1 :
:
日本史板らしくいきましょう
三戦っぽいネタはスルーで
DQN史観ももちろんスルーで
語りません?
ネットには載ってないマイナー知識を
ご披露ください
2 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 01:59:23
22222
Q:秀吉はいつまで織田家を主君として擁立していたのか
いいかえれば織田家が名実ともに秀吉の家臣になったのはいつか
>>1はこれに答えろ
じゃなきゃ語ってやらん
4 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 20:59:59
三法師にいつまで臣下の礼を取っていたのかな
5 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:23:45
>>4 腹の中では最初から臣下になるつもりは無かったと思われ
6 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 23:32:05
少なくとも大納言になった時点で臣下とは思っていなかっただろうな
7 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 00:20:27
秀吉が岐阜中納言に対面したときってどういう心境なんだろ
8 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 00:51:53
賤が岳で勝家を破った時点で半分くらい決まったんじゃないの?
9 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 01:29:41
>>7 たかだか13万石しか与えていないからな。
石田三成・加藤清正以下の石高だ。
10 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 08:21:43
>9 それでいて家康(亡君の同盟者)に、鼻水垂らして「秀頼を頼みますじょ〜」とは…
みっともね〜エテ公だな
前田利家を織田閥の代表に仕立て上げた上で上手く丸め込んだ。
12 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 10:25:41
13万石か。旧主に対して、あまりに少ないな。
50万石くらい与えてやればいいものを
岐阜中納言ってその領地貰った時、何歳だっけ?
年齢と共に加増するよ。くらいの台詞はいったんじゃない?
14 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 10:37:11
>>13 そのセリフ、秀頼に説明する家康と似ているなwww。
「秀頼君御成人の暁には、天下はお返し奉りまする」
ドラマではよくあるシーンだ。(史実ではないと思うが)
15 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 10:46:44
織田家も信忠が京から本能寺の変で落ち延びていれば、
覇権を継続できたかもしれないように、
豊臣家も、成人の男子がいれば存続できただろうにね。
秀長が生きていればねぇ。
三法師の母親とその一族(塩川氏だったか?)
を何か適当な理由つけて処刑したんだよね?
秀吉様は
さすが織田家の忠臣
信長の息子や信長の奥さんや信長の孫を殺し
信長の娘達は手篭めにするし逆らったら殺すし
さすが織田家の忠臣
何か織田家に恨みでもあったのか秀吉君?
17 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:12:20
まあ信長の家臣は、多かれ少なかれ信長を恨んでいたとは思うけどね
結局信長の暴虐に一番先に耐え切れなくなったのが、
結果的に光秀というだけだったって感じもする
18 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:26:37
丹羽長秀・池田恒興・蜂屋頼隆・森長可
彼らは織田家を盛り立てようという気があったのか?
羽柴秀吉の暴走を止めるために柴田勝家と手を組もうとかなかったのか?
長いものに巻かれてしまったように見える。
19 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:40:06
天下鳥を意識したのは本能寺以降なのだろうか。実はもっと前に・・・
20 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:46:18
日本統一でも満足しないのが、秀吉だからな。
織田家重臣・国持ち大名で、満足するわけがない。
21 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 22:50:44
>>19 >実はもっと前に・・・
その下準備は感じられる。
羽柴秀吉・・・兵糧攻めにより兵力温存。(毛利家を取り込もうとしていた。)
徳川家康・・・伊賀や甲斐の敗残兵を吸収し兵力強化。(北条家とも同盟。)
22 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:02:27
信長諸将を切り崩すのは難しいから、中国地方の東半分を元手にしようと
考えていたのかな。
そういえば、大返しの手際が良すぎるあたり、実は秀吉が黒幕というウワサ
もあるにはあるな。
23 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:09:17
羽柴秀吉は播磨や備前、但馬を良い感じで抑えることができていますね。
徳川家康も三河や遠江、駿河を良い感じで抑えることができていますがw
24 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:11:20
精液を女の顔に塗りたくれ」
ドロッとなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
25 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:12:38
立地的に、信長を怒らせて攻め込まれたときに守りやすいのは、家康よりも秀吉だったように思う。
26 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:27:28
林秀貞が、「織田信行を担いで謀反を企てた」って理由で追放されたからね
あんなので追放されるのなら、同じ行動を取った勝家はもちろん、
上杉攻めで勝手に退去した秀吉にも追い目はある
家康は信康事件などで信長を明らかに恨んでるだろうし
丹羽、池田らへんはリーマン気質なので変な考えは持ってなかったと思うが
27 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:52:35
どうかな?
丹羽長秀は織田信長に近い所にいた分、苦労も多かったかもしれない。
池田恒興はなかなか抜擢されずにいたからな。
林秀貞は本当に何したわけでもないから追放されても仕方がないよ。
秀吉黒幕説、家康黒幕説、秀吉家康共謀説、朝廷黒幕説、あと何があったっけ?
29 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 00:26:06
一番有力な光秀単独野望説があるが。
それってどうなの?乱心?比叡山の件なんかもあるし実は
残虐な事もいとわない攻撃的な一面もあったのかな?
31 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 00:35:38
賤ヶ岳合戦以降、織田家の所領はどんなもん?
三法師、信雄、信包、長益、信張などなど。
信包はたしか伊勢にいたはずなのに
いつの間にか丹波の山の中に押し込められてるよな
信雄は伊勢と尾張だっけ?それに伊賀か
それも秀吉に国替え汁って言われて
拒否したので島流しに遭ったんだよね
三法師ってまだ幼いからなんなんだけど
本来なら信長・信忠直轄領をもらえるはずなのに
秀吉に全部没収されて最終的には岐阜か
長益・・・?所領あったのかな
33 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 00:51:15
ありがdd〜♪
信雄の伊勢の所領は全部じゃないよね?
それにしても織田家、無残だなw
34 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:08:12
領地分配では、次男・信雄は尾張国を、3男・信孝は美濃国を相続し、
信長の4男で秀吉の養子である羽柴秀勝は明智光秀の旧領である丹波国を相続した。
家臣団では、柴田勝家が越前国の他に近江長浜を加増され、丹羽長秀が若狭国の他に近江国の2郡を加増された。
新当主である三法師は近江国坂田郡と安土城を相続し、秀吉には山城国が与えられた。
(ウィキ抜粋)
新当主の直轄領が、たった一郡です。とんだ忠義の士の集まりです。
>>27 池田は信長軍での目立った抜擢は無かった代わりに信忠付きみたいなもんじゃないかな
荒木滅ぼして池田が摂津に入るまで信忠との行動が多かったような…
たしか賤ヶ岳も理由はよくわかってないけど参加してなかったと思うよ
36 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:22:59
本能寺の変以降、河内にいた若江三人衆や三好康長はどうなったん?
37 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:28:26
>>35 池田恒興は元亀年間から対武田要因として動いていたよ。
そのまま織田信忠の指揮下に入ったけど。
38 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:31:07
丹羽長秀って本能寺の時の所領って若狭10万石程度みたいだし、
出世は早かったのに、その後頭打ちになってたみたいだね。
39 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 01:36:53
でも滝川一益もいきなり武田征伐で抜擢されて、
一躍関東において重要な役割を持つ者として出世をした。
丹羽長秀や蜂屋頼隆も頭打ちと言うにはどうかな。
40 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 02:21:28
池田恒興は本能寺があった年には長男の元助に家督を譲っている。
信長在世時から、淡路攻めとか恒興じゃなくて元助が行ったり
してるし事実上隠居状態だったんじゃないの?
丹羽は政治にも使えるからね
信長も手元において置きたかったんだろう
信長が死んでいなければ
政治を牛耳ったかもしれない
丹羽長秀が急死したのが織田には痛かったんじゃないかな
秀吉は相当嬉しかったんじゃないかと
42 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 03:21:47
>>41 賎が岳、小牧・長久手でも、あっさり秀吉の味方をしてるし
生きていても秀吉のイエスマン
>>42 あっさりってわけでもない
小牧・長久手では長男(13歳)にたったの3000だけ
つけて派遣している
丹羽の当時の勢力から考えると最低でも10000〜20000は
派遣できたはずでただのイエスマンじゃない
再三の秀吉による上洛要求も拒否してたし
最期は腹を斬って自害したわけだが腹の中にあった
潰瘍を秀吉にどう言う意図かは不明だが送りつけている
ちなみに腹切後数日生きてます。
病気を苦にしての切腹説あるいは
秀吉に対する抗議の切腹説などが言われてます
44 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 03:33:44
>>43 丹羽って胃がんじゃないの?
腹きり説のソースは何?
45 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 04:00:50
三戦のノリやDQN史観は禁止だと
長秀は小心者だから、重病だから秀吉の元に行けなかっただけですよってことを
証明したくて、疾患だらけの内臓を秀吉に送った
自分の死後、息子の長重が取り潰されるのを極度に恐れて
「息子は一万石でもいいから丹羽の家名は残してくれ」とも頼んだ
>>43 丹羽長秀は、小牧・長久手の戦いのあと、100万石以上加増されている。
大して働いてないはずなのにおかしいね。
>>44 『多聞院日記』天正15年4月25日条
「惟住長秀は(略)病死無念とて去十四日に腹を切り、終に十六(日)死了。」
ちゅうか有名どころだから、少しは自分で調べてみれば・・・。
49 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 08:48:50
清洲会議直後
三法師・・・・・・・近江国坂田郡
織田信雄・・・・・尾張国
織田信孝・・・・・美濃国
柴田勝家・・・・・越前国、近江国(伊香郡・浅井郡)
羽柴秀吉・・・・・山城国、播磨国、河内国
羽柴秀勝・・・・・丹波国
羽柴秀長・・・・・但馬国
丹羽長秀・・・・・若狭国、近江国(滋賀郡・高島郡)
池田恒興・・・・・摂津国
滝川一益・・・・・伊勢国(桑名郡・員弁郡・朝明郡・三重郡)
前田利家・・・・・能登国
佐々成政・・・・・越中国
細川忠興・・・・・丹後国
筒井順慶・・・・・大和国
蜂屋頼隆・・・・・和泉国
九鬼嘉隆・・・・・志摩国
宇喜多秀家・・・備前国、美作国
徳川家康・・・・・三河国、遠江国、駿河国
あとは?
50 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 09:59:25
51 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 12:30:46
たしか全部じゃないけど河内ももらってなかったっけ。
52 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 18:19:30
秀吉が清洲会議で河内の領有権を獲得していたとは知らなかったよ。
教えてくれてあんがと。
53 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 19:06:14
時は戦国だぞ
下剋上の時代だから乗っ取りもありだろ
織田家だって下克上でのし上がった家だし
三法師も関ヶ原で西軍についてるし
三法師は秀吉を慕っていて、乗っ取られたことなんか
まったく気にしてなかったというぞ
>>53 三法師はそのように養育されていたんだろ
一種の飼い殺しみたいなもんだったんではないのかな
彼が物の分別が付く頃にはかつて信長や信忠に仕えていた家臣達は
ほとんどが死んでいるか近くにはいなかったからね
55 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 20:27:23
家臣達は、家康側につくように説得してるけどな。
56 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:24:13
織田秀信(三法師)は、関ヶ原戦の処分で高野山で蟄居し、
5年後に同山で病死した。(享年 25歳)
家康も赦免して、1〜2万石くらい封じてやってもいいのに・・。
57 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:26:27
別に秀吉贔屓で西軍に参加したわけではない。
石田三成から高待遇で迎えられただけ。
それに岐阜城合戦の間際まで身に着ける鎧を選ぶのに時間をかけすぎて敗戦。
よーするに祖父以上の稀代のうつけ。
家臣は最強のうつけにさぞかし涙したであろう。
58 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 00:46:39
>56,>57東軍に与したら,どれくらい加増されたかな?
59 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 08:35:25
>>56 赦免する気はあったかもしれんけど早死にしすぎ。
大阪の陣まで生きてたら赦免されて、戦功を立てたことにしてもらって
小藩くらいはもらえたかもしれん。
>>58 働きによると思うけど重要な拠点の美濃に置いとくわけにもいかないから
辺境に20万石くらいで動いたんじゃないかな?
60 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 21:00:33
淀君は周辺に織田有楽斎や織田常真入道など、織田姓をもつ連中を集めていたから、岐阜中納言も生きていれば高野山から赦免後、大坂城に流寓し、
叔父信雄とともに開戦直前に退転し、徳川から数万石を安堵された一武家貴族としてほそぼそとつづいた可能性が極めて濃厚で有ります
61 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 21:05:23
「数万石」は「ほそぼそ」じゃなくて堂々たる大身だと思う。
織田信長の子孫で旗本になった家系は少なくない。
本能寺の変にかんする秀吉家康共謀共同正犯説ってどういうものですか?
63 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 21:44:45
織田秀信は、会津征伐に参加しなかったんだな。
小山軍議に出席していれば、「流れ」で徳川に味方できたのにな・・・。
64 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 22:03:04
流れで徳川に味方した場合、美濃岐阜から越前大野18万石に転封の可能性大
上杉征伐に織田秀信?
正直、こられても邪魔なだけだろw
66 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 22:20:21
越前大野だとまずいのか? 岐阜13万石から18万石だから、悪くないと思う。
67 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:41:59
織田・徳川同盟っていつまで続いたん?
68 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 23:47:41
秀信が生きていたら、というのはないと思う。
秀信の弟の秀則は生きていたのに、何の所領も与えられてないし。
さすがに織田家の嫡流を残すのはまずいでしょ。
69 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:01:44
サルが芯だ時に改名する(家信は無理かw)くらいの知恵はなかたんか?
70 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 00:10:10
せめて叔父である信雄のような強かさがあればなw
岐阜中納言は祖父信長の秀麗な容貌と芸術的才能を受け継いだに過ぎないとのことだから、家康の腹つもりでは、
いずれ高野山から赦免し、江戸に招き、数千石の扶知で御伽衆か高家として幕府の儀典掛になるのか一番ありうる筋ですな
秀信は暗殺なんじゃないかとも思う
信雄とか有楽とかどうでもいいザコと違って、秀信は織田家の正式な後継ぎだしな
家康が、こいつ担ぎ出して反乱する奴が出てきたら困ると思ったんじゃないかと
73 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 15:16:16
>>72 >家康が、こいつ担ぎ出して反乱する奴が出てきたら困ると思ったんじゃないかと
今更、誰が秀信を担ぎ出すんだろう?
秀吉に取り込まれた丹羽家や池田家、または森家かなw
あまりの戯けぶりに家康が哀れんで病死にさせた方がまだ説得力があるよ。
74 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 19:25:27
岐阜中納言は1580年生まれで、その後はしばらく安土にいて、岐阜13万3000石
に封ぜられたのは1590年。
75 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 00:26:51
>>74 安土城は、1590年まであったのか?
秀信は、対毛利戦の鉄鋼艦(戦後、行方不明)の「在りか」を知っているのかな?
>>75 朝鮮征伐の時に李舜臣に沈められたんじゃなかったっけ?
>>73 >秀吉に取り込まれた丹羽家や池田家、または森家かなw
前田家を出しもしない浅知恵君が人のこと笑えるのかな
ただ鉄の板を貼り付けただけの木造船でしょ>鉄鋼船
外洋航海能力もないだろうし、瀬戸内海の制海権を握った後は海にでも沈めたんじゃないの?
79 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 14:59:35
解体したはず
80 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 15:07:56
>>78 簡単に言うね。
鉄板が厚いと船が沈む。薄すぎると意味がないということで
試行錯誤を繰り返したらしい。大きさはペリー艦隊の軍艦と同規模。
「動きが遅いから包囲しよう」と考えた毛利水軍が集結するや、
大砲がドカン。圧勝だったそうだ。
81 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 17:25:05
ルイス・フロイス「日本史」秀吉について
「彼は優秀な騎士であり、戦闘に熟練していたが気品に欠けていた
身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主、抜け目無く狡猾
極度な淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺」
82 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 18:10:13
鉄鋼船はその巨大さゆえ機動力は皆無だったみたいだね
織田家得意の威圧するものだったんでは?どーんと構えて
港に近寄れなくしただけなんじゃない?
>>81 フロイスの頭の中(というか当時の欧州人の頭の中)
キリスト教を信仰するorキリスト教に好意的→頭いい
キリスト教を信仰しないorキリスト教に敵意→頭悪い
これを踏まえないとフロイスの著書は読む意味が無い
三法師が利口なら家康に泣きついただろうになあ。
少しは待遇がよかったのではないか?
85 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 21:37:52
フロイスは伴天連追放令を出した秀吉が、よほど嫌いだったのだろう
悪く書いている 反対に信長には好意的だ
が、日本の歴史家の捏造本よりは外国人の見た信長像、秀吉像が
正鵠を射ているとも考えられる いずれにしても貴重な資料だろう
86 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 22:12:41
江戸中納言秀忠・武蔵
本多中務大輔・安房上総酒井雅楽頭・上野
大久保加賀守・相模
榊原式部大輔・下野
井伊・下総
ふーん
88 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 23:01:08
吉法師ってどこ行ったのさ?
89 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 23:17:34
領地は少ないけど官位は中納言だからね。
かなり厚遇してもらっていたと思うよ。
90 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 23:31:35
この辺で、むくいを待てや羽柴筑前の辞世希望。
91 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 23:46:47
>>77 >前田家を出しもしない浅知恵君が人のこと笑えるのかな
浅知恵とは笑わせるね。
前田家も秀吉に取り込まれていることを知らないとはな。
君の無能さに恐れ入ります。
92 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 23:57:36
>>85 フロイスの信長に対する記録は、
生前は好感の内容が多いけど、
死後は天罰を受けたような悪意に満ちた内容に変わるよね。
>>91 ん?意味がよくわからない
それに77は前田が秀吉に取り込まれているのを知っているからこそ
なんでそこに前田がないんだと聞いているのでは?
>秀吉に取り込まれた丹羽家や池田家、または森家かなwより
前田や丹羽、または池田かなの方が話が通じやすいと思われ
94 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 10:07:49
>>93 >なんでそこに前田がないんだと聞いているのでは?
文をよく読め。脳内解釈で判断しないように。
95 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 10:14:01
秀吉の内通者前田利家なんか取り上げても仕方がない。
歴史に疎い人を喜ばせる気はないよ。
96 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 11:07:55
織田信孝(辞世の句)
昔より 主のうつみの 野間なれば
むくいを待てや 羽柴筑前
1583年(天正11年)5月2日
織田家家臣で幕末まで残ったのは前田、丹羽、池田くらいか?
98 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 11:48:24
99 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 12:38:47
丹羽はある意味潰れたけどな
100 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 12:40:13
丹羽が越前、若狭、美濃の一部120万石からわずか小松13万石に減封されたのは
何が原因だったんですか?
>>100 丹羽家臣が軍法に背いたとか
なんとか・・・
いずれにせよわけわからん理由です
理由なんかどうでもいいのです
要するに丹羽を潰せば織田政権簒奪は
完成です
102 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:32:31
103 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:47:33
104 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:48:52
細川家も、織田政権の丹後国主だ。
105 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 16:56:53
秀吉に朝廷が好意的なのは歴史的事実だろう 献金が多かったせいか?
尾張中村の百姓の出身で天下取になったのは奇跡みたいなものだが
出自については丹波の樹下というサンカの流れという説も有る
秀吉の時代に金山が多く発見され、産出量も激増した サンカが応援?
本能寺の変も朝廷と秀吉の連動作戦ということもあるのではないか?
秀吉の旗印の「ヒョウタン」が天皇陵の前方後円墳の形に似ているように思える
なにか、秀吉と朝廷は因縁がるのではないか?いくら戦国時代といえども
尾張の水のみ百姓の出で天下が取れるとは思えない
106 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 18:42:31
>>105 そんなに朝廷と仲が良い秀吉に征夷大将軍を与えなかったのは何故?
わざわざ伝統を壊してまで関白に就かせるのは朝廷として不本意なのでは?
107 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 19:03:22
征夷大将軍は、先例により源氏でなければならず、秀吉は源氏では
無かったので無理だろう 徳川は吉良の系図を借用して源氏を
僭称したようだが、、、
もともと鎌倉時代以降、朝廷の権威は失墜しており、財政状態も
ひどかったのを、秀吉が財政援助して、持ち上げて権威を高める
努力をしたのでやや復権したのだろう それほど大した存在ではなかった
信長が部下を集めて「おまえら天皇というのを知っているか?」と
尋ねたら部下はみんな「知らない」と答えた
そこで信長は「わしが一番教養がある、京に天皇というのがいる」のを
知っているといった 本当かどうかは知らんがその程度の存在だろう
秀吉にとっては朝廷を持ち上げて、自分の権威付けに利用する必要があった
秀吉が桐紋を使用し始めたのはいつだろうか?
また、桐紋を使うまで、秀吉が使っていた紋は何なんだろう。
>徳川は吉良の系図を借用して源氏を僭称したようだが、、、
前から疑問に思っていたのだが、足利支流の吉良の系図を借用(召し上げ)して、
なんで新田支流の得川の子孫になるんだろう。
足利と新田では、同じ清和源氏とはいえ、全然系統がちがうと思うのだが。
110 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 19:37:17
あくまで推測だが、三河で源氏の名門といえば吉良ということは
知っていたので吉良の系図を借用、直系は名が売れているので
系図のはしっこのほうにあった得川というのが良さそうなので採用
後日に新田系と判明したが朝廷に提出済みだったのでそのまま得川に
吉良と新田も多少はつながっていたものだろう
111 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 19:40:03
秀吉が摂家豊臣を創設したのは、今出川(菊亭)の入れ知恵なの?
>>109 今みたいに家系図が”史料”として取り扱われている訳ではないので、例えば清和源氏の世系を
知っているのは先祖伝来の系図を持つ家のみだったんだと思う。
系図調査しているとよく見られるのが、例えば清和源氏を称していても清和天皇からの世系が
書いてあるわけではなく、初代から記述が始まっているもの。
これはこの家に清和源氏の世系が伝来しておらず、苦し紛れに創作したものだろう。
吉良家の系図には清和源氏の世系はもちろん、得川(世良田)氏の数代についても記述が
あったんだと思う。
113 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 20:18:58
114 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 20:45:08
>109-110,>112家系図には直系(自分ち)だけでなく傍系も記載されてますもんね。
千葉家の系図に遠い親戚の葛西家があったりするし。
115 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 20:55:25
>>107 朝廷の官位を私称したり、源氏や平家の末裔を自称するくらいだから、
下級武士でも、「天皇の存在」を知っていたと思うぞ。
>106
与えようとしたが秀吉側が断った。有名な話。
>>116 そんな話しは知らんぞw
本当に有名なのか?
征夷大将軍にならなかったのは先に関白になったから。
関白になった時点では東海道〜関東を屈服させていないので
征夷大将軍になる資格がなかった。
征夷大将軍に共通するのは関東に何らかの地盤を持つことだから。
118 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:35:24
>>117 今谷明の受け売りしても恥をかくだけだぞ。
119 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:29:29
足利義昭の養子になろうとしたけど、失敗して関白になったと思ったが。
120 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 23:31:01
>>119 それは徳川幕府が広めた俗説だ。よそで自慢げにしゃべると恥をかくぞ。
121 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 00:47:32
信長は平氏を名乗っていたが三職推薦があった。摂家将軍もあったし、源氏でなければならない理由はないと思うが
122 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 01:00:08
岡野説は無視ですか?
123 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 01:59:00
秀吉が関白になりたかったから。
現職の征夷大将軍がいたから
将軍になれなかったんじゃないの?
足利義昭が織田軍に奉じられて上洛したとき
前任の足利義栄がまだ生きていて
すぐには将軍宣下が出なかったような希ガス
『征夷大将軍』『関白』、後者の方が字数が少なく覚えやすいからじゃね?
126 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 05:27:54
関白>征夷大将軍だから
関白になれそうな感じだったんで
征夷大将軍はやめたんでしょ。
127 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 06:37:11
征夷大将軍は所詮武士の官位だしねー
そりゃ関白のほうが断然上
128 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 09:19:42
秀吉は生きている間に統治機構の整備と
秀頼の関白就任を実現させておくべきだったな。
幼少だというなら秀秋でもいいし。
秀次を殺さないのが一番よかったけど。
129 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 10:33:01
秀吉のやることは唐入より徳川征伐だなw
秀吉は家康を臣下に加えたことで自己満足してしまったんだろうなw
130 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 12:07:57
>征夷大将軍は、先例により源氏でなければならず
まだこんな事言ってる馬鹿がいるのか。
家康を蝦夷移封すれば良かったんだよ
拒否すれば征伐の口実になるしね
132 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 12:40:44
>>129 @まず、家康に隠居を命じる。秀忠を廃嫡し、結城秀康に跡を継がせる。
A徳川領250万石を、徳川一族で分割相続させる。(秀康領は上野・武蔵・相模のみとする)
B家康の4男・忠吉と5男・信吉には子がいないので、豊臣家縁者を養子にさせる。
豊臣家って養子に出すほど縁者いるのか?
木下氏あたりのことを言ってる?
134 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 21:07:20
秀吉は豊臣株式会社の代表取締役でいられたら、
それでいいやって感じだよな。
自分以外の大株主がいても別にいいよって感じで。
家康も、徳川株式会社を株式交換で豊臣株式会社に吸収されても、
豊臣株式会社の大株主になれたから、それでいいと思ってたんじゃない。
秀長や秀次が死んで、唐入りするとか、
子供が幼年のまま秀吉が死ぬとか、
そんなことを秀吉に臣従した時点の家康は考えてなかっただろうしね。
135 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 11:34:56
というと家康は秀長・秀次が死んだあたりから天下を考えるようになったのか。
136 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 12:17:35
征夷大将軍ぐなっていっとしてそれで豊臣にどう影響するの?
滅亡まぬがれたりするわけでもないでしょ?
137 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 12:56:12
>>136 >征夷大将軍ぐなっていっとしてそれで豊臣にどう影響するの?
標準語でお願い致します。
138 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 13:24:00
136ではないが、
征夷大将軍になったとしてそれで豊臣にどう影響するの?
ではないかと。
136ではないが、
征夷大将軍グニャとしてそれで遠江にどう影響するの?
ではないかと。
140 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 13:45:16
ぐなっていっとしよう
141 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 14:52:00
136ではないが、
征夷大将軍群馬亭としてそれで遠江にどう栄光するの?
ではないかと。
142 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 14:54:57
good night? it?
