1 :
日本@名無史さん:
995 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2006/01/20(金) 22:15:20
>>984 光秀が有利な近江(坂本城・安土城など)で秀吉を迎え撃たず、あえて山崎で迎え撃ったのは、
武士の面目にかけて王城の地である京洛に秀吉軍を進駐させるわけにいかなかったから。
京の治安維持は本能寺の変後に光秀に下された朝廷の命令でもあり、なんとしても死守しなければならなかった。
そして光秀にとって朝廷という掌中の玉を手放すことは即時敗北を意味した。
これ以外に理由あるか?
8 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2006/01/21(土) 01:16:31
安土城で迎え撃つのが得策だったなんてギャグでしょう
4 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 14:22:41
新スレ乙!!!!!!!
高野山にある光秀の墓は立派だね、
その斜め奥あたり?にある信長の墓は小さくて片隅に置かれている。
秀吉に比べたら両方とも小さいんだが。
6 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 17:59:06
あの墓、なぜかひびがはいってるんだよね。怖
マジかよ今度墓参りに行こう。
>>2 ところで前スレ辺りで攻城戦は秀吉の十八番だったから
光秀は山崎で迎え撃ったって書いてなかったっけ?
8 :
日本@名無史さん:2006/01/21(土) 23:10:03
高野山で光秀の墓見つけられなかったorz
京を守って成功したヤツなんていたっけ?
京ではなく天王山そのものが軍事的に重要な拠点だったのでは?
11 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:15:18
>>9 兵力足りなくて守ってられないのに守らなくちゃいけなくなったってことだろ、馬鹿か?
>>10 京が重要だから山崎−淀の隘路(とはいえ広い)を防衛ラインにしたということでしょw
また、天王山が要衝だったというのは時代遅れの常識。
○山崎の戦い(今)
×天王山の戦い(昔)
実際、天王山山頂の奪い合いは少人数の単なる前哨戦で、
勝敗を分けるものではなかった。
14 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:44:11
>>10 なんのための「軍事的に重要な拠点」だと思うわけ?
京の防衛のためですね?
「京ではなく天王山」って京と天王山を同列に語るのがおかしいですよね?
京を守るために天王山があるのなら京のために天王山は必要だが、
天王山が無くても京が守れるなら天王山なんかあってもなくてもおkですよね?
さらに言えば、京が取られてもいいなら天王山なんかどうでもいいですよね?
わかりますか?
15 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 00:52:57
>>13 山崎合戦がどこで行われたのかも知らないのかい?
山崎宝寺城は山崎合戦後に大阪築城まで秀吉が住むために築城した城で、
それ以前の状態は定かではありません。
>>15 へえ、天王山山頂の奪い合いって山崎城の奪い合いのことかと思ってたよ。
17 :
日本@名無史さん:2006/01/22(日) 01:15:47
>>16 天王山山頂の奪い合いは小競り合いで、
両軍激突の本戦は天王山麓の山崎で行われた戦いです。
18 :
日本史@名無しさん。:2006/01/23(月) 10:43:33
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
明智光秀にとって天王山近く、つまり山崎で戦う理由は何一つなかった。
あそこで負けた場合、京都まで総崩れになる可能性がある。
当時の武将にとって、平地での戦いは勝っても損害が多いと自腹を切ることになるので、
好まれなかった。
多くは篭城。それを交渉、威圧で損害少なく落としていくという手法である。
明智光秀がこの時点で持っていたのは亀山、坂本、安土城。このうち坂本城はなかなかの堅城だった。
しかし、彼は篭城をしなかったのだ、、、何故か?
京都で織田信長がてこずったことがある。
坂本城近くの比叡山に浅井、朝倉軍が立て篭もったときである。
比叡山などにある程度の数の軍が立て篭もると手も脚も出なくなるのだ。
明智光秀はそれを知りながらも、利用しなかった。
その原因は、京都、にあるとしか思えない。
19 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:05:03
秀吉敗れたり、二条御所は架空の建物
信長公記の信忠卿御最期の中で、明智軍が近衛殿から二条御所に向けて鉄砲を発
砲したとあるが、近衛殿は内裏近くの近衛通にある筈なのに、この場所にあるのは
おかしい。信長が建てた二条城の隣には確かに近衛殿があるが、場所がまったく違
い、もっと北に位置する。二条城の戦闘を二条御所の戦闘にすり替えたのである。
やはり、信長は本能寺で殺されたのではなく、二条城で殺されたのである。昭和5
0年、二条城が地下鉄烏丸線建設の時に発見されたのは、神が秀吉の悪事を暴露す
るためなのです。このことによって、秀吉が二条城を取り壊し、埋没させ、二条城
の存在を抹殺するために条里の区画まで変更したことが明らかとなった。元亀2年、
信長は荒廃した内裏の修理を行った。内裏の修理が精一杯なのに二条御所など建て
る余裕はない。
20 :
日本史@名無しさん。:2006/01/23(月) 11:15:52
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
日本史上最大の英雄から、革命児、奸雄、梟雄、戦略家、大量殺戮者、虐殺者、宗教弾圧家、ヒステリー病者など
さまざまな評価のある織田信長、
彼は一五八二年、六月二日、京都本能寺で家臣明智光秀のクーデターに倒れた。
なぜ、明智光秀は突如裏切ったのか。そこには昔から巨大な謎があるといわれ、怨恨説、野望説を始めとし、
語られること実に数十種。あげられた容疑者は徳川家康、豊臣秀吉、足利義昭、大和朝廷、宗教勢力、キリスト教宣教師、
子供信孝、信雄、森蘭丸、正室お濃、スペインポルトガル、ローマ法王、北条家、毛利家、武田家残党、
堺商人、千利休、キリシタン大名、明智家臣斉藤利三、高野山、四国長曾我部家、など数知れず。
しかし、その謎は一九九七年二月、全て解明された。
その真実の答えは「朝廷説」だった。
歴史はまさに見る角度によって、奇怪にして皮肉な変換を遂げる。
日本史上最大の裏切り者は、実は日本史上最大の義と忠の人であったと、、、。
21 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:20:25
近江国蒲生郡安土古城図(ハ見寺蔵)は貞享4年(1687)に描かれた物である。
大手門へ通ずる大手道の脇に、羽柴秀吉、家康公、武藤助左衛門、江藤加賀右衛
門の屋敷があり、百々橋より大手門に通ずる道の脇に秋田城介信忠、武井肥後入道
の屋敷がある。城郭内に堀秀政の名前があり、城より離れた区画に森乱丸の名前が
あり七曲り道がついている。
安土廃城後100年後に書かれたという事は、何か意図があったと思われる。そ
れは天海(明智光秀)が無実の汚名を晴らすべく、本能寺の変の真相を後世に残す
ために暗号を仕組んで、子孫の者に書かせた物です。普通は築城の時に書かれる物
であり、羽柴屋敷などという個人名は入れないのです。
武藤助左衛門は丹羽長秀の名前が五郎左衛門であり、武門の誉れが高い丹羽長秀
と読める。江藤加賀右衛門は後に加賀守になった前田利家と分かる。武井肥後入道
は後に肥後を治め、仏門に入った細川藤孝だと分かる。
本来、本丸に信長が、二丸に信忠が居住する筈なのに、城郭外に信忠の屋敷があ
るのはおかしい。これは信忠が信長とは別の場所にいたことの暗号で、百々橋を瀬
田橋に読み替えると、信忠は安土城にいた事になる。
城郭内に堀秀政の名前があるのは、二条城で内応して大手門を開けたのは堀秀政
と分かる。城外の区画に七曲り道がついているのは、七曲り道がある場所は岐阜城
で、森乱丸は岐阜城にいて、本能寺の変で活躍した森乱丸の話は嘘だと分かる。
大手門を攻撃する先頭に羽柴秀吉がいて、2番手に家康、3番手に丹羽長秀、4
番手に前田利家が続いている。信長を殺したのは秀吉で、家康、長秀、利家らは安
土城の信忠を殺害した。中国出陣中止の偽の朱印状を書いたのは細川藤孝である。
このように光秀が暗号を駆使して本能寺の変の真相を教えてくれている。安土城に
羽柴秀吉の屋敷がある訳がない。秀吉は長浜城に常時居住し、無駄な物となる。城
郭外の屋敷に泊まったら暗殺される恐れがある。
22 :
日本史@名無しさん。:2006/01/23(月) 11:33:22
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
という訳で「本能寺の変、朝廷説」に対しての権威の反論、意見、異説は
そろそろ来ないものか?
さあ、日本国広しと言えど、反論の士はいないのか?
NHK「そのとき歴史は動いた!」のスタッフ、協力者、
「時空警察」のスタッフの反論は?
東京大学教授、早稲田大学教授、慶応大学教授、その他一流大学教授、歴史学の博士、その他研究者、歴史学の権威、
作家など、戦国史、本能寺の研究家などの「権威」とされる人々の反論はまだか?
「本能寺の変は決して、朝廷説ではない。私には絶対の説、反論、資料がある」
という「日本史の権威」はここに書き込んでもらいたい。
ここに、それへの反論を書き込んで見せよう。
そろそろ「我こそは何々大学の教授だが」という人間の
堂々たる反論説が来ないものか?
23 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 11:55:26
いや…そんな偉い人は2ちゃんなんか見てないと思うけど…
ニフティのTVフォーラムのドキュメンタリーの部屋にでも書き込んだら
反響があると思う。
25 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 13:54:03
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」さんへ
二条御所が偽りとか、『近江国蒲生郡安土古城図』は暗号だとか、
得意げに書いておられますが、全く説得力ありませんので。
稚拙すぎて読む側が赤面しそうです。
26 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 14:06:01
>>22 君が朝廷説を全く論じていないのに、反論しろってどういうこと?w
27 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 15:48:59
いい加減、その馬鹿は無視しろよ。
28 :
日本@名無史さん:2006/01/23(月) 18:14:50
佐和山に籠っても、孤軍だからなぁ。
30 :
日本史@名無しさん。:2006/01/24(火) 10:55:18
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>25○ナンバー19,21の文は僕ではないよ。第一主張が違うだろう?
>>29○明智光秀の場合は篭城しても、あの時点で孤軍になるとは思えない。中国毛利、四国長曽我部、越後北条、武田家残党、関東北条、
雑賀衆、退去したが本願寺勢力など、物騒な勢力はあった。
真田昌幸が死ぬ前に大坂城攻防戦を想定して言った作戦例もある。
昌幸はただの篭城ではなく、時々夜討ち、朝駆けで、悩ましたりの攻撃的長期篭城戦を説いた。
つまり大軍でも、何年にも渡って城やその地方を占領できないと、甘いと見て反乱を起こす人間も出るということ。
31 :
日本史@名無しさん。:2006/01/24(火) 11:25:33
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
「朝廷説」概要。織田信長はアンブレイカブルであり、彼は自らの身におこった幾つかの奇跡、幸運と天下統一間近になった情勢を特別のものと考えた。
「自分には超人的ななにものかがあり、自分に勝る何者も存在し得ない」とフロイスに語る。
五百五十万石の勢力を誇る織田信長にとって、全て合わせても十万石に過ぎない朝廷は小大名にしか見えなかった。
「汝らは、余のいるところでは他の者の寵を得る必要がない。なぜなら余が国王であり、内裏だからだ」
と京都大馬揃えのとき基督教宣教師に言う。しかし彼はその朝廷への民間の崇拝が根強いことを知り、対策を考えた。
それはキリスト教の導入であり、その中の救世主伝説であった。欧州の王がひざまずく神の子は大工の息子として
生まれたのだ。織田信長は安土城天主閣をつくり、中に自らを神体とする総見寺を造り、盆山なる石を民衆に拝ませた。
そして「我は生きたる神、仏なり。我の生誕日を聖日として参詣すれば幸福になる」と宣言した。
民衆はそれを信じ始め、世間に神の子伝説が流布し出した。
また織田信長は足利義満のごとく中国明、或いはローマ法王から
「日本国王」の称号を貰ったほうが、世界的認識になるのではと考えていた節がある。
○朝廷は信長の最終目的は帝位、その禅譲では?と危機感を強め、このままでは日本
古来の文明はおかしくなると明智光秀に相談した。
古式を愛し、古典などを重んじる明智光秀は、日本の中心は天皇であると考えていた。
>>31 >>○朝廷は信長の最終目的は帝位、その禅譲では?と危機感を強め、このままでは日本
>>古来の文明はおかしくなると明智光秀に相談した。
いつ相談したの?
NHKの「歴史は動いた」で言ってたけど
安土城には天皇の部屋がつくられていて
それは、天守閣よりも一段低い位置にあったっていってたな。
つまり、信長は「梵天」とか言って、天皇よりも上にいるっていう意思表示だったとさ。
つまり、政宗は「梵天丸」とか言って、天皇よりも上にいるっていう意思表示だったとさ。
35 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/25(水) 11:16:53
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>32○おそらく天正九年二月、三月の信長の京都大馬揃えの後くらいから。
信長は天皇の誠仁親王への譲位を言い出しているが、この後、朝廷の大物たちが集まって
相談し、拒否している。この後、信長は本能寺まで、一度も上京しなくなる。
>>33○梵天というのはインドのブラフマー神のことです。何かの地位ではないよ。
○安土城の場合は「天守閣」ではなく「天主閣」である。信長後、天守と書く。
○朝廷は最大限の譲歩として、征夷大将軍、関白、太政大臣の何れかになってほしい
と要求した。しかし、信長はこれを無視した。
36 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/25(水) 11:31:49
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
○明智光秀にとって、主君が大恩ある織田信長か、大和朝廷か、というのは気が重くなる、難しい選択であっただろう。
クーデターに成功したとしても、恩知らず、謀反人の汚名を被るくらいのことは、知識人の彼には解っていたし、
もし負ければ、まさに名と一軍は恥辱に塗れる事になる。
しかし、それでも彼が本能寺の変を起こしたということは、やはり彼の周囲の世論が、とくに近畿辺りの勢力も、
織田信長を嫌っていたせいだろう。
特に信長がやった荒木村重の家族や身内、高野聖への虐殺、甲斐での高僧焼き殺しは、
見せしめの為だとしても、世人にはやりすぎだと思われたに違いない。
37 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 12:51:11
光秀は頑張ったのに褒美を3つしかもらえなかった。
さて彼は何と言った?
当てた奴こそが真の光秀
38 :
日本@名無史さん:2006/01/25(水) 16:14:16
>>37 「ありがとう」と言った。
三つももらえれば充分じゃねえか。
>>35 信長が三職就任を朝廷から依頼されて、断ったって証拠は?
公家の日記から見ると、回答しなかったってだけじゃなかったかな。
安土では判断せずに、上洛して公家達と話した後で回答するつもりだったかも。
そもそも官位に就かない=朝廷に従わないって決め付けがわからない。
前右大臣で十分と思っていたかもしれないし、江戸時代と違って自分が官職に就くと
公家のポストを奪うことになるから、その辺の反発を考えて就任しなかったのかもしれない。
比叡山丸焼きにしたんだから
御所だってやってたかも。
気に入らないって
女中とか家来を皆殺しにもしてんだろ。
41 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 00:07:04
信長の比叡山を焼いたのは、その政治力を削ぐため。御所を再建してあげた信長が、御所を焼く可能性は低いよ。
比叡山って丸焼だっけ?
43 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/26(木) 11:22:56
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>39○断ると断言はしていない。返事をせずに無視状態だった。かって征夷大将軍位を
やるといわれ、喜ばなかった武家はいなかった。武家の棟梁、頭領になる訳だから。
また関白、太政大臣というのも貴族にとっては最大限の譲歩である。
かっては藤原一門しかなれなかった。信長は大馬揃えのあとは全く沈黙していたし、
武田家を滅ぼした後は、その勝頼と子の首だけ送ってきたので、それだけでも朝廷には
不気味に思えたに違いない。
>>40○「女中事件」、琵琶湖竹生島参詣したとき、安土の女中たちが、帰りは明日と近
くの寺に遊びに行った。その日のうちに帰ってきた信長は職務怠慢と激怒、遊びに出た
全員、寺の僧をも殺した。
○謀叛の荒木村重の家族、女房衆百二十二人、尼崎七本松で磔刑。その付き人たちも殺
した。これは京都の人々にかなりショックを与えたらしい。
>>41○比叡山では主要な建物を焼いたらしい。
○織田信長の性格プロファィリングから見ると、非常にプライドが高く、スピードを重
んじ、合理的というのがあるな。信長は非常に周囲の人に恐れられ、手を振るだけで家
臣はさっといなくなった。ちょっとした言動は大げさに受け止められたかも。
御所を焼く気はなくとも、疑いをかけられることはあったかも。
44 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/26(木) 11:43:14
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
謀叛を起こすとき、明智光秀は
「自分には超人的ななにものかがあり、自分に勝る何者も存在し得ない」
という織田信長の言葉を思い出したかもしれない。
そして、思ったかもしれない。
「もし彼が、その言葉の通り、神に近い存在なら、
この謀叛もお見通しになり、彼は捕まらないのだ。
そして、自分は神にそむきし者として死ぬだろう」と、、、、
明智光秀が、本能寺で織田信長の死体が見つからなかったことを、
どう考えたかは、良くわからない。
じゃ、信長の墓には何が?
足利義満モナー
48 :
日本@名無史さん:2006/01/26(木) 23:26:30
>>43 ○朝廷は信長の最終目的は帝位、その禅譲では?と危機感を強め、このままでは日本
古来の文明はおかしくなると明智光秀に相談した。
古式を愛し、古典などを重んじる明智光秀は、日本の中心は天皇であると考えていた。
まるで光秀と朝廷とのやりとりを生で見てきたみたいに書いてるけど。
なんで、あえて光秀に相談したの?細川藤孝とか他にもいると思うけど。
いつ相談したの?光秀が日本の中心=天皇と考えてた。という証拠は?
たまには、想像じゃなくて証拠と根拠も書いてな。
信長公が征位大将軍に付いていれば本能寺の変は起こらなかった?
将軍になら謀反よりは自害をえらんだのでは?
50 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 03:29:46
朝廷と光秀の間を取り持ったとすれば、それは吉田兼見?
兼見って貴族というより宮司だから朝廷での発言力強くないよね?
本能寺後に勅使として兼見を光秀のもとに赴かせて緞子を下賜した誠仁親王って、
信忠が立て篭もった二条御所から落ち延びた人?
急死したんだよね?
いろいろ奇奇怪怪。
51 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/27(金) 10:42:43
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>45○織田信長の墓、木彫りの信長像で秀吉は葬儀をした。
>>46○平清盛は、名は忘れたが天皇の息子であるとの話があったので、、、。
>>48○光秀は有職故実、古典に詳しく、失われた荘園回復に尽力し、信長に京都監視のような役目を
坂本城を与えられ、任されている。このとき、織田家で一番最初に城持ち大名になっている。
光秀が京都文化人にかなり人脈があり、尊皇家だったことは本が出ていたと思うな。
>>50○連絡は吉田兼見、近衛前久、その周囲の文化人などだろう。
京都五山、誠仁親王などに変後銀五百枚を献上してるのを見ると、
僧侶系などの連絡もあるだろう。
>>49○「征位大将軍」ではなく「征夷大将軍」です。
三職のどれかを受ければ、延期されたろう。朝廷はこの手の交渉には長けている。
>>50○誠仁親王は秀吉時代に急死したが、毒殺、自害など妙な噂が流れた。
52 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 10:48:01
秀吉敗れたり、中国大返しの嘘
6月3日夕方 本能寺の変が備中高松の秀吉のもとへ伝わる。
4日午前10時 高松城主清水宗治が切腹する。
5日午前2時 秀吉、備中高松を出発。
6日午後4時 秀吉、姫路に到着、走行距離105キロ。38時間かかって。
鎧を着た武者が時速3キロで、30時間休み無しで走破することは不可能である
(8時間は食事、行軍によるロスなどをみている)。
旧暦を新暦に直すと、7月の初めに当たり、梅雨による増水で川止め、山道、ぬ
かるみでもっと悪い条件が加わる。
高松城主清水宗治の切腹は和議の条件である筈なのに、本能寺の変報後の翌日に
切腹したのは明らかにおかしい。信長は秀吉の書状により、安芸から毛利の大軍が
来た事を知り、中国の大名を討ち果たし、九州まで一気に平定するという内容の上
意を秀吉に送った。だから、秀吉が独断で和睦すれば切腹ものである。したがって
事前に和睦の協議をしたのなら、信長をないがしろにした事になり、暗殺の目論見
があったと考える外は無い。仮に、切腹の後に和議を結んだと考えるにしても、翌
日の未明に高松を出ているのだから、半日では和議は成立しない。
安国寺恵瓊の書状に「信長の代は3年や5年は持ちこたえるだろう。しかしなが
らその後、仰向けに高く飛んで転ぶと見える。藤吉郎はなかなかの者である。」と
予言しているのは秀吉の陰謀を3年前に知っていたからである。
信長の死が毛利軍に伝わらない筈が無い。伝われば秀吉は追撃されて大打撃を受
ける。毛利軍が五ヶ国割譲案を飲んだのは、信長死亡後の秀吉の天下取り(徳川家
康と共謀)を確信し、毛利が滅びるのを防ぐためです。追撃しようにも、秀吉軍は
そこに居なかったのです。
秀吉のこんな大嘘を何の疑問も抱かずに鵜呑みにする君たちには愛想が尽きる。
53 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/27(金) 11:01:16
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
織田信長が稲葉山城を陥落させて、美濃、尾張、伊勢の一部を手に入れたとき、
非常に満足していたという。このあと、彼が駿河方向に侵略の手を向けても不思議ではなかった。
そこへ、将軍候補足利義秋を擁して上洛し、将軍に就ければ天下に号令できるという
アイデアを持って現れたのは、明智光秀だった。
この新将軍を擁したことが、信長の天下統一に道を開いた。
明智光秀はこのことを後で後悔しなかったろうか?
織田信長は彼の想像したよりも遥かに巨大化し、主君であった足利義昭は追放され、
そして、ついには神のごとき振る舞いをするようにもなったのである。
あの時の選択の後悔が、本能寺の変を起こした光秀の心底になかったとは言えない。
54 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 11:17:11
家康敗れたり、家康の上洛、伊賀越えの嘘
松平元康(家康)は今川義元の人質で、信長が桶狭間の戦いで義元を討ってくれ
たお陰で自立できるようになった。家康は信長に大恩があり、信長に従属した。浅
井・朝倉との姉川の戦いに家康も狩り出された。
長篠戦いは、家康の長篠城が武田勝頼に包囲され、家康の援軍要請を受けて信長
が出陣して、信長が勝利したのである。
信長の命令によって、家康は信康と築山殿の生害を命じた。
信長は甲州攻略の武功により、家康に駿河、遠江を進呈し、穴山梅雪には本領を
安堵した。家康は梅雪を伴い、その御礼のために上洛し、信長が安土城で接待した
とある。しかし、家康に甲州攻略の武功など無い。長篠の戦いは、家康の窮地を助
けるためであり、信長と家康の間は主従関係で、何の功績も無い家康に駿河と遠江
を進呈する筈が無い。したがって、家康の上洛、伊賀越えは作り話で、アリバイ工
作なのです。二条城の信長殺しは秀吉が担当し、安土城の信忠殺しは家康が担当し
たのである。
関係者の子孫とかの蔵をしらみつぶしに調べたら
新しい資料が出るんじゃないの?
56 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 12:30:25
本能寺の変の真相
秀吉は天下取りのために、信長暗殺の陰謀を企てた。毛利と同盟を結び、毛利の
大軍が来たと偽って信長に援軍を求めた。信長は光秀らに中国出陣を命令し、正親
町天皇にキリスタン追放の綸旨を要請し、6月1日は天皇に謁見して、その綸旨を
受けたのである。6月2日早朝、二条城の周りに待機していた明智軍は、細川藤孝
の書いた、偽の中国出陣中止の信長朱印状によって、解散させられ、光秀は事情を
聞くために、信長が帰ったと言われる安土城に向かったのである。秀吉の暗殺部隊
(周山城に隠れていた)が明智軍にすり替わって包囲しており、堀秀政らが内応し
て、二条城の大手門を開いて、暗殺部隊を引き入れた。信長は家臣の裏切りによっ
て二条城で殺された。本能寺に遺骸が無いのは当然です。秀吉が隠したのです。犯
行現場を本能寺にすり替えたのは、二条城が簡単に落ちれば、内応者が居た事が分
かり、秀吉と堀秀政らとの関係が明らかになる事を防ぐためです。
二条城の戦闘をありもしない二条御所の戦闘にすり替えて、二条城の存在を抹殺
し、6月1日の天皇の謁見を茶会にすり替えた。茶会否定の物的証拠は九十九茄子
の茶入れが焼失を免れたという事実である。
家康は丹羽長秀、前田利家らと共謀して、安土城の信忠を殺害した。
光秀は主君殺しの汚名を着た者が天下を取っても長続きしない事を悟り、秀吉に
勝ちを譲り、千利休として秀吉に仕え、天海僧正として家康に仕えた。
明智光秀は聖徳太子の孫長屋親王の子孫であり、秀吉と家康は天皇家の崇りを恐
れて、光秀を殺す事が出来なかったのである。秀吉と家康は弾圧を加えて古文書を
書き直させ、歴史ねつ造を行った。
馬鹿な学者がいくら古文書をもてあそんでも、真実は永久に分かる筈が無いので
ある。
57 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 12:46:41
忠臣蔵の陰謀を暴く
元禄14年江戸城松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶという一大事件が起きた。
刃傷に及んだ遺恨の原因で最もらしいのは、赤穂の塩と吉良で造る饗庭塩の江戸市場占有争い
の説であるが、良質で安値の赤穂の塩を市場が選んでしまうので、これも誤りである。いくつも
の説が出てくるのは、創作されて後で否定されて来た経緯があり本当の事は分からないのである。
大石内蔵助の正体は4代将軍家綱の嫡男で、将軍継承争いで命を狙われ大石家の養子としてか
くまわれた。内蔵助の幼名は竹千代で、将軍後継者に付けられる名前である。
3代将軍家光は光秀と春日局の子である。家康の家と光秀の光をとって家光と命名した。春日
局が後水尾天皇を退位させたり、養子堀田正俊が大老になれたのは、春日局が家光の生母であり、
天海(明智光秀)の後ろ盾があったからです。
忠臣蔵の真相は人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の中に暗号として隠された。幕府の目を誤魔化
す為に人物名を「太平記」に登場する人物名に替えている。
大石内蔵助を大星由良之助で示している。大星は天皇の暗示で、光秀が聖徳太子の孫長屋親王
の子孫で正統な天皇の血筋だから、家綱の嫡男と読める。
大石内蔵助は大星由良之助、吉良方梶川与惣兵衛は加古川本蔵で表現されている。両名の名は
由良川と加古川を示し、福知山(光秀の御霊神社)を挟んで、両方の川が綱引きしている形に見
える。由良川の流域には春日局の生誕地春日町があり、加古川には北条市がある。将軍の継承争
いを春日局と北条側柳沢吉保が行い、権謀術数によって北条側が勝ち、綱吉を家光の4男と偽っ
て5代将軍に据えた。吉保は浅野家に家綱の嫡男が隠れている事を突き止め、浅野家を取り潰し
てから家綱の嫡男を殺害する陰謀を企てた。
浅野内匠頭は切腹する前にいろはの歌を詠んだ。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす ん
最後の語句を繋ぐと、とかなくてしす、と読める。浅野内匠頭は刃傷事件をやっていないと言
っている。浅野家取り潰しの偽の口実にされたのです。
58 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 12:51:33
フリーメーソンに騙されている平和ボケの極楽トンボさん。そのフリーメ
ーソンが牛耳っている学会の学者の間違った学説を鵜呑みにして、自分の力
で考えることが出来ないオメデタさん。次の質問に答えてください。
なぜ、牛は草だけを食べて肉で太るのか。ちなみに学者は腸内のバクテり
アがたん白質を作ると言っていますが、下等な生物が出来て、高等な動物の
体内で、なぜ出来ないのか。千島理論では食べた物が腸内で血になり、血が
肉に変化すると言っています。これは日本古来からの伝承です。この伝承の
ほうが正しいのです。
ボウフラは蚊の産んだ卵から、かえるのではなくて、汚い悪水からわくの
です。がん細胞も穢れた肉の細胞から発生するのです。これらの現象も科学
では説明することが出来ません。
59 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 12:53:00
最初に狂牛病になった牛は病原体プリオンとはまったく関係がない。狂牛病は、
牛をと殺して食い物にし、そのうえ、草食動物の牛に牛の死体を共食いさせた事が
原因で発生した病気です。なぜ、同種の共食いで狂牛病になるのか、科学で解明で
きますか。この世のことは科学では分らない事の方が多いのです。
鶏は約3ヶ月、豚は半年、牛は1年。皆さんこれは何の年か分かりますか。人間
の食に給するためのこれらの生物の寿命です。これらの生物がと殺される時に、い
くら泣き叫んでも無駄です。人間の力には勝てません。すべての生物が人間の横暴
によって、地獄の苦しみにあえいでいるのです。神がこの世に存在するのなら、神
はけっしてこの状況を見過ごす筈がありません。抗がん剤が効かないがん、狂牛病、
薬の効かないエイズやインフルエンザの出現、地震などの天変地異が頻発するのは、
神の裁きが近い事の現れであり、神は警告から実行の段階に入ってきているのです。
60 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 12:55:38
神皇正統記(抜粋)
継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが(日本書記では)、
皇位を奪われた正統な天皇の血筋を受けた天皇で、その正統性を証明す
る古文書が「真清探桃証」なのです。しかし、この文書は孤立無援の文
書で、他のすべての文書はこれを否定しているものばかりなのです。
444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子ですが、安康天皇の弟(嘘)の雄略
天皇が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に
魔の手が伸びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせよう
と出発した。すでに、追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一
宮へ逃れた。すると、弟の弘計王に子が生まれ、根尾で養育してもらう
ことになった。しばらくして、雄略天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏
した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の男子は絶える)は市辺押磐皇
子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億計王が皇太子になる事
が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無くなるので、先に
弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾にいた男
大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木を
植えたのが淡墨桜として残りました。
継体天皇の孫用明天皇は欽明天皇の皇太子で、用明天皇の皇太子が聖
徳太子なのです。聖徳天皇(聖徳太子)は大化の改新で中大兄皇子(百
済王の子豊璋)らに暗殺され、日本は朝鮮人に支配される事になった。
大阪府太子町の叡福寺は「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子の墓が石柱
で2重に結界が結ばれている。この寺は聖徳太子の怨霊封じの寺です。
羽曳野市の「中の太子」と呼ばれる野中寺の弥勒半跏像には、天智6年
に「中宮天皇」の病気平癒を願い、作ったとあります。境内の墓には鬼
追(怨霊)という姓が刻んである。この寺は高市皇太子の怨霊封じの寺
です。八尾市の大聖勝軍寺には「縁起絵巻」があって、聖徳太子などが
毒殺されたという姿が描かれていた。この寺は長屋親王の怨霊封じの寺
です。これら三太子はそれぞれ天皇になって、長屋親王は毒殺されたと
分かります。
61 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 13:47:31
日本政府はフリーメーソンが支配しているアメリカの日本人殺しの手先だ
名古屋中華航空機事故は1994年4月26日に起きて、多数の犠牲者を出した。
事故の概要を説明すると、自動操縦でエンジン出力を調整するATS(オート・スロ
ットル・システム)をオフにしようとしたところ、間違ってゴーアランド(急上昇)
・モードを作動させてしまった。ATSの解除に手間取っている間に機首が上がって
しまい。機首を下げようとしたため水平安定板が作動し、機首上げ限界となり失速し
て墜落したと結論している。
しかし、着陸する場合普通は自動操縦装置に降下させるべき高度を入力して、着陸
直前に250キロに減速し、手動でフラップと車輪を出せば着陸できる。どうして上
昇モードが作動したのか。なぜ、自動操縦が解除できなかったのか理解に苦しむ。
地上から遠隔操作出来るよう工作されていたと考えられる。副操縦士が飲酒運転し
ていたなどの情報(食中毒を警戒して、機長と副操縦士の食事のメニューは変えてい
る)は有り得ない。このような陰謀を実行し、情報操作できるのはフリーメーソン以
外は考えられない。
薬害エイズ事件はアメリカがエイズウイルスの入った血液製剤を日本に輸入して、
日本人を殺す陰謀(エイズ感染が疑われている同性愛者などの売血を抗体検査でチェ
ック出来ないのはおかしい)であり、安部英と厚生省が協力した。アメリカなどの日
本以外の国々で、表立った薬害エイズ事件が起こっていないのが不思議です。
平成12年ヨーロッパ全土が狂牛病のパニックに襲われた。牛肉が売れなくなり、
狂牛病の危険性のある食肉が日本になだれ込んだ。ちょうどその時期に、日本ではマ
クドナルドの半額バーガーや吉野家の280円の牛丼が出現した。これも日本人を殺
す陰謀です。
日本政府はフリーメーソン(ユダヤ悪魔教の秘密結社)が支配しているアメリカの
日本人殺しの手先になっており、アメリカ産の牛肉には狂牛病の病原体プリオンが入
っており、アメリカが輸入再開を日本に迫るのはそうした思惑があるからです。
自衛隊のサマワ駐留は、アメリカがイラク人を使って自衛隊員を殺し、自衛隊が先
制の武力行使が出来るように憲法改正して日本を戦争に巻き込む罠である。
62 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 13:48:49
アメリカはフリーメーソン(キリスト教の666の獣)が支配する陰謀大国
はじめに、ユダヤ教について触れたいと思います。
正統なユダヤ教は厳格な戒律(モーゼの十戒)があり、その内容は日本の神
道に似ています。ユダヤ悪魔教はタルムードという教義があり、その中に、
ユダヤ民族は神の選民であり、神の裁きによりユダヤ民族以外は滅亡する。
ユダヤ民族以外は獣であり、殺してもかまわない。悪魔的な血の儀式を行う。
ユダヤ悪魔教の秘密結社がフリーメーソンなのです。
9.11自爆テロはアメリカの自作自演事件
証拠
貿易センタービルには4000人のユダヤ人が勤務していたが、事件当日休
暇を取って無事であった。
ユナイテッド航空、パン・アメリカン航空の株を、メーソン系の投資会社が
事前に空売りしていた。
ペンタゴンに衝突した旅客機のジェットエンジンは、旅客機のものよりも一
回り小さく、旅客機が特殊軍用機にすり替わった。
オサマ・ビンラディン一族は事件直後、アメリカ政府の手助けによって逃亡
していた。オサマ・ビンラディンは初めからCIAの工作員である。
自作自演の自爆テロ(イラク空軍の軍人を黒魔術で洗脳)でアメリカ国民を
だまし、テロとの正義の戦いと銘打って、中東戦争、第3次世界大戦へと誘
導し、世界の国々を戦争に巻き込んで弱体化させ、世界を支配しようと目論
んでいる。今の世界は弱肉強食の世界でアメリカのエゴのために、貧しい国
々の人々が貧困と飢えに苦しんで滅びようとしている。白人帝国主義が植民
地の弱者を奴隷にして苦しめていた時代と何ら変わりがない。
昔から、アメリカとソ連は同じ仲間同士で八百長の喧嘩をしているだけなの
です。太平洋戦争で日本の抵抗にてこずったアメリカは、ヤルタ会談(米・
英・露)でソ連に参戦を頼んだのです。ソ連崩壊の時には、アメリカが各国
に働きかけてソ連を援助しました。朝鮮戦争、ベトナム戦争も、裏で戦争を
仕掛けさせたのはアメリカとソ連で、犠牲になったのは韓国、ベトナムなど
の国民でした。
63 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 16:42:09
NGワード
○
、、、
フリーメーソン
道草
65 :
日本@名無史さん:2006/01/27(金) 23:17:51
>>51 >>48○光秀は有職故実、古典に詳しく、失われた荘園回復に尽力し、信長に京都監視のような役目を
坂本城を与えられ、任されている。このとき、織田家で一番最初に城持ち大名になっている。
光秀が京都文化人にかなり人脈があり、尊皇家だったことは本が出ていたと思うな。
だからさ、有職故実や古典に詳しいのは光秀だけじゃないって言ってるの。なのになぜ光秀かを聞いてるんだって。
それと対朝廷、京に来た宣教師への対応、京での政務、その他をまとめてたのは所司代の村井貞勝だから。
特に将軍義昭が追放されてからは、村井貞勝で一本化。間違いなく京をまかされてたのは、村井貞勝です。光秀は本願寺攻め援軍やら丹波攻めで、京にはほとんど関わってない。
兼見記なんかにも、光秀が対朝廷で何かしたなんてほとんど出てこないぞ。荘園回復?いつやった?
それと村井を飛び越えて、朝廷が光秀と相談していた証拠はどうした?答えてないよね。
それと光秀が文化人に人脈あったのは理解出来るが、尊皇家だったなんて、なんで分かるの?
66 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/28(土) 11:05:36
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>65○だから信長の武将の中で知識人、大軍事力を持っていたのは明智光秀しかいなかった。
村井○村井貞勝と明智光秀で天正三年あたりまでやっていた。連名文書あり。
荘園○永禄一二年四月禁裏御料所丹波国山国荘などの横領など、他の貴族などの
荘園紛争文書に光秀らの署名あり。
交渉○村井貞勝は織田信忠と二条城で死んだほどの織田派。
朝廷がまともに相手にすると思う?
ましてや、陰謀を相談するはずはない。
尊皇家○茶会、歌会、その他の仏事などで京都文化人、貴族、
光秀が会う機会は多々あった。
○変後、よく会った吉田兼見は吉田神道で貴族朝廷に縁が深く、
細川家を通じて光秀とは縁戚。
○本能寺の変、安土城陥落後、京都粟田口で光秀軍を朝廷の
百官たちが出迎えている。
67 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/28(土) 11:11:48
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
日本には、あの「ダ・ビンチコード」に勝るとも劣らぬ巨大な謎、
巨大な暗号がひとつある。
ダ・ビンチコードはフィクションだが、
これは、嘘偽りのない日本史の真実である。
そのキーワードは、「国宝」「安土」の中、、、
ウザ
ダヴィンチコードはフィクションなのかよ。
マジだと思ってたのに。
70 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 18:43:26
>>66 何それ?義昭追放から天正三年くらいまで、光秀も多少、政務にかかわったのは知ってるよ。
丹波攻略が始まってからは、多忙な光秀は、いつ朝廷と信長打倒の意思疎通してたか聞いてるわけ。茶会、歌会と文化人に会う機会が多々あったのは、丹波へ向かう前の話でしょ。
村井の存在を飛び越して朝廷と光秀が話し合いを持ったのが発覚したら、信長は怒るだろうな。
それと荘園うんぬんだって、奉行の1人として署名した。=尊皇という発想も安易だな。有職故実に詳しい=尊皇なわけじゃないと思う。
君の私見を聞いてるんじゃないんだよ。前スレから見てるけど、他人に証拠どうの言うなら、まず自分が証拠提示するのが当たり前。
「朝廷説」の根拠は?「著作権のことがあるから答えられない」じゃ、話にならないね。
ああ、俺の質問もう答えなくていいから。君が馬鹿なの分かったから。
71 :
日本@名無史さん:2006/01/29(日) 22:34:22
ところで変の時、重臣はともかく一般兵は混乱しなかった
のだろうか?急に「敵は本能寺にあり」と言われて素直に
従うもなのかな?信長の権力に立ち向かう勇気なんてあったのか?
「敵は本能寺にあり」と言われてない。
73 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/30(月) 10:54:29
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
○もう一九九七年二月、全ては朝廷説で解明されているからね。
それが真理である以上、光秀が尊皇家だったことなどは枝葉末葉の問題。
ちょっと周囲を調べれば、証拠はいくつも見つかる。
>>71兵士○このことについては色々といわれている。
最初は徳川家康を討つと言われた、織田信長が閲兵するためと言われたなどなど。
しかし、先鋒隊長が安田国継、後に天野源右衛門などと改名しているし、、
全く知らなかったとは思えない。信長は絶対に逃がすなと先鋒軍は厳命されていたに違いない。
しかもこの後、大半が安土城攻略、天王山、つまり山崎の戦いにも唯々諾々と従っている。
自分たちの行動の意味は解っていたはずだ。
○有職故実、古典、茶道などに詳しい。
これは今と違い、普通の人にはなかなか知れない特別な知識である。
彼は、どこからこんな知識を得たのか?
74 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/30(月) 11:12:02
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
反論があるというのなら、その説を書いてみれば、、、。
その理論と資料と、根拠、説を提唱する人とか、、、
75 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/30(月) 11:20:01
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
歴史を転換させた大事件の真実は、
巨大な国宝の中に隠され、
目の前にそれがあるのに、誰も気づかない。
なぜ、この建物はこんなに華麗なのか、ここにこんな彫刻群が、動物がいるのか。
だれも解らない。
たまに、それに気づいた人間がいても、あまりの大胆さに己の目を疑うだけなのだ。
こうではないのか? まさか? そんなことが?
そう疑いながら一生を終わるのみ、、、
しかも特別な建物ゆえに、彫刻ひとつ壊しただけで首が飛ぶ。
たとえ壊したとしても、全てがすぐに同じように作り直されるだけだろう。
なんという壮大で、華麗で、芸術的で、永遠のたくらみ、、、。
こんなことを考え出すものは。まさに天才に違いない。
戦国史の裏には、まさにそんな天才が何人もいたに違いない、、、
歴史上のどんな事象も本人にインタビューできないから推測でしか語れないけどなw
兼明親王の「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞあやしき 」と
いう歌は本人の日記に書かれているものだが、この歌に織り込んだ真意を親王が日記
に書かなかったから、真意は推測でしか語れない。
探求しようとあれこれ推測を連ねる場合、字数が多いほど批判され易いw
まあ、本人が歌に込めたまま敢えて解説しなかったのだから、どう解釈しても正解なん
だと俺は思うけどな。
これに限らず、歴史上の事象で得られることって推測・憶測の範囲内でしかないんだよね。
紙に書かれた範囲から一歩踏み込めば、もう推測の領域なんだし。
77 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 12:21:47
78 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 14:03:05
,:::-、 __
,,r::::::::::::〈:::::::::) ィ::::::ヽ
〃::::::::::::;r‐''´:::::::::::::::::::::ヽ::ノ
,'::;'::::::::::::::/::::::::::::::::::::::::::::::::::::
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';::::::::::::ト、::::::::::::::i^i::::::::::::/
`ー--' ヽ:::::::::::l l;;;;::::ノ
【ラッキーレス】
このレスを見た人はコピペでもいいので
10分以内に3つのスレへ貼り付けてください。
そうすれば14日後好きな人から告白されるわ株は上がるわ
出世しまくるわ体の悪い所全部治るわでえらい事です
降霊や霊視をすれば、本人にインタビューできる。
ぎぼあいこ氏が生前、「力のかぎりゴーゴーゴー!」という番組で、光秀の墓の前で霊視をした。
その結果は「黒幕はいるが、武士なので言えない」
その黒幕の正体は、、闇の中である。
80 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 16:20:01
永禄10年稲葉山城落城は嘘
永禄7年、竹中半兵衛が主君斎藤竜興に「もっとしっかりして信長の攻撃に備え
るようにと」諫言するために稲葉山城を乗っ取った。しかし、諫言するために、側
近の者を殺害し、主君を危機に陥れることは忠義でも何でもない。このような事を
すれば、切腹ものである。竹中半兵衛は処罰を受けていない。
永禄10年稲葉山城は落城した事になっているが、同じ年に、滝川一益に北伊勢
攻略を命じている。美濃攻略が精一杯なのに2方面作戦は有り得ない。
昔から、美濃を制する者は天下を制すると言われ、美濃武士は最強の軍団(家臣
は命を懸けて主君に忠誠を尽くすから)であり、稲葉山城は難攻不落で信長などが
落とせる訳がない。稲葉山城が落ちたのは永禄7年、信長の攻勢の虚を突いて、竹
中半兵衛と西美濃三人衆(安藤守就、稲葉一鉄、氏家ト全)が裏切ったからである。信長も含めて、竹中半兵衛らの悪事を事件を二つに分ける事で隠したのである。
斎藤義龍は道三が実の父ではなく、父土岐頼芸と愛妾三芳野の子で、父の実権を
奪った仇であることを知り、仮病(癩病)になって道三の子を殺害した。その6年
後、義龍は仮病が本当の癩病(近親相姦による業病)になって亡くなった事になっ
ている。仮病が本当の病気になる筈が無いし、義龍は子が母を犯すけだものだと侮
辱している。これはフリーメーソンが使う常套手段で、正統で高貴な人物をあえて
侮辱するのである。聖徳太子の母を間人(間男)皇女と言うのと同じである。やは
り、義龍が明智光秀で、光秀は聖徳太子の孫長屋親王の子孫である。秀吉は秦一族
(朝鮮人)で日本を乗っ取った中大兄皇子(百済の豊璋王)と同族である。
桶狭間(本当は田楽間)の戦いはだまし討ち
今川義元は戦勝祝いの礼の者(実は忍者が農民に変装していた)が酒とご馳走で
接待し、田楽を遊芸して持て成した。信長の攻勢の虚を突いて、服部小平太が槍で
義元を串刺しにした。味噌田楽の語源はこの事から始まった。
フリーメーソンは戦国時代から存在していたのですか?
82 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 18:22:29
どうしても本能寺の変での兵士の行動が腑に落ちないんだよね
単なる謀反じゃないでしょ?相手は天下の信長公だよ!
みんなびびってた筈だよね?明智家臣も織田家の家臣でしょ?
83 :
日本@名無史さん:2006/01/30(月) 18:30:11
坂本龍馬の家紋が光秀と同じ桔梗なのは単なる偶然と思ってたけど
光秀と坂本龍馬は遠い親戚で、本能寺の変の後土佐に身を隠した
光秀の親族が明智を名乗るのをはばかって元領地の坂本を名乗ったため
坂本龍馬の坂本は光秀の領地の坂本からきてるんだってね。
84 :
おバカさんへ:2006/01/30(月) 19:15:40
>>35 >○おそらく天正九年二月、三月の信長の京都大馬揃えの後くらいから。
信長は天皇の誠仁親王への譲位を言い出しているが、この後、朝廷の大物たちが集まって
相談し、拒否している。この後、信長は本能寺まで、一度も上京しなくなる。
「安土よりの返事めでたし」との後、朝廷で譲位の準備が進められていた史料があるのを
知らないのかな。
事実は、譲位を希望していた正親町天皇をぬか喜びに終わらせたというのが真相だよ。
>>74 >○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>反論があるというのなら、その説を書いてみれば、、、。
その理論と資料と、根拠、説を提唱する人とか、、、
無知の与太話しをまともに相手にする暇人はいません。
君が馬鹿の一つ覚えのように繰り返す
「○もう一九九七年二月、全ては朝廷説で解明されているからね。 」
の「一九九七年二月」が何なのかをハッキリと明示すれば別だけどね。
単に君が「そのときに」思いついたってことだろうけどね。
86 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/31(火) 10:51:57
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>84○ほとんどありえない話。
譲位拒否のことは、その会議に参加した吉田兼見の「兼見卿記」など
に書いてあり、陰陽道の凶方位を持ち出して断っている。
織田信長は天皇と親王のうちどちらが御しやすいかを計算して、譲位話を持ち出しており、
誠仁親王の皇子五宮を猶子にしたりしているので、早く親王に譲位させたかったはず。
しかも、正親町天皇は次の秀吉時代も、親王に譲位していない。
>>76○そうかな、一生の行動からは解るよ。徳川幕府崇拝者が、倒幕運動するわけないし、、。
>>82○光秀の家臣は近畿や丹波勢力、元室町幕府家臣が多かったと主張する人あり。
>>79ギボアイコ○四百年前のことなら時効、、、関係者も死んでいる。黒幕の名前をはっきり言ってもいいはずだが?
>>80○ヨーロッパのフリーメーソンが遠い東洋支配を企むとはとても思えない。
むしろ中国や朝鮮のの貿易、密輸などに関係する秘密結社、マフィァなどの
可能性はどう?
87 :
日本史@名無しさん。。:2006/01/31(火) 11:13:24
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
鉄砲一弾で、どんな鍛え上げた人間も死ぬ、人の価値は鉄砲一弾と述べた男が、
晩年に自らを神とし、寺を建てる。
あまりに簡単に、人が死ぬのを見たとき、
彼は自分だけはそうでないし、そうであってはならないと思いたかったのか?
中国やヨーロッパなどで多くの人を殺した大権力者たちが、
晩年、決まったように不老不死の妙薬を追い求めるのは、
歴史の皮肉のひとつとよく言われる。
88 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 11:55:39
>>86 >>76○そうかな、一生の行動からは解るよ。徳川幕府崇拝者が、倒幕運動するわけないし、、。
それ推測じゃないの?
徳川幕府云々てのも意味不明。
89 :
おバカさんへ:2006/01/31(火) 17:23:19
>>86 >>84○ほとんどありえない話。
>譲位拒否のことは、その会議に参加した吉田兼見の「兼見卿記」など
に書いてあり、陰陽道の凶方位を持ち出して断っている。
やはり無知丸出しだね。おそらくは受け売りの小ざかしい知識で妄想しているんだね。
兼見は後日、譲位が「金神」により延期となったことを知ったんだよ。自分でちゃんと
『兼見卿記』を読みな。
90 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 17:52:23
陰陽道の歴史は日本と中国に関係があるみたいだけど
実際どういう歴史があるの?
歴史の資料というのは
日記とかそういう書き物しかないんだろうけど
それって、後からいくらでも捏造できるんじゃないの?
書いた時代が事件直後か5年後か10年後か20年後か100年後か
区別できるの?
兼見卿記はリアルタイムで記録された。
ただし、本能寺があった年の部分は改竄されているが。
本能寺の変の真実
は誰にもわからない…
宜保愛子氏には、黒幕の存在を否が応でも聞きだしてほしかった気がしないでもない。
本能寺の焼け跡から
信長や信忠の遺体は発見されなかったわけでしょ。
なら、どうして二人の死を確認できたの?
自害したかどうか誰か確認したの?
