>>158 輸送手段として東馬西船の傾向が強いし、それが将門・純友にも反映されてる。
村井康彦氏がしゅう馬の党に対比させて、しゅう船の輩と表現してる。
>>159 近世末頃に毛皮を集め回ってた商人が、特に関東の山村の百姓から毛皮を仕入れてたという話(直良信夫)。
甲信と括る表現もどうかな?甲斐は関東でもあるよ。
中部地方的というより、信濃は鎌倉武士の勢力が浸透してる。諏訪社の狩猟神事もそう。
伝染病がどうとかは明治期のことだろw
衛生を気にするなら、鴨川から大阪湾まで死体が流れるかよw
中世までの庶民の葬送は、遺棄葬が多かったんだから。
鎌倉も蒸し蒸ししてるし人口密度も高い。死体も腐りやすいよな。
庶民は由比ガ浜に遺棄葬。
平安時代の都は、子供の死体や犬がくわえてきた死体の一部が多く転がってたし、
これらが自邸に侵入するのを病的に忌んだのが、都の貴族・官人層。
平安貴族ほど極端ではなくても、そういう思想が西国の庶民に色濃く浸透していく。
後世的な文化要素を結び付けてるのはどっちかな。
>>162 疫病が無かったとは言ってない。意味を汲み取って欲しかったな。
穢れの発生を、疫病・伝染病と直結させる見方に対して否定したんだよ。
今現在で一般的な葬法の火葬で言えば、衛生上の理由を含めて広まるのは近代以降だからね。
だから、衛生面の理由をはっきりと指摘できるのは明治時代。
火葬と穢れ忌避の関係は、柳田などが指摘してる。
1925年、関東は土葬が多い。南九州も土葬が多かった。
畿内に屋敷墓が無いわけじゃないけど、関東では多い。
田舎の方とか歩いてみれば多いから理解できるし、でも寺墓地の場合もあるけど。
嘉承元年(1106)、疫病、道路や河原に骸骨を積む(中右記)
安貞元年(1227)、疫病、河原に死体が雨脚のごとし(民経記)
寛喜三年(1231)、飢饉で洛中に死骸が充満(民経記)、藤原定家邸にも死臭が漂う(明月記)
・勝田至氏の説明
穢れは垣根などで囲まれた空間で感染するもので、道路や荒野など開放空間に穢物があっても、
それで天下が穢れるということはない。
ある家に死体などの穢物があるとき、そこにいって着座すると穢れに触れるが、
立ったままなら伝染しない。(←これが滑稽だなw)
穢れは他者にも感染するので、穢れが出た家では札を立てて外出を禁じる。
五体がそろった死体の場合は30日の穢、五体不具穢(体の一部)は7日の穢。