144 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 16:56:13
136ではないが
征夷大将軍なぐってよしとしてそれが豊臣にどう影響するの?
145 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 17:36:40
146 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 17:39:34
136ではないが、
征夷大将軍がない帝都としてそれは豊臣にどう影響するの?
ではないかと。
147 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 22:22:41
136ではないが、
征夷大将軍が泣いているとしてそれは遠江にどう影響するの?
ではないかと。
148 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:17:15
>>136よ、
どれがぐなっているのか早く教えて丁髷
149 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:27:00
136ではないが、
征夷大将軍グニャったがイッたとしてそれで豊臣にどう影響するの?
滅亡まぬがれたりするわけでもないでしょ?
だと思われ。
150 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:37:36
滅亡まぬがれたりする確率が3上がった。
151 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 01:59:45
知力が1上がった。新しい呪文をおぼえた!
152 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 07:55:55
バルス!
153 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 10:07:27
>>136 おまいちょっと人気者だからっていい気になるなよ?
リアルめがねっ娘門脇が可愛いということを4億円持ちのびびりに教えたうえで、
ハピマテ10万枚買ってくれと要請したんですよ。断られましたけどね。
やべ
このままでは
ネタスレになってしまう
えーっと
えーっと
なんかネタない?
何だかんだ言っても信雄は家系が残ったんだからえらい。
叔父有楽斎の子孫の2つの小大名家も、途中で信雄の子孫が継いでるし。
やはり中途半端に有能じゃなかったのが勝因だろう。
157 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 00:12:08
家康の失敗は、関ヶ原合戦後に大坂城西の丸を返上したことだな。
大坂城から引き揚げたから、豊臣家をコントロールできず
老骨を鞭打って冬の寒空の中を出陣する羽目になった。
西の丸に1万の兵と本多正純を常駐させれば、天下の大戦にはならなかったはずだ。
>>157 それは失敗とは言えないだろう。
家康としては、自分の存命中に豊臣家を滅ぼしておきたかったわけで、
別に戦争を回避するのが目的じゃあない。
その後も淀君が豊臣家を仕切っていたら、大阪の陣がなくてもいずれは自滅したかもしれないが、
それより先に家康が死んでたかもしれないわけで、家康不在の徳川家と秀頼健在の豊臣家なら
諸大名の中から豊臣方に与するものがでないとも限らない。
むしろ、関ヶ原の責を豊臣に帰することができなかったことの方が誤算じゃないのか?
159 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 00:47:22
西の丸を返上せずに大軍を常駐させておけば、文書一本で主戦派の大野治長
を追放できたよ。金蔵も密かに使えないから、浪人たちも集められない。
160 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 01:35:31
大野治長を追放できても豊臣秀頼は健在だな。
161 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 02:23:40
豊臣自体潰したいのに戦争おきないと意味ないだろう。
江戸時代に豊臣家があったら、さぞかし迷惑だろうな。
いずれ家なき子たちに良いように利用されて終わっただろうし。
家康としては存命中に有力な織田家(幸い秀吉自ら・・)や豊臣家は潰しておきたかっただろうね。
豊臣に関しては、三奉行のへたれっぷりが全てを決したな。
特に増田。8000は動かせたのに・・・
改易のち切腹とはねぇ
164 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 04:30:09
そもそも徳川家に敵対してまで豊臣家を盛り立てようという忠臣は石田三成と宇喜多秀家くらいなのでは?
福島正則や加藤清正にいたっては忠臣面しているが徳川と戦う気は毛頭無いしな。
注・・・外様は抜きでね。
165 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 06:36:47
大坂城西の丸を家康が掌握し続けていれば、曹操が後漢の献帝を実質軟禁するように、
家康が秀頼を監視することができたはず。
戦争が起きて、危うく死にかけて馬印も一時行方不明www。
じゃあ秀吉は宇喜多に200万石くらい与えとけばよかったんじゃないの?
>>166 秀家には100万石、三成には大阪近くでせめて60万石あたりでもいい仕事してそうだ。
あとどうせなら陸奥には上杉でなく前田を行かして、上杉は越後から能登越中までの
150万石にすればよかったのに。そうすれば大阪近くで仲間いっぱいで。
上杉征伐とか言ってもすぐ近くならああもうまく行かないだろうし。
168 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 09:45:52
秀吉は自分が死んだ後こうも皆が寝返ると考えなかったのかな?
一応五大老・五奉行を作って体制維持は考えてはいたけど
国内に敵を多く残したまま朝鮮に行ったのは失敗だったな。
豊臣は公家として生き残る算段はしなかったんだろうか?
幸いにして摂家の家格を持ってたわけだし、徳川に疑いを持たせないために
近衛大将をかけられない大臣家くらいに家格を落として2万石くらいの領土で我慢してれば
幕府もわざわざ潰そうとするとも思えんのだけど。
170 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 11:44:26
>>167 >秀家には100万石、三成には大阪近くでせめて60万石あたりでもいい仕事してそうだ。
>あとどうせなら陸奥には上杉でなく前田を行かして、上杉は越後から能登越中までの
>150万石にすればよかったのに。
大谷吉継に越前・加賀を与える。
宇喜多秀家に駿河・遠江・三河・甲斐を与える。
佐竹義宣に常陸・下野を与える。
これで少しはマシになるかな?
>>169 >豊臣は公家として生き残る算段はしなかったんだろうか?
淀君には無理だと思う。
171 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 13:27:19
秀吉が豊臣VS徳川を予想していたとして、
宇喜多秀家、小早川秀秋、佐竹義宣、大谷吉継、上杉景勝、石田三成、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、毛利輝元
VS
徳川家康
負けるわけないし
172 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 13:48:11
まあ豊臣が生き残るには大阪を出るくらいしか
方法がなかっただろうな。
プライドが許さないだろうけど。
173 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 14:03:28
>>171 五大老の前田の名が無いのは信用できないからかな?
秀吉は前田を信用しまくりだろ、秀頼の後見人に任命してるし
175 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:35:36
>>171 >秀吉が豊臣VS徳川を予想していたとして、
それを予想できたとしても・・・
石田三成や小西行長らの派閥と福島正則や加藤清正らの派閥の仲が険悪で、
豊臣家の内部分裂を引き起こすことは予想していなかったんだろうなw
あと、金吾が徳川家康に協力することも予測はできなかっただろう。
>>174 >秀吉は前田を信用しまくりだろ、秀頼の後見人に任命してるし
芳春院や利長は前田家安泰のために徳川家との争いを避けているがw
176 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:41:41
>>175の追加
っていうか、そんなに利家を信頼しているんなら、
加賀・能登・越中の他に越後も与えて関東の監視でもさせておけば良かったんだよ。
177 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 15:44:23
ただ豪族連合体のような政権なのだから瓦解しやすいことはわかるはず。
北関東に堀秀正(?)を配置しようとしたともいうし。
スレ違い
179 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 16:01:55
180 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 16:03:59
秀吉が秀頼に残したモノ・・・
1・・・百姓の血筋(血が入っているのかなw)
2・・・内部分裂の豊臣政権(石田vs福島 淀君vs北政所)
3・・・律義者面した徳川家康
181 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 16:09:00
秀長様さえご存命であれば
182 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 16:15:01
よーするに前田利家は豊臣秀吉に作られたオナペット!
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のように自らが勝ち取るような生き様は全く無い。
自分の得意な処刑執行や裏切りによる非人の手段で成り上がるような生き様を演じている。
ナンバー4とは認められない。
183 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 16:16:27
184 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:07:03
秀長秀次利家あたりが長生きしてればな。
それでも家康の圧倒的寿命の前では無意味か。
185 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:17:57
駿河に中村式部一忠、甲斐に浅野弾正少弼長政、越後に堀丹後守秀治、野州宇都宮に蒲生飛騨守秀行、常陸に佐竹右京大夫義宣
186 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:18:40
ただ秀吉は家康がそうでるとは思わなかっただろうからな。
朝鮮を占領して家康を転封すれば良かったかな?
187 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:34:21
家康をおらんかい400万石に加増転封していた公算が極めて濃厚
さすがの家康も泣いて嫌がるだろw>朝鮮半島への転封
189 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:53:24
そうとも言えない。
家康なら明と手を組んで豊臣政権を打倒!
実際にやったら歴史上最低の人物に成り下がるがw
190 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:31:44
言葉も通じない地に飛ばされたら、領地を安定させるだけで一生終わる
だろ。それに明と組んでも日本に勝てるわけない。元寇の時代とは違う。
日本兵と朝鮮、明兵とは洗練度がまるで違う。鉄砲の保有量も桁違いで、
明兵5人でようやく日本兵1人と相対できるぐらいの差があったろう。
しかも地の利は今度は日本側にある。家康を朝鮮に飛ばすのは
一つの案だろうな。
191 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 19:23:56
>>190 >日本兵と朝鮮、明兵とは洗練度がまるで違う。
それほど差があるのなら唐入りが失敗したのは何故?
まあ朝鮮討伐などしないで
イチャモンつけて徳川攻めをすれば良かったのにな。
193 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 20:47:55
明軍に勝てるわけないもんな、日本軍は。
むこうは焦土戦術のプロだもん。
日中戦争と同じ。
対外戦争はただ戦争で勝って敵軍追っ払らえば勝利というわけにはいかないからね
元も清も戦争すればだいたい勝ったけど、完全に中国を征服するにはかなり時間をかけているし
元も清も、人間よりも多くの馬を保有する軍隊で、
羊を連れて自給できるような連中だから。
焦土戦術に強いっていうのが中国相手に戦争して勝つ条件だな。
196 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 21:45:03
>>190 妄想に凝り固まるなよw
いろんな人の意見に耳を傾ける力をつけろ
197 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:26:33
織田信雄を尾張・伊勢から除封したあとには石田三成を中部探題として尾張100万石に封ずるべきであった
198 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 00:31:56
秀吉の権力Maxの1592頃に家康に言いがかりをつけて攻めても、
東北も安定してないから死ぬまでには戦乱は終わらないだろうね
家康に250万石あげたんだっけか
あげすぎだ
毛利の弱体化が優先事項だったからな
250万は移転後開拓しまくってで当初は150万くらいじゃなかったかな?
家康が関東入府から殖産に心を砕いたのは事実だが、
そんな10年かそこらで石高が倍増するわけないでそ
「権現様が来るまでは江戸は鄙びた漁村だった」と同じプロパガンダ
203 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 07:12:31
>>193 196
いやあの、189は「朝鮮に飛ばされた家康が明と組んで日本に攻め込む」
ということを言ってるんだろ。おまいらこそ文をよく読め。
それなら日本勝利は確実だと思うが。まあ、すでに弱体化していた明が、日本に大軍を
派遣する力すらあったは思わないが。遠征する力すらで勝てるとは思えないが。
それに明兵より日本兵が強いのは事実だろ。それは唐攻めでの戦績が証明してる。
アウェイの日本で焦土戦術て・・・。あんまり自虐史観に凝り固まらない方がいいよ。
204 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 07:19:20
もちつけ、途中おかしくなってるぞ・・。
まあ、確かに、逆に明が日本に攻め込んだとしても、まず勝ち目はないだろうな。
元寇の昔ですら後半戦は日本軍に盛り返されてたくらいだし。
>>203 スレの流れからいえば、191の唐入り失敗理由に対する返答じゃないのか?
206 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 11:18:33
それななら
>>190の答えも変だろう?
妄想が入りすぎているしなw
208 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 12:45:09
209 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 12:51:52
江戸末期の石高
徳川・松平家が断トツで
支藩含めた外様実高ベストテン
一位前田家、156万3千石
二位伊達家、111万3千石
三位毛利家、100万1千石
四位池田家、90万8千石
五位島津家、78万8千石
六位細川家、71万6千石
七位黒田家、57万9千石
八位佐竹家、41万2千石
九位蜂須賀家、40万9千石
十位は鍋島家といいたいところだが、意外な伏兵、
真の十位は有馬家、36万6千石
鍋島家は十一位でした。
210 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 14:59:21
なんか話がややこしくなってるな・・・よし俺が収給してやろう。
まず、
>>187が、朝鮮に家康を飛ばすという構想を考えた。
そこに、
>>189が、その朝鮮に飛ばされた家康が、明と結んで、日本に攻め込む
という仮説を持ち出した。それに対し、
>>190が意を唱えた。
その意見に対し、明兵がザコとののしられてることに憤激した
>>191が
>>193が、
叩く。そこから、なぜか、唐攻めが成功したか否か?という流れになる。
そこへ
>>203が、
>>190はこういうことを言いたかったんじゃないか?という説明をする。
誰と誰が同一人物で、誰が妄想家で、誰が自虐的日本人で、誰が間違っていて、誰が正しいかは
とりあえず抜きにして、種々のすれ違いがあり、まあ、こんなややこしいことになってしまったわけだな。
212 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 16:36:02
清国成立のときの明の兵を見れば、強いか弱いかははっきりする。
明は李自成の乱で滅んだんであって満州族が滅ぼしたわけではないからな
何此処、雑談スレ?
215 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 11:07:29
雑談スレに成り果てたな
豊臣家に話が言ってるしな。
このスレの趣旨は、
いつ、秀吉が織田家に対して臣従の礼を取らなくなったのかって話。
織田家家臣をどうやって、豊臣家家臣にしたのかってスレだったはず
信長死んだ瞬間に思ったんじゃね?
あの当時とすればもう老境にさしかかってたし
秀光にかぎらず、信長UZEEEとは内心おもってる配下おおかっただろう・・・。
218 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:24:38
柴田勝家を倒したときかな。
旧織田の幹部が全て従っているんだし、
織田の家は残っているけれど臣下の礼などしなくなっただろう。
信長も晩年はただの石っころを「これは俺の分身で神だ、みんな拝め」って言ったり
いきなり光秀の領地取り上げて、自分の領地は敵攻めて取れ
取れなかったら知らんって言い出したり、かなり耄碌してきてたしな
まあうざいことはうざいだろうな
220 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:43:44
>219その話、信じてるの? プッ
織田家は信長以外はすべて無能の馬鹿ばかりだから
秀吉が天下取ったほうが安定する
222 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 15:15:47
>>221 それは豊臣政権も同じことが言えるのでは?
内部抗争がある分だけ豊臣政権の方が悪いがw
223 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 15:59:43
徳川政権の場合はどうなんだといいたい。
その「安定」させることができる秀吉を家臣に持つ織田家のほうが
安定しそうな気がするのはおれだけか。
1588年に後陽成天皇が聚楽第に行幸した時、秀吉は諸大名に
朝廷や関白秀吉に違背のないことを誓わせた誓紙を提出させてる
この時明確に秀吉>織田家の序列が成立したんじゃないの?
本能寺の変の黒幕は秀吉と利休。
さらに毛利の庇護を受けた義昭と正親町天皇を通じて
光秀を煽り、信長と信忠父子を葬った下手人。
きっと、秀吉や光秀以外にも信長についていけない
大名や豪族が結構多かったんだろうと思う。
228 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 16:38:05
秀吉はともかく利休とは・・・
それなんて へうげもの?
230 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 21:41:15
>>227 千利休は明智光秀と同一人物という噂がある
なんでも秀吉と光秀は気脈を通じ合って本能寺を起こしたとか
そう考えれば、中国大返しの早業も考えやすくなる
その後、謀叛者としての汚名を被ることになった光秀は、利休として政権の近くにいることになったとか
231 :
日本@名無史さん :2006/02/22(水) 22:00:04
>>230 光秀の顔は、旧織田家の家臣や織田一族、公家なら知っている。
それは有り得ない。
天海=光秀を唱える説を信じる人に言いたいが、
江戸城中で天海が細川忠興・織田信雄に会ったらどうするの?
232 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 22:09:21
剃髪してそれなりの格好して、あまり表に出なければ騙せないこともないだろう。
天海は知らん
利休と天海が同人物というのはトンデモ??
シャアとクワトロが同一人物というのはトンデモ??
235 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 18:22:36
秀吉はよっぽど芝居がかったことが好きな人なんだろうな。
三法師をかついだふりして権力にありついたり、
諸将の前で「徳川三河守、上洛大儀」と言い放ったりしてるし。
猿芝居を見て秀吉を偉大な人間と勘違いするのは浅薄な人間にちがいない。
光秀と共謀して信長を倒し、その光秀を討ち取ったふりして天下を取り、
その後、光秀を千利休としてかくまうぐらいのことはやりかねんな。
秀吉と利休が不仲になったのは、利休が光秀だとすれば、
秀吉だけ脚光浴びてるのが面白くなかったんだろうな。
それ以外、利休が秀吉に反抗する理由はないし。
天海も光秀だったとすれば、「国家安康」の難癖を考えついたのは天海だそうだから、
やっぱり秀吉のことはあまりよく思っていなかったということだろう。
236 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 18:55:23
DQN史観は禁止と1に書いてあるぞ
俺は逆に家康が好きになった。
あれじゃ、政宗が秀吉嫌いになるのも頷ける。
238 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 20:12:43
>>236 DQN(Dumbly Qualified Negligence)=「愚かにも(正しいものと)認定されてしまった怠慢、あるいは失敗」
DQN史観とは、従来の秀吉像に安住している人たちにふさわしい。
秀頼には悪いが、親の今まで極悪行為の因果応報と思ったほうがいいかも・・・
仮え、豊家が悲惨な滅亡を遂げようとも・・・
なんだか家康がいい人に思えてきた。
いい人に見せるのも家康の才覚
織田を乗っ取ったんだから、徳川に乗っ取られても仕方ない
秀吉派はこの単純な論理を永久に納得できない
ドラえもんの話でもあっただろ?
同じ失敗をしても普通に叱られるタイプと、「こいつならしょうがないや」と何故か憎まれないタイプ
生来陰湿で不人気な家康は前者で、陽気で機智に富んだ秀吉が後者だったということ
理不尽だとは思うが、世の中そういう風になってる
だから、勝手にそういう風な理屈をつけて理解しようとしないということ
45万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
駄作か傑作かは、買って自分で確かめよう
245 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 02:54:47
結局、結論は何なの?
秀吉が天下を取ったのは、どう見ても乗っ取りでしょ?
世論は批判しなかったの?
筋では信長の息子に天下を取らせるべきだったのでは?
この世論の批判を秀吉はどうやって回避したの?
欲のある奴を取り込んで懐柔。
247 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 20:40:58
時代の流れだろうね。
これには誰も勝てない。
248 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 07:56:39
信長の息子を君主にして、秀吉はただの後見人になるべきだっていう
意見を強硬に主張していた大名はいなかったのですか?
秀吉のライバルは柴田勝家ですが、柴田はどういう主張を持っていたのでしょうか?
249 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 07:58:22
信長の息子は最後まで秀吉の主君だよ。
その点では秀吉は謀反をしたわけではない。
250 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 08:03:09
と、と。息子じゃなくて孫ね。
251 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 08:53:54
>>249 そうなんですか?
すいません、最終的な秀吉の身分ていったいなんだったんですか?
公家的な官位としては、関白なんですよね。
大名としては、どういう地位だったんですか?
それにたいして、信長の孫の最終的な地位は?
>>245 当時は下克上の時代だよ。
器量ある者が上にたつのが当然とされた時代。
もちろん他方で世襲の筋目への尊重という観念
もまったくないわけではないが、主君を上回る
実力者の配下が出た場合、その配下が乗っ取る
ことへの抵抗は薄かった。
そもそも信長にしてからが主筋の清洲守護代家、
斯波家を潰し、足利将軍家を潰して天下の主と
なった(完全ではないが)人間。その他の数多
の当時の戦国大名は皆似たようなことしてのし
上がってきた連中だから抵抗感は薄いよ。
ま、秀吉自身がそのことをよーく自覚していた
から、自分の死後幼い秀頼を残す際に見苦しい
までに家康その他に泣きついているわけで。
家康が3年程で将軍職を秀忠に譲ったのはそうし
た流れを断ち切る意図だね。
253 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 10:17:58
>>252 なるほど。
けっきょく、秀吉が一代天下で、家康が200年の幕府を築けたのは、
有力大名を生前につぶせたというのが大きかったのかな?
秀吉→家康を関東に追いやったが、ついには潰すことができなかった。
家康→豊臣家を生きている内に、潰すことに成功。
この違いかな?
家康だって、他の有力大名を残したら、死後天下を奪われた可能性もあるのかな?
>>253 当然そうだろうね。
あと後継者がしっかりした成人だったということはとても
大きいだろう。信長の場合は信忠が一緒に死んだのが決定的。
誰もが認める後継者だったからね。その後残ったのが幼い
三法師と他家に出されてた信雄と信孝だからあんなになって
しまった。秀吉の場合は言わずもがな。
ちなみに家康は遺言でしきりに西国大名を警戒した言葉を
残している。あれだけやってもなお不安だったんだろ。
島津とか毛利とかがいたからね。特に島津は無傷だったし。
後継者は秀次でよかったのにな。
凡庸とはいえ秀吉死去までには関白としての在任期間もそれなりに出来るし、
跡継ぎも既に生まれていて不安も無かったのに。
一代成り上がりだから体制維持よりも自分の血統による継承
のほうが大事だったんだちょ。
257 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 08:37:32
ようするに、秀吉が豊臣家の政権を長期化したかったら、家康を意地で
潰すしかなかったって訳か。
現実問題として、秀吉は生前中に家康を潰すことはできたの?
そこまでは強権を振るう力はなかったの?
秀吉が朝鮮出兵をせずに、難癖つけて、家康を攻めていたら歴史はどう
なっていただろうか?
>>257 そんでも幼い秀頼残して秀吉が死んだら、やはり天下は争乱に
なる可能性がある。家康が生きてる場合よりは可能性は低いが。
足利義満みたいな例もあるから、三成あたりが補佐して秀頼
成人までもたせる可能性もあるな。もっとも秀頼が義満と違う
のは、南北朝時代はまだ下克上が徹底しておらず、足利家の
正嫡という立場に現実的アドバンテージが十分あったという
点だな。
259 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 11:24:45
age
家康を潰すより理想的には五大老そのものを作らない方が良かった気がする
将来的に第二、第三の徳川が現れないとも限らないからね。権力を持った大大名は危険だ
261 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 11:52:43
>>260 なるほど。
現実的に秀吉は大名連合のリーダーでしかなかった。
それにたいして、家康は、かんぜんに他の大名に対する
徳川家の支配体制を確立した。
>>260 五大老がなかったら、豊臣的秩序そのものが存在しないということを意味すると思うが
263 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 15:15:26
>>262 明徳の乱のように、秀吉みずから出陣して家康を成敗すべきだったね。
徳川家が消えれば、豊臣政権は磐石だ。
(五大老の前田と宇喜多は、譜代同然)
話が脱線しすぎ
265 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:04:53
小牧、長久手のとき、どんなに犠牲を払ってもデブ康をつぶせなかった
ものだろうか。豚康が小牧山城に立てこもったとき、10万対8千、その差
12倍。城攻め3倍兵の法則から言っても、それほど堅城ともいえない小牧山城
を力攻めで落とすことはできたのではないかとも思うが。
266 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:12:09
>>265 あの時は、丹羽長秀・佐々成政に離反の動きがあった。
紀伊の根来・雑賀衆も大坂城付近まで進出している。
毛利輝元も秀吉を主と仰いでいるとはいえ、まだ親しくはない。
長期戦は、秀吉にとって不利だ。
267 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:13:40
秀吉の方針は、海外領土を獲得して外へ外へと拡張することだったから、
徳川をつぶすとか、そういう仮定はそもそも考え及ばない。
結果としては失敗に終わったが、その方針自体は間違いじゃない。
むしろ、国際的にみればそちらの方が常識で、外国から見て異常なのは
むしろ家康。だから、徳川をどうやって滅ぼすかより、どうやったら
海外領土を獲得できたか(シナチョンにこだわらず)のほうを語りあった方が
いいのではないか?
268 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:14:51
>>267 もちっと海軍の充実を図りたかったね。
世は大航海時代なんだから、海軍で東シナ海から
インド洋にかけてを押さえて拠点の海港をも押さえ
て交易で利益を図れば良かったのではないかな。
大陸押さえても実は大して利益もなかったからね。
271 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 16:55:41
出兵直前にイスパニアにふられたのが痛かったな。
イスパニアの軍船を使って明本土に上陸してれば相当展開が変わったはず。
あと、琉球、台湾を先に征服して交易で力をつけたり、あとは、
>>270のいうように、
ヨーロッパ諸国のトレンドに倣って、海軍力を充実させ、東南アジアやアメリカ大陸を
目指すというのも考えられる。
小牧、長久手のときに、家康と秀吉がガチンコで戦ったら、やっぱり家康が苦しかったの?
なんか概説書では、秀吉のほうが戦いを嫌ったみたいだけど。
でも、当時の内に意地でも、家康を潰していくべきだったように思う。
>>266みたいに、戦略上、断念せざるを得なかったんだろうか?
>>272 はっきりいって当時は旧織田家の連中は秀吉のことなんて
なんとも思ってなかった。むしろ同僚のくせに自分らの盟主
みたいな立場になったことを嫉妬してたろう。
よって長期戦になったら秀吉の勢力が足下から崩れる
可能性が高かった。
なので秀吉にしたら家康と戦いたくないし、潰す余裕なんて
全然なかったということだと思う。
274 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 19:14:15
丹羽長秀の所領は越前120万石。
佐々成政の所領は越中38万石。
秀吉と家康が戦っている時に、
丹羽・佐々連合軍4万が京都を攻めたら大変だったと思う。
戦後、佐々家は征伐され、丹羽家は120万石から4万石へ大幅減封を命じられた。
275 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 20:23:37
秀吉は家康を暗殺してしまえばよかったんじゃない?
それができるんならその逆もあるってことで
家康が不振な死をとげたら、上杉・島津・毛利(小早川)あたりは明日は我が身という感じで
豊臣政権への不信感が増すだろうな。
279 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:04:01
>258
南北朝時代だとしても一代成り上がり百姓の孫という立場の幼児秀頼に
そこまで尽くすやつはいなかっただろう。
自分の権力や利害のために秀頼をたてるというのはあってもね。
秀頼は秀吉の孫じゃなくて息子だが・・・
どうも信長を殺したのは秀吉のような気がして最近ならないのだけどさ。
自分が直接殺したのではなく、一緒に天下を取ろうといってそそのかして
他人に殺させておいて、その後口封じに自分が殺す。
考えられなくもないでしょう
> 281
というよりも、朝廷や将軍が動いているのを知っていて
あえて直接手を下さず動くチャンスを狙っていたんじゃないかと思うよ。
だから、柴田勝家よりも早く弔い合戦に参じ、
家中で優位な立場に立てたんじゃないかな?