96 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 20:50:13
>>95 信長の遺骸は発見されなかったが、信長が今川義元から奪った名刀「義元左文字」が本能寺の焼け跡から見つかったらしいです。
したいが見つからなかったから、英義なんかは「信長公は生きている」と吹聴してたな。。
よく「死体が消えた謎」とか「誰が荼毘にふしたのか」とか言うけど、
ある程度まで黒こげになった焼死体は、この時代では判別不能ではないのかと。
99 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 09:29:12
朝廷黒幕説敗れたり 津田勇の「愛宕百韻」の曲解
ときは今あめが下知る五月哉 光秀
「しる」という語は古代では神の力によって土地をしるという意味で、この主語
は天皇である。だから、光秀が天皇のために信長を討つ決意を詠った。
反論 この歌のしるは「知る」で「治る」ではない。天皇が政治を司る事の失敗
は後醍醐天皇の治政で実証済。光秀が同じ過ちをおかす訳がない。
水上まさる庭の夏山 行祐
「平家物語」宇治川の合戦で、上総介忠清が五月雨の頃で水まさって候と平知盛
に告げ渡河を断念させた。行祐が光秀を断念させるために詠んだ。
反論 この句の意味を「平家物語」と結びつけて解釈する事は無理。誰も気付か
ない。下の句の庭の夏山をどう解釈するのか。
一筋白し月の川水 紹巴
中国の伝説では月の川は桂川を指す。桂川を目指せと紹巴が京攻めを促している。
反論 この歌は光秀の心ありけり釣のいとなみを受けた歌で、一筋白しは釣糸の
事で、一筋で一筋桂川を目指せとはこじつけにも程がある。
秀吉は「信長が時の正親町帝に対し、畏れ多くも譲位を求め、中宮や女御を見せ
しめに磔刑にすると脅喝したが、その後天変地異の火事が続いたので、秀吉は自分
が生害させたように伝えられる誠仁親王の祟りだと心配し、その遺孤を後陽成帝に
した」とある。親王が自害して秀吉はその祟りを被ると「多聞院日記」は言う。な
ぜ、誠仁親王は自害したのか。二条御所、信忠のそこでの自害の嘘を知る生き証人
だったために、秀吉が天皇の女御(側室)と姦通したと言う無実の罪を着せて自害
させた。天変地異の祟りは信長の祟りである。
信長が譲位を求めなくても、皇太子誠仁親王が天皇に就くのは時間の問題。信長
の天下布武に天皇が何の貢献をするのか。
改暦問題は陰陽寮の学者の管轄で、信長が変更できる物でなく。改暦して何の利
点があるのか。
100 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 10:34:57
周山城は秀吉が信長暗殺のために築いた山城
急峻な山岳地帯に総石垣の大規模な山城を築いたのはなぜか。
光秀は主君信長を古代中国の悪玉、殷の紂王に見立て、自らの大義に沿って紂王
を打倒した周の武王になぞらえた。周山命名はそれに由来する。秀吉は光秀を「周
山に夜普請をして謀反を企つと人皆云う」とからかった。「老人雑話」
しかし、現実には光秀は亀山城から老ノ坂を越えて山陰道より、京攻めした事に
なっている。周山城は亀山城から愛宕山一つ越えた場所にあり、周山道を下れば京
に出る。という事は、あたかも明知軍が山陰道を行軍して京攻めしたように見せる
ために、周山城に隠れていた秀吉の暗殺部隊が京攻めしたのである。そのトリック
によって光秀謀反の嘘を創作した。フリーメーソンは自分の悪事を他に転嫁する。
光秀には坂本城と亀山城があり周山城のような山城は必要がない。光秀名君説は
年貢や使役(城作り)を減らして住民の信任を得た結果である。このようなぜいた
くな、虎口(防御施設)がある山城は光秀とは関係がない。秀吉の築いた大阪城や
名護屋城は多くの虎口で護られた城である。
信長公記は言う。「土方次郎兵衛と言う者譜代の御家人なり、信長生害の時上京
柳原に居て同伴出来ず、切腹した」柳原は相国寺の近くにある。信長を護るべき家
臣が上京に居た事の証拠であり、信長父子が死んだ本能寺、二条御所は下京にある。
こんな事は有り得ない。やはり、信長は上京の二条城に居て、その近くに次郎兵衛
が宿泊したのである。
信忠はなぜ、二条御所に入ったのか。多勢に無勢なのだから、馬で京を脱出して
安土城に帰れば、信長が亡き後を信忠が後継すれば織田家は安泰である。それが後
継者の自覚、責任なのです。
だから、信長は二条城で亡くなり、二条御所は架空の建物であり、誰が何と言お
うとこの真実は曲げられない。
101 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/02(木) 10:44:02
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>89○このとき誠仁親王らは頻繁に会合を行っている。
吉田兼見が「金神七殺の方位、この方に行くと人が七人死ぬほどの大凶方」
による譲位拒否を親王に提案している。彼は吉田神道で、陰陽道も知っていた。
その親しい親戚が光秀。この妙な言い訳は陰陽道に詳しい人間がいたとすぐ解る。
>>88○その人の一生の行動からは何を心が考えていたか、内面も解るの意味。
○どう考えても馬そろえは朝廷に対する力の恫喝であり、
天皇に譲位を求めたのは信長。
>>99○改暦し、信長の提唱する三島暦にすることは、
時の支配に対する野望であったという。
>>95○しかし、信長の持ち物、最後まで従った侍従、証人などで
本人との確認は可能。
102 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/02(木) 11:04:20
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
はっきりと天下国家に断言する。
その答えは、「朝廷説」で、一九九七年二月に全て解明された。
そのほかの説は、無意味にして、無価値である。
と書いてしまうよ?
そろそろ東大教授、早稲田大学教授、慶応大学、一ツ橋など一流大学の教授、学士、
歴史学の博士、日本史の研究者、歴史学の権威、作家、
NHK「そのとき歴史は動いた」「時空警察」のスタッフ、協力者などが、
名を出して、堂々たる反論を展開
してくれないものかな?
103 :
おバカな○クンへ:2006/02/02(木) 11:17:25
>>101 >○このとき誠仁親王らは頻繁に会合を行っている。
吉田兼見が「金神七殺の方位、この方に行くと人が七人死ぬほどの大凶方」
による譲位拒否を親王に提案している。彼は吉田神道で、陰陽道も知っていた。
その親しい親戚が光秀。この妙な言い訳は陰陽道に詳しい人間がいたとすぐ解る。
妄想はいいから、早く自分で『兼見卿記』を読みな。
>>102 そろそろ妄想のネタ「一九九七年二月」を明らかにしてくれないものかな?
104 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 12:25:17
科学というのはフリーメーソンによる神否定の妄説(大嘘)
フリーメーソンに騙されている平和ボケの極楽トンボさん。そのフリーメーソン
が牛耳っている学会の学者の間違った学説を鵜呑みにして、自分の力で考えること
が出来ないオメデタさん。次の質問に答えてください。
なぜ、牛は草だけを食べて肉で太るのか。ちなみに学者は腸内のバクテりアがた
ん白質を作ると言っていますが、下等な生物が出来て、高等な動物の体内で、なぜ
出来ないのか。千島理論では食べた物が腸内で血になり、血が肉に変化すると言っ
ています。これは日本古来からの伝承です。この伝承のほうが正しいのです。
ボウフラは蚊の産んだ卵から、かえるのではなくて、汚い悪水からわくのです。
梅雨時期、玄米に付く蛾の幼虫は米の胚芽が虫に変化する(わく)のです。蛾の産
卵口は籾殻を貫通する事は出来ません。がん細胞も穢れた(豚や牛などの死体を原
料にして組成された)血液が細胞に変化する時に、殺された多くの動物の怨念が宿
り、仇を討つために人間を取り殺そうとがん細胞として働くのです。
この世の森羅万象は神の意志(心)によって働いているのです。超常現象と言わ
れるものは科学が嘘である事の証明であり、幽霊、超能力、輪廻転生は真実である。
超能力は人間の意思でも発揮できる事があり、催眠術は言葉に言霊が宿っており、
その働きで人間の魂が感応するのです。
怪我をした場合その傷が元通りに修復できるのはなぜか。神が修復命令を出して、
各細胞がその命令に従うからです。各細胞が統制の取れた働きをするのはどのよう
な連絡方法によるものか。これらの現象も科学では解明することが出来ません。
105 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 12:56:12
106 :
日本@名無史さん:2006/02/02(木) 13:25:12
>>102 >そろそろ東大教授、早稲田大学教授、慶応大学、一ツ橋など一流大学の教授、学士、
歴史学の博士、日本史の研究者、歴史学の権威、作家、
そんな人たちは2ちゃんなんか見てないからとっとと天下国家に宣言しろよ。
そうすりゃいやでもその偉い人たちが相手してくれる。そっちの方が手っとり早いだろ。
その偉い人たちは、ここの住人のように
相手をしてくれないと思うよ。
だから、ここに居付いているんだろうさ。
108 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 10:14:03
山口敏太郎著「是非に及ばず」を読んだ
サイキックリーディング(霊視)を採用して、記録に残っていない部分をあぶり出
そうとした試みはえらいと思う。光秀が謀叛人でないことと、犯人を秀吉、家康と
見抜いているのはさすがだが、信長が本能寺に泊まったのは信長殺害の気持ちを抱
く謀叛人を招き寄せる仕掛けだとか。本能寺に抜け穴があったとか。秀吉の大返し
は船を利用したなどと言う博打的、漫画的な要素で描いており、途中であほらしく
なって読む気が無くなった。
サイキックリーディング(霊視)は注意しないと、悪霊が憑依して嘘を言うこと
がある。信長を六天の魔王、光秀と天海を別の人物で表現しているのは悪霊のせい
である。信長はキリスタンの日本征服を防ぎ、女犯を許し、弱肉強食の悪法を行っ
ている仏教徒を征伐しようとした英雄なのです。
109 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 11:28:00
○「明智光秀、本能寺の変の真実」でものを言っている奴はフリーメーソン
その答えは、「朝廷説」で、全て解明されたと言っておきながら、著作権の問題
だとか、難しい解釈なので理解出来ないと種を明かさない。種を明かすとその矛盾
がばくろされるので言葉の表現だけで誤魔化している。他人の説に自分だけの憶測
でものを言う。誰もが納得するような根拠のある状況証拠、物的証拠が無ければ誰
が信じるか。人の説を馬鹿とか幼稚と言うなら筋道をたてて道理で勝負しろ。言継
卿記、兼見卿記などの6月2日前後の記載が消されたり、これらの古文書が内容の
異なる2種類以上存在するのはなぜか。この質問に答えてみろ。時の権力者(秀吉
・家康)が検閲(ねつ造)した証拠じゃないのか。2種類以上あるのは矛盾した個
所を指摘されて、書き直したからであり、説が2説以上あるのはどの説が本当なの
か分からなくして、矛盾点を突かれても逃げる道を作っておく、フリーメーソンが
使う常套手段である。
110 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 11:43:18
↑お前もうざいから消えろ。馬鹿同士でお友達になれるかもよ。
111 :
日本@名無史さん:2006/02/03(金) 14:43:48
次の疑問に答えてみろ
本能寺の戦闘は圧倒的兵力の差で30分以内に決着がつく。信長の遺骸が行方不
明になる事は有り得ない。
光秀は信長を殺せば今度は自分の命が危なくなる事が予想できるのに、一番大切
な味方をつくる事を怠り、事件後勧誘しているのはおかしい。野望説、怨恨説、黒
幕説でも説明がつかない。
昭和50年地下鉄烏丸線建設の時に、信長の建てた二条城が発見されたが二条通
よりはるかに北に位置する。信長公記では二条古キ御構で表現されている。この矛
盾はどうして生まれたのか。今の京都の地図を見ると二条通以下は正確に区画され
ているのに一条通がずれている。条里を区画してから町並みが出来るのにこんなこ
とは有り得ない。秀吉が二条城の存在を抹殺するために変更した。
信長公記は言う。「信長様5月29日に上洛、直ちに中国出陣する間、用意万端
にして、御いっそう次第、罷りたつべきの旨、御発向」このことから何かを一掃す
るために上洛した事が分かり、それが終わり次第、中国出陣することになる。この
文面から茶会など行う余地は否定される。
答 一掃とは京の敵を掃除する事でこの敵はキリスタン以外考えられない。罷
りたつとは天皇の前から退くと言う意味(今では亡くなるを指す)で、天皇に謁見
後、キリスタン追放の綸旨を受けたと読める。九十九茄子の茶入れが焼失を免れた
ことが茶会否定の物的証拠である。
秀吉は本能寺の変報の翌日、高松城城主清水宗治を切腹させている。これは和議
の条件で、本能寺の変の前に和議は成立していた。信長の中国出陣を無視した暴挙
で切腹ものである。秀吉はなぜこんな暴挙をしたのか。鎧を着た武者が5日間で2
00キロ走破することは不可能。
答 信長暗殺の成功を確信していたからである。高松城に居たのは秀吉の影武
者と宇喜多軍、秀吉軍は周山城に隠れていて、この暗殺部隊が二条城で信長を殺害
した。
なぜ、家康は少ない手勢で、暗殺される危険性を冒してまで上洛したのか。甲州
陣の恩賞のお礼のためと言うのは真っ赤な嘘。
答 安土城の信忠殺害を指揮、督戦するため。
秀吉が皇太子誠仁親王を天皇の女御と姦通したと言う罪を着せて自害させた理由。
答 秀吉の信長暗殺を知っている生き証人だから。
112 :
おバカな○クンへ:2006/02/03(金) 14:55:27
もうヤダよこのスレ
おバカな○クンは今頃、必死になって兼見卿記を読んでるだろう。
スルーしる。
>>115 検閲されたのなら、逆に内容が異なる資料が複数残らないと思うのですが。
検閲前の資料は処分されるでしょう。
118 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/04(土) 11:20:03
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>109○ありえないって。なんで私が正体も指導者も知らないのに、フリーメーソンにならなくてはならないのか。
>>109○兼見らの日記の書き直しは当然、光秀が秀吉に負けてから。
この後、重要な立場にあった貴族の日記が書き直されているのは周知の事実。
>>112○今のところは全く無関係ですね。
>>111○家康黒幕説。家康と光秀の関係は調べつくした人がいる。家康は武田戦に忙殺されていて、
光秀と連絡を取った形跡、人、手紙が全くない。もし変にかかわっていたら、国で演習など口実に
兵を整えて、決行日を待っているのではないか。用意周到な男だし。
○実子がなかった秀吉は信長の子信勝を養子にし、信長に一番贔屓にされ、仲が良く、前途洋洋。
謀叛する理由がないな。また光秀、家康と頻繁な連絡をとった形跡がない。
また実力がナンバー四か五で、変後勝ち抜けるかどうかも不明な立場。
○変後、光秀と頻繁な連絡を取っているのは京都、吉田兼見、貴族。
身分が高くて検閲されなかったから、書き直し前の文書が残っていると見るべき。
119 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/04(土) 11:46:55
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
「はっきりと天下国家に断言する。
本能寺の変は一九九七年二月に朝廷説で解明された。
この後、朝廷説しか参考文献、本が出ていないのは周知の事実である。
なぜなら、それが真実だからだ」
と書いちゃうよ。
そろそろ東大教授や、慶応大学、早稲田大学教授や、歴史学の博士、
歴史作家などの、一流人たちの反論、論文が読みたいな。
NHK「そのとき歴史は動いた」や「時空警察」のスタッフ、
協力者の反論はどうした?
天下の2ちゃんねるに、書き込まれているんだよ。
ところで反論は、きちんとそれなりの根拠、論説、資料、証人、
提唱者を明言するように。
>>119 >ところで反論は、きちんとそれなりの根拠、論説、資料、証人、
提唱者を明言するように。
オマエモナー
>119
>本能寺の変は一九九七年二月に朝廷説で解明された。
>この後、朝廷説しか参考文献、本が出ていないのは周知の事実である。
事実? それは思い込みというんだよ。
○の人気に嫉妬しちゃう
新事実の資料が眠っているとしたら、
どこに?冷泉家とか?
124 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 21:22:27
117>>検閲されたのなら、逆に内容が異なる資料が複数残らないと思うのですが。
検閲前の資料は処分されるでしょう。
検閲は内容を消すだけ。改ざんして矛盾点を指摘されたもの、それを手直しした
もの両方を残せば何が真実か分からなくなり、改ざん者にすれば都合が良い。
118>>○家康黒幕説。家康は武田戦に忙殺されていて、
家康が武田戦でどのような行動をしましたか。
光秀と連絡を取った形跡、人、手紙が全くない。
私は光秀無実だといっているのに、家康と連絡を取る筈がない。
もし変にかかわっていたら、国で演習など口実に兵を整えて決行日を待っている。
時の権力者が真実を改ざんするのだから、家康の行動は隠されている。
なぜ、家康は少ない手勢で、暗殺される危険性を冒してまで上洛したのか。にま
ったく答えていない。家康には敵方の忍者が監視して隙があれば殺す。
○実子がなかった秀吉は信長の子信勝を養子にし、信長に一番贔屓にされ、仲が
良く、前途洋洋。謀叛する理由がないな。また光秀、家康と頻繁な連絡をとった形
跡がない。
中国大返しの秀吉の暴挙(和睦)をした理由を述べよ。切腹したかったのか。
また実力がナンバー四か五で、変後勝ち抜けるかどうかも不明な立場。
だから、家康と同盟を結んだのである。事実、天下を取った。
○身分が高くて検閲されなかったから書き直し前の文書が残っていると見るべき。
検閲をされないなら、書き直す筈がない。残るのは一種類で、写すときに書き間
違えることは普通は有り得ない。
125 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 22:12:00
日本に渡来した秦一族(フリーメーソン)
秦の始皇帝は日本に自生する不老長寿の薬草を求めるために、徐福を派遣したと
あるが、本当は日本の優れた神書(天皇記など)を盗み出す事が目的であった。焚
書抗儒は日本の神書をあたかも中国の書物であるかのように書き直し、その神書を
焼却し、作業に関わった儒者を生き埋めにした事件である。四書五経、東洋医学は
日本文化の精華なのです。
白鳳時代、朝鮮人(秦一族)の蘇我氏(フリーメーソン)によって日本は乗っ取
られ、日本の国体、神道破壊の計略にかかり、神代文字の古文献は改ざんされ、悪
魔の仏教に汚染された。
蘇我氏(中大兄皇子は百済皇子豊璋)は政敵物部氏を滅ぼし、大化の改新によっ
て聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺し(聖徳太子は蘇我氏の血筋ではない。高貴な天皇
家が朝鮮人を妻にしない)、蘇我氏は悪名が広がったので藤原氏と改名し、日本の
政治を牛耳った。麿と言う言葉は日本語と馴染みがなく、朝鮮王家の人が使した王
(自分)と言う意味である。
藤原氏は藤の生命力をめでて、家紋とした。斎藤道三、木下藤吉郎・秀吉、細川
藤孝、徳川家康はフリーメーソンである。
家康の正体は世良田元信で、松平元康を殺し元康に化けた。元康の嫡男、信康と
その妻築山殿は邪魔になり殺された。
徳川家康は岡崎で産れたのだから、岡崎に霊廟(東照宮)を建てるのが筋である。
寛永21年家光は上野国新田郡世良田庄の長楽寺隣に日光東照宮の奥殿(実は遺骨)
を移築して世良田東照宮を建てた。
ここを中心にして、東北(表鬼門)に日光東照宮があり、南西(裏鬼門)に久能
山東照宮がある。と言うことは、世良田庄を鬼門の金神の祟りから護る為の呪術を
施した事になり、徳川家康は世良元信である事の証拠となる。
このスレはこのままの流れで行くの?
127 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 22:18:30
科学はフリーメーソンが神を否定するために考え出した妄説(大嘘)
最初に狂牛病になった牛は病原体プリオンとはまったく関係がない。狂牛病は、
牛をと殺して食い物にし、そのうえ、草食動物の牛に牛の死体を共食いさせた事が
原因で発生した病気です。なぜ、同種の共食いで狂牛病になるのか、科学で解明で
きますか。
鶏は約3ヶ月、豚は半年、牛は1年。皆さんこれは何の年か分かりますか。人間
の食に給するためのこれらの生物の寿命です。これらの生物がと殺される時に、い
くら泣き叫んでも無駄です。人間の力には勝てません。すべての生物が人間の横暴
によって、地獄の苦しみにあえいでいるのです。神がこの世に存在するのなら、神
はけっしてこの状況を見過ごす筈がありません。抗がん剤が効かないがん、狂牛病、
薬の効かないエイズやインフルエンザの出現、地震などの天変地異が頻発するのは、
神の裁きが近い事の現れであり、神は警告から実行の段階に入ってきているのです。
ボウフラは蚊の卵からかえるのではなくて、汚水からわくのです。梅雨時、玄米
に蛾の幼虫がわくのは胚芽が虫に変化したのであり、蛾の産卵口は籾殻を貫通する
事が不可能です。がん細胞は穢れた血液(成分が豚や牛などの死体)が細胞に変化
する時に、殺された動物たちの怨念がそこに宿り、仇を討つために人間を取り殺そ
うとしてがん細胞として働くのです。戦争はこれらの怨霊が戦争指導者に憑依して
行わせるもので、弱肉強食の悪法を行っている限り戦争は永久に無くならない。
この世の森羅万象は神の意志(心)によって働いているのです。幽霊、超能力、
輪廻転生は真実であり、科学が嘘である事の証拠です。怪我した場合傷口が元通り
修復できるのは、神の修復命令に細胞が従うからであり、統制の取れた各細胞の連
携動作はどんな連絡方法によって可能となるのか。科学では説明出来ません。
>>126 前スレも○さんが大活躍だったしなー。
ガラシャ(玉)以外の光秀の娘ってどうなったのでしょう?
明智秀満の妻は多分坂本城で亡くなっていると思いますが津田信澄の妻は?
津田信澄の妻だった光秀の娘については、坂本落城時に一族と運命を共にしたという説が一般的ですが、
以前ある資料で、実は生存し、
その後身分を隠して豊臣秀次の側室になったという話を読んだことがあります。
>>125.126
馬鹿な○といい勝負だな。お前、本当はフリーメーソンの事、知らないでどっかで聞いた話を書いてるんだろ。勉強してる人は「フリーメーソン」っていう単語はほとんど使わないんだけどね。
>>119 ところで反論は、きちんとそれなりの根拠、論説、資料、証人、
提唱者を明言するように。
オマエモナー
131 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/06(月) 11:58:18
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
独裁者織田信長は猜疑心が強く、非常に用心深い。
この変を成功させるには、その諜報網を熟知していることが必要である。さもないと、信長はかって朝倉戦で後方を浅井軍
に遮断されたときのように一人で逃げてしまうだろう。光秀の成功は京都織田諜報網を熟知していたからであろう。
○では徳川家康は信長を殺す必要がこの時点であるのか?といえばない。
武田滅亡後、駿河一国を貰って満足している。桶狭間後、信長とずっと同盟し、忠誠を示すためにその息子信康、
築山殿も殺している。
また変の時、京都、堺辺りを見物しているのはどう見てもおかしい。関が原、大阪の陣など用意周到
に事をなしている彼が大慌てして国に帰っており、兵を集めるのにも手間取っている。
変の日が解るのなら、国にすぐ帰り、光秀を助ける準備くらいするだろう。
○また家康は独立した同盟大名なので信長を殺しても主殺しになるわけではない。
やり方が気に入らないので殺したですむ。汚名はない。
○さらに秀吉と組んでないことは、小牧長久手の戦いでかなりの攻撃をし、
大損害を秀吉軍迂回隊に出させているので明らか。
132 :
おバカな○クンへ:2006/02/06(月) 13:13:58
>忠誠を示すためにその息子信康、 築山殿も殺している。
徳川史観丸出しだね〜。
133 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 20:36:54
>>132 そこを考えたら
『当時逆らうことができず妻子を死に追いやってしまい、信長に対し恨みを抱いた』
とも考えられるよね。
>>131,バカな○クン
>ところで反論は、きちんとそれなりの根拠、論説、資料、証人、
提唱者を明言するように。
自分の言ったことは責任持って実行しよう。
135 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 22:40:17
安土城の両翼に、長浜城と坂本城があるのを見ると、信長は秀吉と光秀を
一番頼みにしていたと思う。
136 :
日本@名無史さん:2006/02/06(月) 23:06:37
スレ違いかもしれないけど
昔から婆ちゃんが
「うちは直系ではないが明智光秀さんの家系にあたるんだよ」
と言ってた。
でも苗字も全然違うし今住んでる土地も関連性がないし、家紋も違う。
苗字とか家紋って昔偽れたりしたの('∀`)?
っていうか光秀さんの直系っているのかな。
なんか初心者でスマソ
137 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 04:32:02
>>136 苗字は当然違ってきたりするでしょうね。
家紋も変わったりするんじゃないかな…確か蒲生氏郷も尊敬する藤原秀郷の家紋を信長だか秀吉に貰って喜んで家紋を変えたって話を聞いた気がする。
例えば祖先である光秀が謀反を起こしてるので明智姓を名乗るのはちょっと…って感じで改姓したりするんじゃない?
138 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/07(火) 11:18:21
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>133○これは信康の妻となっていた信長の娘五徳の訴えを受けた命令とされている。
武田家と内通しているとの嫌疑。しかし、もともとお家騒動、仲が悪かった正妻
築山殿勢力駆逐目的に信長の嫌疑が都合よかったとも言われいる。
信長に忠義を認められ、この後、豊かな駿河を貰っているので、恨みを抱くかは解らない。
昔、お家第一に人質に出していた長男、妻を見捨てるなんてのは、よくあった。
その方が部下らに感謝された。
>>136○昔は源、平、藤、橘の何れかに繋がるよう家系を作った。例外なのは豊臣で、
これは先の四氏に匹敵し、未来永劫、関白でも何でもいかなる官職、地位も受けられ
るという新姓。明石散人氏によれば、この姓ゆえ徳川は豊臣家を滅ぼしたのだという。
>>137○光秀重臣斉藤利三の家族は、京都貴族から土佐長曾我部家あたりに逃げ、
かくまわれたという。光秀に親しい家系が逃げてても不思議はない。
139 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/07(火) 11:35:48
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
日本史を揺るがす本能寺の変の真実、
それを書き記した書物は、間違いなく京都に二巻あるといわれている。
なぜなら間違いなく貴族の名家が関わっているからで、、、
書や記録を書き残すのが生きがいの人々が何も残していないとは、
思えないのだ。
140 :
おバカな○クンへ:2006/02/07(火) 13:32:50
妄想はもう結構です。
>>135 引き立てるべき実績があるというのが第一だろうね
獲得していた領地でとりあえず良さそうなところを与えたというのもあると思う
おれが本能寺のころの信長だったら
秀吉は姫路、光秀は鳥取に置いて中国地方は切り取り次第与える
長浜と坂本は適当な時期に返却させて直轄
142 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 16:14:49
丹波召し上げ出雲転封は攻略後の話だろうよ。
本能寺の変が起きたから理由付けのために誰かがそう考えたんでしょ。
143 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 18:08:49
小牧・長久手合戦は八百長 その後の人質交換は本能寺の変の前に行われたもの
信雄と秀吉の関係が険悪になり、信雄が家康と同盟を結んだ。同盟関係に対抗す
べく、秀吉が信雄の三家老を懐柔し、情報を漏らすよう説得したと言う疑いがかか
った。三家老を秀吉に内通の疑いありとして成敗したため、戦争の口実になった。
1584年3月15日から徳川・織田連合軍1万と秀吉軍8万が小牧山付近で対
峙していたが、にらみ合いを続けて戦闘は行われなかった。家康の後方から攻撃す
るために、秀吉軍の池田恒興が別働隊2万を率いて進軍したが、徳川軍に動きを察
知されており、4月9日、この別働隊が徳川軍に奇襲されて、池田恒興、森長可が
討死した。しかし、この両者より後方にいた堀秀政と三好秀次は逃亡した。
その後信雄が無断で和睦し、徳川軍が勝利した事で戦いが終わっている。
なぜ、秀吉は信雄が自分の家臣を成敗した事で戦争を始めたのか。秀吉は兵力が
圧倒的に有利なのだから、正攻法で徳川軍の中央を攻撃して分断すれば勝利できる
のに、なぜ、にらみ合ったままなのか。どうして、秀吉軍の動きが察知され、徳川
軍の動きが探知出来ないのか。なぜ、堀・三好軍が逃亡したのか。なぜ、信雄が家
康に無断で和睦したのか。この戦いは不審な点ばかりである。戦争の被害は池田恒
興、森長可が討死しただけである。この戦いは本能寺の変の信長殺しの犯人池田恒
興と森長可の殺害と、秀吉と家康の同盟関係を否定するための八百長の戦いである。
この後、和睦のために家康の側室お万の方の次男於義丸が秀吉の養子に出され、
重臣石川数正が秀吉の下に出奔した。秀吉が家康に大阪城へ登城させて臣下の礼を
取らせるために、天正14年5月9日、妹朝日を家康に嫁がせ、母大政所を付添い
に送った。これらは体の良い人質である。天下人である秀吉が家康にへりくだる事
は有り得ない。夫佐治日向守と離縁させられた朝日は43歳でこんな老けた花嫁を
家康が貰うだろうか。
これらの事は本能寺の変から4年以内の事柄で、本能寺の変の前の人質交換を4
年後にずらした隠蔽工作である。やはり、本能寺の変は秀吉・家康共謀事件である。
144 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 19:12:53
光秀の正体は斎藤義龍
斎藤道三が後妻の小見の方の実家である明智氏を明智城に入れて、土岐頼純(頼
芸の甥)に味方する土岐久々利の押さえにしていた。
しかし、明智城は地形的に見て久々利城と丘陵が連なっており、こんな小さな丘
に建つ山城ではとても久々利城に対抗出来る訳が無い。明智城の痕跡の証拠として、
明智城将兵の供養のために造られた六親眷属幽魂塔の石碑がある。おかしな事にこ
の石碑下から江戸時代のキセルが出土している。石碑下からその後の江戸時代のキ
セルが出る訳が無い。明智城は江戸時代に創られた虚構である。光秀はこの明智城
にいて斎藤義龍に攻められて落ち延びた事になっている。これは光秀と義龍を別人
に見せるための巧妙なトリックである。
「美濃明細記」に弘治元年、斎藤道三と一色左京大夫義龍との間で長良川決戦が
あり、義龍方で戦った武将の名簿の中に明智十兵衛光秀があり、明智城からの応援
で戦っている。義龍が明智城を攻める理由が無い。これは義龍と光秀を別な人物に
見せるために、書き加えた物で、道三方にするのを誤って義龍方に書いたのである。
もとの黙阿弥に秘められた暗号
筒井順慶の父順昭は天文20年(1551)順慶が3歳の時に病死した。順慶が
幼少だったために遺言で喪を秘し、奈良に住む黙阿弥(盲目の琴の師匠)を身代わ
りにした。やがて、影武者の役目を果たした黙阿弥は市井の身に戻り、もとの黙阿
弥にかえったと言う故事に因むと言われる。
しかし、盲目の琴の師匠である黙阿弥に順慶が成人するまでの十年以上の間、戦
国武将の当主が務まるだろうか。偽者と分からない筈が無い。戦国時代はそんな生
易しいものでは無い。
こんな作り話にして、後世に残そうとした真意は何なのか。もとの黙阿弥のもと
は本で本能寺、黙は黙っている、阿弥は阿弥陀仏で、本能寺の変の真相を黙ってい
る仏(死者)と読める。
本当は本能寺の変の真相を残すために、表向き順昭は死んだ事にして、法印英俊
という坊主に化けて、秀吉の弾圧を逃れて、書いていた日記を「多聞院日記」とし
て残した。この日記は改ざんの被害が少ない物なのです。
145 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 21:08:37
↑たかだか2chごときにこんな労力を費やせるなんて余ほど暇なのね。
146 :
136:2006/02/07(火) 21:09:38
>>137>>138 ありがとう。そうなのか…。逃げてるんだとしたら
なんだかやだなあorz
自分も光秀は中学生まで「裏切り者」っていう悪者イメージしかなかった
けど家系の事きいていろいろ調べてみると
すごい人だと思うようになった(ノ∀`)ちまきの話とか(w
駄文失礼。
147 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 21:40:06
信長の馬揃え 「兼見卿記」は嘘のオンパレード
信長が天正9年1月23日付、光秀に宛てた書状に「2月28日に重ねて京にて、
馬揃えをするので、そなたが仕切り、連絡の手配をせよ。京の公家衆、信長の扶持
を請けている公方衆、信長配下の武将、信長協力の近畿衆など」
「兼見卿記」の1月25日付に「夜に入って光秀の書状が来て、信長が上洛して
馬揃えをするので連絡する」とあった。信長の案書(朱印状)の写しも添えてあっ
た。案書に兼見の参加を示す記事がなかったので光秀に聞くと、兼見に参加の指名
はないが、仮に急な参加の要請があった場合、困ると思って気をきかせたと答えた。
安土城にいる信長の1月23日付書状が坂本城の光秀に届くのは早くても1月2
4日であり、馬揃えに参加する者(100余名)の名簿作り、行進順位表の作成な
ど多忙を窮めて、案内状もすぐには書けない状態なのに、参加しない兼見に1月2
5日付の書状を書いているのは腑に落ちない。急な要請があった場合困ると言う言
い訳のような理由は考えられない。急な要請も無いだろうし、要請があれば公家の
正装で間に合い、馬をどこかで借りて来ればよい。
山内一豊の妻千代がへそくりの黄金十枚をさし出して、貧しい夫に駿馬を買って
与えた話は良妻伝説となっているが、天正9年2月28日の馬揃えのために駿馬を
買ったのなら、この時、一豊はすでに二千石取りだったから話の辻褄が合わない。
馬揃えの嘘を真実に見せるための作り話である。
馬揃えは、馬揃えで公家を威嚇して、官位の強要、正親町帝の譲位要求、改暦の
請求をしたと言う虚構作りの嘘である。
信長は合理主義者でこんな軍事パレードのような無駄な事はしない。戦争で征服
して行けば公家は怖れて、信長の言いなりとなる。
「兼見卿記」の正本は別本と何ら変わる事が無く。改ざんして矛盾が出たので、
都合の悪い個所を削除した物である。正本に安土城で光秀と会った事、光秀から銀
子50枚頂戴した事が記載されており、光秀と親しかった事が秀吉に危険人物と見
られるので、日記を書き直したと言う理由は成り立たない。
>147
安土から坂本? 舟を使えば同日中でも楽勝で着くだろう。
馬揃えを帝が再度希望した話は無視?
>>147 >要請があれば公家の 正装で間に合い、馬をどこかで借りて来ればよい。
衣装はともかく、馬揃えに出すような馬が急に借りられるか? 当日は需要いっぱいだろうし。
馬揃えってのは朝廷以下、京都の町衆にまで見せるイベントだから意義があるんでしょ?
軍事パレードが無駄? 現代でも日本を含め各国やってますがな。
一般人だけじゃなく他国の大使館員とか招待して。
150 :
おバカさんへ:2006/02/08(水) 09:40:13
>>147はホント無知だね。
京での馬揃えは年初以来の計画だったのさ。
単純に山内一豊の件は作り話。
> 馬揃えは、馬揃えで公家を威嚇して、官位の強要、正親町帝の譲位要求、改暦の
請求をしたと言う虚構作りの嘘である。
どれも一部研究者の主張鵜呑みのだね。
151 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/08(水) 11:04:33
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>143○光秀の重臣斉藤利三や、その他近従の兵が捕らえられていて
秀吉や織田軍に拷問を受けたという話がある。もし自分の父を殺したという疑いが
あるなら織田信雄が、家康と同盟するわけがない。
○たとえ兵力差が七万あっても、この時代、軍費から戦死の損害賠償は秀吉の自腹。
相手が地の利を得、損害が多くなる場合は、よほどの理由、因縁がないと攻めない。
○小牧長久手の迂回作戦敗北は、秀吉が反対したが、秀次が無理押しし、
遅速になって休息したためのミス。
>>144○だから斉藤義竜は、はっきり病死が織田、美濃侍たちに確認されているって。
>>147 >>150○内裏のすぐ側の鎮守社を撤去し、わざわざ大きな馬場を作って、
貴族、町衆を呼んでの大パレード。ただのパレードなら他にも良い場所はあったし、
誰に対しての力の誇示かは明らかだった。
○馬は、当時弾丸一発で駄目になる消耗品で、高い馬を買うのは馬鹿げてると皆が
金を使わなかったんだろう。が、一豊は戦場で全力で働き尽くすためには、
弾丸一発で駄目になるにしても高い良い馬に乗ると態度で示した。
身の程知らずだが、覚悟の良い奴と褒められたと聞いた。
152 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 11:37:24
当時の一豊の俸禄から考えてそう高い買い物ではない
153 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/08(水) 11:52:24
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
そろそろ映画「博士の愛した数式」の如く、
この論理だけは負けないよと書く有閑なる歴史博士は出てこないものか?
154 :
おバカさんへ:2006/02/08(水) 12:18:26
>>153 >この論理だけは負けないよと書く有閑なる歴史博士は出てこないものか?
君の説は正しいと言ってくれる物好きはいたのかな?
ニフティのTVフォーラムに書き込んでよ。
局の連中大勢見てるから、もっとレスつくよ。
バカな○クンにエサを与えないでください。
彼の「朝廷説」は根拠、証拠なし、まともな反論も出来ない脳内妄想のみですから。
明日も○ちゃん来るかなー?
>そろそろ東大教授や、慶応大学、早稲田大学教授や、歴史学の博士、
>歴史作家などの、一流人たちの反論、論文が読みたいな。
今月、○ちゃんの意見をぶっ潰すおもしろい本が出たが
>この後、朝廷説しか参考文献、本が出ていないのは周知の事実である。
なんて書いているぐらいだから近所に本屋なんて無いんだろうなぁ(笑)。
159 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 02:57:54
歴史の素人で申し訳ございませんが、
光秀と天海和尚は同一人物ではないとしても、
明智家に関わりのある人物だと思うのですが
いかがでしょう?
>>159 どこかの番組で筆跡鑑定やっていたよ
番組自体の信憑性はともかく、筆跡鑑定の結果では
秀満との結果
161 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 10:21:24
明智秀満て明智一族じゃないよね?
娘婿で明智姓もらったんでしょ?
162 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/09(木) 10:58:35
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>154○残念ながら、一流の研究者、知識人は本能寺の変「朝廷説」と皆知っているのでね。
知らない人はモグリというのは学界の常識。これは、はったりでも、嘘でもなんでもなく真実。
決定的な証拠も出ている。嘘だと思うのなら朝廷説以外で本能寺の変の黒幕追求の論文を書いてみることだ。
>>158○「面白い本」もちろん、それなりの論理、資料、根拠、証人あってのものだろうね。
すでに本能寺の変の資料、文献などは出尽くしているというのは学界の常識。
もし、どこぞの旧家に眠っていた新発見資料なら、一流新聞一面記事になるよ。
そして、徹底時に調べられるぞ。で、怪しかったりしたら、、、、。
>>159○本能寺の変の背後にいたのは朝廷、貴族なので、
光秀湯や親族が僧侶としての復活することは十分に可能。
○明智秀満は坂本城で、家宝の茶器などを壊すにしのびずと
秀吉軍に渡し、天守閣に火を点け、光秀家族と自害。
際立った勇将ぶりは語り草。
163 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/09(木) 11:22:39
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
ひとつ黄金の指輪が一国の運命を決定するということはない。
しかし、ひとつの印鑑が一国の運命を決定したというのは、
ざらにある。
「天下布武」という聞きなれぬ印鑑の文字は、
織田信長が思っていたよりも強く、その国家の運命を決定していた。
>>163これ全部、あんたが書いたんでしょ?
162 :日本史@名無しさん。。:2006/02/09(木) 10:58:35
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>154○残念ながら、一流の研究者、知識人は本能寺の変「朝廷説」と皆知っているのでね。
知らない人はモグリというのは学界の常識。これは、はったりでも、嘘でもなんでもなく真実。
119 :日本史@名無しさん。。:2006/02/04(土) 11:46:55
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
そろそろ東大教授や、慶応大学、早稲田大学教授や、歴史学の博士、
歴史作家などの、一流人たちの反論、論文が読みたいな。
なんか書いてることが変。「朝廷説」 が学会の常識なのに、どうして一流人からの反論が出るんですか?
精神病院行ってください。
165 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 12:24:40
脳内と現実の区別がつかない耄碌した人間の相手をするな。
166 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 16:58:10
小牧・長久手合戦は八百長 その後の人質交換は本能寺の変の前に行われた物続
賤ヶ岳の戦いで勝家に味方した滝川一益(勝家の縁戚)が勝家を滅ぼした秀吉に
味方して、翌年伊勢で信雄軍と戦っている。一益はいつ秀吉に降伏したのか。降伏
したのなら、忠誠心を試すために一番危険な前線に投入する筈だが、監視の届かな
い伊勢で戦わせるのは腑に落ちない。このために信雄の兵力は削減された。秀吉と
一大決戦するのにこんな中途半端な兵力で戦う筈がない。
戦いは徳川軍の勝利であり、なぜ、勝利者が人質を出さなければならないのか。
於義丸(後の結城秀康)は信康亡き後の大切な跡取りであり、それを養子に出すこ
とは有り得ない。
賤ヶ岳の戦いで信長の後継者は秀吉に決まったのだから、家康は不肖な信雄をか
ついで負けることが分かりきっている戦争はしない。
この戦いは本能寺の変の信長殺しの犯人池田恒興と森長可の殺害と、秀吉と家康
の同盟関係を否定するための八百長の戦いである。
人質交換は本能寺の変から4年以内の事柄で、本能寺の変の前の人質交換を4年
後にずらした隠蔽工作である。やはり、本能寺の変は秀吉・家康共謀事件である。
167 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 17:36:36
何回言わせるのか。
斎藤義龍は道三が実の父ではなく、父土岐頼芸と愛妾三芳野の子で、父の実権を
奪った仇であることを知り、仮病(癩病)になって道三の子を殺害した。その6年
後、義龍は仮病が本当の癩病(近親相姦による業病)になって亡くなった事になっ
ている。仮病が本当の病気になる筈が無いし、義龍は子が母を犯すけだものだと侮
辱している。これはフリーメーソンが使う常套手段で、正統で高貴な人物をあえて
侮辱するのである。聖徳太子の母を穴穂部間人(間男)皇女と言うのと同じである。
やはり、義龍が明智光秀で、光秀は聖徳太子の孫長屋親王の子孫である。
支配者から言えば、光秀が聖徳太子の孫長屋親王の子孫であることは極秘で口が
裂けても言えない事であり、今上天皇が朝鮮人で偽の天皇であることと一緒でこれ
らの事を隠すために、光秀の素性を隠し、義龍は死んだ事(虚構)にしたのである。
168 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 18:27:29
賤ヶ岳の戦いの嘘
柴田勝家は信長の三男信孝をかつぎ、秀吉に対抗すべく長浜に養子勝豊を入れ、
縁戚の滝川一益が長島城にあって秀吉を牽制していた。
天正11年3月17日、2万の勝家軍は琵琶湖北端の柳ヶ瀬に陣を構え、5万の
秀吉軍は木之本に着陣して、にらみ合いの形となった。岐阜城の信孝が大垣城を攻
撃したので、秀吉は大垣へ向かった。その留守をつく形で佐久間盛政が奇襲をかけ
た。勝家は佐久間に撤退命令を出したが、勝利におごって深追いをした。
秀吉は大垣から木之本までの50キロの間を5時間でとって帰り(大返し)、佐
久間勢を蹴散らした。それを見て、前田利家は戦線離脱して降伏し、勝家は北ノ庄
で滅んだ。
秀吉はここでも大返しを行っている。時速10キロとは駈足の速度で、鎧を着た
武者が駈足で5時間走って、その後戦闘する事は不可能である。大垣に向かったの
は秀吉の影武者と川並衆などの土豪で、秀吉軍は途中で隠れたのである。前田利家
が勝家に属して、途中、親友の秀吉に降服したと言うのは嘘で、秀吉と勝家との戦
争が確定した時点で、どちらに付くか腹を決める事が男の器量である。秀吉がいっ
たん敵に廻った者を簡単に許す筈がない。秀吉政権下で、加賀100万石に出世し
たのは、信長殺しの手柄であり、同じ手柄で丹羽長秀も120万石に出世している。
この作り話は本能寺の変の時に前田利家が勝家に従って上杉攻略を行っていたと言
うアリバイ工作を印象づける為のものである。
「可観小説」に前田利長が信長に誘われて、安土から京に向かっていた。途中、
信長の死を知り、明智軍の進行を止めるために瀬田の唐橋を落とし、近江の織田側
軍勢を集めたとある。利長は利家の嫡男で父と一緒に上杉攻略に参加している筈な
のに、安土の近くにいるのはおかしい。
>168
>利長は利家の嫡男で父と一緒に上杉攻略に参加している筈なのに、
>安土の近くにいるのはおかしい。
もう少し調べてくるように。
>>159 天海和尚は将軍落胤説、会津の葦名氏説とかあります。まあ、一応光秀説も。
関東の足利学校に学んだ記録があるそうなので葦名氏説が有力だと個人的には思います。
将軍落胤とか、別に当時は隠す必要ないことだと思うし。
>162
つべこべ言っている暇があるなら自分で本屋行って確認してこいよ(笑)。
172 :
日本@名無史さん:2006/02/09(木) 22:25:23
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(洋泉社、2006年)
173 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/10(金) 10:45:11
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>164○すでに一九九七年二月に本能寺関係の書物が出て、朝廷説で解明。学界の常識、主流は、朝廷説で流れている。
しかし、それに、異を唱える人がまだいる。その中には一流といわれる人々も。その人たちの質問、反論をここで
受けましょうという意味。勿論、反論には、それなりの根拠、論理、資料、証人をそろえられる人に限られ、
なんの異説、論、根拠も挙げられないのに、嘘だ、デタラメという人は除外する。
>>172○鈴木眞哉、藤本正行「謀略説を嗤う」となると、怨恨、野望説かな? 読んでないが、
確か、前著で本能寺は、各地に武将が派遣され、中央が真空状態になったのに、光秀がつけこんだ、
などと書いていたようだが?
しかし、決して中央は真空状態ではなかった、安土には信長の馬廻り五千、さらに守備部隊。
京都には長男信忠の馬廻り二千、さらに大阪あたりには信孝の四国渡海軍二万人、一説には一万五千人。
がいたのである。これについてはどうだ?
174 :
日本史@名無しさん。。:2006/02/10(金) 10:55:04
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
京都、天正十年六月二日、織田信長と織田信忠が、京都本能寺、
さらに二条城で死んだということは重要である。
なぜなら、そこは朝廷の許しなくして、何か陰謀が出来るような場所ではないからだ。
>>172本「本能寺の変、謀略説を嗤う」、
つまり謀略、黒幕説ではない、との確かな根拠、証拠は何だ?
こんな時間にあれですが、
NHKの歴史の番組では、手紙の文章を引用して
信長暗殺の真犯人は当時の将軍足利何とかしかないとか。
天海は光秀の息子って結論付けてました。
176 :
おバカな○さんへ:2006/02/10(金) 13:02:20
手遅れになる前に早く病院へ行って下さい。
177 :
おバカな○さんへ:2006/02/10(金) 13:08:11
>>174 >○すでに一九九七年二月に本能寺関係の書物が出て、朝廷説で解明。学界の常識、主流は、朝廷説で流れている。
君の脳内出版だからね。
それに君の脳は一九九七年二月で思考停止中のようだね。いっぺん893にど突いてもらったら目も覚めるんじゃないかな。
○ちゃん、土日はお休みかな?
173 :日本史@名無しさん。。:2006/02/10(金) 10:45:11
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>164○すでに一九九七年二月に本能寺関係の書物が出て、朝廷説で解明。学界の常識、主流は、朝廷説で流れている。
しかし、それに、異を唱える人がまだいる。その中には一流といわれる人々も。その人たちの質問、反論をここで
受けましょうという意味。勿論、反論には、それなりの根拠、論理、資料、証人をそろえられる人に限られ、
なんの異説、論、根拠も挙げられないのに、嘘だ、デタラメという人は除外する。
こんな馬鹿まともな立場の人が相手にすると思ってるんだろうか?
