42:15
>>235 つづき
投馬國への水行二十日、邪馬台国への水行十日、陸行一月、各々の移動速度を調べた。
始点は伊都國の港(博多)、水行から陸行への中継地には徳島と広島の2つを候補に選んだ。
陸行の距離は、JRの時刻表を使って求めた。中継地は広島より徳山の方が適当なようです。

E 南 至投馬國 水行二十日。
 ・博多〜出雲間: ENE 340km。(コンパス) 340km/20day = 17.0km/day
F 南、水行十日。
 ・博多〜徳山間: E 150km。(コンパス) 150km/9day=16.7km/day
 ・博多〜広島間: E 280km。(コンパス) 280km/10day=28.0km/day
G 南、陸行一月。
 ・徳山〜桜井間: E 501km。 (時刻表) 501km/29day=17.3km/day
 ・広島〜桜井間: E 413km。 (時刻表) 413km/29day=14.2km/day
242俺等05772:2006/02/20(月) 17:51:11
>>235 >>239 安曇さん
やっと、共通の場で議論できる人に出あえました。私の場合、仁川〜金海間 700km、安曇
さんの場合、仁川〜釜山間 560km。違いが大き過ぎます。私の場合、水行の距離ですが
そちらは何で測った距離でしょうか?陸行? また何の道具を使って測りましたか?

仁川→釜山 約560q=7000里、1里= 80m
釜山→対馬(ツツ)約 110q=1000里、1里=110m
対馬→壱岐(郷ノ浦)約60q=1000里、1里=60m
壱岐→佐賀(呼子) 約30q=1000里,1里=30m, 壱岐→佐賀(唐津)約42q=1000里,1里=42m
呼子→前原     約37q= 500里,1里=74m,   唐津→前原  約25q= 500里,1里=50m
前原→春日 約25q= 100里、1里=250m
春日→飯塚 約24q= 100里、1里=240m

壱岐→佐賀(呼子)1里=30mは不適当ですから、呼子=末盧は破棄すべきです。
前原→春日は直線距離ですか? 博多を経由した曲線の距離ですか?
前原→春日の1里=250mと、春日→飯塚の1里=240mは他に比べ、大きすぎませんか?
243安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/20(月) 19:19:15
>>242
すいません。今日また測り直したら、>>235とかなり違った値になりました。

一応、朝鮮半島の航路は、地図帳に出ていた航路を採用しました。なるべく
直線距離にはしているつもりです。

仁川→群山 約161q 群山→木浦 約126q 木浦→済州 約140q
済州→麗水 約171.5q 麗水→釜山 約122.5q 計721q

現在の航路は済州島にも寄っているので、若干航路は短縮されると思います。
244安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/20(月) 19:41:14
続き
釜山→対馬島厳原 約105q(直線なので途中陸路も入ってしまう)
厳原→壱岐島郷ノ浦 約65q 郷ノ浦→佐賀呼子 約30q
郷ノ浦→唐津港 約40q 壱岐島石田→呼子 約26q
石田→唐津港 約36q
245俺等05772:2006/02/20(月) 20:50:31
>>238
>魏志韓伝・斯「盧」國。後の新「羅」かな?

1例だけでは、根拠として薄弱でしょう。もっとないの?
246日本@名無史さん:2006/02/21(火) 01:27:15
>>245
厳しい追求ですねw
魏志倭人伝・末「盧」國→古事記神功条・末「羅」縣、和名抄「松浦(まつ「ら」)郡」
これ位でご勘弁を・・・
247糸人:2006/02/21(火) 10:36:12
ビッグニュースです。
邪馬台国の都跡が遂に発見されました。
福岡県前原市から一辺57mの方形区画溝が出土しました。
近くに倭国王帥升の王墓をふくむ32基の弥生王墓群があります。
さらに王都の伊都を囲む大溝も各所に発見され、
吉野が里のような大環壕溝を有する都市だったことが伺えます。
西暦元年辺りから四世紀頃までの都と見られます。
まさに邪馬台国、倭国、倭の女王の時代に重なります。
ここからはすでに日本一の銅鏡と勾玉、剣、それに
管玉など宝玉類が数千個も出土しています。正式発表はこの春のようです。