283 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 12:25:13
そうなんか
秀吉黒幕説か。
よく聞くけど、いつも思うのが明智はなぜ人質を取らなかった
のだろうか。
誰と共謀したとしても人質を取ると考えるのだが。
こんなことをやってハシゴを外されたらたまらん。
285 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:28:01
秀吉がいろいろと情報操作や光秀を精神的にノイローゼに追い込んで挙兵させたという可能性が濃厚
南京城攻略の折、降伏した中国兵数千人を城壁の傍らに立たせておき銃剣にて全員を刺殺した時の司令官は
昭和天皇の叔父で天皇に顔がそっくりの朝香の宮と言う奴だ。
南京大虐殺は天皇家の命令で行われたことは明らかだね。
そうやって在日である天皇家は、日本の名誉を著しく傷付けるような指導を日本国民に対してして来た訳だ。
そんな天皇制にしがみ付いている奴はバカか狂人かのどっちかだね。
あるリベラルな知識人が二十年ほど前に、先の戦争は国民にも責任があると言ったことをヒントに、
天皇には責任が無いみたいなズレたことを言い出した右翼がいるが、
国民主権国家となってから、その天皇制を廃棄しないでいたことは今度は本当に国民の責任である。
287 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:56:49
毛利攻めをしてるときから、信長が光秀に討たれることをしってたんでは?
だから、あれほど用意周到に準備して中国大返しができたのでは・・
信長が討たれたのは、朝廷や義昭や光秀が画作してたからというのが有力では?
秀吉はそのことを知っていて利用しただけだったとか・・
288 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:03:30
正直、光秀を討つ事によって、秀吉は織田家ナンバー1の柴田勝家と、ようやく
対等になれただけだよ。
そのあと、清洲会議での策略やら、信長葬儀やら、賤ヶ岳やら、色々ステップを
踏まないといけなかった。
正直、信長暗殺をやるなら、もっと待つべきだった。
毛利を討った後であれば、上杉相手に苦戦している勝家を尻目に、秀吉が
織田家ナンバ−1になる。
そこで信長を暗殺すれば、もっと楽に天下が手中に納まったはず。
正直、柴田勝家のほうが先にとって返す事ができたら、秀吉のほうが織田家
から放逐されていたよ。
>>287 もし秀吉がなんらかのトラブルの匂いを感じて大返しの準備をしていたのなら、
そのトラブルの匂いの元は光秀周辺というよりは、
京都見物中の家康周辺に対して感じてたんじゃないか、と密かに思ってる。
根拠はないがw
290 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:34:55
くだらない陰謀説って、まだすたれてないだな。
まあ、可能性を考えれば何だって妄想することは可能だけど、
どれも状況証拠にさえもなってない。
>>287 大返しが出来たのは、秀吉が毛利との情報戦に勝って、
毛利と講和が結べたからで、そんなことはありえんが、
あらかじめ本能寺を知っていたとしても、毛利が本能寺で
信長親子が死んだことを知っていれば講和はなく、
上杉と戦っていた柴田のように簡単には京には戻れない。
そうなれば、すでに丹波、山城、近江を制圧した光秀は、
元々の組下武将が多い畿内も簡単に掌握し200〜300万石程度
の勢力になるので、秀吉単独では対抗できなくなる。
また、講和を結んだ後でも、本能寺を知った毛利が追撃すれば、
大返しはなかった。
291 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:47:58
講和後、本能寺を知った吉川元春が追撃を主張したが、小早川隆景が止めに入ると予測はできず、やはり大バクチだった
292 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 11:40:59
光秀が謀反を起こすことを、余地してたとして、細川や筒井などと裏で秀吉がつながってたと思うしかない。
でなければ、あれほどの寝返りは、起こらなかったかと、細川や筒井は山崎の合戦で兵をださなかっただろ・・
しかし、大返しには、疑問がありまくるなんであれほどの速さで帰れたのかだ、大返しの途中で誰かに襲われるって可能性があるかもしれんし
秀吉自体が察知してなくても、黒田考高や秀長が用意をしてたかもしれんし。
毛利と講和できたってこと自体があやしいのでは?毛利より先に情報を得たのは、間者が秀吉につかまったからだろ?
それに、たとえ毛利が先に信長死亡の情報をつかんでいても反撃する余裕はなかったと思う。
293 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 16:37:41
秀吉一派が犯人。信忠もついでに殺す。信長救援に来た光秀に罪をなすりつけ討滅。死人に口なし。
朝廷には莫大な献納を約束して口止め。
真相を薄々感付いた信澄や勝家を あぼ〜ん して 歴史を改竄して一丁あがり。
294 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 16:46:48
光秀が安土城の宝物庫を開けて朝廷やら家臣やらに配ったらしいが、光秀はタダのコソドロかいな
もし仮に秀吉が真の黒幕だったとして徳川家はどこまで察知してたんだろうか!?
光秀を唆して主君を討ち主家乗っ取りなんて江戸時代の倫理観だと
武士の風上にも置けぬ外道だしもっと反秀吉プロパガンダとして広めて良さそうなもんだ。
296 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 17:31:24
中国をとっておきたかったのは、スペインに先駆けるつもりだったからでしょう。
297 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:57:13
298 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 00:52:19
もしさ、家康が信長暗殺を知ってたというより、共犯だったかもしれんね。あるいみ、長男を切腹させられてるし。
その恨みってのもあるだろうし
299 :
日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:43:47
俺はポコチン星人である。
300 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:06:18
え?
301 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 08:16:38
甲信奪取の手際の良さから見て徳川もグル
302 :
日本@名無史さん:2006/05/23(火) 16:31:15
>>49 清洲会議の所領再分配とは
「織田家の家臣だった秀吉など陪臣が、直轄領を得た直臣になった」
ということでいいのかな?
なんかドサクサ紛れにみんなして、織田家から独立したように思えるんだが。
織田一門もよくこれを許したなというか、許さざるをえなかったというか…
一体誰に対して直臣になったというのか
秀長なんかはともかく、勝家や秀吉は信長生前から直臣だったはずだけど
304 :
302:2006/05/24(水) 00:32:48
>>303 表現がおかしかったから訂正。
秀吉や勝家はそれまでは織田家配下の武将に過ぎなかったのが、清洲会議以降は
独立大名になったってこと。
秀吉や勝家は独立大名ではないよ。
三法師という傀儡がいる以上、織田政権内の有力武将だと思うのだが・・・。
>>301 甲信奪取の手際は悪いよ。
本当に手際がいいなら同盟国の北条家と若神子で長期対陣なんかしないだろう。
しかも初期の段階では数に勝る北条軍の方が優勢で徳川軍は新府城に籠城という状態。
結果も甲斐一国は抑えたものの信濃については切り取り次第・・・。
307 :
日本@名無史さん:2006/05/24(水) 07:46:30
数で圧倒的に劣ってるんだから長期対陣せざるえないでしょう
数で圧倒的に劣りながら真田を手懐け、北条の後背を危うくさせ
甲信を譲渡させたのは十分手際が良いと思うけど
結果的に甲信の大部分を手に入れて全国でも屈指の大名になったじゃん
形式的にも従属豪族から、従属の国持ち大名に変わっただけだろ
家忠日記なんざ、最初から信長様と家康という扱いだぞ
>>307 文の流れをよく読んでくれ。
グルなら手際が悪いということ。
グルじゃなければ家康はよく対応しているよ。
>>309 それだと同盟関係というより主従関係の方が近いじゃん
信長が死後、長益(右楽)も信雄(常真)も豊臣家の食客になったが、豊臣家(羽柴家)の主家であることには何ら変わりはないわけだがな。
秀吉が天下取ったのって天正11年と考えていいのかな?
314 :
日本@名無史さん:2006/05/27(土) 22:47:11
>>312 「主従」関係とはいっても当事者間がそう認識する間のみ有効な
非公式なもんじゃね?
主従逆転がいつかわからん
1588年
秀吉と織田家の関係は松永久秀と三好家のそれに似ているな。
>>317 そりゃちがうだろ
秀吉の忠誠心は織田ではなく信長が対象だっただけじゃないか?
久秀はもうなんつーかよくわからんw
わからんね
321 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 22:49:55
ほう
322 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:48:53
>>302 信長、信忠が死んで実質的に独立してしまったってことだろ。
清洲会議があってもなくても、家臣を統率できてなかったんだから変わらん。
323 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 13:53:39
諸大名も、秀吉の場合は後継者が信長の四男だから
万が一の場合も大丈夫だろと安心したんじゃないかな。
324 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 18:16:07
今、ものすごくおもしろいことを考え付いたのでまずはご報告。
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このスレにも、お役にたつとのことですので、はっておきます。 主
325 :
日本@名無史さん:2006/07/14(金) 10:54:21
なにそれ?
秀吉って人の好い顔の裏に、
すっごいものがとぐろ巻いている気がしてならないんだよね。
信長の側室(信孝の母)や信忠の側室を処刑したり(だよね??)、
罪もない秀次の妻妾や乳飲み子を含む子全て首切ったりしているし。
時代的には普通の感覚なんだろうけど、いい人を売りすぎていて、
反対にダーティーな部分が浮かび上がってきちゃう。
秀吉なら、平気で人や情報を操縦して思うままに操りそう。
もともと織田家に忠誠心なんか持っていなかったんじゃないかな。
どうも一枚かんでいるような気がしてならない。
素人考えでスイマセン。
>>326 織田家というより信長個人に対して忠誠を誓ってた。
織田家の譜代ではない秀吉は信長亡き後の織田家から天下を奪ってしまった。
まあ、そうなる要因を作ったのが信長なわけで、佐久間信盛や林通勝など古参の老臣を追放してしまい、秀吉の織田家乗っ取りを許してしまったのだ。
328 :
日本@名無史さん:2006/08/05(土) 15:10:57
そうかね
例えば、陶晴賢は大内家から枝分かれした家柄であり一族であるから、大内義隆に謀反を起こした後でも大内家の当主を立てており、あくまで自分は大内家の家臣であって滅ぼそうと考えてたわけではない。
毛利家だって、当主の輝元がダメでも小早川隆景や吉川元春は輝元をもりたてたし、上杉家の直江兼続にしても当主の景勝を守り立ている。
ところが光秀や秀吉の場合は織田の一族でもなければ譜代でもないから、織田家に対する考えが非常に軽い。松永久秀や伊勢宗瑞と一緒。
330 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 18:51:33
最期はみじめだったね。
「秀頼をたのむ、たのむ」と言いながら死んでいった。
五大老のだれかが自分と同じことをやるのでは、と心配でならなかったのだろう。
その不吉な予感は、みごと的中した!
331 :
日本@名無史さん :2006/08/09(水) 19:17:22
はげねずみ
因果応報って奴だが、主筋である三坊師(秀信)は秀吉に殺されていない。それどころが美濃一国安堵されてるから主家を重んじてはいる。
信長の嫡男・信忠は父の後を追い自害したが、次男・三男はどうかというと
次男・信孝は、伊勢の滝川一益や越前の柴田勝家と結び、反秀吉同盟を画策した首謀者なので、切腹させられ妻・娘・生母は磔。
三男・信雄は、天正十八年、北条氏降伏後、家康の旧領転封を拒否したため、領地没収及び下野国追放(以後、各地に配流されるが、後に許され御伽衆に加えられる)
いずれにしても、逆らってる。ところが秀頼の場合は、家康の一方的な言い掛かりで殺されてるから不憫。
家康は心底は秀吉に服従してなかったと見える。
333 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 02:21:36
織田家の子息から結果的に天下を奪った秀吉は主家を重んじてないと思う
天下取れそうな状況と地方大名の家臣では立場違うし
忠臣と呼べる人間じゃないのは確かだがそういうもんだろ戦国時代って
劉備も息子が雑魚ならお前が君主になれって言ってるぜカッコぶー
>>332 信長と秀吉は完全な主従関係。
秀吉と家康とは立場が違うだろ。
336 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 15:34:31
清洲会議の時点では、羽柴も柴田も形式的にはみんな織田の家臣ということはわかる。
秀吉が関白になった頃には、もう秀吉が天下人ってこともはっきりしてる。
問題はその間のどの時点で秀吉と織田秀信の主従関係が逆転したかってことだ。
いくら本を読んでも、はっきりしない。
337 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 15:37:25
ある日、突然、いままで家来だった秀吉に土下座させられるような激変があったのか、
それとも徐々に秀吉や周囲の態度が変化していって、気がついたら家来扱いになってるのか、
その辺の変化がよくわからん。
調べるほど好きになるのが信長
調べるほど嫌いになるのが秀吉
誰も調べないのが家康
339 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 18:52:03
逆だな、俺は。
昔は嫌いだったが、いまは好きになったのが家康
昔は好きだったが、いまは嫌いになったのが秀吉
昔もいまも嫌いなのが信長
340 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 19:10:46
>97
浅野は?
俺は
昔は嫌いだったが、いまは好きになったのが家康
昔は好きだったが、いまは嫌いになったのが秀吉
調べるほど好きになるのが信長。
英雄像って普通詳しく知れば知るほどイメージと現実とのギャップに失望させられることが多いけど
信長はそんなことにはならない。分け入っても分け入っても信長。
342 :
日本@名無史さん:2006/08/12(土) 21:20:47
もし自分が家臣になるんだったら、家康が一番安心して仕えられる。
調べれば調べるほど好きでも嫌いでもないのは変わらない天下人三人
344 :
天之御名無主:2006/08/12(土) 21:40:34
織田の傍系子孫です。尾張中村で生まれた百姓は大嫌いです。
見方を変えれば信長がこれまで推進してきた天下統一事業を継承したのが秀吉なんだから、その意味では、織田家の忠臣とも言えるんだけどね。
要するに、自分が仕えてきた人の遺産を壊す事が無く、さらに押し固めたと言ってもいいだろう。
それを保守しようとしたのが、石田三成だと思う。彼は出来れば浅野やら加藤やら福島やら豊臣子飼の大名にそっぽを向いて欲しくなかったはず。
豊臣家臣の分裂を利用して、織田家の継承者である豊臣家を壊したのが、徳川家康。
信長が一緒に天下取ろうぜと言ったのは家康だけ。
家康こそ信長亡き後に相応しい
信孝や信雄が亡父・信長の後を継いで天下人になれるとは到底思えないが。
それこそ土佐から長曾我部が、安芸から毛利が、越後から上杉が攻めてきて織田家はあぼーんだわ。
やっぱり秀吉が信長の後を継いだからこそ、土佐の長曾我部も、越後の上杉も、安芸の毛利も降伏してきたわけで。
本能寺の変前は、滝川一益の方が信長より関東管領として関東を任されてた事からして、秀吉より格上だったはず。
しかし、その滝川一益は北條に神流川で戦いを挑んで破れ、伊勢にノコノコ逃げ帰り、秀吉から臆病者呼ばわり(清洲会議には出席できず)された時点で、織田家での地位は秀吉の方が上になってた。
まあ、とっさに毛利と和睦・中国大返しをして主君の仇を討った秀吉と、敵に惨敗し関東を放棄した一益とは比べるのもおかしな話だけどね。
349 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 06:02:36
肥前の熊 「忠臣ヅラした者には気をつけましょうね」
完全に織田家主導の従属同盟(後期はもろ)だったのに対等の同盟であったかのように見せかける徳川史観にはうんざり
351 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 06:28:11
【梟の城】
自分は
昔から嫌いだったが、今は大嫌いになったのが家康(でも彼の業績は認める)
昔は大好きだったが、今はそうでもなくなったのが秀吉
信長はよくわからない
353 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 15:47:11
三法師はその後どうなったの?
>>352 漏れの場合は、
昔は大好きだったが、今はどうでも良くなったのが家康
昔は大嫌いだったが、今は大好きになったのが信長
昔はどうでもよかったが、今はそれなりに興味を持つようになったのが秀吉
高野山で死んだじゃん
355 :
日本@名無史さん:2006/08/13(日) 20:33:39
秀吉と織田宗家の主従関係が逆転した時期がいまいちはっかりしない。
織田家やかつての朋輩を家臣化した明確な区切りってあるの?
信長と家康の関係って同盟者というより主従関係に近いわな
上のほうでもレスしたけど1588年の聚楽第行幸だろう
その時諸大名は朝廷と関白秀吉に背かない誓紙を提出させられてる
秀信がその時いたかどうかは知らんが、信雄や織田家旧臣も全部署名してる
以前から官位で秀吉>織田家になったり、実質的な権力では秀吉が圧倒してたけど、
明確な主従関係逆転といえばこの時じゃないか?
358 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 10:32:38
>>357 やっぱりそうなのか。
学者がこの件についての論文ないのかな?
学会で論争するに値する重要論点だと思うのだが。
東洋史の方で曹操の簒奪過程についてならアカデミックな史学で手厚く論じられているのだが。
359 :
日本@名無史さん:2006/08/15(火) 11:22:11
上杉とか毛利が正式に臣下の礼をとった時期ってのも、よくわからん。
>>359 上杉、毛利が大阪城に来て秀吉に臣下の礼を取ったのはそれぞれ天正14年、天正16年
上杉家&毛利家の当主がそれぞれ秀吉に会いに上洛した年だな>天正14年、天正16年
こうして見ると毛利が「正式に」秀吉に臣従したのは意外と遅いな
本能寺の変で秀吉と和睦、四国征伐や九州征伐でも従軍してるからバリバリの秀吉派だと思ってたけど
362 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 11:34:33
秀吉って信長に何て呼ばれてたの?
はげねずみ
364 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 12:11:58
毛利と旧織田勢力って、和睦時点では対等なのかな。
それとも地方権力の毛利が中央政権である織田→秀吉と和睦するというのは、
中央の権威を認めて従属的な同盟関係に入るってことなのかな。
365 :
日本@名無史さん:2006/08/17(木) 12:45:35
皇太子夫妻はわずかな手勢のみでオランダに出かける。
366 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 08:13:57
まさか織田家の御一門が百姓上りの門前に馬をつなぐ事になろうとは
367 :
日本@名無史さん:2006/08/18(金) 13:00:16
織田家自体が中途半端な家柄だけどな。
守護代の家臣の一土豪にすぎなかったわけだし。
368 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 19:48:12
信長の毛利攻めというのは、対等の戦国大名同士の互角の戦争というよりは、
前右大臣で将軍にもなろうかという天下人による田舎大名の討伐だよな。
ならば、毛利氏は秀吉と講和した時点で、織田政権(当時)に臣属したってこと?
同様に柴田勝家と上杉の戦いも、中央政権による反抗的な田舎大名の討伐であって、
その時点では上杉側も織田政権を上位の中央権力として認めていたの?
369 :
日本@名無史さん:2006/08/31(木) 19:59:20
370 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 04:49:24
織田秀信は祖父の信長に容貌が似ていて、傾いた甲冑を着けてたらしいよね。
見てみたいけど現存してないのかなぁ…。
371 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 06:32:31
>>368無官の信長だから田舎大名の討伐とは言えまい,足利義昭は毛利家にいるし,
372 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 13:08:00
本能寺の変は、秀吉の陰謀っぽいね
373 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 13:20:18
うんこ
374 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 13:54:59
本能寺の陰謀が朝廷、光秀、秀吉、家康らが例え関わっていたとしても、
少数の伴を付けなかった事で、信長はオワタ。慢心していた時点で・・・
秀吉も家康を生前に対処できなかった時点でオワタ。
別に実力がある奴が知行を増やせて、名跡、世襲で実力もない奴が大禄でのさばるよりは。
(農民上がりの秀吉にとって、小早川秀秋など凡将だが一門を増やす為に大禄を与えているけど)
ただ統一過程、統一直後はともかく。
統一以降の政権としては、実力がある奴は排除(政権簒奪の恐れ、自らの政権が簒奪してるだけに、その怖さをしっているw)
だから、世襲の馬鹿殿(アホすぎると内乱がおきてしまうので、そこそこ凡人クラス)が外様だと運営はスムーズに。
375 :
日本@名無史さん:2006/09/01(金) 15:45:33
信長軍団に興味のある一人の工房としては、
羽柴の乗っ取りはたいへん許し難いものである。
それに対抗した柴田をはじめ滝川や三男信孝の勇気はすばらしい。
379 :
日本@名無史さん:2006/09/06(水) 18:26:14
ぼくは
織田家のQ太郎
380 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:40:42
俺は、昔は実直な正直者と信じていたが、今はそのイメージが崩れつつあるのが家康
昔は尊敬していたが、今は憐れみを感じるのが秀吉。
知れば知るほど、調べれば調べるほど、好きになっていくのが信長。
あと一つ、信長はあの世で、秀吉も家康も光秀に対しても、
恨んでいないと思う。三人とも恐ろしく働き者だから…。
381 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:45:46
382 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:55:13
豊臣秀吉
弟豊臣秀長
兄弟揃って甲冑調査で身長測ったとこ、身長150cmだと
383 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 00:56:35
岡村隆史と同じかよ。道理で猿と呼ばれるわけだ
384 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 02:53:01
>>380 おかしいな、家康は陰謀好きの狸親父というのが一般のイメージだとおもったが?
いいがかりをつけて秀吉もしなかった主君殺しをするだけでアウト。
信長が好きというのもわからん、信長は光秀より器量が劣るし、
誰も大内義隆が陶隆房より上だとは思わんだろう。
陶隆房を討った元就は秀吉のようなものだ。
>>384 他人の個人的な感想にケチつけてどうすんだよww
>>380は一般的とは書いてないだろ、どこにも。
あと、俺は信長厨じゃないが光秀よりも信長の方が器量が劣るという根拠は何だ?
386 :
日本@名無史さん:2006/09/14(木) 11:38:40
信長→トータス松本
秀吉(秀長)→岡村隆史(矢部っち)
家康(忠勝)→アンタッチャブル山崎(柴田)
>>382 歴史が動いたネタか。
伊達政宗の身長もそんなもんだから当時は特に小さいわけではない。
例外のひとりが藤堂高虎でデカかった。
大身の戦国大名に正直者なんて居る訳無いだろ。
戦国時代の平均って160じゃなかったか?
390 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:07:21
ひできちだけど気持ちよかったよ。三の丸のまんこ。
391 :
日本@名無史さん:2006/12/02(土) 10:45:24
信忠が自害してなければ乗っ取りはなかったはず
>>390 その時何が君の頭の中をかけめぐったのか。
393 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 19:01:41
秀吉は小物時代、信長に小便を顔面にかけられたとか。
垣根から男根を出す信長に顔射された秀吉。
この天下人二人の、あまりにバカみたいなエピソード好き。
394 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 19:57:07
秀頼は197pだぞ^^
395 :
日本@名無史さん:2006/12/04(月) 21:29:48
馬鹿
180cmだよ
で、家康は150cmだから
二条城の対面で、「これは殺してしまわねば」と決意したんだよ
140cmのチビだったら、飼い殺しですんだと思うけどね
三法師
奇妙丸
398 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 13:31:58
秀頼が180cm?
これって秀吉の子じゃないって事だろ・・
淀の父、浅井長政の体格は大きかったし、
小さい頃から栄養のあるもんばかり食べてそうだからでかくても不思議じゃない。
400 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 14:56:52
ざっとスレを一読してざっと適当にレスしてみる
本能寺の変で今までの語りつくされた陰謀説があるのだが
おれの妄想も聞いてくれ
信長が太政大臣希望、近衛前久が太政大臣に就任しその後辞任、そのときに信長を後任として推挙
まあこれは有名な説の一つではあるのだが
これで信長が事実上天下人として朝廷を使うことが決定した
まあその後の秀吉政権などでも朝廷を利用していることから朝廷路線は決定していたんだろう
そこで思い出してみて欲しい
光秀ってそもそも義昭奉戴論者であり幕府管領家でもある細川とも婚姻関係を持っている
もう有名無実となってしまった幕府の権威などというものはどうでもいいだろうが
実際に幕府を作るとなれば自分達が優遇されるだろうと思っていたのに朝廷となれば話は違ってきてしまう
ましてや幕府推進主義の光秀は優遇されないだろうと
信長を襲った後の光秀が一番待っていたもの、それはかつて一度は京都に信長と共に奉戴した義昭そのものなんではないのかと
まあおれのタラレバはおいといて
こっちのスレもなかなか勉強になりますよ
関白、太政大臣、征夷大将軍
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1157633344/
401 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 18:36:43
秀吉が織田家を乗っ取る前に信雄による北畠家乗っ取りが行われている。
402 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:00:04
ちなみに大野治長は大柄だったらしい
403 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 21:48:39
>>401それを言うなら神戸・長野家もそう。
秀吉が違うのは主家(ただの主ではなく、信長のお陰で農民?→大名)を圧倒し、またその一族を殺戮してる事。それが天下の為なら仕方ないが、全て私欲の為。また、織田の血を引く姫は強姦。
それでいて「秀頼を頼みますじょ」と鼻水と小便垂らして… ホントにみっともないよな。
孔明にあとを託す玄徳とはえらい違いだ。
404 :
OPS:2006/12/14(木) 22:06:54
大野治長は武将としての能力は皆無。
405 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:07:31
406 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 22:25:22
>>403 同意。
子供の頃は、
「信長は残虐非道。家康は狸おやじ。秀吉こそが真の天下人」と思ってたけど
秀吉の纂奪のひどさを知るにつれ、
この私欲の塊みたいな人物が嫌いになった。
これは主君への裏切りっつーよりも、
根本的に、死者(信長)への哀惜の念さえ全く感じられない、っていうレベル。
家康が秀頼をさしおいて天下取るときにも
「すまんね、まああんたの家が潰れるのは自業自得だから、
しかたないよ」としか思わなかっただろうし、
状況を見ていた他の大名たちも、そう思ったことだろう。
>>403 アホな
孔明と家康を比較するには
余りにも孔明に失礼すぎる
別に孔明と家康を比較してるわけじゃないと思うが。
それに、死後の国の存続さえ全うできなかった孔明より
トリッキーなまでに精巧な政治体制を作り
戦乱の世紀の後に、いきなり300年もの太平な時代を出現させた
家康&崇伝の方が、政治家としての力量は上だった、
と見ることもできる。
信長だって守護代殺して尾張のっとってるけどな
あの時代はそういうもん
今の倫理を戦国時代に照らし合わせるのは愚か者のすること
410 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 23:39:05
しかしスレチすまんが
国を纂奪する力と人望をもち、それをしても誰にも悪く言われなかっただろうに
しなかった孔明は、つくづく偉いよな。
秀吉とは大違いだ。
>>国を纂奪する力と人望をもち、それをしても誰にも悪く言われなかっただろうに
>>しなかった孔明
つ{{要出典}}
412 :
日本@名無史さん:2006/12/16(土) 16:02:04
確かに死を目前にした時の後継者指名は人柄が表に出るね
「強き者が跡を取れ」のアレキサンダー
「秀頼を頼み参らせる」の秀吉
低レベルな秀吉アンチは書き込みするなよ
見てて恥ずかしい
415 :
日本@名無史さん:2006/12/17(日) 23:50:18
漏れは最高レベルな秀吉アンチですので
書き込みさせていただきます
416 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 02:25:21
>>409守護代殺しって言うが、織田一族内の権力闘争とも言える。それにその守護代とやらは守護(武衛さま)を殺してるんだから。尾張守護職からみたら弾正忠家は陪臣だ。しかし織田家全体の主家はやはり斯波家だから、守護代信清殺しに大義名分はある。
弱肉強食の戦国時代に現代の価値観を当てはめるな! というが、通じる部分もあるだろ?