おまえこそ早く根拠・証拠出せ。おまえが除外の対象だっていうのw
>>161 秀満は光秀の小姓というのが有力らしいが実際のところ不明。
血縁者という話もある。三宅弥平じ(漢字失念)、荒木家に嫁いでいた
光秀の娘が嫁。
弥平次な
182 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 09:38:21
アイヌ人はキリストと日本人との混血民族だ
青森県三戸郡新郷村戸来(へらい・ヘブライから来ている)にキリストの墓があり
ます。墓の説明によると、イエス・キリストは21才の時に日本に渡り、12年間
神学について修業を重ね、33才の時にユダヤに帰って、神の教えについて伝道を
行いましたが、その当時のユダヤ人達はキリストの教えを容れず、かえってキリス
トを捕らえて、十字架に磔刑に処さんと致しました。しかし、イエスの弟イスキリ
が兄の身代わりとなって処刑されたとある。
キリストは再び日本に渡り、ミユ子という女性をめとり、三人の娘をもうけて、
106才で亡くなったとあります。その長女が嫁いだのが沢口家です。沢口三次郎
の風貌は眼が青く、目鼻立ちが日本人離れしていて、山根菊子女子は、絵に見るキ
リストの肖像と生き写しだと言っています。
青森県の十和田湖周辺にはアイヌ語の地名が残っており、アイヌ人は日本へ来た
渡来民族によって迫害され、北海道へ難を逃れたと思われます。アイヌ人の風貌も
ユダヤ人の風貌にそっくりです。
根拠
竹内巨麿が公開した「竹内文書」には、日本の天皇が世界を治め、天のとり船で
世界各国を巡航したという記録が残っており、モーゼ・キリスト・釈迦・孔子など
の偉人が日本で修業したと記載されています。世界中にあるペトログラフ(岩石に
刻まれた古代文字)が「竹内文書」の神代文字で解読出来るのです。日本は世界文
明の発祥地で、日本の天皇が世界を治めていたのです。
183 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 11:39:29
ダ・ヴィンチ・コードは真実
最後の晩餐の絵のイエスの向かって左のヨハネはどう見ても女性であり、
この女性はマグダラのマリアである。イエスの右横で、手を横に広げてすご
い形相をしている大ヤコブは、広げた手と体が十字架の形となっており、顔
はイエスにそっくりである。これはイエスとは双子のユダ・トマスである。
この弟がイエスの身代わりとなって磔刑に処せられた。これは「竹内文書」
にも弟イスキリが身代わりになったと書かれている。すると、死んだイエス
が復活したと言うのは嘘で、この嘘を口実にしてキリスト教を広めた教会は
ペテン師である。この真実を後世に伝えるためにダ・ヴィンチは絵の中に暗
号として残した(この事が教会側に知られると火炙りの処刑で殺される)。
キリスト教で言う聖杯とはキリストの血脈を意味しており、マグダラのマリ
アの腹の中に秘められた。悪魔(フリーメーソン)は必死になって、イエス
の血脈を受けている者を捜して殺害しようとしている事を表現しているもの
が、ペトロがマリアの肩を押さえて、ナイフを後ろに隠し持っている姿で表
現している。イエスの血脈は日本人の中に隠された。フリーメーソンが日本
人を目の仇にするのはそのためであり、太平洋戦争でアメリカが日本人を大
虐殺したのはその理由からであり、反日運動はその現われなのです。マグダ
ラのマリア(日本を意味する)を売春婦として侮辱しているのは、高貴な者
をあえて侮辱すると言うフリーメーソンの常套手段である。
岩窟の聖母の絵の中央にいるのがマグダラのマリアであり、その横にいる
女性が天使でキリストに指をさしているのは、悪魔の役を演じてキリストに
神罰をくだすよう命令している事を表し、天使の横に座っている子供が右手
の2本の指を立てている姿は、キリストに神罰(洗礼)をくだしている事を
意味する。キリストは両手を合わせて許しを乞う姿に見える。日本人が本当
の救世主キリストの役割を務める事に決まっている。
アルカディアの大暗号は、最後の審判をきり抜けるには三種の神器が必要
であり、鏡、勾玉、剣はそれぞれ穢れの無い体、清廉な魂、言霊を意味する。
なぜ、このような事が分かるかと言うと、神がインスピレーションで教え
てくれるのです。
184 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 12:49:48
妄想歴史患者への解毒剤
信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う 新書y
鈴木 眞哉 (著), 藤本 正行 (著)
夢もロマンもないけれどw、本当の史実とはこういうものだ。
185 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 13:21:27
天海と千利休の正体は明智光秀
日光東照宮は徳川家康を大権現にして奉っている霊廟である。その陽明門
に座っている2体の木像の袴には土岐・明智家の家紋・桔梗が入っている。
家康の霊廟に桔梗紋が入り込む可能性はない。何かの暗示である。向かって
左の木像が中年の武者、右の木像が白髪、白髭の老年の武者になっている。
これは中年の武者を明智光秀、老年の武者を天海僧正に見立てており、明智
光秀は天海であると言っている。日光東照宮を建てた天海本人が言っている
のだから間違いはない。東照宮のひな形として造られた秩父神社には武士と
僧侶の2体の像がある。これによって光秀が天海である事が確定する。
東照宮の近くに明智平という地名がある。
比叡山には「慶長20年2月17日奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯篭が
ある。光秀が慶長20年まで生きていた証拠である。
京都府周山村に慈眼寺があり、この寺に光秀の位牌と木像が安置されてい
る。天海が死後贈られた諱の慈眼大師と同じ名である。宗派(天海は天台宗)
の違う寺に光秀の木像があるのはおかしい。
3代将軍家光の乳母春日局が後水尾天皇を退位させたり、養子堀田正俊が
大老になれたのは、家光が光秀とお福との子で春日局が家光の生母であり、
天海(光秀)の後ろ盾があったからである。
2代将軍秀忠の正室お江与の方は信長の姪であり、仇の筋の光秀の姪お福
を家光の乳母にする事に同意する筈が無い。
千利休が切腹した理由で妥当なものは一つも無い。切腹とは武士のたしな
みで、千利休の前身が武士である証拠であり、千利休ほどの器量があり、そ
の当時、日陰者にならなければならない武士は光秀以外には考えられない。
186 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 13:30:33
<<184本能寺の変・謀略説を嗤う 新書鈴木 眞哉 (著), 藤本 正行 (著)
の謀略説否定する根拠を教えてほしい。馬鹿な学者の本を見るのもいやだ。
187 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 15:33:26
オウム真理教のサリン事件 ライブドア証取法違反事件の黒幕はフリ−メーソン
オウム真理教のサリン事件が起こって10年以上経つが、麻原彰光はいまだに死
刑にならず生き延びている。ナンバー2の村井秀夫が右翼の韓国人に刺殺された時
に残された言葉が「ユダにやられた」であり、田中角栄がロッキード疑惑で失脚し
た時にユダヤにやられたと言った。
ライブドア証券取引法違反事件で社長堀江貴文が逮捕され、側近野口英昭がヤク
ザによって暗殺された。この二つの事件はまったくそっくりなのです。
オウム真理教のナンバー2の村井秀夫が暗殺されたのは、オウム真理教の黒幕が
フリ−メーソンであり、その事を隠す口封じのために暗殺された。ユダとはユダヤ
悪魔教(フリーメーソン)を指す。サリンの原料は毒ガスの成分で簡単には入手出
来ない。
ホリエモンは釈放金を払ってすぐに戻ってくるだろう。フリーメーソンと日本政
府、警察はつながっている。ライブドアの日本放送買収工作に必要な巨額の資金は
誰が貸したのか。リーマン証券である。これはメーソン系企業であり、買収工作に
よる株価操作、ライブドア証券の上場、取引法違反事件前のライブドア株の空売り
でリーマン証券は莫大な利益を上げた。その秘密を知る野口氏は口封じのためにヤ
クザに殺された。
野口氏他殺の証拠
内臓がはみ出すぐらいに割腹している。包丁を腹に突き刺すだけでもかなりの痛
みがあるのに、割腹は激痛をともなう。昔、切腹して激痛で苦しむのを楽にするた
めに首を打ったのです。自殺するのにこんな苦しい死に方はしない。今の男では出
来ない芸当である。その後に首の頚動脈を切り、手首まで切っている。こんな離れ
業は出来る訳が無い。これは殺した後に行ったものか。麻酔薬を打ってから行った
ものである。
氷まで用意したのは何のためか。腐敗防止なら死体発見を遅らかす工作である。
君たちはフリーメーソン(日本政府、警察、マスコミなど)に騙されても気づか
ずに地獄に落ちるだろう。
フリーメーソン(秀吉、家康)に騙されているように。
188 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 21:59:14
>>187 昨日の晩にチム-ポをしごいたら白い液体が出たまでとりあえず読んだ。
190 :
日本@名無史さん:2006/02/11(土) 23:48:22
慈眼寺、慈眼大師とか同じ名前になるのはよくあることじゃないか?光秀とは縁もゆかりもないうちの近くにも慈眼寺があるし。
○ちゃん、やっぱり土日はお休みですねー
>>174 常識的に、京都のど真ん中の本能寺や二条御所での戦闘など朝廷が許すわけがない。
市街戦に縺れこんだら、公家屋敷や下手すれば御所にまで危害が加わる恐れが高すぎる。
現に誠仁親王は戦闘に撒き込まれてるし、近衛前久邸は戦場になってるだろ。
もし朝廷が黒幕なら『洛中での戦闘行為は厳禁』が最低条件だろ。常識的に。
193 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 02:16:26
>>190 同意。ただの偶然というやつじゃないかなと思う。
話はズレるけど、現存はしていないが小田原市早川の寺には
北條氏直に嫁ぐ予定だった信長の娘とも、信忠の側室ともいわれている
女性の墓があったという記録が残っていて彼女の院号も慈眼院。
ちなみに没年は天海没の4年後。
194 :
193:2006/02/12(日) 02:21:08
ごめん、少し訂正
×→女性の墓があったという記録が残っていて
○→女性の墓があったという記録が風土記に書かれていて
195 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 08:06:40
>>192 >もし朝廷が黒幕なら『洛中での戦闘行為は厳禁』が最低条件だろ。常識的に。
危険を覚悟の謀略であったからこそ(信長殺害に)成功したというのが小説家の言い分。
史家は私見を挟んじゃいかんよw
憶測や推測を言ったら小説家に変身。
197 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 12:16:38
>>196 >史家は私見を挟んじゃいかんよw
>憶測や推測を言ったら小説家に変身。
単に史料の解説に終わるのであれば教育者だね。
憶測や推測をも巡らし、それを新たな史料の発見等によって証明努力する
のが史家。
ただ謀略説を唱える史家の多くは、史料を都合よく解釈してそれを繰り返して
いるだけだけどね。
198 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 19:10:12
>>195 朝廷が危険を冒してまでやろうとした事って何?
建武中興や明治維新のような天皇親政を敷こうとした?
当時の朝廷には、現実的な話では無いだろ。
それに、リスクは洛中での戦闘だけではない。
まず、本能寺襲撃に失敗する可能性。
深夜から早朝にかけて1万数千人の軍事行動である。
本能寺を取囲む前に信長が気付き、逃げ出す可能性は低くはないと思うんだが。
次に織田政権崩壊後、世情が不安定になる可能性。
三次・松永などが跳梁跋扈していたような時代に逆戻りしてしまうのは、朝廷も望まないだろう。
さらに次の権力者が、信長以上の独裁者になる可能性だって有るんではないか。
現に、江戸幕府との関係は良好とはいえないだろう。
たとえ光秀であっても足利尊氏の例もあるし、武士による政権である以上、
天皇・朝廷との対立は、避けられないのではないか。
だいたい当時の朝廷にとって、信長は最大のスポンサー。
多少意見の対立があっても、「それじゃ頃してしまえ」では、2chの厨房だろW
実際に本能寺に進入したのは斎藤利三と明智秀満で、実は派手な戦いはなかった(本城惣右衛門覚書)。
光秀自身は信忠のいる二条城へ向かってる。
信忠は逃げれたのに逃げてないのが変だし。親王も叔父、長益も逃げてるんだし。
以上の状況から考えるに、
もし光秀が信長打倒を決意してたなら、役割が逆(光秀が本能寺に行くだろ普通)なんだよね。ひょっとすると信長を殺す気はなかったんじゃないかと。
信長は天才肌で、今まで価値観を履がしすぎた故の出来事で、むしろ光秀は信忠を擁立して、信長に隠居をせまる予定だったとすれば、変後の行動も理解できるし。
予想外に信長はさっさと自害して火をつけた。信忠も死んだ。それで慌てて、細川藤孝、筒井順慶を味方に引き込もうとして断られた。おまけに秀吉が予想外の速さで戻って来た。っていうのが真相だと思う。
意外と「むしゃくしゃしてやった、今は反省している」
>>199 信忠のいる二条城のほうが、防備が固くて手勢の数も多いから
そっちを光秀(主力)が攻めるのは道理に合っていると思いますけど。
信忠は”逃れられない”とか”途中で討ち取られたら恥”とか考えて自害したのでしょうが
そういう考え方自体は当時の人間としては十分ありえるでしょう。
武田勝頼は逃げられると予想していたのに、裏切りにあって織田勢に囲まれてもう逃げられないと考えたから自害した、
逆に今川義元のように最後まで抵抗した人もいます。 その辺は当人の美学とか状況の問題では。
公家とか親王は包囲後に信忠側と光秀側が交渉して合意の上で城から脱出しているから
二条城から安全に逃げられたという証拠にはならないです。
202 :
日本@名無史さん:2006/02/12(日) 23:28:50
あのさぁー、当日、光秀の所在が確認(文献史料上)できるのは粟田口で吉田兼見が
対面したという記録のみなんだけど。
>>201 美学どうのは、この時代にどの程度あったか定かじゃないけど、大将が死ねば戦や家は終わりの時代に、逃げる場所(安土城)や方法があるのなら生き延びるのが、当時の常識なわけで。
実際、信忠の父・信長もそうやって生き抜いてきたわけだし。叔父・長益が逃げれたのだから可能性はあったはず。
光秀の軍は1万以上。斎藤利三や明智秀満や歴戦の配下で十分、信忠に当たれる。
このクーデターがもし信長殺害目的なら、どんなことがあっても信長を討ちもらしたらヤバイわけで。大将光秀が当たるが当然だと、俺は思った。
ちょっと書いたけど本城惣右衛門覚書の状況を重視した。
204 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 04:47:52
>>199 >むしろ光秀は信忠を擁立して、信長に隠居をせまる予定だったとすれば、変後の行動も理解できるし。
信長はこの時すでに家督を信忠に譲ってる。
てゆうか隠居を進めたところで言うことを聞くとは思えないが。
205 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/13(月) 10:48:21
○藤木正行、鈴木眞哉「信長は謀略で殺されたのか、本能寺の変、謀略説を嗤う」
読んだが、なかなかの優れものだな。最初は良質な資料によって本能寺の変の実態追求、それから変の前後、光秀の状況やらを検討、
その後、機密保持、変の動機について考察。切れ者。本能寺の変研究者は一読に値。
○痛快なのは「足利義昭黒幕説」「イエズス会黒幕説」、その他大先生らの謀略物、「ベストセラー」らを
完膚なきまでに切り刻んでいること。
「証拠偽造、異常な拡大解釈、捏造まがい、文書の曲解、自説に都合の良い解釈、偽造書物の焼き直し、でっち上げ、妄想」
もう詐欺氏まがいのやり口を徹底して分析し、暴いている。本能寺の変謀略説が、馬鹿としか思えなくなる。
まさに総理大臣や閣僚まで必読。
真面目な姿勢と論駁は本能寺研究の「聖書」にしてやりたいくらいだ。
本能寺の変の真実を知る私も、一分は、謀略ではない?と思ったくらいの優れものだ。
○しかし、残念なことに本能寺の変の真実は解明されている。
そこが、この本の少し残念なところだ。
206 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/13(月) 11:12:33
○藤木正行、鈴木眞哉「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」
優れものだ。特にいいのは謀略と防諜の問題についてだな。謀略が大きくなればなるほど、
防諜の問題が出てくるという奴。
さらに、本能寺の変と陰謀についての疑問がきちんと書かれている。
此処に来る人間もまず一読は必要だな。そうすればレベルアップするし、
的外れなことは書かなくなるだろう。
○この本のいいところは、市販されている本能寺の変陰謀説の根拠、論、資料に対し、
徹底的な考察、分析を行い、全て論ずるにも足りないと断言していることだ。
つまり、この本の初版の出た2006年2月20日までに出ている謀略書物は、
全て証拠、根拠が零、ゼロ、○、薄弱と言うことを完全に証明してくれたことだ。
○研究者はまず、この「本能寺の変、謀略説を嗤う」を読むことだ。
そのあと「真実の書物」にたどり着くことだな。そうすれば、歴史の真実がいかに
ものすごいか、が実感できるだろう。
○この本はなかなかいいので明日また熟読することにしたよ。
この本への反論、反駁は、水曜か木曜日になるだろう。
○この参考本を読んで、私はまた知った。他の研究者もそうだろう。
「戦国史の謎、本能寺の変の真実を解明する」ということの物凄さを。
その真実は「朝廷説」、、、
二千年で、ただ一冊、、、、
207 :
おバカな○くんへ:2006/02/13(月) 12:24:05
>>206 >○この参考本を読んで、私はまた知った。他の研究者もそうだろう。
「戦国史の謎、本能寺の変の真実を解明する」ということの物凄さを。
たかだか批判本一冊で「物凄さ」を感じるなんて余ほど初心者なんだね。
一九九七年二月に何処かで発売されたという与太本頼りに
「戦国史の謎、本能寺の変の真実を解明する」なんて余ほど暇を持て余して
いるんだね。
>その真実は「朝廷説」、、、
>二千年で、ただ一冊、、、、
本能寺の変って0006年6月2日の出来事だったのね。
208 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 12:28:08
朝廷説が学会の常識ならなぜ今この本が出てきたのだろうかね。
209 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 12:39:08
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』(洋泉社、2006年)
この本を読むと、イエズス会黒幕説についてかなりのぺージを割いているが、
鈴木氏、藤本氏は立花京子氏と個人的になにかあったのか?
210 :
日本@名無史さん:2006/02/13(月) 13:07:45
>この本を読むと、イエズス会黒幕説についてかなりのぺージを割いているが、
鈴木氏、藤本氏は立花京子氏と個人的になにかあったのか?
比重的に藤田達生の「足利義昭黒幕説」批判だって同じでしょ。
少なくとも今日二人が学術分野での黒幕説の牽引役だからね。
でも学術分野ではまともに相手にしていないのが現状。
なぜなら、批判をする以上対案も出さなきゃならないけど、逆批判を
受け反論するのも煩わしいからね。
「触らぬ神に崇りなし」ってところだね。
結局、安泰だったのは帝だったわけで。
212 :
日本@名無史さん:2006/02/14(火) 22:49:04
信長の棺って読む価値ある?
213 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 06:42:34
>信長の棺って読む価値ある?
小説ファンには兎も角、歴史ファンには読む価値なし。
なぜならパクリ満載だから。
読む価値があるかないかは、自分で現物を手にして決めよう。
本屋や図書館に行けば判断できることだ。
215 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 13:29:05
読んだけど、面白いかったよ
最後が……だけどねぇ
あんなもんでしょ
津本陽のほうがまともだねぇ
216 :
日本@名無史さん:2006/02/15(水) 19:31:11
>>211 安泰かなあ?
秀吉や家康の態度は朝廷を馬鹿にしているとしか思えない。
朝廷の内部に土足で踏み込むようなことを平気でしている。
信長のほうがまだましだったんじゃないのかな。
217 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/16(木) 10:54:34
藤木正行、鈴木眞哉著「信長は謀略で殺されたのか?、本能寺の変、謀略説を笑う」について。
○ま、この本に文句をつけるのは惜しいが、参考に出している今谷明著「信長と天皇」に「天皇が親王に譲位を望んだが、信長がそれを拒否していた」
なんて事はどこにも書いてないね。此処は思い違いだろう。
○また本能寺の変は謀略無しの「怨恨説」「野望説」となる。すると光秀は信長殺害後、未来をどうするつもりだった?との疑惑。
光秀はフロイス観察のごとく、頭が良く、知恵に優れ、軍事も有能。知識人で芸術を好む。この知能高い男が、変後にたった一万五千くらいで、
帰って来る残りの織田軍と十二万?と戦う。しかも京都は守れるような天険なし。
この人物、光秀の性格特徴と無謀な行動が一貫、一致してないとは昔からよく言われること。
安土守備軍馬廻り、織田信孝軍、美濃や滝川軍が四散、なんてのはチャンスと見ての突発的な衝動による単独犯なら
予測もできないはず。
この昔から言われている、未来なしの謀叛に、なんであんな有能な知識人が?への答えがないのでは??
218 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/16(木) 11:25:19
○「本能寺の変、謀略説を笑う」の密告について。
公家Aは光秀に謀叛を持ちかけたいが、密告されると怖いから言えない。
光秀も密告されると怖いので謀叛を言えない。
たとえ言えても仲間が増えるたびに密告の恐れが鼠算式に出るので、神経的に参る。
光秀も同じ。したがってばれやすい。
ばれないのはチャンスを掴んだ決行直前に、単独で、僅かな仲間に話を持ちかけ奇襲的にやること。
○ところが権力者足利義教暗殺、昭和の五・一五、二・二六事件などは、多数参加も密告も裏切りもなかった。
とくに京都のように何代にも渡って人々が住んでいる場合、その関係は複雑である。
誰かを密告したら連座で自分の親戚、兄弟、娘婿などにまで危難が及ぶ可能性がある。そんな場合迂闊な密告は出来ない。
まずモデルを仮に貴族「近衛前久」とすると、光秀親戚の貴族吉田兼見などを使って、茶会、法事などに光秀を呼び出す。
他の話などから信長の虐殺などに話を移し、どう思われる?と光秀の意見を聞く。光秀も返事に困り、曖昧な答えをするだろう。
そこで手を掴んだりして、涙をこぼし、信長を斬ってくだされ、貴方しかいない、命を預けるからと話を持ちかけるのである。
そのとき襖が開き、親戚の吉田兼見、細川藤孝、高位の公家がいる。
娘ガラシャの嫁ぎ先、人質も同じである。こんなとき密告できるだろうか?
むしろ「ここまで高位の人が、自分を選び、信じ、命さえ預けてくれている」と感動するのではないか?
つまり一度、全てを打ち明けて、相手が密告しないと、その結束はまさに命がけの固さである。
○忠臣蔵の四十七士、二・二六事件などはこんな風ではないのだろうか?
彼らに共通するのは
「天下悪逆の奸を討てば、世論は歓喜し、味方多大となり、ひいては未来、立身出世の道も開ける」
との憶測?希望?である。
219 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/16(木) 12:05:12
○ではなぜ、謀略が前から行われながらも本能寺の変の防諜は成功しているのであろうか。
これは京都にはかなり強力な諜報網が朝廷、貴族、あるいは足利幕府の時代からあり、
それも何代にもわたっているのではないかと思われる。子飼いの子飼いチームかもしれない。
光秀もそれに係わっていたので、信長上洛の際に活躍でき、手柄をたてられた可能性がある。
つまり信長もそれゆえに京都近くの坂本城、亀山城を任せたのかもしれない、つまり京都方面の
諜報機関の長官、或いはそれらを熟知していたのが、光秀だった可能性は高い。
また朝廷にたてついた北条幕府の滅亡、南北朝の長い騒乱で北朝が勝ったことを知っている人は、
確たる証拠もなしに貴族、朝廷のことを密告できるものでもない。
○また秀吉の毛利からの援軍要請は予測できた。秀吉が毛利のような大敵相手に一人で勝てば信長の不興を受けるからである。
最後の花は信長に持たせるのが常。そのとき空いている光秀が援軍になるのも予測できた。つまり状況は予測できたのである。
○では一九九七年二月に解明されている状況の真実は?、
真実は、かなり強力な諜報機関が光秀と朝廷の間を取り持っていること。
信長が僅かな供と上京したのは茶器の披露、譲位問題、暦?への回答によるもの。
六月一日、二日に信長が本能寺にいたのは高位の貴族四十人近くの接待によるもの。
そこへの光秀軍の手はずは全て整っていたこと。
光秀が恐れていた織田諸大名の状況、とくに即交戦状態になる安土城馬廻り守備軍、
美濃の豪族、織田信孝軍への工作はなっていたこと。
を伝えている。
220 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:07:15
>>217 >○また本能寺の変は謀略無しの「怨恨説」「野望説」となる。すると光秀は信長殺害後、未来をどうするつもりだった?との疑惑。
「怨恨説」だった場合後先を考えずにやるのが普通の心情だろ。
221 :
日本@名無史さん:2006/02/16(木) 17:18:28
>>218 完全に妄想ですね。あなたの考えを述べてるに過ぎず、何の根拠もない
信長は本当に朝廷を倒そうとはしていなかったの?
フロイスの本にはそれらしいことが書かれていたとか
NHKでは言ってたけど。
単に外交上の諸問題は朝廷の顔色伺わんでも信長んとこで
全部請け負うよ、てな感じの言葉の解釈の問題では。
このスレの流れ
バカな○の根拠のない朝廷陰謀説が出る。
↓
釣られる香具師が出る。
↓
翌日、バカな○がそれに対して的外れな反論、説明をして朝廷説が正しいと言い張る(もちろん根拠・証拠は出さない)
だれか偉い学者からの反論はないか?とのたまう。
↓
釣られる香具師が出る。もしくは無視される、
↓
翌日、バカな○が朝廷説は解明されている、反論がないのは自分の朝廷説が正しいからだ。と主張。(この人は何がしたいのか?)
↓
釣られる。
↓
朝廷説で解明済み発言。
前スレも本能寺の変スレもずっと同じ流れ。
前スレやらなんやらチェックの厳しい
>>224がチャンピオン
おっしゃるとおり
227 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/17(金) 12:02:21
○別にやりたいこと、目的はないんだよね。しいて言えば、
○日本史最大の謀反人といわれる明智光秀の罪を晴らし、日本史最大の忠義の人とし、
○そして、その娘、細川ガラシャ様の無念を晴らし、日本史最高の美女として位置づける。
○日本史全ての教科書、参考文献を書き換え、国家国民に対し、正しい歴史を残す、などのささやかな望みです。
さらに本能寺の変の根拠、証拠、証拠と喚くが、それが本当に少ないのだよ。
ここでちこちょこ書くと、はい、それまで。コピーになりかねない。
おまけに日本史最大の事件の証拠品だ、その金で買えない価値、が解っていない連中が多すぎるようだな。
ま、その証拠品に少し自力でかすってみたい人は、次の一点で事態を再検証してみよ。
「織田信長は、実は南朝だった???」
○実際、偉い学者、一流の博士、研究者からの此処への反論は無いじゃないか?
これは、モグリでないひとは皆「真実」を知っているからである。
○それにしても、第二ステージ、「東大教授や、歴史学の博士、作家らとの討論」にはなかなか進めないな。
これがないと次のステージへの迫力が無い。
228 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 13:48:16
>>185 千利休の正体が明智光秀だというのは、大本教の出口王仁三郎の本に書いてあったな。
天海については書いてなかったが。
何でも、どこかの千家の秘伝として伝えられてるとか。
229 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 18:29:31
>○実際、偉い学者、一流の博士、研究者からの此処への反論は無いじゃないか?
これは、モグリでないひとは皆「真実」を知っているからである。
一流の博士、研究者は2ちゃんねるなんて見ない。したがって
> ○それにしても、第二ステージ、「東大教授や、歴史学の博士、作家らとの討論」にはなかなか進めないな。
永遠に無い。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
終了終了終了終了終了 終了終了終了終了終了終了終了終了終了終了終了終了終了終了終了
230 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 19:34:15
そう言えば松尾芭蕉は服部半蔵説っうのもあったなぁw
松尾芭蕉の奥の細道は東北大名の探りだとかなんだとかで
実は忍び説とか。
それより玉はキリスト教に入信する前は貴意が高く
怒りっぽかったというけど、よく気性の激しい忠興とうまくやっていけたね。
そういえば娘は父に息子は母に似ると聞いた事があるが
そうなると光秀は短気だったという事になるな〜。
232 :
日本@名無史さん:2006/02/17(金) 20:22:02
>>229 だって本当に第二ステージに進んじゃったら困るのは○だから。
いや、むしろ早く進んで欲しいね
無限ループには飽きたし
このスレの流れ
バカな○の根拠のない朝廷陰謀説が出る。
↓
釣られる香具師が出る。
↓
翌日、バカな○がそれに対して的外れな反論、説明をして朝廷説が正しいと言い張る(もちろん根拠・証拠は出さない)
だれか偉い学者からの反論はないか?とのたまう。
↓
釣られる香具師が出る。もしくは無視される、
↓
翌日、バカな○が朝廷説は解明されている、反論がないのは自分の朝廷説が正しいからだ。と主張。(この人は何がしたいのか?)
↓
釣られる。
↓
朝廷説で解明済み発言。
無限ループはまだまだ続く!
ループ終了
とはいえ、秀吉が信忠の幼い嫡男を後継者に立てて後見人になったのに
どうしていつのまに自分が天下とっちゃったかっていうのは?
まさかいろいろ口実つけて殺しちゃった?
そんなもんかね。あれほど信長にひきたててもらっといて。
237 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:03:40
土日は○が来ないからつまらん
238 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 12:56:35
来るのは平日の10〜12時くらいですよ
239 :
日本@名無史さん:2006/02/19(日) 14:06:58
実はこの話はアンダーグラウンドでは以前から知られた話のようである。
ライブドアが広域暴力団Y口組のマネーロンダリングを請け負って急成長したという「風聞」を私が拝聴したのは極道評論家(「極道な評論家」でありかつ「極道についての評論家」)のM上さんからであった
M上さんによれば、それ以外にもXXXやOOO系ファンドからも裏金が流入しており、それらのブラックな資金力をバックにした新興財閥の登場に、「旧態依然」たる日本の財界人がはげしい拒否反応を示したというのがこの間のライブドア問題のスキームだそうである。
ライブドアが近鉄買収や仙台での新球団の創設などを模索したときにプロ野球機構(財界スポーツ振興部門)はきわめて政治的な排除行動をとりながら、それについていっさい説明を拒否した。
ナベツネは「あんな変なTシャツを着たやつなんかにプロ野球球団は任せられん」と放言したそうだが、まさかそのような薄弱な理由でプロ野球参入を拒否することはできないことは誰にもわかる。
ニッポン放送の買収のときも、「白馬の騎士」の登場を財界は強く要請した。
ライブドアの手荒なビジネススタイルが感覚的に不快であるとかいう程度のことで合法的なM&A活動を財界ぐるみで阻止するというようなことはあるはずのないことである。
いずれも、そこには「口にはできない理由」があったからである。
さらにM上さんの「コンフィデンシャル極道情報」によると、ライブドア排除のときに財界が支援を要請したのは他ならぬS価学会だそうである。
Y口組やXXXと五分に渡り合える組織は日本にはK産党とS価学会しかないのだけれど、まさか経団連がK産党に助力は依頼できない。
「日本のアンダーワールドの奥は深いんですね」とワイルドターキーの水割りを手に、私が嘆息をつくと、M上さんは「堀江はいずれつかまるよ」と小さくうなずきながらごくりと水割りを飲み干したのである。
一年ほど前の話。
241 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/20(月) 11:05:28
○藤本正行、鈴木眞哉「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」
この出来の良い参考文献にとやかく言うのはもったいない。が、引用されている明智軍兵が書いた「本城惣右衛門覚書」
は正しいのかと疑問がある。明智光秀にとって朝倉攻め時の如く「信長が馬一匹に跳び乗って一人逃げてしまえば」
全て崩壊である。
○なのに明智先鋒は何も、どこへ行くかも知らなかった、相手は徳川家康かもなどと思っていた、
というのだ。先鋒隊長安田国継は後に「天野源右衛門」と改名している。
右衛門府というのは内裏の門を守る役職。ところで「御門」帝のこと、という言葉がある。
少なくとも先鋒は必殺部隊であり、信長は決して逃がすなと命令され、迅速な行動をさせていた可能性が高い。
○にも係わらず惣右衛門はのんびり行動する、相手の君主が誰かも解らなかったと言う。
斉藤利三、明智秀満ら有名将を見たとはある。
が、すぐ上の上司や同僚らの名前、戦闘時の反応、様子、言葉は全くない。
○出てきた本能寺警護の士は黙ったままで、「ここをどこと心得る、信長公の宿所であるぞ」
と最高に兵がびびる殺し文句ひとつ言っていない。
いったい「信長公記」などにある激しい銃声、大騒ぎの声などは聞かなかったのか?
○また夜中に馬やヨロイを着た大軍が移動すれば、かなりの大きな音がするのに、
それについての記述が全くない。これは、どういうことなのだろうか?
○本城惣右衛門の覚書を読むと次の三点が妙に気になる。
「音、声について静かすぎる」「自分はただ巻き込まれただけで、何も知らない」
「手柄はあるが、責任は無い」
242 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 11:30:15
眠い。
243 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/20(月) 11:35:56
○藤本正行、鈴木眞哉「本能寺の変、謀略説を嗤う」
此処へ来る人は、一読はするべきだな。
そうすれば、本能寺の変がいかに歴史を転換させた大事件だったか、
認識するし、問題点も解る。
本能寺の変なくば、豊臣秀吉、徳川幕府は無かったかもしれないのである。
この本を読んで、「真実の書物」にたどりつけば、
本物の歴史のもの凄さがわかる。
>>239○あれ、ホリエモンって、そうだったのか? 現代の信長とか言われてたのに、、、
資金洗浄か。財界の異常な反応も?
しかし、誤解なきように、一応書くが、僕とは何の関係も無いからね。
Y組、○○○、×××系も。
○一九九七年二月、本能寺の変は解明された。
その真実の書は次の如く、奇妙な点を述べている。
織田信長の跡継ぎ、長男信忠を産んだ女性についての経歴などについて書かれた文書は、
なぜか、全く無い、とされている。
244 :
日本@名無史さん:2006/02/20(月) 15:55:07
鈴木眞哉
鈴木眞哉
鈴木眞哉
鈴木眞哉
濃姫じゃないの?
濃姫の養子になったのであって、生母は?であろう
>243
>織田信長の跡継ぎ、長男信忠を産んだ女性についての経歴などについて書かれた文書は、
>なぜか、全く無い、とされている。
で、何が言いたいんだ?
248 :
おバカな○くんへ:2006/02/21(火) 00:00:27
249 :
日本@名無史さん:2006/02/21(火) 07:44:44
>>248 前野文書って武功夜話じゃないか、
これは偽書でしょ・・・・・
>>249 武功夜話に基づくのは詳細なエピソードってところじゃないの?
生駒氏の女性ってことぐらいは、江戸時代あたりに編纂された織田(信雄)家の系図に載ってないかな?
>織田信長の跡継ぎ、長男信忠を産んだ女性についての経歴などについて書かれた文書は、
>なぜか、全く無い、とされている。
めずらしく○が(部分的に)正解書いていると思うけど、経歴が判る信頼出来る資料がないってことかな。
正室の濃姫だって経歴はおろか、本名も生没年もわかってないから一緒だけどね。
251 :
おバカな○くんへ:2006/02/21(火) 22:15:49
>>250 >めずらしく○が(部分的に)正解書いていると思うけど、経歴が判る信頼出来る資料がないってことかな。
本当に全く不明だと思っていたんだろうね。
○クンはウププな人物だからね。
今日は○ちゃんどうしたのかな?風邪でもひいたのかしら?
例の本が発売されてから反応が鈍くなった。
本能寺の変の時の光秀の石高ってどれくらいだったの?
255 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/22(水) 11:25:41
○藤木正行、鈴木眞哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」について。
○天正十年六月二日、京都本能寺に信長が少数でいたのは偶然的状況としている。
だが、信長が数十種の茶器をわざわざ持っていっていたとすると、偶然とも思えなくなる。
知ってのとおり、信長が五千人と言われる馬廻りに囲まれていた場合、一万三千では確実には殺せるかどうか解らない。
彼が馬一匹に飛び乗り、ひとり逃げてしまえば反撃の兵は幾らもある。
どうしても引き離しが必要な訳だ。その場合、茶器などいい口実になる。
茶の名器コレクションというのは、一流の目利きに見せて、凄い、名品といわれてこそ自尊心がくすぐられる訳である。
そこらの田舎茶人に見せても仕方ない。その手の目利きはどこにいるかといえば京都である。
暫く京都に上っていない信長にとって、一流の目利き、茶人、貴族、大商人に見せたくて堪らない名品が幾つか手に入っていた
訳である。それを是非見たいと位の高い人々に懇願されたらどうか?
少し長くなるかも解らない中国遠征前に、ちょっと出かけてみようかという気にもなったのではないか?
信長側室について○情けないな、藤木正行、鈴木眞哉氏が「偽書、武功夜話の研究」で何度も言ってるじゃないか。
この本の色々な間違いを。参考にした学者、作家は非難されてる。
従って側室生駒吉乃というのも信用できない、、、らしい。
前野家文書イコール武功夜話。
鈴木眞哉氏の名前が出た時点で信憑性は皆無
>255見ると○クン今度は藤木正行、鈴木眞哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」に感化されたのかな?
258 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 23:23:04
「一九九七年二月、本能寺の変は解明された。」の正体を一向に明かさず、
『信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う』を持ち出し
あれこれ言うなんてホント、ウププだね。
話題が本能寺の黒幕から吉乃の件にすり替えられそうになってるな。
前スレでも天海=光秀の話で、流れが悪くなったら眠り猫に話をそらした。
260 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/23(木) 11:12:28
○藤木正行、鈴木眞哉「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を笑う」
いや、これは中級者には良いんだよ。一読で、初心者には基礎知識も解る。
読むと、本能寺に謀略は無かった、と百パーセント思いたくなる。そこで「真実の書」を読む。
すると頭がコペルニクス的回転をし、歴史の真実はこんなに物凄いのかと思う。そこがいいんだな。
「この本への問い」
一 怨恨、野望とすると明智光秀の冷静沈着な性格、知識人、計画的丹波国攻略の手口と著しく矛盾する。
二 京都周辺は武力の真空状態ではなく、京都妙覚寺二千、安土に五千人、大阪に二万、或いは一万五千の兵がいた。
従ってチャンスと見、突発的な怒りで殺したというのは無理がある。
三 亀山、安土、坂本と光秀は三つの城を持ち、山崎天王山で無理して戦う必要がない。
この行動は京都を守るためとしか思えない。
四 怨恨、野望説をとるにしても一番の問題点は消えない。
それはこの後仇討ちだと、上京する四方からの残りの織田軍十二万人ばかりがある。
これをどうするつもりだったのか。将、部下、兵をどうやって納得させたのか?
何か明確な未来の勝算で納得させたとしか思えない。さもないとこの時代、部下はついてこない。
>>247○織田信長の他の側室についても、何故か殆ど記録がない。天下人なのに。此処がかなり問題点な訳だ。
>>254○光秀の領国は近江の一部と丹波。兵一万三千、一万五千を動員している。当時は一万石で二百五十人から三百人動員とされる。
261 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/23(木) 11:42:17
この「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」は、
なかなか難しい問題も提起しているよ。それは創作と真実はどう違うかの問題だな。
これは、許されるのだろうかとの難しい問題だ。ほれ、その一例だよ。
八切止夫著「信長殺し、光秀ではない」
衝撃、明智光秀には本能寺の変のとき、アリバイがあった。
京都に、光秀はいなかったのだ。
光秀は本能寺の変が終わった午前九時から午後二時までしか京都にはいなかった。
前日は豪雨であり、愛宕山参詣から光秀は下山できなかった。
本能寺の変の真犯人は、徳川家康、信長の妻奇蝶、イエズス会である。
信長は誰かを一掃、いっそう、一左右?しようと上京した。
それは長年自分を尻に敷いてきた悪妻奇蝶だった。
奇蝶もそれに気づき、光秀重臣斉藤内蔵助利三に信長殺しを依頼する。
斉藤は勝手に軍を動かし、本能寺の変は成功した。
奇蝶は、謀略を知った織田信雄により、安土天守閣もろとも焼き殺される。
イエズス会は信長が四国討伐のため、住吉浦に用意していた七隻の巨船と多数の軍船を、マカオ攻略のためのものと考え、
用意していたチリ火薬と大砲で本能寺を吹き飛ばす。
かくて信長の死体は四散し、発見されなかった。
○つまり小説の形で歴史の真実を提起するのはどうかという問題である。
しかし、これについては、全て「実在し、信頼されている資料」が使われ、それについて
現実離れしていない推理が行われている、のなら良いのでは??
262 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 11:52:38
何言ってるの?
(・∀・)
子孫がいるなら、何かしらの資料が代々伝わっていると思うけど。
門外不出。
今回の大河でもそうだけど光秀って周りから浮くくらいの堅物だったの?
>260 :○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/23(木) 11:12:28
○藤木正行、鈴木眞哉「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を笑う」
いや、これは中級者には良いんだよ。一読で、初心者には基礎知識も解る。
無限ループを指摘されたら今度は、自分以外は初心者扱いして話題をそらすつもりですか?ここに有名大学教授その他、いないのまだわからないの?
早く次のステージに上がればいいのに。
いやー、○ちゃん元気そうで良かった
267 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 22:13:35
>>264 藤木正行氏、鈴木眞哉氏によると、織田信長と明智光秀は
仲が悪いどころか、かなりうまがあったらしいそうです。
たしか、坂本城が始めに地蔵を石垣につかったんだよね?
おれも
織田信長と明智光秀は似ていると思う。
二人とも合理主義では一致。
光秀は歴史によくある合理主義者だが、
信長はこの主義が病的だった。
病的なほど合理的なものを求めていて、
その裏返しに不合理なものは嫌った。
「嫌う」というより「憎悪」に近いもので、
不合理を遠ざけるより撲滅していた。
だがその信長がなぜ晩年光秀を遠ざけたのだろう・・・・
遠ざけ・・・たか?
え、領土没収とかしたでしょ。
それと三好、長宗我部問題とか・・・
>>260 三と四は矛盾してないか?
山崎の合戦は無理な作戦だったのか?
それなのに何故、部下はついてきたんだ?
>>260 秀吉から京都を守るために天王山で戦ったのに信長とは京都で戦った(「戦った」とも言い難いが…)のね。
四の怨恨についても、恨んで殺すんならその後どうなろうと殺すだろ。
冷静沈着な性格だったとまるで会ってきたかのような口振りだが、怒りに狂った人間は普段冷静でもいざとなったら何しでかすか解らないのは今の世の中を見てもわかるわな。
>>267でも大体は二人は全く別次元の存在として描かれるよね、「鬼と人と」とか色々。
>>271.272
○クンはそういう質問にはいっさい明確に答えませんよ。
>>273 小説・フィクションの人物造形は関係ないだろう。
>>270 領土没収は江戸時代の講談。
四国問題は戦略の問題。さらに長宗我部自身が信長の提案(理不尽なものではあったが)
を蹴った結果決裂したもの。
だいたい親子兄弟で争い、婚家縁戚どうしで戦う戦国時代で部下の妹が嫁いでいた程度の
縁でどうして根にもたなくてはならない。
>>275 そうなんだ・・・
じゃあ今から本屋にいって読み漁ってくる
>>275 でも今回の大河同様鬼と人にも室町礼法の逸話が載っててさ、「足悪いの?」って。
元になる文献とかがあるんだろうね。
その話って、シバの国盗り物語が元ネタと聞いたが
本屋になかった・・・・
次めっさでかいとこで探してみる。
司馬史観に影響されすぎるのはよくないと思うお
フィクションとして楽しむ分には全然いいと思うけど
堺屋太一程の作家が司馬のぱくりですか
>>279鬼と人とのことを言ってるなら
もう絶版らしいんで古本屋行ったほうがいいと思うよ。
東京なら、国会図書館行けばいいし、
アマゾンで買えば送料いらないし。
283 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/27(月) 10:56:08
>>272○一対一の戦いなら怨恨でカッとなって殺すのもあるだろう。
が、数万人の兵と家族を巻き込むとなると、
そんなことではこの時代の将兵はしたたかだから付いては来ない。
光秀がそれなりの勝算を示し、実証をしたからこそ、天王山まで重臣、将はついてきたと見るべき。
その実証のひとつは安土城が無傷で手に入ったことだろう。
>>271○矛盾しているようだが違う。ひとつのモデルとして考えてみよう。
まず光秀が裏切るという。重臣たちは吃驚して、信長殺しの後の織田軍十二万の報復はどうすると問うだろう。
光秀は朝廷がついているといい、信長、信忠派すぐに殺せること、安土城などがすぐ手に入る、
美濃、大阪の四国渡海軍は心配ないこと、またその後の未来の勝算を述べる。
で、最初家臣、将は半信半疑だろうが、言ったとおりに安土などが手に入ったことで光秀を信頼した。
○その後朝廷から工作はされているから、天王山で秀吉を迎え撃てと命令される。
光秀はそこで負けたら、京都まで総崩れになると思いつつも、朝廷の手腕を信じて山崎に陣を敷いた。
しかし、秀吉は何かの情報網でその裏切り工作を知り、人質、見張り、布陣などで対策をしていた。
結果的に光秀は、裏切られたことになり、総崩れ、大敗した。
あそこは、裏切り者が秀吉軍に出ていたら、大阪まで総崩れしたかもしれない場所なのだ。
と、朝廷説だと推理が成り立つわけだ。
○しかし、エゴイスティックな怨恨説、野望説だと、なんで三万の軍を前に、
城を捨ててのこのことあんな場所に、と疑惑が残る。
また、何人かの貴族の日誌が書き直されている理由が解らない。
284 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/27(月) 11:05:24
「本能寺の変、山崎天王山の戦いの真相」
何故、明智光秀は、安土城、坂本城などを捨てて山崎天王山で
優勢なる秀吉軍と戦ったのか?
あそこで負ければ、総崩れとなる可能性が高いのに、、、
この疑惑は、昔から言われていた。
そのひとつの回答が、このごろ出てきた。
それは、裏切りが秀吉軍の中に起ると約束されていたから。
裏切られたのは、明智光秀の義軍の方だった!?
285 :
おバカな○くんへ:2006/02/27(月) 12:22:37
>>283 >また、何人かの貴族の日誌が書き直されている理由が解らない。
日記を書き直した公家って兼見以外に誰がいるのかな?
ちなみに、晴豊の日記の散逸は問題の時期(天正10年)だけではなく
複数年に亘るものだからね。
光秀に催眠術をかけた人物がいるって説はないの?
徳川陰謀説はなかなか面白いとおもうんだが・・・・・
あの状況で山崎じゃなきゃどこで戦えばいいんだ?
>288
確かに。援軍のあてもないのに城に籠もる方がよっぽど下策だな。
>289の意見が正解でしょ。基本的に篭城戦は援軍のあてがあるか、雪などで行軍が不可能になる地域じゃないと意味がない。
それに朝廷が裏で動いていたなら光秀軍を官軍にすべく、綸旨を出せばいいわけだし。○クンは以前、朝廷は武士を恐れてないと言っていたわけで、そのあたりも矛盾してる。
>>283 何それ?全部、君の推測というか妄想じゃんwwwww
反論くらいちゃんと根拠出せよ。朝廷黒幕の根拠は言えないとかデタラメな人だな。
>>283 つまり黒幕は朝廷である事を数万人の部下達に打明けたとゆう事か?
まあ本当に朝廷が黒幕だとしたら、光秀側は秘密にする必要もないと思うが。
むしろその事を積極的に宣伝しまくるはずなんだけど、
そんな記録はぜんぜん、まったく、これっぽっちも残ってないだろ。
>>292 ○は以前「本能寺襲撃は寸前まで数人の側近にしか伝えられなかった」って言ってた。
つまり言ってることが滅茶苦茶になってきてるんですよ
記録が残ってないという点については
権力者側の証拠隠滅は世の常でしょ。
後からいくらでも美談にしたてられるし。
天皇陵も御子孫が現在するゆえ
発掘調査もできない状態だし。
295 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/28(火) 11:14:53
「本能寺の変、その前後の奇奇怪怪」
>>285○光秀親戚吉田兼見、日記書き直し。山科言経、変前後、引きちぎられてなし。
晴豊、変前後なし。その他も誠仁親王の女官の記録など散逸。
○それだけではない、本能寺を六月一日に訪ねたりした他の高位貴族による変当時の日記が全く無い、とされている。
この当時、貴族が日記などつけるのは、ごく普通だったのに、、、である。
>>290 >>292○前に書いたぞ。
この前の南北朝の長い騒乱などあるので、慎重になっていた。南朝など持ち出されたら事だから。
また光秀は情勢が有利と見ていたので、綸旨をまだそれほど必要とも思わなかった。
光秀の誤算は信長の死体が見つからず、周囲がまだ生きているのではとびびったこと。
秀吉が常識はずれの速さで中国から戻ってきたことの二つ。
>>289 >>290 ○坂本城、丹波亀山城で篭城すれば勝算高いと斉藤利三が言ってるよ。
中央での篭城が長引けば、織田の敵は、
中国毛利、四国長曾我部、越後上杉、甲斐武田残党、関東北条、元本願寺一向一揆勢力、高野山、仏教勢力、伊賀衆、
といろいろあるからね。変後北条には滝川一益が敗北、甲斐では将河尻が死んでいるはず。
>>293○側近とは言ってないよ。誰かと勘違いしてないか?
296 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/02/28(火) 11:40:40
「山崎天王山の戦いの真相」
○先に述べたように、丹波亀山城などでの篭城での方が勝つ、或いは生き残る可能性は強い。
また京都での市街戦も考えられる。
だが、明智光秀は天王山で戦った。
これは、まず京都を守る為、長期戦などで京都に迷惑をかけないため、
としか、思えない。
○また、ひとつの推理として、
工作は済んでいるからとの朝廷の命令があったからとも考えられる。
つまり、天王山で勝つのは明智光秀のはずだったのだ。
しかし、明智軍は大敗北をした。
この推理によると、裏切るはずだったのに裏切らなかったものたちがいたことになる。
それは誰だったのか?
結論は出ない。
が、その後の歴史を調べてみると、妙なことに気づく。
籠城が有利か不利かなんだけど、明智は羽柴の兵糧とかの量を把握してたのかな?
>裏切るはずだったのに裏切らなかったものたちがいたことになる
織田家中の大物で事前に内通できそうなのは居ないよw
光秀排除の好機を与えかねないから危険極まりない。
与力に離反者が居るくらいだから、本心を直前まで近臣にも伝えな
かったのは事実だろうし(出典は忘れたが秀満だかの言葉として残
ってるよな)、事前に同輩に助力を頼むことはしないだろ。
変事後に織田家中で何人か共同できそうだと考えたものは居るだろう
し、朝廷からも事後承諾で「朝敵を討った」と褒められる目算を立てた
程度なんじゃないのか?
希望的観測だけのような気がする。(これも希望的観測だなw)
織田家中が二分されそうなことは、その後の歴史を知らなくても信長
の家臣なのだから解るはず。(二分されるだろうから、どちらか一方は
味方に出来そうだと考えてもおかしくない)
柴田と丹羽の関係は良好ではないので、それ以上に不仲である羽柴
が丹羽と組むことは予想可能で、中国遠征軍と四国遠征軍が共同す
ると危険なのを承知で変事を起こしたのであれば、丹羽・羽柴両者は
変事後に会談すれば共同できると踏んだだけなのだろう。
証文類が一切残らず、山崎の合戦に先立って諸侯に「裏切り者の存在」
を知らせなかったことを考えても、事前の確約はなかったと考えたほう
が普通。(事がセンセーショナルな話しだけに、書き残す価値が大いに
あることなのに、それがないのはその事実がないからだろう)
299 :
おバカな○くんへ:2006/02/28(火) 17:22:53
>>295 >○光秀親戚吉田兼見、日記書き直し。山科言経、変前後、引きちぎられてなし。
>晴豊、変前後なし。その他も誠仁親王の女官の記録など散逸。
ハァ〜?
当時の日記も1日1頁づつだったのかな。
晴豊の日記だって『日々記』という形で残っているよね。
だから兼見以外で誰が日記を改竄したのか聞いているんだけどねぇ〜。
それに兼見と光秀に血縁は無いけど。
>○それだけではない、本能寺を六月一日に訪ねたりした他の高位貴族による変当時の日記が全く無い、とされている。
>この当時、貴族が日記などつけるのは、ごく普通だったのに、、、である。
晴豊も言経もちゃんと日記をつけてるけど。
ちゃんと現実を見つめたほうが良いよ。
>>290 >>292○前に書いたぞ。
この前の南北朝の長い騒乱などあるので、慎重になっていた。南朝など持ち出されたら事だから。
また光秀は情勢が有利と見ていたので、綸旨をまだそれほど必要とも思わなかった。
>>295 おいおい君、本当に一流の研究者と話できるレベルなの?
熊沢現覚坊が1514年ごろに亡くなった時点で、南朝は歴史上消滅してるの知らないの?
南朝を持ち出さすも何も、南朝勢力はその前の赤松(政則)家が復興の際に事実上、後継者は消されてたわけで。
君、南北朝の騒乱を引き合いに出すなんて、南北朝について理解してないでしょ?
綸旨をまだそれほど必要とも思わなかった。って光秀はそんなマヌケか?
慎重に事を遂げたいのに光秀自身は本能寺攻めを部下(明智秀満や斎藤利三)に任せてたのはなぜ?信忠は多少、兵力持ってるといったって、せいぜい2千くらいだったわけだし兵の多い方を光秀が受け持ったというのは納得いかない。
>>296 もう君の想像はいいから。
仮に一流の歴史研究者がこのスレ見てたとしても、○クンの戯言なんて無視するだろ、フツーに。
一般人からの質問にすら、想像でしか答えられない奴なんて相手にするわけないじゃん。
>>295 >光秀は情勢が有利と見ていたので、綸旨をまだそれほど必要とも思わなかった。
ヲイヲイ細川、筒井といった極親しい与力でさえ援軍に来ないのに、
それでもなお自分が有利だと思っていた?