参考 ニュースを伝えるHP 中段お知らせのトップ

http://www5a.biglobe.ne.jp/~jqi5/yamato/yamatai.html

248安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/21(火) 17:14:56
>>244の続き
唐津→福岡前原 約25q 前原→福岡春日 約25q 
春日→福岡飯塚 約25q 春日→福岡宇美 約6q 春日→福岡粕屋 約1
0q 飯塚→福岡直方 約11q 直方→福岡芦屋 約17q
249安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/21(火) 17:21:13
おそらく、芦屋は、「不彌国」の港だったのでは。紀には、神武、仲哀の両
天皇が「岡」の地に寄った、と書いてあります。そこで、行程を出す際に芦屋
も組み込みました。(日本書紀の注に岡宮は遠賀川の河口、芦屋だと書いてあ
ったので、岡=芦屋にしました。)
250俺等05772:2006/02/21(火) 20:29:01
>>248
対応がよく分りません。伊都国、奴国はそれぞれ何処に比定しましたか?
また、連続式と伊都からの放射式、どちらの読みを採用しましたか?

唐津=末盧、前原=??、春日=??、飯塚=??、
宇美=??、粕屋=??、直方=??、芦屋=不彌
251安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/21(火) 21:46:32
>>250
伊都国=前原 奴国=春日 飯塚=不彌国です。宇美と粕屋の距離を書き込ん
だのは、一応参考としてです。芦屋はあくまで不彌国の「港」であって、中心
地ではありません。直方を距離測定の際に使ったのは、遠賀川沿岸であるから
です。また、自分は連続式の読みを使っています。

252208 ◆GmgU93SCyE :2006/02/22(水) 07:58:13
僭越ではありますが、不彌国に関して。

人口は不明ですが、およそ千戸の国であるなら、伊都国と同程度の規模と思われる。
奴国からの距離に、海岸線、平野、山間地といった地形を考慮する必要性はないのか?
(山道であるなら平野よりも数倍の距離を歩いた可能性もある)
街道のない時代、緩やかな海岸線、平野部ではなく、わざわざ険しい山塊を越えていたのか?
253安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/22(水) 16:23:00
>>252
不彌国を飯塚にしますと。春日から飯塚に行くには冷水峠、もしくは篠栗の
方面から行けばいいのです。わざわざ平野にまわっていたら、山道を通るよ
り遠回りになってしまいます。ただ、これはあくまで地図帳から見た観点で
あるということです。現地を歩いたら、あなたが云うことが正しいかもしれ
ないです。
254俺等05772:2006/02/22(水) 19:48:04
>>243-244 >>248
安曇さんのデータを解析した結果は次の通りです。

・郡→狗邪付近
  仁川→釜山 約721q=7000里、1里= 103m, (1km=9.7〜10里)
・狗邪→対馬
  釜山→対馬(厳原)約 105q=1000里、1里=105m
・対馬→壱岐
  対馬→壱岐(郷ノ浦)約65q=1000里、1里=65m
・壱岐→末盧
  郷ノ浦→佐賀(呼子)約30q=1000里,1里=30m, 郷ノ浦→唐津 約40q=1000里,1里=40m
  壱岐(石田)→呼子  約26q=1000里,1里=26m, 石田 → 唐津 約36q=1000里,1里=36m

・末盧→伊都
  呼子→前原   約37q= 500里,1里=74m,  唐津→前原 約25q= 500里,1里=50m
・伊都→奴国
  前原→春日 約25q= 100里、1里=250m, (1km=4里)
・奴国→不彌
  春日→飯塚 約25q= 100里、1里=250m,  春日→宇美 約 6q= 100里、1里= 60m
  春日→粕屋 約10q= 100里、1里=100m,  
・不彌→不彌港
  飯塚→直方 約11q= ???里、1里=???m,  直方→芦屋 約17q= ???里、1里=???m


1. 仁川→釜山では1里=103m≒100m (1km=9.7〜10.0里)
2. 「渡一海千餘里」は1里=105m, 1里=65m, 1里=40〜26m 等、海峡毎にバラバラ。
  したがって、「渡一海千餘里」慣用句的に使われ、実際の距離を示していない。OK?