天下は一人の天下ではなく天下の天下である、と言う事だ。
信長・家康と比べてさえ、秀吉の行動は己の欲望を満たす為だけのものであると言っても過言ではなく、とても英雄とは言えない。漏れは在日ではないが、秀吉は好きになれない。
担がれた三法師はどうなったの?
その守護代殺しの大義名分である新しく擁立した守護を追放して、
更に足利義昭も京から追い出してますが>信長
頭おかしいのか
家康と孔明は死んだときの状況がまるっきり違うので
死んだ後の状況まで比べるのはちと無理があるような
三国時代は三国がそれぞれ敵対してた状況のまま
孔明は死んだのにたいして
家康は、同盟を組んでいて味方で、信長秀吉の死に、
いわば味方の連合同士のトップを誰が取るかの争いに過ぎないし
天下統一して基礎を固める時間が十分にあって死ねたからな
やべ日本語おかしくなった
訂正するの面倒だから
>>421は読み飛ばしてー
423 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 08:25:26
424 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 08:40:09
>>423 > 浮世を捨て僧となって高野山で修行を積むというのが、
> 改易された秀信に残された唯一の選択肢であった。
> しかし、祖父信長の行った高野山攻めが仇となり逆に高野山から追放されてしまい
カワイソスwwwwwwwwww
425 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 09:48:11
>>417 三法師自身は成人し岐阜13万石大名になった後家康により改易
坊さんになって寺で若くして死んでしまったよ
秀吉には当時秀勝という名で信長から養子をもらっていて
秀勝に跡を譲るからという名目で天下を狙っていたフシがある
若くして秀勝が死ぬわけだがその年に秀吉は関白になる
これはもう秀勝が必要ないと思ったから消したのか、それとも秀勝がいなくなって織田家を立てる理由が
なくなったからなのか
>>423 あのさ、史板でwikiなんかから拾ってくるなよw
秀信の母が武田の松姫説なんて与太説、
胡散臭い文書に載ってた大嘘が、いまだに書いてあるんだからさ。
427 :
日本@名無史さん :2006/12/18(月) 18:36:40
>425
秀吉は権力を握ってから、殺しまくったからな。
一説では秀長とその息子も殺したと言われている。
428 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 11:06:15
甥で養子の秀次も、秀吉に殺されたという説があるくらいだしな。
429 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 11:51:32
てか実際そうじゃん
430 :
428:2006/12/19(火) 11:53:46
431 :
日本@名無史さん :2006/12/19(火) 18:49:11
秀吉が殺した人間のリストを作ったら、どれだけの長さになるか?
秀吉の子孫はいるの?直系はいないだろうけど。
あのスケートの織田は信長の直系じゃないのに
あんなに教科書の信長像に似てるんだから、
秀吉の子孫もいたら、かなり似てると思うが。
>>432 嫡男の家系ではないが、元々七男信高の家系で、後に信雄の家系から養子貰ってるけど、一応直系のはずだよ。
435 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 02:06:43
実朝の首っていう唐木の読んでピンときた。
明智の黒幕は秀吉じゃないかって。
明智を真っ先にやれるのは
明智に自分以外は誰もつかないって一番よく知ってる秀吉しかないもの。
437 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 17:17:50
ずいずいずっころばし ごまみそずい
お〇んこちん宝はめまくり、ごまのはいの秀吉淀はめっこ
茶壷に追われて トッピンシャン
茶壷=千利休(光秀)が自分の正体をばらして、秀吉を追及する
抜けたらドンドコショ 俵のねずみが
利休切腹で危機を脱して、腹鼓を打って笑う 俵藤太(藤原氏)の子孫のはげねずみ(秀吉)が
米くってチュー チューチューチュー
天下を盗んで(千万石取りとなって)チューと鳴いて喜ぶ
おっとさんが呼んでもおっかさんが呼んでも
殺されて怨霊となった信長(おっ父さん)と濃姫が幽界から、秀吉に早く来いと呼んでいるが
行っこなしよ
なかなか死なない
井戸の周りでお茶碗欠いたのだーれ
茶室で茶碗=利休を切腹(芝居)させたのはだれだ
本能寺の真犯人(鬼)は誰だ
天海(光秀)作
438 :
日本@名無史さん:2006/12/26(火) 21:53:31
>>俵藤太(藤原氏)の子孫
は、冬姫の旦那だろうがバーカ
439 :
日本@名無史さん :2006/12/26(火) 23:38:20
>>437 濃姫は、秀吉の死後に亡くなっているだろ。
濃姫って本能寺で共倒れしたんじゃないの?
>>440 濃姫は慶長17年まで生きてると最近では言われてるな。
総見院の織田家墓所の見取図に養華と書かれた墓石がある。
また、泰厳相公縁会名簿には
「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」
と、出てくる。
信長生前も、信長公御台とか信長正室などの記述なら、意外と色々ある。
あと、本能寺の翌日に、安土城からの蒲生氏郷が信長の親族を日野城に移すんだが
その中に、北の方、御台などの記述のある文献が複数あるから
本能寺に濃姫はいなかったと思われるな。
>>418 足利義昭の都落ちは本人の選択によるもので
信長による追放などではない。
そんなに長生きで、あんな有名人なのに記録が不明確ってのはあり得ない。
普通に考えて岐阜入りあたりで死んでいるのでは。
>>441 別に煽りとかじゃなくて丁度いい機会だから聞きたいんだけど、
たまに、「最近では」「最近の研究では」みたいなレス見かけるんだけど、
こんな歴史家の最新の見解ってどこで知ることが出来るの?
歴史街道とか?w
>>443 永禄12年に濃姫以外考えようがない、斎藤家親族の信長本妻が
一次史料にあたる言継卿記に出てくる。
その後、公家衆の日記に信長の動向は、詳しく記されていくが、
御台や本妻や北の方が死んだとか、離縁されたという記録は出て来ない。
しかしながら、北の方や御台の記録は残っている。
つまり、濃姫は生きていた事になるね。
天正13年あたりの記録である織田信雄分限帳には、
安土城の女主である安土殿の記載があるから、御台はその時点で生きていたと思われる。
ちなみに、どこでって、各資料についての論文など、研究者の発表を追ってれば
普通に分かる事だけど?
各種文献も、活字化されているから、読めば分かる。
>>445 >安土城の女主である安土殿の記載があるから
少し補足すると、織田信雄分限帳に出てくる女性は、
かつて女主(正室)として住んでいた最後の城の名称で出てくる。
徳姫などは岡崎殿、信長の妹は犬山殿みたいにね。
安土城にかつて女主として住んでいたのは、信長の御台だから、安土殿は
信長の御台の事とされている。
織田信雄分限帳の安土殿の記載が発表された直後は、お鍋の方の事ではないかと言われていたが、
天正13年頃の記録と分かり、お鍋の方は天正11年から秀吉に知行を与えられているから
信雄の分限帳に出てくる事はありえないので、別人と考えられる。
妙心寺では、信長公夫人が一周忌の法要をおこなってるな。
同日、秀吉が総見院でおこなっているし、お鍋はそっちに出席しているから
妙心寺の一周忌の主催者な訳はない。
信忠の生母であるらしい生駒類も、信孝の生母である坂氏も既に死んでいる。
妙心寺は、お市が法会を、秀吉に先駆けておこなった曰く付きの寺だから、
そこで秀吉主催の法要に出ず、一周忌法要を主催できるのは、
信長の正室くらいなものだ。
濃姫は信長の後継者争いの場に出てこないけど
発言権はなかったの?
それともそういう資料は秀吉が焚書でもしたの?
信忠って、濃姫の正式な養子で、正室腹格だから、
三法師が跡を継ぐなら、別にいいと思ったとかじゃないの?
信忠と一緒に二条城で討死した信房(勝長)が
濃姫の実子じゃないかという話が出てきたりしてるし、
夫に養子に実子がいっぺんに死んで、気が抜けたとか?
まぁ、それは妄想だが、信忠筋の子供が跡を取るのは
濃姫としては異存なかったと思うけどね。
だって、それは秀吉の陰謀だってことはみえみえだったんじゃないの?
>>443 >そんなに長生きで、あんな有名人なのに記録が不明確ってのはあり得ない。
男でも子孫が没落したりすると普通にありえるし、
資料の残りにくい女だと不明確なのが普通なんだがな。
秀吉が信長の嫡孫の名前に、秀の字を入れた時点で
怪しいよね。実子には信の字入れてないし。
453 :
日本@名無史さん:2007/01/06(土) 23:40:51
なんてこったい
454 :
日本@名無史さん:2007/01/25(木) 10:21:52
秀吉ってひどい奴だよな
455 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:04:20
秀吉と他の織田家臣団との間に主従関係が成立した時期はいつ?
賤ヶ岳の前はまだ、柴田側についてる連中もいるからちがうような。
また、それまで朋輩だった大名や織田の直臣だった連中をどういう手続きで家臣化したの?
既に結論ついてるから過去レス検索してみてはどう
457 :
日本@名無史さん:2007/01/27(土) 09:07:53
たとえば、秀吉と丹羽とか堀の関係って、ある日、ある時点でいきなり秀吉が
相手を呼び捨てにしたり命令調で家臣呼ばわりしたの?
それともお互い、対等→周囲がやや秀吉に丁重→完全に主従としての態度・・・と
徐々になしくずしに変遷していったのか?
タイミングとしては所領の安堵状とか官位の受領とかの時じゃねか
親分子分の格が付くのは
459 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 09:44:46
織田自体主家殺しの地方豪族なんだから
織田家臣が秀吉に隷属するのも当然。
そもそも、武家の棟梁の足利だって皇室を攻めてたし
源氏だって帝を擁する関白家の平家を帝含めて皆殺し。
日本人が同情する義経は罪のない幼帝を入水へ追い込んだ大逆の極悪人。
460 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 09:46:40
大体、信長みたいな虐殺鬼、殺されて自業自得
あの鬼畜の家系が衰えて結構だよ
461 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 11:58:39
でも、家康みたいに極悪非道なイメージが薄いのはなぜだろう。
>>461 その家康の極悪非道なイメージははどこから感じてるの?
463 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 14:06:36
別に秀吉が乗っ取ってもいい。
でも、そのタイミングとか、同僚への言葉使いや態度の豹変がいつなのかが気になる。
たとえば賤ヶ岳では、秀吉はあくまで秀吉派大名の盟主であり、三法師の筆頭重臣だから、
同じ織田重臣の丹羽とかには対等か先輩として立てる態度だったと思う。
そのあと、柴田領を分配するときに秀吉名義で宛行状を発給することで主従関係が成立して、
晴れて元同僚を呼び捨て、目下扱いってことでいいのか?
464 :
日本@名無史さん:2007/01/28(日) 16:16:58
秀吉は政治力があるが、結局やったことは信長政策の踏襲。
>>462 やってることは五十歩百歩だろうが秀吉の織田家簒奪と家康の豊臣家簒奪では明らかに世間の空気が違くね?
>>463 山岡荘八の太閤記では山崎の合戦が終わった後、
秀吉がそれまで「堀殿」と呼んでた秀政を「久太郎」なんて呼び捨てにしちゃって、
それでも秀政本人が何か納得しちゃう場面が有る
流石に実際はこんな劇的ではなかったろうが
皇族だって、大化の改新という名のクーデターで
蘇我氏皆殺しじゃなかったの?
昔はだれもかれもが殺しあってたんでしょ。
俺たちはその子孫なわけだよ。
467 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 09:45:00
マジレスするかどうかは置いといて
公的場所での呼び名なんかはその都度変わっていくだろうけど
私的に呼び合うときなんてのは昔のままなんじゃね?
カズと高木監督みたいなもんだろ
468 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 12:15:54
そのタイミングは確かに難しい。
佐々木が横浜に帰ってきたとき、既に引退してコーチになっていた年下の野村が「佐々木さん」と呼んでいたのは頭抱えた。
一応、コーチなんだから「『さん』付け」はやめてほしかった。
469 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 12:16:56
ここは現代スポーツの事例を持って秀吉と前田との呼称問題を語るスレになりました
470 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 17:31:40
サルが信長の令嬢手篭めたって本当?
主君の娘だぜ。それでも織田家臣団が糾弾できないなら
その時点でサルの簒奪。しかし、異常な人格・・・
471 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 19:22:26
秀吉の側室らは浅井氏、前田氏、京極氏、織田氏、蒲生氏などの出身。
前田利家の娘の一方を側室とし、もう一方を養女にするところがいまいち理解できぬ
472 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 20:09:35
山崎の合戦の直後は、まだ柴田勝家みたいな反秀吉派が健在で、清洲会議の結果、
信長の遺領分配をやってるわけで、この時点ではまだ同僚たちとの主従関係はない。
あくまで、秀吉は織田家の重臣であり、秀吉死後の家康と同じポジションだ。
やはり、賤ヶ岳の合戦のあと、秀吉派の武将に秀吉名義で旧柴田領を分配することで
秀吉と元同僚たちとの間の主従関係が成立したんだろう。
473 :
阿部怪異:2007/01/29(月) 20:22:31
その段階でもなお、秀吉は織田諸臣の盟主に過ぎなかった気がするがな
474 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 20:30:21
基本的に武士の主従関係が「御恩と奉公」のように、領地の授受によるものと考えれば、
旧織田家の将士が秀吉から新恩を給与された段階でその家臣となったと見るべきでは?
475 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 21:48:29
家康が関ヶ原後の領地分配で、豊臣家臣の地位から抜け出したのと同じってわけか。
476 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 22:00:32
考えてみれば、昔から家臣が勝手に戦うのを抑えられなくなった段階で、天下人の
権力はなくなるものと考えられるな。
平治・保元の乱後の天皇権力失墜、応仁の乱後の室町幕府形骸化、
天王山・賤ヶ岳後の秀吉による織田家乗っ取り、関ヶ原後の江戸幕府開府
これが分かっていたから、家臣の勝手な戦いを禁じた秀吉とそれを敢えて行った
家康。
天下を取った人たちは、みんな良くわかってたんだな。
477 :
日本@名無史さん:2007/01/29(月) 22:15:44
>>463 >>465 功名が辻見てて思ったんだが、官位授与や謁見の場など公式な席において、官位は自分
が上なんで天皇の手前だけとか、形だけでいいとか言って、泣きついて、まず公式の席で
臣下の例を取らせ、そのうちいつでもどこでも24時間なし崩し的に家来にしてしまったんで
ねか?
結局、秀吉って、信長のように残虐性があったてことだな。家臣の妻を手篭めにしたりしてたみたいだし。
信長、秀吉と恨みの連鎖を引き継いだわけだ、三成は、第二の光秀みたいなもんか
479 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 00:32:38
>>459 >源氏だって帝を擁する関白家の平家を帝含めて皆殺し
「関白家の平家」って意味が分からないから委細教えて
480 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 00:57:11
>>473 賤ヶ岳の合戦後、同じ年(1583年)に秀吉は大坂城築城を命じている。
みずからの居城を同僚だった諸大名に負担させていることで、信長時代とは一線を画した新たな主従関係が始まったと思う。
大坂城で普請を命じられた連中は西国の大名が中心だそうだから、
まだその時の秀吉には織田家の同僚達に遠慮が有ったんじゃないの
482 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 11:07:16
小牧のときも池田勝入、森武蔵らに押し切られて長久手の惨敗にいたってるし、諸侯が真に秀吉に服したのは徳川家康が上坂したときじゃないのかな
483 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 11:35:44
下克上激しい時代に余程先代からとかの付き合いでもなければ上下関係は希薄だったと思うんだがな
公式の席では関白様とやっといてみんなで温泉行ったときは猿扱いみたいな
あまりに無礼な振る舞いならともかく秀吉は結局大大名と織田譜代の狭間で気を使い続け死んでいくわけだし
絶対権力者というよりは稀代の気配り屋さんという面の方が大きいと思うぞ
484 :
日本@名無史さん:2007/01/30(火) 22:40:37
485 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:19:08
漏れは歴史をあまり知らないんだが、信長は権力と武力を持ってたのに、なんで朝廷共を皆殺しにしなかったんだ?
家康もついでに殺しとくべきだと思うんだが。
486 :
阿部怪異:2007/01/31(水) 00:21:47
丹羽越前守長秀、池田勝入恒興、蒲生飛騨守氏郷は猿と呼んではばからなかった
朝鮮派兵を聞いた窓際大大名蒲生は会津で「猿め、死に場所を失って狂ったか」とバカにしていた
487 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 00:27:39
朝廷からの高い位が欲しいくて馬揃えをやってたてTVで言うてたけど、朝廷ら殺した方が簡単に天下とれるじゃないか。
信長ともあろう人が手ぬるいんだな。ちなみに朝廷って天皇のことですか?
関白になることにより諸侯を率いる名分を得ようとした秀吉が朝廷を滅ぼせるわけがないだろうが
489 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 14:18:36
学問板らしくマジレスしてやろう
朝廷を潰す=朝廷に変わる新しい概念や思想を持ち込む ことになるわけだが
日本は古来からそういう思想や概念を輸入してないし作ってもいない
易姓革命のような天皇の地位を交代させる概念もなければそれに変わる神話も作ったことがない
信長とて自分自身が頂点に立つことを望んだかどうかあやしいものだしな
そもそも戦国時代なんてだれもが天下を狙っていたわけでもなく
また戦乱の世の中だと認識していたかどうかすら怪しい
分裂した日本を再統一した信長というイメージだけで語ってはいけない
ただ権力争いに勝ち残っただけなのだからそれを補強するための概念として朝廷や幕府を使うのは当たり前の流れなんだよ
490 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 15:19:35
そうなんだよ。出来星大名とて朝廷や幕府の権威を借りて正統性を得ようとした点では変わりがないんだよ
491 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 15:43:42
地方の百姓に毛が生えた豪族ですらナントカの守だもんな。(自称)
信長も最初、上総守を名乗っていたけどそんな官職本当は無いって
突っ込まれて慌てて上総介に直したっていうエピソードもある。
492 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 18:12:02
お家と家紋を大事にするのが武士の思想なら、なおさら知将と言われてた明智が信長を殺すのは附におちないな。しかも石ころ同然の地位だった明智は引き上げてくれた信長には感謝しきれない恩があると言ってる。なおさらオカシイ史実だ。
493 :
日本@名無史さん:2007/01/31(水) 18:16:06
光秀は義昭臣下
義昭を上洛させ将軍にするのが光秀の目的でそれを達成するために朝倉に行ったが取り合ってくれず
織田に義昭を売り込んで中央政界に織田を引き込み見事に将軍につけたわけだ
将軍配下ではあるが事実上天下人の信長指揮下という複雑な感じ
>>492 上1行は江戸時代に作られたものじゃないか?
495 :
日本@名無史さん:2007/02/28(水) 00:18:35
勝ち馬に乗る心理ってのが如実に表れたよな 本能寺直後って
496 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 03:18:55
山崎合戦での成果に織田重臣達もしぶしぶながらも秀吉の
発言権を認めざるおえなく、清洲会議で勝利しまんまと秀信の後見人として
さも筆頭家老のごとく振る舞う秀吉。
それを良しとせず、昔から嫌いだった秀吉に上に立たれた事で危機感を持ち勝家反発。
で、賎ヶ岳。
後見人立場&目の上のたんこぶ勝家を倒したあたりから織田家臣も秀吉寄りに。
って所ぐらいが家臣団が秀吉に臣従したって事でよろしいんでしょうか?
497 :
日本@名無史さん:2007/03/01(木) 03:56:38
明智倒して時点でかなりの人間が秀吉に擦り寄ってる気がするが。
明智倒す直前にも中国征伐の大軍を引き連れて畿内に一番乗りだからな
この時点で織田家の同僚たちも秀吉に一目置かざるを得なかったんでないの
499 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 21:03:24
一目置いたり、擦り寄るのと、正式に臣下になるのは別だろう。
やっぱり柴田を討って、論功行賞やった時点で主従関係が発生したんだろう。
500 :
日本@名無史さん:2007/03/03(土) 22:02:11
今日から俺が主君ね、そこんとこヨロシク!!みたいな宣言したのかな?
501 :
にゃんこ:2007/03/03(土) 22:21:45
498>
1級史料「天正記」によれば、畿内に連れて帰った軍は1万ほど。山崎での主力は
畿内での現地調達。摂津衆や四国遠征軍を主力として戦ったんだな。
それにしても、秀吉の宣伝上手。「信長は生きている」と宣伝して、光秀派の
増大を防ぎ、「秀吉が帰ってきた」と反光秀軍の中核に成り上がる。見事。
502 :
日本@名無史さん:2007/03/05(月) 11:07:12
当時の価値観で主従関係って
鎌倉とか江戸じゃあるまいし
今で言う派閥みたいなもんだよ
その領袖になれたってだけの話で別に主君として君臨したわけじゃないのが秀吉だ
それをもう一度主従関係に戻したのが家康の時代な
503 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 19:51:57
そうは言っても、いままで対等の間柄だった丹羽や堀、池田などの織田旧臣たちに対して、
上段の間から呼び捨て、命令調で話すようになるわけだから、その転機がいつだったのか
普通に気になる。
504 :
日本@名無史さん:2007/03/06(火) 22:31:54
三法師=織田秀信って物心ついたときには、もう秀吉が関白だったから、
信雄などとは違って、自然に秀吉を天下人・主君と認識できたんだろうな。
505 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 09:34:42
>>503 そこが日本の本音と建前文化の良い所
現代に例えていいかどうかはわからんが
安倍さんが総裁になると個人的関係はともかくとにかくみんなが総裁と呼ぶし
総裁からの指示指令などは命令口調になるだろうが
安倍からみて自民党の諸先輩方が急に安倍の子分になったわけでもないし家臣になったわけでもないのと一緒
そういう身分制度みたいのをかっちり決めたのは家康が武家諸法度などを整備してからだよ
506 :
日本@名無史さん:2007/03/07(水) 09:38:10
逆に言えば、秀吉から見れば
みんな下段に下ってハイ、ハイ言っているけど
内心、こいつら何考えてんだろうって死ぬまで気が気でなかっただろうな。
特に家康。
おまい何考えてんじゃーーー!!って泣きつきたかったに違いない。
507 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 12:59:24
秀信をオマエ呼ばわりした時期はいつなんだろ。
ある日、突然、今日から俺が主君、オマエは臣下ね、みたいな感じ?
福島とか加藤みたいなヒゲ面の荒武者が、荒々しく秀信の肩をひっつかんで
下座に引きずりおろし、秀吉に土下座させたりとか・・・
ばかじゃねえの
509 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 13:06:23
土下座させられた秀信がバカなのか?
土下座させたサルはバカなのか?
お前だよ馬鹿は
511 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 13:27:07
ばかばかしい。敗者が勝者に土下座するのは世の習い。
秀頼も家康に素直に土下座しとけばよかったのだ。
512 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 20:38:05
ある日いきなり、今まで「三法師さま、三法師さま」と言ってた猿顔の爺から
「秀信、ひざまづけ。ワシが主君じゃ」なんて言ったのかな。
で、荒武者に腕をわしづかみにされて、下段の間にねじふせられる秀信哀れ。
513 :
日本@名無史さん:2007/03/11(日) 21:03:35
中国の簒奪とかではありがちのシーンだが、そんなにドラマチックな光景だったのかな?
秀信が物心付いた時には秀吉は既に従一位関白太政大臣豊臣朝臣秀吉様だったわけで、
別に強制されるまでも無く最初から素直に秀吉を目上の人だとして敬ってたんじゃないか
秀信が秀吉の統治に反抗したとか不平を言ったとかいう史料は残されてない
515 :
日本@名無史さん:2007/03/12(月) 06:29:02
>>512 まぁ、それをしたら、織田家臣の元同僚の印象はすごく悪くなるだろうな。
まぁ、秀信の扱いを見て秀頼も同様でいいって感じになったんだろうけど
516 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 09:38:26
主従関係をはっきりさせないようにと朝廷の官位を利用したんじゃないんか?
織田家の跡取りを自分にできるわけでもなく、織田家を乗っ取ったといわれるわけにもいかず
ただただ朝廷より関白の位をいただきましたので天下人となりますという言い訳にしたんだろ
517 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 22:11:17
秀吉が死んでから豊臣が完全に分裂したのも秀吉の人格に問題があって「やっと
危なくてウザいやつが死んだよ」的な雰囲気で家康を筆頭に誰もが天下を狙った
んだろうな。織田家乗っ取りの因果応報なのか、本当に秀吉を慕ってた家臣って
少なかったんだろうな。
まあ本当に家康を慕ってた人間よりは多そうだけどなw
つ井伊直政、本田忠勝、その他諸々
520 :
日本@名無史さん:2007/03/14(水) 23:34:24
本当に秀吉を慕ってたのは石田と宇喜多くらいか?