君の頭の中の光秀像は、よっぽどバカ殿様なんだな。
>南北朝の長い騒乱などあるので、慎重になっていた。南朝など持ち出されたら事だから。
それは朝廷側の考えだろ?
光秀としては、綸旨を得ないと大義名分も立たないし、大義名分が無ければ味方も集まらんだろ。
もし朝廷が黒幕だったら、まずは信長殺しが勅命であったと明かにして、
大儀名分を主張して味方を募るはずだと思うんだけどな。
そんな資料はまったく無いんだよな。
>>294 記紀の時代じゃ無いんだから、世間一般にまで知れ渡ってしまえば、
証拠隠滅する事なんてでき無いのでは。
いくら独裁的権力者でも、その時代のすべての日記や手紙を改ざんする事はできないと思うが。
>>295 >中央での篭城が長引けば、織田の敵は、中国毛利、四国長曾我部、越後上杉、甲斐武田残党、
>関東北条、元本願寺一向一揆勢力、高野山、仏教勢力、伊賀衆、といろいろあるからね。
それって長曾我部以外は、光秀にとっても敵だったやつらばっかじゃないか、
光秀を助けてやる恩も義理もないだろ。
それにほとんどは京都から遠すぎるか、近くても小勢力だし
とてもじゃないが援軍なんて望めないんじゃないの?
いくらなんでも、そんなのを計算に入れて戦争するやつはバカだろ。
光秀が天下を取るためには、秀吉を一蹴してみせるしか方法は無いと思うが。
304 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/01(水) 11:31:51
「光秀は裏切りによって天王山で勝つ予定だった」
でなければ、天王山で戦うメリットは何も無い。
少なくとも長期の篭城にすれば、交渉で毛利、四国などに味方ができ、
家族、家臣が生き残る道は開ける可能性がある。
305 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/01(水) 11:39:51
「日記について」
少なくとも他の高位の公家による当時のものは発見されていない。
晴豊、言継の日記は、とびとびに書かれ、当たり障りの無いことばかり書いている。
「光秀は状況を有利と判断していた」
安土は無血陥落、美濃混乱、四国渡海軍半分四散、
貴族は安土帰還を出迎える。また秀吉軍には内応者がいるといわれれば、、、
綸旨はまだいいとも思うだろう。
「何故、綸旨、令旨がないのか」まだ残りの織田軍十二万がいる。
朝廷は北条政子の幕府のとき、後醍醐天皇のとき、公式に敵対して完敗している。
慎重になるのも当たり前。また十二日では、まだ諸国の情勢判断段階だったのでは。
306 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/01(水) 11:50:33
「南朝について」
自天王が赤松家遺臣に殺されて最後になってるが、応仁の乱のとき細川勝元は土御門天皇、山名宗全は南朝血統小倉宮を奉じて戦っている。
信長の次男は北畠家、三男は神戸家の養子だが、ともに南朝の名家。
また長男信忠の生母は土豪生駒家ともされているが、この家も南朝と書く資料がある。不確かなものだが。
また南朝は江戸期も遺臣二百家があったとされている。
「光秀篭城策について」敵の敵は味方との論理が戦国の常識。
織田中央が混乱するのは毛利、四国、上杉らには好都合なので
援助は交渉によって、十分に期待できる。
「本能寺をなぜ光秀自身が攻めてないのか」
現場は下工作させ、地形を知り尽くした、凄腕の人間にやらせるのが一番良い。斉藤利三は適任。
光秀は全体配備の指揮をとったのだろう。信忠のときは少し厄介な攻城戦になりかけた。
光秀は攻城戦のプロ。
307 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/01(水) 11:59:19
○「明智光秀は、山崎天王山で勝つ予定だった!?」
変後の、筒井順慶や、光秀与力らに起る妙な出来事。
重臣丹羽長秀は奇妙な自殺?
「光秀と吉田兼見」細川家を通じて親戚。
とくに光秀は変後、吉田兼見邸で、何事か話し込んでいる。
その後も誠仁親王との間を行き来しているのは兼見。
308 :
おバカな○くんへ:2006/03/01(水) 12:19:15
>>305 >「日記について」
>少なくとも他の高位の公家による当時のものは発見されていない。
>晴豊、言継の日記は、とびとびに書かれ、当たり障りの無いことばかり書いている。
「日記」が無いのは別に本能寺の変に係わる時期限定じゃないよね。
それに「山科言経、変前後、引きちぎられてなし。 」じゃなかったのかい。
晴豊「日々記(天正十年夏記)」も兼見も毎日ちゃんと書いているけどねぇ。
君の妄想に都合の良いことが書いてないからって「当たり障りの無いことばかり」ってどうかな。
それを言ったら何でも有りだよ。
306 :○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/01(水) 11:50:33
「南朝について」
自天王が赤松家遺臣に殺されて最後になってるが、応仁の乱のとき細川勝元は土御門天皇、山名宗全は南朝血統小倉宮を奉じて戦っている。
信長の次男は北畠家、三男は神戸家の養子だが、ともに南朝の名家。
また長男信忠の生母は土豪生駒家ともされているが、この家も南朝と書く資料がある。不確かなものだが。
また南朝は江戸期も遺臣二百家があったとされている。
>>290 >>292○前に書いたぞ。
この前の南北朝の長い騒乱などあるので、慎重になっていた。南朝など持ち出されたら事だから。
>>306 また推測かよ。南朝が1514年くらいに歴史上死んだのは事実だろ。(確かに熊沢現覚坊の子孫はいたようで、明治になって出てきたけど)
形のない南朝がどうして1582年に出てきたり、それに困るのか理解できない。北畠家が元南朝派の家だろうが関係ないよ。
確実なのは、君が南北朝や後醍醐天皇を間違って理解してるということ。
そんなんじゃ、一流の研究家にはかまってもらえないですよ。
>>304.305.307も全部、推測ですよね、○大先生!
そして、無限ループに再び引き込むのが狙いですか?
310 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/02(木) 11:06:33
○「南北朝の歴史は当時の武士の精神形勢に、
かなり影響を与えていたのではないか?」
後醍醐天皇が持明院党との約束を破って、自分の子供に帝位を継がせようとしたのが争いの原因のひとつらしいということ?
そういう原因についてはそれほど詳しくはないが、日本を二分した南北朝の争いが、
当時の武士たちの精神形勢にかなりの影響があったことは否めない。
また信長にその気が無くても、次男、三男の周囲には元南朝に参加した武士たちが多いと思われていた訳だからね。
そして光秀の後を任されたのは、その三男の神戸信孝だったとされる。
これを当時の朝廷がどう思ったかだろうね。
○「光秀の辞世とされる漢詩の一行目は「逆順無二門」」、
二行目は「大道徹心源」
一行目は「逆らうも、したがうも御門」「心は源氏に徹する」とも読める。
御門とはみかど、つまり帝のことである。
北朝を建てた足利氏は源氏の長だし、公然と盾突いた北条氏は平氏。
信長は最初藤原氏としていたが、急に平氏にしたのは有名な事実。
光秀は出自を土岐源氏としているし、尊皇家だったことについては、
本を出している人がいる。当時、信長に軍事力、政治力をかなり買われていた
光秀が積極的に裏切るような大きな理由は、見あたらない。
311 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/02(木) 11:31:01
○「日記について」
「山科言継の日記」は二日、三日は見聞きしたことを書く。しかし四日目には削除部分があり、五日から八日間は引きちぎられたように不自然に無い。
「晴豊記」は本能寺の変の前後が欠本。
「兼見卿記」は書き直し。と不自然そのもの。
他にも目の前で起きた大事件なのに、それらについて詳しく書いた高位の貴族らの日記、書き物がな
とくに朝廷の様子、反応について書いたものがない。
○「当時、掛けられていた信長への疑い」
作家司馬遼太郎によれば、徳川家康が小牧長久手時代のヨロイを人にちょっと指し示すだけで、相手には十分な恫喝になったという。
本人にその気が無くても、権力者の一言は相手にそれだけ大きく取られるということだ。
となれば、一向一揆など多く殺してきた織田信長の一挙一動は、その気が全く無くとも周囲にはより以上の大きな意味にとられた可能性がある。
幾つかの資料を見ると、当時次のような疑いを周囲に掛けられていたふしがある。
○信長は南朝ではないか?
○安土城天主閣、空中階段、清涼殿とつづく妙な建物は何なのか。
○一向宗、高野聖の虐殺などから高野山も焼くのではないか?
○馬揃えによる朝廷への威圧的行為は何なのか?
○キリスト教の導入は仏教、神道などへの挑戦ではないのか?。
信長が天下統一してたら、どうなっていたかという資料はないの?
朝廷をどうしようとしていたのかとか。
NHKの番組によれば、
安土城には、天皇を迎える何とかと建物が天主閣よりも一段下に作られてて
それは、天皇を自分よりも下の位に位置づけようとした証と言ってたよ。
>>311 馬揃えはもともと朝廷からの要請で行われたもの。別に朝廷に対する恫喝で
行われたものではない。
それから信長は仏教も神道も保護している。ただ日本の多神教世界の中にもう
一つを導入しただけ。本願寺や比叡山は政治的に対立したからであって思想的
なことじゃあない。高野聖の処刑も、高野山が信長の使者を殺した報復。
314 :
おバカな○くんへ:2006/03/02(木) 14:13:50
>>310 >○「光秀の辞世とされる漢詩の一行目は「逆順無二門」」、
>二行目は「大道徹心源」
『明智軍記』の創作だよ。
>>311 >「山科言継の日記」は二日、三日は見聞きしたことを書く。しかし四日目には削除部分があり、
>五日から八日間は引きちぎられたように不自然に無い。
モノは言い様だね、ウププ。
>「晴豊記」は本能寺の変の前後が欠本。
だから『日々記』として残ってるじゃん。
>他にも目の前で起きた大事件なのに、それらについて詳しく書いた高位の貴族らの日記、書き物がな
>とくに朝廷の様子、反応について書いたものがない。
確かに『お湯殿上の日記』の欠如は不審だけど、絶対に無きゃイケナイなんて完全に勝手な思い込みだね。
>作家司馬遼太郎によれば
おやおや現代の「小説」をもちだ出すのね。
>○安土城天主閣、空中階段、清涼殿とつづく妙な建物は何なのか。
最早『天守指図』を指示しているのはNHKのみだし、「清涼殿」については
関係者からも問題(藤村氏の思い込みによる復元)が提起されているのを
知らないのかい。
315 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 16:18:02
完全に○氏の妄想ワールドが繰り広げられてるな。
以前彼は本能寺襲撃直前の様子として
『その時誰かが言ったという。「右府は確かに本能寺にあり」と、、、』
とか書いてたしな。
東照宮に秘められた天海=光秀説の秘密の時は興味深く見ていたが、さんざん天海は光秀だと喚いた挙げ句『猫の彫刻に秘密が、、、』て引っ張るだけ引っ張って結局決定的な根拠も出さずに消えた。
今回も『他にも裏切り者がいる』とか変な方向に反らそうとしてるな。
今回はきっちり最後まで自分の考えをさらけ出していけよ。
俺はちゃんと見てるからな。
>>310 また信長にその気が無くても、次男、三男の周囲には元南朝に参加した武士たちが多いと思われていた訳だからね。
そして光秀の後を任されたのは、その三男の神戸信孝だったとされる。
これを当時の朝廷がどう思ったかだろうね。
それが君からの正式回答なんだね。なぜそんなトンチンカンな回答するのか理解できないよ。
毎回少しずつ話題をそらしてるけど、南朝に参加してた当人達は本能寺の変前にとっくに死んでるから。その子孫達だって推戴する人がいないんだから、南朝がどうこう言うのは変。
>南北朝の長い騒乱などあるので、慎重になっていた。南朝など持ち出されたら事だから。
持ち出す南朝というものは1582年の時点ではないので、この点は完全に妄想です。
光秀の後任が三男・信孝?それ明智軍記の話だろ。君は明智軍記の記述を信用してるみたいだねw実際には、光秀の所領は召し上げられた形跡なし。
もともと丹波は京には近いが、生産性は低い地域(山が多い)から、むしろ信孝には摂津・和泉あたりが与えられると思う(これは俺の推測)。
それにしても話をよくはぐらかす人だよw
317 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 22:36:39
○クソはどこへ向かおうとしているのだろう?
318 :
信長:2006/03/02(木) 22:55:44
明智はやはり、あの時代の常識的感覚で、今がチャンスと見て、単純に
天下取りに走っただけ、信長の単なる油断を突いた・・・・・・・・・
後世の人たちが、ああだこうだと理由着けしているだけかも?と思える。
>>318 それはないだろ。光秀は50代半ばくらいの人だよ。当時ならお爺さんで、老い先どれくらいあるかもわからんのに。
本当なら隠居してるはずの年齢なのに天下取り目指すのは可能性としてはかなり低いよ。
320 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 02:46:46
織田信長を殺ったのは雑賀孫一だよ。
321 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 04:10:08
まあ『本能寺の変』は戦国最大の事件でありミステリーでもある
真実は解明される事はないと思う……
322 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 09:08:58
まとめると光秀の声は緑川で決定だな
323 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/03(金) 10:58:52
○「馬揃えについて」
最初はそうかも。しかし、内裏の横に馬場を作り、不自然に大規模にし、後、天皇に親王への譲位要求をつきつける。
○「高野山を焼く噂」
信長は自分の上には誰もおらず、世に神も仏もなし、人は死ねば灰とフロイスに言う。
「光秀の辞世」
明智軍記成立時点では変の動機に全く朝廷説は無く、怨恨野望のみ。故に、遺書偽造の必要もない。
○「日記について」
変の前後について不自然に無い。他の高位の貴族の日記手紙も不自然に無いとかくべきでは?
「安土城清涼殿について」
しかし図面は逆清涼殿そっくりとも、画面に図面が出ていたがね。真実は、他にも傍証があるんだが。
「京都は信孝に任された」
京都はこの時点でも文化の中心なので、石高は関係なし。安土にも近いので身内に任すのが一番、と常識。
「南朝について」
それが遺臣二百家というのが江戸期などにはいて、十六菊家紋をつかい、南朝の血を奉じる儀式をしていたとさ。
真実はわからないが、南朝の家に次男、三男が養子、岐阜なる地名と、疑いをかける理由にはなったかも。疑えば理由はいくらもあがる?
324 :
おバカな○くんへ:2006/03/03(金) 11:50:04
>>323 >「安土城清涼殿について」
>しかし図面は逆清涼殿そっくりとも、画面に図面が出ていたがね。真実は、他にも傍証があるんだが。
ハァ〜 画面って何?
そっくりなのは当たりまえ。
何故なら清涼殿をモデルに復元したんだからね。報告書をよく読んでご覧。
清涼殿をモデルに復元しておきながら、清涼殿のモデルに成った喧伝していたというのが真相さ。
その上でその「傍証」とやらを聞かせてよ。
325 :
おバカな○くんへ:2006/03/03(金) 12:02:37
>>323 >○「馬揃えについて」
>最初はそうかも。しかし、内裏の横に馬場を作り、不自然に大規模にし、後、天皇に親王への譲位要求をつきつける。
君はホントものを知らないね。
譲位を望んでいたのは天皇側で、信長は一旦それを持ち出し天皇を喜ばせたうえで、「金神」を口実に引っ込め
(おそらくは左大臣になんか成りたくなかったから)がっかりさせたというのが真相。
現に当時、朝廷で譲位へ向けての準備が進められていた史料があるんだけどね。
一種の意趣返しだね。
明智軍記は、幕府が天海=光秀説を否定するために作らせたもので、
史料的価値はありませんよ。
>323
>○「日記について」
>変の前後について不自然に無い。他の高位の貴族の日記手紙も不自然に無いとかくべきでは?
まず、そのころ他に誰が日記を書いていたか挙げてみろや。
>>327 >まず、そのころ他に誰が日記を書いていたか挙げてみろや。
妄想本受け売りの○クンに酷なこと言っちゃ〜いけないよ。
>323
>「光秀の辞世」
>明智軍記成立時点では変の動機に全く朝廷説は無く、怨恨野望のみ。故に、遺書偽造の必要もない。
偽造も何も、お前は明智「軍記」に何を期待しているのかと(笑)
>>323 「京都は信孝に任された」
京都はこの時点でも文化の中心なので、石高は関係なし。安土にも近いので身内に任すのが一番、と常識。
「南朝について」
それが遺臣二百家というのが江戸期などにはいて、十六菊家紋をつかい、南朝の血を奉じる儀式をしていたとさ。
真実はわからないが、南朝の家に次男、三男が養子、岐阜なる地名と、疑いをかける理由にはなったかも。疑えば理由はいくらもあがる?
根拠が一つもないですよ、○先生。また、はぐらかしてごまかすんですか?
京は光秀の領地じゃありませんよ。前回のご自身の書き込みの内容とずれてますね。
嫡男をさしおいて、三男に京を任せるのが君の常識なんだ、へぇ〜驚き。
それと北畠家は途中(足利義教の時代)で幕府側に恭順してるんですけど・・・
遺臣二百家?kwsk
331 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 20:46:31
○君の「妄想本」には『明智軍記』が光秀研究の根本史料だと書いてあるんだろうね。
>323
>真実はわからないが、南朝の家に次男、三男が養子、岐阜なる地名と、疑いをかける理由にはなったかも。
岐阜は信長が命名させたなんて話をまだ信じているのか?
これだから知識の止まっている輩は困る。
海外に文献が流出してるとは考えられない?
フロイスの母国とか?
海外の専門家は本能寺の変をどうみてるの?
そうだね、海外の人の考えも聞いてみたいな。
335 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 06:28:20
>>333 >海外に文献が流出してるとは考えられない?
当時そんなものを持ち出す意味無いだろう。
ただしフロイスは、当時の公家や僧の日記類にも目を通したと言っているけどね。
336 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 10:01:49
>>335 そんな日記を外国人が簡単に見ていいのかね。
よくわからんが。
337 :
日本@名無史さん:2006/03/06(月) 10:27:12
キリシタンの人脈を通じてってことさ。
ただし、あまり大仰に受け止めるなよ。
338 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/06(月) 10:46:38
>>325「信長が天皇の譲位を金神を理由に拒否した」
四冊ほど文献を見たが、「天皇が金神を理由に信長の譲位要求を拒否した。」としか書いてない。
どの参考文献、提唱者、資料を背景に言っているのかはっきりしてもらおう。もしでまかせなら、ここの誰も二度と君の意見など読まなくなるよ。
○「清涼殿について」下の柱を置く土台の石の位置が清涼殿そっくりとか。
○「明智軍記について」話をはぐらかすなよ。明智軍記は不確かな部分があるが、正確なとこもある。それをいうなら太田牛一の「信長公記」も桶狭間の年号やその他に少し間違いがあるとは常識。
辞世の句が書かれた時点では秀吉の言論統制による醜い野望説が常識。ちょっと怨恨説があるのみ。朝廷説など全く無い。
ゆえに明智軍記の作者が辞世の句を偽造する必要など全く無い。
○「貴族の日記について」無関係なら何故書き直すのか?
無関係なら何故目前で起きた大事件について高位の貴族が書いた日記、手紙、文書が他に全く無いのか?
○「信忠と信孝」
長男信忠は織田の家督を継いでるだろ。織田の中心部を統治してなかったか。
それともう全軍の指揮をとる立場だが?
339 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/06(月) 11:12:05
○「岐阜の地名について」
少なくとも信長の許し無くして稲葉山城の名を岐阜城に変えられわけはないと思うが?
誰がつけたにしても、君主が黙認したんなら、同じこと。
○「南朝について」
おいおい、山名宗全が南朝系小倉宮を持ち出した応仁の乱って足利義教以後じゃなかったか?
南朝があるなしが問題ではない。北朝と正面きって対決したとき、何かそういう「山名のような
大義名分を立てかも」と疑われたかもといってるだけ。
○「海外の文献について」
あるらしい。宣教師フロイスの手紙など。
フロイスは本能寺の変は、自分の誕生日を聖日としたり、神のまねごとをした
男に天罰が当たったと言っている。
340 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/06(月) 11:39:07
○「日本史最大のミステリー本能寺の変は、まだ解明されていない」
それはあなたの妄想であり、希望にすぎません。
真実は、一九九七年2月に「朝廷説」で解明されており、知識人はだいたい知っております。
知らぬあなたがもぐりなのです。
そして、人が真実を追い求める生き物である以上、他の説は見向きもされなくなるでしょう。
なぜなら、そこは不毛であり、答えも証拠もないからです。
別に四百年前のことであり、朝廷説であっても、織田信長の価値がさがることはないと思えます。
あなたも偉大な歴史の真実を、その目でしっかり見たらどうですか?
すると、また別の人間のドラマが戦国史には見えてくるでしょう。
そこが面白いところなのです。
341 :
おバカな○くんへ :2006/03/06(月) 13:51:07
>>338 >四冊ほど文献を見たが、「天皇が金神を理由に信長の譲位要求を拒否した。」としか書いてない。
現代の書籍の受け売りですね。兼見の証言は、ただ単に「金神」を理由に譲位が延期になったと
いうことだけ。それだけでは朝廷か信長どちらが言い出したかは不明。
いい加減、他人の調べたもの、意見の受け売りじゃなくて自分で史料に目を通したらとうかな。
>○「清涼殿について」下の柱を置く土台の石の位置が清涼殿そっくりとか。
あのねぇ〜自分で現地調査でもしたらどう?
ほぼ碁盤の目状に並んでいてどうしてそう断定できるのかな。
あれは本丸御殿=御幸御殿を前提に、城研の藤村泉が清涼殿をモデルに復元したんだよ。
だから後から関係者からも疑問が提起されているんだよ。
>○「明智軍記について」話をはぐらかすなよ。明智軍記は不確かな部分があるが、正確なとこもある。
正確なのは広く史実と認められている=誰でも知っていることだろう。
それを以って不確かな部分=創作されたものが史実だとは言えないよ。
>○「貴族の日記について」無関係なら何故書き直すのか?
無関係なら何故目前で起きた大事件について高位の貴族が書いた日記、手紙、文書が他に全く無いのか?
健忘症ですか?
>>327 書き直しが確認されているのは兼見だけ。
事後の交渉役だからね、少しでも疑われるようなことは隠蔽して当然。
それに別本と正本を比較しても、その違いが陰謀を云々できるほどのものでもないよ。
>339
○大先生、書き込んでる内容の視点が毎回ずれてますよ。これ、○先生の書いた内容↓。
>>290 >>292○前に書いたぞ。
この前の南北朝の長い騒乱などあるので、慎重になっていた。南朝など持ち出されたら事だから。
>>310 また信長にその気が無くても、次男、三男の周囲には元南朝に参加した武士たちが多いと思われていた訳だからね。
○「南朝について」
おいおい、山名宗全が南朝系小倉宮を持ち出した応仁の乱って足利義教以後じゃなかったか?
南朝があるなしが問題ではない。北朝と正面きって対決したとき、何かそういう「山名のような
大義名分を立てかも」と疑われたかもといってるだけ。
北畠家が南朝でどうこう言ってるから、足利義教が将軍在職中に北畠家は恭順した。と言っただけ。応仁の乱の小倉宮が擁立どうこうとは?そんなこと言ってないんですけど。
読解力弱いね。
>338
>辞世の句が書かれた時点では秀吉の言論統制による醜い野望説が常識。ちょっと怨恨説があるのみ。
>朝廷説など全く無い。ゆえに明智軍記の作者が辞世の句を偽造する必要など全く無い。
そもそも
>310
>○「光秀の辞世とされる漢詩の一行目は「逆順無二門」」、
>二行目は「大道徹心源」
>一行目は「逆らうも、したがうも御門」「心は源氏に徹する」とも読める。
というお前の勝手な解釈あっての偽造説だからな。根底が間違っている。出直して来い。
344 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/07(火) 10:36:42
○「天皇はすぐ譲位したがった?について」
正親町天皇が誠仁親王にすぐ譲位したがったのなら、次の秀吉の天下が安定し、経済的に不自由なくなったときにすぐにするはずだか、していない。
したのはずっと後で、孫の後陽成天皇に。
○「安土城清涼殿について」
信長は天主閣に住み。自らを神といい、誕生日を聖日にした。となると何の神を真似たのかだよね。
ところで内裏で多くの人が神を目撃した事件と場所があるんだよね。はっきり言って藤村氏の勝ち。
傍証? しっかり安土城の築城前の地図を見たら解る。
○「明智軍記について」確実な資料ということもいえないが、全部が創作とも言えない。
それをいうなら「信長公記」も桶狭間などに創作めいた表現があることは言われている。
「日記について」自分が潔白、無実なら何も書き直す、欠本にする必要は無い。
貴族とか京市民がどれくらいスキャンダル好き、情報通だったか知らないんだ?
どこで誰が大名になったとかすぐ知れ渡った。
○「南朝について」
表現は複雑になったが、つまり不確かな資料である「前野家文書」には信長長男信忠の生母生駒御前の家は元南朝と書く。
さらに次男信雄は北畠家を、三男信孝は神戸家の養子。どちらも元南朝の名家。
また信長は岐阜なる周王朝の発祥のような地名をつくり、住む。これらのことが南朝と何か関係あるのではと当時の朝廷に
疑われたかも?と言ってるだけ。
345 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/07(火) 10:54:26
「傍証について」
>>343これだけじゃないだろう?
○愛宕山連歌などは大半風景句だが、最初と最後には何か意味があるのではとか言われているよね。
すると九十九番目には「色も香も酔をすすむる花の下」
「はなのもと。花の下、花の本」と一時代にただひとり連歌師が天皇に与えられる名誉の称号のことがある。
転じて他の道の名誉ある第一人者、天皇に与えられる一時代に一人の称号、という言葉があるわけだ。
○それを受けたのは光秀で、「国々はなお長閑なるころ」と子供の名で答えている。
「長閑」の「閑」は門を塞いで通れなくするというような意味だな。
○本能寺攻撃先鋒隊長安田国継は、変後「天野源右衛門」と何故か改名する。
○また天正九年の馬ぞろえで、天皇への紹介を頼んだ宣教師たちに
信長は「汝らは他のものの寵を得る必要がない。なぜなら余が国王であり、内裏だからだ」
と豪語している。
○これを受けての辞世の漢詩「逆順無二門、大道徹心源」だからね。
もちろん御門、ミカド、帝という言葉は知ってるだろう。
で、最後の句は「覚来帰一元」
「一元」という言葉に「元号」という意味がある事は?
○なんにせよ、天下統一の決まった織田信長を、すでに老年に達していた明智光秀が、裏切る必要は何もなかった。
手柄、実力は認められていたし、隠居、織田家からの養子など、家存続の手はいくらもある。
あるとすれば、光秀が全てを掛けても悔いないものとなる。
346 :
おバカな○くんへ:2006/03/07(火) 14:28:11
>>344 >○「天皇はすぐ譲位したがった?について」
正親町天皇が誠仁親王にすぐ譲位したがったのなら、次の秀吉の天下が安定し、経済的に
不自由なくなったときにすぐにするはずだか、していない。 したのはずっと後で、孫の後陽成天皇に。
誠仁親王の死については秀吉絡みの憤死の噂が立っているよね。
秀吉にすればいろんな意味で信長の手垢がついた誠仁親王を即位させたくなかったっていうことさ。
事実、即位したのは二条下御所の真の主であった五の宮じゃないだろう。
>○「安土城清涼殿について」
信長は天主閣に住み。自らを神といい、誕生日を聖日にした。となると何の神を真似たのかだよね。
実際に信長が天主にに住んでいたという記述はないし、誕生日の件もフロイスの創作の可能性が高いよ。
>ところで内裏で多くの人が神を目撃した事件と場所があるんだよね。はっきり言って藤村氏の勝ち。
意味不明。
>傍証? しっかり安土城の築城前の地図を見たら解る。
意味不明。自分の言葉で説明してご覧。
>貴族とか京市民がどれくらいスキャンダル好き、情報通だったか知らないんだ?
だから何?
ちゃんと
>>327 の質問に答えてよ。
347 :
おバカな○くんへ:2006/03/07(火) 14:29:03
>>345 >○また天正九年の馬ぞろえで、天皇への紹介を頼んだ宣教師たちに
信長は「汝らは他のものの寵を得る必要がない。なぜなら余が国王であり、内裏だからだ」
と豪語している。
時系列を捻じ曲げるのはよしな。いつの出来ごとだろうね。
>○これを受けての辞世の漢詩「逆順無二門、大道徹心源」だからね。
もちろん御門、ミカド、帝という言葉は知ってるだろう
で、最後の句は「覚来帰一元」
「一元」という言葉に「元号」という意味がある事は?
コジツケもいいとこ正気?
もはや言うまでもなく、『 明智軍記』の光秀辞世の句は、越後騒動における小栗美作のそれ
五十余年ノ夢 覚メ来テ一元二帰ス 截箭弦ヲ離ルル時 清饗乾坤ヲ包ム
の盗作さ。
348 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 03:44:41
○くんに質問。
そもそも天皇・朝廷は何をしようとしてたの?
もし本能寺の変に失敗したら、かかわりのあった公家衆は一族郎党皆殺し。
天皇・皇族だって相手が相手だし、よくても島流し
下手したら天皇と言えども晒し首にされる事だって十分考えられるよね?
当然、信長が天皇位を簒奪する絶好の口実を与える事にもなるし。
それくらいの覚悟は必要だったはずだし、ただ単に信長を殺せればいいと言うのでは、
損得勘定がぜんぜん合わないと思うんだが。
○くんの言う「真実の書」に、天皇・朝廷の本当の目的は何て書いてあるのかな?
349 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/08(水) 10:42:10
○「誠仁親王に譲位がなかったことについて」二つ理由が言われてるね。
一 正親町天皇が親王の指導力、リーダーシップに疑問を抱いて。
二 秀吉が変時に見せた親王の指導力、力を恐れて、天皇にしなかった。
変事には吉田兼見が親王と光秀の間をよく行き来している。
「清涼殿について」実際に住んでいたかどうかが問題ではなく、天主閣、空中階段、清涼殿に似た建物と何かを暗示するような建物を造ったのが問題なわけ。
おまけに内裏の清涼殿で皆が神を見たと喚き散らした有名な話を知らないわけだ?
○「安土城築城前について」有名な神の聖地なのにね。そこの寺、信長の家紋を調べたら?
○「フロイスについて」
馬ぞろえの話は天正九年のその日、フロイスの書簡に。
フロイスの信長や光秀の性格模写は正確という人が、晩年の信長については創作と?。
何のために、フロイスが晩年の信長のことを創作する必要がある?
彼の姿勢は記録者、観察者に徹してる。
信長は一応、キリスト教の保護者だから近くにいて正確に書けた。
○「明智軍記は創作、辞世の漢詩は盗作?」
何のために謀反人の句を盗作までして立派に造ってやるわけ? 意味なし。
著作者が元家臣、、、主君の句だから一字一句供養のために正確にする。
無関係な人、、、別に謀反人とされてる者に恩も義理もないし、無ければ書かない、ただ、そこにあったからそのまま書いた。
それに肝心な部分は違う。むしろ小栗美作が盗用では?
350 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/08(水) 10:53:02
>>348 「天皇、朝廷は何をしたかったのか?」
大和朝廷にとって五百五十万石に及ぶ織田信長の大軍事力、財力こそは、まさに頼るに足る存在だった。
いかなる譲歩をしてでも味方にしておきたかったに違いない。
事実、三職推任など、それをしていた形跡がある。
ところが、それを捨てて、明智光秀を選んだ。
しかも征夷大将軍の地位をもって、、、と思えるような言葉もある。
さらに明智光秀も五十五歳?という当時は老齢というような年齢である。
いまさら天下統一というような野望を抱いたろうか?
となると、その理由は限られてくる。
351 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/08(水) 11:11:25
「戦国史最大の謎、本能寺の変の真実」
もし徳川幕府の黒幕といわれた南光坊天海が明智光秀なら、
自分だけが知っている巨大な歴史の真実を、
何かの形で残したがるのではないか?
そのとき、決して変わることのない徳川家康の墓所、
日光東照宮は、最高の題材となるだろう、、、、
日本史二千年の中には、本物の「ダ・ビンチ・コード」が三つある?
352 :
おバカな○くんへ:2006/03/08(水) 14:29:43
>>349 >○「誠仁親王に譲位がなかったことについて」二つ理由が言われてるね。
一 正親町天皇が親王の指導力、リーダーシップに疑問を抱いて。
二 秀吉が変時に見せた親王の指導力、力を恐れて、天皇にしなかった。
変事には吉田兼見が親王と光秀の間をよく行き来している。
一と二は一見すると矛盾する考えだよね。
親王が二条下御所に移ってから実質的な朝廷の運営は親王の下で行なわれていたというのが一般論。
当然それは信長の威光を背景にしたものだが、時に親王は信長の要求に難を示し険悪な雰囲気が流れて
いるくらいだから、むしろ親王の指導力に懸念を抱いていたのは信長だろうね。
その信長が譲位を申し入れた魂胆は如何にってことだね。
左大臣推任への交換条件に信長が譲位をもちだすと朝廷では譲位の為の準備が行なわれており、
そうこうする内に「金神」を理由に延期となったというのが客観的史実。
少なくとも親王周辺では譲位は望まれていただろうね。
>天主閣、空中階段、清涼殿に似た建物と何かを暗示するような建物を造ったのが問題なわけ。
頭大丈夫?
だから空中廊下も清涼殿も一部研究者の妄想だって言って訳で、君が
○「清涼殿について」下の柱を置く土台の石の位置が清涼殿そっくりとか。
とほざいた根拠の提示を求めているんだけどね。
それなくして内裏の清涼殿で神が云々を言っても無意味。
>○「安土城築城前について」有名な神の聖地なのにね。そこの寺、信長の家紋を調べたら?
さもモッタイブッタ言い訳しないで、ちゃんと説明してご覧。
尤も口からの出任せじゃなければだけど。
353 :
おバカな○くんへ:2006/03/08(水) 14:31:07
>>349 >○「フロイスについて」
馬ぞろえの話は天正九年のその日、フロイスの書簡に。
馬揃えのことじゃないだろう。君がそのときに
天皇への紹介を頼んだ宣教師たちに 信長は「汝らは他のものの寵を得る必要がない。
なぜなら余が国王であり、内裏だからだ」 と豪語している。
なんて史実を捏造していることを指摘しているんだけどね。
問題の発言は何時のことかと聞いてるんだよ。
>何のために、フロイスが晩年の信長のことを創作する必要がある?
それまでヨイショしていた信長が簡単にこけたわけだし、優遇こそすれ入信せず、政治に口を挟まない
他の宗教には寛容であった事実を取り繕う為だろうね。多分に教義的もある。
>彼の姿勢は記録者、観察者に徹してる。
信長は一応、キリスト教の保護者だから近くにいて正確に書けた。
そうとは言い切れないよ。あまりに余計なことを(感情的に)書きすぎると上司に窘められているし、
彼は一時期、地方に飛ばされていて変の当時も畿内にはいなかった。
それに身近に接することは出来たけどそれほど頻繁に面会していた訳じゃない。
>○「明智軍記は創作、辞世の漢詩は盗作?」
何のために謀反人の句を盗作までして立派に造ってやるわけ? 意味なし。
著作者が元家臣、、、・・・・
それに肝心な部分は違う。むしろ小栗美作が盗用では?
君のコジツケ解釈の部分だろ。もとい「一九九七年二月」にはそう書いてあるんだろうね。
で著者って誰?
それに越後事件は幕閣の政事運営にも係わる事件だったんだけどね。
『明智軍記』の成立には、おそらく光秀や小栗美作双方に思いのある人物が関係していた
んだろうね。
明智軍旗の成立したのは、小栗美作がなくなったあとなんですか?
>>348 >○くんの言う「真実の書」に、天皇・朝廷の本当の目的は何て書いてあるのかな?
「1997年2月」の書は盗作疑惑により絶版となっています。
完全にバカとバカの戯れスレになっちゃったな
359 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/09(木) 10:43:22
○「譲位について」
君は天皇が譲位を望んんだが、信長が拒否した、と言ってなかったか?
それなのに「信長が譲位を持ち出すと」と書いてるぞ。なんにせよ、天皇はこの後長期譲位をしなかった。
また「金神災厄方位」については、少し別場所に住んで、金神方位をさける秘術が朝廷にある。
それゆえ、天皇が口実にしたというのが常識。
○「安土天主閣ー空中階段ー清涼殿とする根拠」安土城の地図と内部を良く調べること。
となりは観音寺山ですね、ここも聖地、でくっついている。ニ神一体の神を調べるとわかります。
○「有名な神の聖地、信長の家紋」
これを知らないのはもぐりとなるよ。ちょっと調べればすぐわかる。
○「信長の我が内裏なりの発言か?」
これは馬揃えの日、馬そろえの少し後。史実が捏造と喚くのは覚悟あってのことだろうね?
フロイスの日本史など出版している会社を訴えたまえ。
○「晩年の信長観察はフロイスの創作」その必要は無いね。
彼は出来るだけ正確にその国の風俗、政治状況を報告する任務があった。
布教、植民地化政策?のために。
信長といえど彼には東洋の一大名であり、研究材料に過ぎなかった。
とくに、かばったり、誇大に書く必要、理由はない。
また仲間の宣教師ネットワークですぐ情報は正確に知れた。
360 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/09(木) 10:58:41
○「光秀辞世漢詩について」
いったい明智光秀と小栗美作とどちらが有名人と思ってるんだい?
越後騒動は一六八一年だぞ。
本能寺は一五八二年。小栗の方が知らないわけがない。可能性としては、
一 小栗が自分はまるで明智光秀扱いだと抗議のために明智光秀の漢詩を引用した。
二 政敵が小栗の立派な辞世を盗作だと気づき、辱めるために明智軍記を発表させた。
なんにせよ、一生を締めくくる辞世の漢詩だ。当時の人々の霊に対する考えから言えば、
とくに光秀のように無念の最期を遂げてる霊を侮辱するような偽書捏造はしないだろう。
361 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/09(木) 11:17:40
○「一九九七年二月で出ている書物」
盗作疑惑なんてあるわけないだろう?
これが全ての本物、オリジナル。
発売を止めたのは、印税を払われてなかったから。
限定販売でオークションで売ろうかとも考慮中だからだ。
なんなら、その知り合いに言って、再販売させようか?
この本は、ちゃんと参考文献は後半に全部書かれてるし、
手の内はすべて晒してるんだよ。
だから、コピー、盗作されやすいとなるな。
むしろ、盗作疑惑と喚いてる人間の方が怪しいな。
研究者、文部省はちゃんと資料、書き直し文献を調べろよ。
はっきりと断言しよう。
本能寺の変の真実は、すでに一九九七年二月に出た。
「朝廷説」である。
それゆえに、他の全ての説は無意味となった。
かならず、矛盾、疑問点からの突き崩しがきくからだ。
ま、モグリでない研究者は、皆知っているだろう。
これが、今現在の「事実」。
馬鹿に点ける薬なし。
363 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 14:02:58
あぼーんヽ(゜▽、゜)ノ
朝廷説が真実、常識ならなぜ未だに世間一般では「黒幕は闇の中」みたいな風潮になってるの?
前に「今から朝廷説で本を出しても盗作になってしまう」みたいなことを理由に挙げてたけどそれも変だよね。
真実なら他の説を追及することもないだろうに。
>>364 >発売を止めたのは、印税を払われてなかったから。
つまり全く売れなかったってことだね。
ところで○君の苗字で永田かな。
366 :
日本@名無史さん:2006/03/09(木) 19:08:25
>>364 >○「一九九七年二月で出ている書物」
十年って大昔だね。その後の史料の新発見や研究の発表を考えると
二束三文の価値しかないだろうね。
もし真相が朝廷説だとしたら、その子孫が国民の象徴というのもまずいんじゃないの?
信長の直系でないにしろ子孫がいるわけだし、
またその子孫が4年に1度脚光を浴びるわけだし。
それにしても、天武天皇はどうして大王の称号を中国の土着の宗教で使用している
天皇という称号をありがたがったんだろう?
中国の人からみると、滑稽に見えないのかな?
>361
>かならず、矛盾、疑問点からの突き崩しがきくからだ。
ならば『信長は謀略で殺されたのか』の中の朝廷説批判を突き崩してみなよ。
もしその程度もできないのならば、全然話にならないぞ。
369 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 09:22:54
>>368 〉ならば『信長は謀略で殺されたのか』の中の朝廷説批判を突き崩してみなよ。
もしその程度もできないのならば、全然話にならないぞ。
つぅか〜、「一九九七年二月で出ている書物」自体相手にされていない訳だから、
推して知るべし。
発売前に盗作がバレて廃棄されちゃったんだよ。
370 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/10(金) 10:42:21
「なんで本能寺の変に別説を書く人がいるのか?」
そう。無駄なことをしている。その理由は、織田信長に見果てぬ夢、幻想を抱きたがる人々が多いから。
それと、とっびな受ける説で商売したいからです。
「真実の書」茶器の真贋判定に似て、専門知識が歴史の真実を知るには要るからね。
ま、新資料、論文が他に無いのは、藤本正行著「本能寺の変、謀略説を嗤う」を読めば、
論破されてて、あきらか。全部の謀略説が叩きまくられてるな。
そして、いまだに、反論騒ぎも聞かない。
「本能寺の変の真相が朝廷説だとまずいのでは?」
そう? 神道系とか、右翼系とかの人たちには、「天皇陛下の血は戦国期においても五百五十万石の大名の挑戦を退けるほど偉大だった。その神聖さは証明された」
とかなるのではないの?
左翼とか、共産主義者のひとたちは、それがいやなのかな? 今の考え方というのが、よく解らんのだよ。
しかし、真実を追求すると、当時の武士の考え方というのは、それほど自由奔放とも思えなくなるんだよ。
「天皇なる地位」
太古の天皇、地皇、泰皇なる神聖なる者、上古の五帝から秦王は、「始皇帝」という地位を作った。
また中国の道教には天皇なる神のひとりがいるんじゃなかったか?
「一九九七年二月の真相本」
発売前から盗作がばれて廃棄、なんて事は絶対にない。
この本はちゃんと販売されてるし、面と向かって反論できた者はいない。
なぜなら、もろに歴史の真実を看破し、直撃しているから。本物さ。
そんなことは研究者、文部省が本格的に調べればすぐにわかるさ。
もっとも、噂では京都のとある貴族の家に、もっと凄い秘伝の書物があるらしいが。
371 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/10(金) 10:49:24
藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」への反論。
○この本により否定された「朝廷説」への反論。
当然、出来るさ。
この出来のいい本にけちをつけるのは惜しいが、
もう一読し、月曜日あたりから反論してみよう。
ソビエト連邦の諜報機関KGBは国外、国内の全てを監視した。
しかし、KGB長官を監視できたろうか?
372 :
求人募集中:2006/03/10(金) 11:36:49
>>370 >「一九九七年二月の真相本」
>発売前から盗作がばれて廃棄、なんて事は絶対にない。
>この本はちゃんと販売されてるし、面と向かって反論できた者はいない。
発売されていなけりゃ『信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う』
に取り上げられなくて当然だね。反論以前に世間に出回ってないし。
朝廷黒幕説の創始者は桐野作人、そのエピゴーネンは立花京子。
前者は撤回、後者はイエズス会黒幕説に軌道修正。
現在、朝廷黒幕説の代弁者募集中。
373 :
日本@名無史さん:2006/03/10(金) 12:52:57
>>370 「一九九七年二月の真相本」の正式な書名と著者名と出版社を教えてください。
374 :
369:2006/03/10(金) 15:59:20
>>373 >「一九九七年二月の真相本」の正式な書名と著者名と出版社を教えてください。
『妄想本能寺の変』永田某・著
講○社出版サービスセンターからの自費出版でしたが、盗作が判明し回収のうえ
絶版とされました。
正式に出版されたものならちゃんと記録が残るはずだがねえ
376 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 16:41:58
本能寺の変の時の光秀は55万ごくだったんじゃない、
377 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 18:11:24
「一九九七年二月の真相本」とは違うようだが、○氏が受け売りにしていると思われる本を見つけたよ。
信長が宣教師らに「汝らは天皇の寵を受ける必要はない」云々の文章が一字一句全く同じに書かれてあった。
379 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 20:52:46
鈴木眞哉・藤本正行の主張
1、事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀と接触したのか説明がない。
2、実行時期の見通しと、機密漏洩の防止策への説明がない。
3、光秀が謀反に同意しても、重臣たちへの説得をどうしたのか説明がない。
4、黒幕たちが、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援していないことへの説明がない。
5、決定的なことは、裏付け史料がまったくないことである。「秘中の秘」だから史料が残らなかったなどと言う人までいるのにはあきれてしまう。
380 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 21:39:47
昨日、光秀と飲んだんだけど、本能寺の真相は猿と細川にそそのかされたんだって
381 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 04:56:35
>>378 「大いなる謎・織田信長」
武田鏡村・PHP研究所
>>382 本とか読んではないけど俺もそのスレのその話題気になってた。そんなバカなって最初思ってたけどだんだん面白くなってきたよ。
そういえば朝倉義景の信長嫌いは有名だったみたいだしね。
384 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/13(月) 10:33:26
>>374 「書名について」
「デタラメを書くなよ。今更、何を言っても無駄。知識人ならもう、大半、知ってるぞ」
「そりゃ、朝廷が勝ったということを認めたくない連中がいるからかもしれんな。
それと茶器鑑定と同じで見る目と、基礎知識が無い連中がいるからだろう」
>>377「資料の訳語」
「この人が言っているんじゃない。もとは日本史、フロイスの言葉の訳語だろう。
誰が訳しても同じ意味、言葉になる場合は資料研究の邪魔になるので、著作権など存在しない。詩、小説じゃないんだぞ」
>>381「本」
「これは桶狭間で信長が正面攻撃をかけ、今川義元の本陣までたどり着き、圧勝したということを信長公記の綿密な分析により、
発見した本らしいな?
信長が酒宴で出した金箔のドクロが土着宗教、真言立川流と関係あるのではと発見した画期的な研究所らしいな。これくらい綿密な資料分析分析したらどうなんだ?」
>>372「本能寺の変、朝廷説の創始者、エピゴーネン」
「そうらしいな。しかし、本能寺の変の真実が一九九七年二月に朝廷説で解明されて、証拠も出て、
他に書くことがなくなったんだろう。他の説なら書くこともあるし」
385 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 10:39:13
>>384 PHP研究所が画期的な研究所?
これ出版社の名前だろ?www
386 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/13(月) 10:55:36
藤木正行、鈴木真哉著
「信長は謀略で殺されたのか?、本能寺の変、謀略説を嗤う」についての反論。
○その一「どのようにして光秀と黒幕は接触したのか?」
この当時、能会、茶会、読書会、連歌会、法事、祈祷などは度々行われていた。特に戦死者が多い場合などは、寺に行く機会などは多かったろう。
また寺、神社への戦勝などの祈祷の時は? またこの当時の成り上がり大名は江戸期大名と違い、それほど形式ばらなかった。信長でさえ数騎で行動しているときもある。
連絡には神官、茶人、文盲、身内を信長に殺されて恨みのあるものなどを使う。
また貴族独特の言葉、御所ことば?だったか、などつかい、信長のことを山、風などとコード式暗号で言った。
○「実行時期、機密防止策」
実行時期は秀吉が一人で毛利に勝つ大手柄を恐れ、信長に手柄を譲る援軍を求めるのは予想できた。
その場合、空いている光秀が援軍となるのも。
朝廷が名茶器の披露話、譲位話で京都におびき出すのは可能だった。
つまり朝廷には実行時期を作り出すことが可能だったのである。
六月一日、皇族以外の多くの公家が本能寺を訪れ、信長を疲れさせ、足止めしている。
○「機密漏洩防止策」
光秀はもともと京都に古くからある諜報か防衛機関と係わっていた。
それが信長への仕官初期に堺、朝廷への交渉などで手柄を立てた原因と思われる。
信長は京都あたりのスパイ戦を任せていた。それでも手柄があったので全て任せていたのだろう。
となりの韓国の朴大統領の例のごとくもスパイ網はあっても、元締め長官のやることは解らんということ。
387 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/13(月) 11:08:05
「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」
への反論。
○「機密漏洩防止策」一
また日本軍の真珠湾攻撃、ナチス・ドイツのソビエト侵攻時の奇襲成功の話がある。
このとき、スパイ網はかなりの警告をしていたが、首脳部がありえないと全く情報を認めなかった。
つまり相手を見くびったり、なめきったりしていると情報があっても、脳が認めないのである。
信長の場合、朝廷を全く見くびっていたし、光秀は子飼い、度胸なしと考えていた節がある。
○「機密漏洩防止策」二
戦艦大和の場合、全くの分担作業で、作業者は何を作っているのか繊細はわからなかった。
それぞれが船底、前部、エンジンを作っているのは解っていたが他を見るのが許されず、
その艦の規模、主砲などはまるきり知れなかった。
本能寺の変も、信長をおびき出す、本能寺に足止めする、そこまでの光秀軍の道を確保、
そこに確実に信長がいるか調べる、光秀と連絡する、と分担作業だったかも?