3. 伊都を前原に選ぶと遺跡との対応は良いが、末盧→伊都間の距離が小さい過ぎるのでは?
  前原→春日の1里=250mと、春日→飯塚の1里=250mとは、他に比べ大き過ぎませんか?
4. 前原→春日は直線距離ですか? 博多を経由した曲線の距離ですか?
25516歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2006/02/23(木) 11:12:39
倭人伝をどう読んだら畿内になるんですか?w
256日本@名無史さん:2006/02/23(木) 11:27:00
妄想を注入することで、どこでも可能です。
257俺等05772:2006/02/23(木) 12:28:36
>>255
@里程問題、A「真珠・青玉・丹」の産地、B傍国全比定、の内のどれを使って、畿内説
の正当性を説明して欲しいですか? ヒッキーさんのお好きなもので説明しましょう。
Bなら >>2, >>17-18, >>65 を参照して下さい。だだし、>2は若干、修正が必要です。
258俺等05772:2006/02/23(木) 12:34:20
>>2 の修正
邪馬台國の全体像(改訂版)
仮定1 3世紀には箱根越の道は未だ無く、東国へ行くには伊豆半島を船で廻る必要があった。
仮定2 当時の魏の中国人には、日本は朝鮮半島から南に広がった島国という先入観があった。
 仮定2から、@〜Aのように方向を修正できる。
  @ 編者が熟知している地域に対しては、方向を90°時計回りに変えた。
  A 編者が不案内な地域に対しては、不案内が故に、方向をそのまま記した。

上の仮定を使うと、以下のような概略図を描くことが可能である。

   _            邪馬台國の全体像を、簡略図で示す(文字サイズを小に願います)。
─-┘ \倭と韓の国境    (末盧・伊都・奴・不彌は都市名(点)、後出の奴国は国名(面))
狗邪韓國\           (末盧=唐津、伊都=博多の南、奴=大宰府、不彌=宇美)
 \
  ↓(南南東)
 対馬
  \ (東南)                                   女王圏の東境
    \     (東、水行二十日)                         |
    一支 ┌→−−−−−−−−−→投馬國                  |千余里
    |  ↑→−−−−−−◎────────→邪馬台國────◎ −−−→倭種国(南関東)
    |  ↑     (東、水行十日、陸行一月)                 |       ↓
    ↓  伊都→不彌                                 |       ↓
   末盧/   \                                        三千里↓
        奴    奴                                           ↓
        国                                               ↓
  −・−・−・−・−奴國と狗奴国の境                              侏儒國(八丈島)
     狗 奴 國
259安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/23(木) 13:16:51
>>254
2については、OKです。4については、直線距離で測りました。確かに、
末盧ー伊都間の距離は確かに短いです。そこらへんは、まったり考えてい
きたいと思います。
260俺等05772:2006/02/23(木) 19:34:58
>>259
1里≒100m がある程度根拠付できれば、それを基にして、場所の特定
が可能になるのですが、そこまで出来ないのが、悩ましいところです。
261安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/23(木) 20:11:51
>>260
前にも書きましたが、当時の魏の尺度に合わないのなら、「魏志」の記述が違
うということでいいと思います。>>254のようなのは、「参考」でいいのでは
ないでしょうか。
262史学の徒:2006/02/23(木) 20:46:49
他スレから誘導されて来ました。
お題は「なぜ九州説、東遷説が現在では省みられなくなったのか?」です。
文献史学における論争史と、特に70年代以降急激に調査発掘が進んだ考古学の成果を絡めて
お話を進めて行きたいと思います。
263日本@名無史さん:2006/02/23(木) 20:56:31
古田武彦が東日流外三郡誌に飛び付いたから
264史学の徒:2006/02/23(木) 21:01:03
もう本居宣長とか白鳥、内藤なんてあたりは各自ご存知でしょうからすっ飛ばします。
井上光貞の狗奴国東遷説や榎一雄の放射説が登場した50年代後半あたりでは
実は九州説のほうが有利だと見られていました。
これは文献(特に魏志倭人伝)の解釈論より、平原、板付、須玖などの
北部九州における弥生期の先端集落が集中して発掘されたことが大きく作用しています。
もちろん、菜畑や土井ヶ浜などの弥生前期(当時はそう見られていた)から
連綿と続く大陸文化との交流の歴史も重要な要素です。