大谷は秀吉より三成に引きつけられたみたいだし
小西は嘘講和を仕組むような輩だし
関ヶ原で豊臣から徳川へ政権が移った後でもまだ秀吉から与えられた豊臣姓を名乗っていた大名は多い
伊達政宗なんかも秀頼の身を案じて「さっさと淀殿を江戸に差し出してどれだけ気が楽か」と書いた手紙が残ってる
秀吉死後に多くの大名が豊臣から徳川に鞍替えしたといっても、
それは跡取りの秀頼が幼かったからだからな。
生きてる時から三河一向一揆で家臣団半数離脱、
正室と嫡男が武田に内通して小牧・長久手で筆頭家老が
出奔してしまった家康の惨めさとは比べ物にならないw
523 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 08:08:53
譜代の家臣がいる家康と秀吉では勝負にならないよ
だから恩顧なんて苦し紛れな言葉を作ったがそれはあくまで秀吉個人を対象としており
家を対象としてはいないからすぐに内紛が発生して崩壊してしまう
524 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 09:01:22
秀吉の作った体制が朝廷の官位主義だろ
秀吉死後は筆頭が家康だろ
そのときの秀頼はまだ子供だし官位も低いだろ
当然家康中心の体制になるだろ
それを家康は幕府体制に織り込むだろ
自然の流れじゃないか
まあ前田が長生きしてくれりゃもちっと他の方向になったかもしれんけどな
人格とか魅力とかそういうの関係ないと思うぞ
>>524 それは確かに自然の流れかも知らんが、
秀吉がその「自然の流れ」を望んでいなかっただろうことは容易に推測できるわけでw
望んでいない結果に歴史が動いてしまったこと自体、秀吉の人徳のなさを示している。
526 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 10:09:04
秀吉はねえ、ちゃんと秀次に譲っていれば少なくとも豊臣家の天下は続いてたのさ
秀次を殺してしまった時点でもう家康か前田に天下を取られることはわかっていたとは思うんだがなあ
527 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 10:42:59
英次を殺した後ですぐに秀頼がぽっくり逝ったらどうするつもり
だったのだろう?
528 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 12:07:55
自分が農民出身だから名門織田家、浅井家の血をひいた秀頼が可愛くてしかた
なかったんだろ。
530 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 12:33:14
名門織田家って。。。
養子だけはたくさん居たから秀家でも秀秋でも誰にでも継がせればいいんじゃないか
いずれも他の家を継いでるが仕方ない
他に候補が一人も居ないんだから
532 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 13:51:12
↑でも誰かが言ってたが、因果応報がこれだけ似合う人もいないよなぁ。
うまく織田家を乗っ取ったが、豊臣も徳川に喰われた。秀吉自身に限っていえば
生きている間は好き放題できたんだから勝ち組だろうけどw
533 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 14:06:08
そもそも秀次を処分した時点で世襲は諦めていたんじゃないか?
朝廷の前例を覆して幼年関白を立てれると甘く見てたのかな?
死ぬ時点ではもう徳川VS前田の争いになることはわかっていただろうから逆にかわいそうな人だな
秀次を処分した時点では秀頼が成人して普通に権力委譲が出来るまで生きれると考えてたんだろ
535 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 16:46:02
秀次に対しては結構説得してたんじゃなかったっけ
ちと文献が手元にないからいかんが
次の関白を秀頼にしてくれとかで拒否されたんじゃなかったか?
536 :
日本@名無史さん:2007/03/15(木) 16:56:42
権力ごと豊臣が存続できると考えるところが浅ましい。自分の人生を
振り返ったら、なぜそんな甘い幻想が持てるのかね。
家の存続だけを願って家康に全て一任すれば、家名と名誉だけは残ったろうに。
バカなやつ。
馬鹿はお前だw
「太閤が死んだら誰が天下をとるだろう?」
みたいな話が隠然と出来たぐらいなんだから、統一国家としてはおかしな空気であったことは間違いない。
まぁ、名将言行録の話だから信用は出来んが。
539 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 11:32:34
歴史的に見て、秀吉の存在価値ってあるのだろうか?
信長の死後、家康が信長の遺志を継ぐ形で天下統一を進める方が大義名分も
立つし、朝鮮出兵なんてこともありえなかった。
後継者も忠実な家臣団もない上に、自己コントロールも覚束ないヤツが天下
とっても混乱を招くだけ。
はっきり言って邪魔だな。歴史の回り道的存在。
540 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 11:34:54
>>539 と、源頼朝や足利尊氏にも言ってやってくれ
541 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 11:48:03
秀吉は所詮、家康の前座にすぎん。
前座の分際で「秀頼のことお頼み申しゅ〜〜」
と鼻水たらして頼まれてもなww
まあ、身内殺しまくって一族滅亡まねいた点では
頼朝も秀吉も同類だがね。
>>540 そいつは相手にしない方がいいぞ
ただの朝鮮人だから
543 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 13:14:06
頼朝も北条の前座だな。
家康が頼朝を参考にしていた・・・ということを聞いたことがあるが、
意外に秀吉と頼朝の共通項は多いかも。
544 :
日本@名無史さん:2007/03/16(金) 18:45:58
不毛な朝鮮を併合しようと考えると悲惨な末路が待ち受けることを証明しただけでも秀吉の価値はあるよ
なにも学ばない明治政府のせいで歴史は繰り返されたけどね
545 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 06:32:55
前座とか言い出すと、最終的には
「世界の全人類の歴史はゲルマン民族を生み出すための前座である」
とか本気で主張するヘーゲルみたいな歴史観に陥るのだが。
「歴史的価値」などということを安易に言い出すと、いつかきっとひどい火傷するよ。
547 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 15:26:01
>>539 秀吉は信長の遺業を達成して天下統一するところまでは存在価値がある。
そこでポックリ逝ってくれれば良かったのに惜しかった。その後は朝鮮出兵で
後世に禍根を残したりして、ホントにイラネ。
天下統一後の秀吉は前座というより質の悪い幕間劇だな。信長が一幕、家康が二幕で。
548 :
ぼっこちん:2007/03/17(土) 16:35:23
昔、堺屋太一が関が原での西軍敗因は石田三成がでしゃばりすぎたために
他の大名たちの反感を買ってしまった、というようなことを言っていたが、
実際のところ秀吉の天下を守ることに西軍諸大名もあまり関心がなく、
それぞれが自己の野心と保身から従軍していた過ぎずそのモチべーション
の低さを補うために三成が頑張るしかなかったのが現状だとおもわれ。
なかったのが現状だろう。
それぐらい秀吉は天下の人心を失ってしまったのだろう。
一応秀吉の生存中は秀吉に忠誠は尽くすが、
大部分は秀吉死後の豊臣家に義理立てする理由は無いと考えてただろうね>西軍諸大名
まあ東軍に付いた大名も別に豊臣家が憎かったわけじゃないだろうがね
550 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 18:57:04
東西の分かれ目は三成と仲がいいか悪いかでしょう。秀吉の死後、大半の大名
にとっては豊臣そのものはどうでもいいわけで。
頼みの高台院が、徳川に対する好意的中立姿勢となったことで、高台院縁戚のものは
ほとんど東軍に回った。
その時点で、豊臣恩顧って大義名分なんか消えてなくなった。
小早川は、高台院縁戚だから裏切ることは予想できたのに、絶好の裏切りポイントに
布陣させる失態を犯した。
三成は、家康の天下盗りに協力したようなものw
552 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 21:43:18
無駄な朝鮮出兵で秀吉は諸大名の怨みを買った上、この出兵に関して事務面で
特に怨まれたのが三成。その三成を五奉行に配したまま秀吉は死んだ。
政権に対立の種を残したまま死んだのだから、関が原は自業自得だな。
553 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 10:11:51
なんだ、テーマが秀吉だから在日とか朝鮮人が反応してるだけか
554 :
日本@名無史さん:2007/03/20(火) 19:20:42
織田家と秀吉との主従関係が逆転した瞬間っていつ?
555 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 04:12:02
織田信雄が秀吉の臣下になった時点というのも、よくわからん。
小牧・長久手戦は羽柴・徳川の引き分けだから、この段階ではないと思うが、
秀吉が関白になったとき、あるいは天皇の聚楽行幸時の誓紙提出の時点では
遅い気もする。
556 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 09:29:52
江戸時代的な封建体制が整っていない時代に
江戸時代的な封建体制でモノを語ろうとするからかみ合わなくなるんだよ
557 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 20:07:43
あの時代だって、主従関係も身分も存在してる。
江戸時代に比べれば流動的だったというだけで、主君と家臣の関係は存在している。
その権力移動、主従逆転のタイミングがいつなのか理解したいだけだろ。
よくわからんうちに嘗ての主君を臣下扱いにしちゃって
しかも反発を受けないというところが秀吉の巧みさなんだろうな
559 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 08:39:16
羽柴家が織田家を個人的な家臣にしたことはなかろう
それは徳川に対しても前田に対してもそうだろ
関白という身分を用いて天下を統べたわけだからみんな関白には従うというだけの建前を用意したんだよ
それとまあ秀吉個人の才能もあったと思うがね
現代でいう政治の派閥みたいなもんだから家臣とかで語るとおかしくなるぞ
>>559 守護大名と国人層だって元々はそんな感じだ。
そういう緩い関係で、領主の統率力により
皆が従うようになったもののことを、当時の「家臣」と言うのでは?
むしろ現代の派閥などとは明らかに大きく違うと思うが。
561 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 09:25:45
家臣というのがおかしい
別にその家に入ったわけじゃない独立した勢力
それらの長が寄り集まってさらに長を出して勢力を形成する
その長が信長から秀吉に代わるというだけの話
別に織田家が羽柴家に対して臣下の礼を取って一生仕えますという流れではないってことだ
>>561の言い方で言うと、恐らく
柴田勝家や滝川一益は織田家の家臣ではなく、
小山田信茂や甘利虎泰は武田家の家臣ではなく、
井伊直政や酒井忠次は徳川家の家臣ではない、
ということになるな。
まあそういう言葉の使い方をするならばそれでもいいが、
いずれにせよ
>>557の問いへの答えにはなってない、と思うな。
563 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 12:56:19
だからまあ実質的に賤ヶ岳で「織田家降格」は確定したって事でしょ。
守護を戴いたまま守護代が実権握って「戦国大名」化したのと同じで。
岐阜城与えて10万石程度の大名にしておけば義理は果たした、とか?
それとも何か別格的な地位でも与えたんだろうか?礼不要とかの形式的特権とか
565 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 13:56:50
>>564 なあに、戦国時代にはよくあることだから土地与えた時点でもう義理は果たしてるだろ
織田家を大きくした信長だって形上残ってた主筋と思し召し家を叩き潰して伸し上がってるだから気にしない気にしない
秀信の官位は二十そこそこで権中納言と、
豊臣政権では五大老に次ぐ位の高官を貰ってる
面倒な奴に対しての位打ちって奴かもしれないが、官位面ではかなり優遇されてるな
あと秀信の織田宗家が手伝い普請や軍役を課されたことって有るかな
何か無さそうなんだが
567 :
日本@名無史さん:2007/03/23(金) 15:24:43
あれか、高家祭り上げかw
祭り上げ、は良い手であることは確か
中国でも宋王朝が前代の柴一族を優遇した例があるが主殺しの汚名を回避できる
たかだか10万石程度では反乱されても痛くも痒くもないし
569 :
日本@名無史さん:2007/03/25(日) 00:58:30
>>555 >織田信雄が秀吉の臣下になった時点というのも、よくわからん。
小牧・長久手戦後であってるよ
実際の信雄は伊賀と伊勢半国を召し上げられてるわけだし
信雄は単独講和といっても降伏してるわけで長宗我部や島津と同じようなもん
まぁ、本領安堵他の好条件だけどね
だけど移封拒否でおじゃん
秀吉の罠ともいわれてるけど、実際はどうなんだろう?
571 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 09:10:13
移封自体は罠でもなんでもなくね?
徳川→関東 信雄→旧徳川領だろ?
572 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 14:34:59
豊臣の織田乗っとりは、鍋島の龍造寺乗っとりに似ている。
573 :
日本@名無史さん:2007/03/28(水) 22:23:00
>>572伊集院の引き立てとか、やる事がエグいよな〜。
574 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 08:54:53
秀吉じゃなくて勝家が勝っていたとしてもやっぱし乗っ取られる運命なんでしょ?
>>574 それは正直、わからん。
でもいずれにせよ、最終的には徳川に支配されそうだ。
576 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 10:14:07
勝家でも結果は同じかもな
ってか形としては勝家が乗っ取る気満々のところその対抗馬としての秀吉って感じからのスタートだし
> 勝家が乗っ取る気満々
これはソースある?
578 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 10:22:16
ヒント : 春
579 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 17:03:03
普通は、勝家は信孝擁立派の総帥というイメージだが。
580 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 17:18:49
秀信も秀吉政権下じゃなく信長、信忠が教育してたらもっとマシな大将に成長してたんだろなあ。
おそらく一日で岐阜城を落とされる失態はなかったでしょうね
582 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 19:14:31
福島正則や池田輝政にとっては、織田秀信はかつての主筋。その城を落とすとはな。
それが戦国といえばそれまでだが、家康が大坂を攻めるのと符合するな。ホントに正則って馬鹿だよな。
583 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 19:16:37
っていうか、池田とかは元岐阜城代で岐阜城の構造は攻める前から熟知しているわけだが。
584 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 19:44:37
いや漏れが言いたいのは、豊家が天下を統一し、戦国は終わったとされた(建前上は)のに、「旧主でも弱体化したら攻めるよ」っていう戦国の論理を明らかにしたら、家康が秀頼を倒しても問題ないわけだ。
それを秀吉恩顧の武将が行ってしまったのは、マヌケ以外の何ものでもないと…
585 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 19:49:52
>>109 新田と足利は、兄弟だからじゃないかなぁ?
586 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:00:41
家系図には、近い系統も載ってるからな。断絶しそうな時に、養子を貰わにゃならんし。
>>109は無知?
587 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:28:26
山名とか岩松とかどっちつかずの一族もいるしな。
兄より従兄とのほうが仲がいいとかあったんだろうと思う。
588 :
日本@名無史さん:2007/03/29(木) 23:30:47
山名は明らかに武家方だろ。観応では直義党だが。
律儀なんて後世作られた評判だろう
それをいったら前田利家(対秀吉で敵前逃亡した挙句寝返り)だって律儀扱いされている
591 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 09:01:19
個人が律儀でも組織維持のためのは辛い決断もいろいろあるからなあ
592 :
日本@名無史さん:2007/03/30(金) 12:58:22
信長みたいな誓紙で安全を保障した上で降伏した敵を虐殺するようなのがいた戦国時代の中じゃ、
かなり律儀だろ、関が原までの家康は。
>>592 誰のこと?
まぁ、信玄があっさりと義元の仲介で謙信との和睦の誓紙を破った例とか、確かに枚挙にいとまが無いないが……
594 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 12:07:43
だから、個人としての資質は必ずしも組織の動きには連結しねーんだってばよ
個人がいくら律儀でも天下統一に必要な決断とあれば主家を葬り去ることもしないといけないの
595 :
日本@名無史さん:2007/04/02(月) 19:46:35
秀吉に人望があったとはとても思えない
だから恐怖政治で虐殺するしかなかったのだろう
人望があるのなら大阪のときに豊臣につく大名がいるはずだろう
しかし福島ですらあっさり見捨てた
内心では加藤や福島も秀吉を嫌っていたのだろう
だが逆らったら皆殺しになるからしぶしぶ従った
596 :
日本@名無史さん:2007/04/03(火) 08:53:30
597 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 13:28:59
秀吉は織田家を乗っ取ってはいない
織田家は最後まで存在しており家康が取り潰したのだ
織田家から天下を奪ったということだ
時代が下克上なんだからそれも仕方あるまい
細川から天下を奪い取った三好を誰が責められる?
その三好から奪おうと暗躍し続けた松永をだれが責められる?
天下とはそういうものだ
わかるかい?
598 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 13:38:05
まあ、本能寺の時点では信忠が織田家の家督を継いではいたが、
まだ天下を取ってはいなかった。天下は誰のものでもなかったわけで
織田将軍家のようなものが存在したわけでもなく、
譜代ではない新参の秀吉が自分の力で天下人になっても不都合ではない。
信忠の家系はちゃんと残して織田家につくしているが、家康がつぶしてしまった。
599 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 14:21:47
>>598 あの時点で信長が天下人だったかどうか
それは非常に議論の分かれるところではあるんだよね
義昭が京を出て事実上の支配機関である幕府が機能しなくなり(元々してなかったが)
朝廷が例外ともいえる行為をいくつも信長に対して許していることによって
天下人の威厳はあったといえる
ただ組織的裏付け途中(信忠の任官等)で本能寺の変で両者死亡により白紙に
似たようなことが秀吉にも言える
秀吉も朝廷をメインに官位を武器に天下を固めていったが後継者に指名したはずの
秀次を殺してしまい幼く官位もまだ申請できないくらい幼少の秀頼しかいなくなってしまった
この状態で秀吉死亡で事実上後継者不在になり空中分解
そんな中、その連鎖を家康がしっかり幕府体制というものを決め
その後の代でもしっかりそれを維持するように思想まで含めてよく整備したもんだと感心する
信長がいなければ秀吉も家康も無かった
だから天下三傑ということになるんだろう
創業者ってところか?
601 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 14:39:06
>>600 その前に大内がいなければ。。。とか細川がいなければ。。。とか
信長は状況的に前任のいわゆる天下人と比べると若干の差異があるのが
天下を取るときは義昭を奉戴している、これは前任者である三好なり松永なりと同じ手法ではあるのだが
その後義昭との確執が起こった際に後任の将軍を立てるようなことをしなかったわけだ
これにより信長に敗れた幕府側勢力が求心力を一気に失って結果信長が天下人として認識されるわけだ
もし信長が16代将軍として義栄復帰なり他の足利一族を立てていたならばそれまでと同じく室町幕府内の
権力闘争という形を持って争いが終了していたことだと思う
こう考えると信長の勢力は非常に面白い
一度成功体験があるので天下の取り方は熟知しているはずの信長一派がなぜ義昭を廃して次の将軍を立てる
ようなことをしなかったのだろうか
意図的に立てなかったわけだわな
自分達こそが天下人だということを示すための2度に渡る包囲網線を戦い抜いたわけだ
制度としてどういう形で世襲させるかという部分の完成を見ぬまま織田家の天下は終ってしまったわけだが
もし信長が生きていたならばどういう形の統治機構を構築したのか、とても興味があるんだよなあ
蘭奢待を切り取った時点で本人は天下人のつもりだったろうし、世間もある程度は認めてたんじゃないか、
603 :
日本@名無史さん:2007/04/04(水) 15:03:37
長文コピペですまん
征夷大将軍 摂関 太政大臣 2
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169184875/ より
473 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2007/03/27(火) 13:56:14
散々官位には興味を持っていなかったとされている織田信長
彼は上洛後から着々と昇進を続け1574年に参議となるととんとん拍子に出世する
まあ事実上天下人なんだから当たり前と言えば当たり前なんだが
長篠合戦後すぐに権大納言、その直後に右近衛大将を兼任
翌年内大臣になりさらにその翌年に右大臣になる
さて、ここで注目
1577年に右大臣兼右近衛大将ということになる
翌年これを返上するに至るわけだがここでいろいろな憶測が現代にも残る元凶となる
なぜここで右大臣兼右近衛大将を返上したのか?
近衛前久が工作をし関白にさせる準備だったのではないか
またこれが本能寺の変に繋がるのではないか
だが忘れないで欲しい
右大臣兼右近衛大将、つまり大臣大将を欲して認められなかった藤原信頼を思い出しはしないか?
信長は見事にその大臣大将に就任したわけだ
そして達成した直後もういらないとばかりに投げ出しているだけに見えはしないだろうか?
蘭奢待を切り取った時のように天下人としての振る舞いの一つとしての大臣大将就任をしたかっただけなのではないか?
すると本当に信長は官位に興味を持っていない人間だったのか?
本能寺の変に繋がるかもしれない関白就任説もこう考えるとあまり説得力がなくなってしまうんではないか。
信長は天下人だったろうが、その権力を継承させるシステムを完成させる前に、
後継者と共に逝ってしまったからああまで簡単に秀吉に簒奪されてしまった
秀吉は武家関白というシステムは一応完成させたが、
肝心の後継者が幼く死後に政権は殆ど機能しなかった
けど信長体制よりは堅固だったので家康も簒奪にはかなり苦労した感じ
元々、家康は信長の同盟相手で
秀吉は部下だからな。
家康は本来自分の方が格上だと思っていたはずだし、
織田を簒奪した豊臣の勢力が弱まれば、それは倒されても当然だとしか
思わなかっただろう
武田征伐の後駿河を信長によって与えられた時点で完全な織田家臣の一人だったけどな>家康
信長の同盟者だったから信長死後その天下を継承する資格が有る、なんてのは徳川のプロパガンダ
607 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 13:15:05
完全な部下とも言い切れんだろう。
部下に畿内観光に誘って接待したりはしないだろう。
織田家中の軍団長クラスでも信長に畿内観光して接待してもらったやつはいない。
けど、同盟者って言うには実力差がありすぎるから、属国のような関係でもあるな。
例えば今川への服属時代のように、松平の領地に代官が派遣され支配されるというようなことはなかったから
独立しているとはいえるが……
同盟者だが力関係はもう隔絶、ということなんだろう
609 :
日本@名無史さん:2007/04/05(木) 13:50:13
実際に清洲同盟ってあったの?
別に与力をつけられて行動を制限されてた訳じゃないしな。
今川-徳川はソ連と衛星国、織田-徳川はアメリカと日本の関係って感じなのかね
612 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 00:01:19
今川が三国同盟で勢力拡大を東に向けてたからな。
前線に位置する三河の支配は厳重なものになる罠。
しかし、織田は勢力拡大は清洲同盟成立初期は美濃・伊勢。
その後は畿内方面。
三河は徳川自治にまかせていても問題ないからな。
信長が生きてて、関東の北条討伐でもしたら、
完全に織田勢力圏で取り囲めるしな。
対北条の前線も上野だし。
613 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 00:16:56
>>610 それにしては信康や築山殿の動きを信長はよく知っていたようだ。
614 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 00:44:03
信長、秀吉、家康は、そのままローマ帝政初期のカエサル、アウグストゥス、ティベリウスとかぶって興味深い。
>>613 信康嫁が信長娘だし。嫁には織田方の人間が付き添うし。
徳川将軍家に薩摩から嫁が入れば、立場の上下を問わず、
嫁の実家に情報が流れるのは自然でないかい?
【警告】
選挙に行きましょう。
投票に行かないと日本はカルト教団に支配されてしまいます。
617 :
日本@名無史さん:2007/04/06(金) 15:15:44
>>612 言っている内容については同意できるんだが・・・・
>今川が三国同盟で勢力拡大を東に向けてたからな。
勢力拡大を西に向けてたからなの誤りだろ。
東なら三国同盟の北条とやることになるだろ。
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
619 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 10:02:18
どっちみち織田と徳川は対等同盟ではないだろ
そもそも清洲同盟の時点で家康は今川家との抗争中だし
桶狭間後の織田家のちょっかいを抑えるためと対今川同盟って感じで
信長本人は個人的に家康の能力を買ってて色々優遇してたようだが、
織田家と徳川家という関係で見た際両者の上下関係は明らか
家康もそこんとこはよくわかってただろう
結局のところ
「信長と同盟してたから家臣であった秀吉よりも天下人になる権利が有る」
なんてのは家康厨の都合のいい妄想なんだよな
史実の家康の豊臣家簒奪において家康がそこんとこをアピールしてたところは欠片も見られないし
> 「信長と同盟してたから家臣であった秀吉よりも天下人になる権利が有る」
そんなこと誰も主張しとらんだろ。
だいたい「天下人になる権利」って何のことよ。
権利か何かは知らんが、少なくとも本来自分の方が格上だとは思ってたはずだ、
ってだけでしょ?
>>605とかの言ってるのも。
権利も何も一番力のある奴が天下人だからな
623 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 08:37:05
秀吉にも家康並に子供がいればなぁ
要所に親類大名を大量に置けば、支配が安定しただろうに
それが数少ない一門を粛清しちゃったもんだから……
624 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:13:07
それはあるね、成人した男子の後継者がいればこんなことはなかった。
織田家の場合は信長と家督を継いだ信中が死んでしまい、
天下は一時は明智のもの(朝廷も承認)だったが、
織田家の当主不在状態でまま秀吉が畿内を回復した。
(もし、長子相続なら秀吉が推したように三法師が織田家を継ぐことになる)
豊臣家の場合は家康を含む五大老や各大名が、秀頼を主君として仕えるという
誓紙を出していたが、まだ8才で後見人(利家→家康)が必要な年齢だった。
>>623>>624 まあそうだろうね。信長、秀吉、家康の後継者に関する政策は
実はとてもよく似ている。成功したのは家康だけだったが。
早めに隠居して家督を譲る→なおも二重支配で監督する→死後権力委譲
信忠が本能寺の変を生き延びていたら、
たとえ畿内を奪回したのが秀吉でも織田政権は続いただろうし、
秀次を殺さなかったら、秀吉死後はそのまますんなり秀次政権となったはず。
秀次の子か秀頼かで次に(1620年前後か)揉めただろうが、
それでも豊臣が京都か大坂で中央権力は保持したままだろう。
逆に、
もし家康が、ヘタレでどうもしっくり来なかったとされる秀忠を追放して、
溺愛していた義直あたりに二代将軍を継がせる方針になっていたら、
大阪の陣の後、家康死去の後で、伊達政宗あたりにひっくり返されていた可能性がある。
家康も、長男信康はアボンせざるをえなかったわけで、
それでも秀忠がいて、気にいられなくてもアボンされなかったことが
徳川政権安定化の理由なんだろうな。
626 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:48:37
>>625 ってか力説するほどもなく血統支配の常道手段なんだがねえ
ましてや時代は流動性の高い時代だったのでそういった実例も
遠く過去にさかのぼらなくても近々にたくさんある時代だしね
627 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 21:03:07
なぜか秀吉は不快なんだよなあ
家乗っ取りなんていくらでもあったけどさ
>>626 一般的な隠居システム以上に、三者の政策はよく似ているよ。
特にそっくりなのは、三人とも、
後継者に旧根拠地の中心を委ねて、内政組織を固めさせ
自分はより交通の便のよいところに新しく居所を構え、
そこからいわば「外政中心の政治」を行ったところ。
信長ではやや不完全で、岐阜と安土になるが、
1580年代の、秀次の京都と、秀吉の大坂の関係は
1610年代の、秀忠の江戸と、家康の駿府の関係に実によく似ている。
常に先人の成功と失敗を学んでいるということだろうけど。
>>562 > 小山田信茂や甘利虎泰は武田家の家臣ではなく、
小山田については、そういう説を持ってる研究者もいるらしいぞ。
630 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 01:08:30
純家臣と、一族勢力(一揆)、同盟者など
この辺の区別がはっきりするのは、
秀吉〜家康時代より後でしょ。
もう少し前時代の、
鎌倉北条氏とその他勢力と内管領らとの関係とかがわかりやすいかも。
譜代と外様の別はいつの時代にも存在する。
そういう言葉を使わなかっただけで。
632 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 01:11:54
家人と家来だね
633 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 01:24:39
>>631 徳川以降、現代でも
一族総領の殿様>>>(越えられない壁)>>>親族
と思われがちだけど、
特に戦国時代は壁がものすごく低い。
634 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 10:25:37
清洲同盟と呼ばれるが実際には織田家が義元死後の今川進行で三河をせめていて
さらに家康は岡崎で今川に反旗を翻したわけで
家康としたら両面作戦になってしまうわけで
今川は反旗を翻したすぐなんで織田に帰順したような形だろうが
635 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 12:35:37
いよいよ明日か
秀吉が何百年ぶりかに天下を取るのは
636 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 16:49:40
で、織田三法師と秀吉との主従関係が逆転した瞬間っていつなの?