実際、当時の京都の町境にあった盗賊よけの木戸は全部開いていたという。
388 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/13(月) 11:24:50
○「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」への反論。
○三「光秀が謀叛に同意しても、部下たちへの説得をどうしたのか?」
これはちょっと話が違うだろう。
むしろ突発的な「怨恨、野望説」の方が呆れて人はついてこない。
未来を、信長殺しの後の、残りの織田軍、遺臣団、親戚など十万兵の敵討ち、
反撃をどうするのか?と恐れてしまう。
あまりにとっぴなことばかりを言えば、この時代ても、周囲が隠居、代かわりさせてしまう。
むしろ「遺恨、突発的思い付き野望」ではないから、
したたかなこの時代の将兵が従ったのだろう。
明智光秀は自分の背後には朝廷がおり、
きちんとした大義名分があること。未来に勝算があることを示した。
信長、信忠はすぐに殺せるし、安土城もすぐに手に入る。
美濃、大阪の四国渡海軍二万も工作で心配要らないことを示した。
将兵は半信半疑だったが、その言葉通り、信長は死に、安土城も無血で手に入った。
四国渡海軍も半分が四散した。美濃も騒乱で動けなかった。
その光秀の言葉への信頼が、山崎天王山まで将兵をついてこさせた
と見るべきである。
○残りの疑問については、明日か、明後日に書くつもりだよ。
>>373 >「一九九七年二月の真相本」の正式な書名と著者名と出版社を教えてください。
『妄想本能寺の変』永田某・著
講○社出版サービスセンターからの自費出版でしたが、盗作が判明し回収のうえ
絶版とされました。
391 :
○君:2006/03/13(月) 23:12:31
信長をやったのは、俺だ
392 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 06:20:30
かごめ かごめ
かごの中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
うしろの正面、だあれ
向こうの山で 鳴く鳥は
信心鳥か ニワトリか
銀三郎のお土産に 何と何とを買ってきた
金ざし かんざし 買ってきた
納戸のおすまに置いたれば きうきうネズミが引いてった
鎌倉街道の真ん中で 一抜け 二抜け 三抜け さくら
さくらの下で文一本ひろった
あくしょ あくしょ 一本よ
393 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 06:55:41
>光秀が討たれたとされる小栗栖は本能寺の変当時、朝廷の武家伝奏の職にあった公家の勧修寺晴豊の領地である。
394 :
日本@名無史さん :2006/03/14(火) 07:17:53
石谷頼辰(????)〜(1586)【官位】:兵部少輔 【別称】:孫九郎
■父:斎藤伊豆守利賢 ■養父:石谷光政
■子:石谷加兵衛
明智家臣斎藤利光の弟で石谷光政の養子、実妹(斎藤氏)は蜷川道標の妻、
義理の妹(石谷氏)は長宗我部元親の妻となっている。
初め孫九郎と名乗り父と共に将軍義輝に仕えた。幕府滅亡後明智家臣となり、
本能寺の変後山崎の合戦にて敗走。
妹の嫁ぎ先である土佐長宗我部氏に従えた。その中央での経験をかわれて重用され、
娘は長宗我部信親に嫁ぐ。豊後戸次川で戦死、その給地は四十四町にのぼる。
光秀じゃなく本能寺について語るスレじゃないか!
・六月一日、皇族以外の多くの公家が本能寺を訪れ、信長を疲れさせ、足止めしている。
・光秀はもともと京都に古くからある諜報か防衛機関と係わっていた。
・明智光秀は自分の背後には朝廷がおり、 きちんとした大義名分があること。未来に勝算があることを示した。
・その光秀の言葉への信頼が、山崎天王山まで将兵をついてこさせた
・大阪の四国渡海軍二万も工作で心配要らないことを示した。
・いかなる譲歩をしてでも味方にしておきたかったに違いない。 事実、三職推任など、それをしていた形跡がある。
すまんが、史料的根拠を元に立証してくれ。
窺える資料が一つも見当たらないのだが。
>変事には吉田兼見が親王と光秀の間をよく行き来している。
吉田兼見は変以前から誠仁親王の使役として動いていたし、親王の下御所はすでに「内裏」と認識されてるのは
史料からも答えが出てる訳で、朝廷としての政務は正親町天皇でなく親王が行ってたのは確定なんですが。
フロイスの事、日本史ばかり書いてるけど、ヴァリヤーノとか知らないのかいな?
それと辞世の句の殆どが死後の贈句ですが。
明智軍記も成立時期から、
>>348の主張の方がまとも。
フロイスの日本史って、ヴァリヤーノから主観的で誇張ばかりで役に立たないと
ボツにされたシロモノだったような。
天正少年使節とヴァリヤーノらの手でローマまで運ばれ、その後行方不明となりいまだ見つかっていない織田家ゆかりの宝はどれでしょう?
安土図屏風が見つかったら、それととも何か重要資料も見つかるような気もします。
ローマ法王の蔵の中にはないんでしょうかね。
399 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 22:02:34
今日は○ちゃんの登場はないようだね。
妄想のネタも尽きたのかな。
また無限ループ、○クンワールド炸裂だよ。しかし、ちょっと前から読み直せば>396は質問が無駄になるのも解るだろうに。
401 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 23:45:41
明智光秀の妻・煕子(ひろこ)は内助の功で有名である。
煕子は光秀が誰にも仕官せず、流浪していたとき、お金に困った光秀に、自分の髪を売って金を工面した。
煕子は美人であり、光秀が織田家に仕えると、煕子の噂はたちどころに広まった。
織田信長もその噂を耳にし、好奇心が働き、廊下の角で煕子を待ち伏せをしていた。
煕子がやってくると、信長はうしろから煕子の肩に手をかけた。
煕子は「無礼者!!」と言って、持っていた扇子で信長の頭を叩いて逃げてしまった。
意外と、こんなところに本能寺の真相が隠れていそうだ
402 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:02:28
>>401 〉意外と、こんなところに本能寺の真相が隠れていそうだ
ハイハイご苦労さん。
403 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:07:41
>>402 401みたいな考え方もありだと思うよ
本当のところはタイムマシンでも発明しないとわかんないし
404 :
日本@名無史さん:2006/03/15(水) 00:09:00
405 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/15(水) 10:44:52
藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」への反論。
四「黒幕たちが事変の前、後に光秀たちを具体的に支援していないことへの説明がない」について。
○支援はしている、明智軍が安土城から京都帰還時、摂家、清華、など百官が出迎える。
○また光秀は朝廷に銀子五百枚、大徳寺、京都五山に銀子百枚を献上。これを朝廷は受け取っている。
令旨が出ていないのは、朝廷がかって北条政子、鎌倉幕府に、後醍醐天皇時も鎌倉幕府相手に公式に敵対し、
大敗したからである。その後の後醍醐天皇と足利尊氏の騒乱時には、南北朝になり、長引いた。
朝廷が恐れたのは似たような混乱になることである。信長死後も織田軍十万が残っており、
長引いて正親町天皇と同じくらい高貴な血を新天皇に建てられ、対抗されたら?と恐れたのだろう。
朝廷、光秀としては近畿圏で勢力拡大した後、織田重臣らと交渉するつもりだったと思われる。
また変が二日、天王山が十三日である。
十一日間では、まだ朝廷も諸国の情報分析途中だったと思われる。
前にも述べたように、朝廷、光秀の誤算は信長の死体が発見されず、
周囲がまだ生きているのではとびびったこと。
羽柴秀吉が常識はずれの速さで、中国から帰還したこと、である。
406 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/15(水) 11:10:55
○「光秀が死んださされる小栗栖は本能寺の変当時武家伝奏の役にあった勧修寺晴豊の領地」
誠仁親王の后は、その家出身の絶世の美女とされた勧修寺晴子だった、と思う。
○「一九九七年二月の真実の書」ぜんぜん署名、著者が違う。
著者は、変後の朝廷、京都五山、大徳寺への多額の光秀の銀子の献金に注目し、
背後には信長のキリスト教導入に反感、危機感を持った朝廷と仏教勢力の支持があったのではないかと説く。
○「六月一日の本能寺への貴族訪問に、ついて」山科言継の日記。
○「光秀は京都諜報機関と係わっていた可能性がある、について」
足利義秋、細川藤孝との関係。
その後、信長に京都坂本城、朝廷、堺などの交渉を任される。
○その後の文は、「単独の怨恨、野望説への反論と推理」である。
○光秀辞世漢詩については、
その死体が着ていたヨロイの引き合わせにあったとされてる。
○「吉田兼見はなぜ光秀との連絡役なのか?」
普通は朝廷の武家伝奏、女官が勤める。それが吉田兼見なのは、
謀略に関係していたから。
吉田は神官で、祈祷などで光秀は度々会って話すことができた。密かな連絡には最適。
○残りの文書的証拠などについては、明日、あるいは明後日に書くつもり。
那波直治が明智家に転仕しようとして、信長の意向で稲葉家に戻されたという話は、
「稲葉家譜」以外に確認できる史料はあるんでしょうか?
それと斎藤利三が明智家に転仕した時期がいつ頃か分かる史料って存在しますか?
とりあえず信長公記で金ヶ崎撤退の頃に稲葉氏と行動を共にしているのと、宗及
茶湯日記で天正六年頃には明智氏と行動を共にしてるのは確認したのですが...。
利三について記載している信頼性の高い史料って他にないですかね。
知識有る方、どうかご教示お願いします。
408 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/17(金) 10:53:31
藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」への反論。
○この「怨恨説、野望説」信長が少数の供とともに京にいるので突発的に襲ったとする説、についての疑問。
一 光秀の知識人であり、冷静沈着、狡猾とされ、熟練の侍を使いこなす、計画的に丹波を攻略、という
日頃の行動と全く合わない。
二 信長、長男信忠が京都で同時に葬られている事実。怨恨なら自分の城に誘殺してもいい訳である。なぜ京都か?
三 安土守備軍、そこの信長馬廻り五千人、大阪の四国渡海軍二万が四散、美濃なども混乱、
戦力的に無力化した事実の不思議。
四 堅城とされた丹波亀山、坂本城で篭城せず、山崎天王山で秀吉と戦っている事実。
京都市街戦、篭城、いくらも明智家、自身を守る手は選択できた。
五 現存する貴族の主な日記が書き直され、他の高位の公家が変について書いた日記、
手紙が発見されない。
六 光秀が信長殺後、残りの織田軍十万人をどうするつもりだったのか?
怨恨、野望でも全くお先真っ暗である。そんな男に軍が従うのか?
七 光秀が安土からの帰還後、朝廷、大徳寺、京都五山に多額の献金をし、それが受け取られている事実。
普通、そんな危険な男からの金を受け取るか?
八 光秀が神官吉田兼見を通じ、何度か誠仁親王と連絡を取り合っていること。
その詳しい話の内容を兼見は書いていない。
409 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/17(金) 11:15:33
藤本正行、鈴木真哉著「本能寺の変、謀略説を嗤う」についての反論。
○突発的な「怨恨説、野望説」についての疑問。
六月一日、本能寺の変の前日、
多くの、四十人ほどの高位の貴族が、信長のもとを訪れた。
そして、話が弾み、夜、茶器の名物開きの後に、酒宴があった、
とされている。
ところが、誰も貴族はその後、泥酔などし、
本能寺に泊まった人間がいない。
商人は島井宗叱、神尾宗湛など泊まった人間がいて、
茶器などを持ち出しているのが確認されている。
これは少し、妙ではないだろうか?
残りは、また月曜日あたりに、、、
410 :
;iui;y;ug:2006/03/17(金) 14:56:42
411 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 10:35:59
>細川ガラシャは、結婚に伴って改姓した最初の日本人女性とされている。
>日本では明治維新までは、女性は結婚しても、姓(名字)を変えなかった。
>ガラシャの改姓は、ガラシャ自身がキリスト教徒になってからで、
>洗礼後は細川姓を名乗るようになった。
>日本で結婚によって、女性が改姓するようになったのは、明治新政府が
>欧米諸国の戸籍登録方針に倣った政策を執るようになってからである。
フェミニズムの敵ですな(w
412 :
日本@名無史さん :2006/03/19(日) 10:47:27
>寛永十四年(1637)島原・天草の乱の際、唐津藩領天草の富岡城代であった
>三宅籐兵衛は、天草本渡(ほんど)で農民との戦いに多勢に無勢で敗れ、
>壮烈な戦死を遂げる。この人は光秀の女婿弥兵次の一男である。
そういや「時空警察」とかいうテレビ番組で天草四郎は豊臣縁者とか言ってたけど・・
鈴木真哉
この時点でダメだろw
414 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/20(月) 10:49:05
藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」
への反論。ページ2○1、「手際の悪い光秀への反論」
○「京都での、織田信忠への攻撃の手際が悪い」
? 朝倉攻め時、浅井軍に後方を断たれた織田信長のごとく、信忠は馬一頭に飛び乗り、一人逃げれた。逃げれなかったのは、逃げようとしても、
京都町境にあった盗賊よけの木戸などが全部閉まっていたから。どこからか矢、鉄砲を撃たれたからではないのか。
で、朝廷を疑い、内裏と同じ扱いだった二条城に不敬にも入ったのでは?
しかし、証拠もなく、汚名を恐れ、親王と家族らを出し、篭城したのでは。
尊皇家の光秀らにとって内裏と同じ聖場所に逃げ込むなど、予想外だった。
○「徳川家康への暗殺隊を差し向けてない」
これは大阪には織田信孝の大部隊がいたし、混乱中で簡単に故国に帰れるとも思えなかった。
また桶狭間今川義元敗死のとき、混乱に乗じて独立した過去がある。貴族の黒幕の一人近衛前久とも親しい。
交渉次第で後に味方になるかも、と前久らに注意されていた可能性は?。
○「光秀娘婿、信長甥の津田信澄が織田信孝、丹羽長秀に大阪城内でみすみす殺されている」
織田信長の弟の子である立場から簡単に殺されるとは思わなかった。
また、行動を信澄が起こそうとしたからこそ、察知され殺されたのかもしれない。
また「味方のような顔をして信孝軍に加わり、決戦のとき裏切れ」
と密命されてた可能性もある。
変後、大阪の信孝軍二万は四散して、七千となり、都合よくも交戦力をなくしている。
415 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/20(月) 11:46:36
「信長は謀略で殺されたのか、本能寺の変、謀略説を笑う」
への反論。「手際の悪い光秀」
○「織田信孝、丹羽長秀を娘婿、信長の甥、津田信澄を使って討たせたりしていない」
これは父親を殺されても唯々諾々と従っている信澄を光秀がそれほど買っていなかった。
見方のような振りをして信孝に従い、決戦のときに裏切れと秘密命令を受けていた。
連絡役が混乱でうまく行かなかった、といろいろと見方がある。
○「毛利家への対応が悪い」
これは秀吉が数日で山崎まで追撃を受けずに帰るという奇跡を起こしたから言われること。
普通は、数日で大事件は知れ渡る。すると孤軍となり、混乱する秀吉軍を毛利が追撃、攻撃、混乱が続くと判断するのが常識。
光秀は全くこの方面は心配していなかったし、使者も送っている。
事件前の使者は謀略では信頼されるかどうかわからない。
むしろ見方を変えると不手際なのは毛利なのでは?
秀吉総退却、織田中央混乱という、勢力拡大の絶好の好機を傍観したのである。
416 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/22(水) 11:01:48
○おやおや、「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」
に反論できるだろうな?と書いた人の意見、反論はどうした?
戦国最高峰の茶器の真贋の鑑定は? もっとも、今から基礎知識やら仕入れてもな、、、。
また、ここで対抗できる専門書は、世に一冊もあるまい。
ちゃんとした専門家の意見、反論を聞きたいものだ。となると、また書くしかないのか?
永遠にして最大の謎、或いは戦国史最大の謎といわれる本能寺の変の真実は、一九九七年二月に解明され、証拠も出た。
その答えは「朝廷説」である。明智光秀は、朝廷の命を受けて、織田信長を討ったのである。
反論のある人は、ここにその意見、反論資料、本、反論根拠をどうぞ、書いてほしい。
○東京大学、慶応大学、早稲田大学、立教大学、その他の全ての国立、私立大学の歴史学の教授、助教授、
日本国内、海外の全ての歴史学の博士、権威者、全ての織田信長、明智光秀、本能寺の変の研究者、作家、
その他の民間の研究者など、「本能寺の変は朝廷説ではない、まだ、その真実は解明されていない」という人は、此処にその反論意見をどうぞ。
他説は、ことごとく、突き崩し、その疑問点を書いて見せよう。
○日本国内の、我の説こそは、と思う士は、此処に降臨し、「魅せて」ほしい。
その説、根拠、資料を。
、
417 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/22(水) 11:05:54
○「戦国史最大の謎、本能寺の変、その真実」
日本で一番有名な連歌、
明智光秀が本能寺の変前に詠んだとされる一句、
「ときは今、あめが下しる五月かな」
には、全く別の意味があった、、、。
418 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 18:20:29
放置。
>>411 「細川忠興夫人明智氏」が正式名称のようで新井白石の「藩翰譜」や
貝原益軒の「黒田家譜」にもそう書いてありますけど。
細川ガラシャは明治以降の通称でしょう。
>416
本能寺の変の真実よりも、なぜ「一九九七年二月の真実の書」の書名を出せないのかが
今は最大の謎だよw
典拠不明の話と憶測ばっかり繰り返されてもなぁww
421 :
日本@名無史さん:2006/03/22(水) 21:54:19
何の影響力も無い基地外の戯言、放置しましょう。
しかし○弄り以外にネタもない訳で
○クンは妄想好きな釣り名人
>>423 >○クンは妄想好きな釣り名人
×名人
○迷人
426 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/23(木) 11:04:34
藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」
への反論。○「突発的な怨恨、思いつきの野望で、重臣、部下は動くのか?」
織田信長が少数で京都本能寺に泊まる、で殺すチャンスだと思いついて殺した。
光秀本人の心は晴れる。しかし、部下は別問題だ。この時代の兵はイデオロギーやスローガンでは動かない。
動機はあくまで褒美、略奪の利益目的ばかり、とこの本は説く。
しかし、そうなら根本的な矛盾が起る。
○いったい、此処で信長を殺し、残りの織田大軍と殺しあうのと、おとなしく信長について中国へ行き、毛利と戦うのとどちらが大得に部下らにはなるのか、と。
織田と毛利では、兵数、装備、補給能力が全く違う。毛利攻撃は勝つに決まった戦だ、略奪品、褒美は部下に約束されている。
では対織田戦は? 勝つかどうかは解らない大兵力、装備である。それどころか京都にいては四方を囲まれかねないのだ。
光秀部下は信長に従った方が大得、殺すのは大損、苦労道なのだ。また部下らには変後、損得不利と感じて、逃げる手もある。
ところが、光秀の将兵は変後も逃げず、天王山まで従っている。したたかで、計算高く、褒美、略奪にしか興味の無い当時の兵たち、
それが大損になる、命に係わるかもしれない謀叛に、おとなしく全て従ったという事実。
その矛盾は、突発的な無計画の思いつき怨恨、野望説では説明できない。
427 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/23(木) 11:15:31
「イエス・キリストと、織田信長」
○お宝本は、何百冊も参考文献やら、史実やらを読んで、探索し、見つけた方が面白いものだよ。
この本、読めば読むほど,二千年でただ一冊?という気がしてきた。
○誰もが知る国宝の裏に、信長に関する真実の言葉が、
本能寺の変への、キーワードが刻まれていようとは、、、!
○日本史には、本物の「ダ・ビンチコード」が三つほどあるとされている。
そのひとつは、紛れもなく、「本能寺の変の真実」である。
イエス・キリストが結婚し、子供を持っていた、、、というのはフィクションだろうが、、、
こちらは、正真正銘の本物だ。
↑何の影響力も無い基地外の戯言、放置しましょう。
A.「一九九七年二月の真実の書」とやらが存在する。
→○は本の受け売りをしているだけ。
B.「一九九七年二月の真実の書」とやらは存在しない。
→○は典拠の分からない話をつぎはぎして、それを憶測で補っているだけ。
書名は出せない。典拠も出せない。
ここは日本史板であって、創作文芸板じゃないんだぜ、○よw
430 :
>>429:2006/03/24(金) 07:16:22
○には、たとえ批判でも相手にされることが嬉しいのでしょう。
何の影響力も無い基地外の戯言、負け犬の遠吠え、放置しましょう。
431 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/24(金) 10:48:11
○そろそろ、本格的な論客、学者、博士、一流研究者の到来はないものか?
たった一行二行の言葉なら誰でも書けるぞ。ちゃんとした反論、論説、資料が読みたいものだ。
すくなくとも「信長は謀略で殺されたのか?、本能寺の変、謀略説を嗤う」と、
それに出ている小説、参考文献くらいは読んでいるんだろうな? どうも歯ごたえがない。
○「一九九七年二月の真実の書、本能寺の変は解明されている」について。
正真正銘の本物であり、証拠も出ているゆえに、言い逃れ、受け売りをする必要すらもない。
むしろ、この本を論破できるような才子、論文、資料の挑戦があるなら受けたいものだ。
知らぬ人がモグリといわれ、見当違いの方向に穴を掘るだけの話。
○それにしても、長文の反論する人がいなくなったな。
必死に参考文献を探しているのか? それとも原書探しかな?
もう、あらゆる資料は出尽くしていると言われているのだが、、、、
では、また月曜か、火曜日に、、、
>>429 このスレの流れ
バカな○の根拠のない朝廷陰謀説が出る。
↓
釣られる香具師が出る。
↓
翌日、バカな○がそれに対して的外れな反論、説明をして朝廷説が正しいと言い張る(もちろん根拠・証拠は出さない)
だれか偉い学者からの反論はないか?とのたまう。
↓
釣られる香具師が出る。もしくは無視される、
↓
翌日、バカな○が朝廷説は解明されている、反論がないのは自分の朝廷説が正しいからだ。と主張。(この人は何がしたいのか?)
↓
釣られる。
↓
朝廷説で解明済み発言。
前スレも本能寺の変スレもずっと同じ流れ。
いい加減にどうにかしたいよな
通報しても削除対象にならないし、スルーしかないんだよな。マジでウザイ。
只今より○の漫談を生暖かく見守るスレに変わりました。
まず○氏はここに一流の研究者が来ると本気で考えてるのだろうか?○氏は「天下の2ちゃんねる」と言うが常識ある普通の人間が考えれば、一流の研究者が2ちゃんねるを見てるとは思えないんだが。
もし○氏の思うように本当に見ていたとしてもスルーされている時点で朝廷説=珍説で片付けられてるとは考えないのだろうか?
自分の主張に関して討論したいのならしかるべきところで主張するべきではないのだろうか?それとも彼の「天下」は本当に2ちゃんねるにしかないからここではしゃいでるのだろうか?
437 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 17:54:03
妄想の垂れ流しはウザイけど、御目出度い輩と、慈悲の目(無視)で見てあげようや。
○用の別スレでも立てる?
そしたら、こっちのスレで本能寺以外の話題も出来るだろうし。
>>438 君がわざわざ○のためにスレ立てるのが面倒でなければいいと思う。ただ○は自己顕示欲が強そうだから、人のいるこのスレから離れない可能性高いよね。
困った奴だよね、本当に。
大体ここ、「本能寺」スレじゃないし。
まあ彼を語る上で本能寺は避けられない要素なんだろうけど、
ここまで来たらスレ違いだよ。
441 :
日本@名無史さん:2006/03/25(土) 23:15:44
凡眼では見えませぬ
てゆーか○って何かのスクリプトなんじゃないのか( ´_ゝ`)
445 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/27(月) 10:46:12
○なるほど。諸氏の意見はもっともだ。しかし反論にはなっていないな。
「ここで本能寺の変の答えは朝廷説である。他の答えは無価値」
反論せよ、とはっきり挑戦されている。「しかし、その答えはない」
ここは実名ではなく、匿名、偽名でも書けるサイトである。
東大教授、歴史学の博士、その他のスペシャリストらが匿名で書いて、反論しまくればいい。
しかし、それは無い。いや、「出来ないのだ」。なぜなら、本能寺の変はすでに朝廷説で解明されており、他の説の場所をいくら探しても、
答えも証拠も無いことを一流なら知っているからである。こう見るのが本当だろう?
○「2ちゃんねるはマイナーか?」
そうでもないだろう。ここに書かれた殺人予告やら、小学生誘拐予告、ノマネコ盗作騒動などは、
かなり各新聞の一面に載って、大騒ぎしていたぞ。
○「だだこね型」肝心なことは少ししかなくそれを書いたら、さる本の価値が大幅に下がり、著作権の問題も出る。
しかし、かなりのことは書いているのに、それを書けとタダコネする。自分は何の説も、反論、資料も書かない。
○「一方的型」お前の書いていることは間違い、駄目だと決め付けて書く。
しかし、間違い、荒唐無稽とするその理由、対抗する説は書かない。
○もう一度書こう。
本能寺の変朝廷説に対する確固たる反論、別論説、資料、提唱者があれば、ここにどうぞ。
446 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 10:52:55
>>445 > 東大教授、歴史学の博士、その他のスペシャリストらが匿名で書いて、反論しまくればいい。
お前大丈夫か?
本気で東大教授が2ちゃん見てると思ってるのか?
> しかし、それは無い。いや、「出来ないのだ」。なぜなら、本能寺の変はすでに朝廷説で解明されており、他の説の場所をいくら探しても、
> 答えも証拠も無いことを一流なら知っているからである。こう見るのが本当だろう?
>
じゃあ何で朝廷説が一般的に認められないんだ?
> ○「2ちゃんねるはマイナーか?」
> そうでもないだろう。ここに書かれた殺人予告やら、小学生誘拐予告、ノマネコ盗作騒動などは、
> かなり各新聞の一面に載って、大騒ぎしていたぞ。
>
比べるものが違うだろ?
本当に大丈夫か?
447 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 10:54:37
448 :
1:2006/03/27(月) 11:18:58
相手にしちゃダメ。
449 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/27(月) 11:28:43
藤本正行、鈴木真哉著「信長は、謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」
への反論。「防諜は、それほど難しいか?」
確かにクーデターや反乱の企てが漏れた例は多い。使用人、或いは友人からの密告もある。
しかし、成功した例も多いのは確かである。
例えば忠臣蔵四十七士の場合をどう見ればいいのか?
経済的にも、思想的にも決して優秀とはいえない下級武士たちが、最後まで団結して主君の仇を、
将軍のスパイ網が発達しているであろうお膝元の江戸で討つことに成功した、という状況をどう説明すればいいのか。
彼らの中からは、直前の密告によって金儲けしようという人間は最後まで現れなかったのである。
相手は大名に息子を養子に出している家であった、義士達には最後には切腹があるかもしれないと解っていた
にも係わらずである。
彼らは、最後まで敵討ちがあるのではないかと噂されながらも、敵に監視されながらも、防諜には成功した。
これらは何を表しているのだろうか?
そんなことも知らないのかい、エスケープゴートだよ。
452 :
日本@名無史さん:2006/03/27(月) 11:41:29
>>449 なぁ、
そんなことより何でお前がこんなにも「本能寺の黒幕は朝廷」って騒いでるのに世間はノマネコや殺人予告のように取り合ってくれないのかな?
真実であるはずなのになぁ…何でだと思う?
忠臣蔵は幕府はその動向を掴んでおり、討ち入りはほぼ黙認していたという説もあるけどね。
まあ、スレ違いだね。
454 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 10:08:06
愛知県犬山市の桃太郎神社の石碑に、ここの神主は栗栖から来たと書かれている。
これは暗号になっており、明智光秀が小栗栖で死んだ事になっているから、神主は
光秀であると読める。天海(光秀)はおとぎ話(桃太郎・舌切り雀など)やわらべ
唄(かごめ、かごめ・通りゃんせ)の作者であり、光秀は生き延びて天海となって
活躍した。その物的証拠が数多く残っている。日光東照宮の桔梗紋、高野山の石碑、
慈眼寺の光秀の木像など。残念なことに暗号を解いて理解できる感性のすぐれた人
物が日本には存在しないために、本能寺の変の犯人はいまだに光秀にされている。
この誤った歴史を修正出来ないことは日本人の恥である。なぜ、暗号で残されたの
か。それは、真実を発表すると自分の首が飛ぶからであり、後世に残そうとしても
改竄されるからである。だから、暗号で残されたものは真実なのである。ダ・ヴィ
ンチコードが暗号になっているのも同じ理由である。遺伝子の2重らせん構造を解
明した科学者(ワトソン)は、生命を創造したのが神であるなら、その構造は均整
のとれたきれいな形をしている筈だと仮定して見事に解明したのである。
公卿の日記の内容が消されたり、改ざんされたのは時の支配者の弾圧の痕跡であ
り、信長の遺骸の不明、光秀の信長暗殺の動機が分からないのは光秀が犯人でない
からであり、その動機を捏造してきた歴史が野望説などとして出てきたのであり、
その戦国時代の常識が今となっては分からないのに、今の常識で解明しようとして
も分かる筈がない。まだ、昔の説のほうが現代人のとなえている説よりもましなの
である。だから、いくら東大出の学者が研究したところで馬鹿の考え休むに似たり
なのである。日本の歴史は秀才(東大出)ではなくて、天才(優れた感性の持ち主)
によって動いてきたのである。
455 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/28(火) 10:42:19
○「2ちやんねるを東大教授やら、歴史学者、一流スペシャリストは見ない」
おや? これは物凄い差別的発言、偏見、大侮辱だぞ。2ちゃんねるは差別されるべき掲示板集だから見ないとでも言うのか?
激怒せよ!! 2ちゃんねらー。そして東大や慶応の掲示板に書きまくれ。
○「本能寺の変、朝廷説は一般には認められていない?」
まさに名茶器の鑑定にも似て、ある程度の歴史知識、基知識が要るからな。
さらに先入観、独りよがり、思い込みでしか歴史を見ない、見たがらない人々がいる。
そのために、此処で疑問、反論を受け付けているんじゃないか。真実を発見せよだ。
○「2ちゃんねるは有名? マイナー?」
ある意味ではかなり有名な掲示板だよね。小学生殺人、誘拐予告、猫殺し写真などは、
かなりマイナー部門のな掲示板に載ったにも係わらず、すぐ新聞沙汰になったよ。
○「ノマネコ騒ぎ」一目見れば解る。
「小学生殺人予告、誘拐予告」それは狙われるのがわが子かも知れんと心配すればすぐ大騒ぎになるさ。
歴史上の発見とは、多少問題が違うと思うが、、、
妄想を感性とは言いません。
457 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/28(火) 11:01:35
○「歴史は正確に認識されているのか?」
例えば織田信長の比叡山焼き討ち。時代の改革のためにはやむをえなかったという見方があるが、
比叡山が信長に協力的だったら、やったか? という見方もある。
一向宗との戦いだって、織田信長がただの交渉下手だから長引いたという説もある。
○「忠臣蔵の防諜、幕府は討ち入りを黙認していた?」
それはどうかな? 将軍のお気に入りであり、旗本、大名に養子を入れるほどの名家に、お膝元で、
五十人に近い完全な武装集団が討ち入り、主の首を取ったという大事件だよ。もしかすると別の家、老中宅が襲われたかもしれない。
江戸でその手の危険を黙認できるのか?という疑問はあるな。将軍、柳沢などは全く知らなかったようだし。
当然、後からスパイ網、監視網は徹底的に調べられたに違いないし、責任も問われただろう、、
○一説には大石内蔵助が「絶対に討ち入りはしない」といった言葉をもろに信じ込んだという話があるね。
つまりどんなスパイ網も、時にはこんな妙な穴が開くことがあるいうことだろう。
妄想を感性とは言いません。
459 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:26:38
>>455 なぁ本当に大丈夫か?
東大教授が2ちゃんねるを見ないのは差別してるからじゃないだろうよ。万人が2ちゃんねるを閲覧してると思ったら大間違いだぞ。
一般的じゃないって言い方が悪かったか。なぜ朝廷が本能寺の黒幕だとする説が主流にならないのかを聞いたんだよ。
それとも識者の間では朝廷説が主流なのか?なら何で2ちゃんねるで反論を求める?主流なら改めて反論を求める必要はないだろう?
お前自身が朝廷説に疑問を抱いてきているからだろう?
460 :
日本@名無史さん:2006/03/28(火) 11:50:04
○「天正十年、本能寺の変の真実」
↑
妄想家どうし仲良く出来ない、協調性に欠落したヒキコモリw
吉良家は刀傷事件以後、そのお気に入りからは外れているけどな。
屋敷も中央から遠ざけられてるし。
高家=お気に入りっのはこれまた偉大なる妄想だね。
〇は話を短くまとめて欲しい。 なげーよ。
ここはひどい釣り堀ですね。
明智光秀の出自の一つに鍛冶屋の息子
とかあるんだが、一体どこの史料にのってるんだろ・・・。
466 :
日本@名無史さん:2006/03/29(水) 01:09:44
本能寺の変の黒幕は織田信孝
光秀様は織田を救われた
467 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/29(水) 10:39:56
○「朝廷説についての疑問」
いや、私個人は朝廷説に疑問はないよ。これが真実だろう。ただ、これを認めたくない連中がいるらしいので、
どういう疑問、主張を抱いているのか、此処で聞きたいだけ。
○別説での反論が出来ないせいか、またおかしなプロパガンダ工作、個人攻撃を始めたな。
はっきりいって、私には経歴に傷も、前科も、おかしな団体に属していた過去も無いから平気だよ。
主張している「朝廷説」が、違うというのなら、ここで正確に反論しろといっているだけだしね。
○「妄想狂、協調性に欠ける、引篭もり、盗作疑惑」
私の知っている作家、研究者の何人かがよく言われていることだな。
ところがある出版社がついてるせいか、なかなか世間は取り上げない。
中には本当に妙な作家がいるよ。その書いた妄想をありがたがる崇拝読者の未来が心配になるくらいだ。
○しかし、今思いついたが、本が売れなくなったのは、この手の中傷を皆が怖がるからかもな。
自室で落ち着いて、何冊も本を読んでたり、資料調べをしていると、からかわれるということか。
468 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/29(水) 11:06:41
藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」について。
について。
○「謀略史観について」歴史上の大事件は全て謀略であるという考え方で、「信長の棺」の作者が
「奇跡には必ず裏がある。歴史とは勝者の作り話にすぎない」と主役太田牛一に語らせている。
つまり誰か黒幕がいて、その勝者の計画どうりに歴史は改ざんされるとの見方らしい。
これが別事件で本当かどうかは知らないが、本能寺の変では妙なことが多いのは確かである。
たとえば、常に最強の親衛隊と堅城に囲まれている信長が、あの時点では殆ど無防備で京都にいたこと。
もしこれが野外での戦いだったら?
一万三千で五千の馬廻りを破ることは出来ても、信長を虜にするのは難しい。
信長は単騎で逃げることも出来る。その脱出のために親衛隊は最後まで戦うかもしれない。
またずでに織田家を継いでいた織田信忠の問題もある。彼は甲斐攻めの総大将を務めるなど、すでに評価も得ていた。
信長を野外で、中国で殺せても、織田家はびくともしなかった、かもしれないのである。
その織田の頭が二人とも逃げれず、京都で同日に死んでいる。前にも書いたが、「これだけ」でも、出来すぎた話、なのだ。
ページ2○2「光秀娘婿の織田信澄は六月五日に大坂城内で、織田信孝らによって殺されている」
申し訳ないが、此処での「大阪城」とはどこにあったものなのだろうか?
織田信長はずでに本願寺後に大阪城を造っていたのか? それともそれとは別物なのか?
誰が改ざんしたの?秀吉?朝廷?
妄想に付き合うなよ。
サイトを作って一人の世界に浸っていればいいのに…。
472 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 04:16:40
我々がUの方に移動すればいいんだよ
>>471 >サイトを作って一人の世界に浸っていればいいのに…。
釣れるの待っている淋しい奴なのさ。
完全に逝っちゃってるけど。
日本史全体で公式的に戦に破れて自害したことになってる人って100人以上は
余裕でいるよね。
その中の2、3人は実は生き延びてましたってのがあってもおかしくはない。
可笑しいけどそれでどうなるのかな。
476 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/30(木) 10:44:10
「疑い。明智光秀の場合、生き延びて歴史に影響していたのでは?」
一 その死んだ場所は貴族勧修寺晴豊の領地。その家から誠仁親王の后が出ている。
二 その死体の首は無かった。後に地中から発見された首は腐っていて、顔に傷があった。
三 近くで殉死した侍が二人いたという。何故彼らは光秀の死体を全て埋めなかったのか?
四 光秀の死体と首を発見したという男は、後に調査した人によれば村に存在しなかった。
五 京都近郊の勧修寺家の領地が、落ち武者狩がでるほど治安が悪いか解らない。
六 朝廷、貴族、仏教勢力が変の背後にいた場合、光秀が隠れられる聖域、
成り代われるような夭折した人物はいくらもある。
七 後に織田家に行方を追われた有力貴族近衛前久は徳川家康の元まで逃げた。
八 その近衛と親しい徳川から光秀天海説の主役、徳川幕府の黒幕南光坊天海が出た。
九 彼は春日局、三代将軍徳川家光を通じて幕府に影響したが、朝廷とも何故か親しかった。
十 関が原、大阪の陣と天海は、参戦し、いろいろと家康にアドバイスしていたという。
477 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/30(木) 11:08:03
○「本能寺の変における奇妙な事実」
一 京都の市民は幕末まで七月の盆になると、光秀を供養していた。
二 丹波亀山にある御霊社には、「日向守光秀の神霊」と配祀され、光秀は神とされている。
三 秀吉は運ばれてきた光秀の腐った首をすぐに本物と断定し、斉藤利三の取調べ記録などを詳しく残さず、
織田信孝らの変の詳しい探索に圧力をかけた。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
釣れるの待っている淋しい奴なのさ。
完全に逝っちゃってるけど。
479 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:43:19
天海って108歳まで生きたんだっけ?
480 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 11:45:26
>七 後に織田家に行方を追われた有力貴族近衛前久は徳川家康の元まで逃げた。
前久逃亡の直接的原因は秀吉の追求さ。前久は信孝に取り成しを求めたものの、
その信孝が秀吉との間で仲が険悪になったので家康を頼って落ち延びたのさ。
吊られるなよ、アホがうつるぞ。
釣れるの待っている淋しい奴なのさ。
完全に逝っちゃってるけど。
483 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 12:52:25
>秀吉は運ばれてきた光秀の腐った首をすぐに本物と断定し、斉藤利三の取調べ記録などを詳しく残さず、
織田信孝らの変の詳しい探索に圧力をかけた。
不思議だな。本当だったとしたら。
自作自演?
>>483,悪いがスルーで頼む。
バカな○の根拠のない朝廷陰謀説が出る。
↓
釣られる香具師が出る。
↓
翌日、バカな○がそれに対して的外れな反論、説明をして朝廷説が正しいと言い張る(もちろん根拠・証拠は出さない)
だれか偉い学者からの反論はないか?とのたまう。
↓
釣られる香具師が出る。もしくは無視される、
↓
翌日、バカな○が朝廷説は解明されている、反論がないのは自分の朝廷説が正しいからだ。と主張。(この人は何がしたいのか?)
↓
釣られる。
↓
朝廷説で解明済み発言。
前スレも本能寺の変スレもずっと同じ流れ。
486 :
ヨーダ:2006/03/30(木) 13:47:47
>>465 若州観跡録なる史料だそうな。
若狭小浜の刀鍛冶の次男だとあるらしい。
立場や役職を点々と変えて、朝倉を見限り、義昭も見限り、
最終的には信長も裏切った男だから、
明智の姓も生来のものではなくて、どっかで拾ったものだった
っていうのも、まあ有りそうな話だと思う。
吉田兼見の日記によれば、美濃に親類がいたということだけど。
本当はとんでもない梟雄なのかもね
489 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/31(金) 10:56:11
藤本正行。鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説を嗤う」について。
「チャンスと思って突発的に信長を殺した。動機は怨恨、野望である」とする。
○だが、それが危険で無謀であることは解るだろう。
例えば「その夜、本能寺に信長が確実にいるという保証」は何もない。信長が気まぐれで行動的だった、
とはこの本にも書いてある。信長は数騎で行動することもあった。夜中に思いついて孫の顔を見に、妙覚寺の信忠のもとに行くかもしれないし、
知り合いの家に行くかもしれない。光秀が本能寺を襲っても、信長がいなければ何の役にも立たないわけである。
しかし、あの夜、信長は確実にいたし、光秀の軍は最初から本能寺を主力襲撃している。
信長は一日、多くの貴族の接待をし、酒宴となり、深夜まで僧侶の囲碁名手の対局を見、寝ていたからである。
その情報を光秀軍は中国、京都への分かれ道である老の坂で休息し、待っていた節がある。確かな情報を掴んだから
攻撃成功を見たとしか思えない。これはやはり周到な計画があったと見れるのではないだろうか?
京都は夜、町境の盗賊よけの木戸を閉めるので逃げ道も限られる。
○野外の馬廻りに囲まれた信長との戦いなら? まず影武者がいる。本陣の旗を三つほどに分け、相手の目をくらます方法もある。
信長の居場所は簡単に知れるだろうか? なによりも光秀軍の犠牲も大きくなるだろう。
○つまり光秀は後のことを考えるなら損害少なく信長を葬る必要があったのだが、
それに成功している。これが突発的思いつきでに出来ることだろうか?
490 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/03/31(金) 11:08:43
○「近衛前久は秀吉を恐れて逃げた?」
これは違うだろう。織田信孝がしつこく追求したから逃げたんだよ。
信忠がこもった二条城攻撃のとき、光秀軍にとなりの屋敷から銃撃するのを許してもいる。
後に秀吉は近衛前久の養子になって、関白になった。
○「2ちゃんねるに、一流学者は書かない」
匿名でも書かない、反論しないとなると問題だな。
○「光秀は刀鍛冶の子供?」
光秀は足利義昭の信長への使者に選ばれているし、名家細川藤孝とも親友だった。
また高位の神官吉田兼見とも親しかった。また有職故実、古典、築城などの知識にも詳しかった。
これは、よほどいい家柄だったからとしか思えない。
当時の知識取得は今みたいに簡単な、安いものではない。
では月曜か、火曜に、
491 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 12:27:13
遺恨による行動が常に突発的だと思ってるのかな?
計画的にやることもあるだろうに。
なぜ何でも自分の型にはめようとするのかね?
信長が行動的?夜中に孫の顔を見に行くほど?
>名家細川藤孝とも親友だった。
本当か?いや流浪時のエピソードは知っているけどいかにも創作くさいし。
幕府時代にそれほど深い関係だったとも思えないのですが。
むしろ、信長配下になってから仕事上の付き合いが増えたような印象なのですが。
確実に言えるのは、
義昭が朝倉を頼る→やっぱり織田を頼る。という過程で、
色々取り計らったのが明智光秀という男だった、という事と、
そののち彼が織田家臣になり、もの凄く重宝された、という事だけ。
細川との付合いも、その過程で生まれたものだろうと思う。
教養で身を立てたようなイメージがあるが、それを裏付けるような
ちゃんとした史料は無いんじゃなかろうか?
まあ、頭が良かったのは間違いないだろうけど。
>>493 もし、光秀が美濃に縁があれば足利家臣の中で信長担当になるのは
自然な流れですしね。 本人の才覚は別にして。
>教養で身を立てたようなイメージがあるが、それを裏付けるような
>ちゃんとした史料は無いんじゃなかろうか?
百姓出身の秀吉でさえ、京都の行政を担当するだけの教養を持ち、和歌詠んだり能を舞う時代だから
〇が言うほど、知識習得は難しくないと思いますね。
>>489 >夜中に思いついて孫の顔を見に、妙覚寺の信忠のもとに行くかもしれないし、
三法師は岐阜に居たはずだがね〜
>>490 >○「近衛前久は秀吉を恐れて逃げた?」
>これは違うだろう。織田信孝がしつこく追求したから逃げたんだよ。
島津に送った前久の手紙を読みな。
>○「2ちゃんねるに、一流学者は書かない」
>匿名でも書かない、反論しないとなると問題だな。
○には問題でも世間一般には何の問題もない。
それに光秀の教養云々は小説ネタだよ。
逆に○の教養のほどが知れるね。
○の脳内のような日付だな。
498 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 12:48:38
とりあえず、吉田が怪しい。
>>427 THX
そんな史料があったとは知らなかった。
前武将辞典みたいなのに、美濃の人間はよく裏切るのにも
関わらずそばに明智を置くなんてとんでもない。みたいな事が
書かれていたな。
501 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/03(月) 10:49:48
○「遺恨による行動でも計画的か?」
矛盾を書くなよ。計画的でない突発的な謀叛だから、ザマなく負けたとこの本は言ってるんだろう。
それとも信長を殺す手際は計画的緻密、その後補作戦はなんもない、では明らかに性格行動矛盾の疑いをうむ。
信長個人に対する遺恨だけが動機なら、足利義教暗殺事件のように自分の城にでも誘殺するのが確実だが。
○「将軍候補足利義秋の美濃尾張大名織田信長への使者に選ばれる」
仮にも大名への使者にはそれなりの家柄、礼儀、学識、交渉術に長けた人間が選ばれるのではないか?
また光秀は鉄砲、武術にも優れていたという。これはそれなりの立場にないと選れないだろう。
朝倉家で光秀や細川藤孝、足利義秋はかなり親しくしていたようだし。
○「近衛前久は秀吉を恐れて逃げた?」
ならば何故、近衛は親しくもない秀吉を後に養子にし、関白にしたのか?
権力を握った秀吉がしつこく近衛前久を取り調べた文書が無いのか?
秀吉は織田信孝を殺し、その母も確か殺しているはずだが、、、
○「光秀の教養」
彼は古典、文書、茶道、有職故実、さらに兵法、築城などにも知識があったとされてるよ。
彼の書いた心得などの文章は非常に合理的で、知的とされている。
秀吉は「醍醐」を、「大五」と書く男だった。手紙もひらがなばかり。
○「三法師は岐阜にいた」
だから恋しくなり、孫の顔に生き写しの信忠の顔を見に行く。
孫の顔を見たいとの話をしに、信忠のもとに行く。
○「2ちゃんねるに、一流学者は書かない?」
「匿名でも、偽名でも書かないのは、真実が解明されていて、書くことが無いから」
と世間が見るようになったら、どうする?
502 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 10:57:03
>>501 ん?
計画的に遺恨を晴らす、とゆうのはなんにも矛盾してないと思う、十分に有り得る話だと思うが?
>>501 真実が解明されているから書くことがない?
相変わらず世の人々全てが2ちゃんねるを見てると思ってるのか?俺から言わせてもらえば2ちゃんねるで声高に騒ぐだけでそれ以外の媒体では一切主張しない君の方が腰抜けに見えて滑稽だが。
三法師に会いたいが遠くて会えないので三法師に生き写しの信忠に会いに行く?かなり無理があるぞ。
2ちゃん以外の媒体…本当は出版社に持ち込みたいんだろうな。
その前に矛盾点を指摘してもらいたいんじゃない?
505 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/03(月) 11:19:05
○「本能寺の変のイメージを変える」のは良い事だな。話題にもなるし。
大銃撃戦の本能寺の変は、舘ひろしのイメージに合ってるのでは。
ジョンウェィンの映画「アラモ」?のラストシーンみたいなものになるのだろうか?
騎兵の突撃とか、銃撃、バリケード、砲撃戦? この時代も大砲、小さなものだったらしいが、
はあったようだし、、、
他には、、、、
一 「天正記」のような美女、芸人を多数はべらせて宴会途中の本能寺の変。
二 森蘭丸と光秀の妻の不倫が原因になる本能寺の変。
三 じつは織田信長はキリスト教徒になっていたとの設定の下、十字架と十字軍の格好をして出てくる信長と旗本。
○「特殊なる教養」
新参の明智光秀は織田家臣の中で古参を差し置き、
一番最初に近江坂本での城持ち大名に選ばれた。
それは、彼に特別な知識、過去があったから、としか思えない!!
>○「2ちゃんねるに、一流学者は書かない?」
「匿名でも、偽名でも書かないのは、真実が解明されていて、書くことが無いから」
と世間が見るようになったら、どうする?
心配無用。
世の中、キミみたいな妄想癖のある人間はそういないからね。
>>504 >2ちゃん以外の媒体…本当は出版社に持ち込みたいんだろうな。
その前に矛盾点を指摘してもらいたいんじゃない?
慈悲で出版したが、盗作が指摘されあえなく絶版となりますた。
慈悲で出してもらえたら幸せかも。しかしPNは「なんたら研究会」
509 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 12:14:40
慈悲は自費の皮肉だよ。
510 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 12:15:44
511 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 15:12:02
愛知県犬山市の桃太郎神社の石碑に、ここの神主は栗栖から来たと書かれている。
これは暗号になっており、明智光秀が小栗栖で死んだ事になっているから、神主は
光秀であると読める。天海(光秀)はおとぎ話(桃太郎・舌切り雀など)やわらべ
唄(かごめ、かごめ・通りゃんせ)の作者であり、光秀は生き延びて天海となって
活躍した。その物的証拠が数多く残っている。日光東照宮の桔梗紋、高野山の石碑、
慈眼寺の光秀の木像など。残念なことに暗号を解いて理解できる感性のすぐれた人
物が日本には存在しないために、本能寺の変の犯人はいまだに光秀にされている。
この誤った歴史を修正出来ないことは日本人の恥である。なぜ、暗号で残されたの
か。それは、真実を発表すると自分の首が飛ぶからであり、後世に残そうとしても
改竄されるからである。だから、暗号で残されたものは真実なのである。ダ・ヴィ
ンチコードが暗号になっているのも同じ理由である。遺伝子の2重らせん構造を解
明した科学者(ワトソン)は、生命を創造したのが神であるなら、その構造は均整
のとれたきれいな形をしている筈だと仮定して見事に解明したのである。
公卿の日記の内容が消されたり、改ざんされたのは時の支配者の弾圧の痕跡であ
り、信長の遺骸の不明、光秀の信長暗殺の動機が分からないのは光秀が犯人でない
からであり、その動機を捏造してきた歴史が野望説などとして出てきたのであり、
その戦国時代の常識が今となっては分からないのに、今の常識で解明しようとして
も分かる筈がない。まだ、昔の説のほうが現代人のとなえている説よりもましなの
である。だから、いくら東大出の学者が研究したところで馬鹿の考え休むに似たり
なのである。日本の歴史は秀才(東大出)ではなくて、天才(優れた感性の持ち主)
によって動いてきたのである。
512 :
日本@名無史さん:2006/04/03(月) 20:06:45
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
学歴コンプレックスだな。
>>501 >彼は古典、文書、茶道、有職故実、さらに兵法、築城などにも知識があったとされてるよ。
>彼の書いた心得などの文章は非常に合理的で、知的とされている。
>秀吉は「醍醐」を、「大五」と書く男だった。手紙もひらがなばかり。
当時は当て字も、構わないのですが・・・。同じ人の名前で使われている字が手紙によって違うとか。
秀吉が京都で朝廷・公家と折衝できる(教養が必要なら織田家中にも右筆上がりとかいっぱいいるし)
って信長が判断して、公家側も秀吉の教養を否定していないし。
>>505 >新参の明智光秀は織田家臣の中で古参を差し置き、
>一番最初に近江坂本での城持ち大名に選ばれた。
>それは、彼に特別な知識、過去があったから、としか思えない!!
信長上洛直後、近江で、柴田・佐久間・丹羽・中川重政あたりが城貰っていますが。
領地争い起こして中川は改易になっているから、周辺への軍事面だけでなく行政面にも権限持たされてたのは間違いない。
光秀が延暦寺の抑えの城番になったのは前任者の森可成が戦死したからだし、
占領が終われば、その方面の担当者が領地を貰うのは当時としては当然。
(浅井後に秀吉(横山城番)や丹羽(佐和山城番)が領地貰っているように)
515 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/04(火) 10:40:45
○「なぜ、他のサイトに書かないのか?」
おや、どの権威のサイトに書いても同じだからさ。本能寺の変の全ては「朝廷説、尊皇家光秀」で解明されてしまうから。
これが真実なので、ここに誰も他説を書けないだけ。嘘だと思うなら、そのサイトにこんな挑戦が全国に行われているぞとコピペしてみたら?