対して畿内、特に奈良盆地では当時、唐古・鍵にしても芝にしても
はたまた大阪の池上曽根にしても、やや規模の大きい環濠集落が存在するといった程度であり
また出土物も北部九州から見れば、はっきり言ってショボいというのが
大方の見方でした。この傾向は60年代においても引き続き続きます。
265日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:16:25
さっさと続きかけよヴォケ
266史学の徒:2006/02/23(木) 21:18:39
>>263
それも実は大きいですねw
堀江メールも似たようなものですw

さて畿内において調査発掘が進まないと、別スレで書きましたが
これはひとえに遺跡の多さに尽きます。
はっきり言ってどこを掘っても何かが出てくるんですよ。
古代史とは離れますが、京都市街地が開発において様々な問題を抱える根本の理由がこれです。
宮内庁管轄陵はまた別としても、道路を作れば、公園を作れば
農水路を掘れば、下水道を彫れば、学校を作れば、あまつさえ家を建て替えれば…
もう遺跡だらけなもので、調査が追いつかないw
また地権者も業者も「見なかったことにしよう」と言うのが数多くありました。
堺市の百舌鳥古墳群など、すでに半数以上の墳墓が跡形も無く破壊されています。
これでもまだ判明しただけマシなのですがね。

ただこれは仕方の無いことでもあります。
そごうなど奈良店建設地から長屋王邸宅跡なんぞが出たばかりに
オープンを十年以上も延期されるは、その間にバブルははじけるは
おまけに平城京跡保存のため駐車場も進入路も縮小されるはで
これが倒産の主因とも言われています。

佐賀県の吉野ヶ里もそうですね。
工業団地計画が撤回されたがために、ハイテク産業をみんな大分県に持っていかれて
その結果未だに、高知、島根、鳥取と並ぶ貧困四天王ですから。
267俺等05772:2006/02/23(木) 21:27:01
>>264
まだ、説明の途中ですので、一応最後まで聞きたいと思います。 ただ、
私は邪馬台国畿内説の支持者であると同時に、九州狗奴国の東征論者です。
畿内説論者は畿内自生説の人が多いのですが、何故、狗奴国の東征論では
ダメなのかも説明してくれると有り難いです。
268史学の徒:2006/02/23(木) 21:34:01
>>265
マターリとお待ちください。九州or東遷説論者にとっては気が気でないのは十分承知してますのでw

さて70年代に入ってから、かの「日本列島改造論」を受けて
日本各地において道路、宅地などの開発事業が相次ぎます。
この時代、特に北部九州ではおりからの邪馬台国ブームもあって
各自治体、民間地権者ともに「実に協力的に」調査発掘が進みました。
もう九州の研究者だけでは到底追いつかないということで、関東、東海、近畿などから
大挙して人員が派遣され、まさに考古景気と言っても良いくらいの盛況振りでした。

正直ほとんどの研究者、そして自治体、地権者が「邪馬台国の発見は間近だ」とまで思っていたのです。
膨大な出土物を分類し、修復などを経て次々と報告書が提出されました。
その頃畿内は高松塚壁画の発見によって、にわかに飛鳥ブームが巻き起こり
これまた正直なところ「弥生時代なんぞどうでもいい」との風潮すらありました。
269日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:46:02
それより、邪馬台国の考古学的決め手ってなに
何が出てくれば、そこが邪馬台国なわけ
皆知りたい筈だよ
それを提示出来るからこその長文なんだろうな
270史学の徒:2006/02/23(木) 21:50:35
>>267
俺等05772さん、そのあたりも詳しく述べさせていただきますのでお待ちください。
ただなにぶん長文になりますので、何日かに分けさせていただくことになるかと思いますが。