明快な回答キボンヌ。
織田信雄が秀吉に臣従した瞬間もね。
637 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 18:23:37
ナポレオンとかだったら、革命政府の政治家や軍人たちとの関係は
総裁政府(1795〜) 一司令官にすぎない。政治家である総裁の方が上。
統領政府(1799〜) クーデタで独裁者となるが、まだ共和国の市民。
帝政実施(1804〜) 皇帝となり、政治家・軍人たちは臣下となる。
638 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:06:22
織田家が主君の座から滑り落ち、朋輩たちが臣下の礼を取った劇的瞬間はいつ?
639 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 20:37:44
「官位が上回った時」でしょ。
俺のほうが高位高官。
で、他の奴等には俺が高位高官を”取ってきてやる”
それが秀吉政権の「権威付け」の方法だったわけだし。
640 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 03:00:56
>>636 織田信雄は主筋ではあっても、主従関係はない。
清洲会議(柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興)で、
三法師の家督を決め、信孝、信雄の領土、および重臣の領土分配をしたが、
織田家の人間は一人もこの会議に加わっていないし、
信雄や信孝はこの4人(真の実力者は秀吉)よりは下だろう。
譜代の家臣なら別だが、新参の秀吉は信長、信忠という個人に仕えていたわけで、
織田家に仕えていたわけではないから、三法師のようなワンクッションを
いれる必要もなかったかもしれない。
家康の場合は秀吉に臣従し、また秀頼にも臣従するという誓紙を出しているので、
秀吉の場合とは比較にならん(ほど腹黒い)。
641 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 05:53:40
清洲会議の直前まではは北畠信雄・神戸信孝だからな。
まぁ、織田の家督を嗣ごうとするほうが図々しい。
642 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 06:07:32
秀吉が信長の葬儀を主催したことも大きいな。
どうしてもああいう席だと喪主とただの参列者の間には差が生じてしまう。
そしてその差を認めない事には葬儀が進まない。
葬儀だの話し合いだの茶席だののイベントでことごとく、
今日は秀吉殿が議長、今日は秀吉殿が喪主を・・・、今日は秀吉様の主催で・・・
みたいにことごとく仲間内のリーダーや主催者の役を独占していけばおのずとBOSSに収まる。
643 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 06:59:48
そういう、「なしくずし」で徐々に既成事実を作っていったのはわかるけど、
丹羽や堀や池田や前田が「秀吉殿」を「上様」と呼ぶ瞬間がいつなのかは気になる。
やっぱり、ある時点での区切りみたなのはあるでしょ。
三法師にしても、どの時点で秀吉を「上様」と呼び、主従逆転したのだろう。
644 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 08:25:41
>642
喪主は秀勝
葬儀委員長が羽柴秀吉
いくらなんでも喪主は故人の親族でないと・・・。
645 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 08:31:31
家康は野戦の達人
秀吉は口舌の徒
646 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 09:15:30
江戸時代になって世が落ち着いたら形骸化したけど
武士の主従関係はあくまで主と家来の個人契約であって
主家と従家の家同士の契約ではない。
(江戸時代は形骸化したとはいえ、それでも
将軍・大名の代替わりには改めて領地安堵の朱印状を発給し、
個々の契約を結びなおした)
秀吉やその他の信長の家来は三法師と主従関係を確認する「儀式」を
やってたのだろうか?
やってないなら織田信長が死んだ時点で家来達は織田家から独立したことに
なり、最初から三法師の家来ではなかったことになる。
647 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 22:35:05
そうなの?
それも革新的すぎる考え方じゃないの? 実質はともかくとして
648 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 11:29:19
>>646 なるほど、ヤクザ社会でいう親分が死んだ後の杯直しをしてなかったとすれば、
秀吉は三法師の後見人ではあっても、親分ではない(主従でない)ことになる。
649 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 11:51:51
現代の秀吉が夕張攻略もできないってのにお前らと来たら
まぁ、戦国時代に幼君立てて乗っ取られなかったっていう例はほとんど無いからな
幼君立てるのは乗っ取りのツールだからねぇ
652 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 19:53:32
>幼君立てて乗っ取られなかったっていう例
三河の松平竹千代という例は?
まあ、今川に占領されて人質になってたけどな。
だから「ほとんど」無いだろ
654 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 10:56:26
>>652 幼君と言っても全く別。今川の人質になって生命は守られてていたし、
今川一族の関口氏の娘と結婚し、いずれは今川の傀儡として岡崎城主に
なることは約束されていた。その間、岡崎には今川の城代が派遣され、
松平の有力家臣が蠢動する余地はない。
それに、松平元康が死んでしまったら、今川の直接統治になってしまう。
独立勢力となったときには、元康は既に成人していた。
655 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 11:07:15
三河松平家ってさ、代々家臣の反逆で当主ころされてるんじゃなかったっけ?
よく家康の代でそれ起こらなかったなって思う。
よっぽど家康の家臣統制が優れてたんだろうとは思うが、家督継いだ初期段階でそういうこと起こらなかった
のが奇跡的ではない?
天正のころには徳川家は家臣統制は磐石に近かったと思うけど、初期段階ではこの当主どなの?ってな
かんじで家臣にもなめられるところもあったのでは?
656 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 12:29:48
こらこら
家康も初期に家臣が分裂して大変な思いをしてるんだぞ
いや、それがよ、危機的状況って感じじゃなくてさ、本多正信ら家臣の一部が一向一揆側についたりとかさ、
そんな程度じゃないの?
いつ命をとられるかっていうような状況ではなかったような感じがするけど・・・。
一時敵となった家臣も、完全に家康に敵対しようという意図ではなかったんじゃないか?
後の帰参等も双方ともに腹に含んでいたかのような印象を抱いてるのだが。
その点でやはり、家臣には家康になんらかの魅力が感じていたのではないだろうかね。
結局戦国を最後まで生き残った古狸は、その後興った若い大名クラスからは半ば神格化されたカリスマ
を身につけていただろうが、その片鱗を若いころにも見せ始めていたのだろうか・・・。
658 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 13:01:36
結果収拾できたからってその言い方はなかろう
収拾できず家康が国外追放とかになったらもう二度と三河には戻れないんだぞw
ん〜。
どうなんだろうねえ。
俺の記憶では、三河一向一揆は結局尻すぼみって感じだったと思うんだけど。
それはやはり、徳川家臣の一揆衆からの離脱によるものが大きかったと・・・。
最初は大勢力であった一揆衆も、武士の離脱が相次いで勢力を減衰させ、結局成敗された。
俺にはこのときより三方が原や伊賀越えのときのほうがよっぽど危なかったと思う。
秀吉の織田家乗っ取りって維新並に凄いの?
661 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 15:29:27
家康は状況的には宇喜多秀家と同じで、
ずっと本社(今川・豊臣)にいて、成人後支社に返されるという形。
幼君で家を乗っ取られるということはない。そんなことをしたら支社がつぶされる。
秀家も家康も、家臣団の争いがあった点は同じだ。
662 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 16:05:00
家康の一向一揆は本当に危なかったんだぞ
家康が妥協的な和平案を出して後に大阪両陣でやったような狸オヤジぶりを発揮して
なんとか乗り切っただけの話しだ
家臣にお咎め無しは単純に狸オヤジの延長だよ
今川が弱くなると織田に寝返り、織田が弱ると羽柴について、羽柴が弱ると天下取りにいく家康って計算高い人だと思う
664 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 17:00:41
家康自体は本当に若い頃からたいして人格とか行動は変わっていないように見えるね
ある意味わかりやすい人生を送っていると思う
665 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 17:21:44
なんだかんだ言っても、家康に人徳があったからみんなついてきたのよ。
ケチだが、寛容で懐が深いし。
666 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 17:30:37
そりゃ後に天下を取ったくらいだから人心掌握は長けていただろう
それは秀吉でも同じだ
667 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 17:46:45
晩年になっても精神の健全さと頭脳の鋭敏さを失わなかった点が家康のエライ所。
そして何より天下獲りレースに勝った最大の要因は、・・・長命だったこと!
健康オタクで医学オタクだったからな。
670 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 23:30:11
>>668 長命しか取り得がなかった人で、長生き競争に勝っただけ。
秀吉の人身収攬術や信長のような革新性などのような人に突出した能力はなかった。
671 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 02:55:56
基本的に保守的な常識人だから、信長とは比較できない。
人徳というか人望は十分にあった。秀吉とはキャラの違いにすぎない。
>>627 ドラマや小説や講談でのきなみマイナス面に蓋をして語られるからだろ
673 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 11:16:21
大体天下を取った信長や秀吉や家康が人間的に魅力がないわけがないんだよ
あれだけの巨大組織を纏め上げようと思えば人間的に魅力がなきゃできないわけだしな
674 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 11:41:41
信長や秀吉がしなかった、かつての主君(秀頼)の殺害がなければ
多少は後世の評価もよかったろう。
夏の陣では、まさか本陣を攻撃されるとは思わない家康本陣が崩れ、
あやうく師匠格の義元と同じように、とんまな死に方をするところだった。
運よく三方原のように逃げ切ったわけだが、クビを取られたほうが、
主君殺害がなくなり後世の評価はいいかもしれない。世の評価もよかったろう。
675 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 15:27:38
三宝師が成人してもっと尊大な態度をとっていたら
おもしろかったのに。
676 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 16:22:14
>>675 尊大な態度をとれば、秀吉に棄てられてただろ。
のちに織田家の家督者となった信長の次男にでも殺されるのがオチ(三男は殺されてる)。
まともに育てば、秀吉の養女の一人でも妻に迎えて、徳川政権になっても、
織田宗家にはなれずともぼちぼち生きていけそうだが。
>>674 あの段階で家康が討ち取られてたら徳川大混乱で弱体化して乱世に逆戻りしてたかもな
>>677 いやすでに秀忠が将軍職ついで結構たってるし
多少混乱はあっても大勢は変わらなかったんじゃあないかな
679 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 08:49:38
戦で負けたら大勢に影響ありまくりだわな
家康の首が取られていた場合、その場で総崩れにならなかったとは言えないからね
もし討ち取られても総崩れにならず秀忠中心で再編成しなおせれば大勢に影響はなかったろうね
むしろ秀忠が死んだ場合のほうが深刻では?
後継者争いが勃発するかもしれん
家康はかなり老齢だし
681 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 13:52:13
義直も頼宣も元服してますが。
家康の一声で後継者はどちらかに決まったろう。
三河譜代はじめ家臣団が支えれば無問題。
多分頼宣だろうな。
素直に決まればいいが、外様大名が自分と親しい子を推したらどうなるか
戦国時代に逆戻りだな
秀忠同様に同母弟がいるから。
頼宣をひいきした家康に義直の母親お亀が文句を言ったら、家康は
同母弟の有無を理由にした。有名な逸話です。
685 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 16:11:22
織田家は乗っ取っていないよな
織田家を滅ぼしたわけでもないし
>>684 でも家格としては尾張徳川が御三家筆頭となってるよね。
687 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 19:10:39
>>681 側室とはいえ母方が鵜殿家な秀忠ならともかく下の3兄弟なら納得しない香具師らも
多かったと思う。まず亀は納得しないと思う。奥平松平が離反。越前家も納得しないだろう
大阪方につく忠直卿なんかも見れたかも知れないね。
>>686 それは尾張家の自称。
尾張家と紀伊家は同格。石高は尾張家が上だが極位極官は同じ。
尾張家が明らかに格上なら吉宗が将軍になることは不可能。
>>688 でもさ、詰めの間での席次とかにどうしても序列つくんじゃないの?
690 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 09:55:59
まぁ一応兄弟の序列は
まず嫡出子>庶出子
嫡庶が同じなら年齢順。
つーことで信康以外は全員庶出なので
家康の子の序列は単純に年齢順だろ。
じゃあ、秀康>秀忠なのかどうか異論もあるだろうけど。
>>677 もう群雄割拠の永続的な乱世には戻らないと思うよ。
1615年の時点で、「戦国大名一世」で、
かつ十年単位で「天下取り闘争」をやれる気力・体力・寿命を持つ香具師は
すでに伊達政宗くらいしかいなくなっている。
関が原の戦い時点の1600年では、
「独自の支配枠組確立・勢力伸張ひいては天下取りの独自プラン」をたてた
武将は全国あちこちにいて、
それぞれ大なり小なり動いていたわけだが、
大坂夏の陣当時で、そのような別ストーリーのそれなりのプランを立てられたのは、
家康・秀忠に「大阪の陣で世間を騒がせた責任」をとらせてアボンさせ、
松平忠輝&伊達政宗で天下を狙うという伊達政宗だけじゃないか?
現実には、伊達がひっくり返すことは困難だから、そのまま「歯向かう者無し」で
家康の首が取られても、秀忠政権のシステムが磐石化しつつあり
そのまま徳川の治世がなんとか続いたと思われる。
秀忠がアボンされたら、紀州か尾張かだろうが、難しいね。
大坂という戦場の位置から考えて、近い紀州から抜擢するのがよいか、
むしろ近い紀州はそのまま磐石にして、尾張から抜擢するのがよいか。
692 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 04:34:21
みなさん戦いには飽きたというとこか
それと、本気で天下を狙ってたのってどのくらい居るのかな。
ほとんどがあわよくば、という連中ばっかのような。
信玄は別格として。
政宗だろうが信玄だろうが天下狙ってなんかいないよ
そんな器量無い
後世の過大評価
まあ正直そうだろうな。
当時は信長以外の大名は隣国との国境争い程度が関の山だから・・・。
そう考えたら短期間で周りの国を食いまくってあれだけ強大化した信長はすごいわ。
桶狭間前には義元がその野心もあったんだろうけど、第一歩でつまづいてそのまま脱落してしまった。
まあ毛利、島津、長曾我部あたりは中でも強大化しつつあったけど、時期的に遅すぎた。
北条はもともと大国ではあったが結局は甲斐、駿河に阻まるかたちで覇権を唱えようとする遺志はなさそうだったし。
伊達はそもそも遅すぎ。
謙信はまずそんな意思なしw
信玄も結局は越後との戦いに手一杯。
天下狙ってたのは当時は信長だけだったと思う。
あと、強いて言えば誇大妄想狂の義昭かw
信長死後は短期的には光秀もいるがすぐに消え、その後は秀吉、家康の2名だけじゃないかな。
もし賤ヶ岳で勝家が勝ってても天下までは見据えられてなかったように思う。
そしたら家康がもっと簡単に天下人になれてたかもな。
関ケ原前後では黒田如水か・・・。
これぐらいしか思いつかん。
695 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:38:28
>>694 義昭は天下人だろ。誇大妄想ではなく本来あるべき姿に戻す構想だっただけで。
義昭も飾りで満足してれば将軍としてもう少し京にいられただろうが・・・。
それでもいつかは信長に捨てられてただろうな・・・。
697 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 09:11:44
義昭は晩年、足利昌山として御伽衆になって1万石もらったそうだが、
どの面さげて秀吉のもとに出仕したんだろう。
>>694 秀吉・家康も目の前のトラブルを一つ一つ処理していったら、
「たまたま」天下人になれるチャンスが転がり込んできたんで、やる気になっただけだろうからな。
尾張と美濃だけで天下布武とかぶち上げる信長によく家臣はついていったと思うわ。
699 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 09:56:36
信長のすごいところはそこだな
位置的にも難しくない朝倉が難色を示す中
博打的な要素が多いのによくぞ義昭奉戴したと
700 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:06:46
信長の父秀忠の没年は諸説あるが、
信長が十代で家督を継いだというのは大きいだろうな
とにかく野山を駆け巡り、合戦がやりたくてしょうがない、そんな感じ。
落ちついた大人になってからだと、
天下は取れないんじゃないかとか家がほろびたらどうしようとかいろいろ考える
身のほどにあった生き方をすればいいじゃないかと。
信長は自分の身のほどがわからなかったから突っ走ったんだろう
701 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 10:24:10
>>700 信長の父信秀のことかな?
まあそれはいいとして
尾張は正直いつ家督を継いでも合戦だらけになると思うよ
当時は力量の時代だから信秀の力量には付いていったが信長のは付いていけるかどうかって時代だからね
それを証明するためにも結局派閥抗争は起こるんだ
幼年君主がほぼ乗っ取られるのもそういう意味で本物のリーダーを求める時代なんだよね
702 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:25:21
多くの家臣に期待されていた弟のほうが家督を継げば、
家督争いは起きなかったのでは?
いや、信長が謀反を起こす可能性が高い。
703 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 13:28:45
>>702 いや結局まとまらないんだ
実力者の下に集うのが当時の風習だからね
大和守家は弟でいいだろうが織田家全体のリーダー争いが起こる
信長みたいに自分で実力を示して統一しないと合議制みたいになってしまって
戦国大名化に遅れてしまうことになっていたかもしれないね
謀反の一度目→1700対700という圧倒的有利を信長の武勇にひっくり返されて失敗
謀反の二度目→もう家臣達全員が信長の器量を認めたのに懲りずにやろうとして密告されてあぼん
だからなぁ。どう見ても信長にかなうとは……
弟も兄貴の家督相続認めて忠義誓ってればそれなりにNo.2として活躍できただろうに・・・。
706 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 16:16:13
信長の庶長兄・信広(雪斎に負けて囚われて、家康との人質交換相手にされた人)の場合は斎藤氏と結んで一度信長に逆らったけど
負けた後は素直に従ったから一門衆として遇されたんだよな
707 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 16:55:34
信勝(信行)が嫡子で 信長は庶子だった
という説もあるな。
708 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 17:11:40
信長にも信正とかいう庶長子がいて、えらく長生きしたらしい。
>>708 信長の正室の濃姫に子供はいないのだから
庶長子も何もない
710 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 03:05:03
>>707 重臣の多くは弟についていたので、その可能性がないとはいえないが、
父信秀が生前に斉藤氏との戦いで大敗した後、信長と道三の娘を婚姻させているから、
それはないだろう。
信長が家康の嫡男と自分の娘を婚姻させたようなものだ。
但し、信秀は流行病で死んだようなので、土田氏が信秀が家督は信勝(信行)
と言っていたと主張すれば信勝がその気になっても不思議ではない。
711 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 06:06:53
>708
母の地位が低すぎて連枝ではなく家来として扱われたらしいね。
まぁ、家来としても丁重な扱いだったらしいが。
母の地位が低くて親王号を得られず臣籍降下させられた皇子みたいなもんか。
江戸時代になれば側室の出自なんて、たとえ将軍家でも気にしなくなるのに
戦国時代はまだ厳しかったんだな。
712 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 07:38:55
庶子というのは、正室を迎える前に別の女の腹から生まれた子どものことを言う。
正室を迎えた後は、正室の借腹として嫡男として堂々と披露されたが、
正室を迎える前に生まれた子供は家の恥とされ、嫡男とは認められず
庶子扱いされた。一番最初に生まれた庶子を庶長子という。
713 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:02:06
信正は1555年ごろの出生、
信長が濃姫を迎えたのは1549年だから
この件に関しては>712には関係無いな。
そもそも信正の実在性が疑われているわけだが。
714 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:42:18
下手な鉄砲数打ちゃ当たる、じゃないけど
豊臣氏が完滅して、織田家が数多く存続してるのは
信秀、信長が子沢山っていうのが大きいか。
信行の子孫も2家が旗本で存続してたのには驚きだ。
嫡流たる秀信系が断絶したことは残念。
同家が管理してた織田家の文書が散逸してしまうこととなり、
超メジャーな家系な割に今となっては謎が多いことになった。
信長の正室の行く末や庶長子の存在すら判然としない。
秀信改易時に信雄がそれなりの立場であれば、それら織田家の遺産を
引き継げたのだろうが、信雄が復活して立場を固めるのはもうちょっと後のこと。
う〜ん、残念。
715 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:26:05
ところで信包って一門として信雄、信孝に次ぐ地位だったって読んだ期がするが
この人ってどうだったの。なんかしたっけ。
なんか気づいたら秀吉に従ってたぐらいの印象しかないんだが。
関ヶ原の後は改易されたんだっけ。
716 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 10:51:20
>715
信長、信行の同腹の弟。すなわち嫡出の弟ということで
他の弟より優遇されたと思われる。信行みたいに兄に逆らったわけではないし。
(信行は成敗されたけど、咎は子孫に及ばずに子供はそれなりに処遇されてるな)
一門の地位としては信忠>信雄>信包>信孝
と、嫡出の弟として庶出の子の信孝より上位だったとも。
関ヶ原では西軍側とみなされたがなんとか改易を逃れるも
子孫が続かずに断絶。
717 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:53:07
信包って大坂の役のとき、大坂城で徳川方のスパイみたいなことやって
豊臣方に毒殺されたとか。
718 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:46:17
大坂の役って織田一族ほぼ全員スパイ状態じゃん。
信長に匹敵する才幹の持ち主がいないから仕方無い
信長が大坂の陣にいたら、敦盛歌って突撃して家康の首くらい取ってるだろう
そもそも信長が生きてりゃ秀吉の天下はない。
721 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 15:19:55
織田裏臭い
722 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 17:08:37
>>717 毒殺説は根強いね。
でも、秀吉と織田家の女性を結ぶ接点として登場することも多い。
>>712 庶子は正室の輿入れ以前も以降も関係なく、側室の子供を言う。
正室迎えてからでも、側室に生まれた子供は庶子。
正室に子供が生まれた場合嫡出という。
嫡男は跡取りと定められた子供。
正室の長子が嫡男となる事が多い。
正室に子供がいなかった場合、庶子の中から繰り上がるものが出てくる。
信長の嫡男信忠の場合は、正室の養子となって嫡男となった。
信正は庶子でもないだろ。
母は側室でもなく、公には信長の子として認められて無さそうだし。
725 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 19:02:39
側室として屋敷に迎えず、
子ができたら、その子を認知はできんが
放置するのも父親として忍びないんで
成長したら、別に功績もないのに
高禄で取り立てて
周りが「あの者は殿の御落胤か」と
推察するわけだな。
726 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 19:13:08
側室についてよくわからないんだが・・・
屋敷に迎える公式の側室と、屋敷に迎えない非公式の側室とがあるが、
その違いは一体どこからくるのだろう。
当時は側室を持つことが一般的で、数なども制限があった訳でもないし、
別に非公式にする必要は全くないと思うのだが・・・
727 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 19:27:45
信正出生時はまだ斉藤家(と同家出身の妻)に遠慮があったのかな?
それならそれで、斉藤家滅亡後に認知すればいいから
それはないか。
屋敷に迎えない側室って、側室じゃなくただの妾なんじゃ
729 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 19:41:45
側室と妾って同じじゃないの?
どっちも妻ではなく愛人なのだし・・・
その違いがよくわからない。
信正については、信長の子供かどうか判断がつきかねるので、
(他の男とも関係があったとかで)認知されなかったと聞いたけど・・・
側室ってのは正室の承認のもと、正式に奥に仕えることになった妾なのでは
731 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:04:48
斉藤家滅亡後に認知って・・・
信長が美濃攻略後も濃姫は信忠の母親として
君臨してるのだし、意味無いんじゃないか?
732 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:10:34
濃姫って信忠や信雄を養子にしてたの?
信正の妻は信広の娘だっけ。
何かそういう位置づけにいたらしいということはここからも臭うね。
>>732 信忠が正室の養子だったという史料はあるけど、信雄は違うだろ。
735 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 20:36:00
>716
信包の嫡流(丹波柏原)は信包の孫信勝のときに無嗣断絶したけど
庶流は旗本とか熊本細川家の家臣で存続してる。
後に柏原には信雄の玄孫が入部し明治維新まで存続。
736 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 08:10:55
>725
堤○次○が他所でヤリまくってできた子らを認知はしないが
コ○ドや関連企業で採用して幹部社員や役員にするのと似てるのかな。
737 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 08:42:41
信包は要は信長に一番近い弟って以外何も無く、
地位の割には清洲会議の話題にすらのぼらず
あっさり秀吉にヘイコラしてたへたれなの?
ていうかこの人、本能寺の後何してたのよ。
信孝と同等以上の地位と発言権あったんでしょ。
普通に実力の問題じゃないの?
信長の当時としては特異な人事によって、重臣クラスの領国や与力衆を含めた勢力は親族衆よりはるかに上
二ヶ国ないし三ヶ国を持っているのに対して次男の信雄すら伊勢一国も保有してなかった
739 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 09:01:51
>>737 "へたれ"に期待されても・・・ 基本的に織田一族に"へたれ"がいたから織田家は
まがりなりにも存続したわけで、そういう役目だったのでは
740 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 10:06:50
ヘタレが多いかどうかはともかく信長の兄弟で普通に死んだのって有楽斉くらいか。
戦死したり謀殺されたり毒殺されたりばっか。
同母末弟の秀孝なんか散歩中に叔父の信次の家来に射殺されたりしてる。
(このとき怒った信行は信次の居城の守山城を攻撃して焼き払ってるのに対して
信長は叔父を許している、信行と対抗するため叔父を味方にするためとも)
741 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 10:15:54
織田秀信って面識があった有名武将って誰と誰?
豊臣秀頼の顔くらいは見てる?