○「一九九七年二月に出た真実の書物」
盗作なんてとんでもない。これが全てのオリジナル。歴史学者、知識人は皆知ってるよ。
研究者、文部省、信長光秀ファンは良く調べるんだね。そして四百年に渡る謎の答えを知ることが出来たわが身の幸運に酔うんだな。
売るのを中止させたのは著者。印税が払われてなかったのさ。
何か妙なプロパガンダ工作が行われているのは盗作か、参考文献書き換えでも行われているのかな?
○秀吉に教養はあまりなかったが、周囲への情報操作には長けていた。本能寺の変でも「天正記」など書かせ、情報統一を狙っている。
これは周囲の黒田官兵衛などの入れ知恵らしい。
○光秀の場合は、新参で、敵対していた朝倉家に仕えていたとか、条件が違っていた。
このため、かなり織田家中で文句が出たが、何故か信長は大名にした。
その理由は特別な知識の為と思われる。
516 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 11:34:45
なるほど。矛盾を指摘されても認めなくていいなら
確かにどこの権威のサイトに書いても同じだわな
517 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/04(火) 11:37:28
○「計画的緻密に本能寺で信長にかねてよりの怨恨を晴らす。
が、後のことは何も考えていない、で、多くの家臣、家族もろとも滅ぶ光秀?」
これは矛盾の極みだろう? それに動機が怨恨なら、何も隠す必要もない。周囲や
安土城に来た勅使吉田兼見にはっきりと「怨恨理由」と述べているのではないか?
そして、まず、こういう後の策の無い人物は、周囲が大将に選ばないだろうね。
>>515 >○光秀の場合は、新参で、敵対していた朝倉家に仕えていたとか、条件が違っていた。
>このため、かなり織田家中で文句が出たが、何故か信長は大名にした。
もともと宇佐山は延暦寺とそこに居座っている浅井・朝倉対策の城なんだが、なんでそこの城番に光秀を起用するのはOKなんだ?
反対されたってソースは?
519 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 12:02:44
え? 普通隠すだろー? 自分だったら隠す。「私怨で主君を討った。助けて」なんて言えない。「天下のため云々」とか言わんと誰が助けてくれるんだ?
520 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 12:11:06
>>515 >そのサイトにこんな挑戦が全国に行われているぞとコピペしてみたら?
「基地外の戯言」と即削除されるよ。
>>517 君が前に引き合いに出した忠臣蔵の吉良邸討ち入りの発端になった松の廊下の刃傷事件。
あのとき浅野内匠頭が後先考えて吉良に襲いかかったと思うか?
522 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 14:58:27
>>492 流浪していたってのは疑問だな。
朝倉に身を寄せていたときでも、溝尾庄兵衛らの家人、20余人を使っていたようだし。
信長も、永禄13年には2度も50数期程度の供回りで、京の明智邸に宿泊している。
義昭に仕える以前から幕臣だったようだし、ある程度の経済力も京で持っていたのだろう。
523 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 15:49:11
524 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 17:50:37
義昭の下での光秀の出世は、義昭が光秀贔屓の信長のご機嫌を取るためさ。
元々、光秀は細川藤孝絡みの陪臣(『多聞院日記』『老人雑話』『フロイス・日本史』等々)。
525 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 17:53:10
>>521 >あのとき浅野内匠頭が後先考えて吉良に襲いかかったと思うか?
何かい、キミは光秀は一人で本能寺に突入したとでも言うのかい?
526 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 19:17:17
>>523 八切って誰?
522は公家の日記(言継卿記)と細川家記だが。
>>○
>>計画的でない突発的な謀叛だから、ザマなく負けたとこの本は言ってるんだろう。
「陰謀説を嗤う」で言ってるのは、突発的(ただし実行前夜に思いついたようなものではない)
な謀反ではあったが、充分に勝算は有ったってことだろ。そもそも無謀じゃない、という見方。
ゴタゴタしてるうちに大返しで秀吉が来たから、誰も光秀に応じなかったみたいに見えるが、
時間をかければ皆そろって光秀側につく可能性も高かった、という。
まだ○に釣られてる香具師がこんなにいるとはw
いい加減、気が付きな。○にはどんなに質問したり、矛盾を指摘したって無駄だよ。
○からの返答は、根拠も証拠もない脳内妄想ばかりじゃないか。
信長や光秀、本能寺の変を扱ったサイトはたくさんあるにも関わらず、
そういうところの掲示板には書き込まず、匿名で2ちゃんねるに書くことしかできないあたりが、
○の限界を感じさせるな。
本当に真実だと思っているなら自分で行動を起こさないとな。ただし、2ちゃんねる以外でw
530 :
日本@名無史さん:2006/04/04(火) 23:56:20
>>526 確かに二度に亘って光秀の屋敷に泊まったつていうのは事実だが、
幕臣云々は根拠は無く(『永禄六年役人附』は二期の史料が合成されたもの)、
そうした発想の大本が稀代の香具師であった八切止夫にあるんだよ。
531 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 00:02:35
>>529 >本当に真実だと思っているなら自分で行動を起こさないとな。ただし、2ちゃんねる以外でw
平日のAM11台に2ちゃんねるに書き込むのが○の唯一の楽しみなんだろ。
しばらく放置するのも一興じゃないかい。
だからもうみんなでUに移っちゃえばいいんだよ
533 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/05(水) 10:31:40
○「光秀は近江坂本城、十二万石だろ」
元朝倉方の城なら、元朝倉家臣を入れるのは大危険だよ。
○「怨恨により恨みを晴らすのも、」
内容如何では立派に武士の面目を立てたことになり、決して恥ではない。
○「光秀の前歴は四十歳前は何をしていたか不明」
資料を調べつくした高柳光寿博士や桑田忠親氏など権威がそう断言している。
○「浅野内匠頭が松の廊下で刃傷沙汰理由」武士は喧嘩両成敗が鉄則との思い込みにより、
一 吉良家も自分と同じく切腹、処罰。
二 両名家の面目立場を考慮し、不問、ウヤムヤになると考えていた可能性が高い。
○本「本能寺の変、謀略説を嗤う」
この本は「防諜」を考慮し、光秀はチャンスと見て、変前に重臣数人と謀議しただけ。だから信長殺しには成功したが、
周囲への下工作も何も無かったため、その後の手際が全て悪く、援軍もなく負けたと言ってるよ。
534 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/05(水) 10:51:00
「2ちゃんねる以外の有名歴史サイト」
そんなご大層なものがあるのなら、
そこに、ここで「本能寺の変は朝廷説、尊皇家説で全て解明されている!!」
「これが四百年に渡る謎の真実だ。他にはない!!」
と挑戦されているぞ、と書き込めよ。コピペしてもいいぞ。
僕にしてみれば、簡単に検索でき、匿名でも自由に書き込めるこの掲示板に、
堂々と「本能寺の変の黒幕は、イエズス会だ」と資料名、論文を書き込めない方が、
はるかに不自然だろ。
僕は詐欺師でも、釣り師でもないので、ここで他説には反論してやろう。
だいたい他の黒幕説には、よく言われている「疑問点」があるからな。
それへの「抗弁」を読んでみたいよ。
>>533 >○「光秀は近江坂本城、十二万石だろ」
>元朝倉方の城なら、元朝倉家臣を入れるのは大危険だよ。
なんで信長と延暦寺が対立したと思ってるんだ?〇は。
山に立てこもっている浅井・朝倉軍を撤退させる、させないで対立したんでしょう?
>>534 反論したって君に意味不明な答えですまされるからもう誰も反論しないんだよ。現に松の廊下の刃傷事件についての答えも的外れだと思うが。
それから俺は黒幕はイエズス会だなんて思ってないですから。
他のサイトにコピペ?何でそんなことしてやらなきゃならんの?対論を求めてるのは自分なんだから自分でやんなさいよ。
そもそも何で『サイト』に限るの?学会に出て発表するなり○の求める歴史学の権威に直接質問すればいいじゃない。
それとも匿名じゃなきゃまずいわけですか?
538 :
日本@名無史さん:2006/04/05(水) 22:04:29
>>534>僕は詐欺師でも、釣り師でもないので、ここで他説には反論してやろう。
それ以前に「一九九七年二月に出た真実の書物」の正体を明かせよ。
文部科学省や東大、国会図書館の知人に聞いてみたが知らんとのことだよ。
そんな彼らに調べろっいて言ったって、調べてる暇も無ければ興味も無いってさ。
>>○本「本能寺の変、謀略説を嗤う」
>> この本は「防諜」を考慮し、光秀はチャンスと見て、変前に重臣数人と謀議しただけ。だから信長殺しには成功し>>たが、
>>周囲への下工作も何も無かったため、その後の手際が全て悪く、援軍もなく負けたと言ってるよ。
だから、ここで言っているのは、あなたが言っている様に部下に説明しても誰もついてこないような
そういう状況だったのか? 無謀な作戦だったのか? っていうことでしょ。
最終的に滅んだからといって、あなたが言うような「裏に何か理由がなければ有り得ないような無謀な行為」
だったのか? 黒幕説を考えねば不自然なくらいに? 部下も説得できないくらい?
そんなことはない。それは結果論だろう。
あなたが言う、部下が作戦に従った謎、とか、山崎が戦場に選ばれた謎、とかには、
わざわざ論理を飛躍させてまで朝廷説にいたらしめるだけの説得力が無い。
単独説と考えてこれらの謎をみたときの不自然さよりも、
朝廷説と考えて、明智軍が二条御所を守ろうとしなかった不自然さの方がはるかに勝る。
540 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 06:46:08
>>539 ○以外、誰も読んだことのない「一九九七年二月に出た真実の書物」に書いてあるで
一刀両断。
541 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 06:51:23
542 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/06(木) 10:33:29
○「織田信長は比叡山と鋭く対立し、憎んでるよ。確か、言った様々な悪罵が残っているだろ?」
○「明智光秀の本能寺の変は、裏に何かなければありえないような無謀な計画、戦」
これが世の常識だよ。だから、妙だと黒幕説などが出てきたんだよ。
一 兵数、当時の織田は五百五十万石、動員十二万とか十五万、残りの織田軍とどう戦うのか?
二 勝算高い亀山城、坂本城篭城、京都市街戦もせず、一度崩れると後がない山崎天王山で戦う。
そこは京都を守るには最適な地ではあるが、、、。
三 光秀に従うより、信長に従って毛利などとの勝つ戦をした方が略奪、褒美目当ての兵らには有益なのに、、。
○「光秀が当時誠仁親王の住居だった二条城守備兵を出さなかった理由」
一 とっさの事で信長、信忠には誰が犯人、黒幕なのかわからないだろう。必要なし。
二 親王の住居は当時内裏と同じ聖域なので、踏み込むような非礼はしないだろう
と尊皇家光秀は思っていた。
三 事前の朝廷と光秀の慎重な謀議により、織田に何も気取られない為にしないことにした。
543 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/06(木) 10:50:37
嘘つけ、これこそプロパガンダ工作だろ。
書名は大体知識人なら知ってるよ。
それほど言うのなら、文部科学省や、東大、国会図書館のどこの役職、課にいる誰に聞いたんだね?
君の友人の個人名と、役職、連絡相談した先を書いてみろよ。
本人が存在しているか確認してやるから。
それが無理なら、此処の掲示板のことを言い、
「私は文部科学省、私は国会図書館の何々課にいるA・本物だが、本能寺の変に対しての新発見があるらしいので
、此処にその書名と内容、論理について教えてほしい」
と書かせてみろ。名前は匿名でもいいが、ついてる役職、官名、部署ははっきり「本物の」と書かせるんだぞ。
そしたら答えを教えてあげよう。
言っておくが「官職詐称は立派な罪、詐欺」になるよ。
名は「東大教授のA・吾輩は本物である」でもいい。
「日本史最大の謎とされた本能寺の変は、全て解明されている」
と豪語されている。これを放っておいていいのかとね。
>>541 「君が推薦している有名歴史サイトには、僕が書き込むべき掲示板が無いんだけどね」
>>543 だから、タイトルと著者名を出せ。
国会図書館とかなんとか関係なく、それだけで君にかけられた嫌疑(脳内ソースの
でっちあげ)は解かれるのだが?
君が「ある」といっているのだから、君が存在証明しないでどうする。
545 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 11:20:57
>>543掲示板じゃないけど『読者のページ』はあるよ。ガンバレー(^O^)ノ
546 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 11:57:25
>>543 誰がそれを言ったか自分で確認はするけど他サイトに書き込む、歴史学の権威に直接質問する等については他人に頼むんだな。腰抜け。
>>542 >>一 兵数、当時の織田は五百五十万石、動員十二万とか十五万、残りの織田軍とどう戦うのか?
当時の兵は、帰属する組織に忠誠を誓い統率されたような軍隊とは違う。
特に急激に規模を増した織田のような家は、知っての通り勢力の大部分が他所から組み込まれた連中。
残りの織田軍勢が一丸となって全て敵にまわるとは考えにくく、部隊単位で戦っていけば、勝算はある。
>>二 勝算高い亀山城、坂本城篭城、京都市街戦もせず、一度崩れると後がない山崎天王山で戦う。
>>そこは京都を守るには最適な地ではあるが、、、。
山崎での戦が光秀軍にとって格別に不利ならばともかく、あるいはその他の作戦が格別に有利ならばともかく、
光秀が山崎の戦に至った経緯に、背後に何かを思わせる程の不自然さは無い。
>> 三 光秀に従うより、信長に従って毛利などとの勝つ戦をした方が略奪、褒美目当ての兵らには有益なのに、、。
家臣たち全員に計画を知らしめ、ディベートさせたわけではない。
「本城惣右衛門自筆覚書」によれば、実行部隊にすら、織田信長が標的であるとは知らされなかった。
本能寺の変での現場指揮者にさほど人数を要したとは考えにくく、目撃されている斎藤利三親子など、
賛同者となる公算の高い人間を光秀が選び出したと思われる。
……というか、仮に「従来の説だと不自然」であるとしても、その事と、
「別の○○説こそが真実だと確定できる」という事の間には
かなり大きな隔たりがあると思うのだが……
>>542 >> ○「光秀が当時誠仁親王の住居だった二条城守備兵を出さなかった理由」
>> 一 とっさの事で信長、信忠には誰が犯人、黒幕なのかわからないだろう。必要なし。
犯人やら黒幕やらはともかく、それなりの数の兵隊をあの付近に集めて軍事行動をとるのだから、
あの一帯は危険地帯になるとみなすべき。事実、巻き込まれたし、それは予想がつくことだった。
>> 二 親王の住居は当時内裏と同じ聖域なので、踏み込むような非礼はしないだろう
>> と尊皇家光秀は思っていた。
二条御所は、もともと織田の屋敷として建てられた。
また、光秀と朝廷との関係は悪くはなかったが、特に尊王家であったという史料はない。
>> 三 事前の朝廷と光秀の慎重な謀議により、織田に何も気取られない為にしないことにした。
事前に多人数を避難させるか否か、という話であればまだその理屈も分かるが、
実際に兵を動かし、軍事行動を起こした後でさえ手つかずであるというのは、
朝廷が変に関わっていたと考えると、やはり不自然。
まあ、朝廷説にしろ、どんな陰謀説にしろ、完全に否定する事は不可能。
無いという事を証明はできない。悪魔の証明と言うんだっけか?
だが、こちらの方が説得力がある、こちらの方が確率が高い、などと言う事は出来る。
「朝廷説でないとおかしい」と言えるくらいの決定的な証拠が無い限りは、
全体的、総合的に不自然さ、論理の飛躍の多い少ないを見ていくほか無い。
少なくとも私は朝廷説に説得力を感じない。
よく見てみれば、
>>541 >>543 >>545 別のサイトへ行こうという流れみたいですね。
なんか引き止めるような長文書き込みをして、申し訳無かった。
どうか○氏、2ちゃんねるを立派に巣立っていってください。
がんばって。
550 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 16:01:33
忠臣蔵の陰謀を暴く
元禄14年江戸城松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶという一大事件が起きた。
刃傷に及んだ遺恨の原因で最もらしいのは、赤穂の塩と吉良で造る饗庭塩の江戸市場占有争い
の説であるが、良質で安値の赤穂の塩を市場が選んでしまうので、これも誤りである。いくつも
の説が出てくるのは、創作されて後で否定されて来た経緯があり本当の事は分からないのである。
大石内蔵助の正体は4代将軍家綱の嫡男で、将軍継承争いで命を狙われ大石家の養子としてか
くまわれた。内蔵助の幼名は竹千代で、将軍後継者に付けられる名前である。
3代将軍家光は光秀と春日局の子である。家康の家と光秀の光をとって家光と命名した。春日
局が後水尾天皇を退位させたり、養子堀田正俊が大老になれたのは、春日局が家光の生母であり、
天海(明智光秀)の後ろ盾があったからです。
忠臣蔵の真相は人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の中に暗号として隠された。幕府の目を誤魔化
す為に人物名を「太平記」に登場する人物名に替えている。
大石内蔵助を大星由良之助で示している。大星は天皇の暗示で、光秀が聖徳太子の孫長屋親王
の子孫で正統な天皇の血筋だから、家綱の嫡男と読める。
大石内蔵助は大星由良之助、吉良方梶川与惣兵衛は加古川本蔵で表現されている。両名の名は
由良川と加古川を示し、福知山(光秀の御霊神社)を挟んで、両方の川が綱引きしている形に見
える。由良川の流域には春日局の生誕地春日町があり、加古川には北条市がある。将軍の継承争
いを春日局と北条側柳沢吉保が行い、権謀術数によって北条側が勝ち、綱吉を家光の4男と偽っ
て5代将軍に据えた。吉保は浅野家に家綱の嫡男が隠れている事を突き止め、浅野家を取り潰し
てから家綱の嫡男を殺害する陰謀を企てた。
浅野内匠頭は切腹する前にいろはの歌を詠んだ。
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす ん
最後の語句を繋ぐと、とかなくてしす、と読める。浅野内匠頭は刃傷事件をやっていないと言
っている。浅野家取り潰しの偽の口実にされたのです。
>>550 先生、なんで七文字毎で区切るんですが?
和歌の作法にそんなのありませんが。
つーかスレ違いじゃないですか?
>>547 少し流れとは違うが、結局の所問題は戦術的可能性の事ではなく、大儀の有無。
理想の無い所は戦い続けることは出来ない。
光秀は後世信長の対照みたいにされたお陰で、仁義や良心が有りそうに描いて貰える事も多いが
結局は欲得を追い求めるだけの冷酷非道な男だと思うね。
まぁスレ違いではあるが、とりあえず
江戸時代の人、縦読み乙wwww
>>547に同意。
朝廷を含め様々な勢力を黒幕とする説があるけど、どれも物足りない(特に○の説明では意味不明)。
光秀が単独でことを起こした後に朝廷を担ぎ上げるつもりだった、としたらまだわかるかも。
歴史研究家が○の書き込みを読んで尋ねました。
「典拠は何? 参考文献は何?」
○は「一九九七年二月に出た真実の書物」と答えました。
歴史研究家は更に尋ねました。
「著者は誰? 正確な書名は何? 出版元はどこ?」
○は一言も答えることができませんでした。
歴史研究家は「それでは話にならない」と去っていきました。
よくまぁ釣れることよ。バカな○に質問してる香具師もバカだろ。
557 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/07(金) 10:39:39
>>547○「部隊単位で戦えば光秀に勝算はある?」
柴田、丹羽、滝川など大将、将官クラスは元古参であり、新参の有力者からは裏切りを警戒し人質を取る。
光秀を討てば、その後の権力争いには有利であり、また人脈も婚姻などで入り組んでいることから、
少なくとも光秀討伐までは団結した可能性が高い。その場合の兵力は光秀の数倍だろう。
○「京都は南からの攻勢に守れるような地形ではないのに」
この当時の常識として一万五千対三万もの兵数差があるときは、要害などを選んで戦うのが常識。
平地での戦いは、勝っても負けても損害が多く大名の負担になるから。平地決戦が少ないのはその為。
また楠正成が南方から進んでくる足利軍対決のとき、京南は守れるような要害なしと断言。
斉藤利三も丹波亀山などなら勝算ありという。にもかかわらず天王山。
そこは京都を守る、という以外はほとんど意味のない地である。
○「本城惣右衛門覚書」
この不自然さは指摘している。信長が馬一匹に乗り、逃げてしまえば全て水泡。
彼の暗殺は先鋒には絶対的命令だろう。にも係わらず彼は相手が誰かも、知らなかったというのだ。
また事変後、不利、損と思えば光秀将兵には逃亡、不参加する自由はあった。
が、安土、天王山まで従っていっている。
558 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/07(金) 11:04:01
>>548 ○「二条城守備隊を光秀が出さなかったのは」
それは結果論だろう。光秀軍は完全武装。信忠馬馬廻りは全く無防備。
しかも二千のうち千五百は妙覚寺ではなく周囲の民宿に泊まっていたという。
普通は集まった無防備五百、一説には千人、で袋のねずみになる篭城するなど考えず、
安土への脱出、或いは逃げ回ると予想するだろう。それを討つ予定の兵配置だったかもしれない。
○「光秀は尊皇家」
光秀は御所御料山国荘を横領していた宇津頼重を討伐、誠仁親王、女官らを喜ばせ、二条城修理にもかかわり、正親町天皇から下賜品を貰い喜んだ。
安土城から上洛の際、百官の出迎えを受けた。誠仁親王に銀五百枚を差し上げた。
○「朝廷は残りの織田大軍を警戒していた」
織田の大軍がまだ健在だからさ。かって朝廷は北条幕府に公式に敵対し、度々痛い目にあってるし、
織田相手なら、さらに慎重にならざるを得なかったろう。
おそらく光秀が近畿圏を制圧し、勢力拡大するのを裏から援助し、それを背景に各遺臣、
大名らと交渉するつもりだったのだろう。
慎重な相談がなされて、疑いを掛けられるのを最初には避ける計画なら全く不自然ではない。
559 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/07(金) 11:11:55
「ときは今、あめが下しる五月かな」明智光秀。
日本で一番有名な連歌だが、よく知られた
「土岐氏が今、天下を統治する五月になったのだ」
という意味があるとされる。しかし、それは秀吉らが言い出したことであって、
光秀が尊皇家とすれば、これは、全く別の意味にもとれる連歌なのである。
>>555 その研究家に
「あなたは、戦国の歴史に興味のない、全く不勉強なモグリと判明しました」
と断言してあげなさい。
ではまた月曜日か、火曜日に、、、
やっぱり信長との性格の不一致が問題だったと思う
プロバイダと新聞の契約解除理由に性格の不一致です
って答えていた香具師がいたなァ・・・。
>>557 >>○「部隊単位で戦えば光秀に勝算はある?」
>>柴田、丹羽、滝川など大将、将官クラスは元古参であり、新参の有力者からは裏切りを警戒し人質を取る。
織田の大軍、と言うが、兵の中にはもともとの自分の所領を基盤とし、大将が生殺与奪を掌握しきれない
人間も多くいて、風向き次第では多くの兵士達が織田家臣たちのもとを離れる事は充分にありえる。
少なくとも、織田親子存命のときの兵力を、柴田等がそのまま明智攻めに使うことは難しいだろう。
もし大返しが成功せず、近畿が光秀のもとに平定されれば、他の家臣団連中にとって、
相当のリスクを覚悟しなくては戦う事の出来ない位の勢力となっていたと思われる。
>>○「京都は南からの攻勢に守れるような地形ではないのに」
大軍に対して、劣勢の兵力で相手の出ばなを叩く、というのは有り得る戦法。
もちろん、その時の光秀にとってその選択が良かったのか悪かったのか、それは分からない。
より勝算のある戦い方を逃すというミスがあったのかもしれないし、現場の事情やら、
戦局に対する光秀の心理状態やらの紆余曲折あって、山崎の戦に望んだのかも知れない。
いずれにせよ、朝廷黒幕説に結びつけねば説明出来ない、というほど不自然なものではない。
>>○「本城惣右衛門覚書」
>>この不自然さは指摘している。信長が馬一匹に乗り、逃げてしまえば全て水泡。
>>彼の暗殺は先鋒には絶対的命令だろう。にも係わらず彼は相手が誰かも、知らなかったというのだ。
他の史料による反証も無しに、自分の推論のみで、数少ない史料を否定してしまうのは、
歴史を考える者にあるまじき行為。
まずは史料を足がかりとしてそこから考えるべき。事件当時の詳しい状況も史料無くしては分からない。
現代人である自身の常識やら先入観やらを優先させてしまう事態は、自ら禁じなくてはならない。
>>558 >>普通は集まった無防備五百、一説には千人、で袋のねずみになる篭城するなど考えず、
>>安土への脱出、或いは逃げ回ると予想するだろう。それを討つ予定の兵配置だったかもしれない。
信忠がもともと織田の屋敷であった二条御所を利用する事が、それほど番狂わせな事態であったかどうか。
まあ、それはともかくとして、もし襲撃部隊が親王の安全に気を配っていたならば、ある程度の兵を御所に
つかせるのは難しい事ではないし、あれほど間近で、それなりの火を使った戦闘をしながら、それでも全く
それをしなかったのは、襲撃側は親王の安全にさほど頓着する立場ではなかったから、と見るのが自然。
>>光秀は御所御料山国荘を横領していた宇津頼重を討伐、誠仁親王、女官らを喜ばせ、二条城修理にもかかわり、
>>正親町天皇から下賜品を貰い喜んだ。
>>安土城から上洛の際、百官の出迎えを受けた。誠仁親王に銀五百枚を差し上げた。
それを尊皇家の証拠とするんであれば、当時の誰も彼もが尊皇家だろう。
あなたの説の論拠として光秀の尊皇家ぶりを挙げるのであれば、人並みはずれて、徹底した尊皇家であったという
史料が必要である。しかし、そういうものは無い。
>>おそらく光秀が近畿圏を制圧し、勢力拡大するのを裏から援助し、それを背景に各遺臣、
>>大名らと交渉するつもりだったのだろう。
>>慎重な相談がなされて、疑いを掛けられるのを最初には避ける計画なら全く不自然ではない。
あなたは「そこまで推論すれば、朝廷が黒幕であってもこういうことは有り得なくはない」という、
証拠をともなわない理屈を言っているだけ。史料に基づいた推論ではない。
悪く言えば、あなたの言う理屈は、朝廷説ありきの論理になっている。
そもそも、御所のそばで軍事行動をとるに際して皇族の安全に配慮する事が、果たして周囲に朝廷黒幕説
の疑いを抱かせるほどの行為か?(貴説では黒幕である)朝廷が親王を危険にさらしてでも避けるほどに?
素直に史料を捉えれば、当初襲撃側の人間は、さほど朝廷と密接ではなかった、と考えるべき。
「性格の不一致」って「音楽性の不一致で解散」
に通じる物があるよな。実際は違う所に理由があったという。
565 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 14:31:05
○は各資料を否定するときは必ず推論を無理やり押し通し、それにさらに反論が出ると完全に無視だしな。
○は土日なにしてるんだろ?
568 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 18:31:08
自宅にPCが無いんだろうね。
569 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 19:00:00
光秀は天海ってほんま?
570 :
日本@名無史さん:2006/04/09(日) 20:38:41
聞くだけ野暮。
>光秀が尊皇家とすれば、これは、全く別の意味にもとれる連歌なのである。
まさか津田勇の説じゃねぇだろうなぁ?
>>563 それらの疑問は多くの人が指摘してきたけど、○は自分が正しい。としか答えませんよ。
このスレの最初から読み直してみては?無限ループしてるだけだから。
光秀が1528年頃の生まれで天海が死んだのは1643年。ちょっと苦しいだよ。
575 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/10(月) 10:50:04
>>562○「兵数について」勘違いするなよ、542の前半は「突発的怨恨、野望説」に対してよく言われる疑問。
織田軍が一枚岩でなく分裂するかも、兵数少なくなるとか、各個別撃破できる、或いは近畿を制圧すれば
なかなか手出しできないなどとは、むしろ計画的見方であり、
私の主張する「計画的・朝廷との謀議説」にこそぴったりすると思うのだが。
いずれにせよ、光秀が最初兵数的にかなり劣勢になるのは解っていた。天王山を見ても。これを補佐でき、
変を起こさせられるのは朝廷の潜在的能力、工作しかない見るべきだろう。
○「光秀は天王山を決戦地に選ぶ必要はなかった」
昔から何回京都近郊で決戦が行われていると思っている? 京都が攻めるに易く、守るに難しいとは、楠正成などの
名将らが述べてるよ。昔から何故か京都放棄を好まないのは朝廷だけ。特に三万対一万五千の兵数差は平原などでは圧倒的不利だが、
市街戦、それでの火攻め、篭城、要害戦となるとそれほどでもない。光秀ほどの知者がそれをせず天王山てなると、
京都防衛が目的としか思えない。
○「本城惣右衛門覚書」
残っている資料が少ないからこそ真偽には神経質になるべきだろう。
少なくとも信長の逃亡を光秀がひどく恐れているはずである。先鋒が必殺隊なのは疑う余地もない。
にもかかわらず、迅速なる行動、相手や場所が誰かも解らない、銃声が聞こえない、信長の馬廻りの顔も知らない?
相手が「信長公の座所だぞ」とも喚かない? と色々と疑問が出てくるのは何故なのか?
>>575 >
>>562○「兵数について」勘違いするなよ、542の前半は「突発的怨恨、野望説」に対してよく言われる疑問。
誰が言ってるの?
>>575 > 織田軍が一枚岩でなく分裂するかも、兵数少なくなるとか、各個別撃破できる、或いは近畿を制圧すれば
> なかなか手出しできないなどとは、むしろ計画的見方であり、
> 私の主張する「計画的・朝廷との謀議説」にこそぴったりすると思うのだが。
どう考えても計画的にはおもえないんだが…
578 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/10(月) 11:15:01
○「光秀は二条城防御の兵を出さなかったことについて」
慎重な朝廷との謀議の末に誠仁親王がそのことについて聞かれ「織田に気取られないために要らない」
と断言していたら光秀はその言葉を守るだろう。また二条城にも朝廷の守備隊くらい要るのではないのか。
○「光秀は尊皇家」例えば尊皇家でなかったら?と考えてみよう。木曾義仲がいいモデルになる。
一 二条城に織田信忠が立て篭もったとき、中に親王と家族がいても攻撃を続行する。
二 天皇の家族を城などに人質にとり、自分に征夷大将軍位、各国大名に光秀に味方せよと都合のいい綸旨、勅命を出させる。
三 京都や近郊での篭城のための用意などの物資や宝物の略奪を行う。
四 京都で秀吉軍相手に市街戦、火攻めなどを行い、どうでも情勢有利になるように狙う。
など好き勝手にやれたはずだが、そんなことは全くしていない。むしろ吉田兼見を通じて指示を仰いでいる節がある。
○「京都での変は、光秀だけでは出来ないということ」
一 出陣前の織田信長を安土城、親衛隊と切り離し、少数で京都に呼び出し泊める。
二 六月一日から二日の夜まで本能寺に確実にいるように足止めする。来たのは貴族と僧侶。
三 戦国時、殆ど要塞都市みたいだった京都に外部からの完全武装の大軍侵入を夜間許す。
四 自警団、夜回りに全く気づかれず、町境にあった盗賊よけの木戸でも騒ぎになっていない。
五 光秀は京都と中国への分かれ道である老の坂で夜間休息し、何かを待っていた。
579 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:41:10
平日の昼最中に愚だ愚だと書き込める○の身分って・・・・・
580 :
日本@名無史さん:2006/04/10(月) 11:48:07
>>575 >私の主張する「計画的・朝廷との謀議説」にこそぴったりすると思うのだが。
キミの主張ではなく「一九九七年二月に出た真実の書物」の著者のだろ。
盗作はいかんよ○クン。
581 :
釣られ真下:2006/04/10(月) 12:32:05
>>578
>○「光秀は尊皇家」例えば尊皇家でなかったら?と考えてみよう。木曾義仲がいいモデルになる。
義仲を例えに出す時点で稚拙な思考力丸出しだね。
>一 二条城に織田信忠が立て篭もったとき、中に親王と家族がいても攻撃を続行する。
「尊皇家」云々以前にそんなことしたら朝敵になっちゃうだろう。
>二 天皇の家族を城などに人質にとり、自分に征夷大将軍位、各国大名に光秀に味方せよと
>都合のいい綸旨、勅命を出させる。
上に同じ。そんな将軍誰も認めないし、協力もしない。そんなことは切羽詰まってやること。
>三 京都や近郊での篭城のための用意などの物資や宝物の略奪を行う。
さらに同じ。反感を買うだけ。
>四 京都で秀吉軍相手に市街戦、火攻めなどを行い、どうでも情勢有利になるように狙う。
>など好き勝手にやれたはずだが、そんなことは全くしていない。
またまた上に同じ。
>むしろ吉田兼見を通じて指示を仰いでいる節がある。
治安維持を命じられているけど、それはかって信長にも命じたことだよね。
>578
>○「京都での変は、光秀だけでは出来ないということ」
一、どうせ呼び出したという証拠など出せぬのだろう。バカめ。
二、足止めなど結果論に過ぎぬ。バカめ。
三、謀叛を起こすと声高に喧伝しながら来たとでも思っているのか。バカめ。
四、同上だ。バカめ。
五、どうせその「何か」の説明もできぬのだろう。バカめ。
尊皇派で京都で戦った武将といえば楠木正成公だな。
斉藤利三の友人海北友松が利三の首を強奪した
と言うが、当時の警備ってそんなに薄くてよかったのんでしょうかね。
584 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 02:16:57
もう、こんなスレつまらんわ、二度と見ねーよヴォケ
585 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 09:37:23
千利休の正体は明智光秀(斎藤義龍)
秀吉は利休を御茶頭に取り立て、政治の相談役として寵愛した。利休は堺の商人
の長男として育ったのだから政治が分かる訳がなく、秀吉の相談役にはなれない。
利休は町人だから切腹など出来ない。
秀吉が利休切腹の理由を明言せずに家臣を死なせることはおかしい。
利休失脚の一因として、大徳寺の利休の木像問題があるが、質素を旨とした利休
が蓄財する筈がなく、大徳寺の山門寄進など出来ない。仮に出来たとしても寺側が
感謝の気持ちで木像を作ったのだから、利休には責任は無い。
利休の切腹は矛盾だらけである。切腹なら前身が武士でなければおかしい。利休
ほどの人格者で、日陰者にならなければならない武士は光秀以外には考えられない。
なぜ、利休は切腹という芝居で身を隠さねばならなかったのか。それは利休の正
体が光秀であるという噂が出たことと、家康が彼を欲しがったためである。
秀吉と家康が光秀を殺せなかったのは、彼が正統な天皇家の血筋である長屋親王
の子孫(一色左京大夫義龍)であり、天皇家の祟りを恐れたからである。
586 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 10:29:51
古田織部の正体は古田兵部少輔重勝(斎藤竜興)
本巣市の山口城は古くから美濃守護が居住していた。古文書には梶原景時、古田
兵部少輔重勝、古田織部の名がある。
古今茶人系譜には古田重勝と記されている。
大徳寺誌に古田織部助重勝が利休没後に茶家の宗匠になったと書かれている。
古田重勝が1585年従五位下兵部少輔に、古田織部が同年従五位下織部正に任
ぜられている。両者は同じ年に同じ位の官位を得ている。
このように見ていくと、古田織部と古田重勝は同一人物のように見えるが正説で
は否定している。しかし、私は同一人物だと確信している。古田織部と古田重勝を
異なる人物に見せるために、古田織部助重然を創作したと考えている。古文書の記
録が間違う筈がない。改ざんの弾圧を逃れた文書が残っていたのである。1585
年に美濃守護になれる人物は斎藤竜興以外には考えられない。
織部燈篭が辰の字を図案化した物になっているのは、織部の生まれ年が辰である
事を意味し、竜興は辰年生まれである。しかし、茶道四祖伝書に織部は卯の年の人
なりとあって、織部燈篭と結びつかない。ここにも改ざんの臭いがする。
古田織部の正体が斎藤竜興である事を隠さなければならない理由は、古田織部が
長屋親王の子孫で光秀の嫡男だからである。古田織部が切腹の芝居をしたのもその
ためである。(古田重勝は関ヶ原の合戦で家康方になっており、大阪方に内通する
事は有り得ない)
古田織部は後に柳生宗矩に化けた。その根拠は家紋である。古田重勝の家紋は唐
人笠三であり、柳生家の家紋は唐人笠二で非常に似ている。文殊の八幡神社の額は
佐々木小次郎の揮毫と言われ、塚原卜伝、梅津玄旨斎などの剣客がこの地を訪れた
名残が残っている。
587 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/11(火) 10:55:21
>>581○「木曾義仲」、切羽詰って色々とやってるからね。
一 「二条城攻撃を中に親王がいるのにすれば朝敵になる?」
? 光秀公は誠仁親王様と家族を人質にし、誘拐しょうとした織田信忠を討ったのです。
というか、朝廷は京都で皇族と財産を人質にする光秀を、誰に討たせるの?
二 「光秀が無理に出させた勅命に地方は従わない?」
当時の情報伝達速度などでは京都の真実は地方にはよく解らんし、正式な勅命、綸旨の方に従うでしょう。
地位も無理やりでも正式になってれば、、、
三 「京都での略奪をすれば反感を買う」
反感を買っても勝てばいいの論理も成り立つね。過去やってる奴はやってる。
信長も上京とか過去に焼き払って勝ってるね。
四 「京都での市街戦、火攻め」
反感を買っても光秀の相手が全滅し、勝てば何も言えないでしょ?
命、財産、家族家臣、全てを賭けた戦いでやらない光秀とは?
○もし光秀が世に言われてるような邪悪な私利私欲にとらわれる人間なら、何でもやってるよ。
五 「光秀は親王の言葉に従ってる」
尊皇家でなければ、おとなしく言うこと聞かないだろう? 例えばこんなとき、部下の略奪とか無理に止めれば反感買って、
逃げる、逆らうし、、。なかなか強くは出られんよ。
>>582○「信長の京への呼び出し、本能寺への足止め、軍の進入路確保、木戸の番衆への手配、光秀への知らせ」
京都とその近郊で絶対の力を持ってる朝廷ならどれも簡単。
他勢力ならばまず無理。
588 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/11(火) 11:15:13
○「明智光秀は生き延びて、千利休となった!?」
この二人と、妙な説については調べた人がいて、二人は同時期、別場所にいたことが確認されている。
つまりアリバイがあるのである。
○「衝撃、あの古田織部の正体は、斉藤竜興?」
だから斉藤竜興は朝倉義景の滅亡のとき、戦死してるって。
それが確認されているはずだが、、、、
>>588 定期的に沸いては論破されて、消えていきますね、この人。
多分相手しても無駄だと思いますよ。
>>587 >○「信長の京への呼び出し、本能寺への足止め、軍の進入路確保、木戸の番衆への手配、光秀への知らせ」
>京都とその近郊で絶対の力を持ってる朝廷ならどれも簡単。
信長の上京が毛利攻めのためでなく朝廷の要請によるものってソースを。
そもそも信長が三職に就くのを断ったとか朝廷をないがしろにしているってのが朝廷黒幕説の根拠だと思うのだが、
朝廷の言うこと信長聞いたの?
>>軍の進入路確保、木戸の番衆への手配
普段は封鎖されていたというソースを(そもそも誰が封鎖の主体なのか、京都の町衆なのか、所司代配下なのか)
信長配下の軍勢も、いちいち誰かの許可がないと京都市中を通行できなかったって証拠ね。
592 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 11:51:56
百人一首小倉色紙に秘められた暗号
「百枚の定家」の著者梓澤要氏は、なぜ藤原定家が百人一首を編纂し、74歳の
老齢になってそれを「小倉色紙」に書き込んだのか、まるで分かっていない。
和歌の秘伝「古今伝授」は神道奥義「言霊」を含んだもので、日本は言霊の幸あ
う国と言われ、定家はこの言霊の伝承を残そうと、老体にむち打って鬼気迫る思い
で書き上げたのです。
だから、定家の執念がこもった迫力のある物が真筆であり、達筆できれいに装飾
された物はほとんどが偽作である。土岐市で見つかった11枚の小倉色紙だけが本
物である。その中に明智光秀愛蔵の
「あはちしまかよふ千鳥のなくこゑにいく夜ねさめぬ須万のせきもり」がある。
しかし、光秀が討たれ、坂本城にいた光秀の妻子は自害し、明智家の財物は城と共
に焼失した筈である。どうして色紙が無事だったのか。それにはからくりがある。
津田宗及が嘘を言っているのである。この色紙は天正7年1月8日の光秀の茶会で
使われた物ではなくて、千利休が後に使用した物である。光秀は天正6年10月に
起きた荒木村重の謀反で苦戦しており、翌年の正月に茶会など行う余裕は無い。
「あはち島」の歌は、信長殺しの濡れ衣を着せられた悲しみを千鳥が泣く事で表現
している。同じ11枚の中の
「みかの原わきて流るゝ泉河いつみきとてかこひしかるらむ」の歌の色紙に紙背
文字が書かれている。
「きのふといひけふとくらして泉河流れてはやき月日なりけり」古織殿妄魂
甫
昨日と言い今日とくらして長生きしていると、月日は早いものだなあ、と古田織
部の亡霊が言っている。と甫(小堀遠州)が書きとめた。
ということは、古田織部は切腹しないで生き延びた事になる。この極秘事項を後
世に残そうと、小堀遠州が色紙の裏側に隠すように書いたのである。
小倉色紙百枚が伊勢の北畠家に残されたのは、「神皇正統記」を書いた北畠親房
が神道家であるからであり、連歌師宗祇が50枚貰い受けたのは「古今伝授」の継
承者だからである。神道奥義「言霊」の理解できない、堺の豪商や戦国大名に渡っ
た小倉色紙はすべて贋作である。
593 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 12:11:27
神智学のすすめ
私は若い頃から、教科書に書かれている事柄に疑問を持ち、色々悩んできました。
1たす1がどうして2になるのか。真剣に考え込みました。すると、数が不変な
物理的な事象でしか成り立たないことに気づきました。
1個のりんごの存在する状態の中にもう1個のりんごを加えた結果が、2個のり
んごになると言う事です。
掛け算の逆の演算が割り算になるということの証明は、2列に並んだサイコロの
3組の総数は6個であり、6個を3組に等分するすると2個になるということで証
明できます。数学とは物理的事象を記号化して、論理的に築き上げられた学問だと
分かりました。
しかし、負の数の概念が理解できないのです。1個のりんごにマイナス1個のり
んごを加えると0(ゼロ)となる。このマイナス1個のりんごとは何なのか。1個
のりんごの存在を消すマイナス1個のりんごは物理的に存在するのか。この世の物
理的現象では、物質は姿を変えることがあっても、決して存在が無くなる事は無い
のです(エネルギーに変わっても)。だから、負の数など存在しないのです。
アインシュタイン博士は、光の速度が観測者の運動とは関係なしに、たえず、一
定であるという仮説の基に、特殊相対性理論を打ち立てました。しかし、私は疑問
とせざるを得ない。光の速度が一定なら、光速度で運動している物質を光速度で逆
方向に運動している観測者が見れば、2倍の光速度になる筈です。そのようになら
ないのは、光が物質の動きに反応して速度を変えるから、観測すると一定の光速度
になるのです。ちょうど、物質が動こうとすれば、それに逆らって空間から慣性力
が働くように。フレミングの右手の法則も物質の動きに逆らうように電流が流れる。
まるで、意志を持っているかのように物質の動きに反応する。
怪我などで生体に傷が出来た時に、それが元どおりに修復出来るのはなぜなのか。
修復作業の命令を出しているものは何なのか。その命令がどのようにして各細胞に
伝わるのか。
この世の森羅万象は神の意志(心)によって動いているのです。超能力現象はこ
の原理によって人の意志でも発揮出来る事があるのです。
594 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 12:33:58
>>593(・ω・`;)あのー。おバカな私に、リンゴとアインシュタインと明智の関係を教えてたもれ。
595 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 13:53:34
>>588 何回言わせるのか。
斎藤義龍は道三が実の父ではなく、父土岐頼芸と愛妾三芳野の子で、父の実権を
奪った仇であることを知り、仮病(癩病)になって道三の子を殺害した。その6年
後、義龍は仮病が本当の癩病(近親相姦による業病)になって亡くなった事になっ
ている。仮病が本当の病気になる筈が無いし、義龍は子が母を犯すけだものだと侮
辱している。これはフリーメーソンが使う常套手段で、正統で高貴な人物をあえて
侮辱するのである。聖徳太子の母を穴穂部間人(間男)皇女と言うのと同じである。
やはり、義龍が明智光秀で、光秀は聖徳太子の孫長屋親王の子孫である。埼玉県川
越市に天海が創建した三芳野天満宮がある。天海(光秀)は母親を偲んで母親の名
前を付けた。これによって明智光秀は斎藤義龍である事の証明になる。土岐頼芸の
墓の家紋は丸に二引両で、天海の建てた喜多院の家紋も丸に二引両である。
支配者から言えば、光秀が聖徳太子の孫長屋親王の子孫であることは極秘で口が
裂けても言えない事であり、今上天皇が朝鮮人で偽の天皇であることと一緒でこれ
らの事を隠すために、光秀の素性を隠し、義龍は死んだ事(虚構)にしたのである。
明智光秀が千利休であると言う噂が立った時、両者を別人に仕立てるために同時
期に別場所にいたというアリバイ工作がねつ造された。斎藤竜興は稲葉山城落城の
時、なぜ討たれずに助かったのか。そんな事は有り得ない。(竜興は天皇の血筋だ
から助けられたのである。)竜興は信長に監視されており、朝倉義景を頼って越前
へ逃亡した事など嘘に決まっているではないか。そんな事も分からないとは情けな
くて涙が出る。歴史に嘘を書く事ほど簡単なものはない。
>>587 >○もし光秀が世に言われてるような邪悪な私利私欲にとらわれる人間なら、何でもやってるよ。
ってフロイスや明らかに彼に悪意をもったような人物評以外に誰が言ったのかな。
少なくともまともな研究者はそんな見方はしてないはずだがね。
そんなことで「尊皇家」云々を論じるなんて実に稚拙だね〜。
597 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 15:48:36
○の人は邪魔だから自分でスレ立てるなりして勝手に妄想やってれば良いんじゃないか、他の素晴らしい内容がだいなしになるし、○は読んでて不愉快になる。
598 :
日本@名無史さん:2006/04/11(火) 15:51:34
>>597 別スレ立てたら誰にも相手にされないからここに書き込んでいるんだよ。
自分の無知や稚拙さをさらけ出しているのも解らずにね。
基地外の一人や二人、別に無害だから許してあげな。
それに○を叩くことでまともな発言が寄せられているんだからね。
>587
>京都とその近郊で絶対の力を持ってる朝廷ならどれも簡単。
>他勢力ならばまず無理。
また証拠を出せないから逃げたな。度し難きバカめ。
光秀が突発的に謀反を起こした理由は?
どうしても謀反を起こさないといけない理由はあったんでしょうか?
結局、今も昔も「君が代」の時代には変わらないのだから
もしも朝廷説が真実だとしても
その証拠は出るばすもないのでは。
TVによく出てる作家の人が言ってた
「朝廷が危機に瀕するたびに朝廷に有利な歴史の流れとなっている」って
>>587 無理やりにでも正式な勅命、綸旨なら地方が従う?戦国時代にその判断は危険じゃないかね?
>>603 地方の権力者は自己の正当化の為に中央の権威を利用しても、その権威の命に唯々諾々と従いやしないよね。
のらりくらりと返事を引き延ばし様子を見るのが関の山。
それ位の判断は光秀にも付いただろうね。
そんなことで「尊王家」云々を論じるなんて○ちゃんはほんとウププだね。
605 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/12(水) 10:44:13
○「織田信長は朝廷から言われ、上京した」
普通は出陣前というのは用意でゴタゴタしていて、なかなか暇は取れないぞ。
○信長は前年の大馬揃えの後、一年以上も上京しなかった。天皇への譲位要請、三職推任無視、官職返還など、明らかに対立が見られたのは朝廷。
また上京した六月一日、本能寺に皇族以外の大半の高位貴族が待ちかねたように来て、色々と話し、茶会、酒宴まで開いている。
夜は僧侶名手の囲碁観戦。他は来ていない。普通は、貴族との面会などは、武士が予約しないとなかなか出来ないだろう。
○「京都盗賊よけの町境の木戸」について。
高柳光寿博士「戦国戦記」春秋社。
夜間閉められ、権限を持っていたのは有力市民とか、しかし、かなり公家も影響できたらしい。
○「一九九七年二月に出た本能寺の真実の書物」
「時は今、あめが下知る五月かな」の「あめが下」の解釈について書いてある。
○「無理やりに光秀が皇族やら人質にして出させた勅命、綸旨」
そうでも、従う大名は従うだろう。時と場合もあるだろうが。
事実、北条、武田残党、美濃安藤などは、変後、すぐ織田軍に噛み付いてるな。
もし織田が滅びれば恩賞領地は大きいし、恨みを持つ勢力も多かったし、、、
大義名分があり、織田軍が退却、内部不統一で崩れている様子なら、攻勢に出る勢力は多くあったろう。
○「日本史二千年唯一の真実と妄想は違う」
これだけだな。
606 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 10:54:18
>>605 すいません、『木戸』についての説明が全く意味が通じないんですがもっとわかりやすくしてもらえませんか?
607 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/12(水) 10:58:14
「明智光秀は斉藤義龍?」
○斉藤義龍は美濃一国の守護大名になった男であり、
誰かに化けて逃げ隠れする必要がない。
また斉藤道三を倒して、美濃一国に忠誠を誓わせていて、何も恐れるものがない。
誰かに化けて、逃げ隠れしたりするより、軍で、弱兵の尾張を滅ぼし、勢力拡大したほうが自分と一族、
ひいては朝廷の為となる。
「斉藤竜興は茶人古田織部?」
○斉藤竜興は美濃一国の大名であった男であり、逃げ隠れする必要が無い。
むしろ美濃の斉藤の一族であると誇示していた方が、織田家が、
武田信玄や朝倉、浅井、などの包囲網で負けそうになったときなど有利だった。
大名に返り咲ける可能性があるから。化けて茶人などになるより、
家臣抱えて、毛利家などに組していた方が将来のためなら有利。
608 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 11:05:51
>>607 すいません、そんなのはどうでもいいから、『木戸』についてわかりやすく説明してもらえませんか?