さてこのように北部、中部九州をそれこそ絨毯をめくるように掘り返し
(実はその頃すでに吉野ヶ里の存在ははっきりしていました)特に九州においての土器編年の精度が高まるにつれて
研究者の間で囁かれたのが「なぜ3世紀に栄えた遺跡がひとつもないのだ?」なのです。
確かに博多湾沿岸だけでなく、有明湾や佐賀平野、福岡平野はもちろん宇佐や阿蘇山周辺までも開発の手は伸びました。
そのうち衝撃的な報告書が相次いで提出されます。
平原王墓や三雲遺跡、また西新町遺跡における出土遺構、副葬品、土器などに関してのものです。
いきなり畿内式土器の代表格である庄内式が大量出土したのです。
271史学の徒:2006/02/23(木) 21:59:14
>>269
簡潔に言えば「3世紀における物流や文化の集積地となった遺跡の存在」です。
一部論者は悔し紛れに「邪馬台国って書いた金石文かも木簡でもあるのかよ!」とのたまいますが
そんなものはおそらく未来永劫出土しないでしょう。
とすれば国内最大級の集積地に当てはめるのが、もっとも自然な仮説となりますし
仮にそういった機能を有する遺跡が複数、しかも違う文化特色や流通傾向が確認されれば
そのうちのひとつが邪馬台国連合であり、畿内とはまた別の文化圏を形成していたとの仮説も成り立ちます。

長々と沿革を述べているのは「それが九州から一切発見されない」ということを認識していただきたいが為です。
272史学の徒:2006/02/23(木) 22:14:16
時間が無いので、残りは後日の書き込みになります。
ここで念押しですが「九州に無いから畿内だ」と一足に飛んだわけでは決してありません。
南九州は、四国はどうだ?吉備や出雲は考えられないのか?まさか東海か?など
ありとあらゆる地域の調査発掘が検証され、そのうち九州で見つかるさとたかをくくっていた考古学者も
まさに全国に散って詳細に一から調べ直しているのです。
>>270で述べた西新にしても、これは畿内からの貢物ではないのかとの意見もあり
慎重に慎重を重ねた上での調査がなされました。
この頃、吉野ヶ里フィーバーが起きます。
しかし研究者の間では「1〜2世紀の弥生環濠集落のひとつ」以上の何物でもなく
逆に吉野ヶ里の3世紀における衰退が、邪馬台国九州説のとどめとなった面もあります。
そこで再評価されたのが東遷説です。
次回はリクエスト通り、これについて説明させていただきます。
マターリとお待ちくださいませ。
273日本@名無史さん:2006/02/23(木) 22:34:31
>>272史学さん
行橋市のアスファルトめくってみればぁ
出てくるよ
274208 ◆GmgU93SCyE :2006/02/23(木) 22:45:35
>>253
出来れば現地に足を運んで見て頂きたい所ですが、
ネットで国土地理院の25000分の1が検索できるので参考にするのも宜しいかと思います。
また、古代社会では農業生産量が耕地面積に比例し、人口にも比例します。
伊都国と同程度の国を想定するべきかと思います。
御一考下さい。
275日本@名無史さん:2006/02/24(金) 01:16:00
金印と阿蘇山で、邪馬壱(台)国(イ妥国)の場所は決まりだな。
276日本@名無史さん:2006/02/24(金) 07:20:40
太陽の船が見つかりました
http://osaka.yomiuri.co.jp/inishie/news/is60223b.htm
277白木人 :2006/02/24(金) 09:33:17
呼んでない
278日本@名無史さん:2006/02/24(金) 12:26:14
>>271
「3世紀における文化や物流の集積地」ですが、九州にもありますよ。
三雲、須玖岡本、比恵那珂です。
これらは全国的にも3世紀にはいまだに纏向や中河内の遺跡群に並び最大級でしょう。
ただしこれらは伊都国、奴国です。これらに同格の遺跡が九州にはなさそうという点では同意ですが。
279日本@名無史さん:2006/02/24(金) 12:45:04
ついでにに言うと西新の土器は庄内は少ない。布留古式が主体。西新の庄内平行時期は在地系が主体。
庄内が多いのは博多や比恵とのこと。
あと昔ながらの東遷説は難しいが、寺沢や北条が言うような、ヤマト在地勢力主体ではない外部の諸勢力が新たに連合して新王権を立てたという説は今も有力。
280安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/24(金) 13:56:10
>>274
わかりました。今度覗いてみます。ただ、まだ学生なんで九州に行くのは無理
なんです・・・orz その辺はご容赦ください。
281安曇連浜子 ◆M2clACoxQA :2006/02/24(金) 14:31:40
国土地理院の地図閲覧サービス
ttp://watchizu.gsi.go.jp/ 
282日本@名無史さん:2006/02/24(金) 15:28:30
鉄器が少ない畿内は、逆立ちしても極東戦争参加は無理。
283日本@名無史さん:2006/02/24(金) 15:52:49
結論。