742 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 10:40:32
>740
ただその時は果敢に報復措置をとった信行の方が
なぁなぁで済まそうとした信長より家中の支持は集まったようですな。
>>692 関が原の時点で家康以外では・・・
毛利輝元:超過大自己評価による妄想により「天下とれるかも?」
上杉景勝:家康しか天下を納められない事は悟っていてもちょっとだけ反発
伊達政宗:娘婿の松平忠輝をシンボルとして天下も望んでいたかも?
黒田如水:九州・中国制圧後に毛利・島津・加藤の諸将を集めて秀頼かついで天下鳥
744 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 11:28:59
>>毛利輝元:超過大自己評価による妄想により「天下とれるかも?」
それはない。秀元は思っていたかも知れん。
745 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:54:12
>>737 信包は北伊勢制制圧戦を初めとして、いくさに後れを取ることはなく、
武将としての能力はあったらしいが、清廉で無欲な人であったらしい。
馬揃えでは、信忠・信雄に次ぐ連技衆の三番目として行進している。
本能寺の変の際には伊勢上野城にいたが、安土から脱出した土田御前を受け入れている。
秀吉の小田原攻めでは、北条氏の除名嘆願の斡旋をして、秀吉の機嫌をそこね、15万石を改易されている。
746 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 14:09:34
>>743 ちょっとだけ反発という気持ちでは、上杉は天下の大兵を引き受けられないだろう。
もし三成との間に密約があったとしても、三成が約束を実行するとは限らず、
また実行したとしても毛利もかつぎ出して総大将に据え、西軍を形成できるとは限らない。
遠征ではないので補給の心配はなく、百石あたり5人出せたとして6万、
浪人衆の大量採用で2万の兵を集めていたとしても、それをプラスして計8万だから、
それで天下の兵と戦えると思っていたハズはなく、滅びる覚悟ではいたんではないか?
あるいは、プライドが邪魔をして、前田のように家康に屈することができなかっただけかもしれない。
747 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:17:58
上杉は謙信の名を落とすような真似もしたくなかった。
8万の兵があれば冬場まで持ちこたえれば引き分けくらいに持ち込む公算もあったのでは?
748 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 03:21:52
確かに、なんの戦果もなしに冬将軍が来てしまえば上杉が引き分けに
持ち込める公算は大きくなる。
また、家康が諸将を抑えきれず、長篠の戦のように革籠原に攻めてくるか、
あるいは、動きのないのに耐えかねて長久手のように中入れを試みて失敗すると、
離反する武将も出てくるだろう。
※革籠原防塁(空堀と高さ4米の土塁で数キロあったが現在は数百メートルが残存)
謙信の名なんて、秀吉に屈服した時点でもう終わってるだろ
江戸時代じゃないんだから虚名が流行する前だし
戦国時代から名将として声望高かっただろ>謙信
751 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 17:42:27
具体的な戦歴が謙信には無い
大敵を滅ぼしたこともないし、劣勢を逆転して大勝利ということもない
ついでに存在してもしなくても歴史の大勢に影響は無い
なんで名将扱いなのか理由がわからない
信玄が弱小時代の家康に勝ったために政治的理由から過大評価が横行したことのおこぼれ?
752 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 17:44:42
謙信の評判ってね
・将軍様に忠実だった
・関東管領就任として鶴岡八幡宮に参拝した
っていうところが大きかったんだと思うよ
頼れる義理堅い将という評判であってめちゃくちゃに強いという評判ではない
義理堅いのか?
義輝が暗殺されても何もしないし
義昭に頼まれても「信玄倒してからね」といって実質無視り武田との和睦仲介すら蹴る
織田が義昭追放しても織田との同盟継続
関東諸侯の希望の星だったはずなのに、彼らを見捨てて後北条と同盟
そしてその後北条支援をケチったせいで切られる
織田との同盟も一方的に破ってるし
明らかに評判「だけ」じゃないの?
こんなんで当時から義理堅いと言われてたとするのなら、感覚自体が今と全く違ったということに……
754 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 18:18:57
まったく違うから仕方ないだろ
多聞院日記なんかに「甲斐・越後の弓矢、天下一の軍士の由風聞」と有るから
信玄や謙信の盛名は当時から近畿の人々にとって畏怖の対象だったというのは間違いない
江戸時代に軍学者たちが持ち上げた影響も大きいだろうが、
そもそもこういう当時の評判が下地にあったわけ
いきなり山名や京極みたいな大名マンセーしても説得力無いだろ
756 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 20:26:51
少なくとも東北で十万単位の兵が戦った史実がない以上東北決戦は未知数の要素が多い。
757 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 00:43:30
おれも謙信は過大評価だと思う
信玄の策略で東奔西走させられても毘沙門パワーで互角に取り戻してしまう謙信
織田の大軍に攻められても毘沙門パワーで撃破する謙信
759 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 08:23:41
武田遺臣が軍学者として出世するために信玄をマンセー
それを快く思わない者達が、今度は謙信をマンセー
結果甲州流軍学と、越州流軍学が江戸期の軍事思想の主流に
しかし所詮は小説的持ち上げから来た空論。役に立った試しはなく消滅していきましたとさ
760 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:23:05
>謙信の名なんて、秀吉に屈服した時点でもう終わってるだろ
>謙信の名なんて、秀吉に屈服した時点でもう終わってるだろ
761 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 13:46:40
>>760 謙信が秀吉に屈服?七尾城救援の途中で逃げ出した秀吉が?
幼稚園レベルだな。
762 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 14:50:22
家康は大阪の陣に出陣するさい,青竹を持って指揮をした謙信のマネをして
青竹を持って出陣した。
すでに当時から伝説の軍神であったわけで、軍学がさかんになる前から謙信、信玄は
名将と言われていた。
ただ、謙信の場合は自身が指揮した戦いの場合は、ほぼ100%の勝率ながら、
関東の場合など自身が越後に引揚げると上杉方の関東の諸将は北条方に攻められ、
後詰が間に合わないことが多かった。
また、後詰しても北条方は謙信が率いる軍と戦うと大損害を受けるので、
越山した謙信軍が一万で、北条が4万の軍勢で4倍の戦力差があっても、決戦を避け、
謙信が越後に引揚げるのを待つことがほとんど。ビビッて誰も正面きって戦おうとしなくなった。
信長などは洛中洛外図などを送り、謙信に媚びを売っていた。
14才で栃尾城主となって、三条長尾氏を破って以来70戦無敗ながら、
例外の時期は多少あるが、北条氏康、武田信玄、越中の一向一揆と回りは全て敵なので、
信玄が死んで、一揆勢が味方になり、織田方を蹴散らして越中・能登・加賀を制圧するまでは、
領土が広がらなかったのはやむおえないだろう。
763 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 15:16:48
764 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 16:37:34
普通に、
「謙信の名なんて、(上杉家が)秀吉に屈服した時点でもう終わってるだろ」
と解釈すると思うのだが。
こういう曖昧文章を理解できないのは朝鮮人並。
ただし、文章の内容はどうかとは思う。
オレが当時の関東の武士や百姓なら、
時々思い出したように山の向こうからやってきては、
散々荒らしまわった挙句に混乱と混沌と疲弊だけを残して去っていった謙信を
忘れたくても忘れられなかったと思う。
「あんなわけわかんねぇ恐ろしいもの、二度とごめんだ」と思っただろうwww
地震や台風より性質悪いぞあれ。
765 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:02:58
話が噛み合っていないようだが
北条や関東豪族諸氏も、謙信が動ける夏の間は素直に従っておいて嵐が去るのを待って
どうせ冬になったら地元に引き上げるんだからとしていただけだろう
正面からぶつかる理由がまったくないしな
766 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 17:46:18
本当に天災っぽいよなwww
恐ろしい天災が山越えてまた来たよー
謙信は、越冬駐屯したことないのか?>上杉ヲタ
767 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 18:10:22
謙信って冬の間だけ出たんじゃなかったっけ?
768 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 20:04:54
>>764 秀吉は上杉を臣従させたが粗略には扱っておらず、むしろ尊敬の念を持って接したようだよ。
769 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:22:10
>>767 兵農分離をしていないと、農繁期は出兵不可。
豪雪期も出兵不可。
その間の限られた期間しか、いくさはできない。
だから小田原城も陥落しないし、川中島は延々と何度も戦うことになる。
770 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 22:05:10
上杉とか毛利って、気がついたらいつの間にかに秀吉に臣従してたな。
大友宗麟も九州の独立大名かと思ってたら、いつの間にか秀吉に泣きついてるし。
戦わずして、臣従した連中っていつ秀吉の家来になったの?
>>743-748 1600年段階では、上杉・直江コンビには
徳川に対するそれなりの勝算があったと思うけど。
というのは、西日本+北信越の西軍連合を完璧に布陣できれば、
関東南部は、いわば「日本の南東の端の『半島』」になって
地政学的に致命的な劣位に立つことになる。
もちろん近代の地政学など当時の武将が知るはずも無いが、
直感的には、この程度のことは武将クラスなら容易に理解できただろう。
家康の側もこのことは理解していたようで、
江戸の陥落も一応想定の範囲内だったと言われている。
逆に、
伊達政宗などは、多分1600年時点では天下取りは全く考えていなかったはずだ。
ヤシが、ここでぬけぬけと東軍について、しかもローカル戦に終始したことを
近視眼的と非難する向きもあるが、これも地政学上合理的なこと。
陸奥の岩出山から見れば、日本の政治的中心は
畿内にあるより関東に来ていたほうが有利だからだ。
だから、徳川幕府開幕により、江戸・駿府に政治中枢が移動した1615年にこそ
天下取りのチャンスを見た唯一の武将だった。
東北は日本海側と太平洋側で、地政学的に全く異なるポジションになるので
伊達が米沢にいたままだったら、伊達政宗は
上杉と境を接するにも関わらず西軍についた可能性さえある。
772 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 07:52:42
家康は野戦の達人
773 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 08:45:44
謙信の勝率十割って何のギャグ?
例によって些少の被害の敗北や城攻め失敗は引き分け扱いにする厨計算かな
そんなに強かったら講和した一向宗領土含めても生涯で百万石がせいぜい(スタート時の石高を引くと稼いだのは多く見積もって八十万程度か)、なんていう地方統一もできなかった程度で終わらないはずだが
774 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 14:29:19
>>749 秀吉に屈服したのは、徳川や島津、伊達、毛利といろいろあるけど、
みんな名声は終わってるの?
また上杉の場合は正式には同盟、石田三成が秀吉・上杉同盟を斡旋したわけで、
当初は佐々や徳川という共通の敵もあり対等の同盟。
ただ、その後は家康と同じように正式に臣従している。
その後は、一応は徳川、毛利などと同じように大老になっているので、
それなりの扱いは受けていたのだろう。
>>773 東上野+信濃の一部+越後+越中+能登+加賀で100万石ということはない。
ちなみに、信長公記(巻十三)には柴田勝家が加賀に侵入して手取川を越え、
諸方へ放火したとあるので、謙信死後2年たってるのにまだ織田方は加賀を制圧していない。
その後、飛騨越えでの信忠軍団の侵攻+柴田軍(前田・佐々・佐久間)でやっと加賀や能登から、
上杉勢を排除している。
775 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 09:16:18
加賀北半国は最後まで一向宗の領土だったからな
末期の講和すら本願寺の指示
謙信の死亡も援軍が鈍くなった程度
実際、手取川合戦があったとされる後に加賀対策を任されたのは別喜広正
そして別喜が失敗したので佐久間にバトンタッチという流れだから柴田の活動にタイムラグがあるのは当然
この間、織田の対上杉侵攻は飛騨口からで、美濃衆が謙信以来の重臣河田長親を大敗させるなど有利に戦を進めたが、畿内情勢の変動により兵を引いたので上杉は助かった
よって、柴田勢の動きのタイムラグだけに注視するのは誤り
776 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 11:15:23
簗田(別喜)広正は天正4年に既に信長に見切りをつけられて召還され、
加賀、能登は勝家に任されている。
謙信が信長との同盟を破棄し、本願寺(顕如)、武田勝頼と同盟して能登に侵攻、
七尾城を落としたのが天正5年。
なので、手取り川の戦があったとされる後に簗田(別喜)広正が加賀対策を任されたというのは誤り。
別喜広正は信忠軍団に戻り播磨神吉城攻めに参加している(天正6年:信長公記)
>>774 > 秀吉に屈服したのは、徳川や島津、伊達、毛利といろいろあるけど、
> みんな名声は終わってるの?
伊達の場合は、終わってると言うかまだ始まってもいないw
謙信等は、所詮は地方制覇もおぼつかなかったローカル大名。
その程度の名声、家を潰してまで護る程じゃない。
だから実際に百姓上がりの秀吉にひれ伏した。
九州を制圧しかけた島津は逆らったために二ヶ国まで領土を削られている。
現実を考えれば当然の選択。
779 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 17:21:37
関東管領職を馬鹿にしすぎじゃね?
780 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 03:37:34
>>778 秀吉以外に英雄はいないと言いたいの?それはそれでいいけど、
君がローカル武将という、謙信にしろ信玄にしろ元就にしろ、
生存中は織田にひれ伏したことは一度も無い。
事実は逆で機嫌を取ってなるべく戦わないようにしていた。
秀吉などは彼らの眼中には無かったろう。
生前にひれ伏していたのは徳川や島津や伊達だね。
>>775 実際は加賀の北半国にも織田方の拠点があったが、謙信軍は天正5年7月、七尾城を落とし、
勢いに乗って加賀尾山(金沢)城を落とすや、松任城は自ら降伏。河北、石川郡を制し、江沼郡に攻め入り織田の援軍2千の籠もる津葉城(大聖寺城)をも攻略した(加賀4郡中3郡を制圧)。
五万を越す織田軍は決戦を避けて逃げ帰ってしまった。
781 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 08:04:49
なんで「先代の武名のために現在の有力者に逆らうのが現実にありえたのか?」という話なのに
謙信厨等が湧いてくるんでつか?
過疎ってるそれぞれのスレに帰れよ
そりゃあ先人からの遺産を貰いつつ、一生かけて闘いながら地方統一もできなかった者達と。
ほとんど徒手空拳から成り上がって天下統一した秀吉を比べるなら格差がありすぎる。
極限すれば謙信とか信玄とかがいなくても日本の歴史は大筋で変動しないが、秀吉がいなかったら全く違っていた。
雑魚と英雄ほどの差があるかどうかは知らんが、優秀とはいえ探せばいくらかいる「秀才」と「その時代数人しか輩出しない英雄」ぐらいのランク差はあるだろう。
れっきとした鎌倉以来の名家である大友や島津・伊達ならともかく
たいていの家は経歴詐称も良い所の下克上組でしょ
後付けでよいのなら、秀吉は豊臣姓を下賜され武士としては空前の地位を獲得した最高の名を持つ
拘るような馬鹿なら滅びてる
将軍が暗殺されようが追放されようが座視し、保護すべき関東諸侯を裏切った管領様になんの武名が?w
当の足利将軍が秀吉からお情けの知行貰ってるんだから。
血筋がどうの、と言い張るのならそもそも秀吉は信長の遺産横取りどころか、上級武士になることもできなかった。
>>780 > 生前にひれ伏していたのは徳川や島津や伊達だね。
複数の国を抑えていた徳川(しかも旧主の同盟者)や島津と、一カ国も完全に抑えてない伊達を同列で語るなよ。
そんなに徳川と島津を貶めたいのか?
786 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 19:25:18
>複数の国を抑えていた徳川
>一カ国も完全に抑えてない伊達
駿河・遠江・三河(それに甲斐・信濃)をあわせても陸奥一国よりはるかに狭いわけだが。
陸奥一カ国を完全に領有するのは、その他の国を数カ国領有するのと同じだろう。
秀吉が農民だと本当に思っているヴァカってまだいるの?
いくら信長が能力主義とはいっても農民を雇うわけ無いだろ(www
半農の武士で地方の土豪だろ・・・
土豪にしては親族少ないな
>>788 「土豪」だったら累代の郎党もね。
親族も桶屋の息子だし。
790 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 04:31:16
>>787 秀吉はタダの農民だぜ。
まさか偽書の「武功夜話」を信じてるわけ?
当然、天皇の落胤でもない。
半農半士じゃねーの?
秀吉より身分が上だった浅野でやっと小土豪レベルかと
織田家仕官前は六角氏と何らかの関係が噂されてた気がするけど
秀吉の出自に関して様々な説が有って未だに定説を見ないという事柄一つで、
秀吉が大した身分の出身ではないということがわかるな
仮に有力百姓程度だったとしても、最初から一ヶ国ないしそれに近い勢力のボスとしてスタートした連中をごぼう抜きしているわけだからな。
才幹を否定する材料には到底ならない。
誰も秀吉の能力にけちをつけてる奴なんかいないでしょ
比喩じゃなくて本当に人の何倍も働いてたしね
それだけに老化が早く始まったと言われてるけど
晩年の事態は、ボケというより一代で成り上がった人間の恐怖感だと思うな
戦争が無くなったら、自分のような下層上がりには誰もついてこない
ようやくできた子供を本当に周りが守り立ててくれるかわからない
信長が枕元に立つ悪夢を見てたって話があるけど、自分の子が下克上される側に立つ可能性に対する懸念の表れなんだろうな
>>790 農民と断言しているDQNキターーーーーーーーーーーーーーー(笑
農民か下級の武士かはわからんのに・・・
秀吉が実家に頼ったという形跡が全く無いからな
弟と、それなりの身分になってから取り立てた親戚筋以外背景の力が全く見えない
領主の軍役で嫌々連れて行かれる足軽の子、とかがせいぜいじゃないの?
下級でも武士なら主筋とかの係累がいるはずでしょ
>>796 士農が完全に分離して身分として確立する前の時代だよ
>>786 伊達政宗が、勿来から竜飛岬まで陸奥国を完全に領有したことなど
一度も無かったはずだけどw
伊達政宗が小田原参陣直前の会津拠点時代に領有していたのは、
大雑把に言えば今の福島県+山形県の一部程度で、
確かに陸奥国の中で最も生産性の高い地域ではあるが、
奥州全域を領有などとはお世辞にも言えないよ。
今の「東北南部3県」よりも狭いw
生産性の点はもとより、面積の点でも、
旧領に加えて旧今川領と旧武田領の一部を押さえた
関東転封直前の「東海の覇者」だった時の徳川領より狭かったはず。
政宗をして「奥州の覇者」というのは、
名声がいわきから秋田や津軽まで轟いたことの比喩的表現。
もし、政宗が奥州全域の真の覇者だったら、
いくら懲罰的転封とはいえ、
生かして使うつもりなら、秀吉は旧大崎領数十万石レベルには落とせないだろう。
800 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 02:57:09
家之子郎党がおらず、たまに足軽としていくさ働きに出るくらいでは武士とは言わない。
もしそういう連中がいて譜代の家臣になっていたら、多少豊臣家はもったかもしれん。
秀吉は百姓より下の階級の出身という説もある。
801 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 03:42:20
>>799 反伊達の相馬氏があるので福島県さえ完全に制圧してないよ。
また、摺上原後、南会津の領主(河原田氏、山内氏)も政宗への臣従を拒否、
上杉が援軍要請にこたえて兵を送ったこともあり、完全に制圧はできなかった。
政宗は今の東北6県で、ひとつの県すら領土化できなかったわけだ。
けど伊達は150万石
そんな県境できっちり完全支配してる戦国大名がいるかっての
804 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 08:19:51
現行の山川の日本史教科書で、秀吉を「地侍の出身」と明記してるのはチトやりすぎでは。
武士が百姓に殺される時代に、武士の家系か賤民の家系かなんて無意味だろ。
秀吉の出自が立派でないと、それに従わされた武士は立つ瀬がないな。アヒャヒャヒャヒャヒャ
806 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 09:37:57
東大の先生が執筆・監修して、文部省がオッケーした山川の教科書で
秀吉=地侍の出って明記してるってことは、学界の大勢は地侍になってるのか?
農民だと思ってる一般人は面食らうだけだろ。
名のある先生でもトンデモ書く人はいるし
検定はあくまでも「指導要領に引っかかってるかどうか」を判断するところだから個別の歴史認定にお墨付き与えてるわけじゃない
元々、判断の材料になる史料自体が極少ないのが問題の根幹だしね
太閤記他の記述を学問的に覆すのなら、それ相応の史料が必要だと思うんだけどねえ。
>学界の大勢は地侍になってるのか?
大勢になっていたら他の教科書にもっと波及しているでしょ。
文科省の検定じゃ相当の珍説でなければ修正入らないだろうし(近現代史でなければ尚更)。
結局今までの定説っていうか、半農足軽の子っていうのが正しいんでない?
810 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:05:54
>>802 でたらめもいいとこ。その計算には実効支配してない南会津郡や、
大崎氏、葛西氏の領土も含まれている。
実際は100万石もないだろう。
慶長検地をベースに石高ちゃんと見てるのか?
れっきとした学者や作家の中にも特定大名の厨ファンっているから彼らのフカシを真に受けちゃだめだぞ?
812 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:17:40
秀吉の義父の筑阿弥というのも、よくわからんな。
同朋ということは茶坊主だったんだろうが、そんな人が農家の後家に入り婿するか?
813 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 13:51:50
同朋衆は茶坊主というか芸人で身分の低い物がなっていた。
徳川将軍家や豊臣政権下の同朋衆と比較してはいけない。
>>810 実際に実効支配してたのは後に上杉家が押し込められた出羽置賜、陸奥伊達・信夫の他に伊具くらいだろ。
よって40万石にも満たないと言うのが正しかろう。
あとは近年に勢力圏に入った地域なので実効支配してたとは言えない。特に、会津あたりは徴税すらする間もなかったんじゃ
ないのか?
また、その前から勢力を伸ばしつつあった刈田には白石・亘理には亘理とやや格下の同盟者がいたし、宮城には国分・留守
とようやく格上になれたばかりの同盟者がいた。
運よく豊臣大名になる過程で家臣化することができたが、そういう外圧がなかったらあと20年は必要だったろう。
これは、常陸において佐竹が弾圧した連中にも同じことが言える。
そんな伊達を徳川や島津と同列に語ろうとは可笑しくて腹筋が痛いw
815 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 08:54:34
秀吉の出自など
秀吉が関白になる時点で一度消されてしまっているから
わかりにくかろうて
816 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 13:50:34
817 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 22:29:00
秀吉と諸大名の力関係で、有力諸大名の子弟への偏き(『き』が変換できない!)の一字の与え方に如実に顕れている。徳川秀忠・結城秀康、毛利秀元・秀就、宇喜多秀家など、忌み名の上の字を与えている。
徳川将軍は家光以降、家定に至るまで、忌み名の下の字を与えている。
旧主信長の嫡孫には旧主の忌み名の上の字を踏みつけにしているとはいえ、やはり上の字を与えている。
朝鮮出兵で独裁者的なイメージが強いが、政治基盤は徳川幕府とは比較にならないくらい脆弱だった証左といえる。
もちろん、度重なる大土木工事や無理な外征など、小『煬帝』的な権力の行使ができた点では瞬間最大風速的に日本史上最高の独裁者には違いない。
結果的に、それが短命政権となる要因にはなったが。
818 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 13:23:44
田中吉政、大友吉統とかもいるわけだが。
譜代の家臣、一族が極端に少ないために
羽柴家の政権基盤が脆弱だった、
ってのは一々長文書いてもらわなくても常識だしな
820 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 09:18:06
大友なんて、足利将軍からもらった「義」をわざわざ「吉」に変えてるしな。
当時秀吉の支援をとても必要としてたからじゃね?
822 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 10:46:53
信長正室である濃姫が、本能寺の変後一族を纏め上げれいれば
秀吉の織田家のっとりもなかったかな、と思う。
濃姫って信長と一緒に光秀に討たれたんじゃなかった?
戦国板ならともかく、史板でそんな事言ってる人間がいる事にびっくり。
825 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 14:59:37
取り敢えず、安土城を復元しろよ。
城山に有った全ての城屋敷も復元してさ。
なにが
>取り敢えず、
なんだよ? おまえバカ?
>>825 復元するには、それだけの材料がないとできないぞ。
国の特別史跡である以上、文化庁を納得させるだけの材料を用意しないと同じ失敗を繰り返すだけだ。
>>822 >>823 濃姫の晩年についてはいろんな説があるよね。
早い時期に死んだという説。
早い時期に信長と離婚したという説。
信長死後も存命で安土殿として信雄から化粧領を得て保護されていたという説。
本能寺で死亡したという説はほとんど小説の中での創作っぽい。
ただ、世継ぎ生母でもない彼女が本能寺の変後も存命し織田家にいたとしても、家中での扱いは、
格は高いが実権無しってのが正直なところだったんじゃないかな?
小説とかでは気が強く、また賢い女性として描かれる事が多いけど、彼女のことについて書かれた
史料が残っているのは少なく、実際のところはそうでもなかったのではないだろうか・・・。
武家に嫁いだ女性の手本のような、夫に従うつつましい女性だったのかも知れない。
>小説とかでは気が強く、また賢い女性として描かれる事が多いけど、彼女のことについて書かれた
について
>史料が残っているのは少なく、実際のところはそうでもなかったのではないだろうか・・・。
と否定しておきながら、資料がないにもかかわらず
>武家に嫁いだ女性の手本のような、夫に従うつつましい女性だったのかも知れない。
なんて書いてんの?
高台院や芳春院のように政治に多少なりでも関わったらもっと記録が残ってるはず、
それが残されて無いということは逆にそういう出すぎたところの無い女性だったんじゃないかという理屈では?
別におかしな内容だとは自分は思わないが
>>829 「よく語られるイメージ」に対する、対極の「こうかもよ」を提言。
史料がない以上、なんとでも言えるんだぜ、と。
プラス、828の妄想がブレンドされた結果。
832 :
日本@名無史さん:2007/05/25(金) 11:21:21
秀吉は織田家を乗っ取ってないわな
>>832 おお、たしかにw
やっぱ斉藤道三はすごいな。
834 :
日本@名無史さん:2007/05/26(土) 13:37:31
信長は天下人ではない。
あくまでも、最有力候補のままで死んだ。
天下を統一したのは秀吉。
岐阜中納言織田秀信は、そのことは、冷静にわきまえていた。
秀吉のことを、日本を統一した英雄として、素朴に尊敬していた。
835 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 13:06:45
秀吉にはじめて臣下の礼を取らされた瞬間の秀信の心中は察するに余りある。
福島や加藤のような荒武者に引っつかまれて、荒々しく下段の間に引き据えられ、
無理やりに平伏させられたのだろうか?