>>605 >普通は出陣前というのは用意でゴタゴタしていて、なかなか暇は取れないぞ。
近江・美濃方面から摂津・播磨方面への織田軍の移動で、京都を経由しなかった例を上げてくれ。
>普通は、貴族との面会などは、武士が予約しないとなかなか出来ないだろう。
朝廷に京都まで呼び出されたと○が主張している信長が勝手に夜どっか行くのか?w
あ、武士が公家に会いに行くって言ってるのね、
宮中に参内するのは事前の連絡いるでしょうね。で他の貴族相手に信長から出向いてるの?
>>607 >○「日本史二千年唯一の真実と妄想は違う」
>これだけだな。
そう、だから早く真実に目をむけな○ちゃん。
>>605 >○「一九九七年二月に出た本能寺の真実の書物」
>「時は今、あめが下知る五月かな」の「あめが下」の解釈について書いてある。
盗作と指摘された一例だね。
てゆうか○はさも自分が調査して黒幕は朝廷だと暴いたみたいな流れになってるけど、結局『一九九八年二月に発売された本能寺の真実の書』てのにのっかってるだけでしょ?
>>612 そう、カルチャーセンターの講師崩れが自費出版するも盗作が指摘され敢無く回収絶版となり、
現在○ちゃんのみが所蔵する奇書です。
>>613 そうなんだ。それで高名な研究者からの反論はまだかとか言って…盗人猛々しいとはこのことだな。
615 :
日本@名無史さん:2006/04/12(水) 12:01:39
つい買ってはみたものの、あまりのつまらなさに後悔していたところ、
送料込みで引き取ってくれたのでラッキーだったよ。
専ブラ使用者は○をNGワードに登録すりゃなんら問題はありません。
617 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/13(木) 10:54:53
>>608○「町境の木戸」当時の京都は戦国の騒乱などで一種の要塞都市化していて、町境などには盗賊、火付け盗人などを避ける木戸があった、
有力市民などが管理を任されていた。これは大軍の通行には大変な邪魔になるが、明智軍にはすどうしだった。
>>609○「出陣前」には作戦、補給、装備、進撃路など、大名にはやる人が山ほどあり、なかなか時間は取れないの意。
○「普通は上位の人が下位の人を呼び出す」高位になるほど予約が要る。本能寺を見ると皇族以外の高位の公家は大半来ている。
出陣前の信長がわざわざ京都まで、名物茶器を持って行き、会う相手となると限られるのでは。
○「夜中に」無性に会いたくなる人、武士、夜景が見事な場所、遊び女など、気まぐれな信長が行きそうな場所はいろいろあるよ。
618 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/13(木) 11:07:22
○「一九九七年二月に出た本能寺真実の書物」
これが全てのオリジナル。「時は今、あめが下知る五月かな」の句についてもね。
調べるんだな。偽研究書に騙されずに。
あなたたちの言ってる盗作云々のは全くの別物です。
全て真実の書であるがゆえに、とやかく言う必要もないな。
これが出て、有名な先生たちが本能寺の変について書かなくなったり、自説を引っ込め、別説になった。
この変化は、驚くべきものだったよ。
まあ、返還するんなら返還し、廃棄するならそうするんだな。
三百年後、或いは五百年後、本物のヒストリアンたちが全財産かけて追い求めるのは、この本だけだろう。
しかも、巨大な真実が、巨大な国宝の中に隠されているのもこのごろ解ったし、、、。
「ヒストリアン」
歴史の謎に魅せられて、真実を追い求める研究者たち。
しかし、五百年間生きたからといって、歴史の真実を知っているかどうかは解らんよ。
619 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:18:43
>>618 で、何で自分が書いたかのように威張ってんですか?
620 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:23:21
何故三百年後と言わず、〇が全財産かけてればよろしい
621 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:26:10
なるほど。木戸を管理してたのが町の有力者であって、朝廷ではないわけだ。つまり当日朝廷が開けるように働きかけたと言いたいわけだ。
でも働きかけたのが朝廷以外でも有力者がよしとすれば開けるんだろ。それとも木戸を開けるよう朝廷が指示した証拠があるの?
>>617 >出陣前の信長がわざわざ京都まで、名物茶器を持って行き、会う相手となると限られるのでは。
だから、”わざわざ”京都に立ち寄ったって根拠は?
護衛の馬廻り(信長に同道しなかった連中)も岐阜の信忠一行も後続して京都に入ったでしょ?
近江方面から西へ向かうのに京都を通るのは自然なのに、朝廷が呼び出したって言い張る根拠を教えて。
623 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 12:16:29
>>618 そう、カルチャーセンターの講師崩れが自費出版するも盗作が指摘され敢無く回収絶版となり、
現在○ちゃんのみが所蔵する奇書です。
>618
>これが出て、有名な先生たちが本能寺の変について書かなくなったり、自説を引っ込め、別説になった。
>この変化は、驚くべきものだったよ。
有名な先生とはたとえば誰だ? 説を変えたのはたとえば誰だ?
また一人も挙げられないのだろう。救いようの無いバカめ。
625 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/14(金) 10:29:26
○「夜間、市内での大軍行進」となると、普通は当時京を支配している勢力の代官などの許可を取る。
木戸の開閉なども。当時は京都所司代村井だろう。だが彼は何も知らなかったし、市内に泊まっていた信忠の馬廻りも何も気づかなかった。
そういうことが出来るのは他に公家だけ。
○「信長が京に呼び出されたという根拠」
織田信長が暦の改定、つまり現行の暦を、三島暦にする案件を持ち出している。暦の制定が出来るのは天皇の特権である。
それ故、この話題は次に会うのが天皇だったことを示している。
○ほとんど内裏を空にして高位の公家が集まっていること。
○朝廷よりの使者が二人、甘露寺、勧修寺が本能寺に来ている。
また当日六月一日と前日、山科言継の日記で何が信長と話し合われたかが削除されている事実。
○「信長の馬廻り五千人」は当時安土にいたのです。京にいたのは信忠の馬廻り。
参考文献読んでるのか?
626 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/14(金) 10:47:15
○「本能寺の変」、西暦一五八二年、天正十年六月二日、京都で起こったこの軍事クーデターは
文字どうり、その後の日本史を塗り替えた事件である。
これによって、織田信長が死ななければ、その後の豊臣秀吉、徳川幕府は存在しなかっただろう。
それゆえに、この事件は四百年の間、色々と史家により話題にされてきたのである。
○「その戦国史最大の謎、本能寺の変は一九九七年二月に全て解明された」
盗作ではなく、これが全てのオリジナル。真実である。
なんでそう「盗作」などと妙な言葉を使うのかな?
もしかすると誰か、この本の盗作、パクリでもしているのかな?
○ここの掲示板にも書いてあるだろう?
朝廷黒幕説を掲げながらも、証拠を示すことが出来なかった研究者は
殆ど全て影響を受けてるな。高名な作家の先生も、本能寺の動機については書かなくなったね。
では、月曜か、火曜に、、、、
627 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:05:13
暦を変える特権は天皇にしかない…天皇がそれ以前に暦を変えたことはあるの?
628 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:30:28
明智光秀は近視(近眼)だった?
光秀は、おそらく本を読みすぎたせいであろう、若いころより近視(近眼)であった。
その自筆の書も闊達な草書体ではあるが近視の人らしく、こまかい部分に拘泥した筆跡ではない。
光秀が、信長にしだいにうとまれていったのは、近視のために信長の表情の微妙な変化にきずけなかった。
いっぽう秀吉は視力がよく、カンもすぐれ、信長の刻々と変わる感情の動き、目の表情などを的確に読み取った。
(戦国武将の死の瞬間より)
629 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 11:41:04
近視より老眼の人の方が、細かい部分を気にしないんじゃないかい?
630 :
日本@名無史さん:2006/04/14(金) 13:27:54
>>626 >なんでそう「盗作」などと妙な言葉を使うのかな?
>もしかすると誰か、この本の盗作、パクリでもしているのかな?
そう、○ちゃんキミ自体がカルチャーセンターの講師崩れが自費出版するも盗作が指摘され
敢無く回収絶版となった奇書「一九九七年二月に出た本能寺真実の書物」のパクリだろう。
世にキミのみが所蔵するのを良いことに好き勝手に言いたい放題だが、キミのオリジナルと
見受けられる部分の主張の稚拙さは否めないなぁ〜ウププ。
所詮パクリのパクリなんてその程度。
>626
>朝廷黒幕説を掲げながらも、証拠を示すことが出来なかった研究者
>高名な作家の先生
だから具体的には誰だ?
何度も聞いているにも関わらず、一人も名前を挙げられないところを見ると、
憶測に基づくただの中傷だな。恥知らずのバカめ。
>>631 バカに釣られるお前もバカだよ。
○クンはそういう人なのだから。
>632
みんなそんなの百も承知だっつーのw
634 :
マジレス不要:2006/04/17(月) 06:55:46
この週末あちこちの古書店を廻ってみたが、「一九九七年二月に出た本能寺真実の書物」
は見つからなかった。
国会図書館にも各都道府県の主要図書館での検索にも引っかからない。
やはり世に出なかった本なのかな。
それを持っている○チャンは凄いね。
635 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/17(月) 10:52:42
>>630○おいおい名誉毀損という言葉と罪を知ってて言ってるんだろうな?
そのカルチャースクール講師崩れに訴えられても知らんぞ。
○全くの別物。この本は完全に本物だな。それ故、他の説がもう書けなくなってるのさ。
何しろ有名な図書館の人に一九九七年二月以前に出ていた本能寺関係の全ての本、資料について内容確認してもらったからな。
この本が、本能寺の変の真実を全て解明した、最初、オリジナルなのさ。
○この本以前に本能寺の変、関係の全ての書籍、資料について特集した本が何回も出ているのを知らないらしいね。
>>631○この本以後に出た全ての本能寺の変の書物は影響を受けてるよ。その原因には書かなくなったり、
四国黒幕説、イエズス会黒幕説にしたりとね。
○有名な図書館の人に確認したら、ちゃんとあるってさ。知らない研究者、人は、ただのモグリになりましたな。
636 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 11:05:49
どこの図書館でつか?有名図書館といってもマンガ図書館とか童話図書館とか自費本図書館とかいろいろ種類ありますが
637 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/17(月) 11:07:53
○「元号」を知らないのか?
暦の支配は朝廷の特権である。
少なくとも天皇の許し無くては暦は変えられないね。
○「光秀は近視?」
だったという証拠は全くない。
もっとも老眼くらいにはなっていたかもしれないが。
○今度はプロパガンダ工作か? 人格攻撃はよく政治家などに使われるありふれた手口だな。
「あの汚職野郎のいうことは、全て信用できません」
歴史サイトなんだから、ちゃんとした資料、論文で反論しろよ、
書けよ。
638 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 11:33:23
>>637 >歴史サイトなんだから、ちゃんとした資料、論文で反論しろよ、
書けよ。
おいおい、ここが歴史サイトかい?
じゃあきっと「一九九七年二月に出た本能寺真実の書物」はマンガ図書館とか
童話図書館にならあるんだろうね。
639 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 11:50:52
>○この本以前に本能寺の変、関係の全ての書籍、資料について特集した本が何回も出ているのを知らないらしいね。
→この本以降に本能寺の変、関係の全ての書籍、資料について特集した本が何回も出ているが、全く相手にされていないのを知らないらしいね。
640 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 12:06:53
641 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 12:07:48
642 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 12:09:23
なぁ○よ。ここはやはり2ちゃんねるじゃなくてどこかの高名な学者やら出版社に送ってみたらどうだ?
ここで論争するのはお前にとってもう意味がないだろ。お前の説は我々、少なくとも俺には理解が出来ない。三島暦と元号?どう繋がるのかまったくわからない。多分みんな理解出来ないから意見するんだけど更にその答えが意味不明なんだ。
それはもはや我々一般人にはわからないが有識者ならわかるかもしれない。2ちゃんねる以外ならお前の求める答えが出る可能性が高いと思うが…どうだ。
それと確認したという図書館の名前を教えてくれまいか?
日本語でな。
光秀もかわいそうだ。こんな朝廷黒幕説の
信者がまとわりついちゃって。
こんな事にならないためにも閻魔帳でも日記帳でも
殺してやりたいリストとか書けばよかったのに。
645 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 13:32:47
ダイアナ妃は英王室(フリーメーソン)によって暗殺された。
ダイアナはチャールズ皇太子の不貞(カミラ女史との愛人関係)によって、結婚
生活を破綻させられ、彼女は自殺未遂をおこし、その後別居し、王室と敵対関係に
なった。彼女はホスピス訪問などの人道活動を行い、対人地雷禁止運動を成功させ
た。彼女の行為はフリーメーソンの世界征服戦略の障害(英王室の権威失墜)とな
り、虎の尻尾を踏んだ。
ダイアナは新しい恋人ドディと地中海でのバカンスを楽しみ、最後の夜をパリで
過ごした。リッツホテルで夕食を取り、ドディのアパートへ戻ろうとした。パパラ
ッチをまくために囮の車を正面玄関に待機させ、ダイアナ達は裏口から抜け出た。
運転していたのはホテルの警備副責任者アンリ・ポールで、非番だったが呼び出さ
れた。ボディーガードのジョーンズも同乗した。メルセデスはトンネルの中に入った
直後壁に激突し、ダイアナ、ドディ、ポールが死亡し、ジョーンズは重傷を負った。
ポールの血液から多くのアルコールが検出され、彼が飲酒運転を行い、スピ−ドの
出し過ぎによってハンドル操作を誤り、事故が起きたと結論された。彼は抗うつ剤
とアルコール依存症の治療薬を服用していた。
しかし、多くの謎が残った。
なぜ専門の運転手が運転しなかったのか。
ポールの上司ウィングフィールドは彼がアルコール依存症である事を知っており、
酒を飲んでいるか確認するべきであり、非番の彼になぜ運転させたのか。自分が運
転すれば良い。
トンネル内の制限速度は50キロであり、パパラッチを出し抜いたのだからスピード
を出す必要がない。
なぜ交通監視用のカメラが公開されないのか。
壁に激突する前に接触したフィアットはどこへ消えたのか。
モハメドはダイアナの最後の言葉を聞いている。しかし他の証言は否定している。
これらの事を総合して推理すると、メルセデスを追跡したフィアットがカーブの
手前でメルセデスに故意に衝突し、壁に激突させた。ダイアナは重傷であったが、
病院で手術によって殺された(前後のシートに挟まって保護された筈)。ポールは
酒と薬を飲んでいない。
このような陰謀を行い、情報操作出来るのはフリーメーソンしか考えられない。
646 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 13:36:41
ケネディ大統領は軍産複合体(フリーメーソン)によって暗殺された。
ケネディはダラス市でパレード中に狙撃され亡くなった。容疑者として教科書倉
庫ビルの6階にいたオズワルドが逮捕されたが、護送中にジャック・ルビーが射殺
した。事件は精神異常者による単独犯行説で片付けられた。
しかし、多くの謎が残った。
教科書ビルから撃たれた銃弾はケネディの肩胛骨に当たり、上方に屈折してのど
本を通って、風防ガラスに当たった。6階から撃ったにしては弾丸のコースの角度
が小さ過ぎる。
致命傷を与えた銃弾は頭部に命中し、頭蓋骨を貫通した。ケネディは被弾して後
ろにのけぞった。これは前方から撃たれた物で、芝生の丘から狙撃したと見られる。
オズワルドは教科書倉庫で働いており、そこから狙撃する事はおかしい。なぜす
ぐに逃げなかったのか。
事件当日逮捕されたオズワルドからは硝煙反応が出なかった。
ケネディの検死写真が非公開にされた。
リムジンがエルム通りへ左折した時、ちょうど教科書ビルの真下へ来た時に減速
し、オートバイがリムジンを追い越した。その直後狙撃されている。狙撃し易い様
に減速したのか。
ケネディはベトナム戦争に反対しており、代わったジョーンズはすぐにベトナム
戦争を始めている。ケネディはフリーメーソンの世界征服戦略の障害になっており、
虎の尻尾を踏んだ。
これらの事を総合して推理すると、本命の狙撃手が教科書ビルから狙撃し、NO
2の狙撃手が芝生の丘の木陰から狙撃した。運悪くNO2が致命傷を与えた。オズ
ワルドは命令によって教科書ビルで仕事をしていた。彼は罠にはまって暗殺者に仕
立てられた。口封じのためマフィアに殺された。リムジンの運転手、警察官なども
暗殺に協力していた。
このような陰謀を行い、情報操作出来るのはフリーメーソンしか考えられない。
647 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 14:41:11
天海って光秀の一族にあたるんだろ?
まだそんなこと言っている阿呆がいるのか。
NHKの「歴史はその時動いた」では、天海は光秀の息子っていってたよ。
天海は信長だよ
651 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 21:48:12
明智光秀が大津市下阪本の琵琶湖岸に築城した「坂本城」を復活させようと、地元住民が
「坂本城を考える会」をつくって、再建運動を始めた。今は石垣跡の一部が残るだけだが、
湖上にそびえ立つ城をよみがえらせて観光の活性化につなげるのが狙いで、城を
テーマにした講演会を開くなどして機運を盛り上げ、市などにも協力を求めて再建資金の
調達方法を検討していく。
坂本城は1571(元亀2)年に、織田信長の命令を受けた光秀が、東南寺川河口の三角州に
1年足らずで建てたとされる。南北約500メートル、東西約400メートルの城郭があったと
推測され、琵琶湖に突き出した本丸や、川を生かした外堀を備えた「水城」として知られる。
「本能寺の変」(82年)の直後に落城し、すぐに再建されたが、86年に豊臣秀吉が浅野長政に
大津城の築城を命じ、その資材に使うために解体された。現在は、湖底に石垣跡が残るだけで、
城の構造や規模は分かっていない。 ■以下省略
引用元:京都新聞 2006/04/17
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2006041700033&genre=I1&area=S00
「信長を蹴飛ばそう会」ってまだあるの?
>>644 まぁ○ちゃんが何を愚だ愚だ述べようと、相手にしてくれるのは2ちゃんの奇特な
ちゃねらーだけ。それが分からない時点で○ちゃんはほんとウププだね。
とはいえ、信長関係のサイトのBBSに書き込んでもすぐ削除されちゃうし、
正体もバレちゃうからここにしか書き込めないんだろうけど。
654 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/18(火) 10:36:48
○「その本能寺の特集の雑誌を出した出版社」
そこには、新聞の全国紙に宣伝が出た「本能寺についての新発見」の本を知らないとは、
かなりのモグリ、欠陥雑誌なんですね、と言ってあげなさい。これ本当だからね。
○「図書館」
おいおい、全国紙に広告の出た発見本を置いていないなんて、
その図書館は欠陥、あるいは何かの犯罪があるぞ。間違いない。
○「知識」しかし、ここには専門知識なんて殆ど書かれていないよ。
市販の参考文献程度の知識しか、論議されていないのだが。
もっとも、本能寺の変への真実へは名茶器の鑑定にも似ていて、少し、専門的な知識が要るが。
○「その有名先生、知識人」を此処へ呼んでこいよ。実名で書き込ませろよ。
それとも君は大学や高校の歴史の先生も知らないのか?
655 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 10:44:42
だから何で○の為に呼ばなきゃならないんだ?
お前が用があるんならお前から出向くのが筋じゃないか?
一般的な礼儀すらわきまえないんだな。
木戸の件だが、
『木戸の開閉は町の権力者が管理していた。当時なら村井。その村井に悟られずに木戸を開けられるのは朝廷だけ』
と言うことだな。
別に村井が開け閉めの作業をしていたわけではないだろ。開け閉めをしている役人に光秀が『急用の為通りたい。村井には話は通っている。確認を待っている暇すらない』云々といえば開けなくもないのではないか?光秀も信長の重臣であるしな。
657 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/18(火) 10:55:52
「美しき水の上の城だったという坂本城」
○本能寺についての論議が活発になり、歴史の真実が研究されるのはいいことだな。
今は昔のように勧善懲悪、英雄は全て善、悪人は全て駄目という時代でもないからね。
「ダ・ビンチ・コード」
二千年間の封印を解き明かせ!!
と、なかなか世界のヒストリアンたちをときめかせるキャッチフレーズだな。
しかし、日本には本物の「ダ・ビンチ・コード」があるのを、忘れてはいかんよ。
それは僕が知る限り、三つほどある。
それは、もしかすると、「イエス・キリスト」以上の謎かも、、、
658 :
日本@名無史さん:2006/04/18(火) 11:06:27
全国紙に広告…金を出せばどんな本でも広告は載せてもらえるど。
図書館はオンライン化してるんだから、有名本なら検索にかかるにかかるのが普通
なぁ○ちゃんよー、何を愚だ愚だ言おうが君が「一九九七年二月に出た本能寺真実の書物」の
実書名を挙げられない時点でアボーンなんだよ。
光秀を悪く思ってはいないけど、
光秀を必死になって持ち上げてる連中って被害妄想はいってる・・・
書名をいい加減に出してくれ。それも言わないであーだこーだいっても誰も納得しない。
何でいえないの?言えないならこのスレから消えて下さい。
余計な話はもういい。
>>656 いや、信長家中の命令系統に朝廷や公家は入ってないから、おかしいと思うでしょ。
朝廷が信長や京都の責任者である村井の同意がないのにその配下に何か指示して動かした
別の例があるなら傍証になるけど。
警察の検問に、別の役所(例えば財務省とか)が指示出しても通らんでしょ。
>>663 >
>>656 > 朝廷が信長や京都の責任者である村井の同意がないのにその配下に何か指示して動かした
> 別の例があるなら傍証になるけど。
であるなら尚更木戸を朝廷が開けさせたってのはおかしいわけね。
665 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/19(水) 10:38:19
○いや、言葉に嘘はない。ちゃんと出ているよ。
一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
実在しているのに、此処にくる人間が知らないのも信じられないな。
著者が印税の問題で売るのを中止させてから、そんなことを言い出すのも妙だな。
○仕方ないから、その内容を少し書いてあげよう。
この本は「信長無神論」と書いたルイスフロイスの著作に徹底的な反論を加えている。
この本は、信長の安土城があの場所に建てられたことを偶然ではなかったことを証明している。
この本は、信長の周囲の物を徹底的に検証し、その目的が帝位ではなかったかと推論している。
例えば「光秀自筆の細川藤孝への手紙が偽物だ」と研究者の立花氏が書いたことがあったな。
いきなり、なんでそんな論が出たと思う?。
それは、この本に、細川藤孝が変の協力者ではないかという別の証拠が出ているからだ。
つまり、そういう「証拠」が、いくつもこの本には他に出ているのだ。
>>665 内容の解説はいらない、直接自分で読めばいいことだから。
自分で読む為に、「書名と著者名を出してくれ」。
つくづく民主とか社民とか朝日とか永田みたいなヤツだ。
667 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 10:51:56
一流全国紙広告≠誰もが知ってる有名本
言葉に嘘はない=真実≠真相
668 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/19(水) 10:53:46
○おいおい京都、町の有力市民らが何年朝廷、貴族とかかわりを持っていると思っている。
ざっと七百年だぞ。京という街はちょっとやそっとで続いてきたわけではない。
ぽっと出の織田の家臣らとはわけが違うだろう。
○それに夜間に木戸は迂闊にはあけないだろう。
まず、夜間の大軍の行軍が普通はない。これは脱走兵、灯りを必要とし、また道に迷うから。
特に市内への大軍の行進は、先触れが出されるのが普通。
○また京都所司代村井貞勝の屋敷は本能寺門外にあった。ちょっと使いを出せばすぐ信長にも確認が取れる。
○それから京都には自警団があったんだぞ。そういう連中を束ねるのは公家とか、その関係者。
それに顔見知りの高位の公家の使いなどが来て、今日は夜、ちょっと用事があるから開けとけ、と言われたら?
逆らえるのか?
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670 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 11:03:37
>>668 おいおい村井が管理していたって言ってたの自分だろ?
だから何で村井が管理していたものを公家が横やり入れられるんだ?
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672 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 11:12:14
結局光秀が単独でことを起こして、正統性を得るために朝廷を担ぎだそうとした結果失敗したってことだろ
いいからもう他行けよ○!
いい加減皆辟易してるんだぞ!空気嫁!
結局、書名言えないじゃないか。
毎度毎度ウザイ長文書いて逃げてんじゃねーよ!!
>>665 安土城があそこに築かれたのが
偶然と思っているアンタに驚き桃の木21
誰の本だったかな?小説で明智光秀が本能寺を
起こしたのは「一殺多生」の正義のためだと思う、
と書いた人がいたけどそれもどうかと思う。
>>665 >一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
とりあえず朝日、毎日、読売の縮小版を当たってみたが、それらしきものは
見当たらなかったなぁ〜
もしかして朝○日報かな。
>>668 >ざっと七百年だぞ。京という街はちょっとやそっとで続いてきたわけではない。
>ぽっと出の織田の家臣らとはわけが違うだろう。
なら、織田の家臣の言うことを町衆は聞かずに、朝廷の言うことなら聞いたという資料をだしてよ。
>それに顔見知りの高位の公家の使いなどが来て、今日は夜、ちょっと用事があるから開けとけ、と言われたら?
>逆らえるのか?
だから、そう言い切るだけの資料を出せと。
〇が言うように本能寺の変の際は朝廷の関与を資料を改竄して隠したとしても、他の事例があるはずだろう?
>>665 >一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
とりあえず朝日、毎日、読売の縮小版を当たってみたが、それらしきものは
見当たらなかったなぁ〜
もしかして朝○日報かな。
678 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:40:07
千利休と明智光秀が同一人物だという可能性はかなり高いと思う。
ただし、天海も同一人物だという説には与しない。
千の利休は明智光秀
千の利休という人は、明智光秀の成れの果てである。
明智光秀は山崎の一戦にもろくも敗れて、ついに名もなき一土兵の
ために竹槍にて突き殺されたと歴史に伝えられてあるが、あれは嘘である。
天王山の一戦で勝敗の決することは初めからよく承知しておったが、
光秀は将士のたびたびの迎えをうけながら、わざとグズグスして、
ついに勝を秀吉に譲ったのである。
じつは、とくに光秀と秀吉のあいだには妥協が成立していたのである。
聡明なる光秀は、たとえいかなる事情があったにもせよ、いったん
主殺しの汚名を着たものが天下の将軍となっても長続きがせぬ、
ということをよく承知していて、秀吉に勝を譲ったのである。
そしてかれは頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半のなかにあって
天下の大事を論じ、謀をめぐらして、秀吉を太閤の地位まで押しのぼして
しまったのである。
かれはじつに秀吉の好参謀だったのである。朝鮮征伐なども、かれの献策に
出たものである。
茶室に這入るには丸腰となってにじり口より入らねばならぬ。
元亀天正時代、荒武者を制御操縦するにもってこいの場所方法であった。
第一、秘密を保つに絶好であった。
のちかれは娘の美貌が禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと
世に伝えられているが、まったく跡形もないことである。
英雄、英雄を知る、諸般機微の消息は俗人にはわからぬ。
(出口王仁三郎(大本教教祖)聖言集「三鏡」より引用)
679 :
日本@名無史さん:2006/04/19(水) 22:40:48
大正時代の話だが、千利休が明智光秀だということは、千家の家元が認めたそうだ。
「三鏡」付記より
・・・太田夫人は、大正九年のころ、聖師様(出口王仁三郎)から
「千の利休は明智光秀である」ということを承って、それをまた
師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたそうです。そうすると
名倉氏はそれをまた家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました。
すると円能斎氏の顔色がサッと変わって、しばらくは物も
いわれなかったそうですが、太い吐息とともに口をついて出た
言葉は「まあどうしてそれが分かったのですか」ということで
あったということです。
そして、さらに語をついで「そのことこそ、千家に伝わる、
一子相伝の大秘密であって、跡を継ぐ長男のみが知って、
次からつぎへ言いつたえ語りつぎて世に知るものが絶えて
ないはずです。どうしてそれが分かったのでしょう」と聞くので、
名倉氏は「霊覚によってわかったのです。丹波の国綾部町に、
大神通力をそなえた聖者がありまして、その人の霊覚によって、
その秘事がわかってきたのです」とて、聖師様に関する
お話をせられました。・・・
恐山にいるイタコを京都に呼んで交霊祭すりゃいいあじゃん。
>665
>一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
一流新聞に本の広告がどれだけ出ているか知らない、とは信じられないな。バカめ。
>例えば「光秀自筆の細川藤孝への手紙が偽物だ」と研究者の立花氏が書いたことがあったな。
>いきなり、なんでそんな論が出たと思う?。
あれは「いきなり」でも何でもない。少しは調べて書いたらどうだ。無知蒙昧のバカめ。
はやく書名いえよ
683 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/20(木) 10:29:56
○「書名について」
「一九九七年二月に出ている」「一流新聞に何度も広告が出ている」。
名誉に懸けて「本能寺の変の謎を解明している」「嘘ではない」と宣言している。なのに見つけ出す分析力も、学識、基本学力もない。
そんな君にお宝は見つけ出せないだろうし、見つけても内容が解らないだろう。
それに、知らない人間は大体もぐりなので、どうということもないのだが、、、。
ま、色々な書名をこれではないかと並べたまえ。理由とともに。当たれば○してあげよう。
○歴史の「真実」はひとつであり、それは「真相」と同義語である。
○「木戸について」
だから高柳光寿博士の「戦国戦記」、「京都歴史」を読めよ。それとも図書館へも行かないのか?
それに別に先例とか必要ないだろう? 時と場合による応急処置、応急命令だったりしたら?
だいたい京都は日用品の店など、上も下も密接に繋がっていた。
684 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/20(木) 10:41:39
「千利休は明智光秀と同一人物?」
○なるほど、だから何人かの先生たちが調べたのか。
この二人は同時期に全く別の場所にいたというアリバイがあると書いてたよ。
○秀吉勝利の後、徹底的な「明智狩り」と呼ばれる明智関係者への粛清が行われている。
宣教師たちが川を流れていく捕まって殺された多くのひとたちの死体を見ている。
○狭い茶室で織田関係者たちが利休の顔を見ているので、光秀なら解らないはずはない。
○秀吉と光秀が天下とりのために組んでいたのなら、このあと柴田や滝川といった大敵を倒すためにも
協力した方が有利では?。
685 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 10:48:17
>>683 先例は必要ないわけないだろ歴史を調べるうえで。
ところで三島暦と元号の関係は?
はたして応仁の乱後公家たちが京都でそこまでの力を持っていたかは疑問です。
687 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/20(木) 11:02:19
「明智光秀の細川藤孝への自筆の手紙」
あの援軍を求め、細川家の子供のために全てやったと書く自筆の手紙、
それに関しては偽物ではないかという話しも古くからあった。
しかし、大半の研究者は本物と鑑定しているのだ。
だが、ある日、ふいに立花氏は花押が偽物と言い出したのだ。
それは全く、突然の話だった。
まるで何か、他に確固たる証拠があるかのような自信に満ちた行動、、、
そう、それは、いや、それらしい証拠が出ていた。
細川藤孝は「誰か」を守る必要に駆られていた。
そのために、親戚が提出した「光秀自筆の手紙」は絶好のものになるだろう。
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>>683 そんな有名な本が、ネット検索かけても出てこないなんてあるかボケ。
おまえに本当に名誉をかけるというのなら、「書名と著者名」を出せ。
引用元も史料名も出さずに成立する論文なんてないんだよ。
「この記述は『「一九九七年二月に出ている」「一流新聞に何度も広告が出ている」
書物にあります』でも書名も著者名も挙げません。知りたかったらヒント出している
のだから自分で調べてください」なんて論文、誰も相手にせんよ。
前明智光秀が昔交わした女との間にできた
子どもの元へ行き、名前を改めて子どもの祖父を羽柴の
御用商人にしたて祖父を通じて献策した。っていう小説があったな。
脳内で出版
脳内でベストセラー
脳内で学会の定説かwww
出てるなら出てるでいいから書名いえよ。なんでいえないのか?
言ったらマズイことでもあんのか?これだけ風呂敷広げておいて肝心の書名もいえないなら話にならない。
他人(ひと)を納得させたければ、「探して来い」ではなく「自らが挙げる」べき。
693 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 20:46:25
>>680 本当に明智光秀の霊を呼び出したとしても、芥川龍之介が「藪の中」だったかに書いていたが、
霊にも虚栄心があって、正しい証言するとはかぎらないそうだ。
>>684 >>○なるほど、だから何人かの先生たちが調べたのか。
どいつもこいつも学者コンプレックスの塊だな。
学者程度の頭でわかるくらいなら、とっくに通説になっていただろう。
ちなみに、学者世界でこの種のユニークな説が発表されると、足の引っぱりあいが行われるのが常だそうだ。
>>この二人は同時期に全く別の場所にいたというアリバイがあると書いてたよ。
同一人物がばれそうになったので、アリバイ工作したとも書いてあったな。
>>○秀吉勝利の後、徹底的な「明智狩り」と呼ばれる明智関係者への粛清が行われている。
>>宣教師たちが川を流れていく捕まって殺された多くのひとたちの死体を見ている。
秀吉にとって光秀は参謀として有用だが、そのためには明智勢はすっきり処分して、
手足をもいでおいたほうが都合よい。
そして、光秀を成敗したという風評も必要。
>>○狭い茶室で織田関係者たちが利休の顔を見ているので、光秀なら解らないはずはない。
だからばれそうになったんだろ。
>>○秀吉と光秀が天下とりのために組んでいたのなら、このあと柴田や滝川といった大敵を倒すためにも
>>協力した方が有利では?。
そう、だから参謀として光秀を利用した。
表立って協力すれば、さすがに共謀して信長を倒したという疑惑をかけられるので、
そういう形をとるしかない。
結局、こういうこと(明智光秀と千利休が同一人物だということ)はわかる人にしかわからない。
「英雄、英雄を知る、諸般機微の消息は俗人にはわからぬ」ということ。
同一としたら、俗人にはワカランよ〜。自分の決断のせいで一族みんな散々な目にあったのに、のうのうと茶を立ててる光秀の気持ち。同一だったら光秀は、よほどの馬鹿。ありえない
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まあ、利休=光秀同一人物説にまともに反論するのもアレなんですが
本能寺の変前に利休の子供って生まれてるんですが。
以前から二重生活してたのか?w
>>665 >一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
とりあえず朝日、毎日、読売の縮小版を当たってみたが、それらしきものは
見当たらなかったなぁ〜
もしかして朝○日報かな。
>687
>だが、ある日、ふいに立花氏は花押が偽物と言い出したのだ。
>それは全く、突然の話だった。
>まるで何か、他に確固たる証拠があるかのような自信に満ちた行動、、、
その証拠は「一九九七年二月に出た本能寺の真実の書物」とは
全くもって無関係だがな。
史料だけでなく、論文も研究書も全然読んでないのだなぁ。呆れ果てる。
>>665 >一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
とりあえず朝日、毎日、読売の縮小版を当たってみたが、それらしきものは
見当たらなかったなぁ〜
もしかして朝○日報かな。
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>684
>○秀吉勝利の後、徹底的な「明智狩り」と呼ばれる明智関係者への粛清が行われている。
粛清が行われた割には旧明智家臣が何人も生き残っている訳だが?
明智の苗字を与えられたような武将も生き残っている訳だが?
「明智討ち」でも舞ってみようか。
他人(ひと)を納得させたければ、「探して来い」ではなく「自らが挙げる」べき。
書名早く出せよ。
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705 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/21(金) 10:40:04
そんなことを言って、もし本当にあったらどうするつもりだ? 知っているのに知らないフリをしているのかな?
君たちは一冊の本すら見つけることが出来なかった無知蒙昧の徒ということになるぞ。
ま、僕は嘘は言っていないし、ちゃんと現物、新聞、資料、証人の手紙もあるので
逃げ隠れもしないがね。その必要もない、堂々と異説の相手を叩ける。
しかも諸兄は、事態を正確に把握していないようだな。
「本能寺の変」は僕が勉強しているときには「日本史二千年最大の謎」とか、
「戦国史最大の謎」
「日本史上最大の英雄たち、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が関わる謎」
などと言われ、「日本の戦国史を塗り替えた事件」などと雑誌に言われていた。
「その謎はすでに解明されている、その真実の書物が一九九七年二月に出ている」
と断言しているのだ。しかも僕は、その後を観察していたが、一冊としてこの本を超える証拠、
それは朝廷説だが、それを提示できた本がその後にない。
そういう書物を、何の苦もなく、努力もせず、手に入れようというのかい?
少なくとも何冊か調べて、読み、本能寺と歴史の意味を知り、「候補」をあげるべきだろう?
図書館に行ったかね?。
「その本は無い」とか言うプロパガンダ工作に騙されずにね。
はっきり言っておくが、歴史の基礎知識の無い人は読んでも価値も解らんよ。
この言葉に嘘は全くない。
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>>705 可哀想な君にぴったりの言葉を贈ろう
「引かれ者の小唄」
708 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 10:56:32
一年に本が何冊出版されて、何冊廃棄されてるか、分かって言ってんのかね
709 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/21(金) 10:57:49
「千利休は、明智光秀?」
○というか、秀吉が兵力もない明智光秀の補助を受ける必要が全く無い。
黒田官兵衛のような一流軍師もいるし、、、
○千利休の最期を知らないようだな。大徳寺の山門に自分の木像を飾った事に咎めを受け、
自宅で切腹させられた。その首は切り落とされ、戻り橋で、はりつけにされた木像の足に踏まされた形で晒された。
その妻と娘は、石田三成に拷問されて殺された。
利休が光秀で、自分に天下を取らせてくれた恩人なら、秀吉がこんなことをするだろうか?
○「公家は非常に情報通だった」
どこの大名が景気がいいとか、どう領地を広げたとか、すぐ知れ渡ったという。
これは商人と深く関わっていたかららしい。
○「人は真実を死ぬ前に残したがるか?」
死ぬ前は、どうか知らんが、生きている間の痕跡はどうしても多く残してしまうのが人間である。
その痕跡、やった幾多の行動を客観的に調べれば大体のことは解るのではないか。
どは、月曜か、火曜に。
710 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 10:59:01
てゆうか何で○が得意気になってんだ?凄いのはその本の方だろ?
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712 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 11:02:21
だから光秀が単独でことを起こして、正統性を得るために朝廷を担ぎだそうとして結局うまくいかなかっただけだろ。
>>712 そのお金を使って
浪人を集めりゃ良かったのに。ちょっと気を緩めすぎなような。
>>665 >一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
とりあえず朝日、毎日、読売の縮小版を当たってみたが、それらしきものは
見当たらなかったなぁ〜
もしかして朝○日報かな。
>>705 >「その謎はすでに解明されている、その真実の書物が一九九七年二月に出ている」
と断言しているのだ。しかも僕は、その後を観察していたが、一冊としてこの本を超える証拠、
それは朝廷説だが、それを提示できた本がその後にない。
>>665 >一流新聞にも広告が出ている本を知らない、とは信じられないな。
とりあえず朝日、毎日、読売の縮小版を当たってみたが、それらしきものは
見当たらなかったなぁ〜
もしかして朝○日報かな。
717 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 23:55:20
>>694 いわゆる馬鹿な決断をしたのは、同一人物じゃなくても同じ。
のうのうと茶を立てていたかどうかは本人に聞いてみろ。
>>696 本能寺以前の子供でも、「明智光秀の子」じゃまずいから
「千利休の子」ということにするだろうな。
>>709 >>○というか、秀吉が兵力もない明智光秀の補助を受ける必要が全く無い。
>>○千利休の最期を知らないようだな。
>>利休が光秀で、自分に天下を取らせてくれた恩人なら、秀吉がこんなことをするだろうか?
論旨が矛盾している。
秀吉にとって光秀のサポートは有用なのか無用なのか。
まったく無用だったら、むしろ切腹なんて話にはなりにくいだろうな。
また、利休が光秀と同一人物でないとすれば、
秀吉は茶坊主ごときになぜそんなむごいことをするのかということになる。
まあ、秀吉と利休(光秀)が不仲になったのは事実で、
光秀とすれば、秀吉のサポートにまわることにはしたものの、
秀吉だけ表舞台で脚光を浴びているのは激しくおもしろくなかっただろうな。
>>705 >そんなことを言って、もし本当にあったらどうするつもりだ? 知っているのに知らないフリをしているのかな?
>君たちは一冊の本すら見つけることが出来なかった無知蒙昧の徒ということになるぞ。
そのときは、素直に自分の間違いを認めて謝罪。改めてその真実の書物を読んで勉強しなおしますよ。
いくら間違いを指摘されても一行に聞かない、改めない、反省しないあなたとは違いますので。
というわけで、その真実の書とやらの「書名と著者名」を挙げてください。
それをするだけでこれまであなたを見くびりバカにしてあざ笑っていた連中を倒せるのです。
何故出さないのですか?
>ま、僕は嘘は言っていないし、ちゃんと現物、新聞、資料、証人の手紙もあるので
>逃げ隠れもしないがね。その必要もない、堂々と異説の相手を叩ける。
なんて言うのだから、簡単なことでしょう?
早く書名いえよ。逃げてんじゃねーよ。
720 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/22(土) 11:29:30
>>719 >早く書名いえよ。逃げてんじゃねーよ。
ゴメン、週末は病院に戻らなきゃならないので。
721 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 11:49:52
近所の図書館の新聞縮小版は、'94からしかないんだよ〜。書名を公表したら著者も喜ぶんでしょ?だから素直に、置いてある図書館と書名を晒しなされ
>>721 >書名を公表したら著者も喜ぶんでしょ?
いやいや、著者は盗作がバレ、カルチャースクールの講師をクビになったくらいだから、
いまさら古傷に触れられたくないんだよ。
それを基地外が持ち出してるから困ってるらしいよ。
723 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 12:35:00
でも〇は300年後に本が超有名になるって言って…
あ、時効って事か
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>>720 >ゴメン、週末は病院に戻らなきゃならないので。
書名と著者名、書くのに数十秒もかかるまいにwww
726 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 13:45:18
鈴木眞哉・藤本正行『信長は謀略で殺されたのか-本能寺の変・謀略説を嗤う-』(洋泉社、2006年)
じゃ、月曜には書名いえよな。もう言い訳はきかないからな。
逃げるなよ。
728 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/23(日) 18:36:41
まぁ君たちに言っても探し出すことは無理だろうね。
何故なら世界中でそれを持っているのは著者と僕の二人だけだからね。
729 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 19:46:06
逃げやがったw
マァ、最初からそんな書物ないんだからいえるわけないよなww
二度と来んなハゲ!
731 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 20:59:15
ニセだろー?あんまノリよく応じると〇が勝ち誇ったカキコするから、控えましょーよ
>>728 国会図書館にもないというと自費出版の
えせ本ってことになるぜ?
書いてあることのほとんどが一九九七年二月以前から言われている諸説のつぎはぎだしなぁ。
正直、何の役にも立たない。
734 :
日本@名無史さん:2006/04/23(日) 23:02:58
まぁ、○はナンダカンダと反論らしき与太話を吹聴しているが、鈴木眞哉・藤本正行 著
『信長は謀略で殺されたのか-本能寺の変・謀略説を嗤う-』でも取り上げられていない
ことが「一九九七年二月に出た本能寺の真実の書物」とやらの正体を物語ってるね。
もっとも○は誰にも相手にされないことを「反論出来ないから」と嘯くだけだろうけどね。
>>728 >何故なら世界中でそれを持っているのは著者と僕の二人だけだからね。
脳内出版であることが明らかになりましたね。馬鹿くさwwwwwwwwwwwwwwwww
>>728 はニセモノでそ。
ときに、講談社から出てる「へうげもの」
面白いですねー。
光秀もなかなか冷静で温情厚く、端麗な人物として
描かれていますぞ。
小栗栖で殺されるのは惜しいなー。
737 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 04:22:19
>>736 俺も読んでるよ。秀吉が『上様』って呼ばれてたり、若干のツッコミどころはあるがなかなか面白いね。
本能寺秀吉黒幕説もあるにはあるんだろうけど、「へうげもの」は秀吉が直接信長を斬り殺してる辺り斬新だわ…
738 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/24(月) 10:31:42
○「真実の書の名」やれやれ、しつこいプロパガンダ工作だな。いったい、
「大和朝廷が、織田信長の我儘にあきれ果てて、本能寺の変になった」
という真実の結論の本に、どうしてそう文句をつけるのかね。
その理由を詳しくお聞きしたいわい? 真実は動かしようがないだろ。
○藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説ヲ嗤う」
ま、この本くらいはは読んでないと、知識不足になるな。
「朝廷説」の部分には大間違いと見当違いがあると、この掲示板には何回も書いたが。
○本能寺の変「羽柴秀吉黒幕説」について。
前掲「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変」の本に、とことん馬鹿にされ、酷評れてるじゃないか。
そもそも信長の子供を養子にし、気に入られ、前途洋々の秀吉に謀叛を起こす理由はないな。
739 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/24(月) 11:01:23
○「つぎはぎ」
あんたの本は、ただ過去の本の焼き直しとアレンジでしかないようだが?
少なくとも、真実本は戦国期に全く独創的な、別の歴史の見方を提案している・
○「歴史の出鱈目が役に立つのか」
歴史に真実を残さず、出鱈目と虚偽を残して、世の人を惑わす。
君の歴史観と良識を疑うね。
○此処に書き込んでるのは、まさか「独島」君とか、「拉致問題」君じゃないだろうな。
だとしたら、日本の四百年前の歴史の真実にいちいち文句をつけるなよ。
○「千利休は明智光秀?」
明智光秀が近江坂本で大名になったとき、
そのことを公表した方が、千家に箔がつき、商売には有利ではないのか?
740 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 11:09:24
>>738 >○藤本正行、鈴木真哉著「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説ヲ嗤う」
ま、この本くらいはは読んでないと、知識不足になるな。
「朝廷説」の部分には大間違いと見当違いがあると、この掲示板には書何回もいたが。
それ以前にキミの信奉すね本が取り上げられていないのは如何説明するのかな。
もっともキミは鸚鵡返しのように「反論出来ないから」と何回も嘯くだけだろうけどね。
741 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 11:11:42
>>739 〉少なくとも、真実本は戦国期に全く独創的な、別の歴史の見方を提案している。
としたら、そう感じさせないのは、ひとえに〇くんの解説が下手なのかもしれない。本は独創的かもしれん。と、いうわけで書名を教えてくり!
俺は
>>737だが、
>>738の『羽柴秀吉黒幕説』を否定してる解説はもしかして俺(
>>737)に言ってんのか?
俺は漫画の材料として面白いと言ってるだけで端っから秀吉が黒幕なんて信じてないから。
てゆうか朝廷説も信じてないから。
光秀がねー秀吉、朝廷、公方ごときで
いちいち動くとは思えんけどね。
だって結局は自分が殺すんだからとかげのしっぽのごとく
斬り捨てられるかもしれん危ない橋を渡るとは思えないけどね。
結局は上司との性格の不一致による接続不良とかも原因の
ひとつであると思う。
明智軍記の乱丸に鉄扇で額を叩かれたって言うのは
元家臣が口頭で伝えたっていうけどこれは信じて桶?
744 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 18:42:25
『歴史読本』2006年6月号を書店で見たら、
小説家が本能寺の変の黒幕について否定的なことを書いていて、
明智光秀単独説を唱えているが、なんか藤本氏と鈴木氏の主張と
似ているような気がする・・・・
745 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 19:36:42
「単独」という言う方が問題だな。光秀個人というより家中の問題だろう。
一部の重臣や旧幕臣(と言っても反義昭派)らの思惑も相俟って事を起こしたと
考えるべきだろう。
746 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 19:56:20
?スス?セ壹→縺ッ髢「菫ゅ↑縺?縺代←遘蜷峨?ョ譫キ繧定。晏虚雋キ縺?縺励◆縲る擇逋ス縺?縺代←髟キ縺?縺?
>745
家臣というと斉藤利三が謀反を勧めたっていうのがあるね。
>739
「少なくとも、真実本は戦国期に全く独創的な、別の歴史の見方を提案している」
はずなのに、お前の書いていることは全部
「ただ過去の本の焼き直しとアレンジでしかないようだが?」
独創的な本もそれじゃ台無しだ。
すべては無能なお前が適当な紹介をしているせいだろうが。
書名と著者名
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750 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/25(火) 01:34:36
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御託はいい。早く書名いえよバカ。
752 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/25(火) 10:31:42
○ほれ、いまだに遅れているその会社と先生にこの掲示板を見る様に教えてあげなさい。
○「突発的な怨恨、野望により光秀は本能寺の変を起こした説、への初歩疑問」
一 光秀の冷静沈着、知識人、計画的に少しずつなした丹波攻略の手口と著しく矛盾する。
二 信長と信忠が京都で同時に殺されている手際のよさ、への疑問。
三 何ゆえ信長が少数警備で京都に出陣前に行ったのか、理由がよく解らないこと。
四 あの時点では安土の馬廻り五千、大阪の四国渡海軍二万に挟み撃ちになる危険があったこと。
五 天王山で秀吉と戦う必要がないこと。京都市街戦、坂本城、亀山城篭城と有利な手はあった。
六 朝廷、主要な貴族の日記が散逸している。また他の記録が何故かない。
七 光秀はこの後、明らかに兵数有利な織田遺臣大軍との難戦をどうするつもりだつたのか?
753 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/25(火) 10:56:01
○藤本正行、鈴木真哉著
「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説ヲ嗤う」
に僕の「信奉する本」?が取り上げられていないのは、
「完全な正解本」だから、だと思えるんだが。
僕なら、誰かの本が出て
「これが日本史二千年最大の謎、本能寺の変の正解だ、真実だ、真相だ」
と大げさに喚き散らしている。
そんな横着本なら、生意気だと、すぐに注文し、買って、疑問点を見つけ、叩くね。
この本は、偉そうなことを抜かしているが、こんな大間違いがあるぞとか。
それが、「無い」。
○「ダ・ビンチ・コード」
それをいうなら、この本はどうだ?
キリストが結婚していて、子供がいる、いた、という結論?だろ。
何かそれに特別な意味でもあるのかい? 君の見解を教えてほしいよ。
○「戦国史最大の謎、本能寺の変の真実」○
昔の人は、敬謙だった。神を信じ、自然を愛した。
それゆえに、その最大の謎を託せる場所があるとしたら、
神のいる場所、神の祀られね場所だと考えたに違いない、、、
754 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 10:58:25
>>752 一 光秀が冷静沈着とは、直接見て会って言っているのか?
またそういう性格なら、恨みを晴らす為に計画的に虎視眈々と機会を窺っていたとも考えられないか?
二 冷静沈着な性格であれば手際よくても不自然じゃないよな。むしろ信長の一族の人間を殺したことで織田にとってかわるつもりだったともとれる。
三 信長は気まぐれ、といっていたのはアナタ。理由なく京都に行くのも不自然じゃないよな。
四、七 怨恨であれば後のことは考えずことに及ぶこともあるだろうよ。
>>753 で、その本が出て十数年経っていて、○曰わくその本を知らない人間は「もぐり」だそうだが、未だに朝廷説が主流になっていないのはなぜでしょうか?