そんな昔の事は解らない。
284日本@名無史さん:2006/02/24(金) 16:18:22
邪馬台国は畿内にあった
二世紀末には卑弥呼を擁して覇権を握った
今問題なのはこの邪馬台国がどこから出てきたのかだ
285日本@名無史さん:2006/02/24(金) 17:46:42
畿内のどこに、金印と阿蘇山があるのか教えてくれ>284
話はそれからだ。
286俺等05772:2006/02/24(金) 19:31:01
>>255-257
「真珠・青玉・丹」の産地による根拠を >>104よりも詳しく話しましょう。

アコヤ貝
1. アコヤ貝は房総、男鹿半島以南から九州にかけて分布し、潮間帯から水深20mまでの
「岩礁底」に足糸で「付着生活」する。 ← 砂海・泥海・干潟には生息できない。
 したがって、泥海の有明海・八代海では、アコヤ貝は産出しません。

2.貝の生活機能は流速が10〜12cm/secで最も活発になり、15cm/sec以上では急激に低下する。
   ↑アコヤ貝は澱んだ海では育ちにくいが、かと言って、外海でも育ちにくい。
 したがって、大村湾でも真珠は採れるが、場所としては決して最適ではありません。

3. アコヤ貝は、漁場海域の植物プランクトンを摂食して成長する。アコヤ貝にとって栄養価
  値が高い植物プランクトンは 10m程度の水深に多く分布する。
  従って、真珠を採るには、潜って貝を取るしかなさそうです。それ故、大量には採れません。

4. アコヤ貝生育の適水温は13〜25℃、最適水温は23〜25℃。←南の海も、北の海もダメ。
 これは、貝生育の適地が非常に限られた領域であることを示す。

5. アコヤ貝から天然真珠が採れる確率は 0.1%強である。
したがって、壱(台)与が晋に贈った 5000粒の真珠に要したアコヤ貝は約5百万個必要である。

6. アコヤ貝1個の大きさは約 80mm、重量は 40g前後である。
 それ故、 5000粒の真珠に要するアコヤ貝の量は、なんと2億g=『 200トン 』弱になる。
  これは、2トントラック百台分になる。
287日本@名無史さん:2006/02/24(金) 19:33:55
アコヤ貝は奥州藤原氏もかなり輸入してる
288俺等05772:2006/02/24(金) 19:46:49
>>286
真珠について言えば「何処で獲れるか」ではなく「5000個もの真珠を何処で獲ったか」という
量が問題なのです。天然真珠はアコヤ貝千個に1個程度しか採れません。 >>286で述べたよう
に、5000粒の真珠に要するアコヤ貝の量は、なんと『 200トン 』、2トントラックで、100台
分もの量になります。