いままで、三法師さまとか三法師ぎみとか言ってたジジイに、「秀信、大儀じゃ」とか
呼び捨てにされてカワイソス。
>>828 >格は高いが実権無しってのが正直なところだったんじゃないかな?
当時の武家の正室って、当主と同じだけの権力があったから
生母じゃなくても実権無しってことはないな。
しかも彼女は信長の嫡子・信忠を養子にしているし
生んでいないもののちゃんと嫡母なんだよね。
正室として格が高かっただけじゃなく、信長と同じだけの権力は持っていたわけだから
織田が傾き始めた時にほったらかしだったとも思えない。
信長存命中は奥の乱れが一切表に出ないことを見ても
ちゃんと奥を取り仕切っていた優秀な女性だったと思われるし。
>>836 戦国期の正室と、江戸以降幕府が安定してからのお飾りの正室が混同されてるからな。
おまけに、悪名高い偽書の武功夜話があったしな。
元々戦国期の奥制度について真面目に研究している人間は少ないし。
表と密接に関わっている時期だから、信長に限らず、当時の奥については
いろいろな文献に奥の女性が出てくるから、概要は分かるが、
そんな文献を見ての考察をしてるのは、結構マニアックな人間だと思うぞ。
838 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:59:36
>>835 中国の簒奪にありがちな、そういうドラマチックな場面って本当にあったのかな?
839 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 15:18:39
カッコォ〜ン♪
秀信は有楽や信包と同じくはじめから天下への野心が無いように思われる
自分に天下を治めるだけの器量がない事をわかってたんじゃないかな
>>835 「ひとたらし」がそんなことするわけないじゃん。
朝鮮人じゃないんだから。
842 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 08:57:04
そりゃあんた
秀信が元服した時点ですでに織田家は岐阜13万石の大名だからな
自分の爺様がすごかっただけの田舎大名だわさ
843 :
日本@名無史さん:2007/05/29(火) 08:02:34
岐阜は都会だよ。
844 :
日本@名無史さん:2007/06/01(金) 22:32:54
秀吉は死ぬまで秀信には敬語だったのか、それともぞんざいなタメ口になったのか、
非常に気になる。
基本的に敬語だけど隙を突いてタメ口で話しかけてじろっとにらまれてまた敬語に戻すという感じ
ていうか立場的に目下であろうが目上であろうが秀吉や秀信みたいな位の高い人間は
「関白or太閤殿下」「織田中納言殿」と敬称で呼び合ってただろうし、
会話も公的な場ではお互いに丁重な言葉使いだったんじゃないの
いきなり「秀信様」が「おい、秀信」になるとか有り得ない
むかしの位の高い人はタメ口は普通使わないよ。
>>536 それも難しかったけどね。
徳川政権樹立の花火としてどうしても血祭りにあげたかったかもしれないし。
無駄だろ…常識的に考えて オラオラでやるお!
____
|\ \ λ∧λλ
|. \ ヽ ドガーン )::::::::::(:::::(λ
| ノ( ゝ 、_,ノヽ r'´ ゙ヽ /`ヽ λ:::::::::::::::::::::::::|
| ⌒(( ●)(●) ヽ ヽ从从/ / (==O===>::::||
. | (__人__) /⌒l \ \/ /て (●)liil(●) ノ( \ バシーーン
| ` ⌒´ノ |`'''| 煤@ヽ/ / そ / (__人__) ⌒ \
/ ⌒ヽ } | | ,)/ / \ く | |!!il|!|!l| |
/ へ \ }__/ / / /\ \ \i⌒ヽェェ| /
/ / | ノ ノ / / YYY\ \ \ \ /⌒,/´
( _ ノ | \´ / / \ \ / \ \/ /l
| \_,/ / \ \_/ \__ノ |\
.| / \ |) )
ヽ / \ ,r' /
\ , '´ `' , /ー'′
誤爆wwサーセンwww
乗っ取りってW
負け犬は織田だろ、結果が全て運も実力のうち
852 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 14:50:38
どこかに書かれていたけど
秀吉は織田家を乗っ取ってないよ
織田家は織田家で存続しているからさ
853 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 17:05:42
秀吉はのっとった家をあえてあげるならば、摂関家だろう。
近衛前久の養子となって藤原姓を獲得、
関白に就任し、後陽成天皇から「豊臣姓」を受け、五摂家ならぬ六摂家に。
前久の娘前子を養女にして、後陽成天皇の女御にした。
秀吉は織田を名乗ったことはないし、どうでもよかっただろう。
854 :
日本@名無史さん:2007/06/20(水) 19:02:44
信長はラオウや曹操みたいに恐怖覇権を敷いた
いつか崩壊するよ
救世主が秀吉
855 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 21:58:45
六摂家にしてどうやって関白職を回すつもりだったのだろう?
秀次に譲った所からすると豊臣で独占するきだったのか?
やぱーりこの政権は最初から徒花だったような
856 :
日本@名無史さん:2007/06/21(木) 23:32:59
ど織田家!
>>855 「自今以降は豊臣で世襲独占」のつもりだったんじゃないか?>関白
16世紀末の発想としては、そんなにおかしいことでもなかったはず。
家柄と官位自体の権威はまだ健在だったが、
「五摂家」のような公家衆の人的集団の総体的権威は、
すでに戦国時代の間にボロボロになっていたわけで。
豊臣秀吉に限らず、
1615年段階の伊達政宗の政権奪取構想(妄想?w)の中にも、
藤原である伊達政宗自身は関白に就き、
上越の松平忠輝を征夷大将軍に就けるという構想があったとも言う。
この場合の関白も伊達家で代々継ぐつもりだったのだろう。
史実の徳川は、また別の手段で公家の秩序をさらに骨抜きにしてしまったけどね。
秀頼は何故関白になれなかったの?
若かったから
860 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 08:54:34
坊やだからさ
861 :
日本@名無史さん:2007/06/22(金) 22:26:47
とりあえず、秀次を関白につけたところまでは成功だったんだよね?
豊臣家による摂関独占政権運営の第一歩としては
862 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 06:43:05
>861
秀吉にあのまま実子が生まれなければ、
豊臣政権は存続したかもしれない・・・
という可能性はあるように思う。
摂関独占したからといって、大昔の藤原氏のように天皇家と深い血縁関係があるってわけでもなし、
それだけじゃ政権永続の足がかりにしかならないな。
豊臣家が日本第一の武力勢力である限り、揺るぎはしないだろう
日本第一でも、海外に侵攻してボロ負けしてるからな。
遠征失敗した時点で、例え有力な後継者がいたとしても相当厳しかったのは間違いないかと。
朝鮮出兵が豊臣政権の崩壊を早めた点は否めないね。
867 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 09:19:24
かといって朝鮮に出兵しなかったら大量に出るであろう浪人の処分問題で
2,3回は大きな戦はあっただろうね
868 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 09:48:57
戦が無いと仕事も無い
応仁の乱以来の特需が無くなる
869 :
日本@名無史さん:2007/06/25(月) 10:37:47
秀吉は刀狩りなど帰農を推奨する政策を取る一方で
それでもまかないきれない分を暴発させないようにと朝鮮出兵だったんだよね
地方政権の体力を削ぐことにも使えたため結構有効な策だったと思われる
言葉は悪いが棄民だな
秀吉死後に家康が停戦し国内に戻すも結果それらの浪人問題に長く頭を痛めさせられるわけだ
関が原、大阪両陣、島原の乱などなど
鎌倉幕府も北条家に乗っ取られたしなぁ
豊臣も徳川家に最終的には乗っ取られたじゃん
第一朝鮮侵略なんて日清戦争より性質悪いぜ
朝鮮出兵って秀吉オリジナルの発想?
なんか信長も構想持ってて、秀吉がそれをどっかで聞かされてて真似た可能性もありそう。
873 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 16:28:32
信長の主要重臣だったんだからある程度信長の政策を継承していてもおかしくないだろうが
しかし信長治世時には浪人問題はそれほど浮上してきてないんだよね
875 :
872:2007/07/05(木) 18:03:38
>>874 いや、ないけど。
そういう小説あるの?
876 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 18:19:42
〜の嫁
877 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 19:17:50
>>875 874ではないんだが、司馬遼太郎の「太閤記」では、
秀吉が信長に日本の次は朝鮮、朝鮮の次は明でございます、
と進言しているね。
実際に、信長がどの程度まで勢力を拡大するつもりだったのかは
わからんが。
当時の日本に朝鮮出兵反対論はなかったのかな。
兄の国を攻めるのって勇気のいる決断だと思う。
879 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 19:35:26
秀吉でなく信長なら成功してた気がする。
当時の日本は鉄砲保有量世界一だし普通にやれば負けるはずないんだが、
秀吉の場合は耳塚とか略奪とかで現地民の反感買っちまったからな。
880 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 19:36:47
兄の国とか言ってるしw
881 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 19:38:39
古来、日本は朝鮮を従えてきたのだから、当然のこと。
そういや、朝鮮は中国を兄とする属国じゃなかったっけ?
嘘ついたらだめだよ、チョンスケ。
信長ならうまくやれたって意見よく出るけど、どうだろう?
俺はそうは思わないな。結局天下もとれなかったし。
>>882 んだな、いくら多くの鉄砲あっても、百歩譲って朝鮮は何とか征服したとしても明まではどう考えても無理だと思う。
また朝鮮においても、長期にわたって日本の支配体制を維持できたかははなはだ疑問。
当然日本の朝鮮支配には明も介入してくるだろうしな・・・。
885 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 23:38:32
いんや、民衆の支持さえ得れば北京ぐらいまで攻め上るのは大して難しくないと思われる。
例えば日清戦争を見てみろ。
886 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 23:56:41
秀吉の朝鮮出兵がうまくいかなかったの理由に、
戦乱の世が終わり、日本全土に厭戦感があったからとか。
こんな状態じゃ覇王信長でも無理でしょ。
そこを上手くやるのが信長、と返ってきそうだけどな。
なんていうか理想の完璧超人を
信長に当てはめてるだけのように感じるんだよな。
888 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 00:38:25
信長さんや家康さんなら嫌いな家臣の領地を削って手柄のあった家臣に与えるでしょうが、
そこまで酷いことは秀吉さんにはお出来にならなかった。
そこで朝鮮の土地を奪って功臣に与えようとなされたのです。
秀吉さんは基本的に心優しい方なのですよ。
うむ心優しい父親だから
秀頼のライバルになりそうな秀次を切腹させ
その子供たちも皆殺しにしたしね
890 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 08:57:34
信長なら朝鮮攻めがなかったとは思えない
そもそも信長が進めてきた兵農分離の概念がここで弊害になるんだな
信長自身は問題が表面化する前に死んでしまったわけだが秀吉は統一を果たしてしまうので
兵農分離されて兵として食ってた人間をもう一度帰農させようとしている
だから刀狩をするしだから検地をしたわけだ
しかし人余り状態でどうすることもできないから朝鮮に送りつけたわけだ
だから朝鮮で勝とうが負けようがあまり気にしてなかったんだな
家康は秀吉政権をうまく引き継ぐために朝鮮と講和をして引き上げさせたはいいが
結局この人余り状態をなんとかしなきゃならんかったわけだ
農地拡大をして農業を推進してと帰農政策を推し進めるがやはり早急なる解決にはならず
現体制に反発する兵達は対抗勢力として豊臣家を使い関が原、大阪冬の陣、夏の陣を起こし
豊臣家が滅びると島原のよくわからん小僧を担ぎ上げて反乱を起こしまくるわけだ
一通り落ち着くのはその後農地がいきわたった頃なんだがな
>>887さん。
私は太閤秀吉閣下の親派ですが、
それでも信長公が1600年ごろまで生きていれば日本は大陸に覇を唱えていたと考えます。
「中原に鹿を追う」という言葉を御存知でしょうか?
私は大学院で歴史学を研究しているのですが、古来より幾度となく異民族が大陸を支配してきました。
五胡十六国時代然り、元王朝然り、清王朝然りです。
人口の多い中国大陸を支配する際には民衆に好かれる事が必須条件です。
それは項羽に七十二度負けてもたった一度勝っただけで漢帝国を打ち立てた劉邦や或いは劉備の例を見れば一目瞭然です。
そして当然同じ東アジア人である日本にも鹿を追う権利があるのですが、日本の場合は鹿の追い方がまずかったのです。
太閤閣下も旧日本帝国軍も戦力では相手を圧倒していながら、
略奪や虐殺などで民衆を敵に回したばかりに最後の最後で敗れてしまいました。
しかし信長公ならば耳や鼻を切らせたりわざわざ民衆を敵に回すような愚かな事はしないでしょう。
私は風雲児信長公であれば東アジアの古い秩序を改革してくれたと思います。
892 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 10:20:39
ここは三戦板と違い学術板なんでなんでもかんでもある程度の根拠を元に話をした方がいいかも
荒し相手にしても無駄。スルー汁
どこの大学院だwww。まじならよっぽどレベルが低いとこだな。
院に今年入った程度なら大学のそれと大差ないんじゃないのか
秀吉だろうが信長だろうが海を隔てての大戦では補給が続かないから無理。
秀吉は西日本とっただけ
898 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 17:23:04
旧大日本帝国にそんな戦力ないよ
軍艦や航空機もガソリンなけりゃただの鉄
南方との補給線切られた時点で本土に燃料無い無いなのに
そこで今話題のバイオエタノールですよ
ガソリンは結構余っていたんですが>終戦直後の大本営の調査
大本営の調査ってW
連合国側の資料ならわかるが
大本営は自分達を正当化するのに精一杯
それだけ、ガソリンありゃあ大和や武蔵がフル稼働できたな
まあ、戦艦より空母や航空機が主役だったが
ミッドウェーで空母4隻失った時点で勝ち目ないけど
天才山本五十六が真珠湾奇襲成功させたからな
あれがなければもっと早期に無条件降伏だろな
返す返すも秀頼殿をお頼み申す。
ガソリンで戦艦はうごきません
そこで今話題のバイオエタノールですよ
既に比島沖航空戦とレイテ沖海戦で燃料使い果たした
つ〜か、ヤネ直庵機がない、護衛戦闘機無いではあの時代勝てない
ミッドウェーで正規空母4隻も失えば当時の日本の工業力だと何年かかるか
連合軍は恐るべき速さで建造するけど
906 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 10:19:03
燃料よりも鉄不足の方が深刻だったんですが
なんかえらい脱線しまくってるぞ
信長は清洲織田氏に仕える弾正忠家の子孫なんだよ
つまり弾正忠家が
信長の実家なんだよ
織田家(織田氏)ってつまり信長の子孫血族だけのものではないんだよね
織田氏そのものどっちかと言うと政党に近いニュアンスがあると思う
今で言う地方自治体のような性質がある
織田家自体まず弾正忠家が乗っ取りその後秀吉が乗っ取ったと言うことに
なる つまりアメリカの共和党を織田氏とすると
その中で勢力を伸ばしたブッシュ一族が弾正忠家ってことになるんだよ
織田家(織田氏)を初めに乗っ取ったのは信長なんだけどね
どっちかと言うと弾正忠家を秀吉が乗っ取ったと言ったほうが正解
911 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 09:11:12
秀吉は乗っ取ってないってばよ
織田家は織田家として存続してんじゃん
乗っ取ったのは実質的な武家の棟梁の座だな。
秀吉ぶっころす
914 :
日本@名無史さん:2007/07/30(月) 16:50:52
秀吉が乗っ取ったのは「織田政権」であって、「織田宗家」ではない。
915 :
日本@名無史さん:2007/07/31(火) 01:59:03
信長、信忠の二人がそろって死んだ時点で「織田家」は雲散霧消。
織田家自体が、謀略などを用いて下克上で成り上がった家なので、
下克上で倒れても文句は言えない。
あのまま、明智が天下を取っていたら、織田家は存続できなかっただろうから、
藤吉郎が天下を取ってくれて良かった。
というか、光秀は、当初は家康とともに堺に行く予定だった信忠が
急に予定を変更して、京に留まり、信長、信忠の二人がわずかな手勢で京にいる
という情報を愛宕で得て、下克上の意志を固めて重臣に打ち明けている。
誰もが織田家の後継者として認める信忠を100%殺れると分かったからこそ、
本能寺の変が起きたんではないの?
もし信忠生存の可能性があれば、本能寺の変は発生せず、光秀は織田家のもとで、
近畿管領を続けていただろう。
916 :
日本@名無史さん:2007/08/01(水) 10:32:01
そこで家康共謀説ですよと
信長が織田家統一する前元々織田家自体岩倉と清洲に分裂していて
信長の実家自体岩倉血筋の清洲奉行人なんだよね
織田信勝の部下だったらしんいだ、信長の祖父って
秀吉の祖父も織田信勝に仕える地侍だったみたいだ
元々秀吉の家系って織田氏の中でちゃんとした地位はあったんだと思うが
まあ「織田」の姓を譲り受けてる信長の実家のが織田氏の中で地位は高かったと思うが
ウィキで秀吉の父で検索したらじいさんの情報まであった
本当にネットって便利だよな
木下家自体秀吉の先々代まで別に何不自由ない裕福な家庭だったんだ
嘘を嘘と見抜けないと
裕福ならなぜ一族郎党がいないのかと
秀吉の爺さんの頃は知らんが、秀吉の父親である弥右衛門の死後には木下家は没落してたからな
秀吉の異様な立身出世に家柄が殆ど寄与してないという事実は変わらない
奥さんのおねの実家の木下家とごっちゃにしてないか?
923 :
浅野某:2007/08/05(日) 13:13:29
924 :
日本@名無史さん:2007/08/05(日) 13:33:44
>>923 志村ー! だから実家だってば
浅野家には養女に入って、それから秀吉と結婚したんだよ
ねねって杉原じゃないの?
ねねの実家の木下姓を名乗ったと考えるのが自然なんじゃないの?
>>927 「ねねの実家」が「木下姓」だというソースを出せ。
そこらへん諸説あるよね
元から木下姓だったor秀吉が出世してから木下姓を貰った
要するに、秀吉の出自というのははっきり記録に残らない程度の下層でしかなかったということだろうけど
930 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 13:21:25
関白になる時に消したんだろ
だれそれの落とし種とかいう流布で貴族社会に馴染んでいったんだから
出自をはっきり残したらいかんわな
つまり消さなきゃならないような身分だったって事だな
932 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 08:29:13
山川の教科書が、秀吉の出自を「地侍」と明記したのは確たる根拠があってのことか?
無いでしょ
秀吉の経歴を示す確かな史料が出てくるのは、20代半ばから
通説では百姓で元・織田家足軽の子となってるからじゃない?
武装農民=地侍ってことで
934 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 09:22:51
関白に成り上がるんだからたとえ尾張の多少有力な豪族出身でも血統的にはまずいわな
だから本人が徹底的に出自を隠したわけで
隠したっつーか
当時は出自が大事だったから、出世した武士が自分の経歴を飾るのは当たり前
松平の土豪クラス出だった家康さえ、系図偽造に手を染めてるし
936 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 10:32:12
土豪クラスなら、ほかの武将みたいに適当な捏造でごまかせるでしょ。
それすらないのは、地侍ですらない正真正銘の土民だったのでは?
秀吉に限らず低い身分から出世したって人は
あの時代少なからずいるわけだし
938 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 17:30:48
そもそも我々が低い身分とは思ってなかった人も
そういう工作の上で元々高い身分の人だったと思ってるかもしれないからな
いや一国の主や大臣クラスを望むなら、源平藤橘の出ということにしておかないと
勅使も来てくれないというだけのこと…
ちょっとした地侍でも源氏や平家、藤原名乗ってるのに…
941 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 05:55:51
>>939 百済王家の子孫や、大江氏というマイナー姓を名乗っていても勅使は来るぞ。
942 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 09:14:52
ちょっとした地侍でも源平藤橘の血が入っているということだろ
親戚の親戚の親戚の。。。で増えてってるわけだからな
943 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 09:30:26
いや、そういうのじゃ本物の源平とは言えないだろ。
地侍のほとんどは、名もない土民の頭から成り上がった連中だろ。
古代の戸籍にのってるような一般農民=○○部のナントカの子孫か、
よくて郡司クラスの有力農民の末流ってとこ。
944 :
日本@名無史さん:2007/08/08(水) 11:50:08
源平藤橘以外にも鎌倉御家人だったり支配根拠はたくさんあるんだがな
毛利元就の毛利家は、大江氏(頼朝のブレーン)の子孫と称していたしな
でも秀吉は称する先祖すらいなかったわけで
ご落胤説があるではないですか
義昭が養子の申し出断ったように、相当下賤な出自だったのはまちがいないと思うけどね。
しかし、征夷大将軍になれないからといって関白狙うかな〜。
さあ撒き餌が投げ込まれましたよ
秀すしげぇ。
950
951 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 09:28:38
名もない土民の子孫共が昔の人達を名もない土民と嘲笑するスレはここですか?
952 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 15:44:22
秀信をオマエ呼ばわりした時期はいつなんだろ。
ある日、突然、今日から俺が主君、オマエは臣下ね、みたいな感じ?
福島とか加藤みたいなヒゲ面の荒武者が、荒々しく秀信の肩をひっつかんで
下座に引きずりおろし、秀吉に土下座させたりとか・・・
953 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 16:25:47
ある日いきなり、今まで「三法師さま、三法師さま」と言ってた猿顔の爺から
「秀信、ひざまづけ。ワシが主君じゃ」なんて言ったのかな。
で、荒武者に腕をわしづかみにされて、下段の間にねじふせられる秀信哀れ。
人たらしがそんな露骨なことするわけねーだろ。
物心ついたころにはもう家臣だったんじゃないか
956 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 09:18:17
最初から秀吉は三法師の家来でもなんでもないんじゃないのか?
>>646にも書いてあるように。
というか、秀吉は三法師の後見人ではなかったか?
そんなのに臣下の礼をとるものかね。
958 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 18:38:43
いっそ、秀吉が信長の娘の婿になって「織田秀吉」になってもよかったのでは?
四男の秀勝を養子にしていたんだから、そいつをお飾りの後継者にして、自分が実権握っていたら
乗っ取りの汚名も幾分和らいでいたと思うが。
まだこの時点では、後を継がせたい実子もいなかったわけで。
960 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 20:41:51
>>959 養女のねぇちゃんだけでなく、養子の妹も妾にしたんだと、今、気がついた。
961 :
日本@名無史さん:2007/08/24(金) 20:59:41
962 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 12:10:07
名将言行録ってのは怪しい資料なんだね?
963 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 16:44:44
>>947 >義昭が養子の申し出断ったように、相当下賤な出自だったのはまちがいないと思うけどね。
いや、それは虚構だったって何かに書いてあったような…。
しかし、結果として家康にしてみれば豊臣が公家になってったのはほくそ笑んでいただろうね。
自分は征夷大将軍になるのだから。
964 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 16:51:48
>>958 秀吉は、信長死後、信長の娘三の丸殿を側室にしたけど、
織田氏になろうとはしなかったからね。
織田家など出来星大名で、信長の親父の頃までは大した家でもなかった。
秀吉が狙うところは、もっと上だよ。
摂関家筆頭、近衛家の養子になって、関白に任じられているからね。
信長亡き後の織田家など、秀吉は最初から相手にしていない。
965 :
日本@名無史さん:2007/09/03(月) 16:57:56
>>963 結局、豊臣氏の関白就任は秀吉と養子の秀次2代限りで、
秀頼は関白に生涯就任することはなかったから、
家康にしてみれば、豊臣氏が征夷大将軍だろうが関白だろうが、同じだろうね。
秀吉は近衛家の養子になって関白となったが、
家康は不思議な系図を作って源氏だと言い張って、征夷大将軍になっていたな
>>965 そういう考え方もありか。しかし、教育とは恐ろしい。
俺もこうやって興味を持つことがなければ、教科書のとおり
『織田信長の後は豊臣秀吉が継ぎました』で納得してたけど、実際は『簒奪』だからね。
家康の系図改ざんは影武者説とも関連してくるけど、アレの信憑性はともかくとして
何で家康はあそこまで源氏にこだわったのかはわからない。
朝廷は自称平氏の信長に将軍宣下をしようとしていたし、信長も家康も初名は藤原姓だったのにね。
>>966 家康の場合、源氏を名乗る直接のきっかけは三河守になるためだったのですが
元々は爺様の清康が世良田(新田氏系)を名乗っていたので、それに辻褄を合わせようとしただけでしょう。
また(仮想)敵が武田・今川という本物の源氏なのですから、家格で張り合うためにも源氏を名乗るほうが賢明。
拘っていたと言われるほどの無理をしてはいなかったと思います。
>>967 なるほど。それもありですな。
とはいえ、近江源氏などは繁殖に大成功して、
今でも子孫が300〜600万人いるとか。
時代が下ったこのころであれば、源氏の末裔はかなりいたはず。
家康にも本当に源氏の血が流れていたかもしれませんね。
そういう意味では先祖が世良田を名乗っていたというのも何か根拠があるのかもしれません。
>>967 永禄九年に自称源から藤原に朝廷に認められて改めてるぞ
それも三河守獲得の為に
対武田とか今川とかそんなの関係ねえ
970 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 21:51:49
>>968 近江源氏は将軍にはなれないよ。源氏といっても別の源氏だからな。
ゲンジボタル
972 :
日本@名無史さん:2007/09/04(火) 22:24:23
>>970 藤原氏でも平氏でも将軍になれます。
つ藤原頼経
つ平知盛が将軍になった説
つ織田信長への三職推任
源平藤橘の橘はでてこないな
一発変換も出来るのに
きっと、忘れられていたのでしょうな。
975っと
>>970 そうでしたか。じゃあ、俺はなれないね。
別になりたいとも思わんが。
それ以前の問題だな
たまに見るけど、このスレでも
秀吉は織田信長ら個人に従っていたのであって、織田家に臣従していたのでもない
だが家康は精子まで提出したから汚いとかナントカ
これって明確に姓を慶長に源氏に改めてるところで区切りにならんのかね?
それまで羽柴苗字で「臣従」を示して、息子の秀忠も豊臣姓で官位貰ってる
いうまでもなく臣従してないようなのに豊臣姓は与えないだろ
と、なればこの姓(豊臣)をやめて源氏になるということが脱豊臣の一つの証と
これが正しいなら、関が原以後からは明確に豊臣の臣ではないんじゃないのか?