756 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 11:09:28
>>753 >○藤本正行、鈴木真哉著
「信長は謀略で殺されたのか? 本能寺の変、謀略説ヲ嗤う」
に僕の「信奉する本」?が取り上げられていないのは、
「完全な正解本」だから、だと思えるんだが。
キミが思うのは自由だが、キミの紹介する内容には全く新鮮味が無く、
なおかつキミの発言には説得力も無い。言っていることが支離滅裂なんだよ。
それと歴史読本二00六年六月号に
「 再検討 本能寺の変 −平成の「新説」「異説」に異議あり 」
と題する小論が掲載されているから、読んで目を覚ますことを奨めるよ。
757 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:45:05
法隆寺の謎を解く
日本最古の仏教彫刻の作品は飛鳥寺の飛鳥大仏である。作者は鞍作鳥で609年
に作られた。法隆寺の釈迦如来像は同じく鞍作鳥制作で623年に作られた。飛鳥
大仏は下着を着け、その上に大衣を左腕に掛けてから背中に回して右腕を覆い、最
後に左腕に掛けており、襟のところが二重になっています。ところが釈迦如来像の
襟元は一重であるうえ、衣の着け方がわかる分らなかったらしく左腕に衣が垂れて
いる。同じ作者が十年前は大衣の着け方を知っていて、後に作った方が分からない
とは腑に落ちません。釈迦如来像は溶銅が十分廻らないで穴が空いたので、その後
補修されています。法隆寺の釈迦如来像が飛鳥大仏に劣っていると言う事は文化水
準が低下した事を意味し、このような事が起こるのは侵略されたためです。中大兄
皇子(百済人)が聖徳天皇(聖徳太子)を暗殺したからです。暗殺後、用明天皇の
病気平癒を祈願して、聖徳太子が法隆寺を創建したと言う嘘のために薬師如来像を
作り、その後聖徳太子の等身大の釈迦像を作って、太子の病気平癒を祈願すると言
う嘘のために釈迦如来像を作った。法隆寺の金堂は元は斑鳩宮の宮殿で、その後に
五重塔を建てて寺に仕立てた。(本尊の大きさから二階建てにする必要がなく、梁
が切断されている。)
若草伽藍の心礎が土中より高くなっている。こんな事は有り得ない。心礎に仏舎
利を入れて、その上に心柱を立てて塔を築くのだから、重心がこんなに高くては塔
が不安定になる。
法隆寺の建築様式は飛鳥文化(大化の改新以前)の特徴を表している。建物の尺
度が大化の改新以前の高麗尺によって建築されている。柱が太く、中央部が膨らん
でいる。
なぜ、法隆寺が670年に火事で全焼し、再建した事にしなければならないのか。
それは法隆寺が飛鳥文化の集大成であり非常に優れているので、大化の改新後に唐
の文化によって再建した事にしないと、日本の文化水準の高さを否定出来ないから
です。
758 :
日本@名無史さん:2006/04/25(火) 12:48:53
昭和天皇の巨悪を暴く
昭和天皇の先祖である中大兄皇子が百済皇子豊璋である根拠
中大兄皇子は白村江の戦いに日本兵を派兵して、多くの犠牲者を出した。彼が派
兵した理由は祖国復興以外は考えられない。(仮に、侵略または防衛の拠点作りと
する。日本のような小さな国の農業経済では多くの船を作ることが出来ず、補給が
続かないので無理。)
天皇は太平洋戦争を起こしても勝算が無いのに、日本民族を滅亡させるために開
戦を決定した。アメリカは日本軍の決死の抵抗(神風特攻隊)に恐れ、最新兵器の
原子爆弾の破壊力を黄色い猿(日本人)で試し、その威力でソ連を牽制し、主導権
争いに勝利した。天皇は原爆が落ちるまでは降伏できなかったのです。
田中義一上奏文の内容は、支那を征服するには満蒙を征服し、世界を征服するに
は支那を征服すると言う侵略のプログラムを綴った物である。神懸り的な予言事項
が書かれており、本年(昭和2年)国際工業電気大会が東京で開催が、実際は昭和
4年に国際工業動力会議が開催された。当時の日本にはこのような主導力は無い。
この上奏文は世界を支配する程の権力を持った者が書いた物である。天皇はフリー
メーソンの命令通りに動いていたのである。
天皇家は北支の伯族であり、百済の王家となった。満州は天皇家の故郷であり、
満州奪取は悲願でもある。満州事変の成功の後彼は「朕深くその忠烈を嘉す(喜ぶ)」
と述べた。天皇は侵略計画通り実行する事によって、日本が世界制覇を目指してい
ると言う誤った情報を広めて、日本を悪者にして叩く宣伝工作としたのです。日本
の国力では不可能です。
○君のカキコを見てわかったこと。
こいつカナ入力だ。
>>753の「祀られね」に全ての真相が。
>752
一、丹波国人衆に裏切られたのも計画的とでも?
二、「突発的な怨恨、野望」なら手際が悪くなるのか? 論理不明。
三、安土から西国に行くのだから京を通るのは妥当な話。
出陣前? 意味不明。
四、信長と信忠を殺せば安土の馬廻衆を率いるものはいない。
大坂の軍勢だけなら兵数的にも拮抗できる。
五、京は攻め口が何箇所もあるので兵力的に劣る光秀が戦うには不利。
籠城は援軍のあてが無いので論外。隘路で戦える山崎が妥当。
六、山科・勧修寺・吉田の三人以外の日記をまず挙げろ。
他の記録とはつまりどんなものだ。説明しろ。
七、すべて合わせれば大軍だが、当時は諸方面で戦っていたのだから、
言うまでもなく各個撃破。
疑問とか言う前に自分の頭で考えてから書きな。
761 :
○「天正十年、本能寺の変の珍実」:2006/04/26(水) 01:55:47
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762 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 08:58:00
>>760 >疑問とか言う前に自分の頭で考えてから書きな。
だから週末は病院に収監されてんだよ。
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764 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/26(水) 10:25:35
>>760 一 「その後勝ってるし」光秀が本陣などから大崩れしたことは一度もない。
二 {悪くなるさ}。チャンスと見て、後先考えず食いつくんだから。無計画になる。
三 {出陣前は}大将は進軍路や、補給など打ち合わせ、計画がいっぱいあるんだよ。
四 「挟み討ち」安土は五千、四国渡海二万、美濃からも、織田信雄もいる。勝つという確たる保証は何もない。
五 「山崎天王山」はそれほどの要害でもないのは昔から名将らが言っている。
むしろ長期戦にした方が織田の混乱を喜ぶ毛利、上杉、北条、一向一揆勢力の援助も受けられる可能性が高い。
六 「たしかお湯殿上日記」だったか、女官の日記などが不自然な散逸。
七 「各個別撃破は」一戦で大損害が自軍に出たりすると無理。補給も難しい。
勝てるかどうかは、それを行う敵味方の形にもより、まず事前予測は無理。
765 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/26(水) 10:58:13
>>754一○「定説 突発的に思いついた怨恨か、野望による殺害、なので、光秀は無計画な天王山の迎撃戦でザマなく負けた」
おいおい何度も書くが、私怨、私的野望で信長と信忠を殺すまでは虎視眈々と狙い、緻密、計画的にやったんだな。
じゃあ、その後も徹底的に計画的にやるのが普通だよね。
篭城とか、京都市街戦とか、援軍工作とか。全ては自分だけ、自己利益のためだ。
しかし、それをせず天王山で戦って負けている理由は?。
そこは京都を守るという目的以外は、さして理由のない場所である。
明智光秀、明智家だけを守るためなら、もっと手、戦う場所はあった。
二 そうだよ。「織田家にとってかわるつもりだった」計画的殺害である。
しかも、それは「信長の横暴に呆れた大和朝廷の命令である」
とここで、僕が力説しているだろう?
三 大名にとって戦は命。大敵毛利相手なら、やる進撃打ち合わせ、計画、占領後対策は山ほどあったはず。
その忙しいときを削って京都? これは不自然すぎる行動だ、、、
四 何度も書くが、「怨恨で後先考えずに主君を殺すような人間」には、
まず部下がついていかないよ。それが天王山までついていっている。
僕は一貫して「朝廷説」を述べているだろ。それが勝つに決まった織田信長に
明智光秀がついていかなかった理由なのさ。「主殺し」の汚名は当時でもかなりの重荷になるからね。
766 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 11:05:10
立花京子ファン?
767 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/26(水) 11:18:43
少なくとも、
昭和天皇陛下が「戦争を終わらせなければ、日本は最後の一兵まで戦うと叫ぶ連中のために滅亡するだろう」
と考えたことは正しかったし、
「私が全て終わらせる」といわなければ、中国や、台湾、満州、本土ではまだ絶望的な戦いが、
軍部によってずっと続いたに違いない。
と書いてみる。
というか、なんで日本を滅亡させる計画なら、戦争終結させるんだ?
768 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 11:21:42
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769 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/26(水) 11:23:52
まぁ君たちに言っても探し出すことは無理だろうね。
何故なら世界中でそれを持っているのは著者と僕の二人だけだからね。
>>769 国会図書館にも献本されてないような本が
出版されたうちに入るかよwwwwwww
771 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 11:37:56
>>765 主君とはいえ信長の横暴は目に余る、信長を討つ、これは義挙であると頭脳明晰な光秀が部下を丸め込んだとも考えられるよな?どうして意地でも朝廷に結びつけようとするんだ?
ちなみに俺は朝廷説は数ある黒幕説のひとつとしか思ってない。君の力説って結局思い込みで書いてるだけだろう?
772 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 11:44:01
>>767 それからよ、そうゆう無駄なレスに関わるのよそうや。ただでさえ君の出現時間は短いんだからよ。
…無駄なレスに関わる…?
あっ!!
773 :
>>637:2006/04/26(水) 15:36:50
ブラクラもしくはウィルス満々そうで怖いので
踏みません。
775 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 20:17:01
明智軍は何で本能寺と妙覚寺を同時に襲わなかったんかね?
776 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 21:11:21
黒幕といっても、どの程度かかわっているかも問題だな。
朝廷なんてところは、それとなく示唆しても積極的にはかかわらないだろ。
信長はいろんなところで怨み買ってるから、複数の黒幕や扇動者がいてもおかしくない。
で、○クンは歴史読本6月号は読んだのかな?
やっぱり光秀が自ら本能寺襲撃を計画、実行した後で朝廷のバックアップを得ようとしたんだろ
>764
一 で、結局何が計画的なんだ? 少しずつ以外で。
二 突発的でも即断即決すれば手際はよくなるが?
三 『信長公記』の天正十年五月二十九日の項を百回読んで出直して来い。
四 だから誰が安土の馬廻りを率いるんだ?
美濃は内乱。伊勢も北畠旧臣が挙兵。東から攻められる確率は非常に低い。
五 名将? 自分の頭で考えろ。
長期戦になったからといって上杉や北条が光秀を助ける筋合いはない。
むしろそれを好機に周辺を切り取る。当たり前の話。
六 『お湯殿上日記』も既出なのでそれ以外を挙げろ。
七 大軍とどう戦うか? と聞いたのはお前だろうが。
だから大軍になる前に各個撃破と当たり前のことを答えただけだ。
あと、京都市街戦とか籠城とか戦略性ゼロの提案はいらんぞ。
780 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 09:45:57
781 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/27(木) 10:24:53
>>779一 「光秀人物」その書き残した戦備心得などの文書によると非常に高度な知能、冷静、計画的人物と評価されてる。
二 「危険な思いつき行動」まず信長が確実にそこにいるかも解らん。遊び女のところに護衛と行くかもしれんだろ。
三 「信長公記」出陣前の忙しいときに、何ゆえ名茶器数十種を持って京都に行ったか何も書いてない。
四 「将」安土守将蒲生賢秀はいたな。また軍は副将がいるのが普通なんだがね。
また都合のいい美濃の内乱、伊勢の挙兵は突発的行動ならまず光秀は予想できないね。
五 あれだけ大織田軍にやられ、損害を被ってて、織田の中央を悩ます敵を支援しない?
そんなことはまず考えられないな。毛利には対織田網を作ったことのある足利義昭もいるし。
六 その前に六月一日、四十人の高位の公家が本能寺を訪れて、何も話の内容を書き残していない
奇怪さの理由をどうぞ?山科言継の日記で当日の話の内容が削除されてる訳は?
七 各個別撃破というのは、やれるかどうかはぎりぎりまで解らない戦法。
敵味方の形にもよるからな。そんなもの当てにする将はまず疑問の目で見られるな。
782 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/27(木) 10:34:44
何度も書くが光秀が尊皇家でなかった場合。
まず京都で好き勝手な物資、宝の略奪が出来ただろう。
無理やり京都市民から徴兵したかもしれない。
「バックアップ云々」なら、皇族を城に人質にし、無理やり征夷大将軍になり、自分に都合のいい綸旨、令旨を乱発させることも出来た。
軍事力を背景にね。
京都に秀吉軍を誘い込んで、火攻めにすることだって、躊躇しなかっただろう。
何しろ、負ければ全てを失うんだからな。
そんな非礼なことは全くしていない。
むしろ朝廷の勅使吉田兼見と、安土城などでは長時間話し込んでいる。
礼を持って内裏に対応している。
783 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:36:21
>何度も書くが光秀が尊皇家でなかった場合。
何度聞いても稚拙で説得力無し。
784 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:38:48
>まず京都で好き勝手な物資、宝の略奪が出来ただろう。
主殺しの上、 評判ガタ落ち。
785 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:39:33
>無理やり京都市民から徴兵したかもしれない。
何の為に必要?
786 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:40:31
>「バックアップ云々」なら、皇族を城に人質にし、無理やり征夷大将軍になり、自分に都合のいい綸旨、令旨を乱発させることも出来た。
軍事力を背景にね。
思い込み。
787 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:41:20
>京都に秀吉軍を誘い込んで、火攻めにすることだって、躊躇しなかっただろう。
妄想。
788 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:50:29
>何しろ、負ければ全てを失うんだからな。
根拠にならない。
789 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:51:46
>そんな非礼なことは全くしていない。
尊皇家云々と関係なし。
790 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:52:58
>むしろ朝廷の勅使吉田兼見と、安土城などでは長時間話し込んでいる。
そう「陰謀」ではなく「謀反」についてね。
791 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 10:53:51
>礼を持って内裏に対応している。
主殺しの正当化のためにね。
>まず京都で好き勝手な物資、宝の略奪が出来ただろう。
そういや、軍隊を率いて上洛した際に、軍律を厳しくして、それを破った足軽を自ら処分した武将がいたなー、
彼も尊皇家ですね、たしか織田信長とかいう名前だったと思います。
しかし…ホントに意味不明だな。
いい加減その真実本の名前を教えてくれないだろうか。それが一番手っ取り早いと思うんだがなぁ…。
794 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 13:00:02
光秀もノンキに兼見と飯喰ってる場合じゃねーだよ。首が取れなかった時点でクーデターは失敗でそ?
死体がないから皆警戒してるのに、重傷だが生きてるって噂を立てられたらアウトでないかい
795 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 18:41:41
京都府福知山市では明智光秀をたたえているとか
796 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 20:40:23
以前転勤の為、福知山市に数年いましたが、
明智光秀は福知山市で一番大きな御霊神社に祭ってありました。
明智光秀は世間一般では逆臣としてのイメージが
強いですが、福知山では治水対策に力を入れたり、減税をしたり等
善政を布いたため、その大きな神社に祭ってあるそうです。
そのほかの福知山の有名人で故芦田均元首相がいます。
この二人の共通点は天下が短かったことです。
少し話がそれますが忠臣蔵で悪役のイメージが強い吉良義仲も善政を布いたため、
地元ではたたえられているとのことです。
>781
一 ようやく具体例が出たか。他もその調子で書けば少しは認められるのだがな。
二 「遊び女のところに護衛と行く」とか妄想は要らん。
三 茶器を持っていった理由は他の史料で判明済。研究書を読め。
四 副将? 誰だよ、挙げてみろ。
蒲生賢秀は二丸御番衆の一人にすぎん。
『信長公記』の天正十年五月二十九日の項を百回読んで出直して来い。
五 上杉や北条が何をどう援助するんだ? 言ってみろ。
それに他の勢力にしてみれば織田家の内紛。関与する必要が無い。
六 四十人のうち日記を書いていたとして挙がっているのは
山科と勧修寺の二人に過ぎない。残り三十八人はどうしたんだ?
話の内容を削除? どう削除したというんだ?
七 四方から大軍で囲まれるのを待つほど光秀は無能だったのか?
798 :
日本@名無史さん:2006/04/27(木) 23:55:42
明智光秀は山崎の戦いで死んでいなくて生き延び家康の相談役になったとか
後、俺も福知山に親戚がいるので何度か行ったことがあります。
確かに明智の家紋である桔梗から桔梗祭りという祭りがやっていた
799 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 00:29:36
建前上、武士は皆尊王だろ。
朝廷の意で動いてないからといって、京都で乱暴狼藉なんか出来るわけが無い。
天下を取ろうとしてるのだから、自分の意志で動いた場合も洛内ではそれなりに
気を使う。
国をまとめかけてる時世に、応仁の乱からやり直す馬鹿はいないw
京都で破壊の限りを尽くせば、諸侯から追討すべき存在と思われ孤立するだけ。
織田家中どころか日本中を敵に回す。
あからさまな傀儡では、従わないものが多い。
南北朝の例でも解る。
朝廷から指図されて無いなら何でも出来ると思ったら大間違いだよ
馬鹿じゃないのか?
よく歴史小説で左遷説が出て来るんだが、
1.石見・出雲への転封を信長が命じたという記録は一級資料にない。
2.内々にその旨を申し伝えていた可能性があるとしても、謀反の動機にはならない。
3.当時の石見は銀の産出を背景に、遠く明国と繋がる交易路が形成されていた。
尼子氏や毛利氏が成長した理由の一つはこの交易路を抑える小豪族を吸収して関税の撤廃などを行ったことであり、そのような勢力の登場が望まれていたためでもある。
石見への転封は栄転である。
801 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 00:37:42
あれって切り取り次第じゃなかったっけ?
802 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 00:56:32
福知山 出身の文化人は 中澤裕子、彼女が平家みちよをつぶした時、明智光秀を意識したのは有名。
803 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 07:06:32
>>801 →よく歴史小説で左遷説が出て来るんだが、
804 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/28(金) 10:27:33
>>797一 つまり光秀が冷静沈着、計画的人物と認めるわけだ。突発的に思いつきで人を殺すような事と無縁の。
二 信長は気まぐれな人物であり、常に身軽に行動した。影武者も鉄砲警戒していたろうな。
三 名茶器を使った大茶会は、かなりのお祝い事などでなされるんだがね。
四 その蒲生賢秀に光秀は誘降の使者を送っている。また安土退去の全指揮をとって信長の家族と日野へ行ったのは彼。
一流の先生も安土留守居、守将は蒲生と書いてる,。
五 敵の敵は味方と同じ。敵の内紛に付け込み、弱体化させるのは当時の常識。
足利義昭は対織田連衡策に凝る。北条、武田残党はチャンスと噛み付いている。
六 高位の公家四十人が信長ほどの大物と何か話したのに、日記だけでなく手紙もない。
その不自然さを聞いているのは僕。山科の日記削除は研究書を読めば。
七 合戦は相手がその気にならんと出来ないの。大軍が前面要害に立て篭もる。光秀が攻めあぐねる間に、
別の大軍が背後に廻る。背後の要地を攻められる。で、挟み撃ちなんてのは、よくあること。
805 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/04/28(金) 10:52:25
○どうも、ここには、明智光秀が負ければ、家族、一族皆殺し、配下の部下の家族もひどい目にあう、
というような謀叛、負ければ全てをなくすというような大事を起こしたという認識がない人が多いね。
俗に言う「机上の推理」で思いつきの答えを書くなよ。
>>779 ○光秀が天下? あの兵数ではまず無理は常識。天下を取るには背後に誰かいなければね。
○そもそも、君みたいな考え方の人物なら中央を混乱させる謀叛など起こさないだろう。
○また光秀が無理やりに皇族らを人質にしたりし、
「信長を討ったのは勅命、光秀に協力せよ」と書いた綸旨、令旨を出させたりしたら?
地方では中央の繊細は解らないし、本物の綸旨と解れば、織田信長はかなり虐殺めいたことをしてるし、
光秀は正義だと従うものも出る、との考え方もあるな。
○京都を荒らしたからといつて、勝って大勢力を誇られたら、文句もつけられないと考えたら?
やりたいだけ我儘した木曾義仲の例もある。
しかし、光秀は真面目に軍を引き締め、京都には何もしていない。
では、大連休後に。
806 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 17:03:39
>>805 君が匿名性の高い2ちゃんねるでしかはしゃげない意味がわかったよ。
807 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 22:09:13
>>804 >六 高位の公家四十人が信長ほどの大物と何か話したのに、日記だけでなく手紙もない。
その不自然さを聞いているのは僕。山科の日記削除は研究書を読めば。
確かに勝手に不自然だと妄想を膨らませているまはキミだね。
削除、削除と騒ぎ立てているのもキミだけだね。
808 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 22:12:51
>>804 >三 名茶器を使った大茶会は、かなりのお祝い事などでなされるんだがね。
単に茶が振舞われただけなのを「大茶会」なんて騒いでいるのもキミだけだ。
>>805 あんたね、安東さんいるじゃない。
あの人鷹を信長さんに献上してるんですよ。
それに続いて東北の大名はこぞって献上してます。
本能寺が起こった後も安東さんね、秀吉に
近づいてるんですよ。
決して中央の政治に疎かったわけではないですよ。
大内なんて地方なクセして10年以上(だっけかな?)
上洛してるんですよ。
上洛を狙った尼子さんちの晴久さんは
急死しちゃったけど。
810 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 04:10:48
>>809 彼はそれなりの名前の史料を出してこれがソースだと得意気になるけど、自身の考察をいれると
↑失敗
>>809 彼はそれなりの名前の史料を出してこれがソースだと得意気になるけど、自身の考察は非常に独創的だから♪
812 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 11:55:39
本能寺の変ってただ明智光秀がはねっかえって起こしただけの事件だろ!!!
黒幕なんてもんはいないんだよ。
信長についていけない事情と殺せるチャンスが来たからやっただけの事件だから。
突発的に思い切ってやってみただけの事件だから。
NHKもこれをやれば数字がいいのかもわからんが松平もこればかりやりたがるよな。
朝廷黒幕説や秀吉説とかいろいろあるけどな。
正解は光秀ハネッ返り説だから
813 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:45:22
vv
814 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 16:48:04
>>812 >本能寺の変ってただ明智光秀がはねっかえって起こしただけの事件だろ!!!
それだけだったらタイマンでの刃傷沙汰だろ。
もそっと頭を使いなよ。
815 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 17:18:13
頭使えよなって!!!だってそんな単純な事件じゃない本能寺の変ってもんは。
明智光秀って武将はとても素晴らしい武将だけれどもな。国替えとか言われたりでイライラしてたんだよ。
そんな時に織田信長が兵隊も連れないで本能寺宿泊って情報を知り。
やってみましょうか!!!って織田信長を襲って殺した事件だから。
秀吉と光秀の連携とか朝廷の指示だとか家康がなんか絵を書いたなんてことはありえないんだから。
814氏はなんかネタあるの?これだって。。。。
明智光秀ってかなりの男だっただろうと思いますよ。信長にとってかわろうとしたかもしれない男のロマンがありますやん。
テッペンに立ちたいって世界が垣間見えますやん。
いろんな説があるけどそのどれもがありえない世界じゃないですか。
やはり本能寺の変って事件の原点回帰は光秀がはねっかえった事件ですよ。
山崎合戦で武運つたなく破れましたけれども。明智光秀の天下も見てみたかったですよ。
816 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 17:28:29
光秀一人の犯行ではなく軍を率いての集団犯罪だろ。頭使えよ。
光秀は高卒。ノムヒョンと同じ。
>804
一 計画的だから突発的な行動をしない? 人間はそんな単純なのか?
二 気まぐれ…馬鹿の一つ覚えか? 例を出せ、例を。
三 目的は大茶会でも祝い事でもない。研究書を読め。
四 誘降の使者が来たのは日野。だから賢秀に送られるのは当然。
そのとき安土にいた武将の領地の中で、近場で、
光秀の手が伸びていないのは日野。だから賢秀が連れて逃れた。
こういうときだけ一流の先生の言葉を信じるんだな。節操無しめ。
五 援助とは単なる領地の切り取りの意味か。紛らわしい。
六 山科が書いてるだろ。信長と「雑談」したと。
というかお前は公家の日記や手紙をどれだけ調べたのかと。
七 けっきょくお前の意見も「机上の推理」ということだな。
そこで山田風太郎の妖説太閤記の登場ですよ。
820 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 23:38:29
816へ
光秀が信長を襲って殺したって書いてるのは光秀軍ってことだろ!!!
お前こそ頭ついてるのか?
おまえさんの説を書いてこい。馬鹿チンが!!!
821 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 00:33:27
820へ
だから、大軍を率いての反逆なんてトップ一人の思いつきで出来るもんじゃないってことさ。
ちっとは頭を使えよ、腐れチンこが。
822 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 01:23:41
「民明書房」の2番煎じをしようとしているヤツがいると聞いて
飛んできました!
823 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:04:55
821へ
明智光秀の家臣なんだから親分の光秀の決断で大軍を動かせるんだよ!!!
足軽とかは何をするのか聞かされないで動いてんだよ!!!
お前さん頭ついてるのか?秀吉の許可で光秀軍が動くのか?
決断するのは親分である光秀ただ一人だろ。。。。
だから明智光秀のはねっかえっておこした事件だよ。単独犯ってことですよ。
お前さんはいつも上げ足をとってくるけれども、お前さんの説はないのかよ。
お前さんが秀吉説とか朝廷説だとかあるんならば書いてこいよ。あらたな証拠もない現状では
光秀単独説しかない!!!
信長についていけない状況と殺せるチャンス到来によりそれにかけたのが明智光秀だよ。
一瞬の隙間をついた事件です。
824 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:34:07
もし浅野匠守が「吉良を斬ってやる」って言ってても家臣は登城させていたかな。
本能寺の変は匠守と四十七士が一緒に吉良邸に討ち入ったようなもの。
要するに、光秀個人のみならず家臣たちにもこの期を逃すまじとの思いがあったからこそ
起きた事件なんだろうね。
黒幕説の証拠も不十分だが、単独説も証拠不十分
ということで、光秀には悪者になってもらうしかないな
827 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 12:46:23
秀吉としてはそれでケリを付けようとしたみたいだね。
828 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 13:28:10
光秀軍の単独犯行説の証拠が不十分ってことはないやろう。
史実として明智光秀軍に襲われて織田信長は本能寺で死んだことになってんだから。
与力に脱落者がいることを秀吉の策略と受け取るか、単純に
「謀反に組するのを拒んだ」と受け取るかでも、意見が分かれ
そうだなw
秀吉との密約などは無かっただろうと思うが(もしあれば、秀吉も
一味と書いた光秀の書状が山崎の合戦前に諸侯に送られてい
るはず)、信長謀殺後に秀吉に同盟を求めたりした可能性はある
んじゃないか?
秀吉側では、後々変な嫌疑をかけられたくないだろうから、光秀
からの書状は処分して残ってなくてもおかしくないので、証拠は
何も無いけどねw
俺も単独犯説だが、希望的観測で動いた部分が多いんじゃない
かと思うなあ。
織田家中では柴田と羽柴は犬猿の仲だし、丹羽は羽柴寄りに
見える。
信長が死んで二分されることは史実を知るまでも無く、織田家
の家臣なら事前に想像が付く。
どっちかが味方になると思えば、同じ成り上がり物同士って方に
なりそうな感じがするよ。
内裏に通じてる自負もあるから、朝廷工作も後々するつもりだった
とかね。
「旨く行ったのは、信長を殺すところまで」って感じのする謀反だな。
誰かが用意周到に画策していたようには見えないなあ。
それが出来た人間がいたら、その後の歴史ももっと旨く進んだよう
に思えるけど。
誰を黒幕にすえても、皆さん苦労が絶えなくて巧妙さが無いw
知恵は使ってるが、いずれもことが起きてからの場当たりなもの
ばかり。
証拠は無いよ。勝手な想像w
830 :
日本@名無史さん:2006/05/01(月) 15:08:20
同意。
光秀ほどの武将が思いつきや衝動で簡単に謀反を起こすとは思えないけど
それで天下を取れるとも思えないし
主君殺しの汚名を後世にまで残すことになるしよほどのことがあったから
こそ動いたのではないかと・・・
謀反の相談を持ちかけられた家老五人が賛成しているしね。
理由は、光秀一人の鬱屈だけではなく惟任家、あるいは軍団全体に関わる事柄か?
833 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:20:31
光秀にしたらいずれ潰されるって予感があったんだろ。だから本能寺を襲ったんだよ。
単純な事件ですよ。別に天下を望んでいたわけではないと思う。
しかし天下も望んでいたって男のロマンも欲しいんですよ。
光秀の家老が誰一人として逃げ出さないで
付き合ってやったのですか?
斉藤は海北友松(だっけ?)が飛び出して首を
奪って行ったといいますが、なかなか人(家臣)を育てるのが
うまかったんですね。
おらにはとりに行く勇気すらないよ('A`)
本城惣右衛門覚書だと光秀がどこにいたんだか分かんないし
家臣が逃げるってか、光秀より斎藤の方がノリノリだったのかも。
だとしたら斉藤やばいよ斉藤。
そういや斉藤は稲葉の旧家臣なわけだが
光秀と取り合いをするほど有能な人だったのか。
837 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 00:19:30
838 :
日本@名無史さん:2006/05/06(土) 07:58:50
dd
>>836有能ではあったんだろうけど、斎藤利三の妻は稲葉一鉄の兄の娘だったから、そのせいもあったかも
>>839 ものすごい血縁関係だなー。
利三の母ちゃんは光秀の姉で・・・
福の旦那も稲葉の人間で何がなにやらごっちゃりしてますな。
842 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 00:25:01
司馬だか誰だかが、亀山から京までの道は一人くらいしか通れない細さで、明智の軍勢だと先頭から最後尾まで三時間くらいはかかるとか言ってた。
だとしたら、だから本能寺と妙覚寺を同時に襲わず、小人数で本能寺へ。
その後ワサワサ来た団体で妙覚寺から二条城へ避難した信忠を襲った。って気もす。
本城惣右衛門の証言って正しいのかな〜て気もする
843 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 01:36:19
獣道かい。
と突っ込んでみる。
844 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:09:47
光秀は信長のキチガイに相当憎しみと恐怖感じてたんだよ、もし俺がミッツーの立場だったら同じ事するよ。
謀反した人間は古今東西多いだろうが、有能な独裁者である信公を討ったのは見事としかいいようないね。
ミッツーの政治判断は間違ってなかったよ、もしこの時やらなかったら追放されるか一族郎党虐殺のうえ信は無傷っていう最悪の結果もあった。
どうせ滅ぶならムカツクキチガイ信長をやった方がいいって判断だったんだろ。
845 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 08:41:39
844!!!そのとおし!!!
>>843 松本清張!
とつっこn(ry
潰れた幕府のために今更動く気なんてないだろうし
(幸盛見たらなおさらそう思うだろう)
武力を持たない朝廷のために動いたって絶対的な
安心なんて得られんだろうから、個人的には
やはり怨恨+野望+信長恐怖説と思うんです。
847 :
日本@名無史さん :2006/05/07(日) 17:47:22
「本能寺の変」は、細川(藤孝・忠興・ガラシヤ)一族が、
立場上、キャスティングボードを握っていたと見るべきか。
窮地に立たされ、断腸の想いで、苦しんだと見るべきか。
この辺りの真相を知れば、「朝廷黒幕説」は呆気なく霧散する。
848 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/08(月) 10:34:32
>>818一 丹波を五年で平定するといい、その言葉どうりに確実に平定した。
自分だけでなく一族の命も係わるとなると、怨恨はまず捨てるな。
二 たしか武田討伐用意の軍が相手の退却で駄目になると、信長はふと思いついて、伊勢長島一向一揆虐殺に向かった。
三 茶器のような壊れ物を四十種くらい持っていくときは、お祝いが多い。
NHKの番組では三職推任、征夷大将軍、太政大臣、関白のどれかになってくれという要求の返事をしに、
信長は京に行ったとか言ってたそうだ。
四 なんにせよ、退去時、一番大事な信長の家族の世話をしたのは蒲生。その立場が解る。
五 大阪の本願寺を毛利が大水軍で援助したり、信長討伐の信玄に幾つもの大勢力が味方したのを忘れたか。
六 ただの雑談なら内容を詳しく書いていてもいいはず。それが削除されてる。
七 つまり光秀の背後に誰かいないと、とても天下など狙える兵数ではなかったと
認めるわけだ。
849 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/08(月) 10:57:06
なぜ、天正十年六月二日、京都で本能寺の変が起こったか?
つまりあの時点でないと、光秀と朝廷に勝ち目がなくなってくるからだよ。
たとえば毛利が滅ぶとか、五カ国を割譲して織田に屈服したと考えてみればいい。
そのあと、当てになるのは九州、四国勢力になるが、そこには大軍を移動できる海軍が必要となる。
だが、毛利の村上水軍などが織田方になると、水運利用も難しくなる。
なにより九州という地はキリスト教、キリシタン大名がけっこう盛んだったことだ。
信長はキリスト教を導入し、大和朝廷と対峙していた。
つまり毛利がやられると、あとは、なしくずしに信長の天下になる可能性があった。
その場合、キリスト教の立場が強くなるだろうとは予想できた。
そして、僧兵勢力を持って対決姿勢をとる高野山を、信長が比叡山のように焼くのでは
という噂があったこと。
これらのことが、朝廷や仏教勢力を恐れさせていたのである。
850 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 13:57:35
↑連休ボケが一匹。
851 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 14:05:59
>>848 >一 丹波を五年で平定するといい、その言葉どうりに確実に平定した。
歴史知らずの脚本家の台詞を引用してどうすんだよ。
>六 ただの雑談なら内容を詳しく書いていてもいいはず。それが削除されてる。
別に詳しく書くほどのことではなかったからだろ。それを削除されているなんて主張するのは厨坊の発想だね。
>七 つまり光秀の背後に誰かいないと、とても天下など狙える兵数ではなかったと
認めるわけだ。
別に光秀は天下を狙ったわけじゃないだろう。ある意味、切羽詰まってのチャンスに
自らの生死を懸けてことを起こしただけ。
丹波の平定に5年は長すぎということで信長がブチギレたって
聞いたけど?
853 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 21:08:34
テレビドラマの見すぎ。
○はそんなことより歴史読本6月号を読めよ。
丹波攻略戦
当初は波多野・赤井など有力豪族が従っていたので達成は容易と見做されていたが、
明智軍は畿内平定戦や本願寺包囲陣、紀伊討伐など数多の戦場へ駆りだされたので、
その留守を預る丹波の豪族達に軍事的・経済的負担を掛けることになった。
その結果、彼らはそれぞれに従属する小豪族や地主、領民の非難を受け、対織田軍戦へ参加したのである。
>848
一 世の中の人間がみんなそれぐらい単純だったらよかったのにな。
二 「ふと思いついて」の典拠を出せ。
三 一流の学者の次はNHKの番組か。少しは自分の頭を使えよ。
四 だからといって蒲生が副将というのは何の根拠も無い話。
五 外敵と内紛を同一視するな。
六 古語辞典でも読んでろ。
七 その考えも勝手な「机上の推理」。
857 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/09(火) 10:42:09
>>851 >>856 一 金持ち喧嘩せず、出世した人は保身に凝る。
大体、トラブルを起こすのは何も持たない奴。
二 他にも叩くべき敵はいたのに一向一揆征伐。これは思い付きだろ。
三 NHK番組が出鱈目、大嘘を放送するとでも? おーい、NHKのスタッフ、言ってる事に文句つけてる人がいるぞ。
四 一番大事な信長の家族が頼るのは、一番の指揮者だろ?
五 戦国期内紛には外敵の陰謀が係わる事が多かった。内紛に付け込むのは外敵の常識。
「隣国の栄えるのは、自国の衰えるなり」の言葉を知らんのか。
六 普通、天下人、大権力者の言ったことは全部記録するぞ。
何でも歴史そのものになるからな。
貴族の日記は子孫の教養のために残すので、尊敬すべき人間の気の利いた言葉など、無用、雑談でもよく書き残す。
七 光秀が切羽詰っていたという話は、全部後世が作った根拠無しの話と高柳博士が言っている。
彼にとって「主殺し」の汚名を着ても、やる価値のある大義名分は、、、
858 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/09(火) 11:13:53
西洋に「ダ・ビンチコード」あるがごとく、
東洋に「ノブナガ・コード」あり。
戦国大名、織田信長の最大の謎、
それは本能寺の変でも、その越前からの出自の謎でもない。
それは、あの安土なる場所に、あの巨大な壮麗なる建物、城を造ったかという謎である。
そこには、織田信長の驚くべき思想、メッセージが隠されていた。
安土城の建物は、ひとつの驚くべき暗号そのものであり、
ある事実を知る人には、その建物の持つ全ての暗号がすぐにわかったのだ。
織田信長最大の謎、それはイエス・キリスト教に通じ、
なぜ、あれだけ多数の鉄砲を初期に揃えられたかにも通じる謎である。
織田信長は、果たして日本、、、、
859 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 11:41:55
そりゃ信長が堺を抑えてたからでない? キリスト教は外交手段
860 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 16:24:47
てゆうか○は前スレからNHKを否定してたじゃん
何か○は都合悪くなると「思いつき」とか「気まぐれ」とか変な言葉を使い出すなぁ…そんなんじゃまるっきり根拠にならないよ。
862 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 18:14:21
>>857 ○ちゃんは精神科に通院中なんだから大目に見てやれや。
863 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 19:15:33
イエス・キリスト教wwwww
864 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 21:23:40
もし光秀だったらどういう人生送りますか?
本能寺の前の時点で。
>857
一 そんな薄っぺらな考えを偉そうに語られてもなぁ。
二 伊勢長嶋という本領から非常に近い場所にいる敵を放置しておく方が
遥かに問題だろ。
三 はぁ? いつ誰がNHKの番組を誹謗した?
またお得意の事実捏造で他人を中傷か。本当に人間の屑だな。
四 だから蒲生が副将というのを史料で説明してみろよ。
一流の学者の意見じゃなくて、自分で史料を出してみろ。
五 だから、織田家の領地を切り取る=光秀の援助、じゃないということだな。
六 もう少し公家の日記を読んでから出直して来い。
七 近年の刊行史料、論文、研究書を全然読んでないんだな。
一九九七年二月で脳が停止しているのか?
866 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:36:48
>>865 >七 近年の刊行史料、論文、研究書を全然読んでないんだな。
一九九七年二月で脳が停止しているのか?
そうです、○ちゃんは一九九七年二月から週末入院の治療中です。
>>858 なんか、信長はキリストの末裔とか言いたげだな。
1997年2月に出た真実の本ってそっち系なのか?
そんなの読む奴いるのか?
868 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 02:40:41
==================================
=================/∧ =========/∧
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=============/ / λ====/ / λ ー /
===========/ / /λ =/ / /λ /
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=====./ / ̄ ) ( ̄ヽ λ /
====/ /●/ \● /λ /
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==| ヽ───────〆 ///// /|\
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========\ ミ/ |
==========\ / ─┐
============\ \ . ─┤
==============\ \ . ─┘
================\ \
==================\ ・ \
869 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 06:53:13
明智にとってベストな選択って何だったんだろう?
870 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/10(水) 10:55:09
865一 光秀は各地に転戦させられる可能性を考え、慎重に丹波攻略を五年といった。
これは計画的で、慎重な性格を表している。
二 他にも京都周辺には危険な勢力があったはずだがね。
三 NHKに盾突く度胸は無いわけだ。そのNHKが信長は三職推任の返事をしに行ったといっていたぞ。
四 なんにせよ、信長の家族が頼ったということ、安土の蔵を封印したということで彼が当時一番の将だったとわかる。
五 相手の家を滅ぼすのが大名の最終目的。
したがって内紛を悪化させる細工は必ずするだろう。その要が光秀なら援助するさ。
六 他にも不自然な日記の削除が、本能寺の変当時に多いことは研究者が指摘している。
七 藤本正行著「信長は謀略で殺されたのか?」で、最近の説は酷評されて、
馬鹿にされてるぞ。正解の「朝廷説」のところには思い違い、勘違いがあるがね。
871 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 11:25:03
すご…〇君の頭の中には白と黒しかないんだ
NHKが、説の一つを言っただけという可能性は〇君の思考外なんだ
872 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/10(水) 11:52:25
○何かCMで「ダ・ビンチコード」、「今、史上最大の謎解きが始まる」「二千年の封印を解き明かせ」
と言っていたぞ。
これは、ちょっと悔しいな、イエス・キリストの結婚、子供、シオン修道院のことが、それほどの大謎と言えるのか?
確固たる資料の裏づけはあるのか? それらのところをはっきりしてもらいたいものだ。
○日本史二千年には、深く秘められた本物の「ダビンチ・コード」が、
少なくとも三つある。
国宝に隠されているもの、伝承として残るもの、多くの人が知る絵に隠されているもの、
その中でも、史上最大の謎とされているものが、
戦国時代に起きた織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康が深く関わるとされる
本能寺の変である。
本能寺の変なくば、豊臣秀吉、徳川幕府は存在しなかっただろう。
その謎を解くキーは、巨大な国宝の中に、、、
そこには、また別の答えが、、、、
織田信長の目指したものは、、、、
>>866○また出鱈目なプロパガンダをしつこくする君は、
うつ病、コピー疑惑で知られるあの作家か?
873 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 12:09:19
黒幕はいないね。
商品(義昭)を朝倉などに売り歩いていた光秀だが、
信長が買ってくれて、しかも自分がヘッドハンティングされた。
そこで、出世かしらになり重要な京の前後に所領をもらい、畿内の武将は全て組下。
中国は秀吉、関東は滝川、北陸は柴田、四国は信雄(丹羽)、濃尾は信忠だが、
中央を握る光秀(近畿管領)に比べるとランクが低い。
ここで、畿内が真空でかつ信長、信忠(既に家督を相続)を一気に倒せて、
各武将がしばらくは畿内に戻れないとなれば、
天下とりのチャンス(しかも成功の可能性が高い)だから、
それを実行しただけ。朝廷などは無関係。
実際に秀吉の想定外の大返しさえなければ、日和っていた細川、
筒井らは光秀の旗下に参ずるし、すぐに300万石程度の動員力になるわけで、
天下人になっていた。
874 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 18:06:09
>>865 >七 近年の刊行史料、論文、研究書を全然読んでないんだな。
一九九七年二月で脳が停止しているのか?
そうです、○ちゃんは一九九七年二月から週末入院の治療中です。
875 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 18:07:33
>>865 >七 近年の刊行史料、論文、研究書を全然読んでないんだな。
一九九七年二月で脳が停止しているのか?
そうです、○ちゃんは一九九七年二月から週末入院の治療中です。
876 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:12:41
>>865 >七 近年の刊行史料、論文、研究書を全然読んでないんだな。
一九九七年二月で脳が停止しているのか?
そうです、○ちゃんは一九九七年二月から週末入院の治療中です。
877 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 19:14:51
>>865 >七 近年の刊行史料、論文、研究書を全然読んでないんだな。
一九九七年二月で脳が停止しているのか?
そうです、○ちゃんは一九九七年二月から週末入院の治療中です。
読んでないのは○の方だろ。
NHK番組への批判は「信長は謀略で殺されたのか」でも
やってることも知らないし、歴史読本6月号も
未だに読んでないようだし。
879 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:36:24
>>878 そうです、○ちゃんは医師から「NHK番組以外は見るな」と言われてます。
880 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:42:11
>>878 そうです、○ちゃんは医師から「NHK番組以外は見るな」と言われてます。
881 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 21:43:42
>>878 そうです、○ちゃんは医師から「NHK番組以外は見るな」と言われてます。
>>873 >黒幕はいないね。
それは正しいが、
>商品(義昭)を朝倉などに売り歩いていた光秀だが、
>信長が買ってくれて、しかも自分がヘッドハンティングされた。
ってのはキミもNHK番組を見過ぎのようだね。
以下は「目糞、鼻糞を笑う」だね。
残念。
883 :
日本@名無史さん:2006/05/10(水) 23:17:55
>>882 それは知らなかった。
ちなみに俺はNHKの番組は見ていない。
>870
一 「五年といった」という典拠を出せ。
二 だから何だ?
三 NHKは諸説を垂れ流しているだけ。
自分で調べようともせず鵜呑みにして偉そうに語る屑野郎は去れ。
四 まずは『信長公記』を千回読み返せ。
安土の蔵を封印? 『信長公記』をもう千回読み返せ。
五 で、織田家の領土を切り取る以外の援助はあったのか?
六 結局『言経卿記』『日々記』『兼見卿記』『お湯殿の上の日記』の
四つしか日記を挙げられず、そのうち六月二日のことを書いていないのは
『お湯殿の上の日記』だけ。説得力に乏しすぎるな。
七 こっちは黒幕否定派だからそれで全然問題ないのだが。
お前が勉強すべきなのはその他の事実。
言っていることが古すぎて話にならん。
そうです、○ちゃんは一九九七年二月から週末入院の治療中です。
889 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/11(木) 10:43:59
>>887一 何人もの小説家、幾つかの参考文献。皆、光秀が丹波攻略について慎重な答えをしたことを書いているぞ。
二 別にあの時点で一向一揆を攻めつける必要は無かった。
信長のまさに思いつき行動だった。
三 するとNHKの言っていることは出鱈目に近いと断言するわけだ?
また、君は自分で調べた答え以外は認めようとしない訳か? それは偏狭なものの見方と言われるだろう。
四 信長公記は最高の資料ではあるが、間違いも散見されることは藤本正行氏が指摘しているぞ。これだけを指摘する姿勢は偏狭だ。
五 最初から読めよ。光秀が長期篭城すれば、織田敵対勢力からの援助は期待できた。
しかし、それをしなかったのは、、、と言ってるだろう。
六 だから、他に本能寺の変について高位の公家が書き残した文書がない不自然さを指摘しているだろう。
自分らが無関係だったら、面白おかしく書き残していてもいいはずだ。目前で起きた大事件だからね。
七 怨恨、野望にせよ、チャンスと見て、突発的に思いつき、行動することがどれほど危険か指摘しているだろう。
まず信長が本能寺に確実にいるか解らない。殺した後、無計画では部下が付いてこない。
下手すると安土の馬廻りと大阪四国攻撃軍二万の挟み撃ちになる。
890 :
○「天正十年、本能寺の変の真実」:2006/05/11(木) 11:05:30
○戦国時代、ヘッドハンティングというものがあったとしても、
その人間の身元は徹底的に調べられただろう。
なぜなら、迂闊に信用すれば寝首をかかれる危険があるからである。
信長に明智光秀が仕えたときも調べられたに違いない。
その経歴に納得したればこそ、織田信長は明智光秀を一番に城持ち大名にしたのだ。
だが、あらゆる資料が出尽くしたといわれる現代においても、明智光秀の四十才前についての資料は何も無いとされている。
これは、何を意味しているのだろうか?
明智光秀の持っていた軍事、政治、文化面の驚くべき教養はどこから来ているのか?
「本能寺の変」と「その周囲」についての興味は尽きない、、、
>>888 ○残念ながらお医者さんにはお世話になっていません。
それに土、日って病院は休みじゃないのか?
○残念でした。NHKの受信料はきちんと払っています。
891 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 11:44:34
NHKとか、しつこすぎ。NHKが諸説の一つを言ったのか、仮説なのか、断定したのかは、今は戦国時代じゃないんだからNHKか考証した学者に電話して聞けば済むだ事だろーが
>一 何人もの小説家、幾つかの参考文献。皆、光秀が丹波攻略について慎重な答えをしたことを書いているぞ。
では、「いくつかの参考文献」のタイトルと著者名どうぞ
>二 別にあの時点で一向一揆を攻めつける必要は無かった。
必要なかったとは
>>889の判断で、信長が必要なかったと判断した訳ではない
勝手に思いつきにしないように、思いつきとするなら、それなりの根拠plz
>三 するとNHKの言っていることは出鱈目に近いと断言するわけだ?
NHKはあくまで一説を取り上げただけにすぎないし、様々な学説を照会するなんてザラ
バカ?
>四 信長公記は最高の資料ではあるが、間違いも散見されることは藤本正行氏が指摘しているぞ。
それで
>>889が主張してる記述に関してはどうなの?
>五 最初から読めよ。光秀が長期篭城すれば、織田敵対勢力からの援助は期待できた。
期待できたとする根拠が不明、それを窺わせる史料の記述求む
>自分らが無関係だったら、面白おかしく書き残していてもいいはずだ。
当時の日記は起きた出来事を淡々と書くだけですが?
本能寺の変の記述は、当時としては異例なほど、詳しく書かれてますが?
>>889の思い込みに根拠がないのだけど・・・
あ、俺は
>>887じゃないよ
>889
一、二 典拠を出せ。
三 曲解で中傷とは心底人間の屑だな、お前は。
四 そういうことはまず読んでから言え。
五 だから洛中や籠城戦が山崎で戦うより有利という根拠を出せと。
六 「無い」のではなく「お前が知らない」だけ。
七 突発的といっても何時間とか一日二日の話じゃないだろ。
衝動殺人とは違うんだぞ。
一番面白いところは○が信長公記、言継卿記など一級史料から
引用していないというところだ。
坂本城って安土の次に豪華絢爛な城だったらしいけど
名前が普通すぎて想像できんorz
895 :
日本@名無史さん:2006/05/11(木) 22:55:54
>>890 >○残念ながらお医者さんにはお世話になっていません。
それに土、日って病院は休みじゃないのか?
そりゃぁ外来診療は休みだろうね。だから週末や休日は収監されてるんだろ。
それが証拠に、特別外出が認められている平日の午前中しかここに現れない。
896 :
日本@名無史さん:
>>889 >六 だから、他に本能寺の変について高位の公家が書き残した文書がない不自然さを指摘しているだろう。
確かに『お湯殿の上の日記』の肝心な部分が欠如しているのは不審だが、キミのいう高位の公家って
晴豊や言継や兼見以外に誰が普段から日記を付けていたって証明されているのかな。
キミの妄想に適う記述が無いからって削除、削除ってほざいても全く説得力はないよ。
あっ、それで治療中だったんだね。ゴメン。