もし、獲る目的が真珠であるのなら、これは非常に効率の悪い漁と言えるでしょう。それ故昔、
アコヤ貝を獲る主目的は食糧である、と云うのが私の結論です。真珠は単なる副産物に過ぎない。
2トントラック 100台分のアコヤ貝を供給できる産地と、消費できる大消費地が必要です。
289日本@名無史さん:2006/02/24(金) 20:11:37
それと邪馬台国、どう関係あるのw
290日本@名無史さん:2006/02/24(金) 20:26:38
>天然真珠はアコヤ貝千個に1個程度しか採れません
何時の統計結果でしょうか。資料提供キボン
291日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:08:05
逃亡?
292俺等05772:2006/02/24(金) 21:19:44
>>289
邪馬台国九州説では、5000個もの真珠は無理だ、だから畿内説が正しい
という話ですが、判らなかった?

>>290
仮に元のソースが同じだったら、幾つ並べても意味が無いのですが、ご参考までに。

>天然真珠は『千個の貝の中から一つ』見つかるかどうかの偶然の産物で、さらに色・光沢・
>形の、三拍子そろったものとなると、気の遠くなるほど低い確率でしかできないからです。
http://www.miebrand.jp/pr/isebito_sinjyu.html

天然のアコヤガイから真珠が見つかる確率というのは『1000分の一』程度なのです。
http://www.hk-plaza.co.jp/col/clm25fuk.htm

天然の真珠が見つかる確率というのは、『1000分の1』程度なのです。
http://www.ntv.co.jp/megaten/library/date/98/3/0301.html
293白木人 :2006/02/24(金) 21:52:53
5000個の真珠は今でも、無理かも
294日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:11:52
>>292
意味がよく解りません。邪馬台国と真珠生産の繋がりが知りたい
邪馬台国でなければならない理由を
295俺等05772:2006/02/24(金) 22:52:44
>>294
史料1 真珠・青玉を出す。その山には丹あり。
史料2 壹與、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし政等の還るを送らしむ。因って臺
 に詣り、男女生口三十人を献上し『 白珠五千孔 』、青大勾珠二牧、異文雑錦二十匹を貢す。

史料1と2から白珠は「丸い白い真珠」つまりアコヤ貝真珠とわかります。
史料2の「白珠五千孔」は九州邪馬台国では無理だということです。
296日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:18:07
資料1へ
真珠は古くから宇和島でも採れます

三世紀当時の真珠産出地とアコヤ貝の絶対数量分布等、五千個の真珠を確保した日数等のデータは。

短期間での収集には、巨大な生産地の存在が不可欠ですが、長い年月を掛け
蓄財された真珠の一部放出なら、特定大量生産地の意義が薄れます。
297日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:16:10
水位が高かった古代は、有明海でアコヤ貝が大量にとれて、
真珠が1万個も取れていたから、邪馬台国は九州だったってことでFA?
298日本@名無史さん:2006/02/25(土) 02:40:51
>>294
つまりアコヤ貝は真珠のために採取されていたのではなく、
アコヤ貝が食料として日常的に大量消費されていたからこそ、
その副産物として真珠が大量に出土すると考え、
そこにこそ人口密集地、つまり大きな国があったと考えられると
いいたいんだろう。
299日本@名無史さん:2006/02/25(土) 03:33:04
結局、畿内と邪馬台国の関係は、特に認められないね〜
300俺等05772:2006/02/25(土) 06:49:12
>>297
有明海でアコヤ貝は採れません。>>286の1. 貝は「岩礁底」に足糸で「付着生活」する。
だから、砂海・泥海・干潟には生息できないのです。

>>298
その通りなんですが、同時にアコヤ貝の生産高も九州内だけでは無理と考えています。

>>299
真珠だけでは畿内邪馬台国説を断言するのは難しい。だが「真珠・青玉・丹」の3点セット
で考えた時、傍国を含めた畿内邪馬台国以外、考えられないのです。史学の徒さんの合間を
使って、次は「青玉」について述べたいと思います。